エレミヤ42章1~22節「行くべきか、とどまるべきか」

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エレミヤ書42章に入ります。今日のタイトルは、「行くべきか、とどまるべきか」です。どこに行くべきなのでしょうか、どこにとどまるべきなのでしょうか。それはエジプトであり、ユダの地です。エジプトに行くべきか、ユダの地にとどまるべきか、ということです。

前回は41章から、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちが、ネタンヤの子イシュマエルから取り戻したすべての残りの民を連れて、エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムにとどまったことを学びました。なぜでしょうか?なぜなら、ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしたことで、バビロンの王に疑われ、殺されるのではないかと恐れたからです。そこで彼らはエジプトに行こうとしてやって来たわけですが、そこで悩みます。果たしてそれで良かったのか。このままエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきか。

私たちにもこういう時があります。どうしたら良いか、行くべきか、とどまるべきかと。私たちはいつもこうした選択に迫られながら生きています。そしてそのどちらを選択するかはとても重要です。なぜなら、それによって人生が決まるからです。いったいどうしたら正しい判断をすることができるのでしょうか。

 Ⅰ.それが良くても悪くても(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。

42:1 軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザンヤ、および身分の低い者も高い者もみな近づいて来て、42:2 預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを受け入れてください。私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、【主】に祈ってください。ご覧のとおり、多くの者の中からわずかに私たちだけが残ったのです。42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」42:4 そこで、預言者エレミヤは彼らに言った。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、【主】に祈り、【主】があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」42:5 彼らはエレミヤに言った。「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。42:6 それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」」

総督ゲダルヤが暗殺された後に、バビロンの報復を恐れたヨハナンをはじめとする高官たちは、キムハムの宿場まで行きながら、引き返してエレミヤのところにやって来ると、神のみこころを求めて「あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」(3)と言いました。やはりエジプトに行くことに、ある種のプレッシャーを感じていたのでしょう。エジプトに行くべきか、それともユダにとどまるべきか、彼らは真剣に求めたのです。1節には、軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザンヤ、および身分の高い者も低い者もみな、とあります。それは、日ごろは障壁となっている身分の差を超えて、一つにまとまった瞬間でした。彼らは一つの心で神の御心を知りたいと切に願ったのです。神の御心に耳を傾けることは、絶望を希望に変える始まりです。苦しい時、辛い時、あるいは先が見えなくて不安な時、あなたはどこに助けを求めているでしょうか。彼らのように、神の御心を求めて祈る人は幸いです。祈りとみことばの中で新たな力を得るために礼拝の場に出ることが、あなたが神の御心に従うための第一歩だからです。

それに対してエレミヤは、彼らの真実な求めに応じて、主に祈り、主からの答えがあったら、それを彼らに告げると約束しました。何事も隠さないと。預言者エレミヤにとっても真剣にならざるを得ませんでした。そのような求めに応じて、神のことばを取り次ぐことこそ預言者として召された自分に与えられた使命であると思ったからです。

すると彼らはエレミヤにこう言いました。5節と6節の「」のことばをご一緒に読みましょう。

「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。
  それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」

すばらしいですね。彼らは、何でも主の御声を聞いたならば、その通り行うと応答しました。それが良いことでも悪いことでもです。これこそ、神のみこころを尋ね求める者にとってふさわしい態度です。たとえ自分の目には悪いように見えても、主の御声を聞いたならば、それに従うことが幸せを得る秘訣です。しかし、これがなかなかできません。人はみな自分の思いがあって、そこから離れることができないからです。いつまでもそれに固執しようとするのです。

私はいろいろな方々から相談のメールや電話をいただきますが、その内容のほとんどはこれです。「どうしたら良いか」。そのような時、この方の問題がどこにあるのか教えてくださいと心の中で祈りながらじっと聞いていると、主は聖書のみことばを示してくださいます。ですから、十分お話を聞いた後でそれを伝えると、「そうですよね、ありがとうございました。」と喜んで電話を切る人と、自分の思いをトクトクト話し続ける人がいます。みことばが示されているのに、です。自分の思いに共感してほしいのです。その方は、結局、主の御心を尋ね求めているというよりも、自分の思いを聞いてほしいだけなのです。そこから離れることができません。あくまでも自分の思いを通そうとするわけです。でも大切なのは、それが自分にとって良くても悪くても、神の御心が示されたなら、それに従うことです。なぜなら、「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ、主の証は確かで、浅はかな者を賢くする。」(詩篇19:7)からです。

皆さん、電話を発明した人をご存知ですか。電話を発明したのはアレキサンダー・グラハム・ベルというスコットランド出身の科学者です。彼は1875年に、電話機の実験に成功しました。彼が電話機を発明した時に最初に発したことばは、「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」という秘書に対する呼びかけでした。
  1876年、彼は特許を取り、翌年にベル電話会社を設立しました。そのベルが次のように語っています。
  「一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。しかし、私たちは閉ざされた扉ばかりをいつも未練がましく見続けているので、開かれたもう一つの扉が見えずにいるのです。」

皆さん、たとえ一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。神がその扉を開いてくださいます。それはあなたの想像を遥かに超えたことかもしれません。それなのにいつまでも自分の思いに固執して閉ざされた扉ばかりを見ているとしたら、開かれているもう一つの扉を見ることはできません。大切なのは自分の思いに固執するのではなく、それを一旦脇に置いておき、すべてを神にゆだねることです。そして神がみことばを通して示してくださることに聞き従うのです。そうすれば、あなたは幸せを得ることができます。神があなたの人生に働いてくださり、最善に導いてくださるからです。あなたに求められていることは、神の最善を信じ、それが良いことでも悪いことでも、神が語られたことに喜んで従うことなのです。

Ⅱ.信仰によって判断する (7-19)

次に、7~19節までをご覧ください。17節までをお読みします。

「7 十日たって、【主】のことばがエレミヤにあった。42:8 エレミヤは、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいる軍のすべての高官たちと、身分の低い者や高い者をみな呼び寄せて、42:9 彼らに言った。「あなたがたは自分たちのために嘆願してもらおうと私を主に遣わしたが、そのイスラエルの神、【主】はこう言われる。42:10 『もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。42:11 あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるな──【主】のことば──。わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。42:12 わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼はあなたがたをあわれんで、あなたがたを自分たちの土地に帰らせる。』42:13 しかし、あなたがたが『私たちはこの地にとどまらない』と言って、あなたがたの神、【主】の御声に聞き従わず、42:14 『いや、エジプトの地に行こう。あそこでは戦いにあわず、角笛の音も聞かず、パンに飢えることもない。あそこに私たちは住もう』と言うのであれば、42:15 今、ユダの残りの者よ、【主】のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『もし、あなたがたがエジプトに行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、42:16 あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの地であなたがたを襲い、あなたがたの心配している飢饉が、あのエジプトであなたがたに追い迫り、あなたがたはそこで死ぬ。42:17 エジプトに行ってそこに寄留しようと決意した者たちはみな、そこで剣と飢饉と疫病で死ぬ。わたしが彼らに下すわざわいから、生き残る者も逃れる者もいない。』」

十日たって、主のことばがエレミヤにありました。エレミヤが主に祈ってからすぐに主の答えがあったわけではありません。そのためには10日間待たなければなりませんでした。それは、彼らが主から祈りの答えをいただくために心を準備する時間でした。祈りには、時間をかけて、主を待ち望むことが必要な時があります。彼らにはエジプトに下っていってバビロンから逃れようという焦りしかありませんでした。それでも、待たなければならない時には、待たなければなりません。

ある牧師がこう言いました。「祈りの95%は、主が示される祈りの答えを行うことができるようにするための準備である」と。私たちは気軽に、「主が言われることは何でも行います」と言いますが、本当にそうでしょうか。確かにそれは言うにやすしですが、実行することは難しいことです。私たちはもう一度本当にそうなのかどうか、自分の心を吟味しなければなりません。

さて十日たって、エレミヤに主のことばがありました。それは次の二つのことでした。一つは10~12節にあるように、もし彼らがこの地、すなわちユダの地にとどまるなら、主は彼らを建て直し、壊すことなく、彼らを植えて、引き抜くことはしないということでした。またバビロンの王を恐れなくてもよいということでした。なぜなら、主が彼らとともにいて、彼の手から彼らを救い、助け出してくださるからです。そればかりではありません。主が彼らにあわれみを施されるので、自分たちの土地に帰ることができるということでした。

一方、それに反して、「私たちはこの地にとどまらない」と言って、彼らの神、主の御声に聞き従わず、エジプトに下っていこうと言うのであれば、彼らが恐れている剣がエジプトの地で彼らに襲い、彼らが心配している飢饉が、彼らに追い迫り、そこで死ぬことになります。それは主が下すわざわいで、そこから逃れる者はだれもいません。だから、主はこう言われました。19節です。「ユダの残りの者よ、主はあなたがたに「エジプトへ行ってはならない」

これが主の御心でした。主はご自身のみこころを明白に示されました。それは、彼らにとって歓迎できることではありませんでした。むしろ、エジプトに行った方がどれほど明るい未来があると思ったことでしょう。なぜなら、14節にあるように、そこでは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病で死ぬこともないかのように見えたからです。しかし、人の目には魅力的に見える場所が、必ずしも祝福される地であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病が満ちたわざわいの地となることもあるのです。つまり、神のことばに従わなければ、そこにはわざわいがもたらされるということです。しかし、神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられます。最も安全で良い地は、神がともにおられる地です。神がともにおられるなら、砂漠も肥沃な地に変えられ、死の谷も天国に変わるのです。いのちと祝福の源は、神がともにおられるかどうかにかかっているのです。

このことからどういうことが言えるでしょうか。目に見えるところによって歩んではならないということです。たとえそこが魅力的に見えるところであっても、そうしたことによって判断するのではなく、神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれることなのかを基準として判断しなければなりません。つまり、信仰によって歩まなければならないということです。

皆さんは、ファニー・クロスビー(1820年~1915年)という賛美歌の作詞者をご存知だと思います。彼女は、その生涯に「十字架のかげに」、「罪、咎を赦され」、「恐れなく近寄れと」等、5000以上の賛美歌を作ったと言われています。
  実は、彼女は生涯のほとんどを、盲目の中で過ごしました。生後6週間で眼科医のミスにより失明してしまったのです。その後、すぐに彼女のお父さんが亡くなったので、彼女のお母さんは生計をたてるために、毎日朝早くから、夜遅くまで仕事に出かけなければなりませんでした。ですから、彼女の世話はおばあちゃんがしました。
  おばあちゃんはとても信仰に篤い人でした。毎日、自分の手元に彼女を置いて、一生懸命神様の話を聞かせました。そして、聖書の言葉を暗記するように指導しました。だから彼女は小さい時から、たくさんの聖書の言葉を暗記したのです。それが後に、彼女が美しい詩を作っていくための材料になりました。
  彼女が8歳の時に作った、こんな詩が残っています。
 「他の人なら見過ごしてしまう神の恵みを、私はどれほど多く感じ喜んでいるでしょう。盲目だからと言って泣いたり、ため息をついたりということはできないし、するつもりもありません。」

8歳の子供ですよ。すごいですね。彼女は、肉体の目が見えるということよりも心の目が見えることの方がはるかにすばらしい、という価値観を小さい時から身に付けていたのです。
  彼女は、95年の生涯を送っていますが、数え切れないほどの美しい賛美歌を作りました。大人になった彼女は、ある日こう言っています。
  「失明したことは、私の人生の中で起こった最高の出来事でした。もし、この目が見えていたならば、私はこんなにもたくさんの詩を作ることができなかったと思います。」
  彼女は38歳の時、同じ音楽家と結婚しますが、生まれてきた子供が、すぐになくなってしまいました。そういう悲しみの中でも、彼女はすばらしい詩を作り続けていきました。

彼女を気の毒に思った人もいました。ある宣教師がなぐさめるつもりで彼女に、「神があなたにこれほど多くの賜物を与えながら、視力をお与えにならなかったのは、とても残念です」と言うと、彼女はこれに、信じられないような返答をしました。

「もし生まれるときに願いごとができたなら、私は盲目で生まれさせてくださいと願うでしょう。なぜなら、天国に行って私が最初に目にするのは、私の救い主のお顔だからです。」

彼女が亡くなって100年以上経ちますが、今も世界中で彼女の詩は、歌い続けられています。彼女の詩はいつも、天国の希望に満ち溢れています。 「どんな苦難の中にあっても、神は私と共にあり、私を慰めてくださる。」
 これが彼女の信仰でした。彼女はいつも永遠の視点で人生を見ていたのです。私たちが抱える問題は、永遠の光の中では違って見えるのです。ですからパウロはこう言いました。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリ4:17-18)。

イエスとお会いする栄光の日が来ることを思うと、この世の試練はかすんで見えます。永遠をいかに見るかが、私たちの生き様に影響を与えるからです。だから、見えるものによってではなく、見えないものに目を留めましょう。どんな苦難の中にあっても、神は私と共におられるという信仰によって歩みたいと思うのです。

Ⅲ.私の願いではなく、主のみこころがなりますように(20-22)

ですから第三のことは、自分の思いではなく、主のこころを優先しましょうということです。20~22節をご覧ください。

「42:20 あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまったからだ。あなたがたは私をあなたがたの神、【主】のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、【主】に祈り、すべて私たちの神、【主】の言われるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。42:21 私は今日、あなたがたに告げたが、あなたがたは、自分たちの神、【主】の御声を、すなわち、主がそのために私をあなたがたに遣わされたすべてのことを聞こうとしなかった。42:22 だから今、確かに知らなければならない。あなたがたが、行って寄留したいと思っているその場所で、剣や飢饉や疫病で死ぬことを。」」

エレミヤを通して語られた主のことばに対して、彼らはどのように応答したでしょうか。彼らは「主が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。」(5)と言っていたにもかかわらず、エレミヤから告げられた主のことばを聞こうとしませんでした(21)。自分たちの判断を、主のことばよりも優先したのです。彼らは最初から聞く気などありませんでした。彼らはすでにエジプトに下って行くことを決めていて、その思いに神が同意してくれたときのみ、神のことばに従おうと思っていたのです。結局のところ、彼らの従順は中途半端なものであり、ただエレミヤを利用しようとしたにすぎなかったのです。その結果はあまりにも明白です。その結果は何ですか。戦いと飢饉と疫病による死でした。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ3:23)とある通りです。エレミヤは、そのような彼らの姿を見ていて、どれほど歯がゆかったことでしょうか。どれほど悔しかったでしょう。どれほど悲しかったでしょう。

ヘンリー・ブラッカビーが書いた「神の御声にこたえる人生」という本に、こんな話があります。
  「私が初めて執り行った葬式は3歳の女の子のものでした。その子が生まれた時のことを覚えています。その子は、あまり聞き分けの良い子ではありませんでした。その家庭を訪問した時、その子は親の言うことを当たり前に無視していました。来いと言えば去って行き、座れと言えば立ちました。親はそんな行動をただかわいらしいと考えていました。そんなある日、子どもが庭から道路へと走って行くのが見えました。そして同時に、向こうから自動車が猛スピードで近づいてきました。子どもは駐車していた2台の車の間をすり抜けて、道路へ向かって行きました。あわてた両親は「だめだよ、帰っておいで!」と叫びましたが、子どもはちょっと立ち止まって親の方をちらっと振り返ると、にこって笑って走ってくる自動車のほうへと走り出しました。そして、車はすごい勢いでその子とぶつかりました。すぐに病院に運ばれましたが、子どもは結局亡くなってしまいました。夫婦が一人娘の死を確認したその時、私も病室に一緒にいました。葬式で響き渡った嘆きの声は、断腸の悲しみでした。その葬式を、私は今でも忘れることができません。」

なぜこんな悲劇が起こってしまったのでしょうか。その子には親の声が聞こえなかったのでしょうか。そうではありません。聞こえていましたが、それに従う訓練がなされていなかったのです。神の御声に聞き従うことが、私たちが生きる道です。私たちに必要なものは、神の御心であるならそのとおりに行うという単純な心、忠実な心、一貫した心です。状況が困難だからと言い訳をしてそこから逃げないことが肝心です。イエス様がゲッセマネの園で祈られたように、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)と祈らなければなりません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神のことばを受けて良い実を結ぶ良い地ですか。神のことばが根を下ろさないように妨げているものがあるとしたら、それは何ですか。私たちが求めるものと主が望まれるものが違うときき、あなたはどうなさいますか。私たちの人生の主権者は誰なのかを思い起こし、その方のみこころ、ご計画に従う決断ができるように祈りましょう。

エレミヤ41章1~18節「みこころを知り、みこころに従う」

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きょうは、エレミヤ書41章からお話します。タイトルは、「みこころを知り、みこころに従う」です。この41章は、前回お話した40章からの続きとなっています。

前回は、エレミヤがバビロンの王の親衛隊長ネブザルアダンから、あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさいと言われまたが、エルサレムの貧しい民の間に住むことを選択したことを見ました。なぜなら、それが神から彼に与えられた使命、神のみこころだったからです。また、総督ゲダルヤは、ユダに残された民に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」と言いました。なぜなでしたか?それが神のみこころだったからです。

しかし、そんなゲダルヤでしたが、アンモン人の王によって遣わされたイシュマエルによる暗殺計画を見破ることができませんでした。彼は霊的、信仰的に優れていましたが実際的な面で弱いところがあったのです。ですから、神のみこころに従うためには、それを妨げようとする悪魔の策略に対してしっかりと対処するために、御霊の武具を身にまとい備えていなければなりません。

今回は、その続きです。神のみこころを知り、みこころに従うためにはどうしたら良いのでしょうか。

 Ⅰ.高慢は破滅に先立つ(1-10)

まず、1~10節をご覧ください。3節までをお読みします。

41:1 ところが第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルは、王の高官と十人の部下とともに、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに来て、ミツパで食事をともにした。41:2 ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた十人の部下は立ち上がって、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを剣で打ち殺した。イシュマエルは、バビロンの王がこの地の総督にした者を殺した。41:3 ミツパでゲダルヤと一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデア人の戦士たちを、イシュマエルは打ち殺した。」

1節の「ところが」とは、イシュマエルが総督ゲダルヤを暗殺しようとしているという知らせをカレアハの子がヨハナンがゲダルヤに伝えたにもかかわらず、ゲタルヤはそれを本気にするどころかヨハナンこそ偽りを語っていると言って受け入れなかったことを受けてのことです。ところが、第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルが、王の高官と10人の部下とともに、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ると、彼を剣で打ち殺してしまいました。これは、あらゆる面で忌むべきことでした。
  第一に、ここに「第七の月」とありますが、これは今の暦で言うと10月に当たります。この第七の月には、ユダヤでは仮庵の祭りをはじめ、さまざまな祭りが行われる月です。そういう最も聖なる月に暗殺が行われたのです。
  それだけではありません。ここには「ミツパで食事をともにした」とあります。それは食事の席で行われました。イシュマエルの一行はゲダルヤのもてなしを受けていたのです。中東では食事をともにするというのは、親しい交わりを持つことを意味していました。ですから、ゲダルヤはまさかイシュマエルがアンモン人の王に雇われて反乱を起こすなんて想像もできなかったでしょう。しかし、イシュマエルはその食事の席でゲダルヤを打ち殺したのです。これは本当に卑劣な行為です。
  殺されたのはゲダルヤだけでなく、彼とそこに一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデアの戦士たちも含まれていました。いったいなぜイシュマエルはこのような反乱を起こしたのでしょうか。

1節には、このイシュマエルについて「王族の一人」と紹介していますが、これは、彼がダビデの家系であったことを表しています。ダビデ王の家系ある自分こそユダを統治するにふさわしい人物であるのに、ゲダルヤがその立場に立っていることを受け入れられなかったのです。また、2節には「バビロンの王がこの地の総督にした者」とありますが、ゲダルヤのことをわざわざこのように紹介しているのは、彼がバビロンの王によって立てられた総督であることを強調するためです。すなわち、イシュマエルの中にバビロンに対する敵対心があったことを表しているのです。そうです、イシュマエルが総督ゲダルヤを殺したのは、バビロンの支配下で営まれる政治を正当なものとして受け入れることができなかったからです。彼はそれらを不当な統治であるとみなし、これを排除しようとしたのです。それは、その後に起こる第二の事件を見てもわかります。4~10節をご覧ください。

「41:4 ゲダルヤが殺された次の日、まだ、だれもそれを知らなかったとき、41:5 シェケム、シロ、サマリアから八十人の者がやって来た。彼らはみな、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけ、穀物のささげ物や乳香を手にして、【主】の宮に持って行こうとしていた。41:6 ネタンヤの子イシュマエルは、彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行った。そして、彼らに出会ったとき、「アヒカムの子ゲダルヤのところにおいでください」と言った。41:7 彼らが町の中に入ったとき、ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた部下たちは、彼らを殺して穴の中に投げ入れた。41:8 彼らのうちの十人がイシュマエルに、「私たちを殺さないでください。私たちには、小麦、大麦、油、蜜など、畑に隠されたものがありますから」と言ったので、彼は、彼らをその仲間とともに殺すのをやめた。41:9 イシュマエルが、ゲダルヤの指揮下にあった人々を打ち殺し、その死体すべてを投げ入れた穴は、アサ王がイスラエルの王バアシャに備えて作ったものであった。ネタンヤの子イシュマエルはそれを、殺された者で満たした。41:10 イシュマエルは、ミツパにいた民の残りの者たち、すなわち王の娘たち、および親衛隊の長ネブザルアダンがアヒカムの子ゲダルヤに委ねた、ミツパに残っていたすべての民を捕らわれの身とした。ネタンヤの子イシュマエルは彼らを捕囚にして、アンモン人のところに渡ろうとして出発した。」

次の日のことです。まだ、だれもそれを知らなかったとき、 シェケム、シロ、サマリアから80人の者が主の宮にささげ物をささげるために、やって来ました。「それ」とは、イシュマエルがゲダルヤを殺害したことです。シェケム、シロ、サマリアといった町々は、北王国イスラエルにある町です。そこはかつて偶像礼拝の中心地でしたが、B.C.722年にアッシリアによって滅ぼされると、そこにユダヤ人とアッシリア人の混血の民サマリア人が生まれ、独自の宗教が始まりました。それにもかかわらず、中には真の神、ヤハウェを信じるユダヤ人たちが残されていて、エルサレムの神殿に上って礼拝をささげていたのです。彼らはエルサレムが破壊されたことを知りながら、なおもそこで礼拝をささげようとしてやって来たのです。5節に、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけとあるのは、深い悲しみを表しています。神殿が焼失してからしばらく経っていましたが、彼らは秋に行われる祭りを、神に対する悔い改めの日にしようとしたのです。動物のいけにえを持っていなかったのは、それをささげる場所がなかったからです。北王国イスラエルに、このような真の神、ヤハウェを信じる神の民が残されていたことは驚きですね。おそらく南ユダ王国のヒゼキヤ王やヨシヤ王によって行われた宗教改革の影響が残っていたのでしょう。神を求める人はだれもいないと思えるような今日にあっても、私たちの知らないところで、神はこうした残りの民を備えておられるということを知ることは大きな励ましです。

さて、彼らが主の宮にやって来たということを聞いたイシュマエルはどうしたでしょうか。6節を見てください。彼は彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行ったとあります。それは彼らを騙すための演技でした。そして彼らに出会ったとき彼はゲダルヤの家に誘い込み、彼らを殺してしまいました。何と残虐な行為でしょうか。しかし、彼らのうちの10人が「殺さないでください」と懇願し、小麦、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼らを殺しませんでした。それでイシュマエルはミツパに残っていたすべての民を捕虜にして、アンモン人のところに渡そうとして出発したのです。彼はゲダルヤを殺害しただけでなく、主を礼拝するために北からやって来た人たちを虐殺したのです。いったいなぜ彼はこんな酷いことをしたのでしょうか。また、なぜ聖書はこの出来事を事細かにここに書き記しているのでしょうか。

多くの学者は、それはこのイシュマエルの残虐な人間性を示すためであったと考えていますが、そのことを示すためにわざわざこの出来事を記録したのでしょうか。それで他の学者は、これは彼の貪欲さを示すためであった考えています。それは8節に、彼らのうちの10人がイシュマエルに小麦とか、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼は殺すのを止めたとあるからです。確かにそのような理由もあったでしょうが、もっと深い理由があったのではないかと思います。というのは、ただやみくもに通りがかりの人を虐殺したとは考えにくいからです。であれば、その理由とは何でしょうか。

それは、政治的、宗教的な理由です。なぜゲダルヤがエルサレムを治めなければならないのか。エルサレム神殿が破壊されたのに、なぜエルサレムで礼拝をささげなければならないのかということです。エルサレムを治めるのはダビデの家系である自分ではないのか。それなのにバビロンの王はゲダルヤを総督として立てた。そんなの断じて許せないし、認めることなどできない。だからイシュマエルはアンモン人の王と結託してゲダルヤを暗殺したのです。だからイシュマエルはサマリアからやって来た巡礼者一行を虐殺したのです。彼は、自分の先祖ソロモンが建てた神殿以外で行われる礼拝を受け入れることができなかったのです。彼はただやみくもに通りがかりの人を殺したわけではありません。バビロンの支配下で営まれる政治や宗教はすべて偽りであるとみなし、これを排除しようとしたのです。

強いて言うならば、彼は神のみこころを受け入れることができなかったのです。これらのことは、それを拒絶しようという思いから出た行為だったのです。というのは、神のみこころは何でしたか?神のみこころは、彼らがこの地に住んでバビロンの王に仕えることだったからです。40章9節を振り返ってみましょう。ここには、「ガルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。どうすれば、幸せになりますか?この地に住んで、バビロンの王に仕えるなら、幸せになります。それが神のみこころだったのに、彼はそれを受け入れることができませんでした。「なぜ、バビロンに仕えなければならないのか」、「なぜ異邦人の言いなりにならなければならないのか」、「神は勝利を与えてくださるはずじゃないか。だから最後まで戦うべきではないか。それをしないのは不信仰だ。」と。ですからこれは彼が単に残虐な人間だからとか、貪欲な者であったということを示しているのではなく、神のみこころに従おうとしなかった頑なさが、このような事件を引き起こしたということを示しているのです。このように、イシュマエルの行動の動機というものを、神との関係、宗教的な点に求めてこそ、これらの出来事の本当の原因が見えてくるのです。

それはイシュマエルに限ったことではなく、私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも自分の中で受け入れられないことがあると、イシュマエルのような気持ちになることがあります。

先日、ある牧師から電話がありました。その牧師は臨床心理の専門家と協力して心が病んでいる方を助けてあげたいといろいろな情報を発信しているのですがなかなか思うように広がらないので、どうしたら良いかアドバイスしてほしい、ということでした。そんなに親しい方ではないのになぜ私に電話をしてきたのか不思議に思いましたが、ずっと話を聞いていると電波の関係であまりよく聞き取れないこともありましたが鉄砲のように話し続けて止まらないので、聞いていてホトホト疲れ果ててしまいました。一生懸命に説明しようとしているのはわかりますが、そもそも私は人の心を癒すのは神ご自身と神のことばによるのであって、人間の科学や哲学は癒すことはできないと考えているので、「ごめんない。私はすこし体調を崩していることもあって休養しているので、お手伝いしていることはできません。」と丁重にお断りすると、今度はそのことについて突いてくるのです。「先生、信仰はどうしたんですか。そういう時だからこそ信仰が問われているんですよ。信仰は頭だけでなくその実践が大切なんですから」と。
  私はそのことばを聞きながらこう思いました。「この牧師は一生懸命なのはわかるけれど一生懸命になりすぎて回りが見えなくなっているんだなぁ」と。だから、そうでない状況を受け入れることができないのです。

これがこの世に対してですと、顕著にみられます。どうして自己中心の塊みたいな夫に仕えなければならないのか、どうして未信者の上司の言うことを聞かなければならないのか、どうして不信者の政治家が作ったこの世の制度に従わなければならないのかと。皆さん、どうしてですか。どうして神を信じていないこの世の言うことを聞かなければならないのですか。それは、聖書にそう書かれてあるからです。ローマ13章1~2節にはこうあります。

「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。13:2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」

これが、聖書が教えていることです。たとえそれが未信者であっても、人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らっているのであって、そのような者は自分の身にさばきを招くことになるのです。

これがイシュマエルの問題でした。これが私たちの問題でもあります。その結果、イシュマエルのように人を殺すようなことはしなくとも、自分の考えに固執するあまり、いつまでも神のみこころに立つことができないでいることがあるわけです。神のみこころに従うというよりも、あくまでも自分の思いを通したいのです。あたかも自分が神になったかのような錯覚をしてしまうのです。これは本当に危険なことです。箴言16章18節に、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とある通りです。

この世は、上へ、上へと、人を追い越していくようにと駆り立てますが、聖書は、キリストが十字架にかかった後によみに下られたように、低いところに下ることの祝福を教えています。つまずき倒れたその先に、自分が知らなかった世界を見出すこともあるのです。水が高い所から低い所に注がれるように、神の恵みも高い所から低い所に注がれるのです。大切なことは神を認め、神のみこころに従うことです。それが謙遜であるということです。神の前になぜと問う前に、みこころが天で行われるように地でも行われますように、私の人生にも行われますようにと祈らなければなりません。

Ⅱ.主のはかりごとだけが成る(11-15)

次に、11~15節までをご覧ください。

「41:11 しかし、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいた軍のすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルが行ったすべての悪を聞くと、41:12 部下をみな連れて、ネタンヤの子イシュマエルと戦うために出て行き、ギブオンにある大池のほとりで彼を見つけた。41:13 イシュマエルとともにいたすべての民は、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいるすべての高官を見て喜んだ。41:14 こうして、イシュマエルがミツパから捕らえて来た民のすべては身を翻し、カレアハの子ヨハナンの側についた。41:15 ネタンヤの子イシュマエルは、八人の者とともにヨハナンの前から逃れ、アンモン人のところへ行った。」

イシュマエルの行為に対して、カレアハの子ヨハナンは黙っていませんでした。ヨハナンは、40章でイシュマエルによる暗殺計画を総督ゲダルヤに伝えた人物です。ゲダルヤの死後、ユダに残された将校たちのリーダーになっていた彼は、部下を連れてイシュマエルのあとを追い、ギブオンで彼に追いつくと、捕らわれていた人々は、この時とばかりにヨハナンの側についたので、イシュマエルは生き残っていた自分の部下8人とともにヨハナンの前から逃げ、アンモン人のところへ行きました。

イシュマエルは、ミツパにいたすべての民をとりこにしてアンモンに向かいながら、すべてがうまくいっていると感じたことでしょう。しかし、神は彼の悪い行いをカレアハの子ヨハナンと将校たちを用いて、討ち破られたのです。箴言19章21節に、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」とあります。どんなに人が計画を立てても、主のはかりごとだけが成ります。神のみこころにかなわない計画は絶対に成功しません。表面的には順調に進んでいるかのように見えても、神がともにおられないならば、成功することはないのです。しかし、それがどんなに苦しくても自分に対する神の計画ならば、こんなはずではなかったと思うような出来事や試練に遭遇することがあっても、それは必ず成し遂げられます。むしろ、そのような経験さえも神に出会ったり、大きな祝福に導かれるために用いてくださるのです。

私は18歳の時、ある宣教師と出会い、教会に導かれ、神様に出会いました。ある日曜日の朝、私が自転車で教会へ行こうとしたら、母が私に言いました。
「とみちゃん、どこに行くの?」
 どこに行くのって教会に行くので、「ん、教会だよ。」と言うと、
「あんまり深入りしらんなよ」
と言いました。でも、いつしか深入りしてしまいました。
  その4年後に、その宣教師と結婚すると教会開拓に導かれました。あれから40年余、いろいろなことがありましたが、振り返ってみると、これが神様の計画だったんだなぁと、つくづく感じます。確かに辛いことや苦しいこともありました。その方が多かったかもしれない。時には辞めたいなあと思うこともありました。でもそのような経験を通して、もっと深く神を知ることができました。「あんまり深入りしらんなよ」と言った母も救われ、65歳の時に洗礼を受けました。どれだけの方々が救われたでしょうか。こんな小さな者を用いて、神様はいくつかの教会も生み出してくださいました。多くの奇跡も体験させていただきました。何よりも神の子としての特権が与えられ、永遠に神とともに生きるいのちが与えられました。これほどすばらしい人生を歩めるのは本当に幸いだと思います。マルチン・ブーマーは、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、そのような出会いが与えられたことを感謝しています。それが、神の計画だったんです。もしそれに従わなかったら、今頃どうなっていたか想像することもできません。

私たちには多くの計画がありますが、しかし、主のはかりごとだけが成ります。ならば、私たちに求められていることは、主のはかりごと、主の計画に歩ませていただくことです。あなたに対する神様のご計画は何ですか。それがあなたの思いと違っても、こんなはずじゃなかったと思うようなこともあっても、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じて、あなたに対する神の計画を祈り求め、その道を歩ませていただこうではありませんか。それは人それぞれ違いますが、たとえそれが自分の思いと違っても、「これが道だ。これに歩め」と言われる主の御声を聞き従いたいと思うのです。

Ⅲ.恐れないで主に拠り頼む(16-18)

ですから第三のことは、何も思い煩わないで、神にすべてをゆだねましょうということです。16~18節をご覧ください。

「41:16 ネタンヤの子イシュマエルがアヒカムの子ゲダルヤを打ち殺した後、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルから取り返したすべての残りの民、すなわちギブオンから連れ帰った勇士たち、戦士たち、女たち、子どもたち、および宦官たちを連れて、ミツパから41:17 エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまった。41:18 バビロンの王がこの地の総督としたアヒカムの子ゲダルヤを、ネタンヤの子イシュマエルが打ち殺したため、カルデア人を恐れたからである。」

カレアハの子ヨハナンを中心に、残されたわずかな数の民は思案します。このままでは自分たちはバビロンに疑われ、再び攻撃を受けるのではないかと。なぜなら、バビロンによって総督として立てられたゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃してしまったのですから。そこで彼らが考えたことは、エジプトに一時避難することでした。そこで彼らはミツパからベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまりました。「ゲルテ」とは「宿場」という意味です。ですから、新共同訳では「ベツレヘムに近いキムハムの宿場にとどまった。」と訳しているのです。

でも、それは主のみこころではありませんでした。なぜなら、昔からイスラエルの民には、エジプトに下ることが禁じられていたからです。たとえば、出エジプト14章13節には、「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」とありますし、申命記17章16節には、「ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。【主】は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。」とあります。かつて奴隷として捕えられていたエジプトに帰ることは、出エジプトという神の恵みにあずかりながら、古いエジプトの生活に戻ることであり、神のみこころに反することだったのです。それなのになぜ、彼らはエジプトに行こうとしたのでしょうか。それは18節にあるように、カルデア人を恐れたからです。ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしてしまったことで自分たちが疑われ、再び攻撃されることを心配したのです。

皆さん、恐れや不安があると正しい判断や決定を下すことができません。不安は前をさえぎる黒い雲のようなものです。不安な心は神から与えられるものではなく、自分の思いから出てきます。神とともに歩む人は神が与えてくださる平安の中で、神のみこころに歩むことができるのです。

カレアハの子ヨハナンは有能な将校でした。政治的な判断に優れ、物事の動きを洞察する力がありました。しかし、そんな彼にも欠けているものがありました。それは信仰です。神のみこころはエレミヤが預言したように、この地に住んで、バビロンの王に仕えなさいということでしたが、彼はそれを受け止めることができませんでした。自分たちが疑われるのではないかと心配し、その仕打ちを受けることを恐れて、そこから逃れる道を考えたのです。

私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。困難に直面した時、まだ起こっていなことをあれこれと想像して不安になることがあります。そんな時私たちに求められていることは、自分たちの知恵でそれを解決しようとするのではなく、まず神の御前にひれ伏し、自分自身を点検し、悔い改めて、主のみこころを求めて祈ることです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたかたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

19世紀のアメリカの伝道者W・D・コールは、「平安、天から臨む平安、その愛の波が、とこしえにわがたましいを覆いますように。」と言いました。神から与えられる平安こそ、恐れや困難の中にあっても神のみこころを正しく知り、みこころに従うことができる原動力なのです。

あなたが恐れていることは何ですか。何を心配していますか。それを永遠の避け所である神のもとに持って行き、神に知っていただきましょう。神に拠り頼みましょう。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、あなたの理解をはるかに超えた神の平安で、あなたの心と思いを守ってくれます。そして主のみこころを悟り、みこころに従うことができるようになるのです。ですから、最後にまとめとして、ピリピ人への手紙4章6~7節を読んで終わりたいと思います。

「4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

混乱と恐れが襲ってくる時には、永遠の避け所である主のもとへ行き、神に拠り頼むことができますように。それがみこころを知り、みこころを行うために私たちにも求められていることなのです。

エレミヤ40章1~16節「そうすれば、幸せになる」

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エレミヤ書40章に入ります。今日のタイトルは、「そうすれば、幸せになる」です。どうすれば幸せになるのでしょうか。主のみこころに従うなら、です。9節に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。なぜなら、それが神様のみこころだからです。神のみこころに従うなら、あなたは幸せになるのです。

今日は、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、エレミヤの選択です。彼はバビロンに行くこともできましたが、エルサレムに留まり、貧しいユダの民の中に住むことを選びました。なぜでしょうか。それが神のみこころであると確信したからです。第二のことは、ユダの総督に任じられた総督ゲダルヤの誓いです。彼はエルサレムに住むユダの民に、バビロンの王に仕えるようにと勧めました。なぜなら、それが神のみこころだからです。そうすれば、幸せになると、彼は確信していたのです。第三のことは、主のみこころに従うためには状況をよく見極める必要があるということです。それを誤ると、とんでもない結果になってしまうことがあります。ですから、神のみこころに従うためにはそれを妨げる悪魔の策略に対処し、状況をしっかりと見極めなければなりません。

 Ⅰ.エレミヤの選択(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。

「40:1 【主】からエレミヤにあったことば。バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。

ここに、「主からエレミヤにあったことば」とありますが、本文を見るとどこにも主のことばは見当たりません。この後で主がエレミヤに語られるのは42章7節です。ですから、このエレミヤにあった主のことばとは、ここから始まるエレミヤ書にとって一つのまとまりとなる45章の終わりまでの表題と考えられます。この一つのまとまりには、エルサレムが陥落した後どのようなことが起こったのかが記録されてあります。それ全体の表題なのです。では、その時どんなことがあったのでしょうか。

この1節の残りの部分には、「バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。」とあります。
  ここには、捕囚の民として鎖につながれていたエレミヤを、バビロンの親衛隊の長ネブザルアダンが釈放した時のことが記されてあります。「ラマ」とは、エルサレムの北方8キロのところにあるベニヤミン領内にある町ですが、エレミヤはそこで釈放されました。エルサレムが陥落した後、バビロンに捕え移されるユダの人々はこのラマに集められたのですが、その中にエレミヤもいたのです。それを見たバビロンの親衛隊の長ネブザルアダンは、即座に彼を釈放しました。なぜでしょうか?その理由が2節から4節までにあります。

「40:2 親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。40:3 そして【主】はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。40:4 そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気に入らないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」

彼はバビロンの親衛隊の長でしたが、エルサレムが陥落した時バビロンの王ネブカドネツァルからこのように命じられていました。39章12節です。

「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ彼があなたに語るとおりに、彼を扱え。」

バビロンの王がなぜこのように言ったのかはわかりません。おそらく彼は、エレミヤが語っていたことを聞いていたのでしょう。つまり、バビロンに降伏することが主のみこころであり、ユダの民が生き残る道であるということを、です。そのように預言していたエレミヤを、ネブカドネツァルはよくしてあげようと思ったのです。それは親衛隊の長のネブザルアダンも同じでした。2節と3節にあるように、彼がエレミヤを連れ出して、彼に、「あなたの神、主は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。そして主はこれを下し、語ったとおりに行われた」と言っているように、彼は幾度となくエレミヤの語っていた預言を聞いていたのです。それがそのとおりになったのを見て、それはイスラエルの神、主がなされたことであると認め、その偉大な神の御業のゆえに、エレミヤを釈放しようと思ったのです。

本当に皮肉なことですが、契約の民であるイスラエル人が認めなかったことを、何と異邦人であったネブカドネツァルやネブザルアダンは認めていたのです。彼らの目には、それがイスラエルの神、主の御業であることが明らかだったのです。信者である人たちには見えていないことが、未信者の人たちに見えていることがあるわけです。それで親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤの手にある鎖を解いて釈放し、彼に二つの選択肢を与えました。一つは、彼と一緒にバビロンへ行くか、もう一つは、もし行きたくなければ、どこでも自分の好きなところへ行っても良いということでした。もし彼と一緒にバビロンに行くなら、エレミヤが生活するのに困ることが無いように彼の世話をするとまで約束しました。さあ、このネブザルアダンの提案を聞いて、エレミヤはどのように反応したでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「40:5 しかしエレミヤがまだ帰ろうとしないので、「では、バビロンの王がユダの町々を委ねた、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住みなさい。でなければ、あなたが行くのによいと思うところへ、どこへでも行きなさい。」こうして親衛隊の長は、食糧と品物を与えて、彼を去らせた。40:6 そこでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行って、彼とともに、その地に残された民の間に住んだ。」

エレミヤは、なかなか動こうとしませんでした。それはネブザルアダンに対する敬意のゆえでしょう。彼と一緒にバビロンへ行くなら私があなたの世話をしようとまで言ってくれたのに、それをむげに断るのは申し訳ないと思ったに違いありません。そんなエレミヤに対してネブザルアダンは、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住むようにと勧めました。エレミヤがずっと動かないでいるのを見たネブザルアダンは、それはエレミヤがバビロンに行きたくないという意志表示だと受け止めたのです。それでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行き、彼とともに、その地に残された民の間に住みました。エレミヤにとっては貧しいユダの民と一緒にエルサレムに残るよりは、安定した生活が保障されていたバビロンへ行った方がはるかに良かったはずです。それなのに彼は、ユダにいる残りの民と一緒にいることを選んだのです。なぜでしょうか。2つの理由が考えられます。

一つは、その地の総督に任じられたゲダルヤの存在です。5節には「シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤ」とありますが、彼の父親のアヒカムは、かつてエレミヤのいのちを救った人でした。26章24節には、「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」とあります。これはどういう背景で語られたかというと、当時のユダの王エホヤキムは、エレミヤのように預言していたシェマヤの子ウリヤをエジプトから連れて来させて剣で打ち殺しましたが、エレミヤはその難を逃れることができました。それはこのゲダルヤの父アヒカムの助けがあったからです。アヒカムはエレミヤをかばい、彼が民の手に渡されて殺されることがないように手配したのです。エレミヤはそのことを感謝して、若くして総督となった彼の息子のゲダルヤを支援するために、エルサレムにとどまろうと思ったのかもしれません。

しかし、エレミヤがエルサレムの住むことを選んだ最大の理由は、それが彼に与えられていた使命だったからです。42章2~3節をご覧ください。

「42:2 預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを受け入れてください。私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、【主】に祈ってください。ご覧のとおり、多くの者の中からわずかに私たちだけが残ったのです。42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」」

ここにはユダに残っていた人々がエレミヤのところに来て、神のみこころを求め、彼らのために祈ってくれるようにと懇願したとあります。バビロンに捕え移された人たちはそこである程度の生活が保障されていましたが、バビロンに連れて行かれずエルサレムに残された民はみな貧民で、日々の生活もままならず、大変混乱していました。エレミヤはそうした状況を見て、そこに残った貧しいユダの民に仕えることこそ神のみこころであり、自分に与えられている使命だと確信したのです。確かにバビロンへ行ってネブザルアダンの保護の下、平和に暮らすことも考えたでしょう。でも彼は自分にとって何が良いかということよりも、神に喜ばれることは何か、何が良い事で神に受け入れられ、完全であるのかを求めたのです。

へブル11章24~25には、「24 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」とあります。聖書ではエジプトとかバビロンはこの世の象徴として描かれていますが、信仰によって、モーセがエジプト王のファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったように、エレミヤも信仰によって、この世の楽しみにふけるよりも、神の民とともに苦しむことを選び取りました。それが神のみこころであると受け止めたからです。

皆さんがエレミヤの立場だったらどうしたでしょうか。あなたの好きなようにしても良いと言われたら、「ヤッター!」とこぶしを突き上げて喜びますか。こんな所にいるよりも、ネブザルアダンの保護の下、バビロンで平和に暮した方がよっぽどいい」と決断したでしょうか。それでも良かったんです。それは神が許されていたことでしたから。それでも彼がエルサレムにとどまったのは、自分に与えられている神様からの使命を確信していたからです。

このような時私たちは、自分の愛がどこにあるかが試されます。でもそれを判断する決め手というか、目安は何かというと、このエレミヤのように自分に与えられている使命は何なのか、役割は何かを考えて祈ることです。あなたに与えられている使命は何ですか。神があなたにしてほしいと願っておられることは何でしょうか。それを知ることは、あなたがより良く神のみこころを知り、みこころに従うために有益なことです。

私の友人の牧師に、仙台で牧会しておられる鈴木茂という牧師がおられますが、この年末年始にかけて何度かメッセンジャーでのやり取りをしました。その中で鈴木先生がこのようなことを言われました。

「私たちはここで31年目に入ります。本当に時の流れは速いです。ここでこんなにも長く留まるとは思いませんでした。100%はわかりませんが、でも気持ちの中ではここでよかった、と思っています。我武者羅の期間は、もう過去のことで、今は体が「No」と教えてくれます。これも恵みですね。今思うと、40代前半までは、朝から晩まで、とは言わないですが、水曜日の朝の祈り会の学びの後、個人的な学びや相談を聴いたり、そして夜の祈り会で再び学びを導いたり・・・。今思うと、不思議なことです。今はできません。よかったのかどうか???これも100%わかりません。今は、自分の心、人の心のケアーや形成を中心に歩んでいます。昔のようにはいきませんが、今の方がいいように感じます。ある意味これから、と思える部分もあります。妻も私も今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。と、言っても大したことはできていませんが。」

謙遜な先生らしいことばだなぁと思いますが、このメールを読ませていただいて私の心に留まったのは、「これで良かったのかどうか100%わかりません」という言葉と、「今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。」という言葉です。そうなんですよね、これで良かったのかどうか100%わかる人などいないと思うんです。でもその中で先生ご夫妻は心のケアー、情緒的なケアーを中心に働きをされておられる。それが自分たちに与えられた役割であると受け止めておられるからです。

そうなんです、私たちもこれで100%良かったと言える人なんていないと思うんです。またこれから先、これが道だ、これに歩めというご聖霊様の声を聞いても、100%確信できるかというとそうではないと思います。それが大きければ大きいことであるほど、私たちは悩みます。でもそのような中でもエレミヤのように、あるいは鈴木先生のように、神様から与えられている使命は何か、自分が果たすように神からゆだねられている役割は何かを知るなら、確信をもってその道を選択することができるのではないでしょうか。

いずれにせよ、大切なことは、エレミヤが自分の思いのままに選択したのではなく、神のみこころを求めて祈った結果そのようにしたということです。注意しなければならないことは、それが神のみこころではないのに、ただ自分の思い、自分の心が欲していることなのに、あたかもそれが神のみこころであるかのように思い込んでしまうことです。そういうのを勘違いと言います。そういうことがないように、私たちはいつも本物である神のことばを聞き、それを見分けることができるように祈らなければなりません。

Ⅱ.ゲダルヤの誓い(7-12)

次に、7~12節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「40:7 野にいた軍の高官たちとその部下たちはみな、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその地の総督にして、バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、その地の貧しい民たちを彼に委ねたことを聞いた。40:8 そして彼らはミツパにいるゲダルヤのもとに来た。ネタンヤの子イシュマエル、カレアハの子ヨハナンとヨナタン、タンフメテの子セラヤ、ネトファ人エファイの子ら、マアカ人の子エザンヤ、そして彼らの部下たちであった。」

エルサレムに残った貧しいユダの民の統治のため、バビロンの王ネブカドネツァルは、アヒカムの子ゲダルヤをその地の総督として任命しました。それで野にいた軍の高官たちやその部下たちはみな、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ました。「ミツパ」はエルサレムの北方10キロにあるベニヤミンの領内にある町ですが、ゲダルヤがミツパにいたのは、エルサレムが焼き払われていたのでそこに行政機関を置くことができなかったからです。それで彼らはみなミツパにいたゲダルヤの下にやって来たのです。

そのときゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓って言いました。9節10節です。

「40:9 シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓った。「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。40:10 この私は、見よ、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデア人の前に立とう。あなたがたは、ぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むがよい。」」

ゲダルヤは、エレミヤの預言をきちんと聞いていました。エレミヤは彼らに、バビロンに服しその中で生きるなら、あなたがたは幸せになると言っていましたが、その通りに伝えたのです。さすがアヒカムの子どもですね。アヒカムについては先ほど見たようにエホヤキム王の時代にエレミヤを救った人物ですが、彼にはそうした霊的な目と、神を恐れる思いがありました。そうした父親の後ろ姿を見て育った彼にも、そうした思いがあったのでしょう。それだけではありません。ゲダルヤの父親の父親、すなわち祖父のシャファンという人物はヨシヤ王の時代に書記を務めていた人です。エレミヤが預言者として召されたのはそのヨシヤ王の第13年でしたが(1:13)、ゲダルヤはこの祖父のシャファンを通してもエレミヤの預言をずっと聞いていて、神のみこころが何であるかをわきまえることができたのです。ですから彼はエレミヤが預言していたとおり、バビロンに服し、バビロンの王に仕えるなら、あなたがたは幸せになると明言することができたのです。

それだけではありません。彼はこのミツパに住んで、自分たちのところに来るカルデア人の前に立とうと言っています(10)。どういうことですか?自分が責任をもってカルデア人と交渉するという意味です。だからあなたがたはぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むようにと勧めたのです。そこには相当の覚悟があったことがわかります。イエス様は、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われましたが、エレミヤ同様彼も、自分のいのちを削っても、他の人にささげる覚悟がありました。なぜ?彼も神のみこころを求め、みこころに従いたいと願っていたからです。

そんな彼のもとに、さらに多くの人たちが集まって来ました。11節、12節には、「11 モアブや、アンモン人のところや、エドムや、あらゆる地方にいたユダヤ人もみな、バビロンの王がユダに人を残したこと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを彼らの総督に任命したことを聞いた。12 そこで、ユダヤ人はみな、散らされていたすべての場所からユダの地に帰って来て、ミツパのゲダルヤのもとに行き、非常に多くのぶどう酒と夏の果物を収穫した。」とあります。
  これらの人たちは、バビロンが攻めて来たことを知って周辺の諸国に逃亡していた人たちです。そんな彼らもゲダルヤが総督になったといううわさを聞いて、ミツパの彼のもとに集まって来たのです。彼らもまた夏の収穫を採り集め、安定した生活をすることができました。それはみこころに従ったゲダルヤのことばに従ったからです。もちろん、その背後にはエレミヤの助言があったのは間違いありません。主のみこころに従うなら、必ず祝福されるのです。

Ⅲ.ゲダルヤの失敗(13-16)

しかし残念ながら、その安定は長続きしませんでした。その理由は、ゲダルヤが神のみこころを見極めるのを失敗したからです。13~16節をご覧ください。

「40:13 さて、野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパのゲダルヤのもとに来て、40:14 彼に言った。「あなたは、アンモン人の王バアリスがネタンヤの子イシュマエルを送って、あなたを打ち殺そうとしているのをご存じですか。」しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、彼らの言うことを信じなかった。40:15 カレアハの子ヨハナンは、ミツパでひそかにゲダルヤに話して言った。「では、私が行って、ネタンヤの子イシュマエルを、だれにも分からないように打ち殺しましょう。どうして、彼があなたを打ち殺し、あなたのもとに集められた全ユダヤ人が散らされ、ユダの残りの者が滅びてよいでしょうか。」40:16 しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。」」

野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパにいたゲダルヤのもとに来て、アンモン人の王バリアスがネタンヤの子イシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしていることを密告します。なぜアンモン人の王がゲダルヤを打ち殺そうとしたのかはわかりません。おそらくゲダルヤがユダの総督になったとき、アンモンに逃れたユダの民がゲダルヤのところに帰って行くのを見て、快く思わなかったのでしょう。それで彼はネタンヤの子のイシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしたのです。しかし、ゲダルヤは彼らの言うことを信じませんでした。むしろイシュマエルの暗殺を逆に申し出たカレアハの子ヨハンナに対して、「そんなことをしてはいけない。あなたこそ、イシュャマエルについて偽りを語っているからだ。」と叱責しました。

カレアハの子ヨハンナは将校として有能で、物事に対処するのに長けた人物でした。ユダの人たちのために総督ゲダルヤを守らなければならない。そしてそのためにだれにもわからないように先制攻撃をした方がよいという助言は、政治的判断としては優れていました。けれども、ゲダルヤ本人はというと、こうした現実的な危機に対しては全く無頓着、極端なお人好しでした。こうした動きに対して先に打ち殺すまではしなくても、自分の周りにたとえば警備兵を置くとか、イシュマエルの動きをしっかり監視するなど、何らかの対策を取るべきだったのに、ヨハンナの助言を聞くどころか、逆に彼がイシュマエルを妬んで彼について悪く言いふらしていると思って叱責したのです。

確かに、このような時、リーダーはどのように対処したらよいか悩むところです。ある面でゲダルヤの対応は神を恐れる者として、陰口とか悪口とか、密告といったことを鵜呑みにせず、真実を確かめるまでは慎重に取り扱おうとしたという点では評価できます。しかし、総督として、また群れのリーダーとして、目の前に起こっている動きを見極めるという点では失敗しました。特に、このネタンヤの子イシュマエルですが、41章1節には「王族の一人」と紹介されていますが、彼の祖父エリシャマは、ダビデの息子の一人でした(Ⅱサムエル5:16)。あのソロモンの兄弟にあたります。ということは、イシュマエルはダビデのひ孫にあたる人物だったのです。ゲダルヤとしては、まさかダビデの家系に属する者が主のみこころに反して自分を暗殺するなどあり得ないと思ったのでしょうが、脇が甘かった。ダビデの家系に属する者だからこそ、そのような危険性があったのです。つまり、イシュマエルは自分がダビデの家系であることから、自分こそユダを統治する人物としてふさわしい者であるという思いから、ゲダルヤに敵対する恐れがあったのです。それを見極めることができませんでした。

リーダーシップの本を開くと、リーダーには未来を見通す目が必要だと異口同音に語られています。ではどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。人間には明日のことさえわからないのですから、そのような人間がどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。

私の尊敬する牧師の一人に、兵庫県で牧会しておられる大橋秀夫という先生がおられます。私の名前と一字しか違わないので、以前アメリカからロバート・ローガンという教会成長学者が来日した時、先生をBig Ohashiと呼び、私をLittle Ohashiと呼びました。私の方が背が高いのにLittle Ohashiとは失礼じゃないかと思いましたが、私などはこの先生の足元にも及ばないので、やはりLittle Ohashiだと納得したわけですが、このBig Ohashiが「聖書を読むとリーダーシップがわかる!」という本をお書きになり、昨年のクリスマスにわざわざ送ってくださいました。その本の最後のところに、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しておられます。
  「彼らは、「時間」すなわち人生を現在から過去を見て前に進むと考えている。ちょうどボートに乗って向こう岸に漕ぎ出すのと同じなのだ。未来は見えない。見えるのは過去だけ。まっすぐに進むために目印となるのは進んできた航跡(こうせき)だ。それによって起動を修正しながら進むと考えている。日記は、そんな自分の人生を進むうえでの航跡と言えるだろう。それをもって人生を紡ぎ、心の闇を克服することができると考える。」

未来を見通すために過去を見る。過去を見て起動を修正しながら進んで行くというユダヤ人の時間に対する見方は見事だなぁと思いました。その過去を見る上で勿論日記をつけるのも良いでしょう。それを見て過去を振り返ることは有益なことです。しかし、その中でも聖書を見て振り返ることはもっと有益なことです。なぜなら、そこには自分の過去だけでなく、この歴史を動かされた神の軌跡を見ることができるからです。
  残念ながら、ゲダルヤはそういう目を持っていませんでした。彼には霊的な目と神を恐れる思いがありましたが、過去の歴史から学ぶという実践的な面に欠けていたのです。

かくしてゲダルヤによる統治は、わずか2か月で終わってしまいました。これは、ユダヤ人にとっては衝撃的なことでした。ですから彼らはそれ以来、エルサレムの陥落を記念する断食と並行して、ゲダルヤの死を哀悼するための断食を行うようになりました。それが、第七の月の断食(ゼカリヤ7:5,8:19)です。

私たちは、このゲダルヤの暗殺から何を教訓として学ぶことができるでしょうか。神のみこころに従うためにはそれを妨げる様々な悪魔の策略があるということ、そしてその策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなければならないということです。エペソ6章14~18節には、その武具とはどのようなものかが記されてあります。すなわち、「6:14腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」ということです。それがみこころに生きるために求められているのです。

そうすれば、あなたはしっかりと神のみこころを見極めることができます。そうすれば、あなたは幸せになるのです。たとえそれがこの世の考えと違うことであっても、みことばと祈り、信仰によってみこころに堅く立ち続けるなら、あなたは幸せになるのです。そのような生涯を共に送らせていただきましょう。そのために神のみこころを知り、みこころに従うことを求めていきたいと思います。

エレミヤ39章1~18節「主に信頼する者は守られる」

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きょうから、エレミヤ書の講解説教に戻ります。きょうは39章全体から、「主に信頼する者は守られる」というタイトルでお話します。これまでエレミヤを通して何度も語られてきたエルサレム陥落の預言が、ここに実現します。これは旧約聖書を理解する上でとても大切な鍵になる出来事なのでぜひとも覚えておいていただきたいのですが、前586年のことです。しかし、その中にあっても救われた人たちがいます。それはこのエレミヤであったり、クシュ人エベデ・メレクといった人たちです。どうして彼らは救われたのでしょうか。それは彼らが主に信頼したからです。きょうの箇所の17節と18節にこうあります。

「17 しかしその日、わたしはあなたを救い出す──主のことば──。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。18 わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ──主のことば。』」

皆さん、主に信頼する者は守られます。主はそのような人を必ず助け出してくださるのです。きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一に、エルサレム攻め取られた次第です。エルサレムはどのように陥落したのでしょうか。それは主が語られた通りでした。主が語られたことは必ず実現するのです。第二のことは、そのような中でもエレミヤは解放されました。どうしてでしょうか。それはエレミヤが語ったとおりになったことを、異教徒のバビロンの王ネブカドネツァルや親衛隊の長ネブザルアダンが認めたからです。つまり、彼らはそれが神の御業であることを認めたのです。だから、神が語られたことは必ず実現すると信じて、神に信頼しなければなりません。第三のことは、クシュ人エベデ・メレクの救いです。彼は異邦人でありながどうして救い出されたのでしょうか。それは、彼が主に信頼していたからです。主に信頼する者は守られるのです。

 Ⅰ.エルサレム陥落(1-10)

まず、1~10節をご覧ください。1~3節をお読みします。

「1 ユダの王ゼデキヤの第九年、第十の月に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲した。2 ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日に、都は破られ、3 バビロンの王のすべての首長たちが入って来て、中央の門のところに座を占めた。すなわち、ネルガル・サル・エツェル、サムガル・ネブ、ラブ・サリスのサル・セキム、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェル、およびバビロンの王の首長の残り全員である。」

前の章、38章の最後の節には、「エルサレムが攻め取られた次第は次のとおりである」とありますが、ここにはエルサレムが攻め取られた次第、すなわち、エルサレムがどのように陥落したのかが記されてあります。
  ユダの王ゼデキヤの第九年とはユダヤの暦ですが、これは現代の暦で言うと前588年のことです。その年の第十の月に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻め入り、これを包囲しました。そしてゼデキヤの治世の第十一年の第四の月、これは現代の暦で言うと前586年7月となります。ですから、実に2年半もの間、エルサレムはバビロンによって包囲されていたわけですが、ついにその城壁が破られる時が来たのです。その時、バビロンの王のすべての首長たちがエルサレムに入って来て、中央の門のところに座を閉めました。これは、軍の総司令本部を置いたということです。エルサレム陥落です。

それを見たユダの王ゼデキヤはどうしたでしょうか。4~7節までをご覧ください。

「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」

それを見たゼデキヤとすべての戦士は逃げ、夜の暗やみに乗じてエルサレムを脱出し、アラバへの道に出ました。アラバは、ヨルダン川沿いの南北に伸びている低地です。すなわち、彼らはエリコの方面に逃げたわけです。しかし、そのエリコの草原でバビロンの追跡軍に追いつかれると、捕らえられてハマテの地リブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れて行かれました。リブラはエルサレムの北約350キロのところにあります。ゼデキヤはそこでネブカドネツァルと対面することになったのです。

するとバビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみな虐殺しました。しかし、ゼデキヤは剣で殺されることはありませんでした。彼は両目をえぐり取られ、青銅の足かせにつながれて、バビロンに連れて行かれることになりました。ゼデキヤがその目で最後に見たのは、自分の息子たちが殺される光景でした。なんと悲惨な人生でしょうか。このようにして、エルサレムは陥落し、城壁は破られ、町は火で焼かれ、そのおもな住民は、9節にあるように、バビロンへ捕囚の民として連れて行かれたのです。 

一方、何も持たない貧しい民の一部はどうなったかというと、10節にあるように、ユダの地に残され、ぶどう畑と畑地が与えられました。どうして彼らにぶどう畑や畑地が与えられたのかはわかりません。恐らくネブカドネツァル王は、それまで冷遇され、みじめな生活を強いられていたユダの貧しい人々が、悪利をむさぼり土地を自分たちの思うように使っていた身分の高い人々に反感を持っていたことを知っていたのでしょう。支配下に置かれた地域を有効に治めるために、彼らにぶどう畑や畑の所有権を与えることにしたのです。

問題は、こうしたエルサレムが陥落した一連の出来事は、これを読む読者に何を伝えようとしているのかということです。それは、神が語られたことは必ず実現するということです。それは、時にはのろいのようにしか見えないかもしれませんが、それが良いことであれ悪いことであれ、時が来ると必ず実現するのです。ここに記されてあることはすべて、預言者エレミヤによって預言されていたことです。それがここに実現したのです。たとえば、エルサレムはバビロンの王の手に渡され、火で焼かれることや、ゼデキヤは必ず捉えられて、彼の手、すなわちバビロンの王の手に渡されるということ、そこで彼はバビロンの王の目を見、王の口と語るということ、しかし彼は剣で死ぬことはなく、バビロンに連れて行かれることになるということについては、エレミヤが預言していたことでした。エレミヤ34章2~5節をご覧ください。

「34:2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。34:3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。34:4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。34:5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」

これはエレミヤが以前預言していたことです。この預言のとおりに、エルサレムは火で焼かれ、ゼデキヤ王は捕らえられてバビロンの王の手に渡されました。そこで彼はバビロンの王の目を見、彼の口と語りました。しかし彼は剣で死ぬことはなく、バビロンに連れて行かれることになったのです。また9節に「親衛隊の長ネブザルアダンは、都に残されていた残りの民と、王に降伏した投降者たちと、そのほかの残されていた民を、バビロンへ捕らえ移した。」とありますが、このこともエレミヤによって預言されていたことです。すなわち、これら一連の出来事は、預言者エレミヤによって預言されていたことがそのとおりに実現したということです。

エルサレムはどのように攻め取られたのでしょうか。すべてエレミヤによって語られていたとおりに、です。神が語られたことは必ず実現するのです。その時点では「どうかなあ」「そんなことはないだろう」と思うかもしれませんが、時が来ると、その通りであったことを知ることになります。

イスラエルを約束の地に導いた時のリーダーはモーセの従者ヨシュアでしたが、彼はその晩年、このように告白しました。

「23:14 見よ。今日、私は地のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、【主】があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。23:15 あなたがたの神、【主】があなたがたに約束されたすべての良いことが、あなたがたに実現したように、【主】はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、【主】がお与えになったこの良い地からあなたがたを根絶やしにされる。23:16 主があなたがたに命じられた、あなたがたの神、【主】の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、それらを拝むなら、【主】の怒りはあなたがたに対して燃え上がり、あなたがたは、主がお与えになったこの良い地から速やかに滅び失せる。」(ヨシュア21:14-16)

ヨシュアはその晩年、自分の生涯を振り返り、主が自分たちに約束されたことは、それが良い事であれ、悪いことであれ、一つもたがわずみな実現した、と告白しました。皆さん、主が約束されたことはみな実現します。たとえ今、何の変化もないようでも、時が来れば、神が語られたとおりに実現したことを知るようになるのです。

アメリカのミネソタ州にベイウィンド・クリスチャンチャーチという教会がありますが、その教会の牧師であるヘルマー・ヘッケル牧師の証を読んだことがあります。彼は、1958年にドイツからアメリカに移住した移民者です。彼はアメリカへの移住を果たすとすぐに路傍伝道で救われ、献身しました。その彼がドイツからアメリカにやって来た時のことを想起して、次のように言っています。
 「1958年12月、私は輸送船ブトナー号に乗ってドイツからアメリカにやって来ました。ブレマーハーフェン港を出港し、北海を通って北大西洋に入りました。船は荒波にもまれ、来る日も来る日も、北を向いても南を向いても、東を向いても西を向いても、見えるのはと言えば水また水、聞こえるものと言えば船のエンジンだけという単調なうなり声だけでした。
  しかし5日後に、劇的な変化がやって来ました。東と南に見えるのは海水だけでしたが、西には自由の女神像が朝日にきらめいていたのです。ようやくたどり着くことができたのです。」

彼は、ようやくたどり着くことができました。信仰によって歩むのもこれと同じです。私たちの置かれている状況は何の変化もないようですが、時が来れば、神が語られたことは必ず成就し、私たちは主のご計画のままに導かれてきたことを知るようになるのです。それは、これから先のことについても言えることです。聖書は世の終わりのことにどんなことが起こるかをはっきり語っています。であれば私たちはその神のことばを信じ、そのことばに従い、ただ神に信頼して、神に忠実に歩まなければなりません。たとえあなたの人生が拓かれていないように見えても、神は必ず語られたことを実現してくださいますから、ただみことばに信頼して歩ませていただきたいと思うのです。

エレミヤの解放 (11-14)

次に、11~14節をご覧ください。

「11 バビロンの王ネブカドネツァルは、エレミヤについて、親衛隊の長ネブザルアダンを通して次のように命じた。12 「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ彼があなたに語るとおりに、彼を扱え。」13 こうして、親衛隊の長ネブザルアダンと、ラブ・サリスのネブシャズバンと、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェルと、バビロンの王のすべての高官たちは、14 人を遣わして、エレミヤを監視の庭から連れ出し、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに渡して、家に連れて行かせた。こうして彼は民の間に住んだ。」

ここにはエレミヤの処遇について、バビロンの王ネブカドネツァルが親衛隊の長ネブザルアダンに命じたことが記されてあります。その内容は、エレミヤを連れ出し、目をかけてやれということでした。目をかけてやるとは、かわいがって面倒をみるとか、ひいきにするということです。バビロンの王はエレミヤをかわいがって面倒を見るようにと命じたのです。悪いことは何もするなと。ただ彼が語るとおりに、彼を扱うようにと。こうして親衛隊長のネブザルアダンとバビロンの王の高官たちは、人を遣わしてエレミヤを監視の庭から連れ出し、エルサレムの総督に任じられていたシャファンの子アヒカムの子ゲダルヤの家に連れて行かせました。そこは特別な保護の下で安全に過ごすことができる場所だったからです。これこそ神が備えられた助けだったのです。いったいなぜネブカドネツァルはこのように命じたのでしょうか。

恐らくエレミヤのことを誰かから聞いていたのでしょう。彼がどんなことを語っていたのかを。つまり、バビロンに降伏することこそが神のみこころであり、ユダの民が生きる道であるということを。彼はエレミヤが忠実な神の預言者であるとか、バビロンにとって有益な人物だからという理由で目をかけてやれと言ったのではありません。ただエレミヤが語っていたとおりになったのを見て驚いたのです。それは40章2~4節を見てもわかります。ここでは、そのネブカドネツァルの親衛隊の長ネブザルアダンがエレミヤを釈放する時にこのように言ったことが記されてあります。

「40:2 親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。40:3 そして【主】はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。40:4 そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気に入らないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」」

ここで親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤに、主はこの場所にわざわいを下すと語られたとおりに行われた、と言っています。つまりエレミヤが語ったとおりに、ユダの民が神の声に聞き従わず、神の前に罪ある者となったので、エルサレムが陥落した。だから、エレミヤを釈放すると言ったのです。彼は異教徒でありながらも、イスラエルの神、主がエレミヤを通して語られたしたとおりに成されたのを見て驚き、それが神の御業であると認めたのです。あなたも神のみことばに信頼し、神のみこころに従うなら、必ず神の御業を見るようになるのです。

私たちは、1983年に福島で開拓伝道をスタートしましたが、翌年から仕事を辞め仙台の神学校で学ぶことになったので、生活のために家で英会話クラスを始めるにしました。とはいっても、実質的にはやったのは私ではなく家内でしたが・・。そこに1人の年輩の男性の方で石川さんという方が来られました。この方は衣料品の卸業を営んでおられる方でしたが、以後、私たちが大田原に来るまでの20年間、ずっと学び続けてくれました。最初に来られた時はもう60を過ぎていましたから、その後20年というと、とうに80を超えていたかと思います。私たちは今でもこの方の話をすることがあります。どうして石川さんは私たちのところに来られたのかねと。

実はこの方の亡くなられた奥様がクリスチャンでした。そして奥様が通っておられた教会の牧師が、奥様の命日に毎年この方のお宅を訪れて祈ってくれていたんですね。そのことをよく私たちに話しておられました。だから私たちの家がボロボロの借家でも、看板に十字架があるということで信頼して来てくれたのだと思っていました。しかしある時、それもあったかと思いますが、それは神様が送ってくださったんだと確信するようになりました。

というのは、その後教会で会堂建設に取り組むことになりますが、私たちが建てようとしていた土地が調整区域といって建物を建てることができない土地だったのですが、この方の一言で大きく前進することになったからです。県から開発許可を受けることが難しく、もう止めようと諦めかけていたとき、英語のクラスの後でこの方が「だったらあの方にお話してみたら」と言われたのです。その方は県会議員をしている方でしたが宅建の資格を持っていて、その免許の更新の時によくお話する間柄だということでした。私も全然知らない方ではなかったので早速電話をしてみると、「一応、話だけはしてみます」ということでした。するとしばらくして県の担当者から連絡があり、申請に必要な書類を持って来てほしいと言われました。そして、ついに1997年11月に開発許可が下りたのです。それは祈り始めてから4~5年後のことでした。

私はその時、神様から与えられていたみことばを思い出しました。それは創世記26章22節のみことばです。

「イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」

これはイサクがペリシテの地に井戸を掘ったとき彼らから出て行ってほしいと言われ、仕方なく今度はゲラルの谷間に井戸を掘ると、ゲラルの羊飼いたちから「この水はわれわれのものだ」と言われて争いとなったため、仕方なくもう一つの井戸を掘らなければなりませんでした。それがこのレホボテです。意味は「広々とした地」です。イサクにとってそれは三度目の正直でしたが、私たちも開拓してから三度目の場所でした。しかもそこは600坪もある広々とした土地でした。ですからそれは私たちに対する神様からの約束だと受け止めましたが、すっかり忘れていたのです。しかし、こういう形で与えられたとき、そのみことばを思い出しました。あり得ないことです。でも神様はこのみことばの約束のとおりにしてくださいました。そのために神様は彼を送ってくださったのです。

20年ですよ。どうして神様は彼を送ってくださったのかわかりませんでしたが、後でわかりました。このためだったんだと。もちろん、伝道しましたよ。毎週英語のクラスの後で自然な会話をしながら、その中でイエス様を信じてくださいと勧めました。でも最後まで信じませんでした。決して受け入れたくないというわけではありませんでした。信じるならキリスト教だと思っていましたから。でもそのように勧める度にいつも笑ってこう言うのでした。「はい、自分が死ぬちょっと前に信じますから。」と。そんなのいつかわからないじゃないですか。今が恵みの時、今が救いの日です、と勧めましたが、結局私たちが大田原に来るまで信じることはありませんでした。そして、こっちに来てからその方が召されたことを知りました。本当に残念です。あんなにいい方で、あんなに神様に心を開き、あんなに教会のためによくしてくださった方なのに、イエス様を信じなかったのは本当に残念だと思いました。でも、その中でも神様は働いておられ、ご自身の御業を進めてくださったのです。神にはどんなことでもできること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

あなたにとって難しい、できないと思っていることは何ですか。でも神様にはどんなことでもおできになられます。ですから私たちは神を信じて、神のことばに信頼しなければなりません。そうすれば、あなたも神の御業を見るようになるのです。

Ⅲ.クシュ人エベデ・メレクの救い(15-18)

最後に、15~18節をご覧ください。

「15 エレミヤが監視の庭に閉じ込められているとき、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。16 「行って、クシュ人エベデ・メレクに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都にわたしのことばを実現させる。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらはその日、あなたの前で起こる。17 しかしその日、わたしはあなたを救い出す──【主】のことば──。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。18 わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ──【主】のことば。』」」

クシュ人エベデ・メレクについては、前の章の38章7~13節で学びました。エレミヤが泥の中に沈みかけていた時、彼がエレミヤをその泥の中から救い出したという話です。ですから時間的な順序で言うなら、この箇所はその直後に記されるべき内容です。それがここに記されてあるのは、おそらくこのエルサレムの崩壊に際して、エベデ・メレクが行ったことに対する神の報い、神の約束が成就したことを記すためだったのではないかと思います。エレミヤが泥の中から救い出された時、彼は監視の庭に閉じ込められていましたが、その時このクシュ人エベデ・メレクに対して、16~18にある預言がエレミヤを通して語られたのです。それは17節にあるように、主は必ず彼を救い出す、助け出すということです。「あなたのいのちは戦勝としてあなたのものになる」というのは、「いのちだけは助かって生き残る」という意味です。新共同訳ではそのように訳されています。彼はその危機を生き延びて、その生涯を平安のうちに終えたと理解することができます。いったいなぜ彼はその危機から救い出されたのでしょうか。

18節にその理由が次のように記されてあります。「あなたがわたしに信頼したからだ。」
  それは、彼が主に信頼したからです。彼は異邦人でありながら、イスラエルの神、主に信頼しました。だから、彼は助け出されたのです。彼がエレミヤを泥の中から助け出したのも、それは彼が主に信頼していたからだったのです。それで彼は神からの祝福を受けたのです。

それは私たちも同じです。実はこの異邦人エベデ・メレクは私たちの型というか、私たちのモデルなのです。というのは、私たちもイスラエルの民からすれば異邦人であり、神から遠く離れていた者であったにも関わらずイエス・キリストを信じたことによって神の民とされ、神の祝福を受け継ぐ者とされたからです。主イエスを信じる者は救われます。彼に信頼する者は失望させられることはありません。エペソ人への手紙2章11~13節にはこうあります。

「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」

私たちもかつてはキリストから遠く離れ、イスラエルの民からは除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって何の望もなく、神もない者でした。しかし、そのような私たちもキリストの血によって神に近い者、いや、神の民とされたのです。それは一方的な神の恵みによるのです。その神の恵みを受けてエベデ・メレクが神に信頼し、エレミヤを助けたように、私たちもキリストの血によって神の民の一員として加えられ、神に信頼する者とされました。それゆえ、神の祝福を受ける者とされたのです。

であるなら、私たちの人生において最も重要なことは何でしょうか。それは私たちがどういう者であるかとか、どれだけ力があるかということではなく、誰と共に歩むのかということです。何に信頼して歩むのかです。

あなたは何に信頼していますか。誰と共に歩んでおられるでしょうか。主に信頼する者は守られます。「しかしその日、わたしはあなたを救い出す─主のことば─。あなたは、あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ─主のことば。」
  もしかすると、あなたはエレミヤのように泥の中に沈みかけているかもしれません。お先真っ暗ですと。でも主に信頼するなら者は守られます。決して失望することはありません。それが神のことば、聖書があなたに約束していることです。神様は異邦人エベデ・メレクを救い出したように、またエレミヤを助けてくれたように、必ずあなたを救い出し、助け出してくださいます。私たちも主に信頼しましょう。それはあなたがだれに信頼したかによって決まるのです。

エレミヤ38章1~28節「思いがけない神の助け」

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今日は少し長いですが、エレミヤ書38章全体からお話します。タイトルは「思いがけない神の助け」です。この38章も、南ユダ最後の王ゼデキヤの時の出来事です。時は前586年に南ユダ王国が滅ぼされる直前です。前の章では、エレミヤがエルサレムから出てベニヤミンの地に行ったとき、ベニヤミンの門のところでイルイヤという名の当直の者に捕らえられ、書記ヨナタンの家の牢屋に投獄されたことを見ました。そこは丸天井の地下牢で、エレミヤは長い間そこにいました。

今日の箇所にも、エレミヤが再び捕らえら投獄されることが記されてあります。エレミヤが投獄されるのは、これが3回目です。しかし、今回の投獄はこれまで以上に過酷なものでした。というのは、命の危険が脅かされるほどのものだったからです。しかし、そのような中にあっても神は思いがけない方法で彼を救い出されます。神はどんなことがあっても、神を恐れ、神に信頼して歩む者を、救い出してくださいます。それゆえ私たちは、私たちの人生においてどんなことが起こっても、ただ神を愛し、神のことばに信頼して歩まなければなりません。

 Ⅰ.投獄されたエレミヤ(1-6)

まず1~6節をご覧ください。「1 さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、エレミヤが民全体に次のように語ることばを聞いた。2 「【主】はこう言われる。『この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデア人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは戦勝品として彼のものになり、彼は生きる。』3 【主】はこう言われる。『この都は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」4 そこで、首長たちは王に言った。「どうか、あの男を死刑にしてください。彼はこのように、こんなことばを皆に語り、この都に残っている戦士や民全体の士気をくじいているからです。実にあの男は、この民のために、平安ではなくわざわいを求めているのです。」5 するとゼデキヤ王は言った。「見よ、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」6 そこで彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなく、あるのは泥だったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。」

1節には、南ユダ最後の王ゼデキヤの4人の側近者の名前が記されてあります。このうちパシュフルは21章1節に、ユカルも37章3節に出てきました。彼らはエレミヤが民全体に語ることを聞いて腹を立て、ゼデキヤ王のところへ行って不満を申し立てました。なぜなら、エレミヤがエルサレムにとどまる者は剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデア人のところ、すなわち、バビロンに出て行く者は生きると語っていたからです。そんなことを聞いたらエルサレムに残っている戦士や民全体の士気がくじかれると思ったのです。彼らの目では、エレミヤは民のために平安を語っているのではなくわざわいを語っているように見えました。

それで、ゼデキヤ王はどうしたかというと、首長たちの言うことを受け入れ、彼らの思いのままにして良いと告げました。それで彼らはエレミヤを捕らえると、監視の庭にある王子マルキヤの穴の中に投げ込みました。先ほども申し上げたように、エレミヤが投獄されるのはこれが3回目です。前回は37章16節で見ましたが、今回のそれはもっと過酷なものでした。というのは、命の危険が脅かされるどのものだったからです。そこには大量の泥があって、その中に沈んでいくような状態だったのです。

皆さん、私たちにもそのような時があるのではないでしょうか。私は先週目決めの手術で入院していましたが、それはある意味で泥の中に沈んでいくようなものでした。11月15日に最初の手術をしましたが多量の出血があり、それが目の奥の硝子体というところまで入り込んでしまったため、凍った車のフロントガラスのように全く見えなくなってしまいました。かなり焦りました。このまま失明してしまうのではないかと思うと、いてもたってもいられなくなり、私はしぼんだ風船のようになってしまいました。す。結局、5日目に2度目に硝子体の中の出血を取り除く手術をしました。幸い視力はある程度回復することができましたが、今度は逆に眼圧が低くなりすぎて見づらくなってしまいました。あまり色々なものを見るなという神様からのメッセージなのかもしれませんが、まだ本調子ではありませんが、神様がエレミヤを泥から引き上げたように、私の目も眼圧から引き上げてくださると信じています。

でもそれは私だけのことではないでしょう。だれでも泥の中に沈むような時があります。それはエレミヤのように敵から攻撃された時や、私のような病気になる時もそうですが、夫婦の問題や家族の問題で悩むとき、仕事上のトラブルや人間関係の問題が起こる時もそうでしょう。経済的に苦しくて借金を抱えてしまったという時もそうです。最愛の人を失った時もそうです。その悲しみから立ち上がるには相当の時間がかかります。私たちの人生には、泥の中に沈んでしまうような時があるのです。でもどんなに沈んでも、神様は必ずあなたをそこから引き上げてくださるということを忘れないでください。しかも、あなたが想像することができないような不思議な方法で助けてくださる。そこには思いがけない神の助けがあるのです。

Ⅱ.思いがけない神の助け(7-13)

では、エレミヤはどのようにしてその中から救い出されたのでしょうか。7~13節をご覧ください。「7 王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは、エレミヤが穴に入れられたことを聞いた。また、そのとき王はベニヤミンの門のところに座っていたので、8 エベデ・メレクは王宮から出て行き、王に告げた。9 「わが主君、王よ。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの人を穴に投げ込みました。もう都にパンはありませんので、あの人はそこで飢え死にするでしょう。」10 すると王は、クシュ人エベデ・メレクに命じた。「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい。」11 エベデ・メレクは人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着古した衣服やぼろ切れを取り、それらを綱で穴の中のエレミヤのところに降ろした。12 クシュ人エベデ・メレクはエレミヤに、「さあ、古着やぼろ切れをあなたの脇の下の綱に当てなさい」と言ったので、エレミヤがそのとおりにすると、13 彼らはエレミヤを綱で穴から引き上げた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまった。」

エレミヤが泥の中に沈んだとき、主は王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクという人物を用いて救い出されました。クシュ人とはエチオピア人のことです。すなわち異邦人ですね。また、宦官とは、去勢を施された人、陰茎を切り取られた人のことです。モーセの律法によれば、このような人は主の集会に加わってはならないと定められていました。申命記23章1節にこうあります。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない。」神様はこの異邦人エベデ・メレクを用いてくださいました。彼はそういう立場でありながら、エレミヤが穴に入れられたと聞くと王宮から出て行き、王のところに行って、首長たちの悪行とエレミヤの窮状を訴えたのです。

するとゼデキヤ王は、クシュ人エベデ・メレクの訴えに同意し、彼に、30人を連れてエレミヤのところに行き、彼がまだ死なないうちに、その穴から引き上げるようにと命じました。エベデ・メレクは、ゼデキヤ王の命令に従い、人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着古した衣服やぼろ切れを取り、それらを綱にして穴の中にいたエレミヤのところに降ろし、彼を穴から引き上げたのです。こうしてエレミヤは監視の庭にとどまることができました。

だれがそのようなことを考えることができたでしょうか。彼はエレミヤを迫害していたユダの首長たちとは対照的でした。彼は自分に降りかかる危険をかえりみず王の所へ行くと、王の面前で首長たちの誤りを指摘し、エレミヤに助けの手を差し伸べたのです。神様はこのように、時に私たちの想像を超えた方法や思いがけない人を用いて私たちを助けてくださるのです。詩篇121篇にこうあります。

「1 私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
2 私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。
3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。
4 見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。
5 【主】はあなたを守る方。【主】はあなたの右手をおおう陰。
6 昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。
7 【主】はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。
8 【主】はあなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

皆さん、私たちの助けはどこから来るのでしょうか。私たちの助けは天地を造られた主から来ます。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともありません。主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られます。今よりとこしえまでも守られる。あなたが困難に陥った時、自分でもどうしたら良いかわからないような時でも、主は必ずあなたをそこから助け出してくださるのです。それはあなたが思い描く方法によってではなく、それをはるかに超えた方法によって成し遂げてくださいます。そのような恵みを、私たちはしばしば体験することがあります。

私がかつて福島で教会開拓をしていた時、開拓して10年目に会堂建設に取り組みました。多くの人々が救いに導かれ自宅の集会スペースに入れなくなった時、もっと広い土地を求めて祈りました。そして与えられたのがそこから歩いて10分のところにある広々とした土地でした。そこは600坪もありました。しかも交通のアクセスもよく、教会の会堂を建設するのにはとても良い土地でした。ところがそこは調整区域に定められていて、建物が建てられてない場所になっていました。そういう土地に教会を建てたという前例は、福島県ではそれまで一度もありませんでした。でも神様のみこころなら必ず与えられると信じて、開発許可の取得に取りかかりました。

そのためにはまずしなければならなかったのは、宗教法人を取得することです。しかし教会名義の土地、建物がなかったので、そのために自分の名義の土地と建物を教会の名義にしようとしましたが、そのためには銀行から借り入れた際の抵当権を抹消しなければなりませんでした。抵当権を抹消するということは、その代わりに保証人として立てなければならないということですが、そのような人は教会にはいませんでした。いたとしてもそれはかなり荷が重すぎる話です。ですから、その作業は暗唱に乗り上げてしまいました。

ところが、ちょうどその頃、多くの青年たちが救いに導かれていましたが、その中に市内で老舗の洋服店を営んでいるクリスチャンの御夫妻の娘さんが救われたのです。また、その2人の兄弟も教会に導かれ、熱心に神様を求めるようになりました。驚いたのはその御両親です。どうやって彼らがそのように変えられたのか知りたいと、お母さんが「私にも聖書を教えてください」と言ってこられたのです。7回の学びが終わったとき、そのお母さんがこう言われました。
「本当にありがとうございました。よくわかったような気がします。子どもたちがあんなに喜んで教会に行っていくようになったのかも。私には何もできませんが、もし何かお役に立てることがありましたら何でも教えてください。」
と言われかえって行かれました。

すると、隣にいた家内が私の顔を見てこう言いました。「あなた、もしかするとあのことをお願いしてみたらどうですか。」家内はこういう時に勘が鋭いんですね。でも私はまさかそんなことお願いできないと思いましたが、でも一応お願いしてみることにしました。

すると、後日ご主人から電話がかかってきて、その件についてお話したいのでお店まで来ていただけませんかと言われました。お店に行ってみると、ご主人からこう言われました。
 「先生、家は先祖代々人様の保証人にはならないと決めているんです。でも、今回は違います。今回は人様ではなく神様の保証人です。だから喜んで引き受けさせていただきます。」
 私はびっくりしました。いくら教会のこととはいえ、誰が保証人になりたいと思うでしょうか。私はそのように導いてくださった神様に心から感謝しました。そして、今からちょうど30年前の1994年11月に宗教法人が認可され、その3年後に、これも本当に不思議な導きでしたが調整区域の開発許可が認可され、その翌年に新会堂を主に献げることができたのです。これがその会堂です。

まさかそのような形で会堂建設が進んでいくなんて誰も考えることができなかったと思います。でも、神様にとって不可能なことは一つもありません。神にはどんなことでもできるのです。まさにあのヨブが最後に告白したように、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを私は知りました。」(ヨブ42:2)ということを、私も知りました。それが神のみこころならば、神はあらゆる方法を通してそれを成し遂げてくださいます。私たちが想像することもできないような思わぬ方法で助けてくださるのです。

それはエレミヤが例外だったからではありません。エレミヤの時に働かれた神は、今も生きて働いておられ、あなたの思いを越え、あなたが考えられない方法で、あなたを穴から引き上げてくださるのです。ですから、あなたがどんな穴に投げ込まれたとしてもがっかりしないでください。どんなに泥の中に沈んでいるようでも恐れないでください。主はあなたに思いがけない助けを与えてくださいますから。まさにあなたが夢を見ているような方法であなたを助けてくださるのです。

ただ神に信頼して(14-28)

ですから第三のことは、ただ神に信頼しましょう、ということです。14~28節をご覧ください。19節までをお読みします。「14 ゼデキヤ王は人を送って、預言者エレミヤを自分のところ、【主】の宮の第三の入り口に召し寄せた。王がエレミヤに、「私はあなたに一言尋ねる。私に何も隠してはならない」と言うと、15 エレミヤはゼデキヤに言った。「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず私を殺すのではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞かないでしょう。」16 そこでゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓った。「私たちの、このいのちを造られた【主】は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちを狙うあの者たちの手に、あなたを渡すことも絶対にしない。」17 すると、エレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのたましいは生きながらえ、この都も火で焼かれず、あなたもあなたの家も生きながらえる。18 あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、あなた自身も彼らの手から逃れることができない。』」19 しかし、ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」

ゼデキヤは人を送って、エレミヤを自分のところに召し寄せました。そして彼に一言求めました。何も隠してはならないと。するとエレミヤは、もし自分が告げれば、あなたは必ず私を殺すのではないかと答えると、ゼデキヤは、絶対に殺さないとひそかに誓ったので、エレミヤはゼデキヤにはっきりと主のことばを告げました。すなわち、もし彼がバビロンの王に降伏するなら彼は生きながらえ、彼の家族も、エルサレムも火で焼かれることはないが、もしバビロンの王に降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、彼自身も彼らに渡され、殺されることになるということです。もう何度も語られてきたことです。それなのになぜゼデキヤは再びエレミヤに尋ねたのでしょうか。
 おそらくゼデキヤは、今までとは違ったことをエレミヤが言うのではないかと期待していたからです。しかし、エレミヤがゼデキヤに告げた言葉はこれまでと全く同じことでした。エレミヤはどこまでも、神の預言者として神に対して忠実だったのです。

それに対してゼデキヤはどうかというと、いつも人を恐れていました。19節には、「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」あります。彼が恐れていたのは敵のバビロン軍が攻めてくるということよりも、エレミヤの語る神のことばに従ってバビロンに降伏して捕囚の民として連れて行かれたユダヤ人たちになぶりものにされるということでした。ですから、彼はひそかにエレミヤに尋ねたのです。本当の敵は外側よりも内側にいることがあるのです。

しかし、優柔不断な性格のゼデキヤはなかなか決断することができませんでした。それはゼデキヤだけではないでしょう。私たちもそういう時があります。それが神のみこころだとわかっていても、なかなか神に従うことができないことがあります。なぜでしょうか?人を恐れるからです。そんなことをしたらあの人に迷惑がかかるのではないか。この人から何を言われるかわからない。もしかすると、自分の立場が危うくなるかもしれない。その結果、生活にも影響を及ぼすことになるかもしれない。そう思うと、決断することができないのです。しかし、箴言に「人を恐れるとわなにかかる。 しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:15)とあるように、人を恐れると、必ず失望することになります。私たちが恐れなければならないのは、私たちが信頼しなければならないのは、いつまでも変わることのない神とそのことばだけです。

イギリスで最も多くの会衆を牧会していたと言われている伝道者のチャールズ・スポルジョンは、ゼデキヤ王のようにためらっている会衆に次のように説教しました。「皆さん、いつまでためらっているのですか。皆さんは、うわべは宗教的ですが実はまだこの世の人なのです。ですから、今でもどっち側に立つべきかわからない」と言ってためらっているのです。いつまでも2つの間でもじもじしないでください。「次の機会が来れば悔い改める」と言って、人生の砂時計の砂をただ見送らないでください。皆さんが「砂がほとんど落ちたら、神のもとへ向かおう」と言う時はもう遅いのです。皆さんは、神とこの世の2つの間を行ったり来たりしながらも、神を信じていると言います。しかし、それは神を信じているということではありません。神を信じるとは、「ただ神だけを」信じることを言うのですと。

あなたはどうですか。あなたはためらっていませんか。神を信じていると言いながらも手放せないでいるものはありませんか。神だけに拠り頼むためにあなたが捨てるべきものは何ですか。あなたはだれを恐れて日々決断をしているでしょうか。ただ神だけを恐れ、神に立ち返りましょう。

最後に24~28節をご覧ください。「24 ゼデキヤはエレミヤに言った。「だれにも、これらのことを知らせてはならない。そうすれば、あなたは死なない。25 もし、あの首長たちが、私があなたと話したことを聞いてあなたのところに来て、『さあ、何を王と話したのか、教えろ。隠すな。あなたを殺しはしない。王はあなたに何を話したのか』と言っても、26 あなたは彼らに、『王がヨナタンの家に私を返し、そこで私が死ぬことのないようにと、王の前に嘆願をしていた』と言いなさい。」27 首長たちがみなエレミヤのところに来て、彼に尋ねたとき、彼は、王が命じたことばのとおりに彼らに告げたので、彼らは彼と話すのをやめた。あのことは、だれにも聞かれていなかったのである。28 エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。エルサレムが攻め取られた次第は次のとおりである。ゼデキヤはエレミヤに言った。」

ゼデキヤ王はエレミヤに、このことをだれにも知らせてはならないと命じました。もし話せば、首長たちはエレミヤを殺すかもしれないからです。それでエレミヤは、首長たちが彼のところにやって来て、何を王と話していたのかと尋ねたとき、王が命じたとおりに、王がヨナタンの家に私を返し、そこで私が死ぬことがないようにと、王の前に嘆願していたと告げると、彼らはエレミヤと話すのをやめました。このゼデキヤ王の提言は、エレミヤのためというよりも、むしろ自分自身のためでした。エレミヤは自分の職務にいのちをかけていたことをゼデキヤ王は知っていたからです。そのエレミヤと隠れた取引をしたと思われることを、ゼデキヤ王は恐れたのです。結局、彼はエレミヤを通して語られた神のことばを聞きながら、それに従うことができませんでした。

皆さん、神の御心を知ってもそれを行うかどうかはまた別の問題です。聞くことと行うこととの間には固い決断が求められるからです。ゼデキヤは、神のことばを真剣に聞きましたが、それを首長たちに伝える勇気がありませんでした。また、彼らに伝えた時にエレミヤに降りかかる危険を防ぐ力もありませんでした。門の外では、王とエレミヤとの間でどのような話が交わされたのか、関心を持っていた首長たちがいましたが、ゼデキヤは、何事もなかったかのように装いました。南ユダ王国の運命がかかった重要な密談が、特に内容のない私的な会話とされたのです。その結果、個人的な危機は逃れましたが、南ユダ王国の運命は終わることになってしまいました。大切なのは、御言葉を聞くだけで終わらないということです。御言葉を聞いたなら、それを実行に移さなければなりません。

イエス様はみことばを聞いてそれを行う人は、岩の上に家を建てた賢い人にたとえることができると言われました。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。しかし、みことばを聞いてもそれを行わない人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいます。皆さん、神のことばを聞いて、それを行う、岩の上に自分の家を建てる人になりましょう。そうすれば、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、倒れることはありません。

あなたにとって神の御言葉を聞いても実行することができないでいることは何ですか。今、それを神に明け渡しましょう。それはあなたの力でできることではありません。そのためには神の恵みと神の力が必要です。そしてそのために神はひとり子イエスをあなたに与えてくださいました。神はあなたの罪の身代わりとしてイエス様を十字架に付けてくださることによって、あなたの罪を完全に清めてくださいました。あなたはそれほど神に愛されているのです。神の恵みはあなたに十分注がれています。この神の愛と恵みを受け取るとき、あなたにも神の愛が満ち溢れ、あなたのすべてを神に献げることができるようになります。それはちょうど船の上から一歩踏み出すようなものです。イエス様なしでは、沈んでしまう水の上に踏み出すようなものなのです。でも、この弱いこの足に神が力を与えてくださるとき、神のみことばの上を歩むことができるようになります。たとえ嵐の中でも、ただ御顔を見つめ、イエス様あなたと共に歩みますと、一歩踏み出すことができるようになる。そこに神の思わぬ助けがあることを信じて、あなたもその一歩を踏み出してください。

エレミヤ37章1~21節「ただ神を恐れて」

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  前回は36章から、エホヤキムが神のことばを暖炉の火で焼き尽くしたという出来事を通して、神のことばは絶対に滅びることはないということを学びました。今回は37章全体から、南ユダの王ゼデキヤと預言者エレミヤの生き方から、「ただ神を恐れて」というタイトルでお話します。

Ⅰ.ゼデキヤ王の祈り(1-10)

まず1~10節をご覧ください。「1 ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカドネツァルが彼をユダの地の王にしたのである。2 彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた【主】のことばに聞き従わなかった。:3 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。「どうか、私たちのために、私たちの神、【主】に祈ってください。」:4 エレミヤは民のうちに出入りしていて、まだ獄屋に入れられてはいなかった。5 また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。6 そのとき、預言者エレミヤに次のような【主】のことばがあった。7 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。『見よ。あなたがたを助けに出て来たファラオの軍勢は、彼らの地エジプトへ帰り、8 カルデア人が引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼く。9 【主】はこう言われる。あなたがたは、カルデア人は必ず私たちのところから去る、と言って、自らを欺くな。彼らが去ることはないからだ。10 たとえ、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデアの全軍勢を討ち、そのうちに重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らはそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この都を火で焼くようになる。』」」

ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって南ユダの王となりました。彼は南ユダ最後の王となります。この後でエルサレムはバビロンによって完全に陥落することになります。彼もバビロンに連れて行かれ、そこで死を迎えることになりますが、その最後の王がこのゼデキヤです。彼は正統的な王位継承者ではありませんでした。エホヤキムの子エコンヤが在位わずか3か月でバビロンに捕え移されたので、彼に代わってユダを治めさせるためにバビロンの王によって擁立されたのです。いわゆるバビロンによって任命された操り人形、傀儡(かいらい)(おう)にすぎなかったわけです。彼がユダを治めていた時代がどのようなものであったかは、2節に総括されています。ご一緒に読みましょう。

「彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。」

ゼデキヤ王がユダを治めていた間は、彼も、その家来たちも、民衆も、誰も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。どういう点で彼らは聞き従わなかったのでしょうか。それは、エレミヤが語る神のことばを受け入れなかったという点においてです。エレミヤはゼデキヤ王をはじめその家来たちや民衆に、バビロンに降伏することが神のみこころであると語ったのに、彼らはその言葉に従わず、自分を王に立てたバビロンの王ネブカドネツァルに反旗を翻したのです。彼らはどのようにバビロンに逆らったのでしょうか。この後のところを読むとわかりますが、この時エジプトのフェラオの軍勢がエジプトを出て来てバビロン軍と戦おうとしていましたが、彼らの中にはそのエジプトと手を結んでバビロンを倒すようにとゼデキヤに圧力をかける者たちがいたのです。実際、エジプト軍はバビロンに対抗するためにユダをはじめパレスチナ諸国に同盟を呼び掛けていました。そのような呼び掛けに応じて、ゼデキヤはついにバビロンに反旗を翻したのです。それなのに彼は3節でエレミヤのもとに使いを遣わしてこう言いました。

「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」

どういうことでしょうか。日頃、エレミヤのことばには耳を貸そうともしていなかったのに、バビロン軍がエルサレムを包囲すると、溺れる者、藁を掴むで、苦しい時の神頼みに走ったのです。しかし、それはあまりにも身勝手な要求でした。日頃、神のことばに従がおうとしないで自分勝手な生活をしていながら、自分にとって都合が悪くなると、神様、助けてくださいと祈るのはあまりにも虫のいい話だからです。確かに「私のために祈ってください」と願うこと自体は悪いことではありません。それはへりくだっていなければできないことだからです。私は長い間、なかなかそのように言うことができません。自分で何とかすると思っていたからです。しかし、度重なる病を通して、また、個人的な問題を通して自分にはもう無理だとギブアップしたとき、心から「私のために祈ってください」と言えるようになりました。ですから、今は少しへりくだっているのです。まあ、こういうふうに言うこと自体高慢なんですけれども。ですから、祈ってくださいとお願いすること自体は問題ではないのですが、もっと大切なことがあるのです。それは神様との関係です。神様とどのような関係を持っているのかということです。神のことばに留まっているかどうかということです。それに聞き従っているかどうかということです。主イエスはこう言われました。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:7)

私たちの祈りが聞かれる条件は何ですか。どうすれば祈りが聞かれるのでしょうか。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、です。そうすれば、神はそれをかなえてくださいます。そうでないのに、ただ苦いし時の神頼みのように祈っても、神は聞いてくださることはありません。なぜなら、神はうわべを見られるのではなく、心を見られるからです。ヘブル11章6節にはこうあります。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。あなたの人生において何らかの問題を抱えた時だけでなく、あるいは危機に陥った時だけでなく、どんな時でも神がおられることと、神を求める者には報いてくださるということを信じなければなりません。つまり、神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、神のみこころに生きるということが求められているのです。今、ディボーションで箴言を呼んでいますが、箴言の言葉で言うなら、神の知恵を求めるということです。神の知恵とは何ですか。それは、神を恐れることです。箴言1章7節にこうあります。

「主を恐れることは知恵の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」

主を恐れることが知恵の初めです。その教えを受け入れ、その命令を私たちのうちに蓄え、それに従って生きること。これが神の知恵です。それがなければどんなに祈ったとしても、その祈りが聞かれることはありません。

ゼデキヤはどうでしたか。彼は預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。それなのに彼は祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」と懇願しました。そのような祈りが聞かれるはずがありません。あまりにも虫のいい話です。彼の信仰はどちらかというと他人任せでした。自分から神の前に出ることもしませんでした。いや、できなかったのでしょう。神のことばに従っていませんでしたから。神様に顔向けできるような心境ではなかったのでしょう。だから、だれか他の人に祈ってもらうことによってそれを叶えようと思ったのです。そういうことが私たちにもあります。自分のような者が祈っても神様は聞いてくれないから、牧師さん、祈ってもらえませんか・・・。言われた方も大変です。誰が祈っても同じだからです。問題は誰が祈るかということではなく、祈るその人が神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、へりくだって神の前に出ているかどうかです。もしその人が神を信じ、へりくだって神を愛し、神に従っているなら、神は必ず聞いてくださいます。大切なのは、神に祈るという行為とか形ではなく、神を愛し、神に従っているかどうかという中身なのです。神との関係です。その上でもし神に従っていないということが示されたなら、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。そうすれば、神はあなた罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。その時あなたは神の愛と赦しを受け取り、神との関係を回復することができます。あなたがどんな罪を犯したとしても。その上で祈らなければなりません。それが聖書があなたに約束していることです。それが十字架と復活の御業を通して主イエスが成し遂げてくださったことです。

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)

あなたはこの神の愛と赦しを受け取りましたか。永遠の愛をもって神はあなたを愛してくださいました。真実の愛を尽くし続けてくださいました。ですから、この愛を受け取り、悔い改めて神に立ち返ってください。そして神のことばに聞き従ってください。そうすれば、神は必ずあなたの祈りを聞いてくださいます。新約聖書のヤコブ書にはこうあります。

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5:16、第三版)

義人の祈りは働くと、大きな力があります。義人とはどういう人ですか。義人とは清く、正しく、美しい人のことではありません。また、良い行いをしている立派な人でもありません。義人とは互いに自分の罪を言い表し、神の赦しと救いを受け入れた人のことです。すなわち、自分の罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じ、神のことばに従って生きている人のことです。そのような義人の祈りは働くと、大きな力があるのです。

ゼデキヤはそうではありませんでした。彼は神のことばにとどまっていませんでした。それなのに彼は、「私たちのために、私たちの神に祈ってください。」と言いました。そのような祈りが聞かれることはありません。

このゼデキヤ王の約100年前にヒゼキヤという王がいましたが、これがヒゼキヤと決定的に違う点でした。ゼデキヤとヒゼキヤでは名前はとてもよく似ていますが、中身は全く違います。ヒゼキヤの時代はバビロンではなくアッシリアという国がエルサレムを包囲するという同じような状況下に置かれましたが、彼はゼデキヤと違いどんなに敵に脅されても屈することをしませんでした。そして、自分の衣を引き裂き粗布を身にまとって主の宮に入って行くと、主の前に祈りました。これは深い悔い改めを表す行為です。そして、当時の預言者であったイザヤにとりなしの祈りを要請したのです(Ⅱ列王18:13)。するとどのような結果になったでしょうか。イザヤは神からのことばを彼に伝えました。Ⅱ列王19章6~7節です。

「6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『【主】はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。7 今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」

そのことばの通り、その夜の内に主の使いがアッシリア軍を撃ち、アッシリアの陣営で18万5千人を打ち殺しました。つまり、彼の祈りは聞かれたのです。だれがこのようなことを想像することができたでしょうか。これが主のなさることです。主はへりくだって主の前に悔い改め、主に信頼し、主に従う者を決して(ないがし)ろにすることはなさいません。私たちの思いをはるかに超えて、ご自分の愛する者ために働いて御業を成してくださるのです。

しかし、ゼデキヤ王はそうではありませんでした。彼はこのようになることを期待していたのでしょうが、事態はそのようには動きませんでした。ユダを助けるためにエジプトから出て来たファラオの軍勢によってバビロン軍は一時的にエルサレムから引き揚げるが、その後引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼くようになる、と言われました。ゼデキヤの祈りは聞かれなかったのです。ヒゼキヤは神を恐れ、神に信頼し、へりくだって神のことばに聞き従ったのに対して、ゼデキヤはあくまでも自分の考えや思いを優先して、神のことばには聞き従わなかったからです。

すべてのことは神のみこころにかかっているのです。虚しい望みにすがって自らを欺いてはなりません。自分の思いを優先すれば、結局滅んでしまうことになります。大切なのは、自分の思いではなく、神のみこころに従うことです。それは神のことばである聖書に従って生きることです。そうすれば、神はあなたの祈りを聞いてくださり、あなたに神の御業を現わしてくださるのです。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

あなたは自分の思い通り、期待通りになることを願って、ひどく失望したことはありませんか。期待することは大切なことですが、もっと大切なことは、神に従うことです。神との関係です。それが神のみこころにかなう願いなのかどうかということです。今、神のみこころに従わせるべきあなたの思い、あなたの期待は何ですか。困難の中で、ゼデキヤのように自分の思いが優先することがないように、まず神の国と神の義を第一に求めましょう。それが、私たちが祈りをささげるときに持つべき心なのです。

.たとえ誤解されても(11-16)

次に、11~16節をご覧ください。「11 カルデアの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたとき、12 エレミヤは、エルサレムから出て行き、ベニヤミンの地に行った。民の間で割り当ての地を受け取るためであった。13 彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナンヤの子シェレムヤの子の、イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデア人のところへ落ちのびるのか」と言い、預言者エレミヤを捕らえた。14 エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところに連れて行った。15 首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、こうして書記ヨナタンの家の牢屋に入れた。そこが獄屋になっていたからである。16 エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこにいた。」

カルデアの軍勢、すなわちバビロンの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたときとは、エジプト軍の進撃でエルサレムを包囲していたバビロン軍が一時的に撤退したときのことです。そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、ベニヤミンの地に行きました。どうして彼はベニヤミンの地へ行ったのでしょうか。12節には「民の間で割り当ての地を受け取るためであった」とあります。これは既に32章で見たように、彼が従兄弟のハナムエルから買い戻したアナトテにある畑の割り当て地を決めるためだったのでしょう。アナトテの地はベニヤミン族の領地にありましたから。

しかし、彼がベニヤミンの門のところまで来たとき、そこにイルイヤという名の当直の者がいて、彼によって捕らえられてしまいました。それは、エレミヤがバ「ビロンに投降しなさい」と語っていたからです。それで彼はエレミヤがバビロンに逃亡するのではないかと疑われたのです。
 エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない。」と否定しましたが、受け入れられず、結局、彼は捕らえられて、首長たちのところに連れて行かれ、投獄されてしまいました。そこは丸天井の地下牢であったとあります。丸天井の地下牢とは、元々貯水槽のために造られたものですが、神のさばきによって雨が降らなかったために泥に覆われた劣悪な環境になっていました。エレミヤは長い間そこに監禁されることになったのです。

この時、エレミヤはどんな気持ちだったでしょう。もうやるせないというか、悔しいというか、苦しいというか、絶望的だったのではないかと思います。十分な審議や取り調べもされずに、誤解されて地下牢に入れられてしまったのですから。

こういうことが私たちにもあります。エレミヤのように投獄されるようなことはないにしても、あなたが職場や友人に自分が教会に行っているということを告げようものなら、あなたは精神的に問題があるのかとか、そんな献金をたくさん取れられるような所に出入りしていて危ないと思われるかもしれません。しかし、主イエスはこう言われました。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:10)

神の働きをしていて誤解され、不当に扱われることがあったとしても、義のために迫害され者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。エレミヤは義のために迫害されても、うそや偽りを言って自分を欺くことをしませんでした。それゆえ地下牢に閉じ込められてしまいましたが、そこにはだれも奪うことができない神から与えられる恵みと平安がありました。彼はそれを味わうことができたのです。

こんな証を聞いたことがあります。ある中国人が福音を伝えたことで監獄に入れられました。彼は自分のような足りない者が福音を伝えて投獄されたことは光栄だと喜び、その監獄の中で大声で賛美して、福音を伝えました。すると多くの囚人たちがイエス・キリストに立ち返りました。これを見た看守長は、福音を伝えられないように彼を独房へと移しました。しかし、今度は邪魔されなくてよいと言って、昼も夜も大きな声で賛美しました。結局、看守長は「この人はもうどうにもできない」と彼を釈放しました。釈放後、苦しみを受けたことは大きな感謝だったと言って、以前よりさらに一生懸命に福音を伝える者となりました。

使徒パウロもピリピで投獄されたことがありました。でもそのような苦難を受けることを恐れませんでした。なぜなら、その苦難を通して福音があらゆるところに証しされることを知っていたからです。ピリピ1章13節、14節で彼は、自分がキリストのゆえに投獄されたことによって、ローマの親衛隊全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、主にあって確信が与えられ、恐れることなく、ますます大胆に御言葉を語るようになりました。つまり、そのことが、かえって福音の前進に役立つことになったのです。彼の願いは、どんな場合でも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、彼の身によってキリストがあがめられることだったのです。

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)

かつて長谷川義信先生が説教の中で、どこを切っても金太郎飴が出てくるように、どこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方をしなさいと説教で勧められたことがありましたが、まさにそのように生きていたのです。 私たちもそうありたいですね。それは、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということを信じて疑わない信仰から生まれます。

どのような困難があろうとも、どんな病に襲われても、どうしてこういうことが起こるのかと思えるような状況に置かれても、確かにキリストは生きておられる、そして今も私と共におられる、私の人生を導いて、私をご自身の栄光の姿へと変えておられるということを聖霊によって受け入れるなら、だれもあなたから喜びと平安を奪うことはできません。誤解されればされるほど、困難な状況に直面すればするほど、悲しみが多ければ多いほど逆に信仰が強められ、さらに主に拠り頼み、主をほめたたえ、主を賛美する者へと変えられていくのです。

Ⅲ.ただ神を恐れて(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「17 ゼデキヤ王は人を遣わして、彼を召し寄せた。王は自分の家で彼にひそかに尋ねて言った。「【主】から、おことばはあったか。」エレミヤは「ありました」と言った。そして「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と言った。18 エレミヤはゼデキヤ王に言った。「あなたや、あなたの家来たちや、この民に対して、私にどんな罪があったというので、私を獄屋に入れたのですか。19 あなたがたに対して『バビロンの王は、あなたがたとこの地を攻めに来ない』と言って預言していた、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。20  今、わが主君、王よ、どうか聞いてください。どうか、私の願いを御前に受け入れ、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。私がそこで死ぬことがないようにしてください。」21 ゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。」

丸天井の地下牢に入れられたエレミヤは、長い間そこにいました。少なくとも、数週間から数か月が経過していたことでしょう。するとある日、ゼデキヤは人を遣わしてエレミヤを召し寄せ、自分の家でひそかに彼に尋ねて言いました。「主から、何かおことばがあったか。」この「ひそかに」というのが彼の特徴でした。彼はいつもひそかに行動していました。どうして彼はひそかに尋ねて言ったのでしょうか。それは彼がエルサレムの民や首長たち、そして側近たちを恐れていたからです。もしエレミヤが神からことばがあった、それはバビロンに服しなさいということだったと告げようものなら、彼らから危害を受けるかもしれないと恐れたのです。彼は王であり自由の身でありながら、その心には平安がありませんでした。いつも人を恐れていたからです。しかし、エレミヤはそうではありませんでした。彼は獄屋につながれ自由を奪われていましたが平安がありました。神を恐れていたからです。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」 (箴言 29:25)とある通りです。神を恐れるのか、人を恐れるのかです。神に背を向け、神から離れて歩むのか、それとも神とともに歩むのかの違いです。人にどう思われるかを判断基準にするのでなく、御言葉を判断基準にして行く時、神はその心に深い平安を与えてくださるのです。

不安におののきながら質問するゼデキヤに対して、エレミヤはこう答えました。「ありました」。それを聞いたゼデキヤは、「おう、どういう内容か」と興奮したことと思います。しかし、その内容は、これまでエレミヤが語ってきたことと全く変わらないものでした。それは17節にあるように、「あなたはバビロンの王の手に渡されます。」ということでした。そんなことを言ったらゼデキヤ王は喜ばないということがわかっていても、あるいは、たとえ獄屋につながれているような状態でも、それでもゼデキヤにおもねることなく、真実だけを語ったのです。

それに対して、ゼデキヤの預言者たちはどうでしたか。彼らは19節にあるように、「バビロンの王は、あなたとこの地を攻めに来ない。」とゼデキヤが安心するようなことを語っていましたが、バビロンによってエルサレムが包囲されると、彼らは一目散にどこかへ逃げて行ってしまいました。彼らは偽りの言葉を語っていただけでなく、その行動も、忠誠心もすべて偽りだったのです。

箴言にこんなことばがあります。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17:17)
  このことで、本当の友は誰だったのかが明らかになりました。本当の友はゼデキヤの預言者たちではなく、エレミヤ本人であったということが明らかにされたのです。エレミヤはエルサレムが滅ぼされた後もそこに続けて、残りのユダヤ人と一緒に暮らすことを選び、そして彼らがエジプトに下ったときも彼らと一緒にいました。ユダヤ人はエレミヤの言葉を嫌い偽預言者の言葉を好みましたが、最後まで一緒にいてくれたのはエレミヤでした。エレミヤこそ、神の真実な愛を持った本当の友だったのです。

ですから、人の言葉には気を付けなければなりません。その時は調子がいいことを言っても、すぐに手のひらを反すかのような行動を取るからです。いつもコロコロ変わるのです。ですから、たとえそれがあなたにとって耳ざわりの良い言葉であっても、心地よい言葉であっても、それが真理であるとは限らないのです。パウロは「教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりすることなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらなるキリストに向かって成長するのです。」と言っています。この世には様々な教えの風が吹いていますが、そうした教えに注意しなければなりません。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。

先日、エホバの証人の方が来られて「これ読んでください」と1枚のトラクトを渡してくれました。そのトラクトのタイトルは「世の中これからどうなる?」というものでした。1つ選ぶとしたら・・・ ・良くなっていく ・悪くなっていく ・どちらとも言えない
 とても興味のあるタイトルですね。「世の中これからどうなる?」皆さん、世の中これからどうなりますか?そのトラクトには、「あなたには将来と希望がある」(エレミヤ31:17)のみことばを引用して、こんな希望があると書かれてありました。
・楽しくてやりがいのある仕事ができるようになる。
・病気や災害で苦しむことがなくなる。
・家族や友達といつまでも幸せに暮らせる。
この希望が実現するためには、実現させる力、すなわち神が必要であること。もう一つは、実現させたいという気持ちを持つこと。神様は世の中の悪いことを全部なくすと約束している。
 皆さん、どう思いますか。本当に聖書はそのように言っているでしょうか。そうではありません。そのトラクトに書いてあることは主イエスが再臨した後にもたらされる千年王国においてのことであって、それまでこの世が良くなることはありません。もっと悪くなります。これが聖書が言っていることです。表向きは心地よいことばであっても、それが真理でなかったら滅びに向かうことになってしまいます。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。

このエレミヤの真実な訴えに対して、ゼデキヤは命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせました。こうしてエレミヤは監視の庭にとどまることになりました。死の危険を身に覚えた地下牢の獄屋から、監視の庭での監禁生活を続けることになったのです。真実に生きるエレミヤを、神が守ってくださったのです。

あなたはどうでしょうか。こんなことを言えば嫌われてしまうのではないかと、人を恐れてひそかに語っていませんか。それともエレミヤのように、相手が王であろうと誰であろうと、たとえ相手が喜ばないとわかっていても、その人におもねることなく、真実の言葉を語っているでしょうか。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」

これを実行したのはエレミヤでした。私たちも真実の愛に生きるものでありたいと思います。それは人を恐れ、おもねるような心からではなく、神を恐れ、神と共に歩む真実な心から生まれるのです。

エレミヤ36章1~32節「焼かれても、再び」

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今日は、エレミヤ36章全体からお話します。少し長い箇所ですが、全体を通して見ていきます。その方が流れを掴むことができわかりやすいと思います。今日のメッセージのタイトルは「焼かれても、再び」です。主はエレミヤに、あなたは巻物を取り、これまで語ってきたことを書き記すようにと命じたので、エレミヤは書記のバルクを呼んで主のことばを口述筆記させましたが、それを知ったユダの王、ヨシヤの子エホヤキムは、その書き記された神のことばを、暖炉の火で燃やしてしまいます。もうこれで終わりかと思いきや、主は再びエレミヤに、もう一つの巻物を取って、エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せと言われました。プラス、さらに同じような多くのことばもそれに書き加えられました。それが、私たちが今持っているエレミヤ書です。結果的に、最初の巻物が焼かれることによって神はもっと内容が豊かで、また詳しく明瞭な形でご自身のことばを残してくださいました。神のことばは決して滅びることはありません。この神の言葉を握って離さず、それに従って歩むなら、どんな困難の中でも、知恵と力が与えられ、真っ直ぐに進むことができます。走っても倒れることはありません。御言葉を握る人には勝利と祝福が与えられるからです。

Ⅰ.巻物に書き記されたみことば(1-10)

まず1~10節をご覧ください。1-3節をお読みします。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」

これは、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年のことです。エホヤキムの第四年とは紀元前605年のことです。これは35章でレカブ人の忠実さの話がありましたが、それよりも更に数年前の出来事です。この年は古代近東の国際情勢においては重要な年でした。それはこの年にバビロンがユーフラテス河畔のカルケミシュでアッシリアを滅ぼし、そのアッシリアを助けようとしてやって来たエジプトも壊滅的に討ち破ることによって、その覇権を確立した年だからです。そしてこの年にネブカドネツァルがナボポラッサルに代わって正式に王位を継承しました。その年に主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節と3節です。

 「2あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」

主はエレミヤに、ヨシヤの時代から今日までの間に、主が彼に語ったことばをみな、巻物に書き記すようにと言われました。エレミヤが預言者として召されたのはヨシヤ王の治世の第13年ですから、紀元前627年のことです。その時からこの時に至るまでの約20数年の間に主が彼に語られたことことばをみな、巻物に書き記すようにというのです。いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。それは語られた神のことばを文字にすることによってそれをユダの民に明確に伝えるためです。皆さんもそうでしょう。「私は説教を聴いても、こっちの耳から入ってすぐこっちの耳から出ていくんですよ!」と言われるのをよく聞くことがありますが、御言葉を聞くだけだとなかなか記憶に残すことができません。それで神はこのように巻物に書き記すことによっていつでもその内容を確かめることができるようにしたのです。それは1日や2日でできるものではありません。数日間、あるいは数十日に及ぶ大仕事だったでしょう。それでも神がエレミヤにそのように命じられたのは、3節にあるように、もしかすると、主が彼らに下そうとしているわざわいを聞いて、彼らがそれぞれ悪の道から立ち返るかもしれないと思われたからです。そうすれば、主も彼らの咎と罪を赦すことができます。つまり、主がエレミヤにご自身のみことばを書き記すようにと言われたのは、ユダの民の罪、咎を赦すためだったのです。主はどこまでもあわれみ深い方です。あなたの下には永遠の腕があるのです。

4節をご覧ください。それでエレミヤは、ネリヤの子バルク呼びました。口述した主のことばを巻物に書き記すためです。それは、この時エレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行けなかったからです。なぜ彼は閉じ込められていたのでしょうか。それは彼が神殿で語った説教に対して、当時の祭司や預言者たちが反感を持っていたからです。たとえば、6章には、当時の預言者や祭司たちが、平和がないのに「平和だ、平和だ」と言っているのを聞いたエレミヤは、それは偽りだと糾弾しました(6:14)。また、7章には、彼らが「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と語っていたのに対して、そういうことばに騙されてはならない、と叫びました。それよりも、あなたがたの生き方と行いを改めるようにと(7:4-5)。そうしたエレミヤの態度に対して、エホヤキム王はじめ当時の宗教指導者たちが怒り、彼が主の宮に出入りできないようにしていたのです。

しかし、いかなる人間も、いかなる方法も神のことばを妨げることはできません。神のことばを語れないならば文書によって、自分が監禁されて語れないならば代理者を通してでも、神はご自身のことばが語られるようにされたのです。エレミヤはバルクを呼び、エレミヤに語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記しました。そしてその巻物に記された主のことばを、断食の日に主の宮で民に読み聞かせました。それはユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第五年、第九の月のことです。ということは、この巻物が書き記されるまでに約1年のかかったということです。バルクは、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、断食が布告された日に、主の前でこれを読み聞かせました。

それは第九の月の断食の日でした。この第九の月の「断食の日」とは、大贖罪日と呼ばれる日で、ユダの民にとって特別な日でした。この日は悔い改めと罪の赦しを受ける日なのです。この日は過去も現在も、イスラエルの民にとって最も大切な日の一つになっています。今日のイスラエルでも、この日はすべての仕事が休みとなり空港すら閉鎖されるという、イスラエルの暦において最も厳粛かつ重要な日なのです。その日にはすべての民は断食して、これまで犯してきた罪を悔い改め、神に赦しを願うのです。そのような日にバルクは神殿でエレミヤから託された巻物を読み上げたのです。それは、人々に悔い改めを促すには最もふさわしい日でした。

神のことばは、誰が伝えても同じ力を現わします。ですから、「誰を通して」伝えられるかが重要なのではなく、「誰の」ことばが語られるのかが重要なのです。エレミヤが伝えた時も神の力が現れましたが、バラクが書き記した御言葉を読んだ時も同じ力が現れました。それは彼らが伝えたことばが全能なる神のことばだからです。バラクは神のことばを書き記すのに1年もかかりました。バラクはそれを主の前で断食が布告された日に、書記シァファンの子ゲルマヤの部屋で、すべての民の前で民全体に聞こえるように、大胆に読み上げました。何が彼をこんなに勇敢な者に変えたのでしょうか。それは神のことばに対する信頼です。神のことばに対する信頼こそ、私たちをもそのような者に変えるのです。

.焼かれた神のことば(11-26)

そのバルクが語った神のことばに対して、人々はどのように応答したでしょうか。次に、11~26節をご覧ください。まず20節までをお読みします。「11 シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤは、その書物にあるすべての【主】のことばを聞き、12 王宮にある書記の部屋に下ったが、見よ、そこには、すべての首長たちが座っていた。すなわち書記エリシャマ、シェマヤの子デラヤ、アクボルの子エルナタン、シャファンの子ゲマルヤ、ハナンヤの子ゼデキヤ、およびすべての首長たちである。13 ミカヤは、バルクがあの書物を民に読んで聞かせたときに聞いた、すべてのことばを彼らに告げた。14 すべての首長たちは、クシの子シェレムヤの子ネタンヤの子ユディをバルクのもとに遣わして言った。「あなたが民に読んで聞かせたあの巻物、あれを手に持って来なさい。」そこで、ネリヤの子バルクは、巻物を手に持って彼らのところに入って来た。15 彼らはバルクに言った。「さあ、座って、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。」そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。16 そのすべてのことばを聞いたとき、彼らはみな互いに恐れおののき、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをすべて、必ず王に告げなければならない。」17 彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、あなたがこれらのことばをすべて、どのようにして書き留めたのか、私たちに教えてくれ。エレミヤが口述したことばを。」18 バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらのことばをすべて私に口述し、私は墨でこの書物に記しました。」19 すると首長たちはバルクに言った。「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」20 彼らは巻物を書記エリシャマの部屋に置き、王宮の庭にいる王のところに行って、このすべてのことを報告した。」

神のことばは生きていて力があります。両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します(ヘブ4:12)。バラクが読んだ御言葉は大きな反響を巻き起こしました。エレミヤの預言にこれといった反応を示さなかった首長たちが、巻物の内容を確かめたいと、バルクに求めたのです。そこでバルクは彼らの前で再び巻物に記された御言葉を読みました。バルクが御言葉を読んでいる間、16節にあるように、御言葉が彼らの心を刺し通したので、彼らは驚きと恐れでいっぱいになりました。そこには重大な警告とさばきの内容が込められていたからです。さばきの内容とは、バビロンによって滅ぼされるということです。すると彼らは、このことは必ず王に告げなければならないと言いました。しかし、そうなれば彼らの身に危険が迫るのではないかと心配して、バルクにこう言いました。19節です。

「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」

神のことばによって心が動かされた首長たちは、行動によってその変化を表しました。エレミヤの自由を拘束していた彼らはエレミヤとバルクをかくまい、巻物を王にもっていく伝達者となりました。こうした劇的な行動の変化の中心には、いつも神のことばがあります。神のことばによって神を恐れる心が、私たちの行動を変えるからです。

次に、21~26節をご覧ください。ここにはその神のことばを聞いたエホヤキムの反応が記録されてあります。「21 王はユディに、その巻物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。23 ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。24 これらすべてのことばを聞いた王も、彼のすべての家来たちも、だれ一人恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった。25 エルナタンとデラヤとゲマルヤが、巻物を焼かないようにと王に懇願しても、王は聞き入れなかった。26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、【主】は二人を隠された。」

この巻物のことを聞いたエホヤキム王は、ユディに命じてそれを取りに行かせました。ユディはそれを書記エリシャマの部屋から取ってくると、それを王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせました。すると王は、とんでもない行動に出ました。何とそれを小刀で裂いては暖炉の火の中に入れてしまったのです。そして巻物のすべてを暖炉の火で焼き尽くしてしまいました。それは第九の月のことでした。ユダヤの暦の第九の月とは、私たちの暦では11月の終わりから12月にかけての頃ですが、海抜800メートルにあるエルサレムの冬は寒さが大変厳しくなります。部屋には暖炉がたかれていました。するとユディが3,4段落を読むごとに、エホヤキム王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火の中に入れたのです。これらのことばを聞いても、王も家来たちもだれ一人恐れおののくことなく、衣を引き裂くこともしませんでした。悔い改めようとしなかったのです。巻物を燃やすことに反対する人はいましたがそれはごく小数の人たちで、大半の人たちはそうではありませんでした。そればかりか、王はバルクとエレミヤに逮捕状を出し、彼らを捕らえるようにと命じたのです。

しかし、主が二人を隠されました(26)。どのように隠されたのかはわかりません。ただ言えることは、主のことばを信じそこに生きる人には主の守りがあるということです。どうしてそのようになったのかはわからないけれども、神様が成してくださったとしか言いようがない場合があります。皆さんもそういうことを体験したことがあるのではないでしょうか。私もたくさんあります。人間的には考えられないことを神様が成してくださったということが。それはまさに神様の不思議であり、神様の御業です。神に信頼する者には必ず神の恵みと神の祝福だけでなく、神の守りがあるのです。

ここで一つ考えてみたいことは、実はこの出来事の約20年前に、彼の父親であるヨシヤ王が神殿修復の際に「律法の書」を発見した時どのような態度を取ったかということです。それはエホヤキム王とは正反対の態度でした。彼らは親子ですが、彼らほど対照的な親子も珍しいと思います。ヨシヤ王は書記シャファンが巻物に記された「律法の書」を朗読したとき、深い悔い改めを表しました。Ⅱ列王記22章11節にはこうあります。

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」

ヨシヤ王は神のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いて悔い改めました。彼はまず自分自身が真剣に悔い改め、そして民にも悔い改めを求めました。それ以降、ユダ王国ではヨシヤの宗教改革と言われる霊的リバイバルが起こったのです。その結果、神はヨシヤ王と民を祝福されました。しかしその子どもであるエホヤキム王は、父がしたように衣を裂いて悔い改めることをしませんでした。むしろ、自分が気に食わない神のことばを聞いてそれを焼き、滅ぼそうとしたのです。神のことばをいのちと祝福として受け入れる人は神の祝福を受けますが、そんなの関係ない、不必要なものだとみなす人は、神の怒りを免れることはできません。

最近、私たちの教会のために毎月祈りをもって捧げてくださっている方からこんなメールがありました。
  「先生、こんばんは。私は、人手不足なので助けて応じ介護施設で働き始めました。しかし、ベテラン職員の思わぬイジメに合いました。一部職員が職員を、入居者さんを感情むき出しに声を荒げています。悲しいです。仕事が仕事だけについ感情的になるのでしょう。僕は、イエス様が弟子の足を洗った様にこれでいいかなと自問しながら仕事をしてます。」
  これが神を恐れる人とそうでない人の違い、神のことばに従って生きる人とそうでない人の違いです。神のことばに従って生きる人は、イエス様が足を洗った様に生きます。そしてそこには神の祝福が必ずもたらされるのです。

私は毎年、赤い羽根の共同募金に協力させていただいているのですが、集金に来られた方がこういうのです。「教会に来られる方はみんな、何と言うか、お顔が優しいですよね。この前教会の前を通った時そこに2~3人のご婦人たちがいたのでお話させていただいたんですが、皆さんとてもほがらかでした。それはやっぱりキリスト教の教えから来ているんですかね。」
  私はそれを聞いて、正直、とても嬉しかったです。もしかすると募金に協力したので少し良いことを言おうと思ったのかもしれませんが、神のことばは生きているなぁと思いました。神のことばを聞いてそれを受け入れ、それに従って生きる人は、神が祝福してくださり、そのようにお顔まで穏やかになるんだと。これは本当だと思います。もしこれが週1回の礼拝だけでなく毎日だったら、どれほど穏やかな顔になるでしょう。

1840年、ロンドンのある洋服屋に、一見何の取り柄もなさそうな店員がいました。彼は御言葉を愛し、毎日御言葉を読みました。今日で言えば、毎日喜んでディボーションをして神を喜んでいるような人です。そんなある日、彼は自分の人生を変える御言葉を目にしました。

「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(Ⅰコリント15:2)

この御言葉を読んだ瞬間、彼は「これだ」と思いました。そして、彼はすぐにその御言葉を握り締めました。何の取り柄もない自分のような者でも、御言葉を固く握るなら、主は必ず用いてくださると確信したのです。そして、数人の青年たちとともに日曜日ごとに集まりを始めました。それがYMCAの始まりでした。皆さんは、YMCAを始めた人をご存知でしょうか。ジョージ・ウイリアムズという人です。あの有名なジョン・ワナメーカーではありません。ジョン・ワナメーカーはYMCAの建物を建てた人ですが、YMCAを始めた人はジョージ・ウィリアムズです。
  御言葉を握る人には神の恵みと祝福があります。そして神はそのような人をご自身の働きのために用いてくださいます。そして主が用いる人を、主は必ず守ってくだるのです。

バルクが読み上げた御言葉によって変えられた首長たちは、巻物の内容をエホヤキムに伝えました。彼らの願いは巻物に記された預言のことばを聞いて、エホヤキム王が変えられることでした。しかし王はそれを受け入れるどころか、エフディが読み上げるごとにそれを裂いて暖炉に投げ入れました。エホヤキムの態度は、神のことばを聞いて嘆き悲しみ、衣を裂いて悔い改めた父のヨシヤ王とはあまりにも対象的でした。神のことばはすべての人に平等に与えられていますが、すべての人が同じ反応をするとは限りません。あなたはどのような反応をしていますか。ヨシヤ王のようにそれを聞いて衣を裂いて悔い改めていますか。それとも、このエホヤキム王のようにそれを軽んじ暖炉に燃やすでしょうか。どのように受け入れるかは、あなたの選択にかかっているのです。

Ⅲ.決して滅びない神のことば(27-32)

エホヤキム王によって暖炉の火に燃やされた神のことばですが、それで滅びてしまったかというとそうではありません。神のことばは決して滅びることはありませんでした。27~32節をご覧ください。「27 王が、あの巻物、バルクがエレミヤの口述で書き記したことばを焼いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。28 「あなたは再びもう一つの巻物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せ。29 ユダの王エホヤキムについてはこう言え。【主】はこう言われる。あなたはこの巻物を焼いて言った。『あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの地を滅ぼし、ここから人も家畜も絶えさせる、と書いたのか』と。30 それゆえ、【主】はユダの王エホヤキムについてこう言われる。エホヤキムには、ダビデの王座に就く者がいなくなり、彼の屍は捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。31 わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し、彼らとエルサレムの住民とユダの人々に対して、わたしが告げたが彼らが聞かなかった、あのすべてのわざわいをもたらす。」32 エレミヤは、もう一つの巻物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書き記した。さらに同じような多くのことばもそれに書き加えた。」

エホヤキム王は巻物を燃やしてしまいましたが、それで神のことばが破壊されたわけではありません。その後、主はエレミヤに、焼かれた巻物に書かれた内容をもう一度書き記すようにと命じられました。時間をかけてやっと完成した巻物が焼かれてしまった後で、再び初めから書き直すという作業は、いかに困難で忍耐を要することでしょうか。

まだワープロの時代です。私が牧師になって10年くらい経った頃でしょうか、ワープロを使って毎週日曜日の説教の原稿を書いていました。今もそうですが、私は昔から完全原稿と言って、一字一句すべて書く完全原稿を書くようにしています。そうすれば、あとはレンジでチンするだけで済みますから。そのワープロで土曜日の夜、翌日の説教の原稿を書いて完成したときです。まだ3歳くらいだった二番目の娘がそのワープロと遊んでいて、デリートキーを押してしまったのです。私は青ざめました。何時間もかけて完成した説教の原稿です。それが一瞬にして消えてしまったのです。私は元々こうした機器の取り扱いが苦手で、もしかするとCtrlキー+Zで復元できたのかもしれませんが、そんな知識など全くなかった私はただオドオドするばかりでした。「どうしよう。明日の朝までもう1回書かなければならないのか」何時間もかけて書いた説教をもう一度書くなんて考えられません。でもやるしかありませんでした。娘には「絶対触っちゃだめだからね。」と厳しく叱りつけ、そして一晩かけて一から書き直したのです。それを考えたら、1年以上もかけて書き上げた巻物をすべて失ってしまい、その後で、「もう一度初めから書くように」と言われたら、再度、それに取り組む意欲が起こるだろうかと、考えてしまうところです。

しかし、エレミヤは、もう一つの書物を取ってそれをバルクに与え、バルクは再びエレミヤが口述した内容を書き記しました。何という忍耐深さ、何という行動力でしょうか。それは神のことばはどんなことがあっても決して滅びることはないということを示しています。だれかが聖書を撲滅しようとも、神のことばである聖書は決して滅びることはありません。フランスの哲学者ヴォルテールは、「キリスト教が確立するまで数世紀かかったが、私は、一人のフランス人が50年間でこれを破壊できることを示そう。」と豪語しましたが、彼が死んで20年経ってから、そのヴォルテールの家をジュネーブ聖書協会が買い取り、そこで聖書が印刷されるようになりました。人々がどのように神のことばから逃れようとしても、神のことばは決して滅びることはないのです。

それどころか、最初の巻物は焼かれましたがそれによってよりすばらしい第二の巻物が完成しました。第一の巻物はヨシヤの時代からエホヤキムの治世の第四年までの預言でしたが、第二の巻物はそれ以降の新しい預言も含まれたものだからです。私たちが今手にしているエレミヤ書は、この第二の巻物が書かれたものです。それは最初のものよりも更に詳しく、さらに内容が豊かになったものです。神の計画や神のことばを破壊しようとする試みは必ず失敗に終わります。しかし、神のことばは決して滅びることはありません。第二の巻物が新たに書き記されることによって伝承され続けました。神殿が焼失し、国が滅び、民が祖国から切り離され捕囚とされることがあっても、神のことばは人々に命を与えることばとして残ったのです。しかし、神のことばを無きものにしようとしたエホヤキムの行為は、ダビデ王家とその王国、その領土を失うことを決定付けました。このことにエホヤキムは気付きませんでした。そこに気付くことから真の悔い改めが生まれます。そのために神のことばは新たに書き直され、残っているのです。ここに希望があります。神のことばは絶対に滅びることはありません。そればかりか、神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。今もあなたの心に力強く働いてくださいます。この神のことばに信頼し、神のことばに堅く立ち続けましょう。神は必ずあなたの人生の中に働き、あなたが考えられないような不思議な御業を成してくださいますから。

エレミヤ35章1~19節「レカブ人から学ぶ」

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きょうは、エレミヤ35章から、「レカブ人から学ぶ」というタイトルでお話します。レカブ人とはモーセのしゅうとイテロの子孫でミディアンの地に住んでいた遊牧民族ケニ人の子孫と考えられています。彼らは、イスラエル人がモーセによってエジプトから救い出され時、イスラエル民族に加わり、エルサレム近郊に定住しました。そのケニ人の話がここに出てくるのです。なぜでしょうか?レカブ人の模範的な態度を取り挙げることによってユダの民の罪を指摘するためです。良い手本を挙げて過ちを指摘するのは効果的です。その良い手本とはどのようなものでしょうか。それはどこまでも妥協しない忠実な生き方です。彼らは異邦人でありながら、先祖レカブが自分たちの命じたことばに従って誠実さを貫きました。その忠実な態度がここで主に称賛されているのです。それに対してイスラエルはそうではありませんでした。彼らは先祖の言葉どころじゃない、最も大切な方である神の言葉に聞き従おうとしませんでした。
 それはユダの民だけのことではありません。それは私たちにも言えることです。私たちは主イエスによって罪から救い出され神の民となったにも関わらず、あまりにも簡単に神への忠実さを忘れて、自分の思いを優先させてしまっていることはないでしょうか。レカブ人たちは確かに狭いところはありますが、彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり表明し、その信仰の現れとして、日々御言葉に従って生きる誠実さが求められているのです。しっかりと神の御言葉に聞き従う者となるために、レカブ人の誠実な生き方から学びたいと思います。

Ⅰ.レカブ人から学ぶ(1-11)

まず1~11節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」3 そこで私は、ハバツィンヤの子エレミヤの子であるヤアザンヤと、その兄弟とすべての息子たち、レカブ人の全家を率いて、4 【主】の宮にある、イグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。それは首長たちの部屋の隣にあり、入り口を守る者、シャルムの子マアセヤの部屋の上であった。5 私は、レカブ人の家の子らの前に、ぶどう酒を満たした壺と杯を出して、「酒を飲みなさい」と言った。6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。11 しかし、バビロンの王ネブカドネツァルがこの地に攻め上ったとき、私たちは『さあ、カルデアの軍勢とアラムの軍勢を避けてエルサレムに行こう』と言って、エルサレムに住んだのです。」

1節に「ユダの王、エホヤキムの時代に」とあります。前回の34章はユダの王ゼデキヤの時代のことでしたから、さらにそれ以前の話となります。ちなみに、ユダの王はゼデキヤの前がエホヤキン(エコンヤ)、その前がエホヤキムです。ここではそのエホヤキムの時代のことが取り上げられているのです。年代的には、紀元前597年の第二次バビロン捕囚の少し前になります。その時代に、主からエレミヤに次のようなことばがありました。

「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」

レカブ人とは、先程お話したようにそのルーツはモーセのしゅうとイテロで、もともとミディアンの地に住んでいた民族ですが、イスラエルがエジプトを出た時、彼らと一緒にカナンに来てそこに定住しました。そのレカブ人の家に行って彼らに語り、主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよというのです。不思議な命令です。何か祝い事でもあったのでしょうか。そうではありません。レカブ人たちの忠実さを試そうとしたのです。レカブ人はぶどう酒を飲みません。それは6節にあるように、先祖ヨナタブが「あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。」と命じていたからです。それはこの時から約200年も前のことです。ヨナタブが命じたのは実はそれだけではありませんでした。7節にあるように、家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、所有したりしてはいけないということも命じていました。いったいなぜ彼はこんなことを命じたのでしょうか。それは当時の北王国イスラエルではバアル礼拝が盛んに行われていたからです。そしてその原因は都市型の生活を送っているからだと考えたのです。都市型の生活をしていると世俗化し、偶像礼拝に陥りやすいと感じた彼は、自分の子孫たちがそうならないために、この誓いを守り通すようにと命じたのです。その一つのことがぶどう酒を飲んではならないということだったのです。それなのに主はそのレカブ人の家に行って、彼らに酒を飲ませよと言われました。なぜでしょうか。それは彼らの忠実さを試すためでした。彼らが先祖ヨナタブの命令にいかに忠実であるかをイスラエルに示すためだったのです。忠実さはイスラエルの民が最も必要としていたことでした。サタンは、罪を犯させるために私たちを誘惑しますが、しかし神は、私たちの信仰を成長させるために私たちを試されます。エレミヤの勧めに対して、レカブ人はどのように応答したでしょうか。6~7節をご覧ください。

「6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。」

レカブ人たちはすぐにエレミヤのことばを拒絶しました。彼らの先祖ヨナタブの命令に背くことなどは、彼らには考えられないことだったからです。続いて彼らはこう言いました。8~10節です。

「8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。」

彼らは先祖ヨナタブが命じたすべての命令に聞き従ってきました。この時点ですでに200年も経過していました。それでも彼らはずっと先祖ヨナタブの命令を守り、そういう生活を続けてきたのです。聖書には禁酒禁煙も天幕生活も命じられていません。勿論、あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮であり、その自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい(Ⅰコリント6:19-20)という御言葉に照らし合わせて考えると、お酒やたばこは避けた方が鶏鳴なのは確かです。でもそれはお酒やたばこに限らず、からだに悪影響を及ぼすすべてのことに言えることでしょう。しかし、彼らがそうした生活を貫き通したのはそうした理由からではなく、自分たちの弱さや不安定さのゆえに、他民族に隷属しない生き方をするためにはこの戒めを守ることが必要だと判断したからです。

「朱に染まれば赤くなる」という言葉がありますが、それは人との出会いや付き合いがそれだけ重要だという意味です。モーセの子孫であるレカブ人は、カナンでの生活と宗教に反対し、ぶどう酒も飲まず、天幕生活を続けました。彼らは世俗から離れて暮らすことによって、物質的な豊かさよりも、先祖との霊的交わりを重視したのです。

聖書の中には、彼らと同じように世俗を離れ、荒野で暮らし、主との濃密な霊的交わりを保とうとした人たちがいます。たとえば、バプテスマのヨハネはその一人でしょう。彼は荒野で叫ぶ声となって、主が来られるために人々の心を備えました。彼はらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜でした。

旧約聖書に出てくる「サムソン」もそうです。彼はナジル人といって神から特別な使命が与えられて生まれてきた者として、ぶどう酒は飲んではならない、汚れたものには触れてはならない、頭にかみそりをあててはならないという決まりがありました。残念ながら彼はそれをいとも簡単に破ってしまいましたが・・。

現代ではカトリックの修道院などはその一つです。彼らは世俗から離れてただひたすら祈りとみことばに励んでいます。

しかし、レカブ人たちは先祖ヨナタブが自分たちの祝福のためにはこれを守らなければならないということをずっと守り通してきたのです。彼らは何から何まで融通のきかない人たちだったわけではありません。11節には、彼らがエルサレムに定住するようになったいきさつが記されてありますが、それはバビロンの王ネブカドネツァルが北イスラエルを支配していたアッシリアを攻め上って来たのでそれを避けるためでした。それまで彼らは北王国イスラエルを転々としていましたが、その危険から身を避けるためには先祖レカブの命令から外れても安全に住むことができるエルサレムに定住したのです。つまり、彼らは定住してはならないというレカブの命令に固執しなかったということです。しかし、生き方については拘りを見せました。たとえ、主の宮に招かれ、神の人である預言者エレミヤから酒を飲むようにと勧められても、それを拒否しました。それを200年も250年も続けて来たのです。確かにレカブ人の考え方はセクト的で狭いと思われるかもしれません。彼らは世俗の文化を拒否し、禁欲し、神の言葉よりも教祖の言葉を重んじます。しかし彼らのそうした揺るがぬ信仰とその純粋性には学ぶべきものがあるのではないでしょうか。

みなさんは、アーミッシュをご存じでしょうか。アーミッシュは、16世紀のオランダ、スイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れをくむプロテスタントの一派ですが、彼らは基本的には、農耕・牧畜を行って、自給自足で生活しています。自分たちの信仰生活に反すると判断した新しい技術や、製品、考え方は拒否します。この現代において、自動車を使わず馬車に乗っているのですよ。電気は引いていません。もちろん、テレビ、パソコン、家電などは使いません。風車・水車の蓄電池を使ったり、ガスでうっすら明かりをつけたり、調理したりしています。中には、それすら使わない人たちもいるそうです。収入は、キルトや蜂蜜の販売、一部の地域では、レストランや馬車での観光を行って得ています。現在、北アメリカに約38万人、世界に約85万6000人いるといわれていると言われています。

アーミッシュには、神との霊的交わりを保つために、『オルドゥヌング』という戒律があります。それは以下のようなものです。
・交通手段は馬車を用いる。屋根付きの馬車は大人にならないと使えない。
・ アーミッシュの家庭においては、家族のいずれかがアーミッシュから離脱した場合、たとえ親兄弟の仲でも絶縁され、互いの交流が疎遠になる。
・怒ってはいけない。喧嘩をしてはいけない。
・読書をしてはいけない(聖書と、聖書を学ぶための参考書のみ許可される)。
・讃美歌以外の音楽を聴いてはいけない。
・避雷針を立ててはいけない(雷は神の怒りであり、それを避けることは神への反抗と見なされるため)。
・義務教育(8年間)以上の高等教育を受けてはいけない。それ以上の教育を受けると知識が先行し、謙虚さを失い、神への感謝を失うからだとされる。
・化粧をしてはいけない。派手な服を着てはいけない。(決められた服装がある)
・保険に加入してはいけない(予定説に反するから)。

などなど。他にもたくさんの戒律がありますが、原則として、快楽を感じることは禁止されています。このような戒律を破った場合、懺悔(ざんげ)や奉仕活動の対象となります。改善が見られない場合はアーミッシュを追放され、家族から絶縁されることもあるそうです。

ここまでいくとどうかなぁと思いますし、私たちは彼らのような狭い考え方に倣わなければならないということはありませんが、彼らの愚直なまでの誠実さには学ぶべきものがあるのではなでしょうか。私たちは神に選ばれて救われ、神の民とされた者として、どれだけ神の言葉に忠実に生きているでしょうか。人から何かを勧められた時、それをみことばと照らし合わせて、譲れないものは譲れないと、確固たる生き方をしているでしょうか。私たちはレカブ人がカナンに定住しながらもその文化や習慣に流されないで生きていたように、この世にあって神の御言葉にしっかりと立った生き方が求められているのではないでしょうか。

Ⅱ.ユダの民の不従順(12-17)

次に、12~17節をご覧ください。「12 すると、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言う。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『あなたがたは訓戒を受け入れて、わたしのことばに聞き従おうとしないのか──【主】のことば──。14 レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲んでいない。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。15 わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、行いを改めよ、ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない、わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住め、と言った。それなのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。16 実に、レカブの子ヨナダブの子らは、先祖が命じた命令を守ってきたが、この民はわたしに聞かなかった。17 それゆえ──イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる──見よ。わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らは聞かず、わたしが彼らに呼びかけたのに、彼らは答えなかったからだ。』」」

主はなぜエレミヤに、レカブ人にぶどう酒を飲ませよとの命令を与えたのでしょうか。主はここでその理由を説明されます。それはユダの民の不従順さを責めるためです。レカブ人たちは、先祖の命令を守りぶどう酒を飲まなかったのに対して、ユダの民は、預言者が語り続けた神の言葉に聞き従わず、自分勝手な道を歩んできました。人は信頼する相手のことばに耳を傾けるものですが、ユダの民にはそのような態度が見られませんでした。15節には、「ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない」とありますが、これは十戒の第一戒の戒めを破ることでした(出エジプト20:3)。それゆえ、イスラエルの神万軍の主は、ユダとエルサレムの住民に、「すべてのわざわいを下す」と言われたのです。具体的には、バビロン捕囚という出来事です。エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、その住民はバビロンに捕え移されることになります。

しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、ここでレカブ人たちが称賛されているのは彼らの信仰ではなく、彼らが家を建てないで荒野に住んだことや、ぶどう畑を所有しなかったことではなく、あくまでも先祖レカブの命令にどこまでも忠実であったという点です。というのは、モーセの律法では逆にそのようにするようにと命じているからです。もし彼らがイスラエル人であるなら、彼らは家を建て、ぶどう畑を所有し、定住生活をしなければなりませんでした。しかし、彼らは異邦人であったためその必要がなかっただけのです。ですから、彼らが称賛されたのはそういう点ではなく、あくまでも先祖の命令にどこまでも忠実であった、誠実であったという点においてなのです。この点を見落としてはなりません。

Ⅲ.レカブ人たちへの祝福(18-19)

一方、レカブ人たちには祝福が宣言されます。18~19節をご覧ください。「18 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った。19 それゆえ──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない。』」」

レカブ人たちへの祝福は、「レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない」ということです。どういうことでしょうか。「わたしの前に立つ人」というのは、祭司職を意味する表現ですが、先程も申し上げたように、彼らは異邦人で先祖を信仰していたので、「神殿に仕える人」という意味ではなさそうです。この「神の前に立つ人」とは、永遠に途絶えることがないという意味です。つまり、今日でもこの地上のどこかにレカブ人の子孫が生存していることになります。ただイザヤ書66章18~21節には、千年王国においてはイスラエル人だけでなく、異邦人の祭司も立てられると預言されているので、もしかするとその中にレカブ人も含まれるということを示しているのかもしれません。いずれにせよ、レカブ人は先祖の命令に聞き従い、そのすべての命令を忠実に守り、彼が命じたとおりに行ったので、神から祝福されたのです。

これはレカブ人だけではありません。私たちにも求められていることです。異邦人のレカブ人がその先祖の命令に対してそこまで忠実に守り続けてきたのならば、神に選ばれてクリスチャンとされた私たちは、神に対してもっと忠実でなければなりません。彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとして、日々神の言葉に従って生きるという誠実さが求められているのです。

皆さんは、NHKの朝の連続テレビ小説の「とと姉ちゃん」をご存知でしょうか。これは、戦後すぐに創刊され、日本中の多くの家庭で読まれた生活総合雑誌「あなたの暮らし」の創刊した大橋 鎭子(しずこ)をモデル化した小説ですが、主人公の常子の家には父竹三が決めた3つの家訓がありました。それは、一つ。朝食は家族皆でとること。一つ。月に一度、家族皆でお出掛けすること。一つ。自分の服は自分でたたむこと。父竹三は娘とたちが幼いうちに病気で亡くなりますが、この家訓は生きていて、この家族はこの家訓に従って生きていくのです。
 昔は、多くの家にこのような家訓のようなものがあり、それに疑問をはさむことは許されませんでした。それに対する反動なのでしょうか。今の時代は、価値観が多様化し、善悪の基準も不明確になっています。しかし、どこかで、「譲れないものは譲れない。これは守らなければならない」という不動の軸になるものが必要なのではないでしょうか。神の民にとってそれは神の言葉である聖書です。私たちは自分たちの譲れない生き方として、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとしての祈りと御言葉の時を持ち、それに聞き従うというそうした生き方を貫いていきたいと思うのです。置かれた状況によって意見が変わる人など、信頼されることはありません。忠実さこそ信頼の鍵なのです。

エレミヤ34章1~22節「心を翻すことなく」


きょうは、エレミヤ34章から、「心を翻すことなく」というタイトルでお話します。「心を翻す」とは、心を変えること、考えを改めることです。私たちは、聖書の御言葉を聞いたり、読んだりする中で、その御言葉に一度は従おうと決意するも、状況が変わると、目先の利益に心が奪われて、再び心を翻すという弱さがあるのではないでしょうか。主に救われ、主のみこころに歩む者として、私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。一度主の御言葉に従うと決めたら、心を翻すことなく、どこまでも主の御言葉に従うことが求められているのです。

きょうの箇所には、南ユダ最後の王ゼデキヤとエルサレムの民が一度は主の御言葉に従って奴隷の解放を宣言するも、状況が変わると目先の利益を優先して、心を翻してしまったことが記されてあります。それは主のみこころを損うことでした。その結果、彼らは神のさばきを受けることになります。私たちは心が動かされやすい者ですが、主の助けを受けて、一度神の前で誓った誓いを最後まで果たさなければなりません。

Ⅰ.ゼデキヤ王への警告(1-7)

まず1~7節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民族が、エルサレムとそのすべての町を攻めていたとき、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」6 そこで預言者エレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、エルサレムでこれらすべてのことばを語った。7 そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらが、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。」

これは、バビロンの王ネブカドネツァルが、エルサレムとそのすべての町を攻めていたときのことです。時はB.C.586~7年頃です。そのとき主からエレミヤに主の言葉がありました。それはユダの王ゼデキヤのところに行って、次のように告げよというものでした。それは、エルサレムはバビロンの手によって落ちるということでした。ゼデキヤ王はその手から逃れることはできません。彼は捕らえられてネブカドネツァルの手に渡されることになります。それは主によって定められていることで避けることはできないことなのだから、それを受け入れるべきです。そうすれば、彼は剣で死ぬことはなく、彼の先祖たちのように平安のうちに死ぬことができるというものでした。「平安のうちに死ぬ」とは、自然に死ぬということです。彼はそれ以前の王たちと同じように、ユダヤ人の習慣に従って丁重に葬られることになるということです。

そこでエレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、これらすべてのことばを語りました。そのとき、バビロンの王の軍勢は何をしていたかというと、7節を見ていただくとわかりますが、エルサレムとユダに残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていました。これらの町々が、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからです。ラキシュはエルサレムから南西に約45キロメートルくらい離れたところにありました。アゼカはラキシュからさらに東に約16キロメートルくらい離れたところにありました。バビロン軍はまずこれらの町々を攻撃しました。なぜなら、エルサレムが堅固な要塞都市だったからです。だからまずこれらの町々を攻めてから、満を持してエルサレムを攻略しようとしたのです。それはかつてアッシリアがイスラエルを攻撃した時も同じでした。それと同じ戦略です。いわゆる籠城攻めですね。敵を城に閉じ込めて相手が飢えや渇きに疲れ果てるのを待つのです。日本では豊臣秀吉が得意としていた戦法ですが、この籠城攻めは援軍が来ない限り解かれることはありません。バビロン軍はそのことをよく知っていました。彼らはエルサレムを無理に攻め落とそうとはしないで、彼らが外に出られないように中に閉じ込めたのです。これが1年半にも及びました。エルサレムの民は城壁の外に一歩も出られず、バビロンがいつ攻めてくるかと脅える毎日でした。しかもそれが1年半も続いたのです。精神的に追い詰められ、おかしくなってもおかしくありません。食料も底をつき、飢えと渇きで兵士の士気もどんどん落ちていきました。ですから、誰も助けに来られないように、エルサレム以外の主要な都市のすべてを攻め滅ぼしてから、エルサレムを包囲しようとしたのです。

エルサレムに閉じこもっていたゼデキヤは、もはや打つ手はありませんでした。頼りは、ひそかに同盟を結んでいたエジプト軍が助けに来てくれることです。しかし、待てども暮らせど、エジプトからの援軍はやって来ませんでした。そこで彼はエレミヤのところにやって来て、神の助け求めたのです。その時のやりとりがエレミヤ書21章1~2節の内容です。
「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」

あれ、33章ではエレミヤはゼデキヤによって監視の庭に監禁されていましたが、この34章では21章に話が遡っています。これはどういうことかというと、この34章はエレミヤがまだ監禁されていなかった時の出来事、33章以前の出来事であるということです。エレミヤ書は、年代順ではなくテーマ順に並べられているので、このように話が遡ることがあるのです。ですから、エレミヤ書を読む時はこのことに注意して読まなければなりません。

ところで、この21章2節には「主がかつてあらゆる奇しいみわざを行われたように」とあります。これはエレミヤから遡ること100年前のヒゼキヤ王の時代に起こった出来事を指しています。その時の南ユダの王様がヒゼキヤ王でした。エルサレムがアッシリアの王セナケリブの猛攻を受けて陥落寸前になったとき、ヒゼキヤ王はへりくだって部下を預言者イザヤに遣わし神の助けを求めました。すると神は彼らを窮地から救ってくださいました。一晩で18万5千人ものアッシリアの兵が疫病で死んでしまったのです。それでアッシリア軍はエルサレムから撤退しました。ゼデキヤ王はその時のことを思い出したのです。そしてその時のように主が自分たちを救ってくださることを期待して、自分の部下をエレミヤのところへ遣わしたのです。しかし、イザヤの時とは違い、エレミヤの返事はつれないものでした。この34章2節の後半と3節をご覧ください。主はこう言われました。
「見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。あなたはその手から逃れることはできない。あなたは必ず捉えられて、彼の手に渡されるから」
何と主はバビロンと戦ってくれるというのではなく、反対にゼデキヤをバビロンの手に渡すと言われたのです。そしてエルサレムに住む者は、人も家畜も疫病で死んでしまうと。そして最後はゼデキヤとその家来、その民はバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されることになるというのです。助かる道はたった一つしかありません。それはバビロンに降伏することです。そうすれば彼は剣で死ぬことを免れ、平安のうちに死ぬことができます。3節には「必ず」とありますが、それは必ず起こることなのです。主が「必ず」と言われる時は、必ずそうなるからです。バビロンの王に服することは屈辱的なことではありますが、そうすることで、捕囚の地でゼデキヤが安らかに死ぬことができるのであったなら、どんなに幸いであったかと思います。また、その死を悼む民がいたということも大きな慰めであったはずです。

しかし、ゼデキヤはそうしませんでした。彼は最後までバビロンの王に降伏しませんでした。その結果、ゼデキヤはエレミヤが預言した通り悲惨な死を遂げることになります。それは39章4~7節を見るとわかります。
「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」
 ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出ました。しかし、カルデアの軍勢、これはバビロンの軍勢のことですが、彼らがゼデキヤの後を追うと、エリコの草原で彼に追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいたバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れてきたのです。ネブカドネツァルはゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺しました。さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめました。ゼデキヤは、最後は獄中で死んでしまいます。彼が最後に見たのは、自分の目の前で自分の息子たちが虐殺されるということでした。何とむごいことでしょうか。いったいなぜそこまで悲惨な死に方をしなければならなかったのでしょうか。それは、彼がエレミヤを通して語られた神の言葉を受け入れなかったからです。エレミヤの言葉を聞いて彼がそれを受け入れていたならば、彼の死は本当の意味で「安らかな死」となっていたことでしょう。それは私たちへの教訓でもあります。神が語られたことは必ずそのようになります。ですから、私たちは心を頑なにしないで、神のことばに素直に従わなければなりません。

皆さんは、アテローム性動脈硬化という病気をご存知ですか。これは、コレステロールの蓄積と動脈の壁の傷跡のせいで起こる動脈硬化のことです。 霊的心の硬化も起こることがあります。 心の硬化は、神の真理を示されたのに、それを認めようとせず、受け入れることを拒否することで起こります。箴言4章23節に、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」とあります。あなたはどうでしょうか。あなたの心は硬化してはいないでしょうか。何を見張るよりも、あなたの心を見守らなければなりません。いのちの泉はそこから湧くからです。

Ⅱ.心を翻したゼデキヤとエルサレムの民(8-11)

次に、8~11節をご覧ください。「8 ゼデキヤ王がエルサレムにいる民全体と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言した後、【主】からエレミヤにあったことば。9 その契約は、各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないというものであった。10 契約に加わったすべての首長と民は、各自、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから奴隷を去らせた。11 しかしその後で、彼らは心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させた。」

ゼデキヤは、エレミヤの告げる神の言葉に心の底から耳を傾けて真剣に聞こうしませんでしたが、何とかしなければならないという思いがあったのでしょう。彼はエルサレムにいた民全体と一つの契約を結びました。それは、へブル人である自分の奴隷や女奴隷を解放するということでした。おそらく彼は、バビロンから独立を勝ち得るために神の恵みと祝福が必要だと感じたのでしょう。自分に向けられる神の怒りをどうにかして取り除かなければならないと考えたのです。それがこのヘブル人奴隷の解放です。へブル人奴隷というのは、同じユダヤ人の奴隷のことです。レビ記には、ユダヤ人は、神の奴隷であるから奴隷にしてはならない、と規定されてあります(レビ25:42,55)。しかし当時、経済的な理由から自発的に奴隷になる者がいました。そのような場合、奴隷は6年間働いて、7年目には解放されることになっていました(申命記15:12~18)が、彼らの先祖たちは、それを守ってこなかったのです。それを今、解放しようというのです。それは主の目にかなうことでした。それで彼はエルサレムにいる民全体と契約を結び、彼らを解放しました。

しかし、11節をご覧ください。その後で、彼らは心を翻し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させたのです。いったい何があったのでしょうか。ここには記されてありませんが、その背景にはエジプトのファラオの軍勢が彼らを助けるためにやって来たことがあります。そのことはエレミヤ書37章5節に記してあります。そこにはこうあります。
「また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。」
 待ちに待ったエジプトの援軍がやって来たのです。カルデア人とはバビロン人のことですが、彼らはエジプト軍がエルサレムを救出するためにやって来たことを知ると、一時的にエルサレムの包囲を解くのです。エルサレムの人たちは大喜びでした。やった、危機は去った。エジプトさえ来てくれれば、もうバビロンなど恐れることはない、私たちは自由だ、と小躍りしました。しかし、その自由の喜びはとんでもない行動に現れてしまいました。それを見た民は、心を翻してしまったのです。奴隷を取り戻したいという思いにかられるようになったということです。バビロンに包囲されている間は奴隷も大した仕事もなかったのであまり必要ではありませんでした。むしろ、奴隷を養うにはお金がかかりますから、ただ飯を食わせるよりは、解放した方がましだと考えましたが、バビロンの包囲が解かれた今は、話は別です。いてもらった方がどんなに助かることか・・・。彼らは急に心を翻しました。神聖な神との契約を踏みにじってしまったのです。

苦しい時の神頼みではありませんが、人が神を求めるのは、結局、自分の都合であったりすることが多いのです。それは、現代の私たちも同じではないでしょうか。自分の都合で信仰を持つ。いわゆるご利益信仰です。ご利益を求めて祈ること自体は悪いことではありませんが、私たちが考えるご利益と神が与えようとしておられるご利益とではちょっと違います。私たちは目先の状況に左右されその利益を考えてすぐに心を翻してしまいますが、神はそのような方ではありません。神は約束されたことを最後まで忠実に守られます。神が私たちに約束しておられることは、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それは言い換えると、神のようになる、ということです。そのために神はあらゆる方法を用いておられるのです。それは時には嬉しいことであったり、喜ばしいことですが、時には受け入れがたい辛いことであるかもしれません。しかし、どのような道を通させるにしても最後は希望なのです。それなのに、目先の利益を優先しそれに振り回され神との契約を軽んじることがあるとしたら、中身はこの世の人と何ら変わらないということになってしまいます。ただ礼拝の習慣を持っているだけの、取ってつけたような信仰にすぎません。もしそうであるなら、このゼデキヤと同じように、神の御怒りを受けることになってしまいます。神を信じているというのであれば、心から神を恐れ、神を敬い、神につながった、神第一の歩みを求めるべきなのです。

Ⅲ.どんな境遇にあっても(12-22)

その結果、どうなったでしょうか。最後に12~22節をご覧ください。12~16節をお読みします。「12 すると、【主】からエレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの地、奴隷の家から導き出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。14 「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間あなたに仕えさせ、その後あなたは彼を自由の身にせよ」と。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けもしなかった。15 ところが、あなたがたは今日、立ち返って、各自が隣人の解放を告げてわたしの目にかなうことを行い、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。16 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚した。あなたがたは、それぞれ、いったん彼らの望むとおりに自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷の身分に服させた。』」

ユダの民は知っていました。「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない」と。しかし、彼らの先祖は、主の命令に聞き従わず、耳も傾けませんでした。ところが、ゼデキヤはじめ、この時代のユダヤ人たちは違います。彼らは立ち上がって、各自が隣人の解放を告げて主の目にかなうことを行いました。ここではそのユダの民がほめられています。しかし彼らは息つく暇が出来ると、心を翻して以前の状態に戻ってしまいました。神の名で呼ばれる家、神の前に立てた契約をあまりにも簡単に捨ててしまったのです。彼らは神がどのような方かを知っていたのに、自分の利益のために神を侮る態度を取りました。それで神は「わたしの名を汚した」と叱責したのです。人の心はころころ変わるから”こころ”と名付けられたそうです。とにかく定まりません。チョッとした事でもすぐにぐらついてしまいます。私たちの周りにはいろいろな人がいて、いろいろな価値観や考え方を持っているので、そういう人たちに触れるとたちまち心が揺さぶられてしまうのです。

そのような中で心が変わらないでいるということは、私たちにできることではありません。そのためには聖霊の助けが必要です。そして目先の状況で心を変えないためには、どんな状況にあっても神の真実に目を留め、あらゆる境遇に対処することができる私たちの救い主イエス・キリストにつながっていなければなりません。パウロは、ピリピ4章11~14節でこう言っています。「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

アーメン!パウロはどんな境遇にあっても満ち足りる秘訣を知っていました。それはイエス・キリストでした。ですから、目先の状況がどうであろうとも、彼の心は変わらなかったのです。彼は彼を強くしてくださる方によって、どんなことでもできると信じていました。心が変わらないこともそうです。それは彼が神の恵みを深く知っていたからです。それは私たちも同じです。神の恵みによって、イエス・キリストを信じる者に約束された聖霊の助けによって、私たちもどんなことでもできるのです。自分の思い通りにいかないこともあるでしょう。でも聖霊の導きに従って歩むなら、決して肉の欲を満足させることはありません。心がころころ変わることはないのです。

ロシアの文豪ドストエフスキーは、知恵の種に出会って人生の方向を変えることができたと言われています。1866年に発表された小説「罪と罰」は、このような変化が実を結んだ作品です。彼が若かった頃、青年作家として多くの作品を執筆したことで傍若無人で高飛車な態度を取っていました。そんな彼が秘密警察に加担して逮捕され、シベリアへ流刑されました。自分を知る人が誰一人いない場所で、無期で強制労働に服する生活が続きました。昼は強制労働を強いられ、夜は厳しい寒さの中暗い屋根裏部屋で一人絶望に陥りながら過ごしました。
 その頃、誰かがドストエフスキーに聖書を手渡しました。それで、彼は毎晩聖書を読むようになりました。そして、聖書の中で神に出会い、みことばを通して神の御声を聞いたのです。ついに、彼は後年心血を注いで一つの作品を書き上げました。それが「罪と罰」です。これは彼がみことばによって新しく生まれ変わった者として、人間の良心の問題を取り扱った作品となっています。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。みことばには人を変える力があります。それは、神のみことばを読むと、そのみことばが読む人の心に働くからです。

しかし、ユダの民は簡単に心を翻してしまいました。それゆえ神は厳しいさばきを宣告されます。それが17~22節にある内容です。17節には、「それゆえ、【主】はこう言われる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに──【主】のことば──剣と疫病と飢饉の解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。」とあります。つまり、心を翻したユダの民に対して「剣と疫病と飢饉の解放を宣言する」と言われたのです。また、18節には、彼らが神の前で結んだ契約のことばを守らず、神の契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする、と言われました。これは神とアブラハムとの間で契約を結ぶ話の中でも述べられています(創世記15章)。これは、契約した双方の当事者が向かい合った引き裂かれた動物の間を通ります。これを何を表しているのかというと、もし、その契約をどちらかが破れば、その引き裂かれた動物のようになる、つまり、二つに引き裂かれるということです。

いったんは退却したバビロン軍ですが、彼らは引き返して来て、エルサレムとユダの町々を破壊することになります。そして22節にあるように、「彼らはこの都を攻め取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。」のです。神との契約を守るということは、それほど重いことなのです。

旧約聖書の中に、この神との誓いを果たした美しい女性の話が出てきます。それは「ハンナ」です。長年不妊に悩んでいたハンナは、誰も見ていないところで、「神様、わたしに男の子を授けてください。もし願いが叶いましたなら、その子を一生神様にお献げします」と祈りました。神はその祈りを聞かれ、彼女にサムエルを授けてくださいました。ハンナとしてはやっと手に入れた待望の子ども、しかもかわいい盛りの赤ん坊でしたが、そのサムエルを「この子を主にお渡しいたします」と言って、祭司エリの養子にしたのです。誰も聞いていない、誰も見ていない、神への独り言と思えるような言葉も、ハンナは神への約束として忠実に果たしたのです。このような信仰こそ、神が喜ばれるものです。神はサムエルのことも、ハンナのことも豊かに祝福されました。

あなたはどうでしょうか。状況の変化に心が揺さぶられ、目先の利益を優先して、一度は主の御言葉に従うと決意しても、それを翻す弱さがあるのではないでしょうか。主に救われた者として私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。主はこう言われます。「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(Ⅰサムエル2:30)主に心を定め、心を翻すことなく、主の御言葉に従いましょう。自分が動かされやすい者であることを自覚し、主の助けを求めて祈りながら、主との約束を果たしていくものでありたいと思います。

エレミヤ33章14~26節「主は私たちの救い」

きょうは、エレミヤ33章後半からお話したいと思います。タイトルは、「主は私たちの救い」です。16節には「主は私たちの義」とありますが、これと同じ意味です。創造主訳聖書では「義」を「救い」と訳していて、こちらの訳の方がわかりやすいと思ったので、そのようなタイトルにしました。

前回の箇所には、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」とありました。すばらしい約束ですね。この「大いなること」とは、エルサレムの回復のことです。エルサレム(イスラエル)は神に背き、神の戒めを守らなかったので主は彼らから御顔を隠されましたが、もし彼らが主を呼ぶなら、主は彼らが知らない理解を超えた大いなることを告げてくださるというのです。今回はその続きです。33章までが、このエルサレムの回復がテーマになっています。主がどのようにエルサレムを回復なさるのかをご一緒に見ていきましょう。

Ⅰ.主は私たちの義(14-16)

まず14~16節をご覧ください。「14 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす。15 その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。16 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『【主】は私たちの義』と名づけられる。」」

「見よ、その時代が来る」ということばは、世の終わりを示す特徴的な語です。そのとき、どんなことが起こるのでしょうか。ここには、「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす」とあります。ここでは、この「いつくしみの約束」ということばがキーワードになっています。そのことを念頭にお聞きください。この「イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束」とは、サムエル記第二7章12、13節で主がダビデに語られた約束のことです。主はダビデに次のように言われました。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

これは主がダビデと結ばれた契約なのでダビデ契約と言われているものですが、主はこの契約に基づいて、その日、ダビデのためにいつくしみの約束を果たすというのです。具体的にはダビデのために義の若枝を芽生えさせるということです。これはイエス・キリストによって成就するメシヤ預言です。すでにエレミヤ書23章5節にもこのことばが出てきました。主は、イスラエルとユダに語られたいつくしみの約束のゆえに、ダビデの子孫からメシヤを起こし、公義と正義によってエルサレムを治めてくださると言われました。その結果、エルサレムは安らかな町、「主は私たちの義」と呼ばれるようになるのです。すばらしいですね、主はご自分がダビデと交わした約束のゆえに、エルサレムを救い、そこで公義と正義を行い、そこが(エルサレム)が安らかに住めるようにしてくださるのです。たとえバビロンによって一時は滅ぼされたとしても。そしてそこは「主は私たちの義」と呼ばれるようにしてくださるのです。これはイエス・キリストが最初に来臨した時に成就しましたが、実はそれだけのことではありません。来るべき千年王国において、エルサレムに完全な平和をもたらしてくださるのです。

ここではエルサレムは擬人化されています。これは私たちのことでもあるのです。「エルサレム」ということばに自分の名前を入れてよんでみるとわかりやすいと思います。その日、大橋富男は安らかに住み、こうして大橋富男は「主は私たちの救い」と名付けられる。その日がやってきます。私たちはかつてエルサレムのように神に背き、自分勝手な道を歩んだことでバビロンに滅ぼされたような者ですが、主はそんな私たちを救うためにご自分の永遠の契約に基づいて神の救い、神の御子イエス・キリストを与えてくださり、すべての罪からきよめてくださいました。それで私たちも「主は私たちの救い」と呼ばれるようになったのです。

パウロはこのことをエペソ2章1~8節でこう述べています。「1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」

私たちは、かつて自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、生まれながら神の御怒りを受けるべき子でした。しかし、あわれみ豊かな神はその大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。これは神の賜物です。自分の罪過と罪との中に死んでいたということは、もはや自分では何もできないということです。そんな死人同然の者を、神はキリスト・イエスにあって私たちとともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったのです。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。

そのことをここでは「いつくしみの約束」ということばで語られています。エルサレム(イスラエル)は、バビロンによって滅ぼされもはや死んだも同然、自分たちの力ではどうしようもない状態でしたが、神はそんな彼らを救い、安らかに住むことができるようにしてくださったのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?それは神が彼らといつくしみの契約を結んでくださったからです。主はその約束を果たしてくださるのです。それは私たちにできることではありません。それは一方的な神の恵みによるのです。

詩人の谷川俊太郎さんが、「ぼくのゆめ」という題の詩を書きました。
「おおきくなったら なにになりたい?/と おとながきく/いいひとになりたい/と ぼくがこたえる/おこったような かおをして おとなはいう/もっと でっかいゆめがあるだろ?/えらくならなくていい/かねもちにならなくていい/いいひとになるのが ぼくのゆめ/と くちにださずに ぼくはおもう/どうして そうおもうのかわからない/だけど ほんとにそうおもうんだ/ぼんやり あおぞらをみていると/そんぐ(ぼくがかっているうさぎ)のあたまを なでていると」。

皆さんは、自分の子どもが大きくなったら何になりたいと聞かれ、「いい人になりたい」と言ったら、どう反応するでしょう。ある生命保険会社の調査によると、昨今の子どもがなりたいと思っている第一位はユーチューバーだったそうです2位はマンガ家、イラストレーター、プログラマー、アニメーター、3位は芸能人、4位、ゲームクリエーター、5位はパティシエ、だそうです。牧師になりたいという人はだれもいませんでした。この時代をよく反映しているなあと思いますが、他方、親たちはどう考えているかというと、親たちが「子どもについてほしくない職業」としてあげたのは、1位ユーチューバー、2位芸能人、3位自衛隊、4位政治家、5位は介護士でした。まあ、ユーチューバーや芸能人とあげたのは、これらは不安定な仕事ですから、もっと安定した職業に就いてほしいと思うのはわかるような気がします。世界で戦争や紛争が絶え間なく起こっている現代では、命を大切にしてほしいという気持ちもわかるような気がします。政治家も国のビジョンを描いていくのはカッコいいなぁと思いますが、やはりあまりに利権にまみれ、金まみれの世界に不快感を持つのでしょう。意外なのは、「介護士」ですね。おそらく親たち自身もお世話になるであろうエッセンシャルワーカーであるにもかかわらず、大切な仕事には間違いありませんが、あまりにも過酷すぎるという思いがあるからでしょう。

いろいろな職業がある中でも、どの人にも共通していることは、みんな「いい人になりたい」と思っていることです。でも、そもそもいい人とはどんな人なのでしょうか。エレミヤ17章9節に「人の心は何よりねじ曲がっている。それは癒しがたい。」とあります。そんな心がねじ曲がった人間が、いったいどうやっていい人になることができるのでしょうか。できません。私たちがどんなに頑張っても、自分ではいい人だと自負している人でも、神の目にかなったいい人になることはできないのです。それがイスラエル、エルサレムの結果でした。そしてバビロン捕囚という悲劇を生んだのです。

そんな中でもし私たちがいい人になりたいと思うなら、それはひとえに神の恵みでしかあり得ません。たとえば、ここに「公正」と「義」ということばがありますが、これはあらゆる政治家に求められる性質ですが、いったいどうしたら持つことができるのでしょうか。それは私たち人間から出るものではなく、神の恵みによるのです。

ですから、14節で主は「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみ約束を果たす。」と言われたのです。これは「いつくしみの約束」なのです。私たち人間には到底できないことですが、神が一方的に与えてくださいました。その日、神はイスラエルとユダにいつくしみの約束を果たしてくださいます。良いことを成し得ない悲しいこの世に、神はご自身の「よいこと」をしてくださるのです。それがきたるべきメシヤ、イエス・キリストです。主は私たちを悪から救ってくださいます。私たちが救いなのではありません。救いは主です。主が私たちの救いなのです。その主が私たちを救い、安らかに住まわせてくださるのです。

この「主は私たちの義」という語は、エレミヤ23章6節にも出てきましたが、ヤハウェなる神は、救いという面だけでなく、すべての点でご自分の民の必要となってくださいます。戦いで勝利が必要なときには「ヤハウェ・ニシ」となってくださいます。意味は「主は旗」です。心の平安が必要な時には「ヤハウェ・シャローム」(主は平安)となってくださいます。今のエルサレムに最も必要なのは、公義と正義です。ですから主が「私たちの正義」になってくださるのです。

 そしてすばらしいのは、主ご自身が正義であられるというだけでなく、エルサレムの町も同じ名前で呼ばれるようになることです。それは私たちがキリストを信じたことによってキリストと一つにされたからです。こういうのを何というかというと「同化」と言います。私たちはキリストと同化したのです。「同化」したといってもあなたがおかしいということではないので安心してください。キリストと一つにされたのです。その結果、あなたのただ中にキリストの義がとどまるようになりました。これはすごいことです。私たちはクリスチャンと呼ばれていますが、どうしてそのように呼ばれるのでしょうか。それはキリストの義が転嫁されたからです。罪深い私たちはとても義なる者とはかけ離れた者ですが、キリストを信じたことで、キリストの義が転嫁されたのです。パウロはこのことをこう言っています。Ⅱコリント5章21節です。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)キリストの義が転嫁されたからです。

私たちはエルサレムのように救いも希望も何一つない荒れ果てた人生でしかありませんでしたが、神は、罪を知らないこの方を、私たちの代わりに罪としてくださったので、罪から救われ、神の都に安らかに住むことができるようになりました。それは神の豊かな恵みによるものです。このことを忘れないようにしましょう。そして、キリストと一つにされていることを喜び、キリストに感謝したいと思います。

Ⅱ.いつまでも絶えることがない神の契約(17-22)

次に、17~22をご覧ください。「17 まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。18 また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」19 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。20 【主】はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」

「まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。」これはエレミヤ書22章30節で、主がエホヤキムの子エコンヤに語られたことばです。エコンヤはゼデキヤ王の前の王様でしたが、神の指輪の印のように尊く権威ある存在でした。しかし彼は、エレミヤが語る主のことばに「わたしは聞かない」と反抗したため、神はご自分の指輪の印であるエコンヤを抜き取り、バビロンの王ネブカデネザルの手に渡すと言われたのです。彼はそこで死ぬことになります。ということはどういうことかというと、ダビデ王家が絶たれてしまうということです。そうなったら大変なことになります。神が約束されたメシヤが出てこないことになるからです。しかし、神はダビデの子エコンヤの子孫であるヨセフの子を通してではなく、ダビデの別の息子ナタンからこの王家を起こされるのです。つまり、ダビデの息子ナタンの子孫マリヤを通してこれを実現なさるのです。すごいですね。詳しくは22章のメッセージを読み返していただきたいと思いますが、そこでは「神の大どんでん返し」というタイトルでメッセージしました。このようにして主は再び来られて、ダビデの座に着いてくださるのです。何を言いたいのかというと、神の契約はどんなことがあっても変わることはないということです。ダビデの王家は断絶したが、主はその切り株から新しいダビデ王家につながる王(正義の若枝)を通してご自身が約束されたことを果たされるのです。

それは、その次に出てくるレビ人の祭司たちについても言えることです。18節には、「また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」とあります。エルサレムが崩壊すれば、当然神殿も崩壊します。そうなると、レビ人の祭司たちは無用の人となってしまいます。必要なくなるわけです。しかし主はそんな祭司たちを励ますために、レビ人の祭司たちの制度は永遠であると再確認しているのです。そのことは民数記25章10~13節で約束されていたことでした。つまり、神の契約はいつまでも絶えることはないのです。もちろん、祭司たちの活動が再開されるのは、神殿が再建されてからのことですから、これは千年王国でのことを表しているのでしょう。

それゆえ主は、こう言われるのです。20~22節です。「「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」
 このように神は、ご自分の契約を絶対に破棄することはなさいません。このことを思うとき、私たちはどんな状況の中にあっても勇気と希望をいただくことができます。目に見えることでがっかりしないでください。目に見えることで自分には無理だとあきらめないでください。主の偉大さを祈りの中で認め、果敢に前進していこうではありませんか。

Ⅲ.神の契約はまだ続いている(23-26)

最後に、23~26節をご覧ください。「23 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。24 「あなたはこの民が、『【主】は自分で選んだ二つの部族を退けた』と話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民を侮っている。『自分たちの目には、もはや一つの国民ではないのだ』と。」25 【主】はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、26 わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」」

ここに、主が選んだ二つの部族とありますが、これはユダとイスラエルのことです。彼らは、自分たちは見捨てられたと思っていました。それで彼らは絶望していたのです。しかしそんな彼らに神は、いや契約の民はまだ残っている、続いていると慰めるのです。夜と昼の法則、天地運行の法則が変わらない限り、彼らと結んだ契約が破棄されることはないと、力強く宣言するのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」とは、神の民イスラエルのことですが、神は契約に基づいて、そのイスラエルの民を祖国へと帰還させてくださるのです。

このことは、異邦人クリスチャンである私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。それは、イスラエルが神によって選ばれたのと同じように、私たちもまた選ばれた者であるということです。このことをパウロはエペソ1章4~5節でこう言っています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
 私たちは生まれる前から、この世界の基の置かれる前から救われるようにと選ばれていたのです。それで私たちはそれぞれ救われる道は違えども、イエス様を信じるようになったわけです。じゃ、信じていない人たちはそのように選ばれていないのか、と言ってはなりません。聖書は、そのようには教えていないからです。聖書は、すべての人が救われて真理を知るようになることを神は望んでおられると言っています。すべての人が、イエス・キリストによって救いに招かれています。この選びは、永遠に変わることはありません。あなたは神によって救われるように選ばれているのです。私たちはここに慰めを求めたいと思います。目に見える現実がそうでなくても、たとえ明日が見えない夜でも、あなたに対する神の約束はどんなことがあっても絶対に変わることはありません。このみことばの約束をしっかり握って、その偉大な主とともに歩んでいこうではありませんか。主は私たちの救い。そして主はあなたの救いなのです。