エズラ記8章から学びます。
Ⅰ.帰還者のリスト(1-14)
エズラは、アルタクセルクセス王(第三版ではアルタシャスタ王)の第七年に帰還しました。(7:8)。ここには、その時エズラと一緒にバビロンからエルサレムに上って来た民のリストが記録されています。この時に帰還した民の数は、合計で1,772人でした。2章3~15節には、ゼルバベルとともに帰還したユダヤ人の数が記録されてあのますが、その時の帰還民の合計は、42,360人でしたから、それに比べると今回の期間に加わった人たちは、かなり少ない人数であったことがわかります。ほぼ10分の1にすぎません。しかし、数が問題ではありません。彼らはカナンの地に自らの未来があると信じて帰還した「イスラエルの残れる者」(レムナント)たちでした。「イスラエルの残れる者」とは、イスラエルの民全体の中にあって真の信仰を持っていた少数の人たちのことです。彼らは「真のイスラエル」、「霊的イスラエル」とも呼ばれる人たちです。真のイスラエルは、常に少数派です。それは、霊的イスラエルであるクリスチャンにも言えることです。今も真の信仰を持つ人たちは、この世の中では少数です。しかし、その事実に失望する必要はありません。神は少数の真実な信仰者たちを用いて、ご自身の計画を進めてくださるからです。
「祈りの人」という本を書いたE.M.バウンズは、その著書の中でこう言っています。「今日、教会に必要なことは、より多くの、より良い手段ではなく、また新しい組織や、より多くの新奇な方法でもない。ただ聖霊が用いたもうことのできる人である。それはすなわち、『祈りの人』である。祈りにおいて力ある人なのである。聖霊は方法をとおしてではなく、ただ人をとおしてのみ注がれる。聖霊は各種の手段の上にではなく、人に注がれるのである。また聖霊は計画にではなく、ただ人に、そうです、祈りの人に油を注がれるのだ。」
ですから、私たちはこの世の価値観に流されるのではなく、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかをわきまえ知るために、心を新たにすることで、自分を変えていただかなければなりません。
Ⅱ.レビ人の募集(15-20)
次に、15~20節をご覧ください。「 8:15 私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間、宿営した。私はそこに、民と祭司たちとを認めたが、レビ人をひとりも見つけることができなかった。8:16 それで、私はかしらのエリエゼル、アリエル、シェマヤ、エルナタン、ヤリブ、エルナタン、ナタン、ゼカリヤ、メシュラムと、教師エホヤリブ、エルナタンを呼び集め、8:17 彼らをカシフヤ地方のかしらイドのもとに遣わした。私は彼らにことばを授けて、私たちの神の宮に仕える者たちを連れて来るように、カシフヤ地方にいるイドとその兄弟の宮に仕えるしもべたちに命じた。8:18 私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので、彼らはイスラエルの子、レビの子、マフリの子孫のうちから思慮深い人、シェレベヤと、その子たち、およびその兄弟たち十八名を私たちのところに連れて来た。8:19 また、ハシャブヤとともに、メラリの子孫のうちからエシャヤと、その兄弟と、その子たち二十名、8:20 および、ダビデとつかさたちにより、レビ人に奉仕するよう任命されていた宮に仕えるしもべたちのうちから、二百二十名の宮に仕えるしもべたちを連れて来た。これらの者はみな、指名された者であった。」
エズラ一行は、アハワに流れる川のほとりに彼らを集め、そこに3日間宿営しました。なぜなら、エズラが帰還民たちを確認したところ、そこにレビ人を見つけることができなかったからです。レビ人がいなければ、帰還した先で生活を建て直すことが困難になります。というのは、レビ人たちには2つの重要な役割があったからです。一つは、律法の教師として奉仕すること(レビ10:11、申命記33:10)、もう一つは、神殿で祭司たちを補助することです。もしレビ人がいなければ、この2つのことができなくなります。7章では、主の恵みの御手が彼とともにあったので、彼は4か月という短期間にエルサレムに上ることができたことを学びましたが、それは彼が主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで起きてと定めを教えようと心を定めていたからでした(7:10)。しかし、レビ人がいなければ、主の律法を教える人がいなくなります。それでは、神のことばの上に計画を進めていくことができないことになり、結果、こうした祝福を受けることができなくなります。ですから、レビ人を連れて行くことがどうしても必要だったのです。
それでエズラはそこに3日間宿営し、信頼できる11人を呼び集め、レビ人を集めるために彼らを遣わしました。17節には、カシフヤ地方のかしらイドについて、そこに居住しているレビ人たちに対して、どのように言えばよいかということまで指図しています。レビ人の募集は、それほどデリケートなテーマだったのです。
その結果、どうなったでしょうか。18節にあるように、彼らはマフリの子のうちから賢明な者18人と、メラリの子のうちから20人、合計38人のレビ人を連れて来ることができました。また、レビ人に奉仕するように任命されていた宮のしもべたちのうちから、220人のしもべたちを連れて来ることができました。それは彼らが優れていたからとういうよりも、神の恵みの御手が彼らの上にあったからです。これはエズラ記のテーマですね。神の恵みの御手が私たちの上にあってので・・。神の恵みの御手が彼らとともにあったので、彼らを用いてレビ人を連れて来ることができたのです。
ここで重要なことは、20節にあるように、「これらの者はみな、指名された者であった」という点です。どういうことでしょうか。口語訳ではここを、「これらの者は皆その名を言って記録された。」と訳しています。また、創造主訳聖書でも「彼らは皆、その名前を記録された。」と訳しています。つまり、これは、220名のレビ人たちが示した献身に対する敬意の表明だったのです。レビ人が自発的に帰還しなかったのは、エルサレムでの厳しい生活を想像することができたからです。しかし、この220名の者たちは、生活の保証よりも、主に仕える道を選びました。献身の道を歩む者の名は、主に覚えられているということです。献身者にとってこれほど大きな励ましはありません。
Ⅲ.アハワ川のほとりでの断食(21-30)
次に、21~30節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「8:21 私はそこ、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。8:22 それは私が、道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めるのを恥じたからであった。実際、私たちは王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたのである。8:23 そのため私たちはこのことのために断食して、自分たちの神に願い求めた。すると、神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」
エズラは、エルサレムへの帰還にあたり、アハワ川のほとりで断食を布告しました。それは、彼らが神の前にへりくだり、道中の無事を願い求めるためです。というのは、彼は道中の敵から自分たちを助けるための部隊と騎兵たちを、アルタクセルクセス王に求めることを恥じたからです。それは彼が王に自分たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたからです。それなのに、もし王に護衛を要請したら、言っていることとやっていることが一致しないことになります。ちなみに、ネヘミヤの場合は、護衛が付きました。ですから、護衛を付けるか付けないかということが問題だったのではなく、そのように言ってしまった手前、そうせざるを得なくなったということです。しかしそれはエズラにとって大きな霊的チャレンジでした。21節にあるように、そのために彼らは断食して自分たちの神に願い求めると、神は彼らの願いを聞き入れてくださったということを体験することができたからです。護衛を付けてもつけなくても、大切なのは神の前にへりくだること、そして、神に信頼して祈ることです。そうすれば、神はその願いを聞いてくださる。これこそ、私たちの神に対する確信です。エルサレムに帰還するにあたり、これは彼らにとって大きな霊的準備となりました。
次に、24~30節をご覧ください。「8:24 私は祭司長たちのうちから十二人、すなわち、シェレベヤとハシャブヤ、および彼らの同僚十人を選り分けた。8:25 そして、王、顧問たち、高官たち、および、そこにいたすべてのイスラエル人が献げた、私たちの神の宮への奉納物である銀、金、器を量って、彼らに渡した。8:26 私は銀六百五十タラント、百タラント相当の銀の器、および金百タラントを量って、彼らに渡した。8:27 また、一千ダリク相当の金の鉢二十、さらに、金のように高価な、光り輝く見事な青銅の器二個を彼らに渡した。8:28 それから私は彼らに言った。「あなたがたは【主】の聖なるものである。この器も聖なるものである。この銀と金は、あなたがたの父祖の神、【主】に対する、進んで献げるものである。8:29 あなたがたは、エルサレムの【主】の宮の部屋で、祭司長たち、レビ人たち、イスラエルの一族の長たちの前で重さを量るまで、寝ずの番をしてそれらを守りなさい。」8:30 祭司とレビ人たちは、重さを量った銀、金、器を、エルサレムの私たちの神の宮に持って行くために受け取った。」
エズラは、12人の祭司長たちを選び、ペルシャの王、顧問たち、高官たちと、そこにいたイスラエル人が神の宮の奉納物としてささげたものを量って、彼らに渡しました。それは相当の金と銀の量でした。それは28節にあるように、神のために聖別されたものです。ですから、聖なる祭司たちによってエルサレムに運ばれる必要があったのです。エルサレムに運ばれたら最初の量がそのまま運ばれたかどうか、再計算がなされます。ですから、とても重要な任務であったわけです。その重要な任務を護衛なしで遂行することは、かなり危険なことでした。そのために護衛を付けたから安心ということはなかったでしょう。そこにはへりくだって神のご加護を求める必要がありました。ですからエズラは断食を布告し、祈りを呼びかけたのです。主の御手が私の上にあったという表現は、この営みから来ているのです。祈り、そして祈りに基づいて行動し、一歩一歩神を意識しながら、主を認めながら歩むのです。そうした祈りを神が聞き入れてくださらないわけがありません。こうして彼らの帰還の旅が守られたのです。
Ⅳ.エルサレム到着(31-36)
さあ、エルサレムに帰還した彼らはどうしたでしょうか。31~36節をご覧ください。「8:31 私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の十二日にアハワ川を出発した。私たちの神の御手が私たちの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から私たちを救い出してくださった。8:32 こうして私たちはエルサレムに着いて、そこに三日間とどまった。8:33 四日目に銀と金と器が私たちの神の宮の中で量られ、ウリヤの子の祭司メレモテの手に渡された。彼とともにピネハスの子エルアザルがいて、彼らとともに、レビ人である、ヨシュアの子エホザバデとビヌイの子ノアデヤがいた。8:34 すべてが数えられ、量られた。そのとき全重量が書き留められた。8:35 捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のささげ物を献げた。すなわち、全イスラエルのために雄牛十二頭、雄羊九十六匹、子羊七十七匹、罪のきよめのささげ物として雄やぎ十二匹を献げた。これはすべて【主】への全焼のささげ物であった。8:36 それから、彼らは王の命令書を、王の太守たちとユーフラテス川西方の総督たちに渡した。この人たちはこの民と神の宮に援助を与えた。」
こうしてエズラたちはエルサレムに行こうと、第一の月の12日にアハワ川を出発しました。すると、神の御手が彼らの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せしている者の手から救い出してくださったので、彼らは無事にエルサレムに着くことができました。バビロンからエルサレムまでは厳しい長旅のはずですが、エズラは旅の詳細については一切触れず、ただ「私たちの神の御手が私たちの上にあり」と述べているだけです。彼にとっては、これが旅の要約なのです。「私たちの神の御手が私たちの上にあり・・・その道中、敵の手から救い出してくださった」。これがすべてなのです。私たちのこの地上の旅も、このように告白する旅でありたいですね。
エルサレムに到着すると、彼らはそこに3日間とどまり、4日目にバビロンから運んで来た銀と金と器類は目減りがないかどうか再計量され、祭司たちの手に渡されました。
捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のささげ物を献げました。すなわち、全イスラエルのために雄牛12頭、雄羊96匹、子羊77匹、罪のきよめのささげ物として雄やぎ12匹です。雄牛12頭は、イスラエル12部族のためです。その他のいけにえは神殿奉献の時と同じものです(エズ6:17)が、数は減っています。これは神への献身を表すためのいけにえです。
さらに、王の命令書を、その地に派遣されていた王の高官たちに渡しました。目的は、帰還民の扱いに関して、王の意向を反映させるためです。その結果、なんと異邦人である彼らが、神殿での礼拝のために援助を与えたのです。これがこの箇所のクライマックスです。まさに神の御手が彼らの上にあったので、異邦人の王の心までも動かしてくださったのです。私たちの人生もこうありたいものです。神は、ご自身に信頼を置く者に恥をかかせるような方ではありません。ただ神の御手が共にあるように祈り求め、神のみこころに歩む者でありたいと思います。