エレミヤ書49章23~39節「ここに救いがある」

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46章から諸国の民についての語られた主のことばから学んでいますが、今日はダマスコに対して語られた主のことばと、ケダルとハツォル、そしてエラムに対して語られた主のことばから学びたいと思います。

三つのポイントでお話します。第一に、ダマスコに告げられたのは神のさばきという悪い知らせでしたが、ここに良い知らせがあります。良い知らせは、主イエスにあるということです。第二のことは、ケダルとハツォルに対する主のことばから教えられることですが、自分は一人でやっていけると思い上がるなら、滅びを招くことになるということです。そして第三のことは、エラムに対する主のことばから教えられることですが、あなたは何を誇り、力の源としていますかということです。神以外のものを誇るなら神はそのようなものを砕かれますが、主に立ち返るなら救いの恵みを受けることができということです。それでは、本文を見ていきましょう。

Ⅰ.ダマスコに対する預言(23-27)

まず、ダマスコに対する預言から見ていきましょう。23~27節をご覧ください。49:23 ダマスコについて。「ハマテとアルパデは恥を見た。まことに、彼らは悪い知らせを聞き、海のようにかき乱され、静まることもできない。49:24 ダマスコは弱り、恐怖にとらわれ、身を翻して逃げた。産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて。49:25 どうして、誉れの町、わたしの喜びの都が捨てられたのか。49:26 それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、黙らされる。──万軍の【主】のことば──49:27 わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす。」」

ダマスコはアラムの首都でした。アラムとは今日のシリアのことです。シリアはイスラエルの北方に隣接している国ですが、今日でもテレビのニュースでよく観ます。そのダマスコに対する預言です。

「ハマテとアルパデは恥を見た」とありますが、「ハマテ」と「アルパデ」はダマスコの北にあった町です。このハマテとアルパデは恥を見ることになります。彼らは海のようにかき乱され、静まることもできません。なぜなら、彼らは悪い知らせを聞くからです。それは敵によって海ようにかき乱され、静まることもできないという知らせです。ダマスコは弱り果て、恐怖にとらわれ、産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて、身を翻して逃げることになります。26節には、その日、敵の攻撃によってダマスコの若い男たちは町の広場に倒れ、戦士たちもみな、黙らされるとあります。黙らされるとは殺されるということです。そしてこの預言はB.C.605年に成就します。バビロンの王ネブカドネツァルはエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢を打ち破ると、このダマスコも打ちました。46章2節で見た通りです。27節には「わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その日はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす」とありますが、ダマスコの城壁は崩され、ベン・ハダドの宮殿は焼き尽くされました。

23節の真ん中に「まことに、彼らは悪い知らせを聞き」とありますが、それは本当に「悪い知らせ」です。バビロンの王によって焼き尽くされ、捕らえられるというのは、悪い知らせでしかありません。しかし、ここに「良い知らせ」があります。それは、そのバビロン捕囚から解放されるという知らせです。

それは「良い知らせ」、「福音」です。皆さんは「福音」という言葉をよく聞くと思いますが、福音とは何ですか。私はクリスチャンになる前にこの漢字すら読めませんでした。何だろう、「フクオン」って?「福音」とは、ギリシャ語では「εὐαγγέλιον」(エウアンゲリオン)と言いますが、この言葉は、元々はバビロン捕囚から解放される知らせを表していました。それがバビロン捕囚ならぬ罪の奴隷から解放されることを意味することばとして用いられるようになったのです。それが福音です。つまり、悪い知らせとは罪に捕らわれた状態であることに対して、良い知らせとは、その罪の奴隷の状態から解放されるという知らせのことなのです。

そこから解放してくださる方は誰ですか。それは言わずと知れた私たちの救い主イエス・キリストです。キリストは十字架で死なれ三日目によみがえられることによって、この救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、このイエスを救い主と信じるならだれでも救われるのです。罪から解放されます。これが福音です。私たちはこの福音によって救われました。

そしてこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者として私たちはこの世に置かれているのです。この世は良い知らせを知りません。知っているのは悪い知らせばかりです。テレビやネットから流れてくる情報は悪い知らせばかりじゃないですか。そこには全く希望がありません。この世の人たちは自分の中に神を求める思いがあるのに、その神がどのような方なのかを知らないからです。まさに「知られていない神」です。どこに行ったら良いのかわからずみんなさまよっているのです。もしこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を知ることができたら、どんなに希望と生きる力が与えられることでしょう。

私は先日右眼の手術を受けましたが、実はちょっとだけ不安がありました。昨年11月にも受けたのですが、その時に出血が目の奥に入り込んだため4日目もう一度手術を受けなければならなかったからです。かなり目にダメージがあったので、そうならないといいなぁと祈らずにはいられませんでした。

病院に到着後、その日は何もすることがなかったので、聴く聖書でテサロニケの手紙を聴きました。すると主はこのように語りかけてくださいました。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(Ⅰテサロニケ5:28)
  主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。それは私に対する神の約束のことばだと確信しました。主の恵みの御手があると。主が私を贖われた。主は私とともにおられる。強くあれ。雄々しくあれ。主はいつもあなたとともにおられる。

本当に励まされました。こんな時いくら「頑張ってください」と言われても、自分にはどうすることもできません。でも主があなたとともにおられるというメッセージは、本当に平安と希望を与えてくれました。そして主イエス・キリストの恵みによって手術は成功し、心配していた目の奥に血が入り込むこともなく、4日目に退院することができました。ハレルヤ!

ところで、手術が終わった日、さくらチャーチの一人のご婦人からメールをいただきました。その方は乳がんの検査を受けられたのですが、その結果陽性であることが判明しました。リンパ腺にも転移しているらしく、しばらく化学療法を続けた後で手術をする方針だとだということでした。
  私は片方の目でしたがすぐにメールを差し上げ、自分に与えられたイエス・キリストの恵みがその方にもあるようにと書き送りました。するとその方から返信が届きました。
 「先生、恵みの言葉を有難う御座います。今病院から戻りました。お盆前で院内も患者でいっぱいでした。先生のメールを読んでいまして、あ―、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らに居られると思いました。これから始まる科学療法にも、太刀打ちできる勇気が湧いてきます。何より増して、大橋牧師の手術が成功された事が嬉しいです。良かったですね。・・・・牧師に大いなる神の恵みを。アーメン。」

何だか逆に励まされたような感じですが、私はこれを読んで福音の力ってすごいなぁと思いました。「あー、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らにおられる」って言えるのは、本当に凄いことだと思うんです。この世にこのような希望があるでしょうか。十字架で死なれ、三日目によみがえられた主があなたをすべての罪から解放してくださった。主がいつもあなたとともにおられ、あなたの前を歩んでくださるというメッセージは、本当にかけがいのなにメッセージ、良い知らせです。この世のどこを探してもこんなにすばらしいメッセージ、福音の良い知らせはありません。この良い知らせがあなたにも与えられているということを忘れないでください。

Ⅱ.ケダルとハツォルの王国について(28-33)

次に、ゲダルとハツォルに対する主のことばを観たいと思います。28~33節をご覧ください。「49:28 バビロンの王ネブカドネツァルが討ったケダルとハツォルの王国について。【主】はこう言われる。「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。49:29 その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって叫ぶ。『恐怖が取り囲んでいる』と。49:30 ハツォルの住民よ、逃げよ。遠くへ逃れよ。深く潜め──【主】のことば──。バビロンの王ネブカドネツァルが、おまえたちに対してはかりごとをめぐらし、おまえたちに対して計略をめぐらしているからだ。49:31 さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。49:32 彼らのらくだは獲物になり、その家畜の群れは分捕り物になる。わたしは、もみ上げを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、あらゆる方向から彼らに災難をもたらす。──【主】のことば──49:33 ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなる。そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」」

「ケダル」はイシュマエルの息子の名(創世25:13)で、アラビア半島に住む遊牧民です。現在のサウジアラビアの辺りに住んでいたのではないかと考えられています。イスラム教徒によると、イスラム教徒の開祖はムハンマドですが、彼はこのケダルの子孫だと言っています。

「ハツォル」とは、ガリラヤ湖の北部にも「ハツォル」という町がありますがそのハツォルではなく、アラビア半島のどこかにあった町ではないかと考えられています。

そのケダルとハツォルに対して主は何と言われましたか。28節後半から29節には、「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。」とあります。これはバビロンの王ネブカドネツァルに対して言われたことばですが、彼はケダルに攻め上り、これを荒らし回ります。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られることになるのです。天幕と羊の群れとか、らくだと言われてねピンとこないかもしれませんが、たとえばこれを資産とかホンダのSUVのような高価なものに置き換えるとわかりやすいかと思います。あなたが今まで築いてきた資産のすべてが奪われたとしたらどうでしょうか。もう絶望するのではないでしょうか。なぜここにラクダが出てくるのか不思議に思われるかもしれませんが、ラクダは当時の貿易では欠かすことができない高価なものだったからです。「ラクダ」は砂漠の船と呼ばれていて、価値あるものでした。今でいうとそれこそホンダの車であったり、ハーレーダビッドソンのようなものです。ラクダに乗ったら楽だ!なんて。そんな価値あるものがすべて奪われるとしたらどうでしょう。もう立ち上がれないのではないでしょうか。車だけならまだしも、家や資産のすべてが奪われたとしたら悲しい限りです。ケダルとハツォルはまさにそんな悲惨な目に遭うのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

31節をご覧ください。ここには「さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。」とあります。
 どういうことでしょうか。ケダルとハツォルは遊牧民だったので、誰も自分たちのところに攻めてくる者はいないと、安心しきってのん気にしていたのです。鍵など必要ありませんでした。城塞都市ではなかったからです。いつものんきに暮らしていました。フーテンの寅さんのように。今の時代、鍵をかけなかったら大変ですよ。すっかり持って行かれます。娘が高校生の時、駅まで自転車で行っていましたが、何度盗まれたでしょうか。何台も盗まれました。しっかり鍵をかけていても、ですよ。
 しかし、ゲダルとハツォルはそういう心配がありませんでした。扉も、かんぬきも必要なく、だれとも同盟関係を結ぶ必要もありませんでした。そんなことしなくたって自分たちだけでやっていけると高をくくっていたのです。そういう自負心というか、プライドの結果、31節にあるように、彼らは孤立して住んでいたのです。

これはどこかの国に似ているんじゃないですか。この国もどちらかというとそういう傾向があります。確かに日本には同盟国があり孤立しているわけではありませんが、でも自分たちだけでやっていけるという勝手な思い込みがあるのではないでしょうか。誰の助けを受けなくても、自分の力でやっていけると。

それはクリスチャンも例外ではありません。自分は一人でやっていけるので別に教会に行く必要がないと思っている人が意外と多いです。信仰生活は一人でも守っていけるから大丈夫ですという思いがあるなら、それはこのケダルやハツォルと何ら変わりがありません。一人で聖書を読んで、一人賛美して、一人で礼拝できるから大丈夫です。時には家に人を招いて家庭集会をすることもできるし、メッセージだってインターネットでいくらでも聴くことができます。交わりだって教会に行かなくてもできるから大丈夫ですと言うなら、このケダル人やハツォル人と同じなのです。とんでもない勘違いをしていることになります。私たちは一人でなんて生きていくことなどできないからです。神はそのために教会を用意してくださいました。主にある兄弟姉妹が共に集まって共に礼拝し、共に生きるようにと。だから礼拝に来ると元気が出るんです。そして神様がどのようなお方なのかを本当の意味で知ることができて、その神によって力を与えられるのです。

今年の教会のテーマは、ともに生きる幸いです。「133:1 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133:1-3)とあるとおりです。

自分は一人でやっていけるとおごり高ぶるなら、ゲダルやハツォルのように、神のさばきを受けることになります。主はそういう人たちのところに攻め上れと、ネブカドネツァルに命じておられるように、やがて滅ぼされることになるのです。もうらくだ!なんて言えなくなります。

そしてこの預言の通り、B.C.599年にバビロンの王ネブカドネツァルがケダルを攻撃して、その天幕と家畜をすべて略奪しました。自分はどうなのかを吟味して、もしそのような思いがあるなら悔い改めて、神のみこころに歩ませていただこうではありませんか。

Ⅲ.エラムに対する主のことば(34-39)

最後に、エラムについて語られた主のことばを見て終わりたいと思います。34~39節をご覧ください。「49:34 ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった【主】のことば。49:35 万軍の【主】はこう言われる。「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。49:36 わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに吹きつけさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らす。エラムの散らされた者が入らない国はない。49:37 わたしは、エラムを敵の前に、そのいのちを狙う者たちの前にうろたえさせ、彼らの上にわざわいを、わたしの燃える怒りをその上に下す。──【主】のことば──わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす。49:38 わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。──【主】のことば──49:39 しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」」

ユダの王ゼデキヤの治世の初めとは、B.C.597年です。エラムとは、バビロンの東にあった国で、今日のイランのことです。地図をご覧ください。

(ラーンテック、「世界史探求」~初期のペルシアとメディア(前7世紀頃)~)

バビロンとペルシアの間にある地域です。ユダからはだいぶ離れたところに位置しています。そのエラムに対して主が言われたことはどんなことでしょうか。35節には、「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。」とあります。彼らの力の源は何でしたか。弓です。彼らは弓が得意だったのです。言うならば、これは軍事力ですね。それが彼らの力の源だったのです。彼らはそれを自慢していました。しかし主は、そんな彼らの力の源である弓を折ると言われたのです。もう頼りにならないようにすると。

それは私たちも同じです。もしあなたが神様以外ものを自慢しているなら、神様はそれをへし折られることもあります。神以外に誇るものがあるとしたら、それが何であれ折られるのです。使徒パウロはガラテヤ書6章14節で、私たちには私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはなりませんと言っています。もし十字架以外に誇るものがあるとしたら、神は時にそれをあなたから取り上げられることがあるということを覚えておかなければなりません。神の力によって私たちは砕かれ弱くされます。でもそれは一重に私たちが神を誇るようになるためです。

あなたが誇りにしているものは何ですか。あなたが自慢しているもの、あなたが絶対的な信頼を置いているもの、それは何でしょうか。私にはこれがある。あれがある。この資格がある。このキャリアがある。この仕事がある。健康がある。お金がある。家族がある。これらはすべて神の恵みです。それなのに、これらのものを神よりも誇ることがあるとしたら、神はそれを取られることがあるのです。でもその時はむしろ幸いです。なぜなら、神があなたの力となってくださるからです。

エラムの場合はどうでしょう。36節と37節をご覧ください。主は天の四隅から、四方の風をエラムに吹き付けさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らすと言われました。この「四方の風」とは、エラムに向かって攻めて来る敵のことですが、その結果、彼らはその地から散らされてしまうことになります。勿論、そこにはバビロンの王ネブカドネツァルもいました。彼はB.C.597年にバビロンはエラムを攻撃しました。そして最終的には37節にある通り、エラムは完全に絶ち滅ぼされてしまうことになるのです。主が語られたことは必ず実現します。自分を誇り、神以外のものに信頼を置くなら、あなたもエラムのような結果を招くことになることを覚えておかなければなりません。

しかし、エラムに対する預言はこれだけで終わっていません。39節をご覧ください。ここには、「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」とあります。これは、エラムに対する回復の預言です。エラムには、将来の回復の希望が語られているのです。これは終末時代に起こることですが、しかし、歴史上、それが既に成就していることを私たちは見ることができます。たとえば、使徒2章7~11節を開いてください。ここには、「2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」とあります。

これはペンテコステの日に、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々からエルサレム集まっていましたが、そのとき聖霊に満たされた弟子たちが、御霊が語らせてくださるままに、その人たちの国のことばで話し始めまると、それを聞いた人たちは驚いて、呆気にとられて言いました。彼らが自分たちの国のことばで話していたからです。そして、福音のことばを理解した彼らはイエス・キリスト信じて救われて行ったのです。9節を見ると、その中にこのエラム人がいたことがわかります。

「私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、」

彼らの完全な回復は終わりの日に成就しますが、このようにこの歴史においてすでに成就している部分もあるのです。

このように、神のさばきの宣告の中にも常に神のあわれみがあるのを見ることができます。46章からずっとさばきの宣告を聞き続けて、中には暗い気持ちになった人もおられるかもしれませんが、でも神はその都度その都度ちゃんと回復の希望を語り、救いの約束を与えておられたのです。ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる主は、その救いの御手を差し伸ばし続けておられるのです。決して背を向けて見捨てることはありません。勿論、どこまでも頑なな者に対しては妥協することはありませんが、でも同時に神様はあわれみ深い方であり、もしあなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はそのすべての罪を赦し、驚くべき恵みを注いでくださるのです。もうさばかれても致し方ない者に対して救いの御手を差し伸べてくださる。最後の最後まであきらめずに。そして神にしかできない救いの御業を成し遂げてくださるのです。

それは私たち日本人も同じです。自分たちは神様に頼らなくたってやっていけると豪語し、神に背を向け自分勝手に歩んでいるような者にも救いの御手が差し伸べられているのです。そうです、世の終わりにあっては間違いなく私たちはさばきに向かっていますが、そこにはちゃんとあわれみも備えられているのです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

ですから、私たちはこの時代がどういう時代なのかを見極めなければなりません。そして神のさばきを宣告しなければなりませんが、同時に神のあわれみと神の救いも、それ以上に力強く高らかに宣べ伝えなければならないのです。私たちは悪い知らせだけでなく、福音の良い知らせを宣べ伝えるために召された者なのですから。この世の人たちは良い知らせを知りません。知られない神を拝んでいます。こうした人たちにイエス・キリストのみ救いの良い知らせを宣べ伝えなければならないのです。それが私たちがここに置かれている最大の理由であり、最大の使命です。

エレミヤもその使命を全うしました。どのような取り扱いを受けようと、どんなに迫害されようとも、彼は最後までその使命を忠実に果たしたのです。私たちもそうありたいですね。確かに今は恵みの時、今は救いの日です。ここにその救いがありますと。救い主イエス・キリストを信じるなら、どんな人でも救われますと。たとえあなたがダマスコであっても、あるいはゲダルやハツォルのような人であっても、エドムのような人であっても救われて、永遠のいのちという神の祝福を受けることができるのです。その日を待ち望みつつ、主はこの国も救ってくださると信じて祈り続けようではありませんか。

エレミヤ49章7~22節「エドムについての預言」

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46章から諸国の民についての預言が語られています。これまでエジプト、ペリシテ、モアブ、アンモンに対する主のことばを学んできましたが、今日はエドムに対する主のことばです。

Ⅰ.神のさばきから免れることはできない(7-13)

まず、7~13節をご覧ください。7節にはエドムについて。万軍の【主】はこう言われる。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」とあります。

エドム人は、巻末の地図6「イスラエル王国とユダ王国」を見ていただくとわかりますが、死海の南東、モアブの南に住んでいました。彼らの先祖はヤコブ(イスラエル)の兄のエサウです。ですから、イスラエル人とは最も親しい関係にあった民族と言っても良いでしょう。彼らは文字通りイスラエル人(ヤコブ)とは兄弟だったのです。それなのに彼らは、歴史上、イスラエルと争いを繰り返し、ついにその名がイスラエルに敵対する異邦人諸国の象徴となりました(エゼキエル35:1-15)。そんなエドムについて、語られた主のことばがこれです。

テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。

「テマン」はその地図にボツラという地名が出てきますが、その南方約20キロメートルにある町です。創世記36章11節を見ると、テマンはエサウの孫の1人の名前として出ています。ヨブ記にはヨブの3人の友人が登場しますが、その1人がテマン人でした。何という人ですか?そうです、テマン人エリファズですね。彼はこのテマンの出身でした。まさにテマン人は知恵者として知られていたのです。そのテマンに対して主はこう仰せられました。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」どういうことでしょうか。そうした人間の知恵によっては神のさばきを免れることができないということです。どんなに知恵があっても、人間の知恵によっては神の怒りから救われることはできないのです。

8節をご覧ください。今度は「デダン」という町が出てきます。「デダンの住民よ、逃げよ。そこを離れよ。深く潜め。わたしが彼の上にエサウの災難を、彼を罰する時を、もたらすからだ。」

「デダン」は、エドムの南東、アラビア半島の北部にあった町です。テマンがエドムの北にある代表的な町なら、デダンは南にある代表的な町でした。今日のサウジアラビアではないかとも言われています。このデダンの住民に対しては何と言われていますか?デダンの住民に対しては、そこから離れるように警告されています。なぜなら、そこも神のさばきを受けることになるからです。このデダンはかつて商業都市として栄えた町でした。産物も豊富で、経済的に豊かな所でした。そこから離れるようにというのです。知恵で有名なテマンも、商業で有名なデダンも、神のさばきを逃れることはできないからです。いくら知恵があっても、いくら経済的に豊かであっても、そうした人間的なものによっては神の怒りから逃れることはできないのです。

9節には、その神のさばきの徹底さがぶどうの収穫にたとえられています。「ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろう。盗人が夜中に来るなら、彼らの気がすむまで荒らすだろう。」

ぶどうを収穫する者は、ぶどうの実を残すことはありません。取り残しがないように収穫するからです。主はそのようにエドムをさばかれるのです。また、夜中に来る盗人は気が済むまで奪っていきます。そのように主はエサウを裸にし、その隠れ場をあらわにするのです。

11節には「おまえのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生かし続ける。おまえのやもめたちやは、わたしに拠り頼まなければならない」とあります。
  みなしごたちややもめたちは保護されなければならない対象ですが、そのみなしごややもめたちを見捨てよと言うのです。どうしてでしょうか。神の激しいさばきが臨むからです。ですから彼らにはそんな余裕さえないのです。

それゆえ、主はこう仰せられます。12節です。「見よ。その杯を飲むように定められていない者でも、それを必ず飲まなければならないのなら、おまえだけが罰を免れられるだろうか。罰を受けずにはすまされない。おまえは必ず飲まなければならない。」

「その杯」とは神の怒りの杯のことです。その杯を飲むように定められていない者とは、イスラエルの民とは何の関係もない民、すなわち、異邦人のことを指しています。そのような者でさえ神の怒りの杯を飲まなければならないとしたら、まして神の民イスラエルと兄弟であるエドム人が神のさばきを免れられることは決してありません。どうしてですか?彼らは神の祝福に与りながらそれを軽視し、神の祝福を求めた弟ヤコブに敵対したからです。エサウはいわゆる肉的な人でした。彼は双子の兄として長子の権利という神の祝福が与えられていたにもかかわらず、一杯のレンズ豆のスープと引き換えにその権利を弟ヤコブに譲ってしまいました。そんなものはいらないと。それよりも美味しいシチューが食べたい。彼にとって霊的祝福はどうでも良いことだったのです。彼の関心はただ食べたり、飲んだりすることだけ、この世のことだけでした。彼は神の祝福を全く価値のないものとみなしていたのです。そういうエサウの性質を受け継いだのがエドム人です。ですから彼らが神のさばきを逃れることは決してないのです。必ず神の怒りの杯を飲まなければなりません。

13節をご覧ください。ここでは、それは必ず成就するということが言われています。お読みします。「まことに、わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。必ずボツラは恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となる。そのすべての町は、永遠の廃墟となる。」

「わたしは自分にかけて誓う」とは、100%それを成し遂げるという意味です。「ボツラ」は先ほどの地図にもありますが、エドムの首都でした。そこは今「ペトラ」と呼ばれている要塞都市で、世界遺産として有名な場所です。皆さんの中にはご覧になれられた方もおられるかもしれません。1989年の映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台にもなった町でもあります。そこはかつて繁栄を極めた町でした。なぜなら、そこは16節に「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ」とあるように、自然の要塞となっていたからです。どんな敵が攻めて来ても攻め入ることができない難攻不落の町だったのです。つまり、軍事的にも優れていたということです。彼らはそのことも誇っていました。さらに、後で写真を見ていただくとわかりますが、建築物のほとんどは岩山を削って造られたものです。そこに独創的な貯水システムも造られました。つまり、彼らは建築技術も優れていたということです。しかし、そんなボツラも永遠の廃墟となると、主は言われました。

不思議なことですが、今ボツラ(ぺトラ)は文字通り廃墟となっています。そこにはだれも住んでいません。かつては交易の中心地として、数万人が暮らしていましたが、今は人っ子ひとりいません。それゆえ、謎の古代都市と呼ばれているんです。ボツラはどうして没落したのか。13節にある通りです。ボツラは必ず恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となると。そのすべての町は、永遠の廃墟となるのです。そのことばの通りになったのです。

誰もこの神のさばきから免れることはできません。テマンのようにどんなに知恵があっても、デダンのようにどんなに経済的に豊かであっても、ボツラのように軍事的に優れ、高度な建築技術、科学技術を持っていたとしても、この神の怒りから逃れることはできないのです。いったいどうしたら良いのでしょうか。

そのためには、本当の岩であられる主に身を避けなければなりません。詩篇2篇12節にこうあります。「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。」
  「身を避ける」とは、「拠り頼む」とか、「信頼する」ということです。どこに身を避けるのか、だれのもとに身を避けるのかが重要です。エドム人は知恵や経済、軍事力、科学技術に身を避けましたが、そのようなものは神の怒りから人を救うことはできませんでした。神の怒りから人を救うことができるのは主なる神ご自身だけであって、この主に身を避けなければなりません。主に信頼しなければ救われないのです。

これが聖書全体を貫いているテーマです。主イエスを信じるなら救われるとそういうことです。なぜ主イエスを信じるなら救われるのでしょうか。なぜ主イエスに身を避けるなら救われるのでしょうか。なぜなら、主イエスこそ私たちが神の怒りから救われるために神が与えてくださった方法だったからです。パウロはこのことをこう述べています。ローマ5章9節です。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」

アーメン!「ですから」とは、その前に語られたことを受けてのことですが、その前には「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(5:8)とあります。「ですから」なのです。キリストは私たちがまだ罪人であったとき、私たちの罪のために死んでくださったことによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださいました。自分の敵のために死ぬ人がいますか。いません。自分の愛する人のためなら死ぬ人はいるかもしれませんが、自分に背き自己中心に歩んでいる人のために死ぬ人なんてほとんどいないでしょう。しかし神は、ご自身に背を向け自己中心に歩んでいた私たちのために、聖書ではこれを罪と言いますが、そんな罪人のために死んでくださることによって、ご自身の愛を明らかにしてくださったのです。それが神のひとり子イエス・キリストの十字架でした。イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれることによって、その罪を取り除いてくださったのです。「ですから」です。ですから、今すでにこのキリストの血によって義と認められた私たちが、神の怒りから救われるのはなおさらのことなのです。だってそのためにそれだけ大きな神の愛が注がれたのですから。救われないわけがありません。もしあなたがこのイエスをあなたの罪からの救い主として信じるならあなたの罪は赦され、神に義と認められ、神の怒りから救われるのです。イスラエルがエジプトから救われたように。彼らはどのようにエジプトから救われましたか?自分の家の鴨居と門柱に、小羊の血を塗ることによってです。それを見た神はご自身の怒りを過越していかれました。それと同じです。イエス・キリストこそその過越しの小羊なのです。もしあなたの心にこのキリストの十字架の血を塗るなら、神の怒りはあなたを過越して行くのです。テマンの知恵も、デダンの経済も、ボツラの軍事力や建築技術も、この世のいかなるものもあなたを神のさばきから救うことはできませんが、神が用意された神の救いイエス・キリストを受け入れるなら、この神の怒りから救われることができるのです。

毎週火曜日の夜に、家内は以前小学校で英語を教えていた時に教頭をされておられた方に英会話を教えていますが、夏休みに入る最後のクラスが始まる1時間くらい前に電話があり、その日は台風で大雨警報も発令されているのでお休みしますとのことでした。「はい、わかりました」と電話を切ると、彼女からすぐにまた電話がありました。「パット先生はおられますか」と。それで家内に電話を代わるといきなり、「パット先生、『神は愛なり』ってどういう意味ですか」と聞いて来られました。それで家内は、「それは、神様は愛です、という意味です」と答えました。すごいなあ、ズバリそのままです。神は愛です。しかし、大切なことだと思ったのか「ちょっと待ってください。家の旦那さんに代わりますから」と言って、すぐに私に代わりました。私たちは驚いて顔を見合わせました。なぜなら、その日の朝二人でデイボーションをしてお祈りをしたのですが、「今晩は池田さんと英語のクラスがありますが、彼女の心を開いて良い証ができるように導いてください」と祈ったからです。これまでずっと良い関係がありましたがなかなか証することができなかったので、少しでも証ができるように、そういう機会を与えてくださいと祈ったら、何と向こうから「神は愛なり」ってどういう意味ですかと聞いてきたのです。すごいですね、神様は。私たちは彼女の心を動かしたり、開いたりすることはできませんが、神様にはできます。神様は彼女の心を開いてくださいました。

それでお話をお聞きしたところ、数年前にお亡くなりになった彼女の旦那さんの親友が山形に住んでおられ、最近その方から97歳で亡くなられたその方のお母様が毛筆で書かれた短冊をいただいたそうです。そこに書いてあったのがこのことばだったのです。「神は愛なり」。聞くと、そのお母さんはクリスチャンだったそうです。こういうこともあるんだなぁと感心しながら、私はできるだけわかりやすくお話したつもりですが、イエス様を信じていない方に神の愛をお話するのはほんとうに難しいなぁと改めて感じました。なぜなら、そのような愛を私たちは持ち合わせていないからです。

電話を切った後で、もっとわかりやすく伝える方法はないかと考えているうちに、そうだ、三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」を読んだらもう少しわかるのではないかと思い、それを購入して郵送しました。9月の夏休み明けまでお読みください。その時に感想を聞かせてくださいと。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

この神の愛を信じるなら、あなたも神のさばきから救われます。あなたが神のさばきから逃れる唯一の道は、あなたのために十字架で死なれた神の御子を信じる以外にはないのです。たとえあなたがエドムのようにイスラエルと兄弟であっても、たとえあなたがクリスチャンホームに生まれ育ったとしても、たとえあなたにクリスチャンの友人がいたとしても、そのようなことであなたが救われることありません。あなたがこの神のさばきから救われるためには、あなたのために十字架で死んでくださったイエスを救い主と信じなければならないのです。主イエスを信じるなら、主イエスに身を避けるなら、あなたもこの神のさばきから逃れることができます。

Ⅱ.エドムの高慢を砕かれる主(14-18)

いったいエドムの問題は何だったのでしょうか。14~18節をご覧ください。「49:14 私は【主】から知らせを聞いた。「使者が国々に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに向けて立ち上がれ。』49:15 見よ。わたしがおまえを国々の中の小さい者、人に蔑まれる者としたからだ。49:16 岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ。おまえの脅かしと高慢は、おまえ自身を欺いている。鷲のように巣を高くしても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──【主】のことば。」49:17 エドムは廃墟となり、そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見て嘲笑する。49:18 ソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのように──【主】は言われる──そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」

主は国々の間に使者を送り、エドムとの戦いに立ち上がるようにと命じておられます。なぜなら、主が彼らを砕かれ、国々の中にあって小さい者、人に蔑まれる者とするからです。それは彼らが高ぶっていたからです。16節には「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者」とありますが、これは先ほど申し上げたように、彼らが要塞を誇っていたことを表しています。写真をご覧ください。

引用:ナショナルジオグラフィック「謎の古代都市ペトラ、砂漠の世界遺産」

これは最近のペトラ(ボツラ)の写真です。写真の中にいる人たちはそこに住んでいる人ではありません。観光客です。見ておわかりの通り、そこは岩だらけです。そのように自然の要塞となっているため、誰も攻めることはできないと誇っていたのです。これは前回のアンモン人と同じですね。彼らは谷を誇っていましたが、エドム人は岩を誇っていました。彼らは自分たちの知恵、経済力、軍事力、要塞を誇り、こうしたものを鼻にかけていたのです。

(引用:世界遺産マニア、「ヨルダンの世界遺産)

この写真などもきれいですね。これも人が意図的に作ったものではなく、水の侵食により自然に形成されたものだそうです。この先に見えてくるのが、アル・ハズネと呼ばれる宝物庫で、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台となった所です。いつか行ってみたいですね。

しかし主は、そんなエドム人の高慢を砕かれます。16節にあるように、彼らが鷲のようにどんなに巣を高くしても、そこから彼らを引きずり降ろされるのです。そこはかつてソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのようになります。ソドムとゴモラは、エドムの北にある町です。かつてアブラハムとロトの時代にソドムとゴモラが滅ぼされたように、エドムも滅ぼされることになるのです。ソドムとゴモラはどのように滅びましたか。完全に滅びました。そのようにエドムも完全に滅ぼされるのです。18節の最後のところに、「そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない」とは、そのことを表しています。完全に廃墟となるのです。

特筆すべきことは、エドムには将来の回復の預言が与えられていないことです。そうです、この預言の通り、エドムは完全に滅亡することになります。この後でバビロンによって滅ぼされると、紀元前4世紀に砂漠の民であるナバデア人の侵略を受けることになります。それで彼らはユダの南方のネゲブに逃れるのですが、そこでユダヤ人の中に組み込まれていきました。そしてその地で彼らはイドマヤ人と呼ばれるようになるのでが、イエス様が生まれた頃、ローマ帝国の支持を取り付けてユダヤ、サマリア、ガリラヤを治めたのがヘロデ大王です(前37-4年在位)。マタイ2章1~22節には、イエス様が生まれた時、東方の博士たちから、ユダヤのベツレヘムにユダヤ人の王が生まれたと聞いて動揺し、その周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしたという話は有名です。(マタイ2:1-22)。しかし、A.D70年にローマがエルサレムを滅ぼしてからは、各地に散らされて消滅していきました。彼らが一つの民として存在することはなくなったのです。ここに預言されてある通りです。

そういう意味では、高慢の罪がどれほど恐ろしいものであるかがわかるかと思います。私たちも自分の中にエドム人のような高慢がないかどうか吟味しなければなりません。私たちの中には好色とか、淫乱といった罪とは無縁だという人がいるかもしれませんが、でも高慢の罪と無縁だという人がいるでしょうか。エドム人の高慢は対岸の火事ではありません。そのように者は鷲のように巣を高くしても、引きずり下ろされることになるということを覚えておかなければなりません。

Ⅲ.そこに選ばれた人を置く(19-22)

最後に、そのために神は選ばれた人を置かれるということを見て終わりたいと思います。19~22節をご覧ください。19節をお読みします。「49:19 「見よ。獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか。」

このエドム人の滅亡についての言及は、それだけでは終わっていません。ここに、それがどのようにして成されるのかも預言されています。それは、獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように一瞬にしてそこから追い出されることになります。ヨルダンの密林にはかつて獅子、ライオンが住んでいました。ライオンが襲って来て牧場に上って来るように、それは一瞬にして起こるのです。この獅子は何を表しているのかというと、バビロンの王ネブカドネツァルです。ネブカドネツァル王率いるバビロン軍が獅子のようにエドムに襲い掛かり、彼をそこから追い出すことになるのです。

だれがそれをなさるんですか。それをなさるのは主です。ここには「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。」とあるとおりです。第三版では「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。わたしは、選ばれた人をそこに置く。」と訳しています。「わたし」ということばを繰り返してそのことを強調しているのです。そのために主は選ばれた人をそこに置かれるのです。それは誰ですか?そうです、ネブカドネツァルです。神はご自身の怒りの器として、エドム人をさばく道具として彼を選び、そこに置かれるのです。彼は異邦人の王ですが、神はそのような未信者でもご自身の目的のために用いられるのです。たとえ未信者であろうとも、そのために神は選びそこに置かれるのです。

同様に神はあなたを打つために、あなたを懲らしめてもっと謙遜になるために、あなたを練りきよめてイエス様のような人に造り上げるために、選ばれた人を置かれるのです。それはあなたのノンクリスチャンの伴侶かもしれません。あるいは、ノンクリスチャンの両親であったり、職場の上司や同僚、部下かもしれません。あなたの親しい友人かもしれません。それがだれであっても、神はあなたを打つために、あなたのそばにそのような人を置いておられるのです。それが神によって選ばれた人です。

ダビデのために神はサウルを選ばれ、そこに置かれました。ダビデがあんなに偉大な王になれたのは、サウルがいたからです。サウルがいなかったらあんなに偉大な王にはなれなかったでしょう。だからそこから逃げないでください。あなたにも神が選ばれた人がちゃんといますから。その人を憎んではいけません。ダビデはサウロをどのように見ていましたか?ダビデはサウロを、神が選ばれた器として認めていました。だからダビデは何度もサウルを討つチャンスがあったのに、神が油注がれた人に手を下してはならないと言って、決して自分から手をくだそうとはしなかったのです。それはダビデがそのために神が選ばれ、そこに置かれたと認めていたからです。

それはあなたにも言えることです。嫌だなぁ、辛いなぁ、苦しいなぁと思うことがあっても、それはあなたに必要な人として神が選ばれ、神がそこに置いておられるのです。こんな人さえいなければ!と言わないでください。その人はあなたに必要な人なのです。必要でなかったらあなたの前に置かれることはなさいません。あなたから取り去られるでしょう。あの人がいるから、この人がいるから、私は教会に行きたくないんですというのは、とんでもない誤解です。神が置いてくださったのです。私たちが選ぶのではありません。神が選んでくださり、神が置いておられるのです。

それは人だけではありません。あなたの人生に起こる災難と思えるようなあらゆる出来事にも言えることです。どうしてこんなことが起こるのか、なぜこんな病気になってしまったのか。できればこの苦しみの杯を取り除いてほしい。でもそれは神が選んでそこに置いてくださったのです。あなたの成長のために。あなたがもっと深く神を知るために。あなたがへりくだって神を求めるために。詩篇119篇71節にはこうあります。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

「苦しみ」は、できれば避けて通りたいものです。しかし、その苦しみを通して今まで見るとこができなかったものを見ることができるなら、ほんとうの意味で神のおきて、神のみこころ、神ご自身を知ることができるなら、それはすばらしいことではないでしょうか。そのために神はネブカドネツァルを選び、あなたのそばに置かれたのです。心配しないでください。神様は決して耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます(Ⅰコリント10:13)。あなたにとって必要なのは、それがどのような人、どのようなことであっても、神様はあなたを愛し、あなたのために働いておられると信じ、それを主のみこころとして受け止めることです。

20~22節をご覧ください。「49:20 それゆえ、聞け。エドムに対して立てられた【主】の計画を、テマンの住民に対して練られた策を。必ず、彼らは、群れの中の小さいものまで引きずって行かれ、必ず、彼らの牧場は彼らのことで恐れ惑う。49:21 彼らの倒れる音で地は震え、その悲鳴は葦の海でも聞こえる。49:22 見よ。彼は鷲のように舞い上がっては襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げる。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになる。」

それゆえ、私たちも聞かなければなりません。エドムに対して立てられた主の計画を。バビロンの王ネブカドネツァルが鷲のように舞い上がって襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げることを。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになります。私たちもエドムのようにならないように自分の知恵や経済、力を誇るのではなく、へりくだって神を求め、神に拠り頼む者でありたいと思います。あなたに対して立てられた主の計画を、はっきりと知ることができますように。

エレミヤ49章1~6節「アンモン人についての預言」

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今日は、アンモン人について語られた主のことばから学びたいと思います。アンモン人は前回のモアブ人同様、イスラエルの親類にあたります。彼らの先祖はアブラハムの甥のロトだからです。そのロトと二れの娘の間に生まれたのがもあぶとアンモンです。姉の子がモアブで、妹の子がアンモンです。そのアンモン人に対して、主は何と言われたのでしょうか。

Ⅰ.モレクではなく主イエスを王として(1)

まず、1節をご覧ください。「49:1 アンモン人について。【主】はこう言われる。「イスラエルには子がいないのか。世継ぎがいないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか。」」どういうことでしょうか。

まず、アンモン人の置かれていた位置を確認しておきましょう。下の地図をご覧ください。

(引用:バイブルラーニング、ブログ)

小さな赤い円で囲まれた地域はイスラエル12部族の一つガド族の相続地です。そして大きな赤い円で囲まれた地域がアンモン人の地域です。アンモン人の地は、ヨルダン川の東側、モアブの地のすぐ上にありました。そこは元々イスラエル12部族の1つであるガド族に割り当てられていた地でしたが、紀元前722年にアッシリアによって北イスラエルが滅ぼされると、アンモン人はひょっこりとその地に侵入しそこを占領して定住するようになりました。1節の「イスラエルには子がいないのか。世継ぎがいないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その住民が町々に住んでいるのか」というのは、そのことが背景にあります。つまり、どうしてガドの所有地をアンモン人たちは自分のものとしたのかという意味です。どうして彼らはガドが所有していた地を所有するようになったのでしょうか。

先ほども申し上げたように、彼らはロトの子孫です。かつてソドムが滅ぼされた時彼らの先祖ロト一家はアブラハムの必死のとりなしによって救出されたのですから、アンモン人にとってイスラエル人は「いのちの恩人」であったはずです。それなのにどうして彼らはガドに侵入しこれを奪い取り、自分たちの所有地としたのでしょうか。

それは彼らがそのような考え方を持っていたからです。1節の後半には、「なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか」とあります。「ミルコム」とは「モレク」のこです。ミルコムもモレクも同じです。それがアンモン人の神でした。下の欄外には、別訳で「彼らの王」となっています。それは、この「モレク」がヘブル語の「メレク」から派生した言葉だからです。「メレク」には「王」という意味があるので、「彼らの王」とも訳せるわけです。新改訳聖書第3版はそのように訳しています。「なぜ、彼らの王がガドを所有し」となっています。なぜ、彼らの王がガドを所有したのでしょうか。なぜなら、彼らはそのような神を信じていたからです。それがミルコム、モレクです。「モレク」は快楽の神です。雄牛の頭を持った青銅の像が手を突き出した形で立っていました。モレク礼拝をする者たちは、その手の上に子どもを載せ、下から火をたいていけにえとしたのです。どうしてそんなことをするのかというと、それが最大のささげものだからです。最大の犠牲をささげるなら最大の幸福を得ることができる。それがアンモンが信じていたことだったのです。様々なわざわいからも守られます。祝福が与えられる。まさに家内安全、商売繁盛です。そのためには平気で我が子を焼き殺します。我が子を犠牲にすることさえ厭いませんでした。それがモレク礼拝、ミルコムでした。そして手の上に載せられた子どもは熱くて泣き叫ぶわけですが、その叫び声を消すためにモレクの祭司たちは太鼓をたたき続けました。その音が鳴り響いている間、参拝者が神殿娼婦と性的な儀式を行うためです。実におぞましいです。主はモーセの律法の中で、このモレク礼拝を厳しく禁じています。レビ記18章21節にはこうあります。

「また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは【主】である。」

これはミルコム、モレク礼拝のことです。彼らが約束の地カナンに入るとき、その地の風習であるモレク礼拝をまねてはならないし、彼らの掟に従って歩んではならないと、禁じられていたのです。もしそれをまねて、彼らの掟に従って歩むなら、彼らのようになるからです。

だからイスラエル12部族の1つガド族がアッシリアによって滅ぼされるとそれを見た彼らは、自分たちの先祖がアブラハムのとりなしによって救われたとか、そんなことはどうでもよかったのです。彼らの関心はただ自分たちにとって利益になることは何かということでした。それがミルコム(モレク)だったのです。彼らはただ自分たちにとっての快楽を求め、そのためには子どもさえも犠牲することも厭わなかったのです。恐ろしいです。

人は何を信じるか、だれに従うかによってその行動が決まります。モレクを信じるなら、ミルコムを王とするなら、モレクのようになり、主イエスを信じるなら、主イエスのようになります。あなたは何を信じていますか。だれを王にしていますか。だれに従っていますか。

自分の快楽のためなら子どもを犠牲にしも構わない、自分が快楽を得られるのなら、自分の地位や名声を得られるなら、自分が豊かな暮らしができるなら子どもを犠牲にすることも厭わないという考え方は、何もアンモン人だけに限ったことではありません。それは現代の私たちにも言えることです。たとえば、子どもをかぎっ子にするのはその一つではないでしょうか。子どもよりも仕事です。家族のため、生活のためと言いながら、もっと良い生活がしたい。貯金もしたいし、旅行もしたい。ブランド品も買いたいし、もっと刺激もほしいし。そういう思いから子どもをどこかに預ければいいと思っているとしたら、それはまさにモレク礼拝ではないでしょうか。我が子を犠牲にしてでも自分の快楽を求めるのですから。勿論、色々な事情があるのはわかります。神様はそれを十分知っておられます。だから神様のあわれみがあるのは確かです。でもそういうことを大義名分にして、本当は自分の快楽を求めているとしたら、それはモレク礼拝と何ら変わりません。主はそれを忌み嫌っておられます。自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならないと。あなたの神の名を汚してはならないと。

このミルコム、モレク礼拝は私たちクリスチャンとは関係ないと思っている方もおられると思いますが、そうではありません。実はモレク礼拝は神の民であるクリスチャンにもはびこっているのです。たとえば、Ⅰコリント10章14節には、「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」とありますが、なぜ偶像礼拝を避けるようにとパウロが書き送ったのかというと、そこに偶像礼拝をしている人がいたからです。それは実際に偶像を拝むということだけではありません。コロサイ3章5節には「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。貪欲は偶像礼拝です。主のみ教えから離れ、この世のものを貪るなら、それ自体が偶像礼拝なのです。私たちはだれも自分がまさか偶像礼拝をしているなんて思っていないでしょう。毎週日曜日は欠かさず礼拝に出席し、奉仕もしています。献金もちゃんとささげている。クリスチャンとしての自分の義務はちゃんと果たしているとみんな思っています。でも日曜日以外はどうでしょうか。霊的なことは神様に従います。でも仕事においては、プライベートなことにおいては従うわけにはいきません。そんなことをしていたらビジネスが成り立たない。だからこの世の慣わしに従います。そういう人が多いのではないでしょうか。神のことばよりも自分の快楽を求めているのです。それはモレク礼拝です。その結果、神の祝福を失っているのです。

ここに出てくるイスラエル12部族の1つのガド族ですが、彼らもそうでした。彼らがアンモン人によって支配される前どうして彼らはその地に住むようになったのかをご存知ですか。そのいきさつは民数記32章に書いてあるので後でご覧いただけたらと思いますが、エジプトを出て約束の地に向かっていたイスラエルが、ヨルダン川を渡っていよいよ約束の地に入ろうとしたときその地にやって来ました。そしてその地を見渡すとそこには牧草地が広がっていました。ですから、多くの家畜を持っていたルベン族とガド族、マナセの半部族にとって非常に魅力的な場所に見えたのです。それで彼らはヨルダン川の向こうまで行かないでこの地に留まろうと考えました。そしてそのことをモーセに告げると、モーセはカンカンになって怒りました。「何を言っているんだ!あなたがたの兄弟たちはこれからヨルダン川を渡って戦いに行くというのに、あなたがたはここにとどまるというのか。どうして彼らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか」と。
  すると彼らは、「わかりました。じゃこうしましょう。私たちはイスラエルの子らを約束の場所に導き入れるまで、先頭に立って戦います。でも子どもたちはここにとどまります。そして約束の地で主がその敵を御前から追い払われたら自分たちはここに戻って来て、ここに住みます。いいでしょう?」それでモーセは納得し、それならいいだろうということで、彼らはこの地を相続することになったのです。

しかし、結果はどうなったでしょうか。北イスラエル王国の10部族が真っ先にアッシリアに滅ぼされることになってしまいました。その中にルベン族、ガド族、マナセの半部族がいたのです。どうして彼らが真っ先に滅ぼされてしまったのかというと、その地は異教の影響を受けやすかったからです。異教の影響を受けて霊的に堕落してしまったのです。神の約束のことばを信じないで目に見えるところに従って生きるなら、私たちも彼らと同じ運命をたどることになるのです。

大切なことは何を信じているのか、だれを王にしているのか、だれに従っているのかということです。ただイエス様を信じていると言うだけでなく、そのイエス様のことばに聞き従わなければなりません。あなたの王はだれですか。だれに従っていますか。快楽の神モレク(ミルコム)ではなく、あなたの救い主イエスを王として、主イエスのことばに聞き従いましょう。

Ⅱ.主に拠り頼め(2-5)

主はそのようなアンモン人に対して、さばきを宣言されます。2~3節をご覧ください。「49:2 それゆえ、見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはアンモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ。─【主】は言われる─49:3 ヘシュボンよ、泣き叫べ。アイが荒らされたから。ラバの娘たちよ、わめけ。粗布をまとえ。嘆いて囲い場の中を走り回れ。ミルコムが、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれるからだ。」

「ラバ」はアンモンの首都(現在のヨルダンの首都アンマン)です。意味は「偉大な」です。そんな偉大なラバも敵の攻撃を受け、廃墟となります。「ヘシュボン」は、実際はアンモンの町ではなくモアブにある町です。48章45節にはモアブの町として登場しました。それがここに出てくるのは、この町がモアブとアンモンの国境にあったからでしょう。そのヘシュボンは泣き叫ぶようになります。「アイ」はイスラエルのアイとは別の町です。それがどこにあったのかはわかりません。もしかすると、このアイとう名前には「荒れ果てた」という意味があるので、実際には町の名前ではなく荒れ果てた地という意味で用いられているのかもしれません。「ラバ」の娘たちも嘆きながら喪に服することになります。すなわち、アンモンの町々は徹底的に滅ぼされるということです。そして「ミルコム」が、その祭司や首長たちとともに捕囚として連れて行かれることになります。いったいなぜ彼らは神にさばかれることになったのでしょうか。

4~5節をご覧ください。「49:4 背信の娘よ、おまえの谷には水が流れている。なぜ、その谷を誇るのか。おまえは自分の財宝に拠り頼んで言う。『だれが私のところに来るだろう』と。49:5 見よ。わたしは四方からおまえに恐怖をもたらす。──万軍の【神】、主のことば──おまえたちはみな散らされて、逃げる者を集める者もいない。」

  「背信の娘よ」とは、ラバの娘たちのことです。英語の訳では「backsliding daughter」となっています。Backslidした人、背教者、離脱者という意味です。いつの時代にもいます。約束の地に入ったかと思ったら一歩後退して彷徨っているという人が。そのような人は同じ傾向を持っています。それは肉的であるということです。持ち物を誇ろうとします。ここには「おまえの谷には水が流れている。なぜ、その谷を誇るのか」とあります。

  「ラバ」は水が豊かなところとして知られていました。Ⅱサムエル記12章27節には、「水の町」と呼ばれています。水の都です。中東で水が流れている所というのは、最もリッチなところという意味です。原油がコンコンと湧き出るようなオイルマネーで潤っている国といったイメージです。彼らは水の資源を誇っていました。水が豊かであるということはそこからもたらされる産物が豊富であるということです。野菜であれ、果物であれ、家畜であれ、何であれ、水があって育まれ、豊かなものを産出するからです。

  彼らは「谷」も誇っていました。それは、その地形が軍事的に働いて自然の要塞になっていたということです。誰も攻めて来ることはできない。ですから、水と谷は経済的な豊かさと軍事的な安定をもたらしていたのです。それで彼らは自分たちの財宝に拠り頼んでいました。神を必要としていませんでした。彼らが求めていたのはただミルコム(モレク)だけでした。いかにおかしく、おもしろく生きるか、ただそれだけだったのです。どこかの国に似ているのではないでしょうか。水は水道の蛇口をひねれば出てきます。公園の水道の水はただです。当たり前のようですが、中東では考えられないことです。日本もアンモンと同じように、いろいろなものを誇っています。経済大国として自分の財宝を誇れ、それに拠り頼んでいます。貯金があるから安心だ。でも銀行に預金が1円もなかったらどうでしょうか。一気に不安になります。不安にならないのは、そこにちゃんとお金が入金されてあるからです。そういう意味では私たちもアンモンのように、無意識のうちに神よりもお金に拠り頼んでいるのです。私たちがどこから安心感を得ているかを忘れてしまっています。勿論、お金も神様から与えられるものです。でもそこに一円も残高がなかったら、それでもあなたは神様に信頼して、安心できるでしょうか。財宝のすべてを失ったとしても、家を失っても、それでも安心ですと言えるでしょうか。あなたは何を誇っていますか。アンモン人のように自分の財宝に拠り頼むのではなく、神に拠り頼みましょう。

  5節には「見よ。わたしは四方からおまえに恐怖をもたらす。」とあります。「四方から」とは東西南北からという意味です。もう逃げ場がありません。バビロンの王ネブカドネツァルの侵略によって、徹底的に滅ぼされるのです。彼らはアッシリアの侵略でガドが捕囚の民として連れ去られた空いた所に入って来ました。でも今度は自分たちがバビロンによって滅ぼされ、すべてが奪われて、捕囚の民となって行くのです。それは彼らが自分たちの財宝に拠り頼んだからです。

  2005年、イギリスのジョン・ブラントリックという62歳の男性が病院を相手に「ガンと誤診されて、全財産を処分した責任を取って欲しい」と訴訟を起こしました。以前、この男性が黄疸のために病院に行くと、すい臓がんのため余命6ヶ月と宣告されました。絶望した彼は、せめて残りの人生を豊かに過ごそうと仕事を辞め、毎日最高級のホテルを泊まり歩き、高級料理を食べ、各地を旅行して回りました。ところが1年後、体に異変がないことに気付いた彼が再び病院を訪れると、すい臓がんではなく、単なるすい臓の炎症であることがわかったのです。飛び上がるほど喜んだのも束の間、すぐに絶望に打ちのめされました。誤診は彼の倹約生活を完全に変えてしまい、最後に残った30万ポンドの家も債務返済のため競売にかけられていたのです。

このように、誤った判断はとんでもない結果をもたらします。黒いものを白いと言い、白いものを黒いと言うのは誤ったことです。みことばを無視して自分の考えを主張することほど、危険で愚かなことはありません。それは私たちにも言えることです。聖書がどんなに「これが道だ、これに歩め」と語っても、それを受け入れないで自分の考えに固執するなら、やがてこのような結果を招くことになるのです。

Ⅲ.回復の約束(6)

最後に、6節をご覧ください。「49:6 その後、わたしはアンモン人を回復させる。─【主】のことば。」」

ここには回復の預言が語られています。「その後」とは、神のさばきによる苦しみがあって後に、です。主はアンモン人を回復させます。モアブ人に対してもそうでしたが、アンモン人も同じです。神はご自分に敵対し自分を誇ったアンモンに対して激しいさばきを宣告されましたが、それで終わりではありません。その後に彼らを回復させるのです。アンモン人の救いを告げられるのです。これは慰めではないでしょうか。というのは、どんなに神に背いて罪を犯しても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はそのすべての罪を赦し、回復してくださるからです。それはアンモン人だけではありません。それは私たちに対する約束でもあります。私たちもアンモンのように神から離れ自分を誇るような者ですが、そのことに気付いて主に立ち返るなら、主はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

このアンモン人の地は、新約時代ではデカポリスと呼ばれた地域です。もうアンモンという地名は消えていました。完全に忘れられていたのです。でもそこへイエス様が宣教に行かれました。マタイ4章25節にはこうあります。

「こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。」

デカポリス、ここにかつてアンモン人が住んでいました。そのデカポリスから大勢の群衆がやって来て、イエス様に従ったのです。それはこのデカポリスにイエス・キリストを信じて救われた人がいたということです。

マルコ5章には、あの有名な多くの悪霊に取り憑かれていたゲラサ人が、イエス様によって悪霊から解放された話がありますが、そのゲラサとはどこにあるかというとデカポリス地方です。この男が救われたとき、彼はイエス様にお伴したいと申し出ましたが、イエス様はそれをお許しにならないで、こう言われました。

「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」(マルコ5:19)

「あなたの家、あなたの家族のところ」とはデカポリスです。そこにはあなたの家がある。家族もいる。そこに帰って、主があなたをどんなにあわれんでくださったか、どんなに大きなことをしてくださったのかを知らせなさい。それがあなたのミッションだ、それがあなたの使命だと言われたのです。彼はイエス様以外に、新約聖書に出てくる最初の宣教師として遣わされて行きました。

私たちもかつてはゲラサ人でした。神に逆らうことをして、まるで悪霊に取り憑かれたような生活をしていました。でもイエス様によってそこから解放され、この男のように、神がどんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを知らせる者とされたのです。そこへ行きなさいと主は言われます。そのためにあなたは置かれているのだと。

このようにして今から2,600年前にエレミヤによって語られたアンモン人に対する回復の約束は、600年後に来られたイエスによって真っ先に成就しました。そしてこれはあまり知られていないことですが、かつてのアンマンの地は現代のヨルダンの地域ですが、ヨルダンにもたくさんのクリスチャンが存在しています。たくさんの人が救われているのです。イスラムの過激派によって激しい迫害の中にあるため肩身の狭い生活を余儀なくされていますが、ヨルダンに住むたくさんのアラブ人が救われているのです。それはここに預言されていることの成就でもあります。かつて神に背き、自分を誇っていたアンモン人は神のさばきを宣告され、その預言の通り滅ぼされその名が消えてしまうほど忘れられていましたが、そんな彼らも主イエスによって救われ、回復することができました。それは私たちも同じです。あなたはアンモンです。ギルアデ、ゲラサ、デカポリス、ヨルダンです。そのアンモンは必ず回復するのです。あなたも神に背信の娘よと呼ばれ、神に忘れられたかのような存在だったかもしれませんが、神は決してあなたを忘れることはありません。あなたは神に覚えられています。必ず回復するのです。その神の深いご計画を信じて、神のみこころに歩ませていただきましょう。自分を誇る生活から主に拠り頼む者となりましょう。

エレミヤ48章1~47節「モアブについての預言」

エレミヤ書48章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はモアブについての預言です。地図を見ていただくと分かりますが、モアブ人の地は死海の東側、今日のヨルダンの南側にありました。

(引用:新生宣教団、「聖書『ルツ記』を読み解く」)

モアブ人のルーツは、アブラハムの甥のロトにまで遡ります。アブラハムと一緒に父の家、カルデヤのウルを離れカナンにやって来た彼らは、神様の祝福によって家畜が増えました。すると互いのしもべの間で争いが起こったので、アブラハムはロトに好きな場所を選んでそこに住むように言うと、彼は東の低地を選び、そこにあったソドムという町に定住しました。しかし、そこは極めて罪が重かったため、主はソドムを火と硫黄の雨によって滅ぼされましたが、アブラハムの必死のとりなしによってロトはその中から救い出されました。そのロトと二人の娘によって生まれたのがモアブとアンモンです。姉の子がモアブで、妹の子がアンモンです。ですから、モアブはイスラエルとは遠い親戚にあたるのです。彼らはイスラエルと同じように祝福を受け継ぐべきでしたが、自らその祝福から離れて行ってしまいました。そして、たびたびイスラエルに侵入しては彼らに敵対したのです。そのモアブに対する預言です。

Ⅰ.モアブの高ぶり(1-25)

まず、1~25節までをご覧ください。6節までをお読みします。「48:1 モアブについて。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。その砦は辱められ、打ちのめされた。48:2 もはやモアブの誉れはない。ヘシュボンは、これに悪事を企んでいる。『行って、あの国民を絶ち滅ぼし、無き者にしよう』と。マデメンよ、おまえも黙らされる。剣がおまえの後を追っている。48:3 ホロナイムから叫び声がする。『暴行だ。大いなる破滅だ』と。48:4 モアブは打ち破られる。その幼き者たちは叫び声をあげる。48:5 まことに、ルヒテの坂は嘆きの中にあり、彼らは泣きながら上る。ホロナイムの下り坂では、痛々しい破滅の叫びが聞こえる。48:6 逃げて、自分自身を救え。荒野の中の灌木のようになれ。」

1節には、「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。」とあります。「ネボ」とか「キルヤタイム」とは、モアブの町々のことです。元々そこはイスラエル12部族の1つであるルベン族に与えられた町でした(民数記32:37~38)が、後にモアブ人が占領したため、モアブの町となったのです。つまり、彼らは神の民イスラエルに敵対したのです。そんなネボやキルヤタイムは辱められ、攻め取られ、打ちのめされることになります。さらに、「ヘシュボン」、「マデメン」、「ホロナイム」、「ルヒデ」といった町々も滅ぼされることになります。いったい何が問題だったのでしょうか。

7節をご覧ください。ここには「おまえは自分が作ったものと財宝に拠り頼んだので、おまえも捕らえられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。」とあります。彼らは、自分たちが作ったものと財宝に拠り頼みました。現代でもそうですが、ある程度預金とか財産があると安心するように、彼らは豊かな経済力を自分たちの安定と繁栄の保証と考えたのです。ケモシュとは彼らの偶像神ですが、快楽と豊穣の神です。彼らはそのケモシュに仕えました。しかし、そのようなものが恒久的な安定をもたらしてくれるでしょうか。そのような国はやがて滅ぼされることになります。荒らす者が侵略して捕らえられ、偶像とともに捕囚となって出て行くことになのです。

この「荒らす者」とは誰のことなのかはっきりしたことはわかりませんが、おそらくバビロンのことでしょう。というのは、バビロンはB.C.586年にエルサレムを破壊すると、その5年後に今度はモアブを攻撃することになるからです。バビロンがこれらの町に入って来て彼らを捕らえ、捕囚の地へと引き連れて行くようになるのです。町は一つも逃れることはできません。谷は滅び失せ、平地は根絶やしにされるのです。いったいどうすれば良いのでしょうか。

9節には「モアブに翼を与えて、飛び去らせよ。その町々は住む者もなくて荒れ果てる。」とあります。このような神のさばきのもとでは、そこから逃れるしかありません。ですからモアブに翼を与えて、飛び去らせよ、と言われているのです。

モアブに対する攻撃は徹底的にしなければなりません。10節の「主のみわざおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。」とは、そういう意味です。それは主の御業であり主がそのようになさるのだから、徹底的に成し遂げなければなりません。それをおろそかにしてはいけません。それをおろそかにする者はのろわれることになると、バビロンに警告されているのです。そんな神のさばきから逃れることができる者がいるでしょうか。

11~13節をご覧ください。「48:11 モアブは若いときから安らかであった。彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。48:12 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」

どういうことでしょうか。彼らは自分たちの安定した状態であることを誇っていました。自分たちは他国の侵略によって捕囚として連れて行かれたことは一度もないと。確かにモアブの歴史を見ると、彼らは安定していました。他の国によって侵略されたことは、これまで一度もありませんでした。11節の「モアブは若い時から安らかであった。」というのは、そのことを示しています。

エレミヤはそれをぶどう酒作りにたとえているのです。それが11節で言われていることです。「彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。」
  ぶどう酒を同じ桶で保存すれば、酒かすによって味がよくなりますが、違う桶に移せば味が変わってしまいます。彼らは他の桶に移されたことがないので、醸造された上質のぶどう酒のようだと誇っていたのです。彼らは捕囚という厳しい現実を経験したことがありませんでした。

しかし主は、そんな彼らのうぬぼれを砕かれると宣言されました。12節と13節です。「それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」
  その日モアブ人たちは、ケモシュ(偶像神)に信頼したことを恥じるようになります。それはかつてイスラエルがヤロブアムによってベテルに置かれた金の子牛の像に信頼を置いたことを恥じたのと同じです。国が経済的に豊かになり、政治的に安定していることも重要ですが、そうした豊かさによっていつしか高慢になり、霊的堕落に陥ることがあるとしたら本末転倒です。そういうことがないようにしっかりと肝に銘じなければなりません。

しかし、これは現代の私たちにも言えることではないでしょうか。戦後80年、日本は平和な時代を過ごしてきました。経済的な発展も遂げてきました。生活が苦しいとは言っても普通に生きていれば食べていけないことはほとんどありません。たとえそうでなくても国がある程度の生活を保障してくれます。確かに尖閣諸島や青島の問題はありますが、まさか戦争になるとは誰も思っていないでしょう。ある程度の蓄えがあれば何とか生きていける。神様、仏様に頼らなくてもケモシュがいるから大丈夫だと、みんな平々凡々と生きているわけです。神様がいなければ生きていけないといった必死さはありません。まるでモアブのようです。

ヨハネの黙示録に、主がアジアにある七つの教会に書き送った手紙がありますが、その中でラオディキアの教会に宛てて次のように言われました。「3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

ラオディキアの教会の問題は何でしたか。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っていましたが、自分の本当の姿が見えていなかったことです。本当はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていませんでした。そのため彼らは、熱くもなく、冷たくもありませんでした。そんな彼らに主が言われたことはこうでした。熱いか、冷たいかであってほしい。そしてそのために、自分の目が見えるように目に塗る目薬を買いなさい、と言われたのです。黙示録3章20節のみことばは、そのような背景で語られたことばでした。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

主はそんなあなたの心のドアを叩いておられます。その音が聞こえるでしょうか。聞こえたらドアを開けてください。そうすれば主はあなたの心の中に入ってあなたとともに食事をし、あなたも主とともに食事をするようになります。それが本当の幸いです。そのためには、へりくだって主を求めなければなりません。私たちが強くなったり高くなったりするときは、弱くなり低くなる知恵を学ぶ必要があるのです。

尊敬するある牧師がこう言われました。「成熟したクリスチャンとは、主がいなければどうすることもできないクリスチャンです」
  皆さん、これが主に信頼するということです。クリスチャンは人の目には派手でもなく、見えるところにおいては弱々しく映るかもしれませんが、神さまの目では最も安定した人です。なぜなら、万軍の主が共におられるからです。そのためには、私たちの心の目が開かれなければなりません。そして、自分はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることに気付いたら、熱心に悔い改めなければならないのです。主がいなければどうすることもできませんと、必死に主を求め、主に拠り頼まなければなりません。それが成熟したクリスチャンなのです。

Ⅱ.モアブのために泣かれた主(26-45)

次に、26~45節をご覧ください。30節までをお読みします。「48:26 彼を酔わせよ。【主】に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。48:27 イスラエルは、おまえにとって笑いものではなかったのか。それとも、おまえが彼のことを語るたびに彼に向かって頭を振っていたのは、彼が盗人の間に見つけられたためか。48:28 モアブの住民よ。町を見捨てて岩間に住め。穴の入り口のそばに巣を作る鳩のようになれ。48:29 われわれはモアブの高ぶりを、──彼は実に高ぶる者──その傲慢、その高ぶりを、その誇り、その慢心を聞いた。48:30 わたしは彼の不遜さを知っている。──【主】のことば──その自慢話は正しくない。その行いも正しくない。」

すでに見たように、モアブが滅ぼされた最大の理由は、彼らが高ぶったからです。26節には、「彼に酔わせよ。主に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。」とあります。27節にあるように彼らは、先に滅ぼされたイスラエルを笑いものにしていました。他の国の悲劇を知ることは、自らの国のあり方を学ぶチャンスだったのに、モアブはそこから何も学ばなかったばかりかユダを笑いものにしたのです。

主はそんなモアブの高ぶりを見抜かれ、その高慢さを指摘されました。「わたしは彼の不遜さを知っている。」と。自分を正しいとする態度は、自分に足りないことがあっても、その足りないところを見えなくしてしまいます。結果、何も学ぶことができません。ですから私たちはいつも謙虚になって自分の足りなさを認め、いつも十字架の恵みに拠りすがらなければなりません。また、自分でできるようなことであっても神の助けを求め、いつも謙遜な態度で神に拠り頼むべきです。さらに隣人に対して(さげす)むようなことをせず、逆に仕えることによって、神の愛とあわれみを示していくべきです。それなのにモアブは、主に対して高ぶりました。それゆえ、主はモアブの高ぶりを砕かれるのです。バビロンという国を用いて、徹底的に滅ぼされます。

ところが31節を見ると、不思議なことが書かれてあります。そのモアブのために、主は泣き叫ぶ、とあるのです。「それゆえ、わたしはモアブのために泣き叫び、モアブ全体のために叫ぶ。人々はキル・ヘレスの人々のために嘆く。」
  どういうことでしょうか。そんなモアブなど滅ぼされて当然なのに、主はそんな彼らのために泣いておられる。モアブが滅ぼされることを悲しんでおられるのです。それがぶどうの木のたとえで表わされていることです。32~33節をご覧ください。

「48:32 シブマのぶどうの木よ。わたしはヤゼルの涙にまさり、おまえのために泣く。おまえのつるは伸びて海を越えた。ヤゼルの海に達した。そして、おまえの夏の果物とぶどうの収穫を、荒らす者が襲った。48:33 モアブの果樹園から、その地から、喜びと楽しみが取り去られる。わたしは石がめから酒を絶えさせた。喜びの声をあげてぶどうを踏む者もなく、ぶどう踏みの喜びの声は、もはや喜びの声ではない。」

シブマとヤゼルは、ぶどうの栽培で有名なモアブの町です。そのシブマとヤゼルが涙に濡れるのです。そのぶどうの枝は死海を越え、ヤゼルのほとりにまで達しました。それなのに、荒らす者がやって来て、ぶどうの収穫を略奪するからです。人々に喜びをもたらすはずのぶどうの収穫が無くなってしまうということです。もはや彼らは喜びの声をあげることができません。そこにあるのはぶどう踏みの声ではなく、悲とみの嘆きの声です。主はそのことを嘆いておられるのです。36節には、「わたしの心は、モアブのために笛のように鳴る」とあります。主は笛が鳴るようにモアブのために嘆かれるのです。なぜでしょうか。

神は、ひとりも滅びることを願っておられないからです。たとえ傲慢で、高ぶっていたモアブでさえ、彼らが悔い改めて救われることを願っておられたからです。これが主の思い、主の心です。

でも私たちは違うでしょう。たとえば、もしこれまであなたに嫌な思いをさせてきた、大変な思いをしてきた、あの人のせいで私は本当に苦しんできたという人が辛い思いをしていたらどうでしょう?気持ちいいんじゃないですか。スカッと爽やかコカ・コーラです。それが人間の本性です。でも神様はそのような方ではありません。神様はそれがたとえその人の自業自得でしたことであってもその不幸を悲しまれ、涙を流されるのです。

このモアブという民族はイスラエルと遠い親戚であったことはお話した通りですが、その中でも特にモアブ人ルツがボアズと結婚したことによってダビデの祖父のオベデが生まれたことは特筆すべき点です。なぜなら、ダビデにもこのモアブ人の血が流れていたことになるからです。そして、それはその子孫である救い主イエス・キリストの中にも、このモアブ人の血がわずかばかり流れていたことになるのです。そうしたモアブ人が滅びることを、神はとても悲しまれたのです。よく「断腸の思い」ということばがありますが、断腸の思いとは、腸がちぎれるほど、悲しくつらい思いのことです。まさに神は滅んでいく人間の姿を、断腸の思いで見ておられるのです。腸がずたずたにちぎれるような悲しい思いで見ておられる。

あなたには、この神の思いが届いていますか。その目の涙が見えるでしょうか。主はモアブだけでなく、あなたのためにも泣いておられます。あなたが神に背いて苦しみの中にあるとき、病気や人間関係で疲れ果て苦しんでいるとき、主も泣いておられるのです。そのために、十字架で死んでくださいました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

あなたは、それほどまでに愛されているのです。であれば、あなたは、あなたをこれほどまでに愛しておられる主のもとに立ち返り、そこで主の慰めと励まし、癒しを回復と受けるべきではないでしょうか。

Ⅲ.モアブの回復(40-47)

最後に、40~47節を見て終わりたいと思います。ここでは神によってさばかれるモアブの嘆きが、3つのたとえによって表現されています。まず、鷲のたとえです。40~42節をご覧ください。「48:40 まことに、【主】はこう言われる。「見よ。敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げる。48:41 町々は攻め取られ、要害は取られる。その日、モアブの勇士の心は、産みの苦しみにある女の心のようになる。48:42 モアブは滅ぼし尽くされて、民でなくなる。【主】に対して高ぶったからだ。」
  敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げます。この敵とはバビロンのことです。バビロンが鷲のようにモアブに襲いかかるので、モアブは滅ぼし尽くされることになります。

二つ目のたとえは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいによるさばきです。43節と44節です。「48:43 モアブの住民よ、おまえを恐怖と落とし穴と罠が襲う。─主のことば─48:44 その恐怖から逃げる者は穴に落ち、穴から這い上る者は罠に捕らえられる。わたしがモアブに彼らの刑罰の年を来させるからだ。─主のことば─」
  モアブに襲うのは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいです。恐怖から逃れた者は落とし穴に落ち、穴から這い上がる者は罠に捕らえられます。どうやってもこのさばきから逃れることはできません。モアブは完全に滅びることになるのです。

そしてもう一つは、ヘシュボンの詩です。45~46節です。「48:45 ヘシュボンの陰には、逃れる者たちが力尽きて立ち止まる。火がヘシュボンから、炎がシホンのうちから出るからだ。それは、モアブのこめかみと、騒がしい子どもの頭の頂を焼く。48:46 ああ、モアブ。ケモシュの民は滅びる。おまえの息子は捕らわれの身となり、娘は捕虜になって連れ去られるからだ。」
  これは民数記21章29節でも語られたことですが、ここでもう一度引用されています。それは、モアブに下る神のさばきが完全であることを示すためです。そして、この預言は東の方からアラビア人たちが攻めて来た時に成就することになります。エゼキエル25章8~11にあるとおりです。

「25:8 【神】である主はこう言われる。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言った。25:9 それゆえ、わたしはモアブの山地の町々、その国の誉れであるベテ・ハ・エシモテ、バアル・メオン、キルヤタイムの町々をことごとく開け放ち、25:10 アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。25:11 わたしがモアブにさばきを下すとき、彼らは、わたしが【主】であることを知る。」アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。」

これはモアブ人に対して語られていることです。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言ったので、主はこのモアブとセイルをアンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間で記憶されないようにする、と言われたのです。モアブに対する神の預言は、完全に成就することになります。

しかし47節を見ると、彼らに対する預言はこれで終わっていないことがわかります。その続きがあります。それは、主はこのモアブの民を回復するという宣言です。ご一緒に読みましょう。「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる。─主のことば。」

モアブに対するさばきと回復のメッセージは、結局、ユダの民に間接的な慰めをもたらしました。神が異邦人のモアブを捕囚から解放されるなら、自分たちも必ず回復することになるからです。これは慰めではないでしょうか。主はあなたをご自身の救いに招いてくださいました。その神の賜物と召命は変わることがありません。どんなことがあっても、あなたは必ず回復することになるのです。一時的に苦難の中に置かれることがあっても、やがて必ずそこから回復する時がやって来るのです。ここに真の希望があります。これが神の計画なのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

ですから、もしあなたが今困難と苦しみの中にいるなら、落胆せずこの希望を見上げてください。あなたは必ず回復するのです。だからどんなことがあっても、どんな状況に陥ってもあきらめないでください。神から離れている自分、罪を悔い改めて、神に立ち返ってください。そして神とともに歩ませていただこうではありませんか。それが私たちにとっての幸いの道、主があなたに願っておられることなのです。

エレミヤ47章1~7節「ペリシテ人についての預言」

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エレミヤ書47章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はペリシテ人に対する預言が語られます。

 Ⅰ.ペリシテ人の破滅(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。1節をお読みします。「47:1 ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった【主】のことば。」

これは、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことばです。ファラオとはエジプトの王の称号です。そのファラオがガザを討つ前に、主はペリシテ人についてエレミヤに語っておられたのです。それはB.C.605年より前のことです。何度かお話していますが、その年、バビロンが台頭を恐れたファラオは、バビロンと戦うためにパレスチナに北上しました。そこでバビロン軍と戦うわけです。それはユーフラテス河畔のカルケミシュというところで行われた戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれていますが、結果は、エジプト軍の惨敗でした。しかし、パレスチナに北上したエジプト軍は、ペリシテ人最大の都市ガザを討ちました。その前に、主がペリシテ人について語られたエレミヤに語られた預言がこれです。

それはどのような内容だったでしょうか。2~5節をご覧ください。「47:2 【主】はこう言われる。「見よ。北から水が上って来てあふれる流れとなり、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流す。人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶ。47:3 荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。47:4 すべてのペリシテ人を破滅させる日、ツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを断ち切る日が来たからだ。まことに【主】は、ペリシテ人を、カフトルの島の残りの者を破滅させる。47:5 ガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙らされる。平地の残りの者よ、いつまで、おまえは身を傷つけるのか。」

2節にある「北から水が上って来て」とは、バビロン軍のことです。その水はあふれる流れとなって、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流します。それは洪水のように襲ってきて、ペリシテの町々を呑み込むのです。すでにガザはエジプトの王ファラオによって討たれていましたが、今度はそのファラオを討ったバビロンによってすべての町が吞み込まれることになるのです。ですから、ペリシテ人はエジプトとバビロンのどちらからも攻め込まれて破滅することになります。まさにWパンチです。

その光景は、実に悲惨でした。3節には「荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。」とあります。荒馬、戦車の音に、人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶことになります。父親たちは気力を失い、自分の子どもたちを顧みる余裕さえありません。すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからです。

4節には、その日には生き残ってツロとシドンを助けようとする者もみな、断ち滅ぼされることになるとあります。ツロやシドンはペリシテの同盟国だったので、生き残って、彼らを助けようとするわけですが、助けようとしても助けることができないのです。ツロとシドンを助けようとする生き残りのすべての者もみな、断ち切られることになるからです。

また4節には「カトフルの島」という名称が出てきますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。そこがペリシテ人の出身地でした。彼らは元々そこに住んでいましたが、パレスチナの海岸地帯に移り住むようになったのです。ちなみに、パレスチナという地名は、このペリシテという名前に由来しています。パレスチナに移り住んだペリシテ人は、ユダヤ人と対立しながら現在のガザ地区のアラブ人となっていったのです。そのカフトルの島の残りの者を破滅させるというのは、ペリシテ人を根絶やしにするということです。

5節にある「ガザ」と「アシュケロン」は、ペリシテを代表する都市です。そのガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙されることになります。それは深い悲しみと嘆きを表現しています。なぜそれほど深く嘆き悲しむことになるのでしょうか。徹底的に滅ぼされることになるからです。ペリシテ人はすべて滅び失せることになるということです。
 これが、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について主が預言者エレミヤに告げられたことばです。いったいなぜペリシテ人は、そのように破滅することになったのでしょうか。

Ⅱ.ペリシテ人が滅ぼされた理由(6-7)

6~7節をご覧ください。ここには、「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」とあります。
  ここには、それは主の剣だとあります。主が剣に命じたのでこのようになったのです。それは彼らが主のみこころに従わなかったからです。いったいどのような点で主のみこころに叶わなかったのでしょうか。

ここで、創世記12章1~3節を開きたいと思います。「12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

これはイスラエルの父祖アブラハムに対して主が語られたことばです。アブラハム契約と呼ばれているものです。それはアブラハムが主の命令に従い、自分の父の家を離れ、主が示す地へ行くなら、主は彼を祝福し、彼の名を大いなるものとするというものでした。3節には、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。この約束のとおり、神はアブラハムの子孫から出るメシヤによって、この約束を成就してくださいました。その方とはどなででしょうか。そうです、それはイエス・キリストです。神はこのイエスによって地上のすべての民族を祝福する、すなわち、救いに導くという計画を持っておられたのです。そのためにアブラハムは選ばれました。神はこの祝福の基として特別にアブラハムを選ばれたのです。このアブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われることになります。これが聖書の原則なのです。しかし、ペリシテ人はこの原則に従いませんでした。神によって選ばれたアブラハムの民族、神の民を呪いました。それゆえ、神様から呪われることになったのです。もし彼らがイスラエルを祝福したのであれば、祝福されたでしょう。しかし、彼らはイスラエルに敵対し、絶えず攻撃しました。それゆえ、彼らは滅ぼされることになったのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

ここで地図をご覧ください。「ペリシテ人の地(新改訳聖書第三版、地図6)」

ペリシテ人について特筆すべきことは、彼らがどこに住んでいたかという点です。下の黒い楕円で囲まれた地域がペリシテ人の地です。ガザはその中にある赤い円で囲まれた町。その上は5節に出てきたアシュケロンです。ガザは今もイスラエルと戦闘状態にありますが、アシュケロンと合わせペリシテ人の5大都市の一つでした。ペリシテを代表する都市です。そのずっと上、北の方にある2つの黒い円で囲まれた町は、4節に出てきたツロとシドンです。このペリシテ人の地と隣り合わせにあるのがユダの地です。ペリシテの東側にある四角で囲まれた地域です。その右斜め上にあるのがエルサレムです。つまり、ペリシテ人の地はユダの地と隣り合わせにあったということです。もうほとんど入り混じっています。それで彼らは絶えずイスラエルに侵入してはイスラエルを支配しようとしたのです。イスラエルにとってはまさに「肉のとげ」のような存在だったのです。

旧約聖書を読むと、彼らに対する言及は古くはアブラハムの時代に遡りますが、顕著に出てくるのは士師記の時代です。今、さくらチャーチでは士師記を学んでいますが、サムソンが戦ったのがこのペリシテ人でした。その後もサムエル、サウル、ダビデの時代も彼らはイスラエルを悩まし続けます。最終的にダビデがペリシテ人を討ち、征服しました。ダビデが戦ったのはゴリヤテというペリシテ人の大男でした。1サムエル記17章4節によると、彼の身長は6キュビト半もありました。1キュビトは44.5cmですから、6キュビト半は289cmになります。ほんとかいな?と首をかしげたくなります。あのジャイアント馬場でさえ209cmでしたから、相当大きかったことがわかります。でもダビデはその巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。それでペリシテ人はイスラエルに屈することになったのです。ソロモンの時代になると、ペリシテ人は完全にイスラエルに仕えるようになります。しかし、B.C.931年にイスラエルが北と南に分裂するとペリシテ人は再び勢力を回復し、イスラエルを悩ますことになります。そんなペリシテ人を、神は徹底的に滅ぼされるのです。なぜでしょうか?神に選ばれた民に敵対したからです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

それは、この人類の歴史を見てもわかります。先日、いつも教会にお米を届けてくださる方が、「先生、最近、高原剛一郎先生が書かれた『世界は聖書で出来ている』という本が出版されたのでプレゼントします」と言ってわざわざ持って来られました。どれどれとめくって見たら、このことについて書かれてありました。詳細は触れませんが、過去500年の人類の歴史を見ると、世界の覇権を握った国々は、すべてユダヤ人を祝福した国だったというのです。それはスペインでありポルトガル、オランダ、イギリス、そしてアメリカです。これらの国の興隆と没落を振り返ると、そこにはこの原則が流れていたというのです。特に第一次世界大戦前後のイギリスと、第二次世界大戦後のアメリカを見るとよくわかります。ヨーロッパの辺境にある島国が、やがて「7つの海を支配する」大英帝国に成長した背景には、このようなユダヤ人への支援と協力があったからなのです。

また、戦後アメリカが超大国に成長した背景にも、第一次世界大戦後ヨーロッパで難民となったユダヤ人を受け入れたという事実がありました。アメリカに移住したユダヤ人たちは、背水の陣で生き残りをかけ、並外れた努力を重ねた結果、他のどの移民集団よりも短期間で成功を収め、金融、不動産、映画産業、マスコミ、医学、法律、自然科学、そして芸術、文化に至るまで、他を圧倒しました。第二次世界大戦後アメリカは、世界の超大国として君臨したのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるという聖書の原則が働いていたのです。

しかし、これは必ずしもユダヤ人という民族に限ったことではありません。それは私たちクリスチャンのことでもあるからです。いやむしろ霊的な意味では、私たちこそアブラハムの子孫、霊的イスラエルです。なぜなら、アブラハムの子孫から出るメシヤ、救い主なるイエス・キリストを信じたことで、神の民とされた者だからです。Ⅱペテロ2章9~10節にはこうあります。

「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた人たちのことです。ペテロはそのように選ばれた人たちに対して、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民だと言っているのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者であると言ったのです。そう、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた私たちも、このアブラハムの子孫であり、真のイスラエルなのです。ですから、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。私たちは祝福すべきであって、呪うべきではありません。もし神に選ばれた者を呪うことがあるとしたら、ペリシテ人のように呪われることになります。なぜなら、アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

以前、米沢の恵泉キリスト教会牧師の千田次郎先生からこんなお話を聞いたことがあります。それは、かつて全日本リバイバルミッションが盛んに行われていた頃のことですが、主催者の滝元明先生から、東北で決起集会をしたいので協力してほしいと要請があったそうです。しかし、千田先生はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、伝道は大きな集会を開くことではなく、マタイ28章にあるように、あらゆる国の人々を弟子とすることだからです。そのために行って福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、主が命じたことを守るようにみことばを教えなければなりません。必ずしも大きな伝道集会を開くことが必要ではない。そういう思いがありました。
  しかし、ある日御言葉を読みながら祈っていると、このことが示されたのです。「アブラハムを祝福する者を祝福し、呪う者を呪う」。そしてアブラハムとは誰だろうと思い巡らしていると、それは滝元先生ではないか。滝元先生は神によって選ばれた神の器だと。その滝元先生を祝福することこそ、神様が望んでおられることだと確信し、その働きの祝福を覚えて祈るようになったということでした。

私はそのお話を聞いたとき、すごいなぁと思いました。というのは、人は自分の考えと違うとなかなか受け入れることができないものですが、神のみこころを求めて祈る中で、たとえそれが自分の考えと違っても神のみこころなら従うということを実践されておられたからです。それこそ神様に喜ばれることであり、神様が祝福してくださる信仰だと思いました。私はまだそれほど長い信仰生活を送ってきたわけではありませんが、確信をもって言えることは、神の御言葉に従う者を神は豊かに祝福してくださるということです。それは霊的な面においても、精神的においても、肉体的な面においても、物質的においても、経済的においても、社会的な面においても、すべての面においてです。Ⅱ歴代16章9節に、「【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」とある通りです。問題は、私たちの心が主の心と一つになっているかどうかです。もし一つになっているなら、主はそのような人々に御力をあらわしてくださいます。それはこの点においても言えることです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。

先日、私は64回目の誕生日を迎えましたが、この64年を振り返りながら、このような人生を与えてくださった主に感謝しました。なかなかないと思うんですよ。18歳で信仰に導かれ、22歳で伝道者として召され、以後42年にわたりイエス様一筋に仕えることができるなんて。私は長嶋茂雄さんにはなれなかったし、マイケル・ジョーダンにもなれなかったけど、キリストのしもべとしての歩みを続けることができました。それは一重に神様のあわれみでしかなかった。こんな者を神様はご自身の栄光のために選んでくださいました。


  しかしそのように祈りながら感謝していると、神様からの御声がありました。「違う」と。「えっ、どういうことですか」と尋ねると、主はこのように示されました。「確かに、わたしはあなたを選んだが、それ以上にパットを選んだのだ」と。「パットがアブラハムで、あなたはそのアブラハムに仕えるしもべにすぎない。」と。これはどういうことだろうと思い巡らしているうちに、「本当にそうだと思うようになりました。」

家内が宣教師として来日したのは1979年ですから、今から46年前になります。一般に、宣教師は母国のサポーターから献金を募り、何らかの宣教団体を通して遣わされてきますが、家内はそうしませんでした。献金を集めるのがあまり得意じゃないということもありましたが、何よりもそうすれば4年に一度デブテーションで戻らなければならなかったのですが、それを受け入れることができなかったからです。伝道の途中で1年間も空けることは宣教にとって大きな妨げになるのではないかと考えたのです。ですから彼女は宣教団を通してではなくセルフサポートといって、自分で働きながら宣教する道を選びました。それは自由に宣教ができるというメリットはありますが、老後のことを考えると厳しい選択でもありました。というのは、働きを終えて帰国する時、何の保障もないからです。でも彼女はアブラハムのように「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」との召しを受けたとき、それに従い、どこに行くのかも知らずに、ただ信仰によって来日しました。そこで私と出会って結婚に導かれたのです。それは老後の保障どころか、帰国の路が閉ざされることを意味していました。日本に骨を埋めることを覚悟したということです。それほどの覚悟で来たのは、神様が彼女を選ばれたからです。パットがアブラハムで私はそのしもべにすぎないと言われる主のことばの意味がわかるような気がしました。そういえば、来日したばかりの頃、彼女はよく言っていました。「私は口下手なのでモーセですが、あなたはよく喋るのでアロンだ」と。主はご自身の御業のためにモーセを選んだように、パットを選ばれたのです。
  であれば、私がすべきこと何でしょうか。このアブラハムを祝福することではないかと思ったのです。アブラハムを祝福する者は祝福されるからです。

それはパットだけでなく、神の民とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはお互いに神に選ばれた神の民なのです。であれば、祝福すべきであって呪ってはいけません。喜んでいる者とともに喜び、泣く者と一緒に泣く。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちに順応しなければなりません。そういう人を、神様は祝福してくださるからです。ペリシテ人はそうではありませんでした。イスラエルを祝福したのではなくイスラエルに敵対し、いつも戦いを挑みました。それゆえ、神から厳しい裁きを受けることになったのです。私たちはそういうことがないように、この御言葉に従わなければなりません。神に選ばれた神の民を、愛する兄弟姉妹を心から祝福しなければなりません。祝福すべきであって呪ってはいけないのです。

Ⅲ.主のみことばの剣(6-7)

第三のことは、だから神のことばに従いましょう、ということです。6~7節をもう一度ご覧ください。「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」

ここには単にペリシテがバビロンによって討ち破られたというだけでなく、その背後に神の力と支配があったことがわかります。6節は、平安がないことを嘆くペリシテ人の嘆きです。「ああ、主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」
  ここで注目していただきたいことは、エレミヤが「主の剣」と言っていることです。実際にはペリシテもエジプトと同様に、目に見えるところではバビロンの攻撃によって討ち破られたわけですが、エレミヤはその出来事の背後に、主の力と支配があることを認めていました。
  7節もそうです。「どうして、休めるだろうか。主が剣に命じられたのだ。」とあります。主が命じられたのだから、主がみこころを実現するまでは休むことはありません。彼らに求められていたことは、それが主の剣であると認め、主の前にへりくだり、主に従うことだったのです。ダゴンの神ではなくイスラエルの神、主に信頼することだったのです。

それはペリシテ人だけのことではありません。私たちにも言えることです。聖書には、文字通り武具としての剣だけでなく、主なる神が語られる「みことばの剣」について言及されています。へブル4章12節です。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

神のことばはそれほどまでに鋭いのです。人の心の奥深くに光を当て、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。それは両刃の剣よりも鋭いのです。ですから、この神のことばによって罪が示されたのなら、「いたたっ!さやに収まり、静かに休め」と言うのではなく、私の罪のために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださった主イエス・キリストの御前に進み出て、砕かれた、悔いた心をもって、罪の赦しを求めなければなりません。そして御言葉によって励まされ、慰められ、強められ、教えられ、助けられて、御国を継ぐ者とさせていただかなければならないのです。それがペリシテ人に対して語られた主のことばを通して教えられることです。神のことばに従いましょう。神のことばに従ってアブラハムを祝福しましょう。イスラエルを祝福しましょう。主にある兄弟姉妹を祝福しましょう。祝福すべきであって、呪ってはいけません。神のことばに生きるとき、必ずあなたも祝福の基となることができます。それこそ、あなたが世の光、地の塩としてこの世に遣わされている目的だからです。

エレミヤ46章1~28節「エジプトについての預言」

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今日は、エレミヤ書46章全体から学びます。44章までにおいて、エレミヤ書におけるユダの民とエルサレムに対する預言は終わりました。そして前回の45章では、エレミヤの書記をしていたバルクに対する励ましのメッセージが語られました。ここからは、諸国に民に対する預言が語られます。エレミヤは預言者としての召命を受けたとき、ユダの民に対する預言だけでなく、国々への預言者としても召されていました。1章5節にはこうあります。 
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
  それが、ここから終わりまで続くわけです。その最初がエジプトに対する預言です。そしてそれはペリシテ、モアブ、アンモン、エドムと続き、最後にバビロンに対して語られます。それは人の目には偉大で力強く見えるこうした国々も、実は、主なる神様の主権と支配によって成り立っていることを示すためです。私たちはとかく、信仰や教会に関すること以外においては、神様はあまり関わっていないかのように思いますが実はそうではなく、この世のすべての領域において神様は主権をもって働いておられるのです。その神様の働きをご一緒に見ていきたいと思います。

 Ⅰ.何ということか、この有様は(1-12)

まず、エジプトについての預言です。1~12節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「46:1  諸国の民について、預言者エレミヤにあった【主】のことば。46:2 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢について。ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカドネツァルがこれを打ち破った。」

ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とは、前回の45章にもありましたが、B.C.605年のことです。その年にバビロンの王ネブカドネツァルがエジプトの王ファラオの軍勢と戦ってこれを打ち破りました。これはユーフラテス河畔のカルケミシュという町で起こった戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれています。バビロンはアッシリアと戦ってその首都ニネベを打ち破ると、その後アッシリアの残党がこのカルケミシュに移ったので、それを追ってカルケミシュに向かいました。しかし、そのバビロンの台頭を恐れたエジプトがバビロンに戦いを挑んだのです。それがこのカルケミシュでの戦いです。結果はエジプトの惨敗でした。その時の様子が3節以降に描かれています。

「46:3 「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。46:4 騎兵たちよ、馬に鞍をつけて乗れ。かぶとを着けて配置につけ。槍を磨き、よろいをまとえ。46:5 何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。──【主】のことば──46:6 足の速い者も逃げられない。勇士たちも逃れられない。北の方、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れる。46:7 ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻くこの者はだれか。46:8 エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』46:9 馬よ、進め。戦車よ、走れ。勇士たちは出陣せよ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引くルデ人よ。46:10 その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日。剣は食らって満ち足り、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の【神】、主に、いけにえが献げられる。46:11 おとめである娘エジプトよ、ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を用いても無駄だ。おまえには癒やしがない。46:12 国々は、おまえの恥辱のことを聞く。おまえの哀れな叫び声は地に満ちる。勇士が勇士につまずき、ともに倒れるからだ。」

5節には、「何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。─【主】のことば─」とありますが、このことばにエジプトの悲惨な状況が映し出されています。彼らはおじ惑い、うしろに退きます。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去ることになるのです。恐怖が彼らを囲むからです。エジプトを代表するのはナイル川ですが、彼らはかつてナイル川のように湧き上がり、地をおおうほどの勢力があると言って誇っていましたが、バビロン軍に敗北し、哀れな叫び声が地に満ちることになります。有志が有志につまずき、ともに倒れるのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

10節をご覧ください。ここには「その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日」とあります。これは主が敵に復讐する日なのです。どういうことでしょうか。それは単にバビロン軍との戦いというのではなく、主が成された主との戦いなのです。主との戦いですから、エジプトがどんなに強くても勝てるはずがありません。その戦いの背後には、偉大な主の御手が働いているからです。

ところで、この「敵に復讐する日」とは何を指しているのでしょうか。何に対する復讐なのでしょうか。多くの学者は、これはこの戦いの4年前(B.C.609年)に、ユダの王のヨシヤがエジプトの王ファラオ・ネコに殺されるという事件があったのですが、それに対する復讐ではないかと考えています。しかしここではもっと広い意味での復讐、エジプトが神に対して行った傲慢な態度に対する復讐であったと見た方が良いと思います。というのは、ここから諸国の民に対する預言が語られるわけですが、それをずっと見ていくとどの国々に対しても共通している三つのことが取り上げられているからです。一つは、そうした国々は自分の財産や軍事力など、物質的な力に拠り頼んでいたという点です。二つ目のことは、彼らは天地の創造主ではない、偶像の神々を拝んでいたという点です。そして三つ目のことは、イスラエルやユダに対して敵対したということです。エジプトの場合は、ヨシヤ王を殺したということがその中に含まれますが、それだけでなくこうした国々は他の点でも神に敵対しました。そのことに対する復讐なのです。

7節には、エジプトの軍隊はナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻いていたとあります。皆さん、「奔流」ってわかりますか? ゴーゴーと音をたてて激しく流れる川のことです。それは恐ろしさを感じるほどです。それだけ勢いがあるということです。それは全地を覆うほどの勢いです。8節には、「エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』」とあります。それは全地をおおい、町も住民も滅ぼし尽くすほどの勢いなのです。

しかしいくら強力な軍事力を誇り、この世を支配するほどの勢力があっても、それらのすべては神様のご支配の中にあることを覚えておかなければなりません。神様がエジプトに病を下せば、どれほど効き目のある薬を使っても何の役にも立ちません。神様が低くすれば、国々の中では辱めを受けることになるのです。国や民族を栄えさせたり衰えさせたりするのは神様であられるからです。ですから、自分の人生がどれほど栄えているようなときでもへりくだり、逆にどれほど低い位置に置かれているようなときでも落胆せず、神に信頼しなければなりません。最近、アメリカの大統領が各国に相互関税を科したことで世界経済が混乱に陥りましたが、自国民を守ることは大切なことですが、自分たちの力を誇り、世界中の国々を自分たちに従わせようとする言動は、厳に慎まれなければならないということがわかります。聖書に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18、新改訳第3版)とあるように、そのような国は、やがて滅びていくことになるからです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。

あなたはどうですか。すべてのことがうまくいっていると思うとき、へりくだって神の主権を認めているでしょうか。逆にうまくいかず辛い中にあるとき、落胆せずに神を信頼していますか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)あなたがどこにいても、すべての道で主を認めましょう。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。

また、それは同時に、神の御心に反してエジプトというこの世と同盟を結ぼうとしたユダの民に対する復讐でもあったと言えます。彼らは主なる神ではなくエジプトに頼り、エジプトに下って行きました。そのユダの不従順に対する報復でもあったのです。神様に頼らず、この世とその力に頼るとき、神様は彼らが頼るものを滅ぼされるのです。この世の力、この世の富、この世の権力に頼ることは、崩れる城壁の上に立っていることと同じことなのです。私たちが頼るべきお方はすべてを支配しておられる主だけです。ただ生を見上げ、主に拠り頼みましょう。

Ⅱ.その名を万軍の主という王のことば(13-26)

次に、13~26節までをご覧ください。エジプトに対するさばきことばが続きます。13節には「バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトの地を討つことについて、主が預言者エレミヤに語られたことば。」とあります。12節までには、B.C.605年のカルケミシュの戦いにおいてエジプトがバビロンに敗北する様子が預言されていましたが、ここには、エルサレムが陥落後、これはB.C.586年ですが、その後バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトを打つことについての預言が記されてあります。

14節には、「エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、メンフィスとタフパンヘスで聞かせて言え。」とありますが、それは、エジプトはもちろんのこと、ミグドル、メンフィス、タフパンヘスといったエジプトが支配していた都市にもバビロンの勢力が及ぶということです。

15節には「なぜ、お前の雄牛は押し流されるのか。それは踏みとどまり得ない。主が彼を突き倒されたからだ。」とありますが、「おまえの雄牛」とは、偶像のことです。バビロンによって、エジプトが頼りとしていた雄牛の像が押し流されて立てなくなるという意味です。ここでは、偶像の空しさが露呈されているのです。

また19節には「メンフィスは荒れ果て、焼かれて住む者もいなくなるからだ。」と、メンフィスもエジプトに住む娘にたとえられていますが、そうした美しい娘のようなメンフィスは荒れ果て廃墟となり、住む人が誰もいなくなるというのです。

20節の表現はおもしろいですね。「エジプトは、かわいらしい雌の子牛。しかし北からアブが襲って来る。」とあります。「かわいらしい雌の子牛」とはエジプトのことです。そして「北から襲って来るアブ」とはバビロンのことを指しています。アブであるバビロンが北からやって来て、雌の子牛であるエジプトを刺すというのです。アブないです。これは、バビロンの軍勢がエジプトを襲い征服するという比喩的表現です。

22節もおもしろいです。「彼女の声は逃げ去る蛇の音のようだ。敵が軍勢を率い、木こりのように、斧を持って入って来るからだ。」とあります。「彼女の声」とは敗走するエジプト軍が立てる音ですが、それが逃げ去る蛇の音のようだというのです。敵であるバビロン軍が木こりのように斧を手に持ち、森の木々を切り倒すように、エジプト人を切り倒すからです。そのようにエジプトはバビロンによって辱められ、彼らの手に渡されることになるのです。

問題は、なぜそのようなことになるのかということです。15節に戻ってください。3行目にこうあります。「主が彼を突き倒されたからだ」。また26節にもこうあります。「わたしは彼らを、そのいのちを狙う者たちの手に、バビロンの王ネブカドネツァルの手とその家来たちの手に渡す。」
 これは主ご自身がなさることなのです。私たちは歴史の中で起こったことや今、この時起こっていることについて、なぜこんなことになったのかとその原因を分析したり考えたりしますが、実は、そうした出来事の背後には主の御手があるのです。そこにも主が働いておられるということです。このことは、私たちをより謙虚にさせてくれるのではないでしょうか。すべてのことは主の御心のままに導かれているのです。すべてのことです。それが良いことであっても悪いことであっても。それは、そこにすべてのことを働かせて益としてくださるという主ご自身のご計画があるからです。それがどういうことなのか私たちにはわからなくても、そこに主が働いておられることを認め、その主にすべてをゆだねることが、私たちも想像もできないほどの神様の栄光が現わされていくことにつながっていくのです。

今週も聖書の学びとお祈り会がありますが、前回学んだエズラ記6章には、バビロン捕囚から帰還したユダの民が預言者ハガイとゼカリヤが語る神のことばに励まされて神殿再建を始めたわけですが、そぐに妨害が入ったとありました。その地の総督タテナイやシェタル・ボゼナ、その同僚たちの妨害に遭って工事が難航するわけです。彼らはペルシャの王ダレイオスに書状を送って、キュロス王からの命令が下った事実を調べてほしいと訴えました。すると、ダレイオス王はエクバタナというところで一つの巻物を発見し、そこに確かにキュロス王によって命令が下されたことを確認し、タテナイたちに神の宮の工事をそのままやらせておくようにと命じただけでなく、何とその宮の完成のために、彼らが取り立てた税金の中からその費用を支払って、間違いなくそれが完成するようにせよ、と命じたのです。まさに災い転じて福となる、です。タテナイたちは立てなくなってしまいました。彼らのそうした妨害のお陰でユダの民はますます確信が与えられ、必要も満たされて、ダレイオス王の第6年についに神の宮を完成させることができたのです。いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖書はこう告げています。

「これは、主が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」(エズラ6:22)

それは主が成されたからです。その背後に主が働いておられたのです。すべては主のご計画によるのです。

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

であれば、私たちはそこに主の御手があることを認め、主が働かれ、事を行わせてくださることを信じなければなりません。

それがこの46章18節で言われていることです。ここには、「わたしは生きている。­その名を万軍の主という王のことば ­」とあります。どういうことですか。ここには3人の王の名前が出ています。バビロンの王と、エジプトの王、そしてもう1人、万軍の主という王です。バビロンの王とはだれですか。ネブカドネツァルです。ではエジプトの王は誰でしょうか。ファラオ・ネコです。しかし、それだけではありません。ここにはもう一人の王がおられます。それは万軍の主という王です。それは、神の御座の右で全世界を治めておられる王の王であられる主イエス・キリストです。バビロンの王ネブカドネツァルは、神の道具となってエジプトを攻撃するために用いられました。エジプトの王ファラオの名声と権威は一時天に届く勢いでしたが、今や彼の時代は過ぎ去りました。しかし、万軍の主という名前の王は、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、エジプトの王や将軍、兵士たちを退けました。この方こそ王の王、主の主であられる方なのです。この方が、これらすべてのことをなされるのです。私たちは、神の御座で全世界を治めておられる万軍の主という王であられるイエスを信じて、この方に拠り頼まなければなりません。

あなたの人生の王は誰ですか。イエス様だけがあなたを救うことができます。イエス様だけがあなたに神の国をもたらすことができるまことの王なのです。

Ⅲ.ヤコブよ、恐れるな(27-28)

ですから第三のことは、恐れるな、ということです。27~28節をご覧ください。「46:27 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしがあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、だれにも脅かされずに平穏に安らかに生きる。46:28 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」

エジプトに対するさばきを語られた後で主は、イスラエルに回復のメッセージを語られます。それは27節にあるように、彼らの子孫を捕囚の地から救い出すという約束です。神様は全世界をさばいても、ご自身の選びの民を必ず救われます。神の救いの御業は、さばきと並行してなされるのです。それは1枚の紙の両面のような関係です。エジプトはさばかれますが、イスラエルは回復の恵みにあずかるということが、対照的に語られているのです。エジプトは滅ぼし尽くされても、イスラエルが滅ぼし尽くされることはありません。だから恐れるなと。エジプトに対する激しい神様のさばきの預言の中で、イスラエルに対する慰めのことばが語られているのはこのためです。この世はさばかれることはあっても、神の契約の民は必ず救い出されるのです。31章3節にこうあります。

「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

これが神様の愛です。神様の愛は永遠の愛なのです。永遠の愛とは、いつまでも、です。それは止まることがありません。神の愛はどんなことがあっても止まることがないのです。あなたがどんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、ずっと愛してくださいます。あなたの状態とは関係ありません。あなたがどんなに堕ちても、だれもあなたを受け入れなくても、神の愛は永遠にあなたに注がれているのです。それはあなたが優れているからではありません。あなたが良い人だからでもない。それはただ神があなたを愛されたからです。

この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることができます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができるのです。イスラエルもバビロン捕囚という憂き目に遭いましたが、この愛によってもう一度回復することができる。いい言葉ですね。「回復」。英語では「restoration」と言います。もう一度神に立ち返り、やり直すことができる。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。

このみことばを読んだ後、もしあなたが神様のみことばは真理であると信じているなら、神様はイスラエルを見捨てられないようにあなたを見捨てないということを信じなければなりません。そして「恐れるな」、「おののくな」と言われる神様のことばに信頼しなければならないのです。どんなにエジプトにさばきが下っても、あなたは恐れてはならないのです。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。

それが28節で約束されていることです。「わたしが、あなたとともにいるからだ」。この主があなたとともにおられます。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。それなのに恐れたり、心配しているとしたら、それはあなたがこの神のことばを信じていないということです。ただ頭だけで信じているだけです。救い主であり、全能者であられる主が私の人生にも働いておられるということを信じなければなりません。主は私たちのたましいだけでなく、私たちの人生も救ってくださいます。病んだ心も肉体もいやしてくださいます。さまざまな生活の問題にも答えを与えてくだいます。それなのに、熱心に教会に通い神様を信じていると言いながら、神様がいないかのような生き方をしているとしたら、それは観念的に信じているだけであって、実際の生活において神様が生きて働いておられることを信じられないのです。口では主は全能者であると言いながら、実際には「でも、さすがにこれは無理でしょ」とか思っているわけです。

主はイスラエルの歴史において働かれ、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトをさばかれ、イスラエルに懲らしめを与えただけでなく、その中から救い出してくださいました。そしてやがてそこから救い主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そして十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。その主がこのように約束してくださいました。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

主は今も生きておられます。今も生きてあなたとともにおられ、あなたの人生のただ中に働いておられるのです。あなたが成功しても失敗しても、健康な時も病気の時も、主はあなたとともにおられます。であれば、何を恐れる必要があるでしょう。その名を万軍の主という王がともにおられるなら、私たちは失望落胆する必要はないのです。

ただ、一つのことを覚えておかなければなりません。それは28節の最後にあるように、懲らしめはあるということです。「ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
 神様は、あなたとともにいて、あなたを救ってくださいますが、あなたが犯した罪については懲らしめを与えられます。それはあなたを滅ぼすためではなく、あなたを聖めるためです。懲らしめを喜ぶ人はいないでしょう。しかし、懲らしめがもたらす結果を喜ぶことはできます。その結果とは回復と聖めだからです。へブル12章11節にこうあります。

「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

すべての懲らしめや訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。回復と聖めがもたらされます。それによって、主は私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてくださるのです。それこそクリスチャンとしての本望です。ですからそこに希望を置き、たとえ現状が苦しくてもそこから逃げないで、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けていこうではありませんか。

エレミヤ書45章1~5節「自分のために大きなことを求めるな」

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今日はエレミヤ書45章から、「自分のために大きなことを求めるな」というタイトルでお話します。これは、エレミヤの書記をしていたバルクに対してエレミヤが語った主のことばです。主が彼に言われたことは5節にあるように、「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」ということでした。バルクが求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。なぜそれを求めてはいけなかったのでしょうか。

 Ⅰ.バルクの嘆き(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。2 「バルクよ、イスラエルの神、【主】は、あなたについてこう言われる。3 『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」

まず、この預言が語られた背景ですが、1節には「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年」とあります。これは、西暦でいうと紀元前605年になります。前回学んだ44章はユダの民に対するエレミヤの最後の預言、最後のメッセージでしたが、その30年も前のことです。ですからこれは44章との連続性はなく、むしろ内容的には36章にまで遡ります。それがこの預言が語られた背景にあることです。その時何があったのでしょうか。ちょっと振り返ってみましょう。36章1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻物に書き記した。5 エレミヤはバルクに命じた。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。6 だから、あなたが行って、あなたが私の口述によって巻物に書き記した【主】のことばを、断食の日に【主】の宮で民の耳に読み聞かせよ。また、町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。7 そうすれば、【主】の前で彼らの嘆願が受け入れられ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからだ。」8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの書物を読んだ。」

45章1節の「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき」というのは、このときのことです。主からエレミヤに主のことばがあったので、エレミヤはバルクを呼んでそれをことごとく巻物に書き記しました。そのときエレミヤは閉じ込められていて主の宮に行くことができなかったので、代わりにこのバルクが行って、それを民に読み聞かせたわけです。するとそれが王の耳にも入ることになりました。

それを聞いたエホヤキム王はどうしたかというと、激怒してその巻物を3,4段読まれるごとに、あろうことかそれを小刀で切り裂き、暖炉の火の中に投げ入れすべてを燃やしてしまいました。それを書き留めるのにどれほどの時間と労力を要したことでしょう。エレミヤはヨシヤ王の時代、その治世の第13年から預言してきましたから、その間約20年です。その間に書き留められた神のことばがすべて燃やされてしまったのです。相当がっかりしたことと思います。私は大田原に来て21年経ちましたが、これまで語った説教は全部保存してあります。その前に福島で語った20年分の説教も全部取ってありますが、それが焼かれたらどんな気持ちになるでしょう。おそらく、自分の存在が消し去られたような気持ちになるのではないかと思います。まさにバルクはそのような経験をしたのです。そればかりか、エホヤキム王はバルクとエレミヤを捕らえて殺そうとしました。どうしてそんな目に遭わなければならないのか理解できなかったでしょう。幸いにも主が彼らを隠されたので彼らは難を逃れることができましたが、この時のバルクの失望はいかばかりだったかと思うのです。その時の彼の思いが、ここに記されてあります。45章に戻ってください。3節です。

「あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。」

ヨブのことばで言うなら、「生まれて来ない方が良かった」です。それほどヨブは辛い経験をしたわけですが、バルクも同じでした。バルクはヨブほどの苦難を味わったわけではありませんが、心境は同じでした。

「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」

バルクの痛みとは何だったのでしょうか。せっかく書き留めた神のことばをだれも聞き入れてくれないという悔しさなり、悲しみ、怒りといった思いでしょう。それどころか、エホヤキム王はそんな自分を殺そうとさえしました。信じられない暴挙です。それで彼は、主は私の痛みに悲しみも加えられたとつぶやいたのです。彼はそんな状況にホトホト疲れ果ててしまいました。何の憩いも見いだせませんでした。彼はエレミヤの秘書として、エレミヤと苦しみを共にしてきました。それはエレミヤの信仰に共感すればこそのことですが、いざ自分のお尻に火が付くと、改めて自分の置かれた現実に目が覚めて、信仰が揺るがされたのです。

それはバルクだけではないでしょう。私たちも同じです。イエス様を信じるなら永遠のいのちが与えられ、さばきにあうことがなく、死からいのちに移るとあるから信じたんじゃないですか。それなのに死からいのちに移るどころかいのちから死に移っているのではないかと思えるような状況に陥るとき、どうしてですかと叫ばずにいられなくなります。あるいは、主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人は、水路のそばに植わった木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄えるとあるから、信じたのです。それなのに現実は実を結ぶどころか枯れてしまいそうだと感じるとき、私たちもバルクのようにつぶやいてしまうのではないでしょうか。主は私の痛みに悲しみを加えられた、私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せないと。

先日、ある方からお電話をいただきました。全く面識のない方ですが、教会のホームページのメッセージを見て電話したということでした。この方はクリスチャンの姉妹ですが、開口一番「逃げるに逃げられない状況なんです」と言われました。これはただ事ではないなと話をお聞きしたところ、この姉妹は調整区域にある農地を所有していますがそれにかかる税金がかなり高いので売却しようとしたところ、そこが農地であるためできないことがわかりました。ならばと雑種地に地目変更して売却しようと妹さんの知り合いに相談したのですが、逃げるに逃げられない状況になってしまったというのです。どうしてそのようなことで私に電話をしてきたのか不思議に思っていたら、ディボーションをしている中で教会のホームページからサムエル記のメッセージを見つけ、その中のダビデの信仰に教えられて電話したということでした。何が神様のみこころがわかるのではないかと思って。

私は1時間半ずっとお話を聞きながら、詩篇16篇8節とローマ8章28節のみことばが示されたのでそれを伝えました。詩篇16篇8節には、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。大切なのは固定資産税をどうするかということではなく神様との関係であって、自分で動くことを止めて神様を目の前に置くこと、すなわち、神様に信頼して神様の導きを待つことですと伝えました。主がともにおられるなら決してゆるぐことはありません。
  もう一つのみことばはローマ8章28節のみことばです。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」すなわち、神様はすべてのことを働かせて益としてくださるとあるので、この問題さえも益としてくださるのではないでしょうか。
  でももう一つ必要なことがあります。それは覚悟です。逃げるに逃げられない状況になってしまったと言われましたが、相手を恐れないでください。人を恐れると罠にかかりますから。しかし、主に信頼する者は守られます。大丈夫、神様が守ってくださいますから、と伝えると、安心したかのように「わかりました。ありがとうございました」と電話を切られました。私がお話をさせていただいたのは、わずか10分間でしたが。

信仰生活を送る上でこうした問題に直面するとき、あなたからはどんなことばが口をついて出てくるでしょうか。「逃げるに逃げられない」ですか。それともバルクのように「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果てて、憩いを見出せない」でしょうか。その思いが神様とエレミヤの目に留まりました。それで主はエレミヤを通してバルクに対することばを語られたのです。ですから、これは今日のあなたに対する主の励ましのことばでもあるのです。

Ⅱ.自分のために大きなことを求めるな(4-5a)

そんなバルクに対して主は何と言われたでしょうか。それは、自分ために大きなことを求めるなということでした。4節と5節前半までをご覧ください。「4エレミヤよ、あなたは彼にこう言え。『【主】はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。5 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──【主】のことば──。」

主がエレミヤを通してバルクに語られたことは、自分のために大きなことを求めるな、ということでした。どういうことでしょうか。彼が自分のために求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。新聖書注解書の中で安田吉三郎先生は、このように解説しています。

「バルクは何を期待していたのであろうか。彼が預言者エレミヤに従った時、この預言者の働きによって国の運命は転換し、その結果彼は新しいイスラエルにおいて名声と高い地位と富が得られると考えたのであろうか。名門の出のバルクにとって、このような野心は無縁だとは言い切れない。エレミヤの預言を書に記し、これを神殿で人々に朗読した時、バルクは、人々の心の中に革命が起こると期待したかもしれない。さらに自分の巻物が首長たちに読まれ、その上王の前で朗読されると聞いた時、彼の心は恐れと期待におののいていたのではないだろうか。」

これは安田吉三郎先生の憶測ですが、的を得ていると思います。というのは、その前後の文脈からそのように解釈することができるからです。4節には、主はご自分が建てたものを自分で壊し、植えたものを自分で引き抜かれる方であると言われています。つまり、主は主権者であられるということです。そしてそのように言われた後で、5節に「見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ─主のことば──」と言われました。つまり、それはバルクが思い描いたようにはならないということです。

バルクは預言者エレミヤの口述筆記者という名誉ある役割が与えられていました。1節には、彼はネリヤの子とありますが、彼は名門の出身です。教養も豊かな人物でした。エレミヤ51章59節には、彼の兄セラヤはゼデキヤ王の時の高官だったことがわかります。恐らく彼は兄と同じような地位に就くことを願っていたのでしょう。もし預言者エレミヤについて行き、エレミヤの預言によって王や首長たちが悔い改めるなら、ユダ王国に新しい未来が開かれることになります。そうなったらエレミヤは国の中で重要な地位に就くことでしょう。それは、エレミヤの書記である自分の昇進をも意味していました。ちょうどイエス様の弟子でゼベダイのふたりの子ヤコブとヨハネがイエス様に、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(マルコ10:37)と願ったように、です。

しかし、彼の期待は見事に裏切られました。事態は彼が願ったようにはいかなかったのです。むしろ逆でした。エホヤキム王やユダの首長たちは悔い改めるどころか逆に怒り狂い、口述筆記した巻物は切り裂かれて、暖炉の火で燃やしてしまいました。それどころか、彼の身にも危害が加えられる恐れがありました。彼の夢は脆くも崩れ去ったのです。それはご自身に立ち返ろうとしない民に対して、主がわざわいを下そうとしておられたからです。バルクがどんなに高貴な家の出で、優秀な者であっても、彼は一つのことを理解しなければなりませんでした。それは、主は私たちが関わるすべての事柄の主権者であられるということです。4節の「わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。」ということばは、この真理を明らかにしています。それなのに彼は自分ために大きなことを求めていたのです。

何事でも「自分のために」という思いが強すぎると、実際に思うようにいかない時、バルクのように嘆き、失望し、疲れ果ててしまうことになります。大切なのは、主が私たちに関わるすべての事柄の主権者であられると認め、自分はそのための管にすぎないことを自覚することです。そうでないと、自分のしたことに一喜一憂することになるからです。イエス様は弟子たちにこう言われました。

「17:9 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)

これがイエス様のしもべである私たちに求められている姿勢です。もしあなたが主に命じられたことをすべて行ったら、こう言うべきです。「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。それはこの世の価値観とは全く違うでしょう。この世では自分のしたことに対して、その報いがあるかないかを尺度にして生きています。たとえば、それをやったらどれだけ認められるか、どれだけ報酬があるか、どれだけ昇進するかといったことです。けれども、そのような生活は失望や落胆、また有頂天になることの繰り返しで、疲れ果ててしまうことになります。自分のために大きなことを求めるのではなく、主のために大きなことを求めなければなりません。それは主に対して忠実であること、ただ主が言われていることを行っているということ、そして成果ではなく、主との関係、主との交わりを喜び、これを求めることです。そうすれば、目先の報いに左右されることはなくなります。

こんなコラムを読みました。ご主人が出張で数日間家を留守にする時、4歳の息子が母親に「パパはあと何個寝たら帰って来るの?パパは今どこにいるの?何をしているの?」と一日に何度も尋ねてきたそうです。公園で遊んでいても、美味しいおやつを食べていても、どんなに楽しいことをしていても、息子の頭の中にあるのは常に「パパは?」でした。そんな息子の姿を見ながら、自分は息子のように神様のことを求めているだろうか」と考えさせられたそうです。

聖書には、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)とあります。自分の願い、自分の計画、自分の必要ばかりに意識を向けていたら、気付かないうちに、この世と調子を合わせてしまうことになります。神様のみこころだけが、私たちを暗やみから光へと引き上げてくれます。だから、神のみこころに焦点を合わせなければなりません。忙しくて、お皿洗いながらしか祈れない時もあるでしょう。疲れ切って聖書を読んだり祈れない時もあります。しかしそのような時こそ、より深いところへ進んでいくための神からの招きの時なのです。神様と共にありたいという奥深い心の飢え渇きを満たしてくれる時なのです。3Dのイラストをじっと集中して一点を見続けていると絵が浮かび上がって立体的に見えてくるように、いったん手を止めて、全神経を集中させて神様を捜し求め、神様と交わる時が私たちに必要なのです。

Ⅲ.神の約束(5b)

しかし、そんなバルクに対して主は、一つの報いを与えると約束してくださいました。それは彼のいのちを守られるということです。5節の最後のところに注目してください。「しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」

神はバルクにこの世での成功は約束されませんでしたが、彼のいのちが守られることを保証されました。「あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」とは、そういう意味です。リビングバイブルでは「わたしはこの民に大きなわざわいを下すが、あなたには報いとして、あなたがどこへ行っても、あなたのいのちを守る」とあります。バルクが受ける報いは、ただ彼のいのちを保つということでしたが、これほど素晴らし約束があるでしょうか。神の使命を忠実に成し遂げた後の報いは、この世の富や名誉で測ることができるものではありません。それはいのちを保つということ、永遠のいのちに与るということです。

バルクは、エレミヤたちとともにエジプトに連れて行かれましたが、彼にとっては、どこに行くかは大きな問題ではありませんでした。どこにいても、いのちを守られる主がともにおられるということ、この真実に心を留めることが大切だったのです。

バルクはエルサレム陥落を目撃し、エレミヤに同行してエジプトに下り、そこでエレミヤの死を見届けました。その過程で彼は、自らの使命に目覚めたのです。それは自分のために大きなことを求めるのではなくこれらいっさいの出来事の証人となり、それを後世に伝えることです。そしてエレミヤの預言を「エレミヤ書」という形にまとめたのです。自分に対する預言をエレミヤ書のこの箇所に置いたのも彼です。明確ではありませんが、エレミヤはこのバルクへのことばを、晩年になって彼に伝えたのかもしれません。バルクは預言者エレミヤの死後も生きて、この記録を預言者エレミヤの生涯の記録のあとに、そっと補足として加えたのかもしれません。44章でエレミヤの生涯の預言を書き終えた後にどうしてこの記事がここに挿入されているのかは、そのような理由からでしょう。個人的に成功するかどうかは、主のみこころが成るかどうかに比べたら、取るに足りないことなのです。バルクは彼の生涯の中でこのことを学んだのです。

それは私たちも同じです。私たちにとって大切なのは自分のために大きなことを求めることではなく、自分の身を通して神の栄光が現わされることを求めることです。みこころが天で行われるように、地でも行われますようにと祈り求めることなのです。これが私たちの人生の目的であり喜びですと言える歩みを、共に目指してまいりましょう。

エレミヤ44章15~30節「エレミヤの最後の預言」

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前回から、エレミヤ書44章から学んでいます。これはエレミヤがユダの民に語った最後の預言、最後のメッセージです。最後のメッセージですから、それは重要なメッセージであるということです。そうでしょ、皆さんも最後に何かを語るとしたら本当に大切なことを語るのではないでしょうか。イエス様が最後に弟子たちに語ったことはマタイ28章18~20節にありますが、それは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」ということでした。ですから、これがキリストの弟子たちにとって重要なことであることがわかります。ではエレミヤを通して主が語られた最後のメッセージはどのようなものだったのでしょうか。

 Ⅰ.それって、本当ですか?(15-19)

まず、15~19節をご覧ください。「44:15 そのとき、自分たちの妻がほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えた。44:16 「あなたが【主】の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。44:18 だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」44:19 「私たち女が、天の女王に犠牲を供え、彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、夫をなおざりにしてのことだったでしょうか。」

「そのとき」とは、その前の14節までのことが語られていたときのことです。それはユダの町々とエルサレムが滅ぼされたのは、彼らの先祖たちが主に背いてほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えたからでした。彼らは心砕かれず、神を恐れず、神から与えられた律法と掟に歩みませんでした。それなのになぜ、あなたがたは同じことをするのか。それで主は、エジプトに下って行ったユダの民を絶ち滅ぼすと宣言されました。「そのとき」です。

そのとき、自分の妻たちがほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っていた女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民が、エレミヤにこう言いました。16節です。

「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」

エジプトに下って行ったユダの民は、改めてエレミヤによって語られた主のことばに従わないと言いました。この時従おうとしなかったのは、ユダの指導的な立場にあった人たちだけではありません。エジプトに移り住んだすべての民です。

エレミヤは、かつて「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」(17:9)と言いましたが、この時の彼らの態度は、まさにそれを証明していました。彼らはかつて、自分たちも父祖たちも、自分たちの王も首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲(いけにえ)をささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたいと言ったのです。なぜでしょうか?17節後半から18節をご覧ください。ここで彼らはこのように言っています。

「私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」

えっ、それって本当ですか?彼らも彼らの父祖たちも、エルサレムの通りで行っていたように、天の女王にいけにえを備え、注ぎのぶどう酒を注いでいたとき、パンに満ち足りて幸せだったんですか?それを止めたときから、万事に不足し、剣と飢饉によって滅ぼされたんですか?ウソです。それは事実ではありません。実際は逆です。彼らがその身にわざわいを招くようになったのは、彼らが彼らの神、主の警告を無視して天の女王に犠牲を供えて仕えたからです。

この「天の女王」については、すでに7章18節で見てきましたが、古代のさまざまな地域において女神の称号として使われていた神々のことです。たとえば、カナンではアシュタロテという神です。これは女神です。バビロンではイシュタル、ギリシャではアフロデテ、ローマではビーナスなどです。彼らはそうした偶像に仕えていたから自分たちはわざわいにあわなかったと言っていますが、実際には、彼らがわざわいにあわなかったのは、主が彼らをあわれんでおられたからです。彼らはそのことに全く気付いていませんでした。つまり、彼らの過去に対する認識とか歴史観というのは、目の前の一時的な現象だけを見て判断する、いわゆるこの世のご利益信仰と何ら変わらないものだったのです。物事がうまくいっているときはハレルヤと賛美しても、そうでないと、いとも簡単に神様を捨て去り、ほかの神々を求めたのです。このように自分の欲望を満たすことを基準にした信仰は、過去の事実さえも歪めてしまうことになるのです。

かつてエジプトから脱出したイスラエルの民もそうでしたね。彼らは、エジプトを出て荒野に導かれたとき、モーセとアロンに向かって不平を言いました。

「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)

それって、本当ですか?エジプトにいた時、彼らは本当に幸せだったのでしょうか。肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていましたか。違います。彼らは奴隷として酷い仕打ちを受けていました。それなのに彼らはそのことをすっかり忘れていたのです。なぜでしょうか?自分の欲望を満たすものを神だと思い込んでいたからです。

それは私たちにも問われていることです。私たちも信仰をそのように捉えていると、目の前にそうでないことが起こると、あたかも神様を信じていなかった時の方が良かったと錯覚してしまうことがあるのです。でも、それって本当ですか?違います。15、16、17と私の人生暗かった・・・。イエス様に出会う前は、皆さんも暗かったんじゃないですか。確かに自分が好きなように自由に生きていたかもしれません。でもその結果は、自分が何をしているのかもわからない空しい人生だったはずです。私は今でも覚えていますよ。私の人生の華は高校時代でしたから。自分が好きなように、それこそ自分の肉と欲と心の望むままに生きていました。でもその結果は、空しさでした。エペソ2章1節には、それは、自分の背きと罪との中に死んでいた者であり」と言われています。そうです、これぞ我が人生と思っていた人生は、死んでいたものだったのです。しかし、あわれみ豊かな神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きと罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。ハレルヤ!
  それなのに、神様を信じる前の方が良かった、この世の神、天の女王にささげものを捧げていた時の方が幸せだったと主張するのはナンセンスです。正しくありません。

私はチューリップというバンドが好きでよくCDを聴くのですが、その中に「夏の終わり」という歌があります。
  「夏は冬にあこがれて、冬は夏に帰りたい。
  あの頃のこと今では すてきにみえる。」
  まさに、ないものねだりの子守歌ですね。夏になると冬にあこがれ、冬になると夏がすてきに見える。でも実際には、夏は夏で厳しい暑さに苦しみ、冬は冬で凍てつくような寒さに苦しむのです。でも暑いと冬はいいなぁと感じ、寒いと夏がいいなあと思うのは、その現象だけを見て判断するからです。でも神によって救われた恵みを基準にして進む人は違います。そういう人は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができます。今、自分に降りかかっている災難と思えるようなことさえも、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じているからです。

ですから、自分の感情や気分といったものを当てにしないで信じることです。そういうものは体の調子や周囲の事情、さては天候によっても左右されるものだからです。しかし私たちの信仰はけっして人間の側の何かによってもたらされるものではなく、神様の言葉によって保証されるものです。ですから、真実な神の約束である聖書の御言葉を信じる時、そこに神が約束されていることを知ることによって、揺れ動くことのない確かな信仰の土台を築くことができるのです。

あなたは自分が置かれている状況を、どのように理解していますか。神様の言葉を基準にして、神様の視点で解釈しているでしょうか。自己中心的な解釈は神の語りかけを締め出し、祝福の機会を失うという結果をもたらすのです。

Ⅱ.神のさばきの宣言(20-28)

そんな考え方をしていた彼らに、エレミヤは何と言いましたか。20~28節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「44:20 そこでエレミヤは、そのすべての者、すなわち、男たちと女たち、また彼に口答えした者たち全員に言った。44:21 「ユダの町々やエルサレムの通りで、あなたがたや、あなたがたの先祖、王たち、首長たち、また民衆が犠牲を供えたことを、【主】が覚えず、心に上らせなかったことがあるだろうか。44:22 【主】は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌み嫌うべきことのために、もう耐えることができず、それであなたがたの地は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖のもと、ののしりの的となったのだ。44:23 あなたがたが犠牲を供えたため、また、【主】の前に罪ある者となって、【主】の御声に聞き従わず、主の律法と掟と証しに歩まなかったために、今日のように、あなたがたにこのわざわいが起こったのだ。」」

そのように主張するユダの民に対してエレミヤは、正しい認識を示します。つまり、ユダの町々やエルサレムにわざわいが下ったのは、彼らが天の女王を拝むことを止めなかったからです。そのことを主はちゃんと覚えておられ、もう耐えることができなくなられたからです。

そんなエレミヤのメッセージに耳を傾ける者など一人もいませんでした。それでもなお、エレミヤは、すべての民、すべての女たちに真実を語り続けます。それが24~28節の内容です。これがエレミヤの最後の預言、最後のメッセージとなります。それは次の4つのことでした。

まず25節をご覧ください。ここには、「『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束し、自分の手で果たしてきた。あなたがたは、天の女王に犠牲を供えて彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐという誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かなものとし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』」とあります。
 ここには、あなたがたが天の女王に誓った誓願を必ず果たせ、とあります。これは皮肉的な勧めです。その語調には、挑戦とも、あきらめともとれるようなニュアンスが見られます。

二つ目のことは、26節です。「それゆえ、エジプトの地に住むすべてのユダの人々よ、【主】のことばを聞け。『見よ、わたしはわたしの大いなる名によって誓う──【主】は言われる──。エジプトの全土において、「【神】である主は生きておられる」と、わたしの名がユダの人々の口に上ることはもうなくなる。」
  これは、彼らが主に立ち返って赦されることは二度とないということです。いわば決定的なさばきの宣告です。主はどんな罪でも赦してくださいます。しかし、悔い改めなければ、赦したくても赦すことはできません。

そして三つ目のことは27節です。「見よ、わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの地にいるすべてのユダの人々は、剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せる。」
  どういうことですか?エジプトにいるすべてのユダヤ人は、不信仰のゆえに剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せるということです。

しかし28節を見ると、もう一つのことが記されてあります。それは、「剣を逃れる少数の者だけが、エジプトの地からユダの地に帰る。こうして、エジプトの地に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。」ということです。この「剣を逃れる少数の者」とは、イスラエルの残りの者たちのことです。どの預言者も、ユダに対する神のさばきだけでなく、そこにさばきを逃れる少数の者たちがいることを預言しています。神にあっては、絶望的な状況の中にも希望があるということです。そこからやがて救い主が遣わされることになります。ですから、悔い改めができなくなるほどまで罪に染まってはならない、頑なになってはならないのです。主にあっては必ず希望があるからです。その希望を見上げて救いの道を歩ませていただこうではありませんか。

Ⅲ.神のことばは必ず成就する(29-30)

最後にエレミヤは、神からのしるしを彼らに伝えます。これがエレミヤの最後のメッセージの最後です。これが、主がエレミヤを通して伝えたかったことです。29~30節をご覧ください。「44:29 これが、あなたがたへのしるしである──【主】のことば──。わたしはこの場所であなたがたを罰する。あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばが必ず成就することを、あなたがたが知るためである。』44:30 【主】はこう言われる。『見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に、そのいのちを狙う者たちの手に渡す。ちょうどユダの王ゼデキヤを、そのいのちを狙っていた彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように。』」」

これが彼らに対するしるしです。すなわち、ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されたように、エジプトの王ファラオ・ホフラも彼のいのちをねらう敵の手に渡されるというのです。これがしるしです。何のしるしかというと、エジプトで主が彼らを罰すると語られたことばが必ず成就することのしるしです。この預言の通り、この時から18年後にバビロンがエジプトに侵入し、エジプトの王ファラオ・ホラフは将軍アマシスの謀反によって殺されることになります。B.C.565年のことです。主のことばは必ず成就するのです。だから神のことばに従うようにと、エレミヤは語るのです。これがエレミヤの最後の最後のメッセージでした。

エレミヤはすべての者たちから見捨てられてもなお、神のことばに絶対的な信頼を寄せていました。彼はおそらく自分に言い聞かせるような思いで、これがあなたがたへのしるしだと告げたのでしょう。イエス様はこう言われました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13:31) 

天地は滅び去ります。しかし、主のことばは決して滅び去ることはありません。たとえ天地が滅び去り、すべてが無くなったとしても、主のことばは決して滅びることはないのです。必ず成就します。これこそ、私たちにとって真の慰めではないでしょうか。

預言者イザヤはこう言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7-8)

すべての人は草のようです。その栄光は花のようです。それはすぐに枯れてしまい、しぼんでしまいます。朝に生え出たかと思ったら、夕べにはしおれてしまいます。人はそんなの草や花のようなのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って自分の顔を鏡でよく見てください。いつの間にか白髪が増えたなぁと気が付くでしょう。しみやしわが増えたことがわかります。あんなに若々しかったのに、いつの間にか老けてしまいました。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきました。あんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせてしぼんでしまいました。あの人は教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、その人生は70年か80年で終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。人生はあっという間に過ぎ去ります。ソロモンはこれを「空の空。すべては空」だと言いました。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。

祗園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)(かね)(こえ)、諸行無常(むじょう)の響きあり。
 ()()双樹(そうじゅ)の花の色、 盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)(ことわり)をあらは(わ)す。
 おごれる人も久しからず、(ただ)(はる)の夜の夢のごとし。
 たけき(もの)(つい)にはほろびぬ、(ひとえ)に風の前の(ちり)に同じ。(平家物語)

祇園精舎の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがあります。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるということを表しています。どんなにこの世で栄えても、その栄えはずっとは続きません。まさに春の夜の夢のようです。勢い盛んで激しい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じなのです。そう詠ったのです。実に空しい存在です。

こんなこと言われても全然慰めになりません。そうです、この世には、真の慰めはないのです。ですから、この現実をしっかりと見つめそれを額面通り受け止めるなら、それが慰めになります。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれません。決して受け入れたくないでしょう。でも、これが現実なのです。事実を事実として受け止められるなら慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだと。いつまでも咲き誇っているわけではない。いつかしぼんでいきます。やがて死んでいく。それは明日かもしれません。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれない。人生はそんなに長くないのです。草花のようにすぐにしぼんでいくものでしかありません。その事実を受け入れその先にある希望をしっかり見つめて生るなら慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、人は慰めを受けるのです。

詩篇102篇25~28節にはこうあります。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」

この地上のものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美しさも、失われる時がやってきます。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生をかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないからです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。この方に信頼すれば慰めを得られるのです。

主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
  これこそ慰めではないでしょうか。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなっても、神は約束を(たが)える方ではありません。そのおことばの通りにあなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはありません。

ですからパウロはこう言ったのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
  たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちは天の御国で永遠に生き続けるからです。しかも、先週はイースター礼拝でフレミング先生から私たちはやがて栄光のからだに復活するということが語られましたが、イエス・キリストが再び来られる時、永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえるのです。そうしていつまでも主とともにいるようになります。ここに希望があります。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられているのです。その御霊によって私たちはやがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができるのです。主はそのために初穂としてよみがえられました。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わることのない神のことば、聖書のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいと思うのです。これが真の慰めのメッセージです。これが、主がエレミヤを通してユダの民に伝えたかった最後のメッセージだったのです。

エレミヤ44章1~14節「それなのに、なぜ」

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今日は、エレミヤ書44章1~14節から、「それなのに、なぜ」というタイトルでお話します。この44章は、エレミヤがユダの民に語った最後の預言です。確かに46章でもエジプトに関する言及がありますが、エレミヤの預言者としての生涯という観点では、この44章がエレミヤの最後の預言となります。晩年になり、エジプトの地に強制的に連れて来られ、その地でいのちある限り預言者として忠実に仕えたエレミヤの最後のメッセージは何だったのでしょうか。それは、「それなのに、なぜ」でした。過去の失敗から学ぶように。同じ過ちを繰り返すなということです。

 Ⅰ.神の目で過去の出来事を見る(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。

44:1 エジプトの地に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住む者たちに対する、エレミヤにあったことばは、次のとおりである。

43章では、バビロンによって滅ぼされたユダの残りの民が、神のことばに逆らってエジプトにやって来たことを見ました。今日の箇所には、それから数年が経ちエジプトに定住するようになった彼らに対して、エレミヤが語った主のことばが記されてあります。

彼らはミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住んでいました。ミグドル、タフパンヘスはエジプト北部にある国境の町です。メンフィスは、そこから南に150キロほど下ったナイル川流域のエジプト北部の中心都市です。これらの町々は下エジプトと呼ばれるエジプトの北部にある町々です。一方、パテロス地方というのは、ナイル川のはるか上流にあるテーベという都市の南にある地域で、上エジプトと呼ばれている地域です。すなわち、タフパンヘスまでやって来たユダの民は、そこからエジプト全域に分散して住むようになっていたということです。そのユダの民に対してエレミヤを通して主が語られたことばがこれです。2~6節をご覧ください。

「44:2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわいを見た。見よ。その町々は今日、廃墟となって、そこに住む者もいない。44:3 彼らが悪を行って、わたしの怒りを引き起こしたためだ。彼らは、自分自身も、あなたがたも、父祖たちも知らなかったほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えた。44:4 それで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、わたしの憎むこの忌み嫌うべきことを行わないように言ってきたが、44:5 彼らは聞かず、耳を傾けず、ほかの神々に犠牲を供えることをやめて悪から立ち返ることはなかった。44:6 そのため、わたしの憤りと怒りが、ユダの町々とエルサレムの通りに注がれて燃え上がり、それらは今日のように廃墟となって荒れ果てている。』」

「わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわい」とは、バビロンによってエルサレムが滅ぼされた出来事のことです。当時のユダの王はゼデキヤでしたが、ゼデキヤの2人の息子たちは虐殺され、彼自身も両目をつぶされ、足には青銅の足かせをはめられて、バビロンに連れて行かれました。エルサレムにあった王宮や民の家も火で焼かれ、城壁は打ち壊されて、都に残されていた残りの民は、バビロンへ捕え移されました。彼らは、そのすべてのわざわいを見たのです。その町々は今どうなっていますか?その町々は、廃墟となっています。そこに住む者は誰もいません。なぜですか。それは3節にあるように、彼らが悪を行って、主の怒りを引き起こしたからです。彼らは、自分たちの知らないほかの神々に犠牲を捧げて仕えました。偶像に仕えたということです。それは主が最も忌み嫌うことでした。主がモーセを通して彼らと結ばれた契約、十戒の第一の戒めは何でしたか。それは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)でした。自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んでも、それらに仕えてもならない。それなのに彼らはその戒めを破り、ほかの神々のところに行って仕えたのです。主はその忌み嫌うべきことを行わないようにと、早くからたびたび預言者たちを遣わして警告したにも関わらず、彼らはそれを聞こうとしませんでした。それで主の憤りと怒りとが、ユダの町々とエルサレムとに注がれたのです。これはどういうことでしょうか。

過去の歴史をよく見なさい、ということです。過去に何があったのかを見て、なぜそれが起こったのかを考えるようにということです。エレミヤはここで、過去に起こった出来事を振り返り、それがどういうことなのかを、神の視点で語っているのです。このように過去の歴史を振り返り、それがどういうことなのかを理解することは、極めて重要なことです。なぜなら、それによって未来が決まるからです。なぜ、エルサレムは滅んだのでしょうか。その理由なり、その解釈は、人によって違いますが、神の目では、それは彼らがほかの神々のところに行って仕えたことが原因でした。また、それを止めるようにとたびたび預言者たちを遣わしたのに、それを聞かないで悪から立ち返ることをしませんでした。それが原因でした。

皆さん、私たちも皆それぞれ過去がありますが、それをどのように見るか、どのように受け止めるか、どのように解釈するかはとても重要です。以前、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しましたが、彼らは人生をどのように見るかというと、現在から過去を見て未来を見ます。ちょうどボートに乗って向こう岸に行くのと同じです。未来は見えません。見えるのは過去だけです。まっすぐに進むために目印となるのはこれまで進んできた航跡(こうせき)なのです。それによって起動を修正しながら前に進んで行くのです。それは私たちも同じです。自分が歩んできた過去を見て、それがどういうことなのかを神の目で見るというか、霊的に解釈することによって前に進んで行くことができるのです。

先週、Y姉の告別式を行いました。私はY姉の92年の生涯を振り返り、Y姉の生涯はどのような生涯だったのかを思いめぐらしたとき、それは神によって運ばれ、神によって導かれ、神によって恵みと祝福に満ち溢れた生涯だったのではないかと思いました。まさに詩篇23篇6節にあるように、「いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう」とダビデが告白したように、いつくしみと恵みとが追ってくるような生涯でした。なぜなら、Y姉は自分で頑張って道を切り開きその道を歩んできたのではなく、神が用意してくださった道を、「それならあなたに従いますのでよろしくお願いします」と、ただ従って歩まれたからです。そういう生涯を神様が祝福してくださいました。それはまさにAbundantlyな生涯だったのです。だから、私たちもそのように神様によって運ばれ、神様によって導かれ、神様によって恵みに満ち溢れる生涯を歩ませていただきたいと、告別式でお話しさせていただいたのです。それはY姉の生涯を神様の目で、霊的な視点で見ることによって示されたことでした。

皆さんもご存知の三浦綾子さんは、小説を書くことを通して主の栄光を現わされました。おそらく、日本のキリスト教宣教において最も大きな影響を与えた人の一人ではないかと思いますが、それは三浦綾子さんがすべての出来事を神の目を通して捉えておられたからではないかと思います。三浦綾子読書会の代表の森下辰衛さんは、このように言っておられます。

70歳で難病のパーキンソン病を発症し症状が進んで来たころ、三浦綾子さんは「書きたいことはあるけれど、もうその体がわたしにはない。でも、わたしにはまだ死ぬという仕事がある」(三浦光世「死ぬという大切な仕事」より)と言いました。老いて不自由になり何もできなくなった、ではなくて、死ぬということも大切な仕事であり、使命だという緊張感があるのですと。
  中学教師だったAさんは、妻が40代で多発性脳梗塞になり全身麻痺、言葉も失い、寝たきりとなりました。以来、長年の介護で体はボロボロになりました。AさんがステージⅣの癌とも診断されました。気持ちが折れそうになり、介護殺人が心をよぎります。そんなある日、妻の容態が悪化し救急車で運ばれました。そのときAさんは「妻が死ぬ。これで介護地獄から解放される!」と思ったそうです。
  妻が入院中、一人で夕食をしながら、テレビをつけると三浦光世さんと綾子さんの老々介護の様子が紹介されていました。光世さんは虫眼鏡とピンセットで魚の骨を一本一本抜いて綾子さんに食べさせていたました。夜、多い日は7回もトイレに連れて行くのです。
  それでも光世さんは、「綾子、介護するよりも介護される方が辛いに決まってるんだから、もっとわがまま言っていいんだよ」と語りかけていました。そして「苦難にあわないのが良いことではなく、苦難は試練であり、与えられた使命です」と言っていました。こんな世界があったのかと、Aさんは泣きました。そして不思議に心が変わっていきました。やがて妻が退院し介護が再開しましたが、おしめを換えるのも辛くはありません。「すっきりしたか」と声を掛けると、話せない妻がニッコリと笑顔で返してくれるのが、心からいとしくなったそうです。
  三浦夫妻は、老々介護だけの日々になっても、こんなにも夫婦の愛を示して、小説を書いていた時とおなじくらい、多くの人を励ますという務めを果たしました。
  「死ぬという大切な仕事がある」と言えるのは、そこに死を超えた方の眼差しがあるからです。私を産まれさせ、生かし、老いるという仕事も死ぬという仕事も与えて下さり、見守ってくださり、全部用いてくださる方がおられる。そんな信頼があるからです。」(ともしび2025春号 三浦綾子読書会 相談役 森下辰衛)そして、死ぬということを、神様の目で、霊的視点で見ておられたからです。私たちも過去の出来事を、いや、今置かれている状況を神様の目で、霊的な視点で見るなら、「こんな世界があったのか」と思うような驚きと励ましをいただき、不思議に心が変えられ、考えが変えられ、行動が変えられていくのです。

あなたはどうですか。あなたは自分の過去の出来事をどのように受け止めていらっしゃいますか。そこから何を学んでおられるでしょうか。それは思い出すにはあまにも辛いことかもしれません。でも神様はその出来事を通してもあなたに語っておられるのです。ですから、それを神様の眼差しで見つめ直し、そこにこめられた神様の思いを受け止めて、神様があなたの人生を丸ごと抱きしめるように愛して責任をとってくださると信じて、すべてをおゆだねしたいと思うのです。それが、奪われることのない人生の祝福の基盤だからです。

Ⅱ.過去の失敗から学ぶ(7-14)

第二のことは、失敗から学ぶということです。エレミヤはこれまでのユダの失敗、ユダの過ちを踏まえて、何が神のみこころなのかを語ります。7~14節の内容です。まず7節と8節をご覧ください。

「44:7 今、イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる。なぜ、あなたがたは自分自身に大きなわざわいを招き、ユダの中から男も女も、幼子も乳飲み子も断って、残りの者を生かしておかないようにするのか。44:8 なぜ、あなたがたは、寄留しようとしてやって来たエジプトの地でも、ほかの神々に犠牲を供えて、自分の手のわざによってわたしの怒りを引き起こすのか。こうして、あなたがたは自分たち自身を絶ち滅ぼして、地のすべての国々の中で、ののしりとそしりの的になろうとしている。」

これほどの悲劇を体験しながらも、偶像礼拝を好むという民の性質は何も変わっていませんでした。彼らは寄留したエジプトの地でもほかの神々に香をたいて、神の怒りを引き起こしていました。そんな彼らに対して神が語られたことは、「それなのに、なぜ」ということでした。7節と8節には、「なぜ」ということばが強調されています。なぜエルサレムは滅んだのでしょうか。なぜユダの町々が廃墟となったのでしょうか。それは彼らが神の怒りを引き起こしたからです。それなのになぜ、あなたがたはエジプトの地でも同じ過ちを繰り返して、わたしの怒りを引き起こすのか、と訴えているのです。これはもはや神の悲痛な叫びと言えるでしょう。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼らが過去の失敗から学ばなかったことです。彼らは過去においてバビロン捕囚という神の審判を現実に体験しそれを見たのみならず、実際に自分たちも今、エジプトの地に離散させられているにもかかわらず、なおも先祖たちと同じようにほかの神々に仕え、神の怒りを引き起こしていました。彼らはわざわいの原因となった行動を断ち切らなかったのです。そうした彼らに対して主は、「それなのに、なぜ」と嘆いておられるのです。それは彼ら自身に大きなわざわいを招くことでした。それなのになぜ、彼らは神に立ち返らなかったのでしょう。

二つの理由がありました。一つは9節にあるように、彼らが、かつてユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪をすっかり忘れていたことです。9節にはこうあります。「あなたがたは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れたのか。」

彼らは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れていました。まさに、のど元過ぎれば熱さ忘れる、です。

このことについて、バイブルナビはこのように解説しています。「私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負う。ユダの民はこのことについて苦労していた。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことにつながる。失敗から学ばないと、未来にもまた失敗することが確実になる。あなたの過去は経験の学校である。あなたの過ちが、あなたを神の道へと導いてくれるようになるでしょう。」

皆さん、私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負うことになります。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことになるのです。「あなたの過去は、経験の学校である。」いいことばですね。「イエス・キリストを信じるなら、すべての問題は解決して、平坦な道を歩むことができる」ということばを聞くことがありますが、それはうそです。クリスチャンは成功と安逸な人生だけを約束されているのではなく、依然として失敗と苦しみも経験します。しかし違うのは、その失敗と苦しみを通して学び成長することができるということです。あなたの過去は経験の学校なのです。そこから学ぶことによって、あなたは確実に成長を遂げることができるのです。

聖書の中でよく失敗した人物といえばペテロでしょう。アメリカのニューヨーク州グレースチャペルの牧師レスリー・B・フリン(Leslie B. Flynm)はペテロを「ガリラヤ湖のような人だ」と表現しました。ガリラヤ湖は海かと思うほど大きな湖です。ある時は静かで穏やかですが、あっという間に荒れ狂います。いつ波が起こるかわからない、それがガリラヤ湖です。そのガリラヤ湖で魚を捕っていたせいか、ペテロの性格もまた、ガリラヤ湖のようでした。いつどうなるかわからない、落ち着きのない性格だったのです。「静かにしていなさい」と言うと騒ぎ出し、「目を覚ましていなさい」と言えば眠りこけ、「眠れ」と言えば起きて動き出しました。「勇気を持て」と言えば卑屈になって閉じこもり、「進み出ろ」と言うと走り込みました。イエス様も彼のことが、気が気ではなかったのではないかと思います。

でも、イエス様が「人々は人の子をだれだと言っているか」とお尋ねになられたとき、弟子たちは「エリヤだと言っています」とか「バプテスマのヨハネです」と答えたので、「では、あなたがたはわたしをだれだと言うか」と12弟子に尋ねられると、ペテロは待っていましたと言わんばかりに、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と正確に答えました。それを聞かれたイエス様は大いに感動されて、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明かしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(マタイ16:17)とペテロを祝福されました。

しかし、その後イエス様が、やがてご自分が十字架にかかって死なれることを語られると、ペテロは、今度はイエス様をわきにお連れして、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」(21節)と言って、イエス様をいさめたのです。これに大いに失望なされたイエス様は彼に、「下がれ。サタン」(23節)とおっしゃいました。このことは、数日の間に起こった出来事ではありません。同じ場所で、数分の間に起こったことなのです。人を感動させたかと思うとすぐに失望させる、そんなめまぐるしく浮き沈みをする人生がペテロの人生でした。

そんなペテロの生涯の中でも最も大きな失敗は、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と豪語したにもかかわらず、イエス様が捕らえられた時、人々が「あなたもイエスと一緒にいたではないか」と言うと、すべての人の前でそれを否んだことです。「そんな人など知らない」と。

しかしそんな問題だらけのペテロでしたが、やがて信仰に堅く立ち、不動の者とされていきました。どうしてでしょうか。それは復活のイエス様に出会ったからです。復活のイエス様と出会って、主が完全にしてくださるという事実を信じたからなのです。イエス様は完全なペテロに向かって「あなたはペテロ(岩)です」と言われたのではありません。彼はもともと「シモン」でした。「シモン」という名前は「葦」という意味があります。あの揺れ動く葦です。イエス様はそのシモンに「岩」という意味の「ペテロ」という名前をお付けになられたのです。ペテロがまだ弱かったとき、彼の性格を知り、彼の過去を知り、彼の未来を知っておられる主が、「あなたをペテロとする」と言って、彼を変えてくださったのです。
  変えられない人など、一人もいません。たとえあなたの気質がペテロのようで、ペテロのような弱さがあるとしても、イエス様に出会い、聖霊に満たされるなら、あなたも変えられるのです。それが、ペテロが学んだことです。変えられない人は一人もいないということです。彼は後に書いた手紙の中でこう言っています。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)

 彼は、主が完全にしてくださるという事実を信じたのです。同じように、主はあなたを必ず変えてくださいます。この世に完全な人などいるでしょうか。いません。ペテロも不完全な者でしたが、主が長い時間をかけて整え、用いられました。私たちも自分の弱さに失望してはなりません。また、他の人を罪に定めることもしてはなりません。大切なのは失敗から学ぶことです。ペテロが「主が完全にしてくだる」と言ったように、たとえ今、不完全でも、やがて完全にされ、堅くされ、強くされると信じて、神様の約束にゆだねるなら、あなたも確かに変えられるのです。

 ユダの民が主に立ち返らなかったもう一つの理由は、彼らの心が頑なで、砕かれていなかったことです。10節にこうあります。

「彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがとあなたがたの先祖たちの前に与えたわたしの律法と掟に歩まなかった。」

人は環境が変わっても、心からの悔い改めない限り、本質的に変わることはありません。神のさばきによって、ある者たちはバビロンに引いて行かれ、ある者たちは神の警告を無視してエジプトに来たからと言って、彼らの心が変わることはありませんでした。彼らの心が変わるためには、過去の失敗から学び、心砕かれ、神を恐れなければなりませんでした。ダビデはそうでした。彼はバテ・シェバと姦淫し、その夫ウリヤを戦場の最前線に出させて死なせるという罪を犯しましたが、預言者ウリヤによってその罪が示されたとき、心から悔い改めました。彼は詩篇51篇17節で次のように言っています。

「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:17)

神へのいけにえは砕かれた霊。砕かれた、悔いた心です。神はそれを蔑まれません。ダビテは心砕かれて、神の御前に心から悔い改めましたので、神の赦しを受けたのです。

私たちもありのままの姿で主の御前に進み出なければなりません。弱さが多く、足りないことは、私たちにイエス様が必要であることを意味しているからです。長所のゆえにイエス様の前に進み出ることのできる人など、一人もいません。弱さのゆえに主のもとに進み出て、自分の弱さを告白するようになるのです。

イエス様が最も嫌われた人々はだれでしょうか。パリサイ人です。パリサイ人たちは外側を美しく飾ることに懸命になっていました。内側は腐っているのに、それに気付かないで、包装紙だけを小ぎれいにしていたのです。しかし主が願われるのは、そのような仮面を被った人ではなく、正直に、ありのままの姿で、主のもとに進み出る人です。
  「主よ!私は罪人です。主よ!私はお天気屋です。主よ!私は意志が弱いです。主よ!私は整えられていない者です。主よ!私は矛盾だらけな者です。」と、主の御前に自分のありのままの姿を告白できる人です。多くの人は、自分の弱点を自分で見ることができません。そういう人は回復に時間がかかります。自分の弱さを見て、主の御前にそれをさらけ出すことができる人こそ、主の取り扱いを受けて回復し、立ち上がることができるのです。

Ⅲ.絶望の中でも希望が残されている(11-14)

それなのにユダの民は過去の罪、過ちから何も学ぼうとしませんでした。同じ過ちを繰り返しただけでなく、それを悔い改めようともしませんでした。それゆえ、主はエジプトにいたユダの民にこう宣告されたのです。11~14節をご覧ください。

「44:11 それゆえ、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『見よ。わたしはあなたがたに顔を向け、わざわいを下し、ユダのすべての民を絶ち滅ぼす。44:12 わたしは、エジプトの地へ行ってそこに寄留しようと決意したユダの残りの者を取り分ける。彼らはみな、エジプトの地で、剣と飢饉に倒れて滅びる。身分の低い者も高い者もみな、剣と飢饉で死に、のろいと恐怖のもと、ののしりとそしりの的となる。44:13 わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。44:14 エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き残る者もいない。彼らはそこに帰って住みたいと心から望んでいるが、わずかな逃れる者以外は帰らない。』」」

エジプトでも相変わらず心が頑ななユダの民に対して主は、「わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。」と宣告されました。エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き帰る者もいません。彼らがそこに帰って住みたいと心から望んでも、それが叶うことはありません。ただわずかな者だけが帰ることができます。ほとんどの民は、かつてエルサレムの住民が味わった恐怖を体験することになります。なぜなら、彼らが主のことばに聞き従わなかったからです。彼らの先祖たちが犯した罪の結果を見ても、そこから何も学ぼうとせず、同じ過ちを犯してしまいました。

私たちはこのユダの失敗から学ぶべきです。もし聖霊によって示さる罪があるなら、心砕かれて、悔い改めなければなりません。へブル3章7~8節にこのようにあるとおりです。

「ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」

しかし、14節をよく見ると、ここに「わずかな者は逃れて帰るだろう」とあります。ほとんどすべての民が滅びることになりますが、本当に少数の者ですが逃れることができます。ここに神様のあわれみがあります。この「わずかな逃れる者」が、「イスラエルの残れる者」です。神はイスラエルに審判をくだされますが、滅ぼし尽くすことはありません。そこから人類に救いの道を備えておられたのです。つまり、神はどのような悲劇の中にでも、必ず恵みと希望を備えておられるということです。もう終わりだと思うような時でも、まだ希望が残されているのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)

神があなたに立てておられる計画はわざわいではなく、将来と希望を与えるためのものです。悔い改めるに遅すぎることはありません。神の恵みと希望は残されているのです。たとえどんなに絶望的な状況の中にあっても、神を信じる者にとって絶望はありません。大切なのは、神に立ち返ることです。確かに今が恵みの時、今が救いの日です。過去の失敗から学びましょう。もし聖霊によって罪が示されたなら、頑なにならないで、砕かれた、悔いた心をもって主に立ち返ろうではありませんか。あなたがどんなに落ちても、救い主はあなたが立ち返るのをずっと待っておられるのです。

エレミヤ43章1~13節「エジプトではなく、神に」

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今日は、エレミヤ書43章から「エジプトではなく、神に」というタイトルでお話します。42章では、ユダの民がエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきかを、エレミヤを通して主に尋ねました。彼らは「それが良くても悪くても、主の御声に聞き従います」(42:6)と言ったにもかかわらず、いざ神の御心が示されるとそれに従いませんでした。ユダの地にとどまるようにという主の御声を退けて、「いや、エジプトに行こう」(42:14)と言ったのです。彼らは、最初から従うつもりなどありませんでした。ただ自分たちの計画に神が同意してくれた時のみ従おうとしていたのです。

かくして彼らはエジプトに下って行くことになりますが、その結果、どうなったでしょうか。主はバビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、ある者たちを殺し、ある者たちを捕虜とし、ある者たちを剣に渡すと語られました。さらにエジプトの神々の神殿を火で焼かれます。エジプトの力を過信して彼らに頼ったユダの民は、神のさばきを受けることになるのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。神よりもエジプトを頼ったことです。彼らは神の御声に聞き従わないで、自分の思いを優先しました。エジプトではなく、神に信頼しなければなりません。神は最後の最後まで、ご自身に立ち返ることを願っておられるのです。

 Ⅰ.主の御声に聞き従わなかった民(1-4)

まず、神の御声に聞き従わなかったユダの姿を見ましょう。1~4節をご覧ください。

43:1 エレミヤが民全体に、彼らの神、【主】のことばを語り終えたときのこと。彼らの神、【主】はこのすべてのことばをもって、エレミヤを彼らに遣わされたのであるが、43:2 ホシャヤの子アザルヤ、カレアハの子ヨハナン、および高ぶった人たちはみな、エレミヤにこう告げた。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、【主】は『エジプトに行ってそこに寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。43:3 ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデア人の手に渡して、私たちを死なせるか、あるいは、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」43:4 カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちと、民のすべては、「ユダの地にとどまれ」という【主】の御声に聞き従わなかった。」

エレミヤが民全体に、主のことばを語り終えると、彼らは全く受け入れるどころか、それを語ったエレミヤを非難しました。「あなたは偽りを語っている」と。エジプトに行ってそこに寄留してはならないというのは、エレミヤの預言を筆記していたバルクにそそのかされてそう言っているだけで、バルクは自分たちをバビロンに引いて行かせようとしているのだと、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかったのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。2節に「高ぶった人たち」とあります。それは彼らが高ぶっていたことです。高ぶっていると神のことばに従うことができません。自分を信頼するからです。謙遜な人は神に信頼しますが、高ぶっている人は自分を信頼します。謙遜な人は神に栄光を帰しますが、高ぶっている人は自分に栄光を帰そうとします。これが問題です。へりくだっているなら神に信頼し、神のことばに従おうとしますが、高ぶっていると神のことばに従うことができないのです。ですから、神の御心に従うためにはへりくだらなければなりません。しかし、このへりくだるということがなかなか難しいのです。

これは寓話ですが、ある若い牧師が、地域のキリスト教団体から、その年の最も謙遜な牧師として表彰されました。教会員もみんな感謝して表彰式に行きました。その式で彼は、最も謙遜な牧師として、謙遜がいかに大切であるかをスピーチしました。ところが次の週、教会員がその表彰状をその団体の本部に返しに来たというのです。その理由は、なんとその牧師はいただいた表彰状を額に入れ、それを教会のロビーに飾ろうとしたからでした。「先生、止めてください。これは返上した方がいいです」と、返しに来たというのです。
  この寓話は真理を突いていると思います。へりくだるというのは、それほど難しいことなのです。

18世紀にイギリスのリバイバル運動を指導したジョン・ウェスレー(1703~1791)は、「キリスト者の完全」という本の中でこう言っています。「もしあなたが完全に罪から解放されていると信じるなら、まず高ぶりの罪に警戒しなさい。この罪だけは、あらゆる欲から解放された心の人も捉えることができることを私は知っている。」

なぜ神のことばに従うことができないのでしょうか。なぜ長老たちに従うことができないのでしょう。なぜ互いに従うことができないのでしょうか。高ぶっているからです。これが罪の本質であって、これを克服できるなら、どのような問題も解決することができるでしょう。なぜなら、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになられるからです。ですから、聖書はこのように勧めています。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:6-7)

ここには、へりくだるとはどういうことなのかが教えられています。それは、あなたの思い煩いのいったい神にゆだねることです。つまり、へりくだるとは、何か特別な思いや取り組みではなく、私たちのありのままの姿を神の前で見つめ、その弱さ、足らなさ、いや罪深い姿を神の御前にさらけ出して、「神さま、どうかよろしくお願いします」と、神様にゆだねる心の営みなのです。

星野富広さんの詩の中に、「あけび」という詩があります。
「あけびを 見ろよ。
木の枝にぶら下がり、体を二つに割って
鳥がつつきにくるのを動きもしないで待っている
誰に教えられたのか あんなにも気持ちよく自分を投げ出せる
あけびを 見ろよ。」

そうです、「あけび」のようになることです。どのような困難が押し寄せようとも、私には全能の神様が付いているから大丈夫だと信じて、その力強い神の御手の下に自分を投げ出すのです。それがゆだねるということです。真に謙遜であるとはそういうことです。それが神のことばに従うために求められるのです。

Ⅱ.エジプトに下って行った民 (5-7)

次に、5~7節までをご覧ください。

「43:5 そして、カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、散らされていた国々からユダの地に住むために帰っていたユダの残りの者すべて、43:6 すなわち、親衛隊の長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、男、女、子ども、王の娘たち、さらに、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクを連れて、43:7 エジプトの地に行った。【主】の御声に聞き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパンヘスまで来た。」

こうして彼らは、エジプトの地に下って行きました。彼らは最初から神に従うつもなどなかったのです。ただ自分たちの計画に神が同意してくれる時のみ従おうと思っていただけでした。これは、申命記28章68節でモーセが預言していた通りでした。主はエジプトに下ることを禁じていたのに(出エジプト14:13, 申命記17:16)、彼らは主の御心に背いて下って行きました。

それは私たちにも警告されていることです。彼らが出エジプトという神の恵みにあずかりながら古いエジプトの生活に戻って行ったように、私たちも神の恵みによって罪から救われたにもかかわらず、再びこの世に戻って行ってしまうことがあります。私たちはかつて罪の奴隷として捕えられていましたが、イエス様が十字架でその罪の身代わりとして死んでくださったことによって、神はその罪から救ってくださいました。罪の奴隷から解放してくださったのです。罪の奴隷から神のしもべに、悪魔の支配から神の支配に、暗やみから光の世界へと移してくださったのです。にもかかわらず、かつての古い生活に戻ろうとすることがあるのです。それは、以前の主人であった悪魔が、クリスチャンが新しい主人である神に従うことを憎み、神に従わないようにと、あの手この手を尽くして誘惑し、以前の状態に引き戻そうとしているからです。

たとえば、悪魔は私たちの欲に働きかけて誘惑することがあります。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などです。「もっといい生活がしたい。」「あれもほしい、これもほしい」。そうした欲に働きかけるのです。ユダの民がエジプトに行こうとしたのもそうでした。そこは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病もないかのように見えました。本当に魅力的な場所に見えたのです。しかし、必ずしも人の目に魅力的に見える場所が祝福される場所であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病に満ちたわざわいの地になることもあるのです。大切なのは、神がともにおられるかどうかということです。神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられるからです。

あるいは、私たちの人生に起こるさまざまな試練を用いて誘惑することもあります。たとえば、病気とか事故、家庭の問題や人間関係の問題、経済的な問題などです。そうした問題を通して不安を与え、神から遠ざけようとするのです。「なぜ私ばかりこんなに苦しまなければならないのか」、「神がおられるならどうしてこのようなことが起こるのか・・・」と、神の愛に疑問を抱かせて、信仰を捨てるようにと誘惑するのです。

あるいは、試練や苦難ばかりでなく、逆に良いことを通しても誘惑することがあります。たとえば、一生懸命働くこともすばらしいことです。家族を愛することは大切です。休日に余暇を楽しむことも良いことです。しかしそれがどんなに良いことでも神より愛するなら、それが罠となって神から離れてしまうことがあります。イスラエルの民が神から離れたのは、これが一番大きな要因でした。彼らはパンがないとか水がないことによっても神を疑うことがありましたが、それよりも、豊かになった時の方が問題でした。高ぶって神を忘れてしまい、神から離れてしまったからです。

このように、悪魔は私たちが神に従わないようにと、あの手この手を使って誘惑してきますから、私たちはこの悪魔に立ち向かわなければなりません。どのようにして立ち向かったらいいのでしょうか。ヤコブ4章7節にはこうあります。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

ですから、神に従わなければなりません。私たちの力では、悪魔に立ち向かうことができないからです。神に従い、神の力をいただいて、悪魔に立ち向かうのです。

あなたをキリストの愛から引き離すものは何ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、剣ですか。しかし私たちは、これらすべての中にあっても、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となります。エジプトに行ってはいけません。どんなことがあってもキリストの愛と神の恵みにしっかりとどまっていなければなりません。自分の思いを明け渡して、神の御心をたずね求め、神に従いましょう。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。

Ⅲ.最後の最後まで(8-13)

最後に、8~13節をご覧ください。エジプトに行った民に対する預言のことばです。

「43:8 タフパンヘスで、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。43:9 「あなたは手に大きな石を取り、それらを、ユダヤ人たちの目の前で、タフパンヘスにあるファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰の中に隠して、43:10 彼らに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。見よ。わたしは人を遣わし、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える。彼はその石の上に本営を張る。43:11 彼は来てエジプトの地を討ち、死に定められた者を死に渡し、捕囚に定められた者を捕囚にし、剣に定められた者を剣に渡す。43:12 わたしがエジプトの神々の神殿に火をつけるので、彼はそれらを焼き、神々を奪い去る。彼は、羊飼いが自分の衣をまとうようにエジプトの地をまとい、ここから安らかに去って行く。43:13 また、エジプトの地にある太陽の神殿の石柱を砕き、エジプトの神々の神殿を火で焼く。』」」

ユダの残りの民は、タフパンヘスに到着します。そこはナイル川の東にあるエジプト国境にある町です。そこに来たとき、エレミヤに主のことばがありました。それは、大きな石を取り、それをファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰(しっくい)の中に隠して、彼にこう言えということでした。すなわち、主はバビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座をその敷石の上に据え、その石の上に彼が本営を張るというものです。すなわち、主はそこでネブカドネツァルを王座に据え、エジプトを打たれるというのです。これは一つのデモンストレーションでした。神はこの象徴的な行為によって、ご自分が行おうとしていることを預言者エレミヤに啓示し、その意味をタフペンヘスにいるユダの民に告げようとされたのです。

その結果、彼らはどうなりますか。死に定められた者たちを死に渡し、捕囚に定められた者を捕虜とし、剣に定められた者を剣に渡されます。また、エジプトの神々の神殿は火で焼かれるようになります。

これを行うのはバビロンの王ネブカドネツァルですが、主は彼のことを「わたしのしもべ」と呼んでいます。これはネブカドネツァルが神の信者であるということではなく、主の御業を実行する駒として用いられるという意味です。主が人を遣わして、ネブカドネツァルを連れて来させ、ご自身のご計画を成し遂げられるのです。どうして主はこのようなことをされるのでしょうか。それは彼らが真に拠り頼まなければならないのは主ご自身であることを示すためです。彼らは主よりもエジプトを頼りとしました。でも彼らが真に頼りとしなければならないのはエジプトではなく、主ご自身だったのです。

皆さん、どうでしょうか。私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。確かに神は力ある方、全能者、偉大な方であるということはわかっていてもいざ現実の生活の中で問題が起こると、目に見えるものに、エジプトに頼ろうとする傾向があるのではないでしょうか。しかし、そうしたものはあなたを救うことはできません。

イザヤ28章20節には、エジプトのことを指して「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」と言われています。エジプトの寝床は短すぎます。身を伸ばして寝ようとすると、足がベッドからはみ出てしまうのです。また、エジプトという毛布は小さすぎます。どんなに包まろうとしても小さすぎて背中が丸見えになります。そのようなベッドや毛布のように、エジプトはあなたを守ることはできないのです。あなたが拠り所としていたもの、ゆっくりと体を休め、体を温めることができると思っていたものが、いざというときに何の役にも立たないのです。私は生命保険に入っているから大丈夫です。銀行にこれだけ貯金があるから、こういう不動産があるから安心です。株があるから何とかなります。私には健康があるから大丈夫です。健康だけが取り柄です。私にはこの資格、あの資格があるから何とか食べていけますと、この世の毛布に身を包もうとしても、そうしたものは狭すぎるのです。寒いときには暖めてくれるだろうと思っていても、いざという時には何の役にも立たないのです。その究極が「死」です。あなたに死が襲い掛かる時、あなたが拠り所としているこれらのものが、あなたを本当に守ってくれるでしょうか。そうしたものはあなた助けにはなりますが、本当の意味で助けることはできません。あなたを守るには短すぎるのです。狭すぎます。人間的な計画はすべて、神のすぐれた御手の中で水の泡となるのです。ただ神だけが、私たちに真の安全をもたらすことができるのです。

かつて南ユダにヒゼキヤという王様がいましたが、このヒゼキヤの時代、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲したことがありました。その強大な敵の前に彼らは何のなす術もありませんでしたが、そのような中で彼らどうしたかというと主に祈りました。主に信頼して祈ったとき、主は彼らを助けてくださいました。何とその晩、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き18万5千人を打ち破られたのです。彼らが何かをしたからではありません。ただ彼らが神に拠りすがり、神に祈り求めた結果、神が働いてくださったのです。その結果、アッシリヤの王セナケリブは立ち去りました。主に信頼するなら、主が守ってくださいます。それは短かい寝床のようなものではありません。あるいは、狭くて暖められないような毛布のようなものではありません。あなたを完全に守り、包むことができます。

ですからエジプトではなく、神に頼まなければなりません。神に信頼する者は、決して失望させられることはありません。あなたにとってのエジプトは何ですか。あなたが拠り頼んでいるものは何でしょうか。

ところで主は、ご自身のみことばに従わないでエジプトに行ったユダに対して、なおも語られました。考えてみると、彼らはこれまでもずっと主のみことばに背いてきました。その結果、バビロン捕囚という憂き目に会ったわけですが、普通ならこれで終わりです。にもかかわらず神は、その後も何度も彼らに語られました。主は最後の最後まで語られたのです。一方、ユダの民はというと、最後の最後まで神のことばを拒みました。ここに民をこよなく愛しておられる神と、それを拒むユダの民の悲しい姿が対比されています。私たちはどこで立ち止まり、どこで神に立ち返るのでしょうか。神はあなたを愛しておられます。最後の最後まであなたに語られ、あなたが神に立ち返ることを願っておられるのです。立ち返れ。立ち返れ。立ち返って生きよ。それが神の心からの叫びなのです。

しばらくの間ずっと家内とエゼキエル書を読んで祈りましたが、18章に出てくる「立ち返って、生きよ」ということばが心にとまりました。18章にはこのことばが何度も繰り返して出てきます。最低でも6回出てきます。

「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか─神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18:23)

主が喜ばれるのは、私たちが立ち返って生きることです。神はあなたを救うことができます。完全に守ることがおできになるのです。この神に立ち返り、神に拠り頼みましょう。エジプトではなく神に、です。そして、神のことばに聞き従う者でありたいと思います。神に信頼する者は決して失望させられることはありません。このみことばを日々の生活の中で体験させていただきましょう。