ヘブル11章30~31節 「いのちがけの信仰」

きょうは、「いのちがけの信仰」というテーマでお話します。このヘブル人への手紙11章には、信仰に生きた人たちのことが語られています。これまでアベルとエノク、ノアの信仰について、そして次にアブラハムとその子イサク、そしてその子ヤコブ、ヨセフの信仰が取り上げられました。そして前回はユダヤ人にとって最も偉大な存在であるといっても過言ではないでしょうモーセの信仰について語られました。きょうは、エジプトを脱出したイスラエルが約束の地に入るにあたって直面したエリコの城壁の陥落と、そのエリコに住んでいた遊女ラハブの信仰から学びたいと思います。

 

Ⅰ.みことばに従った人々(30)

 

まず30節をご覧ください。「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。」

 

これはヨシュア記6章に出てくる内容です。エジプトを出たイスラエルは四十年にわたる荒野の旅をするわけですが、その後、モーセの次の指導者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、約束の地に入ります。そこで彼らが最初にしなければならなかったことは、エリコの町を攻略することでした。このエリコという町はあの取税人ザアカイが住んでいた町として有名ですが、世界最古の町として知られています。現在はヨルダン川西岸にあるパレスチナ自治区にありますが、かつてこの町にはかなり強固な城壁が巡らされていました。考古学者の発掘によると、この町の城壁は高さが7m~9m、厚さが2m~4mもあったと言われています。そんな城壁が彼らの行く手にはそびえ立っていたのです。そして、彼らが約束の地に入って行くためには、その壁を突破していかなければなりませんでした。いったい彼らはどのようにして突破したのでしょうか。

 

ヨシュア記を見ると、それは常識では考えられない方法、アンビリーバボーな方法でした。それは、一日に1回七日間、七日目には七回城壁の回りを回り、ときの声を上げるというものでした。すると城壁はくずれ落ちました。すなわち、彼らは武力によってではなく、信仰によって攻略したのです。彼らが神のことばに従って行動したので、神が御業を成されたのです。もし、彼らが神のことばに従わなかったらどうだったでしょうか。城壁はずっとそこにそびえ立ったままで、約束の地に入って行くことはできなかったでしょう。しかし、彼らは神のことばを額面通りに受け入れ、それに従って行動したので、壁は崩れ落ちたのです。これが信仰の働きです。たとえそれが自分の理性を越えたことであっても、あるいは今まで全く経験したことがないことであっても、神が示されたことであればそれに従うこと、それが信仰なのです。信仰によって、神のことばに従うなら、どんなに強固な城壁でも崩れるのです。

 

あなたにはどのような城壁がありますか。自分の息子や娘のとの間に越えられない壁があるでしょうか。自分の親、兄弟との間に、あるいは、職場の同僚、上司との間に、友人、知人との間に人間的には超えることが不可能だと思えるような壁がありますか。しかし、それがどんな壁であっても、神は崩すことがおできになるのです。それは、あなたがだれかと相談したからではなく、あるいは、そのためにあなたが一生懸命に努力したからでもなく、ただ神のことばに従うなら、神がそれを崩してくださるのです。それはあなたが思い描いたような方法やタイミングではないかもしれません。けれども、神様は完全であって、その神の完全な時と方法によって最善に導いてくださるのです。ですから、私たちは神の最善を信じて、忍耐して祈り続けなければなりません。そうすれば、ちょうど良い時に神が働いてくださるのです。このようなことを、これまで私たちは何度か経験したことがあるのではないでしょうか。たとえば、これまでいくらイエス様のことを語ってもかたくなに受け入れようとしなかった人が急に心を開かれて信じるように導かれたとか、自分の力ではどうすることもできない問題が、不思議に解決したということが・・・。

 

ローマ人への手紙9章16節にはこうあります。「したがって、事は人間の願いや努力によるの ではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

別に、人間の努力が必要ないと言っているのではありません。努力することに何の意味もないと言っているのでもないのです。けれども、私たちの人生には、自分の力ではどうすることもできないことがあるのです。しかし、神はおできになります。神にはどんなこともできるからです。その神に働いていたたくために私たちは自分を神に明け渡し、神が命じられたことに従わなければなりません。自分の思いや考えではなく、神のみことばに従わなければなりません。そうすれば必ず壁は崩れ、神の約束の実現に向かって大きく前進することができるのです。

 

Ⅱ.一致した信仰(30)

 

第二のことは、一致した信仰です。ここには、「信仰によって、人々が七日間エリコの城の周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」とあります。だれか特別な人の信仰によってではなく、人々が七日間エリコの城壁の周囲を回ることによって、人々の一致した信仰によって城壁は崩れたのです。

確かにそこにはヨシュアという強力なリーダーシップがあったのは事実ですが、ヨシュアのリーダーシップだけではなく、そのリーダーに従い、神のことばに従ったイスラエルの人々の一致した信仰があったので、エリコの町の城壁はくずれたのです。もしその中のだれかが、「そんなことしたって無駄だよ。崩れるはずがない。そんなの馬鹿げてる!」「くだらない。俺はそんなことをしている暇なんてない!」と言ったとしたらどうだったでしょうか。壁は依然としてそこにそびえ立っていたことでしょう。イスラエルの人々の一致した信仰がこのような神の御業を引き出したと言っても過言ではありません。

 

エペソ4章13節にはこうあります。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

神が私たちクリスチャンに求めておられることは信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達することです。人それぞれ考えが違います。しかし、その違いを信仰によって乗り越えなければなりません。自分がどう思うかではなく、神は何と言っておられるのかを聞かなければなりません。そして、神のみこころにおいて一致しなければならないのです。そうすることによって、私たちは完全におとなになって、キリストの御丈にまで達することができるからです。

 

ですから、あなたが霊的に成長したいと思うなら、成長してキリストのようになりたいと願うなら、キリストのからだである教会につながっていなければなりません。なぜなら、私たちはキリストのからだである教会の一員として召されているからです。いいえ、私は結構です、私は自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で礼拝するので教会に行く必要はありません、ということがあったら、そういう人は真の意味でキリストの御丈にまで達することはできません。私たちがいくら自分で聖書を勉強しても、いくら信仰書を読んでも、どんなにセミナーに参加しても、私たちがキリストのからだである教会の一員として召されている以上、その中で養われ、育まれていかなければ、健全に成長していくことはできないからです。イエス様は、ふたりでも、三人でも、わたしの名によって集まるところに私もいると言われましたが、どんな小さな教会でも、キリストによって召された神の教会を通して、神はご自身の栄光を現してくださるのです。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところなのです。

 

ですから、霊的に完全なおとなになりたいと思うなら、神の教会につながって、そこでキリストの満ち満ちた身たけにまで達することを求めなければなりません。そこで信仰において一致するということが不可欠なのです。

 

ピリピ1章27節にはこうあります。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、」

 

福音のために心を一つにして共に奮闘しましょう。たとえそれが自分の思いや考えとは違っても、あるいは、自分がこれまで経験したことと違っていたとしても、クリスチャンは心を一つにすることが求められているのです。それがキリストの福音にふさわしい生活なのです。一人でぐるぐる回っていてもダメです。キリストのからだの一員として心を一つにして祈り、福音の前進のために助け合い、支え合って、ともに奮闘しなければなりません。その時、壁は崩れるのです。

 

日本にプロテスタントの宣教師が来て宣教を開始して160年が経ちますが、未だに1パーセントの壁を越えられないのはどうしてなのでしょうか?その要因はいろいろありますが、その中でも最も大きな要因はここにあるのではないかと思います。すなわち、キリストの福音のためにともに奮闘することです。それぞれが自分の考えがあるでしょう。けれども、キリストとその福音のために自分を捨てる覚悟がなければなりません。福音が全地に満ちるために自分の思いではなくイエス様の思いを持ち、イエス様の心を心として、イエス様のことばに従ってともに奮闘しなければなりません。それはこのヨシュアの時代のようにエリコの町を行進しなければならないということではないのです。それはその当時の、その状況の中で、神が示されたことであって、現代においても同じようにぐるぐると回れということではありません。回るか回らないかということではなく、神のことばに従って、福音のために心を一つにしなさいということなのです。

 

あなたも、この信仰の行進に招かれています。あなたも福音のために、心を一つにして、主の御名の栄光のために共に立ち上がろうではありませんか。それは信仰がなければでません。主よ、あなたが仰せになられることなら何でもします。どうか、この私を用いてくださいと、主の前に祈り求めるものでありたいと思います。

 

Ⅲ.いのちがけの信仰(31)

 

最後に、31節をご覧ください。ここには、遊女ラハブの信仰について語られています。

「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」

 

イスラエルがこのエリコの町を占領し、そこに住んでいた人々を皆殺しにした時、遊女ラハブは助かりました。なぜでしょうか。それは彼女が、「偵察に来た人たちを穏やかに受け入れた」からです。これはヨシュア記2章にある出来事です。ヨシュアはこのエリコを攻略するにあたり、エリコの町を偵察するために二人の斥候を遣わしたのですが、彼らが向かったのがこのラハブの家でした。そのことがエリコの王の耳に入ると、エリコの王はこの二人を連れ出すためにラハブの家に人を送りました。その時ラハブはどうしたかというと、ふたりの斥候をかくまい、追って来た人に、「その人たちは確かにやって来ましたが、その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。さあ、後を追ってごらんなさい。もしかすると、追いつけるかもしれません。」と言って、助けてあげたのです。

 

このとき、彼女には二つの選択肢がありました。彼らを受け入れる道と、拒む道です。もし彼女が自分たち家族の目先のことを考えたなら、拒んだ方が安全だったでしょう。けれども彼女はもう一つの道を選びました。それはかなり危険な道でもありました。もしそれが発覚したら、それこそ彼女と彼女の家族はエリコの町の敵として糾弾され、裁かれなければならなかったでしょう。場合によっては死刑にならないとも限りません。それでも彼女は、後者の道を選択しました。どうしてでしょうか。それは、彼女がイスラエルの神こそ唯一まことの神であることを知っていたからです。それを知った以上、この神に従い、この神を信じている人々と行動を共にすることが正しいことであると判断したからです。ヘブル書ではそれを「信仰によって」と表現しています。信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れたのです。その時のことを、ヨシュア記には次のようにあります。

 

「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」(ヨシュア2:9-11)

 

そして彼女はさらにこう言いました。「どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」(ヨシュア2:12)

このようにして、彼女は彼らを逃してやりました。彼女は自分のいのちがけで彼らをかくまい、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れたのです。ここでは、その信仰が称賛されているのです。

 

それにしても、このヘブル人への手紙11章には信仰に生きた人たちの名前が記されていますが、その中に彼女の名前が出ているのは不思議なことです。というのは、彼女はエリコの町に住んでいた異邦人で、しかも遊女だったからです。そのような女性が信仰の殿堂入りを果たすということなど考えられないことだからです。ここには17人の人たちの名前が出てきますが、そのうち15人が男性で、女性はたった2人しかいません。しかもそのうちの一人は、あの信仰の父と言われているアブラハムの妻サラです。アブラハムが信仰の父ならば、サラは信仰の母と言っても過言ではないでしょう。そういう女性ならわかりますが、ラハブはそれとは全く比べものにならない立場の女性です。そういう人がこの中に紹介されているというのは本当に首をかしげたくなります。しかも、このヘブル人の手紙はだれに書かれたのかというとユダヤ人クリスチャンに対して書かれました。当時迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンがその信仰に堅く立ち続けるようにと励ますために書かれたのです。そしてユダヤ人の社会においては女性が称賛されることはまずありません。ですから、ここに異邦人の、しかも女性が称賛されていることは驚くべきことなのです。しかし、どのような身分、立場であっても、神のことばを聞いて生けるまことの神を信じ、いのちがけで主に仕えるなら、だれでも信仰の殿堂入りを果たすことができるということがわかります。彼女はこの信仰によって称賛されたのです。

 

このラハブの信仰でも際立っている言葉は、ヨシュア記2章21節のことばではないかと思います。それは、「おことばどおりにいたしましょう。」という言葉です。ふたりの斥候が、イスラエルが城壁を破壊してエリコの町に入って来たときには、それがラハブの家であることがわかるように、彼らを吊り降ろした窓に赤いひもを結び付けておくように、そして家族の者は全部、家の中にいるように、もし戸口から外に出るものがあれば、その者はこの誓いから外れる、また、このことをだれかにしゃべってもならないと言うと、彼女は、「おことばどおりにいたしましょう。」と答えたのです。

 

この言葉は、かつてイエス様の母マリヤも発した言葉です。御使いガブリエルがやって来て彼女に救い主の母になると告げられたとき、「どうしてそのようなことがこの身になるでしょう」と戸惑っていると、御使いが、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)と告げました。するし彼女はこう言うのです。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)このようにしてマリヤは、救い主の母となったのです。

 

ここに登場しているラハブも同じです。彼女もふたりの斥候から告げられると、「おことばどおりにいたしましょう。」と言ってすべてを主にゆだねました。いいえ、そればかりではなく、この信仰によって彼女は救い主の系図の中に加えられたのです。その後、彼女はユダ族のサルモンという人と結婚しボアズを出産します。このボアズはルツと結婚し、あの有名なダビデ王の祖父オベデを生みます。そしてこの子孫から救い主イエスが誕生するのです。すなわち、ラハブが救い主の系図の中に加えられているということです。あり得ないことです。異邦人の、しかも女性で、売春婦であった人が救い主の系図に入っているなんて考えられないことです。しかし、救い主の系図の中に彼女の名前がちゃっかりと記録されているのです。マタイの福音書1章を見るとわかります。ここには四人の女性の名前が記されてありますが、大半は異邦人の女性です。タマル、ルツ、ラハブです。そしてもう一人がイエスの母マリヤですね。たとえ異邦人であっても、ラハブのようないのちがけの信仰があるなら、私たちも救いの中に招き入れられるだけでなく、偉大な信仰の勇者としてその名が神の記憶の中に刻み込まれるのです。

 

私は先週まで中国を訪問しましたが、ラハブのようにいのちがけで主に従っているクリスチャンとお会いし、本当に驚きとともに励まされて帰ってきました。この老姉妹はC先生といって、Oさんの教会の創設者の奥様で、家の教会の指導者のひとりです。現在87歳になられアルツハイマーで入院しておられるので、病院を訪問してお話しを伺いました。C先生が神学校を卒業した1950年頃でしたが、その頃は毛沢東による文化大革命が始まろうとしていた頃でした。神学校を卒業して南の島に赴任したその日にご主人は捕らえられ投獄されました。「さぞお辛かったことでしょう。その時どんなお気持ちでしたか。」とお尋ねすると、C先生はこう言われました。「イエスの弟子にとって苦しみを受けることは当たり前のことです。神学校で学んだ一つのことは、キリストの弟子は苦しみを受けるということです。その苦しみを呑み込むことでイエス様の弟子に加えられると思うと、むしろそれは光栄なことでした。」と言われました。ご主人が何度も捕らえられる中、家族を支えるために羊の世話からいろいろな仕事をしなければなりませんでしたが、イエス様の十字架の苦しみに比べたら、それはたやすいことだと思いました。ものすごい信仰です。

やがてC先生御夫妻はK市に移り、そこで家の教会を始めます。最初は6畳と台所、それに2階を足したような小さな家で始めましたがそこに入りきれなくなると、近くのマンションに移り礼拝を始めました。それがこの写真です。そこも入り切れなくなると政府と交渉してK市の北部のお墓の跡地に教会を建てる許可を受けました。それがこの会堂です。このように中国の家の教会が会堂を持つことは非常に珍しいことで、ほとんどは政府の圧力によって閉鎖に追い込まれますが、この教会は神様の奇跡的なご介入によって今も立ち続けています。しかし、もっとすごいのは、そこに脈々と流れ続けているキリストのいのちです。

 

これは私たちが中国に到着した日に空港からまっすぐ向かった家の教会です。私たちが来るということで、この家のご夫妻が美味しい中華料理を作ってもてなしてくださいました。この方は農家の方でそんなに裕福ではないように見えますが、私たちのために自分たちにできる最高のおもてなしをしてくださいました。

夜の集会はここでやるのかと思ったらそうではなく歩いて3分くらいの別の場所でやるということで移動しましたが、私たちは外国人ということもあり、教会が海外の教会とつながりがあることが判明すると危害が加えられる恐れがあるということで、万が一のことを考えて小さな車に乗せられて移動しました。

そこは石作りの倉庫のようなところで150人くらい入れるくらいのスペースがありました。この集会はこの家の御夫妻が30年前から5人で始められてずっと続けられてきた集会でした。これまでどれほどの危険を乗り越えてこられたかわかりませんが、そのようなことは微塵も感じさせないほどの喜びが満ち溢れていました。集会の合間にこのようにお茶をついでくれでもてなしてくださいました。

集会は7時から始まって9時まで続き、最初に祈りと賛美を30分くらいした後で、5人の人が使徒の働き8章26節から39節のみことばから教えられたことを証し、最後に長老がまとめるというものでした。そして 主の祈りをして解散しましたが、そこには生ける主が臨在しているかのようでした。

この家の集会では火曜日の夜の他に日曜日の午後、木曜日の夜にも集会が行われていて、その他は総教会で行われている日曜日の礼拝と水曜日の祈祷会、土曜日の夜の福音集会に参加しているため、週に5回は集会に参加しているとのことでした。ほとんどイエス様を中心とした生活をしているとのことでした。

 

木曜日の夜は、街の中で持たれている家の教会の集会に参加しました。それはマンションで行われていましたが、どうやって狭いマンションで集会が持てるのかと不思議に思っていましたが、実際に行ってみてわかりました。中が広いのです。日本のマンションと比べたら倍くらいの広さがありありました。50人くらいが座れるスペースです。また建物もしっかりしていて音が隣に漏れることもないようでした。これがこのマンションの持ち主です。そして、こんな感じで集会が持たれていました。内容は火曜日に訪れた集会とほとんど同じです。この日はヘブル11章23節から28節までのみことばからの説明や証が続きましたが、この箇所は、私が中国に来る前に説教した箇所でもあったのでよく覚えていましたが、私よりもずっとよく聖書をよく読んでいるなぁと感心しました。

 

そして、土曜日の夜は福音集会といって、新しい人たちのための集会がありました。それもすべて役員を中心とした信徒たちによって導かれた集会でした。祈りと賛美の後で4人の方々が福音について15分くらいずついろいろな角度から説明したり、証をしたりしました。集会の最後に今晩イエス様を信じたい人は最後の賛美歌を歌っている時に立ってくださいと促されると、40人くらいの人が立ち上がりました。これが毎週土曜日に行われているのです。単純に計算しても月に百人くらい、一年で五百人くらいの人たちが救われることになります。

 

これは日曜日の礼拝の様子です。礼拝堂に八百人くらいの座席がありますがそこは一杯で、その他のスペースに椅子が並べられ、モニターで礼拝していました。おそらく千五百人くらいの人が集っていたのではないかと思います。

 

いったいどうしてこのようなことが起こっているのでしょうか。勿論、これらのことはすべて神の御業なのです。しかし、いのちをかけて主に従ったC先生御夫妻の信仰に主が働かれ、御力を現してくだったからです。

 

しかし、それは中国だけのことでありません。私たちも信仰によって神のことばにいのちかけで従うなら、同じような事が起こると信じます。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるからです。しかし、そのためには私たちを完全に神に明け渡さなければなりません。私たちがどう思うかではなく、神がどのように思われるか、その神のみこころを知り、みこころに従わなければなりません。そうすれば、堅く閉ざされたエリコの城壁が崩れ落ちたように、この日本を覆っている霊的な壁は必ず崩れ落ちるのです。そして、ラハブが救い主の系図の中に記録されたように神のすばらしい祝福の中へと招き入れられるのです。

 

あなたはラハブのような覚悟がありますか。もし見つかれば自分のいのちの保証はないという危険の中でもいのちがけで主に従っていくという覚悟ができているでしょうか。神が喜ばれることは私たちが何をするかではなく、死に至るまで忠実であるということです。いのちがけで主に従いましょう。そして、主がなしてくださる御業を待ち望もうではありませんか。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

申命記21章

 

 きょうは、申命記21章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 1.だれが殺したのかわからないとき(1-9

 

「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。」

 

1)罪に対する責任(1-5

ここには、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、そこで殺人事件が起こるも、だれが殺したのかわからないときどうしたらよいかにいて教えられています。その場合、その死体から一番近い町が、一時的な責任を負わなければなりませんでした。その長老たちは、まだくびきを負ったことがない雌の子牛を連れて来て、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水が流れている谷へ連れて行き、そこで首を折らなければなりませんでした。いったいなぜそのようなことが必要だったのでしょうか。

それは、一人の犯した罪に対して、その個人だけでなく、イスラエル全体がその責任を負わなければならなかったからです。罪を犯した人は勿論のこと、他の人にも、その罪に対する責任がないとは言えません。その罪に対する責任を痛感することが必要なのです。これが罪の処理における最初のステップです。

 

今年は戦後71年を迎えますが、この71年はいったいどのような時だったのでしょうか。それはちょうどイスラエルがバビロンに捕らえられて70年を過ごしたような、捕らわれの時だったのではないかと思うのです。勿論、主イエスによって罪から救われ罪の束縛から解放していただきましたが、戦時中にクリスチャンが犯した罪に対しては本当の意味で悔い改めがなされてこなかったのではないかと思います。それはあくまでもその時代に生きていたクリスチャンの責任であり、彼らが悔い改めなければならないことではありますが、それは彼らだけのことではなく、私たちの責任でもあるのです。

それは、たとえばネヘミヤ記1章に出てくる彼の祈りを見てもわかります。彼はエルサレムの惨状を耳にしたとき神の前にひれ伏してこう祈りました。

「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も父の家も罪を犯しました。・・」(ネヘミヤ1:6-11

ネヘミヤはイスラエルの罪を自分の罪として告白して悔い改めました。それは先祖たちが勝手に犯した罪であって自分とは関係ないこととして考えていたのではなく、自分のこととして受け止めて悔い改めたのです。

この箇所で教えられていることも同じで、それはだれが犯したのかわからなくても、それを自分の罪として、自分たち全体の問題として受け止めなければならないということなのです。

 

そればかりではありません。6節から9節までをご覧ください。ここには、その罪の贖いのために

まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうち雌の子牛を取って、まだ多賀谷貸されたことも種を蒔かれたこともない、きれいな水の流れている谷へ連れて行き、そこでほふるようにと教えられています。何のためでしょうか。その罪を贖うためです。だれが殺したのかわからない罪であってもそれを自分のこととして受け止め、贖罪がなされなければなりませんでした。そのとき彼らは、自分たちがその血を流さなかったことを証言し、罪の赦しを祈りました。そのようにすることによって罪が赦されたのです。

 

これはやがて完全な神の御子イエス・キリストの贖いを示すものでした。イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったので、その流された血によって私たちのすべての罪を赦してくださったのです。ですから、罪が赦されるためには神の小羊であられるイエス・キリストを信じなければなりません。あなたがイエス様を信じるなら、あなたのすべての罪は赦され、雪のように白くされるのです。そのようにしてイスラエルから罪を除き去らなければなりませんでした。そのようにして私たちも、私たちの群れから罪や汚れを除き去らなければならないのです。

 

Ⅱ.健全な家庭生活(10-21

 

次に10節から21節までをご覧ください。10節から14節には次のようにあります。

「あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところにはいり、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。」

 

ここには、イスラエルの兵士が戦争中捕虜の中に美しい女性を見つけ、その女性と結婚したいと思うなら、その女を自分の家に連れて行き、そこで女は髪をそり、爪を切って、自分の父と母のために、一か月の間、泣き悲しまなければならないとあります。その後で、彼は彼女のところに入り、彼女と結婚することができました。どうしてでしょうか。それは、たとえ捕虜であってもその女性の人格を尊重し、彼女の悲しみや憂いを大切に取り扱わなければならなかったからです。また、そのようにすることによって、イスラエルの道徳的純潔を守らなければならなかったからです。兵士が心から願うなら、そのような手続きを踏まなければなりませんでした。この1か月の間、女性が感情的な問題を解決し、同時に兵士が、この結婚をより真剣に考える機会としたのです。それが健全な家庭の基礎となるからです。

 

ですから、結婚して嫌になったからと言って簡単に離婚することは許されませんでした。もし離婚したい時には、彼女を自由の身にしなければなりませんでした。決して金で売ってはならないし、彼女を奴隷として扱ってはいけませんでした。なぜなら、彼女はすでに彼によってはずかしめられたからです。それほど彼は結婚について慎重に祈り求める必要があったのです。

 

そればかりではありません。次に15節から17節をご覧ください。

「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである」

 

聖書は一貫して一夫一婦制を原則としています。一夫多妻制にはいろいろな問題が生じます。ある妻は夫からの愛情を十分に受け、一方の妻はそうでなければ、そこには憎しみが生じます。そればかりではなく、その憎まれている妻から長男が生まれれば、問題は一層複雑になります。というのは、当時、長子は二倍の遺産を受け継ぐことになっていたからです。けれども、父親というのは、自分が愛した妻から生まれた長男に、より多くの愛情を注ぎたくなるものです。この問題は、遺産相続の時に、より一層露骨に現われます。しかし、この問題に対して神は、感情にとらわれず、憎まれている妻が生んだ長子であっても原則を守るようにと、みことばをもって明らかにしてくださいました。私たちの家庭生活においても、私たちの感情ではなく、神のみことばに従うことが優先されなければならないのです。

 

Ⅲ.厳しい警告(18-23

 

次に18節から21節までをご覧ください。

「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。」

 

ここには、かたくなで、両親に逆らう子に対してどのように対処すべきかが教えられています。その場合は、両親は彼を捕まえて、町の長老たちの所へ連れて行き、「私たちの息子は放蕩して、大酒のみです。」と言わなければなりませんでした。両親が扱うことができないことを認め、特別な対処を求めたのです。するとその息子は、町の長老たちから裁きを受けました。そして、町人たちはみな、彼に向かって石を投げ、死刑にしたのです。

 

何と恐ろしいことでしょうか。両親に逆らったくらいで石投げにされるというのではたまったものではありません。いったいこれはどういうことなのでしょうか。それは、このように一つの家庭で起こっていることはその家庭の問題だけでなく、イスラエルの共同体全体の問題として扱われたからです。彼が両親に逆らう息子であることが証明されたなら、彼は死ななければなりませんでした。それは神に対する罪でもあったからです。なぜなら、聖書には、「あなたの父と母を敬え」(申命記5:16)とあるからです。父母に対する反逆は殺人の罪と同じくらい怖い罪なのです。

 

今日、この神の命令をないがしろにされています。子供は親の言うことなど聞こうともしません。子供が親に従うのではなく、親が子供に従うというような逆転した状態になっています。やりたい放題で、歯止めが利かなくなっています。その結果、社会全体がおかくなっています。そのようなことはふさわしいことではありません。子どもを愛することと、子供に好きなようにされるのは全く違います。親は神のみこころを知り、子どもを訓練し、愛して、しつけなければなりません。そのようにしてイスラエルの中から悪を除き去らなければならないのです。それは、イスラエルがみな、聞いて恐れるためです。このような断固とした対応が、イスラエル全体の聖さを保つことになるのです。

 

最後に22節、23節を見て終わりたいと思います。

「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」

 

ここでは、死刑にされた人のその死体に取り扱いについて語られています。死刑になった者の死体は、しばらくの間、木の上につるして置かなければなりませんでした。それは、その死体を見ることによって罪を畏れるようにするためです。聖書は、私たちに、罪と罪の本質について生々しい結果を見せてくれています。私たちは自ら犯した罪が、どのくらい醜いものであるのか、覚えなければなりません。罪が人をどれほど悲惨にさせるのか、私たちはいくらでも見ることができます。これらすべてのものは、私たちに対する厳しい神の警告でもあります。私たちは、罪を軽々しく考えてはならないのです。

 

ところで、パウロはこのみことばを引用して、イエス様が、この神ののろいを受けてくださったことを語っています。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13

いったいなぜキリストは神にのろわれたものとなって十字架で死なれたのでしょうか。それは、私たちのためでした。私たちは神にそむき、父母にそむき、自分勝手に生きるものでした。その結果、木につるされなければならなかったのです。それを見れば私たちがいかに醜いものであり、汚れた者であったかがわかります。しかし、イエス様はその汚れてのすべてを身代わりに受けて死んでくださいました。神ののろいとなってくださったのです。私たちは、このキリストにあって罪の贖い、永遠のいのちを受けることができました。であれば、私たちは律法によって義と認められようとする愚かなことがあってはなりません。御霊で始まった私たちの救いを、肉によって完成させるようなことがあってはならないのです。

 

このような真理をどのように理解し、受け止めているかが大切です。私たちも時として御霊で始められた救いを肉によって完成してようとしていることがあるのではないでしょうか。ペテロは、異邦人コルネリオをなかなか受け入れることができませんでした。しかし、夢を通して、「神が聖めたものをけがれていると言ってはならない。」日と示され、やっと受け入れることができました。それはペンテコステから約10年が経過してのことです。私たちに求められていることは、御霊によって始められた救いのわざを、御霊によって完成していくこと、すなわち、福音の正しい理解に立って、その中を生きることなのです。

ヘブル11章23~28節 「信仰によって選択する」

きょうは、信仰によって選択する、というテーマでお話します。私たちは、日々の生活の中でいろいろなことを選択しながら生きています。それは、毎日起こる小さなことから、人生における重大な決断に至るまで様々です。そして、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)とあるように、どのように選択するかによって、その結果がきまりますから、どのような選択をするのかということは極めて重要なことなのです。

 

きょうの箇所に出てくるモーセは、まさに信仰によって選択した人と言えるでしょう。いったい彼は、どのように選択したのでしようか。きょうは、このモーセの選択からご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.信仰によって見る(23)

 

まず23節をご覧ください。「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」

 

ここにはモーセの信仰ではなく、モーセの両親の信仰について記されてあります。モーセの両親については出エジプト記6章20節に言及されていますが、父親の名前はアムラムで、母はヨケベテです。彼女はアロンとモーセを産みましたが、モーセが生まれた時、大変な時を迎えていました。イスラエル人は多産で、おびただしくふえ、すこぶる強くなって、エジプト全土に満ちたとき、エジプトの王パロはこのことを恐れ、これ以上イスラエル人が増えないようにと、イスラエル人に赤ちゃんが生まれたら、それが男の子であれば皆殺しにするようにと命じられていたからです。そのような時にモーセが生まれました。さあ、どうしたらいいでしょう。モーセの両親は、モーセが殺されないようにと、三か月間隠しておきました。どうしてでしょうか。それは、「彼らはその子の美しいのを見たからです。」生まれたての赤ちゃんはだれの目にもかわいいものです。特に、お腹を痛めて産んだ母親にとってはかけがえのない宝物で、いのちそのものと言えるでしょう。よく自分の子どもは目の中に入れても痛くないと言われますが、それほどかわいいものです。しかし、生まれたての赤ちゃんをよく見ると、そんなにかわいくもないのです。顔はしわだらけで、毛もじゃらで、お世辞にも美しいとは言えません。それなのに、モーセの両親はその子の美しいのを見たのです。これはどういう意味でしょうか。それは客観的に見てどうかということではなく、彼らが信仰によって見ていたからということなのです。ここで注意しなければならないのは、モーセの両親は、信仰によって、モーセの美しさを見た、ということです。

 

このことは使徒7章20節にも言及されていて、それはステパノの説教ですが、そこでステパノはこう言っています。「このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月間、父の家で育てられましたが、」ここでステパノはただかわいいと言っているのではありません。神の目にかなったかわいい子と言っているのです。つまり、それは神の目にかなった美しさであったということです。人間の客観的な目から見たらどうかなぁ、と思えるような子でも、神の目から見たら、かわいい子であったということなのです。これが信仰によって見るということです。このような目が私たちにも求められているのではないでしょうか。

 

あなたの目に、あなたの子どもはどのように写っているでしょうか。小さいうちはかわいかったのに、大きくなったら全然かわいくないという親の声を聞くことがありますが、どんなに大きくなっても神の目にかなった美しい子として見ていく目が必要なのです。うちの子はきかんぼうで、落ち着きがなくて、駄々ばかりこねて、かんしゃく持ちなんですと、見ているとしたら、それは不信仰だと言わざるを得ません。もし、あたなに信仰があるならば、神の目で子どもを見ていかなければなりません。表面的に見たらほんとうにかたくなで、問題児のように見える子でも、神の目から見たらそうではないからです。神の目から見たらほんとうに美しい子どもなのです。そのように信仰によって我が子を見ていかなければならないのです。

 

それは自分の子どもに限らず、だれであっても同じです。あなたがあなたの隣人を見るとき、あるいは、あなたの接するすべての人間関係の中で、このような目を持ってみることが必要なのであります。相手に多少欠点があっても、このような目で見ていくなら、そこにさながら天国のような麗しい関係がもたらされることでしょう。

 

それは、その後モーセがどのようになったかを見ればわかります。モーセは守られました。そして、やがてイスラエルをエジプトから救い出すためのリーダーとして用いられていくのです。同じように、あなたが信仰によって子どもを見るなら、やがて神に用いられる、偉大な神の人になるでしょう。そのままでは滅びてしまうかもしれません。けれども、信仰によって見ていくなら、決して滅びることなく必ず神に守られる人になるのです。

 

Ⅱ.はかない罪の楽しみよりも、永遠の楽しみを(24-26)

 

次に24~26節までをご覧ください。

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」

 

本来であれば、ヘブル人の赤ちゃんは皆殺されなければなりませんでしたが、神の奇跡的な御業とご計画によって彼は助け出されただけでなく、何とパロの娘に拾われ、エジプトの王宮で王子として育てられました。ですから、モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。しかし、彼が成人した時、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。これはどういうことでしょうか?これは、「養母を拒んだ」ということではありません。「パロの娘の子」というのは一つの肩書であり、タイトルなのであって、つまり、モーセはエジプトのパロの後継者、エジプトの王子としての地位や名誉を捨ててということです。今日で言えば、皇太子が天皇陛下になることを拒むようなものです。まして当時エジプトは世界最強の国でした。世界最強のトップとしての地位や名誉を捨てたということは、この世の栄光を拒んだと言っても過言ではないでしょう。この世の富、この世の地位、この世の名誉といったものを拒み、神の民とともに苦しむことを選び取ったのです。その道とは信仰の道のことであり、苦難の道のことです。というのは、主に従うところには必ず苦しみが伴うからです。イエス様はこう言われました。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16:33)

また、Ⅱテモテ3章12節のところで、パウロもこのように言っています。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

ですから、神の民として生きる道には苦しみが伴いますが、モーセはこの道を選び取ました。なぜでしょうか。

 

26節には、その理由が記されてあります。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったからです。」とあります

モーセは、たとえそれが世界のすべてを手に入れるような栄光であったとしてもそんなものは、はかないと思ったからです。むしろ、キリストによって受ける報いはそれとは比較にならないほどの大きな富だと思いました。ここではこの世のはかない富とキリストによって受ける報いが天秤にかけられています。そして、キリストによってもたらされる天国での報いは、パロの娘の子として受けるこの世の罪の楽しみよりもはるかに重いと判断したのです。この「はかんない」という言葉は、Ⅱコリント4章18節では「一時的」と訳されています。この世の富は一時的なもので、はかないものなのです。エジプトの栄光は人間の目で見たらものすごく魅力的に見えますが、それは一時的で、はかないものにすぎません。永遠に続くものではないのです。今が楽しくて、永遠に苦しむのか、今は苦しくても、永遠を楽しむのか、その選択を間違えてはなりません。

 

イエスさまはこのように言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

 

オランダにコーリー・テンブームという世界的に有名な婦人がいました。彼女は第二次世界大戦のとき、彼女の家族がユダヤ人をかくまったという 理由でドイツの収容所に入れられ、家族は拷問に耐え切れず収容所で死にましたが、彼女は九死に一生を得て国に帰ると、そこで神学を学び、献身して世界中を周って神の愛を語るようになりましたが、彼女はこのように言っています。

「私は33年間、イエス様のことを64か国で語り告げてきましたが、その間たった一度も、イエス様に助けを求めて後悔したという人と会ったことがありません。」

これはものすごいことではないでしょうか。それこそ確かなものなのです。

 

エクアドルのアウカ族に伝道した宣教師のジム・エリオットは、1956年にアウカ族の槍によっていのちを奪われました。28歳の時です。それゆえ、彼はジャングルの殉教者とも言われていますが、彼が22歳の時に書いた日記にこういうことばが残されていました。

「失ってはならないものを得るために、持ち続けることができないものを捨てる人は賢いな人である。」

私たちも賢い人にさせていただきたいですね。モーセのように失ってはならないもののために、自分の手の中にあるものを喜んで手放す者でありたいと思います。

 

Ⅲ.信仰によって前進する(27)

 

次に27節をご覧ください。ここには、「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」とあります。これは、モーセがエジプト人を打ち殺した後にそのことがエジプトの王にばれたのではないかと恐れ、ミデヤンの地に逃れたことを語っています。出エジプト記を見る限りは、彼がエジプトを出たのはエジプトの王パロが彼のいのちをねらっていたので、そのことを恐れて出て行ったとあるのに対して、ここでは、モーセは、王の怒りを恐れないで出て行ったとあるので、矛盾しているように感じます。しかし、これは決して矛盾しているわけではありません。確かにモーセはエジプトの王が自分のいのちをねらっているのを知って恐れました。しかし、モーセがエジプトの地からミデヤンの地へ行ったのは、ただ恐れから逃げて行ったのではありません。そのことをここでは何と言っているかというと、「信仰によって」と言われています。それは信仰によってのことだったのです。彼は信仰によって、エジプトを立ち去ったのです。なぜそのように言えるのかというと、その後のところにこうあるからです。「目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」現代訳聖書では、こう説明しています。「まるで目に見えない神がすぐそばにいてくださるかのように前進した。」モーセは、ただ恐れてエジプトから出て行ったのではなく、まるで目に見えない神がすぐそばにいてくださるかのようにして前進して行ったのです。

 

皆さん、私たちが信仰によって進路を選択する場合、恐れが全くないわけではありません。ほんとうにこの選択は正しかったのだろうか、この先いったいどうなってしまうのだろうか・・そう考えると不安になってしまいます。しかし、信仰によって神を仰ぎ決断するなら、もう恐れや不安はありません。なぜなら、神が最善に導いてくださるからです。問題は何を選択するかということではなく、どのようにして選択したかということです。もし信仰によって選択したのであれば、たとえ火の中、水の中、そこに主がともにいてくださるのですから、何も恐れる必要がないのです。

 

最初は自分の弱さを知って尻込みしたモーセでしたが、神から強められ偉大な指導者としてイスラエルを導くために、再びこのエジプトに戻って来ることになりました。いったいだれがそのような神のご計画を考えることができたでしょうか。これが神の御業なのです。だから、これから先どうなるだろうかと心配したり、このように進んで大丈夫だろうかと恐れたりする必要はありません。最も重要なことは、どのようにして決断したかということです。信仰によって決断したのなら、主が最後まで導いてくださいます。それが結婚や就職といった人生を大きく左右するような選択であればあるほど私たちは本当に悩むものですが、そのベースにあることは信仰によって選択するということです。

 

ここには、モーセが「王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。」とあります。私たちが何かを選択するときに問題となるのは、他の人にどう思われるか、何と言われるかということを恐れてしまうことです。しかし、人を恐れるとわなにかかると聖書にあります。しかし、主を恐れるものは守られるのです。モーセは、エジプトの王がどんなに怒っても、王宮の人たちからどのように思われようとも、そのようなことを恐れないで主に従いました。それが信仰によってということです。

 

もしかしたらそのことで他の人の怒りをかってしまうかもしれません。あるいは、変な人だと思われるかもしれない。そして、その人との関係も失うことになってしまうかもしれません。でも恐れないでください。信仰によって選択し、主に従って行くなら、主はあなたの人生にも、あなたが想像することができないような偉大な御業をなしてくださるのです。

 

Ⅳ.信仰によって、キリストを受け入れる(28)

 

第四のことは、信仰によって、キリストを救い主として信じ受け入れるということです。28節をご覧ください。

「信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。」

これは、過越しの出来事を指しています。イスラエルがエジプトを出る時、神はイスラエルの民をエジプトから救い出するため、指導者であったモーセをエジプトの王の所に遣わし、イスラエルの民を行かせるように言うのですが、エジプトの王はどこまでもかたくなで、なかなか行かせようとしませんでした。それで神は十の災いのうち最後の災いとして、エジプト中の初子を殺すと仰せられたのです。ただし、イスラエルの民は傷のない小羊をほふり、その血を自分の家の入口の二本の柱とかもいとに塗っておくように、そうすれば主のさばきはその家を過ぎ越し、その中にいる人たちは助かったのでした。こうして彼らはエジプトを出ることができたのです。

 

これはどんなことを表していたかというと、神の小羊であるイエス・キリストの十字架の血を心に塗ること、すなわち、キリストを救い主として信じて心に受け入れることです。あなたがキリストを信じて受け入れるなら、神のさばきはあなたを過ぎ越して、滅ぼす者の手から救われるのです。キリストはこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

 

ユダヤ人哲学者のマルチン・ブーマーは、「人生には出会いで決まる」と言いました。人生には大切な出会いがたくさんありますが、その中で最も大切な出会いは、イエス・キリストとの出会いです。なぜなら、それによってあなたの永遠が決まるからです。あなたがイエスを主と告白するなら、

あなたが信仰によってイエスをあなたの人生の主として受け入れるなら、あなたも永遠のいのちを受けるのです。

 

Ⅴ.信仰によってバプテスマを受ける(29)

 

最後に、29節をご覧ください。ここには、「信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」とあります。これは何のことかというと、イスラエルがエジプトを出た後、追って来たエジプト軍から逃れようと、紅海を渡った出来事です。紅海が真っ二つに分かれ、その乾いた陸地を通って救われました。しかし、エジプト人も同じようにしましたが、彼らはその上に水がおおい、おぼれて死んでしまいました。

 

この出来事はいったいどんなことを表していたのでしょうか。Ⅰコリント10章2節には、「そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、」(Ⅰコリント10:2)をご覧ください。パウロはここで、それはモーセにつくバプテスマを受けたと言っています。ですから、あの紅海での出来事は、モーセにつくバプテスマのことだったのです。

 

バプテスマということばは「浸る」という意味のことばですが、浸るということで一つになること、一体化することを表しています。ですから、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるというのは、イエス・キリストと一つとなること、一体化することを表しています。きょうこの後でM姉のバプテスマ式が行われますが、それは何を表しているのかというと、イエス様と一つになることです。イエス様が十字架で死んだように自我に死に、イエス様が三日目に死からよみがえられたように、キリストの復活のいのちに生きることです。このようにしてキリストと一つにされ、まことの神の民として、約束の地を目指して進んでいかなければならないのです。

 

ですから、ここでイスラエルの民が紅海を渡って行ったというのは、そこで古いものを、自分の古い罪の性質を水の中に捨てて、そこから出て、神が導いてくださるところの新しい地に向かって進んで行ったということなのです。イエス・キリストとともに十字架につけられ、自分の罪はすべて葬られ古い自分はそこで死に、水から出てくる時には新しいいのちに、キリストとともに復活するのです。その信仰を表明するのがバプテスマ式です。イスラエルがエジプトを出て、古い性質を紅海に捨て、新しい地に向かって行ったように、私たちも古い性質をバプテスマのうちに捨て去り、イエス様とともに新しい性質を来て、そこから新しい地を目指し、新しい地に入る者として歩み出していきたいと思います。

 

きょうはMさんのバプテスマ式が行われますが、これはMさんだけのことではありません。私たちにも問われていることです。あなたは紅海で古い性質を捨て、神の民としての新しい性質を着ているでしょうか。あなたがバプテスマを受けたとき、あなたの古い自分を捨てて、キリストにある新しい性質を着たでしょうか。私たちはきょうそのことをもう一度自分自身に問いたいと思うのです。そして、捨てたはずの自分が、まだ自分の中心にあるなら、このバプテスマ式において、それを捨て去り、イエス・キリストと一つにされ、イエスのいのちによって新しい地に向かっての新たな一歩を歩み出していただきたいものです。これは信仰によらなければできないことです。

 

モーセは信仰によってそれを選び取ました。人間的に見たら、そこには大きな賭けがあるように見えます。ほかの人が進んでいく道を行く方が、ずっとやさしいことです。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」とあるように、みんなが行く道を行った方がずっとやさしいのです。でも、そこにはいのちがありません。車が突っ込んできたら死んでしまうでしょう。ですから、より確かな道は、信仰によって、神が示してくださる道を行くことです。そこには大きな勇気と決断が必要ですが、信仰があれば、あなたにもできます。信仰によって生きたモーセとともに、いつも主がともにいて導いてくださったように、そうした人の人生にはいつも主がともにいて導いてくださるのです。