ローマ人への手紙16章17~27節 「勝利の神」

これまでずっとローマ人への手紙から学んできましたが、きょうはこのローマ書の最後となります。この箇所から「勝利の神」というタイトルでお話したいと思います。

私たちの信仰生活を自動車の管理の仕方にたとえると、そこには二つのタイプがあることに気付きます。一つは整備型で、もう一つは修理型です。整備型の人というのは車が故障したり、何かがある前に常に車を整備しておきますので、ほとんど故障することがなく安定したカーライフを送ることができますが、修理型の人は違います。修理型の人は、どちらかというと、何かがあるまで対応しようとしません。たとえば、雪が降るまでタイヤを交換しないとか、車が故障するまで整備しないといった具合にです。壊れてから考えればいいと思うので、重大な時に車が動かなくなったり、故障したりして、大変な思いをすることが多いのです。皆さんは、どちらのタイプでしょうか。何かが起こる前に常に祈りとみことばによってしっかりと武装しているタイプですか。それとも何かが起こるまで、ボーとしているタイプでしょうか。一見、熱心に信仰生活を送っているように見える人でも、実は修理型である場合があります。そういう人は「神様助けてください」と祈ってはいるのですが、実際にはみことばに従って生きるよりも自分の思いを優先しているので、何かあるとパニックに陥ってしまったり、問題が起こると神様に叫び求めるのですが、解決したとたんに祈ることを止めてしまうのです。いつまでもこのような信仰のパターンを繰り返しているために、すべてが後手後手に回ってしまうのです。しかし整備型の人は違います。試みが来る前に祈り、みことばで武装しますから、行く先々で神の力によって勝利できるのです。完全にというわけではありませんが、基本的にそのようなパターンに従っているので、いろいろな試みの中にも感謝の生活を送ることができるのです。いったいどうしたら整備型の信仰生活を送ることができるのでしょうか。

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、分裂とつまずきを引き起こす人たちに警戒することです。善にはさとく、悪にはうとくなければなりません。第二のことは、勝利の神にゆだねることです。第三のことは、偉大な福音の力に生きることです。

Ⅰ.善にはさとく、悪にはうとく(17-19)

まず17-19節をご覧ください。「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまづきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。」

パウロは16節までのところで親しい人たちにあいさつを送り、言いたいことは全部終わりました。けれどもこのようにあいさつをしてみると、心の中に一つの思いが浮かんできたのです。それが17節以下のみことばです。それはこのローマ教会の中に誤った教えを伝える者たちがいたということです。つまりこの教会の中に、異端者の群れが入り込んでいたということです。

ガラテヤ人への手紙1章6-8節を見ると、パウロは他のところではずいぶん寛容なのに、このように福音をねじ曲げる人たちに対しては、断固とした態度を取っていることが分かります。パウロはここで、

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」

と言っています。パウロはここでそのような教えを「ほかの福音」と呼んでいます。ほかの福音とはいっても、もう一つ別の福音があるわけではありません。福音のような装いはしているけれども本当の福音とは違う教えのことです。よく話を聞いていると、聖書が言っていることとは微妙に違ったことを教えていたり、あからさまに福音を否定するようなことを言ったりする人がいるのです。最近、 ある人が、日本に3大神社の出雲神社がありますが、その3大大社のうち出雲大社が父なる神、日吉大社が子なる神イエス、春日大社が聖霊を象徴しているという人の話を聞いて、頭が混乱してきたと言いました。そんなことを唱える人もねいるんです。聖書のことがよく知らない人がそういう話を聞くと、「えっ、そ~なんだ。かっこいい」なんて思う人もいるのですが、それは明らかに聖書が言っていることとは違います。日本の神道がユダヤ教の影響を受けているという一つの学説を拡大解釈してそのように言う人たちがいるのですが、これは全く福音ではないのです。まあ、そこまではあからさまに福音を否定しなくても、福音のような内容でも、実はそうでない場合があるのです。そのような違いは小さなもののようですが、やがて大きな違いに発展することがありますから注意が必要です。パウロはそのように誤った福音を宣べ伝える人たちがいるとしたら、そういう人はのろわれるべきだと言っているのです。なぜパウロはそこまで厳しく言っているのでしょうか。それは福音を間違って伝えることで、その誤った教えが一人や二人のクリスチャンを倒すだけでなく、神の教会全体を根底から揺さぶることになるからです。それゆえに本当に教会にとって恐ろしいことは何かというと、外側からの迫害ではなく、教会の中に広がる異端的な教えなのです。迫害があると、不思議なことに教会は燃えます。しかし異端の教えが内部に広がると、教会は病んで倒れてしまうのです。それは収穫の時に現れるいなごの群れのようです。一年間しっかりと農作業をやってきたのに、突然いなごの群れがやってきて、すべての穀物を食い尽くしてしまうように、汗と涙を流して伝えた神のみことばを全部揺さぶってきて、神の民を悪魔のしもべに変えてしまうのです。これがみことばをねじ曲げて伝える異端のやっていることです。

18節を見ると、そんな彼らの特徴が記されてあります。「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。」そういう人たちはイエス様に仕えないで、自分の欲に仕えています。これはもともとのことばでは「自分の腹」と訳されたことばですが、キリストの十字架に従うのではなく、自分の欲望と自分の考えに従って歩んでいる人たちのことです。これが福音だと言いながら、福音をねじ曲げて伝えていたのです。しかも彼らはなめらかなことばやへつらいのことばをもって接してくるので、それが異端であるかどうかを判別するのが難しいのです。あのグリム童話にある「狼と七匹の子山羊」に出てくる狼のように、小麦粉を足に塗りたぐって近づいて来るので、油断してドアを開けてしまうのです。

先日、韓国の宣教師が来られて聞いた話ですが、最近韓国ではこのような異端が多いそうです。彼らは真面目な信徒を装って教会に入り込み、熱心に学び、奉仕して、役員にまでなるのですが、役員になったとたんに他の信徒たちを引き連れて教会を出て行くというのです。彼らはなめらかなことば、へつらいのことばをもって、純朴な人たちの心をだましているのです。

では、どうしたらいいのでしょうか。17節のところをみるとパウロは、こういう人たちを警戒して、彼らから遠ざかりなさい、と勧めています。パウロはここで決して「戦いなさい」とか「対処しなさい」とは言わないで、警戒して、遠ざかるようにと勧めています。これはいかにも消極的な対処法であるかのように見えますが、こうした異端に対して聖書が一貫して教えていることは遠ざかることなのです。たとえば、ヨハネ第二の手紙1章10-11節には、

「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」

とあります。ですから、私たちは異端を教える人たちから遠ざかることが賢明なのです。そうでないと間違った教えを持っている人たちは、極めて巧妙に私たちを自分の側に引き入れようとするからです。よく私たちのところにもこういう人たとがやってきます。彼らはクリスチャンを狙っているのです。クリスチャンはある程度聖書のことがわかっているので、こういう人たちを攻撃した方が手っ取り早いと考えるのです。またクリスチャンも人がいいので、このような人たちをむげに断って話を聞かなかったら悪いのではないかと思うのです。ですから、ついつい話を聞いてしまう。しかしこういう人たち悪魔の手下どもですから、悪魔と全く同じように巧妙な手口で襲いかかってきます。接しているうちに「なんだ随分優しくて親切じゃないか。クリスチャンよりも親切だな。」と思ううちに、いつしか相手のペースになってしまうのです。そうした人たちに対して最もよい対策は何かというと、彼らを警戒し、彼らから遠ざかることなのです。

パウロは19節のところで、「あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。」と言っています。従順であるだけでは危険です。私たちはこの世の中で信仰者としてしっかりとと立っていくためには、「善にはさとく、悪にはうとく」なければなりません。何が善であり、何が悪であるのかを見分ける知恵を持つとともに、悪に対して簡単に汚されてしまうことがないように、よくよく警戒していなければならないのです。

Ⅱ.勝利の神にゆだねて(20)

第二のことは、勝利の神にゆだねることです。20節をご覧ください。ここには、

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」

とあります。17-19節においては、人が注意すべきことについて教えられていますが、ここでは、それと同時に神の助けが必要であることが述べられています。神の助けがなければ、私たちは悪魔に勝利することはできません。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」という表現は、創世記3章15節にもありますが、異端の元祖とも言うべきサタンに対する神の究極的な勝利が実現するという意味です。イエス様は十字架と復活によって敵であるサタンの頭を踏み砕き、決定的な勝利を宣言してくださいました。しかし、最終的にはイエス様が再臨する時にそれが完成するのです。ですからここで「すみやかに」と言われているのです。パウロは、終末的な神の勝利が「すみやか」に来ると信じていました。

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」(Ⅱテサロニケ1:8-10)

パウロは、ここに希望を持っていたのです。皆さん、確かに主は来られるのです。その時が近づいています。これこそ私たちの真の希望なのです。この希望を握りしめている時、私たちは主の御名を喜び、叫び、賛美をささげることができるのです。この世にある矛盾と葛藤は、人間的な手段と方法によっては解決できるものではありません。しかし、主イエスが再臨するとき、それらすべての不条理としいたげとが正しくさばかれることによって明らかにされます。クリスチャンにとっての最高の使命は、日々、目を覚まして、この再臨の主を待ち望むところにあります。日々の生活において不義なことや傷つくことがあっても、落胆したり絶望したりせずに、主がすべてのことを正しくさばいてくださると、信仰をもって待ち望むところにあるのです。それこそ確かな希望であり、解決なのです。私たちに必要なのはこの世の不条理に対してあくせくすることではなく、サタンを踏み砕く勝利の主にゆだねることです。

Ⅲ.福音に生きる(25-27)

第三のことは、福音に生きることです。25-27節をご覧ください。パウロはこの手紙の最後のところで、「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」と言って、この手紙を結んでいます。                   これは頌栄です。頌栄というのは、神の栄光をほめたたえることですが、このローマ人への手紙のしめくくりとしての頌栄は、内容が盛りだくさんで、あまりにも長たらしいので、その意味があまりハッキリしません。いったいパウロはここで何を言いたいのかというと、27節にあるように、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえにありますように。」ということです。ではこの知恵に富む唯一の神とはどのようなお方なのかというと、その前の26節に書かれてあるように、「あなたがたを堅く立たせることができる方」です。ではどのように堅く立たせることができるのかというと、またまたその前に書かれてあるように、「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、です。すなわち、私の福音とイエス・キリストの宣教によってであります。パウロは、自分に示され、自分が宣べ伝えた福音こそまことの福音であるという確信を持っていました。この福音によってです。ですからここでパウロが言いたかったことはどういうことかというと、パウロが宣べ伝えていた福音によってあなたがたを堅く立たせることのできる知恵に富む唯一の神に、栄光がとこしえにありますように、ということになるわけです。

福音こそ私たちを信仰に堅く立たせてくださるものです。パウロは、この手紙の最初のところで次のように宣言しました。1章16節です。

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

皆さん、福音は力です。単なる概念ではありません。それは、救いを得させる神の力なのです。たとえ私たちの周りが偶像で溢れ、神の教えをねじ曲げるような人たちがいて、福音に似てはいるようでもその実は全く違ったことを教える人たちがいたとしても、あるいはそのことによって教会が、社会がどんなに枯れた骨のような状況であても、福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。それは二千年前に伝えられた昔話ではなく、今も生きて働き、私たちのたましいを変え、人生を変える力なのです。

皆さんは「バウンティ号」という船をご存知じですか。この船は1787年にイギリス政府が南洋諸島の一つであるタヒチという島にパンの木の栽培のために100人ほどの人たちを送り込んだのですが、その際に乗り込んだ船の名前です。  その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはみな魅力的でした。しかし、彼らは次第に堕落してしまい、本国からの命令を無視するようになり、口やかましい船長に反抗して、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのです。  その後彼らは本国から逮捕させるのを恐れ、ピトケアン(Pitcairn)という島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶ生活を始めました。そうなると彼らの間でけんかが絶えなくなりました。特に熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのけんかがひどくなり、殺し合いまでするようになりました。そして最後にたった一人ジョン・アダムズという人だけが残されたのです。すべての西洋人がいなくなり、多くの混血の子どもだけが生まれ育つようになりました。 しかし、それから30年後、そこを通りかかったアメリカの船がその島に上陸してみると、驚くべき光景を目にしたのです。そこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。いったい何があったのでしょうか。  仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いで死んでしまったある日、力が強かったがゆえに多くの人を殺して生き残ったジョンは、難破した「バウンティ号」に戻ってみると、そこに一冊の聖書を見つけたのです。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引きつけられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつの間にか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして悔い改めが起こったのです。彼は神の人に変えられました。その後聖霊の導きによって、その島の子どもたちに字を教え、神のみことばである聖書を教えたのです。住民たちも彼を尊敬し、彼を王様にし、彼に従いました。そしてその島はパラダイスになったのです。これは福音の力、一冊の聖書の力によるものでした。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)

神のことばは生きていて力があります。この神のことば、福音によって私たちは救われ、変えられ、信仰に堅く立つことができるのです。そして、あらゆるサタンの攻撃に打ち勝つことができるのです。今、私たちに求められていることは、この福音に生きることです。パウロはローマ人への手紙8章35節で、次のように問いかけています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」この問いに対する答えはこうです。続く37節でパウロは次のように言っています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」もし私たちが自分の人生を御手にゆだね、復活の力に信頼するなら、何が起こっても途方に暮れることはありません。どんなことがあっても、私たちがそれに飲み込まれたり、滅ぼされてしまうことはないのです。圧倒的な勝利者になるのです。これが復活の力であり、福音のメッセージです。

皆さんはどうでしょう。何に頼って生きていますか。自分の考えや自分の努力でしょうか。それも大切です。しかし、それだけでは私たちは折れてしまうことがあるのです。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストに信頼して生きることによってのみ、私たちはあらゆる困難を乗り越えることができるのです。

1968年に、ある科学者がインディアンの墓で、600年前に作られたと思われる、種でできた首飾りを発見しました。その科学者がその種の一つを取って植えたところ、何と芽を出して成長を始めたのです。600年間も休眠状態であったはずのその種には生命力が宿っていたのです。大切なのはその種を植えることです。あなたの心に福音の種を植えるなら、どんなに休眠状態にあろうとも、あなたも芽を出し、成長し、豊かな人生の実を結ぶことができるのです。この種には驚くべき偉大な神の力が宿っているからです。さあ、この福音の種をあなたの心に、また私たちの住んでいる社会に植えましょう。そうすればあなたの人生に全能の神が働いて、偉大な御業を成してくださるのです。

ローマ人への手紙16章1~16節 「偉大な同労者たち」

いよいよローマ人への手紙も16章を残すのみとなりました。きょうはこの前半部分から「偉大な同労者たち」についてご一緒に学んでいきたいと思います。

聖書を見ますと、名前ばかり書かれてある箇所が時々あります。たとえば、マタイの福音書1章はそうです。誰が誰を産んで・・・という表現がずっと続きます。中にはせっかく聖書を読み始めたのに、これではつまらないと思って読むのを止めてしまったという人もおられるのではないでしょうか。ルカの福音書3章もそうですね。名前の羅列です。特に読むのに骨が折れるのは歴代誌です。第一歴代誌は1章から9章にわたって名前ばかり出てきます。このような文章を読むのは牧師でさえ大変です。そのような記録はおまけの記録みたいで、何の意味もないと考えてしまうのも無理はありません。ですからすぐに次の章に行ってしまいたくなるのです。しかしこのローマ人への手紙16章は、無意味な記録ではありません。ここにはパウロの働きを助けた偉大な同労者たちの記録が記されてあるからです。

きょうは、この偉大な同労者たちの働きを三つのポイントで学んでいきたいと思います。まず第一に多く人を助けたフィベという女性について見ていきましょう。第二に忠実な同労者であったプリスキラとアクラから学びたいと思います。第三のことは、そこに偉大な同労者たちの働きがあったということについて見ていきたいと思います。

Ⅰ.多くの人を助けた女性フィベ(1-2)

まず1,2節をご覧ください。「ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」

パウロは、この手紙の最後のところで、ローマ教会にいる多くの人たちにあいさつを送っていますが、ここに出てくる名前だでも28人にも及びます。まだ一度も行ったことのないローマの教会に、これだけ多くの知人、友人がいたことには驚かされますが、それ以上に驚かされるのは、そうした一人一人に対するパウロの行き届いた心遣いです。

その最初に紹介されているのがフィベという女性です。この人はコリント地方のケンクレヤにあった教会の人で、女性の執事でした。この「執事」ということばは「しもべ」を意味する言葉で、今でいうところの「執事」や「役員」のことを指しているのかどうかははっきりわかりませんが、多くの人々の面倒をよく見ていたようです。そういう意味では、彼女は執事としてその務めを立派に果たしていたと言えるでしょう。

このフィベという女性は、どんな人だったのでしょうか。2節を見ると、ここに「どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し・・・」とありますから、この女性がコリントで書かれたこのパウロの手紙を持ってローマまで行ったのでしょう。私たちが読んでいるこのローマ人への手紙は、このフィベによって運ばれたものなのです。今でこそページ数で見ればほんの16章の薄い読み物ですが、当時はすべて巻物に記録されていたため、たぶん風呂敷包みで二つぐらいになったはずです。私たちは誰かに手紙を託すとき、「よいか、しっかり頼むぞ!」と言って手渡すかと思いますが、そのことばには相当の信頼が込められています。フィベという女性はパウロが尊い手紙をゆだねるほど、大いに信頼されていた女性だったのです。女性に対して人権意識が薄かったこの時代に、これだけの信頼を受けていたということは、まさに革命的なことだと言えるでしょう。

もう一つこのフィベについて紹介されていることは、彼女が「多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人」であるということです。このことばは、彼女が経済的な支援者であったことを示しています。使徒パウロは始め、テントメーカーをしながら自ら生活費を稼いで宣教をしていました。けれども次第にだんだん主の働きが忙しくなると、稼ぐことができなくなりました。このようなとき、パウロの経済的な必要を満たしてくれたのがこのフィベだったのです。いやパウロだけではありません。彼女は自分に与えられた財で、主に仕えていた多くの働き人を助けていたのです。

イエス様と弟子たちが伝道していたとき、その費用はいくらくらいかかったと思いますか?そんなことを計算した経済学者がいます。その人の試算によると、まず一ヶ月の食費は、一食三百円だとして、一度にかかる費用は三千九百円、一ヶ月なら三十万円を超え、一年間ですと三百六十万かかることになると言います。イエス様は神の御子であられましたが、この地上で御国の福音を伝えるために何も食べなかったのかというとそうではなく、ちゃんと食べなければなりませんでした。ではその食費はどうされたのか?その辺に転がっていた石に向かって、「エイ、お金になれ!」と命じたわけではないのです。ルカの福音書8章3節を見ると、その背後にはスポンサーがいたことがわかります。それが「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜい女たち」だったのです。多くの女たちが、イエス様と弟子たちの働きの費用を担っていたのです。そのような人たちの献身があったので、イエス様と弟子たちの働きが可能であったわけです。

フィベも同じです。彼女はパウロをはじめ多くの働き人を経済的に支援して支えました。そうした支えがあったからこそ、パウロは何にも妨げられることなく、また、そうしたことで心配することなく伝道に専念することができたのです。彼女のこうした働きの貢献にはおおきいものがありました。今日も彼女たちのような献身的な人たちをとおして、神様のみわざは大きく前進しているのです。

Ⅱ.忠実な同労者プリスキラとアクラ(3-5a)

次に、3~5節までを見てみましょう。ここには、忠実な同労者プリスキラとアクラ夫妻の美しい働きについて紹介されています。「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパントによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。」

使徒の働き18章1~3節を見ると、パウロはこのプリスキラとアクラとは、すでに顔見知りであったことがわかります。彼が第二次伝道旅行でコリントを訪れたとき、彼らもローマからやって来ていて、そこでパウロと出会うわけです。彼らもまたテントメーカーの仕事をしていたので、パウロは彼らの家に住んで、そこでいっしょに仕事をしたほどの仲です。そのときにプリスキラがアクラの妻であると紹介されていましたが、次第にアクラとプリスキラではなくプリスキラとアクラと紹介されるようになりました。すべてプリスキラの名前の方がアクラよりも前に挙げられています。なぜそのように紹介されているのかはわかりませんが、どうも夫のアクラよりも妻のプリスキラの方が、パウロの説く福音理解において鋭かったのか、あるいは、彼女の働きがことのほかすぐれていたことの評価がそこに表れているのではないかと思われています。しかし、たとえプリスキラの方が福音の理解においてすぐれ、その働きにおいて熱心であったとしても、これはあくまでも夫婦二人の働きによるのだということを表しているのではないかと思います。

さて、このプリスキラとアクラについてパウロが語っていることは、彼らが「自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれた」人たちであるということです。彼らは、パウロの命のためには自分の首さえも差し出すほどだった、と言っているのです。パウロがそう感じるほど、このプリスキラとアクラは忠実な同労者でした。天国に行ってからパウロに「あなたが一番忘れがたい同労者は誰ですか?」と尋ねるなら、きっと「プリスキラとアクラ夫婦です」と答えることでしょう。それほどに神様の御前に美しく献身していた夫婦だったのです。このような夫婦の存在は、牧師にとってどれほど大きな慰めとなり、励ましになることでしょう。皆さんもそういう人になってください。自分を主張し自分の思い通りにいかないとすぐに不満をぶちまけるような人ではなく、「彼らは命の恩人」だと言わしめるほどの忠実な同労者になっていただきたいのです。

このプリスキラとアクラ夫婦についてもう一つ重要なとがあります。それは5節に「またその家の教会によろしく伝えてください」とあるように、彼らの家が教会だったということです。家の教会です。今日のような会堂が出来たのはそれからだいぶ後になって2世紀になってからであって、当時は建物を持つ教会はほとんどありませんでした。ですから、このように信者の家庭が教会として用いられたのです。すべてが家の教会でした。開放された家庭でイエス・キリストの御名によって人々が集まれば、それが教会だったのです。プリスキラとアクラ夫婦は、行く先々で家庭を開放して、礼拝をささげる場所にしたのです。

これが教会と呼べるのか、スモール・グループと呼ぶのかは別として、ここで教えられることは、私たちの家庭は開放されなければならないということです。クリスチャンが礼拝や交わりのために家庭を開放することは大きな祝福であり、そのこと自体が立派な神様の働きなのです。特にまだ開拓伝道にも等しいような日本の教会においては、この家の教会の存在が極めて重要だと言えるでしょう。このようにクリスチャンの家庭が開放されそこで福音の種が蒔かれることによって、やがてそれが大きな実を結んでいくのです。そのことを覚えながら、私たちもまたプリスキラとアクラ夫妻のように、自分の家庭を主の働きのために開放していきながら、福音の宣教に貢献していきたいと願わされます。

Ⅲ.偉大な同労者たち(5b-16)

次に5節の後半から16節までを見ていきましょう。ここにはフィベやプリスキラとアクラ以外に、パウロに仕えた人たちの名前が列挙されています。パウロは胸に刻まれた、忘れられない同労者たちを思い浮かべながら、ローマ教会の聖徒たちに、彼らに「よろしく伝えてください」と言うのです。

まずパウロは、エパネトによろしくと言っています。この人はアジヤで最初にキリストを信じた人でした。パウロにとっては忘れることのできない人のひとりだったのでしょう。

次に出てくるのはマリヤです。ここには「あなたがたのために非常に労苦した」とあります。フィベもそうでしたが、このマリヤも、また、その後に出てくる人たちでユニアス、ツルバナ、ペルシス、ルポスの母、ユリヤとその姉妹も、みな女性たちです。こうした女性たちが非常に労苦しながらパウロの働きを支えていました。当時のローマの哲学者セネカは、「女も人なのか」といって論争を巻き起こしたと言われていますが、当時はそれほど女性に対して人権意識が低い時代でした。そうした時代に、女性たちがパウロの働きを支えるということにはどれほどの労苦が伴ったことかと思いますが、そうした中で彼女たちはパウロを支えたのです。

それから7節を見ると、ここにパウロと同国人で彼といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスという人たちも出てきます。彼らはパウロといっしょに投獄された経験を持っていて、使徒たちの間でもかなりよく知られていた人たちでした。福音のために苦楽を共にした思い出がよみがえってきたのでしょう。しかも彼らは「わたしよりも先にキリストにある者となっていた」という言い方をして、自分よりも先にクリスチャンになっていた信仰の先輩に対する敬意を表そうとしていたようです。

また10節ではアペレという人のことが紹介していますが、彼は「キリストにあって練達した人」でした。この「練達した」ということばは「テスト済み」という意味です。彼はどこへ出しても大丈夫とだれからも太鼓判を押されるような立派なクリスチャン本物のクリスチャンでした。

ローマの教会にはこのような人たちがたくさんいたのです。そしてこれらの人たちの中には、おそらくパウロがまだ一度も会ったことのない人々も含まれていることがわかります。そのようにまだ一度も会ったことのない人でも、彼の中では主にある同労者であるという意識があったのです。つまり、彼らがパウロとどういう関係があるかという見方ではなく、主にあって、キリストにあって、同労者であると理解していたのです。

人はどんな人でも、自分に合う人と合わない人がいるものです。おそらくパウロにとってもそうであったに違いありません。けれども彼は、自分の思いを優先させるようなことはしませんでした。あくまでもキリストを通して見ていたのです。キリストにあって、主にあって見るとき、たとえ自分に合わないような人であってもその人もまた主にある同労者であり、主にあって選ばれた聖徒たちであると意識していたのです。だからこそ彼は、そういう人たちを用いて、そういう人たちといっしょに労することができたのです。

皆さん、ここに多くの聖徒たちの名前が列挙されているのは、そのことを私たちに教えるためだったのです。つまり神様の働きは決して一人でできるものではないということです。使徒パウロとてそうでした。皆さんはパウロに対してどのような印象を持っているでしょうか?とても強靱で、ただイエス様のためだけに生きる、ひたむきな人というイメージがありますか?数百人かかってもやり遂げられないようなことを、一人で成し遂げたスーパースターという印象でしょうか?アジアとヨーロッパを回りながら、教会のない所に教会を建て、悪魔が支配する所に十字架の旗を立てていく、神様が願うとおりに用いられた英雄というイメージでしょうか?

しかし、このところを見ると、彼があれほど多くのことを成し遂げられたのは、こうした人たちの助けがあったからなのです。ここには少なくとも28人の人たちの名前が出てきます。ローマ教会に書き送った手紙の中だけで記録する必要のあった人だけでそんなにいたのですから、彼の生涯において彼と関わった同労者たちの数は、どれほど多くいたかわかりません。パウロの働きは彼一人の力によって行われていたのではなく、その陰にいた多くの同労者たちの助けによって支えられていたのです。いわば彼らとともに働くチームミニストリーであったということです。このように教会が一つのチームとして機能して働くと、一人でなし得る何倍もの働きができるのです。

使徒の働き6章4節を見ると、エルサレム教会にやもめの配給のことで問題が起こったとき、使徒たちは兄弟たちの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い七人の人を選び、その人たちにこの問題にあたってもらうことにし、彼らは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励んだとあります。これは祈りとみことばだけすればいいということではなく、使徒たちは祈りとみことばに力を使えるように、残りのすべての教会の仕事は他の人にゆだねてやってもらうということです。やらないということではなく、他の人を用いて、ほかの人といっしょに働くということなのです。そのとき何倍もの力となって現れるからです。事実、教会がそのようにみんなで一緒に働いたことで、エルサレム教会は弟子の数が非常に増えていっただけでなく、何と多くのユダヤ教の祭司までもが信仰に入ったのです。(同6:7)

伝道者の書4章9節に「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。」とあります。また、続く12節には、「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とあります。一番強い糸とはどんな糸なのでしょうか。一番強い糸とは太い糸ではなく、三つ撚りのひもなのです。牧師が信徒と一緒になってより糸のようになって伝道すると、本当に強い力、大きな力になるのです。

皆が皆、牧師にならなければならないということはありません。皆が皆、神学校に行って学ばなければならないということもないのです。しかし、皆が皆、隣人を助ける同労者にならなければなりません。信徒として立派に神様の働きをすることができるのです。神様はそのような献身者を求めておられます。いわゆる信徒のリーダー、レイマンと呼ばれる人たちが起こされることを願っておられるのです。牧師が忠実に主に仕えることは当然のことですが、こうした信徒のリーダーが同労者として神様の前に忠実に使えるとき、教会は多くの祝福をいただき、力強く前進していくのです。

パウロはそうした一人一人の主にある同労者たちを覚えて「彼らによろしく」と言っています。この「よろしく」というのは単なるあいさつではないのです。これは「彼らの労苦を認め、心から尊敬しなさい」ということです。主に仕えるこには多くの労苦が伴いますが、そこにはこうした報いも約束されているのです。どうかそれぞれが神様から与えられた使命を果たし、主に用いられる偉大な同労者となりますように。そして皆さんがだれかの胸に、忘れられない恵みを与えてくれた人として刻まれますように。いや、誰よりも主のお心に、その名前が忘れられ刻まれる人になりますようにお祈りします。

ローマ人への手紙15章22~33節 「神の使命に生きる」

きょうは、「神の使命に生きる」という題でメッセージを取り次ぎたいと思います。私たちはみな、神様から使命が与えられています。それはキリストの福音を宣べ伝えることです。この使命を忘れてしまいますと、自分が何のために生きているのかがわからなくなって、生きていることにあまり喜びが感じられなくなってしまいます。逆にこの使命に燃え、自分に与えられたものをもって応えようとする人には、喜びが溢れてくるのです。

きょうは神の使命に生きたパウロの姿から三つのことをお話したいと思います。まず第一に、教会にはキリストの福音を宣べ伝えるという使命が与えられています。第二のことは、この使命を成し遂げていくためには、クリスチャンが愛による一致していかなければなりません。第三のことは、しかし何よりも必要なのはこのために祈ることです。

Ⅰ.教会の使命(22-24)

まず22~24節までをご覧ください。ここでパウロは、「そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので―というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです、―」と言っています。

パウロは何度もローマ教会に行くことを望んでいながらも、なかなかそれを果たせずにいました。それは当時の地中海沿岸での伝道の事情がそれを許さなかったからです。それまでパウロが伝道によって出来た教会の中にいろいろな問題が起こり、その問題の解決にあたらなければならなかったのです。第二コリント人への手紙11章28,29節には「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」とありますが、パウロには教会のことで人には言えない苦しみや葛藤、痛みや悲しみがあったのです。そうしたことの対応に追われて、なかなかローマに行けないでいたわけです。

しかし、そのことが一段落すると福音宣教もかなり進み、「今は、もうこの地方には働くべき所がなくなりました」と言えるほどになりました。この地方とは、彼はこの手紙をコリントで書いていますから、このアカヤ地方、マケドニヤ、アジヤ地方といった地中海沿岸地方のことです。この地方にはもう十分と言えるくらいの伝道をしたので、今度はローマを中継地として、西方のイスパニヤまで出かけて行こうというのです。

このことばには、本当に驚かされます。まず第一に、彼が、この地方には私の働くべき所がなくなったと言い切っていることです。それほどに彼は熱心に伝道してきたということなのでしょう。もちろんそれはパウロひとりでできることではありません。その背後には、当時の異邦人教会全体が世界宣教の使命を自覚し、その実現のために共に労したという事実を見逃してはなりません。そのようにして、彼はこの地方全体に福音をあますところなく伝えてきたのです。

もう一つの点は、そこで彼が、これからイスパニヤまで出かけて行って福音を伝えようとしていることです。イスパニヤといったら今のスペインのことです。当時の世界地図では一番西に記されてあった国です。つまり、彼は世界の果てにまで行って伝道しようと言ってるのです。たとえそれがローマ帝国の西の果て、スペインであったとはいえ、当時の交通機関を考えれば、それは今日の全世界以上の遠さがあったと言っても過言ではありません。そんな遠くにまで出て行って福音を伝えようという彼の情熱には頭が下がります。

いったいなぜ彼はこのような思いを抱いていたのでしょうか?それは彼が神から与えられていた使命に生きていたからです。パウロの心をとらえていたのは、使徒の働き1章8節のイエス様のことばでした。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

これはイエス様が昇天される前に、弟子たちに語られたご命令でした。使徒パウロはこのみことばを握ってエルサレムに行き、福音を伝えました。後にはアジヤ地方をぐるっと回ってイルリコに至るまで、これは現在のユーゴスラビアですが、そこまで行って福音を伝えました。そしてそこにとどまらず、今度は当時の人々がイメージしていた地の果て、すなわちスペインにまで行って伝道しようと思ったのです。ハバクク書2章14節には、「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる」とありますが、全地が主の栄光を知るようになるためにというビジョンが実現すめために、その人生をささげたのです。彼はこの使命に生き、この使命に死んだのです。

しかし、それは彼だけのことではありません。教会全体に与えられている使命ではないでしょうか教会の使命は、教会がこの地上に誕生したその瞬間から、全世界に福音を宣べ伝えることでした。ですから、私たちがこのこの使命を見失い、この使命を果たしていこうとしないなら、教会はもはやこの世にあっては無用の長物であり、その存在意義がなくなってしまうのです。

最近、多くの人々が病んでおられると言われます。いったいその原因はどこにあるのでしょうか?生きる目的がわからないのです。自分が何のために存在しているのかがわからない。目的のある人でも、そのほとんどが自分のためです。自分に関心が向けられています。「どうしたら自分の人生の目的を達成していくことができるか?」「どうしたらいい暮らしができるか」「どうしたらいい服を着て歩けるか」と、その関心が自分に向けられているのです。ですから、自分の思うようにいかないと悩んでしまうのです。しかし、人生は自分の思うようにいかないことの方が多いのです。いや、ほとんどそうでしょう。ではどうしたらいいのでしょうか?自分のためにではなく、この私を造り、私を愛し、私のためにご自身のいのちを投げ出してくださった主のために生きることです。主が願っておられることは何か?そのために何をしたらよいのかを考えてるのです。私たちの古い人は十字架でキリストとともに死にました。今、生きているのは、私を愛し、私のためにご自身のいのちを捨ててくださった神のために生きているのです。自分であれこれして生きていくことを捨て、みこころのままに生きていく。水に浮くためには全身の力を抜かなければならないように、自分の考えや思いではなく、神のみこころにすべてをゆだね、導かれるままに生きることです。そこに生き甲斐が生まれてくるのです。

ある五十代後半の男性は、定年退職後どうやって余生を過ごそうかと、眠れないほど悩んだと言います。旅行にでも出かけてみるか、それとも、何か新しいことにチャレンジしてみようかと随分悩んだのです。そんな中で主イエス・キリストに出会いました。イエス・キリストに出会い、キリストの愛を体験し、福音の力を悟り、魂を生かす感激を知ったのです。それ以来、この方は神のために何ができるかを考えるようになりました。そして、定年後タイに渡り、そこで掃除の仕事をしながら福音を伝えることにしたのです。今では六十代になりましたが、神様の使命にとらえられて、それまでの人生とは全く違う余生を送っておられます。

私たちはごく普通の人かもしれません。それでいいのです。しかし、クリスチャンとして神に救われた者として、自分に何ができるのかを求めて生きることは重要なことです。なぜなら、そのために私たちは生かされているからです。私たちが神の使命を知り、そのために生きるなら、そこに大きな神の祝福が溢れるようになるのです。

Ⅱ.愛による一致(25-29)

ではそのためには何が必要なのでしょうか?25~29節をご覧ください。

「ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですが、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。」

イスパニヤまで行って伝道しようと思っていたパウロでしたが、その前に一つしておかなければならないことがありました。西に向かって行く前に、一度東に行っておかなければならないというのです。それは、異邦人教会からの献金を携えてエルサレム教会に持っていくことでした。当時、エルサレムの教会はユダヤ人から改宗したクリスチャンたちが集まっていて、クリスチャンになると迫害され職も失ってしまうことが多かったため、非常に困難な生活を強いられていたのです。その上、この地方を襲った飢饉のため、エルサレムの教会のクリスチャンは非常に貧困を極めていました。そこでパウロは、経済的に比較的余裕のあった異邦人教会に訴えて、献金を集めることにしたのです。するとマケドニヤとアカヤのクリスチャンたちは、喜んでそれに応えようとしました。なぜなら、それは彼らにとって当然すべき義務だと感じていたからです。彼らは霊的なことではエルサレムの人たちから分け前をもらったのだから、物質的な物をもって仕えるのは当然のことだと考えたのです。何と美しい信仰でしょうか。このように霊的な祝福を、物質的な物をもって分かち合うという原則は、聖書で教えられている原則です。たとえば、ガラテヤ6章6節には、

「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」

とありますが、それはこの意味です。イスパニヤへの伝道に燃えていたパウロは、なぜこのようなことをしたのでしょうか?そこに霊的な意味があったからです。それは聖徒たちの交わりの重要性です。パウロは、このように貧しいエルサレムの兄弟姉妹を献金をもって仕えることが、聖徒たちの交わりの恵みにあずかることだと信じていたのです。これが第二コリント人への手紙8,9章のところで、彼が言ってることです。実に献金は聖徒たちの欠乏を補うという奉仕のわざであり、そのことによって教会が一致を保つことができたのです。さきほど申し上げましたように、パウロの宣教の働きは彼一人によって成し遂げてきたものではなく、その背後には、実に多くの兄弟姉妹の祈りと助けがあってのことです。そうした兄弟姉妹の一致があってこそ、福音宣教が前進していくのです。福音宣教のためには愛による一致を欠かすことができません。

ですから、ご覧ください。使徒パウロの伝道というのはただ福音宣教にまい進していくというだけではなく、そこにはいつも本部であるエルサレム教会との緊密な関係を保っていたのです。第一次伝道旅行を終えたときにはアンテオケ教会とエルサレム教会に戻って報告し、神が彼らとともにいて行われたすべてのことを分かち合いながら主をほめたたえました。第二次伝道旅行の時もそうでした。パウロは第二次伝道旅行を終えた時にもエルサレム教会とアンテオケ教会に行って報告しています。また第三次伝道旅行が終わった時にも同じように、再びアンテオケとエルサレム教会に戻って宣教の報告をしました。パウロの計画は世界の果てであるイスパニヤに向かって行くことでしたが、同時に、エルサレムの教会の兄弟姉妹に仕えることでもありました。それは、ひどい飢饉で苦しんでいたエルサレム教会を助けるためでしたが、そのことによって教会との交わりの恵みにあずかり、その祈りの中で彼が宣教に送られて行くためだったのです。

Ⅲ.祈ってください(30-33)

福音宣教の使命を果たしていくために必要なもう一つのことは、祈りです。30~32節のところで、パウロはこのローマの教会のクリスチャンに切に願っていたことがありました。それは彼のために祈ってくれるようにということです。パウロがユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムの教会に対する愛の奉仕を全うすることができるように、また、その結果として、彼が喜びのうちにローマに行き、彼らと会うことができるように祈ってほしいというのです。それは彼自身が、この祈りの力を信じ、祈りによって生きていたからです。この「私とともに力を尽くして神に祈ってください」ということばは、「わたしとともに戦ってください」という意味のことばです。つまり、ここでパウロは祈りが戦いであると考えていたのです。というのは、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものだからです。エペソ人への手紙6章12節には、

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」

とあります。パウロはそのことをよく認識していました。そしてこの戦いに勝利するためには、祈らなければならないのです。なぜなら、この悪魔との戦いは私たち人間の知恵や力などによって勝てる戦いではないからです。神様の助けなしには絶対に勝つことができません。ですから、私たちは祈らなければなりません。祈りは、私たちが自分の力に過信しないで、神に頼ることを意味しているからです。そして私たちが祈るとき、神様はそれを聞いてくださり働いてくださいます。そして、祈りを通して働く神様の力は本当に強いのです。

かつてモーセの時代に、イスラエルがレフィディムの荒野でアマレクと戦った時はどうだったでしょうか?丘の下でヨシュアと敵が戦い、丘の上ではモーセが手を上げて祈っていました。そしてモーセが手を上げて祈っている時にはイスラエルは優勢になり、手が下がるとアマレクが優勢になりました。ですからイスラエルが勝利するためにはモーセがずっと手を上げて祈っていなければなりませんでした。そこでたびたび下がってくる手を、一方はアロンが、もう一方の手はフルが支えました。そのためヨシュアはアマレクに勝利することができたのです。このアマレクと戦っていたのは誰だったのでしょうか?それはヨシュアでも、モーセでもありません。モーセの祈りに応えておられた神様だったのです。神さまに祈るなら、神さまが働いて勝利をもたらしてくださいます。神さまに祈るなら、この困難な福音宣教の使命も成し遂げることができるのです。

そしてここでパウロは、「私のために祈ってください」と言いました。これはなかなか言えないことですよ。どちらかというと牧会者はできるだけ自分の弱さをさらけ出さないようにしているからです。私も元々体育会系の人間ですから、自分のことを他の人にさらけ出すのが苦手です。苦手というよりもあまり好きではありません。しかし、ここでパウロは「私のために祈ってください」と祈りを要請しているのです。それは彼が謙遜だったからということもあったでしょうが、何よりもそれが霊の戦いであることを十分意識していたからなのです。自分が置かれている立場がどのようなものであり、その任務を果たしていくには何が必要なのかということをよく認識していたからなのです。そしてそのためには何よりも祈りが不可欠であることをよくわきまえていました。彼は牧会者として、霊的リーダーとして、悪魔の最大の標的にさらされていて、そのためには祈りがなければ勝利できないということを痛感していたのです。

悪魔の第一の標的は何でしょう?牧師です。牧師を倒せばいいのです。牧師を倒せば残りの羊が散り散りになってしまうことを悪魔はよく知っているのです。おそらく、日々だれよりも大きな試みに会っているのは牧師ではないかと思います。ですから、そんな悪魔の策略に陥らないために、牧師のために祈らなければなりません。私のためにも祈ってください。またお互いの祝福のためにも祈ろうではありませんか。そして、私たちに与えられている使命を十分に果たし、神のご期待に応えられるような教会になれるように、祈ろうではありませんか。

最後に一つのお話をして終わりたいと思います。二人の木こりの話です。二人の木こりがいました。一日八時間、一人は1分も休まず熱心に働きました。もう一方は50分働いて10休むというやり方で八時間働きました。どちらが多くの木を切ることができたと思いますか?後者の方です。そこで前者の木こりが不思議に思ってその訳を尋ねると、その木こりがこう答えました。「私はその10分の休みの間に斧を研いでいたのさ。」これは重要な答えです。それは私たちクリスチャンにも言えることではないでしょうか?私たちが生きるとき熱心に走ることも重要ですが、斧を研ぐ時間も持たなければならないということです。クリスチャンにとってその斧を研ぐ時間こそ日々の祈りなのです。主の御前に出て礼拝することなのです。毎週集まってともに祈ることなのです。どんなに忙しくてもその時間が必要です。悪魔のわざを打ち破るキリストの兵士として、祈りという霊的武具は絶対不可欠なものだからです。しっかりと武装してこそ大きな働きができるということを肝に銘じて、祈りを怠らず、燃えるような情熱をもって神さまから与えられた宣教の使命を全うしていく者でありたいと思います。

ローマ人への手紙15章14~21節 「最大の恵み」

きょうは「最大の恵み」というタイトルでお話したいと思います。ローマ人への手紙もいよいよ終わりに近づきましたが、この終わりの部分でパウロは、この手紙を書き送った目的なり理由というものを、ここでもう一度説明しています。その理由については既に1章8~15節のところで触れてきましたが、ここではその内容をもう少し詳細に説明し、その計画が実現するように、このローマの教会の人々に祈りの援助を要請しているのです。その計画とはどんなことだったのでしょうか?それは、異邦人に福音を宣べ伝えるということです。彼は神から恵みを受けた者として、異邦人の使徒として召されそのために熱心に主に仕え、聖霊の助けによって、エルサレムからイルリコに至るまで、宣教のわざを続けてきました。その結果、ローマ世界の東半分においては、なすべき務めを果たしてきたので、今度はイスパニヤにおもむき、残りの西半分においても福音を伝えたいと願っていたのです。そうした伝道の計画をローマ教会の人たちに伝え、そのために祈ってほしかったのです。パウロにとっての最大の喜びは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることでした。神様がそのために自分を用いてくださるということが最大の恵みだったのです。

それは私たちも同じではないでしょうか。私たちが救われた目的は私たちを通して、他の人々に神の救いのみわざを宣べ伝え、キリストの救いへと導き、神の栄光を映す反射鏡のような生き方をすることです。私たちはそのために救われたのです。であれば、私たちもパウロのようにイエス・キリストの福音を宣べ伝えることを最大の喜びとしながら生きる者でありたいと願わされます。

きょうは、このパウロの宣教の精神から三つのことを学びたいと思います。まず第一のことは、パウロに与えられた使命です。それは神の祭司として、異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とすることでした。第二のことは、それを成し遂げた力です。それはキリストのしるしと不思議をなす力、聖霊の力によるものでした。第三のことは、その使命に対してパウロがどのように答えていったかです。パウロは、福音が語られていない所に福音を伝えるという開拓者精神で仕えました。そうした宣教の情熱が、美しく実を結んだのです。

Ⅰ.祭司の務めを果たす(14-17)

まず第一に、14~17節までをご覧ください。ここには、パウロに与えられた使命がどのようなものであったかが記されてあります。それは、異邦人に福音を伝えるということでした。

「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵にみたされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。」

パウロは、14節のところで、「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」と言っています。パウロは、これから語ろうとしていることをローマの聖徒たちに語るにあたり彼らを責めるような口調や態度ではなく、彼らを認めていることから始めています。人が強められるために一番重要なことは、その人が認められることです。人は認められるときにすべてのことを立派に成し、命までもささげる忠誠心と犠牲心を発揮するのです。パウロはまさにこの原則を用いて、彼らを認めることから始めているわけです。それは何とかして彼らに、これからパウロが語ることをよく理解してほしいという願いがあったからだと思います。その願いとは何しょうか?それは神の福音を宣べ伝えることについてです。16節には、

「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」

とあります。パウロが受けた恵みとは何でしょうか?それは神の祭司として、異邦人に福音を伝えるということでした。それは彼らを、聖霊によって聖なる者として、神に受け入れられる供え物とするためです。

皆さん、私たちは恵みというと、何か物質的な祝福をたくさん受けることとか、行く先々で道が開かれるようなことを考えがちですが、最大の恵みは、自分の口をとおして救い主イエス・キリストの福音を伝えることができることです。もちろん、物質的に恵まれたり、私たちの人生の道が開かれることもすばらしいことですが、イエス・キリストの福音を伝えられることは最高の恵みなのです。私たちがこの地上で体験できる最もすばらしい恵みは、このキリストの福音を宣べ伝えられることなのです。この使命のために神様が自分を用いてくださるということ以上に、大きな恵みはありません。パウロは、テモテへの手紙第一1章12~16節のところで次のように言っています。

「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」

パウロが、キリスト・イエスに感謝をささげているのはなぜでしょうか?それはキリストが、彼をこの務めに任命して、彼を忠実な者として認めてくださったからです。彼は以前は、神をけがす者であり、クリスチャンを迫害するような者で、神の敵として歩んでいました。まさに罪人のかしらのような人間だったのです。その彼が、神のあわれみによって罪が許され、キリストの福音を宣べ伝える者にされました。それこそ、ことばに言い尽くせない恵みだと、パウロは感激に溢れて告白しているのです。

皆さん、用いられることが祝福です。神様は、自分よりも育ちも良く、頭も良くて、人格的にも立派な人を差し置いて、私を用いてくださるとしたら、それこそ恵みではないでしょうか。

私は牧師になって28年になりますが、なかなかそのように思えないことの方が多くて悩みました。福音を語ってもあまり反応がなく、救われる人はまれです。自分が理想としていることと現実とには大きなギャップがあったりします。いったい何のために召されたのかと悶々とする時がある。  そんなことを考えていたあるとき、ずっと長い間忠実に主にお仕えしたきたある方の前でボロッと愚痴ってしまったのです。「ほんとうにこれで良かったのかなぁと悩む時もあるんですよ。あの道、この道と、いろいろな方法で神様に仕えることができたんじゃないかなあっと思うことがあるんですよ。・・・」みたいに。  するとその方がこう言われたのです。「あらまあ、いろいろな道もありますけれども、牧師さんとして仕えられることが一番神様に喜ばれることですよ」と。 私はそのことばを聞いたとき、もやもやしていた目の前の霧がパッと晴れ渡るかのように、はっとさせられました。ものすごく励まされたのです。そうだ、神様に仕えられる。神様に用いられることが最大の祝福なんだ・・・と。

どんなに自分は偉いんだと威張っても、どんなに自分は多くのものを持っているんだと胸を張っても、神様に用いられない人がいます。逆に弱くて無能で何も持っていないにもかかわらず、神様が用いる人がいます。これが恵みなのです。それゆえ私たちは神様に用いられるとき、感謝しなければなりません。自分がどれだけ多くの賜物を受けたかを感謝するのではなく、神様にいただいたものをもって、神様の栄光のために用いられているという事実を喜ぶことが大切なのです。

それは私たちがそのために召された者だからです。16節を見てください。ここに、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています」とあります。ここには私たちクリスチャンの身分というものがどういうものなのかが書かれてあります。それは「祭司」です。「祭司の務め」とは何でしょうか?ペテロの手紙第一2章9節を見ると、

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あなたがたがたが宣べ伝えるたるためなのです。」

とあります。ここに「王である祭司」とあります。神様は私たちを王である祭司として呼ばれました。祭司がすべき最も大きな仕事は、神にいけにえをささげることです。そのいけにえとは何でしょうか?そうです。異邦人です。それを私たちに適用して言うならば、それはまだ救われていない人たち、ノンクリスチャンたちだと言うことができます。礼拝をささげるときにノンクリスチャンたちを連れて来て神様の民にすることが、いけにえをささげるということです。多くの魂に伝道してイエス・キリストの御前に彼らを連れて来ること、これが最高のいけにえであり、神様が最も喜ばれることなのです。それは、私たちの家庭のことを考えてもわかると思います。家庭の中にあって、どんな時一番喜びを感じますか?新しい生命が誕生する時ではないでしょうか?それは家庭にとって一番大きな喜びなのです。それは教会も同じで、教会に新しい生命が誕生し、同じ信仰と同じビジョンを共有するようになるとき、喜びに溢れるようになるのです。それがなかったら教会は寂しいものです。どんなに集まってパーティーをしても喜びがありません。新しい生命を迎える感激と無縁だからです。祭司とは、そのようにノンクリスチャンを連れて来て、神の民として、いけにえをささげる人です。その神の祭司として、イエス・キリストが救い主であることを証しするために、私たち一人一人が呼ばれているのです。牧師だけではありません。牧師も信徒もすべての聖徒にです。このことを神学用語で「万人祭司主義」と言います。万人が際しです。すべての聖徒が神の祭司として、この務めを果たしていかなければなりません。

皆さん、悪魔が教会を倒そうとするとき、どのようにして倒そうとしているかご存じでしょうか?悪魔は教会を倒そうとするとき、まず少人数の人だけが走り回るようにし向けるのです。ある一部の信徒だけが伝道して、あとは自分の信仰だけを熱心に磨いていればいいと思わせるのです。そしてその人たちを疲れ果てさせ、落胆させ、意気消沈させるのです。何をやっても駄目だ、日本の宣教は難しい・・・と。しかし、それはまちがいです。伝道は特別な働きではなく、すべての聖徒たちにゆだねられている務めなのです。将軍が一人で戦っても、戦争には勝てません。戦争は総力戦なのです。イエス・キリストを自分の救い主と信じるすべての人が一緒に戦ってこそ、はじめて悪魔を退けることができるのです。このキリストの兵士が、教会の中に何人いるかです。教会にとって大切なことは、教会にどれだけの人が集まっているかということではなくて、どれだけの人が福音宣教に向かっているか、そのために遣わされているかということなのです。そして、私たちはみなこのために遣わされている神の祭司なのです。これがパウロにとっての最大の関心事であり、恵みだったのです。

皆さんはどうでしょうか?皆さんにとっての第一の関心事は何でしょうか?神の福音を宣べ伝えることでしょうか。それとも、自分のことでしょうか?すべての人がパウロと同じ人生を歩むわけではありません。しかし、パウロが信じ、パウロを導き、パウロの人生に目的とヴィジョンを与えられた神は同じ神です。であれば、私たちの関心事は同じものであるはずです。神の祭司としてその務めを果たしていこうとすることと無関係ではないはずなのです。

Ⅱ.御霊の力によって(18-19)

次に18~19節を見てみましょう。

「私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。」

ここには、パウロがどのようにして異邦人伝道を成し遂げていったのかが書かれてあります。「キリストはことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。」その結果、彼はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えることができたのです。イルリコというのはアドリヤ海の東側でマケドニヤ地方の上の方、今のユーゴスラビアのことです。エルサレムからは直線距離にして1,500キロ以上はあります。彼は、エルサレムから始めて、そうした地方に至るまで、キリストの福音をくまなく伝えたのです。そればかりではありません。23節を見ると、「今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを希望していた・・・」と言っていますが、イスパニヤまで行こうと計画していました。イスパニヤというのは今のスペインのことです。当時の世界の西のはずれです。今日のように交通機関が発達していなかった時代に、まあ、よくもこんなに福音を伝えることができたものだと感心しますが、いったいその力は何だったのでしょうか?それはキリストの力によるものでした。キリストがことばと行いによって、また、しるしと不思議によって、さらに御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。それはパウロの力ではなかったのです。キリストがパウロを用いて、ご自身のみわざを成し遂げてくださったのです。

「 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

聖霊があなたがたの上に望まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。そして、力強い主の証人となることができる。その行く先々で、しるしと不思議を行ってくださいます。福音が伝えられる現場では、こうしたこうしたみわざが現れるのです。

使徒の働き13章には、パウロとバルナバがアンテオケ教会から遣わされてキプロス島に渡りましたが、そこで魔術師エルマと戦ったことが記されてあります。パウロの話を聞いていた総督セルギオ・パウロが神のことばを聞いていると、彼を信仰の道から遠ざけようとして、邪魔をしました。するとパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、「あらゆるよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができないようになる。」と言うと、たちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は見えなくなってしまいました。この出来事に驚いた総督は、主の力ある教えに驚いて信仰に入ったのであります。

ルステラではどんなことがあったでしょうか。生まれつき足のきかない人がすわっていましたが、どのようにしてかわかりませんけれども、彼がパウロの話を聞いていると、パウロは彼にいやされる信仰があるのを見て、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」というと、彼は飛び上がって、歩き出したのです。驚いた群衆は、パウロとバルナバがギリシャの神ゼウスとヘルメスだと思っていけにえをささげようとしましたが、パウロがあわてて、そんな馬鹿なことはやめてください。私たちも皆さんと同じ人間なんですよ。このようなむなしいことを捨てて、天と地を造られた行ける神様を信じてください、というと、大勢の者たちが信仰に入ったのです。

第二次伝道旅行ではどんなことがあったでしょうか。あれはピリピでの出来事です。占いの霊にとりつかれていた若い女奴隷から悪霊を追い出すと、もうける望みがなくなった主人たちがパウロとシラスを訴えて牢屋に入れてしまいました。にもかかわらず、パウロとシラスが獄中で祈りつつ、賛美の歌を歌っていると、奇跡が起こりました。大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち全部の扉が開いてしまったのです。それを見た看守は、「もうだめだ」と思って自害しようとしましたら、「自害してはならない。私たちはここにいる」というパウロとシラスの超えが聞こえたので、恐る恐るひれ伏しながら、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言ったので、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言って、彼の家族全部が救われました。

やがてローマに向かう船が難破して、奇跡的に救い出され、マルタ島についた時も、パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出て来て、彼の手にとりつきましたが、「何だこの蛇は」と言ったかどうかわかりませんが、パウロが火の中に振り落としても、何の害も受けませんでした。

使徒の働きを見ると、こうしたしるしや奇跡は山ほど出てきます。まさに、イエス様が言われたように、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)

宣教の現場にはこのような主の力あるみわざが現れるのです。なぜなら、宣教は御霊なる主の働きによるものだからです。ある人々は、このような奇跡は二千年前に終わったと言います。しかし、福音を携えていくところには、確かに奇跡が起こるのです。今も南米で、アフリカで、中国で、インドネシアで、世界中の至るところでこうしたしるしや不思議をなす力によって、福音がものすごい勢いで広がっているのです。使徒の働きに記されているすべてのわざは、今日も福音が宣べ伝えられる所で、私たちを通して行われるのです。それはこの日本でも例外ではありません。みことばが宣べ伝えられるところではどこでも、このような神の力が現れるのです。それがパウロの宣教の力だったのです。

Ⅲ.開拓者精神(20-21)

最後に、こうしたパウロの異邦人伝道の原動力について見て終わりたいと思います。20~21節をご覧ください。

「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」

「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝える」とは、それは異邦人の世界のことで、まさに世界宣教のことです。また、「他人の土台の上に建てないように」とか「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる」というのは、文字通り開拓伝道のことです。パウロは、こうした世界宣教と開拓伝道のヴィジョンに燃えていました。今日のように交通機関が発達していなかった時代に、よくもまあこんなに大きなヴイジョンを持つことができたものだと感心させられますが、もっと驚くべきことは、実際に彼はそれを達成しようとしていたことです。こうした彼の開拓者精神はどこから出ていたのでしょうか?それは、彼がいつも神の見地から物事を見、何が神のみこころなのかを考え、そこに生きようとしていたからではないでしょうか。それが自分にできるかどうかではないのです。神のみこころは何なのか。そしてそれが神のみこころならば、何としてもそれを達成しなければならないという情熱から出ていたことだったのです。テモテ第一の手紙2章4節には、

「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」

とあります。神のみこころは、すべての人が救われて真理を知るようになることです。まだキリストの福音を聞いたことのない人たちが聞き、神を知るようになることを望んでおられます。そのためにどうあるべきなのかを求めた結果がこれだったわけです。今、私たちに求められているのは、こうした神様の目で物事を見、それを行っていくということではないでしょうか。

戦後、この日本にどうやって福音が伝えられてきたかご存知ですか?そこには多くの宣教師たちの汗と涙と犠牲によってです。日本が戦いに破れ、精神的に虚脱状態に陥っているとき、多くの宣教師たちが来日して、意欲的に福音を伝えてくれたことによってです。  その先駆者となったのがF・B・ソーリーという宣教師です。ソーリー宣教師は、1948年に来日し、焼け跡の東京の街角に立ってエネルギッシュに福音を伝えたと言います。アコーデオンをかなでながら歌を歌い、通訳を用いて説教しました。  東京での宣教の働きを終えると、今度は和歌山に移って意欲的に天幕伝道を始めました。「どうして和歌山なんですか?温泉があるからですか」と泉田昭先生が冗談に尋ねると、ソーリー宣教師は、にっこりと笑いながらこう言ったと言います。「調べてみると、日本でクリスチャンが最も少ない地方は富山県と和歌山県であることがわかりました。富山県ではカナダから来た宣教師たちが伝道することになったので、私たちは和歌山県で伝道することにしたのです。」  何というスピリットでしょうか。戦後日本の宣教は、こうした開拓者精神に溢れた宣教師たちによって、福音が伝えられて行ったのです。  イギリスからやってきていたP・ウィルスという宣教師は、「キリストを信ずれば、馬があんどんをくわえたような、長い不景気な顔をした人でも、かぼちゃのように、きびしょのように、にこにこした笑顔に変わります」と巧みな日本語で、熱心に語ったそうです。馬があんどんをくわえたような不景気な顔をしている人でも、イエス様を信じると、かぼちゃのような顔になるなんて、すごい表現だと思うんです。イエス様を信じると、私たちの不幸の原因であるところの罪が赦され、永遠のいのちがあたえられる。そのいのちの福音を携えて、熱心に語ったのでした。

今、時代は大きく変わりました。しかし、どんなに時代が変わってもいつまでも変わらない原則があります。それは、この開拓者精神です。まだキリストの福音が伝えられていない所に何とかして福音を伝えたいという情熱です。この日本の現状を見れば、それは必ずしも容易だとは言えませんが、しかし、イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも同じです。この主キリストが私たちとともにいてくださいます。この主の力に支えられながら、私たちはこのゆだねられた使命を成し遂げていきたいと思うのです。この救霊の情熱こそ、あらゆる困難を乗り越えて、世界の中心であるローマに、さらには世界の果てまで福音が伝えられた原動力だったのです。

ローマ人への手紙15章7~13節 「望みの神」

きょうは、「望みの神」というタイトルでお話したいと思います。クリスチャンが一致することについてかなりのスペースを割いて語ってきたパウロは、いよいよここでその結論を語ります。それはどういうことかというと、目の付け所を間違えないようにということです。神に目を向け、神に信頼しなさいというのです。なぜなら、神は望みの神だからです。13節をご覧ください。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」

教会における一致は、人間の努力や方策によってもたらされるものではありません。神が与えてくださるものです。ですから、お互いの違いに目を留めるのではなく、神に目を向け、神に信頼しなければならないのです。    きょうは、この望みの神について三つのことをお話したいと思います。まず第一に、キリストが受け入れてくださったように、私たちも互いに受け入れなければならないということです。第二のことは、キリストが私たちを受け入れてくださったのは神の栄光があがめられるためでした。大切なのは神の栄光があがめられることです。第三のことは、ですから望みの神に信頼しましょうということです。

Ⅰ.キリストが受け入れてくださったように(7)

まず7節を見てみましょう。

「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」

長いスペースを割いてクリスチャンの一致について語ってきたパウロは、これまで語ってきたことを受けて、「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」と勧めます。キリストがどのようにされたかが、すべてのクリスチャンにとっての模範であり、解決の鍵です。そしてここでは、キリストが私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさいというのです。 いったいキリストはどのように受け入れてくださったのでしょうか?私たちは既に14章を学んできましたが、15節には「キリストが代わり死んでくださったほどの人」という表現がありました。キリストはまさに信仰が弱いと思われる人たちのためにも死んでくださったのです。キリストはその人たちのために、いや、信仰が強いと思っている人たちのためにも、すべての人の罪のために身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。ご自分のいのちを捨てるほど愛してくださったのです。これほどまでに愛してくださった人をさばくようなことがあるとしたら、それはほんとうに神に申し訳がないというのです。

私は、イエスさまを信じるまではそんなにキリストの十字架のすばらしさがわかりませんでした。しかし、信じて、救われてみて、徐々にですが、そのすばらしさが実感できるようになりました。十字架を覚えるたびに感動で胸が熱くなります。新聖歌106番に、「虫にも等しき者のために、主はかくもむごき目に遭いしか」という賛美がありますが、まさにこんな虫けら同然の者を、限りない愛をもって一方的に愛してくださいました。いや、今も愛し続け、赦し続け、受け入れ続けていてくださっているのです。何と大きな愛でしょう。その大きな愛こそ私たちの交わりの土台なのです。もしキリストがこれほどまでに愛してくださったのに、その人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ大きな問題ではないでしょうか。教会においてはとかく自分と違う人をさばきがちになりますが、それは私たちのうちに今もなお残っている罪の残りかすのせいであって、この事実を忘れているからなのです。

皆さん、私たちはお互いに罪人であって、欠点も短所も弱さも持ち合わせている生身の人間です。決して聖人などではありません。完成された人などだれもいないのです。ですから、相手のクリスチャンに、嫌なことや、受け入れられないこと、なかなか好きになれないことがあっても当然なのです。皆さんにもそのようなところがあるからです。にもかかわらず、キリストはそんな私たちを受け入れてくださいました。それは私たちも互いに愛し合い、受け入れ合うためです。問題は、私たちがなかなかこの十字架の愛に立てないことです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

これが主のみこころです。そして、これは、私たちが「わたしがあなたを愛したように」と言われる主の愛に立つことによってのみできることなのです。言い換えるなら、私たちがキリストの十字架の愛を受けたかどうかが、互いに愛し合うという態度に現れてくるということです。キリストが愛してくださったように、互いに愛して合うこと。それが教会の一致の鍵なのです。

Ⅱ.大切なのは神の栄光があがめられること(8-12)

ところで、8~12節までを見ると、パウロは別の視点からもクリスチャンが一致する必要性を語っています。それは何かというと、神の栄光が現されるためにということです。

「私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは、父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」

ここには、キリストがどのように受け入れてくださったのかが記されてあります。まず8節を見ると、キリストは、神の真理を現すために割礼のある者となられました、とあります。どういうことかというと、キリストはユダヤ人の子孫として、ユダヤ人の中に生まれてくださったということです。なぜなら、旧約聖書の中にそのように約束されていたからです。ユダヤ民族こそ神様が選ばれた民でした。そのユダヤ民族を通してキリストが誕生されたのは、彼らに与えられた約束が実現するためだったのです。

しかし、キリストが受け入れられたのはユダヤ人たちに対してだけではなく、異邦人に対してもそうでした。9節には、「また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」とあります。キリストが十字架にかかって死なれたのはユダヤ人だけでなく、すべての人が救われて真理を知るようになるためだったのです。ユダヤ人も異邦人も一つになって、心を一つにし、声を合わせて、イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためだったのです。そのことを証明するためにパウロは、9~12節までの中で旧約聖書の四つの箇所を引用してこれを説明しています。まず9節後半のことばですが、これは詩篇18篇49節からの引用です。かつてダビデは異邦人の中で主の御名があがめられるようになると預言していました。主の御名は、異邦人の中でもほめたたえられるのです。それが主のみこころでした。また10節のことばもそうです。これは申命記32章43節からの引用ですが、異邦人も神の民とともに喜ぶようになるとあります。また11節と12節のみことばもそうです。11節のみことばは詩篇117篇1節からの引用で、12節のみことばはイザヤ書11章10節からのみことばですが、これも異邦人も神を賛美する者となることの預言でした。特に 12節にある「エッサイの根」とは、やがて来られるメシヤのことですが、このメシヤは異邦人のために、異邦人の希望のために、異邦人の救いのために来られるということが、ずっと昔から預言されていたのです。今まで生けるまことの神様を知らなかった異邦人までもが神を知り、神をほめたたえるようになるということです。つまり、キリストはユダヤ人も異邦人も受け入れてくださり、心を一つにして、声を合わせて、神の栄光がほめたたえるようにしてくださったということです。

ここでお気づきになられた方もおられるかと思いますが、これまでパウロは信仰の強い人と弱い人が互いに受け入れ合うようにというテーマで語ってきましたが、ここでは強い人とか弱い人というレベルではなくユダヤ人と異邦人が一致することにテーマが移っています。ユダヤ人と異邦人が一つになるということは考えられないことでした。それはまさに水と油のように相容れない関係だったのです。しかし、キリストが十字架にかかってくださることによって、隔ての壁が取り除かれました。敵意ず廃棄され、平和が実現したのです。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」(エペソ2:14~18)

ということは、このキリストにあって一つになれないことはないということです。つまり、重要なのは神があがめられることを求めることであるということです。それがすべてなのです。

皆さん、小さな考え方の違いはあってもよいのです。しかし、大切なことは、もっと偉大なものに目を向けることです。本当に偉大なことに目が向けられると、小さなことなどどうでもよくなるからです。その重要なこととは、神があがめられることです。このことを求めて生きるなら、人間の間のささいな相違点などは全く気にならず、互いに受け入れ合うことができるようになるのです。

Ⅲ.望みの神に目を向ける(13)

ですから第三のことは、この神に目を向けましょうということです。お互いの違いや、自分の感情に振り回されるのではなく、この神に目を向けましょうということです。なぜなら、神は望みの神だからです。この方に目を向けるとき、初めて私たちは相手を受け入れることができるようになるのです。13節をご覧ください。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」

パウロは、ここで神を「望みの神」と呼んでいます。5節の所では、「忍耐と慰めとの神」と言いました。忍耐と励ましの神が、希望を持たせることができる・・・と。皆さん、私たちの信じる聖書の神は、何よりも「望みの神」なのです。「望みの神」というのは、私たちに望みを与えることができる神であるということです。人はみな何らかの希望によって生きています。希望がなかったら、生きていくことなどできません。生きていたとしても、それはまさに行ける屍のような人生となってしまうでしょう。

第二次世界大戦中に、ドイツのナチスによって大勢のユダヤ人が強制収容所に送り込まれ、そこで殺され、死んでいきました。その中で数少ない生き残った人々は、ほとんど例外なく、将来に対するしっかりした希望を持っていたと言われています。「神が必ず救い出してくださる」、「なんとかしてこのようなことが二度と起こらないような社会を建設するのだ」、「どうしても家族や恋人にもう一度会いたい」等々の希望を持ち続けた人々が、最後まで生き残ったのです。希望こそ私たちに生きる力を与えてくれるのです。

しかし、希望といってもそこにはいろいろな希望があります。たとえば、「お金持ちになりたい」とか、「もっと有名になりたい」、「もっと楽な生活がしたい」といったものです。そのようないわば願望や欲望、野望といったものは、一時的な満足は与えてくれるかもしれませんが、いつまでも続くものではありません。したがって、そうした希望は失望に終わってしまうのです。しかし、神が与えてくださる希望は、決して失望に終わることがありません。なぜなら、神は「希望の神」、希望の根源であられる方だからです。無から有を創造されたまことの神は「希望」の根源者でいらっしゃるので、このお方に信頼する時、決して「失望に終ることはないのです。

また、ローマ人への手紙5章を見ると、神の愛が私たちの心に注がれているので、この希望が失望に終わることがないことがわかります。5章5~10節です。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」

神は、正しい人や恩人のためではなく、「弱く」「不敬虔で」「罪人で」、しかも「敵で」さえあった私たちをも愛してくださいました。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を明らかにしてくださったのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのです。

さらに、私たちの希望が「失望に終ることがない」という決定的な根拠は、キリストの復活の事実にあります。キリストが死からよみがえられたのは、キリストにある希望が何ものにも閉じこめられるものではないことと、その希望が永遠のものであることを確証するためだったのです。それゆえ、キリストに望みをおく者は、決してその希望が失望に終ることはないのです。

神は、この希望を与えてくざるのです。そしてパウロは、この望みの神が、ローマの教会の人たちの信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みに溢れされてくださるとようにと祈っています。彼らの努力によって、そうした希望、喜び、平安を持つようにではななく、信仰によって、聖霊によって持つようにと言っているのです。あくまでも与えてくださるのは望みの神であって、私たちの力や努力によるのではありません。私たちは、その神に信頼しなければならないのです。私たちが希望を失ってしまうほど、教会の中に問題が起こり、失望落胆してしまいそうな時でも、この希望の神に信頼することによって、そこから喜びと平安が与えられ、聖霊の力によって望みに溢れることができるようになるのです。

それは教会だけのことではありません。私たちの人生には、たびたび失望落胆するような出来事が起こりますが、そのような時にも、希望の神は、聖霊の力によって、私たちに希望を与え続けてくださるのです。問題は、私たちの目がどこを向いているかです。そうした問題に目が向けば失望落胆してしまいますが、神に目を向けると、希望が与えられるのです。

ダビデは、サウル王に憎まれ、命を狙われ、ユダの荒野を10年間も彷徨った時、人生の試練の中で、どこに希望と救いがあるのかを、次のように告白しました。詩篇62篇1~8節です。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。 セラ .私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。.神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。 セラ」

ダビデは、荒野の試練の中で、ただ神を待ち望みました。ただ神を望むというのは、神にのみ信頼して、人間的な一切の力を捨て、ひたすら主に心を向け、主だけに救いを求めることです。「黙って」というのがいいですね。「黙って」というのは、①呟かない・文句を言わない。ということです。②悪あがきをしないことです。神に信頼している人はそれだけで満足しているので、沈黙していることができるのです。ダビデは、サウル王や軍の攻撃の中で、6節「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」と告白しました。様々な思いが湧き起こっても、川の流れのように、ただ受け流すことができたのです。そして、心を神の前に注ぎだしました。神への沈黙は、感情に蓋をすることではありません。湧きあがった不安や怒りや悲しみを、主にささげることです。そのようにして心を主の前に注ぎ出すなら、感情の嵐はしだいに落ち着くようになるのです。ダビデの勝利の鍵は、この神に目を向けること、神に心を注ぎ出すことだったのです。目に見える現実に心が奪われ、神の前に静まることを素通りすると、人の顔色ばかりを気にする人間の奴隷になってしまいます。そして平安を失ってしまうのです。ですから、私たちは目に見える背後におられる神に目を向けなければなりません。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐらら。神は、われらの避け所なのです。この方に目を向け、この方に信頼することによって、完全な解決が与えられるのです。

皆さんの目はどこを見ているでしょうか?皆さんは何に信頼しているでしょうか。ダビデが「ただ黙って」ひたすらに主を信頼したように、私たちも主に信頼しましょう。それは望みの神が、聖霊の力によって、望みに溢れさせてくださるためです。

 

ローマ人への手紙15章1~6節 「心を一つにして」

きょうは、「心を一つにして」という題で、お話したいと思います。今、読んでいただいた箇所は、14章の続きです。14章のところで、パウロはローマ教会には信仰の強い人と弱い人が摩擦を起こし教会の中でいろいろな問題を起こしていましたが、それにどう対処したらよいかを語ってきました。きょうのところには、そうしたパウロの願いは祈りになって溢れていることがわかります。5,6節をご覧ください。ここには、

「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

とあります。教会の一致という問題はきわめて重要な問題です。それは教会がキリストのからだであるからです。パウロは、12章から始まる信仰生活の実践について語ってくる中で、この問題についてかなりのスペースを割いて語ってきましたが、その締めくくりにおいても、この問題を取り上げて説明を加えました。

きょうは、この教会の一致について三つポイントでお話たいと思います。第一のことは、信仰の強い人は、弱い人の弱さをになうべきです。第二のことは、それが可能になるのは、聖書が与える忍耐と励ましによってであるということ。第三のことは、その目的です。教会が一致するのはどうしてなのでしょうか?それは神の栄光のためです。心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえられるためなのです。

Ⅰ.弱さをになう(1-3)

まず第一に、力のある人は、力のない人たちの弱さをになうべきです。1~3節をご覧ください。

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、あなたの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。」

1節の「力のある者」とは、14章でいわれているところの「信仰の強い人」のことです。このような人たちは旧約聖書の律法から完全に解放されている人たちのことで、キリストの恵みによって自由にされたと信じていた人たちです。一方、力のない人たちとは、信仰的にとてもナイーブな人たちで、食べ物や日に関する規定からなかなか抜け切れていない人たちで、こういう人たちは、イエス・キリストを信じても、なおそうした規定を守らないと救われないのではないかと考え、そうでない人たちを見てつまずいてしまうような繊細な信仰を持っていました。ここでパウロは、「私たち力のある者は」と言っていますから、自分は力のある人たちのグループに属していると認識していたことがわかります。そして、このように力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきであって、自分を喜ばせるべきではないと言いました。これが信仰の原則です。力のある人は、力のない人たちの弱さをになうべきであるということです。この「になう」ということばは、「自分のものとして受け入れる」という意味です。弱い者の弱さを自分の弱さと思って共に背負うことです。その最もよい例は、主イエスです。3節には、「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、あなたの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。」とあります。これは、キリストの受難のことです。キリストはご自分が強い方として、弱い者の弱さを負ってくださいました。イザヤ書53章4~6節には、

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

とありますが、イエス様はご自分の肉体をもって弱さをになうということがどういうことなのかを示してくださいました。私たちの悲しみを代わりに背負ってくださり、私たちのすべての罪を引き受けられたのです。キリスト、ご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、弱い者の弱さをになわれ、代わりに背負ってくださったのです。キリストが歩まれた地上での生涯を見ると、キリストはご自分を喜ばせるようなことは、ただの一度もなかったことがわかります。キリストは多くの奇跡をなさいましたが、ご自分のためになさったことは一度もありませんでした。五つのパンと二匹の魚で五千人の人たちの飢えを満たされたのもご自分の飢えを満たすためではなく、群衆の飢えを満たすためでした。キリストは寝食を忘れて、病人をいやし、悩み苦しむ人々の求めに答えられました。そうしたキリストの模範を見るとき、私たちも自分を喜ばせるために生きているのではなく、弱い人の弱さをにない、その人たちを喜ばせるために生きるべきであることがわかります。これが、力のある者、強い者に与えられている使命です。

皆さん、神様はなぜ皆さんに健康を下さったのでしょうか?それは、健康でない人の弱さをになうためです。なぜ経済的、物質的な祝福を与えてくださったのでしょうか?それは、ぜいたくをするためではありません。それによって人々を助けるためです。なぜ信仰の賜物を与えてくださったのでしょうか?その賜物によって他の人たちに仕えるためです。これが力のある者に与えられている使命なのです。

中には、隣人を喜ばせるために自分の喜びを犠牲にしなければならないのなら、信仰生活ほどつまらないものはないでしょう、と言う人がいますが、そうではありません。私たちの喜びというのは、実は与えることによってもたらされるものだからです。ルカの福音書6章38節には、

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

とあります。人を図る量りで、自分の量り返してもらえるのです。よく宣教師の生涯を見ると、本当に苦労が絶えません。私も宣教師のはしくれのようなことをさせていただいてみて、そのことがよくわかります。自分の生活を捨てて宣教地の人たちに仕えることは、並大抵の忍耐でできることではないのです。なのに宣教に携わった方々がよく口にする言葉は、「宣教は喜びです」という言葉です。大変苦労したのに、大変な犠牲を強いられたのに、なぜ「宣教は喜びです」と言えるのでしょうか?人を量る量りで、自分も量り返してもらえるからです。与えなさい。そうすれば、与えられるのです。人々は量りをよくして、押しつけて、揺すり入れ、あふれるまでら、あなたのふところに入れてくれるでしょう。自分のものを注ぎ出すと、枯渇するのではなく、かえって潤されるというのが神の国の原則なのです。

Ⅱ.聖書の与える忍耐と励ましによって(4-5)

それにしても、力のある人が力のない人たちの弱さをになうことには苦労が伴います。いったいどうしたらこの使命を果たすことができるのでしょうか。次に、そのために何が必要なのかを見ていきたいと思います。4,5節をご覧ください。

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」    パウロは、キリストについてしるされてある旧約聖書(詩篇)から引用すると、その聖書の効用について教えています。つまり、聖書は私たちに忍耐と励ましを与え、希望をもたらしてくれるということです。皆さん、いったい私たちは何のために聖書を読むのでしょうか?そこに書かれてあることによって忍耐を励ましをいただき、希望を持つためです。

私たちの信仰生活は、いつも苦難にただ耐えているというようなものでないことは確かなことです。しかし、教会の一致を保ち続けていくためには、忍耐が必要なのは言うまでもありません。互いに言いたい放題のことを言い、したい放題のことをしていて、それで一致が保たれるはずはないのです。それは夫婦関係を見てもわかるでしょう。夫婦は互いに「フーフー」言いながらも、時には言いたいことがあってもそれをじっとこらえ、それが必ずしも自分の考えややり方と違うものであっても理解したり、受け入れたりすることによって、そこに一致が生まれてくるものです。それができなかったら、そこには混乱と破壊しかありません。

しかし、ここで「忍耐」と言われていることは、ただじっと耐えているという意味ではありません。この「忍耐」というのは、解決の力をもっている人が、その解決をもたらしてくれることを期待して待つことを意味します。その忍耐を与えてくれるものが聖書のみことばなのです。   また、弱っている人が慰められ、励まされて、力づけられるには、その人のかたわらにいて、励ますことが必要です。何もしなくても、ただ一緒にいてくれる、かたわらにいてくれるということが大きな励ましであり、慰めです。何も言わなくてもいいのです。何も言わなくても、共にいることが励ましです。その慰め、励ましを与えてくれるのがみことばなのです。

弱い人にとって大切なのは希望を持つことです。彼らが気落ちし、失望する時、彼らを励ますためには、希望を持てるようにする以外に解決の道はありません。ではその希望はどこから与えられるのでしょうか?聖書です。聖書が与える忍耐と励ましによって、希望を抱くことができる。ですから、5節には「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」とあるのです。

皆さん、私たちの人生には、苦しみや、悲しみ、痛みや、試練がごまんとあります。しかし、そのような中で私たちが経験するのは、神様が忍耐と励ましを与えてくださるということです。そのことを誰よりも経験したのはこのパウロ自身でしょう。彼はキリストを信じ、キリストの福音を宣べ伝えたことで、石で打たれたり、牢屋に入れられたり、鞭で叩かれたり、盗賊の難、同族の難、難破の難など、あらゆる困難に遭いましたが、そうした困難の中で、彼は神様が忍耐と励ましの神であることを深く知りました。どんな状況の中にも、神は志を立て、それをなさしめてくださるということを知ったのです。

皆さん、それは私たちも同じなのです。私たちの家庭の中に教会の中にも、言葉では言うことのできない困難や苦しみがあるでしょう。しかしながら、忍耐と励ましの神が、私たちを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださるのです。一致を与えてくださいます。

Ⅲ.神の栄光のため(6)

では、それはいったい何のためでしょうか?強い者が弱い者を受け入れ、一つの心を持つのは、何のためなのでしょうか?それは、神の栄光のためです。6節をご覧ください。

「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

皆さん、私たちは何ために互いに同じ思いを持ち、心を一つにし、志を一つにするのでしょうか?それは私たちが声を合わせて神をほめたたえ、神を証しするためです。私は説教しているうちに、いつの間にかそれが祈りになっていたということがありますが、ここでパウロも、いろいろと書いて、いろいろなことを語ってくる中で、それがいつしか祈りに変わっています。いや、祈らざるを得なかったのです。

「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

パウロの祈りは、教会が一つになることです。いろいろな人がいてもいい、いろいろな背景や考えを持った人がいてもいい、しかし、根本的には同じ思いを持ち、心を一つにして、声を合わせて、神をほめたたえ、神を証しするような、そういう教会になってほしいという願いがありました。それが祈りになったのです。

それは、イエス様の祈りでもありました。ヨハネの福音書17章21節には、「父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」とあります。イエス様は十字架を前にして、弟子たちに、はらわたをさらけ出すようにして話してから、わたしと父とが一つであるように、教会がイエス様と一つ、教会員が一つになるようにと祈られたのです。それは、このことによって、神様がいらっしゃること、福音が本当だということ、イエス様が救い主であるということを、この世が信じるためです。信じて永遠のいのちをいただき、そうして、父なる神様の栄光が現されるためです。教会が一つであるということは、それほど力があることなのです。

ところで、この「心を一つにして」ということばですが、これはローマ人への手紙の中にはここにしか使われていないことばです。しかし、このことばは実は、使徒の働きの中には何回も何回も出てくることばなのです。そして、この「心を一つにして」ということばが出てきた時に、そこに驚くべき神様のみわざと祝福が溢れ、教会が進展していったことがわかります。たとえば、2章46,47節には、

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

とあります。彼らが心を一つにして、毎日宮に集まり、家々で喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していたとき、すべての民に好意を持たれ、毎日救われる人々が仲間として加えられていったのです。また、4章24~32節を見ると、生まれながらの足なえをいやしたことでユダヤ教当局に捕らえられていたペテロとヨハネが解放されたとき、彼らが心を一つにして、神に向かって、祈ったとき、集まっていた場所が震い動くほど聖霊に満たされ、大胆に神のことばを語り出したとあります。また5章12~13節を見ると、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが行われましたが、そのとき、みなは心を一つにしてソロモンの廊にいました。ほか人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、そうした人々でも、彼らを尊敬していたとあります。聖徒が心を一つにして祈り、心を一つにして神をほめたたえるときに、そこにものすごい神の栄光が現されるようになるのです。

初めて教会に来られた方に、「きょうの礼拝はいかがでしたか?」と尋ねてみると、ほとんどの人がこう答えられます。「明るくて、いい雰囲気です。また来たいと思います。」「いや、なかなかいい話だった」とか、「説教で教えられた」ではないのです。雰囲気が良かったとか、明るく、温かい感じだったという印象が残るのです。先日、修養会のご奉仕で来られた大友先生も、そのプロフィールを見ていたら、小さい時からの夢であった造船会社に入り、そこで設計の仕事をするようになって満足はしたものの、心の底からの満足が得られないでいたとき、電柱にはってあったキリスト教会の集会案内を見て教会に来られたわけですが、「初めての聖書の話は全然わからなかったが、そこに温かいものを感じて、そして教会に通うようになり、イエス・キリストを救い主として受け入れた」とありました。やはり、温かいものです。言い換えると、教会にこの温かいものがないと、人々は長続きしないということになります。この温かいものはどこから生まれてくるのか?心を一つにして、声を合わせて、主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるというところから生まれてくるのです。

使徒の働き13章の出来事は、パウロにとって忘れることができない事だったでしょう。1~3節です。

「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」

パウロはその時アンテオケ教会でご奉仕していました。バルナバがパウロを引き出してくれました。バルナバは、「慰めの子」という名前の由来のごとく、ほんとうに傷ついた人を慰め、励ます賜物がありました。かつてバリバリのパリサイ人で、クリスチャンを迫害していたパウロを信用し受け入れるクリスチャンが少ない中で教会から信頼されていたバルナバは、このアンテオケ教会の建て上げのために彼を連れてきたのです。そこにはいろいろな人たちがいました。まず「ニゲルと呼ばれるシメオン」です。「ニゲル」というのは現在のニグロのことで、肌の色が黒かったことを表しています。おそらく、アフリカ系の黒人だったのでしょう。それから「クレネ人ルキオ」です。使徒の働き11章20節をみると、この人たちはステパノの迫害のことでフェニキア、キプロス、アンテオケと進んできましたが、それまではユダヤ人以外にはだれにも、みことばを語らなかったものの、このアンテオケに来てからは、彼らはギリシャ人にも語りかけたので、ギリシャ人をはじめ多くの異邦人も主に立ち返りました。キリストの弟子たちが、このアンテオケで初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったのは、彼らの影響が大きかったでしょう。その他、国王ヘロデの乳兄弟でマナエンという人もいました。これはヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスと同じ宮殿で育てられたという意味です。今でいうと皇族の一人といった感じです。かなり高い身分の出身でした。そういう人たちがいたのですが、彼らはそうした社会的地位や身分を越え、信仰によって一致していたのです。そうした彼らがパウロとバルナバを世界宣教へと送り出しました。こうしたことは一流の人物がいるからできることではありません。気のあった仲間がいればできるということでもないのです。そうした人たちが信仰によって一つになり、人間的な偏見や障害を乗り越えて、初めてできることなのです。このアンテオケ教会には聖霊による一致がありました。ですから、彼らが心を一つにして祈っていたとき、聖霊が、バルナバとサウロをわたしが召した任務につかせなさい、という声を聞いたのです。そして、彼らはその声に従って送り出したのです。教会が心を一つにして祈ったとき、そこに大きな神様のみわざと栄光が現されたのです。

どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにしし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。神にご栄光がありますように。そのために、私たちは互いの弱さを負い合いながらその弱さをにない、心を一つにして、声を合わせて、主をほめたたえたいと思います。

ローマ人への手紙14章13~23節 「愛によって行動する」

テキサス州アントニオにあるオーク・ヒルズキリスト教会牧師のマックス・ルケードは、子供にも大人にも好まれる作品を書くベストセラー作家ですが、彼の著書「特別な愛」の中で、こんなエピソードを紹介しています。彼の奥さんの名前はデナリンといいますが、デナリンさんにはある一つの癖がありました。それは車庫に車を駐車する時、真ん中に駐車するということです。ですから、夫のマックスが車庫の扉を開けると、彼が駐車するスペースの半分くらいを占領していることがあるのです。優しい夫のマックスは、そのような時には何気なくヒントを投げかけます。「どこかの車がうちの車庫の真ん中に居座ってるね。」このようなことを言うと、日本では「何それ、嫌み?」なんて言われるので、このようなアプローチはなかなかできませんが、アメリカでは通じるのです。  ある日、少し強い語調で彼が話すと、奥さんがどのようにそれを受け止めたかはわかりませんが、そのときから駐車するときには気をつけるようになりました。 ある日、娘が母親に、「ママ、どうして車を真ん中に駐車しないの?」と聞くと、奥さんがこのように答えました。「そうね。ママはあまり気にならないんだけど、パパが嫌いらしいのよ。パパが嫌がることはママも嫌なの。」

自分が気にならないことでも相手が嫌なことはしない。それが礼儀であり、キリストに似ていくということなのではないでしょうか。  きょうのところでは、その問題について取り扱われています。すなわち、特に信仰の強い人はそうでない人がつまずくことがないように配慮することが求められるということです。きょうは、このことについて三つのポイントお話したいと思います。

Ⅰ.愛の配慮を(13-16)

まず第一に、13~16節までをご覧ください。

「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。」

前回のところで、パウロはお互いにさばいてはならない、むしろ互いに受け入れなさいと教えました。今回のところでは、兄弟にとってつまずきになるものを置かないように決心しなさいと、信仰の強い人たちに対して配慮することを求めています。14,15節を見ると、パウロは、「私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです」と言っています。前回とのつながりの中で汚れた食べ物について言及しているわけです。パウロのようにいわゆる強い人は、食べ物それ自体で汚れているものは何一つないと確信していましたが、そうでないと思っている人たちもいました。そういう人たちは、旧約聖書レビ記11章にあるように、「清い動物」と「汚れた動物」があって、汚れた動物を食べることは罪だと考えていたのです。あるいは、第一コリント人への手紙8~10章にしるされてある偶像に供えられた肉の問題とも関係があったのかもしれません。偶像に供えられた肉を食べることは偶像と交わることであるので、汚れてしまうことになると思っていたのでしょう。いずれにせよ、そうした宗教的な理由から、それらのものを食べようとしないクリスチャンがいたのです。パウロはそういう人を信仰の弱い人と呼んでいました。別に信仰が弱かったというわけではありませんが、そうしたことを気にしてつまずきやすいという点でそのように呼んだのでしょう。クリスチャンの中にはそのように信仰の弱い人と、そのようなことは気にしないで何でも食べる人、つまり信仰の強い人がいたのです。

パウロ自身が確信していたことは、それ自体汚れているものは何一つなく、ただ汚れていると思う人にだけ汚れているということです。その点では、彼は信仰の強い人に属していたと言えます。それにもかかわらず彼は、信仰の強い人たちに「兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」と言いました。なぜでしょうか?15節、「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動している」ことにはならないからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、そうした食べ物のことで、滅ぼすようなことがあってはならないのです。先ほどのマックス・ルケードの例で言えば、奥さんにとって車庫の真ん中に駐車することはあまり気にならないことだけれども、そのことが夫であるマックスが気になることであり、嫌なことであるならば、自分も嫌だと思うこと、それが思いやりであり、礼儀であり、愛の配慮だというのです。

パウロがここで教えている原則は、教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないということです。この原則はきわめて重要であって、教会における一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって図られるべきであるということです。

アメリカのチャールズ・スウィンドル牧師は、次のように言っています。「神の被造物はそれ自体は良いもので、私たちはその被造物を十分楽しむ権利を持っています。しかし、信仰が成熟していない人々にとって妨げとなる場合には、私たちの権利を自制しなければなりません。そうする必要がある時は、愛が、私たちの自由を制限するよう命令します。クリスチャンの自由の使用が、神の御業を損なう恐れがあるときには、まことの愛による分別力をもって、私たちの自由を用いなければなりません。」

15章3節を見ると、「キリストでさえ、ご自分を喜ばせることはなさらなかったのです。」とあります。イエス様も権利を自制されました。いや、放棄されました。イエス様は神でありながら神であるという考え方に固執しないで、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。イエス様が十字架につけられた時、それをながめていた民衆から「おい、おまえが救い主なら、自分を救ってみろ」とののしられましたが、イエス様はそのようにはしませんでした。それはイエス様にそれができなかったからではありません。イエス様がその気だったら、十字架から飛び降りて、そんなことを言う罪人を裁いて、地獄に送ることもできだでしょう。しかし、イエス様はそのようにはされませんでした。なぜなら、そんなことをしたら、キリストは十字架にかかって死ななければならないという神のみことばが実現しないからです。イエス様は、まだだれも経験したことがない、神に捨てられ、神にさばかれるということによって信じる者がみな永遠のいのちを受けたるために、十字架で死なれる道を選ばれたのです。つまり、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの益のためだったのです。イエス様はご自分を喜ばせるためではなく、私たちのために、私たちの徳を高め、私たちの益となることを考えてそうされたのです。これが愛によって行動している人の姿です。つまり、自分の考えによって行動するのではなく、そこには常に信仰の弱い人もいて、その人のことを考え、その人の益のために行動するということです。それは、その人もまたキリストが代わりに死んでくださったほどの人だからです。なのに、食べ物のことで、その人を滅ぼすようなことがあるとしたら、それこそ愛によって行動しているとは言えないのです。

Ⅱ.大切なのは本質的なこと(17-19)

第二に17~19節までをご覧ください。なぜ私たちは信仰の弱い人を配慮すべきなのでしょうか?「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(17節)    パウロがここで強い関心を抱いていることは、教会の本質は何かということです。教会にとって本質的なことは飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。義とは神様との正しい関係のことです。つまりキリストの福音によって神様との正しい関係に入れられたことで与えられる平和と喜びこそが教会の中心であり、本質的なことであるということです。何を食べるのか、何を飲むかということが本質的なことではありません。であれば、飲み食いのことで多少意見の違いがあったとしてもそれはある意味でどうでもいいことであって、時には譲歩しなければならない時もあるということです。この本質的なこととそうでないことの価値基準と判断を間違うと、教会に混乱が起こります。そして、教会では、意外とこのようなことで争いが起こることが多いのです。

1994年に山形県米沢市の恵泉キリスト教会で、東北リバイバルミッションが行われました。私はその実行委員として何人かの先生方と準備のための話し合いを持っていましたが、その中で、遠くから来られる方々もいるが夕食をどうするかという話になったのです。「五つのパンと二匹の魚じゃないですが、こんなへんぴな所でその人数分の食事を用意するのは大変ですよ。めいめいが適当に食べるようにしたらどうでしょうか」と言うと、千田先生がこう言われたのです。「いや、食べ物が大切なんだよね。意外とみんな食べ物のことを気にしているのよ。そして、結構こういうことで問題が起こるから、ちゃんと用意した方がいいんじゃないですか」そんなもんかなぁと思って当日を迎えましたが、ふたを開けてみると千田先生が言われたとおりでした。食べ物になると皆さん目の色が変わるのです。食べ物なんてどうでもいいことなのに、意外と深刻な問題になるケースがおおいんです。あの初代教会の最初の問題も、食べ物のことでした。しかし、このときは千田先生のアドバイスによって教会の方々の献身的な奉仕によって美味しい食事を用意していただいたので、とても和やかな、温かい集会になりました。

しかし、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。それが教会の本質的なことです。ですから、本質的なことにおいては決して曲げたり、譲ったりしなくとも、そうでない非本質的なことについてはできるだけ丁寧に、忍耐強く対処しなければなりませんが、時には相手に一歩譲るといった広い心が求められるのです。

Ⅲ.信仰によって生活する(20-23)

第三のことは、自分の信仰の確信によって行動しなさいということです。20~23節をご覧ください。

「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまづきを与えるような人の場合は、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまづきになることをしないのは良いことなのです。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」

パウロの確信は、食べ物のことで汚れているものは、何一つないということでした。しかし、そのことで兄弟が心を痛めるようなことがあるとしたら、もはや愛によって行動しているとは言えません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことで、滅ぼしてしまうことになるからです。ですから、本質的でない事柄については譲歩することも必要なのです。それとは逆に、それは食べてはいけないと思っていたのに、食べても全く問題がないと説得されたのでそうしたという場合はどうなるでしょうか?自分で納得して食べたのであれば問題はありません。しかし、そうでないのに食べることがあるとすると、一つだけ問題になります。それは、良心に責めを感じてしまうことです。クリスチャンにとって大切なことは、心に責められることがないように生きることです。これを食べたらいけないんじゃないかなぁぅと、疑いを感じながら食べるとしたら、それは信仰から出ている行為ではないので、罪に定められるのです。信仰から出ていないことは、みな罪だからです。ですから、私たちはひとりひとりが神様の御前に、良心的に責められることがないよう、自分の信仰の確信に基づいて判断し、行動していかなければなりません。それがこのところでパウロが言っていることです。神様がそれぞれに与えてくださった賜物を無視して、自分の型に他の人を当てはめようとしたり他の人を型に自分をはめ込んだりしようとすると、こうした問題が起こってきます。そうではなく、神様がそれぞれに与えてくださった信仰の量りに応じて、それぞれがみことばの確信ををもって判断すべきですし、他の人はその人の判断や考えを認めるべきなのです。しかし、あくまでもここで言われていることは宗教的理由での飲み食いのことであって、ひとりひとりのこまかなところにおいてのことであって、教会全体の秩序のことではありません。バプテスマの方式や幼児洗礼のこと、あるいは教会の政治などつにいては、教会の秩序に関することであって、そういうことはひとりひとりめいめい勝手であっては、教会の秩序は保たれませんから、あくまでも教会の秩序に従うことが大切です。そうではなく、信仰生活のこまかなところにおいては、それぞれの信仰の理解に基づき、確信をもって行動しなければならないのです。

皆さんの行動の基準は何でしょうか?クリスチャンは正しい人でなければなりませんが、正しい人であるだけでは駄目です。正しい人であると同時に広い心、寛容な心を持っていなければなりません。批判するのではなく受け入れることが必要です。それは教会も同じです。教会は福音の真理に立ち、福音をまっすぐに解き明かさなければなりません。それがローマ人への手紙1章から11章の主題でした。その次に必要なことは、そうした真理の土台に立ちながら、クリスチャン同士の関係において開かれた心、open mind を持つことです。信仰の強い人も弱い人も、互いに心を開いて互いを受け入れる教会となることです。塩野七生(しおのななみ)というイタリア在住の日本人女性が書いたベストセラー「ローマ人の物語」を見ると、ローマをあれほど強力な帝国にした原動力は寛容であったと言っています。ローマ人には閉鎖的なところがなく、寛容なんだそうです。征服した民族もそれぞれ自分たちの王を選べるような体制にしたほど開放的な民族でした。それがローマを強くしたというのです。

イエス様はいつも罪人たちと一緒に食事をされました。これを見たパリサイ人たちは、イエス様を非難しました。「あいつは罪人の友だ。罪人たちと一緒に食事をしている」と。このときイエス様はこのように言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来たのです。」(ルカ5:31~32)イエス様のみこころは、弱い人を受け入れることです。弱い人を受け入れて変わっていくことに心を注ぐことなのです。罪に定めることではありません。教会には霊的な赤ちゃんからご老人までいろいろな方がおられます。自分の基準で相手を見てはいけないのです。今は立派に見える人でも、かつては霊的に幼かった時代があったはずです。それがこんなに立派に成長できたのは、ただ神のあわれみ以外の何ものでもありません。であれば、私たちもまた開かれた心を持って、互いに受け入れる教会となることを求めていきましょう。信仰が強い人も弱い人も、みんなが祈り合える教会、ただ遊びに来た人たちも、受け入れる教会になりましょう。なぜなら、教会の使命は罪人たちを救いに導くところにあるからです。

 

ローマ人への手紙14章1~12節 「さばいはいけません」

きょうは「さばいてはいけません」というタイトルでお話したいと思います。ある有名なキリスト教雑誌が、牧師たちを対象にアンケート調査をしました。それは「教会で一番困る人はどういう人ですか?」というアンケートでした。そして、第一は「四十日間断食をした人」、二位が「徹夜祈祷をよくする人」、三位は「神学を勉強した人」でした。断食、徹夜、神学の勉強、これらのことは個人の霊的成長にとってとても重要なものです。それなのに、なぜこれらのことが問題になるのでしょうか?それはこれらのことを経験したかなり多くの人が、その恵みを自分の成長に適用するのではなく、他人に適用してさばいてしまうために用いてしまうからです。四十日間も断食祈祷をすれば、どんなに恵まれることでしょうか。なのに断食祈祷が終わるとすぐに、「うちの牧師は恵みがないなぁ」とか、「うちの役員たちはもっと祈らなくちゃ」と言ってしまうのです。祈ったのであればより謙遜に、よりへりくだり、より恵みに溢れるはずなのに、かえって人をさばいてしまいやすいのです。私たちはみな心配するか、批判するかのどちらかに傾きやすい性格を持っています。比較的に弱い人は心配し、強い人は批判しやすいのです。人が集まるところには必ず問題が生じます。人によって性格も違えば考え方も違いますし、育った環境や年代、培われてきた信仰の背景、信仰生活のカラーなどが違うからです。十人十色ということばがありますが、十人いれば十人の色や考え方があるわけですから、違って当然なのです。大切なのは、そうした違いを批判したり、責めたりするのではなく認め合うことです。

きょうは、この「さばいてはいけません」ということについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、クリスチャンが他人をさばいてしまう原因の一つは、信仰の理解に差があるためです。何でも食べてよいと信じている日ともいれば、野菜の他には食べないという人もいます。第二のことは、他の人をさばかないために必要なことは、自分の立場をわきまえることです。第三のことは、クリスチャンにとって最も重要なことは何のためにするのかということです。すなわち、クリスチャンは主のために生きている者であるという意識をしっかりと持っていることです。

Ⅰ.食べる人と食べない人(1~4)

まず第一に、1~4節までをご覧ください。

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」

ここでパウロが触れている問題はどういうことかというと、信仰の弱い人と強い人との摩擦の問題です。1節には、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。この弱い人とは体の弱い人のことではなく、信仰の弱い人のことです。その人は信仰がないわけではなく、信仰はあるのですが弱いのです。イエス・キリストを信じることによって救われていますが、それでも信仰が弱い人たちがいます。どういう人たちでしょうか。

信仰の共同体の中で他人をさばいてしまう原因の一つは、聖書の理解、信仰の差があるためです。この手紙が書き送られたローマは、その当時世界の中心都市でしたから、そこにはいろいろな人々が集まっていました。ユダヤ教から回心した人がいれば、ギリシャ的な背景のある人や、ローマ的な背景の人も、あるいは肌の色もさまざまで、奴隷もいれば、高貴な人もいました。また、教養のある人もいれば、教養のない人など、実にさまざな人たちがいたのです。いろいろな人がいればいろいろな考え方があって当然ですが、ここで問題になっていたのは、聖書の解釈に基づく違いにその原因がありました。2,3節には食べ物の問題が、そして5,6節には日の問題があげられていますが、こうした問題に関しての理解に違いがあったのです。

まず、食べ物についてですが、ある人たちは何でも食べてよいと信じている人もいましたが、ある人たちは野菜よりほかに食べてはならないと信じていました。それはわゆる菜食主義の人たちのように健康的な理由から主張していたのではなく、宗教的な理由からそのように主張していたのです。当時、いわゆる信仰が強いという人々は、キリストの福音によって旧約の律法と伝統から自由になったと信じていたので、旧約聖書のレビ記(11~16節)には汚れた食べ物に関する規定がありましたが、そういうことを気にせず食べていました。また、コリント人への手紙第一8章4節に出てくる「偶像にささげられた肉」についても、偶像の神がいるわけじゃないし、そんなことを気にしていたら何も食べることができないと、何でも食べていいと信じていました。このような人たちは福音がもたらしてくれた自由というものがどういうものであるかをよく知っていましたので、そうしたことにこだわっている人たちを見下げていたのです。

あるいは、5,6節を見ると、ある人たちはある日を、他の日に比べて、大事だと考える人たちもいましたが、どの日も同じだと考える人もいました。これはクリスチャンになっても依然として安息日をはじめとした旧約聖書に規定されている日を特別な日として守っていた人たちのことだと思われますが、律法から解放されたと信じていたクリスチャンにとっては、いまだに律法にとらわれた生き方をしていた彼らの生き方、考え方を受け入れることができず、さばいていたのです。

しかし、そのように信仰において意見や考え方が違ってもさばいてはいけません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけないのです。神がその人を受け入れてくれたからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことでさばき、滅ぼすようなことがあっては、神様に申し訳ありません。神が受け入れてくださったのであれば、私たちも受け入れることは当然です。さばいてはいけません。

しかし、クリスチャンだと自認していても、神に受け入れられていない人もいます。どういう人でしょうか?こうした食べ物や飲み物についてではなく、救いに関して間違った教理を持っている人です。救いはイエスにあります。イエスを主と告白しなければ救われません。にもかかわらず、イエス様を神と認めていなかったり、イエス様を信じるだけでは救われないなどと言う人たちがいるのです。

ある時、アメリカのいわゆるセキュラーな雑誌が、アメリカの六大教派の神学校で神学生にアンケートを取ったそうです。その結果、処女降誕を信じていない学生が56%、天国と地獄の実在を信じていない学生が71%、キリストが神であることを信じていない学生が98%、人間が完全に堕落していない、つまり、人間が自分の力で自分を救うことができると考えている学生が98%、キリストの再臨を信じていない学生が99%だったというのです。日本のいわゆる福音派と言われる教会では考えられないような結果です。私たちはイエス様が救い主、神の子、メシヤだと信じています。キリストが十字架にかかって流された血潮は私たちの罪の赦しのためであり、贖いであって、この方を信じる者はみな、永遠のいのちが与えられると信じているのです。なのにクリスチャンであると言いながら、こうした聖書の救いに関する基本的な教えを曲解したり、受け入れていない人もいます。そのような教えの風やだましごとの哲学には、断固反対すべきです。

1910年にエディンバラで世界宣教会議が行われましたが、その時の資料の中に「腐った鰯(いわし)は肥やしになるが、腐った教会はごみ捨て場からも拒否される」ということばがありました。すごいことばです。こんなことまで言っていいんだろうかとまで思ってしまう。しかし、それは事実なのです。本当に神様はいらっしゃる、イエス様の十字架の血潮が救ってくださる、イエス様以外に救いはないと、神様を、イエス様を、十字架を、聖霊を、永遠のいのちを信じない教会は腐っていると言えるでしょう。私たちは毎週、礼拝で使徒信条を唱えていますが、それは聖書の基本的な信条です。そのことばを信じることによってのみ救われるのであって、それ以外に道はないのです。このような根本的な問題については、きっきり間違っている人と、私たちは袂(たもと)を分かたなければなりません。

しかし、グレーな部分もあります。たとえば、バプテスマのやり方などはそうでしょう。ある人たちは、バプテスマは水を垂らすだけでいい、これを滴礼と言いますが、そう人たちがいれば、ある人たちは、いやバプテスマというのはもともと「浸礼」という意味だから、全身を水に浸さなければならないと主張します。私たちが属しているバプテスト派の特徴の一つはこれです。多くのバプテスト教会ではそのように信じているので、そうでない方法によってバプテスマを受けた人には、もう一度バプテスマを受けてもらう教会もあります。しかし、大切なのはどのような方法でバプテスマを受けたかということではなく、信じてバプテスマを受けたかどうかです。しんじてバプテスマを受ける者は救われるのです。たとえ、そのやり方が違っても、信じてバプテスマを受けたのであれば、それは神様に喜ばれることであり、有効であって、このようなことで考えが違うからと言ってさばいてはいけないのです。ただ、教会には秩序がありますから、それぞれの個人の考えを尊重し、受け入れても、教会全体として考えに従うべきです。そうでなければ、同じ考えを持っている教会に行くのがベストですでしょう。

このようなことは、バプテスマのやり方といったことばかりでなく、クリスチャン生活のこまかな点でも言えることです。ある人は、クリスチャンはお酒やたばこを飲んではならないと考える人がいれば、そうしたことは自由だと考える人もいます。コーヒーや紅茶など、カフェインが入っている飲み物を飲んではならないと主張するクリスチャンがいれば、映画館や劇場に入ってはならないとか、男女の交際をしてはならないと考えているクリスチャンもいます。ひどいのになると、女性はズボンをはいてはならないと主張するクリスチャンもいるのです。もし女性がズボンをはいてはならないというのなら、クリスチャンの女性の方はスカートをはいて田植えをするのでしょうか?それも大変です。しかし、そのように考えている人もいるのです。しかし、それはその人の考えであって、その意見をさばいてはいけません。受け入れなければならないのです。

アメリカのチャールズ・スウィンドルという牧師は、クリスチャンが他の人を批判してはいけない七つの理由を次のように述べました。 1.私たちはすべての事実をみな知らない。2.私たちはその動機を完全に理解できない。3.私たちは完全に客観的な考えをすることはできない。4.その状況にいなければ正確に知ることはできない。5.私たちには見えない部分がある。6.私たちには偏見があり、視野が薄れていることがある。7.私たちは不完全で、一貫性がない。です。考えてみると、ほんとうに私たちが知っていることは一部分であり、自分に都合がいいようにしか受け取らない傾向があります。自分を中心に物事を見ていく癖があります。そのような私たちが、ほかの人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。

イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われました。(マタイ7:1~5)私たちがさばかなければならないのは他の人ではなく、自分自身です。まず自分の目から梁を取り除かなければなりません。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができるのです。

信仰の共同体の中にはいろいろな人がいます。そこにいろいろな違いがあってもそれをさばくのではなく、互いに認め合い、互いに受け入れ合うべきなのです。自分の考えだけが正しいと言える人は誰もいません。黙想に慣れている人は、一斉に大きい声で祈る人々を狂信的だと言わないでください。また、いつも叫んで祈っている人は、静かに祈る人を見て、霊的に冷え切っているなどとも言わないでください。叫んで祈ろうが、黙想して祈ろうが、祈っていればいいのです。ただ「自分とは違うスタイルで恵みを受けているんだ」と考えることです。それが寛容であるということなのではないでしょうか。

Ⅱ.自分の立場をわきまえる(4)

第二のことは、私たちは自分の立場をわきまえなければなりません。4節をご覧ください。

「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

なぜ、信仰の弱い人を受け入れなければならないのでしょうか?なぜ、その意見をさばいてはならないのでしょうか?そのことを教えるためにパウロは、ここで私たちがどのような身分、立場であるかに目を向けさせています。それは、私たちはしもべの身分にすぎないということです。なのになぜ、他人のしもべをさばくのですか?この「しもべ」ということばは家の使用人のことです。ある人の家で使われている使用人について、他人がとやかく言う権利があるでしょうか?ありません。もしあるとしたら、それはその家の主人だけなのです。ましてや同じしもべの身分にすぎない者が、他の家のしもべについて何かを言う権利などないのです。もしそのようなことがあるしたら、それこそ自分の立場をわきまえない、神のみわざに対する中傷であり、越権行為です。越権行為とは、自分の権利を超えているということです。そのようなことを平気でしているとしたら、それこそ罪であり、厳に戒められなければならないのではないでしょうか。

Ⅲ.主のために生きる(5-8)

ではどうしたらいいのでしょうか?ですから、第三のことは主のために生きなさいということです。クリスチャンにとってこれが最も重要なことであって根本的なことです。5~8節までをご覧ください。

「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

ここには「・・のために」ということばが七回も出てきます。つまり、食べるとか食べない、日を守るとか守らないということが大切なのではなく、何のために食べ何のために食べないのか、何のために日を守り何のために守らないのかというのです。そして、クリスチャンにとって重要なことは、それが「主のために」であるということです。食べる人は主のために食べるのであって、食べない人も主のために食べないのです。日を守る人も主のために守り、主のために守らないのです。それぞれどのように行動するかは自分の心の中で確信を持って行動すべきで、何よりも重要なことは、それが主のためなのかどうか、私たちが主のために生き主のために死ぬのかどうか、そこにかかっているというのです。

パウロは、ローマ人への手紙6章12節で、「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」と言いました。いったいなぜ私たちの体を罪の支配にゆだねて、情欲に従ってはいけないのでしょうか?その理由をパウロは、その後のところで次のように言っています。6章18節です。「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」イエス・キリストを信じ、キリストにつぎ合わされ、キリストの奴隷、義の奴隷となったのですから、罪の支配にゆだねてはならないのです。ガラテヤ人への手紙2章20節には、

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰に よっているのです。」

とあります。キリストとともに十字架につけられ、キリストとともに古い罪の生活に死に、キリストにあって生きる者へと変えにられたので、私たちはそのように生きるのです。主のために生きる者に変えられた。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり、根本的なことなのです。

皆さんは何のために生きていらっしゃいますか?クリスチャンはだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ。そう告白して生きるのがクリスチャンなのです。

有名な音楽家で、クリスチャンであったヨハネ・セバスチャン・バッハは、あるとき宗教改革をしたマルチン・ルターに手紙を書き送りましたが、その中で彼は「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と言いました。少なくともバッハはそう思ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後のところには、いつも彼は「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。その言葉とは「Soli Deo Gloria」というラテン語です。つまり「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は、新しい曲を作るたびに、この曲が神の栄光を現すものでありますように、そしてこれを聴く人の魂が新たにされますようにという祈りを込めて、曲を作っていたのです。バッハの目的は、神の栄光が現されることだったのです。

1915年、第一次世界大戦下のベルギーで看護師として仕えていたEdith  Canvellは、敵兵を国外に逃がしたことでナチスに処刑されました。彼女は死刑に処せられる直前こう言いました。「愛国心だけでは足りません。」愛国心だけでは足りないのです。もっと大きな愛が必要です。彼女はもっと大きな神の愛で、戦争で傷ついた兵士を敵、味方関係なく介抱したのです。それは、私たちクリスチャン一人ひとりに求められていることでもあります。正義だけでは足りません。愛がなければなりません。正しい人であるだけでは足りません。受け入れる広い心が必要なのです。クリスチャンには広い心が必要です。批判せずに寛容でなければなりません。信仰の弱い人を受け入れるべきです。その意見をさばいてはいけません。そのような生き方の中にこそ、神の栄光が現されるのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものですと告白しながら生きるクリスチャンにとって、それは難しいことではないからです。

ローマ人への手紙13章11~14節 「目を覚ましなさい」

きょうは、「目を覚ましなさい」というタイトルでお話したいと思います。中世の偉大な神学者であったアウグスチヌスは、このみことばによって回心し、その生き方が劇的に変えられたというのは有名な話です。彼は若い時、荒れすさんだ生活をしていていましたが、真理を求めてアフリカのカルタゴからローマの首都ミラノにやって来たとき、そこで「取って読め。取って読め」という子供の歌う声を聞いて、そこにあった新約聖書を開いたのです。そのとき偶然に箇所がこの箇所でした。それまで自分の力でいくら努力してもなかなか聖い生活に入ることができずもがき苦しんでいた彼は、この箇所を読んだとき、たちまち心が平安に満たされ、疑惑の雲がすっかり消え失せたのでした。彼はこれまでの深い眠りから覚め、新しいいのちある生活へと変えられてれたのでした。

きょうは、この箇所から、世の終わりの時代をクリスチャンはどのように生きるべきかをについて、三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、クリスチャンは今がどのような時であるかを知っているということです。第二のことは、ですからクリスチャンは目を覚ましていなければなりません。第三のことは、古い着物を脱ぎ捨て新しい着物を着なければならないということです。

Ⅰ.今がどのような時か知っているのですから(11a)

まず第一に、クリスチャンは今がどのような時であるかを知っているということについて見ていきたいと思います。11節をご覧ください。ここには、

「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。」

とあります。皆さん、クリスチャンというのは、今がどのような時なのかを知っている人たちです。新約聖書にはこの「時」を表す言葉として、二つの言葉が使われています。一つは「クロノス」で、もう一つが「カイロス」です。「クロノス」は、すべての人に平等に与えられている時のことです。その時の流れの中で、私たちは生まれ育ち、年を取り、死んでいきます。時計がカチカチと時を刻んでいるその間に、流れていくその時のことです。それに対してもう一つの「カイノス」は、多くの人々は知りませんが、クリスチャンだけが知っている時のことです。それはどのような時かというと、「神の時」のことです。もっと明確に言うなら、キリストが再臨される時、この世の終わりの時です。11節には、「今は救いが私たちにもっと近づいているからです」とあります。これはキリストの再臨の時のことであり、救いの完成する時のことです。

皆さん、この世はただいたずらに続くのではありません。やがて終わりの時がやってきます。その時、天からやって来て、クリスチャンをすべての闇から解放してくださるのです。黙示録にはその時の様子を、次のように描かれています。

「1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1~4)

その時、神様に従うすべてのクリスチャンの目から涙が拭い去られて、もはや痛みも悲しみも叫びも苦しみもありません。警察やレスキュー隊、病院、リハビリセンターも必要ありません。すべての悲しみや苦しみから解き放たれるからです。その真ん中には神と小羊であられるイエス様がおられ、水晶のように光るいのちの水の川が流れ出ていて、そのいのちの水の川が諸国民の民をいやすのです。それは私たちクリスチャンにとってもっとも喜ばしい時なのです。そういう時がやって来るのです。

皆さん、この世には何と多くの痛み、悲しみがあるでしょうか。震災をはじめとする自然災害によって家族や家を失って、どれほど多くの人たちが深い悲しみの中にあることでしょう。体のあちこちに痛みを抱えながら、どれほど多くの人たちが苦しんでおられることでしょう。人間関係の問題でどれほど多くの人々が悩んでおられるでしょう。結婚、子育て、仕事のことで疲れ果て希望を失っているでしょう。しかし、やがてそうした悩み、苦しみ、悲しみ、痛み、悲しみから解放され、完全な喜びと平安がもたらされる時がやって来るのです。それはキリストが再臨される時であり、私たちの救いが完成する時です。

クリスチャンは、この時を知っているのです。それがいつなのかはわかりませんが、確実に近づいています。パウロがこの手紙を書いたのは今から約二千年前に比べたら、その時に比べたらはるかに近づいていると言えます。  マタイの福音書24章を見ると、イエス様はその前兆について語られました。その時には、「私こそキリストだ」という偽キリストが大ぜい現れ、多くの人々を惑わします。あるいは、戦争も絶えないでしょう。方々でききんと地震が起こります。やがて反キリストが現れ、にせ預言者が多く起こって、キリストを信じる者を激しく迫害するでしょう。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです。「これらのことを見たら、人の子が戸口まで近づいているということを知りなさい」(マタイ24:33)と。

私たちはこのようなしるしの多くを見ているのではないでしょうか。ちょうど半年前には未曾有の大地震が起こりました。津波や原発の被害は大きく、未だに復旧できないでいます。世界中を見ても、自然災害は至る所で起こっています。凶悪な犯罪は後を絶たず、社会全体がおかしくなっているような気がするのは私だけではないでしょう。確かにその時は近づいているのです。イエス様は、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(同24:35)と言われましたが、この世の終わりは必ずやって来るのです。

Ⅱ.目を覚ましなさい(11b)

ではどうしたらいいのでしょうか。パウロは11節の後半のところで次のように言っています。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻が来ています。」クリスチャンは世の終わりが近づいているということを知っているのですから、目を覚ましていなければならないのです。クリスチャンの内科医の天里待三さんは「眠れぬ夜のために」という論文の中で、現代の社会は情報を得やすい社会であると同時に、その情報が刺激となり、睡眠を妨げることがあるので、夜9時以降はテレビの番組などもよく注意して選択し、なるべく刺激にならないような番組を選んで見るべきだと助言しています。そして何よりもの解決は、主に身を横たえることだと言っています。

「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)

「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

私たちが思い煩ってなかなか眠れないとき、それを考えまいとしてその問題から逃げたり、その問題を後回しにするのではなく、その問題を神様にゆだねること、それがもっとも必要な解決方法だというのです。ですから、私たちが一番眠りやすいのはいつかというと礼拝の時なんです。神様が平安を与えてくださるので、いつもはなかなか眠れない人でもぐっすりと休むことができるのです。ただ礼拝中に休まる時には一つだけ注意が必要です。それは聖書を持ったまま居眠りしてはいけないということです。周りの人が起きてしまうから・・・。これは今は亡き本田弘慈先生の冗談です。

しかし、ここではいねむりのことではなく、眠りから目を覚ますようにと言っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています・・・と。どういうことでしょうか?キリストの再臨が近づいているので、それに備え、目を覚ましていなさいということです。

マタイの福音書25章のところでイエス様は、愚かな5人の娘と賢い5人の娘のたとえを話してくださいました。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。一方賢い娘たちはというと、自分のともしびといっしょにちゃんと油も用意していました。花婿が来るのが遅れたので、娘たちは、みな、うとうとと眠り始めました。ところで、夜中になって、突然、「そら、花婿が来たぞ。迎えに出なさい」という声がしたのです。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えましたが、愚かな娘たちは、ともしびは持っていても油を用意していませんでした。さあ大変です。焦った娘たちは油を用意していた娘たちに願いました。どうか油を分けてくれるように・・・と。ところがその賢い娘たちは、「いいえ、分けてあげるだけの余分な油はありませんので、店に行って、自分の分を買ってください」と答えました。仕方なく娘たちが油を店に買いに行くと、ちょうどその時に、花婿がやって来たのです。油の用意をしていた娘たちは、花婿といっしょに婚礼に祝宴に行くことができましたが、用意していなかった娘たちは、間に合いませんでした。「ご主人さま。どうぞ開けてください」とお願いしても、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言われ、戸は堅く閉められてしまったのです。まさに備えあるところに憂いなしです。目を覚ましているとは、それがいつ来ても大丈夫なように、備えておくことなのです。    きょう成すから大田原に向かう途中、スピード違反の取り締まりをやっていました。ちょうど前の車が捕まってしまいました。それほどスピードを出していなかったのにあれで捕まっては大変だと思いましたが、もし、スピード違反の取り締まりをやっているとわかっていたら、事前に用心していたでしょう。泥棒に入られるのも同じです。夜の何時に来るかがわかっていたら、目を覚まして見張っているはずです。おめおめと家に入られるというようなことはしません。イエス様が来られるのも同じです。いつ来られるのかわかりません。ですから、いつ来られてもいいように、よく用意しておかなければなりません。

Ⅲ.イエス・キリストを着なさい(12-14)

第三に、では、どのように用心していたらいいのでしょうか。古い着物を脱ぎ捨てて、新しい着物を着なさい、キリストを着なければならないということです。12~14節までをご覧ください。

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

パウロはここで、夜が更けて、昼が近づいたので、着替えをしなさいと言っています。やみのわざを脱ぎ捨てて、光の武具を着けなさいと言っています。やみのわざとは何でしょうか。ここには、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活」とあります。パウロはここで、やみのわざを三つのグループに分けて説明しています。最初のグループは「遊興と酩酊」です。これは酒を飲んで馬鹿騒ぎすることを指しています。泥酔は人の感覚が麻痺した状態です。クリスチャンは信仰的に、倫理的に鈍くなってはいけないのです。

第二のグループは「淫乱と好色」です。これは性に関する不道徳を指しています。この手紙を書いたコリントでは、このような罪が広くはびこっていました。「好色」は破廉恥なことで、はずかしさを忘れることです。

第三のグループは「争いとねたみ」です。これは争いに関する罪のことです。ある注解書によると、これは酔っぱらったり、性的な罪の中に深く落ち込んでいかないような比較的正しい人が陥りやすい罪だとありました。

要するに、これらの行為は生まれながらの古い人の生き方で、肉の欲を満たすことです。それが表現されると、こうしたわざになるのです。こうした肉の欲のリストは、ガラテヤ人への手紙5章19節にもあります。

しかし、クリスチャンはこうしたやみのわざを捨てて、ひかりの武具を身につけなければなりません。ここで「武具を身につけようではないか」と言われているのは、まさに今は戦いの時だからです。戦いに出かけようとするとき、ゴムの切れたズボンをはいて行くようなことをするでしょうか?そんなことをしたらズボンをあげている間に、敵に着られてしまいます。戦いに出かける時には、それにふさわしい武具を身につけなければなりません。すなわち、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取らなければなりません。(エペソ6:14-17)

また、それは主イエス・キリストを着ることです。14節のところでパウロは、「主イエス・キリストを着なさい」と言っています。キリストを着るとはどういうことでしょうか?キリストを着るとは、キリストと一つになることです。ひかりの子どもとして、ふさわしい生活をすることです。

よく街の中を歩いていると「イエス・キリスト以外に救いはない」とか、「イエスは主です」と書かれたTシャツを着ている方を見かけることがあります。また、車を運転していても、魚のかたちをしたステッカーをはっているのをよく見かけます。あのさかなのマークが何を意味しているかを知っている人は、「あ、あの人もクリスチャンだ」とわかりますが、そうでないと、「あれっ、このマークは何だろう」となります。あれは、ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字「イクトゥス」ですが、それがちょうどギリシャ語で「魚」という意味になるのです。そこで、自分もクリスチャンだということを表すためにあの魚のマークをつけているわけです。

そのようにして自分の信仰を表すこともすばらしいことですが、ここではむしろそれにふさわしい生き方、生活をしなさいということです。当時のクリスチャンは、キリストという着物を着て歩いていると人々から思われるほど、それがにじみ出ていたのです。そのように歩みなさいということです。

阪神タイガースの助っ人外国人選手スタンリッジ投手は、そんな生き方をしています。彼は、敬虔なクリスチャンで、ヒーローインタビューを受ける時はいつも、チームメイトのマートン選手と同様に、必ず「神様は私の力です!」とメッセージを送ります。それは、彼が自分が神様の良い証人になりたいと願っているからです。ですから、先日もシーズン中であるにもかかわらず、横浜市にある本郷台キリスト境界が主催する野球教室に出かけて行っては、子供たちに野球を教え、神様の話もしたのです。 「私はクリスチャンとして野球をしています。それは野球をしている時もそうでない時も、神様のために自分は生きているからです。なぜ、私が神様を信じるようになったか?それはイエス様が私のことをとても愛してくれたからです。イエス様は全世界のすべての人たちのためにこの世に来られ、私の罪のために、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。だから、私はマットと共に、野球を見てくれている人たちに「神様は私の力です」と言いたいのです。」

ダビデは、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」と歌いました。(詩篇16:8,9)また、ネヘミヤは、「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ8:9,口語訳)と言いましたが、そのようにいつも神様を目の前に置いて、神様を中心として生きること、また、イエス様を喜びたたえながら生きること、それがイエス・キリストを着るということなのではないでしょうか。それこそ、主の再臨が近い今、私たちクリスチャンに求められている姿なのです。

皆さんにはこのような備えができているでしょうか?イエス様がいつ来られても大丈夫でしょうか?普通、人はどこかに出かける時にはよく準備して行くものです。なのにイエス様の再臨が近いというのに、その備えができていないとしたら、それこそおかしいことです。なぜなら、私たちは二,三日の旅にではなく、永遠の旅に出かけるわけですから、そのための準備をしっかりとしておかなければなりません。イエス様が来られるというのに、雑巾みたいな洋服を着ていたとしたら大変です。そうではなく、ひかりの武具を、主イエス・キリストを着なければなりません。「マラナ・タ」という祈りがあります。意味は、「主よ。来てください」です。私たちはいつも「マラナ・タ」と祈りつつ、主のご再臨に備えておきたいと思います。

ローマ人への手紙13章8~10節 「愛は律法を全うする」

きょうは、「愛は律法を全うする」というタイトルでお話したいと思います。大学で法律を学ばれた方が、ある時私にこんなことを言われたことがあります。「いくら法律を作っても社会は少しも良くならない。」社会的には義務を果たし、宗教的には戒めを守ることも大切ですが、それだけでは不完全なのです。完全になるためには何が必要なでしょうか。10節には、

「愛は、隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

とあります。愛こそ律法を全うするのです。きょうは、この愛は律法を全うするということについて、三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、他の人を愛する人は、律法を完全に行っているということについてです。第二のことは、律法にはいろいろな戒めがありますが、そうした律法のすべては、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばに要約されるということです。第三のことは、それゆえに愛は律法を全うするということです。

Ⅰ.愛は律法を守っている(8)

まず第一に、他の人を愛する者は、律法を完全に守っているということについて見ていきましょう。8節をご覧ください。ここには、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」とあります。

1節からのところで、この社会の一員としてクリスチャンはどのような責任があるのかということについて語ってきたパウロは、ここで個人的な負債についての彼の考えを述べています。それは、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」ということです。どういう意味でしょうか?ある人はこのところから、クリスチャンは何人に対しても、いっさい借りることをしてはいけないと考えています。また、別の人は、これはそういうことではなく、借りたものに対してはきちんと返さなければならないということが教えられていると言っています。すなわち、借りたものをいつまでも放置したままではいけないというのです。  アメリカのカルバリーチャペルの主任牧師チャック・スミスは、前者の立場に立っていて、クリスチャンはいっさい借りることをしてはいけないと考えています。何年か前にその教会の牧師の一人であるボブ・ヘイグという先生のところに泊めていただいたことがありますが、その際にコスタメサにあるカルバリーチャペルの会堂を案内してもらいました。その時、ボブ・ヘイグ牧師が、この教会ではクリスチャンはいっさい借りがあってはならないと信じているので、この会堂も銀行等からのローンを一切受けないで建てたんですよ、と話してくれました。それはこの教会では、文字通り、クリスチャンは何人も何の借りもあってはならないと考えているからです。  確かに、貸し借りは人間関係を壊す危険性があります。それはその人の心を縛り、自由を奪い、卑屈なものにし、健全な人間関係を妨げてしまうのです。自由であるべきはずの魂を、他人に売り渡してしまい、神のみこころよりも人のご機嫌をうかがうような生き方になってしまうことがあるのです。ですから、なるべく他人からはお金や物を借りないようにすべきですし、どうしてもやむをえずに借りなければならないことがあるとしたら、できるだけ早くこれを返すように努力すべきです。しかし、ここで言わんとしていることはそういうことなのでしょうか?

マタイの福音書5章42節を見ると、主イエスが次のように教えられたことがしるされてあります。「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」また、ルカの福音書6章35節には、「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。・・・」とあります。もし他人から借りることをいっさい禁じているのだったら、イエス様があえてこのようなことを言われるでしょうか。そこには借りようとする人がいるということを前提としてイエス様は教えられたのではないでしょうか。

尾山令仁先生は、この「借り」と訳されている「σφειλω」(シュペイロオ)ということばは、果たすべき義務があるという意味を持っていることから、ここでは単に何らかの貸し借りだけを意味しているのではなく、果たすべき義務全般について教えられていると言っています。つまり、ここで言わんとしていることは負債を無くすこと、義務を遂行することです。今日の多くの人々は、権利は主張しますが、義務については、平気で見過ごし、これを果たそうとしません。そうしたことがあってはいけない。そういうことに対して忠告しているのだというのです。(聖書講解シリーズ「ローマ人への手紙P534)たとえば、1節には「上に立つ権威に従うべきだす。」とありますが、それもまた果たすべき義務の一つです。もちろん、返すべきものを返すというのも果たさなければならない義務です。それを果たさないとしたら、それは決して神様に喜ばれることではありません。

しかし、このところをもう少し読んでいくと、ここでのテーマは、どうも「借金をするな」とか、「義務を果たせ」ということ以上のことであることがわかります。というのは、その直後のところに、「ただし、互いに愛し合うことは別です」とあるからです。このところの中心は「互いに愛し合う」ことであって、パウロはそのことを言いたかったのでしょうか。つまり、この社会の中で義務を果たした生き方をしていかなければならないということから、互いに愛し合わなければならないということに、テーマを移行したかったのです。ですからここで、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と語った後で彼は、「ただし、互いに愛し合うことについては別です」と言っているのです。愛の負債は別なのです。なぜでしょうか。他の人を愛することは、律法を完全に守っていることになるからです。ですから、愛の負債をして、その負債を返そうと生きることは良いことなのです。その負債こそ、他の人を愛することだからです。

この場合の愛の負債とは何を指して言われているのでしょうか?もちろんそれは他の人から受ける愛のことです。他の人から愛を借りて、その愛を返していく。そうやって互いに愛し合って生きていくわけです。しかし、その根底にあるのは神様の愛です。神様が私たちを愛してくださったので、その愛の負債を今度は隣人に対して負っていくのです。そのように互いに愛し合うことが、律法を完全に守ることになるのです。

神様は、その大きな愛をもって罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。神を神ともせず、自分勝手に生きていた私たちは、もう滅ぼされても致し方ないような者だったのにもかかわらず、あわれみ豊かな神様は、そのように死んでいた私たちを生かしてくださいました。そのひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、私たちの身代わりに罪として、十字架にかかって死んでくださいました。十字架の上で私たちの罪の負債をすべて完済してくださったのです。そして、大胆に神様の前に進み出ることができるようになったのです。これがキリストの福音です。ですから、今度は私たちが神様に対して支払わなければならない負債を、隣人に対して支払うようになったのです。これが愛の負債です。そうした愛の負債はあってもいいのです。いや、もっとより積極的に言うならば、こうした愛の負債はもっとたくさん負って生きなさい、そうやって互いに愛し合いなさいというのです。

この世には二つのタイプの人が存在します。隣人を愛し、愛されながら生きる人と、愛を受けもしないし与えもしないで、自分一人で生きていこうとする人です。「僕は誰をも愛さないし、誰からも愛されなくてもいい。僕は一人で生きていく」という人がいますが、これは実はとても高慢なことなのです。

ヨハネの福音書13章を見ると、イエス様がペテロの足を洗うという場面が出てきますが、そのときペテロは「決して私の足を洗わないでください」と言いました。するとイエス様はこう言われたのです。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」どういうことでしょうか。「わたしの愛を受けないと、あなたは私と何の関係もないことになる」ということです。

皆さん、クリスチャンとは、イエス様から愛された人です。愛を受けた人のことです。なぜイエス様を信じるようになったのでしょうか?イエス様がどれほど自分を愛してくださったかがわかったからでしょう。こんなちりや灰にすぎないような汚れた者を、イエス様が愛してくださいました。十字架にかかって死んでくださった。それほど愛されているのです。その愛がわかったので信じたのです。イエス様の愛をたっぷり受けているからこそ、イエス様を愛するようになったのであり、この世に出ていってイエス・キリストの愛を伝える者に変えられたのです。

ローマ人への手紙1章14節のところでパウロは自分のことを、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」と言っています。パウロは、生涯負債を負った者として自分を認識していたのです。その負債とは何でしょうか?それは愛の負債です。神からいただいたイエス・キリストの愛の負債、恵みの負債です。パウロはイエス様の愛をたくさんいただいて、その恵みを驚くほど経験しました。彼は、「キリストの愛が私を取り囲んでいるのです。」(Ⅱコリント5:14)と言いました。彼がキリストの福音を伝えるためにどんなに激しい迫害にあっても挫折しなかったのは、キリストの愛が取り囲んでいたからです。「キリストから受けた愛がこんなに大きいのに、この程度で倒れるわけにはいかない」と堅く決心していたからなのです。使徒パウロを支えていた感情とは、この愛の負債から出ていたものだったのです。

本当に謙遜な人とは、兄弟姉妹や、教会の人たちから、そして特に神様から数え切れないほどの愛と恵みを受ける人です。そして、愛の負債を負いながら生きていると自覚している人なのです。互いに愛し合うことを通して、その愛の負債を返済していきたいと願っている人です。なぜなら、他の人を愛する人こそ、律法を完全に守っているからです。

Ⅱ.愛は律法を要約する(9)

第二に、愛は律法を要約します。9節をご覧ください。ここには、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。」とあります。ユダヤ人たちは、十戒の教えを拡大し、解説して、さまざまな戒めを生み出していきました。何と613にものぼったと言われています。しかし、そのようにたくさんある戒めも、結局のところ、一つの戒めに要約できるというのです。それは、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めです。

マタイの福音書22章を見ると、あるときひとりの律法の専門家がイエス様のところにやって来て、「先生。律法の中でたいせつな戒めはどれですか。」と尋ねたとき、イエス様が次のように答えられたことがしるされてあります。 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(同22:37~40)  律法全体と預言書とは、聖書全体を表しています。聖書全体でたいせつな戒めは、神を愛せよという戒めと、隣人を愛せよというこの二つの戒めだというのです。いや律法全体がこの二つの戒めにかかっているというのです。ローマ人への手紙の中でパウロが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに要約されると言ったのは、十戒の後半部分の人間相互の関係の部分を引用していたからです。神を愛することと、隣人を愛することが律法全体の要約であり、中心なのであって、このみことばに生きるとき、ほんとうにうるわしい人間関係を築いていくことができるのです。

四世紀の偉大な神学者アウグスティヌスは、「神様だけを愛してください。そして後は、あなたの好きなようにしてください」と言いました。彼は、もし人が神様だけを愛しているのなら、あとは自分の思いのままにしていても全然問題にならないと確信していたのです。神様を愛するなら、神様のみことばに従うようになります。神様との交わりから離れることができないからです。すべての問題解決の鍵、すべての問題の核心はこの愛なのです。

イエス様が復活された後、イエス様はペテロに何を確認されたでしょうか?この愛です。イエス様はペテロに、「あなたはわたしを愛するか」と三度も繰り返して尋ねられました。(ヨハネ21:15,16,17)ペテロは、イエス様が三度も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたことに心を痛め、主よ。あなたいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」と言うと、イエス様は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。イエス様はなぜ三度も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたのでしょうか?それは、この愛さえあれば、あとは何の問題もないからです。ペテロはかつて三度、イエス様を知らないと否定しました。この愛がなかったからです。彼は、ほんとうに主イエスを愛していたのかというとそうではなく、自分を愛していたのです。自分中心の信仰でした。ですから、イエスを三度も否定したのです。自分の身を守ろうとして・・・。主はそれに対応するかのように、「ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか。」と三度、確認されたのです。それがあればもう十分です。

皆さんはいかがですか?皆さんはイエス様を愛していますか?それともペテロのように、自分に都合がいいような信仰になってはいないでしょうか。あのときのペテロのように、「主よ。わたしがあなたを愛することは、あなたが十分ご承知のことです」と告白できるなら、それで十分です。なぜなら、イエス様を愛するなら、イエス様のみことばに従うようになるからです。問題はイエス様を愛しているかどうか、この一点にかかっているのです。イエス様を愛するなら、隣人を愛するようになるのです。なぜなら、イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と命じられたからです。(ヨハネ13:35)神を愛すること、隣人を愛することが、律法全体の要約であって、中心なのです。私たちが隣人を愛するなら、それは律法を完全に行っていることになるのです。

Ⅲ.愛は律法を全うする(10)

第三のことは、それゆえに、愛は律法を全うするのです。10節をご覧ください。「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」この「全うする」と訳されたことばは、「プレローマ」というギリシャ語です。これは「充満する」という意味です。つまり、私たちが隣人を愛するなら、神様のみこころに生きることができるので、そこに神様の祝福が満ち溢れるようになるというのです。

皆さん、私たちの社会には、この強盗に襲われて傷つき、苦しみ、倒れている方がたくさんいらっしゃいます。このような社会の中で、私たちに与えられている使命は、行って、同じようにすることなのです。

宮城県にある同じ保守バプテスト同盟栗原聖書バプテスト教会の岸浪市夫先生 は、先の震災で苦しんでおられる方々の支援のため「アメージング・グレイス・ネットワーク・ミッション」という災害ボランティア団体を立ち上げ、物資支援、炊き出し、コンサート、個人宅へ慰問訪問などの支援活動を始めました。なかなか支援が届かない雄鹿半島の泊(とまり)地区へ月2回のペースで訪問しています。そこで、被災者の方々と一緒に「必要なもの・欲しいもの」を「祈る」こと をしていますが、祈るとき、漁師さんに船が与えられ、バイク、冷蔵庫、洗濯機 チェーンソーなど、祈ったものが次々と与えられているのを見て、地元の方々は 驚きに包まれています。今では必要なものがあるとき、そっと先生の横に来て、「先生、これこれが欲しいから祈って。」とお願いしてこられる方がたくさんおられるようになったそうです。  そのような中でこれまでずっと関わって来られた漁師の方が、このように言われました。「俺は本当に皆さんから力を貰ったよ、有りがたかった。教会の人と出会って本当に俺の人生変わった。あの頃は、俺は何にも力が出なくて、 下しか見られなかったもんな…。そして、何か必要な物は無いですかって言わ れても、遠慮して何んにも言えなかった…。それでも、俺も甘えて見ようかなと思ったんだよな…。あんた達の神様は凄い神様だな…。」「俺は、今回、災害にあって本当に良かった。沢山の人々と出会って、力を貰って、こんなに嬉しい事はないね。…。俺は本当に嬉しいよ。」  震災で家も仕事も失い、命からがら逃げた方から、「震災にあって良かった」という信じられないようなことばを聞くようになったのはどうしてなのでしょうか?そこに愛を見たからではないでしょうか。愛にはそれほどの力があるのです。

先日、「しあわせの隠れ場所」という映画を観ました。これは、「ブラインド・サイド~アメフトがもたらした奇蹟~」という実話を元に映画化したものです。  テネシー州メンフィスのスラム街に生まれ、家庭に恵まれず、十分な教育も受けられずに、ホームレスのような生活をしていた黒人少年マイケル・オアーが、裕福な白人女性リー・アンの一家に家族として迎え入れられ、アメフット選手としての才能を開花させ、やがてNFLのドラフト指名を受けてプロとしてプレーするまでになったという話です。  舞台はニューヨークや LA ではなく、人種に関してとても保守的な南部です。並大抵では出来ないことを、この主人公のリー・アンはやったのです。彼女は当初この大きな黒人少年を「ビッグ・マイク」と読んでいたのですが、彼が「ビッグ・マイク」と呼ぶのは止めてというと、彼女は「わかったわ。これからはマイクと呼ぶわ。あなたは私の息子よ」と言い切るのです。  いったい彼女はなぜそんなことができたのでしょうか。彼女はクリスチャンでした。そして、神様が自分をどれだけ愛してくださったのかを知りました。そして、彼女もまた、この愛に生きるように変えられたからです。

「あなたも行って、同じようにしなさい」私たちもイエス様から愛された者として、その愛を隣人に対して実践していく者でありたいと思います。そこに神様の祝福と力が溢れるのです。