エレミヤ書37章1~21節「ただ神を恐れて」

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  前回は36章から、エホヤキムが神のことばを暖炉の火で焼き尽くしたという出来事を通して、神のことばは絶対に滅びることはないということを学びました。今回は37章全体から、南ユダの王ゼデキヤと預言者エレミヤの生き方から、「ただ神を恐れて」というタイトルでお話します。

Ⅰ.ゼデキヤ王の祈り(1-10)

まず1~10節をご覧ください。「1 ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカドネツァルが彼をユダの地の王にしたのである。2 彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた【主】のことばに聞き従わなかった。:3 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。「どうか、私たちのために、私たちの神、【主】に祈ってください。」:4 エレミヤは民のうちに出入りしていて、まだ獄屋に入れられてはいなかった。5 また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。6 そのとき、預言者エレミヤに次のような【主】のことばがあった。7 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。『見よ。あなたがたを助けに出て来たファラオの軍勢は、彼らの地エジプトへ帰り、8 カルデア人が引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼く。9 【主】はこう言われる。あなたがたは、カルデア人は必ず私たちのところから去る、と言って、自らを欺くな。彼らが去ることはないからだ。10 たとえ、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデアの全軍勢を討ち、そのうちに重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らはそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この都を火で焼くようになる。』」」

ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコンヤに代わって南ユダの王となりました。彼は南ユダ最後の王となります。この後でエルサレムはバビロンによって完全に陥落することになります。彼もバビロンに連れて行かれ、そこで死を迎えることになりますが、その最後の王がこのゼデキヤです。彼は正統的な王位継承者ではありませんでした。エホヤキムの子エコンヤが在位わずか3か月でバビロンに捕え移されたので、彼に代わってユダを治めさせるためにバビロンの王によって擁立されたのです。いわゆるバビロンによって任命された操り人形、傀儡(かいらい)(おう)にすぎなかったわけです。彼がユダを治めていた時代がどのようなものであったかは、2節に総括されています。ご一緒に読みましょう。

「彼も、その家来たちも、民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。」

ゼデキヤ王がユダを治めていた間は、彼も、その家来たちも、民衆も、誰も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。どういう点で彼らは聞き従わなかったのでしょうか。それは、エレミヤが語る神のことばを受け入れなかったという点においてです。エレミヤはゼデキヤ王をはじめその家来たちや民衆に、バビロンに降伏することが神のみこころであると語ったのに、彼らはその言葉に従わず、自分を王に立てたバビロンの王ネブカドネツァルに反旗を翻したのです。彼らはどのようにバビロンに逆らったのでしょうか。この後のところを読むとわかりますが、この時エジプトのフェラオの軍勢がエジプトを出て来てバビロン軍と戦おうとしていましたが、彼らの中にはそのエジプトと手を結んでバビロンを倒すようにとゼデキヤに圧力をかける者たちがいたのです。実際、エジプト軍はバビロンに対抗するためにユダをはじめパレスチナ諸国に同盟を呼び掛けていました。そのような呼び掛けに応じて、ゼデキヤはついにバビロンに反旗を翻したのです。それなのに彼は3節でエレミヤのもとに使いを遣わしてこう言いました。

「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」

どういうことでしょうか。日頃、エレミヤのことばには耳を貸そうともしていなかったのに、バビロン軍がエルサレムを包囲すると、溺れる者、藁を掴むで、苦しい時の神頼みに走ったのです。しかし、それはあまりにも身勝手な要求でした。日頃、神のことばに従がおうとしないで自分勝手な生活をしていながら、自分にとって都合が悪くなると、神様、助けてくださいと祈るのはあまりにも虫のいい話だからです。確かに「私のために祈ってください」と願うこと自体は悪いことではありません。それはへりくだっていなければできないことだからです。私は長い間、なかなかそのように言うことができません。自分で何とかすると思っていたからです。しかし、度重なる病を通して、また、個人的な問題を通して自分にはもう無理だとギブアップしたとき、心から「私のために祈ってください」と言えるようになりました。ですから、今は少しへりくだっているのです。まあ、こういうふうに言うこと自体高慢なんですけれども。ですから、祈ってくださいとお願いすること自体は問題ではないのですが、もっと大切なことがあるのです。それは神様との関係です。神様とどのような関係を持っているのかということです。神のことばに留まっているかどうかということです。それに聞き従っているかどうかということです。主イエスはこう言われました。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(ヨハネ15:7)

私たちの祈りが聞かれる条件は何ですか。どうすれば祈りが聞かれるのでしょうか。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、です。そうすれば、神はそれをかなえてくださいます。そうでないのに、ただ苦いし時の神頼みのように祈っても、神は聞いてくださることはありません。なぜなら、神はうわべを見られるのではなく、心を見られるからです。ヘブル11章6節にはこうあります。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。あなたの人生において何らかの問題を抱えた時だけでなく、あるいは危機に陥った時だけでなく、どんな時でも神がおられることと、神を求める者には報いてくださるということを信じなければなりません。つまり、神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、神のみこころに生きるということが求められているのです。今、ディボーションで箴言を呼んでいますが、箴言の言葉で言うなら、神の知恵を求めるということです。神の知恵とは何ですか。それは、神を恐れることです。箴言1章7節にこうあります。

「主を恐れることは知恵の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」

主を恐れることが知恵の初めです。その教えを受け入れ、その命令を私たちのうちに蓄え、それに従って生きること。これが神の知恵です。それがなければどんなに祈ったとしても、その祈りが聞かれることはありません。

ゼデキヤはどうでしたか。彼は預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従いませんでした。それなのに彼は祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」と懇願しました。そのような祈りが聞かれるはずがありません。あまりにも虫のいい話です。彼の信仰はどちらかというと他人任せでした。自分から神の前に出ることもしませんでした。いや、できなかったのでしょう。神のことばに従っていませんでしたから。神様に顔向けできるような心境ではなかったのでしょう。だから、だれか他の人に祈ってもらうことによってそれを叶えようと思ったのです。そういうことが私たちにもあります。自分のような者が祈っても神様は聞いてくれないから、牧師さん、祈ってもらえませんか・・・。言われた方も大変です。誰が祈っても同じだからです。問題は誰が祈るかということではなく、祈るその人が神を信じ、神を愛し、神のことばに従い、へりくだって神の前に出ているかどうかです。もしその人が神を信じ、へりくだって神を愛し、神に従っているなら、神は必ず聞いてくださいます。大切なのは、神に祈るという行為とか形ではなく、神を愛し、神に従っているかどうかという中身なのです。神との関係です。その上でもし神に従っていないということが示されたなら、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。そうすれば、神はあなた罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。その時あなたは神の愛と赦しを受け取り、神との関係を回復することができます。あなたがどんな罪を犯したとしても。その上で祈らなければなりません。それが聖書があなたに約束していることです。それが十字架と復活の御業を通して主イエスが成し遂げてくださったことです。

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)

あなたはこの神の愛と赦しを受け取りましたか。永遠の愛をもって神はあなたを愛してくださいました。真実の愛を尽くし続けてくださいました。ですから、この愛を受け取り、悔い改めて神に立ち返ってください。そして神のことばに聞き従ってください。そうすれば、神は必ずあなたの祈りを聞いてくださいます。新約聖書のヤコブ書にはこうあります。

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5:16、第三版)

義人の祈りは働くと、大きな力があります。義人とはどういう人ですか。義人とは清く、正しく、美しい人のことではありません。また、良い行いをしている立派な人でもありません。義人とは互いに自分の罪を言い表し、神の赦しと救いを受け入れた人のことです。すなわち、自分の罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じ、神のことばに従って生きている人のことです。そのような義人の祈りは働くと、大きな力があるのです。

ゼデキヤはそうではありませんでした。彼は神のことばにとどまっていませんでした。それなのに彼は、「私たちのために、私たちの神に祈ってください。」と言いました。そのような祈りが聞かれることはありません。

このゼデキヤ王の約100年前にヒゼキヤという王がいましたが、これがヒゼキヤと決定的に違う点でした。ゼデキヤとヒゼキヤでは名前はとてもよく似ていますが、中身は全く違います。ヒゼキヤの時代はバビロンではなくアッシリアという国がエルサレムを包囲するという同じような状況下に置かれましたが、彼はゼデキヤと違いどんなに敵に脅されても屈することをしませんでした。そして、自分の衣を引き裂き粗布を身にまとって主の宮に入って行くと、主の前に祈りました。これは深い悔い改めを表す行為です。そして、当時の預言者であったイザヤにとりなしの祈りを要請したのです(Ⅱ列王18:13)。するとどのような結果になったでしょうか。イザヤは神からのことばを彼に伝えました。Ⅱ列王19章6~7節です。

「6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『【主】はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。7 今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」

そのことばの通り、その夜の内に主の使いがアッシリア軍を撃ち、アッシリアの陣営で18万5千人を打ち殺しました。つまり、彼の祈りは聞かれたのです。だれがこのようなことを想像することができたでしょうか。これが主のなさることです。主はへりくだって主の前に悔い改め、主に信頼し、主に従う者を決して(ないがし)ろにすることはなさいません。私たちの思いをはるかに超えて、ご自分の愛する者ために働いて御業を成してくださるのです。

しかし、ゼデキヤ王はそうではありませんでした。彼はこのようになることを期待していたのでしょうが、事態はそのようには動きませんでした。ユダを助けるためにエジプトから出て来たファラオの軍勢によってバビロン軍は一時的にエルサレムから引き揚げるが、その後引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼くようになる、と言われました。ゼデキヤの祈りは聞かれなかったのです。ヒゼキヤは神を恐れ、神に信頼し、へりくだって神のことばに聞き従ったのに対して、ゼデキヤはあくまでも自分の考えや思いを優先して、神のことばには聞き従わなかったからです。

すべてのことは神のみこころにかかっているのです。虚しい望みにすがって自らを欺いてはなりません。自分の思いを優先すれば、結局滅んでしまうことになります。大切なのは、自分の思いではなく、神のみこころに従うことです。それは神のことばである聖書に従って生きることです。そうすれば、神はあなたの祈りを聞いてくださり、あなたに神の御業を現わしてくださるのです。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

あなたは自分の思い通り、期待通りになることを願って、ひどく失望したことはありませんか。期待することは大切なことですが、もっと大切なことは、神に従うことです。神との関係です。それが神のみこころにかなう願いなのかどうかということです。今、神のみこころに従わせるべきあなたの思い、あなたの期待は何ですか。困難の中で、ゼデキヤのように自分の思いが優先することがないように、まず神の国と神の義を第一に求めましょう。それが、私たちが祈りをささげるときに持つべき心なのです。

.たとえ誤解されても(11-16)

次に、11~16節をご覧ください。「11 カルデアの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたとき、12 エレミヤは、エルサレムから出て行き、ベニヤミンの地に行った。民の間で割り当ての地を受け取るためであった。13 彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナンヤの子シェレムヤの子の、イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデア人のところへ落ちのびるのか」と言い、預言者エレミヤを捕らえた。14 エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところに連れて行った。15 首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、こうして書記ヨナタンの家の牢屋に入れた。そこが獄屋になっていたからである。16 エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこにいた。」

カルデアの軍勢、すなわちバビロンの軍勢がファラオの軍勢のゆえにエルサレムから引き揚げたときとは、エジプト軍の進撃でエルサレムを包囲していたバビロン軍が一時的に撤退したときのことです。そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、ベニヤミンの地に行きました。どうして彼はベニヤミンの地へ行ったのでしょうか。12節には「民の間で割り当ての地を受け取るためであった」とあります。これは既に32章で見たように、彼が従兄弟のハナムエルから買い戻したアナトテにある畑の割り当て地を決めるためだったのでしょう。アナトテの地はベニヤミン族の領地にありましたから。

しかし、彼がベニヤミンの門のところまで来たとき、そこにイルイヤという名の当直の者がいて、彼によって捕らえられてしまいました。それは、エレミヤがバ「ビロンに投降しなさい」と語っていたからです。それで彼はエレミヤがバビロンに逃亡するのではないかと疑われたのです。
 エレミヤは、「違う。私はカルデア人のところに落ちのびるのではない。」と否定しましたが、受け入れられず、結局、彼は捕らえられて、首長たちのところに連れて行かれ、投獄されてしまいました。そこは丸天井の地下牢であったとあります。丸天井の地下牢とは、元々貯水槽のために造られたものですが、神のさばきによって雨が降らなかったために泥に覆われた劣悪な環境になっていました。エレミヤは長い間そこに監禁されることになったのです。

この時、エレミヤはどんな気持ちだったでしょう。もうやるせないというか、悔しいというか、苦しいというか、絶望的だったのではないかと思います。十分な審議や取り調べもされずに、誤解されて地下牢に入れられてしまったのですから。

こういうことが私たちにもあります。エレミヤのように投獄されるようなことはないにしても、あなたが職場や友人に自分が教会に行っているということを告げようものなら、あなたは精神的に問題があるのかとか、そんな献金をたくさん取れられるような所に出入りしていて危ないと思われるかもしれません。しかし、主イエスはこう言われました。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:10)

神の働きをしていて誤解され、不当に扱われることがあったとしても、義のために迫害され者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。エレミヤは義のために迫害されても、うそや偽りを言って自分を欺くことをしませんでした。それゆえ地下牢に閉じ込められてしまいましたが、そこにはだれも奪うことができない神から与えられる恵みと平安がありました。彼はそれを味わうことができたのです。

こんな証を聞いたことがあります。ある中国人が福音を伝えたことで監獄に入れられました。彼は自分のような足りない者が福音を伝えて投獄されたことは光栄だと喜び、その監獄の中で大声で賛美して、福音を伝えました。すると多くの囚人たちがイエス・キリストに立ち返りました。これを見た看守長は、福音を伝えられないように彼を独房へと移しました。しかし、今度は邪魔されなくてよいと言って、昼も夜も大きな声で賛美しました。結局、看守長は「この人はもうどうにもできない」と彼を釈放しました。釈放後、苦しみを受けたことは大きな感謝だったと言って、以前よりさらに一生懸命に福音を伝える者となりました。

使徒パウロもピリピで投獄されたことがありました。でもそのような苦難を受けることを恐れませんでした。なぜなら、その苦難を通して福音があらゆるところに証しされることを知っていたからです。ピリピ1章13節、14節で彼は、自分がキリストのゆえに投獄されたことによって、ローマの親衛隊全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、主にあって確信が与えられ、恐れることなく、ますます大胆に御言葉を語るようになりました。つまり、そのことが、かえって福音の前進に役立つことになったのです。彼の願いは、どんな場合でも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、彼の身によってキリストがあがめられることだったのです。

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)

かつて長谷川義信先生が説教の中で、どこを切っても金太郎飴が出てくるように、どこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方をしなさいと説教で勧められたことがありましたが、まさにそのように生きていたのです。 私たちもそうありたいですね。それは、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということを信じて疑わない信仰から生まれます。

どのような困難があろうとも、どんな病に襲われても、どうしてこういうことが起こるのかと思えるような状況に置かれても、確かにキリストは生きておられる、そして今も私と共におられる、私の人生を導いて、私をご自身の栄光の姿へと変えておられるということを聖霊によって受け入れるなら、だれもあなたから喜びと平安を奪うことはできません。誤解されればされるほど、困難な状況に直面すればするほど、悲しみが多ければ多いほど逆に信仰が強められ、さらに主に拠り頼み、主をほめたたえ、主を賛美する者へと変えられていくのです。

Ⅲ.ただ神を恐れて(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「17 ゼデキヤ王は人を遣わして、彼を召し寄せた。王は自分の家で彼にひそかに尋ねて言った。「【主】から、おことばはあったか。」エレミヤは「ありました」と言った。そして「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と言った。18 エレミヤはゼデキヤ王に言った。「あなたや、あなたの家来たちや、この民に対して、私にどんな罪があったというので、私を獄屋に入れたのですか。19 あなたがたに対して『バビロンの王は、あなたがたとこの地を攻めに来ない』と言って預言していた、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。20  今、わが主君、王よ、どうか聞いてください。どうか、私の願いを御前に受け入れ、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。私がそこで死ぬことがないようにしてください。」21 ゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。」

丸天井の地下牢に入れられたエレミヤは、長い間そこにいました。少なくとも、数週間から数か月が経過していたことでしょう。するとある日、ゼデキヤは人を遣わしてエレミヤを召し寄せ、自分の家でひそかに彼に尋ねて言いました。「主から、何かおことばがあったか。」この「ひそかに」というのが彼の特徴でした。彼はいつもひそかに行動していました。どうして彼はひそかに尋ねて言ったのでしょうか。それは彼がエルサレムの民や首長たち、そして側近たちを恐れていたからです。もしエレミヤが神からことばがあった、それはバビロンに服しなさいということだったと告げようものなら、彼らから危害を受けるかもしれないと恐れたのです。彼は王であり自由の身でありながら、その心には平安がありませんでした。いつも人を恐れていたからです。しかし、エレミヤはそうではありませんでした。彼は獄屋につながれ自由を奪われていましたが平安がありました。神を恐れていたからです。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」 (箴言 29:25)とある通りです。神を恐れるのか、人を恐れるのかです。神に背を向け、神から離れて歩むのか、それとも神とともに歩むのかの違いです。人にどう思われるかを判断基準にするのでなく、御言葉を判断基準にして行く時、神はその心に深い平安を与えてくださるのです。

不安におののきながら質問するゼデキヤに対して、エレミヤはこう答えました。「ありました」。それを聞いたゼデキヤは、「おう、どういう内容か」と興奮したことと思います。しかし、その内容は、これまでエレミヤが語ってきたことと全く変わらないものでした。それは17節にあるように、「あなたはバビロンの王の手に渡されます。」ということでした。そんなことを言ったらゼデキヤ王は喜ばないということがわかっていても、あるいは、たとえ獄屋につながれているような状態でも、それでもゼデキヤにおもねることなく、真実だけを語ったのです。

それに対して、ゼデキヤの預言者たちはどうでしたか。彼らは19節にあるように、「バビロンの王は、あなたとこの地を攻めに来ない。」とゼデキヤが安心するようなことを語っていましたが、バビロンによってエルサレムが包囲されると、彼らは一目散にどこかへ逃げて行ってしまいました。彼らは偽りの言葉を語っていただけでなく、その行動も、忠誠心もすべて偽りだったのです。

箴言にこんなことばがあります。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17:17)
  このことで、本当の友は誰だったのかが明らかになりました。本当の友はゼデキヤの預言者たちではなく、エレミヤ本人であったということが明らかにされたのです。エレミヤはエルサレムが滅ぼされた後もそこに続けて、残りのユダヤ人と一緒に暮らすことを選び、そして彼らがエジプトに下ったときも彼らと一緒にいました。ユダヤ人はエレミヤの言葉を嫌い偽預言者の言葉を好みましたが、最後まで一緒にいてくれたのはエレミヤでした。エレミヤこそ、神の真実な愛を持った本当の友だったのです。

ですから、人の言葉には気を付けなければなりません。その時は調子がいいことを言っても、すぐに手のひらを反すかのような行動を取るからです。いつもコロコロ変わるのです。ですから、たとえそれがあなたにとって耳ざわりの良い言葉であっても、心地よい言葉であっても、それが真理であるとは限らないのです。パウロは「教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりすることなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらなるキリストに向かって成長するのです。」と言っています。この世には様々な教えの風が吹いていますが、そうした教えに注意しなければなりません。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。

先日、エホバの証人の方が来られて「これ読んでください」と1枚のトラクトを渡してくれました。そのトラクトのタイトルは「世の中これからどうなる?」というものでした。1つ選ぶとしたら・・・ ・良くなっていく ・悪くなっていく ・どちらとも言えない
 とても興味のあるタイトルですね。「世の中これからどうなる?」皆さん、世の中これからどうなりますか?そのトラクトには、「あなたには将来と希望がある」(エレミヤ31:17)のみことばを引用して、こんな希望があると書かれてありました。
・楽しくてやりがいのある仕事ができるようになる。
・病気や災害で苦しむことがなくなる。
・家族や友達といつまでも幸せに暮らせる。
この希望が実現するためには、実現させる力、すなわち神が必要であること。もう一つは、実現させたいという気持ちを持つこと。神様は世の中の悪いことを全部なくすと約束している。
 皆さん、どう思いますか。本当に聖書はそのように言っているでしょうか。そうではありません。そのトラクトに書いてあることは主イエスが再臨した後にもたらされる千年王国においてのことであって、それまでこの世が良くなることはありません。もっと悪くなります。これが聖書が言っていることです。表向きは心地よいことばであっても、それが真理でなかったら滅びに向かうことになってしまいます。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。

このエレミヤの真実な訴えに対して、ゼデキヤは命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、都からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から毎日パン一つを彼に与えさせました。こうしてエレミヤは監視の庭にとどまることになりました。死の危険を身に覚えた地下牢の獄屋から、監視の庭での監禁生活を続けることになったのです。真実に生きるエレミヤを、神が守ってくださったのです。

あなたはどうでしょうか。こんなことを言えば嫌われてしまうのではないかと、人を恐れてひそかに語っていませんか。それともエレミヤのように、相手が王であろうと誰であろうと、たとえ相手が喜ばないとわかっていても、その人におもねることなく、真実の言葉を語っているでしょうか。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」

これを実行したのはエレミヤでした。私たちも真実の愛に生きるものでありたいと思います。それは人を恐れ、おもねるような心からではなく、神を恐れ、神と共に歩む真実な心から生まれるのです。

エレミヤ書36章1~32節「焼かれても、再び」

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今日は、エレミヤ36章全体からお話します。少し長い箇所ですが、全体を通して見ていきます。その方が流れを掴むことができわかりやすいと思います。今日のメッセージのタイトルは「焼かれても、再び」です。主はエレミヤに、あなたは巻物を取り、これまで語ってきたことを書き記すようにと命じたので、エレミヤは書記のバルクを呼んで主のことばを口述筆記させましたが、それを知ったユダの王、ヨシヤの子エホヤキムは、その書き記された神のことばを、暖炉の火で燃やしてしまいます。もうこれで終わりかと思いきや、主は再びエレミヤに、もう一つの巻物を取って、エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せと言われました。プラス、さらに同じような多くのことばもそれに書き加えられました。それが、私たちが今持っているエレミヤ書です。結果的に、最初の巻物が焼かれることによって神はもっと内容が豊かで、また詳しく明瞭な形でご自身のことばを残してくださいました。神のことばは決して滅びることはありません。この神の言葉を握って離さず、それに従って歩むなら、どんな困難の中でも、知恵と力が与えられ、真っ直ぐに進むことができます。走っても倒れることはありません。御言葉を握る人には勝利と祝福が与えられるからです。

Ⅰ.巻物に書き記されたみことば(1-10)

まず1~10節をご覧ください。1-3節をお読みします。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」

これは、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年のことです。エホヤキムの第四年とは紀元前605年のことです。これは35章でレカブ人の忠実さの話がありましたが、それよりも更に数年前の出来事です。この年は古代近東の国際情勢においては重要な年でした。それはこの年にバビロンがユーフラテス河畔のカルケミシュでアッシリアを滅ぼし、そのアッシリアを助けようとしてやって来たエジプトも壊滅的に討ち破ることによって、その覇権を確立した年だからです。そしてこの年にネブカドネツァルがナボポラッサルに代わって正式に王位を継承しました。その年に主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節と3節です。

 「2あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」

主はエレミヤに、ヨシヤの時代から今日までの間に、主が彼に語ったことばをみな、巻物に書き記すようにと言われました。エレミヤが預言者として召されたのはヨシヤ王の治世の第13年ですから、紀元前627年のことです。その時からこの時に至るまでの約20数年の間に主が彼に語られたことことばをみな、巻物に書き記すようにというのです。いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。それは語られた神のことばを文字にすることによってそれをユダの民に明確に伝えるためです。皆さんもそうでしょう。「私は説教を聴いても、こっちの耳から入ってすぐこっちの耳から出ていくんですよ!」と言われるのをよく聞くことがありますが、御言葉を聞くだけだとなかなか記憶に残すことができません。それで神はこのように巻物に書き記すことによっていつでもその内容を確かめることができるようにしたのです。それは1日や2日でできるものではありません。数日間、あるいは数十日に及ぶ大仕事だったでしょう。それでも神がエレミヤにそのように命じられたのは、3節にあるように、もしかすると、主が彼らに下そうとしているわざわいを聞いて、彼らがそれぞれ悪の道から立ち返るかもしれないと思われたからです。そうすれば、主も彼らの咎と罪を赦すことができます。つまり、主がエレミヤにご自身のみことばを書き記すようにと言われたのは、ユダの民の罪、咎を赦すためだったのです。主はどこまでもあわれみ深い方です。あなたの下には永遠の腕があるのです。

4節をご覧ください。それでエレミヤは、ネリヤの子バルク呼びました。口述した主のことばを巻物に書き記すためです。それは、この時エレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行けなかったからです。なぜ彼は閉じ込められていたのでしょうか。それは彼が神殿で語った説教に対して、当時の祭司や預言者たちが反感を持っていたからです。たとえば、6章には、当時の預言者や祭司たちが、平和がないのに「平和だ、平和だ」と言っているのを聞いたエレミヤは、それは偽りだと糾弾しました(6:14)。また、7章には、彼らが「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と語っていたのに対して、そういうことばに騙されてはならない、と叫びました。それよりも、あなたがたの生き方と行いを改めるようにと(7:4-5)。そうしたエレミヤの態度に対して、エホヤキム王はじめ当時の宗教指導者たちが怒り、彼が主の宮に出入りできないようにしていたのです。

しかし、いかなる人間も、いかなる方法も神のことばを妨げることはできません。神のことばを語れないならば文書によって、自分が監禁されて語れないならば代理者を通してでも、神はご自身のことばが語られるようにされたのです。エレミヤはバルクを呼び、エレミヤに語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記しました。そしてその巻物に記された主のことばを、断食の日に主の宮で民に読み聞かせました。それはユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第五年、第九の月のことです。ということは、この巻物が書き記されるまでに約1年のかかったということです。バルクは、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、断食が布告された日に、主の前でこれを読み聞かせました。

それは第九の月の断食の日でした。この第九の月の「断食の日」とは、大贖罪日と呼ばれる日で、ユダの民にとって特別な日でした。この日は悔い改めと罪の赦しを受ける日なのです。この日は過去も現在も、イスラエルの民にとって最も大切な日の一つになっています。今日のイスラエルでも、この日はすべての仕事が休みとなり空港すら閉鎖されるという、イスラエルの暦において最も厳粛かつ重要な日なのです。その日にはすべての民は断食して、これまで犯してきた罪を悔い改め、神に赦しを願うのです。そのような日にバルクは神殿でエレミヤから託された巻物を読み上げたのです。それは、人々に悔い改めを促すには最もふさわしい日でした。

神のことばは、誰が伝えても同じ力を現わします。ですから、「誰を通して」伝えられるかが重要なのではなく、「誰の」ことばが語られるのかが重要なのです。エレミヤが伝えた時も神の力が現れましたが、バラクが書き記した御言葉を読んだ時も同じ力が現れました。それは彼らが伝えたことばが全能なる神のことばだからです。バラクは神のことばを書き記すのに1年もかかりました。バラクはそれを主の前で断食が布告された日に、書記シァファンの子ゲルマヤの部屋で、すべての民の前で民全体に聞こえるように、大胆に読み上げました。何が彼をこんなに勇敢な者に変えたのでしょうか。それは神のことばに対する信頼です。神のことばに対する信頼こそ、私たちをもそのような者に変えるのです。

.焼かれた神のことば(11-26)

そのバルクが語った神のことばに対して、人々はどのように応答したでしょうか。次に、11~26節をご覧ください。まず20節までをお読みします。「11 シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤは、その書物にあるすべての【主】のことばを聞き、12 王宮にある書記の部屋に下ったが、見よ、そこには、すべての首長たちが座っていた。すなわち書記エリシャマ、シェマヤの子デラヤ、アクボルの子エルナタン、シャファンの子ゲマルヤ、ハナンヤの子ゼデキヤ、およびすべての首長たちである。13 ミカヤは、バルクがあの書物を民に読んで聞かせたときに聞いた、すべてのことばを彼らに告げた。14 すべての首長たちは、クシの子シェレムヤの子ネタンヤの子ユディをバルクのもとに遣わして言った。「あなたが民に読んで聞かせたあの巻物、あれを手に持って来なさい。」そこで、ネリヤの子バルクは、巻物を手に持って彼らのところに入って来た。15 彼らはバルクに言った。「さあ、座って、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。」そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。16 そのすべてのことばを聞いたとき、彼らはみな互いに恐れおののき、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをすべて、必ず王に告げなければならない。」17 彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、あなたがこれらのことばをすべて、どのようにして書き留めたのか、私たちに教えてくれ。エレミヤが口述したことばを。」18 バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらのことばをすべて私に口述し、私は墨でこの書物に記しました。」19 すると首長たちはバルクに言った。「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」20 彼らは巻物を書記エリシャマの部屋に置き、王宮の庭にいる王のところに行って、このすべてのことを報告した。」

神のことばは生きていて力があります。両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します(ヘブ4:12)。バラクが読んだ御言葉は大きな反響を巻き起こしました。エレミヤの預言にこれといった反応を示さなかった首長たちが、巻物の内容を確かめたいと、バルクに求めたのです。そこでバルクは彼らの前で再び巻物に記された御言葉を読みました。バルクが御言葉を読んでいる間、16節にあるように、御言葉が彼らの心を刺し通したので、彼らは驚きと恐れでいっぱいになりました。そこには重大な警告とさばきの内容が込められていたからです。さばきの内容とは、バビロンによって滅ぼされるということです。すると彼らは、このことは必ず王に告げなければならないと言いました。しかし、そうなれば彼らの身に危険が迫るのではないかと心配して、バルクにこう言いました。19節です。

「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」

神のことばによって心が動かされた首長たちは、行動によってその変化を表しました。エレミヤの自由を拘束していた彼らはエレミヤとバルクをかくまい、巻物を王にもっていく伝達者となりました。こうした劇的な行動の変化の中心には、いつも神のことばがあります。神のことばによって神を恐れる心が、私たちの行動を変えるからです。

次に、21~26節をご覧ください。ここにはその神のことばを聞いたエホヤキムの反応が記録されてあります。「21 王はユディに、その巻物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。23 ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。24 これらすべてのことばを聞いた王も、彼のすべての家来たちも、だれ一人恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった。25 エルナタンとデラヤとゲマルヤが、巻物を焼かないようにと王に懇願しても、王は聞き入れなかった。26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、【主】は二人を隠された。」

この巻物のことを聞いたエホヤキム王は、ユディに命じてそれを取りに行かせました。ユディはそれを書記エリシャマの部屋から取ってくると、それを王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせました。すると王は、とんでもない行動に出ました。何とそれを小刀で裂いては暖炉の火の中に入れてしまったのです。そして巻物のすべてを暖炉の火で焼き尽くしてしまいました。それは第九の月のことでした。ユダヤの暦の第九の月とは、私たちの暦では11月の終わりから12月にかけての頃ですが、海抜800メートルにあるエルサレムの冬は寒さが大変厳しくなります。部屋には暖炉がたかれていました。するとユディが3,4段落を読むごとに、エホヤキム王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火の中に入れたのです。これらのことばを聞いても、王も家来たちもだれ一人恐れおののくことなく、衣を引き裂くこともしませんでした。悔い改めようとしなかったのです。巻物を燃やすことに反対する人はいましたがそれはごく小数の人たちで、大半の人たちはそうではありませんでした。そればかりか、王はバルクとエレミヤに逮捕状を出し、彼らを捕らえるようにと命じたのです。

しかし、主が二人を隠されました(26)。どのように隠されたのかはわかりません。ただ言えることは、主のことばを信じそこに生きる人には主の守りがあるということです。どうしてそのようになったのかはわからないけれども、神様が成してくださったとしか言いようがない場合があります。皆さんもそういうことを体験したことがあるのではないでしょうか。私もたくさんあります。人間的には考えられないことを神様が成してくださったということが。それはまさに神様の不思議であり、神様の御業です。神に信頼する者には必ず神の恵みと神の祝福だけでなく、神の守りがあるのです。

ここで一つ考えてみたいことは、実はこの出来事の約20年前に、彼の父親であるヨシヤ王が神殿修復の際に「律法の書」を発見した時どのような態度を取ったかということです。それはエホヤキム王とは正反対の態度でした。彼らは親子ですが、彼らほど対照的な親子も珍しいと思います。ヨシヤ王は書記シャファンが巻物に記された「律法の書」を朗読したとき、深い悔い改めを表しました。Ⅱ列王記22章11節にはこうあります。

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」

ヨシヤ王は神のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いて悔い改めました。彼はまず自分自身が真剣に悔い改め、そして民にも悔い改めを求めました。それ以降、ユダ王国ではヨシヤの宗教改革と言われる霊的リバイバルが起こったのです。その結果、神はヨシヤ王と民を祝福されました。しかしその子どもであるエホヤキム王は、父がしたように衣を裂いて悔い改めることをしませんでした。むしろ、自分が気に食わない神のことばを聞いてそれを焼き、滅ぼそうとしたのです。神のことばをいのちと祝福として受け入れる人は神の祝福を受けますが、そんなの関係ない、不必要なものだとみなす人は、神の怒りを免れることはできません。

最近、私たちの教会のために毎月祈りをもって捧げてくださっている方からこんなメールがありました。
  「先生、こんばんは。私は、人手不足なので助けて応じ介護施設で働き始めました。しかし、ベテラン職員の思わぬイジメに合いました。一部職員が職員を、入居者さんを感情むき出しに声を荒げています。悲しいです。仕事が仕事だけについ感情的になるのでしょう。僕は、イエス様が弟子の足を洗った様にこれでいいかなと自問しながら仕事をしてます。」
  これが神を恐れる人とそうでない人の違い、神のことばに従って生きる人とそうでない人の違いです。神のことばに従って生きる人は、イエス様が足を洗った様に生きます。そしてそこには神の祝福が必ずもたらされるのです。

私は毎年、赤い羽根の共同募金に協力させていただいているのですが、集金に来られた方がこういうのです。「教会に来られる方はみんな、何と言うか、お顔が優しいですよね。この前教会の前を通った時そこに2~3人のご婦人たちがいたのでお話させていただいたんですが、皆さんとてもほがらかでした。それはやっぱりキリスト教の教えから来ているんですかね。」
  私はそれを聞いて、正直、とても嬉しかったです。もしかすると募金に協力したので少し良いことを言おうと思ったのかもしれませんが、神のことばは生きているなぁと思いました。神のことばを聞いてそれを受け入れ、それに従って生きる人は、神が祝福してくださり、そのようにお顔まで穏やかになるんだと。これは本当だと思います。もしこれが週1回の礼拝だけでなく毎日だったら、どれほど穏やかな顔になるでしょう。

1840年、ロンドンのある洋服屋に、一見何の取り柄もなさそうな店員がいました。彼は御言葉を愛し、毎日御言葉を読みました。今日で言えば、毎日喜んでディボーションをして神を喜んでいるような人です。そんなある日、彼は自分の人生を変える御言葉を目にしました。

「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(Ⅰコリント15:2)

この御言葉を読んだ瞬間、彼は「これだ」と思いました。そして、彼はすぐにその御言葉を握り締めました。何の取り柄もない自分のような者でも、御言葉を固く握るなら、主は必ず用いてくださると確信したのです。そして、数人の青年たちとともに日曜日ごとに集まりを始めました。それがYMCAの始まりでした。皆さんは、YMCAを始めた人をご存知でしょうか。ジョージ・ウイリアムズという人です。あの有名なジョン・ワナメーカーではありません。ジョン・ワナメーカーはYMCAの建物を建てた人ですが、YMCAを始めた人はジョージ・ウィリアムズです。
  御言葉を握る人には神の恵みと祝福があります。そして神はそのような人をご自身の働きのために用いてくださいます。そして主が用いる人を、主は必ず守ってくだるのです。

バルクが読み上げた御言葉によって変えられた首長たちは、巻物の内容をエホヤキムに伝えました。彼らの願いは巻物に記された預言のことばを聞いて、エホヤキム王が変えられることでした。しかし王はそれを受け入れるどころか、エフディが読み上げるごとにそれを裂いて暖炉に投げ入れました。エホヤキムの態度は、神のことばを聞いて嘆き悲しみ、衣を裂いて悔い改めた父のヨシヤ王とはあまりにも対象的でした。神のことばはすべての人に平等に与えられていますが、すべての人が同じ反応をするとは限りません。あなたはどのような反応をしていますか。ヨシヤ王のようにそれを聞いて衣を裂いて悔い改めていますか。それとも、このエホヤキム王のようにそれを軽んじ暖炉に燃やすでしょうか。どのように受け入れるかは、あなたの選択にかかっているのです。

Ⅲ.決して滅びない神のことば(27-32)

エホヤキム王によって暖炉の火に燃やされた神のことばですが、それで滅びてしまったかというとそうではありません。神のことばは決して滅びることはありませんでした。27~32節をご覧ください。「27 王が、あの巻物、バルクがエレミヤの口述で書き記したことばを焼いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。28 「あなたは再びもう一つの巻物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せ。29 ユダの王エホヤキムについてはこう言え。【主】はこう言われる。あなたはこの巻物を焼いて言った。『あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの地を滅ぼし、ここから人も家畜も絶えさせる、と書いたのか』と。30 それゆえ、【主】はユダの王エホヤキムについてこう言われる。エホヤキムには、ダビデの王座に就く者がいなくなり、彼の屍は捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。31 わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し、彼らとエルサレムの住民とユダの人々に対して、わたしが告げたが彼らが聞かなかった、あのすべてのわざわいをもたらす。」32 エレミヤは、もう一つの巻物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書き記した。さらに同じような多くのことばもそれに書き加えた。」

エホヤキム王は巻物を燃やしてしまいましたが、それで神のことばが破壊されたわけではありません。その後、主はエレミヤに、焼かれた巻物に書かれた内容をもう一度書き記すようにと命じられました。時間をかけてやっと完成した巻物が焼かれてしまった後で、再び初めから書き直すという作業は、いかに困難で忍耐を要することでしょうか。

まだワープロの時代です。私が牧師になって10年くらい経った頃でしょうか、ワープロを使って毎週日曜日の説教の原稿を書いていました。今もそうですが、私は昔から完全原稿と言って、一字一句すべて書く完全原稿を書くようにしています。そうすれば、あとはレンジでチンするだけで済みますから。そのワープロで土曜日の夜、翌日の説教の原稿を書いて完成したときです。まだ3歳くらいだった二番目の娘がそのワープロと遊んでいて、デリートキーを押してしまったのです。私は青ざめました。何時間もかけて完成した説教の原稿です。それが一瞬にして消えてしまったのです。私は元々こうした機器の取り扱いが苦手で、もしかするとCtrlキー+Zで復元できたのかもしれませんが、そんな知識など全くなかった私はただオドオドするばかりでした。「どうしよう。明日の朝までもう1回書かなければならないのか」何時間もかけて書いた説教をもう一度書くなんて考えられません。でもやるしかありませんでした。娘には「絶対触っちゃだめだからね。」と厳しく叱りつけ、そして一晩かけて一から書き直したのです。それを考えたら、1年以上もかけて書き上げた巻物をすべて失ってしまい、その後で、「もう一度初めから書くように」と言われたら、再度、それに取り組む意欲が起こるだろうかと、考えてしまうところです。

しかし、エレミヤは、もう一つの書物を取ってそれをバルクに与え、バルクは再びエレミヤが口述した内容を書き記しました。何という忍耐深さ、何という行動力でしょうか。それは神のことばはどんなことがあっても決して滅びることはないということを示しています。だれかが聖書を撲滅しようとも、神のことばである聖書は決して滅びることはありません。フランスの哲学者ヴォルテールは、「キリスト教が確立するまで数世紀かかったが、私は、一人のフランス人が50年間でこれを破壊できることを示そう。」と豪語しましたが、彼が死んで20年経ってから、そのヴォルテールの家をジュネーブ聖書協会が買い取り、そこで聖書が印刷されるようになりました。人々がどのように神のことばから逃れようとしても、神のことばは決して滅びることはないのです。

それどころか、最初の巻物は焼かれましたがそれによってよりすばらしい第二の巻物が完成しました。第一の巻物はヨシヤの時代からエホヤキムの治世の第四年までの預言でしたが、第二の巻物はそれ以降の新しい預言も含まれたものだからです。私たちが今手にしているエレミヤ書は、この第二の巻物が書かれたものです。それは最初のものよりも更に詳しく、さらに内容が豊かになったものです。神の計画や神のことばを破壊しようとする試みは必ず失敗に終わります。しかし、神のことばは決して滅びることはありません。第二の巻物が新たに書き記されることによって伝承され続けました。神殿が焼失し、国が滅び、民が祖国から切り離され捕囚とされることがあっても、神のことばは人々に命を与えることばとして残ったのです。しかし、神のことばを無きものにしようとしたエホヤキムの行為は、ダビデ王家とその王国、その領土を失うことを決定付けました。このことにエホヤキムは気付きませんでした。そこに気付くことから真の悔い改めが生まれます。そのために神のことばは新たに書き直され、残っているのです。ここに希望があります。神のことばは絶対に滅びることはありません。そればかりか、神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。今もあなたの心に力強く働いてくださいます。この神のことばに信頼し、神のことばに堅く立ち続けましょう。神は必ずあなたの人生の中に働き、あなたが考えられないような不思議な御業を成してくださいますから。

エレミヤ書35章1~19節「レカブ人から学ぶ」

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きょうは、エレミヤ35章から、「レカブ人から学ぶ」というタイトルでお話します。レカブ人とはモーセのしゅうとイテロの子孫でミディアンの地に住んでいた遊牧民族ケニ人の子孫と考えられています。彼らは、イスラエル人がモーセによってエジプトから救い出され時、イスラエル民族に加わり、エルサレム近郊に定住しました。そのケニ人の話がここに出てくるのです。なぜでしょうか?レカブ人の模範的な態度を取り挙げることによってユダの民の罪を指摘するためです。良い手本を挙げて過ちを指摘するのは効果的です。その良い手本とはどのようなものでしょうか。それはどこまでも妥協しない忠実な生き方です。彼らは異邦人でありながら、先祖レカブが自分たちの命じたことばに従って誠実さを貫きました。その忠実な態度がここで主に称賛されているのです。それに対してイスラエルはそうではありませんでした。彼らは先祖の言葉どころじゃない、最も大切な方である神の言葉に聞き従おうとしませんでした。
 それはユダの民だけのことではありません。それは私たちにも言えることです。私たちは主イエスによって罪から救い出され神の民となったにも関わらず、あまりにも簡単に神への忠実さを忘れて、自分の思いを優先させてしまっていることはないでしょうか。レカブ人たちは確かに狭いところはありますが、彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり表明し、その信仰の現れとして、日々御言葉に従って生きる誠実さが求められているのです。しっかりと神の御言葉に聞き従う者となるために、レカブ人の誠実な生き方から学びたいと思います。

Ⅰ.レカブ人から学ぶ(1-11)

まず1~11節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」3 そこで私は、ハバツィンヤの子エレミヤの子であるヤアザンヤと、その兄弟とすべての息子たち、レカブ人の全家を率いて、4 【主】の宮にある、イグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。それは首長たちの部屋の隣にあり、入り口を守る者、シャルムの子マアセヤの部屋の上であった。5 私は、レカブ人の家の子らの前に、ぶどう酒を満たした壺と杯を出して、「酒を飲みなさい」と言った。6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。11 しかし、バビロンの王ネブカドネツァルがこの地に攻め上ったとき、私たちは『さあ、カルデアの軍勢とアラムの軍勢を避けてエルサレムに行こう』と言って、エルサレムに住んだのです。」

1節に「ユダの王、エホヤキムの時代に」とあります。前回の34章はユダの王ゼデキヤの時代のことでしたから、さらにそれ以前の話となります。ちなみに、ユダの王はゼデキヤの前がエホヤキン(エコンヤ)、その前がエホヤキムです。ここではそのエホヤキムの時代のことが取り上げられているのです。年代的には、紀元前597年の第二次バビロン捕囚の少し前になります。その時代に、主からエレミヤに次のようなことばがありました。

「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」

レカブ人とは、先程お話したようにそのルーツはモーセのしゅうとイテロで、もともとミディアンの地に住んでいた民族ですが、イスラエルがエジプトを出た時、彼らと一緒にカナンに来てそこに定住しました。そのレカブ人の家に行って彼らに語り、主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよというのです。不思議な命令です。何か祝い事でもあったのでしょうか。そうではありません。レカブ人たちの忠実さを試そうとしたのです。レカブ人はぶどう酒を飲みません。それは6節にあるように、先祖ヨナタブが「あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。」と命じていたからです。それはこの時から約200年も前のことです。ヨナタブが命じたのは実はそれだけではありませんでした。7節にあるように、家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、所有したりしてはいけないということも命じていました。いったいなぜ彼はこんなことを命じたのでしょうか。それは当時の北王国イスラエルではバアル礼拝が盛んに行われていたからです。そしてその原因は都市型の生活を送っているからだと考えたのです。都市型の生活をしていると世俗化し、偶像礼拝に陥りやすいと感じた彼は、自分の子孫たちがそうならないために、この誓いを守り通すようにと命じたのです。その一つのことがぶどう酒を飲んではならないということだったのです。それなのに主はそのレカブ人の家に行って、彼らに酒を飲ませよと言われました。なぜでしょうか。それは彼らの忠実さを試すためでした。彼らが先祖ヨナタブの命令にいかに忠実であるかをイスラエルに示すためだったのです。忠実さはイスラエルの民が最も必要としていたことでした。サタンは、罪を犯させるために私たちを誘惑しますが、しかし神は、私たちの信仰を成長させるために私たちを試されます。エレミヤの勧めに対して、レカブ人はどのように応答したでしょうか。6~7節をご覧ください。

「6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。」

レカブ人たちはすぐにエレミヤのことばを拒絶しました。彼らの先祖ヨナタブの命令に背くことなどは、彼らには考えられないことだったからです。続いて彼らはこう言いました。8~10節です。

「8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。」

彼らは先祖ヨナタブが命じたすべての命令に聞き従ってきました。この時点ですでに200年も経過していました。それでも彼らはずっと先祖ヨナタブの命令を守り、そういう生活を続けてきたのです。聖書には禁酒禁煙も天幕生活も命じられていません。勿論、あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮であり、その自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい(Ⅰコリント6:19-20)という御言葉に照らし合わせて考えると、お酒やたばこは避けた方が鶏鳴なのは確かです。でもそれはお酒やたばこに限らず、からだに悪影響を及ぼすすべてのことに言えることでしょう。しかし、彼らがそうした生活を貫き通したのはそうした理由からではなく、自分たちの弱さや不安定さのゆえに、他民族に隷属しない生き方をするためにはこの戒めを守ることが必要だと判断したからです。

「朱に染まれば赤くなる」という言葉がありますが、それは人との出会いや付き合いがそれだけ重要だという意味です。モーセの子孫であるレカブ人は、カナンでの生活と宗教に反対し、ぶどう酒も飲まず、天幕生活を続けました。彼らは世俗から離れて暮らすことによって、物質的な豊かさよりも、先祖との霊的交わりを重視したのです。

聖書の中には、彼らと同じように世俗を離れ、荒野で暮らし、主との濃密な霊的交わりを保とうとした人たちがいます。たとえば、バプテスマのヨハネはその一人でしょう。彼は荒野で叫ぶ声となって、主が来られるために人々の心を備えました。彼はらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜でした。

旧約聖書に出てくる「サムソン」もそうです。彼はナジル人といって神から特別な使命が与えられて生まれてきた者として、ぶどう酒は飲んではならない、汚れたものには触れてはならない、頭にかみそりをあててはならないという決まりがありました。残念ながら彼はそれをいとも簡単に破ってしまいましたが・・。

現代ではカトリックの修道院などはその一つです。彼らは世俗から離れてただひたすら祈りとみことばに励んでいます。

しかし、レカブ人たちは先祖ヨナタブが自分たちの祝福のためにはこれを守らなければならないということをずっと守り通してきたのです。彼らは何から何まで融通のきかない人たちだったわけではありません。11節には、彼らがエルサレムに定住するようになったいきさつが記されてありますが、それはバビロンの王ネブカドネツァルが北イスラエルを支配していたアッシリアを攻め上って来たのでそれを避けるためでした。それまで彼らは北王国イスラエルを転々としていましたが、その危険から身を避けるためには先祖レカブの命令から外れても安全に住むことができるエルサレムに定住したのです。つまり、彼らは定住してはならないというレカブの命令に固執しなかったということです。しかし、生き方については拘りを見せました。たとえ、主の宮に招かれ、神の人である預言者エレミヤから酒を飲むようにと勧められても、それを拒否しました。それを200年も250年も続けて来たのです。確かにレカブ人の考え方はセクト的で狭いと思われるかもしれません。彼らは世俗の文化を拒否し、禁欲し、神の言葉よりも教祖の言葉を重んじます。しかし彼らのそうした揺るがぬ信仰とその純粋性には学ぶべきものがあるのではないでしょうか。

みなさんは、アーミッシュをご存じでしょうか。アーミッシュは、16世紀のオランダ、スイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れをくむプロテスタントの一派ですが、彼らは基本的には、農耕・牧畜を行って、自給自足で生活しています。自分たちの信仰生活に反すると判断した新しい技術や、製品、考え方は拒否します。この現代において、自動車を使わず馬車に乗っているのですよ。電気は引いていません。もちろん、テレビ、パソコン、家電などは使いません。風車・水車の蓄電池を使ったり、ガスでうっすら明かりをつけたり、調理したりしています。中には、それすら使わない人たちもいるそうです。収入は、キルトや蜂蜜の販売、一部の地域では、レストランや馬車での観光を行って得ています。現在、北アメリカに約38万人、世界に約85万6000人いるといわれていると言われています。

アーミッシュには、神との霊的交わりを保つために、『オルドゥヌング』という戒律があります。それは以下のようなものです。
・交通手段は馬車を用いる。屋根付きの馬車は大人にならないと使えない。
・ アーミッシュの家庭においては、家族のいずれかがアーミッシュから離脱した場合、たとえ親兄弟の仲でも絶縁され、互いの交流が疎遠になる。
・怒ってはいけない。喧嘩をしてはいけない。
・読書をしてはいけない(聖書と、聖書を学ぶための参考書のみ許可される)。
・讃美歌以外の音楽を聴いてはいけない。
・避雷針を立ててはいけない(雷は神の怒りであり、それを避けることは神への反抗と見なされるため)。
・義務教育(8年間)以上の高等教育を受けてはいけない。それ以上の教育を受けると知識が先行し、謙虚さを失い、神への感謝を失うからだとされる。
・化粧をしてはいけない。派手な服を着てはいけない。(決められた服装がある)
・保険に加入してはいけない(予定説に反するから)。

などなど。他にもたくさんの戒律がありますが、原則として、快楽を感じることは禁止されています。このような戒律を破った場合、懺悔(ざんげ)や奉仕活動の対象となります。改善が見られない場合はアーミッシュを追放され、家族から絶縁されることもあるそうです。

ここまでいくとどうかなぁと思いますし、私たちは彼らのような狭い考え方に倣わなければならないということはありませんが、彼らの愚直なまでの誠実さには学ぶべきものがあるのではなでしょうか。私たちは神に選ばれて救われ、神の民とされた者として、どれだけ神の言葉に忠実に生きているでしょうか。人から何かを勧められた時、それをみことばと照らし合わせて、譲れないものは譲れないと、確固たる生き方をしているでしょうか。私たちはレカブ人がカナンに定住しながらもその文化や習慣に流されないで生きていたように、この世にあって神の御言葉にしっかりと立った生き方が求められているのではないでしょうか。

Ⅱ.ユダの民の不従順(12-17)

次に、12~17節をご覧ください。「12 すると、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言う。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『あなたがたは訓戒を受け入れて、わたしのことばに聞き従おうとしないのか──【主】のことば──。14 レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲んでいない。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。15 わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、行いを改めよ、ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない、わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住め、と言った。それなのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。16 実に、レカブの子ヨナダブの子らは、先祖が命じた命令を守ってきたが、この民はわたしに聞かなかった。17 それゆえ──イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる──見よ。わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らは聞かず、わたしが彼らに呼びかけたのに、彼らは答えなかったからだ。』」」

主はなぜエレミヤに、レカブ人にぶどう酒を飲ませよとの命令を与えたのでしょうか。主はここでその理由を説明されます。それはユダの民の不従順さを責めるためです。レカブ人たちは、先祖の命令を守りぶどう酒を飲まなかったのに対して、ユダの民は、預言者が語り続けた神の言葉に聞き従わず、自分勝手な道を歩んできました。人は信頼する相手のことばに耳を傾けるものですが、ユダの民にはそのような態度が見られませんでした。15節には、「ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない」とありますが、これは十戒の第一戒の戒めを破ることでした(出エジプト20:3)。それゆえ、イスラエルの神万軍の主は、ユダとエルサレムの住民に、「すべてのわざわいを下す」と言われたのです。具体的には、バビロン捕囚という出来事です。エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、その住民はバビロンに捕え移されることになります。

しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、ここでレカブ人たちが称賛されているのは彼らの信仰ではなく、彼らが家を建てないで荒野に住んだことや、ぶどう畑を所有しなかったことではなく、あくまでも先祖レカブの命令にどこまでも忠実であったという点です。というのは、モーセの律法では逆にそのようにするようにと命じているからです。もし彼らがイスラエル人であるなら、彼らは家を建て、ぶどう畑を所有し、定住生活をしなければなりませんでした。しかし、彼らは異邦人であったためその必要がなかっただけのです。ですから、彼らが称賛されたのはそういう点ではなく、あくまでも先祖の命令にどこまでも忠実であった、誠実であったという点においてなのです。この点を見落としてはなりません。

Ⅲ.レカブ人たちへの祝福(18-19)

一方、レカブ人たちには祝福が宣言されます。18~19節をご覧ください。「18 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った。19 それゆえ──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない。』」」

レカブ人たちへの祝福は、「レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない」ということです。どういうことでしょうか。「わたしの前に立つ人」というのは、祭司職を意味する表現ですが、先程も申し上げたように、彼らは異邦人で先祖を信仰していたので、「神殿に仕える人」という意味ではなさそうです。この「神の前に立つ人」とは、永遠に途絶えることがないという意味です。つまり、今日でもこの地上のどこかにレカブ人の子孫が生存していることになります。ただイザヤ書66章18~21節には、千年王国においてはイスラエル人だけでなく、異邦人の祭司も立てられると預言されているので、もしかするとその中にレカブ人も含まれるということを示しているのかもしれません。いずれにせよ、レカブ人は先祖の命令に聞き従い、そのすべての命令を忠実に守り、彼が命じたとおりに行ったので、神から祝福されたのです。

これはレカブ人だけではありません。私たちにも求められていることです。異邦人のレカブ人がその先祖の命令に対してそこまで忠実に守り続けてきたのならば、神に選ばれてクリスチャンとされた私たちは、神に対してもっと忠実でなければなりません。彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとして、日々神の言葉に従って生きるという誠実さが求められているのです。

皆さんは、NHKの朝の連続テレビ小説の「とと姉ちゃん」をご存知でしょうか。これは、戦後すぐに創刊され、日本中の多くの家庭で読まれた生活総合雑誌「あなたの暮らし」の創刊した大橋 鎭子(しずこ)をモデル化した小説ですが、主人公の常子の家には父竹三が決めた3つの家訓がありました。それは、一つ。朝食は家族皆でとること。一つ。月に一度、家族皆でお出掛けすること。一つ。自分の服は自分でたたむこと。父竹三は娘とたちが幼いうちに病気で亡くなりますが、この家訓は生きていて、この家族はこの家訓に従って生きていくのです。
 昔は、多くの家にこのような家訓のようなものがあり、それに疑問をはさむことは許されませんでした。それに対する反動なのでしょうか。今の時代は、価値観が多様化し、善悪の基準も不明確になっています。しかし、どこかで、「譲れないものは譲れない。これは守らなければならない」という不動の軸になるものが必要なのではないでしょうか。神の民にとってそれは神の言葉である聖書です。私たちは自分たちの譲れない生き方として、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとしての祈りと御言葉の時を持ち、それに聞き従うというそうした生き方を貫いていきたいと思うのです。置かれた状況によって意見が変わる人など、信頼されることはありません。忠実さこそ信頼の鍵なのです。

エレミヤ書34章1~22節「心を翻すことなく」


きょうは、エレミヤ34章から、「心を翻すことなく」というタイトルでお話します。「心を翻す」とは、心を変えること、考えを改めることです。私たちは、聖書の御言葉を聞いたり、読んだりする中で、その御言葉に一度は従おうと決意するも、状況が変わると、目先の利益に心が奪われて、再び心を翻すという弱さがあるのではないでしょうか。主に救われ、主のみこころに歩む者として、私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。一度主の御言葉に従うと決めたら、心を翻すことなく、どこまでも主の御言葉に従うことが求められているのです。

きょうの箇所には、南ユダ最後の王ゼデキヤとエルサレムの民が一度は主の御言葉に従って奴隷の解放を宣言するも、状況が変わると目先の利益を優先して、心を翻してしまったことが記されてあります。それは主のみこころを損うことでした。その結果、彼らは神のさばきを受けることになります。私たちは心が動かされやすい者ですが、主の助けを受けて、一度神の前で誓った誓いを最後まで果たさなければなりません。

Ⅰ.ゼデキヤ王への警告(1-7)

まず1~7節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民族が、エルサレムとそのすべての町を攻めていたとき、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」6 そこで預言者エレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、エルサレムでこれらすべてのことばを語った。7 そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらが、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。」

これは、バビロンの王ネブカドネツァルが、エルサレムとそのすべての町を攻めていたときのことです。時はB.C.586~7年頃です。そのとき主からエレミヤに主の言葉がありました。それはユダの王ゼデキヤのところに行って、次のように告げよというものでした。それは、エルサレムはバビロンの手によって落ちるということでした。ゼデキヤ王はその手から逃れることはできません。彼は捕らえられてネブカドネツァルの手に渡されることになります。それは主によって定められていることで避けることはできないことなのだから、それを受け入れるべきです。そうすれば、彼は剣で死ぬことはなく、彼の先祖たちのように平安のうちに死ぬことができるというものでした。「平安のうちに死ぬ」とは、自然に死ぬということです。彼はそれ以前の王たちと同じように、ユダヤ人の習慣に従って丁重に葬られることになるということです。

そこでエレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、これらすべてのことばを語りました。そのとき、バビロンの王の軍勢は何をしていたかというと、7節を見ていただくとわかりますが、エルサレムとユダに残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていました。これらの町々が、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからです。ラキシュはエルサレムから南西に約45キロメートルくらい離れたところにありました。アゼカはラキシュからさらに東に約16キロメートルくらい離れたところにありました。バビロン軍はまずこれらの町々を攻撃しました。なぜなら、エルサレムが堅固な要塞都市だったからです。だからまずこれらの町々を攻めてから、満を持してエルサレムを攻略しようとしたのです。それはかつてアッシリアがイスラエルを攻撃した時も同じでした。それと同じ戦略です。いわゆる籠城攻めですね。敵を城に閉じ込めて相手が飢えや渇きに疲れ果てるのを待つのです。日本では豊臣秀吉が得意としていた戦法ですが、この籠城攻めは援軍が来ない限り解かれることはありません。バビロン軍はそのことをよく知っていました。彼らはエルサレムを無理に攻め落とそうとはしないで、彼らが外に出られないように中に閉じ込めたのです。これが1年半にも及びました。エルサレムの民は城壁の外に一歩も出られず、バビロンがいつ攻めてくるかと脅える毎日でした。しかもそれが1年半も続いたのです。精神的に追い詰められ、おかしくなってもおかしくありません。食料も底をつき、飢えと渇きで兵士の士気もどんどん落ちていきました。ですから、誰も助けに来られないように、エルサレム以外の主要な都市のすべてを攻め滅ぼしてから、エルサレムを包囲しようとしたのです。

エルサレムに閉じこもっていたゼデキヤは、もはや打つ手はありませんでした。頼りは、ひそかに同盟を結んでいたエジプト軍が助けに来てくれることです。しかし、待てども暮らせど、エジプトからの援軍はやって来ませんでした。そこで彼はエレミヤのところにやって来て、神の助け求めたのです。その時のやりとりがエレミヤ書21章1~2節の内容です。
「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」

あれ、33章ではエレミヤはゼデキヤによって監視の庭に監禁されていましたが、この34章では21章に話が遡っています。これはどういうことかというと、この34章はエレミヤがまだ監禁されていなかった時の出来事、33章以前の出来事であるということです。エレミヤ書は、年代順ではなくテーマ順に並べられているので、このように話が遡ることがあるのです。ですから、エレミヤ書を読む時はこのことに注意して読まなければなりません。

ところで、この21章2節には「主がかつてあらゆる奇しいみわざを行われたように」とあります。これはエレミヤから遡ること100年前のヒゼキヤ王の時代に起こった出来事を指しています。その時の南ユダの王様がヒゼキヤ王でした。エルサレムがアッシリアの王セナケリブの猛攻を受けて陥落寸前になったとき、ヒゼキヤ王はへりくだって部下を預言者イザヤに遣わし神の助けを求めました。すると神は彼らを窮地から救ってくださいました。一晩で18万5千人ものアッシリアの兵が疫病で死んでしまったのです。それでアッシリア軍はエルサレムから撤退しました。ゼデキヤ王はその時のことを思い出したのです。そしてその時のように主が自分たちを救ってくださることを期待して、自分の部下をエレミヤのところへ遣わしたのです。しかし、イザヤの時とは違い、エレミヤの返事はつれないものでした。この34章2節の後半と3節をご覧ください。主はこう言われました。
「見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。あなたはその手から逃れることはできない。あなたは必ず捉えられて、彼の手に渡されるから」
何と主はバビロンと戦ってくれるというのではなく、反対にゼデキヤをバビロンの手に渡すと言われたのです。そしてエルサレムに住む者は、人も家畜も疫病で死んでしまうと。そして最後はゼデキヤとその家来、その民はバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されることになるというのです。助かる道はたった一つしかありません。それはバビロンに降伏することです。そうすれば彼は剣で死ぬことを免れ、平安のうちに死ぬことができます。3節には「必ず」とありますが、それは必ず起こることなのです。主が「必ず」と言われる時は、必ずそうなるからです。バビロンの王に服することは屈辱的なことではありますが、そうすることで、捕囚の地でゼデキヤが安らかに死ぬことができるのであったなら、どんなに幸いであったかと思います。また、その死を悼む民がいたということも大きな慰めであったはずです。

しかし、ゼデキヤはそうしませんでした。彼は最後までバビロンの王に降伏しませんでした。その結果、ゼデキヤはエレミヤが預言した通り悲惨な死を遂げることになります。それは39章4~7節を見るとわかります。
「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」
 ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出ました。しかし、カルデアの軍勢、これはバビロンの軍勢のことですが、彼らがゼデキヤの後を追うと、エリコの草原で彼に追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいたバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れてきたのです。ネブカドネツァルはゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺しました。さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめました。ゼデキヤは、最後は獄中で死んでしまいます。彼が最後に見たのは、自分の目の前で自分の息子たちが虐殺されるということでした。何とむごいことでしょうか。いったいなぜそこまで悲惨な死に方をしなければならなかったのでしょうか。それは、彼がエレミヤを通して語られた神の言葉を受け入れなかったからです。エレミヤの言葉を聞いて彼がそれを受け入れていたならば、彼の死は本当の意味で「安らかな死」となっていたことでしょう。それは私たちへの教訓でもあります。神が語られたことは必ずそのようになります。ですから、私たちは心を頑なにしないで、神のことばに素直に従わなければなりません。

皆さんは、アテローム性動脈硬化という病気をご存知ですか。これは、コレステロールの蓄積と動脈の壁の傷跡のせいで起こる動脈硬化のことです。 霊的心の硬化も起こることがあります。 心の硬化は、神の真理を示されたのに、それを認めようとせず、受け入れることを拒否することで起こります。箴言4章23節に、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」とあります。あなたはどうでしょうか。あなたの心は硬化してはいないでしょうか。何を見張るよりも、あなたの心を見守らなければなりません。いのちの泉はそこから湧くからです。

Ⅱ.心を翻したゼデキヤとエルサレムの民(8-11)

次に、8~11節をご覧ください。「8 ゼデキヤ王がエルサレムにいる民全体と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言した後、【主】からエレミヤにあったことば。9 その契約は、各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないというものであった。10 契約に加わったすべての首長と民は、各自、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから奴隷を去らせた。11 しかしその後で、彼らは心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させた。」

ゼデキヤは、エレミヤの告げる神の言葉に心の底から耳を傾けて真剣に聞こうしませんでしたが、何とかしなければならないという思いがあったのでしょう。彼はエルサレムにいた民全体と一つの契約を結びました。それは、へブル人である自分の奴隷や女奴隷を解放するということでした。おそらく彼は、バビロンから独立を勝ち得るために神の恵みと祝福が必要だと感じたのでしょう。自分に向けられる神の怒りをどうにかして取り除かなければならないと考えたのです。それがこのヘブル人奴隷の解放です。へブル人奴隷というのは、同じユダヤ人の奴隷のことです。レビ記には、ユダヤ人は、神の奴隷であるから奴隷にしてはならない、と規定されてあります(レビ25:42,55)。しかし当時、経済的な理由から自発的に奴隷になる者がいました。そのような場合、奴隷は6年間働いて、7年目には解放されることになっていました(申命記15:12~18)が、彼らの先祖たちは、それを守ってこなかったのです。それを今、解放しようというのです。それは主の目にかなうことでした。それで彼はエルサレムにいる民全体と契約を結び、彼らを解放しました。

しかし、11節をご覧ください。その後で、彼らは心を翻し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させたのです。いったい何があったのでしょうか。ここには記されてありませんが、その背景にはエジプトのファラオの軍勢が彼らを助けるためにやって来たことがあります。そのことはエレミヤ書37章5節に記してあります。そこにはこうあります。
「また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。」
 待ちに待ったエジプトの援軍がやって来たのです。カルデア人とはバビロン人のことですが、彼らはエジプト軍がエルサレムを救出するためにやって来たことを知ると、一時的にエルサレムの包囲を解くのです。エルサレムの人たちは大喜びでした。やった、危機は去った。エジプトさえ来てくれれば、もうバビロンなど恐れることはない、私たちは自由だ、と小躍りしました。しかし、その自由の喜びはとんでもない行動に現れてしまいました。それを見た民は、心を翻してしまったのです。奴隷を取り戻したいという思いにかられるようになったということです。バビロンに包囲されている間は奴隷も大した仕事もなかったのであまり必要ではありませんでした。むしろ、奴隷を養うにはお金がかかりますから、ただ飯を食わせるよりは、解放した方がましだと考えましたが、バビロンの包囲が解かれた今は、話は別です。いてもらった方がどんなに助かることか・・・。彼らは急に心を翻しました。神聖な神との契約を踏みにじってしまったのです。

苦しい時の神頼みではありませんが、人が神を求めるのは、結局、自分の都合であったりすることが多いのです。それは、現代の私たちも同じではないでしょうか。自分の都合で信仰を持つ。いわゆるご利益信仰です。ご利益を求めて祈ること自体は悪いことではありませんが、私たちが考えるご利益と神が与えようとしておられるご利益とではちょっと違います。私たちは目先の状況に左右されその利益を考えてすぐに心を翻してしまいますが、神はそのような方ではありません。神は約束されたことを最後まで忠実に守られます。神が私たちに約束しておられることは、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それは言い換えると、神のようになる、ということです。そのために神はあらゆる方法を用いておられるのです。それは時には嬉しいことであったり、喜ばしいことですが、時には受け入れがたい辛いことであるかもしれません。しかし、どのような道を通させるにしても最後は希望なのです。それなのに、目先の利益を優先しそれに振り回され神との契約を軽んじることがあるとしたら、中身はこの世の人と何ら変わらないということになってしまいます。ただ礼拝の習慣を持っているだけの、取ってつけたような信仰にすぎません。もしそうであるなら、このゼデキヤと同じように、神の御怒りを受けることになってしまいます。神を信じているというのであれば、心から神を恐れ、神を敬い、神につながった、神第一の歩みを求めるべきなのです。

Ⅲ.どんな境遇にあっても(12-22)

その結果、どうなったでしょうか。最後に12~22節をご覧ください。12~16節をお読みします。「12 すると、【主】からエレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの地、奴隷の家から導き出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。14 「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間あなたに仕えさせ、その後あなたは彼を自由の身にせよ」と。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けもしなかった。15 ところが、あなたがたは今日、立ち返って、各自が隣人の解放を告げてわたしの目にかなうことを行い、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。16 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚した。あなたがたは、それぞれ、いったん彼らの望むとおりに自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷の身分に服させた。』」

ユダの民は知っていました。「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない」と。しかし、彼らの先祖は、主の命令に聞き従わず、耳も傾けませんでした。ところが、ゼデキヤはじめ、この時代のユダヤ人たちは違います。彼らは立ち上がって、各自が隣人の解放を告げて主の目にかなうことを行いました。ここではそのユダの民がほめられています。しかし彼らは息つく暇が出来ると、心を翻して以前の状態に戻ってしまいました。神の名で呼ばれる家、神の前に立てた契約をあまりにも簡単に捨ててしまったのです。彼らは神がどのような方かを知っていたのに、自分の利益のために神を侮る態度を取りました。それで神は「わたしの名を汚した」と叱責したのです。人の心はころころ変わるから”こころ”と名付けられたそうです。とにかく定まりません。チョッとした事でもすぐにぐらついてしまいます。私たちの周りにはいろいろな人がいて、いろいろな価値観や考え方を持っているので、そういう人たちに触れるとたちまち心が揺さぶられてしまうのです。

そのような中で心が変わらないでいるということは、私たちにできることではありません。そのためには聖霊の助けが必要です。そして目先の状況で心を変えないためには、どんな状況にあっても神の真実に目を留め、あらゆる境遇に対処することができる私たちの救い主イエス・キリストにつながっていなければなりません。パウロは、ピリピ4章11~14節でこう言っています。「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」

アーメン!パウロはどんな境遇にあっても満ち足りる秘訣を知っていました。それはイエス・キリストでした。ですから、目先の状況がどうであろうとも、彼の心は変わらなかったのです。彼は彼を強くしてくださる方によって、どんなことでもできると信じていました。心が変わらないこともそうです。それは彼が神の恵みを深く知っていたからです。それは私たちも同じです。神の恵みによって、イエス・キリストを信じる者に約束された聖霊の助けによって、私たちもどんなことでもできるのです。自分の思い通りにいかないこともあるでしょう。でも聖霊の導きに従って歩むなら、決して肉の欲を満足させることはありません。心がころころ変わることはないのです。

ロシアの文豪ドストエフスキーは、知恵の種に出会って人生の方向を変えることができたと言われています。1866年に発表された小説「罪と罰」は、このような変化が実を結んだ作品です。彼が若かった頃、青年作家として多くの作品を執筆したことで傍若無人で高飛車な態度を取っていました。そんな彼が秘密警察に加担して逮捕され、シベリアへ流刑されました。自分を知る人が誰一人いない場所で、無期で強制労働に服する生活が続きました。昼は強制労働を強いられ、夜は厳しい寒さの中暗い屋根裏部屋で一人絶望に陥りながら過ごしました。
 その頃、誰かがドストエフスキーに聖書を手渡しました。それで、彼は毎晩聖書を読むようになりました。そして、聖書の中で神に出会い、みことばを通して神の御声を聞いたのです。ついに、彼は後年心血を注いで一つの作品を書き上げました。それが「罪と罰」です。これは彼がみことばによって新しく生まれ変わった者として、人間の良心の問題を取り扱った作品となっています。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。みことばには人を変える力があります。それは、神のみことばを読むと、そのみことばが読む人の心に働くからです。

しかし、ユダの民は簡単に心を翻してしまいました。それゆえ神は厳しいさばきを宣告されます。それが17~22節にある内容です。17節には、「それゆえ、【主】はこう言われる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに──【主】のことば──剣と疫病と飢饉の解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。」とあります。つまり、心を翻したユダの民に対して「剣と疫病と飢饉の解放を宣言する」と言われたのです。また、18節には、彼らが神の前で結んだ契約のことばを守らず、神の契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする、と言われました。これは神とアブラハムとの間で契約を結ぶ話の中でも述べられています(創世記15章)。これは、契約した双方の当事者が向かい合った引き裂かれた動物の間を通ります。これを何を表しているのかというと、もし、その契約をどちらかが破れば、その引き裂かれた動物のようになる、つまり、二つに引き裂かれるということです。

いったんは退却したバビロン軍ですが、彼らは引き返して来て、エルサレムとユダの町々を破壊することになります。そして22節にあるように、「彼らはこの都を攻め取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。」のです。神との契約を守るということは、それほど重いことなのです。

旧約聖書の中に、この神との誓いを果たした美しい女性の話が出てきます。それは「ハンナ」です。長年不妊に悩んでいたハンナは、誰も見ていないところで、「神様、わたしに男の子を授けてください。もし願いが叶いましたなら、その子を一生神様にお献げします」と祈りました。神はその祈りを聞かれ、彼女にサムエルを授けてくださいました。ハンナとしてはやっと手に入れた待望の子ども、しかもかわいい盛りの赤ん坊でしたが、そのサムエルを「この子を主にお渡しいたします」と言って、祭司エリの養子にしたのです。誰も聞いていない、誰も見ていない、神への独り言と思えるような言葉も、ハンナは神への約束として忠実に果たしたのです。このような信仰こそ、神が喜ばれるものです。神はサムエルのことも、ハンナのことも豊かに祝福されました。

あなたはどうでしょうか。状況の変化に心が揺さぶられ、目先の利益を優先して、一度は主の御言葉に従うと決意しても、それを翻す弱さがあるのではないでしょうか。主に救われた者として私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。主はこう言われます。「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(Ⅰサムエル2:30)主に心を定め、心を翻すことなく、主の御言葉に従いましょう。自分が動かされやすい者であることを自覚し、主の助けを求めて祈りながら、主との約束を果たしていくものでありたいと思います。

エレミヤ33章14~26節「主は私たちの救い」

きょうは、エレミヤ33章後半からお話したいと思います。タイトルは、「主は私たちの救い」です。16節には「主は私たちの義」とありますが、これと同じ意味です。創造主訳聖書では「義」を「救い」と訳していて、こちらの訳の方がわかりやすいと思ったので、そのようなタイトルにしました。

前回の箇所には、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」とありました。すばらしい約束ですね。この「大いなること」とは、エルサレムの回復のことです。エルサレム(イスラエル)は神に背き、神の戒めを守らなかったので主は彼らから御顔を隠されましたが、もし彼らが主を呼ぶなら、主は彼らが知らない理解を超えた大いなることを告げてくださるというのです。今回はその続きです。33章までが、このエルサレムの回復がテーマになっています。主がどのようにエルサレムを回復なさるのかをご一緒に見ていきましょう。

Ⅰ.主は私たちの義(14-16)

まず14~16節をご覧ください。「14 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす。15 その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。16 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『【主】は私たちの義』と名づけられる。」」

「見よ、その時代が来る」ということばは、世の終わりを示す特徴的な語です。そのとき、どんなことが起こるのでしょうか。ここには、「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす」とあります。ここでは、この「いつくしみの約束」ということばがキーワードになっています。そのことを念頭にお聞きください。この「イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束」とは、サムエル記第二7章12、13節で主がダビデに語られた約束のことです。主はダビデに次のように言われました。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

これは主がダビデと結ばれた契約なのでダビデ契約と言われているものですが、主はこの契約に基づいて、その日、ダビデのためにいつくしみの約束を果たすというのです。具体的にはダビデのために義の若枝を芽生えさせるということです。これはイエス・キリストによって成就するメシヤ預言です。すでにエレミヤ書23章5節にもこのことばが出てきました。主は、イスラエルとユダに語られたいつくしみの約束のゆえに、ダビデの子孫からメシヤを起こし、公義と正義によってエルサレムを治めてくださると言われました。その結果、エルサレムは安らかな町、「主は私たちの義」と呼ばれるようになるのです。すばらしいですね、主はご自分がダビデと交わした約束のゆえに、エルサレムを救い、そこで公義と正義を行い、そこが(エルサレム)が安らかに住めるようにしてくださるのです。たとえバビロンによって一時は滅ぼされたとしても。そしてそこは「主は私たちの義」と呼ばれるようにしてくださるのです。これはイエス・キリストが最初に来臨した時に成就しましたが、実はそれだけのことではありません。来るべき千年王国において、エルサレムに完全な平和をもたらしてくださるのです。

ここではエルサレムは擬人化されています。これは私たちのことでもあるのです。「エルサレム」ということばに自分の名前を入れてよんでみるとわかりやすいと思います。その日、大橋富男は安らかに住み、こうして大橋富男は「主は私たちの救い」と名付けられる。その日がやってきます。私たちはかつてエルサレムのように神に背き、自分勝手な道を歩んだことでバビロンに滅ぼされたような者ですが、主はそんな私たちを救うためにご自分の永遠の契約に基づいて神の救い、神の御子イエス・キリストを与えてくださり、すべての罪からきよめてくださいました。それで私たちも「主は私たちの救い」と呼ばれるようになったのです。

パウロはこのことをエペソ2章1~8節でこう述べています。「1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」

私たちは、かつて自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、生まれながら神の御怒りを受けるべき子でした。しかし、あわれみ豊かな神はその大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。これは神の賜物です。自分の罪過と罪との中に死んでいたということは、もはや自分では何もできないということです。そんな死人同然の者を、神はキリスト・イエスにあって私たちとともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったのです。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。

そのことをここでは「いつくしみの約束」ということばで語られています。エルサレム(イスラエル)は、バビロンによって滅ぼされもはや死んだも同然、自分たちの力ではどうしようもない状態でしたが、神はそんな彼らを救い、安らかに住むことができるようにしてくださったのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?それは神が彼らといつくしみの契約を結んでくださったからです。主はその約束を果たしてくださるのです。それは私たちにできることではありません。それは一方的な神の恵みによるのです。

詩人の谷川俊太郎さんが、「ぼくのゆめ」という題の詩を書きました。
「おおきくなったら なにになりたい?/と おとながきく/いいひとになりたい/と ぼくがこたえる/おこったような かおをして おとなはいう/もっと でっかいゆめがあるだろ?/えらくならなくていい/かねもちにならなくていい/いいひとになるのが ぼくのゆめ/と くちにださずに ぼくはおもう/どうして そうおもうのかわからない/だけど ほんとにそうおもうんだ/ぼんやり あおぞらをみていると/そんぐ(ぼくがかっているうさぎ)のあたまを なでていると」。

皆さんは、自分の子どもが大きくなったら何になりたいと聞かれ、「いい人になりたい」と言ったら、どう反応するでしょう。ある生命保険会社の調査によると、昨今の子どもがなりたいと思っている第一位はユーチューバーだったそうです2位はマンガ家、イラストレーター、プログラマー、アニメーター、3位は芸能人、4位、ゲームクリエーター、5位はパティシエ、だそうです。牧師になりたいという人はだれもいませんでした。この時代をよく反映しているなあと思いますが、他方、親たちはどう考えているかというと、親たちが「子どもについてほしくない職業」としてあげたのは、1位ユーチューバー、2位芸能人、3位自衛隊、4位政治家、5位は介護士でした。まあ、ユーチューバーや芸能人とあげたのは、これらは不安定な仕事ですから、もっと安定した職業に就いてほしいと思うのはわかるような気がします。世界で戦争や紛争が絶え間なく起こっている現代では、命を大切にしてほしいという気持ちもわかるような気がします。政治家も国のビジョンを描いていくのはカッコいいなぁと思いますが、やはりあまりに利権にまみれ、金まみれの世界に不快感を持つのでしょう。意外なのは、「介護士」ですね。おそらく親たち自身もお世話になるであろうエッセンシャルワーカーであるにもかかわらず、大切な仕事には間違いありませんが、あまりにも過酷すぎるという思いがあるからでしょう。

いろいろな職業がある中でも、どの人にも共通していることは、みんな「いい人になりたい」と思っていることです。でも、そもそもいい人とはどんな人なのでしょうか。エレミヤ17章9節に「人の心は何よりねじ曲がっている。それは癒しがたい。」とあります。そんな心がねじ曲がった人間が、いったいどうやっていい人になることができるのでしょうか。できません。私たちがどんなに頑張っても、自分ではいい人だと自負している人でも、神の目にかなったいい人になることはできないのです。それがイスラエル、エルサレムの結果でした。そしてバビロン捕囚という悲劇を生んだのです。

そんな中でもし私たちがいい人になりたいと思うなら、それはひとえに神の恵みでしかあり得ません。たとえば、ここに「公正」と「義」ということばがありますが、これはあらゆる政治家に求められる性質ですが、いったいどうしたら持つことができるのでしょうか。それは私たち人間から出るものではなく、神の恵みによるのです。

ですから、14節で主は「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみ約束を果たす。」と言われたのです。これは「いつくしみの約束」なのです。私たち人間には到底できないことですが、神が一方的に与えてくださいました。その日、神はイスラエルとユダにいつくしみの約束を果たしてくださいます。良いことを成し得ない悲しいこの世に、神はご自身の「よいこと」をしてくださるのです。それがきたるべきメシヤ、イエス・キリストです。主は私たちを悪から救ってくださいます。私たちが救いなのではありません。救いは主です。主が私たちの救いなのです。その主が私たちを救い、安らかに住まわせてくださるのです。

この「主は私たちの義」という語は、エレミヤ23章6節にも出てきましたが、ヤハウェなる神は、救いという面だけでなく、すべての点でご自分の民の必要となってくださいます。戦いで勝利が必要なときには「ヤハウェ・ニシ」となってくださいます。意味は「主は旗」です。心の平安が必要な時には「ヤハウェ・シャローム」(主は平安)となってくださいます。今のエルサレムに最も必要なのは、公義と正義です。ですから主が「私たちの正義」になってくださるのです。

 そしてすばらしいのは、主ご自身が正義であられるというだけでなく、エルサレムの町も同じ名前で呼ばれるようになることです。それは私たちがキリストを信じたことによってキリストと一つにされたからです。こういうのを何というかというと「同化」と言います。私たちはキリストと同化したのです。「同化」したといってもあなたがおかしいということではないので安心してください。キリストと一つにされたのです。その結果、あなたのただ中にキリストの義がとどまるようになりました。これはすごいことです。私たちはクリスチャンと呼ばれていますが、どうしてそのように呼ばれるのでしょうか。それはキリストの義が転嫁されたからです。罪深い私たちはとても義なる者とはかけ離れた者ですが、キリストを信じたことで、キリストの義が転嫁されたのです。パウロはこのことをこう言っています。Ⅱコリント5章21節です。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)キリストの義が転嫁されたからです。

私たちはエルサレムのように救いも希望も何一つない荒れ果てた人生でしかありませんでしたが、神は、罪を知らないこの方を、私たちの代わりに罪としてくださったので、罪から救われ、神の都に安らかに住むことができるようになりました。それは神の豊かな恵みによるものです。このことを忘れないようにしましょう。そして、キリストと一つにされていることを喜び、キリストに感謝したいと思います。

Ⅱ.いつまでも絶えることがない神の契約(17-22)

次に、17~22をご覧ください。「17 まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。18 また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」19 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。20 【主】はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」

「まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。」これはエレミヤ書22章30節で、主がエホヤキムの子エコンヤに語られたことばです。エコンヤはゼデキヤ王の前の王様でしたが、神の指輪の印のように尊く権威ある存在でした。しかし彼は、エレミヤが語る主のことばに「わたしは聞かない」と反抗したため、神はご自分の指輪の印であるエコンヤを抜き取り、バビロンの王ネブカデネザルの手に渡すと言われたのです。彼はそこで死ぬことになります。ということはどういうことかというと、ダビデ王家が絶たれてしまうということです。そうなったら大変なことになります。神が約束されたメシヤが出てこないことになるからです。しかし、神はダビデの子エコンヤの子孫であるヨセフの子を通してではなく、ダビデの別の息子ナタンからこの王家を起こされるのです。つまり、ダビデの息子ナタンの子孫マリヤを通してこれを実現なさるのです。すごいですね。詳しくは22章のメッセージを読み返していただきたいと思いますが、そこでは「神の大どんでん返し」というタイトルでメッセージしました。このようにして主は再び来られて、ダビデの座に着いてくださるのです。何を言いたいのかというと、神の契約はどんなことがあっても変わることはないということです。ダビデの王家は断絶したが、主はその切り株から新しいダビデ王家につながる王(正義の若枝)を通してご自身が約束されたことを果たされるのです。

それは、その次に出てくるレビ人の祭司たちについても言えることです。18節には、「また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」とあります。エルサレムが崩壊すれば、当然神殿も崩壊します。そうなると、レビ人の祭司たちは無用の人となってしまいます。必要なくなるわけです。しかし主はそんな祭司たちを励ますために、レビ人の祭司たちの制度は永遠であると再確認しているのです。そのことは民数記25章10~13節で約束されていたことでした。つまり、神の契約はいつまでも絶えることはないのです。もちろん、祭司たちの活動が再開されるのは、神殿が再建されてからのことですから、これは千年王国でのことを表しているのでしょう。

それゆえ主は、こう言われるのです。20~22節です。「「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」
 このように神は、ご自分の契約を絶対に破棄することはなさいません。このことを思うとき、私たちはどんな状況の中にあっても勇気と希望をいただくことができます。目に見えることでがっかりしないでください。目に見えることで自分には無理だとあきらめないでください。主の偉大さを祈りの中で認め、果敢に前進していこうではありませんか。

Ⅲ.神の契約はまだ続いている(23-26)

最後に、23~26節をご覧ください。「23 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。24 「あなたはこの民が、『【主】は自分で選んだ二つの部族を退けた』と話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民を侮っている。『自分たちの目には、もはや一つの国民ではないのだ』と。」25 【主】はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、26 わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」」

ここに、主が選んだ二つの部族とありますが、これはユダとイスラエルのことです。彼らは、自分たちは見捨てられたと思っていました。それで彼らは絶望していたのです。しかしそんな彼らに神は、いや契約の民はまだ残っている、続いていると慰めるのです。夜と昼の法則、天地運行の法則が変わらない限り、彼らと結んだ契約が破棄されることはないと、力強く宣言するのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」とは、神の民イスラエルのことですが、神は契約に基づいて、そのイスラエルの民を祖国へと帰還させてくださるのです。

このことは、異邦人クリスチャンである私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。それは、イスラエルが神によって選ばれたのと同じように、私たちもまた選ばれた者であるということです。このことをパウロはエペソ1章4~5節でこう言っています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
 私たちは生まれる前から、この世界の基の置かれる前から救われるようにと選ばれていたのです。それで私たちはそれぞれ救われる道は違えども、イエス様を信じるようになったわけです。じゃ、信じていない人たちはそのように選ばれていないのか、と言ってはなりません。聖書は、そのようには教えていないからです。聖書は、すべての人が救われて真理を知るようになることを神は望んでおられると言っています。すべての人が、イエス・キリストによって救いに招かれています。この選びは、永遠に変わることはありません。あなたは神によって救われるように選ばれているのです。私たちはここに慰めを求めたいと思います。目に見える現実がそうでなくても、たとえ明日が見えない夜でも、あなたに対する神の約束はどんなことがあっても絶対に変わることはありません。このみことばの約束をしっかり握って、その偉大な主とともに歩んでいこうではありませんか。主は私たちの救い。そして主はあなたの救いなのです。

エレミヤ33章1~13節「わたしを呼べ」

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ハレルヤ!主を賛美します。前回は、32章全体から、アナトテにある畑を買い取るようにと言われた主のことばから学びました。アナトテはエレミヤの出身地です。でもそこはバビロンによって取り囲まれており陥落寸前の状態でした。そんな畑をどうして買わなければならないのかわからなかったエレミヤは、そのことを主に祈ると主は答えてくださいました。それは、32章43節、44節にあるように、確かにエルサレムはバビロンの手に渡され、荒れ果てた地となり、人も家畜もいなくなるが、再びその地で畑が買われるようになるからです。つまり、神さまはこの荒れ果てたエルサレムを回復し、再び元通りにするからです。だれがそんなことを考えることができるでしょうか。しかし、32章17節にこうありましたね。「あなたにとって不可能なことは一つもありません。」神さまにとって不可能なことは一つもありません。神さまが言われたら、そのとおりになります。バビロンの手に渡されたエルサレムやアナトテの地にある畑は元通りになり、再び買われるようになるのです。すばらしいですね、主の約束は。

きょうの箇所はそのみことばに続く箇所です。主はエレミヤに続いてこう言われました。3節、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」これが、きょう主があなたに語っておられるみことばです。

Ⅰ.わたしを呼べ(1-9)

まず1~3節をご覧ください。「1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような【主】のことばがあった。2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」

エレミヤは、南ユダ王国最後の王ゼデキヤによって監視の庭に監禁されていました。それは、ゼデキヤがバビロンの王の手に渡されるということをエレミヤが預言をしたからです。ゼデキヤにとってエレミヤは目の上のたんこぶのような存在で、否定的なことしか言わないので、嫌になって「なぜ、あなたはこのように預言して言うのか」(32:3)と言って、ユダの王の宮殿にある監視の庭に監禁したのです。それは約1年半くらい続きました。そのエレミヤがまだ監禁されていたとき、再びエレミヤに主のことばがありました。それは次のような内容でした。2節と3節をご覧くにある内容です。「2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」

3節は、聖書の中でも非常に有名なみことばで、祈りのトライアングルと呼ばれている箇所です。この中で主はエレミヤに「わたしを呼べ」と言われました。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることを、あなたに告げよう。と。この「わたしを呼べ」ということばですが、英語では「Call to me」となっています。これは普通じゃありません。普通、英語で「わたしを呼べ」というのは「Call me」です。でもここではCall to meとなっています。なぜCall to me なのでしょうか?それはこの「me」が強調されているからです。ただ「わたしを呼べ」と言っているのではなく、「このわたしを呼びなさい」と言っているのです。

それは2節を見るとわかります。ここで主はこう言っておられます。「地を造った主、それを形造って堅く立てられた主、その名が主である方が言われる。」ここでは、この「わたし」がどのような方であるのかがはっきり書かれてあります。この方は地を造られ、それを堅く立てられた方です。その名は「主」です。これは「わたしは、「わたしはある」という者である。」(出エジプト3:14)という意味です。何にも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。人間はそうじゃないでしょう。何かに依存しないと生きていくことができません。外見は強そうでも実際は本当に弱い虫けらみたいな存在です。私は先日尿管結石で入院しましたが、痛かったですよ。もう死ぬかと思いました。でも医師の話ではその石の大きさは6ミリだったそうです。たった6ミリです。そのまま落ちるか落ちないかギリギリの大きさだそうですが、私の石は落ちませんでした。相当居心地が良かったんでしょうね。担当の医師はとってもいい人で、適切に処置をしてくださったので、今ではピンピンになりました。勿論、すべては神の恵みですが、私には彼の顔が神さまのように見えましたよ。でもそんな医師でも診察にあたってはいろいろ悩むこともあると言っていました。100%はないと。人は見かけでは強そうですが実際は弱いんです。だれかに依存しないと生きていくことができません。でも主はそのような方ではありません。主は、地を造られ、それを堅く立てられた方です。この方にとって不可能なことは一つもないのです。この方は全能者なのです。この「わたしを呼べ」。そう言っているのです。そうすれば、この方はあなたに答え、あなたが知らない大いなることを、あなたに告げてくださいます。

「大いなること」とは何でしょうか。具体的には、これはエルサレムの回復のことを言っています。神は、エルサレムの住民たちがカルデア人と戦っても、必ず敗北すると告げられました。なぜなら、5節にあるように、彼らのすべての悪のゆえに、主がエルサレムから御顔を隠されたからです。しかし、神は彼らを懲らしめてそれで終わりではありません。そんな彼らを赦し、彼らを初めのように回復させ、建て直してしてくださるというのです。それが6~9節にある内容です。ご覧ください。「6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。9 この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」

ユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直すなんてあり得ないことです。しかし、たとえ人間の目で不可能なことでも、神にとって不可能なことは一つもありません。あなたが主を呼び求めるなら、神はあなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。荒れ果てたエルサレムを回復させて元通りにし、建て直してくださるのです。もしあなたが神を信じ、神とともに歩み、神との交わりの中にいるなら、神はあなたが考えられないような偉大なことをしてくださるのです。でも私たちはそれを信じられないのでこういうのです。「ウッソ!」無理、無理、無理ですよ、どうやってそんなことができるんですか・・・。

このときのエレミヤもそうでした。神さまはイスラエルがバビロンに連れて行かれてから70年後に再び祖国に戻すとは聞いていましたが、いったいどのようにしてそんなことができるのかがわかりませんでした。前回のアナトテの畑を買うということもそうでしたね。どうしてそんな畑をかわなければならないのか、もう崩壊寸前になっていた畑なんて二束三文ですよ。なぜ買わなければならないのですか。さっぱりわかりませんでした。そんなエレミヤに、神さまはその理由を告げられるんですね。それが32章15節のみことばでした。「なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』」つまり、彼らはそのバビロンから解放されて祖国に戻り、再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからです。いったい誰がそんなことを考えることができたでしょうか。70年ですよ、そんなに長い間バビロンで奴隷として生きていた彼らが、どうやって祖国に戻ることなどできるでしょう。しかし、そんなエレミヤに神はこう言われました。「『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』それはあなたにはわからないことです。しかし、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げてくださいます。

旧約聖書に登場するヨブもそうでした。彼も自分に降りかかる数々の災難がどうして起こるのかがわからず、そのことを神に問うわけですが、その中で彼が見出した答えがこれでした。神にはどんなことでもできるということです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)神にはどのような計画も不可能ではありません。そのこと信じなければなりません。神に「どうしてですか」と問う前に、あなたは神を呼び求めなければならないのです。そしてその声を聞かなければなりません。そうすれば、主はあなたに答え、あなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。

人は目先の現象に一喜一憂しやすいものです。しかし、自分には分からないことが沢山あることを謙虚に認めて主を呼ばなければなりません。そうすれば、主は、私たちの理解を超えた大いなることを告げてくださいます。

たとえば、アブラハムが99歳になったとき、主はアブラハムと契約を結ばれました。それは彼が多くの国民の父となるということでした。でも彼にはまだ子どもがいませんでした。どうやって多くの国民の父になることができるでしょうか。そのとき神さまは具体的に彼に直系の男の子が与えられ、その名は「イサク」と言いますが、彼を通してその契約を成し遂げてくださると明かしてくれました。まさか100歳の者にどうやって子どもが与えられるでしょう。サラだって90歳になっていました。考えられません。なかなか信じられません。そんなアブラハムとサラに主はこのように言われました。「14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」【主】はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(創世記18:14)

皆さん、主にとって不可能なことは一つもありません。たとえあなたにとって不可能なことでも、主にとっては何でもないことです。あなたにとって必要なことは、この全能者であられる主を呼ぶことなのです。

6~9節をもう一度ご覧ください。ここで主はどのようにエルサレムを回復させてくださるのかを示しておられます。6節には、主はエルサレムに回復と癒しを与え、彼らに平安と真実を豊かに示すと言われました。7節には、分断されていたユダとイスラエルを回復させるとあります。8節には、彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らの咎を赦すとあります。そして9節には、彼らはすべての国々の間で、主にとって喜びの名となり、栄となる、と言われています。

いったいどうして主はそこまでイスラエルを祝福してくださるのでしょうか。それは彼らが良い民族だからではありません。それは31章で見たように、新しい契約に基づく神の一方的な恵みによるものです。 それは御子イエスの血によって、信じるすべての者をきよめてくださるという神様の一方的な恵みの契約でした。御子イエスを信じる者は、すべての罪、咎がきよめられ、神がいつまでも共にいてくださいます。あなたがどんなにひどい罪を犯したとしても、その罪を認め、神に立ち返るなら、神はあなたを捨てることは絶対にありません。どんなに自分の汚れを落とそうとアタックを使っても無理なものを、自分の力では決して拭い落とせない罪でも、神さまはキリストの血によってそれを行なってくださったのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)御子イエスの血は、すべての罪からあなたをきよめてくださるのです。何という恵みでしょうか。神はキリストによって彼らと新しい契約を結んでくださいました。神はキリストによってあなたとこの契約を結んでくださいました。ですから、どんなことがあってもあなたが滅びることはありません。あなたが神を呼ぶとき、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをしてくださるのです。

Ⅱ.その恵みはとこしえまで(10-11)

次に、10~11節をご覧ください。「10 【主】はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」」

人も家畜もいない廃墟となった場所で、人も住民も家畜もいない荒れすたれたユダの町が、いったいどうして楽しみと喜びの声が聞かれるようになるのでしょうか。それは、主がそうされるからです。主がこの地を回復させ、以前のようにされるのです。それは人の理解をはるかに超えた驚くべき大いなること、大いなる神の恵みでした。あれほど廃墟となった町が再び建て直されるなんて考えられないことです。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか。主がしてくださるからです。主は約束を反故にされる方ではありません。主が語られたことは必ず実現してくださるのです。主はそのように約束してくださいました。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」(エレミヤ30:3) それはここだけではありません。エレミヤはバビロンに連れて行かれたユダの民が祖国に帰り、そこを元通りにすると何度も何度も語られました。主はそのことばのとおりにされたのです。

アメリカに車を欲しがる息子がいました。彼は父親に大学の入学祝いに車を買ってくれとせがみました。父親は「車もいいが、みことばを読み、祈る生活をしなさい。」と言いました。そして、みことばと祈りには、車だけでなく人生に必要なすべてが込められていると言って、車の代わりに聖書をプレゼントしました。息子は大学の寮に入って学校が始まってからも父親からもらった聖書に一度も目を通しませんでした。父親が自動車を買ってくれなかったことに対する不満でいっぱいだったからです。
 休みで家に戻って来た息子は、まだ父親に腹を立てていました。そのことを察した父親は息子に、なぜ聖書を読まないのかと尋ねました。息子は「車を買ってくれないのに、どうしてお父さんの言うことを聞かなければならないんですか」と反発しました。父親は「息子よ、ピリピ4章19節を開いてみなさい。」と言いました。「そこには車があるはずだ」と。そこで息子は大学の寮に帰ると、聖書を手に取り、ピリピ4:19を開きました。驚いたことに、そのページに車が買える小切手がはさまれてあったのです。そして、その箇所には線まで引いてあったのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

廃墟となった町が、再び喜び踊る人々で満ち溢れるようになる。なんという劇的な変化でしょうか。主はご自身のあわれみと、ご自身のお約束のゆえに、必ずそれを実現してくださいます。私たちの嘆きを賛美に、悲しみを楽しみと喜びに変えてくださるのです。それは人にはできません。でも神にはどんなことでもできるのです。たとえあなたが今深い泥沼に沈んでいても、たとえ先が見えない絶望の中に置かれていても、あなたが主を呼ぶなら、主はあなたの声に答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをあなたに告げてくださるのです。11節に、「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」とありますが、私たちもこの万軍の主に感謝し、主の御名を呼び求めようではありませんか。そうすれば、主は必ずあなたに大いなることをしてくだいます。

Ⅲ.満ち満ちた神の恵み(12-13)

最後に、12~13節をご覧ください。「12 万軍の【主】はこう言われる。「人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできる。13 山地の町々でも、シェフェラの町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通り過ぎる──【主】は言われる。」」

人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできるようになります。回復の範囲が、約束の地の全行に及ぶようになります。44節にシェフェラの町々でも、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、とあるのは、イスラエルのどこにおいてもという意味です。イスラエルの全土で群れを伏せる羊飼いたちの住まいが再びできるのです。そればかりか、群れが再び、数を数える者の手の下を通りすぎようになります。これは牧者が羊の数を数えようとしても、あまりにも多すぎて数を数える者の下をするっと通り抜けてしまうほどです。それほど羊を飼うことが日常化し、家畜が豊かにあふれることを表しています。それは神がなされる回復は完全であるということです。あなたの人生がどんなに荒廃していても、物質的に不足を感じることがあっても、ダビデが「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。」(詩篇23:6)と告白したように、神はあなたを豊かに満たしてくださるのです。だから主を呼んでください。そうすれば、主はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げてくださいます。

ある姉妹が、イエス様を信じてからもなかなか古い習慣から抜け出せないでいました。その古い習慣とは、何かあるとすぐに人に頼り、聞いてもらい、答えを得る事でした。それで彼女は聖書の学びを通して、まず主に祈る事にしました。それまでは何か問題が起こると、その頃はまだ携帯が無かったので、次々と友人たちに電話をしていましたが、ところがある日、次々と電話しても、何と全員が出かけていて留守録だったのです。 
 その時彼女はハッとして、このみことばを思い出しました。まず人に頼るのでなく、主に頼り、主に祈る事だと。そしてその問題をまず主の下に持って行きました。するとその祈りが次々と答えられるのを体験しました。

しかし、ある時経済的苦境に陥り、突然の出費があり、給料前ということもあり、手元にお金が全く無くなってしまったときがありました。赤ん坊のミルクとオムツが無い。どうしようもなく、未信者の夫が、友人に借りて来ると言いました。給料日にすぐに返せるからと。でも彼女は平安がありませんでした。まず主に祈り、主に頼りたかったのです。そして心の中でその事を祈りました。すると夫が、行く前に、近くに住む一人暮らしの義父をのぞいて来ると言いました。主に感謝して、夫が出た時間、必要を求めて、心を注ぎ出して祈りました。長く祈っていて、ふと背後に人の気配を感じました。すると何と夫が、両手にミルク缶とオムツの袋を持ち、立っているではありませんか。どうしたのと驚いて聞いてみると、行くと丁度、職場の上の人が義父の見舞いに来てくれ、見舞金を置いて行ったというのです。とりあえず必要な物を買って来たと。即、祈りに答えられ心から感謝しました。そして主のご愛に触れて、心は喜びで満ちたのです。

どうしてこういうことが起こってしまったのかと思うとき、あなたは自分で悩み、落ち込み、自分で解決することを止めて主を呼ぶことです。 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」主があなたのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだと信じて、主を呼び求めましょう。主に祈り、主に信頼して歩みましょう。主があなたも知らない、あなたの理解をはるかに超えた大いなることをあなたに告げてくださるからです。

エレミヤ32章1~44節「アナトテの畑を買え」

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きょうは、少し長い箇所となりますが、エレミヤ書32章全体から学びたいと思います。タイトルは「アナトテの畑を買え」というタイトルでお話します。「アナトテ」とはエレミヤの出身地で、ベニヤミン領内にあった村です。主はあるときエレミヤに、このアナトテにある畑を買うようにと告げられました。当時アナトテはバビロンによって包囲され陥落寸前になっていました。そんなところを買っても二束三文です。それなのに主はどうしてアナトテにある畑を買うようにと告げられたのでしょうか。

Ⅰ.アナトテにある畑を買え(1-9)

まず1~9節をご覧ください。5節までをお読みします。「1 ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドネツァルの第十八年に、【主】からエレミヤにあったことば。2 そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中であって、預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある監視の庭に監禁されていた。3 ユダの王ゼデキヤは、エレミヤを監禁するとき、次のように尋ねたのだった。「なぜ、あなたはこのように預言して言うのか。『【主】はこう言われる。見よ。わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。そして彼はこれを攻め取る。4 ユダの王ゼデキヤは、カルデア人の手から逃れることはできない。ゼデキヤは必ずバビロンの王の手に渡され、口と口で彼と語り、目と目で彼を見る。5 彼はゼデキヤをバビロンへ連れて行く。そしてゼデキヤは、わたしが彼を顧みるときまでそこにいる──【主】のことば──。あなたがたはカルデア人と戦っても、勝つことはできない。』」」

ユダの王ゼデキヤの第十年とは、B.C.587年のことです。ゼデキヤとは、南ユダ王国最後の王です。そのゼデキヤの第十年に、主からエレミヤに次のようなことばがありました。それは具体的には3~5節にありますが、主はエルサレムをバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡すということ、そしてこれを攻め取るようになるということです。ゼデキヤはカルデア人の手から逃れることはできません。その結果、主はこの都エルサレムをバビロンの王の手に渡すことになるのです。これはゼデキヤにとって受け入れ難いことばでした。というのも、この出来事のちょうど1年くらい前に、ゼデキヤはエジプトの援助を受けて一時的にバビロン軍に反撃していたからです。もしかするとバビロンに勝つかもしれないという気運が高まる中、彼らに勝つことはできないとか、エルサレムはバビロンの王の手に渡されることになるとか言うのを聞いて受け入れられなかったのでしょう。それでゼデキヤはカンカンになって怒り、エレミヤを宮殿の監視の庭に監禁してしまいました。どんなに辛かったことでしょう。その期間約1年半です。何も悪いことなどしていないのに、むしろユダの将来を考えを思って語ったことなのに、監禁されるなんてあんまりです。しかしそれは南ユダにとっては希望につながるメッセージでした。

6~15節をご覧ください。「6 エレミヤは言った。「私に、このような【主】のことばがあった。7 『見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、「アナトテにある畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから」と言う。』8 すると、【主】のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、これが【主】のことばであると知った。9 そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。10 私は証書に署名して封印し、証人を立てて、秤で銀を量った。11 そして、命令と規則にしたがって、封印された購入証書と封印のない証書を取り、12 おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダの人々の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、13 彼らの前でバルクに命じた。14 『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。15 なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』

ちょうどその時、主からエレミヤに主のことばがありました。それは、おじのシャルムの子のハナムエルが

彼のところにやって来て、「アナトテにある畑を買ってほしい」と願い出て来るので、それを受け入れてほしいということでした。すると主のことばのとおり、ハナムエルがやって来て、アナトテの畑を買ってほしいと言いました。でもそれはナンセンスなこと、全く考えられないことでした。アナトテはエルサレムの郊外にあるベニヤミン領内にあるエレミヤの出身地でしたが、バビロンからの攻撃を受け崩壊寸前になっていたからです。そんな二束三文の土地を買う人などどこにいるでしょう。いないでしょう。全く無意味なことですから。しかし、エレミヤは主のことばに従って、その畑を買うことにしました。

9節を見ると、その値は銀17シェケルであったことがわかります。高かったのか、安かったのかはわかりません。ただバビロンに囲まれていたので、土地は暴落していたものと思います。でもエレミヤがアナトテの畑を買ったのは土地の値段が安かったからではありません。このことを通してユダの民に神からの希望のメッセージを告げようと思ったからです。確かにイスラエルはバビロンによって滅ぼされてしまうことになります。でもそれで終わりではありません。バビロンによって滅ぼされますが、主はそこから彼らを解放し、再びイスラエルの地に戻って来るようになります。エルサレムはバビロンによって滅ぼされますが、必ず回復する時がやってくるのです。それは目に見える現実とは正反対のように見えるかもしれませんが、たとえそれが非現実的なようなことでも、神にとって不可能なことは一つもありません。神は約束されことを必ず実現してくださいます。主は必ずイスラエルをご自身の土地に戻してくださいます。エレミヤがアナトテの畑を買うようにと言われたのは、それが必ず実現することを彼らに示すための一つのデモンストレーションだったのです。

今、この時代に求められているのはこういう目を持った人たちではないでしょうか。現実を見ればそこには何の希望もないかのようにしか見えるかもしれません。しかし、信仰の目をもって見るなら、そこには希望が溢れています。イエス様が死んだラザロをよみがえらせたとき、信じるなら神の栄光を見るようになると言われましたが、まさに信じるなら神の栄光を見るようになるのです。

そこで彼は、主のことばのとおり、おじのハナムエルが彼のところにやって来たとき、助手であり書記であったバルクに命じて証拠の書類を2つ作らせました。一つには封印をしたもので、もう一つには封印をしていませんでした。これは当時の習慣で、封印をした方は正式な証書で、封印をしていない方は契約の内容を確認したり、書き写したりできるようにするためでした。エレミヤがこの時購入したアナトテの畑の価格は、銀17シェケルでした。イエス様は銀30シェケルで売られているので、土地はかなり大暴落していたと思われます。しかしたとえそれがいくらであったとしても、重要なのは皆にとって価値がないと思われたそのアナトテの畑のために、皆の前で正式に代価を払って土地を買い取ったということです。どうしてそんなことをしたのでしょうか。14~15節をご覧ください。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。』15 なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』

主はこれを土の器の中に入れ、長い間、保存せよと言われました。なぜでしょうか。なぜなら、今、ここで取り交わした契約は、いつか必ずそのようになるからです。つまり、再びこの地で、家や、畑やぶどう畑が買われるようになるということです。彼らはその証人であったわけです。つまり、これは敵に奪われたこのアナトテの地が、再びイスラエルに戻ってくるという神からの回復のメッセージだったのです。

時として人はこんなことをしていったいどんな意味があると、全く無意味なことではないかと思うことがあります。エレミヤが取った行動は、まさにそのようなことでした。しかし、実際には、エレミヤが取った行動こそ実際的で現実的なものであり、将来と希望を与えるものでした。というのは、彼がとった行動こそ、神が願っておられたことだからです。人は皆誰かの役に立ちたいと願っています。だからこそ一生懸命に努力して資格試験を取ったり、親であれば子供にいろいろな習い事をさせたりするわけですが、それは全く本当に人の役に立つかというと、そうではありません。というのは、というのは、それは助けを必要としていている人のためにというよりも、自分がやりたいこと、自分が単にそう思っているだけのことにすぎないからです。でも本当に人の役に立ちたいと願うなら、自分の思いや考えを超えた神の考えを聞かなければなりません。

このエレミヤの生き方を見ると、それは確かに価値がないかのように見えたかもしれませんが、実はそれこそが神がエレミヤに、いや私たちに求めている生き方だったのではないでしょうか。つまり、この世の現実に流されないいで、神のみこころは何なのか、何が良いことで神に喜ばれ、完全であるのかをわきまえ知るために心を一新するということです。

これが「信仰」ということだと思うんです。15節には、「なぜなら、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。再びこの地で、家や畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。」とあります。」よく信仰というと心の問題だと考えがちですが、実はそうじゃないんですね。信仰とは家が建つことであったり、実りが与えられることであったり、社会が安定すること、そういうことと深くつながっているのです。そうしたことはひとりひとりの考え方から生まれて来るからです。ですから、私たちがどのような考え方や価値観を持っているのかということは、非常に重要なことなのです。それが家とか、畑とか、ぶどう畑といったことに現れてくるからです。エレミヤが行ったことは、まさにこうした神の祝福が、神の回復が、再びもたらされることになるという神の現実を伝えることだったのです。

それにしても、今エルサレムの町はバビロンに包囲されていて、まさに滅ぼされようとしていました。そういう時に彼は神に示されてアナトテの畑を買ったのです。なかなかできることではありません。現実的にはもうエルサレムは滅びかけていたからです。そういう現実の中でも彼は土地を買い戻し、回復を語りました。神の現実に生きるとはこういうことなのではないでしょうか。ただ頭だけで考えるということではなく、神の約束のことばを信じてそれにかけるというか、そこに生きることなのです。

Ⅱ.エレミヤの祈り(16-25)

次に、16~25節をご覧ください。「16 私は、購入証書をネリヤの子バルクに渡した後、【主】に祈った。17 『ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。18 あなたは、恵みを千代にまで施し、父たちの咎をその後の子らの懐に報いる方、大いなる力強い神、その名は万軍の【主】。19 そのご計画は大きく、みわざには力があります。御目は人の子らのすべての行いに開いていて、それぞれにその生き方にしたがい、行いの結ぶ実にしたがって報いをされます。20 あなたはエジプトの地で、また今日までイスラエルと人々の間で、しるしと不思議を行い、ご自分の名を今日のようにされました。21 あなたはまた、しるしと不思議と、力強い御手と伸ばされた御腕と、大いなる恐れをもって、御民イスラエルをエジプトの地から導き出し、22 あなたが彼らの父祖たちに与えると誓ったこの地、乳と蜜の流れる地を彼らに与えられました。23 彼らはそこに行って、それを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じたことを何一つ行わなかったので、あなたは彼らを、このすべてのわざわいにあわせられました。24 ご覧ください。この都を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この都は、剣と飢饉と疫病のために、攻めているカルデア人の手に渡されようとしています。あなたのお告げになったことは成就しました。ご覧のとおりです。25 【神】、主よ。この都がカルデア人の手に渡されようとしているのに、あなたは私に、金を払ってあの畑を買い、証人を立てよ、と言われます。』」

さて、土地の契約を済ませたエレミヤは何をしましたか。16節と17節をご覧ください。彼は祈りました。まず神の偉大さをほめたたえました。彼はここで、「『ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。」と祈っています。エレミヤは主はどのようなお方なのかを確認しています。すなわち、主は大いなる力と延ばされた御腕をもって天地を造られた創造主であられる方であるということです。この方にとって不可能なことは一つもありません。たとえ人間的に見て、イスラエルがバビロンから帰って来るということが全く不可能なことのようでも、神にとってできないことは一つもありません。

第二に、彼は神の偉大さを象徴するものとして、出エジプトを取り上げています。20節をご覧ください。「あなたはエジプトの地で、また今日までイスラエルと人々の間で、しるしと不思議を行い、ご自分の名を今日のようにされました。」主はどのようにイスラエルをエジプトから導き出されたのでしょうか。主はエジプトの地で、しるしと不思議と、力強い御手と伸ばされた御腕と、大いなる恐れをもって、御民イスラエルをエジプトの地から導き出されました。

だから何なんですか。だから、主にとって不可能なことは一つもありません、ということです。17節にあるとおりです。つまり、エレミヤはこの祈りの冒頭で、神様の二つの大いなる奇跡、すなわち、天地創造と出エジプトの奇跡を賛美することによって、神にとって不可能なことは一つもないと告白したのです。

皆さん、神にとって不可能なことは一つもありません。神はこの天地を創造された方、イスラエルをエジプトから救い出された方です。この方にとっておできにならないことは一つもないのです。新共同訳では、「あなたの御力が及ばないことは一つもありません」(17)と訳しています。この天地を創造され、あのエジプトからイスラエルを救い出された主の力が及ばないことは一つもないのです。すばらしいですね。私たちも心を合わせて主を賛美しましょう。「あなたの御力が及ばないことは一つもありません。」神によって不可能なこと、神にとってできないことは何もないと。そのことを、神様が創造された全世界と、エジプトから救われたイスラエルの救いの御業を通して、エレミヤは賛美したのです。

しかし彼は、そうした一方的な神の救いの御業を賛美しながら、エレミヤはもう一つの現実に直面するのです。それは、そうした神の救いと恵みとは裏腹に、神に背き続けるイスラエルの姿です。25節をご覧ください。「【神】、主よ。この都がカルデア人の手に渡されようとしているのに、あなたは私に、金を払ってあの畑を買い、証人を立てよ、と言われます。』」」

エレミヤは、神には不可能なことは一つもないということを信じていました。でも、神に背き続けるイスラエルのために、証人を立ててまでアナトテの畑を買わなければならないのかとい疑問です。当然と言えば当然でしょう。元はと言えばイスラエルの問題なんですから。彼らは滅ぼされて当然なのに、なぜ金を払ってあの畑を買い、証人を立てよと言われるのか、彼にはわかりませんでした。

その答えは次の26節からのところで説明されますが、エレミヤのすばらしかったのは、これを最初ではなく最後に申し上げた点です。私たちはとかく何か疑問があると最初にぶつけたがるものです。そして相手がどのような方かを無視して一方的に語りかけて終わってしまいますが、エレミヤはそうではありませんでした。主がどれほど偉大なお方であるのかを認めることから始まりました。つまり、礼拝することから始まりました。これは非常に大切なポイントです。何か問題が起こったらその問題について話す前に、神がどのようなお方なのかを確認して祈ることから始めなければなりません。そうすれば、問題が小さくなるでしょう。主がどのようなお方なのかを知ることが、すべての問題解決の鍵だからです。

Ⅲ.神のあわれみ(26-43)

最後に、このエレミヤの疑問に対する主の答えを見て終わりたいと思います。26~28節をご覧ください。「26 すると次のような【主】のことばがエレミヤにあった。27 「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、【主】である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。28 それゆえ──【主】はこう言われる──見よ。わたしはこの都を、カルデア人の手と、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡す。彼はこれを攻め取る。」

エルサレムがカルデア人の手に渡されようとしているのに、どうして主は自分に、あのアナトテの畑を買うようにと言われるのか。なかなか納得できないでいたエレミヤに主はその理由を語られました。それが26節から終わりまでのことばです。

27節で主は、「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、主である。私にとって不可能なことが一つでもあろうか。」と言われました。どういうことでしょうか。この時エレミヤは二つの現実と戦っていました。一つは、主の御声に聞き従わないイスラエルという現実であり、もう一つは、それにもかかわらず、神はそんなイスラエルをあわれんでおられるという現実です。ここでは、「神にとって不可能なことが一つでもあろうか」とあります。この神の現実を見てエレミヤは、神には何でもできるんだという圧倒的な救いの恵みに触れるのです。これが神の心です。神に従わないイスラエル、そのためには滅ぼされても致し方がないというさばきのはざまにありながらも、そういう現実の破れを前にして彼は祈ったのです。これが神の心なんです。神はこの町がバビロンに渡されようとしているのに、「銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。」と言われました。なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。それは、神はイスラエルを愛しておられるからです。主は遠くからエレミヤに言われました。「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くしつつけた。」(31:3)主はイスラエルを愛したのです。それはどんなことがあっても切れるものではありません。主は永遠の愛をもって彼らを愛されたのです。同じように主は、永遠の愛をもってあなたを愛されました。ご自身のひとり子イエス・キリストを通してあなたを愛されたのです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを願っておられます。すべての人がこの神の恵みとあわれみによって神に立ち返ることを願っておられるのです。つまり、神はあなたをどこまでもあきらめていないということです。主はどんなことがあってもイスラエルを救われるのです。

であれば、私たちもあきらめるべきではありません。どんなに神のさばきが近づいても、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを願っておられるのですから、やがて神がイスラエルを回復してくださると信じてアナトテの畑を買って用意しておかなければないのです。それはこの世から見たら非現実であるかのように見えるかもしれません。けれども、神の現実と私たちの現実は違います。たとえこの世にあって現実的ではないようでも、神のみこころに焦点を合わせて生きる。これが私たち信仰者に求められていることなのです。

それは36~40節を見てもわかります。神様からの最後のことばはさばきのことばではありませんでした。これは希望と回復のことば、慰めと約束のことばです。でした。「36 それゆえ今、イスラエルの神、【主】は、あなたがたが、「剣と飢饉と疫病により、バビロンの王の手に渡される」と言っているこの都について、こう言われる。37 「見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。38 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。39 わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、40 わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。」

ここに、エレミヤの疑問に対する主の答えが示されます。カルデヤ人が滅ぼそうとしているこの地で、再び畑が買われるようになるのは、人々が祖国に帰還し、そこが祝福された地、高価な地となるからです。回復されるのはエルサレムだけでなく、約束の地の全度です。ベニヤミンの地が真っ先にあげられていますが、エレミヤが買ったアナトテがそこにあったからです。

アナトテの畑を買うという行為は、将来起こる祝福の先駆けとなる象徴的な行為だったのです。それは他の人からみれば非現実的なことのようでしたが、神様はそんな彼らに大切な約束を示してくださいました。私たちも、私たちのことばや行いが、将来与えられようとしている祝福の先駆けとなるような人生を歩ませていただきたいと思うのです。

エレミヤ31章35~40章「イスラエルは滅びない」

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前回は、エレミヤ書ばかりか聖書全体のテーマである新しい契約についてお話しました。きょうは、この31章の最後の箇所となります。きょうは、この箇所から「イスラエルは滅びない」というテーマでお話します。

私たちは前回「新しい契約」について学びました。それは古い契約とは違います。どのように違うのかと申しますと、古い契約はモーセを通して与えられたシナイ契約のことですが、それは、もしイスラエルの民が神の声に聞き従い、神との契約を守るなら彼らは祝福されますが、そうでなければ、呪われるというものでした。でも、神との契約を完全に守ることができる人など一人もいないわけで、そういう意味ではそれはイスラエルも同じで、彼らは神の呪いを受けなければならない存在となってしまいました。でもそれでは困るわけです。もし神の民であるイスラエルが滅びてしまったらイスラエルを通して全世界を救おうとしておられた神の計画が頓挫してしまうことになってしまうからです。そこで神はどうされましたか?神は彼らに新しい契約与えてくださいました。それは古い契約が破棄されたというわけではありません。むしろ、その古い契約を実行する力を与えてくださったということです。それがイエス・キリストです。神はイエス・キリストを信じる者に神の聖霊を与えてくださり、その聖霊によって彼らの心に神の律法を書き記してくださったのです。もし石の板に書き記されたものならば、彼らは強制的にそれを行わなければならないということになりますが、彼らにはそんな力はありませんでした。そこで神はひとり子イエスをこの世に与え、この方を信じる者の心に聖霊を与えてくださり、それを成し遂げる力を与えてくださったのです。もう神の掟を守らなければならないというのではありません。もう守りたくて、守りたくてしかたがない。神様に喜ばれるように歩みたいと願うようになったのです。それが新しい契約です。これがイエス・キリストを通して神が私たちに与えてくださった一方的な恵みの契約なのです。ですから、私たちはあれもしなければならない、これもしなければならないといった律法から解放されて、聖霊の助けによって自発的に喜んで神に従うことができるようになったのです。それはイエスが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださったからです。これが新しい契約です。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じた人の心には、聖霊なる神が住んでおられるのです。そしてこの聖霊を受けた人はどんなことがあっても救いを失うことは絶対にありません。これはあなたが救われていることの保証でもありますから。イエス・キリストを信じて罪が赦され、永遠のいのちを受けたのであれば、どんなことがあってもあなたは救いを失うことは絶対にありません。

「そんなことでは、救いが取り去られますよ」と言われて、不安に苛まれたことのあるクリスチャンも少なくないと思います。確かに自堕落な生活はしているし、信仰とは言っても名ばかりで、こんな汚れた者が救われるはずがないと思うことがあります。いったいどこまで奉仕をしたら認められるのか。信仰生活は苦しいことばかりで、疲れ切ってしまった…。そんな相談を度々受けることがあります。特に、カルト化している教会も少なくなく、そういった教会では、例外なく、救いが失われることもあると言うのです。でも自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを信じて救われた人が、その救いを失うことは絶対にありません。

このことについて聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、あなたの状態やあなたの行いと関係なく、もしあなたが悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるなら、神はあなたをすべての悪からきよめてくださると約束しています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

これが聖書の約束です。そして聖霊が神のことばと神の思いをその人の心にしっかり刻んでくださるので、もはや外側からの圧力やプレッシャーを受けることなく、あるいは人から何かを強要されることもなく、喜んで自分から神のことばに従いたいと思うようになるのです。

その結果、どのようなことが起こるのでしょうか。その結果、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に向かって、「主を知れ」と言って教えることはなくなります。彼らはみな、身分の低い者から高い者まで、一人一人の内におられる聖霊によって主を知るようになるからです。また、主が彼らの罪を赦してくださるだけでなく、もう二度と彼らの罪を思い起こすことはありません。完全な赦しを受けるのです。すばらしいですね。これが福音です。

きょうの箇所には、この新しい契約の有効期限はいつまで続くのかについて語られています。皆さんはクレジットカードを持っておられると思いますが、そのカードには必ず有効期限が書かれてあります。そのカードの有効期限がいつまでなのか、何年何月までと記載してあるのです。もしその有効期限が切れていたらどうなるでしょうか。全く使い物になりません。カードとしての機能を果たすことができないわけです。おなじように、神は私たちと契約を結んでくださいました。それはクレジットカードのようなものではなく聖書の中に記されてあるわけですが、そこには何と書いてありますか。31章3節には「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」とあります。神様はあなたを永遠の愛をもって愛してくださいました。永遠ということは期限がないということです。ですから、延長保証などをする必要もりません。最近、家内が交通事故を起こし全損扱いとなってしまいました。保険会社からき、入っている車両保険の分をお支払いするので、その範囲内で車をお求めくださいと言われました。ところが、車の保険って高いんですね。大抵は1年間の保証は付いているのですが、それが2年、3年と伸ばすと一気に高くなるのです。また、1年間走ってみて問題なければそれでいいかと思ったら、担当のセールスマンの話では、その後が危ないというではありませなか。1年経った頃からいろいろ出てくると言うのです。確かにそうかもしれません。だから保険も高くなるんだろうと思いますが、その度に保険に入っていたら多額の保険料が必要になってしまいます。ですから、神様が守ってくださると信じて1年間の保険に入ることにしましたが、神様の契約は1年どころではありません。2年、3年でもない。それはずっと続きます。それは永遠の保証、永遠の契約なのです。このイスラエルの民に対する神の約束は永遠に破られることはありません。もしもあなたがこの天地を破壊することができるなら、つまり、神が定められた自然の法則を破ることができるなら、あるいは破られるということもあるかもしれませんが、実際にはそういうことはありません。であれば、イエス・キリストによってもたらされたこの神との新しい契約が破られるということは絶対にないのです。

Ⅰ.イスラエルは絶対に滅びない(35-37)

まず、35~37節をご覧ください。「35 【主】はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の【主】である方が。36 「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──【主】のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」37 【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」

どういうことでしょうか。36節には「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら、主のことば、イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」とあります。「これらの掟」とは、その前の35節にある「太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる」という、いわゆる自然法則のことです。もしもそうした掟が主の御前から去るようなことがあるなら、イスラエルの子孫も絶えてしまうことがあるもしれません。主の前にいつまでも一つの民であることはできないでしょう。でも実際そういうことは絶対にありません。これらの法則を与えられた神だからです。その神がここで言われている「これらの掟」すなわち、自然の法則を破らないかぎり、イスラエルの民が神によって滅ぼされるということは絶対にありません。イスラエルが神の前から退かれることは絶対にないのです。もしそのようなことがあるとしたら、それこそイスラエルの民が滅びる時ですが、そういうことは絶対にありません。つまり、神が与えてくださる新しい契約が破られることは絶対にないのです。

これはイスラエルに対する驚くべき神の約束です。イスラエルが滅びることは絶対にないというのですから。もしもイスラエルに対する約束を無効にしたいなら、その人はまず、太陽と月と星をミサイルとか何かで破壊しなければならないことになります。海流や波をすべて止めなければなりません。そんなことできますか?できません。神がイスラエルと結ばれた約束は同じです。絶対に破られることはありません。それほど強いのです。

皆さんも子どものころ何気なく口ずさんだことがあると思いますが、「指きり拳万、嘘ついたら針千本飲ます」ですね。これは恐ろしい誓いです。というのは、約束を破ったら「拳で1万回殴られ」、それに追加して「針を千本飲まされる」のですから。でも私たちは平気で破ってきました。もう拳で1万回殴られても仕方ないのです。針を千本飲まされても仕方ありません。だって約束を破ったんですから。でも聖書の神は違います。そういうことは絶対にありません。聖書の神は約束されたことは必ず守られます。それが私たちの信じている神です。ここにはその名が太字で「主」とありますが、この「主」と訳されている語はヘブル語では「ヤハウェ」と言って、「契約の神」であることを表しています。聖書の神はどんなことがあっても約束を守られる方なのです。太陽、月、星、海、波といった自然の法則が破られないように、主がイスラエルと結ばれた契約は絶対に破られることはありません。

37節をご覧ください。「【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」

「上の天が測られ、下の地の基が探り出される」ことは、人間には不可能な事です。それはこの天地を創造された神にしかできない事です。もしも人間にそのようなことができるとしたら、神もイスラエルと結ばれた約束を退けることもあるかもしれませんが、人間にはこのようなことはできません。だれが上の天を測り、下の基を探り出すことなどできるでしょうか。だれもできません。ということはどういうことかというと、主がイスラエルに与えた祝福の約束は必ず実現するということです。だって、人間にはそのようなことはできないのですから。ですから、イスラエルが滅びたり、退けられたりすることは絶対にありません。あなたが神の救いを失うことは絶対にないのです。

これが31章3節で語られたことです。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」。主は永遠の愛をもって彼らを愛されました。永遠の愛をもってあなたを愛されました。永遠の愛とは何ですか。永遠の愛とは永遠の愛です。そこには終わりがありません。それはいつまでも続く愛です。人間にはこのような愛はありません。しかし主はこの永遠の愛をもってイスラエルを愛してくださいました。彼らがどのような状態になろうとも、どんなに神に背いても、神はずっと彼らを愛してくださいました。つまり、どんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、そうした状態とは関係なく、ずっと愛してくださるということです。神の愛は永遠に変わることがないのです。ずっとイスラエルの上に注がれているのです。

これはヘブル語で「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいましたが、それはどんなことがあっても決して破られることがありません。たとえイスラエルが神に背き神との契約を破ったとしても、神は破ることはありません。神は永遠の愛をもって彼らを愛してくださいました。それは彼らが善人だったからではありません。あるいは優れていたからでもありません。それはただ神が愛されたからです。申命記7章7~8節にそうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」主が彼らを愛されたのは、彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。神が彼らを愛されたのは、ただ主が彼らを愛されたから。また彼らの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。ですから、主は力強い御手をもってイスラエルをエジプトから救われたのです。ですから、どんなことがあっても、彼らが救いを失うことは絶対にないのです。

これが神がクリスチャンである私たちと結ばれた約束でもあります。神は私たちを、イエス・キリストを通して、この永遠の救いの中に入れてくださいました。ですから、あなたが救いを失うことは絶対にないのです。たとえあなたが罪を犯し神に背くことがあったとしても、あなたの救いが無効になってしまうことはありません。というのは、私たちの救いは私たちの行いや私たちの状態に基づいているものではないからです。そうではなく、それは主と主のみことばの約束に基づいているものだからです。私たち自身や私たちの行いをみたらもう目も当てられないくらいひどいもので、とても信頼できるものはありませんが、私たちの救いはそうした自分自身の行いによるのではなく、一方的な主の恵み、十字架と復活という主の救いの御業にあるので永遠に変わることがないのです。だから信頼することができるのです。ですから、あなたがいつでも罪を認めて悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたをすべての罪からゆるしてくださるのです。あなたが本当にイエスを救い主と信じたのなら、あなたは絶対に救いを失うことはありません。

イエスはこう言われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 永遠の命とは、決して失われることのない、永遠の救いそのものです。いのちのパン(福音)を食べ、いのちの水(聖霊)を飲んだ者は、いつまでも飢えることも、渇くこともありません(ヨハ6:25,4:13~14)。

 イエスはまたこう言われました。「28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:28-29)
 福音を信じた者はすべて主の御手の内にあります。神は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることはなく、だれも彼らを主の御手から奪い去ることはできません。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできないのです。それが永遠のいのちなのです、私たちが一旦イエスを信じたなら、イエスは決してあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたがイエスを見離さない、見捨てない限り、イエスは絶対にあなたを見離すことはしないのです。

何度か紹介している マーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩があります。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

あなたが主を捨てても、主はあなたを捨てることはありません。あなたが主に背いても、主はあなたに対して常に真実であられます。それが永遠のいのちです。神はあなたを永遠に愛してくださいました。だからどんなことがあっても、あなたが滅びることは絶対にありません。あなたが自分の罪を認めて神に立ち返るなら、神はあなたのすべての罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。それは神が堅固であるのと同様に確かな救いなのです。

神がイスラエルと結ばれた新しい契約とは、このようなものです。彼らはこのような神の愛で愛されているのです。それは私たちも同じです。私たちもイエスを信じたことで、この神の愛を受けました。だから、いつでも私たちは神に立ち返ることができるのです。どん底からも這い上がることができます。どんなに失敗を繰り返しても、あなたはやり直すことができるのです。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができます。イスラエルは神に背いたことでバビロン捕囚の憂き目に会いましたが、それは彼らを滅ぼすことが目的ではありませんでした。それは彼らを回復し、建て直すことが目的だったのです。その日には、すなわち、イエスの血によって新しい契約が結ばれるとき、彼らは神の民として永遠に生き続けるようになります。イスラエルが滅びることは絶対にありません。イエスを信じる者が滅ぼされることは絶対にないのです。あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神にすがるなら、神はあなたの罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。そして、あなたは永遠のいのちを受け、いつまでも主と共に生きるようになるのです。だれもあなたをキリストの愛から引き離すことはできません。

Ⅱ.新しいエルサレム(38-40)

最後に38~40節をご覧ください。それはイスラエルに対する約束だけでなく、イスラエルの都、神のエルサレムに対する約束について語られています。「38 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、【主】のために建て直される。39 測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。40 死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな【主】の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」」

ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。これも終末のことを預言する特徴的な言葉です。「そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される」ことになります。どういうことでしょうか。エルサレムは東西南北の隅々にまで再建されるということです。

そこには「死体と灰の谷の全体」と、「東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑もふくまれますが、それらはみな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされ、壊されることはないのです。「死体と灰の谷の全体」とは、これはヒノムの谷(ゲヘナ)のことです。そこでは人身供養が行われていました。最も主が忌み嫌うべきことが行われていた場所なのです。そのヒノムの谷でさえもきよめられ、主の栄光を現わす場所に変えられていくのです。

これがご自身の契約に基づいて、神がイスラエルに約束されたことです。イスラエルとエルサレムは永遠に滅びることはないのです。それは私たち異邦人クリスチャンにも約束しておられることです。私たちもイエス・キリストを通して、神の永遠の守りの中に入れられました。どんなに罪に汚れた人であっても、やがて新しいエルサレムのように聖別され、神の栄光を現わす存在となるのです。これがイエス・キリストの十字架の血をもって神があなたと結んでくださった新しい契約です。 神の一方的な恵みによってこの契約の中に入れて入れられていることを感謝し、どんなに汚れた者であっても、神の栄光を現わす存在とさせていただきましょう。

エレミヤ31章1~34節「新しい契約」

きょうは、エレミヤ書全体の中心部である31章の中の、さらに中心テーマの一つである「新しい契約」についてお話します。31節をご覧ください。ここには、「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。」とあります。「その時代」という語は、未来のこと、特に世の終わりのことを預言している時に用いられている語です。エレミヤ書の中では、この語が用いられるのはこれで8回目ですが、ここでも終末の預言が語られているわけです。それはどんなことでしょうか。それは、そのとき、主はイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶということです。どういうことでしょうか。きょうは、この新しい契約についてお話したいと思います。

Ⅰ.古い契約(31-32)

まず第一に、それは古い契約とは違うということです。32節をご覧ください。「32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。」

ここには、主がイスラエルの民と結ばれる新しい契約がどのようなものなのかが説明されています。それは、主が彼らの先祖たちの手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではありません。それは古い契約のことです。古い契約とは、広い意味では旧約聖書全体を指しますが、狭い意味では、主がイスラエルをエジプトの地から導いた日に、モーセを通して、モーセを仲介者として、主が彼ら結ばれた契約のことです。これはシナイ山で結ばれたので「シナイ契約」とも呼ばれています。それはこのようなものでした。出エジプト19章5節を開いてください。「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
  これがシナイ契約の中心です。つまり、もしイスラエルが神の声に聞き従い、神との契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって、主の宝の民とされるということ、つまり、彼らは祝福されるということです。しかし、そうでなければ、その反対に呪いがもたらされるというものです。実際どうなったでしょうか。ご存知の通り、彼らは神様との契約を破ってしまいました。もしかしたら最初は守れたのかもしれませんが、いつの間にか守れなくなってしまい、ついには守っていないにもかかわらず、自分たちは守っていると錯覚するようになってしまいました。なぜそのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らの心に原因がありました。心がついていかなかったからです。頭ではわかっていても、心では守りたくなかったのです。つまり、彼らにはそれを実行する力が備えられていなかったのです。これが古い契約の弱点だったのです。でも、それでは困るわけです。なぜなら、もし彼らが契約を破り彼らに呪いがもたらされたら、神様の計画が頓挫してしまうことになるからです。神様の計画とは、イスラエルを通して全世界を救うことでした。それなのにイスラエルが滅びてしったら、その計画が成し遂げられなくなってしまいます。

ここに神のジレンマがありました。契約は守らなければなりません。もし守られなければ、神様ご自身が不真実な者となってしまうからです。でも神は真実であられます。イスラエルが不真実であっても、神は常に真実であられるからです。神はご自身を偽ることはできません。ではどうしたら彼らを救うことができるのでしょうか。それが新しい契約です。神様はご自身との契約を破ったイスラエルに対して、古い契約ではなく新しい契約を結ぶという仰天プランを立てられたのです。

.新しい契約(33)

それはどのようなものでしょうか。33節をご覧ください。「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

新しい契約の最も大きな特徴は、主はご自身の律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記すということです。モーセによって結ばれた古い契約はそうではありませんでした。それは2枚の石の板に書き記されたわけですが、新しい契約は彼らの心に書き記されるのです。どういうことでしょうか。それは強制的に神との契約を守らなければならないというのではなく、自ら進んで守りたいという思いを授けてくださるということです。神様に従わなければならないというのではなく、従わずにはいられなくなるのです。それが新しい契約の中身です。これが新約聖書の内容です。

ちなみに、私たちが持っている聖書は旧約聖書と新約聖書の両方を含んでいますが、この違いは何かというと、これなんです。「旧約聖書」ということばを聞くと、中にはどうしてこんな面倒くさいことが書いてあるんだろうと思われる方もいらっしゃると思いますが、旧約聖書が破棄されたわけではないのです。取り払われたわけではありません。神の律法がどこに書かれたのか、それが石の板なのか、心の中なのかの違いです。石の板に書かれたものは強制的に守らなければなりませんが、心に書き記されると守らずにはいられなくなるのです。いやむしろ、古い契約、旧約聖書があるからこそ自分の弱さ、自分の罪深さ、自分の愚かさに気付かされ、そこからの救いをより求めるようになるのです。そういう意味では、パウロも言っているように、「律法は私たちをキリストへ導くための養育係」であると言えます。パウロはガラテヤ3章24節でこう言っています。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)神様はこの古い契約を生かしつつ、その教えを行うことができるように、神のみこころにかなった行動ができるようにしてくださったのです。それが救い主イエス・キリストです。ですから、旧約聖書と新約聖書は切り離すことはできないのです。神はモーセを通してイスラエルとの古い契約を石の板に書き記されましたが、新しい契約はその古い契約(旧約聖書)が預言しているメシア(救い主)、キリストを通して、彼らの心に書き記されるのです。

これは具体的にどういうことかというと、救い主イエスを通して私たちの心の中に聖霊を与えてくださるということです。聖霊についてはヨハネ14章16節に「もうひとりの助け主」とあるように、イエスのように私たちを助けてくださるお方です。全く自分勝手な者がもっと神様を愛したい、もっと神のために生きる者でありたい、もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、そう思うのは、この聖霊のお働きによるのです。イエスは、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、と言われましたが、普通なら無理な話です。でも聖霊が与えられるとそのようにしたいと思うようになるのです。なぜなら、この方が来ると、すべての真理に導いてくださるからです。神様のみことばに従うことができるように、神様のみこころに歩めるように導いてくださるのです。それが心に書き記されるということです。であれば、問題は、どうすればこの神の聖霊を受けることができるのかということです。どうしたら聖霊が私たちの心の中に住んでくださるのかということです。

残念ながら、聖霊はその名のごとく全くきよいお方なので、人間のように汚れた心に住むことはできません。聖霊は汚れと同居することができないからです。聖霊が私たちの心の中に住まわれるためには、私たちの心が完全にきよくなければならないのです。とは言っても、私たちが人間である以上完全にきよくなることなどできません。エレミヤ書17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている。」とあるように、人の心は何よりも陰険なのです。また、ローマ書には、「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)とあります。であれば、私たちはみんなアウトです。こんな汚れた者の心に聖霊が住んでくださることなどできないのです。

しかし、私たちにできないことを神はしてくださいました。神はそのひとり子(イエス)をこの世に与え、私たちが負わなければならない罪の代価を彼に負わせ、私たちの罪を贖ってくださいました。それが十字架での死です。死がなければ命を贖うことができないからです。レビ記17章11節にこうあります。「いのちとして宥めを行うのは血である。」。いのちとして宥めを行うのは血です。血が流されることがなければ罪の赦しはありません。ですから、神はひとり子をこの世に送り、古い契約違反の責めを私たちにではなくキリストに負わせることによって、私たちを律法の呪いから解放してくださったのです。ですから、だれでもキリストを自分の罪からの救い主として信じるならその人の心は完全にきよめられ、聖霊が住んでくださるのです。この聖霊の助けによって、私たちは喜んで神のみこころに歩みたい、神に喜ばれる人生を歩みたいと思うようになるのです。つまり、この新しい契約はイエス・キリストの十字架と復活という一方的な神の恵みによってもたらされる契約なのです。

そのためにあなたがしなければならないことは何一つありません。あなたが罪から救われ、聖霊があなたの心に住んでくださるための唯一の条件は、あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエスを、あなたの罪からの救い主と信じるだけなのです。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:10)

その時、あなたはもはや自分でこうしなければならないとか、ああしなければならないという律法に捉われることから解放され、聖霊が導いてくださる通りに、聖霊が教えてくださる通りに、聖霊の助けによって喜んで神に従うことができるようになります。これがクリスチャンです。これが新訳聖書の中身なのです。クリスチャンとは、もはやああしなければならないとか、こうしなければならないという律法から解放されて、聖霊によって喜んで神の律法に従いたいと思う人たちなのです。聖書の原則から言えばそうです。それが本当に救われている人たちです。もしそうでないという人がいるとしたら、その人は新しい契約とはどのようなものなのかをまだよく理解していないか、それとも古い契約に縛られて神の恵みの豊かさを享受していないかのいずれかです。

それはまたエレミヤ31章3節のみことばに対する応答でもあります。ご一緒に読んでみましょう。「【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」」
 神は永遠の愛をもってあなたを愛してくださいました。これだけの愛で愛されているのであれば、ひとり子を与えるほどの愛で愛されているのであれば、もう感動で、ただただ感謝しかないはずです。そして喜んでその愛に応答したいと思うようになるでしょう。教会に行かなければならないとか、聖書を読まなければならない、祈らなければならない、献金しなければならない、奉仕もしなければ、ディボーションもしなければといった律法的、義務的なことはもうどうでもよくなるはずです。喜んでその愛に応答したいと思うようになるからです。教会に行きたくて、行きたくて、しょうがない。もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、もっと自分にできることがあれば喜んで奉仕したい。十分の一とは言わず、自分のすべてを献げたいと思うようになるからです。

かつて私が福島で牧会していた時、同じ福島県の浜通りで牧会しておられ佐藤彰先生からお聞きした話ですが、その教会に70歳を過ぎた信仰に熱心な婦人の方がおられました。確か半谷さんというお名前だったかと思いますが、半谷さんはある日娘さんを仙台の病院に連れて行くため電車に乗ったとき、たまたま向かい側に一人の宣教師が座っていて、その会話の中で「あなたは神を信じますか」と尋ねられたそうです。神を信じていますかって、信じていないわけじゃないし、信じているとも言えないし、何と答えたらいいか返答に迷いました。そんな悶々とした思いを抱えていた時、その町にある教会で3日間の伝道集会があるという看板を見ました。思い切って教会に行ってみると、そこでお話をされていたのがあの宣教師、ホレチョク先生でした。驚いた半谷さんは最初の夜だけでなく二日目、三日目も集会に行く中でイエス様を自分の罪からの救い主と信じることができました。
  ところが、当時は耶蘇教と揶揄されていた時代です。しかも自分が嫁いだ先はお寺の総代を務めているような由緒ある家で、お姑さんから教会に行ってはいけないと言われ、仕方なく聖書は厠(トイレ)にはいって読んでいたそうです。でもそんな半谷さんの献身的な姿に心を打たれたご主人がやがてイエス様を信じて天国へ召されると、彼女は自分の生涯を主にささげ、ありとあらゆることをされました。礼拝では奏楽のご奉仕をし、週報を作成したり牧師の説教をまとめたりと、自分にできるだけのことをしました。そのために70歳を過ぎてからワープロを習い始めたそうです。その半谷さんに癌があることが判明し、牧師からあまり無理しないでくださいと言われたとき、牧師にこう言いました。「先生、私から奉仕を取り上げないでください。私は自分にできるだけのことをしたいのです」。これは、神の恵みを経験した人でないと言えないことばです。奉仕をしなければならないのでなく、させていただきたいのですと心から言えるとしたら、それは本物でしょう。彼女の心に働いておられる神の霊、聖霊の御業なのです。

その半谷さんがまだお元気なうち、彼女は教会から少し離れた小高町という町に広い土地を持っていたのですが、それを教会に献げたいと言われたそうです。息子さんたちはどう思われるか、家族で話し合いをもったところ、「母がそういうのなら、それが一番いいことだと思います」と息子さんたちも同意し、その土地を献げられました。そればかりか、そこに会堂を建てるために必要な資金のほとんどを献げたのです。そこには今ノアの箱舟の形をした会堂が立てられ、福音宣教の働きが続けられています。それは永遠の神の愛に感動し心を動かされた人が心からした奉仕だったのです。

実に神の働きは、こうした神の愛と恵みに触れた人たちがその愛に感動し、聖霊の働きに促されて勧められていくのです。神にすべてを献げたい。いくらでも献げられるだけ献げたい。それで自分の生活の質が落ちたとしても構わない。あなたの愛を受けているので、私は献げたいのです。人が何と言おうと関係ありません。私はそうしたいからするのです。それが教会というところです。聖霊が私たちの心に住むことをイエス様が実現してくださいました。私たちはただただこの新しい契約の仲介者であられるイエス様に目を向けて、イエス様の愛に心から応答する者でありたいと思うのです。

Ⅲ.神を知るようになる(34)

第三に、このように主がイスラエルと新しい契約を結んでくださることによって、どういうことが起こるのでしょうか。34節をご覧ください。「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」。」

ここには、主がイスラエルと新しい契約を結ぶことによって二つのことが起こるとあります。第一のことは、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはありません。なぜなら、彼らはみな聖霊によって、身分の低い者から高い者まで、主を知るようになるからです。どういうことですか。老若男女、すべて神を個人的に人格的に知るようになるということです。それまではそうではありませんでした。石の板に書かれたものであれば、絶えず「主を知れ」と言って互いに教えなければなりません。私たちの外側にある規則によって半強制的に押し付けられなければ行動に移すことができなかったのです。たとえ行動に移したとしても、それはあくまでも表面的なものにすぎませんでした。でも聖霊が与えられ、聖霊が心に住まわれるようになるとそうではありません。喜んで主のことばに従いたいと思うようになるのです。旧約では人々は律法を守ることに集中しましたが、新約ではそうではありません。新約ではその律法を与えてくださった方、またそれを完全に成し遂げることができるお方、すなわち神を知ること、神と交わることに集中するのです。皆さん、これがクリスチャンにとってもっとも大切なことです。神を知るなら、それが自然と行動に表れるようになるからです。

第二のことは、主は彼らの不義を赦し、もはや罪を思い起こすことはなさいません。完全な赦しを与えるということです。完全な赦しを与えるということは、不完全な赦しもあるということです。不完全な赦しとは忘れない赦しです。赦すけど忘れません。私たちにはそういうことがあるのではないでしょうか。私はあなたを赦すけど忘れないからね!でも神の赦しは違います。神は彼らの罪を赦し、もはや彼らの罪を二度と思い起こすことはありません。あなたが過去においてどんな罪を犯したとしても、その罪を思い起こすことはないのです。すべて忘れてくださいます。認知症だからではありません。イエス・キリストの血潮によって流されて、父の記憶からすべて完全に消し去ってくださるのです。イザヤ43章25節にある通りです。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

ですから、もしあなたがイエスの血にすがって罪を認めて悔い改めるなら、神はあなたの不義を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。もはやあなたの罪を思い起こすことはありません。その記憶から完全に消し去ってくださってくださるのです。もし悔い改めた翌日に同じ罪を犯してしまったらどうでしょう。その時にあなたが「ごめんなさい。またやってしまいました。赦してください。」と祈ったら、神は赦してくださいます。「またやったのか、とんでもないヤツだ。人生そんなに甘いもんじゃないよ。昨日は赦してやったけど、今日はだめだ。二度あることは三度あるからな」などとは言いません。もはやあなたの罪を思い起こすことはないからです。

カール・ヒルティーは、こう言っています。「赦すとは忘れることである。赦しはするが忘れないというのは、赦していないということなのである。」は赦すとは忘れることなのです。これが神の赦しです。神はこのような赦しを与えてくださるのです。

日本の有名な牧師の一人で、「ちいろば」の著者でもある榎本保朗先生はこう言っておられます。「自分が赦された存在であるということを忘れるところから、人を赦さないという行為が出てくるのである。」これを忘れてはいけません。忘れてもいいことは、人があなたに何をしたか、何を言ったかということです。でも忘れてはならないことは、自分が赦された存在であるということです。これだけは忘れてはいけません。これを忘れると私たちの中に赦さないとか、赦せないという気持ちが出てくるからです。でも、自分も赦された存在であるということがわかったら、人を赦すことができるようになります。

こうした赦しはキリストの十字架によってもたらされます。つまり、この新しい契約は、イエスが十字架で死なれ三日目によみがえられたという御業に基づく一方的な神の恵みの契約であるということです。私たちの罪が赦されるのは私たちのうちに神に認められる何かがあるからではありません。私たちが何かささげものをしたからとか、一生懸命に奉仕したからではなく、一方的な神の恵み、神のあわれみによるのです。すべては十字架のイエスに対して神様が約束されたことを実行してくださるのです。これが、神がイスラエルと約束された新しい契約です。これが、神があなたと約束してくださったことです。私たちもイエスの十字架において与えられたこの新しい契約に生きる者とさせていただきましょう。そして聖霊によって神がどれほど恵み深くあわれみ深い方なのかを知り、その恵みに生きる者でありたいと思います。

エレミヤ31章23~30節「あなたのたましいを満たす神」

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エレミヤ書31章から学んでいますが、きょうは、この31章23~30節から、「あなたのたましいを満たす神」というテーマでお話します。25節に「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」とあります。前回の箇所で、主はご自身のもとに立ち返るイスラエルの民に一つの新しいことを創造されると約束されました。それは何ですか。それは22節にあるように、「女の優しさが一人の勇士を包む」ようになるということです。これは女であるイスラエルが、一人の勇士である主を求めるようになるということでした。それまではまったく自分のことしか考えられなかった者が、神を求めるようになるのですから。そんなイスラエルを神は祝福してくださいます。主が疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あなたのたましいはいかがですか。疲れていませんか。しぼんでいませんか。主はそんなあなたのたましいを満ち足らせてくださるのです。

Ⅰ.わたしが彼らを元どおりにする(23-26)

まず、23~26節をご覧ください。「23 イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき、彼らは再び次のことばを、ユダの地とその町々で語る。『義の住まい、聖なる山よ、【主】があなたを祝福されるように。』24 ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む。25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」26 ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」

ここからユダ、イスラエルに対する回復のメッセージが語られます。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とは、バビロンによって破壊されたユダの町々を元通りにする、ということです。そのとき、ユダの町々は主によって回復し、復興し、再び繁栄を取り戻すことになります。そのとき彼らはユダの地とその町々で、次のように語ることになります。「義の住まい、聖なる山よ、主があなたを祝福されるように。」。
  「義の住まい」とは、具体的にはエルサレムの神殿のことです。また、「聖なる山」とは、シオンの山のこと、つまり、エルサレムのことです。ですから、この「義の住まい」と「聖なる山」という語は同義語で使われているわけです。かつてエルサレムには神殿が建っていましたが、バビロンの王ネブカドネツァルによって前586年に完全に破壊されてしまいました。それが元どおりになるというのです。具体的には、70年の捕囚の期間を経て南ユダは祖国を取り戻し、復興するということです。神殿も再建されます。それは預言者エレミヤによって預言されていたことでした。つまり、神の預言は必ず成就するということです。

24節をご覧ください。「ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む」。エルサレムに帰還し元通りの生活を営むようになるということです。いったいどうしてそのようなことになるのでしょうか。

25節にこうあります。「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」それは帰還民が頑張ったからではありません。ここにはひらがなで「わたしが」とありますが、聖書にひらがなで「わたし」とある時は、主なる神のことを指して言われています。つまり、主が彼らの疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あくまでも、主語は「わたし」なのです。この主語が大切です。誰が回復を与えてくださるのかというと、「わたし」であるということ、「主」であるということです。これは23節でも言われていることです。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき・・」。イスラエルの神、万軍の主が彼らを元通りにしてくださいます。勿論、ユダの民も頑張ったでしょう。あの3.11の後で「ガンバレ!東北」を合言葉に震災復興に取り組んだように、「ガンバレ!イスラエル」を合言葉に、必死に復興に取り組んだことでしょう。でも、彼らの頑張りだけではどうすることもできませんでした。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とあるように、そこに主が働いてくださったから、主がそれを成し遂げてくださったので出来たのです。私たちの働きではなく、徹頭徹尾、主の働きによるのです。自分の罪の結果、自分の人生、自分の家庭、自分の持ち物、自分の何もかもすべて失ってしまった、台無しにしてしまったという人がいるなら、ここから慰めを受けてほしいと思います。自分でその失ったものを取り戻そうものなら、自分でその壊れたものを修復しようものならとても無理だと諦めるしかないでしょう。でも、神があなたを元どおりにしてくださいます。神があなたの繁栄を取り戻してくださるのです。ここに希望があります。彼らの回復は神主導であったということです。そのことを忘れないでください。あなた主導ではありません。わたし主導でもない。神主導なのです。神主導ならば、神が成し遂げてくださいます。私たちはただ神に任せればいいのです。神にはおできにならないことは一つもありません。無から有を創造された方は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。

ヨブはまさにそうでした。彼はすべてのものを失いました。自分の家族、財産、健康、何もかも。それは彼の罪によってではなく、神から与えられた試練によってでしたが、後に彼はその目で神を見たとき、ちりと灰の中で悔い改めました。すると主はヨブを元どおりにされました。主はヨブの財産をすべて、二倍にされたのです。その時、ヨブはこのように祈りました。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)
  そうです、神にはどんなことでもおできになります。どのような計画も不可能ではありません。だから神は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。

特に25節には、「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせる」とあります。神だけが、あなたのたましいを潤すことができます。神だけが、あなたのしぼんだたましいを満たすことができるのです。この世の何であろうと、また誰であろうと、あなたのたましいを完全に潤すことができるものはありません。ただ神だけが満たすことができるのです。

ヨハネ4章13~14節にこうあります。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」これはイエスのことばです。イエスはある日サマリヤのスカルという所で、たましいに飢え渇いた、一人の女の人に出会いました。その女の人はかつて人生の幸せを求め5回も結婚しましたが、その心は満足を得ることはできませんでした。しかし、泉のほとりでイエスに出会い、イエスと話し合い、イエスを信じたとき、飢え渇いたたましいを、いのちの水で満たしていただくことができました。イエス・キリストはたましいを満たすことができるお方なのです。イエス・キリストだけが、あなたの疲れたたましいを潤し、疲弊しきったしぼんだたましいを満ち足らせることができるのです。だからイエスは、このように言われたのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

皆さん、遠慮する必要はありません。あなたのたましいを完全に満たすことができるイエスが、あなたを招いておられるのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」と。「わたしがあなたを休ませてあげます」と。いや、私のような者はとても無理です。あなたの前には出られるような者ではありません。だって私はこんな者ですから・・・。過去にこんなことをやったんですよ。そんな者が赦されるはずがないじゃないですか・・。でも、あなたが疲れていると自覚しているなら、あなたが病んでいると自覚しているなら、イエスのもとに行ってください。イエスがあなたを休ませてくださいますから。なぜなら、イエスはまさにそのような人のために来られたのですから。イエスはこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)
 丈夫な者に医者はいりません。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく罪人です。イエスは、その罪人のために来られたのです。もしあなたが罪人であると自覚しているなら、もしあなたが自分は病んでいると自覚しているなら、もしあなたが疲れていると自覚しているなら、イエスのもとに来てください。イエスがあなたを休ませてあげます。イエスがあなたのたましいを潤し、あなたのしぼんだたましいを満ち足らせてくださいます。あなたのたましいを潤すことができるのは、あなたのたましいの救い主、イエス・キリストだけなのです。

ユダの民は、バビロン捕囚によってすべてを失ってしまいました。親も、子も、孫も、財産も、国も、すべてです。でも一つだけ失わないものがありました。何ですか?そうです、神です。彼らは神だけは失いませんでした。神を失うと希望はありません。でも、すべてを失っても神を失わなければ希望があります。そしてあなたが神を信じるなら、あなたは神を失うことは決してありません。どんなことがあっても、神はあなたを見捨てることはないからです。いつまでもあなたと共にいてくださいます。それが、聖書が約束していることです。だからあなたには希望があるのです。あなたが本当に神を信じているなら、あなたがイエス・キリストを信じて救われているなら、あなたがクリスチャンなら、神はいつまでもあなたとともにいてくださいます。これが私たちの希望です。

26節をご覧ください。「ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」「私」とはエレミヤのことです。ここでエレミヤは目を覚ましました。彼は夢の中で神から啓示を受けていたのです。それは心地よかったとあります。なぜそんなに心地よかったのでしょうか?ぐっすり眠ることができたということもあるでしょうが、それよりも、今回の啓示は祝福のメッセージだったからです。これまではずっとイスラエルに対してさばきのメッセージばかりだったのに、今回は祝福のメッセージでした。さばきのメッセージを語ることはタフなことですが、祝福のメッセージを語ることは心地よいことです。エレミヤはユダの民イスラエルに対して、主が彼らを元どおりにするという祝福のメッセージを語ったのです。

Ⅱ.今度は、彼らを立て直し、また植える(27-28)

次に、27~28節をご覧ください。「27 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。28 かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──【主】のことば──。」

  ここからは、エレミヤが目を覚ましてから語った預言です。「見よ、その時代が来る」。これは世の終わりに起こることを示す特徴的なことばです。それは、イエス・キリストが王の王、主の主、さばき主として再びこの世に来られる時のことです。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に何をなさいますか。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔かれます。どういうことでしょうか?

28節には、「かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る」とあります。「かつて」とは、以前にとか、過去においてという意味です。かつて主はイスラエルの民を引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいをくだそうと見張っておられましたが、今度は違います。今度は彼らを立て直し、また植えるために見張られます。それはアッシリアとバビロン捕囚によって成就しましたが、今度は、そんな彼らを立て直し、また植えるために見張られるのです。覚えていますか、エレミヤが召命を受けた時、主は、「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、建て、また植えるために」(1:10)と言われましたが、主がイスラエルに計画しておられたことは引き抜き、引き倒し、滅ぼすことだけでなく、立て直し、再び植えることであったのです。つまり、彼らが引き抜かれたのは、これは具体的にはバビロンに捕囚のことですが、バビロンによって彼らを滅ぼすためではなく、そこから彼らを解放してエルサレムに帰還させるため、すなわち、新たに植えるためであったのです。それと同じようなことが世の終わりにも起こります。キリストが再び来られる時、彼らは建て直されることになるのです。

それは遠い未来のことではありません。というのは、もう既に1948年5月14日にイスラエルが国家として認められたからです。1900年もの間流浪の民として世界中に散らされていたユダヤ人が祖国に帰還し、建国を果たしたのです。それは全く考えられない出来事でしたが、その考えられないことが実際に起こったのです。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それはここにそうなると預言されていたからです。イスラエルの家とユダの家は、建て直され、また植えられると。

でも、この預言はイスラエルが国として建て直されるということだけでなく、さらにその後に起こることも示しています。すなわち、キリストが再臨する時、彼らの先祖がやりで突き刺したキリストを自分たちがメシヤとして認め、悔い改めて信じるようになるということです。こうしてイスラエルはみな救われるという聖書の預言が実現することになります。それがローマ人への手紙11章で言われていることです(11:26)。近い将来、その日が必ずやって来ます。

であれば、私たちはそれに備えていなければなりません。それに備えるとはどういうことかというと、ここに「今度は、彼らを立て直し、また植えるために見張る」とあるように、たとえ今あなたの人生が引き抜かれ、打ち倒され、打ち壊されているようであっても、神は再び建て直し、また植えてくださると信じて、ただ神のみこころを求めて歩まなければならないということです。

Ⅲ.だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く(29)

最後に29~30節をご覧ください。その日には、イスラエルの家が建て直され、植えられるだけではありません。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く、と言うようになります。「29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」

ここにも「その日には」とあります。これも未来的預言です。その日にはどんなことが起こるのでしょうか。「その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。」どういうことでしょうか?これは当時よく使われていた格言、ことわざです。エゼキエル書18章2~4節にもありますが、父が(親が)犯した罪のために、子どもが苦しむ、という意味のことわざです。日本のことわざにも「親の因果が子に報い」ということばがありますが、これと同じです。たとえば、自分が何らかのわざわいを受けるとき、自分は何も悪いことをしていないのにどうしてこういうことになるのかと原因を究明して、それを親のせいにするのです。親が悪いからこんなことになったんだと。これは実際、捕囚の民として連れて行かれたユダの民が使っていました。彼らは自分たちが捕囚になったのは先祖たちのせいだと嘆いていまたのです。自分たちが悪いんじゃない。悪いのは親たちで、親のせいでこんな目に遭っているんだと。確かにそういう面もありますが、でも子どもたち自身も罪を犯しているというのも事実でした。

でもその日には、「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」とは言わないで、こう言うようになります。「人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」と。これは申命記24章16節で言われていることです。「父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。」父が子のために殺されたり、子が父のために殺されたりということがあってはなりません。人が殺されるのは自分の罪のためであって、父親や子供の犯した罪のためではないからです。
  これは世代間における罪の報いは存在しないということを示しています。日本人ではこのような考えが根強くあります。先祖代々いろいろな汚れを背負って来ているからたたりがあるんだからと、何かお清めをしないといけない。御祈祷もしてもらわないと。お祓いをしなければならない。そう考えるのです。これが人間の作った宗教です。そのような人間のことわざや考えに付け込んで、人間がそれをビジネスにするのです。それが宗教です。それがほとんどの日本の古来の宗教や新興宗教に見られるものです。ここでは親と子の連帯責任が問われていますが、親子間において連帯責任はありません。ですから、クリスチャンはこのことをちゃんと理解しておく必要があります。確かに親の悪い影響を子どもが受けることはありますが、でも必ずしもそれによって子どもの歯が浮くわけではありません。子どもが不幸になるということはないのです。子どもには子どもの人格なり意志というものがあるので、悪い影響を受け入れるかどうかは、子ども自身が決めなければならないことなのです。ですから、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮くことはありません。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬのです。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのです。

それはイエス様が言われたことでもあります。イエス様が通りすがりに生まれたときから目の見えない人をご覧になったとき、弟子たちはイエス様に尋ねました。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それともこの人の両親ですか。するとイエス様はこう言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:3)そして地面に唾をして、その唾で泥を作られその泥を彼の目に塗って、「シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。すると彼見えるようになりました。

であれば、問題は、その自分の咎をどのように清めるのかということです。というのは、だれも完全な人などいないわけで、人はみな自分の咎を負って生きているからです。だれでも、酸いぶどうを食べるので、歯が浮くことになります。歯が浮くというのは入れ歯だからじゃないのです。罪を犯すからなのです。人はそれぞれその咎のため死ななければなりません。どんなに自分で清めようとしてもできません。どうしたらいいのでしょうか。

ここに救いがあります。神はそんな私たちの咎を負うために、御子をこの世に送ってくださいました。それがイエス・キリストです。キリストはあなたが担い切れない罪、払いきれない贖いの代価として、十字架で死んでくださいました。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ヨハネ3章16~18節にこうあります。「16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネ3:16~18)

ですから、あなたが御子イエスを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されるのです。イザヤ書43章25節に「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」とありますが、あなたの罪はもう二度と思い出されることはありません。これが良い知らせ、これが福音です。その日には、彼らはもはや、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯は浮くとは言いません。人はそれぞれ自分の咎のために死にます。でも、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪を贖うために十字架で死なれたキリストを見上げるなら、あなたは死ぬことはありません。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためだからです。

イギリスに、チャールズ・H・スポルジョンという牧師、伝道者がいました。彼は1834年生まれですから、今から190年も前の人です。200年近く昔の人なのに今も生きて語りかける偉大なキリスト教の伝道者です。
 彼は15歳の時に信仰に入り、20歳の時にはロンドンでも有数な教会、ニューパーク・ストリート教会の牧師になり、40年近く牧会して1万3千人の大教会となりました。毎年平均438人が新しくクリスチャンとなったと言われています。そして今でも彼の著した著書によって数千、数万、何百万という人々が救われているという人です。彼が救われたということは世界的に大きなことでした。
 彼は吹雪きの日、家の近くの10人か15人ぐらいが集まっている小さな教会に行きました。痩せ型の牧師が立ち上がって説教しました。スポルジョン一人に呼び掛けるように、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)「Look! Look! Look! 」と叫びました。スポルジョンは彼に向かってストレートに呼び掛けるこの声を活ける神の声として受け止め、パチッと目を開けて十字架上のイエス・キリストに心の目を開けたのです。その日彼は救われました。そして彼を通して数限りのない人々が救いに導かれるようになったのです。

あなたも十字架のキリストに心の目を開いてください。イエス・キリストは、あなたを罪から救うことができるお方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」イエス・キリストを仰ぎ見てください。イエス・キリストは、あなたをすべての罪から救ってくださいます。「その日には」とありますが、今がその時なのです。