エレミヤ39章1~18節「主に信頼する者は守られる」

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きょうから、エレミヤ書の講解説教に戻ります。きょうは39章全体から、「主に信頼する者は守られる」というタイトルでお話します。これまでエレミヤを通して何度も語られてきたエルサレム陥落の預言が、ここに実現します。これは旧約聖書を理解する上でとても大切な鍵になる出来事なのでぜひとも覚えておいていただきたいのですが、前586年のことです。しかし、その中にあっても救われた人たちがいます。それはこのエレミヤであったり、クシュ人エベデ・メレクといった人たちです。どうして彼らは救われたのでしょうか。それは彼らが主に信頼したからです。きょうの箇所の17節と18節にこうあります。

「17 しかしその日、わたしはあなたを救い出す──主のことば──。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。18 わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ──主のことば。』」

皆さん、主に信頼する者は守られます。主はそのような人を必ず助け出してくださるのです。きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一に、エルサレム攻め取られた次第です。エルサレムはどのように陥落したのでしょうか。それは主が語られた通りでした。主が語られたことは必ず実現するのです。第二のことは、そのような中でもエレミヤは解放されました。どうしてでしょうか。それはエレミヤが語ったとおりになったことを、異教徒のバビロンの王ネブカドネツァルや親衛隊の長ネブザルアダンが認めたからです。つまり、彼らはそれが神の御業であることを認めたのです。だから、神が語られたことは必ず実現すると信じて、神に信頼しなければなりません。第三のことは、クシュ人エベデ・メレクの救いです。彼は異邦人でありながどうして救い出されたのでしょうか。それは、彼が主に信頼していたからです。主に信頼する者は守られるのです。

 Ⅰ.エルサレム陥落(1-10)

まず、1~10節をご覧ください。1~3節をお読みします。

「1 ユダの王ゼデキヤの第九年、第十の月に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲した。2 ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日に、都は破られ、3 バビロンの王のすべての首長たちが入って来て、中央の門のところに座を占めた。すなわち、ネルガル・サル・エツェル、サムガル・ネブ、ラブ・サリスのサル・セキム、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェル、およびバビロンの王の首長の残り全員である。」

前の章、38章の最後の節には、「エルサレムが攻め取られた次第は次のとおりである」とありますが、ここにはエルサレムが攻め取られた次第、すなわち、エルサレムがどのように陥落したのかが記されてあります。
  ユダの王ゼデキヤの第九年とはユダヤの暦ですが、これは現代の暦で言うと前588年のことです。その年の第十の月に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻め入り、これを包囲しました。そしてゼデキヤの治世の第十一年の第四の月、これは現代の暦で言うと前586年7月となります。ですから、実に2年半もの間、エルサレムはバビロンによって包囲されていたわけですが、ついにその城壁が破られる時が来たのです。その時、バビロンの王のすべての首長たちがエルサレムに入って来て、中央の門のところに座を閉めました。これは、軍の総司令本部を置いたということです。エルサレム陥落です。

それを見たユダの王ゼデキヤはどうしたでしょうか。4~7節までをご覧ください。

「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」

それを見たゼデキヤとすべての戦士は逃げ、夜の暗やみに乗じてエルサレムを脱出し、アラバへの道に出ました。アラバは、ヨルダン川沿いの南北に伸びている低地です。すなわち、彼らはエリコの方面に逃げたわけです。しかし、そのエリコの草原でバビロンの追跡軍に追いつかれると、捕らえられてハマテの地リブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れて行かれました。リブラはエルサレムの北約350キロのところにあります。ゼデキヤはそこでネブカドネツァルと対面することになったのです。

するとバビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみな虐殺しました。しかし、ゼデキヤは剣で殺されることはありませんでした。彼は両目をえぐり取られ、青銅の足かせにつながれて、バビロンに連れて行かれることになりました。ゼデキヤがその目で最後に見たのは、自分の息子たちが殺される光景でした。なんと悲惨な人生でしょうか。このようにして、エルサレムは陥落し、城壁は破られ、町は火で焼かれ、そのおもな住民は、9節にあるように、バビロンへ捕囚の民として連れて行かれたのです。 

一方、何も持たない貧しい民の一部はどうなったかというと、10節にあるように、ユダの地に残され、ぶどう畑と畑地が与えられました。どうして彼らにぶどう畑や畑地が与えられたのかはわかりません。恐らくネブカドネツァル王は、それまで冷遇され、みじめな生活を強いられていたユダの貧しい人々が、悪利をむさぼり土地を自分たちの思うように使っていた身分の高い人々に反感を持っていたことを知っていたのでしょう。支配下に置かれた地域を有効に治めるために、彼らにぶどう畑や畑の所有権を与えることにしたのです。

問題は、こうしたエルサレムが陥落した一連の出来事は、これを読む読者に何を伝えようとしているのかということです。それは、神が語られたことは必ず実現するということです。それは、時にはのろいのようにしか見えないかもしれませんが、それが良いことであれ悪いことであれ、時が来ると必ず実現するのです。ここに記されてあることはすべて、預言者エレミヤによって預言されていたことです。それがここに実現したのです。たとえば、エルサレムはバビロンの王の手に渡され、火で焼かれることや、ゼデキヤは必ず捉えられて、彼の手、すなわちバビロンの王の手に渡されるということ、そこで彼はバビロンの王の目を見、王の口と語るということ、しかし彼は剣で死ぬことはなく、バビロンに連れて行かれることになるということについては、エレミヤが預言していたことでした。エレミヤ34章2~5節をご覧ください。

「34:2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。34:3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。34:4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。34:5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」

これはエレミヤが以前預言していたことです。この預言のとおりに、エルサレムは火で焼かれ、ゼデキヤ王は捕らえられてバビロンの王の手に渡されました。そこで彼はバビロンの王の目を見、彼の口と語りました。しかし彼は剣で死ぬことはなく、バビロンに連れて行かれることになったのです。また9節に「親衛隊の長ネブザルアダンは、都に残されていた残りの民と、王に降伏した投降者たちと、そのほかの残されていた民を、バビロンへ捕らえ移した。」とありますが、このこともエレミヤによって預言されていたことです。すなわち、これら一連の出来事は、預言者エレミヤによって預言されていたことがそのとおりに実現したということです。

エルサレムはどのように攻め取られたのでしょうか。すべてエレミヤによって語られていたとおりに、です。神が語られたことは必ず実現するのです。その時点では「どうかなあ」「そんなことはないだろう」と思うかもしれませんが、時が来ると、その通りであったことを知ることになります。

イスラエルを約束の地に導いた時のリーダーはモーセの従者ヨシュアでしたが、彼はその晩年、このように告白しました。

「23:14 見よ。今日、私は地のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、【主】があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。23:15 あなたがたの神、【主】があなたがたに約束されたすべての良いことが、あなたがたに実現したように、【主】はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、【主】がお与えになったこの良い地からあなたがたを根絶やしにされる。23:16 主があなたがたに命じられた、あなたがたの神、【主】の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、それらを拝むなら、【主】の怒りはあなたがたに対して燃え上がり、あなたがたは、主がお与えになったこの良い地から速やかに滅び失せる。」(ヨシュア21:14-16)

ヨシュアはその晩年、自分の生涯を振り返り、主が自分たちに約束されたことは、それが良い事であれ、悪いことであれ、一つもたがわずみな実現した、と告白しました。皆さん、主が約束されたことはみな実現します。たとえ今、何の変化もないようでも、時が来れば、神が語られたとおりに実現したことを知るようになるのです。

アメリカのミネソタ州にベイウィンド・クリスチャンチャーチという教会がありますが、その教会の牧師であるヘルマー・ヘッケル牧師の証を読んだことがあります。彼は、1958年にドイツからアメリカに移住した移民者です。彼はアメリカへの移住を果たすとすぐに路傍伝道で救われ、献身しました。その彼がドイツからアメリカにやって来た時のことを想起して、次のように言っています。
 「1958年12月、私は輸送船ブトナー号に乗ってドイツからアメリカにやって来ました。ブレマーハーフェン港を出港し、北海を通って北大西洋に入りました。船は荒波にもまれ、来る日も来る日も、北を向いても南を向いても、東を向いても西を向いても、見えるのはと言えば水また水、聞こえるものと言えば船のエンジンだけという単調なうなり声だけでした。
  しかし5日後に、劇的な変化がやって来ました。東と南に見えるのは海水だけでしたが、西には自由の女神像が朝日にきらめいていたのです。ようやくたどり着くことができたのです。」

彼は、ようやくたどり着くことができました。信仰によって歩むのもこれと同じです。私たちの置かれている状況は何の変化もないようですが、時が来れば、神が語られたことは必ず成就し、私たちは主のご計画のままに導かれてきたことを知るようになるのです。それは、これから先のことについても言えることです。聖書は世の終わりのことにどんなことが起こるかをはっきり語っています。であれば私たちはその神のことばを信じ、そのことばに従い、ただ神に信頼して、神に忠実に歩まなければなりません。たとえあなたの人生が拓かれていないように見えても、神は必ず語られたことを実現してくださいますから、ただみことばに信頼して歩ませていただきたいと思うのです。

エレミヤの解放 (11-14)

次に、11~14節をご覧ください。

「11 バビロンの王ネブカドネツァルは、エレミヤについて、親衛隊の長ネブザルアダンを通して次のように命じた。12 「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ彼があなたに語るとおりに、彼を扱え。」13 こうして、親衛隊の長ネブザルアダンと、ラブ・サリスのネブシャズバンと、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェルと、バビロンの王のすべての高官たちは、14 人を遣わして、エレミヤを監視の庭から連れ出し、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに渡して、家に連れて行かせた。こうして彼は民の間に住んだ。」

ここにはエレミヤの処遇について、バビロンの王ネブカドネツァルが親衛隊の長ネブザルアダンに命じたことが記されてあります。その内容は、エレミヤを連れ出し、目をかけてやれということでした。目をかけてやるとは、かわいがって面倒をみるとか、ひいきにするということです。バビロンの王はエレミヤをかわいがって面倒を見るようにと命じたのです。悪いことは何もするなと。ただ彼が語るとおりに、彼を扱うようにと。こうして親衛隊長のネブザルアダンとバビロンの王の高官たちは、人を遣わしてエレミヤを監視の庭から連れ出し、エルサレムの総督に任じられていたシャファンの子アヒカムの子ゲダルヤの家に連れて行かせました。そこは特別な保護の下で安全に過ごすことができる場所だったからです。これこそ神が備えられた助けだったのです。いったいなぜネブカドネツァルはこのように命じたのでしょうか。

恐らくエレミヤのことを誰かから聞いていたのでしょう。彼がどんなことを語っていたのかを。つまり、バビロンに降伏することこそが神のみこころであり、ユダの民が生きる道であるということを。彼はエレミヤが忠実な神の預言者であるとか、バビロンにとって有益な人物だからという理由で目をかけてやれと言ったのではありません。ただエレミヤが語っていたとおりになったのを見て驚いたのです。それは40章2~4節を見てもわかります。ここでは、そのネブカドネツァルの親衛隊の長ネブザルアダンがエレミヤを釈放する時にこのように言ったことが記されてあります。

「40:2 親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。40:3 そして【主】はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。40:4 そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気に入らないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」」

ここで親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤに、主はこの場所にわざわいを下すと語られたとおりに行われた、と言っています。つまりエレミヤが語ったとおりに、ユダの民が神の声に聞き従わず、神の前に罪ある者となったので、エルサレムが陥落した。だから、エレミヤを釈放すると言ったのです。彼は異教徒でありながらも、イスラエルの神、主がエレミヤを通して語られたしたとおりに成されたのを見て驚き、それが神の御業であると認めたのです。あなたも神のみことばに信頼し、神のみこころに従うなら、必ず神の御業を見るようになるのです。

私たちは、1983年に福島で開拓伝道をスタートしましたが、翌年から仕事を辞め仙台の神学校で学ぶことになったので、生活のために家で英会話クラスを始めるにしました。とはいっても、実質的にはやったのは私ではなく家内でしたが・・。そこに1人の年輩の男性の方で石川さんという方が来られました。この方は衣料品の卸業を営んでおられる方でしたが、以後、私たちが大田原に来るまでの20年間、ずっと学び続けてくれました。最初に来られた時はもう60を過ぎていましたから、その後20年というと、とうに80を超えていたかと思います。私たちは今でもこの方の話をすることがあります。どうして石川さんは私たちのところに来られたのかねと。

実はこの方の亡くなられた奥様がクリスチャンでした。そして奥様が通っておられた教会の牧師が、奥様の命日に毎年この方のお宅を訪れて祈ってくれていたんですね。そのことをよく私たちに話しておられました。だから私たちの家がボロボロの借家でも、看板に十字架があるということで信頼して来てくれたのだと思っていました。しかしある時、それもあったかと思いますが、それは神様が送ってくださったんだと確信するようになりました。

というのは、その後教会で会堂建設に取り組むことになりますが、私たちが建てようとしていた土地が調整区域といって建物を建てることができない土地だったのですが、この方の一言で大きく前進することになったからです。県から開発許可を受けることが難しく、もう止めようと諦めかけていたとき、英語のクラスの後でこの方が「だったらあの方にお話してみたら」と言われたのです。その方は県会議員をしている方でしたが宅建の資格を持っていて、その免許の更新の時によくお話する間柄だということでした。私も全然知らない方ではなかったので早速電話をしてみると、「一応、話だけはしてみます」ということでした。するとしばらくして県の担当者から連絡があり、申請に必要な書類を持って来てほしいと言われました。そして、ついに1997年11月に開発許可が下りたのです。それは祈り始めてから4~5年後のことでした。

私はその時、神様から与えられていたみことばを思い出しました。それは創世記26章22節のみことばです。

「イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」

これはイサクがペリシテの地に井戸を掘ったとき彼らから出て行ってほしいと言われ、仕方なく今度はゲラルの谷間に井戸を掘ると、ゲラルの羊飼いたちから「この水はわれわれのものだ」と言われて争いとなったため、仕方なくもう一つの井戸を掘らなければなりませんでした。それがこのレホボテです。意味は「広々とした地」です。イサクにとってそれは三度目の正直でしたが、私たちも開拓してから三度目の場所でした。しかもそこは600坪もある広々とした土地でした。ですからそれは私たちに対する神様からの約束だと受け止めましたが、すっかり忘れていたのです。しかし、こういう形で与えられたとき、そのみことばを思い出しました。あり得ないことです。でも神様はこのみことばの約束のとおりにしてくださいました。そのために神様は彼を送ってくださったのです。

20年ですよ。どうして神様は彼を送ってくださったのかわかりませんでしたが、後でわかりました。このためだったんだと。もちろん、伝道しましたよ。毎週英語のクラスの後で自然な会話をしながら、その中でイエス様を信じてくださいと勧めました。でも最後まで信じませんでした。決して受け入れたくないというわけではありませんでした。信じるならキリスト教だと思っていましたから。でもそのように勧める度にいつも笑ってこう言うのでした。「はい、自分が死ぬちょっと前に信じますから。」と。そんなのいつかわからないじゃないですか。今が恵みの時、今が救いの日です、と勧めましたが、結局私たちが大田原に来るまで信じることはありませんでした。そして、こっちに来てからその方が召されたことを知りました。本当に残念です。あんなにいい方で、あんなに神様に心を開き、あんなに教会のためによくしてくださった方なのに、イエス様を信じなかったのは本当に残念だと思いました。でも、その中でも神様は働いておられ、ご自身の御業を進めてくださったのです。神にはどんなことでもできること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

あなたにとって難しい、できないと思っていることは何ですか。でも神様にはどんなことでもおできになられます。ですから私たちは神を信じて、神のことばに信頼しなければなりません。そうすれば、あなたも神の御業を見るようになるのです。

Ⅲ.クシュ人エベデ・メレクの救い(15-18)

最後に、15~18節をご覧ください。

「15 エレミヤが監視の庭に閉じ込められているとき、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。16 「行って、クシュ人エベデ・メレクに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都にわたしのことばを実現させる。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらはその日、あなたの前で起こる。17 しかしその日、わたしはあなたを救い出す──【主】のことば──。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。18 わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ──【主】のことば。』」」

クシュ人エベデ・メレクについては、前の章の38章7~13節で学びました。エレミヤが泥の中に沈みかけていた時、彼がエレミヤをその泥の中から救い出したという話です。ですから時間的な順序で言うなら、この箇所はその直後に記されるべき内容です。それがここに記されてあるのは、おそらくこのエルサレムの崩壊に際して、エベデ・メレクが行ったことに対する神の報い、神の約束が成就したことを記すためだったのではないかと思います。エレミヤが泥の中から救い出された時、彼は監視の庭に閉じ込められていましたが、その時このクシュ人エベデ・メレクに対して、16~18にある預言がエレミヤを通して語られたのです。それは17節にあるように、主は必ず彼を救い出す、助け出すということです。「あなたのいのちは戦勝としてあなたのものになる」というのは、「いのちだけは助かって生き残る」という意味です。新共同訳ではそのように訳されています。彼はその危機を生き延びて、その生涯を平安のうちに終えたと理解することができます。いったいなぜ彼はその危機から救い出されたのでしょうか。

18節にその理由が次のように記されてあります。「あなたがわたしに信頼したからだ。」
  それは、彼が主に信頼したからです。彼は異邦人でありながら、イスラエルの神、主に信頼しました。だから、彼は助け出されたのです。彼がエレミヤを泥の中から助け出したのも、それは彼が主に信頼していたからだったのです。それで彼は神からの祝福を受けたのです。

それは私たちも同じです。実はこの異邦人エベデ・メレクは私たちの型というか、私たちのモデルなのです。というのは、私たちもイスラエルの民からすれば異邦人であり、神から遠く離れていた者であったにも関わらずイエス・キリストを信じたことによって神の民とされ、神の祝福を受け継ぐ者とされたからです。主イエスを信じる者は救われます。彼に信頼する者は失望させられることはありません。エペソ人への手紙2章11~13節にはこうあります。

「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」

私たちもかつてはキリストから遠く離れ、イスラエルの民からは除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって何の望もなく、神もない者でした。しかし、そのような私たちもキリストの血によって神に近い者、いや、神の民とされたのです。それは一方的な神の恵みによるのです。その神の恵みを受けてエベデ・メレクが神に信頼し、エレミヤを助けたように、私たちもキリストの血によって神の民の一員として加えられ、神に信頼する者とされました。それゆえ、神の祝福を受ける者とされたのです。

であるなら、私たちの人生において最も重要なことは何でしょうか。それは私たちがどういう者であるかとか、どれだけ力があるかということではなく、誰と共に歩むのかということです。何に信頼して歩むのかです。

あなたは何に信頼していますか。誰と共に歩んでおられるでしょうか。主に信頼する者は守られます。「しかしその日、わたしはあなたを救い出す─主のことば─。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ─主のことば。」
  もしかすると、あなたはエレミヤのように泥の中に沈みかけているかもしれません。お先真っ暗ですと。でも主に信頼するなら者は守られます。決して失望することはありません。それが神のことば、聖書があなたに約束していることです。神様は異邦人エベデ・メレクを救い出したように、またエレミヤを助けてくれたように、必ずあなたを救い出し、助け出してくださいます。私たちも主に信頼しましょう。それはあなたがだれに信頼したかによって決まるのです。

詩篇133篇1~3節「一つになってともに生きる幸い」

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主の2025年、明けましておめでとうございます。この新しい年も皆さんとご一緒に礼拝することを感謝します。皆さんはどのような思いで新年を迎えられたでしょうか。今年も主の栄光が現わされるように、主のみことばに聞き従い、みことばに歩んでまいりましょう。

この新年礼拝で私たちに与えられているみことばは、詩篇133篇のみことばです。1節には、「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは。」とあります。

皆さん、何が幸せなんでしょうか。何が楽しみなのでしょうか。それは、兄弟たちが一つになって、ともに生きることです。これが主のみこころです。これが今年私たちに求められていることです。私たちは今年、一つとなってともに生きることを求めていきたいと思います。そして、それによってもたらされる主の祝福がどれほど大きいかを味わいたと思うのです。

きょうは、この「一つとなってともに生きる幸い」について、三つのことをお話したいと思います。第一に、兄弟たちが一つとなってともに生きることは実に幸いなことであり、実に楽しいことであるということです。第二に、それはどれほどの幸いなのでしょうか。それは、頭に注がれた貴い油がアロンのひげに、いやその衣の端にまで流れ滴るほどです。また、ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようです。どうしてそれほどの祝福が注がれるのでしょうか。それは、主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからです。ですから第三のことは、私たちも一つになって、ともに生きること求めましょう、ということです。

Ⅰ.一つになってともに生きる幸い(1)

まず、兄弟たちが一つとなってともに生きる幸いから見ていきましょう。1節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。

「133:1見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。」

この詩篇の表題には、都上りの歌。ダビデによる、とあります。この詩篇の作者であるダビデは、「見よ」という呼びかけでこの詩を始めています。とても印象的な表現ではないでしょうか。「見よ。なんという幸せ、何という楽しさであろう。」それはこれを読む人たちに、このことを何としても伝えたい、何としても知ってほしい、という思いが込められているからです。

その思いとは何でしょうか。それは、兄弟たちが一つになって、ともに生きることの幸いです。それはなんという幸せ、何という楽しさであろうか、というのです。ここでダビデは、「なんという」ということばを繰り返すことによって、兄弟たちが一つになってともに生きることの幸いを強調したかったのです。

皆さん、どうでしょうか。兄弟たちが一つになって、ともに生きること、ともに礼拝することは、それほど幸いなこと、それほど楽しいことだと考えたことがあるでしょうか。いや、私はいいです。私はひとりで聖書を読んでいた方が幸せなんです。第一面倒くさいです。他の人に気を使わなければならないし。だったらひとりでいた方がどれほど楽なことか・・・。そういう思いはありませんか。でもここにはそのようには言われていません。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは、なんという幸せ、何という楽しさであろうか、と言われているのです。これは、「都上りの歌」です。都上りの歌とは「巡礼の歌」のことです。主の宮に集まって、主を礼拝すること。それはなんという幸せ、なんという楽しさであろうかというのです。

皆さん、兄弟姉妹が一つとなって主の宮に集まり、ともに主を礼拝することはそれほど楽しいこと、それほど幸せなことなのです。先々週のクリスマス礼拝では、私たちの主イエスは「インマヌエルの主」として生まれてくださったということをお話しました。意味は何でしたか。意味は、「神は私たちとともにおられる」です。私たちはひとりぼっちではありません。イエス様が私たちとともにいてくださいます。嵐の時も、穏やかな時も、いつもイエス様がともにいてくださるのです。それは本当に幸いなことではないでしょうか。けれども、私たちにはそれだけではないのです。それとともにすばらしい祝福が与えられているんです。それは同じ神を信じる兄弟姉妹たちがともにいるということです。

私たちには、ともに生きる神の家族が与えられているのです。不思議ですね、教会って。年齢も、性別も、出身地も、国籍も、みんな違いますが、イエス様を信じたことによって天の神を「アバ」、「お父ちゃん」と呼ぶことができるようになったことによって、お互いが兄弟姉妹とされたのです。どっちが兄で、どっちが弟なのかわからない時もありますが、みんな兄弟姉妹です。相手の名前がわからない時はいいですよ。「兄弟」とか「姉妹」と呼べばいいんですから。最近はなかなか名前が思い出せなくて・・という方は、ただ「兄弟」と呼べばいいので簡単です。特に私たちの教会には世界中からいろいろな人たちが集まっているので、名前を覚えるのは大変です。でも「Brother」とか「Sister」と呼べば失礼にならないので助かります。こうして主イエスを信じる世界中のすべての人と兄弟姉妹であるというのはほんとうに不思議なことです。英語礼拝を担当しているテモシー先生はガーナの出身ですよ。肌の色も違う。何歳かもわかりません。でも兄弟と呼べるというのはすごいことだと思うんです。このように自分と全く違う人たちがイエス・キリストによって一つとされ、ともに生きることは、ほんとうに幸せなこと、ほんとうに楽しいこと、これ以上の幸いは他にはないというのです。

この詩篇は歴史を通してユダヤ人たちにとても愛されてきた、大切にされてきた詩篇なんです。どうしてかというと、ユダヤ人たちは離散の民だったからです。かつてユダヤ人たちは神殿、神の宮ですね、神の宮に集まって主を礼拝していましたが、それが彼らにとって何よりも喜びだった。何よりも幸せだったのです。

ところが、その後ユダヤ人たちは国を失ってしまいました。みんなバラバラになってしまった。多くの人たちが捕囚の民として、外国に連れて行かれました。バビロン捕囚です。他の国に散らされて行った人たちもいます。その置かれた場所で咲きましょう、ではありませんが、彼らは旧約聖書の律法を大切なしながら、そこで信仰を育んでいったのです。

けれども彼らは、かつてのようにみんなで集まって礼拝することができなくなってしまいました。そんなユダヤの民にとってこの詩篇133篇は、かつて彼らが味わった幸せを懐かしく思い出す歌となったのです。そしていつの日か、今はまだその時ではないけれども、もう一度この幸せを味わうことができる日がくる、そんな希望を覚える歌として、大切にされてきたのです。

そのようにしてユダヤ人たちは、自らの過去と未来の両方を思いながらこの歌を味わい、この歌を歌いながら、また希望に思いを馳せながら、共に集まることの幸いを味わっていたのです。

ドイツの牧師で神学者のボンヘッファーは、この詩篇133篇から「ともに生きる生活」という本を書いていますが、その本の中で彼は兄弟姉妹が共に集まって生きることの幸い、そして教会の祝福についてこのように言っています。

「キリスト者の兄弟姉妹の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものであるということが、とかく忘れがちである。だからその時まで他のキリスト者とキリスト者としての交わりの生活を送ることを許された者は心の底から神の恵みをほめたたえ、跪いて神に感謝し、我々が今日なおキリスト者の兄弟との交わりの中で生きることが許されているのは恵みであり、恵み以外の何ものでもないことを知りなさい。」

皆さん、これは当たり前のことじゃないのです。兄弟姉妹が一つになってともに生きること、ともに主を礼拝できるというのは神の恵みなんです。恵みの賜物以外の何ものでもない。私たちはこうして毎週集まって礼拝をささげていますが、これはいつ奪い取られるかわからないことなのです。たとえば、新型コロナウイルスが発生した時、多くの教会では集まることができませんでした。そうした教会の中には、それ以降集まることが困難になって閉鎖した教会も少なくありません。当たり前じゃないのです。それは本当にかけがえない恵みであり、本当に幸いなことなんだと、ボンヘッファーは言ったのです。

皆さん、兄弟たちが一つになってともに生きることは、なんという幸せ、何という楽しさでしょうか。そうなんです。兄弟たちがバラバラに歩むのではなく一つになってともに生きることは、本当に幸いなことなのです。文化や習慣、考え方、性格など、それぞれの違いがありながら互いに調和を保っていくことは簡単なことではありませんが、しかしそうした違いを乗り越えて一つなってともに生きることは、本当に幸いなことであり、これ以上の祝福はありません。

Ⅱ.主が注がれるとこしえのいのちの祝福(2-3)

では次に、その祝福がどれほどのものなのかを見ていきましょう。この詩篇の著者はその祝福のすばらしさを、次のように語っています。2節と3節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。

「133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。
  133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

ここには、それは頭に注がれた貴い油のようだとあります。また、それはヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ、とあります。どういうことでしょうか。それほど麗しい豊かな祝福だという意味です。なぜなら、それはただの人間的な楽しさとは違うからです。そこには主のとこしえのいのちの祝福が流れているからです。

まずそれは、頭に注がれた貴い油のようだと言われています。それはひげに、アロンのひげに流れて、衣の端にまで流れ滴ると。どういうことでしょうか。それほど神様の祝福に潤される、満たされるということです。

頭に油を注ぐというのは、整髪料じゃあるまいし、私たち日本人にはあまりピンとこないかもしれませんが、ユダヤの地方には、そういう習慣がありました。福音書の中にも、イエス様の頭に油を注いだ人がいますね。誰ですか? そう、ベタニアのマリアです。彼女はイエス様にいたずらをしようと思ってやったわけではありません。イエス様を驚かせようとしたわけでもないのです。イエス様に対する愛と感謝を表すためにしたのです。その香油はあまりにも高価なものだったので、それを見ていた弟子の一人のイスカリオテのユダは、「どうして、そんな無駄なことをするのか。この香油なら300デナリ(300日相当の労働の対価)で売れるのだから、それを貧しい人に施せばいいじゃないか」、と言って憤慨したほどです(ヨハネ12:5)。香油というのはそれほど高価のものでした。それほど高価な香油を、彼女はイエス様の頭にガバッーと注いだのです。ですからイエス様はそのことをとても喜ばれ、彼女の行為を高く評価されたのです。

しかしここでは、それはただの香油ではないことがわかります。ここには「アロンのひげに流れて」とあります。アロンとはモーセのお兄さんのことですが、彼は大祭司として任職されました。その任職式の時に油が注がれたのです。それがこの貴い油です。その時の様子がレビ記8章12節にありますが、その量は中途半端なものではありませんでした。大量の油が注がれたのです。それがどれほどのものであったかを、ここでは何と表現されていますか。それはアロンのひげに流れて、とあります。さらにはアロンの着ていた衣の端にまで流れ滴る、とあります。アロンの胸には大祭司が身に着けるエポデという胸当てがありましたが、そこにはイスラエル12部族を表わしている12の宝石が埋め込まれてありました。アロンの頭に注がれたその貴い油はアロンのひげに流れると、そのエポデも全部覆って、やがてアロンが着ていた衣の端にまで流れ滴ったのです。それほど豊かな油であったというのです。ここでは「流れて」とか「流れ滴って」とことばが繰り返されてありますが、それは、上から下へと流れる、天の神様の祝福の豊かさを強調されているのです。そしてその祝福こそが教会に流れている幸せと祝福の源なのです。

さらにその祝福は、もう一つのたとえによっても描かれています。それはヘルモン山から下りる露です。3節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。

「133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。」

ヘルモン山というのは、ガリラヤ湖の北東約50キロにある山です。標高は海抜2,814メートルと言われていますから、相当高い山です。ですから、その山頂は万年雪となっていて夏でもスキーができるほどなんです。一方、シオンの山々とはというと、イスラエルの南、死海近辺にあるエルサレムの山々のことです。そこは草も生えないような乾燥地帯、山岳地帯となっています。そこがヘルモンの山頂にある雪解けの水が露となって滴り落ち、潤されるようだというのです。どういうことでしょうか。

実際にはヘルモン山から南のシオンの山々までは約200キロメートルも離れていますから、その山の露がシオンの山々にまで降りるということは考えられません。でも神様の祝福というのはそんな人間の理解とか想像も及ばないほど豊かで、まるでヘルモンの山からシオンの山々にまで降り注ぐ大量の露のようだというのです。兄弟たちが一つとなってともに生きることは、それほど私たちを豊かに潤してくださるということです。どんなにカラカラに乾いていても、神様の祝福というのは、そんな乾いた全地を潤すほどの祝福なのです。

ところで、この3節にある「降りる」という言葉ですが、これは2節に出て来た「流れる」という言葉と同じ言葉です。ですから、この詩篇の作者はこのことばを3回も繰り返すことによって、上から下へと注がれる神様の祝福がどれほど豊かであるかを表したかったのです。どうしてそんなに豊かなのか。それは、主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからです。その恵みの大きさを覚えて主に心から賛美を捧げようではありませんか。

兄弟たちが一つになって、ともに生きることは、それほどの幸せ、それほどの楽しさなのです。カラカラに渇いているあなたのたましいまでも満たしてくれる。そういうまさに天来の祝福、天来の幸せ、天来の喜びで溢れるのです。

Ⅲ.一つになってともに生きる(3)

であれば第三のことは、私たちも一つになって、ともに生きることを求めましょう、ということです。もう一度3節の最後のことばに注目してください。ここには、「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」とあります。

私たちが互いに愛し合う、その交わりの中に、主がとこしえのいのち、永遠のいのちの祝福を注いでくださいます。なぜなら、それは何よりも神様のみこころであり、そのために私たちは召されているからです。それなのに、私たちの側で心の眼が曇らされてしまって、互いにさばき合ったり、ねたみ合ったりして、こんなにも豊かな神様の祝福を閉ざしてしまうことがあるとしたら、何ともったいないことでしょう。ですから私たちはこの詩篇の作者が「見よ」と呼び掛けて、「なんという幸せ、なんという楽しさだろう」と、声を大にして伝えているこのこと、すなわち兄弟たちが一つになって、ともに生きるというこの歩みを、大切にしていきたいと思うのです。いつでもこの教会を、神様のとこしえのいのちの祝福が覆ってくださるように、そしてそれを私たちが豊かに感じながら、ただ神様に感謝と礼拝をささげていくことができるように、私たちは一つになってともに生き、その祝福の流れに乗り続けていきたいと思うのです。

いったいどうしたらそんな歩みができるのでしょうか。その鍵は「御霊によって一致」することです。パウロはエペソ4章1~3節の中でこのように勧めています。

「4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
 4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び
 4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」

ここでパウロは、エペソの兄弟たちに対して、召された者はその召しにふさわしく歩むようにと勧めています。召しとは救いへの召しのことです。かつては罪の奴隷であった者が、そこから解放されてキリストのしもべとして召されました。それがクリスチャンです。クリスチャンとは「キリストのしもべ」という意味です。私たちはイエス様を信じたことでクリスチャンとして召されたのです。ですから、その召しにふさわしく歩まなければならないのです。それはどのような歩みでしょうか。ここには、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、同じ神の霊、聖霊を受けている者として、御霊による一致を熱心に保ちなさい、とあります。私たちが頑張って一致するというのではありません。私たちはそのように召された者なのだから、キリストにある者とされたのだから、そり召しにふさわしくキリストにあって歩むのです。それが召しにふさわしい歩みです。それが、御霊による一致を保つということなのです。

それは、言い換えると「互いに愛し合う」ということです。主イエスはこう言われました。

 「13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34~35)。

イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合うこと、それが、主イエスが命じておられることです。ここには「新しい戒め」とありますね。これは新しい戒めなんです。古い戒め、すなわち旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならない、という戒めがありました。たとえば、レビ記19章18節には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずなのです。それなのにどうしてイエスはこれを新しい戒めと言われたのでしょうか。それはどのように愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。そのように愛しなさいというのです。

ではイエス様はどのようにあなたを愛してくださったのでしょうか。イエス様は弟子たちにその模範を示されました。それが弟子たちの足を洗うという行為でした。それはただ兄弟姉妹の足を洗い合えばいいのかというとそういうことではなく、そこに込められている意味を実践しなさいということです。それは何でしょうか。それはしもべとして生きるということです。イエス様はしもべとして死に至るまで相手に仕えられました。その究極が十字架だったのです。聖書は十字架を指してこう言っています。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)

皆さん、どこに愛があるのでしょうか。聖書は「ここに愛がある」と言っています。それは、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされたことの中にあると。神の愛はイエスの十字架によって完全に表されました。多くの人は、「愛」を表すのに、「ハート」の形を使いますが、聖書的にいうなら、愛の「形」は、「ハート」ではなく、「十字架」です。イエス様は、この十字架の愛に基いてこう言われたのです。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。これは言い換えると、一つになって共に生きるということです。私たちが一つになってともに生きるなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになるのです。

元旦の朝、私たち夫婦はいつものように二人で一緒に聖書を読んで祈りました。新年の最初の日ですから、神様はどんなみことばを与えてくださるかと期待して開いた聖書箇所は、エゼキエル書5章でした。そこにはバビロンに連れて行かれた預言者エゼキエルが、エルサレムに向かって神のさばきを語るという内容でした。新年から神のさばきかとちょっとがっかりしましたが、そこに神のみこころが記されてありました。それは、イスラエルの民が置かれている所はどこか、ということです。5章5節にこうありました。

「神である主はこう言われる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした。」」

彼らが置かれていたところはどこですか。これがエルサレムです。主は彼らを諸国のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした、とあります。何のためでしょうか。それは彼らが主のみこころに歩むことによって、そうした周りの国々も主を知り、主に立ち返るようになるためです。それなのに、自分たちが選ばれたことに優越感を持ちその使命を果たすことをしなかったら、主はどれほど悲しまれることでしょうか。事実、エルサレムは神の定めを行いませんでした。それどころか、彼らの周りの国々の定めさえも行わなかったのです。それゆえ、主は彼らをさばかれたのです。

これを読んだ時、それは私たちにも言えることではないかと思わされました。私たちがここに置かれているのは何のためでしょうか。それは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方のすばらしい栄誉を告げ知らせるためです。それなのに、その使命を忘れ、自分が好きなように、自分がしたいように生きるとしたら、それこそイスラエルと同じではないかと思ったのです。神によって救いに召された私たちに求められていることは、このすばらしい神の栄誉を告げ知らせることです。どうやって?互いに愛し合うことによってです。互いの間に愛があるなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。私たちは今年、そのような年になることを求めていきたいと思います。

昨年のクリスイヴのことですが、と言ってもつい2週間ほど前ですが、その日に2人の方からお電話をいただきました。「今晩は、クリスマス礼拝がありますか」と。一人は日本人の女性の方で、これまで一度も教会に行ったことがないという方でした。もう一人はインドの方で、クリスチャンの方でした。仕事で東京から来ているがクリスマス礼拝があれば行きたかったということでした。やはりクリスマスは人々の心が開かれる時なんだなぁと思いましたが、ふと、今年のクリスマスを私はどのように過ごしたらよいか、どのように過ごすことを神は願っておられるかという思いが与えられました。勿論、家族で過ごすのもすばらしいことです。でもそれだけでよいのか、教会に来たくても来れない方がいるならその方を訪問して一緒に礼拝することを、神は喜ばれるのではないかと示され、施設に入所している方々を訪問することにしたのです。それは私が目の手術で入院していた時、誰にも会うことができないという状況の中で、深い孤独と寂しさを経験したからです。

最初に下野姉が入所している施設を訪問しました。下野姉を訪問したのは2回目でしたが、本当に喜んでくれました。マタイの福音書から私たちの主はインマヌエルとして来てくださり、いつも下野さんとともにおられますから安心してくださいとお祈りすると、帰りに「先生、握手」と握手まで求められ、掴んだ手をずっと握り締めて離しませんでした。それほど不安だったんでしょう。それほど寂しかったんでしょう。最後に「先生、その時にはよろしくお願いします」と言われました。それはご自分が主のもとに行かれる時のことを言っておられるんだなぁと思い、「わかりました。大丈夫です。安心してください」と言ってお別れしました。

その足で和気姉が入所している施設に向かいました。和気姉もだいぶお身体が弱くなり、こちらから話しかけてもあまり応答できなくなりましたが、クリスマスなので一緒に賛美しましょうと「きよしこの夜」を歌うと、「きよし、このよる」と、自分のすべての力をふり絞るかのように大きな声で賛美されました。驚きました。じゃ、もう一曲賛美しましょうと、次に「雨には栄え」と賛美すると、これも大きな声で歌われたのです。何も覚えていないようでも賛美歌は覚えておられるんだ、と感動しました。私は時間のことを心配していましたが、もう時間のことも忘れてしまうくらいそこには神の臨在と祝福が満ち溢れ、さながら天国にいるかのような心地でした。まさに兄弟が一つとなってともに生きることは、なんという幸い、なんという楽しさでしょう。これ以上のない喜び、楽しさ、幸せはありません。

皆さん、私たちはこれまでもそうであったように、これからも互いに愛し合い、一致し、ともに生きる、ともに歩んで行く、そんな教会でありたいと思います。あり続けたいと思います。それはなんという幸せでしょうか。なんという楽しさでしょうか。それほど幸せなことはありません。それほど楽しいことはない。それほど麗しい交わりはありません。ともにそのような教会を目指してまいりましょう。それが今年私たちに求められていることなのです。