エレミヤ書50章1~20節

Loading

Word PDF

エレミヤ書50章に入ります。これまで、ユダ及び周辺諸国に対する主のことばを見てきましたが、いよいよバビロンについての預言が語られます。バビロンは主なる神様の許しの中で、ユダ及び周辺諸国に対する神の道具として用いられてきましたが、今度はそのバビロンに対して主のさばきが宣告されます。バビロンに対する預言はすでに25章12節で語られていましたが、ここではもっと具体的に語られます。

今回はその最初の部分から三つのポイントでお話したいと思います。第一に、あの大バビロンでも滅びるということです。それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。神はご自身が語られたことを必ず成就されるのです。
  第二のことは、バビロンが滅びた理由です。バビロンはどうして滅びたのでしょうか。それは、彼らが主に対して罪を犯したからです。だれに対して罪を犯しているのかという認識を正しく持つことが重要です。主に対して罪を犯すなら、主がその罪に対して正しく対処されます。
  第三のことは、バビロンに対するさばきは、同時にご自身の民イスラエルの回復と救いをもたらしたということです。もしあなたが罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。この三つのことです。それでは本文を見ていきましょう。

Ⅰ.バビロンは滅びる(1-10)

まず、1~10節をご覧ください。1~2節をお読みします。「50:1 【主】が預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデア人の地について語られたことば。50:2 「国々の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。隠さずに言え。『バビロンは攻め取られた。ベルは辱められ、メロダクは打ちのめされた。その像は辱められ、その偶像は打ちのめされた。』」

2節に「旗を掲げて知らせ」とありますが、これは、この預言のことばを広く公に告げ知らせよという意味です。バビロンはすでに学んできたように、パレスチナのほとんど全土に至るまで、そしてエジプトにまでもその勢力を伸ばし、諸国を制圧してきましたが、今度はそのバビロンに対するさばきが告げられます。その主のことばを、国々の間に広く告げ知らせるようにというのです。

その中心的なメッセージは何でしょうか。それはバビロンは滅びるということです。2節には、「バビロンは攻め取られた。ベルは辱められ、メロダクは打ちのめされた。その像は辱められ、その偶像は打ちのめされた。」とあります。「ベル」も「メロダク」もバビロンの代表的な守護神です。「ベル」は「主」とか「主人」という意味がありますが、バビロンの主神でした。「メロダク」は一般には、「マルドゥク」と呼ばれていて、意味は「あなたの反逆」です。「メロダク」はまさに主に反逆する存在でした。そのベルは辱められ、メロダクは打ちのめされます。古代オリエントにおいては、その国の敗北は、その背後にある神の敗北と考えられていました。つまり、バビロンの守護神であったベルとメロダクが辱められ、打ちのめされることによって、真の神はどなたであるのかが明らかにされるのです。皆さん、真の神はどなたですか。ベルじゃありません。メロダクでもありません。真の神は、イスラエルの神、「主」です。それはご自身を父と子と聖霊という三位一体の御名で表わされた神です。

いったいバビロンはどのようにして滅ぼされるのでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「まことに、北から一つの国がそこに攻め上り、その地を荒れ果てさせた。そこには住むものもない。人から家畜に至るまで逃げ去った。」とあります。

「北から攻め上る一つの国」とは、メディアとペルシャの連合軍のことです。バビロンは、北から来るメディアとペルシャの連合軍によって滅ぼされるというのです。それは文字通りに成就しました。B.C.539年にペルシャの王キュロスがバビロンを陥落させたのです。難攻不落と言われた大バビロンが陥落したのです。だれがそんなことを考えることができたでしょうか。バビロンは二重の城壁に囲まれていました。その周囲は65キロメートルもありました。城壁の高さは90メートルです。高いところで100メートルもありました。厚さは24メートルです。先週、沖縄の首里城に上りましたが、その城壁の厚さは1メートルくらいでした。でもバビロンの城壁の厚さは24メートルですからその24倍です。その城壁の上では何台もの馬車が走ることが出来たと言われています。そんな分厚い壁をどうやって打ち破ることができるでしょうか。無理です。よじ上ることができる人もいないでしょう。仮によじのぼることができても、城壁の塔から見張っていた者に矢を放たれるのでできません。だったら土を掘って下から侵入すればと考える人もいるかもしれませんが、それもできません。なぜなら、城壁の基礎は地下11メートルの深さまで築かれていたからです。ですから、だれもこの城壁を打ち破ることができる人はいなかったのです。まさに難攻不落でした。しかし人にはできなくても、神にはどんなことでもできます。神はかつて小国だったメジィアとかペルシャを用いて、あの大バビロンを滅ぼされるのです。ここに書かれてある通りのことが成就するのです。

4節と5節をご覧ください。ここには「50:4 その日、その時──【主】のことば──イスラエルの民もユダの民も、ともにやって来る。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、【主】を尋ね求める。50:5 彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて言う。『さあ、私たちは【主】に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって』と。」

これはバビロンに対する預言ではなく、イスラエル民とユダの民に対する預言です。「その日、その時」とは、メディアとペルシャの連合軍によってバビロンが滅ぼされる時のことです。その日、その時、どんなことが起こるのでしょうか。その日、その時、イスラエルとユダの民は、ともにやって来て、泣きながら、彼らの神、主を尋ね求めるようになります。70年にわたるバビロン捕囚から解放され、祖国に帰還することになるのです。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、主を尋ね求めます。詩篇137篇1節に、彼らが捕囚の民としてバビロンに連行された時の詩があります。「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座りシオンを思い出して泣いた。」
  まさに彼らはバビロンの地で、故郷エルサレムのことを思い出して泣いていました。それはただ感傷にふけって泣いたというよりも、心の底から悔い改めての涙です。偶像礼拝という罪のゆえに、また7年ごとの安息年を守らなかった罪のゆえに、バビロンでの70年にわたる捕囚の生活を強いられていたわけですが、その中で彼らは自分たちが犯してきた罪の愚かさに気付いて泣いたのです。そして70年の時を経て、彼らはシオン(エルサレム)に帰還するわけです。その時は以前のようではありません。彼らは心から主を尋ね求めて、こういうようになります。「さあ、私たちは【主】に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって」

すばらしいですね。一度は自分たちの罪によってバビロン捕囚を経験して涙しても、それがやがて喜びに変えられるのです。詩篇30篇5節「まことに、御怒りは束の間。いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」とあります。まさに「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。」を文字通り体験するのです。

いったいどうやってこれが実現するのでしょうか。ここには「忘れられることのない永遠の契約によって」とあります。それは彼らの力によってではありません。忘れられることのない永遠の契約によってです。どういうことですか。それは31章3節に「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」とありましたが、この永遠の愛のことです。神の愛は変わることがありません。彼らがどんなに神に背いても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はそれを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。神の愛はどんなことがあっても変わることがないのです。彼らはこの永遠の愛によって救われたのです。

それは、歴史的にはB.C.539年にペルシャのキュロス王がバビロンを打ち破りそこに捕らわれていたユダの民を解放することによって実現しました。しかし、それだけではありません。ここに「その日、その時」とあるのに注目してください。これはこれまで何度も説明してきたように、終末において起こること表す時に用いられる特徴的なことばです。つまり、このエレミヤの時代にはバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還することを表していましたが、それだけでなく、遠い未来においては、終末においては、イスラエルがみな救われるという出来事を指示しているということです。それはキリストが再臨する時に起こります。ゼカリヤ書12章10節にこうあります。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)
  「自分たちが突き刺した者」とは、神のひとり子であられるイエス・キリストのことです。彼らはやがてその方を仰ぎ見るようになります。いつですか?キリストが再臨される時です。その時イスラエルは自分たちが突き刺した方を見て嘆き、激しく泣いて悔い改めるのです。このようにして、イスラエルはみな救われるのです。彼らは忘れられることのない永遠の愛によって愛されているからです。

これが、黙示録17章と18章に書かれてあることです。17章5節を見ると「大バビロン」という淫婦たちのことが出てきますが、これは17章18節を見ると、「地の王たちを支配する大きな都のことです。」。それはもはや国名というよりも神に反逆する勢力のことを指していることがわかります。その大バビロンが倒れるのです(18:2)。神が聖徒たちのためにさばきをなさるからです。そして19章に入ると、キリストが再臨されます。そのとき、彼を見るすべての者たちが悔い改めて嘆き悲しみます。黙示録1章7節にあるとおりです。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7)

こうしてイスラエルはみな救われるのです。そして神が用意された千年王国に入り、やがて新しい天と新しい地に入れられることになります。ですから、このバビロンがさばかれ、神の民が悔い改めて救われるという内容は、今から2,500年前のバビロンの時代の話だけでなく、今の私たちの時代から後の近い将来に起こることの預言でもあったのです。

それは必ず成ります。なぜなら、聖書の預言は100%みな成就するからです。皆さん、聖書は預言の書です。実に全体の三分の一が預言で占められています。そしてその預言の95%がこれまでの歴史の中で成就しました。残りは5%です。それはいつ成就するのでしょうか。これからです。これから成就します。私たちはそういう歴史のただ中にいるのです。これまで95%が成就したのであれば、これからの5%も必ず成就するということは、だれにでもわかることです。私たちは世の終わりにいるわけですが、それを見るかどうかはわかりません。しかし、たとえ見なくても必ずその通りなります。その日、その時、あなたは忘れられることのない永遠の契約によって、キリストが支配する神の御国を受け継ぐようになるのです。そう信じて神のことばに信頼して歩みたいと思います。

Ⅱ.主に対して罪を犯したバビロン(6-18)

いったいバビロンの問題は何だったのでしょうか。それは彼らが主に対して傲慢であったことです。6~18節には、そのバビロンの傲慢さが指摘されています。まず、6~7節をご覧ください。ここには、「50:6 わたしの民は、迷った羊の群れであった。その羊飼いたちが彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡り、休み場も忘れた。【50:7 彼らを見つける者はみな彼らを食らい、彼らの敵は言った。『私たちには責めはない。彼らが、義の住まいである【主】、彼らの先祖の望みであった【主】に対して罪を犯したためだ』と。」とあります。

「わたしの民」とは、神の民イスラエルのことです。彼らが迷ったのはその羊飼いが彼らを迷わせたからです。それはイスラエルの指導者たちのことを指しています。ここでは特ににせ預言者たちのことです。彼らに従った結果、イスラエル民は安息を味わうどころかさまよってしまうことになりました。バビロンの支配のもとで70年を過ごさなければならなかったのです。

7節の「彼らを見つける者」とはバビロンのことです。彼らはみなその羊たちを食らい、こう言いました。「私たちには責めはない。彼らが、義の住まいである【主】、彼らの先祖の望みであった【主】に対して罪を犯したためだ」と。
  これはバビロンが言ったことばです。バビロンは、エルサレムが陥落したのはイスラエルの民が主に対して罪を犯したからであり、その結果我々に滅ぼされたのだと。確かにイスラエルがさばかれたのは彼らが罪を犯したからであり、そのために主はバビロンの王ネブカドネツァルをその道具として用いられたのは事実です。しかし、だからといってバビロンが行った侵略行為や略奪行為が正当化されるわけではありません。それは明から神の目には逸脱した行為でした。

それで主はご自身の永遠の計画により、ご自身の民の回復の約束を果たすために、そのようにおごり高ぶるバビロンに対して、彼らを滅ぼすと告げられました。それが8~10節にあることです。9節の「大国の集団」とはペルシャのことです。主はペルシャを奮い立たせ、バビロンに攻め上らせるのです。そのようにしてカルデア(バビロン)は略奪されることになるのです。

そのことは、11~13節でも言われています。「50:11 わたしのゆずりの地を略奪する者たちよ。おまえたちは楽しみ、喜び躍り、打穀する雌の子牛のようにはしゃぎ、荒馬のようにいななくが、50:12 おまえたちの母はひどく恥を見、おまえたちを産んだ者は屈辱を受ける。見よ。彼女は国々のうちの最後のものとなり、荒野となり、砂漠と荒れた地となる。50:13 【主】の御怒りによって、そこに住む者はなく、ことごとく廃墟と化す。バビロンの近くを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見て嘲笑する。」

「わたしのゆずりの地を略奪する者たち」とは、バビロンのことです。ここで注目したいことは、イスラエルは「わたしのゆずりの地」と言われていることです。神のゆずりの地、神の相続地であるということです。彼らがイスラエルを略奪したのは単にイスラエルの地を略奪したというよりも、それは「わたしのゆずりの地」とあるように、主のゆずりの地、主が相続した主の土地を略奪したということなのです。要するに、彼らの罪とは、主に対して犯した罪だったのです。これが、バビロンが滅ぼされた最大の原因です。バビロンはイスラエルの民を滅ぼし、大喜びしながらその地を略奪しました。その傲慢な罪のゆえに、主はバビロンを滅ぼし、そこを廃墟と化すのです。

そのことは、さらに14~16節のところで明確に語られます。14節には「すべて弓を引く者よ。バビロンの周りに陣備えをし、これを射よ。矢を惜しむな。彼女が【主】に対して罪を犯したからだ。」とあります。

「すべて弓を引く者よ」とは、そのペルシャに対する呼びかけです。主はペルシャに対して、バビロンの周りに陣備えをし、これを射るようにと命じておられます。なぜですか?なぜなら、彼らが主に対して罪を犯したからです。ですから、15節のところで、これは「主の復讐だ」と言われているのです。主に対して罪を犯した罪だから、主が復讐されるわけです。ペルシャの王キュロスはこのことをどれだけ理解していたかわかりませんが、バビロンが滅ぼされた最大の理由はここにあったのです。

皆さん、主に対して罪を犯すなら、主に対して傲慢であるなら、主が復讐されることになります。私たちも主に対して罪を犯していないかどうかを考えなければなりません。というのは、私たちが罪を犯す時、それは神に対してというよりも、むしろ人に対して罪を犯したという意識の方が強いからです。あの人に対して申し訳ないことをした、あんなことを言ってしまった、こんなことをやってしまった、あのことで傷つけた、このことで迷惑をかけたという思いが強いのです。しかし、本来、罪というのは人に対してというよりも神に対して犯すものです。確かにバビロンはイスラエルを滅ぼしその地を略奪しましたが、それはイスラエルに対してというよりも、神に対して犯した罪だったのです。

この認識がなければ、真の悔い改めに導かれることはありません。真の悔い改めとは人に対してではなく神に対してなされるものだからです。人に対して罪を犯したという思いだけで終わっているならば、それは単なる後悔にすぎません。結果、また同じことを繰り返すことになります。なぜなら、神に対して罪を犯したという認識が欠如しているからです。神がどれほど心を痛めておられるかを考えたことがあるでしょうか。よくわかりませんと言う方がいたら、十字架のキリストを見てください。よくわかると思います。神に対して罪を犯すということがどういうことなのかを。

クリスチャンのシンガーソングライターに岩渕まことさんが、「父の涙」という歌を作りました。
  1.心にせまる父の悲しみ
    愛するひとり子を十字架につけた
    人の罪は燃える火のよう
    愛を知らずに今日も過ぎていく

   ※十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
     十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

  2.父が静かに見つめていたのは
    愛するひとり子の傷ついた姿
    人の罪をその身に背負い
    父よ 彼等を許して欲しいと

この曲は、岩渕さんが当時8歳だった娘の亜希子さんを亡くした悲しみの中で生まれた曲だそうです。亡くなられた亜希子さんの姿と、彼女を亡くした御自身の悲しみが、イエス様と父なる神様に重なりました。愛するひとり子を十字架につけなければならなかったというのはどれほどの悲しみだったのか。そこには父の涙が流れていました。それは私たちの罪の身代わりとして死なれたイエスの愛だったんだと。

だから、十字架のキリストを見上げるとわかるのです。そのキリストの姿をじっとこらえてご覧になられ、そのキリストにご自身の怒りを注がなければならなかった父なる神の思いが。

神に対して罪を犯すとはそういうことです。それがわかると短絡的に罪を犯そうという思いにはなれません。人に対して罪を犯したと思っているうちは、あれほど申し訳ないと思ったことでもすぐに忘れてしまいますが、神に対して罪を犯しているという認識を持つならば本物の悔い改めの涙があふれて来て、もう二度とこんなことはしたくない、できないという思いになります。

ですから私たちにとって重要なのは、だれに対して罪を犯しているのかということに対して正しい認識を持つことです。それがなければ主の前に傲慢な者となり、自分がやりたい放題になってしまいます。主が許容された範囲を超えてやり過ぎてしまい、ついにはバビロンのように滅ぼされてしまうことになるのです。

それが17~18節にあることです。17節には「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリアの王がこれを食らい、今度はついに、その骨をバビロンの王ネブカドネツァルが食らった。」とあります。

17節の「雄獅子」とは複数形で書かれていますので、これは2頭の雄獅子ということで、アッシリアとバビロンのことを指していることがわかります。イスラエルはかつて2頭の雄獅子に滅ぼされました。先にはアッシリアの王がこれを食らい、今度はついに、その骨をバビロンの王ネブカドネツァルが食らいました。これは、歴史的にはB.C.722年にアッシリアが北王国イスラエルを滅ぼしたことと、バビロンがB.C.586年に南ユダを滅ぼした出来事を指しています。しかしネブカドネツァルの場合はやりすぎました。アッシリアの王もイスラエルを食らいましたが、バビロンの王はただ食らったのではなく、彼らは骨まで食らいました。やり過ぎたのです。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われます。18節です。「見よ。わたしはアッシリアの王を罰したように、バビロンの王とその地を罰する。」

神を恐れず、神に対して罪を犯しているという認識を持たないと、自分のやりたい放題となり、ついにはバビロンにように滅びてしまうことになるということを覚え、神の前にへりくだる者でありたいと思います。

Ⅲ.イスラエルの回復の恵み(19-20)

最後に、19~20節を見て終わります。ここにはイスラエルの回復について書かれてあります。「50:19 わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで満ち足りる。50:20 その日、その時──【主】のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」」

「カルメルとバシャ」、「エフライムとギルアデ」は、北イスラエル王国にあった地域です。そこはかつてアッシリアの王によって略奪されたところですが、そこが先に回復していきます。ですから、これはただユダの民がエルサレムに帰還するというだけでなく、北イスラエルも南ユダ王国も、統一王国として回復するという預言なのです。それはユダの民がバビロンから解放されエルサレムに帰還するということ以上のことが語られているのです。それはここに「その日、その時」とあるように、世の終わりにおいて成就する預言であることがわかります。

20節はすばらしいですね。ご一緒に読みましょう。「その日、その時──【主】のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」

北イスラエルと南ユダがどれほどの罪を重ねてきたか、どれほどおぞましいことをしてきたか、そこには自分の子どもを偶像に犠牲としてささげるというモレク礼拝もありました。そういう罪をこれでもかというくらい繰り返してきたわけです。決して許されないことです。それなのに、ここで主は何と言っていますか。

「イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」

神の赦しは、罪の一切合切を帳消しにするものです。つまり、神が赦すとき、神は私たちの罪をすべて忘れてくださるのです。人の赦しには限界があります。「私は赦します」と言っても、脳の中には記憶として残っています。確かに赦すとは言っても、あの時はこうだった、ああだったと、しばらくしてからまた思い起こし、蒸し返して、それで人を責めたりします。あるいは赦したはずなのに、苦々しい思いとか、怒りとか、恨みとかがこみ上げてきますが、神は違います。「またやったのか」というようなことは一切言われません。すべてを帳消しになさるのです。31章34節に「わたしが彼らの不義を赦し、もはや二度と彼らの罪を思い起こさない。」とあるように、完全に忘れてくださるのです。

しばらく前に「私の頭の中の消しゴム」という映画がありました。若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫の話です。年をとってから物忘れをするというのはよくあることですが、若くして物忘れがひどくなる病気は辛いものがあります。ご主人のことさえも忘れてしまうのですから。「あれっ、あなただれだっけ」となる。その時彼女がこうつぶやくのです。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって・・。」
  この映画の基調は「赦し」だそうです。自分を捨てた母親を赦せないでいるご主人に、この若い妻が赦しのメッセージを語るのです。そう言えば、この夫妻の家の壁には、戸を叩くイエス様の絵がさりげなくかけられているのですが、この映画を作った監督は、この映画を通して、赦しの大切さを伝えたかったのだそうです。そしてそれはイエス様を通してもたらされました。主イエスは十字架で死なれることによって、彼を信じるすべての人の罪を全部忘れてくださいました。

であれば、あなたはもうその罪を思い起こす必要はありません。過去の罪のことでいつまでも悩まないでください。あなたがはっきりと「私は神様の前で罪を犯しました」と正直に告白し、神の赦しを請うなら、あなたの罪はイエス・キリストの十字架によって完全に赦されているのです。赦されているということは、もう思い起こす必要もないということです。どんなに人に責められても、サタンがあなたの耳元で何をささやいても、もうそれに囚われる必要はないのです。神が忘れたと言われるなら、あなたもそのようにみなすべきなのです。もう私も忘れたと。そうやって私たちは過去の罪から解放されていくのです。

神のみこころは、あなたがいつまでも過去の罪に囚われていじいじしながら後ろ向きに生きるのではなく、過去の罪から解放されて、そのような過去はなかったかのように生きることです。うしろのものを忘れること。それが神のみこころです。もしまだ罪を悔い改めていないなら、罪を言い表していないなら、それこそ最優先に成されるべきことです。そして赦されたなら、もう悩む必要はないのです。あなたはその赦しを受け取るべきなのです。

リビングライフのエッセイにあった話ですが、生涯、罪責感にさいなまれてきた老婦人がいました。彼女は17歳で嫁いだ後すぐに夫が満州に徴用され、妊娠したまま実家に戻ってきました。当時は木の皮まで食べた苦しい時代だったので、実家の家族の視線は冷たいものでした。そして、生まれた子どもは双子でしたが、両方に満足に乳を飲ませることができず、片方は死んでしまいました。
 「神様の前に出て、この罪をどうすればよいのかわからない」と罪の重荷をずっと背負って生きてきました。
  そんな時、牧師から「神はイエスを通して、子どもを死なせてしまった母親の罪を赦されました。神様はその罪を二度と思い起こさず、あなたを神様の娘とされたのです」という話を聞きました。おばあさんはその言葉に号泣し、十字架の贖いの福音によって笑顔を取り戻すことができました。(リビングライフ、2010年9月号、P35)

私たちは神の愛と恵みをその時々の状況によって判断してしまいます。物事がうまくいけば「神は私を愛しておられる」と言い、うまくいかなければ「なぜ神は私をこのように苦しめるのだろう」と神の愛を疑います。しかし、神の愛はその時ごとに確認するようなものではありません。それは、すでに確証された事実なのです。すでに神はあなたを愛することを決められ、あなたの罪をきよめてくださいました。

これが神の約束です。この神のことばを素直に受け取ることができた人々は、たとえその現実がどれほど苦しく、耐えがたいものであっても、神が与えてくださる湧き出るような希望に満たされ、その前途は、トンネルのかなたに明るい出口を見え始めたようなものです。それは、神のことばを真剣に受け取る者に与えられる恵みなのです。

それは、今日同じように神のことばを真剣に聞いているあなたにも言えることです。バビロンに対する神の審判の日は、イスラエルの民に回復と救いをもたらす時でした。まことに審判と救いは一枚の紙の両面のようなものであり、切り離して考えることはできません。そのような回復と希望があなたにも与えられていることを信じて、まことの羊飼いであられる主イエスの約束のことばに、どこまでもついて行きたいと思います。