エズラ記7章

  エズラ記7章から学びます。

 Ⅰ.律法に通じている学者エズラ(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。「7:1 これらの出来事の後、ペルシアの王アルタクセルクセスの治世に、セラヤの子エズラという人がいた。セラヤはアザルヤの子、順次、ヒルキヤの子、7:2 シャルムの子、ツァドクの子、アヒトブの子、7:3 アマルヤの子、アザルヤの子、メラヨテの子、7:4 ゼラフヤの子、ウジの子、ブキの子、7:5 アビシュアの子、ピネハスの子、エルアザルの子、このエルアザルは祭司のかしらアロンの子である。7:6 このエズラがバビロンから上って来たのである。彼はイスラエルの神、【主】がお与えになったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、【主】の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた。」

1節には「これらの出来事の後」とあります。「これらの出来事」とは、1~6章までに記されてある内容を指します。具体的には、ゼルバベル主導の下に行われた神殿再建工事のことです。ゼルバベルや大祭司ヨシュアは反対者の妨害に遭いながらも、ハガイやゼカリヤといった預言者たちが語る神のことばによって励まされ、神殿再建工事を完成させました。紀元前516年のことです。これらの出来事の後、ペルシャの王アルタクセルクセス王(新改訳第三版ではアルタシャスタ王)の治世に、エズラがバビロンから帰還します。これが第二次エルサレム帰還です。それは7節にあるように、アルタクセルクセス王の第七年のこと、紀元前458年のことでした。ですから、エズラがエルサレムに帰還したのは神殿再建工事が完成してから実に57年後のことでした。ということは、エズラ記6章と7章の間には、約57年の空白期間があるということになります。ちなみに、エステル記の出来事はアハシュエロス王(クセルクセス1世)の治世の時のことなので、エズラ記6章と7章の間の出来事です。

ここにはエズラについて紹介されていますが、彼はセラヤの子で、順次遡っていくと、彼は祭司のかしらアロンの子孫であることがわかります。つまり彼は祭司だったのです。なぜここに系図を書き記したのかというと、そのことを証明したかったからです。というのは、1章61~63節にはゼルバベルの指導の下エルサレムに帰還した民の中に祭司の子孫たちがいましたが、自分たちの系図書きを探しても見つからなかったため、祭司職を果たすことができなかったからです。その資格がないとみなされたからです。ですから、彼が祭司であることを証明するために、このように系図を書き記す必要があったわけです。

このエズラがバビロンから上って来たのです。6節には、彼は単に祭司であったというだけでなくモーセの律法に精通した学者であったとあります。どういうことでしょうか。新しいエルサレムの再建にあたっては、ゼルバベルや大祭司ヨシュアの強力なリーダーシップがありましたが、その土台はモーセの律法、すなわち、神のことばであったということを示しているのです。神殿再建という神の働きは、神のことばという霊的土台の上に成されたということです。それは今日の教会にも言えることです。教会のすべての活動は祈りとみことばという土台の上に築き上げられなければなりません。その中心は何でしょうか。礼拝です。毎週日曜日の礼拝を通して神のことばが語られ、そのみことばに祈りをもって応答していくことによって、従っていくことによって教会は建て上げられていくのです。これが教会の本質的なことであって、これを抜きに教会が建て上げられることはありません。

今週の礼拝に、久しぶりにOさん家族が来会されました。今回来られたのは、1歳4か月の息子さんを見せたいからということでしたが、実はもう一つの目的がありました。それは、現在通っておられる教会をどうしたら良いか聞くためでした。Oさんはその教会に行って3年しか経っていませんが、集っておられる十数人の方々はご高齢の方で、牧師も働きながらの牧会なので疲れもあり、月2回の礼拝はOさんが説教の時間にC-BTEのテキストから教えているのだそうです。どうやらその教会の牧師はOさんを後継者にどうかと考えておられるようですが、自分はすどうしたら良いかとアドバイスを求めて来られたのです。土曜日に一緒に昼食を食べてから夕方までずっと話が止まりませんでした。大切な奥様息子さんを傍で遊ばせながら。私はずっとお話を聞いていて、一つのことだけ伝えました。それは礼拝を大切にするようにということです。他の活動ができなくても、礼拝だけはしっかり準備するようにと。たとえば、その教会では毎年シンガポールからチームを招いて伝道しているそうですが、それによって教会に繋がった人がいるかというとそうではなく、一時的なイベントで終わっていました。それが悪いということではなく、そうしたことも素晴らしいことですが、でももっと重要なことはそれが何の上に立っているかということです。それがみことばの上に立っていないと、元も子も無くなってしまいます。そう言うと、「えっ、えっ、どういうことですか?」と質問したので、はっきり伝えました。「日曜日の説教はみことばを通して神様が語られるのであって、C-BTEのテキストをやるときではない。それは礼拝の後で学ぶものですよ。毎週の礼拝でみことばがしっかりと語られ、一人一人が祈りの中でそのみことばに応答することによって教会は建て上げられていくんですよ」と。すると、わかったような、わからないような感じで宿泊のため那須の教会に行き、翌日の礼拝に出席されました。

礼拝が終わると、Oさんが私のところに来てこう言いました。「先生、わかりました。神のみこころに生きるということがどういうことなのかが。そういうふうにしたいです。帰って向こうの牧師と相談してみます。」

何がわかったのかわかりませんが、少なくても礼拝が重要であるということ、そして教会の土台はこのみことばと祈りなのだということがわかったのだと思います。

そのような働きを、神が祝福してくださらないわけがありません。6節をご覧ください。ここには「彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた」とあります。この「王」とは、ペルシャの王アルタクセルクセス(アルタシャスタ)王のことですが、神のことばを土台として進められたエルサレムの再建工事には神の御手がともにあったので、異教の王であったアルタクセルクセス王がすべての願いをかなえてくれるほど祝福されたのです。

Ⅱ.エルサレムに到着したエズラ(7-10)

次に、7~10節をご覧ください。「7:7 アルタクセルクセス王の第七年に、イスラエル人の一部、および祭司、レビ人、歌い手、門衛、宮のしもべの一部が、エルサレムに上って来た。7:8 エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。7:9 すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発した。彼の神の恵みの御手は確かに彼の上にあり、第五の月の一日に、彼はエルサレムに着いた。7:10 エズラは、【主】の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。」

ゼルバベルらがエルサレムに帰還したときのように、この時も祭司やレビ人、歌い手、門衛、宮のしもべなど、神殿で奉仕する人たちが一緒にエルサレムに帰還しました。エズラが到着したのは、アルタクセルクセス王の治世の第七年の第五の月の一日です。これは先ほども申し上げたように紀元前458年のことです。9節に「彼は第一の月の一日にバビロンを出発した」とあるので、この旅はちょうど4か月かかったことになります。それは今の暦でいうと7~8月にあたりますが、それは暑くて厳しい旅であったことが想像できます。バビロンから北に向かい、ユーフラテス川を越えて、ダマスコからエルサレムに南下するルートを取れば、約1,600キロの距離です。それを徒歩で、しかも、いけにえのための家畜や金や銀などの貴重品も携えてやって来たことを考えると、驚くほどの短期間であったことがわかります。どうして彼らはそんなに短期間に来ることができたのでしょうか。それは9節にあるように、「彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった」からです。このことは6節にもありました。「主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた。」それは彼らに体力、気力、動力があったからで北のではなく、神の恵みの御手が彼らの上にあったので、彼らは4か月という短期間でエルサレムに到着することができたのです。

それは具体的にどういうことでしょうか。それは10節にあるように、「エズラは、【主】の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。」ということです。これが、神の恵みの御手がエズラの上にあった理由です。彼は、主の律法を調べ、その学んだことを実行し、他の人たちに神の律法、すなわち、神のことばを教えようと、心を決めていました。これが祝福されたミニストリー、祝福された教会形成、祝福されたクリスチャンライフの秘訣です。私たちはいろいろな計画を立て、それを実行するための準備をしますが、それを成功へと導くのは、神の恵みの御手なのです。それはまさに詩篇1篇1~3節にみられる水路のそばに植わった木のようです。時が来れば実がなり、その葉が枯れることはありません。その人は何をしても栄えます。なぜ? 主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさんでいるからです。主の教えを愛し、神のみこころを行おうと、心を定める人には、神の恵みの御手が確かにあり、神がご自身の御業を行ってくださるのです。

Ⅲ.アルタクセルクセス王の手紙(11-28)

第三に、11~28節をご覧ください。11節には「アルタクセルクセス王が、祭司であり学者であったエズラに与えた手紙の写しは次のとおりである。このエズラは、【主】の命令のことばと、イスラエルに関する主の掟に精通していた。」とあります。これはアルタクセルクセス王が、エズラに与えた手紙の写しです。おそらく、エズラがアルタクセルクセス王に民の帰還の許可を申し出ていたのでしょう。その申し出に対して、アルタクセルクセス王が許可を与えると同時に、エズラに対して驚くべきことを伝えています。その内容がここに紹介されているのです。

それはまず、13節にあるように、イスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたいと者は、エズラと一緒に行ってよいということでした。
次に、14節にあるように、エルサレムにおいてエズラに託された役割は、神の律法に従って、ユダとエルサレムを調査することであったということです。 さらに、15~16節にあるように、エズラを信頼して、王とその顧問たちの献金と、バビロン全州でエズラが得たすべての金銀を、イスラエルの民や祭司たちが神の宮のためにささげた物と合わせて、携えて行かなければなりませんでした。
また17節にあるように、エズラはその献金で、動物のいけにえや穀物のささげ物、注ぎのぶどう酒を買い求め、それを神の宮に献げなければなりませんでした。
さらに、残りの金、銀の使い方については、彼らが良いと思うことは何でも、神のみむねに従って使うことができました (18)。
また、主の宮で礼拝のために渡された用具は、主の宮のために用いることができました。 (19)
そのほか、彼らが神の宮のために必要なもので、どうしても支出しなければならないものは、王室の金庫からそれを支出することができました(20)。
また、エルサレムを担当する役人は、エズラが求めることには全面的に協力しなければならないということ(21節)。すなわち、銀は百タラントまで、小麦は百コルまで、ぶどう酒は百バテまで、油も百バテまで、塩は制限なしです(22節)。さらに、25~26節にあるように、裁判官の任命権や律法に関する教育などをエズラにゆだねなければなりませんでした。

すごいですね。私も気配り牧師と呼ばれていて比較的細かい方ですが、アルタクセルクセス王は気配り王だったのかもっと細かに指示しています。なぜ、これほどまでの権威がエズラに与えられたのでしょうか。それは23節にあるように、天の神の御怒りが王とその子たちの国に下るといけないからです。すなわち、アルタクセルクセス王はイスラエルの神こそまことの神であり、この神に逆らうとどうなるかということを理解していたのです。かつてアブラハムに神が、「あなたを祝福するものを祝福し、あなたをのろうものをのろう」と言われましたが、それがいかに実現したかを、目の当たりにしていたのでしょう。天の神は、異教の王の心さえ変えることができる偉大な方なのです。

その手紙を受け取ったエズラはどうしたでしょうか。27~28節をご覧ください。彼は心から主に感謝をささげました。「7:27 私たちの父祖の神、【主】がほめたたえられますように。主はエルサレムにある【主】の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、7:28 王とその顧問と、王の有力な高官すべての前で私に恵みを得させてくださった。私の神、【主】の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、一緒に上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。

ここでエズラは、「私たちの父祖の神、主がほめたたえられますように。」と祈っています。この言葉によって、エズラが仕えていた神は彼の父祖の神であったことを表明しています。すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、モーセに律法を与えた神です。さらに、ペルシャの王にこのような心を起こさせ、王とその顧問と、王の有力な高官たちの好意を自分たちに向けさせてくださったのはその神であり、エルサレムにある主の宮に栄光を与えるためであったと告白したのです。彼は、自分が優れた者だから王たちの好意を勝ち取ることが出来たと自らを誇ることもできたのに、そうはしませんでした。すべてが神の御業であると認め、その神をほめたたえたのです。私たちも成功した時には自分の力を誇るのではなく、神によってなされたと認め、神に感謝し、神をほめたたえるべきです。

さらに彼は、「私の神、【主】の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、一緒に上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」と祈っています。イスラエル人のかしらたちを集めることは容易なことではありませんでした。それが出来たのは、一重に神の御手が彼とともにあり、彼の心を奮い立たせてくださったからだと、神をほめたたえているのです。彼はすべてのことは神の御手が彼の上にあったので成し遂げることができたと告白したのです。私たちも主の御手が私の上にあったので、私はこのこと、あのことを成すことが出来たと告白し、神をほめたたえ、神に栄光を帰する者でありたいと思います。

エレミヤ46章1~28節「エジプトについての預言」

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今日は、エレミヤ書46章全体から学びます。44章までにおいて、エレミヤ書におけるユダの民とエルサレムに対する預言は終わりました。そして前回の45章では、エレミヤの書記をしていたバルクに対する励ましのメッセージが語られました。ここからは、諸国に民に対する預言が語られます。エレミヤは預言者としての召命を受けたとき、ユダの民に対する預言だけでなく、国々への預言者としても召されていました。1章5節にはこうあります。 
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
  それが、ここから終わりまで続くわけです。その最初がエジプトに対する預言です。そしてそれはペリシテ、モアブ、アンモン、エドムと続き、最後にバビロンに対して語られます。それは人の目には偉大で力強く見えるこうした国々も、実は、主なる神様の主権と支配によって成り立っていることを示すためです。私たちはとかく、信仰や教会に関すること以外においては、神様はあまり関わっていないかのように思いますが実はそうではなく、この世のすべての領域において神様は主権をもって働いておられるのです。その神様の働きをご一緒に見ていきたいと思います。

 Ⅰ.何ということか、この有様は(1-12)

まず、エジプトについての預言です。1~12節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「46:1  諸国の民について、預言者エレミヤにあった【主】のことば。46:2 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢について。ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカドネツァルがこれを打ち破った。」

ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とは、前回の45章にもありましたが、B.C.605年のことです。その年にバビロンの王ネブカドネツァルがエジプトの王ファラオの軍勢と戦ってこれを打ち破りました。これはユーフラテス河畔のカルケミシュという町で起こった戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれています。バビロンはアッシリアと戦ってその首都ニネベを打ち破ると、その後アッシリアの残党がこのカルケミシュに移ったので、それを追ってカルケミシュに向かいました。しかし、そのバビロンの台頭を恐れたエジプトがバビロンに戦いを挑んだのです。それがこのカルケミシュでの戦いです。結果はエジプトの惨敗でした。その時の様子が3節以降に描かれています。

「46:3 「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。46:4 騎兵たちよ、馬に鞍をつけて乗れ。かぶとを着けて配置につけ。槍を磨き、よろいをまとえ。46:5 何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。──【主】のことば──46:6 足の速い者も逃げられない。勇士たちも逃れられない。北の方、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れる。46:7 ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻くこの者はだれか。46:8 エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』46:9 馬よ、進め。戦車よ、走れ。勇士たちは出陣せよ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引くルデ人よ。46:10 その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日。剣は食らって満ち足り、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の【神】、主に、いけにえが献げられる。46:11 おとめである娘エジプトよ、ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を用いても無駄だ。おまえには癒やしがない。46:12 国々は、おまえの恥辱のことを聞く。おまえの哀れな叫び声は地に満ちる。勇士が勇士につまずき、ともに倒れるからだ。」

5節には、「何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。─【主】のことば─」とありますが、このことばにエジプトの悲惨な状況が映し出されています。彼らはおじ惑い、うしろに退きます。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去ることになるのです。恐怖が彼らを囲むからです。エジプトを代表するのはナイル川ですが、彼らはかつてナイル川のように湧き上がり、地をおおうほどの勢力があると言って誇っていましたが、バビロン軍に敗北し、哀れな叫び声が地に満ちることになります。有志が有志につまずき、ともに倒れるのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

10節をご覧ください。ここには「その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日」とあります。これは主が敵に復讐する日なのです。どういうことでしょうか。それは単にバビロン軍との戦いというのではなく、主が成された主との戦いなのです。主との戦いですから、エジプトがどんなに強くても勝てるはずがありません。その戦いの背後には、偉大な主の御手が働いているからです。

ところで、この「敵に復讐する日」とは何を指しているのでしょうか。何に対する復讐なのでしょうか。多くの学者は、これはこの戦いの4年前(B.C.609年)に、ユダの王のヨシヤがエジプトの王ファラオ・ネコに殺されるという事件があったのですが、それに対する復讐ではないかと考えています。しかしここではもっと広い意味での復讐、エジプトが神に対して行った傲慢な態度に対する復讐であったと見た方が良いと思います。というのは、ここから諸国の民に対する預言が語られるわけですが、それをずっと見ていくとどの国々に対しても共通している三つのことが取り上げられているからです。一つは、そうした国々は自分の財産や軍事力など、物質的な力に拠り頼んでいたという点です。二つ目のことは、彼らは天地の創造主ではない、偶像の神々を拝んでいたという点です。そして三つ目のことは、イスラエルやユダに対して敵対したということです。エジプトの場合は、ヨシヤ王を殺したということがその中に含まれますが、それだけでなくこうした国々は他の点でも神に敵対しました。そのことに対する復讐なのです。

7節には、エジプトの軍隊はナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻いていたとあります。皆さん、「奔流」ってわかりますか? ゴーゴーと音をたてて激しく流れる川のことです。それは恐ろしさを感じるほどです。それだけ勢いがあるということです。それは全地を覆うほどの勢いです。8節には、「エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』」とあります。それは全地をおおい、町も住民も滅ぼし尽くすほどの勢いなのです。

しかしいくら強力な軍事力を誇り、この世を支配するほどの勢力があっても、それらのすべては神様のご支配の中にあることを覚えておかなければなりません。神様がエジプトに病を下せば、どれほど効き目のある薬を使っても何の役にも立ちません。神様が低くすれば、国々の中では辱めを受けることになるのです。国や民族を栄えさせたり衰えさせたりするのは神様であられるからです。ですから、自分の人生がどれほど栄えているようなときでもへりくだり、逆にどれほど低い位置に置かれているようなときでも落胆せず、神に信頼しなければなりません。最近、アメリカの大統領が各国に相互関税を科したことで世界経済が混乱に陥りましたが、自国民を守ることは大切なことですが、自分たちの力を誇り、世界中の国々を自分たちに従わせようとする言動は、厳に慎まれなければならないということがわかります。聖書に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18、新改訳第3版)とあるように、そのような国は、やがて滅びていくことになるからです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。

あなたはどうですか。すべてのことがうまくいっていると思うとき、へりくだって神の主権を認めているでしょうか。逆にうまくいかず辛い中にあるとき、落胆せずに神を信頼していますか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)あなたがどこにいても、すべての道で主を認めましょう。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。

また、それは同時に、神の御心に反してエジプトというこの世と同盟を結ぼうとしたユダの民に対する復讐でもあったと言えます。彼らは主なる神ではなくエジプトに頼り、エジプトに下って行きました。そのユダの不従順に対する報復でもあったのです。神様に頼らず、この世とその力に頼るとき、神様は彼らが頼るものを滅ぼされるのです。この世の力、この世の富、この世の権力に頼ることは、崩れる城壁の上に立っていることと同じことなのです。私たちが頼るべきお方はすべてを支配しておられる主だけです。ただ生を見上げ、主に拠り頼みましょう。

Ⅱ.その名を万軍の主という王のことば(13-26)

次に、13~26節までをご覧ください。エジプトに対するさばきことばが続きます。13節には「バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトの地を討つことについて、主が預言者エレミヤに語られたことば。」とあります。12節までには、B.C.605年のカルケミシュの戦いにおいてエジプトがバビロンに敗北する様子が預言されていましたが、ここには、エルサレムが陥落後、これはB.C.586年ですが、その後バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトを打つことについての預言が記されてあります。

14節には、「エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、メンフィスとタフパンヘスで聞かせて言え。」とありますが、それは、エジプトはもちろんのこと、ミグドル、メンフィス、タフパンヘスといったエジプトが支配していた都市にもバビロンの勢力が及ぶということです。

15節には「なぜ、お前の雄牛は押し流されるのか。それは踏みとどまり得ない。主が彼を突き倒されたからだ。」とありますが、「おまえの雄牛」とは、偶像のことです。バビロンによって、エジプトが頼りとしていた雄牛の像が押し流されて立てなくなるという意味です。ここでは、偶像の空しさが露呈されているのです。

また19節には「メンフィスは荒れ果て、焼かれて住む者もいなくなるからだ。」と、メンフィスもエジプトに住む娘にたとえられていますが、そうした美しい娘のようなメンフィスは荒れ果て廃墟となり、住む人が誰もいなくなるというのです。

20節の表現はおもしろいですね。「エジプトは、かわいらしい雌の子牛。しかし北からアブが襲って来る。」とあります。「かわいらしい雌の子牛」とはエジプトのことです。そして「北から襲って来るアブ」とはバビロンのことを指しています。アブであるバビロンが北からやって来て、雌の子牛であるエジプトを刺すというのです。アブないです。これは、バビロンの軍勢がエジプトを襲い征服するという比喩的表現です。

22節もおもしろいです。「彼女の声は逃げ去る蛇の音のようだ。敵が軍勢を率い、木こりのように、斧を持って入って来るからだ。」とあります。「彼女の声」とは敗走するエジプト軍が立てる音ですが、それが逃げ去る蛇の音のようだというのです。敵であるバビロン軍が木こりのように斧を手に持ち、森の木々を切り倒すように、エジプト人を切り倒すからです。そのようにエジプトはバビロンによって辱められ、彼らの手に渡されることになるのです。

問題は、なぜそのようなことになるのかということです。15節に戻ってください。3行目にこうあります。「主が彼を突き倒されたからだ」。また26節にもこうあります。「わたしは彼らを、そのいのちを狙う者たちの手に、バビロンの王ネブカドネツァルの手とその家来たちの手に渡す。」
 これは主ご自身がなさることなのです。私たちは歴史の中で起こったことや今、この時起こっていることについて、なぜこんなことになったのかとその原因を分析したり考えたりしますが、実は、そうした出来事の背後には主の御手があるのです。そこにも主が働いておられるということです。このことは、私たちをより謙虚にさせてくれるのではないでしょうか。すべてのことは主の御心のままに導かれているのです。すべてのことです。それが良いことであっても悪いことであっても。それは、そこにすべてのことを働かせて益としてくださるという主ご自身のご計画があるからです。それがどういうことなのか私たちにはわからなくても、そこに主が働いておられることを認め、その主にすべてをゆだねることが、私たちも想像もできないほどの神様の栄光が現わされていくことにつながっていくのです。

今週も聖書の学びとお祈り会がありますが、前回学んだエズラ記6章には、バビロン捕囚から帰還したユダの民が預言者ハガイとゼカリヤが語る神のことばに励まされて神殿再建を始めたわけですが、そぐに妨害が入ったとありました。その地の総督タテナイやシェタル・ボゼナ、その同僚たちの妨害に遭って工事が難航するわけです。彼らはペルシャの王ダレイオスに書状を送って、キュロス王からの命令が下った事実を調べてほしいと訴えました。すると、ダレイオス王はエクバタナというところで一つの巻物を発見し、そこに確かにキュロス王によって命令が下されたことを確認し、タテナイたちに神の宮の工事をそのままやらせておくようにと命じただけでなく、何とその宮の完成のために、彼らが取り立てた税金の中からその費用を支払って、間違いなくそれが完成するようにせよ、と命じたのです。まさに災い転じて福となる、です。タテナイたちは立てなくなってしまいました。彼らのそうした妨害のお陰でユダの民はますます確信が与えられ、必要も満たされて、ダレイオス王の第6年についに神の宮を完成させることができたのです。いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖書はこう告げています。

「これは、主が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」(エズラ6:22)

それは主が成されたからです。その背後に主が働いておられたのです。すべては主のご計画によるのです。

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

であれば、私たちはそこに主の御手があることを認め、主が働かれ、事を行わせてくださることを信じなければなりません。

それがこの46章18節で言われていることです。ここには、「わたしは生きている。­その名を万軍の主という王のことば ­」とあります。どういうことですか。ここには3人の王の名前が出ています。バビロンの王と、エジプトの王、そしてもう1人、万軍の主という王です。バビロンの王とはだれですか。ネブカドネツァルです。ではエジプトの王は誰でしょうか。ファラオ・ネコです。しかし、それだけではありません。ここにはもう一人の王がおられます。それは万軍の主という王です。それは、神の御座の右で全世界を治めておられる王の王であられる主イエス・キリストです。バビロンの王ネブカドネツァルは、神の道具となってエジプトを攻撃するために用いられました。エジプトの王ファラオの名声と権威は一時天に届く勢いでしたが、今や彼の時代は過ぎ去りました。しかし、万軍の主という名前の王は、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、エジプトの王や将軍、兵士たちを退けました。この方こそ王の王、主の主であられる方なのです。この方が、これらすべてのことをなされるのです。私たちは、神の御座で全世界を治めておられる万軍の主という王であられるイエスを信じて、この方に拠り頼まなければなりません。

あなたの人生の王は誰ですか。イエス様だけがあなたを救うことができます。イエス様だけがあなたに神の国をもたらすことができるまことの王なのです。

Ⅲ.ヤコブよ、恐れるな(27-28)

ですから第三のことは、恐れるな、ということです。27~28節をご覧ください。「46:27 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしがあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、だれにも脅かされずに平穏に安らかに生きる。46:28 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」

エジプトに対するさばきを語られた後で主は、イスラエルに回復のメッセージを語られます。それは27節にあるように、彼らの子孫を捕囚の地から救い出すという約束です。神様は全世界をさばいても、ご自身の選びの民を必ず救われます。神の救いの御業は、さばきと並行してなされるのです。それは1枚の紙の両面のような関係です。エジプトはさばかれますが、イスラエルは回復の恵みにあずかるということが、対照的に語られているのです。エジプトは滅ぼし尽くされても、イスラエルが滅ぼし尽くされることはありません。だから恐れるなと。エジプトに対する激しい神様のさばきの預言の中で、イスラエルに対する慰めのことばが語られているのはこのためです。この世はさばかれることはあっても、神の契約の民は必ず救い出されるのです。31章3節にこうあります。

「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

これが神様の愛です。神様の愛は永遠の愛なのです。永遠の愛とは、いつまでも、です。それは止まることがありません。神の愛はどんなことがあっても止まることがないのです。あなたがどんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、ずっと愛してくださいます。あなたの状態とは関係ありません。あなたがどんなに堕ちても、だれもあなたを受け入れなくても、神の愛は永遠にあなたに注がれているのです。それはあなたが優れているからではありません。あなたが良い人だからでもない。それはただ神があなたを愛されたからです。

この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることができます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができるのです。イスラエルもバビロン捕囚という憂き目に遭いましたが、この愛によってもう一度回復することができる。いい言葉ですね。「回復」。英語では「restoration」と言います。もう一度神に立ち返り、やり直すことができる。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。

このみことばを読んだ後、もしあなたが神様のみことばは真理であると信じているなら、神様はイスラエルを見捨てられないようにあなたを見捨てないということを信じなければなりません。そして「恐れるな」、「おののくな」と言われる神様のことばに信頼しなければならないのです。どんなにエジプトにさばきが下っても、あなたは恐れてはならないのです。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。

それが28節で約束されていることです。「わたしが、あなたとともにいるからだ」。この主があなたとともにおられます。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。それなのに恐れたり、心配しているとしたら、それはあなたがこの神のことばを信じていないということです。ただ頭だけで信じているだけです。救い主であり、全能者であられる主が私の人生にも働いておられるということを信じなければなりません。主は私たちのたましいだけでなく、私たちの人生も救ってくださいます。病んだ心も肉体もいやしてくださいます。さまざまな生活の問題にも答えを与えてくだいます。それなのに、熱心に教会に通い神様を信じていると言いながら、神様がいないかのような生き方をしているとしたら、それは観念的に信じているだけであって、実際の生活において神様が生きて働いておられることを信じられないのです。口では主は全能者であると言いながら、実際には「でも、さすがにこれは無理でしょ」とか思っているわけです。

主はイスラエルの歴史において働かれ、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトをさばかれ、イスラエルに懲らしめを与えただけでなく、その中から救い出してくださいました。そしてやがてそこから救い主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そして十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。その主がこのように約束してくださいました。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

主は今も生きておられます。今も生きてあなたとともにおられ、あなたの人生のただ中に働いておられるのです。あなたが成功しても失敗しても、健康な時も病気の時も、主はあなたとともにおられます。であれば、何を恐れる必要があるでしょう。その名を万軍の主という王がともにおられるなら、私たちは失望落胆する必要はないのです。

ただ、一つのことを覚えておかなければなりません。それは28節の最後にあるように、懲らしめはあるということです。「ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
 神様は、あなたとともにいて、あなたを救ってくださいますが、あなたが犯した罪については懲らしめを与えられます。それはあなたを滅ぼすためではなく、あなたを聖めるためです。懲らしめを喜ぶ人はいないでしょう。しかし、懲らしめがもたらす結果を喜ぶことはできます。その結果とは回復と聖めだからです。へブル12章11節にこうあります。

「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

すべての懲らしめや訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。回復と聖めがもたらされます。それによって、主は私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてくださるのです。それこそクリスチャンとしての本望です。ですからそこに希望を置き、たとえ現状が苦しくてもそこから逃げないで、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けていこうではありませんか。

エレミヤ書45章1~5節「自分のために大きなことを求めるな」

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今日はエレミヤ書45章から、「自分のために大きなことを求めるな」というタイトルでお話します。これは、エレミヤの書記をしていたバルクに対してエレミヤが語った主のことばです。主が彼に言われたことは5節にあるように、「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」ということでした。バルクが求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。なぜそれを求めてはいけなかったのでしょうか。

 Ⅰ.バルクの嘆き(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。2 「バルクよ、イスラエルの神、【主】は、あなたについてこう言われる。3 『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」

まず、この預言が語られた背景ですが、1節には「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年」とあります。これは、西暦でいうと紀元前605年になります。前回学んだ44章はユダの民に対するエレミヤの最後の預言、最後のメッセージでしたが、その30年も前のことです。ですからこれは44章との連続性はなく、むしろ内容的には36章にまで遡ります。それがこの預言が語られた背景にあることです。その時何があったのでしょうか。ちょっと振り返ってみましょう。36章1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻物に書き記した。5 エレミヤはバルクに命じた。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。6 だから、あなたが行って、あなたが私の口述によって巻物に書き記した【主】のことばを、断食の日に【主】の宮で民の耳に読み聞かせよ。また、町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。7 そうすれば、【主】の前で彼らの嘆願が受け入れられ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからだ。」8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの書物を読んだ。」

45章1節の「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき」というのは、このときのことです。主からエレミヤに主のことばがあったので、エレミヤはバルクを呼んでそれをことごとく巻物に書き記しました。そのときエレミヤは閉じ込められていて主の宮に行くことができなかったので、代わりにこのバルクが行って、それを民に読み聞かせたわけです。するとそれが王の耳にも入ることになりました。

それを聞いたエホヤキム王はどうしたかというと、激怒してその巻物を3,4段読まれるごとに、あろうことかそれを小刀で切り裂き、暖炉の火の中に投げ入れすべてを燃やしてしまいました。それを書き留めるのにどれほどの時間と労力を要したことでしょう。エレミヤはヨシヤ王の時代、その治世の第13年から預言してきましたから、その間約20年です。その間に書き留められた神のことばがすべて燃やされてしまったのです。相当がっかりしたことと思います。私は大田原に来て21年経ちましたが、これまで語った説教は全部保存してあります。その前に福島で語った20年分の説教も全部取ってありますが、それが焼かれたらどんな気持ちになるでしょう。おそらく、自分の存在が消し去られたような気持ちになるのではないかと思います。まさにバルクはそのような経験をしたのです。そればかりか、エホヤキム王はバルクとエレミヤを捕らえて殺そうとしました。どうしてそんな目に遭わなければならないのか理解できなかったでしょう。幸いにも主が彼らを隠されたので彼らは難を逃れることができましたが、この時のバルクの失望はいかばかりだったかと思うのです。その時の彼の思いが、ここに記されてあります。45章に戻ってください。3節です。

「あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。」

ヨブのことばで言うなら、「生まれて来ない方が良かった」です。それほどヨブは辛い経験をしたわけですが、バルクも同じでした。バルクはヨブほどの苦難を味わったわけではありませんが、心境は同じでした。

「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」

バルクの痛みとは何だったのでしょうか。せっかく書き留めた神のことばをだれも聞き入れてくれないという悔しさなり、悲しみ、怒りといった思いでしょう。それどころか、エホヤキム王はそんな自分を殺そうとさえしました。信じられない暴挙です。それで彼は、主は私の痛みに悲しみも加えられたとつぶやいたのです。彼はそんな状況にホトホト疲れ果ててしまいました。何の憩いも見いだせませんでした。彼はエレミヤの秘書として、エレミヤと苦しみを共にしてきました。それはエレミヤの信仰に共感すればこそのことですが、いざ自分のお尻に火が付くと、改めて自分の置かれた現実に目が覚めて、信仰が揺るがされたのです。

それはバルクだけではないでしょう。私たちも同じです。イエス様を信じるなら永遠のいのちが与えられ、さばきにあうことがなく、死からいのちに移るとあるから信じたんじゃないですか。それなのに死からいのちに移るどころかいのちから死に移っているのではないかと思えるような状況に陥るとき、どうしてですかと叫ばずにいられなくなります。あるいは、主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人は、水路のそばに植わった木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄えるとあるから、信じたのです。それなのに現実は実を結ぶどころか枯れてしまいそうだと感じるとき、私たちもバルクのようにつぶやいてしまうのではないでしょうか。主は私の痛みに悲しみを加えられた、私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せないと。

先日、ある方からお電話をいただきました。全く面識のない方ですが、教会のホームページのメッセージを見て電話したということでした。この方はクリスチャンの姉妹ですが、開口一番「逃げるに逃げられない状況なんです」と言われました。これはただ事ではないなと話をお聞きしたところ、この姉妹は調整区域にある農地を所有していますがそれにかかる税金がかなり高いので売却しようとしたところ、そこが農地であるためできないことがわかりました。ならばと雑種地に地目変更して売却しようと妹さんの知り合いに相談したのですが、逃げるに逃げられない状況になってしまったというのです。どうしてそのようなことで私に電話をしてきたのか不思議に思っていたら、ディボーションをしている中で教会のホームページからサムエル記のメッセージを見つけ、その中のダビデの信仰に教えられて電話したということでした。何が神様のみこころがわかるのではないかと思って。

私は1時間半ずっとお話を聞きながら、詩篇16篇8節とローマ8章28節のみことばが示されたのでそれを伝えました。詩篇16篇8節には、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。大切なのは固定資産税をどうするかということではなく神様との関係であって、自分で動くことを止めて神様を目の前に置くこと、すなわち、神様に信頼して神様の導きを待つことですと伝えました。主がともにおられるなら決してゆるぐことはありません。
  もう一つのみことばはローマ8章28節のみことばです。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」すなわち、神様はすべてのことを働かせて益としてくださるとあるので、この問題さえも益としてくださるのではないでしょうか。
  でももう一つ必要なことがあります。それは覚悟です。逃げるに逃げられない状況になってしまったと言われましたが、相手を恐れないでください。人を恐れると罠にかかりますから。しかし、主に信頼する者は守られます。大丈夫、神様が守ってくださいますから、と伝えると、安心したかのように「わかりました。ありがとうございました」と電話を切られました。私がお話をさせていただいたのは、わずか10分間でしたが。

信仰生活を送る上でこうした問題に直面するとき、あなたからはどんなことばが口をついて出てくるでしょうか。「逃げるに逃げられない」ですか。それともバルクのように「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果てて、憩いを見出せない」でしょうか。その思いが神様とエレミヤの目に留まりました。それで主はエレミヤを通してバルクに対することばを語られたのです。ですから、これは今日のあなたに対する主の励ましのことばでもあるのです。

Ⅱ.自分のために大きなことを求めるな(4-5a)

そんなバルクに対して主は何と言われたでしょうか。それは、自分ために大きなことを求めるなということでした。4節と5節前半までをご覧ください。「4エレミヤよ、あなたは彼にこう言え。『【主】はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。5 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──【主】のことば──。」

主がエレミヤを通してバルクに語られたことは、自分のために大きなことを求めるな、ということでした。どういうことでしょうか。彼が自分のために求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。新聖書注解書の中で安田吉三郎先生は、このように解説しています。

「バルクは何を期待していたのであろうか。彼が預言者エレミヤに従った時、この預言者の働きによって国の運命は転換し、その結果彼は新しいイスラエルにおいて名声と高い地位と富が得られると考えたのであろうか。名門の出のバルクにとって、このような野心は無縁だとは言い切れない。エレミヤの預言を書に記し、これを神殿で人々に朗読した時、バルクは、人々の心の中に革命が起こると期待したかもしれない。さらに自分の巻物が首長たちに読まれ、その上王の前で朗読されると聞いた時、彼の心は恐れと期待におののいていたのではないだろうか。」

これは安田吉三郎先生の憶測ですが、的を得ていると思います。というのは、その前後の文脈からそのように解釈することができるからです。4節には、主はご自分が建てたものを自分で壊し、植えたものを自分で引き抜かれる方であると言われています。つまり、主は主権者であられるということです。そしてそのように言われた後で、5節に「見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ─主のことば──」と言われました。つまり、それはバルクが思い描いたようにはならないということです。

バルクは預言者エレミヤの口述筆記者という名誉ある役割が与えられていました。1節には、彼はネリヤの子とありますが、彼は名門の出身です。教養も豊かな人物でした。エレミヤ51章59節には、彼の兄セラヤはゼデキヤ王の時の高官だったことがわかります。恐らく彼は兄と同じような地位に就くことを願っていたのでしょう。もし預言者エレミヤについて行き、エレミヤの預言によって王や首長たちが悔い改めるなら、ユダ王国に新しい未来が開かれることになります。そうなったらエレミヤは国の中で重要な地位に就くことでしょう。それは、エレミヤの書記である自分の昇進をも意味していました。ちょうどイエス様の弟子でゼベダイのふたりの子ヤコブとヨハネがイエス様に、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(マルコ10:37)と願ったように、です。

しかし、彼の期待は見事に裏切られました。事態は彼が願ったようにはいかなかったのです。むしろ逆でした。エホヤキム王やユダの首長たちは悔い改めるどころか逆に怒り狂い、口述筆記した巻物は切り裂かれて、暖炉の火で燃やしてしまいました。それどころか、彼の身にも危害が加えられる恐れがありました。彼の夢は脆くも崩れ去ったのです。それはご自身に立ち返ろうとしない民に対して、主がわざわいを下そうとしておられたからです。バルクがどんなに高貴な家の出で、優秀な者であっても、彼は一つのことを理解しなければなりませんでした。それは、主は私たちが関わるすべての事柄の主権者であられるということです。4節の「わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。」ということばは、この真理を明らかにしています。それなのに彼は自分ために大きなことを求めていたのです。

何事でも「自分のために」という思いが強すぎると、実際に思うようにいかない時、バルクのように嘆き、失望し、疲れ果ててしまうことになります。大切なのは、主が私たちに関わるすべての事柄の主権者であられると認め、自分はそのための管にすぎないことを自覚することです。そうでないと、自分のしたことに一喜一憂することになるからです。イエス様は弟子たちにこう言われました。

「17:9 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)

これがイエス様のしもべである私たちに求められている姿勢です。もしあなたが主に命じられたことをすべて行ったら、こう言うべきです。「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。それはこの世の価値観とは全く違うでしょう。この世では自分のしたことに対して、その報いがあるかないかを尺度にして生きています。たとえば、それをやったらどれだけ認められるか、どれだけ報酬があるか、どれだけ昇進するかといったことです。けれども、そのような生活は失望や落胆、また有頂天になることの繰り返しで、疲れ果ててしまうことになります。自分のために大きなことを求めるのではなく、主のために大きなことを求めなければなりません。それは主に対して忠実であること、ただ主が言われていることを行っているということ、そして成果ではなく、主との関係、主との交わりを喜び、これを求めることです。そうすれば、目先の報いに左右されることはなくなります。

こんなコラムを読みました。ご主人が出張で数日間家を留守にする時、4歳の息子が母親に「パパはあと何個寝たら帰って来るの?パパは今どこにいるの?何をしているの?」と一日に何度も尋ねてきたそうです。公園で遊んでいても、美味しいおやつを食べていても、どんなに楽しいことをしていても、息子の頭の中にあるのは常に「パパは?」でした。そんな息子の姿を見ながら、自分は息子のように神様のことを求めているだろうか」と考えさせられたそうです。

聖書には、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)とあります。自分の願い、自分の計画、自分の必要ばかりに意識を向けていたら、気付かないうちに、この世と調子を合わせてしまうことになります。神様のみこころだけが、私たちを暗やみから光へと引き上げてくれます。だから、神のみこころに焦点を合わせなければなりません。忙しくて、お皿洗いながらしか祈れない時もあるでしょう。疲れ切って聖書を読んだり祈れない時もあります。しかしそのような時こそ、より深いところへ進んでいくための神からの招きの時なのです。神様と共にありたいという奥深い心の飢え渇きを満たしてくれる時なのです。3Dのイラストをじっと集中して一点を見続けていると絵が浮かび上がって立体的に見えてくるように、いったん手を止めて、全神経を集中させて神様を捜し求め、神様と交わる時が私たちに必要なのです。

Ⅲ.神の約束(5b)

しかし、そんなバルクに対して主は、一つの報いを与えると約束してくださいました。それは彼のいのちを守られるということです。5節の最後のところに注目してください。「しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」

神はバルクにこの世での成功は約束されませんでしたが、彼のいのちが守られることを保証されました。「あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」とは、そういう意味です。リビングバイブルでは「わたしはこの民に大きなわざわいを下すが、あなたには報いとして、あなたがどこへ行っても、あなたのいのちを守る」とあります。バルクが受ける報いは、ただ彼のいのちを保つということでしたが、これほど素晴らし約束があるでしょうか。神の使命を忠実に成し遂げた後の報いは、この世の富や名誉で測ることができるものではありません。それはいのちを保つということ、永遠のいのちに与るということです。

バルクは、エレミヤたちとともにエジプトに連れて行かれましたが、彼にとっては、どこに行くかは大きな問題ではありませんでした。どこにいても、いのちを守られる主がともにおられるということ、この真実に心を留めることが大切だったのです。

バルクはエルサレム陥落を目撃し、エレミヤに同行してエジプトに下り、そこでエレミヤの死を見届けました。その過程で彼は、自らの使命に目覚めたのです。それは自分のために大きなことを求めるのではなくこれらいっさいの出来事の証人となり、それを後世に伝えることです。そしてエレミヤの預言を「エレミヤ書」という形にまとめたのです。自分に対する預言をエレミヤ書のこの箇所に置いたのも彼です。明確ではありませんが、エレミヤはこのバルクへのことばを、晩年になって彼に伝えたのかもしれません。バルクは預言者エレミヤの死後も生きて、この記録を預言者エレミヤの生涯の記録のあとに、そっと補足として加えたのかもしれません。44章でエレミヤの生涯の預言を書き終えた後にどうしてこの記事がここに挿入されているのかは、そのような理由からでしょう。個人的に成功するかどうかは、主のみこころが成るかどうかに比べたら、取るに足りないことなのです。バルクは彼の生涯の中でこのことを学んだのです。

それは私たちも同じです。私たちにとって大切なのは自分のために大きなことを求めることではなく、自分の身を通して神の栄光が現わされることを求めることです。みこころが天で行われるように、地でも行われますようにと祈り求めることなのです。これが私たちの人生の目的であり喜びですと言える歩みを、共に目指してまいりましょう。