メッセージ

エレミヤ39章1~18節「主に信頼する者は守られる」

 2025年01月18日(土)

詩篇133篇1~3節「一つになってともに生きる幸い」

 2025年01月02日(木)

マタイ1章18~25節、イザヤ7章14節「その名はインマヌエル」

 2024年12月21日(土)

エレミヤ書38章1~28節「思いがけない神の助け」

 2024年11月29日(金)

エレミヤ書37章1~21節「ただ神を恐れて」

 2024年11月02日(土)

エレミヤ書36章1~32節「焼かれても、再び」

 2024年10月02日(水)

エレミヤ書35章1~19節「レカブ人から学ぶ」

 2024年08月28日(水)

エレミヤ書34章1~22節「心を翻すことなく」

 2024年08月18日(日)

エズラ記5章

 2024年08月07日(水)

エレミヤ39章1~18節「主に信頼する者は守られる」

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きょうから、エレミヤ書の講解説教に戻ります。きょうは39章全体から、「主に信頼する者は守られる」というタイトルでお話します。これまでエレミヤを通して何度も語られてきたエルサレム陥落の預言が、ここに実現します。これは旧約聖書を理解する上でとても大切な鍵になる出来事なのでぜひとも覚えておいていただきたいのですが、前586年のことです。しかし、その中にあっても救われた人たちがいます。それはこのエレミヤであったり、クシュ人エベデ・メレクといった人たちです。どうして彼らは救われたのでしょうか。それは彼らが主に信頼したからです。きょうの箇所の17節と18節にこうあります。

「17 しかしその日、わたしはあなたを救い出す──主のことば──。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。18 わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ──主のことば。』」

皆さん、主に信頼する者は守られます。主はそのような人を必ず助け出してくださるのです。きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一に、エルサレム攻め取られた次第です。エルサレムはどのように陥落したのでしょうか。それは主が語られた通りでした。主が語られたことは必ず実現するのです。第二のことは、そのような中でもエレミヤは解放されました。どうしてでしょうか。それはエレミヤが語ったとおりになったことを、異教徒のバビロンの王ネブカドネツァルや親衛隊の長ネブザルアダンが認めたからです。つまり、彼らはそれが神の御業であることを認めたのです。だから、神が語られたことは必ず実現すると信じて、神に信頼しなければなりません。第三のことは、クシュ人エベデ・メレクの救いです。彼は異邦人でありながどうして救い出されたのでしょうか。それは、彼が主に信頼していたからです。主に信頼する者は守られるのです。

 Ⅰ.エルサレム陥落(1-10)

まず、1~10節をご覧ください。1~3節をお読みします。

「1 ユダの王ゼデキヤの第九年、第十の月に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲した。2 ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日に、都は破られ、3 バビロンの王のすべての首長たちが入って来て、中央の門のところに座を占めた。すなわち、ネルガル・サル・エツェル、サムガル・ネブ、ラブ・サリスのサル・セキム、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェル、およびバビロンの王の首長の残り全員である。」

前の章、38章の最後の節には、「エルサレムが攻め取られた次第は次のとおりである」とありますが、ここにはエルサレムが攻め取られた次第、すなわち、エルサレムがどのように陥落したのかが記されてあります。
  ユダの王ゼデキヤの第九年とはユダヤの暦ですが、これは現代の暦で言うと前588年のことです。その年の第十の月に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻め入り、これを包囲しました。そしてゼデキヤの治世の第十一年の第四の月、これは現代の暦で言うと前586年7月となります。ですから、実に2年半もの間、エルサレムはバビロンによって包囲されていたわけですが、ついにその城壁が破られる時が来たのです。その時、バビロンの王のすべての首長たちがエルサレムに入って来て、中央の門のところに座を閉めました。これは、軍の総司令本部を置いたということです。エルサレム陥落です。

それを見たユダの王ゼデキヤはどうしたでしょうか。4~7節までをご覧ください。

「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」

それを見たゼデキヤとすべての戦士は逃げ、夜の暗やみに乗じてエルサレムを脱出し、アラバへの道に出ました。アラバは、ヨルダン川沿いの南北に伸びている低地です。すなわち、彼らはエリコの方面に逃げたわけです。しかし、そのエリコの草原でバビロンの追跡軍に追いつかれると、捕らえられてハマテの地リブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れて行かれました。リブラはエルサレムの北約350キロのところにあります。ゼデキヤはそこでネブカドネツァルと対面することになったのです。

するとバビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみな虐殺しました。しかし、ゼデキヤは剣で殺されることはありませんでした。彼は両目をえぐり取られ、青銅の足かせにつながれて、バビロンに連れて行かれることになりました。ゼデキヤがその目で最後に見たのは、自分の息子たちが殺される光景でした。なんと悲惨な人生でしょうか。このようにして、エルサレムは陥落し、城壁は破られ、町は火で焼かれ、そのおもな住民は、9節にあるように、バビロンへ捕囚の民として連れて行かれたのです。 

一方、何も持たない貧しい民の一部はどうなったかというと、10節にあるように、ユダの地に残され、ぶどう畑と畑地が与えられました。どうして彼らにぶどう畑や畑地が与えられたのかはわかりません。恐らくネブカドネツァル王は、それまで冷遇され、みじめな生活を強いられていたユダの貧しい人々が、悪利をむさぼり土地を自分たちの思うように使っていた身分の高い人々に反感を持っていたことを知っていたのでしょう。支配下に置かれた地域を有効に治めるために、彼らにぶどう畑や畑の所有権を与えることにしたのです。

問題は、こうしたエルサレムが陥落した一連の出来事は、これを読む読者に何を伝えようとしているのかということです。それは、神が語られたことは必ず実現するということです。それは、時にはのろいのようにしか見えないかもしれませんが、それが良いことであれ悪いことであれ、時が来ると必ず実現するのです。ここに記されてあることはすべて、預言者エレミヤによって預言されていたことです。それがここに実現したのです。たとえば、エルサレムはバビロンの王の手に渡され、火で焼かれることや、ゼデキヤは必ず捉えられて、彼の手、すなわちバビロンの王の手に渡されるということ、そこで彼はバビロンの王の目を見、王の口と語るということ、しかし彼は剣で死ぬことはなく、バビロンに連れて行かれることになるということについては、エレミヤが預言していたことでした。エレミヤ34章2~5節をご覧ください。

「34:2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。34:3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。34:4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。34:5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」

これはエレミヤが以前預言していたことです。この預言のとおりに、エルサレムは火で焼かれ、ゼデキヤ王は捕らえられてバビロンの王の手に渡されました。そこで彼はバビロンの王の目を見、彼の口と語りました。しかし彼は剣で死ぬことはなく、バビロンに連れて行かれることになったのです。また9節に「親衛隊の長ネブザルアダンは、都に残されていた残りの民と、王に降伏した投降者たちと、そのほかの残されていた民を、バビロンへ捕らえ移した。」とありますが、このこともエレミヤによって預言されていたことです。すなわち、これら一連の出来事は、預言者エレミヤによって預言されていたことがそのとおりに実現したということです。

エルサレムはどのように攻め取られたのでしょうか。すべてエレミヤによって語られていたとおりに、です。神が語られたことは必ず実現するのです。その時点では「どうかなあ」「そんなことはないだろう」と思うかもしれませんが、時が来ると、その通りであったことを知ることになります。

イスラエルを約束の地に導いた時のリーダーはモーセの従者ヨシュアでしたが、彼はその晩年、このように告白しました。

「23:14 見よ。今日、私は地のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、【主】があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。23:15 あなたがたの神、【主】があなたがたに約束されたすべての良いことが、あなたがたに実現したように、【主】はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、【主】がお与えになったこの良い地からあなたがたを根絶やしにされる。23:16 主があなたがたに命じられた、あなたがたの神、【主】の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、それらを拝むなら、【主】の怒りはあなたがたに対して燃え上がり、あなたがたは、主がお与えになったこの良い地から速やかに滅び失せる。」(ヨシュア21:14-16)

ヨシュアはその晩年、自分の生涯を振り返り、主が自分たちに約束されたことは、それが良い事であれ、悪いことであれ、一つもたがわずみな実現した、と告白しました。皆さん、主が約束されたことはみな実現します。たとえ今、何の変化もないようでも、時が来れば、神が語られたとおりに実現したことを知るようになるのです。

アメリカのミネソタ州にベイウィンド・クリスチャンチャーチという教会がありますが、その教会の牧師であるヘルマー・ヘッケル牧師の証を読んだことがあります。彼は、1958年にドイツからアメリカに移住した移民者です。彼はアメリカへの移住を果たすとすぐに路傍伝道で救われ、献身しました。その彼がドイツからアメリカにやって来た時のことを想起して、次のように言っています。
 「1958年12月、私は輸送船ブトナー号に乗ってドイツからアメリカにやって来ました。ブレマーハーフェン港を出港し、北海を通って北大西洋に入りました。船は荒波にもまれ、来る日も来る日も、北を向いても南を向いても、東を向いても西を向いても、見えるのはと言えば水また水、聞こえるものと言えば船のエンジンだけという単調なうなり声だけでした。
  しかし5日後に、劇的な変化がやって来ました。東と南に見えるのは海水だけでしたが、西には自由の女神像が朝日にきらめいていたのです。ようやくたどり着くことができたのです。」

彼は、ようやくたどり着くことができました。信仰によって歩むのもこれと同じです。私たちの置かれている状況は何の変化もないようですが、時が来れば、神が語られたことは必ず成就し、私たちは主のご計画のままに導かれてきたことを知るようになるのです。それは、これから先のことについても言えることです。聖書は世の終わりのことにどんなことが起こるかをはっきり語っています。であれば私たちはその神のことばを信じ、そのことばに従い、ただ神に信頼して、神に忠実に歩まなければなりません。たとえあなたの人生が拓かれていないように見えても、神は必ず語られたことを実現してくださいますから、ただみことばに信頼して歩ませていただきたいと思うのです。

エレミヤの解放 (11-14)

次に、11~14節をご覧ください。

「11 バビロンの王ネブカドネツァルは、エレミヤについて、親衛隊の長ネブザルアダンを通して次のように命じた。12 「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ彼があなたに語るとおりに、彼を扱え。」13 こうして、親衛隊の長ネブザルアダンと、ラブ・サリスのネブシャズバンと、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェルと、バビロンの王のすべての高官たちは、14 人を遣わして、エレミヤを監視の庭から連れ出し、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに渡して、家に連れて行かせた。こうして彼は民の間に住んだ。」

ここにはエレミヤの処遇について、バビロンの王ネブカドネツァルが親衛隊の長ネブザルアダンに命じたことが記されてあります。その内容は、エレミヤを連れ出し、目をかけてやれということでした。目をかけてやるとは、かわいがって面倒をみるとか、ひいきにするということです。バビロンの王はエレミヤをかわいがって面倒を見るようにと命じたのです。悪いことは何もするなと。ただ彼が語るとおりに、彼を扱うようにと。こうして親衛隊長のネブザルアダンとバビロンの王の高官たちは、人を遣わしてエレミヤを監視の庭から連れ出し、エルサレムの総督に任じられていたシャファンの子アヒカムの子ゲダルヤの家に連れて行かせました。そこは特別な保護の下で安全に過ごすことができる場所だったからです。これこそ神が備えられた助けだったのです。いったいなぜネブカドネツァルはこのように命じたのでしょうか。

恐らくエレミヤのことを誰かから聞いていたのでしょう。彼がどんなことを語っていたのかを。つまり、バビロンに降伏することこそが神のみこころであり、ユダの民が生きる道であるということを。彼はエレミヤが忠実な神の預言者であるとか、バビロンにとって有益な人物だからという理由で目をかけてやれと言ったのではありません。ただエレミヤが語っていたとおりになったのを見て驚いたのです。それは40章2~4節を見てもわかります。ここでは、そのネブカドネツァルの親衛隊の長ネブザルアダンがエレミヤを釈放する時にこのように言ったことが記されてあります。

「40:2 親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。40:3 そして【主】はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。40:4 そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気に入らないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」」

ここで親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤに、主はこの場所にわざわいを下すと語られたとおりに行われた、と言っています。つまりエレミヤが語ったとおりに、ユダの民が神の声に聞き従わず、神の前に罪ある者となったので、エルサレムが陥落した。だから、エレミヤを釈放すると言ったのです。彼は異教徒でありながらも、イスラエルの神、主がエレミヤを通して語られたしたとおりに成されたのを見て驚き、それが神の御業であると認めたのです。あなたも神のみことばに信頼し、神のみこころに従うなら、必ず神の御業を見るようになるのです。

私たちは、1983年に福島で開拓伝道をスタートしましたが、翌年から仕事を辞め仙台の神学校で学ぶことになったので、生活のために家で英会話クラスを始めるにしました。とはいっても、実質的にはやったのは私ではなく家内でしたが・・。そこに1人の年輩の男性の方で石川さんという方が来られました。この方は衣料品の卸業を営んでおられる方でしたが、以後、私たちが大田原に来るまでの20年間、ずっと学び続けてくれました。最初に来られた時はもう60を過ぎていましたから、その後20年というと、とうに80を超えていたかと思います。私たちは今でもこの方の話をすることがあります。どうして石川さんは私たちのところに来られたのかねと。

実はこの方の亡くなられた奥様がクリスチャンでした。そして奥様が通っておられた教会の牧師が、奥様の命日に毎年この方のお宅を訪れて祈ってくれていたんですね。そのことをよく私たちに話しておられました。だから私たちの家がボロボロの借家でも、看板に十字架があるということで信頼して来てくれたのだと思っていました。しかしある時、それもあったかと思いますが、それは神様が送ってくださったんだと確信するようになりました。

というのは、その後教会で会堂建設に取り組むことになりますが、私たちが建てようとしていた土地が調整区域といって建物を建てることができない土地だったのですが、この方の一言で大きく前進することになったからです。県から開発許可を受けることが難しく、もう止めようと諦めかけていたとき、英語のクラスの後でこの方が「だったらあの方にお話してみたら」と言われたのです。その方は県会議員をしている方でしたが宅建の資格を持っていて、その免許の更新の時によくお話する間柄だということでした。私も全然知らない方ではなかったので早速電話をしてみると、「一応、話だけはしてみます」ということでした。するとしばらくして県の担当者から連絡があり、申請に必要な書類を持って来てほしいと言われました。そして、ついに1997年11月に開発許可が下りたのです。それは祈り始めてから4~5年後のことでした。

私はその時、神様から与えられていたみことばを思い出しました。それは創世記26章22節のみことばです。

「イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」

これはイサクがペリシテの地に井戸を掘ったとき彼らから出て行ってほしいと言われ、仕方なく今度はゲラルの谷間に井戸を掘ると、ゲラルの羊飼いたちから「この水はわれわれのものだ」と言われて争いとなったため、仕方なくもう一つの井戸を掘らなければなりませんでした。それがこのレホボテです。意味は「広々とした地」です。イサクにとってそれは三度目の正直でしたが、私たちも開拓してから三度目の場所でした。しかもそこは600坪もある広々とした土地でした。ですからそれは私たちに対する神様からの約束だと受け止めましたが、すっかり忘れていたのです。しかし、こういう形で与えられたとき、そのみことばを思い出しました。あり得ないことです。でも神様はこのみことばの約束のとおりにしてくださいました。そのために神様は彼を送ってくださったのです。

20年ですよ。どうして神様は彼を送ってくださったのかわかりませんでしたが、後でわかりました。このためだったんだと。もちろん、伝道しましたよ。毎週英語のクラスの後で自然な会話をしながら、その中でイエス様を信じてくださいと勧めました。でも最後まで信じませんでした。決して受け入れたくないというわけではありませんでした。信じるならキリスト教だと思っていましたから。でもそのように勧める度にいつも笑ってこう言うのでした。「はい、自分が死ぬちょっと前に信じますから。」と。そんなのいつかわからないじゃないですか。今が恵みの時、今が救いの日です、と勧めましたが、結局私たちが大田原に来るまで信じることはありませんでした。そして、こっちに来てからその方が召されたことを知りました。本当に残念です。あんなにいい方で、あんなに神様に心を開き、あんなに教会のためによくしてくださった方なのに、イエス様を信じなかったのは本当に残念だと思いました。でも、その中でも神様は働いておられ、ご自身の御業を進めてくださったのです。神にはどんなことでもできること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

あなたにとって難しい、できないと思っていることは何ですか。でも神様にはどんなことでもおできになられます。ですから私たちは神を信じて、神のことばに信頼しなければなりません。そうすれば、あなたも神の御業を見るようになるのです。

Ⅲ.クシュ人エベデ・メレクの救い(15-18)

最後に、15~18節をご覧ください。

「15 エレミヤが監視の庭に閉じ込められているとき、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。16 「行って、クシュ人エベデ・メレクに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都にわたしのことばを実現させる。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらはその日、あなたの前で起こる。17 しかしその日、わたしはあなたを救い出す──【主】のことば──。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。18 わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ──【主】のことば。』」」

クシュ人エベデ・メレクについては、前の章の38章7~13節で学びました。エレミヤが泥の中に沈みかけていた時、彼がエレミヤをその泥の中から救い出したという話です。ですから時間的な順序で言うなら、この箇所はその直後に記されるべき内容です。それがここに記されてあるのは、おそらくこのエルサレムの崩壊に際して、エベデ・メレクが行ったことに対する神の報い、神の約束が成就したことを記すためだったのではないかと思います。エレミヤが泥の中から救い出された時、彼は監視の庭に閉じ込められていましたが、その時このクシュ人エベデ・メレクに対して、16~18にある預言がエレミヤを通して語られたのです。それは17節にあるように、主は必ず彼を救い出す、助け出すということです。「あなたのいのちは戦勝としてあなたのものになる」というのは、「いのちだけは助かって生き残る」という意味です。新共同訳ではそのように訳されています。彼はその危機を生き延びて、その生涯を平安のうちに終えたと理解することができます。いったいなぜ彼はその危機から救い出されたのでしょうか。

18節にその理由が次のように記されてあります。「あなたがわたしに信頼したからだ。」
  それは、彼が主に信頼したからです。彼は異邦人でありながら、イスラエルの神、主に信頼しました。だから、彼は助け出されたのです。彼がエレミヤを泥の中から助け出したのも、それは彼が主に信頼していたからだったのです。それで彼は神からの祝福を受けたのです。

それは私たちも同じです。実はこの異邦人エベデ・メレクは私たちの型というか、私たちのモデルなのです。というのは、私たちもイスラエルの民からすれば異邦人であり、神から遠く離れていた者であったにも関わらずイエス・キリストを信じたことによって神の民とされ、神の祝福を受け継ぐ者とされたからです。主イエスを信じる者は救われます。彼に信頼する者は失望させられることはありません。エペソ人への手紙2章11~13節にはこうあります。

「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」

私たちもかつてはキリストから遠く離れ、イスラエルの民からは除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって何の望もなく、神もない者でした。しかし、そのような私たちもキリストの血によって神に近い者、いや、神の民とされたのです。それは一方的な神の恵みによるのです。その神の恵みを受けてエベデ・メレクが神に信頼し、エレミヤを助けたように、私たちもキリストの血によって神の民の一員として加えられ、神に信頼する者とされました。それゆえ、神の祝福を受ける者とされたのです。

であるなら、私たちの人生において最も重要なことは何でしょうか。それは私たちがどういう者であるかとか、どれだけ力があるかということではなく、誰と共に歩むのかということです。何に信頼して歩むのかです。

あなたは何に信頼していますか。誰と共に歩んでおられるでしょうか。主に信頼する者は守られます。「しかしその日、わたしはあなたを救い出す─主のことば─。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ─主のことば。」
  もしかすると、あなたはエレミヤのように泥の中に沈みかけているかもしれません。お先真っ暗ですと。でも主に信頼するなら者は守られます。決して失望することはありません。それが神のことば、聖書があなたに約束していることです。神様は異邦人エベデ・メレクを救い出したように、またエレミヤを助けてくれたように、必ずあなたを救い出し、助け出してくださいます。私たちも主に信頼しましょう。それはあなたがだれに信頼したかによって決まるのです。

詩篇133篇1~3節「一つになってともに生きる幸い」

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主の2025年、明けましておめでとうございます。この新しい年も皆さんとご一緒に礼拝することを感謝します。皆さんはどのような思いで新年を迎えられたでしょうか。今年も主の栄光が現わされるように、主のみことばに聞き従い、みことばに歩んでまいりましょう。

この新年礼拝で私たちに与えられているみことばは、詩篇133篇のみことばです。1節には、「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは。」とあります。

皆さん、何が幸せなんでしょうか。何が楽しみなのでしょうか。それは、兄弟たちが一つになって、ともに生きることです。これが主のみこころです。これが今年私たちに求められていることです。私たちは今年、一つとなってともに生きることを求めていきたいと思います。そして、それによってもたらされる主の祝福がどれほど大きいかを味わいたと思うのです。

きょうは、この「一つとなってともに生きる幸い」について、三つのことをお話したいと思います。第一に、兄弟たちが一つとなってともに生きることは実に幸いなことであり、実に楽しいことであるということです。第二に、それはどれほどの幸いなのでしょうか。それは、頭に注がれた貴い油がアロンのひげに、いやその衣の端にまで流れ滴るほどです。また、ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようです。どうしてそれほどの祝福が注がれるのでしょうか。それは、主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからです。ですから第三のことは、私たちも一つになって、ともに生きること求めましょう、ということです。

Ⅰ.一つになってともに生きる幸い(1)

まず、兄弟たちが一つとなってともに生きる幸いから見ていきましょう。1節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。

「133:1見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。」

この詩篇の表題には、都上りの歌。ダビデによる、とあります。この詩篇の作者であるダビデは、「見よ」という呼びかけでこの詩を始めています。とても印象的な表現ではないでしょうか。「見よ。なんという幸せ、何という楽しさであろう。」それはこれを読む人たちに、このことを何としても伝えたい、何としても知ってほしい、という思いが込められているからです。

その思いとは何でしょうか。それは、兄弟たちが一つになって、ともに生きることの幸いです。それはなんという幸せ、何という楽しさであろうか、というのです。ここでダビデは、「なんという」ということばを繰り返すことによって、兄弟たちが一つになってともに生きることの幸いを強調したかったのです。

皆さん、どうでしょうか。兄弟たちが一つになって、ともに生きること、ともに礼拝することは、それほど幸いなこと、それほど楽しいことだと考えたことがあるでしょうか。いや、私はいいです。私はひとりで聖書を読んでいた方が幸せなんです。第一面倒くさいです。他の人に気を使わなければならないし。だったらひとりでいた方がどれほど楽なことか・・・。そういう思いはありませんか。でもここにはそのようには言われていません。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは、なんという幸せ、何という楽しさであろうか、と言われているのです。これは、「都上りの歌」です。都上りの歌とは「巡礼の歌」のことです。主の宮に集まって、主を礼拝すること。それはなんという幸せ、なんという楽しさであろうかというのです。

皆さん、兄弟姉妹が一つとなって主の宮に集まり、ともに主を礼拝することはそれほど楽しいこと、それほど幸せなことなのです。先々週のクリスマス礼拝では、私たちの主イエスは「インマヌエルの主」として生まれてくださったということをお話しました。意味は何でしたか。意味は、「神は私たちとともにおられる」です。私たちはひとりぼっちではありません。イエス様が私たちとともにいてくださいます。嵐の時も、穏やかな時も、いつもイエス様がともにいてくださるのです。それは本当に幸いなことではないでしょうか。けれども、私たちにはそれだけではないのです。それとともにすばらしい祝福が与えられているんです。それは同じ神を信じる兄弟姉妹たちがともにいるということです。

私たちには、ともに生きる神の家族が与えられているのです。不思議ですね、教会って。年齢も、性別も、出身地も、国籍も、みんな違いますが、イエス様を信じたことによって天の神を「アバ」、「お父ちゃん」と呼ぶことができるようになったことによって、お互いが兄弟姉妹とされたのです。どっちが兄で、どっちが弟なのかわからない時もありますが、みんな兄弟姉妹です。相手の名前がわからない時はいいですよ。「兄弟」とか「姉妹」と呼べばいいんですから。最近はなかなか名前が思い出せなくて・・という方は、ただ「兄弟」と呼べばいいので簡単です。特に私たちの教会には世界中からいろいろな人たちが集まっているので、名前を覚えるのは大変です。でも「Brother」とか「Sister」と呼べば失礼にならないので助かります。こうして主イエスを信じる世界中のすべての人と兄弟姉妹であるというのはほんとうに不思議なことです。英語礼拝を担当しているテモシー先生はガーナの出身ですよ。肌の色も違う。何歳かもわかりません。でも兄弟と呼べるというのはすごいことだと思うんです。このように自分と全く違う人たちがイエス・キリストによって一つとされ、ともに生きることは、ほんとうに幸せなこと、ほんとうに楽しいこと、これ以上の幸いは他にはないというのです。

この詩篇は歴史を通してユダヤ人たちにとても愛されてきた、大切にされてきた詩篇なんです。どうしてかというと、ユダヤ人たちは離散の民だったからです。かつてユダヤ人たちは神殿、神の宮ですね、神の宮に集まって主を礼拝していましたが、それが彼らにとって何よりも喜びだった。何よりも幸せだったのです。

ところが、その後ユダヤ人たちは国を失ってしまいました。みんなバラバラになってしまった。多くの人たちが捕囚の民として、外国に連れて行かれました。バビロン捕囚です。他の国に散らされて行った人たちもいます。その置かれた場所で咲きましょう、ではありませんが、彼らは旧約聖書の律法を大切なしながら、そこで信仰を育んでいったのです。

けれども彼らは、かつてのようにみんなで集まって礼拝することができなくなってしまいました。そんなユダヤの民にとってこの詩篇133篇は、かつて彼らが味わった幸せを懐かしく思い出す歌となったのです。そしていつの日か、今はまだその時ではないけれども、もう一度この幸せを味わうことができる日がくる、そんな希望を覚える歌として、大切にされてきたのです。

そのようにしてユダヤ人たちは、自らの過去と未来の両方を思いながらこの歌を味わい、この歌を歌いながら、また希望に思いを馳せながら、共に集まることの幸いを味わっていたのです。

ドイツの牧師で神学者のボンヘッファーは、この詩篇133篇から「ともに生きる生活」という本を書いていますが、その本の中で彼は兄弟姉妹が共に集まって生きることの幸い、そして教会の祝福についてこのように言っています。

「キリスト者の兄弟姉妹の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものであるということが、とかく忘れがちである。だからその時まで他のキリスト者とキリスト者としての交わりの生活を送ることを許された者は心の底から神の恵みをほめたたえ、跪いて神に感謝し、我々が今日なおキリスト者の兄弟との交わりの中で生きることが許されているのは恵みであり、恵み以外の何ものでもないことを知りなさい。」

皆さん、これは当たり前のことじゃないのです。兄弟姉妹が一つになってともに生きること、ともに主を礼拝できるというのは神の恵みなんです。恵みの賜物以外の何ものでもない。私たちはこうして毎週集まって礼拝をささげていますが、これはいつ奪い取られるかわからないことなのです。たとえば、新型コロナウイルスが発生した時、多くの教会では集まることができませんでした。そうした教会の中には、それ以降集まることが困難になって閉鎖した教会も少なくありません。当たり前じゃないのです。それは本当にかけがえない恵みであり、本当に幸いなことなんだと、ボンヘッファーは言ったのです。

皆さん、兄弟たちが一つになってともに生きることは、なんという幸せ、何という楽しさでしょうか。そうなんです。兄弟たちがバラバラに歩むのではなく一つになってともに生きることは、本当に幸いなことなのです。文化や習慣、考え方、性格など、それぞれの違いがありながら互いに調和を保っていくことは簡単なことではありませんが、しかしそうした違いを乗り越えて一つなってともに生きることは、本当に幸いなことであり、これ以上の祝福はありません。

Ⅱ.主が注がれるとこしえのいのちの祝福(2-3)

では次に、その祝福がどれほどのものなのかを見ていきましょう。この詩篇の著者はその祝福のすばらしさを、次のように語っています。2節と3節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。

「133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。
  133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

ここには、それは頭に注がれた貴い油のようだとあります。また、それはヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ、とあります。どういうことでしょうか。それほど麗しい豊かな祝福だという意味です。なぜなら、それはただの人間的な楽しさとは違うからです。そこには主のとこしえのいのちの祝福が流れているからです。

まずそれは、頭に注がれた貴い油のようだと言われています。それはひげに、アロンのひげに流れて、衣の端にまで流れ滴ると。どういうことでしょうか。それほど神様の祝福に潤される、満たされるということです。

頭に油を注ぐというのは、整髪料じゃあるまいし、私たち日本人にはあまりピンとこないかもしれませんが、ユダヤの地方には、そういう習慣がありました。福音書の中にも、イエス様の頭に油を注いだ人がいますね。誰ですか? そう、ベタニアのマリアです。彼女はイエス様にいたずらをしようと思ってやったわけではありません。イエス様を驚かせようとしたわけでもないのです。イエス様に対する愛と感謝を表すためにしたのです。その香油はあまりにも高価なものだったので、それを見ていた弟子の一人のイスカリオテのユダは、「どうして、そんな無駄なことをするのか。この香油なら300デナリ(300日相当の労働の対価)で売れるのだから、それを貧しい人に施せばいいじゃないか」、と言って憤慨したほどです(ヨハネ12:5)。香油というのはそれほど高価のものでした。それほど高価な香油を、彼女はイエス様の頭にガバッーと注いだのです。ですからイエス様はそのことをとても喜ばれ、彼女の行為を高く評価されたのです。

しかしここでは、それはただの香油ではないことがわかります。ここには「アロンのひげに流れて」とあります。アロンとはモーセのお兄さんのことですが、彼は大祭司として任職されました。その任職式の時に油が注がれたのです。それがこの貴い油です。その時の様子がレビ記8章12節にありますが、その量は中途半端なものではありませんでした。大量の油が注がれたのです。それがどれほどのものであったかを、ここでは何と表現されていますか。それはアロンのひげに流れて、とあります。さらにはアロンの着ていた衣の端にまで流れ滴る、とあります。アロンの胸には大祭司が身に着けるエポデという胸当てがありましたが、そこにはイスラエル12部族を表わしている12の宝石が埋め込まれてありました。アロンの頭に注がれたその貴い油はアロンのひげに流れると、そのエポデも全部覆って、やがてアロンが着ていた衣の端にまで流れ滴ったのです。それほど豊かな油であったというのです。ここでは「流れて」とか「流れ滴って」とことばが繰り返されてありますが、それは、上から下へと流れる、天の神様の祝福の豊かさを強調されているのです。そしてその祝福こそが教会に流れている幸せと祝福の源なのです。

さらにその祝福は、もう一つのたとえによっても描かれています。それはヘルモン山から下りる露です。3節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。

「133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。」

ヘルモン山というのは、ガリラヤ湖の北東約50キロにある山です。標高は海抜2,814メートルと言われていますから、相当高い山です。ですから、その山頂は万年雪となっていて夏でもスキーができるほどなんです。一方、シオンの山々とはというと、イスラエルの南、死海近辺にあるエルサレムの山々のことです。そこは草も生えないような乾燥地帯、山岳地帯となっています。そこがヘルモンの山頂にある雪解けの水が露となって滴り落ち、潤されるようだというのです。どういうことでしょうか。

実際にはヘルモン山から南のシオンの山々までは約200キロメートルも離れていますから、その山の露がシオンの山々にまで降りるということは考えられません。でも神様の祝福というのはそんな人間の理解とか想像も及ばないほど豊かで、まるでヘルモンの山からシオンの山々にまで降り注ぐ大量の露のようだというのです。兄弟たちが一つとなってともに生きることは、それほど私たちを豊かに潤してくださるということです。どんなにカラカラに乾いていても、神様の祝福というのは、そんな乾いた全地を潤すほどの祝福なのです。

ところで、この3節にある「降りる」という言葉ですが、これは2節に出て来た「流れる」という言葉と同じ言葉です。ですから、この詩篇の作者はこのことばを3回も繰り返すことによって、上から下へと注がれる神様の祝福がどれほど豊かであるかを表したかったのです。どうしてそんなに豊かなのか。それは、主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからです。その恵みの大きさを覚えて主に心から賛美を捧げようではありませんか。

兄弟たちが一つになって、ともに生きることは、それほどの幸せ、それほどの楽しさなのです。カラカラに渇いているあなたのたましいまでも満たしてくれる。そういうまさに天来の祝福、天来の幸せ、天来の喜びで溢れるのです。

Ⅲ.一つになってともに生きる(3)

であれば第三のことは、私たちも一つになって、ともに生きることを求めましょう、ということです。もう一度3節の最後のことばに注目してください。ここには、「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」とあります。

私たちが互いに愛し合う、その交わりの中に、主がとこしえのいのち、永遠のいのちの祝福を注いでくださいます。なぜなら、それは何よりも神様のみこころであり、そのために私たちは召されているからです。それなのに、私たちの側で心の眼が曇らされてしまって、互いにさばき合ったり、ねたみ合ったりして、こんなにも豊かな神様の祝福を閉ざしてしまうことがあるとしたら、何ともったいないことでしょう。ですから私たちはこの詩篇の作者が「見よ」と呼び掛けて、「なんという幸せ、なんという楽しさだろう」と、声を大にして伝えているこのこと、すなわち兄弟たちが一つになって、ともに生きるというこの歩みを、大切にしていきたいと思うのです。いつでもこの教会を、神様のとこしえのいのちの祝福が覆ってくださるように、そしてそれを私たちが豊かに感じながら、ただ神様に感謝と礼拝をささげていくことができるように、私たちは一つになってともに生き、その祝福の流れに乗り続けていきたいと思うのです。

いったいどうしたらそんな歩みができるのでしょうか。その鍵は「御霊によって一致」することです。パウロはエペソ4章1~3節の中でこのように勧めています。

「4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
 4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び
 4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」

ここでパウロは、エペソの兄弟たちに対して、召された者はその召しにふさわしく歩むようにと勧めています。召しとは救いへの召しのことです。かつては罪の奴隷であった者が、そこから解放されてキリストのしもべとして召されました。それがクリスチャンです。クリスチャンとは「キリストのしもべ」という意味です。私たちはイエス様を信じたことでクリスチャンとして召されたのです。ですから、その召しにふさわしく歩まなければならないのです。それはどのような歩みでしょうか。ここには、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、同じ神の霊、聖霊を受けている者として、御霊による一致を熱心に保ちなさい、とあります。私たちが頑張って一致するというのではありません。私たちはそのように召された者なのだから、キリストにある者とされたのだから、そり召しにふさわしくキリストにあって歩むのです。それが召しにふさわしい歩みです。それが、御霊による一致を保つということなのです。

それは、言い換えると「互いに愛し合う」ということです。主イエスはこう言われました。

 「13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34~35)。

イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合うこと、それが、主イエスが命じておられることです。ここには「新しい戒め」とありますね。これは新しい戒めなんです。古い戒め、すなわち旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならない、という戒めがありました。たとえば、レビ記19章18節には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずなのです。それなのにどうしてイエスはこれを新しい戒めと言われたのでしょうか。それはどのように愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。そのように愛しなさいというのです。

ではイエス様はどのようにあなたを愛してくださったのでしょうか。イエス様は弟子たちにその模範を示されました。それが弟子たちの足を洗うという行為でした。それはただ兄弟姉妹の足を洗い合えばいいのかというとそういうことではなく、そこに込められている意味を実践しなさいということです。それは何でしょうか。それはしもべとして生きるということです。イエス様はしもべとして死に至るまで相手に仕えられました。その究極が十字架だったのです。聖書は十字架を指してこう言っています。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)

皆さん、どこに愛があるのでしょうか。聖書は「ここに愛がある」と言っています。それは、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされたことの中にあると。神の愛はイエスの十字架によって完全に表されました。多くの人は、「愛」を表すのに、「ハート」の形を使いますが、聖書的にいうなら、愛の「形」は、「ハート」ではなく、「十字架」です。イエス様は、この十字架の愛に基いてこう言われたのです。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。これは言い換えると、一つになって共に生きるということです。私たちが一つになってともに生きるなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになるのです。

元旦の朝、私たち夫婦はいつものように二人で一緒に聖書を読んで祈りました。新年の最初の日ですから、神様はどんなみことばを与えてくださるかと期待して開いた聖書箇所は、エゼキエル書5章でした。そこにはバビロンに連れて行かれた預言者エゼキエルが、エルサレムに向かって神のさばきを語るという内容でした。新年から神のさばきかとちょっとがっかりしましたが、そこに神のみこころが記されてありました。それは、イスラエルの民が置かれている所はどこか、ということです。5章5節にこうありました。

「神である主はこう言われる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした。」」

彼らが置かれていたところはどこですか。これがエルサレムです。主は彼らを諸国のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした、とあります。何のためでしょうか。それは彼らが主のみこころに歩むことによって、そうした周りの国々も主を知り、主に立ち返るようになるためです。それなのに、自分たちが選ばれたことに優越感を持ちその使命を果たすことをしなかったら、主はどれほど悲しまれることでしょうか。事実、エルサレムは神の定めを行いませんでした。それどころか、彼らの周りの国々の定めさえも行わなかったのです。それゆえ、主は彼らをさばかれたのです。

これを読んだ時、それは私たちにも言えることではないかと思わされました。私たちがここに置かれているのは何のためでしょうか。それは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方のすばらしい栄誉を告げ知らせるためです。それなのに、その使命を忘れ、自分が好きなように、自分がしたいように生きるとしたら、それこそイスラエルと同じではないかと思ったのです。神によって救いに召された私たちに求められていることは、このすばらしい神の栄誉を告げ知らせることです。どうやって?互いに愛し合うことによってです。互いの間に愛があるなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。私たちは今年、そのような年になることを求めていきたいと思います。

昨年のクリスイヴのことですが、と言ってもつい2週間ほど前ですが、その日に2人の方からお電話をいただきました。「今晩は、クリスマス礼拝がありますか」と。一人は日本人の女性の方で、これまで一度も教会に行ったことがないという方でした。もう一人はインドの方で、クリスチャンの方でした。仕事で東京から来ているがクリスマス礼拝があれば行きたかったということでした。やはりクリスマスは人々の心が開かれる時なんだなぁと思いましたが、ふと、今年のクリスマスを私はどのように過ごしたらよいか、どのように過ごすことを神は願っておられるかという思いが与えられました。勿論、家族で過ごすのもすばらしいことです。でもそれだけでよいのか、教会に来たくても来れない方がいるならその方を訪問して一緒に礼拝することを、神は喜ばれるのではないかと示され、施設に入所している方々を訪問することにしたのです。それは私が目の手術で入院していた時、誰にも会うことができないという状況の中で、深い孤独と寂しさを経験したからです。

最初に下野姉が入所している施設を訪問しました。下野姉を訪問したのは2回目でしたが、本当に喜んでくれました。マタイの福音書から私たちの主はインマヌエルとして来てくださり、いつも下野さんとともにおられますから安心してくださいとお祈りすると、帰りに「先生、握手」と握手まで求められ、掴んだ手をずっと握り締めて離しませんでした。それほど不安だったんでしょう。それほど寂しかったんでしょう。最後に「先生、その時にはよろしくお願いします」と言われました。それはご自分が主のもとに行かれる時のことを言っておられるんだなぁと思い、「わかりました。大丈夫です。安心してください」と言ってお別れしました。

その足で和気姉が入所している施設に向かいました。和気姉もだいぶお身体が弱くなり、こちらから話しかけてもあまり応答できなくなりましたが、クリスマスなので一緒に賛美しましょうと「きよしこの夜」を歌うと、「きよし、このよる」と、自分のすべての力をふり絞るかのように大きな声で賛美されました。驚きました。じゃ、もう一曲賛美しましょうと、次に「雨には栄え」と賛美すると、これも大きな声で歌われたのです。何も覚えていないようでも賛美歌は覚えておられるんだ、と感動しました。私は時間のことを心配していましたが、もう時間のことも忘れてしまうくらいそこには神の臨在と祝福が満ち溢れ、さながら天国にいるかのような心地でした。まさに兄弟が一つとなってともに生きることは、なんという幸い、なんという楽しさでしょう。これ以上のない喜び、楽しさ、幸せはありません。

皆さん、私たちはこれまでもそうであったように、これからも互いに愛し合い、一致し、ともに生きる、ともに歩んで行く、そんな教会でありたいと思います。あり続けたいと思います。それはなんという幸せでしょうか。なんという楽しさでしょうか。それほど幸せなことはありません。それほど楽しいことはない。それほど麗しい交わりはありません。ともにそのような教会を目指してまいりましょう。それが今年私たちに求められていることなのです。

マタイ1章18~25節、イザヤ7章14節「その名はインマヌエル」

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クリスマスおめでとうございます。私たちのために御子イエスをこの世に送ってくださった主なる神に感謝し、心から御名をほめたたえます。今日はクリスマス礼拝ですが、こうして愛する皆さんとともに主を礼拝できることを感謝します。

今日はマタイの福音書1章とイザヤ書7章から、「その名はインマヌエル」というタイトルでお話したいと思います。これは非常に重要なテーマです。というのは、聖書全体を貫いている中心的なメッセージだからです。

皆さん、キリスト教の中心は何か、聖書全体のメッセージを一言で言うとしたら何かと尋ねられたら、何と答えるでしょうか。私なら、こう答えます。それは「インマヌエル」である、と。すなわち、「神が私たちとともにおられる」という約束です、と。これが聖書全体の中心的なテーマです。これがイエス・キリストの誕生によって実現しました。だからクリスマスは意味があるのです。

きょうは、この「インマヌエル」について三つのことをお話したいと思います。第一に、私たちのためにお生まれになられた主イエスはインマヌエルの預言を成就するために来られたということ。
  第二に、私たちの人生における真の解決は、このインマヌエルとして来られた主イエスにあるということ。
  ですから第三のことは、主イエスをあなたの罪からの救い主として受け入れてください、ということです。

Ⅰ.その名はインマヌエル(マタイ1:18-23)

まず、マタイの福音書1章18~23節を見ていきましょう。18節をご覧ください。

「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」

マタイの福音書はイエス・キリストの系図を記した後、「イエス・キリストの誕生は次のようであった」という文で始まっています。イエス・キリストはどのように誕生したのでしょうか。ここには、母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった、とあります。それがどのようにして明らかになったのかはわかりません。そのことについて聖書は何も語っていないからです。でも、おそらくマリア自身がヨセフに伝えたのでしょう。

当時、ユダヤにおいては、婚約は結婚とほとんど同一視されていました。婚約していれば一緒に住んでいなくとも、二人は法的に夫婦とみされていたのです。一緒に暮らしてもいない妻マリアが身ごもったと聞いたとき、ヨセフはどんな気持ちだったでしょうか。それは私たちには想像できないほど苦しかったに違いありません。

結婚していないマリアが身ごもった、しかも聖霊によって身ごもったというではありませんか。それを聞いたヨセフは、ただ自分は裏切られ、マリアが姦淫の罪を犯したとしか考えられなかったでしょう。聖霊によって身ごもったというマリアの言葉を受け入れることなど到底できなかったはずです。このマリアに対して、いったい自分はどうすれば良いのか、悩みに悩みました。そして行き着いた結論は、ひそかに離縁する、ということでした。それが19節にあることです。19節をご覧ください。

「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

ヨセフはマリアを本当に愛していたのでしょう。ですからそれを表ざたにしてマリアがさらし者となり、辱められて、石打ちの刑で処刑されることなど、耐えがたいことだったのです。しかし、ここに「夫のヨセフは正しい人で」とあります。この「正しい人」というは、律法に忠実に従うという意味での正しさのことです。ですから彼は、律法を破り、姦淫の罪を犯したとしか思えないマリアを受け入れることもできませんでした。それでどうしたでしょうか。それでヨセフは悩みに悩んで、ひそかに離縁しようと決めたのです。

しかし、彼がそのように決断した時、神がご介入されました。20節をご覧ください。

 「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。」と。

ルカの福音書においてマリアに対して語られたように、ここでも主の使いはヨセフに「恐れるな」と語られました。恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさいと。なぜなら、その胎に宿っている子は聖霊によるからです。どういうことですか?

ヨセフの苦しみは、マリアの胎の子はいったいだれの子なのか、どうして身ごもってしまったのかということでした。それに対して神が言われたことは、それは聖霊によるのだ、ということでした。聖霊によって宿ったのだ、と。つまり、神がそれをなさったのだということです。だからそれ以上思い悩む必要はない、というのです。主の使いはさらに続けてこう言いました。21節です。

「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

聖霊によって身ごもったというマリアの言葉を信じられず、また、愛しているのにも関わらず、身重であるマリアを見捨てるというヨセフの「正しさ」は、ここで神によって完全に打ち砕かれることになります。律法に従うだけの「正しい人」であったヨセフは、この驚くべき出来事をご自分の民をその罪から救うために実現された神の御業である信じ、この主に従って生きるようにと求められたのです。聖霊によって身ごもったマリアを迎え入れ、生まれた男の子に「主は救いである」という意味を持つ「イエス」という名前を付けなさいという命令が与えられたのです。

このようにクリスマスの出来事においては、マリアだけではなく、ヨセフにも神から大きな役目なり、使命が与えられていたことがわかります。それは聖霊によって身重になったマリアを受け入れ、支え、守り、そして、生まれてくる男の子には「イエス」と名付けるという役目です。そして、ヨセフは自分には理解できなくとも、この主の命令に従います。24~25節にあるように、眠りから覚めたヨセフは、主の使いが命じたとおりに、自分の妻マリアを受け入れ、生まれた男の子に「主は救いである」意味持つ「イエス」という名前を付けたのです。

重要なのは、この一連の出来事は何ために起こったのかということです。これを書いたマタイは、この一連の出来事はただ偶然に起こったことではなく、旧約聖書に預言されていたみことばが成就するためであったと告げるのです。それが22~23節にある内容です。ご一緒に読みましょう。

「22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」

このすべての出来事、つまり、まだ一緒に住んでいないマリアが身ごもったという出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった、ということです。その預言とは、皆さんもよくご存知のように、旧約聖書イザヤ書7章14節の御言葉です。そして重要なのは、その名は「インマヌエル」と呼ばれるということです。意味は、「神は私たちとともにおられる」という意味です。つまり、ご自身の民をその罪から救うためにお生まれになられたイエスは、イザヤ書で約束されていた「インマヌエル」、「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださる方であるということです。

このことは、とても重要です。というのは、聖書で言うところの「救い」とは何かを明確に表しているからです。つまり、聖書で言う「救い」とは、罪が赦されて永遠のいのちが与えられることですが、それは、言い換えると「神がともにおられる」ということなんです。これが聖書で言う「救い」です。私たちが「救われる」という言葉を用いるとき、それはたとえば病気が癒されることとか、貧乏から解放されること、あるいは、何らかの問題が解決することを言いますが、聖書で言うところの救いとはそうした問題の解決ばかりでなく、そうした問題の根本的な原因である罪からの救いを意味しているのです。つまり、これが本当の解決であるということです。

確かに病気が癒されることも素晴らしいことです。私も眼の病気で苦しみかなり落ち込みましたが、一昨日抜糸のため病院へ行ったら眼圧が下がっていて、正常の数値になっていました。本当にうれしかったですね。

貧乏から解放されることもそうです。借金地獄という言葉もありますが、抱えている借金を完済してゼロになったらどんなに解放されることでしょう。あるいは、家庭の問題や職場の問題、人間関係の問題が解決したらホッとするでしょう。しかし、本当の解決はそうした問題の根本にある罪から救われることなのです。

そして、ヨセフが聖霊によって身重になったマリアを妻として迎え入れたことによって、そのことが実現しました。この男の子は人間的にはあり得ないことですが、人間的な方法によってではなく聖霊によってマリアの胎に宿りました。それはこの方がご自分の民をその罪から救ってくださるためです。神は聖なる、聖なる、聖なる方ですから、ちょっとでも罪や汚れがあるところには住まうことはできません。それで神は人間的な方法によってではなく、聖霊によって救い主イエスをマリアの胎に宿らせ、生まれさせることによって、その民を罪から救うという御業を開始されたのです。そしてこの方がその罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえることによってその救いの御業を完成してくださいました。それゆえ、この方を信じる人はだれでも罪から救われるのです。そうです、「インマヌエル」、「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださったのです。ですから、この方を信じる者は罪から救われ、神がその人とともにいてくださいます。これが救いです。多くの人は「救われる」ということは、死んでから天国に行くことだと考えていますがそれだけではないんです。この世で生きていながらも、それを体験することができるのです。それはこの「神、共にいまし」です。あなたがこのイエスをあなたの罪からの救い主として信じるなら、その瞬間にあなたの罪は赦され、永遠のいのちが与えられます。「インマヌエル」、「神が私たちとともにおられる」が実現するのです。

「沈黙のレジスタンス」という映画をご覧になられた方はおられるでしょうか。これは実話を基にして作られた映画です。マルセル・マルソーという、パントマイムの巨匠の若き日々を描いたものです。実は彼は、フランスに生きるユダヤ人でした。第二次世界大戦中、ドイツではヒトラーが政権を握ると、国内のユダヤ人たちは次々と迫害の対象となりました。そして、ドイツの国内でたくさんのユダヤ人孤児が生まれるんです。
 その孤児たちは、ユダヤ人組織によってフランスに送られて難を逃れるのですが、やがてフランスもナチスドイツに侵略され、併合され、占領されてしまいます。フランスに逃げてきたユダヤ人孤児たちの世話をしたのが、フランスユダヤ人のレジスタンス組織だったんですが、マルセル・マルソーはそのメンバーでした。

やがてナチスは、フランスに大きな力を振るうようになります。そして、フランス国内では、親ナチスの政権が誕生し、フランスのユダヤ人孤児たちも強制収容所に送られることになります。そこで、どこにも逃げ場がなくなったこのユダヤ人のみなしごたちを助けるためにある極秘プロジェクトが始まったんです。それは、フランスの隣にある、永世中立国のスイスに、この子どもたちを亡命させるというプロジェクトでした。しかし、通常の国境は、すでにナチスにコントロールされていました。そこで、マルセル・マルソーは、子どもたちにボーイスカウト、ガールスカウトの服を着させ、自分はそのリーダーになりすまし、ピクニックに行くように芝居を打って、フランス国外脱出をはかるのです。
  ところが途中、ドイツ併合エリアを通らなければなりません。電車の中にナチスのゲシュタポ(秘密警察)が乗り込んで、身元調査を始めるんですが、ユダヤ人の孤児たちは、皆ゲシュタポに両親を殺されるのを見ていたので、その制服を見るだけで震え上がってしまうのです。しかし、すぐさま落ち着きを取り戻します。なぜなら、マルセル・マルソーがギューッと手を握ったり、ハグしたり、そして共にいて堂々とゲシュタポと渡り合うその対応を見たからです。そして、とうとうスイスに脱出することが出来たのです。

何を言いたいのかというと、共にいることは、勇気を与える最良の手段なであるということです。キリストは、死の世界から、永遠のいのちの天国にあなたを導くために来てくださいました。そしていつもあなたと共にいてあなたを助け、守り、励まして、あなたがこの地上での生涯を歩む上で必要な力を与えてくださいます。そしてあなたが死んでもあなたと共におられるインマヌエルの神なのです。

Ⅱ.ここに本当の解決がある(イザヤ7:10-14)

ところで、これは主が預言者を通して語られたことが成就するためであった、とありますが、それがどのような文脈で語られたのかを見ていきたいと思います。イザヤ7章14節をご覧ください。

「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」

この預言が語られたのは前730年頃のことですが、その背景には、戦争という現実がありました。当時はアハズという王が南ユダ王国を治めていましたが、彼はアラムの王レツィンとエフライム、これは北イスラエル王国のことですが、その北イスラエルの王ペカが軍事同盟を結んで攻撃してくるという知らせを聞いたのです。とりわけアハズにとってショックだったのは、同胞の北イスラエルがアラムの王と手を組んだことでした。その知らせを聞いたアハズ王はどうなったかというと、「王の心も民の心も林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」(イザヤ7:2)とあります。そんな動揺していたアハズの下に預言者イザヤが遣わされ、神からの言葉を伝えるのです。

「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。」(イザヤ7:4)

「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。心を弱らせてはならない。」これがその時アハズにとって一番必要なメッセージでした。とは言っても、このような状況で落ち着いていろという方が難しいかもしれません。しかしそれがどのような状況であったとしても、彼に求められていたことは、神の前に静まること、神がイスラエルの主であることを覚えることだったのです。

心を静めることのできないアハズに対して、イザヤは続けて神のことばを語ります。「それは起こらない。それはあり得ない」と。「それ」というのは、アラムとエフライムが攻めてくることです。それは起こらない。その上で神はアハズにこういうのです。
 「あなたがたは、信じなければ堅く立つことはできない」(イザヤ7:9)
 神の約束を信じること、それが堅く立つために必要なことでした。しかし、アハズは信じることができませんでした。これだけの励ましをもらっても、神を信じ切ることができなかったのです。

それはアハズに限ったことではありません。私たちもそういう時があります。私たちも神を信じています。そして、こうして神に祈ったり、礼拝したりしていますが、しかし、現実の生活の中で何らかの問題に直面すると、神を信じ切れない時があります。神に頼るのではなく、御言葉を信じるのでもなく、自分の思いのまま衝動的に動いてしまうことがあるわけです。現実に振り回され、信仰に堅く立つことができないのです。不安になった時、大きな問題に直面した時こそ、私たちはみことばに信頼し、神を信じなければならないのに、それができないという時があるのです。

そんなアハズ王に対して神はさらにイザヤを通して語られました。「あなたの神、主に、しるしを求めよ。」(イザヤ7:11) と。しかし、アハズは「私は求めません。主を試みません。」と言って、神のことばを明確に拒否しました。

そこで神は自ら彼に一つのしるしを与えられました。それがこのインマヌエル預言です。
  「見よ。処女が身ごもっているそして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
  つまり、これは神に対するアハズの信仰の結果として与えられたものではなく、逆にアハズの不信仰と不従順の結果、それにも関わらず神から与えられた神の恵みの約束だったのです。アハズがあくまでも自分の考えに従って行動していたので、神の方から一方的にそのしるしが与えられたのです。そのしるしとは何ですか。それは、処女が身ごもって、男の子を産み、その名を「インマヌエル」と呼ぶということでした。いったいこれは何のしるしなのか。この場合のしるしとは、神に信頼するなら守られるというしるしです。それが、処女がみごもって男の子を産み、その名を「インマヌエル」と呼ばれるようになるとうのはどういうことなのかさっぱりわかりません。

昔からこの箇所は非常に難解な箇所だと言われてきました。英国の有名な説教家チャールズ・スポルジョンは、この箇所は聖書の中でも最も難解な箇所の一つだと言いました。それほど解釈が難しい箇所なのです。何がそんなに難しいのかというと、ここに出てくる処女とはだれのことなのか、男の子とはだれのことなのかがはっきりわからないことです。それもそのはずです。処女がみごもるなんてことはあり得ないことだからです。そんな話今まで聞いたこともありません。ですから、これがしるしだと言われても、いまいち、ピンとこないわけです。

このことについて詳しく知りたい方は、以前私が礼拝でイザヤ書からお話した講解説教がホームページに載っていますのでそれを参考にしていただけたらと思いますが、確かなことは、これはこの時から約700年後に生まれるキリストのことを預言していたということです。どういうことかと言いますと、ここに本当の解決があるということです。アハズ王にとっては、確かにエフライム(北イスラエル)とアラムの連合軍が攻めてくるということは脅威だったでしょう。何とかしてそこから救われたいと、彼は北の大国アッシリヤに助けを求めました。それでアラムとエフライムは滅ぼされ問題は解決したかのように見えましたが、それは本当の解決ではありませんでした。本当の危機はその後でやって来ることになんです。昨日の友は今日の敵というようなことが起こるわけです。何と今度は自分たちがそのアッシリヤに攻められて苦しむことになるのです。ですから、それは本当の解決ではありませんでした。本当の解決はどこにありますか。本当の解決はここにあります。インマヌエルと呼ばれるお方です。すなわち、イエス・キリストにあるのです。これが、神が与えてくださったしるしだったのです。

いったいなぜ神がともにおられるということが本当の解決なのでしょうか?なぜなら、神はキリストにおいてアラムやエフライムの連合軍やアッシリヤによる攻撃から救われるといったところではない、永遠の滅びに追いやろうとするサタンの攻撃、すべての悪の根源である罪から救ってくださるからです。このイエスが私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、神はこの救いの御業を成し遂げてくださいました。永遠の滅びから、永遠の救いの中へと、すなわち、永遠に神が私たちと共におられるという約束の中へ私たちを導いてくださったのです。ですから、イエス様は私たちのどのような問題や苦しみからも救うことがおできになるのです。これが本当の解決であり、救いなのです。これがクリスマスに実現したのです。

Ⅲ.インマヌエルの実現のために(マタイ1:24-25)

ですから第三のことは、あなたを罪から救うために生まれてくださった救い主イエスをあなたの心に受け入れてくださいということです。そのとき、このインマヌエルの預言があなたに成就することになります。マタイの福音書に戻りましょう。1章24~25節をご覧ください。

「24ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

ヨセフは眠りから覚めたとき、主の使いが命じられたとおりに、マリアを自分の妻として迎え入れました。起きて思い巡らしているだけではもがき苦しむだけでしたが、眠りと夢の中で神が働いてくださり、彼を新しく造り変えられました。それで彼は神のご計画に身をゆだねることができたのです。ここにインマヌエルの約束と祝福に生きるヨセフが誕生しました。

それはヨセフだけではありません。あなたも神の御言葉に信頼し、あなたを罪から救うためにお生まれになられたイエスを信じるなら、あなたにもインマヌエル、神はあなたとともにおられるという御言葉が実現します。それはイエスを信じた時だけではありません。いつも、いつまでも、ともにいてくださいます。

マタイの福音書を見ると、この1章で「神は私たちとともにおられる」と約束してくださった主は、その最後の28章でも共におられると約束しておられます。28章20節です。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

そればかりではありません。その真ん中にもこの約束が出てきます。18章20節です。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」」

つまり、インマヌエルとして生まれ手くださった方は世の終わりまでいつまでも共にいてくださるだけでなく、この地上の生涯を歩む時も共にいて支え、励ましてくださるのです。

であれば、何を恐れる必要があるでしょうか。その名は「インマヌエル」と呼ばれるお方はいつもあなたとともにいて、あなたを助け、あなたを守ってくださいます。これが本当の救いです。インマヌエルという名でこの世に来られた方は、遠くから私たちの苦しみを眺めておられる方ではなく、いつもあなたとともにいて自らが先頭に立ち、罪と死に真正面から戦ってくださるお方なのです。

あなたが心配しておられることは何ですか。何を恐れていらっしゃいますか。ひとりぼっちで孤独を感じておられますか。自分や家族の病気で不安な日々を過ごしておられますか。将来に何の希望もないと絶望しておられますか。でも、主はあなたのために生まれてくださいました。あなたは一人ぼっちじゃないのです。主があなたとともにおられます。どんなことがあってもあなたを見捨てることはありません。世の終わりまで、いつもあなたとともにおられます。この方に信頼しましょう。クリスマスに与えられる喜びは、まことに私たちのために与えられた救いの恵みです。それは神があなたとともにおられるという約束です。この神に信頼して、この地上の生涯を全うさせていただきましょう。

最後に、ロバート・コリアー著、「冬の嵐の中の小鳥の歌」から抜粋した詩を引用して終わります。

信頼
わたしは一度 神を信頼したのだから
いつまでも 神を信頼する
わたしが立とうが 倒れようが、その道は最善
風と嵐の中に、主は決して わたしを捨て置かれない
神はすべてを 送ってくださるのだ

風と嵐の中に、主は決して、あなたを捨て置くことはなさいません。いつもともにいて、あなたを最善に導いてくださいます。この神に信頼しましょう。メリー・クリスマス!主の恵みと平安が、あなたとともにありますように。

エレミヤ書38章1~28節「思いがけない神の助け」

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今日は少し長いですが、エレミヤ書38章全体からお話します。タイトルは「思いがけない神の助け」です。この38章も、南ユダ最後の王ゼデキヤの時の出来事です。時は前586年に南ユダ王国が滅ぼされる直前です。前の章では、エレミヤがエルサレムから出てベニヤミンの地に行ったとき、ベニヤミンの門のところでイルイヤという名の当直の者に捕らえられ、書記ヨナタンの家の牢屋に投獄されたことを見ました。そこは丸天井の地下牢で、エレミヤは長い間そこにいました。

今日の箇所にも、エレミヤが再び捕らえら投獄されることが記されてあります。エレミヤが投獄されるのは、これが3回目です。しかし、今回の投獄はこれまで以上に過酷なものでした。というのは、命の危険が脅かされるほどのものだったからです。しかし、そのような中にあっても神は思いがけない方法で彼を救い出されます。神はどんなことがあっても、神を恐れ、神に信頼して歩む者を、救い出してくださいます。それゆえ私たちは、私たちの人生においてどんなことが起こっても、ただ神を愛し、神のことばに信頼して歩まなければなりません。

 Ⅰ.投獄されたエレミヤ(1-6)

まず1~6節をご覧ください。「1 さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、エレミヤが民全体に次のように語ることばを聞いた。2 「【主】はこう言われる。『この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデア人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは戦勝品として彼のものになり、彼は生きる。』3 【主】はこう言われる。『この都は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」4 そこで、首長たちは王に言った。「どうか、あの男を死刑にしてください。彼はこのように、こんなことばを皆に語り、この都に残っている戦士や民全体の士気をくじいているからです。実にあの男は、この民のために、平安ではなくわざわいを求めているのです。」5 するとゼデキヤ王は言った。「見よ、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」6 そこで彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなく、あるのは泥だったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。」

1節には、南ユダ最後の王ゼデキヤの4人の側近者の名前が記されてあります。このうちパシュフルは21章1節に、ユカルも37章3節に出てきました。彼らはエレミヤが民全体に語ることを聞いて腹を立て、ゼデキヤ王のところへ行って不満を申し立てました。なぜなら、エレミヤがエルサレムにとどまる者は剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデア人のところ、すなわち、バビロンに出て行く者は生きると語っていたからです。そんなことを聞いたらエルサレムに残っている戦士や民全体の士気がくじかれると思ったのです。彼らの目では、エレミヤは民のために平安を語っているのではなくわざわいを語っているように見えました。

それで、ゼデキヤ王はどうしたかというと、首長たちの言うことを受け入れ、彼らの思いのままにして良いと告げました。それで彼らはエレミヤを捕らえると、監視の庭にある王子マルキヤの穴の中に投げ込みました。先ほども申し上げたように、エレミヤが投獄されるのはこれが3回目です。前回は37章16節で見ましたが、今回のそれはもっと過酷なものでした。というのは、命の危険が脅かされるどのものだったからです。そこには大量の泥があって、その中に沈んでいくような状態だったのです。

皆さん、私たちにもそのような時があるのではないでしょうか。私は先週目決めの手術で入院していましたが、それはある意味で泥の中に沈んでいくようなものでした。11月15日に最初の手術をしましたが多量の出血があり、それが目の奥の硝子体というところまで入り込んでしまったため、凍った車のフロントガラスのように全く見えなくなってしまいました。かなり焦りました。このまま失明してしまうのではないかと思うと、いてもたってもいられなくなり、私はしぼんだ風船のようになってしまいました。す。結局、5日目に2度目に硝子体の中の出血を取り除く手術をしました。幸い視力はある程度回復することができましたが、今度は逆に眼圧が低くなりすぎて見づらくなってしまいました。あまり色々なものを見るなという神様からのメッセージなのかもしれませんが、まだ本調子ではありませんが、神様がエレミヤを泥から引き上げたように、私の目も眼圧から引き上げてくださると信じています。

でもそれは私だけのことではないでしょう。だれでも泥の中に沈むような時があります。それはエレミヤのように敵から攻撃された時や、私のような病気になる時もそうですが、夫婦の問題や家族の問題で悩むとき、仕事上のトラブルや人間関係の問題が起こる時もそうでしょう。経済的に苦しくて借金を抱えてしまったという時もそうです。最愛の人を失った時もそうです。その悲しみから立ち上がるには相当の時間がかかります。私たちの人生には、泥の中に沈んでしまうような時があるのです。でもどんなに沈んでも、神様は必ずあなたをそこから引き上げてくださるということを忘れないでください。しかも、あなたが想像することができないような不思議な方法で助けてくださる。そこには思いがけない神の助けがあるのです。

Ⅱ.思いがけない神の助け(7-13)

では、エレミヤはどのようにしてその中から救い出されたのでしょうか。7~13節をご覧ください。「7 王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは、エレミヤが穴に入れられたことを聞いた。また、そのとき王はベニヤミンの門のところに座っていたので、8 エベデ・メレクは王宮から出て行き、王に告げた。9 「わが主君、王よ。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの人を穴に投げ込みました。もう都にパンはありませんので、あの人はそこで飢え死にするでしょう。」10 すると王は、クシュ人エベデ・メレクに命じた。「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい。」11 エベデ・メレクは人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着古した衣服やぼろ切れを取り、それらを綱で穴の中のエレミヤのところに降ろした。12 クシュ人エベデ・メレクはエレミヤに、「さあ、古着やぼろ切れをあなたの脇の下の綱に当てなさい」と言ったので、エレミヤがそのとおりにすると、13 彼らはエレミヤを綱で穴から引き上げた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまった。」

エレミヤが泥の中に沈んだとき、主は王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクという人物を用いて救い出されました。クシュ人とはエチオピア人のことです。すなわち異邦人ですね。また、宦官とは、去勢を施された人、陰茎を切り取られた人のことです。モーセの律法によれば、このような人は主の集会に加わってはならないと定められていました。申命記23章1節にこうあります。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない。」神様はこの異邦人エベデ・メレクを用いてくださいました。彼はそういう立場でありながら、エレミヤが穴に入れられたと聞くと王宮から出て行き、王のところに行って、首長たちの悪行とエレミヤの窮状を訴えたのです。

するとゼデキヤ王は、クシュ人エベデ・メレクの訴えに同意し、彼に、30人を連れてエレミヤのところに行き、彼がまだ死なないうちに、その穴から引き上げるようにと命じました。エベデ・メレクは、ゼデキヤ王の命令に従い、人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着古した衣服やぼろ切れを取り、それらを綱にして穴の中にいたエレミヤのところに降ろし、彼を穴から引き上げたのです。こうしてエレミヤは監視の庭にとどまることができました。

だれがそのようなことを考えることができたでしょうか。彼はエレミヤを迫害していたユダの首長たちとは対照的でした。彼は自分に降りかかる危険をかえりみず王の所へ行くと、王の面前で首長たちの誤りを指摘し、エレミヤに助けの手を差し伸べたのです。神様はこのように、時に私たちの想像を超えた方法や思いがけない人を用いて私たちを助けてくださるのです。詩篇121篇にこうあります。

「1 私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
2 私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。
3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。
4 見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。
5 【主】はあなたを守る方。【主】はあなたの右手をおおう陰。
6 昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。
7 【主】はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。
8 【主】はあなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

皆さん、私たちの助けはどこから来るのでしょうか。私たちの助けは天地を造られた主から来ます。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともありません。主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られます。今よりとこしえまでも守られる。あなたが困難に陥った時、自分でもどうしたら良いかわからないような時でも、主は必ずあなたをそこから助け出してくださるのです。それはあなたが思い描く方法によってではなく、それをはるかに超えた方法によって成し遂げてくださいます。そのような恵みを、私たちはしばしば体験することがあります。

私がかつて福島で教会開拓をしていた時、開拓して10年目に会堂建設に取り組みました。多くの人々が救いに導かれ自宅の集会スペースに入れなくなった時、もっと広い土地を求めて祈りました。そして与えられたのがそこから歩いて10分のところにある広々とした土地でした。そこは600坪もありました。しかも交通のアクセスもよく、教会の会堂を建設するのにはとても良い土地でした。ところがそこは調整区域に定められていて、建物が建てられてない場所になっていました。そういう土地に教会を建てたという前例は、福島県ではそれまで一度もありませんでした。でも神様のみこころなら必ず与えられると信じて、開発許可の取得に取りかかりました。

そのためにはまずしなければならなかったのは、宗教法人を取得することです。しかし教会名義の土地、建物がなかったので、そのために自分の名義の土地と建物を教会の名義にしようとしましたが、そのためには銀行から借り入れた際の抵当権を抹消しなければなりませんでした。抵当権を抹消するということは、その代わりに保証人として立てなければならないということですが、そのような人は教会にはいませんでした。いたとしてもそれはかなり荷が重すぎる話です。ですから、その作業は暗唱に乗り上げてしまいました。

ところが、ちょうどその頃、多くの青年たちが救いに導かれていましたが、その中に市内で老舗の洋服店を営んでいるクリスチャンの御夫妻の娘さんが救われたのです。また、その2人の兄弟も教会に導かれ、熱心に神様を求めるようになりました。驚いたのはその御両親です。どうやって彼らがそのように変えられたのか知りたいと、お母さんが「私にも聖書を教えてください」と言ってこられたのです。7回の学びが終わったとき、そのお母さんがこう言われました。
「本当にありがとうございました。よくわかったような気がします。子どもたちがあんなに喜んで教会に行っていくようになったのかも。私には何もできませんが、もし何かお役に立てることがありましたら何でも教えてください。」
と言われかえって行かれました。

すると、隣にいた家内が私の顔を見てこう言いました。「あなた、もしかするとあのことをお願いしてみたらどうですか。」家内はこういう時に勘が鋭いんですね。でも私はまさかそんなことお願いできないと思いましたが、でも一応お願いしてみることにしました。

すると、後日ご主人から電話がかかってきて、その件についてお話したいのでお店まで来ていただけませんかと言われました。お店に行ってみると、ご主人からこう言われました。
 「先生、家は先祖代々人様の保証人にはならないと決めているんです。でも、今回は違います。今回は人様ではなく神様の保証人です。だから喜んで引き受けさせていただきます。」
 私はびっくりしました。いくら教会のこととはいえ、誰が保証人になりたいと思うでしょうか。私はそのように導いてくださった神様に心から感謝しました。そして、今からちょうど30年前の1994年11月に宗教法人が認可され、その3年後に、これも本当に不思議な導きでしたが調整区域の開発許可が認可され、その翌年に新会堂を主に献げることができたのです。これがその会堂です。

まさかそのような形で会堂建設が進んでいくなんて誰も考えることができなかったと思います。でも、神様にとって不可能なことは一つもありません。神にはどんなことでもできるのです。まさにあのヨブが最後に告白したように、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを私は知りました。」(ヨブ42:2)ということを、私も知りました。それが神のみこころならば、神はあらゆる方法を通してそれを成し遂げてくださいます。私たちが想像することもできないような思わぬ方法で助けてくださるのです。

それはエレミヤが例外だったからではありません。エレミヤの時に働かれた神は、今も生きて働いておられ、あなたの思いを越え、あなたが考えられない方法で、あなたを穴から引き上げてくださるのです。ですから、あなたがどんな穴に投げ込まれたとしてもがっかりしないでください。どんなに泥の中に沈んでいるようでも恐れないでください。主はあなたに思いがけない助けを与えてくださいますから。まさにあなたが夢を見ているような方法であなたを助けてくださるのです。

ただ神に信頼して(14-28)

ですから第三のことは、ただ神に信頼しましょう、ということです。14~28節をご覧ください。19節までをお読みします。「14 ゼデキヤ王は人を送って、預言者エレミヤを自分のところ、【主】の宮の第三の入り口に召し寄せた。王がエレミヤに、「私はあなたに一言尋ねる。私に何も隠してはならない」と言うと、15 エレミヤはゼデキヤに言った。「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず私を殺すのではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞かないでしょう。」16 そこでゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓った。「私たちの、このいのちを造られた【主】は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちを狙うあの者たちの手に、あなたを渡すことも絶対にしない。」17 すると、エレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのたましいは生きながらえ、この都も火で焼かれず、あなたもあなたの家も生きながらえる。18 あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、あなた自身も彼らの手から逃れることができない。』」19 しかし、ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」

ゼデキヤは人を送って、エレミヤを自分のところに召し寄せました。そして彼に一言求めました。何も隠してはならないと。するとエレミヤは、もし自分が告げれば、あなたは必ず私を殺すのではないかと答えると、ゼデキヤは、絶対に殺さないとひそかに誓ったので、エレミヤはゼデキヤにはっきりと主のことばを告げました。すなわち、もし彼がバビロンの王に降伏するなら彼は生きながらえ、彼の家族も、エルサレムも火で焼かれることはないが、もしバビロンの王に降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、彼自身も彼らに渡され、殺されることになるということです。もう何度も語られてきたことです。それなのになぜゼデキヤは再びエレミヤに尋ねたのでしょうか。
 おそらくゼデキヤは、今までとは違ったことをエレミヤが言うのではないかと期待していたからです。しかし、エレミヤがゼデキヤに告げた言葉はこれまでと全く同じことでした。エレミヤはどこまでも、神の預言者として神に対して忠実だったのです。

それに対してゼデキヤはどうかというと、いつも人を恐れていました。19節には、「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」あります。彼が恐れていたのは敵のバビロン軍が攻めてくるということよりも、エレミヤの語る神のことばに従ってバビロンに降伏して捕囚の民として連れて行かれたユダヤ人たちになぶりものにされるということでした。ですから、彼はひそかにエレミヤに尋ねたのです。本当の敵は外側よりも内側にいることがあるのです。

しかし、優柔不断な性格のゼデキヤはなかなか決断することができませんでした。それはゼデキヤだけではないでしょう。私たちもそういう時があります。それが神のみこころだとわかっていても、なかなか神に従うことができないことがあります。なぜでしょうか?人を恐れるからです。そんなことをしたらあの人に迷惑がかかるのではないか。この人から何を言われるかわからない。もしかすると、自分の立場が危うくなるかもしれない。その結果、生活にも影響を及ぼすことになるかもしれない。そう思うと、決断することができないのです。しかし、箴言に「人を恐れるとわなにかかる。 しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:15)とあるように、人を恐れると、必ず失望することになります。私たちが恐れなければならないのは、私たちが信頼しなければならないのは、いつまでも変わることのない神とそのことばだけです。

イギリスで最も多くの会衆を牧会していたと言われている伝道者のチャールズ・スポルジョンは、ゼデキヤ王のようにためらっている会衆に次のように説教しました。「皆さん、いつまでためらっているのですか。皆さんは、うわべは宗教的ですが実はまだこの世の人なのです。ですから、今でもどっち側に立つべきかわからない」と言ってためらっているのです。いつまでも2つの間でもじもじしないでください。「次の機会が来れば悔い改める」と言って、人生の砂時計の砂をただ見送らないでください。皆さんが「砂がほとんど落ちたら、神のもとへ向かおう」と言う時はもう遅いのです。皆さんは、神とこの世の2つの間を行ったり来たりしながらも、神を信じていると言います。しかし、それは神を信じているということではありません。神を信じるとは、「ただ神だけを」信じることを言うのですと。

あなたはどうですか。あなたはためらっていませんか。神を信じていると言いながらも手放せないでいるものはありませんか。神だけに拠り頼むためにあなたが捨てるべきものは何ですか。あなたはだれを恐れて日々決断をしているでしょうか。ただ神だけを恐れ、神に立ち返りましょう。

最後に24~28節をご覧ください。「24 ゼデキヤはエレミヤに言った。「だれにも、これらのことを知らせてはならない。そうすれば、あなたは死なない。25 もし、あの首長たちが、私があなたと話したことを聞いてあなたのところに来て、『さあ、何を王と話したのか、教えろ。隠すな。あなたを殺しはしない。王はあなたに何を話したのか』と言っても、26 あなたは彼らに、『王がヨナタンの家に私を返し、そこで私が死ぬことのないようにと、王の前に嘆願をしていた』と言いなさい。」27 首長たちがみなエレミヤのところに来て、彼に尋ねたとき、彼は、王が命じたことばのとおりに彼らに告げたので、彼らは彼と話すのをやめた。あのことは、だれにも聞かれていなかったのである。28 エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。エルサレムが攻め取られた次第は次のとおりである。ゼデキヤはエレミヤに言った。」

ゼデキヤ王はエレミヤに、このことをだれにも知らせてはならないと命じました。もし話せば、首長たちはエレミヤを殺すかもしれないからです。それでエレミヤは、首長たちが彼のところにやって来て、何を王と話していたのかと尋ねたとき、王が命じたとおりに、王がヨナタンの家に私を返し、そこで私が死ぬことがないようにと、王の前に嘆願していたと告げると、彼らはエレミヤと話すのをやめました。このゼデキヤ王の提言は、エレミヤのためというよりも、むしろ自分自身のためでした。エレミヤは自分の職務にいのちをかけていたことをゼデキヤ王は知っていたからです。そのエレミヤと隠れた取引をしたと思われることを、ゼデキヤ王は恐れたのです。結局、彼はエレミヤを通して語られた神のことばを聞きながら、それに従うことができませんでした。

皆さん、神の御心を知ってもそれを行うかどうかはまた別の問題です。聞くことと行うこととの間には固い決断が求められるからです。ゼデキヤは、神のことばを真剣に聞きましたが、それを首長たちに伝える勇気がありませんでした。また、彼らに伝えた時にエレミヤに降りかかる危険を防ぐ力もありませんでした。門の外では、王とエレミヤとの間でどのような話が交わされたのか、関心を持っていた首長たちがいましたが、ゼデキヤは、何事もなかったかのように装いました。南ユダ王国の運命がかかった重要な密談が、特に内容のない私的な会話とされたのです。その結果、個人的な危機は逃れましたが、南ユダ王国の運命は終わることになってしまいました。大切なのは、御言葉を聞くだけで終わらないということです。御言葉を聞いたなら、それを実行に移さなければなりません。

イエス様はみことばを聞いてそれを行う人は、岩の上に家を建てた賢い人にたとえることができると言われました。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。しかし、みことばを聞いてもそれを行わない人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいます。皆さん、神のことばを聞いて、それを行う、岩の上に自分の家を建てる人になりましょう。そうすれば、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、倒れることはありません。

あなたにとって神の御言葉を聞いても実行することができないでいることは何ですか。今、それを神に明け渡しましょう。それはあなたの力でできることではありません。そのためには神の恵みと神の力が必要です。そしてそのために神はひとり子イエスをあなたに与えてくださいました。神はあなたの罪の身代わりとしてイエス様を十字架に付けてくださることによって、あなたの罪を完全に清めてくださいました。あなたはそれほど神に愛されているのです。神の恵みはあなたに十分注がれています。この神の愛と恵みを受け取るとき、あなたにも神の愛が満ち溢れ、あなたのすべてを神に献げることができるようになります。それはちょうど船の上から一歩踏み出すようなものです。イエス様なしでは、沈んでしまう水の上に踏み出すようなものなのです。でも、この弱いこの足に神が力を与えてくださるとき、神のみことばの上を歩むことができるようになります。たとえ嵐の中でも、ただ御顔を見つめ、イエス様あなたと共に歩みますと、一歩踏み出すことができるようになる。そこに神の思わぬ助けがあることを信じて、あなたもその一歩を踏み出してください。

エレミヤ書37章1~21節「ただ神を恐れて」

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  前回は36章から、エホヤキムが神のことばを暖炉の火で焼き尽くしたという出来事を通して、神のことばは絶対に滅びることはないということを学びました。今回は37章全体から、南ユダの王ゼデキヤと預言者エレミヤの生き方から、「ただ神を恐れて」というタイトルでお話します。

Ⅰ.ゼデキヤ王の祈り(1-10)

まず1~10節をご覧ください。「1 ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカドネツァルが彼をユダの地の王にしたのである。2 彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた【主】のことばに聞き従わなかった。:3 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。「どうか、私たちのために、私たちの神、【主】に祈ってください。」:4 エレミヤは民のうちに出入りしていて、まだ獄屋に入れられてはいなかった。5 また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。6 そのとき、預言者エレミヤに次のような【主】のことばがあった。7 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。『見よ。あなたがたを助けに出て来たファラオの軍勢は、彼らの地エジプトへ帰り、8 カルデア人が引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼く。9 【主】はこう言われる。あなたがたは、カルデア人は必ず私たちのところから去る、と言って、自らを欺くな。彼らが去ることはないからだ。10 たとえ、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデアの全軍勢を討ち、そのうちに重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らはそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この都を火で焼くようになる。』」」

ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって南ユダの王となりました。彼は南ユダ最後の王となります。この後でエルサレムはバビロンによって完全に陥落することになります。彼もバビロンに連れて行かれ、そこで死を迎えることになりますが、その最後の王がこのゼデキヤです。彼は正統的な王位継承者ではありませんでした。エホヤキムの子エコンヤが在位わずか3か月でバビロンに捕え移されたので、彼に代わってユダを治めさせるためにバビロンの王によって擁立されたのです。いわゆるバビロンによって任命された操り人形、傀儡(かいらい)(おう)にすぎなかったわけです。彼がユダを治めていた時代がどのようなものであったかは、2節に総括されています。ご一緒に読みましょう。

「彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。」

ゼデキヤ王がユダを治めていた間は、彼も、その家来たちも、民衆も、誰も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。どういう点で彼らは聞き従わなかったのでしょうか。それは、エレミヤが語る神のことばを受け入れなかったという点においてです。エレミヤはゼデキヤ王をはじめその家来たちや民衆に、バビロンに降伏することが神のみこころであると語ったのに、彼らはその言葉に従わず、自分を王に立てたバビロンの王ネブカドネツァルに反旗を翻したのです。彼らはどのようにバビロンに逆らったのでしょうか。この後のところを読むとわかりますが、この時エジプトのフェラオの軍勢がエジプトを出て来てバビロン軍と戦おうとしていましたが、彼らの中にはそのエジプトと手を結んでバビロンを倒すようにとゼデキヤに圧力をかける者たちがいたのです。実際、エジプト軍はバビロンに対抗するためにユダをはじめパレスチナ諸国に同盟を呼び掛けていました。そのような呼び掛けに応じて、ゼデキヤはついにバビロンに反旗を翻したのです。それなのに彼は3節でエレミヤのもとに使いを遣わしてこう言いました。

「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」

どういうことでしょうか。日頃、エレミヤのことばには耳を貸そうともしていなかったのに、バビロン軍がエルサレムを包囲すると、溺れる者、藁を掴むで、苦しい時の神頼みに走ったのです。しかし、それはあまりにも身勝手な要求でした。日頃、神のことばに従がおうとしないで自分勝手な生活をしていながら、自分にとって都合が悪くなると、神様、助けてくださいと祈るのはあまりにも虫のいい話だからです。確かに「私のために祈ってください」と願うこと自体は悪いことではありません。それはへりくだっていなければできないことだからです。私は長い間、なかなかそのように言うことができません。自分で何とかすると思っていたからです。しかし、度重なる病を通して、また、個人的な問題を通して自分にはもう無理だとギブアップしたとき、心から「私のために祈ってください」と言えるようになりました。ですから、今は少しへりくだっているのです。まあ、こういうふうに言うこと自体高慢なんですけれども。ですから、祈ってくださいとお願いすること自体は問題ではないのですが、もっと大切なことがあるのです。それは神様との関係です。神様とどのような関係を持っているのかということです。神のことばに留まっているかどうかということです。それに聞き従っているかどうかということです。主イエスはこう言われました。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:7)

私たちの祈りが聞かれる条件は何ですか。どうすれば祈りが聞かれるのでしょうか。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、です。そうすれば、神はそれをかなえてくださいます。そうでないのに、ただ苦いし時の神頼みのように祈っても、神は聞いてくださることはありません。なぜなら、神はうわべを見られるのではなく、心を見られるからです。ヘブル11章6節にはこうあります。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。あなたの人生において何らかの問題を抱えた時だけでなく、あるいは危機に陥った時だけでなく、どんな時でも神がおられることと、神を求める者には報いてくださるということを信じなければなりません。つまり、神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、神のみこころに生きるということが求められているのです。今、ディボーションで箴言を呼んでいますが、箴言の言葉で言うなら、神の知恵を求めるということです。神の知恵とは何ですか。それは、神を恐れることです。箴言1章7節にこうあります。

「主を恐れることは知恵の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」

主を恐れることが知恵の初めです。その教えを受け入れ、その命令を私たちのうちに蓄え、それに従って生きること。これが神の知恵です。それがなければどんなに祈ったとしても、その祈りが聞かれることはありません。

ゼデキヤはどうでしたか。彼は預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。それなのに彼は祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」と懇願しました。そのような祈りが聞かれるはずがありません。あまりにも虫のいい話です。彼の信仰はどちらかというと他人任せでした。自分から神の前に出ることもしませんでした。いや、できなかったのでしょう。神のことばに従っていませんでしたから。神様に顔向けできるような心境ではなかったのでしょう。だから、だれか他の人に祈ってもらうことによってそれを叶えようと思ったのです。そういうことが私たちにもあります。自分のような者が祈っても神様は聞いてくれないから、牧師さん、祈ってもらえませんか・・・。言われた方も大変です。誰が祈っても同じだからです。問題は誰が祈るかということではなく、祈るその人が神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、へりくだって神の前に出ているかどうかです。もしその人が神を信じ、へりくだって神を愛し、神に従っているなら、神は必ず聞いてくださいます。大切なのは、神に祈るという行為とか形ではなく、神を愛し、神に従っているかどうかという中身なのです。神との関係です。その上でもし神に従っていないということが示されたなら、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。そうすれば、神はあなた罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。その時あなたは神の愛と赦しを受け取り、神との関係を回復することができます。あなたがどんな罪を犯したとしても。その上で祈らなければなりません。それが聖書があなたに約束していることです。それが十字架と復活の御業を通して主イエスが成し遂げてくださったことです。

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)

あなたはこの神の愛と赦しを受け取りましたか。永遠の愛をもって神はあなたを愛してくださいました。真実の愛を尽くし続けてくださいました。ですから、この愛を受け取り、悔い改めて神に立ち返ってください。そして神のことばに聞き従ってください。そうすれば、神は必ずあなたの祈りを聞いてくださいます。新約聖書のヤコブ書にはこうあります。

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5:16、第三版)

義人の祈りは働くと、大きな力があります。義人とはどういう人ですか。義人とは清く、正しく、美しい人のことではありません。また、良い行いをしている立派な人でもありません。義人とは互いに自分の罪を言い表し、神の赦しと救いを受け入れた人のことです。すなわち、自分の罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じ、神のことばに従って生きている人のことです。そのような義人の祈りは働くと、大きな力があるのです。

ゼデキヤはそうではありませんでした。彼は神のことばにとどまっていませんでした。それなのに彼は、「私たちのために、私たちの神に祈ってください。」と言いました。そのような祈りが聞かれることはありません。

このゼデキヤ王の約100年前にヒゼキヤという王がいましたが、これがヒゼキヤと決定的に違う点でした。ゼデキヤとヒゼキヤでは名前はとてもよく似ていますが、中身は全く違います。ヒゼキヤの時代はバビロンではなくアッシリアという国がエルサレムを包囲するという同じような状況下に置かれましたが、彼はゼデキヤと違いどんなに敵に脅されても屈することをしませんでした。そして、自分の衣を引き裂き粗布を身にまとって主の宮に入って行くと、主の前に祈りました。これは深い悔い改めを表す行為です。そして、当時の預言者であったイザヤにとりなしの祈りを要請したのです(Ⅱ列王18:13)。するとどのような結果になったでしょうか。イザヤは神からのことばを彼に伝えました。Ⅱ列王19章6~7節です。

「6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『【主】はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。7 今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」

そのことばの通り、その夜の内に主の使いがアッシリア軍を撃ち、アッシリアの陣営で18万5千人を打ち殺しました。つまり、彼の祈りは聞かれたのです。だれがこのようなことを想像することができたでしょうか。これが主のなさることです。主はへりくだって主の前に悔い改め、主に信頼し、主に従う者を決して(ないがし)ろにすることはなさいません。私たちの思いをはるかに超えて、ご自分の愛する者ために働いて御業を成してくださるのです。

しかし、ゼデキヤ王はそうではありませんでした。彼はこのようになることを期待していたのでしょうが、事態はそのようには動きませんでした。ユダを助けるためにエジプトから出て来たファラオの軍勢によってバビロン軍は一時的にエルサレムから引き揚げるが、その後引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼くようになる、と言われました。ゼデキヤの祈りは聞かれなかったのです。ヒゼキヤは神を恐れ、神に信頼し、へりくだって神のことばに聞き従ったのに対して、ゼデキヤはあくまでも自分の考えや思いを優先して、神のことばには聞き従わなかったからです。

すべてのことは神のみこころにかかっているのです。虚しい望みにすがって自らを欺いてはなりません。自分の思いを優先すれば、結局滅んでしまうことになります。大切なのは、自分の思いではなく、神のみこころに従うことです。それは神のことばである聖書に従って生きることです。そうすれば、神はあなたの祈りを聞いてくださり、あなたに神の御業を現わしてくださるのです。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

あなたは自分の思い通り、期待通りになることを願って、ひどく失望したことはありませんか。期待することは大切なことですが、もっと大切なことは、神に従うことです。神との関係です。それが神のみこころにかなう願いなのかどうかということです。今、神のみこころに従わせるべきあなたの思い、あなたの期待は何ですか。困難の中で、ゼデキヤのように自分の思いが優先することがないように、まず神の国と神の義を第一に求めましょう。それが、私たちが祈りをささげるときに持つべき心なのです。

.たとえ誤解されても(11-16)

次に、11~16節をご覧ください。「11 カルデアの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたとき、12 エレミヤは、エルサレムから出て行き、ベニヤミンの地に行った。民の間で割り当ての地を受け取るためであった。13 彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナンヤの子シェレムヤの子の、イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデア人のところへ落ちのびるのか」と言い、預言者エレミヤを捕らえた。14 エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところに連れて行った。15 首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、こうして書記ヨナタンの家の牢屋に入れた。そこが獄屋になっていたからである。16 エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこにいた。」

カルデアの軍勢、すなわちバビロンの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたときとは、エジプト軍の進撃でエルサレムを包囲していたバビロン軍が一時的に撤退したときのことです。そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、ベニヤミンの地に行きました。どうして彼はベニヤミンの地へ行ったのでしょうか。12節には「民の間で割り当ての地を受け取るためであった」とあります。これは既に32章で見たように、彼が従兄弟のハナムエルから買い戻したアナトテにある畑の割り当て地を決めるためだったのでしょう。アナトテの地はベニヤミン族の領地にありましたから。

しかし、彼がベニヤミンの門のところまで来たとき、そこにイルイヤという名の当直の者がいて、彼によって捕らえられてしまいました。それは、エレミヤがバ「ビロンに投降しなさい」と語っていたからです。それで彼はエレミヤがバビロンに逃亡するのではないかと疑われたのです。
 エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない。」と否定しましたが、受け入れられず、結局、彼は捕らえられて、首長たちのところに連れて行かれ、投獄されてしまいました。そこは丸天井の地下牢であったとあります。丸天井の地下牢とは、元々貯水槽のために造られたものですが、神のさばきによって雨が降らなかったために泥に覆われた劣悪な環境になっていました。エレミヤは長い間そこに監禁されることになったのです。

この時、エレミヤはどんな気持ちだったでしょう。もうやるせないというか、悔しいというか、苦しいというか、絶望的だったのではないかと思います。十分な審議や取り調べもされずに、誤解されて地下牢に入れられてしまったのですから。

こういうことが私たちにもあります。エレミヤのように投獄されるようなことはないにしても、あなたが職場や友人に自分が教会に行っているということを告げようものなら、あなたは精神的に問題があるのかとか、そんな献金をたくさん取れられるような所に出入りしていて危ないと思われるかもしれません。しかし、主イエスはこう言われました。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:10)

神の働きをしていて誤解され、不当に扱われることがあったとしても、義のために迫害され者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。エレミヤは義のために迫害されても、うそや偽りを言って自分を欺くことをしませんでした。それゆえ地下牢に閉じ込められてしまいましたが、そこにはだれも奪うことができない神から与えられる恵みと平安がありました。彼はそれを味わうことができたのです。

こんな証を聞いたことがあります。ある中国人が福音を伝えたことで監獄に入れられました。彼は自分のような足りない者が福音を伝えて投獄されたことは光栄だと喜び、その監獄の中で大声で賛美して、福音を伝えました。すると多くの囚人たちがイエス・キリストに立ち返りました。これを見た看守長は、福音を伝えられないように彼を独房へと移しました。しかし、今度は邪魔されなくてよいと言って、昼も夜も大きな声で賛美しました。結局、看守長は「この人はもうどうにもできない」と彼を釈放しました。釈放後、苦しみを受けたことは大きな感謝だったと言って、以前よりさらに一生懸命に福音を伝える者となりました。

使徒パウロもピリピで投獄されたことがありました。でもそのような苦難を受けることを恐れませんでした。なぜなら、その苦難を通して福音があらゆるところに証しされることを知っていたからです。ピリピ1章13節、14節で彼は、自分がキリストのゆえに投獄されたことによって、ローマの親衛隊全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、主にあって確信が与えられ、恐れることなく、ますます大胆に御言葉を語るようになりました。つまり、そのことが、かえって福音の前進に役立つことになったのです。彼の願いは、どんな場合でも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、彼の身によってキリストがあがめられることだったのです。

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)

かつて長谷川義信先生が説教の中で、どこを切っても金太郎飴が出てくるように、どこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方をしなさいと説教で勧められたことがありましたが、まさにそのように生きていたのです。 私たちもそうありたいですね。それは、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということを信じて疑わない信仰から生まれます。

どのような困難があろうとも、どんな病に襲われても、どうしてこういうことが起こるのかと思えるような状況に置かれても、確かにキリストは生きておられる、そして今も私と共におられる、私の人生を導いて、私をご自身の栄光の姿へと変えておられるということを聖霊によって受け入れるなら、だれもあなたから喜びと平安を奪うことはできません。誤解されればされるほど、困難な状況に直面すればするほど、悲しみが多ければ多いほど逆に信仰が強められ、さらに主に拠り頼み、主をほめたたえ、主を賛美する者へと変えられていくのです。

Ⅲ.ただ神を恐れて(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「17 ゼデキヤ王は人を遣わして、彼を召し寄せた。王は自分の家で彼にひそかに尋ねて言った。「【主】から、おことばはあったか。」エレミヤは「ありました」と言った。そして「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と言った。18 エレミヤはゼデキヤ王に言った。「あなたや、あなたの家来たちや、この民に対して、私にどんな罪があったというので、私を獄屋に入れたのですか。19 あなたがたに対して『バビロンの王は、あなたがたとこの地を攻めに来ない』と言って預言していた、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。20  今、わが主君、王よ、どうか聞いてください。どうか、私の願いを御前に受け入れ、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。私がそこで死ぬことがないようにしてください。」21 ゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。」

丸天井の地下牢に入れられたエレミヤは、長い間そこにいました。少なくとも、数週間から数か月が経過していたことでしょう。するとある日、ゼデキヤは人を遣わしてエレミヤを召し寄せ、自分の家でひそかに彼に尋ねて言いました。「主から、何かおことばがあったか。」この「ひそかに」というのが彼の特徴でした。彼はいつもひそかに行動していました。どうして彼はひそかに尋ねて言ったのでしょうか。それは彼がエルサレムの民や首長たち、そして側近たちを恐れていたからです。もしエレミヤが神からことばがあった、それはバビロンに服しなさいということだったと告げようものなら、彼らから危害を受けるかもしれないと恐れたのです。彼は王であり自由の身でありながら、その心には平安がありませんでした。いつも人を恐れていたからです。しかし、エレミヤはそうではありませんでした。彼は獄屋につながれ自由を奪われていましたが平安がありました。神を恐れていたからです。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」 (箴言 29:25)とある通りです。神を恐れるのか、人を恐れるのかです。神に背を向け、神から離れて歩むのか、それとも神とともに歩むのかの違いです。人にどう思われるかを判断基準にするのでなく、御言葉を判断基準にして行く時、神はその心に深い平安を与えてくださるのです。

不安におののきながら質問するゼデキヤに対して、エレミヤはこう答えました。「ありました」。それを聞いたゼデキヤは、「おう、どういう内容か」と興奮したことと思います。しかし、その内容は、これまでエレミヤが語ってきたことと全く変わらないものでした。それは17節にあるように、「あなたはバビロンの王の手に渡されます。」ということでした。そんなことを言ったらゼデキヤ王は喜ばないということがわかっていても、あるいは、たとえ獄屋につながれているような状態でも、それでもゼデキヤにおもねることなく、真実だけを語ったのです。

それに対して、ゼデキヤの預言者たちはどうでしたか。彼らは19節にあるように、「バビロンの王は、あなたとこの地を攻めに来ない。」とゼデキヤが安心するようなことを語っていましたが、バビロンによってエルサレムが包囲されると、彼らは一目散にどこかへ逃げて行ってしまいました。彼らは偽りの言葉を語っていただけでなく、その行動も、忠誠心もすべて偽りだったのです。

箴言にこんなことばがあります。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17:17)
  このことで、本当の友は誰だったのかが明らかになりました。本当の友はゼデキヤの預言者たちではなく、エレミヤ本人であったということが明らかにされたのです。エレミヤはエルサレムが滅ぼされた後もそこに続けて、残りのユダヤ人と一緒に暮らすことを選び、そして彼らがエジプトに下ったときも彼らと一緒にいました。ユダヤ人はエレミヤの言葉を嫌い偽預言者の言葉を好みましたが、最後まで一緒にいてくれたのはエレミヤでした。エレミヤこそ、神の真実な愛を持った本当の友だったのです。

ですから、人の言葉には気を付けなければなりません。その時は調子がいいことを言っても、すぐに手のひらを反すかのような行動を取るからです。いつもコロコロ変わるのです。ですから、たとえそれがあなたにとって耳ざわりの良い言葉であっても、心地よい言葉であっても、それが真理であるとは限らないのです。パウロは「教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりすることなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらなるキリストに向かって成長するのです。」と言っています。この世には様々な教えの風が吹いていますが、そうした教えに注意しなければなりません。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。

先日、エホバの証人の方が来られて「これ読んでください」と1枚のトラクトを渡してくれました。そのトラクトのタイトルは「世の中これからどうなる?」というものでした。1つ選ぶとしたら・・・ ・良くなっていく ・悪くなっていく ・どちらとも言えない
 とても興味のあるタイトルですね。「世の中これからどうなる?」皆さん、世の中これからどうなりますか?そのトラクトには、「あなたには将来と希望がある」(エレミヤ31:17)のみことばを引用して、こんな希望があると書かれてありました。
・楽しくてやりがいのある仕事ができるようになる。
・病気や災害で苦しむことがなくなる。
・家族や友達といつまでも幸せに暮らせる。
この希望が実現するためには、実現させる力、すなわち神が必要であること。もう一つは、実現させたいという気持ちを持つこと。神様は世の中の悪いことを全部なくすと約束している。
 皆さん、どう思いますか。本当に聖書はそのように言っているでしょうか。そうではありません。そのトラクトに書いてあることは主イエスが再臨した後にもたらされる千年王国においてのことであって、それまでこの世が良くなることはありません。もっと悪くなります。これが聖書が言っていることです。表向きは心地よいことばであっても、それが真理でなかったら滅びに向かうことになってしまいます。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。

このエレミヤの真実な訴えに対して、ゼデキヤは命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせました。こうしてエレミヤは監視の庭にとどまることになりました。死の危険を身に覚えた地下牢の獄屋から、監視の庭での監禁生活を続けることになったのです。真実に生きるエレミヤを、神が守ってくださったのです。

あなたはどうでしょうか。こんなことを言えば嫌われてしまうのではないかと、人を恐れてひそかに語っていませんか。それともエレミヤのように、相手が王であろうと誰であろうと、たとえ相手が喜ばないとわかっていても、その人におもねることなく、真実の言葉を語っているでしょうか。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」

これを実行したのはエレミヤでした。私たちも真実の愛に生きるものでありたいと思います。それは人を恐れ、おもねるような心からではなく、神を恐れ、神と共に歩む真実な心から生まれるのです。

エレミヤ書36章1~32節「焼かれても、再び」

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今日は、エレミヤ36章全体からお話します。少し長い箇所ですが、全体を通して見ていきます。その方が流れを掴むことができわかりやすいと思います。今日のメッセージのタイトルは「焼かれても、再び」です。主はエレミヤに、あなたは巻物を取り、これまで語ってきたことを書き記すようにと命じたので、エレミヤは書記のバルクを呼んで主のことばを口述筆記させましたが、それを知ったユダの王、ヨシヤの子エホヤキムは、その書き記された神のことばを、暖炉の火で燃やしてしまいます。もうこれで終わりかと思いきや、主は再びエレミヤに、もう一つの巻物を取って、エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せと言われました。プラス、さらに同じような多くのことばもそれに書き加えられました。それが、私たちが今持っているエレミヤ書です。結果的に、最初の巻物が焼かれることによって神はもっと内容が豊かで、また詳しく明瞭な形でご自身のことばを残してくださいました。神のことばは決して滅びることはありません。この神の言葉を握って離さず、それに従って歩むなら、どんな困難の中でも、知恵と力が与えられ、真っ直ぐに進むことができます。走っても倒れることはありません。御言葉を握る人には勝利と祝福が与えられるからです。

Ⅰ.巻物に書き記されたみことば(1-10)

まず1~10節をご覧ください。1-3節をお読みします。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」

これは、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年のことです。エホヤキムの第四年とは紀元前605年のことです。これは35章でレカブ人の忠実さの話がありましたが、それよりも更に数年前の出来事です。この年は古代近東の国際情勢においては重要な年でした。それはこの年にバビロンがユーフラテス河畔のカルケミシュでアッシリアを滅ぼし、そのアッシリアを助けようとしてやって来たエジプトも壊滅的に討ち破ることによって、その覇権を確立した年だからです。そしてこの年にネブカドネツァルがナボポラッサルに代わって正式に王位を継承しました。その年に主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節と3節です。

 「2あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」

主はエレミヤに、ヨシヤの時代から今日までの間に、主が彼に語ったことばをみな、巻物に書き記すようにと言われました。エレミヤが預言者として召されたのはヨシヤ王の治世の第13年ですから、紀元前627年のことです。その時からこの時に至るまでの約20数年の間に主が彼に語られたことことばをみな、巻物に書き記すようにというのです。いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。それは語られた神のことばを文字にすることによってそれをユダの民に明確に伝えるためです。皆さんもそうでしょう。「私は説教を聴いても、こっちの耳から入ってすぐこっちの耳から出ていくんですよ!」と言われるのをよく聞くことがありますが、御言葉を聞くだけだとなかなか記憶に残すことができません。それで神はこのように巻物に書き記すことによっていつでもその内容を確かめることができるようにしたのです。それは1日や2日でできるものではありません。数日間、あるいは数十日に及ぶ大仕事だったでしょう。それでも神がエレミヤにそのように命じられたのは、3節にあるように、もしかすると、主が彼らに下そうとしているわざわいを聞いて、彼らがそれぞれ悪の道から立ち返るかもしれないと思われたからです。そうすれば、主も彼らの咎と罪を赦すことができます。つまり、主がエレミヤにご自身のみことばを書き記すようにと言われたのは、ユダの民の罪、咎を赦すためだったのです。主はどこまでもあわれみ深い方です。あなたの下には永遠の腕があるのです。

4節をご覧ください。それでエレミヤは、ネリヤの子バルク呼びました。口述した主のことばを巻物に書き記すためです。それは、この時エレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行けなかったからです。なぜ彼は閉じ込められていたのでしょうか。それは彼が神殿で語った説教に対して、当時の祭司や預言者たちが反感を持っていたからです。たとえば、6章には、当時の預言者や祭司たちが、平和がないのに「平和だ、平和だ」と言っているのを聞いたエレミヤは、それは偽りだと糾弾しました(6:14)。また、7章には、彼らが「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と語っていたのに対して、そういうことばに騙されてはならない、と叫びました。それよりも、あなたがたの生き方と行いを改めるようにと(7:4-5)。そうしたエレミヤの態度に対して、エホヤキム王はじめ当時の宗教指導者たちが怒り、彼が主の宮に出入りできないようにしていたのです。

しかし、いかなる人間も、いかなる方法も神のことばを妨げることはできません。神のことばを語れないならば文書によって、自分が監禁されて語れないならば代理者を通してでも、神はご自身のことばが語られるようにされたのです。エレミヤはバルクを呼び、エレミヤに語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記しました。そしてその巻物に記された主のことばを、断食の日に主の宮で民に読み聞かせました。それはユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第五年、第九の月のことです。ということは、この巻物が書き記されるまでに約1年のかかったということです。バルクは、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、断食が布告された日に、主の前でこれを読み聞かせました。

それは第九の月の断食の日でした。この第九の月の「断食の日」とは、大贖罪日と呼ばれる日で、ユダの民にとって特別な日でした。この日は悔い改めと罪の赦しを受ける日なのです。この日は過去も現在も、イスラエルの民にとって最も大切な日の一つになっています。今日のイスラエルでも、この日はすべての仕事が休みとなり空港すら閉鎖されるという、イスラエルの暦において最も厳粛かつ重要な日なのです。その日にはすべての民は断食して、これまで犯してきた罪を悔い改め、神に赦しを願うのです。そのような日にバルクは神殿でエレミヤから託された巻物を読み上げたのです。それは、人々に悔い改めを促すには最もふさわしい日でした。

神のことばは、誰が伝えても同じ力を現わします。ですから、「誰を通して」伝えられるかが重要なのではなく、「誰の」ことばが語られるのかが重要なのです。エレミヤが伝えた時も神の力が現れましたが、バラクが書き記した御言葉を読んだ時も同じ力が現れました。それは彼らが伝えたことばが全能なる神のことばだからです。バラクは神のことばを書き記すのに1年もかかりました。バラクはそれを主の前で断食が布告された日に、書記シァファンの子ゲルマヤの部屋で、すべての民の前で民全体に聞こえるように、大胆に読み上げました。何が彼をこんなに勇敢な者に変えたのでしょうか。それは神のことばに対する信頼です。神のことばに対する信頼こそ、私たちをもそのような者に変えるのです。

.焼かれた神のことば(11-26)

そのバルクが語った神のことばに対して、人々はどのように応答したでしょうか。次に、11~26節をご覧ください。まず20節までをお読みします。「11 シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤは、その書物にあるすべての【主】のことばを聞き、12 王宮にある書記の部屋に下ったが、見よ、そこには、すべての首長たちが座っていた。すなわち書記エリシャマ、シェマヤの子デラヤ、アクボルの子エルナタン、シャファンの子ゲマルヤ、ハナンヤの子ゼデキヤ、およびすべての首長たちである。13 ミカヤは、バルクがあの書物を民に読んで聞かせたときに聞いた、すべてのことばを彼らに告げた。14 すべての首長たちは、クシの子シェレムヤの子ネタンヤの子ユディをバルクのもとに遣わして言った。「あなたが民に読んで聞かせたあの巻物、あれを手に持って来なさい。」そこで、ネリヤの子バルクは、巻物を手に持って彼らのところに入って来た。15 彼らはバルクに言った。「さあ、座って、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。」そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。16 そのすべてのことばを聞いたとき、彼らはみな互いに恐れおののき、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをすべて、必ず王に告げなければならない。」17 彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、あなたがこれらのことばをすべて、どのようにして書き留めたのか、私たちに教えてくれ。エレミヤが口述したことばを。」18 バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらのことばをすべて私に口述し、私は墨でこの書物に記しました。」19 すると首長たちはバルクに言った。「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」20 彼らは巻物を書記エリシャマの部屋に置き、王宮の庭にいる王のところに行って、このすべてのことを報告した。」

神のことばは生きていて力があります。両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します(ヘブ4:12)。バラクが読んだ御言葉は大きな反響を巻き起こしました。エレミヤの預言にこれといった反応を示さなかった首長たちが、巻物の内容を確かめたいと、バルクに求めたのです。そこでバルクは彼らの前で再び巻物に記された御言葉を読みました。バルクが御言葉を読んでいる間、16節にあるように、御言葉が彼らの心を刺し通したので、彼らは驚きと恐れでいっぱいになりました。そこには重大な警告とさばきの内容が込められていたからです。さばきの内容とは、バビロンによって滅ぼされるということです。すると彼らは、このことは必ず王に告げなければならないと言いました。しかし、そうなれば彼らの身に危険が迫るのではないかと心配して、バルクにこう言いました。19節です。

「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」

神のことばによって心が動かされた首長たちは、行動によってその変化を表しました。エレミヤの自由を拘束していた彼らはエレミヤとバルクをかくまい、巻物を王にもっていく伝達者となりました。こうした劇的な行動の変化の中心には、いつも神のことばがあります。神のことばによって神を恐れる心が、私たちの行動を変えるからです。

次に、21~26節をご覧ください。ここにはその神のことばを聞いたエホヤキムの反応が記録されてあります。「21 王はユディに、その巻物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。23 ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。24 これらすべてのことばを聞いた王も、彼のすべての家来たちも、だれ一人恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった。25 エルナタンとデラヤとゲマルヤが、巻物を焼かないようにと王に懇願しても、王は聞き入れなかった。26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、【主】は二人を隠された。」

この巻物のことを聞いたエホヤキム王は、ユディに命じてそれを取りに行かせました。ユディはそれを書記エリシャマの部屋から取ってくると、それを王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせました。すると王は、とんでもない行動に出ました。何とそれを小刀で裂いては暖炉の火の中に入れてしまったのです。そして巻物のすべてを暖炉の火で焼き尽くしてしまいました。それは第九の月のことでした。ユダヤの暦の第九の月とは、私たちの暦では11月の終わりから12月にかけての頃ですが、海抜800メートルにあるエルサレムの冬は寒さが大変厳しくなります。部屋には暖炉がたかれていました。するとユディが3,4段落を読むごとに、エホヤキム王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火の中に入れたのです。これらのことばを聞いても、王も家来たちもだれ一人恐れおののくことなく、衣を引き裂くこともしませんでした。悔い改めようとしなかったのです。巻物を燃やすことに反対する人はいましたがそれはごく小数の人たちで、大半の人たちはそうではありませんでした。そればかりか、王はバルクとエレミヤに逮捕状を出し、彼らを捕らえるようにと命じたのです。

しかし、主が二人を隠されました(26)。どのように隠されたのかはわかりません。ただ言えることは、主のことばを信じそこに生きる人には主の守りがあるということです。どうしてそのようになったのかはわからないけれども、神様が成してくださったとしか言いようがない場合があります。皆さんもそういうことを体験したことがあるのではないでしょうか。私もたくさんあります。人間的には考えられないことを神様が成してくださったということが。それはまさに神様の不思議であり、神様の御業です。神に信頼する者には必ず神の恵みと神の祝福だけでなく、神の守りがあるのです。

ここで一つ考えてみたいことは、実はこの出来事の約20年前に、彼の父親であるヨシヤ王が神殿修復の際に「律法の書」を発見した時どのような態度を取ったかということです。それはエホヤキム王とは正反対の態度でした。彼らは親子ですが、彼らほど対照的な親子も珍しいと思います。ヨシヤ王は書記シャファンが巻物に記された「律法の書」を朗読したとき、深い悔い改めを表しました。Ⅱ列王記22章11節にはこうあります。

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」

ヨシヤ王は神のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いて悔い改めました。彼はまず自分自身が真剣に悔い改め、そして民にも悔い改めを求めました。それ以降、ユダ王国ではヨシヤの宗教改革と言われる霊的リバイバルが起こったのです。その結果、神はヨシヤ王と民を祝福されました。しかしその子どもであるエホヤキム王は、父がしたように衣を裂いて悔い改めることをしませんでした。むしろ、自分が気に食わない神のことばを聞いてそれを焼き、滅ぼそうとしたのです。神のことばをいのちと祝福として受け入れる人は神の祝福を受けますが、そんなの関係ない、不必要なものだとみなす人は、神の怒りを免れることはできません。

最近、私たちの教会のために毎月祈りをもって捧げてくださっている方からこんなメールがありました。
  「先生、こんばんは。私は、人手不足なので助けて応じ介護施設で働き始めました。しかし、ベテラン職員の思わぬイジメに合いました。一部職員が職員を、入居者さんを感情むき出しに声を荒げています。悲しいです。仕事が仕事だけについ感情的になるのでしょう。僕は、イエス様が弟子の足を洗った様にこれでいいかなと自問しながら仕事をしてます。」
  これが神を恐れる人とそうでない人の違い、神のことばに従って生きる人とそうでない人の違いです。神のことばに従って生きる人は、イエス様が足を洗った様に生きます。そしてそこには神の祝福が必ずもたらされるのです。

私は毎年、赤い羽根の共同募金に協力させていただいているのですが、集金に来られた方がこういうのです。「教会に来られる方はみんな、何と言うか、お顔が優しいですよね。この前教会の前を通った時そこに2~3人のご婦人たちがいたのでお話させていただいたんですが、皆さんとてもほがらかでした。それはやっぱりキリスト教の教えから来ているんですかね。」
  私はそれを聞いて、正直、とても嬉しかったです。もしかすると募金に協力したので少し良いことを言おうと思ったのかもしれませんが、神のことばは生きているなぁと思いました。神のことばを聞いてそれを受け入れ、それに従って生きる人は、神が祝福してくださり、そのようにお顔まで穏やかになるんだと。これは本当だと思います。もしこれが週1回の礼拝だけでなく毎日だったら、どれほど穏やかな顔になるでしょう。

1840年、ロンドンのある洋服屋に、一見何の取り柄もなさそうな店員がいました。彼は御言葉を愛し、毎日御言葉を読みました。今日で言えば、毎日喜んでディボーションをして神を喜んでいるような人です。そんなある日、彼は自分の人生を変える御言葉を目にしました。

「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(Ⅰコリント15:2)

この御言葉を読んだ瞬間、彼は「これだ」と思いました。そして、彼はすぐにその御言葉を握り締めました。何の取り柄もない自分のような者でも、御言葉を固く握るなら、主は必ず用いてくださると確信したのです。そして、数人の青年たちとともに日曜日ごとに集まりを始めました。それがYMCAの始まりでした。皆さんは、YMCAを始めた人をご存知でしょうか。ジョージ・ウイリアムズという人です。あの有名なジョン・ワナメーカーではありません。ジョン・ワナメーカーはYMCAの建物を建てた人ですが、YMCAを始めた人はジョージ・ウィリアムズです。
  御言葉を握る人には神の恵みと祝福があります。そして神はそのような人をご自身の働きのために用いてくださいます。そして主が用いる人を、主は必ず守ってくだるのです。

バルクが読み上げた御言葉によって変えられた首長たちは、巻物の内容をエホヤキムに伝えました。彼らの願いは巻物に記された預言のことばを聞いて、エホヤキム王が変えられることでした。しかし王はそれを受け入れるどころか、エフディが読み上げるごとにそれを裂いて暖炉に投げ入れました。エホヤキムの態度は、神のことばを聞いて嘆き悲しみ、衣を裂いて悔い改めた父のヨシヤ王とはあまりにも対象的でした。神のことばはすべての人に平等に与えられていますが、すべての人が同じ反応をするとは限りません。あなたはどのような反応をしていますか。ヨシヤ王のようにそれを聞いて衣を裂いて悔い改めていますか。それとも、このエホヤキム王のようにそれを軽んじ暖炉に燃やすでしょうか。どのように受け入れるかは、あなたの選択にかかっているのです。

Ⅲ.決して滅びない神のことば(27-32)

エホヤキム王によって暖炉の火に燃やされた神のことばですが、それで滅びてしまったかというとそうではありません。神のことばは決して滅びることはありませんでした。27~32節をご覧ください。「27 王が、あの巻物、バルクがエレミヤの口述で書き記したことばを焼いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。28 「あなたは再びもう一つの巻物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せ。29 ユダの王エホヤキムについてはこう言え。【主】はこう言われる。あなたはこの巻物を焼いて言った。『あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの地を滅ぼし、ここから人も家畜も絶えさせる、と書いたのか』と。30 それゆえ、【主】はユダの王エホヤキムについてこう言われる。エホヤキムには、ダビデの王座に就く者がいなくなり、彼の屍は捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。31 わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し、彼らとエルサレムの住民とユダの人々に対して、わたしが告げたが彼らが聞かなかった、あのすべてのわざわいをもたらす。」32 エレミヤは、もう一つの巻物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書き記した。さらに同じような多くのことばもそれに書き加えた。」

エホヤキム王は巻物を燃やしてしまいましたが、それで神のことばが破壊されたわけではありません。その後、主はエレミヤに、焼かれた巻物に書かれた内容をもう一度書き記すようにと命じられました。時間をかけてやっと完成した巻物が焼かれてしまった後で、再び初めから書き直すという作業は、いかに困難で忍耐を要することでしょうか。

まだワープロの時代です。私が牧師になって10年くらい経った頃でしょうか、ワープロを使って毎週日曜日の説教の原稿を書いていました。今もそうですが、私は昔から完全原稿と言って、一字一句すべて書く完全原稿を書くようにしています。そうすれば、あとはレンジでチンするだけで済みますから。そのワープロで土曜日の夜、翌日の説教の原稿を書いて完成したときです。まだ3歳くらいだった二番目の娘がそのワープロと遊んでいて、デリートキーを押してしまったのです。私は青ざめました。何時間もかけて完成した説教の原稿です。それが一瞬にして消えてしまったのです。私は元々こうした機器の取り扱いが苦手で、もしかするとCtrlキー+Zで復元できたのかもしれませんが、そんな知識など全くなかった私はただオドオドするばかりでした。「どうしよう。明日の朝までもう1回書かなければならないのか」何時間もかけて書いた説教をもう一度書くなんて考えられません。でもやるしかありませんでした。娘には「絶対触っちゃだめだからね。」と厳しく叱りつけ、そして一晩かけて一から書き直したのです。それを考えたら、1年以上もかけて書き上げた巻物をすべて失ってしまい、その後で、「もう一度初めから書くように」と言われたら、再度、それに取り組む意欲が起こるだろうかと、考えてしまうところです。

しかし、エレミヤは、もう一つの書物を取ってそれをバルクに与え、バルクは再びエレミヤが口述した内容を書き記しました。何という忍耐深さ、何という行動力でしょうか。それは神のことばはどんなことがあっても決して滅びることはないということを示しています。だれかが聖書を撲滅しようとも、神のことばである聖書は決して滅びることはありません。フランスの哲学者ヴォルテールは、「キリスト教が確立するまで数世紀かかったが、私は、一人のフランス人が50年間でこれを破壊できることを示そう。」と豪語しましたが、彼が死んで20年経ってから、そのヴォルテールの家をジュネーブ聖書協会が買い取り、そこで聖書が印刷されるようになりました。人々がどのように神のことばから逃れようとしても、神のことばは決して滅びることはないのです。

それどころか、最初の巻物は焼かれましたがそれによってよりすばらしい第二の巻物が完成しました。第一の巻物はヨシヤの時代からエホヤキムの治世の第四年までの預言でしたが、第二の巻物はそれ以降の新しい預言も含まれたものだからです。私たちが今手にしているエレミヤ書は、この第二の巻物が書かれたものです。それは最初のものよりも更に詳しく、さらに内容が豊かになったものです。神の計画や神のことばを破壊しようとする試みは必ず失敗に終わります。しかし、神のことばは決して滅びることはありません。第二の巻物が新たに書き記されることによって伝承され続けました。神殿が焼失し、国が滅び、民が祖国から切り離され捕囚とされることがあっても、神のことばは人々に命を与えることばとして残ったのです。しかし、神のことばを無きものにしようとしたエホヤキムの行為は、ダビデ王家とその王国、その領土を失うことを決定付けました。このことにエホヤキムは気付きませんでした。そこに気付くことから真の悔い改めが生まれます。そのために神のことばは新たに書き直され、残っているのです。ここに希望があります。神のことばは絶対に滅びることはありません。そればかりか、神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。今もあなたの心に力強く働いてくださいます。この神のことばに信頼し、神のことばに堅く立ち続けましょう。神は必ずあなたの人生の中に働き、あなたが考えられないような不思議な御業を成してくださいますから。

エレミヤ書35章1~19節「レカブ人から学ぶ」

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きょうは、エレミヤ35章から、「レカブ人から学ぶ」というタイトルでお話します。レカブ人とはモーセのしゅうとイテロの子孫でミディアンの地に住んでいた遊牧民族ケニ人の子孫と考えられています。彼らは、イスラエル人がモーセによってエジプトから救い出され時、イスラエル民族に加わり、エルサレム近郊に定住しました。そのケニ人の話がここに出てくるのです。なぜでしょうか?レカブ人の模範的な態度を取り挙げることによってユダの民の罪を指摘するためです。良い手本を挙げて過ちを指摘するのは効果的です。その良い手本とはどのようなものでしょうか。それはどこまでも妥協しない忠実な生き方です。彼らは異邦人でありながら、先祖レカブが自分たちの命じたことばに従って誠実さを貫きました。その忠実な態度がここで主に称賛されているのです。それに対してイスラエルはそうではありませんでした。彼らは先祖の言葉どころじゃない、最も大切な方である神の言葉に聞き従おうとしませんでした。
 それはユダの民だけのことではありません。それは私たちにも言えることです。私たちは主イエスによって罪から救い出され神の民となったにも関わらず、あまりにも簡単に神への忠実さを忘れて、自分の思いを優先させてしまっていることはないでしょうか。レカブ人たちは確かに狭いところはありますが、彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり表明し、その信仰の現れとして、日々御言葉に従って生きる誠実さが求められているのです。しっかりと神の御言葉に聞き従う者となるために、レカブ人の誠実な生き方から学びたいと思います。

Ⅰ.レカブ人から学ぶ(1-11)

まず1~11節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」3 そこで私は、ハバツィンヤの子エレミヤの子であるヤアザンヤと、その兄弟とすべての息子たち、レカブ人の全家を率いて、4 【主】の宮にある、イグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。それは首長たちの部屋の隣にあり、入り口を守る者、シャルムの子マアセヤの部屋の上であった。5 私は、レカブ人の家の子らの前に、ぶどう酒を満たした壺と杯を出して、「酒を飲みなさい」と言った。6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。11 しかし、バビロンの王ネブカドネツァルがこの地に攻め上ったとき、私たちは『さあ、カルデアの軍勢とアラムの軍勢を避けてエルサレムに行こう』と言って、エルサレムに住んだのです。」

1節に「ユダの王、エホヤキムの時代に」とあります。前回の34章はユダの王ゼデキヤの時代のことでしたから、さらにそれ以前の話となります。ちなみに、ユダの王はゼデキヤの前がエホヤキン(エコンヤ)、その前がエホヤキムです。ここではそのエホヤキムの時代のことが取り上げられているのです。年代的には、紀元前597年の第二次バビロン捕囚の少し前になります。その時代に、主からエレミヤに次のようなことばがありました。

「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」

レカブ人とは、先程お話したようにそのルーツはモーセのしゅうとイテロで、もともとミディアンの地に住んでいた民族ですが、イスラエルがエジプトを出た時、彼らと一緒にカナンに来てそこに定住しました。そのレカブ人の家に行って彼らに語り、主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよというのです。不思議な命令です。何か祝い事でもあったのでしょうか。そうではありません。レカブ人たちの忠実さを試そうとしたのです。レカブ人はぶどう酒を飲みません。それは6節にあるように、先祖ヨナタブが「あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。」と命じていたからです。それはこの時から約200年も前のことです。ヨナタブが命じたのは実はそれだけではありませんでした。7節にあるように、家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、所有したりしてはいけないということも命じていました。いったいなぜ彼はこんなことを命じたのでしょうか。それは当時の北王国イスラエルではバアル礼拝が盛んに行われていたからです。そしてその原因は都市型の生活を送っているからだと考えたのです。都市型の生活をしていると世俗化し、偶像礼拝に陥りやすいと感じた彼は、自分の子孫たちがそうならないために、この誓いを守り通すようにと命じたのです。その一つのことがぶどう酒を飲んではならないということだったのです。それなのに主はそのレカブ人の家に行って、彼らに酒を飲ませよと言われました。なぜでしょうか。それは彼らの忠実さを試すためでした。彼らが先祖ヨナタブの命令にいかに忠実であるかをイスラエルに示すためだったのです。忠実さはイスラエルの民が最も必要としていたことでした。サタンは、罪を犯させるために私たちを誘惑しますが、しかし神は、私たちの信仰を成長させるために私たちを試されます。エレミヤの勧めに対して、レカブ人はどのように応答したでしょうか。6~7節をご覧ください。

「6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。」

レカブ人たちはすぐにエレミヤのことばを拒絶しました。彼らの先祖ヨナタブの命令に背くことなどは、彼らには考えられないことだったからです。続いて彼らはこう言いました。8~10節です。

「8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。」

彼らは先祖ヨナタブが命じたすべての命令に聞き従ってきました。この時点ですでに200年も経過していました。それでも彼らはずっと先祖ヨナタブの命令を守り、そういう生活を続けてきたのです。聖書には禁酒禁煙も天幕生活も命じられていません。勿論、あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮であり、その自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい(Ⅰコリント6:19-20)という御言葉に照らし合わせて考えると、お酒やたばこは避けた方が鶏鳴なのは確かです。でもそれはお酒やたばこに限らず、からだに悪影響を及ぼすすべてのことに言えることでしょう。しかし、彼らがそうした生活を貫き通したのはそうした理由からではなく、自分たちの弱さや不安定さのゆえに、他民族に隷属しない生き方をするためにはこの戒めを守ることが必要だと判断したからです。

「朱に染まれば赤くなる」という言葉がありますが、それは人との出会いや付き合いがそれだけ重要だという意味です。モーセの子孫であるレカブ人は、カナンでの生活と宗教に反対し、ぶどう酒も飲まず、天幕生活を続けました。彼らは世俗から離れて暮らすことによって、物質的な豊かさよりも、先祖との霊的交わりを重視したのです。

聖書の中には、彼らと同じように世俗を離れ、荒野で暮らし、主との濃密な霊的交わりを保とうとした人たちがいます。たとえば、バプテスマのヨハネはその一人でしょう。彼は荒野で叫ぶ声となって、主が来られるために人々の心を備えました。彼はらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜でした。

旧約聖書に出てくる「サムソン」もそうです。彼はナジル人といって神から特別な使命が与えられて生まれてきた者として、ぶどう酒は飲んではならない、汚れたものには触れてはならない、頭にかみそりをあててはならないという決まりがありました。残念ながら彼はそれをいとも簡単に破ってしまいましたが・・。

現代ではカトリックの修道院などはその一つです。彼らは世俗から離れてただひたすら祈りとみことばに励んでいます。

しかし、レカブ人たちは先祖ヨナタブが自分たちの祝福のためにはこれを守らなければならないということをずっと守り通してきたのです。彼らは何から何まで融通のきかない人たちだったわけではありません。11節には、彼らがエルサレムに定住するようになったいきさつが記されてありますが、それはバビロンの王ネブカドネツァルが北イスラエルを支配していたアッシリアを攻め上って来たのでそれを避けるためでした。それまで彼らは北王国イスラエルを転々としていましたが、その危険から身を避けるためには先祖レカブの命令から外れても安全に住むことができるエルサレムに定住したのです。つまり、彼らは定住してはならないというレカブの命令に固執しなかったということです。しかし、生き方については拘りを見せました。たとえ、主の宮に招かれ、神の人である預言者エレミヤから酒を飲むようにと勧められても、それを拒否しました。それを200年も250年も続けて来たのです。確かにレカブ人の考え方はセクト的で狭いと思われるかもしれません。彼らは世俗の文化を拒否し、禁欲し、神の言葉よりも教祖の言葉を重んじます。しかし彼らのそうした揺るがぬ信仰とその純粋性には学ぶべきものがあるのではないでしょうか。

みなさんは、アーミッシュをご存じでしょうか。アーミッシュは、16世紀のオランダ、スイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れをくむプロテスタントの一派ですが、彼らは基本的には、農耕・牧畜を行って、自給自足で生活しています。自分たちの信仰生活に反すると判断した新しい技術や、製品、考え方は拒否します。この現代において、自動車を使わず馬車に乗っているのですよ。電気は引いていません。もちろん、テレビ、パソコン、家電などは使いません。風車・水車の蓄電池を使ったり、ガスでうっすら明かりをつけたり、調理したりしています。中には、それすら使わない人たちもいるそうです。収入は、キルトや蜂蜜の販売、一部の地域では、レストランや馬車での観光を行って得ています。現在、北アメリカに約38万人、世界に約85万6000人いるといわれていると言われています。

アーミッシュには、神との霊的交わりを保つために、『オルドゥヌング』という戒律があります。それは以下のようなものです。
・交通手段は馬車を用いる。屋根付きの馬車は大人にならないと使えない。
・ アーミッシュの家庭においては、家族のいずれかがアーミッシュから離脱した場合、たとえ親兄弟の仲でも絶縁され、互いの交流が疎遠になる。
・怒ってはいけない。喧嘩をしてはいけない。
・読書をしてはいけない(聖書と、聖書を学ぶための参考書のみ許可される)。
・讃美歌以外の音楽を聴いてはいけない。
・避雷針を立ててはいけない(雷は神の怒りであり、それを避けることは神への反抗と見なされるため)。
・義務教育(8年間)以上の高等教育を受けてはいけない。それ以上の教育を受けると知識が先行し、謙虚さを失い、神への感謝を失うからだとされる。
・化粧をしてはいけない。派手な服を着てはいけない。(決められた服装がある)
・保険に加入してはいけない(予定説に反するから)。

などなど。他にもたくさんの戒律がありますが、原則として、快楽を感じることは禁止されています。このような戒律を破った場合、懺悔(ざんげ)や奉仕活動の対象となります。改善が見られない場合はアーミッシュを追放され、家族から絶縁されることもあるそうです。

ここまでいくとどうかなぁと思いますし、私たちは彼らのような狭い考え方に倣わなければならないということはありませんが、彼らの愚直なまでの誠実さには学ぶべきものがあるのではなでしょうか。私たちは神に選ばれて救われ、神の民とされた者として、どれだけ神の言葉に忠実に生きているでしょうか。人から何かを勧められた時、それをみことばと照らし合わせて、譲れないものは譲れないと、確固たる生き方をしているでしょうか。私たちはレカブ人がカナンに定住しながらもその文化や習慣に流されないで生きていたように、この世にあって神の御言葉にしっかりと立った生き方が求められているのではないでしょうか。

Ⅱ.ユダの民の不従順(12-17)

次に、12~17節をご覧ください。「12 すると、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言う。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『あなたがたは訓戒を受け入れて、わたしのことばに聞き従おうとしないのか──【主】のことば──。14 レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲んでいない。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。15 わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、行いを改めよ、ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない、わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住め、と言った。それなのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。16 実に、レカブの子ヨナダブの子らは、先祖が命じた命令を守ってきたが、この民はわたしに聞かなかった。17 それゆえ──イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる──見よ。わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らは聞かず、わたしが彼らに呼びかけたのに、彼らは答えなかったからだ。』」」

主はなぜエレミヤに、レカブ人にぶどう酒を飲ませよとの命令を与えたのでしょうか。主はここでその理由を説明されます。それはユダの民の不従順さを責めるためです。レカブ人たちは、先祖の命令を守りぶどう酒を飲まなかったのに対して、ユダの民は、預言者が語り続けた神の言葉に聞き従わず、自分勝手な道を歩んできました。人は信頼する相手のことばに耳を傾けるものですが、ユダの民にはそのような態度が見られませんでした。15節には、「ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない」とありますが、これは十戒の第一戒の戒めを破ることでした(出エジプト20:3)。それゆえ、イスラエルの神万軍の主は、ユダとエルサレムの住民に、「すべてのわざわいを下す」と言われたのです。具体的には、バビロン捕囚という出来事です。エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、その住民はバビロンに捕え移されることになります。

しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、ここでレカブ人たちが称賛されているのは彼らの信仰ではなく、彼らが家を建てないで荒野に住んだことや、ぶどう畑を所有しなかったことではなく、あくまでも先祖レカブの命令にどこまでも忠実であったという点です。というのは、モーセの律法では逆にそのようにするようにと命じているからです。もし彼らがイスラエル人であるなら、彼らは家を建て、ぶどう畑を所有し、定住生活をしなければなりませんでした。しかし、彼らは異邦人であったためその必要がなかっただけのです。ですから、彼らが称賛されたのはそういう点ではなく、あくまでも先祖の命令にどこまでも忠実であった、誠実であったという点においてなのです。この点を見落としてはなりません。

Ⅲ.レカブ人たちへの祝福(18-19)

一方、レカブ人たちには祝福が宣言されます。18~19節をご覧ください。「18 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った。19 それゆえ──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない。』」」

レカブ人たちへの祝福は、「レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない」ということです。どういうことでしょうか。「わたしの前に立つ人」というのは、祭司職を意味する表現ですが、先程も申し上げたように、彼らは異邦人で先祖を信仰していたので、「神殿に仕える人」という意味ではなさそうです。この「神の前に立つ人」とは、永遠に途絶えることがないという意味です。つまり、今日でもこの地上のどこかにレカブ人の子孫が生存していることになります。ただイザヤ書66章18~21節には、千年王国においてはイスラエル人だけでなく、異邦人の祭司も立てられると預言されているので、もしかするとその中にレカブ人も含まれるということを示しているのかもしれません。いずれにせよ、レカブ人は先祖の命令に聞き従い、そのすべての命令を忠実に守り、彼が命じたとおりに行ったので、神から祝福されたのです。

これはレカブ人だけではありません。私たちにも求められていることです。異邦人のレカブ人がその先祖の命令に対してそこまで忠実に守り続けてきたのならば、神に選ばれてクリスチャンとされた私たちは、神に対してもっと忠実でなければなりません。彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとして、日々神の言葉に従って生きるという誠実さが求められているのです。

皆さんは、NHKの朝の連続テレビ小説の「とと姉ちゃん」をご存知でしょうか。これは、戦後すぐに創刊され、日本中の多くの家庭で読まれた生活総合雑誌「あなたの暮らし」の創刊した大橋 鎭子(しずこ)をモデル化した小説ですが、主人公の常子の家には父竹三が決めた3つの家訓がありました。それは、一つ。朝食は家族皆でとること。一つ。月に一度、家族皆でお出掛けすること。一つ。自分の服は自分でたたむこと。父竹三は娘とたちが幼いうちに病気で亡くなりますが、この家訓は生きていて、この家族はこの家訓に従って生きていくのです。
 昔は、多くの家にこのような家訓のようなものがあり、それに疑問をはさむことは許されませんでした。それに対する反動なのでしょうか。今の時代は、価値観が多様化し、善悪の基準も不明確になっています。しかし、どこかで、「譲れないものは譲れない。これは守らなければならない」という不動の軸になるものが必要なのではないでしょうか。神の民にとってそれは神の言葉である聖書です。私たちは自分たちの譲れない生き方として、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとしての祈りと御言葉の時を持ち、それに聞き従うというそうした生き方を貫いていきたいと思うのです。置かれた状況によって意見が変わる人など、信頼されることはありません。忠実さこそ信頼の鍵なのです。

エレミヤ書34章1~22節「心を翻すことなく」


きょうは、エレミヤ34章から、「心を翻すことなく」というタイトルでお話します。「心を翻す」とは、心を変えること、考えを改めることです。私たちは、聖書の御言葉を聞いたり、読んだりする中で、その御言葉に一度は従おうと決意するも、状況が変わると、目先の利益に心が奪われて、再び心を翻すという弱さがあるのではないでしょうか。主に救われ、主のみこころに歩む者として、私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。一度主の御言葉に従うと決めたら、心を翻すことなく、どこまでも主の御言葉に従うことが求められているのです。

きょうの箇所には、南ユダ最後の王ゼデキヤとエルサレムの民が一度は主の御言葉に従って奴隷の解放を宣言するも、状況が変わると目先の利益を優先して、心を翻してしまったことが記されてあります。それは主のみこころを損うことでした。その結果、彼らは神のさばきを受けることになります。私たちは心が動かされやすい者ですが、主の助けを受けて、一度神の前で誓った誓いを最後まで果たさなければなりません。

Ⅰ.ゼデキヤ王への警告(1-7)

まず1~7節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民族が、エルサレムとそのすべての町を攻めていたとき、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」6 そこで預言者エレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、エルサレムでこれらすべてのことばを語った。7 そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらが、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。」

これは、バビロンの王ネブカドネツァルが、エルサレムとそのすべての町を攻めていたときのことです。時はB.C.586~7年頃です。そのとき主からエレミヤに主の言葉がありました。それはユダの王ゼデキヤのところに行って、次のように告げよというものでした。それは、エルサレムはバビロンの手によって落ちるということでした。ゼデキヤ王はその手から逃れることはできません。彼は捕らえられてネブカドネツァルの手に渡されることになります。それは主によって定められていることで避けることはできないことなのだから、それを受け入れるべきです。そうすれば、彼は剣で死ぬことはなく、彼の先祖たちのように平安のうちに死ぬことができるというものでした。「平安のうちに死ぬ」とは、自然に死ぬということです。彼はそれ以前の王たちと同じように、ユダヤ人の習慣に従って丁重に葬られることになるということです。

そこでエレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、これらすべてのことばを語りました。そのとき、バビロンの王の軍勢は何をしていたかというと、7節を見ていただくとわかりますが、エルサレムとユダに残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていました。これらの町々が、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからです。ラキシュはエルサレムから南西に約45キロメートルくらい離れたところにありました。アゼカはラキシュからさらに東に約16キロメートルくらい離れたところにありました。バビロン軍はまずこれらの町々を攻撃しました。なぜなら、エルサレムが堅固な要塞都市だったからです。だからまずこれらの町々を攻めてから、満を持してエルサレムを攻略しようとしたのです。それはかつてアッシリアがイスラエルを攻撃した時も同じでした。それと同じ戦略です。いわゆる籠城攻めですね。敵を城に閉じ込めて相手が飢えや渇きに疲れ果てるのを待つのです。日本では豊臣秀吉が得意としていた戦法ですが、この籠城攻めは援軍が来ない限り解かれることはありません。バビロン軍はそのことをよく知っていました。彼らはエルサレムを無理に攻め落とそうとはしないで、彼らが外に出られないように中に閉じ込めたのです。これが1年半にも及びました。エルサレムの民は城壁の外に一歩も出られず、バビロンがいつ攻めてくるかと脅える毎日でした。しかもそれが1年半も続いたのです。精神的に追い詰められ、おかしくなってもおかしくありません。食料も底をつき、飢えと渇きで兵士の士気もどんどん落ちていきました。ですから、誰も助けに来られないように、エルサレム以外の主要な都市のすべてを攻め滅ぼしてから、エルサレムを包囲しようとしたのです。

エルサレムに閉じこもっていたゼデキヤは、もはや打つ手はありませんでした。頼りは、ひそかに同盟を結んでいたエジプト軍が助けに来てくれることです。しかし、待てども暮らせど、エジプトからの援軍はやって来ませんでした。そこで彼はエレミヤのところにやって来て、神の助け求めたのです。その時のやりとりがエレミヤ書21章1~2節の内容です。
「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」

あれ、33章ではエレミヤはゼデキヤによって監視の庭に監禁されていましたが、この34章では21章に話が遡っています。これはどういうことかというと、この34章はエレミヤがまだ監禁されていなかった時の出来事、33章以前の出来事であるということです。エレミヤ書は、年代順ではなくテーマ順に並べられているので、このように話が遡ることがあるのです。ですから、エレミヤ書を読む時はこのことに注意して読まなければなりません。

ところで、この21章2節には「主がかつてあらゆる奇しいみわざを行われたように」とあります。これはエレミヤから遡ること100年前のヒゼキヤ王の時代に起こった出来事を指しています。その時の南ユダの王様がヒゼキヤ王でした。エルサレムがアッシリアの王セナケリブの猛攻を受けて陥落寸前になったとき、ヒゼキヤ王はへりくだって部下を預言者イザヤに遣わし神の助けを求めました。すると神は彼らを窮地から救ってくださいました。一晩で18万5千人ものアッシリアの兵が疫病で死んでしまったのです。それでアッシリア軍はエルサレムから撤退しました。ゼデキヤ王はその時のことを思い出したのです。そしてその時のように主が自分たちを救ってくださることを期待して、自分の部下をエレミヤのところへ遣わしたのです。しかし、イザヤの時とは違い、エレミヤの返事はつれないものでした。この34章2節の後半と3節をご覧ください。主はこう言われました。
「見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。あなたはその手から逃れることはできない。あなたは必ず捉えられて、彼の手に渡されるから」
何と主はバビロンと戦ってくれるというのではなく、反対にゼデキヤをバビロンの手に渡すと言われたのです。そしてエルサレムに住む者は、人も家畜も疫病で死んでしまうと。そして最後はゼデキヤとその家来、その民はバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されることになるというのです。助かる道はたった一つしかありません。それはバビロンに降伏することです。そうすれば彼は剣で死ぬことを免れ、平安のうちに死ぬことができます。3節には「必ず」とありますが、それは必ず起こることなのです。主が「必ず」と言われる時は、必ずそうなるからです。バビロンの王に服することは屈辱的なことではありますが、そうすることで、捕囚の地でゼデキヤが安らかに死ぬことができるのであったなら、どんなに幸いであったかと思います。また、その死を悼む民がいたということも大きな慰めであったはずです。

しかし、ゼデキヤはそうしませんでした。彼は最後までバビロンの王に降伏しませんでした。その結果、ゼデキヤはエレミヤが預言した通り悲惨な死を遂げることになります。それは39章4~7節を見るとわかります。
「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」
 ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出ました。しかし、カルデアの軍勢、これはバビロンの軍勢のことですが、彼らがゼデキヤの後を追うと、エリコの草原で彼に追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいたバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れてきたのです。ネブカドネツァルはゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺しました。さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめました。ゼデキヤは、最後は獄中で死んでしまいます。彼が最後に見たのは、自分の目の前で自分の息子たちが虐殺されるということでした。何とむごいことでしょうか。いったいなぜそこまで悲惨な死に方をしなければならなかったのでしょうか。それは、彼がエレミヤを通して語られた神の言葉を受け入れなかったからです。エレミヤの言葉を聞いて彼がそれを受け入れていたならば、彼の死は本当の意味で「安らかな死」となっていたことでしょう。それは私たちへの教訓でもあります。神が語られたことは必ずそのようになります。ですから、私たちは心を頑なにしないで、神のことばに素直に従わなければなりません。

皆さんは、アテローム性動脈硬化という病気をご存知ですか。これは、コレステロールの蓄積と動脈の壁の傷跡のせいで起こる動脈硬化のことです。 霊的心の硬化も起こることがあります。 心の硬化は、神の真理を示されたのに、それを認めようとせず、受け入れることを拒否することで起こります。箴言4章23節に、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」とあります。あなたはどうでしょうか。あなたの心は硬化してはいないでしょうか。何を見張るよりも、あなたの心を見守らなければなりません。いのちの泉はそこから湧くからです。

Ⅱ.心を翻したゼデキヤとエルサレムの民(8-11)

次に、8~11節をご覧ください。「8 ゼデキヤ王がエルサレムにいる民全体と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言した後、【主】からエレミヤにあったことば。9 その契約は、各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないというものであった。10 契約に加わったすべての首長と民は、各自、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから奴隷を去らせた。11 しかしその後で、彼らは心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させた。」

ゼデキヤは、エレミヤの告げる神の言葉に心の底から耳を傾けて真剣に聞こうしませんでしたが、何とかしなければならないという思いがあったのでしょう。彼はエルサレムにいた民全体と一つの契約を結びました。それは、へブル人である自分の奴隷や女奴隷を解放するということでした。おそらく彼は、バビロンから独立を勝ち得るために神の恵みと祝福が必要だと感じたのでしょう。自分に向けられる神の怒りをどうにかして取り除かなければならないと考えたのです。それがこのヘブル人奴隷の解放です。へブル人奴隷というのは、同じユダヤ人の奴隷のことです。レビ記には、ユダヤ人は、神の奴隷であるから奴隷にしてはならない、と規定されてあります(レビ25:42,55)。しかし当時、経済的な理由から自発的に奴隷になる者がいました。そのような場合、奴隷は6年間働いて、7年目には解放されることになっていました(申命記15:12~18)が、彼らの先祖たちは、それを守ってこなかったのです。それを今、解放しようというのです。それは主の目にかなうことでした。それで彼はエルサレムにいる民全体と契約を結び、彼らを解放しました。

しかし、11節をご覧ください。その後で、彼らは心を翻し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させたのです。いったい何があったのでしょうか。ここには記されてありませんが、その背景にはエジプトのファラオの軍勢が彼らを助けるためにやって来たことがあります。そのことはエレミヤ書37章5節に記してあります。そこにはこうあります。
「また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。」
 待ちに待ったエジプトの援軍がやって来たのです。カルデア人とはバビロン人のことですが、彼らはエジプト軍がエルサレムを救出するためにやって来たことを知ると、一時的にエルサレムの包囲を解くのです。エルサレムの人たちは大喜びでした。やった、危機は去った。エジプトさえ来てくれれば、もうバビロンなど恐れることはない、私たちは自由だ、と小躍りしました。しかし、その自由の喜びはとんでもない行動に現れてしまいました。それを見た民は、心を翻してしまったのです。奴隷を取り戻したいという思いにかられるようになったということです。バビロンに包囲されている間は奴隷も大した仕事もなかったのであまり必要ではありませんでした。むしろ、奴隷を養うにはお金がかかりますから、ただ飯を食わせるよりは、解放した方がましだと考えましたが、バビロンの包囲が解かれた今は、話は別です。いてもらった方がどんなに助かることか・・・。彼らは急に心を翻しました。神聖な神との契約を踏みにじってしまったのです。

苦しい時の神頼みではありませんが、人が神を求めるのは、結局、自分の都合であったりすることが多いのです。それは、現代の私たちも同じではないでしょうか。自分の都合で信仰を持つ。いわゆるご利益信仰です。ご利益を求めて祈ること自体は悪いことではありませんが、私たちが考えるご利益と神が与えようとしておられるご利益とではちょっと違います。私たちは目先の状況に左右されその利益を考えてすぐに心を翻してしまいますが、神はそのような方ではありません。神は約束されたことを最後まで忠実に守られます。神が私たちに約束しておられることは、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それは言い換えると、神のようになる、ということです。そのために神はあらゆる方法を用いておられるのです。それは時には嬉しいことであったり、喜ばしいことですが、時には受け入れがたい辛いことであるかもしれません。しかし、どのような道を通させるにしても最後は希望なのです。それなのに、目先の利益を優先しそれに振り回され神との契約を軽んじることがあるとしたら、中身はこの世の人と何ら変わらないということになってしまいます。ただ礼拝の習慣を持っているだけの、取ってつけたような信仰にすぎません。もしそうであるなら、このゼデキヤと同じように、神の御怒りを受けることになってしまいます。神を信じているというのであれば、心から神を恐れ、神を敬い、神につながった、神第一の歩みを求めるべきなのです。

Ⅲ.どんな境遇にあっても(12-22)

その結果、どうなったでしょうか。最後に12~22節をご覧ください。12~16節をお読みします。「12 すると、【主】からエレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの地、奴隷の家から導き出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。14 「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間あなたに仕えさせ、その後あなたは彼を自由の身にせよ」と。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けもしなかった。15 ところが、あなたがたは今日、立ち返って、各自が隣人の解放を告げてわたしの目にかなうことを行い、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。16 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚した。あなたがたは、それぞれ、いったん彼らの望むとおりに自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷の身分に服させた。』」

ユダの民は知っていました。「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない」と。しかし、彼らの先祖は、主の命令に聞き従わず、耳も傾けませんでした。ところが、ゼデキヤはじめ、この時代のユダヤ人たちは違います。彼らは立ち上がって、各自が隣人の解放を告げて主の目にかなうことを行いました。ここではそのユダの民がほめられています。しかし彼らは息つく暇が出来ると、心を翻して以前の状態に戻ってしまいました。神の名で呼ばれる家、神の前に立てた契約をあまりにも簡単に捨ててしまったのです。彼らは神がどのような方かを知っていたのに、自分の利益のために神を侮る態度を取りました。それで神は「わたしの名を汚した」と叱責したのです。人の心はころころ変わるから”こころ”と名付けられたそうです。とにかく定まりません。チョッとした事でもすぐにぐらついてしまいます。私たちの周りにはいろいろな人がいて、いろいろな価値観や考え方を持っているので、そういう人たちに触れるとたちまち心が揺さぶられてしまうのです。

そのような中で心が変わらないでいるということは、私たちにできることではありません。そのためには聖霊の助けが必要です。そして目先の状況で心を変えないためには、どんな状況にあっても神の真実に目を留め、あらゆる境遇に対処することができる私たちの救い主イエス・キリストにつながっていなければなりません。パウロは、ピリピ4章11~14節でこう言っています。「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

アーメン!パウロはどんな境遇にあっても満ち足りる秘訣を知っていました。それはイエス・キリストでした。ですから、目先の状況がどうであろうとも、彼の心は変わらなかったのです。彼は彼を強くしてくださる方によって、どんなことでもできると信じていました。心が変わらないこともそうです。それは彼が神の恵みを深く知っていたからです。それは私たちも同じです。神の恵みによって、イエス・キリストを信じる者に約束された聖霊の助けによって、私たちもどんなことでもできるのです。自分の思い通りにいかないこともあるでしょう。でも聖霊の導きに従って歩むなら、決して肉の欲を満足させることはありません。心がころころ変わることはないのです。

ロシアの文豪ドストエフスキーは、知恵の種に出会って人生の方向を変えることができたと言われています。1866年に発表された小説「罪と罰」は、このような変化が実を結んだ作品です。彼が若かった頃、青年作家として多くの作品を執筆したことで傍若無人で高飛車な態度を取っていました。そんな彼が秘密警察に加担して逮捕され、シベリアへ流刑されました。自分を知る人が誰一人いない場所で、無期で強制労働に服する生活が続きました。昼は強制労働を強いられ、夜は厳しい寒さの中暗い屋根裏部屋で一人絶望に陥りながら過ごしました。
 その頃、誰かがドストエフスキーに聖書を手渡しました。それで、彼は毎晩聖書を読むようになりました。そして、聖書の中で神に出会い、みことばを通して神の御声を聞いたのです。ついに、彼は後年心血を注いで一つの作品を書き上げました。それが「罪と罰」です。これは彼がみことばによって新しく生まれ変わった者として、人間の良心の問題を取り扱った作品となっています。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。みことばには人を変える力があります。それは、神のみことばを読むと、そのみことばが読む人の心に働くからです。

しかし、ユダの民は簡単に心を翻してしまいました。それゆえ神は厳しいさばきを宣告されます。それが17~22節にある内容です。17節には、「それゆえ、【主】はこう言われる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに──【主】のことば──剣と疫病と飢饉の解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。」とあります。つまり、心を翻したユダの民に対して「剣と疫病と飢饉の解放を宣言する」と言われたのです。また、18節には、彼らが神の前で結んだ契約のことばを守らず、神の契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする、と言われました。これは神とアブラハムとの間で契約を結ぶ話の中でも述べられています(創世記15章)。これは、契約した双方の当事者が向かい合った引き裂かれた動物の間を通ります。これを何を表しているのかというと、もし、その契約をどちらかが破れば、その引き裂かれた動物のようになる、つまり、二つに引き裂かれるということです。

いったんは退却したバビロン軍ですが、彼らは引き返して来て、エルサレムとユダの町々を破壊することになります。そして22節にあるように、「彼らはこの都を攻め取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。」のです。神との契約を守るということは、それほど重いことなのです。

旧約聖書の中に、この神との誓いを果たした美しい女性の話が出てきます。それは「ハンナ」です。長年不妊に悩んでいたハンナは、誰も見ていないところで、「神様、わたしに男の子を授けてください。もし願いが叶いましたなら、その子を一生神様にお献げします」と祈りました。神はその祈りを聞かれ、彼女にサムエルを授けてくださいました。ハンナとしてはやっと手に入れた待望の子ども、しかもかわいい盛りの赤ん坊でしたが、そのサムエルを「この子を主にお渡しいたします」と言って、祭司エリの養子にしたのです。誰も聞いていない、誰も見ていない、神への独り言と思えるような言葉も、ハンナは神への約束として忠実に果たしたのです。このような信仰こそ、神が喜ばれるものです。神はサムエルのことも、ハンナのことも豊かに祝福されました。

あなたはどうでしょうか。状況の変化に心が揺さぶられ、目先の利益を優先して、一度は主の御言葉に従うと決意しても、それを翻す弱さがあるのではないでしょうか。主に救われた者として私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。主はこう言われます。「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(Ⅰサムエル2:30)主に心を定め、心を翻すことなく、主の御言葉に従いましょう。自分が動かされやすい者であることを自覚し、主の助けを求めて祈りながら、主との約束を果たしていくものでありたいと思います。

エズラ記5章

エズラ記5章から学びます。

 Ⅰ.預言者ハガイとゼカリヤ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「1 さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して、自分たちの上におられるイスラエルの神の御名によって預言した。2 そこでシェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちが一緒にいて、彼らを助けた。」

神殿再建工事は、サマリヤ人の妨害によって、ペルシャの王クセルクセス王の時代からダレイオスの治世の第二年まで、約16年間(B.C536~520)中断していました。そのような状況下で、ハガイとゼカリヤという2人の預言者が登場し、工事の再開を促しました。彼らは、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して、自分たちの上におられるイスラエルの神の御名によって預言しました。その預言の内容はハガイ書とゼカリヤ書を見ればわかりますが、神のことばによって民を教え、励ましたのです。工事が中止に追い込まれた最大の原因はサマリア人による妨害でしたが、もっと深刻な問題は、そのことによって民の中にやる気が失せていたことです。そこでハガイとゼカリヤは神のことばによって彼らを励まし、勇気付けたのです。

ハガイは、民が神殿よりも自分の生活を建て直すことに熱心だったのを見て、「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべきだろうか。」(ハガイ1:4)と言いました。

ゼカリヤは、神殿建設は主から出たことであり、異邦人の王はそのために用いられているにすぎないと語りました。さらに、工事の完成は主の霊によると、以下のように預言しました。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)

そこで、シェアルティアルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めました。神殿がなければ、モーセ契約を実行することができないからです。それが彼らの優先事項だったのです。

クリリスチャン生活にも優先事項があります。それは、祈りとみことばです。定期的な礼拝を守り、日々のデボーションを大切にし、祈りの生活を重視すること、これこそクリスチャンにとっての本質的なことであり、最優先事項です。私たちはまずこれに取り組まなければなりません。

ここには、「神の預言者たちが一緒にいて彼らを助けた。」とありますが、これもすごいですね。ゼカリヤとハガイはただみことばによって民を励ましたのではないのです。自らも一緒に汗を流して神殿建設に取り組んだのです。それは彼らがその働きに優れていたからではないでしょう。何としてもこの神殿を建て上げなければならないという神からの召しを受け、自分も少しでも役に立ちたいという思いがあったからでしよう。

Ⅱ.神の守り(3-5)

次に、3~5節をご覧ください。「3 そのような時期に、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちが彼らのところにやって来て、こう言った。「この宮を建て、この城壁を修復せよとの命令をだれがあなたがたに下したのか。」4 そしてまた、「この建物を建てている者たちの名は何というのか」と尋ねた。5 しかし、ユダヤ人の長老たちの上には彼らの神の目が注がれていたので、このことがダレイオスに報告されて、さらにこのことについての返事の手紙が来るまで、彼らの工事を中止させることができなかった。」

そのような時です。ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちが彼らのところにやって来て、「この宮を建て、この城壁を修復せよとの命令をだれがあなたがたに下したのか。」と言いました。また、「この建物を建てている者たちの名は何というのか」と尋ねました。総督タテナイというのは、ペルシャ帝国内のシリア・パレスチナ地区を管轄する行政官です。シェタル・ボズナイは、総督タテナイの補佐官だったのではないかと考えられています。彼らはエルサレムで起こっていることに関心を示さずにはいられませんでした。というのは、彼らの役割は、そこで起こっている状況を把握して、それを王に伝えることだったからです。恐らく、彼らはこの工事が大規模な反乱に発展する恐れがあると判断したのでしょう。それで彼らのところにやって来て尋問したのです。

しかし、彼らは工事を中止させることができませんでした。このような妨害にもかかわらず、工事は続けられたのです。なぜでしょうか。それは、ユダヤ人の長老たちの上に彼らの神の目が注がれていたからです。つまり、神がこの工事を見守っておられたからです。エズラ記とネヘミヤ記には、このような表現がたびたび出てきます。(エズラ7:6,9,28,8:18,22,31,ネヘ:8,18。その結果、彼らがペルシャの王ダリヨスに手紙を書きその返事が来るまで、工事は続けられたのです。

これは私たちも同じです。どんなに試練が襲ってきても神の守りと助けは常に用意されています。あなたの上には全能の神の目と義の右の手が備えられているのでする。であれば、私たちは信仰の目を上げてこの神の守りがあることを信じようではありませんか。

Ⅲ.ダリヨス王への手紙(5:6-17)

次に、6~17節までをご覧ください。「6 ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚のユーフラテス川西方にいる知事たちが、ダレイオス王に送った書状の写しは次のとおりである。7 彼らが王に送った報告には次のように書かれていた。「ダレイオス王に全き平安がありますように。8 王にお知らせいたします。私たちはユダ州に行き、あの大いなる神の宮に行ってみましたが、それは大きな石で建てられていて、壁には木材が組まれていました。その工事は彼らの手で着々と進められ、順調に行われています。9 そこで、私たちはその長老たちに尋ねて、彼らに次のように言いました。『この宮を建て、この城壁を修復せよとの命令をだれがあなたがたに下したのか。』10 私たちはまた、あなたにお知らせするために彼らにその名を尋ねました。それは、彼らの先頭に立っている者の名を書き記すためでした。11 すると、彼らは次のように私たちに返事をしました。『私たちこそは天と地の神のしもべであり、ずっと昔から建っていた宮を建て直しているのです。それはイスラエルの大王が建てて、完成させたものです。12 しかし、私たちの先祖が天の神を怒らせたので、神は彼らを、カルデア人であるバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されました。彼はこの宮を破壊し、民を捕らえてバビロンに移したのです。13 しかし、バビロンの王キュロスの第一年に、キュロス王はこの神の宮を建て直すよう命令を下しました。14 キュロス王はまた、ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から持ち出して、バビロンの神殿に運んで行った神の宮の金や銀の器を、バビロンの神殿から取り出し、自分が総督に任命したシェシュバツァルという名の者にそれを渡しました。15 そして、シェシュバツァルに、これらの器を携えて行ってエルサレムの神殿に納め、神の宮を元の場所に建て直せと言いました。16 そこで、このシェシュバツァルは来て、エルサレムの神の宮の礎を据えました。その時から今に至るまで建築が続いていますが、まだ完成していません。』17 ですから、王様、もしもよろしければ、エルサレムにあるこの神の宮を建てるために、キュロス王からの命令が下ったのが事実かどうか、あのバビロンにある王室書庫をお調べください。そして、このことについての王のご判断を私たちにお伝えください。」

総督タテナイと補佐役のシェタル・ボゼナイたちは、ダレイオス王に手紙を書き送ります。その内容は7節以降にあるように、「あの大いなる神の宮」の建設が着々と進んでいるということでした。彼らがここでユダヤ人の神を「あの大いなる神」と呼んでいるのは驚きです。彼らの中にも、ユダヤ人の神がユダ州における主要な神であるという認識があったのでしょう。それは大きな石で建てられていて、壁には木材が組まれていました。

そこで彼らはその長老たちに、何の権威によってそれをしているのか、工事の責任者は誰かと尋ねると、彼らはこれまでのいきさつを話ししました。それが11~16節の内容です。ここで注目すべき点は、彼らは自分たちを「天と地のしもべ」(11)と呼んでいる点です。つまり、ペルシャのしもべではなく、真の神のしもべであるというのです。そして、その神の命令によって、昔から建てられていた神殿を再建しているのだと。それは自分たちがこの真の神に背いたためにバビロンの王ネブカドネツァルの手によって破壊されてしまったからです。

しかし、神はそれで終わりではなかった。何とペルシャの王キュロスの心を動かし、この宮の再建のためにネブカドネツァルがエルサレムの神殿から持ち出して、バビロンの神殿に運んで行った神の宮の金や銀の器を、バビロンの神殿から取り出し、自分が総督に任命したシェシュバツァルという者にそれを渡したのです。つまり、それはペルシャの行政のお墨付きであるというのです。だから、それが本当なのかどうか、つまり、エルサレムにあるこの神の宮を建てるためにキュロス王からの命令が下ったのが事実であるかどうかを調べてほしい。そう返事をしたのです。

ここでユダヤの長老たちが自分たちの先祖たちの失敗から立ち直ろうとしていることがわかります。彼らは自分たちのことを「真の神のしもべ」と呼んでいます。彼らはペルシャのしもべではなく、「真の神のしもべ」なのです。だから、その真の神のしもべとして、神の命令に従って神殿を再建しているのだという認識がありました。あなたはどうでしょうか。あなたは誰のしもべですか。私たちは真のイエス・キリストによって罪贖われ、罪から解放された者として、主イエスのしもべでする。であれば、私たちも私たちは真の神のしもべとしてイエスのみこころに歩むことが求められているのではないでしょうか。