マタイの福音書2章1~12節 「博士たちのクリスマス」

Merry Christmas!救い主イエス・キリストのご降誕を心からほめたたえます。今年は12月25日が日曜日なので、こうしてクリスマスを教会で礼拝をもって迎えられることをうれしく思います。

私は、教会附属の保育園に行っていましたので、クリスマスにはいつも聖書のお話しや降誕劇、「きよしこの夜」の讃美歌に親しんできました。とは言っても、私の家はいわゆるクリスチャン・ホームではなく、仏壇や神棚がある普通の家庭でしたので、クリスマスというと、ケーキ屋さんで働いていた叔父が毎年クリスマスイブの晩に持って来てくれるケーキを食べお祝いしました。クリスマスは多くの人がそれなりの仕方でお祝いをしますが、聖書の中のキリスト降誕のストーリーを知っている人は日本にはそれほど多くありません。12月25日がキリストの誕生日であったかどうかは別として、というか、実際のところは別の日ですが、一般的に世界中でクリスマスにキリストの降誕が祝われていることは事実です。

きょうは、東方から来た博士たちが、幼子イエスを拝みに来たストーリーから、私たちがクリスマスを迎える心構えについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.星に導かれた博士たち(1-3)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」

 

お気付きのように、イエス・キリストの誕生のストーリーには歴史的事実と超自然的な出来事が織り込まれています。ここには、「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき」とあります。これは歴史的な事実です。このヘロデとはヘロデ大王のことで、紀元前37年から紀元後4年までユダヤを統治していた王でした。当時イスラエルはローマ帝国の属国でしたが、ローマ帝国は、ヘロデにイスラエルの統治を委託していたのです。彼はローマとの協調関係を築きながら、エルサレム神殿の大改築をするなど、多くの建築物を残したことで有名です。また、猜疑心がとても強く身内を含む多くの人を抹殺しました。その時代にキリストは生まれました。これはまぎれもない歴史的な事実です。

 

一方、ここには、このヘロデ王の時代に、東方の博士たちが星を見て、ユダヤ人の王が誕生したことを知り、その方を拝みに来たと告げています。この「博士」とはギリシャ語で「マゴス」という言葉で、天文学を研究していた学者たちか、あるいは、占星術、星占いをしていた者たちであったと考えられていますが、彼らは星の動きを研究している中でユダヤ人の王が生まれたことを知り、その星に導かれてエルサレムのヘロデのところへやって来たのです。おそらく彼らは、旧約聖書のダニエル書や他の預言書からイスラエルに救い主が誕生することを知っていたのだと思いますが、その星に導かれてエルサレムにやって来たのです。これは何十年に一度見られるハレーすい星だったのではないかと考える学者もいますが、これを

科学的に解明するのには無理があります。なぜなら、このように星が導くということは考えられないことだからです。これは彼らをエルサレムまで導くために神が用いられた超自然的な星だったのです。

 

このようにキリストの誕生の経緯は、歴史的事実と超自然的な出来事といういわゆる横の糸と縦の糸によって見事に織り込まれているのです。ですから、この話を黙想する人たちに、今も不思議な感動を与えてくれるのです。そして、ここにいる私たちも、その不思議な星に導かれて、きょうここにいるのではないでしょうか。すなわち、博士たちが不思議な星に導かれてキリストに出会ったように、私たちも人それぞれその方法は違いますが、不思議な方法でキリストのもとに導かれているということです。

 

先ほども申し上げたように、私は教会附属の保育園に行ったことで、小さい頃から自然にイエス様のことを聞いていました。両親が共働きだったのでどこか私を見てくれるところがないかと探したところ、たまたまそれが教会の保育園だったのです。なぜ私を教会保育園に入れたのかとあとで母に訪ねたことがありますが、「なんでって、なんでだべね、わがんね。そごしがながったがらない」という返答でした。でも、私は、そこしかなかったからではなく、そこに不思議な神の導きがあったからだと思っています。なぜなら、そのようにして教会保育園に入れてもらったことで、キリスト教対する違和感が全くなかったというだけでなく、あこがれさえ抱いていたからです。神は超自然的な星に導かれて私を教会保育園に連れて来てくれたのでした。

 

同じように、皆さんがきょうここに導かれたのも、その背後に不思議な神の深いご計画と導きがあったからなのです。ある人はだれかに誘われて来たという方もおられます。ある方はたまたま何らかのイベントに参加したのがきっかけで来られたという方もおられると思います。それがどのようなきっかけであっても、あなたはきょう、不思議な神の導きによってここに来られたのです。

 

そのようにしてキリスト教に触れた私は、しばらく教会とは無縁の生活を送っていました。そんな私が再び教会に引き戻されたのは、一人の宣教師との出会いがきっかけでした。それは私が高校3年生の秋のことでした。私は高校時代バスケットボール部に所属していましたが、インターハイが終わるとそれまで打ち込んでいたものが無くなり、心にポッカリ穴があいた日々を過ごしていました。大学進学を目指していたのにその道が閉ざされたので就職することになりましたがすぐに大手の会社に就職が決まると、何もすることがなくなったのです。「そうだ、あの人に手紙を書こう」と、その夏交換留学生として来日したアメリカ人のことを思い出したのです。しかし、高校時代まったく勉強しなかった私は英語で手紙を書くことができなかったので、同じ町の高校に英語の教師として来日したばかりの宣教師の家を訪ねました。それが今の家内です。今の家内でとは言っても、他に家内はいませんが、とにかく彼女に英語の手紙を直してもらおうと言ったのです。すると家内は、片言の日本語で、「教会に来ませんか」と誘ってくれました。私は特にやることもなかったので、また、キリスト教に対して違和感がありませんでしたし、社会勉強のつもりで行くことにしたのです。

 

すると、日曜学校の先生が温かく迎えてくださり、後で1枚のはがきをくださいました。「ああ、教会の人って優しいんだなぁ」と思って続けて行くようになると、その方が、「ちょうど良かった。今度のクリスマスに降誕劇をするので手伝ってもらえませんか。あなたは悪役です。」とお願いされました。それで私は、悪役で役者デビューをすることになりまはこんなことしているんだろう」という思いもありましたが、まあ他にやることもなかったし、キリスト教がどのようなものなのかを知りたいと思って教会に続きました。

 

そのような時でした。卒業式までもう少しという時、高校で一つの問題が起こりました。担任の先生から、もしかするとあなたは卒業できないかもしれないと言われた時、ここまで来て卒業できなかったらどうしようという思いで目の前が真っ暗になりました。その時、クリスマスのプレゼントに家内からもらった聖書をむさぼるようにして読んだのです。すると、第二コリント5章17節にこう書いてありました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでもキリストを信じるならすべてが新しくなるという言葉を読んだとき、私はこれまでの人生をリセットして、新しい人生をスタートさせたいと強く思い、イエス様を私の罪からの救い主として信じ受け入れました。

 

本当に不思議ですね。もし教会の保育園に行っていなかったら、もし家内と出会っていなかったら、もしあの問題が起こっていなかったら、私はここにいなかったかもしれません。しかし、東方の博士たちが星に導かれてエルサレムにやって来たように、私も不思議な神の導きによってイエス様のもとにやってくることができました。

 

そんな彼らがイエスのもとに導かれたのは、聖書のみことばによってでした。5節と6節には、旧約聖書にある預言の言葉を通して彼らは救い主はベツレヘムで生まれたということを知り、幼子のイエスのもとへ行きました。私たちも不思議な出会いを通して教会に導かれ、その中で聖書のことばを通してキリストへの信仰へと導かれることがわかります。

 

あなたはいかがですか。神は今も不思議な方法によってあなたの人生をも導いておられます。いろいろな人との出会いや出来事を通して、あなたをイエスのもとへと導いておられるのです。あなたのスターは何ですか。あなたの星となってあなたを導いてくれた人は誰でしょうか。あなたも博士たちのようにその星を見て単純に喜び、その星に導かれるように、あなたの人生を神様にゆだねておられるでしょうか。

 

Ⅱ.この上もなく喜んだ博士たち(3-10)

 

次に、3節から10節までをご覧ください。3節には、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れまどった。エルサレム中の人も同様であった。」とあります。

 

こうした博士たちの行動とは裏腹に、キリストの誕生を快く思わなかった人たちもいました。それはヘロデ王であり、エルサレム中の人々です。ここには、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った」とあります。そして、7節と8節にあるように、彼は、博士たちをだましその幼子の情報を得て、その子をなき者にしようとしました。いったいなぜヘロデは恐れ惑ったのでしょうか。それは、自分の上に支配者がいることを望まなかったからです。彼はこの幼子が成長した時、自分の王としての立場や地位が奪われるのではないかと心配したのです。それは何もヘロデに限ったことではありません。それは、人の上に立つ立場にある人ならだれでも受ける誘惑でしょう。自分の立場や地位を守るという動機で、いろいろなことを言ったりやったりします。このヘロデ王はそれが特に強く、彼は五回も結婚していましたが最初の妻(ドリス)と二人の息子、二番目の妻(ミリヤム)と二人の息子をも抹殺して、自分の立場を守ろうとしました。当時、ヘロデよりも豚の方が安全だとささやかれたほどです。

 

一方ここには、「エルサレム中の人々も王と同様であった」とあります。ヘロデならばわかりますが、なぜエルサレム中の人々も王と同様に恐れたのでしょうか。それは、自分たちの現状が変わることを恐れたからです。人は自分の現状が変わることを極端に恐れます。それは新しいものへの不安でもありますが、今ある現状を手放さなければならないと思うと、恐れを抱くのです。多くの場合変わりたいのに変われないのは、変わりたいという自分の考えよりも、これまでの現状を変えたくないという気持ちによってブレーキがかけられているからです。どんな状況であろうとも、誰にとっても、現状が自分の知り得る範囲での最も安全な領域であり、現状の考え方が、今の自分に一番馴染んでいるという思いがあるのです。このように、変化を恐れる気持ちは誰の中にもあります。

 

さらに、ここにはもう一つの種類の人たちが登場しています。それは民の祭司長たちと学者たちです。4節を見てください。

「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」

彼らは、ヘロデ王から、キリストはどこで生まれるのかと問いただされたとき、「ユダヤのベツレヘムです。」と答えています。預言書にそう書かれてあったからです。この預言書というのは、今日の旧約聖書のことですが、そこにはキリストがユダヤのベツレヘムという町に生まれることが、前もって、預言されていたのです。言い換えれば、聖書の民と呼ばれていたユダヤ人には早くからキリスト誕生が預言されており、ほとんどの人がそのことを知っていたということです。それなのに、彼らはその知らせを耳にしても、ちっとも動こうとはしませんでした。なぜでしょうか。関心がなかったからです。聖書のみことばを知っていても、実際には信じていなかったのです。

 

このように、キリスト誕生の知らせを聞いても、人によって反応はさまざまでした。それは二千年前も今も変わらない事実です。しかしごく少数ですが、このキリストの誕生を感動的に体験した人たちもいました。それはこの博士たちです。9節、10節をご覧ください。

「彼らは終えの言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

 

キリスト降誕の知らせを耳にして、ヘロデやエルサレムの住民が不安を感じたのに対して、幼子のような純粋な心を持って、まっすぐにイエス様の生まれたところへと向かって行った東方の博士たちの姿は何と対照的でしょうか。彼らはこの上もなく喜びました。その喜びは、お金や物によって得られるものではない、幼子のような信仰からあふれ出る説明のできない感動的な喜びです。今日も、世界中で多くの人たちがこの喜びを体験しています。あなたもそのおひとりでしょうか。

 

Ⅲ.幼子を礼拝した博士たち(11-12)

 

最後に、幼子イエスのもとに導かれた彼らが何をしたかを見て終わりたいと思います。11節と12節をご覧ください。

「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

 

星に導かれて、そしてまた、聖書の預言の言葉に確信を得て、ついに幼子イエスのいるところまでやって来たのは、不思議なことに聖書に約束されていた神の民ではなく、異邦の民、東方の博士たちでした。彼らは母マリヤとともにおられる幼子を見ると、ひれ伏して拝みました。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのです。

 

黄金は言うまでもなくとても高価で貴重なものです。それは王にふさわしいものです。ここで博士たちが黄金をささげたというのは、キリストが王の王であることの信仰の告白でもありました。

そして乳香、乳香は香料の原料です。その色が乳白色の色であることから乳香と呼ばれていますが、その原料を焚いて香として、神にささげるのです。つまり、この乳香はキリストの神性を表していたのです。

そして、没薬ですが、没薬は、古代エジプトではミイラ作りのために欠かせない薬品で、強い殺菌力と芳香を兼ね備えたものです。没薬はキリストが十字架で、私たちの罪の身代わりとして死なれる贖い主であることを表していました。もちろん、博士たちはそんなつもりで持ってきたわけでなく、ただ高価な贈り物を贈っただけでしょうが、奇しくもそれが、この幼子が私たちの罪のために死なれる救い主であることを表していたのです。

 

彼らはこうしたささげ物をささげ、ひれふして拝みました。いったいなぜ彼らはこのようにしたのでしょうか。いったいなぜそんなに遠いところから、おそらく千数百キロはあったでしょう、今のように新幹線や飛行機があったわけでもなかったのに、そんなに遠い所から長い年月をかけてやって来たのでしょうか。相当の犠牲があったことと思いますが、なぜ彼らは、このような高価な贈り物をまでして、キリストを礼拝したのでしょうか。

 

それは彼らにそれだけの喜びがあったからです。その星が幼子のおられるところまで進んで来たとき、彼らはこの上もなく喜んだとあります。その喜びは、それだけのお金と時間を使っても惜しくないと思えるほどの喜びでした。その喜びが感謝となって内側からあふれ出て、礼拝となって表れたのです。

 

東方の博士たちと、ヘロデ大王やエルサレム中の人々、あるいはユダヤ教の宗教的指導者たちの違いはどこにあるのでしょうか。それは、救い主の誕生を心待ちにしていたか、そうでないかの違いです。自分にとって、救い主が意味のあるお方なのかそうでないかの違いと言ってもいいでしょう。
大切な人の誕生日なら、その日を喜んでお祝いするでしょう。別にどうでもいい人の誕生日なら、どうでもいいと思うはずです。敵の誕生日なら、呪いたくなるかもしれません。自分にとって大切な人が生まれたからこそ、博士たちはお祝いにやってきたのです。ここが最も重要なポイントです。  私たちにとって、イエス様はどのような方でしょうか。クリスマスがどういう日であるかは、私たちとイエス様との関係次第で決まります。あなたにとって、クリスマスはどういう日でしょうか。素敵なディナーでロマンチックな雰囲気を味わう日ですか?あるいは、特別なイベントで盛り上がる日でしょうか?それとも、どうでもいい日?むしろ疲れる、クルシミマス?こうしたこともいいですが、しかし最も大切なのは、クリスマスはイエス様に対する感謝と喜びにあふれる日であるということです。なぜなら、イエス様は私たちを罪ののろいから救ってくださったからです。勿論、東方の博士たちは、イエス様が自分たちを罪ののろいから救ってくれる救い主だとは思っていなかったでしょう。自分たちの先祖を救ってくれたユダヤ人への感謝の思いから、はるばる遠い東の国からやって来ただけかもしれません。けれども、私たちはこうした彼らの姿からクリスマスこそイエス様の誕生をお祝いし、この方をこの世に送ってくださった神に感謝して、ひれ伏して拝む時であるということを知ることができます。だからこそ、クリスマスを迎えるのに最もふさわしい迎え方は、心からの感謝をもってキリストに礼拝をささげる日であるということです。このクリスマスイエス様に対して、あふれる感謝を込めて礼拝しましょう。

 

 

 

 

ヨハネの福音書8章12節 「わたしは世の光です」

それでは、聖書からの励ましのメッセージです。今晩の聖書のみことばはヨハネの福音書8章12節です。

 

「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

毎年、クリスマスの季節になりますと、シンガポールの観光名所、オーチャード・ロードは、光と色彩のワンダーランドに変わります。このライトアップの目的は、大勢の観光客に来てもらって、沿道の店でお金を使ってもらうことにあります。楽しい雰囲気、クリスマス・キャロルの歌声、大道芸などを目当てに、毎年、世界中から多くの人がやって来ます。

 

一方、最初のクリスマスのライトアップは、ネオンの光や色彩ではなく、天使たちの「主の栄光」の輝きでした。それを見たのは、観光客ではなく、野原にいた羊飼いたちです。まばゆいばかりの光に続いて、大勢の天使たちが現れると、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と賛美したのです(ルカ2:14)。

羊飼いたちは、御使いが語ったことを確かめようとベツレヘムに行きました(同2:15)。そして、それが本当だと分かると、「この幼子について告げられたことを知らせた」のです(同2:17)。

 

何という励ましでしょう。聖書は、救い主誕生の知らせはまっさきに羊飼いたちのところへもたらされたと告げています。羊飼いというと、今でこそのどかな雰囲気を感じさせますが、当時は、昼も夜も羊の番をしなければならない過酷な仕事でした。彼らのほとんどは雇われで、自分の主人の羊を代りに面倒みていたのです。給料は少ないし、羊を置いて礼拝にも行けず、裁判で証言することも許されていませんでした。いったい自分は何のために生きているのかがわからず空しく生きていたのです。しかし、そんな羊飼いたちのところに、最初のクリスマスの光が照ったのです。

 

これは私たちにとっても希望ではないでしょうか。私たちの人生にも、やみがあります。それはコンプレックスというやみであり、孤独や悲しみというやみであり、また、恐れや不安というやみ、怒りや憎しみというやみです。しかし、そのやみがどんなに深くても、神は私たちの心を照らすことができるのです。神はご自分のひとり子イエスを、あなたに与えてくださいました。そして、イエスはこう言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」神が私たちに与えてくださった愛の賜物(イエス)は、どんな暗やみにも光をもたらすのです。

 

「そうはいうけれども、ちっとも明るくないじゃないか」と思われる方もいるかもしれません。確かに世の中を見るとあまりいいことがありません。戦争は絶えないし、愛は冷え切っています。不景気だし、明るい話題があまり多くありません。私たちの生活を見ても懐は寒いし、体のあちこちが悪い、家族の心配もあるし、あんな問題、こんな問題と、複雑な悩みをたくさんかかえています。イエス様が世の光として来てくださったというなら、もっといいことがあってもいいんじゃないですか?世の中もっとパッと明るくなるはずなのに、なぜ明るくならないのですか、そう思わずにはいられません。けれども、光はやみの中に輝いているのです。あなたの真っ暗なやみの中で輝いているのです。

 

日本にもよくいらして、神様への讃美を歌っておられるレーナ・マリアさんという歌手の方がおられます。レーナ・マリアさんは生まれつき両手がなく、片足も短いまま成長しないというたいへん重い障害をもって生まれてきました。唯一健康な片足を、まるで手のように器用に使いこなし、なんでも自分でやり遂げてしまう凄い方なんですが、その方は自分の人生についてこんな風に言っておられます。

 

「神様が、もし私の体を癒そうと思われるならば、私は癒されると信じています。しかし、私はそれを望んだことがありません。最初は、人と違って一杯の水を飲むのも本当に苦労しましたが、そういう努力をすることによって随分忍耐強い性格になりましたし、水泳の選手としてパラリンピックに出ることもできました。また日本に来て歌うこともできるようになりました。他にもいろいろと楽しい経験があるのです。『主は私の羊飼い、私には乏しいことはない』という御言葉を本当にその通りだなと思っています。私はこの体を不幸だと思ったことがないのです。いい人生だと思っています」

 

レーナさんをこのように言わしめるものとはいたい何でしょうか。レーナさんは重い身体障害を持っておられますが、自分の人生に与えられている神様の愛を知っているのです。だから、「いい人生だ」と言える。つまり、レーナさんがこのように言えるのは、神の愛の賜物であるイエスの光を持っておられるからなのです。

 

楽な人生がいい人生と限りません。辛くてもいい人生があるのです。それは生きている意味を感じられる人生ではないでしょうか。三浦綾子さんの『光あるうちに』という本の中に、読者からの同じような悩みを書いた二つの手紙が紹介されています。  「わたしは三十歳の主婦です。近頃、私は生きるとは何か、と疑問を持つようになりました。朝起きて食事の用意をし、主人を送り出し、子供を幼稚園に送っていきます。そのあとは、掃除、洗濯、買い物、そして夕食の準備。ある時、わたしは思いました。十年後も、二十年後も、わたしは同じ毎日を繰り返しているのではないか、と。繰り返すだけで老いていく人生。そう思っただけで、わたしは生きていることが、これで良いのかと考えずにはいられませんでした」  「ぼくは高校三年生です。受験勉強に追われています。たぶん来年の今頃は、二流か三流の大学にのそのそ通っていることでしょう。そして四年過ぎると、また二、三流の会社に通っているにちがいありません。一生平社員か、うまくいっても課長止まりで、定年になるわけです。ぼくと結婚する女性は、どうせ、人がアッと驚くような美人でもなし、才女でもなし、平凡な家庭、退屈な家庭を作るでしょう。そして、ぼくに似た凡々たる子が二人か三人生まれて、ぼくと同じコースをたどるに違いありません。ぼくが定年を迎えると、もう、僕を邪魔者扱いにする子どもたちだと思います。こう考えてくると、生きていることが何なのか、わからなくなるのです」

 

高校三年生でよく考えるなぁと思います。二人とも、自分の人生が大切に思えなくなってしまったというのです。その理由として、人生の平凡さをあげています。でも、三浦綾子さんは、ご自身の体験をもって、こんな風に答えておられます。

 

結核を患い、脊髄カリエスを患い、13年間療養しました。ギブスベットに寝たまま、食事を作ってもらい、便をとってもらい、洗濯をしてもらい、医療費はかかる、心配はかける、治る見込みはない。自分は廃品同様の人間だ、死んだ方がましだと、つくづく考えました。ところが、クリスチャンになって人のために祈るようになり、また一人一人の友に思いを馳せてベットで仰向けになったままたどたどしくハガキを書いて送るようになりました。祈ることや、ハガキを書くことなど何でもないことのように思われますが、今まで自分の事ばかり考えて、自分が情けない、死にたいとばかり思っていた自分が、少しでも人のことを考えるようになったとき、自分が別人のようになった気がします。

 

実際、それ以来、たくさんの人が三浦さんを慕って病室に来るようになりました。つまり、平凡な毎日だから生きている意味がないのではなくて、自分のことしか考えていないから自分の人生が大切に思えないのだということに気が付いたのです。

 

来る日も来る日も、食事の支度と洗濯、掃除の繰り返しであってもいいのです。問題はいかなる気持ちでそれを繰り返すかということであって、家族が楽しく食事ができ、清潔な服を着ることができ、整頓された部屋に憩い、しみじみと幸せだと思える家庭を作る。それがどんなに大切な仕事であるかと考えたら、自分のしていることが空しいとは思わないで、喜びをもって生きることができるはずだというのです。

 

こうして考えてみますと、イエス様の光に照らされるということは、明るくて楽しいことがたくさんあるという事とは限りません。どんなに自分が惨めに思えても、実は私は神様に愛されている者のだということを知ること、それが心にともし火を持つということなのです。どんなに小さな事しかできなくても、どんなに辛いことであっても、それが神様の与えてくださった私の仕事なのだということを知ること、それが命に輝きを持つと言うことなのであり、「光はやみの中に輝いている」ということの意味なのです。

 

三浦綾子さんは、結核の療養所で回心しイエス様を信じました。そして、ともに文学活動をしていた三浦光世さんと結婚し、同じ道を歩もうとしましたが、生活が苦しくなり、仕方なく二人で雑貨店を開きました。お客さんが多くなってきたとき、向かい側に同じように雑貨店が新しくできました。ところが、三浦さんのお店だけうまくいくので、ある日、光世さんが綾子さんにこう言いました。「あの家は学校に通う子どもたちもいて、いろいろとお金もかかるだろうに、商売がうまくいっていないようだから、私たちが少し助けてあげよう。」一体どういう意味かと綾子さんが尋ねると、光世さんは、「私たちの店の物を少し減らして、お客さんがその物がほしいと言ったら、あの店に行って買うように勧めてはどうだろう」と答えたそうです。

光世さんの言うとおりにすると、向かいの店も商売がうまくいくようになり、綾子さんたちは時間の余裕もできたので、そのおかげで彼女は、書き物を始めることができたのですが、ちょうど朝日新聞社が実施した「一千万円懸賞小説」の全国公募があったのでそれら応募すると、三浦綾子さんは入選を果たしたのです。その小説こそ「氷点」です。

 

イエス様は、この世の光として来てくださいました。暗やみが深ければ深いほど、その光は輝きをまします。そういえば、クリスマスが最も闇の長いこの冬至に定められたのは、イエス様こそ私たちの心の暗やみを照らしてくださる方であることを物語っているからです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」あなたの心がどんな暗やみであっても、世の光として来られたイエス・キリストを心にお迎えするなら、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。光はやみの中に輝いている。すべての人に与えられた神さまからの愛の贈り物を、あなたも受け取ってください。それはイエス・キリストによって与えられている恵みなのです。

ルカの福音書1章26~38節 「どうしてそのようなことが・・」

先週は、イエス・キリストの誕生の前にザカリヤとエリサベツという老夫婦に、イスラエルの民の心を整えるヨハネという人が生まれたことをお話ししまた。高齢といってももう腰が曲がるほどの老夫婦に子供が生まれるなんて考えられないことですが、神は彼らの祈りを聞かれ、その御業を成し遂げてくださいました。

 

しかし、きょうの箇所にはもっと驚くべき内容が記されてあります。それは、処女がみごもるということです。それはいと高き方、神の子であって、その神の子が処女マリヤから生まれるというのです。処女降誕が信じられない人は、もうここから先が読めなくなってしまいます。そういう人がいて当たり前です。そんなことがあるはずがないからです。しかし、聖書はそれでも隠すことなく、信じられない人がいることも十分承知の上で、あえて処女マリヤが神の子キリストをみごもったとハッキリ告げるのです。そして、別に狂信的でもなく、極めて常識的な人間でありながら、これをこのまま信じている人も少なくありません。私たちもその一人です。きょうも使徒信条を告白して、「主は、聖霊によりて宿り・・」と大胆に告白しました。考えてみると、人には説明できず、絶対にありえないような大変なことを、私たちは信じているわけです。いったいイエスはどのように処女マリヤから生まれてきたのでしょうか。

 

Ⅰ.どうしてそのようなことが・・(26-37)

 

まず、まず26節から35節までをご覧ください。その六か月目にとは、ザカリヤとエリサベツがみごもって六か月目にということです。御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来ました。その名はマリヤといい、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけでした。いいなずけとは、結婚の約束をした人という意味です。当時のユダヤの社会では結婚しているとみなされていましたが、まだ一緒に住んでいない状態のことを指していました。ですから、創造主訳聖書では、「すでに結婚していたが、また婚姻の時まで間があって、同棲はしていなかった。」と訳しているのです。そのマリヤのところに御使いガブリエルがやって来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と告げました。おめでとうって、何がおめでとうなのかと彼女がひどくとまどっていると、御使いは続けてこう言いました。

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

マリヤは驚いてこう言いました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

 

ところで、これに似た質問を、先週見たザカリヤもしました。1章18節です。

「そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私はもう年寄りですし、妻も年をとっています。」

これはザカリヤがヨハネの誕生を告げられたとき、自分たち夫婦がもう年寄りなので子供を産むことは不可能だと言いたかったのです。ですから、子供が生まれるとしたら、何らかのしるしでも見せて下さるのですか、と尋ねたのです。ある人はこのザカリヤの質問は「疑い」の質問だったと説明しています。

 

しかし、マリヤの質問は違います。マリヤの質問は、「疑い」ではなく「驚き」の質問でした。そしてまだ男の人を知らないのに、どのようにしてそんなことが起こるのかと尋ねたのです。ですから、口語訳では、「どうして、そんなことがあり得ましょう」と訳しているのです。考えられません。考えられないことがどのようにして起こるのか、というニュアンスなのです。

 

確かにマリヤは敬虔なユダヤの女性です。それでも、御使いに、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と言われたとき、手放しで喜べるような気持ちにはなれなかったでしょう。むしろ恐れを感じたのではないでしょうか。というのは、彼女はヨセフと結婚することが決まっていましたが、まだ正式に結婚したわけではなかったので、性的関係を持ったことがなかったからです。そのような者がどうして男の子を産むことなどできるでしょう。また、その生まれてくる男の子は聖なる方、いと高き神の子と言うではありませんか。こんな卑しい自分がどうやって、いと高き神の御子の母になるというのでしょう。考えられません。また、たとえそうなったとしても、いったいそれをどのようにヨセフに説明できるというのでしょう。彼女は一瞬にしていろいろなことを考えたことと思います。

 

これに対して、神の答えはこうでした。35節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「御使いは答えて言った。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

 

その答えは、「聖霊があなたの上に臨み」でした。それは通常の方法によってではなく、聖霊によって、聖霊なる神の御業によるというのです。聖霊がマリヤの上に臨み、いと高き方が彼女をおおうことによってなされるのです。処女が身ごもるなど聞いたこともないし、全く考えられないことですが、神にとって不可能なことは一つもありません。神は、私たちには考えられないこともおできになるのです。処女が身ごもることもそうです。何もないところからおことば一つですべてのものを創造された主は、処女の胎にいのちを宿すこともおできになるのです。であれば、永遠で無限の神が時間と空間に制限されている人間になることなんて考えられないことですが、神にとってはできないことではないのです。大切なことは、それをどのように説明するかということではなく、神がそのような方法をとってくださったという事実をそのまま受け入れて信じることです。それが信仰なのです。そのために神が取られた方法が処女降誕だったのです。

 

そんなのおかしいと思う方もいるでしょう。でもこのようなことを私たちも経験しているのではないでしょうか。たとえば、今度の日曜日にさくらチャペルでKさんがバプテスマを受けられますが、人が新しく生まれることはその一つです。新しく生まれるとは心を入れ替えることとは違い、神のいのちである聖霊を受け入れ、神の子どもとして新しく生まれることです。それはどんなにその人が頑張って努力してもできることではありません。それはただ神の聖霊によらなければできないのです。イエスが、、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)と言われたとおりです。それは御霊なる神の働きでしかないのです。それは、神を信じた人が主と同じ姿に変えられていくことも同じです。それは御霊なる主の働きによるのです。そのような神の働きを、私たちも経験しているのです。

であれば、神が、処女マリヤの胎に神の子を宿すことも考えられないことではないのです。ただそれが神の取られた方法であったということであって、私たちはその事実を受け入れなければならないのです。

 

Ⅱ.あなたのおことばどおりに(38)

 

それに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。38節をご覧ください。「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 

こうした神の救いのご計画が実現した背景には、聖なる神の働きがあっただけでなく、人間の側の信仰による応答がありました。この主の使いのことばに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

彼女は主のことばに対して、まず、自分が主のはしためにすぎないと認め、どうぞ、あなたのおことばどおりになるようにと、すべてを主にゆだねました。「はしため」とは奴隷のことです。奴隷とは、主人の意志に従う者のことです。それは簡単なことのようでなかなかできることではありません。自分を捨てることができないからこそ、私たちはいつも心の中で葛藤するのではないでしょうか。しかし、彼女は自分が主のはしためにすぎないと言って、しもべに徹しました。ただ主のみこころが成し遂げられることを求め、主にすべてをゆだねたのです。

 

皆さん、どうですか、このマリヤの姿をご覧になってみて・・。このように言うことは彼女にとって大変だったはずです。なぜなら、もし彼女が妊娠したとしたら、ヨセフとの関係はだめになってしまうでしょう。彼女がいくら、「いや、これはね、聖霊が臨んでなされたことなのよ」と言っても、ヨセフには通じなかったでしょう。事実、マタイの福音書を見ると、ヨセフがそのことを知ったとき、彼は彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあります。彼は受け入れられなかったのです。しかし、その後で主の使いが夢に現れて、それが聖霊によることであるとわかり、彼女を妻として迎えることができたのです。

 

それはヨセフだけの問題ではありません。律法ではこのような姦淫を行う者を石打にするようにと定められていました。そのことをたとえ近所の人たちに説明しても、とうてい理解してもらえなかったはずです。よって彼女が妊娠したということがわかれば、彼女は人々の面前で死刑にされてもおかしくなかったのです。ですから、マリヤがこのように主のことばを受け入れたというのは、命がけのことだったことがわかります。にもかかわらずマリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言って、主にすべてをゆだねました。どうして彼女はそのように従うことができたのでしょうか。

 

それはみことばへの信仰があったからです。このことから教えられることは、本当の献身とは自分の思いから出たことではなく、神の御言葉への応答としてそれに従うことであるということです。つまり、マリヤは、神の恵みに対してジャストミートしたのです。神から投げかけられた恵みに対して、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」とジャストミートしました。聖書にはそう書いてあるけども現実的には難しいとか、私はそう思わないとか、私には私の考えがあるのといって、自分の思いを通そうとするのではなく、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」とジャストミートしました。時々私たちは神のみことばよりも自分の思いが強すぎてボールの下をたたいてみたり、上をこすったりすることがあります。ひどい時には空振りすることもあります。しかし、大切なのはジャストミートすることです。神が言われることをそのとおりに受け入れること、それがジャストミートです。そのような人はマリヤのように主の恵みをいただくようになるのです。

 

Ⅲ.主によって語られたことを信じきった人(39-55)

 

最後に、そのように主のことばを信じきった人がどんなに幸いなのかを見て終わりたいと思います。45節をご覧ください。ここに、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」とあります。

 

マリヤは、御使いが彼女から去って行くと、山地にあるユダの町へと急いで行きました。そして、ザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつをすると、エリサベツは聖霊に満たされて大声で言いました。

「あなたは御名の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。・・・主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 

ところで、この時いったいなぜマリヤがエリサベツの所へ行ったのかはわかりません。36節には、「あなたの親類エリサベツ」とあるので、彼女が親類であったことは確かですが、それ以上の理由はわかりません。おそらく、御使いの超自然的な受胎告知を聞いたとき、その中に、「親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。」という言葉を聞いて、エリサベツなら自分の身に起こったことを唯一理解してくれると思ったのでしょう。そして、彼女がエリサベツの家へ行くと、さすがエリサベツはマリヤの身に起こったことを理解できただけでなく、彼女が、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人の幸いを告げたのです。やはり高齢でありながら主が願いを聞き、こどもを授けてくださった主の奇跡を経験していたので、マリヤの言うことをも受け入れることができたのでしょう。マリヤにとってもどれほど慰められたかわかりません。

 

そして、それを聞いたマリヤの口から、主への賛美が溢れました。46節から55節までをご覧ください。

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

「喜びたたえる」とは、大喜びするという意味です。皆さんは大喜びしていますか。神は、自分の心を明け渡し、主のみことばに生きる人に、大きな喜びを与えてくださいます。クリスマス、それはすばらしい喜びの知らせですが、そのすばらしい喜びの知らせは、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人にもたらされるものなのです。

 

マリヤはそのことをこの賛美の中で次のように言っています。54節と55節をご覧ください。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に、語られたとおりです。」

 

この言葉はとても意義深いものです。聖書の神は、約束の神です。アブラハムへの約束を忘れないで、アブラハムに語られた約束を果たしてくださいました。神はどれほど多くの約束を私たちに与えておられるでしょうか。その約束は、創世記の始めからたくさん記されてありますが、特にアブラハムからのものが重要です。なぜなら、神はアブラハムを選び、ご自分の民とし、彼の子孫から救い主を送ると約束されたからです。創世記12章1,2節には、次のようにあります。

「あなたは、あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

神はアブラハムから出るものを祝福すると約束されましたが、その約束は、たとえ神の民イスラエルが神から離れ、神のさばきによってバビロンに捕囚になるという状況でも変わりませんでした。エレミヤ書35章5~6節にはこうあります。

「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、「主は私たちの正義」と呼ばれよう。」

これはイスラエルがバビロンの捕囚の民として連行された時に告げられました。そしてそのことばのとおり、そのダビデの子孫を通して、救い主を送ってくださったのです。それがイエス・キリストです。

 

何ということでしょう。このような神が他にいるでしょうか。いません。このように語られたことを成し遂げられる真実な神は他にはいません。私たちは不真実でも、神はいつも真実なのです。神は約束されたことを最後まで果たしてくださる。

 

ですから、私たちはこの約束の神を信じなければなりません。神があの堕落したイスラエルでさえ、なお捨てず、回復なさろうとされるのは、神が約束の神だからなのです。

 

しばしば、私たちは自分の思うようにならないといらいらしてみたり、人間関係がちょっとでもこじれたりすると、神から捨てられたのではないかと思ったり、罪を犯した場合や何か失敗したりすると、自分は呪われているのではないかとさえ思いがちですが、神は私たちを最後までお捨てにはならず、その約束を必ず実現してくださるのです。ですから、私たちは、この約束の神を信じなければなりません。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)

このみことばにしっかりと信仰の基礎を置き、主によって語られた約束は必ず実現すると信じきろうではありません。

 

今から二千年前、神の御子イエス・キリストはマリヤのお腹に宿りました。それは人間の理解をはるかに超えた神の御業であり、尊い神の約束によるものでした。その神の御業は、今も私たちのうちに行われます。私たちもマリヤのように神のことばを信仰によって受け入れ、神によって語られたことは必ず実現すると信じきるなら、あなたにも神の恵みが豊かに臨むのです。

ルカの福音書1章5~23節 「あなたの願いは聞かれた」

きょうはアドベント第三週です。もうすぐキリストの降誕を迎えますが、聖書はイエスの誕生の前にもうひとりの人の誕生のことを詳しく記しています。それはバプテスマのヨハネという人の誕生です。ヨハネとは「主は恵み深い」という意味です。きょうはこのヨハネの誕生の経緯を通して、主がいかに恵み深い方なのかをご一緒に見ていきましょう。

 

Ⅰ.神が働かれるとき(5-7)

 

まず、5節から7節までをご覧ください。ルカは、イエスの誕生に先駆けてヨハネの誕生から物語を書き始めています。時代は、ユダヤの王ヘロデの時です。このヘロデとはヘロデ大王のことで、紀元前37年から紀元後4年までユダヤ全体を支配していた王でしたが、この王はとんでもない王で、ユダヤに別の王が生まれたと聞くと、それが霊的な王であることも知らずに、非常に恐れその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させたほどです。このようにヘロデの時代はイスラエルの歴史において最も悲劇的な時代でした。そのような時代にイエスが生まれたのです。そしてその六か月ほど前に、その先駆者であるヨハネが生まれました。その経緯はこうです。

 

ザカリヤは神に仕える祭司で、「アビヤの組」に所属していました。アビヤの組というのは、その昔ダビデが祭司を組織するためにそれを二十四組に編成したその組の一つで(Ⅰ歴代誌24:10)、祭司たちは、このような組織によってその務めを行っていたのです。

 

一方、妻のエリサベツもアロンの子孫でした。アロンの子孫ということは祭司の子孫ですから、彼らは同じアロンの子孫同志で結婚したことになります。そうすることによって、祭司職の尊厳さを保ち、その純潔さを汚さないようにと考えたのでしょう。

 

ルカは、この二人がどのような者であったのかその人となりを6節で次のように言っています。「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。」主のすべての戒めと定めとは神の御言葉のことです。彼らは御言葉をよく学び、御言葉に従って生きていたのです。

 

しかし、そんな二人ではありましたが、彼らにも問題がなかったわけではありません。エリサベツは不妊の女で、ふたりとも年をとっていましたが、子どもがありませんでした。「年をとっていた」の直訳は、「腰が曲がっていた」になります。もう腰は曲がり、髪の毛は白髪になっている状態でした。今でこそ、子どもがいなくてもあまり問題ではありませんが、当時のユダヤ人の社会では大変なことでした。ユダヤでは子どもに恵まれないのはその両親に何か責められるところがあるからだと考えられていたからです。ふたりは神の前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落ち度無く踏み行っていたのに、普通の人たちに与えられるはずの子どもが与えられていなかったということで、どんなに辛い思いをしていたことかと思います。人に対して、どこか恥ずかしい思いがあったかもしれません。それで子どもが与えられるようにと熱心に神に祈ってきたのでした。

 

他の人以上に、熱心に神を信じ、神に仕えていながら普通の人には与えられている普通の恵みが与えられないことで、辛い思いをしている人は少なくありません。そこにも神のご計画があるとしたら、いったいそれはどんな計画なのでしょうか。しかし、そんなふたりを通して、人類の歴史を二分するイエス・キリストの道を備える神の器、バプテスマのヨハネが誕生したということを思うとき、確かにそこにも深い神のご計画があったことを知ることができます。神様はそのような状況のすべてを支配し、ご自身の栄光のために用いておられたのです。

ヨハネの福音書1章5節には、「光はやみの中に輝いている」とあります。まさに光はやみの中に輝いているのです。やみが暗くなればなれほど光は輝きを増します。私たちの周りがどうであろうと、また、私たち自身にどんなやみがあろうとも、光はそのやみの中で輝いているのです。どうかこのことを忘れないでください。どんなに神に祈っても答えられないような沈黙の時にも、光は輝いているのです。

 

ノートルダム清心女学院の渡辺和子さんは、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれましたが、それがどのような場所であっても、置かれた場所で咲くことが大切だと言っています。結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきますが、そんな時でも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいというのです。雨風が強い時、日照り続きでどうしても咲けない時には無理に咲こうとしなくてもいいのです。そういう時には、下へ下へと根を降ろし、次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるように備えればいいのです。神のなさることには全く無駄なことはなく、一つ一つのことが覚えられているのです。

 

まさにザカリヤとエリサベツ夫妻は、置かれた所で咲きました。「こんなはずじゃなかった」と思えるような現実の中でも、神を信じ、神の道に歩んだのです。

 

Ⅱ.祈りは聞かれた(8-17)

 

イエスの誕生より六か月先に生まれたヨハネは、イエスの道を備えるという使命をもって生まれてきました。その誕生の経緯はこうです。8節から17節までをご覧ください。

 

ザカリヤは祭司だったので、自分の組が当番に当たると、神殿に入ってその務めをしました。当時は、2万人くらいの祭司がいたので、組ごとに、順番に、神殿で奉仕をすることになっていましたが、それは年に2週間の周期で回ってきました。そして、神殿の奉仕においてだれが、何をするかはくじで決められていました。ザカリヤがくじを引いたところ、彼は神殿に入って香をたくことになりました。これは、とても名誉ある奉仕です。というのは、それは、民に代わって、神に祈りをささげることを象徴していたからです。ですから、ザカリヤが香をたく間、大ぜいの民もみな、外で祈っていました。実に、神の民は祈りの民です。神にささげられる最も大いなる奉仕は、神への祈りなのです。その祈りの中で、神はご自身を表してくださるからです。

 

ザカリヤの場合はどうだったでしょうか。11節をご覧ください。彼が神殿で祈っていたとき、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立ちました。この主の使いとは19節を見ると、「ガブリエル」という名の御使いであったことがわかります。「ガブリエル」とは「メッセンジャーボーイ」という意味で、神からのメッセージを伝える働きをする御使いのことです。この御使いが現われると、ザカリヤにこう言いました。

 

「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます・・」(13節)

 

この時、いったい彼は何を恐れていたのでしょうか。どんなことで不安を覚えていたのでしょうか。恐らく自分の身に何が起こっているのかを理解することができず不安を覚えていたのでしょう。ザカリヤは神の御前に正しく、また非難されることのない者でしたが、それでも自分に何か落ち度があると思ったのかもしれません。そんなザカリヤに対して御使いはこのように言いました。

「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。」

 

皆さんの中で不安を覚えていらっしゃる方はいらっしゃいますか。恐怖に襲われている方はおられるでしょうか。そういう方はどうぞ安心ください。主があなたの願いを聞かれたのです。ザカリヤの願いとはどのようなものだったでしょうか。それは子どもが与えられることです。彼らは若い時から「子どもを下さい」、「子どもが欲しいです」と祈っていたにもかかわらず、与えられませんでした。1年経っても、2年経っても、何年経ってもエリサベツのお腹に子どもが身ごもることはありませんでした。でも彼らはあきらめずにずっと祈り続けていたのです。祈りは信仰の現われです。彼らは不信仰な世の中に生きていても、祈り続ける祈りの人でした。彼は一生涯一つの祈りの課題のためにずっと祈り続けていたのです。人間は本質的によく忘れるものです。もし、何も忘れないとしたら、過去の不幸な記憶やいやな記憶がいつもよみがえってストレスがたまって死んでしまうでしょう。だから忘れることもいいのです。なかなか名前を思い出せないという方も、心配しないでください。しかし、ザカリヤは一生涯忘れませんでした。彼は自分に子どもを与えてくださいとずっと祈り続けてきたのです。そして、神はその祈りを聞いてくださいました。「枯れた木に花が咲く」ということわざがありますが、この老夫婦が子どもを求めて祈った祈りが聞かれたのです。そして、その子は産まれる前から男の子であるとわかっており、名前もヨハネと決められていました。ヨハネとは、主は恵み深いです。まさに主は恵み深い方なのです。

 

こんなことが本当にあるのか、これは単なる昔話ではないか、と思われても仕方がないような話です。しかし、人には不可能に見えることであっても、神にはどんなことでもできます。神は全能者であられるからです。聖書の神こそ、いのちの源なる方であると信じている人にとっては、この話はそのまま受け取れるわけです。人には無理だ、不可能だと思えことが、現実となっている話は聖書に数多く記されてあります。そして、聖書以外にも、生きた信仰の証として多くのクリスチャンが体験していることでもあるのです。

 

19世紀にイギリスに生きたジョージ・ミュラーは、まだ救われていない人のために何年も祈り続けたと言われています。

1866年のことですが、彼がずっと祈ってきた人の中で6人の人が救われたそうです。そしてその中の一人の方のためには20年以上も祈り続けていました。その祈ってきた6人の人たちが、1866年の最初の六週間のうちに次から次にイエス様を信じて救われたのです。  また他にも、彼はまだ救われていない人のために祈っていました。健康な時でも、病の床に伏している時でも、旅をしている時でも祈り続けました。どんなに説教の依頼が山積みになっている時でも、この祈りを忘れたことは一日もなかったそうです。  すると、この5人のうち、一年半後に最初の人が救われ、次の人が救われたのは何と5年後のことだったそうです。そしてそのことを神に感謝し、さらに残る3人のために祈り続けると、さらに6年後に3人目の人が救われました。彼はそのことを心から神に感謝して賛美しながら、さらに残る2人が救われるために祈り続けましたが、この二人はなかなか霊的に頑固でイエス様を信じる気配がありませんでした。ミューラーが祈り始めてから36年が経っても、二人はまだ救われていませんでした。しかしミュラーは、「祈りの力」という本の中にこう書いているのです。「しかしそれでもなお私は神に望みを置いて祈り続けているのです。」  そして、その本を書いた後、残る2人の内の1人は、ミュラーの死の直前に救われ、最後の1人が救われたのは、何とミュラーの死後のことだったそうです。しかし、このようにして彼が祈った祈りはすべて答えられたのです。だからおそれることはありません。神はあなたの祈りを聞いてくださるからです。

 

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」

(Ⅰヨハネ5:14)

 

神様はあなたの願いも忘れることはありません。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は必ずその願いを聞いてくださるということ、それこそ、私たちの神に対する確信なのです。

 

ところで、このヨハネは何のために生まれてくるのかが14節から18節までに記されてあります。

「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるのです。男の子だけでなく、神に用いられるすぐれた器となります。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの子らを、彼の神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

 

自分は何のためにこんな辛い思いをしなければならないのか。自分は何ために生まれてきたのか。そんなことを思ったことはありませんか。何のために、何のためにと、なぜ人はそのように問うのでしょうか。そういう疑問が沸いてくるのは、そこに何らかの理由があるからです。何らかの理由があるからこそ、そういう漠然とした思いが時折起こってくるのだと思います。

そして、ここで考えてみたいことは、このバプテスマのヨハネは何のために生まれてきたのかということです。彼はまだエリサベツのお腹にも宿っていない段階で、その性別のこと、名前のこと、その子はどういう使命をもって生まれてくるのかについて、かなり詳しく知らされていました。

皆さんはどうでしょう。皆さんが生まれることについて、どこまで自分の選択や意志決定があったでしょうか。自分はあの親から生まれよう、この親の方がいいと、いろいろ考えて親を選んで生まれてきた人はいません。どの国で生まれようか、あの国にしようか、この国にしようかと、国籍を自分で選ぶこともできませんでした。男に生まれよう、女に生まれようと、自分で決めた人もいないのです。

自分に関する極めて重要なそれらのことについて、すべては偶然であり、たまたまのことだったのでしょうか。とすれば、この人生にいったいどんな意味があるというのでしょう。この人生に意味や目的があると思っている人たちと、そうではなく、これは偶然のことであって、何の意味もないと思っている人たちとでは、その生き方に大きな違いが出てきます。

ヨハネの誕生から教えられることは、神は、生まれる前からヨハネのことを知っておられただけでなく、何のために生まれてくるのか、その人生の使命や目的についても知っておられたということです。これはすごいことだと思います。あなたや私の場合はどうでしょうか。そこにも神の使命や目的があるはずです。それを知っているなら、あなたの人生もただ何となくではなく、その使命や目的に向かって大きく前進していくのではないでしょうか。

 

ヨハネはイエスの半年ほど前に生まれましたが、彼にはイエスのために道を備えるという使命が与えられていました。そして、その使命を全うして、彼は死んでいきました。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と、彼はその使命を全うして死んでいったのです。彼にとって大切なのは自分ではなく、あの方でした。彼が指し示したお方、イエス・キリストだったのです。ですから、彼は衰えても、彼は殺されても、全く問題ではありませんでした。なぜなら、彼の人生の目的はイエス・キリストだったからです。何と幸いな生き方でしょうか。私たちは時として、自分自身に執着するあまり、自分の思うように物事が進まないと、イライラして人を呪ってみたり、悲観的になったりしがちですが、彼は自分の人生の使命をちゃんと知っていたので、その使命に生きることができたのです。

 

あなたも私も、自分の命やこの人生を自分の力と努力によって手に入れたわけではありません。もし、あなたの人生が誰かから与えられたものであるなら、与えてくださった方の側に何かの目的や計画があるのです。その目的や計画は、ひとりひとり違いますが、それがどのような目的であるにせよ、大切なのはキリストであることを覚え、ヨハネのような人生を全うさせていただきたいと思うのです。

Ⅲ.その時が来れば実現する(18-23)

 

最後に、18節から23節までをご覧ください。主の宮で祈っていたザカリヤに主の使いが現われると、驚くようなメッセージを告げました。するとザカリヤは何と言ったでしょうか。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

 

どういうことでしょうか。ザカリヤは祈りの人でした。彼は神様が歴史の中で主権的に働いておられることを信じていました。しかし、彼は祈りが聞かれた時、あまりにもうれしかったのか、あるいは、よく考えてみたらそんなことが起こるはずがないと人間的になってしまったのか、信じられませんでした。子どもが生まれるのには、自分たち夫婦はもう年を取りすぎていると言っているのです。何ですか、今まで必至にそのために祈ってきたのに、いざ祈りがかなえられると、「うっそお」なんて言うのです。

 

たとえば、初代教会でもそういうことがありました。牢に捕らえられていたペテロのために教会は熱心に祈っていたのに、主の奇跡によって彼がそこから解放され、自分のために祈っていた仲間たちの所に行って戸をたたくと、ロダという女中が出て来て、「あなたはだれですか」と言うので、「ペテロです。」と答えると、「うそっ」なんて言って、戸を開けるのも忘れて、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることを仲間に知らせたのです。そのために祈っていたはずなのに。

 

主が言われることは、普通の常識からすれば、まったく非常識なことでした。主に仕えるザカリヤにとって、神のみことばを信じて受け取ることは、自分の長年身につけてきた知識や人生経験のすべてが否定されると思えるほどのことだったのです。

 

皆さん、信仰とはどういうことでしょうか。神を信じるといっても、そう簡単ではありません。けれども、学歴や家柄、年齢やお金の有る無しに関わらず、子供でも大人でも単純に神の言われることを信じるという、この信仰を持つことはできるのです。

 

ザカリヤは信じなかったので、これらのことが起こるまで、すなわち、ヨハネが生まれるまで、ものが言えず、話せなくなりました。それは、神のことばを信じなかったザカリヤに対する神のさばきでもあります。年老いた夫婦から子どもが生まれることについて私たちは信じられません。しかし、そのことについて神が約束しておられることばは信じなければなりません。それは私たちが主なる神を信じているからです。

 

信仰について学ぶ人には、この違いは重要です。聖書の信仰とは何でも疑わずに信じるということではありません。聖書を通して語られている神のみことばを信じることが求められているのです。神が語られたことばは、時が来れば、必ず実現するのです。

 

その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもっていました。この五ヶ月間の隠遁生活を通して神様は全能の方であるという結論に至り、こう言いました。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」  高齢出産と言っても、エリサベツほどの年で子どもを産んだ人がいるでしょうか。彼女は身ごもって五か月間、身を隠すかのようにしていました。これは本当に人の力ではないことは、ザカリヤとエリサベツ夫婦が一番わかっていたことでしょう。それだけにエリサベツは、主が自分のことを心にかけてくださった、長い年月の恥を取り去ってくださったと言ったのです。ほぼあきらめていた彼女にとって、それはどんなに大きな喜びとなり、慰めとなったことでしょう。

 

主なる神は、あなたのことも覚えておられます。ザカリヤという名前は、「主は覚えておられる」という意味です。何歳になっても、主は彼との約束を覚えておられたように、あなたのことも覚え、気にかけてくださっておられるのです。問題は、それが早いか、遅いかということであって、主のことばは、その時が来れば必ず実現します。やがてザカリヤは御使いが言われたとおり、その名は「ヨハネ」だと板に書き記した瞬間、元のようにしゃべることができましたが、そのとき彼は、「ああ、主はわたしのような者にも目を留めてくださった」と心から感謝することができたことでしょう。あなたにもそのように言える時が必ず訪れるのです。