イザヤ11章1~9章「エッサイの根株から新芽が生え」

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今日は、アドヘント(待降節)の第1週です。キリストはある日突然生まれたのではなく、その誕生は昔から旧約聖書の中に預言されていました。たとえば、預言者イザヤは、紀元前700年ごろに活躍した預言者ですが、キリストの誕生を700年も前に預言していました。キリストの誕生以前にどこで生まれるのか、どのようにして生まれるのか、どこから出てくるのか、その名は何かなど、全ての事を詳しく預言していたのです。そして、その一つが今日の個所です。今日はこのイザヤ書11章からご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.若枝から出るメシヤ(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とあります。

イザヤは、やがて来られるメシヤはエッサイの根株から出ると預言しました。エッサイとは、ダビデの父親の名前です。息子のダビデは非常に有名な王様でしたが、エッサイはそうではありませんでした。エッサイという名前を聞いて「おお、あれがあのエッサイか」と感動する人は、おそらく一人もいなかったでしょう。せいぜいご近所の人が知っているという程度でした。「ダビデのことは知っているけれども、エッサイのことはえっさい(一切)知らない」という感じでした。それなのに預言者イザヤは、そのエッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶと言いました。どういうことでしょうか?これには二つの意味があります。

一つは、やがて来られるメシヤはへりくだった救い主であるということです。エッサイの仕事は羊飼いでした。当時、羊飼いというのは社会的に身分の低い人たちの仕事と考えられていました。ですから、エッサイの根株から新芽が生えというのは、多少なりとも見下げられた表現だったのです。しかし、イザヤはダビデの根株から新芽が生えとは言わないで、エッサイの根株から新芽が生え、と言いました。どうせなら有名な人の名前を使った方が効果的なのに、そうではなく名もない羊飼いのエッサイの名前を使いました。それは、やがて来られるメシヤがダビデの家系から生まれるみどり子でありながら、そのようにへりくだった状態で生まれて来られるということを示すためだったのです。

もう一つの理由は、エッサイがダビデの父親の名前だと申し上げましたが、やがて来られるメシヤはダビデの家系から生まれることを伝えたかったからです。エッサイの子であるダビデ王が築いたユダ王国はその後子孫によって受け継がれて行きますが、やがて神の審判によってダビデ王朝は切り倒されて根株のようになりますが、その根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ、すなわち、メシア(救い主)が生まれるというのが、この1節で語られている預言が意味していることです。

ダビデ王朝について言えば、実はその国は永遠に続くという約束が神から与えられていました。Ⅱサムエル記7章16節にこうあります。「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

しかし、実際の歴史はそうではありませんでした。ダビデの家と王国はB.C.586年にバビロンによって滅ぼされてしまいます。

では、ダビデに告げられた約束は嘘だったのでしょうか?神はダビデに約束してくだったことを反故にされてしまったのでしょうか?そうではありません。確かに目に見えるダビデ王朝は滅ぼされましたが、この神の約束はダビデの血を引くメシヤ、イエス・キリストによって成就したのです。それはエレミヤ書22章で学んだ通りです。神はヨセフの系図からではなくマリヤの系図を通して、このダビデの血を引くメシヤの誕生を実現してくださいました。それがイエス・キリストです。ですから、あなたの家とあなたの王国は、あなたの前に確かなものとなり、あなたの王座はとこしえに堅く立つという神の約束は、イエス・キリストによって成就することになるのです。

すばらしいですね。このことから、神は約束に忠実な方であるということを知ることができます。

ところで、イザヤはそのエッサイの家から新芽が生え、とは言いませんでした。そうではなく彼は、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」と言いました。これはどういうことでしょうか。

「根株」とは「切株」のことです。このことをよく表現しているのが10章33,34節です。ここには、「見よ、万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払われる。丈の高いものは切り倒され、そびえたものは低くなる。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒される。」(10:33-34)とあります。

これは、当時世界を治めていたアッシリア帝国に対するさばきの預言です。アッシリアは、周囲の国を次々と征服し、大帝国として栄えていました。それは神の道具として神がそのように用いたからなのに、何を血迷ったのか道具としての自分の立場を忘れ、高ぶってしまったので、神はアッシリアよりも強力な国バビロン帝国を興してアッシリアをも滅ぼそうとしたのです。万軍の主が、恐ろしい勢いで枝を切り払われます。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒されます。まさに切り倒された株、切株です。それはアッシリアだけでなくユダも同じです。主に背き続けたユダもアッシリア同様切り倒されることになります。しかし、違いがあります。それは何かというと、神はそこに「残りの者」を残してくださるということです。その残りの者は、力ある神に立ち返るようになるということです。それが10章20~22節で言われていることです。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。」

そしてそのような人達の末裔からメシヤが生まれるのです。それがここで言われていることです。神はエッサイの根株から新芽を生えさせ、その根から若枝が出て実を結ぶようにしてくださるのです。

皆さん、ここに希望があります。切り倒されて切株しか残っていないような中で、だれもが絶望している時に、誰もが期待していないような中で、神の救いが現れるのです。もう何の望みもないと思われるような中に、神の救いが始まるのです。それが新芽であり、若枝なるメシヤ、救い主イエス・キリストです。

ところで、この「若枝」という言葉ですが、これはやがて来られるメシヤのことを表しています。これはヘブル語では「ネイツァー」と言いますが、「ナザレ」の語源になった言葉です。マタイ2章23節に「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」とありますが、これはこのイザヤ11章1節の預言が成就したということを示しているのです。この預言がナザレのイエスによって成就したのです。来るべきメシヤはエッサイの根株から生える若枝として実を結ぶのです。メシヤはナザレ人と呼ばれるのです。そこには四つの意味があります。

第一に、それは王として来られるメシヤを表していました。エレミヤ23章5節に、「見よ、その時代が来る。─主のことば─そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。」とありますが、これはやがて来るメシヤが王であられることを示しています。その「若枝」、メシヤは、王となって治めるのです。

第二に、それはしもべとして来られるメシヤを表しています。ゼカリヤ3章8節には、「聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。」ここでは「若枝」のことが「しもべ」と言われています。神はご自身のしもべ、若枝を来させるのです。

第三に、それは人としてのメシヤです。ゼカリヤ6章12節にこうあります。「彼にこう言え。『万軍の主はこう言われる。見よ、一人の人を。その名は若枝。彼は自分のいるところから芽を出し、主の神殿を建てる。」ここでは、この「若枝」のことが「一人の人」と言われています。

第四に、それは神としてのメシヤです。イザヤ4章2節には「その日、主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。」とあります。ここでは、この「若枝」のことが「主の若枝」と言われています。それは神としての若枝のことです。それは麗しいものとなり、栄光となります。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなるのです。

このように主の若枝には四つの意味があります。それはちょうど新約聖書にある四つの福音書が、それぞれマタイの福音書が王としてのイエスを、マルコの福音書はしもべとしてのイエスを、ルカの福音書は人としてのイエスを、そしてヨハネの福音書が神としてのイエスを表しているように、やがて来られるメシヤは王の王として、人々に仕えるしもべとなって人間の姿をとり十字架で死なれるまことの神であることを表しているのです。それは私たちを罪から救うためでした。全く罪のない神ご自身が、人となられ十字架に掛かって死んでくださいました。キリストは、エッサイの根株から出る新芽として、その根から出た若枝としてこの世に来てくださったのです。

皆さん、ここに救いがあります。もしかするとあなたの人生は切り倒され、何も残っていないかのような根株のような状態かもしれません。しかし、神はその根株からも新芽を生えさせ、若枝を出させ、実を結ぶようにしてくださいました。どんなに切り倒され、さげすまれても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。必ず回復させてくださるのです。

Ⅱ.若枝にとどまる主の霊(2-5)

次に、この若枝の性質について見ていきたいと思います。2~5節をご覧ください。2節には、「2 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。」とあります。「主の霊」とは神の霊のこと、聖霊のことです。「それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である」とあるように、「七つの霊」として表現されています。それは主の霊であり、知恵と悟りの霊であり、思慮と力の霊であり、主を恐れる、知識の霊です。これは七つの霊があるということではなく、一つの聖霊に七つの働きがあるということです。「七」というのは聖書では完全数を表していますから、御霊は完全な方であるということを表していることもわかります。そして、イエス・キリスト、救い主、メシヤには、この主の霊、神の御霊に待たされた方でした。

イエスはルカ4章18~19節で、このように言われました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」

また、ヨハネ3章34節には、「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。」と言われました。イエスは神の霊に満たされたお方でした。

また、この方には「知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊」がありました。それは3~5節に「この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。」とある通りです。

人間は目に見えるところによってしばしば判断し、内に隠された問題や真理を見失ってしまう間違いを犯しますが、主はそのような方ではありません。表面に現れたものではなく、私たちの心を見られるからのです。また、聞きかじりの知識ではなくて、物事の本質によって判断されるからです。

たとえば、イエスのもとに姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られたとき、律法学者とパリサイ人は、モーセの律法には、こういう女を石打にするように命じているが、あなたは何と言われますか、という問いに、イエスはこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)

すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、女とイエスだけが残されたとき、イエスは彼女にこう言われました。「わたしもあなたにさばきをくださない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」ヨハネ8:11

イエスはなぜそのように言われたのでしょうか?それはその女の心を見られたからです。人はうわべを見るが、主は心を見られます。この女は自分の罪にうちひしがれ、もうさばかれても当然、とんでもないことをしてしまった、取り返しのつかないことをしてしまった、罪に定められ石で打ち殺されてもしょうがないという思いを持っていたでしょう。それを十分承知のうえで、彼女は必死になって主のあわれみを求めたのです。主はその心を見られたのです。イエスは、その目の見えるところでさばかず、その耳の聞こえるところで判決を下されませんでした。それが私たちの主イエス・キリストです。

その一方で、いつまでも踏みにじられている人たち、弱い者、地の貧しい者たち、しいたげられている人たちがいますが、そういう人たちには、正義と公正をもって正しくさばいてくださいます。主が来られる時、主はこれを実現してくださいます。これこそ、ほんとうの希望ではないでしょうか。

Ⅲ.メシヤの支配(6-9)

最後に、このメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかを見て終わりたいと思います。6~9節までをご覧ください。「6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」

ここにメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかが描写されています。それは一言でいえば「平和な世界」です。羊と狼、子やぎと豹が共に戯れ、小さな子どもが牛やライオンを追って行きます。乳飲み子がコブラと戯れ、まむしの巣に手を伸ばすのです。そんなことをしたら危ないじゃないですか、と心配される方がおられるかもしれませんが、大丈夫です。主が支配する王国は、このような平和の国ですから。まるで地球全体がエデンの園のような状態に回復されるのです。この時代には弱肉強食の動物界に完全な平和が訪れることになります。そもそもアダムとエバが罪を犯す前は、弱肉強食などありませんでした。動物たちはみな草を食べていたのです。牛も、熊も、獅子も、みんな草を食べていました。草を食べるのはうさぎだけではありません。大きな熊もそうです。今でもパンダは竹を食べていますが、それは今に始まったことではありません。ずっと昔からそうなのです。それが変わったのは人間が罪を犯し、その罪の影響が人類ばかりではなく、こうした動物界をはじめ自然界全体に及んだからです。そうした世界に、完全な平和がもたらされるのです。

これは文字通りにはキリストが再臨された後の千年王国の時に実現するものです。しかしその本質である愛が支配する世界は、私たちがこの平和の王であられる主イエスを信じるとき、その瞬間に、私たちの中に始まるのです。どうしてですか?それは9節にあるように、主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからです。9節をご一緒に読みましょう。「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(9)

すばらしい御言葉ですね。「主を知ることが、海をおおう水のように地を満たすからである。」主を知ることとは、主を信じることと言っても良いでしょう。主を知ることが、主を信じる人たちが、海をおおう水のようにこの地を満たすとき、このような平和が訪れるのです。

ですから、大切なのは「主を知る」ということです。これは今年の教会の年間テーマでしたね。主を知るとは表面的に知るということではなく、主がどのような方なのかを深く知るということです。やがて世の終わりにもたらされる千年王国では、この主を知る知識がこの地を満たします。主が支配される千年間の平和な時代がやってくるのです。

しかし、それは千年王国においでだけではありません。それは既にもたらされているのです。もしあなたが主を知るなら、このメシヤによって支配される目に見えない千年王国が、私たちの心を支配し、神の平和があなたの心を満たすようになります。ルカ17章20~21には、パリサイ人たちが神の国はいつ来るのかという質問に対して、イエスはこう言われました。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

神の国はあなたがたのただ中にあるのです。ですから、イエス・キリストがいつ来られるかということよりも、いつ来られても大丈夫なように、このメシヤなるキリストを信じて、罪を赦していただき、主の再臨に備えておくことが大切なのです。それが主を知るということです。その時、神の平和があなたの心と思いを満たすでしょう。

あなたは、このエッサイの根株から出る新芽、その根から出る若枝を迎える準備が出来ていますか。主はあなたを罪から救うために今から約二千年前にこの世に来てくださいました。そして十字架で死なれ、三日目によみがえられ、天に昇り、全能の父なる神の右に着座されました。あなたの救いの御業を完成してくださったのです。あなたがこのイエスを救い主として信じて受け入れるなら、神の国はあなたの中にあります。あなたは主のご支配の中で完全な愛と平和を受けることができます。そして、主が再び来られるとき、文字通り千年王国において、この愛と平和を生きることになるのです。あなたも、あなたのために来られたメシヤ、救い主、イエス・キリストを信じて、主の来臨に備えてください。これこそ本当のクリスマスの喜びと希望なのです。

マタイの福音書1章18~25節「ヨセフのクリスマス」

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メリークリスマス!イエス・キリストの御降誕に感謝し、主の救いの御業をほめたたえます。前回は、マタイの福音書1章前半のイエス・キリストの系図からキリスト誕生にまつわる神の子イエス・キリストの奥義を学びましたが、きょうは、マタイの福音書1章後半から、ヨセフに啓示されたキリスト誕生の知らせから、共にクリスマスの恵みを分かち合いと思います。

キリスト誕生の出来事のストーリーにおいて、主要な役割を担う人物でありながら一言も発しない人がいます。誰でしょうか?そうです、イエスの父ヨセフです。父と言っても、実際にはイエスの父は神様ですから、養父ということになります。育ての父ですね。だからなのかどうかはわかりませんが、ヨセフは、マリアにくらべてあまり目立たないというか、注目されず、なんとなく影が薄いような気がします。現代の男性や父親のようですね。マリアのことは聖書に数多く出てきますが、ヨセフのことは少ししか出てきません。いや、彼は聖書の中で一言も発していないのです。
 子どもたちが演じる降誕劇などでは、よく「マリア、大丈夫かい」と、気遣ったり、「一晩泊めてください。子どもが生まれそうなのです」と、宿屋の主人と交渉するいくつかのセリフを発したりしますが、実際には、聖書の中にはそういうことばはありません。黙ったままです。いったいなぜ彼は沈黙していたのでしょうか。今朝は、イエスの誕生の時に果たしたヨセフの役割と彼の信仰について学びたいと思います。

 Ⅰ.正しい人であり、憐れみ深い人であるヨセフ(18-19)

まず18節と19節をご覧ください。「18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

ここには、キリストがどのようにして生まれてきたのかが、淡々と語られていますが、原文のギリシャ語には18節と19節の冒頭に、それぞれ「デ」(δε)という接続詞があることがわかります。これは「しかし」とか、「ところで」と訳される語です。すなわち、1節から17節で語られて来たことを受けて「しかし」ということです。1節から17節にはキリストの系図が記されてありました。そこには、誰々と誰々の間に誰々が生まれたという系図が記されてありましたが、それに対してイエス・キリストの誕生はどうであったのかということです。つまり、1節から17節までの系図にある誕生というのはごく自然な誕生であったのに対して、イエス・キリストの誕生はそうではなかったということです。イエス・キリストの誕生はそうした通常の方法とは違う、超自然的な方法であったのです。それはどのような方法だったのでしょうか。

ここには、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」とあります。いきなりわけの分からないことが出てきます。それは二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもったということです。二人がまだ一緒にならなくても身ごもることはあります。いわゆる「できちゃった婚」ですね。できちゃったから結婚するというのはよくあることですが、ここではそのようにできちゃったから結婚したというのではなく、まだ一緒にならないうちに聖霊によって身ごもったと言われているのです。うそでしょ!と思うかもしれません。

当時の結婚の定めからすると、二人はすでに婚姻関係にあると認められていました。でもまだ一緒に生活するまでには至っていなかったのです。というのは、ユダヤにおいては結婚までに三つの段階があったからです。

第一の段階は、「許婚」(いいなづけ)の段階です。多くは幼少期に本人たちの意志と関係なく双方の親の合意で結婚が決められていました。

第二の段階は、当人同士がその結婚を了承して婚約するという段階です。これによって正式に結婚が成立しますが、私たちが考える婚姻関係とはちょっと違い、法的には夫婦とみなされても、まだ一緒に住むことは許されていなかったのです。つまり、夫婦として性的な関係を持つことはできませんでした。通常、この期間は1年~1年半くらいでした。その間、お互いは離れたところで暮らし、夫は父親の下にいて花嫁と過ごすための準備をしたのです。

第三の段階は、花婿が花嫁と過ごすための準備を整え花嫁を迎えに行き、正式に結婚式を挙げる段階です。この段階になって二人ははじめて一緒に暮らすことができました。

ですから、ここに「マリアはヨセフと婚約していたが」とありますので、これは、この第二段階にあったことを示しています。法的には婚姻関係が成立していましたが、両者はまだ一緒に住むことができなかった状態、住んでいなかった状態であったということです。ですから、夫婦としての性的な営みもまだ持っていませんでした。

そのような時、マリアが身ごもってしまいました。マリアが身ごもったと聞いてピンとくるのは、彼女が不貞を働いたのではないかということです。あるいは暴力的な仕方で妊娠させられたのかもしれないということです。でもマタイはそうではないと告げています。ここには「聖霊によって身ごもった」とあります。にわかには信じられない話です。恐らく、この時彼女は14~16歳くらいだったのではないかと考えられていますが、たとえば、皆さんのティーンエージャーの娘さんが「妊娠しちゃった」と言って来たらどうでしょう。「どうして?何があったの?」と問い詰めるのではないかと思いますが、その時に「実は、聖霊によって・・」と答えたとしたらどうでしょう。「バカなことを言うな」と、頭ごなしに否定するのではないでしょうか。それはヨセフにとっても同じことです。とても信じられないことでした。勿論、マリアにとってもあり得ないことでした。そんなことをいいなづけのヨセフに伝えたらどうなるかを考えたら、とてもじゃないですが、言えなかったでしょう。周りの人たちにも大きな迷惑をかけてしまうことになります。ですから、彼女は相当悩んだはずです。でも、彼女はこのことをヨセフに伝えたのです。

それを聞いたヨセフはどうしたでしょうか。19節には「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらけ者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とあります。

普通だった怒りとか失望落胆、いや、嫌悪感さえ抱くでしょう。決して許すことなどできません。事実、旧約の規定によると、もし妻が不貞を働いたらさらし者にされ、石打ちの刑で殺されなければなりませんでした。町の広場で引き連れられ、町中の人から一斉に石を投げつけられたのです。しかし、ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思いました。内密に結婚関係を解消しようとしたわけです。マリアの命と人格と名誉を守る仕方で、自分から身を引く道を選び取ろうとしたのです。なぜでしょうか。ここには「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので」とあります。

この「正しい人」ということばは原語のギリシャ語では「ディカイオス」(δικαιος)という言葉です。これは律法を忠実に守る人という意味です。彼は神の律法を曲げるような人ではありませんでした。自分の場合を特別であるとか例外であると考えて、神のことばを割り引いて自分に適用する人ではなかったのです。律法にしっかりと照らし合わせ、律法に書いてある通りに生きよう思っていました。でも彼女をさらし者にはしたくなかった。

当然のことながら、彼は相当悩んだことでしょう。もしかすると、性格的にも私のように口数の少ない人だったかもしれない。寡黙なタイプですね。だからこそ、そこには人知れぬ深い悩みの日々があったのではないかと思うのです。20節に「彼がこのことを思い巡らしていると」とあるように、どうしたら良いものかと思い悩んでいたのです。マリアに対する愛情が深く、その愛が真実であればあるほど、裏切られたような思いにも駆られることもあったでしょう。マリアに対するさまざまな疑問も湧き上がったに違いありません。真相を問いただしたいという衝動にも駆られたでしょう。何よりも、自分が思い描いていた幸せな結婚生活をあきらめて彼女との関わりを断ち切らなければならないという、そんな絶望的な思いにさえなったことでしょう。それは彼が正しい人で、マリアをさらし者にはしたくなかったからです。

ここがヨセフのすばらしいところです。もし彼が律法ではこうだからと、その適用ばかりに窮々としていたら、あのパリサイ人のように何の悩みもせずに彼女を見せしめにしたでしょう。またもし彼が単なる人情家で神のことばを心から尊ぶ人間でなかったら、やはり何の悩みもせずにマリアを不問に付したことでしょう。そして善人ぶって、自分は何と善い人間なんだろうと酔いしれていたかもしれません。しかし彼は同時に憐れみ深い人でした。彼は律法の正しさの前に自分の配偶者となるべく人の罪を考え、しかもそれを他人事とせず自分の事として受け止め、その呵責に悩みながら、彼女をさらしものにはしたくはなかったのです。

なんと美しい心を持った人でしょうか。結婚するならこういう人と結婚したいですね。イエス様は「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ7:3)と言われましたが、自分がいかに疑い深く、他人のことに関してはすぐに目くじらを立てるような者であるにも関わらず、自分の中には大きな梁があることにはなかなか気付かない者であるということを認める者であれば、このヨセフの態度がいかにすごいかがわかるのではないかと思います。そういう意味で彼は突出した人物でした。これこそ、救い主の父親となるべく神が選ばれた人物であり、それは彼の生来の性格によると言うよりは、聖霊の奇しい御業が彼のうちに働いていたという何よりの証拠だと思います。正しい人であるというだけでなく憐れみ深い人。神のことばに忠実に生きる者でありながら、神の憐れみを兼ね備えていた人、それがヨセフだったのです。私たちもそういう人になりたいですね。

Ⅱ.思い巡らしていたヨセフ(20-23)

次に、20~23節をご覧ください。「20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20-21)

ヨセフがこのことで思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。順序が逆のような気がします。マリアの時のように、先に御使いが現れて告げてくれていたら、ヨセフもそんなに悩む必要はなかったのではないかと思います。どうして神様は先にこのことを教えてくれなかったのでしょうか。それは、ヨセフにとって思い巡らす時が必要だったからです。そうした思い巡らす時、沈黙の時があったからこそ、その後神様から「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と言われその理由が示されたとき、彼はすぐに主に従うことができたのです。

ドイツのルター派の牧師で、20世紀を代表するキリスト教神学者の一人にボンヘッファーという人がいましたが、彼は「共に生きる生活」(新教出版社)という本の中で、次のように言っています。
 「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。」
 含蓄のあることばだと思います。ボンヘッファーは、信仰者がしばしばひとりでいることができず、交わりに依存し、あるいは交わりに過剰な期待を抱き、そこに責任を転嫁して、ついにはその交わりにつまずいて、相手を非難して終わっていく私たちの弱さなり、危険性を、このように鋭く突いたのです。

もちろん私たちは交わりを必要としています。誰かの励まし、慰め、共感を必要としているのです。けれども究極のところで、人は神の代わりには成り得ることはできないのです。ですから、神の前に静まることなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはできません。ボンヘッファーはそれを言いたかったのはそういうことだったのです。彼はこうも言っています。

「神があなたを呼ばれた時、あなたはただひとり神の前に立った。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかった。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することであり、そうすればあなたは、召された者たちの交わりとは何の関わりをも持つことはできない。」

大変厳しいことばです。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、キリストの召しを否定することになるし、そうすれば、召された者たちの交わりとは何の関わりを持つことはできません。まあ、バランスが必要だということですが、そのバランスの中でも、ひとり神の前に立つこと、神様と1対1となって思い巡らす時が必要であり、そのとき、神のみこころが明らかにしてくださるのです。そういう意味でみことばと祈りの時、ディボーション、静思の時を持つことがいかに重要であるかがわかります。

ヨセフも、そうした葛藤の中でひとり思い巡らし、神の前に立ったとき、神のみこころが明らかにされました。20~21節です。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

神が明らかにされたことはどんなことでしたか。それは、マリアの胎に宿っている子は聖霊によるものであるということでした。そればかりか、それは男の子で、その名前を「イエス」とつけるようにと、具体的に告げてくださったのです。「イエス」という名前の意味は、「主は救い」です。この方はご自分の民を罪から救ってくださるお方なのです。あなたを救ってくださる。なぜメシヤ、救い主、イエス・キリストは、このように処女から生まれなければならなかったのでしょうか。それはご自分の民をその罪から救ってくださるためです。この罪こそ、私たちすべての問題の根源にあるものです。

今年はロシヤのウクライナ侵攻とういう暴挙がありましたが、それももとはと言えば、この罪が原因です。台湾の問題もあります。私たちは、いつ第三次世界大戦が勃発してもおかしくない時代に生きています。それは戦争ばかりでなく、私たちの社会、私たちの人生に襲い掛かる様々な問題においても言えることです。どんなに法律を作っても、この世から悪が一掃されることはないでしょう。それは私たち人間に罪があるからです。この罪がすべての問題を引き起こすのであって、真の平和を実現するためには、この罪を取り除かなければなりません。その罪から救ってくださるお方、それが神の御子イエス・キリストなのです。その方は罪のない方でなければなりませんでした。だから、聖霊によって身ごもらなければならなかったのです。

処女が身ごもるなんて前代未聞です。非科学的です。「だからキリスト教は信じられないんだ!」という方もおられるでしょう。多くの人は、この処女降誕ということだけでキリスト教は信じられない、信じるに値しないと結論付けますが、それは愚かなことです。なぜなら、神はこの天地万物を創造された方であって、私たち人間にいのちを与えてくださった方だからです。人にいのちを与えることができる方であるならば、人間を処女から生まれさせることなど何でもないことなのです。むしろ、そうでなければおかしい。普通に生まれたのであれば罪を持ったまま生まれて来たということになりますから。もしそうであれば、私たちを罪から救う資格はありません。私たちを罪から救うことができる方は、それは全く罪のない方であり、人として生まれた神の子でしかないのです。神はそれを処女降誕という出来事を通して成し遂げてくださったのです。これはすごいことです。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。

それは22節に「そのすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」とあることからもわかります。それは、主が預言者を通して予め語っておられたことでした。それが今成就しようとしていたのです。その預言とは、23節にあります。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」  

これはイザヤ書7章14節からの引用です。これは、キリストが生まれる700年以上も前に現れたイザヤという預言者によって語られた内容ですが、不思議ですね。イザヤは、キリストが生まれる700年も前に、来るべきメシヤは処女から生まれるということを預言していました。それがいま、実現しようとしていたのです。これは「インマヌエル預言」と呼ばれているものですが、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味です。

この「インマヌエル」ということばは、マタイの福音書28章20節にも出てきます。これは主の大宣教命令と呼ばれている箇所ですが、主はその中でこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

ここには「インマヌエル」ということばはありませんが、同じ意味です。「神があなたとともにいます」。これはインマヌエルの宣言なのです。このようにマタイの福音書はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わるので、「インマヌエルの書」と呼ばれています。実は初めと終わりだけでなく、真ん中にもあります。マタイの福音書18章20節の御言葉です。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

二人か三人が主イエスの名によって集まるところに、主もまたそこにいるという約束です。まさに、私たちの主はインマヌエルの主なのです。あなたとともにおられる神なのです。

ヨセフが、沈黙の中でひとりこのことを思い巡らしていたとき、神はそのことを明らかにしてくださいました。主はこのようなかすかな細い声の中に、ご自身を現わしてくださったのです。婚約していた妻マリアが身ごもるという、前代未聞というか、ヨセフにとっては考えられないこと、最悪な出来事が起こりましたが、いざ蓋を開けてみたら、何と自分は救い主の育ての親になることが示され、明らかにされたのです。約束のメシヤの義理の父親になるのです。それは選ばれた人間であるということを表していました。そういう驚くべき事実が明らかにされたというか、心が震えるような体験をしたのです。

詩篇62篇1節に、「私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」という御言葉がありますが、私はこの御言葉が好きです。主の前に静まり、黙って主を待ち望むのです。「黙って」と言っても、何もしないで、ただカウチに座って、神が何かしてくれるまで、何もしないでいるということではありません。「黙って」というのは、主の導きをしっかりと受け取るために、一度立ち止まりなさいという意味です。もしかしたら、あなたの前には今、大きなトラブルがあるかもしれません。緊急事態かもしれない。今すぐ何かをしなければならないといろいろな対応策が頭に浮かぶかもしれません。しかし、聖書は「私たましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」というのです。あれやこれやと自分で考え、慌ただしく動き回るのではなく、主の前に静まり、神を待ち望むのです。そして、主からの助けを、解決策を、しっかりと受け取りなさいというのです。ヨセフは主の御前で黙って神を待ち望み、思い巡らす中で、神が明らかにしてくださったのです。

ですから、神の御前にひとり静まること、沈黙することを恐れてはなりません。神の御前に沈黙することなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはありません。でも神の御前に静まって、そのことを思い巡らすなら、神が解決を与えてくださいます。たとえ疑い深い者でも、神はいつも、親切な助けを与えてくださるのです。

Ⅲ.神のみこころに従ったヨセフ(24-25)

第三に、その結果です。24~25節をご覧ください。「24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、彼女を自分の妻として迎え入れました。彼はすぐに主の命令に従いました。そして、マリアが子どもを産むまで、彼女を知ることはありませんでした。マリアと結婚しても、あえて性的な関係を持たなかったということです。それは、イエスが自分の子どもではないことを世間に知らしめるためでした。もしマリアと関係があれば、それはヨセフの子どもであるとだれもが思うからです。でも、これは自分の子どもではなく神の子であり、神がご自分の民をその罪から救うために与えてくださった救い主であることを、証しようとしたのです。

彼は、妻マリアを疑うことなく、詮索することもやめ、身重になったマリアに向けられた周囲からのさまざまな疑いや噂の前に立ちはだかり、神の約束、インマヌエルの神に信頼しました。彼は、神の救いにすべてをかけて生きたのです。

私たちの人生においても、ひとり静かに黙さなければならないときがあります。そこでは誰も手を貸すことができない、助け船を出すことができない、安易な慰めや励ましも含めて余計な口をさしはさむことができない、沈黙という形をとった神との真剣な対話の時があります。しかし、そういう時を私たちは、主にある兄弟姉妹との交わりの中に身を置きながら持つのです。その時、その静けさの中で、インマヌエルの主が語ってくださいます。ですから、沈黙とはただことばを発しないということではなく、神のことばを聞くこと、神が語られることばに傾聴することなのです。

今年のクリスマス、私たちもまたヨセフのように饒舌の中に身を置くところから、主の御前で静まり、主のみことばを聞く所へと導かれていきたいものです。そこで神が語ってくださる約束の御言葉、「わたしはあなたとともにいる」ということばと出会い、そのことばによって慰められ、励まされ、生かされていく。そのようなクリスマスを送らせていただきたいと思うのです。

マタイの福音書1章1~17節「イエス・キリストの系図」

アドベントの第二週を迎えました。御言葉からキリストの御降誕を待ち望みたいと思います。今日は、マタイの福音書1章前半にある「イエス・キリストの系図」からお話ししたいと思います。

多くの人が初めて手にする聖書は新約聖書ではないかと思いますが、その最初のページをめくって抱く印象は、「戸惑い」ではないでしょうか。私も、高校3年生の時、当時はわかりませんでしたが国際ギデオン協会の方々が校門の前で配っていた赤いカバーの聖書を手にして、「いったい何が書いてあるんだろう」と興味津々、帰宅して読み始めたのが、このマタイの福音書1章でした。そこには読み慣れない名前の羅列と、無味乾燥に見える系図が書かれてあって、「何だ、これは?」とすぐに読むので止めてしまいました。でも捨てるに捨てられず、他にバスケットボールの本しかなかった本箱に飾っていたら、その後、後に妻になる1人の宣教師と出会い教会へと導かれました。そして、そこでイエス・キリストに出会うことができたのです。でも私のようなケースは稀で、ほとんどの人はこの箇所を見て読むのを断念するのではないかと思います。

かつてある人がこんなことを言いました。「新約聖書はマタイの福音書よりもマルコの福音書の方が最初にあったほうがいい。多くの人はせっかく手にしてもマタイの福音書1章の系図につまずいて、それ以上先に読み進めなくなってしまう。」

確かに、いきなり系図から始まっては、読み手は面食らってしまうかもしれません。それよりも一切の前置きを省略して、真っ直ぐイエス・キリストの物語に進むマルコの福音書のほうが、人々が福音に触れるにはよいのではないかと思います。実際に書かれた年代からすれば、マタイの福音書よりもマルコの福音書の方が先に書かれました。それなのになぜマルコの福音書ではなく、マタイの福音書が最初に置かれたのでしょうか。しかも、なぜその冒頭が系図だったのか。そこには深い神様の意図があったと思うのです。
 

Ⅰ.アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図(1)

まず1節の冒頭のことばから見ていきましょう。ここには、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。

これを書いたマタイは、これから書き連ねていく福音書の主人公イエス・キリストがどのような方なのかを紹介するにあたり、アブラハムから始まる系図を示して、イエス・キリストとは誰なのかを紹介しています。なぜ系図から書いたのでしょうか。それはこの福音書の著者であるマタイが、ユダヤ人ないしユダヤ社会の価値観に生きていた人々に向けてこれを書いたからです。

このような系図が出てくると、私たち日本人にはなかなか理解しにくいものですが、当時のユダヤ人にとってはむしろピンと来たのではないかと思います。というのは、彼らが一人一人の名前を読むとき、その人物とその時代の歴史的背景を次々に思い出すことができたからです。しかも、アブラハムからイエス・キリストの出現までの、約二千年間の物語です。これほど壮大なドラマは、そんじょそこらに見出せるものではありません。ユダヤ人は旧約聖書の知識が常識のようになっていたので、こうした系図も容易に理解することができたのです。

その系図の書き出しが「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」でした。マタイはまず、イエス・キリストがアブラハムの子であり、ダビデの子であると述べています。「子」とは「子孫」であるということです。これはある意味この系図の要約であり、またこの福音書全体の主題であるとも言えます。

アブラハムは、皆さんもご存知のように、聖書の中の最も重要な人物の一人です。なぜ重要かといいますと、神がアブラハムという個人に、ユダヤ人をはじめとして全世界を祝福すると約束をされたからです。創世記12章1~3節にこうあります。「1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

このように神様はアブラハムとその子孫によって、すべての民族を祝福すると約束されました。その子孫こそ、イエス・キリストです。ですから、たとえ日本人であろうと、アメリカ人、フランス人、韓国人であろうと、私たちはこの子孫によって祝福される、つまり救われるのです。マタイは、イエスが「アブラハムの子」であると言うことによって、イエスこそ神がアブラハムに対して約束されたことを成就するために来られた方であるということを、読者に伝えたかったのです。

また、マタイはイエスが「ダビデの子」であるとも言っています。ダビデはユダヤ人の歴史の中で最大の王でした。ユダヤ人は今日でもその国旗にダビデの紋章を用いていることからもわかります。ダビデは、イエスの誕生とアブラハムが生きていたときのちょうど真ん中にあたる、紀元前1000年頃に生きていました。彼は、アブラハムの直接の子孫であるイスラエル民族を統治した王でした。このダビデにも、神は世界を揺さぶるような約束を与えられています。それは、Ⅱサムエル7:12~13にある「ダビデ契約」と呼ばれているものです。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

この「世継ぎの子」とは直接的にはソロモンのことですが、これはダビデの子孫から出るメシヤのことです。それはここに「とこしえまでも堅く立てる」と言われていることからもわかります。そのメシヤは王となり、イスラエルと世界を支配されるというのです。その王こそ、ダビデの子として生まれるイエスなのです。

それで、国を滅ぼされたユダヤ人は、このダビデの子孫の中から自分たちを救ってくれるメシヤの現われを待ち望むようになりました。そして、メシヤを待望する信仰が生まれたのです。そのメシヤとはだれか。マタイはここに「ダビデの子」と記すことによって、その子孫から生まれるイエスこそダビデ契約の成就者であり、全人類に救いをもたらすメシヤであるということを伝えたかったのです。

Ⅱ.イスラエルの歴史(2-16)

では、アブラハムからダビデ、そしてイエス・キリストへとつながる系図とはどのようなものだったのでしょうか。2~16節にその長い系図が出てきます。2~6節までは、アブラハムからダビデまでの、いわゆる族長時代、士師の時代の歴史です。そして7~11節には、ダビデからバビロン捕囚までのイスラエルの王朝の系図、そして12~16節には、バビロン捕囚からイエス誕生までの歴史が記されてあります。

まず2~6節をご覧ください。「2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、」

司会者泣かせの箇所です。でも、ここまでは比較的ポピュラーな人たちの名前なのでそれほど大変でもありませんが、この後16節までずっと読み進めていくと、舌を噛みそうになります。

この6節までに出てくる人たちの名前の中で特徴的なことは、ここに4人の女性たちの名前が記されてあることです。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。この系図全体にはもう一人の女性の名前が出てきます。それは16節に出てくるイエスの母マリアです。それと合わせると全部で5人の女性の名前が記録されてありますが、そのうちの4人は6節までに出てきます。

圧倒的な男性優位の社会の中にあって、このように女性の名前が記録されていることは非常に珍しいことでした。マタイはなぜここにこれら4人の女性の名前を記したのでしょうか。マタイがこの特定の女性を選んでわざわざ記したのには、それなりの深い意図があったのではないかと思います。

系図の中で最初に登場する女性は、タマルです。3節をご覧ください。タマルに関しては、創世記38章に詳しく書かれてありますので、後でゆっくりご覧いただきたいと思いますが、タマルはユダの長男(エル)の嫁でした。けれども、彼は死んでしまい、後継ぎのために次男(オナン)がタマルを妻としましたが、次男も死んでしまいました。そこで父のユダは「三男(シェラ)が大きくなってから、おまえに与えよう。」と言いましたが、三男まで殺されるのがいやだったので、タマルに与えるつもりはありませんでした。

そこでタマルは、ベールをかぶって売春婦の格好をして通りに座りました。ユダと関係をもって子どもを設けようと考えたのです。ユダはタマルと関係を持ち、ほうびのしるしとして、印形とひもと杖を彼女に与えました。その後、ユダはタマルが妊娠していることを聞くと「あの女を引き出して、焼き殺せ。」と言いましたが、タマルは「私はこれらの品々の持ち主によって身ごもったのです」と言うと、ユダは「あの女は私よりも正しい」と認めました。そのタマルが、イエスの先祖として加えられているのです。いったいなぜタマルの名前が記されたのでしょうか。それは、どんなに罪深い人でも許されることを示すためでした。

思いつめたタマルは、義父を誘うという不道徳な行動を取ってしまいましたが、神はタマルを赦して子どもを与え、その子ペレツをイエス・キリストの祖先の一人としてくださいました。私たちもまた、タマルのようにしばしば間違った行動を取ってしまうことがありますが、神はそんな間違いやすく罪深い私たちが、神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から聖めてくださいるのです。

次に登場する女性は、ラハブです。5節をご覧ください。ラハブについては、旧約聖書のヨシュア記2章に書かれてあります。ラハブもエリコに住む売春婦、遊女でした。タマルは売春婦に変装しましたが、ラハブは正真正銘の売春婦でした。しかもユダヤ人ではなくカナン人でした。カナン人とはカナンの先住民族のことで、占いとか、呪術、霊媒などを行っていた民族です。そればかりか、自分たちの息子や娘をいけにえとして火で焼いたりしていました。つまり、神に忌み嫌われていたことを平気で行っていた民族だったのです。そんなラハブの名がここに記されてあるのです。なぜでしょうか。それは彼女がエリコという異教社会にあって、限られた知識しかないにもかかわらず、リスクを顧みずに、敵であったイスラエルの神こそまことの生ける神であると信じ、告白したからです。

彼女はヨシュアによってエリコ偵察のために遣わされた二人のスパイを家の屋上にかくまうと、エリコの警備兵には嘘をついて、二人を助けました。ラハブは屋上に上ると、亜麻の間に隠れているイスラエル人に、なぜ自分が二人をかくまったのかを語りました。それは、「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」(ヨシュア2:9-11)

何とラハブの口から出たのは、イスラエルの神に対する信仰告白でした。二人の斥候は驚きました。彼女は旅人たちからイスラエル人のうわさを聞き、そこに働いている神の力を知ったとき、それこそ真の神であると信じるようになっていたからです。

それからラハブは、二人の斥候に、「私はあなた方を助けました。どうか、今度は、あなた方が私と私の家族を救ってください。」と要求すると、二人は、窓に赤いひもを結び付けておくようにと言いました。やがてイスラエルがこの地に攻め入るとき、その赤いひもが目印となって、彼らを救うためです。そのようにして、ラハブとその家族が救われました。これは、イエス・キリストの十字架の血の象徴でした。キリストの十字架の血を受け入れる者は誰でも救われるのです。

たとえ遊女のように汚れた者であっても、たとえ神から遠く離れた異邦人であっても関係ありません。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ローマ10:13)のです。遊女ラハブの名がここに記されてあるのは、そのことを示すためだったのです。

キリストの系図に出てくる三人目の女性はルツです。ルツのことは旧約聖書の「ルツ記」に書かれてあります。ルツも信仰深い女性でしたが、モアブ人でした。モアブ人は、異邦人の中でも最も嫌われていた民族でした。というのは、かつてモアブの娘たちがイスラエルの民を惑わして不道徳と偶像崇拝に導いたからです。その出来事は民数記25章1~3節にありますので、後でご覧いただけたらと思います。それで、モアブ人は「主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して主の集会に加わることはできない。」(申命記23:3)と厳しく命じられていました。そのモアブ人ルツの名前がここに記されてあるのです。どうしてでしょうか。それはルツが素敵なお嫁さんだったからではありません。それは彼女の信仰のゆえでした。

二人の息子を亡くした姑のナオミが、「あなたがたは、それぞれ自分の家へ帰りなさい。そして、いい人を見つけて再婚しなさい。神があなたがたに恵みを賜りますように。」と言ったのに、ルツは、「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)と言って、ナオミについてベツレヘムまでやって来ました。つまり、彼女はモアブ人でありながら、ナオミの信じていたイスラエルの神、主を信じのです。

それだけでありません。ルツの名前がここに記されてあるのは、彼女の信仰がすばらしかったというだけでなく、彼女がベツレヘムで誠実で、忠実な信仰の人ボアズと出会い、結婚したからです。ベツレヘムに戻ったナオミは、苦しい生活の中にあって、ルツが落ち穂ひろいをして生計を立てていました。その麦畑の主人がボアズでした。彼はルツをあわれみ、買い戻しの権利という権利を使って、やもめとなっていた彼女を自らの妻として迎え入れました。実は、このボアズはイエス・キリストのひな型でした。ですから、これはキリストとその花嫁である教会がどのようなものなのかを示しているのです。つまり、そこにはユダヤ人とか異邦人といった区別は全くなく、キリストにあって一つであるということを表していたのです。

村の人々はみな、ルツとボアズを祝福し、こう言いました。「どうか、主がこの娘を通してあなたに授かる子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」(ルツ4:12)

タマルがユダに産んだペレツの家とは、先ほど見てきたとおりです。ルツとボアズの家がその家のようになりますようにというのは、その系統を引き継いでいるということです。そのペレツの子孫であるボアズからオベデが生まれます。このオベデは、ダビデのお祖父ちゃんに当たります。そこからキリストは生まれてくるのです。神様の不思議な救いの計画が、ここにも脈々と流れているということです。そのために用いられたのがルツであり、ボアズでした。神様は本当に不思議なことをなさいます。

キリストの系図に出てくる4人目の女性は「ウリヤの妻」です。これはバテ・シェバのことです。でもマタイは「バテ・シェバ」と書かないで「ウリヤの妻」と書きました。どうしてでしょうか。それは彼女が他人の妻であったからです。ダビデはその他人の妻と関係を持って妊娠させてしまいました。そればかりか夫のウリヤを戦場に送り、計略によって戦死させ、その事実をもみ消そうとしました。その出来事はⅡサムエル記11章にありますので、後でご覧ください。ダビデは姦淫をし、何と殺人までも犯してしまったのです。名君と言われ、ユダヤ人が誇りに思っていたダビデが、このような大きな罪を犯したのです。これはユダヤ人にとっては耳痛いことでした。触れられたくない事実でした。でもあえて神はマタイを通してそのユダヤ人たちの誇りを打ち砕くかのように、ウリヤの妻という形でここにその事件のことを記したのです。

こうやって見ると、自分たちが誇りとしていたユダヤ民族の血の中にも、明らかに異邦人の血が混じっていたり、決して純粋ではなく、そのうえ数々のスキャンダルや罪の汚点があったことがわかります。イエスは、そうした人間の罪の中から生まれてくださいました。それは、罪深い人間をあわれまれ、罪人を救うためです。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助を受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15-16)

マタイはこれらの4人の女性の名前をあげることで、そうした事実を思い起こさせているのです。

それは、この4人の異邦人の女性だけでなく、7節以降の南ユダ王国の王たちの歴史や、12節以降に出てくる人物を見てもわかります。私たちは今ちょうど礼拝でエレミヤ書を、祈祷会で列王記第一を学んでいますが、そこに出てくる王たちの歴史は、わずかな例外を除いてほとんどが偶像礼拝にふけり、主の律法に背いた悪しき王たちです。その結果として王国の滅亡とバビロン捕囚がもたらされるわけです。

12節以降は、バビロン捕囚後の系図ですが、ここに出てくる人物は、旧約聖書の中に名前も出てこない人たちです。文字通り名もなき人々の系図が記されてあるのです。そしてついにはイエスの父ヨセフが生まれますが、ヨセフはかつてのダビデ王家の血筋も今は昔で、ナザレでひっそりと大工業を営む家となっていました。

ですから、マタイの福音書がこの系図の冒頭に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記していても、事柄はそう単純ではなく、旧約聖書に預言された救い主メシヤの訪れはまさに主の救いのご計画と人間たちの歴史、苦難と栄光、光と影の織りなす歴史であったことがわかります。その中からイエス・キリストは生まれてきたのです。私たちは、この方を私たちは救い主としてお迎えするのです。マタイが伝えたかったのはそのことだったのです。

Ⅲ.神の完全な救いのご計画(17)

最後に17節を見て終わりたいと思います。17節にはこうあります。「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」

マタイは系図の締めくくりとして、17節にこれまでのユダヤ人の歴史を三つに大きく区分しています。それは、アブラハムからダビデまでの全部で十四代の期間と、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、そして、バビロン捕囚からキリストまでの十四代です。

しかしよく見ると、この系図はマタイの福音書がある意図をもって「十四代」ごとにまとめ上げたものであることがわかります。たとえば、これはもともとこの部分は旧約聖書の中の歴代誌第一3章にある系図を基に書かれてありますが、それと読み比べてみると、マタイ1章8節には「ヨラムがウジヤを生み」となっていますが、実際にはヨラムとウジヤの間にいるアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの3人の王が抜けていることがわかります。また、11節にはヨシヤがエコンヤを生みとありますが、実際にはその間にエホヤキムがいて、彼の名が省略されています。さらに12節には、シェアルティエルがゼルバベルを生みとありますが、その間のペダヤが省略されています。これはどういうことかというと、マタイはそういう操作をしてまで、「14」という数字にこだわったということです。

旧約聖書においては「7」という数は完全数と呼ばれ、完全さの表れを意味しています。「14」はその倍です。さらなる完全さを象徴していたのです。完全の完全です。マタイはこのことを踏まえつつ、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚、バビロン捕囚からイエス・キリストの誕生までの時が一つの完全な時であったことを示すことで、神の救いのご計画が完全な神の御業であったことを示しているのです。また、マタイはこのように系図をたどることによって、アブラハムに約束された神の救いが、いよいよ実現しようとしていることを思い起こさせているのです。そういう意味でこの系図は旧約聖書と新約聖書を結び付ける上できわめて重要なものであると言えます。マタイの福音書が新約聖書の冒頭に置かれたのは、単なる偶然ではなく、神の完全なご計画であったのです。

このような完全な神のご計画の前に、私たちに求められていることは、私たちも神の救いの約束の確かさ、完全さを信じて、アブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを救い主として受け入れることなのです。

「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:2-4)

あなたはどうですか。聖書に、このようにあらかじめ約束されていた御子イエス・キリストを信じ、この方に従っているでしょうか。主の御名を呼び求める者は、みな救われます。あなたもアブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを信じてください。

マタイ2章1~12節「博士たちのクリスマス」

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メリークリスマス!イエス・キリストのお誕生を、心よりお祝い申し上げます。クリスマスは、人類の救いのためにイエス・キリストがこの世に来られたことを記念する日です。新約聖書、ヨハネの福音書1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、イエス・キリストのことです。父なる神のひとり子であられる神が、今から二千年前に、人となられたのです。おとぎ話のようですが、本当の話です。神さまは人類にいのちのメッセージを送ってくださいましたが、それは紙に書いた文字による手紙ではなく、神のひとり子自らがこの世界に人間として誕生してくださることによって示してくださったのです。

この歴史的事実を記念するのがクリスマスです。いったいなぜキリストは人となられたのでしょうか。それは、私たち人間を罪から救うためです。聖書の中にキリストの誕生を告げ知らせた御使いのことばが出てきます。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:20)ここに、「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」とあります。「救い」といってもいろいろな救いがあります。金魚すくいもあればどじょう救いもある。でも、ここには「罪からお救いになる」とあります。

この世にはいろんな問題が次から次へと出てきます。健康の問題、貧困の問題、人間関係のトラブル、仕事上の問題、家庭が抱える問題、本当に次から次に起こりますね。しかし、こうした問題の最も根本的な原因は、私たち一人一人の内側に居座っている罪なのです。そして、この罪の最終的な結末が死です。その根本原因は、神という命のルーツから離れているこの罪にあると、聖書は言うのです。キリストは私たちをこの罪から救ってくださるために人となってこの世に来てくださいました。罪を取り除く薬は、口から飲む薬ではありません。キリストがあなたの罪をご自分の身に引き受けて、十字架の上で永久に処分することによって取り除いて下さいました。

ですから、この方を受け入れるならあなたの罪も赦され、神の子どもとして新しく生まれ変わり、天国に入れていただくことができるのです。聖書にこのように書かれてあるとおりです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

せっかくのクリスマスです。この機会にあなたもあなたのために人となられた救い主、イエス・キリストを、ぜひ信じて受け入れていただきたいと思います。

今日は、キリストが生まれた時、キリストを求めてはるばる東方の国からやって来た博士たちの物語から、クリスマスの意味についてご一緒に考えたいと思います。

 Ⅰ.東方の博士たち(1)

先ほど、新約聖書、マタイの福音書2章を読んでいただきました。まず1節をご覧ください。ここには、「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあります。

クリスマスのストーリーにおいて独特の存在感を示しているのが、この東の方からやって来た博士たちです。「東の方」とはペルシャ、あるいはバビロニヤという国を指しているのではないかと考えられています。また「博士」というのはギリシャ語で「マゴス」と言いますが、「マゴス」は「マジック」のもとになった言葉です。直訳すれば‟魔術師”となります。当時の社会においては天文学や星占いなどを通して、人の運命や世界の情勢について占う人々のことを指していました。ですから、新共同訳ではこれを「占星術の学者たち」と訳しているのです。占星術、星占いの学者たちです。彼らは、星の動きを通して世界の行く末を見極める人たちでした。その彼らが救い主の誕生を星の出現を通して知ったとき、はるばる東の国からエルサレムにやって来たのです。

彼らは自分たちの国ではそれなりの立場や地位を持っていた人たちでしたが、クリスマスの舞台から見ると、神の民からは遠く離れていた異邦人たち、あるいは、その周辺の人たちにすぎませんでした。本来ならば、ユダヤの民こそが真っ先に自分たちが待ち望んでいた救い主、自分たちの王としてお生まれになった方の誕生を知るべきなのに、神の民ではなかった異邦人たちによってその大切な知らせを受け取ることになるのです。

新約聖書、ルカの福音書には、救い主キリストの誕生の知らせが真っ先に知らされたのは、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちのところであったと記されていますが、この羊飼いたちもまた、ユダヤの社会では底辺にいるような人たちでした。そしてここでも、神の民から遠く離れていた異邦人、東方の博士たちが、真っ先に救い主キリスト誕生の知らせを知り、礼拝するためにやって来るという、クリスマスの不思議な出来事が見られるのです。

どれほど遠く離れていても、イエス・キリストは私たちをご自分のもとへ招いてくださる、ということです。救い主イエス・キリストを礼拝する道はだれにでも開かれているのです。それはあなたも例外ではありません。これこそが御子イエス・キリストの訪れのもつ喜びの力です。彼らは偶然のようにして救い主誕生の星を見付けたわけではありません。その星の出現をずっと待ち続けていました。彼らの仕事は人々の行く末や世界の情勢を見定め、そこで起こり得る事態を時には案じ、時には憂い、そしてそれら起こり得る出来事への対処を人々に助言することでした。他の人々よりも一歩前に世界の行く末を見つめていたのです。

それは、他の人々からすれば「博士」と呼ばれ、あるいは「学者」と呼ばれて(うらや)ましがられるような立場であったかもしれませんが、しかしそれは同時に他の人々よりも一歩前に世界の悲惨さや悲しみを知り、他の人々よりも人一倍その憂いや悩みを心に抱くということをも意味していたのです。

だからこそ彼らは、礼拝することを求めたのです。救い主の星を待つ人、それは救いを待つ人です。暗闇が増し、人々から希望を奪い去るような出来事が続く世界の真っただ中にあって、なお希望を捨てずに夜空を見上げ、天を仰いで、救い主到来を告げる星を待つ彼らに、ついにその星は姿を表し、その頭上に照り輝いたのです。あなたももし救い主、キリストを待ち望むなら、あなたの頭上にもクリスマスの星が照り輝くのです。問題は、あなたがこの救いを求めているかどうか、救い主を待ち望んでいるかどうかです。

Ⅱ.礼拝するためにやって来た博士たち(2-11)

次に、2~11節までをご覧ください。2節には、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」とあります。

彼らはエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねました。彼らは、その星が昇るのを見たので、礼拝するためにやって来たのです。ことばにすれば数行のことですが、見ることと旅立つことの間には、相当の距離、時間があったのではないかと思います。しかし、彼らは星を見るだけでは満足しませんでした。彼らにとって決定的に大切だったことは、その星を見て、その星に導かれて旅立つことでした。そして何よりも「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」、救い主イエス・キリストに出会い、礼拝することだったのです。

一方、ヘロデ王はどうだったでしょうか。3節には、「これを聞いてヘロデは動揺した」とあります。エルサレム中の人々も同様でした。いったいなぜ彼らは動揺したのでしょうか。それは彼らの中に不安が生じたからです。ユダヤ人の王として新しい王が生まれたのというであれば、自分たちの立場はどうなってしまうのだろう、それによって世の中が変わってしまうのではないかと思ったのです。

しかし、それだけではありません。実は、彼ら自身も気付いていなかったかも知れませんが、彼らが感じた不安というのは、もっと奥深いところにあるものでした。それは、神の御前にある自分の存在です。人間が最も恐ろしいと感じるのは、神を信じていない自分が、神の実在に触れる時に起こるものです。言い換えると、死んだら自分はどうなるのかということです。

人は死んだらどうなるのでしょうか。そんなこと死んでみないと分からないことなんだから、考えたってしょうがない。しかし、本当に神がおられるのであればこの神の御前に立つことになります。そうしたら自分はどうなってしまうのでしょう。彼らは、そういう不安を抱いたのです。この人たちはこんなにまでして、真剣に救いを探し求めているのに、自分はこのままでいいのだろうか。そういう不安です。事実、聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(へブル9:27)とあります。人は、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです。

しかし、どこまでやれば義と認められるのかわかりません。だから人は自分なりに一生懸命にボランティアをしたり、貧しい人を助けたりするわけですが、それで本当に救われているのかというと、そういう保証はどこにもありません。確信がないのです。それに比べて彼らは、その星を礼拝するためにやって来ました。その方を信じることによって、その方を礼拝することによって救わるんだとはっきり告げたのです。不安になるのも当然のことでしょう。

それでヘロデ王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただしました。すると、ユダヤのベツレヘムであることがわかりました。預言者によってそのように書かれていたからです。

それでヘロデ王は博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞くと、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出しました。そんな気持ちなんてこれっぽっちもないのに、「見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と、あたかも自分が敬虔な者であるかのように装ったのです。形だけです。それは13節を見てもわかります。ヘロデは幼子を捜し出して殺そうとしていたのですから。

しかし博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行きました。9~11節をご覧ください。「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9-11)

ここに礼拝する人間の姿が表されています。彼らは星を見てこの上もなく喜びました。そしてひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げたのです。この「喜び」、「ひれ伏し」、「献げる」という一連の姿に、礼拝する人間の姿が表れています。礼拝とは何でしょうか。それは神の御子イエス・キリストとの出会いの喜びです。その喜びは、この上もない大いなる喜びです。彼らは幼子イエスのお姿を見る前に、その幼子を照らす星の光を見て喜んでいました。そしてついに、その星の光のもとで御子イエス・キリストと出会い、幼子を見て、ひれ伏して礼拝しました。彼らは「なんだ、貧しい赤ん坊じゃないか」と言って落胆しませんでした。「チキンが出ると思ったのに期待はずれだ」とも言いませんでした。彼らはその星を見て、この上もなく喜び、ひれ伏して礼拝すると、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです。黄金は、王なるキリストにふさわしい冠です。乳香とは、神なるキリストへの芳ばしい香りです。そして没薬とは、私たちの贖い主として死なれるキリストを象徴するものでした。いずれの献げものも、まさしく神の御子、まことの王の王、私たちのための救い主イエス・キリストに献げられるもっともふさわしい贈り物でした。

 この博士たちの贈り物は、ある小説のモデルになっています。ご存知の方もおられると思いますが、O.ヘンリーという人が書いた「賢者の贈り物」です。

これは、ニューヨークの片隅の、安アパートに住む、ジムとデラという、若い夫婦の物語です。

彼らは、貧しいながらも、愛し合い、助け合って、暮らしていました。とても貧乏でしたが、二人には、大切な宝物が二つありました。一つは、ジムの家に代々伝わってきた、金の懐中時計です。もう一つは、膝にまで届くほど長い、デラの自慢の髪の毛でした。

クリスマスイブの夜、二人は、愛するパートナーに、密かにプレゼントを贈ろうとしますが、何しろ貧しくて、どうにもなりません。デラは、ジムの懐中時計に付けるプラチナの鎖を、どうしても買いたいと思いました。そのために、自分の自慢の髪の毛を、かつら屋に売って、プラチナの鎖を買いました。

一方ジムは、デラの美しい髪の毛をとかすための、櫛のセットを買いたいと思っていました。それは、デラの髪にぴったりの、宝石をちりばめた、見事な櫛でした。ジムは、その櫛を買うために、自分の懐中時計を売ってしまったのです。

ところが、その日の夜、仕事から帰ってきたジムは、髪の毛を切ってしまったデラを見て呆然とします。無くなってしまったデラの髪の毛をとかすための櫛。そして、売ってしまった懐中時計のための鎖。今や、両方とも、役に立たなくなってしまった物です。

なんとも愚かな贈り物です。バカな二人です。しかしこの小説の著者である、O.ヘンリーは、このジムとデラの夫婦こそが、「賢者」と呼ばれるに相応しい、と言っているのです。なぜなら、彼らこそクリスマスを迎える者として、最も相応しい贈り物をしたからです。

同じようにこの博士たちも、この方に最もふさわしい贈り物を献げました。ここに、私たちは異邦人の礼拝者たちの姿を通して、真実な礼拝者の姿を見ることができるのです。

あなたはどうですか。あなたはキリストの到来を喜んでいますか。なんだ、こんなものか、期待はずれだったと言ってはいませんか。あなたの救い主との出会いを喜び、この方の前にひれ伏し、この方にふさわしいささげものを献げているでしょうか。

そういえば、皆さんは‟Christmas”という言葉の意味をご存知でしたか。クリスマスを英語で表記すると「Christmas」ですが、これはChrist(キリスト)、masは(ミサ、礼拝)という意味です。つまり、クリスマスとは、キリストの到来を祝う礼拝なのです。

ですから、クリスマスが本当の意味でクリスマスになるということは、キリストの誕生の事実が、私たちの生活を動かすということなのです。「キリストのご降誕が、この私のためである」ということを知って、それをこの上もなく喜び、ひれ伏し、礼拝を捧げるということ、自分の生き方に変化が生じることです。それは、生きた礼拝を生み出すのです。

Ⅲ.別の道から帰って行った博士たち(12)

最後に12節をご覧ください。ここには「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」とあります。

これが、マタイの福音書が示す博士たちの最後の姿です。彼らは自分たちの国へ帰って行きました。それは自分たちの住む異邦人の地です。あのいつもの日常の中へと帰って行ったのです。それは「悔い改め」を示す象徴的な姿でもありました。というのは、聖書が語る悔い改めとは、新しい歩みへの方向転換だからです。つまり、神から遠く離れたところから神のもとへと立ち返ることなのです。それが悔い改めるというのです。東方の博士たちにとっては、自分の国へ帰って行くことは主なる神から遠く離れることではなく、むしろ神のもとへ立ち返る新しい旅路であったのです。

それは、ここに「別の道から帰って行った」とありますけれども、そのことからもわかります。夢の中で、ヘロデのとこへは戻らないようにと警告されていたからです。それは、もはや同じ道をたどることはしないということを意味していました。救い主イエスに出会い、ひれ伏して礼拝した彼らにとっては、そこから新しい道、主の道を生きる人生の旅路が始まることだったのです。

礼拝とは、私たちが新しくされることです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と罪の赦しの宣言を受け取って、主イエスにあって新しくされて、今日、ここから遣わされていくのです。いつもの慣れ親しんだ道も、明日からの仕事場も、学校も、家庭も、いつものあの人々との交わりも、私たちにとっては主イエス・キリストにあって新しく遣われていく場所であって、そこもまた私たちにとっての礼拝の場なのです。その道を今日、ここから歩み出していくのです。そのようにして私たちの礼拝の旅路は続き、ついには天の御国に至ります。それまでは星を見て歩み続けるのです。けれどもその時には、私たちはこの目でイエス・キリストの御顔を仰ぎ、そこで御子イエス・キリストを礼拝することになります。その日に向けての旅路を今日、ここから始めていくのです。

救いの星を探し求める人は多くいます。そしてその星について知ろうとする人、学ぼうとする人、観察し、評価する人も多いかもしれません。しかし、肝心なことはそこから先の事柄です。あそこに救いがある、あそこに希望がある、あそこに人生の意味がある。それで終わってはならないのです。それを自らのものにしなければなりません。それを自らのものとしてこそ、それが私にとっての救いとなり、私にとっての希望となり、そして、私の人生の意味となるのです。

天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、星が一定の法則に従って動いていることを最初に発見した人でした。彼の星の運動についての3つの法則は、宇宙旅行の基礎となっています。その彼がこう言いました。

「この発見によって、父である神のお名前が少しでもあがめられるなら、私の名前は、永遠に忘れられてもよい。」

彼は、星の運動についての法則だけでなく、その先にある事柄、すなわち、父である神の御名があがめられることを求めたのです。それは彼がその星を造られたイエス・キリストの救いを、自分のものとしていたからです。

主イエス・キリストはこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と。イエス・キリストと出会うこと、イエス・キリストを受け入れること、イエス・キリストを礼拝すること。これが私たちの人生の旅路の一番の目的であり、ゴールです。その人生を自らのものとするために、私たちは「見る」から「旅立つ」へまで進まなければなりません。

今はまだ無理です、今はまだ時ではない。あれがすんでから、これに目処がついてから、あの問題を解決してから、この支度が出来てから、自分自身がもう少し落ち着いたらと、あれこれと私たちの旅路を遅らせたり、思いとどまらせたりする事柄があるでしょう。しかし、あの星を見たならば、私たちは今置かれているところから、今抱えているさまざまな重荷を置き、心によぎる思いを置いて、旅立たなければなりません。クリスマスの星、その星の輝きに導かれて、救い主イエス・キリストとの出会いに向かって進んで行こうではありませんか。あなたもイエス・キリストをあなたの罪の救い主として受け入れてください。あなたの心にもクリスマスの星が燦燦と照り輝きますように、そして、その星に導かれて人生を歩んで行かれますようにお祈りします。

ルカ2章8~12節「すばらしい喜びのしらせ」

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主の年2020年のクリスマスを迎えました。おめでとうございます。聖書には、イエス・キリスト誕生という驚くべきニュースが最初に伝えられたのは、ユダヤの田舎のベツレヘムという町で、羊を飼っていた羊飼いたちのところでした。彼らが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていると、突然、主の使いが彼らのところに来て、こう告げたのです。

 

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカ2:10-12)

 

どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。救い主が生まれたからといって、彼らの人生が劇的に変わるわけではありません。救い主が生まれようが生まれまいが、彼らは依然として羊飼いを続けていかなければなりません。いったいなぜこれが喜びの知らせなのでしょうか。 きょうは、その三つの理由を見ていきたいと思います。かなわち、第一に、キリストはダビデの町でお生まれになられたということ、第二に、キリストは飼い葉桶に寝かせられたということ、そして第三に、あなたの救い主としてお生まれになられたということです。

 

Ⅰ.ダビデの町で生まれた救い主(11)

 

まず、11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。

キリストは、どこで生まれのでしょうか。ダビデの町です。ダビデの町とは、ユダヤのベツレヘムという小さな町です。実は、旧約聖書においては、「ダビデの町」はいずれもエルサレムでした。Ⅱサムエル5:7には、「しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である」とあります。「シオン」とは「エルサレム」のことです。ですから、ダビデの町というのはエルサレムのことなのです。それなのに、ここには「ベツレヘム」とあります。どうしてルカはベツレヘムをダビデの町と言ったのでしょうか。それは、このベツレヘムこそダビデが生まれた出身地であったからです。Ⅰサムエル記17:11をご覧ください。ここには「 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。」とあります。元々、ダビデとはダビデの出身地のベツレヘムでしたが、ダビデがエルサレムを攻め取ったとき、そこをイスラエルの政治的、宗教的な中心地としたことから、これをダビデの町と呼ぶことにしたのです。しかし、ルカはそうではなく、ベツレヘムであることを強調しました。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが生まれるのはペレツへ無でなければならなかったからです。旧約聖書にそのように預言されていたました。ミカ書5:2を開いてください。ここには「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)」とあります。

これは、キリストが生まれる約700年前に預言されたものですが、ここには、イスラエルの支配者となる者が、ベツレヘムから出ると預言されてありました。イスラエルの支配者とはイスラエルを治める者のことですが、それはユダ族のベツレヘムという小さな町から出ると言われていたのです。それはダビデの家系につながる方ですが、ダビデ王とは違いダビデの家系から将来出てくる支配者のことです。つまり、キリストはエルサレムではなくベツレヘムから生まれるという預言だったのです。それは、昔から、永遠の昔から定めでした。キリストはそのとおりにお生まれになられたのです。ということはどういうことかと申しますと、この方こそ間違いない救い主であるということです。

 

まさか偶然でしょう、と思われる方もいるかもしれません。しかしこれは偶然ではありません。もしこの預言だけが的中したというのなら、あるいは偶然だと言えるかもしれません。しかし、キリストに関する預言の成就はここだけでなく、聖書の至るところに見ることができます。たとえば、キリストの誕生に関して言うなら、皆さんもご存知のように処女から生まれると預言されていましたが、その通りになりました。イザヤ書7:14です。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」有名な「インマヌエル」預言です。この預言のとおりに、キリストは処女マリヤからお生まれになられました。

そればかりではありません。イザヤ書9:6~7には、この方がどのような方であるかも預言されてありました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。やがて来られるみどりごは、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。その方はダビデ王のように王座に就きますが、ただの王座ではなくとこしえの王座です。その王座に就いて、王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支えるのです。だれがこんなことができるでしょう。だれもできません。しかし、神はおできになります。万軍の主の熱心がこれをするのです。その方はだれでしょう。そうです、神の子イエス・キリストです。

 

このように、キリストに関する預言は旧約聖書の中にたくさんあります。直接的な預言だけで少なくても300以上あります。間接的なものも含めると、実に400以上あります。そのすべての預言が成就したのは、この人類の歴史上、イエス・キリスト以外にはおられません。イエス・キリストこそ、永遠の昔から、神が定めておられた救い主なのです。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

 

皆さんはあまり見たことがないと思いますが、1万円札の肖像となっている人物が誰だかわかりますか?そうです、福沢諭吉です。慶応義塾大学の創設者ですね。彼は、私たちが思っている以上に聖書の影響を受けていました。自分の子どもたちに、日々の教えという人生訓を書き残しましたが、そこには、天地万物を造られた神を敬うようにと書いていました。

それはともかく、彼が生まれたのは大阪にあった中津藩の蔵屋敷でした。彼の活躍を称えて、大阪の中津藩蔵屋敷があったところには福沢諭吉誕生の地という石碑が建っています。

偉大な生涯を歩んだ人の誕生を記念する、というのはよくありますが、約束通りに生まれたことを確認し、それを喜ぶためにお祝いするというようなことは聞いたことがありません。けれども、キリストは旧約聖書に約束された通りに生まれ、その通りの生涯を歩まれました。偉大な生涯を歩んだためにその人の誕生を記念する、というのではなく、約束通りに生まれたことを確認し、喜ぶためにお祝いするのがクリスマスなのです。

 

Ⅱ.飼い葉桶に寝ているみどりご(12)

 

第二のことは、キリストは飼い葉桶で生まれたということです。12節に、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりごを見つけます。」とあります。飼い葉桶で生まれたことが、どうして大きな喜びなのでしょうか。

 

皆さんは、飼い葉桶という言葉を聞くと、家畜小屋に置かれた家畜のえさを入れる箱を思い浮かべるかと思いますが、当時の飼い葉桶は、桶といっても大きな石や岩に細い溝が掘られただけのものでした。そこに動物のエサになる藁が敷かれてあったのです。その上にキリストは寝かされました。また、飼い葉桶があったということは、そこが家畜小屋であったことを意味していますが、当時の家畜小屋も私たちが想像しているような木で作られた小屋ではなく、一般に洞穴を掘って作られただけのものでした。その中に家畜を入れていたのです。キリストが生まれたのはそのような所でした。それがどうして喜びなのでしょうか。最悪じゃないですか。皆さんに待望の赤ちゃんが生まれたら、そんなところに寝かせるでしょうか。だれでも暖かくて柔らかいベッドに寝かせたいと思うでしょう。それなのに、キリストは冷たくて堅い、しかも汚いベッドに寝かせられました。ベッドじゃありません。エサ置きですよ。キリストはそんなところで生まれてくださったのです。どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。ここには、「それが、あなたがたのためのしるしです。」とあります。これは羊飼いたちにとってのしるしだったのです。どんなしるしだったのでしょうか。

 

第一に、それはだれでも、どんな人でもこの方の許に行くことができるというしるしです。もしイエス様が王宮のような所で生まれたなら、羊飼いたちは行くことかできなかったでしょう。そこに行くことができるのは本当に限られた人だけです。しかしイエス様は飼い葉桶に寝かせられました。ですから、社会的に最も低い職業であると思われていた羊飼いでも、行くことができました。どんなに汚れた人でも、どんなにみじめな人でも、どんなに貧しい人でも、どんなに孤独な人でも、どんなに問題を抱えている人でも行くことができたのです。

 

昨日は、スーパーキッズのクリスマスがありまして、「したきりすずめのクリスマス」を劇でやりました。そこには、欲張りなばあさんや人を殺した罪人をはじめ、自分は正しいと思っていたじいさんなど、いろいろな人物が登場するのですが、イエス様はそのすべての人の罪を負って十字架にかかり、死んでくださいました。だからこそ、すべての人の悩み、すべての人の苦しみ、すべての人のも問題を解決することができるのです。へブル2:10には「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者(イエス様)を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」とあります。それはイエス様にふさわしいことでした。多くの子たちを栄光に導くために、キリストは多くの苦しみを通られたのです。もしキリストがこうした苦しみや痛みを通らなかったら、そのような人たちを十分理解することも、助けることもできなかったでしょう。けれども、キリストは飼い葉桶で生まれてくださいました。それは、そのような境遇の中いるすべての人々を助け、救うことができるためです。

 

キリストが飼い葉桶に寝かせられたことのしるしの第二は、そのことによってイエス様がどのようなお方であるのかを示していました。先ほど、当時の家畜小屋は天然の洞窟を掘って作られたものであると申し上げましたが、これらの洞穴にはもう一つの使い道がありました。何だと思いますか。そうです、お墓です。当時ユダヤ人は遺体を布に包んで天然の洞穴の中に安置しました。イエス様が葬られたのもこのようなお墓でした。ですから、その入口に大きな石が置かれてあったのです。そして、ここでは赤ん坊のイエス様が布に包まれて天然の洞穴に寝かされていました。それは当時の人々の目には墓場に置かれた遺体を連想させるものでした。どうしてこれが喜ばしい知らせなのでしょうか。キリストは人々から喝采を受けるためではなく、人々の罪を背負い、十字架にかかって死ぬために来られたということを示していたからです。このことによって、いかなる罪人も赦されるという道が開かれたのです。

 

ここに、神様の愛が表されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

また、マルコ10:45には、「人の子(イエス様)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」とあります。

イエス様が来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるため、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためだったのです。この全宇宙の創造主であられる方が人の姿を取ってこの世に来てくださったというだけでも奇跡なのに、そればかりか、私たちを救うために十字架にかかって死んでくださいました。これこそクリスマスの奇跡です。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

 

Ⅲ. あなたのための救い主(11)

 

第三のことは、キリストはあなたの救い主として生まれてくださったということです。11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。この方は、あなたのために救い主として生まれてくださいました。

 

先日NHKの番組で「サードマン現象」を扱うものを見ました。「サードマン」というのは「第三の人」という意味です。実はこの世界には崩壊するビルの中から一人脱出できたり、深海の洞窟の中で命綱を失ったのに戻って来ることが出来たり、宇宙空間でトラブル続きのステーションで落ち着きを与えられたりして、九死に一生を得た人々が沢山いらっしゃいます。彼らは皆、異口同音に「ピンチの時、誰かの声に導かれて平安を取り戻し、すべきことが分かり、正しい選択を奇跡的に積み重ねて脱出することが出来た」と証言しています。この声を彼らにかけた存在をサードマン、第三の人と呼んでいるのです。 それは、私たちの人生においても言えることで、私たちが絶体絶命のピンチに陥った時、このような存在がいたら、どれほど大きな助けとなることでしょう。この助けこそ、あなたのために生まれてくださったキリストです。キリストは、単にピンチの時に助けというだけでなく、私たち人間の本質的な問題である罪を解決し、その罪から救ってくださるためにこの世に来てくださいました。これこそ、私たちにとっての真の希望です。

 

今は「イベントオリエンテッド」の時代であると言われています。これは、人々は、何か楽しみをもたらすできごとやイベントがあってはじめて喜びを感じることができる、というものです。そしてそれが過ぎ去ってしまうと、急に虚しさがやって来るのです。「イベント」やお金の多い少ないといった外側のものに喜びの基礎があるなら、ジェットコースターのように喜んだかと思ったら次の瞬間には落ち込んでしまうことの繰り返しになります。しかし、キリストが与える喜びは罪の赦しによってもたらされる神との平和であり、神がいつも私とともにいて、私を支えてくださるという喜びです。それは永続的なものですから、いつでも喜びで満たされていることができます。のどが渇けば水を飲めば潤されますが、また渇きます。しかし、キリストが与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがなく、その人の中で泉となり、永遠のいのちへの水が湧きでるのです。

 

2018年のノーベル医学・生理学賞を受賞したのは、京都大学の本庶佑教授でした。薬物療法、手術治療、放射線治療に続く第4の手法として免疫療法を確立した功績が評価されたのです。彼の発見はガン免疫治療薬オプジーボの開発に繋がりました。この薬でガンを克服できた方がインタビューに答えて「命の恩人です。感謝し尽くせません。」と言っていました。その気持ちがよくわかります。しかし、キリストはそれ以上です。なぜなら、キリストは肉体だけでなく、永遠のいのちの恩人だからです。

 

2015年に同じ分野でノーベル賞を受賞した大村智教授も、メクチザンという薬の開発に貢献しました。この薬は、河川盲目症に対する特効薬です。この病気はアフリカ、中南米の熱帯地域に蔓延していて、毎年1800万人が感染、そのうち約27万人が失明し、50万人が視覚障害になってしまうという恐ろしい感染症でした。ところがこの薬を飲むと一回で完全にその感染症を防ぐことができるのです。

大村さんと製薬会社は、この薬を感染地域の人々にプレゼントし、当時は3億人の人々を失明の危機から救ったと言われています。この大村さんがアフリカのガーナに行き、子どもたちとお話をしたことがありました。ジャパンとかトウキョウと言っても、誰も知らないそうですが、でもメクチザンという薬の名前を出すと、みんな「知ってる!」と言うのです。通訳の人が「この人がメクチザンを造った先生です。」と紹介するとひときわ高く、歓声が上がり「メクチザン、メクチザン」と口々にはやし立てました。子どもたちの喜ぶ顔が目に浮かぶようですね。人類の命を守る働きに貢献した人を称え、記念に覚えることは当然のことでしょう。しかしここに、肉体のいのちだけでなく、霊的ないのち、肉体は朽ちても永遠に生きる真のいのちを人類にもたらした方がおられます。それがイエス・キリストです。

 

あなたは、この喜びを受け取られたでしょうか。多くの人にとって自分の主人は自分自身です。あなたのために生まれてくださったのに、多くの人たちは「いらないよ」とか、「No, Thank you」と言うのです。しかし自分を超えた本物の救い主を信じ、この方にあなたの人生の舵取りをしていただくなら、あなたもこの喜びを得ることができます。

 

10節には、「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」とあります。私たちにもいろいろな恐れと不安があります。孤独だという方もおられるでしょう。まさに一寸先は闇です。しかし、この世がどんなに暗くても恐れることはありません。きょう、ダビデの町であなたのために救い主がお生まれになりました。この方が主キリストです。この方はあなたの心の闇を照らすまことの光です。どうぞこの方をあなたの救い主として心に迎えてください。また、既にこの方を信じておられる方は、あなたの人生の舵取りをしてくださる主としてください。あなたの心が家畜小屋のようにどんなに汚れていても、また、どんなに酷い状態であっても、キリストあなたの心に喜びを与えてくださいます。クリスマスの奇跡は2000年前のことだけではなく、今もあなたに起こる大きな喜びの知らせなのです。

2019年12月22日クリスマス礼拝メッセージ 

Merry Christmas!私たちのために生まれてくださった救い主イエス・キリストの御降誕をお祝いし、心から主を賛美します。今年のクリスマス礼拝はEnglish Worshipの皆さんと一緒にささげることができることを感謝します。きょうは、使徒ヨハネが語るクリスマスからお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.人となって来られたキリスト(14a)

 

ヨハネが語るクリスマス、それは、人となって来られた神です。14節をご覧ください。ここには、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。

「ことば」とはイエス・キリストのことです。この方は初めからおられました。この「初め」とは永遠のはじめのことです。キリストは、永遠の初めから神とともにおられました。そうです、この方は神であられました。神とともにおられた神です。そして、すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。創世記1:1には、「はじめに神が天と地を創造された。」とありますが、この「神」は、イエス・キリストのことだったのです。正確には、イエス・キリストと父なる神、そして聖霊なる神の三位一体の神でした。ですから、あの「神」という語が複数形で表されているのです。キリストは、永遠から永遠まで神とともに存在しておられた神なのです。その方が人となって、私たちの間に住まわれました。

 

この「人」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語では「サルクス」という語です。これは欄外の説明にもあるように、直訳すると「肉」です。ことばが肉体を取って私たちの間に住まわれました。これを神学用語で「受肉」と言います。神は霊ですから、私たちの肉眼で見ることはできませんが、その神が私たちと同じ肉体を取ってくださったので、神がどのような方なのかを見せてくださったのです。当時の人々は「肉」は弱いものであり、すぐに朽ち果てていくものだと考えていました。ですから、神が肉体を取られるということは考えられないことでした。けれども、ことばであられた神が肉体を取って生まれてくださいました。これがクリスマスです。神の栄光に満ちておられたひとり子の神が人として生まれてくださり、実に飼い葉桶にまで下ってくださいました。限りなく高いところにおられた神が、最も低い所に生まれてくださったのです。これは奇跡です。いったいなぜ神が人となられたのでしょうか。

 

Ⅱ.恵みとまことに満ちておられたキリスト(14b)

 

14節の後半をご覧ください。ここには、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。それはこの方の栄光を見るためです。神のひとり子としての栄光です。その栄光を見るなら、この方がどんなに恵みとまことに満ちておられるかがわかるでしょう。

 

当時、これを書いた使徒ヨハネは、長い信仰生活の体験として「私たちはこの方の栄光を見た」と言っているのです。クリスマスの出来事を巡る大事な言葉は、この「見る」ということです。福音書の中では、「見る」という言葉は大切に用いられています。たとえば、2000年前のクリスマス、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの番をしていたとき、主の使いが彼らに現れてこう言いました。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

Then the angel said to them, “Do not be afraid, for behold, I bring you good tidings of great joy which will be to all people.

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

“For there is born to you this day in the city of David a Savior, who is Christ the Lord.

あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」(ルカ2:10-12)

“And this will be the sign to you: You will find a Babe wrapped in swaddling cloths, lying in a manger.”

 

また、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていたシメオンは、幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言いました。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」(ルカ2:29-30)

“Lord, now You are letting Your servant depart in peace, According to Your word; For my eyes have seen Your salvation

 

時折、「神がいるなら、見せてくれ」と言う人がいます。乱暴な言い方ですね。私はこういう方に対しては、できるだけ答えないようにしています。ただの水掛け論に終わってしまうからです。しかし、ここにおられる皆さんには、ぜひ、覚えていてほしいのです。それは、神は見ることができないお方ですが、見ることが出来るということです。どういうことですか?神を見ることはできませんが、イエス・キリストは見ることはできるということです。イエス・キリストを見ることは、神を見ることだからです。聖書を読み、この歴史の中を歩まれたキリストを知ることは、神を知ること、神を見ることと同じことなのです。永遠にして無限、また、常に変わることのない霊でいます神を、私たちの肉眼をもって見ることは出来ませんが、この主イエス・キリストを見たら、「あなたは神を見た」と言えるのだと、ヨハネは語っているのです。

 

クリスマスの恵み、クリスマスの幸いは何かというと、それはこの神を見ることができるということです。ヨハネが主イエスの身近にいて、キリストにおいて見た神の恵みがどんなにすばらしいものであるかを述べています。それは、16節の「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」という言葉です。これは、使徒ヨハネが自分の信仰の生涯を振り返っての感謝の言葉です。信仰をもって歩む者の旅路は決して平穏なものではありません。今日、初めて教会に来られた方がおられるかもしれません。あるいは求道中だという方もおられるでしょう。それがどのような方でも覚えおいていただきたいことは、キリストを信じるということは、この世的な意味で幸福になることではありません。苦しいことが続くこともあります。経済的に悩むことも、病気で不安になることや家族や職場の人間関係で人知れず悩むこともあります。愛する人との別れも経験することがあるでしょう。しばしば涙の谷を歩むようなこともあるのです。

 

しかし、キリストを信じる者の生涯は「恵みの上にさらに恵みを受ける」生涯なのです。「恵みの上にさらに恵みを受ける」とはどういうことでしょうか。それは、一つの恵みを受けたらそれでおしまいということではなく、その代わりにまた新しい恵みを受けるということです。哀歌3:22には、「神のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」

Through the Lord’s mercies we are not consumed, Because His compassions fail not.

とあります。1つの恵みの上に、さらに新しい恵みが積み上げられ、次々に恵みが積み上げられ、増し加えられるのです。ちょうど泉から水が湧き出て来るように尽きることがありません。

 

また、それは、その時その時に最も適切な恵みが与えられるということでもあります。ヨハネは、これがキリストを信じた者の祝福なのだと言っています。長い信仰の歩みを経て、ヨハネは深い感謝と喜びをもってこのように語っているのです。あの恵み、この恵みと数え上げるだけでなく、イエス・キリストそのものをいただいた。キリストに繋がれ、神の恵み一切をいただいている。この恵みの中に生かされているのだと告白しているのです。

 

17節には、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります。律法とは、神の「教え」、「戒め」のことです。神はモーセを通して神の民イスラエルにこの律法を与えてくださいました。それは、その命令を守る者には祝福が与えるというものです。もし彼らが主の御声に聞き従い、神の契約を守るなら、神の宝となるのです。ですから、律法そのものは神からの啓示でありすばらしいものですが、問題はだれもこれを行うことができないということです。

 

アウグスチヌスは、この律法の役割をこう言いました。「律法は命じたが、いやさなかった。律法は我々の弱さを示したが、その弱さを取り除くことはしなかった。ただこの律法は恵みと真理を携えて到着する医者のために準備をした」。律法の役割は、人の罪を指摘し、その罪を人間の力では取り除くことが出来ないという人間の弱さを明らかにすることです。今日の医療の言葉で言えば診察と検査です。あなたの悪いところはここですよ、ここにポリープがありますね、と検査して悪いところをはっきり示すのが旧約律法の役割です。しかし、いやすことはできません。

 

しかし、恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました。イエス・キリストは、私たちの罪と弱さを取り除く医者として来られました。だから、イエス様はこう言われのです。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」(ルカ5:31-32)

Jesus answered and said to them, “Those who are well have no need of a physician, but those who are sick. “I have not come to call the righteous, but sinners, to repentance.”

主イエスは、律法によって明らかになった人間の罪を取り除く医者としてこの世に来られたのです。罪人を愛する神の愛が明らかになり、キリストご自身が罪人の身代わりとなって罪の贖いを完成して下さいました。このキリストにこそ、神の愛、神の恵み、神のまこと(真理)が形をとって現されたのです。自分の罪を自覚して、主イエスのもとに来るなら、その人はいやされ、罪赦され、神との交わりが回復され、永遠のいのちを持つことができるのです。

 

皆さんは、「ハドソン川の奇跡」という映画をご覧になられたでしょうか。これは実話に基づいた映画です。

今から10年ほど前の2009年1月15日、3時26分に、ニューヨークのラガーディア空港を飛び立った、USエアウェイズ1549便は、離陸直後に、ガンの群れに遭遇し、両方のエンジンに、同時に鳥が巻き込まれるという、極めてまれなバードストライクによって、二つともエンジンが停止し、飛行高度を維持することが出来なくなりました。

機長のサレンバーガーさんは、空港への着陸を目指しましたが、高度と速度が低すぎるため、それは不可能と判断しました。そこで機長は、市街地への墜落を防ぐため、とっさの判断でハドソン川への緊急着水を決行したのです。しかし、着水時に、機体が少しでも傾いていれば、飛行機は水面に衝突して分解してしまいます。無事に着水することは高度の操縦技術を必要とする、極めて難しい仕事でした。トラブル発生から僅か3分後、飛行機は、ニューヨークのマンハッタンとニュージャージー州の間を流れるハドソン川へ、時速270kmというスピードで滑るような着水をしました。そして、スムーズな着水によって、機体の損傷は最小限に抑えられ、乗員乗客155人全員が、脱出シューターや両方の主翼の上に避難することができたのです。全員の救助を、未届けたかのように、事故機は、着水から1時間後に、水没しました。人々は、これを、「ハドソン川の奇跡」、と呼んで、称賛しました。

 

この事故は、クリスマスの出来事を思い起こさせてくれます。この飛行機は、通常、一万メートルの高度で飛行する予定でした。地上からは目に見えない程の高い空を飛ぶべき飛行機が、最も低いハドソン川に着水したのです。そして、乗員乗客155人全員の命を救い、冷たい川底に沈んでいきました。それは、限りなく高いところにおられた神のひとり子が、最も低い所にお生まれになって、全ての人を救うために十字架にその命を献げてくださったのと重なって見えます。私にはこの飛行機が、主イエスを象徴しているように思えるのです。川に着水すれば、いずれ沈んでしまうことは分かっています。しかし、乗客の命を救うためには、それしか方法がありませんでした。だから、敢えて、ハドソン川に着水したのです。そして、その僅か一時間後に、飛行機は川底に沈んでいきました。この飛行機と主イエスの姿とが、重なって見えます。私たちは、神様が操縦する御子イエスという飛行機に乗って命を救われたのです。しかし、御子イエスは、そのために冷たい川底に沈んでいかなければなりませんでした。

 

この飛行機を操縦していた、サレンバーガー機長は、操縦歴42年の大ベテランでしたが、このように言っています。「それまで、私は、42年間も、操縦技術を学んで来た。様々な、厳しい訓練を受けて来た。どんな時にも、備えられるように、経験を積んできた。その様な、42年間の厳しい訓練と、様々な経験を通して、私は大きな貯金を蓄えてきた。その貯金が、この時に一気に引き出されたのだ。」

今までコツコツと積み上げてきた経験と技術が、この時一気に発揮されて、このような奇跡を生んだのです。

 

クリスマスもそのような時です。人間は神様から与えられたたった一つの約束さえも守ることができず、罪を犯してしまいました。そのため、神様との麗しい関係が崩れ、神様の許を離れてしまいました。しかし、あわれみ深い神様は、人間が罪を犯して離れていったその瞬間から、ずっと人間との関係を回復することを願っておられたのです。そして、様々な事を通して、人間をご自身の許に呼び戻そうとされました。様々な歴史的な出来事を通して、神様のご支配を解らせようとされました。あるいは、自然の力を通してご自身の御力を示され、人間に語り掛けられました。そして、何度も預言者を遣わして御言葉を伝えました。でも人間は、神様に立ち帰ろうとしませんでした。それで、とうとう最後に、神様は最愛のひとり子をこの世に送られたのです。それは、私たちに代ってそのひとり子を十字架につけることによって立ち帰ろうとしない私たちを救うためでした。神様が歴史の初めからひたすらに願われ、計画された、救いの御業が、一気に爆発するかのように実現した愛の奇跡。それがクリスマスなのです。

 

サレンバーガー機長の42年の経験と技術が一気に引き出されて、ハドソン川の奇跡が生まれました。もちろん、サレンバーガー機長と神様とでは全く次元が異なりますが、しかし、歴史が始まって以来の、神様のひたすらな願いと熱い思いが一気に実現したのが、この飼い葉桶の奇跡とも言うべきクリスマスの出来事なのです。まさにこの時に、神の救いの出来事が私たちにもたらされたのです。

 

Ⅲ.わたしを見た人は父を見た(18)

 

18節をご覧ください。ここには、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とあります。主イエス・キリストの決定的なすばらしさは、神ご自身を見せてくれたことです。文字通り「見える神」となられました。神は私たちの肉眼で見ることはできませんが、そんな私たちでも神を知ることができるように、神はご自身のひとり子をこの世に送られ、神がどのような方であるのかを私たちにはっきりと示してくださいました。

 

ですから、もし「神がいるなら見せてくれ」という人がいるなら、私たちはこう言うことができます。「この人を見よ」と。この人を見れば、神がどのような方であるかがわかります・・と。

新聖歌99番に「馬槽の中に」という賛美がありますが、これはそのような賛美です。

  1. 馬槽(まぶね) の中に 産声(うぶごえ) 上げ 大工(たくみ)の家に 人となりて 貧しき憂(うれ)い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ

In a lowly manger born, Humble life begun in scorn; Under Joseph’s watchful eye, Jesus grew as you and I; Knew the suff’ring of the weak. Knew the patience of the meek, Hungered as but poor folk can; This is he. Behold the man!

 

  1. 食(しょく)する 暇(ひま)も うち忘れて 虐(しいた)げられし 人を 訪(たず)ね 友なき者の 友となりて 心砕きし この人を見よ

Visiting the lone and lost, Steadying the tempest tossed, Giving of himself in love, Calling minds to things above. Sinners gladly hear his call; Publicans before him fall, For in him new life began; This is he. Behold the man!

 

  1. すべてのものを 与えしすえ 死のほか何も 報いられで 十字架の上に 上げられつつ 敵を赦しし この人を見よ
  2. この人を見よ この人にぞ こよなき愛は 現われたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活(い)ける神なれ

Then to rescue you and me,Jesus died upon the tree. See in him God’s love revealed; By his Passion we are healed. Now he lives in glory bright, Lives again in Pow’r and might; Come and take the path he trod, Son of Mary, Son of God.

 

この人を見れば、神がどのような方であるかがわかります。この方は神を見せてくださいました。いや、この方こそ私たちの信じている神ご自身であられます。なぜなら、この方は父のふところにおられたひとり子の神なので、完全に神を説き明かすことができたからです。

 

「父のふところにおられるひとり子の神」とは、イエス・キリストが父なる神と不断の親しい交わりを持っておられる方であるということを表しています。父なる神といつも一緒にいて親しく交わっておられたので、父なる神がどのような方なのかを完全に知ることができました。ですから、このひとり子の神イエス・キリストは、神を完全に神を説き明かすことができたのです。

 

弟子の一人ピリポはイエス様にこう言いました。

「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)

Philip said to Him, “Lord, show us the Father, and it is sufficient for us.”

 

すると、主イエスはこのように言われました。

「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:9) Jesus said to him, “Have I been with you so long, and yet you have not known Me, Philip? He who has seen Me has seen the Father; so how can you say, ‘Show us the Father’?

 

私たちも、神を見ることができたらと思うことがあります。しかし主イエスは、「わたしを見た人は、父を見たのです。」と言われました。キリストを見れば、神を見ることができます。キリストを見るということは神を見るということ、キリストを知るということは神を知るということなのです。このキリストが私たちの間に住んでくださいました。この主イエスにおいて見る神の姿は、私たちに寄り添ってくださる神です。主イエスは私たちに寄り添いながら、父なる神との交わりの中に導き入れてくださるのです。

 

那須の井筒姉のご主人が、一昨日、老衰のため召されました。ちょうど、私がお見舞いに行っていた時で、奥様と三番目の娘さんと談話室でお話ししていたとき看護師が来られ、ご主人の容態が急変したと告げたのです。私たちは急いで部屋に行ってみると、もう呼吸が止まっているかのようでした。私はご主人の上に手を置き、耳元で、「『主の御名を呼び求める者は、みな救われます。』どうぞ主イエスを信じてください」と祈り、ご主人のたましいを主の御手にゆだねました。その祈りが届いたかどうかはわかりませんが、一つだけ確かなことは、そのことで井筒姉がどれほど癒されたかということです。

 

昨年10月に自宅で転倒して股関節を脱臼して入院しましたが回復し、退院することができましたが、今年の9月に、心臓に水が溜まっているということで再入院されました。その間、教会は井筒姉とご主人のためにずっと祈ってきました。特にこの1か月間は容態が悪くなってきており、寝ているということが多かったのですが、不思議なことに、教会の礼拝や祈祷会で祈った後で病院に行くと、決まってご主人が目を開けておられました。

二週間ほど前にお見舞いに伺った時、井筒さんがそのことに触れてこうおっしゃられました。「いや、本当に不思議ですね。礼拝や祈祷会でお祈りしていただいて病院に来ると、ちゃんと目を開けているんです。いつもは閉じたままなんですけど、祈った後に来るといつも開けているんです。神様は本当にいらっしゃるんですね。」

「神様って本当にいらっしゃるんですね」

井筒姉が初めて教会に来られたのは2007年3月に教会で行ったごずるコンサートでした。それから礼拝にも来られるようになり信仰に導かれ、その年の11月に洗礼の恵みに与りました。ですから、あれからもう12年も経っているんです。それは神はおられるという信仰が、確信に変えられる経験でした。神は霊ですから、私たちの目には見ることができませんが、イエス・キリストを通してはっきりと見せてくださいました。神は、御子イエス・キリストをこの世に送り、十字架と復活の御業を通して救いの道を用意してくださいました。その名を信じる信仰によって、私たちは神をはっきりと見ることができるのです。

 

この父なる神とひとり子イエスとの深い愛の交わりの中に、あなたも招かれています。「さあ、この交わりの中に入りなさい」と呼びかけてくださっているのです。この呼びかけに応答するなら、あなたもクリスマスの本当の喜び、神を見る幸いを味わうことができるのです。

イザヤ書9章1~7節 「やみの中に輝く光」

皆様と共に、救い主イエス・キリストのご降誕を、お祝いできますことを、心から主に感謝いたします。

先週までアドベントクランツの3本のロウソクに灯がともされ、きょう4本目のロウソクに灯がともされました。これには意味がありまして、それぞれ平和の灯、希望の灯、喜びの灯、そして愛の灯です。

それは、神様と敵対していた私たちが、神様と和解して、神様との間に、平和がもたらされたということ、愛と、喜びと、希望がもたらされたということを表しています。

今の時代ほどやみに覆われた時代はありません。しかし、そのやみの中に輝く光としてイエス・キリストが来てくださいました。そのことを喜ぶのが、クリスマスです。

きょうは、この「やみの中に輝く光」という題で、メッセージを取り次がせていただきたいと思います。

 

Ⅰ.やみの中の光(1-5)

 

先ほど読んでいただいた聖書の箇所は、キリストが生まれる七百年ほど前に、預言者イザヤが、やがて来られるメシヤ、救い主がどのような方であるかを預言したものです。まず1節と2節をご覧ください。

「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」

 

この箇所は「しかし」という言葉で始まっています。ということは、前の章からの続きになっていることです。前の章にはどんなことが書かれてあったかというと、8章20節を見ていただくと、ここに「おしえとあかしに尋ねなければならない。」とあります。おしえとあかしとは、神の教え、神のあかしのことです。預言者を通して語られた神のことばを指しています。その教えに尋ねなければなりません。もし、そうでないと、どうなるのかというと、同じ20節の終わりのところにこうあります。「その人には夜明けがない。」その人に夜明けはありません。

 

皆さん、なぜこの世は暗いのでしょうか。それは、神のことばがないからです。神のみおしえと証しに聞こうとしないで、別のものに聞こうとするからです。具体的にはその前の19節にありますね。「霊媒や、さえずり、ささやきとか、口寄せ」といったものです。このようなものに聞いても、神に聞こうとしないと、だんだん暗くなっていきます。

 

8章21節、22節にはこうあります。「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」

神の民イスラエルは、神のみことばに従わなかったので、アッシリヤ帝国をはじめとした異邦の民に踏みにじられ、苦難とやみに覆われたのです。

 

「しかし」です。しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなります。先にはゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けたのです。

 

「ゼブルンの地とナフタリの地」とはガリラヤ湖の西側の地域で、いわゆるガリラヤ地方のことです。イエス様が育ったナザレもここにあります。そこがはずかしめを受けました。B.C.722年のことです。アッシリヤ帝国が侵入してきたとき、そこが最初に彼らの手に落ちました。そして、その地域には多くの異邦人が住むようになりました。それでその地は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになったのです。しかし、そのような苦しみのあった所に、やみがなくなります。ゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けましたが、後に光栄を受けることになりました。異邦人のガリラヤは顧みられたのです。どのようにして?

 

やみの中を歩んでいた民が、大きな光を見ました。死の陰の地に住んでいた人に、光が照ったのです。これはどういうことかというと、それから約700年後に、神の御子がこの地に来られ、福音をもたらしてくださったということです。

 

マタイの福音書4章12節から17節までをご覧ください。

「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中に座っていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

イエスは、ゼブルンとナフタリとの境にある町カペナウムに来て、宣教を開始されました。これは、預言者イザヤを通して語られた事が、成就するためでした。このようにして、異邦人のガリラヤは光栄を受けたのです。イエスが語られた恵みのことば、イエスが行われた数々の奇跡、いやしは、その地の人たちにとってどれほど大きな慰めをもたらしたことでしょう。アッシリヤ帝国はさることながら、その後もバビロンやペルシャ、ギリシャやローマといった異邦人にずっと踏みにじられる中で、彼らは希望を見失っていました。それはまさに「やみ」の中を歩いているようなものでした。

しかし、そのように苦しみのあったところに、やみがなくなりました。はずかしめを受けた異邦人のガリラヤが、光栄を受けたのです。それは彼らにとって本当に大きな喜びであり、慰めであり、希望であったに違いありません。

 

そして、それは私たちに対する約束でもあります。私たちもよく人生のやみに覆われることがあります。それは病気であり、あるいは経済の悩みです。また、家族の問題、人間関係のこじれ、ひとりぼっちという孤独の苦しみ、老後に対する先行き不安などといったやみです。こうしたやみは、振り払おうとしてもなかなか消えません。また、罪というやみがあります。過去に犯した過ちにずっと責め立てられ、苦しみ続けています。そして誰もが迎えるであろう死というやみもあります。

 

「一寸先(いっすんさき)は闇(やみ)」という諺(ことわざ)があります。これは、「これから先のことはどうなるのやらサッパリわからないという」意味で使われていますが、私たちの人生は、この先、何が起こるのかわかりません。それが現実なのです。

 

しかし、こうしたやこの中にあって、それを照らす光があります。それが、救い主イエス・キリストです。使徒ヨハネは、このキリストについてこう証言しました。

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)

光はやみの中に輝いているのです。やみの中に輝く光、やみを打ち破られる方、それがイエス・キリストです。キリストは、すべての人を照らすまことの光なのです。

 

そういえば、クリスマスが12月25日に定められたというのも、そのような意味があったのではないかと思います。クリスマスは、イエス・キリストの御降誕をお祝いする日ですが、イエス・キリストがこの日に生まれたわけではありません。A.D.336年に、ローマ帝国によって、この日がそのように定められたのです。それまでローマでは冬至を祝う「太陽の祭り」がありましたが、その祭りと結びつけて祝われるようになったのです。

なぜこの祭りと結びつけて行われるようになったのかというと、この祭りは一年で最も夜が長い日であったからです。この時期にキリストの御降誕を祝うのが最もふさわしいと考えたのです。それはキリストが私たちのやみを照らす光として来てくださったことを心に留めるためでもあったのです。

 

人は誰でも、やみを経験します。どこに進んで行ったらいいのかわからない時があります。しかし、そうしたやみの中にいても、かすかな明かりがあれば、その方向へ歩いて行くことができます。イエス・キリストはやみ中で不安にさいなまれ、道を失っている時の灯火として私たちの所に来てくださったのです。

 

オーストリアのザルツブルグの北にオーベルンドルフという小さな村があります。1818年のクリスマスの前日、その村の教会のパイプオルガンが鳴らなくなってしまいました。

この知らせを聞いて、2人の若者が苦境に立たされました。一人は、この教会のオルガニスト、フランツ・グルーバーという人です。もう一人は、この教会の若き牧師ヨゼフ・モールという人でした。

モールは、その教会に赴任したばかりでした。ですから、その年のクリスマス礼拝を、特別に恵みに満ちものとしたいと願っていました。それなのに、よりにもよって、その前日にパイプオルガンが故障してしまったのです。

モールは、乱れる心を静めようと、一人で村はずれの丘に登って祈りました。熱心に祈った後で、美しく輝く星空と、麓の村の平和な夜景を眺めていました。その時、讃美歌の歌詞が心の中にほとばしり出て来ました。急いで家に帰って、一気に歌詞を書き上げました。そして、翌日の朝、グルーバーのところに持って行って、作曲を依頼したのです。

その夜の礼拝では、ギターの伴奏で、モールとグル―バーのデュエットの賛美が献げられました。その時歌われた讃美歌がこの曲です。

 

「きよしこのよる 星はひかり

すくいのみ子は まぶねの中に

ねむりたもう いとやすく」

讃美歌109番「きよしこのよる」

 

ほぼ即興で作られたこの曲でしたが、その美しい歌詞と清らかなメロディーは、礼拝に集まった人々の心を強く捕えました。そして、人から人へと伝えられ、世界で最も愛されるクリスマスの讃美歌となったのです。

 

絶体絶命のピンチの中で、あの様に清らかな讃美歌が作られたことに、私は深い感動を覚えます。もし、私がモールであったら、どうしたでしょうか。きっと焦って、讃美歌を作るどころではなかったと思います。パイプオルガンを逆恨みして、蹴飛ばしたかもしれません。

 

どうして、モールはそんな危機的な状況の中で、あんなにも清らかで、美しい歌詞を書くことが出来たのでしょうか。どうして、グルーバーはあんなに澄み切った曲を作ることが出来たのでしょうか。

恐らく二人は、その混乱した中に、キリストの誕生に思いを馳せたのでしょう。そして、きれいに澄み渡った夜空の星を見て、そこに、やみを照らすキリストの光、キリストの平和を見出したに違いありません。

 

私たちにもやみがあります。しかし、キリストはそのやみを照らすために生まれてくださいました。それがクリスマスなのです。

 

Ⅱ.クリスマスの喜び(3-5)

 

ところで、やみが照らされるとどうなるのでしょうか。預言者イザヤは、そんな彼らの喜びを次のように表現しました。3節から5節までをご覧ください。

「あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」

 

それは刈り入れ時に喜ぶようです。また、戦争に勝利してその戦利品を分け合う時に楽しむようです。また、あのミデヤンの日になされた時のようです。ミデヤンの日になされた時のようとは、士師記7章に出てくる話ですが、士師であったギデオンがたった三百人の勇士によって、十三万五千人のミデヤン人を打ち破りました。それによって、それまで彼らにのしかかっていた重荷から解放されました。

 

私たちも、日々いろいろなストレスを抱えながら生きています。このストレスがどれほど体に悪いものであるかも知っています。そうした重荷の一切を、あのミデヤンの日になされたように、粉々に砕かれるのです。その結果、完全な平和と喜びがもたらされるのです。

 

もちろん、私たちはまだ完全な形で、その実現を見ていません。ここに記されてあるような解放というものを、まだ経験していません。その完成は、イエスが再臨される時まで待たなければなりません。イエスが再臨されるとき、私たちは復活のからだ、御霊のからだをいただいて墓からよみがえり、空中で主とお会いします。そして、いつまでも主と共にいるようになります。これが救いの完成の時です。

しかし、それを完全に体験してはいなくとも、イエスを信じたその瞬間から、私たちの中に神が共におられるという現実を体験します。それは、この世では得られない魂の完全なやすらぎです。もし、あなたがイエス・キリストを救い主として受け入れるなら、その神の支配が、あなたの中にも始まります。そして、あなたもこの喜びと解放を味わうようになるのです。

 

Ⅲ.ひとりのみどりご(6-7)

 

このように、私たちにまことの喜びと解放をもたらしてくださる救い主は、どのような方なのでしょうか。6節と7節をご覧ください。ここには、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。

 

その方は、「ひとりのみどりご」としてお生まれになられます。そして、ひとりの男の子が、私たちに与えられます。これはイエス・キリストの誕生によって実現しました。「みどりご」とは赤ちゃんのことです。ひとりの赤ちゃんが、私たちのために生まれる、というのです。そうです、永遠の神であられる救い主は、私たちと同じ人間として生まれるというのです。

 

ヨハネはこのことを次のように言っています。「ことばは、人となって、私たちの間に住まわれた。」この方は人となって来られた神なのです。

 

そればかりではありません。イザヤは、やがて来られるメシヤがどのような方であるかについて、次のように言っています。

「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」

この方は、「不思議な助言者」です。ワンダフル・カウンセラー(wonderful counselor)です。イエス・キリストはワンダフルなカウンセラーなのです。私たちが心の中で考えていることも含め、私たちのすべてを知っておられるというだけでなく、私たちの人生における完全な計画を持っておられ、その道を示してくださいます。ですから、私たちは、安心してこの方にすべてをゆだねることができます。

 

また、この方は「力ある神」です。ただの神ではありません。「力ある神」です。「力ある神」とは、マイティー・ゴッド(mighty God)です。マイティーとは、力強いとか、大能という意味です。この方はただアドバイスをしてくれるだけでなく、そのアドバイスを実行するために必要な力も与えてくださるということです。

 

また、この方は「永遠の父」とあります。赤ちゃんとして生まれてきますが、父です。しかもただの父ではなく、永遠の父です。肉の父親は、年を取るとこの世を去って行かなければなりません。しかし、イエスは永遠の父として、いつまでも、私たちとともにいてくださるのです。

マタイの福音書28章20節には、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とあります。イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいてくださいます。

イエスは、決してあなたがたを捨てて孤児にはしません。ですから、安心して、自分の生涯をゆだねることができるのです。

 

そして、この方は「平和の君」です。「プリンス・オブ・ピース」(prince of peace)です。この方は平和の王として来られました。

この地上のどこに平和があるでしょうか。どこを探しても平和はありません。この人類は戦争の歴史です。いつも、どこかで戦争が繰り返されています。その悲劇を見ても、人類は少しも反省することなく、限りなく戦争を繰り返しているだけです。相対性理論を唱えたアインシュタインは、生前、「今や文明を破壊する武器に対する防備策はない」と言いました。また、ジョン・F・ケネディーは、「人間は戦争を終息させなければならない。そうでないと、戦争が人間を滅ぼしてしまう。」と言いました。いったいどうしたら平和になるのでしょうか。

この平和はお金で買うことはできません。ただ十字架に付けられて死なれたイエス・キリストを信じ、神と和解することによってのみもたられます。なぜなら、この方は平和の君として来られたからです。

 

かつてイギリスの作家ジェフリー・アーチャーが、「ケインとアベル」という小説を書きました。銀行の頭取ケインとアメリカのホテル王と言われたアベルが、ささいなことで喧嘩をし、反目しながら生活するようになりました。しかし、このケインの娘とアベルの息子が愛し合うようになり、親の反対を押し切って結婚し、こどもが生まれるのです。その子供の名前はウィリアム・アベル・ケインです。この子の誕生をきっかけに、長らく続いていたケインとアベルの家に和解がもたらされました。

イエス・キリストはこのウィリアム・アベル・ケインのように、神と人類が和解をするためにこの世に生まれてくださいました。そして、あくまでも神に背き、自己中心的に生き続ける人間のために十字架にかかって死なれることで、私たちが受けるべき一切の刑罰をその身に負ってくださいました。イエス・キリストこそまことの平和です。

 

7節の、最後のところにあることばをご覧ください。ここには、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。それは私たちがすることではありません。万軍の主の熱心がこれを成し遂げてくださいます。

そして、事実、万軍の主は、これを今から二千年前に、神の御子イエス・キリストをこの世に送ってくださることによって成し遂げてくださいました。それがクリスマスです。それは、神があなたのために成し遂げてくださった恵みのわざです。どうぞ、この神の恵みを受け取ってください。クリスマスには互いにプレゼントを贈りますが、イエス・キリストこそ、神からあなたへのプレゼントです。それは、あなたの心のやみが消え、あなたが平和と喜びに満たされるために、神が与えてくださったプレゼントなのです。

 

あの星野富弘さんの詩に、「花菖蒲」(はなしょうぶ)という詩があります。

「花菖蒲 黒い土に根を張り どぶ水を吸って なぜ きれいに咲けるのだろう

私は 大ぜいの人の 愛の中にいて なぜ みにくいことばかり 考えるのだろう」

(「花菖蒲」 星野富弘)

鉄棒から落ちて首の骨を折り、手も足も動かなくなってしまった時、星野さんは、自分のベッドの脇で、一生懸命看病してくれていたお母さんに、自分のイライラをぶつけて、つばを吐きかけました。しかし、そのつばが自分に戻ってきたとき、どうしようもない悲しみを感じたと言います。

しかし、そんな星野さんがイエス・キリストと出会い、その光で心が照らされたとき、少しずつではありましたが、変わり始めました。自分が生まれ育った村に美術館ができると、何十万人という人々が訪れるようになりました。そして、多くの人たちがその詩画の前でしばし足を止め、励ましを受け、涙するのです。それは星野さんがイエス様を信じて、その心のやみを照らしていただいたからです。その時から星野さんの生涯に大きく変えられたのです。

 

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」

イエス様はあなたの心のやみも照らしてくださいます。あなたもこの光に照らしていただきませんか。そして、共にその喜びを味わいましょう。

マタイの福音書2章1~12節 「博士たちのクリスマス」

Merry Christmas!救い主イエス・キリストのご降誕を心からほめたたえます。今年は12月25日が日曜日なので、こうしてクリスマスを教会で礼拝をもって迎えられることをうれしく思います。

私は、教会附属の保育園に行っていましたので、クリスマスにはいつも聖書のお話しや降誕劇、「きよしこの夜」の讃美歌に親しんできました。とは言っても、私の家はいわゆるクリスチャン・ホームではなく、仏壇や神棚がある普通の家庭でしたので、クリスマスというと、ケーキ屋さんで働いていた叔父が毎年クリスマスイブの晩に持って来てくれるケーキを食べお祝いしました。クリスマスは多くの人がそれなりの仕方でお祝いをしますが、聖書の中のキリスト降誕のストーリーを知っている人は日本にはそれほど多くありません。12月25日がキリストの誕生日であったかどうかは別として、というか、実際のところは別の日ですが、一般的に世界中でクリスマスにキリストの降誕が祝われていることは事実です。

きょうは、東方から来た博士たちが、幼子イエスを拝みに来たストーリーから、私たちがクリスマスを迎える心構えについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.星に導かれた博士たち(1-3)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」

 

お気付きのように、イエス・キリストの誕生のストーリーには歴史的事実と超自然的な出来事が織り込まれています。ここには、「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき」とあります。これは歴史的な事実です。このヘロデとはヘロデ大王のことで、紀元前37年から紀元後4年までユダヤを統治していた王でした。当時イスラエルはローマ帝国の属国でしたが、ローマ帝国は、ヘロデにイスラエルの統治を委託していたのです。彼はローマとの協調関係を築きながら、エルサレム神殿の大改築をするなど、多くの建築物を残したことで有名です。また、猜疑心がとても強く身内を含む多くの人を抹殺しました。その時代にキリストは生まれました。これはまぎれもない歴史的な事実です。

 

一方、ここには、このヘロデ王の時代に、東方の博士たちが星を見て、ユダヤ人の王が誕生したことを知り、その方を拝みに来たと告げています。この「博士」とはギリシャ語で「マゴス」という言葉で、天文学を研究していた学者たちか、あるいは、占星術、星占いをしていた者たちであったと考えられていますが、彼らは星の動きを研究している中でユダヤ人の王が生まれたことを知り、その星に導かれてエルサレムのヘロデのところへやって来たのです。おそらく彼らは、旧約聖書のダニエル書や他の預言書からイスラエルに救い主が誕生することを知っていたのだと思いますが、その星に導かれてエルサレムにやって来たのです。これは何十年に一度見られるハレーすい星だったのではないかと考える学者もいますが、これを

科学的に解明するのには無理があります。なぜなら、このように星が導くということは考えられないことだからです。これは彼らをエルサレムまで導くために神が用いられた超自然的な星だったのです。

 

このようにキリストの誕生の経緯は、歴史的事実と超自然的な出来事といういわゆる横の糸と縦の糸によって見事に織り込まれているのです。ですから、この話を黙想する人たちに、今も不思議な感動を与えてくれるのです。そして、ここにいる私たちも、その不思議な星に導かれて、きょうここにいるのではないでしょうか。すなわち、博士たちが不思議な星に導かれてキリストに出会ったように、私たちも人それぞれその方法は違いますが、不思議な方法でキリストのもとに導かれているということです。

 

先ほども申し上げたように、私は教会附属の保育園に行ったことで、小さい頃から自然にイエス様のことを聞いていました。両親が共働きだったのでどこか私を見てくれるところがないかと探したところ、たまたまそれが教会の保育園だったのです。なぜ私を教会保育園に入れたのかとあとで母に訪ねたことがありますが、「なんでって、なんでだべね、わがんね。そごしがながったがらない」という返答でした。でも、私は、そこしかなかったからではなく、そこに不思議な神の導きがあったからだと思っています。なぜなら、そのようにして教会保育園に入れてもらったことで、キリスト教対する違和感が全くなかったというだけでなく、あこがれさえ抱いていたからです。神は超自然的な星に導かれて私を教会保育園に連れて来てくれたのでした。

 

同じように、皆さんがきょうここに導かれたのも、その背後に不思議な神の深いご計画と導きがあったからなのです。ある人はだれかに誘われて来たという方もおられます。ある方はたまたま何らかのイベントに参加したのがきっかけで来られたという方もおられると思います。それがどのようなきっかけであっても、あなたはきょう、不思議な神の導きによってここに来られたのです。

 

そのようにしてキリスト教に触れた私は、しばらく教会とは無縁の生活を送っていました。そんな私が再び教会に引き戻されたのは、一人の宣教師との出会いがきっかけでした。それは私が高校3年生の秋のことでした。私は高校時代バスケットボール部に所属していましたが、インターハイが終わるとそれまで打ち込んでいたものが無くなり、心にポッカリ穴があいた日々を過ごしていました。大学進学を目指していたのにその道が閉ざされたので就職することになりましたがすぐに大手の会社に就職が決まると、何もすることがなくなったのです。「そうだ、あの人に手紙を書こう」と、その夏交換留学生として来日したアメリカ人のことを思い出したのです。しかし、高校時代まったく勉強しなかった私は英語で手紙を書くことができなかったので、同じ町の高校に英語の教師として来日したばかりの宣教師の家を訪ねました。それが今の家内です。今の家内でとは言っても、他に家内はいませんが、とにかく彼女に英語の手紙を直してもらおうと言ったのです。すると家内は、片言の日本語で、「教会に来ませんか」と誘ってくれました。私は特にやることもなかったので、また、キリスト教に対して違和感がありませんでしたし、社会勉強のつもりで行くことにしたのです。

 

すると、日曜学校の先生が温かく迎えてくださり、後で1枚のはがきをくださいました。「ああ、教会の人って優しいんだなぁ」と思って続けて行くようになると、その方が、「ちょうど良かった。今度のクリスマスに降誕劇をするので手伝ってもらえませんか。あなたは悪役です。」とお願いされました。それで私は、悪役で役者デビューをすることになりまはこんなことしているんだろう」という思いもありましたが、まあ他にやることもなかったし、キリスト教がどのようなものなのかを知りたいと思って教会に続きました。

 

そのような時でした。卒業式までもう少しという時、高校で一つの問題が起こりました。担任の先生から、もしかするとあなたは卒業できないかもしれないと言われた時、ここまで来て卒業できなかったらどうしようという思いで目の前が真っ暗になりました。その時、クリスマスのプレゼントに家内からもらった聖書をむさぼるようにして読んだのです。すると、第二コリント5章17節にこう書いてありました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでもキリストを信じるならすべてが新しくなるという言葉を読んだとき、私はこれまでの人生をリセットして、新しい人生をスタートさせたいと強く思い、イエス様を私の罪からの救い主として信じ受け入れました。

 

本当に不思議ですね。もし教会の保育園に行っていなかったら、もし家内と出会っていなかったら、もしあの問題が起こっていなかったら、私はここにいなかったかもしれません。しかし、東方の博士たちが星に導かれてエルサレムにやって来たように、私も不思議な神の導きによってイエス様のもとにやってくることができました。

 

そんな彼らがイエスのもとに導かれたのは、聖書のみことばによってでした。5節と6節には、旧約聖書にある預言の言葉を通して彼らは救い主はベツレヘムで生まれたということを知り、幼子のイエスのもとへ行きました。私たちも不思議な出会いを通して教会に導かれ、その中で聖書のことばを通してキリストへの信仰へと導かれることがわかります。

 

あなたはいかがですか。神は今も不思議な方法によってあなたの人生をも導いておられます。いろいろな人との出会いや出来事を通して、あなたをイエスのもとへと導いておられるのです。あなたのスターは何ですか。あなたの星となってあなたを導いてくれた人は誰でしょうか。あなたも博士たちのようにその星を見て単純に喜び、その星に導かれるように、あなたの人生を神様にゆだねておられるでしょうか。

 

Ⅱ.この上もなく喜んだ博士たち(3-10)

 

次に、3節から10節までをご覧ください。3節には、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れまどった。エルサレム中の人も同様であった。」とあります。

 

こうした博士たちの行動とは裏腹に、キリストの誕生を快く思わなかった人たちもいました。それはヘロデ王であり、エルサレム中の人々です。ここには、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った」とあります。そして、7節と8節にあるように、彼は、博士たちをだましその幼子の情報を得て、その子をなき者にしようとしました。いったいなぜヘロデは恐れ惑ったのでしょうか。それは、自分の上に支配者がいることを望まなかったからです。彼はこの幼子が成長した時、自分の王としての立場や地位が奪われるのではないかと心配したのです。それは何もヘロデに限ったことではありません。それは、人の上に立つ立場にある人ならだれでも受ける誘惑でしょう。自分の立場や地位を守るという動機で、いろいろなことを言ったりやったりします。このヘロデ王はそれが特に強く、彼は五回も結婚していましたが最初の妻(ドリス)と二人の息子、二番目の妻(ミリヤム)と二人の息子をも抹殺して、自分の立場を守ろうとしました。当時、ヘロデよりも豚の方が安全だとささやかれたほどです。

 

一方ここには、「エルサレム中の人々も王と同様であった」とあります。ヘロデならばわかりますが、なぜエルサレム中の人々も王と同様に恐れたのでしょうか。それは、自分たちの現状が変わることを恐れたからです。人は自分の現状が変わることを極端に恐れます。それは新しいものへの不安でもありますが、今ある現状を手放さなければならないと思うと、恐れを抱くのです。多くの場合変わりたいのに変われないのは、変わりたいという自分の考えよりも、これまでの現状を変えたくないという気持ちによってブレーキがかけられているからです。どんな状況であろうとも、誰にとっても、現状が自分の知り得る範囲での最も安全な領域であり、現状の考え方が、今の自分に一番馴染んでいるという思いがあるのです。このように、変化を恐れる気持ちは誰の中にもあります。

 

さらに、ここにはもう一つの種類の人たちが登場しています。それは民の祭司長たちと学者たちです。4節を見てください。

「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」

彼らは、ヘロデ王から、キリストはどこで生まれるのかと問いただされたとき、「ユダヤのベツレヘムです。」と答えています。預言書にそう書かれてあったからです。この預言書というのは、今日の旧約聖書のことですが、そこにはキリストがユダヤのベツレヘムという町に生まれることが、前もって、預言されていたのです。言い換えれば、聖書の民と呼ばれていたユダヤ人には早くからキリスト誕生が預言されており、ほとんどの人がそのことを知っていたということです。それなのに、彼らはその知らせを耳にしても、ちっとも動こうとはしませんでした。なぜでしょうか。関心がなかったからです。聖書のみことばを知っていても、実際には信じていなかったのです。

 

このように、キリスト誕生の知らせを聞いても、人によって反応はさまざまでした。それは二千年前も今も変わらない事実です。しかしごく少数ですが、このキリストの誕生を感動的に体験した人たちもいました。それはこの博士たちです。9節、10節をご覧ください。

「彼らは終えの言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

 

キリスト降誕の知らせを耳にして、ヘロデやエルサレムの住民が不安を感じたのに対して、幼子のような純粋な心を持って、まっすぐにイエス様の生まれたところへと向かって行った東方の博士たちの姿は何と対照的でしょうか。彼らはこの上もなく喜びました。その喜びは、お金や物によって得られるものではない、幼子のような信仰からあふれ出る説明のできない感動的な喜びです。今日も、世界中で多くの人たちがこの喜びを体験しています。あなたもそのおひとりでしょうか。

 

Ⅲ.幼子を礼拝した博士たち(11-12)

 

最後に、幼子イエスのもとに導かれた彼らが何をしたかを見て終わりたいと思います。11節と12節をご覧ください。

「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

 

星に導かれて、そしてまた、聖書の預言の言葉に確信を得て、ついに幼子イエスのいるところまでやって来たのは、不思議なことに聖書に約束されていた神の民ではなく、異邦の民、東方の博士たちでした。彼らは母マリヤとともにおられる幼子を見ると、ひれ伏して拝みました。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのです。

 

黄金は言うまでもなくとても高価で貴重なものです。それは王にふさわしいものです。ここで博士たちが黄金をささげたというのは、キリストが王の王であることの信仰の告白でもありました。

そして乳香、乳香は香料の原料です。その色が乳白色の色であることから乳香と呼ばれていますが、その原料を焚いて香として、神にささげるのです。つまり、この乳香はキリストの神性を表していたのです。

そして、没薬ですが、没薬は、古代エジプトではミイラ作りのために欠かせない薬品で、強い殺菌力と芳香を兼ね備えたものです。没薬はキリストが十字架で、私たちの罪の身代わりとして死なれる贖い主であることを表していました。もちろん、博士たちはそんなつもりで持ってきたわけでなく、ただ高価な贈り物を贈っただけでしょうが、奇しくもそれが、この幼子が私たちの罪のために死なれる救い主であることを表していたのです。

 

彼らはこうしたささげ物をささげ、ひれふして拝みました。いったいなぜ彼らはこのようにしたのでしょうか。いったいなぜそんなに遠いところから、おそらく千数百キロはあったでしょう、今のように新幹線や飛行機があったわけでもなかったのに、そんなに遠い所から長い年月をかけてやって来たのでしょうか。相当の犠牲があったことと思いますが、なぜ彼らは、このような高価な贈り物をまでして、キリストを礼拝したのでしょうか。

 

それは彼らにそれだけの喜びがあったからです。その星が幼子のおられるところまで進んで来たとき、彼らはこの上もなく喜んだとあります。その喜びは、それだけのお金と時間を使っても惜しくないと思えるほどの喜びでした。その喜びが感謝となって内側からあふれ出て、礼拝となって表れたのです。

 

東方の博士たちと、ヘロデ大王やエルサレム中の人々、あるいはユダヤ教の宗教的指導者たちの違いはどこにあるのでしょうか。それは、救い主の誕生を心待ちにしていたか、そうでないかの違いです。自分にとって、救い主が意味のあるお方なのかそうでないかの違いと言ってもいいでしょう。
大切な人の誕生日なら、その日を喜んでお祝いするでしょう。別にどうでもいい人の誕生日なら、どうでもいいと思うはずです。敵の誕生日なら、呪いたくなるかもしれません。自分にとって大切な人が生まれたからこそ、博士たちはお祝いにやってきたのです。ここが最も重要なポイントです。  私たちにとって、イエス様はどのような方でしょうか。クリスマスがどういう日であるかは、私たちとイエス様との関係次第で決まります。あなたにとって、クリスマスはどういう日でしょうか。素敵なディナーでロマンチックな雰囲気を味わう日ですか?あるいは、特別なイベントで盛り上がる日でしょうか?それとも、どうでもいい日?むしろ疲れる、クルシミマス?こうしたこともいいですが、しかし最も大切なのは、クリスマスはイエス様に対する感謝と喜びにあふれる日であるということです。なぜなら、イエス様は私たちを罪ののろいから救ってくださったからです。勿論、東方の博士たちは、イエス様が自分たちを罪ののろいから救ってくれる救い主だとは思っていなかったでしょう。自分たちの先祖を救ってくれたユダヤ人への感謝の思いから、はるばる遠い東の国からやって来ただけかもしれません。けれども、私たちはこうした彼らの姿からクリスマスこそイエス様の誕生をお祝いし、この方をこの世に送ってくださった神に感謝して、ひれ伏して拝む時であるということを知ることができます。だからこそ、クリスマスを迎えるのに最もふさわしい迎え方は、心からの感謝をもってキリストに礼拝をささげる日であるということです。このクリスマスイエス様に対して、あふれる感謝を込めて礼拝しましょう。

 

 

 

 

ヨハネの福音書8章12節 「わたしは世の光です」

それでは、聖書からの励ましのメッセージです。今晩の聖書のみことばはヨハネの福音書8章12節です。

 

「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

毎年、クリスマスの季節になりますと、シンガポールの観光名所、オーチャード・ロードは、光と色彩のワンダーランドに変わります。このライトアップの目的は、大勢の観光客に来てもらって、沿道の店でお金を使ってもらうことにあります。楽しい雰囲気、クリスマス・キャロルの歌声、大道芸などを目当てに、毎年、世界中から多くの人がやって来ます。

 

一方、最初のクリスマスのライトアップは、ネオンの光や色彩ではなく、天使たちの「主の栄光」の輝きでした。それを見たのは、観光客ではなく、野原にいた羊飼いたちです。まばゆいばかりの光に続いて、大勢の天使たちが現れると、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と賛美したのです(ルカ2:14)。

羊飼いたちは、御使いが語ったことを確かめようとベツレヘムに行きました(同2:15)。そして、それが本当だと分かると、「この幼子について告げられたことを知らせた」のです(同2:17)。

 

何という励ましでしょう。聖書は、救い主誕生の知らせはまっさきに羊飼いたちのところへもたらされたと告げています。羊飼いというと、今でこそのどかな雰囲気を感じさせますが、当時は、昼も夜も羊の番をしなければならない過酷な仕事でした。彼らのほとんどは雇われで、自分の主人の羊を代りに面倒みていたのです。給料は少ないし、羊を置いて礼拝にも行けず、裁判で証言することも許されていませんでした。いったい自分は何のために生きているのかがわからず空しく生きていたのです。しかし、そんな羊飼いたちのところに、最初のクリスマスの光が照ったのです。

 

これは私たちにとっても希望ではないでしょうか。私たちの人生にも、やみがあります。それはコンプレックスというやみであり、孤独や悲しみというやみであり、また、恐れや不安というやみ、怒りや憎しみというやみです。しかし、そのやみがどんなに深くても、神は私たちの心を照らすことができるのです。神はご自分のひとり子イエスを、あなたに与えてくださいました。そして、イエスはこう言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」神が私たちに与えてくださった愛の賜物(イエス)は、どんな暗やみにも光をもたらすのです。

 

「そうはいうけれども、ちっとも明るくないじゃないか」と思われる方もいるかもしれません。確かに世の中を見るとあまりいいことがありません。戦争は絶えないし、愛は冷え切っています。不景気だし、明るい話題があまり多くありません。私たちの生活を見ても懐は寒いし、体のあちこちが悪い、家族の心配もあるし、あんな問題、こんな問題と、複雑な悩みをたくさんかかえています。イエス様が世の光として来てくださったというなら、もっといいことがあってもいいんじゃないですか?世の中もっとパッと明るくなるはずなのに、なぜ明るくならないのですか、そう思わずにはいられません。けれども、光はやみの中に輝いているのです。あなたの真っ暗なやみの中で輝いているのです。

 

日本にもよくいらして、神様への讃美を歌っておられるレーナ・マリアさんという歌手の方がおられます。レーナ・マリアさんは生まれつき両手がなく、片足も短いまま成長しないというたいへん重い障害をもって生まれてきました。唯一健康な片足を、まるで手のように器用に使いこなし、なんでも自分でやり遂げてしまう凄い方なんですが、その方は自分の人生についてこんな風に言っておられます。

 

「神様が、もし私の体を癒そうと思われるならば、私は癒されると信じています。しかし、私はそれを望んだことがありません。最初は、人と違って一杯の水を飲むのも本当に苦労しましたが、そういう努力をすることによって随分忍耐強い性格になりましたし、水泳の選手としてパラリンピックに出ることもできました。また日本に来て歌うこともできるようになりました。他にもいろいろと楽しい経験があるのです。『主は私の羊飼い、私には乏しいことはない』という御言葉を本当にその通りだなと思っています。私はこの体を不幸だと思ったことがないのです。いい人生だと思っています」

 

レーナさんをこのように言わしめるものとはいたい何でしょうか。レーナさんは重い身体障害を持っておられますが、自分の人生に与えられている神様の愛を知っているのです。だから、「いい人生だ」と言える。つまり、レーナさんがこのように言えるのは、神の愛の賜物であるイエスの光を持っておられるからなのです。

 

楽な人生がいい人生と限りません。辛くてもいい人生があるのです。それは生きている意味を感じられる人生ではないでしょうか。三浦綾子さんの『光あるうちに』という本の中に、読者からの同じような悩みを書いた二つの手紙が紹介されています。  「わたしは三十歳の主婦です。近頃、私は生きるとは何か、と疑問を持つようになりました。朝起きて食事の用意をし、主人を送り出し、子供を幼稚園に送っていきます。そのあとは、掃除、洗濯、買い物、そして夕食の準備。ある時、わたしは思いました。十年後も、二十年後も、わたしは同じ毎日を繰り返しているのではないか、と。繰り返すだけで老いていく人生。そう思っただけで、わたしは生きていることが、これで良いのかと考えずにはいられませんでした」  「ぼくは高校三年生です。受験勉強に追われています。たぶん来年の今頃は、二流か三流の大学にのそのそ通っていることでしょう。そして四年過ぎると、また二、三流の会社に通っているにちがいありません。一生平社員か、うまくいっても課長止まりで、定年になるわけです。ぼくと結婚する女性は、どうせ、人がアッと驚くような美人でもなし、才女でもなし、平凡な家庭、退屈な家庭を作るでしょう。そして、ぼくに似た凡々たる子が二人か三人生まれて、ぼくと同じコースをたどるに違いありません。ぼくが定年を迎えると、もう、僕を邪魔者扱いにする子どもたちだと思います。こう考えてくると、生きていることが何なのか、わからなくなるのです」

 

高校三年生でよく考えるなぁと思います。二人とも、自分の人生が大切に思えなくなってしまったというのです。その理由として、人生の平凡さをあげています。でも、三浦綾子さんは、ご自身の体験をもって、こんな風に答えておられます。

 

結核を患い、脊髄カリエスを患い、13年間療養しました。ギブスベットに寝たまま、食事を作ってもらい、便をとってもらい、洗濯をしてもらい、医療費はかかる、心配はかける、治る見込みはない。自分は廃品同様の人間だ、死んだ方がましだと、つくづく考えました。ところが、クリスチャンになって人のために祈るようになり、また一人一人の友に思いを馳せてベットで仰向けになったままたどたどしくハガキを書いて送るようになりました。祈ることや、ハガキを書くことなど何でもないことのように思われますが、今まで自分の事ばかり考えて、自分が情けない、死にたいとばかり思っていた自分が、少しでも人のことを考えるようになったとき、自分が別人のようになった気がします。

 

実際、それ以来、たくさんの人が三浦さんを慕って病室に来るようになりました。つまり、平凡な毎日だから生きている意味がないのではなくて、自分のことしか考えていないから自分の人生が大切に思えないのだということに気が付いたのです。

 

来る日も来る日も、食事の支度と洗濯、掃除の繰り返しであってもいいのです。問題はいかなる気持ちでそれを繰り返すかということであって、家族が楽しく食事ができ、清潔な服を着ることができ、整頓された部屋に憩い、しみじみと幸せだと思える家庭を作る。それがどんなに大切な仕事であるかと考えたら、自分のしていることが空しいとは思わないで、喜びをもって生きることができるはずだというのです。

 

こうして考えてみますと、イエス様の光に照らされるということは、明るくて楽しいことがたくさんあるという事とは限りません。どんなに自分が惨めに思えても、実は私は神様に愛されている者のだということを知ること、それが心にともし火を持つということなのです。どんなに小さな事しかできなくても、どんなに辛いことであっても、それが神様の与えてくださった私の仕事なのだということを知ること、それが命に輝きを持つと言うことなのであり、「光はやみの中に輝いている」ということの意味なのです。

 

三浦綾子さんは、結核の療養所で回心しイエス様を信じました。そして、ともに文学活動をしていた三浦光世さんと結婚し、同じ道を歩もうとしましたが、生活が苦しくなり、仕方なく二人で雑貨店を開きました。お客さんが多くなってきたとき、向かい側に同じように雑貨店が新しくできました。ところが、三浦さんのお店だけうまくいくので、ある日、光世さんが綾子さんにこう言いました。「あの家は学校に通う子どもたちもいて、いろいろとお金もかかるだろうに、商売がうまくいっていないようだから、私たちが少し助けてあげよう。」一体どういう意味かと綾子さんが尋ねると、光世さんは、「私たちの店の物を少し減らして、お客さんがその物がほしいと言ったら、あの店に行って買うように勧めてはどうだろう」と答えたそうです。

光世さんの言うとおりにすると、向かいの店も商売がうまくいくようになり、綾子さんたちは時間の余裕もできたので、そのおかげで彼女は、書き物を始めることができたのですが、ちょうど朝日新聞社が実施した「一千万円懸賞小説」の全国公募があったのでそれら応募すると、三浦綾子さんは入選を果たしたのです。その小説こそ「氷点」です。

 

イエス様は、この世の光として来てくださいました。暗やみが深ければ深いほど、その光は輝きをまします。そういえば、クリスマスが最も闇の長いこの冬至に定められたのは、イエス様こそ私たちの心の暗やみを照らしてくださる方であることを物語っているからです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」あなたの心がどんな暗やみであっても、世の光として来られたイエス・キリストを心にお迎えするなら、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。光はやみの中に輝いている。すべての人に与えられた神さまからの愛の贈り物を、あなたも受け取ってください。それはイエス・キリストによって与えられている恵みなのです。

ルカの福音書1章26~38節 「どうしてそのようなことが・・」

先週は、イエス・キリストの誕生の前にザカリヤとエリサベツという老夫婦に、イスラエルの民の心を整えるヨハネという人が生まれたことをお話ししまた。高齢といってももう腰が曲がるほどの老夫婦に子供が生まれるなんて考えられないことですが、神は彼らの祈りを聞かれ、その御業を成し遂げてくださいました。

 

しかし、きょうの箇所にはもっと驚くべき内容が記されてあります。それは、処女がみごもるということです。それはいと高き方、神の子であって、その神の子が処女マリヤから生まれるというのです。処女降誕が信じられない人は、もうここから先が読めなくなってしまいます。そういう人がいて当たり前です。そんなことがあるはずがないからです。しかし、聖書はそれでも隠すことなく、信じられない人がいることも十分承知の上で、あえて処女マリヤが神の子キリストをみごもったとハッキリ告げるのです。そして、別に狂信的でもなく、極めて常識的な人間でありながら、これをこのまま信じている人も少なくありません。私たちもその一人です。きょうも使徒信条を告白して、「主は、聖霊によりて宿り・・」と大胆に告白しました。考えてみると、人には説明できず、絶対にありえないような大変なことを、私たちは信じているわけです。いったいイエスはどのように処女マリヤから生まれてきたのでしょうか。

 

Ⅰ.どうしてそのようなことが・・(26-37)

 

まず、まず26節から35節までをご覧ください。その六か月目にとは、ザカリヤとエリサベツがみごもって六か月目にということです。御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来ました。その名はマリヤといい、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけでした。いいなずけとは、結婚の約束をした人という意味です。当時のユダヤの社会では結婚しているとみなされていましたが、まだ一緒に住んでいない状態のことを指していました。ですから、創造主訳聖書では、「すでに結婚していたが、また婚姻の時まで間があって、同棲はしていなかった。」と訳しているのです。そのマリヤのところに御使いガブリエルがやって来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と告げました。おめでとうって、何がおめでとうなのかと彼女がひどくとまどっていると、御使いは続けてこう言いました。

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

マリヤは驚いてこう言いました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

 

ところで、これに似た質問を、先週見たザカリヤもしました。1章18節です。

「そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私はもう年寄りですし、妻も年をとっています。」

これはザカリヤがヨハネの誕生を告げられたとき、自分たち夫婦がもう年寄りなので子供を産むことは不可能だと言いたかったのです。ですから、子供が生まれるとしたら、何らかのしるしでも見せて下さるのですか、と尋ねたのです。ある人はこのザカリヤの質問は「疑い」の質問だったと説明しています。

 

しかし、マリヤの質問は違います。マリヤの質問は、「疑い」ではなく「驚き」の質問でした。そしてまだ男の人を知らないのに、どのようにしてそんなことが起こるのかと尋ねたのです。ですから、口語訳では、「どうして、そんなことがあり得ましょう」と訳しているのです。考えられません。考えられないことがどのようにして起こるのか、というニュアンスなのです。

 

確かにマリヤは敬虔なユダヤの女性です。それでも、御使いに、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と言われたとき、手放しで喜べるような気持ちにはなれなかったでしょう。むしろ恐れを感じたのではないでしょうか。というのは、彼女はヨセフと結婚することが決まっていましたが、まだ正式に結婚したわけではなかったので、性的関係を持ったことがなかったからです。そのような者がどうして男の子を産むことなどできるでしょう。また、その生まれてくる男の子は聖なる方、いと高き神の子と言うではありませんか。こんな卑しい自分がどうやって、いと高き神の御子の母になるというのでしょう。考えられません。また、たとえそうなったとしても、いったいそれをどのようにヨセフに説明できるというのでしょう。彼女は一瞬にしていろいろなことを考えたことと思います。

 

これに対して、神の答えはこうでした。35節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「御使いは答えて言った。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

 

その答えは、「聖霊があなたの上に臨み」でした。それは通常の方法によってではなく、聖霊によって、聖霊なる神の御業によるというのです。聖霊がマリヤの上に臨み、いと高き方が彼女をおおうことによってなされるのです。処女が身ごもるなど聞いたこともないし、全く考えられないことですが、神にとって不可能なことは一つもありません。神は、私たちには考えられないこともおできになるのです。処女が身ごもることもそうです。何もないところからおことば一つですべてのものを創造された主は、処女の胎にいのちを宿すこともおできになるのです。であれば、永遠で無限の神が時間と空間に制限されている人間になることなんて考えられないことですが、神にとってはできないことではないのです。大切なことは、それをどのように説明するかということではなく、神がそのような方法をとってくださったという事実をそのまま受け入れて信じることです。それが信仰なのです。そのために神が取られた方法が処女降誕だったのです。

 

そんなのおかしいと思う方もいるでしょう。でもこのようなことを私たちも経験しているのではないでしょうか。たとえば、今度の日曜日にさくらチャペルでKさんがバプテスマを受けられますが、人が新しく生まれることはその一つです。新しく生まれるとは心を入れ替えることとは違い、神のいのちである聖霊を受け入れ、神の子どもとして新しく生まれることです。それはどんなにその人が頑張って努力してもできることではありません。それはただ神の聖霊によらなければできないのです。イエスが、、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)と言われたとおりです。それは御霊なる神の働きでしかないのです。それは、神を信じた人が主と同じ姿に変えられていくことも同じです。それは御霊なる主の働きによるのです。そのような神の働きを、私たちも経験しているのです。

であれば、神が、処女マリヤの胎に神の子を宿すことも考えられないことではないのです。ただそれが神の取られた方法であったということであって、私たちはその事実を受け入れなければならないのです。

 

Ⅱ.あなたのおことばどおりに(38)

 

それに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。38節をご覧ください。「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 

こうした神の救いのご計画が実現した背景には、聖なる神の働きがあっただけでなく、人間の側の信仰による応答がありました。この主の使いのことばに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

彼女は主のことばに対して、まず、自分が主のはしためにすぎないと認め、どうぞ、あなたのおことばどおりになるようにと、すべてを主にゆだねました。「はしため」とは奴隷のことです。奴隷とは、主人の意志に従う者のことです。それは簡単なことのようでなかなかできることではありません。自分を捨てることができないからこそ、私たちはいつも心の中で葛藤するのではないでしょうか。しかし、彼女は自分が主のはしためにすぎないと言って、しもべに徹しました。ただ主のみこころが成し遂げられることを求め、主にすべてをゆだねたのです。

 

皆さん、どうですか、このマリヤの姿をご覧になってみて・・。このように言うことは彼女にとって大変だったはずです。なぜなら、もし彼女が妊娠したとしたら、ヨセフとの関係はだめになってしまうでしょう。彼女がいくら、「いや、これはね、聖霊が臨んでなされたことなのよ」と言っても、ヨセフには通じなかったでしょう。事実、マタイの福音書を見ると、ヨセフがそのことを知ったとき、彼は彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあります。彼は受け入れられなかったのです。しかし、その後で主の使いが夢に現れて、それが聖霊によることであるとわかり、彼女を妻として迎えることができたのです。

 

それはヨセフだけの問題ではありません。律法ではこのような姦淫を行う者を石打にするようにと定められていました。そのことをたとえ近所の人たちに説明しても、とうてい理解してもらえなかったはずです。よって彼女が妊娠したということがわかれば、彼女は人々の面前で死刑にされてもおかしくなかったのです。ですから、マリヤがこのように主のことばを受け入れたというのは、命がけのことだったことがわかります。にもかかわらずマリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言って、主にすべてをゆだねました。どうして彼女はそのように従うことができたのでしょうか。

 

それはみことばへの信仰があったからです。このことから教えられることは、本当の献身とは自分の思いから出たことではなく、神の御言葉への応答としてそれに従うことであるということです。つまり、マリヤは、神の恵みに対してジャストミートしたのです。神から投げかけられた恵みに対して、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」とジャストミートしました。聖書にはそう書いてあるけども現実的には難しいとか、私はそう思わないとか、私には私の考えがあるのといって、自分の思いを通そうとするのではなく、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」とジャストミートしました。時々私たちは神のみことばよりも自分の思いが強すぎてボールの下をたたいてみたり、上をこすったりすることがあります。ひどい時には空振りすることもあります。しかし、大切なのはジャストミートすることです。神が言われることをそのとおりに受け入れること、それがジャストミートです。そのような人はマリヤのように主の恵みをいただくようになるのです。

 

Ⅲ.主によって語られたことを信じきった人(39-55)

 

最後に、そのように主のことばを信じきった人がどんなに幸いなのかを見て終わりたいと思います。45節をご覧ください。ここに、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」とあります。

 

マリヤは、御使いが彼女から去って行くと、山地にあるユダの町へと急いで行きました。そして、ザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつをすると、エリサベツは聖霊に満たされて大声で言いました。

「あなたは御名の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。・・・主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 

ところで、この時いったいなぜマリヤがエリサベツの所へ行ったのかはわかりません。36節には、「あなたの親類エリサベツ」とあるので、彼女が親類であったことは確かですが、それ以上の理由はわかりません。おそらく、御使いの超自然的な受胎告知を聞いたとき、その中に、「親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。」という言葉を聞いて、エリサベツなら自分の身に起こったことを唯一理解してくれると思ったのでしょう。そして、彼女がエリサベツの家へ行くと、さすがエリサベツはマリヤの身に起こったことを理解できただけでなく、彼女が、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人の幸いを告げたのです。やはり高齢でありながら主が願いを聞き、こどもを授けてくださった主の奇跡を経験していたので、マリヤの言うことをも受け入れることができたのでしょう。マリヤにとってもどれほど慰められたかわかりません。

 

そして、それを聞いたマリヤの口から、主への賛美が溢れました。46節から55節までをご覧ください。

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

「喜びたたえる」とは、大喜びするという意味です。皆さんは大喜びしていますか。神は、自分の心を明け渡し、主のみことばに生きる人に、大きな喜びを与えてくださいます。クリスマス、それはすばらしい喜びの知らせですが、そのすばらしい喜びの知らせは、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人にもたらされるものなのです。

 

マリヤはそのことをこの賛美の中で次のように言っています。54節と55節をご覧ください。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に、語られたとおりです。」

 

この言葉はとても意義深いものです。聖書の神は、約束の神です。アブラハムへの約束を忘れないで、アブラハムに語られた約束を果たしてくださいました。神はどれほど多くの約束を私たちに与えておられるでしょうか。その約束は、創世記の始めからたくさん記されてありますが、特にアブラハムからのものが重要です。なぜなら、神はアブラハムを選び、ご自分の民とし、彼の子孫から救い主を送ると約束されたからです。創世記12章1,2節には、次のようにあります。

「あなたは、あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

神はアブラハムから出るものを祝福すると約束されましたが、その約束は、たとえ神の民イスラエルが神から離れ、神のさばきによってバビロンに捕囚になるという状況でも変わりませんでした。エレミヤ書35章5~6節にはこうあります。

「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、「主は私たちの正義」と呼ばれよう。」

これはイスラエルがバビロンの捕囚の民として連行された時に告げられました。そしてそのことばのとおり、そのダビデの子孫を通して、救い主を送ってくださったのです。それがイエス・キリストです。

 

何ということでしょう。このような神が他にいるでしょうか。いません。このように語られたことを成し遂げられる真実な神は他にはいません。私たちは不真実でも、神はいつも真実なのです。神は約束されたことを最後まで果たしてくださる。

 

ですから、私たちはこの約束の神を信じなければなりません。神があの堕落したイスラエルでさえ、なお捨てず、回復なさろうとされるのは、神が約束の神だからなのです。

 

しばしば、私たちは自分の思うようにならないといらいらしてみたり、人間関係がちょっとでもこじれたりすると、神から捨てられたのではないかと思ったり、罪を犯した場合や何か失敗したりすると、自分は呪われているのではないかとさえ思いがちですが、神は私たちを最後までお捨てにはならず、その約束を必ず実現してくださるのです。ですから、私たちは、この約束の神を信じなければなりません。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)

このみことばにしっかりと信仰の基礎を置き、主によって語られた約束は必ず実現すると信じきろうではありません。

 

今から二千年前、神の御子イエス・キリストはマリヤのお腹に宿りました。それは人間の理解をはるかに超えた神の御業であり、尊い神の約束によるものでした。その神の御業は、今も私たちのうちに行われます。私たちもマリヤのように神のことばを信仰によって受け入れ、神によって語られたことは必ず実現すると信じきるなら、あなたにも神の恵みが豊かに臨むのです。