エレミヤ書38章1~28節「思いがけない神の助け」

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今日は少し長いですが、エレミヤ書38章全体からお話します。タイトルは「思いがけない神の助け」です。この38章も、南ユダ最後の王ゼデキヤの時の出来事です。時は前586年に南ユダ王国が滅ぼされる直前です。前の章では、エレミヤがエルサレムから出てベニヤミンの地に行ったとき、ベニヤミンの門のところでイルイヤという名の当直の者に捕らえられ、書記ヨナタンの家の牢屋に投獄されたことを見ました。そこは丸天井の地下牢で、エレミヤは長い間そこにいました。

今日の箇所にも、エレミヤが再び捕らえら投獄されることが記されてあります。エレミヤが投獄されるのは、これが3回目です。しかし、今回の投獄はこれまで以上に過酷なものでした。というのは、命の危険が脅かされるほどのものだったからです。しかし、そのような中にあっても神は思いがけない方法で彼を救い出されます。神はどんなことがあっても、神を恐れ、神に信頼して歩む者を、救い出してくださいます。それゆえ私たちは、私たちの人生においてどんなことが起こっても、ただ神を愛し、神のことばに信頼して歩まなければなりません。

 Ⅰ.投獄されたエレミヤ(1-6)

まず1~6節をご覧ください。「1 さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、エレミヤが民全体に次のように語ることばを聞いた。2 「【主】はこう言われる。『この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデア人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは戦勝品として彼のものになり、彼は生きる。』3 【主】はこう言われる。『この都は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」4 そこで、首長たちは王に言った。「どうか、あの男を死刑にしてください。彼はこのように、こんなことばを皆に語り、この都に残っている戦士や民全体の士気をくじいているからです。実にあの男は、この民のために、平安ではなくわざわいを求めているのです。」5 するとゼデキヤ王は言った。「見よ、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」6 そこで彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなく、あるのは泥だったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。」

1節には、南ユダ最後の王ゼデキヤの4人の側近者の名前が記されてあります。このうちパシュフルは21章1節に、ユカルも37章3節に出てきました。彼らはエレミヤが民全体に語ることを聞いて腹を立て、ゼデキヤ王のところへ行って不満を申し立てました。なぜなら、エレミヤがエルサレムにとどまる者は剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデア人のところ、すなわち、バビロンに出て行く者は生きると語っていたからです。そんなことを聞いたらエルサレムに残っている戦士や民全体の士気がくじかれると思ったのです。彼らの目では、エレミヤは民のために平安を語っているのではなくわざわいを語っているように見えました。

それで、ゼデキヤ王はどうしたかというと、首長たちの言うことを受け入れ、彼らの思いのままにして良いと告げました。それで彼らはエレミヤを捕らえると、監視の庭にある王子マルキヤの穴の中に投げ込みました。先ほども申し上げたように、エレミヤが投獄されるのはこれが3回目です。前回は37章16節で見ましたが、今回のそれはもっと過酷なものでした。というのは、命の危険が脅かされるどのものだったからです。そこには大量の泥があって、その中に沈んでいくような状態だったのです。

皆さん、私たちにもそのような時があるのではないでしょうか。私は先週目決めの手術で入院していましたが、それはある意味で泥の中に沈んでいくようなものでした。11月15日に最初の手術をしましたが多量の出血があり、それが目の奥の硝子体というところまで入り込んでしまったため、凍った車のフロントガラスのように全く見えなくなってしまいました。かなり焦りました。このまま失明してしまうのではないかと思うと、いてもたってもいられなくなり、私はしぼんだ風船のようになってしまいました。す。結局、5日目に2度目に硝子体の中の出血を取り除く手術をしました。幸い視力はある程度回復することができましたが、今度は逆に眼圧が低くなりすぎて見づらくなってしまいました。あまり色々なものを見るなという神様からのメッセージなのかもしれませんが、まだ本調子ではありませんが、神様がエレミヤを泥から引き上げたように、私の目も眼圧から引き上げてくださると信じています。

でもそれは私だけのことではないでしょう。だれでも泥の中に沈むような時があります。それはエレミヤのように敵から攻撃された時や、私のような病気になる時もそうですが、夫婦の問題や家族の問題で悩むとき、仕事上のトラブルや人間関係の問題が起こる時もそうでしょう。経済的に苦しくて借金を抱えてしまったという時もそうです。最愛の人を失った時もそうです。その悲しみから立ち上がるには相当の時間がかかります。私たちの人生には、泥の中に沈んでしまうような時があるのです。でもどんなに沈んでも、神様は必ずあなたをそこから引き上げてくださるということを忘れないでください。しかも、あなたが想像することができないような不思議な方法で助けてくださる。そこには思いがけない神の助けがあるのです。

Ⅱ.思いがけない神の助け(7-13)

では、エレミヤはどのようにしてその中から救い出されたのでしょうか。7~13節をご覧ください。「7 王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは、エレミヤが穴に入れられたことを聞いた。また、そのとき王はベニヤミンの門のところに座っていたので、8 エベデ・メレクは王宮から出て行き、王に告げた。9 「わが主君、王よ。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの人を穴に投げ込みました。もう都にパンはありませんので、あの人はそこで飢え死にするでしょう。」10 すると王は、クシュ人エベデ・メレクに命じた。「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい。」11 エベデ・メレクは人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着古した衣服やぼろ切れを取り、それらを綱で穴の中のエレミヤのところに降ろした。12 クシュ人エベデ・メレクはエレミヤに、「さあ、古着やぼろ切れをあなたの脇の下の綱に当てなさい」と言ったので、エレミヤがそのとおりにすると、13 彼らはエレミヤを綱で穴から引き上げた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまった。」

エレミヤが泥の中に沈んだとき、主は王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクという人物を用いて救い出されました。クシュ人とはエチオピア人のことです。すなわち異邦人ですね。また、宦官とは、去勢を施された人、陰茎を切り取られた人のことです。モーセの律法によれば、このような人は主の集会に加わってはならないと定められていました。申命記23章1節にこうあります。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない。」神様はこの異邦人エベデ・メレクを用いてくださいました。彼はそういう立場でありながら、エレミヤが穴に入れられたと聞くと王宮から出て行き、王のところに行って、首長たちの悪行とエレミヤの窮状を訴えたのです。

するとゼデキヤ王は、クシュ人エベデ・メレクの訴えに同意し、彼に、30人を連れてエレミヤのところに行き、彼がまだ死なないうちに、その穴から引き上げるようにと命じました。エベデ・メレクは、ゼデキヤ王の命令に従い、人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着古した衣服やぼろ切れを取り、それらを綱にして穴の中にいたエレミヤのところに降ろし、彼を穴から引き上げたのです。こうしてエレミヤは監視の庭にとどまることができました。

だれがそのようなことを考えることができたでしょうか。彼はエレミヤを迫害していたユダの首長たちとは対照的でした。彼は自分に降りかかる危険をかえりみず王の所へ行くと、王の面前で首長たちの誤りを指摘し、エレミヤに助けの手を差し伸べたのです。神様はこのように、時に私たちの想像を超えた方法や思いがけない人を用いて私たちを助けてくださるのです。詩篇121篇にこうあります。

「1 私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
2 私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。
3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。
4 見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。
5 【主】はあなたを守る方。【主】はあなたの右手をおおう陰。
6 昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。
7 【主】はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。
8 【主】はあなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

皆さん、私たちの助けはどこから来るのでしょうか。私たちの助けは天地を造られた主から来ます。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともありません。主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られます。今よりとこしえまでも守られる。あなたが困難に陥った時、自分でもどうしたら良いかわからないような時でも、主は必ずあなたをそこから助け出してくださるのです。それはあなたが思い描く方法によってではなく、それをはるかに超えた方法によって成し遂げてくださいます。そのような恵みを、私たちはしばしば体験することがあります。

私がかつて福島で教会開拓をしていた時、開拓して10年目に会堂建設に取り組みました。多くの人々が救いに導かれ自宅の集会スペースに入れなくなった時、もっと広い土地を求めて祈りました。そして与えられたのがそこから歩いて10分のところにある広々とした土地でした。そこは600坪もありました。しかも交通のアクセスもよく、教会の会堂を建設するのにはとても良い土地でした。ところがそこは調整区域に定められていて、建物が建てられてない場所になっていました。そういう土地に教会を建てたという前例は、福島県ではそれまで一度もありませんでした。でも神様のみこころなら必ず与えられると信じて、開発許可の取得に取りかかりました。

そのためにはまずしなければならなかったのは、宗教法人を取得することです。しかし教会名義の土地、建物がなかったので、そのために自分の名義の土地と建物を教会の名義にしようとしましたが、そのためには銀行から借り入れた際の抵当権を抹消しなければなりませんでした。抵当権を抹消するということは、その代わりに保証人として立てなければならないということですが、そのような人は教会にはいませんでした。いたとしてもそれはかなり荷が重すぎる話です。ですから、その作業は暗唱に乗り上げてしまいました。

ところが、ちょうどその頃、多くの青年たちが救いに導かれていましたが、その中に市内で老舗の洋服店を営んでいるクリスチャンの御夫妻の娘さんが救われたのです。また、その2人の兄弟も教会に導かれ、熱心に神様を求めるようになりました。驚いたのはその御両親です。どうやって彼らがそのように変えられたのか知りたいと、お母さんが「私にも聖書を教えてください」と言ってこられたのです。7回の学びが終わったとき、そのお母さんがこう言われました。
「本当にありがとうございました。よくわかったような気がします。子どもたちがあんなに喜んで教会に行っていくようになったのかも。私には何もできませんが、もし何かお役に立てることがありましたら何でも教えてください。」
と言われかえって行かれました。

すると、隣にいた家内が私の顔を見てこう言いました。「あなた、もしかするとあのことをお願いしてみたらどうですか。」家内はこういう時に勘が鋭いんですね。でも私はまさかそんなことお願いできないと思いましたが、でも一応お願いしてみることにしました。

すると、後日ご主人から電話がかかってきて、その件についてお話したいのでお店まで来ていただけませんかと言われました。お店に行ってみると、ご主人からこう言われました。
 「先生、家は先祖代々人様の保証人にはならないと決めているんです。でも、今回は違います。今回は人様ではなく神様の保証人です。だから喜んで引き受けさせていただきます。」
 私はびっくりしました。いくら教会のこととはいえ、誰が保証人になりたいと思うでしょうか。私はそのように導いてくださった神様に心から感謝しました。そして、今からちょうど30年前の1994年11月に宗教法人が認可され、その3年後に、これも本当に不思議な導きでしたが調整区域の開発許可が認可され、その翌年に新会堂を主に献げることができたのです。これがその会堂です。

まさかそのような形で会堂建設が進んでいくなんて誰も考えることができなかったと思います。でも、神様にとって不可能なことは一つもありません。神にはどんなことでもできるのです。まさにあのヨブが最後に告白したように、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを私は知りました。」(ヨブ42:2)ということを、私も知りました。それが神のみこころならば、神はあらゆる方法を通してそれを成し遂げてくださいます。私たちが想像することもできないような思わぬ方法で助けてくださるのです。

それはエレミヤが例外だったからではありません。エレミヤの時に働かれた神は、今も生きて働いておられ、あなたの思いを越え、あなたが考えられない方法で、あなたを穴から引き上げてくださるのです。ですから、あなたがどんな穴に投げ込まれたとしてもがっかりしないでください。どんなに泥の中に沈んでいるようでも恐れないでください。主はあなたに思いがけない助けを与えてくださいますから。まさにあなたが夢を見ているような方法であなたを助けてくださるのです。

ただ神に信頼して(14-28)

ですから第三のことは、ただ神に信頼しましょう、ということです。14~28節をご覧ください。19節までをお読みします。「14 ゼデキヤ王は人を送って、預言者エレミヤを自分のところ、【主】の宮の第三の入り口に召し寄せた。王がエレミヤに、「私はあなたに一言尋ねる。私に何も隠してはならない」と言うと、15 エレミヤはゼデキヤに言った。「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず私を殺すのではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞かないでしょう。」16 そこでゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓った。「私たちの、このいのちを造られた【主】は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちを狙うあの者たちの手に、あなたを渡すことも絶対にしない。」17 すると、エレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのたましいは生きながらえ、この都も火で焼かれず、あなたもあなたの家も生きながらえる。18 あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、あなた自身も彼らの手から逃れることができない。』」19 しかし、ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」

ゼデキヤは人を送って、エレミヤを自分のところに召し寄せました。そして彼に一言求めました。何も隠してはならないと。するとエレミヤは、もし自分が告げれば、あなたは必ず私を殺すのではないかと答えると、ゼデキヤは、絶対に殺さないとひそかに誓ったので、エレミヤはゼデキヤにはっきりと主のことばを告げました。すなわち、もし彼がバビロンの王に降伏するなら彼は生きながらえ、彼の家族も、エルサレムも火で焼かれることはないが、もしバビロンの王に降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、彼自身も彼らに渡され、殺されることになるということです。もう何度も語られてきたことです。それなのになぜゼデキヤは再びエレミヤに尋ねたのでしょうか。
 おそらくゼデキヤは、今までとは違ったことをエレミヤが言うのではないかと期待していたからです。しかし、エレミヤがゼデキヤに告げた言葉はこれまでと全く同じことでした。エレミヤはどこまでも、神の預言者として神に対して忠実だったのです。

それに対してゼデキヤはどうかというと、いつも人を恐れていました。19節には、「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」あります。彼が恐れていたのは敵のバビロン軍が攻めてくるということよりも、エレミヤの語る神のことばに従ってバビロンに降伏して捕囚の民として連れて行かれたユダヤ人たちになぶりものにされるということでした。ですから、彼はひそかにエレミヤに尋ねたのです。本当の敵は外側よりも内側にいることがあるのです。

しかし、優柔不断な性格のゼデキヤはなかなか決断することができませんでした。それはゼデキヤだけではないでしょう。私たちもそういう時があります。それが神のみこころだとわかっていても、なかなか神に従うことができないことがあります。なぜでしょうか?人を恐れるからです。そんなことをしたらあの人に迷惑がかかるのではないか。この人から何を言われるかわからない。もしかすると、自分の立場が危うくなるかもしれない。その結果、生活にも影響を及ぼすことになるかもしれない。そう思うと、決断することができないのです。しかし、箴言に「人を恐れるとわなにかかる。 しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:15)とあるように、人を恐れると、必ず失望することになります。私たちが恐れなければならないのは、私たちが信頼しなければならないのは、いつまでも変わることのない神とそのことばだけです。

イギリスで最も多くの会衆を牧会していたと言われている伝道者のチャールズ・スポルジョンは、ゼデキヤ王のようにためらっている会衆に次のように説教しました。「皆さん、いつまでためらっているのですか。皆さんは、うわべは宗教的ですが実はまだこの世の人なのです。ですから、今でもどっち側に立つべきかわからない」と言ってためらっているのです。いつまでも2つの間でもじもじしないでください。「次の機会が来れば悔い改める」と言って、人生の砂時計の砂をただ見送らないでください。皆さんが「砂がほとんど落ちたら、神のもとへ向かおう」と言う時はもう遅いのです。皆さんは、神とこの世の2つの間を行ったり来たりしながらも、神を信じていると言います。しかし、それは神を信じているということではありません。神を信じるとは、「ただ神だけを」信じることを言うのですと。

あなたはどうですか。あなたはためらっていませんか。神を信じていると言いながらも手放せないでいるものはありませんか。神だけに拠り頼むためにあなたが捨てるべきものは何ですか。あなたはだれを恐れて日々決断をしているでしょうか。ただ神だけを恐れ、神に立ち返りましょう。

最後に24~28節をご覧ください。「24 ゼデキヤはエレミヤに言った。「だれにも、これらのことを知らせてはならない。そうすれば、あなたは死なない。25 もし、あの首長たちが、私があなたと話したことを聞いてあなたのところに来て、『さあ、何を王と話したのか、教えろ。隠すな。あなたを殺しはしない。王はあなたに何を話したのか』と言っても、26 あなたは彼らに、『王がヨナタンの家に私を返し、そこで私が死ぬことのないようにと、王の前に嘆願をしていた』と言いなさい。」27 首長たちがみなエレミヤのところに来て、彼に尋ねたとき、彼は、王が命じたことばのとおりに彼らに告げたので、彼らは彼と話すのをやめた。あのことは、だれにも聞かれていなかったのである。28 エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。エルサレムが攻め取られた次第は次のとおりである。ゼデキヤはエレミヤに言った。」

ゼデキヤ王はエレミヤに、このことをだれにも知らせてはならないと命じました。もし話せば、首長たちはエレミヤを殺すかもしれないからです。それでエレミヤは、首長たちが彼のところにやって来て、何を王と話していたのかと尋ねたとき、王が命じたとおりに、王がヨナタンの家に私を返し、そこで私が死ぬことがないようにと、王の前に嘆願していたと告げると、彼らはエレミヤと話すのをやめました。このゼデキヤ王の提言は、エレミヤのためというよりも、むしろ自分自身のためでした。エレミヤは自分の職務にいのちをかけていたことをゼデキヤ王は知っていたからです。そのエレミヤと隠れた取引をしたと思われることを、ゼデキヤ王は恐れたのです。結局、彼はエレミヤを通して語られた神のことばを聞きながら、それに従うことができませんでした。

皆さん、神の御心を知ってもそれを行うかどうかはまた別の問題です。聞くことと行うこととの間には固い決断が求められるからです。ゼデキヤは、神のことばを真剣に聞きましたが、それを首長たちに伝える勇気がありませんでした。また、彼らに伝えた時にエレミヤに降りかかる危険を防ぐ力もありませんでした。門の外では、王とエレミヤとの間でどのような話が交わされたのか、関心を持っていた首長たちがいましたが、ゼデキヤは、何事もなかったかのように装いました。南ユダ王国の運命がかかった重要な密談が、特に内容のない私的な会話とされたのです。その結果、個人的な危機は逃れましたが、南ユダ王国の運命は終わることになってしまいました。大切なのは、御言葉を聞くだけで終わらないということです。御言葉を聞いたなら、それを実行に移さなければなりません。

イエス様はみことばを聞いてそれを行う人は、岩の上に家を建てた賢い人にたとえることができると言われました。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。しかし、みことばを聞いてもそれを行わない人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいます。皆さん、神のことばを聞いて、それを行う、岩の上に自分の家を建てる人になりましょう。そうすれば、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、倒れることはありません。

あなたにとって神の御言葉を聞いても実行することができないでいることは何ですか。今、それを神に明け渡しましょう。それはあなたの力でできることではありません。そのためには神の恵みと神の力が必要です。そしてそのために神はひとり子イエスをあなたに与えてくださいました。神はあなたの罪の身代わりとしてイエス様を十字架に付けてくださることによって、あなたの罪を完全に清めてくださいました。あなたはそれほど神に愛されているのです。神の恵みはあなたに十分注がれています。この神の愛と恵みを受け取るとき、あなたにも神の愛が満ち溢れ、あなたのすべてを神に献げることができるようになります。それはちょうど船の上から一歩踏み出すようなものです。イエス様なしでは、沈んでしまう水の上に踏み出すようなものなのです。でも、この弱いこの足に神が力を与えてくださるとき、神のみことばの上を歩むことができるようになります。たとえ嵐の中でも、ただ御顔を見つめ、イエス様あなたと共に歩みますと、一歩踏み出すことができるようになる。そこに神の思わぬ助けがあることを信じて、あなたもその一歩を踏み出してください。

エレミヤ書37章1~21節「ただ神を恐れて」

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  前回は36章から、エホヤキムが神のことばを暖炉の火で焼き尽くしたという出来事を通して、神のことばは絶対に滅びることはないということを学びました。今回は37章全体から、南ユダの王ゼデキヤと預言者エレミヤの生き方から、「ただ神を恐れて」というタイトルでお話します。

Ⅰ.ゼデキヤ王の祈り(1-10)

まず1~10節をご覧ください。「1 ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカドネツァルが彼をユダの地の王にしたのである。2 彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた【主】のことばに聞き従わなかった。:3 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。「どうか、私たちのために、私たちの神、【主】に祈ってください。」:4 エレミヤは民のうちに出入りしていて、まだ獄屋に入れられてはいなかった。5 また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。6 そのとき、預言者エレミヤに次のような【主】のことばがあった。7 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。『見よ。あなたがたを助けに出て来たファラオの軍勢は、彼らの地エジプトへ帰り、8 カルデア人が引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼く。9 【主】はこう言われる。あなたがたは、カルデア人は必ず私たちのところから去る、と言って、自らを欺くな。彼らが去ることはないからだ。10 たとえ、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデアの全軍勢を討ち、そのうちに重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らはそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この都を火で焼くようになる。』」」

ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって南ユダの王となりました。彼は南ユダ最後の王となります。この後でエルサレムはバビロンによって完全に陥落することになります。彼もバビロンに連れて行かれ、そこで死を迎えることになりますが、その最後の王がこのゼデキヤです。彼は正統的な王位継承者ではありませんでした。エホヤキムの子エコンヤが在位わずか3か月でバビロンに捕え移されたので、彼に代わってユダを治めさせるためにバビロンの王によって擁立されたのです。いわゆるバビロンによって任命された操り人形、傀儡(かいらい)(おう)にすぎなかったわけです。彼がユダを治めていた時代がどのようなものであったかは、2節に総括されています。ご一緒に読みましょう。

「彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。」

ゼデキヤ王がユダを治めていた間は、彼も、その家来たちも、民衆も、誰も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。どういう点で彼らは聞き従わなかったのでしょうか。それは、エレミヤが語る神のことばを受け入れなかったという点においてです。エレミヤはゼデキヤ王をはじめその家来たちや民衆に、バビロンに降伏することが神のみこころであると語ったのに、彼らはその言葉に従わず、自分を王に立てたバビロンの王ネブカドネツァルに反旗を翻したのです。彼らはどのようにバビロンに逆らったのでしょうか。この後のところを読むとわかりますが、この時エジプトのフェラオの軍勢がエジプトを出て来てバビロン軍と戦おうとしていましたが、彼らの中にはそのエジプトと手を結んでバビロンを倒すようにとゼデキヤに圧力をかける者たちがいたのです。実際、エジプト軍はバビロンに対抗するためにユダをはじめパレスチナ諸国に同盟を呼び掛けていました。そのような呼び掛けに応じて、ゼデキヤはついにバビロンに反旗を翻したのです。それなのに彼は3節でエレミヤのもとに使いを遣わしてこう言いました。

「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」

どういうことでしょうか。日頃、エレミヤのことばには耳を貸そうともしていなかったのに、バビロン軍がエルサレムを包囲すると、溺れる者、藁を掴むで、苦しい時の神頼みに走ったのです。しかし、それはあまりにも身勝手な要求でした。日頃、神のことばに従がおうとしないで自分勝手な生活をしていながら、自分にとって都合が悪くなると、神様、助けてくださいと祈るのはあまりにも虫のいい話だからです。確かに「私のために祈ってください」と願うこと自体は悪いことではありません。それはへりくだっていなければできないことだからです。私は長い間、なかなかそのように言うことができません。自分で何とかすると思っていたからです。しかし、度重なる病を通して、また、個人的な問題を通して自分にはもう無理だとギブアップしたとき、心から「私のために祈ってください」と言えるようになりました。ですから、今は少しへりくだっているのです。まあ、こういうふうに言うこと自体高慢なんですけれども。ですから、祈ってくださいとお願いすること自体は問題ではないのですが、もっと大切なことがあるのです。それは神様との関係です。神様とどのような関係を持っているのかということです。神のことばに留まっているかどうかということです。それに聞き従っているかどうかということです。主イエスはこう言われました。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:7)

私たちの祈りが聞かれる条件は何ですか。どうすれば祈りが聞かれるのでしょうか。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、です。そうすれば、神はそれをかなえてくださいます。そうでないのに、ただ苦いし時の神頼みのように祈っても、神は聞いてくださることはありません。なぜなら、神はうわべを見られるのではなく、心を見られるからです。ヘブル11章6節にはこうあります。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。あなたの人生において何らかの問題を抱えた時だけでなく、あるいは危機に陥った時だけでなく、どんな時でも神がおられることと、神を求める者には報いてくださるということを信じなければなりません。つまり、神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、神のみこころに生きるということが求められているのです。今、ディボーションで箴言を呼んでいますが、箴言の言葉で言うなら、神の知恵を求めるということです。神の知恵とは何ですか。それは、神を恐れることです。箴言1章7節にこうあります。

「主を恐れることは知恵の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」

主を恐れることが知恵の初めです。その教えを受け入れ、その命令を私たちのうちに蓄え、それに従って生きること。これが神の知恵です。それがなければどんなに祈ったとしても、その祈りが聞かれることはありません。

ゼデキヤはどうでしたか。彼は預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。それなのに彼は祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」と懇願しました。そのような祈りが聞かれるはずがありません。あまりにも虫のいい話です。彼の信仰はどちらかというと他人任せでした。自分から神の前に出ることもしませんでした。いや、できなかったのでしょう。神のことばに従っていませんでしたから。神様に顔向けできるような心境ではなかったのでしょう。だから、だれか他の人に祈ってもらうことによってそれを叶えようと思ったのです。そういうことが私たちにもあります。自分のような者が祈っても神様は聞いてくれないから、牧師さん、祈ってもらえませんか・・・。言われた方も大変です。誰が祈っても同じだからです。問題は誰が祈るかということではなく、祈るその人が神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、へりくだって神の前に出ているかどうかです。もしその人が神を信じ、へりくだって神を愛し、神に従っているなら、神は必ず聞いてくださいます。大切なのは、神に祈るという行為とか形ではなく、神を愛し、神に従っているかどうかという中身なのです。神との関係です。その上でもし神に従っていないということが示されたなら、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。そうすれば、神はあなた罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。その時あなたは神の愛と赦しを受け取り、神との関係を回復することができます。あなたがどんな罪を犯したとしても。その上で祈らなければなりません。それが聖書があなたに約束していることです。それが十字架と復活の御業を通して主イエスが成し遂げてくださったことです。

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)

あなたはこの神の愛と赦しを受け取りましたか。永遠の愛をもって神はあなたを愛してくださいました。真実の愛を尽くし続けてくださいました。ですから、この愛を受け取り、悔い改めて神に立ち返ってください。そして神のことばに聞き従ってください。そうすれば、神は必ずあなたの祈りを聞いてくださいます。新約聖書のヤコブ書にはこうあります。

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5:16、第三版)

義人の祈りは働くと、大きな力があります。義人とはどういう人ですか。義人とは清く、正しく、美しい人のことではありません。また、良い行いをしている立派な人でもありません。義人とは互いに自分の罪を言い表し、神の赦しと救いを受け入れた人のことです。すなわち、自分の罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じ、神のことばに従って生きている人のことです。そのような義人の祈りは働くと、大きな力があるのです。

ゼデキヤはそうではありませんでした。彼は神のことばにとどまっていませんでした。それなのに彼は、「私たちのために、私たちの神に祈ってください。」と言いました。そのような祈りが聞かれることはありません。

このゼデキヤ王の約100年前にヒゼキヤという王がいましたが、これがヒゼキヤと決定的に違う点でした。ゼデキヤとヒゼキヤでは名前はとてもよく似ていますが、中身は全く違います。ヒゼキヤの時代はバビロンではなくアッシリアという国がエルサレムを包囲するという同じような状況下に置かれましたが、彼はゼデキヤと違いどんなに敵に脅されても屈することをしませんでした。そして、自分の衣を引き裂き粗布を身にまとって主の宮に入って行くと、主の前に祈りました。これは深い悔い改めを表す行為です。そして、当時の預言者であったイザヤにとりなしの祈りを要請したのです(Ⅱ列王18:13)。するとどのような結果になったでしょうか。イザヤは神からのことばを彼に伝えました。Ⅱ列王19章6~7節です。

「6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『【主】はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。7 今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」

そのことばの通り、その夜の内に主の使いがアッシリア軍を撃ち、アッシリアの陣営で18万5千人を打ち殺しました。つまり、彼の祈りは聞かれたのです。だれがこのようなことを想像することができたでしょうか。これが主のなさることです。主はへりくだって主の前に悔い改め、主に信頼し、主に従う者を決して(ないがし)ろにすることはなさいません。私たちの思いをはるかに超えて、ご自分の愛する者ために働いて御業を成してくださるのです。

しかし、ゼデキヤ王はそうではありませんでした。彼はこのようになることを期待していたのでしょうが、事態はそのようには動きませんでした。ユダを助けるためにエジプトから出て来たファラオの軍勢によってバビロン軍は一時的にエルサレムから引き揚げるが、その後引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼くようになる、と言われました。ゼデキヤの祈りは聞かれなかったのです。ヒゼキヤは神を恐れ、神に信頼し、へりくだって神のことばに聞き従ったのに対して、ゼデキヤはあくまでも自分の考えや思いを優先して、神のことばには聞き従わなかったからです。

すべてのことは神のみこころにかかっているのです。虚しい望みにすがって自らを欺いてはなりません。自分の思いを優先すれば、結局滅んでしまうことになります。大切なのは、自分の思いではなく、神のみこころに従うことです。それは神のことばである聖書に従って生きることです。そうすれば、神はあなたの祈りを聞いてくださり、あなたに神の御業を現わしてくださるのです。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

あなたは自分の思い通り、期待通りになることを願って、ひどく失望したことはありませんか。期待することは大切なことですが、もっと大切なことは、神に従うことです。神との関係です。それが神のみこころにかなう願いなのかどうかということです。今、神のみこころに従わせるべきあなたの思い、あなたの期待は何ですか。困難の中で、ゼデキヤのように自分の思いが優先することがないように、まず神の国と神の義を第一に求めましょう。それが、私たちが祈りをささげるときに持つべき心なのです。

.たとえ誤解されても(11-16)

次に、11~16節をご覧ください。「11 カルデアの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたとき、12 エレミヤは、エルサレムから出て行き、ベニヤミンの地に行った。民の間で割り当ての地を受け取るためであった。13 彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナンヤの子シェレムヤの子の、イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデア人のところへ落ちのびるのか」と言い、預言者エレミヤを捕らえた。14 エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところに連れて行った。15 首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、こうして書記ヨナタンの家の牢屋に入れた。そこが獄屋になっていたからである。16 エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこにいた。」

カルデアの軍勢、すなわちバビロンの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたときとは、エジプト軍の進撃でエルサレムを包囲していたバビロン軍が一時的に撤退したときのことです。そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、ベニヤミンの地に行きました。どうして彼はベニヤミンの地へ行ったのでしょうか。12節には「民の間で割り当ての地を受け取るためであった」とあります。これは既に32章で見たように、彼が従兄弟のハナムエルから買い戻したアナトテにある畑の割り当て地を決めるためだったのでしょう。アナトテの地はベニヤミン族の領地にありましたから。

しかし、彼がベニヤミンの門のところまで来たとき、そこにイルイヤという名の当直の者がいて、彼によって捕らえられてしまいました。それは、エレミヤがバ「ビロンに投降しなさい」と語っていたからです。それで彼はエレミヤがバビロンに逃亡するのではないかと疑われたのです。
 エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない。」と否定しましたが、受け入れられず、結局、彼は捕らえられて、首長たちのところに連れて行かれ、投獄されてしまいました。そこは丸天井の地下牢であったとあります。丸天井の地下牢とは、元々貯水槽のために造られたものですが、神のさばきによって雨が降らなかったために泥に覆われた劣悪な環境になっていました。エレミヤは長い間そこに監禁されることになったのです。

この時、エレミヤはどんな気持ちだったでしょう。もうやるせないというか、悔しいというか、苦しいというか、絶望的だったのではないかと思います。十分な審議や取り調べもされずに、誤解されて地下牢に入れられてしまったのですから。

こういうことが私たちにもあります。エレミヤのように投獄されるようなことはないにしても、あなたが職場や友人に自分が教会に行っているということを告げようものなら、あなたは精神的に問題があるのかとか、そんな献金をたくさん取れられるような所に出入りしていて危ないと思われるかもしれません。しかし、主イエスはこう言われました。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:10)

神の働きをしていて誤解され、不当に扱われることがあったとしても、義のために迫害され者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。エレミヤは義のために迫害されても、うそや偽りを言って自分を欺くことをしませんでした。それゆえ地下牢に閉じ込められてしまいましたが、そこにはだれも奪うことができない神から与えられる恵みと平安がありました。彼はそれを味わうことができたのです。

こんな証を聞いたことがあります。ある中国人が福音を伝えたことで監獄に入れられました。彼は自分のような足りない者が福音を伝えて投獄されたことは光栄だと喜び、その監獄の中で大声で賛美して、福音を伝えました。すると多くの囚人たちがイエス・キリストに立ち返りました。これを見た看守長は、福音を伝えられないように彼を独房へと移しました。しかし、今度は邪魔されなくてよいと言って、昼も夜も大きな声で賛美しました。結局、看守長は「この人はもうどうにもできない」と彼を釈放しました。釈放後、苦しみを受けたことは大きな感謝だったと言って、以前よりさらに一生懸命に福音を伝える者となりました。

使徒パウロもピリピで投獄されたことがありました。でもそのような苦難を受けることを恐れませんでした。なぜなら、その苦難を通して福音があらゆるところに証しされることを知っていたからです。ピリピ1章13節、14節で彼は、自分がキリストのゆえに投獄されたことによって、ローマの親衛隊全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、主にあって確信が与えられ、恐れることなく、ますます大胆に御言葉を語るようになりました。つまり、そのことが、かえって福音の前進に役立つことになったのです。彼の願いは、どんな場合でも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、彼の身によってキリストがあがめられることだったのです。

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)

かつて長谷川義信先生が説教の中で、どこを切っても金太郎飴が出てくるように、どこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方をしなさいと説教で勧められたことがありましたが、まさにそのように生きていたのです。 私たちもそうありたいですね。それは、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということを信じて疑わない信仰から生まれます。

どのような困難があろうとも、どんな病に襲われても、どうしてこういうことが起こるのかと思えるような状況に置かれても、確かにキリストは生きておられる、そして今も私と共におられる、私の人生を導いて、私をご自身の栄光の姿へと変えておられるということを聖霊によって受け入れるなら、だれもあなたから喜びと平安を奪うことはできません。誤解されればされるほど、困難な状況に直面すればするほど、悲しみが多ければ多いほど逆に信仰が強められ、さらに主に拠り頼み、主をほめたたえ、主を賛美する者へと変えられていくのです。

Ⅲ.ただ神を恐れて(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「17 ゼデキヤ王は人を遣わして、彼を召し寄せた。王は自分の家で彼にひそかに尋ねて言った。「【主】から、おことばはあったか。」エレミヤは「ありました」と言った。そして「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と言った。18 エレミヤはゼデキヤ王に言った。「あなたや、あなたの家来たちや、この民に対して、私にどんな罪があったというので、私を獄屋に入れたのですか。19 あなたがたに対して『バビロンの王は、あなたがたとこの地を攻めに来ない』と言って預言していた、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。20  今、わが主君、王よ、どうか聞いてください。どうか、私の願いを御前に受け入れ、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。私がそこで死ぬことがないようにしてください。」21 ゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。」

丸天井の地下牢に入れられたエレミヤは、長い間そこにいました。少なくとも、数週間から数か月が経過していたことでしょう。するとある日、ゼデキヤは人を遣わしてエレミヤを召し寄せ、自分の家でひそかに彼に尋ねて言いました。「主から、何かおことばがあったか。」この「ひそかに」というのが彼の特徴でした。彼はいつもひそかに行動していました。どうして彼はひそかに尋ねて言ったのでしょうか。それは彼がエルサレムの民や首長たち、そして側近たちを恐れていたからです。もしエレミヤが神からことばがあった、それはバビロンに服しなさいということだったと告げようものなら、彼らから危害を受けるかもしれないと恐れたのです。彼は王であり自由の身でありながら、その心には平安がありませんでした。いつも人を恐れていたからです。しかし、エレミヤはそうではありませんでした。彼は獄屋につながれ自由を奪われていましたが平安がありました。神を恐れていたからです。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」 (箴言 29:25)とある通りです。神を恐れるのか、人を恐れるのかです。神に背を向け、神から離れて歩むのか、それとも神とともに歩むのかの違いです。人にどう思われるかを判断基準にするのでなく、御言葉を判断基準にして行く時、神はその心に深い平安を与えてくださるのです。

不安におののきながら質問するゼデキヤに対して、エレミヤはこう答えました。「ありました」。それを聞いたゼデキヤは、「おう、どういう内容か」と興奮したことと思います。しかし、その内容は、これまでエレミヤが語ってきたことと全く変わらないものでした。それは17節にあるように、「あなたはバビロンの王の手に渡されます。」ということでした。そんなことを言ったらゼデキヤ王は喜ばないということがわかっていても、あるいは、たとえ獄屋につながれているような状態でも、それでもゼデキヤにおもねることなく、真実だけを語ったのです。

それに対して、ゼデキヤの預言者たちはどうでしたか。彼らは19節にあるように、「バビロンの王は、あなたとこの地を攻めに来ない。」とゼデキヤが安心するようなことを語っていましたが、バビロンによってエルサレムが包囲されると、彼らは一目散にどこかへ逃げて行ってしまいました。彼らは偽りの言葉を語っていただけでなく、その行動も、忠誠心もすべて偽りだったのです。

箴言にこんなことばがあります。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17:17)
  このことで、本当の友は誰だったのかが明らかになりました。本当の友はゼデキヤの預言者たちではなく、エレミヤ本人であったということが明らかにされたのです。エレミヤはエルサレムが滅ぼされた後もそこに続けて、残りのユダヤ人と一緒に暮らすことを選び、そして彼らがエジプトに下ったときも彼らと一緒にいました。ユダヤ人はエレミヤの言葉を嫌い偽預言者の言葉を好みましたが、最後まで一緒にいてくれたのはエレミヤでした。エレミヤこそ、神の真実な愛を持った本当の友だったのです。

ですから、人の言葉には気を付けなければなりません。その時は調子がいいことを言っても、すぐに手のひらを反すかのような行動を取るからです。いつもコロコロ変わるのです。ですから、たとえそれがあなたにとって耳ざわりの良い言葉であっても、心地よい言葉であっても、それが真理であるとは限らないのです。パウロは「教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりすることなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらなるキリストに向かって成長するのです。」と言っています。この世には様々な教えの風が吹いていますが、そうした教えに注意しなければなりません。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。

先日、エホバの証人の方が来られて「これ読んでください」と1枚のトラクトを渡してくれました。そのトラクトのタイトルは「世の中これからどうなる?」というものでした。1つ選ぶとしたら・・・ ・良くなっていく ・悪くなっていく ・どちらとも言えない
 とても興味のあるタイトルですね。「世の中これからどうなる?」皆さん、世の中これからどうなりますか?そのトラクトには、「あなたには将来と希望がある」(エレミヤ31:17)のみことばを引用して、こんな希望があると書かれてありました。
・楽しくてやりがいのある仕事ができるようになる。
・病気や災害で苦しむことがなくなる。
・家族や友達といつまでも幸せに暮らせる。
この希望が実現するためには、実現させる力、すなわち神が必要であること。もう一つは、実現させたいという気持ちを持つこと。神様は世の中の悪いことを全部なくすと約束している。
 皆さん、どう思いますか。本当に聖書はそのように言っているでしょうか。そうではありません。そのトラクトに書いてあることは主イエスが再臨した後にもたらされる千年王国においてのことであって、それまでこの世が良くなることはありません。もっと悪くなります。これが聖書が言っていることです。表向きは心地よいことばであっても、それが真理でなかったら滅びに向かうことになってしまいます。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。

このエレミヤの真実な訴えに対して、ゼデキヤは命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせました。こうしてエレミヤは監視の庭にとどまることになりました。死の危険を身に覚えた地下牢の獄屋から、監視の庭での監禁生活を続けることになったのです。真実に生きるエレミヤを、神が守ってくださったのです。

あなたはどうでしょうか。こんなことを言えば嫌われてしまうのではないかと、人を恐れてひそかに語っていませんか。それともエレミヤのように、相手が王であろうと誰であろうと、たとえ相手が喜ばないとわかっていても、その人におもねることなく、真実の言葉を語っているでしょうか。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」

これを実行したのはエレミヤでした。私たちも真実の愛に生きるものでありたいと思います。それは人を恐れ、おもねるような心からではなく、神を恐れ、神と共に歩む真実な心から生まれるのです。