エズラ記9章

  エズラ記9章から学びます。

 Ⅰ.イスラエルの民の罪(1-4)

まず、1~4節をご覧ください。「 9:1 これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、 9:2 かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」 9:3 私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。 9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっとすわっていた。」

1節の「これらのことが終わった後」とは、エズラ一行が無事にエルサレムに到着し、主への全焼のいけにえを献げ、アルタクセルクセス王から預かった命令書を、王の太守たちとユーフラテス川西方の総督たちに渡した後のことです。これらのことが終わった後、イスラエルの指導者たちがエズラのもとに近づいてきて、イスラエルに蔓延している罪について告げました。彼らはゼルバベルとともに帰還していた人たちです。そこで指導者としての地位を確立していたのでしょう。彼らはエズラがエルサレムにやって来たことを知り、イスラエルの中で行なわれている罪について告げたのです。エズラが律法の専門家であり霊的指導者であったことから、エズラに告げれば何らかの解決が得られるのではないかと期待したのだと思います。

その罪とはどんなことかというと、異教徒との結婚に関することでした。イスラエルの民、祭司、レビ人が、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人といった異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻とし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合っていたのです。モーセの律法には、雑婚が禁じられていました(出エジプト34:11~16、申7:1~4)。なぜなら、異教徒との結婚が、偶像をもたらすことになるからです。その最大の失敗例がソロモンです。1列王記11:3~5にはこうあります。

「11:3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。11:4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、【主】と全く一つにはなっていなかった。 11:5 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。」

ソロモンは多くの妻やそばめを持つことで、ほかの神々に心を向けてしまいました。彼はシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従ったのです。イスラエルの民は聖なる民です。そうした異教徒から分離して生きることが求められていましたが、彼らはそれを無視していたのです。

このことを聞いたエズラはどうしたでしょうか。3節をご覧ください。彼はこのことを聞くと、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜いて、茫然として座り込んでしまいました。これは深い悲しみと怒りを表しています。それは、イスラエルの民が捕囚として引かれて行く原因となったことでした。あれほど痛い思いをしてもまだわからないのかというあきらめにも近い思いを抱いたのでしょう。エズラは言葉を失い、夕方のささげ物の時刻、これは午後3時ですが、茫然としてそこに座りこんでいたのです。まさに茫然自失の状態だったのです。

隣人に対して寛容であることは大切なことですが、罪に対して寛容であることは危険なことです。信者が未信者と結婚することを禁じているのは人種差別からではなく、信仰的な理由からです。未信者の妻をめとった者は、次第に妻の宗教を受け入れるようになるからです。その結果、偶像礼拝を自分の中に持ち込むことになり、神様との関係が阻害され、神から離れてしまうことになります。そうなれば、自分たちは何のために存在しているのかさえ見失ってしまうことになります。神のみこころは、私たちが聖い者であることです。Ⅰペテロ1:15~16には、「1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。」」とあります。私たちはそのために救われたのです。それなのに霊的に妥協するあまり、いつしかこの世の流れにすっぽりと浸り、神からも信仰からも離れていくのです。

悪魔は本当に巧妙ですね。今週の日曜日はどれほど多く方からメールをいただいたでしょうか。「きょうは用事があるので礼拝を休みます。あっ、来週も娘を部活に送っていかなければならないので行けません。ユーチューブで観ます。」「きょうは朝から旦那と喧嘩になり、家族で話し合うことになったのでお休みします。」勿論、どうしても来られない時もあるでしょう。でもそれはそれほど多くはないでしょう。問題は、この「聖でなければならない」という意味を理解してないことです。というのは、日曜礼拝は安息日ではありませんが、少なくても主が6日間で天と地にあるものを造られ7日目に休まれたので、これを聖なる日とするように定められたものです。この世とのいっさいの関わりを断ち、私たちを造り、私たちを罪から救ってくださった主を覚え、主を礼拝する日です。聖なる日です。よほどのことがない限り休むことは考えられません。私は心優しいので、そういう連絡をいただくとき何と返事したら良いか本当に悩みますが、牧師を打ちのめす一番良い方法はこれかもしれませんね。本当に忍耐が強いられます。いずれにせよ、私たちは自分がこの世に住みながら、この世のものではないことを常に思い出し、聖なる方にならって、聖なるものであることを求めていかなければならないのです。

Ⅱ.エズラの祈り(5-9)

茫然自失になり、打ちのめされていたエズラは、夕方のささげ物の時刻になって立ち上がり、主に祈ります。5~9節をご覧ください。「9:5 夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、【主】に向かって手を差し伸ばし、祈って、 9:6 言った。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、よその国々の王たちの手に渡され、剣にかけられ、とりこにされ、かすめ奪われ、恥を見せられて、今日あるとおりです。 9:8 しかし、今、しばらくの間、私たちの神、【主】のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした。9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし、私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシヤの王たちによって、私たちに恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を再建させ、その廃墟を建て直させ、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。」

エズラは、立ち上がると、衣を引き裂いたまま、ひざまずき、主に向かって手を伸べ広げて祈りました。彼はまず、イスラエルの民の罪を心から恥じています。なぜなら、その咎は増し、頭より高くなり、その罪過は大きく、天にまで達したからです。咎が頭よりも高いとか、罪過が天にまで達するというのは、神の御怒りを招かないでいられるような軽々しい罪ではない、ということです。ここで「罪」を「咎」とか「罪過」と言っていることに注目してください。「罪」とは知らないで犯すものですが、「咎」とか「罪過」は知りながら、もう罪であると十分に知識として与えられていながら、それでも犯す違反行為のことです。だからエズラは7節で、「私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。」と言っているのです。「その咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、諸国の王たちの手に渡され、剣にかけられ、捕虜にされ、かすめ奪われ、面目を失って、今日あるとおりです。」と言っているのです。これはバビロン捕囚のことを指しています。どうして彼らにそのようなさばきに下ったのかというと、ほかの神々を礼拝し、神の御怒りを招いたからです。彼らはそのことを十分知っていました。それなのに彼らは、それと同じことを行っていたのです。バビロン捕囚はイスラエルの民をきよめるための神の懲らしめでしたが、それが何の効果もなかったのです。

であれば、何の弁解の余地もなく滅ぼし尽くされても致し方ないのに、主はそのあわれみによって、そこに逃れの者を残してくださり、ご自分の聖なるところに一本の杭を与えてくださいました。この「一本の杭」とは、着物や衣をかけておくための突き出た釘のことであるという理解から、聖なる所に自分たちの居場所があるという意味だと解釈する人もいますが、ここではもっと具体的に、神殿と町の再建のことを意味していると思われます。なぜなら、その後のところにそれを可能にさせたのも、神の恵みの業であると告白しているからです。彼らが奴隷の身分であるにもかかわらず、主はそんな彼らを見捨てることなく、かえって、ペルシャの王たちによって恵みを施し、彼らを生かして、彼らの神の宮を建て直させ、その廃墟を元に戻し、ユダとエルサレムに石垣をくださいました。本来なら滅びなければいけないのに、このようにやり直しを与えてくださっているとしたら、それは神の恵みとあわれみにほかありません。エズラはその神の恵みとあわれみを思い起こしているのです。

Ⅲ.Ⅲ.エズラの祈り②(10-15)

次に10~15節をご覧ください。「9:10 今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。9:11 あなたは、あなたのしもべ、預言者たちによって、こう命じておられました。『あなたがたが、入って行って所有しようとしている地は、そこの国々の民の、忌みきらうべき行いによって汚された汚らわしい地であり、その隅々まで、彼らの汚れで満たされている。9:12 だから、今、あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子にめとってはならない。永久に彼らの平安も、しあわせも求めてはならない。そうすれば、あなたがたは強くなり、その地の良い物を食べ、これを永久にあなたがたの子孫のために所有することができる』と。9:13 私たちの悪い行いと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、──事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました──9:14 私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行いをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。あなたは私たちを怒り、ついには私たちを絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされるのではないでしょうか。9:15 イスラエルの神、【主】。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」

主はそのあわれみによって彼らに一本の杭を与えられ、やり直しを与えてくださったのに、その機会をすべて台無しにしてしまった今、何も言うことができません。エズラは神に対して、自分たちは神の命令を捨てて、罪を犯したことを告白しています。その罪とは何でしょうか。それは雑婚の罪です。主は預言者たちによって、イスラエルが入って行って所有している地は、異国の汚れで汚れた地であり、忌み嫌うべき行いによって隅々まで汚れで満ちてしまった地であるから、彼らの娘をその地の息子に嫁がせてはならない、また、その土地の娘を彼らの息子の妻にしてはならないと命じておられました(レビ記18章、申命記7章)。それなのに彼らはその命令を破ったため、イスラエルの地に汚れと忌むべき習慣が持ち込まれてしまいました。

そのことのゆえに、様々なことが彼の上に起こりました。その最大のことがバビロン捕囚です。彼らはその土地から引き抜かれました。それにも関わらず神は彼らの咎に値するような刑罰を与えず、それよりも軽い罰を与え、逃れの者をこのように備えてくださいました。自分たち残された者がいる、ということです。

それなのに、再び主の命令を破って、忌み嫌うべき行いをするこれらの民と親戚関係に入るようなことがあるとしたら、ついにはその残りの者さえも、逃れの者もいないようにされるのではないでしょうか。エズラは、何か特別な要請をしたわけではありません。ただ自分たちの罪を認めて神の前にひれ伏しているだけです。彼は、神が啓示された御言葉に自分たちを照らし合わせ、その通りに自分たちを評価しているのです。

このように、主の御言葉を自分に都合の良いように一部の言葉だけを受け入れ、他の御言葉を退けたりせずに、書かれてあるとおりに自分を見つめることが大切です。そこに真の悔い改めと、罪への悲しみが生まれるからです。ヤコブが手紙の中でこう言いました。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(4:9-10)」

そして、エズラはこの祈りの中で、神のいくつかの性質を認めて告白しています。8節には「そのあわれみによって」とあります。主はあわれみ深い方です。また9節には「主は・・・恵みを施し」とあります。主は恵みを施してくださる方なのです。さらに14節には「あなたは怒って」とあります。主は怒られる方です。また15節には「あなたは正しい方です」とあります。エズラは、こうした神の属性を告白し、ご自身の契約のゆえに民にあわれみを示してくださいと祈ったのです。それは私たちも同じです。私たちもしばしば罪に陥ったり、様々な問題で苦しむことがありますが、どんなときでもこの神のご性質を思い起こし、神に信頼して祈らなければなりません。神は必ずその祈りを聞かれ、状況を変えてくださるからです。

最近、さくらチャーチの姉妹が白内障の手術を受けられたのですが、思うようにいかなかったのか、術後、片目がよく見えなくて落ち込んでおられました。それでもう一度かかりつけの眼科で診てもらったところ、硝子体出血であるということが判明し、もっと大きい病院で手術することになりました。そして月曜日に入院し、昨日手術をしたのですが、術後すぐに報告のメールが届きました。手術が無事終わったこと、そして、主がともにいてくださり、恐れることなく、お委ねすることができたと。

しかし、先週その姉妹からメールをいただいた時はかなり落ち込んでおられました。「牧師先生、こんばんは。右の目が見えないので眼科に行ってきました。硝子体出血との病名、明日自治医大にいくように言われました。結構やっかいな病気らしいですね。もう入院は絶対にしないと思っていましたが、またもや手術になりそうです。これもまた神のお計らい?悲しすぎます。詳しいことは明日お知らせします。いつも暗いことばかりですみません。」

このようなメールを頂いたら、皆さんならどのように応えますか?私は、硝子体出血で3度手術をしていますので、この姉妹の気持ちがよくわかるような気がします。でも、昨年命にかかわる大手術をされた姉妹にとって、また手術をすることに大きな不安を抱えておられたのでしょう。ですから、そのことを重々承知で、そのために主はあわれんでくださることを伝え、この主が完全に癒してくださると信じてお祈りしていますと、返信を差し上げました。そして日曜日の礼拝後に、教会の皆さんで心を合わせてお祈りをしたら、どこかふっきれたようなに安心しておられました。

そして、手術を終えた彼女はこう書き送ってくれました。「キラキラ輝く世界が見られるといいのですがあまり欲張りをせず、ほどほどがいいのでしょうか」よほど心に余裕が出てきたのでしょうね。ですから、私はこのような返信を差し上げました。「キラキラ輝く世界が見られるといいですが、ほどほどでもすごいことですよ。少しでも見えて生活できること自体が奇跡ですし、神様の恵みですから。」

私は自分の視力を失ってみて、つくづくそのように感じています。ですから、この姉妹への言葉は、自分自身に対する言葉でもあったのです。

大切なのは、主がどのようなお方なのか、主はあわれみ深く、恵み深い方であり、私たちの罪を贖ってくださった方、完全な癒し主であることを信じてお祈りすることです。私たちも日々予期せぬ出来事が起こり落ち込んだり不安になったりしますが、この真実な神のご性質にかけて祈る者でありたいと思います。そのとき、主は必ずその祈りに答えてくださり、あなたの状況を変えてくださるのです。

エレミヤ47章1~7節「ペリシテ人についての預言」

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エレミヤ書47章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はペリシテ人に対する預言が語られます。

 Ⅰ.ペリシテ人の破滅(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。1節をお読みします。「47:1 ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった【主】のことば。」

これは、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことばです。ファラオとはエジプトの王の称号です。そのファラオがガザを討つ前に、主はペリシテ人についてエレミヤに語っておられたのです。それはB.C.605年より前のことです。何度かお話していますが、その年、バビロンが台頭を恐れたファラオは、バビロンと戦うためにパレスチナに北上しました。そこでバビロン軍と戦うわけです。それはユーフラテス河畔のカルケミシュというところで行われた戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれていますが、結果は、エジプト軍の惨敗でした。しかし、パレスチナに北上したエジプト軍は、ペリシテ人最大の都市ガザを討ちました。その前に、主がペリシテ人について語られたエレミヤに語られた預言がこれです。

それはどのような内容だったでしょうか。2~5節をご覧ください。「47:2 【主】はこう言われる。「見よ。北から水が上って来てあふれる流れとなり、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流す。人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶ。47:3 荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。47:4 すべてのペリシテ人を破滅させる日、ツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを断ち切る日が来たからだ。まことに【主】は、ペリシテ人を、カフトルの島の残りの者を破滅させる。47:5 ガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙らされる。平地の残りの者よ、いつまで、おまえは身を傷つけるのか。」

2節にある「北から水が上って来て」とは、バビロン軍のことです。その水はあふれる流れとなって、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流します。それは洪水のように襲ってきて、ペリシテの町々を呑み込むのです。すでにガザはエジプトの王ファラオによって討たれていましたが、今度はそのファラオを討ったバビロンによってすべての町が吞み込まれることになるのです。ですから、ペリシテ人はエジプトとバビロンのどちらからも攻め込まれて破滅することになります。まさにWパンチです。

その光景は、実に悲惨でした。3節には「荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。」とあります。荒馬、戦車の音に、人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶことになります。父親たちは気力を失い、自分の子どもたちを顧みる余裕さえありません。すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからです。

4節には、その日には生き残ってツロとシドンを助けようとする者もみな、断ち滅ぼされることになるとあります。ツロやシドンはペリシテの同盟国だったので、生き残って、彼らを助けようとするわけですが、助けようとしても助けることができないのです。ツロとシドンを助けようとする生き残りのすべての者もみな、断ち切られることになるからです。

また4節には「カトフルの島」という名称が出てきますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。そこがペリシテ人の出身地でした。彼らは元々そこに住んでいましたが、パレスチナの海岸地帯に移り住むようになったのです。ちなみに、パレスチナという地名は、このペリシテという名前に由来しています。パレスチナに移り住んだペリシテ人は、ユダヤ人と対立しながら現在のガザ地区のアラブ人となっていったのです。そのカフトルの島の残りの者を破滅させるというのは、ペリシテ人を根絶やしにするということです。

5節にある「ガザ」と「アシュケロン」は、ペリシテを代表する都市です。そのガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙されることになります。それは深い悲しみと嘆きを表現しています。なぜそれほど深く嘆き悲しむことになるのでしょうか。徹底的に滅ぼされることになるからです。ペリシテ人はすべて滅び失せることになるということです。
 これが、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について主が預言者エレミヤに告げられたことばです。いったいなぜペリシテ人は、そのように破滅することになったのでしょうか。

Ⅱ.ペリシテ人が滅ぼされた理由(6-7)

6~7節をご覧ください。ここには、「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」とあります。
  ここには、それは主の剣だとあります。主が剣に命じたのでこのようになったのです。それは彼らが主のみこころに従わなかったからです。いったいどのような点で主のみこころに叶わなかったのでしょうか。

ここで、創世記12章1~3節を開きたいと思います。「12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

これはイスラエルの父祖アブラハムに対して主が語られたことばです。アブラハム契約と呼ばれているものです。それはアブラハムが主の命令に従い、自分の父の家を離れ、主が示す地へ行くなら、主は彼を祝福し、彼の名を大いなるものとするというものでした。3節には、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。この約束のとおり、神はアブラハムの子孫から出るメシヤによって、この約束を成就してくださいました。その方とはどなででしょうか。そうです、それはイエス・キリストです。神はこのイエスによって地上のすべての民族を祝福する、すなわち、救いに導くという計画を持っておられたのです。そのためにアブラハムは選ばれました。神はこの祝福の基として特別にアブラハムを選ばれたのです。このアブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われることになります。これが聖書の原則なのです。しかし、ペリシテ人はこの原則に従いませんでした。神によって選ばれたアブラハムの民族、神の民を呪いました。それゆえ、神様から呪われることになったのです。もし彼らがイスラエルを祝福したのであれば、祝福されたでしょう。しかし、彼らはイスラエルに敵対し、絶えず攻撃しました。それゆえ、彼らは滅ぼされることになったのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

ここで地図をご覧ください。「ペリシテ人の地(新改訳聖書第三版、地図6)」

ペリシテ人について特筆すべきことは、彼らがどこに住んでいたかという点です。下の黒い楕円で囲まれた地域がペリシテ人の地です。ガザはその中にある赤い円で囲まれた町。その上は5節に出てきたアシュケロンです。ガザは今もイスラエルと戦闘状態にありますが、アシュケロンと合わせペリシテ人の5大都市の一つでした。ペリシテを代表する都市です。そのずっと上、北の方にある2つの黒い円で囲まれた町は、4節に出てきたツロとシドンです。このペリシテ人の地と隣り合わせにあるのがユダの地です。ペリシテの東側にある四角で囲まれた地域です。その右斜め上にあるのがエルサレムです。つまり、ペリシテ人の地はユダの地と隣り合わせにあったということです。もうほとんど入り混じっています。それで彼らは絶えずイスラエルに侵入してはイスラエルを支配しようとしたのです。イスラエルにとってはまさに「肉のとげ」のような存在だったのです。

旧約聖書を読むと、彼らに対する言及は古くはアブラハムの時代に遡りますが、顕著に出てくるのは士師記の時代です。今、さくらチャーチでは士師記を学んでいますが、サムソンが戦ったのがこのペリシテ人でした。その後もサムエル、サウル、ダビデの時代も彼らはイスラエルを悩まし続けます。最終的にダビデがペリシテ人を討ち、征服しました。ダビデが戦ったのはゴリヤテというペリシテ人の大男でした。1サムエル記17章4節によると、彼の身長は6キュビト半もありました。1キュビトは44.5cmですから、6キュビト半は289cmになります。ほんとかいな?と首をかしげたくなります。あのジャイアント馬場でさえ209cmでしたから、相当大きかったことがわかります。でもダビデはその巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。それでペリシテ人はイスラエルに屈することになったのです。ソロモンの時代になると、ペリシテ人は完全にイスラエルに仕えるようになります。しかし、B.C.931年にイスラエルが北と南に分裂するとペリシテ人は再び勢力を回復し、イスラエルを悩ますことになります。そんなペリシテ人を、神は徹底的に滅ぼされるのです。なぜでしょうか?神に選ばれた民に敵対したからです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

それは、この人類の歴史を見てもわかります。先日、いつも教会にお米を届けてくださる方が、「先生、最近、高原剛一郎先生が書かれた『世界は聖書で出来ている』という本が出版されたのでプレゼントします」と言ってわざわざ持って来られました。どれどれとめくって見たら、このことについて書かれてありました。詳細は触れませんが、過去500年の人類の歴史を見ると、世界の覇権を握った国々は、すべてユダヤ人を祝福した国だったというのです。それはスペインでありポルトガル、オランダ、イギリス、そしてアメリカです。これらの国の興隆と没落を振り返ると、そこにはこの原則が流れていたというのです。特に第一次世界大戦前後のイギリスと、第二次世界大戦後のアメリカを見るとよくわかります。ヨーロッパの辺境にある島国が、やがて「7つの海を支配する」大英帝国に成長した背景には、このようなユダヤ人への支援と協力があったからなのです。

また、戦後アメリカが超大国に成長した背景にも、第一次世界大戦後ヨーロッパで難民となったユダヤ人を受け入れたという事実がありました。アメリカに移住したユダヤ人たちは、背水の陣で生き残りをかけ、並外れた努力を重ねた結果、他のどの移民集団よりも短期間で成功を収め、金融、不動産、映画産業、マスコミ、医学、法律、自然科学、そして芸術、文化に至るまで、他を圧倒しました。第二次世界大戦後アメリカは、世界の超大国として君臨したのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるという聖書の原則が働いていたのです。

しかし、これは必ずしもユダヤ人という民族に限ったことではありません。それは私たちクリスチャンのことでもあるからです。いやむしろ霊的な意味では、私たちこそアブラハムの子孫、霊的イスラエルです。なぜなら、アブラハムの子孫から出るメシヤ、救い主なるイエス・キリストを信じたことで、神の民とされた者だからです。Ⅱペテロ2章9~10節にはこうあります。

「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた人たちのことです。ペテロはそのように選ばれた人たちに対して、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民だと言っているのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者であると言ったのです。そう、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた私たちも、このアブラハムの子孫であり、真のイスラエルなのです。ですから、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。私たちは祝福すべきであって、呪うべきではありません。もし神に選ばれた者を呪うことがあるとしたら、ペリシテ人のように呪われることになります。なぜなら、アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。

以前、米沢の恵泉キリスト教会牧師の千田次郎先生からこんなお話を聞いたことがあります。それは、かつて全日本リバイバルミッションが盛んに行われていた頃のことですが、主催者の滝元明先生から、東北で決起集会をしたいので協力してほしいと要請があったそうです。しかし、千田先生はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、伝道は大きな集会を開くことではなく、マタイ28章にあるように、あらゆる国の人々を弟子とすることだからです。そのために行って福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、主が命じたことを守るようにみことばを教えなければなりません。必ずしも大きな伝道集会を開くことが必要ではない。そういう思いがありました。
  しかし、ある日御言葉を読みながら祈っていると、このことが示されたのです。「アブラハムを祝福する者を祝福し、呪う者を呪う」。そしてアブラハムとは誰だろうと思い巡らしていると、それは滝元先生ではないか。滝元先生は神によって選ばれた神の器だと。その滝元先生を祝福することこそ、神様が望んでおられることだと確信し、その働きの祝福を覚えて祈るようになったということでした。

私はそのお話を聞いたとき、すごいなぁと思いました。というのは、人は自分の考えと違うとなかなか受け入れることができないものですが、神のみこころを求めて祈る中で、たとえそれが自分の考えと違っても神のみこころなら従うということを実践されておられたからです。それこそ神様に喜ばれることであり、神様が祝福してくださる信仰だと思いました。私はまだそれほど長い信仰生活を送ってきたわけではありませんが、確信をもって言えることは、神の御言葉に従う者を神は豊かに祝福してくださるということです。それは霊的な面においても、精神的においても、肉体的な面においても、物質的においても、経済的においても、社会的な面においても、すべての面においてです。Ⅱ歴代16章9節に、「【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」とある通りです。問題は、私たちの心が主の心と一つになっているかどうかです。もし一つになっているなら、主はそのような人々に御力をあらわしてくださいます。それはこの点においても言えることです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。

先日、私は64回目の誕生日を迎えましたが、この64年を振り返りながら、このような人生を与えてくださった主に感謝しました。なかなかないと思うんですよ。18歳で信仰に導かれ、22歳で伝道者として召され、以後42年にわたりイエス様一筋に仕えることができるなんて。私は長嶋茂雄さんにはなれなかったし、マイケル・ジョーダンにもなれなかったけど、キリストのしもべとしての歩みを続けることができました。それは一重に神様のあわれみでしかなかった。こんな者を神様はご自身の栄光のために選んでくださいました。


  しかしそのように祈りながら感謝していると、神様からの御声がありました。「違う」と。「えっ、どういうことですか」と尋ねると、主はこのように示されました。「確かに、わたしはあなたを選んだが、それ以上にパットを選んだのだ」と。「パットがアブラハムで、あなたはそのアブラハムに仕えるしもべにすぎない。」と。これはどういうことだろうと思い巡らしているうちに、「本当にそうだと思うようになりました。」

家内が宣教師として来日したのは1979年ですから、今から46年前になります。一般に、宣教師は母国のサポーターから献金を募り、何らかの宣教団体を通して遣わされてきますが、家内はそうしませんでした。献金を集めるのがあまり得意じゃないということもありましたが、何よりもそうすれば4年に一度デブテーションで戻らなければならなかったのですが、それを受け入れることができなかったからです。伝道の途中で1年間も空けることは宣教にとって大きな妨げになるのではないかと考えたのです。ですから彼女は宣教団を通してではなくセルフサポートといって、自分で働きながら宣教する道を選びました。それは自由に宣教ができるというメリットはありますが、老後のことを考えると厳しい選択でもありました。というのは、働きを終えて帰国する時、何の保障もないからです。でも彼女はアブラハムのように「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」との召しを受けたとき、それに従い、どこに行くのかも知らずに、ただ信仰によって来日しました。そこで私と出会って結婚に導かれたのです。それは老後の保障どころか、帰国の路が閉ざされることを意味していました。日本に骨を埋めることを覚悟したということです。それほどの覚悟で来たのは、神様が彼女を選ばれたからです。パットがアブラハムで私はそのしもべにすぎないと言われる主のことばの意味がわかるような気がしました。そういえば、来日したばかりの頃、彼女はよく言っていました。「私は口下手なのでモーセですが、あなたはよく喋るのでアロンだ」と。主はご自身の御業のためにモーセを選んだように、パットを選ばれたのです。
  であれば、私がすべきこと何でしょうか。このアブラハムを祝福することではないかと思ったのです。アブラハムを祝福する者は祝福されるからです。

それはパットだけでなく、神の民とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはお互いに神に選ばれた神の民なのです。であれば、祝福すべきであって呪ってはいけません。喜んでいる者とともに喜び、泣く者と一緒に泣く。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちに順応しなければなりません。そういう人を、神様は祝福してくださるからです。ペリシテ人はそうではありませんでした。イスラエルを祝福したのではなくイスラエルに敵対し、いつも戦いを挑みました。それゆえ、神から厳しい裁きを受けることになったのです。私たちはそういうことがないように、この御言葉に従わなければなりません。神に選ばれた神の民を、愛する兄弟姉妹を心から祝福しなければなりません。祝福すべきであって呪ってはいけないのです。

Ⅲ.主のみことばの剣(6-7)

第三のことは、だから神のことばに従いましょう、ということです。6~7節をもう一度ご覧ください。「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」

ここには単にペリシテがバビロンによって討ち破られたというだけでなく、その背後に神の力と支配があったことがわかります。6節は、平安がないことを嘆くペリシテ人の嘆きです。「ああ、主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」
  ここで注目していただきたいことは、エレミヤが「主の剣」と言っていることです。実際にはペリシテもエジプトと同様に、目に見えるところではバビロンの攻撃によって討ち破られたわけですが、エレミヤはその出来事の背後に、主の力と支配があることを認めていました。
  7節もそうです。「どうして、休めるだろうか。主が剣に命じられたのだ。」とあります。主が命じられたのだから、主がみこころを実現するまでは休むことはありません。彼らに求められていたことは、それが主の剣であると認め、主の前にへりくだり、主に従うことだったのです。ダゴンの神ではなくイスラエルの神、主に信頼することだったのです。

それはペリシテ人だけのことではありません。私たちにも言えることです。聖書には、文字通り武具としての剣だけでなく、主なる神が語られる「みことばの剣」について言及されています。へブル4章12節です。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

神のことばはそれほどまでに鋭いのです。人の心の奥深くに光を当て、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。それは両刃の剣よりも鋭いのです。ですから、この神のことばによって罪が示されたのなら、「いたたっ!さやに収まり、静かに休め」と言うのではなく、私の罪のために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださった主イエス・キリストの御前に進み出て、砕かれた、悔いた心をもって、罪の赦しを求めなければなりません。そして御言葉によって励まされ、慰められ、強められ、教えられ、助けられて、御国を継ぐ者とさせていただかなければならないのです。それがペリシテ人に対して語られた主のことばを通して教えられることです。神のことばに従いましょう。神のことばに従ってアブラハムを祝福しましょう。イスラエルを祝福しましょう。主にある兄弟姉妹を祝福しましょう。祝福すべきであって、呪ってはいけません。神のことばに生きるとき、必ずあなたも祝福の基となることができます。それこそ、あなたが世の光、地の塩としてこの世に遣わされている目的だからです。

エズラ記8章

エズラ記8章から学びます。

 Ⅰ.帰還者のリスト(1-14)

まず、1~14節をご覧ください。「8:1 アルタシャスタ王の治世に、バビロンから私といっしょに上って来た一族のかしらとその系図の記載は次のとおりである。8:2 ピネハス族からはゲルショム。イタマル族からはダニエル。ダビデ族からは、ハトシュ。8:3 ハトシュはシェカヌヤの孫。パルオシュ族からは、ゼカリヤと、系図に載せられた同行の者、男子百五十名。8:4 パハテ・モアブ族からは、ゼラヘヤの子エルエホエナイと、同行の男子二百名。8:5 ザト族からは、ヤハジエルの子シェカヌヤと、同行の男子三百名。8:6 アディン族からは、ヨナタンの子エベデと、同行の男子五十名。8:7 エラム族からは、アタルヤの子エシャヤと、同行の男子七十名。8:8 シェファテヤ族からは、ミカエルの子ゼバデヤと、同行の男子八十名。8:9 ヨアブ族からは、エヒエルの子オバデヤと、同行の男子二百十八名。8:10 バニ族からは、ヨシフヤの子シェロミテと、同行の男子百六十名。8:11 ベバイ族からは、ベバイの子ゼカリヤと、同行の男子二十八名。8:12 アズガデ族からは、カタンの子ヨハナンと、同行の男子百十名。8:13 アドニカム族からの者は最後の者たちで、その名はエリフェレテ、エイエル、シェマヤ、および彼らと同行の男子六十名。8:14 ビグワイ族からは、ウタイとザクルと、同行の男子七十名。」

エズラは、アルタクセルクセス王(第三版ではアルタシャスタ王)の第七年に帰還しました。(7:8)。ここには、その時エズラと一緒にバビロンからエルサレムに上って来た民のリストが記録されています。この時に帰還した民の数は、合計で1,772人でした。2章3~15節には、ゼルバベルとともに帰還したユダヤ人の数が記録されてあのますが、その時の帰還民の合計は、42,360人でしたから、それに比べると今回の期間に加わった人たちは、かなり少ない人数であったことがわかります。ほぼ10分の1にすぎません。しかし、数が問題ではありません。彼らはカナンの地に自らの未来があると信じて帰還した「イスラエルの残れる者」(レムナント)たちでした。「イスラエルの残れる者」とは、イスラエルの民全体の中にあって真の信仰を持っていた少数の人たちのことです。彼らは「真のイスラエル」、「霊的イスラエル」とも呼ばれる人たちです。真のイスラエルは、常に少数派です。それは、霊的イスラエルであるクリスチャンにも言えることです。今も真の信仰を持つ人たちは、この世の中では少数です。しかし、その事実に失望する必要はありません。神は少数の真実な信仰者たちを用いて、ご自身の計画を進めてくださるからです。

「祈りの人」という本を書いたE.M.バウンズは、その著書の中でこう言っています。「今日、教会に必要なことは、より多くの、より良い手段ではなく、また新しい組織や、より多くの新奇な方法でもない。ただ聖霊が用いたもうことのできる人である。それはすなわち、『祈りの人』である。祈りにおいて力ある人なのである。聖霊は方法をとおしてではなく、ただ人をとおしてのみ注がれる。聖霊は各種の手段の上にではなく、人に注がれるのである。また聖霊は計画にではなく、ただ人に、そうです、祈りの人に油を注がれるのだ。」

ですから、私たちはこの世の価値観に流されるのではなく、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるのかをわきまえ知るために、心を新たにすることで、自分を変えていただかなければなりません。

Ⅱ.レビ人の募集(15-20)

次に、15~20節をご覧ください。「 8:15 私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間、宿営した。私はそこに、民と祭司たちとを認めたが、レビ人をひとりも見つけることができなかった。8:16 それで、私はかしらのエリエゼル、アリエル、シェマヤ、エルナタン、ヤリブ、エルナタン、ナタン、ゼカリヤ、メシュラムと、教師エホヤリブ、エルナタンを呼び集め、8:17 彼らをカシフヤ地方のかしらイドのもとに遣わした。私は彼らにことばを授けて、私たちの神の宮に仕える者たちを連れて来るように、カシフヤ地方にいるイドとその兄弟の宮に仕えるしもべたちに命じた。8:18 私たちの神の恵みの御手が私たちの上にあったので、彼らはイスラエルの子、レビの子、マフリの子孫のうちから思慮深い人、シェレベヤと、その子たち、およびその兄弟たち十八名を私たちのところに連れて来た。8:19 また、ハシャブヤとともに、メラリの子孫のうちからエシャヤと、その兄弟と、その子たち二十名、8:20 および、ダビデとつかさたちにより、レビ人に奉仕するよう任命されていた宮に仕えるしもべたちのうちから、二百二十名の宮に仕えるしもべたちを連れて来た。これらの者はみな、指名された者であった。」

エズラ一行は、アハワに流れる川のほとりに彼らを集め、そこに3日間宿営しました。なぜなら、エズラが帰還民たちを確認したところ、そこにレビ人を見つけることができなかったからです。レビ人がいなければ、帰還した先で生活を建て直すことが困難になります。というのは、レビ人たちには2つの重要な役割があったからです。一つは、律法の教師として奉仕すること(レビ10:11、申命記33:10)、もう一つは、神殿で祭司たちを補助することです。もしレビ人がいなければ、この2つのことができなくなります。7章では、主の恵みの御手が彼とともにあったので、彼は4か月という短期間にエルサレムに上ることができたことを学びましたが、それは彼が主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで起きてと定めを教えようと心を定めていたからでした(7:10)。しかし、レビ人がいなければ、主の律法を教える人がいなくなります。それでは、神のことばの上に計画を進めていくことができないことになり、結果、こうした祝福を受けることができなくなります。ですから、レビ人を連れて行くことがどうしても必要だったのです。

それでエズラはそこに3日間宿営し、信頼できる11人を呼び集め、レビ人を集めるために彼らを遣わしました。17節には、カシフヤ地方のかしらイドについて、そこに居住しているレビ人たちに対して、どのように言えばよいかということまで指図しています。レビ人の募集は、それほどデリケートなテーマだったのです。

その結果、どうなったでしょうか。18節にあるように、彼らはマフリの子のうちから賢明な者18人と、メラリの子のうちから20人、合計38人のレビ人を連れて来ることができました。また、レビ人に奉仕するように任命されていた宮のしもべたちのうちから、220人のしもべたちを連れて来ることができました。それは彼らが優れていたからとういうよりも、神の恵みの御手が彼らの上にあったからです。これはエズラ記のテーマですね。神の恵みの御手が私たちの上にあってので・・。神の恵みの御手が彼らとともにあったので、彼らを用いてレビ人を連れて来ることができたのです。

ここで重要なことは、20節にあるように、「これらの者はみな、指名された者であった」という点です。どういうことでしょうか。口語訳ではここを、「これらの者は皆その名を言って記録された。」と訳しています。また、創造主訳聖書でも「彼らは皆、その名前を記録された。」と訳しています。つまり、これは、220名のレビ人たちが示した献身に対する敬意の表明だったのです。レビ人が自発的に帰還しなかったのは、エルサレムでの厳しい生活を想像することができたからです。しかし、この220名の者たちは、生活の保証よりも、主に仕える道を選びました。献身の道を歩む者の名は、主に覚えられているということです。献身者にとってこれほど大きな励ましはありません。

Ⅲ.アハワ川のほとりでの断食(21-30)

次に、21~30節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「8:21 私はそこ、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。8:22 それは私が、道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めるのを恥じたからであった。実際、私たちは王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたのである。8:23 そのため私たちはこのことのために断食して、自分たちの神に願い求めた。すると、神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」

エズラは、エルサレムへの帰還にあたり、アハワ川のほとりで断食を布告しました。それは、彼らが神の前にへりくだり、道中の無事を願い求めるためです。というのは、彼は道中の敵から自分たちを助けるための部隊と騎兵たちを、アルタクセルクセス王に求めることを恥じたからです。それは彼が王に自分たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたからです。それなのに、もし王に護衛を要請したら、言っていることとやっていることが一致しないことになります。ちなみに、ネヘミヤの場合は、護衛が付きました。ですから、護衛を付けるか付けないかということが問題だったのではなく、そのように言ってしまった手前、そうせざるを得なくなったということです。しかしそれはエズラにとって大きな霊的チャレンジでした。21節にあるように、そのために彼らは断食して自分たちの神に願い求めると、神は彼らの願いを聞き入れてくださったということを体験することができたからです。護衛を付けてもつけなくても、大切なのは神の前にへりくだること、そして、神に信頼して祈ることです。そうすれば、神はその願いを聞いてくださる。これこそ、私たちの神に対する確信です。エルサレムに帰還するにあたり、これは彼らにとって大きな霊的準備となりました。

次に、24~30節をご覧ください。「8:24 私は祭司長たちのうちから十二人、すなわち、シェレベヤとハシャブヤ、および彼らの同僚十人を選り分けた。8:25 そして、王、顧問たち、高官たち、および、そこにいたすべてのイスラエル人が献げた、私たちの神の宮への奉納物である銀、金、器を量って、彼らに渡した。8:26 私は銀六百五十タラント、百タラント相当の銀の器、および金百タラントを量って、彼らに渡した。8:27 また、一千ダリク相当の金の鉢二十、さらに、金のように高価な、光り輝く見事な青銅の器二個を彼らに渡した。8:28 それから私は彼らに言った。「あなたがたは【主】の聖なるものである。この器も聖なるものである。この銀と金は、あなたがたの父祖の神、【主】に対する、進んで献げるものである。8:29 あなたがたは、エルサレムの【主】の宮の部屋で、祭司長たち、レビ人たち、イスラエルの一族の長たちの前で重さを量るまで、寝ずの番をしてそれらを守りなさい。」8:30 祭司とレビ人たちは、重さを量った銀、金、器を、エルサレムの私たちの神の宮に持って行くために受け取った。」

エズラは、12人の祭司長たちを選び、ペルシャの王、顧問たち、高官たちと、そこにいたイスラエル人が神の宮の奉納物としてささげたものを量って、彼らに渡しました。それは相当の金と銀の量でした。それは28節にあるように、神のために聖別されたものです。ですから、聖なる祭司たちによってエルサレムに運ばれる必要があったのです。エルサレムに運ばれたら最初の量がそのまま運ばれたかどうか、再計算がなされます。ですから、とても重要な任務であったわけです。その重要な任務を護衛なしで遂行することは、かなり危険なことでした。そのために護衛を付けたから安心ということはなかったでしょう。そこにはへりくだって神のご加護を求める必要がありました。ですからエズラは断食を布告し、祈りを呼びかけたのです。主の御手が私の上にあったという表現は、この営みから来ているのです。祈り、そして祈りに基づいて行動し、一歩一歩神を意識しながら、主を認めながら歩むのです。そうした祈りを神が聞き入れてくださらないわけがありません。こうして彼らの帰還の旅が守られたのです。

Ⅳ.エルサレム到着(31-36)

さあ、エルサレムに帰還した彼らはどうしたでしょうか。31~36節をご覧ください。「8:31 私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の十二日にアハワ川を出発した。私たちの神の御手が私たちの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から私たちを救い出してくださった。8:32 こうして私たちはエルサレムに着いて、そこに三日間とどまった。8:33 四日目に銀と金と器が私たちの神の宮の中で量られ、ウリヤの子の祭司メレモテの手に渡された。彼とともにピネハスの子エルアザルがいて、彼らとともに、レビ人である、ヨシュアの子エホザバデとビヌイの子ノアデヤがいた。8:34 すべてが数えられ、量られた。そのとき全重量が書き留められた。8:35 捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のささげ物を献げた。すなわち、全イスラエルのために雄牛十二頭、雄羊九十六匹、子羊七十七匹、罪のきよめのささげ物として雄やぎ十二匹を献げた。これはすべて【主】への全焼のささげ物であった。8:36 それから、彼らは王の命令書を、王の太守たちとユーフラテス川西方の総督たちに渡した。この人たちはこの民と神の宮に援助を与えた。」

こうしてエズラたちはエルサレムに行こうと、第一の月の12日にアハワ川を出発しました。すると、神の御手が彼らの上にあり、その道中、敵の手、待ち伏せしている者の手から救い出してくださったので、彼らは無事にエルサレムに着くことができました。バビロンからエルサレムまでは厳しい長旅のはずですが、エズラは旅の詳細については一切触れず、ただ「私たちの神の御手が私たちの上にあり」と述べているだけです。彼にとっては、これが旅の要約なのです。「私たちの神の御手が私たちの上にあり・・・その道中、敵の手から救い出してくださった」。これがすべてなのです。私たちのこの地上の旅も、このように告白する旅でありたいですね。

エルサレムに到着すると、彼らはそこに3日間とどまり、4日目にバビロンから運んで来た銀と金と器類は目減りがないかどうか再計量され、祭司たちの手に渡されました。

捕囚の人々で、捕囚から帰って来た者は、イスラエルの神に全焼のささげ物を献げました。すなわち、全イスラエルのために雄牛12頭、雄羊96匹、子羊77匹、罪のきよめのささげ物として雄やぎ12匹です。雄牛12頭は、イスラエル12部族のためです。その他のいけにえは神殿奉献の時と同じものです(エズ6:17)が、数は減っています。これは神への献身を表すためのいけにえです。

さらに、王の命令書を、その地に派遣されていた王の高官たちに渡しました。目的は、帰還民の扱いに関して、王の意向を反映させるためです。その結果、なんと異邦人である彼らが、神殿での礼拝のために援助を与えたのです。これがこの箇所のクライマックスです。まさに神の御手が彼らの上にあったので、異邦人の王の心までも動かしてくださったのです。私たちの人生もこうありたいものです。神は、ご自身に信頼を置く者に恥をかかせるような方ではありません。ただ神の御手が共にあるように祈り求め、神のみこころに歩む者でありたいと思います。