Ⅱペテロ3章14~18節 「キリストの恵みと知識において成長しなさい」

これまでペテロの手紙から学んできましたが、きょうはその最後の勧めとなります。ペテロはこの手紙の最初のところで、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安がますます豊かにされると言いました。また、主イエスの、神としての御力は、いのちと平安に関するすべてのことを私たちに与えてくれると言いましたが、終わりのところでもそのことを繰り返して語り、この手紙を閉じます。それは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい、ということです。

 

Ⅰ.しみも傷もない者として御前に出られるように(14-16)

 

まず14節から16節までをご覧ください。14節をお読みします。

「ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。」

 

「ですから」とは、この前のところで勧められてきたことを受けてのことです。ペテロはこの前のところでどんなことを勧めてきたのでしょうか。彼は、主の日、すなわち終わりの日にどんなことが起こるのかを述べました。10節では、主の日は、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます、とあります。しかし13節、神はそれに代わる新しい天と新しい地を用意しておられます。それは正義の住む新しい天と地です。そこは神ご身がともに住んでおられるところで、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。以前のものが、もはや過ぎ去ったからです。イエス・キリストの血によって罪赦され、義と認められた人はみな、この新しい天と新しい地に住むようになるのです。私たちは、神の約束に従って、この正義の住む新しい天と新しい地に住むようになるのです。私たちは今これを待ち望んでいます。「ですから」です。つまり、ここでペテロは、どのような態度で主の来臨を待ち望むべきなのかを教えているのです。

 

そのふさわしい態度としての第一のことは、「しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい」ということです。

「しみ」とは、汚れがないこと、聖いということです。また、「傷」とは、非難されるところがないという意味です。きよい生活を追い求めることは主の再臨を待ち望むクリスチャンにとってふさわしい態度です。この言葉は2章13節でも使われていました。そこでは偽教師たちに対して、彼らはしみや傷のような者だと言われていました。彼らは貪欲であり、好色であり、高ぶっていました。大きなことを言って誇るのです。神の前に汚れたことを平気で言っていたばかりか、そのようなことをして神の民を惑わし、破滅に導いていました。しかし、イエス・キリストを信じて新しく生まれたのであれば、イエス様がいつ戻って来てもいいように備えていなければなりません。どのように備えたらいいのでしょうか。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」とあるように、私たちを召してくださった聖なる方にならって、私たちも、あらゆる行いにおいて聖なる者でなければなりません。

 

ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。ペテロは第一の手紙2章1,2節でこのように勧めました。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

そのためにはまず捨てなければならないものがありました。何ですか?すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口です。そして、純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得るためです。そうすれば、キリストのような聖い人に変えられていきます。

 

クリスチャンは、そのようにしみや傷のない者として御前に出られるように励まなければなりません。旧約聖書には神に受け入れられるいけにえについて記されてありますが、それはしみや傷のないものでした。同じように、私たちも神へのささげとしてしみや傷のないものでなければなりません。これこそ深い平安をもって御前に出られる秘訣なのです。

 

どのようにしてキリストの来臨を待ち望んだらいいのでしょうか。第二のことは、主の忍耐は救いであると考えることです。15節の前半のところに、「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」とあります。どういうことでしょうか。このことについては、すでに3章前半のところで述べました。主の再臨の約束を聞いても、ある人たちはなかなか信じられませんでした。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」(3:4)と言ってあざける者たちがいたのです。しかし、彼らは見落としていました。当時の世界が水によって、洪水に覆われて滅びたように、いつまでも同じままであるということはありません。主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです。時間的な感覚が全く違うだけです。私たちも小さい頃は一日が長く感じられましたが、年をとればとるほど、一日があっという間に過ぎ去って行きます。ですから、主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。それは、ひとりも滅びることがないように、すべての人が救われて真理を知るようになるために、主が忍耐しておられるからなのです。ペテロはそのことをここで繰り返して語っているのです。

 

考えてみると、私たちも救われるまでには随分時間がかかったのではないでしょうか。すぐに信じたという人もいるでしょうが、中にはかなり葛藤しながら、激しい抵抗を繰り返して、やっと信じることができたという人もいます。いろいろなパターンがあります。それでも主は私たちが救われるために忍耐してくださいました。私たちが悔い改めて、主に立ち返ることができるように忍耐して待っていてくださいました。だから私たちは救われて、今こうして主を賛美し礼拝することができるのです。もし10を数えるまで決断しなければ救われないと言われたら、信じられなかったかもしれません。私たちが救われたのは主のあわれみと忍耐によるのです。このことを覚えておくようにというのです。なぜなら、このことを覚えることで、私たちも主と同じ思いを持つことができるからです。すなわち、主がまだ再臨しておられないのは忍耐しておられるからであって、主はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。このように主の忍耐は人々の救いのためであることを覚え、私たちも忍耐をもって福音宣教に励まなければなりません。

 

15節の後半と16節をご覧ください。この主の再臨を確証するものとしてペテロは、パウロの手紙を示し、パウロもこのことを語っていると述べています。「このこと」とは何でしょうか。主の再臨のことです。今ペテロが書き送っている人たちはポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビデニヤといった小アジヤ地方の教会の人たちですが、ここはかつてパウロが伝道した地でもありました。主が再臨するということはそのパウロも語っていたことであり正しい教えなのです。それなのに、中には聖書の教えを曲解して、自分自身に滅びを招くような人たちがいました。どういう人たちですか。16節には「無知な、心の定まらない人たち」とあります。「無知」とは、聖書の知識が無い人のことで、「心の定まらない人」とは、知識はあっても心の迷いやすい人、霊的に不安定な人のことを指しています。彼らは聖書の文脈を無視して、自分たちに都合がいいように解釈していました。ペテロはここで、「その中には理解しにくいところがあります」と言っています。聖書の中には確かに理解しにくいところもあります。たとえば、前回お話しした携挙の教えなどはそうでしょう。イエス様が来臨される時、イエス様を信じている人は死んだ人も生きている人も一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになるという約束です。これはなかなか信じにくいことです。しかし、聖書はそのように約束しておられます。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

これが神の約束です。現実的には考えられないことですが、神はこのように約束してくださいました。それなのに彼らはそんなことが起こるはずがないと言って否定し、自分自身に滅びを招くようなことをしていたのです。

 

また、パウロが神の恵みと、信仰による義を強調するために、「罪が増し加わるところに、恵みがあふれる」(ローマ5:20-21)と言いましたが、彼らはその言葉も曲解して、「ああ、パウロはもっと罪を犯すべきだと言っている」と非難したり、「何をしても許されるんだからもっと罪を犯してもいいんだ」と、それを口実にして好きな勝手なことをしいる者たちもいました。とんでもないことです。

 

確かに聖書は理解しにくいところはありますが、そうした箇所を曲解して、自分自身に滅びを招くようなことがないように注意すべきです。このようにして主を待ち望まなければなりません。

 

Ⅱ.自分自身の堅実さを失わないように(17)

 

第二のことは、自分自身の堅実さを失わないように、よく気をつけなさいということです。17節をご覧ください。

「ですから。愛する者たち。あなたがたは前もってわかっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。」

ペテロはここで、こうした不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失うことがないようによく気をつけなさいと、警告しています。自分自身の堅実さを失わないようにとはどういうことでしょうか。ペテロはここで、救いを失わないようにと言っているのではありません。本当に救われたのであれば救いを失うことはありません。ヨハネの福音書10章28節には次のようにあります。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」

ですから、イエス様を信じて永遠のいのちを与えられた者は、決してそれを失うことはないのです。では堅実さを失うことがないようにとはどういうことでしょうか。それは、信仰に堅く立たなくなってしまうことがないようにということです。悪い曲がった教えを聞くとだんだんそうなってしまいます。ちょうど私たちの健康と同じです。いつもジャンクフードばかり食べていると体は維持しているようでも、体の中は確実に蝕まれていきます。不健康になって体全体が弱くなってしまうのです。それは霊的にも言えることで、曲がった教えを聞き続けていると、やがて不健康になっていきます。主を求めているようでも的がはずれていたり、信仰が弱くなってしまうことがあるのです。自分では主に従っているようでも実際には自分のため、自分の欲望に従って生きているということがあるのです。信仰が形骸化し、救いの確信を失ってしまうこともあります。罪が赦されているということさえ忘れてしまう。救われているはずなのに、救われていないような生き方をしていることがあるのです。

 

だからペテロは偽預言者に気をつけるようにと警告したのです。私たちが人に惑わされないために何が必要でしょうか。真理のことばである神のみことばを聞き、そこにしっかりと立ち続けることです。神のことばが私たちを救い、私たちを成長させます。だから神のことばにしっかりととどまり続けなければなりません。神のことばにとどまることによって、聖なる生き方をする敬虔な人になることができるからです。いつ主が戻って来てもいいように、平安のうちに御前に出ることができるのです。

 

Ⅲ.主イエスの恵みと知識において成長しなさい(18)

 

最後に、18節をご覧ください。

「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」

 

この手紙におけるペテロの最後の勧めは、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」ということでした。これが、ペテロが伝えたかったメッセージです。彼はもうすぐこの世を去って主のみもとに行くことを知っていました。そんな彼が心配していたことは自分のことではなく、彼が去って行った後で教会の中に凶暴な狼が入り込み、人々を惑わすことでした。どうしたらそうした者たちに惑わされないで、信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。それはイエス・キリストの恵みと知識において成長することによってです。

 

ペテロはまずイエス・キリストの恵みにおいて成長しなさいと言っています。恵みにおいて成長するとはどういうことでしょうか。恵みとは、受けるに値しない者がただ受けることです。神は恵み深い方ですから、すべてのものをただで私たちに与えてくださいました。何を与えてくださったでしょうか。

 

まず神は私たちすべての人に自然の恵みを与えてくださいました。神は良い人にも悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます。もし太陽が上らなかったらどうなるでしょうか。もし雨が降らなかったらどうなるでしょう。植物は成長せずやがて枯れてしまいます。それは植物だけでなく動物も、私たち人間にも言えることです。生きていくことさえできなくなります。いのちあるものはすべて自然の恵みを受けて生きているのであって、これがなかったら生きていくことはできません。

 

そればかりでなく、神は特別な恵みを与えてくださいました。それが救いの恵みです。罪のゆえに神にさばかれても仕方ないような私たちが、そのさばきを受けないようにとご自分の御子をこの世に遣わし、この方が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、この方を信じる者はだれもさばかれることがないようにしてくださいました。これが聖書の言う救いです。私たちの人生にはいろいろな救いがありますね。金魚すくいからどじょうすくい、エビすくいやカニすくいまでいろいろあります。病気が癒されること、貧乏からの解放、人間関係のトラブルの解決など、本当にいろいろな問題がありますが、聖書のいう救いとは、それらすべての苦しみの根源である罪からの救いです。それは私たちが何かをしたからではありません。私たちがいい人だからでもないのです。真面目に生きたからでもないのです。神が私たちを愛し、私たちの罪のためにご自身の御子を遣わし、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださることによって、その救いの御業を成し遂げてくださいました。私たちはその神の御業を信じるだけで救われました。これが恵みです。私たちは罪の中に死んでいたのですから、自分では何もすることができません。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪の中に死んでいた私たちを、キリストともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。

 

ですから、あなたが過去の罪を帳消しにするために何かをしなければならないということはありません。あなたの過去の罪が、いや過去の罪だけでなく現在の罪も、またこれから犯すであろう罪もすべて赦されるのは、神がしてくださったこの贖いの御業を信じることによってなのです。イエス・キリストをあなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたは救われるのです。

 

これは恵みではないでしょうか。この神の恵みがすべての人に提供されています。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

この救いはすべての人に提供されています。しかし、それはすべての人が自動的に救われるということではありません。クリスチャンホームに育ったから救われるとか、教会に行ったことがあるから救われるというのでもはないのです。教会と何らかの関係を持っていれば救われるというのでもありません。イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる人だけが救われます。ですから、イエス様を救い主として信じた人はみな罪が赦されたのです。

 

しかし、神の恵みはこれだけではありません。神の恵みは、このように信じて救われた者が、霊的に成長していく上でももたらされます。救われるのは神の恵みによりますが、霊的に成長するのも神の恵みによるのです。それはちょうど畑の中に種が蒔かれるようなものです。畑の中に蒔かれた種は自然の恵みの中で成長していくように、私たちもキリストの中にいるなら霊的に成長し続け、多くの実を結ぶことができるのです。

 

イエス様はこのことをぶどうの木のたとえで説明してくださいました。ヨハネ15:4~5をご覧ください。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 

キリストを離れては何もすることができません。恵みを離れては成長することはできないのです。しかし、キリストにとどまるなら多くの実を結びます。この方は恵みとまことに満ちた方です。あなたが実を結ぶことができるようにと、神がこの方に接ぎ木してくださいました。ですから、この方から離れては実を結ぶことはできないのです。実を結ぶためにはこの方にとどまっていなければなりません。「私は信じます」と言ってもこの方から離れてしまうと、せっかく実を結ぶことができるように神が接ぎ木してくださったのに、実を結ぶことができなくなってしまいます。実を結ぶ方法はたった一つ、それはキリストにとどまっていることです。私はよく質問を受けることがあります。それは、「こんな私でも成長しますか」です。答えはYes!です。あなたがキリストにとどまるなら、キリストがあなたを成長させてくださるからです。

 

私たちがキリストを信じた時神の子とされ、神の性質が種となって与えられました。種は成長していきます。ですから、私たちもキリストにとどまるなら霊的に成長していきます。私たちの性質がキリストの性質に変えられていくのです。

 

私たち夫婦は、よく「似てますね」と言われることがあります。えっ、ウソでしょ。顔は似てないし、性格も行動も全然違います。私がうさぎなら家内は亀です。こんな二人ですからどう見ても似てるはずがないのですが、「似てますね」と言われることがあるのです。何が似ているのかなぁと冷静に考えてみてもやはり似てないのです。それでも似ているところがあるとしたら考え方ではないかと思います。いつも一緒にいて同じ価値観を共有し、同じ目標に向かって歩んでいるうちに、いつの間にか似た者同士になっていくのです。

これはイエス様との関係においても同じです。いつもキリストにとどまり、キリストと交わることで、キリストに似た者に造り変えられていくのです。これがクリスチャンの門表です。

 

そして霊的に成長していくと行いも少しずつ聖められていきます。悪から離れ、道徳的にきよくされ、謙遜にされていきます。神の恵みを知れば知るほど自分の罪深さを知るからです。それまでは自分ほどいい人はいないと思っていたのに、自分ほど謙遜な人はいないと高ぶっていたのに、神の恵みを知れば知るほど神の前にへりくだるようになり、他の人を自分よりもすぐれた者と思うようになります。その結果、人間関係も平和になっていきます。

 

さらに恵みによって忍耐力も身についていきます。キリストを知るまではすぐに怒っていました。自分の気に入らないことがあるとすぐに雷のように怒っていたのに、キリストを知れば知るほどだんだんキリストの性質に変えられていくので柔和になっていきます。試練が来てもそれを耐え忍ぶようになるのです。また恵みによって今まで許せなかった人も許すことができるようになるのです。

 

このように、キリストにとどまるなら霊的に成長し、キリストの性質へとだんだん変えられていきます。すべては神の恵みです。私たちは神の恵みによって救われ、恵みによって成長し、神の恵みによって変えられていくのです。

 

ペテロはこの神について何と言ったかを思い出してください。Ⅰペテロ5章10節で、彼はこう言いました。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

みなさん、神はどのような方ですか?神はあらゆる恵みに満ちた方です。すなわち、あなたがたをキリストにあって選び、その永遠の栄光の中に招き入れてくださった方です。その神が、しばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。不動の者としてくださるというのは、霊的大人にしてくださるということです。神は私たちをどのように霊的大人にしてくださるのでしょうか。しばらくの苦しみを通った後です。試練を通してです。苦難を通され、その後で回復させられることによって、私たちの信仰が強くされていきます。その結果、信仰に堅く立つことができるようになるのです。試練が来ると揺らぎそうになりますが、自分がどこに属しているかがはっきりわかるので、もっと神に信頼するようになります。問題が起こらないと、私たちは自分でやれると思ってしまいます。でも問題が来ると自分ではどうしようもないということがわかるので、しっかりと信仰に立とうとします。試練は私たちを弱くするのではなく、逆に私たちを強くします。そして恵みによって不動の者としてくださいます。あらゆる恵みに満ちた神がそのようにしてくださいます。これが聖書の約束です。台風が来ると木がしっかりと根を張るように、私たちの人生に試練が来ると、しっかりとキリストに根を張ることができるようになるのです。

 

先日、中国からOさんのお母さんとお友達が来て一緒に食事をしました。その中で中国の教会の話題となったとき、最近の指導者の体制によって中国の家の教会が厳しい統制に敷かれますねと言うと、彼らは口をそろえて言いました。「いいえ、それは感謝なことです。そのような苦難が私たちの信仰を強くします。もし家の教会が分散しても、私たちはもっと神様に祈ります。そして、いつそうなってもいいように準備しています。」

まさにこのみことばを生きているのです。問題があるから不平不満を言うのではなく、その問題が自分たちを強めると信じて、神に感謝しているのです。同じ問題でも一方ではつぶやき、一方では感謝する。この違いはどこから来るのでしょうか。神のみことばへの信頼です。彼らはただ単純にみことばを信じ、それを自分の生活の中に適用しているのです。

そういえば、2年前に私たちが家の教会を訪れた時、どの家の集会も2時間位の内容でしたが、そのうちの1時間半は、一人15分くらいのみことばの証でした。それが6人で1時間半です。あとは賛美と祈りが30分、全体で2時間の集会でした。次から次にみことばを証する人がいます。「事前にだれが証するか決まっているのですか」と聞くと、全然決まっていないと言います。みんな単純にみことばを生きているだけです。

たとえば、このときもOさんのお母さんはご病気で、1月に入院して退院したばかりなので日本に来るかどうか悩んだそうですが、このみことばが与えられたので全く心配していないと言いました。

「そういうわけで、肉体にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」(Ⅱコリント5:9)

すごい信仰です。自分のいのちも、健康も、すべて主にゆだねきっています。もしそれで死ぬようなことがあったとしてもそれもまた益だというのですから。ですから、あらゆる恵みに満ちた神が、私たちをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるとみことばにあるので、そのように受け止め、心配しません。すべてを神にゆだねるのです。

 

皆さん、私たちの神は恵みの神です。あらゆる恵みに満ちた方です。この恵みに満ちた神が、私たちをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。この神の恵みにおいて成長させていただきましょう。あなたを救いに導いてくださった神は、恵みをもって成長させ、堅く立たせ、不動の者としてくださいます。

 

ペテロはここでもう一つのことを言っています。それは恵みだけでなく知識においても成長もしなさいということです。知識において成長するはどういうことでしょうか。もちろん、知識とは神のことばである聖書の知識のことです。だれか有名な先生の本を通してキリストの知識を得るのではありません。そんなことをしたら、その人が考えるキリスト像になってしまい、聖書そのものが教えるキリスト像ではなくなってしまいます。ですから、キリストについての正しい知識を聖書から得なければなりません。

 

どうやったら得ることができるのでしょうか。聖書の言う「知る」というのは、個人的にそれを深く体験することです。頭だけで知る知識ではなく、心の中で個人的な体験としてイエス・キリストを知ることです。先ほどお話しした中国のクリスチャンたちのように、みことばに生きることです。与えられたみことばを、祈りを通して自分の生活にどのように適用できるのかを思いめぐらし、それを実践するのです。そのようにして神との交わりが深められていきますと体験としてキリストを知ることができます。そしてこのようにしてキリストを知れば知るほど、霊的に健全に成長していくことができます。

 

ペテロは、キリストの恵みと知識において成長しなさい、と言いました。霊的に成長することが、私たちが偽りの教えや道徳的に堕落することから守ってくれます。そうでないと倒れてしまいます。それはちょうど自転車のようです。自転車は前に進んでいる時は倒れませんが、止まったら倒れてしまいます。これは霊的にも同じことで、私たちはキリストの恵みと知識において成長し続けなければなりません。そうでないと倒れてしまいます。ずっとそこに立っていることができなくなるばかりか、後退することになってしまうからです。キリストにとどまり、キリストのことばに聞き従うなら、確実に成長していきます。なぜなら、これは神の恵みによるからです。あなたの努力によってできなく、神の恵みによって神が成長させてくださいます。

 

あなたは成長していますか。成長したいと願っていますか。どこか自分の中でブレーキをかけていることはないでしょうか。自分はこのままでいいと、開き直っていませんか。そこに立ち止まっていると結局倒れてしまいます。あなたに求められていることは成長することなのです。キリストの恵みと知識において成長しなさい。

 

この手紙を書いたペテロも結構失敗しました。しかし、神の恵みにとどまることによって神の赦しを体験し、最後までキリストに従い通すことができました。私たちも神の恵みによって成長させていただきましょう。そして、このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまであるように祈りましょう。

Ⅱペテロ3章10~13節 「新しい天と新しい地」

ペテロの手紙からずっと学んできました。残すところ今回を含めて2回となりました。この第二の手紙でペテロは、教会の中に忍び込んで来た偽教師たちに気を付けるようにと警告してきました。彼らは、イエスが再びこの地上に戻ってくることを否定し、そのように信じている人たちをあざけっていました。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠ったときからこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」と。しかし、彼らは見落としていました。かつてノアの時代に当時の世界が洪水によって滅ぼされたということを。それはかつてだけのことではありません。二度あることは三度あるで、もう一度滅ぼされる時がやって来ます。それが主の日です。今度はかつて水によって滅ぼされるということはありません。今の天と地は、同じみことばによって、火によって焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者のさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。なぜなら、神は私たちに対して忍耐深く、ひとりも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからです。しかし、その日は必ずやって来ます。そして神は、この天と地に代わる新しい天と新しい地とを用意しておられます。そこに私たちを迎え入れようと再び戻ってこられるのです。これが、私たちの人生のゴールでもあります。きょうのところでペテロは、この新しい天と新しい地とをどのように待ち望んだらよいのかを語っています。

 

Ⅰ.主の日がやって来る(10)

 

まず10節をご覧ください。

「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」

 

主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。子供の頃と今とでは時間的な感覚が違うように、主と私たちとでは時間的な感覚が全く違います。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、私たちに対して忍耐深くあられます。私たちの、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるのです。9節の「その約束」とは何でしょうか。それは、主が再び来られるという約束です。4節には、「キリストの来臨の約束」とあります。ここに出てくる「主の日」とは、その日のことを指して言われています。キリストは今から二千年前に私たちの罪を贖い、私たちを罪から救うために、旧約聖書の預言のとおりにこの世に来てくださいましたが、そのキリストは、やがて、再び来られると約束されました。使徒1:11には、こう書かれてあります。

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

これはイエス様が天に上って行かれた時、それを見ていた弟子たちにふたりの天使が語ったことばです。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、あなたがたが今見たときと同じ有様で、またおいでになります。あなたがたが見たときと同じ有様とはどのような有様ですか。10節には、「雲に包まれて、見えなくなられた」とあります。それと同じ有様で戻って来られるのです。

 

この「主の日」がやって来ることについては、旧約聖書にも何度も預言されていました。たとえば、イザヤ書13章9~12節にはこうあります。

「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。」

主の日は来るのです。主が最初に来られた時は救いの喜びをもたらすためでしたが、再び来られる時は残酷な日です。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにされます。多くの人が死に絶えていくのです。その数があまりにも多いので、ここには純金よりもまれとし、オフィルよりも少なくするとあります。それほど大きな患難の時がやってくるのです。

 

それはイエス様ご自身も預言しておられたことです。マタイ24章29~30節には、世の終わりの前兆、その苦難に続いて、信じられないことが起こると言われたのです。

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種類は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。」

何と太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。ペテロがここで言っていることと同じです。そんなことが起こるはずがないじゃないかと思う人もおられるでしょう。考えられないことです。有史以来、ノアの箱舟の話以外、そんな話を聞いたことがありません。でも必ず起こります。なぜなら、それはイエス様のお言葉だからです。イエス様は言われました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

このような日が必ずやって来ます。最近の異常気象を見ても、何だか変だなと感じている方も少なくないでしょう。

 

核戦争や気候変動、環境破壊などによって人類が滅亡する日までの残り時間を象徴する「終末時計」というものがありますが、それによると残り2分半だそうです。これは、米国の科学誌「Bulletin of the Atomic Scientists」が1947年から発表している人類滅亡までの残り時間を象徴的に時計の針で表したものですが、時刻0時0分が人類滅亡のときとされています。その日が刻一刻と近づいています。これまでは、気候変動や一部の国々で核配備が相次いだ2015年に「終末まで残り3分」という数値が設定されていました。今年、「残り2分」にした理由は、世界規模でサイバー攻撃が横行していることや、北朝鮮による核実験、シリアやウクライナ情勢の悪化、世界各地でのナショナリズムの台頭、気候変動による地球温暖化など多岐にわたります。いずれにしも、一般の科学者たちも、その日が近づいていると感じているのです。しかし、その日は科学者たちが考えているものよりもはるかに恐ろしい日です。それは神のさばきがもたらされる日だからです。

 

いったいその日はどのようにしてやってくるのでしょうか。ここには、「盗人のようにやって来ます」とあります。みなさん、盗人はどのようにしてやって来ますか?盗人は予期しないときにやって来ます。来るということがわかっていたらちゃんと用心するでしょう。家中のドアというドアの鍵をしっかりかけて、夜中でも日中のように光るセンサーを取り付けたり、防犯ブザー、防犯カメラを取り付けたりして用心します。しかし、泥棒はいつやってくるかわかりません。突然やって来ます。まさかと思うようなときにやって来るのです。

 

イエス様を信じないに人にとってはまさにそのとおりです。まさかと思うような時に、突然襲いかかるのです。しかし、主を信じる私たちにとっては、盗人のように襲うことはありません。なぜなら、その日が突然やってくるということを知っているからです。いつも聖書を読んで、いつ来てもいいように、目を覚まして用心しているからです。パウロはそのことをⅠテサロニケ5章1~9節のところでこのように言っています。

「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」

 

主の日は、人々が「安全だ。平和だ。」と言っているそのようなときに、突如として襲いかかります。その日は、これまでにないほどの苦難の日です。しかし、キリストを信じた者にとっては救いの日です。なぜなら、キリストを信じないものには神のさばきが下りますが、キリストを信じた者はさばきに会うことがないからです。そのさばきが下る前に天に引き上げられるのです。そのさばきとは永遠の滅びのことではなく、この主の日に襲いかかるさばきのことです。神は、私たちがこの御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになりました。だから、このさばきに会うことはありません。その前に天に引き上げられます。これを空中携挙と言います。昔、古い世界が洪水で滅ぼされる前にエノクが天に引き上げられたように、私たちも天に引き上げられるのです。

 

どのように引き上げられるのかについてパウロは、Ⅰテサロニケ4章16~17節でこう言っています。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。そりからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに空中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。」

まずキリストにあって死んだ人が初めによみがえります。次に生き残っている私たちです。パウロは主が再臨する時まで生きていると思っていたのでしょう。ここで「次に、生き残っている私たち」と言っています。その私たちがたちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられて、空中で主と会うのです。そのとき、地上では大混乱が起こります。それは旧約聖書も、新約聖書も予め告げていた大患難です。

 

「レフト・ビハインド」という映画をご覧になられました。これは、この大患難の様子を描いたものです。ジャンボジェット機の機長をつとめるレイフォード・スティールが、フライト中に操縦室を出ると、そこにはおびえた様子の乗務員ハティーがいました。彼女は突如として機内に起こった異常を語ります。乗っていた多くの乗客が、身につけていたものを残して消えてしまったのです。しかもこの現象は、機内に限らず全世界で起こっていました。宇宙人よる誘拐説など諸説が入り混じる中、それは聖書の黙示録の予言が成就したのだと見抜いた人々もいました。その一人が、ブルース・バーンズという牧師です。彼は牧師でしたが携挙されませんでした。本当に信じていなかったんですね。しかし彼はこの事で自らの信仰を見つめ直し、人々にキリストを信じるよう説くようになりました。一方、妻と息子を携挙で失った機長はブルースと出会い、信仰に生きるようになります。やがて反抗的であった娘も回心し、それ以外でも様々な人々が集い、信仰に目覚めていくというストーリーです。機長らは来るべき患難時代(トリビュレーション)に備え、「トリビュレーション・フォース」を結成しますが、その患難時代を通らなければならないわけです。しかし、キリストを信じた者はその前に天に引き上げられるのでさばきに会うことがないのです。ですから、確かに今は恵みの時、救いの日です。この救いの扉が開かれている間に、救いの箱舟に入らなければなりません。やがて後ろの戸が閉じられる時がやってくるからです。

 

10節をもう一度ご覧ください。ここには、「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」とあります。

天とは大気圏を含む太陽や月、星などのすべてのもののを指しています。また、天の万象とは、すべての物質を構成しているもろもろの要素、素粒子、原子、分子、電子などのことです。新改訳聖書には米印があって、下の欄外注の説明に「諸原素」とありますが、そうした諸々の原素のことです。そのようなものが焼けてくずれ去るのです。古い世界は水で滅ぼされましたが、今の天と地は7節にあるように、火によって滅ぼされるためにとっておかれているのです。これはペテロが言っていることではなく、神のことばであり聖書が、繰り返して語っていることです。

 

たとえば、イザヤ書13章13節には、「それゆえ、私は天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。」とあります。

また、同じイザヤ書34章4節には、「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」とあります。天の万象はそのように枯れ落ちます。

また黙示録20章11節には、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」とあります。この天地は滅びるのです。しかし、神のことばはとこしえまでも堅く立ちます。決して滅びることはありません。私たちが真に信頼すべきものは、この神のみことばではないでしょうか。この神のことばである聖書が語ることに耳を傾け、イエス・キリストを救い主として受け入れて、その日に備えておくこと、それが私たちに求められていることなのです。

 

Ⅱ.聖い生き方をする敬虔な人に(11-12)

 

では、この「主の日」にどのように備えておいたらいいのでしょうか。11節と12節をご覧ください。ここでペテロは、その主の日に対してどのように備えておけばよいかを述べています。まず11節です。

「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

 

このように、これらのものはみな、くずれ落ちていきます。何も残りません。地と地のいろいろなわざは焼き尽くされてしまうのです。このようなものに執着した人生はどんなに空しいことでしょう。それは一時的な満足は与えても、永続する満足は与えてくれません。これさえあればと手に入れることができても、すぐに飽きてしまいます。車でも、家具でも、電化製品でも、楽しいのはそれを手に入れるまで、手に入れると、すぐに飽きてしまいます。こうしたものは真の満足は与えてくれません。これらのものはみな、崩れ落ちてしまいます。消え去ってしまいます。では、私たちは何を求めて生きていったらいいのでしょうか。それが聖い生き方をする敬虔な人です。

 

「聖い」ということばは、聖書では「分離された」とか「区別された」という意味があります。神のために分離された人のことです。これまでは自分のために生きていましたが、そうした自分のための生きていた生き方から神のために、神に喜ばれる生き方をすることです。ペテロは第一の手紙の中でもこのように勧めました。

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」(Ⅰペテロ1:13-15)

「あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」これが聖い人です。以前は主を知りませんでした。本当の恵みとは何であるかがわからなかったんです。だからこの地上のものすべてでした。それを持つことが幸せだと思っていました。しかし、神の恵みを知り、何が最も大切なものであるかを悟り、すべてのものは過ぎ去っていくということを知って、私たちの関心事はこの地上の事ではなく、天の事柄に向けられるようになりました。いつもそこを見上げて歩むようになったのです。

 

ですから、私たちは以前の無知であったときのさまざまな欲望に従って生きるのではなく、あらゆる行いにおいて聖められ、神に喜ばれるような生き方を求めるようになったのです。これが敬虔な人です。敬虔な人というのは、イエス様が歩まれたように歩む人のことです。キリストは自分の栄誉を求めず、父なる神の栄光を求め、神に従って歩まれました。まさにキリストのご生涯は、神の栄光を求める生涯でした。同じように、ペテロはここで、イエス様が歩まれたように、イエス様のように生きていくことを勧めているのです。不思議なことに、イエス様から目を離すと、この地上のこと、毎日の生活のことでいっぱいになってしまいます。ですから、イエス様から目を離さないようにしなければなりません。キリストの心を心とし、キリストのことばを心に豊かに宿らせなければなりません。キリストから目を離さなければ、キリストのように変えられていき、聖い生き方をする敬虔な人になるのです。

 

12節をご覧ください。「そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、その日が来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」

 

この解釈は難解です。ここには、「その日が来るのを早めなければなりません」とあります。どういう意味でしょうか。その日とは主の日のことであり、主が再び戻って来られる日のことです。それはだれも知りません。それは神だけが知っておられることであって、私たちの知り得る領域ではないからです。それなのに、その日を早めなければならないというのはどういうことなのでしょうか。おそらくペテロはここで、その日を熱心に待ち望むという意味で使っているのでしょう。その日は主を信じない者にとってはさばきの日ですが、主を信じる者らとってはいつまでも主とともにいるようになるという約束が実現するすばらしい日であるからです。

 

神の愛、神の恵みを知った人、キリストのすばらしさを知った人は、この神の国がどんなにすばらしいところであるかを知った人は、それを熱心に待ち望むようになります。イエス様に早く会いたいと思うようになるはずです。決して今の生活が苦しいからではなく、イエス様がすばらしい方なので、早くこの方と会いたいと思うからです。ちょうど、好きな人がいると、その人と会いたいと思うのと同じです。もうすぐY兄とN姉の結婚式がありますが、Y兄はもう待てないという感じです。早く結婚したくて・・。「あら、そんな時もあったわね」と過去を想起しているあなた、その気持ちが大切なのです。そういう相手がいれば、その人と会いたいと思うだけでなく、その人と会うのにふさわしい者になろうと努めるでしょう。できるだけ身を清めようとします。暴飲暴食を慎みます。それまでは豚のようにどんどん食べていたのに、結婚が決まったとたんに食べるのを控えたり、今まで適当に化粧していたのにエステに通ったりして、できるだけ身を整えます。それはキリストの花嫁として、キリストと結婚する私たちも同じです。早くその日が来てほしいと、熱心にそのことを待ち望むようになるのです。ただ熱心に待ち望むだけではなく、そのために喜んで身をきよめようとします。それが聖い生き方をする敬虔な人なのです。

 

キリストを知らない時はそうではありませんでした。いつも適当に、自分自身を汚してしていました。自分の手足を不義の器としてささげ、やりたい放題でした。しかし、イエス・キリストを知ったので、キリストが再び戻ってくるということを知ったので、これを不義のためではなく義のために、強制されてではなく喜んでささげるようになりました。以前のような不義の行いをやめて、神の義を行いたいと願うようになりました。そればかりか、神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるので、そのために、少しでもお役に立てるような生き方をしたいと願うようになりました。まだまだ失敗ばかりで、完全な者にはほど遠い者ですが、そのような者になりたいと願うようになったのです。なぜなら、イエス様を知ったからです。イエス様が再び来られる時にもたらされる栄光がどれほどすばらしいものであるかを知ったからです。だから、その日が来るのを待ち望み、それをただひたすら熱心に求めなければなりません。

 

Ⅲ.新しい天と新しい地(13)

 

最後に、13節をご覧ください。

「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

 

今の天と地は滅びます。これらのものはみな、くずれ落ちるのです。これらのものは神が造られたもので、神はお造りになったすべてのものを見られたとき、「それは非常に良かった」と言われました。しかし、最初の人アダムとエバが罪を犯したことで、この自然界全体に罪の影響が及んでしまいました。それで神は、すべての悪を滅ぼすと言われたのです。

 

しかし、滅ぼすことが目的なのではありません。神はこの古い天と地に代わる新しい天と新しい地とを用意しておられます。これが神の約束です。この神の約束に従って、新しい天と新しい地を用意しておられるのです。それはどのようなところでしょうか。ここには、「正義の住む新しい天と新しい地」とあります。ここには正義が住みます。正義とは何ですか。正義とは神ご自身のことです。神は義なる方です。その神が住まわれるところ、それが新しい天と新しい地です。それは古い天と地のように滅びてしまうものではありません。それは永遠に続く世界です。そのような天と地を用意しておられる。これが永遠の神の約束です。

 

イザヤ書65章17節には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。」とあります。

また、66章22節には、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように。主の御告げ。あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」とあります。それはいつまでも続く世界なのです。

また黙示録21章1~5節には、この新しい天と新しい地についてこのように言われています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」」

 

これが神の約束です。神は、罪によって汚れたこの天と地に代わる新しい天と新しい地をもたらされます。神は、このことを必ずしてくださいます。なぜなら、神は真実な方だからです。真実とは、約束したことを実行するということです。約束してもそれが反故にするとしたら、それは真実とは言えません。しかし、神は真実な方ですから、約束されたことをそのとおりにしてくださいます。ですから、この約束も必ずそのとおりになるのです。この神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地に住むようになるのです。

 

いったいどうしたらこの新しい天と新しい地に住むことができるのでしょうか。そのためには神の義であられるイエス様を信じて、新しく生まれなければなりません。自分でどんなにいい人間だと思っていても、どんなに努力しても、どんなに良いことをしても、完全になることはできないからです。神は全く聖い完全な方なので、私たちがどんなに自分ではいい人間だと思っていても、それだけでは入ることはできないのです。考えてみてください。もし、ここに透き通ったグラスがあり、透き通ったおいしい水があっても、ほんのわずか、塵のようなネズミの糞が入っていたら飲むことができますか。同じように、仮にあなたが99.9パーセント正しくても、残りの0.1パーセントがけがれていたら、神に受け入れられないのです。しかし、イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったので、あなたがこのイエス様を信じるなら神の子どもとさせていただくことができ、この新しい天と地に入れていただくことができるのです。

 

あなたはどうでしょうか。イエスを信じて義と認められましたか。すべての罪が赦されていますか。どうか神の義、神の救いであられるイエス・キリストを信じてください。そうすれば、あなたもすべての罪が赦され、神の御前に義と認めていただくことができるのです。

この天地は滅びます。これらのものはみな、消えて行きます。しかし、神は新しい天と新しい地を用意してくださいます。イエス・キリストを信じる者はみなこの新しい天と新しい地で神とともに永遠に住むようになるのです。これが、私たちが待ち望んでいる天の故郷です。ここからイエス・キリストがもうすぐ迎えに来られます。その時、あなたは天に引き上げられ、イエス様と会い、いつまでもいるようになるのです。イエス様がいつ来られてもいいように、そのためによく備えておきましょう。イエス様を信じ、イエス様が再び来られるのを熱心に待ち望みましょう。それが新しい天と新しい地を待ち望むクリスチャンの姿なのです。

Ⅱペテロ3章1~9節 「忍耐深くあられる神」

きょうは、Ⅱペテロ3章前半の箇所から「忍耐深くあられる神」というタイトルでお話します。2章のところでペテロは、教会に忍び込んでいた偽教師たちに気をつけるようにと、彼らの特徴について述べました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定することさえ、自分たちの身にすみやかな滅びを招いていただけでなく、敬虔な人たち、これは主に従っていたクリスチャンたちのことですが、そういう人たちをも誘惑し、滅びと破滅に導いていました。彼らは理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるので、動物が滅ぼされるように滅ぼされるのです。ですからペテロは、こうした偽教師たちには気をつけるようにと警告したのです。

 

きょうの箇所でペテロは、その偽教師たちが否定していたキリストの再臨について教えています。聖書は至るところで、キリストが再び来られると約束しています。それは私たちクリスチャンの希望でもあります。なぜなら、キリストが再臨される時すべての悪がさばかれ、この地上に本当の平和が訪れるからです。その時、すべての悲しみ、嘆き、叫び、苦しみ、痛み、罪から解放され、本当の自由と平和、喜びがもたらされます。ですから、私たちの真の希望はキリストの再臨にあるのです。

 

しかし、それを否定する者たちがいました。そうです、あの偽教師たちです。彼らはキリストの再臨なんてあるはずがないじゃないかと言って、あからさまに否定していたのです。そこでペテロは彼らの間違いを明らかにするとともに、聖書の約束に堅く立ち続けるようにと読者を励ますのです。

 

Ⅰ.思い起こして(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語っ た、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。」

 

ここにペテロがこの手紙を書き送った目的が書かれてあります。それは、これら手紙によって記憶を呼びさまさせ、彼らの純真な心を奮い立たせることです。「純真な心」とは、誠実な心のことです。正直で、真実で、うそ偽りのない心のことであります。ペテロはこの2勝において、教会の中に偽教師たちが現れて選民をも惑わすようになると警告しました。そして、多くの者が彼らについて行き、その身に滅びを招くよなことをしていた現実を見て、惑わされないようにと警告しました。そのために必要なことは何でしょうか。ここにあるように、思い起させることです。記憶を呼びさまさせて、彼らの純真な心を奮い立たせることです。私たちが惑わされてしまう大きな原因の一つは、忘れてしまうことにあります。人間はすぐに忘れてしまいます。昨日何を食べたかも覚えていません。神の恵みを忘れてしまうことで簡単に偽りの教えに惑わされてしまいます。ですからペテロはここで、そのことを何回も何回も繰り返して伝えることで、彼らに思い起こさせようとしているのです。

 

ペテロは何を思い起こさせているでしょうか。2節をご覧ください。ここには、「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とあります。「聖なる預言者たちが前もって語ったみことば」とは、旧約聖書のことです。神は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られました。しかし、彼らは自分たちの考えを語ったのではなく神からのことばを語りました。それゆえに彼らは本物の預言者であり、聖なる預言者でした。

 

また、ここには「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とありますが、これは新約聖書のことを指しています。旧約聖書は罪に陥った人類を救うために神が救い主を遣わすという約束が預言されていますが、その預言のとおりに救い主が来られたことを証言したもの、それが新約聖書です。それはナザレのイエスによって実現しました。その救い主の良い知らせはまずイエスご自身によって宣べ伝えられました。イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

そして、多くの病人をいやされ、悪霊を追い出し、さまざまな問題で苦しんでいた人を解放してあげました。そして、旧約聖書の示すとおりに私たちの罪を負い、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれました。しかし、三日目に神はこのイエスを死からよみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。この方こそ旧約聖書で約束されていた救い主、メシヤ、キリストであられるからです。神はこの方を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。それゆえ、このイエスを自分の罪からの救い主と信じるなら、だれでも救われるのです。これが良い知らせ、福音です。

 

そしてイエス様は12人の使徒たちを選び、全世界に行ってこの福音を宣べ伝えるようにと命じられました。その命令に従い、使徒たちは出て行ってイエス様が命じたすべてのことを教えました。彼らは自分たちの教えを語ったのではなく、イエス様が教えたことをそのまま教えました。つまり、このイエスが救い主であられるということ、そして、このイエスを信じる者は、だれでも罪の赦しが与えられるということです。そして、もう一つのこと、それは、このイエスは再び戻ってこられるということでした。それは旧約聖書にも書かれてあったことです。旧約聖書にも書いてあり、主イエスご自身も教えられ、使徒たちもそのように教えました。それは聖書の一貫した教えなのです。それなのに、彼らの中にはこのキリストの再臨を否定する者たちがいました。それでペテロは、聖なる預言者によって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令、つまり、聖書は再臨について何と教えているのかを思い起こさせるために、これらの手紙を書いたのです。

 

私たちも忘れてしまうことがあります。もう耳にたこができるほど何回も聞いているはずなのに、いざ人から指摘されると、「あれ、何だったけなぁ」と忘れてしまい、自分の思いに走ってしまうことがあるのです。ですから、私たちは「もう何度も聞いて知っている」と高を括るのではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかということをいつも思い起こさなければなりません。

 

Ⅱ.あざける者ども(3-7)

 

次に3節から7節までをご覧ください。3,4節をお読みします。

「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけ り、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこに あるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

ペテロはまず第一に、次のことを知っておきなさいと言っています。それは、終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うことです。「キリストの再臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

どういうことでしょうか?「終わりの日」とは、世の終わりの日のことです。それはキリストがこの地上に来られた時に始まり、再び戻って来られるときまでのことです。その終わりの日が近くなると、キリストの再臨のことをあざける者どもがやって来て言うのです。「そんなのあるはずがないじゃないか。回りを見てごらん。何も変わりがない。ずっと昔から同じじゃないか。何もかわりゃしない。」しかも、それが彼らの中から、教会の中から起こってくるというのです。教会の中に滅びをもたらす異端がひそかに持ち込まれるのです。その一つがキリストの再臨を否定することです。キリストの再臨は聖書の教えであって、クリスチャンの希望です。キリストの再臨を知り、それを待ち望むことでクリスチャンは力が与えられます。どんなに苦しくても、もうすぐ主が戻ってこられると信じていることで慰めが与えられ、励まされるのです。パウロはテサロニケの教会に書き送った手紙の中でこの再臨について述べ、「こういうわけだから、このことばを互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)と言いました。クリスチャンにとっていったい何が慰めのことばなのでしょうか「このことば」です。主が再び戻って来られるということばです。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。」(Ⅰテサロニケ4:16-17)

これが私たちにとって慰めのことばです。もうすぐ主が来られます。そのとき、私たちは霊のからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これまでのすべての苦しみから解き放たれ、永遠の栄光の中へと入れられるのです。このことばです。

 

しかし、このようなことを語ると、中には「何をたわごとを言って・・」とそれを否定する人たちが起こってくるのです。「そんなことあるはずないじゃないか、昔も今も変わらないし、ずっと同じだ。」と。「見てごらん。何も変わっていないじゃないか」

するとクリスチャンも日々の生活でいっぱいになっていますから、現実に心を奪われて、こうしたあざける者たちに惑われ「や~めた!」となってしまうのです。主のために生きるなんてバカバカしい。そして、だんだん真理から離れていくようになるのです。本当に私たちはこの「現実」という二文字に弱いですね。どんなに信仰を持っていても、現実という二文字の前に、簡単に主から離れてしまう弱さがあるのです。そして、主が戻ってこられることを期待しなくなると、霊的にだんだん弱くなってしまいます。霊的に眠った状態になるのです。何もしなくなります。ただ自分のことだけにとらわれ、この地上のことしか考えられなくなってしまうのです。これがサタンの常套手段なのです。

 

このように、終わりの日が近くなると、あざける者たちがやって来て、キリストが再臨するという教えをあからさまに否定し、人々の関心をこの地上のことだけに向けさせて、希望を奪っていくのです。

 

5節と6節をご覧ください。しかし、彼らがこのように言い張るのは、次のことを見落としているからです。すなわち、「天は古い昔からあり、地は神のことばによって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びましたが、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」どういうことでしょうか?

 

あざける者たちは、昔も、今も、何も変わっていない、創造の初めからずっと同じだと言っていますが、そうじゃない、というのです。彼らは見落としているのか、故意に忘れようとしているのかわかりませんが、ある事実を見落としています。それは、神によって造られた当時の世界は、洪水によって滅ぼされたということです。何のことを言っているんですか。そうです、ノアの箱舟のことです。神はノアの時代に、古い時代を洪水によって滅ぼされました。このことを忘れているというのです。いや、わざと忘れたかのようにして、それを認めようとしないのです。なぜなら、認めると都合が悪いからです。それを認めてしまうと、聖書が預言しているとおりに、将来においても同じように神のさばきがあるということを認めざるを得ないことになるからです。だったら最初から認めればいいのに、認めないで自分たちに都合がいいように主張するので、結局、こうした矛盾が生じ事実を隠すようなことになるのです。

 

つまり、ペテロはここで今の天地は最初のものとは同じでないと言っているのです。かつてノアの時代に当時の世界が洪水で滅びたように、今の天地も、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきの日まで、保たれているのです。昔の世界は水によって滅ぼされましたが、今の天地が水で滅ぼされることはありません。なぜなら、ノアの洪水の時に神は、ノアとその家族に、もはや洪水で滅ぼすことはしないと約束されたからです。その約束のしるしが虹です。神は虹の架け橋をかけて、もう水によっては、この地を滅ぼさないと約束されました。ですから、水によって滅ぼされることはありません。しかし、火によって滅ぼされます。今の天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

 

だから、あざける者どもはキリストの再臨はないと言っていますが、あるのです。その日には火によってすべての悪がさばかれることになります。しかし、神を信じる者たちはさばかれません。なぜなら、キリストが代わりにさばかれ、私たちの悪を取り除いてくださったからです。キリストを信じる者はさばかれることはありません。むしろ、キリストの贖いによって罪が聖められたので、神がとともにいてくださるようになったのです。これこそ私たちの希望であり、慰めです。この希望があるからこそ、私たちはこの地上にさまざまな問題や苦しみがあっても、耐える力が与えられるのです。

 

Ⅲ.忍耐深くあられる神(8-9)

 

ですから、第三に、この一事を見落としてはいけません。この一事とは何でしょうか。8節と9節をご覧ください。8節には、「すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。

どういうことですか。皆さんは、子供の頃と今とでは時間的な感覚が全然違うように思いませんか。子供の頃は一年がとても長く感じられました。このままずっと子供のままでいるんじゃないかと錯覚を覚えたほどです。しかし、大人になると一日があっという間に終わってしまいます。ついこの前新年が始まったばかりかと思ったら、もう3月でよ。6分の1が終わったんですよ。早いと思いませんか。二十歳の頃は四十のじっさんになるにはまだまだだと思っていたのに、いつの間にか四十なんてとっくり通り過ぎ、人生の4分の3を終えようとしているのです。本当にあっという間です。

 

大人と子供の物事を見る感覚や時間の感覚が全く違うように、私たちと神様との時間の感覚は違います。私たちにとって千年は永遠であるかのような長さですが、神様にとっては一日のように過ぎ去ります。詩篇90篇4節には、「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」とあるとおりです。神にとって千年は夜回りのひとときにすきません。神は永遠ですから、時間的な枠がないのです。

 

いったいペテロはここで何を言いたいのでしょうか。そうです、キリストの再臨をあざ笑う者たちは、キリストは二千年も前から再び来ると言っているのに来たためしがないじゃないかと言っているが、私たちにとって千年のような時の長さも、神にとってはわずか一日のようでしかない、夜回りのひとときのようでしかないということです。つまり、神はある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないということです。また、そのことを忘れてしまったのでもありません。神様には神様の時があるのです。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3:11)とあるとおりです。

 

ではなぜ神はその約束を遅らせておられるのでしょうか?9節をご一緒にお読みしましょう。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

なるほど、主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないのです。主がその約束を遅らせているのは私たちのためなのです。つまり、神は私たち人間がひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるからなのです。そのために神は忍耐しておられるのです。

神はいつくしみ深く、あわれみ深い方、怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。(詩篇86:15)しかし、いつまでもというわけではありません。悪に対して正しいさばきを行われるときがやってきます。後ろの戸が閉じられる時が必ずやって来るのです。しかし、今は恵みの時、今は救いの日です。今はその戸が開かれています。神が忍耐して待っておられるからです。神は、ひとりも滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。一部の人だけではありません。すべての人です。すべての人が救われることを望んでおられるのです。すごいですね。神の愛と忍耐は・・。

 

エゼキエル書33章10~11節をご覧ください。

「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。』と。彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。これが神の願いです。イスラエルの人々の中には、自分たちの背きの罪によって潰されそうになっている人々がいました。もう自分は滅びるしかないのだ、と絶望していました。そんな彼らに対して主は、「なぜ絶望しているのか。わたしは決して悪者の死を喜ばない」と言われました。かえって、悔い改めて、生きることを喜ぶと、言われるのです。だから、悔い改めて、悪の道から立ち返りなさい。イスラエルの家よ、なぜあなたがたは死のうとするのか。神が願っておられることは生きることです。悔い改めて、神に立ち返ることなのです。

 

そのために神は愛するひとり子をこの世に与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神はあなたを愛しておられます。と同時に、神は義なる方でもあられます。罪に対してはさばきを下さなければなりません。神はその日を定めておられます。それが終わりの日です。主が再びこの地上に来られるときです。二千年前は私たちを救うために来てくださいましたが、再び来られる時は、この地上のすべての悪をさばくために来られます。その日がなぜ遅れているのでしょうか。それはあなたのためです。ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。かえって忍耐深くあられるからであって、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからなのです。この方を救い主として信じる者は、だれでも救われるのです。

 

あなたはどうですか。この神の救いを受け取られたでしょうか。そのような確信を持っておられますか。もしまだという方がおられたら、どうぞしっかりと受け取ってください。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じてください。そうすれば、あなたのすべての罪は赦されます。人生の土台がぐらぐらと揺れ動いている方がおられますか。その方はどうぞ神のことばにしっかりと立ってください。もしあなたの感情に立つなら、すぐに平安が奪われることになるでしょう。しかし、神のことばはいつまでも変わることがありません。このみことばの上にあなたの人生の土台をしっかりと置いてください。そして、キリストの恵みの中にとどまり続けましょう。もうすぐ主が戻ってこられるからです。確かに、今は恵の時、今は救いの日なのです。

Ⅱペテロ2章10~22節 「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」

きょうは、第二ペテロ2章の後半部分からお話したいと思います。タイトルは、「豚は身を洗って、また泥の中にころがる」です。前回の箇所でペテロは、偽教師に気をつけなさいと警告しました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込みます。そして、多くの者が彼らの好色にならい、真理の道から離れるようにします。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもって多くの者を食い物にするのです。だから偽預言者には気をつけなければなりません。今日はその続きです。

 

2つの絵を比べて違いを探す間違いゲームがあります。ぱっと見た感じは同じでも、よく見ると色とか、向きとか、違いを発見することができます。同じように、偽教師たちはぱっと見た感じでは同じようでも、よく見ると違いがあることが分かります。何が違うのでしょうか。今日のところでペテロは、その違いを明らかにしています。

 

Ⅰ.理性のない動物と同じ(10-16)

 

まず10節から16節までのところに注目してください。10節には、「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」とあります。

 

ペテロはここで、そうした偽教師たちの特徴として、彼らは大胆不敵で、尊大な者たちだと言っています。大胆不敵とは、敵を敵とも思わないということ、また、尊大な者とは、高ぶって偉そうにすること、傲慢な態度をとる人たちのことです。彼らは、大胆不敵で尊大な者たちです。また、栄誉ある人たちをそしって、恐れることがありません。この「栄誉ある人たち」とは、りっぱな人たちのことを指して言われているかのようですが、11節との関係で読むと、悪霊たちのことを指して言われていることがわかります。というのは、11節には「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしって訴えることはしません。」とあるからです。この「彼ら」とはだれのことかというと、悪霊のことです。

ユダの手紙1:9をご覧ください。ここには、「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことをせず、『主があなたを戒めてくださるように』と言いました。」とあります。

御使いのかしらミカエルは、人間よりも、悪魔よりもはるかに力のある存在なのに、そんな御使いでさえ悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をそしるようなことを言わず、ただ「主があなたを戒めてくださるように」といっただけでした。それなのに、この偽教師たちは、天使のかしらミカエルさえもさばくことをしなかった悪魔たちをそしって、恐れることがなかったのです。実に大胆不敵です。尊大な者たちです。

 

12節と13節を見ると、ここには、彼らは理性のない動物と同じだと言われています。皆さん、人間と動物の違う点は何でしょうか。人間と動物の大きな違いは、人間には理性がありますが動物にはないという点です。動物は本能だけで生きています。ただ食べるためだけに生きているのです。私はよく、「あなたは何のために生きていますか」と尋ねることがありますが、意外と多くの人が、「はい、私は食うために生きています」と答えます。食うためだけに生きているとしたら、動物と同じなのです。人間はただ食うために生きているのではなく、これはどういうことなのかと考え、してもいいこと、してはいけないことをわきまえながら生きています。理性があるからです。その理性がなくなったら動物とあまり変わりません。私はよく家内から、「あなたは豚のように食べる」と言われます。何ですか、豚のように食べるとは・・・?とにかく美味しいものをみたら、それしか考えられないということでしょう。ろくに話もしないで食べることだけに集中します。それが豚のように見えるのでしょう。「もう少しゆっくり食べて」と言うのです。食べることしか考えられなければ、それは理性のない動物と同じです。まさにこの偽教師たちは、理性のない動物のようでした。その結果、動物が滅ぼされるように滅ぼされてしまうことになるのです。この滅びとは永遠の滅びのことです。

 

いったいなぜそのような滅びを身に招くようなことをしていたのでしょうか。その理由が13節にあります。

「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちからの飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。」

 

「不義」とは罪のこと、悪事のことです。彼らは自分のやった悪事の報いとして大きな損害を受けるのです。彼らはどんな悪事を働いていたのでしょうか?ここには昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えているとあります。別にお酒を飲むことが悪いのではありません。ここで問題にしているのは、昼のうちから飲み騒いでいたことです。昼のうちから飲み騒ぐというのは、それしか考えていないということだからです。普通お酒は夜飲むものでしょう。それなのに昼間から飲んでいました。その結果理性を失い、自分をコントロールすることができなくなっていたのです。エペソ5:18には、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」とあります。なぜ酒によってはいけないのでしょうか。そこには放蕩があるからです。酒を飲んで酔っ払い、自分の一生を棒に振ってしまったという話はあとを絶ちません。酒に飲まれるこで、そこにどれほどの弊害が生まれてくるかわかりません。そんなお酒を朝から飲んで騒いでいるとしたら、百害あって一利なしです。

 

しかし、彼らはただ昼間から飲み騒いでいただけではありませでした。何とそのお酒を教会にまで持ち込んで飲み騒いでいました。ここに、「あなたがたといっしょに宴会に連なるとき」とありますが、これは教会の愛餐会や食事会のことを指しています。というのは、この「あなたがた」とは、小アジア地方に散らされていたクリスチャンたちのこと、教会のことを指しているからです。教会の食事会までお酒を持ち込んで騒いでいるなんて考えられません。お酒を買いに教会の前のコンビニに来て救われたという方はおられますが、お酒をもって教会に来たという人は今まで見たことがありません。彼らにとってどこで飲むかも関係ありませんでした。何とも大胆不敵、神を恐れない、しみや傷のようなものたちでした。

 

それだけではありません。14節をご覧ください。ここには、「その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」とあります。

彼らの罪の大きさは、自分自身がそのような悪を行っていたというだけでなく、心の定まらない者たちを誘惑し、滅びをもたらしていた点です。心の定まらない人というのは信仰が不安定な人たちのことです。いつもあっちに行ったり、こっちに行ったりしてフラフラしています。神の言葉ではなく人の言葉に左右され、いやしや奇跡といった現象に振り回されているのです。そういう人がターゲットにされます。彼らの心は欲に目がありません。彼らはのろいの子なのです。

 

「のろいの子」とはかなり厳しいことばです。いったいどうしてペテロはここまで言い切っているのでしょうか。それは、彼らがそのような不義を行って自分たちに滅びを招いていただけでなく、純粋な信仰を持っていた他の人々をも誘惑して滅びに導いていたからです。ペテロがこれほどまで強い言葉で非難しているのはそのためです。子どもが危険に遭っているのを見て黙っている親はいません。同じようにペテロは霊的な親として、こうした偽預言者によって滅びの道に巻き込まれないように彼らを責め、その違いを明らかにしているのです。

 

15節をご覧ください。彼らは正しい道を捨ててさまよっています。正しい道とは真理の道、イエス・キリストを信じる信仰の道です。その道を捨ててさまよっていました。ちょうど不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。皆さんは、バラムのことをご存知でしょうか。バラムについては、民数記22章から25章までのところに詳しく記されてありますので、後で読んでいただきたいと思いますが、簡単に言うと、彼はモアブの王バラクにイスラエルを呪うようにと雇われたのに祝福してしまった預言者です。これだけ聞いたら、「なんだ、いい預言者じゃないか」と思われるかもしれませんが、ここに不義の報酬を愛したとあるように、陰では不義の報酬を愛するような貪欲な者でした。

彼がイスラエルを祝福したのは、神によって自分の罪がとがめられたからです。つまり、ものをいうことのないろばが、人間の声でものを言ったことで、その狂った振る舞いがはばまれたからです。それで彼はイスラエルをのろうことをせず、逆に祝福したのです。

 

ここまでは良かったのです。しかし、その後が悪かった。彼は不義の報酬を愛しました。自分の国に帰って行くふりをして、実はあのバラク王のところに戻って来てこう言いました。

「私はイスラエルを呪うことはできないけれども、神が彼らを呪う方法を知っています。もし聞きたいなら、あの報酬を私にください。そうすれば教えてあげますよ。」

それでバラクがお金を差し出すと、バラムは教えました。「イスラエルの男たちのところに神を信じない異邦人の女たちを送り込み、彼らを誘惑するんですよ。そうすればあの女たちが拝んでいる神を拝むようになるでしょう。そうすれば、神がお怒りになって、彼らを呪うことになります。」

それで、バラクは、シティムにとどまっていたイスラエル人のところにモアブの女たちを送ると、案の定、バラムの言ったとおり、イスラエル人はモアブの女たちとみだらなことをして、彼女たちが拝んでいたバアル・ペオルを拝むようになりました。それで神は怒られ、その日、二万四千人が神罰で死んだのです。

 

つまり、バラムは表面では真面目な預言者を装いながら、陰では不義の報酬を愛したのです。彼は正しい道を捨ててさまよいました。お金のためにイスラエルをそそのかし、堕落させて、神の道から遠ざけたのです。それと同じように、ここに出てくる偽教師たちも、バラムのやり方に従い正しい道を捨ててさまよっていました。彼らはお金のために自分自身がさまよっただけでなく、人々を惑わせ、そそのかして、神の愛から引き離そうとしていたのです。

 

なぜ偽教師に注意しなければならないのでしょうか。それは彼らだけでなく、純粋な神の民をも惑わし、彼らを滅びに導くからです。だから偽教師たちには気を付けなければなりません。私たちはこの違いを見て、彼らのだましごとにかからないように十分気をつけなければなりません。

 

Ⅱ.罪の奴隷(17-19)

 

次に17節から19節までをご覧ください。いったいなぜ彼らはそのような不義を行うのでしょうか。その理由がここに記されてあります。それはもともと罪の奴隷だからです。

「この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」

 

「この人たち」とは、偽教師たちのことです。彼らは、水のない泉であり、突風に吹き払われる霧です。どういうことですか?水のない泉とか、突風に吹き払われる霧とは。水は私たちのいのちに欠かせないものです。泉があるのにその水がないというのは、ただの見せかけにすぎないということです。また彼らは、突風に吹き払われる霧です。突風が吹くとすぐに霧が晴れてしまいます。つまり、そこには何の実態もないということです。彼らはあるかのように見せかけるだけで、何も与えることができません。一時的に人々を興奮させることはできるかもしれませんが、渇いた心を満たすことは決してできないのです。私たちの渇いた心を満たすことができるのは、イエス・キリストだけです。イエス様はこう言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)

イエス・キリストは、あなたに生ける水を与えることができます。だれでも、イエス様のもとに行くなら、その人の心の奥底から流れる生ける水が流れ出るようになります。しかし、彼らにはできません。彼らは水のない泉、突風に吹き払われる霧にすぎないからです。

 

18節には、「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、」とあります。

「大言壮語」とは、自分の力以上のことを言って人々をそそのかすことです。大きなことを言います。夢を語って期待を持たせ、誤った生き方をするだけでなく、そこからのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑するのです。それはちょうど肉欲と好色というえさをひっかけて魚を釣るようなものです。「あなたのやりたいことをしなさい。神が祝福してくださいます。」

何とも聞こえがいいですね。あなたのやりたいようにしなさい。とても魅力的な言葉ですが、もしこの言葉に従って生きたら、破滅の人生を送ることになります。というのは、罪からくる報酬は死だからです。私たちが本当に人間らしく生きることができるのは、私たちの人生を、私たちを造られた神によってしっかりと握りしめられることによってです。ちょうど人の手にしっかりと握られた凧が空高く飛ぶように、神の手にしっかり握られてこそ、本当に自由に飛ぶことができるのです。その糸が切れてしまったら、どこへ飛んで行ってしまうかわかりません。

 

それなのに彼らは、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷となっていました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはその征服者、肉欲と好色の奴隷、罪の奴隷だったからです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となります。しかし、神に征服されれば、神の奴隷となり、主イエスにある永遠のいのちに至ります。

 

このことをパウロはローマ6:20~23でこのように言っています。

「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行きつく所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行きつく所は永遠のいのちです。罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」

 

あなたはどちらの奴隷ですか。罪の奴隷ですか、それとも神の奴隷ですか。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となります。罪に征服されるなら罪の奴隷に、神に征服されるなら神の奴隷になります。そして、その行き着く所は全く違います。罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。どうか彼らの甘い罠にひっかからないようにしてください。彼らはあなたの肉欲と好色を利用して、自由を約束するかもしれませんが、その行き着くところは永遠の滅びなのです。イエス・キリストによって罪から解放された者として、いつも神に支配されて歩みましょう。

 

Ⅲ.終わりの状態(20-22)

 

最後に20節から22節までを見て終わりたいと思います。ここまでは偽教師の終わりの状態が描かれています。

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」

 

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ」とは、イエス様を信じたことによって罪から救われたということです。イエス様を信じて罪から救われた後で、再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなる、と言われています。ここは非常に難解な箇所です。というのは、一度救われた人でもその救いを失うことがあるかのように書かれてあるからです。しかも、そのような人たちの状態は、初めの状態よりももっと悪いものになるというのです。イエス様を信じて救われた人が、その救いを失うということがあるのでしょうか?ありません。なぜなら、イエス様はヨハネ10章28節で次のように約束しておられるからです。

「私は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去ることはありません。」

また、使徒ヨハネはこう言っています。

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)

 

ですから、イエス・キリストを信じて救われた人がその救いを失うことは絶対にありません。悪魔の誘惑によって罪の影響を受けることはありますが、その救いを失うことはないのです。では、ここに「イエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて制服されるなら」とはどういうことでしょうか。

 

これは、イエス・キリストを信じているようであっても、ほんとうに信じていなければ、という意味です。ほんとうに信じたのであれば、だれも主イエスの手から私たちを奪い去ることはできません。でもそうでなければ、このようなことが起こってくるのです。ではほんとうに信じるとはどういうことでしょうか?みんなイエス様を信じているんじゃないですか。確かに口では信じるといいました。でも心から信じるというのは口で告白する以上のことです。つまり、本当に信じるというのは、イエス様を自分の人生の主とすることです。イエス様と人格的な関係を持っているかどうかということなのです。イエス様を信じますといくら口で告白しても、そのイエス様に従うのではなければ、あるいは、従いたいと願っていなければ、それはイエス様を主とするということではないのです。その人にとって信じているのは自分自身であって、イエス様ではないのです。しかし、イエス様を信じるというのは、自分ではなくイエス様に従うことです。神を愛するとは、神の命令を守ることだからです。ですから、外側では信じているように見えても、内側はその限りではないというケースが起こってくるのです。イエス様を主としていなければ、結局のところ自分の欲に従うことになり、信仰から離れてしまうことになりかねません。そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなるのです。そのような人は最初から救われていなかったのです。救われていなければ神を愛することはできません。神を愛する人は神の命令を守ります。完全に守れる人などいませんが、少なくともそうしたいという願いはあるはずです。完全な人はいませんが、失敗しても悔い改めて、主に立ち返り、もう一度主に従いたいと思うようになるのです。

 

その良い例がペテロです。彼はイエス様を裏切るという大罪を犯しました。鶏が鳴く前に三度、イエスを知らないと否定したのです。でも、彼は悔い改めました。自分の弱さを知り、自分の力ではどうすることもではないことを悟り、完全に砕かれて、主の御前に悔い改めたのです。そして、彼は立ち直って、最後まで主に従いました。彼はイエス様を否定し、失敗もおかしましたが、でも、イエス様に従いたいと願っていたのです。イエス様を信じていたからです。

 

一方、イスカリオテのユダは違います。彼もペテロのようにイエス様を裏切りました。銀貨30枚でイエス様を売り渡してしまいました。しかし、悔い改めることをしなかったので、彼は結局、首をつって死んでしまいました。なぜ悔い改めなかったのでしょうか。彼はイエス様を信じていなかったからです。

 

ペテロもユダも同じように罪を犯しました。立ち直れないような罪を犯しましたが、ペテロは赦され、ユダは赦されませんでした。その違いはイエス様を本当に信じていたかどうかという点です。本当に信じている人は悔い改めて、イエス様に立ち返ります。どんなに罪を犯しても主に立ち返り、悔い改めて、もう一度やり直します。それは外側から見た目ではわかりません。また、今の状態で判断することもできません。それはただイエス様だけが知っておられることです。ただ一つだけはっきりしていることは、本当に信じている人はどんなことがあっても主から離れることなく、主の命令に従うということです。しかし、そうでない人は、義の道を知っていてもそれに従いません。なぜなら、元々汚れているからです。そのような人は、22節にあるように、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざのとおりです。

 

「犬は自分の吐いた物に戻る」とは、箴言26:11からの引用です。これは自分の愚かさを繰り返すという意味です。また、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とは一般に知られていたことわざでした。当時、犬と豚は汚れた動物として知られていました。犬は吐いた物や汚い物を食べました。また、豚はどんなにきれいに身体を洗っても、またすぐにどろの中にころがってしまいます。偽預言者は犬であり、豚です。彼らは汚れたことを繰り返していました。なぜでしょうか?それは、彼らの内側が汚れていたからです。元々汚れていたので汚れたことを繰り返すのです。ですからどんなに外側をきれいにしても、すぐにまたどろの中に戻ってしまいます。彼らはのろいの子であり、滅びの子です。イエス様を信じていなかったからです。イエス様信じて罪赦された人には、神の子どもとしての特権が与えられます。神の子であれば、神の子にふさわしくなっていきます。以前はどろの中にいましたが、そのどろが洗われて少しずつ聖くされていくのです。

 

あの放蕩息子はそうです。彼は泥沼の中にいました。放蕩して湯水のように財産を使い果たしてしまい、食べるにも困り果て、豚の食べるいなごまめで腹を満たしたいと思うほどでした。しかし、はっと我に返って時、彼は父のことを思い出しました。そして、父の元に帰る決心しました。すると、父親は彼を見つけ、かわいそうに思って、走り寄り、彼を抱き、口づけしました。そして、一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせてこう言いました。「食べて祝おうじゃないか。この息子は死んでいたのが生き返ったのだから。」死んでいたのが生き返りました。以前は泥の中で死んでいたのに、その泥が洗われて新しくなりました。神の子として新しく生まれ変わったのです。

 

しかし、この偽教師たちは、犬や豚のようでした。いつも自分が吐いた物に戻りました。どんなに外側を洗ってもすぐにまた泥の中にころがりました。なぜでしょうか。内側が聖められていなかったからです。彼らは最初からそうでした。そして歩いことに、純粋にイエス様を信じて歩んでいる人たちさえも惑わし、その中に引きずり込もうとしていたのです。

 

だからペテロは、そのような偽教師たちには気をつけていなさいと、厳しく警告したのです。世の終わりが近くなると、そうした偽教師がはびこるようになります。今はそういう時代です。いかにも正しい教えであるかのように装いながらも、真理にそむくようなことを教えて、人々を滅びに導くようなことをしています。私たちもそうした異端に惑わされることがないように注意しましょう。彼らはひそかに滅びをもたらします。まさかという方法で持ち込むのです。あの有名な牧師が言っているのだから間違いがないとか、あの本に書かれていたから間違いないとか、全く吟味しないで信じてしまうのです。危ないです。私たちが惑わされためには神の御言葉にしっかり立たなければなりません。神の御言葉は人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものだからです。それはイエス様が再び来られるまで、私たちの足元を照らすともしびです。これに目を留めているとよいのです。絶えず神の言葉に目を留めて、ウォーリーを探せではありませんが、聖書の教えと違う偽教師たちの教えを見分け、神の真理に堅く立ち続ける者でありたいと思います。

Ⅱペテロ2章1~9節 「偽教師たちに気をつけなさい」

きょうは、「偽教師たちに気をつけなさい」というタイトルでお話しします。この手紙は第一の手紙と同様、キリストの弟子であったペテロから、迫害によって小アジヤに散らされていたクリスチャンたちに書き送られた手紙です。これは、彼の生涯における最後の手紙となりました。第一の手紙では、教会の外側からの迫害があっても神の恵み覚え、その恵みの中にしっかりと立っているようにと勧めましたが、この第二の手紙では、そうした教会の外側からの問題だけでなく教会の内側からの問題、すなわち、教会の中に忍び込んでいた偽教師たちに惑わされないようにと警告しています。

 

Ⅰ.偽教師たちが現われる(1a)

 

まず1節をご覧ください。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。」

 

「しかし」というのは、この前で語られてきたことの関わりを示しています。それと比較してどうかということです。この前で語られていたことは、預言とはどのようなものであるかということです。つまり、預言とは決して人間の考えや意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものであるということです。彼らは自分の考えを語ったのではありません。聖霊に動かされて、神からのことばを語りました。神がこのように語りなさいと言われたことを、そのまま語ったのです。それは神から出たものであり、それゆえに、彼らは神のことばを語ったのです。これが神の預言です。

 

「しかし」です。しかし、それに対してそうでない預言者もいました。彼らは神のことばを語っているようでも、実際には神のことばではなく自分の考えを語っていました。神のことばを語っていれば必ずしもそれが本物だとは限りません。それは今に始ったことではなく、ずっと昔から、旧約の時代からイスラエルの中に出ていました。

 

たとえば、エレミヤ書28章にはハナヌヤという預言者が出てきますが、彼はこの偽預言者でした。神が廃ってもいないのに、あたかも神が語っているかのように語ったのです。彼は祭司たちとすべての民の前で、「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。」と言って、二年のうちに、万軍の主が、バビロンの王のくびきを砕き、ユダのすべての捕囚の民をエルサレムに帰らせる、と預言しました。そしてエレミヤの首にかけてあった木のかせを取り除くと預言したのです。この木のかせというのは、神のわざわいと呪いの象徴です。イスラエルの民は神に背き、自分勝手な道に歩んだので、自らにそのわざわいと受けることになりましたが、その打ち砕くと言ったのです。大体、偽預言者は悪いことはいいません。その人にとって受け入れられることしかいいません。そうでないと去って行かれますから。

 

しかし、その時、エレミヤに次のような主のことばがありました。

「行って、ハナヌヤに次のように言え。「主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせをつくることになる。まことに、イスラエルの神は、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。それで彼らは彼に仕える。野の獣まで、わたしは彼に与えた。」(エレミヤ28:13-14)

どういうことかというと、神は木のかせを砕くどころかもっと強力な鉄のかせをはめるというのです。ハナヌヤは、イスラエルの民にとって聞こえがいいように神の平安を預言しましたが、神のみこころは、むしろイスラエルが悔い改めることだったのです。それなのにハナヌヤは神のことばではなく、自分の考えを語りました。なぜでしょうか。人に気に入られたかったからです。イスラエルの民に聞こえがいいことを語りたかった。神のことばを語る者にとって、こうした誘惑はいつでも起こるものです。しかし、神の預言者は自分の考えを語るのではなく、神からのことばを語らなければなりません。

 

そのハナヌヤに対して、エレミヤは言いました。

「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わさなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたを地の表から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。」(エレミヤ28:15-16)

 

そのことばのとおり、ハナヌヤはその年の第七の月に死にました。恐ろしいですね。神が語っていないのにあたかも語ったかのように言うとしたら、神はそのような偽りの預言者を厳しく罰せられるのです。なぜなら、そのように語ることで自らに滅びを招くだけでなく、それに聞き従う人たちをも滅びに導くことになるからです。ですから、神のことばを語るということはとても重いことなのです。神のことばを語る者として襟を正される思いです。

 

しかし、本物の預言者は自分の考えではなく、神からのことばを語ります。たとえそれが人に気に入られなくても、それを聞いている人にとって聞き触りがよくなくとも、神のことばとして語るのです。なぜなら、それは1:19にあるように、暗やみを照らす確かなともしびだからです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

神のことばは私たちを正しい道に導きます。なぜなら、神のことばは、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。だからどんなに気に入られなくても、どんなに聞き触りがよくなくても、神のことばに目を留めていなければなりません。そうでないと惑わされてしまうことになってしまいます。

 

ここでペテロは、イスラエルにそうしたにせ預言者が出たように、あなたがたの中にも、偽教師が現われると警告しています。そういう教師がペテロの時代もいました。これからも出てきます。それはいつの時代でも起こることなのです。イエス様もこのような偽教師が現われることを予め語っておられました。マタイ7:15をご覧ください。ここには、「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ7:15)とあります。

こうした偽教師は、あのグリムの童話にある「狼と七匹の子山羊」のように、羊のなりをしてやって来ても、その中身は貪欲な狼です。いくらチョークの粉を食べてお母さんのような声を出しても、いくら小麦粉を足に塗って真っ白くしても、内側は貪欲な狼なのです。ドアの隙間から白い足を見て油断して戸開けると、呑み込まれてしまうことになります。

 

パウロも同じように警告しました。使徒20:29です。パウロはエペソの長老たちに告別の説教した時、その中で次のように言いました。

「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがたの中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目を覚ましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:29-31)

ここでは、そうした狂暴な狼が外から入り込んで来るというだけでなく、内側からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こると言っています。だから、目を覚ましていなさい、と警告したのです。

 

そして、ペテロも警告しています。イスラエルの中にそうした偽預言者が出ました。そして今、あなたがたの中にも偽教師がいます。これからも出てきます。彼らはいろいろな曲がったことを語ってはあなたがたを惑わそうとしますが、そういう者たちには気をつけなさいと、警告していたのです。

 

最近、預言カフェに行ったという人の話を聞きました。預言カフェとは、お茶を飲みながら神様の預言を伝えてもらえるという変わったコンセプトになっています。1杯数百円のコーヒーを頼めば、だれでも預言が聞けるというのです。コーヒーを飲んでいるところに預言者だという女性が現われて一方的に神のことばを語るのです。たとえば、「あなたが大きな夢を抱いて、それに向かっていることを(神は)知っていて、応援しますと言っています。

ただ、いま目の前にあることを、たまたまこれを知ったから、やろうと決めたから「やらなくちゃ」とがむしゃらになっている。でもそれは結果が出るまでに半年1年と時間がかかりそうな事。やめるというのではなく、今「これしかない」と思っていることをいったん横に置いて、少しそのことばかり考えているのを離れて、やりやすいことから2つ3つ始めてみる。

それから、「これがいいんじゃないか」と、自分の考えだけで必死に進んでるんだけど、そうじゃなくて説明書を手に入れる。やり方を分かっている人に話を聞いて、やり方を理解した上で取り組んだほうがいい。その出会いがあるように、私はサポートしていきますよ(と神は言っています)」

といった具合にです。

その時自分が悩んでいることや迷っていることにピッタリあてはまることを言ってくれるので、とても癒されるというか、ホッとするのです。しかも、「と神はいっています」というので、本当に神が言っておられるのではないかと錯覚してしまうのです。

 

危ないです。それはここでペテロが警告していることです。神が言ってもいないのに、神の名を使ってあたかも神が語ったかのように思わせるのは、昔も今も変わらない偽預言者の常套手段です。そういう偽りの預言、偽りの教えに惑わされないように気を付けなければなりません。

 

Ⅱ.偽教師たちの特徴(1b-3a)

 

いったいどうしたらいいのでしょうか。そのような偽教師の教えに惑わされないためには、そうした偽教師たちがどのような者なのか、その特徴を知らなければなりません。ペテロはここで、偽教師たちの三つの特徴を取り上げています。1節後半から3節の前半までをご覧ください。

まず第一に、彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むということです。1節の後半に、「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかに滅びを招いています。」とあります。

 

「異端」とは「誤った教え」とか「偽りの教え」という意味です。キリスト教を名乗ってはいても、実質は違うことを教えます。聖書の教えではなく、聖書の教えを利用して自分の考えを語るのです。彼らの関心は神ではなく、この地上のことだけです。そして、自分を買い取ってくださった主を否定するようなことさえするのです。「買い取る」とは贖いのことを指します。その贖いを否定するのですから、救いを失ってしまうことになります。この異端の最大の特徴は、自分を贖って下さった主を否定するということです。そしてキリストを知らない、贖い主を知らないという事は罪が残るということなので、永遠の滅びに至ることになってしまいます。何年も教会に行き続けたのに、こうした異端に惑わされてしまうことになったら本当に悲しいことです。

 

2004年に「ダ・ヴィンチ・コード」(The Da Vinci Code)という本が出版されました。2006年には映画にもなりましたが、これは、イエス・キリストが、マグダラのマリヤと結婚したという想定のもと、イエスの死後、マリヤは子供たちを連れて逃れ、やがて古代の異教の信仰の聖なる女性のシンボルになったというものです。これを書いたダン・ブラウンは、この本に出てくる芸術作品、建築、資料、謎の儀式がみな正確なものであるかのように思わせ信じさせようとしていますが、これらはフィクションです。それなのに、この本が世界的な旋風を巻き起こしたのは、悲しいことに、神のみことばに対して無知な人が少なくなく、更に悪いことに、神の言葉を信じないでそれに従わない言い訳を必死に探している人が多いからなのです。

 

このような教えが、教会の中に広がって来ています。それはこれからもっと広がって行くでしょう。「キリストはインチキだった」とか、「十字架の贖い、復活などはあり得ない」などと、まさに「自分たちを買い取ってくださった主を否定」するようなことを言って、人々を滅びへと導くのです。

 

しかも悪いことに、彼らはそれをひそかに持ち込みます。「私は偽預言者です。これはあくまでも私の考えですが、私はあまり聖書に関心はないんです。私の関心はあくまでも皆さんの悩みを聞いて、皆さんを励ますことです。天国とか地獄とか、そんなことはどうでもいいんです。」なんて言うのであればすぐに「あっ、あれは偽教師だ」とわかるのですが、聖書のことばを用いて神はこう仰せられるというので、それを見分けるのが難しいのです。

 

冬が近くなる頃、いつも福島の教会の姉妹がりんごを送ってくださいますが、何年か前に届かない時がありました。というか、時期的に少し早かったんですね。家内からアップルパイを作るからりんごを買って来て、と頼まれたので、近くのスーパーで4個で498円のリンゴを買いました。それは青森産の真っ赤なりんごで、とても美味しそうでした。ところがそれをケーキに入れようと切ってみたところ、その内の1個が腐っていたのです。どうするのかなぁと思って見ていたら、腐ったところを取り除いて使える部分だけを使ってアップルパイを作りました。どれがいいりんごなのは切ってみないとわかりません。表面的にはどれも真っ赤で美味しそうに見えても、切ってみると中にはこのようなものが入りこんでいることがあるのです。

後日、スーパーに言って、「すみません。この前買ったりんごですが、中に腐ったものがありました」というと、スーパーのご主人が、「そうでしたか、それは大変申し訳ないことをしました。確かにりんごは外からは見分けが付かないので、そういうものが入り込んでいることがわからないんですよ。すぐに新しいものとお取替えします」と言って、1個おまけに2個くださいました。

 

異端も同じです。切ってみるまでわかりません。表面的には同じように見えても、切ってみるまではそれがどのようなものなのかわからないのです。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、あたかもそれが正しい教えであるかのように見せかけますが、中身は自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招くようなことをするのです。だから、そうした偽りの教えに騙されることがないように注意し、いつも本物に触れていることが大切です。聖書をよく学び、聖書の正しい教えを持っていることが必要なのです。

 

偽教師を見分ける第二の方法は、それを教える者がどういう者であるかをよく見ることです。2節をご覧ください。ここには、「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道からそしりを受けるのです。」とあります。どういうことでしょうか。何が正しい教えであり、何が間違った教えなのかを見分けることは困難ですが、それでも、それを見分ける方法があるというのです。それは何でしょうか?それを教えている者がどういう者であるかをよく見ることです。ここには、「多くの者が彼らの好色にならい」とあります。どんなに正しい教えをしているようでも、それを教えている人が道徳的に堕落しているとしたら、それは偽物だと判断することができます。

 

イエス様は、マタイ12:33~35でこう言われました。

「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

木の善し悪しは、その実によって知られます。もし木がよければよい実を結びますが、悪ければ悪い実を結びます。どんなに正しいことを言っていても、もし悪い実を結んでいるのであれば、それは悪い木であると判断することができるのです。

 

パウロは、エペソ4:19で、「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」と言っています。それは神のいのちから遠く離れているため、道徳的に無感覚となっているからです。であれば、結果的に、そのような者から出てくる行いも肉的なものとなります。

 

ペテロは、第一の手紙の中で、「あなたがたは、異邦人がしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像崇拝にふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」(Ⅰペテロ4:3)と言っています。もう十分なのです。それは神を知らない人たちがふけっていたものであって、神を知った今、キリストによって罪が贖われた人には、そのような行いは必要ありません。もう十分なのです。イエス・キリストを信じて新しい者にされたのですから、そういう人は、昼間らしい、正しい生き方をしようと努めるのです。

 

それなのに、こうした生活を続け、彼らの好色にならうなら、真理の道がそしられることになります。どういうことでしょうか?それは、不信者から、「だからキリスト教は変なんだよな」とか「そこが違うよ、キリスト教!」と言われるようになるということです。つまり、全く証になりません。そして、人々が真理から離れて行ってしまうことになるのです。ここには「多くの者が」とあります。怖いですね、多くの者がそのようになるのです。そういえばイエス様もそのように言われました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

そこから入って行く者が多いのです。そことはどこですか?広い門です。滅びの門です。そこから入って行く者が多いのです。しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。そこから入って行かないように注意しましょう。

 

偽教師の特徴の第三は、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にするということです。3節の前半をご覧ください。

「また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。」

彼らは貪欲です。貪欲であるとは、今持っているもので満足できず、もっと欲しいとむさぼるということです。

 

以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちに、それぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろい結果が出ました。調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もっとほしい」と回答したのです。人間の欲望は止まるところを知らないということです。どんなに持っていても、「もう少しほしい」という思いがあるのです。

 

これは生まれながらの人間の性質です。生まれながらの人間はどんなに物があっても満足することができません。もっと欲しいとむさぼるのです。特にお金や持ち物に対して貪欲です。だから聖書はこう言っているのです。

「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分たちを刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:8-10)

 

金銭自体が問題なのではありません。金銭を愛することが問題なのです。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。これは、働き人が報酬を受けることを言っているのではありません。働き人が報酬を受けるのは当然だと、聖書にはっきり教えられています(Ⅰテモテ5:17-18)。ここで言われていることはお金そのものが目的となることであり、貪欲であることです。そしてそのために作り事のことばをもって人々を食い物にすることです。彼らはお金集めを目的として人々が聞きたいことだけを語るのです。

 

「作り事のことば」とは、インチキであるということです。だれかれかまわず、このようなインチキに引っかからせようとしてやって来ます。「食い物にします」の原語の意味は、「商品として売り買いする」です。ですから、ここにも贖いという概念が含まれているのです。このインチキに引っかかると、私たちの罪がせっかく贖われたのに食い物にされてしまいますから、そういうことがないようによくよく注意し、見極めるようにしなければなりません。

 

Ⅲ.偽教師たちへのさばき(3b)

 

それでは、こうした預言者はどのようになるのでしょうか。第三に、その結果です。3節後半をご覧ください。

「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」

 

偽教師は、今は繁栄しているように見えても必ず滅びに至り、さばかれることになります。どのようにさばかれるのでしょうか。ペテロはここで、昔行われたいくつかの例をあげて説明しています。

一つ目の例は、罪を犯した御使いたちに対するさばきです。4節をご覧ください。

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」

これは天使たちの堕落と、彼に対するさばきです。イザヤ書14:12~15には、堕落した天使に対する神のさばきが次のようにあります。

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」

これが悪の起源とされています。いったい悪魔はどこから来たのでしょうか。神が造られたものはすべて良いものばかりだったのであれば、いったいどこから悪が来たのでしようか。ここです。この「明けの明星」とはヘブル語で「ヘーレル」、ラテン語で「ルシファー」です。意味は「輝く者」です。ですから、この明けの明星とは輝く天使でした。天使たちの最高位に位置していた天使長、それがルシファーです。このルシファーが堕落しました。心の中で、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」と言って神に反逆したのです。それで神は彼をよみに落とし、穴の底に落としました。それが悪魔、サタンとなったのです。神さまが造られたものはすべて良かったのですが、神は天使を人間と同じように自由意志を持つものとして造られました。そして、ルシファーは何を血迷ったのか天に上り、いと高き方のようになろうと高ぶってしまいました。それで神はこの天使をさばき、よみに落とされたのです。どんなに輝いていても、どんなに繁栄していても、神に背く者は、このようにさばかれるのです。

 

二つ目の例は、ノアの時代の不敬虔な世界に対するさばきです。5節をご覧ください。ここには、「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」とあります。

ノアの時代、人々の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていました。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。そして、人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまですべて、地の面から消し去ろうと言われました。40日40夜雨を降らせ、不敬虔な世界を洪水で滅ぼされたのです。しかし、神とともに歩んだノアとその家族を保護し、箱舟によって救われました。ノアは人々に、もうすぐ洪水が来るから、あなたがたも悔い改めて箱舟の中に入りなさいと警告しましたが、その言葉を受け入れる人はだれもいませんでした。結局、ノアとその家族以外はすべて神に滅ぼされてしまいました。

 

三つ目の例は、ソドムとゴモラに対する神のさばきです。6節から9節までをご覧ください。

「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」

ソドムとゴモラは、アブラハムの甥のロトが住んでいた町です。そこは主の園のように潤っていたので、ロトはアブラハムと別れて住むようになった時その地に住むことを選択しました。しかし、そこに住んでいたの人々はよこしまな者で、主に対して非常な罪人でした。ここに「無節操な者たちの好色なふるまい」とありますが、いわゆるホモセクシュアル、同性愛が堂々と行なわれていたのです。ロトの家に来た二人の御使いに対して、その町の住人は、「彼らをよく知りたいのだ」とロトに詰め寄りました。神はそうしたソドムとゴモラを火と硫黄で滅ぼし、それ以後の不敬虔な者たちへのみせしめとされたのです。

 

しかし、ロトはというと、そうした神のさばきから救われました。なぜなら、ここに「義人ロト」とあるように、彼はそうしたソドムの近くに住みながらも、心が神から離れなかったからです。というのは、ロトは彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見たり聞いたりしても、それに流されることなく、日々その正しい心を痛めていたからです。

 

私たちも今、ある意味でソドムのような町に住んでいます。しかし、そうした不法な行いを見たり、聞いたりして、日々心を痛め、神から離れることがなければ、ロトのように神のさばきから救い出されます。なぜなら、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして、そのために神はご自身のひとり子を与えてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。この方によって救われるようにと、神は救いの道を用意してくださいました。それが十字架の贖いでした。そこには大きな犠牲が伴いましたが神はそれほどまでに私たちを愛してくださり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。これほど大きな恵みが他にあるでしょうか。ですから、この神の恵みを無駄にすることがないように注意すべきです。もしそのようにして滅びに向かわせることがあったら、神はきびしくさばかれるのです。

 

偽預言者が出ることは避けられません。でも、惑わされないように注意しなければなりません。偽預言者たち、偽教師たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとします。彼らはひそかに異端を持ち込むのでなかなか見分けができないのです。しかし、彼らの最後は滅びです。彼らはいのちに導くのではなく、滅びをもたらします。だから、気をつけてください。あなたがたの中にも偽教師が現われます。世の終わりが近くなると、ますますこうした傾向が強くなります。ですから、惑わされないように注意しましょう。彼らが言っていることをよく聞いてください。彼らは、神は言っていると言いながら、自分の考えを言っていませんか。自分のことを言い当てることに不思議な力を感じていませんか。貪欲に、作り事のことばをもって、あなたを食い物にしていませんか。惑わされないようにしましょう。真理のみことばである聖書に堅くたって、動かされないようにしましょう。この真理のみことばが、あなたを救いへと導いてくれるからです。

 

 

 

 

Ⅱペテロ1章16~21節 「さらに確かな預言のみことば」

前回は、1章12節から15節までの箇所から、「いつも思い起こして」というタイトルでお話ししました。覚えていらっしゃいますか。私たちは、聞いてもすぐに忘れてしまいます。今聞いたかと思ったら、すぐにどこかへ飛んで行ってしまいます。昔、「とんで、とんで、とんで・・」という歌がありましたが、ほんとうにどこかに飛んで行ってしまいます。だから、いつも思い起こして、神の恵みにとどまるようにと励まして、奮い立たせることが、自分に与えられた努め、使命だと、ペテロは語ったのです。

 

きょうの箇所は、その続きです。タイトルは、「さらに確かな預言のみことば」です。ペテロはなぜこんなことを言っているのでしょうか。なぜなら、彼の話というのはうまく考え出した作り話ではなく、実際にそれを目撃した体験者であるからです。体験者は語るのです。

 

Ⅰ.キリストの威光の目撃者(16-18)

 

まず16節から18節までをご覧ください。

「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」

 

どういうことでしょうか?「私たちは」とは、ペテロをはじめとしたキリストの弟子たちのことです。正確に言えば、変貌山でキリストの御姿が変わったのを見たペテロとヤコブとヨハネのことです。ここに、「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」とあるからです。

 

「主イエス・キリストの力と来臨」とは、キリストの再臨のことです。ペテロは第一の手紙で、キリストが再臨することを繰り返し教えました。たとえば、1:7や1:13、2:12、4:7、5:4等です。特に1:13では、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」と勧めています。「イエス・キリストの現われ」とは、イエス・キリストの再臨のことです。その再臨に備えて、心を引き締め、身を慎むようにと勧めたのです。

また4:7でも、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」とあります。「万物の終わり」とはキリストの再臨の時を指します。キリストの再臨に備えて、心を整え、身を慎むようにと勧めました。

 

それは何もペテロが考え出した作り話ではありません。それは主イエスご自身も教えられたことですが、正しいことです。真実な教えです。なぜそれが真実だと言えるのでしょうか。なぜなら、ペテロはそのキリストの威光の目撃者だからです。キリストの神としての栄光を目撃した者だからです。

 

ちょっと待ってください。キリストの神としての栄光の目撃者だとは言っても、それはまだ起きていないことではないのですか?それは世の終わりに起こることであって、ペテロは実際には見ていないはずです。それなのに、どうして彼は、自分たちがキリストの威光の目撃者だと言っているのでしょうか。はい、確かにキリストの再臨は見ていません。しかし、キリストが再臨させる時のご威光は見ました。どこで?あの高い山で、です。あの山はヘルモン山だと言われていますが、その山にイエス様に上った時、目の当たりにしたのです。ヤコブとヨハネも一緒でした。私だけではありません。彼らも一緒でした。そこでイエス様の御姿が変わったのです。その顔は太陽のように輝き、まぶしくて、見ることができないほどでした。そして着ていた御衣は光のように白く輝きました。それは世のさらし屋、クリーニング屋ではとてもできないほどの白さでした。それは何を表していたのかというと、キリストの神としての栄光の輝きでした。ですから、自分たちは実際にキリストの再臨を見てはいませんが、キリストが再臨される時の栄光を見たのです。だから、キリストが再臨するというのは本当のことなのです。それを見たんですから・・。

 

それだけではありません。天から父なる神の御声を聞きました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」ペテロはその御声を自分の耳で聞いたのです。人から聞いたのではありません。自分で聞いたのです。それはペテロだけではありません。ヤコブもヨハネも一緒です。「私」ではなく、「私たち」です。私だけ見たり、聞いたりしたというのであれば気が狂ったと言われてもしょうがないですが、私だけではありません。ヤコブとヨハネも一緒に目撃し、一緒に聞きました。ということはどういうことかいうと、それは事実であるということです。

 

ここでペテロは何を言いたいのでしょうか。当時教会の中にはにせ預言者たちが忍び込んでいました。そして、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んでは人々を惑わしていましたが、彼らはペテロの教えを聞いたとき、「そんなの関係ない」と言ったのです。「ありっこない。嘘だ」と否定したのです。「キリストが再臨するなんてありえない、そんなのはペテロがうまく考え出した作り話だ」と非難したのです。ですからペテロはそれが真実であるということを証明するために、これが本当の話であるということを、自分たちが実際に敬虔した事実として語っているのです。

 

しかし、キリストの再臨はこれから後に起こることであって、だれも経験したことがない話です。それなのに、これが真実な教えだということをどうやって証明することができるのでしょうか。確かにキリストが再臨するのをだれも見たことがありません。でもその再臨の主の栄光を前もって見たというのであれば話は別です。キリストの再臨はこれからまだ先のことであり、だれも見たことがありませんが、その再臨の姿を前もって見ることができたとしたら、間違いなくキリストは再び来られるということになるのではないでしょうか。ですから、このヘルモン山でのキリストの威光を目撃したということは、キリストが再び来られることの威光を目撃したということと同じことなのです。

 

それはイエス様が言われたことです。マタイ16:27,28節をご覧ください。ここには、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」とあります。

これはイエス様が語られたことですが、イエス様は、父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来るとき、おのおのその行いに応じて報いをなさいますが、ここに立っている人々の中には、イエス様が再臨するまで、決して死を味わわない人々がいる、というのです。どういうことですか?それまで死を味わわない人がいるわけがありません。それは世の終わりのことなのですから・・・。

 

それは、このヘルモン山での出来事を指して言われたのです。つまり、ヘルモン山でのキリストのご威光は、再臨の主イエスのご威光だったのです。マタイ17:1には、「それから六日たって」とありますが、この出来事はイエスが言われたことの証明であり、やがて来られるキリストの御姿だったのです。ですから、キリストはまだ再臨していなくとも、あの山上でその御姿を目撃したということは、あの父なる神の御声を聞いたということは、まさに、キリストの再臨を目撃したということと同じことなのです。そのように考えると、16:28のイエス様の言われたことばの意味が分かってきます。このあとペテロとヨハネとヤコブの三人は、イエス様といっしょに高い山に登って行き、それを体験しました。人の子が御国とともに来るのを見たのです。それまでは死を味わうことはありません。彼らは死ぬ前に、キリストが再び来られるのを見たのです。

 

ペテロがこの手紙の中で言いたかったのはこのことだったのです。彼はキリストが再臨することを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話なのではなく、彼が実際に見て、実際に聞いて体験したことでした。彼らは聖なる山で、主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

 

皆さん、聖書は作り話とかでっち上げのようなものではなく、実際に体験した者たちの証言がまとめられたものです。ペテロはキリストの威光の目撃者としてこの手紙を書いたのです。ですから、彼の証言は真実で確かなものです。私たちは今、実際に見たり聞いたりすることはできませんが、神はこのように実際にキリストの威光を目撃した人たちを通してご自身を啓示してくださいました。このような人たちは「使徒」と呼ばれています。使徒とは、イエス・キリストの復活の証人であり、また主イエスと生前ともにいた人たちです。彼らが実際に見て、聞いて、触れて、体験したことが証言としてまとめたもの、それが、私たちが今手にしている聖書です。特に彼らは、十字架と復活の御業を実際に目撃して書いたのです。

 

使徒ヨハネはこのことを次のように証言しています。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現われた永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ1:1-2)

ヨハネは、このいのちは、初めからあったものであり、目で見たものであり、じっと見て、また手でさわったものだと言っています。彼はそれを見たので、その証をし、この永遠のいのちについて私たちに伝えているのです。

 

ですから、聖書は実際にあったことです。間違いのない真理なのです。私たちに必要なのは、この神の啓示の書である聖書に聞くことです。私たちは聞いたので知ることができました。そして知ったので信じることができました。さらに深く主イエスを知るためにはどうしたらいいのでしょうか。この神のことばである聖書をよく知ることです。ここから離れては神を知ることはできません。私たちは彼らが実際に見たり聞いたりしたことを通して、さらにもっと深く、もっと正しく主イエスを知ることができるのです。

 

皆さんは何を見ていますか。何を聞いておられますか。偽りの教えを聞いてはいけません。それは聞こえがいいかもしれませんが、あなたを滅びと恐怖に陥れるだけのわなです。私たちが見なければならないのは、私たちが聞かなければならないのは、この神のことばです。私たちがどう思うかではなく、実際にキリストのことばを聞き、キリストの栄光を目撃したキリストの弟子たちが語った証言、聖書のことばなのです。

 

Ⅱ.さらに確かな預言のみことば(19)

 

次に19節をご覧ください。

「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」

 

ペテロはここで、驚くべきことを言っています。それは、「さらに確かな預言のみことばを持っている」ということです。ペテロは超自然的なすばらしい体験をしました。キリストの神としての栄光を目撃しました。さらに天から父なる神の御声を聞きました。それはうまく考え出した作り話ではなく、彼が自分の目で見、自分の耳で聞いたことです。彼だけでなく、他の弟子たちも一緒に目撃しました。ですから、彼らの証言は真実で確かなものです。しかしペテロはここで、それよりもさらに確かなものを持っているというのです。普通は、自分が目撃したことほど確かなものはありません。裁判においても証人の証言が有効であるように、ペテロの証言も非常に確かなものです。しかし、それよりもさらに確かなものがあります。いったいそれは何でしょうか。それは確かな預言のみことばです。

 

預言のみことばとは、旧約聖書のことです。旧約聖書は創世記からマラキ書まで、全部で39巻あります。それはメシヤ、救い主、キリストが来られることの預言です。キリストとは「油注がれた者」という意味ですが、罪に陥った人間を救うために神が遣わされた救い主のことです。最初の人アダムとエバが罪に陥った瞬間から、神はこの救い主を遣わすことを約束されました。創世記3:15には、「わたしは、おまえと女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。これは、アダムとエバが罪に陥った直後に語られた神の救いのことばなので、原始福音と呼ばれています。これはキリストの十字架と復活によって死の力を持つ悪魔を滅ぼすという預言です。神はまず女の子孫から救い主を遣わすという約束をお与えになりました。そして創世記12章になると、その救い主はアブラハムの子孫から遣わされると示されました。

 

その後神は、神の預言者たちを通して、キリストについての預言をお与えになりました。それは実に三百か所以上、間接的なものも含めると四百か所以上になります。これらを全部開くことは大変でできませんので、その中のいくつかを見たいと思いますが、たとえばⅡサムエル7:12-13にはこうあります。

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

「あなた」とはダビデのことです。ダビデが死んで眠りについてから、彼の身から出る世継ぎの子を起こし、彼の王国をとこしえに確立されると言いました。これはダビデの子ソロモンのことではありません。ここに「とこしえまでも堅く立てる」とあるように、これは王の王であられるキリストが来られる時のことを預言して言われたのです。キリストはダビデ王の子孫から生まれるということでする

 

そのとおり、キリストはダビデの子孫からお生まれになられました。そのことが新約聖書マタイ1:1にあります。

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」

ですから、新約聖書は系図から始まっているのです。神が約束された救い主は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫から来られると預言されましたとおりに救お生まれになられたことを証明するためです。

 

その他にも、救い主は処女にみごもるとか(イザヤ7:14)、ユダヤのベツレヘムで生まれること(ミカ5:2)、その働きはガリラヤから始まり(イザヤ9:1)、このキリストが来られたときにどのような奇跡をなさるのか(イザヤ35:5)、また、キリストはろばの子によってエルサレムに入場されるということも預言されています(ゼカリヤ9:9)。同じゼカリヤ11:13には、銀30枚で売られるということまで預言されています。さらにキリストは苦難を受けるということがイザヤ書53章にあります。そればかりではありません。キリストは死人の中からよみがえることもちゃんと預言されていました。詩篇16:10-11です。

「まことに、あなたは、わたしのたましいをよみに捨てておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:10-11)

キリストは私たちの罪のために死なれたわけですがそこに捨ておかず、神はキリストを三日目によみがえらせてくださいました。その他にも、このメシヤ、救い主に関する預言はたくさんあります。そしてそのすべての預言がキリストによって成就しました。中にはこれから成就するものもあります。キリストが再臨されることなどはその一つです。しかし、キリスト、救い主、メシヤが来られることについて語られた預言のことばは、ことごとく成就しました。それは、この方が旧約聖書で預言されていたあの救い主であるということを示しているのです。

 

皆さん、どうして聖書は確かなものなのであると言えるのでしょうか。それはこの預言が100%成就したからです。神がご自分の預言者たちを通して語られたことが、すべてそのとおりに実現しました。旧約聖書の預言のとおりに、神が約束された救い主キリストが来られました。すべて聖書が預言したとおり成就したのです。この方がまことの神であり救い主であられるイエス・キリストなのです。

 

この手紙を書いたペテロは、このキリストの神としての栄光を目撃しました。直接父なる神の声を聞きました。すばらしい体験をしました。しかし、こうした自分のすばらしい体験よりもさらに確かなものがあります。それが預言のみことばです。なぜこの預言のみことばはペテロの体験よりも確かなものだと言えるのでしょうか。それはこの預言のみことばはすべて成就したからです。ですからペテロは19節の最後のところでこう言っているのです。「それに目を留めているとよいのです」。

 

「夜明け」とは、キリストが再び戻って来られる日のことです。「明けの明星」とはキリストのことです。暗い所とはこの世のことです。この世は暗やみです。神から離れているので真っ暗です。どのように生きていったらいいのか、皆、道に迷っています。本当の希望を知りません。そのような暗やみの中に必要なのは何でしょうか。光です。ともしびが必要です。このともしびこそ神のことばです。詩篇119:105にこう書かれてあります。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

 

神のことばは、この世の暗やみを照らす光なのです。暗やみの中にともしびがあれば、つまずくことがありません。光があれば道に迷うこともありません。ともしびがあれば目的地へ導いてくれます。今は暗やみですが、もうすぐ夜明けがやって来ます。夜明けには太陽が上ります。夜明けの前は真っ暗になります。最も暗いとき、最も寒いとき、それが夜が明ける時です。しかしそのあとに太陽が上ると、すべてを照らします。キリストが再び戻って来られる前に真っ暗になりますが、そのあとに、すべてを照らすまことの光が上ってくるのです。

 

私たちは今、暗やみの中にいますが、神はその暗やみの中にあっても私たちの足元を照らすともしびを与えてくださいました。それが聖書です。それはさらに確かな預言のみことばです。このみことばに照らされるなら、決してつまずくことはありません。夜明けとなって、明けの明星が上るまでは、真っ暗闇ですが、そのような真っ暗闇の中にあっても、それを照らすともしびに目を留めるなら、あなたは決してつまずくことはありません。この預言のことばに目を留めようではありませんか。

 

Ⅲ.神からのことば(20-21)

 

最後に、20,21節を見て終わります。

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

 

ここでペテロは、神のことばについてまず知らなければならないことは何かを教えています。それは、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。どういうことでしょうか。

 

これは大きく二つの解釈があります。一つは、私たちが聖書をどのように解釈するかという意味です。そのように解釈すると、ここは、自分に都合のいいように勝手な解釈をしてはいけない、ということになります。

 

もう一つの解釈は、ここではおそらくこの意味で使われていると思われますが、聖書の預言は、預言者たちの私的解釈ではないということ、つまり、彼らの考えではないということです。すなわち、私たちが聖書をどのように解釈するのかということではなくて、その聖書の預言はどこから来たのかという出どころ、起源のことを言っているという解釈です。恐らく、そういうことでしょう。英語の聖書ではこう訳しています。

「Above all ,you must understand that no prophecy of Scripture came about by the prophets own interpretation.」(NIV)

これはこういう意味になります。「あなたは理解しなければなりません。聖書の預言は、預言者たちの解釈から出たものではないということを・・。」つまり、どこから来たのかということです。そして、それは預言者たちの解釈や考えから来たものではないということです。彼らが自分で勝手に考えて、自分の考えを語ったのではないということです。

 

新改訳聖書改訂版では、ここをとてもよく訳しています。「聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきない。」と訳していますが、この「勝手に解釈するものではないということばに※がついていて、別訳として、「預言者自身の解釈ではない」と説明しています。このように訳している他の日本語の聖書は、創造主訳聖書です。創造主訳聖書では、「聖書に記されている預言はすべて、預言者が自分勝手に語ったものではない。」と訳しています。これがここでペテロが言いたかったことです。私たちがどう解釈するかということではなく、この聖書の預言はどこから来たのかということです。それは預言者たちが自分勝手に語ったものではありません。

 

では、この聖書の預言はどこから来たのでしょうか。21節をご一緒に読みましょう。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

それは決して人間の意志によってもたらされたのではありません。それは聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。創世記から黙示録まで、聖書は全部で66巻ありますが、1,600年以上かけて、40人以上の人たちによって書かれましたが、それは決して人間の意志から出てものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものなのです。「聖霊によって動かされた」とは、聖霊によって運ばれたとか、聖霊によってもたらされたという意味です。ちょうど海に浮かんだヨットのようなものです。ヨットはどのようにして目的地に行くのでしょうか。風です。風を受けて、風に運ばれて動いて行きます。それと同じように、預言は、聖霊の風を受けて、聖霊によって動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。ですから、聖書は神によって書かれた神のことばなのです。

 

Ⅱテモテ3:16には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあります。皆さん、聖書とは何でしょうか。聖書は神のことばです。聖書はすべて神の霊感によって書かれました。神の霊感とは神の息という意味です。聖書は神の息がかけられたものなのです。すなわち、人間のインスピレーションとか、思い付きによって書かれたものではないのです。聖書はすべて神の霊感、神のいぶき、神によって語られた神のことばなのです。それは、預言者たちが意識を失って、ロボットのように勝手に筆が動いたということではありません。「か・み・は、こ・う・い・わ・れ・た・。」と機械的に書かれたのでもないのです。彼らはみな聖霊に動かされて神のことばを受け止め、そのことばを語り、書き止めたのです。

 

ですから、聖書は誤りのない神のことばであり、完全なものです。もしこれが人の考えによって書かれたものであればどうでしょうか。危ないです。これは「7つの習慣」という本から学んだ人生を本当の幸福へと導く成功哲学です。これは40か国以上の言語に翻訳され、全世界で2,000万部を越えるベストセラーになった本で、「人生のOSである」と言われているほどの本なんです。だから信頼するに値します!「そうですか、ところでそれはどこから来たんですか。」「はい、スティーブン・R・コヴィーという有名な哲学者が書きました。」「そうですか、でもどんなに有名な哲学者でも危ないですよ。」Ⅰペテロ1:24-25にはこうあります。

「人はみな草の花のようで、その栄えは、みな草のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

人から出たものは変わります。それは時代によって、国によって、場所によってその価値観も違ってきます。しかし、神は永遠の神です。真実な方です。いつまでも変わることがありません。ですから、この世の暗やみを照らす光として最も信頼できるもの、もっと確かなものなのです。それが聖書です。

 

あなたは何に信頼していますか。何に心を留めておられるでしょうか。あなたが心を留め、あなたが信頼すべきものは、この聖書のことばです。さらに確かな預言のことばなのです。私たちはこのさらに確かな預言のみことば、聖書に目を留め、神に信頼して歩ませていただきましょう。

 

最後に詩篇18:30-32を読んでこのみことばを閉じたいと思います。

「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる。」

Ⅱペテロ1章12~15節 「いつも思い出して」

 今日はⅡペテロ1章12節から15節までのみことばから、「いつも思い起こして」というタイトルでお話したいと思います。

 Ⅰ.いつも思い起こして(12)

 まず12節をご覧ください。
「ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」

「ですから」とは、これまでペテロが語ってきたことを受けてのことです。ペテロはこれまでどんなことを語ってきたのでしょうか。それは救いの恵みと救いの確信に関することです。すなわち、私たちが救われたのは一方的な神の恵みであるということ、そしてその恵みを信じる信仰によってであるということ、また、そのように主イエスを信じたことで、主イエスの神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのものを私たちに与えてくださったということです。いのちとは永遠いのちのことです。敬虔とは信じた人の生き方とか考え方、価値観のことです。イエス様を信じたことで私たちに神のいのちがもたらされ、そのいのちは、私たちの人生に豊かな恵みと力をもたらしました。それまではこの世の欲によって滅びていくような者でしたが、イエス様を信じたことで、この世の欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者とされたのです。

そればかりでなく、その救いの恵みに応答しあらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えることによって、豊かな実を結ぶ者となりました。このことを忘れなければ、つまずくことなど決してありません。私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。これらのことです。

これらのことを、この手紙の受取人たちは知らなかったのでしょうか。いいえ、知っていました。ここには、「すでにこれらのことを知っており」とあります。すでに知っていたというだけでなく、その真理に堅く立っていました。それなのに、なぜペテロはこれらのことを語る必要があったのでしょうか。

ここには、「とはいえ」とあります。彼らはすでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っていましたが、とはいえ、あえて言いたかったのです。なぜなら、いつも思い起こしてほしかったからです。「私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」とあります。神がしてくださったすばらしい救いの御業、すでに救われて神のご性質にあずかっているということを忘れないように、いつもこれらのことを思い起こさせたかったのです。なぜでしょうか。人はすぐに忘れてしまうからです。

人は本当に忘れやすいものです。皆さんは昨日の夕食に何を食べたか覚えていますか?ほとんど覚えていないでしょう。料理を作られた方は覚えているかもしれませんが、食べるだけの人であればすぐに忘れてしまいます。
私は学生の頃一生懸命英語の単語を覚えました。豆カードの表に英語の単語を書き、裏にその意味を書いて、何回も繰り返して記憶させるのです。ところが、30分もしないうちに半分くらいは忘れてしまいます。それでも何度も繰り返して完璧に覚えても、翌朝にはすっかりさ忘れているのです。

最近とても困るのは人の名前を忘れてしまうことですね。「あれっ、あの人の名前は何だっけなぁ」なかなか思い出せません。先日もスーパーキッズの時間に2階でお母さんたちのための聖書の学びをしましたが、そこにいつも参加している一人のお母さんの名前を度忘れしてしまいました。ちょうど学びに入る前だったので、別のお母さんがキッチンでケーキを切っていたので、その方の所に行って小声で、「あの方、何というお名前でしたっけ?」と聞いたら、「どの方ですか、あの方は舩山さんです。」と教えてくれました。それで、問題なく学びを進めることができたので助かりました。

先日も、注文した本がなかなか届かないので仙台のバイブルショップに電話して、「ちゃんとやってもらいますか?」と言おうと思ったら、その電話に出られた方が、「大橋先生、覚えていらっしゃいますか。佐藤です。佐藤康子です。福島にいたときお世話になりました。」と言われましたが、一瞬「あれっ、だれだろう」と頭が真っ白になりましたが、昔のことは意外と覚えているんですね。その方のお顔を鮮明に覚えていて、思い出すことができました。もう30年も前に短大の学生さんとしていらしていた方です。かなり昔のことでしたが、よく覚えていました。でも話の中で「平井さんはどこにいるんですか?」と聞かれたのです。「平井さんですか、彼女は結婚して今山形にいますよ」と答えられたところまでは良かったのですが、結婚して苗字が何となったか度忘れしてしまったのです。「彼女は今結婚して、あれっ何だっけな、ええと、ちょっと待って、ああ、なかなか思い出せない。まあ、とにかく結婚して元気にしています。」という会話になってしまいました。そして、受話器を置いたとたん思い出したのです。「あっ、思い出した、早坂さんだ!」こういうことってよくあるでしょう。すぐに忘れてしまいます。

神の救いについてはどうでしょうか。私たちは自分が救われていることをどれだけはっきりと覚えているでしょうか。忘れてしまうと、ただ忘れるというだけでなく、元の生活に逆戻りしてしまいます。救われているはずなのに、いや、救われているのですが、でも元に戻ったようになってしまうのです。

それはイスラエルの民も同じでした。彼らはエジプトから救い出された後、神の民としてどうあるべきなのかを聞いても、すぐに忘れてしまいました。それで約束の地を前にして、モーセはもう一度彼らに神のおきてを語りました。それが「申命記」です。「申命記」というタイトルは英語では「Deuteronomy」と言いますが、これは「再び語る」とか「もう一度語る」という意味です。どうしてもう一度語る必要あったのでしょうか。それは彼らが忘れないためです。神様は彼らが忘れやすい者であるということをちゃんと知っていました。その時は聞いているかのようですが、全然聞いていません。右から入ったかと思うと、すぐに左の方に抜けて行ってしまいます。だから、忘れないようにともう一度語ったのです。

その申命記の中で、主がモーセを通して繰り返し、繰り返し語ったことは次のことでした。ちょっと開いてみたいと思います。6章4節から12節までをご覧ください。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。・・私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:4-12)

このように、モーセの最後のメッセージは、主を愛するようにということでした。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさいということを心に刻み、これを忘れないようにしなさい、ということだったのです。しかし、彼らが約束の地に入るとすっかり忘れてしまいました。そして敵に征服され、ついには国が分裂するという悲劇を招きました。

それはイスラエルだけではありません。すべてのクリスチャンに言えることです。黙示録2章と3章にはアジヤにある七つの教会に書き送られた手紙が書かれてあります。この七つの教会は、この地上のすべての教会のひな型です。それらの教会は現在どのようになっているかというと、すべてイスラム教の寺院に化しているのです。なぜでしょうか。忘れてしまったからです。
たとえば、2章4節にはエペソにある教会に、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。」(黙示録2:4-5)と書き送られましたが、彼らは初めの愛から離れてしまいました。初めは熱心でした。心から主を愛していました。しかし豊かになると、初めの愛から離れてしまったのです。だから主はここで、どこから落ちたかを思い出して、悔い改めて、初めの行いをしなさいと言われたのです。

また、サルデスの教会には、「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされてはいるが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」(黙示録3:1-3)と書き送られました。彼らは、はたから見たら熱心な人たちでした。いろいろな活動をしていました。しかし、霊的には眠ったような教会で、ただ形式的に、義務感から礼拝しているような教会でした。ですから主はここで、「だから、あなたがたはどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」と言われたのです。

「思い出しなさい」。思い出すことは大切なことです。私たちも主を忘れてしまうと、自分の罪が赦されているのを忘れてしまうと、昔のむなしい生活に逆戻りしてしまいます。ですから、ペテロはここで、あなたがたはすでにこれらのことを知っており、その真理に堅く立っている人たちですが、とはいえ、私たちはこういう弱さを持っているので、いつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとしているのです、と言っているのです。

きょうは、この後で聖餐式を行いますが、なぜ聖餐式を行うのでしょうか。忘れないためです。主イエスは言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(ルカ22:19)私たちのために主はどんなことをしてくださったのか、そのために主は十字架にかかって死んでくださいました。そのことを忘れないで心に刻むために、行うのです。どうか忘れないでください。そうすれば、決してつまずくことはありません。そして、あらゆる恵みがますます加えられ、イエス・キリストのご性質へと変えられていくでしょう。

Ⅱ.奮い立たせるために(13)

「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」

「地上の幕屋」とは、肉体のことを指しています。ペテロは自分のこの地上の肉体を指して「幕屋」と言ったのです。ペテロは生きている間、自分がすべきことが何かを知っていました。それは、これらのことを思い起こさせることによって、人々を奮い立たせることです。これが、自分が生きている間、自分がなすべき務めであると思っていたのです。

もともと彼は漁師でしたが、そんな彼を主は召してくださいました。しかし荒々しく、直情的な彼は、いろいろなことで失敗もしました。彼の最大の失敗は、鶏が鳴く前に三度、イエス様を否むことでした。「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)とは言ったものの、いざイエス様が捕らえられると、彼はイエス様が言われたとおりに、イエス様を否んでしまいました。彼はどれほど悲しかったでしょうか。聖書には、ペテロは、鶏が鳴いたときイエス様が言われたあのことばを思い出し、外に出て激しく泣いた、とあります。しかし、イエス様はそんな彼のために祈ってくださいました。信仰がなくならないように祈ってくださったのです。なぜでしょうか。それは、彼が立ち直ったら、同じように落ち込んでいる人たちを励ましてあげるためです。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)
ペテロはこのことばを心に留め、繰り返して周りの人たちを励まし続けてきました。救われたことを思い起こすように、自分がどこから救われたのか、主を裏切った自分が主のあわれみによってまた再び立ち上がらせていただき、その恵みを忘れないように、いつも主のことばを思い起こすように、そう言って彼は人々をずっと励まし続けてきたのです。

それは私たちにも同じです。私たちもペテロ同様失敗しては落ち込み、なかなか立ち上がれないでいるような者です。しかし、朱はそんな私たちのために祈ってくださいました。それは、私たちも立ちあがったら兄弟たちを励ましてあげるためです。不思議なことに、信仰が落ち込んでいる時は、他の人はだれも自分のような経験なんてしたことがないだろうと思って孤独になりがちです。そのような時、いつもそばにいて話を聞いてくれる人がいたら、そして励ましてくれる人がいたら、どんなに慰められることかと思います。

ペテロは、それが自分の生涯において自分がなすべきことだと受け止めていました。それはペテロだけでなく私たちにも求められているのではないでしょうか。神は、私たちがペテロのように信仰で悩み、苦しみ、失敗し、落ち込んでいる人たちを励ますために、用いようとしておられるのです。

Ⅲ.クリスチャンの努め(14-15)

ペテロはなぜそのように思っていたのでしょうか。14節にその理由が記されてあります。「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」

ペテロは、人々の信仰を励ますこと、人々を奮い立たせることが、自分に与えられている使命だということをよく理解していました。それは、彼が自分の死が間近に迫っているのを知っていたからです。幕屋とは先ほども申し上げたように「テント」のことです。キャンプの時テントを張って一時的に寝泊りすますが、キャンプが終わるとテントをたたんで家に帰ります。それと同じように、私たちのたましいはこの肉体というテントに一時的に住みますが、やがて肉体を去るときがやって来ます。その時私たちのたましいは永遠の住まいである天のふるさとに帰ります。そしてイエス様が再び地上に来られるとき、もはや古いからだではなく新しいからだ、栄光のからだをいただいて、永遠に主とともに生きるようになるのです。それはもうテントのような一時的なものではありません。決して滅びることのないからだ、天国というマンションに住むようになるのです。このことをパウロはこのように言っています。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(Ⅱコリント5:1)
私たちの住まいである地上の幕屋、地上の建物が壊れても、神が下さる建物があります。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。

ペテロは、自分がこの幕屋を脱ぎ捨てるとき、すなわち、死が間近に迫っているのを知っていました。ですから彼は、自分がこの地上で何をなすべきかを覚え、そこに専念したのです。

それはパウロも同じ多です。パウロも自分の死が近づいたとき、このように言いました。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
すばらしいみことばです。私の墓石にも書いてもらいたいみことばです。「走るべき道のりを走り終え」このようにペテロも、パウロも、栄冠を受けたるために、走るべき道のりを走り終えました。彼らは自分たちのゴールを知っていたのです。ゴールを知らないような走り方ではなく、ゴールを知っていて、ゴールに向かって走っていたのです。だから、途中いろいろなことがあってもそれを乗り越えることができました。このように自分のゴールを知っているということは大切なことです。

あなたの人生のゴールは何でしょうか。あなたは今そこに向かって走っておられるでしょうか。私たちのゴールはこの地上にはありません。私たちのゴールは神の国です。このゴールを知っている人は、たとえ死を間近にしても何の恐れもありません。また、このゴールを持っている人はどんな苦難の中にあっても生きる希望があるので前進することができるのです。今生かされていることに感謝して、今自分にできることを熱心にやろうと奮闘するのです。

そればかりではありません。15節をご覧ください。ここには、「また、私が去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こさせるよう、私は努めたいのです。」とあります。
「私が去った後に」というのは、ペテロが死んだ後にということです。この「去る」という言葉は英語の「exodus」、つまり「出国」のことです。これは「出エジプト記」の書名にもなっている言葉です。同じ言葉がルカ9:31で、イエス・キリストの死、最期を表すために使われています。つまり、聖書は、「死は」終わりではなく、むしろ新しい場所への出発、出国として教えているのです。この世では悩みや苦しみ、叫び、死がありますが、神の国では死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。ペテロはこの後で自分が捕らえられて処刑されるということを知っていましたが、このことを覚えて喜んでいたのです。そしてそれだけでなく、残されている人たちのことを考え、彼らを励まそうと、自分が去った後もそのことを思い起こせるように、努めていたのです。すごいですね。生きている間だけでなく、死んでからも、残された人たちが励まされるような生き方をしようと努めていたとは。彼は自分が死んだ後で自分のことを思い出してほしいなんて思いませんでした。残された人たちが励まされるようにと願っていたのです。

いったいどうしたら残された人たちが励ましを受けることができるのでしょうか。彼らがいつもこれらのことを思い起こすことによってです。これらのことって何ですか。それは彼がこれまで語ってきた救いのすばらしさです。イエス様を救い主と信じたことで、永遠のいのちと敬虔に関するすべてのものが与えられました。また、キリストのご性質にあずかる者ともされました。イエス様を信じたことで、すべてのものが与えられました。何という恵みでしょう。このことを彼らがいつでも思い起こせるように努めたのです。

皆さんはどうでしょうか。死んだらどうしようとか、病気になったらどうしよう、ちゃんと食べていけるだろうかと不安になってはいませんか。ペテロはここで、自分はもうすぐ幕屋を脱ぎ捨てる時が近くなっていることを知っている。でも行先は天国ですから何の心配もありません。心配なのは、残された人たちがどうやって励ましを受けるかということであって、そのためには、いつでもこれらのことを思い出してほしい。思い起こせるようにと努めたいと願っていました。

これは神が私たちにも望んでおられることです。私たちはこの先どうなるかということを心配するよりも、残された人たちがこの信仰にしっかりと立っていることができるようにと努めることです。そのためには、彼らがいつもでもこのことを思い起こせるように、私たちがただ口で言うというだけでなく、その神の恵みの中を実際に生きるということです。私たちがこの世を去る時に、「ああ、おじいちゃんは走るべき行程を走り終えた。神の恵みって本当にすばらしい!主よ、感謝します。」と残された人たちが言えるような生き方を、私たちも努めたいと思うのです。

Ⅱペテロ1章5~11節 「救いを確かなものとしなさい」

  きょうは、ペテロの手紙第二1章5節から11節まで箇所から、「救いを確かなものとしなさい」というタイトルでお話しします。この手紙はペテロによって書かれた彼の生涯の最後の手紙です。既に見てきたように、第一の手紙では迫害によって苦しんでいた人たちを励ますために書かれましたが、この第二の手紙は、同じ読者ですが、教会の内側にいた偽教師たちの攻撃に対してどのように対処したらよいかを教えるために書かれました。彼らは聖書の教えを曲げ、教会の人たちを混乱させていました。そんな偽りの教えに惑わされないために何が必要なのか、それは正しい知識です。

 ですからペテロは、前回の箇所で救いに関する正しい知識を教えました。その中でもベースになるのが救いに関する教えです。悪魔が最初に攻撃してくるのは、救いに関することだからです。パウロはエペソ書の中で、「救いのかぶとをかぶり」と言いました。それは頭を守るようなもので、しっかりとかぶとをかぶっていないと、致命的な傷を負ってしまうことになります。

きょうのところでペテロは、そのようにして救われた私たちが、その救いを確かなものとすること、すなわち、救いの確信を持つことについて教えています。

 Ⅰ.キリスト者の7つの性質(5-7)

 まず5節から7節までをご覧ください。
「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」

 「こういうわけですから」とは、これまで彼が語ってきたことを受けてのことです。ペテロは、私たちが主イエスを知ることによって、いのちと敬虔に関するすべてのものが与えられたと述べました。この約束のゆえに、世にある欲によって滅びていくような者であったのにもかかわらずそこからも免れさせてくださり、イエス・キリストのご性質にあずかる者とされたのです。

「こういうわけですから、あなたがたはあらゆる努力をして」それは、一方的な神の恵みによるものでした。しかしそれは、私たちはもう何もしなくてもいい、ということではありません。「こういうわけですから、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
あらゆる努力して救われなさい、ということではありません。私たちはすでにイエス・キリストを信じる信仰によって救われました。行いによるのではありません。神の恵みのゆえに、信じただけで救われました。救いは神の賜物であって、私たちの努力や行いとは全く関係ありません。救われた後で、努力して良い行いをしないと救いを失ってしまうということでもありません。恵みによって始められた救いの御業は、恵みによって貫かれ、恵みによって完成します。神は、そのために必要な一切のことをしてくださいました。

ではペテロはなぜここで「あらゆる努力をして」と言っているのでしょうか。努力するとは「勤勉である」とか、「熱心である」、「励む」、「奮闘する」という意味があります。たとえば、皆さんが親から1,000坪の畑をもらったとしましょう。畑だけでなく作物の収穫に必要な一切のもの、種とか、肥料とか、農機具とかもすべてです。あとはあなたが働いて、収穫を楽しむだけです。もうすべてあなたのものです。ただし収穫するためには働かなければなりません。そのためには勤勉でなければなりません。だから、聖書には、勤勉で、怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい、とあるのです。もし怠けて何もしなければ、畑を無駄にしてしまうことになります。せっかく良い土地が与えられたのに、そこには雑草しか生えてないとしたら、何ともったいないことでしょう。私たちの救いも同じです。神は私たちにすべてのものを与えてくださいました。永遠のいのちが与えられました。そして、イエス・キリストの神のご性質にあずかる者としてくださいました。しかし、それは自動的にもたらされるというのではありません。私たちが豊かな実を結ぶためには、神と共に働かなければならないのです。神が既にしてくださったことに従って、私たちが熱心にそれに応答するとき、神の御霊なる聖霊が働いて、私たちを神が望んでおられる者に変えてくださるのです。多くの実を結ばせてくださるのです。

ペテロはここで、私たちが実を結ぶべき7つの性質を述べています。それは徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛です。この7つの性質の土台となるのは何ですか?信仰です。ここでの信仰とは救いの信仰です。私たちはキリストを信じる信仰によって救われました。すべての罪は赦され、義とされ、新しく生まれ、神の子とされました。その始まりは、イエス・キリストを信じたことによってです。そして信じた人にはみな、神の子としての性質が与えられました。ですから、イエス・キリストのご性質、神のご性質へと変えられていくのです。しかし、それはほっといておいて自動的にそうなっていくというのではありません。それは、私たちがあらゆる努力をして、熱心に、追い求めなければならないことなのです。

私たちが追い求めるべき7つの性質、それはまず徳です。信仰には徳をとあります。徳とは何でしょうか。徳とは、優れた道徳のことです。信仰は優れた道徳を生み出します。その力も与えます。キリストを信じる前は、不道徳でした。しかし、信じた後は少しずつですが、モラルが向上していきます。今まで平気でしていたことができなくなります。なぜできなくなるのでしょうか。キリストを知ったからです。イエス・キリストは最高の徳を持っておられました。イエス様はその言葉にも、行いにも、全く完全な方でした。私たちはこの方を知ったので、この方を信じたので、この方と一つになったので、変えられました。イエス・キリストを知ればしるほど、親しくなればなるほど、そのようになっていくのです。友達もそうですよね。悪い友達といればその人の悪い影響を受けることになります。逆に、いい友達といればその良い影響を受けるようになります。私たちは以前イエス様を知りませんでしたが、イエス様を知ったので、イエス様のようになっていくのです。

次は何でしょうか。次は知識です。徳には知識を加えなさい、とあります。優れた徳を持つためには知識が必要です。何が良いことなのか、何が悪いことなのかを知らなければ、優れた徳を行うことはできません。徳には識別力が求められるのです。偽りの知識は私たちを偽りの道へと導きますが、正しい知識、真の知識は、良い行いへと導きます。では真の知識とは何でしょうか。それは神のみことばです。神のことばは真理です。詩篇119:130には、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」とあります。ですから、私たちが熱心に神のことばを学ぶなら、真の知識を知り、良い行いへと導かれていくのです。

そして、知識には自制を加えます。信仰はすぐれた徳を生み出します。優れた徳のためには真の知識が必要です。でも知っていても自制しなければ、ブレーキをかけることができなければ、愚かな結果を招くことになります。そのためには自分の肉の欲を自制しなければなりません。この「自制」という言葉はアスリートに使われた言葉です。アスリートは賞を得るために自分のからだを鞭打ってでも従わせます。同じように、私たちも神からの賞を得るために誘惑に負けないように自制しなければなりません。Ⅰコリント9章でパウロはこう言っています。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせています。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:24-27)

そして、自制には忍耐を加えます。忍耐とはただ何もしないで辛抱するということではありません。忍耐とは積極的に、勇敢に、試練に立ち向かうことです。どんなに苦しくてもあきらめません。最後まで戦い続けます。ではどうしたら忍耐を身に着けることができるのでしょうか?それは試練を通ることによってです。パウロはローマ5:3でこう言っています。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3-4)
患難が忍耐を生み出します。パウロには多くの患難がありましたが、彼はその患難を喜んでいると言いました。なぜでしょうか。なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っていたからです。

最近、80歳を超えた一人の姉妹とお話ししていました。信仰をもって25年になるというその方は、謙遜で、柔和で、穏やかな方です。がしかし、内側には主に対して燃えるような愛を持っておられる方で、礼拝や祈祷会を休まないのはもちろんこと、機会があれば積極的にご友人を教会に誘っておられます。どうしたらそんなにりっぱな信仰者になれるのと思いながら話を聞いていたらわかりました。それはその方が試練の数々を通られたからです。60を過ぎてご主人を病気で天に送るとご主人の後を継ぎ、女手一つで砂利屋の社長として7年間切り盛りし、その後ご家庭に降りかかる数々の試練を乗り越えたことで、その品性が磨かれたのです。できれば試練は避けて通りたいものですが、その試練を通して忍耐が与えられ、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出したのです。

ヘブル10:36にはこうあります。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」もしあなたがいま試練の中にあるなら感謝です。それは、この忍耐が生み出される時でもあるからです。

この忍耐に敬虔を加えなければなりません。敬虔とは、神を恐れ敬って生活することです。神を礼拝すること、キリストのように生きることです。実際の生活の中で神を意識して生活すること、信仰を働かせることです。実際の生活と信仰とを切り分けて考えるのではありません。実際の生活の中で信仰によって生きることです。教会に来る時は神を賛美し、神を礼拝し、神のことばを聞いて、神に集中しますが、家に帰ると「あれっ、さっき牧師が言っていたことって何だったけ?」と忘れてしまうのではなく、いつもそのことを思い巡らし、心に留めて生きることです。

時々週の半ば頃に、「先生、実は今週こんなことがあって悩んでいたんですが、礼拝で語られたあのみことばを思い出して祈っていたら、平安が与えられました。感謝します。」ということを聞くことがあります。礼拝で聞いたあのみことばをずっと心に留めて生活しているということに、とても励まされることがあります。まさに敬虔に生きるとはそういうことです。いつも神を意識して生きるのです。家に帰っても神を意識してください。主があなたとともにおられます。学校や職場でも神を意識してください。私たちが主を認めて、主を意識して生きるなら、主もまたそこにいてくださいます。そうすれば、当然、悪いことはできません。
私たちはよく子どもたちに「悪いことはするなよ」と言いますが、実際はそのように言うよりも、「いつもイエス様のことを思っていなさい」言った方がよっぽど効果があります。なぜなら、イエス様のことをいつも思っているなら悪いことはできなくなるからです。それは大人も同じです。主イエスをよく知ることです。主イエスを知れば、当然悪から離れ、神に喜ばれる生活をするようになります。完全にではありませんが、良い業に励むようになるのです。ですから、敬虔なクリスチャンというのはいつも神を恐れ敬い、神を喜び、神とともに生きる人のことなのです。

パウロはⅠテモテの中で、「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(Ⅰテモテ4:7-8)と言っています。肉体を鍛えるということはとても大切です。特に年を重ねていくと、体が堅くなって動かなくなっていきます。ですから、ウォーキングをしたり、筋トレをしたりといったことが重要になってくるわけで、それを怠るとすぐに結果に表れます。ですから、肉体の鍛錬は有益だと教えているわけですが、しかし、それ以上に、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてにおいて有益です。私たちがこの敬虔を鍛錬していけばいくほど今の生活において有益ですが、将来においても有益のです。それは永遠に益となることだと言うのです。忍耐に敬虔を加える。私たちも敬虔のために自分を鍛錬しましょう。

さらにペテロはここで敬虔には兄弟愛を加えなさいと言っています。兄弟愛とは友情の愛です。信仰の仲間を愛することです。Ⅰヨハネ4:20~21にこう書かれてあります。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目の見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(Ⅰヨハネ4:20-21)
キリストの命令は何でしたか。それは、「互いに愛し合いなさい」ということでした。イエス様はこう言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)
兄弟愛、すなわち、私たちが互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であることを信仰のない人たちも認めるようになるのです。

最後に、兄弟愛に愛を加えなさいとあります。愛とは神の愛のことです。アガペーの愛、犠牲的な愛、意志の愛です。好き嫌いは関係ありません。自分の好みといったことも関係ありません。意志で愛します。犠牲的な愛、本物の愛です。神は愛です。どのようにして神は愛だとわかったのでしょうか。神の愛を知ったからです。神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛されました。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。問題は、その「世」とは、どのような世であったかということです。その「世」は神に背を向け、神に敵対している世でした。にもかかわらず、神は私たちに対する愛を示してくださいました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子をお遣わしになりました。ここに神の愛が示されたのです。その神の愛を知りました。その愛を知った時、その愛に応答して、神を愛する者になりました。そして、神を愛するだけでなく同じ信仰の仲間である兄弟を愛するようになります。さらにその愛は広がりを見せて隣人を、そしてすべての人を愛するようになりました。また神を愛する者は、神の言葉に従って生活するようになります。神の言葉に従って生活をするので敬虔な人となり、試練の中でも忍耐をします。そして誘惑に遭っても自制し、真の知識に従って賢く、優れた行いをするようになるのです。その土台は何でしょうか。信仰です。主イエスを知ったことです。すべては主イエスを知ったことから始まりました。主イエスを知って、永遠のいのちが与えられたことから始まりました。永遠のいのちが与えられ、敬虔に関するすべてのこと、その思いや考え方、そして人生のすべてが変えられました。ですから、今度は私たちがあらゆる努力をしてこれらのものを加えるなら、聖霊の助けによって、イエス・キリストの性質に変えられるのです。

Ⅱ.実を結ぶ者とそうでない者(8-9)

「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」

聖書は、イエス・キリストを信じた者はみな、例外なく、多くの実を結ぶと約束しています。これが神の約束の一つです。神はたくさんの約束を、聖書を通してなさっています。その一つが多くの実を結ぶことです。イエス様はヨハネによる福音書15章において、ぶどうの木のたとえを話されました。それは、イエス様がぶどうの木であり、私たちが枝であるということです。そして、人がわたしにとどまり、わたしがその人にとどまるなら、その人は多くの実を結びます。キリストを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。私たちがキリストにとどまっているなら、そしてキリストも私たちの中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結ぶのです。これは神の約束です。これは自然界の真理であって、霊的にも言えることです。もし多くの実を結んでいないとしたら、何かが間違っているのです。どこかおかしいのです。ですから、自分を点検する必要があります。

ペテロは、この実を結んでいる人とそうでない人を比較しています。9節には、「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」とあります。

信じた者にはみな神の性質が与えられていて、その性質はキリストのように変えられていくわけですが、その一方でこれらの性質を備えていない人がいます。ペテロはこれらの人は、近視眼であり、盲目であると言っています。近視の人は遠くのものがはっきり見えません。盲目だと完全に見ることができません。私たちは、キリストを信じる前は盲目でした。神について何も知りませんでした。霊的に完全な盲目だったわけです。ですから不道徳だったわけです。その基準を知りませんでした。自分のやりたいこと、それが基準でした。自分のやりたい放題のことをしていたのです。誘惑がきたら喜んでそれについて行き、罪を楽しむようなことをしていました。また横柄で、人を見ては蔑み、神を敬うということなどは全くありませんでした。しかし今は違います。今はキリストを知って、神の愛を知って、神を愛するようになりました。隣人を愛するようになりました。神に喜ばれるような生活をしたいと願い、良い行いに励もうと努力するようになりました。なぜですか?主イエス知ったからです。聖書を通して真理であられる主イエスを知ったからです。そしてこの方を知れば知るほど、友達から影響を受けるように、この方からもっと大きな影響を受けて、この方の性質にどんどん変えられて行って、豊かな実を結ぶようになったのです。枝が木についていれば実を結ぶのと同じです。

しかし、この方から離れてしまうと、枝が木から離れると実を結ばないように、実を結ばなくなるのです。ですから、元の生活へと後戻りしていきます。不道徳になります。善悪の判断がつきません。否、知っていても、自分から誘惑の方に向かっていきます。そして自分の欲望に従って罪を楽しみ、罪を犯して、結果、楽しいのかというとそうではなく、みじめになるのです。みじめだとわかりながらも、良いことをする力がありません。木から離れているからです。木から離れ、いのちから離れているので、何の力もないのです。それを繰り返していると、自分は救われていないのではないかと思うようになります。神は私を愛していない。神に見捨てられてしまったと思ったりもするわけです。その人はどういう人だとペテロは言っていますか?その人は、自分の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。救われたはずなのに、救われているのに、救われていないかのように、救われたことをすっかり忘れているのです。それを思い出すことができません。自分の過去がどうだったのか、救われた時どうだったのか、キリストが救ってくださった時のことを思い出すことができない。忘れてしまった。その人が本当にキリストを知っているかどうかは実をみるとわかります。キリストにとどまる人は多くの実を結びます。しかし、キリストから離れてしまっている人は、実を結ぶことができません。

Ⅲ.救われたことを確かなものとしなさい(10-11)

ですから結論は何かというと、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい、ということです。10節と11節をご覧ください。
「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。」

「ですから」とは、実を結ばないのは、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったので、ということです。キリストのご性質にあずかれないのは、自分の罪がきよめられたということを忘れていることが原因なのです。ですから、ペテロはここで、ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい、と述べているのです。召されたことと、選ばれたことと、いうのは同じことを指しています。それは私たちが救われたことです。神が私たちを救いに召してくださいました。神が救いに選んでくださいました。私たちが選んだのではありません。神が選び、神が任命してくださいました。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。その救われたことを確かなものとしなさいと言うのです。

皆さんはどうでしょうか。自分が救われたという確信を持っているでしょうか。ある人は、「いや、ある時は救われているような気がするんだけれども、そうでない時もあります」と言います。またある人は、「いや、そんなの死んでみないとわかんね~と言う人がいます。そのような状態ではどんな不安のことかと思います。なぜなら、私たちが安心して生活できるのは将来に対する保証があるからです。それがなかったら不安になります。老後の生活をする時は老後の生活を計算して大丈夫だという確信があるから安心して過ごせるんでしょ。それがなければ、安心して過ごせません。それは永遠のいのちも同じです。死んでみないとわからないというのでは不安になります。ですから、救いの保証なり、確信を持つということは、私たちが安心して生きるためにどうしても必要なことなのです。ではどうしたら救いの確信を持つことができるのでしょうか。

そのためには二つのことが必要です。まず、いつまでも変わることのない神のことばです。神のことばは何と言っているかということです。もし私たちの救いが感情によるのであれば今日のように天気のいい日は救われていると思っても、吹雪のような荒れた日になれば、一気にその気分は吹っ飛んでしまうでしょう。こうして礼拝で賛賛美しているとし気持ちよくて救われたような気がしますが、ここから帰る途中車を運転していて、追い越されたりすると、「クソッ」と思って、「ああ、やっぱり私は救われていないんじゃないだろうか」と思ったりします。このように感情をあてにしていたら、上がったり下がったりして安定感がありません。

それでは私たちの信仰の経験はどうでしょうか。こんなすばらしい体験をした、こんな奇跡を体験した、いやしを体験したから、だから私は救われている。どうでしょうか。こうした体験そのものはすばらしいものですが、そうした体験も救いを保証するものにはなりません。なぜなら、そういう体験をしなければ、自分は救われていないのではないかと思ってしまうからです。ですから、感情も、体験も、私たちに確かな救いの保証を与えるものではありません。では何が私たちに救いの確信を与えてくれるのでしょうか。神のことばです。神のことばは永遠に変わることがありません。この神のことばが何と言っているか、聖書に何と書いてあるかです。たとえば、ヨハネ1:12にはこうあります。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)
キリストを信じた人々、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられました。ですから、もしあなたがイエス・キリストを信じているのなら、あなたは神の子としての特権を持っています。
また、ローマ10:9-10にはこう書かれてあります。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:910)
どうしたら救われるのですか。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。あなたはこのことを聞いたでしょうか。知ったでしょうか。そしてそのことを信じたでしょうか。イエス・キリストが私の罪からの救い主、主であると信じたでしょうか。「はい、信じました」とはっきりと告白できるのであれば、あなたはもう救われています。神の子とされたのです。そして本当に救われたのであれば、救いを失うことはありません。イエス様はヨハネ10:28でこう言われました。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
キリストの手から誰も奪い去るようなことはできません。さらにイエス様はこう言われました。
「わたしに彼らを御与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:29)
このような確かな保証が私たちに与えられているのです。これが神のことばである聖書が私たちに約束していることです。ですから、この神の言葉にしっかりと立ってください。聖書にあるその約束のことばをどうか握ってください。何か電撃的に、雷が落ちて、あなたの内側ですごい体験をした、このことばはすごく響いたという感覚で受け取る必要はありません。聖書を読んでいて、そのみことばを、あなたの心にしっかりととどめるということです。神のことばがこう約束しているから、私はイエス・キリストを信じました。私の罪からの救い主として信じました。イエス様、どうぞ私の心の内に来てください。あなたこそ私の救い主、主です。このことをあなたが自分の意志で受け取ったなら、あなたは救われるのです。神のことばがそう約束しているので、聖書にそう書かれてあるので、そう確信できるのです。これが私たちの救いの確信です。神のことばによってその確信が与えられます。そのことばをしっかりと握ることです。

それから、救いの確信を持つためにもう一つ大切なことがあります。10節をご覧ください。ここでペテロは、「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません」と言っています。どういうことでしょうか。私たちが救われるために必要なのはキリストを信じる信仰だけです。行いによるのではありません。それなのにここでは、「これらのことを行っていれば」とあります。これは救われるためには行いが必要だということではなく、生きた信仰には行いが伴うということです。行いの伴わない信仰は、それだけでは死んだものです。救われるためには信じるだけで十分です。しかし、救われたのならば、当然そこには行いが伴ってくるのです。ペテロはここでそのことを言っているのです。では「これらのこと」とはどのようなことでしょうか。それは先ほど5節から7節までのところで見てきた7つの性質のことです。まず主イエスを知ることでした。信仰がベースです。すべては信仰からスタートします。信仰はすべての土台でした。そして信仰には徳を加え、徳には知識、知識には自制、自制には忍耐、忍耐には敬虔、経験には兄弟愛、兄弟愛には愛を加えることです。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。こうした性質はもう既に与えられています。私たちがイエス・キリストを信じた時に、そうした性質が与えられたのです。これはすべて神が成してくださったことです。今度はこれを私たちがする時です。あらゆる努力をして、熱心に励むことです。そうすれば神の子としての7つの性質の実を見ることができるでしょう。こどもが生まれると「ああ、この子が生まれて立派に成長したな」ということがわかりますが、神の子として生まれたならば、当然その性質があるわけですから、その性質が実っていくことによって、「ああ、本当に新しく生まれたんだ」ということがわかるようになります。個人差はありますが、みな成長して行って、自分も変わっていくのがだんだんわかるようになります。私たちの回りもその実を見ることができます。実を見て、確かにイエス様を知っていることがわかります。神の子であるのがわかるのです。それは人に見せるためではなく、その行いによって自分の正しさを証明するためでもなく、心から主を愛する者としてこれらを行うとき、「ああ、私は救われている」ということを実感することができるのです。

これらのことを完全に行うことが救いの保証になるのではありません。そこは気を付けてください。そうでないと、私は完全にできていないから、救いの確信がありません、ということになってしまいます。だから、そういうことではありません。完全に行うことができる人などだれもいないのですから。私たちはそこを目指して走っているのですから。完全になるのは、イエス様と再び会う時です。それまでは私たちは欠けがたくさんありながらも、主の御姿に変えられようと、ひたすら主を追い求めているわけです。パウロはそのことをピリピ3章でこう言っています。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捉えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどとは考えてはいません。ただ、この一時に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたすら前に向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。ですから、聖人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」(ピリピ3:12-14)

パウロは、もし、あなたがたどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます、と言っています。どのように考えるかはとても重要なのです。このように考えるなら、すなわち、神はイエス・キリストを信じることによって、私たちを救ってくださったということ、それは聖書のみことばを通して、その約束をしっかり握っていることによってもたらされるものですが、同時に、「これらのことを行っているなら」とあるように、同時に、救われたのであれば、その恵みに感謝して、これらのことを行っていくという面も重要なのです。それは救われるためではなく、本当に神が自分を救ってくださったという確信を持つために、そして、この神の御名をほめたたえ、この神の栄光のために生きるために、どうしても求められていることなのです。私たちは今年、神の約束のみことばをしっかりと握りながら、これらのことを行うということを追い求め、キリストのご性質に与る者でありたいと思います。

Ⅱペテロ1章1~4節 「主イエスを知ること」

 新年あけましておめでとうございます。この新しい年は、ペテロの第二の手紙からご一緒に学んでいきたいと思います。きょうのメッセージのタイトルは、「主イエスを知ること」です。

 Ⅰ.主イエスを知ることによって(1-2)

 まず1節と2節をご覧ください。1節には、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」とあります。

この手紙は、イエス・キリストの弟子であったペテロから、同じ信仰を受けたクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。ここにはだれに宛てて書かれたかはありませんが、これはペテロの第一の手紙と同様、迫害で小アジヤに散らされていたクリスチャンに宛てて書かれたものです。なぜなら、3章1節に「愛する人たち、いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」とあるからです。ペテロがこのように書いているのは、先の手紙の存在を前提にしているからです。ここには、「これらの手紙により、記憶を呼び先させて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです」とりあます。これが、この手紙が書かれた目的です。ペテロは先に書いた第一の手紙で迫害で苦しんでいたクリスチャンたちに与えられた永遠のいのちの希望を示すことによって、この恵みに堅く立っているようにと励ましましたが、この第二の手紙では、その記憶を呼び覚まさせて彼らの心を奮い立たせようとしたのです。ですから、ペテロの第一の手紙が希望と励ましの手紙だとすれば、この第二の手紙は、心を奮い立たせる手紙だと言えます。

この手紙はペテロの生涯における最後の手紙となりました。先に書かれた第一の手紙のすぐ後に書かれたものだと言われています。先に書かれた手紙は、ローマ皇帝ネロの迫害が厳しさを増そうとしていたA.D.63~64年頃でしたので、あれから3年くらいが経ったA.D.66~67年頃に書かれたものだと推測されます。この後すぐに、彼は迫害によって殉教します。ですから、これは彼の遺言ともいえる手紙です。この最後の手紙で彼はどんなことを勧めているのでしょうか。

この手紙の冒頭で、彼は自分のことを、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから」と言っています。これは第一の手紙にはなかった呼び方です。第一の手紙では自分のことをどのように呼んでいたかというと、「イエス・キリストの使徒」と呼びました。しかし、ここでは「使徒」の前に「しもべであり」という言葉が付け加えられています。このしもべという言葉は、原語では「デゥーロス」という語ですが、これはローマ時代の下級奴隷のことを指す言葉です。「奴隷」には、権利も自由も認められず主人の支配の下に、完全な服従が求められていました。つまり、ペテロはこのように記すことによって、自分がイエス・キリストの言葉に全面的にひれ伏し、服従している者であることを表そうとしていたのです。いったいなぜ彼は自分のことをそのように呼んだのでしょうか。それは、ただ隷属的に服従が求められているからというのではなく、このイエスのしもべであることがどれほど光栄なことであり、それに伴って与えられる恵みがどれほど豊かなものであるのかを見据えていたからでしょう。それは2節に、「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」とあることからもわかります。神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安で豊かにされます。

 ペテロはこのことを、「私たちの神であるイエス・キリスト」という言葉を何度も繰り返すことによって強調しています。このイエス・キリストはどのような方なのか、イエス・キリストは神であり救い主なるお方です。これがペテロの信仰であり、ペテロが強調したかったことです。皆さん、私たちの主イエスはどのようなお方ですか?イエス様は神のひとり子であられ、私たちの罪を救うために人間となられました。33年間にわたり、神の力あるわざをなされ、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられました。そして、天に昇られ、神の右の座に着かれました。キリストは今も生きていてとりなしておられます。イエス・キリストは私たちの神であり救い主です。ペテロはいつもこのように言っていました。それが「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」という言葉です。

同じような表現がこの手紙の中に何度も繰り返して出てきます。たとえば、1:11には、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリスト」と言っていますし、2:20でも「主であり救い主であるイエス・キリスト」と言っています。3章でも同じように、2節で、「主であり救い主である方の命令」とあり、最後の3:18でも「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」と言っています。このようにペテロは繰り返し、繰り返し、イエス・キリストは「私たちの神であり救い主である」と告白しているのです。それは彼が、キリストは神であり救い主であるということを強調したかったからです。

これが神のことばである聖書が私たちに教えていることです。イエス・キリストは神であり救い主です。半分神であり、半分救い主であるということではありません。キリストは100%神であり、100%人となって来られた救い主であるということです。神は霊ですから私たちの目で見ることができません。ですから、父のふところにおられたひとり子の神が、神を説き明かされたのです。それが人となって来られた神イエス・キリストです。キリストは神であられる方なのに、私たちを罪から救うために人となって来られたのです。ですから、ローマ9:5には「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」(ローマ9:5)とあるのです。またテトス2:13にも、「祝福された望み、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」(テトス2:13)とあるのです。

このように聖書は、イエス・キリストは神であり救い主であるとはっきりと教えています。これを否定する人は聖書の教えを否定する人です。聖書が教える神は三位一体の神であって、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つで一つの神です。三つで一つというのは人間の頭ではなかなか理解できません。また、説明することもできません。どんなに分かりやすく説明しようとしても限界があるからです。しかし、聖書がそのように言っているのであれば、それをそのまま受け入れること、それが信仰です。聖書が教えていることを否定したり、曲げたりするのは、神を否定することになるのです。

先日、教会の近くに住んでおられる一人の婦人から電話がありました。数年前に離婚したものの、病弱で、とても孤独なので、離婚した前の夫を呼び寄せて一緒に住んでいるのですが、とても寂しいのです。そしたら、近くに住む方から「あら、内にいらっしゃいませんか。毎週聖書の学びをしているのですが、聖書から慰めと励ましをいただき、一緒に学んでいる仲間ともお話ができるので、とても楽しいですよ。私も以前同じような孤独を敬虔したことがあるのですが、聖書を学んだら癒されました」と言われたのですが、行っても大丈夫でしょうか、というものでした。
確かに孤独から解放されるのなら行ってみたいという気持ちはあるのですが話を聞いていると「ん」と思うことがあるというのです。「どういう点でそう思うのですか」と尋ねると、「どうもイエスの父は大工のヨセフであって、父なる神ではないと云うのです。」「もしかすると、それはエホバの証人というグループではありませんか。エホバの証人の方は聖書から学んでいるとはいうものの、イエスは神でないと言うんですよ。神に近い人間だと言われます。神であるのと、神に近い人間とでは全然違います。それは天と地ほどの違いがあるんです。神を人というのですから、神を冒涜することにもなります。」と伝えると、
「そうですよね、何かおかしいからネットでイエスの父を調べてみたら、神だと書いてあったので、それを人間のヨセフだと言うのはおかしいと思ったんです。実はもう亡くなったのですが父と母も教会に行っておりましてクリスチャンでした。二人とも「教会に行きなさい」とは言わなかったのですが、何となくイエス様は神様だと言っていたので、ちょっと変だと思ったのです。父も亡くなる三日前に病床で洗礼を受けてクリスチャンになったのでキリスト教式でお葬式をしましたが、とても慰められました。やっぱりキリストは人間だという教会には行かない方がいいですね。」
「はい、キリスト教は宗派によって考え方に違いがありますが、一つだけ共通していることは、イエス様は神様だと信じていることです。そういう教会に行った方がいいと思います。」というと、「はい、そうします。また、ご連絡したいと思います」と言って電話を切られました。
皆さん、イエス・キリストは神であり救い主であられます。救い主だけど神ではないというのは間違いなのです。完全な神であり完全な救い主であるというのが聖書の一貫した教えであり、ペテロが強く信じていたことなのです。

そしてペテロは、この「イエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」と言っています。どういうことでしょうか?それは、私たちの信仰は私たちの義によって与えられたものではなく、キリストの義によって与えられたものであるということです。それがペテロの信仰であり、この手紙の受取人であったクリスチャンの信仰でした。ここではそれが「尊い」と言われているのは、それが自分自身から出たものではなく、神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって一方的に与えられた神からの賜物であるからです。
そのことについてパウロはこう言っています。「あなたがたが救われたのは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
 つまり私たちの救いとは、私たちの義によってではなく、一方的な神ご自身の義、神の恵みによるものであるということです。私たちは皆、生まれながらに罪人あって、神のさばきを受けなければならない者でしたが、あわれみ豊かな神さまは、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。キリストがその罪のために十字架にかかって死なれ、その罪を贖ってくださいました。それだけではありません。キリストは三日目にその死からよみがえられました。それはこのキリストを信じる者が罪の赦しと永遠のいのちを受けるためです。ですから、私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。これがペテロの信仰だったのです。この手紙の受取人であった人たちも同じ信仰を持っていました。神の恵みによって、イエス・キリストを信じるだけでもたらされる尊い信仰を受けていたのです。

この主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされます。私たちは以前、神がどのような方であるかを知りませんでした。それは神について聞いたことがなかったからです。しかし今、この聖書を通して、神がどのような方であるかを知りました。神は聖書を通してご自身を啓示してくださいました。神がご自身を現してくださらない限り、私たちがどんなに神を求めても神を見出すことはできませんが、聖書を通してご自身を現してくださったので、神を知ることができるようになったのです。ですから、聖書を通してまことの神がどういう方であり、イエス・キリストを通してどのようなことをしてくださったのかを知ることができました。このイエスを知ることによって、恵みと平安が豊かにされました。

しかし、この「知る」というのはただ知的に知るということではありません。それ以上のことです。つまり、「知る」というのは体験的に知るということです。神の言葉である聖書を通して、個人的に親しくキリストを知ることです。そして祈りを通してキリストは今も生きて働いておられる方であることを知ることができます。さらに信仰の仲間である教会の交わりを通して、キリストの愛の深さ、広さを知ることができます。キリストを個人的に深く知れば知るほど、神の恵みをさらに深く理解することができます。ですから、キリストを個人的に深く知るためには、時間を取ってキリストと深く交わらなければなりません。

私たちの人間関係もそうでしょう。互いに会えば会うほど、会う回数が増えれば増えるほど、互いをよく知ることができます。最初は外見だけを見て、「この人どういう人だろう」と思いますが、会えば会うほどその人がどういう人であるかを知るようになり、もっと親近感が生まれてきます。逆に、その人を知れば知るほど嫌になるという場合もありますが・・。しかし、それもその人と親しくなったからわかることであって、親しくならなければ何も知ることができません。家族であれば毎日会っているので、良いところも悪いところもひっくるめて、その人がどういう人であるかがわかります。イエス様との交わりも同じです。主イエスを知れば知るほど、イエス様のすばらしさ、イエス様の愛と力を知るようになるので、神の恵みと平安に満ち溢れるようになるのです。主イエスを知ることが、恵みと平安が増し加えられるための近道であり、霊的に成長するための秘訣なのです。私たちは今年、この主イエスを知ることによって、恵みと平安でますます豊かにされていきたいと思います。

 Ⅱ.いのちと敬虔に関するすべてのことを与える(3)

 なぜ主イエスを知ることによって、恵みと平安が、ますます豊かにされるのでしょうか。その理由が3節に記されてあります。
「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」

 なかなか回りくどい言い方ですが、簡単に言うと、この方を知ったことによって、主イエスの神としての御力が私たちに与えられたからです。ここでは、この方がどのような方であるのかということと、この方を知ったことで、どのような力が与えられたのかの説明が加えられています。

まず、この方は、ご自身の栄光と徳によって私たちをお召しになった方です。ヘブル1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、」(ヘブル1:3)とあります。キリストは神の栄光の輝き、神の本質の完全な現われです。ペテロは、このキリストの神としての輝きを、あのヘルモン山で目撃しました。そのお姿は、非常に白く光り輝き、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでした。その時、天からの声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」(マルコ9:7)それは父なる神の御声でした。それは神の栄光としての輝きだったのです。

また主イエスご自身も、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われました。これは、弟子のピリポがイエス様に、「私たちに神を見せてください。そうすれば満足します。」と言ったことに対して、イエス様が言われた言葉です。それに対してイエス様は、「わたしを見た者は父を見たのです」と言われました。神は目に見ることができない方ですが、その神を見える形で示してくださったのがイエス・キリストです。この主イエスの中に、神の栄光の輝き、神の本質の現われが完全に見られます。このイエスを見る者は、父を見るのです。

 またペテロはここで「徳」とも言っています。これは、キリストの神としてのご性質のこと、また、力のことです。Ⅰペテロ2:22でペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。」(Ⅰペテロ2:22)と言いました。これはイエス様が全く聖い方であり、道徳的にも立派な方であったことを表しています。キリストは何一つ罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。キリストは言葉においても、行いにおいても、完全な方だったのです。ペテロはそのことを知っていました。あらゆる病をいやし、悪霊を追い出し、力あるわざをなさいました。キリストは神としての栄光をお持ちであっただけでなく、その行いにも、ことばにも、思いにも、また力においても、すべてにおいてすぐれたお方、この方が私たちの主イエス・キリストなのです。

このことを、パウロはこう言っています。「このキリストのうちに、知恵の知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3)また、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)
いまだかつて神を見た者はいません。しかし、その見えない神が見える形で降りて来てくださいました。それが神の子、救い主イエス・キリストです。この方は神の栄光に満ちた方でした。そしてその徳、性質もまさにすぐれたお方でした。

この方があなたを召してくださいました。「召してくださった」とは「呼んでくださった」ということです。イエス様はあなたを呼んでくださいました。イエス様はすべての人を招いておられます。「すへて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)有名なマタイの福音書11:28のみことばですね。そのようにキリストはすべての人を招いておられておられます。そのように、あなたことも招いてくださいました。あなたのことを呼んで、召してくださいました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちをご自身のもとに引き寄せてくださいました。神が私たちを引き寄せてくださらない限り、だれも神の許に行くことはできません。しかし、神はあなたを呼んでくださったので、神のもとに行くことができたのです。そして、聖書を通してキリストが神であり救い主であることを知ることができました。聖書によってキリストの神としての栄光と、神としてのご性質を知ったので、信じることができたのです。何も聞かないで信じたのではなく、聞いて、調べて、本当だとわかったので、信じたのです。

そのように信じたことで、そのようにして私たちを召してくださった方を知ったことによって、主イエスの、神のとしての御力が与えられました。3節の後半の所に、「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えてくれるからです。」とあります。

「いのち」というのは神のいのち、永遠のいのちのことです。私たちはイエス・キリストを信じる以前は、このいのちを持っていませんでした。すなわち、神のいのちがなかったわけです。いのちはありましたがそれはこの地上の肉体のいのちであって、やがて滅んでいくものでした。しかし、今はキリストを信じて神のいのちが与えられました。神が永遠なる方なので、私たちもこの神とともに永遠に生きるいのちが与えられたのです。どのように与えられたのでしょうか。知ったことによってです。何を知ったのでしょうか。イエス・キリストは神であり、救い主であるということです。イエス・キリストが私の罪からの救い主、主ですと信じ、口で告白して救われました。その瞬間にこのいのちが与えられ、キリストの神としての力があなたの内側に、私の内側に働いたのです。内側に与えられたいのちは、外側に表れていきます。今までは道徳的にも無感覚で、人が見ているか、いないかということを基準で生きたいたような者が、このいのちが与えられたことで、私たちの人生にあふれたようになりました。それがここにある「敬虔」ということです。

「敬虔」とは、他の訳では「信心」(新共同訳、口語訳)と訳しています。これは原語では「ユーセベイア」という語で、神を信じて生きる人の実践的な生活のことを意味しています。つまり、イエス・キリストを信じて生きる人の歩み、その生き方のことです。

ですから、キリストを知ったのであれば、本当に信じたのであれば、本当に救われたのであれば、それはその人の内側にある神のいのちが外側に溢れて出るようになり、その人の生活が変えられていくのです。「私は罪を悔い改めて、イエス様を信じました。イエス様を信じて神の子とされました。新しく生まれ変わりました。」とイエス様を信じ、イエス様を人生の主とするとき、まずあなたの心と思いが変えられ、次にことばが変えられ、やがて行動が変えられ、生活全体が変えられていくのです。なぜ変わっていくのでしょうか。知ったからです。イエス・キリストを知ったので、イエス・キリストの神としてのいのちがあなたの内側に働いて、その神のいのちが外側に溢れて行き、内側にある栄光が外側全体にあふれ出るのです。すごいですね。ですから、主イエスを知るということはものすごいことなのです。イエス様を信じたのにちっとも変わらないという人がいるとしたら、その信仰のどこかがおかしいのです。確かにイエス様を信じて救われているかもしれませんが、まだイエス様にあなたの人生の主導権を渡していないのかもしれません。イエス様が願っておられることよりも、自分が考える信仰生活をしている場合が少なくありません。もしあなたが主イエスを知っているなら、その神としての御力が、いのちと敬虔に関するすべてのことを与えてくださるので、その神のいのちがあなたの生活において表れるようになるのです。ですから、大切なのは主イエスを知ることなのです。

 Ⅲ.すばらしい約束(4)

最後に4節を見て終わりたいと思います。「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

ここには、主イエスを知るその目的が記されてあります。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。その約束とはどのようなものでしょうか。それは永遠のいのち、救いのことです。すべての罪が赦され、神の子とされました。永遠のいのちが与えら、神の国の相続人とされました。それは将来においてだけのことではありません。このいのちは今も私たちとともにあり、私たちを守り、導き、助け、日々の生活の中で必要なすべてのものを備え、満たしてくださいます。神はそのようなすばらしい約束を与えてくださいました。いったい何のためにこのような約束を与えてくださったのでしょうか。その後のところでペテロはこう言っています。「それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びから免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

ここには、神がこのようなすばらしい約束を与えてくださったのは、キリストを信じたあなたが、私が、神のご性質にあずかる者となるためである、とあります。キリストを信じた者はみな永遠のいのちが与えられるだけでなく、キリストと同じ性質に変えられると約束されています。これが、神が私たちを救ってくださった目的です。以前はそうではありませんでした。キリストのご性質どころか、肉の性質に満ちていました。しかし今はキリストを知ったので、キリストと同じご性質にあずかるものとなったのです。キリストはどのような方ですか。キリストは愛です。キリストが愛であられたように、私たちも神を愛し、人々を愛する者へと変えられます。またキリストは聖いお方でした。ことばにも、行いにも、罪のない方でした。私たちは多くの点で失敗します。言わなくてもいいようなことを言ってしまったり、やらなければいいことをやってしまったり、あまりにもいいかげん自分の姿に嫌気がさしてしまうこともあります。しかし、キリストを知れば知るほど、キリストと親しくなればなるほど、私たちの内側が変えられますから、当然思いが変えられ、言葉が変えられ、行いが変えられ、あらゆる面で聖くされていくのです。これが、私たちが救われた目的です。

いったいどうしたらそのようなご性質にあずかる者となるのでしょうか。それは主イエスを知ることによってです。主イエスを信じて、主イエスとともに歩むことによってです。その前に、キリストと個人的に出会わなければなりません。私はこの方を自分の罪からの救い主であると信じていますと、口先でけではなくて、また知識としてだけなく、本当に心から自分の罪からの救い主、人生の主として受け入れ、この方と親しく交わるなら、あなたもこのようなご性質にあずかることができるのです。そういう意味で主イエスを知っているかどうかなのです。

あなたは主イエスを知っていますか?「はい、知っています」という方は、どのように知っているでしょうか。「あ、何となくです」というのは、本当に知っているということにはなりません。イエス様はぶどうの木と枝のたとえの中でこのように言われました。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(同15:7)
つまり、主イエスを知るということは、主イエスにとどまることであって、主イエスにとどまるということは、主イエスのみことばにとどまることです。そういう人は多くの実を結ぶのです。
あなたはキリストのみことばにとどまっているでしょうか。自分ではとどまっているようでも、実際はそうでない場合もあります。キリストのみことばよりも、自分の都合を優先して行動していることが何と多いことでしょう。どうぞキリストのことばにとどまってください。そしてキリストと親しく交わってください。そこで人格的な関わりを持ってください。そうすれば、変えられない人などひとりもいません。神はそのために私たちを救ってくださったのですから。どうか礼拝を休まないでください。もし礼拝に来なければ、どこでみことばを聞くことができるでしょうか。もしかしたら、インターネットで聞くこともできるでしょう。確かに知識では聞くことができるでしょう。でももしあなたが本当に神のことばを聞きたいと思うなら、神を礼拝する場に出てこなければなりません。なぜなら、そこに神が臨在しておられるからです。その神の臨在に触れて初めてみことばを知るという経験ができます。そしてそれがそれぞれの個人の礼拝、ディボーションの力となるのです。信仰は聞くことから始まり、聞くことは、イエス・キリストのみことばによるのです。そのイエス・キリストのみことばを聞いて、主イエスと深く交わってください。そうすれば、主がご自身と同じご性質にあずからせてくださることでしょう。私たちは自分の力で自分を変えることはできません。それは神の一方的な恵みとあわれみによって神がなしてくださる御業なのです。あなたが主イエスを知り、あなたの人生を主イエスにゆだねることによって、あなたも神のご性質にあずかることができるのです。

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。この新しい年が、このような一年となりますように。イエス・キリストの恵みと知識において成長することができますように。このことを求めてご一緒に歩んでまいりましょう。