エレミヤ31章15~22節「あなたの将来には望みがある」

エレミヤ書31章から学んでいます。29書から31章はエレミヤ書の中心部、まさに心臓部分です。今日はこの31章15~22節までから「あなたの将来には望みがある」というタイトルでお話します。今日のタイトルは17節から取りました。イスラエルは主に背き自分勝手な道に歩んだため、主はバビロンという国を用いて彼らを懲らしめます。バビロン捕囚という出来事です。でも彼らはそれで終わりではありませんでした。その70年後には祖国に帰ることになります。彼らの将来には望みがあったのです。

Ⅰ.あなたの労苦には報いがある(15-17)

まず、15~17節をご覧ください。「15 【主】はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──【主】のことば──彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」

15節には「ラマ」という地名と「ラケル」という人名が出て来ています。「ラマ」はエルサレムの北方8㎞にある町です。「ラケル」はヤコブの最愛の妻でした。このラケルにはヤコブとの間に二人の息子が生まれました。一人はヨセフで、もう一人はベニヤミンです。このベニヤミンが生まれた時にラケルが死にました。ラケルは息子を産むと同時に死んでしまったのです。そのラケルが葬られた所が「ラマ」でした。それはあまりにも悲しいことでした。命をかけてせっかく産んだのに、産んだとたんに死んでしまったのです。息子の顔を見ることもなく。彼女はただ「生まれました。男の子です」という声を聞いて死んでしまったのです。せっかく男の子を産んだのにその子の顔をほとんど見ることなく、育てることもなく死んでしまった。それほど悲しいことはありません。その悲しみがここで表現されているのです。そのような悲しみがバビロン捕囚の時にも起こるというのです。バビロン捕囚の際にユダの民が一旦このラマに集められて、そこからバビロンに連れて行かれました。その悲しみを、ラケルが息子を産んだ直後に死んでしまい、息子の顔を見ることができなかった悲しみになぞらえているのです。これほど悲しいことはありません。

興味深いことに、この箇所がマタイ2章17~18節に引用されています。「17そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」」
  このエレミヤを通して語られたことというのが、この31章15節のことばです。このマタイの前後の文脈を読むとわかりますが、これはメシヤについての預言が成就したということを表しています。ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子が、ヘロデ大王によって虐殺されました。ヘロデ大王はユダヤの王として来られたイエスを殺し損ねたので、イエスと同年代の男の子を手あたり次第に殺したのです。非常におぞましい殺戮劇です。その時に泣き叫んだ母親たちの嘆きが、ここに成就したということです。ですから、これは一読しただけですとバビロン捕囚の嘆き悲しみが語られているかのようですが、実はメシヤ預言について語られている深いことばなのです。つまり、このおぞましい殺戮劇の向こうにメシヤが生まれるという希望が隠されているということです。確かに悲しみは避けられません。でもその悲しみの向こうに希望があるということです。確かにバビロン捕囚は悲しい出来事ですが、その70年後に彼らは祖国に帰ることができる。それは私たちがこの世というバビロンから救われて、天国に帰ることを指し示しています。罪から救われて罪のない世界、天国に移されるのです。これほどすばらしい知らせはありません。これは本当に喜ばしい良い知らせです。それがメシヤであるイエスを信じる者にもたらされるということです。

16節と17節をご覧ください。「16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。─【主】のことば─彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。─【主】のことば─あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」
  どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、あなたの将来には望みがあります。敵の地から帰って来るようになるからです。あなたの子らは自分の土地に帰って来るのです。確かに彼らは罪を犯したことでその蒔いた種を刈り取らなければなりません。それはバビロン捕囚のことです。それはここで「労苦」と呼ばれていますが、その労苦には報いがあります。将来には希望があるのです。

この希望については、既に29章11節で語られました。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  神はあなたのために計画を立てておられます。あなたもそれなりにいろいろと計画を立てていると思います。向こう3年、5年どうするか、老後はどうするかと、いろいろシュミレーションして、収入を計算して、保険や書類とかを引っ張り出しては調べて、人生設計を立てるわけですが、でも、神はあなたに対して計画を持っておられます。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものです。この「将来」ということばは「終わり」という意味の言葉であると説明しました。終わりは希望です。人生いろいろなことがありますが、最後は希望なのです。それが、神が私たちのために立てている計画です。だから、たとえそれが自分の罪の結果招いてしまった労苦であったとしても、どんなに時間がかかろうとも、最後には希望があるのです。

だから、16節のところで、主はこう言われるのです。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。」
  あなたの目の涙を止めなければなりません。嘆き悲しむことを止めなければならないのです。何であんなこと、何でこんなことをしてしまったんだろう、そんな気持ちになれば泣きたくなります。でも泣いたからと言って状況が変わるわけではありません。むしろ神の恵みに目を留めて、粛々と神の御取り扱いを受けるべきなのです。もしあなたが悔い改めるなら、神はあなたの罪を赦してくださるのですから、あとは自分がやるべきことをすればいいのです。蒔いた種を刈り取るということを粛々とやっていけばいい。泣いている暇があったらその刈り取り作業を進めていくべきです。そうすれば、もっと早く刈り取り作業が終わるかもしれません。将来に希望があればこそ、そのように前向きに進むことができるのです。希望がなければ、なぜこんなふうになってしまったのかと、いつまでも嘆いていることになります。そうなれば、せっかくの「労苦」が無駄になってしまいます。でも、あなたの労苦には報いがあります。あなたの将来には希望があるのだから、あなたの目の涙を止め、神の約束に立ち、ただ神が示されることを行えばいいのです。

Ⅱ.エフライムは、わたしの大切な子(18-20)

いったいなぜ神はあなたの将来にこのような希望を与えてくださるのでしょうか。それは、あなたをこよなく愛しておられるからです。18~20節をご覧ください。「18 わたしは、エフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。【主】よ、あなたは私の神だからです。19 私は立ち去った後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。20 エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば─」

ここには、主はエフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた、とあります。エフライムとは北イスラエルのこと、イスラエルのことです。主はイスラエルが嘆き悲しむのを聞きました。これは彼らの自己憐憫の嘆きでありません。自己憐憫とは、自分を哀れみかわいそうだと思い込むことです。そういう悲しみではありません。そうではなく、自分たちの罪を悔い改めて悲しみ嘆いているのです。ちょうど放蕩息子が父のところに行って、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:18-19)と悔い改めように、エフライムもまた自分の罪を嘆き悔い改めているのです。主はその悔い改めの嘆きを確かに聞いてくださいます。主が、このような嘆きを聞き逃すことは絶対にありません。ただ自分を可哀そうに思う嘆き、自己憐憫の嘆きは聞かれませんが、ひとたび悔い改めて嘆くなら、確かに聞いてくださるのです。

18節には「私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。」とあります。これは、私たちは自分の力では帰れないことを表しています。自分の力では悔い改めることはできないのです。悔い改めは神賜物であり、神の御業なのです。私たちは自分の意志で悔い改めますが、それさえも悔い改めるようにと神が促してくださったので出来ただけのことであって、自分の力ではできることではないのです。あなたの中には悔い改める気持ちなんて微塵もないからです。それが私たち人間なのです。
  エレミヤ17章9節に、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」とありましたね。人の心は何よりも陰険で、それは直りません。私たちの心は何よりも陰険なのです。そこには善いものはありません。パウロはローマ7章で、私たちの心には善は住んでいないと言っています。自分には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、したいと願う善を行わないでしたくない悪を行ってしまいます。これは正直な告白ではないでしょうか。私たちの内には善が住んでいないのです。だから、悔い改める気持ちなんてさらさらないわけです。それほどねじ曲がっているのです。それほど堕落しきっています。もうどうしようもない、救いようがありません。でも神は、そんな私たちに悔い改めの心を起こしてくださいます。これは実に神の御業でしかないのです。

悔い改めが神の賜物であるということは、使徒5章31節でも言われています。「神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。」 神はイスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、イエスを導き手、また救い主としてご自分の右に挙げられたのです。悔い改めは、神からのギフトなのです。私たちはそれをただ受け取るだけでいいのです。そして神はこの悔い改めのギフトを、今日もあなたに与えてくださいます。それを受け取るか、受け取らないかはあなた次第です。救いも、罪の赦しも、みな神からの賜物であるということを覚えていただきたいと思うのです。

いったいなぜ私たちは悔い改めて神に帰ることができるのでしょうか。18節の後半にこうあります。「主よ、あなたは私の神だからです。」ここに「私の神」ということばが使われています。これは神と個人的な関係がなければ口に出せないことばです。神は私の神だから、私を帰らせてください。そうすれば、私はあなたのもとに帰ります。神は「私の神」です。あなたの神は誰ですか?あなたは聖書の神を「私の神」と、はっきり宣言することができるでしょうか?それほど親しい交わりをもっていらっしゃるでしょうか。聖書の神、イスラエルの神が私の神ですと、胸を張ってそう言えるかどうかが問われているのです。

19節をご覧ください。患難を通って彼らが救われるというのは、残りの民が救われるというのは、この悔い改めを通してです。ここに「ももを打ちました」とありますが、これは原語では性器の部分を打ったことを表しています。これは創世記32章にあるヤボクの渡しでの出来事でも使われています。ヤコブが伯父のラバンの下から帰るとき、兄エサウとの対面を前に非常な不安を抱え神と夜通し格闘したという出来事です。それは祈りの格闘をしたということです。ヤコブは言いました。「私を祝福してください。祝福してくださるまではあなたを去らせません。」それは執拗なまでの祈りでした。神に対してヤコブはそのような執拗な祈りをささげました。そして最終的に彼は神に勝利し神の祝福を受けましたが、その代償にももを打たれたのです。それで彼は自分の力では歩けない状態になってしまいました。それは人を出し抜いて、人を騙して生きるような性質が打ち砕かれたことを表していました。彼は自分の知恵や力では生きていくことはできない。神様に寄りすがって、神の支えがなければ一歩も進めないということを知ったのです。それで彼の名は神によって勝利する者、「イスラエル」となったのです。ももを打たれるとはそういうことです。

それはとても痛いことです。それは男性の性器を打たれるような痛みです。男性が急所を打たれたらどうなるか、女性の皆さんにはわからないかもしれませんが、非常に痛いんです。聞いたところによると、それは陣痛よりも痛いそうです。「ちょっとためしてみますか」なんて言わないでください。陣痛よりも痛いとされているので、もしあなたのご主人が陣痛の痛みがわからないというなら、ちょっとやってみたらよいかもしれません。一瞬でわかると思います。もう気絶するかもしれません。そういう一撃を受けたということです。そういう痛い思いをしたのです。確かにそれは痛いことですが、その痛みによって自分の罪の悲しみ、嘆きを知りました。まさに「悲しむ者は幸いです」と主が言われた通りです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

20節をご覧ください。ここには「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。─【主】のことば─」とあります。
  これもすばらしいことばです。これまでエレミヤは一貫として神の怒りと裁きを語って来ましたが、ここに来て急に神のあわれみとか、神の愛、神の回復、神の癒しということを強調して語るようになりました。ここでも、「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか」と言われています。主はイスラエルを責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになりました。「責めるたびに」とは、「裁きを宣言するたびに」という意味です。主は彼らにさばきを宣言するたびに、ますます彼らのことを思い起こすようになりました。ここには、神様が彼らに裁きを宣告するたびに彼らのことをどう思っておられたかが明かされています。神様はそのたびにますます彼らのことを思い起こすようになっておられたのです。裁きを宣言するたびに知らんふりをしていたのではありません。もうお前なんてどうでもいい。勝手にしたらいい。どこにでも行ったらいいんじゃないか。もう二度とこの家の敷居をまたぐなよ。顔も見たくない。という気持ちではなく、ますます彼らのことを思い起こしておられたのです。もう頭の中、心の中は、彼らのことで一杯だったのです。

「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」これが、私たちの信じている神様です。これが私の神、あなたの神です。厳しいことを宣告されるかもしれませんが、その都度、神はあなたのことを思っておられるのです。ますます思い起こしてくださる。常に思っていてくださいます。それは「はらわたがわななくほど」だとあります。はらわたが煮えかえるのではありません。はらわたがわななくのです。はらわたがわななくとは、文字通り「断腸の思い」ということです。腸が引きちぎれるような思いです。ルターはこれをこのように訳しました。「彼のゆえに、私の心臓は破れる。」まさに胸が張り裂けるような思いということです。これは東洋の人とヨーロッパの人の違いです。東洋の人は、感情の座ははらわたにあるという感覚を持っていますが、ヨーロッパの人はそういう感覚がないので、心臓が張り裂けるような思いという表現をするのです。はらわたがわななくような思いにせよ、心臓が張り裂けるような思いにせよ、言っていることは同じです。これが、神が私たちに感じておられる思いなのです。神が厳しいさばきを宣告する時、神はあなたのことを思って、もうはらわたがわななくような思い、引きちぎれるような思いになっておられるのです。もう死んでしまいたいと思うほど痛い思いをしているのです。もうあわれまずにはいられません。想像もつかないほどあなたのことを思っておられるのです。これが神の愛です。神に感謝します。私の神はそれほどまであわれんでくださるのですから。それゆえ、主よ、私はあなたの下に帰ります。帰らせてください。そうすれば、帰ります。あなたは私の神だからです。

Ⅲ.一つの新しいことを創造される(21-22)

最後に、21~22節を見て終わります。「21 あなたは自分のために標識を立てて道しるべを置き、あなたが歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ、帰れ。これらの、あなたの町に帰れ。22 背信の娘よ、いつまで迷い歩くのか。【主】はこの地に、一つの新しいことを創造される。女の優しさが一人の勇士を包む。」」

ここには「標識」とか「道しるべ」を置くようにと言われています。なぜかというと、その道のりは長いからです。その道のりとは、バビロン捕囚からの帰還の道のりです。その道のりは長いので、どこから来たのかを覚えるために標識や道しるべを置かなければならないのです。その道のりを忘れてはいけません。彼らは必ず敵の地から帰ってくるようになるのだから。だから、イスラエルよ、帰れ、と呼び掛けられています。いつまで彷徨っているのか。これらのあなたの町に帰らなければなりません。

彼らが帰るとき、どんなことが起こるのでしょうか。22節には、「主はこの地に、一つの新しいことを創造される。」とあります。主はその地に一つの新しいことを創造されます。この「創造する」ということばはヘブル語で「バーラー」と言いますが、これは、何もないところから何かを創造する時に使われることばです。たとえば、聖書の一番初め、創世記1章1節に「はじめに、神が天と地を創造された。」とありますが、この「創造された」ということばが「バーラー」です。神は何もないところに天と地を創造されました。そういう意味です。既にあるものに何かを使って作り直すということではありません。それは「アーサー」という別のヘブル語が使われます。でも、ここでは「アーサー」ではなく「バーラー」です。つまり、以前には全くなかったものを新しく創造するということです。それは何でしょうか。

22節の最後のことばを見てください。ここには「女の優しさが一人の勇士を包む」とあります。どういうことでしょうか。これは難解です。
新改訳第3版では、「ひとりの女がひとりの男を抱こう」と訳しています。
口語訳では「女が男を保護することである」と訳しています。新共同訳も同じです。「女が男を保護するであろう」です。
英語の訳もほとんど同じです。NIVは、「a woman will surround a man」、
NKJVは「A woman shall encompass a man.」、
TEVは「a woman protecting a man.」です。
Surroundとか、encompass、protectというのは、守るとか、囲むとか、保護するということですから、口語訳とか新共同訳の方の訳が近いです。でも、ひとりの女がひとりの男を守る、とはどういうことなのでしょうか。ハーベストタイムの中川健一先生は「姦淫の民イスラエル」を「おとめイスラエル」と呼んで、彼らと再婚することだと解釈しています(クレイ聖書解釈コレクション「エレミヤ書」P208)が、ここでは男が女を抱くのではなく、女が男を抱くとあるので、逆です。
そこで、新聖書注解書では、これは女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くようになることだと説明しています。女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くとはどういうことなのでしょうか。そこで古い注解者たちの中には、これは処女マリヤがその胎内に男の子を抱くということを意味していると考える学者もいますが、それは少し読み込みすぎだと思います。

この箇所を最も適切に訳しているのは創造主訳聖書ではないかと思います。創造主訳聖書ではこれを、「イスラエルがわたしを求めるようになる」と訳しています。それは新しいことです。これまで反逆に反逆を重ねてきたイスラエルが、まことの神を愛し、まことの神を求めるようになるのは、彼らが新しく創造されるからです。人の心は何よりも陰険だと申し上げましたが、神はそんなイスラエルを新しく造り変えてくださるとしたら、それこそ新しい創造です。

ダビデは詩篇51篇10節で「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。」と言っていますが、まさにそのことです。それは人にはできないことです。でも神にはどんなことでもできるのです。神は何もないところから全く新しいものを造り出すことができる方であり、あなたの心を新しくすることがおできになるのです。神はあなたにきよい心を与え、揺るがない霊を、あなたのうちに新しくすることがおできになるのです。バカは死んでも直らないということわざがありますが、死ななくても直すことができます。神があなたを新しく造り変えることによって。あなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたも新しく造り変えていただくことができます。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

私たちは、キリスト・イエスにあって新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるということを経験することができるのです。女の優しさが一人の勇士を包む、すなわち、私たちが神を愛し、神を慕い求める者、神によって勝利する者、イスラエルとして、神とともに歩むようになるのです。いや、私は無理です。これは親から引き継いだ性格だからしょうがない。変わりようがありませんと言われるかもしれませんが、神はそんなあなたの心を新しく造り変えることができるのです。主はこの地に、一つの新しいことを創造されるのです。

だから、この神を信じてください。神はあなたも新しく創造してくださいますから。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたが想像することができないことをしてくださるのです。全く新しいことをしてくださいます。あなたが願っている以上のことをしてくださるのです。そのことを信じて、今、神のもとに帰らせていただきましょう。あなたの将来には望みがあるのです。

エレミヤ31章7~14節「主の恵みに満ち足りる」

エレミヤ書31章から学んでいます。エレミヤ書30章、31章は、エレミヤ書の中心部、まさに心臓部にあたる箇所です。前回は、この31章1~6節のみことばから、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」というテーマで学びました。今回は、その後の7~14節から、「主の恵みに満ち足りる」というテーマでお話します。13~14節にこうあります。「そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。─【主】のことば。」」
  「そのとき」とは、バビロンに捕えられていたイスラエルの民が解放されるときのことです。そのとき、主は彼らを喜びと楽しみで満ち足らせてくださいます。これは二重の預言でもあります。近い未来に起こることとしてはバビロン捕囚からの解放のときですが、遠い未来における預言としては、世の終わりの7年間にわたる患難時代をイスラエルの民が生き残ったときのことです。そのとき、主は彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませてくださり、主の恵みに満ち足らせてくださいます。

これは同時に、私たちクリスチャンに対する神の約束でもあります。バビロンはこの世を象徴していますが、クリスチャンはこの世というバビロンから解放され天の御国に行くとき、すべての苦しみから解き放たれ、悲しみを喜びに、憂いを慰め、楽しみに変えられ、主の恵みで満ち足りるようになるのです。

Ⅰ.エフライムはわたしの長子(7-9)

まず、7~9節をご覧ください。「7 まことに、【主】はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらに向かって叫べ。告げ知らせよ、賛美して言え。『【主】よ、あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も、ともにいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。9 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに、つまずくことのない平らな道に導く。まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」」

ヤコブ、イスラエルに対する二重の預言が続いています。7節の「イスラエルの残りの者」とは、バビロンから帰還した残りの民のことです。また、遠い未来のことで言うなら、世の終わりの患難時代を生き抜いたイスラエルの民のことです。言い換えると、神に対して最後まで忠実であり続けた人たち、真の信仰者たちのことです。

8節には、主は彼らを北の国から連れ出し、地の果てから集めるとあります。北の国とはアッシリヤのことであり、バビロンのことです。また、新約聖書の時代で言うならローマのことです。あるいは、その後に起こる強大な諸国のことです。主はそこから彼らを集められるのです。それは今この時代にも起こっています。1800年代後半からシオニズムという運動が起こり、世界中に離散していたユダヤ人がイスラエルの地に集められています。1948年には正式にイスラエル共和国が建国されました。ここでは特にバビロンから集められることが言われています。

その中にはあらゆる人たちがいます。8節には「その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も」とありますが、これは盲人や足の不自由な人、妊婦や産婦のことですが、そういう移動が困難な人まで含まれています。そういう人たちも皆、何の差別もなく手厚い保護を受けて確実に帰って来るようになるのです。

9節には、「彼らは泣きながらやって来る」とあります。これは勿論、悲しみま涙ではありません。喜びの涙です。祖国に帰れることがうれしくて、うれしくて、喜びの涙を流さずにはいられないのです。主の慰めと、手厚い保護を受けながら。いったいどうして彼らはそのように祖国に帰還することができるのでしょうか。その理由が、9節にあります。「まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」

どういうことでしょうか?1節には「わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」とありますが、ここではさらに一歩進んで、神と民の関係から父と子の関係として描かれています。つまり、彼らは神と特別な関係にあるということです。父と子という親密なレベルまで引き寄せられるのです。神は彼らの父であり、彼らは神の子どもです。そういう個人的な関係を持ってくださるのです。それは、エフライムが主の長子であるからです。どういうことですか?
  「エフライム」とは、ヨセフの二人の子どもマナセとエフライムの内、弟のエフライムのことですが、このエフライムが後に北イスラエルを表すことばとなり、さらにイスラエル全体を指すようになりました。ですから、これはイスラエル主の長子であるという意味です。
  でも、先程申し上げたように、マナセとエフライムではマナセが長子でエフライムは次男です。それなのに、不思議なことに次男のエフライムが長子の扱いを受けました。これはどういうことかというと、どちらが先に生まれたかということではなく、どちらが長子の権利を受けたのかということです。つまり、誰が相続権を得たのかということです。おもしろいことに、このような記述は聖書の他の箇所にも見られます。たとえば、このエフライムのお祖父ちゃんにあたるヤコブがそうでした。ヤコブはイスラエルの始祖となる人物ですが、元々彼は次男でした。長男はエサウです。でも次男のヤコブが長子の権利を得ました。同じようなことが、孫のエフライムにも起こったのです。長男のマナセではなく、次男のエフライムが長子の権利を持つ者となりました。これはエフライムがマナセよりも先に生まれたということではなく、マナセが受けるはずの長子の権利を持つ者となったということです。その権利とは相続権のことです。ですから、聖書で言う「長子」というのは、単に先に生まれということでなく、相続権を持つ者であるという意味なのです。

これが聖書全体を貫いている真理です。それはイエス様についても言われていることです。聖書にはイエス様は長子と呼ばれていますがどういう意味で長子と呼ばれているのかというと、この神の相続権を持つ者であるという意味です。エホバの証人はイエス様が一番最初に生まれた者であるという意味で長子と呼ばれていると解釈したため、イエス様を被造物の一つ、すなわち、エホバによって最初に造られた者と主張するようになりました。でもそれは聖書で言っているこの「長子」ということの意味をよく理解していないために生じた誤解です。聖書で言う「長子」というのは必ずしも先に生まれたものということではなく、「相続権を持つ者」です。つまりイエス様は父なる神の相続権を持つ者、すなわち、神の相続者であり、神ご自身であられる方なのです。ですから、そんなことを言われても驚かないでください。
「そうなんですか!」「やっぱりそうなんですね。おかしいなあと思っていたんですよ」なんて。
「そうですか、でも聖書ではそういう使われ方をしてないんですよ。エフライムを見てください。エフライムは長子であるとあるじゃないですか。これは先に生まれたということじゃなく、神の相続権を持つ者であるという意味なんですよ」と。
  「エフライムはわたしの長子である。」。つまり、イスラエルは神の長子なので、神の所有のものを相続することができるようになったのです。

これは私たちクリスチャンのことも言えることです。私たちはイエス・キリストを信じたことで神の子どもとしての特権をいただきました。ヨハネ1章12節にこうあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」
  イエス様を信じることによって神の子どもとされました。神の子どもであるということは、神のものを相続する立場に置かれているということです。それは特権なのです。

使徒パウロは、そのことをローマ8章14~18節で次のように語っています。「14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
  神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。その人は、人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって私たちは神を「アバ、父」と呼べるようになったのです。すごいですね。ヨブ記には、神の至高性の前に人は虫けらのようだ、うじ虫にすぎないとありますが(25:4~6)、まさに虫けらのような存在にすぎない者が、キリストによって神の子とされ、キリストとともに共同相続人とされるとしたら、それは神の恵み以外の何ものでもありません。罪人である私たちは神の光に照らされるなら、うじ虫のようなものにすぎませんが、このような者を神の子としてくださり、キリストと肩を並べられるような立場に置いてくださるのです。ここに神の恵みの豊かさがあります。そしてやがて天の御国へと帰らせてくださる。私たちはそこへ帰るのです。泣きながら。当然でしょう。嬉しいですから。

であれば、たとえ今、さまざまな試練の中にあっても問題ではありません。なぜなら、私たちはやがてものすごい栄光の中に入れられるということを知っているからです。それは、やがて私たちにもたらされる栄光に比べれば、取るに足りないものです。私たちが神の子どもとされたということがどういうことなのか、それがどんなにすばらしい栄光なのかを思い巡らして、神の約束にしっかりと目を留めようではありませんか。

Ⅱ.遠くの島々に告げ知らせよ(10-11)

次に、10~11節をご覧ください。「10 諸国の民よ、【主】のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。「イスラエルを散らした方がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られる」と。11 【主】はヤコブを贖い出し、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。」

これは主が成されることです。主はイスラエルを散らされましたが再び集め、牧者が群れを飼うように、これを守られます。すなわち、ヤコブ、イスラエルを約束の地に戻されます。主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されるからです。「ヤコブより強い者」とは、具体的にはアッシリヤでありバビロンのことです。また、ローマや世の終わりの患難時代においてイスラエルを滅ぼそうとする反キリストのことを指しています。主はそこからイスラエルの民を買い戻されるのです。

これは私たちクリスチャンにも言えることです。クリスチャンはこの世の神、この世の支配者であるサタンによって罪の奴隷とされていましたが、神はそんな私たちを罪の奴隷から買い戻すために、御子イエスを十字架にかけていのちの代価を支払い贖ってくださいました。約束の地、天の御国へ私たちを導くために。何という恵みでしょうか。それは自分たちの力ではどうすることもできないことでした。どんなにもがいても、このサタンの力、罪の支配から解放されることはできませんでした。でも、主がそれを成してくださったのです。

だから、10節にはこう呼び掛けられているのです。「諸国の民よ、主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。」。皆さん、どうでしょう。ここには、遠くの島々に告げ知らせよと呼び掛けられていますが、そんなことを言われなくてもこの罪の支配から解放されたら自然にそうなるのではないでしょうか。黙ってなどいられません。

マルコの福音書1章40~45節には、ツァラアトに冒されていた人が癒された出来事が記録されていますが、イエス様はツァラアトが癒された男に「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」(マルコ1:44)と厳しく命じられたにも関わらず、彼は出て行って、この出来事を言い広めてしまいました。なぜですか?嬉しかったからです。ツァラアトに冒され社会から隔離されて生きなければならなかった彼は、イエス様の深いあわれみによって癒していただいた時、嬉しくて、嬉しくて、黙っていることなどできませんでした。同じです。自分を罪に縛り付けていたサタンの力から解放されたなら、黙っていることなどできません。

実際、イスラエルから遠く離れた島々であるこの日本にまでその知らせが伝わってきました。それを伝えてくれたのは他ならぬキリストの十字架を目の当たりにした人々、そしてそれが我ためであったと信じて救われたキリストの弟子たちでした。彼らが全世界に出て行って自分たちが体験したことを告げ知らせてくれたので、この日本にまで良い知らせが伝わって来たのです。

私たちもこの極東の島において、イエス様が成されたことを体験的に知ったものとして、黙っているわけにはいきません。私たちも出て行って造られたすべてのものに福音を伝えなければなりません。ただそれをするのは、あくまでもこの救いを体験した者です。あなたが本当に救いを体験したなら、黙ってなどいられないはずです。想像してみてください。バビロンという国に捕らえられ70年間もその支配を受けていた人がそこから解放されたのです。祖国に帰ることができる。それはもう大きな喜びであったはずです。これほどの喜びはありません。この喜びの知らせが「福音」と呼ばれるようになりました。「福音」(ギリシャ語でユーアンゲリオン)とはバビロン捕囚から解放されたという良い知らせです。私たちもバビロンというこの世で罪の奴隷として生きてきましたが、そこから解放されました。それは本当に感激で、これを黙っていろという方が難しいでしょう。告げ知らせよという命令に従う方がよっぽど楽です。私たちはこの素晴らしい知らせを、遠くの島々に、まだ聞いたことがないような人たちに告げ知らせなければなりません。力強い主の救いの御業を宣べ伝えなければならないのです。

Ⅲ.主の恵みに満ち足りる(12-14)

第三に、そのように神の恵みによって強い者の手から救われた人たちはどうなるでしょうか。12~14節をご覧ください。主の恵みに満ち足りるようになります。ここには、帰還した彼らを待っていた祝福がどのようなものであったかが書かれてあります。「12 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、【主】が与える良きものに、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、羊の子、牛の子に喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。13 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。14 祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。─【主】のことば。」」

帰還した彼らを待っているのは、物質的祝福と霊的祝福の両面における祝福でした。シオン、エルサレムには神殿が再建され、たくさんのいけにえがささげられるようになります。そこはささげもので溢れるようになるのです。14節には「祭司のたましいを髄で潤す」とありますが、これはどういうことかというと、「髄」とは、骨の中心にある柔らかい組織のこと、すなわち、物事の中心であり、奥深い大事なところを指しています。ですから、髄で潤すとは、祭司のたましい、祭司の心を満たすということです。口語訳では「祭司の心を飽かせ」と訳しています。それは祭司のたましい、祭司の心を満たすほどであるということです。どういうことかというと、祭司は神にささげられたいけにえを屠ったり、神にささげたりという働きをしますが、その働きの報酬としてその一部を分け前として受けますが、それがあまりにもたくさんであったため、彼らのたましいが、彼らの心が潤されるほどであったということです。それは自分たちの受ける分が多くなったからではありません。そうやって心から神にいけにえをささげる民の姿に励まされたからです。それほどたくさんのささげものがささげられるのです。教会で言うなら、みんな喜んで主にささげものをして献金が満ち溢れている状態です。あるいは、奉仕者がたくさん与えられて、何をしていただくのかを探さなければならないような状態です。もう当番制ではありません。どうか私にさせてくださいという人で満ち溢れるからです。それほど、主の恵みに満ち足りるのです。

なぜでしょうか?みんな喜んで捧げるようになるからです。強制されてではありません。解放された喜びのゆえに、自ら進んでささげるようになるのです。そういう時がやって来ます。かつてバビロンから解放されたイスラエルの民が喜んで主にささげたように、主の教会が主の恵みで満ち溢れるようになる時がやって来るのです。それは世の終わりの時まで待たなければならないということではありません。主の十字架の贖いの御業を体験した人は、このように変えられるはずです。そうでないとしたら、救いに関して何かがおかしいと言えるかもしれません。

パウロはマケドニアの諸教会に与えられた神の恵みについて、コリントの教会にこのように書き送っています。「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。」(Ⅱコリント8:2-5)いったいなぜ彼らはこの「恵みのわざ」にあふれるようになったのでしょうか。それはキリストの恵みを知ったからでした。体験したからです。すなわち、主は富んでおられたのに、彼らのために貧しくなられたということです。それは、彼らがキリストの貧しさによって富む者となるためです。そのキリストの恵みを知ったからです。

先日、英語の礼拝で普段ワーシップをリードしている兄弟が所要で礼拝を休まれるということで、代わりにジャマイカから来日している姉妹がリードしてくださいました。それが本当にすばらしいリードだったので「今日のワーシップのリードありがとう。本当に感謝しています。」と言うと、その姉妹がこう言いました。「私は自分にできることをしただけです。私にできることなら何でもしたいです。だから、必要があったら教えてください。この前、礼拝堂にあるポットの水を交換したら、日本語の礼拝の方がそれを捨ててくれましたが、私は毎週その水を交換しているので捨てないでくださいと伝えてください。そのくらいのことしかできないですが、喜んでしたいのです。」と。
  私はそれを聞いてとても感動しました。彼女は自分に出来ることとして、自ら進んでやってくれたからです。なぜ?神の恵みを知ったからです。体験したからです。

皆さん、教会はそういうところではないでしょうか。神によって罪が赦された者が喜んで教会に集い、心から主を賛美し、いけにえをささげ、奉仕をささげるのです。自ら進んで。主の恵みを知ったからです。奉仕しろと言われて、ささげろと言われて、伝道しろと言われたのでするというのではなく、何も言われなくても、黙っていても、一人一人が聖霊によって喜び、神の恵みに応答してささげるので、ささげものが満ち溢れるのです。それが主の教会です。そこでは若い女が喜び踊り、若い男も年寄りも、ともに主を喜び楽しみます。主が彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませてくださるからです。そこは主の喜びで満ち足り、主の楽しみで満ち溢れるのです。それは完全な神の国、天の御国ではないかもしれませんが、その前味を味わうことができるのです。私たちはそれこそ主が喜ばれる教会であることを知り、それを目指して歩まなければなりません。

先月、さいたまの教会で礼拝のご奉仕をさせていただきました。その教会は私が共立基督教研究所で学んでいた時に一緒に学んだ牧師が35年前にゼロから開拓した教会です。どれほどのご苦労があったことかと思いますが、35年たった今、それが見事に実を結びました。30代の多くの若い青年たちが結婚に導かれ、教会の役員をはじめ、礼拝の全体をリードしていました。霊的によく訓練されたすばらしいリードでした。いったいどうやってそのようになったのか、いろいろお話を聞いているうちにわかりました。35年前に救われた数人の婦人たちが子どもたちにしっかりと信仰の訓練をして信仰を継承させ、その子供たちが結婚して家庭を築き、教会の中心的な役割を担うようになったからです。そのためには時間がかかります。30年の時間がかかりました。しかし、やがてそのような教会になると決断して取り組んだ結果、そのようになったのです。

教会は建物とか、人数ではありません。主に罪贖われた一人一人が喜びと感謝をもって主に仕えているかどうかです。そのためには時間もかかるでしょう。でもどんなに時間がかかっても、それが主が望んでおられることであり、私たちが目指しているものであると受け止めて、一人一人が十字架の贖いに感謝し、神の子とされた喜びをもって自ら進んでささげるなら、必ずそのようになるはずです。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる、と言われるようになります。私たちもそのような教会とさせていただきましょう。神の恵みがあなたの霊と心と体を満ち溢れさせてくださいますように。

エレミヤ31章1~6節「永遠の愛をもってあなたを愛した」

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今日は、エレミヤ書31章前半から、「永遠の愛をもってあなたを愛した」というテーマでお話します。前回もお話したように、この30章と31章はエレミヤ書全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所です。30章には、ヤコブには苦難の時がやって来ますが、彼らはそこから救われるということが語られました。彼らの受けた傷は癒されがたい傷ですが、主はそんな彼らの傷を治し、打ち傷を癒されます(30:17)。主は彼らを引き裂きましたが、また、いやし、彼らを討ちましたが、また、包んでくださるのです。神の怒りの目的は、彼らをさばくことではなく、彼らの霊的な回復にあったからです。今日の箇所はその続きです。

Ⅰ.出て行って休みを得よ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「1 「そのとき──【主】のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」2 【主】はこう言われる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを見出す。イスラエルよ、出て行って休みを得よ。」」

1節の「そのとき──【主】のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」というのは、30章22節でも語られたことです。神との正しい関係が修復されて、回復するということです。これがキリスト教です。キリスト教はまさに神との関係です。「そのとき」とは、二重の預言を表しています。それは近い将来においては、バビロンに捕らえられたユダの民がその捕囚から回復するということであり、遠い未来においては、バビロン捕囚のような出来事、つまり想像を絶するような世の終わりの患難時代を通過したイスラエルの民が悔い改めて神に立ち返り、神との関係を回復するということです。世の終わりに、キリストが再臨される時、イスラエルの民は自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆くようになります。ゼカリヤ12章10節にある通りです。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)彼らは自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は自分たちの先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったという事実に出会い、この再臨のメシヤを通して、神に立ち返ることになるのです。「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)こうして「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束が実現するのです。すばらしいですね。彼らは神との関係を破棄しても、神は彼らを見捨てるようなことはなさいません。「そのとき」悔い改めて神に立ち返ることができるようにしてくださるのです。

2節の「剣を免れて生き残った民」とは、その患難時代を通過したイスラエルの民のことを指しています。これも二重の預言になっています。バビロン捕囚によって滅びずに生き残った人たちと、世の終わりの大患難、ヤコブの苦難から生き残った人たちのことです。ゼカリヤ3章8~9節によると、それはイスラエル全体の三分の一に相当する人たちです。彼らは荒野で恵みを見出すようになります。この「荒野」とは、黙示録12:6によると、1260日の間、すなわち患難時代の後半の3年半の間、恵みを得るように神によって養われる場所のことです。それはイザヤ63章1節によると、エドム周辺の荒野、ボツラ周辺の荒野、今のヨルダンのペトラ周辺の荒野であることがわかります。というのは、そこにこうあるからです。「エドムから来る方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を来て来る方は。」イスラエルの民は、患難を避けてこの荒野に逃れて来て、そこで恵みを見出すのです。そこで彼らは休みを得るようになります。この休みとは、たましいの救いから来る安息のことです。

それはクリスチャンも同じです。主イエスはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
  イエスのもとに行くなら、たましいの救い、たましいのやすらぎを得ることができます。イエスこそわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神です。わが盾、わが救いの角、わがやぐらです。この方に身を避けるなら、私たちは剣を免れて生き残ることかでできます。荒野で恵みを見出し、出て行って休みを得ることができるのです。

あなたはどこに身を避けていらっしゃいますか。あなたが身を避けるべきところ、それは高き方の隠れ場、全能者の陰、あなたのたましいの救い主イエス・キリストです。この方のもとに身を避けるなら、あなたも恵みを見出すことができます。休みを得ることができるのです。

Ⅱ.永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した(3)

次に、3節をご覧ください。いったい神はどうしてイスラエルをそこまでして守られるのでしょうか。ここにその理由が述べられています。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

イスラエルが守られる理由は、永遠の愛をもって、神が彼らを愛されたからです。主はこう言われます。「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」主は永遠の愛をもってあなたを愛されたので、あなたを滅ぼし尽くすことはなさらないのです。この愛は、私たちの状況によってコロコロと変わるようなものではないからです。これは「永遠の愛」なのです。永遠の愛とは、いつまでもというのは勿論のことですが、常時、継続的にという意味でもあります。継続的に愛し続けるという愛です。神の愛とはこういうものなのです。つまり、私たちがどんなに堕落しようとも、私たちが取り返しのつかないような罪を犯しても、私たちの状態とは関係なく、ずっと愛してくださるという愛です。神の愛は永遠に変わることなくあなたに注がれているのです。

一方、人間の愛はどうでしょうか。人間にはこのような愛はありません。まず人間自身が永遠の存在ではありませんから。人間は有限な存在にすぎません。口では永遠の愛を誓いますが、それは不可能です。夫婦の愛ですら永遠ではありません。天国に行ったら嫁ぐこともめとることもないと、聖書は教えています。(マタイ22:30)それはあくまでもこの地上での限られた期間においてのことであって、永遠においてではないのです。それはすべて一時的なものであり、移り変わり、やがて絶えてしまうものです。

しかし、神の愛は違います。神の愛はいつまでも続きます。ここに有名な聖書のことばがあります。結婚式では必ずといってよいほど読まれる箇所です。それはⅠコリント13章13節のみことばです。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
  皆さん、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。この愛こそ神の愛、アガペーの愛、永遠の愛です。それは人間にはない愛です。そこには初めも終わりもありません。そもそも永遠には時間がありませんから、始まりとか終わりはないのです。神はこの永遠の愛をもってあなたを愛しました。神があなたを愛さなかった瞬間は、これまで一度もなかったのです。これまでもそうですし、これからもずっと、神はあなたを愛しておられるのです。

ローマ5章8節を開いてください。ここには、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」とあります。ここには、「私たちがまだ罪人であったとき」とあります。私たちがまだ罪人であったときでさえ、神はあなたを愛しておられました。ただあなたが知らなかっただけです。神はあなたがまだ罪人であったときでさえあなたを愛し、あなたのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。そのことによって、あなたに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのです。これ以上の愛はありません。この愛は考えられない愛です。これは私たちの考えをはるかに超えた愛なのです。

エペソ1章3~5節を開いてください。「3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
  ここにも、神がどれほどあなたを愛しておられるかが書かれてあります。それは何と世界の基の置かれる前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたほどです。天地創造の前から、あなたは神に愛されていたのです。神に見出されていました。それは人知をはるかに超えた愛です。そしてパウロは、この人知をはるかに超えたこのキリストの愛を知ることかできるようにと祈りました(エペソ3:19)。これは矛盾していることです。人知をはるかに超えた愛を知ることなんてできません。それは知りようもないほどの愛なんですから。でも知ることかできます。どうやって?祈りによってです。人には理解できないこのキリストの愛を、祈りによって知ることができます。だからパウロはこう祈っているのです。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:14-19)
  それは人知をはるかに超えた愛です。でも、祈りによって神が聖霊を注いでくださり、その聖霊の力によって内なる人が強められ、キリストの愛に根差し、愛に基礎を置くなら、その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるようになります。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようになるのです。

この愛は、ヘブル語では「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。それが1節のことばです。30章22節にもあります。それは「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」です。これは神がアブラハム、イサク、ヤコブと個人的に結ばれた契約ですが、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救い出され、シナイ山までやって来たとき、そこでイスラエルの民と契約を結ばれました。そこで主はこのように言われました。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:4-6)
  ここで主は、もし彼らが主の声に聞き従い、主との契約を守るなら、主は彼らをあらゆる民族の中にあって、ご自身の宝の民とされると言われました。これは、神にとって大切な財産、特別な宝、神と特別な関係と価値を有するものとなるという意味です。そればかりではありません。「祭司の王国、聖なる国民となる」と言われました。「祭司の王国」とは、イスラエルの民が神と他の民族との間の仲介者となり、全世界にいる他の民族を神に導くためのとりなしの祈り手とされるということです。また、「聖なる国民」とされるというのは、神のために特別にきよめ分たれた国民にされることを意味しています。つまり、神の民となるということです。

その結果、どうなったでしょうか。ご存知のように、イスラエルの民は神に背き、自分勝手な道に歩み、簡単に神との契約を破棄してしまいました。でも神は違います。神はどこまでも誠実な方であって、どんなことがあっても、一度約束したことを破棄することはなさらないのです。それが「ヘッセド」ということばの意味です。私たちがどんな人間であろうと、過去に何をしようと、何者であろうと全く関係なく、無条件で愛してくださるのです。それは今に始まったことはでありません。世界の基の置かれる前からです。それは愛する対象の変化によってコロコロ変わるものではありません。昔はこの人も優しかったのに、今とは全然違う。こんなはずじゃなかった。もうこんな人と一緒にいるのは嫌!私たちはそうなりますが、神様は違います。神様は対象の変化と関係なく、どこまでも愛してくださるのです。
  箴言19章22節「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とありますが、私たちが求めているのはこの愛です。変わらない愛、色あせない愛、永遠の愛です。私たちはこのような愛を求めています。でも残念なことに、このような愛を人間に求めることはできません。人間の中にはこの愛はないからです。これは神にしかない愛です。でもこの神の愛、ヘッセドの愛、アガペーの愛が、あなたに注がれていることがわかるとき、あなたはこの愛に行かされるようになるのです。

あなたはこの愛で愛されているのです。それはあなたが他の人よりも頭がいいから、良い人だからではありません。優れているからでもないのです。それはただ神があなたを愛されたからです。申命記7章7~8節にこうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」
  主があなたを慕い、あなたを愛されたのは、あなたがどの民よりも数が多かったからではありません。優れていたからでもない。主があなたを慕われたのは、主があなたがたを愛されたからです。またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。それは一方的な愛なのです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。

この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることかできます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができる。回復することができるのです。イスラエルも壊滅的な状況でしたが、でもこの愛によってもう一度建て直されます。もう一度神に立ち返り、やり直すことができるのです。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。

この永遠の愛をもって愛したというのは、神に対して忠実に信仰生活を送っている人にだけ語られていることばではありません。逆です。もうどうしようもない人、反逆に反逆を重ね、自ら墓穴を掘っているような人にも語られています。バビロン捕囚になったような、まさに惨めな人たちに語られているのです。そんな彼らに対して、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と言われているのです。ですから、今、私はバビロン捕囚の憂き目にあっていますという人にも希望があることを知っていただきたいのです。勿論、罪を犯さないで生きることができるならそれに越したことはありません。極力、蒔いた種を刈り取るというようなことはしない方がいいのは当然のことです。でも、たとえ失敗したとしても、神の永遠の愛が変わらずに注がれていることを知ってほしいのです。この愛によってあなたはやり直すことができるのです。

Ⅲ.あなたは建て直される(4-6)

ですから、第三のことは、あなたは建て直されるということです。4~6節をご覧ください。「4 おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。5 再びあなたはサマリアの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植え、その初物を味わう。6 エフライムの山で、見張る者たちが『さあ、シオンに、私たちの神、【主】のもとに行こう』と呼びかける日が来るからだ。」」

イスラエルの民がバビロン捕囚の時もそうですが、世の終わりの患難時代の剣を逃れて生き残り、荒野で恵みを見出すことができるのは、出て行って休みを得ることかできるのは、一方的な神の愛のゆえであるということが語られました。永遠の愛をもって神が彼らを愛したので、真実の愛を尽くしつづけたので、彼らは守られることができたのです。その結果どうなったでしょうか。ここには、イスラエルに与えられる数々の祝福が列挙されてあります。

第一に、4節にあるように、彼らは「おとめイスラエルよ」と呼ばれるようになります。これはどういうことかというと、霊的姦淫を犯した淫婦ではなく、おとめ、処女とよばれるようになるということです。それは、イスラエルの罪がメシヤによって完全にきよめられるからです。第二に、4節後半にあるように、彼らは再び建て直されることになります。第三に、彼らは喜びをもって戻ってくるようになります。4節の「タンバリンで身を飾り」とは、その様子を表しています。第四に、再び彼らは安心してぶどう畑を作り、それを収穫するようになります。5節にありますね。第五に、シオン、これはエルサレムのことですが、そこが霊的に復興します。6節にあるとおりです。ここに「エフライムの山」とありますが、これは北イスラエルのことです。ここはかつてエルサレムに対抗して偶像礼拝の宮が立てられました。金の子牛です。北イスラエルの民がわざわざ南ユダ、エルサレムに上って礼拝しなくても良いように、北はダンに、南はベテルに金の子牛の偶像を造り、これがイスラエルの神だと言って拝ませたのです。北イスラエルの最初の王であったヤロブアムⅠ世の時代です。それ以来北イスラエルではずっとダンとベテルで金の子牛を拝んでいました。しかし、世の終わりに剣を免れて生き残った民は、もうその必要は全くなくなります。彼らは真の神である主イエスに立ち返り、霊とまことをもって礼拝するようになるからです。エフライムの山で見張っていた者たちが、「さあ、シオンに、私たちの神、主のもとに行こう」と呼びかけるようになるからです。」これはいわば霊的復興のことです。リバイバルです。神の愛によって大患難時代を生き残った民は、神の民として再び建て直されるのです。

これは私たちにも言えることです。永遠の愛をもって愛されている私たちも、再び建て直されます。人生をやり直すなんて無理ですと思っておられる方もいらっしゃるかもしれません。確かに過去が戻って来ることはありません。失ったものを取り戻すことはできません。でもあなたはやり直すことができるんです。神があなたを立て直してくださるからです。永遠の愛をもって、神はあなたを愛してくださいました。それはあなたも例外ではありません。この愛はあなたにも注がれているのです。神は決してあなたを見捨てることはありません。なぜなら、この永遠の愛をもってあなたを愛しておられるからです。神が結ばれた契約はどんなことがあっても破られることはありません。神は最後の最後まで、永遠にあなたを愛しておられます。だから、あなたは安心してやり直すことができるのです。神に立ち返ってください。神は再びあなたを立て直し、あなたは建て直されます。この神の永遠の愛に応答することができるように。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるように。その愛が今もあなたに注がれていることを知ることかできますように。

エレミヤ30章12~24節「あなたの傷を癒される主」

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今日は、エレミヤ書30章後半から、「あなたの傷を癒される主」というタイトルでお話します。イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいます。それは近い将来においてはバビロン捕囚という出来事のことであり、遠い未来においてはヤコブの苦難と呼ばれる世の終わりに起こる7年間の患難時代のことを指しています。しかし、神はそんなヤコブ、イスラエルを見捨てることなく、赦し、救い出してくださるとおっしゃられました(30:7)。神は懲らしめを与えますが、彼らを滅ぼし尽くされることはありません。罪ゆえに大きな痛みや傷、苦しみを与えられますが、その後には赦しと救いを用意してくださるのです。いったい神はどのようにしてそれを行われるのでしょうか。

今日の箇所には、その方法が明確に記されています。それは、彼らの中から出る権力者、その支配者によってです。21節には、「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあります。いのちをかけて神に近づく者はだれでしょうか。そうです、それは神の御子イエス・キリストです。エレミヤはここで命をかけて神に近づき、民の受けるべき罰を担ってくださる方を預言しているのです。イエス・キリストによって私たちのすべての罪咎は赦され、赦しと救いを受けることができるのです。今日は、私たちのすべての傷を癒してくださる主イエス・キリストの救いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.癒されがたい傷(12-17)

まず、12~17節をご覧ください。「12 まことに【主】はこう言われる。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。13 あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。14 あなたの恋人たちはみな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。15 なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは癒やされがたい。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために、わたしはこれらのことを、あなたにしたのだ。」

この「あなた」とは、ヤコブ、イスラエルのことです。主は彼らにこう言われました。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。」彼らの痛みは、癒されがたいものでした。14節の「あなたの恋人たち」とは、イスラエルと同盟関係を結んでいた周辺諸国のことです。そうした同盟国もヤコブを救うことはできませんでした。彼らはヤコブを忘れ、尋ねようともしません。彼らの傷をいやすことができないのです。なぜなら、それは普通の傷ではないからです。14節後半に「わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。」とあるように、それは主が与えたものだからです。彼らの咎が大きく、彼らの罪が重いからです。つまり、それは罪から来る傷、罪から来る病であったのです。ローマ6:23に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とある通りです。それは、罪から来る報酬なのです。罪から来る傷はだれも癒すことができません。それは死をもたらすだけです。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」しかし、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられます。この永遠のいのちは、あなたの恋人が癒すことができない傷や病すら癒すことができるのです。
  それが17節で言われていることです。「まことに、わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」

主は「わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。」と言われます。主があなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒されます。あなたの傷を癒すことができる人は誰もいません。精神科医でも無理です。そこで処方される薬も癒すことはできません。勿論、肉体的な病気であれば神は薬を用いて癒すこともできますが、ここで言われている傷はそういう傷ではなく罪から来ているものなので、人には癒すことができないのです。それは神にしかできないことです。罪を赦すことができるのは神にしかできないからです。

マルコの福音書2章に、中風の人の癒しについて書かれてあります。友人たちが彼をイエスの下に連れて来たときイエスはこの人に何と言われましたか?「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたんです(マルコ2:5)。彼は罪の赦しを求めて来たのではありません。彼は中風を癒してもらうために来ました。それなのにイエス様は「あなたの罪は赦された」と言われたのです。なぜでしょうか?罪を赦すことができるのは神しかいないからです。神以外にだれも罪赦すことはできません。罪を赦すことができる方は神であり、中風を癒すことなど何でもないことだからです。だからイエスは、彼らに罪が赦される信仰があるのを見て、そのように言われたのです。あなたを罪から救うことができるのは、あなたを永遠の滅びから救うことができるのは、イスラエルの救い主、私たちの主イエス・キリスト以外にはいないのです。

ですから、使徒4章12節にはこうあるのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
  「この方」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。この方以外には、イスラエルの同盟国であろうと、イスラエルが慕った偶像であろうと、この世のあらゆる国家権力であろうと、いかなる富であろうと、あなたを救うことはできないのです。私たちが救われるべき名としては、人間には与えられていなからです。イエス・キリストだけが救われるべき唯一の道であり、真理であり、いのちです。イエス・キリストを通してでなければ、だれ一人、父のみもとに行くことはできません。

いったいなぜ主はヤコブ、イスラエルを癒してくださるのでしょうか。17節後半をご覧ください。ここに「─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」とあります。それは彼らが「捨てられた女」、「尋ねる者のないシオン」と呼ばれたからです。どういうことですか?これは、彼らの絶望的な状況を見た者たちあざけって言ったことばです。確かに、主はヤコブの罪のゆえに懲らしめを与えられますが、滅ぼし尽くすことはなさいません。だから、異邦人たちが神の選びの民を見下しているのを見て、決して黙っておられることはないのです。彼らの傷を治し、打ち傷を癒され、立ち上がらせてくださるのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分の罪とか咎のゆえに神から懲らしめを受けることがあるかもしれません。それは癒されがたく、時として絶望を感じることもあるでしょう。でも私たちの神はヤコブを見捨てることなく彼らの傷を治し、打ち傷を癒されたように、あなたの罪を赦し、あなたの傷を癒してくださいます。あなたを救ってくださるのです。Ⅱコリント4章8~9節にこうある通りです。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
  私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。ボクシングの試合では相手のパンチを食らってノックダウンすることがありますが、でも試合はそれで終わりません。ノックアウトされるまで続きます。まさに、私たちの信仰はそうです。ノックダウンすることはあってもノックアウトすることはありません。これがイエス・キリストを信じる者に与えられている約束です。神が私たちに立てておられる計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。29:11にありますね。この「あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」ということばは、最後は希望だという意味です。皆さん、イエス・キリストを信じる者に与えられている最後は希望なのです。その約束をしっかり握りしめていなければなりません。これが私たちに求められている信仰です。絶望と思える中にあっても、真心から主に信頼し、パウロが持っていた確信を持ち続けていただきたいと思うのです。

Ⅱ.ヤコブの回復(18-22)

次に、18~22節をご覧ください。「18 ─【主】はこう言われる─見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。19 彼らから、感謝の歌と、喜び笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。20 その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。21 その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。──【主】のことば──22 あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」」

ここにも、近い将来における預言と遠い未来における預言が二重の預言になって語られています。「見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に立て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。」とは、近い将来においてはバビロン捕囚からの解放のことであり、遠い未来においては、寄留者となって全世界に散らされているイスラエルの民が、約束の地に帰還するようになることを預言しています。

「ヤコブの天幕」とは、一時的な住まいのことを指しています。バビロンでの彼らの生活は、まさに天幕生活でした。それはキャンピングをしているようなものです。キャンピングと聞くと、いいなぁ、のんびりできて、と思うかもしれませんが、それが毎日続くとしたらどうでしょう。たまったもんじゃありません。不自由ですよ。ゆったりとお風呂にはいっていることさえできません。でも、祖国に帰って自宅に住むと、やっぱり我が家はいいなあ、落ち着くなあということになるわけです。彼らは祖国に帰り、廃墟となった場所に都を建て直し、宮殿はその定められていた場所に建つようになります。人の数も増え、大いに繁栄するようになります。

これは遠い未来のことで言うなら、全世界に散らされていたユダヤ人がイスラエルに帰還することを預言しています。そして、私たちが生きているこの時代にこの預言が実現します。そうです、世界中に散らされていたユダヤ人が1800年代後半からイスラエルに帰還するようになり、ついに1948年5月14日にイスラエルという国として国連で承認されることになったんですね。そのこともこの預言の中に含まれています。

しかし、それはこれから後のこと、世の終わりに起こることの預言でもあります。それは、私たちがこの肉体という地上の幕屋を脱ぎ捨て、天から与えられる幕屋を着ることです。パウロはⅡコリント5章1~2節でこのように言っています。「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。」

この「地上の住まいである幕屋」とは、私たちの肉体のことです。私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされますとあるように、外なる人は日々衰えていきます。また、自分がしたいことではなく、したくない悪を行ってしまうという不自由さ、生きづらさというものがあります。でもそれがいつまでも続くのではありません。私たちはやがてこの地上の幕屋を脱ぎ捨て天から与えられる住まいを着るのです。それは人手によらない永遠の住まいです。決して衰えることはありません。病気になることもなく、障害を負うこともなく、老いることもなく、罪を犯すこともない完全なからだをいただくのです。そこは永遠の住まいで、感謝の歌と、喜び笑う声が沸き上がります。それが「天国」です。そこへいつか私たちは帰ることになるのです。その預言です。

  そのような祝福へと導いてくださるのはだれでしょうか。21節をご覧ください。「その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。─主のことば─」
  これは、メシヤ預言です。イスラエルの民に約束された祝福は、メシヤを通して与えられます。「その支配者はその中からでる」とあるように、メシヤはイスラエルの中から出ると言われています。これは近未来の預言では、バビロン捕囚からの解放された後に現れる権力者であり、支配者のことで、具体的にはダビデ王家の「ゼルバベル」という総督と、彼をサポートする「大祭司ヨシュア」のことです。彼らのことについては、エズラ記やゼカリヤ書に記録されてあるので、後で読んで確認しておいてください。

でも遠い未来のことで言うと、これはダビデの子イエス・キリストのことを指しています。それはここに「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあることからもわかります。神に近づくことができるのは祭司と呼ばれる人たちだけでが、イエス・キリストはその祭司としてご自身のいのちをかけて神に近づいてくださいました。へブル4章15~16節をご覧ください。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
  「私たちの大祭司」とは、イエス・キリストのことです。キリストは私たちに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みを受けられました。それは私たちの弱さを知っておられるということです。ですから、私たちの最も身近な存在として、どんな時でも寄り添ってくださることができるのです。あなたの気持ちを誰よりも理解してくださる方、あなたよりももっと深い闇の中にまで下りて行ってくださったお方です。ですから、あなた以上に苦しまれた方、あなた以上に理不尽な扱いをされました。人から裏切られ、友からも裏切られました。全世界が彼の敵となりました。そして最後は十字架にかけられ死なれたのです。何一つ罪を犯さなかったのに。文字通り、イエスはいのちをかけてくださったのです。この方が私たちの大祭司としてとりなしてくださるので、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。ですから、神の裁きや懲らしめにおびえることなく、主によって救われた喜びと平安の中で生きることができるのです。

このメシヤ、イエス・キリストを通して彼らは悔い改めて神に立ち返り、神の救いを受けようになるのです。それが22節にあることです。「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
  これは神と神の民との契約です。神を信じる者は、神の民となります。そして、神が私たちの個人的な神となってくださいます。これが神との関係です。これがキリスト教です。キリスト教は宗教ではありません。キリスト教は神との関係なんです。この契約を結んだ者がクリスチャンです。この契約を結んだ者がイスラエルの民でした。これは個人的には神がアブラハムと結ばれたものです。しかし、イスラエルがエジプトを出てシナイ山までやって来たとき、神はイスラエルの民と結ばれました。しかし、この契約は彼らの罪によって一方的に破棄されてしまいました。その結果、契約に違反して自らの身に呪いを招いてしまったのです。でも、神は彼らを見捨てられませんでした。神様は最初からわかっていたのです。どんなに契約を結んでも裏切られるということを。でも神様は絶対に約束を破ることはなさいません。最後まで誠実に守られるのです。そしてその壊れた関係を修復するために、私たちに出来ないことをしてくださいました。それがイエス・キリストです。神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に送り、その契約違反の罪をこの方に負わせて、十字架につけてくださったのです。未だかつてだれも見たこともない、聞いたこともない驚くべき方法によって、神は人類に救いの道を与えてくださったのです。私たちはそのことによって救われたのです。

それが世の終わりに実現することになります。キリストが再臨される時、イスラエルの民は、自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆き、主に立ち返るようになるのです。そのことがゼカリヤ12章10節と黙示録1章7節にこう預言されてあります。
  「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12章10節)
  「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。」(黙示録1章7節)
  キリストが再臨される時、全世界の人々がこの方を仰ぎ見るようになりますが、ユダヤ人にとっては、それは特に驚愕の出来事になります。それは、自分たちのために戦ってくださっている、自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったということを知るようになるからです。そして、彼らは胸をたたいて悲しみ、悔い改めて神に立ち返るようになります。イスラエルのすべての人たちがイエスを救い主として信じ受け入れるようになるのです。こうして、神の約束が成就することになります。その約束とは、「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)という約束です。それがこの「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束です。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。こうしてイスラエルはみな救われるのです。彼らと約束された契約が実現することになるのです。

Ⅲ.神に立ち返れ(23-24)

ですから、第三のことは、神に立ち返れ、ということです。23~24節をご覧ください。「23 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。渦巻く暴風が悪者の頭上に荒れ狂う。24 【主】の燃える怒りは、去ることはない。主が心の思うところを行って、成し遂げるまでは。終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」

24節に「終わりの日に」とあるので、ここでも世の終わりの患難時代のことが語られていることがわかります。それは、キリストを拒絶する者に対する神の怒りが注がれる時です。ヤコブの苦難と呼ばれているものです。それがここでは「主のつむじ風」とか、「渦巻く暴風」ということばで表現されています。これらは、終末にイスラエルの民を襲う患難の激しさを描写しています。主の燃える怒りは、去ることはありません。主が心の思うことを行って、成し遂げるまでは。つまり、その暴風は途中で止むことなく、主が命じたことを最後まで成し遂げるということです。患難時代がいかに困難なものであるかがわかります。しかし、神の怒りの目的は、イスラエルを滅ぼすことではなく、イスラエルを悔い改めに導くことでした。それが、「終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」とあることです。そして、31章1節の、「そのとき、主のことば、わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」ということです。これは22節でも語られたことですが、ここでもう一度語られています。実はこの31章1節のことばは30章に含まれます。つまり、そのとき、イスラエルは神の懲らしめの意味を悟り、主に立ち返るようになるということです。つまり、神の怒りの目的が、イスラエルの霊的な回復であったことが明らかになるのです。それは預言者ホセアが預言していることでもあります。「1 さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。3 私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:1-3)

このことから言えることは、私たちの人生において遭遇する患難、苦難は、危機であると同時に主に立ち返るチャンスの時でもあるということです。ですから、今もし苦難に会っているなら、それを通して神が何を語っておられるのかを聞かなければなりません。その苦難がチャンスに変えられるように祈らなければなりません。あなたが神に立ち返り神との関係の回復を望むなら、神はいくらでもやり直しの機会を与えてくださいます。回復を与えてくださるのです。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
  この脱出の道こそ、悔い改めて、神に立ち返ることです。そうするなら、神はあなたとの関係を修復してくださり、燃える神の怒りから、あなたも救われるのです。今がそのとき、今が恵みの時、今が救いの日です。そのとき、あなたは神の怒りではなく、神の赦しと救いをいただき、あなたの傷も完全に癒されることになるのです。

エレミヤ30章1~11節「だが、ヤコブはそこから救われる」

今日は、エレミヤ書30章からお話します。今日のメッセージのタイトルは、「だが、ヤコブはそこから救われる」です。7節から取りました。ここには「だが、彼はそこから救われる」とあります。「そこから」とは、その前に「それはヤコブには苦難の時」とあるように、苦難から救われるということです。ヤコブ、イスラエルは、その日大いなる苦難を受けますが、彼らはそこから救われるのです。それは私たちクリスチャンへの約束でもあります。私たちも患難を受けますが、そこから救われるのです。何という慰めに満ちた約束でしょうか。

前回もお話したように、エレミヤ書は29章から33章までが全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所となります。29章10節には、バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダの民、イスラエルを顧みて、いつくしみを施し、彼らを祖国に帰らせるとありましたが、この30章には、それが具体的にどのようになされるのかが語られます。

Ⅰ.その時代が来る(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 イスラエルの神、【主】はこう言われる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。3 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」」

主はエレミヤに、「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。」と言われました。書き記す内容は、主がエレミヤに語ったすべてのことばです。それはエレミヤ書全体を指しますが、特に30章と31章の内容となります。そして、その中心的な内容がこの3節のことばです。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」

ここでは、「見よ、その時代が来る」とか「そのとき」ということばが強調されています。新改訳第3版では、どちらも「その日」と訳しています。このように、聖書に「その時代」とか「その日」という表現がある時は、未来のことを預言する時に使われています。つまり、ここでは山が何重にも重なって見えるように、バビロン捕囚からの回復と同時に世の終わりに起こることが二重の預言として語られているのです。神はエレミヤに近い将来に起こることだけでなく、遠い未来に起こることも見せてくださいました。近い将来に起こることとは、70年間のバビロン捕囚からの解放のことです。彼らはバビロン捕囚から解放され、神がその父祖に与えた地に帰ることができるようになります。そればかりか、遠い未来においては、全世界に離散したイスラエルの民が祖国に帰還し、そこを所有するようになるというのです。

ここには「イスラエルとユダ」とあります。当時イスラエルは統一国家ではなく、北と南に分かれていました。北王国イスラエルと南王国ユダです。この時、北王国イスラエルは既にアッシリヤ帝国によって滅ぼされていました。B.C.722年のことです。それで北王国イスラエルの民はアッシリヤの捕囚となったり、周辺の国々に避難して行きました。いわゆる離散の民となったのです。これを何というかというと「ディアスポラ」と言います。「離散の民」です。その後、バビロンという新興国が起こりアッシリヤ帝国を呑み込むと、今度はそのバビロンが南王国ユダを滅ぼしました。しかし、ユダの人たちはバビロン捕囚となっても70年後には必ず祖国に帰れると預言されていて、それがB.C.539年に実現します。しかし、北イスラエルの民はアッシリヤによって滅ぼされて以来、世界中に散らされたままになっていますが、その北イスラエルの民も祖国に帰るようになるというのです。

果たして、それが実現することになります。いつですか?ここには「その日」とあります。それは驚くことなかれ、今私たちが生きているこの時代に起こったのです。1948年5月14日に、イスラエルは国連によって独立国家として認められたのです。それは1900年ぶりの奇跡でした。A.D.70年にローマ帝国の属国となっていたイスラエルは、ローマの激しい迫害によって国を失うと、世界中に散らされて行きました。それで北イスラエルだけでなく南ユダも離散の民となるのです。しかし、1800年代後半頃から世界中に離散していたイスラエルの民が急速に戻り始めると、これをシオニズム運動と言いますが、第一次世界大戦でトルコが負けイギリスの統治下に置かれ、第二次世界大戦を経て奇跡的に国として再興を果たすのです。信じられないことが起こりました。1900年の時空を超えて、神は再びイスラエルとユダを祖国に帰らせたのです。それは世界中の誰もが目を疑うような出来事でした。1900年もの間世界中に散らされていた民族が、再び祖国を取り戻したというような話など聞いたことがありません。でもそれが実際に起こったのです。それはどういうことかというと、今は世の終わりの時でもあるということです。

マタイ24章には、世の終わりにはどのようなことが起こるのかその前兆となることを、イエスが弟子たちに話されましたが、世の終わりになると、戦争や戦争のうわさを聞くようになると言われました。飢饉と地震が起こります。偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。もうこれだけでも、現代が世の終わりに限りなく近いことがわかります。でも、イエスは、このようなことが起こってもうろたえないようにしなさいと言われました。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではないからです。世の終わりの前には世界中に散らされた選びの民が再び集められるようになるからです。

ですから、イエスはこう言われたのです。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」(マタイ24:31)
  「選びの民」とはイスラエルの民のことです。世の終わりになると、神は選びの民であるイスラエルを集められます。これはエレミヤ書29章と30章で預言されていることです。そのことがここで預言されているのです。ですから、32節にこう言われているのです。「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出てくると、夏が近いことがわかります。」(マタイ24:32)
  いちじくの木は、イスラエルのシンボルです。そのいちじくの木の枝がやわらかくなって葉が出てくるということは、イスラエルが復興するということです。そのようになると夏が近いことがわかります。夏とは、いちじくの実を収穫する時、すなわち、イエスが再び来られる時のことです。その前にイスラエルの民が再び集められるのです。これらのことをすべて見たら、人の子が戸口まで近いことを知りなさいと、言われたのです。それが起こったのです。1948年に。ということは、もうイエスの再臨、世の終わりがすぐそこまで来ているということです。世の終わりのカウントダウンが始まったのです。私たちはそういう時代に生きているのです。

でも、まだイエスは再臨していないじゃないですか。あれからもう70年が経っていますよ。それなのにそれが実現してないのは、聖書には誤りがあるということですか?あるいは、聖書は信頼に値しない書物であるということですか?そうではありません。本来であれば、もういつ来てもいいのです。ただ、そうされなかったというだけです。それは一重に神が忍耐しておられるからです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。もしその時にイエスが再臨されすべての悪を一掃されたとしたらどうでしょう。ここにいる多くの人たちは救われなかったでしょう。でも神はひとりも滅びることを望んでおられないので、未だに時を延ばしておられるのです。しかし、それはいつまでも続くものではありません。それはもうギリギリのところまで来ています。それがまだ来ていないというだけのことです。もうすぐ起こります。神のことばはすべて必ず実現するからです。神の民イスラエルとユダは回復し、父祖たちに与えた地に帰り、それを所有するようになるのです。今はどんなに荒れ果てていても、必ず回復するのです。

これは慰めではないでしょうか。それが私たちにも与えられている約束です。神が私たちに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。最後は希望なのです。必ず回復の時が来ます。この約束を信じて、神とそのことばに希望を置く者でありたいと思います。

Ⅱ.ヤコブには苦難の時(4-7a)

次に、4~7a節をご覧ください。「4 【主】がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。5 まことに【主】はこう言われる。「恐れてわななく声を、われわれは聞いた。『恐怖だ。平安がない』と。6 さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。7 わざわいだ。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。」

ここには、その時どんなことが起こるかが書かれてあります。それが「ヤコブの苦難」です。ここも二重の預言になっています。「その日」とか「大いなる日」とあるからです。聖書においてこのことばが使われる時は、例外なしに終末時代を指しています。これは近い将来においてはバビロン捕囚によって成就しますが、遠い未来においては世の終わりの患難時代に起こることを指しています。

その日には大いなる患難が襲ってきます。5節には「恐れてわななく声」とか「恐怖だ。平安がない声」とありますが、それはまさにそのことを表現しています。男に子が産めるはずがないのに「男に子が産めるか、尋ねてみよ」とあるのは、男が産婦のように産みの苦しみをするようになるということです。私は痛風の痛みしか経験したことがありませんが、人間にとって最も激しい痛みは子どもを出産する時の痛み、産みの苦しみだそうです。その日には、男も激痛で腰に手を当て、顔が青ざめるようになります。実にその日は大いなる日で、他に比べようもない日なのです。前代未聞の日です。それはバビロン捕囚の比どころではありません。もっと恐ろしい、もっと激しい苦難が襲うようになるのです。それが世の終わりに起こる患難時代です。それがここでは「ヤコブには苦難の時」と言われています。ヤコブとはイスラエルのことです。イスラエルは世の終わりに激しい患難時代を通るようになるということです。それはバビロン捕囚のように苦痛が伴うものですが、それとも比較できないほどの苦痛、まさに陣痛のように激しい痛みが伴うのです。ゼカリヤ書によると、「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」(ゼカリヤ13:8)と言われています。これは反キリストの迫害によって世界中のユダヤ人の三分の二が死に絶えるということです。第二次世界大戦時に、あのヒトラーによって約600万人のユダヤ人が虐殺されましたが、それは全世界のユダヤ人の三分の一でした。ですから、それ以上の患難が襲うということです。私たちはあのホロコーストの悲劇を知っています。あれほど恐ろしいことがあるかと思うほど恐ろしいことですが、世の終わりにもたらされる患難はそれ以上のもの、もっと恐ろしい患難です。それがユダヤ人を襲うことになるのです。これが黙示録6~19章に描かれている内容です。黙示録6章16~17節には、それがあまりにもひどい患難なので、地の王たち、高官たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞窟と山の岩間に身を隠し、山々や岩に向かってこう叫ぶほどです。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」

このことについては、イエスご自身も語られました。マタイ24章15~21節をご覧ください。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」
  これがエレミヤ書で言われている「ヤコブの苦難」です。それはこれまで経験したことがないような、また今後も決して経験しないような大きな苦難です。ユダヤ人たちが反キリストによって迫害されるからです。なぜ彼らが迫害されるのかというと、ユダヤ人は反キリストを絶対に拝まないからです。反キリストは自分を現人神であると宣言するのですが、ユダヤ人は真の神以外を拝まないので迫害されるのです。ここに「荒らす忌むべきものが聖なるところに立っているのを見たら」とありますが、それはこの7年間の患難時代のちょうど半分、1260日、3年半が経った時のことです。反キリストはユダヤ人のためにエルサレムに神殿を建てるので、ユダヤ人たちはすっかり騙されて彼をメシヤだと信じるのですが、3年半が経ったとき彼は神殿の最も聖なるところに立ち、「我こそ神である」と宣言するようになります。その時になってユダヤ人たちは自分たちが騙されたことに気付くのですが時すでに遅しで、激しい迫害を受けるようになるのです。それがこのヤコブには苦難の時のことです。

その時には山に逃げるようにと言われています。この「山」とは、旧約聖書では「ボツラ」と呼ばれている山で、現在の「ペトラ」という町のことだと考えられています。ここは今、世界遺産になっています。岩だらけで何もない場所ですが、「逃れの町」としての役割を担ってきたところです。そこは岩だらけで、難攻不落の天然の要塞となっています。イスラエルの民はそこでかくまわれることになります。その間に反キリストは逃げないユダヤ人を追い回し、迫害して虐殺するのです。それが世界のユダヤ人の全人口の三分の二に相当するのです。他の三分の一は山に逃れて助かります。ここに「逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」とあるのは、冬は雨期なのでぬかるんで歩けないからです。また、安息日というのは、旅行が許されていないので、歩ける距離が律法で決まっていたからです。

この患難時代は、それほど苦しい時です。それはまさに出産の時の激しい痛み、いやそれ以上の苦痛です。ヤコブ、イスラエルはそこを通るようになります。しかし、イエス・キリストを信じる者はこの患難を受けることはありません。イエス・キリストが私たちの岩であり、隠れ場であり、避け所であり、砦、大盾となって、私たちを匿ってくだるからです。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)とある通りです。

主はその前に再臨され、ご自身を信じる者を引き上げてくださいます。これを「携挙」と言います。主が天から下って来られます。そしてまず、キリストにあって死んだ人が墓からよみがえり、次に、生き残っているクリスチャンが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがⅡテサロニケ4章16~17節で言われていることです。もし引き上げられなければ大変なことになります。それはあなたが重い思いからではありません。あなたが主イエスを信じなかったからです。これはもう死にたいと思うくらい苦しい患難です。でもこの患難時代の前に携挙が起こり、私たちはそこから救われるのです。これがⅠテサロニケ5章9節で約束されていることです。ご一緒に読みましょう。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」
  神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださいました。この御怒りとは、この患難時代にもたらされる苦難のことです。私たちは主イエス・キリストによって、神の御怒りから救われるように定められているのです。ですから、恐れることはありません。

Ⅲ.だが、彼はそこから救われる(7b-11)

第三に、だが、彼はそこから救われます。7節後半~11節をご覧ください。「7bだが、彼はそこから救われる。8 その日になると──万軍の【主】のことば──わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。9 彼らは彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。10 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない。11 わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」」

だが、ヤコブには希望があります。それはヤコブには苦難の時ですが、彼はそこから救われることになるからです。その様子が8節以降に語られています。「その日になると─万軍の【主】のことば─わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。」
  その日、主は反キリストをさばき、ヤコブを解放されます。他国人が再び彼らを奴隷にすることはありません。彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えるようになります(9)これはどういうことかというと、千年王国で復活したダビデとともにイスラエルを統治するようになるということです。

10節をご覧ください。ヤコブは、散らされた先の国々から約束の地に帰還し、そこで安らかに住まうようになります。ヤコブ、イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいますが、滅ぼし尽くされることはありません。その罪のゆえに大きな痛みや傷、苦しみを味わったあとには、赦しと救いを用意しておられるのです。なぜ?なぜなら、神がそのように約束してくださったからです。

11節をご覧ください。ここには、「わたしがあなたとともにいて─主のことば─あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」とあります。これもすばらしい約束です。確かに、ヤコブは主に背き自分勝手な道に歩んだので、主は決して彼らを罰せずにおくことはしませんが、だからと言って滅ぼし尽くすことはありません。それはヤコブには苦難の時ですが、その苦難は母鳥が心地よい巣をわざと壊し、雛鳥たちを何もない空間に落とすことによって雛鳥が高く飛ぶことを学ぶことができるようにするように、ご自分の民を懲らしめるために与えるのです。
  ですから、彼らが滅ぼし尽くされることはありません。神はこの約束に基づいて、大きな痛みや苦しみを味わった後に、赦しと救いを与えてくださるのです。神は約束を守られる方です。もしイスラエルが滅びたり、国が完全に失われることがあるとしたら、それは約束違反をしたことになりますが、神はそういう方ではありません。神はご自身の約束に基づいて、イスラエルを滅ぼし尽くすことは絶対になさらないのです。逆に、イスラエルに敵対する者は滅ぼし尽くされることになります。

そして世の終わりに、これが成就することになります。ゼカリヤ12章10節を開いてください。ここには、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」とあります。これはどういうことかというと、ヤコブの苦難を通して悔い改めたイスラエルが、信仰を持って再臨のイエスを迎えるようになるということです。
「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)
  だから、イスラエルの平和のために祈らなければなりません。イスラエルの救いがイエスの再臨の条件となっているからです。

だれが、こんなことを考えることができるでしょうか。主のご計画は、人間の思いをはるかに超えています。イスラエルは自分たちの罪ゆえに神から懲らしめを受けますが、それはヤコブには苦難の時です。でも、彼はそこから救われます。それは私たちも同じです。私たちも神に背くことで神から懲らしめを受けますが、その懲らしめを通して神に立ち返り、悔い改めてイエス・キリストを受け入れることによって、そこから救われることになります。

ですから、恐れないでください。おののかないでください。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。患難の先にある希望を見上げ、主イエスを信じ、主とともに歩む決断をしようではありませんか。あなたの上に、主が恵みと哀願の霊を注いでくださいますように。その霊によって主を仰ぎ見て、主が与えておられる約束を受け取ることができますように。

エレミヤ29章1~14節 「驚くべき神の計画」

今日は、エレミヤ書29章からお話します。ここはエレミヤ書の中心的な箇所です。まさに、エレミヤ書の心臓部と言える箇所でもあります。ここには、世界中のクリスチャンから愛されている聖句も出てきます。29章11節のみことばです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

これは、キリスト教国際NGOの団体で「ワールド・ビジョン」という団体があるのですが、その英国支部が行ったデジタル調査で、世界で二番目に人気のある聖書の一節に選ばれた聖句です。ちなみに、一番人気があったのは、皆様もよくご存知のヨハネ3章16節です。その次に人気があったのが、このエレミヤ書29章11節です。しかし、それほどよく知られている聖句ですが、前後の文脈から外れて理解されていることが多いのも事実です。今日は、この箇所から「驚くべき神の計画」について、ご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.驚くべき神の計画(1-9)

まず、1~9節をご覧ください。1~3節をお読みします。「1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。2  この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。」

これは、エレミヤがエルサレムからバビロンに捕囚の民としては引いて行かれたユダの民に書き送った手紙です。2節には、この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、とありますが、第二回目のバビロン捕囚が行われた後に書かれたものです。バビロン捕囚は全部で3回行われました。第一回目がB.C.605年、第二回目がB.C.597年、そして第三回目がB.C.586年です。ユダの王エコンヤが捕囚の民として連れて行かれたのは第二回目の時ですから、この手紙が書き送られたのは、第二次バビロン捕囚が行われたB.C.597年頃ということになります。

エレミヤはなぜ彼らに手紙を書き送ったのでしょうか?それは、エレミヤが彼らのことを憂いでいたからです。なぜなら、そこには偽預言者が横行していたからです。そこには本物の預言者もいましたが、それ以上に偽預言者が多くいました。彼らは主の名を使って偽りを預言していましたが、ユダの民の中にはそうした偽預言のことばに騙されて、浮足立った生活をしている人たちがいたのです。たとえば、28章に登場したハナンヤがそうでした。彼はバビロンに連れて行かれたユダの民は2年のうちに戻ってくると預言していました。でもそれは事実ではありませんでした。ユダの民がエルサレムに戻ってくるのはいつですか?70年の時が満ちる時です。25章12節のところで、そのように語られていました。それなのに彼は2年で戻ることができると偽ったのです。それを聞いたユダの民はどう思ったでしょうか。彼らはそんな偽預言者の甘いことばに騙されて淡い期待を抱き、だったら2年間だけ我慢して適当な生活をしていればいいと思っていたのです。皆さん、何を信じるかはとても重要なことです。なぜなら、それはその人の生活に大きな影響を及ぼすからです。それはただの教えでは済まないのです。その人のライフスタイルに大きな影響が及ぶことになるのです。

ですから、エレミヤは彼らにこのように書き送りました。8~9節をご覧ください。「8 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──【主】のことば。』」
  つまり、地に足を付けて生活しなさい、ということです。浮足立っていてはいけません。偽預言者たちや、占い師たちにごまかされてはなりません。夢見る者たちのことばに騙されてはいけないのです。むしろ、落ち着いて生活するように心がけなければなりません。

それは具体的にはどういう生活ですか?4~7節にこうあります。「4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。」

それは具体的には、家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べるようにしなさいということです。そこに定住することを覚悟して、しっかり仕事をするように。その働きによって食べていけるようにしなさい、ということです。

それだけではありません。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えるように。減ってはならない。つまり、結婚して子どもを産み、家庭を築き、エルサレムに帰還してから後に備えるようにしなさいということです。

そればかりではありません。その町の平安を求め、その町のために主に祈らなければなりません。「その町」とはどこですか?そのバビロンのことです。バビロンの平安を求め、その町のために祈らなければなりません。なぜなら、その町の平安によって、あなたは平安を得ることになるからです。どういうことでしょうか?バビロンは自分たちを苦しめた相手ですよ。いわゆる自分たちの敵です。そのバビロンのために祈ることが、どうして自分たちが平安を得ることになるのでしょうか。それは、それこそが神の計画によるものだったからです。神の計画は彼らがバビロンの捕囚民としてバビロンに引いて行かれ、そこで懲らしめを受け神の民としてふさわしく整えられバビロンから出て約束の地に戻ること、それが神の計画だったのです。だから、その町の平安を祈ることが、自分たちが平安を得ることになるのです。

それは、4節と7節で次のように言われていることからもわかります。「わたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」。「わたし」とは誰ですか?これは神ご自身のことです。彼らがバビロンに引いて行かれたのは神ご自身が成されたことだったのです。人間的に見たら、ユダの民がバビロンに引いて行かれたのはバビロンの王ネブカデネツァルによることであったかのようですが、実はそうではなく、それは神ご自身が成されたこと、神が引いて行かせたことだったのです。
  皆さん、誰の目を通して物事を見て行くか、自分の置かれた状況を見て行くのかは、とても重要なことです。人間の目を通して見るなら失望することもあるでしょうが、でも、神の目を通して見るからそこに特別な神のご計画があることを知って励まされます。確かに今の状況は神の警告を無視した結果かもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、神は私たちを見捨てるお方ではなく、いつまでも共におられる方です。蒔いた種は刈り取らなければなりません。しかし、そうした作業の中にも神は共にいて下さり驚くべきことをしてくださるのです。そこには驚くべき神の計画があるのです。まさにバビロン捕囚という出来事は、驚くべき神の計画によるものだったのです。神の計画は私たちの目で良いことばかりではありません。わざわいだと思えることでも、神が深い目的をもって与えておられるのです。それが「わたしが引いて行かせた」という意味です。

エレミヤは、バビロンの捕囚になった民に対してそれを明かそうとしているのです。言うならば、これは彼らを滅ぼすための刑罰ではなく、むしろ、彼らを鍛え上げ、もっと良いものに造り変えるための神の懲らしめ、訓練だったのです。自分の子どもの成長を願わない親がいるでしょうか。これは父が子を思うからこその訓練であって、それがバビロン捕囚だったのです。

Ⅱ.将来と希望を与えるためのもの(10-11)

次に、10節と11節をご覧ください。「10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

いよいよ、この箇所の中心の節に来ました。10節には「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」とあります。つまり、バビロン捕囚の民に対して、神の時が来たら、神ご自身が彼らを顧みて、神が与えた約束のことばを実現してくださるということです。その約束とは、この場所に帰らせる、ということです。祖国に帰ることができるのです。神の家で再び主を礼拝することができる。それは「バビロンに七十年が満ちるころ」です。

この70年とは、いつからいつまでなのかははっきりわかりません。ある人は、ヨシヤ王が死んだB.C.609年からペルシャの王キュロスによってエルサレムに帰還してもいいという勅令が出されたB.C.539年までの70年間だと考えています。また、ある人は、第三次バビロン捕囚でエルサレムの神殿が崩壊したB.C.586年から、神殿が再建されたB.C.516年までの70年間だという人がいます。いずれにせよ、かなりの年月になります。でも、神は必ずこの約束を実現してくださいます。必ずエルサレムに戻ることができるし、神殿も再建されるのです。神の約束は、たとえ時間がかかっても必ず成就するからです。そのことをしっかりと受け止めなければなりません。焦ってはいけません。神の時、神のタイミングがあります。自分の時と神の時は違います。自分の時ほどあてにならないものはありません。なぜなら、私たちはあまりにも無知だからです。私たちの時というのはせいぜい有限な時間の中での時にすぎませんが、神の時は無限の世界における時です。過去とか、現在とか、未来とか、全く関係ありません。その永遠の中で語られていることですから、私たちの知恵をはるかに超えているのです。ですから、神の時は完全であり、ベストなのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とある通りです。どんなに時間がかかろうとも、どんなに自分の時とかけ離れていようとも、神のなさることは時にかなって美しいのです。そのことを信じなければなりません。

11節をご覧ください。ですから、神はこう言われるのです。ご一緒に読みましょう。「わたし自身、あなたがたのために建てている計画をよく知っている。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  これは、私たちが立てている計画ではありません。神が私たちのために立てている計画です。神は、その計画をよく知っておられます。私たちは自分のために立てている計画をよく知っていると思っていますが、実際のところは何も知っていません。だから、計画倒れということが起こってくるのです。「ご利用は計画的に」なんて言われるのです。でも、神は違います。神は私たちのために立てている計画をよく知っておられます。その計画とはどんな計画でしょうか。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  皆さん、神が私たちのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画です。この「平安」という語は、元々の言葉では「シャローム」です。それは、何の欠けもない満ち足りた状態のことを指します。そこには繁栄も含まれますし、健康も、祝福も、成功も含めた理想的な状態のことです。そういう計画を神はあなたのためにもっておられるのです。それは将来と希望を与えるためのものです。でも忘れてはならないのは、これは神の目における平安であって、私たちの目における平安ではないということです。神の目における平安とは何でしょうか。

それは、ピリピ4章6~7節にあることです。「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
  ここに「すべての理解を超えた神の平安」とあります。それは人のすべての理解を超えた、人のすべての考えにまさる平安です。それは想像を絶するもの、私たちの頭では到底想像できないような驚くべき計画です。それが神の計画なのです。ここではそれは何を指しているのかというと、バビロン捕囚のことです。神が彼らのために立てておられた計画とは、何と彼らがバビロンに引いて行かれ、そこで70年間奴隷として生きるということだったのです。なぜそれが平安を与える計画なんですか?そんなのわざわいじゃないですか。わざわいじゃないんです。だからここにわざわざ但し書きがあるんです。「それはわざわいではなく」と。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものなのです。なぜこれが平安を与える計画だと言えるんですか?それは、そのことによって神はあなたに真の平安を与えてくださるからです。それは私たちにはわざわいにしか見えなくても、神はそのわざわいにしか見えないような事を通して将来と希望を与えてくださるのです。

この「将来と希望」の「将来」ですが、これは「終わりに」とか、「最後に」、「~後に」という意味の語なんです。つまり、最後は希望だということです。神があなたのために立てている計画は、最後は希望なのです。絶望ではなく希望。神に従う者の最後は、途中経過はどうであれ、最後は希望なのです。途中経過は失望のように見えても、終わってみれば希望であったことがわかるのです。なぜなら、神はいつも私たちの益のために働いておられるからです。

それがローマ8章28~29節で言われていることです。ここには、「28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(新改訳改訂第3版)とあります。これも有名なみことばですが、ここにも「知っている」とあります。何を知っているんですか?神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、です。アーメン?これは、最後は益であるということです。これは私もあなたも知っていることです。バビロン捕囚も含めて、神はあなたの苦しみも、あなたの悲しみも、あなたの辛さも、全部ひっくるめて益としてくださるのです。そのことは知っています。

では、その益とは何でしょうか?それが29節で言われていることです。「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」
  それは、御子と同じ姿に変えてくださるということです。皆さん、これが益です。これが究極的な益なんです。究極的な益は那須塩原駅ではありません。究極的な益は、私たちが神の似姿に変えられるということです。このことは私たちも知っていることです。バビロン捕囚も全く同じです。神がご自身の計画をもって彼らを召されました。それはバビロンから逃れるということではなく、またバビロンと戦うということでもなく、バビロンの軍門に下るということ、バビロン捕囚に従うということです。それで彼らは苦しめられ、卑しめられ、傷つけられますが、その中で彼らは砕かれ、練られ、すべての不純物を取り除かれて、神の民として、神の国に入るためにふさわしい者となって、最後はバビロンを出て行くことになるのです。そのことを通して、神は彼らを御国の民としてふさわしい者として整えてくださるのです。ほら、益でしょ。これは彼らにとって益だったのです。

それは私たちも同じです。ジョン・バニヤンは「天路歴程」という本を書きましたが、私たちも天の御国に着くまでには実に様々なことがあります。でも最後には御子と同じ姿となってこの世というバビロンを出て行くことになるのです。そして、神が約束された地、天の御国へと引き上げられるのです。それが私たちのバビロン捕囚です。すべてのことはこのためです。それがどのように機能するのか私たちにはわかりません。このバビロン捕囚のような出来事が、このような悲劇、損失、状況が、本当に私をキリストの似姿に変えてくれるものになるのかどうかわかりませんが、わかっていることは、神は知っておられるということです。神はご自身の考えで、ご自分の方法で、私たちをご自分の御子と同じ姿に変えてくださる。だから、神があなたのために立てている計画というのは良いことばかりでなく、辛いなぁ、苦しいなあと思うようなことも含めてすべてです。それは私たちにはわかりません。でも、一つだけわかることは、神を愛する人々、すなわち、神のご計画のために召されたすべての人たちのために、神はすべてを働いて益としてくださるということです。信じますか?そのことを通して、最後は希望を与えてくださいます。御子と同じ姿に変えられるからです。それが、ここで語られていることです。

よく、人生は刺繍のようなものだ、と言われます。刺繍は、表と裏を見ると全然違います。裏を見ればほころびだらけです。何の絵柄が描かれているのか全然わかりません。検討もつきません。まるでカオスです。そこにはいろいろな色の糸があるだけで、ただごちゃごちゃしているだけのように見えます。しかし、裏面を表にしてみるとどうでしょうか。そこには理路整然とした美しい絵柄が浮かび上がっています。これが将来、私たちに約束されている表の面です。今は裏面しか見ていないので理解できませんが、でも苦難の裏側には神の美しい栄光に満ちた計画が既に織り込まれているのです。

ですから、裏面ばかりを見て文句ばかり言うのではなく、その表の方を絶えず意識しなければなりません。どんな絵柄が浮かび上がってくるのかを楽しみに、主がどんなことをなそうとしておられるのか、どんな結果をもたらしてくださるのかを楽しみにして、今置かれている状況をわざわいとしてではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだと受け止めなければならないのです。

私たちの教会では英語の礼拝も行っていますが、そこでご奉仕しておられるR・フレミング先生ご夫妻が、先月、フィリピンにいる息子さん夫婦を尋ねた時のことです。そこでフレミング先生ご夫妻は毎朝散歩をしていたら、ある日、デニスさんという62歳のフィリピン人のクリスチャンに出会いました。彼はマニラに家を建てるためにサウジアラビアで22歳の時から20年間働いて、お金を少しずつ貯めました。若い時彼はクリスチャンではなく、反対でした。クリスチャンではなくより多くのお金を得ることに人生を捧げていました。サウジアラビアでは他のクリスチャンから何度も何度も聖書をもらいましたが、そこでは聖書を所有することは違法だったので、怖くて読まずに、その聖書をいつも捨てていました。20年前、42歳のデニスさんが休暇でマニラに帰った時、一週間くらいの休暇でしたが、ある警察署長が、フィリピンでは違法な花火を没収していました。そしてその警察署長は新年にその違法な花火を打ち上げていましたが、デニスさんは道路脇で爆発していない花火を見つけました。彼はそれを家に持ち帰り、新聞紙に包んで火を付けました。しばらくして何も起こらなかったので、彼が手に取ると、花火が爆発して、彼の手を吹き飛ばしてしまいました。その写真を見せてくれたのですが、右手の手首から先がありませんでした。何と悲惨な出来事でしょう。
  しかし、デニスさんはこの恐ろしい事故を、神様からの素晴らしい祝福と思いました。サウジアラビアに戻って働くことはできませんでしたが、何人かの近所の人が病院にいるクリスチャンが彼を見舞いに来て聖書を読み、一緒に祈ってくれました。その時デニスさんはクリスチャンになりました。彼は病院でクリスチャンになりました。デニスさんは右手と大切な仕事を失いましたが、神の恵みの賜物を受け取ることかできた、と言いました。彼は喜んでその手を見せてくれて、喜んでイエス様による救いについて毎朝話してくれたそうです。誰がみてもわざわいにしか見えない出来事が、実は彼にとって平安と希望を与えるためのものだったのです。

今年は、1月1日に能登半島で大きな地震がありました。いったいこの先どうなるのだろうかと、だれもが不安に思ったことでしょう。今も復旧、復興作業が続いています。そして一日も早く復旧するようにと教会でも祈っていますが、それはあの3.11の時も同じでした。もう世の終わりが来たのではないかとさえ思いました。全世界が一つとなって祈り、東北の復旧、復興のために祈り、取り組みました。
  そのとき、かねてから親しくさせていただいている恵泉キリスト教会の牧師で、千田次郎という先生がいらっしゃるのですが、ある集会で先生が講壇からお話をしていたとき、先生が「もっとよくなる!」と言われるのを聞いて、凄いなぁと思いました。だれもが、神も仏もないと落ち込んでいたとき、何と悲惨なことが起こったのかと悲しんでいたとき、先生は「もっと良くなる!」と言われたのですから。先生はその言葉の後にこう続けて言われました。「だって、聖書にそう書いてあるでしょ。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださると」。なかなか言えない言葉です。被災された方を前にしてそんなことを言ったらどんなふうに思われるか、そのように考えたらとても言えなません。これは先ほどのローマ8章28節のことばを本当に信じていないと言えないことばだと思うのです。千田先生は、このみことばを信仰によって受け止め、しっかりと握り締め、このみことばに生きているからこそ言えたのだと思いました。それは何も地震だけのことではなく、先生の生き方のすべてにおいて言えることだからです。

今、目の前で起こっている出来事はすべて神が私たちの益のために成しておられること。たとえそれが苦しいこと、辛いこと、悲しいことであっても、神はそれさえも益に変えてくださる。そのことを通して、神は私たちを御子と同じ姿に変えてくださるという御業をなしておられるのです。

私たちの人生の途中ではわからないことばかりですが、でもはっきりわかることは、終わってみれば希望であるということです。それが私たちの人生なのです。終わってみないとわかりません。私たちが完全に御子と同じ姿に変えられるとしたら、それは本当にすばらしい希望ではないでしょうか。

だからクリスチャンはみんなワクワクしているのです。その途中、辛いところを通っても、最後にはキリストを信じる者に用意されている救いをいただくということを知っているのですから。その時には神の御子と同じ姿に完全に変えられるのです。それがこの世の人たちとの大きな違いです。この世の人たちは、目の前の状況を見て一喜一憂しています。なぜなら、終わりを知らないからです。今がよくても終わりに何があるか知りません。だから不安になってしまうのです。でもクリスチャンは違います。クリスチャンは、この世にあっては、今しばらくの間、様々な試練の中で苦しんだり、悲しんだりしなければならないこともありますが、最後は希望だということを知っているので喜ぶことができるのです。

Ⅲ.神を呼び求めよ(12-14)

では、バビロンにいる70年間はどのように生きればいいんですか?じっと我慢していればいいんですか?そうではありません。それは人生の訓練の時ですから、そのような時こそ神を捜し求めなければなりません。それが12~14節で言われていることです。「12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」

教会がないから祈れないということはありません。エルサレムから1,000キロも離れたバビロンで、たとえ神殿がなくても、たとえ悲劇の真只中にあっても、たとえ苦難の真最中においても、そこで神を呼び求めよ、というのです。そうすれば、あなたはわたしを見つけることができます。そして、やがて神の不思議を見るようになる、というのです。具体的には、あなたが引かれて行った先から元の場所へ帰らせるのです。夢も希望もないんじゃない。あなたは元の場所に戻るんだから。神殿までも新しくなるという未来があるんだから、がっかりしないで、遠く離れた場所で祈れ。神様との関係をしっかり築きなさい、というのです。

米国クリスチャン・ジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーが、「光の注がれる場所」という自伝を書いています。これは自らの半生を回想したものですが、「痛むとき、神はどこにいるのか」「祈りは本当に聞かれるのか」という問いかけを持つにいたった理由が明かされているのです。彼の半生は壮絶なものでした。記憶にない父親の死の秘密、過剰なまでの母親の期待、トレーラーハウスでの貧しい生活、白人至上主義に立つ教会とバイブルカレッジ……と。そうした状況をどのように乗り越え、心の癒やしをたどってきたのか。それは、この場所に光が注がれていると信じることによってです。

それはこの捕囚の民も同じでした。遠く離れたエルサレムから1,000キロも離れたこの場所にも光が注がれていると信じることができたからこそ、これが彼らに与えられている神の深いご計画だと信じることができたからこそ、彼らは耐えることができたのです。

それは私たちも同じです。あなたにも神の光が注がれています。神はあなたのために最善の計画を持っておられるのです。それはわざわいではありません。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それによってあなたは揺るぎない信仰を築くことができます。そういう経験がなかったら、あなたはこういう信仰にはならなかったでしょう。ですから、これが神の計画であると信じて、浮足立つのではなく、夢見る者には気を付けて、置かれたその所で地に足を付けて、落ち着いた生活を心がけなければなりません。そこで神を呼び求めなければならないのです。そうすれば、あなたは神を見出すようになるでしょう。そして、やがて70年がやって来ますよ。その時あなたは信じられない奇跡を見ますよ。あなたの思いをはるかに超えた神の不思議を見るようになるのです。神があなたがたに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものであると信じて、主に感謝しましょう。そして、主がなされる信じられない御業を待ち望みましょう。


エレミヤ28章1~17節「神のことばにとどまるように」

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聖書箇所:エレミヤ書28章1~17節(エレミヤ書講解説教51回目)
タイトル:「神のことばにとどまるように」
今日は、今年最後の礼拝です。この一年も教会とそれぞれの生活においていろいろなことがありましたが、すべてが主の恵みと信じて、主に感謝し心から御名をあがめます。
今年最後の礼拝で主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書28章のみことばです。ここには、エレミヤとは全く異なる預言をしていたハナンヤという預言者が登場します。今日は、このにせ預言者ハナンヤとエレミヤとの対決を通して、私たちが拠り頼むものは何か、それは神のみことばであるということ、だからこのことばにとどまるようにというお話したいと思います。
Ⅰ.人を喜ばせようとするのではなく神を(1-4)
まず、1~4節をご覧ください。「1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、【主】の宮で、祭司たちと民全体の前で、私に語って言った。2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを砕く。3 二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪い取ってバビロンに運んだ【主】の宮のすべての器をこの場所に戻す。4 バビロンに行ったユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの場所に帰らせる──【主】のことば──。わたしがバビロンの王のくびきを砕くからだ。」」
「その同じ年」とは、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年のことです。ゼデキヤが王として即位したのはB.C.597年ですから、これはB.C.593年になります。ギブオン出身の預言者で、アズルの子ハナンヤが、主の宮で、祭司たちと民全体の前で、エレミヤに語って言いました。イスラエルの神、万軍の主は、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを砕き、2年のうちに、彼がこの場所、これは主の宮、エルサレム神殿のことですが、ここから奪い取ってバビロンに運んだすべての器をこの場所に戻すと。そればかりではありません。バビロンに連れて行かれたユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、この場所に帰らせると。彼の預言は、ユダの民にとって喜ばしい内容でした。しかも「2年のうちに」ということばは、明るい兆しを感じる魅力的なものです。でもこれはエレミヤが預言したこととは異なることでした。エレミヤは何と言っていましたか。25章11~14節をご覧ください。エレミヤはこのように預言していました。
「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」
エレミヤが預言していたのは「2年のうちに」ではありません。70年の終わりに、です。ユダの民は廃墟となって荒れ果て、バビロンの王に70年間仕えようになります。その70年の終わりに、主はバビロンの王とその民を彼らの咎のゆえに罰し、永遠に荒れ果てた地とし、代わりにペルシャの王クロスを用いて、ユダの民が元の場所に帰ることができるようにするというものでした。それが27章22節で言われている「わたしがそれを顧みる日」のことです。それまでバビロンの王によって運び去られた主の宮の器はそこにありますが、70年後に主がユダを顧みられる日に、主はそれらを携え上り、この場所エルサレムに戻すようにするのです。それが、主がエレミヤを通して言われたことでした。だから2年のうちにではないのです。70年後のことです。最初のバビロン捕囚があったのはB.C.609年ですから、それから70年後というのは、B.C.539年になります。
果たしてどちらの預言が正しかったでしょうか?歴史を見ればわかります。ハナンヤが言った「2年のうちに」というのは偽りでした。むしろ、その数年後のB.C.586年には3回目のバビロン捕囚が行われることになります。その時エルサレムは陥落し、神殿は完全に崩壊することになります。主の宮にまだ残っていた器も、すべてバビロンに運び去られることになるのです。つまり、ハナンヤの預言は間違っていたということです。彼はにせ預言者でした。それなのに彼はエレミヤを捕らえて祭司たちと民全体の前で、エレミヤが間違っていると豪語しました。2年のうちにバビロンの王のくびきは砕かれ、バビロンがエルサレムから奪い取ったものはすべて戻されるし、すべての捕囚の民も帰るようになると言ったのです。
この両者の名前には、どちらにも「ヤ」が付いていますが、これは「ヤダー」の「ヤ」ではなく、「ヤハウェ」の「ヤ」です。つまり、主の御名で語る者です。それなのに、預言の内容は全く違うものでした。しかも、ハナンヤは「ギブオンの出身の預言者」とありますが、ギブオンはエレミヤの出身地のアナトテと同じベニヤミン族の領地にある祭司の町でした。ですから、彼はエレミヤと同じように祭司の家系だったのではないかと思われます。エレミヤと同じようなバックグランドを持っていた彼が、エレミヤとは全く違う預言をしていたのです。
さらに2節を見ると、彼は「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる」と言っていますが、本物の預言者が使うような言い回しをしています。それがあたかも本当に主から出たことばであるかのように語っていたのです。
でも、一つだけ違いがありました。それは何かというと、エレミヤは主が語れと言われることを語ったのに対して、ハナンヤは民が聞きたいことを語ったという点です。人々が望むようなことばかり、都合の良いことばかり、耳障りの良いことばかり語っていたのです。ホッ、ホッ、ホタル来い、ではありませんが、彼の言葉は甘い言葉の集大成のようなものだったのです。
しかし、真の預言者は人を喜ばせようとして語るのではなく、神に喜んでいただこうと語らなければなりません。Ⅰテサロニケ2章3~4節にこうあります。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」
人を喜ばせようとしてではなく、神を喜んでいただこうとして語る。これが真の預言者です。つまり、焦点がだれに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。人を気にすると、文字通り人気取りになってしまいます。でも私たちが気にしなければならないのは人ではなく神です。神に喜ばれているかどうか、神がどう思っていらっしゃるのか、ということです。私たちはついつい人に喜ばれたいことを語ってあげたいと思いますが、それでは本末転倒になってしまいます。
先日、以前大田原教会のメンバーで、仕事でオーストラリアのパースに移られた西田兄が、15年ぶりに来会されました。ずっと日本で働きたいと願っていましたがその願いが叶い、家族をパースに残し、今年東京で働くようになりました。オーストラリアというとワーシップで有名なメガ・チャーチが各地にありますが、その教会に行っているのではないかと思い尋ねると、以前はそこに行っていましたが、今は違うシンガポール系の教会(Faith Community Church)に行っているということでした。なぜなら、毎週の礼拝のメッセージがいつも同じで、どちらかといえば求道者やクリスチャンになったばかりの人に受け入れやすくい内容ばかりで、聖書からの教えがなかったからです。じゃ、スモール・グループに行けば聖書を学ぶことができるかなと思って行ってみると、そこでもお茶を飲んで楽しく雑談するだけで聖書の学びがありませんでした。それでもっと聖書をしっかり教えている教会に行こうと、現在の教会に導かれたということでした。
確かに求道者に配慮することは大切ですが、あまりにも配慮しすぎるあまり、本来配慮しなければならない神がどこかに行ってしまうことがあります。よく教会は敷居が高いと言われますが、敷居が高いとはどういうことなのでしょうか。それは求道者を意識しての視点です。求道者ができるだけ心地よく礼拝に参加できるように、彼らが興味を持ってくれるような話題とか聞きたいと思っているような話を、できるだけおもしろく、おかしく、たまにジョーク混ぜながらお話しできたらいい。ひどいのになると聖書も使わない方がいいんじゃないかと言う人もいます。聖書は難しいから。最初から礼拝に来ると難しいと感じて躓いてしまうから、最初はクッキングクラスとかコンサートなどに誘った方がいいんじゃないですか。そうすれば敷居が低くなって求道者も気やすくなるから。
皆さん、どう思いますか。もちろん宣教の方策として、礼拝以外のこうした集会を持つことはあると思いますが、私たちが伝道する目標点を見失わないように注意しなければなりません。焦点がどこに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。私たちは人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを求めなければならないということです。では神が喜んでおられることは何か。勿論、神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それだけではありません。それは一つの通過点にすぎないからです。神が望んでおられることはすべての人が救われて真理を知るようになるだけでなく、救われた人がその救いにとどまっていること、そして今度は神に向かって生きるようになることです。神を喜び、永遠に神をほめたたえて生きる神の民となることなのです。それなのにいくらクッキングクラスで人を救いに導き、教会形成に向かおうとしても、それは容易なことではありません。目標点が違うからです。自分の喜びや楽しみと神の栄光とでは、全然違います。
ですから、私たちはその目標点見失ってはいけないわけです。そのためにはどうしても神のみことばが必要となります。なぜなら、「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができる」(使徒20:32)からです。ですから、大切なのは敷居を低くすることでなく、誰に喜んでもらうのかということです。人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを考え、求めなければなりません。
Ⅱ.平安を預言する預言者について(5-9)
それに対してエレミヤは何と言いましたか?5~9節をご覧ください。「5 そこで預言者エレミヤは、【主】の宮に立っている祭司たちや民全体の前で、預言者ハナンヤに言った。6 預言者エレミヤは言った。「アーメン。そのとおりに【主】がしてくださるように。あなたが預言したことばを【主】が成就させ、【主】の宮の器と、すべての捕囚の民をバビロンからこの場所に戻してくださるように。7 しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語ろうとするこのことばを聞きなさい。8 昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの地域と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病を預言した。9 平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に【主】が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」」
エレミヤは、ハナンヤのことばに対して「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。」と言いました。これはエレミヤがハナンヤの語ったことばに同意しているのではありません。自分もハナンヤの預言どおりになることを望まないわけではない。主が祖国に祝福をもたらすことをどんな願っていることか。バビロンによって奪い去られた主の宮の器とすべての捕囚の民をバビロンからこの場所にすぐに戻してくれることをどんなに願っていることか、という意味です。
しかし、主が語っておられることはそういうことではありません。主が語っておられることは、この民に戦いとわざわいと疫病がもたらされるということです。つまり、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということです。バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える人々を、主はその土地にとどまらせるということでした。それは昔から、エレミヤと、彼の先に出た預言者たちの預言と一致していて、これこそ主から出た主のことばです。
しかし、ハナンヤはそれとは異なり、平安を預言しました。平安を預言すること自体は問題ではありません。問題は、それが本当にもたらされるかということです。平安を預言する預言者については、その預言のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だということが証明されるのであって、その預言の成就を待たなければなりません。どんなに人々が喜ぶ内容でも、それが成就しなければ空しいことになります。人はハナンヤのように、周囲の人たちの願望を、まるで神からのことばであるかのようにすり替えてしまうことがあります。しかし、エレミヤは人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別することができました。ここが重要なポイントです。人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主からのことばを語らなければなりません。
エレミヤは平安が来ないと言っていたのではありません。27章7節で彼は「彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。」と預言していました。「彼」とはバビロンの王ネブカドネツァルのことです。すべての国が彼に仕えるのは、「彼の地に時が来るまで」です。それまでは彼とその子と、その子の子に仕えますが、しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。「その子の子」とは、ネブカデネツァルの孫のベルシャツァル王のことです。その時代になるときまで、ユダはバビロンに仕えますが、その時が来れば、そこから解放されるようになります。平安が来ると預言したのです。エレミヤは、平安は真の悔い改めと、神との契約に対して従順でなければ来ないことを知っていたのです。ハナンヤのような平安の預言は、むしろ真の悔い改めを妨害するもの以外の何ものでもありません。
今の時代でも、平安を安売りする預言者がたくさんいます。エレミヤのこうした態度から、私たちも学ぶ必要があります。私たちも人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主が望んでおられることが何なのかを知るために、この世と調子を合わせるのではなく、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるように、心を新たにしていただかなければなりません。
Ⅲ.偽りに拠り頼まされないように(10-17)
第三のことは、だから神のことばにとどまるようにということです。10~17節をご覧ください。10~11節をお読みします。「10 しかし預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。11 そしてハナンヤは、民全体の前でこう言った。「【主】はこう言われる。このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。」
ハナンヤはエレミヤが語ったことばを聞いて、よほど激怒したのでしょう。エレミヤの首についていた木のくびきを取って砕いてこう言いました。「主はこう言われる。このとおり、わたしは2年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」(11)
これは1つのデモンストレーションです。覚えていますか?27章2節で、主はエレミヤに「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。」と言われたことを。それは、ユダがバビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということでした。ですから、エレミヤの首には木のかせが付いていたのですが、ハナンヤはそのかせを砕き、「このとおりになる」つまり、バビロンのくびきから解放されると言ったのです。
それに対して、エレミヤは何と言いましたか?彼は何も言いませんでした。何も言わないで彼はそのままそこを立ち去ったのです。これは賢いことです。別に対抗することはないからです。時期に明らかになるでしょう。どちらが正しかが。
でもエレミヤが語らなくても、主が語ってくださいました。12~14節をご覧ください。「12 預言者ハナンヤが預言者エレミヤの首からかせを取って砕いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「行って、ハナンヤに次のように言え。『【主】はこう言われる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。14 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らは彼に仕える。野の生き物まで、わたしは彼に与えた。』」
主が言われたことは、ハナンヤは木のかせを砕いたが、その代わり鉄のかせを作ることになるということでした。ユダは捕囚から解放されるどころか、より深刻な事態を迎えるようになるということです。ハナンヤの預言は、神の民に自由ではなく、鉄のくびきをもたらすものとなるのです。「鉄のくびき」とは、「木のくびき」に比べ、一層厳しい状況になることを象徴していました。
そこでエレミヤは、ハナンヤにこう言いました。15~16節です。「ハナンヤ、聞きなさい。【主】はあなたを遣わされていない。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。16 それゆえ、【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたを地の面から追い出す。今年、あなたは死ぬ。【主】への反逆をそそのかしたからだ。」
ハナンヤがしたことは、民を偽りに拠り頼ませるということでした。主ではなく、偽りに拠り頼ませたのです。恐ろしいですね。民を何に拠り頼ませるかは、預言者に託された大きな責任です。だから、主は彼をこの地の面から追い出されるのです。彼はその年のうちに死ぬことになります。ハナンヤは2年のうちに、ユダの民は解放されると預言しましたが、皮肉にも彼はこれを預言した2か月後に死ぬことになるのです。恐ろしいですね。というか、預言者の働きがどれほど重大であるかがわかります。もしエレミヤが語ったこのことばが成就しなかったら、エレミヤがにせ預言者となって殺されなければなりません。本当に預言者の働きは厳粛な働きだなぁと思います。だからこそ、牧師、伝道者、宣教師のためにとりなしの祈りをささげてほしいのです。民を偽りに拠り頼ませるのではなく、主に拠り頼ませるために、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただくために、神のことばを語ることができるように。
17節をご覧ください。「17 預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死んだ。」預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死にました。1節には、彼がこれを語ったのは「第四年の第五の月」とありますから、彼はこれを語ったわずか2か月後に死んだことになります。2年ではなく2か月後に死んでしまったのです。エレミヤはハナンヤに、「今年、あなたは死ぬ」と預言しましたが、エレミヤが預言したとおりになりました。これは、エレミヤが真の預言者であることが証明されたということです。そして、にせ預言者の最期は、このように空しいものです。
このエレミヤの時代と私たちの時代は、そうかけ離れていません。主イエスも言われたように、今は終わりの時代ですから、にせ預言者がそこかしこに横行しています。もしかすると、私たちはそれを知らずに信奉しているかもしれません。ネットでたまたま見た有名な牧師の話を間に受けたり、ベストセラーの本を読んで虜になったりして。魅力的な集会に飛びついて、喜んで参加して、ハナンヤのようなにせ預言者に騙されていることん゛あるかもしれません。いつの間にか、偽りに拠り頼むようにさせられているかもしれないのです。その背後には、偽りの父と言われているサタンの存在があることも忘れてはなりません。サタンは光の御使い、天使のように変装してやって来ます。義のしもべの姿でやって来るのです。
ですから、しっかりと霊を見分けて、この時代のしるしを見分けて、ますますもって主のことばに目を留めなければなりません。これは、昔から変わらないものです。ここから離れたら神から離れてしまうことになります。もし、にせ預言者に惑わされていたり、騙されたりして、偽りに拠り頼んでいたという人がいたら、もう一度主の言葉に立ち返って、これからはエレミヤのように終わりの時代になっても神のことばをしっかりと受け取って、それを誰に対しても恐れずに語っていく者になってほしいと思います。たとえそれで自分にとって不利益に働いたとしても、エレミヤが語り続けたように、神のことばにとどまり、神のことばをまっすぐに語り続ける者でありたいと思うのです。
今日は、今年最後の礼拝となりましたが、この最後の礼拝において主が私たちにチャレンジしておられることは、昔から変わらない、いつまでも変わらない神のことばにしっかりととどまり続けるように、この神のことばに生きるようにということです。それが古いようで新しいいつまでも新鮮に、私たちが主のうちにとどまっている秘訣であるということです。新しい年も、この神のことばにとどまって神に喜ばれる道を歩ませていただきましょう。

エレミヤ27章1~22節「神の時がある」

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きょうは、エレミヤ書27章からお話します。タイトルは、「神の時がある」です。私たちは、自分の欲しいものがあると、すぐにでも欲しいと願います。けれども、すべてのことに神の時があります。その時を待つことが大切です。そうするなら、ちょうど良い時に神は与えてくださいます。きょうは、そのことについて語っておられる主のことばを聞きたいと思います。

Ⅰ.縄とかせを作り、あなたの首に付けよ(1-8)

まず、1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 【主】は私にこう言われた。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。3 そうして、エルサレムのユダの王ゼデキヤのところに来る使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ツロの王、シドンの王に伝言を送り、4 彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは主君にこう言え。5 わたしは、大いなる力と伸ばした腕をもって、地と、地の面にいる人と獣を造った。わたしは、わたしの目にかなった者に、この地を与える。6 今わたしは、これらすべての地域をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の生き物も彼に与えて彼に仕えさせる。7 彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。8 バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」

1節に「ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに」とありますが、これは写本に書き写す際の間違いです。正しくは下の欄外の説明にあるように、「ゼデキヤ」の治世です。聖書は誤りがない神のことばですが、それは原本において誤りがないという意味で、このように非常に稀ですが写本において間違うことがあります。特に、エレミヤ書は年代順に書かれたわけではないので、書き写す際に間違えたのではないかと考えられています。なぜそこがゼデキヤなのかというと、前後の文脈をみるとわかりますが、ゼデキヤということばが何回も出てくるので、そのように読むのが自然だからです。

ゼデキヤは南王国ユダの最後の王です。彼が王の時にユダは滅ぼされバビロンの捕囚にされます。そのゼデキヤの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節です。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ」これは13章に「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」という命令がありましたが、それと同じように、エレミヤに行動によって預言を行なわせるものです。かせとは、二頭の牛の首にかけて農作業などをさせるくびきのことです。横木ですね。そこに縄を付けたものです。勿論、普通はそんなものを付けて歩いている人はいません。そんなものを首につけていたら、頭がおかしいのではないかと思われるでしょう。でも主はそのように命じられたのです。それによって主がご自分の思いを伝えるためです。その思いとはどんな思いでしょうか。

その思いが、3節から8節で具体的に語られます。それはユダと周辺諸国はバビロンの王ネブカドネツァルによって滅ぼされ、首にかせをかけられるようになるということです。すなわち、バビロン捕囚の民となるということです。しかしゼデキヤはエレミヤのことばを嫌って受け入れませんでした。3節にあるように、エドム、モアブ、アンモン、ツロ、シドンという5つの国々と軍事同盟を結んでバビロンに対抗しようとしたのです。彼はエレミヤのことばを信じようとしませんでした。バビロンによって滅ぼされるなんてあり得ない。自分たちは神の民である。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。だれも手を出すことはできないといった偽りの預言者たちのことばに騙されて、周辺諸国と手を組んでバビロンに対抗しようとしたのです。

でもそれは実に愚かなことでした。なぜなら、もう既にバビロン捕囚が始まっていたからです。バビロン捕囚は全部で3回行われましたが、既に第二回目が完了していました。もうすぐ三回目の捕囚が行われようとしていました。それはB.C.586年に起こることですが、エルサレムは完全に滅ぼされ、ユダの民は捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになります。それなのにゼデキヤは、その前のエホヤキンという王がバビロンの捕囚になると、バビロンによって擁立された王であるにも関わらず、ネブカドネツァルに反逆して、このような外交ルートを作ってバビロンに対抗しようとしたのです。だから主はエレミヤを通して、そのようなことをしても無駄であること、バビロンの王のくびきに服するようにと伝えるために、エレミヤにこのような格好をさせたのです

それはいつまでもということではありません。7節に「彼の地に時が来るまで」とあります。「彼の地」とはバビロンのことを指しています。それはバビロンに時が来るまでのことです。それまですべての国は彼とその子と、その子の子に仕えますが、その後で多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。どういうことかというと、その子とはネブカドネツァルの子のエビル・メロダク(Ⅱ列王25:27)のことで、そしてその子の子とはベルシャツァルのことでが、その子の子であるベルシャツァルまでの70年間は、すべての国がバビロンの奴隷となってバビロンに仕えることになりますが、その後は、多くの民や大王たちが、逆に彼を自分たちの奴隷にするということです。果たして、それがこの通りになります。バビロンの王ベルシャツァルは、メディヤとペルシャの連合軍との戦いに敗れ、彼らに服することになるのです。ここに書かれてあるとおりです。

いずれにしても、神の時があります。神の時が来たら、そのことがわかります。それまでは我慢しなければなりません。それまで耐え忍んでください。そうするなら、神はあなたに祝福をもたらしてくださいます。

メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは有名ですが、彼はオックスフォード大学で学ぶと、最初は英国国教会の聖職者となりました。オックスフォード大学在学中に信仰熱心な友人たちとともに「ホーリー・クラブ」というクラブを作ると、これが「メソジスト」と呼ばれ、その後のメソジスト派の名前となっていきました。彼は、弟のチャールズ・ウェスレーやホイットフィールドとともに、英国にリバイバルをもたらす器となります。そのウェスレーの日記を見ると、その働きが必ずしも順調ではなかったことがわかります。
  5月5日(日)午前、聖アンナ教会で説教する。もう二度と来なくてよい、と言われる。午後、聖ヨハネ教会で説教する。執事の一人に、「出て行け、ここに近寄るな!」と言われる。
  5月12日(日)午前、聖ユダ教会で説教する。あそこにも、もう行かれない。午後、聖ジョージ教会で説教する。またつまみ出される。
  5月19日(日)午前、聖ペテロ教会で説教する。執事が特別会議を開き、私は招かれざる客だ、と言い渡される。午後、路傍で説教する。路傍からも追い出される。
  5月6日(日)午前、野原で説教する。説教中に野原に放たれた雄牛に追いかけまわされて、走って逃げる。
  6月2日(日)、町はずれで説教する。道路から立ち退かされる。午後の集会、放牧地で説教する。なんと1万人もの人が来る!
(Bob Hartman, Plugged In Used by Permission from Preaching Today.com)

ジョン・ウェスレーは、実に忍耐深い伝道者でした。どんなに人々に無視され、拒絶されても、神を信じてあきらめませんでした。そして、神の時が来た時、神はそれを祝福に変えてくださいました。

ゼデキヤは、この神の時を見分けることができませんでした。8節に、「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」とありますが、彼はバビロンに仕えず、バビロンに首を差し出さなかったので、彼の息子は虐殺され、彼自身も目をえぐり取られて殺されてしまうことになってしまいました。ここに警告されているとおりです。

主イエスは、パリサイ人たちやサドカイ人たちが、天からのしるしを見せてほしいと求められた時、こう言われました。「「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」(マタイ16:2-3)
  「時のしるしを見分けることができないのですか」。時のしるしを見分けることができないと、この時のゼデキヤのようになってしまいます。今がどういう時なのかをしっかり見分けなければなりません。そのためには、いつもイエス様と親しく交わっている必要があります。日々のディボーションを通して自分の置かれている状況がどういう時なのかを見分け、神の時を待ち望みたいと思います。

Ⅱ.にせ預言者に聞き従ってはならない(9-18)

第二のことは、だから、にせ預言者に聞き従ってはならないということです。9~11節をご覧ください。「9 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはないと言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞き従ってはならない。10 彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは自分たちの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたは滅びることになる。11 しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。』」

だからエレミヤは、偽りの預言をしている者たちのことばを聞き従ってはならないと警告しています。彼らは自分たちに都合の良いことばかり主張していました。14節にあるように、「バビロンの王に仕えることはできない」と語っていたのです。なぜ彼らはそのように語っていたのでしょうか。それは、彼らがエレミヤのさばきの預言を聞いた時、神のことばに信頼しないで自分の感情、自分の思いに支配されていたからです。危機に直面したとき、感情的になるか、それとも、神のことばに信頼するかによって、正反対の結果が生じます。にせ預言者たちはエレミヤのことばを聞いて感情的になり、神のみこころに反する預言を語りましたが、そのような反応はただ滅びをもたらすだけでした。大切なのは感情的になることではなく、神のことばに信頼することです。

では、このときの神のことば、神のみこころは何だったのでしょうか。それは11節にあるように、バビロンの王に仕えることでした。11節をご一緒に読みましょう。
  「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。」
  バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕えるとは、バビロンの捕囚の民となることです。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。これが彼らのすべきことでした。自分がとどまりたいところにとどまるのではなく、神がとどまらせたいところにとどまらなければなりません。自分が行きたいところに行くのではなく、神が行かせたいところに行かなければなりません。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。新改訳第三版ではこの「とどまらせる」を「いこわせる」と訳しています。「その土地にいこわせる」と。それが私たちに求められていることです。そこにいこいがあります。それは、具体的にはバビロンの王のくびきに首を差し出すことです。バビロンの捕囚の民となることです。しかし、にせ預言者たちは反対のことを語っていました。そこにいこいはないと。あくまでも反バビロン同盟を組んでバビロンと戦うべきだと。バビロンの王に仕えることはできないし仕えるべきではない。あくまでも徹底抗戦すべきだと語っていたのです。でも神のみことばに逆らうなら、その身にわざわいを招くことになります。

16~18節をご覧ください。ここでは、祭司とすべての民に向けてメッセージが語られています。「16 私はまた、祭司たちとこの民全体に向かって語った。「【主】はこう言われる。あなたがたは、『見よ、【主】の宮の器は、バビロンから今すぐにも戻される』とあなたがたに預言している、あなたがたの預言者のことばに聞き従ってはならない。彼らはあなたがたに偽りを預言しているのだ。17 彼らに聞き従ってはならない。バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この都が廃墟になってよいであろうか。18 もし彼らが預言者であるなら、もし彼らに【主】のことばがあるなら、彼らは、【主】の宮、ユダの王の宮殿、またエルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の【主】にとりなしをするはずだ。」

バビロンによって持ち去られた神殿の器について、にせ預言者たちは、祭司とユダの民のすべてに向かって偽りを預言していました。それらはすぐにバビロンから戻されると。でもそれはただの気休めのことばにすぎない偽りのことばでした。返還されるどころかさらに奪われる危機に直面していたからです。というのは、これが語られたのは第二回目のバビロン捕囚の直後(B.C.597年)でしたが、B.C.586年の第三回目の捕囚、これが最後の捕囚となりますが、この時エルサレムは完全に廃墟となり、そのすべてがバビロンにもって行かれることになるからです。ですから、もし彼らが真の預言者ならば、逆にそういうことがないように、主にとりなすはずなのにそういうことをせず、ただ自分たちに都合が良いこと、耳障りの良いことを語り、神の真理のことばを語りませんでした。でもたとえそれが心地よいことば、慰めのことばであっても、そういう偽りの預言に聞き従ってはなりません。

聖書には、世の終わりが近くなると、こうした偽りの預言をする者がたくさん現れるようになるとあります。イエス様は、マタイ24:11で「偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」と言われました。まさに今はそういう時ではないでしょうか。聖書のことばを私的に解釈し、自分に都合が良いように語って多くの人を惑わす偽預言者が大勢現れています。

苫小牧福音教会牧師の水草修治先生は、「神を愛するための神学講座」という本を書いておられますが、その中で、主イエスが話された偽預言者の特徴を次のようにまとめておられます。
  1.偽預言者は表面的には羊のように見えるが、中身は狼のように貪欲である。彼らは「私は偽預言者です」とは自己紹介しない。表面的にはとても良い人である。「こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。」(2コリント12:13-15)

2.偽預言者は主イエスの名によって預言し、主イエスの名によって悪霊を追い出し、主イエスの名によって奇跡を行い、そういう行いが自分が真の預言者である証拠であると思っている。つまり偽預言者は教えの正しさよりも、ある種の霊的体験を優先する。イエスの名によって不思議なことをし、霊的体験を与えてくれるからといって、それが本物の預言者とはかぎらないから、むしろ警戒すべきである。教理よりも体験を重んじがちなタイプの信者は欺かれる。

3.偽預言者は、「悪い実」「不法」を行う。すなわち、彼らは表面的には「羊のなり」をしてよい人なのだが、注意深くその行動を見ると、「悪い実」をみのらせている。「悪い実」とはガラテヤ書で言えば「肉のわざ」である。「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」(ガラテヤ5:19-21)

4.偽預言者は世の終わり(携挙・再臨)が何年何月何日に来ると予言する。だが主イエスは言われた。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35,36)

5.偽預言者による世の終わりの預言を信じた人は落ち着きを失ってしまうが、正しく聖書の終末預言を学んだ人は、神を愛し隣人を愛する落ち着いた生活をする。主が再び来られたときに、主のもとに引き上げられるのは、その日をあらかじめ知って騒ぎ立てている人ではなく、神を愛し隣人を愛し、地道に落ち着いた生活をしている人である。「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」(1テサロニケ4:11)

実に、的を得た指摘だと思います。世の終わりになると、こういう預言者がはびこるようになります。ですから、私たちも注意しなければなりません。自分にとって都合が良いこと、心地よいこと、耳障りの良いことばではなく、神が語っておられる神のことばを聞かなければなりません。

Ⅲ.この場所に戻す(19-22)

最後に、19~22節をご覧ください。ここに真の預言者であるエレミヤのすばらしい預言のことばが記されてあります。

このようにバビロンに運ばれた神殿の器とエルサレムに残された器に付いて、エレミヤはこう預言します。19~22節をご覧ください。「19 まことに万軍の【主】は、神殿の柱、『海』、車輪付きの台、また、この都に残されているほかの器について、こう言われる。20 ──これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王、エホヤキムの子エコンヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、奪い取らなかったものである──21 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】は、【主】の宮とユダの王の宮殿とエルサレムに残された器について、こう言われる。22 『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある──【主】のことば──。そしてわたしはそれらを携え上り、この場所に戻す。』」

19~20節には、バビロンに奪われずエルサレムに残された神殿の器について記録されています。「神殿の柱」とは、神殿の玄関に立てられた2本の青銅の柱のことです。「海」とは、鋳物でできた円形の器のこと。そこに海のようにたくさんの水がためられていました。「車輪付きの台」とは、洗盤を載せる青銅の台のことです。これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王とエルサレムのおもだった人たちをバビロンへ引いて行ったときに、奪い取りませんでした。そのままエルサレムに残されたのです。それらのものは、バビロンへ持ち去られ、主が顧みる日まで、そこにとどめ置かれることになりますが、主はこれらの物をこの場所に戻してくださいます。

これが真の預言者のことばです。確かにエルサレム神殿は崩壊し、そこにあったすべての物はバビロンに奪い去られますが、主が顧みられる日に、これらの物をこの場所に戻してくださいます。真の預言者は良いことばかり預言するわけではありません。彼らの罪の結果、受けなければならない神のさばきを語りますが、同時に主の慰めと希望も語るのです。主が顧みられる時に、主は必ず戻してくださると。

エレミヤは、ユダの民がバビロンに捕囚とされて行く中で、やがて主がそれらをこの場所に戻すという希望のメッセージを語ったのです。それは今ではありません。それは主がそれを顧みる日まで、そこにあります。しかし、その日が満ちるとき、主はユダの民がそれらを携えて、この場所に戻すようにしてくださいます。すばらしい約束ですね。バビロンの支配は一時的であり、その期間が過ぎるとき、それは70年間ですが、バビロンに捕えられていた民が、これらの物を携えてエルサレムに帰ってくるようになるというのです。この預言は、確かに捕囚の70年後に成就しました(B.C.536年)。エズラ記1章に、そのとおりに成就したことが記録されてあります。

ここでエレミヤが預言したとおり、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた主の宮の器が、運び出されました。この預言を聞いた祭司たちは、どんなに励まされたことでしょうか。将来の神殿の回復が約束されたからです。ですから、私たちは希望を失ってはなりません。必ず、神の約束が成就する時が来るからです。それは今ではないかもしれません。しかし、すべてのことに神の時があります。神のなさることは時にかなって美しいのです。神に信頼しましょう。神に信頼してこの時を待ち望みましょう。そうするなら、神は必ずあなたの人生にも良いことをしてくださいますから。

エレミヤ26章1~24節「たとえ、どんなことがあっても」

きょうは、エレミヤ書26章全体から、「たとえ、どんなことがあっても」というタイトルでお話します。エレミヤ書の通読をマラソンにたとえるなら、折り返し地点を通過し、ゴールを目指して復路に入ったあたりが、この26章から29章です。マラソンではこのあたりが一番苦しい地点ですが、エレミヤ書もこのあたりに試練の頂点ともいえる出来事が集められています。エレミヤはいろいろな迫害を受けます。それこそ死に直面するような迫害を、です。それはエレミヤだけではありません。私たちもそのような苦難を受けることがあります。そのような時、いったいどうしたらそれを乗り越えることができるのでしょうか。今日は、エレミヤが死の危機を乗り越えた出来事を通して、そのことをご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.エレミヤの苦難(1-11)

まず、1~11節をご覧ください。6節までをお読みします。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、【主】から次のようなことばがあった。2 【主】はこう言われた。「【主】の宮の庭に立ち、【主】の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。3 彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすればわたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直す。4 彼らに言え。『【主】はこう言われる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、5 あなたがたに早くからたびたび遣わしてきた、わたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら──実際、あなたがたは聞き従わなかった──6 わたしはこの宮をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の、ののしりの的とする。』」」

ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主からエレミヤに主のことばがありました。これはB.C.609年のことです。25:1をご覧ください。ここには、ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とあります。年代が遡っていることがわかります。エレミヤ書は年代順に書かれているわけではないので、そのことを注意して読まなければなりません。そのエホヤキムの治世の最初の年に、エレミヤに主のことばがありました。それは、主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るすべての町の者に、主が語れと命じたことばを語れということでした。イスラエルでは、成人男性は、年に3回エルサレムに上るように律法で命じられていました。それは過越の祭り、七週の祭り(五旬節)、仮庵の祭りの3回です。おそらく、エレミヤはそのいずれかの祭りの期間にこのメッセージを語ったのでしょう。そのメッセージの内容は、3節から6節にあるように、このメッセージを聞いてもしそれぞれ悪の道から立ち返るなら、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直すが、そうでなければ、神のさばきが下るというものでした。しかし、残念ながら彼らは聞き従いませんでした。それで主はこの宮をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の、ののしりの的とすると言われました。

「この宮」とはエルサレム神殿のことです。そのエルサレム神殿をシロのようにするというのは、かつてサムエルの時代、このシロには神の幕屋がありましたが、ペリシテ人との戦いに敗れた時、神の箱が奪われてしまいました。神の箱は神の臨在の象徴です。その神の箱がないということは廃墟を意味していました。そこにどんなに立派な神殿があっても、どんなにすばらしい宗教儀式が執り行われても、神の臨在がなければ何の意味もありません。かつてシロがそうだったように、このエルサレム神殿もそのようになるというのです。

それを聞いた祭司と預言者と民全体は、どのように反応したでしょうか。7~11節をご覧ください。「7 祭司と預言者と民全体は、エレミヤがこのことばを【主】の宮で語るのを聞いた。8 【主】が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。9 なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、【主】の名によって預言したのか。」そこで、民全体は【主】の宮のエレミヤのところに集まった。10 これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から【主】の宮に上り、【主】の宮の新しい門の入り口で座に着いた。11 祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」

彼らはただちにエレミヤを捕らえ、彼を攻撃しました。彼らはエレミヤをにせ預言者だと判断し、律法の規定に従って処刑しなければならないと思いました。それでエレミヤに「あなたは必ず死ななければならない」と言ったのです。それにしても、すごい脅しですね。「あなたは必ず死ななければならない」というのは。私は礼拝で説教した後、聴衆から「あなたは必ず死ななければならない」と言われたことはありません。もし言われたらどういうリアクションをしたらいいかわかりません。まだそこまで言われたことがないのでわかりませんが、相当ビビルのではないかと思います。たまにメールで脅されることがあります。「何で講壇から私のことを語ったんですか。」と。私は講壇から個人のことを語ることはありませんが、その時のメッセージを聞いたその人が、そのように感じられたのでしょう。「どうして講壇から私を攻撃したんですか。」私は決してその人のことを攻撃したことなどないのに、気の弱い私はそう聞いただけでシューンとなってしまいます。神のことばを忠実に語れば語るほど、必ずといってよいほど脅しがかかるのです。そんな脅しにひるむようであってはならないと思うのですが、ついついひるんでしまいます。ましてエレミヤの場合は、逮捕されて面と向かって言われたのですから、相当ビビッたのではないかと思います。でも彼はそれで黙ったかというとそうではなく、全く口をつむぐこともなく語り続けました。すごいですね。彼の気迫を感じます。

10節をご覧ください。これらのことを聞いたユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着きました。「新しい門」というのは、現代の裁判所のようなところです。そこでは政治や行政も行われていましたが、法廷にもなりました。ユダの指導者たちは、そこで尋問しようとしたのです。彼らはユダの首長たちの前で、エレミヤは死刑に値すると主張しました。

エレミヤにとってはどうみても不利な状況でした。周りの者たちはみな彼の敵でした。誰一人味方する者はいませんでした。もし皆さんがエレミヤの立場だったらどういう心境だったでしょうか。それは、決して容易なことではなかったと思います。エレミヤも相当脅えたのではないかと思いますが、その後のところを見ると彼のメッセージは全然変わっていないのがわかります。全くひるんでいないのです。一貫していました。どうして彼はこのような状況の中でも恐れなかったのでしょうか。それは、彼には神の約束のことばが与えられていたからです。1:7~8をご覧ください。彼が預言者として召しを受けた時に語られた主のことばです。エレミヤは自分は若くて、何をどう語ったらいいのかわかりませんというと、主は彼に次のように言われました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】のことば。」
  一見、エレミヤはたった一人、被告人席に立たされているかのようでした。でも、その傍らには主が立っておられました。そしてすべてが悪い方にしか向いていない状況の中で弁護者として彼を助け、その状況を打開し、そこから救い出してくださるという約束を与えてくださったのです。
  1:19にもこのような約束が与えられていました。「彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救い出すからだ。」
  神がともにおられるならば、神が私たちの見方であるなら、だれが敵対できるでしょうか。誰もできません。神があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。

神は私たちを迫害に遭わせないとは言っておられません。神は私たちを試練に遭わせない、苦難に遭わせないとは約束しません。神が約束しておられることは、たとえあなたが迫害に直面しても、試練のただ中にあったとしても、苦難の悲劇のどん底にいたとしても、あなたとともにいるということです。あなたともにいて、あなたを助け出されるということです。これが神の約束です。エレミヤはこの神の約束を信じることができたので、「あなたは必ず死ななければならない」と脅されても、ひるまずに大胆に神のことばを語り続けることができたのです。いくら罵声を浴びても、いくら脅迫されても、自分にはイエスがともにいて救い出してくださる。ひるむ必要はない。だってイエスが共にいるんだから。エレミヤはこの約束を信じ、神にすべてをゆだねていたのです。
イエスがいるから 明日は怖くない
because we have Jesus we’re not afraid of tomorrow
イエスがいるから恐れは消え
because we have Jesus all fears disappear
イエスがいるから人生は素晴らしい
because we have Jesus our life is wonderful
彼に全てを委ねたいまは
now that we surrendered everything to him
(「イエスがいるから」  詞・曲:Gloria & William J. Gaither)

それは私たちも同じです。私たちもエレミヤのようにすべてを敵に回し四面楚歌に置かれてしまったかのように思える時があります。でも、どんなに孤独でも、あなたは独りぼっちではないということを知っていただきたいと思います。イエスは「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われました。イエスは世の終わりまで、いつもあなたと共にいてくださいます。その約束を信じなければなりません。

Ⅱ.エレミヤの弁明(12-19)

第二に、12~19節をご覧ください。15節までをご覧ください。「12 エレミヤは、すべての首長と民に告げた。「【主】が、この神殿とこの都に対して、あなたがたの聞いたすべてのことばを預言するよう、私を遣わされたのです。13 さあ今、あなたがたの生き方と行いを改め、あなたがたの神、【主】の御声に聞き従いなさい。そうすれば、【主】も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されます。14 このとおり、私自身はあなたがたの手の中にあります。私を、あなたがたの目に良いと思うよう、気に入るようにしなさい。15 ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が咎なき者の血の責任を、自分たちと、この都と、その住民に及ぼすのだということを、はっきり知っておきなさい。なぜなら、本当に【主】が私をあなたがたのもとに送り、これらすべてのことばをあなたがたの耳に語らせたのですから。」

裁判の席でエレミヤは、自らの行動の弁明として、彼がそのように語るのは、神ご自身がそのように預言するよう、自分を遣わされたからだと言いました。その上で彼は、もし悔い改めるなら、神は彼らに語られたわざわいを思い直されるであろうと伝えます。これはエレミヤの一貫したメッセージです。どんなに脅されても彼のメッセージは変わりませんでした。ブレることがなかったのです。すごいですね。エレミヤはいのちの危険を顧みず、ずっと一貫したメッセージを語ったのですから。さらに彼は、自分を殺すなら殺してもよいが、罪のない者を殺すようなことがあるとしたら、その血の責任を負わなければならないと言いました。どうしてエレミヤはこのように言うことができたのでしょうか。それは彼が自分のいのちを完全に神にゆだねていたからです。彼は、自分のいのちは自分の手の中にはないという自覚をもっていました。それはすべて神の御手の中にあると。だから、すべてを神にゆだねたのです。具体的には、裁判官の手に自分のいのちをゆだねました。なぜなら、この裁判官を立てたのは神ご自身であられるからです。それがエレミヤの理解であり、パウロの理解であり、聖書が教えておられることです。ローマ13:1にこうあります。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」。勿論、例外はあります。もし上に立つ権威が信仰に抵触することを無理やり強制するようなことがあれば、断固として拒絶すべきです。たとえば、上に立つ権威がイエス・キリストを否定しなさい、というようなことがあるとしたら、それに従うことはできません。あるいは、キリスト教を捨ててしまえと言うようなことがあるとしたら、それに従うことはできません。それに対しては「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5:29)の原則を適用すべきです。しかし、そうでない限り、私たちは上に立つ権威に従うべきです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。だからエレミヤは自分のいのちを裁判官の手にゆだねたのです。それが神にゆだねるということだからです。

その結果、どうなったでしょうか。16~19節をご覧ください。「16 すると、首長たちと民全体は、祭司たちと預言者たちに言った。「この人は死刑に当たらない。彼は私たちの神、【主】の名によって、私たちに語ったのだから。」17 それで、この地の長老たちの何人かが立って、民全体に言った。18 「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダの民全体にこう語ったことがある。万軍の【主】はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。19 そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべては彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが【主】を恐れ、【主】に願ったので、【主】も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」」

すると首長たちと民全体は、「この人は死刑にあたらない。」と言いました。なぜなら、エレミヤが自分の神、主の名によって語ったのだからです。彼らは訳のわからないことを言っています。彼らは、エレミヤの迫力に圧倒されたのでしょう。皮肉なことに彼らは、エレミヤが主の名によって語る真の預言者であることを認めました。そればかりか、その地の長老たちの幾人かが立って、モレシェテ人ミカについて、かつてイスラエルの歴史に起こった出来事を引用し、エレミヤの無罪を主張したのです。

この「モリシェテ人ミカ」とは、ミカ書を書いたミカです。ミカは預言者イザヤと同時代の預言者で、エレミヤよりも約100年前の預言者です。そのミカが神のメッセージを取り次いだとき、当時ユダの王であったヒゼキヤが悔い改めました。そのメッセージは18節にありますが、「万軍の【主】はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。」というものです。そのときヒゼキヤとユダのすべての民はミカを殺したかというとそういうことはなく、むしろ主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されました。つまり、ユダとエルサレムは、アッシリアの王セナケリブによる侵略を免れることができました。

このような長老たちの発言は、聖書の中の他の個所にも見られます。たとえば、使徒5章には、律法の教師でガマリエルという人の助言が記されてあります。イエスの弟子たちが、神はイエスをよみがえらせたと語ったとき、パリサイ人たちやサドカイ人たちは怒り狂い、彼らを殺そうとした時、このガマリエルが立ち上がり、少し以前に起きたテウダの事件を取り上げて、彼が自分をあたかもメシアであるかのように標榜し、四百人もの人たちが従ったが、結局のところ彼は殺され、従った者たちもみな散らされて跡形もなくなったように、もしそれが人間から出たものなら自滅するでしょうから、放っておくがいい。でも、それが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、それによって神に敵対する者になってしまうかもしれない。だから、もう少し様子を見た方がいいと言ったのです。すると当時のユダヤ教の指導者たちも賛同して、「あなたのおっしゃるとおり」となり、殺すことを思い止まらせました。

エレミヤの時代のこの地の長老たちも同じです。遡ること100年も前に起こった出来事を例に取り上げて、エレミヤを殺すことに反対したのです。エレミヤのいのちは、歴史から学ぶ人々によって救い出されました。と同時に、ユダの民もまた、重大な罪を犯すことから救い出されました。

このように歴史から学ぶことは重要なことです。歴史から学ばない人は同じ失敗を繰り返すことになります。勿論、自分の経験からも学ぶことができますが、それは限られたものでしかありません。しかし、人類の歴史からは本当に多くのことを学ぶことができます。そして聖書こそ、その人類の歴史が記録されてある書です。ですから聖書を学ぶなら、多くの益を受けることができます。聖書にはたくさんの失敗談と、それをどのように乗り越えてきたかについて記されてあるからです。しかし、聖書を見ると人間の罪や過ち、汚れ、失敗、醜さなど、赤裸々な人間の姿が記されてあります。いったいどうしてそんなに赤裸々な人間の姿が記されてあるのでしょうか。それは私たちにとって半面教師となるためです。そして、そこから多くのことを学ぶことができるからです。新約聖書にもそうあります。旧約聖書は教訓として与えられていると。先ほどのシロのこともそうでしたね。聖書に記されて歴史を見ると、私たちはどうあるべきなのかが見えてきます。そこから得られた知識は、現代の問題を解決するヒントになります。きょうのエレミヤ書の個所も、エレミヤがかつて神のことばを語ったときに捕らえられ、殺されそうになったときどうしたのか、どのように乗り越えたのかという歴史上の出来事から教えられているわけですが、これが現代を生きる私たちの知恵、力、助け、励まし、ヒントになるのです。

Ⅲ.そこに神の助けがある(20-24)

その聖書の歴史が終える第三のことは、そこに神の助けがあるということです。20~24節をご覧ください。「20 【主】の御名によって預言している人がもう一人いた。キルヤテ・エアリム出身のシェマヤの子ウリヤで、彼はこの都とこの地に対して、エレミヤのことばすべてと同じような預言をしていた。21 エホヤキム王、すべての勇士、首長たちは、彼のことばを聞いた。王は彼を殺そうとしたが、ウリヤはこれを聞いて恐れ、エジプトへ逃げて行った。22 そこで、エホヤキム王は人々をエジプトに遣わした。すなわち、アクボルの子エルナタンに人々を随行させて、エジプトに送った。23 彼らはウリヤをエジプトから導き出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、その屍を共同墓地に捨てさせた。24 しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」

ここに「ウリヤ」という預言者のことが取り上げられています。彼はエレミヤと同じ時代に活躍した預言者です。彼もまた主の御名によって預言していた預言者で、エレミヤとすべて同じような預言をしていました。つまり、エレミヤは独りぼっちではなかったということです。少なくてもウリヤという同じメッセージを語っていた預言者がいました。他にも無名の人がいたかもしれません。私たちもついつい自分ばかりと思ってしまうことがあります。家族の中でも自分だけかクリスチャンです。学校のクラスの中でも自分だけがクリスチャン。職場でもクリスチャンは自分だけです。そして、だからだれからも理解されないし、むしろ(うと)まれ、嫌われていると思ってしまうのです。でも、あなただけが一人で戦っているわけではないということを知ってほしいと思います。エレミヤも、自分だけがという思いがあったと思いますが、実際は彼と同じことを語っていた預言者がいたのです。エリヤの時代そうでしたね。彼も主の預言者は自分だけだと思っていましたが、主はバアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たち七千人をイスラエルの中に残しておられました。

このように、神が残しておられる民がいるということを知っていただきたいと思います。あなたは一人じゃないのです。あなただけが辛い思いをしているわけではない。あなたには神の家族が与えられています。そのことを忘れないでください。自分だけが特別だと思ってはいけません。むしろそれが普通です。クリスチャンであれば、必ず苦難があります。イエスも言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)主イエスにあって敬虔に生きようと思う者はみな、迫害を受けるのです。これが普通です。あなただけが特別なのではありません。あなたと同じように、バアルに膝をかがめない人七千人がいるのです。主はそういう人たちをちゃんと用意しておられるのです。

ところで、このウリヤですが、いったい何のために彼のことがここに記されてあるのでしょうか。21~23節を見ると、彼はエレミヤのように主のことばをストレートに語っていましたが、エホヤキム王がそれを聞いた時彼を殺そうとしたので、彼はエジプトに逃れました。すると、エホヤキム王は人々をエジプトに遣わし、彼を殺しました。一方エレミヤはどうかというと、同じメッセージを語りましたが殺されませんでした。その違いは何でしょうか。それは、エレミヤはエルサレムにとどまったのに対して、ウリヤはエジプトに逃れたということです。どういうことでしょうか。ここで言わんとしていることは、ウリヤは怖くなって逃げたので殺されたということではありません。逃げたからといって必ずしも殺されるとは限らないからです。たとえば、エリヤがそうでした。彼も逃げましたが、彼は殺されませんでした。ですから、逃げた者は負け犬だから殺されるということではないのです。ここで言わんとしていることは、私たちのいのちは主の御手の中にあるということです。そして、主に従う者を、主はご自身の御使いをもって守ってくださるということです。ウリヤの場合、本来は助かるいのちが助からなかったということではありません。エレミヤの場合は、このような形では殺されなかったのは、そこに神の別のご計画があったからなのです。エレミヤにはエレミヤの召しがあったということです。だから、エレミヤとウリヤを比較して、どちらが正しくてどちらが間違っているのか、どちらがすぐれていて、どちらが劣っているのかという話ではないのです。わかることは、そこに神のご計画があったということです。いいえ、私たちのすべての出来事の背後には、神の御手が働いているのです。

それが24節で言われていることです。ここには「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」とあります。エレミヤの場合、彼が生き延びて神のご計画を果たすために、シャファンの子アヒカムを備えてくださいました。シャファンの子アヒカムがエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることがないようにしたのです。調べてみるとシャファンはエホヤキムの父ヨシヤ王の時代に書記官を務めました。また彼は祭司の一人であっと言われています(Ⅰ列王22:14)。そしてヨシヤ王の時代に破壊されていたエルサレム神殿の修復をしますが、その修復作業にも携わりました。つまり、シャファンという人物はとても敬虔な人であったのです。その息子のアヒカムがエレミヤを助けました。勿論、エレミヤはヨシヤ王の時代の預言者でしたから、当然シャファンとも面識があったでしょう。非常に綿密なつながりがありました。だからこそ、その息子のアヒカムがいのちを張ってまでエレミヤを助けたのです。だれもがエレミヤの敵だったのに、アヒカムはいのちを張って自分が盾となってエレミヤを守ったのです。

こういう人が、あなたにも与えられています。あなたにもアヒカムが与えられています。あなたのためにいのちを張ってくれる人。そういう人がいるのです。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。何を心配しているのですか。あなたがどんなに恐ろしい状況にあっても、神はあなたとともにいてあなたを救い出してくださいます。その方法はいろいろですが、このようにアヒカムを与えて救い出してくださるのです。
  パウロは、Ⅱコリント1:10でこう言っています。「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」
  これは私たちの告白でもあります。パウロは、自分の経験として神が救ってくださると信じていました。だから、これからも救い出してくださると信じることができ、この神に希望を置くことができたのです。

あなたはどうですか。あなたはどこに希望を置いていますか。神は、それほど大きな危険からもあなたを救い出してくださった。だからこれからも救い出してくださると信じることができるのです。エレミヤもそうでした。神は死の危険からも自分を救い出してくださったという経験を通して、この神に希望を置いたのです。それは私たちも同じです。私たちもいろいろな患難や苦難が襲ってくるでしょう。まさに私たちの人生の海にはさまざまな嵐が襲ってきます。でも神はその危険から救い出してくださいます。この神に希望を置いて、エレミヤのように神から与えられた使命を、大胆に、力強く担っていきたいと思います。

エレミヤ25章15~38節「憤りのぶどう酒の杯」

エレミヤ書25章に入ります。今日は1~14節から「70年の終わりに」というタイトルでお話します。12節にありますね、「70年の終わりに」。「七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──【主】のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」
  ユダの民は、主のことばに聞き従わなかったのでバビロンの王に七十年間仕えることになります。しかし、その七十年の終わりに、主はバビロンを滅ぼし、これを永遠に荒れ果てた地とします。そして代わりに世界を治めたペルシャ帝国の王キュロスによって、ユダの民は約束の地に帰還することになるのです。主が預言者を通して語られた通りです。それは期間限定の捕囚でした。70年の終わりに、主はご自身が語られたとおり、彼らが元いた場所に帰らせるのです。確かに苦難、困難があっても、その先をしっかり見ている人は幸いです。その先にある回復と希望を見つめて離れない人は、どんな苦難に遭っても堅く立ち続けることができるからです。今日は、そのことを考えながら、この個所を読んでいきましょう。

Ⅰ.しきりに語りかけたのに(1-7)

まず、1~7節をご覧ください。1節には「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年、バビロンの王ネブカドネツァルの元年に、ユダの民全体についてエレミヤにあったみことば。」とあります。
  ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年とは、B.C.605年のことです。この年にネブカドネツァルがバビロンの王に即位しました。その元年に、主がエレミヤを通して、ユダとエルサレムの民全体に語られたことばがこれです。24:1には、「バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕え移してバビロンに連れて行ったあとのこと」とありますが、それはB.C.597年のことでしたから、ここでは時代が遡っていることがわかります。年代順で言えば、この25章は21章の前に来る内容ですが、それがどういうわけか、ここに納められているのです。

エレミヤは、その年に主が語られたことばをユダの民全体とエルサレムの全住民に語りました。その内容は3~7節にあることです。「3 「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に【主】のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。4 また、【主】はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび遣わされたのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けもしなかった。5 主は言われた。『さあ、それぞれ悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返り、【主】があなたがたと先祖たちに与えた土地に、いつまでも、とこしえに住め。6 ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたが手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そのようにすれば、わたしも、あなたがたにわざわいを下さない。7 しかし、あなたがたはわたしに聞き従わなかった──【主】のことば──。そして、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた。』」

ヨシヤ王の治世の第十三年とは、B.C.627年のことです。エレミヤはその年に預言者として召され、主が語られることばを語り続けてきました。その期間、何と23年間です。彼は23年もの間、主がユダの民に語られることばを絶えず、しきりに語りかけてきたのです。それなのに、彼ら聞きませんでした。それはどういう内容だったかというと、5節と6節にあるように、いたってシンプルなものでした。それは、それぞれ悪の道から立ち返り、主が彼らの先祖たちに与えた土地に、いつまでも、とこしえまでも住むように、というものでした。ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならないと。ただ神を愛し、神のみことばに従って歩むようにという、実にシンプルなメッセージでした。

しかし、彼らはそのエレミヤが語る主のことばを聞きませんでした。エレミヤが23年間もしきりに語りかけたのに、だれも彼の話に耳を傾けなかったのです。だれも彼の招きに応えようとしませんでした。収穫はゼロだったわけです。それはエレミヤにとってどれだけ忍耐を要したことかと思います。私は牧会を始めて40年になりましたが、もしだれも聞いてくれなかったら、恐らく続けることができなかったのではないかと思います。だれも信じなかったら、や~めた!となっていたと思います。でもエレミヤはそうではありませんでした。彼は23年間も語り続け、だれも彼の語ることばに耳を傾けようとしなくても語り続けました。たとえ目に見える収穫がなくても、たとえ目に見える成果がなくても、彼は語り続けたのです。しきりに語りたけました。それは実際のところは神が語りかけておられたことでした。神がエレミヤを通して語っておられたのです。だれも聞かなくても、だれもご自身に立ち返らなくても、神はずっと語り続けてくだったのです。神は本当に忍耐深く、あわれみ深い方ですね。新聖歌188番に「救い主は待っておられる」という讃美歌がありますが、救い主はずっと待っておられるのです。あなたが心の戸を開くのを、ずっとずっと待っておられる。それこそ23年間どころじゃない、もっともっと長い間待っておられるのです。そう思うと、感動で胸が熱くなります。こんな自分勝手で罪深い者のために、神はしきりに語りかけ、忍耐してずっと待っておられるのです。

神が私たちに願っておられることは、私たちが聞き従うことです。聞き従うことはいけにえにまさります。それなのに彼らは聞き従いませんでした。この「聞かなかった」ということばに注目してください。ここには「聞かなかった」とか、「耳を傾けなかった」ということばが繰り返して出てきます。それが強調されているのです。8節にも「聞き従わなかった」ということばがあります。皆さん、イスラエルの歴史は、一言で言えば、神への反逆の歴史です。あなたの歴史はどうでしょうか。あなたの生活はどうでしょうか。あなたの人生はどうですか。しきりに神が語りかけているのに聞かないということはないでしょうか。いつも聖霊に逆らっている歴史、逆らっている毎日、逆らっている人生であるということはないでしょうか。

リビングライフというディボーションの月刊誌の中に、韓国のキム・ウォンテという牧師が書いたエッセイが掲載されていました。
  サハラ砂漠の西側には「サハラの中心」と呼ばれる小さな町があり、多くの旅行客がこの町を訪問しようと砂漠を訪れるそうです。しかし、レビンという人がこの町に来る前までは、その町は全く開放されていない立ち遅れた場所でした。町の人々は一度も砂漠を出たことがありませんでした。何もない砂漠から出ようと試みましたが、一度も成功できませんでした。レビンは町から抜け出せない理由を尋ねると、返ってくる答えはすべて同じでした。「どこに向かって歩いても、出発した場所に戻って来てしまうのです。」
  そこでそれが本当かどうかを試すために、レビンは北に向かって歩き始めました。すると三日で砂漠を抜け出すことができたのです。では、なぜ町の人々は抜け出すことができなかったのか。次にレビンは町の青年を一人連れて、青年が行く方向について行きました。昼も夜も歩き、11日目には再び町に戻ってきました。ついに、レビンはその町の人々が砂漠を抜け出せない理由を見つけました。何だと思いますか。誰も北極星を知らなかったのです。レビンは前回の実験に参加した青年に、昼間は十分休んで、夜になったら北極星の後についていくようにと言いました。その青年がレビンの言葉通りにすると、3日で砂漠を抜け出すことかできたのです。後日、青年は砂漠の開拓者となり、開拓地の中心には彼の銅像が立てられました。その銅像にはこのような文字が刻まれているそうです。「新しい人生は、方向をしっかりと見つけた時に始まる!」

皆さん、これは私たちの人生にも言えることではないでしょうか。新しい人生は、方向をしっかりと見つけた時に始まります。私たちの歴史は、イスラエルの民のように神への反逆の歴史です。神がしきりに語りかけているのに聞こうとしないで逆らい続けています。でもそんな不従順な道から立ち返り、神のもとに帰れば、いつでも神は私たちに触れてくださり、赦し、もう一度神の子どもとして歩めるように回復してくださいます。あなたに求められていることは、主のみことばに聞き従うことです。主が遣わされた預言者たち、主の働き人たちの権威を認めて、彼らが伝えることばに耳を傾けて従うことなのです。新しい人生は、方向をしっかり見つけた時に始まります。私たちはその方向を軌道修正し、神に立ち返り、神のことばに従って歩んでいるかどうかを点検しなければなりません。そうすれば、あなたは神の取り扱いを受け、神にしかできない御業があなたの内になされ、あなたは良いものに変えられるのです。

Ⅱ.70年のバビロン捕囚(8-11)

次に、8~11節をご覧ください。エレミヤが主のことばを絶えず、しきりに語りかけたのに、それを聞かなかったユダの民に対して、主はどうなさるでしょうか。「8 それゆえ、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったから、9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる──【主】のことば──。わたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せて、この国とその住民、その周りのすべての国々を攻めさせ、これを聖絶して、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とする。10 わたしは彼らから楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。」

主のばに聞き氏は違わなユダの民に対して、主はバビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せ、その国とその住民、その周りのすべての国々を攻めさせて、これを聖絶し、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とします。その結果、10節にあるように、それまで普通になされていた日常の営みがすべて消えてしまうことになります。楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光が消えてしまうことになるのです。ひき臼の音とは、結婚して料理を作る時、包丁でまな板を叩きますよね、その音です。それはまさに平和な暮らしのシンボルですが、その音が消えてしまうのです。現代風に言うならば、電子レンジの「チン」でしょうか。それとも電子ジャーの「ピー、ピー、ピー」でしょうか。その音が聞こえなくなってしまうのです。バビロンによってそうした平和な生活が破壊されてしまうからです。
  また、ここには「ともしびの光を消し去る」とあります。どういうことでしょうか。これは部屋を明るく照らしていた電気が消えて暗くなってしまうということです。もうそこに住んでいる人はいなくなります。そこはすっかり廃屋となってしまうのです。それは彼らが主のことばに聞き従わなかったからです。その結果、バビロンの王ネブカデネツァルに70年間仕えることになります。

ところで、9節にはバビロンの王ネブカデネツァルのことが「わたしのしもべ」と呼ばれています。4節にも「主のしもべである預言者たち」とありますね。主の預言者であれば「主のしもべ」と言われても納得できますが、異教の王、しかもユダの民を虐殺するような悪辣で非道な者が神のしもべと呼ばれていることには少なからず抵抗を覚える人もいるのではないでしょうか。いったいこれはどういうことでしょうか。確かにダニエル書4章を見ると、ネブカドネツァルはダニエルを通してダニエルが信じていた真の神を信じ、この神をあがめ、賛美し、ほめたたえるようになります。そういう意味では、確かに彼は神のしもべであったと言えるでしょう。でもここで彼が「わたしのしもべ」と呼ばれているのはそういう意味ではなく、あくまでも神のさばきを実行する道具、お尻叩き棒として「主のしもべ」と呼ばれているのです。ということはどういうことかというと、主なる神の支配はこうした異教の指導者にも及ぶということです。神は、こうした異教の指導者さえも用いてまでも、ご自身の民を懲らしめられるのです。それは彼らが主のことばに聞き従わなかったからです。神のみこころは5節にあるように、いつでも、とこしえに、彼らが約束の地に住むことだったのに、そんな神のみこころを踏みにじり、神のことばに聞き従わないことを選んだために、自らにわざわいを招いてしまったのです。その神の懲らしめ、神のさばきの道具の一つが、バビロンの王ネブカドネツァルだったのです。そういう意味で彼は「主のしもべ」と呼ばれているのです。

それはユダの民だけに言えることではありません。私たちにも言えることです。もし私たちが口先では「神様愛します」「あなたをあがめます」と言いながら、心にたくさんの偶像を抱え、神がしきりにみことばを語りかけてもそれを全く無視し背信に背信を重ねるなら、神はご自身のしもべバビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せてあなたを攻めさせ、これを聖絶し、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とするのです。神はありとあらゆるものを道具として、ご自身に背く神の民を懲らしめられるのです。そういう意味では、今あなたが抱えている苦しみも、その結果であると言えるかもしれません。
  でも、安心してください。あなたのその苦しみは、あなたが神に愛されているという証拠でもあるのですから。それは、あなたが神の子どもであることの証拠でもあるのです。そうでなかったら、懲らしめや訓練を与えることはなさいません。神はあなたを愛しておられるのでむちを加えられるのです。へブル12:5~6にこのように書いてあり通りです。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

だから、悲観しないでください。だから、私はもうだめだと思わないでください。私にはもう希望がないと言わないでください。あなたが素直になって神のことばに聞き従うなら、あなたは神の御取り扱いを受け、義という平安の実を結ぶことになるからです。

Ⅲ.70年の終わりに(12~14)  

最後に、12~14節をご覧ください。「12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──【主】のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。13 わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」

ここに「70年の終わりに」とあります。バビロンは、イスラエルを懲らしめる道具として神に用いられますが、そのバビロンも70年の終わりには、彼らの咎のゆえに罰せられ、永遠に荒れ果ててしまうことになります。一時は権勢を振るったバビロンも、創造主なる神のことばに聞き従わなければさばかれることになるのです。そして主はバビロンの次に、世界を治めたペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせ、ユダの民をエルサレムへ帰還させる道を開かれます(エズラ1:1-4)。主はユダの民ばかりでなく、すべての国民、すべての国を治めておられるお方なのです。

ところで、ここには「70年の終わりに」とありますが、これはユダの民がバビロンで捕囚の生活を送るのは70年間であると預言されているのです。それは期間限定の捕囚であったということです。この期間限定というのがいいですね。季節は秋ですが、この秋限定のスイーツが販売されています。期間限定のマロンケーキとか、期間限定のさつまいもドーナッツとか、なんだかスイーツばかりですけれども、私は甘いものが大好きなので、この期間限定のスイーツが大好きです。そしてここにも期間限定が登場します。ユダの民がバビロンに捕えられる期間です。それが70年と定められていたのです。それがいつまでなのかわからないとお先真っ暗になってしまいますが、主は本当に優しい方ですね。捕囚という悲劇が起こる前に、その期間をちゃんと定めておられたのですから。70年間です。これはユダの民にとってどんなに大きな希望だったかと思います。確かに70年という年月は途方もない年月ですが、それはいつまでも続くものではない、その先には回復がある、希望があるという約束は、彼らにとって大きな励ましとなったに違いありません。

ところで、皆さん、この70年という期間がどのようにして定められたかご存知ですか。ある人は、この「7」が完全数であり、「10」も完全数なので、これは神のさばきの完全さと徹底さを表している象徴的な数字だと考えていますが、そうではありません。これは、律法の書に予め定められていた期間でした。Ⅱ歴代誌36:21を開いてください。ここにはこうあります。「これは、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た。」
  イスラエルの民が約束の地に入ってから490年間ずっと破り続けてきた掟がありました。それがこの安息年の定めです。それはレビ記25章にありますが、7年ごとに農地を休ませなければならないという規定です。それなのに彼らは約束の地に入ってから490年の間、ずっとこれを破り続けてきたのです。それで神は490年を7年で割った年数、すなわち70年間をバビロン捕囚の期間として定められたのです。この規定を破ればどうなるかということを、この中で定めておられたわけです。ですからこれは人の思い付きでも、偶然その期間になったというのでもなく、予め神が定めておられた期間だったのです。

でも、だれもこの70年間というエレミヤの預言を信じていませんでした。ただ捕囚の民としてバビロンに連れて来られたという悲惨な現実を呪うばかりでした。しかしそんな中でこのエレミヤの預言に目を留め、信じ、しっかりと待ち望んでいた人物がいました。ダニエルです。ダニエル書を書いたダニエルです。ダニエルは、第一次バビロン捕囚の時(B.C.605)にネブカドネツァル王によってバビロンに連れて行かれました。その後、バビロンはメド・ペルシャ帝国によって滅ぼされメド・ペルシャの時代になりますが、ダニエルはそこでもペルシャの王たちに仕えました。そのダニエルに、このエレミヤのことばが大きな影響を与えたのです。ダニエル書9:2にはこうあります。「すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった【主】のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」

捕囚の民としてバビロンにいたダニエルは、ペルシャの王ダレイオスがカルデア人の国の王となったその元年、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が70年であることを悟ったのです。それが今、私たちが見ているエレミヤ書25:11~12のみことばです。彼は私たちが今、見ている同じエレミヤ書の箇所を見ていたのです。そこで彼はその期間が70年であることを悟り、そのメッセージをしっかりと心に留めて、その期間をずっと待ち続けたのです。これは期間限定の懲らしめであるということ、国が滅亡したかなたに希望があるということ、回復があるということを信じたのです。だからダニエルはどんな迫害に遭っても堅く信仰に立ち続けることができたのです。たとえライオンの穴の中に投げ入れられても、です。神のことばによってその先が見えていたからです。

これは私たちにも言えることです。私たちの人生にもいろいろな苦しみや困難があるでしょう。でもみことばによってそれがどういうことなのかを悟り、その先にあるものをしっかりと見つめるなら、そこにどんな苦難があってもそれを乗り越えることができます。パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)と言っています。確かに、将来に希望を持っている人は、試練を乗り越えることができるのです。ダニエルがみことばによって今まさに自分がそこにいることを知り、奮い立ったように、私たちもみことばによって自分がいる場所を知り、それがどういうことなのかを悟るなら、どんな境遇にあっても奮い立つことができるのです。

その代表的な聖句を見て終わりたいと思います。エレミヤ29:10~14です。「10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」

この29:11は非常に有名な箇所です。この聖句がどのような文脈で語られているのかというと、この70年の期間限定が満ちる時、彼らを約束の地に帰らせるという神のご計画がいかに将来と希望を与えるものなのかを伝えることの中で語られたことでした。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだと。あなたもこの神のご計画を知るなら、それがわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものであることを知ることかできるのです。そして、たとえ試練の中にあっても神のことばは必ず成ると信じて、将来に希望を持つことができるのです。その人の信仰は、生きて働くからです。

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