Ⅰテモテ6章11~21節 「神の人として」

いよいよテモテへの第一の手紙も結びの部分に入ります。きょうは、この結びの部分から、「神の人として歩もう」というタイトルでお話したいと思います。パウロはこの結びのところでテモテを、「しかし、神の人よ」と呼んでいます。聖書の中でこのように「神の人」と呼ばれている人は稀です。旧約聖書ではモーセ(申33:1)やエリヤ(Ⅰ列王17:18)、またその弟子であったエリシャ(Ⅱ列王4:16)などが神の人と呼ばれました。またあの有名なダビデもそのように呼ばれました(Ⅱ歴代8:14)。その他、預言者でシェマヤ(Ⅰ列王12:22)という人や、イグダルヤの子ハナン(エレミヤ35:4)もそのように呼ばれました。他にそのように呼ばれた人はいません。新約聖書でこのように呼ばれているのはテモテだけです。パウロはこの「神の人」という言葉をテモテに用いました。それは牧会で苦労していたテモテにとって、どんなに大きな励ましであったことでしょう。

しかし、それはテモテだけのことではありません。だれでもテモテのように神の人になることができます。Ⅱテモテ3章17節を見ると、「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」とあるように、すべてのクリスチャンにも共通して言えることなのです。ではどのような人が神の人と呼ばれるにふさわしいのでしょうか。

Ⅰ.信仰の戦いを戦い(11-12)

まず11節と12節をご覧ください。

「11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」

パウロはここで、神の人のあり方について消極的な面と積極的な面の二つの面から述べています。まず消極的な面ではどんなことかというと、それは避ける人のことです。11節には、「しかし、神の人よ。あなたは、あなたはこれらのことを避け」とあります。これらのこととは何でしょうか?それは前の節までのところで述べられてきたことですが、金銭を追い求める生活、あるいは、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑いといったものが生じる生活のことです。そういう生活を避けなさいというのです。避けるということは臆病なように見えるかもしれませんが、しかしもっとも効果のある勝利の道でもあるのです。エジプトに奴隷として売られたヨセフは、主人の妻に誘惑された時、外へ出て逃げました(創世39:12)。そのことで彼は、一時、投獄されましたが、やがて彼はエジプトの第二の地位にまで上り詰めることができました。それは彼が誘惑を避けたからです。真正面から対決することだけがいつも最善とは限りません。むしろそうすることでますます深みにはまって、過ちを犯してしまうこともあります。そうした悪に対しては、避けることが最も賢明な勝利に至る道なのです。

次に、神の人が追い求める積極的な面とは何でしょうか。それは、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和といったものを求めることです。正しさとは神との関係において正しく生きることであり、敬虔とは、その神を恐れて生きることです。その結果、信仰、愛、忍耐、柔和といった徳がもたらされます。これらのものは、神の御霊である聖霊が結ばせてくださる実でもあります。これは自分の力によってもたらされるものではなく、聖霊に信頼し、聖霊に導かれることによって得られるものなのです。

イエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。枝が木につながっていなければ実を結ぶことはできません。主の働き人はとかく目に見える結果にとらわれがちですが、最も大切なことは、目に見えない部分、すなわち、神との関係を第一に求めなければなりません。それによってこそ大きな力を発揮することができるからです。

ある美しくて大きく、立派な一本の木がありました。しかし、すべてが見た目通りとは限りません。その木の内側はだんだん枯れて、弱っていきました。強い風が吹くと倒れそうになり、枝が折れる音も聞こえてきました。そこで、新しい枝を伸ばして、その弱さを補おうとしました。すると、思った通り少しは強く、今までよりしっかりしたように見えました。しかし、ある日暴風が吹き、根が地面から丸ごと抜けてしまいました。隣の木がなければ完全に地面に倒れてしまうところでした。その後、幸いに時間が経つにつれて、再び根を下ろすことができました。その時ふと、隣の木に興味を持つようになったのです。隣の木は暴風にも負けず、しっかりと立っていたからです。その木は隣の木に、「どうして君は地面にしっかり立っていられただけでなく、ぼくのことまで支えることができたんだい。」と尋ねてみました。すると、隣の木はこう答えました。「それは、君が新しい枝を伸ばしている間、ぼくは根をより深いところに伸ばしていたからだよ。」

私たちは、より深いところまで根を下ろさなければなりません。外見ではなく、内面の人格を整えなければならないのです。それは神との関係が深められることによってこうした徳がもたらされるからです。私たちは祈りと神の御言葉によって神との関係を深め、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和という実を結ばせていただきましょう。

では、神の人が求めなければならない積極的な面とは何でしょうか。それは戦うということです。12節をご覧ください。ここには、「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」とあります。神の人は、11節にあるようなクリスチャンの徳を身につけるだけでは十分ではありません。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなければなりません。この「戦う」という言葉は、オリンピックの競技や、兵士の戦いに使われた言葉です。ですからそれは、いのちがけの戦いを意味しているのです。しかもこの言葉は継続を表している形になっています。すなわち、すでに始められている戦いを継続して戦えということです。なぜでしょうか?永遠のいのちを獲得するためです。どういうことでしょうか?救い主イエスを信じた人にはすでに永遠のいのちが与えられているのではないでしょうか?実はこの「永遠のいのち」には二面性があります。それは既にという面とこれからという面です。クリスチャンはイエス・キリストを信じたことによって既に永遠のいのちが与えられました。けれども、それはまだ完成していません。それはやがてキリストが再臨する時に関税します。ですから、そのためにしっかりと準備しなければならないのです。

キリスト教系の新聞によると、我が国でのクリスチャン信仰の平均寿命は2.5年だそうです。3年も持たないのです。多くの人がイエス様を信じますが、信仰生活から離れていくケースも多いのです。しかし、長いこと信仰を持っている人でも、あまりにも多くの人たちが救いの喜びを失っているということがあるのではないでしょうか。まだ救われていなかった時の以前の生活に逆戻りしているというケースも少なくありません。また、ずっと教会に通っていても、主と生き生きした関係をずっと保つことは、簡単なようで実はとても難しいことなのです。なぜなら、イエス様を信じて生きるということは、多くの人々が認めない真理に従って生きることだからです。そこには多くの「信仰の戦い」があります。クリスチャンはこの戦いを避けてはいけません。この戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなければならないのです。

Ⅱ.主イエス・キリストの現れ(13-16)

第二に、13~16節までを見ていきたいと思います。

「13 私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。14 私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。15 その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16 ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」

次にパウロは、神とキリストとの前で、テモテに命じています。イエス・キリストの現れの時まで、傷のない、非難されるところのない者であるように・・・と。ところで、ここでは単に神とキリストの前でと言われているのではなく、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの前でとあるのです。これはパウロの普通の表現と少々異なります。普通なら、たとえばこの手紙の冒頭にあるように「私たちの救い主である神と私たちの望みなるキリスト・イエス」とあるように、父なる神と望みなるキリスト・イエスというのに、ここでは「すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証されたキリスト・イエスの御前で」と、普通見られない表現が使われているのです。いったいパウロはなぜこのように言ったのでしょうか。「すべてのものにいのちを与える神」というのは、神はすべてのもののいのちの根源であるということを意味するばかりでなく、神はすべての危険と迫害から守ってくださる方であるという信仰が含まれています。初代教会ではバプテスマを受けることは、皇帝崇拝を拒否することが含まれていました。そのことはまた、死をも意味していたわけです。皇帝崇拝を拒絶すれば処刑されていたからです。それゆえに、初代教会ではバプテスマを受ける時の信仰告白の際、キリストの告白を思い出させました。キリストはどのように告白したのでしょうか。キリストは、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証されました。すなわち、キリストは自らが十字架の死に直面していても、自らがメシヤであることを主張して一歩も譲られませんでした。マタイの福音書27章11節には、ピラトがイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねると、イエスは彼に「そのとおりです」と言われたことが記録されています。ポンテオ・ピラトに対してのすばらしい告白とはこのことです。

それはイエス様だけではありません。おそらくテモテもバプテスマを受けた時、この告白をしたのでしょう。12節にも、テモテがした「りっぱな告白」が出てきました。神の人であるクリスチャンは、たとい周りがどうであろうとも、このような告白をする者たちです。かつてダニエルはこのような告白をしたがゆえにライオンのいる穴の中に入れられました。しかし、そこに神がともにおられたので、ダニエルは全く傷を負うことなく守られました。むしろ、彼はダニエルをライオンの中に投げ入れたダリヨス王の下で大きく用いられました。

その神とキリストの御前で、パウロはテモテに命令を送りました。それは、私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは神のすべてのいましめを守り、非難されるところのない者でありなさい、ということです。主イエス・キリストの現れの時というのは、再臨のことを指しています。そして「傷のない、非難されるところがなく」というのは、全く罪を犯さない完全な人になることではなく、教会の外の人たちにそしられることがないような敬虔さを保つようにということです。

キリストは、今、天において神の右の座におられ、私たちのためにとりなしの祈りをしておられます。私たちは今、この方を見ることはできませんが、やがて定められた時が来たら、その時はとても近いようにも感じますが、その時には、この目ではっきりと見ることができます。Ⅰコリント13章12節には、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」とあるとおりです。その現れは、神が良しとする時に示してくださいます。なぜなら、神は祝福に満ちた唯一の主権者であられ、王の王、主の主であられる方だからです。そればかりではありません。神はただひとり死のない方であり、だれも近づくこともできない光の中に住んでおられる方だからです。この「死のない方」というギリシャ語(アフサルトス)は1章17節にも使われていますが、そこでは「滅びることなく」と訳されています。またⅠコリント15章53,54節では、それぞれ「朽ちない者もの」「不死」と訳されています。そうです、神は決して死なない方、永遠に生きておられる方なのです。このような神が他にいるでしょうか。いません。この世のすべての宗教はみな死んだ教祖を拝んでいますが、聖書の神はそういう方ではありません。聖書の神は死のない方なのです。永遠に生きておられる方、それが本当の神です。それはただひとりしかおられません。この方はだれも近づくことができない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことがない、いや見ることができない方なのです。もし見ることができたとしても、その人はすぐにその場で死んでしまうでしょう。あまりの聖さと栄光の輝きのために。

しかし、この方の栄光をすべて見た方がおられます。いいえ、この方とずっと昔から、永遠の昔からずっといっしょにおられた方がいるのです。それが神のひとり子イエス・キリストです。キリストは言われました。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

このように、信仰の戦いを勇敢に戦うとき、人々を支えるのは何かというと、この主イエス・キリストの再臨なのです。私たちは自分のやっていることがうまくいかず、なかなか目に見える形で成果を見る事が出来ず落胆することがあります。また多くの反対にあって、疲れはててしまうこともあります。けれども、それでも耐え抜くことができるのは、祝福に満ちた唯一の主権者であられ、王の王、主の主であられる方、また、ただひとり死ぬことがなく、人間のだれひとり近づくこともできない光の中に住んでおられる神が、主イエス・キリストにあって現れてくださることを知っているからなのです。その時はどんなに大きな喜びでしょう。よく勝利者が感極まって涙を流しますが、やがて私たちが勝利するとき、その何倍もの涙を流すことでしょう。ここから目を離さないとき、私たちは希望に伴う忍耐が与えられ、主の愛と恵みの中にいつまでもとどまることができるのです。そして、信仰の戦いを勇敢に戦い抜くことができるのです。

Ⅲ.神に望みを置いて(17-19)

神の人としてのあり方の第三のことは、何に望みを置くのかということです。たよりにならない富みに望みを置くのではなく、神に望みを置くようにということです。17節から19節までをご覧ください。

「17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。18 また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。19 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

パウロは6節から10節のところでも金銭を追い求める人たちのことについて述べましたが、ここで再び「富」について語っています。ただ違うのは、6節からのところでは金持ちになりたがる人たちについての警告でしたが、ここではすでに富んでいる人たちに対して勧められていることです。エペソ教会には富める人たちが多かったのでしょう。そういう人たちに対して語られているのです。その内容は、「高ぶらないように」ということです。また、たよりにならない富みに望みを置かないようにということです。お金は人を高ぶらせます。お金持ちの人は、自分は何でもできる者であるかのような錯覚を抱きがちになるのです。また、お金は安心感を与えます。あの金持ちの畑が豊作だったとき、彼は自分のたましいに何と言いましたか。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)しかし神は何と言われたでしょう。神は彼にこう言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:20)ですからそれは、偽りの安心感にすぎないのです。そのような富は何のたよりにもなりません。本当の安心感は主から来ます。主が備えてくださるという信仰から来るのです。ですから、たよりにならない富に望みを置くのではなく、私たちすべての物を豊に与えて楽しませてくださる神に望みを置かなければならないのです。神は私たちに全ての物を与えて楽しませてくださいます。神が造られた大自然をみるとき、「ああ神様ってすごいなぁ」と、私たちの心を楽しませてくれます。かわいい孫のちょっとしたしぐさを見るたびに、「本当にかわいいなぁ」と感動を与えてくださいます。神は私たちにすべてのものを与えて楽しませてくださるのです。自分にないものではなくあるものに目を留め、それを喜び、楽しまなければなりません。それが神の人の歩みです。

また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えましょう。ある時イエス様のもとに富める役人が来て尋ねました。「どうしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか」と。するとイエス様は、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになります。」と言われました。すると、その青年は悲しんで、去って行きました。たいへんな金持ちだったからです。この金持ちが貧しい人たちに分け与えることができなかったのは、彼が自分の益のみを求めて行動していたからです。富める人たちはしばしばそのような傾向があります。けれども、その富が与えられている目的は自分の益のためではなく、いろいろな人を助けるためであり、それによって良い行いをするためです。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分のために築き上げるためなのです。それが、天に宝を積むということです。富んでいる人はそれを御国のために用いていかなければならないのです。これが富める人の生き方、神の人のあり方なのです。

 

このイエス様のことばを20世紀初めに受け入れた人がいます。アンドリュー・カーネギーという人です。貧しい生い立ちから世界一の鉄鋼王となった彼は、66歳のとき、一つの決断をします。彼は一切の権利を売り払い、その資産で有名なカーネギーホールをはじめとする文化施設や福祉施設を建て、世界各国に2,811か所もの図書館を贈り続け、その生涯を終えるのです。アンドリュー・カーネギー、彼は天に富を積むというイエスの教えを実践した、時を超えたイエスの弟子の一人であり、神の人としてこの世を生きたのです。

 

最後に20節と21節を見て終わりたいと思います。ここでパウロは「テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。」と勧めています。ゆだねられたものとは何でしょうか。それは、パウロからゆだねられたイエス・キリストの福音、啓示のことです。パウロはそれをテモテにゆだねました。テモテはそれを守らなければなりません。それは取捨選択できるようなものではなく絶対的な真理なのです。そしてこれはテモテばかりでなく、今の私たち、キリストの教会のすべての牧会者、ならびにクリスチャンにも言われていることなのです。教会はこのゆだねられたものを守り、そこにとどまっていなければなりません。それ以外のもの、それ以外の教え、それ以外の考え、それ以外の主張があれば、そういうものに心奪われるようなことがあってはなりません。そういうことがないように注意しなければなりません。なぜなら、そうした教えの風によって信仰から離れていくということが起こってくるからです。世の終わりが近くなると愛が冷えるとありますが、ますますそのような傾向が強くなってきます。今はまさにそういう時代ではないでしょうか。そういうことがないように、注意しなければなりません。そして神からゆだねられたものを守り、そこにしっかりととどまっていたいと思います。それが神の人としてのあり方なのです。神の恵みが、あなたがたとともにありますように。そこに神の恵みが豊かに注がれるのです。

Ⅰテモテ6章1~10節 「大きな利益を受ける道」

きょうはⅠテモテ6章の御言葉から、「大きな利益を受ける道」というタイトルでお話したいと思います。よくキリスト教はご利益宗教ではないと言われますが、きょうの聖書の箇所には「大きな利益を受ける道です」とあります。つまり、キリスト教にもご利益があるということです。ただそのご利益というのは、病気や災いがないということではなく、あるいは、商売が繁盛することでもありません。聖書の言うご利益とは、むしろ問題があっても神がすべてのことを働かせて益としてくださるということを信じ、神が与えてくださるものを感謝して受け止めることができるということです。それが、満ち足りる心を伴う敬虔です。これこそ、本当のご利益ではないでしょうか。滝元明という有名な伝道者が「こんな大きなご利益どこにもない」という本を出版されましたが、まさにこんな大きなご利益はどこにもありません。これこそ、私たちが大きな利益を受ける道なのです。きょうは、この道についてお話したいと思います。

Ⅰ.自分の主人を尊敬しなさい(1-2)

まず、1節と2節をご覧ください。

「1くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。」

ここには、仕事の主人に仕えることによって得られる益について語られています。くびきの下にある奴隷とは、主人がノンクリスチャンである場合の労働者の立場にあるクリスチャンのことです。当時のローマ社会はその半数が奴隷だったと言われていますが、驚くべきことに、そうした奴隷たちの間にも福音がかなり浸透していたようで、信仰を持つ人が数多く起こされていたのです。そうした中にあって、信仰を持ったクリスチャンはノンクリスチャンである主人にどのように仕えたらいいのでしょうか。「くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。」たとえ雇用主がノンクリスチャンであっても、その上司を十分に尊敬すべきだというのです。なぜでしょうか?神の御名と教えとがそしられないためです。ローマ書13章によると、この社会のすべての秩序や権威は神によるものだとありますから、たとえ上司がノンクリスチャンであってもその秩序や権威が神によるものであると認め、それを喜び、それに従わなければならないのです。そうでないと、神の御名がそしられることになるからです。職場でクリスチャンがどのように仕えるかが最大の信仰の証であり、ミニストリーでもあるのです。真面目で熱心に働くクリスチャンを見て好感が持たれるようであれば、それ自体がすばらしい信仰の証になります。

20世紀最大の説教者の一人と言われているD.M.ロイドジョーンズは、次のように言いました。「クリスチャンは、クリスチャンであることによって自動的に社会に影響を及ぼすのである。」クリスチャンがクリスチャンとして職場で仕えるならば、それだけでよい証となり、大きな影響を及ぼすことになるというのです。

識文兄の母教会J’s Table キリスト教会のアリ先生の証を読みました。アリ先生はイラン人の方ですが、イラン人のほとんどはイスラム教徒で、小さい頃からイスラム教の中で生れ育ちます。そのアリ先生がどうしてクリスチャンになったのか、以前から関心がありましたが、先生の証を読むと、どうもある一人のクリスチャンとの出会いがきっかけであったようです。アリ先生は高校卒業後軍隊に入隊しましたが、そこで一人のアルメニヤ人兵士に出会うのです。戦場では、たとえ仲間同士であってもそれぞれが生きることに必死で、自分のことしか考えない自己中心の世界なのだそうですが、そのアルメニヤ人兵士は違っていたというのです。彼は大切な自分の持ち物を必要としている人に配っていたのです。しかも嫌々ながらではなく、喜んでしているかのようにさえ見えました。それは物質だけでなく心も配っていました。戦場という厳しい環境で余裕のない状況なのに、みんなの話をよく聞いて、自分にできることを精一杯しているように見えたのです。それは普通ではないと思いました。彼は、アリ先生が今までの人生で会ったことがない人でした。一体、そのパワーはどこからくるのか?どうしてそんなことができるのか?知りたくなって、思い切って本人に尋ねると、彼は優しくこう答えてくれました。

「これは僕の力じゃないよ。僕はクリスチャンなんだ。僕にできるのは、僕の信じている聖書の神、つまりイエス・キリストのおかげだよ。」

正直、アリ先生はそういう宗教の話は聞きたくありませんでした。宗教や神などは彼の中で完全に捨てたつもりだったので、もう関わりたくないと思っていたからです。でもこのアルメニヤ人の持っている力を無視することはできませんでした。そして彼はイエス・キリストに出会い、クリスチャンになったのです。彼のようになりたいと思ったからです。このアルメニヤ人兵士の存在そのものがアリ先生を救いへと導いたのです。その後、日本に来て教会に導かれ、聖書の学びへと進み、牧師になりました。すごいですね。そのアルメニヤ人兵士の証はイスラム教徒さえも回心させる影響力があったのです。クリスチャンが自分の職場でノンクリスチャンの上司を十分に尊敬するなら、そのことによって、神の御名があがめられるようになるのです。

2節には、今度は信者である主人を持つ人は、どのように仕えていったらよいかが教えられています。その人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなければなりません。上司がクリスチャンの場合、クリスチャンであるしもべが陥りやすい過ちは、なあなあになってしまうことです。人は親しくなるとなれなれしくなり、相手を正当に評価しなくなる傾向があるのです。主にあって兄弟姉妹の関係になることはすばらしいことですが、「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるように、礼儀に反してはいけません。なぜなら、愛は礼儀に反しないからです。Ⅰコリント13章5節には、「愛は、礼儀に反することをせず、」とあります。愛は礼儀に反することをしません。兄弟である主人を重んじ、ますますよく仕えなければならないのです。

なぜでしょうか?その後のところに理由が述べられています。それは、「その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。」どういうことでしょうか?そのようにクリスチャンのしもべが良い奉仕をすることによって益を受けるのは、同じクリスチャンの主人であるからです。主にあって愛する兄弟が益を受けるのであれば、それは同じ主にある兄弟にとっても大きな喜びであるはずです。なぜなら、兄弟を愛することは神の喜びでもあるからです。そしてそれはまた、少なからず利益の分配となって自分自身の祝福となって返ってくることになるでしょう。

Ⅱ.違ったことを教える人たちに対して(3-5)

次に、3節から5節までをご覧ください。ここには次のようにあります。

「3違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、5 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。」

「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人」とは、この文脈から見ると、この社会におけるクリスチャンの労働のあり方に同意しない人のことだと言えます。くびきの下にある奴隷は、自分の主人に対してどうあるべきか、あるいは、主人がクリスチャンの場合はどうすべきであるかということを教えられても、それに従おうとしない人たちです。「上司にも変な人が多いから、そういう人には適当に接していればいいんだよ」とか、「嫌だったらすぐに辞めればいい」と言って、従おうとしないのです。つまり、聖書に書かれてあることよりも自分の考えを押し通すような人たちのことです。そういう人たちがエペソ教会にいたのです。そのような人たちは、主人に対してどのように仕えるかということだけでなく、ありとあらゆる事において聖書の教えよりも自分の考えに生きていたのです。

そのような人たちについてはすでに1章3節のところでも語られていました。このエペソ教会には、違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われている人たちがいたのです。それで教会が混乱していました。そうした教えは無益な議論を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。ですから、そういう人たちを避けなさいというのです。

教会で注意しなければならないのは、弱い人や力のない人、信仰の薄い人ではなく、このような人たちです。彼らは能力があり、信仰もあり、知識もあると自負していながら、違ったことを教えて人々を惑わしていました。私たちは、こういう人たちを注意しなければなりません。

このような人たちにはどのような特徴が見られるでしょうか?第一に彼らは高慢になっています。この「高慢」ということばは「煙に巻かれている」という意味のことばで、煙に取り巻かれた人のように自分も周囲も見えないのです。それで自分を誇り、自分の考えこそ正しいと錯覚しているのです。

第二の特徴は、何一つ悟らないということです。これは「無知」とか「無理解」であるということです。律法を知っていると言いながらその意味を全く理解していないのです。主のことばを聞いても正しく理解することができないのです。

第三の特徴は、彼らは疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっていることです。これは病気なんです。これは知的な病気と言います。この病気はある程度の知識を持っているか、あるいはそういう訓練を受けている人に多く見られる病気なんです。しかし、そこからは何のいいものも生まれてきません。そこから生じてくるのは、ねたみとか争い、そしり、悪意の疑いといったものしか生まれてこないのです。互いに愛し合って、一つ心となって、人々の救いのために一致協力して労すべき神の家族の中に、その目標とは全く相容れないものが生み出されてくるのです。それはもう聖霊のみわざとは言えません。これはまさに「惑わす霊」、悪霊のしわざであり、キリストのからだである教会を少しずつむしばんでいくものなのです。

第四に、彼らは敬虔を利得の手段と考えています。どういうことですか?この「敬虔」という言葉ですが、口語訳と新共同訳では「信心」と訳しています。信心、すなわち、宗教を利得の手段としているのです。キリスト教を通してそれでお金儲けをしようと考えているということです。

ですからも違ったことを教え、主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えに同意しない人がいるなら、そういう人には注意しなければなりません。

Ⅲ.満ち足りる心の伴う敬虔(6-10)

では私たちに大きな利益をもたらしてくれるものは何でしょうか。6節から10節までをご覧ください。6節にはこうあります。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」

どういうことでしょうか。偽教師たちは信仰を自分の利得の手段と考えていましたが、ここではそうではないと言っているのです。神を信じれば繁栄するとか、成功するということではなく、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を受ける道だというのです。これはどういう意味でしょうか?これは、私たちを愛し、私たちを罪から救ってくださった神を信じ、その神が与えてくださるもので満足し、その神に感謝して生きるということ、これこそ大きな利益を受ける道であるということです。

こんな大きなご利益は他にはありません。いくら欲しいものを手に入れても満足できず、もっと欲しい!もっと欲しい!と、不満ばかり漏らしていたら、そこには何の喜びもありません。ご利益など一つもないのです。しかし、神が与えてくださったもので満足し、喜び、感謝することができるなら、それこそ大きなご利益ではないでしょうか。聖書が言っているご利益とはこういうものなのです。

いったいなぜクリスチャンは神が与えてくださるものを満足し、感謝して受けとめることができるのでしょうか?なぜなら、神は私たちを愛し、私たちのために御子イエスを与え、永遠のいのちを持つようにしてくださったからです。神はそれほどまでにあなたを愛しておられるからです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

聖書には、神の御子イエス・キリストを信じる者は、「永遠の命」を持つと書かれています。こんなに大きな御利益があるでしょうか。「永遠の命」ですよ。私たちは皆、この世における100年足らずの命のために勉強したり、あくせくと働いているんです。百年と永遠とではケタ違いです。いや、比較になりません。秦の始皇帝は、「不老長寿」を念願して、「不老長寿の薬」を探した者にはなんでも望むものを与えると約束して、世界中を探させたと言われています。しかし、その願いはかなえられませんでした。けれども、私たちはその永遠のいのちをイエス・キリストによって与えられたのです。このような神がいったい他にいるでしょうか。世界中どこを探しても、このような神はいません。これはものすごいご利益です。キリスト教信仰は必ずしも現世利益を約束するものではありませんが、来世利益を確約するものなのです。来世とは死後の世界のことで、天国のことです。私たちには死んでも生きる永遠のいのちが与えられているので、この地上でのいのちのことで一喜一憂する必要はありません。神が与えてくださるものを、感謝して受けとめる心の余裕があるのです。

なぜクリスチャンは神が与えてくださるものを満足して受け止めることができるのでしょうか?第二、それはご自身のひとり子さえも惜しまずに死に渡された方は、御子といっしょにすべてのものを与えてくださると信じているからです。ローマ人への手紙8章32節には、次のように書かれています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

要するに、キリストを信じる者には、神の永遠の命が与えられるばかりでなく、神の創られた天地万物をも与えてくださるということです。これは論理的にも当然のことです。なぜなら、天地万物はキリストによって、キリストのために創られたものですから(ヨハネ1:3;ヘブル1:2;コロサイ1:16)、私たちにキリストを与えて下さった神は、キリストによって創られた被造物のすべてを、私たちに与えて下さらないはずがないのです。私たちはキリストを信じてキリストと一体となることによって、キリストとの共同相続人とされているのです。

それなのに、与えられないことがあるとしたら、それはいったいどういうことなのでしょうか?それは私たちにとって本当に必要なものではないということです。必要であれば、神は必ず与えてくださるのです。なぜ神は宝くじを当ててくれないのでしょうか。必要ないからです。そんなのに当たったら、あなたの人生はくるってしまうでしょう。もっと高慢になって自分が神にでもなったかのように思い込み、信仰から離れてしまうようになるかもしれません。だから、神は当ててくれないのです。本当に必要だったら必ず与えてくださいます。アーメン。詩篇84篇11節にはこうあります。「まことに、神なるは太陽です。盾です。は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」。

私たちの神は良い物を拒まれません。あなたにとって良い物であれば、神は必ずあなたに与えてくださいます。神は、正しく歩む者たちに、良いものを拒まれないのです。私たちに御子を与えてくださった方は、御子といっしょに、すべてのものを与えてくださるのです。そのことを知っているので、クリスチャンは安心して神に信頼することができます。これがわからないと、与えられない、与えられないといつも不満を漏らし、イライラするようになるのです。

いったいなぜクリスチャンは神が与えてくださるものを満足し、感謝して受けとめることができるのでしょうか?その第三の理由は、神を愛する人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、知っているからです。

ローマ人への手紙8章28節には、こうあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

ここには欲しいものが与えられるかどうかというレベルではなく、すべてのことを益としてくださるとあります。それは良いことばかりではありません。どうしてこのようなことがと思えることさえも、神はすべてを働かせて益としてくださるのです。

日本のプロテスタント宣教の歴史の中で大きな影響を与えた人のひとりに、三浦綾子さんがおられます。三浦綾子さんは、塩狩峠をはじめ、信仰をベースにした小説を書きましたが、なぜ三浦さんは小説を書くようになったのでしょうか。実は三浦さんが結婚した当初、夫の光世さんの給料が少なかったため、生活が苦しかったそうです。それで小さな店を開いて商売を始めたのですが、正直で親切な商売をするので客はどんどん増え、毎日トラックで品物を積んできても売り切れてしまうほどだったそうです。ところがある日、夫が帰って来て、「どうしたものかな。私たちの店のせいで、他の店がつぶれてしまった。今日、あの向かいの店も閉じてしまったそうだ。」と心配して言いました。それを聞いて三浦さんは心を痛めるんですね。どうしましょう、自分たちのせいで他の人たちを苦しめるようなことがあってはいけないわ。それで次の日から大量に仕入れていた品物を大幅に減らして何種類かだけを選んで置き、客が品物を買いに来たら、他の店に行くように勧めたのです。するとどうなったでしょうか。商売あがったり・・というところですが、そのことで逆に時間に余裕ができ、好きだった読書や文章を書くことができるようになり、当時募集していた朝日新聞社の懸賞金付き小説に応募することができたのです。それは1,000万円という当時としては破格の懸賞金でした。それに選ばれたのです。こうした生まれた小説が、あの有名な「氷点」です。自分たちの店のために他の店がつぶれてしまうという問題の中で、いったいどうしたらいいかと悩みつつ、結局、自分たちの店を縮小してでも他の店に影響が及ぼすことがないようにとしたことが、三浦さんの小説家としての道を切り拓く結果となったのです。神を愛する人たちのために、神はすべてのことを働かせて益としてくださるのです。私たちは、そうした神のご配慮を信じているのです。

そうすると、たとえそこに問題があっても、もはやそれは問題ではないということがわかります。私たちが、問題を問題としないならば、問題を解決することも容易になってくるはずです。その問題を安心して全知全能の神にゆだねつつ、その解決に取り組むことができるようになるからです。あらゆる問題は、天地万物の創造主なる神の御手の中にあります。神は全知全能ですから、解決できないような問題は何一つありません。あらゆる問題は神の時に神の方法によって解決されるのです。これはものすごいご利益ではないでしょうか。神を愛する人々は、こんなも大きなご利益を受けるのです。

7節と8節にはこうあります。「7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。8 衣食があれば、それで満足すべきです。」

これは真理です。私たちは裸で生まれて、裸一貫でこの世を去っていきます。だれも服を着て生まれた人はいないし、死ぬ時には何も持っていくことはできません。私は何度も葬儀をして思いますが、どんなにこの地上に残しても、最後は何も持っていくことはできないんだなぁということを、つくづく教えられます。

だから、衣食があればそれで満足すべきです。実はこれは命令形で書かれているんです。満足しなさい、ということです。不平不満を言ってはいけません。不平不満を言ったら命令違反ということになります。ある人が言いました。「足のない人を見るまでは、靴のないのをこぼしていたものだ」と。とかく私たちはないものを見て不平不満をこぼしがちですが、与えられたものを見て感謝する者でありたいと思います。衣食があれば、それで満足しましょう。あなたは不平を言ってはいませんか?

それでもこの世での利得を求め、もっと!もっと!と欲しがる人はどのようになるでしょうか。9節と10節をご覧ください。ここには、「9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」とあります。

そのような人の最後は滅びです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、おろかで、有害な多くの欲に陥るのです。パウロはここで、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」と言っています。金銭そのものが悪なのではありません。金銭を愛することが問題です。金銭に支配されることが問題なのです。「金は力なり」という人がいますが、しかし、そうした欲望が政界や財界だけでなく、社会のさまざまなところで問題を引き起こしていることを考えると、まさに聖書に書かれていることは本当に真理なのです。

それはクリスチャンも注意しなければならないことです。クリスチャンも金銭を愛することで信仰から離れ、結局は自分自身のみならず、他の人たちをも苦痛と破滅に陥らせるという恐ろしい結果を招くことになるからです。つまり、金を愛すると金がすべてになり、金に仕えるようになるといことです。でも神を愛すると神がすべてとなり、神に仕えるようになるのです。私たちは金をではなく神を愛する者でなければなりません。クリスチャンが目指すのは金持ちではなく、神持ちです。それこそ大きな利益を受ける道なのです。

そのために、詩篇30章7節から9節にある祈りをささげたいと思います。「7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

貧しさも富みも私に与えず、私に定められた分の食料で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、神の御名を汚すことがないために。そして私たちは、ますます神に信頼し、この大きなご利益を受ける者でありたいと願います。満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道だからです。

Ⅰテモテ5章17~25節 「長老を敬う」

きょうは、Ⅰテモテ5章後半の箇所から、「長老を敬う」というテーマでお話をしたいと思います。パウロは5章で教会の様々な人たちに対してどうあるべきかについて述べてきましたが、きょうのところでは、教会の長老に対してどうあるべきかについて語っています。長老というのは、初代教会では監督、牧師と同じ職分を表す名称でした。その選出については3章で見たとおりですが、人格的で道徳的な品性を持ち、キリスト者らしい生き方を通して教会や社会に仕えていた人です。彼らは教会の教育と牧会の働きをしました。また、慈善や救援の働きを管理し、病人を見舞い、監督者となって教会をしっかりと管理していました。また、御言葉によって信徒を励まし、慰め、正して、福音にしっかり立ち続けるように勧めました。ですから、今日の牧師と同じ働きをしていたのです。もし牧師と違う点があるとしたら、それは年配者であったということくらいです。初代教会ではユダヤ教のように、年配者で尊敬される人を長老として立てたのです。ですから、ここでは長老とありますが、それは監督、牧師も含めた教会の指導者のことであり、そういう人たちに対してどうあるべきかが教えられているのです。

Ⅰ.二重の尊敬(17-18)

まず17節と18節をご覧ください。17節には、「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」とあります。

よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとあります。みことばと教えのためにほねをおっている長老は、特にそうです。なぜなら、みことばの教えによって私たちの信仰生活が決まるからです。教会において最も重要なことは、このみことばと教えることです。このみことばと教えにほねをおり、よく指導の任に当たっている長老は、尊敬に値する者であり、二重に尊敬を受けるにふさわしいのです。

ある人たちは、クリスチャンは「万人祭司」だから、牧師だけが特別なのではない、言います。勿論、そうです。教会は牧師の教会ではなく、神の教会であり、そこに集められた人たちのものです。ですから神は、その教会を建て上げるために、それぞれ御霊の賜物を与えてくださったのです。しかし、それは皆が同じということではありません。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、またある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられていますが、ある人には預言の賜物、教える賜物が与えられているのです。こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの身たけにまで達するためです。それが、神が教会に与えてくださった秩序です。その秩序に従って、それぞれが慎み深い考え方をしなければなりません。それなのに、あのモーセに逆らったコラたちのように、「全会衆残らず聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」(民数記16:3)「分を越えている。」(同)と言うことがあるとしたら、そこに神のさばきがあるのは当然です。ですから、よく指導の任に当たっている長老は、二重の尊敬を受けるにふさわしいのです。

では、「二重に尊敬を受ける」とはどういうことでしょうか。新共同訳聖書ではこれを、「二倍の報酬を受けるにふさわしい」と訳しています。また、バークレーという聖書注解者も「二倍の給与」を意味すると考えていますがそういうことでしょうか?これは二倍の給与を受けるべきだということではありません。十分な尊敬と十分な報酬を受けるにふさわしいという意味です。態度においても尊敬すべきですが、報酬の面でも十分受けられるようにすべきであるということです。なぜそのように言えるのかというと、18節にこうあるからです。

「18聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。」

「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」ということばは、旧約聖書の申命記25章4節からの引用です。「くつこ」というのは牛や馬の口にかぶせるかごのことです。牛や馬は収穫した穀物を食べる習性があるため、それを食べないように口にかごを掛けておいたのですが、そういうことはするなというのです。なぜでしょうか?牛や馬が働いてくれたお陰で田畑を耕せたり、穀物をこなしたりできたわけです。穀物をこなすとは、穀物を粉(こな)にするという意味で、製粉作業のことです。そのように働いてくれた牛に食べさせないようにするなんてとんでもない。そうした牛や馬がちゃんと食べられるように食べ物を与えるべきだというのです。それは長老も牧師も同じです。牧師は牛なんです。牧師は教会のために霊の穀物であるみことばをこなします。その牧師の口にくつこをかけてはいけないのです。生活のことで心配せずみことばの奉仕に専念できるように支えていかなければならないというのです。

それから、その後の「働き手が報酬を受けることは当然である」ということばですが、これはイエス様ご自身のことば(マタイ10:10,ルカ10:7)ですが、主のために労している働き人が、そこから報酬を受けることは当然のことであるということです。

それは、古代イスラエルにおいてもそうでした。神はイスラエル12部族の中からレビ族を取り、彼らがフルタイムで神に仕えるようにさせました。その彼らの生活はどのようにして支えられたかというと、イスラエル12部族からそれぞれ1/10を受け取って、それを彼らの生活の支えとしたのです。ということは、レビ人は他の部族よりも多く受けていたということです。彼らは約束の地で相続地を受けなかったので、その分このような形で報酬を得ていたのです。そのようにして彼らは、フルタイムで神に仕えることができました。主イエスはご自身を中心とする新しいイスラエル、神の教会においてもその原則が適用されると言われたのです。

それは、パウロも何回も言及してきたことです。ここでもそうですが、たとえば、Ⅰコリント9章14節には、「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます」とあります。

パウロは、神に仕える者がその働きの中から生活の支えを受けることは決して悪いことではなく、むしろそうすべきだと言ったのです。ただパウロはそうしませんでした。彼は天幕作りをしながら福音を宣べ伝えたのです。いわゆる自給伝道です。なぜでしょうか。彼はそのようにする権利があったし、そうしても良かったのですが、あえてそのようにはしませんでした。それは、教会に負担をかけないようにするためでした。彼は開拓伝道者でしたから、始まったばかりの教会にそこまで要求したらどうなるかということをよく知っていたのです。それは教会にとって負担となり、伝道の足かせになってしまうと思いました。そのようにならないために彼は、労苦して仕えたのです。

もう一つの理由は、教会に誤解を与えないためでした。パウロの時代には偽教師たちが横行していて、彼らは教会からお金をだまし取るようなことをしていました。その偽教師たちと同じように見られないために、あえてそのような教会からは一切お金を受け取らないようにしたのです。たとえばコリントの教会からは一切報酬を受け取りませんでした。なぜなら、コリントの教会の中にパウロは使途ではないとか非難する者たちがいたからです。そういう教会からは謝儀を受け取ったらどういうことになるでしょう。また別の誤解を生むことになってしまいます。ですから、そういう誤解を受けないために、報酬を一切受け取らず、身を粉にして働いたのです。しかし、それは当たり前のことでありません。例外的なことです。働き手が報酬を受けることは当然のことなのです。

日本では教職者がお金のことを口にするのは汚いと考える人が少なくありません。神に仕える者は質素に生きるべきで、衣服があれば十分だというのです。でもそういう考え方は本来の聖書の教えではありません。勿論、牧師が豊かでなければ証にならないと報酬を要求するのも間違っていますし、必ずしも余裕のない教会では、パウロのように牧師が天幕作りをしながら伝道する場合もありますが、それが当たり前ではないということです。最初のうちは小さくて牧師を十分にサポートすることができないこともあるでしょうが、いつまでもそれに甘んじているのではなく、やがて牧師が生活のことで心配することなく、牧会に専念することができるように十分配慮すべきなのです。それは教会にとっても大きな恵みと祝福につながるからです。そのようにして、みことばと教えにほねをおる人がいてこそ教会は霊的に養われ、健全に成長していくことができるのです。

Ⅱ.長老に対する訴え(19-21)

次に19節から21節までをご覧ください。長老に対する接し方の第二のことは、長老に対して何か訴えがある時にはどうしたらよいかということです。

「19 長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。20 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。21 私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行いなさい。」

まず長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。なぜでしょうか。教会の指導者に対する悪いうわさは、教会に大きなダメージを与えるからです。教会はキリストのからだですから、キリストご自身を傷つけてしまうことになるということです。牧師や長老に対する陰口、告げ口、うわさ話は、教会に大きな影響を及ぼすのです。ですから、牧師、長老に対する訴えは慎重でなければいけないのです。

牧師は人前に立つことが多い性質上、人からの非難を受けやすいのです。これはどの政治的な指導者も同じであり、避けることが難しいことです。イエス様でさえ非難されました。ルカ7章34節には、「人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言われたかと思うと、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まないでいると、「あれは悪霊につかれている」と言われたのです。食べても、食べなくても、非難されるのです。じゃ、どうすればいいの、という感じですが、イエス様の場合はひどいことに、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」とも言われたのです。(マルコ3:22)。「ベルゼブル」というのは「悪霊どものかしら」のことですが、悪霊にとりつかれているとまで言われたのです。本当にひどいことです。

なぜ教会の牧師、長老、指導者がそのように悪く言われるのでしょうか?ま、牧師にも問題があるのは確かですが、それ以上にというか、本当の原因は、サタンがそのように企てているからなんです。サタンは、どうしたら教会をつぶすことができるのかをよく知っているんです。そのためには教会の指導者を倒せばいいのです。教会の指導者が倒れたら、そのとたんに教会は簡単に倒れてしまいます。だからサタンは必死になって教会の指導者をつぶそうとするのです。そのためには指導者の悪口を言えばいいのです。だから訴えられたり、悪口を言われたりするのです。

「悪口を言う」ということばは3章11節にも出てきましたが、これはギリシャ語で「ディアボロス」と言って、実は悪魔のことを指す言葉です。ですから、悪口を言うということは悪魔的な罪なのですが、そういうことが平気で行われています。別に大した罪じゃないと、噂話が絶えないのです。でもそれはディアボロス、悪魔的な罪であって、神が忌み嫌われることなのです。

箴言26章20節には、次のような教えがあります。「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。」「陰口をたたく」とはうわさ話をするとか、悪口を言うということです。そのように陰口をたたく者がいなければ争いはやむのです。それはたきぎのようです。たき木があればもっと燃え上がります。だから、陰口をたたく人も問題ですが、それを聞く人も問題なのす。たきぎになってもっと盛り上がるか、たきぎにならないようにするかは、それを聞く人の態度で決まるのです。聞かなければ、火は小さくなってくすぶって消えます。たきぎがなければ火は消えるのです。ですから、一緒になって悪口を言ったり、陰口を言ったりしてサタンの企てに協力することがないように注意しましょう。

では、教会の牧師や長老に対する訴えはどのようにしてなされなければならないのでしょうか?ここには、ふたりか三人の証言がなければ、受理してはいけません、とあります。そのことはイエス様も教えられました。マタイの福音書18章15節から17節を見るとこうあります。

「15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」

これは牧師、長老に対する訴えだけでなく、すべての人に対する訴えも同じです。まずその人のところに行って、ふたりだけのところで責めます。もし相手が聞き入れたなら、あなたは兄弟を得たことになります。でも、もし聞き入れないなら、ほかにふたりか三人をいっしょに連れて行かなければなりません。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるからです。それでもなお聞き入れようとしないなら、教会に告げなければなりません。すなわち、すべての人の前で責めなければならないということです。それでも言うことを聞かないような時はどうしたらいいでしょうか。彼を異邦人か取税人のように扱いなさい、すなわち、教会から除名しなさいというのです。

いったいなぜそこまでしなければならないのでしょうか。それはほかの人をも恐れさせるためです。どういうことでしょうか?このことによってほかの人たちが、教会とは何かを知るためであるということです。教会は真理の柱また土台です。弱さに対してはこの上ない愛と寛容を示しますが、罪に対しては厳格な処置がとられるところであるということを、ほかの人たちが知るためにそうするのです。それは罪を犯した人をさばくためではなく救うためであり、教会をきよめるためでもあるのです。

21節には、このことを「おごそかに命じます。」とあります。パウロはこのことをテモテにおごそかに命じました。それはテモテが牧会していたエペソの教会の中にそういう人たちがいたからです。違った教えを説いたり、果てしのない空想話によって人々を惑わしている人たちがいたのです。いったいそのような人たちにどのように対処していったらよいのか?教会の長老だからといって大目にみるとか、見ないふりをするというようなことがあってはいけません。罪を犯している人がいれば、このようにして責めなければなりません。そして、その人が悔い改めたなら、あなたは兄弟を得たことになります。しかし、もし悔い改めないなら、他にふたりか三人によって確かめられ、ついにはすべての人の前で責めなければなりません。そうすることによって教会は聖さを保ち、世の光として、また地の塩としての役割を果たしていくことができるからなのです。

Ⅲ.軽々しく按手してはいけません(22-25)

第三に、では牧師、長老をどのように任命したらいいのでしょうか。そうです、牧師や長老には大きな責任が伴いますので、軽々しく按手してはいけません。22節から25節までをご覧ください。「22 また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。24 ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。25 同じように、良い行いは、だれの目にも明らかですが、そうでない場合でも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」

22節には、「だれにでも軽々しく按手をしてはいけません」とあります。「按手」とは、牧師や長老など、教会の働きをするのにふさわしいと認め、その人に権威を与えて祝福することです。これはこの文脈から判断すると、長老に対する按手と解釈するのがいいと思います。ほかに、罪を犯した者が信仰を回復し、再び教会の交わりの中に加える時にも按手をして祈ったこともありますが、ここでは牧師、長老のことについて語られていますので、彼らに対する按手のことと理解するのがいいと思います。それを軽々しく行ってはいけないというのです。なぜでしょうか?他人の罪にかかわりを持たないためです。へたに按手を授けると、按手を授けた人も罪にかかわりを持つことになってしまいます。牧師や長老に任命される人に罪があり、その人が按手を受ける時には隠れていてそのまま残っているようなことがあったとしたら、按手を授けた人もその責任を負うことになってしまうのです。ですから、按手をささげる時には、軽々しくささげてはいけないのです。

この「軽々しく」という言葉は、新共同訳聖書では「性急に」と訳しています。性急に、あわてて、軽率に授けてはなりません。むしろ、じっくりと、よく吟味して、時間をかけて、慎重に授けなければなりません。もしふさわしくない者がリーダーとして立てられるようなことがあれば、教会に葛藤が生じ、さらには分裂をもたらすことになってしまうからです。イエス様もご自分の12弟子を選ばれた時には、夜を徹して祈られました。長い間祈られたあとに弟子たちを選ばれたのです。えっ、と驚かれる方もおられるかもしれません。夜を徹して祈ったのに、あんな弟子たちを選ばれたんですか・・・と。でも、イエス様の選択は完全でした。あのような弟子たちだったからこそ、ご自分の救いの御業が達成したのですから。であれば、私たちも自分たちの指導者を選ぶ時にはよく祈って、慎重に選ばなければなりません。

最後に23節のことばを見て終わりたいと思います。ここには、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」とあります。ここにパウロは急にお酒の話が出てきています。テモテの胃腸のことを気にかけたパウロが、これからはあまり水ばかり飲まないで、胃のために、またたびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いるように・・・と。どういうことでしょうか?

どうもテモテは虚弱体質であったようです。ここに「胃のために」とありますから、テモテは胃腸を患っていたのでしょう。また、「たびたび起こる病気のためにも」とありますから、しょっちゅう体調を崩していたのかもしれませんね、詳細は不明ですが、若い牧会者のテモテにとってエペソ教会での伝道と牧会は相当のストレスがあったようで、心身共にまいっていたようです。多くの病気をいやし、死んだ人をもよみがえらせることができたパウロでも、このテモテの病気だけはいやすことができませんでした。そこでパウロはテモテに、これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を飲みなさい、と勧めたのです。

これは酒を飲めということではありません。健康のために少量のぶどう酒を飲みなさいと言っているのです。今であれば太田胃散とかキャベジン、養命酒といった薬がありますが、当時はそのような薬が無かったので、少量のぶどう酒を飲んで健康にも留意するようにと勧めたのです。

多くの学者は、この文脈の中でなぜパウロがこんなことを言ったのかわからないと言いますが、ここをずっと読んでくると、その意味がわかるような気がします。それは、時に教会の指導者にも不十分で弱いところを見つけることがあるかもしれませんが、神の家族としての教会は、温かい尊敬と愛の心をもって互いに接しなければならないということです。だれも完全な指導者はいません。最初からりっぱな信徒もいないのです。そうした中にあって私たちに求められていることは、それでも互いに温かい愛と尊敬をもって受け入れ合うということです。それは指導者に対してだけではありません。私たちは神の家族として、いつも互いにそうあるべきなのです。牧師も信徒も皆弱さを抱えています。でも、ここに書いてあるように互いに敬い、互いに愛し合うなら、教会はさながら天国のようなところになるでしょう。私たちが目指す教会はそのような教会ではないでしょうか。そのためにここに書かれてある聖書の原則から離れれることなく、牧師や長老といった教会の指導者に対して自分はどうあるべきなのかをもう一度吟味する必要があるのではないでしょうか。

Ⅰテモテ5章1-16節「教会は神の家族」

きょうは、Ⅰテモテ5章1節から16節のみことばから、「教会は神の家族」というタイトルでお話したいと思います。4章でパウロは、教会の奉仕者として、りっぱな奉仕者とはどのような者なのかについて語りましたが、この5章では、神の教会においてどのように仕えたらよいかについて語っています。パウロは、3章15節で教会は神の家、神の家族だと言いました。家族の中にはいろいろな人たちがいます。おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さん、息子たちや娘たち、そして孫たちもいます。教会は、いろいろなメンバーで構成されているわけです。その教会においていったいどのように仕えていったらいいのでしょうか。

Ⅰ.家族に対するように(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。

「年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。」

1節には「年寄をしかってはいけません」とあります。人間は年を取ると若い時のように活発に、あるは敏速に行動することができなくなります。そのため若い人は年寄りを見てイライラしたり、つらく当たってしまったりすることがありますが、そういうことがあってはならないというのです。「しかってはいけない」というのは、厳しく叱ってはいけないという意味です。年寄りでも失敗したり、過ちに陥ったりすることがありますが、そのような時でも叱ったり、厳しく咎めるようなことがあってはいけないのです。お年寄りが安心していられるような環境を整えることが大切です。

よく年をとると次の三つの思いに支配されると言われています。一つは過去の生活とその思い出です。それは成功や失敗、喜びや悲しみなどの喜怒哀楽が交差した複雑なもので、過去のことを思い出して一瞬喜んだかと思ったら、次の瞬間には悔しがったりといろいろな思いが突然湧いてきたりして、情緒的に不安定になることがあるのです。

二つ目は未来に関することです。これは死の恐れ、肉体が衰えていくことの不安と恐怖、そして天国の希望といった絡み合った思いです。

そして三つ目は現在の状態に対する思いです。これは退職しての無力感、孤独などから来る気持ちです。このような気持ちは元気でバリバリ働いている人にはなかなか理解できないことですが、そうした複雑な心情にあることを理解し、自分のペースをお年寄りに押し付けたりして、つらくあたるようなことがあってはならないのです。

レビ記19章32節にはこうあります。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしはである。」老人を敬うことは神を恐れることでもあり、旧約の昔から教えられてきた真理なのです。

では、こうしたお年寄りにはどのように接したらいいのでしょうか。ここには、「むしろ、父親に対するように勧めなさい。」とか、「年をとった婦人たちには母親に対するように、勧めなさい」とあります。父親に対するように、また、母親に対するように勧めなければなりません。父親に対するように勧めるとか、母親に対するように勧めるとはどういうことでしょうか。十戒には、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト20:12)とあります。ですから、父親に対するようにとか、母親に対するようにとは、尊敬をもって勧めるということです。それは、お年寄りのこれまでの人生経験と、その中から練り上げられてきた人格に対する尊敬の念を失わないことでもあるのです。

ところで、この「勧める」ということばはパラカレオーというギリシャ語ですが、これは、「そばにいて援助する」という意味があります。これは「助け主」(聖霊)を表す「パラクートス」ということばの語源となった言葉です。もし年をとった方が間違いを犯したり、過ちに陥いるようなことがあれば、そばにいて援助するようにして励まさなければならないのです。

次に、若い人たちにはどうあるべきでしょうか。ここには、若い人たちには兄弟に対するように、若い女性たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい、とあります。若い人たちの中には結構いい加減で自堕落な生活をしていたり、面倒ばかりかけるような人もいるかもしれませんが、兄弟に対するように切っても切れないような親しい間柄として勧めなければなりません。上から目線で「まったくなっていない」と吐き捨てるようにではなく、そばにいて助けるようにして支え、励ましてあげなければならないのです。

特に若い女たちには真に混じりけのない姉妹に対するようにとあります。これは4章12節にも使われていた言葉ですが、そこでは「純潔」と訳されています。つまり、下心のない純粋な心で、実の姉妹に対するように勧めなければならないということです。

3節をご覧ください。次に出てくるのは「やもめ」です。やもめとは未亡人のことです。何らかの理由で夫に先立たれた妻のことです。当時のやもめは、夫を失うことで生活の基盤を失いました。今日のような社会保障制度がなかったので、文字通り、大黒柱を失うと生活の柱を失ったわけです。そのようなやもめたちを援助するということは、教会にとってとても重要なことでした。いや、やもめに限らず、社会的弱者を助けることは、教会の務めでもありました。ヤコブの手紙1章27節にはこうあります。

「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」

神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。孤児ややもめが困っているときに世話をすることは、教会にとって大切な務めだったのです。

パウロは、そういうやもめに対しても「敬いなさい」と言っています。この敬うという言葉は単に尊敬するということ以上に、大切にすることも含まれています。彼らを大切にして、その必要に答えてあげるようにということです。テモテという名前は「神を敬う」という意味ですが、神を敬う人は神の家族を敬います。そして、神の家族の中でも、特に弱い者を敬うのです。

パウロは、教会はキリストのからだであると言いましたが、それはからだがどのようなものであるかをみればわかります。Ⅰコリント12章22~27節にはこうあります。

「22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官はことさらに良いかっこうになりますが、24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

教会はキリストのからだなのです。からだは、比較的弱いとみられる器官が、かえってなくてはならないものです。そのように劣ったところを尊ぶことによって、からだ全体の調和が図られるからです。ですから、そうした弱いと思われるような人を敬うことによって、教会全体の調和が保たれるのです。

しかし、やもめならだれでもいいというわけではありません。ここには、「ほんとうのやもめを敬いなさい」とあります。それは16節にあるように、教会に負担をかけないようにするためです。教会といってもすべての教会が、経済的に余裕があるわけではありません。貧しい教会もあります。そうした貧しい教会が孤児ややもめを援助していくためには、ほんとうに必要なやもめはだれかを見分ける必要があるのです。そうしたやもめにはたとえ教会が貧しくても、全体でサポートしていく必要があるのです。ではほんとうのやもめとはどのような人なのでしょうか。

Ⅱ.ほんとうのやもめ(4-10)

第一に、ほんとうのやもめとは肉親も身寄りもいない人です。4節をご覧ください。

「しかし、もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。」

そのやもめに子どもか孫がいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬い、親の恩に報いる習慣をつけさせるべきです。おじいちゃんやおばあちゃんのところに行くのはお年玉やおこずかいをねだる時だけであって、そうでないと寄り付かないというのではよくありません。それは神の家族の中ではふさわしいことではないのです。

この「恩に報いる習慣をつけさせなさい」という言葉は、2章11節にも使われていた言葉です。そこでは「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。」とあります。この「教えを受ける」ということばが「習慣をつけさせる」という言葉が同じ言葉なのです。つまり、子どもや孫に自分の親やおじいちゃん、おばあちゃんを尊敬し、その恩に報いるように教えることは大切なことであるということを教えなければならないということです。中には親を尊敬できないという人がいるかもしれません。自分のことをちゃんと育ててくれなかった、平気で見捨てられたということもあるかもしれません。でも、産んでくれたということは事実です。今、あなたがここにいるのは、あなたを生んでくれた親がいるからなのです。その親はうまくあなたを育てることができなかったかもしれません。間違いや失敗もたくさんしたことでしょう。彼らにも弱さがあったのは事実です。だからと言って恨み続けて「こんな親は親じゃない。」とか、「尊敬に値しない」んていうことがあるとしたら、それは神に喜ばれることではないのです。

8節には、「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」とあります。どんな親であっても自分の親を顧みないということがあれば、それは信仰を捨てていることと同じであって、不信者よりも悪いのです。「あなたの父と母を敬」(出エジプト20:12)ことは神に喜ばれることであり、神のみこころであるということを、子どもたちにしっかりと教え込まなければならないのです。

第二に、ほんとうのやもめは神に望みを置いている人です。5節と6節をご覧ください。

「ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげていますが、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。」

ほんとうのやもめは、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげています。つまり、信仰の生活を送っている人です。そのような人は、10節に「良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。」とあるように、良い行いによって認められていました。つまり、子どもをよく育て、旅人をもてなし、神の家族に仕え、困っている人がいれば助けていたのです。この人たちはいつも祈り、神と教会に仕えた人たちなのです。教会から何の謝礼も受け取らずに、教会のスタッフ同様、ただひたすら神に仕えた人たちなのです。そのような人たちを支えるのは、教会として当然のことではないでしょうか。

しかし、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。自堕落な生活をしているとは「快楽」と訳される言葉で、快楽のために生きているやもめのことです。そういうやもめは、生きてはいても死んだ者と同じだというのです。別にこれはやもめに限ったことではありません。自分の快楽のために生きている人は、自分の喜びと満足のために生きている人は、生きてはいても死んだ者と同じです。本来は年を重ねれば重ねるほど、信仰が長ければ長いほど、信者の模範となっていなければならないのに、自堕落な生活をしているとしたらもう目も当てられません。そういうやもめをサポートするようなことがあってはならないのです。

第三のことは、9節、やもめの名簿に載せるのは、六十歳以上の人で、ひとりの夫の妻であった人です。初代教会にはやもめに関する制度があって、生涯神に仕えると誓ったやもめには名簿に載せられました。そのような名簿に載せられたやもめに対して、教会はしっかりとサポートする義務があったのです。ではその名簿に載せる人はどのような人なのでしょうか。ここには、六十歳未満の人でなく、ひとりの夫の妻であった人で、良い行いによって認められていた人」とあります。当時は六十歳でお年寄りの仲間入りとなりました。現代ではかなり寿命が伸びましたから六十歳でお年寄りなんて言ったら怒られます。「私はまだ若いです」なんて・・・。若いかどうかはともかくある程度の年齢に達していなければならなかったのです。なぜでしょうか。若いやもめは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。このことについては、この後のポイントで触れたいと思いますが、ここではもう一つのことが挙げられています。それは、「ひとりの夫の妻であった人」であるということです。これしどういう意味でしょうか。これは監督、執事の条件にもあげられていたことです。ここではそれと同じ言葉が使われています。すなわち、健全な結婚関係にあった人であるということです。当時は一夫多妻というのが当たり前の風習にあって、ひとりの夫の妻としてその務めを忠実に果たしてきたかどうかが問われました。

しばしば教会では生活に困窮している人がいれば無条件で援助すべきだと考える方もおられますが、聖書で言われていることは必ずしもそうではありません。ほんとうに親切にするということはそれを受ける相手がどういう人でも構わないということではなく、ここにあげられているような人でなければならないというのです。私たちは教会でいったいだれを援助しなければならないのかということを、もっと真剣に考えていかなければなりません。

Ⅲ.若いやもめは断りなさい(11-16)

第三に、11節から16節をご覧ください。

「若いやもめは断りなさい。というのは、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないことです。というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます。」

ここには、「若いやもめは断りなさい」とあります。なぜでしょうか。なぜなら、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。どういうことでしょうか。

古代教会における代表的な神学者たちの中にクリュソストモスとかテルトリアヌスといった人たちがいますが、彼らの記述によると、初代教会にはやもめに関する制度があって、生涯神に仕えるというやもめに規約を設けたり、教会の義務を課したりしていたようです。そして、やもめとして登録される者は、信仰をもって、生涯独身の約束をしなければならなかったのです。そのような誓約をした者は「やもめの衣装」を着用し、按手を受けたとされています。ですから、ここで言われているやもめとはただの未亡人のことではなかったのです。夫に先立たれ、その残された生涯を神のために仕えると誓約までしたのです。

しかし、若いやもめはそういうわけにはいきません。彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。この「キリストにそむいて情欲に引かれる」とは、彼女たちの情欲が、キリストへの献身を打ち負かしてという意味です。その若さのゆえに、その情欲と肉欲が、初めの誓い、初めの信仰を捨ててしまうことになるというのです。これは、くびきから逃れようとする若い雄牛のイメージです。昔、田畑を耕したのは、くびきによって結ばれた二頭の雄牛でした。ところが、そのうちの一頭がオレは嫌だとくびきから逃れようとするわけです。若いやもめも同じです。くびきから逃れて結婚したがるようになるのです。

結婚すること自体が悪いことではありません。問題はイエス様にすべてをささげますと誓ったにもかかわらず、その誓いを破って結婚することです。やもめになった以上は残りの生涯をあなたにささげますと、カトリックのシスターのように誓ったにもかかわらず、ちょっとでも優しい男性に出会ったりすると、ちょっとでも信仰的に尊敬できるような人に出会うと、すぐに結婚したがる。それが問題なのです。

結婚することはすばらしいことであり、神の祝福ですが、結婚がすべてではありません。何らかの理由で夫に先立たれてしまい、その残りの生涯を主にささげ、主に仕えることもすばらしいことなのです。なぜなら、結婚した男、女は、どうしたら相手に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれますが、独身の男、独身の女、夫を失った女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配ることができるからです。たとえ結婚したからと言って罪を犯すのではありません。でも、現在の危急の時には、そのままの状態にとどまるのがよいと思うと、パウロは勧めています。それは思う存分、主にお仕えすることができるからです。ですから、結婚することも良いことであり、そのままの状態、すなわち、独身のままでいることもすばらしいことです。大切なのは、自分の置かれた状況の中で、どのように主に仕えるかということです。もし若い女性が結婚して夫に先立たれ、未亡人になったとしたら、その後の生涯をどのようにすべきかをよく考えなければなりません。そして、もしその残りの生涯を主にささげますと言って誓うなら、それに背いてはならないということです。けれども、若いやもめは情欲に引かれるとすぐに結婚したがるので、そういう人を登録するのは断るようにと言われているのです。

そればかりではありません。彼らは怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話すようになるからです。これは初めの誓いを捨てた人のことです。夫が死んで、その残された生涯を主にささげますと誓ったのはいいものの、や~めた!と打算で結婚する人は、かえって時間をもて遊ぶようになり、家から家へと飛び回り、うわさ話やおせっかい話の花を咲かせ、おっと、話してはいけないことまで話すようになるのです。

だから、若いやもめに対しては、彼らが結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないようにすべきです。というのは、すでに、道を踏み外し、サタンのあとについて行った者があるからです。だから、若いうちはきちんと働いて、あるいは家庭の務めについて、落ち着いた生活をすることを心がけるべきなのです。

やもめだからといって、やみくもに援助することがあってはなりません。やもめの中でもほんとうのやもめを敬い、彼らを心から支えていくべきです。なぜなら、教会は神の家族だからです。

皆さんもご存じのように、先日南太平洋のバヌアツという小さな国が巨大サイクロンに襲われ大きな被害が出ました。実に国の70%の人たちの住宅が損壊し、避難所生活をしています。そこには私たちの友人で、ウィクリフ聖書翻訳協会から遣わされているGreg Carlsonという宣教師夫妻が住んでいますが、彼から現況の報告がありました。それによると、バヌアツの人たちにとって住宅よりも深刻な問題は食糧の問題です。彼らのほとんどは農業を営んで生活しているため、畑が被害に会うと収穫することができにいため、食べることができなくなるのです。これから種を植えても収穫するのは半年先のことです。幸いいろいろな国から食料が届いていますがどれもお米ばかりで、野菜などの食糧が不足しているとのことです。

私はこの報告を受けてどうすべきかと祈りましたが、神の答えは、ほんとうのやもめを敬いなさいということです。キリストのからだである神の教会に、そのような人たちがいるなら、私たちは敬うべきです。彼らの必要に少しでも答えられるように、できるだけのことをすべきではないでしょうか。ささげる額や量が問題なのではありません。大切なのは、神の御言葉に従い、それを実践することです。後ろにそのための献金箱を用意しておきましたので、志のある方はこのために祈ってささげていただきたいと思います。

 

数週間前に「アンビリーバボー」というテレビの番組で、中国の四川省から『2013年度の最も美しい隣人』として表彰された徐文建(シュ・ウェン・ジィェン)さんのことが紹介されていました。

1979年、中国四川省の小さな村に暮らしていたシュさんは、当時15歳でしたが、家が貧しく、豚のエサさえ買うお金さえもなかったので、毎日、街に出ては、エサとなる残飯を集めていました。

そんなある日、シュさんは一軒の食堂の前で目が奪われてしました。そこにおいしそうにワンタン麺を食べている人たちがいたからです。シュさんは、思わず立ち止まってしまいました。ワンタンのような肉の入った食べ物はとても貴重なもので、貧乏な者が払えるような金額では食べることができませんでした。

すると、そんな彼に声をかけてきた女性がいたのです。彼女は王子玉(ワン・ズーユー)さんと方で、当時60歳の方でした。「まだ、子供なのに残飯集めなんて大変だね」と、心を痛めたワンさんは、なんと彼にワンタン麺をご馳走してくれたのです。シュさんは、感謝の気持ちでいっぱいになりました。そして、自分はワンさんのような人間になりたいと思いました。

ところが、翌日、いつものように残飯集めをしていると、彼の前に荷物運びの仕事をするワンさんの姿がありました。しかも、後ろからリアカーを押していたのは、盲目の息子でした。さらに、彼女には、病気の夫もいて、自分と同じような貧しい境遇であった事を知るのです。それからも、ワンさんは、シュさんの事を何かと気にかけてくれました。

それから21年が経ち、少年だったシュさんも家族を持つようになりました。そして、大人になってからも頻繁にワンさんのもとを訪れては交流を続けていましたが、2002年、シュさんが38歳だったある日、ワンさんが不運にも夫と息子を亡くし、さらに、ワンさんが両足を骨折したため、敬老院に入居したという知らせを受けました。シュさんは、すぐに見舞いに行きました。敬老院と呼ばれる中国の老人ホームは公営のため、ほぼ無料で入居できましたが、ワンさんのように一人で入居した老人にとって最大の苦しみは孤独でした。このときワンさんは83歳になっていました。そこで、シュさんは、自身の母親や、妻、息子と相談し、ワンさんを自宅に引き取る事にしました。そして、実の母親のように尽くしたのです。血のつながりのない老人を引き取るなんて、何か見返りが欲しいのかと、回りの人からは理解されませんでしたが、彼女の唯一の財産は、拾った一本の竹の棒だけでした。彼はただ一杯のワンタン麺の恩返しがしたくてワンさんを引き取ったのです。

それから11年、2014年1月に王さんはこの世を去りました。95歳でした。生前ワンさんはシュさんに、「あなたは本当の息子ではありません。でも、本当の息子のように愛しています。どう恩返ししたらいいかわからないほどよくしてくれるあなたに、心から感謝しています。」と言っていました。

シュさんは、「最も美しい隣人」の授賞式でこう言いました。「隣人とは、ある意味、家族ではないでしょうか。彼女は若き日の私に対して、家族のように接してくれました。今も、私の心の中で生きています。」

私はこの「隣人とは家族ではないか」という言葉がとても強く心に響きました。教会は神の家族です。だから私たちは家族のように接することが求められているのです。教会にはいろいろな年齢、経歴、境遇の方がいらっしゃいますが、それがどのような人であっても家族のように接することが求められているのです。あなたは神の家族である教会の人たちを、どのように見ておられますか?教会は神の家族であるということをもう一度覚えながら、家族に対するように接していきたいと思います。

Ⅰテモテ4章7~16節「敬虔のための鍛錬」

先週は、世の終わりが近づくとどういうことが起こるかを学びました。世の終わりが近づくと、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。だから、そういうことがないように正しい聖書の教えを教えなければなりません。これらのことを教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者です。りっぱな奉仕者とは神のみことばを教える人、また、このみことばを教えることができるように整える人のことなのです。

きょうの箇所はその続きです。ここには、ただ教えるだけでなくそれを実行することの大切さが語られています。それが敬虔のための鍛錬です。鍛錬というのは訓練とか、トレーニングということですね。敬虔のための鍛錬、すなわち、神を敬い、神を恐れるといった霊的、信仰のための鍛錬ということです。

Ⅰ.敬虔のために鍛錬しなさい(7-11)

まず、7節から11節までをご覧ください。7節をお読みします。「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。」

「俗悪で愚にもつかぬ空想話」とは何でしょうか。新改訳聖書第二版では、「俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。」と訳されています。第三版では「年寄女がするような」という言葉が抜けています。詳訳聖書を見ると、ここは「俗悪な、汚れた、神を知らない作り話、つまらぬおばあちゃん話やばかげた神話を避けなさい。」となっています。やはり年寄女とか、つまらぬおばあちゃん話といった内容になっています。別におばあちゃんの話がつまらないという意味ではありません。おそらくこれは2章からの流れを受けて、「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」とありましたが、そうした人たちの教えを指しているのではないかと思われます。エペソの教会にはそういう年配の婦人たちがいて、違った教えを説いたり、果てしのない空想話に花を咲かせていたようです。彼らの話は神を知らない不敬虔な作り話でした。こくこくと話をするのはいいのですが、何を言っているのかさっぱりわからない。それはまるで空想話のようだったのです。そういう話を避けなさいというのです。

Ⅱテモテ4章を見ると、世の終わりになると、そういう話が蔓延するようになるとパウロは警告しています。4章1節から5節です。

「1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

世の終わりになると、空想話にそれていくようになるのです。自分に都合の良いことを言ってもらうために、自分の考えに合ったことを言ってもらうために、そういう教師たちを捜しては、教会を渡り歩くようになるというのです。「聖書はこう言っている」と言われるのが嫌で、自分たちに都合のいいことを言ってもらえる教師を捜し歩くのです。それでも見つからないと、じゃ、自分たちで教会を作っちゃおうと、そこにスピーカーを呼んで集会まで始めちゃうのです。家の教会だとか言って…。これは世の終わりのしるしです。自分に都合のいいことを言ってもらおうと、真理から耳をそむけ、空想話にそれていくようになっているからです。

もしかすると、これはエペソの教会に蔓延していた異教的な習慣に汚染された教えのことだったのかもしれません。エペソには豊穣の女神アルテミスを祭った神殿、アルテミスの神殿がありましたが、そうした異教的な教えによって神の教えが汚されていたということがあったのかもしれません。いずれにせよ、そうした俗悪で、愚にもつかぬ空想話を避けるように、そして、むしろ、敬虔のために自分を鍛錬するようにと命じたのです。

敬虔のために鍛錬するとはどういうことでしょうか。敬虔とは神を敬うということですが、言い換えると、信仰のため、霊的なことのためにということです。信仰のため、自分の霊のために鍛錬するようにと勧めたのです。なぜでしょうか。8節をご覧ください。8節にはこうあります。

「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」

皆さん、肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。もっと、もっと有益です。それは比べものにならないくらいの、計り知れない益をもたらすのです。

2015年2月10日、米国心臓病学会誌(Journal of the American College of Cardiology:JACC)で報告された、デンマークのコペンハーゲンの研究者らによると、「『軽い、適度』なジョギングが座りがちの生活や『過度』なジョギングをするよりも、長生きにつながる」という研究報告を発表しました。つまり週に2~3回、1回30分くらいのゆっくりとしたペースの軽いジョギングか、もしくは適度な運動をする人の死亡率が低いというのです。また、激しいジョギングをする人の死亡リスクと、長時間座りジョギングの習慣がない人の死亡リスクが変わらないという意外な結果も示されました。運動をすれば必ずしも長生きするとは限らないというのです。運動のしすぎはかえって体に良くないというのです。軽いジョギングが健康にはいいというわけです。

しかし、最期はだれでもみな死にます。どんなに適度な運動をしても、どんなに軽いジョギングしてもみな死ぬのです。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。それは肉体の鍛錬とは比較にならないほどの益をもたらすのです。体育よりも霊育の方がはるかに重要であり、有益なのです。フィトネスクラブもいいですが、霊的トレーニングジムこそ私たちが通うべきところなのです。勿論、肉体のトレーニングジムが不要だとか、フィットネスクラブが必要ないと言っているのではありません。私も男だけのフィットネスクラブがあれば、ぜひ参加したいと思っているのですが、今のところ、そういうものがないのが残念です。肉体的にも健康体でいることは大切なことです。ご老人になっても病気やけがをしないように、80歳になっても自分の歯で食べたい、生活習慣病にならないように、食生活には気を付けるなど注意しなければならないし、いろいろな努力もしなければなりませんが、それだけでなく、その先においても、次に来る世のことも考えなければならないのです。

有名な詩篇の90篇にはこうあります。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちは飛び去るのです。」(詩篇90:10)

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうした私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)

「自分の日をかぞえる」とは、自分に与えられている人生がどれほど短いものであるのかを悟り、そのいのちを握っておられるまことの神を信じて、神を恐れて生きるということです。つまり、敬虔のために自分を鍛錬するということなのです。

C.S.ルイスは、「永遠に続かないものはみな、役に立たないものである。」と言いました。言い換えるとそれは、永遠に続くものこそ価値があるということです。

皆さん、私たちは永遠に続かないもののために、あまりにも時間と労力を使いすぎてはいないでしょうか。肉体の鍛錬のために、今の生活をもっと向上させることのために、もっと老後を楽に過ごせるために、何一つ不自由のない生活をするために身を粉にして必死で働いても、敬虔のためにどれだけ鍛錬しているでしょうか。それ自体が悪いということではなく、それと同時に、いやそれ以上にやらなくてはならないことがあるということです。それはあなたに大きな益をもたらすものなのです。

9節をご覧ください。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに価することばです。」これはパウロの常套句です。1章15節でも使われています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」ここでも、「肉体の鍛錬もいくらか有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばであると言っているのです。皆さん「アーメン」でしょうか。それとも、首をかしげながら「う~ん」とうなりながら、「私にはちょっと受け入れがたいなぁ」と言うでしょうか。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばなのです。アーメンと言って、そのまま受け入れましょう。そして、聖書が教える未来のいのちを大切にしながら、天国に向かって進む者でありたいと願わされます。

10節をご覧ください。「私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」

なぜパウロはこのことをアーメンと言って受け入れているのでしょうか。それは、パウロはそのために労し、また苦心しているからです。「労し」というのは特に肉体的に労するという意味のことばであり、「苦心し」というのは、精神的に苦しむことを指しています。パウロが労し、また苦心しているのは、すべての人々のほんとうの救いであり、ほんとうの望みは、この救い主なる生ける神にあるからです。ここにこそ、真の希望なのです。

神が与えてくださった肉体をベストコンディションに保ち、整えることは大切なことでありますが、しかし、どんなに肉体を鍛えても人間のからだは年とともに衰えていくものです。しかし、ここに決して衰えることのないものがあります。それが神の救い、永遠のいのちなのです。この神の救いの中に主とともに生かしていただくのでなければ、たとえ五体満足であっても、肉体の健康など意味がありません。それはむなしいものにすぎないのです。敬虔のための鍛錬こそ、私たちに真のいのちと希望をもたらしてくれるものなのだということをわきまえ、このために生きる者でありたいと願わされます。

Ⅱ.信者の模範になりなさい(12-14)

第二のことは、信者の模範になりなさいということです。12節から14節までをご覧ください。12節には、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」とあります。

パウロは11節のところで、「これらのことを命じ、また教えなさい。」と言いました。命じること、教えることはだれにでもできることです。しかし、それを実行することは簡単なことではありません。しかし、本当に聖書を教えるということは、その教えたことを自らが実践して模範を示すことによってこそ説得力があるのです。イエス様は命じられたことを実践し、それを弟子たちの前に現して模範を示されました。たとえば、ヨハネの福音書13章には、イエス様が弟子たち一人一人の足を洗ったという出来事が記録されています。夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれて、弟子たちの足を洗い、その手ぬぐいでふかれたのです。いったいなぜそんなことをされたのでしょうか。それは模範を示すためです。イエス様は、自分がしたように彼らもまたするようにと、その模範を示されたのです。イエス様は単に神の御言葉を教えられただけではなく、それを実践されたのです。だから説得力があったのです。だからパウロはここでも同じようにテモテに、これらのことを命じまた教えるだけでなく、それを実践して模範を示すようにと言っているのです。それが、神の働き人が人々から尊敬と信頼を勝ち取る道でもあるからです。

ここには、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。」とあります。この時テモテが何歳くらいだったかは書いていないのでわかりませんが、長老たちがたくさんいたエペソの教会では、比較的若く、見られていたのでしょう。このような若い人が教会で霊的リーダーシップ(霊的権威)を持つということは並大抵のことではありません。こうしたものは人間的な資格や条件、あるいは身分や年齢によっては与えられるものではないからです。こうしたものは、御霊のみわざによってのみもたらされるのです。

ですから、パウロはここで、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにするために、「かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも信者の模範となりなさい。」と勧めているのです。それは生き方によって示されなければならないからです。しかもその生き方というのは、ある事柄においては模範的でも、ある事柄においてはそうではないということではなく、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも、すなわち、すべてのことにおいて信者の模範でなければならないのです。無理です!そんなことできるはずないじゃないですか。そうです、それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神は、弱い私たちをご自身と同じ姿に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。主は栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、私たち自身を主にゆだね、そのような模範となれるように助けてください!と謙虚に祈り求めましょう。そうすれば、主は必ずあなたを変えてくださるのです。

それからもう一つのことは、与えられた御霊の賜物を軽んじてはならないということです。13節と14節にはこうあります。「13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」どういうことでしょうか。

「聖書の朗読と勧めと教え」とは、聖書の教えのことです。それに専念しなさいというのです。なぜなら、それはテモテに与えられた神の御霊、聖霊の賜物だからです。その賜物を軽んじてはいけません。その与えられた賜物に従って、その与えられた務めに忠実に励むとき、そうした霊的リーダーシップも自然についてくるのです。こうした霊的な権威は年齢とか立場、あるいは、学歴や社会的な身分といったものによってもたらされるものではなく、ただ自分に与えられた使命に集中し、敬虔な生き方を実践することによってのみもたらされるものなのです。

旧約の預言者エレミヤも若くして選ばれました。彼は主から次のように言われました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)

「若い」ことが即、障害になるのではありません。むしろ、若いからこそできることもあるのです。若くてもキリストの大使になることができます。キリストの大使として神が遣わすどんな所へでも行き、神が命じるすべてのことを語らなければなりません。その与えられた務めを忠実に果たさなければならないのです。それは私たちを遣わしておられる方が、私たちの主なる神であられるからです。一国の大使は、たとえ年が若いからといってその権限や行動が左右されたり、制約されたりすることはありません。それと同じように、どんなに若くても神によって召され、神によって遣わされたのならば、その与えられた使命に集中し、それを忠実に果たしていかなければならないのです。そうすれば、年が若いからといって軽く見られることはないのです。

Ⅲ.これらの務めに心を砕き(15-16)

最後に、15節と16節をご覧ください。「15 これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。16 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」

ここには、神の働き人が自分自身にも、教えることにも、よく気を付けなければならない、その理由が記されてあります。それは、自分自身をも、また自分から教えを聞く人たちを救うことになるからです。どういうことでしょうか?もちろん、ここで言っている「救い」とは罪からの救いのことではありません。ここで言っている救いとは、4章1節に書かれている「惑わしの霊、悪霊の教え」からの救いのことです。そうでないと、こうした教えによって信仰から離れるようになってしまうからです。敵である悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら歩き回っています。ですから、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かわなければなりません。自分自身に気を付けて、また、自分が教えていることにも気を付けて、これらの務めに心を砕かなければならないのです。

「心を砕く」とは、直訳では「留意する」とか「考慮する」、「実行する」ということです。つまり、御言葉に関する務めを、よく祈り、よく考えて、ある時は喜びながら、またある時は悲しみや痛みを覚えながら、神のみこころにそった奉仕として全うしなさいということです。神の御言葉につかえる奉仕者は、「心を砕いて」これにあたらなければなりません。そうすれば、自分自身をも、またその教えを聞く人をも救うことになるのです。そのような人こそりっぱな奉仕者なのです。

クリスチャンはいつも二つの影響を受けながら生きています。一つは神からの影響で、もう一つはこの世からの影響です。神のくださる御言葉と恵みの中でクリスチャンは強められ、キリストの兵士としてりっぱに訓練されていきます。しかし、この世からも別の影響を受けています。この世の中で耳にし、学習する俗悪で愚にもつかない空想話から悪影響を受けることもあるのです。結局、クリスチャンの敬虔さはだれから多くの影響を受けるかによって決まるのです。もちろん、神からの影響を受ければ敬虔に生きることができますが、神は私たちに無理矢理影響を及ぼそうとはなさいません。私たちの意思によって敬虔に生きるようにと願っておられるのです。救いは神がくださるものですが、救われた後の敬虔は私たちが努力して身につけていかなければならないものなのです。

この作業は簡単なことではありませんが、この作業をし続けていくなら、必ずや自分自身を救うだけでなく、他の人を救うことになります。敬虔のための鍛錬こそ、今のいのちと未来のいのちにおいて有益なものであることを覚え、そのために労ししていく者でありたいと思います。

Ⅰテモテ4章1~6節「りっぱな奉仕者」

きょうは、Ⅰテモテ4章のみことばから「りっぱな奉仕者」というタイトルでお話したいと思います。1章では、教会が守るべきメッセージについて、2章と3章では、教会のメンバーとしてどうあるべきなのかについて語ってきたパウロは、4章においては、りっぱな奉仕者とはどのような奉仕者なのかについて語ります。「奉仕者」と訳されていることばは「ミニスター」で、一般には聖職者とか教役者、牧会者のことを指していますが、これはもともと「仕える者」のことで、主の働きに召されている人のことを指しています。そういう意味では、クリスチャンはみなミニストリーに召されているので、すべてのクリスチャンに対して語られていると言ってもいいでしょう。

Ⅰ.信仰から離れるようになる(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」とあります。

「しかし」というのは、3章16節で語られた内容を受けての「しかし」です。そこでは敬虔の奥義について語られていました。それは一言で言うなら、それはイエス・キリストの福音でした。最初から最後まで、徹頭徹尾イエス・キリストです。これがキリスト教です。キリスト教とはキリストです。キリスト教信仰とはキリストです。そして、私たちが宣べ伝えるべき内容はイエス・キリストであって、それ以外のメッセージはありません。これが敬虔の奥義であり、いくら強調しても、強調しすぎることはありません。「しかし」です。

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」

「御霊が明らかに言われるように」とは、御霊が書かれたこの聖書で明らかに言われているようにということです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。その聖書が繰り返し、繰り返し、後の時代になると、どういうことが起こるのかを告げています。それは、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えに心奪われて、信仰から離れるようになるということです。それはこのテモテへの手紙だけでなく、他のパウロの書簡でも、またヨハネの書簡でも、またペテロの書簡、ヤコブの書簡でも言及されていることです。聖書はすべて、神の霊感によるものなので、だれが書いても同じことを語っているのです。勿論、それはイエス様も語っておられることです。マタイの福音書24書を開いてみましょう。ここには世の終わりになると戦争があったり、ききんがあったり、いろいろな自然災害、天変地異が起こると言われていますが、その中で最も顕著なしるしは、これではないかと思います。12節です。

「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

「不法」というのは、神のみことばに反することです。神のみことばに反するので、多く人たちの愛は冷たくなります。これがパウロの言葉では、「信仰から離れる」と表現されているわけです。世の終わりになると、神のみことばに反するようなことを教えたり、また、反聖書的な神学、教理がはびこるので、多くの人たちの神に対する愛も、教会に対する愛も、兄弟姉妹たちに対する愛も、隣人に対する愛も、失われていくたましいに対する愛も冷めてしまうというのです。いったいなぜ神様に対する愛が冷めてしまうのでしょうか。それは不法がはびこるからです。聖書のことばに反するようなことを言ったり、教えたりするのからです。神のみことばから離れると、愛が冷えてくるのです。信仰から離れるようになるのです。「聖書なんて、そんなに熱心に学ばなくてもいいじゃないですか。」「教会にそんなに足しげく通う必要なんてないですよ。」「好きな時に行くだけで十分です。」「今はインターネットもありますから、いつでも好きな時に、好きなメッセージを聞けばいいんです」教会に対する愛も覚めてきます。これは世の終わりのしるしなんです。不法がはびこるので、多くの人たちの愛が冷たくなるのです。今はまさにそのような時代ではないでしょうか。刻一刻と世の終わりに近づいているのです。

この「信仰から離れるようになります」の「信仰」には定冠詞がついています。定冠詞というのは、英語で言うところの「The」です。その信仰です。その信仰とはどの信仰かというと、文脈を見ておわかりのように3章16節の信仰です。キリスト教信仰のことです。その信仰から離れるようになるのです。ただ不信仰に陥るとかということではありません。キリスト教信仰そのものから離れるようになるのです。これは救いから離れていくようになるということです。つまり、救いを失うようになるということなのです。ですから、この信仰から離れるというのは、非常に重いことです。ただ誤解がないように整理しておきたいと思いますが、クリスチャンが救いを失うことは決してありません。これはヨハネの福音書10章28節、29節のイエス様のことばを読めば明らかなことです。一度キリストに捕えられた者は、その救いを失うことは絶対にありません。ヨハネの福音書にはこうあります。

「28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

「永遠のいちの」とは言い換えると「救い」のことです。イエス様は彼らに救いを与えます。だれもイエスの御手の中から彼らを奪い去るようなことはありません。イエスばかりでなく、父なる神からもあなたを奪い去るようなことはできません。あなたはイエスと父なる神の両方の手によってしっかりとガードされ、守られているのです。だれもそこからあなたを奪い去ることはできないのです。これ以上安全なところはありません。救いは絶対保障、完全保障なのです。

他にも、ローマ書8章1節で、パウロはこう言っています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

言い換えれば、クリスチャンが、再び永遠の滅びに定められるようなことは絶対にないということです。キリスト・イエスのうちにあるならば、本当の意味でクリスチャンであるならば、地獄に行くようなことは絶対にないのです。その刑罰は、イエス・キリストが二千年前に十字架の上で肩代わりしてくださったからです。すべての贖いは完了済みなのです。

これは絶対に外せないところです。ある人たちはクリスチャンでも救いを失うことがあると言う人もいますが、それは違います。聖書が教えていることは、救いは絶対に失われることはないのです。これが聖書の教えです。

その一方で、同時に聖書はこうも言っているのです。ある人たちは、その信仰から離れるようになる・・・と。どういうことですか?ここでは離れることもあり得る、と言っているのです。ちょっと矛盾しているかのように感じるところですが、その違いをしっかりと区分けして解する必要があるかと思います。

こういうことです。クリスチャンは絶対に救いを失うことはありませんが、しかし、その一方でクリスチャンは救いから離れることがあり得るということです。それは、私たち人間がロボットように造られたからではないからです。私たちは自由意志を持つ者として造られました。自由意思を持つ者というのは、自由に神を賛美し、喜び、ほめたたえることができるということです。逆に言うなら、自由に神から離れることもできるということです。仮に私たちがもうキリストの手の中にはいたくない、神の手の中に収まりたくない、私は自由に生きたいと思うなら、神から離れることができるのです。その人は実際に離れることができるのです。神様は、無理矢理に私たちをご自身の手の中にとどめておくようなことはなさらないのです。私たちの意志をもって神を愛し、神をほめたたえ、神に従うことを望んでおられるのです。ですから私たちは、自分の自由な意思によって神を信じることも、信じないこともできるのです。自由意思によって天国に行くことも選べるし、地獄に行くことも選べるのです。

ただ私は、個人的に思うのは、もしそのように思う人があるとしたら、すなわち、信仰から離れたいと思うようなことがあるとしたら、その人は本当の意味で救われていなかったのではないかということです。本当に救われていたなら、あるいは、本当に神の恵みを味わっていたのなら、この神の愛から離れたいなんてだれも思わないからです。そう思うとしたら、最初から信じていなかったのではないかと思うのです。わかりません。ただ聖書が告げていることは、そういう事実があるということです。クリスチャンは救いを失うことはないし、その一方で、その救いから離れることもあるということを教えているのです。

ヘブル3章12節にもこう書いてあります。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」

「兄弟たち」とは、もちろん、クリスチャンたちのことです。ヘブル人クリスチャンたちに語っているのです。「あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」と。この「離れる」ということばはⅠテモテ4章1節で使われている「離れる」と全く同じ原語が使われています。気を付けるように。生ける神から離れるということがないように。こういうことがクリスチャンたちの間でもあり得るからです。そういう事実を事実として受け止めながら、そういうことがないように気を付けるようにと勧められているのです。

でも、仮にその人が信仰から離れることがあったとしても、それですべてがだめになってしまうわけではありません。そういう人でももう一度やり直すことができます。何度でもやり直すことができるのです。正しいキリストの福音を聞き、悔い改めて、イエスを救い主と信じればいいのです。そうすれば、救われるのです。

「私はただクリスチャンのふりをしていただけです。口先だけの信仰でした。心を込めて、意味がわかっていたわけではありません。何となく雰囲気に呑まれて、何となく人から勧められて、プレッシャーになって、感情的になって、人間的な思いでイエス様を信じますとは言ったけれど、よく考えてみたら、自分は全くイエス様のことがわかっていませんでした。救いについてわかりませんでした。イエス様と生きた関係もありませんでした。ごめんなさい。いま、あなたの救いかわかりました。私はいま、あなたを私の罪からの救い主として、私の人生の主として迎えます。どうか、あなたの喜ばれる者に変えてください。」

そう言って、イエス様を信じればいいのです。そうすれば、確かな救いを受けることができるのです。そう気づいたならば遅くはありません。もう一度やり直すことができるのです。もう一度真剣に神の前に自らの罪を悔い改め、そして神に立ち返って、イエス・キリストを信じればいいのです。やり直しはできるのです。ですから、仮に信仰から離れたとしても、もう一度信仰に戻ってくることができるのです。一度信仰から離れたらもう二度と救われないとか、そういういい加減なクリスチャンは救われないということはないのです。

このように、世の終わりになると、信仰から離れる人たちが起こることをパウロは警告しています。それは御霊が明らかに言われることなのです。だから、霊だからと言って、みな信じてはいけません。それが惑わしの霊や悪霊の教えによるものではないかどうか、みことばによって吟味しなければなりません。そして、惑わされることがないように、この信仰にしっかりととどまっていなければならないのです。

Ⅱ.うそつきどもの偽善(2-5)

では、悪魔はどのように惑わしてくるのでしょうか。次に2節から5節までをご覧ください。ここには惑わしの方法が記されてあります。

「2 それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、3 結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」

それは、うそつきどもの偽善によるものです。惑わす霊と悪霊の教えの特徴は、「偽り」にあります。悪魔は偽りの父であり、悪魔から真実を聞くことはありません。悪魔は偽教師を用いてそのわざを進めるのです。その偽教師について、ここでは二つの特徴があげられています。一つは、彼らの良心が麻痺しているということ、そしてもう一つのことは、彼らは禁欲主義的な傾向を持っているということです。

まず、良心が麻痺していることについてですが、この麻痺しているという言葉は、アイロンで自分のからだをやけどさせ、焦がしてしまい、ついには無感覚になってしまう状態のことを指しています。これが、良心が麻痺するという言葉です。パウロは、このテモテへの手紙の中で、「良心」という言葉をたくさん用いています。たとえば、1章5節では、「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」とあります。また、1章19節にも、「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」と言っています。この良心が麻痺してしまうほど、つまり罪の意識を感じないほどに、平気で嘘をつくのです。いくら聖書の御言葉に「こう書いてあります」と言っても、「それで」とか、「それがどうしたんですか」、「みんながやっていることじゃないですか」、「おかしいのはあなたです」なんて開き直ったりするのです。聖書の御言葉を聞いても良心が痛むことがありません。それが罪だということもわからないのです。

偽りの教師たちのもう一つの特徴は、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりすることです。これは律法主義、または禁欲主義と呼ばれるものです。これらはすべて惑わしの霊によるもの、悪霊の教えによるもの、または、パウロはこのⅠテモテの冒頭で「違った教えを説いたり」と言っていますが、本来のキリストの教えとは違った教えのことです。その背景にはグノーシス主義とか、ユダヤ主義といった異端がはびこっていました。グノーシス主義とは霊肉二元論で、「すべて肉体的、物質的なものは悪であり、霊的、精神的なものが善いものである」という教えです。したがって、結婚は肉体的なものですから悪いものとされ、結婚することを禁じたりしたのです。食べ物も物質的なものですから悪いものであると、食物を断つことを禁じたりしたのです。

ここからローマ・カトリック教会では、聖職者の独身性というものを強調するようになりました。司祭やシスターなど神に仕える者は聖くなければならないと、独身であることが求められたのです。独身でないと司祭になれません。結婚していると司祭にはなれないのです。それは肉であり、世俗的なことだからです。祭司やシスターなど神に仕える者たちはそうした世俗的なことから離れ、ただ神だけを求めなければならないし、それが聖いことだと考えられるようになったのです。

しかし、そこには一つの矛盾があります。というのは、このローマ・カトリック教会の最初の教皇であったペテロは、皮肉にも結婚していたことです。ローマ・カトリック教会では、初代法王をペテロにおいているのに、そのペテロは結婚していました。何という矛盾でしょうか。ですから、そうしたローマ・カトリック教会の教えの中にも、こうしたグノーシス主義の名残というか、そういう考え方が入り込んでいたのであって、それはもともとの聖書の教えではありません。聖書では、そもそも結婚を禁じてはいないのです。結婚は神の創造の初めに神が立てられた制度であり、それは祝福されたもの、聖なるものなのです。それを禁じるということは、まさに惑わす霊と悪霊の教えによるものなのです。勿論、だからと言って結婚しなければならないというものでもありません。結婚するのは神のためであり、しないのも神のためです。私たちは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光を現すためにするのです。したがって、結婚に関して言うならば、それはしてもいいし、しなくてもいい、ということです。それを禁じることは、聖書とは違った惑わす霊と悪霊の教えによるものになのです。

しばらく前に統一協会の合同結婚式が話題なりましたが、あれも問題です。確かに合同結婚式では結婚を禁じているわけではありませんが、教団の思惑でまだ一度も会ったことがない人が結婚させられるのですから・・。結婚を禁じているのではなく、無理やり結婚させるのも問題です。

それからもう一つの食物を断つことについでですが、ここにもユダヤ主義的な影響が強く見られます。ユダヤ主義というのは、クリスチャンになっても旧約聖書の律法を守らなければ救われないという教えです。その中心がこうした食べ物の規定であったわけです。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られたものです。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。それは、神のことばと祈り、すなわち、信仰によって感謝して受けるとき、すべては聖められるからです。それなのに、いったいなぜ食物を断たなければならないのでしょうか。もし、健康のために断つというのならわかります。食べ過ぎてメタボにならないように、少しどころか、かなりセーブしなければならない時もあるでしょう。あるいは、祈りのために一時的に断つというのもわかります。イエス様も、「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」(マタイ17:21)と言って、断食して祈ることの重要性を教えられました。しかし、それ以外に、食物を断たなければならない理由はありません。旧約聖書のレビ記にそう書いてあるではないですか?レビ記には数々の食物に関する規定が書かれてあるのは確かです。しかし、それは次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。コロサイ書2章16,17節をお開きください。ここに何と書いてありますか。こうあります。

「16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16-17)

皆さん、本体はキリストにあるのです。旧約聖書にある律法の規定は影にすぎません。その影を必至に追い求め、本体を見失うことがあるとしたら、それこそ本末転倒です。律法の目的であるキリストが、旧約聖書の目的であるキリストが何と言っておられるのかということが重要なことです。そのキリストが、神が造られた物はみな良い物で。感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません、と言っているのです。いいえ、これはパウロのことばであってキリストのことばではありませんと言う方がいらっしゃるかもしれませんが、パウロはキリストのことばをここで語っているのです。イエス様は、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7:15)と言われ、すべての食物をきよいとされました。それゆえ、食物を断つことを禁じてはいけないのです。もし禁じることがあるとしたらそれは聖書とは違った教えであり、惑わしの霊、悪霊の教えなのです。

キリスト教の異端とされているモルモン教では、食べ物について細かな規定があります。コーヒー、紅茶、緑茶など、カフェインの入っている飲み物は全部だめです。もちろん、アルコールもご法度です。それは不健康をもたらし、霊的にも聖くなることができないと考えているからです。また、モルモン教では通常、月の初めの日曜日が断食の日に設定されていて、2食を断つことが推奨されています。その断食によって節約されたお金で困っている人を助けるというのです。その目的自体はすばらしいものですが、それが個人の信仰によってではなく、教団の教えによって強いられてやっているとしたら問題です。なぜなら、聖書では、食物を断つことを禁じてはならないと命じられているからです。もしそのように命じることがあるとしたら、それは偽りの教え、惑わす霊と悪霊の教えによるものなのです。

私たちが義と認められるのはイエス・キリストを信じる信仰によってのみであって、その他のどんな宗教的な行為も、どんな行いも義とすることはできないのです。私たちを救い、私たちをご自身と同じ姿に変えてくれるのはキリストのみであって、それは御霊なる主の働きによるものなのです。私たちの行いによるのではありません。ですから、私たちはいつも「この信仰」から離れることがないように注意しなければならないのです。

Ⅲ.これらのことを教えるなら(6)

第三のことは、これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になることができるということです。6節をご覧ください。

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。」

「これらのこと」とは、1節から5節までのところでパウロが語ってきた内容のことです。すなわち、後の時代になるとどのようなことが起こるのか、そこには惑わす霊と悪霊の教えが蔓延するようになるのでそれをよく判別し、聖書が教えている正しい教えとはどのようなものなのかを教えるなら、ということです。これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはりっぱな奉仕者になることができるのです。よい奉仕者とは、これらのことをよく教える人です。その信仰から離れることがないように、イエス・キリストのことをよく教える奉仕者のことなのです。イエス・キリストのことはそっちのけで全く言及しないというのでは、りっぱな奉仕になることはできません。

なぜなら、信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばによって養われているからです。信仰のことばと、テモテが従って来た教えのことばとは同じものを指していますが、パウロはここでそれをあえて強調してこのように言っています。信仰から出てないことば、つまり、聖書に書かれていないようなことば、そして、テモテがこれまで聞いたこともないような奇抜な教えは、惑わしの霊、悪霊の教えによるものであって、そういう教えは退け、この聖書のことば、昔からずっと教えられてことば、すべての教会が伝統的に守ってきた教えにしっかりととどまるように、そのことによって信仰が養われていくからです。何かこの世で流行っているから、人々がもてはやしているからといったものに目移りして、そういったものに飛びついたりしてはいけないのです。古いと言われようと、時代遅れだと言われようと、時代錯誤だと言われようと、同性愛がいまどき罪だなんてアホじゃないかと言われようとも、それでも、この信仰のことば、テモテがずっと従ってきた聖書の御言葉に立ち、これを教えなければならないのです。それによって私たちの信仰が養われていくからです。それ以外は惑わしの霊によるものであって、信仰から離れていくようになるのです。愛が冷えて、自分を愛するようになり、神から離れるようになるのです。ですから、私たちはこれらのことを教えなければなりません。教えるとは思い起こさせるという言葉ですが、何度も何度も繰り返し、繰り返し語って、思い起こさせなければなりません。そのような奉仕者こそ良いミニスター、りっぱな奉仕者なのです。

このように見て来ると、教会の牧会者の務めが何であるかが見えてきます。それは、これらのことを教えることです。これが教会の牧会者にとって最も重要な務めなのです。日本ではどちらかというと、教会のこまごまとしたことから、事務的なこと、教会員のケア、食べ物も飲み物に関することまで何でもする牧師が良い牧師であるかのように思われがちですが、聖書で言うところの良いミニスターとそうではありません。

使徒の働き6章には、最初の教会に起こった問題を対処するために御霊と知恵に満ちた7人の執事が選ばれたことが記録されています。ギリシャ語を使うユダヤ人たちがヘブル語を使うユダヤ人たちに苦情を申し立てたのです。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給のことでなおざりにされていたからです。食べ物の恨みは恐ろしいのです。たかが食べ物のことで・・・と思うかもしれませんが、食べ物のこと、飲み物のことは以外と重要なのです。

しかし、12人の弟子たちがこうした問題に関わっていたら、彼らがしなければならない大切なことがなおざりにされてしまいます。そりは祈りとみことばです。それで初代教会は、彼らが祈りとみことばの奉仕に専念するために、彼らにこの問題7人の解決をゆだねたのでした。もし彼らがこれらのことに振り回されて最も重要な奉仕ができなくなってしまったら、それは教会にとって不幸なことなのです。

りっぱな奉仕者とは、祈りとみことばに専念し、これらのことを教える奉仕者です。私たちはいつもみことばから教えられ、惑わしの霊と悪霊との教えに心を奪われ、信仰から離れることがないように、みことばによって養われ、整えられていくことを求めていきたいと思います。

Ⅰテモテ3章14~16節「敬虔の奥義」

きょうは3章後半の箇所から、「敬虔の奥義」というタイトルでお話したいと思います。2章3章には、私たちはクリスチャンとしてどうあるべきなのかが語られてきました。まず、すべての人のために祈らなければなりません。なぜなら、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを願っておられるからです。また、男は怒ったり、言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければなりません。女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなければなりません。なぜなら、アダムが最初に造られ、次にエバが造られたからです。それが創造の秩序なのです。では監督はどうですか、執事はどうでしょう。どのような人が監督として、執事としてふさわしいのでしょうか。その資格について述べられてきました。 きょうのところはその続きですが、続きというよりも、そもそもと教会とは何なんですかという本質的なことが語られます。それが「敬虔の奥義」です。きょうはこの敬虔の奥義について三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.教会は神の家(14-15a)

まず14節と15節の前半をご覧ください。

「14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。15 それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」

この手紙は使徒パウロから弟子のテモテに宛てて書かれた手紙ですが、いったいなぜパウロは手紙を書き送ったのでしょうか。遅ればせながらここにその理由が述べられています。それは、パウロがテモテのもとに行くのが遅くなっても、テモテが教会でどのように行動すべきなのかを知らせるためです。使徒として、先輩として、そして同労者として、若い牧会者テモテが苦闘しているのを見て放っておけなかったのでしょう。ここにパウロの弟子に対する温かさや思いやりを見ることができます。

ところで、パウロはここで教会についてきわめて重大なことを言っています。それは、教会は神の家であるということです。皆さん、教会は神の家です。教会が神の家であるとはどういうことでしょうか?

この「神の家」の「家」という言葉は「オイコス」というギリシャ語ですが、これは3章4節と5節にも出てきます。そこでは「家庭」と訳されています。皆さん、家庭というとどういうイメージがありますか?どちらかというと家族が住む場所とか空間といったイメージがあるかと思いますが、3章4,5節で使われている「家庭」という言葉は、どちらかというと家族に近い言葉です。それを構成しているメンバーたちのことです。英語の聖書では「Household」と訳されています。Householdとは、雇人も含めて一軒の家に住んでいる家族のことです。ですから、どちらかというと建物としての家よりも、それも含めたそこに住んでいる人たち、家族のことを指しているのです。ここでは自分の家と神の家が比較されているのです。自分自身の家庭をよく治めることを知らない人が、どうして神の家である教会の世話をすることができるでしょうか、と言われているのです。この場合の家とか、家庭は、そこに住んでいる人たち、家族のことを指しているのです。

ですから、神の家とは神の家族のことです。教会は神の家、神の家族なんです。神によって集められた者たちの群れ、共同体であります。エペソ2章19節にはこうあります。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」

私たちは、かつてはキリストから離れ、この世にあって望みもなく、神もない人たちでしたが、そのように遠く離れていた私たちも、イエス・キリストの血によって、イエス・キリストを信じて、キリストの中にあることによって一つにされました。同じ国民とされたのです。神の国民、神の家族です。ですから、教会は、その神の家族なのです。

皆さん、なぜ私たちは教会を大切にするのでしょうか。それは、教会は神の家、神の家族だからです。教会は牧師の家でもなければ、この世の会社とも違います。もし会社であれば社員が辞めても代わりの人材を見つけて補充すれば済むかもしれませんが、家族はそういうわけにはいきません。家族の代わりになる人はいないのです。あなたの代わりになる人はいないのです。家族とは私たちのいのちそのもの、生活そのものです。家族がいなければ、私たちの生活は成り立ちません。家族はそれほど重要なものなのです。そして、教会はその神の家族なのです。

Ⅱ.教会は真理の柱また土台(15b)

そればかりではありません。15節の後半の部分を見てください。ここには、「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」とあります。

ここには、教会はただ神の家族というだけでなく、生ける神の家族であり、真理の柱また土台です、とあります。どういうことでしょうか。「生ける神」というのは「死んだ神」「死んだ偶像」に対して使われる言葉です。まことの神が生きているのに対して、偶像は死んだものです。

この時パウロはエペソで牧会していたテモテにこの手紙を書き送りました。エペソには何がありましたか。エペソには偉大なアルテミスの神殿がありました。この神殿は現在では原形をとどめていませんが、当時は世界の七不思議にかぞえられていて、長さが115メートル、幅55メートル、高さは18メートルもあり、それが117本の柱で支えられており、総大理石で作られていたといました。それは紀元前7世紀に建てはじめて200年かけてやっと完成したほど立派な神殿です。そして奥には高さ15メートルのアルテミスの女神が祭られていたのです。それは木でできていましたが、顔と手足の先以外は黄金と宝石で飾られていました。エペソの町は、この偉大なアルテミスが祭られた神殿を中心に生活が営まれていたのです。

しかし、それがどんなに壮大なものであっても、ただの木や石でできたものにすぎません。そこにいのちがあるわけでもなく、また人にいのちを与えることができるわけでもないのです。それはただの偶像であり、死んだ神にすぎません。しかし、神の家である教会におられる方は違います。教会におられる方は生ける神であり、今も生きて働いておられる方です。この方は偶像の神々と違って、神を信じる者にいのちを与えることができる方です。ですから教会は「生ける神の教会」と言われているのです。

そればかりではありません。ここには、「その教会は、真理の柱また土台です。」とあります。どういうことでしょうか。教会とは神に召し出された物たちの群れであり、集まりですが、そこに集っている人たちを見ると、必ずしも優れている人たちというわけではありません。ただ罪赦された罪人、聖なる罪人であるにすぎません。そのような者が真理の柱とか、土台であるなんてとても言えるようなものではありません。ですから、多くの人たちはこれを、教会がイエス・キリストという真理の柱によって支えられ、イエス・キリストという真理の土台の上に建てられていると解釈するのですが、そうではないのです。教会が真理の柱、また土台だと言うのです。それはこの新改訳聖書だけなく口語訳聖書も、新共同訳聖書も、その他英語のすべての訳も同じように訳しているのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

このことを理解するために、柱とか土台の役割について考えてみたいと思うのです。いったい柱は何のためにあり、土台は何のためにいるのでしょうか。もちろん、支えるためです。建物全体を支えるためにしっかりし土台と柱で支えるわけです。しかし、それだけではないのです。柱とか土台というのは建物の重要な「支え」であると同時に、場所によっては一種の飾りとしての効果もあるのです。日本式の家屋では「床柱」といって、床の間を黒檀やヒノキといった特別な木材が使われるのはそのためです。私が福島で会堂建設に携わったとき、礼拝堂の入り口を出たとても目立つところに3本の柱が立っているのですが、いったい何ために立っているのかわからなかったので、あるとき設計士に聞いたことがあります。「この柱は何のためにあるんですか」するとその設計士が言いました。「デザインです」かつて小さな会堂で礼拝をしていたとき真ん中に1本の柱が立っていて邪魔だったのですがどうしてもそれを取ることができず、柱に対してはあまりいい思いがありませんでした。できればスパッと取り払いたい気分なのですが、デザインというとても重要な働きがあることがわかったのです。

先ほど、エペソにあったアルテミスの神殿についてお話しましたが、パウロがこのように表現しているのは、おそらくこのアルテミス神殿の柱と土台を念頭に置いていたのではないかと考えられます。その場合の柱とは、確かに神殿全体を支えるという役割もありましたが、それ以上に豪華な装飾の方にウェイトが置かれていました。また、土台についても同様です。それは総大理石が使われていましたが、それがどれほど豪華であったかを想像するのは難しいことではないと思います。

このようなことを念頭において、この世界との関係においてこの地上の教会を見る時、それはまことにみすぼらしいかのように見えるかもしれませんが、教会は神の真理の見せ場、つまりあかしの場でもあるのです。そして、その神の真理が崩されないように守っているところでもあります。そういう意味で教会は真理の柱であり土台なのです。そこには生ける神が働いておられるところだからです。これは決して教会が間違いのない完全な組織であるということではありません。確かに目に見える教会は、組織的にも能力的にもいろいろに弱さがあり欠陥があります。しかし、だからといってその教会が「真の普遍的な教会、キリストのからだとしての教会であることが否定されるわけではないし、真理そのものが否定されるわけでもないのです。確かに私たちは不完全な存在ですが、しかし私たちは、この不完全な器の中に神の真理である福音を入れているのです。このことはⅡコリント4章7節をみるとわかります。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

「この宝」とはイエス・キリストのことであり、その救いのみことば、福音のことです。私たちはこの宝を土の器の中ら入れているのです。皆さん、土の器をご存じでしょう。もし誤って落としてしまったらすぐに割れてしまうほど弱いものです。神は鉄の器、金の器のような強くて完全な器ではなく土の器のような弱い私たちにこの宝を入れてくださったのは、それはこの測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためなのです。だから、教会ってすごい所なんですよね。それがどんなに小さな群れであっても、今にも倒れそうな貧弱な建物であっても、その中にこの宝を入れているのですから。

この地上では、「教会」以外に実際的に、また正しくキリスト教の真理を現し、支え、守っているところはありません。だからこそエペソの教会も、数々の問題を抱えていても、異端的な教えや信仰から脱線することから何としても守られなければならなかたのです。それはまた今日の私たちの教会も同じです。私たちは、自分たちが所属している教会に与えられたこの重大な使命を心に留め、しっかりした教会生活を送らなければなりません。たとえそれがささやかな群れであっても、それは神の摂理によって立てられた教会なのであるということを覚え、共に真理を守り、これをあかししていきたいと思うのです。

Ⅲ.敬虔の奥義(16)

 

では、その真理とは何でしょうか。そこでパウロは、この真理の内容を「この敬虔の奥義」ということばでまとめて言及しています。16節をご覧ください。

「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

「奥義」とは原語で「ムステーリオン」という言葉で、隠されていたものが、ある時ベールが上げられて明らかにされるという意味です。この言葉から英語の「ミステリー」ということばが派生しました。隠された真理が明らかにされることです。ですから偉大なのはこの敬虔の奥義なのです。そしてその内容は、16節の中の「」にまとめられています。

「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

これは初代教会で歌われていた賛美歌の一部だったと考えられています。パウロは、当時よく知られていた賛美歌を引用して、真理とは何かをここで説明しているのです。その内容は、イエス・キリストの生涯全体にわたる事実で、次の六つのことです。

第一に、キリストは肉において現れたということです。キリストが肉において現れたとはどういうことでしょうか。それはイエス・キリストの受肉を現しています。ヨハネの福音書1章1~3節、それと14節、そして18節を開いてください。

「1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

「14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

「ことば」とはイエス様のことです。イエス様は二千年前に、聖霊によって処女マリヤから生まれましたが、その時に存在したのではありません。そのずっと前から、いや永遠の昔から神とともに存在しておられました。この方は神の子であられたのです。その方が肉体の姿を取って天から降りて来られました。この方が救い主イエス・キリストです。それは、いまだかつてだれも神を見た者はいないので、その神がどのような方であるのかを説き明かされるためでした。キリストは永遠に神とともにおられた神なので、それを解き明かすことがおできになられたのです

次は「霊において義と宣言され」という言葉です。これは、キリストが罪のない方であるということが聖霊によって宣言されたということです。キリストはいつそのように宣言されたのでしょうか。マタイの福音書3章16,17節には、イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に下られるのをご覧になったとあります。そしてその時、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)

また、キリストは死人の中から復活したことによって義なる方であることが証明されました。「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:4)

イエス様が死んだままであったなら、彼が救い主であるはずはなかったわけですが、イエスは死んで復活してくださいました。それによってこの方が大能の御子として、義なる方として公に示されたのです。

そして次は、「御使いたちに見られ」です。何ですか、「御使いたちに見られ」とは?「御使いたちによって見られ」というのは、キリストの存在は単に人々によって注目されたというだけでなく、天的な存在である御使いたちによっても注目されたということです。キリストはいつ御使いたちに見られたでしょうか。たとえば、キリストが生まれたとき、彼は御使いたちに見られました。羊飼いたちが荒野で野宿していたとき、そこに御使いたちが現れ、神を賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)。

また、イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられた時も、御使いたちが近づいてきてイエスに仕えたとあります(マタイ4:11)。また、イエス様がゲッセマネの園で祈られた時もそうです。あるいは死人の中から復活した時も・・・。イエス様の生涯のすべは御使いたちにも見られたのです。

そして、キリストは諸国民の間に宣べ伝えられました。神の国の福音はユダヤ人のみならず、神からは遠く離れた異邦人にも宣べ伝えられました。それによってキリストは全世界の救い主であることを示されたのです。

また、世界中で信じられました。この手紙を書いたパウロもその一人です。彼は、以前はクリスチャンたちを迫害する者でしたが、復活のキリストが彼に現れてくださって、彼はこの福音を世界中に宣べ伝える使徒になりました。この福音は、世界中で信じられるようになったのです。

そして彼は、「栄光のうちにあげられ」ました。キリストは栄光のうちにあげられました。この中にはもちろん十字架と復活という救いの御業も含まれています。イエスの十字架は神の栄光でした。イエスの復活も神の栄光でした。イエス様は十字架と復活という救いの御業を成し遂げて、栄光のうちに天に上られたのです。キリストは死んで終わりではありませんでした。死んでよみがえられました。よみがえられて、天に上って行かれたのです。それは、私たちのために場所を備えるためです。場所を備えたら再び戻って来て、そこに私たちクリスチャンを、花嫁である教会を迎えてくださいます。私たちも死んでも終わりではありません。やがてよみがえり朽ちることのないからだ、栄光のからだに変えられて、天に上げられるのです。そこで、いつまでも主とともにいるようになるのです。

これが敬虔の奥義です。これが、私たちが信じている信仰の内容なのです。これが、教会が守るべき真理の内容です。その内容とは何かというと「イエス・キリスト」です。キリスト教の信仰とはイエス・キリストなのです。イエス・キリスト、これが敬虔の奥義であり、私たちの信仰そのものです。

これは隠されていることではなく、すでに明らかにされました。イエス・キリストとはどのような方なのか、どうしたら救われるのか、その真理が明らかにされたのです。聖書はそれを私たちにはっきりと示しています。この聖書の教えからズレではいけません。この真理からずれたら、そこには救いはないからです。このイエス・キリストを信じる者は、だれでも救われます。もしあなたが真理を求めているなら、イエス・キリストの許に行ってください。そうすれば、救われます。もしあなたが信仰の祝福を力を求めているならイエスの許に行ってください。そうすれば、あなたは力を受けます。すべては私たちのために死んでよみがえってくださったキリスト・イエスによるのだということを忘れないでいただきたいのです。これは私たちの理解をはるかに越えたことですが、これが真理なのです。確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。神がこの奥義を明らかにしてくださいました。そして、その中心がイエス・キリストなのです。私たちの信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでください。

教会はこのキリスト教の真理を明らかにしているところです。またその真理を守り支えるところでもあります。その教会の中に私たちもまた入れられました。それは、神は教会を通してご自分の働きをなさいたいからです。どこかのお店を通してではないのです。学校を通してでもありません。病院やどこかの会社でもない。神は教会を通してご自身の働きをなさろうとしておられるのです。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

神はこの教会を私たちにお与えになりました。それは私たちが教会を通して神の御業を行うためです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて、真理を知るようになることです。すべての人が救われることを願っておられるのです。どのようにして救われるのでしょうか。教会を通してです。あなたを通してです。教会を通して神は、救われる人たちをご自身のところに引き寄せたいと願っておられるのです。であれば、そのために必要なことは何でしょうか。それは教会が、私たち一人一人がこの真理の上にしっかりと立っていることです。この真理から離れては救いはないからです。真理の柱、また土台である教会、生ける神の教会を通して、キリストにしっかりとどまっていなければならないのです。そのために神はこの奥義を明らかにしてくださったのです。私たち一人一人をみたらまことに貧弱な者ですが、神はこのような器にキリストという真理をお与えになられたということを覚え、私たちはこの真理を守り、証していく者でありたいと思います。真理の柱、まだ土台としての役割を果たしていきたいと思います。

Ⅰテモテ3章1~13「監督、執事にふさわしい人」

きょうは、Ⅰテモテ3章から「監督、執事にふさわしい人」というタイトルでお話します。1章で語ったことを受けてパウロは、教会においてクリスチャンはどうあるべきなのかを、2章から述べています。まず初めに、すべての人のために祈りなさい、ということでした。なぜなら、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして次にパウロは、男女の役割について教えました。男は怒ったり言い争ったりすることなく、きよい手をあげて祈るように、また、女はつつましい身なりで、静かにしているようにということでした。

その流れの中できょうのところでは、教会を治める人たちについて語られます。監督、長老、牧師、執事にふさしい人はどのような人であるかということです。それは、教会の秩序が保たれるために最も重要なポイントだと言えるでしょう。しかし、それは教会のリーダーだけに求められていることではなく、私たちクリスチャンすべてに求められていることでもあります。なぜなら、神は私たちすべてのクリスチャンがそのような働きをすることを願っておられるからです。これはすべてのクリスチャンに対する神のみこころであり、とりわけ、教会のリーダーたちに求められていることなのです。

Ⅰ.監督にふさわしい人(1-7)

それではまず、1節から7節までをご覧ください。1節をお読みします。

「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。」

「監督」とは文字通り「監督をする」という意味で、教会の監督をする人のことです。教会の牧師、教師、長老、伝道者など、教会の指導をする人たちのことです。いわば神の家の管理者のことです。どの集まりや組織にもその群れ全体をまとめるリーダーの存在がありますが、それが立つか倒れるかはほとんどの場合そのリーダーの腕にかかっていると言っても過言ではありません。ですから、それだけ責任が重いのです。しかし、ここには、「それはすばらしい仕事をもとめることである」ということばは真実です、とあります。それは牧師、教師だけでなく、すべてのクリスチャンに求められていることだからです。すべての人が監督になるわけではありませんが、そのような仕事を求めることはすばらしいことなのです。

では、監督にふさわしい人とはどのような人でしょうか。2節から7節までをご覧ください。

「2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう―6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。」

ここには、監督の資質として15の項目があげられています。まず「非難されるところがない」ということです。これは罪を犯したことがない完璧な人ということではありません。この言葉は元来「捕まえられない、取り上げられない」という意味で、まずいことをしてしっぽをつまれるようなことをしていない人という意味です。一般的に見ても非難されない、とがめられるようなことをしていない人ということです。

次は、「ひとりの妻の夫であり」ということです。当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、当時は、当たり前ではありませんでした。パウロの時代、一夫多妻制というか、妻の他に妾(めかけ)をもっていることが当たり前のことだったのです。男は、最低妾を3人は持てと言われていました。一人は話し相手のために、もうひとりは性的欲求を満たすため、そしてもうひとりは子どもを生んで育てるためにです。そうした背景にあってパウロは明確に一人でなければならないと言ったのです。これは当時としては画期的なことだったのです。

これは監督や牧師は必ずしも結婚していなければならないということではありません。独身でも問題ではありませんでした。しかし、妻を持つなら一人でなければならなかったのです。

自分を制しとは、正気であるとか、酒に酔っていないということですが、感情面で安定していることです。教会にはいろいろな問題が起こりますが、そうした問題があっても動揺したり、押しつぶされたりしないで、主にあって心の平安をいただき、常にバランスをもって対処することが求められたのです。

慎み深くとは、思慮深くとか、分別があるということです。この点に欠けると、教会はとんでもない方向に行ってしまうことがあります。みことばによって絶えず主から知恵をいただき、判断と決断をしていかなければなりません。

品位がありとは、ふるまいや態度においてたしなみがあり、礼儀正しいということです。坂東真理子さんが書いた「女性の品格」という本の中には、たとえば、約束をきちんと守るとか、長い人間関係を大切にする。敬語はきちんと使う。乱暴な言葉・ネガティブな言葉を使わない。流行に飛びつかない。姿勢は正しくする。良い客になる。値段でモノを買わない。思い出の品を大事にする。もてはやされている人に摺り寄らない。利害関係の無い人にも丁寧に接する。怒りをすぐ顔に出さない。不遇な人にも礼を尽くす。聞き上手になる。プライバシーを詮索しない。友人知人の悪口を言わない。といったことが挙げられています。こうしたことは全て、社会人として守るべきマナーですが、特に、教会の牧師、監督に求められることでした。

次は、よくもてなすということです。これは、お客さんをよくもてなすこと、お客さんだけでなく外国の人々や他の人々を率先して受け入れ、親切にして、愛を示すことです。人をもてなすには時間もお金も労力もかかりますが、だからこそ、そこには人々に対する敬愛の情がよく表れるのです。監督は、ことばだけで人を治めることはできません。もてなしの態度に現れるような思いやりが求められるのです。私たちも、外国の方々や新しく来られた方々を温かく歓迎し、心からもてなす教会になりたいと思います。

次は、教える能力があるということです。これだけが唯一、技術的に求められていることです。他はすべて人格的なことや性質的なことに関することですが、これだけが技術的なことに関することです。なぜなら、監督や牧師は、これがないとやっていけないからです。もちろん、教える能力があっても他の面で欠けていると問題になりますが、しかし、他の面でどんなに優れていても教える能力がないと治めることはではないのです。監督は真理のみことばをまっすぐに説き明かす者でなければならないからです。

そして、次は酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲であるということです。この五つのことは一つのまとまりとして考えることができます。同じような内容が別の表現で語られています。「酒飲み」とは「酒におぼれる」という意味で、習慣的な飲酒を指しています。酒は気ちがい水と言って、人を気ちがいにする水だと言われていますが、酒が原因で起こる悲劇は後を絶ちません。酒は理性や分別を失わせてしまうのです。酒飲みの指導者が本当に良い政治をした例があるでしょうか。箴言には、マサの王レムエルの母が、自分の息子に次のように教えました。箴言31章4,5節です。

「4 レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ」とは、君子の言うことではない。5 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。」

それは賢明な戒めでしょう。神の家の管理者は酒飲みではなく、御霊に満たされることが求めなければならないからです。

暴力をふるわずとは、説明がいらないでしょう。殴る、蹴る、乱暴を働くという意味です。このようなことは神の家の牧者としてふさわしいことではありません。

温和でとは、思いやりがあり、優しく、柔和であることです。性格が落ち着いているということです。これは監督だけでなく、すべてのクリスチャンに求められている徳性でもあります。

争わずとは、文字通りけんか好きではない、論争好きではないということです。

そして金銭に無欲であるということです。これは、金銭を愛さないということです。なぜなら、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(6:10)これは牧師や監督だけでなく、すべてのクリスチャンに言えることですが、クリスチャンは金銭のことについては割り切って主にゆだねるべきなのです。

そしてここには、「自分の家庭をよく治め」とあります。またここには、十分な威厳をもって子どもを従わせているという条件が付け加えられています。なぜこのような条件があげられているのでしょうか。それは、これが監督者としての管理能力や指導力をチェックするポイントになるからです。「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」とあるとおりです。本当に厳しい条件です。私は牧師になって31年になりますが、いつもこのことで悩みました。時には、神の教会のために自分の家庭を犠牲にすることがあるからです。本当に家族には申し訳なかったと思います。しかし、何よりも優先しなければならないことは自分自身の家族です。自分の家庭を治めることを知らない人がどうして神の教会の世話をすることができるでしょう。できないのです。そういう意味では、私などは牧師としては失格者で、穴があったら入りたいくらいです。もちろん、神様が一番ですが、次は自分の家庭です。そして、教会であり、仕事でありというのがクリスチャンの優先順序です。もちろん、時には仕事が優先したり、教会が優先したりすることもありますが、基本的には家庭は教会や仕事よりも優先されなければならないことなのです。社会の最小単位である家庭を治めることができなければ、多種多様な人々で占められた神の家族である教会を治めることはできないからです。

そしてここには、「信者になったばかりの人ではいけません」とあります。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。「信者になったばかり」とは、まだ信仰生活の知識や経験が少ないということです。指導者にとって、知識や経験がどんなに重要であるかは言うまでもありません。経験がないと、自分のやっていることについて見えなくなり、自己満足に陥りやすくなり、高慢になりやくなるからです。その結果、悪魔と同じさばきを受けることになります。暁の子、明けの明星である天使の長が堕落したのは、このことが原因でした。彼は、「神のようになろう」と高ぶって、自分の領域を守りませんでした。その結果、神は彼をよみに落とされ、穴の底に落とされたのです。信者になったばかりの人が、教会において治める働きをすることは、霊的にも自分自身が高められることだと勘違いして高ぶってしまうことになりかねないのです。しかし、パウロのように主を知れば知るほど自分の足りなさ、罪深さ、至らなさを知るようになれば、すべてにおいて神の恵みとあわれみを求めるようになります。彼は神を知れば知るほど、「わたしは罪人のかしらです」と告白するようになりました。それこそが教会の監督者に求められていることなのです。

これは、若い人が牧会者なることはできないということではありません。テモテ自身も若かったし、古くは旧約の預言者エレミヤも若くして神の召しを受けました。肉の年齢のことではなく、信仰の経験のことを言っているのです。

牧師、監督に求められている最後の条件は、教会外の人々にも評判の良い人でなければならないということです。これは、監督になる人は、その地域においても評判が良くなければならないということです。もし評判が悪い人だと、「そしりを受け、悪魔のわなに陥る」ことになりかねないからです。これはどういうことかというと、世間の人々は、教会に無関心なようでも案外よく見ておられるということです。そして牧師や伝道者、あるいは信者にちょっとでもまずいことがあると、それを大げさに取りざたにするのです。しかし、いつでも悪いことだけを取りざたにしているわけではありません。良いことをすると「やっぱりクリスチャンは違うな」とか、「あの人はクリスチャンだから」と言われることも少なくありません。ですから、クリスチャンは地域社会から遊離するのではなく、かえって正しい評判を得て人々に良い影響を与えるように努めなければならないのです。

以上が、監督の資質、あるいは条件です。ここに挙げられた条件をよく見ると、そのほとんどが人格的なことに関することであって霊的、信仰的なことではないのがわかります。たとえば、「よく聖書を読み、祈る人」とか、「神を第一にしている人」といったことは挙げられていないのです。それはいったいどうしてでしょうか。おそらくそれは当然のこととして考えられていたからでしょう。そうした前提の上で、このようなことが求められていたのであって、そうしたことがどうでもいいということではないのです。おそらく、これはエペソの教会で問題になっていた点に焦点を絞っていたからかもしれません。霊的であればこうしたことはどうでもいいということではなく、教会の指導者たる者はこうしたことも含めてしっかりしていることが求められていたのです。それは、聖書に正しく従っていればその人の人柄や実際の生活の中にきわめて現実的に現れてくるものなのです。

Ⅱ.執事としてふさわしい人(8-12)

次に、執事の資質について見ていきたいと思います。8節から12節までをご覧ください。まず8節から10節までをお読みします。

「8 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、9 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。10 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」

8節からは執事の資格について述べられています。「執事」とは原語では「ディアコヌス」で、意味は、「仕える者」とか、「給仕する者」です。いわゆるしもべを指すことばです。奴隷のように仕える人たちのことなのです。新約聖書では、使徒の働き6章に最初に出てきます。そこにはギリシャ語を使うユダヤ人たちとヘブル語を使うユダヤ人たちとの間に起こった毎日の配給に関する問題を処理するために、七人の弟子たちが選ばれました。この七人の弟子たちのことです。彼らは、使徒たちはもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことができるように、いわば教会の実務にあたったのです。つまり、執事というのは、監督、長老、牧師といった教会の指導者がその第一の務めである祈りとみことばに励むことができるように、補助的な働きをして彼らを助けたのです。一般に考えられている名誉職とは違います。しもべのように仕える人、それが執事です。こうした執事も神の教会の管理に携わるわけですので、パウロはここでこうした執事の資格を述べているのです。使徒の働きでは彼らの資格として、「信仰と聖霊とに満ちた人たち」が選ばれましたが、ここではもっと具体的に語られています。

それはまず謹厳で、二枚舌を使わず、大酒のみでなく、不正な利をむさぼらないということです。謹厳とは何でしょうか。謹厳とは尊敬と信頼に値するということです。つまり、誠実で、まじめであるということです。誠実で、真面目で、信頼に値する人こそ執事にふさわしい人です。

二枚舌を使わずとは、相手によって言うことを変えないということです。こっちの人にはこう言って、あっちの人にはこう言ってと、人によって言い方を変えることを二枚舌と言います。舌が二枚あるわけです。これは執事としてふさわしくありません。なぜなら、互いの間の信頼を損なわせ、混乱を生じさせることになるからです。信徒とじかに接することが多い立場として、執事には慎重な舌の使い方が求められるのです。

次に、大酒のみでなく、とあります。この点については監督と同じです。しかし、監督は「酒飲みでなく」とあったのに対して、執事には「大酒飲みでなく」とあることから、ある人は、監督には一切お酒を飲むことが禁じられているが執事はちょっとなら飲んでもいいと解釈する人がいますが、そういうことではありません。お酒を飲むのは酔うためであって、そこには放蕩があります。そのことによって引き起こす悲劇は後を絶ちません。そのようなものをいったい何のために飲む必要があるのでしょうか。これはお酒の量の問題ではなく、お酒によってもたらされる悲劇に対する忠告なのです。そのようなお酒をいったい何のために飲まなければならないのでしょうか。健康のために、少量のぶどう酒を飲むというのならわかりますが、あるいは、美味しいお料理のために調味料として使うというのならわかりますが、それ以外、酔うこと以外お酒を飲む目的がわかりません。飲んではならないということではありませんが、飲む必要がありません。

次に、不正の利をむさぼらずとあります。これはお金にクリーンな人であるという意味です。執事の仕事には金銭を取り扱うこともあったため、欲とむさぼりに気を付けるということは非常に大切なことでした。

そして、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。きよい奥義とは、神が啓示してくださったキリスト教の正しい真理のことです。つまり、正しい聖書の教えのことです。執事の働きはどちらかというと経済的なことや物質的な面といった実務的なことが中心ですが、そうした実務的な働きにあっても、それが正しい聖書の教理と信仰に立ってなされなければなりません。ですから、最初の執事たちが選ばれた時の第一の条件は、「信仰と聖霊に満ちた人」だったのです。これは立派な霊的な奉仕なのです。

12節をご覧ください。ここには、「執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」とあります。執事にも結婚生活と家庭生活の健全さが求められているのです。執事も神の家の管理に携わるので、本質的には監督に求められていることと同じだからです。

さて、11節をご覧ください。ここには、「執事の妻も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」とあります。この「婦人執事」ということばには※がついていて、下の欄外の説明を見ると、「執事の妻」とあります。これは「婦人執事」のことなのか、「執事の妻」のことなのかはっきりわからないのです。というのは、原語ではただの「女」とか「妻」となっているからです。新改訳聖書が「婦人執事」と訳したのは、前後の文脈で執事のことが述べられているので、おそらくこれは婦人執事のことだろうと考えてのことです。しかし、2章で語られてきたことの流れからみると、そうかなぁと疑問を感じます。というのは、2章のところでパウロは、女は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい、とあるからです。女が教えたり男を支配したりすることは許しません、とあるからです。その女性が監督、執事といった教会の指導者たちの中に出てくるというのはちょっと合わないような気がするのは私だけでしょうか。そういう意味では「執事の妻」と訳した方が全体的な流れにも合致するように感じます。英語の聖書も、wives(RSV)とかtheir wives(NIV)と、執事の妻として訳しています。ですから、たとえこれが「婦人執事」であったとしても、すでに2章で学んだように、男性執事をサポートする立場としての婦人執事であり、執事である夫や教会の指導者に仕えるふさわしい助け手としてであることを忘れてはなりません。アメリカの教会には「decons」(執事たち)と呼ばれる人たちと「deaconess」(婦人執事たち)という人たちがいる教会があると聞いていますが、それはとても聖書的ではないかと思います。なぜなら、あくまでも執事は男性であっても、その執事や教会の指導者たちを助ける働きが必要だからです。それを婦人執事と呼ぶか、執事の妻たちと呼ぶか、婦人たちと呼ぶかは違いますが、そのような助け手が必要なのは確かなのです。

では、そのような人たちに求められていることはどんなことでしょうか?ここには、「威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」とあります。それは執事に求められていることと同じことです。なぜなら、悪口は人間関係を損ない、お互いの信頼関係を台無しにしてしまうからです。また女性の場合は、特に感情的になると自分を制することができなくなって互いに気まずくなってしまうことがあるからです。また、忠実でない気まぐれな奉仕も、教会員に不安を与えてしまう恐れがあるからです。

しかし、もしこうした婦人たちの「女らしさ」という賜物がきよめられ、用いられることによって、男性には及びもつかないほどの信仰の美しさが加えられ、それが教会形成においても多大な貢献をなすことができるということを思うとき、こうした女性の働きが必要不可欠なものであるというだけでなく、そうした働きが補い合って、すばらしいキリストのからだである教会が立て上げられていくことがわかります。女性の人たちが目指す姿がここに描かれているのです。

Ⅲ.執事の務めをりっぱに果たした人は・・(13)

最後に13節を見て終わりたいと思います。ここには、こうした務めをりっぱに果たした人には、どのような祝福がもたらされるかが約束されています。

「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」

「良い地位を占め」とは、教会の中でも信頼され、尊敬される人になるということです。また「信仰について強い確信を持つことができる」とは、こうした執事の働きを通して信仰とは何か、福音とは何かということをますます知ることができるようになり、さらに大胆に信仰に歩めるようになるということです。そうした祝福が約束されているのです。これはやってみないとわからないことです。やってみるとその大変さに打ちのめされそうになることもありますが、それと同時にこうした霊的な祝福も味わうことができるというのは、本当にすばらしい特権ではないでしょうか。

ですから、このような仕事を求めることは、すばらしい仕事を求めることなのです。それはすべてのクリスチャンに求められていることでもあります。すべてのクリスチャンがこうした仕事につけるようにと、祈り求めていかなければなりません。格別に、そのような仕事が与えられた人は、その与えられた任務を嫌々ながら、しぶしぶと、適当にやってはいけないのです。尊い主の御用としてりっぱに勤め上げ、神に喜ばれるように忠実に果たしていかなければなりません。

ところで、このように監督、執事、婦人執事の資質を学んできますと、ある一つの疑問が生じてきます。それは、いったいこのような資格に適合する人などいるのだろうかということです。残念ながら、答えはノーです。だれもいません。聖書の要求を満たすりっぱな人など一人もいないのです。また、クリスチャンになったからといってこのような人間になれるわけでもありません。むしろ、あのイザヤが神から預言者としての召命を受けた時のように、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と絶望せざるを得ない者なのです。しかし、そうした現実にもかかわらず、このような資格が求められているというのはそういう人でないとだめだということではなく、それは第一に祈りのためであり、第二に牧師、監督、執事、そしてすべてのクリスチャンにとって、これが真の努力目標であり、成長の目標であるということなのです。

ではいったいどうしたらこの目標に達することができるのでしょうか。Ⅱコリント3章18節にはこうあります。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

皆さん、これは御霊なる主の働きによるのです。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに帰られていくのです。それはまさに、御霊なる主の働きなのです。ですから、今の自分を見たら「だめだ~」となりますが、御霊なる主に信頼し、みことばに聞き従って日々歩んでいくなら、主がそのような卑しい私たちを、主と同じ姿に変えてくださるのです。

よくこんな広告を目にすることがあります。「タクシー運転手募集!第一種免許証可、第二種免許証取得を目指します」ご存じのようにタクシーを運転するには第二種運転免許が必要ですが、第一種免許があればいいですよという広告です。なぜなら、実際に働いている中で第二種免許の資格取得を目指すからです。

これは私たちの信仰にも言えることです。私たちにはそんな資格などありませんが、しかし、私たちの主なる神は、ご自分の召し出される人にその資格を取得させないはずがありません。必ずそのようにしてくださるのです。なぜなら、私たちの資格は神からのものだからです。ですから、この神に信頼し、そのような者となれるように、神のふところに飛び込んでいきたいと思うのです。そして信仰について強い確信を持ち、さらに大胆に信仰に歩ませていだたきましょう。

Ⅰテモテ2:8~15「男は男らしく、女は女らしく」

きょうは、Ⅰテモテ2章後半のところから「男は男らしく、女は女らしく」というタイトルでお話します。パウロは1章で語ってきたことを受けて、すべての人のために祈るようにと勧めました。なぜなら、神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして、きょうの箇所では、引き続き祈りについて語りながら教会における秩序について述べています。すなわち、教会においては男は男らしく、女は女らしくあれというのです。男らしいとか、女らしいというのはどういう人でしょうか。

Ⅰ.男は男らしく(8)

まず8節をご覧ください。

「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」

まず男に対してパウロは、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい、と勧めています。祈ることはすべてのクリスチャンに求められていることですが、とりわけクリスチャンの男性に求められていることなのです。

20世紀最大の説教家と言われたイギリスの牧師D.M.ロイドジョンズ(David Martyn Lloyd-Jones)は、「祈りは、クリスチャンの男性にとって生死にかかわるものです。」と言いました。祈りは、それほど重要なものなのです。しかし、これほど重要な祈りが妨げられる時があるのです。どういう時でしょうか。それは怒ったり、争ったりするときです。これが、男の弱さでもあります。男性はどちらかというと怒ったり、争ったりする傾向があります。メンツとか虚栄心とか、優越感とか劣等感のゆえに、論争を好む傾向があるのです。おそらくこれは、エペソの教会でもよく見られた光景だったのでしょう。男が人前で怒ったり、言い争ったりするようなことがあったのです。しかし、このようなものは神の義を実現するものではありません。

ヤコブ1章20,21節には、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。怒りではなく神のみことばを持たなければなりません。怒りは神の義を実現することはありませんが、みことばは、あなたのたましいを救うことができるからです。男は、怒ったり、言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければならないのです。

では、きよい手を上げて祈るとはどういうことでしょうか。手を上げて祈るというのは、ユダヤ人が祈る祈りの姿勢でした。ユダヤ人は普通祈る時、手を上げて祈ったんですね。両手を前に差し出して、立ったままで祈ったのです。哀歌3章40節に、「私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」とありますが、それは、心を神に向けることの表現だったのです。それがキリスト教会にも取り入れられていたのです。

しかし、ここではただ手を上げて祈れと言われているのではなく、きよい手を上げて祈るようにと言われています。「きよい」とは、もともと神のために分けるという意味です。したがって、きよい手を上げて祈るとは、心と行いがすっかり神の方に向けられていることを示しているのです。私たち心と行いのすべてが神の方に向けられている状態で祈るということです。

イザヤ書1章15~16節を見ると、当時のイスラエルの民はそうではありませんでした。ここには、「15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。」とありますが、確かに表面的には多くのいけにえをささげ、新月の祭りやきよめの集会をしていました。しかし、神は、どんなに彼らがそのような宗教的な儀式を行っても聞くことはないと言われました。なぜなら、そこに中身が伴っていなかったからです。そのような祈りは神に喜ばれることはありません。神はその心と行いが神に向けられた祈りを求めておられるのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければなりません。

Ⅱ.女は女らしく(9-14)

次に9節から14節までをご覧ください。まず9節から12節までをお読みします。

「9 同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、10 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。
11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」

女性に勧められていることはどんなことでしょうか。女性には二つのことが勧められています。一つはつつましく身を飾ることで、もう一つのことは、静かにして、よく従う心をもって教えを受けることです。女性には祈るようにとは勧められていません。なぜなら、言われなくても、女性は率先して祈ることができるからです。しかし、女性にとって難しいことがあります。それは慎ましく身を飾ることと、静かにすることです。

まず慎み深く身を飾ることについて、パウロは次のように言っています。

「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。」

どういうことでしょうか。この「飾り」と訳されている言葉は「コスメティコス」(kosmetikos)というギリシャ語で、英語のコスメティック(cosmetic:化粧品)の語源になった言葉です。ここからある人たちは、クリスチャンの女性は一切化粧をしてはいけないと考える人がいますが、そういうことではありません。外見をきれいにすること自体は悪いことではないのです。安心してください。歯を磨いて、髪を整え、お風呂に入って清潔にし、ちゃんと洗濯をした服を着ることは最低限のエチケットでもあります。

では、これはどういうことでしょうか。度を越してはいけないということです。ここには「つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り」とあります。派手な格好をすることもできるし、分厚く化粧したり、ブランド品を身に着けたりすることもできますが、あえてそのようなことはしないで、控えめに慎み深く身を飾るようにしなさい、と言うのです。なぜでしょうか。男性につまずきを与えないためです。

この手紙は、当時エペソの教会で牧会していたテモテに宛てて書き送られました。このエペソの町にはアルテミスの神殿があって、それは豊穣の女神アルテミスを祭った神殿ですが、そこには何千という神殿娼婦と呼ばれる人たちがいたのです。彼女たちは町に繰り出しては男たちを魅了していました。派手なファッションをして、金や真珠の宝石で身を飾って挑発していたのです。パウロはそういう状況の中で、あなたがたはこのような派手な格好をしてアッピールするのではなく、神を敬う女性にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさいと言ったのです。

だから、そういう服を着てはいけないとか、化粧をしてはいけないということではなく、そのような格好をすることによって男性につまずきを与えることがないようにしなさいということなのです。女性はそうした外見で決まるものではありません。むしろ柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらこそ重要であり、それこそ、神の御前に勝ちあるものなのです。

箴言11章22節を開いてみましょう。ここには、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。」とあります。どんなに美しく着飾っても、たしなみがない人は、金の輪が豚の鼻にあるようなものなのです。また箴言31章30節にはこうあります。

「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、を恐れる女はほめたたえられる。」

麗しさは偽りです。美しさはむなしいのです。けれども、主を恐れる女性はほめたたえられます。

それから女性に勧められているもう一つのことは、静かにしていなさいということです。11節と12節にはこうあります。「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」

これは何回読んでも難解な箇所です。パウロは、いかにも女性を差別しているのではないかと感じられるところで、誤解を生むところでもあるのです。いったいこれはどういうことでしょうか?これは「女は黙っていろ」とか、口を開くことも許さないということではありません。女性の本分とか務めは静かにして、よく従う心をもって教えを受けることであるということです。そうでないと、教会が混乱してしまうことになるからです。エペソの教会にはこうした教えに従わない人たちによって問題が生じていました。一部の女性たちが限度を越えておしゃべりをして、あるいは、むやみやたらに他人のことに首を突っ込むことで混乱が生じていたのです。ここに「女が教えたり、男を支配したりすることを許しません」とありますが、男たち、これは教会の指導的な立場にあった人たちのことですが、そういう人たちの教えを受けるよりも教えようとしたり、支配しようとする人たちがいて、混乱していたのです。

ここが女性の弱いところでもあります。女性は一般的におしゃべりを好む傾向があります。それは女性に与えられた祝福でもありますが、この神から与えられた祝福が人間の罪のせいでゆがめられ、しばしば問題を引き起こしてしまう原因になることもあるのです。そういうことがないように、むしろ静かにしていなさいというのです。「おとなしい」という字を漢字で書くと「大人しい」と書きますが、もし騒ぎ立てるようなことがあるとしたら、それは逆に子どもじみているということです。大人らしい人とは、聖書の教えに従って、静かにして、よく従う心をもって教えを受ける人なのです。

いったいなぜ女が教えたり男を支配したりしてはいけないのでしょうか。13節と14節をご覧ください。ここには、「アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。」とあります。

なぜ女が教えたり男を支配したりしてはいけないのでしょうか。なぜ女は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなければならないのでしょうか。それは、アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯してしまったからです。これが、神が定めた創造の秩序なのです。それは決して女が男のロボットであるという意味ではありません。男も女も同じように神のかたちに造られました。そういう意味では男女は平等であり、同権です。しかし、アダムが最初に造られ、次にエバが造られました。エバはアダムの助けてとして造られたのです。それが神の創造の秩序でした。それはアダムが家長としてリードし、妻はそれをサポートするように造られたということなのです。

マシュー・ヘンリーという注解者が、創世記の注解でこう言っています。「エバはアダムの上に立つようにとアダムの頭の一部から造られなかったし、彼にひざまずくようにと彼の足から造られたのでもなかった。そうではなく、彼と等しい者として彼の脇腹から、彼に守られるべく彼の腕の下から、彼に愛されるべく彼の心臓のそばから取り出されて造られたのである。」

男女は互いに助け合い、補完し合うように造られました。男にも足りないところがあるし、女にも足りないところがありますが、そうした足りない者同士が補い合って一つのものを作り上げていくのです。それが夫婦というものです。夫婦を見ていると、両極端とまではいきませんが、全然違うタイプの人同士が結婚していることに気づきます。私たち夫婦はよく真逆だと言われますが、意外とそういう夫婦が多いのです。それでフーフーしているわけですが、そのように全く違った者が結婚して夫婦になるのは、それはお互いに足りない者を補い合って、さらに良い新しいひとりの人に作り上げられていくためなのです。だから、私たちは全く違って大変なのよ、というカップルがいたとしたら、それこそ神の祝福であることを覚えて感謝しなければなりません。

もう一つの理由は、アダムは惑わされなかったが、エバは惑わされて、あやまちを犯したからです。えっ、エバだけでないでしょう。アダムも罪を犯したじゃないですか。アダムもあやまちを犯しました。そうなんです。しかし、蛇に惑わされたのはアダムではなくエバでした。蛇は最初からわかっていたんです。アダムを誘惑しても鈍感な彼にはわからないだろう。こうした霊的なことがわかるのは女であるエバだと。それで蛇はエバを誘惑したのです。「あなたがこれを食べるそのとき、あなたの目は開かれ、神のようになりますよ。」するとエバは「あら、そうかしら」なんて言って、すぐに飛びついたのです。アダムに言ってもだめです。「えっ、目、そんなのどうでもいい。眠い・・」だから、アダムは罪を犯した時、こんな言い訳をしたのです。「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」アダムはエバによって誘惑されたのです。でもエバは悪魔に惑われて罪を犯しました。そのことです。これが創造の秩序なのです。この神が造られた創造の秩序からすれば、女が教えたり、男を支配したりすることはふさわしくないし、あってはならないことなのです。

この「教える」という言葉はギリシャ語で「ディダケー」という言葉です。これは権威をもって継続的に教えるという意味です。ただ道を示すというのではなく、権威をもって従わせるようなことはよくないし、許されていないことなのです。女性は男性の権威の下で、時々、あるいはサポートする形で教えることはできますが、自分が権威をもって、継続的に教えることはふさわしくありません。このことばは、マタイの福音書28章15節には「指図する」と訳されている言葉ですが、女性が男性に代わって指図したり、支配したりというようなことがあってはならないということです。でも実際にはそういうことをよく見かけます。教会で女性が男性を教えたり、指図したりということがあるのです。確かにそのようなこともありますが、それは聖書が教えていることではありせん。そういうことは許されていないからです。こういうことを言うと多くの敵を作ることになるかもしれませんが、これが聖書で教えていることです。女性はあくまでもアシスタントであって、教えたり、指図したり、支配したりするというようなことがあってはならないのです。

しかし、Ⅰコリント11章5節と6節を見ると、女性でも教会で祈ったり、預言したりすることがあったことが示唆されています。ここには、こうあります。

「しかし、女が、祈りや預言をするときに、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。」

「女が祈りや預言をするときに」ということは、女性でも祈ったり預言をすることがあったということではないでしょうか。預言とは言葉を預かると書きますが、これはみことばの奉仕のことです。説教したり、教えたりすることです。そういうことが行われていたのではないでしょうか。そうです、女性も祈りや預言をすることがあります。しかし、一つだけ条件があったのです。それは、女性が祈りや預言をするときには、頭にかぶり物をつけていなければならないということです。何でしょうか。このかぶり物とは・・・。これは権威のしるしです。女の権威は男です。妻の権威は夫です。そのような権威をつけていなければいけないということです。その権威の下にあるならできるのです。つまり、秩序をもってなされるのなら大丈夫なのですが、そうでないとできないということです。その秩序とは何でしょうか。それは男性のリーダーシップもとで、ということです。神が定めてくださった秩序において祈ったり、教えたりすることができるということです。そうでないのにすることがあるとしたら、それはふさわしくないことなのです。

でも、みんなやってることだもの、いいんじゃないですか?そんなに堅く考えなくても。これは堅いか、堅くないかということではなくて、聖書で何と教えているかということであって、それを逸脱することがあるとしたら、そこに神の祝福はないということを覚えなければなりません。なぜそのように行われるようになったのでしょうか。それは、男性が悪いからです。男性がしっかりしないからです。男性が霊的にもしっかりと女性をリードして導くことができれば、女性は安心してついてくることができますが、そうでないと、女性が男性を教えたり、支配したりするようなことが起こってくるのです。だから男性が悪いのです。男性がもっと女性のことを考えなければなりません。

Ⅰペテロ3章7節には、「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」とあります。男は、夫は、妻が、女性が弱い器であるということを、わきまえて、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなければなりません。そういう負担を負わせないように、男性がもっとしっかりしなければならないのです。そうでないと、女性が教えたり男を支配したりするようなことになるのです。

Ⅲ.子を産むことによって救われる(15)

最後に、こうした神の教えに従うとき、どのような祝福がもたらされるのかを見て終わりたいと思います。15節をご覧ください。

「しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」

これも難解な箇所です。女は、子を産むことによって救われるとはどういうことでしょうか。子を産まなければ救われないのでしょうか。そういうことではありません。ここでは二つの解釈ができます。一つは、14節までの流れを受けて、女であるマリヤが救い主である子イエス・キリストを生むことによって救われるという解釈です。14節までのところには、アダムとエバによって罪に陥った話が出てきましたが、その女の子孫から出る救い主イエス・キリストによって、敵である悪魔が完全に踏み砕かれるという預言なのです。ですから、この子を産むというのは、マリヤの処女降誕のことを指しているのではないかということです。

けれども、ここでの救いというのをそのような意味での救いとしてではなく、女性としての本来の生き方を全うし、女性としての幸いを見出すという意味での救いととらえることもできます。なぜなら、ここに「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら」と言われているからです。それはこれまでパウロが語ってきた内容でもありますが、慎みを持って、信仰と愛と聖さを保ち、子を産むという女性としての本来の生き方を全うするなら、男性が決して果たすことができない、美しくも尊い、女性としての特権にあずかることができるのです。

このどちらの解釈もできますが、私はどちらかと言えば後者の方が文脈的に正しいのではないかと思います。なぜなら、ここではずっと男性として、また女性としてどうあるべきなのかということが語られてきたからです。男性はどこでもきよい手を上げて祈るようにするなら、また女性は女性として本来あるべき生き方としてつつましく、静かにして、よく従う心をもって教えを受けるなら、確かに神はそこに豊かな祝福をもたらしてくださるのです。

今日のように間違った意味での男女平等が叫ばれる時代にあって、こうした聖書が教える男性像、女性像を期待するのは古臭いとか、時代遅れただと言われて難しいかもしれませんが、聖書は間違いのない神のみことばです。男は怒ったり、言い争ったりするのではなく、どこででもきよい手をあげて祈るなら、また、女が良い行いを飾りとして、静かに、よく従う心をもって教えを受けるなら、必ずすばらしい祝福が用意されているのです。私たちは聖書が教える男らしさ、女らしさを求め、神から祝福を受けるものでありたいと思います。

Ⅰテモテ2:1~7「すべての人のために祈りなさい」

今、このテモテへの手紙から学んでいます。これは、パウロが書いた最後の手紙です。いわば遺言のような手紙です。なぜパウロはテモテに手紙を書き送ったのかと言うと、この時テモテはエペソ教会の牧会をしていましたが、いろいろな問題で苦しみプレッシャーに押しつぶされそうになっていたからです。苦しくて、苦しくて、もう辞めたいと思っていました。そんなテモテを励ますためにこれを書いたのです。と同時に、そうした問題にどのように対処したらいいのか、すなわち、神の家でどのように行動すべきなのかを教えるためにこれを書いたのです。

そして、今日のところでは、公の集まりにおいてクリスチャンはどうあるべきなのかについて語っています。それは、すべての人のために祈らなければならないということです。

Ⅰ.すべての人のために祈りなさい(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」

「そこで」とは1章の内容を受けてということです。1章には、パウロとは違った教えを説く人たちについて語られていました。ヒメナオとかアレキサンデルといった人たちです。彼らは信仰の破船に会いました。正しい良心を捨てて、自分たちの考えに従った教えを説き、信仰からズレてしまったのです。しかし、テモテよ、あなたはそうであってはならない。あなたは正しい信仰と良心を保って、勇敢に戦い抜かなければなりません。そのように勧めてきました。それを受けてということです。

それを受けて、まず初めにパウロが勧めていることは、すべての人のために祈りなさいということでした。そうした騒々しい、教会の秩序を乱すような人たちのいる中でまず初めにしなければならないことは、祈ることだというのです。なぜなら、教会はキリストの弟子たちの祈りの中から生まれたからです。彼らが心を合わせ、祈りに専念していたとき、突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまりました。それがペンテコステ、聖霊降臨です。それによってエルサレムに最初の教会が誕生しました。教会は祈りによって生まれました。だから教会はまず祈らなければなりません。

ここでは、すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために祈りなさい、とあります。自分たちが気に入っている一定の人々のためだけでなく、またクリスチャンのためだけでなく、すべての人のために、特に高い地位にある人たちのために祈るようにと言うのです。ここには、「願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と言われています。この願いとか、祈り、とりなし、感謝というのは、祈りに含まれる要素のことです。このように表現することによって、祈りの大切さというものを、いろいろな面から強調しているものと思われます。

なぜすべての人のために祈らなければならないのでしょうか?2節をご覧ください。「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」どういうことでしょうか。「敬虔に」とは、信仰深くということです。神を恐れ、神に信頼して生活することです。また「威厳をもって」とは、他の人々に対するあり方において、信頼に値する確かな態度で生活することです。また「平安で静かな一生を過ごす」とは、外的にも内的にも、静かで、落ち着いた平和な生活をすることです。そのために祈らなければなりません。それは、クリスチャンとしての私たちの幸せのため、幸せに一生を過ごすためなのです。

なぜすべての人のために祈ることが、特に高い地位にある人たちのために祈ることが、私たちの幸せな生活につながるのでしょうか。それは、すべての権威は神によって立てられたものだからです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。ローマ人への手紙13章1~5節に、つぎのように言われています。

「1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

ですから、上に立てられた人というのは本来、神の立てられた秩序の下で、すべての人のための平和と幸福のために託されている職務を果たすべき人たちなのです。大田原の市長も、栃木県知事も、日本の総理大臣も、すべてそうです。あの人たちは選挙によって選ばれたんじゃないですか。彼らは人によって選ばれたんですよという方もおられるかもしれませんが、しかし、その背後には神の働きがあり神によって立てられているのです。それは彼らばかりではなく、たとえばあなたの学校の教師も、会社の上司も、家族の長も同じです。彼らもまた神によって立てられているのです。すべて上に立つ権威は神によって、神の目的と計画を果たすための道具として、神のしもべとして、神によって立てられているのです。神がすべての主権者であられ、その神が背後で働いているのですから、その権威を認めて、彼らのために祈らなければならないのです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

しかし、パウロの時代、これはなかなか難しいことでした。なぜなら、それはクリスチャンを迫害していたローマ皇帝ネロのためにも祈れということになるからです。とてもできません。自分たちを迫害し、弾圧しているネロのために祈るなんて考えられないことです。皇帝崇拝を強要したり、偽りの教えを広める人たちのために祈るなんてできないことです。それで、公の礼拝において広くすべての人のために祈られるはずの祈りが、いつしか自分たちを中心にした関係者たちだけのための祈りに片寄ってしまっていたのです。しかし、祈りとは本来そのようなものではありません。公の礼拝における祈りとは、すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのためにもささげられなければならないものです。それが神の御前において良いことであり、神に喜ばれることなのです。あなたの政治的立場がどうであれ、その人があなたの好みであるかどうかということと関係なく、あるいは、その人の人格がどうであろうとも、すべての人のために祈ることは、高い地位にある人のために祈ることは神のみこころであり、私たちの平和と幸福になることなのです。

あなたはどうでしょうか。すべての人のために祈っているでしょうか。王と高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝をささげているでしょうか。天皇陛下のために祈っているでしょうか。日本の政治家のためにも祈っているでしょうか。この町の人たちのために祈っているでしょうか。ややもすると、私たちは、テレビのコメンテーターたちのように安易に政治家たちを批判したり、非難したりしますが、その前に私たちがしなければならないことは、彼らのために祈ることです。勿論、政治的な意見を言ってはいけないということではありません。でもそんな暇があるなら祈れと言っているのです。もし彼らのために祈るなら、その批判は今よりずっと少なくなるでしょう。そして、議論や論争といった無益なことを避け、神が求めておられる敬虔さや威厳さを保ち、平和で静かな日々を過ごすことができるのです。

S・B・ゴードンはこう言いました。「祈る人ほど今日の世界で重要な人はいない。それは祈りについて語る人でなければ、祈りについて説明できる人でもない。それは時間を割いて祈る人のことである。彼らには時間がない。それは他のことを犠牲にした時間である。他のことも大切であり、差し迫ったものである。しかし、祈りほど重要で差し迫ったものはない。」

先週は寺山兄の告別式が行われましたが、告別式でもお話したように、寺山兄は祈りの人でした。退職してから病気で療養されるまでの16年間、毎朝1時間、時間を決めて祈られました。その祈りの課題を見せていただきましたが、ハーベストタイムとか、MTCとか、その他いろいろな団体から出されている祈祷課題を覚えて祈っておられました。もちろん、教会のためにも祈ってくださいました。私は後でその祈りの課題を見せていただきましたが、赤い鉛筆で線を引いて、あるところには点がつけてあったりしました。そうやって祈ってくださいました。それは兄弟の遺体とともに棺の中に納められましたが、その祈りは決してむだになることはないでしょう。神の前に香のように立ち上がり、いつか必ず答えられるに違いありません。

ですから、私たちはもっともっと祈らなければなりません。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために祈らなければならないのです。

Ⅱ.神はすべての人が救われることを望んでおられる(4)

次に4節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」

私たちがすべての人のために祈るのはどうしてでしょうか。ここにもう一つの理由が書かれてあります。それは、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。皆さん、これが神のみこころなのです。だれも、この神の救いから漏れる人はいません。神はすべての人が救われることを望んでおられるからです。これが神のハートです。あなたは神と同じハートを持っておられるでしょうか。すべての人が救われることを望んでおられるでしょうか。私たちはどんな人でも救われるように、すべての人のために祈らなければなりません。

ところで、ここには神の救いについて二つのことがわかります。一つは、すべての人が救われるためには、まずそのことを神に祈らなければならないということです。すなわち、伝道する前に祈らなければならないということです。伝道することは重要なことですが、そのためにはまず神に祈らなければならないのです。

そしてもう一つのことは、救われると真理を知るようになるということです。真理を聖書とか、神とか、キリストに置き換えても構いません。なぜなら聖書は真理の書であり、神は真理であられるからです。ここで言われていることは真理を知れば救われるというのではなく、救われれば真理を知るようになるということです。私たちはよく、「私はまだ聖書を全部読んだことがないから信じることができません」とか、「なかなか聖書を理解することができないから信じられないんです」、「もうちょっと勉強したら信じます。」という事を聞くことがありますが、それは違います。聖書を勉強したら信じることができるのではなく、信じたら聖書がわかるようになるのです。神がどのような方か、神が願っておられることはどういうことなのかがわかってくるのです。

あるとき、一人の方が電話をくださいました。それは、神には善い神と悪い神がいるのかということでした。皆さん、神には善い神と悪い神がいるのでしょうか。おりません。なぜなら神は唯一であって、それはこの天地万物を造られた創造主なる神だからです。この方は私たちを罪から救ってくださる救い主なる神であり、全く悪や汚れのない聖なる方、義なる方です。この方だけが神であって他にはいません。もしいるとしたら、それは神の装いをした偶像の神々であって、本当の神ではないのです。それなのにその方がわざわざお電話をくださったのは、そのようなことを誰か他の人から聞いて「あれっ」と思ったからでした。いろいろな教会でもう何年も聖書を勉強していてもまだ神を信じていないので、神がどのような方なのかがわからないのです。でも信じたらわかるようになります。

私たちも初めはそうでした。説教を聞いてもチンプンカンプンでした。でもイエス様を信じたら少しずつわかるようになりました。イエス様を信じて救われたら心の目が開かれ、説教を聞いても、自分で聖書を読んでいても、少しずつわかるようになりました。あるときはハッと気付かされたり、ああこういうことだったのかと思うようになったのです。

ですから、まだ聖書がわからないという方も、まず信じていただきたいと思うのです。そうすれば、少しずつ真理がわかるようになりますから。自分の頭で真理を知ることには限界があるんです。なぜなら、真理は知識ではなく人格だからです。百聞は一見にしかず、ということわざがありますが、もしまだ一度も会ったことのない人を知りたいと思うなら、その人についていろいろと情報を集めて知ろうとするよりも、まず会ってお話してみることです。そうすれば、知識で得た情報よりも何倍もその人のことを知ることができまるでしょう。それと同じです。

神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。そこにはあなたも含まれています。神はあなたが救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。神はあなたを地獄に落とす方ではありません。あなたが救われることをこよなく願っておられるのです。

Ⅲ.すべての人の贖いの代価であるキリスト(5-7)

最後に5節から7節までを見て終わりたいと思います。救いに関する神のみこころを語ったパウロは、神ご自身とその救いのみわざについて言及しています。

「5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。7 そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ―私は真実を言っており、うそは言いません―信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。」

まず神についてパウロは、「神は唯一です」と断言しています。唯一とはこの方だけという意味です。神はただ一人であって、聖書の神以外には存在していません。日本では昔から八百万の神といって八百万の神々がいると信じられてきましたが、それは嘘です。また神仏融合といって神道の神も仏教の神もみな同じだと言う人がいますが、それも違います。排他性を嫌う日本人には「あれも神、これも神、たぶん神、きっと神」と、曖昧な方が受け入れられやすいのですが、真の神はそういう方ではないのです。神はただ一つであって、それはこの天地万物を創造された方であり、それを保っておられる方、また生きとし生けるものすべてにいのちを与えてくださった方であり、罪の中にあえぎ苦しんでいる人類を救われる方なのです。

そしてここには、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです、とあります。この神の御許に行くことができるための仲介者も唯一であるということです。それは人として来られたキリスト・イエスです。キリストは100%神であり、100%人間であられたので、この方だけが私たちと神様との架け橋となることができたのです。神と人との間をつなげることができるのは、100%神であり、100%人間であられたイエス様以外にはいません。イエスのような仲介者は他にはいないのです。他にこのような救い主はいません。この世界にはたくさんの偉人と言われる人や聖人と言われる人がいますが、この方のような救い主は他にはいないのです。仏陀にしても、孔子にしても、釈迦にしても、ムハンマドにしても、ソクラテスにしても、確かに彼らは偉人、聖人の部類に入る人たちだったかもしれませんが、彼らはただの人間にすぎませんでした。死んで、葬られて、それで終わりです。でもキリストは違います。キリストは死んで、三日目によみがえりました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。キリストは100%神なので、死の力を打ち破ることができたからです。

イエスは神でありながら人の姿をとられました。それは、私たち人間を救うためです。人を救うためには、人にならなければならなかったのです。それが人として来られたキリスト・イエスという意味です。でもイエス様は一つも罪を犯しませんでした。神が罪を犯すことなどないからです。その代わりに、イエス様は私たちの罪を負って十字架で死んでくださいました。そして葬られて、三日目によみがえられました。また、天に昇って行かれました。このような仲介者は他にはいません。他にこのような救い主はいないのです。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

イエスが道であり、真理であり、いのちなのです。イエスを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。イエスだけが唯一無比の仲介者なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

この方以外には、だれによっても救いありません。私たちが救われるべき名として与えられているのはこの名、イエス・キリストだけであって、他にはいないのです。このイエスを信じるなら、だれでも救われます。どんな人も救いに漏れることはありません。

ではこの方はどのように救ってくださったのでしょうか。そのために何をしてくださったのでしょうか。6節にはこうあります。

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」

「贖い」とは「代価を払って買い取る」という意味です。ですから、「贖いの代価」とは、身売りして奴隷となった人を買い取るために支払われる代価のことです。いわゆる身代金のことです。神は罪の奴隷であった私たちを買い取るために、キリストのいのちという代価を払ってくださいました。その代価によって私たちは自由にしていただけたのです。すべての人は生まれながら罪の奴隷であり、それゆえ、不自由で、良心の呵責に悩み、不安と恐れの中に生きなければならない者でしたが、そこから解放するためのイエス・キリストという方のいのちを、身代金を支払ってくださったというのです。キリストが十字架で死なれたというのは、私たちのすべてが自分の罪のために受けなければならなかった律法ののろいを、キリストが代わりに受けてくださったということなのです。というのは、律法には、「木にかけられた者はすべてのろわれたものであると書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

Ⅰヨハネ2章2節を開いてください。ここには、「この方こそ、私たちの罪のための―私たちの罪だけでなく、世全体のための―なだめの供え物です。」とあります。この方は私たちクリスチャンたちだけの罪のためではなく、全世界のための、なだめの供え物として十字架にかかって死んでくださったのです。キリスト教徒のためだけでなく、イスラム教徒のためにも、またユダヤ教徒のためにも、ヒンズー教徒も、仏教徒も、神道の人のためにも、さらには創価学会や幸福の科学、おうかんみち、立正佼成会といった人たちのためにも死んでくださったのです。すべての人のための贖いの代価として、ご自身をお与えになられたのです。

だから、すべての人がイエスの救いの恵みにあずかることができます。なぜなら、イエスはすべての人の贖いの代価として死んでくださったからです。でもすべての人が救われるわけではありません。なぜなら、中には「いりません」とか、「結構です」「間にあっています」という人がおられるからです。あるいは、信じたいけど、信じたら大変でしょ、毎週教会に行かなければならないし、組織にがんじがらめにされると、心配される方がいます。どうですか、皆さん、信じたら毎週教会にいかなければならないのでしょうか。いいえ、違います。そうではなく、信じたら行きたくて、行きたくてしょうがなくなるのです。神の御霊である聖霊を受けると、神ってもっと知りたいと思うようになるのです。週に一回では物足りない。もう毎日でも行きたくなるのです。そうでしょ。アーメン。だから、そういう心配は必要ないのです。すべての人のための贖いの代価として死なれたイエスを、救い主として信じて受け入れればいいのです。そうすれば、あなたも救われ、真理について知るようになります。神は、すべての人が救われてほしいと願っておられるのであって、この救いはあなたにも差し出されているのです。

7節でパウロは、「そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ・・教師とされました。」と言っています。宣伝者とは、王の命令を忠実に、正確に伝える人のことです。それから「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。パウロは若き伝道者テモテに、あなたもまたこのすばらしい福音を伝えるために神によって遣わされているんですよ、ということを思い起こさせています。それは人を永遠の滅びから永遠の救いへと導くすばらしい知らせです。そのような尊い務めがゆだねられているのです。それは本当にすばらしい務めではないでしょうか。

そして、その務めに私たちも任じられているのです。私たちも宣伝者、使徒として、教師として遣わされているのです。それはまことに光栄なことではないでしょうか。ですから、私たちはいつもこの遣わされているということを覚え、その遣わされた先々で、このすばらしい恵みの福音を証する者でありたいと思います。あなたが遣わされている家庭や学校、職場、地域社会のすべては、神よって遣わされているのです。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。そのハートをハートとして、その遣わされたところで福音のすばらしさを証していく者でありたいと思います。