エレミヤ49章1~6節「アンモン人についての預言」

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今日は、アンモン人について語られた主のことばから学びたいと思います。アンモン人は前回のモアブ人同様、イスラエルの親類にあたります。彼らの先祖はアブラハムの甥のロトだからです。そのロトと二れの娘の間に生まれたのがもあぶとアンモンです。姉の子がモアブで、妹の子がアンモンです。そのアンモン人に対して、主は何と言われたのでしょうか。

Ⅰ.モレクではなく主イエスを王として(1)

まず、1節をご覧ください。「49:1 アンモン人について。【主】はこう言われる。「イスラエルには子がいないのか。世継ぎがいないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか。」」どういうことでしょうか。

まず、アンモン人の置かれていた位置を確認しておきましょう。下の地図をご覧ください。

(引用:バイブルラーニング、ブログ)

小さな赤い円で囲まれた地域はイスラエル12部族の一つガド族の相続地です。そして大きな赤い円で囲まれた地域がアンモン人の地域です。アンモン人の地は、ヨルダン川の東側、モアブの地のすぐ上にありました。そこは元々イスラエル12部族の1つであるガド族に割り当てられていた地でしたが、紀元前722年にアッシリアによって北イスラエルが滅ぼされると、アンモン人はひょっこりとその地に侵入しそこを占領して定住するようになりました。1節の「イスラエルには子がいないのか。世継ぎがいないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その住民が町々に住んでいるのか」というのは、そのことが背景にあります。つまり、どうしてガドの所有地をアンモン人たちは自分のものとしたのかという意味です。どうして彼らはガドが所有していた地を所有するようになったのでしょうか。

先ほども申し上げたように、彼らはロトの子孫です。かつてソドムが滅ぼされた時彼らの先祖ロト一家はアブラハムの必死のとりなしによって救出されたのですから、アンモン人にとってイスラエル人は「いのちの恩人」であったはずです。それなのにどうして彼らはガドに侵入しこれを奪い取り、自分たちの所有地としたのでしょうか。

それは彼らがそのような考え方を持っていたからです。1節の後半には、「なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか」とあります。「ミルコム」とは「モレク」のこです。ミルコムもモレクも同じです。それがアンモン人の神でした。下の欄外には、別訳で「彼らの王」となっています。それは、この「モレク」がヘブル語の「メレク」から派生した言葉だからです。「メレク」には「王」という意味があるので、「彼らの王」とも訳せるわけです。新改訳聖書第3版はそのように訳しています。「なぜ、彼らの王がガドを所有し」となっています。なぜ、彼らの王がガドを所有したのでしょうか。なぜなら、彼らはそのような神を信じていたからです。それがミルコム、モレクです。「モレク」は快楽の神です。雄牛の頭を持った青銅の像が手を突き出した形で立っていました。モレク礼拝をする者たちは、その手の上に子どもを載せ、下から火をたいていけにえとしたのです。どうしてそんなことをするのかというと、それが最大のささげものだからです。最大の犠牲をささげるなら最大の幸福を得ることができる。それがアンモンが信じていたことだったのです。様々なわざわいからも守られます。祝福が与えられる。まさに家内安全、商売繁盛です。そのためには平気で我が子を焼き殺します。我が子を犠牲にすることさえ厭いませんでした。それがモレク礼拝、ミルコムでした。そして手の上に載せられた子どもは熱くて泣き叫ぶわけですが、その叫び声を消すためにモレクの祭司たちは太鼓をたたき続けました。その音が鳴り響いている間、参拝者が神殿娼婦と性的な儀式を行うためです。実におぞましいです。主はモーセの律法の中で、このモレク礼拝を厳しく禁じています。レビ記18章21節にはこうあります。

「また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは【主】である。」

これはミルコム、モレク礼拝のことです。彼らが約束の地カナンに入るとき、その地の風習であるモレク礼拝をまねてはならないし、彼らの掟に従って歩んではならないと、禁じられていたのです。もしそれをまねて、彼らの掟に従って歩むなら、彼らのようになるからです。

だからイスラエル12部族の1つガド族がアッシリアによって滅ぼされるとそれを見た彼らは、自分たちの先祖がアブラハムのとりなしによって救われたとか、そんなことはどうでもよかったのです。彼らの関心はただ自分たちにとって利益になることは何かということでした。それがミルコム(モレク)だったのです。彼らはただ自分たちにとっての快楽を求め、そのためには子どもさえも犠牲することも厭わなかったのです。恐ろしいです。

人は何を信じるか、だれに従うかによってその行動が決まります。モレクを信じるなら、ミルコムを王とするなら、モレクのようになり、主イエスを信じるなら、主イエスのようになります。あなたは何を信じていますか。だれを王にしていますか。だれに従っていますか。

自分の快楽のためなら子どもを犠牲にしも構わない、自分が快楽を得られるのなら、自分の地位や名声を得られるなら、自分が豊かな暮らしができるなら子どもを犠牲にすることも厭わないという考え方は、何もアンモン人だけに限ったことではありません。それは現代の私たちにも言えることです。たとえば、子どもをかぎっ子にするのはその一つではないでしょうか。子どもよりも仕事です。家族のため、生活のためと言いながら、もっと良い生活がしたい。貯金もしたいし、旅行もしたい。ブランド品も買いたいし、もっと刺激もほしいし。そういう思いから子どもをどこかに預ければいいと思っているとしたら、それはまさにモレク礼拝ではないでしょうか。我が子を犠牲にしてでも自分の快楽を求めるのですから。勿論、色々な事情があるのはわかります。神様はそれを十分知っておられます。だから神様のあわれみがあるのは確かです。でもそういうことを大義名分にして、本当は自分の快楽を求めているとしたら、それはモレク礼拝と何ら変わりません。主はそれを忌み嫌っておられます。自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならないと。あなたの神の名を汚してはならないと。

このミルコム、モレク礼拝は私たちクリスチャンとは関係ないと思っている方もおられると思いますが、そうではありません。実はモレク礼拝は神の民であるクリスチャンにもはびこっているのです。たとえば、Ⅰコリント10章14節には、「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」とありますが、なぜ偶像礼拝を避けるようにとパウロが書き送ったのかというと、そこに偶像礼拝をしている人がいたからです。それは実際に偶像を拝むということだけではありません。コロサイ3章5節には「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。貪欲は偶像礼拝です。主のみ教えから離れ、この世のものを貪るなら、それ自体が偶像礼拝なのです。私たちはだれも自分がまさか偶像礼拝をしているなんて思っていないでしょう。毎週日曜日は欠かさず礼拝に出席し、奉仕もしています。献金もちゃんとささげている。クリスチャンとしての自分の義務はちゃんと果たしているとみんな思っています。でも日曜日以外はどうでしょうか。霊的なことは神様に従います。でも仕事においては、プライベートなことにおいては従うわけにはいきません。そんなことをしていたらビジネスが成り立たない。だからこの世の慣わしに従います。そういう人が多いのではないでしょうか。神のことばよりも自分の快楽を求めているのです。それはモレク礼拝です。その結果、神の祝福を失っているのです。

ここに出てくるイスラエル12部族の1つのガド族ですが、彼らもそうでした。彼らがアンモン人によって支配される前どうして彼らはその地に住むようになったのかをご存知ですか。そのいきさつは民数記32章に書いてあるので後でご覧いただけたらと思いますが、エジプトを出て約束の地に向かっていたイスラエルが、ヨルダン川を渡っていよいよ約束の地に入ろうとしたときその地にやって来ました。そしてその地を見渡すとそこには牧草地が広がっていました。ですから、多くの家畜を持っていたルベン族とガド族、マナセの半部族にとって非常に魅力的な場所に見えたのです。それで彼らはヨルダン川の向こうまで行かないでこの地に留まろうと考えました。そしてそのことをモーセに告げると、モーセはカンカンになって怒りました。「何を言っているんだ!あなたがたの兄弟たちはこれからヨルダン川を渡って戦いに行くというのに、あなたがたはここにとどまるというのか。どうして彼らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか」と。
  すると彼らは、「わかりました。じゃこうしましょう。私たちはイスラエルの子らを約束の場所に導き入れるまで、先頭に立って戦います。でも子どもたちはここにとどまります。そして約束の地で主がその敵を御前から追い払われたら自分たちはここに戻って来て、ここに住みます。いいでしょう?」それでモーセは納得し、それならいいだろうということで、彼らはこの地を相続することになったのです。

しかし、結果はどうなったでしょうか。北イスラエル王国の10部族が真っ先にアッシリアに滅ぼされることになってしまいました。その中にルベン族、ガド族、マナセの半部族がいたのです。どうして彼らが真っ先に滅ぼされてしまったのかというと、その地は異教の影響を受けやすかったからです。異教の影響を受けて霊的に堕落してしまったのです。神の約束のことばを信じないで目に見えるところに従って生きるなら、私たちも彼らと同じ運命をたどることになるのです。

大切なことは何を信じているのか、だれを王にしているのか、だれに従っているのかということです。ただイエス様を信じていると言うだけでなく、そのイエス様のことばに聞き従わなければなりません。あなたの王はだれですか。だれに従っていますか。快楽の神モレク(ミルコム)ではなく、あなたの救い主イエスを王として、主イエスのことばに聞き従いましょう。

Ⅱ.主に拠り頼め(2-5)

主はそのようなアンモン人に対して、さばきを宣言されます。2~3節をご覧ください。「49:2 それゆえ、見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはアンモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ。─【主】は言われる─49:3 ヘシュボンよ、泣き叫べ。アイが荒らされたから。ラバの娘たちよ、わめけ。粗布をまとえ。嘆いて囲い場の中を走り回れ。ミルコムが、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれるからだ。」

「ラバ」はアンモンの首都(現在のヨルダンの首都アンマン)です。意味は「偉大な」です。そんな偉大なラバも敵の攻撃を受け、廃墟となります。「ヘシュボン」は、実際はアンモンの町ではなくモアブにある町です。48章45節にはモアブの町として登場しました。それがここに出てくるのは、この町がモアブとアンモンの国境にあったからでしょう。そのヘシュボンは泣き叫ぶようになります。「アイ」はイスラエルのアイとは別の町です。それがどこにあったのかはわかりません。もしかすると、このアイとう名前には「荒れ果てた」という意味があるので、実際には町の名前ではなく荒れ果てた地という意味で用いられているのかもしれません。「ラバ」の娘たちも嘆きながら喪に服することになります。すなわち、アンモンの町々は徹底的に滅ぼされるということです。そして「ミルコム」が、その祭司や首長たちとともに捕囚として連れて行かれることになります。いったいなぜ彼らは神にさばかれることになったのでしょうか。

4~5節をご覧ください。「49:4 背信の娘よ、おまえの谷には水が流れている。なぜ、その谷を誇るのか。おまえは自分の財宝に拠り頼んで言う。『だれが私のところに来るだろう』と。49:5 見よ。わたしは四方からおまえに恐怖をもたらす。──万軍の【神】、主のことば──おまえたちはみな散らされて、逃げる者を集める者もいない。」

  「背信の娘よ」とは、ラバの娘たちのことです。英語の訳では「backsliding daughter」となっています。Backslidした人、背教者、離脱者という意味です。いつの時代にもいます。約束の地に入ったかと思ったら一歩後退して彷徨っているという人が。そのような人は同じ傾向を持っています。それは肉的であるということです。持ち物を誇ろうとします。ここには「おまえの谷には水が流れている。なぜ、その谷を誇るのか」とあります。

  「ラバ」は水が豊かなところとして知られていました。Ⅱサムエル記12章27節には、「水の町」と呼ばれています。水の都です。中東で水が流れている所というのは、最もリッチなところという意味です。原油がコンコンと湧き出るようなオイルマネーで潤っている国といったイメージです。彼らは水の資源を誇っていました。水が豊かであるということはそこからもたらされる産物が豊富であるということです。野菜であれ、果物であれ、家畜であれ、何であれ、水があって育まれ、豊かなものを産出するからです。

  彼らは「谷」も誇っていました。それは、その地形が軍事的に働いて自然の要塞になっていたということです。誰も攻めて来ることはできない。ですから、水と谷は経済的な豊かさと軍事的な安定をもたらしていたのです。それで彼らは自分たちの財宝に拠り頼んでいました。神を必要としていませんでした。彼らが求めていたのはただミルコム(モレク)だけでした。いかにおかしく、おもしろく生きるか、ただそれだけだったのです。どこかの国に似ているのではないでしょうか。水は水道の蛇口をひねれば出てきます。公園の水道の水はただです。当たり前のようですが、中東では考えられないことです。日本もアンモンと同じように、いろいろなものを誇っています。経済大国として自分の財宝を誇れ、それに拠り頼んでいます。貯金があるから安心だ。でも銀行に預金が1円もなかったらどうでしょうか。一気に不安になります。不安にならないのは、そこにちゃんとお金が入金されてあるからです。そういう意味では私たちもアンモンのように、無意識のうちに神よりもお金に拠り頼んでいるのです。私たちがどこから安心感を得ているかを忘れてしまっています。勿論、お金も神様から与えられるものです。でもそこに一円も残高がなかったら、それでもあなたは神様に信頼して、安心できるでしょうか。財宝のすべてを失ったとしても、家を失っても、それでも安心ですと言えるでしょうか。あなたは何を誇っていますか。アンモン人のように自分の財宝に拠り頼むのではなく、神に拠り頼みましょう。

  5節には「見よ。わたしは四方からおまえに恐怖をもたらす。」とあります。「四方から」とは東西南北からという意味です。もう逃げ場がありません。バビロンの王ネブカドネツァルの侵略によって、徹底的に滅ぼされるのです。彼らはアッシリアの侵略でガドが捕囚の民として連れ去られた空いた所に入って来ました。でも今度は自分たちがバビロンによって滅ぼされ、すべてが奪われて、捕囚の民となって行くのです。それは彼らが自分たちの財宝に拠り頼んだからです。

  2005年、イギリスのジョン・ブラントリックという62歳の男性が病院を相手に「ガンと誤診されて、全財産を処分した責任を取って欲しい」と訴訟を起こしました。以前、この男性が黄疸のために病院に行くと、すい臓がんのため余命6ヶ月と宣告されました。絶望した彼は、せめて残りの人生を豊かに過ごそうと仕事を辞め、毎日最高級のホテルを泊まり歩き、高級料理を食べ、各地を旅行して回りました。ところが1年後、体に異変がないことに気付いた彼が再び病院を訪れると、すい臓がんではなく、単なるすい臓の炎症であることがわかったのです。飛び上がるほど喜んだのも束の間、すぐに絶望に打ちのめされました。誤診は彼の倹約生活を完全に変えてしまい、最後に残った30万ポンドの家も債務返済のため競売にかけられていたのです。

このように、誤った判断はとんでもない結果をもたらします。黒いものを白いと言い、白いものを黒いと言うのは誤ったことです。みことばを無視して自分の考えを主張することほど、危険で愚かなことはありません。それは私たちにも言えることです。聖書がどんなに「これが道だ、これに歩め」と語っても、それを受け入れないで自分の考えに固執するなら、やがてこのような結果を招くことになるのです。

Ⅲ.回復の約束(6)

最後に、6節をご覧ください。「49:6 その後、わたしはアンモン人を回復させる。─【主】のことば。」」

ここには回復の預言が語られています。「その後」とは、神のさばきによる苦しみがあって後に、です。主はアンモン人を回復させます。モアブ人に対してもそうでしたが、アンモン人も同じです。神はご自分に敵対し自分を誇ったアンモンに対して激しいさばきを宣告されましたが、それで終わりではありません。その後に彼らを回復させるのです。アンモン人の救いを告げられるのです。これは慰めではないでしょうか。というのは、どんなに神に背いて罪を犯しても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はそのすべての罪を赦し、回復してくださるからです。それはアンモン人だけではありません。それは私たちに対する約束でもあります。私たちもアンモンのように神から離れ自分を誇るような者ですが、そのことに気付いて主に立ち返るなら、主はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

このアンモン人の地は、新約時代ではデカポリスと呼ばれた地域です。もうアンモンという地名は消えていました。完全に忘れられていたのです。でもそこへイエス様が宣教に行かれました。マタイ4章25節にはこうあります。

「こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。」

デカポリス、ここにかつてアンモン人が住んでいました。そのデカポリスから大勢の群衆がやって来て、イエス様に従ったのです。それはこのデカポリスにイエス・キリストを信じて救われた人がいたということです。

マルコ5章には、あの有名な多くの悪霊に取り憑かれていたゲラサ人が、イエス様によって悪霊から解放された話がありますが、そのゲラサとはどこにあるかというとデカポリス地方です。この男が救われたとき、彼はイエス様にお伴したいと申し出ましたが、イエス様はそれをお許しにならないで、こう言われました。

「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」(マルコ5:19)

「あなたの家、あなたの家族のところ」とはデカポリスです。そこにはあなたの家がある。家族もいる。そこに帰って、主があなたをどんなにあわれんでくださったか、どんなに大きなことをしてくださったのかを知らせなさい。それがあなたのミッションだ、それがあなたの使命だと言われたのです。彼はイエス様以外に、新約聖書に出てくる最初の宣教師として遣わされて行きました。

私たちもかつてはゲラサ人でした。神に逆らうことをして、まるで悪霊に取り憑かれたような生活をしていました。でもイエス様によってそこから解放され、この男のように、神がどんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを知らせる者とされたのです。そこへ行きなさいと主は言われます。そのためにあなたは置かれているのだと。

このようにして今から2,600年前にエレミヤによって語られたアンモン人に対する回復の約束は、600年後に来られたイエスによって真っ先に成就しました。そしてこれはあまり知られていないことですが、かつてのアンマンの地は現代のヨルダンの地域ですが、ヨルダンにもたくさんのクリスチャンが存在しています。たくさんの人が救われているのです。イスラムの過激派によって激しい迫害の中にあるため肩身の狭い生活を余儀なくされていますが、ヨルダンに住むたくさんのアラブ人が救われているのです。それはここに預言されていることの成就でもあります。かつて神に背き、自分を誇っていたアンモン人は神のさばきを宣告され、その預言の通り滅ぼされその名が消えてしまうほど忘れられていましたが、そんな彼らも主イエスによって救われ、回復することができました。それは私たちも同じです。あなたはアンモンです。ギルアデ、ゲラサ、デカポリス、ヨルダンです。そのアンモンは必ず回復するのです。あなたも神に背信の娘よと呼ばれ、神に忘れられたかのような存在だったかもしれませんが、神は決してあなたを忘れることはありません。あなたは神に覚えられています。必ず回復するのです。その神の深いご計画を信じて、神のみこころに歩ませていただきましょう。自分を誇る生活から主に拠り頼む者となりましょう。

ネヘミヤ記1章

 今日からネヘミヤ記の学びに入ります。

 Ⅰ.エルサレムの状況(1-3)

まず、1~3をご覧ください。「1:1 ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がスサの城にいたときのことであった。1:2 私の兄弟の一人ハナニが、ユダから来た数人の者と一緒にやって来た。私は、捕囚されずに残された逃れの者であるユダヤ人たちについて、またエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。1:3 彼らは私に答えた。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」」

ハカルヤの子ネヘミヤのことばです。ハカルヤとは誰なのかはよくわかっていません。「第二十年」とは、アルタクセルクセス王の治世の第二十年ということです。これは紀元前445年か ら444年にかけてとなります。私たちはこれまでエズラ記を学んできましたが、ペルシャの王キュロスの勅令によって総督ゼルバベルの指導のもと第一回目のエルサレム帰還が行われたのが紀元前538年です。そして神殿を再建したのが紀元前516年でした。そして祭司であり学者でもあったエズラのもと第二回目の帰還を果たしたのがその57年後の紀元前458年でした。ですから、これはその時からまだ13年しか経っていませんでした。事実、ネヘミヤ記の後半部分には、エズラが民衆の前で律法を読み上げる場面が出てきますが、エズラとネヘミヤはほぼ同時代の人なのです。

「キスレウ」の月は今の11月下旬から12月上旬にかけての時期です。ですから、これは紀元前445年の12月頃のことではないかと思われます。この時ネヘミヤはスサの城にいました。「スサ」とは、ペルシャの首都で、宮殿があった場所です。ということは、彼はペルシャの高官として仕えていたということです。1章11節には「私は王の献酌官であった」とありますが、この時ネヘミヤは王の献酌官として仕えていたのです。献酌官とはぶどう酒と料理の毒見をする人ですが、それは王から相当の信頼がないとなれませんでした。つまり、彼は王にとって右腕のような存在だったのです。

そんな彼のもとに、兄弟の一人ハナニが、ユダから来た数人の者と一緒にやって来ました。この「私の兄弟の一人」とは実際の兄弟のことなのか、それとも広い意味での兄弟のことなのかははっきりわかりません。新改訳聖書第3版では「私の親類の一人」と訳していますが、英語の訳はすべて「one of my brothers」となっています。ネヘミヤが彼のことをわざわざ「私の兄弟」と呼んでいるのは、彼が実際の兄弟だったからではないかと思います。というのは、この後の7章2節で、ネヘミヤは彼を高い地位に就かせていますが、その時も彼のことを「私の兄弟」と呼んでいるからです。いずれにせよ、兄弟ハナニがユダから来た数人の者と一緒にスサの城にいたネヘミヤのところにやって来たとき、ネヘミヤは彼らにエルサレムの状況と、そこにいるユダヤ人たちについて尋ねたのです。

本物のユダヤ人は、決してエルサレムのことを忘れることはないと言われています。ネヘミヤは本物のユダヤ人でした。ただユダヤ人であるというだけでなく、いつも同胞のことを思い、彼らがどのように過ごしているかを知りたいと思ったのです。

それは本物のクリスチャンにも言えることです。本物のクリスチャンはいつも神と教会のことを思い、愛する兄弟姉妹のために祈ります。自分だけの信仰ではありません。そこにはいつも神を慕い求める思いと、神の家族である教会のための祈りがあるのです。

すると彼らはネヘミヤにこう答えました。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」

どういうことでしょうか。エルサレムは今、大きな困難の中にあるということです。「大きな困難」と訳されたことばは、「悲惨」という意味のことばです。また「恥辱」と訳されたことばは、「身を切るような」とか「突き通す」という意味のことばです。つまり、エルサレムは敵の攻撃によって突き刺されるような状態であったということです。そのうえエルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままになっていました。城壁は、当時の社会において非常に重要な位置を占めていました。というのは、生きることは敵からの攻撃から自分たちを守ることを意味していたからです。その城壁が焼き払われていたのです。エルサレムは本当に悲惨な状態にあったのです。

Ⅱ.ネヘミヤの応答(4)

それを聞いたネヘミヤはどうしましたか。4節をご覧ください。「このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。」

これを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、数日間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈りました。この反応はエズラが示した反応とよく似ています。エズラはエルサレムの民が異国人の女を妻にしているということを聞いたとき、神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈り告白しました(エズラ9:3)。ネヘミヤも同じです。彼もエルサレムの窮状を聞いたとき、その場に座り込んで泣き、断食して祈りました。

ネヘミヤの優れていた点は、このような問題に直面したとき、その問題を神の下に持って行った点です。もし私たちがネヘミヤの立場だったらどうでしょうか。「いったいどうしてこんなことになったのか」「どうすればいいんだろう」と悶々として右往左往するのではないでしょうか。しかしネヘミヤは違います。彼はそれをまず神の下に持って行きました。

しかもここには「断食して」とあります。断食は、心に痛みと悲しみがある時にそれを表現するものです。断食がユダヤ人の一般的な習慣になったのは、バビロン捕囚の時であった言われています。彼らは、エルサレムの崩壊、神殿の焼失、ゲダルヤの暗殺(エレミヤ41:2)を記念して、断食をするようになりました。それはユダヤ人たちが自らの献身を示すための習慣となったのです。ネヘミヤは自分が苦難を体験したわけではありませんでしたが、彼は帰還民たちの苦難を自分のものとして受け止め、祈ったのです。それは宮廷での心地良い生活を拒否して、自らを帰還民の立場に置いたということです。それこそ、とりなしの祈り手に必要な心構えです。そのような祈りを、天の神が聞いてくださらないわけがありません。

Ⅲ.ネヘミヤの祈り(4-11)

では、ネヘミヤはどのように祈ったでしょうか。5~11節に彼の祈りのことばが記されてあります。「1:5 「ああ、天の神、【主】よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。1:6 どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。1:7 私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった、命令も掟も定めも守りませんでした。1:8 どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』1:10 これらの者たちこそ、あなたがその偉大な力と力強い御手をもって贖い出された、あなたのしもべ、あなたの民です。1:11 ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。」

彼はまず、「ああ、天の神、主よ。」(5)という呼びかけで始まっています。どうしてネヘミヤはこのように呼び掛けたのでしょうか。それは神が天におられるということだけでなく、彼が信じていた神は天の神であったからです。つまり、この天地を創られた創造主であり、そのすべてを支配しておられる万軍の主であるからです。そうです、彼がそのように祈ったのは、天の神にとって不可能なことは一つもないと信じていたからなのです。自分の力では帰還民とエルサレムの状況を変えることはできません。しかし、神にはどんなことでもおできになります。なぜなら、神は天の神であられるからです。この方はこの天と地を創られた方、全能者です。その方にとっておできにならないことは何一つありません。自分はその神に祈っているのだと。エレミヤもこれと同じ祈りをしています。エレミヤはこう祈りました。「『ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。」(エレミヤ32:17)。ネヘミヤは、この神が「天の神、主」であって、主はご自身を愛し、ご自身の命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方であると、神の真実に訴えたのです。 すばらしいですね。私たちがこのような問題を聞いたらどう思うでしょう。それは難しいとすぐにあきらめてしまうのではないでしょうか。しかし、天の神なら何でもできると、それを神の御前に持って行くことが大切なのです。

毎週火曜日の夜、家内はIさんという方に英語を教えています。この方は家内が小学校で英語を教えていた時そこで教頭をしておられた方なのでお互いによく知っている方ですが、イエス様のことをなかなか証することができませんでした。というのは、退職後、彼女は充実した老後の生活を送っていたからです。

しかし、その日の朝家内と二人で彼女に良い証が出来るようにと祈ると、不思議なことがありました。クラスが始まる1時間ほど前に彼女から電話があり、台風で大雨のためクラスをお休みしますとのことでした。携帯を切ってしばらくすると再び家内に電話がありました。「パッと先生、『神は愛なり』ってどういう意味ですか。」彼女の亡くなったご主人の親友から、97歳で亡くなったお母さまが毛筆で「神は愛なり」と書かれた短冊をもらったのですが、ちょっと気になったので教えてほしいと思いました。」と。

驚きました。その日の朝に彼女のために祈ったばかりだったので、彼女からそのようなことを尋ねられるとは思わなかったからです。家内は「では、主人に代わります。主人の方がよくお伝えできると思いますので」と私に代わってくれたので、その意味についてお話させていただきました。Iさんは興味を持って聞いてくださり、次にお会いする時にもっとお話を聞かせてほしいと言われました。

Iさんに証するのは難しいなと思っていましたが、天の神にとってできないことは一つもありません。天の神は私たちの祈りを聞かれ、97歳で亡くなられたクリスチャンのおばあちゃんが書かれた短冊を用いて彼女の心を動かしてくださったのです。

電話を切った後で、「次回お会いした時に神の愛についてもっと理解してもらえるように、三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」をプレゼントしようと、家内と話し合いました。

次にネヘミヤは、イスラエルの罪を告白しています。6~7節です。「6どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。7 私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった、命令も掟も定めも守りませんでした。」

ここでネヘミヤは、イスラエルの罪を告白しています。しかし、彼は単にイスラエルの罪を告白しただけではなく、それを自分のこととして受け止めて告白しました。ネヘミヤは、「私も、私の父の家も罪を犯しました」と言っています。このように自分も含めて罪を告白するのは、エズラも同じでした(エズラ9:6-15)。しかも彼は、「昼も夜も御前に祈り」と言っています。その祈りは1回ポッキリの祈りではありませんでした。昼も夜も祈り続ける継続した祈りだったのです。ねばり強い祈りでした。

さらに彼は8~9節ではこのように祈っています。「1:8 どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』」

どういうことですか。ネヘミヤは主に、「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。」と祈りました。「思い起こしてください」とは、忘れていたことを思い出してくださいということではありません。約束どおりに行動を起こしてくださいという嘆願です。つまり彼は神の約束の成就を求めて祈ったのです。というのは、主はモーセを通してこのように約束してくださったからです。すなわち、もしイスラエル民が不信の罪を犯すなら、彼らは捕囚の地に連れ去られる(レビ26:27-33,申命記28:64)が、もし悔い改めて主に立ち返るなら、エルサレムに帰還することができる(申命記30:1-5)ということです。

そしてネヘミヤは、この民こそ主がモーセを通して語られた約束の民であると訴えるのです。10節です。「これらの者たちこそ、あなたがその偉大な力と力強い御手をもって贖い出された、あなたのしもべ、あなたの民です。」なぜなら、イスラエルの民は、主が大いなる力をもって贖われた主のしもべ、主の民だからです。

その上でネヘミヤは、自分の願いを神の前にさらけ出します。11節です。「ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」

ネヘミヤは、エルサレムにいる帰還民のために具体的な行動を起こしたいと思っていました。でもそのためには、彼が仕えているペルシャの王の許可が必要です。「この人の前で」とは、王の前で」という意味です。そのとき彼は王の献酌官をしていました。それはとても重要な任務だったので、簡単にそのための許可が得られることは考えられませんでした。ですから彼はそのための許可を王から得ることができるようにと祈ったのです。それが「この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように」という祈りです。

これは利己的な祈りではありません。神の御業が前進していくためのものです。神のみこころにかなう祈りをするなら、神は聞いてくださるということ、それこそ神に対する私たちの確信です。私たちもそれが神のみこころにかなった祈りかどうかを吟味し、そうであるなら、大胆に願い求めるべきです。

それにしてもネヘミヤはエルサレムの惨状を聞いたとき、すぐに行動に移しませんでした。先ほども申し上げたように、彼はそれをまず神の御前に持っていきました。ここにリーダーとはどのようにあるべきかを教えられます。私たちはどちらかというとすぐに行動を起こしたいという衝動にかられますが、そのためにはまず祈らなければなりません。

チャールズ・スウィンドルが書いた「今求められる教会のリーダーシップ」という著書の中で、リーダーはなぜ祈りを最優先にしなければならないのか4つの理由が記されてあります。

第一に、祈りは待つことを教えます。祈りと仕事を同時に手がけることはできません。祈り終わるまで行動を控えざるを得ません。祈りは私に事態を神に任せることを強要し、結果として私を待たせることになります。

第二に、祈りは私の視野をはっきりさせます。南カリフォルニアは海岸であるため、朝方には視野が悪くなることがよくあります。しかし、そのうち太陽が朝の霧を消散させるのです。祈りも同じです。あなたがある事態に直面した時、最初は霧を通して見るように、ぼんやりと見ているでしょう。祈りはその霧を消散させるのです。そのため視野ははっきりしてきて、あなたは神の目を通して見ることができるようになります。

第三に、祈りは私の心を平静にします。思い煩うことと祈ることを同時にすることなどできません。それは気づかいを取り除き、代わりに静かな霊を私のうちに入れます。私たちがひざまずいて祈る時、そのひざでけり上げるようなことは不可能です。

第四に、祈りは私の信仰を活性化します。祈った後は、神を信頼することがいっそう容易になります。それにひきかえ、祈らない時は何と狭量で消極的、しかも批判的でしょう。祈りは信仰の火つけ役になるのです。(p45-46)

私たちはとかく祈りよりも先に、何かしなければならないという衝動にかられますが、まず神の前に祈ることによって、私たちの視野がはっきりと見えるようになり、心に深い平安と確信が与えられ、より神に信頼できるようになります。私たちに求められているのは祈ることなのです。祈りは不可能を可能にします。なぜなら、そこに全能の神の御手が動くからです。私たちが祈るとき、神は私たちができないことを成し遂げてくださいます。問題に直面したとき、ネヘミヤは神にすぐさま助けを求めました。問題と対峙した時にネヘミヤがとった対応は、ひざまずいて祈るという姿勢だったのです。

エレミヤ48章1~47節「モアブについての預言」

エレミヤ書48章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はモアブについての預言です。地図を見ていただくと分かりますが、モアブ人の地は死海の東側、今日のヨルダンの南側にありました。

(引用:新生宣教団、「聖書『ルツ記』を読み解く」)

モアブ人のルーツは、アブラハムの甥のロトにまで遡ります。アブラハムと一緒に父の家、カルデヤのウルを離れカナンにやって来た彼らは、神様の祝福によって家畜が増えました。すると互いのしもべの間で争いが起こったので、アブラハムはロトに好きな場所を選んでそこに住むように言うと、彼は東の低地を選び、そこにあったソドムという町に定住しました。しかし、そこは極めて罪が重かったため、主はソドムを火と硫黄の雨によって滅ぼされましたが、アブラハムの必死のとりなしによってロトはその中から救い出されました。そのロトと二人の娘によって生まれたのがモアブとアンモンです。姉の子がモアブで、妹の子がアンモンです。ですから、モアブはイスラエルとは遠い親戚にあたるのです。彼らはイスラエルと同じように祝福を受け継ぐべきでしたが、自らその祝福から離れて行ってしまいました。そして、たびたびイスラエルに侵入しては彼らに敵対したのです。そのモアブに対する預言です。

Ⅰ.モアブの高ぶり(1-25)

まず、1~25節までをご覧ください。6節までをお読みします。「48:1 モアブについて。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。その砦は辱められ、打ちのめされた。48:2 もはやモアブの誉れはない。ヘシュボンは、これに悪事を企んでいる。『行って、あの国民を絶ち滅ぼし、無き者にしよう』と。マデメンよ、おまえも黙らされる。剣がおまえの後を追っている。48:3 ホロナイムから叫び声がする。『暴行だ。大いなる破滅だ』と。48:4 モアブは打ち破られる。その幼き者たちは叫び声をあげる。48:5 まことに、ルヒテの坂は嘆きの中にあり、彼らは泣きながら上る。ホロナイムの下り坂では、痛々しい破滅の叫びが聞こえる。48:6 逃げて、自分自身を救え。荒野の中の灌木のようになれ。」

1節には、「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。」とあります。「ネボ」とか「キルヤタイム」とは、モアブの町々のことです。元々そこはイスラエル12部族の1つであるルベン族に与えられた町でした(民数記32:37~38)が、後にモアブ人が占領したため、モアブの町となったのです。つまり、彼らは神の民イスラエルに敵対したのです。そんなネボやキルヤタイムは辱められ、攻め取られ、打ちのめされることになります。さらに、「ヘシュボン」、「マデメン」、「ホロナイム」、「ルヒデ」といった町々も滅ぼされることになります。いったい何が問題だったのでしょうか。

7節をご覧ください。ここには「おまえは自分が作ったものと財宝に拠り頼んだので、おまえも捕らえられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。」とあります。彼らは、自分たちが作ったものと財宝に拠り頼みました。現代でもそうですが、ある程度預金とか財産があると安心するように、彼らは豊かな経済力を自分たちの安定と繁栄の保証と考えたのです。ケモシュとは彼らの偶像神ですが、快楽と豊穣の神です。彼らはそのケモシュに仕えました。しかし、そのようなものが恒久的な安定をもたらしてくれるでしょうか。そのような国はやがて滅ぼされることになります。荒らす者が侵略して捕らえられ、偶像とともに捕囚となって出て行くことになのです。

この「荒らす者」とは誰のことなのかはっきりしたことはわかりませんが、おそらくバビロンのことでしょう。というのは、バビロンはB.C.586年にエルサレムを破壊すると、その5年後に今度はモアブを攻撃することになるからです。バビロンがこれらの町に入って来て彼らを捕らえ、捕囚の地へと引き連れて行くようになるのです。町は一つも逃れることはできません。谷は滅び失せ、平地は根絶やしにされるのです。いったいどうすれば良いのでしょうか。

9節には「モアブに翼を与えて、飛び去らせよ。その町々は住む者もなくて荒れ果てる。」とあります。このような神のさばきのもとでは、そこから逃れるしかありません。ですからモアブに翼を与えて、飛び去らせよ、と言われているのです。

モアブに対する攻撃は徹底的にしなければなりません。10節の「主のみわざおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。」とは、そういう意味です。それは主の御業であり主がそのようになさるのだから、徹底的に成し遂げなければなりません。それをおろそかにしてはいけません。それをおろそかにする者はのろわれることになると、バビロンに警告されているのです。そんな神のさばきから逃れることができる者がいるでしょうか。

11~13節をご覧ください。「48:11 モアブは若いときから安らかであった。彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。48:12 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」

どういうことでしょうか。彼らは自分たちの安定した状態であることを誇っていました。自分たちは他国の侵略によって捕囚として連れて行かれたことは一度もないと。確かにモアブの歴史を見ると、彼らは安定していました。他の国によって侵略されたことは、これまで一度もありませんでした。11節の「モアブは若い時から安らかであった。」というのは、そのことを示しています。

エレミヤはそれをぶどう酒作りにたとえているのです。それが11節で言われていることです。「彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。」
  ぶどう酒を同じ桶で保存すれば、酒かすによって味がよくなりますが、違う桶に移せば味が変わってしまいます。彼らは他の桶に移されたことがないので、醸造された上質のぶどう酒のようだと誇っていたのです。彼らは捕囚という厳しい現実を経験したことがありませんでした。

しかし主は、そんな彼らのうぬぼれを砕かれると宣言されました。12節と13節です。「それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」
  その日モアブ人たちは、ケモシュ(偶像神)に信頼したことを恥じるようになります。それはかつてイスラエルがヤロブアムによってベテルに置かれた金の子牛の像に信頼を置いたことを恥じたのと同じです。国が経済的に豊かになり、政治的に安定していることも重要ですが、そうした豊かさによっていつしか高慢になり、霊的堕落に陥ることがあるとしたら本末転倒です。そういうことがないようにしっかりと肝に銘じなければなりません。

しかし、これは現代の私たちにも言えることではないでしょうか。戦後80年、日本は平和な時代を過ごしてきました。経済的な発展も遂げてきました。生活が苦しいとは言っても普通に生きていれば食べていけないことはほとんどありません。たとえそうでなくても国がある程度の生活を保障してくれます。確かに尖閣諸島や青島の問題はありますが、まさか戦争になるとは誰も思っていないでしょう。ある程度の蓄えがあれば何とか生きていける。神様、仏様に頼らなくてもケモシュがいるから大丈夫だと、みんな平々凡々と生きているわけです。神様がいなければ生きていけないといった必死さはありません。まるでモアブのようです。

ヨハネの黙示録に、主がアジアにある七つの教会に書き送った手紙がありますが、その中でラオディキアの教会に宛てて次のように言われました。「3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

ラオディキアの教会の問題は何でしたか。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っていましたが、自分の本当の姿が見えていなかったことです。本当はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていませんでした。そのため彼らは、熱くもなく、冷たくもありませんでした。そんな彼らに主が言われたことはこうでした。熱いか、冷たいかであってほしい。そしてそのために、自分の目が見えるように目に塗る目薬を買いなさい、と言われたのです。黙示録3章20節のみことばは、そのような背景で語られたことばでした。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

主はそんなあなたの心のドアを叩いておられます。その音が聞こえるでしょうか。聞こえたらドアを開けてください。そうすれば主はあなたの心の中に入ってあなたとともに食事をし、あなたも主とともに食事をするようになります。それが本当の幸いです。そのためには、へりくだって主を求めなければなりません。私たちが強くなったり高くなったりするときは、弱くなり低くなる知恵を学ぶ必要があるのです。

尊敬するある牧師がこう言われました。「成熟したクリスチャンとは、主がいなければどうすることもできないクリスチャンです」
  皆さん、これが主に信頼するということです。クリスチャンは人の目には派手でもなく、見えるところにおいては弱々しく映るかもしれませんが、神さまの目では最も安定した人です。なぜなら、万軍の主が共におられるからです。そのためには、私たちの心の目が開かれなければなりません。そして、自分はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることに気付いたら、熱心に悔い改めなければならないのです。主がいなければどうすることもできませんと、必死に主を求め、主に拠り頼まなければなりません。それが成熟したクリスチャンなのです。

Ⅱ.モアブのために泣かれた主(26-45)

次に、26~45節をご覧ください。30節までをお読みします。「48:26 彼を酔わせよ。【主】に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。48:27 イスラエルは、おまえにとって笑いものではなかったのか。それとも、おまえが彼のことを語るたびに彼に向かって頭を振っていたのは、彼が盗人の間に見つけられたためか。48:28 モアブの住民よ。町を見捨てて岩間に住め。穴の入り口のそばに巣を作る鳩のようになれ。48:29 われわれはモアブの高ぶりを、──彼は実に高ぶる者──その傲慢、その高ぶりを、その誇り、その慢心を聞いた。48:30 わたしは彼の不遜さを知っている。──【主】のことば──その自慢話は正しくない。その行いも正しくない。」

すでに見たように、モアブが滅ぼされた最大の理由は、彼らが高ぶったからです。26節には、「彼に酔わせよ。主に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。」とあります。27節にあるように彼らは、先に滅ぼされたイスラエルを笑いものにしていました。他の国の悲劇を知ることは、自らの国のあり方を学ぶチャンスだったのに、モアブはそこから何も学ばなかったばかりかユダを笑いものにしたのです。

主はそんなモアブの高ぶりを見抜かれ、その高慢さを指摘されました。「わたしは彼の不遜さを知っている。」と。自分を正しいとする態度は、自分に足りないことがあっても、その足りないところを見えなくしてしまいます。結果、何も学ぶことができません。ですから私たちはいつも謙虚になって自分の足りなさを認め、いつも十字架の恵みに拠りすがらなければなりません。また、自分でできるようなことであっても神の助けを求め、いつも謙遜な態度で神に拠り頼むべきです。さらに隣人に対して(さげす)むようなことをせず、逆に仕えることによって、神の愛とあわれみを示していくべきです。それなのにモアブは、主に対して高ぶりました。それゆえ、主はモアブの高ぶりを砕かれるのです。バビロンという国を用いて、徹底的に滅ぼされます。

ところが31節を見ると、不思議なことが書かれてあります。そのモアブのために、主は泣き叫ぶ、とあるのです。「それゆえ、わたしはモアブのために泣き叫び、モアブ全体のために叫ぶ。人々はキル・ヘレスの人々のために嘆く。」
  どういうことでしょうか。そんなモアブなど滅ぼされて当然なのに、主はそんな彼らのために泣いておられる。モアブが滅ぼされることを悲しんでおられるのです。それがぶどうの木のたとえで表わされていることです。32~33節をご覧ください。

「48:32 シブマのぶどうの木よ。わたしはヤゼルの涙にまさり、おまえのために泣く。おまえのつるは伸びて海を越えた。ヤゼルの海に達した。そして、おまえの夏の果物とぶどうの収穫を、荒らす者が襲った。48:33 モアブの果樹園から、その地から、喜びと楽しみが取り去られる。わたしは石がめから酒を絶えさせた。喜びの声をあげてぶどうを踏む者もなく、ぶどう踏みの喜びの声は、もはや喜びの声ではない。」

シブマとヤゼルは、ぶどうの栽培で有名なモアブの町です。そのシブマとヤゼルが涙に濡れるのです。そのぶどうの枝は死海を越え、ヤゼルのほとりにまで達しました。それなのに、荒らす者がやって来て、ぶどうの収穫を略奪するからです。人々に喜びをもたらすはずのぶどうの収穫が無くなってしまうということです。もはや彼らは喜びの声をあげることができません。そこにあるのはぶどう踏みの声ではなく、悲とみの嘆きの声です。主はそのことを嘆いておられるのです。36節には、「わたしの心は、モアブのために笛のように鳴る」とあります。主は笛が鳴るようにモアブのために嘆かれるのです。なぜでしょうか。

神は、ひとりも滅びることを願っておられないからです。たとえ傲慢で、高ぶっていたモアブでさえ、彼らが悔い改めて救われることを願っておられたからです。これが主の思い、主の心です。

でも私たちは違うでしょう。たとえば、もしこれまであなたに嫌な思いをさせてきた、大変な思いをしてきた、あの人のせいで私は本当に苦しんできたという人が辛い思いをしていたらどうでしょう?気持ちいいんじゃないですか。スカッと爽やかコカ・コーラです。それが人間の本性です。でも神様はそのような方ではありません。神様はそれがたとえその人の自業自得でしたことであってもその不幸を悲しまれ、涙を流されるのです。

このモアブという民族はイスラエルと遠い親戚であったことはお話した通りですが、その中でも特にモアブ人ルツがボアズと結婚したことによってダビデの祖父のオベデが生まれたことは特筆すべき点です。なぜなら、ダビデにもこのモアブ人の血が流れていたことになるからです。そして、それはその子孫である救い主イエス・キリストの中にも、このモアブ人の血がわずかばかり流れていたことになるのです。そうしたモアブ人が滅びることを、神はとても悲しまれたのです。よく「断腸の思い」ということばがありますが、断腸の思いとは、腸がちぎれるほど、悲しくつらい思いのことです。まさに神は滅んでいく人間の姿を、断腸の思いで見ておられるのです。腸がずたずたにちぎれるような悲しい思いで見ておられる。

あなたには、この神の思いが届いていますか。その目の涙が見えるでしょうか。主はモアブだけでなく、あなたのためにも泣いておられます。あなたが神に背いて苦しみの中にあるとき、病気や人間関係で疲れ果て苦しんでいるとき、主も泣いておられるのです。そのために、十字架で死んでくださいました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

あなたは、それほどまでに愛されているのです。であれば、あなたは、あなたをこれほどまでに愛しておられる主のもとに立ち返り、そこで主の慰めと励まし、癒しを回復と受けるべきではないでしょうか。

Ⅲ.モアブの回復(40-47)

最後に、40~47節を見て終わりたいと思います。ここでは神によってさばかれるモアブの嘆きが、3つのたとえによって表現されています。まず、鷲のたとえです。40~42節をご覧ください。「48:40 まことに、【主】はこう言われる。「見よ。敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げる。48:41 町々は攻め取られ、要害は取られる。その日、モアブの勇士の心は、産みの苦しみにある女の心のようになる。48:42 モアブは滅ぼし尽くされて、民でなくなる。【主】に対して高ぶったからだ。」
  敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げます。この敵とはバビロンのことです。バビロンが鷲のようにモアブに襲いかかるので、モアブは滅ぼし尽くされることになります。

二つ目のたとえは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいによるさばきです。43節と44節です。「48:43 モアブの住民よ、おまえを恐怖と落とし穴と罠が襲う。─主のことば─48:44 その恐怖から逃げる者は穴に落ち、穴から這い上る者は罠に捕らえられる。わたしがモアブに彼らの刑罰の年を来させるからだ。─主のことば─」
  モアブに襲うのは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいです。恐怖から逃れた者は落とし穴に落ち、穴から這い上がる者は罠に捕らえられます。どうやってもこのさばきから逃れることはできません。モアブは完全に滅びることになるのです。

そしてもう一つは、ヘシュボンの詩です。45~46節です。「48:45 ヘシュボンの陰には、逃れる者たちが力尽きて立ち止まる。火がヘシュボンから、炎がシホンのうちから出るからだ。それは、モアブのこめかみと、騒がしい子どもの頭の頂を焼く。48:46 ああ、モアブ。ケモシュの民は滅びる。おまえの息子は捕らわれの身となり、娘は捕虜になって連れ去られるからだ。」
  これは民数記21章29節でも語られたことですが、ここでもう一度引用されています。それは、モアブに下る神のさばきが完全であることを示すためです。そして、この預言は東の方からアラビア人たちが攻めて来た時に成就することになります。エゼキエル25章8~11にあるとおりです。

「25:8 【神】である主はこう言われる。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言った。25:9 それゆえ、わたしはモアブの山地の町々、その国の誉れであるベテ・ハ・エシモテ、バアル・メオン、キルヤタイムの町々をことごとく開け放ち、25:10 アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。25:11 わたしがモアブにさばきを下すとき、彼らは、わたしが【主】であることを知る。」アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。」

これはモアブ人に対して語られていることです。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言ったので、主はこのモアブとセイルをアンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間で記憶されないようにする、と言われたのです。モアブに対する神の預言は、完全に成就することになります。

しかし47節を見ると、彼らに対する預言はこれで終わっていないことがわかります。その続きがあります。それは、主はこのモアブの民を回復するという宣言です。ご一緒に読みましょう。「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる。─主のことば。」

モアブに対するさばきと回復のメッセージは、結局、ユダの民に間接的な慰めをもたらしました。神が異邦人のモアブを捕囚から解放されるなら、自分たちも必ず回復することになるからです。これは慰めではないでしょうか。主はあなたをご自身の救いに招いてくださいました。その神の賜物と召命は変わることがありません。どんなことがあっても、あなたは必ず回復することになるのです。一時的に苦難の中に置かれることがあっても、やがて必ずそこから回復する時がやって来るのです。ここに真の希望があります。これが神の計画なのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

ですから、もしあなたが今困難と苦しみの中にいるなら、落胆せずこの希望を見上げてください。あなたは必ず回復するのです。だからどんなことがあっても、どんな状況に陥ってもあきらめないでください。神から離れている自分、罪を悔い改めて、神に立ち返ってください。そして神とともに歩ませていただこうではありませんか。それが私たちにとっての幸いの道、主があなたに願っておられることなのです。

エズラ記10章

 今回は、エズラ記の最後の学びとなります。10章を開いてください。

 Ⅰ.シェカンヤの提案(1-4)

まず、1~4をご覧ください。「10:1 エズラが神の宮の前でひれ伏して、涙ながらに祈り告白しているとき、男や女や子どもの大会衆がイスラエルのうちから彼のところに集まって来た。民は涙を流して激しく泣いた。10:2 そのとき、エラムの子孫の一人エヒエルの子シェカンヤが、エズラに言った。「私たちは、自分たちの神の信頼を裏切り、この地の民である異国人の女を妻にしました。しかし、このことについてイスラエルには今なお望みがあります。10:3 今、私たちは自分たちの神と契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れかしこむ人々の勧告にしたがって、これらの妻たちと、その子どもたちをみな追い出しましょう。律法にしたがってこれを行いましょう。10:4 立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」

エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈り告白しているとき、男や女や子どもの大会衆がイスラエルのうちから彼のところに集まって来ました。彼らもまた激しく泣いていました。そのとき、エラムの子孫の一人でエヒエルの子のシェカンヤが、エズラにこう言いました。「私たちは、自分たちの神の信頼を裏切り、この地の民である異国人の女を妻にしました。しかし、このことについてイスラエルには今なお望みがあります。今、私たちは自分たちの神と契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れかしこむ人々の勧告にしたがって、これらの妻たちと、その子どもたちをみな追い出しましょう。律法にしたがってこれを行いましょう。立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」(2-4)

彼は、自分たちは神の信頼を裏切りこの地の民である異国人の女を妻にしたが、まだ望みがあると言いました。もし神と契約を結び、主の勧告と、主を恐れかしこむ人々の勧告にしたがい、異教徒の妻と子どもたちを追放するなら、きっと神が受け入れてくださるから、立ち上がり、勇気を出して、律法にしたがってこれを実行しましょうと、提案したのです。

これは、家族の間に、また民の間に亀裂をもたらすことになりますから、簡単に実行できるようなことではありませんでした。事実、26節を見ると、これを提言したシェカンヤの父エヒエルも異国人の女を妻にしていました。その他にも同じエラム族から何人かの者が異国人の女を妻にしていました。ですから、それを実行することは彼自身にとっても苦しいことでしたが、それを承知の上で彼はそのようにエズラに提言したのです。なぜ彼はそのような提言をしたのでしょうか。これこそが律法にしたがった解決法であり、エズラがそのように決断するなら、律法を重んじる人たちはそれを支持すると確信していたからです。もちろん、彼自身もその痛みを受け入れる覚悟が出来ていました。

しかし、これが本当に神の御心に叶ったことかどうかは、よく吟味しなければなりません。というのは、Ⅰコリント7:10~16でパウロは、離婚に関する教えの中で次のように言っているからです。

「7:10 すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。7:11 もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。7:12 そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。7:13 また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。7:14 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。7:15 しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。」

ここには、たとえ相手が未信者の夫、あるいは妻であっても、離婚してはいけないとあります。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。もちろん最初から、不信者とつりあわぬくびきをともにすべきではありません(Ⅱコリント6:14)が、もし結婚したのであれば、相手に合わせてこの世の流れに従うのではなく、しっかりと信仰に立ち、忍耐強く家族の救いのために祈らなければなりません。相手が一緒にいることを承知している限り、離婚してはいけないのです。これが神のみこころです。事実、異邦人の妻であってもイスラエルの神を信じるようになれば、追放されることはありませんでした。ルツはそうでしょう。彼女はモアブ人でありながらボアズの妻として受け入れられました。そしてやがてその子孫から救い主イエスが生まれることになるのです。ですから、一概に異国人だから追放するというのは神が願っていることではありません。ではなぜここで異国人の妻を追い出すようにと言われているのでしょうか。

3つの理由が考えられます。第一に、これが捕囚から帰還した直後の時であったということです。出エジプト記34:15-16には、「その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々にいけにえをささげるとき、あなたを招き、あなたはそのいけにえを食べるようになる。あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる」。と警告されていましたが、こうした状況下では、その土地の住民と契約を結ぶことが容易だったと思われます。そういう状況下では、より厳しい対応が求められたのです。

もう一つの理由は、こうした帰還民の中には、生活の豊かさを求めてユダヤ人の妻と離縁し、異邦人の女性と結婚したという事実があったので、エズラはそうした不法な離婚の取り消し、あくまでも神のみこころを第一に求めた結果の措置だったのではないかということです。

そしてもう一つの理由は、このユダの民の中からやがてメシヤが生まれてくるからです。エズラ、ネヘミヤの後約400年の中間時代を経て、約束されたメシヤが誕生するにあたり、メシヤを生み出すことになる民族の霊性の回復が必要だったのです。

いずれにせよ、こうした箇所に接するとき、ただその言葉を適用するというのではなく、聖書全体から神の御心をバランスよく理解し実行するという慎重さが求められます。

Ⅱ.エズラの応答(5-8)

それに対して、エズラはどのように応答したでしょうか。5~8節をご覧ください。「エズラは立ち上がり、祭司、レビ人、全イスラエルの長たちに、この提案を実行するよう誓わせた。すると彼らは誓った。10:6 エズラは神の宮の前を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行った。そこに行って、パンも食べず、水も飲まずにいた。捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんだのである。10:7 そして、通達がユダとエルサレムに出された。それは、捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するように、というものであり、10:8 また、三日のうちに来ない者はみな、指導者たちや長老たちの決定にしたがってその全財産を聖絶され、さらにその人は、捕囚から帰って来た人々の会衆から除名される、としていた。」

エズラはその提案に応答し、行動を開始しました。彼は祭司、レビ人、全イスラエルの長老たちに、この提案を実行するように誓わせると、彼らは誓いました。一方エズラはどうしたかというと、彼は神の宮を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行きました。そこに行って、捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんだのです。パンも食べず、水も飲まずにいました。すなわち彼は、断食して祈ったのです。

そして、ユダとエルサレムに通達が出されました。それは、捕囚から帰って来た者はみな3日以内にエルサレムに集合しなければならないというものでした。もし3日のうちに来なければ、その者の全財産は没収され、捕囚から帰って来た人々の会衆から除名されました。いったいなぜエズラはそこまで厳格にこれを実行したのでしょうか。それは、イスラエルの民に霊的覚醒を促すためでした。これがモーセの律法なのだということを、これまでただ漠然と受け止めていた彼らにはっきり示そうとしたのです。エズラがこれほどの権威を発揮できたのは、あのアルタクセルクセス王の勅令があったからでしょう。7:26には、「あなたの神の律法と王の律法を守らない者には、だれに対しても、死刑でも、追放でも、財産の没収でも、投獄でも、その判決を厳格に執行せよ。」とありました。

こうした霊的覚醒は、罪を認め、罪から遠ざかることによって生まれるものです。このような危機感は、信仰が眠っているような私たちにも必要なことではないでしょうか。

Ⅲ.悔い改めたユダの民(9-44)

それに対して、ユダの民はどのように応答しましたか。9~44節までご覧ください。9節にはこうあります。「10:9 ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちにエルサレムに集まって来た。それは第九の月の二十日であった。こうして、すべての民は神の宮の前の広場に座り、この件で、また大雨のために震えていた。」

それで、ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちにエルサレムに集まって来ました。それは第九の月の20日のことでした。第九の月とは、今の暦では11月~12月にあたりますが、イスラエルでは雨季です。すべての民は神の宮の前の広場に座りましたが、大雨のため、また自分も裁かれるのではないかという処罰を恐れてか、震えていました。かなりの緊張感が伝わってきます。

するとエズラは、立ち上がって彼らに言いました。10~11節です。「あなたがたは神の信頼を裏切った。異国人の女を妻にし、イスラエルの罪過を増し加えた。だから今、あなたがたの父祖の神、【主】に告白して、そのみむねにかなったことをしなさい。この地の民、異国人の女たちから離れなさい。」

エズラはここで二つのことを言っています。一つは、彼らは神の信頼を裏切ったという事実です。どのように神の信頼を裏切ったのかというと、異国人の女を妻にして、です。それは神のみこころではありませんでした。

もう一つのことは、だから今、それを主に告白して、みむねにかなったことをするようにということです。つまり、その罪を告白して、神に立ち返るようにということです。それは具体的にどういうことかというと、みむねにかなったことをすることです。このケースでは、異国人の女から離れるということです。ただ口先だけの悔い改めは意味がありません。実際に行動で示すこと、すなわち、罪から離れることが求められるのです。そうすれば、主は赦してくださいます。Ⅰヨハネ1章9節に、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあるとおりです。

それに対して民はどのように応答しましたか?12節をご覧ください。全会衆は大声をあげて答えました。「必ずあなたの言われたとおりにします」。しかし、民は大勢いて、大雨の季節であるので、それを一日や二日でできるようなことではありません。もう少し時間を与えてほしいと言いました。具体的には14節にあるように、それぞれの町の長老たち、さばき人たちに監督役になってもらい、もしその町にそれにあたる者がいたら、彼らと一緒に出頭するようにさせたいということでした。賢いですね。それぞれの町の指導者ならば、そこに住む女たちがイスラエルの神を礼拝しているか、偶像礼拝をしているのかをよく知っているからです。

しかし、これに反対した人が4人いました。アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤです。彼らはメシュラムとレビ人シャベタイの支持を得てとありますから、この2人も反対したことがわかります。なぜ彼らは反対したのでしょうか。なぜなら、彼らも異国の女を妻にしていたからです(10:29)。しかし、捕囚から帰って来た人々は、その提案どおりにしました。すなわち、自分たちの罪を告白し、悔い改めて、その罪から離れたのです。

こうして彼らはこの件を調べるために第十の月の一日に検討を始め、それは第一の月の一日まで続きました。第一の月とは、今の暦では3月にあたります。すなわち、この調査のために3か月を要したということです。それだけ問題が広範囲に及んでいたということ、数多くの人たちが外国人をめとっていたのです。

そのリストが18~44節に記されてあります。リストにあげられた名前は、祭司たち、レビ人たち、一般人の順で記されてあります。まず、祭司たちの名前です。18~22節をご覧ください。「10:18 祭司の子らのうちで異国人の女を妻にした者が分かった。エホツァダクの子ヨシュアの息子たちと、その兄弟たちのうちのマアセヤ、エリエゼル、ヤリブ、ゲダルヤであった。10:19 彼らはその妻を離縁すると誓い、自分たちの罪過のために、雄羊一匹を代償のささげ物として献げた。10:20 イメル族のうちでは、ハナニとゼバデヤ。10:21 ハリム族のうちでは、マアセヤ、エリヤ、シェマヤ、エヒエル、ウジヤ。10:22 パシュフル族のうちでは、エルヨエナイ、マアセヤ、イシュマエル、ネタンエル、エホザバデ、エルアサ。」

17人の祭司たちが、この罪を犯していました。彼らは、妻を離縁するという誓いをしてから、それぞれ罪過のためのささげものをしました。

  次に、レビ人たちの名前が記されてあります。23~24節です。「10:23 レビ人のうちでは、エホザバデ、シムイ、ケラヤすなわちケリタ、ペタフヤ、ユダ、エリエゼル。10:24 歌い手のうちでは、エルヤシブ。門衛のうちでは、シャルム、テレム、ウリ。」

  10人のレビ人がこの罪を犯していました。その中には歌うたい1人と門衛3人が含まれていました。

 そして最後に一般のイスラエル人です。25~43節です。ここには84人の名前が記されてあります。「10:25 一般のイスラエル人のうち、パルオシュ族のうちでは、ラムヤ、イジヤ、マルキヤ、ミヤミン、エルアザル、マルキヤ、ベナヤ。10:26 エラム族のうちでは、マタンヤ、ゼカリヤ、エヒエル、アブディ、エレモテ、エリヤ。10:27 ザト族のうちでは、エルヨエナイ、エルヤシブ、マタンヤ、エレモテ、ザバデ、アジザ。10:28 ベバイ族のうちでは、ヨハナン、ハナンヤ、ザバイ、アテライ。10:29 バニ族のうちでは、メシュラム、マルク、アダヤ、ヤシュブ、シェアル、ラモテ。10:30 パハテ・モアブ族のうちでは、アデナ、ケラル、ベナヤ、マアセヤ、マタンヤ、ベツァルエル、ビヌイ、マナセ。10:31 ハリム族のうちでは、エリエゼル、イシヤ、マルキヤ、シェマヤ、シメオン、10:32 ベニヤミン、マルク、シェマルヤ。10:33 ハシュム族のうちでは、マテナイ、マタタ、ザバデ、エリフェレテ、エレマイ、マナセ、シムイ。10:34 バニ族のうちでは、マアダイ、アムラム、ウエル、10:35 ベナヤ、ベデヤ、ケルフ、10:36 ワンヤ、メレモテ、エルヤシブ、10:37 マタンヤ、マテナイ、ヤアサイ。10:38 バニ、ビヌイ、シムイ、10:39 シェレムヤ、ナタン、アダヤ、10:40 マクナデバイ、シャシャイ、シャライ、10:41 アザルエル、シェレムヤ、シェマルヤ、10:42 シャルム、アマルヤ、ヨセフ。10:43 ネボ族のうちでは、エイエル、マティテヤ、ザバデ、ゼビナ、ヤダイ、ヨエル、ベナヤ。」

 44節には、彼らの妻たちの中には、すでに子を産んだ者もいたと記されてあります。子どもが生まれていた夫婦にとっては、離縁はさらに辛いものとなったでしょう。このように家を追われることになった妻と子どもがどうなったかについては、何も書かれていませんが、彼らには必要な物質的援助が与えられ、自分たちの出身地に戻って行ったことでしょう。

このようにエズラ記は、彼の宗教改革で閉じます。このエズラ記全体から教えられることはどんなことでしょうか。それは、神の恵みの御手が私たちとともにあるなら、私たちはあらゆるわざわいから救い出されるということです。それはエズラ記だけでなく、聖書全体を通して神が語っておられることです。

先日、福島で牧師按手式があり、そこでエレミヤ1章からエレミヤの召命からお話をさせていただきましたが、そこでも同じことが記されてあります。「1:7 主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主のことば。」」(エレミヤ1:7-8)

若かろうと老いていようと、才能があろうとなかろうと、口が重いかとか軽いかといったことは牧師にとって全く関係ありません。大切なのは、神がともにおられるかどうかということです。神がともにおられるなら、神があらゆる窮地から救い出してくださいます。これが、すべての祝福の源なのです。

であれば、私たちに求められていることは、神がともにおられることです。もし私たちの歩みが神のみむねにかなわなければ悔い改めなければなりません。それは単に口先で罪を告白するということではなく、神が喜ばれる方向に転換することです。そうすれば、主はともにいてくださいます。まさにエズラの宗教改革は、それを求めていたのです。私たちも自分自身を点検し、もし神のみむねにかなわない点があるなら悔い改めて神に立ち返りましょう。そしていつも神がともにおられることを第一に求めていきたいと思います。神があなたとともにいて、あなたをすべてのわざわいから救い出してくださいますように。