ヘブル人への手紙手紙13章17~25節 「完全な者にしてくださるように」

ずっとヘブル人への手紙を学んできましたが、きょうはその最後の箇所です。パウロの手紙でもそうですが、この手紙でもその最後は祈りによって結ばれています。きょうは、その祈りからご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.もっと祈ってください(17-19)

 

まず、17節から19節までをご覧ください。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。」

 

この手紙の著者は、最後のところに来て、教会の指導者と信徒の関係について教えています。そしてその関係というのは、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」ということです。また、「この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることがないようにしなさい。」ということです。どうしてここに来て、指導者と信徒の関係について語っているのでしょうか。それは7節でも言われていたことですが、異なった教えに迷わされないように、神のことばにしっかりと立続けるためです。そのためには、神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを思い起こし、彼らの言うことを聞くことが必要です。そのことをここでは、この人たちは神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです、と言われています。どのようにして見張りをしているのかというと、神のことばによってです。だから、神のことばをもって指導している指導者たちの言うことに従うことが必要であって、それは、自分自身の益のためにもなることなのです。

 

けれども、ここでこの手紙の著者が指導者に服従するようにと言っている最も大きな理由は、その後の18節にあるように、指導者のためにも祈ってほしいということを伝えたかったからです。ここには指導者と信徒との関係は単に指導する者とされる者という関係以上のものであることが示されています。つまり、指導者と信徒の関係は祈りの関係であるということです。手紙の著者は18節で、「私たちのために祈ってください。」と懇願しています。また、19節には、「もっと祈ってくださるよう特にお願いします。」とあります。ここでは教会の指導者たちが信徒のために祈るというのではなく、むしろ教会の信徒が指導者たちのために祈ってほしいと言っているのです。もちろん、牧師は神の祭司として信徒のためにとりなして祈る務めが与えられていますが、その祈りは一方通行ではなく互いになされるものなのです。牧師が信徒のために祈るというだけでなく、信徒もまた牧師のために祈るという相互の祈りが求められているのです。そのようにしてこそ牧師と信徒の信頼関係が構築され、深められて、キリストのからだである教会が、キリストの御丈にまで達することができるのです。

 

尾山令仁先生は、ヘブル書の注解書の中でそのことについて次のように言っておられます。

「この祈り祈られる関係が成り立つ時、牧師と信徒の関係はすばらしい愛と信頼の関係になります。牧師が霊的権威を振りかざしたり、信徒が牧師に対して不平、不満やつぶやきを口にするのでは、教会は決して健康な状態とは言えません。牧師も、いくら教えてもその通りにしない信徒がいると、心の中に不満がたまってくるでしょう。それをためておかないで、祈りの中で神にそのことを申し上げるのです。一方、信徒は信徒で、牧師に対して不平や不満を持っているかもしれません。そんな時、それを祈りの中で申し上げるのです。お互いに不平、不満を相手にぶつけるのではなく、祈りの中で相手の欠けを神が補ってくださるように願うなら、神がそうした問題を解決してくださいます。」

 

祈りの中で神に相手の欠けを補ってくださるように願うというのはすばらしいですね。というのは、その問題を真に解決できるのは神しかいないからです。真の解決とは祈りの中でその人自身が変えられることだからです。イエス様は、「教会は、祈りの家でなければならない。」と言われました。なぜなら、教会は祈りの中から生まれたからです。皆さん、教会はどのようにして誕生したのでしょうか。ペンテコステというユダヤ教のお祭りの時、キリストの最初の弟子たちがたぶんマルコの母マリヤの家に集まり、心を合わせ、祈りに専念していたとき、突然、天から、激しい風が吹いてくるように聖霊が降ることによって誕生したのです。その日、三千人ほどが彼らの仲間に加えられました。ですから、教会は祈りの家でなければならないのです。教会が祈らなかったら教会ではなくなってしまいます。教会は祈りを通して神にすべてをゆだね、神が働いてくださることによって、すべての問題が解決されていくところなのです。

 

この手紙の著者はここで、「私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。」と言っています。なぜ指導者のために祈らなければならないのでしょうか。それは指導者が正しい良心、純粋な良心を持って、何事についても正しく行動しようと願っているからです。教会の指導者がそのように生きているのなら、そのような指導者の言うことに従い、彼らのために祈るというのは、むしろ望むところではないでしょうか。

 

皆さんも、私のために祈っていてくださると思いますが、ぜひ祈ってください。ある人は、牧師のために祈るということはそれだけ牧師が無能であるということを意味するのではないか、牧師のために祈るということが、その牧師をかえってはずかしめることになるのではないかという人もいますが、そうではありません。確かに牧師にとって自分から、「祈ってください」と言えば、自分の弱さや無能さを露呈するかのようでなかなか言いにくいこともありますが、本当にへりくだった人とは、「私には祈りが必要です。どうか、私のために祈ってください。」と言える人なのです。

 

たとえば、パウロはローマ15章30節で次のように言っています。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」この「力を尽くして」ということばは、スポーツ選手がベストを尽くす時に使われることばです。それはかなりのハードワーク、重労働です。そのような力を尽くして祈ってほしいと言ったのです。偉大な人であっても祈りを必要としています。パウロは自分の知恵や力によって神の働きをすることはできないということをよく自覚していました。パウロが他の人たちよりも多く働くことができたのは、彼がそのような器として神に選ばれていたことは確かですが、と同時に、他の人たちよりも多く祈られていたからでもあるのです。偉大な牧師は、偉大な信徒によって作られると言っても過言ではありません。

 

19世紀に、イギリスに当時世界で一番大きな教会がありました。それはメトロポタンタバナクルという教会で、チャールズ・ハットン・スポルジョンという牧師が牧会していました。その教会には6,000人収容できる会堂がありましたが、当時、ロンドンのすべての教会の座席数を足しても15,000席であったということを考えても、この教会がいかに大きな教会であったかがわかるかと思います。

この教会には世界中から多くの人々が視察にやって来ていましたが、ある視察団が礼拝を終えてホールに出ると、そこにオーバーオールを着た男性がいたので、その人はきっとこの教会の用務員さんに違いないと思って、これだけ大きい教会をどのようにして温めているのかを聞きました。

「これだけ大けれども、いったいどのような発電システムなのかを見せてもらえませんか。」

するとその人は、「わかりました。それでは今、あなたたちをそこに案内します」と言って、彼らを地下室に連れて行きました。そして、彼らに、「ここがこの教会の発電システムです。」と言いました。そこには四百人もの男性がひざまずいて祈っていました。午前中の礼拝が終わり、夜の礼拝を迎えるにあたり、四百人もの男性がそのためにひざまずいて祈っていたのです。それがこのメトロポリタンタバナクルの成長の秘訣でした。スポルジョンの教会が世界最大の教会になったのは、彼が偉大であったからではなく、また彼の説教のせいでもありませんでした。それはこうした祈りがあったからなのです。

 

このヘブル人の手紙の著者も、「私たちのために祈ってください。」と言いました。いや、「もっと祈ってください。」とお願いしました。これはどういうことでしょうか。私たちは時々「祈ってください」とか、「祈っています」というのが口癖になっていることがあります。どこか社交辞令になりさがっていることがあります。そうした常套句としての祈りの要請ではなく、本気で祈ってほしいと懇願しているのです。これが祈りに生きている人の姿です。私たちも互いのために本気で祈り合うべきです。もっと祈ってくださるようお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。祈り祈られる関係、それこそ神が私たちの教会に望んでおられることなのです。

 

Ⅱ.完全な者としてくださるように(20-21)

 

次に20節と21節をご覧ください。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

今度は、この手紙の読者たち、信徒たちのための祈りです。ここで著者は、平和の神がイエス・キリストによって、みこころにかなうことを彼らのうちにしてくださるように、また、彼らがみこころにかなったことを行うことができるように、あらゆる良いものを備えて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っています。そして、この平和の神がどのような神なのかというと、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された方」です。

 

まずこの「永遠の契約の血による羊の大牧者」ということから見ていきましょう。これは父なる神のことであり、また、私たちの主イエス・キリストのことです。イエスは偉大な大牧者です。牧者というのは羊飼いのことですから、イエスは偉大な羊飼いであられるということです。イエスはこのように言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

イエスは私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださいました。それは、羊である私たちがこの方にあって永遠のいのちを持つためです。まことにイエスは私たちの永遠の大牧者であられるのです。心配事で不安にさいなまれる時、主は共にいて助けてくださいます。人生に疲れ果てもう立ち上がれないと思う時、主は励ましを与えてくださいます。病気で苦しむ時には、いやしを与え、死の陰の谷を歩くような時には、あなたの前を歩いてくださいます。だから私たちは何も恐れることはありません。この方が永遠にあなたの大牧者であられるからです。

 

しかも、それは今だけのことではなく、今も、これから後もずっと、永遠にです。イエスがあなたの羊飼いでなくなることはありません。なぜなら、この方は永遠の契約の血によって、あなたを贖ってくださったからです。これはどういうことかというと、イエスが十字架の上であなたのために血を流してくださったということです。血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。イエスが流された血は、私たちの罪を贖う永遠の神の契約のあかしでした。まさにイエス様は良い羊飼いとなって、あなたのためにいのちを捨ててくださったのです。あなたはそれほどまでに愛されているのです。であれば、この方があなたを見捨てたり、見離したりすることがあるでしょうか。ありません。13章5節を見てください。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とあります。イエス様は決してあなたを見捨てたりはしないのです。イエス様はあなたの永遠の大牧者なのです。

 

そのイエスを死者の中からよみがえらせた神は「平和の神」です。この時この手紙を受け取ったヘブル人クリスチャンたちは迫害の苦しみの中にありました。彼らは同胞ユダヤ人からも、ローマ帝国からも激しい迫害を受けていました。彼らは目の上のたんこぶで、邪魔者扱いされていました。家を失い、財産を失い、仕事を失い、家族を失うという苦しみの中で、相当辛い思いをしていたのです。しかし、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。この神は主イエスを死からよみがえらせてくださった神です。この神はどんな迫害の苦しみの中にあってもあなたを助け、あなたを守り、あなたに平安を与えて、その苦しみを乗り越えさせてくださる。この平和の神が、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださったように、どんな状況からもあなたを救ってくださるのです。このことは、迫害で苦しんでいた彼らにとって何よりも大きな励ましだったに違いありません。その平和の神が彼らのうちに働いて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っているのです。これがこの祝福の祈りのハイライトです。

 

では、完全な者になるとはどういうことでしょうか。これは何の欠点もない完全無欠な聖人君子になるようにということではありません。この「完全な者にする」というギリシャ語の言葉(ギリシャ語はカタルキゾウ)には、物事を適切な状態にするという意味があります。たとえば、この言葉はマタイの福音書4章21節にも使われています。

「そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。」この「網を繕う」の「繕う」が「カタルキゾウ」です。すなわち、穴が開いた網を繕って正常なすることという意味なのです。

 

また、ガラテヤ6章1節には、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」とありますが、この「正してあげる」が「カルキゾウ」です。すなわち、間違った状態を正してあげることを言うのです。

 

また、Ⅰテサロニケ3章10節には、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」とありますが、この「補いたい」という言葉が「カタルキゾウ」です。不足しているものを補給するとか、補うという意味です。

 

そして、Ⅰコリント1章10節には、「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」とありますが、この「完全に保つ」が「カタルキゾウ」です。本来であれば、クリスチャンは一致していなければなりませんが、そうでないことがあるわけです。そういう状態を修復し、同じ心、同じ判断を完全に保つことができるようにすることを示しているのです。

 

このように、完全な者とするとは物事を適切な状態にすることです。間違ったところが正され、足りないところは補われ、破れたところが修復されて、神が望まれる状態に整えられることを言うのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちも魚の網が破れるように人生に敗れを生じているのではないでしょうか。羊のように目先のことに捕らわれて、道に迷ってはいるのではないでしょうか。霊的、精神的に、また肉体的、物質的に不足を感じているのではないでしょうか。人間関係においても壊れかけているのではないでしょうか。夫婦の間で、親子の間で、職場においても、友人との関係においても、壊れかけていませんか。壊れかけたラジオのように、壊れかけているのです。イエスはそうした壊れかけたものを修復し、正常な状態に回復してくださいます。足りないところを補って満たしてくださいます。なぜなら、イエスは十字架で敵意を廃棄されたからです。(エペソ2:16)キリストの十字架の血によって、こうした破れた人生が正常な状態になるようにと祈っているのです。

 

このように、平和の神はイエス・キリストによって物質的にも、肉体的にも、霊的、精神的にも、関係においても、社会的にも、ありとあらゆる面であなたの必要を満たしてくださり、あなたを完全な者としてくださるのです。このようなものはセミナーに行けば満たされるというようなものではありません。何らかの勉強会やワークショップに行けば解決するというようなものでもありません。これらのものはすべてイエスの血によって満たされるのです。このイエス・キリストの血によって、平和の神ご自身が、あなたがたが神のみこころを行うために、すべてのことについて、あなたがたを完全な者としてくださるのです。

 

このような神がいったいどこにいるでしょうか。私たちが今まで理解していた神は、自分の欲望を満たすために利用していたにすぎない神であって、自分が作った偶像にすぎませんでした。しかし、そのようなものが果たして本当に私たちを救うことができるでしょうか。できません。私たちを救うことができるのは、私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえって、私たちを罪の中から救い出してくださった救い主イエス・キリスト、平和の君です。この方があなたのすべての必要を満たし、あなたを完全な者にしてくださるのです。であれば、私たちはこの神を信じ、この神にすべてをゆだねなければなりません。あなたがたを完全な者としてくださいますようにという祈りの中に、あなた自身を置かなければならないのです。

 

Ⅲ.恵みがありますように(22-25)

 

最後に22節から25節までをご覧ください。22節には、「兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。」とあります。「このような勧めのことば」とは、この手紙のことを指しています。著者は、ただ手短に書いたと言っていますが、手短に書いたにしてはかなり長いてがみです。ですから、ここでこの勧めのことばを「受けてください」と言っているのです。この「受けてください」という言葉は、下の欄外にもありますが「こらえてください」という意味のギリシャ語です。この勧めのことばをこらえて聞いてほしい、忍耐して聞いてほしい、というのです。

 

ということは、当時のクリスチャンたちの中にも今日の私たちと同様、忍耐に欠けている人たちが少なからずいたということです。そうでなければ、わざわざこんなことは言わなかったでしょう。ちょっと安心しますね。いつの時代でも忍耐することは簡単なことではありませんが、大切な真理を身に着けるにはこらえることが、忍耐が必要であることがわかります。

 

23節には、「兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。」とあります。テモテはパウロの第二次伝道旅行の時、ルステラでパウロに出会い、それ以後、パウロの手元において訓練した結果、すばらしい働き人として成長していました。パウロが獄中から手紙を書いた時、そのテモテもパウロと一緒に獄中にいたようで、その彼が釈放されたことを伝えています。このことから多くの学者は、この手紙はパウロによって書かれたのではないかと考えていますが、はっきりしたことはわかりません。しかし、このことから言えることは、テモテがこの手紙の著者と親しい関係であったということです。クリスチャン同士、喜びも悲しみも共に共有できることは大きな特権であると言えます。

 

24節と25節には、あいさつと心からの祝禱をもって終わります。「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」

恵みは、このヘブル人の手紙における強調点の一つでした。なぜなら、彼らがキリストから離れてかつてのユダヤ教に戻って行ったのは、この恵みを忘れていたからです。だから最後に恵みをもう一度強調しているのです。

 

それは私たちも同じで、恵みを忘れてしまうと信仰のバランスを崩してしまうことになります。というのは、恵みを忘れると行いに走ってしまうからです。行いに走っていけば律法主義に陥ってしまいます。律法主義に陥ると人をさばくようになります。自分と同じようにしていない人に対して苦々しい思いを抱くようになるのです。自分はクリスチャンとしてクリチャンとしてちゃんと生きているのに、どうしてあの人はしないのだろうと人をさばくようになるのです。恵みを忘れているからです。恵みとは受けるに値しない者が受けることです。神の恵みを受けるにはふさわしい者ではないのに、神がキリストを与えて救ってくださいました。これが恵みです。それはあなたが立派な人だから、何か特別なことができるから、ちゃんとまじめに生きているからではなく、そうでないにもかかわらず、神はあなたを愛してくださいました。これまでずっと自分が捕われていたことから解放していただいた、であれば、もう人はどうでもいいのです。自分もどうでもいいのです。大切なのは、神があなたのことをどのように思っておられるかということです。そうすれば、すべてのものから解放されます。そして、どんな問題も乗り越えることができるのです。

 

先日、アンビリーバボーという番組で、ある男に暴行されたジェニファーという一人の女性が、犯人はロナルドであると証言したことで、彼は裁判で終身刑プラス50年の刑が言い渡され、無実の罪でノースカロライナの刑務所に収監されました。しかし、事件から11年後の1995年、O・J・シンプソンの事件の裁判で、当時最先端だったDNA鑑定が事件の解明に用いられた事を知り、最後の賭けとしてDNA鑑定を依頼した結果、彼は無罪であることが判明したのです。実は、彼にそっくりの男が真犯人だったのですが、彼女は間違って彼が犯人だと思っていたのです。自分の勘違いから事件と関係のない男性を11年間も服役させてしまった彼女は自責の念にかられ、また、いつ復讐されるかと思うと生きた心地がしませんでした。そして、ロナルドが釈放されてから1年後の1996年に、目撃者が何故過ちを犯してしまうのかを検証するドキュメンタリー番組への出演依頼がきっかけとなって、彼女は彼と会って謝罪し、自分の気持ちを正直にロナルドに話さなければならないと思い、そのように決意しました。大学の敷地内に置かれた礼拝堂で会った時、ジェニファーは自分の勘違いとは言え、とりかえしのつかないことをしてしまったことを詫びると、彼は、「私はあなたを赦します」と宣言したのです。その時彼女は、「長い間壊れていた心や魂がまるで氷が解けるように癒やされていくのを感じました。体の中で壊れた部分がもう一度もとに戻ろうとしている感じでした。」と言いました。会ってから2時間彼らは話しては泣き、話しては泣きを繰り返しました。お互いがどのような時間を過ごしていたか知りたがっていたしあの最悪の11年間は一体何だったのか?という思いを共有することができたのです。ロナルドはこのように言っています。「人間は間違いを犯します。完璧な人間なんてこの地球には存在しません。怒りを持ち続けるより許したいと思いました。許せば解放されるけど怒りを持ち続ければどこに行ってもそれを握りしめて苦しむ事になります。怒りを手放せば楽になれます。楽観的に考え始めれば前向きに良い人生が送れます。僕はハッピーで自由な人生を送りたいんです」ジェニファーは、とりかえしのつかないことをして、とても許される者ではなかったのに許されました。それが恵みです。その恵みは彼らの後の人生にどれほどの喜びと解放をもたらしたことでしょう。

 

同じように神は、許されるには値しない私たちにイエス・キリストを与えてくださいました。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。この恵みがあれば、どんな迫害があっても、どんな問題が起ころうとも、必ず乗り越えることができます。すべては恵みです。私たちはこの恵みの中でしか生きることはできませんし、この恵みの中でしか成長することができません。ですから、この恵みを強調しすぎるということはありません。すべてを忘れてもこの恵みだけは忘れないでください。この恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。神の恵みのうちにこのヘブル人への手紙を終えることができることを感謝したいと思います。

ヘブル人への手紙13章7~16節 「賛美のいけにえをささげよう」

イエス様を救い主として信じ、救いの喜びに与った人の最大のしるしは何でしょうか。それは生き方が変わるということです。そういう人は、自分の思いや考えではなく神のみこころに歩むことを求め、苦難の中にあっても最後まで忍耐して、天の御国を目指して最後まで信仰のレースを走り抜きます。たとえこの世に心が奪われることがあっても、イエス・キリストにしっかりととどまります。そして、兄弟愛をもって互いに愛し合い、旅人をもてなし、牢につながれている人や苦しめられている人たちを思いやるのです。また、金銭を愛する生活ではなく、いま持っているもので満足します。つまり、イエス・キリストの愛に生きるのです。その愛を軸にした生き方がきょうの箇所でも勧められています。それは神に喜ばれるいけにえをささげるという生き方です。

 

Ⅰ.恵みによって心を強める(7-9)

 

まず、7節から9節までご覧ください。ここには、「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼の生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。さまざまの異なった教えによって惑わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。」とあります。

 

この手紙の著者は6節で、「主が私の助け手です。私は恐れません。人間は私に対して何ができましょう。」と言って、いよいよこの手紙を終えようとした時ふと思い出したかのように、ここで一つのことを書き加えています。それは教会の指導者たちのことです。神のみことばを彼らに話した指導者たちのことを思い出し、その生活の結末をよく見て、その信仰にならうようにと勧めました。いったいなぜここで教会の指導者たちのことを取り上げたのでしょうか。おそらく彼らが信仰に堅く立ち続けるためにどうしても必要であることを述べたかったからでしょう。それは神のみことばです。教会が教会であるために最も重要なことは神のみことばを正しく教え、宣べ伝えることです。みことばが正しく教えられなければ、信仰に堅く立ち続けることはできません。ですから神のことばを彼らに話した指導者たちのことを思い出し、その信仰の結末をよく見て、その信仰にならうようにと勧められているのです。

 

しかし、どんなにすぐれた指導者でもやがては過ぎ去ります。確かに、彼らの姿は記憶され書き留められることによって後代の人々に影響を及ぼすことができますが、いつまでも生きていて指導することはできません。ですから、そのように指導者たちの教えを思い出し、彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいながらも、最終的にはいつまでも変わることがない方に目を留めなければなりません。それはイエス・キリストご自身です。なぜなら、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じだからです。この方が、私たちの本当の指導者であられるということは、何と幸いなことでしょうか。人はどんなに立派な指導者であっても、やがて死にこの世から去って行かなければなりませんが、私たちの主イエス・キリストは永遠に生きておられ、いつまでも変わることなく、私たちを助け、慰め、励まし、力づけてくださいます。この方がいつも私たちのすぐそばにいてくださるということが分かれば、何も恐れることはありません。だれがいなくてもこの方がともにいてくださるなら、千人力、万人力だからです。

 

ですから、9節にあるように、「さまざまな異なった教えによって惑わされてはなりません。」ここで言われているさまざまな異なった教えとはどのような教えのことでしょうか。この後に「食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。」とあることから、それは旧約聖書で教えられている食物や飲み物についての教えのことです。この手紙が書かれたころ初代教会では、禁欲を重んじるユダヤ教の一派であるエッセネ派の影響が強かったらしく、ある種の食べ物や飲み物を禁じる異端の教えがはびこっていたようです。それは、コロサイの教会にも入ろうとしていたようで、パウロはコロサイの教会への手紙の中で、「そういうわけで、食べ物や飲み物、あるいは、祭りや新月や安息日を、何か救いに必要なものと考えてはならない。」(コロサイ2:16)と言及しています。こうした異端的な教えは、このような律法を守っていないと救われないと教えていました。すなわち、信仰だけではだめで、信仰にプラスして何らかの行いが必要だと教えていたのです。こうした教えがこのヘブル人クリスチャンたちの間にも忍び込んでいました。

 

しかし、私たちが救われるために必要なすべての御業は完了しました。十字架によって。イエス様は、十字架の上で「完了した」と言われました。ですから、私たちはそのイエスの御業に感謝して、イエスを信じるだけでいいのです。どちらかというと日本人は「ただほど怖いものはない」とただで受けることに抵抗があり、何らかのお返しをしなければならないと思いがちですが、聖書で言っている救いとはそうしたことを一切必要とせず、ただ感謝して受け取るだけでいいのです。だから、「恵み」と言われているのです。それは神からの一方的な神からの賜物なのです。だからその恵みにいつも心を留めていなければなりません。そうでないと、振り回されてしまうことになります。この「迷わされてはなりません」の「迷わされる」という言葉は、「振り回される」とか、「吹き回される」という意味です。英語では「Driven」という言葉が使われています。流れに運ばれるとか、動かされるという意味になります。この言葉は、エペソ人への手紙4章14節にも使われていて、そこでは「吹き回される」と訳されています。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく・・」それはまさに風に吹き回されたような状態のことを言うのです。風はこっちから吹いていたかと思ったら次の瞬間にはあっちの方から吹いてきます。ある時は強く吹いているかと思ったら、次の瞬間はパタッと止んだりします。つまり一定ではないのです。いつもコロコロしていて安定していません。どこに吹き飛ばされてしまうかわからないのです。神の恵みにとどまっていないと、そのように吹き飛ばされてします。

 

ですから、恵みによって心を強めるのは良いことなのです。多くの人は恵みではなく、自分の行いによって心を強めようとします。一生懸命に伝道したり、熱心に奉仕をしたり、たくさん献金すれば心が強くなり、信仰が安定するだろうと考えているのです。伝道したり、奉仕したり、献金すること自体はすばらしいことですが、そうしなければ救われないとなると大変なことになります。そうしなければ救われないとか、そうすることによって心が強くなると思ってするのは間違っています。そうではなく、私たちは神に恵みによって救っていただいたので、その喜びから溢れてするのです。イエス様が十字架で完了してくださった救いの御業に信頼しその恵みの中に身を置くなら、あなたの心は強められるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。ちょっとしたことですぐに不安になるのです、いつも心が揺れ動いて落ち着かないのです、という方はおられますか。そのような方は、どうぞイエス様のもとに来てください。イエス様はあなたのために十字架で死んでくださいました。あなたの救いのために必要なすべての代価を支払ってくださいました。ですから、もしあなたがイエスのもとに行くなら、あなたは何も悩む必要はないのです。あなたはそれを感謝して受け取るだけでいいのです。そうすれば、あなたは救われるからです。イエス様の恵みの中にあなた自身を置いてください。そうすれば、恵みによって心を強めていただくことができます。どんなことがあってもびくともしない深い平安を得ることができるのです。

 

皆さんはニック・ブイチチという方をご存知ですか。この方は生まれながら両手両脚がない障害を持って生まれました。彼は自分の状況に絶望し、8歳のころから三度も自殺を試みましたが、信仰深いクリスチャンである両親の全面的な支援と愛を受けて立派に育ちました。その彼がロサンゼルスでの講演を終えたあと、ひとりの女性が赤ちゃんを抱いて彼のもとにやって来ました。驚いたことに、その赤ちゃんはニックと同じように両手両脚がありませんでした。その母親は、子供の障害を何とか直そうと、多くの病院を巡り、神様に奇跡を現してくださるようにと祈りましたが、そのようなことは起こりませんでした。しかし、ニック・ブイチチの講演を聞いたその母親はこう言いました。

「神様は、きょうになって、ようやく奇跡を現してくださいました。私は今まで、子ともの手足が伸びて、完全な肉体を持った正常な人になれるように祈ってきましたが、きょうあなたを見て、手足がなくても幸せになれるということを知りました。そして、それこそが奇跡だということも。」

時には、苦しみを受けることが神のみこころであることがあります。その苦しみの中で神様に信頼し、あきらめないで歩んでいくとき、苦しみを許された神の意図を見いだすことができるのです。ですから、どんな苦しみの中にあってもキリストのもとに来て、キリストにすべてをゆだねるなら、キリストの恵みによってそのような苦しみの中にあっても心を強められ、びくともしない確かな人生を歩むことができるのです。

 

Ⅱ.宿営の外に出て(10-14)

 

第二のことは、宿営の外に出ようということです。10節から14節までをご覧ください。「私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちは、この祭壇から食べる権利がありません。動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」どういうことでしょうか。

 

こここには旧約聖書における罪が贖われるための儀式とキリストの十字架の贖いの御業を比較して、宿営の外に出ることが勧められています。旧約聖書では、年に一度、民が犯したすべての罪が赦されるために、大祭司が雄牛と山羊を殺して、その血を取って、天幕の中に携えて行きました。天幕の中の一番奥のある至聖所と呼ばれる所に入って行き、そこに置かれた契約の箱の上にその血を振りかけたのです。血を取られた動物のからだはどうされたかというと、幕屋の門の外へ持って行き、そこで焼かれました。その体は汚れていたからです。それらの動物はイスラエルの罪を身代わりに負ったので、汚れているとされたのです。汚れたものは宿営の中に置くことができなかったので、宿営の外、幕屋の外へ持って行かれたのです。

 

ところで、ここには、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」とあります。これはどういうことかと言うと、イエス様もあの殺されたいけにえの動物と同じように、エルサレムの町の郊外にあった十字架で死なれたという意味です。それはゴルゴタと呼ばれていた場所でした。なぜなら、イエスはあのいけにえの動物と同じように、人々の罪を身代わりに負われたからです。もともとイエスは神の子として全く罪のないお方でしたが、私たちの罪のために汚れた者となって死んでくださったのです。ということはどういうことかというと、神の恵みは宿営の中にあるのではなく、宿営の外にあるということです。神殿の中の祭壇や儀式にあるのではなく、十字架で成し遂げられた救いの御業の中にあるということなのです。であれば、そうした神殿の中にとどまっているのではなく、そこから出て、キリストのみもとに出て行かなければなりません。

 

何度も申し上げているように、この手紙は迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに宛てて書かれました。彼らは、かつてのユダヤ教から回心しイエス・キリストを救い主として受け入れましたが、そこには多くの苦難がありました。それまでのユダヤ人のコミュニティから追い出されるというだけでなく、時にはいのちを狙われることもありました。そうした中にあって彼らは、こんなことならクリスチャンとしてあまり目立った行動をせずに、神殿を中心としたかつてのユダヤ教の儀式にとどまっていた方が安全ではないかと考えていたのです。しかし、そこには救いはありません。イエス様はそのようなユダヤ教の伝統やしきたりから彼らを解放するために十字架にかかってくださいました。ですから、そんな彼らに求められていたことは思い切って宿営の外に出て、神のみもとに出て行くことだったのです。勿論、宿営から外に出るということは簡単なことではありません。元来、町というのは、外敵から守るために城壁がめぐらされていました。ですから、その城壁の内側にいれば安全です。そこから出るということは危険であることを意味していました。そこには罪を犯した人や汚れた人が住んでいました。普通の人が住めるような場所ではなかったのです。しかしキリストはそのような所から出て、罪人として死なれました。であれば、キリストの弟子である私たちも、そこから出て行かなければなりません。

 

「今の所から出る」ことは、確かに一つの大きな決断がいるでしょう。生まれながらの人間はいつも安定を求めますから、これまでの生活から出ようとしないのです。しかし、そこには救いはありません。救いは宿営の外に出たイエスの中にあるのですから。イエスはこう言われました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その門は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

いのちに至る門は小さく、その門は狭いのです。それを見い出す者はまれですが、そこにいのちがあるのです。迫害や苦しみはあるかもしれませんが、それを覚悟でその安住の場所から出て、主とともに生きる道を選ぶなら、あなたもいのちに至るのです。いや、そのような苦難の中にあっても、その中に主がともにいてくださり、それを乗り越えることができるように助けと力を与えてくだいます。

 

あなたにとっての恐れは何ですか。あなたにとっての十字架は何でしょうか。どうぞ恐れないで、あなたの十字架を負って、イエスのもとに出て行ってください。そうすれば、あなたも必ずいのちを得ることができますから。

 

14節には、「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」とあります。これがクリスチャンの生き方です。クリスチャンはこの地上に永遠の住まいを持っているかのようにではなく、天の都を求めているのです。なぜなら、この地上のものは一時的であり、天の都は永遠に続くからです。パウロは、Ⅱコリント4章18節で、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と言っています。また、同じⅡコリント5章7節では、「確かに、私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」と言っています。私たちは目に見えるこの地上の一時的なものだけでなく、目に見えないいつまでも続く天の都を持っているのですから、その都を求めて生きるべきなのです。

 

Ⅲ.賛美のいけにえをささげよう(15-16)

 

ですから、第三のことは、賛美のいけにえをささげようということです。15節をご覧ください。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの過日を、神に絶えずささげようではありませんか。」

 

旧約聖書には、イスラエルの民が神を礼拝する時には動物のいけにえをささげることが求められていましたが、キリストが私たちのためにご自分のいのちという最高のいけにえをささげてくださったので、クリスチャンにはそのような動物のいけにえではなく、神が喜ばれる霊的ないけにえをげようというのです。そのいけにえとはどのようなものでしょうか。一つは賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実です。くちびるを通してささげられる賛美と感謝です。賛美というと、多くの人は讃美歌や聖歌、あるいはブレイズソングを歌うことであると思うかもしれませんが、ここで言われている賛美というのはただ口先だけで歌うのとは違い、主に向かってささげられる心からの賛美のことです。ですからそれは歌を歌っている時もそうですが、祈っている時にも、いつもくちびるからほとばしり出てくるものです。特にここには「絶えずささげようではありませんか」と言われています。いいことやうれしいことがあった時だけでなく、嫌なことや苦しいことがあっても、どうも歌うような気分になれない時も、体調が悪くうなだれているような時でも、毎日忙しくて賛美などしていられないというような時でもいつもです。いったいどうしたらそのようなことが可能なのでしょうか。ですからここには、「キリストを通して」とあるのです。キリストを通してでなければ、絶えず賛美することなどできません。でもイエス様を見上げるなら、どんな時でも賛美をささげることができます。

 

先週、私たちの結婚式を導いてくださった牧師婦人が召され葬式に参列しました。礼拝堂の前に置かれた棺の上には、この牧師婦人が書かれた紙が2枚置かれてありました。そこには、感謝、喜び、祈りと自筆で書かれてありました。1996年に乳がんを患ってから20年間、いつ天に召されるかわからない恐怖の中で、先生は主イエスにあって心からの賛美と感謝をささげることができたのです。イエスを見上げるなら、あなたもいつでも、どんな状況にあっても賛美のいけにえをささげることができるのです。なぜなら、イエスはあなたを愛して、あなたのためにいのちを捨ててくださいました。あたが一番苦しい時にでも、イエスはあなたを離れず、あなたを捨てませんでした。あなたのためにこれほどまでの痛みに耐え、最後までその愛の中に置いてくださったことを思う時、賛美が自然とあふれてくるのです。

 

パウロとシラスがピリピで伝道していたとき、占いの霊につかれていた若い女奴隷から占いの霊を追い出すと、もうける望みがなくなった主人から訴えられて、彼らは牢に入れられ、足かせを掛けられてしまいました。そのとき彼らはどうしたでしょうか。真夜中に、ふたりは神に祈りつつ賛美の歌を歌っていたと聖書に記録されています。すると突然大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。目を覚ました看守は逃げられたと思い、「もうだめだ」と自害しようと思ったとき、パウロは大声で言いました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」助かったと思った看守はパウロとシラスのところに駆け込んでくると、ひれ伏して言いました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」するとふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:30)と言うと、彼とその家族は主イエスを信じ、その夜、その家の者全部がバプテスマを受けたのです。ハレルヤ!パウロとシラスはそのような状況でも主を賛美しました。なぜなら、主は賛美を受けるにふさわしいお方だからです。主は、私たちがいつでも、どんな時でも、主を賛美することを願っておられるのです。

 

詩篇34篇1節を開いてください。これはダビデの賛美です。

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」

これはダビデが敵であったペリシテの王に捕まえ、そこから脱出した時に歌った詩です。この時ダビデはサウル王から逃れペリシテの町に行きましたが、ペリシテまたイスラエルに手は対していた民族です。それがダビデであることはすぐにばれてしまいました。いったいどうしようか悩んだ末に、彼はペリシテの王アビメレクの前で気が狂った人のふりをして、この危機を逃れたのです。彼は、門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりして気違いを装ったのです。するとアビメレクはそれを見て、「こんな気の狂った人間に用はない。さっさと私の前から連れて行け」と家来に命じたので、ダビデはやっとの思いで危険から脱出したのです。その時に歌った詩なのです。

ダビデにとってどんなに屈辱的であったかわかりません。それでも彼は賛美しました。あらゆる時に主を賛美したのです。

 

クリスチャンの信仰生活には、信仰によって困難を乗り越えて前進する時もあれば、ダビデのようにペリシテの王の前で気が狂ったかのような真似をしなければ自分を守れないようなときもあります。しかし、あらゆる時に主を賛美しなければなりません。なぜなら、そこにも神の守りと助けがあるからです。いやむしろ、そうした中にこそ、もっと深い神の恵みがあるのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえを、神に絶えずささげることができるのです。

 

それから善を行うことと、持ち物を人に分けることも怠ってはいけない、とあります。これはどういうことかというと、賛美は歌ったり、祈ったりといたくちびるによってささげられるものだけでなく、善を行ったり、持ち物を分け与えたりといった行いによっても表すことができるもので、そうしたいけにえを神は喜ばれるということです。それは神の恵みによってキリストのいのちを受けた人にとっては、むしろ自然の流れであると言えるでしょう。

 

だからパウロはこう言ったのです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「そういうわけですから」とは、パウロがそれまで語ってきたことを受けてということですが、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められたので、ということです。そういうわけで、その深い神の恵みを受けたのであれば、今度は自分自身を神様にささげて生きるべきであるというのです。それが善行であり、持ち物を分け合うということによって表れてくるのです。それが、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる生きた供え物としてささげなさい。」ということです。あなたがたのからだをささげるというのはおもしろい表現です。普通ならば「心をささげなさい」と言うのではないかと思いますが、パウロは「からだをささげなさい」と言いました。からだをささげるとは自分のすべてをささげるという意味です。クリスチャンがささげるいけにえは死んだ動物ではなく生きている自分自身であって、自分の存在のすべて、自分の生活そのものが、神様へのいけにえだというのです。

 

18世紀のアメリカを代表する伝道者であったD・L・ムーディは、ある時神様の迫りを感じ礼拝に回ってきた献金の皿の上に、「D・L・ムーディ」と書いた紙切れを置いたと言われています。彼は自分自身を神へのいけにえとしてささげたのです。その皿の中で横になりたい気持だったのでしょう。私たちのからだをささげるとは、そういうことなのです。

 

ある人は、聖会で神のことばを聞いたとき、神の御霊が激しく彼に臨み、肌身離さず持っていた金メダルを献金の皿の上に置きました。それはオリンピックで獲得した金メダルでした。今まで10ドル献金していた人が100ドルささげたというならわかりますが、金メダルをささげたとは聞いたことがありません。その人にとっては、自分の人生において最も大切なものをささげることによって、自分の気持ちを表したのでしょう。

 

神様が喜んでくださるいけにえとは、このようないけにえです。神は私たちを、聖い、生きた供え物としてささげることを望んでおられるのです。それこそ霊的な礼拝なのです。私たちもこのようないけにえを神にささげようではありませんか。それは神がまず私たちをあわれんで、罪の中から救ってくださったからなのです。