今日は、アンモン人について語られた主のことばから学びたいと思います。アンモン人は前回のモアブ人同様、イスラエルの親類にあたります。アブラハムの甥であるロトの二人の娘によって生まれた子どもです。姉の子がモアブで、妹の子がアンモンです。そのアンモン人に対して、主は何と言われたのでしょうか。
Ⅰ.モレクではなく主イエスを王として(1)
まず、1節をご覧ください。「49:1 アンモン人について。【主】はこう言われる。「イスラエルには子がいないのか。世継ぎがいないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか。」」
どういうことでしょうか。まず、地図をご覧ください。

(引用:バイブルラーニング、ブログ)
アンモン人の地は、ヨルダン川の東側、モアブの地のすぐ上にありました。そこは元々イスラエル12部族の1つであるガド族に割り当てられていた地でしたが、紀元前722年にアッシリアによって北イスラエルが滅ぼされると、アンモン人はひょっこりとその地に侵入しそこを占領して定住するようになりました。1節の「イスラエルには子がいないのか。世継ぎがいないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その住民が町々に住んでいるのか」というのは、そのことが背景にあります。つまり、どうしてガドの所有地をアンモン人たちは自分のものとしたのかという意味です。
どうして彼らはガドが所有していた地を所有するようになったのでしょうか。先ほども申し上げたように、彼らはロトの子孫です。かつてソドムが滅ぼされた時彼らの先祖ロト一家はアブラハムの必死のとりなしによって救出されたのですから、アンモン人にとってイスラエル人は「いのちの恩人」であったはずです。それなのに彼らはガドに侵入しこれを奪い取りました。どうして彼らはそのようなことをしたのでしょうか。
それは彼らがそのような考え方を持っていたからです。1節の後半には、「なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか」とあります。「ミルコム」とは「モレク」のこです。ミルコムもモレクも同じです。アンモン人の神ですね。下の欄外には、別訳で「彼らの王」となっていますが、それは、この「モレク」がヘブル語の「メレク」から派生した言葉だからです。「メレク」には「王」という意味があるので、別訳では「彼らの王」となっているわけです。第3版はそのように訳しています。「なぜ、彼らの王がガドを所有し」となっています。なぜ、彼らの王がガドを所有したのでしょうか。なぜなら、彼らはそのような神を信じていたからです。それがミルコム、モレクです。「モレク」は快楽の神です。雄牛の頭を持った青銅の像が手を突き出した形で立っていました。モレク礼拝をする者たちは、その手の上に子どもを載せ、下から火をたいていけにえとしたのです(レビ記18:21)。どうしてそんなことをするのかというと、それが最大のささげものだからです。最大の犠牲をささげるなら最大の幸福を得ることができると考えたのです。様々なわざわいからも守られます。祝福が与えられる。まさに家内安全、商売繁盛です。そのために平気で我が子を焼き殺すのです。犠牲にします。それがモレクの神です。そして手の上に載せられた子どもは熱くて泣き叫ぶわけですが、その叫び声を消すためにモレクの祭司たちは太鼓をたたき続けました。その音が鳴り響いている間、参拝者が神殿娼婦と性的な儀式を行うためです。実におぞましいです。それはあなりにもおぞましいので、イスラエルはモレクを礼拝してはならいと堅く禁じられていました。レビ記18章21節にこうあります。
「また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは【主】である。」
これはモレク礼拝のことです。彼らが約束の地カナンに入るとき、その地の風習であるモレク礼拝をまねてはならないし、彼らの掟に従って歩んではならないと、禁じられていたのです。もしそれをまねて、彼らの掟に従って歩むなら、彼らのようになるからです。
だからイスラエル12部族の1つガド族がアッシリアによって滅ぼされるとそれを見た彼らは、自分たちの先祖がアブラハムのとりなしによって救われたとか、そんなことはどうでもよかったのです。彼らの関心は自分たちにとって利益になることは何かということでした。それがミルコム(モレク)だったのです。彼らはただ自分たちにとっての快楽を求め、そのためには子どもさえも犠牲することも厭わなかったのです。恐ろしいです。
人は何を信じるか、だれに従うかによってその行動が決まります。モレクを信じるなら、ミルコムを王とするなら、モレクのようになり、主イエスを信じるなら、主イエスのようになります。あなたは何を信じていますか。だれを王にしていますか。だれに従っていますか。
自分の快楽のためなら子どもを犠牲にしも構わない、自分が快楽を得られるのなら、地位や名声を得られるなら、豊かな暮らしができるなら子どもを犠牲にすることも厭わないという考え方は、何もアンモン人だけに限ったことではありません。現代の私たちにも言えることです。たとえば、子どもをかぎっ子にするのはその一つではないでしょうか。子どもよりも仕事です。家族のため、生活のためと言いながら、もっと良い生活がしたい。貯金もしたいし、旅行もしたい。ブランド品も買いたいし、もっと刺激もほしいし。子どもをどこかに預ければいいというのはまさに現代のモレク礼拝ではないでしょうか。勿論、色々な事情があるのはわかります。神様はそれを十分知っておられます。だから神様のあわれみがあるのは確かです。でもそういうことを大義名分にして、本当は自分の快楽を求めているとしたら、それはモレク礼拝だと言っているのです。主はそれを忌み嫌っておられるのです。自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならないと。あなたの神の名を汚してはならないと。
このミルコム、モレク礼拝は私たちクリスチャンとは関係ないと思っている方もおられると思いますが、そうではありません。実はモレク礼拝は神の民であるクリスチャンにもはびこっているのです。たとえば、Ⅰコリント10章14節には、「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」とありますが、なぜ偶像礼拝を避けるようにとパウロが書き送ったのかというと、そこに偶像礼拝をしている人がいたからです。それは実際に偶像を拝むということだけではありません。コロサイ3章5節には「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。貪欲は偶像礼拝です。主のみ教えから離れ、この世のものを貪るなら、それ自体が偶像礼拝なのです。私たちはだれも自分がまさか偶像礼拝をしているなんて思っていないでしょう。毎週日曜日は欠かさず礼拝に出席し、奉仕もしています。献金もちゃんとささげている。クリスチャンとしての自分の義務はちゃんと果たしているとみんな思っています。でも日曜日以外はどうでしょうか。霊的なことは神様に従います。でも仕事においては、プライベートなことにおいては従うわけにはいきません。そんなことをしていたらビジネスが成り立たない。だからこの世の慣わしに従います。そういう人が多いのではないでしょうか。神のことばよりも自分の快楽を求めているのです。それは現代のモレク礼拝です。その結果、神の祝福を失っているのです。
ここに出てくるイスラエル12部族の1つのガド族ですが、アンモン人によって支配される前にどうして彼らはその地に住むようになったのかをご存知ですか。そのいきさつは民数記32章に書いてあるので後でご覧いただけたらと思いますが、エジプトを出て約束の地に向かっていたイスラエルが、ヨルダン川を渡っていよいよ約束の地に入ろうとしたときその地にやって来ました。そしてその地を見渡すとそこには牧草地が広がっていました。ですから、多くの家畜を持っていたルベン族とガド族、マナセの半部族にとって非常に魅力的な場所に見えたのです。それで彼らはヨルダン川の向こうまで行かないでこの地に留まろうと考えました。そしてそのことをモーセに告げると、モーセはカンカンになって怒りました。「何を言っているんだ!あなたがたの兄弟たちはこれからヨルダン川を渡って戦いに行くというのに、あなたがたはここにとどまるというのか。どうして彼らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか」と。
すると彼らは、「わかりました。じゃこうしましょう。私たちはイスラエルの子らを約束の場所に導き入れるまで、先頭に立って戦います。でも子どもたちはここにとどまります。そして約束の地で主がその敵を御前から追い払われたら自分たちはここに戻って来て、ここに住みます。いいでしょう?」それでモーセは納得し、それならいいだろうということで、彼らはこの地を相続することになったのです。
しかし、結果はどうなったでしょうか。北イスラエル王国の10部族が真っ先にアッシリアに滅ぼされることになってしまいました。その中にルベン族、ガド族、マナセの半部族がいたのです。どうして彼らが真っ先に滅ぼされてしまったのかというと、その地は異教の影響を受けやすかったからです。異教の影響を受けて霊的に堕落してしまったのです。神の約束のことばを信じないで目に見えるところに従って生きるなら、私たちも彼らと同じ運命をたどることになります。
大切なことは何を信じているのか、だれを王にしているのか、だれに従っているのかということです。ただイエス様を信じていますと言うだけでなく、そのイエス様のことばに聞き従うことが求められているのです。あなたの王はだれですか。だれに従っていますか。快楽の神モレク(ミルコム)ではなく、あなたの救い主イエスを王として、イエスのことばに聞き従わなければなりません。
主はそのようなアンモン人に対して、さばきを宣言されます。2~3節をご覧ください。「49:2 それゆえ、見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはアンモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ。─【主】は言われる─49:3 ヘシュボンよ、泣き叫べ。アイが荒らされたから。ラバの娘たちよ、わめけ。粗布をまとえ。嘆いて囲い場の中を走り回れ。ミルコムが、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれるからだ。」
「ラバ」はアンモンの首都(現在のヨルダンの首都アンマン)です。意味は「偉大な」です。そんな偉大なラバも敵の攻撃を受け、廃墟となります。「ヘシュボン」は、実際はアンモンの町ではなくモアブにある町です。48章45節にはモアブの町として登場しました。それがここに出てくるのは、この町がモアブとアンモンの国境にあったからでしょう。そのヘシュボンは泣き叫ぶようになります。「アイ」はイスラエルのアイとは別の町です。それがどこにあったのかはわかりません。もしかすると、このアイとう名前ですが、「荒れ果てた」という意味があるので、実際には町の名前ではなく荒れ果てた地という意味なのかもしれません。「ラバ」の娘たちも嘆きながら喪に服することになります。すなわち、アンモンの町々は徹底的に滅ぼされるということです。そして「ミルコム」が、その祭司や首長たちとともに捕囚として連れて行かれることになります。いったいなぜ彼らは神にさばかれることになったのでしょうか。
4~5節をご覧ください。「49:4 背信の娘よ、おまえの谷には水が流れている。なぜ、その谷を誇るのか。おまえは自分の財宝に拠り頼んで言う。『だれが私のところに来るだろう』と。49:5 見よ。わたしは四方からおまえに恐怖をもたらす。──万軍の【神】、主のことば──おまえたちはみな散らされて、逃げる者を集める者もいない。」
「背信の娘よ」とは、ラバの娘たちのことです。英語の訳では「backsliding daughter」となっています。Backslidした人、背教者、離脱者という意味です。いつの時代にもいます。約束の地に入ったかと思ったら一歩後退して彷徨っているという人が。そのような人は同じ傾向を持っています。それは肉的であるということです。持ち物を誇ろうとします。ここには「おまえの谷には水が流れている。なぜ、その谷を誇るのか」とあります。
「ラバ」は水が豊かなところとして知られていました。Ⅱサムエル記12章27節には、「水の町」と呼ばれています。水の都です。中東で水が流れている所というのは、最もリッチなところです。原油がコンコンと湧き出るようなオイルマネーで潤っている国といったイメージです。彼らは水の資源を誇っていました。水が豊かであるということはそこからもたらされる産物が豊富であるということです。野菜であれ、果物であれ、家畜であれ、何であれ、水があって育まれ、豊かなものを産出するからです。
彼らは「谷」も誇っていました。その地形が軍事的に働いて自然の要塞になっていたからです。誰も攻めて来ることはできない。ですから、水と谷は経済的な豊かさと軍事的な安定をもたらしていたのです。それで彼らは自分たちの財宝に拠り頼んでいました。神を必要としていませんでした。彼らが求めていたのはただミルコム(モレク)だけでした。いかにおかしく、おもしろく生きるか、ただそれだけだったのです。どこかの国に似ているのではないでしょうか。水は水道の蛇口をひねれば出てきます。公園の水道の水はただです。当たり前のようですが、中東では考えられないことです。日本もアンモンと同じように、いろいろなものを誇りとしています。経済大国として自分の財宝を誇れ、それに拠り頼んでいます。貯金があるから安心して生きられる。そういう節があります。銀行に預金が1円もなかったらどうでしょうか。一気に不安になります。不安にならないのは、そこにちゃんとお金が入金されてあるからです。そういう意味では私たちもアンモンのように、無意識のうちに神よりもお金に拠り頼んでいるところがあります。私たちがどこから安心感を得ているかを忘れてしまっています。勿論、お金も神様から与えられるものです。でもそこに一円も残高がなかったら、それでもあなたは神様に信頼して、安心できるでしょうか。財宝のすべてを失ったとしても、家を失っても、それでも安心ですと言えるでしょうか。あなたは何を誇っていますか。アンモン人のように自分の財宝に拠り頼むのではなく、神に拠り頼みましょう。
5節には「見よ。わたしは四方からおまえに恐怖をもたらす。」とあります。「四方から」とは東西南北からという意味です。もう逃げ場がありません。バビロンの王ネブカドネツァルの侵略によって、徹底的に滅ぼされるのです。彼らはアッシリアの侵略でガドが捕囚の民として連れ去られた空いた所に入って来ました。でも今度は自分たちがバビロンによって滅ぼされ、すべてが奪われて、捕囚の民となって行くのです。それは彼らが自分たちの財宝に拠り頼んだからです。
2005年、イギリスのジョン・ブラントリックという62歳の男性が病院を相手に「ガンと誤診されて、全財産を処分した責任を取って欲しい」と訴訟を起こしました。以前、この男性が黄疸のために病院に行くと、すい臓がんのため余命6ヶ月と宣告されました。絶望した彼は、せめて残りの人生を豊かに過ごそうと仕事を辞め、毎日最高級のホテルを泊まり歩き、高級料理を食べ、各地を旅行して回りました。ところが1年後、体に異変がないことに気付いた彼が再び病院を訪れると、すい臓がんではなく、単なるすい臓の炎症であることがわかったのです。飛び上がるほど喜んだのも束の間、すぐに絶望に打ちのめされました。誤診は彼の倹約生活を完全に変えてしまい、最後に残った30万ポンドの家も債務返済のため競売にかけられていたのです。
このように、誤った判断はとんでもない結果をもたらします。黒いものを白いと言い、白いものを黒いと言うのは誤ったことです。みことばを無視して自分の考えを主張することほど、危険で愚かなことはありません。それは私たちにも言えることです。聖書がどんなに「これが道だ、これに歩め」と語っても、それを受け入れないで自分の考えに固執するなら、やがてこのような結果を招くことになるのです。
Ⅲ.回復の約束(6)
最後に、6節をご覧ください。「49:6 その後、わたしはアンモン人を回復させる。─【主】のことば。」」
ここには回復の預言が語られています。「その後」とは、神のさばきによる苦しみがあって後に、です。主はアンモン人を回復させます。モアブ人に対してもそうでしたが、アンモン人も同じです。神はご自分に敵対し自分を誇ったアンモンに対して激しいさばきを宣告されましたが、それで終わりではありません。その後に彼らを回復させるのです。アンモン人の救いを告げるのです。これはほんとうに慰めではないでしょうか。というのは、どんなに神に敵対しても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はそのすべての罪を赦し、回復してくださるからです。それはアンモン人だけではありません。それは私たちに対する約束でもあります。私たちもアンモンのように神から離れ自分を誇るような者ですが、そのことに気付いて主に立ち返るなら、主はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。
このアンモン人の地は、新約時代ではデカポリスと呼ばれた地域です。もうアンモンという地名は消えていました。完全に忘れられていたのです。でもそこへイエス様が宣教に行かれました。マタイ4章25節にはこうあります。
「こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。」
デカポリス、ここにかつてアンモン人が住んでいました。そのデカポリスから大勢の群衆がやって来て、イエス様に従ったのです。それはこのデカポリスにイエス・キリストを信じて救われた人がいたということです。
マルコ5章には、あの有名な多くの悪霊に取り憑かれていたゲラサ人が、イエス様によって悪霊から解放された話がありますが、そのゲラサとはどこにあるかというとデカポリス地方です。この男が救われたとき、彼はイエス様にお伴したいと申し出ましたが、イエス様はそれをお許しにならないで、こう言われました。
「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」(マルコ5:19)
「あなたの家、あなたの家族のところ」とはデカポリスです。そこにはあなたの家がある。家族もいる。そこに帰って、主があなたをどんなにあわれんでくださったか、どんなに大きなことをしてくださったのかを知らせなさい。それがあなたのミッションだ、それがあなたの使命だと言われたのです。彼はイエス様以外に、新約聖書に出てくる最初の宣教師として遣わされて行きました。
私たちもかつてはゲラサ人でした。神に逆らうことをして、まるで悪霊に取り憑かれたような生活をしていました。でもイエス様によってそこから解放され、この男のように、神がどんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを知らせる者とされたのです。そこへ行きなさいと主は言われます。そのためにあなたは置かれているのだと。
このようにして今から2,600年前にエレミヤによって語られたアンモン人に対する回復の約束は、イエス様によって真っ先に成就しました。そしてこれはあまり知られていないことですが、かつてのアンマンの地は現代のヨルダンの地域ですが、ヨルダンにもたくさんのクリスチャンが存在しています。たくさんの人が救われているのです。イスラムの過激派によって激しい迫害の中にあるため肩身の狭い生活を余儀なくされていますが、ヨルダンに住むたくさんのアラブ人が救われているのです。それはここに預言されていることの成就でもあります。かつて神に背き、自分を誇っていたアンモン人は神のさばきを宣告され、その預言の通り滅ぼされその名が消えてしまうほど忘れられていましたが、そんな彼らも主イエスによって救われ、回復することができました。それは私たちも同じです。あなたはアンモンです。ギルアデ、ゲラサ、デカポリス、ヨルダンです。そのアンモンは必ず回復するのです。あなたも神に背信の娘よと呼ばれ、神に忘れられたかのような存在だったかもしれませんが、神は決してあなたを忘れることはありません。あなたは神に覚えられています。必ず回復するのです。その神の深いご計画を信じて、神のみこころに歩ませていただきましょう。自分を誇る生活から主に拠り頼む者となりましょう。