エレミヤ書49章23~39節「ここに救いがある」

46章から諸国の民についての語られた主のことばから学んでいますが、今日はダマスコに対して語られた主のことばと、ケダルとハツォル、そしてエラムに対して語られた主のことばから学びたいと思います。

三つのポイントでお話します。第一に、ダマスコに告げられたのは神のさばきという悪い知らせでしたが、ここに良い知らせがあります。良い知らせは、主イエスにあるということです。第二のことは、ケダルとハツォルに対する主のことばから教えられることですが、自分は一人でやっていけると思い上がるなら、滅びを招くことになるということです。そして第三のことは、エラムに対する主のことばから教えられることですが、あなたは何を誇り、力の源としていますかということです。神以外のものを誇るなら神はそのようなものを砕かれますが、主に立ち返るなら救いの恵みを受けることができということです。それでは、本文を見ていきましょう。

Ⅰ.ダマスコに対する預言(23-27)

まず、ダマスコに対する預言から見ていきましょう。23~27節をご覧ください。49:23 ダマスコについて。「ハマテとアルパデは恥を見た。まことに、彼らは悪い知らせを聞き、海のようにかき乱され、静まることもできない。49:24 ダマスコは弱り、恐怖にとらわれ、身を翻して逃げた。産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて。49:25 どうして、誉れの町、わたしの喜びの都が捨てられたのか。49:26 それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、黙らされる。──万軍の【主】のことば──49:27 わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす。」」

ダマスコはアラムの首都でした。アラムとは今日のシリアのことです。シリアはイスラエルの北方に隣接している国ですが、今日でもテレビのニュースでよく観ます。そのダマスコに対する預言です。

「ハマテとアルパデは恥を見た」とありますが、「ハマテ」と「アルパデ」はダマスコの北にあった町です。このハマテとアルパデは恥を見ることになります。彼らは海のようにかき乱され、静まることもできません。なぜなら、彼らは悪い知らせを聞くからです。それは敵によって海ようにかき乱され、静まることもできないという知らせです。ダマスコは弱り果て、恐怖にとらわれ、産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて、身を翻して逃げることになります。26節には、その日、敵の攻撃によってダマスコの若い男たちは町の広場に倒れ、戦士たちもみな、黙らされるとあります。黙らされるとは殺されるということです。そしてこの預言はB.C.605年に成就します。バビロンの王ネブカドネツァルはエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢を打ち破ると、このダマスコも打ちました。46章2節で見た通りです。27節には「わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その日はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす」とありますが、ダマスコの城壁は崩され、ベン・ハダドの宮殿は焼き尽くされました。

23節の真ん中に「まことに、彼らは悪い知らせを聞き」とありますが、それは本当に「悪い知らせ」です。バビロンの王によって焼き尽くされ、捕らえられるというのは、悪い知らせでしかありません。しかし、ここに「良い知らせ」があります。それは、そのバビロン捕囚から解放されるという知らせです。

それは「良い知らせ」、「福音」です。皆さんは「福音」という言葉をよく聞くと思いますが、福音とは何ですか。私はクリスチャンになる前にこの漢字すら読めませんでした。何だろう、「フクオン」って?「福音」とは、ギリシャ語では「εὐαγγέλιον」(エウアンゲリオン)と言いますが、この言葉は、元々はバビロン捕囚から解放される知らせを表していました。それがバビロン捕囚ならぬ罪の奴隷から解放されることを意味することばとして用いられるようになったのです。それが福音です。つまり、悪い知らせとは罪に捕らわれた状態であることに対して、良い知らせとは、その罪の奴隷の状態から解放されるという知らせのことなのです。

そこから解放してくださる方は誰ですか。それは言わずと知れた私たちの救い主イエス・キリストです。キリストは十字架で死なれ三日目によみがえられることによって、この救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、このイエスを救い主と信じるならだれでも救われるのです。罪から解放されます。これが福音です。私たちはこの福音によって救われました。

そしてこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者として私たちはこの世に置かれているのです。この世は良い知らせを知りません。知っているのは悪い知らせばかりです。テレビやネットから流れてくる情報は悪い知らせばかりじゃないですか。そこには全く希望がありません。この世の人たちは自分の中に神を求める思いがあるのに、その神がどのような方なのかを知らないからです。まさに「知られていない神」です。どこに行ったら良いのかわからずみんなさまよっているのです。もしこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を知ることができたら、どんなに希望と生きる力が与えられることでしょう。

私は先日右眼の手術を受けましたが、実はちょっとだけ不安がありました。昨年11月にも受けたのですが、その時に出血が目の奥に入り込んだため4日目もう一度手術を受けなければならなかったからです。かなり目にダメージがあったので、そうならないといいなぁと祈らずにはいられませんでした。

病院に到着後、その日は何もすることがなかったので、聴く聖書でテサロニケの手紙を聴きました。すると主はこのように語りかけてくださいました。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(Ⅰテサロニケ5:28)
  主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。それは私に対する神の約束のことばだと確信しました。主の恵みの御手があると。主が私を贖われた。主は私とともにおられる。強くあれ。雄々しくあれ。主はいつもあなたとともにおられる。

本当に励まされました。こんな時いくら「頑張ってください」と言われても、自分にはどうすることもできません。でも主があなたとともにおられるというメッセージは、本当に平安と希望を与えてくれました。そして主イエス・キリストの恵みによって手術は成功し、心配していた目の奥に血が入り込むこともなく、4日目に退院することができました。ハレルヤ!

ところで、手術が終わった日、さくらチャーチの一人のご婦人からメールをいただきました。その方は乳がんの検査を受けられたのですが、その結果陽性であることが判明しました。リンパ腺にも転移しているらしく、しばらく化学療法を続けた後で手術をする方針だとだということでした。
  私は片方の目でしたがすぐにメールを差し上げ、自分に与えられたイエス・キリストの恵みがその方にもあるようにと書き送りました。するとその方から返信が届きました。
 「先生、恵みの言葉を有難う御座います。今病院から戻りました。お盆前で院内も患者でいっぱいでした。先生のメールを読んでいまして、あ―、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らに居られると思いました。これから始まる科学療法にも、太刀打ちできる勇気が湧いてきます。何より増して、大橋牧師の手術が成功された事が嬉しいです。良かったですね。・・・・牧師に大いなる神の恵みを。アーメン。」

何だか逆に励まされたような感じですが、私はこれを読んで福音の力ってすごいなぁと思いました。「あー、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らにおられる」って言えるのは、本当に凄いことだと思うんです。この世にこのような希望があるでしょうか。十字架で死なれ、三日目によみがえられた主があなたをすべての罪から解放してくださった。主がいつもあなたとともにおられ、あなたの前を歩んでくださるというメッセージは、本当にかけがいのなにメッセージ、良い知らせです。この世のどこを探してもこんなにすばらしいメッセージ、福音の良い知らせはありません。この良い知らせがあなたにも与えられているということを忘れないでください。

Ⅱ.ケダルとハツォルの王国について(28-33)

次に、ゲダルとハツォルに対する主のことばを観たいと思います。28~33節をご覧ください。「49:28 バビロンの王ネブカドネツァルが討ったケダルとハツォルの王国について。【主】はこう言われる。「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。49:29 その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって叫ぶ。『恐怖が取り囲んでいる』と。49:30 ハツォルの住民よ、逃げよ。遠くへ逃れよ。深く潜め──【主】のことば──。バビロンの王ネブカドネツァルが、おまえたちに対してはかりごとをめぐらし、おまえたちに対して計略をめぐらしているからだ。49:31 さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。49:32 彼らのらくだは獲物になり、その家畜の群れは分捕り物になる。わたしは、もみ上げを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、あらゆる方向から彼らに災難をもたらす。──【主】のことば──49:33 ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなる。そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」」

「ケダル」はイシュマエルの息子の名(創世25:13)で、アラビア半島に住む遊牧民です。現在のサウジアラビアの辺りに住んでいたのではないかと考えられています。イスラム教徒によると、イスラム教徒の開祖はムハンマドですが、彼はこのケダルの子孫だと言っています。

「ハツォル」とは、ガリラヤ湖の北部にも「ハツォル」という町がありますがそのハツォルではなく、アラビア半島のどこかにあった町ではないかと考えられています。

そのケダルとハツォルに対して主は何と言われましたか。28節後半から29節には、「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。」とあります。これはバビロンの王ネブカドネツァルに対して言われたことばですが、彼はケダルに攻め上り、これを荒らし回ります。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られることになるのです。天幕と羊の群れとか、らくだと言われてねピンとこないかもしれませんが、たとえばこれを資産とかホンダのSUVのような高価なものに置き換えるとわかりやすいかと思います。あなたが今まで築いてきた資産のすべてが奪われたとしたらどうでしょうか。もう絶望するのではないでしょうか。なぜここにラクダが出てくるのか不思議に思われるかもしれませんが、ラクダは当時の貿易では欠かすことができない高価なものだったからです。「ラクダ」は砂漠の船と呼ばれていて、価値あるものでした。今でいうとそれこそホンダの車であったり、ハーレーダビッドソンのようなものです。ラクダに乗ったら楽だ!なんて。そんな価値あるものがすべて奪われるとしたらどうでしょう。もう立ち上がれないのではないでしょうか。車だけならまだしも、家や資産のすべてが奪われたとしたら悲しい限りです。ケダルとハツォルはまさにそんな悲惨な目に遭うのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

31節をご覧ください。ここには「さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。」とあります。
 どういうことでしょうか。ケダルとハツォルは遊牧民だったので、誰も自分たちのところに攻めてくる者はいないと、安心しきってのん気にしていたのです。鍵など必要ありませんでした。城塞都市ではなかったからです。いつものんきに暮らしていました。フーテンの寅さんのように。今の時代、鍵をかけなかったら大変ですよ。すっかり持って行かれます。娘が高校生の時、駅まで自転車で行っていましたが、何度盗まれたでしょうか。何台も盗まれました。しっかり鍵をかけていても、ですよ。
 しかし、ゲダルとハツォルはそういう心配がありませんでした。扉も、かんぬきも必要なく、だれとも同盟関係を結ぶ必要もありませんでした。そんなことしなくたって自分たちだけでやっていけると高をくくっていたのです。そういう自負心というか、プライドの結果、31節にあるように、彼らは孤立して住んでいたのです。

これはどこかの国に似ているんじゃないですか。この国もどちらかというとそういう傾向があります。確かに日本には同盟国があり孤立しているわけではありませんが、でも自分たちだけでやっていけるという勝手な思い込みがあるのではないでしょうか。誰の助けを受けなくても、自分の力でやっていけると。

それはクリスチャンも例外ではありません。自分は一人でやっていけるので別に教会に行く必要がないと思っている人が意外と多いです。信仰生活は一人でも守っていけるから大丈夫ですという思いがあるなら、それはこのケダルやハツォルと何ら変わりがありません。一人で聖書を読んで、一人賛美して、一人で礼拝できるから大丈夫です。時には家に人を招いて家庭集会をすることもできるし、メッセージだってインターネットでいくらでも聴くことができます。交わりだって教会に行かなくてもできるから大丈夫ですと言うなら、このケダル人やハツォル人と同じなのです。とんでもない勘違いをしていることになります。私たちは一人でなんて生きていくことなどできないからです。神はそのために教会を用意してくださいました。主にある兄弟姉妹が共に集まって共に礼拝し、共に生きるようにと。だから礼拝に来ると元気が出るんです。そして神様がどのようなお方なのかを本当の意味で知ることができて、その神によって力を与えられるのです。

今年の教会のテーマは、ともに生きる幸いです。「133:1 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133:1-3)とあるとおりです。

自分は一人でやっていけるとおごり高ぶるなら、ゲダルやハツォルのように、神のさばきを受けることになります。主はそういう人たちのところに攻め上れと、ネブカドネツァルに命じておられるように、やがて滅ぼされることになるのです。もうらくだ!なんて言えなくなります。

そしてこの預言の通り、B.C.599年にバビロンの王ネブカドネツァルがケダルを攻撃して、その天幕と家畜をすべて略奪しました。自分はどうなのかを吟味して、もしそのような思いがあるなら悔い改めて、神のみこころに歩ませていただこうではありませんか。

Ⅲ.エラムに対する主のことば(34-39)

最後に、エラムについて語られた主のことばを見て終わりたいと思います。34~39節をご覧ください。「49:34 ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった【主】のことば。49:35 万軍の【主】はこう言われる。「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。49:36 わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに吹きつけさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らす。エラムの散らされた者が入らない国はない。49:37 わたしは、エラムを敵の前に、そのいのちを狙う者たちの前にうろたえさせ、彼らの上にわざわいを、わたしの燃える怒りをその上に下す。──【主】のことば──わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす。49:38 わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。──【主】のことば──49:39 しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」」

ユダの王ゼデキヤの治世の初めとは、B.C.597年です。エラムとは、バビロンの東にあった国で、今日のイランのことです。地図をご覧ください。

(ラーンテック、「世界史探求」~初期のペルシアとメディア(前7世紀頃)~)

バビロンとペルシアの間にある地域です。ユダからはだいぶ離れたところに位置しています。そのエラムに対して主が言われたことはどんなことでしょうか。35節には、「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。」とあります。彼らの力の源は何でしたか。弓です。彼らは弓が得意だったのです。言うならば、これは軍事力ですね。それが彼らの力の源だったのです。彼らはそれを自慢していました。しかし主は、そんな彼らの力の源である弓を折ると言われたのです。もう頼りにならないようにすると。

それは私たちも同じです。もしあなたが神様以外ものを自慢しているなら、神様はそれをへし折られることもあります。神以外に誇るものがあるとしたら、それが何であれ折られるのです。使徒パウロはガラテヤ書6章14節で、私たちには私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはなりませんと言っています。もし十字架以外に誇るものがあるとしたら、神は時にそれをあなたから取り上げられることがあるということを覚えておかなければなりません。神の力によって私たちは砕かれ弱くされます。でもそれは一重に私たちが神を誇るようになるためです。

あなたが誇りにしているものは何ですか。あなたが自慢しているもの、あなたが絶対的な信頼を置いているもの、それは何でしょうか。私にはこれがある。あれがある。この資格がある。このキャリアがある。この仕事がある。健康がある。お金がある。家族がある。これらはすべて神の恵みです。それなのに、これらのものを神よりも誇ることがあるとしたら、神はそれを取られることがあるのです。でもその時はむしろ幸いです。なぜなら、神があなたの力となってくださるからです。

エラムの場合はどうでしょう。36節と37節をご覧ください。主は天の四隅から、四方の風をエラムに吹き付けさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らすと言われました。この「四方の風」とは、エラムに向かって攻めて来る敵のことですが、その結果、彼らはその地から散らされてしまうことになります。勿論、そこにはバビロンの王ネブカドネツァルもいました。彼はB.C.597年にバビロンはエラムを攻撃しました。そして最終的には37節にある通り、エラムは完全に絶ち滅ぼされてしまうことになるのです。主が語られたことは必ず実現します。自分を誇り、神以外のものに信頼を置くなら、あなたもエラムのような結果を招くことになることを覚えておかなければなりません。

しかし、エラムに対する預言はこれだけで終わっていません。39節をご覧ください。ここには、「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」とあります。これは、エラムに対する回復の預言です。エラムには、将来の回復の希望が語られているのです。これは終末時代に起こることですが、しかし、歴史上、それが既に成就していることを私たちは見ることができます。たとえば、使徒2章7~11節を開いてください。ここには、「2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」とあります。

これはペンテコステの日に、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々からエルサレム集まっていましたが、そのとき聖霊に満たされた弟子たちが、御霊が語らせてくださるままに、その人たちの国のことばで話し始めまると、それを聞いた人たちは驚いて、呆気にとられて言いました。彼らが自分たちの国のことばで話していたからです。そして、福音のことばを理解した彼らはイエス・キリスト信じて救われて行ったのです。9節を見ると、その中にこのエラム人がいたことがわかります。

「私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、」

彼らの完全な回復は終わりの日に成就しますが、このようにこの歴史においてすでに成就している部分もあるのです。

このように、神のさばきの宣告の中にも常に神のあわれみがあるのを見ることができます。46章からずっとさばきの宣告を聞き続けて、中には暗い気持ちになった人もおられるかもしれませんが、でも神はその都度その都度ちゃんと回復の希望を語り、救いの約束を与えておられたのです。ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる主は、その救いの御手を差し伸ばし続けておられるのです。決して背を向けて見捨てることはありません。勿論、どこまでも頑なな者に対しては妥協することはありませんが、でも同時に神様はあわれみ深い方であり、もしあなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はそのすべての罪を赦し、驚くべき恵みを注いでくださるのです。もうさばかれても致し方ない者に対して救いの御手を差し伸べてくださる。最後の最後まであきらめずに。そして神にしかできない救いの御業を成し遂げてくださるのです。

それは私たち日本人も同じです。自分たちは神様に頼らなくたってやっていけると豪語し、神に背を向け自分勝手に歩んでいるような者にも救いの御手が差し伸べられているのです。そうです、世の終わりにあっては間違いなく私たちはさばきに向かっていますが、そこにはちゃんとあわれみも備えられているのです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

ですから、私たちはこの時代がどういう時代なのかを見極めなければなりません。そして神のさばきを宣告しなければなりませんが、同時に神のあわれみと神の救いも、それ以上に力強く高らかに宣べ伝えなければならないのです。私たちは悪い知らせだけでなく、福音の良い知らせを宣べ伝えるために召された者なのですから。この世の人たちは良い知らせを知りません。知られない神を拝んでいます。こうした人たちにイエス・キリストのみ救いの良い知らせを宣べ伝えなければならないのです。それが私たちがここに置かれている最大の理由であり、最大の使命です。

エレミヤもその使命を全うしました。どのような取り扱いを受けようと、どんなに迫害されようとも、彼は最後までその使命を忠実に果たしたのです。私たちもそうありたいですね。確かに今は恵みの時、今は救いの日です。ここにその救いがありますと。救い主イエス・キリストを信じるなら、どんな人でも救われますと。たとえあなたがダマスコであっても、あるいはゲダルやハツォルのような人であっても、エドムのような人であっても救われて、永遠のいのちという神の祝福を受けることができるのです。その日を待ち望みつつ、主はこの国も救ってくださると信じて祈り続けようではありませんか。

エレミヤ49章7~22節「エドムについての預言」

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46章から諸国の民についての預言が語られています。これまでエジプト、ペリシテ、モアブ、アンモンに対する主のことばを学んできましたが、今日はエドムに対する主のことばです。

Ⅰ.神のさばきから免れることはできない(7-13)

まず、7~13節をご覧ください。7節にはエドムについて。万軍の【主】はこう言われる。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」とあります。

エドム人は、巻末の地図6「イスラエル王国とユダ王国」を見ていただくとわかりますが、死海の南東、モアブの南に住んでいました。彼らの先祖はヤコブ(イスラエル)の兄のエサウです。ですから、イスラエル人とは最も親しい関係にあった民族と言っても良いでしょう。彼らは文字通りイスラエル人(ヤコブ)とは兄弟だったのです。それなのに彼らは、歴史上、イスラエルと争いを繰り返し、ついにその名がイスラエルに敵対する異邦人諸国の象徴となりました(エゼキエル35:1-15)。そんなエドムについて、語られた主のことばがこれです。

テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。

「テマン」はその地図にボツラという地名が出てきますが、その南方約20キロメートルにある町です。創世記36章11節を見ると、テマンはエサウの孫の1人の名前として出ています。ヨブ記にはヨブの3人の友人が登場しますが、その1人がテマン人でした。何という人ですか?そうです、テマン人エリファズですね。彼はこのテマンの出身でした。まさにテマン人は知恵者として知られていたのです。そのテマンに対して主はこう仰せられました。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」どういうことでしょうか。そうした人間の知恵によっては神のさばきを免れることができないということです。どんなに知恵があっても、人間の知恵によっては神の怒りから救われることはできないのです。

8節をご覧ください。今度は「デダン」という町が出てきます。「デダンの住民よ、逃げよ。そこを離れよ。深く潜め。わたしが彼の上にエサウの災難を、彼を罰する時を、もたらすからだ。」

「デダン」は、エドムの南東、アラビア半島の北部にあった町です。テマンがエドムの北にある代表的な町なら、デダンは南にある代表的な町でした。今日のサウジアラビアではないかとも言われています。このデダンの住民に対しては何と言われていますか?デダンの住民に対しては、そこから離れるように警告されています。なぜなら、そこも神のさばきを受けることになるからです。このデダンはかつて商業都市として栄えた町でした。産物も豊富で、経済的に豊かな所でした。そこから離れるようにというのです。知恵で有名なテマンも、商業で有名なデダンも、神のさばきを逃れることはできないからです。いくら知恵があっても、いくら経済的に豊かであっても、そうした人間的なものによっては神の怒りから逃れることはできないのです。

9節には、その神のさばきの徹底さがぶどうの収穫にたとえられています。「ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろう。盗人が夜中に来るなら、彼らの気がすむまで荒らすだろう。」

ぶどうを収穫する者は、ぶどうの実を残すことはありません。取り残しがないように収穫するからです。主はそのようにエドムをさばかれるのです。また、夜中に来る盗人は気が済むまで奪っていきます。そのように主はエサウを裸にし、その隠れ場をあらわにするのです。

11節には「おまえのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生かし続ける。おまえのやもめたちやは、わたしに拠り頼まなければならない」とあります。
  みなしごたちややもめたちは保護されなければならない対象ですが、そのみなしごややもめたちを見捨てよと言うのです。どうしてでしょうか。神の激しいさばきが臨むからです。ですから彼らにはそんな余裕さえないのです。

それゆえ、主はこう仰せられます。12節です。「見よ。その杯を飲むように定められていない者でも、それを必ず飲まなければならないのなら、おまえだけが罰を免れられるだろうか。罰を受けずにはすまされない。おまえは必ず飲まなければならない。」

「その杯」とは神の怒りの杯のことです。その杯を飲むように定められていない者とは、イスラエルの民とは何の関係もない民、すなわち、異邦人のことを指しています。そのような者でさえ神の怒りの杯を飲まなければならないとしたら、まして神の民イスラエルと兄弟であるエドム人が神のさばきを免れられることは決してありません。どうしてですか?彼らは神の祝福に与りながらそれを軽視し、神の祝福を求めた弟ヤコブに敵対したからです。エサウはいわゆる肉的な人でした。彼は双子の兄として長子の権利という神の祝福が与えられていたにもかかわらず、一杯のレンズ豆のスープと引き換えにその権利を弟ヤコブに譲ってしまいました。そんなものはいらないと。それよりも美味しいシチューが食べたい。彼にとって霊的祝福はどうでも良いことだったのです。彼の関心はただ食べたり、飲んだりすることだけ、この世のことだけでした。彼は神の祝福を全く価値のないものとみなしていたのです。そういうエサウの性質を受け継いだのがエドム人です。ですから彼らが神のさばきを逃れることは決してないのです。必ず神の怒りの杯を飲まなければなりません。

13節をご覧ください。ここでは、それは必ず成就するということが言われています。お読みします。「まことに、わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。必ずボツラは恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となる。そのすべての町は、永遠の廃墟となる。」

「わたしは自分にかけて誓う」とは、100%それを成し遂げるという意味です。「ボツラ」は先ほどの地図にもありますが、エドムの首都でした。そこは今「ペトラ」と呼ばれている要塞都市で、世界遺産として有名な場所です。皆さんの中にはご覧になれられた方もおられるかもしれません。1989年の映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台にもなった町でもあります。そこはかつて繁栄を極めた町でした。なぜなら、そこは16節に「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ」とあるように、自然の要塞となっていたからです。どんな敵が攻めて来ても攻め入ることができない難攻不落の町だったのです。つまり、軍事的にも優れていたということです。彼らはそのことも誇っていました。さらに、後で写真を見ていただくとわかりますが、建築物のほとんどは岩山を削って造られたものです。そこに独創的な貯水システムも造られました。つまり、彼らは建築技術も優れていたということです。しかし、そんなボツラも永遠の廃墟となると、主は言われました。

不思議なことですが、今ボツラ(ぺトラ)は文字通り廃墟となっています。そこにはだれも住んでいません。かつては交易の中心地として、数万人が暮らしていましたが、今は人っ子ひとりいません。それゆえ、謎の古代都市と呼ばれているんです。ボツラはどうして没落したのか。13節にある通りです。ボツラは必ず恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となると。そのすべての町は、永遠の廃墟となるのです。そのことばの通りになったのです。

誰もこの神のさばきから免れることはできません。テマンのようにどんなに知恵があっても、デダンのようにどんなに経済的に豊かであっても、ボツラのように軍事的に優れ、高度な建築技術、科学技術を持っていたとしても、この神の怒りから逃れることはできないのです。いったいどうしたら良いのでしょうか。

そのためには、本当の岩であられる主に身を避けなければなりません。詩篇2篇12節にこうあります。「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。」
  「身を避ける」とは、「拠り頼む」とか、「信頼する」ということです。どこに身を避けるのか、だれのもとに身を避けるのかが重要です。エドム人は知恵や経済、軍事力、科学技術に身を避けましたが、そのようなものは神の怒りから人を救うことはできませんでした。神の怒りから人を救うことができるのは主なる神ご自身だけであって、この主に身を避けなければなりません。主に信頼しなければ救われないのです。

これが聖書全体を貫いているテーマです。主イエスを信じるなら救われるとそういうことです。なぜ主イエスを信じるなら救われるのでしょうか。なぜ主イエスに身を避けるなら救われるのでしょうか。なぜなら、主イエスこそ私たちが神の怒りから救われるために神が与えてくださった方法だったからです。パウロはこのことをこう述べています。ローマ5章9節です。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」

アーメン!「ですから」とは、その前に語られたことを受けてのことですが、その前には「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(5:8)とあります。「ですから」なのです。キリストは私たちがまだ罪人であったとき、私たちの罪のために死んでくださったことによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださいました。自分の敵のために死ぬ人がいますか。いません。自分の愛する人のためなら死ぬ人はいるかもしれませんが、自分に背き自己中心に歩んでいる人のために死ぬ人なんてほとんどいないでしょう。しかし神は、ご自身に背を向け自己中心に歩んでいた私たちのために、聖書ではこれを罪と言いますが、そんな罪人のために死んでくださることによって、ご自身の愛を明らかにしてくださったのです。それが神のひとり子イエス・キリストの十字架でした。イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれることによって、その罪を取り除いてくださったのです。「ですから」です。ですから、今すでにこのキリストの血によって義と認められた私たちが、神の怒りから救われるのはなおさらのことなのです。だってそのためにそれだけ大きな神の愛が注がれたのですから。救われないわけがありません。もしあなたがこのイエスをあなたの罪からの救い主として信じるならあなたの罪は赦され、神に義と認められ、神の怒りから救われるのです。イスラエルがエジプトから救われたように。彼らはどのようにエジプトから救われましたか?自分の家の鴨居と門柱に、小羊の血を塗ることによってです。それを見た神はご自身の怒りを過越していかれました。それと同じです。イエス・キリストこそその過越しの小羊なのです。もしあなたの心にこのキリストの十字架の血を塗るなら、神の怒りはあなたを過越して行くのです。テマンの知恵も、デダンの経済も、ボツラの軍事力や建築技術も、この世のいかなるものもあなたを神のさばきから救うことはできませんが、神が用意された神の救いイエス・キリストを受け入れるなら、この神の怒りから救われることができるのです。

毎週火曜日の夜に、家内は以前小学校で英語を教えていた時に教頭をされておられた方に英会話を教えていますが、夏休みに入る最後のクラスが始まる1時間くらい前に電話があり、その日は台風で大雨警報も発令されているのでお休みしますとのことでした。「はい、わかりました」と電話を切ると、彼女からすぐにまた電話がありました。「パット先生はおられますか」と。それで家内に電話を代わるといきなり、「パット先生、『神は愛なり』ってどういう意味ですか」と聞いて来られました。それで家内は、「それは、神様は愛です、という意味です」と答えました。すごいなあ、ズバリそのままです。神は愛です。しかし、大切なことだと思ったのか「ちょっと待ってください。家の旦那さんに代わりますから」と言って、すぐに私に代わりました。私たちは驚いて顔を見合わせました。なぜなら、その日の朝二人でデイボーションをしてお祈りをしたのですが、「今晩は池田さんと英語のクラスがありますが、彼女の心を開いて良い証ができるように導いてください」と祈ったからです。これまでずっと良い関係がありましたがなかなか証することができなかったので、少しでも証ができるように、そういう機会を与えてくださいと祈ったら、何と向こうから「神は愛なり」ってどういう意味ですかと聞いてきたのです。すごいですね、神様は。私たちは彼女の心を動かしたり、開いたりすることはできませんが、神様にはできます。神様は彼女の心を開いてくださいました。

それでお話をお聞きしたところ、数年前にお亡くなりになった彼女の旦那さんの親友が山形に住んでおられ、最近その方から97歳で亡くなられたその方のお母様が毛筆で書かれた短冊をいただいたそうです。そこに書いてあったのがこのことばだったのです。「神は愛なり」。聞くと、そのお母さんはクリスチャンだったそうです。こういうこともあるんだなぁと感心しながら、私はできるだけわかりやすくお話したつもりですが、イエス様を信じていない方に神の愛をお話するのはほんとうに難しいなぁと改めて感じました。なぜなら、そのような愛を私たちは持ち合わせていないからです。

電話を切った後で、もっとわかりやすく伝える方法はないかと考えているうちに、そうだ、三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」を読んだらもう少しわかるのではないかと思い、それを購入して郵送しました。9月の夏休み明けまでお読みください。その時に感想を聞かせてくださいと。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

この神の愛を信じるなら、あなたも神のさばきから救われます。あなたが神のさばきから逃れる唯一の道は、あなたのために十字架で死なれた神の御子を信じる以外にはないのです。たとえあなたがエドムのようにイスラエルと兄弟であっても、たとえあなたがクリスチャンホームに生まれ育ったとしても、たとえあなたにクリスチャンの友人がいたとしても、そのようなことであなたが救われることありません。あなたがこの神のさばきから救われるためには、あなたのために十字架で死んでくださったイエスを救い主と信じなければならないのです。主イエスを信じるなら、主イエスに身を避けるなら、あなたもこの神のさばきから逃れることができます。

Ⅱ.エドムの高慢を砕かれる主(14-18)

いったいエドムの問題は何だったのでしょうか。14~18節をご覧ください。「49:14 私は【主】から知らせを聞いた。「使者が国々に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに向けて立ち上がれ。』49:15 見よ。わたしがおまえを国々の中の小さい者、人に蔑まれる者としたからだ。49:16 岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ。おまえの脅かしと高慢は、おまえ自身を欺いている。鷲のように巣を高くしても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──【主】のことば。」49:17 エドムは廃墟となり、そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見て嘲笑する。49:18 ソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのように──【主】は言われる──そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」

主は国々の間に使者を送り、エドムとの戦いに立ち上がるようにと命じておられます。なぜなら、主が彼らを砕かれ、国々の中にあって小さい者、人に蔑まれる者とするからです。それは彼らが高ぶっていたからです。16節には「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者」とありますが、これは先ほど申し上げたように、彼らが要塞を誇っていたことを表しています。写真をご覧ください。

引用:ナショナルジオグラフィック「謎の古代都市ペトラ、砂漠の世界遺産」

これは最近のペトラ(ボツラ)の写真です。写真の中にいる人たちはそこに住んでいる人ではありません。観光客です。見ておわかりの通り、そこは岩だらけです。そのように自然の要塞となっているため、誰も攻めることはできないと誇っていたのです。これは前回のアンモン人と同じですね。彼らは谷を誇っていましたが、エドム人は岩を誇っていました。彼らは自分たちの知恵、経済力、軍事力、要塞を誇り、こうしたものを鼻にかけていたのです。

(引用:世界遺産マニア、「ヨルダンの世界遺産)

この写真などもきれいですね。これも人が意図的に作ったものではなく、水の侵食により自然に形成されたものだそうです。この先に見えてくるのが、アル・ハズネと呼ばれる宝物庫で、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台となった所です。いつか行ってみたいですね。

しかし主は、そんなエドム人の高慢を砕かれます。16節にあるように、彼らが鷲のようにどんなに巣を高くしても、そこから彼らを引きずり降ろされるのです。そこはかつてソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのようになります。ソドムとゴモラは、エドムの北にある町です。かつてアブラハムとロトの時代にソドムとゴモラが滅ぼされたように、エドムも滅ぼされることになるのです。ソドムとゴモラはどのように滅びましたか。完全に滅びました。そのようにエドムも完全に滅ぼされるのです。18節の最後のところに、「そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない」とは、そのことを表しています。完全に廃墟となるのです。

特筆すべきことは、エドムには将来の回復の預言が与えられていないことです。そうです、この預言の通り、エドムは完全に滅亡することになります。この後でバビロンによって滅ぼされると、紀元前4世紀に砂漠の民であるナバデア人の侵略を受けることになります。それで彼らはユダの南方のネゲブに逃れるのですが、そこでユダヤ人の中に組み込まれていきました。そしてその地で彼らはイドマヤ人と呼ばれるようになるのでが、イエス様が生まれた頃、ローマ帝国の支持を取り付けてユダヤ、サマリア、ガリラヤを治めたのがヘロデ大王です(前37-4年在位)。マタイ2章1~22節には、イエス様が生まれた時、東方の博士たちから、ユダヤのベツレヘムにユダヤ人の王が生まれたと聞いて動揺し、その周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしたという話は有名です。(マタイ2:1-22)。しかし、A.D70年にローマがエルサレムを滅ぼしてからは、各地に散らされて消滅していきました。彼らが一つの民として存在することはなくなったのです。ここに預言されてある通りです。

そういう意味では、高慢の罪がどれほど恐ろしいものであるかがわかるかと思います。私たちも自分の中にエドム人のような高慢がないかどうか吟味しなければなりません。私たちの中には好色とか、淫乱といった罪とは無縁だという人がいるかもしれませんが、でも高慢の罪と無縁だという人がいるでしょうか。エドム人の高慢は対岸の火事ではありません。そのように者は鷲のように巣を高くしても、引きずり下ろされることになるということを覚えておかなければなりません。

Ⅲ.そこに選ばれた人を置く(19-22)

最後に、そのために神は選ばれた人を置かれるということを見て終わりたいと思います。19~22節をご覧ください。19節をお読みします。「49:19 「見よ。獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか。」

このエドム人の滅亡についての言及は、それだけでは終わっていません。ここに、それがどのようにして成されるのかも預言されています。それは、獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように一瞬にしてそこから追い出されることになります。ヨルダンの密林にはかつて獅子、ライオンが住んでいました。ライオンが襲って来て牧場に上って来るように、それは一瞬にして起こるのです。この獅子は何を表しているのかというと、バビロンの王ネブカドネツァルです。ネブカドネツァル王率いるバビロン軍が獅子のようにエドムに襲い掛かり、彼をそこから追い出すことになるのです。

だれがそれをなさるんですか。それをなさるのは主です。ここには「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。」とあるとおりです。第三版では「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。わたしは、選ばれた人をそこに置く。」と訳しています。「わたし」ということばを繰り返してそのことを強調しているのです。そのために主は選ばれた人をそこに置かれるのです。それは誰ですか?そうです、ネブカドネツァルです。神はご自身の怒りの器として、エドム人をさばく道具として彼を選び、そこに置かれるのです。彼は異邦人の王ですが、神はそのような未信者でもご自身の目的のために用いられるのです。たとえ未信者であろうとも、そのために神は選びそこに置かれるのです。

同様に神はあなたを打つために、あなたを懲らしめてもっと謙遜になるために、あなたを練りきよめてイエス様のような人に造り上げるために、選ばれた人を置かれるのです。それはあなたのノンクリスチャンの伴侶かもしれません。あるいは、ノンクリスチャンの両親であったり、職場の上司や同僚、部下かもしれません。あなたの親しい友人かもしれません。それがだれであっても、神はあなたを打つために、あなたのそばにそのような人を置いておられるのです。それが神によって選ばれた人です。

ダビデのために神はサウルを選ばれ、そこに置かれました。ダビデがあんなに偉大な王になれたのは、サウルがいたからです。サウルがいなかったらあんなに偉大な王にはなれなかったでしょう。だからそこから逃げないでください。あなたにも神が選ばれた人がちゃんといますから。その人を憎んではいけません。ダビデはサウロをどのように見ていましたか?ダビデはサウロを、神が選ばれた器として認めていました。だからダビデは何度もサウルを討つチャンスがあったのに、神が油注がれた人に手を下してはならないと言って、決して自分から手をくだそうとはしなかったのです。それはダビデがそのために神が選ばれ、そこに置かれたと認めていたからです。

それはあなたにも言えることです。嫌だなぁ、辛いなぁ、苦しいなぁと思うことがあっても、それはあなたに必要な人として神が選ばれ、神がそこに置いておられるのです。こんな人さえいなければ!と言わないでください。その人はあなたに必要な人なのです。必要でなかったらあなたの前に置かれることはなさいません。あなたから取り去られるでしょう。あの人がいるから、この人がいるから、私は教会に行きたくないんですというのは、とんでもない誤解です。神が置いてくださったのです。私たちが選ぶのではありません。神が選んでくださり、神が置いておられるのです。

それは人だけではありません。あなたの人生に起こる災難と思えるようなあらゆる出来事にも言えることです。どうしてこんなことが起こるのか、なぜこんな病気になってしまったのか。できればこの苦しみの杯を取り除いてほしい。でもそれは神が選んでそこに置いてくださったのです。あなたの成長のために。あなたがもっと深く神を知るために。あなたがへりくだって神を求めるために。詩篇119篇71節にはこうあります。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

「苦しみ」は、できれば避けて通りたいものです。しかし、その苦しみを通して今まで見るとこができなかったものを見ることができるなら、ほんとうの意味で神のおきて、神のみこころ、神ご自身を知ることができるなら、それはすばらしいことではないでしょうか。そのために神はネブカドネツァルを選び、あなたのそばに置かれたのです。心配しないでください。神様は決して耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます(Ⅰコリント10:13)。あなたにとって必要なのは、それがどのような人、どのようなことであっても、神様はあなたを愛し、あなたのために働いておられると信じ、それを主のみこころとして受け止めることです。

20~22節をご覧ください。「49:20 それゆえ、聞け。エドムに対して立てられた【主】の計画を、テマンの住民に対して練られた策を。必ず、彼らは、群れの中の小さいものまで引きずって行かれ、必ず、彼らの牧場は彼らのことで恐れ惑う。49:21 彼らの倒れる音で地は震え、その悲鳴は葦の海でも聞こえる。49:22 見よ。彼は鷲のように舞い上がっては襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げる。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになる。」

それゆえ、私たちも聞かなければなりません。エドムに対して立てられた主の計画を。バビロンの王ネブカドネツァルが鷲のように舞い上がって襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げることを。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになります。私たちもエドムのようにならないように自分の知恵や経済、力を誇るのではなく、へりくだって神を求め、神に拠り頼む者でありたいと思います。あなたに対して立てられた主の計画を、はっきりと知ることができますように。