イザヤ45:1-13 レジュメ  

「神の御心のままに」                                    N069

Ⅰ.油そそがれた者クロス(1-3) 

主は、油そそがれた者クロスに、「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じないようにする」(1)と言われた。クロスとはメド・ペルシャの王クロスのことである。主は彼を用いてバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放するというのだ。彼はメド・ペルシャの王であって異教徒である。なのになぜ神はそんなクロスを用いられるのか。それは、主こそ神であり、イスラエルの創造主であることを彼が知るためである。そのために主は、異教徒の王まで用いられる。何も神はご自分の計画を推し進めるために神の民だけを用いられるのではない。場合によってはこのように異教徒でも用いられることがある。神が用いようと思えば何でも用いることができる。なぜなら、神はすべてを支配しておられる創造主であられるからだ。

それにしても、クロスはこのことを知ってどんな驚いたことであろう。エズラ記1章を見ると、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、王国中におふれを出して、エルサレムに宮を建てるように命じたとある。ユダヤ人の歴史家でヨセフスの「ユダヤ古代誌」によると、このときクロスが読んだ内容というのがイザヤ書44-45章であった。そこに自分の名が記されてあるのを見て、彼はどれほど驚いたことかわからない。彼の時代のはるか150年も前に、神は既にそのようにされることを告げておられることを知って奮い立ち、イスラエルにそこまで寛容な政策をとったのである。

神はこの歴史を支配し導いておられる。このことを知るなら、あなたもクロスのように奮い立ち、神の栄光と目的のために用いられるようになる。

Ⅱ.すべての主権者であられる神(4-8)

ここで主はクロスに肩書きを与えると言われた。その肩書きとは「油そそがれた者」である。それは日の上る方からその沈むところまでご自分のほかには神はいないということを、すべての人に知らしめるためである。そのことによって主がすべてを支配しておられるということを、知るようになる。ペルシャの宗教ゾロアスター教では光を造られた神とやみを造られた神がいてその神の対立によってこの世界が造られたと考えているが、その光とやみを造られたのは神である。すべてを造られたのは創造主なる神なのである。

ここでおもしろいと思うのは、ここに「光を造り出し、やみを創造し」とあることだ。これはやみを創造したというよりも、やみを許されたといった方が正確である。神は決してやみを造られる方ではない。それを造りそれ支配しているのは神であるが、そうしたサタンの働きをあえて許されることがある。それは神がすべてを支配しておられるからであって、そのことさえもまた神の栄光のために用いられることがあるからだ。だから私たちはそうした主権的な神のお取り扱いを受け入れ、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてください」と祈らなければならない。

Ⅲ.神の御心のままに(9-13)

このように申し上げると、中にはそんな神のやり方に対して抗議する人もいるかもしれない。そのような人は陶器が自分を造った者に抗議するようなものである。けれども、陶器は陶器師の手の中にあってはじめて価値があるのであって、それ自体には何の価値もないことを覚えておかなければならない。陶器である私たちはまさに土くれにすぎない。その陶器がもっとも輝く時は陶器師の手によって練られ、ろくろで回されている時である。わたしたちを愛してやまない主はわたしたちのために最善のことをしてくださると信じて、すべてを神にゆだねなければならないのである。

(自分に適用してみましょう!)

・あなたの生活の中で、ナオミのように信仰の確信を揺るがしている出来事は何ですか?

・神があなたの人生をも支配しておられ導いておられるという確信を持つために必要なことはどんなことですか?

イザヤ66:18-24レジュメ

「永遠をどこで」

イザヤ66:18-24

 Ⅰ.のがれた者たち(18-19)

 イザヤ書の最後の箇所からのメッセージである。ここには、やがて神はすべての国々と種族を集めるので、彼らは来て、神の栄光を見る、とある。「わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光も見たことがない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」(19)この「のがれた者たち」とはだれのことなのかわからないが、彼らはこれまで主なる神のうわさを聞いたことも、その栄光を見たこともない諸国の民のところに出ていき、主の栄光を告げ知らせるようになる。

 神はこの尊い働きのために私たちを選んでくださった。そう、この「のがれた者たち」は、私たちのことでもあるのだ。私たちには、「のがれた者」として、すべての国々に主の栄光を告げ知らせる使命が与えられている。あなたはその準備ができているだろうか。主の栄光をすべての民に伝えるために、あなたは主に献身しておられるだろうか。

 Ⅱ.歴史の最終ゴール(20-23)

 「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れてくる。」(20)「あなたがたの同胞」も誰のことを指しているのか明確ではない。しかし、のがれた者たちの宣教によって救われた人たちのことであるのは間違いない。彼らは聖なる山に連れて来られる。何のために?礼拝するためである。彼らはエルサレムにやって来て、心を一つにして主を礼拝する。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、-主の御告げ-あなたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」(22)これは天国の光景である。神が造られる新しい天と新しい地が、神の前にいつまでも続くように、彼らは決して滅ぼされることはない。いつまでも続く。永遠に神をほめたたえる。これが神の民に約束されている勝利の姿である。これが全歴史の最終ゴールだ。すべての人が神の前に来て、礼拝をささげるようになる。私たちはいったい何のために造られたのか?神を礼拝するためである。永遠に神をほめたたえるためなのである。やがてそれが実現する。これが神の民であるクリスチャンに約束されている最後の姿なのだ。

 Ⅲ.永遠をどこで?(15-17)

 しかし、イザヤ書はこれたけで終わってはいない。最後に24節の言葉が加えられている。「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌み嫌われる。」これはげヘナ、地獄のことである。イエス様はここから引用して、ゲヘナが実際にある現実の世界であることを示された(マルコ9:47-48)。もしあなたが悔い改めないで、イエスを信じないなら、このゲヘナに投げ込まれる。私たちを救うのはただイエスを救い主として信じ、それを口で告白することによってのみである。そうでなければ地獄に落ちてしまうことになる。そこはうじがわいていて、永遠に消えない火で焼かれる。どんなに苦しくて死にたくても、死ぬこともできない。そこで永遠に苦しみ続けることになる。それが地獄である。

神は私たち人間がひとりも滅びることがないように、この地獄に行くことがないように、ひとり子イエスを送ってくださった。このイエスを信じるなら、だれでも救われる。その人は神が造られた新しい天と新しい地で、永遠に神とともに生きることになる。天国と地獄、あなたはどちらで永遠を過ごしたいか?選択はあなたにゆだねられている。イエス様を信じて、天国で永遠に神とともに生きる者となっていただきたい。

イザヤ66:6-17レジュメ

「エルサレムとともに喜べ」

イザヤ66:6-17

 Ⅰ.新しい神の民イスラエルの誕生(6-9)

 「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」(7-8)

 これはいったいどういうことか。「彼女」とはシオンのこと、その彼女から産み落とされる子とは新しい神の民イスラエルのことである。世の終わりになると、シオンから一瞬にして新しい国、民族が産み落とされる。このシオンとは神の臨在と支配、そして礼拝の中心となるところである。それは教会のことを指していると言ってもいい。もちろん、それは第一義的にはキリストのからだなる天上の教会のことであるが、その現れである地上の教会のことでもある。この教会を通して、主は新しい神の民である霊的イスラエル(クリスチャン)を産み出すというのだ。しかも一瞬のうちに・・。地上の教会を見る限り欠陥だらけで、時にはみすぼらしいと感じることさえあるが、この教会を通して主は新しいイスラエルを産み出される。それは教会に福音宣教がゆだねられているからである。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力である。この福音のゆえに、教会を通して新しいクリスチャンが産み出されるのである。

あなたはその聖なる共同体である教会を愛し、教会に仕えておられるだろうか。教会を通して与えられる神の恵みを体験しておられるか。神はシオンを通して新しい神の民を産み出してくださる。その神のみわざにともにあずかろうではないか。

Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)

 「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」(10)敵の攻撃を受け荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝く。そのエルサレムとともに喜べと勧められている。なぜなら、彼らは彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。彼らは幼子が母親の乳房からおっぱいを飲んで満ち足りるように、神の豊かな乳房から飲んで喜んだ。かつて神はアブラハムに「エルシャダイ」としてご自身を現されたが、これは母親の乳房が語源になっている。私たちの神はおっぱいの神であって、幼子が母親の乳房から吸って満足するように完全な満足を与えてくれる全能の神なのである。

それゆえに神は、「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」(13)人はだれでも慰めを必要としている。その慰めはいったいどこにあるのだろうか。主は私たちにこう呼びかけておられる。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子をおそれるとは。」(51:12)あなたは何を恐れていますか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れる必要など全くない。なぜなら、神があなたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められるからだ。

 Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)

 けれども、神に敵対する者に対してはそうではない。「まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責め立てる。」(15)その敵とは、具体的には「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たち」(17)である。すなわち、表面的には敬虔に神に仕えているようでも、実際には偶像に仕えている者たちのことである。彼らは神のことばを悟らす、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回っている。そのような高慢を遠ざけなければならない。そして、神のみことばにおののき、エルサレム(教会)とともに喜び、神の喜びと平安、慰めと満たしを経験させていただく者でありたい。

イザヤ66:1-5 レジュメ

「主のことばにおののく者」

イザヤ66:1-5

 Ⅰ.天はわたしの王座、地はわたしの足台(1)

 65章に続き、祈りの応答が語られる。「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの立てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。』」(1)

 これはイスラエルに対する最後のチャレンジである。神のために彼らが建てる家はどこにあるのか?どこにもない。たとえどんなに立派な神殿を建てようとも、この天地を創造された神を入れることなどできない。いったなぜ神はこんなことを言われたのだろうか。それは当時のイスラエルの中に神殿を大切にし、そこで行われている宗教儀式を守っていれば救われるという間違った考えを持っている人たちがいたからである。しかし、神のために建てる家などどこにもない。実体は神殿にではなく、天にある御座にある。それこそ大事にしなければならないものなのに、彼らはそれを忘れていた。

 Ⅱ.わたしが目を留める者(2)

 「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。」(2a)「これらすべて」とは、神が造られたすべてのものである。神はこれらすべてのものを造られた。それゆえ、すべてのものは神のもの。だからたくさんのものを神に献げれば神が喜ばれるかというとそうではない。神のために立派な神殿を建てれば、神が満足されるかというとそうでもない。神はすべてのものを造られ、すべw

のものを持っておられる。それゆえ、神が我々に求めておられるものはそのような物ではなく、私たち自身、私たちの心なのである。それゆえ神はこう仰せられる。「―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(2b)神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者である。「へりくだって心くだかれ」とは、単に謙遜になることではない。自分の心が悲しみと絶望で打ちひしがれた状態になることを指す。また、「おののく」とはただ恐ろしさに震えるということよりも、神のことばに圧倒され、ひれ伏さずにはいられないような畏怖の念を持つことである。神のことばがなければ生きていくことはできない、神のことばだけが自分の生きる支えですと、神のことばを救いの唯一の希望とする人のことである。神は、このような者に目を留めてくださる。

 Ⅲ.自分勝手な道を選ぶ者(3-5)

 それとは逆に、自分勝手な道を選ぶ者がいる。そのような者は「牛をほふる者は、人を殺す者。羊をいけにえとする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。」(3)である。どういうことか?彼らは表面的には敬虔にふるまっているようだが、その実は偶像をほめたたえる者であったということ。なぜなら、彼らは自分勝手な道を選び、その心は忌むべき物を喜んでいたからである。彼らは神に喜ばれることよりも自分の考えを優先させ、あくまでも自分の考えに従っていけにえをささげていた。彼らは神のみことばに従っているようでも、実際には自分の選択を優先させていたのである。それは偶像礼拝と同じことだ。

 このようなことは、私たちの信仰生活にも言える。もしへりくだって心砕かれることなく、神のことばにも聞き従おうとせず、自分勝手な道を選ぶなら、どんなに熱心に信仰生活をしていても全く意味がない。それは見せかけの信仰であり、偽善的な信仰にすぎず、神が最も忌み嫌われることなのである。神が私たちに願っておられることは、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののくことである。神のことばを聞いて、それに従うことである。

 あなたは神のことばにおののいておられるだろうか。私たちの人生には二つの道がある。一つはへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく道であり、もう一つの道は自分勝手に歩む道である。どちらの道を歩むかは自分で決めなければならない。しかし、もしあなたがへりくだって心砕かれ、神のことばにおののくなら、神はあなたに目を留めてくださる。あなたは神の御国を相続するようになるのだ。私たちはそのような道を歩む者でありたい。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,1

イザヤ65:13-25 レジュメ

「新しい天と新しい地」

イザヤ65:13-25

 Ⅰ.新しい神の民の創造(13-16)

 「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対して、神は驚くべき救いの計画を語られた。それは「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」(1)ということである。神の民であるイスラエルが神に反逆したので、神の救いは異邦人に向けられた。そればかりではない。そのことによってイスラエルにねたみを起こされ、彼らが救われるようにされた。これが神の計画である。だれがそのようなことを考えることができただろう。本当に驚くべき神の計画である。しかし、そればかりではない。神はこの救いを新しい天と新しい地の創造をもって完成させてくださるように計画された。「ご自分のしもべたちを、ほかの名で呼ばれるようにされる。」(15)その名は「クリスチャン」である。クリスチャンはまことの神であるイエス・キリストによって祝福される。イエス・キリストによって先の苦難が忘れ去られる。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)私たちはイエス・キリストにあって新しく造られた者なのである。

 Ⅱ.新しい天と新しい地の創造(17)

 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(17)この「創造する」という言葉は全く何もないところから何かを造り出す時に使われる言葉で、無からの創造のことである。神は今の天と地とは違う全く新しい天と地を創造される。そこでは、先の事は思い出されず、心に上ることもない。以前のものが過ぎ去るからである。そこには神がともにおられ、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。これこそクリスチャンにとっての真の慰めではないだろうか。クリスチャンにとってイエス・キリストを信じて救われても、この世はある意味で住みにくい所である。信じれば信じるほど辛いことや、苦しいことが起こる。様々な迫害があったり、人々から認められないこともある。けれども神はクリスチャンにこの世とは違う全く新しい天と新しい地を備えてくださり、そこで暮らすことができるように計画してくださった。私たちはそのことを知り、そこに希望を置かなければならない。この地上のことで、「滑った、転んだ、思うようにいった、いかなかった」ということで生涯を終えてしまうとしたらとても残念である。周囲がどのような態度を取るにせよ、「私たちはやがて、最後にはこういう希望があるんだ!」と告白して歩む者でありたい。

 Ⅲ.新しい祝福の創造(18-25)

 そのように歩む者を神は豊かに祝福してくださる。「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」(18)「そこにはもう、鳴き声も叫び声も聞かれない。」(19)そればかりか、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」(24)と言われる。これまではどんなに祈っても答えられなかった。それは主の御手が短いからでも、主も耳が遠いからでもない。彼らの咎が彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたからである。しかし、今は違う。今は罪が赦され神との親しい交わりの中に入れられたので「神様!」と呼ぶと、すぐに答えられる。

 神の恵みによって神の民とされた私たちは、この新しい天と新しい地を待ち望むことができるようになった。私たちはやがて神が創造された新しい天と地に入ることができるがゆえに、今の時を忍耐をもって歩まなければならない。現在の困難を見て落胆したりせず、やがてもたらされる美しい将来を見て、そこに希望を置かなければならない。そういう人はこの地上の生活においても主から新しい力をいただいて、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

イザヤ65:1-12 レジュメ

「すべての主、すべての神」

イザヤ65:1-12

 Ⅰ.不思議な神の救いの計画(65:1-2)

 「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対する答えが65-66章に示される。「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。」(1)「わたしに問わなかった者たち」とか「わたしを捜さなかった者たち」とは異邦人のことである。神の御手は神の民であるイスラエルに差し出されたのに彼らはそれを拒んだので、その救いの御手は異邦人に向けられた。いったいそれはなぜか?それはイスラエルが倒れるためではない。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及ぶためであり、そのことによってイスラエルにねたみが起こされ、彼らが救われるためである。こうしてイスラエルはみな救われる(ローマ11:11-14)。これがイスラエルを救う神の計画だったのである。いったいだれがこんなことを考えることができるだろう。だれもできない。ただ神だけが考えることができることできる。すべてのことが、この神から発し、神によって成り、神に至る。神はすべてのすべてなのである。この神が私たちの人生にも深く関わっておられると信じ、神にすべてをゆだねなければならない。

Ⅱ.反逆の民(3-7)

 なのに、イスラエルは神に逆らい、神の怒りを引き起こした。「園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ」(3,4)た。神は彼らに何度も何度も救いの御手を差し伸べたのに、彼らはその御手をはねのけて、自分たちの思いに従って歩んだのである。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。そのような罪に対して、神は黙っていない。必ず復讐する。神の怒りの煙、一日中燃え続ける火が彼らを襲う。そのような神のさばきに会うことがないように、差し出された神の救いの御手を受け入れなければならない。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

 Ⅲ.わたしが選んだ者(8-12)

 ところで、イスラエルが神に反逆したからといって、神は彼らを全く退けられたかというとそうではない。神は全く新しい計画をもって彼らを救われる。それが「残りの民」である。「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、それをそこなうな。その中に祝福があるから」と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」(8)イスラエルのぶどう全体が腐っても、その中に甘い汁が残るようにする。それが残りの民である。神はイスラエルのためにその全部を滅ぼすようなことはしない。そこに残りの民を残してくださるのだ。それは神にとって祝福となるような存在である。彼らはやがて神の山々を所有するようになる。イスラエルだからといってすべてが神の民なのではない。またイスラエルだからといって、すべてが神に反逆したのでもない。主はこのイスラエルの中に本当のイスラエルを残しておられたのだ。パウロはこの奥義をローマ人への手紙11章1~5節でこう述べている。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。それと同じように、今も恵みの選びによって残された民がいます。」

 時として私たちはエリヤのように嘆いてしまうことがある。「残されたのは私だけ、だれもあなたを信じない。私だけが残されている。私はひとりぼっちでさびしい。孤独です・・・。」しかし、そうではない。あなただけではない。あなたの他にも、神は七千人を、神のために残しておられる。それは励ましではないか。あなたは決して一人ぼっちではない。神のために共に手を取り合い、共に祈り、共に励まし合う仲間がいる。神はちゃんと残りの民を残しておられるのである。

 だから私たちは信じない者にならないで、信じる者になろう。神から差し出された愛の御手を拒絶するのではなく、感謝して受け入れ、その御手に信頼しよう。神はすべてのすべてであって、あなたのために最善の道を備えておられるのだから。

イザヤ63:15-64:12 レジュメ

「イザヤの祈り」

イザヤ63:15-64:12

 Ⅰ.神のあわれみを求めて祈る祈り(63:15-19)

 主のあわれみと、豊かな恵みにふれたイザヤは、その主のあわれみを求めて祈る。「どうか、天から見下ろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。・・・私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。」(15)「たぎる思い」という言葉は、エレミヤ31:20では「はらわたがわななく」と訳されている。聖霊は痛むという表現があるように、神にも感情がある。そのたぎるような思い、はらわたがわななくような思いを押さえないでください、と祈っているのだ。

 イザヤはなぜこのように祈ることができたのだろうか。それは彼の中に、主は自分の父であるという思いがあったからである。16節には、「主よ、あなたは、私たちの父です。」ということばが繰り返して語られている。神はあなたを我が子と呼んで下さる。神の子であるなら遠慮はいらない。何でも自分の思いを告げることができる。それはクリスチャンも同じである。パウロは、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」(ローマ8:14-15)と言っている。「アバ、父」とは、アラム語で父を呼ぶ呼び方のこと。それは最も親しい人への呼びかけである。私たちはそのような身分に変えられた。それゆえ、私たちは神を父と呼び、何でも願い求めることができるのである。

 J.I.パッカーという神学者は、「新約聖書の教えを一言で要約するとすれば、創造者なる神が、父であるということに関する啓示なのだ」と言った。キリスト教信仰を本当に理解し、自分のものにしているかどうかは、自分が神の子であるということを、どれだけ認めているか、神を自分の父としてどの程度認めているか、ということでわかる。私たちは神の子であるから、父なる神に大胆に、また、必死に求めることができる。

 主イエスはこう言われた。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、天の父が、求める者たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)

 主は、求める者たちに良い物を与えてくださる。なぜなら、主は私たちの父だから。そう信じて祈るなら、神は豊かにあわれんでくださるのである。

 Ⅱ.へりくだって祈る祈り(64:1-7)

 第二に、神に聞かれる祈りとは、へりくだって祈る祈りである。ここに重要な問いがある。それは、「ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。」という問いである。そして、その答えは何か。それは救われるということである。なぜなら、私たちは自分の義ではなく、神の義に信頼しているからである。「私たちはみな、汚れた物のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げられます。」(6)この「不潔な着物」と訳された言葉は、直訳では「月の物で汚れた着物」となっている。つまり、月の物で汚れたナプキンのことを指している。イザヤはここで、自分たちの義はみな、使用済みのナプキンのようなものだと、へりくだって祈っている。そのようなものは木の葉のように枯れて、すぐにどこかに吹き上げられてしまう。そのようなもので救われるはずがない。私たちが救われるのはただ、神が与えてくださる衣、義の衣によるのである。だから古い衣を脱ぎ捨てて、キリストという義の衣を着せていただかなければならない。

 Ⅲ.神にすべてをゆだねて祈る祈り(64:8-12)

 神に聞かれる祈りの第三は、神にすべてをゆだねて祈る祈りである。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(8)ここに「陶器師」という言葉が出てくる。これが意味していることは、神は主権者であられるということである。神は陶器師であり、私たちは粘土にすぎない。私たちはみな、神の手で造られたものなのである。したがって、何の文句も言えない。ただ陶器師であられる主にすべてをゆだねるしかない。練られようが、焼かれようが、壊されようが、廃棄処分にされようが、それはただ陶器師の意のままである。そのみこころにすべてをゆだねなければならない。しかし、この陶器師は、同時に私たちの父でもある。だから、決してひどいことはなさらない。むしろ、私たちにとって最善のことをしてくださる。本来なら捨てられても致し方ないようなものなのに、それを新しく造り替え、神に喜ばれる聖い器にしてくださる。何という幸いなことだろうか。だから私たちはこの陶器師の手にすべてをゆだねて祈らなければならないのである。

イザヤ63:1-14 レジュメ

イザヤ63:1~14 「豊かな神の恵み」 

 Ⅰ.敵を滅ぼされる方(1~6)

 ここには、やがてキリストが再臨され敵を滅ぼされる様子が預言されている。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。」(1)エドムとは、聖書では常に神の民イスラエルに敵対する民族として登場してくる。ボツラとはそのエドムの首都のこと。再臨のキリストは、このボツラからやって来る。真っ赤に染まった衣を着て。これはどういうことか。「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏むようなのか。わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」(2-3)

 これは十字架の血ではない。これは神に敵対する者がさばかれ、酒ぶねで踏まれた時のように踏みにじられた時に流される血のことである。神に敵対する者は、やがてこのようにさばかれる。神はこのように敵を滅ぼされるのである。

 Ⅱ.豊かな神の恵み(7-10)

 このような神のさばきの中にあっても、主を信じる者はさばかれない。彼らはこのように神への賛美をほめ歌う。「私は、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないくつしみについて。」(7)なぜこのようにほめ歌うのか。それは、神が一方的に救ってくだったから。何の功績もなく、全く救われるに値しない者が救われた。それは神の一方的な恵みによる。だから、神をほめたたえるのである。それがクリスチャンの歩みだ。

 では、神はどのように愛してくださったのだろうか。第一に、神は「偽りのない子たちだ」(8)と呼んでくださった。人を蹴落としても自分を優先し、自分さえよければいいと思うような身勝手な私たちを、偽りのない子と呼んでくださる。それは私たちの罪を見て見ぬふりしているからではない。私たちの罪のすべてを十字架で代わりに受けてくださったからである。

 第二に、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」(9)でくださる。「親身になって」という言葉があるが、まさに主イエスは親身になってあなたのことを理解してくださる。なぜなら、主イエスはあなたのために十字架にかかって死んでくださったからだ。だからあなたに同情できないことはない。あなたの悲しみや苦しみのすべてを汲み取ってくださることができるのである。

 第三に、主は「昔からずっと、彼らを負い、抱いて来られた。」(9)主はあなたの最も近い親類になってあなたを贖い、あなたを罪から解放してくださった。そして、昔からずっとあなたを背負い、抱いてこられたのである。

 何という恵みだろう。まさに「豊かな恵み」、「豊かないつくしみ」である。このような神なら、だれでもきっと素直に従うことだろう。しかし、イスラエルはそうではなかった。彼らは逆らい、主の聖なる御霊を悲しませた。私たちが主に逆らうと、御霊は悲しまれる。痛まれる。だから決して逆らうことがないように、素直にイエスを信じ、従っていきたい。いったいどうしたら従うことができるのだろうか。

 Ⅲ.主の恵みを思い出して(11-14)

 それは主の恵みを思い出すことによってである。「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。」いったいなぜ彼らはモーセの日を思い出したのだろうか。それは思い出すためである。神がどれほど偉大な方であり、恵み深く、あわれみ深い方なのかを思い出すためである。主の恵みを思い出すなら、感謝に溢れるようになる。そのくちびるに賛美が溢れるようになるのだ。「恵み」とは、十字架を思うと書く。あなたが十字架を思い出すなら、あなたも必ず感謝に溢れるようになる

 神はあなたを地獄の滅びから救ってくださった。世の終わりの神の復讐の日に、あなたが恐ろしいさばきを受けることがないようにしてくださった。そのために主は十字架にまでかかってくださったのである。この恵みを思い出すなら、あなたにも感謝と賛美が溢れるようになる。

 だから、どうか思い出してほしい。あなたがどのようにして救われたのかを。あなたが救われてから今までどのように導かれてきたのかを。そこには言葉には尽くせないほどの神の大きな愛と恵みがあった。その恵みを思い出してほしい。そして、日々の生活の中にあって、自分の置かれたを現実を見て嘆くのではなく、その中にあってもいつくしんでくださる主の恵みを信仰によって見つめ、感謝に溢れながら喜んで神に仕えていく者でありたい。

イザヤ62:1-12 レジュメ

イザヤ62:1~12 「黙っていてはならない」

 Ⅰ.黙っておられない神(1~5)

 主はシオンのために黙ってはいない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまで、エルサレムのためにずっと働いていてくださる。このシオンとかエルサレムというのは、神の民であるクリスチャンのことでもある。主は私たちクリスチャンのために、いつも生きてとりなしていてくださる。「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。」「新しい名」とは、新しい性質のことである。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。その名は、「わたしの喜びは彼女にある」(4)である。あなたはもう「見捨てられている」とか、「荒れ果てている」などと呼ばれることはない。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる。

 いったいこのような神が他にいるだろうか。どの宗教があなたのことを喜んでくれるだろうか。ただ聖書の神だけが、まことの救い主イエス・キリストだけが、あなたをこのように喜んでくださる。なぜなら、あなたは神の救いを受け入れ、神のものとされたからだ。あなたがどんなに罪を犯し、失敗を繰り返すような人でも、神の目には高価で尊い。神はあなたを喜んでくださるのである。

 Ⅱ.黙っていてはならない(6~9)

 第二のことは、だからあなたも黙ってはならない、ということである。「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」(6)

 「見張り人」とは、この時代で言えばイザヤをはじめとした預言者たちのこと。イスラエルに向かって神の警告を発する人たちのことである。それは同時に、私たちクリスチャンたちのことでもある。その見張り人に命じられていることは何か?昼の間も、夜の間も、黙っていてはいけない、ということである。世の終わりが近いことを知り、悔い改めて神を信じるようにと警告を発せなければならない。パウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず、教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)と言った。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(同4:3~4)

 まさに今、そのような時代が来ている。インターネットやスマホの情報に振り回され、それが絶対であるかのように思い込み、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代が来ているのである。しかし、そのような時でも、みことばを宣べ伝えなければならない。困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければならないのである。どうせ誰も信じないのだから伝えないのではなく、だれも信じなくても伝えなければならない。黙っていてはならない。それが見張り人である私たちの務めなのである。

 Ⅲ.あなたの救いが来る(10~12)

 第三のことは、あなたの救いは必ず来るということである。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」(11)これは黙示録22章12節にも引用されている。世の終わりには、イエス・キリストがさばき主としてやって来られる。そのとき、主はそれぞれのしわざに応じて報いてくださる。その報いとは私たちの過ちに対するさばきではなく、私たちの労苦に対する報いである。「彼らは、聖なる民、主に贖わされた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」(12)それまでは見捨てられていたかのようであった。荒れ果てた者だった。しかし、やがてイエス・キリストが来られるときはそうではない。あなたは聖なる者、見捨てられない町と呼ばれる。なぜ?なぜなら、あなたの罪は贖われたからである。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストの中にあることによって、あなたの罪は完全に贖われた。それゆえに、あなたは神のものとなり、神に喜ばれる者となった。

 であれば、たとえ今、私たちの目の前にいろいろな困難があっても、たとえ涙ばかりが流れるような現実の中にあっても、私たちは落ち込む必要はない。この与えられた希望のゆえに、忍耐をもってそれを乗り越えていくことができる。見よ。あなたの救いが来る。もうすぐ、それが実現しようとしている。だから、そのことを覚えて、この神の救いを待ち望む者でありたい。また、このすばらしい救いを宣べ伝えなければならない。黙ってはならない。キリストのとりなしによって救いの中に導き入れられた私たちは、キリストのように人々のためにとりなす者でなければならないのである。

イザヤ61:1-11 レジュメ

「主によって喜ぶ」                  No.95

イザヤ書61:111

 Ⅰ.悲しみを喜びに(1-3) 

 主によって罪赦され、神の民とされた者にもたらされる祝福がどのようなものかが預言されている。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」(1-3)この「わたし」とは誰のことか?これはイエスのことである。ルカの福音書4章18-19節のところで、イエスは会堂でこの箇所をお読みになられ、「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と宣言された。イエスこそ主に油そそがれた方であり、貧しい者に福音を伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には赦免を、囚人には釈放を告げ知らせるために神から遣わされた救い主だったのである。

しかし、ルカの福音書を見ると、イエスの宣言は「主の恵みの年を告げ知らせるために。」で切れていることがわかる。いたいこれはどういうことだろうか。実はイエスはここで最初の来臨と二度目の来臨を分けておられたのだ。最初の来臨はイエスが救い主として来られた時に成就したが、二度目は違う。二度目はさばき主として来られる時に成就する。イザヤはその両方を見て預言したが、イエスはその最初の来臨が成就したと告げたのである。今から二千年前に。確かにイエスが来られたとき貧しい人に福音が伝えられた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれることを告げられた。しいたげられていた人々は自由にされ、主の恵みの年が告げ知らされた。しかし、それだけではない。やがてイエスはさばき主として再臨され、神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、喜びの油を、賛美の外套を着けてくださる。その時イエスはすべての敵に復讐し、神の民シオンを慰めてくださる。今はいろいろなことで苦しまなければならないが、やがてこのような喜びがもたらされる。これは必ず実現することである。なぜなら、前半に書かれてあった預言もちゃんと実現したことを私たちは知っているからだ。だから、私たちはここに希望を置くことができる。ここに希望を置いて、神からの慰めを受けるものでありたい。

Ⅱ.主の祭司ととなえられる(4-9)

そればかりではない。6節には、「しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。」とある。これはどういうことか。祭司とは民に代わって神にとりなしをする人のこと。立場の下にある者が上の人を祝福する。それは下の者が上の者に勝る特権が与えられていることを意味している。イスラエルはもともとその祭司として召されていた(出エジプト19:6)。にもかかわらず彼らはその召しに不忠実だった。それで神は彼らからその特権を取り上げ、それを異邦人へともたらされた。そのようにして私たち異邦人がイエス・キリストを通してこの祭司の王国に加えられ、聖なる国民、神の所有とされた。霊的イスラエルとなったのである(Iペテロ2:9)。しかし、それは神がイスラエルを捨てられたということではない。神の賜物と召命とは変わることはない(ローマ11:29)。一時的に救いが異邦人にもたらされたが、それはオリーブの木につぎ木されているだけのことであり、やがてイスラエルはみな救われる。それは彼らが再び神の祭司となるためである。イスラエルがどんなに神にかたくなになり、神に反逆したり、神のみこころにそむいても、神は決して彼らを捨てることはない。それは霊的イスラエルとなった神の民クリスチャンにも同じことがいえる。私たちも何度も神に敵対し、その召しに不忠実になることがあるが、一度神を信じ、イエス・キリストの救いにあずかったのならば、どんなことがあっても捨てられることはない。神はずっと私たちを愛し続け、必ず捕らえてくださる。あなたもやがて神の祭司と呼ばれるようになるのである。

Ⅲ.主によって喜ぶ(10-11)

だから、私たちに求められていることは、主によって喜ぶことである。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。」(10)「わたし」とはイエスのこと。イエスは主によって楽しみ、イエスのたましいも、神よって喜ぶ。であれば、イエスによって救われ、イエスに連なる者とされた私たちも主によって喜び、楽しむことができる。私たちはキリストとの共同相続人であるからだ。イエスに対する栄光は私たちに対する栄光であり、イエスの祝福は私たちの祝福でもある。だから、私たちもこの主によって喜び、楽しむことができる。現実の日々の生活にはいろいろな困難もあるが、私たちもこの主によって喜び、楽しもう。私たちにもこのようなすばらしい祝福が約束されているのだから。