エズラ記9章

  エズラ記9章から学びます。

 Ⅰ.イスラエルの民の罪(1-4)

まず、1~4節をご覧ください。「 9:1 これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、 9:2 かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」 9:3 私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。 9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっとすわっていた。」

1節の「これらのことが終わった後」とは、エズラ一行が無事にエルサレムに到着し、主への全焼のいけにえを献げ、アルタクセルクセス王から預かった命令書を、王の太守たちとユーフラテス川西方の総督たちに渡した後のことです。これらのことが終わった後、イスラエルの指導者たちがエズラのもとに近づいてきて、イスラエルに蔓延している罪について告げました。彼らはゼルバベルとともに帰還していた人たちです。そこで指導者としての地位を確立していたのでしょう。彼らはエズラがエルサレムにやって来たことを知り、イスラエルの中で行なわれている罪について告げたのです。エズラが律法の専門家であり霊的指導者であったことから、エズラに告げれば何らかの解決が得られるのではないかと期待したのだと思います。

その罪とはどんなことかというと、異教徒との結婚に関することでした。イスラエルの民、祭司、レビ人が、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人といった異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻とし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合っていたのです。モーセの律法には、雑婚が禁じられていました(出エジプト34:11~16、申7:1~4)。なぜなら、異教徒との結婚が、偶像をもたらすことになるからです。その最大の失敗例がソロモンです。1列王記11:3~5にはこうあります。

「11:3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。11:4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、【主】と全く一つにはなっていなかった。 11:5 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。」

ソロモンは多くの妻やそばめを持つことで、ほかの神々に心を向けてしまいました。彼はシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従ったのです。イスラエルの民は聖なる民です。そうした異教徒から分離して生きることが求められていましたが、彼らはそれを無視していたのです。

このことを聞いたエズラはどうしたでしょうか。3節をご覧ください。彼はこのことを聞くと、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜いて、茫然として座り込んでしまいました。これは深い悲しみと怒りを表しています。それは、イスラエルの民が捕囚として引かれて行く原因となったことでした。あれほど痛い思いをしてもまだわからないのかというあきらめにも近い思いを抱いたのでしょう。エズラは言葉を失い、夕方のささげ物の時刻、これは午後3時ですが、茫然としてそこに座りこんでいたのです。まさに茫然自失の状態だったのです。

隣人に対して寛容であることは大切なことですが、罪に対して寛容であることは危険なことです。信者が未信者と結婚することを禁じているのは人種差別からではなく、信仰的な理由からです。未信者の妻をめとった者は、次第に妻の宗教を受け入れるようになるからです。その結果、偶像礼拝を自分の中に持ち込むことになり、神様との関係が阻害され、神から離れてしまうことになります。そうなれば、自分たちは何のために存在しているのかさえ見失ってしまうことになります。神のみこころは、私たちが聖い者であることです。Ⅰペテロ1:15~16には、「1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」」とあります。私たちはそのために救われたのです。それなのに霊的に妥協するあまり、いつしかこの世の流れにすっぽりと浸り、神からも信仰からも離れていくのです。

悪魔は本当に巧妙ですね。今週の日曜日はどれほど多く方からメールをいただいたでしょうか。「きょうは用事があるので礼拝を休みます。あっ、来週も娘を部活に送っていかなければならないので行けません。ユーチューブで観ます。」「きょうは朝から旦那と喧嘩になり、家族で話し合うことになったのでお休みします。」勿論、どうしても来られない時もあるでしょう。でもそれはそれほど多くはないでしょう。問題は、この「聖でなければならない」という意味を理解してないことです。というのは、日曜礼拝は安息日ではありませんが、少なくても主が6日間で天と地にあるものを造られ7日目に休まれたので、これを聖なる日とするように定められたものです。この世とのいっさいの関わりを断ち、私たちを造り、私たちを罪から救ってくださった主を覚え、主を礼拝する日です。聖なる日です。よほどのことがない限り休むことは考えられません。私は心優しいので、そういう連絡をいただくとき何と返事したら良いか本当に悩みますが、牧師を打ちのめす一番良い方法はこれかもしれませんね。本当に忍耐が強いられます。いずれにせよ、私たちは自分がこの世に住みながら、この世のものではないことを常に思い出し、聖なる方にならって、聖なるものであることを求めていかなければならないのです。

Ⅱ.エズラの祈り(5-9)

茫然自失になり、打ちのめされていたエズラは、夕方のささげ物の時刻になって立ち上がり、主に祈ります。5~9節をご覧ください。「9:5 夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、【主】に向かって手を差し伸ばし、祈って、 9:6 言った。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、よその国々の王たちの手に渡され、剣にかけられ、とりこにされ、かすめ奪われ、恥を見せられて、今日あるとおりです。 9:8 しかし、今、しばらくの間、私たちの神、【主】のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした。9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし、私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシヤの王たちによって、私たちに恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を再建させ、その廃墟を建て直させ、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。」

エズラは、立ち上がると、衣を引き裂いたまま、ひざまずき、主に向かって手を伸べ広げて祈りました。彼はまず、イスラエルの民の罪を心から恥じています。なぜなら、その咎は増し、頭より高くなり、その罪過は大きく、天にまで達したからです。咎が頭よりも高いとか、罪過が天にまで達するというのは、神の御怒りを招かないでいられるような軽々しい罪ではない、ということです。ここで「罪」を「咎」とか「罪過」と言っていることに注目してください。「罪」とは知らないで犯すものですが、「咎」とか「罪過」は知りながら、もう罪であると十分に知識として与えられていながら、それでも犯す違反行為のことです。だからエズラは7節で、「私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。」と言っているのです。「その咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。」と言っているのです。これはバビロン捕囚のことを指しています。どうして彼らにそのようなさばきに下ったのかというと、ほかの神々を礼拝し、神の御怒りを招いたからです。彼らはそのことを十分知っていました。それなのに彼らは、それと同じことを行っていたのです。バビロン捕囚はイスラエルの民をきよめるための神の懲らしめでしたが、それが何の効果もなかったのです。

であれば、何の弁解の余地もなく滅ぼし尽くされても致し方ないのに、主はそのあわれみによって、そこに逃れの者を残してくださり、ご自分の聖なるところに一本の杭を与えてくださいました。この「一本の杭」とは、着物や衣をかけておくための突き出た釘のことであるという理解から、聖なる所に自分たちの居場所があるという意味だと解釈する人もいますが、ここではもっと具体的に、神殿と町の再建のことを意味していると思われます。なぜなら、その後のところにそれを可能にさせたのも、神の恵みの業であると告白しているからです。彼らが奴隷の身分であるにもかかわらず、主はそんな彼らを見捨てることなく、かえって、ペルシャの王たちによって恵みを施し、彼らを生かして、彼らの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣をくださいました。本来なら滅びなければいけないのに、このようにやり直しを与えてくださっているとしたら、それは神の恵みとあわれみにほかありません。エズラはその神の恵みとあわれみを思い起こしているのです。

Ⅲ.Ⅲ.エズラの祈り②(10-15)

次に10~15節をご覧ください。「9:10 今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。9:11 あなたは、あなたのしもべ、預言者たちによって、こう命じておられました。『あなたがたが、入って行って所有しようとしている地は、そこの国々の民の、忌みきらうべき行いによって汚された汚らわしい地であり、その隅々まで、彼らの汚れで満たされている。9:12 だから、今、あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子にめとってはならない。永久に彼らの平安も、しあわせも求めてはならない。そうすれば、あなたがたは強くなり、その地の良い物を食べ、これを永久にあなたがたの子孫のために所有することができる』と。9:13 私たちの悪い行いと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、──事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました──9:14 私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行いをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。あなたは私たちを怒り、ついには私たちを絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされるのではないでしょうか。9:15 イスラエルの神、【主】。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」

主はそのあわれみによって彼らに一本の杭を与えられ、やり直しを与えてくださったのに、その機会をすべて台無しにしてしまった今、何も言うことができません。エズラは神に対して、自分たちは神の命令を捨てて、罪を犯したことを告白しています。その罪とは何でしょうか。それは雑婚の罪です。主は預言者たちによって、イスラエルが入って行って所有している地は、異国の汚れで汚れた地であり、忌み嫌うべき行いによって隅々まで汚れで満ちてしまった地であるから、彼らの娘をその地の息子に嫁がせてはならない、また、その土地の娘を彼らの息子の妻にしてはならないと命じておられました(レビ記18章、申命記7章)。それなのに彼らはその命令を破ったため、イスラエルの地に汚れと忌むべき習慣が持ち込まれてしまいました。

そのことのゆえに、様々なことが彼の上に起こりました。その最大のことがバビロン捕囚です。彼らはその土地から引き抜かれました。それにも関わらず神は彼らの咎に値するような刑罰を与えず、それよりも軽い罰を与え、逃れの者をこのように備えてくださいました。自分たち残された者がいる、ということです。

それなのに、再び主の命令を破って、忌み嫌うべき行いをするこれらの民と親戚関係に入るようなことがあるとしたら、ついにはその残りの者さえも、逃れの者もいないようにされるのではないでしょうか。エズラは、何か特別な要請をしたわけではありません。ただ自分たちの罪を認めて神の前にひれ伏しているだけです。彼は、神が啓示された御言葉に自分たちを照らし合わせ、その通りに自分たちを評価しているのです。

このように、主の御言葉を自分に都合の良いように一部の言葉だけを受け入れ、他の御言葉を退けたりせずに、書かれてあるとおりに自分を見つめることが大切です。そこに真の悔い改めと、罪への悲しみが生まれるからです。ヤコブが手紙の中でこう言いました。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(4:9-10)」

そして、エズラはこの祈りの中で、神のいくつかの性質を認めて告白しています。8節には「そのあわれみによって」とあります。主はあわれみ深い方です。また9節には「主は・・・恵みを施し」とあります。主は恵みを施してくださる方なのです。さらに14節には「あなたは怒って」とあります。主は怒られる方です。また15節には「あなたは正しい方です」とあります。エズラは、こうした神の属性を告白し、ご自身の契約のゆえに民にあわれみを示してくださいと祈ったのです。それは私たちも同じです。私たちもしばしば罪に陥ったり、様々な問題で苦しむことがありますが、どんなときでもこの神のご性質を思い起こし、神に信頼して祈らなければなりません。神は必ずその祈りを聞かれ、状況を変えてくださるからです。

最近、さくらチャーチの姉妹が白内障の手術を受けられたのですが、思うようにいかなかったのか、術後、片目がよく見えなくて落ち込んでおられました。それでもう一度かかりつけの眼科で診てもらったところ、硝子体出血であるということが判明し、もっと大きい病院で手術することになりました。そして月曜日に入院し、昨日手術をしたのですが、術後すぐに報告のメールが届きました。手術が無事終わったこと、そして、主がともにいてくださり、恐れることなく、お委ねすることができたと。

しかし、先週その姉妹からメールをいただいた時はかなり落ち込んでおられました。「牧師先生、こんばんは。右の目が見えないので眼科に行ってきました。硝子体出血との病名、明日自治医大にいくように言われました。結構やっかいな病気らしいですね。もう入院は絶対にしないと思っていましたが、またもや手術になりそうです。これもまた神のお計らい?悲しすぎます。詳しいことは明日お知らせします。いつも暗いことばかりですみません。」

このようなメールを頂いたら、皆さんならどのように応えますか?私は、硝子体出血で3度手術をしていますので、この姉妹の気持ちがよくわかるような気がします。でも、昨年命にかかわる大手術をされた姉妹にとって、また手術をすることに大きな不安を抱えておられたのでしょう。ですから、そのことを重々承知で、そのために主はあわれんでくださることを伝え、この主が完全に癒してくださると信じてお祈りしていますと、返信を差し上げました。そして日曜日の礼拝後に、教会の皆さんで心を合わせてお祈りをしたら、どこかふっきれたようなに安心しておられました。

そして、手術を終えた彼女はこう書き送ってくれました。「キラキラ輝く世界が見られるといいのですがあまり欲張りをせず、ほどほどがいいのでしょうか」よほど心に余裕が出てきたのでしょうね。ですから、私はこのような返信を差し上げました。「キラキラ輝く世界が見られるといいですが、ほどほどでもすごいことですよ。少しでも見えて生活できること自体が奇跡ですし、神様の恵みですから。」

私は自分の視力を失ってみて、つくづくそのように感じています。ですから、この姉妹への言葉は、自分自身に対する言葉でもあったのです。

大切なのは、主がどのようなお方なのか、主はあわれみ深く、恵み深い方であり、私たちの罪を贖ってくださった方、完全な癒し主であることを信じてお祈りすることです。私たちも日々予期せぬ出来事が起こり落ち込んだり不安になったりしますが、この真実な神のご性質にかけて祈る者でありたいと思います。そのとき、主は必ずその祈りに答えてくださり、あなたの状況を変えてくださるのです。

エレミヤ47章1~7節「ペリシテ人についての預言」

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エレミヤ書47章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はペリシテ人に対する預言が語られます。

 Ⅰ.ペリシテ人の破滅(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。1節をお読みします。「47:1 ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった【主】のことば。」

これは、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことばです。ファラオとはエジプトの王の称号です。そのファラオがガザを討つ前に、主はペリシテ人についてエレミヤに語っておられたのです。それはB.C.605年より前のことです。何度かお話していますが、その年、バビロンが台頭を恐れたファラオは、バビロンと戦うためにパレスチナに北上しました。そこでバビロン軍と戦うわけです。それはユーフラテス河畔のカルケミシュというところで行われた戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれていますが、結果は、エジプト軍の惨敗でした。しかし、パレスチナに北上したエジプト軍は、ペリシテ人最大の都市ガザを討ちました。その前に、主がペリシテ人について語られたエレミヤに語られた預言がこれです。

それはどのような内容だったでしょうか。2~5節をご覧ください。「47:2 【主】はこう言われる。「見よ。北から水が上って来てあふれる流れとなり、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流す。人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶ。47:3 荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。47:4 すべてのペリシテ人を破滅させる日、ツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを断ち切る日が来たからだ。まことに【主】は、ペリシテ人を、カフトルの島の残りの者を破滅させる。47:5 ガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙らされる。平地の残りの者よ、いつまで、おまえは身を傷つけるのか。」

2節にある「北から水が上って来て」とは、バビロン軍のことです。その水はあふれる流れとなって、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流します。それは洪水のように襲ってきて、ペリシテの町々を呑み込むのです。すでにガザはエジプトの王ファラオによって討たれていましたが、今度はそのファラオを討ったバビロンによってすべての町が吞み込まれることになるのです。ですから、ペリシテ人はエジプトとバビロンのどちらからも攻め込まれて破滅することになります。まさにWパンチです。

その光景は、実に悲惨でした。3節には「荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。」とあります。荒馬、戦車の音に、人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶことになります。父親たちは気力を失い、自分の子どもたちを顧みる余裕さえありません。すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからです。

4節には、その日には生き残ってツロとシドンを助けようとする者もみな、断ち滅ぼされることになるとあります。ツロやシドンはペリシテの同盟国だったので、生き残って、彼らを助けようとするわけですが、助けようとしても助けることができないのです。ツロとシドンを助けようとする生き残りのすべての者もみな、断ち切られることになるからです。

また4節には「カトフルの島」という名称が出てきますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。そこがペリシテ人の出身地でした。彼らは元々そこに住んでいましたが、パレスチナの海岸地帯に移り住むようになったのです。ちなみに、パレスチナという地名は、このペリシテという名前に由来しています。パレスチナに移り住んだペリシテ人は、ユダヤ人と対立しながら現在のガザ地区のアラブ人となっていったのです。そのカフトルの島の残りの者を破滅させるというのは、ペリシテ人を根絶やしにするということです。

5節にある「ガザ」と「アシュケロン」は、ペリシテを代表する都市です。そのガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙されることになります。それは深い悲しみと嘆きを表現しています。なぜそれほど深く嘆き悲しむことになるのでしょうか。徹底的に滅ぼされることになるからです。ペリシテ人はすべて滅び失せることになるということです。
 これが、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について主が預言者エレミヤに告げられたことばです。いったいなぜペリシテ人は、そのように破滅することになったのでしょうか。

Ⅱ.ペリシテ人が滅ぼされた理由(6-7)

6~7節をご覧ください。ここには、「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」とあります。
  ここには、それは主の剣だとあります。主が剣に命じたのでこのようになったのです。それは彼らが主のみこころに従わなかったからです。いったいどのような点で主のみこころに叶わなかったのでしょうか。

ここで、創世記12章1~3節を開きたいと思います。「12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

これはイスラエルの父祖アブラハムに対して主が語られたことばです。アブラハム契約と呼ばれているものです。それはアブラハムが主の命令に従い、自分の父の家を離れ、主が示す地へ行くなら、主は彼を祝福し、彼の名を大いなるものとするというものでした。3節には、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。この約束のとおり、神はアブラハムの子孫から出るメシヤによって、この約束を成就してくださいました。その方とはどなででしょうか。そうです、それはイエス・キリストです。神はこのイエスによって地上のすべての民族を祝福する、すなわち、救いに導くという計画を持っておられたのです。そのためにアブラハムは選ばれました。神はこの祝福の基として特別にアブラハムを選ばれたのです。このアブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われることになります。これが聖書の原則なのです。しかし、ペリシテ人はこの原則に従いませんでした。神によって選ばれたアブラハムの民族、神の民を呪いました。それゆえ、神様から呪われることになったのです。もし彼らがイスラエルを祝福したのであれば、祝福されたでしょう。しかし、彼らはイスラエルに敵対し、絶えず攻撃しました。それゆえ、彼らは滅ぼされることになったのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

ここで地図をご覧ください。「ペリシテ人の地(新改訳聖書第三版、地図6)」

ペリシテ人について特筆すべきことは、彼らがどこに住んでいたかという点です。下の黒い楕円で囲まれた地域がペリシテ人の地です。ガザはその中にある赤い円で囲まれた町。その上は5節に出てきたアシュケロンです。ガザは今もイスラエルと戦闘状態にありますが、アシュケロンと合わせペリシテ人の5大都市の一つでした。ペリシテを代表する都市です。そのずっと上、北の方にある2つの黒い円で囲まれた町は、4節に出てきたツロとシドンです。このペリシテ人の地と隣り合わせにあるのがユダの地です。ペリシテの東側にある四角で囲まれた地域です。その右斜め上にあるのがエルサレムです。つまり、ペリシテ人の地はユダの地と隣り合わせにあったということです。もうほとんど入り混じっています。それで彼らは絶えずイスラエルに侵入してはイスラエルを支配しようとしたのです。イスラエルにとってはまさに「肉のとげ」のような存在だったのです。

旧約聖書を読むと、彼らに対する言及は古くはアブラハムの時代に遡りますが、顕著に出てくるのは士師記の時代です。今、さくらチャーチでは士師記を学んでいますが、サムソンが戦ったのがこのペリシテ人でした。その後もサムエル、サウル、ダビデの時代も彼らはイスラエルを悩まし続けます。最終的にダビデがペリシテ人を討ち、征服しました。ダビデが戦ったのはゴリヤテというペリシテ人の大男でした。1サムエル記17章4節によると、彼の身長は6キュビト半もありました。1キュビトは44.5cmですから、6キュビト半は289cmになります。ほんとかいな?と首をかしげたくなります。あのジャイアント馬場でさえ209cmでしたから、相当大きかったことがわかります。でもダビデはその巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。それでペリシテ人はイスラエルに屈することになったのです。ソロモンの時代になると、ペリシテ人は完全にイスラエルに仕えるようになります。しかし、B.C.931年にイスラエルが北と南に分裂するとペリシテ人は再び勢力を回復し、イスラエルを悩ますことになります。そんなペリシテ人を、神は徹底的に滅ぼされるのです。なぜでしょうか?神に選ばれた民に敵対したからです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

それは、この人類の歴史を見てもわかります。先日、いつも教会にお米を届けてくださる方が、「先生、最近、高原剛一郎先生が書かれた『世界は聖書で出来ている』という本が出版されたのでプレゼントします」と言ってわざわざ持って来られました。どれどれとめくって見たら、このことについて書かれてありました。詳細は触れませんが、過去500年の人類の歴史を見ると、世界の覇権を握った国々は、すべてユダヤ人を祝福した国だったというのです。それはスペインでありポルトガル、オランダ、イギリス、そしてアメリカです。これらの国の興隆と没落を振り返ると、そこにはこの原則が流れていたというのです。特に第一次世界大戦前後のイギリスと、第二次世界大戦後のアメリカを見るとよくわかります。ヨーロッパの辺境にある島国が、やがて「7つの海を支配する」大英帝国に成長した背景には、このようなユダヤ人への支援と協力があったからなのです。

また、戦後アメリカが超大国に成長した背景にも、第一次世界大戦後ヨーロッパで難民となったユダヤ人を受け入れたという事実がありました。アメリカに移住したユダヤ人たちは、背水の陣で生き残りをかけ、並外れた努力を重ねた結果、他のどの移民集団よりも短期間で成功を収め、金融、不動産、映画産業、マスコミ、医学、法律、自然科学、そして芸術、文化に至るまで、他を圧倒しました。第二次世界大戦後アメリカは、世界の超大国として君臨したのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるという聖書の原則が働いていたのです。

しかし、これは必ずしもユダヤ人という民族に限ったことではありません。それは私たちクリスチャンのことでもあるからです。いやむしろ霊的な意味では、私たちこそアブラハムの子孫、霊的イスラエルです。なぜなら、アブラハムの子孫から出るメシヤ、救い主なるイエス・キリストを信じたことで、神の民とされた者だからです。Ⅱペテロ2章9~10節にはこうあります。

「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた人たちのことです。ペテロはそのように選ばれた人たちに対して、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民だと言っているのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者であると言ったのです。そう、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた私たちも、このアブラハムの子孫であり、真のイスラエルなのです。ですから、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。私たちは祝福すべきであって、呪うべきではありません。もし神に選ばれた者を呪うことがあるとしたら、ペリシテ人のように呪われることになります。なぜなら、アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

以前、米沢の恵泉キリスト教会牧師の千田次郎先生からこんなお話を聞いたことがあります。それは、かつて全日本リバイバルミッションが盛んに行われていた頃のことですが、主催者の滝元明先生から、東北で決起集会をしたいので協力してほしいと要請があったそうです。しかし、千田先生はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、伝道は大きな集会を開くことではなく、マタイ28章にあるように、あらゆる国の人々を弟子とすることだからです。そのために行って福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、主が命じたことを守るようにみことばを教えなければなりません。必ずしも大きな伝道集会を開くことが必要ではない。そういう思いがありました。
  しかし、ある日御言葉を読みながら祈っていると、このことが示されたのです。「アブラハムを祝福する者を祝福し、呪う者を呪う」。そしてアブラハムとは誰だろうと思い巡らしていると、それは滝元先生ではないか。滝元先生は神によって選ばれた神の器だと。その滝元先生を祝福することこそ、神様が望んでおられることだと確信し、その働きの祝福を覚えて祈るようになったということでした。

私はそのお話を聞いたとき、すごいなぁと思いました。というのは、人は自分の考えと違うとなかなか受け入れることができないものですが、神のみこころを求めて祈る中で、たとえそれが自分の考えと違っても神のみこころなら従うということを実践されておられたからです。それこそ神様に喜ばれることであり、神様が祝福してくださる信仰だと思いました。私はまだそれほど長い信仰生活を送ってきたわけではありませんが、確信をもって言えることは、神の御言葉に従う者を神は豊かに祝福してくださるということです。それは霊的な面においても、精神的においても、肉体的な面においても、物質的においても、経済的においても、社会的な面においても、すべての面においてです。Ⅱ歴代16章9節に、「【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」とある通りです。問題は、私たちの心が主の心と一つになっているかどうかです。もし一つになっているなら、主はそのような人々に御力をあらわしてくださいます。それはこの点においても言えることです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。

先日、私は64回目の誕生日を迎えましたが、この64年を振り返りながら、このような人生を与えてくださった主に感謝しました。なかなかないと思うんですよ。18歳で信仰に導かれ、22歳で伝道者として召され、以後42年にわたりイエス様一筋に仕えることができるなんて。私は長嶋茂雄さんにはなれなかったし、マイケル・ジョーダンにもなれなかったけど、キリストのしもべとしての歩みを続けることができました。それは一重に神様のあわれみでしかなかった。こんな者を神様はご自身の栄光のために選んでくださいました。


  しかしそのように祈りながら感謝していると、神様からの御声がありました。「違う」と。「えっ、どういうことですか」と尋ねると、主はこのように示されました。「確かに、わたしはあなたを選んだが、それ以上にパットを選んだのだ」と。「パットがアブラハムで、あなたはそのアブラハムに仕えるしもべにすぎない。」と。これはどういうことだろうと思い巡らしているうちに、「本当にそうだと思うようになりました。」

家内が宣教師として来日したのは1979年ですから、今から46年前になります。一般に、宣教師は母国のサポーターから献金を募り、何らかの宣教団体を通して遣わされてきますが、家内はそうしませんでした。献金を集めるのがあまり得意じゃないということもありましたが、何よりもそうすれば4年に一度デブテーションで戻らなければならなかったのですが、それを受け入れることができなかったからです。伝道の途中で1年間も空けることは宣教にとって大きな妨げになるのではないかと考えたのです。ですから彼女は宣教団を通してではなくセルフサポートといって、自分で働きながら宣教する道を選びました。それは自由に宣教ができるというメリットはありますが、老後のことを考えると厳しい選択でもありました。というのは、働きを終えて帰国する時、何の保障もないからです。でも彼女はアブラハムのように「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」との召しを受けたとき、それに従い、どこに行くのかも知らずに、ただ信仰によって来日しました。そこで私と出会って結婚に導かれたのです。それは老後の保障どころか、帰国の路が閉ざされることを意味していました。日本に骨を埋めることを覚悟したということです。それほどの覚悟で来たのは、神様が彼女を選ばれたからです。パットがアブラハムで私はそのしもべにすぎないと言われる主のことばの意味がわかるような気がしました。そういえば、来日したばかりの頃、彼女はよく言っていました。「私は口下手なのでモーセですが、あなたはよく喋るのでアロンだ」と。主はご自身の御業のためにモーセを選んだように、パットを選ばれたのです。
  であれば、私がすべきこと何でしょうか。このアブラハムを祝福することではないかと思ったのです。アブラハムを祝福する者は祝福されるからです。

それはパットだけでなく、神の民とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはお互いに神に選ばれた神の民なのです。であれば、祝福すべきであって呪ってはいけません。喜んでいる者とともに喜び、泣く者と一緒に泣く。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちに順応しなければなりません。そういう人を、神様は祝福してくださるからです。ペリシテ人はそうではありませんでした。イスラエルを祝福したのではなくイスラエルに敵対し、いつも戦いを挑みました。それゆえ、神から厳しい裁きを受けることになったのです。私たちはそういうことがないように、この御言葉に従わなければなりません。神に選ばれた神の民を、愛する兄弟姉妹を心から祝福しなければなりません。祝福すべきであって呪ってはいけないのです。

Ⅲ.主のみことばの剣(6-7)

第三のことは、だから神のことばに従いましょう、ということです。6~7節をもう一度ご覧ください。「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」

ここには単にペリシテがバビロンによって討ち破られたというだけでなく、その背後に神の力と支配があったことがわかります。6節は、平安がないことを嘆くペリシテ人の嘆きです。「ああ、主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」
  ここで注目していただきたいことは、エレミヤが「主の剣」と言っていることです。実際にはペリシテもエジプトと同様に、目に見えるところではバビロンの攻撃によって討ち破られたわけですが、エレミヤはその出来事の背後に、主の力と支配があることを認めていました。
  7節もそうです。「どうして、休めるだろうか。主が剣に命じられたのだ。」とあります。主が命じられたのだから、主がみこころを実現するまでは休むことはありません。彼らに求められていたことは、それが主の剣であると認め、主の前にへりくだり、主に従うことだったのです。ダゴンの神ではなくイスラエルの神、主に信頼することだったのです。

それはペリシテ人だけのことではありません。私たちにも言えることです。聖書には、文字通り武具としての剣だけでなく、主なる神が語られる「みことばの剣」について言及されています。へブル4章12節です。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

神のことばはそれほどまでに鋭いのです。人の心の奥深くに光を当て、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。それは両刃の剣よりも鋭いのです。ですから、この神のことばによって罪が示されたのなら、「いたたっ!さやに収まり、静かに休め」と言うのではなく、私の罪のために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださった主イエス・キリストの御前に進み出て、砕かれた、悔いた心をもって、罪の赦しを求めなければなりません。そして御言葉によって励まされ、慰められ、強められ、教えられ、助けられて、御国を継ぐ者とさせていただかなければならないのです。それがペリシテ人に対して語られた主のことばを通して教えられることです。神のことばに従いましょう。神のことばに従ってアブラハムを祝福しましょう。イスラエルを祝福しましょう。主にある兄弟姉妹を祝福しましょう。祝福すべきであって、呪ってはいけません。神のことばに生きるとき、必ずあなたも祝福の基となることができます。それこそ、あなたが世の光、地の塩としてこの世に遣わされている目的だからです。

エズラ記8章

エズラ記8章から学びます。

 Ⅰ.帰還者のリスト(1-14)

まず、1~14節をご覧ください。「8:1 アルタシャスタ王の治世に、バビロンから私といっしょに上って来た一族のかしらとその系図の記載は次のとおりである。8:2 ピネハス族からはゲルショム。イタマル族からはダニエル。ダビデ族からは、ハトシュ。8:3 ハトシュはシェカヌヤの孫。パルオシュ族からは、ゼカリヤと、系図に載せられた同行の者、男子百五十名。8:4 パハテ・モアブ族からは、ゼラヘヤの子エルエホエナイと、同行の男子二百名。8:5 ザト族からは、ヤハジエルの子シェカヌヤと、同行の男子三百名。8:6 アディン族からは、ヨナタンの子エベデと、同行の男子五十名。8:7 エラム族からは、アタルヤの子エシャヤと、同行の男子七十名。8:8 シェファテヤ族からは、ミカエルの子ゼバデヤと、同行の男子八十名。8:9 ヨアブ族からは、エヒエルの子オバデヤと、同行の男子二百十八名。8:10 バニ族からは、ヨシフヤの子シェロミテと、同行の男子百六十名。8:11 ベバイ族からは、ベバイの子ゼカリヤと、同行の男子二十八名。8:12 アズガデ族からは、カタンの子ヨハナンと、同行の男子百十名。8:13 アドニカム族からの者は最後の者たちで、その名はエリフェレテ、エイエル、シェマヤ、および彼らと同行の男子六十名。8:14 ビグワイ族からは、ウタイとザクルと、同行の男子七十名。」

エズラは、アルタクセルクセス王(第三版ではアルタシャスタ王)の第七年に帰還しました。(7:8)。ここには、その時エズラと一緒にバビロンからエルサレムに上って来た民のリストが記録されています。この時に帰還した民の数は、合計で1,772人でした。2章3~15節には、ゼルバベルとともに帰還したユダヤ人の数が記録されてあのますが、その時の帰還民の合計は、42,360人でしたから、それに比べると今回の期間に加わった人たちは、かなり少ない人数であったことがわかります。ほぼ10分の1にすぎません。しかし、数が問題ではありません。彼らはカナンの地に自らの未来があると信じて帰還した「イスラエルの残れる者」(レムナント)たちでした。「イスラエルの残れる者」とは、イスラエルの民全体の中にあって真の信仰を持っていた少数の人たちのことです。彼らは「真のイスラエル」、「霊的イスラエル」とも呼ばれる人たちです。真のイスラエルは、常に少数派です。それは、霊的イスラエルであるクリスチャンにも言えることです。今も真の信仰を持つ人たちは、この世の中では少数です。しかし、その事実に失望する必要はありません。神は少数の真実な信仰者たちを用いて、ご自身の計画を進めてくださるからです。

「祈りの人」という本を書いたE.M.バウンズは、その著書の中でこう言っています。「今日、教会に必要なことは、より多くの、より良い手段ではなく、また新しい組織や、より多くの新奇な方法でもない。ただ聖霊が用いたもうことのできる人である。それはすなわち、『祈りの人』である。祈りにおいて力ある人なのである。聖霊は方法をとおしてではなく、ただ人をとおしてのみ注がれる。聖霊は各種の手段の上にではなく、人に注がれるのである。また聖霊は計画にではなく、ただ人に、そうです、祈りの人に油を注がれるのだ。」

ですから、私たちはこの世の価値観に流されるのではなく、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかをわきまえ知るために、心を新たにすることで、自分を変えていただかなければなりません。

Ⅱ.レビ人の募集(15-20)

次に、15~20節をご覧ください。「 8:15 私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間、宿営した。私はそこに、民と祭司たちとを認めたが、レビ人をひとりも見つけることができなかった。8:16 それで、私はかしらのエリエゼル、アリエル、シェマヤ、エルナタン、ヤリブ、エルナタン、ナタン、ゼカリヤ、メシュラムと、教師エホヤリブ、エルナタンを呼び集め、8:17 彼らをカシフヤ地方のかしらイドのもとに遣わした。私は彼らにことばを授けて、私たちの神の宮に仕える者たちを連れて来るように、カシフヤ地方にいるイドとその兄弟の宮に仕えるしもべたちに命じた。8:18 私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので、彼らはイスラエルの子、レビの子、マフリの子孫のうちから思慮深い人、シェレベヤと、その子たち、およびその兄弟たち十八名を私たちのところに連れて来た。8:19 また、ハシャブヤとともに、メラリの子孫のうちからエシャヤと、その兄弟と、その子たち二十名、8:20 および、ダビデとつかさたちにより、レビ人に奉仕するよう任命されていた宮に仕えるしもべたちのうちから、二百二十名の宮に仕えるしもべたちを連れて来た。これらの者はみな、指名された者であった。」

エズラ一行は、アハワに流れる川のほとりに彼らを集め、そこに3日間宿営しました。なぜなら、エズラが帰還民たちを確認したところ、そこにレビ人を見つけることができなかったからです。レビ人がいなければ、帰還した先で生活を建て直すことが困難になります。というのは、レビ人たちには2つの重要な役割があったからです。一つは、律法の教師として奉仕すること(レビ10:11、申命記33:10)、もう一つは、神殿で祭司たちを補助することです。もしレビ人がいなければ、この2つのことができなくなります。7章では、主の恵みの御手が彼とともにあったので、彼は4か月という短期間にエルサレムに上ることができたことを学びましたが、それは彼が主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで起きてと定めを教えようと心を定めていたからでした(7:10)。しかし、レビ人がいなければ、主の律法を教える人がいなくなります。それでは、神のことばの上に計画を進めていくことができないことになり、結果、こうした祝福を受けることができなくなります。ですから、レビ人を連れて行くことがどうしても必要だったのです。

それでエズラはそこに3日間宿営し、信頼できる11人を呼び集め、レビ人を集めるために彼らを遣わしました。17節には、カシフヤ地方のかしらイドについて、そこに居住しているレビ人たちに対して、どのように言えばよいかということまで指図しています。レビ人の募集は、それほどデリケートなテーマだったのです。

その結果、どうなったでしょうか。18節にあるように、彼らはマフリの子のうちから賢明な者18人と、メラリの子のうちから20人、合計38人のレビ人を連れて来ることができました。また、レビ人に奉仕するように任命されていた宮のしもべたちのうちから、220人のしもべたちを連れて来ることができました。それは彼らが優れていたからとういうよりも、神の恵みの御手が彼らの上にあったからです。これはエズラ記のテーマですね。神の恵みの御手が私たちの上にあってので・・。神の恵みの御手が彼らとともにあったので、彼らを用いてレビ人を連れて来ることができたのです。

ここで重要なことは、20節にあるように、「これらの者はみな、指名された者であった」という点です。どういうことでしょうか。口語訳ではここを、「これらの者は皆その名を言って記録された。」と訳しています。また、創造主訳聖書でも「彼らは皆、その名前を記録された。」と訳しています。つまり、これは、220名のレビ人たちが示した献身に対する敬意の表明だったのです。レビ人が自発的に帰還しなかったのは、エルサレムでの厳しい生活を想像することができたからです。しかし、この220名の者たちは、生活の保証よりも、主に仕える道を選びました。献身の道を歩む者の名は、主に覚えられているということです。献身者にとってこれほど大きな励ましはありません。

Ⅲ.アハワ川のほとりでの断食(21-30)

次に、21~30節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「8:21 私はそこ、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。8:22 それは私が、道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めるのを恥じたからであった。実際、私たちは王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたのである。8:23 そのため私たちはこのことのために断食して、自分たちの神に願い求めた。すると、神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」

エズラは、エルサレムへの帰還にあたり、アハワ川のほとりで断食を布告しました。それは、彼らが神の前にへりくだり、道中の無事を願い求めるためです。というのは、彼は道中の敵から自分たちを助けるための部隊と騎兵たちを、アルタクセルクセス王に求めることを恥じたからです。それは彼が王に自分たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたからです。それなのに、もし王に護衛を要請したら、言っていることとやっていることが一致しないことになります。ちなみに、ネヘミヤの場合は、護衛が付きました。ですから、護衛を付けるか付けないかということが問題だったのではなく、そのように言ってしまった手前、そうせざるを得なくなったということです。しかしそれはエズラにとって大きな霊的チャレンジでした。21節にあるように、そのために彼らは断食して自分たちの神に願い求めると、神は彼らの願いを聞き入れてくださったということを体験することができたからです。護衛を付けてもつけなくても、大切なのは神の前にへりくだること、そして、神に信頼して祈ることです。そうすれば、神はその願いを聞いてくださる。これこそ、私たちの神に対する確信です。エルサレムに帰還するにあたり、これは彼らにとって大きな霊的準備となりました。

次に、24~30節をご覧ください。「8:24 私は祭司長たちのうちから十二人、すなわち、シェレベヤとハシャブヤ、および彼らの同僚十人を選り分けた。8:25 そして、王、顧問たち、高官たち、および、そこにいたすべてのイスラエル人が献げた、私たちの神の宮への奉納物である銀、金、器を量って、彼らに渡した。8:26 私は銀六百五十タラント、百タラント相当の銀の器、および金百タラントを量って、彼らに渡した。8:27 また、一千ダリク相当の金の鉢二十、さらに、金のように高価な、光り輝く見事な青銅の器二個を彼らに渡した。8:28 それから私は彼らに言った。「あなたがたは【主】の聖なるものである。この器も聖なるものである。この銀と金は、あなたがたの父祖の神、【主】に対する、進んで献げるものである。8:29 あなたがたは、エルサレムの【主】の宮の部屋で、祭司長たち、レビ人たち、イスラエルの一族の長たちの前で重さを量るまで、寝ずの番をしてそれらを守りなさい。」8:30 祭司とレビ人たちは、重さを量った銀、金、器を、エルサレムの私たちの神の宮に持って行くために受け取った。」

エズラは、12人の祭司長たちを選び、ペルシャの王、顧問たち、高官たちと、そこにいたイスラエル人が神の宮の奉納物としてささげたものを量って、彼らに渡しました。それは相当の金と銀の量でした。それは28節にあるように、神のために聖別されたものです。ですから、聖なる祭司たちによってエルサレムに運ばれる必要があったのです。エルサレムに運ばれたら最初の量がそのまま運ばれたかどうか、再計算がなされます。ですから、とても重要な任務であったわけです。その重要な任務を護衛なしで遂行することは、かなり危険なことでした。そのために護衛を付けたから安心ということはなかったでしょう。そこにはへりくだって神のご加護を求める必要がありました。ですからエズラは断食を布告し、祈りを呼びかけたのです。主の御手が私の上にあったという表現は、この営みから来ているのです。祈り、そして祈りに基づいて行動し、一歩一歩神を意識しながら、主を認めながら歩むのです。そうした祈りを神が聞き入れてくださらないわけがありません。こうして彼らの帰還の旅が守られたのです。

Ⅳ.エルサレム到着(31-36)

さあ、エルサレムに帰還した彼らはどうしたでしょうか。31~36節をご覧ください。「8:31 私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の十二日にアハワ川を出発した。私たちの神の御手が私たちの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から私たちを救い出してくださった。8:32 こうして私たちはエルサレムに着いて、そこに三日間とどまった。8:33 四日目に銀と金と器が私たちの神の宮の中で量られ、ウリヤの子の祭司メレモテの手に渡された。彼とともにピネハスの子エルアザルがいて、彼らとともに、レビ人である、ヨシュアの子エホザバデとビヌイの子ノアデヤがいた。8:34 すべてが数えられ、量られた。そのとき全重量が書き留められた。8:35 捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のささげ物を献げた。すなわち、全イスラエルのために雄牛十二頭、雄羊九十六匹、子羊七十七匹、罪のきよめのささげ物として雄やぎ十二匹を献げた。これはすべて【主】への全焼のささげ物であった。8:36 それから、彼らは王の命令書を、王の太守たちとユーフラテス川西方の総督たちに渡した。この人たちはこの民と神の宮に援助を与えた。」

こうしてエズラたちはエルサレムに行こうと、第一の月の12日にアハワ川を出発しました。すると、神の御手が彼らの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せしている者の手から救い出してくださったので、彼らは無事にエルサレムに着くことができました。バビロンからエルサレムまでは厳しい長旅のはずですが、エズラは旅の詳細については一切触れず、ただ「私たちの神の御手が私たちの上にあり」と述べているだけです。彼にとっては、これが旅の要約なのです。「私たちの神の御手が私たちの上にあり・・・その道中、敵の手から救い出してくださった」。これがすべてなのです。私たちのこの地上の旅も、このように告白する旅でありたいですね。

エルサレムに到着すると、彼らはそこに3日間とどまり、4日目にバビロンから運んで来た銀と金と器類は目減りがないかどうか再計量され、祭司たちの手に渡されました。

捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のささげ物を献げました。すなわち、全イスラエルのために雄牛12頭、雄羊96匹、子羊77匹、罪のきよめのささげ物として雄やぎ12匹です。雄牛12頭は、イスラエル12部族のためです。その他のいけにえは神殿奉献の時と同じものです(エズ6:17)が、数は減っています。これは神への献身を表すためのいけにえです。

さらに、王の命令書を、その地に派遣されていた王の高官たちに渡しました。目的は、帰還民の扱いに関して、王の意向を反映させるためです。その結果、なんと異邦人である彼らが、神殿での礼拝のために援助を与えたのです。これがこの箇所のクライマックスです。まさに神の御手が彼らの上にあったので、異邦人の王の心までも動かしてくださったのです。私たちの人生もこうありたいものです。神は、ご自身に信頼を置く者に恥をかかせるような方ではありません。ただ神の御手が共にあるように祈り求め、神のみこころに歩む者でありたいと思います。

エズラ記7章

  エズラ記7章から学びます。

 Ⅰ.律法に通じている学者エズラ(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。「7:1 これらの出来事の後、ペルシアの王アルタクセルクセスの治世に、セラヤの子エズラという人がいた。セラヤはアザルヤの子、順次、ヒルキヤの子、7:2 シャルムの子、ツァドクの子、アヒトブの子、7:3 アマルヤの子、アザルヤの子、メラヨテの子、7:4 ゼラフヤの子、ウジの子、ブキの子、7:5 アビシュアの子、ピネハスの子、エルアザルの子、このエルアザルは祭司のかしらアロンの子である。7:6 このエズラがバビロンから上って来たのである。彼はイスラエルの神、【主】がお与えになったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、【主】の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた。」

1節には「これらの出来事の後」とあります。「これらの出来事」とは、1~6章までに記されてある内容を指します。具体的には、ゼルバベル主導の下に行われた神殿再建工事のことです。ゼルバベルや大祭司ヨシュアは反対者の妨害に遭いながらも、ハガイやゼカリヤといった預言者たちが語る神のことばによって励まされ、神殿再建工事を完成させました。紀元前516年のことです。これらの出来事の後、ペルシャの王アルタクセルクセス王(新改訳第三版ではアルタシャスタ王)の治世に、エズラがバビロンから帰還します。これが第二次エルサレム帰還です。それは7節にあるように、アルタクセルクセス王の第七年のこと、紀元前458年のことでした。ですから、エズラがエルサレムに帰還したのは神殿再建工事が完成してから実に57年後のことでした。ということは、エズラ記6章と7章の間には、約57年の空白期間があるということになります。ちなみに、エステル記の出来事はアハシュエロス王(クセルクセス1世)の治世の時のことなので、エズラ記6章と7章の間の出来事です。

ここにはエズラについて紹介されていますが、彼はセラヤの子で、順次遡っていくと、彼は祭司のかしらアロンの子孫であることがわかります。つまり彼は祭司だったのです。なぜここに系図を書き記したのかというと、そのことを証明したかったからです。というのは、1章61~63節にはゼルバベルの指導の下エルサレムに帰還した民の中に祭司の子孫たちがいましたが、自分たちの系図書きを探しても見つからなかったため、祭司職を果たすことができなかったからです。その資格がないとみなされたからです。ですから、彼が祭司であることを証明するために、このように系図を書き記す必要があったわけです。

このエズラがバビロンから上って来たのです。6節には、彼は単に祭司であったというだけでなくモーセの律法に精通した学者であったとあります。どういうことでしょうか。新しいエルサレムの再建にあたっては、ゼルバベルや大祭司ヨシュアの強力なリーダーシップがありましたが、その土台はモーセの律法、すなわち、神のことばであったということを示しているのです。神殿再建という神の働きは、神のことばという霊的土台の上に成されたということです。それは今日の教会にも言えることです。教会のすべての活動は祈りとみことばという土台の上に築き上げられなければなりません。その中心は何でしょうか。礼拝です。毎週日曜日の礼拝を通して神のことばが語られ、そのみことばに祈りをもって応答していくことによって、従っていくことによって教会は建て上げられていくのです。これが教会の本質的なことであって、これを抜きに教会が建て上げられることはありません。

今週の礼拝に、久しぶりにOさん家族が来会されました。今回来られたのは、1歳4か月の息子さんを見せたいからということでしたが、実はもう一つの目的がありました。それは、現在通っておられる教会をどうしたら良いか聞くためでした。Oさんはその教会に行って3年しか経っていませんが、集っておられる十数人の方々はご高齢の方で、牧師も働きながらの牧会なので疲れもあり、月2回の礼拝はOさんが説教の時間にC-BTEのテキストから教えているのだそうです。どうやらその教会の牧師はOさんを後継者にどうかと考えておられるようですが、自分はすどうしたら良いかとアドバイスを求めて来られたのです。土曜日に一緒に昼食を食べてから夕方までずっと話が止まりませんでした。大切な奥様息子さんを傍で遊ばせながら。私はずっとお話を聞いていて、一つのことだけ伝えました。それは礼拝を大切にするようにということです。他の活動ができなくても、礼拝だけはしっかり準備するようにと。たとえば、その教会では毎年シンガポールからチームを招いて伝道しているそうですが、それによって教会に繋がった人がいるかというとそうではなく、一時的なイベントで終わっていました。それが悪いということではなく、そうしたことも素晴らしいことですが、でももっと重要なことはそれが何の上に立っているかということです。それがみことばの上に立っていないと、元も子も無くなってしまいます。そう言うと、「えっ、えっ、どういうことですか?」と質問したので、はっきり伝えました。「日曜日の説教はみことばを通して神様が語られるのであって、C-BTEのテキストをやるときではない。それは礼拝の後で学ぶものですよ。毎週の礼拝でみことばがしっかりと語られ、一人一人が祈りの中でそのみことばに応答することによって教会は建て上げられていくんですよ」と。すると、わかったような、わからないような感じで宿泊のため那須の教会に行き、翌日の礼拝に出席されました。

礼拝が終わると、Oさんが私のところに来てこう言いました。「先生、わかりました。神のみこころに生きるということがどういうことなのかが。そういうふうにしたいです。帰って向こうの牧師と相談してみます。」

何がわかったのかわかりませんが、少なくても礼拝が重要であるということ、そして教会の土台はこのみことばと祈りなのだということがわかったのだと思います。

そのような働きを、神が祝福してくださらないわけがありません。6節をご覧ください。ここには「彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた」とあります。この「王」とは、ペルシャの王アルタクセルクセス(アルタシャスタ)王のことですが、神のことばを土台として進められたエルサレムの再建工事には神の御手がともにあったので、異教の王であったアルタクセルクセス王がすべての願いをかなえてくれるほど祝福されたのです。

Ⅱ.エルサレムに到着したエズラ(7-10)

次に、7~10節をご覧ください。「7:7 アルタクセルクセス王の第七年に、イスラエル人の一部、および祭司、レビ人、歌い手、門衛、宮のしもべの一部が、エルサレムに上って来た。7:8 エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。7:9 すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発した。彼の神の恵みの御手は確かに彼の上にあり、第五の月の一日に、彼はエルサレムに着いた。7:10 エズラは、【主】の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。」

ゼルバベルらがエルサレムに帰還したときのように、この時も祭司やレビ人、歌い手、門衛、宮のしもべなど、神殿で奉仕する人たちが一緒にエルサレムに帰還しました。エズラが到着したのは、アルタクセルクセス王の治世の第七年の第五の月の一日です。これは先ほども申し上げたように紀元前458年のことです。9節に「彼は第一の月の一日にバビロンを出発した」とあるので、この旅はちょうど4か月かかったことになります。それは今の暦でいうと7~8月にあたりますが、それは暑くて厳しい旅であったことが想像できます。バビロンから北に向かい、ユーフラテス川を越えて、ダマスコからエルサレムに南下するルートを取れば、約1,600キロの距離です。それを徒歩で、しかも、いけにえのための家畜や金や銀などの貴重品も携えてやって来たことを考えると、驚くほどの短期間であったことがわかります。どうして彼らはそんなに短期間に来ることができたのでしょうか。それは9節にあるように、「彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった」からです。このことは6節にもありました。「主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた。」それは彼らに体力、気力、動力があったからで北のではなく、神の恵みの御手が彼らの上にあったので、彼らは4か月という短期間でエルサレムに到着することができたのです。

それは具体的にどういうことでしょうか。それは10節にあるように、「エズラは、【主】の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。」ということです。これが、神の恵みの御手がエズラの上にあった理由です。彼は、主の律法を調べ、その学んだことを実行し、他の人たちに神の律法、すなわち、神のことばを教えようと、心を決めていました。これが祝福されたミニストリー、祝福された教会形成、祝福されたクリスチャンライフの秘訣です。私たちはいろいろな計画を立て、それを実行するための準備をしますが、それを成功へと導くのは、神の恵みの御手なのです。それはまさに詩篇1篇1~3節にみられる水路のそばに植わった木のようです。時が来れば実がなり、その葉が枯れることはありません。その人は何をしても栄えます。なぜ? 主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさんでいるからです。主の教えを愛し、神のみこころを行おうと、心を定める人には、神の恵みの御手が確かにあり、神がご自身の御業を行ってくださるのです。

Ⅲ.アルタクセルクセス王の手紙(11-28)

第三に、11~28節をご覧ください。11節には「アルタクセルクセス王が、祭司であり学者であったエズラに与えた手紙の写しは次のとおりである。このエズラは、【主】の命令のことばと、イスラエルに関する主の掟に精通していた。」とあります。これはアルタクセルクセス王が、エズラに与えた手紙の写しです。おそらく、エズラがアルタクセルクセス王に民の帰還の許可を申し出ていたのでしょう。その申し出に対して、アルタクセルクセス王が許可を与えると同時に、エズラに対して驚くべきことを伝えています。その内容がここに紹介されているのです。

それはまず、13節にあるように、イスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたいと者は、エズラと一緒に行ってよいということでした。
次に、14節にあるように、エルサレムにおいてエズラに託された役割は、神の律法に従って、ユダとエルサレムを調査することであったということです。 さらに、15~16節にあるように、エズラを信頼して、王とその顧問たちの献金と、バビロン全州でエズラが得たすべての金銀を、イスラエルの民や祭司たちが神の宮のためにささげた物と合わせて、携えて行かなければなりませんでした。
また17節にあるように、エズラはその献金で、動物のいけにえや穀物のささげ物、注ぎのぶどう酒を買い求め、それを神の宮に献げなければなりませんでした。
さらに、残りの金、銀の使い方については、彼らが良いと思うことは何でも、神のみむねに従って使うことができました (18)。
また、主の宮で礼拝のために渡された用具は、主の宮のために用いることができました。 (19)
そのほか、彼らが神の宮のために必要なもので、どうしても支出しなければならないものは、王室の金庫からそれを支出することができました(20)。
また、エルサレムを担当する役人は、エズラが求めることには全面的に協力しなければならないということ(21節)。すなわち、銀は百タラントまで、小麦は百コルまで、ぶどう酒は百バテまで、油も百バテまで、塩は制限なしです(22節)。さらに、25~26節にあるように、裁判官の任命権や律法に関する教育などをエズラにゆだねなければなりませんでした。

すごいですね。私も気配り牧師と呼ばれていて比較的細かい方ですが、アルタクセルクセス王は気配り王だったのかもっと細かに指示しています。なぜ、これほどまでの権威がエズラに与えられたのでしょうか。それは23節にあるように、天の神の御怒りが王とその子たちの国に下るといけないからです。すなわち、アルタクセルクセス王はイスラエルの神こそまことの神であり、この神に逆らうとどうなるかということを理解していたのです。かつてアブラハムに神が、「あなたを祝福するものを祝福し、あなたをのろうものをのろう」と言われましたが、それがいかに実現したかを、目の当たりにしていたのでしょう。天の神は、異教の王の心さえ変えることができる偉大な方なのです。

その手紙を受け取ったエズラはどうしたでしょうか。27~28節をご覧ください。彼は心から主に感謝をささげました。「7:27 私たちの父祖の神、【主】がほめたたえられますように。主はエルサレムにある【主】の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、7:28 王とその顧問と、王の有力な高官すべての前で私に恵みを得させてくださった。私の神、【主】の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、一緒に上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。

ここでエズラは、「私たちの父祖の神、主がほめたたえられますように。」と祈っています。この言葉によって、エズラが仕えていた神は彼の父祖の神であったことを表明しています。すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、モーセに律法を与えた神です。さらに、ペルシャの王にこのような心を起こさせ、王とその顧問と、王の有力な高官たちの好意を自分たちに向けさせてくださったのはその神であり、エルサレムにある主の宮に栄光を与えるためであったと告白したのです。彼は、自分が優れた者だから王たちの好意を勝ち取ることが出来たと自らを誇ることもできたのに、そうはしませんでした。すべてが神の御業であると認め、その神をほめたたえたのです。私たちも成功した時には自分の力を誇るのではなく、神によってなされたと認め、神に感謝し、神をほめたたえるべきです。

さらに彼は、「私の神、【主】の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、一緒に上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」と祈っています。イスラエル人のかしらたちを集めることは容易なことではありませんでした。それが出来たのは、一重に神の御手が彼とともにあり、彼の心を奮い立たせてくださったからだと、神をほめたたえているのです。彼はすべてのことは神の御手が彼の上にあったので成し遂げることができたと告白したのです。私たちも主の御手が私の上にあったので、私はこのこと、あのことを成すことが出来たと告白し、神をほめたたえ、神に栄光を帰する者でありたいと思います。

エレミヤ46章1~28節「エジプトについての預言」

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今日は、エレミヤ書46章全体から学びます。44章までにおいて、エレミヤ書におけるユダの民とエルサレムに対する預言は終わりました。そして前回の45章では、エレミヤの書記をしていたバルクに対する励ましのメッセージが語られました。ここからは、諸国に民に対する預言が語られます。エレミヤは預言者としての召命を受けたとき、ユダの民に対する預言だけでなく、国々への預言者としても召されていました。1章5節にはこうあります。 
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
  それが、ここから終わりまで続くわけです。その最初がエジプトに対する預言です。そしてそれはペリシテ、モアブ、アンモン、エドムと続き、最後にバビロンに対して語られます。それは人の目には偉大で力強く見えるこうした国々も、実は、主なる神様の主権と支配によって成り立っていることを示すためです。私たちはとかく、信仰や教会に関すること以外においては、神様はあまり関わっていないかのように思いますが実はそうではなく、この世のすべての領域において神様は主権をもって働いておられるのです。その神様の働きをご一緒に見ていきたいと思います。

 Ⅰ.何ということか、この有様は(1-12)

まず、エジプトについての預言です。1~12節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「46:1  諸国の民について、預言者エレミヤにあった【主】のことば。46:2 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢について。ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカドネツァルがこれを打ち破った。」

ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とは、前回の45章にもありましたが、B.C.605年のことです。その年にバビロンの王ネブカドネツァルがエジプトの王ファラオの軍勢と戦ってこれを打ち破りました。これはユーフラテス河畔のカルケミシュという町で起こった戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれています。バビロンはアッシリアと戦ってその首都ニネベを打ち破ると、その後アッシリアの残党がこのカルケミシュに移ったので、それを追ってカルケミシュに向かいました。しかし、そのバビロンの台頭を恐れたエジプトがバビロンに戦いを挑んだのです。それがこのカルケミシュでの戦いです。結果はエジプトの惨敗でした。その時の様子が3節以降に描かれています。

「46:3 「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。46:4 騎兵たちよ、馬に鞍をつけて乗れ。かぶとを着けて配置につけ。槍を磨き、よろいをまとえ。46:5 何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。──【主】のことば──46:6 足の速い者も逃げられない。勇士たちも逃れられない。北の方、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れる。46:7 ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻くこの者はだれか。46:8 エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』46:9 馬よ、進め。戦車よ、走れ。勇士たちは出陣せよ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引くルデ人よ。46:10 その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日。剣は食らって満ち足り、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の【神】、主に、いけにえが献げられる。46:11 おとめである娘エジプトよ、ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を用いても無駄だ。おまえには癒やしがない。46:12 国々は、おまえの恥辱のことを聞く。おまえの哀れな叫び声は地に満ちる。勇士が勇士につまずき、ともに倒れるからだ。」

5節には、「何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。─【主】のことば─」とありますが、このことばにエジプトの悲惨な状況が映し出されています。彼らはおじ惑い、うしろに退きます。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去ることになるのです。恐怖が彼らを囲むからです。エジプトを代表するのはナイル川ですが、彼らはかつてナイル川のように湧き上がり、地をおおうほどの勢力があると言って誇っていましたが、バビロン軍に敗北し、哀れな叫び声が地に満ちることになります。有志が有志につまずき、ともに倒れるのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

10節をご覧ください。ここには「その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日」とあります。これは主が敵に復讐する日なのです。どういうことでしょうか。それは単にバビロン軍との戦いというのではなく、主が成された主との戦いなのです。主との戦いですから、エジプトがどんなに強くても勝てるはずがありません。その戦いの背後には、偉大な主の御手が働いているからです。

ところで、この「敵に復讐する日」とは何を指しているのでしょうか。何に対する復讐なのでしょうか。多くの学者は、これはこの戦いの4年前(B.C.609年)に、ユダの王のヨシヤがエジプトの王ファラオ・ネコに殺されるという事件があったのですが、それに対する復讐ではないかと考えています。しかしここではもっと広い意味での復讐、エジプトが神に対して行った傲慢な態度に対する復讐であったと見た方が良いと思います。というのは、ここから諸国の民に対する預言が語られるわけですが、それをずっと見ていくとどの国々に対しても共通している三つのことが取り上げられているからです。一つは、そうした国々は自分の財産や軍事力など、物質的な力に拠り頼んでいたという点です。二つ目のことは、彼らは天地の創造主ではない、偶像の神々を拝んでいたという点です。そして三つ目のことは、イスラエルやユダに対して敵対したということです。エジプトの場合は、ヨシヤ王を殺したということがその中に含まれますが、それだけでなくこうした国々は他の点でも神に敵対しました。そのことに対する復讐なのです。

7節には、エジプトの軍隊はナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻いていたとあります。皆さん、「奔流」ってわかりますか? ゴーゴーと音をたてて激しく流れる川のことです。それは恐ろしさを感じるほどです。それだけ勢いがあるということです。それは全地を覆うほどの勢いです。8節には、「エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』」とあります。それは全地をおおい、町も住民も滅ぼし尽くすほどの勢いなのです。

しかしいくら強力な軍事力を誇り、この世を支配するほどの勢力があっても、それらのすべては神様のご支配の中にあることを覚えておかなければなりません。神様がエジプトに病を下せば、どれほど効き目のある薬を使っても何の役にも立ちません。神様が低くすれば、国々の中では辱めを受けることになるのです。国や民族を栄えさせたり衰えさせたりするのは神様であられるからです。ですから、自分の人生がどれほど栄えているようなときでもへりくだり、逆にどれほど低い位置に置かれているようなときでも落胆せず、神に信頼しなければなりません。最近、アメリカの大統領が各国に相互関税を科したことで世界経済が混乱に陥りましたが、自国民を守ることは大切なことですが、自分たちの力を誇り、世界中の国々を自分たちに従わせようとする言動は、厳に慎まれなければならないということがわかります。聖書に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18、新改訳第3版)とあるように、そのような国は、やがて滅びていくことになるからです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。

あなたはどうですか。すべてのことがうまくいっていると思うとき、へりくだって神の主権を認めているでしょうか。逆にうまくいかず辛い中にあるとき、落胆せずに神を信頼していますか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)あなたがどこにいても、すべての道で主を認めましょう。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。

また、それは同時に、神の御心に反してエジプトというこの世と同盟を結ぼうとしたユダの民に対する復讐でもあったと言えます。彼らは主なる神ではなくエジプトに頼り、エジプトに下って行きました。そのユダの不従順に対する報復でもあったのです。神様に頼らず、この世とその力に頼るとき、神様は彼らが頼るものを滅ぼされるのです。この世の力、この世の富、この世の権力に頼ることは、崩れる城壁の上に立っていることと同じことなのです。私たちが頼るべきお方はすべてを支配しておられる主だけです。ただ生を見上げ、主に拠り頼みましょう。

Ⅱ.その名を万軍の主という王のことば(13-26)

次に、13~26節までをご覧ください。エジプトに対するさばきことばが続きます。13節には「バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトの地を討つことについて、主が預言者エレミヤに語られたことば。」とあります。12節までには、B.C.605年のカルケミシュの戦いにおいてエジプトがバビロンに敗北する様子が預言されていましたが、ここには、エルサレムが陥落後、これはB.C.586年ですが、その後バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトを打つことについての預言が記されてあります。

14節には、「エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、メンフィスとタフパンヘスで聞かせて言え。」とありますが、それは、エジプトはもちろんのこと、ミグドル、メンフィス、タフパンヘスといったエジプトが支配していた都市にもバビロンの勢力が及ぶということです。

15節には「なぜ、お前の雄牛は押し流されるのか。それは踏みとどまり得ない。主が彼を突き倒されたからだ。」とありますが、「おまえの雄牛」とは、偶像のことです。バビロンによって、エジプトが頼りとしていた雄牛の像が押し流されて立てなくなるという意味です。ここでは、偶像の空しさが露呈されているのです。

また19節には「メンフィスは荒れ果て、焼かれて住む者もいなくなるからだ。」と、メンフィスもエジプトに住む娘にたとえられていますが、そうした美しい娘のようなメンフィスは荒れ果て廃墟となり、住む人が誰もいなくなるというのです。

20節の表現はおもしろいですね。「エジプトは、かわいらしい雌の子牛。しかし北からアブが襲って来る。」とあります。「かわいらしい雌の子牛」とはエジプトのことです。そして「北から襲って来るアブ」とはバビロンのことを指しています。アブであるバビロンが北からやって来て、雌の子牛であるエジプトを刺すというのです。アブないです。これは、バビロンの軍勢がエジプトを襲い征服するという比喩的表現です。

22節もおもしろいです。「彼女の声は逃げ去る蛇の音のようだ。敵が軍勢を率い、木こりのように、斧を持って入って来るからだ。」とあります。「彼女の声」とは敗走するエジプト軍が立てる音ですが、それが逃げ去る蛇の音のようだというのです。敵であるバビロン軍が木こりのように斧を手に持ち、森の木々を切り倒すように、エジプト人を切り倒すからです。そのようにエジプトはバビロンによって辱められ、彼らの手に渡されることになるのです。

問題は、なぜそのようなことになるのかということです。15節に戻ってください。3行目にこうあります。「主が彼を突き倒されたからだ」。また26節にもこうあります。「わたしは彼らを、そのいのちを狙う者たちの手に、バビロンの王ネブカドネツァルの手とその家来たちの手に渡す。」
 これは主ご自身がなさることなのです。私たちは歴史の中で起こったことや今、この時起こっていることについて、なぜこんなことになったのかとその原因を分析したり考えたりしますが、実は、そうした出来事の背後には主の御手があるのです。そこにも主が働いておられるということです。このことは、私たちをより謙虚にさせてくれるのではないでしょうか。すべてのことは主の御心のままに導かれているのです。すべてのことです。それが良いことであっても悪いことであっても。それは、そこにすべてのことを働かせて益としてくださるという主ご自身のご計画があるからです。それがどういうことなのか私たちにはわからなくても、そこに主が働いておられることを認め、その主にすべてをゆだねることが、私たちも想像もできないほどの神様の栄光が現わされていくことにつながっていくのです。

今週も聖書の学びとお祈り会がありますが、前回学んだエズラ記6章には、バビロン捕囚から帰還したユダの民が預言者ハガイとゼカリヤが語る神のことばに励まされて神殿再建を始めたわけですが、そぐに妨害が入ったとありました。その地の総督タテナイやシェタル・ボゼナ、その同僚たちの妨害に遭って工事が難航するわけです。彼らはペルシャの王ダレイオスに書状を送って、キュロス王からの命令が下った事実を調べてほしいと訴えました。すると、ダレイオス王はエクバタナというところで一つの巻物を発見し、そこに確かにキュロス王によって命令が下されたことを確認し、タテナイたちに神の宮の工事をそのままやらせておくようにと命じただけでなく、何とその宮の完成のために、彼らが取り立てた税金の中からその費用を支払って、間違いなくそれが完成するようにせよ、と命じたのです。まさに災い転じて福となる、です。タテナイたちは立てなくなってしまいました。彼らのそうした妨害のお陰でユダの民はますます確信が与えられ、必要も満たされて、ダレイオス王の第6年についに神の宮を完成させることができたのです。いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖書はこう告げています。

「これは、主が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」(エズラ6:22)

それは主が成されたからです。その背後に主が働いておられたのです。すべては主のご計画によるのです。

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

であれば、私たちはそこに主の御手があることを認め、主が働かれ、事を行わせてくださることを信じなければなりません。

それがこの46章18節で言われていることです。ここには、「わたしは生きている。­その名を万軍の主という王のことば ­」とあります。どういうことですか。ここには3人の王の名前が出ています。バビロンの王と、エジプトの王、そしてもう1人、万軍の主という王です。バビロンの王とはだれですか。ネブカドネツァルです。ではエジプトの王は誰でしょうか。ファラオ・ネコです。しかし、それだけではありません。ここにはもう一人の王がおられます。それは万軍の主という王です。それは、神の御座の右で全世界を治めておられる王の王であられる主イエス・キリストです。バビロンの王ネブカドネツァルは、神の道具となってエジプトを攻撃するために用いられました。エジプトの王ファラオの名声と権威は一時天に届く勢いでしたが、今や彼の時代は過ぎ去りました。しかし、万軍の主という名前の王は、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、エジプトの王や将軍、兵士たちを退けました。この方こそ王の王、主の主であられる方なのです。この方が、これらすべてのことをなされるのです。私たちは、神の御座で全世界を治めておられる万軍の主という王であられるイエスを信じて、この方に拠り頼まなければなりません。

あなたの人生の王は誰ですか。イエス様だけがあなたを救うことができます。イエス様だけがあなたに神の国をもたらすことができるまことの王なのです。

Ⅲ.ヤコブよ、恐れるな(27-28)

ですから第三のことは、恐れるな、ということです。27~28節をご覧ください。「46:27 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしがあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、だれにも脅かされずに平穏に安らかに生きる。46:28 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」

エジプトに対するさばきを語られた後で主は、イスラエルに回復のメッセージを語られます。それは27節にあるように、彼らの子孫を捕囚の地から救い出すという約束です。神様は全世界をさばいても、ご自身の選びの民を必ず救われます。神の救いの御業は、さばきと並行してなされるのです。それは1枚の紙の両面のような関係です。エジプトはさばかれますが、イスラエルは回復の恵みにあずかるということが、対照的に語られているのです。エジプトは滅ぼし尽くされても、イスラエルが滅ぼし尽くされることはありません。だから恐れるなと。エジプトに対する激しい神様のさばきの預言の中で、イスラエルに対する慰めのことばが語られているのはこのためです。この世はさばかれることはあっても、神の契約の民は必ず救い出されるのです。31章3節にこうあります。

「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

これが神様の愛です。神様の愛は永遠の愛なのです。永遠の愛とは、いつまでも、です。それは止まることがありません。神の愛はどんなことがあっても止まることがないのです。あなたがどんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、ずっと愛してくださいます。あなたの状態とは関係ありません。あなたがどんなに堕ちても、だれもあなたを受け入れなくても、神の愛は永遠にあなたに注がれているのです。それはあなたが優れているからではありません。あなたが良い人だからでもない。それはただ神があなたを愛されたからです。

この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることができます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができるのです。イスラエルもバビロン捕囚という憂き目に遭いましたが、この愛によってもう一度回復することができる。いい言葉ですね。「回復」。英語では「restoration」と言います。もう一度神に立ち返り、やり直すことができる。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。

このみことばを読んだ後、もしあなたが神様のみことばは真理であると信じているなら、神様はイスラエルを見捨てられないようにあなたを見捨てないということを信じなければなりません。そして「恐れるな」、「おののくな」と言われる神様のことばに信頼しなければならないのです。どんなにエジプトにさばきが下っても、あなたは恐れてはならないのです。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。

それが28節で約束されていることです。「わたしが、あなたとともにいるからだ」。この主があなたとともにおられます。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。それなのに恐れたり、心配しているとしたら、それはあなたがこの神のことばを信じていないということです。ただ頭だけで信じているだけです。救い主であり、全能者であられる主が私の人生にも働いておられるということを信じなければなりません。主は私たちのたましいだけでなく、私たちの人生も救ってくださいます。病んだ心も肉体もいやしてくださいます。さまざまな生活の問題にも答えを与えてくだいます。それなのに、熱心に教会に通い神様を信じていると言いながら、神様がいないかのような生き方をしているとしたら、それは観念的に信じているだけであって、実際の生活において神様が生きて働いておられることを信じられないのです。口では主は全能者であると言いながら、実際には「でも、さすがにこれは無理でしょ」とか思っているわけです。

主はイスラエルの歴史において働かれ、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトをさばかれ、イスラエルに懲らしめを与えただけでなく、その中から救い出してくださいました。そしてやがてそこから救い主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そして十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。その主がこのように約束してくださいました。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

主は今も生きておられます。今も生きてあなたとともにおられ、あなたの人生のただ中に働いておられるのです。あなたが成功しても失敗しても、健康な時も病気の時も、主はあなたとともにおられます。であれば、何を恐れる必要があるでしょう。その名を万軍の主という王がともにおられるなら、私たちは失望落胆する必要はないのです。

ただ、一つのことを覚えておかなければなりません。それは28節の最後にあるように、懲らしめはあるということです。「ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
 神様は、あなたとともにいて、あなたを救ってくださいますが、あなたが犯した罪については懲らしめを与えられます。それはあなたを滅ぼすためではなく、あなたを聖めるためです。懲らしめを喜ぶ人はいないでしょう。しかし、懲らしめがもたらす結果を喜ぶことはできます。その結果とは回復と聖めだからです。へブル12章11節にこうあります。

「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

すべての懲らしめや訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。回復と聖めがもたらされます。それによって、主は私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてくださるのです。それこそクリスチャンとしての本望です。ですからそこに希望を置き、たとえ現状が苦しくてもそこから逃げないで、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けていこうではありませんか。

エレミヤ書45章1~5節「自分のために大きなことを求めるな」

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今日はエレミヤ書45章から、「自分のために大きなことを求めるな」というタイトルでお話します。これは、エレミヤの書記をしていたバルクに対してエレミヤが語った主のことばです。主が彼に言われたことは5節にあるように、「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」ということでした。バルクが求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。なぜそれを求めてはいけなかったのでしょうか。

 Ⅰ.バルクの嘆き(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。2 「バルクよ、イスラエルの神、【主】は、あなたについてこう言われる。3 『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」

まず、この預言が語られた背景ですが、1節には「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年」とあります。これは、西暦でいうと紀元前605年になります。前回学んだ44章はユダの民に対するエレミヤの最後の預言、最後のメッセージでしたが、その30年も前のことです。ですからこれは44章との連続性はなく、むしろ内容的には36章にまで遡ります。それがこの預言が語られた背景にあることです。その時何があったのでしょうか。ちょっと振り返ってみましょう。36章1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻物に書き記した。5 エレミヤはバルクに命じた。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。6 だから、あなたが行って、あなたが私の口述によって巻物に書き記した【主】のことばを、断食の日に【主】の宮で民の耳に読み聞かせよ。また、町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。7 そうすれば、【主】の前で彼らの嘆願が受け入れられ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからだ。」8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの書物を読んだ。」

45章1節の「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき」というのは、このときのことです。主からエレミヤに主のことばがあったので、エレミヤはバルクを呼んでそれをことごとく巻物に書き記しました。そのときエレミヤは閉じ込められていて主の宮に行くことができなかったので、代わりにこのバルクが行って、それを民に読み聞かせたわけです。するとそれが王の耳にも入ることになりました。

それを聞いたエホヤキム王はどうしたかというと、激怒してその巻物を3,4段読まれるごとに、あろうことかそれを小刀で切り裂き、暖炉の火の中に投げ入れすべてを燃やしてしまいました。それを書き留めるのにどれほどの時間と労力を要したことでしょう。エレミヤはヨシヤ王の時代、その治世の第13年から預言してきましたから、その間約20年です。その間に書き留められた神のことばがすべて燃やされてしまったのです。相当がっかりしたことと思います。私は大田原に来て21年経ちましたが、これまで語った説教は全部保存してあります。その前に福島で語った20年分の説教も全部取ってありますが、それが焼かれたらどんな気持ちになるでしょう。おそらく、自分の存在が消し去られたような気持ちになるのではないかと思います。まさにバルクはそのような経験をしたのです。そればかりか、エホヤキム王はバルクとエレミヤを捕らえて殺そうとしました。どうしてそんな目に遭わなければならないのか理解できなかったでしょう。幸いにも主が彼らを隠されたので彼らは難を逃れることができましたが、この時のバルクの失望はいかばかりだったかと思うのです。その時の彼の思いが、ここに記されてあります。45章に戻ってください。3節です。

「あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。」

ヨブのことばで言うなら、「生まれて来ない方が良かった」です。それほどヨブは辛い経験をしたわけですが、バルクも同じでした。バルクはヨブほどの苦難を味わったわけではありませんが、心境は同じでした。

「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」

バルクの痛みとは何だったのでしょうか。せっかく書き留めた神のことばをだれも聞き入れてくれないという悔しさなり、悲しみ、怒りといった思いでしょう。それどころか、エホヤキム王はそんな自分を殺そうとさえしました。信じられない暴挙です。それで彼は、主は私の痛みに悲しみも加えられたとつぶやいたのです。彼はそんな状況にホトホト疲れ果ててしまいました。何の憩いも見いだせませんでした。彼はエレミヤの秘書として、エレミヤと苦しみを共にしてきました。それはエレミヤの信仰に共感すればこそのことですが、いざ自分のお尻に火が付くと、改めて自分の置かれた現実に目が覚めて、信仰が揺るがされたのです。

それはバルクだけではないでしょう。私たちも同じです。イエス様を信じるなら永遠のいのちが与えられ、さばきにあうことがなく、死からいのちに移るとあるから信じたんじゃないですか。それなのに死からいのちに移るどころかいのちから死に移っているのではないかと思えるような状況に陥るとき、どうしてですかと叫ばずにいられなくなります。あるいは、主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人は、水路のそばに植わった木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄えるとあるから、信じたのです。それなのに現実は実を結ぶどころか枯れてしまいそうだと感じるとき、私たちもバルクのようにつぶやいてしまうのではないでしょうか。主は私の痛みに悲しみを加えられた、私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せないと。

先日、ある方からお電話をいただきました。全く面識のない方ですが、教会のホームページのメッセージを見て電話したということでした。この方はクリスチャンの姉妹ですが、開口一番「逃げるに逃げられない状況なんです」と言われました。これはただ事ではないなと話をお聞きしたところ、この姉妹は調整区域にある農地を所有していますがそれにかかる税金がかなり高いので売却しようとしたところ、そこが農地であるためできないことがわかりました。ならばと雑種地に地目変更して売却しようと妹さんの知り合いに相談したのですが、逃げるに逃げられない状況になってしまったというのです。どうしてそのようなことで私に電話をしてきたのか不思議に思っていたら、ディボーションをしている中で教会のホームページからサムエル記のメッセージを見つけ、その中のダビデの信仰に教えられて電話したということでした。何が神様のみこころがわかるのではないかと思って。

私は1時間半ずっとお話を聞きながら、詩篇16篇8節とローマ8章28節のみことばが示されたのでそれを伝えました。詩篇16篇8節には、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。大切なのは固定資産税をどうするかということではなく神様との関係であって、自分で動くことを止めて神様を目の前に置くこと、すなわち、神様に信頼して神様の導きを待つことですと伝えました。主がともにおられるなら決してゆるぐことはありません。
  もう一つのみことばはローマ8章28節のみことばです。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」すなわち、神様はすべてのことを働かせて益としてくださるとあるので、この問題さえも益としてくださるのではないでしょうか。
  でももう一つ必要なことがあります。それは覚悟です。逃げるに逃げられない状況になってしまったと言われましたが、相手を恐れないでください。人を恐れると罠にかかりますから。しかし、主に信頼する者は守られます。大丈夫、神様が守ってくださいますから、と伝えると、安心したかのように「わかりました。ありがとうございました」と電話を切られました。私がお話をさせていただいたのは、わずか10分間でしたが。

信仰生活を送る上でこうした問題に直面するとき、あなたからはどんなことばが口をついて出てくるでしょうか。「逃げるに逃げられない」ですか。それともバルクのように「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果てて、憩いを見出せない」でしょうか。その思いが神様とエレミヤの目に留まりました。それで主はエレミヤを通してバルクに対することばを語られたのです。ですから、これは今日のあなたに対する主の励ましのことばでもあるのです。

Ⅱ.自分のために大きなことを求めるな(4-5a)

そんなバルクに対して主は何と言われたでしょうか。それは、自分ために大きなことを求めるなということでした。4節と5節前半までをご覧ください。「4エレミヤよ、あなたは彼にこう言え。『【主】はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。5 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──【主】のことば──。」

主がエレミヤを通してバルクに語られたことは、自分のために大きなことを求めるな、ということでした。どういうことでしょうか。彼が自分のために求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。新聖書注解書の中で安田吉三郎先生は、このように解説しています。

「バルクは何を期待していたのであろうか。彼が預言者エレミヤに従った時、この預言者の働きによって国の運命は転換し、その結果彼は新しいイスラエルにおいて名声と高い地位と富が得られると考えたのであろうか。名門の出のバルクにとって、このような野心は無縁だとは言い切れない。エレミヤの預言を書に記し、これを神殿で人々に朗読した時、バルクは、人々の心の中に革命が起こると期待したかもしれない。さらに自分の巻物が首長たちに読まれ、その上王の前で朗読されると聞いた時、彼の心は恐れと期待におののいていたのではないだろうか。」

これは安田吉三郎先生の憶測ですが、的を得ていると思います。というのは、その前後の文脈からそのように解釈することができるからです。4節には、主はご自分が建てたものを自分で壊し、植えたものを自分で引き抜かれる方であると言われています。つまり、主は主権者であられるということです。そしてそのように言われた後で、5節に「見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ─主のことば──」と言われました。つまり、それはバルクが思い描いたようにはならないということです。

バルクは預言者エレミヤの口述筆記者という名誉ある役割が与えられていました。1節には、彼はネリヤの子とありますが、彼は名門の出身です。教養も豊かな人物でした。エレミヤ51章59節には、彼の兄セラヤはゼデキヤ王の時の高官だったことがわかります。恐らく彼は兄と同じような地位に就くことを願っていたのでしょう。もし預言者エレミヤについて行き、エレミヤの預言によって王や首長たちが悔い改めるなら、ユダ王国に新しい未来が開かれることになります。そうなったらエレミヤは国の中で重要な地位に就くことでしょう。それは、エレミヤの書記である自分の昇進をも意味していました。ちょうどイエス様の弟子でゼベダイのふたりの子ヤコブとヨハネがイエス様に、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(マルコ10:37)と願ったように、です。

しかし、彼の期待は見事に裏切られました。事態は彼が願ったようにはいかなかったのです。むしろ逆でした。エホヤキム王やユダの首長たちは悔い改めるどころか逆に怒り狂い、口述筆記した巻物は切り裂かれて、暖炉の火で燃やしてしまいました。それどころか、彼の身にも危害が加えられる恐れがありました。彼の夢は脆くも崩れ去ったのです。それはご自身に立ち返ろうとしない民に対して、主がわざわいを下そうとしておられたからです。バルクがどんなに高貴な家の出で、優秀な者であっても、彼は一つのことを理解しなければなりませんでした。それは、主は私たちが関わるすべての事柄の主権者であられるということです。4節の「わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。」ということばは、この真理を明らかにしています。それなのに彼は自分ために大きなことを求めていたのです。

何事でも「自分のために」という思いが強すぎると、実際に思うようにいかない時、バルクのように嘆き、失望し、疲れ果ててしまうことになります。大切なのは、主が私たちに関わるすべての事柄の主権者であられると認め、自分はそのための管にすぎないことを自覚することです。そうでないと、自分のしたことに一喜一憂することになるからです。イエス様は弟子たちにこう言われました。

「17:9 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)

これがイエス様のしもべである私たちに求められている姿勢です。もしあなたが主に命じられたことをすべて行ったら、こう言うべきです。「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。それはこの世の価値観とは全く違うでしょう。この世では自分のしたことに対して、その報いがあるかないかを尺度にして生きています。たとえば、それをやったらどれだけ認められるか、どれだけ報酬があるか、どれだけ昇進するかといったことです。けれども、そのような生活は失望や落胆、また有頂天になることの繰り返しで、疲れ果ててしまうことになります。自分のために大きなことを求めるのではなく、主のために大きなことを求めなければなりません。それは主に対して忠実であること、ただ主が言われていることを行っているということ、そして成果ではなく、主との関係、主との交わりを喜び、これを求めることです。そうすれば、目先の報いに左右されることはなくなります。

こんなコラムを読みました。ご主人が出張で数日間家を留守にする時、4歳の息子が母親に「パパはあと何個寝たら帰って来るの?パパは今どこにいるの?何をしているの?」と一日に何度も尋ねてきたそうです。公園で遊んでいても、美味しいおやつを食べていても、どんなに楽しいことをしていても、息子の頭の中にあるのは常に「パパは?」でした。そんな息子の姿を見ながら、自分は息子のように神様のことを求めているだろうか」と考えさせられたそうです。

聖書には、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)とあります。自分の願い、自分の計画、自分の必要ばかりに意識を向けていたら、気付かないうちに、この世と調子を合わせてしまうことになります。神様のみこころだけが、私たちを暗やみから光へと引き上げてくれます。だから、神のみこころに焦点を合わせなければなりません。忙しくて、お皿洗いながらしか祈れない時もあるでしょう。疲れ切って聖書を読んだり祈れない時もあります。しかしそのような時こそ、より深いところへ進んでいくための神からの招きの時なのです。神様と共にありたいという奥深い心の飢え渇きを満たしてくれる時なのです。3Dのイラストをじっと集中して一点を見続けていると絵が浮かび上がって立体的に見えてくるように、いったん手を止めて、全神経を集中させて神様を捜し求め、神様と交わる時が私たちに必要なのです。

Ⅲ.神の約束(5b)

しかし、そんなバルクに対して主は、一つの報いを与えると約束してくださいました。それは彼のいのちを守られるということです。5節の最後のところに注目してください。「しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」

神はバルクにこの世での成功は約束されませんでしたが、彼のいのちが守られることを保証されました。「あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」とは、そういう意味です。リビングバイブルでは「わたしはこの民に大きなわざわいを下すが、あなたには報いとして、あなたがどこへ行っても、あなたのいのちを守る」とあります。バルクが受ける報いは、ただ彼のいのちを保つということでしたが、これほど素晴らし約束があるでしょうか。神の使命を忠実に成し遂げた後の報いは、この世の富や名誉で測ることができるものではありません。それはいのちを保つということ、永遠のいのちに与るということです。

バルクは、エレミヤたちとともにエジプトに連れて行かれましたが、彼にとっては、どこに行くかは大きな問題ではありませんでした。どこにいても、いのちを守られる主がともにおられるということ、この真実に心を留めることが大切だったのです。

バルクはエルサレム陥落を目撃し、エレミヤに同行してエジプトに下り、そこでエレミヤの死を見届けました。その過程で彼は、自らの使命に目覚めたのです。それは自分のために大きなことを求めるのではなくこれらいっさいの出来事の証人となり、それを後世に伝えることです。そしてエレミヤの預言を「エレミヤ書」という形にまとめたのです。自分に対する預言をエレミヤ書のこの箇所に置いたのも彼です。明確ではありませんが、エレミヤはこのバルクへのことばを、晩年になって彼に伝えたのかもしれません。バルクは預言者エレミヤの死後も生きて、この記録を預言者エレミヤの生涯の記録のあとに、そっと補足として加えたのかもしれません。44章でエレミヤの生涯の預言を書き終えた後にどうしてこの記事がここに挿入されているのかは、そのような理由からでしょう。個人的に成功するかどうかは、主のみこころが成るかどうかに比べたら、取るに足りないことなのです。バルクは彼の生涯の中でこのことを学んだのです。

それは私たちも同じです。私たちにとって大切なのは自分のために大きなことを求めることではなく、自分の身を通して神の栄光が現わされることを求めることです。みこころが天で行われるように、地でも行われますようにと祈り求めることなのです。これが私たちの人生の目的であり喜びですと言える歩みを、共に目指してまいりましょう。

エレミヤ44章15~30節「エレミヤの最後の預言」

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前回から、エレミヤ書44章から学んでいます。これはエレミヤがユダの民に語った最後の預言、最後のメッセージです。最後のメッセージですから、それは重要なメッセージであるということです。そうでしょ、皆さんも最後に何かを語るとしたら本当に大切なことを語るのではないでしょうか。イエス様が最後に弟子たちに語ったことはマタイ28章18~20節にありますが、それは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」ということでした。ですから、これがキリストの弟子たちにとって重要なことであることがわかります。ではエレミヤを通して主が語られた最後のメッセージはどのようなものだったのでしょうか。

 Ⅰ.それって、本当ですか?(15-19)

まず、15~19節をご覧ください。「44:15 そのとき、自分たちの妻がほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えた。44:16 「あなたが【主】の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。44:18 だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」44:19 「私たち女が、天の女王に犠牲を供え、彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、夫をなおざりにしてのことだったでしょうか。」

「そのとき」とは、その前の14節までのことが語られていたときのことです。それはユダの町々とエルサレムが滅ぼされたのは、彼らの先祖たちが主に背いてほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えたからでした。彼らは心砕かれず、神を恐れず、神から与えられた律法と掟に歩みませんでした。それなのになぜ、あなたがたは同じことをするのか。それで主は、エジプトに下って行ったユダの民を絶ち滅ぼすと宣言されました。「そのとき」です。

そのとき、自分の妻たちがほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っていた女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民が、エレミヤにこう言いました。16節です。

「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」

エジプトに下って行ったユダの民は、改めてエレミヤによって語られた主のことばに従わないと言いました。この時従おうとしなかったのは、ユダの指導的な立場にあった人たちだけではありません。エジプトに移り住んだすべての民です。

エレミヤは、かつて「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」(17:9)と言いましたが、この時の彼らの態度は、まさにそれを証明していました。彼らはかつて、自分たちも父祖たちも、自分たちの王も首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲(いけにえ)をささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたいと言ったのです。なぜでしょうか?17節後半から18節をご覧ください。ここで彼らはこのように言っています。

「私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」

えっ、それって本当ですか?彼らも彼らの父祖たちも、エルサレムの通りで行っていたように、天の女王にいけにえを備え、注ぎのぶどう酒を注いでいたとき、パンに満ち足りて幸せだったんですか?それを止めたときから、万事に不足し、剣と飢饉によって滅ぼされたんですか?ウソです。それは事実ではありません。実際は逆です。彼らがその身にわざわいを招くようになったのは、彼らが彼らの神、主の警告を無視して天の女王に犠牲を供えて仕えたからです。

この「天の女王」については、すでに7章18節で見てきましたが、古代のさまざまな地域において女神の称号として使われていた神々のことです。たとえば、カナンではアシュタロテという神です。これは女神です。バビロンではイシュタル、ギリシャではアフロデテ、ローマではビーナスなどです。彼らはそうした偶像に仕えていたから自分たちはわざわいにあわなかったと言っていますが、実際には、彼らがわざわいにあわなかったのは、主が彼らをあわれんでおられたからです。彼らはそのことに全く気付いていませんでした。つまり、彼らの過去に対する認識とか歴史観というのは、目の前の一時的な現象だけを見て判断する、いわゆるこの世のご利益信仰と何ら変わらないものだったのです。物事がうまくいっているときはハレルヤと賛美しても、そうでないと、いとも簡単に神様を捨て去り、ほかの神々を求めたのです。このように自分の欲望を満たすことを基準にした信仰は、過去の事実さえも歪めてしまうことになるのです。

かつてエジプトから脱出したイスラエルの民もそうでしたね。彼らは、エジプトを出て荒野に導かれたとき、モーセとアロンに向かって不平を言いました。

「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)

それって、本当ですか?エジプトにいた時、彼らは本当に幸せだったのでしょうか。肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていましたか。違います。彼らは奴隷として酷い仕打ちを受けていました。それなのに彼らはそのことをすっかり忘れていたのです。なぜでしょうか?自分の欲望を満たすものを神だと思い込んでいたからです。

それは私たちにも問われていることです。私たちも信仰をそのように捉えていると、目の前にそうでないことが起こると、あたかも神様を信じていなかった時の方が良かったと錯覚してしまうことがあるのです。でも、それって本当ですか?違います。15、16、17と私の人生暗かった・・・。イエス様に出会う前は、皆さんも暗かったんじゃないですか。確かに自分が好きなように自由に生きていたかもしれません。でもその結果は、自分が何をしているのかもわからない空しい人生だったはずです。私は今でも覚えていますよ。私の人生の華は高校時代でしたから。自分が好きなように、それこそ自分の肉と欲と心の望むままに生きていました。でもその結果は、空しさでした。エペソ2章1節には、それは、自分の背きと罪との中に死んでいた者であり」と言われています。そうです、これぞ我が人生と思っていた人生は、死んでいたものだったのです。しかし、あわれみ豊かな神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きと罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。ハレルヤ!
  それなのに、神様を信じる前の方が良かった、この世の神、天の女王にささげものを捧げていた時の方が幸せだったと主張するのはナンセンスです。正しくありません。

私はチューリップというバンドが好きでよくCDを聴くのですが、その中に「夏の終わり」という歌があります。
  「夏は冬にあこがれて、冬は夏に帰りたい。
  あの頃のこと今では すてきにみえる。」
  まさに、ないものねだりの子守歌ですね。夏になると冬にあこがれ、冬になると夏がすてきに見える。でも実際には、夏は夏で厳しい暑さに苦しみ、冬は冬で凍てつくような寒さに苦しむのです。でも暑いと冬はいいなぁと感じ、寒いと夏がいいなあと思うのは、その現象だけを見て判断するからです。でも神によって救われた恵みを基準にして進む人は違います。そういう人は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができます。今、自分に降りかかっている災難と思えるようなことさえも、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じているからです。

ですから、自分の感情や気分といったものを当てにしないで信じることです。そういうものは体の調子や周囲の事情、さては天候によっても左右されるものだからです。しかし私たちの信仰はけっして人間の側の何かによってもたらされるものではなく、神様の言葉によって保証されるものです。ですから、真実な神の約束である聖書の御言葉を信じる時、そこに神が約束されていることを知ることによって、揺れ動くことのない確かな信仰の土台を築くことができるのです。

あなたは自分が置かれている状況を、どのように理解していますか。神様の言葉を基準にして、神様の視点で解釈しているでしょうか。自己中心的な解釈は神の語りかけを締め出し、祝福の機会を失うという結果をもたらすのです。

Ⅱ.神のさばきの宣言(20-28)

そんな考え方をしていた彼らに、エレミヤは何と言いましたか。20~28節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「44:20 そこでエレミヤは、そのすべての者、すなわち、男たちと女たち、また彼に口答えした者たち全員に言った。44:21 「ユダの町々やエルサレムの通りで、あなたがたや、あなたがたの先祖、王たち、首長たち、また民衆が犠牲を供えたことを、【主】が覚えず、心に上らせなかったことがあるだろうか。44:22 【主】は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌み嫌うべきことのために、もう耐えることができず、それであなたがたの地は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖のもと、ののしりの的となったのだ。44:23 あなたがたが犠牲を供えたため、また、【主】の前に罪ある者となって、【主】の御声に聞き従わず、主の律法と掟と証しに歩まなかったために、今日のように、あなたがたにこのわざわいが起こったのだ。」」

そのように主張するユダの民に対してエレミヤは、正しい認識を示します。つまり、ユダの町々やエルサレムにわざわいが下ったのは、彼らが天の女王を拝むことを止めなかったからです。そのことを主はちゃんと覚えておられ、もう耐えることができなくなられたからです。

そんなエレミヤのメッセージに耳を傾ける者など一人もいませんでした。それでもなお、エレミヤは、すべての民、すべての女たちに真実を語り続けます。それが24~28節の内容です。これがエレミヤの最後の預言、最後のメッセージとなります。それは次の4つのことでした。

まず25節をご覧ください。ここには、「『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束し、自分の手で果たしてきた。あなたがたは、天の女王に犠牲を供えて彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐという誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かなものとし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』」とあります。
 ここには、あなたがたが天の女王に誓った誓願を必ず果たせ、とあります。これは皮肉的な勧めです。その語調には、挑戦とも、あきらめともとれるようなニュアンスが見られます。

二つ目のことは、26節です。「それゆえ、エジプトの地に住むすべてのユダの人々よ、【主】のことばを聞け。『見よ、わたしはわたしの大いなる名によって誓う──【主】は言われる──。エジプトの全土において、「【神】である主は生きておられる」と、わたしの名がユダの人々の口に上ることはもうなくなる。」
  これは、彼らが主に立ち返って赦されることは二度とないということです。いわば決定的なさばきの宣告です。主はどんな罪でも赦してくださいます。しかし、悔い改めなければ、赦したくても赦すことはできません。

そして三つ目のことは27節です。「見よ、わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの地にいるすべてのユダの人々は、剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せる。」
  どういうことですか?エジプトにいるすべてのユダヤ人は、不信仰のゆえに剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せるということです。

しかし28節を見ると、もう一つのことが記されてあります。それは、「剣を逃れる少数の者だけが、エジプトの地からユダの地に帰る。こうして、エジプトの地に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。」ということです。この「剣を逃れる少数の者」とは、イスラエルの残りの者たちのことです。どの預言者も、ユダに対する神のさばきだけでなく、そこにさばきを逃れる少数の者たちがいることを預言しています。神にあっては、絶望的な状況の中にも希望があるということです。そこからやがて救い主が遣わされることになります。ですから、悔い改めができなくなるほどまで罪に染まってはならない、頑なになってはならないのです。主にあっては必ず希望があるからです。その希望を見上げて救いの道を歩ませていただこうではありませんか。

Ⅲ.神のことばは必ず成就する(29-30)

最後にエレミヤは、神からのしるしを彼らに伝えます。これがエレミヤの最後のメッセージの最後です。これが、主がエレミヤを通して伝えたかったことです。29~30節をご覧ください。「44:29 これが、あなたがたへのしるしである──【主】のことば──。わたしはこの場所であなたがたを罰する。あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばが必ず成就することを、あなたがたが知るためである。』44:30 【主】はこう言われる。『見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に、そのいのちを狙う者たちの手に渡す。ちょうどユダの王ゼデキヤを、そのいのちを狙っていた彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように。』」」

これが彼らに対するしるしです。すなわち、ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されたように、エジプトの王ファラオ・ホフラも彼のいのちをねらう敵の手に渡されるというのです。これがしるしです。何のしるしかというと、エジプトで主が彼らを罰すると語られたことばが必ず成就することのしるしです。この預言の通り、この時から18年後にバビロンがエジプトに侵入し、エジプトの王ファラオ・ホラフは将軍アマシスの謀反によって殺されることになります。B.C.565年のことです。主のことばは必ず成就するのです。だから神のことばに従うようにと、エレミヤは語るのです。これがエレミヤの最後の最後のメッセージでした。

エレミヤはすべての者たちから見捨てられてもなお、神のことばに絶対的な信頼を寄せていました。彼はおそらく自分に言い聞かせるような思いで、これがあなたがたへのしるしだと告げたのでしょう。イエス様はこう言われました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13:31) 

天地は滅び去ります。しかし、主のことばは決して滅び去ることはありません。たとえ天地が滅び去り、すべてが無くなったとしても、主のことばは決して滅びることはないのです。必ず成就します。これこそ、私たちにとって真の慰めではないでしょうか。

預言者イザヤはこう言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7-8)

すべての人は草のようです。その栄光は花のようです。それはすぐに枯れてしまい、しぼんでしまいます。朝に生え出たかと思ったら、夕べにはしおれてしまいます。人はそんなの草や花のようなのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って自分の顔を鏡でよく見てください。いつの間にか白髪が増えたなぁと気が付くでしょう。しみやしわが増えたことがわかります。あんなに若々しかったのに、いつの間にか老けてしまいました。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきました。あんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせてしぼんでしまいました。あの人は教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、その人生は70年か80年で終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。人生はあっという間に過ぎ去ります。ソロモンはこれを「空の空。すべては空」だと言いました。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。

祗園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)(かね)(こえ)、諸行無常(むじょう)の響きあり。
 ()()双樹(そうじゅ)の花の色、 盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)(ことわり)をあらは(わ)す。
 おごれる人も久しからず、(ただ)(はる)の夜の夢のごとし。
 たけき(もの)(つい)にはほろびぬ、(ひとえ)に風の前の(ちり)に同じ。(平家物語)

祇園精舎の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがあります。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるということを表しています。どんなにこの世で栄えても、その栄えはずっとは続きません。まさに春の夜の夢のようです。勢い盛んで激しい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じなのです。そう詠ったのです。実に空しい存在です。

こんなこと言われても全然慰めになりません。そうです、この世には、真の慰めはないのです。ですから、この現実をしっかりと見つめそれを額面通り受け止めるなら、それが慰めになります。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれません。決して受け入れたくないでしょう。でも、これが現実なのです。事実を事実として受け止められるなら慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだと。いつまでも咲き誇っているわけではない。いつかしぼんでいきます。やがて死んでいく。それは明日かもしれません。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれない。人生はそんなに長くないのです。草花のようにすぐにしぼんでいくものでしかありません。その事実を受け入れその先にある希望をしっかり見つめて生るなら慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、人は慰めを受けるのです。

詩篇102篇25~28節にはこうあります。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」

この地上のものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美しさも、失われる時がやってきます。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生をかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないからです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。この方に信頼すれば慰めを得られるのです。

主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
  これこそ慰めではないでしょうか。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなっても、神は約束を(たが)える方ではありません。そのおことばの通りにあなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはありません。

ですからパウロはこう言ったのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
  たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちは天の御国で永遠に生き続けるからです。しかも、先週はイースター礼拝でフレミング先生から私たちはやがて栄光のからだに復活するということが語られましたが、イエス・キリストが再び来られる時、永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえるのです。そうしていつまでも主とともにいるようになります。ここに希望があります。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられているのです。その御霊によって私たちはやがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができるのです。主はそのために初穂としてよみがえられました。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わることのない神のことば、聖書のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいと思うのです。これが真の慰めのメッセージです。これが、主がエレミヤを通してユダの民に伝えたかった最後のメッセージだったのです。

エズラ記6章

 エズラ記6章から学びます。

 Ⅰ.ダリヨス王からの回答(1-12)

まず、1~12節をご覧ください。「6:1 それでダレイオス王は命令を下し、重要文書を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、6:2 メディア州の城の中のエクバタナで一つの巻物が見つかった。その中に次のように書かれていた。「記録。6:3 キュロス王の第一年にキュロス王は命令を下した。エルサレムにある神の宮、いけにえが献げられる宮を建て、その礎を定めよ。宮の高さは六十キュビト、その幅も六十キュビト。6:4 大きな石の層は三段。木材の層は一段とする。その費用は王家から支払われる。6:5 また、ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から持ち出して、バビロンに運んで来た神の宮の金や銀の器は返し、エルサレムの神殿に運んで元の場所に戻す。こうして、それらを神の宮に納める。」6:6 王は次のように命じた。「それゆえ、今、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちでユーフラテス川西方の地にいる知事たちよ。そこから遠ざかれ。6:7 この神の宮の工事をそのままやらせておけ。ユダヤ人の総督とユダヤ人の長老たちに、この神の宮を元の場所に建てさせよ。6:8 私は、さらに、この神の宮を建てるために、あなたがたがこれらユダヤ人の長老たちにどうすべきか、命令を下す。王の収益としてのユーフラテス川西方の地の貢ぎ物の中から、その費用を間違いなくそれらの者たちに支払って、滞らぬようにせよ。6:9 また、その必要とする物、すなわち、天の神に献げる全焼のささげ物のための雄牛、雄羊、子羊、また小麦、塩、ぶどう酒、油を、エルサレムにいる祭司たちの求めに応じて、毎日怠りなく彼らに与えよ。6:10 こうして彼らが天の神に芳ばしい香りを献げ、王と王子たちの長寿を祈るようにせよ。6:11 私は命令を下す。だれであれ、この法令を犯す者があれば、その家から梁を引き抜き、その者をその上にはりつけにしなければならない。このことのゆえに、その家はごみの山としなければならない。6:12 エルサレムに御名を住まわせられた神が、この命令を変更してエルサレムにあるこの神の宮を破壊しようと手を下す王や民をみな、投げ倒されますように。私ダレイオスはここに命令を下す。間違いなくこれを守れ。」」

1節の「それで」とは、5章の内容を受けてのことです。エルサレムに帰還したユダの民は、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者のことばによって励まされ、神殿の再建を始めました。B.C.536年のことです。しかし、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちがそれを妨害しようと、ペルシアの王ダレイオスに手紙を書き送りました。それはこの神殿再建工事がキュロス王の命令に従って行っているとユダヤ人たちが主張していたからです。それが本当かどうかを確かめようとしたのです。

その手紙を受け取ったダレイオス王は、宝物を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、メディア州の城の中のエクバタナで一つの巻物が見つかりました。「エクバタナ」はバビロンの北東約489キロにある、メディア州の首都です(巻末地図8)。キュロス王は、B.C.538年にその城で過ごしていたのでしょう。その巻物には、キュロス王の第一年にキュロス王がエルサレムにある神の宮、いけにえがささげられる宮を建て、その礎を定めるようにと命令を下したことが記されてありました。その神殿のサイズは、高さが60キュビト(1キュビトは約44センチ=2メートル64センチ)です。幅も60キュビト、大きな石の層は3段、木材の層は1段とすると書いてありました。しかも、その費用は王家から支払うと。また、バビロンのネブカドネツァル王がエルサレムの神殿から持ち出してバビロンに運んで来た金銀の器は、エルサレムの神殿に運んで元の場所に戻すとありました。それは、帰還したユダヤ人たちが主張していた通りでした。

それゆえ、ダレイオス王はタテナイたちにこう命じました。6節です。神の宮の工事をそのままやらせておくように。また、この神の宮を建てるために、タテナイたちが徴収している税の一部を、その費用として支払い、それが滞りなく完成するように援助するようにと。さらに、ユダヤ人が天の神に献げる全焼のささげもののために、雄牛や雄羊、小麦、塩、ぶどう酒、油など、エルサレムにいる祭司たちの求めに応じて、毎日怠りなく与えるようにと。何のためでしょうか。10節にあるように、王と王子たちの長寿を祈るためです。つまり、ダレイオス王はエルサレムの神殿に座す天の神の祝福を求めたのです。この命令を犯す者は、その家から梁を引き抜き、その梁の上にはりつけにされます。また、その者の家はごみの山とされなければなりません。最後に彼は、この宮を破壊しようとして手を出す者がいれば、その王や民がみな投げ倒されるようにと祈っています。

結局、タテナイたちはユダヤ人の神殿再建工事を妨害しようとしましたが、結果的には、自分が集めた税金の中から工事代を捻出することになりました。神の御心を行う者には、神の助けと守りがあるのです。一方、神の御心に反する者には、神の呪いとさばきがあるのです。このことを覚えて、いつも神の御心に歩ませていただきましょう。

Ⅱ.神殿完成(13-15)

次に、13~15節をご覧ください。「6:13 ダレイオス王がこう書き送ったので、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちは、間違いなくこれを行った。6:14 ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。6:15 こうして、この宮はダレイオス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。」

ダレイオス王がこのように書き送ったので、タテナイたちはもう立てなくなりました。間違いなく、その通りに行うしかなかったのです。その結果、工事は迅速に進められ、ダレイオス王の治世の第6年(B.C.516年)に完成しました。かつて工事を妨害した者が、神の御業を実行する者に変えられたのです。

ところで14節に注目してください。ここには「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた」とあります。これは預言者ハガイとイドの子のゼカリヤの預言を通し、建築した結果のことです。彼らは、イスラエルの神の命令により、またキュロス王とダレイオス王と、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、これを完成させることができたのです。そこには、預言者を通して語られた神のことばによる励ましがあったということです。神のことばがどれほどの励ましと力を与えてくれるでしょう。人間的には行き詰ってしまうようでも、神はご自身のみことばを通して聖霊の力を与えてくださるのです。

また、この工事にはキュロス王、ダレイオス王、アルタクセルクセス王という3人の王たちの貢献があったことも見逃せません。アルタクセルクセス王は実際には神殿の再建ではなくその維持に貢献しただけですが、ここではそれが包括的に語られています。つまり、天の神がこうした王たちも用いてご自身の御業を成し遂げてくださったということです。ですから、この神殿再建は神の恵みと神の力、そして神の約束と神のご計画によるものだったのです。

神殿が完成したのは、ダレイオス王の治世の第6年のことでした。これは、B.C.516のことです。着工から実に20年後のことでした。あのソロモンの神殿がバビロンによって破壊されたから(B.C.586年)、ちょうど70年後のことでした。それは神が預言者たちを通して語っておられたことです。神はご自身の約束の通りにしてくださったのです。人は多くの計画を持ちますが、主のはかりごとだけがなります。その神の計画の完成に向かって、神のことばに励まされ、様々な挫折を乗り越え、神の計画を完成に導く人は幸いです。それは神がなさることです。私たちに必要なことは、それが自分にできるかどうかということではなく、神の御心なら神が完成に導いてくださると信じ、その完成に向かって神とともに歩むことなのです。

Ⅲ.神殿の奉献式(16-22)

最後に、16~22節を見て終わります。「6:16 イスラエルの子ら、すなわち、祭司、レビ人、そのほかの捕囚から帰って来た人たちは、喜びをもってこの神の宮の奉献式を祝った。

6:17 彼らはこの神の宮の奉献式のために、雄牛百頭、雄羊二百匹、子羊四百匹を献げた。また、イスラエルの部族の数にしたがって、全イスラエルのために罪のきよめのささげ物として、雄やぎ十二匹を献げた。6:18 また彼らは、エルサレムでの神への奉仕のため、祭司をその区分にしたがって、レビ人をその組にしたがってそれぞれ任命した。モーセの書に記されているとおりである。

6:19 捕囚から帰って来た人々は、第一の月の十四日に過越を祝った。6:20 祭司とレビ人たちは一人残らず身をきよめて、みなきよくなっていたので、捕囚から帰って来たすべての人々のため、彼らの同胞の祭司たちのため、また彼ら自身のために、過越のいけにえを屠った。6:21 捕囚から戻って来たイスラエル人はこれを食べた。イスラエルの神、【主】を求めて、その地の異邦の民の汚れから離れて彼らに加わった者たちもみなそうした。6:22 そして彼らは七日間、喜びをもって種なしパンの祭りを守った。これは、【主】が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」

神殿再建工事を終えると、イスラエル人の祭司、レビ族の人々、その他バビロンから帰って来た人々は、喜びをもってこの主の宮の奉献式を祝いました。献げられたのは雄牛100頭、雄羊200匹、子羊400匹でした。また、イスラエルの部族の数に従って、イスラエル人全体の罪のためのいけにえとして、雄やぎ12匹が献げられました。これはソロモンの時と比べたら、圧倒的に少ないです。その時には牛2万2千頭、羊12万頭が献げられました(1列王8:63)。それは、帰還民が非常に貧しかったということを示しています。なるほど、過去の神殿の栄華を知っていた人が悲しみで泣いたのもわかります。

また彼らは、エルサレムでの神への奉仕のため、モーセの律法に記されてある通り、祭司とレビ人の人数を、それぞれの区分に従って任命しました。ここで重要なのは、それがモーセの律法に記されてある通りに行われたという点です。それは律法に背を向けるなら再び悲劇が訪れるという認識があったからです。

捕囚の地から帰って来た人々は、第一の月の14日に過越を祝いました。これは、ユダヤ人たちが70年ぶりに祝う過越の祭りです。祭司とレビ人たちは、一人残らず身をきよめ、バビロンから帰って来た人たちのために、過越の祭りを祝いました。そればかりでなく、イスラエルの神、主を求めて、その地の異邦の民の汚れから離れて彼らに加わった者たちもみな、ともにこの過越の祭りに加わりました。そして、彼らは7日間、種なしパンの祭りを守りました。この種なしパンの祭りとは、過越の祭りに続く7日間の祭りです。ですから、彼らは全部で8日間お祝いしたのです。これは捕囚の期間が終わり、ユダヤ人たちが約束の地に帰還したことを示しています。これは主が彼らを喜ばせ、また、アッシリヤの王の心を彼らに向かわせてイスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからです。ここにアッシリヤの王とあるのを見て「あれっ」と思う人もいるかもしれませんが、かつてのアッシリヤ帝国は今はペルシヤのものになっていますから、これは間違いではありません。神がペルシアの王キュロスの心を彼らに向けさせ、イスラエルの神である主の宮の工事にあたり、彼らを力づけ完成させてくださったのです。

つまりエズラは、これらすべての工事の成功と祭りの喜びは主から来たものであると言っているのです。主が事を始めてくださったのだから、主がそれを完成させてくださいます。ピリピ1章6節に「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」とある通りです。神が始めてくださったのなら、神は必ず完成させてくださいます。そのためには、彼らがハガイとゼカリヤの預言によって励まれたように、私たちも神のことばによって励ましをいただき、そこにどんな妨害があっても神が成し遂げてくださると信じなければなりません。私たちの人生の成功は、あなたがどう思うかではなくあなたが何を信じ、だれとともに歩むのかによって決まるのです。

エレミヤ44章1~14節「それなのに、なぜ」

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今日は、エレミヤ書44章1~14節から、「それなのに、なぜ」というタイトルでお話します。この44章は、エレミヤがユダの民に語った最後の預言です。確かに46章でもエジプトに関する言及がありますが、エレミヤの預言者としての生涯という観点では、この44章がエレミヤの最後の預言となります。晩年になり、エジプトの地に強制的に連れて来られ、その地でいのちある限り預言者として忠実に仕えたエレミヤの最後のメッセージは何だったのでしょうか。それは、「それなのに、なぜ」でした。過去の失敗から学ぶように。同じ過ちを繰り返すなということです。

 Ⅰ.神の目で過去の出来事を見る(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。

44:1 エジプトの地に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住む者たちに対する、エレミヤにあったことばは、次のとおりである。

43章では、バビロンによって滅ぼされたユダの残りの民が、神のことばに逆らってエジプトにやって来たことを見ました。今日の箇所には、それから数年が経ちエジプトに定住するようになった彼らに対して、エレミヤが語った主のことばが記されてあります。

彼らはミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住んでいました。ミグドル、タフパンヘスはエジプト北部にある国境の町です。メンフィスは、そこから南に150キロほど下ったナイル川流域のエジプト北部の中心都市です。これらの町々は下エジプトと呼ばれるエジプトの北部にある町々です。一方、パテロス地方というのは、ナイル川のはるか上流にあるテーベという都市の南にある地域で、上エジプトと呼ばれている地域です。すなわち、タフパンヘスまでやって来たユダの民は、そこからエジプト全域に分散して住むようになっていたということです。そのユダの民に対してエレミヤを通して主が語られたことばがこれです。2~6節をご覧ください。

「44:2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわいを見た。見よ。その町々は今日、廃墟となって、そこに住む者もいない。44:3 彼らが悪を行って、わたしの怒りを引き起こしたためだ。彼らは、自分自身も、あなたがたも、父祖たちも知らなかったほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えた。44:4 それで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、わたしの憎むこの忌み嫌うべきことを行わないように言ってきたが、44:5 彼らは聞かず、耳を傾けず、ほかの神々に犠牲を供えることをやめて悪から立ち返ることはなかった。44:6 そのため、わたしの憤りと怒りが、ユダの町々とエルサレムの通りに注がれて燃え上がり、それらは今日のように廃墟となって荒れ果てている。』」

「わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわい」とは、バビロンによってエルサレムが滅ぼされた出来事のことです。当時のユダの王はゼデキヤでしたが、ゼデキヤの2人の息子たちは虐殺され、彼自身も両目をつぶされ、足には青銅の足かせをはめられて、バビロンに連れて行かれました。エルサレムにあった王宮や民の家も火で焼かれ、城壁は打ち壊されて、都に残されていた残りの民は、バビロンへ捕え移されました。彼らは、そのすべてのわざわいを見たのです。その町々は今どうなっていますか?その町々は、廃墟となっています。そこに住む者は誰もいません。なぜですか。それは3節にあるように、彼らが悪を行って、主の怒りを引き起こしたからです。彼らは、自分たちの知らないほかの神々に犠牲を捧げて仕えました。偶像に仕えたということです。それは主が最も忌み嫌うことでした。主がモーセを通して彼らと結ばれた契約、十戒の第一の戒めは何でしたか。それは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)でした。自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んでも、それらに仕えてもならない。それなのに彼らはその戒めを破り、ほかの神々のところに行って仕えたのです。主はその忌み嫌うべきことを行わないようにと、早くからたびたび預言者たちを遣わして警告したにも関わらず、彼らはそれを聞こうとしませんでした。それで主の憤りと怒りとが、ユダの町々とエルサレムとに注がれたのです。これはどういうことでしょうか。

過去の歴史をよく見なさい、ということです。過去に何があったのかを見て、なぜそれが起こったのかを考えるようにということです。エレミヤはここで、過去に起こった出来事を振り返り、それがどういうことなのかを、神の視点で語っているのです。このように過去の歴史を振り返り、それがどういうことなのかを理解することは、極めて重要なことです。なぜなら、それによって未来が決まるからです。なぜ、エルサレムは滅んだのでしょうか。その理由なり、その解釈は、人によって違いますが、神の目では、それは彼らがほかの神々のところに行って仕えたことが原因でした。また、それを止めるようにとたびたび預言者たちを遣わしたのに、それを聞かないで悪から立ち返ることをしませんでした。それが原因でした。

皆さん、私たちも皆それぞれ過去がありますが、それをどのように見るか、どのように受け止めるか、どのように解釈するかはとても重要です。以前、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しましたが、彼らは人生をどのように見るかというと、現在から過去を見て未来を見ます。ちょうどボートに乗って向こう岸に行くのと同じです。未来は見えません。見えるのは過去だけです。まっすぐに進むために目印となるのはこれまで進んできた航跡(こうせき)なのです。それによって起動を修正しながら前に進んで行くのです。それは私たちも同じです。自分が歩んできた過去を見て、それがどういうことなのかを神の目で見るというか、霊的に解釈することによって前に進んで行くことができるのです。

先週、Y姉の告別式を行いました。私はY姉の92年の生涯を振り返り、Y姉の生涯はどのような生涯だったのかを思いめぐらしたとき、それは神によって運ばれ、神によって導かれ、神によって恵みと祝福に満ち溢れた生涯だったのではないかと思いました。まさに詩篇23篇6節にあるように、「いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう」とダビデが告白したように、いつくしみと恵みとが追ってくるような生涯でした。なぜなら、Y姉は自分で頑張って道を切り開きその道を歩んできたのではなく、神が用意してくださった道を、「それならあなたに従いますのでよろしくお願いします」と、ただ従って歩まれたからです。そういう生涯を神様が祝福してくださいました。それはまさにAbundantlyな生涯だったのです。だから、私たちもそのように神様によって運ばれ、神様によって導かれ、神様によって恵みに満ち溢れる生涯を歩ませていただきたいと、告別式でお話しさせていただいたのです。それはY姉の生涯を神様の目で、霊的な視点で見ることによって示されたことでした。

皆さんもご存知の三浦綾子さんは、小説を書くことを通して主の栄光を現わされました。おそらく、日本のキリスト教宣教において最も大きな影響を与えた人の一人ではないかと思いますが、それは三浦綾子さんがすべての出来事を神の目を通して捉えておられたからではないかと思います。三浦綾子読書会の代表の森下辰衛さんは、このように言っておられます。

70歳で難病のパーキンソン病を発症し症状が進んで来たころ、三浦綾子さんは「書きたいことはあるけれど、もうその体がわたしにはない。でも、わたしにはまだ死ぬという仕事がある」(三浦光世「死ぬという大切な仕事」より)と言いました。老いて不自由になり何もできなくなった、ではなくて、死ぬということも大切な仕事であり、使命だという緊張感があるのですと。
  中学教師だったAさんは、妻が40代で多発性脳梗塞になり全身麻痺、言葉も失い、寝たきりとなりました。以来、長年の介護で体はボロボロになりました。AさんがステージⅣの癌とも診断されました。気持ちが折れそうになり、介護殺人が心をよぎります。そんなある日、妻の容態が悪化し救急車で運ばれました。そのときAさんは「妻が死ぬ。これで介護地獄から解放される!」と思ったそうです。
  妻が入院中、一人で夕食をしながら、テレビをつけると三浦光世さんと綾子さんの老々介護の様子が紹介されていました。光世さんは虫眼鏡とピンセットで魚の骨を一本一本抜いて綾子さんに食べさせていたました。夜、多い日は7回もトイレに連れて行くのです。
  それでも光世さんは、「綾子、介護するよりも介護される方が辛いに決まってるんだから、もっとわがまま言っていいんだよ」と語りかけていました。そして「苦難にあわないのが良いことではなく、苦難は試練であり、与えられた使命です」と言っていました。こんな世界があったのかと、Aさんは泣きました。そして不思議に心が変わっていきました。やがて妻が退院し介護が再開しましたが、おしめを換えるのも辛くはありません。「すっきりしたか」と声を掛けると、話せない妻がニッコリと笑顔で返してくれるのが、心からいとしくなったそうです。
  三浦夫妻は、老々介護だけの日々になっても、こんなにも夫婦の愛を示して、小説を書いていた時とおなじくらい、多くの人を励ますという務めを果たしました。
  「死ぬという大切な仕事がある」と言えるのは、そこに死を超えた方の眼差しがあるからです。私を産まれさせ、生かし、老いるという仕事も死ぬという仕事も与えて下さり、見守ってくださり、全部用いてくださる方がおられる。そんな信頼があるからです。」(ともしび2025春号 三浦綾子読書会 相談役 森下辰衛)そして、死ぬということを、神様の目で、霊的視点で見ておられたからです。私たちも過去の出来事を、いや、今置かれている状況を神様の目で、霊的な視点で見るなら、「こんな世界があったのか」と思うような驚きと励ましをいただき、不思議に心が変えられ、考えが変えられ、行動が変えられていくのです。

あなたはどうですか。あなたは自分の過去の出来事をどのように受け止めていらっしゃいますか。そこから何を学んでおられるでしょうか。それは思い出すにはあまにも辛いことかもしれません。でも神様はその出来事を通してもあなたに語っておられるのです。ですから、それを神様の眼差しで見つめ直し、そこにこめられた神様の思いを受け止めて、神様があなたの人生を丸ごと抱きしめるように愛して責任をとってくださると信じて、すべてをおゆだねしたいと思うのです。それが、奪われることのない人生の祝福の基盤だからです。

Ⅱ.過去の失敗から学ぶ(7-14)

第二のことは、失敗から学ぶということです。エレミヤはこれまでのユダの失敗、ユダの過ちを踏まえて、何が神のみこころなのかを語ります。7~14節の内容です。まず7節と8節をご覧ください。

「44:7 今、イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる。なぜ、あなたがたは自分自身に大きなわざわいを招き、ユダの中から男も女も、幼子も乳飲み子も断って、残りの者を生かしておかないようにするのか。44:8 なぜ、あなたがたは、寄留しようとしてやって来たエジプトの地でも、ほかの神々に犠牲を供えて、自分の手のわざによってわたしの怒りを引き起こすのか。こうして、あなたがたは自分たち自身を絶ち滅ぼして、地のすべての国々の中で、ののしりとそしりの的になろうとしている。」

これほどの悲劇を体験しながらも、偶像礼拝を好むという民の性質は何も変わっていませんでした。彼らは寄留したエジプトの地でもほかの神々に香をたいて、神の怒りを引き起こしていました。そんな彼らに対して神が語られたことは、「それなのに、なぜ」ということでした。7節と8節には、「なぜ」ということばが強調されています。なぜエルサレムは滅んだのでしょうか。なぜユダの町々が廃墟となったのでしょうか。それは彼らが神の怒りを引き起こしたからです。それなのになぜ、あなたがたはエジプトの地でも同じ過ちを繰り返して、わたしの怒りを引き起こすのか、と訴えているのです。これはもはや神の悲痛な叫びと言えるでしょう。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼らが過去の失敗から学ばなかったことです。彼らは過去においてバビロン捕囚という神の審判を現実に体験しそれを見たのみならず、実際に自分たちも今、エジプトの地に離散させられているにもかかわらず、なおも先祖たちと同じようにほかの神々に仕え、神の怒りを引き起こしていました。彼らはわざわいの原因となった行動を断ち切らなかったのです。そうした彼らに対して主は、「それなのに、なぜ」と嘆いておられるのです。それは彼ら自身に大きなわざわいを招くことでした。それなのになぜ、彼らは神に立ち返らなかったのでしょう。

二つの理由がありました。一つは9節にあるように、彼らが、かつてユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪をすっかり忘れていたことです。9節にはこうあります。「あなたがたは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れたのか。」

彼らは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れていました。まさに、のど元過ぎれば熱さ忘れる、です。

このことについて、バイブルナビはこのように解説しています。「私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負う。ユダの民はこのことについて苦労していた。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことにつながる。失敗から学ばないと、未来にもまた失敗することが確実になる。あなたの過去は経験の学校である。あなたの過ちが、あなたを神の道へと導いてくれるようになるでしょう。」

皆さん、私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負うことになります。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことになるのです。「あなたの過去は、経験の学校である。」いいことばですね。「イエス・キリストを信じるなら、すべての問題は解決して、平坦な道を歩むことができる」ということばを聞くことがありますが、それはうそです。クリスチャンは成功と安逸な人生だけを約束されているのではなく、依然として失敗と苦しみも経験します。しかし違うのは、その失敗と苦しみを通して学び成長することができるということです。あなたの過去は経験の学校なのです。そこから学ぶことによって、あなたは確実に成長を遂げることができるのです。

聖書の中でよく失敗した人物といえばペテロでしょう。アメリカのニューヨーク州グレースチャペルの牧師レスリー・B・フリン(Leslie B. Flynm)はペテロを「ガリラヤ湖のような人だ」と表現しました。ガリラヤ湖は海かと思うほど大きな湖です。ある時は静かで穏やかですが、あっという間に荒れ狂います。いつ波が起こるかわからない、それがガリラヤ湖です。そのガリラヤ湖で魚を捕っていたせいか、ペテロの性格もまた、ガリラヤ湖のようでした。いつどうなるかわからない、落ち着きのない性格だったのです。「静かにしていなさい」と言うと騒ぎ出し、「目を覚ましていなさい」と言えば眠りこけ、「眠れ」と言えば起きて動き出しました。「勇気を持て」と言えば卑屈になって閉じこもり、「進み出ろ」と言うと走り込みました。イエス様も彼のことが、気が気ではなかったのではないかと思います。

でも、イエス様が「人々は人の子をだれだと言っているか」とお尋ねになられたとき、弟子たちは「エリヤだと言っています」とか「バプテスマのヨハネです」と答えたので、「では、あなたがたはわたしをだれだと言うか」と12弟子に尋ねられると、ペテロは待っていましたと言わんばかりに、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と正確に答えました。それを聞かれたイエス様は大いに感動されて、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明かしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(マタイ16:17)とペテロを祝福されました。

しかし、その後イエス様が、やがてご自分が十字架にかかって死なれることを語られると、ペテロは、今度はイエス様をわきにお連れして、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」(21節)と言って、イエス様をいさめたのです。これに大いに失望なされたイエス様は彼に、「下がれ。サタン」(23節)とおっしゃいました。このことは、数日の間に起こった出来事ではありません。同じ場所で、数分の間に起こったことなのです。人を感動させたかと思うとすぐに失望させる、そんなめまぐるしく浮き沈みをする人生がペテロの人生でした。

そんなペテロの生涯の中でも最も大きな失敗は、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と豪語したにもかかわらず、イエス様が捕らえられた時、人々が「あなたもイエスと一緒にいたではないか」と言うと、すべての人の前でそれを否んだことです。「そんな人など知らない」と。

しかしそんな問題だらけのペテロでしたが、やがて信仰に堅く立ち、不動の者とされていきました。どうしてでしょうか。それは復活のイエス様に出会ったからです。復活のイエス様と出会って、主が完全にしてくださるという事実を信じたからなのです。イエス様は完全なペテロに向かって「あなたはペテロ(岩)です」と言われたのではありません。彼はもともと「シモン」でした。「シモン」という名前は「葦」という意味があります。あの揺れ動く葦です。イエス様はそのシモンに「岩」という意味の「ペテロ」という名前をお付けになられたのです。ペテロがまだ弱かったとき、彼の性格を知り、彼の過去を知り、彼の未来を知っておられる主が、「あなたをペテロとする」と言って、彼を変えてくださったのです。
  変えられない人など、一人もいません。たとえあなたの気質がペテロのようで、ペテロのような弱さがあるとしても、イエス様に出会い、聖霊に満たされるなら、あなたも変えられるのです。それが、ペテロが学んだことです。変えられない人は一人もいないということです。彼は後に書いた手紙の中でこう言っています。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)

 彼は、主が完全にしてくださるという事実を信じたのです。同じように、主はあなたを必ず変えてくださいます。この世に完全な人などいるでしょうか。いません。ペテロも不完全な者でしたが、主が長い時間をかけて整え、用いられました。私たちも自分の弱さに失望してはなりません。また、他の人を罪に定めることもしてはなりません。大切なのは失敗から学ぶことです。ペテロが「主が完全にしてくだる」と言ったように、たとえ今、不完全でも、やがて完全にされ、堅くされ、強くされると信じて、神様の約束にゆだねるなら、あなたも確かに変えられるのです。

 ユダの民が主に立ち返らなかったもう一つの理由は、彼らの心が頑なで、砕かれていなかったことです。10節にこうあります。

「彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがとあなたがたの先祖たちの前に与えたわたしの律法と掟に歩まなかった。」

人は環境が変わっても、心からの悔い改めない限り、本質的に変わることはありません。神のさばきによって、ある者たちはバビロンに引いて行かれ、ある者たちは神の警告を無視してエジプトに来たからと言って、彼らの心が変わることはありませんでした。彼らの心が変わるためには、過去の失敗から学び、心砕かれ、神を恐れなければなりませんでした。ダビデはそうでした。彼はバテ・シェバと姦淫し、その夫ウリヤを戦場の最前線に出させて死なせるという罪を犯しましたが、預言者ウリヤによってその罪が示されたとき、心から悔い改めました。彼は詩篇51篇17節で次のように言っています。

「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:17)

神へのいけにえは砕かれた霊。砕かれた、悔いた心です。神はそれを蔑まれません。ダビテは心砕かれて、神の御前に心から悔い改めましたので、神の赦しを受けたのです。

私たちもありのままの姿で主の御前に進み出なければなりません。弱さが多く、足りないことは、私たちにイエス様が必要であることを意味しているからです。長所のゆえにイエス様の前に進み出ることのできる人など、一人もいません。弱さのゆえに主のもとに進み出て、自分の弱さを告白するようになるのです。

イエス様が最も嫌われた人々はだれでしょうか。パリサイ人です。パリサイ人たちは外側を美しく飾ることに懸命になっていました。内側は腐っているのに、それに気付かないで、包装紙だけを小ぎれいにしていたのです。しかし主が願われるのは、そのような仮面を被った人ではなく、正直に、ありのままの姿で、主のもとに進み出る人です。
  「主よ!私は罪人です。主よ!私はお天気屋です。主よ!私は意志が弱いです。主よ!私は整えられていない者です。主よ!私は矛盾だらけな者です。」と、主の御前に自分のありのままの姿を告白できる人です。多くの人は、自分の弱点を自分で見ることができません。そういう人は回復に時間がかかります。自分の弱さを見て、主の御前にそれをさらけ出すことができる人こそ、主の取り扱いを受けて回復し、立ち上がることができるのです。

Ⅲ.絶望の中でも希望が残されている(11-14)

それなのにユダの民は過去の罪、過ちから何も学ぼうとしませんでした。同じ過ちを繰り返しただけでなく、それを悔い改めようともしませんでした。それゆえ、主はエジプトにいたユダの民にこう宣告されたのです。11~14節をご覧ください。

「44:11 それゆえ、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『見よ。わたしはあなたがたに顔を向け、わざわいを下し、ユダのすべての民を絶ち滅ぼす。44:12 わたしは、エジプトの地へ行ってそこに寄留しようと決意したユダの残りの者を取り分ける。彼らはみな、エジプトの地で、剣と飢饉に倒れて滅びる。身分の低い者も高い者もみな、剣と飢饉で死に、のろいと恐怖のもと、ののしりとそしりの的となる。44:13 わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。44:14 エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き残る者もいない。彼らはそこに帰って住みたいと心から望んでいるが、わずかな逃れる者以外は帰らない。』」」

エジプトでも相変わらず心が頑ななユダの民に対して主は、「わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。」と宣告されました。エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き帰る者もいません。彼らがそこに帰って住みたいと心から望んでも、それが叶うことはありません。ただわずかな者だけが帰ることができます。ほとんどの民は、かつてエルサレムの住民が味わった恐怖を体験することになります。なぜなら、彼らが主のことばに聞き従わなかったからです。彼らの先祖たちが犯した罪の結果を見ても、そこから何も学ぼうとせず、同じ過ちを犯してしまいました。

私たちはこのユダの失敗から学ぶべきです。もし聖霊によって示さる罪があるなら、心砕かれて、悔い改めなければなりません。へブル3章7~8節にこのようにあるとおりです。

「ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」

しかし、14節をよく見ると、ここに「わずかな者は逃れて帰るだろう」とあります。ほとんどすべての民が滅びることになりますが、本当に少数の者ですが逃れることができます。ここに神様のあわれみがあります。この「わずかな逃れる者」が、「イスラエルの残れる者」です。神はイスラエルに審判をくだされますが、滅ぼし尽くすことはありません。そこから人類に救いの道を備えておられたのです。つまり、神はどのような悲劇の中にでも、必ず恵みと希望を備えておられるということです。もう終わりだと思うような時でも、まだ希望が残されているのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)

神があなたに立てておられる計画はわざわいではなく、将来と希望を与えるためのものです。悔い改めるに遅すぎることはありません。神の恵みと希望は残されているのです。たとえどんなに絶望的な状況の中にあっても、神を信じる者にとって絶望はありません。大切なのは、神に立ち返ることです。確かに今が恵みの時、今が救いの日です。過去の失敗から学びましょう。もし聖霊によって罪が示されたなら、頑なにならないで、砕かれた、悔いた心をもって主に立ち返ろうではありませんか。あなたがどんなに落ちても、救い主はあなたが立ち返るのをずっと待っておられるのです。

エレミヤ43章1~13節「エジプトではなく、神に」

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今日は、エレミヤ書43章から「エジプトではなく、神に」というタイトルでお話します。42章では、ユダの民がエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきかを、エレミヤを通して主に尋ねました。彼らは「それが良くても悪くても、主の御声に聞き従います」(42:6)と言ったにもかかわらず、いざ神の御心が示されるとそれに従いませんでした。ユダの地にとどまるようにという主の御声を退けて、「いや、エジプトに行こう」(42:14)と言ったのです。彼らは、最初から従うつもりなどありませんでした。ただ自分たちの計画に神が同意してくれた時のみ従おうとしていたのです。

かくして彼らはエジプトに下って行くことになりますが、その結果、どうなったでしょうか。主はバビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、ある者たちを殺し、ある者たちを捕虜とし、ある者たちを剣に渡すと語られました。さらにエジプトの神々の神殿を火で焼かれます。エジプトの力を過信して彼らに頼ったユダの民は、神のさばきを受けることになるのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。神よりもエジプトを頼ったことです。彼らは神の御声に聞き従わないで、自分の思いを優先しました。エジプトではなく、神に信頼しなければなりません。神は最後の最後まで、ご自身に立ち返ることを願っておられるのです。

 Ⅰ.主の御声に聞き従わなかった民(1-4)

まず、神の御声に聞き従わなかったユダの姿を見ましょう。1~4節をご覧ください。

43:1 エレミヤが民全体に、彼らの神、【主】のことばを語り終えたときのこと。彼らの神、【主】はこのすべてのことばをもって、エレミヤを彼らに遣わされたのであるが、43:2 ホシャヤの子アザルヤ、カレアハの子ヨハナン、および高ぶった人たちはみな、エレミヤにこう告げた。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、【主】は『エジプトに行ってそこに寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。43:3 ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデア人の手に渡して、私たちを死なせるか、あるいは、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」43:4 カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちと、民のすべては、「ユダの地にとどまれ」という【主】の御声に聞き従わなかった。」

エレミヤが民全体に、主のことばを語り終えると、彼らは全く受け入れるどころか、それを語ったエレミヤを非難しました。「あなたは偽りを語っている」と。エジプトに行ってそこに寄留してはならないというのは、エレミヤの預言を筆記していたバルクにそそのかされてそう言っているだけで、バルクは自分たちをバビロンに引いて行かせようとしているのだと、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかったのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。2節に「高ぶった人たち」とあります。それは彼らが高ぶっていたことです。高ぶっていると神のことばに従うことができません。自分を信頼するからです。謙遜な人は神に信頼しますが、高ぶっている人は自分を信頼します。謙遜な人は神に栄光を帰しますが、高ぶっている人は自分に栄光を帰そうとします。これが問題です。へりくだっているなら神に信頼し、神のことばに従おうとしますが、高ぶっていると神のことばに従うことができないのです。ですから、神の御心に従うためにはへりくだらなければなりません。しかし、このへりくだるということがなかなか難しいのです。

これは寓話ですが、ある若い牧師が、地域のキリスト教団体から、その年の最も謙遜な牧師として表彰されました。教会員もみんな感謝して表彰式に行きました。その式で彼は、最も謙遜な牧師として、謙遜がいかに大切であるかをスピーチしました。ところが次の週、教会員がその表彰状をその団体の本部に返しに来たというのです。その理由は、なんとその牧師はいただいた表彰状を額に入れ、それを教会のロビーに飾ろうとしたからでした。「先生、止めてください。これは返上した方がいいです」と、返しに来たというのです。
  この寓話は真理を突いていると思います。へりくだるというのは、それほど難しいことなのです。

18世紀にイギリスのリバイバル運動を指導したジョン・ウェスレー(1703~1791)は、「キリスト者の完全」という本の中でこう言っています。「もしあなたが完全に罪から解放されていると信じるなら、まず高ぶりの罪に警戒しなさい。この罪だけは、あらゆる欲から解放された心の人も捉えることができることを私は知っている。」

なぜ神のことばに従うことができないのでしょうか。なぜ長老たちに従うことができないのでしょう。なぜ互いに従うことができないのでしょうか。高ぶっているからです。これが罪の本質であって、これを克服できるなら、どのような問題も解決することができるでしょう。なぜなら、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになられるからです。ですから、聖書はこのように勧めています。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:6-7)

ここには、へりくだるとはどういうことなのかが教えられています。それは、あなたの思い煩いのいったい神にゆだねることです。つまり、へりくだるとは、何か特別な思いや取り組みではなく、私たちのありのままの姿を神の前で見つめ、その弱さ、足らなさ、いや罪深い姿を神の御前にさらけ出して、「神さま、どうかよろしくお願いします」と、神様にゆだねる心の営みなのです。

星野富広さんの詩の中に、「あけび」という詩があります。
「あけびを 見ろよ。
木の枝にぶら下がり、体を二つに割って
鳥がつつきにくるのを動きもしないで待っている
誰に教えられたのか あんなにも気持ちよく自分を投げ出せる
あけびを 見ろよ。」

そうです、「あけび」のようになることです。どのような困難が押し寄せようとも、私には全能の神様が付いているから大丈夫だと信じて、その力強い神の御手の下に自分を投げ出すのです。それがゆだねるということです。真に謙遜であるとはそういうことです。それが神のことばに従うために求められるのです。

Ⅱ.エジプトに下って行った民 (5-7)

次に、5~7節までをご覧ください。

「43:5 そして、カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、散らされていた国々からユダの地に住むために帰っていたユダの残りの者すべて、43:6 すなわち、親衛隊の長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、男、女、子ども、王の娘たち、さらに、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクを連れて、43:7 エジプトの地に行った。【主】の御声に聞き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパンヘスまで来た。」

こうして彼らは、エジプトの地に下って行きました。彼らは最初から神に従うつもなどなかったのです。ただ自分たちの計画に神が同意してくれる時のみ従おうと思っていただけでした。これは、申命記28章68節でモーセが預言していた通りでした。主はエジプトに下ることを禁じていたのに(出エジプト14:13, 申命記17:16)、彼らは主の御心に背いて下って行きました。

それは私たちにも警告されていることです。彼らが出エジプトという神の恵みにあずかりながら古いエジプトの生活に戻って行ったように、私たちも神の恵みによって罪から救われたにもかかわらず、再びこの世に戻って行ってしまうことがあります。私たちはかつて罪の奴隷として捕えられていましたが、イエス様が十字架でその罪の身代わりとして死んでくださったことによって、神はその罪から救ってくださいました。罪の奴隷から解放してくださったのです。罪の奴隷から神のしもべに、悪魔の支配から神の支配に、暗やみから光の世界へと移してくださったのです。にもかかわらず、かつての古い生活に戻ろうとすることがあるのです。それは、以前の主人であった悪魔が、クリスチャンが新しい主人である神に従うことを憎み、神に従わないようにと、あの手この手を尽くして誘惑し、以前の状態に引き戻そうとしているからです。

たとえば、悪魔は私たちの欲に働きかけて誘惑することがあります。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などです。「もっといい生活がしたい。」「あれもほしい、これもほしい」。そうした欲に働きかけるのです。ユダの民がエジプトに行こうとしたのもそうでした。そこは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病もないかのように見えました。本当に魅力的な場所に見えたのです。しかし、必ずしも人の目に魅力的に見える場所が祝福される場所であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病に満ちたわざわいの地になることもあるのです。大切なのは、神がともにおられるかどうかということです。神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられるからです。

あるいは、私たちの人生に起こるさまざまな試練を用いて誘惑することもあります。たとえば、病気とか事故、家庭の問題や人間関係の問題、経済的な問題などです。そうした問題を通して不安を与え、神から遠ざけようとするのです。「なぜ私ばかりこんなに苦しまなければならないのか」、「神がおられるならどうしてこのようなことが起こるのか・・・」と、神の愛に疑問を抱かせて、信仰を捨てるようにと誘惑するのです。

あるいは、試練や苦難ばかりでなく、逆に良いことを通しても誘惑することがあります。たとえば、一生懸命働くこともすばらしいことです。家族を愛することは大切です。休日に余暇を楽しむことも良いことです。しかしそれがどんなに良いことでも神より愛するなら、それが罠となって神から離れてしまうことがあります。イスラエルの民が神から離れたのは、これが一番大きな要因でした。彼らはパンがないとか水がないことによっても神を疑うことがありましたが、それよりも、豊かになった時の方が問題でした。高ぶって神を忘れてしまい、神から離れてしまったからです。

このように、悪魔は私たちが神に従わないようにと、あの手この手を使って誘惑してきますから、私たちはこの悪魔に立ち向かわなければなりません。どのようにして立ち向かったらいいのでしょうか。ヤコブ4章7節にはこうあります。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

ですから、神に従わなければなりません。私たちの力では、悪魔に立ち向かうことができないからです。神に従い、神の力をいただいて、悪魔に立ち向かうのです。

あなたをキリストの愛から引き離すものは何ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、剣ですか。しかし私たちは、これらすべての中にあっても、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となります。エジプトに行ってはいけません。どんなことがあってもキリストの愛と神の恵みにしっかりとどまっていなければなりません。自分の思いを明け渡して、神の御心をたずね求め、神に従いましょう。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。

Ⅲ.最後の最後まで(8-13)

最後に、8~13節をご覧ください。エジプトに行った民に対する預言のことばです。

「43:8 タフパンヘスで、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。43:9 「あなたは手に大きな石を取り、それらを、ユダヤ人たちの目の前で、タフパンヘスにあるファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰の中に隠して、43:10 彼らに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。見よ。わたしは人を遣わし、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える。彼はその石の上に本営を張る。43:11 彼は来てエジプトの地を討ち、死に定められた者を死に渡し、捕囚に定められた者を捕囚にし、剣に定められた者を剣に渡す。43:12 わたしがエジプトの神々の神殿に火をつけるので、彼はそれらを焼き、神々を奪い去る。彼は、羊飼いが自分の衣をまとうようにエジプトの地をまとい、ここから安らかに去って行く。43:13 また、エジプトの地にある太陽の神殿の石柱を砕き、エジプトの神々の神殿を火で焼く。』」」

ユダの残りの民は、タフパンヘスに到着します。そこはナイル川の東にあるエジプト国境にある町です。そこに来たとき、エレミヤに主のことばがありました。それは、大きな石を取り、それをファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰(しっくい)の中に隠して、彼にこう言えということでした。すなわち、主はバビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座をその敷石の上に据え、その石の上に彼が本営を張るというものです。すなわち、主はそこでネブカドネツァルを王座に据え、エジプトを打たれるというのです。これは一つのデモンストレーションでした。神はこの象徴的な行為によって、ご自分が行おうとしていることを預言者エレミヤに啓示し、その意味をタフペンヘスにいるユダの民に告げようとされたのです。

その結果、彼らはどうなりますか。死に定められた者たちを死に渡し、捕囚に定められた者を捕虜とし、剣に定められた者を剣に渡されます。また、エジプトの神々の神殿は火で焼かれるようになります。

これを行うのはバビロンの王ネブカドネツァルですが、主は彼のことを「わたしのしもべ」と呼んでいます。これはネブカドネツァルが神の信者であるということではなく、主の御業を実行する駒として用いられるという意味です。主が人を遣わして、ネブカドネツァルを連れて来させ、ご自身のご計画を成し遂げられるのです。どうして主はこのようなことをされるのでしょうか。それは彼らが真に拠り頼まなければならないのは主ご自身であることを示すためです。彼らは主よりもエジプトを頼りとしました。でも彼らが真に頼りとしなければならないのはエジプトではなく、主ご自身だったのです。

皆さん、どうでしょうか。私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。確かに神は力ある方、全能者、偉大な方であるということはわかっていてもいざ現実の生活の中で問題が起こると、目に見えるものに、エジプトに頼ろうとする傾向があるのではないでしょうか。しかし、そうしたものはあなたを救うことはできません。

イザヤ28章20節には、エジプトのことを指して「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」と言われています。エジプトの寝床は短すぎます。身を伸ばして寝ようとすると、足がベッドからはみ出てしまうのです。また、エジプトという毛布は小さすぎます。どんなに包まろうとしても小さすぎて背中が丸見えになります。そのようなベッドや毛布のように、エジプトはあなたを守ることはできないのです。あなたが拠り所としていたもの、ゆっくりと体を休め、体を温めることができると思っていたものが、いざというときに何の役にも立たないのです。私は生命保険に入っているから大丈夫です。銀行にこれだけ貯金があるから、こういう不動産があるから安心です。株があるから何とかなります。私には健康があるから大丈夫です。健康だけが取り柄です。私にはこの資格、あの資格があるから何とか食べていけますと、この世の毛布に身を包もうとしても、そうしたものは狭すぎるのです。寒いときには暖めてくれるだろうと思っていても、いざという時には何の役にも立たないのです。その究極が「死」です。あなたに死が襲い掛かる時、あなたが拠り所としているこれらのものが、あなたを本当に守ってくれるでしょうか。そうしたものはあなた助けにはなりますが、本当の意味で助けることはできません。あなたを守るには短すぎるのです。狭すぎます。人間的な計画はすべて、神のすぐれた御手の中で水の泡となるのです。ただ神だけが、私たちに真の安全をもたらすことができるのです。

かつて南ユダにヒゼキヤという王様がいましたが、このヒゼキヤの時代、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲したことがありました。その強大な敵の前に彼らは何のなす術もありませんでしたが、そのような中で彼らどうしたかというと主に祈りました。主に信頼して祈ったとき、主は彼らを助けてくださいました。何とその晩、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き18万5千人を打ち破られたのです。彼らが何かをしたからではありません。ただ彼らが神に拠りすがり、神に祈り求めた結果、神が働いてくださったのです。その結果、アッシリヤの王セナケリブは立ち去りました。主に信頼するなら、主が守ってくださいます。それは短かい寝床のようなものではありません。あるいは、狭くて暖められないような毛布のようなものではありません。あなたを完全に守り、包むことができます。

ですからエジプトではなく、神に頼まなければなりません。神に信頼する者は、決して失望させられることはありません。あなたにとってのエジプトは何ですか。あなたが拠り頼んでいるものは何でしょうか。

ところで主は、ご自身のみことばに従わないでエジプトに行ったユダに対して、なおも語られました。考えてみると、彼らはこれまでもずっと主のみことばに背いてきました。その結果、バビロン捕囚という憂き目に会ったわけですが、普通ならこれで終わりです。にもかかわらず神は、その後も何度も彼らに語られました。主は最後の最後まで語られたのです。一方、ユダの民はというと、最後の最後まで神のことばを拒みました。ここに民をこよなく愛しておられる神と、それを拒むユダの民の悲しい姿が対比されています。私たちはどこで立ち止まり、どこで神に立ち返るのでしょうか。神はあなたを愛しておられます。最後の最後まであなたに語られ、あなたが神に立ち返ることを願っておられるのです。立ち返れ。立ち返れ。立ち返って生きよ。それが神の心からの叫びなのです。

しばらくの間ずっと家内とエゼキエル書を読んで祈りましたが、18章に出てくる「立ち返って、生きよ」ということばが心にとまりました。18章にはこのことばが何度も繰り返して出てきます。最低でも6回出てきます。

「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか─神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18:23)

主が喜ばれるのは、私たちが立ち返って生きることです。神はあなたを救うことができます。完全に守ることがおできになるのです。この神に立ち返り、神に拠り頼みましょう。エジプトではなく神に、です。そして、神のことばに聞き従う者でありたいと思います。神に信頼する者は決して失望させられることはありません。このみことばを日々の生活の中で体験させていただきましょう。