Ⅰ列王記8章

今日は、列王記第一8章から学びます。前回と前々回は、ソロモンの神殿と宮殿の建設について学びました。今日の箇所は神殿が完成してそれを神に献げる奉献式に関する記事です。

 Ⅰ.主の契約の箱を運び入れる(1-11)

まず、1節から11節までをご覧ください。「1 それからソロモンは、イスラエルの長老たち、および、イスラエルの部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上げるためであった。2 イスラエルのすべての人々は、エタニムの月、すなわち第七の新月の祭りにソロモン王のもとに集まった。3 イスラエルの長老全員が到着すると、祭司たちは箱を担ぎ、4 主の箱と、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖なる用具を運び上げた。これらの物を祭司たちとレビ人たちが運び上げた。5 ソロモン王と、王のところに集まったイスラエルの全会衆は、ともに箱の前に行き、羊や牛をいけにえとして献げた。その数はあまりにも多く、数えることも調べることもできなかった。6 祭司たちは、主の契約の箱を、定められた場所、すなわち神殿の内殿である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。7 ケルビムは、箱の一定の場所の上に翼を広げるのである。こうしてケルビムは箱とその担ぎ棒を上からおおった。8 その担ぎ棒は長かったので、棒の先が内殿の前の聖所からは見えていたが、外からは見えなかった。それは今日までそこにある。9 箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエルの子らがエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれた際に、モーセがホレブでそこに納めたものである。10 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。11 祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」

神殿完成のためのメイン・イベントは、契約の箱を移動させることでした。ソロモンは、イスラエルの長老たち、部族のかしらたち、一族の長たちをすべて、エルサレムの自分のもとに召集しました。ダビデの町シオンに置かれていた契約の箱を、すぐ北に位置する神殿の丘まで運ぶためです。それはエタニムの月、すなわち第七の新月の祭りに行われました。この祭りは仮庵の祭りです。神殿は、前年の第八の月(ブルの月)に完成していました(6:38)。ですから、それから約11か月が経過していたことになります。なぜ奉献式をこんなに遅らせたのでしょうか。たぶん、この仮庵の祭りに合わせて行おうとしたからではないかと思います。そうすれば、より多くの民が集うことができるからです。

イスラエルの長老たち全員が到着すると、祭司たちは契約の箱を担ぎ、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖具を運び上げました。5節をご覧ください。ソロモン王と、王のところに集まった全会衆は、ともに箱の前に行き、羊や牛をいけにえとして献げましたが、その数はあまりにも多く、数えることも調べることもできませんでした。覚えていますか。ダビデが、オベデ・エドムの家から契約の箱を運び出した時のことを。牛がよろめいたのでウザが神の箱に手を伸ばしそれをつかんだ時、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はその場で打たれてしまいました。それでダビデは、箱をかつぐ者たちが六歩進む度に、肥えた牛をいけにえとしてささげました(Ⅱサムエル6:1-15)。ここでソロモンも同じようなことをしています。しかし、ダビデのときよりもはるかにいけにえの数が多かったようです。それはあまりにも多くて、数えることも調べることもできませんでした。

そのようにして祭司たちが主の契約の箱を運ぶと、定められた場所、すなわち神殿の内部である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れました。契約の箱には長いかつぎ棒がついていましたが、ケルビムは箱とその担ぎ棒を植えからおおいました。箱の中には、モーセの律法を記した2枚の石の板のほかには何も入っていませんでした。以前は他に二つの物が入っていました。マナのつぼと、アロンの杖です(出エジプト16:33)。マナは、イスラエルが荒野の旅をしているとき、主が毎朝イスラエルのために与えられた食物ですが、このことを記念するために、つぼに取っておきなさいと主が命じたものです。またアロンの杖は、レビ人コラがアロンとモーセに逆らい滅ぼされた後、イスラエルの民がアロンとモーセに与えられた権威を認めていなかったので、主が12部族のかしらを集めて、だれが主に選ばれた祭司であるのかを示すために入れたものに行われたものです。契約の箱の前に置かれた12本の杖の中で、アロンの杖だけにアーモンドの実が結ばれ、花が咲きました。この二つがなかったのは、契約の箱がペリシテ人の地にあったとき、それを取り除いたからではないかと考えられます。あるいは、それはイスラエルが約束の地に行くまでに必要な、一時的な神の証しだったのかもしれません。いずれにしても、契約の箱において大事なのは、この2枚の石の板です。つまり、神のことばです。

祭司たちが聖所から出て来たとき、すなわち主の契約の箱を至聖所に収めた時、雲が主の宮に満ちました(10)。これは主の栄光と臨在を現しています。これは、神がソロモンの建てた神殿を受け入れ、そこに臨在することをよしとされたということです。モーセが幕屋を完成された時も同じでした(出エジプト40:34-35)。それは神殿が完成したからということよりも、ソロモンをはじめイスラエルの民が主を心から慕い求め、主のことばに歩もうとする信仰を、主が喜ばれたということです。それが信仰から出たことであれば、主はそれを喜ばれ、ご自身の栄光と臨在を現してくださるのです。

Ⅱ.ソロモンの祈り(12-53)

12~13節をご覧ください。「12 そのとき、ソロモンは言った。「主は、黒雲の中に住む、と言われました。13 私は、あなたの御住まいである家を、確かに建てました。御座がとこしえに据えられる場所を。」」

「主は黒雲の中に住む」とはどういうことでしょうか。新改訳第三版は「暗やみの中に住む」と訳しています。これは、主は濃い雲の中にご自身の臨在を現わされるということです。そして同時にこれは、主が暗やみの中に住んでいる人間のところに来て住まわれるということを示しています。ヨハネ1章14節には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられる。」とあります。主は、罪と不法の中に生きている人々の中に、暗やみの中に住んでいる私たちのところに住まわれ、ご自身の栄光を現わされる方なのです。ですからソロモンは、主が臨在してくださることを目的に、主が住まわれる家を建てたのです。

14~21節をご覧ください。「14 それから王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は起立していた。15 彼は言った。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて、こう言われた。16 『わたしの民イスラエルをエジプトから導き出した日からこのかた、わたしは、わたしの名を置く家を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町も選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。』17 それで私の父ダビデの心にはいつも、イスラエルの神、主の御名のために家を建てたいという思いがあった。18 ところが【主】は、私の父ダビデにこう言われた。『あなたの心にはいつも、わたしの名のために家を建てたいという思いがあった。その思いがあなたの心にあったことは、良いことである。19 しかし、あなたはその家を建ててはならない。あなたの腰から生まれ出るあなたの子が、わたしの名のために家を建てるのだ。』20 主はお告げになった約束を果たされたので、私は主の約束どおりに父ダビデに代わって立ち、イスラエルの王座に就いた。そしてイスラエルの神、主の御名のためにこの家を建て、21 主の契約が納められている箱のために、そこに場所を設けた。その契約は、主が私たちの先祖をエジプトの地から導き出されたときに、彼らと結ばれたものである。」」

これまで神殿に向かって、栄光の主を拝していたソロモンは、神殿の庭にいるイスラエルの民の方を振り向いて彼らを祝福します。ここで彼が語っていることは、神殿建設の経緯についてです。それは主が語られたとおりになされたことであるということです。ここには「主は、・・・と言われた」ということばが繰り返して出てきます。それは主がダビデに命じられたことでした。それゆえ、ダビデはいつも、主の御名のために家を建てたいという思いがありましたが、それは彼のすることではなく、彼の腰から生まれる彼の子がすることであると言われました。それでソロモンは父ダビデに代わりその約束通りに主のために家を建て、主の契約の箱を置くためにその場所を設けたのです。それは、主が彼らの先祖をエジプトから導き出されたときに、彼らと結ばれたものです。つまり、この神殿建設は、シナイ契約の延長線上に実現したことなのです。

この神殿建設をもって、主が約束された土地を獲得するという戦いは実質的に終了しました。そして、ダビデに約束された契約も成就しました。また、そのことによって主の臨在の約束が確認されたのです。つまり、この神殿建設は、神のイスラエルに対して約束してくださったことが実現したことを示しているのです。神の約束は永遠に変わることがありません。このみことばの約束に立って歩む人は何と幸いなことでしょう。主はその人の人生に、ご自身の御業を現わしてくださるのです。

22~53節は、ソロモンの奉献の祈りが記されています。まず22~24節をご覧ください。「22 ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、天に向かって両手を伸べ広げて、23 こう言った。「イスラエルの神、主よ。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。24 あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに約束したことを、ダビデのために守ってくださいました。あなたは御口をもって語り、また、今日のように御手をもってこれを成し遂げられました。」

ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、天に向かって両手を伸べ広げて祈りました。私たちは、祈るとき、目を閉じて、こうべを垂れて、手を組んで祈りますが、聖書の中では、両手を差し伸べて、立って祈るのを見かけます。両手を上に差し伸べるのは、天におられる神に対して、自分が服従し、主が言われることを心を開いて受け入れることを意味しています。

ソロモンはまず、神への賛美と信頼を告白しています。ここには「契約と恵みを守られる方です。」とあります。具体的には、父ダビデに約束してくださったことを、大いなる御手をもって成し遂げてくださったことへの感謝と賛美です。

そして、彼の願いが続きます。25~30節です。「25 そこで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたことを、ダビデのために守ってください。『あなたがわたしの前に歩んだように、あなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に就く者がわたしの前から断たれることはない』と言われたことを。26 今、イスラエルの神よ。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたおことばが堅く立てられますように。27 それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。28 あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。29 そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。30 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この場所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天においてこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。」

ここでソロモンはどんなことを願っているでしょうか。ここでソロモンが願っていのは、神の民の祈りを聞いてほしいということです。27節は有名なみことばの一つです。天地を創造された方が、人間が建てた宮などに住むことなどできません。しかし、主はそこに「わたしの名をそこに置く」と約束されました。つまり、主の宮の中にご自身の臨在を現わしてくださると約束されました。それゆえ、神のしもべがこの宮に向かって祈りをささげるとき、それを聞いてほしいというのです。

31~32節をご覧ください。「31 ある人が隣人に罪を犯して、のろいの誓いを立てるよう求められ、この宮の中にある、あなたの祭壇の前に来て誓うなら、32 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪い者にはその生き方への報いとしてその頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義をもって報いてください。」

ここにはソロモンの第2の願いが記されてあります。それは「ある人が隣人に罪を犯して、のろいの誓いを立てるよう求められ、この宮の中にある、あなたの祭壇の前に来て誓うなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪い者にはその生き方への報いとしてその頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義をもって報いてください。」ということです。どういうことでしょうか。これは隣人との争いごとに関することです。だれかが他者に罪を犯して問題になり、お互いに譲らないときは、神殿の祭壇の前で自らが有罪か無罪かを証言しなければなりませんでした。それが「のろいの誓いを立てる」ということです。しかし私たち人間には、究極的には公正な判断を下すことはできません。けれども、主はすべてを知っておられます。そこで、主が公正なさばきを下してくださいと祈っているのです。

第3の願いは33~34節にあります。「33 あなたの民イスラエルが、あなたの前に罪ある者となって敵に打ち負かされたとき、彼らがあなたに立ち返り、御名をほめたたえ、この宮であなたに祈り願うなら、34 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らの先祖にお与えになった地に、彼らを帰らせてください。」

これは、敗戦の原因となった罪が赦されるようにとい祈りです。ソロモンは、罪を犯すことと敵に打ち負かされることを、直接的に関連付けています。事実、イスラエルの民は主の前で悪を行なっているときに、周囲の住民や国々に打ち負かされました。たとえば、アイの戦いで敗北したのは、アカンが神の命令に背いて聖絶の一部を取っておいたからでした(ヨシュア7:1-11)。また、ペリシテ人との戦いに敗れたのも、祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスが、主の前に罪を犯したからです(Ⅰサムエル:1-11)。そのようなとき、イスラエルの民がすべきことは、神に立ち返り、悔い改めて祈りをささげることです。ソロモンは、この主の宮、神殿でそのような悔い改めの祈りをするとき、その祈りが聞かれるようにと願っているのです。

第4の願いは、35~36節にあります。「35 彼らがあなたの前に罪ある者となって、天が閉ざされ雨が降らなくなったとき、彼らがこの場所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたが苦しませたことによって彼らがその罪から立ち返るなら、36 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦してください。彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。」

これは干ばつの原因となった罪が赦されるようにという祈りです。もし天が閉ざされて雨が降らなくなったとき、その原因はどこにあるのかというと、それは罪です。そのために主が天を閉ざしておられるのです。今週の礼拝でエレミヤ書5章後半からお話しましたが、まさにこのことです。エレミヤ5章25節にこうあります。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」ですから雨が降らなくなったときは、単に雨が降らないので降らせてくださいと祈るのではなく、まず自分たちが主の前に自分の罪を認め、その罪から立ち返って、雨を降らせてくださいと祈らなければなりません。ここでも大事なのは、状況が良くなることではなく、状況をとおして主との関係を保つことにあります。

第5番目の願いは何でしょうか。災害の原因となった罪が赦されるようにという祈りです。37~40節です。「37 この地に飢饉が起こり、疫病や立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫が発生したときでも、敵がこの地の町々を攻め囲んだときでも、どのようなわざわい、どのような病気であっても、38 だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、39 あなたご自身が、御座が据えられた場所である天で聞いて、赦し、また、かなえてください。一人ひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心をご存じです。あなただけが、すべての人の子の心をご存じだからです。40 そうして、あなたが私たちの先祖にお与えになった大地の上で彼らが生き続ける間、いつもあなたを恐れるようにしてください。」

ここでは想定される災害が列挙されています。たとえば、飢饉とか、疫病、立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫の発生、敵からの攻撃、さまざまなわざわい、病気などです。それらの背後には、やはり罪の問題があります。このような場合には、悔い改めの祈りが必要です。それがどのようなわざわい、どのような病気であっても、神の民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、その祈りを聞いてほしいというのです。それは彼らがいつも主を恐れるためです。主は、私たちが主を恐れるために、こうしたわざわいをもたらすことがあります。わざわいは、神が私たちを見捨てたしるしではなく、神を恐れるための手段の一つであることを覚え、へりくだって主の御前に歩みたいと思います。

第6番目の祈りは、神を恐れる異邦人が祝福されるようにという祈りです。41~43節をご覧ください。「41 同様に、あなたの民イスラエルの者でない異国人についても、その人があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、42 彼らが、あなたの大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕について聞き、やって来てこの宮に向かって祈るなら、43 あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所である天でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことをすべて、かなえてください。そうすれば、地上のあらゆる民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり、私が建てたこの宮で御名が呼び求められなければならないことを知るでしょう。」

ソロモンは、神を恐れる異邦人のためにも祈っています。これは驚くべき内容です。というのは、神殿奉献は、イスラエルにとって国家的行事です。その最中に、異邦人のことも忘れずに、彼らの上に祝福が注がれるようにと祈っているからです。旧約聖書を注意深く見ると、神の祝福と契約にあずかっているのはイスラエル人だけでなく、異邦人もそうであることがわかります。主がアブラハムに約束されたのは、彼の子孫が大いなる国民になることだけでなく、彼によってすべての民族が祝福を受けることでした(創世記12:3)。ですから、ソロモンは異邦人の祈りも聞いてください、とお願いしているのです。

7番目の祈りは、戦に勝利するようにという祈りです。44~45節です。「44 あなたの民が敵との戦いのために出て行くとき、遣わされる道で、あなたがお選びになった都、私が御名のために建てた宮に向かって主に祈るなら、45 天で彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。」

イスラエルの民が敵との戦いにおいて勝利することができるのは、彼らが主の宮に向かって祈る民だからです。しかし、それは何でもかんでもということではなく、「遣わされる道で」とあるように、主のみこころにかなった戦いに限定されています。約束の地カナンでの戦いは、まさにその良い例です。それは主が遣わされた戦いでした。

8番目の祈りは、46~50節です。「46 罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠くであれ近くであれ敵国に捕虜として捕らわれて行き、47 捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、48 捕らわれて行った敵国で、心のすべて、たましいのすべてをもって、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮に向かって、あなたに祈るなら、49 あなたの御座が据えられた場所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、50 あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦し、あなたに背いた、彼らのすべての背きを赦し、彼らを捕らえて行った者たちの前で彼らをあわれみ、その者たちがあなたの民をあわれむようにしてください。」

これは、捕らわれの地から帰還できるようにという祈りです。ソロモンは、イスラエルが捕虜として敵国に捕らわれて行った時のことを想定しています。彼はこのような状況を想像することができました。なぜなら、レビ記や申命記で、モーセがすでにこのような最も屈辱的で、悲惨なイスラエルの境遇を預言していたからです。

ソロモンはここで、「罪に陥らない人は一人もいません」と言っています。彼は人間の罪の性質についてよく知っていました。義人はいない、一人もいない。罪に陥らない人など一人もいません。パウロは、「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ3:23)と言っていますが、その言葉がソロモンの口からも発せられています。私たちは、自分が何でこんなに罪深い者なのだろうか、なんでこんなに自分で憎むようなことを行なってしまったのか、と悔いるときがありますが、主は初めからそのことをご存知で、それでこのような汚れた者に近づいてくださり、あわれみと回復のみわざを行なってくださるのです。

さて、捕虜として敵国に連れて行かれた時、私たちはどうするべきでしょうか。そのときには真心から悔い改め、エルサレムの神殿の方を向いて祈る必要があります。それが約束の地に帰還する唯一の方法です。そうするなら、神はその祈りを聞き、民を約束の地に帰還させてくださいます。このソロモンの祈りをそのまま実行していた人がいます。ダニエルです。イスラエルの民は、事実、バビロンによって捕囚の民となりました。その中の一人がダニエルですが、彼は一日に三度、窓を開けて、エルサレムのほうを向いて、祈っていました(ダニエル6:10)。彼は、「私たちが罪を犯しました。あなたは正しい方で、正しいことを行なったのです。」と祈りました。その祈りのとおり、イスラエルは約束の地に帰還することになります。

捕囚の民として連れて行かれるということが起こると、私たちは神が自分たちを見捨ててしまわれたのかと思いがちですが、神はいかなる時にも、私たちを見捨てることなく、私たちの帰りを待っておられます。私たちに求められているのは、真心から悔い改めて、神に祈ることです。そうすれば主は私たちの祈りを聞いてご自身のもとに帰してくださるのです。

最後の願いは、51~53節にあります。「51 彼らはあなたの民であり、あなたがエジプトから、鉄の炉の中から導き出された、ご自分のゆずりの民だからです。52 どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに御目を開き、彼らがあなたを呼び求めるとき、いつもその願いを聞き入れてください。53 あなたが彼らを地上のあらゆる民から選り分けて、ご自分のものとされたのですから。神、主よ。あなたが私たちの先祖をエジプトから導き出されたとき、あなたのしもべモーセを通してお告げになったとおりです。」

ソロモンは最後に、「どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに御目を開き、彼らがあなたを呼び求めるとき、いつもその願いを聞き入れてください。」と祈っています。なぜなら、彼らはあなたの民だからです。イスラエルの行ないは、そのさばきを受けるにふさわしい行ないですが、あなたが彼らを選ばれたのですから、お願いします、と言っているのです。イスラエルの民は、地上の諸国の民から区別され、神の計画を推進するための器として選ばれました。出エジプトの出来事も、モーセの律法も、神による選びの証拠です。その選びのゆえに、その民のどんな祈りにも耳を傾けてくださいというのです。

ソロモンはイスラエルの歴史を振り返り、主がいかにご自身の契約に忠実な方であるかを確認しました。そして、その信頼の目をもって未来を見つめ、主の恵みと守りがこれからも続くとの確信を持ったのです。この視点は、私たちにとっても大切です。使徒パウロはこう教えています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(ローマ8:32)

主イエスの十字架の愛を思う時、私たちは将来への希望を持つことができるようになります。神の変わらない愛を信じて、主にすべてをゆだねましょう。

Ⅲ.民を祝福するソロモン(54-66)

最後に、54~66節を見て終わります。「54 こうしてソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終えた。彼は、それまでひざまずいて、天に向かって両手を伸べ広げていた主の祭壇の前から立ち上がり、55 まっすぐに立って、イスラエルの全会衆を大声で祝福して言った。56 「主がほめたたえられますように。主は約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地を与えてくださいました。しもべモーセを通してお告げになった良い約束はみな、一つも、地に落ちることはありませんでした。57 私たちの神、主が、私たちの先祖とともにいてくださったように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちをお見捨てになることがありませんように。58 私たちの心を主に傾けさせ、私たちが主のすべての道に歩み、私たちの先祖にお命じになった命令と掟と定めを守らせてくださいますように。59 私が主の御前で願ったこれらのことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの訴えや、御民イスラエルの訴えを正しくかなえてくださいますように。60 こうして、ついに地上のあらゆる民が、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知るに至りますように。61 あなたがたは、今日のように、私たちの神、【主】と心を一つにし、主の掟に歩み、主の命令を守らなければならないのです。」62 それから、王と、一緒にいたすべてのイスラエル人は、主の前にいけにえを献げた。63 ソロモンは主へのいけにえとして、牛二万二千頭と羊十二万匹の交わりのいけにえを献げた。こうして、王とすべてのイスラエルの人々は主の宮を奉献した。64 その日、王は主の宮の前庭の中央部を聖別し、そこで全焼のささげ物と、穀物のささげ物と、交わりのいけにえの脂肪を献げた。主の前にあった青銅の祭壇は、全焼のささげ物と、穀物のささげ物と、交わりのいけにえの脂肪を受け入れるには小さすぎたからである。65 ソロモンはこのとき、ともにいた全イスラエル、すなわち、レボ・ハマテからエジプト川に至るまでの大会衆と一緒に、七日と七日の十四日間、私たちの神、主の前で祭りを行った。66 八日目に王は民を帰らせた。民は王に祝福のことばを述べ、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルに下さったすべての恵みを喜び、心満たされて、彼らの天幕に帰って行った。」

ソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終えると、まっすぐに立って、イスラエルの全会衆を大声で祝福して言いました。56節です。彼は、主が約束どおり、イスラエルの民に安住の地を与えてくださったことをほめたたえています。主がモーセを通して語られた約束は、一つも地に落ちることはありませんでした。みな成就しました。それは私たちに言えることです。聖書に書かれている主の約束は、一つも地に落ちることはありません。みな実現します。

そのことを前提に、ソロモンはここで3つのことを願っています。一つ目は主がともにいて、彼らを見離さず、見捨てることがないように(57)ということです。二つ目のことは、58節にあるように、彼らの心を主に向けさせ、彼らがすべてのことにおいて主の道に歩、主が命じられた命令と掟と定めとを守らせてくださるようにということです。そして三つ目のことは、主が祈りと願いを聞いてくださるようにということです(59)。それは何のためでしょうか。それは、地上のすべての民族が、主だけが唯一の神であることを知るようになるためです。イスラエルは自らの祝福だけでなく、地上のすべての民族に祝福をもたらすために存在しているからです。

これは、私たちにとっても重要なことです。私たちは何のために存在しているのでしょうか。それは私たちの祝福だけでなく、地上のすべての人たちの祝福のためでもあります。そういう意味では、私たちがそのような存在となれるように祈らなければなりません。

それから、ソロモンと、一緒にいたイスラエル人は、主の前にいけにえを献げました。それは牛2万2千頭、羊12万頭の交わりのいけにえでした。これは「和解のいけにえ」です。血と脂肪と内臓は焼いて煙にし、肉を礼拝者が一緒に食します。この交わりのいけにえの目的は、「交わり」にありました。神と民が交わり、民と民が交わります。相当の数の牛と羊がいけにえとして献げられました。この主へのいけにえは、イエス・キリストを象徴していました。キリストは私たちの罪の贖いとして死んでくださったことによって、彼を信じるすべての人が神と和解させられました。「すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。」(Ⅱコリント5:19)神との和解こそ、福音がもたらす祝福です。神との交わりを喜んでいる人は幸いです。私たちもこの和解をもたらす者となりましょう。

エレミヤ5章20~31節「あなたはどうするつもりなのか」

きょうは、エレミヤ書5章の後半からお話します。タイトルは「あなたはどうするつもりなのか」です。前回は5章の前半のところから、義人はいない、一人もいない、ということをお話しました。1節には「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。」とあります。そこでエレミヤはエルサレムに行って必死に探し回るわけですが、そういう人は一人もいませんでした。それで主はさばきを宣告されました。それは15節にあるように、遠くの地から一つの国を来させて、彼らを食らうということです。それはバビロン軍のことです。バビロン軍がやって来て、いなごが穀物を食い尽くすように、エルサレムのすべてのものを食い尽くすと言われたのです。このような神のさばきの宣告に対して、結局、あなたがたはどうするつもりなのか、と問い掛けられているのです。

三つのことをお話します。第一のことは、どこまでも主を恐れないユダの民の姿です。彼らには強情で逆らう心がありました。それで彼らは神から離れて行きました。

第二のことは、その結果です。彼らの悪事は社会全体に及んでいきました。それは彼らの咎と罪のゆえです。社会の悪の根本的な原因はここにあります。

そして第三のことは、このようなことに対する神のさばきです。神は黙ってはおられません。必ずその悪を罰します。それに対して、あなたはどうするつもりなのかを、真剣に考えなければなりません。

Ⅰ.神を恐れない民(20-25)

まず、20~25節までをご覧ください。「20 ヤコブの家にこれを告げ、ユダに言い聞かせよ。21 さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。22 あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。23 しかしこの民には、強情で逆らう心があった。それで彼らは離れて行った。24 彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。25 あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

21節では、ユダの民を「愚かで思慮のない民よ」と呼び掛けられています。なぜこのように呼び掛けられているのでしょうか。22節にあるように、神を恐れていなかったからです。神の民である共同体が神を恐れない。本当の神がいらっしゃるのに恐れないのです。聖書には、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)とありますが、その一番大切な神を捨ててしまったわけです。それで「愚かで思慮のない民」になってしまいました。新共同訳では「心ない民」と訳されています。「愚かで、心ない民よ」。心に神様の導きを求めないということです。心は神様と結ばれる所です。エレミヤは4章4節で「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と言いました。大切なのは肉体の割礼ではなく、心の割礼です。心が神様と結ばれるということなのに、その心が神と結ぶれることなくだめになっていたのです。23節のことばでいうなら、ここに「強情で逆らう心があった」とありますが、強情になってしまったわけです。出エジプト記にはよく「うなじのこわい民」ということばが出てきますが、それはこの強情であるということです。神に逆らい、神を無視して生きるようになってしまったのです。

その結果、どうなりましたか。21節には「彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。」とあります。詩篇135篇15~18節にはこうあります。「15 異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。16 口があっても語れず目があっても見えない。17 耳があっても聞こえずまたその口には息がない。18 これを造る者もこれに信頼する者もみなこれと同じ。」偶像を拝むことで偶像のようになってしまいます。目があっても見えず、耳があっても聞こえません。偶像に頼る者はみなこれと同じです。本当の神様のことばがわからなくなってしまいます。皆さんはどうでしょうか。そういうことはないでしょうか。

彼らがどれほど強情であっかが22節にあります。「あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。」どういうことでしょうか。創造主訳聖書には「わたしは海と陸を分け、それぞれの地域を定めた」とあります。神が天と地を創造されました。神はそこに海と陸の境界を設けられたわけです。被造物全体は、その神が定められた境界を越えることはできません。すべては神が定めた秩序と法則によって保たれているのです。どんなに波が荒れ狂っても勝てず、鳴りとどろいても越えることはできないのです。しかし、このユダの民はそうではありませんでした。彼らは簡単に超えていました。神が定めた教えに従うどころかそれを越えて、自分勝手な道に歩んでいたのです。
  

ヨハネ1章10~11節には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあります。「この方」と誰でしょうか。そうです、イエス・キリストのことです。イエス様はもとからこの世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この世はすべてイエス様によって造られたのですから、当然イエス様を受け入れるはずなのにそうではなかったのです。神に逆らい、創造主であるイエス様を受け入れませんでした。別のことばで言うと、境界を越えてしまったのです。それはユダの民だけではありません。私たちも同じです。

そればかりではありません。24節と25節をご覧ください。「彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

「初めの雨」と「後の雨」とは、下の欄外の説明にあるように「秋の雨」と「春の雨」のことです。「秋の雨」が「初めの雨」、「春の雨」が「後の雨」です。このようにイスラエルには年に2回雨季があります。この雨がイスラエルを潤し、豊かな収穫をもたらしてくれるわけですが、彼らには、神に対する恐れも感謝もありませんでした。その結果25節にあるように、この恵みの雨がとどめられてしまったのです。「これを追いやり」とか「良いものを拒んだ」とは、このことです。水道もない時代ですから干ばつになると食料も十分に用意することができませんでした。ですからそれはいのちの危険を意味していたのです。いったいどうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。


  25節にその理由が記されてあります。それは「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」からです。神があなたに良いものを拒んでいるのではありません。あなたの咎がこれを追いやり、あなたの罪がこの良いものを拒んだのです。罪によって雨が降らなくなったということです。私たちは天気予報を見て「台風がもうすぐ来るぞ」とか、「今年の夏は暑くなりそうだ」と知りそれに備えるわけですが、でも、今年の夏は罪によって酷暑になるでしょうと聞くことは絶対にないと思います。でもここではそのように言われているわけです。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」と。

エレミヤの時代、天気がどうなるかは私たちよりも深刻でした。それで彼らは自分たちに豊穣をもたらすと信じられていた偶像に走ってしまいました。何ですか?「バアル」です。私たちは「バアル」と聞くとどこか遠い宗教のように感じますが、それは私たちにとっても身近なものなのです。というのは、バアル宗教が求めていたのは「豊かさ」であったからです。私たちも同じではないでしょうか。手段は違いますが、もしあなたが豊かさを求めて真の神よりも科学技術とか他のものを絶対的なものとして頼っているとしたら、それはバアルを信じている人たちと同じなのです。イスラエルは真の神を捨て、雨を降らせると信じられていたバアルを信じました。その結果、雨が降ったのではなく干ばつがやって来ました。雨の神、豊穣の神を信じていたのに干ばつがやって来たというのは何とも皮肉な話です。つまり、バアルには本当の力がないということです。世界を創られた方はただ一人、聖書の神様です。この神様がいのちの源であられます。いのちの源から反れて行くということは神から切り離されるということであって、結果的に民は飢えと渇きに襲われることになってしまいました。近年、毎年のように異常気象が起きるようになって異常が通常のようになっていますがその原因はどこにあるのかというと、聖書はここにあると言っています。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」と。人間の罪によってこの気象が壊れていると言っても過言ではないのです。

詩篇34篇9~10節にこうあります。「主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなり飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。」

主を恐れる者には何一つ欠けることはありません。もし良いものに欠けることがあるとしたら、それは私たちの罪がその良いものを拒んでいるからなのです。神は良い方ですから、良いものを与えてくださるのは当然なのです。天のお父さんは、私たちを祝福したいと願っておられます。でも、その祝福を私たちが自分の罪によって拒んでいることがあります。折角、お父さんとお母さんが子どもに良いものを与えたいと思っているのに、子どもの方で拒んでいるとしたら悲しい限りです。こんなに子どもを愛しているのに、こんなに子どもに与えたいのに、子どもの方で「いらない」と拒むのですから。「欲しくない」と言う。残念です。

Ⅱ.根本的な原因(26-28)

次に、26~28節をご覧ください。ここにユダの民の罪が列挙されています。「26 それは、わが民のうちに悪しき者たちがいるからだ。彼らは野鳥を捕る者のように待ち伏せし、罠を仕掛けて人々を捕らえる。27 鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きで満ちている。だから、彼らは大いなる者となり、富む者となる。28 彼らは肥えてつややかになり、悪事において限りがない。孤児のために正しいさばきをして幸いを見させることをせず、貧しい人々の権利を擁護しない。」

ここにはユダの社会全体に悪が溢れている状態が描かれています。彼らの中には悪しき者たちがいて、鳥を捕まえるようにわなをかけて人を捕まえるような人たちがいました。つまり、社会的弱者を食い物にしていたわけです。彼らは弱者を食い物にして自分たちは太っていました。不正な手段で富を築き私腹を肥やしていたのです。単に霊的姦淫を犯して偶像礼拝に走っていたというだけでなく、それが社会全体にも大きな影響をもたらしていました。エレミヤはこのような状態を見てこう言っています。30節、「恐怖とおぞましいことがこの国に起こっている。」

いったいどうしてこのようなおぞましい社会になってしまったのでしょうか。それは南ユダだけでなく、今日の社会にも言えることです。おぞましい社会、おぞましい世界になってしまいました。いったいどうしてこのようになってしまったのでしょうか。それは社会ということよりも一人一人の罪に起因しているのです。その罪の最たるものが、神を神として崇めないということです。神を認めないし、感謝もささげません。そして神以外のものを神としているのです。神を恐れていません。ここに根本的な原因があります。これがこの社会におけるすべての悪の根本原因です。ここにスポットを当てずにいくら社会改革をしようとしてもできません。政治の力、経済の力、福祉の力、慈善活動によってそれをしようとしても限界があるし、究極的な解決にはなりません。見てください。どんなに政権が交代しても社会は変わりません。だからみんな失望するわけです。だれがやっても同じだとあきらめているのです。政党のアンケート調査がありますが、たとえば自民党がいいと回答した理由の第一は「他の政党よりよさそう」です。ただそれだけの理由です。みんな知っています。政治は社会を変えることができないということを。それは政治の問題ではなく、一人一人が抱えている罪の問題だからです。それは政治だけのことではありません。私たちが抱えるすべての問題にも言えることなのです。その根本的な原因が処理されなければ何の解決にもなりません。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのです。

Ⅲ.あなたはどうするつもりか(29-31)

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて神に立ち返れということです。29~31節をご覧ください。「29 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。30 荒廃とおぞましいことが、この地に起こっている。31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」

こうした状況に対して主はどうされるでしょうか。29節には、主は必ず罰せられるとあります。神様はこの状況を把握していないのではありません。見て見ぬふりをしているのではないのです。神様はこのような状況を十分知っておられ、それに対して必ずさばきをなさいます。黙認するということは絶対にありません。水に流すとか、帳消しにするといったことはなさらないのです。なぜなら神は正義の神だからです。聖なる方です。罪を放置するなどできません。必ず罰せられるのです。

30節と31節は、神様の驚きを表しています。荒廃とおぞましいことがこの国に起こっています。預言者たちは偽りの預言をし、神に仕えるはずの祭司は自分勝手に治めているばかりか、神の民であるユダはそれを喜んでいるのです。このことに神は驚かれ、嘆いておられるのです。こうした彼らの罪、咎には、必ず神の審判がくだることになります。結局、あなたはどうするつもりなのか、と神はチャレンジしておられるのです。

でも、どうぞこのことを覚えておいてください。神様がこのようにチャレンジをされるということは、その前に悔い改めのチャンスがあるということです。そのチャンスを与えておられるのです。今ならまだ間に合います。今ならまだやり直せます。あなたにも神のあわれみが注がれているのです。あなたもやり直すことができる。あなたには罪の赦しが提供されているのです。罪の滅びから免れる道が用意してあるのです。その道とは何でしょうか。そうです、イエス・キリストです。イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

イエスのことばを聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、さばきに会うことはありません。永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っているのです。信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。

「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。

『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」皆さん、これが、クリスチャンが抱く希望です。

あなたはどうでしょうか。このような希望があるでしょうか。どんなに恐ろしい神の審判があっても、私は神のさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているという確信があるでしょうか。イエス・キリストを信じるなら、だれも、また何も、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。「結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」それは神の民ユダの人たちだけでなく、あなたにも問いかけられていることなのです。神のさばきに会うことがないように、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストに立ち返ってください。そういう人はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。また、そのような人の人生を神が祝福し、初めの雨と後の雨をもって潤し、豊かな収穫をもたらしてくださると、聖書は約束しているのです。

あなたの過去には取り返しがつかないこともあるでしょう。人から絶対に許さないと言われたこともあるかもしれない。自分でも自分を赦せないと思うこともあるでしょう。でも、全然関係ありません。神には赦せない罪など一つもないからです。もう罪悪感や罪責感に(さいな)まれることもありません。人を責める必要もなければ、人に責められる必要もありません。イエス・キリストがあなたの代わりに罰を負って十字架で死んでくださったからです。罰せられるべきあなたの代わりに罰せられたので、あなたには罪の赦しが提供されているのです。

教会では、通信でも聖書を学ぶことができるように、「聖書通信講座」を行っています。羽鳥順二先生が書かれた「初めて聖書を開く人のための12のステップ」という本をテキストに、自分で読んで回答用紙に記入して送ってもらうと、こちらで添削して送り返すというシステムになっています。

最近、M刑務所に入所している一人の男性から問い合わせがあり、学びが始まりました。その中に少しですけれど、ご自分のことを教えてくださいました。「私は、今現在、M刑務所に服役して17年目になります。刑期は無期懲役で、年齢は今年57歳になります。聖書を学ぶきっかけは、同囚の方の勧めもあり、刑務所を訪問された牧師さんに紹介されたのが始まりです。私自身はもともと、聖書に興味を持っておりましたが、社会で生活している時は学ぶ時間がなく、今の受刑生活の中で学んでいる次第です。少しでも聖書、神様、イエス様を理解し、知ることが出来るようになればいいと思っておりますし、神様の教えに導かれるように歩めればと思います。」

私はこの方が何をされたのかは知りません。しかし、無期懲役として服役して17年目になられるということで、どれほどの悲しみを背負っておられるかと思います。しかし、その中にあっても救いがあります。主イエスを信じるなら、あなたもあなたの家族も救われます。それが本当の救いではないでしょうか。そういう意味でこの方は無期懲役の刑を受けておられますが、主イエスにあって神のさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。ハレルヤ!

神のさばきは確実に及んできます。でもそれは神の本意ではありません。神の本意は、あなたが罪を悔い改めて神に立ち返り、神のさばきから免れることです。今は恵みの時、今は救いの日です。あなたには神のあわれみが注がれています。その神の慈愛が、あなたを悔い改めに導くのです。

あなたはどうするつもりなのか。この神のチャレンジに、今のうちに応答してください。神の赦しと神の救いを受け取ってください。そうすれば、あなたは神のさばきに会うことはありません。必ずバビロンがどこからかやって来ます。想像もつかないような破壊と喪失がもたらされます。でもイエス様を信じる者は救われます。それを決断するのはいつですか。今でしょ。今がその時なのです。

Ⅰ列王記7章

 今日は、列王記第一7章から学びます。

 Ⅰ.ソロモンの宮殿(1-12)

まず、1節から12節までをご覧ください。「1 また、ソロモンは十三年をかけて自分の宮殿を建て、その宮殿のすべてを完成させた。2 彼は「レバノンの森の宮殿」を建てた。その長さは百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトで、それは四列の杉材の柱の上にあり、その柱の上には杉材の梁があった。3 また、四十五本の柱の上にある階段式脇間の屋根は、杉材で葺かれていた。柱は一列に十五本ずつあった。4 戸口は三列あり、三段になって向かい合っていた。5 戸口の扉と戸口の柱はすべて四角形で、三段になって向かい合っていた。6 また彼は、柱の広間を造った。その長さは五十キュビト、その幅は三十キュビトであった。その前に玄関があり、その前に柱とひさしがあった。7 また、さばきをするための王座の広間、すなわち、さばきの広間を造り、床の隅々から天井まで杉材を張り詰めた。8 彼の住む家はその広間のうしろの庭にあり、同じ造りであった。ソロモンは、彼が妻としたファラオの娘のためにも、この広間と同じような家を建てた。9 これらはすべて内側も外側も、のこぎりで寸法どおりに切りそろえられた、高価な石で造られていた。礎から軒に至るまで、さらに外庭から大庭に至るまで、そうであった。10 礎は高価な石、大きな石で、八キュビトも十キュビトもあった。11 その上には、寸法どおりに切りそろえられた高価な石と杉材が使われた。12 大庭の周囲には、三段の切り石と一段の杉の角材が使われ、主の宮の内庭や、神殿の玄関広間と同じであった。」

ソロモンは神殿を建設した後で、自分の宮殿を建てました。しかし、ここには何とそのために13年をかけて完成したとあります。主の家、神殿を建てるのに7年かかりました(6:38)。それなのに、自分の宮殿には、完成するまで13年もかかったのです。神殿建設の2倍の年月を要したということです。それは規模においても、金額においても、神殿をはるかに超えるものでした。どうして彼はそのように造ったのでしょうか。その前にこの宮殿全体についてみていきましょう。

logos-ministries.orgより転載

ソロモンの宮殿は5つの部分からできていました。まず2節にあるように「レバノンの森の宮殿」です。これはレバノンの森にあった宮殿ということではなく、レバノンの杉で造られた宮殿という意味です。ここは金による武器を所蔵する場所として用いられました(10:17)。金による武器など、どうやって実用に使えるでしょうか。使えたとしても、それを神殿のすぐ側に置くとは考えられないことです。感覚的にずれています。このレバノンの森の宮殿は、長さ百キュビト(44m)、幅五十キュビト(22m)、高さ三十キュビト(13.5m)でした。

6節を見ると「また彼は、柱の広間を造った」とあります。その長さは五十キュビト(22メートル)、その幅は三十キュビト(13.5m)でした。その前に玄関があり、その前に柱とひさしがありました。

彼はまた、さばきをするための王座の広間、すなわち、さばきの広間を造りました。そして、床の隅々から天井まで杉材を張り詰めました(7節)。ここでソロモン王は民の間の事件を裁き、神のおきてと教えを教えました。そして彼は、自分自身が住む家を造りました。それはさばきの広間のうしろにあり、同じ造りでした。また、彼が妻としたファラオの娘のためにも、この広間と同じような家を建てました。

これらはすべて内側も外側も、のこぎりで寸法とおりにそろえられた、高価な石で造られていました。礎から軒に至るまですべてです。礎は高価な石で、8キュビト(3メートル50)も10キュビト(4メートル50)もありました。大庭の周囲もそうです。それは主の庭の内庭や、神殿の玄関広間と同じでした。どうして彼はこのような宮殿を造ったのでしょうか。

これを神の祝福ととらえるべきなのか、それとも、単なる贅沢ととらえるべきなのか、聖書は何も告げていません。しかし自らの宮殿を神の家である神殿よりも豪華に造ったところに、彼の気持ちの表れを見ることができます。それは神よりも自分のことを重視しているという思いです。主を愛していると言いながら、主よりも自分を高くしていたのです。かつてモーセは神の律法としてこう述べました。「また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。」(申命記17:17)彼は自分のために銀や金を過剰に持っていました。それが彼を狂わせたのです。知恵よりもこの世の富と名声を愛する気持ちが表れています。ここにソロモン王国崩壊の兆しを見ることができます。

それは私たちにも言えることです。崩壊は突然訪れるのではありません。それは徐々に忍び寄ってきます。そこに至るまでのいくつかの段階があるのです。早い段階で気付いて、神に向かって修正していく人は幸いです。

Ⅱ.青銅の細工人ヒラムの働き(13-47)

次に、13~47節をご覧ください。まず、13~14節です。「13 ソロモンは人を遣わして、ツロからヒラムを呼んで来た。14 彼はナフタリ部族のやもめの子であった。彼の父はツロの人で、青銅の細工師であった。ヒラムは青銅の細工物全般について、知恵と英知と知識に満ちていた。彼はソロモン王のもとに来て、その一切の細工を行った。」

話は神殿建設に戻ります。ソロモンは人を遣わして、ツロからヒラムを呼んできました。ヒラムの母親はナフタリ部族、つまりイスラエル人でしたが、父親はツロの人でした。その父親がすでに亡くなっていて、やもめの子となっていました。彼の父は青銅の細工人だったようで、それを引き継いで彼も青銅全般の細工人になっていました。彼は出エジプト記31章に登場するベファルエルとオホリアブのように、知恵と英知と知識に満ちていました。彼はソロモンのもとに来て、その一切の細工を請け負ったのです。

15~47節には、彼が作った4種類の青銅の作品が紹介されています。最初に出てくるのは、2本の青銅の柱です。15~22節です。「15 彼は青銅で二本の柱を鋳造した。片方の柱の高さは十八キュビト。もう片方の柱の周囲は、ひもで測って十二キュビトであった。16 彼は青銅で鋳造した二つの柱頭を作って、柱の頂に載せた。片方の柱頭の高さは五キュビト、もう片方の柱頭の高さも五キュビトであった。17 柱の頂の柱頭に取り付ける、鎖で編んで房になった格子細工の網を、片方の柱頭に七つ、もう片方の柱頭に七つ作った。18 こうして彼は柱を作り、柱の頂にある柱頭をおおうため、青銅のざくろが格子網の上を二段に取り巻くようにし、もう片方の柱頭にも同じようにした。19 この玄関広間にある柱の頂にある柱頭は、ゆりの花の細工で、それは四キュビトであった。20 二本の柱の上にある柱頭の格子網のあたりで、丸い突出部の周りには、二百個のざくろが、両方の柱頭に段をなして並んでいた。21 この柱を本殿の玄関広間の前に立てた。彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた。22 この柱の頂の上には、ゆりの花の細工があった。こうして、柱の造作は完成した。」

柱の高さは18キュビト(約8メートル)、周囲は12キュビト(約5メートル)ありました(15)。その上に青銅で鋳造した2つの柱頭を作って、載せました(16)。柱頭の大きさは5キュビト(約2メートル)でした。さらにその柱頭をおおうために、青銅のざくろが格子網の上を二段に取り巻くようにしました(18)。それはゆりの花の細工がなされていました(19)。下の図をご覧ください。

http://img-cdn.jg.jugem.jp/b56/3863594/20180702_1459771.jpgより転載

ソロモンは、この2本の柱を神殿の玄関広間の前に立てました。右側に建てた柱には「ヤキン」という名をつけ、左側に建てた柱には「ボアズ」という名をつけました。「ヤキン」とは「彼は設立する」という意味で、もう一方はボアズという名で、「力をもって」という意味です。神殿に入る時にいつも、神が力をもって堅く立たせてくださることを思い出すためだったのでしょう。

私たちの生活が堅く立つのは、主の恵みであることを覚えなければなりません。主は力をもって守ってくださいます。あなたがたのうちに良い働きを始めた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださるのです(ピリピ1:6)。

次の作品は、23~26節に出てきます。それは鋳物の海です。「23 それから、彼は鋳物の「海」を作った。縁から縁まで十キュビト。円形で、高さは五キュビト。周囲は測り縄で巻いて三十キュビトであった。24 その縁の下に沿って、瓢?模様が周りを取り巻いていた。一キュビトにつき十ずつの割合でその「海」の周りを取り巻いていた。この瓢箪模様は二段になっていて、「海」を鋳たときに鋳込んだものである。25 「海」は十二頭の牛の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた。「海」はこれらの牛の上に載せられていて、牛の後部はすべて内側を向いていた。26 「海」の厚さは一手幅あり、その縁は杯の縁のように、ゆりの花の形をしていた。その容量は二千バテであった。」

それは縁から縁まで10キュビト(約4.5メートル)の円形でした。高さは5キュビト(約2.2メートル)、周囲は30キュビト(13.2メートル)でした。巨大な水盤です。これは、祭司たちが身をきよめるためのものでした。幕屋にも祭壇と聖所の間に洗盤があり、祭司たちが幕屋に入る前には、そこで身をきよめましたが、それと同じです。しかし、ここには「海」と呼ばれる巨大な水の洗いがあり、祭司がそこに入り、身を清めました(2歴代4:6)。

「海」は12頭の牛の上に据えられていました。3頭ずつ東西南北を向き、牛の後部はすべて内側を向いていました。これはイスラエルの12部族を象徴していたのではないかと考えられています。民数記2章には、約束の地を目指して荒野を進むイスラエル12部族が、幕屋を中心にして3部族ずつが東西南北に宿営していたことが描かれていますが、これも同じでしょう。しかし、行先が違います。行先は約束の地ではなく、バビロンです。バビロンの王ネブカデネザルによってバビロンに連れ去られることを象徴していたのです。

https://www.ancient-origins.net/sites/default/files/field/image/King-Solomons-Temple.jpgより転載

この鋳物の海は、祭司にはきよめの洗いが必要であることを示しています。神に近づくためには、身を洗ってきよめなければならなかったのです。同じように、私たちも神に近づくためには、身をきよめなければなりません。私たちがきよめられるのはイエスの血によってです。「そういうわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:22)そうです、主イエスこそ私たちにとっての「鋳物の海」なのです。

次は、「10個の台と洗盤」です。27~39節をご覧ください。「27 彼は青銅で十個の台を作った。それぞれの台は長さ四キュビト、幅四キュビト、高さ三キュビトであった。28 この台の構造は次のとおり。台には鏡板があり、鏡板は枠にはめられていた。29 枠にはめられている鏡板の上には、雄獅子と牛とケルビムがあり、雄獅子と牛の上下にある枠の表面には花模様が施されていた。30 台には、それぞれ、青銅の車輪が四つと、青銅の軸が付いていて、台の四隅には洗盤の支えがあり、その支えは洗盤の下にあって、それぞれの表面に花模様が鋳込まれていた。31 洗盤の口は冠の内側にあって、一キュビト上に出ていた。その口は丸く、花模様の細工が施され、一キュビト半あった。またその口の上にも彫刻がしてあり、枠の鏡板は四角で、丸くなかった。32 四つの車輪は鏡板の下にあり、車軸は台に取り付けられ、一つの車輪の高さは一キュビト半であった。33 その車輪の作りは戦車の車輪の作りと同じで、車軸も輪縁も輻も轂も、みな鋳物であった。34 それぞれの台の四隅には、四本の支えがあり、支えと台は一体となっていた。35 台の上部には高さ半キュビトの丸い部分が取り巻いていて、その台の上の支えと鏡板は一体となっていた。36 その支えの表面と鏡板には、それぞれの場所に、ケルビムと雄獅子となつめ椰子の木を刻み、その周囲には花模様を刻んだ。37 彼は以上のように十個の台を作った。それらはすべて同じように鋳造され、同じ寸法、同じ形であった。38 それから、彼は青銅で十個の洗盤を作った。洗盤の容量はそれぞれ四十バテ、大きさはそれぞれ四キュビトであった。洗盤はそれぞれの台に一個ずつ、十個の台の上にあった。39 彼はその台の五個を神殿の右側に、五個を神殿の左側に置き、「海」を神殿の右側、東南の方角に置いた。」

彼は青銅で10個の台を作りました。これは10個の洗盤を載せるためのものです。洗盤の大きさは、直径4キュビト(約1.8メートル)、容量は40バテ(約1,000リットル)ありました。かなり大きな洗盤です。これらの水は、数々のきよめの儀式のために用いられました。10個の台は、これらの洗盤を載せるためのものでした。その特徴は、車輪が取り付けてあったことです。車輪がついていたので、どんなに重くても移動することができました。つまり、神殿の中で必要とされる場所に移動させることができたということです。これらの10個の洗盤は、神殿の右と左にそれぞれ5個ずつ置かれました。

https://pbs.twimg.com/media/EtjBHfCVgAEwZSy?format=jpg&name=largeより転載

さらにヒラムは灰壺と十能と鉢を作りました。灰壺は、灰を取るつぼのことで、宿営の外に持ち出すためのものでした。十能は、いけにえを焼き尽くための器具でした。鉢は、いけにえの血をその中に入れて持ち運ぶためのものです。幕屋で作られた器具と同じです。

こうしてヒラムは、自らの役割をすべてやり終えました。「こうして、ヒラムは、ソロモン王のために主の宮でなすべきすべての仕事を完了した。」(40)とあるとおりです。すなわち、彼は2本の柱とその頂にある丸い柱頭、および、柱頭をおおう2つの格子網、10個の台と、その上の10個の洗盤、巨大な海、その海の下の12頭の牛、灰つぼと十能と鉢です。これらの用具は、すべて磨きをかけた青銅で作りました。

ヒラムは異邦人でありながら与えられた役割を、全身全霊をもって忠実に果たしました。彼は自分に与えられた賜物を、主の栄光のためにささげたのです。私たちは一人一人与えられた賜物は違いますが、それを用いて主の栄光を現わすことができます。

Ⅲ.神殿の完成(48-51)

最後に、48~51節を見て終わります。「48 また、ソロモンは主の宮にあるあらゆる物を作った。金の祭壇と、臨在のパンを載せる金の机、49 内殿の前、右側に五つ、左側に五つ置かれる純金の燭台、金の飾り花、ともしび皿、芯切りばさみを作った。50 また純金の皿と、芯取りばさみ、鉢、平皿、火皿を純金で作った。至聖所に通じる神殿内部の扉のちょうつがい、神殿の本殿に通じる扉のちょうつがいも金で作った。51 こうして、ソロモン王が主の宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、主の宮の宝物倉に納めた。」

http://meigata-bokushin.secret.jp/から転載

「こうして、ソロモン王が主の宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、主の宮の宝物倉に納めた。」(51)

これは非常に重要な聖句です。ソロモンは、父ダビデに与えられた神からのビジョン、神殿建設を完成させたからです。ダビデは自分は神殿を建てませんでしたが、その用意をしていました。ダビデのその思いは、その子ソロモンに受け継がれていったのです。信仰の継承というテーマは、私たちにとっても重要であることがわかります。

エレミヤ5章1~19節「義人はいない、一人もいない」

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エレミヤ書5章に入ります。きょうは、エレミヤ5章1~19節のみことばから、「義人はいない、一人もいない」というタイトルでお話します。これは有名な聖書のみことばの一つです。使徒パウロもローマ書の中で詩篇14篇、並びに53篇を引用し、「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)と述べています。この世には何十億という人がいますが、神の目にかなう正しい人は一人もいません。それゆえ、私たちは自分もまたその罪人の一人であることを自覚して、イエス様によって与えられる神の義をまとい、イエス様の御声に聞き従う者でありたいと思います。

きょうはこのことについて、三つのことをお話します。第一に、義人はいない、一人もいないということです。第二のことは、神を求めない者に対する神の訴えです。そして第三に、そのような者に対する神のさばきの実行です。

Ⅰ.義人はいない、一人もいない(1-55)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。2 彼らが、主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」3 「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」4 私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」

1節、2節は、エレミヤに対する神のことばです。神はエレミヤに、エルサレムの通りを行き巡り、見て来るように、探して来るようにと言っています。何を見て来るのでしょうか。何を探して来るのでしょうか。そこに公正を行う、真実を求める人がいるかどうかを、です。「公正を行う、真実を求める人」とは、神の目にかなった人のことです。単にいい人であるとか、優しい人であるというのではなく、聖書の基準に従って生きている人、神の目にかなった正しい人のことです。

彼らは口先では「主は生きておられる」と言っていました。これは4章2節にも出てきましたが、そこには中身が伴っていませんでした。ただ口先だけの、偽りの誓いにすぎなかったのです。「偽り」ということばは「真実」の反対語で、「空っぽ」という意味です。つまり、彼らの誓いは空っぽだったのです。口では信じてはいると言っていましたが、行動が伴っていませんでした。主が求めておられたのはそのような空っぽの信仰ではなく、中身が伴った信仰です。そのような人が1人でもいれば、主はその人のゆえに、エルサレムのすべての人を赦そうと言われたのです

この話で思い出すのは、創世記18章のところで、神がアブラハムに告げられたことばです。ソドムとゴモラの罪は非常に大きいので、それを見た主は彼らを滅ぼすと仰せになられました。それでアブラハムは、必死にとりなします。そこに甥のロトが住んでいたからです。それでアブラハムはこう言うのです。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。もしかすると、その町の中に正しい人が50人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる50人の正しい者のために、その町をお許しにならないのですか。」(創世記18:23-24)

すると主は、「もしソドムで、わたしが正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」(創世記18:26)と言われました。

じゃ45人だったらどうですか、30人だったら、20人だったら、10人だったら・・・と、その数を少なくしていきます。値切るように神様と交渉するわけです。おそらく、ロトの家族だけでも10人位はいたので、10人位にしておけば大丈夫だろうと思ったのでしょう。すると主は言われました。もし10人でも、そこに正しい者がいけば、滅ぼさない、と。

しかし、結局、ソドムとゴモラは滅ぼされてしまいました。10人もいなかったのです。でもきょうのところには10人どころじゃありません。1人です。もしもそこに公正と真実を求める正しい人が1人でもいたら、その人のゆえにエルサレムを赦そうと言われたのです。つまり、神様はどこまでも愛の神様であるということです。たった1人でもそこに正しい人がいれば赦してくださる。そしてその1人を最後まであきらめずに捜してくださるのです。本当に小さな可能性まで見出そうとされるのです。

そうしてエレミヤは町に行きました。その結果どうだったでしょうか?3節をご覧ください。「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」

顔を岩よりも硬くしてというのはおもしろい表現でするね。日本語にもありますね、堅い表情ということばが。表情は私たちの意志とか思いが表れる場所です。別のことばで言うと、信仰が顔に出ていたということです。神様との関係が顔に出ていました。頑なな顔です。カチカチで、堅い顔になっていました。神様から悔い改めるようにと懲らしめを受けても、受け入れませんでした。堅い甲羅で覆われたアルマジロのように、顔を硬くして、立ち返ることを拒んだのです。人が深刻な病気をして、命からがら助かった人が、その病気の前と後で生活が激変したという人は、だいたい10人に1人くらいしかいないそうです。ここでも、イスラエルは神様から深刻なさばきを受けても全然変わらず、跳ね返してしまうだけでした。神様のさばきが悔い改めの機会とならなかったのです。

いったいどうしてでしょうか。エレミヤは考えました。4~5節をご覧ください。「4私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」

エレミヤは、自分がいくら探しても正しい人を見つけることができなかったのは、卑しい者たちの中から探していたからだと思いました。もっと身分の高い人たちのところへ行って探せば、きっと見つかるはずだと。なぜなら、彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているはずだからです。この「主の道」とか「神のさばき」とはいうのは類似語で、神のことばのことを意味しています。貧しい者たちは、仕事とか食べることで忙しくて、神のことばを学んでいる暇がないのだから、主の道を知らないのも無理もないでしょう。でも身分の高い人たちならお金に余裕があるのでそんなに働かなくてもいいし、その分聖書を学ぶことができます。だから神様のこと、神様の道を知っているに違いない。そう思ったのです。実際、エルサレムには神のことばを学ぶ学校があったそうです。そういうところでは祭司とか、預言者とか、レビ人たちが学んでいました。そういう人たちならきっと知っているに違いないと考えたのです。

結果はどうだったでしたか?5節の後半をご覧ください。ここには「ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」とあります。「くびき」とか「かせ」というのは、神の教えとか、律法、聖書のことです。それは、神の民が成長していくうえで欠かすことができないものでした。イエス様も「わたしのくびを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)と言われました。この「くびき」のことです。しかしユダの民はこのくびきを砕き、かせを断ち切ってしまいました。ないがしろにしたのです。

このようにユダの民は、神の民であるにもかかわらず、意識的に、また無意識的に神の教えを無視して、神に逆らっていました。そこには公正と真実を求める人は一人もいなかったのです。それはユダの民、イスラエルだけのことではありません。私たちも同じです。公正と真実を求める人は一人もいません。神の目にかなう正しい人はだれもいないのです。先ほども申し上げましたが、このことを使徒パウロは詩篇のことばを引用してこう言いました。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)

ノーマン・ビンセント・ピール牧師が書いた「聞かれない祈り」という本の中で、こんな逸話が紹介されています。

ピール牧師がまだ少年だったころ、彼は1本の大きくて真黒なシガレットを拾いました。彼は、面白半分に、路地裏に隠れてそのシガレットに火をつけました。味は悪かったのですが、なんとなく大人になったような気がしました。

ところが、近づいてくる父親の姿が目に入りました。彼は急いでシガレットをうしろに隠し、平静を装いました。

父親の感心を他のことに向けるために、彼はサーカスの宣伝が載った大きな広告板を指さしました。

「お父さん、行っていい?この町にサーカスが来たら、行こうよ。」

父親の答えは、ピール少年にとって、一生忘れられない教訓となりました。

父親は静かな声で、しかし、威厳を込めてこう言いました。

「息子よ。不従順の煙がくすぶっている間は、決して願い事をしてはいけないよ。」

皆さん、おわかりでしょうか。私たちは、この少年のように不従順の煙がくすぶらせているのに、「主は生きておられる」と平気で誓いますが、そのような偽りの誓いのゆえに、神のさばきを受けることになります。「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはでき」(ローマ3:23)とあるように、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのです。それはあなたも例外ではありません。義人はいない。一人もいないのです。それが私たちの姿です。

Ⅱ.神の告訴状(6-13)

それゆえ、彼らに神のさばきが宣告されます。6~13節をご覧ください。6節には「そのため、森の獅子が彼らを殺し、荒れた地の狼が彼らを荒らす。豹が彼らの町々をうかがい、町から出る者をみなかみ裂く。彼らは背くことが多く、その背信がすさまじいからだ。」とあります。

「森の獅子」とか「荒れ地の狼」、「豹」とは、バビロン軍のことを指しています。意識的であろうが、無意識的であろうが、神に背いたイスラエルの民に対して、神はバビロン軍を送り、侵略させるというのです。

このような神のさばきに対して、中には、「えっ、神様はそんなに厳しい方なんですか、「神は愛です」と聖書に書いてあるじゃないですか。それは嘘なんですか」と言う方がいるかもしれません。しかし、そうじゃないんです。神様は赦したいのです。しかし、神の民であるユダがそれを拒んだのです。それが7~13節で語られていることです。いわばこれは神様の告訴状です。

「7 「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。わたしが彼らを満ち足らせると、彼らは姦通し、遊女の家で身を傷つけた。8 彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。9 これらについて、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。10 ぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせ。ただ、根絶やしにしてはならない。そのつるを除け。それらは主のものではないからだ。11 実に、イスラエルの家とユダの家は、ことごとくわたしを裏切った。──主のことば──12 彼らは主を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』と。13 預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」」

「これでは」というのは、神が警告を与えたにもかかわらず、それでもかたくなって拒み、なおも罪を犯し続けるというのでは、ということです。甚だしいにも程があると。これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。できません。これは、裏を返せば赦したいということの表れでもあります。神様は赦したいのです。助けたいのです。でも彼らの側でそれを受け入れようとしません。むしろ、悪に悪を重ねるようなことをしたのです。

7節から、その悪が具体的に挙げられています。まず、彼らは神を捨て、神ではないものによって誓っていました。これは偶像礼拝のことです。このようにまず、神を礼拝するということが破壊されました。それでも恵みをもって彼らを満ち足らせると、今度は姦淫を犯し、遊女の家で身体を傷つけました。これは文字通り姦通したということと、霊的に姦通した、すなわち偶像礼拝を行ったということの両方を含んでいます。というのは、こうした偶像礼拝には、肉体的姦淫が伴っていたからです。

さらに8節をご覧ください。ここには「肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。」とあります。「いななく」とは、馬が声高く鳴くことです。「ヒヒ~ン」。それは発情した状態を指しています。理性を失って、完全に情欲と欲望に支配された状態のことです。もうどうにもとまりません。これは十戒の中にある「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(出エジプト20:17)を破る罪です。このように、神様との縦の関係が壊れると、人間同士の横の関係が壊れることになります。ですから、9節で主はこう言われるのです。「これらについて、わたしは罰しないだろうか」。このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」どうして罰しないでおられるだろうか。復讐しないでおられるだろうか。それはできない、というのです。どこまでもかたくなになって神に背き、罪を犯し続けるならば、神様は罰せずにはおられないのです。罰したくなくても、罰するしかないわけです。それは神様からしたら不本意なことです。なぜなら、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。Ⅰテモテ2章4節にこうあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」でも、神の慈愛を無視し、悔い改めずに罪を犯し続けるなら、そうせずにはいられないという、神様の悲痛な思いが伝わってきます。

続く10節にはぶどう畑のたとえが出てきます。この「ぶどう畑」とは、イスラエルのことを指しています。このぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせ、というのです。これを命じておられるのは神様です。神様はぶどう畑であるイスラエルの石垣に上り、それをつぶすようにと、バビロンに命じておられるのです。その理由が11節にあります。イスラエルの家とユダの家が、ことごとく主を裏切ったからです。イスラエルの家とは北イスラエル王国のことであり、ユダの家とは、南ユダ王国のことです。北王国イスラエルは既に滅ぼされていました。B.C.722年のことです。アッシリヤ帝国によって滅ぼされました。そして、それが今南ユダ王国にも語られているのです。この後B.C586年に、彼らもバビロンに滅ぼされてしまうことになります。それは、彼らがことごとく神様を裏切ったからです。神様は真剣に彼らに向き合っておられたのに、彼らは自分たちのしていることを深刻に受け止めませんでした。

それは12節を見るとわかります。彼らは主を否定してこう言いました。「主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない。」

どういうことでしょうか。どんなに主が警告を与えても、それをまともに受け止めようとしなかったということです。そんなことはない、主は何もしないと、高を括って(たかをくくって)いたのです。

そればかりではありません。13節には「預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」とあります。「風になり」とは実体がないということです。預言者たちの存在はあってないようなものだというのです。この12節と13節のことばは、エレミヤが預言者として何回も聞かされて来た、自分が体験してきたことばでした。彼が預言者として神のことばを語っても、民の方は「なに、預言者か、あいつらは風みたいなもんだ」と馬鹿にしていたのです。それはこのエレミヤが預言のことばを語った時代、それはヨシヤ王の時代ですが、政治的には強大なアッシリヤ帝国の力が弱まっていて、ユダは比較的に平穏だった時代でした。だから民はエレミヤのことばを真剣に受け止めなかったのです。風のように流していたわけです。しかし、神様は侮られるような方ではありません。神のことばが無に帰することは決してないのです。神のことばは必ず成し遂げられるのです。

アメリカの有名なリバイバリストであったD・L・ムーディーは、イエス様を信じて生まれ変わり、最初のうちは喜びに満たされていましたが、しばらくすると生まれ変わった喜びはなくなり、世の楽しみを求め始めるようになりました。そこで彼は山に登って一週間の断食祈祷をして、恵みに満たされて山から下りてきました。しかし、その恵みもしばらくすると消えてしまいました。彼はひどく落胆し、「主よ、私は捨てられた者です」と嘆きました。そんなある日、聖書を読んでいると「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)というみことばに目が留まりました。その瞬間、彼の心が熱くなりました。「私は聖書を読んでいなかった。だから信仰が育たず、成熟できなかったんだ。」その時から彼は聖書を一生懸命に読みました。すると、彼の生活が変わり変わり始めました。罪と世のことが消え去り、神を求めるようになり、心が聖霊に満たされていったのです。

信仰生活の基本は、神が生きておられると信じることです。そして、その神のことばに生きることなのです。神のみことばに満たされると、みことばが生きて働き、その人を変えていきます。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。そして、そのみことばに従うとき、私たちの生活が変えられていきます。イスラエルの問題はここにありました。みことばを聞きませんでした。主のことばを否定していたのです。つまり、みことばがなかったのです。自分の思いのままに、勝手気ままに生きていました。その結果、神のさばぎか彼らに臨んだのです。神が生きておられると信じるなら、神の御前で生きるようになり、罪を捨てる人生へと導かれていきます。そして、すべてのことにおいて神を認める信仰は、みことばを毎日黙想して従う生活に現れるのです。

Ⅲ.イスラエルを攻める遠くから来る一つの国(14-19)

最後に、14~19節をご覧ください。しかし、主は侮られる方ではありません。「主は何もしない」と言っている間に、民は自分の頭の上に神の怒りを積み上げていました。そして、ついに神の堪忍袋の緒が切れる時がやってきます。神様がみことばで語られた通り、民に対するさばきが実行に移されます。14節には「それゆえ、万軍の神、主はこう言われる。「あなたがたがこのようなことを言ったので、見よ、わたしはあなたの口にあるわたしのことばを火とする。この民は薪となり、火は彼らを焼き尽くす。」とあります。

ユダの民がそのようなことを言ったので、主はエレミヤの口から出ることばを火炎放射器のように、彼らに浴びせます。それは火となり、この民を(たきぎ)として彼らを焼き尽くすのです。それは神様による神の民への徹底したさばきです。具体的にはバビロンが襲ってくるわけです。それが15~17節にあります。「イスラエルの家よ。見よ。わたしはあなたがたを攻めるために、遠くの地から一つの国を来させる。──主のことば──それは古くからある国、昔からある国、その言語をあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国。その矢筒は開いた墓のよう。彼らはみな勇士たち。彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、あなたが拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。」

神様は神の民をさばくために、外国を道具として用いられるわけです。「古くからある国」とか「昔からある国」とはバビロン帝国のことです。この時は新バビロニア帝国でしたが、それは昔からありました。旧バビロニア帝国です。その起源は、創世記11章のあのバベルの塔にまで遡ります。「バベル」とは実は「バビロン」のことです。人類はここから地の全面に散らされていきました。ですから、歴史は古いのです。ユダの民はその言語を知りません。何を話しているのか聞き取れない国、それがバビロンです。主はイスラエルを攻めるために、この外国のバビロンを用いられるのです。

「その矢筒は開いた墓のよう」とあります。その放つ矢によって確実に死ぬということです。つまり、バビロン軍の破壊力を表しているわけです。それはスピーディーで、パワフルで、すべてを食い尽くすいなごのようです。17節には「食らい」ということばが4回も繰り返して用いられています。「彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、」まさにいなごが穀物を食い尽くすように彼らはすべてを食らい、エルサレムを廃墟とするのです。

まさにモーセが警告した通りです。モーセは約束の地に入るイスラエルの民に対して、もし彼らが主の御声に聞き従わず、モーセが彼らに命じた、主のすべての命令と掟を守り行わなければ、すべてのわざわいが彼らに臨み、彼らをとらえると言いましたが(申命記28:15)、その通りになったのです。

18~19節をご覧ください。ここには、「18 しかし、その日にも──主のことば──わたしはあなたがたを滅ぼし尽くすことはない。」とあります。19『われわれの神、武捨は、何の報いとして、これらすべてのことを私たちにしたのか』と尋ねられたら、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨て、自分の地で異国の神々に仕えたように、あなたがたは自分の地ではない地で、他国の人に仕えるようになる。』」とあります。

「主は、何の報いとして、こんなことを私たちにしたのか」それは、彼らの神、主を捨てて、異国の神々に仕えたからです。それは神様の問題ではなく、身から出た錆なのです。 自業自得ということです。

18節のことばは、10節にもありましたが、滅ぼし尽くすこときしないという約束です。そのような徹底した神のさばきの中にも、神は残りの民を残してくださるという約束です。ここに希望があります。絶望的に見えますが、ここにかすかな希望が残されているのです。神は、ユダが絶滅することを赦されたのではありません。敵の攻撃に、一定の制限を設けられました。それはすでに4章27節でも語られていました。「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」。5章10節もそうです。ここでも同じことを語っておられます。神様は、アブラハムの約束のゆえに、イスラエルのすべてを滅ぼし尽くすことはなさいません。そこに残りの者、レムナントを残してくださるのです。神様は真実な方です。約束したことを最後まで守ってくださいます。みことばに「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)とある通りです。

きょうのところをまとめると、エルサレムには主を求める正しい人が一人もいませんでした。義人はいない、一人もいなかったのです。その結果、神は遠くの地から一つの国を越させ、彼らに破壊と混乱をもたらしました。それは今日の私たちの社会にも言えることではないでしょうか。表面的には平静を装っていても、いつ崩壊してもおかしくない状態にあります。第三次世界大戦も起こるのではないかという不安も現実的になっています。いったいどこに問題があるのでしょうか。その根本的な原因は、神を恐れないことです。神を認めない、神を求めないことです。きょうの聖書のことばでいうなら、公正と真実を求めないということです。表面的に神様を信じているというだけでなく、心から神を恐れ、神のことばに従っていないことが問題なのです。その結果、このような悲惨を招いているのです。今私たちに求められているのは、自分が罪人であるということを認めて神に立ち返り、神の義と神の真実に生きることです。「23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)とある通りです。

「大草原の小さな家」という番組があります。皆さんの中にも好きてよく観ていたという方も多いのではないでしょうか。その中にこんな話がありました。舞台は19世紀のアメリカ西部の開拓された小さな田舎町です。そこに小さな教会がありました。人口も少ない小さな町なので、ウイークデイは子どもたちの学校にもなっていました。

ある日曜日の礼拝が終わった時、牧師が一つの提案をしました。それは教会の入り口に鐘を付けたらどうかということでした。教会に集まっている人たちは喜んで提案を受け入れました。すると、その教会に雑貨屋を営んでいる婦人がいるのですが、ご婦人が、「じゃ、私が全額寄付します。」と言ったのです。隣町に負けないような立派な鐘を付けましょうと言うのです。その代わり、私が寄付をしたというプレートを下に付けてください」言いました。こういうことがよくあります。皆さんだったらどうしますか。しかし、その発言で教会真っ二つに割れてしまいました。せっかく寄付してくれるというんだから助かるじゃないかという人と、いや、教会にそんな寄付した人の名前を刻むなんて滅相もないという人の意見で、喧々諤々となってしまったのです。その結果、教会が半分くらいになってしまいました。牧師はその責任を感じて辞任することになってしまいました。

果たして、その教会にジョーンズさんという話すことができない障害を持っている方がいましたが、彼はその話を聞くと村中の子どもたちを集め、家の中にある鉄製のものを持ってくるようにと言いました。もちろん、話すことができないので黒板に書いて指示したわけですが。彼の仕事は鋳物師で、鉄を溶かしてやかんとか鍋とかを作る仕事でした。すると、子どもたちは自分の家にある物をジョーンズさんのところに持ってきました。それでジョーンズさんは鐘を作ったのです。

牧師が辞任のあいさつをする日です。どこからか鐘の音が聞こえてきました。それは小さな町全体に響き渡る音でした。大人たちはびっくりして音のする方向に走って行くと、教会の上に鐘が付いていてジョーンズさんが紐を引いて鐘を鳴らしていたのです。大人たちは何となく気付いていたんですが、自分たちの家から鉄の物が無くなった理由がやっとわかりました。そして子供たちが喜ぶ姿を見て、自分たちの過ちを認めたのです。

私はこの話を見て、それは私たちにも言えることではないかと思いました。こうした問題の根底にあるのは、自分の姿が見えないことにあります。自分は正しいと思い込んでいるのです。でも、きょうのみことばで言うなら、義人はいない、一人もいないのです。神様の前に正しい人など誰もいません。しかし、聖書が言うのは、ただ一人の正しい人がおられるということです。それがイエス・キリストです。イエス様だけが公正と真実を求めて、ひたすらそこに生き抜いてくださいました。この方が勝ち取ってくださった正しさを、私たちは身にまとうことが許されています。会堂の入り口に高く掲げられたこのジョーンズさんの鐘が、和解の調べを告げたように、十字架につけられたイエス様から私たちは、和解のことばを聞くことができるのです。イエス様は十字架の上からこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないからです。」(ルカ23:34)

私たちは、自分でも知らないうちに、また知りながら、罪を重ねて生きています。しかしそれを全部知った上で赦してくださった方がおられます。罪で死に、罪で滅ぼし尽くしかねなかった私たちを救ってくださったイエス様、このイエス様の御声を私たちは聞き、これを信じ従っていきたいと思うのです。そのような人こそ、神の目には正しい人、真実な人なのです。

Ⅰ列王記6章

 今日は、列王記第一6章から学びます。

 Ⅰ.神殿の構造(1-10)

まず1節から10節までをご覧ください。「1 イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建築に取りかかった。2 ソロモン王が主のために建てた神殿は、長さ六十キュビト、幅二十キュビト、高さ三十キュビトであった。3 神殿の本殿の前に付く玄関は、長さが神殿の幅と同じ二十キュビト、幅が神殿の前で十キュビトであった。4 神殿には格子を取り付けた窓を作った。5 さらに、神殿の壁に、すなわち神殿の壁の周り、本殿と内殿の周りに、脇屋を建て巡らした。こうして階段式の脇間を周りに作った。6 脇屋の一階は幅五キュビト、二階は幅六キュビト、三階は幅七キュビトであった。それは、神殿の外周りの壁に段を作り、神殿の壁を梁で支えずにすむようにするためであった。7 神殿が建てられたとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や斧や、いかなる鉄の道具の音も、いっさい神殿の中では聞こえなかった。8 二階の脇間に通じる入り口は神殿の右側にあり、螺旋階段で二階に、また二階から三階に上るようになっていた。9 ソロモンは神殿を建て、これを完成させるにあたって、神殿の屋根を杉材でできた雨水溝の列でおおった。10 神殿の側面に脇屋を建て巡らし、その各階の高さは五キュビトにして、これを杉材で神殿に固定させた。」

前回は、ソロモンがツロの王ヒラムに神殿のための杉材を調達してくれるように頼み、両国の間に契約を結んだということを学びました。ここから、いよいよ神殿の建設が始まります。まず、その神殿の構造です。ソロモンが主の家の建築に取りかかったのはソロモンがイスラエルで王となってから4年目のジフの月、すなわち第二の月のことでした。それはイスラエルがエジプトを出てから480年目のことでした。ということは、ソロモンの治世は紀元前971年から931年までであることがわかっているので、この神殿の建設は紀元前966年頃であったということになります。ソロモンは王になってから比較的に短期間の内にこの神殿建設に取りかかったことになります。ちなみに、その480年前にイスラエルがエジプトを出たとあるので、出エジプトの出来事は紀元前1445年頃であったということがわかります。

2節には神殿のサイズが記されてあります。それは長さ60キュビト、幅20キュビト、高さ30キュビトです。1キュビトは約44センチなので、長さ26.4メートル、幅8.8メートル、高さ12メートルです。面積は232平米(70.4坪)ですから、それほど大きな建物ではありません。教会の建物が1階と2階を合わせて約65坪ですから、2階の部分を下に持って来た大きさとほぼ同じ大きさとなります。神殿はかつての幕屋と同じ形をしていますが、寸法はちょうど2倍になっています。

http://www.geocities.jp/gaironweb/picmatop.htmlより転載)

3節から5節までをご覧ください。ここにはその構造が記されてあります。 本殿の前には玄関が付けられました。長さは神殿の幅と同じ20キュビト(8.8メートル)、幅は神殿の前方に10キュビト(4.4メートル)です。また、神殿には格子を取り付けた窓を作りました。なぜ窓が取り付けられたのかというと、幕屋の場合は通気性が良かったので必要ありませんでしたが、神殿はそうでなかったので換気が必要だったからです。神殿の周りには3階建ての脇屋を建て巡らしました。これは祭司たちの部屋のために、また礼拝に必要な物を保管するための倉庫として使用されました。興味深いのは6節にあるように、神殿の壁を梁で支えずにすむような構造になっていたことです。梁で支えなかったら構造上の強度が弱くなってしまいます。それなのに梁で支えなくてもよいようにしたのは、それぞれのパーツがしっかりと組み合わされていたからです。エペソ人への手紙4章16節に「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」とありますが、まさに神の家、神殿はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされて建てられていったのです。

7節には、「神殿が建てられたとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や斧や、いかなる鉄の道具の音も、いっさい神殿の中では聞こえなかった。」とあります。神殿の骨格の材料となる石が、建築現場で仕上げられることなく、すでに石切り場で完全に仕上げられていたということです。どうしてでしょうか。日本の住宅会社でもよく、家を建てるときに、すでにそれぞれの部分が組み立てられていて、それを現場でただ組み合わせるという建築方法を取り入れる会社がありますが、まさにそれと同じです。神殿で使われる石も、寸法通り、正確に、すでに石切り場で仕上げられており、現場ではただ組み立てられるだけになっていたのです。そうすることによって神殿の内部では工事の音が一切聞こえませんでした。神が臨在され、神がみことばを語られる場所として、そこは静かに保たれなければならなかったのです。主イエスが朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた(マルコ1:35)のも同じです。イエス様は静かな場所を求めておられました。勿論、物理的にそうでない所にも主はおられますが、もし主と深い交わりを持ちたいと願うなら、物理的にも、内面的にも静かさが求められるのです。

7節をご覧ください。ソロモンは神殿を建て、これを完成させるにあたって、神殿の屋根を杉材でできた雨水溝の列でおおいました。また脇屋も杉材で固定しました。杉材がふんだんに使われたのです。それは、幕屋(移動式の天幕)が暫定的な礼拝の場として与えられていたのに対して、神殿が恒久的な礼拝の場として与えられていたからです。それは、神が恒久的に彼らと共におられることの保証となりました。それは私たちにも言えることです。新約の時代に生きている私たちは、神の聖霊が与えられています。それは、救いの保証でもあります。聖霊は、私たちが御国を受けていることの保証(エペソ1:14)であり、恒久的に神が私たちと共におられることの保証なのです。

Ⅱ.神からの警告と励まし(11-13)

そのような神殿建設の真只中にあって、主はソロモンにこのように次のように言われました。11~13節です。「11 そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。12 「あなたが建てているこの神殿のことであるが、もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。13 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」」

どういうことでしょうか?神殿建設は確かに大事業ですが、もし本来の神の意図を見失ってしまうことがあるとしたら、何の意味もなくなるということです。とかく私たちは立派な神殿を建築すれば、神の臨在と栄光が現わされると思いがちですが、そうではないと、神は釘を刺しておられるのです。

ソロモンは、イスラエルの繁栄は、神との契約関係の上に成り立っていることを知らなければなりませんでした。つまり彼は主の掟に歩み、主の定めを行い、主のすべての命令を守り、これに歩まなければならなかったのです。もしそうであれば、主はダビデに約束したことを成就してくださいます。ダビデに約束したこととは、あのⅡサムエル記7章13節にあることばです。それは「彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」ということです。「わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」という約束です。この約束の成就は、ソロモンがいかに神との契約関係に忠実に歩むかどうかにかかっていたのです。残念ながら、ソロモンは晩年多くの妻によって偶像礼拝に走り、この命令を守りませんでした。その結果、王国は息子レハムアムの時代に南北に分裂するようになります。

私たちはここから大切な教訓を学びます。それは、こうした祝福と繁栄の陰には落とし穴があるということです。傲慢という落とし穴です。神殿建設という祝福の真只中で主がソロモンにこれを語られたのは、そうした落とし穴に注意するようにとの警告だったのです。はたして自分は神のことばに留まっているかどうか、神の掟に歩み、神の定めを行い、神のすべての命令を守り、神のうちに留まっているかどうかを、吟味しなければならないのです。自分ではそう思っていても、神のみこころからかなり離れているということも少なくないからです。

Ⅲ.神が喜ばれる神殿(14-38)

次に、神殿の内装を見ましょう。14~22節をご覧ください。「14 こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成させた。15 彼は神殿の内側の壁を杉の板でおおい、神殿の床から天井の壁に至るまで、内側を板でおおった。なお神殿の床は、もみの板でおおった。16 それから、彼は神殿の奥の部分二十キュビトを、床から天井の壁に至るまで杉の板でおおった。このようにして、彼は神殿に内殿、すなわち至聖所を設けた。17 神殿の手前側の本殿は四十キュビトであった。18 神殿内部の杉の板には、瓢?模様と花模様が浮き彫りにされていて、すべては杉の板で、石は見えなかった。19 内殿は神殿内部の奥に、主の契約の箱を置くために設けた。20 内殿の内部は、長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビトで、純金でこれをおおった。さらに杉材の祭壇も純金でおおった。21 ソロモンは神殿の内側を純金でおおい、内殿の前に金の鎖を渡し、これに金をかぶせた。22 神殿全体を隅々まで金でおおい、内殿に関わる祭壇も全体を金でおおった。」

(http://meigata-bokushin.secret.jp/)より転載

こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成させました。彼は神殿の内側の壁を杉の板でおおい、神殿の床から天井の壁に至るまで、内側をすべて板でおおいました。神殿の床には、もみの板が使われました。石材が隠れるようにしたのです。その杉の板には、ひょうたんの模様と花の模様が浮き彫りにされていました。その上に金をかぶせました。神殿全体を隅々まで金でおおったのです。

19節には、さらに神殿内部の奥に、主の契約の箱を置くために内殿(至聖所)を設けました。サイズは長さ20キュビト、幅20キュビト、高さ20キュビトの立方体で、そこにも杉の板が張られ、その上に純金がかぶせられました。そこは、主の栄光が現わされる所だからです。

23~28節をご覧ください。「23 内殿の中にオリーブ材で二つのケルビムを作った。その高さは十キュビトであった。24 ケルビムの一方の翼は五キュビト、もう一方の翼も五キュビト。翼の端から翼の端までは十キュビトであった。25 もう片方のケルビムも十キュビトあり、両方のケルビムは全く同じ寸法、同じ形であった。26 片方のケルビムの高さは十キュビト、もう片方のケルビムも同じであった。27 ケルビムは神殿内部に置かれた。ケルビムは翼を広げていて、片方のケルビムの翼は一方の壁に届き、もう片方のケルビムの翼はもう一方の壁に届き、また両者の翼は神殿の真ん中に届いて、翼と翼が触れ合っていた。28 ソロモンはこのケルビムに金をかぶせた。」

内殿の中にオリーブ材で二つのケルビムを作りました。ケルビムは、神の栄光のそばで仕える天使です。彼らは契約の箱を守る役割を果たしていました。ケルビムの単数形はケルブですが、一つのケルブは高さが10キュビト、翼の端から翼の端までも10キュビトでした。その2つのケルビムが並んで翼を広げると、片方のケルビムの翼は一方の壁に届き、もう片方のケルビムの翼はもう一方の壁に届きました。また両者の翼は神殿の真ん中に届いて、翼と翼が触れ合っていました。ソロモンはこのケルビムにも金をかぶせた。

どうしてソロモンはケルビムを作ったのでしょうか。それは神の命令だったからです。神は幕屋の建設にあたり、二つの金のケルビムを作るようにと命じられていました(出エジプト25:18)。それは、そこが最も重要な場所であったからです。そこには十戒が書かれた2枚の2枚の石の板が収められた契約の箱がありました。そしてその上に「宥めの蓋」がありました。そこは神の宥めがなされるところ、贖いの血が注がれるところでした。そこに年に一度だけ大祭司が入り民の罪の贖いをしました。雄牛ややぎをほふり、その血を取って、それをこの宥めの蓋の上に注いだのです。主はそこでモーセと会見し、ご自身のことばを語ると仰せになられました(出25:20-22))。すなわち、そこは神が臨在される場所だったのです。

私たちも、神が命じられた方法によって準備するなら、神はそこにご自身の栄光を現わしてくださいます。新約の時代に生きる私たちの場合は、それはイエス・キリストのことです。私たちはイエス・キリストを通して神に近づき、神と会見することができるのです。

「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」(へブル10:19)

次に、29~38節をご覧ください。「29 神殿の四方のすべての壁には、奥の間も外の間も、ケルビムとなつめ椰子の木と花模様の浮き彫りを彫った。30 神殿の床は、奥の間も外の間も金でおおった。31 ソロモンは内殿の入り口を、オリーブ材の扉と五角形の戸口の柱で作った。32 その二つのオリーブ材の扉に、ケルビムとなつめ椰子の木と花模様の浮き彫りを彫り、金でおおった。ケルビムとなつめ椰子の木の上に金を張り付けたのである。33 同じように、本殿の入り口にも四角形のオリーブ材で戸口の柱を作った。34 また、もみの木で二つの扉を作った。片方の扉の二枚の戸は折り畳み戸、もう片方の扉の二枚の戸も折り畳み戸であった。35 ケルビムとなつめ椰子の木と花模様を彫り付け、その彫り物の上に、ぴったりと金を張り付けた。36 それからソロモンは、切り石三段と杉の角材一段の仕切りで内庭を造った。37 第四年のジブの月に、主の宮の礎を据え、38 第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が設計どおりに完成した。七年かけて建てたのである。」

神殿の「奥の間と外の間」とは、至聖所と聖所のことです。その壁には、ケルビムの彫刻となつめ椰子の木と花模様の彫刻が施されました。さらに、神殿の床は、金でおおわれました。非常に豪華で華麗な意匠です。ソロモンがいかにこの神殿の建設に心血を注いだかがわかります。

聖所と至聖所を区切る扉は、オリーブ材で作られました。幕屋の時は、垂れ幕と幕によって仕切られていましたが、ここでは柱と扉です。その扉にもケルビムとなつめ椰子の木と花模様の彫刻が施され、金でおおいました。また、戸口には五角形の柱が作られました。同じように、本殿の入り口にも四角形のオリーブ材で戸口の柱を作り、もみの木で2つの扉を作りました。それから、神殿の周りに内庭を作りました。外庭よりも切り石三段分、高く作っています。

このようにして、ソロモンは主の家を完成させました。それが37~38節にあることです。「第四年のジブの月に、主の宮の礎を据え、第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が設計どおりに完成した。七年かけて建てたのである。」

神殿が完成するのに7年かかりました。厳密には7年半です。この神殿はこれ以降、バビロンによって破壊されるまで(B.C.586年)四百年間立ち続けることになります。バビロン捕囚以降、ソロモンの建造物で再建されるのは、神殿だけです。その本質は、神が住まわれる、神が臨在それる場所、神を礼拝する場所です。礼拝の中心は、それまでの粗末な幕屋から豪華な神殿に代わりました。これは大きな祝福ですが、その本質を失うと信仰が形骸化する危険があります。神殿がそこにあるというだけに安住するようになるのです。

しかし新約時代では、神はキリストを信じる者の心に住まわれると聖書は教えています。私たちは神の宮(Ⅰコリント3:16)、聖霊の宮(Ⅰコリント6:19)なのです。聖霊の宮である私たちは、神の栄光を現すことが求められているのです。それはキリストとの生ける関係から生まれるものです。Ⅰペテロ2章2節には次のように勧められています。「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」とあります。
私たちも聖なる石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げましょう。これこそ、神が喜ばれ、神がご自身の栄光を現わしてくださる真の神の家、神殿なのです。

ヨハネ21章1~14節「さあ、朝の食事をしなさい」

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主の御名を賛美します。本日はイースター礼拝です。復活の主を共に礼拝できることを感謝します。全世界はいま闇の中にありますが、このキリストの復活のメッセージが暗闇の中にある人たちの光となることを祈ります。今日は、ヨハネの福音書21章から「さあ、朝の食事をしなさい」という題でお話しします。

Ⅰ.私は漁に行く(1-3)

まず1~3節をご覧ください。「その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。」

イエス様は、ユダヤ人たちのねたみによって十字架に付けられて死なれ、墓に葬られました。しかし、キリストを墓の中に閉じ込めておくことはできませんでした。キリストは、聖書が示す通りに、三日目に死人の中からよみがえられました。復活によって、ご自身が神の御子、救い主であることを公に示されたのです。そして40日にわたり弟子たちにご自身を現わされ、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを示されました。

イエス様が最初にご自身を現わされたのは、マグダラのマリアに対してでした。20章1節には、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来たとあります。何のためでしょうか。イエスの遺体に香油を塗るためです。ところが墓へ行ってみると、墓から石が取りのけられてありました。よみがえられたのです。でもイエスのからだがありませんでした。マリアが途方に暮れて泣いていると、復活の主が彼女に現れ「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と言われました。彼女は、それを園の管理者だと思いましたが、やがて、それが愛する主イエスだということがわかりました。彼女はそのことを弟子たちに告げると、弟子たちにはたわごとのように思われました。しかし、その日の午後、エマオに向かっていた二人の弟子たちに現われると、その日の夕方には、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた弟子たちのところに現われてくださいました。イエス様が手と脇腹を彼らに示されると、「弟子たちは主を見て喜んだ。」(20:20)とあります。

しかしそこに、12弟子の1人でデドモと呼ばれるトマスがいませんでした。彼は疑い深い人で、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、「私は決して信じません。その手に釘の跡を見て、そこに指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」(20:25)と言いました。本当に疑い深い人ですね。私たちの回りにもそういう人たちが結構いるのではないでしょうか。いや、私たちもかつてはそうでした。見ないと信じない。

しかし、その1週間後のことですが、弟子たちが集まっていたところに、再び主が現れてくださいました。今度はトマスも一緒でした。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」(20:27)と言われました。するとトマスは、「私の主、私の神よ。」と言ってひれ伏し、主を礼拝しました。主はそんな彼にこう言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる者は幸いです。」(20:29)見ないで信じる人は幸いです。

きょうの箇所はその後の出来事です。その後、イエスはティベリア湖畔で再び弟子たちにご自分を現われてくださいました。ティベリア湖とはガリラヤ湖のことです。ティベリア湖とは、ガリラヤ湖のローマ風の呼び方なのです。そこで主は再び弟子たちにご自分を現われてくださったのです。その現わされた次第はこうです。

舞台は、エルサレムからガリラヤに移っています。なぜ弟子たちはこの時ガリラヤ湖にいたのでしょうか。主がそのように言われたからです。「ガリラヤに行くように。そこであなたがたに会う」(マタイ28:10)と。

ガリラヤ湖は彼らの故郷でした。彼らは、このガリラヤ湖で漁をしながら生計を立てていました。そこは彼らが小さい頃から慣れ親しんだ場所だったのです。しかし3年半ほど前に、イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)と言われ、すべてを捨ててイエス様に従って行きました。ところが、イエス様は十字架に付けられて死んでしまいました。それで彼らは完全に望みを失ってしまったのです。これまで主として、先生として仰いできたイエス様が死んでしまったのですから。しかし、イエス様は三日目によみがえられました。その復活された主イエスが彼らに現われ、ガリラヤに行くようにと言われたのです。

2節をご覧ください。そこにいたのは、シモン・ペテロとデドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナの出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子がいました。おそらく一人はペテロの兄弟アンデレでしょう。そしてもう一人はナタナエルを誘ったピリポではないかと思います。とにかく全部で7人です。彼らはかつて漁をしていたガリラヤ湖畔にいたのです。

すると、シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言いました。なぜ彼はこのように言ったのでしょうか。わかりません。ある学者は、このときペテロは伝道者としての生活をやめ、元の仕事に戻ろうとしていたのではないかと言っています。また他の人は、いや、その日の食料を求めて漁に行っただけだという人もいます。はっきりしたことはわかりません。しかし彼がそのように言うと、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く」と言いました。一つだけ確かなことは、このとき彼らは無力で、みじめな状態であったということです。なぜなら、自分の仕事まで捨てて従って行ったイエスが十字架につけられて死んでしまったのですから。いったい今までのことは何だったのか、そういう思いに駆られていたのではないかと思います。そして、自分たちの最も得意な領域で自分たちの存在というものを確かめたのではないでしょうか。それが「私は漁に行く」という言葉に現れたのだと思います。彼らはもともと漁師でしたから、これが自分の本業だと思ったのでしょう。ちょうど牧師が以前の仕事のことを思い出して懐かしむ姿に似ているかもしれません。それがうまくいなかいと元の仕事に戻りたいと、牧師なら一度や二度思うことがあります。「人間をとる漁師にしよう」と言われてイエス様について行ったのは良かったけれども、その結果がこれです。「これこそ自分のライフワークだ」と、以前の状態に引き戻されたのだと思います。

結果はどうでしたか?3節後半をご覧ください。「彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。」収穫ゼロです。漁をするには一番いい時間であったはずです。彼らは漁のプロでしたから、そんなことくらい百も承知でした。それなのに何も捕れなかったのです。なぜでしょうか?漁から離れていた3年半の間にすっかり腕が鈍ってしまったからではありません。それは彼らの本来の仕事ではなかったからです。彼らの本来の仕事は何ですか?人間をとる漁師です。それなのにそれを見ないかのようにして、自分の思いと自分の力で何とかしようとしたのです。その結果がこれだったのです。

ここからどんなことを学ぶことができるでしょうか?神のみこころから離れた努力は空しいということです。努力をすることは大切なことです。聖書にも「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ローマ12:11)とあります。箴言には、怠けないで、勤勉であるようにと勧められています。勤勉に働くことによって家族を養うことができます。世の光、地の塩としての役割を果たすことができます。しかしそれがどんなに良いことでも優先順位を間違えると、それは神に喜ばれません。ペテロは何も悪いことをしたわけではありません。漁に行くこと自体は良いことですし、熱心に働くことは悪いことではありません。しかし、彼に対する神の使命は、魚をとることはなく人間をとる漁師になるということでした。これが彼に対する神のみこころだったのです。それなのに彼は、神のみこころではなく自分の思い、肉の力を優先しました。その結果がこれだったのです。

私たちも神のみことばに従わないと、以前の生活に逆戻りしやすくなります。自分の力が、肉の力が働きやすくなるのです。だんだん祈らなくなります。神に信頼するよりも自分で頑張ろうとするのです。自分のやりたいことを、自分のやりたいときに、自分のやりたいようにやろうとするわけです。神のみこころを求めるのではなく、「私はやります」となるのです。ここでペテロは「私は漁に行く」と言いましたが、それと同じようになるのです。神様が何を願っておられるのかではなく、あくまでも「私」がしたいと思うこと、私の思いが強くなるのです。たから日曜日ごとに教会に来て主を礼拝することが重要なのです。そこで自分が拠って立っているもの、自分が信頼しているものが何であるのかを確認することができるからです。漁に行くこと自体は問題ではありません。でも彼に求められていたのは漁に行くことではなく、イエス様のことばに従って待つことだったのです。彼は主のことばに従わないで自分で判断して物事を決め、自分の力でやり遂げようとしました。主のことばに従わないと祈らなくなり、自分の判断で物事を決め、自分の力でやり遂げようとするようになります。

その結果、どうでしたか?夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。空振りに終わってしまいました。こんなに頑張っているのになぜ?優先順位が間違っていたのです。人生の優先順位を間違えると、実を結ぶことができません。イエス様が言われたことばを思い出します。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)イエス様を離れては何もすることはできません。その夜は何も捕れませんでした。それはこの時の弟子たちの心を象徴していたかのようです。イエス様を離れては実を結ぶことはできません。しかし、そんな暗い夜にも明るい朝がやって来ます。

Ⅱ.湖に飛び込んだペテロ(4-8)

4~8節をご覧ください。「4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。」

弟子たちは夜通し漁をしたのに何も捕れませんでした。その夜が明け始めていたころ、イエス様は岸辺に立っておられましたが、弟子たちにはそれがイエス様だとはわかりませんでした。見てはいましたが、わからなかったのです。なぜでしょうか?もしかすると弟子たちは湖の上にいたので、遠くてよく見えなかったのかもしれません。しかしそれは距離が遠かったからではありません。距離以上に彼らの心が遠く離れていたからです。だから主を見ていても、それが主だとわからなかったのです。

でも感謝ですね。そんな弟子たちにイエス様の方から声をかけてくださいました。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」それに対して弟子たちは答えました。「ありません。」ここで弟子たちは、自分の弱さというか、無力さを素直に認めています。しかし、そのように素直に認めたとき、彼らに新しい道が開かれました。どういう道でしょうか。それはイエス様の恵みに生きる道です。6節をご覧ください。イエス様は彼らにこう言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」これが主のことばです。「舟の右側に網を打ちなさい。」舟の右側に打てって、もうとっくりやりましたよ。夜通しやったんです。でも何も捕れませんでした。今さらやっても無駄です。捕れるはずがありません。と弟子たちは言いませんでした。彼らは一言も反論せず、ただ主が言われたとおりにしました。

するとどうでしょう。おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き揚げることができませんでした。ガリラヤ湖は魚の豊富な淡水湖です。魚が群れをなして湖面近くに現れるとき、水面は、遠くから見ると夕立にたたかれたように波立って見えたといいます。まさにそんな光景だったかもしれません。おびただしい数の魚のために、もはや彼らには引き上げることができませんでした。7人の侍ならぬ7人の漁師でも引き上げることができないほどの大漁だったのです。自分の力で頑張った時には100%力を出し切ってもだめだったのに、主のことばに従い、主が言われたとおりにしたとき、想像することもではないほどの大漁が与えられたのです。

イエス様はこう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:30)まず神の国とその義とを第一に求めることです。そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられます。聖書はそう約束しています。私たちは自分の必要を満たそうとあくせくしていますけれども、空回りしないように注意しなければなりません。第一のことを第一にしなければなりません。第一のことを第一にするなら、あとのことは主が満たしてくださいます。これが、聖書が約束している聖書の原則です。

それでイエスに愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言いました。イエスが愛されたあの弟子とは、これを書いているヨハネのことです。彼は自分のことをみるとき、主に愛されている者であるというイメージを持っていました。これは正しいセルフイメージではないでしょうか。他の人があなたをどのように見るかではなく、神があなたをどのように見ておられるかということです。ヨハネは自分のことを、イエスが愛された者とみていました。私たちも同じです。確かに罪だらけな者です。同じ失敗を繰り返すような愚かな者ですが、そんな者を主は愛してくださったのです。私は、あなたは、主に愛された者なのです。

そのヨハネが、「主だ」と言いました。どうして彼はそのように言ったのでしょうか?ここには「それで」とあります。「それで」とは、その様子を見て、ということです。おびただしい数の魚のためにもはや彼らには網を引き上げることができなかったのを見て、「主だ」と叫んだのです。なぜでしょうか。なぜなら、彼の中に決して忘れ得ぬ一つの記憶が一気によみがえってきたからです。それはルカの福音書5章にある出来事です。イエス様がペテロの舟に乗ると、「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われました。しかし、彼らは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですからと、網を下してみると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになったのです。あの出来事です。感受性の鋭いヨハネは、この二つの出来事の関連性というものを瞬時に分析し、結論を下したのです。「主だ」と。

それを聞いたペテロはどのように反応したでしょうか?彼は「主だ」と聞くと、すぐに湖に飛び込みました。おもしろいですね。ヨハネは、この二つの関連性を瞬時に分析してそのように結論づけましたが、ペテロは何も考えないで湖に飛び込みました。ペテロは理性よりも感性、感覚で生きるような人間でした。ですから「主だ」と聞いただけで、からだが反応したのです。本当に純粋で、行動的な人でした。すぐに反応しました。何だか自分の姿を見ているようです。どうして彼はすぐに飛び込んだのでしょうか。一刻も早く主のもとに行こうと思ったからです。舟は陸地から二百ペキスほどの距離でした。二百ペキスとは100m足らずです。下の欄外の説明には「約90メートル」とあります。そのくらいの距離だったらもう少し待っても良かったのに、彼は待てませんでした。なぜ?確かに彼は行動的な人間でしたが、それ以上に主を愛していたからです。90メートルほど舟が進むのを待つことができなかったのです。一刻も早く主のもとに行きたかった。そういう思いが、こうした行動となって現われたのです。しかし彼は裸だったので、上着をまとって飛び込みました。これもおもしろいですね。普通は反対です。泳ぐ時は上着を脱ぎます。でも彼は上着を着て飛び込みました。主にお会いするのに、せめて身なりだけでも整えようと思ったのでしょう。そばにあった上着まとうと、急いで湖に飛び込んだのです。

皆さん、これが愛です。愛とはこういうものなのです。距離など関係ありません。後先の計算もしません。とにかく飛び込むのです。とにかくそばに行きたい。とにかくそばにいたいのです。あれから40年・・・、皆さんも40年前はそのような経験をしたことがあるのではないでしょうか。主を愛する思いが、ペテロをこのような行動に駆り立てたのです。

あなたはどうですか?ペテロのような主への燃える愛があるでしょうか。冷静に分析することも必要でしょう。客観的に考えることも大切です。でも、分析だけで終わってしまうことがないように、客観的に考えるだけで終わることがないようにしたいですね。それが主だとわかったら、ペテロのようにとにかく飛び込むという情熱も必要です。主は、私たちがそのような愛を持つことを願っておられます。特に愛が冷えている現代においてはなおさらのことです。ペテロのように熱心に主を愛する者でありたいと思います。

Ⅲ.さあ、朝の食事をしなさい(9-14)

さあ、彼らが陸地に上がると、どんな光景が待っていたでしょうか。9~14節をご覧ください。「9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。」

弟子たちが岸に上がると、そこには炭火が起こされていました。そこで魚とパンが焼かれていたのです。それはイエス様が用意してくださったものでした。イエス様がバーベキューをして待っていてくださったのです。その魚とパンはどこから来たのでしょうか?それは弟子たちが捕ったものではありません。彼らが来る前に用意してあったのですから。それはイエス様が用意してくださったものです。イエス様ご自身がどこかで魚をとって来て、彼らのために用意してくださったのです。

すると、イエス様は彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われました。何のためでしょうか?イエス様があらかじめ用意してくださった魚に、彼らがとって来た魚を何匹か加えるためです。それでペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げました。すると、魚は網には何匹ありましたか?153匹です。網は153匹の大きな魚でいっぱいでした。おもしろいですね、ここには魚の数まで詳細に記録されています。なぜ153匹という数字が記録されているのでしょうか。ある人たちは、この153という数字が何かを象徴していたと考えています。たとえば、153という数字1から17までを足した数で、すべて3で割り切れる数の最終点であることから、これはイエスにつながる人々、すなわち、救われる人たちの数を暗示していたのではないかと考えています。すなわち、イエスによって救われる人々は全体の3分の1の数の人たちだというのです。でも、それは読み込み過ぎです。ここで言わんとしていることはそういうことではありません。これを書いたヨハネは、これを生涯忘れることができない数字として記録したのです。あのノアの箱舟の虹が人類への神の約束を思い起こさせるように、いくつかの具体的な数字をもって、確かに私は主にお会いしたという事実を、心に深く刻み付けようとしたのです。そういう意味では、8節の「二百ペキス」もそうです。わざわざ「二百ペキス」と書かなくても、比較的近くまで来たという表現でも良かったはずです。あまり離れていなかったとか。でもあえてこのように書き記したのは、確かに主はよみがえられて、自分たちに会ってくださったということを、その心に深く刻み込もうとしたからなのです。

Ⅰヨハネ1章1節でヨハネ自身が、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と言っているとおりです。これは、いのちのことばであられるイエス・キリストについて彼が自分で聞いたもの、自分の目で見た者、じっと見つめ、自分の手でさわったものなのです。確かに主はよみがえられたのです。14節に「イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自身を現わされたのは、これですでに三度目である。」とありますが、これはイエス様が死人の中からよみがえられて、三度目に弟子たちに現われてくださった出来事として、彼が自分で経験したことを、確信をもって伝えたかったのです。ですから、この「153匹の大きな魚でいっぱいであった」というのは、「ほら、見てください。そこには153匹の大きな魚があったんですよ。これは紛れもない事実です。」と言わんばかりです。そうしたヨハネの息づかいが聞こえて来そうです。

もう一つ重要なのは、それほどたくさんの魚でいっぱいだったのに、網は破れていなかったということです。どういうことでしょうか?それは、弟子たちが「私は漁に行く」「私たちも一緒に行く」と言って夜通し働きましたが何も捕れなかったことと対比されています。すなわち、彼らがイエスに従ったとき多くの収穫を見たということです。しかも、収穫したものは少しも漏れていませんでした。それはあのルカの福音書5章で経験したことと同じです。イエスが言われたとおりに網を下すと、おびただしい数の魚が入り、網は破れそうになれましたが、破れませんでした。そうです、イエス様のことばに従うとき、多くの収穫がもたらされるだけでなく、その網は破れないのです。主が支えておられるからです。これが主に従う者にもたらされる祝福です。

そればかりではありません。ヨハネはここに一つの重要な出来事を記録しています。それは、復活したイエスが、弟子たちを食事に招いてくださったという事です。12節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。『さあ、朝の食事をしなさい。』」

一緒に食事をするということは、それが親しい関係であることを表しています。弟子たちは、主のことばに従いませんでした。以前の生活に戻ろうとしていました。彼らが求めていたのは食べること、自分の生活を守ることでした。それで自分の力で頑張って漁に出ましたが、結果は惨憺(さんたん)たるものでした。何も捕れなかったのです。けれども主が約束されたとおりに彼らに現れてくださり、彼らが主のことばに従ったとき、豊かな収穫を見させてくださいました。そればかりでなく、彼らのために朝食まで用意してくださったのです。そして「さあ、朝の食事をしなさい。」と招いてくださいました。ここではイエス様がウエイターのようになって弟子たちに給仕してくださっています。パンと魚を焼いて、自らがそれを取り、彼らに与えられたのです。

これが私たちの主イエスです。このことによって主は、彼らを受け入れておられるということをはっきり示してくださいました。そのことは彼らもよく理解したことでしょう。イエス様との親しい交わりが回復したのです。

あなたはどうですか?イエス様との交わりを回復しているでしょうか。イエス様と共に食事をしていますか。親しく交わっているでしょうか。敵対関係があると親しく交わることができません。でも主は本当に優しい方です。愛のお方です。なかなか主に従えない、そんな私たちのために自ら歩み寄ってくださり、朝食を用意して待っていてくださいます。そして「さあ、朝の食事を食べよう」と招いてくださるのです。そのために主は自ら十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださいました。私たちを神から引き離す罪を赦し、神との平和、永遠のいのちを与えるためです。親しい交わりを回復するためには神との平和を持たなければなりません。すなわち、自分の罪を赦してもらわなければなりません。「御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:7)。このことを覚えてください。そして、もしあなたが今神から離れているならば、御子イエスのもとに来てください。主は喜んであなたを赦してくださいます。赦されることによって、神と親しい交わりを回復することができるのです。

昨日、S姉の家を訪問しました。86歳になるお父さんが月曜日に特別老人ホームに入所することになったので、その前にもう一度イエス様のことをお話してもらいたいということでした。もう一度ということは以前にも何度か訪問してお話させていただいたことがあるということです。しかしその時は薬が効いていたためか、私を無視していたのかわかりませんが、話しかけてもすぐに眠ってしまう状態でしたので、よくお話することができませんでした。仕方がなかったので、その時にはイエス様のお話をして帰りましたが、姉妹として入所するにあたりきちんとイエス様のお話を聞いてほしかったのです。

約束の時間に伺いましたがお父さんはデイサービスに行っていて留守でした。もう少しで帰宅するというので、姉妹とお話をしながら「お父さんに天国のお話をしてもいいですか」と確認したら、「ええ、是非。最近「死ぬ、死ぬ」と叫んでいるので、地獄に行くと思っているんだと思います。だから、イエス様を信じるようにお話していただけだと思います。イエス様を信じて、同じお墓に入るということを確認したいのです。」と言われました。「お墓のことならその後でもいいんじゃないですか」と言うと、「いや、きちんと父親の確認を取ってきたいのです。」というので、「わかりました」と私も覚悟を決めました。

するとお父さんがデイサービスから帰って来られました。「きょうはお父さんにキリストのお話をしてくれると、私が行っている教会の牧師さんが来てくれたから、お話聞いてない」と言うと、車いすに乗ってキッチンに連れて来られました。するとテーブルをそばに置いて、私のためにお父さんの左側に椅子を置いてくれました。左の耳が聞こえるので、あえてそのように配置してくれたのです。

私は心の中で主に祈りながら、「お父さん、デイサービスはどうでしたか。気持ちよかったでしょ。きょうは暖かかったし、お風呂に入れたから。お顔がキュキュッとしてますよ。」と言うと、わかったんでしょうね、にこっとして「ニコっときょうはあったかかったから」と言われました。「ところで、お父さん、お父さんはこれから先のことで不安なことはないですか。私はS妹が行っているキリスト教会の牧師なんですが、お父さんにもぜひ天国に行ってほしいと思ってるんです。どうしたら行けるかわかりますか。天国に行くにはイエス様を信じなければなりません。イエス様は神様なのに今から二千年前に私たちと同じような姿でこの世に生まれてくださり、何も悪いことをしなかったのに十字架で死んでくださいました。それはお父さんの悪い心、罪の身代わりのためです。でも三日目によみがえってくださいました。だから、このイエス様を信じるとお父さんのすべての罪が赦されて、天国に行くことができるんです。お父さんもイエス様を信じて天国に行きましょう。」と言うと、じっと私の顔を見て、ウンともツンともしませんでした。するとS姉妹がお父さんの耳元で、「お父さん、わかった?お父さんはいつも地獄に行くと言ってるでしょ。でもキリストを信じると、キリストが十字架にかかってお父さんの罪をかぶってくれたから、地獄に行かなくてもいいの。天国の行くの。そして私と同じお墓に入るんだよ。信じようね。わかった?」と言うと、「わかった!」とはっきり言われました。ハレルヤ!それで私は、「まことに、まことにあなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:47)と宣言して祈りました。祈り終えるとS姉の目は真っ赤になっていました。認知がひどく何もわからないと思ったお父さんが、はっきりと信じて救われたからです。主の深いあわれみに心から感謝します。

そして主は、毎朝、あなたも朝の食事に招いておられます。その招きに応答して、主とともに心の朝食をとりましょう。これは、イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現わされた三度目の出来事でした。確かに主はよみがえられたのです。主は今も生きておられます。すべては主の御手にあります。私たちのために復活してくださり、親しい交わりを回復してくださった主に心から感謝します。

Ⅰ列王記5章

 今日は、列王記第一5章から学びます。

 Ⅰ.ツロのヒラムへの要請(1-6)

 まず1節から6節までをご覧ください。「1 さて、ツロの王ヒラムは、ソロモンが油注がれて、彼の父に代わって王となったことを聞いて、自分の家来たちをソロモンのところへ遣わした。ヒラムはダビデと常に友情を保っていたからである。2 そこで、ソロモンはヒラムのもとに人を遣わして言った。3「ご存じのように、私の父ダビデは、周りからいつも戦いを挑まれていたため、主が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、私の父の神、主の御名のために神殿を建てることができませんでした。4 しかし今や、私の神、主は、周囲の者から私を守って安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。5 今私は、私の神、主の御名のために神殿を建てようと思っています。主が私の父ダビデに、『わたしがあなたの代わりに王座に就かせるあなたの子、彼がわたしの名のために家を建てる』と言われたとおりです。6 どうか、私のために、レバノンから杉を切り出すように命じてください。私の家来たちも、あなたの家来たちと一緒に働きます。私はあなたの家来たちに、あなたが言われるとおりの賃金を払います。ご存じのように、私たちの中にはシドン人のように木を切ることに熟練した者がいませんから。」」

ソロモンが油注がれてイスラエルの王となったことを聞いたツロの王ヒラムは、自分の家来たちをソロモンのところへ遣わしました。ヒラムは、ソロモンの父ダビデと常に友情を保っていたからです。Ⅱサムエル5章11節には、ダビデが王宮を建築する際、ヒラムはそのために必要な杉材や木工、石工を送り、助けていたことが記されてあります。ヒラムがソロモンのところへ人を送ったのは、ソロモンがダビデに代わって王に即位したことを祝福し、父ダビデの時と同じように両国の間に平和な関係を維持するためでした。

するとソロモンはヒラムのもとに人を遣わして言いました。「ご存じのように、私の父ダビデは、周りからいつも戦いを挑まれていたため、主が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、私の父の神、主の御名のために神殿を建てることができませんでした。しかし今や、私の神、主は、周囲の者から私を守って安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。今私は、私の神、主の御名のために神殿を建てようと思っています。主が私の父ダビデに、『わたしがあなたの代わりに王座に就かせるあなたの子、彼がわたしの名のために家を建てる』と言われたとおりです。」(3-5)彼はこのチャンスを生かし、神殿建設の準備を始めようとしたのです。それでソロモンはヒラムのもとに人を遣わして、神殿建設のためのレバノン杉を切り出すように、また、その杉材を切る熟練した職人も送ってくれるようにと願い出ました。勿論、そのための賃金はきちんと支払うつもりでした。

ここで注目すべきことは、ソロモンが「今私は、私の神、主の御名のために神殿を建てようと思っています。主が私の父ダビデに、『わたしがあなたの代わりに王座に就かせるあなたの子、彼がわたしの名のために家を建てる』と言われたとおりです。」(5)と言っていることです。ソロモンが神殿を建設しようと思ったのは、主の御名のゆえであったことです。それは主が彼を祝福してくださったからでも、自分の政治的な力を誇るためでもありませんでした。主の御名のため、主の御名が崇められるためだったのです。おそらく彼は神がダビデに告げられた約束(ダビデ契約)を知っていたのでしょう。Ⅱサムエル7章11~13節のところで主はダビデにこう言われました。「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」この約束に従って彼は、主の家、神殿を建設しようと思ったのです。つまり彼は、主のみこころが成ることを求めていたということです。

これまで私たちはソロモンの知恵がいかにすばらしいものであるかを見てきましたが、その知恵のすばらしさはどこから出ていたのかというと、ここから来ていたことがわかります。すなわち彼は、神のみこころ(計画)を求め、それに生きようとしていたということです。

私たちが抱く動機もまた、ここになければなりません。神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられることなのかを知り、それを行うということです。つまり、みこころを知り、みこころを行うということです。そのためには、心の一新によって自分を変えなければなりません。

パウロは、ローマ12章1~2節でこう言っています。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようにしなければならないのです。この「この心を新たにする」という言葉のギリシャ語は「メタモルフィゾー」という語で、意味は芋虫が蝶に変わる過程を指しています。私たちが自分の分を果たしつつ、積極的に自分の思いを一新していく一方で、誰か他の人に変革してもらうという意味が含まれています。つまり、私たちがこの世の方法ではなく、キリストの方法で心の思いを変革していくならば、神である聖霊が私たちを次第にキリストに似た者に変えてくださるということです。そして、神のみこころが何かを知ることができるのです。つまり、神のことばである聖書に従い、自分自身の思いを聖霊に明け渡すことによってできるということです。そうでないと、いつまで経っても自分を変えることはできません。いつも自分の思いが中心となっているので、神様に変えていただくことができないからです。私たちはいつも自分を主に明け渡し、神のみこころは何か、何が良いことで神に喜ばれるのかをわきまえ知るために、神のことばと聖霊によって心を一新し、神のみこころに生きる者となりましょう。

Ⅱ.ヒラムの応答(7-12)

さて、そのソロモンの要請に対して、ヒラムはどのように応答したでしょうか。7~12節をご覧ください。「7 ヒラムはソロモンの申し出を聞いて、大いに喜んで言った。「今日、主がほめたたえられますように。主は、この大いなる民を治める、知恵のある子をダビデにお与えになった。」8 ヒラムはソロモンのもとに人を遣わして言った。「あなたが言い送られたことを聞きました。私は、杉の木材ともみの木材なら、何なりとあなたのお望みどおりにいたしましょう。9 私の家来たちは、それをレバノンから海へ下らせます。私はそれをいかだに組んで、海路、あなたが指定される場所まで送り、そこでそれを解かせましょう。それを受け取ってください。それから、あなたは私の一族に食物を与えて、私の望みをかなえてください。」10 こうしてヒラムは、ソロモンに杉の木材ともみの木材を、彼が望むだけ与えた。11 ソロモンはヒラムに、その一族の食糧として、小麦二万コルと上質のオリーブ油二十コルを与えた。ソロモンは、これだけの物を毎年ヒラムに与えた。12 主は約束どおり、ソロモンに知恵を授けられた。ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、二人は契約を結んだ。」

ソロモンの申し出を聞いたヒラムは、大いに喜びました。そして、イスラエルの神をほめたたえて言いました。「今日、主がほめたたえられますように。主は、この大いなる民を治める、知恵のある子をダビデにお与えになった。」(7)

ここで注目すべきことは、ヒラムがイスラエルの主をほめたたえていることです。彼がどれほどイスラエルの主を知っていたのかはわかりませんが、おそらく、ダビデとソロモンを通して主のすばらしさを知っていたのでしょう。もしかすると、彼も主を信じていたのかもしれません。

ヒラム知恵のある王でした。彼はソロモンが王位に着いたことを、神がダビデに与えた約束の成就であると見ていたのです。そこで彼は、ソロモンに人を遣わして言いました。それは、杉の木材ともみの木材なら、何なりとソロモンが望むとおりにするということでした。そしてそれをレバノンから海へ下らせ、いかだに組んで、海路、イスラエルに送り届けるというものでした。また、賃金の支払いについては、賃金ではなく、ヒラム一族に食料を与えてほしいということでした。

それでソロモンはヒラム一族の食料として、小麦2万コル、上質のオリーブ油20コルを、毎年ヒラムに与えました。脚注の説明にあるように1コルは230リットルですから、2万コルの小麦とは4,600トンにもなります。10トントラックで460台分にもなります。それに上質のオリーブは20コルですから4,600リットルとなります。2リットルのペットボトルで2,300本分です。これは相当の食糧です。ソロモンはそれだけの食料を、ヒラムの一族に与えたのです。

こうしてヒラムとソロモンの間には平和が保たれ、二人は契約を結びました。すばらしいですね、ソロモンに知恵があったので平和があり、そして契約が結ばれたのです。知恵はこのように平和をもたらします。争いところには、知恵が欠けています。ヤコブの手紙の中にこう書いてあります。「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブ3:17-18)上からの知恵の特質の一つが平和なのです。このような義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれるのです。

ビジネス・コンサルタントのデイビッド・ホルセイガーは、その著「信頼の力」の中で、こう言っています。「お金ではなく、信頼関係こそ、ビジネスと人生における真の貨幣である。」信頼関係こそ、ビジネスと人生においていかに重要であるかがわかります。それを崩すことは簡単ですが、建て上げるのは容易なことではありません。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。私たちは争いをもたらすのではなく、平和をつくる人になるために、平和の種を蒔く者でなければなりません。それは上からの知恵、神の知恵によるのです。

Ⅲ.神殿建設(13-18)

最後に、13~18節までをご覧ください。「13 ソロモン王は全イスラエルから役務者を徴用した。役務者は三万人であった。14 ソロモンは、彼らを一か月交代で一万人ずつレバノンに送った。一か月はレバノンに、二か月は家にいるようにした。役務長官はアドニラムであった。15 ソロモンには荷を担ぐ者が七万人、山で石を切り出す者が八万人いた。16 そのほか、ソロモンには工事の監督をする長が三千三百人いて、工事に携わる民を指揮していた。17 王は、切り石を神殿の礎に据えるために、大きな石、高価な石を切り出すように命じた。18 ソロモンの建築者たち、ヒラムの建築者たち、そしてゲバル人たちは石を切り、神殿を建てるために木材と石材を準備した。」

ソロモンは、神殿を建設するために全イスラエルから役務者を徴用しました。このときに担当したのが、4章に登場した役務長官アドニラムです。役務者は全部で3万人でした。ソロモンはそれを3組に分け、1か月交代で1万人ずつレバノンに送りました。すなわち、1か月間はレバノンにいるようにし、残りの2か月間は家にいるようにしたのです。ここにも彼の知恵がいかんなく発揮されています。こうした徴用は一般民衆の不平や不満を買う政策ですが、イスラエルの民が暴動を起こさずに役務に就くことができるように、こうした配慮をしたのです。それもまたソロモンの知恵に基づくものでした。

また、ソロモンには荷を担ぐ者7万人、山で石を切り出す者8万人がいました。これは切り出された木材や石を運ぶ人たちです。相当の数の人夫が必要でした。9章20~21節には「イスラエル人ではない、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残りの民すべて、すなわち、この地に残されていた人々、イスラエル人が聖絶できなかった人々の子孫を、ソロモンは強制労働に徴用した。今日に至るまで、そうである。」とあるので、これらの人たちは、

おそらく、イスラエルにいた奴隷たちだったと思われます。そのほか、工事の監督をする者が3千3百人もいました。

神殿のための木材と石材を準備したのは、ソロモンの建築者たち、ヒラムの建築者たち、ゲバルの建築者たちでした。ゲバルとは、ツロよりもさらに100㌔ほど北に上った地域のことです。そういう人たちが一丸となって神殿建設に当たったのです。

しかし、こうした一大事業には、ある種の危険も伴うものです。たとえそれが主のための働きであったとしても、過剰なまでの規模と栄華を求めるなら、民の負担は耐えがたいものとなり、やがて内側から崩壊を招いてしまうことがあります。私たちも主の御名のためにという事業が、いつしか自分の欲望を満たすものであったり、自分の名誉のためであったりすると、崩壊を招いてしまうことになります。たとえば、会堂建設はその一つです。主の家、主の栄光のためにと始めたプロジェクトが、いつしか人間的になってしまうということがよくあります。そしてそれが原因で教会に混乱を招いてしまうということがあるのです。それが人間の愚かさの一面でもあるわけですが、そういうことがないように、外側の見えるものではなく、見えないものにしっかりと目を留めていかなければなりません。パウロはⅡコリント4章18節でこのように言っています。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」

神の国は、見えるものではなく、見えないものです。それは永遠に続くものなのです。それゆえ、たとえそれが主の御名のためであったとしても、その本質は見えないものであることを覚えつつ、そうしたものに惑わされることがないように注意しなければなりません。主が与えてくださる神の家を心から喜び感謝しつつ、且、バランスを持ってみこころに歩むことを求めていきたいと思います。

エレミヤ4章19~31節「エレミヤの苦悩」

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きょうは、エレミヤ書の4章後半部分から、神のことばを取り次ぎたいと思います。タイトルは「エレミヤの苦悩」です。19節に「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。」とあります。はらわたが煮えくり返るということばはありますが、はらわたが悶えるとは、聞いたことがありません。エレミヤは、それほど苦悶したわけです。なぜなら、ユダに対する神のさばきが心臓にまで達していたからです。それは彼らが悔い改めなかったからです。4章18節にあるように、彼らの生き方と彼らの行いが、彼らの身に滅びを招いたのです。そのことをユダの民に告げなければならなかったエレミヤの心境は、いかばかりであったかと思います。

 

きょうは、このエレミヤの苦悩について三つのポイントでお話したいと思います。第一に、エレミヤの苦悩は、はらわたが引き裂かれるような激しいものであったということです。第二のことは、その神のさばきの結果、そこにあったのはただの絶望だけでした。第三のことは、だから神に立ち返れ、ということです。この神のさばきから救うことができるのは、主イエス・キリストだけです。

Ⅰ.私のはらわた、私のはらわたよ(19-22)

まず、19節から22節までをご覧ください。「19 私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。私のたましいが、角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからだ。20 破滅に次ぐ破滅が知らされる。まことに、地のすべてが荒らされる。突然、私の天幕が、一瞬のうちに私の幕屋が荒らされる。21 いつまで私は旗を見て、角笛の音を聞かなければならないのか。22「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」

ユダの不従順に対する神のさばきは、バビロンという国を用いて彼らをさばくというものでした。それを示されたエレミヤは、こう叫びました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」

ドキッとしますね。はらわたに向かって叫ぶのですから。「はらわた」とは、「腹のわた(曲)」のことで、わたは、綿あめの綿ではなく、曲がりくねって入り込んだ所を言います。百科事典を見ると、それが転じて大腸と小腸を総称し、さらに転じて内臓の総称としても用いられるようになったとありますた、と百科事典にあります(小学館 日本大百科全書)。それは、人間の感情の中心があるところという意味です。日本語にも「はらわたがちぎれる」とか、「はらわたが煮えくり返る」ということばがありますが、それは、耐えがたいほどの悲しみを覚えるとか、言いようがないほど腹が立つという意味で、耐えがたい苦しみ、耐えがたい悲しみ、耐えがたい怒りを表しているわけです。ここには「悶える」とありますので、耐えがたいほど苦悩したということです。なぜエレミヤはそれほど悶えたのでしょうか?19節後半にあります。ユダに対する角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからです。どういうことでしょうか?それはバビロン軍によってエルサレムに破滅がもたらされるということです。エレミヤはそれを聞いたとき、はらわたが引き裂かれるような思いになったのです。

エレミヤの愛国心、そして祖国の滅亡を告げられた悲しみは、いかばかりだったかと思います。ロシアがウクライナに侵攻したことで多くのウクライナ人が祖国を追われました。日本にも数名の避難民が逃れてきましたが、テレビの画面から伝わってくるのは、慣れ親しんだウクライナの土地から出なければならない悲しみでした。これはウクライナだけのことではありません。いつ、いかなる時にこのような事が起こるかわからないのです。もし2011年3月11日に東日本大震災が発生するということがわかっていたら、私たちも必死になって警告を発したのではないでしょうか。でもだれ一人耳を傾けてくれないのです。それがこの時エレミヤが体験したことでした。彼は悔い改めなければユダの国は滅びると聞いたとき、はらわたが悶え、黙っていられなかったのです。

使徒パウロも同じことを経験しました。彼は同胞のユダヤ人がイエス・キリストを拒否し、イエス・キリストの福音を信じようとしないのを見て、このように言いました。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:2-3)

パウロは、同胞のユダヤ人がイエス・キリストを信じないで、神に敵対しているのを見て、大きな悲しみがあると言ったのです。それは、ここでエレミヤが「私は悶える」と言っていることと同じです。はらわたが引き裂かれるほど悲しかったのです。痛みがありました。そしてそのためには、自分自身がキリストかせ引き離されて、神にのろわれた者となってもよいとさえ思っていたのです。それは、神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられることを知っていたからです。

あなたはどうでしょうか。羊飼いのいない羊のように弱り果てている隣人を見て、どのような思いを抱いているでしょうか。エレミヤは、「私のはらわた、私のはらわたよ。私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と叫びました。イエス様も、そのような群衆を見て、羊飼いのいない羊のような彼らを、深くあわれまれました。はらわたが引き裂かれるほどの悲しみを持っておられたのです。

それは、私たちも同じです。神様を信じないで自分勝手に生きている人を、聖書では罪人と言っていますが、罪ある人は永遠の滅びを招くと本気で知ったなら、黙ってなどいられないはずです。エレミヤと同じように「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と、叫ばずにはいられないはずなのです。

スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」の最後のシーンで、シンドラーが自分の指輪などの貴重品を見ながらこう叫びます。「ああ、これでもう一人の命を救うことができたのに・・・。」シンドラーは自分の身分を利用してナチスから多くのユダヤ人を救ったにもかかわらず、さらに多くの人を救えなかったことを後悔して涙を流したのです。

エレミヤも、ユダが神に背き続けた結果彼らにもたらされる神のさばき、具体的にはバビロンに滅ぼされるということですが、その宣告を示された時、もう黙ってなどいられませんでした。彼のはらわたは激しく引き裂かれました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と言って、嘆いたのです。これこそ、神のさばきの宣告を示された者の自然な応答ではないでしょうか。

エレミヤは、このような悲しい啓示をいつまで受けなければならないのかと神に問いかけます。21節には、「いつまで私は旗を見て、角笛の音を聞かなければならないのか。」とあります。結果的に彼は40年間も語り続けることになるわけですが、この時点では直接的な答えはありません。しかし、別の形で答えが返ってきました。22節です。「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」

主は、この愚かな者たちを「わたしの民」と呼ばれています。このようななじるお言葉というか、責めるお言葉の中にも、神の彼らに対する愛を、愛するがゆえに引き裂かれているお心を読むことができます。この中には、父なる神の涙が見え隠れしているのです。新約聖書には、イエス様もまた、ユダヤ人たちの愚かさを嘆いて、このように語っておられます。「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。」(ヨハネ16:2-3)

私たちの回りには、父なる神も、主イエスも知らないために、愚かな人生を歩んでいる人が多くいます。そのため、悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らないのです。そして、その身にさばきを招いているのです。その人たちの救いのために、祈らなければなりません。

Ⅱ.私が見ると(23-28)

次に、23節から28節までをご覧ください。「23 私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。24 私が山々を見ると、見よ、それは揺れ動き、すべての丘は震えていた。25 私が見ると、見よ、人の姿はなく、空の鳥もみな飛び去っていた。26 私が見ると、見よ、豊かな地は荒野となり、町々は主の前で、その燃える怒りによって打ち壊されていた。27 まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。28 このため地は喪に服し、上の天は暗くなる。わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない。」」

バビロン軍の侵略によって、ユダに激しいさばきが下されます。ここには、その惨状が語られています。ここには、「私が見ると」ということばが何回も繰り返されています。23節には「私が地を見ると」とあります。また「天を見ると」とあります。24節にも「私が山々を見ると」、25節にも「私が見ると」、26節にも「私が見ると」とあります。何回も「私が見ると」と繰り返して出てくるのです。なぜでしょうか?これを語っているのはエレミヤです。エレミヤはバビロンの侵略によってユダがどうなったのかを見て、それを具体的に伝えようとしたのです。

エレミヤが見たのは、まず地と天でした。彼が地を見ると、そこは茫漠として何もありませんでした。天を見ると、そこに光はありませんでした。山々を見ると、それは揺れ動き、すべての丘が震えていました。つまり、神のさばきが下った時の状態が、天地が創造される以前の混沌とした状態にたとえられているのです。創世記1章2節には、「地は茫漠として何もなく、闇が大水の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」とあります。これと同じ状態です。茫漠としていました。「茫漠」とは、混沌としている状態のことを言います。何もないのではありません。ありましたが混沌としていたのです。ですから、新改訳聖書第2版では「地は形がなく、何もなかった。」と訳しましたが、新改訳聖書第3版からは「茫漠」と訳すようにしました。新改訳2017でもそうです。「地は茫漠として何もなく」と訳してあります。この「茫漠」ということばはあまり使わないので、新改訳2017の翻訳を担当した先生に、「もう少しわかりやすいことばを使っていただけないでしょうか。」とお願いしたら、「そうですね、検討します」というご返事でした。「でも、これは何もなかったということではないので」という説明でした。それで2017が出版された時にどうなったか楽しみに見たら、やはり「茫漠」となっていたのでがっかりしました。

ちなみに、尾山令仁先生が訳されたびっくりするほどよくわかる創造主訳聖書は、ここを次のように訳しています。「地球とは言っても、まだ形が無く、混沌としており、真暗闇で、液状であり、創造主の聖霊は、あたかも雌鳥がその翼を広げてひなをはぐくんでいるかのように、その上を覆っていた。」(創世記1:2)すばらしいですね。原文の意味はこういう意味です。地は形がなく、混沌として、真暗闇で、液状であり。その創造主訳聖書はエレミヤ4章23節をどのように訳しているかというと、こう訳しています。「私が地上を見ると、もうそこには何も無く、天を見ても、そこには光しかなかった。」何も無かったとは、何の形もなかったということではなく、地の上は踏みにじられてもう何もないような状態であったということです。これも正しいと思います。そういう意味です。いずれにせよ、ここで言いたかったことは、地と天は、もう跡形もないくらい破壊されたということです。

次にエレミヤは、カメラがズームインしたかのように、ひとりの人間もいなくなり、空の鳥も飛び去った状態を描いています。25節です。さらにエレミヤは、あの乳と蜜が流れる豊かな地は荒野となり、町々は、打ち壊されているのを見ました。つまり、そこに見たのは絶望であったということです。悔い改めない者にもたらされる結末は、恐れと絶望なのです。それは主の燃える怒りによってもたらされたものです。28節には「わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない」とあります。この「語り」、「企て」、「悔いず」、「やめることはしない」という四つの動詞は、それが確実に起こる事を示しています。

しかし、このところをよく見ると、そのようなさばきの中に、救いの希望も語られていることがわかります。27節をご覧ください。「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」どういうことでしょうか?これは、全地は荒れ果てるが、滅ぼし尽くされることはないということです。つまり、ユダの民がすべて滅ぼし尽くされるわけではないということです。残された者がいるのです。これを英語で「レムナント」と言います。意味は、「イスラエルの残れる者たち」です。これは、イスラエル民族全体の中にあって真の信仰を持っていた少数の人たちのことです。「真のイスラエル」、「霊的イスラエル」とも呼ばれます。今日のレムナントはメシヤニック・ジューと呼ばれている人たちです。イスラエルのすべてが滅ぼし尽くされるわけではありません。主は、アブラハムと交わした約束のゆえに、ご自身の民を完全に滅ぼすことはなさらないのです。イスラエルに対する神の選びと召命は、決して変わることはありません。ここに希望があります。神の約束は絶対に変わらないということです。

このイスラエルの民全体と「残れる者」の関係について、メシアニック・ジューを代表するラビの一人、アーノルド・フルクテンバウム博士は次のように述べています。

「ユダヤ人全体の中には、いつの時代も信仰ある者が必ずいる。その人々をイスラエルの残れる者(レムナント)という。つまり、全体としてのイスラエルと、残れる者としてのイスラエルと、二種類のイスラエルがあるのだ。両者は民族的には同一だが、霊的には異なる。過去の歴史において、人数の多少はあったとしても、残れる者がいなかったことは決してない・・」

使徒パウロも、イスラエルには二種類あると指摘しています(ローマ書9:6参照)。すなわち、全体としてのイスラエル(民族的なイスラエル)と残れる者であるイスラエル(信仰あるイスラエル)です。また、ローマ9:27ではイザヤを引用して「たといイスラエルの子どもたちの数は砂のようであっても、救われるのは、残された者である」とあり、「それと同じように今も、恵みの選びによって残された者がいます。」(11:5)と述べています。

ですから、現在の「残れる者」であるイエスをメシアと信じ従うユダヤ人(メシアニック・ジュー)が、ユダヤ人の1%しかいないとしても、神がユダヤ人全体を捨てられたことにはなりません。決してなくなることはないのです。」(ドット・モアヘッド著「聖書で学ぶ『約束の地』という小冊子17~18頁より引用、2012.8発行、イーグレープ出版)

すごいですね。神様の救いのご計画は。また、イスラエルに対する賜物と召命は。それはイスラエルに対してだけではなく、私たちに対する約束でもあります。主は私たちにこう約束してくださいました。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ4:13)最後まで耐え忍ぶ人は救われるのです。

私たちの置かれている状況を見てください。今回のロシアのウクライナ侵攻ばかりでなく、先日も震度5強の地震がありました。一昨年からのコロナウイルスはまだ収束していません。いつ、何が起こるかわかりません。一寸先は闇みです。人間関係は破綻し、家族が、社会がバラバラになっています。いったい何が問題なのでしょうか。それは私たちが神に背いたから、神のさばきを受けているからだと聖書は言っています。これは産みの苦しみの始まりにすぎません。これからますますひどくなっていきます。そして患難時代を迎えることになります。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われるのです。私たちもこの残りの者です。神の賜物と召命は変わることはありません。私たちはこの神の救いの計画をしっかりと理解し、さばきの中にも神のあわれみがあると信じて、そこにある神の愛と慰めのメッセージをしっかりと受け止めて、最後まで耐え忍び、神に信頼して歩む者でありたいと思います。

Ⅲ.神に立ち返れ29-31)

ですから、第三のことは、神に立ち返れということです。29節から31節までをご覧ください。「29 騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った。すべての町が捨てられ、そこに住む人はいない。30 踏みにじられた女よ、あなたはいったい何をしているのか。緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を塗って大きく見せたりして。美しく見せても無駄だ。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとしている。31 まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」」

実際に、どのように神の審判が下るのか。ここには、騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った、とあります。すべての町が捨てられ、そこに住む人は一人もいなくなるのです。「踏みにじられた女」とはユダのことです。その時彼らは何をしていましたか。彼らは緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を大きく見せたりして、美しく見せようとしていました。どういうことでしょうか。「緋の衣」とは、高級ブランド品のドレスのことです。「目を塗って大きく見せる」とは、化粧をして美しく見せようとすることです。つまり、ここではユダの姿が、緋の衣や化粧で自分を飾り立てる遊女にたとえているのです。この遊女はかつての恋人たち、つまりバビロンに()びを売って助かろうとしますが、そんなことをしても無駄です。その滅びから免れることはできません。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとするからです。

結局のところ、彼らはバビロンの攻撃によって、悲惨な状況に陥ることになります。それが、31節にあることです。「まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」

ここでは、ユダの姿が二つのたとえで表現されています。一つは初子を産む女のようなうめきで、もう一つは、敵の手によって殺される者の姿です。「殺す者たち」とは、バビロン軍のことを指しています。その攻撃によって気力さえも失ってしまうほどの、何もかも空しくなってしまうような状態になるということです。まさに廃人同然のようになるのです。

これが罪のもたらす結果です。ですから、いつまでも罪の中にとどまっていてはいけない。神の忍耐を軽んじて、神に背き、自分が好むように、自分の好き勝手に生きるということではいけないのです。もしそういうことがあるとしたら、このイスラエルやユダのように、神のさばきを受けてしまうことになります。そして、そのような状態から自力で救われようとしてもできません。だから、神に立ち返らなければならないのです。もっと具体的に言うならば、神の救いを受け入れなければなりません。それは、私たちの救い主イエス・キリストです。私たちを罪から解放できるのは、イエス・キリストだけです。ローマ5章9節にこうあります。「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」

キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ですから、あなたがキリストを通して神に立ち返るなら、あなたは義と認められ、この神の怒りから救われることができるのです。キリストを通して、神に立ち返りましょう。そして、神の怒りから救われたことを感謝しようではありませんか。

私は小さい頃から口笛が下手で、あまりうまく吹くことができませんが、無意識に口笛を吹いたり、口ずさむときがあります。最もよく口ずさむ賛美は、新聖歌268番です。

  1. 悲しみ尽きざる 憂き世にありても 日々主と歩めば 御国のここちす 
    ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす
  2. かなたの御国は 御顔のほほえみ 拝する心の 中にも建てらる
    ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす
  3. 山にも谷にも 小屋にも宮にも 日々主と住まえば 御国のここちす
    ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

この世を歩んでいると、誰でもさまざまな苦しみを味わいます。しかし、人間のまことの苦しみと不幸は、外側からの環境によって生まれるものではありません。それは私たちの中に神がおられないために生まれるのです。

悲しみの多いこの世では、高い山、荒野、粗末な家などが、私たちにとって不幸と苦しみになることがあります。しかし、この聖歌の歌詞のように罪の荷を降ろし、主とともに歩むなら、それはどこにあっても御国となるのです。

この世の多くの苦しみと悩みが私たちを不幸にするのではありません。私たちの心にイエス・キリストがおられないから、不幸になるのです。

しかし、イエス・キリストの血によって義と認められるなら、どんなに不幸のように見えても、さながら天国のようになります。聖霊によって、神の愛があなたの心に注がれるからです。このキリストを通して神に立ち返りましょう。これが、私たちが神の怒りから救われる唯一の道です。このキリストによって、私たちは高らかに神を賛美し、神に感謝をささげようではありませんか。

エレミヤ4章5~18節「心を洗いきよめよ」

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 きょうは、エレミヤ書4章5節から18節までのみことばから「心を洗いきよめよ」というタイトルでお話します。前回は、その前の1節から4節までのところから「心の包皮を取り除け」というメッセージでしたね。神から離れたイスラエルに向かって主は、「背信の子らよ、立ち返れ。」と語りました。そうすれば、主はあなたの背信を癒そうと。それで前回の箇所では、もし主に帰るというのなら、わたしのもとに帰れ、と言われたのです。主に立ち返るとはどういうことなのかを、「もし」ということばを用いて説明されたわけです。そしてそれは口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めが求められるということでした。ただ表面的でうわべだけのものではなく、心から「主は生きておられる」と告白することが求められていたのです。

そのためには、三つのことが求められていました。一つは3節にあるように、「耕地を開拓せよ。」ということでした。耕地というのは、かたくなな心のことでしたね。その耕地に鍬とか鋤を入れて柔らかくしなければなりません。なぜなら、そのようにカチカチと凝り固まった心にどんなに種をまいても実を結ぶことはないからです。種が育つためにはまず、心の耕地を耕さなければなりません。

第二のことは、「茨の中に種を蒔くな」ということでした。茨の中に種を蒔いたらどうなりますか。どんなに芽が出ても成長することができません。茨がそれをふさいでしまうからです。ですから、茨の中に種を蒔いてはなりません。

そして第三のことは、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」ということでした。割礼とは男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。ユダヤ人は、自分たちが神の民であることのしるしとして、生まれて8日目にこの割礼を受けました。しかし、ここで言われているのはただの割礼ではなく「心の割礼」のことでした。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」(ローマ2:28-29)大切なのは、心に割礼を受けるということ、御霊による心の割礼です。すなわち、彼らの心に焦点が当てられていたのです。

きょうの箇所はその続きです。きょうの箇所でも、彼らの心に光が当てられています。14節には「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。」とあります。「いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。」と。神のことばを聞いたのなら、あなたの心を洗いきよめなければならない、というのです。

きょうはこのことについて3つのポイントでお話したいと思います。第一のことは、そのためには、身を慎み、目を覚ましていなければなりません。そうでないと、あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているからです。

第二のことは、神が何と言っておられるのかをよく聞き分けなければなりません。そうでないと、偽りの教えに騙されてしまい、滅びを招いてしまうことになるからです。

第三のことは、その滅びから救われるために、悪から心を洗いきよめよ、ということです。

 Ⅰ.身を慎み、目を覚ましていなさい(5-9)

まず、5節から9節までをご覧ください。「5「ユダに告げ、エルサレムに聞かせて言え。国中に角笛を吹け。大声で叫べ。『集まれ。城壁のある町に逃れよう』と。6シオンに向けて旗を掲げよ。自分の身を守れ。立ち止まるな。わたしが北からわざわいを、大いなる破滅をもたらすからだ。7獅子はその茂みから立ち上がり、国々を滅ぼす者はその国から出て来る。あなたの地を荒れ果てさせるために。あなたの町々は滅び、住む者はいなくなる。」8このことのために、粗布をまとって悲しみ嘆け。主の燃える怒りが、私たちから去らないからだ。9「その日には-主のことば-王の心や、高官たちの心は萎え、祭司は唖然とし、預言者はたじろぐ。」」

ユダに対するさばきの宣言です。「角笛を吹く」とは、危険が迫っていることを示しています。「城壁のある町に逃れよう」とは、城壁など防備のある町に逃れるようというということです。エルサレム以外のユダの町々に住む人々に、侵入して来る敵の軍隊に備えて、防備のある町々に避難するようにと呼び掛けられているのです。なぜなら、北からわざわいが、大いなる破滅が襲い掛かって来るからです。それは神がもたらしたものでした。「北から」とは、バビロンのことを指しています。7節には「獅子」とありますが、それはバビロンのことを象徴しています。「獅子はその茂みから立ち上がり、国々を滅ぼす者はその国から出てくる。」そうです、バビロンがやって来てユダに襲いかかり、破滅をもたらそうとしていたのです。それはユダの民が、預言者を通して語られた神のことばを聞いても、神に立ち返らなかったからです。それで主の燃える怒りが、彼らに向けられたのです。その日には、王の心や、高官たちの心は萎え、祭司は唖然とし、預言者はたじろぐことになります。

その神のさばきから逃れる唯一の道は何でしょうか。8節には「このことのために、粗布をまとって悲しみ嘆け。」とあります。つまり、罪を悔い改めて神に立ち返ることです。それなのに彼らには、そのようにしませんでした。彼らには、そのような信仰が欠如していたのです。

新約聖書には、サタンが獅子にたとえられています。Ⅰペテロ5章8節には、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。敵である悪魔に勝利する秘訣は、「身を慎み、目をさましている」こと、つまり、信仰の目をさましていることです。そうでないと、獅子がユダを食い尽くしたように、霊的な獅子である悪魔があなたを食い尽くしてしまうことになります。あなたは、神のことばによって養われていますか。神のことばが聞こえているでしょうか。

先週もC-BTE(教会主体の神学教育)が持たれましたが、前回はテトスの手紙1章から学びましたが、そこには、パウロが開拓したクレテの教会を破壊する者たちがいました。彼らは反抗的な者、無益な話をする者であり、人を惑わす者たちで、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家々をことごとく破壊していました(テトス1:10-11)。彼らは神を知っていると公言していましたが、行いでは否定していたのです(同1:16)。そういう者たちが家々に入り込むとどうなるでしょうか。家々が破壊されてしまうことになります。夫婦関係に亀裂が生じ、家族はバラバラになり、教会が破壊されてしまうことになります。なぜなら、家族は教会を構成している最小単位だからです。それがバラバラになれば、当然それを構成している教会の共同体も崩壊してしまうことになります。特に初代教会では、家々が教会でしたから、その家々が破壊されるということは、教会が破壊されることにつながっていったのです。ですから、夫婦とか家族というのはとっても大切なのです。しかし、その夫婦なり家族に関する教えが、神のことばに従った健全なものではなく、この世の考え方やこの世の教えに従ったものであるなら、知らないうちに家々が崩壊していくことになります。

ですから、神のことばである主の教え、健全な教えを聞いて、それに養われていないと、霊的獅子である悪魔に食い尽くされてしまうことになります。いつの間にか信仰から離れ、この世にどっぷりと浸かった状態に陥ってしまうのです。ですから、注意しなければなりません。いつも身を慎み、目を覚ましていなければならないのです。私たちの心を見張っていなければなりません。

 Ⅱ.神のことばを聞き分ける(10-13)

第二のことは、神が何と言っておられるのかをよく聞き分けなければならないということです。10節から13節までをご覧ください。10節をお読みします。「10 私は言った。「ああ、神、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。『あなたがたには平和が来る』と言われたのに、剣が私たちの喉に触れています。」」

「私」とは、エレミヤのことです。エレミヤは、ここで主に言っています。「あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。」なぜなら、「あなたがたには平和が来る」と言われたのに、平和どころか剣が喉に触れているからです。どういうことでしょうか。

「あなたがたには平和が来る」と言ったのは偽預言者たちです。ここも二重の『』になっています。これは、当時の偽預言者たちが語っていた言葉です。そのメッセージを信じた結果、欺かれることになってしまいました。それは主なる神が悪かったのではなく民が悪かったからです。神はエレミヤを通して、神に立ち返らないとさばきが来ると宣告していたのに、ユダの民はそれを受け入れませんでした。聞きたくなかったのです。耳障りが悪いからです。そしてそれとは反対の偽預言者たちの言葉を信じました。「自分たちは大丈夫、神のさばきなんか来ないから」「侵略なんてされることはない、自分たちは要塞のあるエルサレムで平和に暮らすことができる」と、まんまと騙されていたのです。

彼らが聞きたかったのはさばきのメッセージではなく、救いのメッセージ、平和のメッセージでした。ですから、どんなに悔い改めて神に立ち返れと言われても、そうでないと神のさばきを免れることはできないと聞いても、そうした言葉には耳を塞ぎ、「あなたがたには平和がくる」という偽預言者たちの語るメッセージを喜び、受け入れていました。つまり、問題は彼らの不信仰にあったのです。

それは彼らだけではなく、私たちにも言えることです。人は皆、こうした偽りの平安や表面的な気休めの言葉を求めています。家内安全、商売繁盛、といった現世的な利益とか、病気が癒される、人間関係が良くなるといった言葉を求めているのです。それ自体は悪いことではありません。でももっと本質的なものを見ていないと、このユダの民のように欺かれてしまうことになります。もっと本質的なものとは何かというと、神との関係です。永遠のいのちです。神との関係がないのに、いくら「平和だ、平和だ」と言っても、それは表面的なものにすぎません。どんなに健康であっても、どんなに問題が解決しても、神との関係がなかったら地獄です。何にもなりません。でも、たとえ病気であっても、たとえ貧しくても、たとえ問題があっても、神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じている人はどんなに幸いでしょうか。最終的に、神の国、天国に行くことを知っているのですから。皆さん、騙されてはいけません。「平安だ、平安だ」という言葉に簡単に飛びついてはいけないのです。あまりにも簡単にそうしたものに飛びつくと、今さえ良ければいいという生き方になってしまい、必ず失望することになってしまいます。まず天を定めることです。そこから上下左右のバランスをとっていくのです。これが生け花の基本だと、以前誰かから聞いたことがあります。まず天を定めて、現在を見ていくのです。神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられることなのかを求め、心の一新によって自分を変えることです。そうすれば偽りの言葉に騙されることはありません。

11節から13節までをご覧ください。「11 そのとき、この民とエルサレムに告げられる。「荒野にある裸の丘から、熱風は、娘であるわたしの民の方に吹く。ふるい分けるためでも、より分けるためでもない。12 それよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今や、わたしが彼らにさばきを下す。」13 見よ、それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう。その馬は鷲よりも速い。ああ、私たちは荒らされる。」

そのとき、この民とエルサレムに、主のことばが告げられました。それはユダに対して、もっと激しい神のさばきが下されるということでした。それが「熱風」という言葉で表されています。「熱風」とは、砂漠から吹いてくる「シロッコ」と呼ばれる夏の季節風のことです。この「熱風」が、娘である神の民イスラエルの方に吹くのです。何のためですか?これはふるい分けるためでも、より分けるためでもありません。脱穀のようにもみ殻をふるい分ける時にも風が用いられますが、そのようにふるい分けるためでも、より分けるためでもありません。それよりも、もっと激しい風が、神のために吹くのです。それは、神が彼らにさばきを下すための風で、彼らを滅ぼすためのものでした。この熱風は、いったん吹けばすべての植物を枯らしてしまいます。それは戦車のつむじ風のようで、その馬は鷲よりも早いのです。鷲よりも早いのですから、相当早い馬です。それは誰のことでしょうか?それは北からのわざわい、バビロンのことです。バビロンがやって来て、ユダを激しく滅ぼし尽くすのです。それが彼らの目前まで迫っていました。なぜなら、彼らが悔い改めなかったからです。偽りの預言者たちのことばに騙されて不信仰に陥っていたからです。

今から4年前に天に召された世界的な伝道者ビリー・グラハム師は、1989年のゴードン・コンウェル神学校の設立記念礼拝のメッセージの中で、次のように言いました。

「世の中には、これは常に正しいと言えるものと、これは常に正しくないと言えるものがある。この単純な事実を、私たちは見失ってしまった。つまり、私たちは判断基準を失ってしまったのだ。この国には、自分たちの生活を防御するための論理的哲学がない。それゆえ、何かが起きなければ、私たちの生活はより重大な危機に陥るだろう。その何かというのは、霊的リバイバルである。」(ビリー・グラハム,クリスチャニティトゥデイより)

私たちに求められているのは、この「霊的リバイバル」です。神に立ち返ることです。神のことばに生きることです。私たちが聖書に書かれてあることを知らなければ、いとも簡単に、聖書とは違うメッセージを信じてしまうことになります。その結果、私たちの心が神から離れてしまうのです。神を信じていると思っていても、いつの間にか、それとは違う方向へ進んでいくことになります。そこには、神との親しい交わりはありません。

ですから、私たちは注意しなければなりません。自分に都合がいい、耳障りがいいことばではなく、神のことばを聞かなければならないのです。神は何とおっしゃっているのかを聞き、それに従わなければなりません。そうでないと熱風が吹いて来てすべてを枯らしてしまうことになります。

 Ⅲ.悪から心を洗いきよめよ14-18)

 ですから、第三のことは、救われるために、悪から心を洗いきよめよ、ということです。14節から18節までをご覧ください。「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。15 ああ、ダンから告げる声がある。エフライムの山からわざわいを告げ知らせている。

4:16 国々に語り告げよ。さあ、エルサレムに告げ知らせよ。包囲する者たちが遠くの地から来て、ユダの町々に対して、ときの声をあげる。17 彼らは畑の番人のように、ユダを取り囲む。それは、ユダがわたしに逆らったからだ。-主のことば-18 あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。これはあなたへのわざわいで、なんと苦いことか。もう、あなたの心臓にまで達している。」」

 それゆえ、主なる神は、ユダの人々が救われるために、主の前に悔い改めるように、そして「悪から心を洗いきよめよ」と命じています。

「心を洗う」とはどういうことでしょうか。それは心を入れ替えるということではありません。心を洗うことは、自力ではできないのです。ですから、心を洗うためには、心を神に向け、神に洗ってもらわなければなりません。

旧約聖書に出てくるダビデは、主なる神によって心を洗われるという経験をしました。詩篇51篇7節で、彼はこう言っています。「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。」

「ヒソプ」とは、壁や岩などに生えるシソ科の植物です。モーセの律法の中に、過越の祭りでほふった小羊の血をそのヒソプの束によって、鴨居と門柱につけるように命じられていました(出エジプト12:22)。ですから、ヒソプで私の罪を除いてくださいというのは、その小羊の血によって、きよめてくださいということです。そうすれば、雪よりも白くなります。これは真っ白になるということです。完全に洗いきよめていただくことができるのです。預言者イザヤはこう言いました。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)主がきよめてくだされば、雪よりも白くなることができます。心を洗いきよめることができるのです。

また、彼はこうも言っています。「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51:10)きよい心を造り、揺るがない霊を与えてくださるのは、神なのです。

いったい神はどのように私たちの心を洗いきよめてくださるのでしょうか。それは小羊の血を心に塗ることによって、すなわち、神の御子イエス・キリストを心に信じることによってです。Ⅰヨハネ1章7節にこうあります。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。ですから、聖書はこう言うのです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

もしあなたが自分の罪を告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から洗いきよめてくださいます。ハレルヤ!何という約束でしょうか。私たちも日々神に背き、罪を犯す者ですが、私たちが御子イエスに向くなら、そして、自分の罪を告白するなら、主はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

アメリカに有名な伝道者で、リバイバリストであったチャールズ・フィニーという人がいました。最初に「リバイバル」という言葉を使った人で、「最初のアメリカ人リバイバリスト」と呼ばれている人です。

彼がある町で伝道していた時のことです。人相の悪い男に「今晩、わしの店まで来てくれ」と言われました。彼は恐る恐る彼の店に行ってみると、急にピストルを取り出して言いました。「昨晩あんたの言ったことは本当か。」

「どんなことを言いましたか。」

「キリストの血がすべての罪からきよめると言ったさ。」

「それは私のことばではなく、神のことばです。」

「実は、この酒場にある秘密のギャンブルの部屋で、わしは多くの男を最後の1ドルまでもふんだくり、ある者は自殺に追いやった。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「そうです、すべての罪はキリストの血によってきよめられます。」

「ちょっと待ってくれ。支払いができない奴は、殺し屋を雇い、このピストルで殺させた。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「私に言えるのは、聖書には、すべての罪が赦されると書いてあるということだけです。」

「ちょっと待ってくれ。通りの向こうの大きな家に、わしの妻と子供たちがいる。ところがわたしはこの16年間、妻をののしり続けてきた。先日は幼い娘をストーブのそばに押し倒し、やけどを負わせた。こんな男でも神は赦してくれるのか。」

すると、フィニーは立ち上がり、その男の手を握りました。そして、こう言いました。「これまで聞いたことのない恐ろしい話を聞きました。しかし聖書には、キリストの血がすべての罪を赦し、きよめると書いてあります。」

すると、その男は言いました。「それを聞いて安心した。」

翌朝、太陽が昇るころ、その男は立ち上がって自宅に帰りました。そして自分の部屋に幼い娘を呼び、ひざに乗せて「パパはおまえを、心から愛しているよ」と言いました。何事が起こったのかと不審に思って中を覗いていた妻の頬に、涙が流れ落ちました。彼はその妻を呼ぶとこう言いました。「昨晩、今まで聞いたことのない、すばらしい話を聞いた。キリストの血は、すべての罪からきよめると・・・」そして彼は酒場を閉め、その町にとって大の恩恵者になったのです。

キリストの血は、どんな罪でも赦し、きよめ、私たちを神と和解させます。キリストの愛はどんな人でもその人の内側から変え、神の平安で満たしてくれるのです。

ですから、もしあなたが神に帰るのなら、キリストのもとに行かなければなりません。そして救われるために、悪から心を洗いきよめていただかなければならないのです。いつまで、自分のためによこしまな思いを宿らせているのですか。今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしないでください。主イエスの血によって、あなたの心をきよめていただきたいのです。

15節には、「ああ、ダンから告げる声がある。エフライムの山からわざわいを告げ知らせている。」とあります。「ダン」とは、北イスラエルの最北端にある町です。「エフライムの山」とは、南ユダの最北端にある山です。ですから、これは全イスラエルに告げ知らせよということです。イスラエルのすべての人に悔い改めるようにと勧告されているのです。いや、イスラエルばかりではありません。16節には「国々に語り告げよ。」とあります。それは異教の国々も含むすべての国々のことです。すべての国の、すべての人に対して勧められているのです。何を?悔い改めることです。救われるために悪から心を洗いきよめることです。そうでないと、包囲する者たちがやって来て、ユダの町々に対して、ときの声をあげるようになります。あなたを包囲する者たちがやって来て、あなたを滅ぼしてしまうことになるのです。

それは神に原因があるからではありません。18節にあるように、「あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いた」のです。神が好んでしているわけではないのです。あなたの生き方と、あなたの行いが、これをあなたの身に招きました。これは、神に背いた生き方、神に背いた行いのことです。聖書では、これを罪と呼んでいます。罪とは的はずれ、神という的を外した生き方、行いです。言い換えると、それは自己本位の生き方のことです。これがあなたの身にわざわいをもたらすのです。それはあなたの心臓にまで達しているとあります。それは文字通り、健康にもよくありません。罪はあなたの心と体を蝕むのです。その行き着くところは死です。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

罪の報酬は死です。しかし、神がくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。このようなすばらしい賜物を与えてくださった主に心から感謝します。ですから、もしあなたがまだこの賜物を受けていなのであれば、どうか今、自分の罪を認め、神に立ち返ってください。あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを信じてください。そうすれば、あなたの罪は赦され、すべての悪から心をきよめていただくことができます。

ユダの民は、「自分の心を見つめるように」という神からの語りかけを、真摯に受け止めませんでした。その結果、エレミヤがこの預言を語ってから20年後に、結局バビロン捕囚の憂き目にあいました。罪を犯す根源である心を点検しましょう。そして、キリストによってすべての悪から心を洗いきよめていただき、救いの恵み、永遠のいのちをいただき、神とともに新しい人生を歩ませていただきましょう。

Ⅰ列王記4章

 今日は、列王記第一4章から学びます。

 Ⅰ.ソロモンの高官たち(1-19)

 まず1節から6節までをご覧ください。「1 こうして、ソロモン王は全イスラエルの王となった。2 彼の高官たちは次のとおり。ツァドクの子アザルヤは祭司、3 シシャの子たちのエリホレフとアヒヤは書記、アヒルデの子ヨシャファテは史官、4 エホヤダの子ベナヤは軍団長、ツァドクとエブヤタルは祭司、5 ナタンの子アザルヤは政務長官、ナタンの子ザブデは祭司で王の友、6 アヒシャルは宮廷長官、アブダの子アドニラムは役務長官。」

こうして、ソロモン王は全イスラエルの王となりました。「こうして」とは、3章にあったように、ソロモンが主から「あなたに何を与えようか。願え。」(3:6)と言われたとき、彼が自分ために長寿を願わず、富みを願わず、敵のいのちさえも願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、その知恵と判断の心ばかりでなく、彼が願わなかったもの、たとえば、富みとか誉といったものまで与えられました。彼が生きている限り、彼に並ぶものは一人もいなかったほどです。

その彼の知恵と判断力がどれほど優れたものであったのかを示す逸話が、3章後半にありました。まさに大岡越前みたいな裁きをしました。いや、大岡越前さえもその足元に及ばないほどのさばきでした。それは、母親の情に訴えるものでした。

今回は、その知恵が行政においても発揮されていたことが示されています。どんな知恵があっても、それを発揮することができないと意味がありません。ロシアのウクライナ侵略はまさにその例です。プーチン大統領を恐れて側近のだれもプーチンを止めることができません。プーチンは行政においても、知恵がないことを露骨に表しました。しかし、ソロモンは違います。それは王になると、優れた高官たちを任命しました。

まずツァドクの子アザルヤです。彼は祭司です。彼はツァドクの子であるとありますが、孫です。他に4節には、「ツァドクとエブヤタルは祭司」とありますが、おそらくこれは名誉的な称号でしょう。というのは、この二人はダビデの時代に祭司として仕えていましたが、ツァドクは、ソロモンを支持したので引き続き大祭司職に留まったものの、エブヤタルはアドニヤを支持したので、罷免させられていたからです(2:27)。

3節には、シシャの子たちのエリホレフとアヒヤは書記とあります。書記は非常に重要な職責でした。行政、貿易、軍隊などあらゆる国政に関わる記録を担当したのです。

そしてヨシャファテは史官です。「史官」とは、書記の補佐官のことです。王の日課を記録する役目がありました。彼は、王国の歴史に関する正式な文書を残しました。

そしてエホヤダの子ベナヤが軍団長でした。アドニヤに仕えていたヨアブを処刑するようにソロモンが命じたのが、このベナヤでした(2:25)。

次にナタンの子アザルヤは政務長官です。ナタンとは、ダビデがバテ・シェバと姦淫を行った時、そのことをダビデに告げた預言者です。彼はダビデとソロモンに仕えました。それで彼の二人の息子たちは、政府高官に抜擢されたのでしょう。そのうちの一人アザルヤは政務長官でした。そしてもう一人のザブデは祭司で、王の友となりました。父ナタンと同じような立場です。

次に、アヒシャルは宮廷長官とあります。宮廷長官とは、宮廷内を司る長のことです。英語のNKJVでは、「over the household」と訳しています。宮廷全体を司る人のことです。また、アブダの子アドニラムは、役務長官でした。役務長官とは、国のプロジェクトのために人々を借り出させて労役を課すところの執行者です。彼は、後に、神殿建設に貢献するようになります。膨大な数の役務者を徴用しますが、民の間で不評を買い、ソロモンの子レハブアムの時代に民から石打ちに会い、殺されます(12:18)。

次に7節から19節までをご覧ください。「7 ソロモンは、イスラエル全土に十二人の守護を置いた。彼らは王とその一族に食糧を納めた。一年に一か月分の食糧を各自が納めることになっていたのである。8 彼らの名は次のとおり。エフライムの山地にはフルの子。9 マカツ、シャアルビム、ベテ・シェメシュ、エロン・ベテ・ハナンにはデケルの子。10 アルボテにはヘセデの子。彼はソコと、ヘフェルの全地を任されていた。11 ドルの全高地にはアビナダブの子。ソロモンの娘タファテが彼の妻であった。12 タアナク、メギド、またイズレエルの下ツァレタンのそばのベテ・シェアンの全域、ベテ・シェアンからアベル・メホラ、ヨクメアムの向こうまでの地には、アヒルデの子バアナ。13 ラモテ・ギルアデにはゲベルの子。彼はギルアデにあるマナセの子ヤイルの町々と、バシャンにあるアルゴブの地域で、城壁と青銅のかんぬきを備えた六十の大きな町を任されていた。14 マハナイムにはイドの子アヒナダブ。15 ナフタリにはアヒマアツ。彼も、ソロモンの娘バセマテを妻としていた。16 アシェルとベアロテにはフシャイの子バアナ。17 イッサカルにはパルアハの子ヨシャファテ。18 ベニヤミンにはエラの子シムイ。19 アモリ人の王シホンとバシャンの王オグの領地であったギルアデの地には、ウリの子ゲベル。彼は、その地で唯一の守護であった。」

これだけ膨大な領土を治めるには、行政の組織化が必要となります。そこで彼は、王国を12の行政区に分割し、それぞれの行政区に守護(行政官)を置きました。ここに、その12人の行政官の名前があげられています。15節に出ている「アヒマアツ」以外は、ここにしか登場しません。ソロモンは彼らに徴税の任務を課し、それを王宮に納めさせました。それは膨大な量でした(22-28)。しかし、ここにも彼の知恵がいかんなく発揮されています。それは、「一年に一か月分の食料を治めることになっていた」(7)ということです。つまり、年に一か月間だけ、食料を納めたということです。であれば、行政官たちは、必死になって働いたことでしょう。

この行政区域は、良く見るとかつてから存在していた部族ごとの領土の境界線とは必ずしも一致していません。どうして一致していないのかというと、これによって部族間の敵対感情を和らげようとしたからです。

また、守護(行政官)の中には、ソロモンの義理の息子が二人含まれています。11節の「アビナダブ」と、15節の「アヒマアツ」です。どうして彼は義理の息子を登用したのでしょうか。それは、このように彼らを配置することで、不穏な動きを見張ろうと考えたからではないかと思います。

ソロモンは、過去の貢献度を考慮して人材を登用しましたが、ここでは、能力に応じて行政区の割り当てをしました。実に見事な判断です。それは神の視点からは、神がソロモンを祝福するために、必要な人材を用意しておられたということです。これもまた、神がダビデと交わした約束のゆえであり、ソロモンが主を心から愛し、主のみこころに歩もうとしていたからです。主のみこころにかなった歩をするなら主が祝福してくださると信じて、みこころに歩みたいと思います。

Ⅱ.王国の繁栄(20-28)

次に20節から28節までをご覧ください。「20 ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように多くなり、食べたり飲んだりして、楽しんでいた。21 ソロモンは、あの大河からペリシテ人の地、さらにエジプトの国境に至る、すべての王国を支配した。これらの王国は、ソロモンの一生の間、貢ぎ物を持って来て彼に仕えた。22 ソロモンの一日分の食糧は、上質の小麦粉三十コル、小麦粉六十コル。23 それに、肥えた牛十頭、放牧の牛二十頭、羊百匹。そのほか、雄鹿、かもしか、のろ鹿、そして肥えた鳥であった。24 これはソロモンが、あの大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからである。25 ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバに至るまでのどこでも、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して暮らした。26 ソロモンは、戦車用の馬のために馬屋四万、騎兵一万二千を持っていた。27 守護たちはそれぞれ自分の当番月に、ソロモン王、およびソロモン王の食卓に連なるすべての者たちのために食糧を納め、不足させなかった。28 また彼らは、引き馬や早馬のために、それぞれ割り当てにしたがって、所定の場所に大麦と藁を持って来た。」

その結果、ソロモンの王国は繁栄の時代を迎えます。ここには、それがどれほどの繁栄であっかが記されてあります。まずユダとイスラエルの人数です。それは、海辺の砂のように多くなりました。戦時には人口は増えないので、それは戦争のない平和な時代であったことを表しています。それだけ多くの人々が、食べたり、飲んだりして、楽しんでいたのです。

また、ソロモンが支配した領土は、「あの大河からペリシテ人の地、さらにエジプトの国境に至る、すべての王国」でした。それは、神がアブラハムに約束されたことでした(創世記15:18-21)。それが成就したのです。実際支配したのはダンからベエル・シェバまで(25)でしたが、その影響力はすべての地域に及んだのです。

これらの国々は、ソロモンの一生の間、貢物を持って来て彼に仕えたので、相当の量であったと推察されます。

それが22節から28節までに記されてあることです。ソロモンの一日分の食料は、上質の小麦粉三十コル、小麦粉六十コル。それに、肥えた牛十頭、放牧の牛二十頭、羊百匹。そのほか、雄鹿、かもしか、のろ鹿、そして肥えた鳥でした。上質の小麦粉三十コルは6,300リットルです。小麦粉六十コルは、その二倍の12,600リットルです。別に彼がこれらのものを一人で食べていたということではありません。いくら大食いファイターでも無理でしょう。これだけ食べるのは。宮廷で仕えていた人数がどれだけいたかはわかりませんが、いずれにせよ、膨大な量です。ソロモンは、宮廷で仕える人たちのために日々の食料を提供したのです。

これはソロモンが、大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち、大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからできたのです。これまでは敵に囲まれ、あるときは従属し、絶えず戦わなければいけない状態でしたが、今は、ぶどうやいちじくの木の下で、つまり城壁によって囲まれる必要がなく、安心して暮らすことができました。

そればかりではありません。ソロモンは、戦車用の馬のために馬屋四万、騎兵一万二千を持っていました。抑止力としての軍隊も持っていたということです。しかし、この点は必ずしも主のみこころにかなっていたとは言えません。というのは、申命記(モーセの律法)には、「王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。」(申命記17:16)とあるからです。ついでに言うなら、「自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。」(申命記17:15)ともありました。それなのに彼は、この三点セットをすべて手に入れていたのです。

何を言いたいのかというと、そのような繁栄の陰にはこうした危険もあるということです。それがもし与えられたものであるのならいいのですが、自らがそれを欲して手に入れようとするなら、そこには崩壊の危険も隠れているということです。

それは私たちにも言えることです。実は私たちにとって一番危ないのは、私たちが苦しい時よりも、満ち足りた時です。そうした状況に置かれると、いつつしか高慢になって神の言うことを聞こうとせず、自分が神になったかのように錯覚するからです。ですから、繁栄の中にあっても、神の民としての生き方を忘れないように注意しなければなりません。主を恐れることこそ、知恵の始まりなのです。

Ⅲ.ソロモンの知恵(29-34)

最後に29節から34節までをご覧ください。「29 神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。30 ソロモンの知恵は、東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵にまさっていた。31 彼は、どの人よりも、すなわち、エズラフ人エタンや、マホルの息子たちのヘマン、カルコル、ダルダよりも知恵があった。そのため、彼の名声は周辺のすべての国々に広まった。32 ソロモンは三千の箴言を語り、彼の歌は千五首もあった。33 彼は、レバノンにある杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣、鳥、這うもの、そして魚についても語った。34 彼の知恵のうわさを聞いた世界のすべての王たちのもとから、あらゆる国の人々が、ソロモンの知恵を聞くためにやって来た。」

ソロモンの知恵は、行政力と経済力だけではなく、学問にも用いられました。「29神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。30 ソロモンの知恵は、東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵にまさっていた。」

「東のすべての人々」とは、アッシリヤやバビロンの人々のことを指しています。彼の知恵は、アッシリヤやバビロンの人々やエジプトのすべての知恵にまさっていました。

ソロモンは三千の箴言、格言ですね、これを語り、歌は千五百もありました。聖書の中に収められている箴言には、952の格言があるそうです。ですから、ソロモンが語った箴言の三分の一が聖書に収められた、ということになります。彼の歌は聖書には一つだけ「雅歌」があります。昨年、礼拝で学びました。すばらしい歌でしたね。それは花婿の花嫁に対する愛の歌でしたが、そこにはキリストとその花嫁である教会の愛の歌が暗示されていました。しかも、その最後がすばらしかったですね。覚えていますか。「マラナ・タ」でした。来臨を待望する教会の祈りが預言されていました。このような歌は他に例をみません。ものすごい歌でした。ある人が、「格言を一つでも良いから作ってみなさい。いかに難しいかお分かりになるでしょう。」と言いました。その人は自分の数十年の生涯の中で、たった一つの格言しか作ることができなかったそうです。でも、ソロモンは三千も語ったのです。

また、レバノンにある杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣、鳥、這うもの、そして魚についても語りました。なんと、彼は植物学と生物学にもすぐれていたのです。まさに百科事典のような人です。動く百科事典です。

以前、私が福島で牧会していたとき、アメリカのフィラデルフィアから来たパウエル宣教師夫妻と3年間一緒に働いたことがあります。その夫のダン先生は、とにかく何でも知っているのです。「・・について知っていますか」というと、「それは・・」と言って説明し始めるのです。何でも知っているので、私たちは彼に「動く百科事典」というあだ名をつけました。何でも知っています。しかし、この時のソロモンの知恵は、ダン先生もその足元にも及ばないほどのものでした。周辺諸国の王たちが、そのうわさを聞いて「聞いてみたい」と言って尋ねてくるほどだったからです。後に現在のサウジアラビア、シェバから女王が、ソロモンの知恵を聞きにやって来ます。

いったいどうしソロモンは、これほどの繁栄を手にすることができたのでしょうか。一つには、神の約束がソロモンにおいて成就したからです。たとえば、創世記12章1~9節には、神がアブラハムと契約したことが記されてありますが、それが、ソロモンにおいて成就したのです。また、Ⅱサムエル7章7~17節には、ダビデ契約がありますが、それはダビデの子が世継ぎとなり、平和の約束が実現するということでした。それが成就したのです。

もう一つのことは、神がソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」(3:5)と言われたとき、彼は知恵と判断力求めた結果、神はそれに加えて、彼が願わなかったもの、すなわち、富も誉れも与えると約束してくださいました。ですから、これらのものはすべて神の約束とご計画に基づいて与えられたものなのです。

それゆえ、ソロモンに与えられた課題は、その恵みにどのように応答して生きるかということでした。この疑問に答える形で列王記の記述は続いていきます。そして、ソロモンの人生が私たちに教えていることは、繁栄は時として罠になるということです。このことは、私たちにとっても大きな教訓となります。私たちはいつも主を前に置いて、へりくだり、主を愛し、主の戒めに従って歩む者でありたいと思います。