いよいよテモテへの第一の手紙も結びの部分に入ります。きょうは、この結びの部分から、「神の人として歩もう」というタイトルでお話したいと思います。パウロはこの結びのところでテモテを、「しかし、神の人よ」と呼んでいます。聖書の中でこのように「神の人」と呼ばれている人は稀です。旧約聖書ではモーセ(申33:1)やエリヤ(Ⅰ列王17:18)、またその弟子であったエリシャ(Ⅱ列王4:16)などが神の人と呼ばれました。またあの有名なダビデもそのように呼ばれました(Ⅱ歴代8:14)。その他、預言者でシェマヤ(Ⅰ列王12:22)という人や、イグダルヤの子ハナン(エレミヤ35:4)もそのように呼ばれました。他にそのように呼ばれた人はいません。新約聖書でこのように呼ばれているのはテモテだけです。パウロはこの「神の人」という言葉をテモテに用いました。それは牧会で苦労していたテモテにとって、どんなに大きな励ましであったことでしょう。
しかし、それはテモテだけのことではありません。だれでもテモテのように神の人になることができます。Ⅱテモテ3章17節を見ると、「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」とあるように、すべてのクリスチャンにも共通して言えることなのです。ではどのような人が神の人と呼ばれるにふさわしいのでしょうか。
Ⅰ.信仰の戦いを戦い(11-12)
まず11節と12節をご覧ください。
「11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」
パウロはここで、神の人のあり方について消極的な面と積極的な面の二つの面から述べています。まず消極的な面ではどんなことかというと、それは避ける人のことです。11節には、「しかし、神の人よ。あなたは、あなたはこれらのことを避け」とあります。これらのこととは何でしょうか?それは前の節までのところで述べられてきたことですが、金銭を追い求める生活、あるいは、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑いといったものが生じる生活のことです。そういう生活を避けなさいというのです。避けるということは臆病なように見えるかもしれませんが、しかしもっとも効果のある勝利の道でもあるのです。エジプトに奴隷として売られたヨセフは、主人の妻に誘惑された時、外へ出て逃げました(創世39:12)。そのことで彼は、一時、投獄されましたが、やがて彼はエジプトの第二の地位にまで上り詰めることができました。それは彼が誘惑を避けたからです。真正面から対決することだけがいつも最善とは限りません。むしろそうすることでますます深みにはまって、過ちを犯してしまうこともあります。そうした悪に対しては、避けることが最も賢明な勝利に至る道なのです。
次に、神の人が追い求める積極的な面とは何でしょうか。それは、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和といったものを求めることです。正しさとは神との関係において正しく生きることであり、敬虔とは、その神を恐れて生きることです。その結果、信仰、愛、忍耐、柔和といった徳がもたらされます。これらのものは、神の御霊である聖霊が結ばせてくださる実でもあります。これは自分の力によってもたらされるものではなく、聖霊に信頼し、聖霊に導かれることによって得られるものなのです。
イエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。枝が木につながっていなければ実を結ぶことはできません。主の働き人はとかく目に見える結果にとらわれがちですが、最も大切なことは、目に見えない部分、すなわち、神との関係を第一に求めなければなりません。それによってこそ大きな力を発揮することができるからです。
ある美しくて大きく、立派な一本の木がありました。しかし、すべてが見た目通りとは限りません。その木の内側はだんだん枯れて、弱っていきました。強い風が吹くと倒れそうになり、枝が折れる音も聞こえてきました。そこで、新しい枝を伸ばして、その弱さを補おうとしました。すると、思った通り少しは強く、今までよりしっかりしたように見えました。しかし、ある日暴風が吹き、根が地面から丸ごと抜けてしまいました。隣の木がなければ完全に地面に倒れてしまうところでした。その後、幸いに時間が経つにつれて、再び根を下ろすことができました。その時ふと、隣の木に興味を持つようになったのです。隣の木は暴風にも負けず、しっかりと立っていたからです。その木は隣の木に、「どうして君は地面にしっかり立っていられただけでなく、ぼくのことまで支えることができたんだい。」と尋ねてみました。すると、隣の木はこう答えました。「それは、君が新しい枝を伸ばしている間、ぼくは根をより深いところに伸ばしていたからだよ。」
私たちは、より深いところまで根を下ろさなければなりません。外見ではなく、内面の人格を整えなければならないのです。それは神との関係が深められることによってこうした徳がもたらされるからです。私たちは祈りと神の御言葉によって神との関係を深め、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和という実を結ばせていただきましょう。
では、神の人が求めなければならない積極的な面とは何でしょうか。それは戦うということです。12節をご覧ください。ここには、「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」とあります。神の人は、11節にあるようなクリスチャンの徳を身につけるだけでは十分ではありません。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなければなりません。この「戦う」という言葉は、オリンピックの競技や、兵士の戦いに使われた言葉です。ですからそれは、いのちがけの戦いを意味しているのです。しかもこの言葉は継続を表している形になっています。すなわち、すでに始められている戦いを継続して戦えということです。なぜでしょうか?永遠のいのちを獲得するためです。どういうことでしょうか?救い主イエスを信じた人にはすでに永遠のいのちが与えられているのではないでしょうか?実はこの「永遠のいのち」には二面性があります。それは既にという面とこれからという面です。クリスチャンはイエス・キリストを信じたことによって既に永遠のいのちが与えられました。けれども、それはまだ完成していません。それはやがてキリストが再臨する時に関税します。ですから、そのためにしっかりと準備しなければならないのです。
キリスト教系の新聞によると、我が国でのクリスチャン信仰の平均寿命は2.5年だそうです。3年も持たないのです。多くの人がイエス様を信じますが、信仰生活から離れていくケースも多いのです。しかし、長いこと信仰を持っている人でも、あまりにも多くの人たちが救いの喜びを失っているということがあるのではないでしょうか。まだ救われていなかった時の以前の生活に逆戻りしているというケースも少なくありません。また、ずっと教会に通っていても、主と生き生きした関係をずっと保つことは、簡単なようで実はとても難しいことなのです。なぜなら、イエス様を信じて生きるということは、多くの人々が認めない真理に従って生きることだからです。そこには多くの「信仰の戦い」があります。クリスチャンはこの戦いを避けてはいけません。この戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなければならないのです。
Ⅱ.主イエス・キリストの現れ(13-16)
第二に、13~16節までを見ていきたいと思います。
「13 私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。14 私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。15 その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16 ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」
次にパウロは、神とキリストとの前で、テモテに命じています。イエス・キリストの現れの時まで、傷のない、非難されるところのない者であるように・・・と。ところで、ここでは単に神とキリストの前でと言われているのではなく、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの前でとあるのです。これはパウロの普通の表現と少々異なります。普通なら、たとえばこの手紙の冒頭にあるように「私たちの救い主である神と私たちの望みなるキリスト・イエス」とあるように、父なる神と望みなるキリスト・イエスというのに、ここでは「すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証されたキリスト・イエスの御前で」と、普通見られない表現が使われているのです。いったいパウロはなぜこのように言ったのでしょうか。「すべてのものにいのちを与える神」というのは、神はすべてのもののいのちの根源であるということを意味するばかりでなく、神はすべての危険と迫害から守ってくださる方であるという信仰が含まれています。初代教会ではバプテスマを受けることは、皇帝崇拝を拒否することが含まれていました。そのことはまた、死をも意味していたわけです。皇帝崇拝を拒絶すれば処刑されていたからです。それゆえに、初代教会ではバプテスマを受ける時の信仰告白の際、キリストの告白を思い出させました。キリストはどのように告白したのでしょうか。キリストは、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証されました。すなわち、キリストは自らが十字架の死に直面していても、自らがメシヤであることを主張して一歩も譲られませんでした。マタイの福音書27章11節には、ピラトがイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねると、イエスは彼に「そのとおりです」と言われたことが記録されています。ポンテオ・ピラトに対してのすばらしい告白とはこのことです。
それはイエス様だけではありません。おそらくテモテもバプテスマを受けた時、この告白をしたのでしょう。12節にも、テモテがした「りっぱな告白」が出てきました。神の人であるクリスチャンは、たとい周りがどうであろうとも、このような告白をする者たちです。かつてダニエルはこのような告白をしたがゆえにライオンのいる穴の中に入れられました。しかし、そこに神がともにおられたので、ダニエルは全く傷を負うことなく守られました。むしろ、彼はダニエルをライオンの中に投げ入れたダリヨス王の下で大きく用いられました。
その神とキリストの御前で、パウロはテモテに命令を送りました。それは、私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは神のすべてのいましめを守り、非難されるところのない者でありなさい、ということです。主イエス・キリストの現れの時というのは、再臨のことを指しています。そして「傷のない、非難されるところがなく」というのは、全く罪を犯さない完全な人になることではなく、教会の外の人たちにそしられることがないような敬虔さを保つようにということです。
キリストは、今、天において神の右の座におられ、私たちのためにとりなしの祈りをしておられます。私たちは今、この方を見ることはできませんが、やがて定められた時が来たら、その時はとても近いようにも感じますが、その時には、この目ではっきりと見ることができます。Ⅰコリント13章12節には、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」とあるとおりです。その現れは、神が良しとする時に示してくださいます。なぜなら、神は祝福に満ちた唯一の主権者であられ、王の王、主の主であられる方だからです。そればかりではありません。神はただひとり死のない方であり、だれも近づくこともできない光の中に住んでおられる方だからです。この「死のない方」というギリシャ語(アフサルトス)は1章17節にも使われていますが、そこでは「滅びることなく」と訳されています。またⅠコリント15章53,54節では、それぞれ「朽ちない者もの」「不死」と訳されています。そうです、神は決して死なない方、永遠に生きておられる方なのです。このような神が他にいるでしょうか。いません。この世のすべての宗教はみな死んだ教祖を拝んでいますが、聖書の神はそういう方ではありません。聖書の神は死のない方なのです。永遠に生きておられる方、それが本当の神です。それはただひとりしかおられません。この方はだれも近づくことができない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことがない、いや見ることができない方なのです。もし見ることができたとしても、その人はすぐにその場で死んでしまうでしょう。あまりの聖さと栄光の輝きのために。
しかし、この方の栄光をすべて見た方がおられます。いいえ、この方とずっと昔から、永遠の昔からずっといっしょにおられた方がいるのです。それが神のひとり子イエス・キリストです。キリストは言われました。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)
このように、信仰の戦いを勇敢に戦うとき、人々を支えるのは何かというと、この主イエス・キリストの再臨なのです。私たちは自分のやっていることがうまくいかず、なかなか目に見える形で成果を見る事が出来ず落胆することがあります。また多くの反対にあって、疲れはててしまうこともあります。けれども、それでも耐え抜くことができるのは、祝福に満ちた唯一の主権者であられ、王の王、主の主であられる方、また、ただひとり死ぬことがなく、人間のだれひとり近づくこともできない光の中に住んでおられる神が、主イエス・キリストにあって現れてくださることを知っているからなのです。その時はどんなに大きな喜びでしょう。よく勝利者が感極まって涙を流しますが、やがて私たちが勝利するとき、その何倍もの涙を流すことでしょう。ここから目を離さないとき、私たちは希望に伴う忍耐が与えられ、主の愛と恵みの中にいつまでもとどまることができるのです。そして、信仰の戦いを勇敢に戦い抜くことができるのです。
Ⅲ.神に望みを置いて(17-19)
神の人としてのあり方の第三のことは、何に望みを置くのかということです。たよりにならない富みに望みを置くのではなく、神に望みを置くようにということです。17節から19節までをご覧ください。
「17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。18 また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。19 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」
パウロは6節から10節のところでも金銭を追い求める人たちのことについて述べましたが、ここで再び「富」について語っています。ただ違うのは、6節からのところでは金持ちになりたがる人たちについての警告でしたが、ここではすでに富んでいる人たちに対して勧められていることです。エペソ教会には富める人たちが多かったのでしょう。そういう人たちに対して語られているのです。その内容は、「高ぶらないように」ということです。また、たよりにならない富みに望みを置かないようにということです。お金は人を高ぶらせます。お金持ちの人は、自分は何でもできる者であるかのような錯覚を抱きがちになるのです。また、お金は安心感を与えます。あの金持ちの畑が豊作だったとき、彼は自分のたましいに何と言いましたか。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)しかし神は何と言われたでしょう。神は彼にこう言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:20)ですからそれは、偽りの安心感にすぎないのです。そのような富は何のたよりにもなりません。本当の安心感は主から来ます。主が備えてくださるという信仰から来るのです。ですから、たよりにならない富に望みを置くのではなく、私たちすべての物を豊に与えて楽しませてくださる神に望みを置かなければならないのです。神は私たちに全ての物を与えて楽しませてくださいます。神が造られた大自然をみるとき、「ああ神様ってすごいなぁ」と、私たちの心を楽しませてくれます。かわいい孫のちょっとしたしぐさを見るたびに、「本当にかわいいなぁ」と感動を与えてくださいます。神は私たちにすべてのものを与えて楽しませてくださるのです。自分にないものではなくあるものに目を留め、それを喜び、楽しまなければなりません。それが神の人の歩みです。
また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えましょう。ある時イエス様のもとに富める役人が来て尋ねました。「どうしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか」と。するとイエス様は、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになります。」と言われました。すると、その青年は悲しんで、去って行きました。たいへんな金持ちだったからです。この金持ちが貧しい人たちに分け与えることができなかったのは、彼が自分の益のみを求めて行動していたからです。富める人たちはしばしばそのような傾向があります。けれども、その富が与えられている目的は自分の益のためではなく、いろいろな人を助けるためであり、それによって良い行いをするためです。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分のために築き上げるためなのです。それが、天に宝を積むということです。富んでいる人はそれを御国のために用いていかなければならないのです。これが富める人の生き方、神の人のあり方なのです。
このイエス様のことばを20世紀初めに受け入れた人がいます。アンドリュー・カーネギーという人です。貧しい生い立ちから世界一の鉄鋼王となった彼は、66歳のとき、一つの決断をします。彼は一切の権利を売り払い、その資産で有名なカーネギーホールをはじめとする文化施設や福祉施設を建て、世界各国に2,811か所もの図書館を贈り続け、その生涯を終えるのです。アンドリュー・カーネギー、彼は天に富を積むというイエスの教えを実践した、時を超えたイエスの弟子の一人であり、神の人としてこの世を生きたのです。
最後に20節と21節を見て終わりたいと思います。ここでパウロは「テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。」と勧めています。ゆだねられたものとは何でしょうか。それは、パウロからゆだねられたイエス・キリストの福音、啓示のことです。パウロはそれをテモテにゆだねました。テモテはそれを守らなければなりません。それは取捨選択できるようなものではなく絶対的な真理なのです。そしてこれはテモテばかりでなく、今の私たち、キリストの教会のすべての牧会者、ならびにクリスチャンにも言われていることなのです。教会はこのゆだねられたものを守り、そこにとどまっていなければなりません。それ以外のもの、それ以外の教え、それ以外の考え、それ以外の主張があれば、そういうものに心奪われるようなことがあってはなりません。そういうことがないように注意しなければなりません。なぜなら、そうした教えの風によって信仰から離れていくということが起こってくるからです。世の終わりが近くなると愛が冷えるとありますが、ますますそのような傾向が強くなってきます。今はまさにそういう時代ではないでしょうか。そういうことがないように、注意しなければなりません。そして神からゆだねられたものを守り、そこにしっかりととどまっていたいと思います。それが神の人としてのあり方なのです。神の恵みが、あなたがたとともにありますように。そこに神の恵みが豊かに注がれるのです。