レビ記21章

レビ記21章

きょうはレビ記21章から学びます。まず1~9節を見ていきたいと思います。

1.祭司の歩み(1-9)

「ついではモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。 姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷をつけてはならない。彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する、わたしが聖であるから。祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。」

レビ記の後半部分は17章から始まりますが、そこには神の民として聖められた者の歩みとはどのようなものなのかが教えられていますが、ここにはアロンの子である祭司に対して語られています。聖書で「祭司」というとき、それは民に代わって神にとりなしをする人のことです。また、神の恵みと祝福を人々に分かち合う仲介者でもあります。ですから、祭司とは神に仕える特権が与えられていた人たちです。

そして、聖書を見ると、私たちは神の祭司であると言われています。Iペテロ2:9に、そのように記されてあります。ですから、これは私たちクリスチャン一人一人に対して語られている教えであると言えるのです。その祭司に対して言われていることはどういうことでしょうか。1節には、「縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。」とあります。どういうことでしょうか。

新共同訳には、「親族の遺体に触れて身を汚してはならない。」とあります。このことはすでに11章でも語られていました。そこには、死体に触れる者は七日間汚れました(11:24)。そして再び聖くなるためには、聖めの儀式を経なければなりませんでした。なぜ祭司は死体に触れてはいけなかったのでしょうか。それは、「死」というのは罪によってもたらされたものだからです。罪によって死が入り込んだので、死んだ者にふれることは、罪にふれることを象徴していたからです。ですから、ここで祭司が死体にふれてはいけない、というのは、私たちキリスト者が、罪と関わってはいけない、罪から遠ざかりなさい、ということを教えているのです。それが外見の行ないだけではなく、内側の思いの中で、心の中でも、罪を犯してはいけない、そのような罪にふれてはいけません、と言うことです。

しかし、近親の者の死体には触れてもよいとされています。それは、神さまは、死者のために嘆き悲しむことを許されているからです。したがって、クリスチャンも、聖書的に、神さまのみこころにかなって、身内の死んだ人たちのために喪に服することはできるのです。しかし、そこに異教の影響が入ってはいけません。とかく喪に服するときに、異教はいろいろな儀式を持って来ることができるのです。

ですから、5節のところに、次のような戒めがあるのです。

「彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷をつけてはならない。」

どういうことでしょうか。これは死体を弔う異教的な慣習、ならわしでした。そうした風習にならってはいけないということです。日本でも、葬式は、「死者の霊への弔い」と考えられています。神を礼拝するのではなく、死んだ人を拝み、語りかけ、花をささげます。ですから、花であっても、それは神にささげられるものではなく、その死人に捧げるものとして考えられているのです。ここに、日本における葬式の難しさがあります。そういう異教的な風習を排除して、神を礼拝し、残された家族の慰めを祈るという本来の目的をどのように伝えるかは重要なことかと思います。

けれども、私たちが死んだ人のことを悲しむことは、何一つ悪いことではありません。もちろん、主イエスを信じて天国に入ったことは喜びではありますが、この地上での別れを悲しむということは当然のことであって、悪いことではないのです。死んだその人について思い出し、神がその人を通して行なってくださったことを思い出して、神を礼拝することは、感謝なことなのです。

祭司は、クリスチャンは、神に対して聖でなければなりません。死体に触れることによって身を汚したりして、自分の神の御名を汚してはならないのです。なぜでしょうか。その理由が6節に書かれてあります。それは、彼らは主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからです。

これはどういうことでしょうか。これは主との交わりのことです。この「神のパン」とは、穀物のパンも含めた神へのささげものことで、神がこれらのささげものを食されるわけです。それによって神との交わりを保つことができます。祭司が神にいけにえをささげることによって、聖なる神と一つになることを表しているのです。なのに、そこに罪が入ってきたとしたらどうでしょうか。神との交わりを保つことができなくなってしまいます。ですから、主との交わりを保ち、いつも主にある喜びと平安に満ち溢れた歩みをするためには、こうした汚れから離れていなければならないのです。

それは結婚についても同じです。7節には、「彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。」とあります。結婚とは、その相手と交わり、一つとなることです。したがって、汚れた相手と結婚すれば、自分も汚れてしまうことになります。ですから、そのような人と結婚してはいけない、と言われているのです。ここには「淫行で汚れた女」とか、「離婚された女」とありますが、これは神を恐れずに歩んでいる人のことです。そういう女をめとってはならない、そういう人と深い関わりを持ってはならないという意味です。

私たちは、結婚に限らず、深い関わりを持つ人たちを選ばなければいけません。すべての人と、深い交わりができるわけではないのです。

使徒パウロが言いました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(Ⅱコリント6:14-15)」

もちろん、私たちはすべての人に接して、愛していかなければいけません。私たちの主も、罪人たちと食事を取られ、またパリサイ人とも食事を取られました。けれども、主は、ご自分が選ばれた12人の弟子たちと特に深い関わりを持たれました。同じように、私たちも、深い関わりを、汚れていない人、神を恐れて歩んでいる人と持つべきなのです。

なぜでしょうか。同じ理由が7節後半と8節にこうあります。

「祭司は神に対して聖であるから。あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する、わたしが聖であるから。」

2.大祭司の歩み(10-15)

次に10~15節をご覧ください。

「兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならないどんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしはである。彼は処女である女をめとらなければならない。やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別するだからである。」

次に大祭司についての教えです。大祭司は民を代表して至聖所に入ることができた唯一の祭司です。祭司たちは、自分の近親の者であれば、そのために喪に服することができましたが、大祭司は父母のためにもその死体にふれることも許されませんでした。10節には、「その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。」とあります。髪を乱すとは髪をほどくことで、悲嘆の感情を表す行為ですが、大祭司にはこのような哀悼の表現も許されませんでした。また、家族の葬儀に参加するために、聖所から出ることも許されていなかったのです。

なぜでしょうか。12節にこうあります。「神の注ぎの油による記章を身につけているから」です。どういうことでしょうか。新共同訳では、「神の聖別の油を頭に注がれた者だからである。」と訳されています。つまり、大祭司には神の特別の油が注がれていたからです。一般の祭司と違い大祭司だけが至聖所の神の臨在に近づくことができました。大祭司こそ、神にもっとも近づいている者なのです。ゆえに、もっと聖くなければならなかったのです。

このことはどのようなことを意味しているのかというと、大きな特権に与る者には、大きな責任も伴うということです。大祭司は、神ご自身の栄光に近づき、神と交わるという特権にあずかっている分、自分の歩みもまた制限されるのです。
もちろん、この大祭司とはイエス・キリストのことを指し示しています。イエス様は私たちの大祭司です。その大祭司であるイエス様の歩みはどうだったでしょうか。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられました。これが私たちの模範としての姿です。イエス様のように罪や汚れから遠ざかり、神に喜ばれる歩みを求めていかなければなりません。私たちは、クリスチャンとしてすばらしい特権にあずかっているからです。それゆえ、私たちの歩みも、してはいけないことが増えてくるのです。これは否定的に考えるべきではありません。主との交わりを深めれば深めるほど、その関係は緊密になり、自分が何をしなければいけないかが、はっきりと見えてくると言ったらよいでしょう。例えば、独身のときには自由にふるまっていました。けれども、結婚することによって、自分が行なわなければいけない責任範囲がはっきりとして、そのガイドラインにのっとって歩むことに大きな喜びを持つことができます。何をすればよいかわからない、ではないのです。制限されることにある喜び、といいましょうか、律法的ではなく、賞を得るような競争選手のように、目的がはっきりした生き方であります。

それは結婚においても言えることです。大祭司は淫行で汚れている女や、離婚された女だけでなく、やもめをめとってもなりませんでした。ただ処女である女をめとらなければなりませんでした。それはなぜか?その子孫を汚すことがないためです。

3.身に欠陥のある祭司(16-24)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。目の見えない者、足のなえた者、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、あるいは足や手の折れた者、くる病、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別するだからである。」モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた。」

ここには、からだに欠陥がある祭司は奉仕をすることができない、とあります。どういうことでしょうか。これは障害者に対する差別では決してありません。ですから、22節には、「しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。」とあるのです。身に欠陥のある人でも、神のパンは、最も聖なるものでも食べることができました。これは神との交わりを表しているということを言いました。つまり、身に欠陥がある人でも神との親しい交わりを保つことができたのです。決して身体障害者の人が差別されているわけではないのです。そのような人たちも奉仕している人たちと同じように聖められていました。

 ではここで言われていることはどういうことなのでしょうか。これは死んだ者にふれるとか、淫行で汚れた者と結婚するというような、汚れを意味していました。ここでも同じです。神は完全な方であり、何一つ欠けたところのない方なので、この神と交わりを持つためにはそこに欠陥というものを持っていってはいけないということなのです。ですからそれは身障者が汚れているということではなく神がどのような方であり、その神に仕える者はどうあるべきなのかが教えられているのです。ですから、23節に、「ただし、垂れ幕のところに言ってはならない。」とあるように、そのように身体に障害を持っている祭司でも、他の祭司を補助し、日ごとの献げものの灰を取り除くなどの仕事をすることができたのです。

 神に仕える祭司には、神との交わりという大きな特権が与えられているがゆえに、そこにはこうした行動における制限も伴いますが、それは私たちの行動を規制するためではなく、私たちが主との交わりを深めその関係がもっと緊密になるために、何が神のみこころなのかを示しているガイドラインです。そのガイドラインにのっとって歩むことによって神との交わりをもっと深く保つことができることを覚え、神に喜ばれる歩みを求めていきたいと思います。

イザヤ60:1-22 レジュメ

「起きよ。光を放て」  イザヤ書60:122

Ⅰ.起きよ。光を放て(1-3) 

 ここには、世の終わりにもたらされる栄光がいかに輝いたものであるかが記されている。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」(1)終末の時代に神の都シオンは主の栄光の輝きによって、諸国を輝かすようにと命じられている。なぜなら、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国をおおっている。」(2)からだ。終末の時代には、神の民に対する圧迫も激しくなり、肉体的にも、精神的にも、暗やみが世界を支配するようになる。だから、神の民は、起きて、光を放たなければならない。主イエスも、「あなたがたは、世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14-16)と言われた。神の民であるクリスチャンは霊的に暗黒のような世界の中で、光のような存在として生きなければならない。自分自身に光がなくても、光であられるイエス・キリストを信じた私たちは「光の子ども」となったのだから。その光を輝かさなければならないのである。

Ⅱ.目を上げて、あたりを見よ(4-9)

神の民が主の栄光の光を放つとき、いったいどんなことが起こるのだろうか。4節には、「目を上げて、あたりを見よ。彼らは集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」とある。かつて「子を産まない不妊の女」(54:1)と言われたイスラエルの多くの子孫が、遠くから、近くから、彼らのもとに集まってくるというのだ。ただ集まってくるのではない。地中海沿岸から来る者は海の富を携え、砂漠から来る者は、らくだを携えてやって来る。また、「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり・・いけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。」(7)ケダルというのはイシュマエルの息子で、イスラエルに敵対する人たちのことである。そうした人までも神の都シオンにやって来て、いけにえをささげるようになるのである。これは本当に麗しい神の恵みのみわざだ。世の終わりには、どんなに敵対していた人でも、どんなに呪われていた人でも、主は必ず救いの手を差し伸べ、神の民の一員に加えてくださる。「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶようになる。」(5)そんな心躍るような喜びに満たされるのである。

Ⅲ.主があなたの永遠の光となる(10-22)

そればかりではない。10節には、「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。」とある。かつてエルサレムの神殿はアッシリヤやバビロンなど、異教の王や外国の軍隊によって攻撃され、破壊され、略奪されてきた。それはイザヤの時代の後にも起こる。エルサレムはローマによって滅ぼされ、神殿は完全に破壊されてしまった。しかし、世の終わりには、こうした外国人によってそれが再び建て直される。彼らを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてやって来て、彼らの足下にひれ伏し、「あなたを、主の町、イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。」(14)ようになる。神のあわれみのゆえに、異邦人に苦しめられたエルサレムが、その栄光を回復する。神のあわれみの心が、神の都シオンを暗やみと絶望の深い淵から救ってくださるのである。そして、この約束は後に教会に引き継がれることになる。神の民であるクリスチャンはこの地上で様々な苦難や逆境に置かれるが、そうした苦難を乗り越えて、やがて神が栄光を回復してくださるのである。

私たちは皆、立場は違うが、いろいろな形で苦しみを経験している。ある人は病気で、またある人は仕事で行き詰まり、またある人は自然災害によって立ち直ることが難しいと「絶望」に陥ることがある。しかし、そのような中にあってもこの救いの神を見上げて、ここに希望を置くなら、神が必ずあなたを助けてくださる。この永遠の希望の約束を通して、私たちに立ち上がる力を与えてくださるのである。

ここには「時が来れば、わたし、主がすみやかにそれをする。」(22)とある。時が来れば、それはすみやかに起こる。それはすぐそこまで来ている。いつ起こっても不思議ではない。私たちはここに希望を起きたい。やがてもたらされる栄光の輝きを胸に、私たちに与えられた希望の光を、この地上にあって放つ者でありたい。

イザヤ書60章1~22節 「起きよ。光を放て。」

きょうは、イザヤ書60章から「起きよ。光を放て」というタイトルでお話します。これは、神の恵みによって救われた神の民に対して語られていることばです。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(59:16)主は一方的な恵みによって私たちを救ってくださいました。その神の民に語られていることは「起きよ。光を放て」ということです。  きょうはこの箇所から、神の民であるクリスチャンにもたらされる栄光がどのようなものか、どのように輝いたものなのかを一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.起きよ。光を放て(1-3)

まず最初に1節から3節までをご覧ください。1節には、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」とあります。 この「あなた」とは誰のことでしょうか。それは罪を悔い改めた者、シオンのことです。59章19,20節には、「そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上る方では、主の栄光が恐れられ。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」とあります。これは主イエスの再臨の預言なのです。主イエスはどのような人のところに来られるのでしょうか。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者たちのところ、その罪が贖われた者たちのところです。ですから、これはクリスチャンたちのことを指して言われているのです。そのクリスチャンたちに語られていることはどういうことでしょうか。起きて、光を放て、です。なぜなら、あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからです。

「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」(2)

まさに現代はやみです。暗やみです。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっています。しかし、クリスチャンは決してやみの中を歩むことはありません。なぜなら、クリスチャンの上には主が輝いているからです。主はこう言われました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

イエス様はこの世の光です。あなたではありません。あなたが世の光なのではないのです。イエス様が世の光です。私たちはその光を受けて、その光が私たちの上に輝いているので、私たちは決してやみの中を歩むことはないのです。いや、そればかりではなく、国々の民はこの私たちの光のうちに歩み、王たちは私たちの輝きに照らされて歩むのです。私たちにはまさに燈台のような使命が与えられているのです。

マタイの福音書5章14~16節を開いてください。そのところで主はこう言っておられます。 「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14~16)

皆さん、私たちは世界の光なのです。光は何のために存在しているのでしょうか。照らすためです。その光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられる私たちの父があがめられるようにしなければなりません。

ゴスペルシンガーのレーナ・マリアさんは、生まれたときから両手がありませんでした。そのうえ、左足の長さも右足の半分ぐらいしかなかったのです。両親は初めびっくりしましたが、すべての人は等しく価値ある人間だという信念から、精一杯の愛情を注いでレーナさんを育てました。障害があるからといって甘やかさず、普通の子どもと同じように育てました。もちろん、困難なことはたくさんあったでしょうが、レーナさんは、何でもできるだけ自分でするようにして、辛抱強く一つ一つを克復していきました。字を書くことはもちろんのこと、お料理も、裁縫や編み物も、パソコンも、ピアノを弾くことも、そして車を運転することも、できるようになりました。口とあごと両手を使って何でもできるようになったのです。3歳からは水泳を始めて、ソオルのパラリンピックでは優秀な成績を収めました。  そのレーナ・マリアさんが日本のテレビに出演したとき、キャスターが、「体が不自由で大変でしょう。それなのに、どうしてそんなに明るい笑顔でいらるんですか」と尋ねると、レーナさんはにこにこしながら、こう答えました。「私は神様からたくさんのものをいただいているので、不自由だと思ったことがありません。イエス様はいつも私のそばにいてくださいます。だから、いつも神様に感謝しているんです」  レーナさんは、このような体で生まれたのは、神様が特別な目的をもっていらっしゃるからだと考えています。そして、その神様の目的を達成するために精一杯努力したいと言って、美しい声で神様を賛美し、さわやかな笑顔で神様のすばらしさを証しているのです。長野のパラリンピックの開会式では、「わが魂、いざたたえよ。大いなる御神を」と高らかに神様を賛美して、世界中の人に感銘を与えました。また、先の震災復興のコンサートでも多くの人たちに慰めを与えました。

それは何もレーナさんのように特別な人だけのことではありません。私たちもそうなのです。今、阿久津恵美さんが証をしてくださいました。阿久津さんがクリスチャンになられたのは、かつて米国の証券会社に勤めていた時に同じフロアーにいた一人の女性との出会いがきっかけでした。毎日怒号が飛び交う殺伐とした職場の中でも、その方はつも笑顔を絶やさないで、だれにでも親切に接しておられたので、誰からも愛されていました。こんな殺伐とした職場でどうしてそんなに穏やかにしていにれるのかと思った阿久津さんは、ある日その女性に尋ねました。すると彼女は「神様を信じているから」と言いました。その方はいろいろと説明してくれたのですが、ただ一つわかったことは、その神様というのは仏陀でも、マホメットでもなく、イエス・キリストであるということです。それで阿久津さんはその週末から近くの教会に行くようになったのです。その方の存在が阿久津さんを救いへと導くきっかけを与えてくれたのです。阿久津さんにとってその方は光のような役割を果たしてくれました。阿久津さん曰く、「人は行いだけでは救われませんが、しかし、彼女の存在そのものがイエス様の香り放ち、愛を示していたことで、私の中に蒔かれていた信仰の芽を芽吹かせるきっかけとなりました。」    アーメン!皆さん、私たちの存在そのものがこの世の暗やみを照らす光なのです。人は行いだけによっては救われませんが、私たちの良い行いを見て、天の父をあがめるようになるのです。そういう意味では笑顔は大切ですね。一生懸命に作る笑顔ではなくその人の心から溢れ出るような笑顔、優しい言葉、親切な態度、愛に溢れた行動、そうした良い行いによって、天の父があがめられるようにしなければなりません。

Ⅱ.目を上げて、あたりを見よ(4-9)

次に4~9節までをご覧ください。4節には「目を上げて、あたりを見よ。彼らは集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」とあります。

どういうことでしょうか。これは終末的預言で、やがて神の子とされる数えきれない人々が救われ、主に導かれてくるということです。リバイバルです。具体的には、あなたの証しによって、イエス様を信じ、救われた神の子たち、ここでは息子とか娘と呼ばれていますが、そういう人たちが教会に集うようになるのです。伝道というと、人の誤りや罪を指摘し、イエス様を信じるようにと説得することだと考えている人が多いようですが、このところを見ると、伝道とはそういうものではないことがわかります。伝道とは、あなた自身がイエス様とイエス様の御言葉にしっかりつながることによって愛の実を結び、あなたの内にあるイエス様の光に、人々が引き寄せられてくることなのです。いつでも、どこでも、あなたは光であるイエス様だけを見上げて、人々を愛し、仕えればよいのです。そうすれば、人々はあなたに引き寄せられてきます。それが伝道です。あなたを救われたイエス様の光を指し示すのが伝道なのです。

そのとき、主の祝福が、あなたのもとにやって来ます。5節には、「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。」とあります。「海の富」とは、海からの産物のこと、諸国の財宝も彼らのものとなります。

そればかりではありません。6節を見てください。6節には、「らくだの大群、ミデヤンとエファの若いらくだが、あなたのところに押し寄せる。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて来る、主の奇しいみわざを宣べ伝える。」とあります。  「ミデヤン」とか「エファ」とは、イスラエルの南方にある広大な砂漠地帯のことです。モーセはエジプトから逃れたときこのミデヤンの荒野に来て、ここで羊を飼っていました。そのミデヤンとエファからはらくだの大軍が押し寄せてくるというのです。  「シェバ」とは今のサウジアラビヤのことですが、そこから来る者は黄金と乳香を携えてやって来ます。イエス様がお生まれになったとき、東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬をイエス様に献げましたが、それはこの預言の成就でもあると言えます。

7節を見てください。7節には、「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕え、これらは受け入れられるいけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。わたしは、わたしの美しい家を輝かす。」とあります。「ケダル」も南方の荒野の地域のことですが、そこからは羊の群れを携えてやって来るようになります。しかし、これは単なる羊の群れというよりも、主を礼拝するためのいけにえとしてささげられるということが言われています。どういうことでしょうか?

ケダルとはイシュマエルの子孫たちのことです。アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたこどもですね。それがイシュマエルです。その子孫がケダルです。聖書を見ると、このイシュマエルの子孫であるケダルは、ずっと神の民であるイスラエルに敵対すると預言されています(創世記16:12,25:18)。その預言のとおりに、イシュマエルの子孫であるアラブ人はずっとイスラエルに敵対していました。それはこの聖書の預言でもあるのです。イスラム教の創始者であるムハンマドは、自分はこのイシュマエルの子ケダルの子孫であると言っていますが、イスラム教徒やアラブ人は昔から今に至るまでずっと、イスラエルに敵対してきたのです。しかし、そのような人たちでさえも、世の終わりになると神の都にやって来て、まことの神を礼拝するようになります。自分のたちの家畜をいけにえとしてイスラエルの神の神殿でささげるようになるのです。これは本当に麗しいことではないでしょうか。これまでどんなに神に敵対していた人でも、どんなに呪われていたような人でも、主は必ず救いの手を差し伸べてくださいます。そして神の民の一員として加えてくださり、神の民と一緒に神の救いをほめたたえ、心からの感謝のささげ物をささげるようになるのです。ここに「わたしは、わたしの美しい家を輝かす」とありますが、そのようなことによってさらに主の宮は美しく輝くようになるのです。

そして8節と9節です。「タルシシュの船は真っ先に、あなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに、あなたの神、主の名のために、イスラエルの聖なる者のために運んで来る。」

「タルシシュ」とは今のスペインにある町のことです。後に、そこには多くのイタリヤ人が移民しました。ですから、ここにはヨーロッパから運ばれてくる品々がどんなものであるのかが記されてあるのです。そしてヨーロッパから運ばれてくるのは多くの金銀、莫大な財宝であります。それはまさに大きな雲が押し寄せて来るようであり、巣に帰る鳩が群れをなして押し寄せて来るようです。つまり、この世の終わりには、世界の果てから、四方八方から、多くの人々がそうした財宝を携えて、あなたのもとにやって来るようになるのです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。「主があなたを輝かされたから」です。私たちは神の子どもとして、神のすべての祝福を相続するようになったからです。

神の子どもとされたことで得た栄光、やがて来る栄光はどんなに輝いたものでしょう。あなたはこれを見なければなりません。目をあげて、あたりを見なければならないのです。罪贖われて神の子どもとされた者に与えられる祝福がどんなに大きなものなのか、その栄光がどんなに輝いたものであるかを見るなら、あなたはこの主の光を輝かせることができるようになるでしょう。

Ⅲ.主があなたの永遠の光となる(10-22)

最後に、この御国の栄光とその輝きについて見たいと思います。10節から終わりまでのところです。10節から13節をご覧ください。 「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたをあわれんだ。あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、共に、あなたのもとに来て、わたしの聖所を美しくする。わたしは、わたしの足台を尊くする。」

「城壁」とは、エルサレムの神殿の城壁のことです。これまで外国人の王たちは、城壁を打ち壊す者でした。アッシリヤにしてもそうですし、バビロンにしてもそうです。またローマ帝国もそうでした。外国の王たちはみなエルサレムを踏みにじり、その神殿を粉々に破壊しました。今、そこには嘆きの壁と呼ばれている壁があるだけです。しかし、この世の終わりにはそうではありません。逆に、彼らは城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕えるようになります。エルサレムの再建のために、王たちが仕えるようになるのです。

11節には、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。」とあります。  これはやがてもたらされる新しいエルサレムの光景です。黙示録21章25節にも同じことが言われています。つまり、これは天の御国のことが語られているのです。このイザヤ書60章と黙示録21章は対になっている箇所です。同じことが預言されています。紀元前700年頃に見たイザヤの幻と紀元100年頃に見たヨハネの幻は同じものだったのです。ということはどういうことかというと、これは必ず起こるというこです。天国は絶対にあるということです。私は牧師として時々思うことがあります。こうやって天国のことをいつも宣べ伝えておきながら死んだ後で天国がなかったらどうしよう・・・と。私の一生は何だったのか・・・と。そのために仕え、そのために労してきたのに、死んでみたらそれがなかったとしたら、それほど虚しいことはありません。けれども、こうしてイザヤもヨハネも同じものを見ていたことを知るなら、「ああ、やっぱり間違いではなかった!」という確信が与えられます。イザヤもヨハネも言っていることは、この都の門は一日中決して閉じることがない、ということです。なぜ?そこにはいつも国々の財宝が運ばれて来るからです。そこにはレバノンの杉やもみの木、すずかげ、檜といった木々が運ばれて来て、神の神殿を美しく飾るようになります。かつてレバノンの杉を使ってソロモンが神殿を建てたように、世の終わりの新しいエルサレム(天国)も完全なレバノンの杉が神の神殿を美しく飾るのです。

これと同じ光景が19節と20節にもあります。 「太陽がもうあなたの昼の光とならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」

この神の都は、太陽と月はもはや必要ありません。なぜなら、主ご自身が永遠の光となって、太陽にまさる光で都を照らされるからです。暗い夜に星が輝いているときれいですね。昔はその星によって旅人が旅の方角を知りました。航海する舟が後悔することがないように、ちゃんと行く道を定めるように星を見て航海したのです。ところがその星でさえ、太陽が出たら消えてしまいます。太陽の光というのはものすごく明るいです。ところが、その太陽の光でさえ、栄光の主の前には消えてしまうのです。私たちは太陽を見ると、目が焼けてしまいますから、いぶしたガラスなどで見ますが、主の栄光を見るということは太陽どころではありません。罪人はその前で立っていられないのです。しかし、その私たちの罪が赦され、聖められて主イエスが再びおいでになられたるとき、太陽の光にもまさる栄光を私たちはこの眼をもって見ることができ、拝することができるのです。いいえ、そればかりではなく、この栄光の主と永遠に交わりをもつことができるのです。そういう時が来ます。

ここに「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない」とあります。いい言葉ですね。いくら明るい太陽でも雲があったら隠れてしまいます。夜になったら沈んでしまいます。けれどもこの太陽は隠れることも、沈むこともありません。私たちの心のうちに与えられた神の恵みが、永遠に輝き続けるからです

22節の最後のところには、「時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。」とあります。そういう時が必ず来るぞ!とイザヤは告げました。時が来れば、主がすみやかにそれをされます。それは私たちでさえまだ見ていない、これから何年先、何千年先に起こるかわからない出来事、けれども、それは必ず起こる出来事であると、イザヤは神の聖霊によって見ていたのです。あなたはこのことを見ておられますか。あなたが見ておられるのは何ですか。目の前の苦しみや患難ですか、それとも、やがてもたらされる栄光でしょうか。今の生活がどんなに苦しくても、それがすべてではありません。クリスチャンには暗やみを照らす光があるのです。その光があなたの上に輝いています。この光に照らされることによって、私たちは現実の生活での不安や絶望を克復していくことができるのです。どんな暗やみの中にあっても輝くことができるのです。その光を私たちはこの世の中で輝かせなければなりません。

昨年、7月22日午前9時15分、JR南浦和駅のホームで30歳の女性が足を滑らせて京浜東北線の電車とホームに間に挟まれるという事故が起こりました。その女性は幸い電車とホームの間にウエストがひっかかり、線路のある地面に落ちませんでした。しかし、その女性を救い出すためには電車をゆっくりと動かさなければなりませんでした。駅のスタッフはホームと乗客にこのことを伝え、このため電車が遅れるとアナウンスすると、約40人くらいの人が線路に下りて行き、みんなでゆっくりと電車を反対側に押し始めました。それで電車とホームにはさまれていた女性は全く無傷で、何のけがをするみとなく救い出されたのです。彼らはホームに落ちて危ない人がいるということを聞いたとき、何とかしなければならないという気持ちになり、自分にもできるならと、ホームに下りて行ったのです。一人一人の力は小さくても、このようにみんなで協力し合うことによって一人の女性が救い出されたのです。

これは私たちの伝道においても言えることです。私たち一人一人の力は小さいですが、この世の中で迷っている人がいることを知り、何とかしなければならないという思いを持って立ち上がり、お互いに協力し合うなら、必ず救い出すことができます。それがあなたがたの光を輝かせるということではないでしょうか。私たちはそういう教会でありたいと願います。神を知らないで滅びに向かっている人を救い出すために一つ一つの光が助け合って大きな光となってキリストを証していく。そこに大きな神の栄光が現されていくのです。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」私たちも主の光を受けて、主の証人として輝かせていただきましょう。