申命記22章

 きょうは、申命記22章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

 1.知らぬふりをしてはならない(1-4

 

「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。」

 

ここには、同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしてはならない、と教えられています。そのような牛や羊を見たら、その所有者のところに連れ戻さなければなりません。その所有者が近くの者でなく、それがだれのものであるかがわからない時には、それを自分の家に連れて来て、その人が捜している間、自分のところに置いて、保護しておかなければなりません。そして、所有者が見つかったら、彼に返してやらなければなりません。それは牛や羊だけでなく、ろばであっても、着物であっても同じです。つまり、隣人が自分の物を見失った時、見てみぬふりをしてはならず、その人のためになることをするように努めなければならないのです。

 

これは私たち日本人にはとても大切な教えです。というのは、日本人はどちらかというと自分のことばかり考えて、他の人のことを顧みることが苦手だからです。自分さえよければ良いという風潮の中にあって他の人が困っているのを見たら率先して助けてやることが、神の民にとってとても重要なことだからです。

 

先月、中国の教会を訪問したとき、どこでも盛大なもてなしをしていただきました。中には貧しい農家の方もおられましたが、出された食事はものすごく豪華なものでした。私が王さんに、「これは普通ですか」と尋ねると、中国では他の人のために自分を犠牲にして尽くしたいという思いがあるのでみんな同じようにしますと言いました。日本では自分の都合が悪いとできないとかとよく言いますが、中国では自分の都合が悪ければそれをキャンセルしてでもその人のために尽くすというのです。それは神の愛を受けた者にとって当然のことでしょう。神は私たち罪人をご覧になり、見て見ぬふりをせず、その救いのために御子をこの世に遣わしてくださいました。ここに神の愛が豊かに示されたのです。その愛を受けた私たちは、今度は同じように迷っている人のために尽くすのは当然ではないでしょうか。イエス様は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31)と言われました。自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにすることが神のみこころであり、救われた私たちに求められていることなのです。

 

Ⅱ.混ぜ物をしてはならない(5-12

 

次に5節から12節までをご覧ください。

「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。」

 

どういうことでしょうか。女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。創世記1章には、神が人を造られた経緯が記されてありますが、神が人を造られた時、男と女とに造られました。それは男と女は違うように造られたという意味です。人間としては同等であり、同質ですが、それぞれ与えられた役割に違いがあるということです。人は神のかたちに造られ、神の栄光を現すために造られましたが、人がひとりでいるのは良くないと、神はアダムの助け手としてエバを造られました。そのようにして二人が互いに助け合って神の栄光を現すためです。ですから、男と女は同等、同質ですが、根本的な違いがあるのであって、その違いを認めつつも、それを混同してはならないのです。

 

それは男と女だけのことではありません。その後のところにはぶどう畑に二種類の種を蒔いてはいけないことや、牛とろばを組みにして耕してはならないとか、羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない、とあることからもわかります。これらを一言で言えば、「神が与えられた区別や種類を尊重しなさい。」ということです。創世記を読むと、神は区別をされる神であることが分かります。「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」(創世1:4とあります。「こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。」(創世記1:7それぞれに区別があることによって、神の創造の秩序を見ることができ、秩序があるところに神の栄光が現われるのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。

 

ですから、ここでモーセが禁じているのも、そうした神の創造の秩序が基になっているのです。つまり、この創造の秩序を重んじ、男は男として与えられた秩序に従って歩み、女は女として与えられた秩序に従って歩まなければならないということです。パウロは、「すべてのおとこのかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」(Ⅰコリント11:3と言っていますが、この秩序はとても大事です。男と女は一つであり、同等であり同質ですが、男が女のかしらになるように造られました。したがって、女が男のように見えたり、男が女のように見えたりするのは、神が忌みきらわれることなのです。最近では、男が女っぽくなってきたり、女が男みたいになることがもてはやされていますが、そのようなことはこうした区別することをないがしろにすることであり、神が忌みきらわれることなのです。

 

6節から8節までの勧めはユニークです。木の上に鳥の巣を見つけ、そこにひなか卵が入っていてそれを取ろうとする時には、母鳥がいないときにとるようにしなさいとあります。なぜでしょうか。もし母鳥が見たら悲しむことになるからです。そのような残酷なことをせず、ちょっとした配慮をすることは、たとえそれが動物であったとしても大切なことなのです。

同じように、新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけるようにとあります。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないためにです。中東の家は屋上が平らの家屋になっているので、屋上にあがることがたくさんあるのですが、その時に手すりをつけなさいと落ちてしまう危険があります。そういうことがないように、ちゃんと手すりをつけなさいということですが、それが周りの人々に対する配慮でもあり、そうしたことを怠ってはならないのです。

 

また、ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない、とあります。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないためにです。牛とろばとを組にして耕してはならないし、羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはなりません。牛とろばを組にして耕してはならないというのは、同じくびきをかけてはならない、ということです。パウロはここから、「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14と言っています。私たちはこのような原則を守り、神のみこころにかなった者、聖なる者となることを求めていかなければなりません。

 

また、 身にまとう着物の四隅には、ふさを作らなければならない、とあります。民数記15章を見ると、これは、主の命令を思い起こし、それを行うためであり、神の聖なるものとなるためでした。すべての民が着る着物のすその四隅にあるふさを互いに見ながら、自分たちが神の民であることを思い起こし、神の恵みを思い起こすことができることはどんなに幸なことでしょう。これは現代でいう聖餐式を行う目的でもありますが、私たち常に神の民であることを思いお越し、神が私たちに成してくださった恵みを思い起こすものでありたいと思います。

 

Ⅲ.姦淫の罪に対する処置(13-30

 

次に13節から終わりまでをご覧ください。まず13節から19節までの箇所です。

「もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり、彼女をきらい、口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった。』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです。」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。その町の長老たちは、この男を捕えて、むち打ちにし、銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。」

 

人が妻をめとり、彼女のところに入るとは、結婚して男女が性的関係に入ることです。ところが、結婚した後に彼女をきらうようになり、いろいろと口実を設けて男が女の悪口を言いふらした場合、どうしたら良いかが教えられています。男がその欲望から結婚しても、それがつまらないため離縁しようとしたケースは、聖書の他の箇所にもあります。たとえば、ダビデの息子アムノンは、ダビデの別の妻の娘であり、タマルのことが欲しくて、彼女を力づくで恥ずかしめ寝てしまいましたが、その後で、彼女を熱烈に恋したその恋よりも憎しみの方が大きかったとあります。アムノンは、「さあ、出て行け。」と言いましたが、タマルは、「それはなりません。私を追い出すことなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことです。」(Ⅱサムエル13:16)」と言いましたが、彼は力づくで彼女を追い出しました。このような時、男は往往にして自分を正当化するために女の悪口を言いふらしてしまうことがあります。ここではそれが、この女と結婚したが、彼女に処女のしるしを見なかったというものです。つまり、離縁するために正当な理由付けを見つけようとするのです。もし彼女が本当に処女ではなかったら、死刑に処せられます。ですから、主は、そのような状況から彼女を守るために、彼女の両親が、その寝床のシーツを持ってきて、処女であるしるしを持って来て、それを町の長老たちの前にその着物を広げて証明するのです。そしてそれがこの男の嘘だということがわかったら男から罰金を取り、一生、その女と離縁することができないように定めました。

 

しかし、そのことが真実であり、その女に処女のしるしが見つからなかったとしたらどうしたかというと、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければなりませんでした。彼女は死ななければなりません。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからです。そのようにして、彼らのうちから悪を除き去らなければなりませんでした。これは婚前交渉も罪であるということです。夫のある女と寝ることも罪ですが、結婚する前に寝ることも罪です。それは神のみこころにかなわないことであり、それが判明した時には女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければなりませんでした。

 

23節と24節をご覧ください。「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」

ユダヤ人の中では、婚約は結婚と同じように拘束力があったので、この時に罪を犯したら、それは姦淫の罪と同じように罰せられました。

 

「もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。」

これは強姦された時のケースです。その場合は、男だけが死ななければなりませんでした。女には死刑にあたる罪はありません。それは、ある人が隣人に襲いかかり、いのちを奪ったのと同じだからです。その女がどんなに叫んでもだれも助けてくれる人がいなかったとしたら、彼女にはどうすることもできないからです。不品行を犯すことは神にとっては重大な罪ですが、しかし、どうしようもないことまでも理不尽にさばくことは決してなさいません。

 

「もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕えてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。」

 もし、まだ婚約していない女を見つけ、これとネタ場合、男はその責任を取って女を妻としなければなりませんでした。そうした肉体関係を持ってしまった責任を結婚することによって果たすことになるからです。また、「だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。」これは、自分の母ではない父の妻がいて、その母をめとることによって父をはずかしめてはならないということです。

 

このように、イスラエルが約束の地に入りそこに定住するようになるといろいろな問題が起こることが予想されますが、ここではそうした問題一つ一つにどのように対処しなければならないかを教えています。そして、ここに貫かれていることは「聖」であるということです。こうしたことは異教社会では当たり前のように行われていたことかもしれませんが、神に贖い出され、神の民とされた者にとってそうしたものに妥協することなく、神のみ教えに従って歩まなければならないということです。この世と妥協してはなりません。彼らから出て行き、彼らと分離しなければなりません。そうすれば、神は私たちを受け入れてくださり、神の民として生きることができます。それこそ、どこにいても、勝利ある人生を生きる力となるのです。

また、このような聖なる者となるのは私たちの行いによるのではなく、神の子イエス・キリストの贖いによるということを忘れてはなりません。ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女何と言われるかとの律法学者とパリサイ人たちの問いに、イエス様はこう言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)すると、年長者たちから初めて、ひとりひとり出て行きました。するとイエスはその女に言いました。「婦人よ。あのひとたちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めなさい。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(同8:10-11

私たちはだれひとり罪に定められることはありません。イエス・キリストが私たちのすべての罪を贖ってくださいました。イエス様はその罪の罰のすべてを受けてくださいました。そのうち傷のゆえに、私たちは許されたのです。このイエス様の赦しがなければ、私たちはここに立ち続けることはできません。しかし、イエス様が私たちのために死んでくださったので、私たちは今もここにいることができるのです。このイエスの愛によって、私たちは神のものとなり、その歩みを続けていくことができるのです。ですから、このことをいつも思い起こし、こんな罪深い者が赦されたことを感謝して、ますます聖なる者としての歩みを続けさせていただきたいと思うのです。

ヘブル11章33~40節 「天国を待ち望む信仰」

きょうは、ヘブル人への手紙11章33~40節から、「天国を待ち望む信仰」というタイトルでお話します。ヘブル人への手紙11章には、信仰によって生きた人たちについて語られておりますが、きょうの箇所には、それらの人々に共通の特質が語られています。それは、こうした人たちは皆、天国を待ち望んでいたということです。

 

Ⅰ.信仰によって勝利した人々(33~35a)

 

まず33節から35節前半までをご覧ください。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」

 

「彼らは」とは、直接的には32節に出て来た6人の人たちのことを指していますが、それと同時にこのヘブル書11章全体に出てきた信仰の偉人たちのことを指しています。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

 

彼らが敵に勝利し、命の危険から守られたのは、信仰によってのことでした。信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得たというのは、イスラエルがエジプトを出て約束の地を占領したことを語っています。彼らは、ヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグとの戦いに勝利し、約束の地に入ると、カナンを支配していた王たちを滅ぼして、ついにその地を占領することができました(申命記2:24-3:11)。

 

また、「獅子の口をふさぎ」というのは、ダニエルが経験したことを指しているものと思われます。ダニエルは、イスラエルがバビロンによって滅ぼされると、バビロンへ強制連行されましたが、その後バビロンがメディヤ・ペルシャの連合軍によって滅ぼされると、メディヤ・ペルシャの王であったダリヨス王に認められ、三人の大臣のうちの一人に選ばれました。しかし、彼には神の霊が宿っていたので、ほかの大臣たちよりもはるかにすぐれていたため、ほかの大臣たちからねたまれると、彼らの策略によってライオンの穴の中に投げ込まれてしまいました。

 

しかし、ダニエルが仕えていた神は、ライオンの口をふさぎ、彼を救い出してくださいました。ダリヨス王はダニエルのことが心配で、心配で、食事ものどを通らず、一睡もしないまま夜を過ごしましたが、夜が明けるのを待ち構えていたかのように翌朝すぐにライオンの穴に行き、こう呼びかけました。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」(ダニエル6:20)すると、ダニエルは王に答えました。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。」(ダニエル6:21-22)

それでダニエルは穴から出され、逆に彼を訴えた者たちが獅子の穴の中に投げ込まれたのです。そればかりか、ダニエルを通して現された神の御業を見たダリヨス王は、ダニエルの神を賛美し、ひれ伏したのです。

 

その次に出てくる「火の勢いを消し」というのは、そのダニエルの三人の友人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが経験したことを指しているのでしょう。彼らもまたバビロン捕囚の際にダニエルと一緒にバビロンに連れて行かれた少年たちでしたが、バビロンの王ネブカデネザネルが、金の像を造り、これを拝まない者はだれであっても燃える炉の中に投げ込まれると脅しても、決してそれに屈しませんでした。彼らがネブカデネザル王の前に連れて来られた時、王が「もし拝まないなら、あなたがたはただちに炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」(ダニエル3:15)と言っても、彼らは、「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17-18)とはっきりと答えました。

それを聞いたネブカデネザル王は、怒りを爆発させ、だったら炉の温度を七倍にして、彼らを炉の中に投げ込めと命じると、あまりの熱さに彼らを縛って炉まで連れて行った軍人たちが焼け死んでしまいました。しかし、三人の若者はどうであったかというと、焼け死にするところか、何の害も受けず炎の中を歩いていたのです。しかもよく見ると、炉の中に投げ込んだのは三人であったはずなのに、その中にはもう一人いて、その人は神の子のような方でした。つまり、それは受肉前のイエス様です。ネブカデネザル王は急いで彼らを炉から出すと、彼らが何一つ害を受けていなかったのを見て驚き、彼らの信じている神こそ本当の神であると宣言したのです。(ダニエル3:28)。

 

その次にある「剣の刃をのがれ」とは、アハブの王妃イゼベルがエリヤの命をねらって彼を殺そうとしたことから逃れたことや(Ⅰ列王記19:2-18)、イスラエルの王であったヨラムがエリシャを殺そうとしましたことから逃れたこと(Ⅱ列王記6:31-32)を指しているものと思われます。彼らは神のことばを大胆に宣べ伝えたことで、王たちの反感を買い、何度も命の危険にさらされましたが、主はそんな彼らの命を守ってくださいました。

 

次に「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」とは、前回のところでも見ましたが、ギデオンをはじめとする士師たちや、預言者たちのことを指しているものと思われます。彼らは最初から勇士だったわけではなく、最初は主の命令に尻込みばかりしているような弱い者でした。しかし、主のあわれみによって強くされ、信仰によって勇士となり、他国に勝利することができました。

 

また、預言者エレミヤも、主から召しを受けた時、「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」(エレミヤ1:6)と言うような弱い者でしたが、「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんなところへでも行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)。と言われる主の御声を聞いて強められ、ついには自分の命をかけて大胆に神のことばを告げました。36節には、「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い」とありますが、その一人がエレミヤだったのです。最初、彼は「まだ若い」とか、「どのように語っていいのかわからない」と言うような弱い者でしたが、信仰によって強められ、数々の困難を乗り越えて、自分に与えられた務めを果たすことができたのです。

 

そして、35節の前半には、「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」とあります。これはツァレファテの貧しい未亡人やシュネムの金持ちの婦人のことを指しています。ツァレファテのやもめは、預言者エリヤによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅰ列王17:17-24)。また、シュネムの女は、預言者エリシャによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅱ列王4:17-37)。それは女たちの信仰によってということよりも、エリヤやエリシャの信仰によってということです。それは彼らが偉大な預言者であったからというよりも、彼らが信仰によって生きていたので、主が彼らを通してそのような御業を行ってくださったということです。

 

それは彼らだけではありません。私たちも信仰によって生きるなら、死んだ人をもよみがえらせるような偉大な神の御業を行うことができるのです。

 

Ⅱ.約束されたものを得なかった人々(35b-39)

 

しかし、このように信仰によって生きた人たちの中には、信仰によって勝利した人たちもいましたが、苦難の生涯を送った人たちもいました。35節後半から39節をご覧ください。

「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされました。約束されたものは得ませんでした。」

 

35節前半までのところには、信仰によって敵に勝利し、約束のものを得た人たちや、命の危険から救い出された人たちのことが紹介されてありましたが、ここには逆に、信仰によって、様々な苦難を受けた人たちのことが紹介されています。この人々はみな、その信仰によってあかしされた人々です。どのようなあかしかというと、信仰によって、約束のものを得た人々がいれば、信仰によって、苦難を受けた人たちもいたというあかしです。どちらも信仰によって生きた人たちでしたが、結果は必ずしも同じではありませんでした。それはどうしてかというと、私たちの信仰はこの地上の祝福だけを追い求めるものではなく、天にある祝福、永遠のいのちを求めるものだからです。これが、私たちの信仰にとっての究極的な約束なのです。そして、イエスさまがこの地上に来られたのも、私たちにこの神の国をもたらすためでした。イエス様はこう言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)このいのちとは永遠のいのちのことです。イエスさまが来られたのは、私たちがこのいのちを得て、それを豊かに持つためだったのです。

パウロは、ローマ1章16節でこう言いました。「私は福音を恥じとも思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」福音は、信じるすべての人を救い、変えることができる神の力です。パウロのようにキリストを迫害していた人さえも救い、キリストを宣べ伝える者に変えてくれました。私たちに生きる力を与えるのは、お金や知識ではなく、福音を信じる信仰なのです。イエスさまはこの永遠のいのちをもたらすために来られたのであって、この地上での祝福をもたらすためではありませんでした。ですから、ある人たちは信仰によって、国々を征服し、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消すことができましたが、ある人たちはその信仰によって、様々な苦難を受け、約束されたものを得ることができませんでした。この世は彼らにとってふさわしいところではなかったのです。しかし、その信仰によって彼らはあかしされました。何を?彼らは信仰によって生きたということです。彼らはこの地上では報いらしいものは何一つ受けませんでしたが、代わりに、さらにすぐれた天の報いを受けたのです。

 

詩篇90篇10節にはこうあります。「私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年、しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」考えてみると、私たちのこの地上での生涯は点のようなもので、それは短いのです。それは早く過ぎ去ります。昨日まではあんなに若かったのに、あっというまに年をとってしまいます。しかし、死後のいのちは永遠なのです。線ように長く、どこまでも続きます。その永遠の世界をどこで、どのように過ごすのかは、この地上での、今の信仰の決断にかかっているのです。それゆえこの詩篇の記者であるモーセはこう祈っているのです。「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:10)私たちもこのモーセの祈りを、自分の祈りとしたいと思うのです。

 

さて、35節後半には、「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。」とあります。これは、この前に紹介されていたエリヤやエリシャによって行なわれたよみがえりと比較しての、さらにすぐれたよみがえりです。そのよみがえりとは、死者の中からの復活のことです。エリシャとエリヤが行なったのは「蘇生」と呼ばれるもので、一度死んだ者が息を吹き返すだけのことで、やがて再び死んでしまうものでした。しかし、ここで言われているよみがえりとは、死者の復活のことです。御霊のからだによみがえることです。キリストが死者の中からよみがえられたときに持っていたあの復活のからだによみがえることなのです。

 

この復活のからだを得るためには、この世においては救いを得るどころか、拷問を受けることさえあります。ここには、釈放されることを願わずに、拷問を受けた、とありますが、旧約聖書の時代には、そういう信仰者たちもたくさんいました。あのシャデラク・メシャク・アベデ・ネゴでさえ、死の危険から奇跡的に救い出されましたが、もしかすると、そのまま焼き殺されていたかもしれません。だから彼らは、「もしそうでなくても」と言ったのです。もし神が自分たちをネブカデネザル王の手から救い出さしてくれないということがあっても、それでも金の像を拝むことはしないと、断固としてそれを拒みました。それは、彼らがこのさらにすぐれたよみがえりを信じ、それを見つめて生きたいたからです。

 

「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。」

 

これが誰のことを指しているのかははっきりわかりません。けれども、昔も今も、信仰によって生きようと願うなら、だれでもこのような迫害を受けます。なぜなら、そのように聖書に約束されているからです。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

ですから、もしあなたが信仰のゆえに苦難を受けることがあったとしたら、それはキリストの弟子とされていることの証であり、永遠のいのちという勲章を受けていることでもあるということを覚えて感謝しましょう。

 

1世紀に生きたユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、紀元前2世紀頃ユダヤを治めていたのはシリヤでしたが、そのシリヤの王であったアンティオコス・エビファネスは、彼の政策にギリシャ思想を取り入れようと、ユダヤ人を激しく迫害しました。彼は、律法に基づく犠牲のささげものや割礼を禁じ、代わりにエルサレムの神殿にギリシャのゼウス像を配置し、これを拝まなかったら、その者には激しい拷問を加えるとし、それによって大勢のユダヤ人が死んでいきました。

その中に年老いた律法学者でエレアザルという人がいましたが、彼はどんなにアンティオコス・エピファネスによって脅迫されても、神の律法に背くことはできないと、喜んで殉教の死を遂げました。それは終わりの日に復活し、すばらしい御国に行くことができると信じていたからです。

 

これまで信仰によって生きた人たちの中には、そのような人たちがたくさんいました。それは、彼らだけに限らず、この手紙の読者たちにしても然り、先日お話しした中国のクリスチャンたちにしても然り、そして、私たち日本でも同じようにして死んで行った人たちがたくさんいました。豊臣秀吉の時代に起こった26人聖人殉教は有名な話です。それはいつの時代でも、どこででも起こり得る事なのです。

 

この世は彼らにとって、ふさわしいところではありませんでした。彼らは信仰のゆえに苦難を受け、この地上では報いらしいものは何一つ得られませんでした。しかし、彼らは、さらにすぐれたもの、天における報いを得るために、喜んで苦難を受けたのです。

 

Ⅲ.さらにすぐれたものを得るために(40)

 

それは私たちにとっても同じです。この世は、私たちにとってふさわしいところではありません。しかし、私たちには、さらにすぐれた世界が用意されているのです。ですから、そこでの報いを得るために、私たちはしっかりとそれに備えるものでありたいと思うのです。

 

それでは、そのためにどうしたらいいのでしょうか。この手紙の著者はこう勧めるのです。ヘブル12章1です。ご一緒に読みましょう。

「こういうわけですから、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 

皆さんの中に、心が元気を失い、疲れ果ててしまったという人がいますか。もしそういう方がおられましたら、ぜひ彼らのことを思い出してください。彼らのことを思い出すなら、あなたに励ましを受けます。というのはここに、こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるのですから、とあるからです。これはこの11章で紹介されてきた信仰によって生きた人たちのことです。また、イエス・キリストにあって天に召された信仰の先輩者たちも含まれています。あるいは、ついこの間まで一緒に信仰に歩んでいた家族や信仰の友も含まれています。それらの人々が雲のように私たちを取り巻いているのです。彼らはイエス・キリストにあって天に召されましたが今も生きています。そして、私たちのことを、あなたのことを見て、応援しているのです。

 

私たちは今、この地上で信仰の競争をしています。レースをしています。そこでは様々な患難があるでしょう。辛いこともあります。つまずいて倒れて、立ち上がれないような時もあります。疲れ果ててしまい、もうこれ以上は前に進めないという時もあるでしょう。でもそのような時に、ぜひ彼らのことを思い出してください。不平不満を言う前に、あきらめてしまう前に、ぜひ彼らのことを思い出していただきたいのです。彼らのことを思い起こすなら励ましを受けます。彼らは忍耐をもって走り抜きました。その彼らがあなたを見ているのです。彼らはただ傍観しているのではありません。天国から見下ろして見物しているのではないのです。彼らは私たちと同じように信仰のレースを走り抜き、その途上にはいろいろなことがありました。辛いことも、苦しいこともありました。でも彼らは最後まで走り抜いたのです。約束のものをこの地上では手に入れることはできませんでしたが、忍耐をもって走り抜きました。ですから彼らは、私たちの苦しみも、辛さも、悲しみも全部わかっているのです。すでに通っているのですから・・。その彼らが雲のように私たちを取り巻いて応援しているのです。ですから、私たちは彼らのことを思い出すことによって励ましを受けるのです。

 

私はもう溺れそうです、死にそうです、という人がいますか。そういう人はどうぞヨナのことを思い出してください。ヨナは魚に呑み込まれて三日三晩、その中で苦しみました。今私の直面している試練は炎のごとく私を焼き尽くそうとしていますという人がいますか。そういう人はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのことを思い起こしてください。彼らは涼し気な顔をして炎の中でイエス・キリストと一緒に歩きました。語り合いました。私は今巨人と戦おうとしていますという方は、ぜひダビデのことを思い起こしてください。どのような時でも、私たちは常に、どんな試練に置かれようとも、どんな困難に直面しようとも、どんな苦しみの中にあっても、この旧約の聖徒たち、ヘブル人の手紙の11章に出てくるような信仰の殿堂入りを果たしたような人たちが、私たちのことを見ていて、応援しているということを思い出すなら、あなたもまた奮い立つことができるからです。そのようにして、私たちも私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。