エレミヤ44章15~30節「エレミヤの最後の預言」

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前回から、エレミヤ書44章から学んでいます。これはエレミヤがユダの民に語った最後の預言、最後のメッセージです。最後のメッセージですから、それは重要なメッセージであるということです。そうでしょ、皆さんも最後に何かを語るとしたら本当に大切なことを語るのではないでしょうか。イエス様が最後に弟子たちに語ったことはマタイ28章18~20節にありますが、それは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」ということでした。ですから、これがキリストの弟子たちにとって重要なことであることがわかります。ではエレミヤを通して主が語られた最後のメッセージはどのようなものだったのでしょうか。

 Ⅰ.それって、本当ですか?(15-19)

まず、15~19節をご覧ください。「44:15 そのとき、自分たちの妻がほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えた。44:16 「あなたが【主】の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。44:18 だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」44:19 「私たち女が、天の女王に犠牲を供え、彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、夫をなおざりにしてのことだったでしょうか。」

「そのとき」とは、その前の14節までのことが語られていたときのことです。それはユダの町々とエルサレムが滅ぼされたのは、彼らの先祖たちが主に背いてほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えたからでした。彼らは心砕かれず、神を恐れず、神から与えられた律法と掟に歩みませんでした。それなのになぜ、あなたがたは同じことをするのか。それで主は、エジプトに下って行ったユダの民を絶ち滅ぼすと宣言されました。「そのとき」です。

そのとき、自分の妻たちがほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っていた女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民が、エレミヤにこう言いました。16節です。

「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」

エジプトに下って行ったユダの民は、改めてエレミヤによって語られた主のことばに従わないと言いました。この時従おうとしなかったのは、ユダの指導的な立場にあった人たちだけではありません。エジプトに移り住んだすべての民です。

エレミヤは、かつて「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」(17:9)と言いましたが、この時の彼らの態度は、まさにそれを証明していました。彼らはかつて、自分たちも父祖たちも、自分たちの王も首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲(いけにえ)をささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたいと言ったのです。なぜでしょうか?17節後半から18節をご覧ください。ここで彼らはこのように言っています。

「私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」

えっ、それって本当ですか?彼らも彼らの父祖たちも、エルサレムの通りで行っていたように、天の女王にいけにえを備え、注ぎのぶどう酒を注いでいたとき、パンに満ち足りて幸せだったんですか?それを止めたときから、万事に不足し、剣と飢饉によって滅ぼされたんですか?ウソです。それは事実ではありません。実際は逆です。彼らがその身にわざわいを招くようになったのは、彼らが彼らの神、主の警告を無視して天の女王に犠牲を供えて仕えたからです。

この「天の女王」については、すでに7章18節で見てきましたが、古代のさまざまな地域において女神の称号として使われていた神々のことです。たとえば、カナンではアシュタロテという神です。これは女神です。バビロンではイシュタル、ギリシャではアフロデテ、ローマではビーナスなどです。彼らはそうした偶像に仕えていたから自分たちはわざわいにあわなかったと言っていますが、実際には、彼らがわざわいにあわなかったのは、主が彼らをあわれんでおられたからです。彼らはそのことに全く気付いていませんでした。つまり、彼らの過去に対する認識とか歴史観というのは、目の前の一時的な現象だけを見て判断する、いわゆるこの世のご利益信仰と何ら変わらないものだったのです。物事がうまくいっているときはハレルヤと賛美しても、そうでないと、いとも簡単に神様を捨て去り、ほかの神々を求めたのです。このように自分の欲望を満たすことを基準にした信仰は、過去の事実さえも歪めてしまうことになるのです。

かつてエジプトから脱出したイスラエルの民もそうでしたね。彼らは、エジプトを出て荒野に導かれたとき、モーセとアロンに向かって不平を言いました。

「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)

それって、本当ですか?エジプトにいた時、彼らは本当に幸せだったのでしょうか。肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていましたか。違います。彼らは奴隷として酷い仕打ちを受けていました。それなのに彼らはそのことをすっかり忘れていたのです。なぜでしょうか?自分の欲望を満たすものを神だと思い込んでいたからです。

それは私たちにも問われていることです。私たちも信仰をそのように捉えていると、目の前にそうでないことが起こると、あたかも神様を信じていなかった時の方が良かったと錯覚してしまうことがあるのです。でも、それって本当ですか?違います。15、16、17と私の人生暗かった・・・。イエス様に出会う前は、皆さんも暗かったんじゃないですか。確かに自分が好きなように自由に生きていたかもしれません。でもその結果は、自分が何をしているのかもわからない空しい人生だったはずです。私は今でも覚えていますよ。私の人生の華は高校時代でしたから。自分が好きなように、それこそ自分の肉と欲と心の望むままに生きていました。でもその結果は、空しさでした。エペソ2章1節には、それは、自分の背きと罪との中に死んでいた者であり」と言われています。そうです、これぞ我が人生と思っていた人生は、死んでいたものだったのです。しかし、あわれみ豊かな神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きと罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。ハレルヤ!
  それなのに、神様を信じる前の方が良かった、この世の神、天の女王にささげものを捧げていた時の方が幸せだったと主張するのはナンセンスです。正しくありません。

私はチューリップというバンドが好きでよくCDを聴くのですが、その中に「夏の終わり」という歌があります。
  「夏は冬にあこがれて、冬は夏に帰りたい。
  あの頃のこと今では すてきにみえる。」
  まさに、ないものねだりの子守歌ですね。夏になると冬にあこがれ、冬になると夏がすてきに見える。でも実際には、夏は夏で厳しい暑さに苦しみ、冬は冬で凍てつくような寒さに苦しむのです。でも暑いと冬はいいなぁと感じ、寒いと夏がいいなあと思うのは、その現象だけを見て判断するからです。でも神によって救われた恵みを基準にして進む人は違います。そういう人は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができます。今、自分に降りかかっている災難と思えるようなことさえも、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じているからです。

ですから、自分の感情や気分といったものを当てにしないで信じることです。そういうものは体の調子や周囲の事情、さては天候によっても左右されるものだからです。しかし私たちの信仰はけっして人間の側の何かによってもたらされるものではなく、神様の言葉によって保証されるものです。ですから、真実な神の約束である聖書の御言葉を信じる時、そこに神が約束されていることを知ることによって、揺れ動くことのない確かな信仰の土台を築くことができるのです。

あなたは自分が置かれている状況を、どのように理解していますか。神様の言葉を基準にして、神様の視点で解釈しているでしょうか。自己中心的な解釈は神の語りかけを締め出し、祝福の機会を失うという結果をもたらすのです。

Ⅱ.神のさばきの宣言(20-28)

そんな考え方をしていた彼らに、エレミヤは何と言いましたか。20~28節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「44:20 そこでエレミヤは、そのすべての者、すなわち、男たちと女たち、また彼に口答えした者たち全員に言った。44:21 「ユダの町々やエルサレムの通りで、あなたがたや、あなたがたの先祖、王たち、首長たち、また民衆が犠牲を供えたことを、【主】が覚えず、心に上らせなかったことがあるだろうか。44:22 【主】は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌み嫌うべきことのために、もう耐えることができず、それであなたがたの地は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖のもと、ののしりの的となったのだ。44:23 あなたがたが犠牲を供えたため、また、【主】の前に罪ある者となって、【主】の御声に聞き従わず、主の律法と掟と証しに歩まなかったために、今日のように、あなたがたにこのわざわいが起こったのだ。」」

そのように主張するユダの民に対してエレミヤは、正しい認識を示します。つまり、ユダの町々やエルサレムにわざわいが下ったのは、彼らが天の女王を拝むことを止めなかったからです。そのことを主はちゃんと覚えておられ、もう耐えることができなくなられたからです。

そんなエレミヤのメッセージに耳を傾ける者など一人もいませんでした。それでもなお、エレミヤは、すべての民、すべての女たちに真実を語り続けます。それが24~28節の内容です。これがエレミヤの最後の預言、最後のメッセージとなります。それは次の4つのことでした。

まず25節をご覧ください。ここには、「『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束し、自分の手で果たしてきた。あなたがたは、天の女王に犠牲を供えて彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐという誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かなものとし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』」とあります。
 ここには、あなたがたが天の女王に誓った誓願を必ず果たせ、とあります。これは皮肉的な勧めです。その語調には、挑戦とも、あきらめともとれるようなニュアンスが見られます。

二つ目のことは、26節です。「それゆえ、エジプトの地に住むすべてのユダの人々よ、【主】のことばを聞け。『見よ、わたしはわたしの大いなる名によって誓う──【主】は言われる──。エジプトの全土において、「【神】である主は生きておられる」と、わたしの名がユダの人々の口に上ることはもうなくなる。」
  これは、彼らが主に立ち返って赦されることは二度とないということです。いわば決定的なさばきの宣告です。主はどんな罪でも赦してくださいます。しかし、悔い改めなければ、赦したくても赦すことはできません。

そして三つ目のことは27節です。「見よ、わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの地にいるすべてのユダの人々は、剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せる。」
  どういうことですか?エジプトにいるすべてのユダヤ人は、不信仰のゆえに剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せるということです。

しかし28節を見ると、もう一つのことが記されてあります。それは、「剣を逃れる少数の者だけが、エジプトの地からユダの地に帰る。こうして、エジプトの地に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。」ということです。この「剣を逃れる少数の者」とは、イスラエルの残りの者たちのことです。どの預言者も、ユダに対する神のさばきだけでなく、そこにさばきを逃れる少数の者たちがいることを預言しています。神にあっては、絶望的な状況の中にも希望があるということです。そこからやがて救い主が遣わされることになります。ですから、悔い改めができなくなるほどまで罪に染まってはならない、頑なになってはならないのです。主にあっては必ず希望があるからです。その希望を見上げて救いの道を歩ませていただこうではありませんか。

Ⅲ.神のことばは必ず成就する(29-30)

最後にエレミヤは、神からのしるしを彼らに伝えます。これがエレミヤの最後のメッセージの最後です。これが、主がエレミヤを通して伝えたかったことです。29~30節をご覧ください。「44:29 これが、あなたがたへのしるしである──【主】のことば──。わたしはこの場所であなたがたを罰する。あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばが必ず成就することを、あなたがたが知るためである。』44:30 【主】はこう言われる。『見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に、そのいのちを狙う者たちの手に渡す。ちょうどユダの王ゼデキヤを、そのいのちを狙っていた彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように。』」」

これが彼らに対するしるしです。すなわち、ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されたように、エジプトの王ファラオ・ホフラも彼のいのちをねらう敵の手に渡されるというのです。これがしるしです。何のしるしかというと、エジプトで主が彼らを罰すると語られたことばが必ず成就することのしるしです。この預言の通り、この時から18年後にバビロンがエジプトに侵入し、エジプトの王ファラオ・ホラフは将軍アマシスの謀反によって殺されることになります。B.C.565年のことです。主のことばは必ず成就するのです。だから神のことばに従うようにと、エレミヤは語るのです。これがエレミヤの最後の最後のメッセージでした。

エレミヤはすべての者たちから見捨てられてもなお、神のことばに絶対的な信頼を寄せていました。彼はおそらく自分に言い聞かせるような思いで、これがあなたがたへのしるしだと告げたのでしょう。イエス様はこう言われました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13:31) 

天地は滅び去ります。しかし、主のことばは決して滅び去ることはありません。たとえ天地が滅び去り、すべてが無くなったとしても、主のことばは決して滅びることはないのです。必ず成就します。これこそ、私たちにとって真の慰めではないでしょうか。

預言者イザヤはこう言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7-8)

すべての人は草のようです。その栄光は花のようです。それはすぐに枯れてしまい、しぼんでしまいます。朝に生え出たかと思ったら、夕べにはしおれてしまいます。人はそんなの草や花のようなのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って自分の顔を鏡でよく見てください。いつの間にか白髪が増えたなぁと気が付くでしょう。しみやしわが増えたことがわかります。あんなに若々しかったのに、いつの間にか老けてしまいました。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきました。あんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせてしぼんでしまいました。あの人は教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、その人生は70年か80年で終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。人生はあっという間に過ぎ去ります。ソロモンはこれを「空の空。すべては空」だと言いました。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。

祗園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)(かね)(こえ)、諸行無常(むじょう)の響きあり。
 ()()双樹(そうじゅ)の花の色、 盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)(ことわり)をあらは(わ)す。
 おごれる人も久しからず、(ただ)(はる)の夜の夢のごとし。
 たけき(もの)(つい)にはほろびぬ、(ひとえ)に風の前の(ちり)に同じ。(平家物語)

祇園精舎の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがあります。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるということを表しています。どんなにこの世で栄えても、その栄えはずっとは続きません。まさに春の夜の夢のようです。勢い盛んで激しい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じなのです。そう詠ったのです。実に空しい存在です。

こんなこと言われても全然慰めになりません。そうです、この世には、真の慰めはないのです。ですから、この現実をしっかりと見つめそれを額面通り受け止めるなら、それが慰めになります。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれません。決して受け入れたくないでしょう。でも、これが現実なのです。事実を事実として受け止められるなら慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだと。いつまでも咲き誇っているわけではない。いつかしぼんでいきます。やがて死んでいく。それは明日かもしれません。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれない。人生はそんなに長くないのです。草花のようにすぐにしぼんでいくものでしかありません。その事実を受け入れその先にある希望をしっかり見つめて生るなら慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、人は慰めを受けるのです。

詩篇102篇25~28節にはこうあります。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」

この地上のものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美しさも、失われる時がやってきます。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生をかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないからです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。この方に信頼すれば慰めを得られるのです。

主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
  これこそ慰めではないでしょうか。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなっても、神は約束を(たが)える方ではありません。そのおことばの通りにあなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはありません。

ですからパウロはこう言ったのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
  たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちは天の御国で永遠に生き続けるからです。しかも、先週はイースター礼拝でフレミング先生から私たちはやがて栄光のからだに復活するということが語られましたが、イエス・キリストが再び来られる時、永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえるのです。そうしていつまでも主とともにいるようになります。ここに希望があります。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられているのです。その御霊によって私たちはやがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができるのです。主はそのために初穂としてよみがえられました。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わることのない神のことば、聖書のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいと思うのです。これが真の慰めのメッセージです。これが、主がエレミヤを通してユダの民に伝えたかった最後のメッセージだったのです。

エズラ記6章

 エズラ記6章から学びます。

 Ⅰ.ダリヨス王からの回答(1-12)

まず、1~12節をご覧ください。「6:1 それでダレイオス王は命令を下し、重要文書を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、6:2 メディア州の城の中のエクバタナで一つの巻物が見つかった。その中に次のように書かれていた。「記録。6:3 キュロス王の第一年にキュロス王は命令を下した。エルサレムにある神の宮、いけにえが献げられる宮を建て、その礎を定めよ。宮の高さは六十キュビト、その幅も六十キュビト。6:4 大きな石の層は三段。木材の層は一段とする。その費用は王家から支払われる。6:5 また、ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から持ち出して、バビロンに運んで来た神の宮の金や銀の器は返し、エルサレムの神殿に運んで元の場所に戻す。こうして、それらを神の宮に納める。」6:6 王は次のように命じた。「それゆえ、今、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちでユーフラテス川西方の地にいる知事たちよ。そこから遠ざかれ。6:7 この神の宮の工事をそのままやらせておけ。ユダヤ人の総督とユダヤ人の長老たちに、この神の宮を元の場所に建てさせよ。6:8 私は、さらに、この神の宮を建てるために、あなたがたがこれらユダヤ人の長老たちにどうすべきか、命令を下す。王の収益としてのユーフラテス川西方の地の貢ぎ物の中から、その費用を間違いなくそれらの者たちに支払って、滞らぬようにせよ。6:9 また、その必要とする物、すなわち、天の神に献げる全焼のささげ物のための雄牛、雄羊、子羊、また小麦、塩、ぶどう酒、油を、エルサレムにいる祭司たちの求めに応じて、毎日怠りなく彼らに与えよ。6:10 こうして彼らが天の神に芳ばしい香りを献げ、王と王子たちの長寿を祈るようにせよ。6:11 私は命令を下す。だれであれ、この法令を犯す者があれば、その家から梁を引き抜き、その者をその上にはりつけにしなければならない。このことのゆえに、その家はごみの山としなければならない。6:12 エルサレムに御名を住まわせられた神が、この命令を変更してエルサレムにあるこの神の宮を破壊しようと手を下す王や民をみな、投げ倒されますように。私ダレイオスはここに命令を下す。間違いなくこれを守れ。」」

1節の「それで」とは、5章の内容を受けてのことです。エルサレムに帰還したユダの民は、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者のことばによって励まされ、神殿の再建を始めました。B.C.536年のことです。しかし、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちがそれを妨害しようと、ペルシアの王ダレイオスに手紙を書き送りました。それはこの神殿再建工事がキュロス王の命令に従って行っているとユダヤ人たちが主張していたからです。それが本当かどうかを確かめようとしたのです。

その手紙を受け取ったダレイオス王は、宝物を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、メディア州の城の中のエクバタナで一つの巻物が見つかりました。「エクバタナ」はバビロンの北東約489キロにある、メディア州の首都です(巻末地図8)。キュロス王は、B.C.538年にその城で過ごしていたのでしょう。その巻物には、キュロス王の第一年にキュロス王がエルサレムにある神の宮、いけにえがささげられる宮を建て、その礎を定めるようにと命令を下したことが記されてありました。その神殿のサイズは、高さが60キュビト(1キュビトは約44センチ=2メートル64センチ)です。幅も60キュビト、大きな石の層は3段、木材の層は1段とすると書いてありました。しかも、その費用は王家から支払うと。また、バビロンのネブカドネツァル王がエルサレムの神殿から持ち出してバビロンに運んで来た金銀の器は、エルサレムの神殿に運んで元の場所に戻すとありました。それは、帰還したユダヤ人たちが主張していた通りでした。

それゆえ、ダレイオス王はタテナイたちにこう命じました。6節です。神の宮の工事をそのままやらせておくように。また、この神の宮を建てるために、タテナイたちが徴収している税の一部を、その費用として支払い、それが滞りなく完成するように援助するようにと。さらに、ユダヤ人が天の神に献げる全焼のささげもののために、雄牛や雄羊、小麦、塩、ぶどう酒、油など、エルサレムにいる祭司たちの求めに応じて、毎日怠りなく与えるようにと。何のためでしょうか。10節にあるように、王と王子たちの長寿を祈るためです。つまり、ダレイオス王はエルサレムの神殿に座す天の神の祝福を求めたのです。この命令を犯す者は、その家から梁を引き抜き、その梁の上にはりつけにされます。また、その者の家はごみの山とされなければなりません。最後に彼は、この宮を破壊しようとして手を出す者がいれば、その王や民がみな投げ倒されるようにと祈っています。

結局、タテナイたちはユダヤ人の神殿再建工事を妨害しようとしましたが、結果的には、自分が集めた税金の中から工事代を捻出することになりました。神の御心を行う者には、神の助けと守りがあるのです。一方、神の御心に反する者には、神の呪いとさばきがあるのです。このことを覚えて、いつも神の御心に歩ませていただきましょう。

Ⅱ.神殿完成(13-15)

次に、13~15節をご覧ください。「6:13 ダレイオス王がこう書き送ったので、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちは、間違いなくこれを行った。6:14 ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。6:15 こうして、この宮はダレイオス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。」

ダレイオス王がこのように書き送ったので、タテナイたちはもう立てなくなりました。間違いなく、その通りに行うしかなかったのです。その結果、工事は迅速に進められ、ダレイオス王の治世の第6年(B.C.516年)に完成しました。かつて工事を妨害した者が、神の御業を実行する者に変えられたのです。

ところで14節に注目してください。ここには「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた」とあります。これは預言者ハガイとイドの子のゼカリヤの預言を通し、建築した結果のことです。彼らは、イスラエルの神の命令により、またキュロス王とダレイオス王と、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、これを完成させることができたのです。そこには、預言者を通して語られた神のことばによる励ましがあったということです。神のことばがどれほどの励ましと力を与えてくれるでしょう。人間的には行き詰ってしまうようでも、神はご自身のみことばを通して聖霊の力を与えてくださるのです。

また、この工事にはキュロス王、ダレイオス王、アルタクセルクセス王という3人の王たちの貢献があったことも見逃せません。アルタクセルクセス王は実際には神殿の再建ではなくその維持に貢献しただけですが、ここではそれが包括的に語られています。つまり、天の神がこうした王たちも用いてご自身の御業を成し遂げてくださったということです。ですから、この神殿再建は神の恵みと神の力、そして神の約束と神のご計画によるものだったのです。

神殿が完成したのは、ダレイオス王の治世の第6年のことでした。これは、B.C.516のことです。着工から実に20年後のことでした。あのソロモンの神殿がバビロンによって破壊されたから(B.C.586年)、ちょうど70年後のことでした。それは神が預言者たちを通して語っておられたことです。神はご自身の約束の通りにしてくださったのです。人は多くの計画を持ちますが、主のはかりごとだけがなります。その神の計画の完成に向かって、神のことばに励まされ、様々な挫折を乗り越え、神の計画を完成に導く人は幸いです。それは神がなさることです。私たちに必要なことは、それが自分にできるかどうかということではなく、神の御心なら神が完成に導いてくださると信じ、その完成に向かって神とともに歩むことなのです。

Ⅲ.神殿の奉献式(16-22)

最後に、16~22節を見て終わります。「6:16 イスラエルの子ら、すなわち、祭司、レビ人、そのほかの捕囚から帰って来た人たちは、喜びをもってこの神の宮の奉献式を祝った。

6:17 彼らはこの神の宮の奉献式のために、雄牛百頭、雄羊二百匹、子羊四百匹を献げた。また、イスラエルの部族の数にしたがって、全イスラエルのために罪のきよめのささげ物として、雄やぎ十二匹を献げた。6:18 また彼らは、エルサレムでの神への奉仕のため、祭司をその区分にしたがって、レビ人をその組にしたがってそれぞれ任命した。モーセの書に記されているとおりである。

6:19 捕囚から帰って来た人々は、第一の月の十四日に過越を祝った。6:20 祭司とレビ人たちは一人残らず身をきよめて、みなきよくなっていたので、捕囚から帰って来たすべての人々のため、彼らの同胞の祭司たちのため、また彼ら自身のために、過越のいけにえを屠った。6:21 捕囚から戻って来たイスラエル人はこれを食べた。イスラエルの神、【主】を求めて、その地の異邦の民の汚れから離れて彼らに加わった者たちもみなそうした。6:22 そして彼らは七日間、喜びをもって種なしパンの祭りを守った。これは、【主】が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」

神殿再建工事を終えると、イスラエル人の祭司、レビ族の人々、その他バビロンから帰って来た人々は、喜びをもってこの主の宮の奉献式を祝いました。献げられたのは雄牛100頭、雄羊200匹、子羊400匹でした。また、イスラエルの部族の数に従って、イスラエル人全体の罪のためのいけにえとして、雄やぎ12匹が献げられました。これはソロモンの時と比べたら、圧倒的に少ないです。その時には牛2万2千頭、羊12万頭が献げられました(1列王8:63)。それは、帰還民が非常に貧しかったということを示しています。なるほど、過去の神殿の栄華を知っていた人が悲しみで泣いたのもわかります。

また彼らは、エルサレムでの神への奉仕のため、モーセの律法に記されてある通り、祭司とレビ人の人数を、それぞれの区分に従って任命しました。ここで重要なのは、それがモーセの律法に記されてある通りに行われたという点です。それは律法に背を向けるなら再び悲劇が訪れるという認識があったからです。

捕囚の地から帰って来た人々は、第一の月の14日に過越を祝いました。これは、ユダヤ人たちが70年ぶりに祝う過越の祭りです。祭司とレビ人たちは、一人残らず身をきよめ、バビロンから帰って来た人たちのために、過越の祭りを祝いました。そればかりでなく、イスラエルの神、主を求めて、その地の異邦の民の汚れから離れて彼らに加わった者たちもみな、ともにこの過越の祭りに加わりました。そして、彼らは7日間、種なしパンの祭りを守りました。この種なしパンの祭りとは、過越の祭りに続く7日間の祭りです。ですから、彼らは全部で8日間お祝いしたのです。これは捕囚の期間が終わり、ユダヤ人たちが約束の地に帰還したことを示しています。これは主が彼らを喜ばせ、また、アッシリヤの王の心を彼らに向かわせてイスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからです。ここにアッシリヤの王とあるのを見て「あれっ」と思う人もいるかもしれませんが、かつてのアッシリヤ帝国は今はペルシヤのものになっていますから、これは間違いではありません。神がペルシアの王キュロスの心を彼らに向けさせ、イスラエルの神である主の宮の工事にあたり、彼らを力づけ完成させてくださったのです。

つまりエズラは、これらすべての工事の成功と祭りの喜びは主から来たものであると言っているのです。主が事を始めてくださったのだから、主がそれを完成させてくださいます。ピリピ1章6節に「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」とある通りです。神が始めてくださったのなら、神は必ず完成させてくださいます。そのためには、彼らがハガイとゼカリヤの預言によって励まれたように、私たちも神のことばによって励ましをいただき、そこにどんな妨害があっても神が成し遂げてくださると信じなければなりません。私たちの人生の成功は、あなたがどう思うかではなくあなたが何を信じ、だれとともに歩むのかによって決まるのです。

エレミヤ44章1~14節「それなのに、なぜ」

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今日は、エレミヤ書44章1~14節から、「それなのに、なぜ」というタイトルでお話します。この44章は、エレミヤがユダの民に語った最後の預言です。確かに46章でもエジプトに関する言及がありますが、エレミヤの預言者としての生涯という観点では、この44章がエレミヤの最後の預言となります。晩年になり、エジプトの地に強制的に連れて来られ、その地でいのちある限り預言者として忠実に仕えたエレミヤの最後のメッセージは何だったのでしょうか。それは、「それなのに、なぜ」でした。過去の失敗から学ぶように。同じ過ちを繰り返すなということです。

 Ⅰ.神の目で過去の出来事を見る(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。

44:1 エジプトの地に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住む者たちに対する、エレミヤにあったことばは、次のとおりである。

43章では、バビロンによって滅ぼされたユダの残りの民が、神のことばに逆らってエジプトにやって来たことを見ました。今日の箇所には、それから数年が経ちエジプトに定住するようになった彼らに対して、エレミヤが語った主のことばが記されてあります。

彼らはミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住んでいました。ミグドル、タフパンヘスはエジプト北部にある国境の町です。メンフィスは、そこから南に150キロほど下ったナイル川流域のエジプト北部の中心都市です。これらの町々は下エジプトと呼ばれるエジプトの北部にある町々です。一方、パテロス地方というのは、ナイル川のはるか上流にあるテーベという都市の南にある地域で、上エジプトと呼ばれている地域です。すなわち、タフパンヘスまでやって来たユダの民は、そこからエジプト全域に分散して住むようになっていたということです。そのユダの民に対してエレミヤを通して主が語られたことばがこれです。2~6節をご覧ください。

「44:2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわいを見た。見よ。その町々は今日、廃墟となって、そこに住む者もいない。44:3 彼らが悪を行って、わたしの怒りを引き起こしたためだ。彼らは、自分自身も、あなたがたも、父祖たちも知らなかったほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えた。44:4 それで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、わたしの憎むこの忌み嫌うべきことを行わないように言ってきたが、44:5 彼らは聞かず、耳を傾けず、ほかの神々に犠牲を供えることをやめて悪から立ち返ることはなかった。44:6 そのため、わたしの憤りと怒りが、ユダの町々とエルサレムの通りに注がれて燃え上がり、それらは今日のように廃墟となって荒れ果てている。』」

「わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわい」とは、バビロンによってエルサレムが滅ぼされた出来事のことです。当時のユダの王はゼデキヤでしたが、ゼデキヤの2人の息子たちは虐殺され、彼自身も両目をつぶされ、足には青銅の足かせをはめられて、バビロンに連れて行かれました。エルサレムにあった王宮や民の家も火で焼かれ、城壁は打ち壊されて、都に残されていた残りの民は、バビロンへ捕え移されました。彼らは、そのすべてのわざわいを見たのです。その町々は今どうなっていますか?その町々は、廃墟となっています。そこに住む者は誰もいません。なぜですか。それは3節にあるように、彼らが悪を行って、主の怒りを引き起こしたからです。彼らは、自分たちの知らないほかの神々に犠牲を捧げて仕えました。偶像に仕えたということです。それは主が最も忌み嫌うことでした。主がモーセを通して彼らと結ばれた契約、十戒の第一の戒めは何でしたか。それは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)でした。自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んでも、それらに仕えてもならない。それなのに彼らはその戒めを破り、ほかの神々のところに行って仕えたのです。主はその忌み嫌うべきことを行わないようにと、早くからたびたび預言者たちを遣わして警告したにも関わらず、彼らはそれを聞こうとしませんでした。それで主の憤りと怒りとが、ユダの町々とエルサレムとに注がれたのです。これはどういうことでしょうか。

過去の歴史をよく見なさい、ということです。過去に何があったのかを見て、なぜそれが起こったのかを考えるようにということです。エレミヤはここで、過去に起こった出来事を振り返り、それがどういうことなのかを、神の視点で語っているのです。このように過去の歴史を振り返り、それがどういうことなのかを理解することは、極めて重要なことです。なぜなら、それによって未来が決まるからです。なぜ、エルサレムは滅んだのでしょうか。その理由なり、その解釈は、人によって違いますが、神の目では、それは彼らがほかの神々のところに行って仕えたことが原因でした。また、それを止めるようにとたびたび預言者たちを遣わしたのに、それを聞かないで悪から立ち返ることをしませんでした。それが原因でした。

皆さん、私たちも皆それぞれ過去がありますが、それをどのように見るか、どのように受け止めるか、どのように解釈するかはとても重要です。以前、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しましたが、彼らは人生をどのように見るかというと、現在から過去を見て未来を見ます。ちょうどボートに乗って向こう岸に行くのと同じです。未来は見えません。見えるのは過去だけです。まっすぐに進むために目印となるのはこれまで進んできた航跡(こうせき)なのです。それによって起動を修正しながら前に進んで行くのです。それは私たちも同じです。自分が歩んできた過去を見て、それがどういうことなのかを神の目で見るというか、霊的に解釈することによって前に進んで行くことができるのです。

先週、Y姉の告別式を行いました。私はY姉の92年の生涯を振り返り、Y姉の生涯はどのような生涯だったのかを思いめぐらしたとき、それは神によって運ばれ、神によって導かれ、神によって恵みと祝福に満ち溢れた生涯だったのではないかと思いました。まさに詩篇23篇6節にあるように、「いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう」とダビデが告白したように、いつくしみと恵みとが追ってくるような生涯でした。なぜなら、Y姉は自分で頑張って道を切り開きその道を歩んできたのではなく、神が用意してくださった道を、「それならあなたに従いますのでよろしくお願いします」と、ただ従って歩まれたからです。そういう生涯を神様が祝福してくださいました。それはまさにAbundantlyな生涯だったのです。だから、私たちもそのように神様によって運ばれ、神様によって導かれ、神様によって恵みに満ち溢れる生涯を歩ませていただきたいと、告別式でお話しさせていただいたのです。それはY姉の生涯を神様の目で、霊的な視点で見ることによって示されたことでした。

皆さんもご存知の三浦綾子さんは、小説を書くことを通して主の栄光を現わされました。おそらく、日本のキリスト教宣教において最も大きな影響を与えた人の一人ではないかと思いますが、それは三浦綾子さんがすべての出来事を神の目を通して捉えておられたからではないかと思います。三浦綾子読書会の代表の森下辰衛さんは、このように言っておられます。

70歳で難病のパーキンソン病を発症し症状が進んで来たころ、三浦綾子さんは「書きたいことはあるけれど、もうその体がわたしにはない。でも、わたしにはまだ死ぬという仕事がある」(三浦光世「死ぬという大切な仕事」より)と言いました。老いて不自由になり何もできなくなった、ではなくて、死ぬということも大切な仕事であり、使命だという緊張感があるのですと。
  中学教師だったAさんは、妻が40代で多発性脳梗塞になり全身麻痺、言葉も失い、寝たきりとなりました。以来、長年の介護で体はボロボロになりました。AさんがステージⅣの癌とも診断されました。気持ちが折れそうになり、介護殺人が心をよぎります。そんなある日、妻の容態が悪化し救急車で運ばれました。そのときAさんは「妻が死ぬ。これで介護地獄から解放される!」と思ったそうです。
  妻が入院中、一人で夕食をしながら、テレビをつけると三浦光世さんと綾子さんの老々介護の様子が紹介されていました。光世さんは虫眼鏡とピンセットで魚の骨を一本一本抜いて綾子さんに食べさせていたました。夜、多い日は7回もトイレに連れて行くのです。
  それでも光世さんは、「綾子、介護するよりも介護される方が辛いに決まってるんだから、もっとわがまま言っていいんだよ」と語りかけていました。そして「苦難にあわないのが良いことではなく、苦難は試練であり、与えられた使命です」と言っていました。こんな世界があったのかと、Aさんは泣きました。そして不思議に心が変わっていきました。やがて妻が退院し介護が再開しましたが、おしめを換えるのも辛くはありません。「すっきりしたか」と声を掛けると、話せない妻がニッコリと笑顔で返してくれるのが、心からいとしくなったそうです。
  三浦夫妻は、老々介護だけの日々になっても、こんなにも夫婦の愛を示して、小説を書いていた時とおなじくらい、多くの人を励ますという務めを果たしました。
  「死ぬという大切な仕事がある」と言えるのは、そこに死を超えた方の眼差しがあるからです。私を産まれさせ、生かし、老いるという仕事も死ぬという仕事も与えて下さり、見守ってくださり、全部用いてくださる方がおられる。そんな信頼があるからです。」(ともしび2025春号 三浦綾子読書会 相談役 森下辰衛)そして、死ぬということを、神様の目で、霊的視点で見ておられたからです。私たちも過去の出来事を、いや、今置かれている状況を神様の目で、霊的な視点で見るなら、「こんな世界があったのか」と思うような驚きと励ましをいただき、不思議に心が変えられ、考えが変えられ、行動が変えられていくのです。

あなたはどうですか。あなたは自分の過去の出来事をどのように受け止めていらっしゃいますか。そこから何を学んでおられるでしょうか。それは思い出すにはあまにも辛いことかもしれません。でも神様はその出来事を通してもあなたに語っておられるのです。ですから、それを神様の眼差しで見つめ直し、そこにこめられた神様の思いを受け止めて、神様があなたの人生を丸ごと抱きしめるように愛して責任をとってくださると信じて、すべてをおゆだねしたいと思うのです。それが、奪われることのない人生の祝福の基盤だからです。

Ⅱ.過去の失敗から学ぶ(7-14)

第二のことは、失敗から学ぶということです。エレミヤはこれまでのユダの失敗、ユダの過ちを踏まえて、何が神のみこころなのかを語ります。7~14節の内容です。まず7節と8節をご覧ください。

「44:7 今、イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる。なぜ、あなたがたは自分自身に大きなわざわいを招き、ユダの中から男も女も、幼子も乳飲み子も断って、残りの者を生かしておかないようにするのか。44:8 なぜ、あなたがたは、寄留しようとしてやって来たエジプトの地でも、ほかの神々に犠牲を供えて、自分の手のわざによってわたしの怒りを引き起こすのか。こうして、あなたがたは自分たち自身を絶ち滅ぼして、地のすべての国々の中で、ののしりとそしりの的になろうとしている。」

これほどの悲劇を体験しながらも、偶像礼拝を好むという民の性質は何も変わっていませんでした。彼らは寄留したエジプトの地でもほかの神々に香をたいて、神の怒りを引き起こしていました。そんな彼らに対して神が語られたことは、「それなのに、なぜ」ということでした。7節と8節には、「なぜ」ということばが強調されています。なぜエルサレムは滅んだのでしょうか。なぜユダの町々が廃墟となったのでしょうか。それは彼らが神の怒りを引き起こしたからです。それなのになぜ、あなたがたはエジプトの地でも同じ過ちを繰り返して、わたしの怒りを引き起こすのか、と訴えているのです。これはもはや神の悲痛な叫びと言えるでしょう。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼らが過去の失敗から学ばなかったことです。彼らは過去においてバビロン捕囚という神の審判を現実に体験しそれを見たのみならず、実際に自分たちも今、エジプトの地に離散させられているにもかかわらず、なおも先祖たちと同じようにほかの神々に仕え、神の怒りを引き起こしていました。彼らはわざわいの原因となった行動を断ち切らなかったのです。そうした彼らに対して主は、「それなのに、なぜ」と嘆いておられるのです。それは彼ら自身に大きなわざわいを招くことでした。それなのになぜ、彼らは神に立ち返らなかったのでしょう。

二つの理由がありました。一つは9節にあるように、彼らが、かつてユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪をすっかり忘れていたことです。9節にはこうあります。「あなたがたは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れたのか。」

彼らは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れていました。まさに、のど元過ぎれば熱さ忘れる、です。

このことについて、バイブルナビはこのように解説しています。「私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負う。ユダの民はこのことについて苦労していた。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことにつながる。失敗から学ばないと、未来にもまた失敗することが確実になる。あなたの過去は経験の学校である。あなたの過ちが、あなたを神の道へと導いてくれるようになるでしょう。」

皆さん、私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負うことになります。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことになるのです。「あなたの過去は、経験の学校である。」いいことばですね。「イエス・キリストを信じるなら、すべての問題は解決して、平坦な道を歩むことができる」ということばを聞くことがありますが、それはうそです。クリスチャンは成功と安逸な人生だけを約束されているのではなく、依然として失敗と苦しみも経験します。しかし違うのは、その失敗と苦しみを通して学び成長することができるということです。あなたの過去は経験の学校なのです。そこから学ぶことによって、あなたは確実に成長を遂げることができるのです。

聖書の中でよく失敗した人物といえばペテロでしょう。アメリカのニューヨーク州グレースチャペルの牧師レスリー・B・フリン(Leslie B. Flynm)はペテロを「ガリラヤ湖のような人だ」と表現しました。ガリラヤ湖は海かと思うほど大きな湖です。ある時は静かで穏やかですが、あっという間に荒れ狂います。いつ波が起こるかわからない、それがガリラヤ湖です。そのガリラヤ湖で魚を捕っていたせいか、ペテロの性格もまた、ガリラヤ湖のようでした。いつどうなるかわからない、落ち着きのない性格だったのです。「静かにしていなさい」と言うと騒ぎ出し、「目を覚ましていなさい」と言えば眠りこけ、「眠れ」と言えば起きて動き出しました。「勇気を持て」と言えば卑屈になって閉じこもり、「進み出ろ」と言うと走り込みました。イエス様も彼のことが、気が気ではなかったのではないかと思います。

でも、イエス様が「人々は人の子をだれだと言っているか」とお尋ねになられたとき、弟子たちは「エリヤだと言っています」とか「バプテスマのヨハネです」と答えたので、「では、あなたがたはわたしをだれだと言うか」と12弟子に尋ねられると、ペテロは待っていましたと言わんばかりに、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と正確に答えました。それを聞かれたイエス様は大いに感動されて、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明かしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(マタイ16:17)とペテロを祝福されました。

しかし、その後イエス様が、やがてご自分が十字架にかかって死なれることを語られると、ペテロは、今度はイエス様をわきにお連れして、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」(21節)と言って、イエス様をいさめたのです。これに大いに失望なされたイエス様は彼に、「下がれ。サタン」(23節)とおっしゃいました。このことは、数日の間に起こった出来事ではありません。同じ場所で、数分の間に起こったことなのです。人を感動させたかと思うとすぐに失望させる、そんなめまぐるしく浮き沈みをする人生がペテロの人生でした。

そんなペテロの生涯の中でも最も大きな失敗は、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と豪語したにもかかわらず、イエス様が捕らえられた時、人々が「あなたもイエスと一緒にいたではないか」と言うと、すべての人の前でそれを否んだことです。「そんな人など知らない」と。

しかしそんな問題だらけのペテロでしたが、やがて信仰に堅く立ち、不動の者とされていきました。どうしてでしょうか。それは復活のイエス様に出会ったからです。復活のイエス様と出会って、主が完全にしてくださるという事実を信じたからなのです。イエス様は完全なペテロに向かって「あなたはペテロ(岩)です」と言われたのではありません。彼はもともと「シモン」でした。「シモン」という名前は「葦」という意味があります。あの揺れ動く葦です。イエス様はそのシモンに「岩」という意味の「ペテロ」という名前をお付けになられたのです。ペテロがまだ弱かったとき、彼の性格を知り、彼の過去を知り、彼の未来を知っておられる主が、「あなたをペテロとする」と言って、彼を変えてくださったのです。
  変えられない人など、一人もいません。たとえあなたの気質がペテロのようで、ペテロのような弱さがあるとしても、イエス様に出会い、聖霊に満たされるなら、あなたも変えられるのです。それが、ペテロが学んだことです。変えられない人は一人もいないということです。彼は後に書いた手紙の中でこう言っています。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)

 彼は、主が完全にしてくださるという事実を信じたのです。同じように、主はあなたを必ず変えてくださいます。この世に完全な人などいるでしょうか。いません。ペテロも不完全な者でしたが、主が長い時間をかけて整え、用いられました。私たちも自分の弱さに失望してはなりません。また、他の人を罪に定めることもしてはなりません。大切なのは失敗から学ぶことです。ペテロが「主が完全にしてくだる」と言ったように、たとえ今、不完全でも、やがて完全にされ、堅くされ、強くされると信じて、神様の約束にゆだねるなら、あなたも確かに変えられるのです。

 ユダの民が主に立ち返らなかったもう一つの理由は、彼らの心が頑なで、砕かれていなかったことです。10節にこうあります。

「彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがとあなたがたの先祖たちの前に与えたわたしの律法と掟に歩まなかった。」

人は環境が変わっても、心からの悔い改めない限り、本質的に変わることはありません。神のさばきによって、ある者たちはバビロンに引いて行かれ、ある者たちは神の警告を無視してエジプトに来たからと言って、彼らの心が変わることはありませんでした。彼らの心が変わるためには、過去の失敗から学び、心砕かれ、神を恐れなければなりませんでした。ダビデはそうでした。彼はバテ・シェバと姦淫し、その夫ウリヤを戦場の最前線に出させて死なせるという罪を犯しましたが、預言者ウリヤによってその罪が示されたとき、心から悔い改めました。彼は詩篇51篇17節で次のように言っています。

「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:17)

神へのいけにえは砕かれた霊。砕かれた、悔いた心です。神はそれを蔑まれません。ダビテは心砕かれて、神の御前に心から悔い改めましたので、神の赦しを受けたのです。

私たちもありのままの姿で主の御前に進み出なければなりません。弱さが多く、足りないことは、私たちにイエス様が必要であることを意味しているからです。長所のゆえにイエス様の前に進み出ることのできる人など、一人もいません。弱さのゆえに主のもとに進み出て、自分の弱さを告白するようになるのです。

イエス様が最も嫌われた人々はだれでしょうか。パリサイ人です。パリサイ人たちは外側を美しく飾ることに懸命になっていました。内側は腐っているのに、それに気付かないで、包装紙だけを小ぎれいにしていたのです。しかし主が願われるのは、そのような仮面を被った人ではなく、正直に、ありのままの姿で、主のもとに進み出る人です。
  「主よ!私は罪人です。主よ!私はお天気屋です。主よ!私は意志が弱いです。主よ!私は整えられていない者です。主よ!私は矛盾だらけな者です。」と、主の御前に自分のありのままの姿を告白できる人です。多くの人は、自分の弱点を自分で見ることができません。そういう人は回復に時間がかかります。自分の弱さを見て、主の御前にそれをさらけ出すことができる人こそ、主の取り扱いを受けて回復し、立ち上がることができるのです。

Ⅲ.絶望の中でも希望が残されている(11-14)

それなのにユダの民は過去の罪、過ちから何も学ぼうとしませんでした。同じ過ちを繰り返しただけでなく、それを悔い改めようともしませんでした。それゆえ、主はエジプトにいたユダの民にこう宣告されたのです。11~14節をご覧ください。

「44:11 それゆえ、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『見よ。わたしはあなたがたに顔を向け、わざわいを下し、ユダのすべての民を絶ち滅ぼす。44:12 わたしは、エジプトの地へ行ってそこに寄留しようと決意したユダの残りの者を取り分ける。彼らはみな、エジプトの地で、剣と飢饉に倒れて滅びる。身分の低い者も高い者もみな、剣と飢饉で死に、のろいと恐怖のもと、ののしりとそしりの的となる。44:13 わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。44:14 エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き残る者もいない。彼らはそこに帰って住みたいと心から望んでいるが、わずかな逃れる者以外は帰らない。』」」

エジプトでも相変わらず心が頑ななユダの民に対して主は、「わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。」と宣告されました。エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き帰る者もいません。彼らがそこに帰って住みたいと心から望んでも、それが叶うことはありません。ただわずかな者だけが帰ることができます。ほとんどの民は、かつてエルサレムの住民が味わった恐怖を体験することになります。なぜなら、彼らが主のことばに聞き従わなかったからです。彼らの先祖たちが犯した罪の結果を見ても、そこから何も学ぼうとせず、同じ過ちを犯してしまいました。

私たちはこのユダの失敗から学ぶべきです。もし聖霊によって示さる罪があるなら、心砕かれて、悔い改めなければなりません。へブル3章7~8節にこのようにあるとおりです。

「ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」

しかし、14節をよく見ると、ここに「わずかな者は逃れて帰るだろう」とあります。ほとんどすべての民が滅びることになりますが、本当に少数の者ですが逃れることができます。ここに神様のあわれみがあります。この「わずかな逃れる者」が、「イスラエルの残れる者」です。神はイスラエルに審判をくだされますが、滅ぼし尽くすことはありません。そこから人類に救いの道を備えておられたのです。つまり、神はどのような悲劇の中にでも、必ず恵みと希望を備えておられるということです。もう終わりだと思うような時でも、まだ希望が残されているのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)

神があなたに立てておられる計画はわざわいではなく、将来と希望を与えるためのものです。悔い改めるに遅すぎることはありません。神の恵みと希望は残されているのです。たとえどんなに絶望的な状況の中にあっても、神を信じる者にとって絶望はありません。大切なのは、神に立ち返ることです。確かに今が恵みの時、今が救いの日です。過去の失敗から学びましょう。もし聖霊によって罪が示されたなら、頑なにならないで、砕かれた、悔いた心をもって主に立ち返ろうではありませんか。あなたがどんなに落ちても、救い主はあなたが立ち返るのをずっと待っておられるのです。