民数記36章

きょうは民数記36章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。 

Ⅰ.ヨセフ族の訴え(1-4) 

「ヨセフ族の一つ、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する諸家族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに訴えて、言った。「主は、あの土地をくじによってイスラエル人に相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を、彼の娘たちに与えるように、あなたは主に命じられています。もし彼女たちが、イスラエル人の他の部族の息子たちにとついだなら、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の相続地から差し引かれて、彼女たちがとつぐ部族の相続地に加えられましょう。こうして私たちの相続の地所は減ることになります。イスラエル人のヨベルの年になれば、彼女たちの相続地は、彼女たちのとつぐ部族の相続地に加えられ、彼女たちの相続地は、私たちの父祖の部族の相続地から差し引かれることになります。」

ここには、マナセ族の一つの氏族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに何やら訴えたことが記されています。その訴えの内容は、マナセ族のツェロフハデの相続地に関することです。彼らが他の部族の人と結婚してとついで行ったなら、その土地はその部族の土地に加えられるため、自分たちの相続地が減ることになるのではないか、というものです。 

思い出せるでしょうか、27章1節から11節までのところには、ヨセフ族のツェロフハデには男の子がなく5人の娘たちばかりだったので、この5人の娘たちが、自分たちに父の相続地が与えられないのはおかしいと、モーセに訴えたのでした。それでモーセがこれを主の前に出して祈ったところ、主はその訴えはもっともであると言われ、彼女たちにも父の相続地を渡すように仰せになられました。

しかし、ここでまた新たな問題が生じました。そのように彼女たちが父の相続地を受けるのは構わないけれども、もし彼女たちが別の部族の人と結婚するようなことがあれば、その土地はその部族の相続地に加えられることになり、自分たちの相続地が減ってしまうのではないかということです。そこでマナセ族のかしらたちがやって来て、モーセに訴えたのです。 

Ⅱ.主のみこころ(5-9)

そのことに対する主の答えはどのようなものだったでしょうか。5節から9節までをご覧ください。

「そこでモーセは、主の命により、イスラエル人に命じて言った。「ヨセフ部族の訴えはもっともである。主がツェロフハデの娘たちについて命じて仰せられたことは次のとおりである。『彼女たちは、その心にかなう人にとついでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。』」  主は、このヨセフ部族の訴えはもっともであると言われ、彼女たちは父の部族に属する氏族、すなわち、ヨセフ族の人たちのところにとつがなければならない、と言われました。なぜでしょうか。イスラエル人は、おのおの父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからです。神から与えられた相続地は、他の部族へ移してはなりませんでした。イスラエルの各部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならなかったのです。 

いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。いったいなぜこのことが民数記の最後のところに記されてあるのでしょうか。このことは私たちクリスチャンにどんなことを教えているのでしょうか。それは、私たちクリスチャンに与えられた相続地も変わらないということです。それは不変であり、不動のものなのです。私たちの行いにかかわらず、神が私たちに与えてくださった相続地はいつまでも変わることがないのです。 

ペテロはこう言いました。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(Ⅰペテロ1:4) 

私たちに与えられている相続地は、朽ちることも汚れることも、消えていくこともないものです。それが天にたくわえられているのです。そして、やがてそのような資産を受け継ぐようになると思うとき、たとえ今、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないようなことがあったとしても、喜びを持つことができます。たましいの救い、永遠のいのちを得ているからです。これはすばらしい約束ではないでしょうか。 

 また、ここには、「イスラエル人は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。」ということが強調されています。ということは、私たちが守らなければならない相続地があるということです。私たちには神からすばらしい相続地が与えられていながら、いろいろなことでそれを失ってしまうことがあります。その一つが試練でありましょう。私たちはこの地上にあってさまざまに試練にあうたびに信仰が試されることがありますが、どのようなことがあっても、神から与えられた相続地を堅く守っていかなければならないのです。 

Ⅲ.ツァロフハデの娘たちの応答(10-13) 

 さて、このように語られた主のことばに対して、ツァロフハデの娘たちはどのように応答したでしょうか。10節から13節までをご覧ください。

「ツェロフハデの娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。ツェロフハデの娘たち、マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカおよびノアは、そのおじの息子たちにとついだ。彼女たちは、ヨセフの子マナセの子孫の氏族にとついだので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残った。」 

ツァロフハデの五人の娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行い、そのおじの息子たち、すなわち、従兄弟のところにとつぎました。彼女たちがそのようにしたので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残ったのです。 

「これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。」 

 これらが、エリコに近いモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じたことでした。特にこの民数記の26章からは、イスラエルが約束の地に入ってからどうあるべきなのかについて語られましたが、それは私たちの信仰生活そのものでもあります。私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救いの中に入れられました。神の相続地に入れさせていただきました。そこでは堅く守らなければならないものがたくさんあることに気付かされます。神の相続を受けたからもう大丈夫だというのではなく、神の相続地を受けたからこそそれを堅く守り、神のみことばに従順に聞き従う者でなければなりません。それが神の恵みによって救われた者としてのふさわしい応答なのです。

民数記35章

きょうは民数記35章から学びます。

Ⅰ.レビ人の相続地(1-8)

「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、その所有となる相続地の一部を、レビ人に住むための町々として与えさせなさい。彼らはその町々の回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。町々は彼らが住むためであり、その放牧地は彼らの家畜や群れや、すべての獣のためである。あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトでなければならない。町の外側に、町を真中として東側に二千キュビト、南側に二千キュビト、西側に二千キュビト、北側に二千キュビトを測れ。これが彼らの町々の放牧地である。主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」

まず1節から5節までをご覧ください。ここにはレビ人が受ける相続地について記されてあります。イスラエルの12部族には相続地が割り当てられましたが、レビ人にはありませんでした。それは18章20節に、主ご自身が彼らの相続地であるとあるからです。それで主はモーセを通して、レビ人が住むための町々、また、彼らの家畜の群れや、すべての獣のための放牧地つきの48の町を、イスラエルの所有地のうちからレビ人に与えるようにと命じられました。

彼らに与えられる町と放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトです。1キュビトは約44センチなので、千キュビトは約450メートルになります。5節がどのような意味がよくわかりませんが、これが4節の言い換えと考えれば、以下のように、町自体の城壁の幅+その外側に一千キュビトということになります。               

次に6節から8節までをご覧ください。

「あなたがたが、レビ人に与える町々、すなわち、人を殺した者がそこにのがれるために与える六つの、のがれの町と、そのほかに、四十二の町を与えなければならない。あなたがたがレビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地つきである。あなたがたがイスラエル人の所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。おのおの自分の相続した相続地に応じて、自分の町々からレビ人に与えなければならない。」すから、東西南北それぞれ900メートルの正方形になります。ヨシュア記21章には、彼らがカナンの地を占領したとき、ここに記されてある通りにレビ人に放牧地つきの48の町が与えられたことがわかります。 」

4節と5節で示された放牧地の町を48レビ人に与えなければなりません。そのうちの6つは、人を殺した者が逃れるための、逃れの町です。のがれの町については11節以降で見ていきたいと思いますが、ここでは、それらの町々はイスラエルの所有地のうちから与えられるということと、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならないことあります。

ここで興味深いことは、レビ人の町はイスラエル十二部族全体に散らされるような形で置かれたということです。これはどういうことでしょうか。そのようにレビ人がイスラエル全体に散らされることによって、彼らが主に贖われた主の民であることを絶えず思い起こさせ、彼らのうちに主への恐れと敬虔を呼びさましたということです。このことからも、主が、イスラエル全体が祭司の国、つまり神ご自身の国であることを示しておられたのです。

Ⅱ.のがれの町(9-15)

最後に9節から15節までをご覧ください。

「主はモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるとき、 あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。ヨルダンのこちら側に三つの町を与え、カナンの地に三つの町を与えて、あなたがたののがれの町としなければならない。これらの六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在住異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。」

 のがれの町とは、あやまって人を殺した者がそこに逃れることができるようにと定められた町です。この町々は、彼らが復讐する者からのがれるところで、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことがないようにと定められた町々です。律法には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」(出21:12)とあります。しかし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こさせた場合、のがれる場所が用意されました(出21:13)。

この「復讐をする者」とは、19節以下の「血の復讐をする者」のことで、ヘブル語で「ゴーエール」という原語が用いられています。この語は、ルツ記で、「買戻しの権利のある親類」(ルツ3:9)と訳されてあるように、奴隷となった親類や、相続地の権利等を買い戻す権利、あるいは、その義務のある当事者に最も近い親類を指す語です。ここでは、殺された者の親類で、殺された者の血を贖う者(出21:23)、報復する義務のある者を指しています。彼らは、相手から事情を聞く前に手を下すことが大いにあり得たので、あやまって人を殺した者を守る必要があったのです。それで、ヨルダン川の東側と西側にそれぞれ三つずつ、北から南まで満遍なく広がった形で置かれました。

 Ⅲ.殺人者に対する規定(16-34)

 最後に16節から終わりまでを見ていきましょう。ここには、殺人者に対する規定が記されてあります。まず16節から21節までをご覧ください。

「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。」

不慮の事故であったのか、それとも故意の殺人であったのかは、手段と動機で計られます。「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたら」、それは故意の殺人であって、その者は必ず殺されなければなりません。「人を殺せるほどの石の道具」の場合も同様です。また、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせた」場合も同じです。それは故意による殺人で、その者は、必ず殺されなければなりませんでした。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよいし、彼と出会ったときに、彼を殺しても構いませんでした。

次に動機です。「憎しみ」「悪意」「敵意」をもって死なせるなら、それは故意の殺人であって、その者は必ず殺されなければなりませんでした。その血の復讐をする者は、彼と出会った時に殺しても構いませんでした。たとえ逃れの町にのがれたとしても、そこから追い出して、血の復讐をする者に引き渡すことができたのです。

次に22節から29節までをご覧ください。

「もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」

 ここでは、過失致死の場合の取り扱いについて語られています。すなわち、もし敵意なく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでなければ、その人をどうするかということです。これは、たとえば、一緒に木こりの仕事をしていて、斧の頭が取れて同僚の頭にぶつかり、死んでしまった、といった場合です。その場合は、会衆が、殺人者とその血の復讐をする者の間に入って、それが故意によるものなのか、過失によるものなのかを前述の規定に従って判断し、もしそれが過失による殺人の場合であれば、彼をその復讐する者の手から救い出し、彼が逃げ込んだその逃れの町に返してやらなければなりません。彼は聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければなりませんでした。これはどういうことかというと、確かにそれは意図的なものでなく、偶発的なものであったとしても、血を流したことに対しては贖いが求められたということです。大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うに十分なものだったのです。

なぜ大祭司の死がその贖いのために十分だったのかというと、この大祭司は大いなる大祭司であられるイエス・キリストの型であったからです。すなわち、それはイエス・キリストの死を表していたからなのです。イエス・キリストは大いなる大祭司として、永遠の御霊によって、全く汚れのないご自分を神にささげ、その死によって世の罪のためのなだめの供え物となられました。ちょうど大祭司の死によって、あやまって人を殺した者の罪の贖いがなされ、自分の所有の地に帰ることができたように、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来たものたちが、罪によって失われた嗣業を受けるに足る者とされ、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができるようになったのです。従って、あやまって人を殺した場合は、聖なる油が注がれた大祭司の死まで、自分の家族から離れて、亡命の状態にとどまることが要求されたのです。

従って、もしあやまって人を殺した者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界の外に出て行ったために、血の復讐者が彼を見つけて殺しても、血の復讐者にはその罪は帰せられません。なぜなら、あやまって人を殺した者は、大祭司が死ぬまでのがれの町にとどまっていなければならなかったのに、勝手にそこから出てしまうことをしたからです。ただ大祭司の死後は、自分の町に帰ることができました。彼の罪が贖われたからです。

次に30節から34節までをご覧ください。

「もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」

殺人者を死刑に定めるには、証人の証言がなければなりませんでした。しかもその証言は複数でなければなりませんでした。ここには何人とは書いてありませんが、申命記17章6節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言」とあります。どんな咎でも、どんな罪でも、ひとりの人の証言によっては罪に定めることはできませんでした。また、その証言は偽りの証言をしてもなりませんでした。

また死刑にあたる罪を行った殺人者の場合、殺人者のいのちのための贖い金を受け取って、彼を赦してはなりませんでした。それは必ず殺されなければならなかったのです。なぜなら、33節にあるように、血は土地を汚すからです。すなわち、血を流す罪、殺人が行われた時に、血は汚されたのです。その土地が贖われるには、その血を流した者の血が流され、贖われなければならなかったのです。イスラエルは、自分たちの住む土地、すなわち、主がそのうちに宿る土地を汚してはならなかったのです。主である神が、その真ん中に宿るからです。

このことは、私たちにも言えることです。ヘブル書9章22節には、「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあるように、私たちの心の汚れは、イエス・キリストの血によってしかきよめられることはできません。イエス・キリスの血だけが、私たちをすべての悪からきよめてくださり、神がともに宿ることを実現させてくださったのです。

また、一度救われて主の御住まいとなった者が、その霊肉を罪で汚してはならず、もしあやまって罪を犯したならば、罪を言い表してきよめていただかなければならないのです。神は真実で、正しい方ですから、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、すべての悪からきよめてくださるのです。

約束の地を前にして、神がモーセを通してこれらのことを語られたのは、彼らが受け継ぐ地を汚すことがでないように、そして、もしあやまって汚すようなことがあったら、このようにしてきよめられることを教えるためだったのです。

民数記34章

きょうは民数記34章から学びます。

Ⅰ.相続となる地カナンの境界線(1-15)

「主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」

1節と2節をご覧ください。主は、イスラエルが約束の地に入って行ってから彼らに与えられる相続地の境界が示されました。まず南側の境界が3節から5節までに記されてあります。

「あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東のほうの塩の海の端に始まる。その境界線は、アクラビムの坂の南から回ってツィンのほうに進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南である。またハツァル・アダルを出て、アツモンに進む。その境界線は、アツモンから回ってエジプト川に向かい、その終わりは海である。」

南側の境界は、エドムに接するツィンの荒野、すなわち、塩の海の端に始まります。そしてアクラビムの丘陵地帯の南側から回ってツィンの荒野の方に進み、その終わりはカデシュ・バネアの南です。それからエジプト川まで続き、地中海に達します。これが南の境界線です。

6節には西の境界線が記されてあります。それは地中海とその沿岸です。何もありませんので、これはよくわかります。

では北側の境界線はどうでしょうか。7節から9節にあります。

「あなたがたの北の境界線は、次のとおりにしなければならない。大海からホル山まで線を引き、 さらにホル山からレボ・ハマテまで線を引き、その境界線の終わりはツェダデである。ついでその境界線は、ジフロンに延び、その終わりはハツァル・エナンである。これがあなたがたの北の境界線である。」

ホル山やツェダデがどこなのかその位置が明確ではありません。ただハツァル・エナンの場所はある程度特定されているので知ることができますが、それは驚くことに今のレバノンの北、そしてシリヤのところにまで及んでいるのがわかります。イスラエルに約束された地は、かなりの領域にわたっていたことがわかります。

そして東の境界線については10節から12節までにあります。

「あなたがたの東の境界線としては、ハツァル・エナンからシェファムまで線を引け。その境界線は、シェファムからアインの東方のリブラに下り、さらに境界線は、そこから下ってキネレテの海の東の傾斜地に達し、さらにその境界線は、ヨルダンに下り、その終わりは塩の海である。以上が周囲の境界線によるあなたがたの地である。」

キネレテの海とはガリラヤのヘブル語です。ですから、これはガリラヤ湖のことです。そこからヨルダン川を下り、その終わりが塩の海までの領域です。ヨルダンの東側については既にガド族とルベン族、マナセの半部族が相続していたので、それを除く残りの9部族と半部族が受け継ぐべき地が示されているものと思われます。それは次の箇所にこう記されてあるからです。13節から15節までをご覧ください。

「モーセはイスラエル人に命じて言った。「これが、あなたがたがくじを引いて相続地とする土地である。主はこれを九部族と半部族に与えよと命じておられる。ルベン部族は、その父祖の家ごとに、ガド部族も、その父祖の家ごとに相続地を取っており、マナセの半部族も、受けているからである。 この二部族と半部族は、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸、東の、日の出るほうに彼らの相続地を取っている。」

イスラエルに約束された相続地は、くじによって決められました。これは箴言16:33にあるように、そのすべての決定は主から来るとあるからです。彼らは自分たちによって決定するのではなく、その決定のすべてを主にゆだねたのです。

ここで創世記15章18節から21節までを開いてください。ここには神がアブラハムに与えると言われた土地が記されています。そして、何とここにはエジプト川からユーフラテス川までとあります。ユーフラテス川というのはアラビヤ半島へ注ぎ込むユーフラテス川の上流域のことです。それはこの相続地の北の境界線にありました。ですから、彼らはアブラハムに約束された地のほとんどを相続するようになったのです。

Ⅱ.土地分配の仕方(16-29)

最後に、16節から29節までをご覧ください。

「主はモーセに告げて仰せられた。 「この地をあなたがたのための相続地とする者の名は次のとおり、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアである。あなたがたは、この地を相続地とするため、おのおのの部族から族長ひとりずつを取らなければならない。」

ここには、この地をどのように相続すべきかのもう一つの点が記されています。それは。相続地とする者が選ばれ、彼らを通して割り当てがなされていったということです。今でいうと遺言執行人のような役割を果たした人です。それが祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアでした。彼らの下にイスラエルのそれぞれの部族から族長をひとりずつ取り、割り当てられました。日本でもそうですが、遺産相続をめぐっては本当に多くの問題が起こります。そのことが原因で家族がいがみ合って、憎み合って、もう口も利かないというケースにも発展することも少なくありません。そういうことがないように、遺言執行人を定め、公正に遺産を相続するようにしていますが、ここでも祭司エリアザルとヌンの子ヨシュアという遺言執行人を立て、彼らを通してそれぞれの部族に相続したのです。

 さて、このようにして神が約束してくださった地の相続が行われたわけですが、ここで私たちが覚えておかなければならないことは、私たちにも神からの割り当て地が与えられているということです。それは想像を絶するような霊的遺産です。それは天の御国です。それが私たちに約束されているのです。であれば、ガド族やルベン族のように、ここは居心地がいいからここに留まっていようとしたり、この地上のものに執着し、神が約束してくださったものを手に入れることができないというようなことがないように注意すべきです。いつも与えられた約束の地を見て、そこを目指してただ前進していかなければなりません。もし目の前に石像や鋳造があれば、あるいは高き所があれば粉砕し、ただひたむきに約束の地を目指して進まなければならないのです。パウロはこう言いました。

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどとは考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:13-14)

主はあなたを約束の地、天の御国に必ず導いてくださいます。そこに入って行くことができるのです。想像を超えたこの御国を、相続する者とさせていただく者として、ひたむきに前のものに向かって進み、目標目指して一心に走る者でありたいと思います。

民数記33章

きょうは民数記33章から学びます。

Ⅰ.イスラエル人の旅程(1-49)

 1. 出エジプト(1-4)

まず1節から4節までをご覧ください。

「モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとに、エジプトの地から出て来たイスラエル人の旅程は次のとおりである。モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。」

ここには、イスラエルがエジプトを出てから今の時点、すなわちヨルダン川のエリコの向かいにあるモアブの草原までどのように導かれてきたかの旅程が記されてあります。まず4節までのところには、彼らがエジプトを出た時のことがまとめられています。まずイスラエルはモーセとアロンの指導のもとに、軍団ごとにエジプトから出発しました。それは1年後にシナイの荒野で整備されたような整えられたものではありませんでしたが、ある程度の秩序を保っていたことがわかります。そうでないと約60万人の男子と、女子、こどもを加えて200万人を超える人たちと、多くの家畜を引き連れて一夜のうちに旅立つことは困難だったからです。ここで強調されていることは、彼らは「全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。」ということです。それは主が力強い御手によって連れ出されたからです(出エジプト13:9,14,16)。

2. 第一段階~エジプトからシナイの荒野まで~(5-15)

次に、5節から15節までをご覧ください。ここにはエジプトを出てからシナイ山までの旅程が記されてあります。ここではまず8節の「ピ・ハヒロテから旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい」ということばが強調されています。これは出エジプト記14章にある出来事ですが、イスラエルがエジプトを出た後、背後からエジプト軍が追ってきましたが、目の前間は紅海で全く逃げ場を失うという絶対絶命のピンチの中で、主が奇跡的なみわざによって海の真ん中に乾いた道を作られ、それを通って救われましたことが書かれてあります。

それから9節の、「エリムには12の泉と、70本のなつめやしの木があり、そこに宿営した」ということも強調されています。そこではどんなことがあったでしょうか。これは出エジプト15章にある出来事ですが、彼らは荒野の旅の中で水がなく苦しんでいたときマラという所に来て水を見つけましたが、その水は苦くて飲むことができませんでした。それでモーセが主に叫ぶと、主が1本の木を示されたのでそれを水の中に投げ入れました。するとそれは甘くなり、飲むことができるようになりました。それで彼らはエリムに到着することができました。それは、彼らが主の命令に聞き従うなら主は彼らをいやし、なつめやしの木のように潤してくださることを教えるためのものでした。

そして、14節の「レフィデム」に宿営したことについて、それぞれ簡単な出来事が記録されています。そこでも彼らは、飲み水がなく大変苦しみました。しかし、モーセがホレブの岩の上に立ち岩を打つと、そこから水が流れ出ました。彼らは主を信じることができず主と争ったため、そこはマラ(争う)と名付けられましたが、大切なことはどんな時でも主の御声に従うことであるということを学びました。そして、レフィデムではもう一つの大切な出来事がありました。それはアマレクとの戦いです。ヨシュアが戦い、モーセが祈りの手を上げて祈ったことで、彼らは勝利することができました。

3. 第二段階~シナイの荒野からリマテまで~(16-18)

次に16節から18節までをご覧ください。ここにはシナイの荒野からリマテまでの旅程が記されてあります。ここから民数記に記録されてある内容です。彼らはシナイの荒野で律法が与えられ、幕屋が与えられ、また大掛かりな人口調査が行われ、軍隊が編成されて、神の民として整えられてシナイの荒野からカナンの地に向かって出発しました。それはエジプトを出た第二年目の第二の月の二十日のことでした(民数記10:11)。

キブロテ・ハタアワでは、イスラエルの民が食べ物のことでつぶやいたので、うずらが与えられましたが、主は彼らの欲望に対して怒りを燃やし、激しい疫病で民を打たれたので、欲望にかられた民はそこで死に絶えました。ここで印象的なみことばは民数記11:23の「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる。」というみことばです。主の御手が短いことはありません。主はどんなことでもおできになる方です。私たちに求められていることは、この主にただ従ことなのです。

ハツェロテでは、ミリヤムとアロンがモーセに逆らったのでミリヤムは神に打たれてらい病になりました。

そして18節にはリテマに宿営したとありますが、このリテマとはどこにあるのかがよくわかりません。そして、ハツェロテの後で、この荒野の旅程で最も悲劇的な事件が起こりましたが、そのことについてここには全く記録されていないのが不思議です。それはカデシュ・バルネアでの出来事でした。約束の地まで間もなくというところにやって来たとき、イスラエルはその地を偵察すべく12人のスパイを送るのですが、そのうちの10人は否定的な情報をもたらし、そのことを信じたイスラエルの民は嘆き悲しみました。彼らは主のみことばに従いませんでした。主は「上って行って、そこを占領せよ。」と言われたのに、彼らは民のことばを信じておびえてしまったのです。それでイスラエルはその後38年間も荒野をさまよってしまうことになりました。ただヌンの子ヨシュアとカレブだけが主に従い通したので、後に約束の地に入ることができましたが、その他の20歳以上の男子はみな荒野で死に絶えてしまいました。あの最大の事件がここに出ていないのです。なぜでしょうか。民数記12:16には、「ハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した」とあり、13:26には、「パランの荒野のカデシュ」とあることから、この二つの荒野の近くにあったのがこのリテマではないかと考えられているからです。つまり、このリテマこそがカデシュ・バルネアではないかと考えられているのです。

  1. 第三段階~リテマからホル山~(19-40)

次に、19節から40節までをご覧ください。ここにはそのリテマからホル山までの旅程が記されてあります。これがいつの出来事なのかははっきりしていませんが、おそらくカデシュ・パルネアでの出来事の後の38年に及ぶ旅程ではないかと思われます。エジプトを出てから40年目の第五の月の一日に、アロンはこのホル山で死にました。それはメリバの水の事件(民数記20:11)で、モーセとアロンは主に従わなかったからです。それで彼らは約束の地に入ることができませんでした。

  1. 第四段階~ホル山からモアブの草原まで~(41-49)

イスラエルの旅程の最後はホル山からモアブの草原までの道のりです。41節から49節までをご覧ください。彼らはホル山からエドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った(民数記21:4)ので、まず南に下り、エツヨン・ゲベルまで南下して、次いでエドムを避けながらプノンまで北上したものと思われます。そしてやっとの思いで今、約束の地に入る手前まで来たのです。

 

それにしても、いったいなぜここで40年間の荒野の旅路を書き記す必要があったのでしょうか。これは主の命令であったとありますから、そこには何らかの主の意図があったものと思われます。おそらくそれは、それが力強い主の御手によって導かれたことを示すねらいがあったのでしょう。それは「旅立って、宿営した」という言葉が何回も繰り返されていることからもわかります。彼らは雲の柱と火の柱によって導かれました。彼らはその時は、雲しか見えなかったかもしれません。夜は火の柱しか見えません。けれども、振りかえれば、主が行なわれた道を辿ることができたのです。アメリカのカルバリーチャペル牧師チャック・スミスはこう言っています。

「イエス・キリストの愛の御手に自分の永遠の運命を信仰によってお任せしたら、神が働かれているのを確かに見ることができるでしょう。そしてあなたの人生の出来事や状況を、麗しいモザイクに形づくられているのを知ります。それは、あなたの周りにいる人々にご自分の御子を明らかにするためです。あなたが生まれた時以来、この方の御手があなたの上にあります。」

私たちも今はわからないことがありますが、確かに主は雲の柱と火の柱をもって私たちを導いておられるのです。主の御手がいつも私たちの上に置かれているのを見て、信仰をもってそれにすべてをゆだねつつ、信仰の旅路を歩ませていただきたいと思います。

Ⅱ.カナンの地に入るとき(50-56)

 最後に50節から56節までをご覧ください。

「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときには、その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造をすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならない。あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住みなさい。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。大きい部族には、その相続地を多くし、小さい部族には、その相続地を少なくしなければならない。くじが当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。」

ここには、カナンの地に入る時に守るべき事柄が語られています。それは、その地の住民をことごとく彼らの前から追い払うようにということです。彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造もすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならないのです。なぜでしょうか?それは主の土地であって、彼らが所有するように、主が彼らに与えてくださったものだからです。すなわち、それは主の聖なるところだからです。そこには他の神々があってはならないのです。だから、それらを徹底的に粉砕しなければなりませんでした。そうでないと、その偶像が彼ら自身を悩ますようになります。事実、ヨシュアの死後、彼らはその地の住民を追い払わなかった結果、彼らは偶像礼拝に引きずり込まれる結果となりました(士師2:11,12)。敵に苦しめられ、神にさばきつかさが与えられますが、やがてまた偶像に引かれていくことを繰り返すようになったのです。それは特に士師の時代に著しいですが、イスラエルが偶像と全く縁を切ることができなかったことはその歴史が証明しています。

私たちの住むこの日本にもこうした異教的な風習がたくさんありますが、主に贖われたものとして、聖なる者として、そうしたものに心が奪われることがないように、それらを取り除いていくことが求められています。このくらいはいいだろうと妥協せず、汚れから離れ、何が良いことで、神に受け入れられるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。(ローマ12:2Ⅱコリント6:14-18)。

民数記32章

きょうは民数記32章から学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

Ⅰ.ルベン族とガド族の願い(1-15)

「ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」

26章から、イスラエルが約束の地に入るための備えが語られていますが、そのような時、「ルベン族とガド族」から、モーセと祭司エリアザルに一つの願いが出されました。それは、ヨルダンの東側にあったヤゼルの地とギルアデの地を見るとその場所は家畜に適した場所だったので、その地を自分たちに与えてほしいということでした。そして、自分たちがヨルダン川を渡ることがないようにしてほしいというのです。なぜなら、彼らは非常に多くの家畜を持っていたからです。ミデヤン人たちからの戦利品としての家畜も加わり、たいへん多くなっていました。「ヤゼルの地とギルアデの地」は、彼らがエモリ人シホンを打ち破った時に占領したところです。モアブの地であるアルノン川からヤボク川までがヤゼル、ヤボク川からガリラヤ湖の南端へ走っているヤムルク川までがギルアデの地です。

それに対してモーセは何と答えたでしょうか。6節から15節までをご覧ください。

「モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか。どうしてあなたがたは、イスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えた地へ渡らせないようにするのか。私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、主が彼らに与えられた地にはいって行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。その日、主の怒りが燃え上がり、誓って言われた。『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは主に従い通したからである。』主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主の目の前に悪を行なったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。そして今、あなたがた罪人の子らは、あなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りをさらに増し加えようとしている。あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたはこの民すべてに滅びをもたらすことになる。」

モーセは怒って言いました。彼らの兄弟たちは戦いに行くというのに、彼らはそこにとどまろうとするのか。どうしてそのようにイスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えられた地へ渡らせないようにするのか。それはかつてイスラエルがカデシュ・バルネアからその地をさぐらせるために遣わしたときにふるまったことと同じではないか。神が、上って行って、そこを占領せよ、と仰せられたのに、彼らは従わなかったので、主の怒りを招くこととなり、四十年間荒野をさまようことになってしまいました。それと同じことだというのです。そして、もし主のみことばに背いて主に従わなければ、主はまたこの民を見捨てられると言いました。それは全く自己中心的な願いであると言ったのです。

主がヨルダン川東岸の民を追い出されたのは、そこにイスラエルが定住するためではありませんでした。それは彼らがイスラエルに敵対し、戦いを挑んできたからに過ぎません。また主が彼らの家畜を増やされたのもそこに住むためではなく、彼らが約束の地で生活するためでした。彼らが住むところはあくまでもヨルダン川を渡ったカナン人の地なのに、たまたま住むのに良さそうだからという理由で、これらのものを自分のものにしようとするのはよくありません。   これは、私たちクリスチャンにもよくあることです。私たちはよく、 「私たちの願いがかないますなら」 と言って、自分の願い、自分の思いを満たすことを神の教会に求めてしまうことがありますが、それは間違っています。教会は自分の願いをかなえるところではなく、神の願い、神のみこころを行うために集められた所です。それなのに、自分の都合だけを考えて満足を得ようとするのは、このルベン族やガド族が抱いていた思いと同じことです。今の状態のままでいたい、これから前進しなくてもいい、このままの状態で留まっていたいと願うのは、ここでルベン族とガド族が言っていることと同じことなのです。私たちはもう一度考えなければなりません。自分が救われたのは何のためか、何のために教会に集められたのか・・・を。それは自分の願いをかなえるためではなく、神のみこころを行うためなのです。

Ⅱ.ルベン族とガド族の誓い(16-32)

それに対して、彼らは何と言ったでしょうか。16節から19節までをご覧ください。

「彼らはモーセに近づいて言った。「私たちはここに家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます。私たちの子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。私たちは、イスラエル人がおのおのその相続地を受け継ぐまで、私たちの家に帰りません。私たちは、ヨルダンを越えた向こうでは、彼らとともに相続地を持ちはしません。私たちの相続地は、ヨルダンのこちらの側、東のほうになっているからです。」

それを聞いた彼らは、自分たちはイスラエルが約束の地に入るまで、武装して、先頭に立って戦うと言いました。イスラエル人がおのおのその相続地を受けるまで、自分たちの家には帰らないと明言したのです。これは一見、主のみこころに従って、自分の分を果たしているかのように思えますが、しかし、根本的にはやはり自分の願いを通しているにすぎません。結局、ヨルダン川東岸を自分の土地にするということには変わりがないからです。自分たちを完全に明け渡していないのです。こうするから、こうしてくださいという、条件付きの従順です。それは主が求めておられることではありません。主が求めておられることは無条件で従うことです。その後のことは主が最善に導いてくださると信じて主にゆだねることなのです。

時々、私たちも、主のみこころに自分自身を明け渡すこのではなく、このように条件を付けて、少し距離を取りながら、自分の願いをかなえられようとしていることはないでしょうか?そして、付け足しのように、お手伝いをして、自分も主に仕えているかのように振る舞っていることはないでしょうか。心の深いところにある動機を聖霊によって探っていただく必要があります。そして、純粋に主に従う者でありたいと思います。

それでモーセはどうしたでしょうか。20節から32節までをご覧ください。

「モーセは彼らに言った。「もしあなたがたがそのようにし、もし主の前に戦いのため武装をし、あなたがたのうちの武装した者がみな、主の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。しかし、もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは主に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。あなたがたの子どもたちのために町々を建て、その羊のために囲い場を作りなさい。あなたがたの口から出たことは実行しなければならない。」ガド族とルベン族はモーセに答えて言った。「あなたのしもべどもは、あなたの命じるとおりにします。私たちの子どもたちや妻たち、家畜とすべての獣は、そこのギルアデの町々にとどまります。 しかし、あなたのしもべたち、いくさのために武装した者はみな、あなたが命じられたとおり、渡って行って、主の前に戦います。」 そこで、モーセは彼らについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエル人の部族の諸氏族のかしらたちに命令を下した。モーセは彼らに言った。「もし、ガド族とルベン族の戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダンを渡り、主の前に戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。もし彼らが武装し、あなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」ガド族とルベン族は答えて言った。「主があなたのしもべたちについて言われたとおりに、私たちはいたします。私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行きます。それで私たちの相続の所有地はヨルダンのこちら側にありますように。」

それでモーセは、もし彼らが主の前に戦いの武装をし、ヨルダン川を渡って、その敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服された後に帰るのであればいいと、それを許しました。その結果どうなったでしょうか。32節から42節までをご覧ください。

 

Ⅲ.新しい名を付けたガド族とルベン族 (33-42)

「そこでモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土とを与えた。そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、ネボ、バアル・メオン・・ある名は改められる。・・またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。マナセの子マキルの子らはギルアデに行ってそこを攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。それでモーセは、ギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住みついた。マナセの子ヤイルは行って、彼らの村々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。ノバフは行って、ケナテとそれに属する村落を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。」  ここにヨセフの子マナセの半部族も加わっていることがわかります。モーセは、ガド族とルベン族とマナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土を与えました。彼らは自分たちのために町を建て、その建て直した町々に新しい名をつけましたが、それはすべて自分たちの名前にちなんでつけました。神ではなく自分の名前です。ここに彼らの本心が表れているのではないでしょうか。主のみこころを求めず、自分のことで満足しているならば、結局それは自分自身を求めていることなのです。

そうした自分中心の信仰には、やがて必ず主の正しいさばきがあることを覚えておかなければなりません。彼らはモーセに約束したように、確かにヨルダン川を渡って、他の部族とともに戦いました。そして、ヨルダン川の東側を自分たちの所有としました。しかし、その後歴史はどうなったでしょうか。イスラエルがカナンを占領して後、ダビデの時代に統一王国となりますが、その後、国は二分され、ついに外国によって滅ぼされることになります。その時最初に滅ぼされたのはガド族とルベン族でした。彼らはアッシリヤ帝国によって最初の捕囚の民となりました。そして、主イエスの時代には、そこはデカポリスという異邦人の地になっていました。マルコの福音書5章には、イエスさまがゲラサ人の地に行ったとき、そこで汚れた霊につかれた人から霊を追い出し、それを豚に乗り移させたという記事がありますが、それがこのデカポリス地方、ゲラサ人の地、ガダラ人の地だったのです。この「ガダラ人の地」とはガド族の人々の土地という意味で、そこは悪霊がたくさんいました。そこはユダヤ人が豚を飼うほど異教化していたのです。

ですから、私たちの信仰生活においても、自分の満足を求めるだけで神のみこころに歩もうとしなければ、このガド族やルベン族が歩んだのと同じ道を歩むことになることを覚え、ますます主のみこころに歩んでいきたいと思います。

民数記31章

きょうは民数記31章から学びます。

Ⅰ.主の復讐(1-24)

「主はモーセに告げて仰せられた。「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる。」そこでモーセは民に告げて言った。「あなたがたのうち、男たちは、いくさのために武装しなさい。ミデヤン人を襲って、ミデヤン人に主の復讐をするためである。イスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつをいくさに送らなければならない。」それで、イスラエルの分団から部族ごとに千人が割り当てられ、一万二千人がいくさのために武装された。モーセは部族ごとに千人ずつをいくさに送った。祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともにいくさに送った。彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺した。彼らはその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。イスラエル人はミデヤン人の女、子どもをとりこにし、またその獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼いた。そして人も獣も、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、捕虜や分捕ったもの、略奪したものを携えて、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに来た。モーセと祭司エルアザルおよびすべての会衆の上に立つ者たちは出て行って宿営の外で彼らを迎えた。モーセは軍勢の指揮官たち、すなわち戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して怒った。モーセは彼らに言った。「あなたがたは、女たちをみな、生かしておいたのか。ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行なわせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。31:17 今、子どものうち男の子をみな殺せ。男と寝て、男を知っている女もみな殺せ。男と寝ることを知らない若い娘たちはみな、あなたがたのために生かしておけ。祭司エルアザルは戦いに行った軍人たちに言った。「主がモーセに命じられたおしえのおきては次のとおりである。金、銀、青銅、鉄、すず、鉛、すべて火に耐えるものは、火の中を通し、きよくしなければならない。しかし、それは汚れをきよめる水できよめられなければならない。火に耐えないものはみな、水の中を通さなければならない。あなたがたは七日目に自分の衣服を洗うなら、きよくなる。その後、宿営にはいることができる。」

この31章は、26章から続く約束の地に入る備えが語られています。1節から3節までのところを見ると、主はモーに、ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いるようにと命じておられます。その後彼は彼らの民に加えられます。つまり、この出来事の後でモーセは死に、彼らの民に加えられるということです。いわば、これがモーセの最後の務めであったわけです。これから約束の地に入ろうとしていたイスラエルに、いったいなぜこのようなことが命じられたのでしょうか。

その背景には25章の出来事がかかわっています。25章1節には、イスラエルがシティムにとどまっていた時、モアブの女たちとみだらなことをしたことが記録されています。これは偽りの預言者バラムの助言によってモアブの王バラクがモアブの女たちをイスラエルの宿営に送り、彼らと不品行を行わせ、偶像礼拝の罪を犯させました。そのためイスラエルに神罰が下り、イスラエル人二万四千人が死にました。この時のモアブの女たちこそ、モアブにいたミデヤンの女たちです。このことは主を大いに怒らせたので、主ご自身が、ミデヤン人を襲って復讐すると言われたわけです。ですからこれは個人的な恨みではなく、神ご自身の復讐だったのです。

4節をご覧ください。このために主はイスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつをいくさに送るようにと命じられました。そして祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともにいくさに送りました。それはこの戦いが軍事的な戦いではなく主ご自身の戦い、主の聖なる戦いであったからです。彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺しました。またその他に、ミデヤンの五人の王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバを殺しました。そして、この事件の張本人であったバラムをも剣で殺しました。また、ミデヤン人の女、子どもをとりこにし、その獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼き払いました。そして、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに帰って来たのです。

するとどうでしょう。宿営の外で彼らを出迎えたモーセは、戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して怒ったとあります。なぜでしょうか?女たちを生かしておいたからです。通常の戦いであれば、捕虜として捕えた女や子供は生かしておきますが、今回の事件はその女によってもたらされたものでした。そうしたイスラエルにつまずきを与えたものをそのままにしておいてはいけない、それらを徹底的に取り除くことを求められていたのです。

主イエスは山上の説教の中でこのように言われました。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:29-30)

信仰のつまずきとなるものがあれば、それを取り除かなければなりません。それなのに、彼らはその女たちを生かしておきました。それでモーセは怒ったのです。それで、男の子はもちろんのこと、男と寝て、男を知っている女もみな殺すようにと命じました。ただ男と寝ることを知らない若い娘たちだけを生かしておかなければなりませんでした。そしてその罪のきよめの期間は七日間です。ミデヤン人を殺した人たち、あるいは、捕虜でもだれでも、人を殺した者、あるいは、その死体に触れた者は、三日目と七日目に身をきよめなければなりませんでした。火に耐えるものは火できよめ、耐えられないものは水によってきよめました。

2.分捕り物の分配(25-47)

「主はモーセに次のように言われた。 「あなたと、祭司エルアザルおよび会衆の氏族のかしらたちは、人と家畜で捕虜として分捕ったものの数を調べ、その分捕ったものをいくさに出て取って来た戦士たちと、全会衆との間に二分せよ。いくさに出た戦士たちからは、人や牛やろばや羊を、それぞれ五百に対して一つ、主のためにみつぎとして徴収せよ。彼らが受ける分のうちからこれを取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。イスラエル人が受ける分のうちから、人や牛やろばや羊、これらすべての家畜を、それぞれ五十に対して一つ、取り出しておき、それらを主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えなければならない。」そこでモーセと祭司エルアザルは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。従軍した民が奪った戦利品以外の分捕りものは、羊六十七万五千頭、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人間は男と寝ることを知らない女がみなで三万二千人であった。この半分がいくさに出た人々への分け前で、羊の数は三十三万七千五百頭。その羊のうちから主へのみつぎは六百七十五頭。牛は三万六千頭で、そのうちから主へのみつぎは七十二頭。ろばは三万五百頭で、そのうちから主へのみつぎは六十一頭。 人間は一万六千人で、そのうちから主へのみつぎは三十二人であった。モーセは、主がモーセに命じられたとおりに、そのみつぎ、すなわち、主への奉納物を祭司エルアザルに渡した。モーセがいくさに出た者たちに折半して与えた残り、すなわち、イスラエル人のものである半分、つまり会衆のものである半分は、羊三十三万七千五百頭、牛三万六千頭、ろば三万五百頭、人間は一万六千人であった。モーセは、このイスラエル人のものである半分から、人間も家畜も、それぞれ五十ごとに一つを取り出し、それらを主がモーセに命じられたとおりに、主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えた。」

 すべてのきよめをした後で、捕虜として分捕ったものは、いくさに出た兵士たちと、イスラエルの全会衆との間で二分されました。そして、そのように二分されたもののうち、いくさに出た戦士たちからは、五百に対して一つを主のためのみつぎ物として徴収し、それを祭司エルアザルに渡さなければなりませんでした。また、イスラエルの民からは五十に対して一つを、主のためのみつぎ物、すなわち、主への奉納物として徴収し、レビ人に与えなければなりませんでした。それは農耕による収穫物だけでなく、戦いで略奪した物もすべて、祭司とレビ人が受けるためです。レビ人の取り分が祭司の取り分よりも多いのは、それだけ人数が多かったからでしょう。主はこのようにして神に仕える者たちも、ちゃんとそれを受けられるように配慮しておられたのです。一般には忘れられがちな彼らのことが、こうしてきちんと覚えられていたのです。

 さて、彼らが略奪した物を見てみましょう。ものすごい量の戦利品です。羊が70万頭近く、他の家畜も万単位です。そして女の子たちも約3人もいます。主の怒りとその復讐が、いかに大きかったかを物語っています。そして、これらを軍人と会衆との間で二分されました。

 3.指揮官たちのささげ物(48-54)

それでは最後に48節から終わりまでのところをご覧ください。

「すると、軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、モーセに言った。「しもべどもは、部下の戦士たちの人員点呼をしました。私たちのうちひとりも欠けておりません。それで、私たちは、おのおのが手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来て、主の前での私たち自身の贖いとしたいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。千人の長や百人の長たちが、主に供えた奉納物の金は全部で、一万六千七百五十シェケルであった。従軍した人たちは、戦利品をめいめい自分のものとした。モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念とした。」  すると、軍団の指揮官たちはモーセのもとに進み出て、自分たちが手に入れた金の飾り物などを持って来て、それを主の前で自分たち自身の贖いとしたいと言いました。どういうことでしょうか?彼らはミデヤンという大敵に対して、わずか1万2千人の兵で戦い、しかもイスラエルの側にはただの一人の犠牲者も出なかったことを、心から主に感謝しているのです。それは主の特別な助けと守りがなければあり得ないことでした。それはまさに主の戦いだったのです。そのことを実際に体験して、自分たちが得た戦利品は自分たちのものではなく主のものであると、自分たちの贖いの代価として、その一部を主にささげたのです。

モーセと祭司エルアザルは、彼らからのささげ物を喜んで受け取ったことでしょう。それらの金は装飾品だったので、あらゆる種類の細工が施されていました。その重さは全部で一万六千七百五十シェケルでした。1シェケルが11.4gですから、その総数は百八十キログラムであったことがわかります。それは莫大な量でした。それほど彼らは圧倒的な主の力を体験したのです。モーセと祭司エリアザルはそれを天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念としました。この驚くべきすばらしい主の助けと救いを記念するものとして、これらの金を会見の天幕の主の前に納めたのです。

あなたは、彼らのように、主の圧倒的な救いと助けを経験しているでしょうか。自分たちの側には全く犠牲者が出ず、これだけの戦利品を手に入れることができたのは、ただ神の驚くべき御業です。私たちの信じている神はこのようなお方なのです。そして、私たちはいつか主がこの地上に再臨されるそのとき、このことを目の当たりにするでしょう。そのことがコロサイ人への手紙2章13節から15節までのところに記されてあります。

「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」

その時、神は初めに人を造られた時に与えられたものを、そして罪によって失われたものを奪還してくださいます。そして、それらを捕虜として凱旋の行列に加えてくださるのです。これが私たちの信じている神であり、やがて世の終わりに行われることです。その勝利の凱旋の中に、私たちも含まれているのです。このすばらしい神の救いと力ある御業を覚え、私たちも神に感謝して、喜びと真心をもって主に自分自身をささげていく者でありたいと思います。

民数記30章

きょうは民数記30章から学びます。

Ⅰ.自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない(1-2)

「モーセはイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げて言った。「これは主が命じられたことである。人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」

これは、モーセがイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げたことばです。モーセは28章と29章においてイスラエルが約束の地に入ってからささげるいけにえの規定について語りましたが、ここでも同様に、イスラエルが約束の地に入ってからどのように生きるべきなのかについて語っています。ここでは主への誓願と、物断ちの誓願について教えられています。主への誓願についてはナジル人の誓願ということで、これまでレビ記や民数記で学んできました。それは、主のために「この期間、これこれのことをします」と誓願をして行うことですが、物断ちとは、逆に、主のために「この期間、これこれのことをしません」と誓うことです。誓願とは積極的に何かをすることであるのに対して、物断ちは積極的に何かをしないことです。

こうした誓願や物断ちは、主がとても尊ばれることでした。主のためにこれをするとか、これをしないといった意志や決意を主が喜ばれたからです。しかし、そのように誓ったならば、それを果たさなければなりません。すべて自分の口から出たことは、そのとおりに実行しなければならなかったのです。誓ったのにそれを果たさないということがあれば、それは主が喜ばれることではありません。それゆえ、主に誓ったことは取り消すことができなかったのです。新約聖書には、「誓ってはならない」と戒められていますが、それは、無責任になってはいけないということです。誓願、決意、志はとても尊いものですが、そのように誓ったならば、それを果たさなければならないのです。果たさせない誓いはするなというのが、主が戒めておられたことなのです。

Ⅱ.誓願の責任(3-16)

 それでは、この誓願について主はどのように教えておられるでしょうか。3節から16節までをご覧ください。

 

「もし女がまだ婚約していないおとめで、父の家にいて主に誓願をし、あるいは物断ちをする場合、その父が彼女の誓願、あるいは、物断ちを聞いて、その父が彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて、有効としなければならない。もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に禁じるのであるから、主は彼女を赦される。もし彼女が、自分の誓願、あるいは、物断ちをするのに無思慮に言ったことが、まだその身にかかっているうちにとつぐ場合、夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効でなければならない。もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。やもめや離婚された女の誓願で、物断ちをするものはすべて有効としなければならない。もし女が夫の家で誓願をし、あるいは、誓って物断ちをする場合、夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、しかも彼女に禁じないならば、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効としなければならない。もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も、物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効としなければならない。彼女の夫がそれを破棄したので、主は彼女を赦される。すべての誓願も、身を戒めるための物断ちの誓いもみな、彼女の夫がそれを有効にすることができ、彼女の夫がそれを破棄することができる。身を戒めるとは、断食のことです。もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。彼がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったので、彼はそれを有効にしたのである。もし夫がそれを聞いて後、それを破棄してしまうなら、夫が彼女の咎を負う。」以上は主がモーセに命じられたおきてであって、夫とその妻、父と父の家にいるまだ婚約していないその娘との間に関するものである。」

ここで教えられている規定によると、男性が女性の立てた誓願の責任を負うということです。まず、若い未婚の娘の誓願は父親が破棄することができました。また、妻の誓願は夫が破棄することができました。父親や夫が何も言わなかった時だけ、その誓願が有効になったのです。ただし父親や夫が娘または妻の誓願を無効にすることができたのは、それを聞いた最初の日、すなわち、誓願を立てた最初の日に限られていました。9節にはやもめや離婚された女の誓願について語られていますが、それはすべて有効としなければなりませんでした。どんな神への誓いも守られなければならなかったのです。

いったいこのことは私たちに何を教えているのでしょうか。ここで、この誓願を立てている人に注目したいと思います。すなわち、ここで誓願を立てている人はみな女性であるということです。この30章では、誓願の中でも女性の人が立てる誓願について語られているのです。つまりイスラエル全体は最小単位である夫婦、家族から始まり、それが氏族、部族、そしてイスラエルの家全体へと広がっているということです。イスラエルは、それぞれの部族が共同体を形成しており、それぞれが一つになって物事を管理していかなければいけません。その最小単位が夫婦であり、家族だったのです。その夫婦や家族がどうあるべきなのか、そのことが教えられているのでするそれが民全体へと広がっていくからです。

それはイスラエル民族に限らずすべての組織に言えることではないでしょうか。たとえば、Ⅰテモテ3章4,5節には教会の監督の資格について語られていますが、その一つとしてあげられていることは自分の家庭をよく治めている人であるということです。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもたちも従わせている人です。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」

教会のことについて教えられているのになぜ自分の家庭のことが出てくるのか。それは家庭が教会の最小単位だからです。それが地域教会、さらには神の国全体へと広がっていくのです。だから、家庭がどのように治められるかはとても重要なことなのです。この国全体の建て上げを考えても、実はそれぞれの家族がどうあるべきなのかがその鍵を握っていると言えるでしょう。

では家族はどうあるべきなのでしょうか。ここにはその秩序が教えられています。すなわち、家族のリーダーは父親であり、夫婦のリーダーは夫であり、その権威に従わなければならないということです。それは父親が必ずしも正しいとか、絶対であるという意味ではありません。また、夫が必ずしも優しく親切であるということではないのです。それは神が立てた秩序であって、その秩序に従って歩むことによって、家族全体が神の祝福の中で平和に過ごすことができるようになるということです。家の中で、もしある人が一つのことを決意して、他の人が別のことを決意して、その両方を同時に行なうことができないものであれば、どちらかを破棄しなければいけません。そこで、今読んだような定めがあるのです。娘が誓願を立て、父親が、それが家全体にとって良くないことであると判断したのならば、その誓願を禁じなければいけません。けれども、娘が誓願を立てていたことを聞いたその日に、それを禁じなければ、その誓願は有効としなければらないのです。

それは神の家族である教会にも言えることです。神は家族としての教会に指導者を立ててくださいました。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師です。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(エペソ4:10-13)。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがないためです。ですから、教会にこうした指導者が与えられていることは本当に感謝なことなのです。もしこうした指導者がいなかったらどうでしょうか。神の教会がまとまることはないでしょう。各自、自分が思うことを主張するようになり、やりたいことをするので決してまとまることはありません。ですから、無牧の教会は悲惨なのです。牧者がいないのですから、どこに行ったらいいか、何をしたらいいか、わかりません。各自が自分の思った通りに行動します。それは楽でいいようですが不幸なことです。食べ物に預かることができず、やがて死を迎えることになることでしょう。だから神の家族である教会には年齢や性別、育った環境、置かれている状況など多種多様な人たちが集まっていますが、そうした中にあってこうした秩序を重んじ、それに従って一致して行動することが求められているのです。

それは、女だから口を出すな、ということはありません。黙っていればいいのね、黙っていれば・・ということでもないのです。女性であっても志を立てることはすばらしいことです。しかし、それが家族全体にとってどうなのかをよく吟味するためによく祈らなければなりません。そして教会の指導者たちの意見を聞き、その指導に従わなければならないのです。

また、男は、怒ったり言い争ったりせず、聖い手をあげて祈らなければなりません。そうすれば、妻や子どもに対してどうあるべきかが見えてくるでしょう。つまり、自分が家の主だかと言って傲慢にふるまうのではなく、自分の妻や娘の意見をよく聞いて、判断しなければならないということです。自分の妻が今何を考え、何を行なっているのかを見て、聞いて、彼女の意志を尊重しなければならないのです。ペテロは、「夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐものとして尊敬しなさい。」(Ⅰペテロ3:7)と勧めていますが、このことをわきまえて、妻とともに生活することが求められているのです。つまりキリストが夫婦の関係に求めた愛と服従の関係が、神の家族である教会の中でも、さらにありとあらゆる関係の中に求められているのです。

民数記29章

きょうは民数記29章から学びます。

Ⅰ.ラッパが吹き鳴らされる日(1-11)

「第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。」

28章からイスラエルの民が約束の地に入ってささげなければならないささげものの規定が記されてあります。これはすでに以前にも語られたことですが、ここでもう一度取り上げられているのは、約束の地に入る直前に新しい世代となったイスラエルの民に対して語られているからです。そして28章には常供のいけにえの他に、新月ごとにささげられるいけにえ、そして春の祭り、すなわち過ぎ越しの祭り、種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭りにおいてささげられるものについて語られました。この29章では、その例祭の続きですが、ここでは秋の祭りにおいてささげられるいけにえについて教えられています。それはラッパの祭り、贖いの日、仮庵の祭りの三つです。そしてこれらの祭りは何を表しているかというと、キリストの再臨とそれに伴う解放、そしてそれに続く千年王国です。そのときにささげられるいけにえはどのようなもなののでしょうか。

1節を見ると、七月の一日には聖なる会合を開かなければならないとあります。イスラエルのお祭りは全部で七つありますが、それは過ぎ越しの祭りからスタートしました。なぜ過ぎ越しの祭りからスタートするのでしょうか。それは、過ぎ越しの祭りが贖いを表していたからです。私たちの信仰のスタートは過ぎ越しの祭り、すなわち、キリストの十字架の贖いからスタートしなければなりません。そしてその年の七月の一日にはラッパが吹き鳴らされます。これは何を表しているのかというと、キリストの再臨です。その時には神のラッパが吹き鳴らされます。Ⅰテサロニケ4章16節には、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。」とあります。神のラッパが吹き鳴らされるとき、キリストが天から下って来られるのです。その時にも、同じように全焼のいけにえをささげられます。

7節には、「この第七月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、身を戒めなければならない。どんな仕事もしてはならない。」とあります。この日は贖罪日(『ヨム・キプール』(レビ記23:26~32)と言って、年に一度大祭司が至聖所に入って行き、イスラエルの民のために贖いをします。この日は戒める、すなわち、断食をしなければなりません。そして全焼のいけにえと穀物のささげもの、注ぎのささげものをささげます。

 

このラッパを吹き鳴らされる日は、キリストが教会のために再臨することを示しています。終わりのラッパとともに、私たちが一瞬のうちに変えられて、引き上げられて、空中で主と会うのです。そして贖罪日は、イスラエルが悔い改めて、その罪がきよめられる日です。教会が携挙されると、神は再びイスラエルに働きかけられます。イスラエルは、この地上で、これまでにないほどの苦難を受けますが、主が再び地上に戻ってきてくださり、イスラエルのために戦ってくださいます。そのとき彼らは、イエスこそが、待ち望んでいたキリストであることを知り、嘆いて悔い改めるのです。このときにイスラエルの贖いが成し遂げられ、「贖罪日」が実現するのです。

Ⅱ.仮庵の祭り(12-40)

 次に12節から40節までをご覧ください。ここには仮庵の祭りにおいてささげられるいけにえについて記されてあります。

「第七月の十五日には、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。あなたがたは七日間、主の祭りを祝いなさい。」

仮庵の祭りはもともと、イスラエルが約束の地に入るまで、神が彼らを守ってくださったことを祝う祭りです。この期間中、彼らは仮庵の中に住み、イスラエルを守られた神のことを思い起こすのです。けれども、ここにも預言的な意味があります。主が再び来られ、そして神の国を立てられて、この地上に至福の千年王国を樹立されるのです。仮庵の祭りは、この神の国を指し示しています。この祭りでは、一日ごとにたくさんのいけにえがささげられます。  「あなたがたは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物として、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛十三頭、雄羊二頭、一歳の雄の子羊十四頭をささげなさい。これらは傷のないものでなければならない。それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛十三頭のため、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊二頭のため、雄羊一頭につき十分の二エパ、子羊十四頭のため、子羊一頭につき十分の一エパとする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。」(13-16)  最初の日に全焼のいけにえとして雄牛13頭ささげられますが、二日目になると12頭になります。(17)そして七日目には、7頭の雄牛がささげられます。これは、最後の7に合わせて調整していたのかもしれません。35節を見ると、8日目には「きよめの集会」を開かなければならない、とあります。仮庵の祭りの初めの七日間は、祭司が水を流して、ハレル詩篇を歌います。けれども8日目には水を流しません。荒野の生活を終えてすでに約束の地に入ったからです。約束の地に入り、そこで神が与えてくださるすべての恵みを享受することができました

ヨハネの福音書7章37-38節を見ると、「さて、祭りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の腹から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)とありますが、これは、この仮庵の祭りの8日目のことです。この大いなる日に、イエスは立って、このように言われたのです。この生ける水の川とは、聖霊のことを指しています。キリストを信じる者には、生ける水の川が流れ出るようになるのです。イエスを信じた瞬間に神の聖霊が注がれ、神の恵みが注がれます。そしてやがてキリストが樹立する千年王国において、この約束が完全に成就するのです。  こうして仮庵の祭りには、いけにえがいつもよりも数多くささげられますが、いったいなぜでしょうか。それは仮庵の祭りが神の国を表しているからです。神の国では多くのいけにえがささげられるからです。つまり、神の国は、絶え間なく神を礼拝するところなのです。この地上においても私たちはこうして集まって主を礼拝していますが、やがてもたらされる栄光の神の国ではいつも神への礼拝がささげられます。黙示録7章には神に贖われた神の民の姿が慧可が枯れていますが、彼らは、神と小羊との前に立って、大声で叫んでこういうのです。

「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にあり。」

「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」

天国は絶え間なく、神への礼拝がささげられるところなのです。ですから、礼拝したくないという人は天国に入ることはできないのです。入っても苦痛に感じるでしょう。けれども、神に贖われたクリスチャンにとってはそうではありません。神に与えられた聖霊によって、私たちは喜びと感謝をもって、私たちの救い主なる神に感謝し、賛美をささげるのです。私たちの持っているすべてをもって神をほめたたえるのです。それがやがて来る神の国で私たちが行うことなのです。仮庵の祭りでそれほど多くのささげものがささげられるのは、そのことを表していたからです。

このように、イスラエルは約束の地にはいり、相続地を得ても、いや得ているからこそ主を礼拝しなければなりません。これは私たちクリスチャンも同じです。私たちはすでに約束のものを手にしているのですから、積極的に自分を主におゆだねすることによって、それを自分のものとして本当に楽しむことができるのです。ささげることなしに、この霊的交わりは起こりません。イスラエルのように、私たちも大胆に、主におささげしましょう。

民数記28章

きょうは、民数記28章を学びます。

Ⅰ.主へのなだめのかおりの火によるささげもの(1-8)

まず1節から8節までをご覧ください。

「1 主はモーセに告げて仰せられた。28:2 「イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。28:3 彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。28:4 一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない。28:5 穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする。28:6 これはシナイ山で定められた常供の全焼のいけにえであって、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。28:7 それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。28:8 他の一頭の子羊は夕暮れにささげなければならない。これに朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物と同じものを添えてささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」

ここには、イスラエルの民が約束の地に入ってから、ささげなければならない火によるささげものの規定が記されてあります。このささげものの規定については15章でも語られたばかりですが、ここで再び語られていす。なぜそんなに繰り返して記されてあるのでしょうか?なぜなら、このことはそれほど重要な内容だからです。イスラエルが約束に地に入ってからもどうしても忘れてはならなかったこと、それは彼らをエジプトから贖い出してくださった神を覚えることでした。私たちはすぐに忘れがちな者ですが、そのような中にあっても忘れることがないように、何度も何度も繰り返して語られているのです。しかも、ここでは語られている対象が変わっています。エジプトから出た20歳以上の男子はみなヨシュアとカレブ以外全員死にました。彼らは神のみことばに従わなかったので荒野で息絶えてしまったのです。今そこにいたのは新しい世代でした。以前はまだ小さくて聞いたことのなかった子どもたちが大きく成長していました。彼らが約束の地に入るのです。そんなさかれらが忘れてはならなかったのは、彼らの父祖たちが経験した神の恵みを忘れないことだったのです。

ここで主は、かおりの火によるささげものとして、神への食物のささげ物をささげるようにとあります。かおりの火によるささげものには、三つの種類がありました。一つは、全焼のいけにえ、もう一つは、穀物のささげもの、そしてもう一つが、注ぎのささげ物です。全焼のいけにえは、小羊をすべて祭壇の上で焼きます。穀物のささげものは、油をまぜた小麦粉です。それから、注ぎのささげ物は、ぶどう酒です。全焼のいけにえをささげて、このいけにえに、穀物のささげものと注ぎのささげものを供えます。これらは常供のいけにえです。常供のいけにえとは、日ごとにささげるいけにえのことで、それは毎日、朝と夕暮れにささげなければなりませんでした。

それにしても、ここには、「わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてささげなければならない」とあります。どういうことでしょうか?主はこのささげ物を食べるというのでしょうか?主は私たちからのこのようなささげ物を必要としているということなのでしょうか?そういうことではありません。それは、神によって罪の中から贖い出された者としてこの恵みに応答し、感謝して生きなさいということです。

パウロはローマ書12章1節でこのように言っています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

「そういうわけですから」というのは、それ以前のところで語られてきたことを受けてのことです。そこには、神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって、価なしに義と認められたということが語られてきました。そのように罪から救われたクリスチャンに求められていることは、自分を神にささげることです。これこそ、霊的な礼拝なのです。神の喜びのために生きるということであります。神が求めておられるのは私たちの何かではなく、私たち自身です。私たちのすべてなのです。私たち自身が神と一つとなり、私たちを通して主の栄光があがめられること、それが主の喜びなのです。そして、それが現される手段が礼拝であり、ささげ物なのです。その時、私たち自身にも究極的な喜びがもたらされるのです。

今週の礼拝のメッセージはテモテ第二の手紙4章からでしたが、その中でパウロは、「私は今や注ぎの供え物となります。」(4:6)言っています。彼はそのように生きていたということです。彼の生涯は、自分のすべてを主にささげる生涯でした。彼は全く主に自分をささげていたのです。これを献身というのです。主が求めておられたのはこの献身だったのです。イスラエルは今神が約束してくださった地に入ろうとしていました。そんな彼らに求められていたことは、主に自分自身をささげるということだったのです。

Ⅱ.安息日ごとのささげもの(9-10)

次に9節と10節をご覧ください。

「9 安息日には、一歳の傷のない雄の子羊二頭と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それにつく注ぎのささげ物とする。10 これは、常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えられる、安息日ごとの全焼のいけにえである。」

ここには安息日ごとのささげものについて記されてあります。安息日ごとのささげものは、常供のいけにえの他に加えてささげられます。ここで大切なのは「加えて」ということです。プラスしてです。私たちは日毎に、主の前に出ていかねばなりませんが、主の日にはそれにブラスして主の前に出て行かなければなりません。毎日礼拝していれば別に主の日だからといって礼拝する必要はないというのではなく、毎日礼拝していればなおのこと、主の日を大切にして、それに加えて主の前に出て行かなければなりません。あるいは、毎日忙しいので日曜日だけは礼拝するというのも違います。主の日が常供のささげものを代用することはできないのです。ですから、主の日に礼拝すれば自分の務めを果たしているとは言うことはできず、それは日ごとの礼拝の他にささげられる物で、むしろ日毎の礼拝の延長に、他の信者と集まっての礼拝があると言えるでしょう。

Ⅲ.新月の祭り(11-15)

次に、新月の祭りについてです。11節から15節までをご覧ください。

「11 あなたがたは月の第一日に、主への全焼のいけにえとして若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなければならない。28:12 雄牛一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の三エパ。雄羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の二エパとする。28:13 子羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の一エパ。これらはなだめのかおりの全焼のいけにえであって、主への火によるささげ物である。28:14 それにつく注ぎのささげ物は、雄牛一頭については二分の一ヒン、雄羊一頭については三分の一ヒン、子羊一頭については四分の一ヒンのぶどう酒でなければならない。これは一年を通して毎月の、新月祭の全焼のいけにえである。28:15 常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物に加えて、雄やぎ一頭が、主への罪のためのいけにえとしてささげられなければならない。」

今度は、月の第一日、つまり新月にも供え物をするようにと命じられています。これは、民数記で新しく出てきた規定です。新月のささげものは全焼のいけにえが中心ですが、罪のためのいけにえもささげられます。しかしそれは全焼のいけにえと比べると非常に少ないことがわかります。この後のところに、例年行う祭りのささげ物の規定が出てきますが、そこでも同じです。罪のためのいけにえは全焼のいけにえと比べれば圧倒的に少なくなっています。これはいったいどうしてなのでしょうか?

それは、礼拝とは、「悔い改めにいくところ」ではないということです。毎日の生活で罪を犯してしまうので、その罪が赦されるために礼拝にいかなければいけない、ということではないのです。勿論、悔い改めるは重要なことですが、それが礼拝の中心ではありません。礼拝とは、自分自身を主にささげることであり、そこにある喜びと平和、そして聖霊による神の臨在を楽しむところなのです。イスラエルの民は新しく入るそのところで、自分たちを愛し、そのように導いてくださった主を覚え、日ごとに、週ごとに、そして月ごとに、すなわち、いつも主と交わり、主が良くしてくださったことを覚えて、主に心からの感謝をささげなければならなかったのです。

Ⅳ.春の祭り(16-31)

最後に、春の祭りの規定を見ておわりたいと思います。16節から31節までをご覧ください。まず16節から25節までをご覧ください。

「16 第一の月の十四日は、過越のいけにえを主にささげなさい。17 この月の十五日は祭りである。七日間、種を入れないパンを食べなければならない。18 その最初の日には、聖なる会合を開き、どんな労役の仕事もしてはならない。19 あなたがたは、主への火によるささげ物、全焼のいけにえとして、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなければならない。それはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。20 それにつく穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパをささげなければならない。21 子羊七頭には、一頭につき十分の一エパをささげなければならない。22 あなたがたの贖いのためには、罪のためのいけにえとして、雄やぎ一頭とする。23 あなたがたは、常供の全焼のいけにえである朝の全焼のいけにえのほかに、これらの物をささげなければならない。24 このように七日間、毎日主へのなだめのかおりの火によるささげ物を食物としてささげなければならない。これは常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えてささげられなければならない。25 七日目にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。」

例祭、すなわち、毎年恒例の祭りは、過越の祭りからはじまりました。これがユダヤ人にとってのスタートだったのです。なぜ過越の祭りから恥じるのでしょうか?それは、これが贖いを表していたからです。私たちの信仰は贖いから始まります。だから、過ぎ越しの小羊を覚え、それを感謝しなければなりません。それは十字架に付けられたイエス・キリストを示していたからです。ペテロは、「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18-19)と言いました。これが私たちの信仰土台です。それは新しいイスラエルの民が、新しい約束の地に入ってからも変わりません。彼らはこれまでと同じように、まず過ぎ越しの祭りから始めなければなりませんでした。

そして、この過ぎ越しの祭りに続いて、種なしパンの祭りが行われました。その時彼らは種を入れないパンを食べなければなりませんでした。なぜでしょうか?罪が赦されたからです。キリストの血によって罪が赦され、罪が取り除かれました。もうパン種がなくなったのです。だから、古いパン種で祭りをしたりしないで、パン種の入らないパンで祭りをしなければなりません。それが種を入れないパンの祭りです。すなわちそれは、キリストによって罪が取り除かれたことを祝う祭りのことだったのです。

次は、初穂の祭り、すなわち、七週の祭りです。26節から31節です。

「26初穂の日、すなわち七週の祭りに新しい穀物のささげ物を主にささげるとき、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。27 あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなさい。28 それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。29 七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。30 あなたがたの贖いのためには、雄やぎ一頭とする。31 あなたがたは、常供の全焼のいけにえとその穀物のささげ物のほかに、これらのものと・・これらは傷のないものでなければならない。・・・・それらにつく注ぎのささげ物とをささげなければならない。」

初穂の祭りは、過ぎ越しの祭りの三日目、つまり過ぎ越しの祭りの後の最初の日曜日に行われました。これはキリストの復活を表していました。キリストは過越の祭りの時に十字架で死なれ、墓に葬られました。そして、安息日が終わった翌日の日曜日に復活されました。日曜日の朝早く女たちが、イエスに香料を塗ろうと墓にやって来くると、墓の石は取り除かれていました。そこに御使いがいて、女たちにこう言いました。「この方はここにはおられません。よみがえられたのです。」そうです、初穂の祭りは、イエス・キリストの復活を表していたのです。使徒パウロはこう言いました。コリント人への手紙第一15章20節です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」キリストは、私たちのために死んでくださり、その血によって罪を赦し、きよめてくださっただけではなく、よみがえってくださいました。よみがえって、今も生きておられます。そのことを覚えて、主に感謝のいけにえをささげるのです。それは全焼のいけにえ、穀物のささげもの、そして注ぎのささげ物です。

それは初穂の日だけではありません。ここには七週の祭り、すなわち、ペンテコステにもささげ物をささげるようにと命じられています。それは聖霊が下られたことを記念する祭りです。もちろん、ユダヤ人にとってはこれが何を意味しているのかはわからなかったと思いますが・・・。

このように、イスラエルが約束の地に入っからも忘れずに行わなければならなかったことは、火による全焼のいけにえ、穀物のささげ物、そして注ぎのささげ物をささげなければなりませんでした。それは神への献身、神への感謝を表すものです。

これが、イスラエルが約束の地に入る備えでした。約束の地に入るイスラエルにとって求められていたことは、神へのいけにえをささげることによっていつも神を礼拝し、神と交わり、神に感謝し、神の恵みを忘れないだけでなく、その神の恵みに応答して、自分のすべてを主におささげすることだったのです。日ごとに、朝ごとに、そして夕ごとに。また、週ごとに、新しい月ごとに、その節目、節目に、主が成してくださったことを覚えて感謝し、その方を礼拝することが求められていたのです。

私たちはどうでしょうか?新しい地に導かれた者として、いつも主を礼拝し、主に心からの礼拝をささげているでしょうか?神があなたのためにしてくださった奇しい御業を覚えて、いつも主に感謝し、心からの礼拝をささげましょう。

民数記27章

きょうは、民数記27章から学びたいと思います。前回の学びで、モーセとアロンがシナイの荒野で登録したときのイスラエル人はみな荒野で死に、ヨシュアとカレブのほかには、だれも残っていなかったという現実を見ました。残された民が、神が約束してくだった地を相続します。そして、その相続の割り当てについて語られました。すなわち、大きい部族にはその相続地を多くし、小さい部族にはその相続地を少なくしなければならないということです。きょうの箇所には、その相続に関する神様のあわれみが示されます。

Ⅰ.ツェロフハデの娘たち(1-11)

まず1節から11節までをご覧ください。

「 さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たち・・ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子・・が進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入口に立って言った。「私たちの父は荒野で死にました。彼はコラの仲間と一つになって主に逆らった仲間には加わっていませんでしたが、自分の罪によって死にました。彼には男の子がなかったのです。男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。すると主はモーセに告げて仰せられた。「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えなければならない。彼女たちにその父の相続地を渡せ。」あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。人が死に、その人に男の子がないとは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。もし兄弟たちもいないときには、その相続地を彼の父の兄弟たちに与えなさい。もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、主がモーセに命じられたとおり、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。」

ここに、ヨセフの子のマナセの一族のツェロフハデの娘たちが出てきます。彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入り口に立って、自分たちにも所有地を与えてください、と言いました。どういうことでしょうか?26章33節を見ると、ここにツェロフハデの娘たちの名前が記されてあります。彼女たちの父ツェロフハデには息子がなく、娘たちしかいませんでした。ということは、ツェロフハデには何一つ相続地が与えられないということになります。ですから、彼女たちは、そのことによって相続地が与えられないのはおかしい、とモーセに訴えたのです。

この訴えに対して主は何と言われたでしょうか。6節です。主は、この訴えは正しい、と言われました。そして、主は彼女たちの訴えに基づいて、父が子を残さなかったときについての相続の教えを与えられました。子がいないという理由で相続地がないということがあってはならないというのです。その相続地を娘たちに与えなければなりません。娘たちもいなければ、それを彼の兄弟たちに、彼に兄弟がいなければ、それを氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与えて、それを受け継がせなければならない、と言われたのです。

これはどういうことでしょうか?このことについては、おもしろいことに、ここで話が終わっていません。36章を見ると、マナセ族の諸氏族のかしらたちがモーセのところにやって来て、この娘たちが他の部族のところにとついだならば、マナセ族の相続地が他の部族のものとなってしまうので、彼女たちはマナセ族の男にとつぐようにさせてください、と訴えているのです。そしてその訴えを聞いたモーセは、「それはもっともである」と、彼女たちは父の部族に属する氏族にとつがなければならない、と命じるのです。そのようにして、イスラエルの相続地は、一つの部族から他の部族に移らないようにし、おのおのがその相続地を堅く守るようにさせました。そして、この民数記は、この娘たちが主が命じられたとおりに行ったことを記録して終わるのです。

つまり、彼女たちの行為は信仰によるもので、約束のものを得るときの模範になっているということです。そうでなければ、このことが聖霊に導かれてモーセが記録するはずがありません。主が、アブラハムの子孫に、この地を与えると約束されたので、彼女たちは、その約束を自分のものとしたいと願いました。けれども、相続するためには男子でなければなりません。しかし、そうした障害にも関わらず、彼女たちは主の前に進み出て大胆に願い出ました。ここがポイントです。ここが、私たちが彼女たちに見習わなければいけないところなのです。つまり、私たちは、その約束にある祝福を、自分たちの勝手な判断であきらめたりしないで、彼女たちのように信仰によって大胆に願い求めなければならないのです。

あのツロ・フェニキヤの女もそうでした。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。」「子どもたちのパンくずを取り上げて、子犬にやるのはよくないことです。」と言われた主イエス様に対して、彼女は、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイ15:27)と言いました。そして、そのとおりになりました。信仰をもって、あきらめないで願い出るなら、主は惜しみなく与えてくださるのです。もちろん、その願いは自己中心的なものではなく、主のみこころにかなったものであることが重要ですが、しかし、あまりにもそれを考えすぎるあまり求めることをしなければ、何も得ることはできません。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」(マタイ7:7)私たちは、キリストにあってすべてのものを施してくださるという神の約束を信じて、神に求める者でありたいと願わされます。

Ⅱ.モーセの死(12-14)

次に12節から14節までをご覧ください。

「ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。」

これは、モーセも他のイスラエルの民と同様に約束の地に入ることができないという、厳粛な主の宣告です。この宣告は、イスラエルの民以上に、彼にとってどんなに辛かったことでしょう。彼はこの120年間、ただイスラエルの民が解放され、約束の地に導かれることを夢見てきました。しかし、彼自身はそこに入ることはできないのです。なぜでしょうか?それは14節にあるように、ツィンの荒野で会衆が争ったとき、主の命令に従わなかったからです。

どういうことでしょうか?もう一度民数記20章を振り返ってみましょう。これはイスラエルがツィンの荒野までやって来たときのことです。そこでモーセの姉ミリヤムが死にました。そこには水がなかったので、彼らはモーセとアロンに逆らって言いました。それで主はモーセに杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そのようにすれば、岩は水を出す・・・と。ところが、モーセは主の命令に背き、岩に命じたのではなく、岩を二度打ってしまいました。それで主はモーセとアロンに、彼らが主を信じないで、イスラエルの人々の前で聖なる者としなかったので、彼らは約束の地に入ることができないと言われたのです。

Ⅰコリント10章4節には、この岩がキリストのことであると言われています。その岩から飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを示しています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのです。しかし、彼らは岩を打ってしまいました。モーセとアロンは、主が仰せになられたことに従いませんでした。彼は自分の思い、自分の感情、自分の方法に従いました。それは信仰ではありません。それゆえに、彼らは約束の地に入ることはできない、と言われたのです。あまりにも厳しい結果ですが、これが信仰なのです。信仰とは、神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはありません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れること以外にはないのです。御霊の岩であるイエスを信じる以外にはありません。彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたので、約束の地に入ることができませんでした。それは他のイスラエルも同様です。彼らもまた不信仰であったがゆえに、だれひとり約束の地に入ることができませんでした。ただヨシュアとカレブだけが入ることができました。彼らだけが神の約束を信じたからです。神の約束を得るために必要なのは、ただ神のことばに聞き従うということなのです。

Ⅲ.モーセの後継者(15-23)

しかし、話はそれで終わっていません。それでモーセは主に申し上げます。15節から23節までをご覧ください。

「それでモーセは主に申し上げた。「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、はいらなければならない。」モーセは主が命じられたとおりに行なった。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。」

モーセは、自分が約束の地に入れないことを思い、であれば、イスラエルの民がそこに入って行くことができるように、だれか他のリーダーを立ててくださいと言いました。そうでなかったら、彼らは羊飼いのいない羊のようにさまよってしまうことになるからです。皆さん、羊飼いのいない羊がどうなるかをご存知でしょうか?羊飼いのいない羊はどこに行ったらよいのかがわからずさまよってしまうため、結果、きちんと食べることもできないので、死んでしまいます。それは霊的にも同じです。牧者がいない羊たちはめいめいが勝手なことをするようになり、その結果、滅んでしまうことになるのです。士師記を見るとよくわかります。彼らは指導者がいなかったときめいめいが勝手なことをしたため、霊的に弱くなり、たえず敵に脅かされてしまいます。それで彼らが叫ぶと主はさばき司を送られたので立ち直ることができました。ですから、リーダーがいないということは群れにとっては致命的なことなのです。モーセはそのことを心配していました。

それに対して主は何と言われたでしょうか。主はモーセに、ヌンの子ヨシュアを取り、彼の上に手を置き、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼をその務めに任命するように、と言われました。

主はヨシュアを、モーセの後継者としてお選びになりました。主はヨシュアが「神の霊の宿っている人」と言っています。ヨシュアにはどのように神の霊が宿っていたのでしょうか?このヨシュアについてそのもっとも特徴的な表現は、出エジプト記24章13節の、「モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり」という表現です。彼はいつもモーセのそばにいて、彼に従い、彼を助けました。出エジプト記17章には、イスラエルがエジプトを出て荒野を放浪していたときにアマレクと戦わなければなりませんでしたが、その実働部隊を率いたのがこのヨシュアでした。また、彼はあのカデシュ・バルネヤから12人の偵察隊を遣わした中にもいて、カレブとともに他の10人の偵察隊が不信仰に陥って嘆いた時も、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と進言しました。彼はとくに、めざましい働きをしていたわけではありませんでしたが、常にモーセのそばにいて、モーセの助手として彼を支え、彼に仕えていたのです。いわば彼は、モーセのかばん持ちだったわけです。モーセに言われたことを守り行ない、モーセが猫の手を借りたいときには猫の手になり、難しい仕事も不平を言わずにこなし、とにかくモーセを助けていました。Ⅰコリント11章28節には、「助ける者」という賜物がありますが、ヨシュアには、こうした助けの賜物が与えられていて、モーセに仕えていたのです。ですから、ヨシュアこそモーセの後継者としてふさわしい人でした。

モーセは主が命じられたとおりに行ないました。彼はヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命しました。彼は約束の地に入ることはできませんでしたが、アバリム山に登り、イスラエル人に与えられた約束の地を見て、その後を後継者にゆだねたのでした。