エレミヤ書42章に入ります。今日のタイトルは、「行くべきか、とどまるべきか」です。どこに行くべきなのでしょうか、どこにとどまるべきなのでしょうか。それはエジプトであり、ユダの地です。エジプトに行くべきか、ユダの地にとどまるべきか、ということです。
前回は41章から、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちが、ネタンヤの子イシュマエルから取り戻したすべての残りの民を連れて、エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムにとどまったことを学びました。なぜでしょうか?なぜなら、ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしたことで、バビロンの王に疑われ、殺されるのではないかと恐れたからです。そこで彼らはエジプトに行こうとしてやって来たわけですが、そこで悩みます。果たしてそれで良かったのか。このままエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきか。
私たちにもこういう時があります。どうしたら良いか、行くべきか、とどまるべきかと。私たちはいつもこうした選択に迫られながら生きています。そしてそのどちらを選択するかはとても重要です。なぜなら、それによって人生が決まるからです。いったいどうしたら正しい判断をすることができるのでしょうか。
Ⅰ.それが良くても悪くても(1-6)
まず、1~6節をご覧ください。
総督ゲダルヤが暗殺された後に、バビロンの報復を恐れたヨハナンをはじめとする高官たちは、キムハムの宿場まで行きながら、引き返してエレミヤのところにやって来ると、神のみこころを求めて「あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」(3)と言いました。やはりエジプトに行くことに、ある種のプレッシャーを感じていたのでしょう。エジプトに行くべきか、それともユダにとどまるべきか、彼らは真剣に求めたのです。1節には、軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザンヤ、および身分の高い者も低い者もみな、とあります。それは、日ごろは障壁となっている身分の差を超えて、一つにまとまった瞬間でした。彼らは一つの心で神の御心を知りたいと切に願ったのです。神の御心に耳を傾けることは、絶望を希望に変える始まりです。苦しい時、辛い時、あるいは先が見えなくて不安な時、あなたはどこに助けを求めているでしょうか。彼らのように、神の御心を求めて祈る人は幸いです。祈りとみことばの中で新たな力を得るために礼拝の場に出ることが、あなたが神の御心に従うための第一歩だからです。
それに対してエレミヤは、彼らの真実な求めに応じて、主に祈り、主からの答えがあったら、それを彼らに告げると約束しました。何事も隠さないと。預言者エレミヤにとっても真剣にならざるを得ませんでした。そのような求めに応じて、神のことばを取り次ぐことこそ預言者として召された自分に与えられた使命であると思ったからです。
すると彼らはエレミヤにこう言いました。5節と6節の「」のことばをご一緒に読みましょう。
「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。
それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」
すばらしいですね。彼らは、何でも主の御声を聞いたならば、その通り行うと応答しました。それが良いことでも悪いことでもです。これこそ、神のみこころを尋ね求める者にとってふさわしい態度です。たとえ自分の目には悪いように見えても、主の御声を聞いたならば、それに従うことが幸せを得る秘訣です。しかし、これがなかなかできません。人はみな自分の思いがあって、そこから離れることができないからです。いつまでもそれに固執しようとするのです。
私はいろいろな方々から相談のメールや電話をいただきますが、その内容のほとんどはこれです。「どうしたら良いか」。そのような時、この方の問題がどこにあるのか教えてくださいと心の中で祈りながらじっと聞いていると、主は聖書のみことばを示してくださいます。ですから、十分お話を聞いた後でそれを伝えると、「そうですよね、ありがとうございました。」と喜んで電話を切る人と、自分の思いをトクトクト話し続ける人がいます。みことばが示されているのに、です。自分の思いに共感してほしいのです。その方は、結局、主の御心を尋ね求めているというよりも、自分の思いを聞いてほしいだけなのです。そこから離れることができません。あくまでも自分の思いを通そうとするわけです。でも大切なのは、それが自分にとって良くても悪くても、神の御心が示されたなら、それに従うことです。なぜなら、「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ、主の証は確かで、浅はかな者を賢くする。」(詩篇19:7)からです。
皆さん、電話を発明した人をご存知ですか。電話を発明したのはアレキサンダー・グラハム・ベルというスコットランド出身の科学者です。彼は1875年に、電話機の実験に成功しました。彼が電話機を発明した時に最初に発したことばは、「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」という秘書に対する呼びかけでした。
1876年、彼は特許を取り、翌年にベル電話会社を設立しました。そのベルが次のように語っています。
「一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。しかし、私たちは閉ざされた扉ばかりをいつも未練がましく見続けているので、開かれたもう一つの扉が見えずにいるのです。」
皆さん、たとえ一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。神がその扉を開いてくださいます。それはあなたの想像を遥かに超えたことかもしれません。それなのにいつまでも自分の思いに固執して閉ざされた扉ばかりを見ているとしたら、開かれているもう一つの扉を見ることはできません。大切なのは自分の思いに固執するのではなく、それを一旦脇に置いておき、すべてを神にゆだねることです。そして神がみことばを通して示してくださることに聞き従うのです。そうすれば、あなたは幸せを得ることができます。神があなたの人生に働いてくださり、最善に導いてくださるからです。あなたに求められていることは、神の最善を信じ、それが良いことでも悪いことでも、神が語られたことに喜んで従うことなのです。
Ⅱ.信仰によって判断する (7-19)
次に、7~19節までをご覧ください。17節までをお読みします。
「7 十日たって、【主】のことばがエレミヤにあった。42:8 エレミヤは、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいる軍のすべての高官たちと、身分の低い者や高い者をみな呼び寄せて、42:9 彼らに言った。「あなたがたは自分たちのために嘆願してもらおうと私を主に遣わしたが、そのイスラエルの神、【主】はこう言われる。42:10 『もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。42:11 あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるな──【主】のことば──。わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。42:12 わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼はあなたがたをあわれんで、あなたがたを自分たちの土地に帰らせる。』42:13 しかし、あなたがたが『私たちはこの地にとどまらない』と言って、あなたがたの神、【主】の御声に聞き従わず、42:14 『いや、エジプトの地に行こう。あそこでは戦いにあわず、角笛の音も聞かず、パンに飢えることもない。あそこに私たちは住もう』と言うのであれば、42:15 今、ユダの残りの者よ、【主】のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『もし、あなたがたがエジプトに行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、42:16 あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの地であなたがたを襲い、あなたがたの心配している飢饉が、あのエジプトであなたがたに追い迫り、あなたがたはそこで死ぬ。42:17 エジプトに行ってそこに寄留しようと決意した者たちはみな、そこで剣と飢饉と疫病で死ぬ。わたしが彼らに下すわざわいから、生き残る者も逃れる者もいない。』」
十日たって、主のことばがエレミヤにありました。エレミヤが主に祈ってからすぐに主の答えがあったわけではありません。そのためには10日間待たなければなりませんでした。それは、彼らが主から祈りの答えをいただくために心を準備する時間でした。祈りには、時間をかけて、主を待ち望むことが必要な時があります。彼らにはエジプトに下っていってバビロンから逃れようという焦りしかありませんでした。それでも、待たなければならない時には、待たなければなりません。
ある牧師がこう言いました。「祈りの95%は、主が示される祈りの答えを行うことができるようにするための準備である」と。私たちは気軽に、「主が言われることは何でも行います」と言いますが、本当にそうでしょうか。確かにそれは言うにやすしですが、実行することは難しいことです。私たちはもう一度本当にそうなのかどうか、自分の心を吟味しなければなりません。
さて十日たって、エレミヤに主のことばがありました。それは次の二つのことでした。一つは10~12節にあるように、もし彼らがこの地、すなわちユダの地にとどまるなら、主は彼らを建て直し、壊すことなく、彼らを植えて、引き抜くことはしないということでした。またバビロンの王を恐れなくてもよいということでした。なぜなら、主が彼らとともにいて、彼の手から彼らを救い、助け出してくださるからです。そればかりではありません。主が彼らにあわれみを施されるので、自分たちの土地に帰ることができるということでした。
一方、それに反して、「私たちはこの地にとどまらない」と言って、彼らの神、主の御声に聞き従わず、エジプトに下っていこうと言うのであれば、彼らが恐れている剣がエジプトの地で彼らに襲い、彼らが心配している飢饉が、彼らに追い迫り、そこで死ぬことになります。それは主が下すわざわいで、そこから逃れる者はだれもいません。だから、主はこう言われました。19節です。「ユダの残りの者よ、主はあなたがたに「エジプトへ行ってはならない」
これが主の御心でした。主はご自身のみこころを明白に示されました。それは、彼らにとって歓迎できることではありませんでした。むしろ、エジプトに行った方がどれほど明るい未来があると思ったことでしょう。なぜなら、14節にあるように、そこでは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病で死ぬこともないかのように見えたからです。しかし、人の目には魅力的に見える場所が、必ずしも祝福される地であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病が満ちたわざわいの地となることもあるのです。つまり、神のことばに従わなければ、そこにはわざわいがもたらされるということです。しかし、神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられます。最も安全で良い地は、神がともにおられる地です。神がともにおられるなら、砂漠も肥沃な地に変えられ、死の谷も天国に変わるのです。いのちと祝福の源は、神がともにおられるかどうかにかかっているのです。
このことからどういうことが言えるでしょうか。目に見えるところによって歩んではならないということです。たとえそこが魅力的に見えるところであっても、そうしたことによって判断するのではなく、神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれることなのかを基準として判断しなければなりません。つまり、信仰によって歩まなければならないということです。
皆さんは、ファニー・クロスビー(1820年~1915年)という賛美歌の作詞者をご存知だと思います。彼女は、その生涯に「十字架のかげに」、「罪、咎を赦され」、「恐れなく近寄れと」等、5000以上の賛美歌を作ったと言われています。
実は、彼女は生涯のほとんどを、盲目の中で過ごしました。生後6週間で眼科医のミスにより失明してしまったのです。その後、すぐに彼女のお父さんが亡くなったので、彼女のお母さんは生計をたてるために、毎日朝早くから、夜遅くまで仕事に出かけなければなりませんでした。ですから、彼女の世話はおばあちゃんがしました。
おばあちゃんはとても信仰に篤い人でした。毎日、自分の手元に彼女を置いて、一生懸命神様の話を聞かせました。そして、聖書の言葉を暗記するように指導しました。だから彼女は小さい時から、たくさんの聖書の言葉を暗記したのです。それが後に、彼女が美しい詩を作っていくための材料になりました。
彼女が8歳の時に作った、こんな詩が残っています。
「他の人なら見過ごしてしまう神の恵みを、私はどれほど多く感じ喜んでいるでしょう。盲目だからと言って泣いたり、ため息をついたりということはできないし、するつもりもありません。」
8歳の子供ですよ。すごいですね。彼女は、肉体の目が見えるということよりも心の目が見えることの方がはるかにすばらしい、という価値観を小さい時から身に付けていたのです。
彼女は、95年の生涯を送っていますが、数え切れないほどの美しい賛美歌を作りました。大人になった彼女は、ある日こう言っています。
「失明したことは、私の人生の中で起こった最高の出来事でした。もし、この目が見えていたならば、私はこんなにもたくさんの詩を作ることができなかったと思います。」
彼女は38歳の時、同じ音楽家と結婚しますが、生まれてきた子供が、すぐになくなってしまいました。そういう悲しみの中でも、彼女はすばらしい詩を作り続けていきました。
彼女を気の毒に思った人もいました。ある宣教師がなぐさめるつもりで彼女に、「神があなたにこれほど多くの賜物を与えながら、視力をお与えにならなかったのは、とても残念です」と言うと、彼女はこれに、信じられないような返答をしました。
「もし生まれるときに願いごとができたなら、私は盲目で生まれさせてくださいと願うでしょう。なぜなら、天国に行って私が最初に目にするのは、私の救い主のお顔だからです。」
彼女が亡くなって100年以上経ちますが、今も世界中で彼女の詩は、歌い続けられています。彼女の詩はいつも、天国の希望に満ち溢れています。 「どんな苦難の中にあっても、神は私と共にあり、私を慰めてくださる。」
これが彼女の信仰でした。彼女はいつも永遠の視点で人生を見ていたのです。私たちが抱える問題は、永遠の光の中では違って見えるのです。ですからパウロはこう言いました。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリ4:17-18)。
イエスとお会いする栄光の日が来ることを思うと、この世の試練はかすんで見えます。永遠をいかに見るかが、私たちの生き様に影響を与えるからです。だから、見えるものによってではなく、見えないものに目を留めましょう。どんな苦難の中にあっても、神は私と共におられるという信仰によって歩みたいと思うのです。
Ⅲ.私の願いではなく、主のみこころがなりますように(20-22)
ですから第三のことは、自分の思いではなく、主のこころを優先しましょうということです。20~22節をご覧ください。
「42:20 あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまったからだ。あなたがたは私をあなたがたの神、【主】のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、【主】に祈り、すべて私たちの神、【主】の言われるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。42:21 私は今日、あなたがたに告げたが、あなたがたは、自分たちの神、【主】の御声を、すなわち、主がそのために私をあなたがたに遣わされたすべてのことを聞こうとしなかった。42:22 だから今、確かに知らなければならない。あなたがたが、行って寄留したいと思っているその場所で、剣や飢饉や疫病で死ぬことを。」」
エレミヤを通して語られた主のことばに対して、彼らはどのように応答したでしょうか。彼らは「主が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。」(5)と言っていたにもかかわらず、エレミヤから告げられた主のことばを聞こうとしませんでした(21)。自分たちの判断を、主のことばよりも優先したのです。彼らは最初から聞く気などありませんでした。彼らはすでにエジプトに下って行くことを決めていて、その思いに神が同意してくれたときのみ、神のことばに従おうと思っていたのです。結局のところ、彼らの従順は中途半端なものであり、ただエレミヤを利用しようとしたにすぎなかったのです。その結果はあまりにも明白です。その結果は何ですか。戦いと飢饉と疫病による死でした。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ3:23)とある通りです。エレミヤは、そのような彼らの姿を見ていて、どれほど歯がゆかったことでしょうか。どれほど悔しかったでしょう。どれほど悲しかったでしょう。
ヘンリー・ブラッカビーが書いた「神の御声にこたえる人生」という本に、こんな話があります。
「私が初めて執り行った葬式は3歳の女の子のものでした。その子が生まれた時のことを覚えています。その子は、あまり聞き分けの良い子ではありませんでした。その家庭を訪問した時、その子は親の言うことを当たり前に無視していました。来いと言えば去って行き、座れと言えば立ちました。親はそんな行動をただかわいらしいと考えていました。そんなある日、子どもが庭から道路へと走って行くのが見えました。そして同時に、向こうから自動車が猛スピードで近づいてきました。子どもは駐車していた2台の車の間をすり抜けて、道路へ向かって行きました。あわてた両親は「だめだよ、帰っておいで!」と叫びましたが、子どもはちょっと立ち止まって親の方をちらっと振り返ると、にこって笑って走ってくる自動車のほうへと走り出しました。そして、車はすごい勢いでその子とぶつかりました。すぐに病院に運ばれましたが、子どもは結局亡くなってしまいました。夫婦が一人娘の死を確認したその時、私も病室に一緒にいました。葬式で響き渡った嘆きの声は、断腸の悲しみでした。その葬式を、私は今でも忘れることができません。」
なぜこんな悲劇が起こってしまったのでしょうか。その子には親の声が聞こえなかったのでしょうか。そうではありません。聞こえていましたが、それに従う訓練がなされていなかったのです。神の御声に聞き従うことが、私たちが生きる道です。私たちに必要なものは、神の御心であるならそのとおりに行うという単純な心、忠実な心、一貫した心です。状況が困難だからと言い訳をしてそこから逃げないことが肝心です。イエス様がゲッセマネの園で祈られたように、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)と祈らなければなりません。
あなたはどうでしょうか。あなたの心は神のことばを受けて良い実を結ぶ良い地ですか。神のことばが根を下ろさないように妨げているものがあるとしたら、それは何ですか。私たちが求めるものと主が望まれるものが違うときき、あなたはどうなさいますか。私たちの人生の主権者は誰なのかを思い起こし、その方のみこころ、ご計画に従う決断ができるように祈りましょう。