雅歌7章11節~8章4節「花婿を導いた花婿」

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 雅歌も終盤を迎えています。きょうは雅歌7章11節から8章4節までの箇所から、「花婿を導いた花嫁」というタイトルでお話します。今日の箇所には、花婿を導く花嫁の姿が描かれています。たとえば、11節には、「さあ、私の愛する方よ、私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。極めつけは8章2節のことばです。「私はあなたを導いて、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませて差し上げましょう。」

とあります。ここにはきっきりと「あなたを導いて」とか「お連れして」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。

 私たちはいつも花婿であるキリストに導かれていると思っていますが、もちろん、そういう面もありますが、同時に花婿を導いているという側面もあります。これまではどちらかというとイエス様に導かれること、イエス様に何かをしていただくことが中心の信仰でしたが、それと同時に、霊的、信仰的に成長していく中で、今度はイエス様を導く者に、イエス様に喜んでささげる者へと変えられていくのです。きょうはこのことについてご一緒に考えたいと思います。

 Ⅰ.恋なすびは香りを放つ(7:11-13)

まず、7章11~13節までをご覧ください。「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。そこで私は、私の愛をあなたにささげます。」

これは花嫁のことばです。花嫁は花婿から「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ。」(7:1)と言われると、10節でこう告白しました。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」

これは、花嫁が単に自分を花婿にささげるというだけでなく、また、自分よりも花婿を優先するというレベルでもなく、「あの方は私を恋い慕う」、つまり、花婿にとって自分が関心の的であると告白したのです。もう何があっても大丈夫です。花婿が必ず守ってくださいますから。そうした平安の中で完全に憩っているのです。花婿は必ず良いことをしてくださるという確信があります。だって自分は花婿にとって関心の的なのですから。ただ花婿がいて、自分をつかんでいてさえすれば、それで十分なのです。つまり、花婿にすべてを完全にゆだねているのです。花嫁はそこまで成長しました。

そして、花嫁は続いてこう言っています。11節、「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」

この「村」とは8章2節にある母の家、実家のことです。エルサレムの都会にある王宮のような華やかなところだけでなく、自分にとって人生の原点でもある実家に戻り、そこで愛を楽しみましょう、と誘っているのです。

その理由が12節に書かれてあります。「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。」

彼女は6章3節で「シュラムの女よ」と呼ばれていますが、シュラムがあるガリラヤ地方ではぶどうの木が芽を出したり、ぶどうの木が花を咲かせたり、ざくろの花が咲いたりするのを見ることができます。そうした自然の中で夫婦の交わりを持つことができます。それは、エルサレムのような都会では不可能なことです。

13節をご覧ください。「恋なすびは香りを放ち、私たちの門のそばには、すべての最上の果物があります。新しいものも、古いものも。私の愛する方よ、これはあなたのために蓄えておいたものです。」

実家があるガリラヤには「恋なすび」も豊かに実っています。「恋なすび」は「マンドレイク」という名で知られていています。昔から薬草として使われていましたが、受胎効果が有るとも思われていました。創世記30章14節では、不妊で悩んでいたラケルが姉のレアに、息子ルベンが取って来た恋なすびを譲ってほしいと言っているのはそのためです。恋なすびは良い香りを放つため、性的欲情をかき立てるものでもありました。それは花婿と花嫁の関係をより親密にするものです。そこには、恋なすびが香りを放ち、すべての最上の果物がありました。それは花嫁が花婿のために蓄えておいたものです。ですから、ここで花嫁は花婿との関係をより一層親密にするものを用意しています、と言っているのです。

それは、私たちにも必要なことです。花婿なるキリストとの関係をより親密にするものが必要です。たとえば、私たちが手にしているこの聖書はその一つでしょう。聖書は「恋なすび」であるとも言えます。イエス様との関係をより親密にさせてくれます。聖書を通してイエス様の心を知り、イエス様との関係をより身近に感じさせてくれます。聖書はまさに恋なすびなのです。

また、教会での交わりもそうです。私たちがバプテスマを受けてクリスチャンになると、どこからか信仰を捨てるようにとか、少なくともあまり熱心にならないようにというプレッシャーと受けることがあります。そうした中にあっても動揺しないでしっかりと希望を告白するために、あるいは、信仰から出てくる愛と善行を促すように励まし合うために、教会に集まる必要があります。それはただ習慣として集まるというだけでなく、集会が心の習慣の一部となるような積極的な関わり方が求められるのです。そうでないと、信仰から離れてしまうことになるからです。教会での交わりはまさに恋なすびであり、イエス様との関係をより親密にするために必要なものなのです。

他にどのようなものがあるでしょうか。静かな場所で祈ることもそうでしょう。イエス様のことばを思いめぐらして祈るとき、イエス様の麗しさ、その愛に満たされます。信仰の良書を読むのもいいです。特に、信仰に生きた人たちの証は、私たちの信仰を励ましてくれます。バイブルスタディー祈祷会に参加することも大切です。バイブルスタディーに参加することで、それまで気付かなかったことに気付かされます。

昨年8月にスタートしたC-BTEのクラスは、先週基本原則シリーズⅠを終了しました。基本原則シリーズⅠでは、クリスチャンライフのベーシックなことを学びますが、参加している数人の兄弟から、この学びがなかったらただ教会の礼拝に出席して、与えられた奉仕をして終わりということになっていたのではないかと思います、と言うのを聞いて、この学びを継続してきてよかったなぁと思いました。まさにこうした学びも恋なすびです。

私たちには恋なすびが必要です。イエス様との関係を親密にするためのものを蓄えておきたいと思います。

Ⅱ.花婿を導いた花嫁(8:1-3)

次に、8章1~3節をご覧ください。これも花嫁のことばです。1節には、「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに会ってあなたに口づけしても、だれも私を蔑まないでしょうに。」とあります。どういうことでしょうか。

この「口づけ」とは、あいさつとして交わされる軽い口づけのことです。しかし中東では、今でもそうですが、男女が公に人々の前で口づけを交わすことはできませんでした。それが許されたのは家族の間柄に限られていたのです。中東では、女性が外に出る時は覆いを付けなければならず、外に出て異性と一緒にいることができたのは、唯一血のつながった兄弟だけだったのです。ですから花嫁はここで、もしあなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、外であなたに会って口づけしても、だれにも蔑まれないのに、と言っているのです。つまり、花婿に対する愛情の表現には限界があるということです。もっと自由に、もっとあからさまに、もっと強く花婿に対する愛を表したいと切に願っているのです。

皆さんはどうでしょうか。この花嫁のように花婿イエスをもっと愛したいと願っておられるでしょうか。もっと自由に、もっと豊かに、もっと親密に愛を表したいと強く願っているでしょうか。確かに、教会にいる時は大きな声で賛美することができます。涙して祈ることもできるでしょう。でも家に帰ったらどうでしょうか。クリスチャンは自分だけという家庭も少なくありません。そうなると、夫やこどもたちの前で祈ったりするのを躊躇してしまうかもしれません。職場ではどうでしょうか。クリスチャンばかりの職場だったら何でもないことでも、ノンクリスチャンが圧倒的に多いところでは教会の話やイエス様の話をするのをはばかってしまいます。そんな中でももっとイエス様を賛美したい、もっとイエス様と交わりたい、もっとイエス様のすばらしさを伝えたいと願っているならどんなにすばらしいことでしょうか。それほどまでにイエスに夢中で、イエスの愛に捉えられる者になりたいです。

2節には「私はあなたを導いて、私を育ててくれた母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの加重をあなたに飲ませて上げましょう。」とあります。

「私を育ててくれた母の家」とは、花嫁の実家のことです。花嫁にとって実家は、あまりいいイメージがありませんでした。1章6節を見ると、そこは兄弟たちにこき使われた所であり、顔が浅黒くなるまでぶどうの番人をさせられたところです。ですから、できればあまり近づきたくなかったはずです。しかし、その実家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて上げたいと言っているのです。なぜでしょうか。そこは花婿と出会った思い出の場所だからです。かつて花婿を見失ったとき、花嫁が彼を見付けたのもこの実家の近くでした。ですから、母の家はもう嫌なところではなくなったのです。そこは花婿と出会うことができたすばらしい場所という思いを抱くことができるようになりました。

それは私たちにも言えます。私たちにも実家のようなところがあります。別に実家が悪い所という意味ではありませんよ。彼女の場合はそれが実家であったというだけのことですが、そのようにいじめられたり、意地悪されたり、侮辱されたり、こき使われたりと、あまり良いイメージを持つことかできない場所があるということです。しかし、そんなところでも、イエス様と出会うなら、そこは最高の場所となります。

その実家である母の家に導いて、そこにお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁の果汁をあなたに飲ませて上げましょうというのです。えっ、逆じゃないですか。そこに導いて、ぶどう酒やざくろの果汁を飲ませてくれるのは花婿の方ではないのですか。これまでもずっとそうでした。いつも花婿が花嫁を導いてくださいました。花嫁が花婿を導くなんておこがましいことです。でもここでは花婿が導いているのではなく、花嫁が導いてと言っています。花嫁が花婿を母の家にお連れしたいと言っているのです。どういうことでしょうか。

確かに、私たちはイエス様に導かれている者です。私たちが救いに導かれたのもそうです。それはイエス様の導きによるものであり、一方的な恵みです。しかし、同時に、私たちもイエス様を導いている面があるのです。たとえば、イエス様は大宣教命令の中で、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)と言われましたが、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われたイエス様は、同時に、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と言われました。つまり、私たちが出て行くところには、いつもイエス様が共におられるのです。言い換えると、クリスチャンがイエス様をお連れするという面があるということです。それはイエス様に何か指図するということではなく、イエス様が喜んでくださるところにお連れするということです。花嫁がお連れしたかったのは、彼女を育ててくれた母の家でした。そこで香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて差し上げたかったのです。

「香料を混ぜたぶどう酒」とは、究極の喜びを表しています。「香料」は祈りの象徴、「ぶどう酒」は喜びの象徴です。祈りに喜びが混ぜ合わされているというのは、あるいは、喜びに祈り混ぜ合わされているというのは、ただの喜びではなく究極の喜びであるということです。それは尽きることがない喜びです。揺らぐこともなく、失われることもありません。そのような喜びを花婿に差し上げましょう、と言っているのです。

ヨハネの手紙第三1章3節にはこうあります。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。」

この手紙は、当時エペソの教会の長老であったヨハネが書いた手紙ですが、ここで彼は、「兄弟たちがやって来て、あなたがたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます」と言っています。彼にとっての喜びは、クリスチャンが真理に歩んでいるということでした。それはヨハネに限ったことではなく、牧師であればみんなそうです。クリスチャンが真理に歩んでいること、信仰に堅く立っているということを聞くことほど大きな喜びはありません。それは大牧者であられるイエス様も同じです。イエス様が喜んでくださることは、私たちが真理のうちに歩むことです。そのようなものを飲ませてさしあげることかできます。

それは、ざくろの果汁にも言えることです。よくスーパーに行くとざくろのジュースが置いてありますが、ざくろは強い抗酸化力があるので、ガンや腎臓病の予防に効果的だと言われています。また、美白化粧品にも使用されるエラグ酸を含むので、くすんだ肌を美白肌へと導いてくれるそうです。それは疲れたからだを癒す効果がある最高の飲み物でした。それを飲ませい差し上げましょう、というのです。それはどれほど花婿を爽やかな気持ちにさせることができたでしょうか。こうしたものをイエス様にささげることができるのです。

これまで私たちは、イエス様から何かをしていただくことしか考えられなかったかもしれませんが、でも私たちが霊的、信仰的にステップアップしていく中で、今度はイエス様に差し上げることができるようになってきます。イエス様にとって喜びとなるもの、イエス様にとってすがすがしく、爽やかにさせるものをささげることができるのです。そのためには、まず自分自身をささげたいですね。なぜなら、イエス様が求めておられるのはお金でも、時間でも、労力でもでもなく、私たち自身であるからです。つまり、献身するということです。それがイエス様にとって最もうれしいことであり、喜んでくれることなのです。花嫁が花婿に自分をささげるように、キリストの花嫁である私たちは、花婿であるキリストに自分をささげたいと思うのです。

3節をご覧ください。ここには「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」とあります。これも2章6節で語られていたことの繰り返しです。あの方の左の腕が私の頭の下にあるとは、左の腕でがっちりと支えているというイメージです。そして右の腕が私を抱いてくださるとは、優しく抱きしめているというイメージです。ちょうど母親が赤ちゃんを抱っこしている姿です。それは確かな保護と細やかな愛情を表現しています。あなたが危険に陥らないようにがっちりと支えていてくれます。あなたがつまずいて倒れそうになった時、主は力強い御手をもって支えていてくださるのです。

あなたはそのようなイエス様の愛情を感じているでしょうか。包み込むような優しい愛情を受けているでしょうか。イエス様の腕が、文字通りあなたをしっかり支えているということを覚えていてください。イエス様がおられるなら寂しくありません。もう何も怖くはないのです。あなたの下には永遠の腕があるからです。ここに真の満たしと安心感を得ることができます。あなたにとってイエス様がそのような方であるかどうかをもう一度考えてほしいと思います。

Ⅲ.揺り起こしたり、かき立てたりしないでください(4)

最後に、4節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたにお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

これも花嫁のことばです。ここで花嫁はエルサレムの娘たちにお願いしています。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」と。これは2章7節と3章5節にもありました。振り返ってみましょう。2章7節には、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。また、3章5節にも、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。それがここでもう一度繰り返して言われているのです。

なぜ繰り返して言われているのでしょうか。2章7節で説明した時にもお話しましたが、この繰り返しによって一つの場面を締めくくっているからです。ですから、8章5節から、また新しい場面を迎えることになります。それはこの雅歌全体のクライマックスです。しかし、それだけでなく、実は、このことがとても大切なことだからです。その大切なことを思い起こしてほしかったのです。

私たちは大事なことでもすぐに忘れてしまいます。喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れるで、どんなに大事な教訓でも、喉元を過ぎるとそれがどんなに熱かったのかを忘れてしまいます。思い起こす必要があります。だから繰り返して語られているのです。「ああ、これは本当に大事なことでした。」と思い起こさせているのです。その内容はどんなことかというと、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思う時までは。」です。これは直訳すると、「あなたがたは揺り起こしたり、かき立てたりして、私の愛を目覚めさせないでください。私が良いと思う時までは。」となります。私が良いと思う時までは、私がそうしたいと思う時までは、揺り起こしたり、かき立てたりしないで、そっとしておいてくださいとお願いしているのです。

このエルサレムの娘たちはたびたび登場していますが、彼女たちの存在は本当に有難いものです。その度に何かを気付かせてくれます。たとえば、5章9節では花嫁が花婿を見失ったとき、彼女は必至になって花婿を捜すも見つからなかったとき、このエルサレムの娘たちにお願いして、一緒に捜してください、そしてあの方を見付けたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。

するとこのエルサレムの娘たちは言いました。「いったいあなたにとって花婿はどんな存在なんですか、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。」と。それで花嫁はハッとして、花婿のすばらしさを思い起こし、その存在のすばらしさを告白しました。「あの方のすべてがいとしい。これが私の愛する方、これが私の恋人です。」いわば、彼女の思いを引き上げてくれたわけです。有難いことです。

しかし、そのような存在であるがゆえに、時にはお節介とも思われる言動をすることがありました。それで花嫁は「ちょっと待ってください、私は静かに考えたいのです。私がそうしたいと思う時まで、私の心を揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。」とお願いしているのです。花嫁は、花婿との愛の関係をどれほど大切にしているかがわかります。事ある度に花婿との関係を思い起こしては、花婿との関係を大事にしているのです。彼女の成長ぶりが伺えます。

事ある度にイエス様との関係を思い起こすこと、これは私たちにも求められていることです。あなたにとってイエス様はどのような存在でしょうか。あなたとイエス様との関係はどうでしょうか。あなたにとってイエス様との関係が何よりも大切となっているでしょうか。イエス様との関係がどうなのかを、私たちも事ある度に思い起こし、キリストの愛に目覚めるように祈りたいと思います。

雅歌7章1~10節「高貴な人の娘よ」

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 きょうは、雅歌7章から学びます。花嫁が花婿を見付けると、花婿は何事もなかったかのように花嫁を受け入れ、花嫁の美しさを再び称賛しました。そして自分の車に乗せて二人だけの親密な交わりを持つことができる場へと連れて行きました。その時でした。エルサレムの娘たちの声が聞こえてきました。「帰りなさい、帰りなさい」。もう帰りたくない、このままずっと花婿との二人だけの時間を過ごしたいと思っていた花嫁でしたが、エルサレムの娘たちも花嫁の姿を見ることを切に願ったのです。今回はその続きです。

 Ⅰ.高貴な人の娘(1a)

 まず、1節をご覧ください。1節をお読みします。「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ。」

 これは花婿のことばです。花婿のことばが9節まで続きます。ここで花婿は花嫁の美しさを絶賛しています。文字通り彼女のつま先から頭のてっぺんまでその美しさを絶賛しているのです。よく読んでいくと顔を赤らめてしまうような表現が続きますが、このところを読んでいくと、花婿がどれほど花嫁を愛しているかがわかります。それは同時にイエス様が私たちをどれほど愛しておられるかということでもあります。なぜなら、この花婿とは主イエスのこと、そして花嫁とは私たち教会のことを指しているからです。

 いったい花嫁のどこがそんなに美しいのでしょうか。ここには「高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。」とあります。花婿は花嫁のことを「高貴な人の娘よ」と呼んでいます。しかし、この花嫁は決して高貴な出の娘ではありませんでした。1章6節をご覧ください。彼女は農家の娘であったことが紹介されていました。ただの農家の娘であったというだけでなく、家では使用人のようにこき使われていたのです。ここには「あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。」とあります。彼女は兄弟たちが怒りを燃やし、彼らのぶどう畑の番人にしたので、彼女の肌は日に焼けて、浅黒くなったと嘆いています。彼女はそのことでコンプレックスを持っていました。しかし、花婿はそんな彼女に目を留めて花嫁とし、王家に迎え入れてくれました。それゆえ彼女は、「私は黒いけれども美しい。」と宣言することができたわけです。卑しい娘が、高貴な娘としての立場を与えていただいたのです。それで、高貴な人の娘よ、と呼ばれるようになりました。

 それは私たちも同じです。私たちもかつては罪過と罪との中に死んでいた者ですが、キリストを信じ、キリストと結び合わされたことによって、神の子と呼ばれるようになりました。高貴な人の娘よ、と呼ばれるようになったのです。ガラテヤ人への手紙3章26節には、「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」とあります。人間の親子でさえ、子どもという身分のゆえに親から様々な祝福を受けることが出来ます。子どもであるというだけでその家の鍵が与えられ、家の中のものは何でも自由に使うことさえできるわけです。

私が結婚したばかりの頃、アメリカの妻の実家に行ってみて驚いたのは、冷蔵庫が大きいことです。しかも製氷機付きです。中には日本では飲んだことがないようなジュースがたくさんあるではありませんか。その頃はバブル期で日本の円が高く、円に換算するとものすごく安いのです。「ああ、飲みたいなぁ」と思っても、人の家の冷蔵庫を開けるのは失礼だと思いずっと我慢していましたが、でも飲みたくなってある時妻に「冷蔵庫からジュースを飲んでもいいかな」と言ったら「もちろん、いいよ」というので「それじゃ」と言って恐る恐る冷蔵庫を開けて飲んだのです。あとで妻の両親から「だれだ、冷蔵庫の中のジュースを勝手に飲んだのは」と怒られるのではないかとビクビクしていましたが、だれも何も言いませんでした。なぜ?私は家族の一員になったからです。家族の一員なったので冷蔵庫を開けて何を飲んでも文句を言われないのです。

ましてや、私たちは人間の家族ではなく神の家族に迎え入れられ、神の子どもとされました。この天地万物を創造された方の子どもになるということは、神の御住まいである天の御国を受け継ぐ者となったということです。これらすべては神の恵みです。それは私たちの行いによって勝ち得たものではありません。神様が一方的にイエス・キリストを通して与えてくださったものです。それゆえに、私たちも「高貴な娘よ」と呼んでいただける身分、立場とされたのです。そのことをしっかりと覚えておきたいと思います。

 ところで、この「高貴な」という言葉ですが、これはヘブル語では「ナディーブ」と言います。意味は「積極的である」とか「自発的である」、「寛大である」、「気高い」です。ですから、新共同訳ではこれを「気高いおとめよ」と訳しています。気高いとは、道徳的に優れているとか、人格的に優れている、王家のような高い身分であることを指しています。ですから、口語訳では「女王のような娘よ」と訳しています。

それはイエス様のような人のことです。イエス様は王の王、主の主であられる方なのに、決して傲慢ではありませんでした。イエス様は神の御姿であられる方なのに、神としてのあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を空しくし、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。そればかりか、自らを低くして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。王の王、主の主であられる方が、しもべの中のしもべになられたのです。これこそ高貴な人です。真に高貴な人とは、ただ自分の家柄や身分を自慢するのではなく、イエス様のようにへりくだって、しもべなる人のことです。そのような人こそ神の子としてふさわしい気高い人なのです。私たちは高貴な人の娘としてふさわしい人になれるように求めていきたいと思います。

Ⅱ.人を喜ばせる愛よ(1b-9)

次に、1節後半から9節までをご覧ください。ここには、この花嫁の美しさが具体的に語られています。まず1節の後半をご覧ください。ここには「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ。」とあります。

まず、花嫁の足です。花嫁の美しさの一つは、サンダルをはいた足でした。サンダルをはいているとはどういうことでしょうか。シンデレラのようなかかとの高い透き通ったサンダルでも履いていたのでしょうか。そういうことではありません。サンダルをはいたとは、彼女が高貴な人の娘であったということを表しています。当時、貧しい人はサンダルをはきませんでした。裸足だったのです。しかし、彼女はサンダルをはいていました。それだけ高貴な人であったということです。

 次は「ももの丸みです」です。ここには「あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ」とあります。何ですか、「ももの丸み」とは。新改訳聖書第三版には「丸みを帯びたもも」と訳しています。創造主訳聖書では「まろすやかなもも」と訳しています。これはまろやかなもものことです。ももはももでも果物の桃ではなく、足からもものつけ根までの部分を指しています。その部分が一番まろやかなのです。人間のももと鳥のももを比べるのはどうかとも思いますが、鶏肉で一番おいしいのは「もも」の部分です。引き締まっていて、旨味とコクが感じられます。脂肪分が多く、調理した時にジューシーに仕上がるのが特徴です。ですから、からあげや照り焼きなどに使われるのはこの「もも肉」なのです。

それは名人の手のわざです。名人の手で作り上げられた飾りのようであるということです。いわば職人技であるということです。まろやかなももが職人技であるというのはすごいですね。実はこれは私たちにも言えることで、私たちは神の職人技による作品なのです。エペソ2章10節には「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。クリスチャンを見れば、誰が造ったのかは一目瞭然です。それは神の芸術作品なのですから。名人の手で作られた飾りようなものなのです。

 さらに、2節には「ほぞは丸い杯。混ぜ合わせたぶどう酒は尽きない。腹は小麦色の山。ゆりの花で囲まれている。」とあります。

 何ですか、「ほぞ」とは?皆さん、聞いたことがありますか。これは「おへそ」のことです。「おへそ」を美的に表現したのが「ほぞ」です。「おへそ」は俗語です。これは雅歌ですから、雅の歌です。上品で、精錬された歌なので、「へそ」と言わず「ほぞ」と言っているのです。私たちもこれからは上品に言いましょう。「ほぞ」。

それは杯のように丸い形になっていました。丸い杯とは、丸く見事な形をしているということです。でべそではありません。ですから、混ぜ合わせたぶどう酒は尽きないのです。もしへそが出ていたらぶどう酒を注ぐことができません。しかし、花嫁のおへそは丸い杯のように見事な形をしていたので、ぶどう酒を注ぐことができました。それは祝福が溢れている状態を象徴しています。詩篇23篇5節には「私の杯はあふれています。」とあるのはそのことです。最近はおへそにピアスを付けている人もいますが、そんなことをしなくてもこの花嫁もおへそは祝福に溢れた魅力的なものでした。

では、お腹はどうでしょうか。「腹は小麦色の山。ゆりの花で囲まれている」とあります。小麦色の山とは健康的で、血色が良いという意味です。よく小麦色の肌といってその美しさを表現することがあります。

しかもそれがゆりの花に囲まれています。ゆりの花というと白色を思い浮かべるかと思いますが、これは赤色です。アネモネとかチューリップなど野原を真っ赤に染める花でした。それは若々しく健康的であるということです。

ですから、腹はゆりの花で囲まれた小麦色の山のようであるというのは、山のようにお腹がポッコリと出ているということではなく、そのように血色が良く、健康的なお腹であるということです。その真ん中にあるのがおへそです。ほぞです。そこがぶどう酒の杯に溢れているのです。そこから喜びがあふれています。これは何のことかというと、ヨハネの福音書7章37~39節のことを表しています。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」

 イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われました。私を信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。この「その人の心の奥底から」という言葉は、欄外の注釈には直訳「腹から」となっています。イエス様のもとに来て飲むなら、その人の腹から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。これは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について言われたのですが、それは腹から流れでるようになるのです。まさにお腹の中心にあるほぞから混ぜ合わせたぶどう酒が溢れるということです。そのような喜びと祝福の生ける水の川が流れ出るのです。

 あなたのほぞはどうですか。生ける水の川が流れていますか。混ぜ合わせたぶどう酒が溢れているでしょうか。もうカラカラで何もないという状態ではないでしょうか。イエス様のもとに来て飲むなら、イエス様を信じるなら、あなたの心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。

 3節をご覧ください。「二つの乳房は、二匹の子鹿、双子のかもしかのようだ。」ここでは花嫁の乳房を絶賛しています。この表現は4章5節にもありました。「乳房」は祝福と恵みの象徴です。それが二匹の小鹿、双子のかもしかにたとえられているのは、それが若々しく、跳びはねるような、張りのあるもので、しかも、バランスがとれていることを表しています。とてもきれいな乳房であるということです。ここでは肉体的な乳房の美しさよりも、霊的にそうであるということです。つまり、花嫁の心が若々しく、みずみずしく、張りがあって、跳びはねるように魅力的であるということです。

あなたの心はどうでしょうか。精神的、霊的にアップダウンしていませんか。あなたが花婿であるキリストにあるなら、あなたも双子のかもしかのように若々しく、瑞々しく、跳びはねるような、しかもバランスのとれた心となります。

4節をご覧ください。今度は首と目と鼻です。「首は象牙のやぐらのようで、目は、バテ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池。鼻は、ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようだ。」

すごい表現ですね。象牙のやぐらとか、バテ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池とか、ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようと言われてもピンときません。象牙のやぐらとは、なめらかで白いことを表しています。それが「やぐら」のようにスラっとしているということです。花嫁の首はそのように美しい首でした。京都の舞子さんのようです。

バデ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池のような目ですが、「ヘシュボン」とは、巻末の地図を見ていただくとわかりますが、エルサレムから東にヨルダン川を渡って約60㎞のところにあります。死海の北東に位置しています。ここはかつてモアブの首都でした。ですから、一国の首都であったような立派な町だったのです。その門です。「どんなもんだい」という声が聞こえてきそうです。それはバテ・ラビムと呼ばれる門でした。そこには大勢の人たちが集まりました。その近くにあったのがヘシュボンの池です。それは、特に澄んだ池でしたが、そのヘシュボンの池のように澄んだ目であるということです。その澄んだ目を見ただけで引き付けられるような魅力的な目でした。

鼻はどうですか。ここには「鼻は、ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようだ。」とあります。すごい比喩ですね。ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらです。レバノンについては4章8節でも説明しましたが、そこには北からアマナの頂、セニルの頂、ヘルモンの頂と、山脈が南北に連なっています。レバノン山脈と呼ばれています。全長は150㎞にも及びます。そのレバノン山脈にあるやぐらからダマスコの方を見張るようなスラっとした高い鼻であるということです。

5節をご覧ください。今度は頭です。「頭はカルメル山のようにそびえ、髪の毛は紫の羊毛のよう。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」

カルメル山で有名なのは、神の預言者エリヤが、バアルとアシェラの預言者たちと対決した場所です。それがこのカルメル山でした。しかし、もともとの意味は「実り豊かな地」です。そこは実り豊かな美しい地でした。それは髪の毛に表れていました。「髪の毛は紫の羊毛のよう。王はそのふさふさとした髪のとりこになった。」すなわち、羊毛のようにふさふさしているということです。それだけ豊かであるということ、それだけゴージャスであるということです。

ただふさふさしているというだけではありません。ここにはその髪の色が紫色であると言われています。どうしたのでしょうか。これまでは「ギルアデの山を下るやぎの群れのようだ」と、その黒髪が称賛されていました。しかし、ここでは紫になっています。あの美しい黒髪を紫色に染めたのでしょうか。ある注解によると、光に当たって紫色に見えたのではないかと説明してありますが、そういうことではありません。ここで強調しているのは「紫色」です。それは高貴な色です。それは王家の気高さを表現しているのです。つまり、1節には「高貴な人の娘よ」とありましたが、彼女は王家に嫁いだことで、王家の一員、ロイヤルファミリーに迎え入れられたということを表現しているのです。それが花嫁の立場です。感謝ですね。

私たちもイエス様に出会って、イエス様を信じたことで、イエス様と一つに結ばれました。王の王、主の主である神の家族の一員とされました。私たちの髪の毛も紫色になっています。ふさふさとしています。このことを忘れないようにしたいです。

次に、6節をご覧ください。「ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。」

ここで花婿は花嫁を、「人を喜ばせる愛よ」と呼んでいます。愛を擬人化しているのです。英語で愛する人のことを「my love」と呼ぶことがあります。私の愛する人よ、という意味です。ですから「人を喜ばせる愛よ」というのは、「私を喜ばせる 愛する人よ」ということです。

聖書には、神は愛なり、とあります。その神が私たちのことを「愛よ」と呼んでいるのです。それほどまでに私たちは神に愛されているのです。イザヤ書43章4節には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあります。最近、教会の看板に書かれてある聖書のことばで一番多いのはこのことばです。一昔前まではマタイ11章28節のみことばでした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」しかし、今は違います。今一番多いのはこのことばです。今の時代を反映しているのでしょうか。みんな愛に飢えています。みんな愛を求めています。その愛はどこにあるのでしょうか。ここにあります。神は愛です。この神がイエス・キリストをお与えになったほどにあなたを愛してくださいました。ここに神の愛があるのです。この愛を信じる者、キリストの花嫁に対して主は「私の愛する人よ」と呼び掛けてくださるのです。

7節をご覧ください。ここには「あなたの背たけはなつめ椰子の木のよう、乳房はその実の房のようだ。」とあります。

「なつめ椰子の木」は、へブル語で「タマル」と言います。「美しい」という意味があります。ですから、ここで花婿は花嫁の背たけをなつめ椰子の木にたとえて、美しいと言っているのです。ファッションモデルのようにスラッとしていたのかもしれません。私はどうみてもずんぐりむっくりで・・という方がおられますか。がっかりしないでください。あなたの花婿はあなたを見てこのように言ってくださるのですから。

また乳房はその実の房のようです。新改訳改訂第3版では「あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。」とありますが、正確にはこの新改訳2017の訳のように「その実の房のようだ」となっています。なつめ椰子の実は「デーツ」として有名ですが、その実の房のようだというのです。皆さんは、デーツの実の房を見たことがありますか。ネットで調べてみるとぶどうの房のように、あるいはバナナの房のようになります。でももっと大きいのです。まさにふさふさしています。ですから、ここで花婿は、花嫁の乳房を見て、なつめ椰子の木の実の房のように豊かであると言っているのです。

8節をご覧ください。「私は言った。「なつめ椰子の木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうの房のようであれ。息の香りはりんごのようであれ。」どういうことでしょうか。

「その枝をつかみたい」とは、そのなつめ椰子の実の房をつかみたいということです。それは先ほど申し上げたように、ぶどうやバナナよりももっと大きな房になります。それをつかんでかぶりつきたいと言っているのです。これは乳房のことですから、乳房をつかみ取りたいとか、かぶりつきたいというのは性的描写のことです。聖書にこのような描写があるとびっくりしますが、これはあくまでも夫婦の間の性生活のことですから、それはむしろすばらしいことです。それをつかみ取りと思うほど魅力的であるということですから。だから、ここに「あなたの乳房はぶどうの房のようであれ」とあるのです。なつめ椰子の実の房のようであれと言われているのです。

また、「息の香りはりんごのようであれ」と言われています。このりんごについても2章3節や2章5節にもありましたが、それは甘い香りを放ちます。それは花婿の香り、イエス・キリストの香りでもあります。花嫁の息の香りがそのような香りであればいいのにというのです。

そして9節には口づけのことが記されてあります。「あなたの口は最良のぶどう酒のようであれ。」そのぶどう酒は、私の愛する方に滑らかに流れ、眠っている者たちの唇に流れる。」

時々妻に「あなたはきょう何を食べましたか」と言われることがあります。口が臭いというのです。何を食べたかって、ラーメンとか、カレーライスとか、そういうものを食べた後は口が臭くなります。しかし、花嫁の息の香りはりんごのようです。花嫁との口づけは、最良のぶどう酒のように、なめらかで甘く、眠っている花婿の唇を開かせます。もう何から何まで魅力的です。花婿と結ばれた花嫁の姿は、花婿の心を完全に満たすのです。

これがキリストの花嫁である私たちの姿です。それは花婿の心を魅了するほどの美しさです。それは花嫁である私たちが花婿と結ばれ、一つになり、高貴な人の娘とされたからです。私たちは取るに足りない卑しい者ですが、花婿に愛され、高貴な人の娘としていただいたものとして、ますますキリストの心を魅了するような者となりたいと思います。

Ⅲ.あの方は私を恋い慕う(10)

最後に、10節を見て終わりたいと思います。これまでは花婿が花嫁の美しさを絶賛していましたが、ここから8章4節まで花嫁のことばが続きます。その最初のことばがこれです。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」

これまで花婿は花嫁の美しさを絶賛してきましたが、何といっても花嫁の一番の美しさは、その心でした。ここで彼女は「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と告白しています。

「私は、私の愛する方のもの。」という告白は、これで3回目になります。最初の告白は、2章16節にありました。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

「私の愛する方は私のもの」という告白は、「あなたは私のもの」という所有の意味が強く表現されていました。花嫁にとって花婿は自分の楽しみであり、花嫁は自分の視点からしか花婿の愛を捉えることができませんでした。どういう事かと言うと、自分の人生の中に神様の祝福を加えようとする、自分の視点で神様の恵みを利用している愛です。神様、こうしてください。神様、私はこれが必要です。これはいりませんと、祝福や問題ばかりに目がいき、それを解決してほしいがためのイエス様です。まだ自分が中心にいます。

ところが、前回見たように6章3節の段階では、その愛に成長が見られました。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

ここでは順序が逆になっています。「私の愛する方は私のもの」よりも、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と告白できるようになりました。つまり、自分より花婿が中心で、自分はその次なのだと自覚するようになったのです。自己中心的な愛から、献身的な愛へと変えられたのです。神様のみこころが中心で、その中で生きるように変えられました。あなたのご計画の中で私を祝福してくださいと、自分が中心ではなく、みことばが中心となり、その上で自分の生活を整えていくようになったのです。これは大きな成長です。自分を献げることができるようになったのですから。

しかし、ここではそれだけではありません。ここで花嫁は、「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と告白しています。

ここで花嫁は、自分が完全に花婿のものであるというだけでなく、「あの方は私を恋い慕う」と、自分が花婿の関心の的であると告白しているのです。もう何をしても、何が起こっても怖くありません。イエス様が必ず守ってくださいますから。つまり、平安の中で完全に憩っている状態です。イエス様が私に対して必ず良いことをしてくださるという確信があるのです。ただイエス様が共におられ、自分をつかんでいてくだされば、それで十分なのです。イエス様にすべてを完全にゆだねているのです。そこまでレベルアップしました。

あなたは今、どの段階にいますか?あなたの愛が成長する秘訣は、礼拝です。ワーシップです。私たちに対するイエス様の愛を知れば知るほど、イエス様に対する愛は成熟していきます。あなたは高貴な人の娘と呼ばれるようになりました。それが、花嫁のアイデンティティーです。イエス様は、あなたをこよなく愛してくださいました。その愛を知れば知るほど、あなたは安心してすべてを主に献げることができるようになるのです。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と、私たちも告白する者でありたいと思います。

雅歌6章1~13節「帰りなさい、帰りなさい」

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 きょうは、雅歌6章から学びます。花婿を見失った花嫁は必至になって捜し求めますが、そのために彼女はこの質問に明確に答えなければなりませんでした。それは、「あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。」という質問です。それに対して彼女は、「これが私の愛する方、これが私の恋人です。」と答えることができました。他の人にとってどうであろうと、この方は自分にとって本当に大切な方であるという確信を持つことができたのです。きょうの箇所はその続きです。

 Ⅰ.成長する愛(1-3)

 まず、1節から3節までをご覧ください。「あなたの愛する方はどこへ行かれたのでしょう。女の中で最も美しいひとよ。あなたの愛する方はどこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。私の愛する方は、自分の庭へ、香料の花壇へ下って行かれました。園の中で群れを飼うために、ゆりの花を摘むために。私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

 1節は、エルサレムの娘たちのことばです。花嫁は花婿がいかに優れた方なのかを告白すると、エルサレムの娘たちは心動かされ、「私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」と申し出ました。

 

このところから教えられることは、主への賛美は人々の心を動かすということです。エルサレムの娘たちは、花嫁がなぜそんなに必死になって花婿を捜し求めるのか理解できませんでした。しかし、花嫁が花婿のすばらしさをほめたたえたとき、彼女たちの心が動かされ、自分たちも一緒に捜したいと思うようになったのです。これが伝道です。伝道とは、イエスさまとの愛の関係から生まれてくるものです。イエスさまとの愛の関係があると、必然的にこの方について話さずにはいられなくなります。「あの方のすべてがいとしい」と。その方を心からほめたたえ礼拝するなら、それを見るノンクリスチャンは、イエスさまを知りたいと思うようになるのです。勿論、トラクトを配ったり、機会がある度にイエスさまを証することは大切なことですが、最も効果的な伝道は、花嫁である教会が一つとなって花婿であるキリストをほめたたえることなのです。そのとき、この世はイエスさまを知るようになります。

イエスさまが教えられたのはこのことです。ヨハネの福音書17章21節を開いてください。ここには、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」とあります。

これは、十字架を前にして祈られたイエスさまの祈りです。イエスさまは「あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたがたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。」と言われました。「彼ら」とはイエスさまの弟子たちのことです。また私たちクリスチャンのことでもあります。どうしたらこの世は、神がイエスを遣わされたと信じるようになるのでしょうか。それは、父がイエスのうちにおられ、イエスが父のうちにいるように、私たちすべてのクリスチャンが一つになることによってです。教会が一つになって主を礼拝し、主をほめたたえている姿を見ることによって、この世はイエスこそ神の子であると信じるようになるのです。これが、イエスさまが教えられたことです。

ですから、私たちに求められていることは、私たちが互いに愛し合い、心を一つにしてイエスさまをほめたたえることです。もしかすると、それを見たノンクリスチャンは初めのうちは驚き怪しむかもしれませんが、だんだんとそこにはこの世にはない本当の愛があることを知って、「私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」と申し出るようになるのです。

2節と3節をご覧ください。「私の愛する方は、自分の庭へ、香料の花壇へ下って行かれました。園の中で群れを飼うために、ゆりの花を摘むために。私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

これは花嫁のことばです。花嫁は花婿がどこか遠くへ行ってしまったのではないかと思っていましたが、実はごく近くにいました。花婿は「自分の庭」にいたのです。花嫁はどうやって花婿の居場所がわかったのでしょうか。ふと花婿の庭に目をやってみたら、花婿が自分の庭に下って行くのを見たのです。花婿はそこで群れを飼うために、ゆりの花を摘むために、香料の花壇へと下って行きました。それで彼女はこう言いました。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」どういうことでしょうか。

このことばをよく覚えておいてください。彼女がこのように言ったのはこれが2回目です。2章16節でも同じように告白しました。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」しかしここでは彼女はまず、「私はあなたのもの」と告白しています。ここに花嫁の成長を見ることができます。以前の彼女なら「私は私の愛する方のもの」という前に、「私の愛する方は私のもの」と告白していました。まず「私」でした。でもここではそうではありません。その前に「私はあの方のもの」と告白できるようになりました。愛がより純粋になっているのです。花婿といっしょにいることができるという喜びだけではなく、それ以上に自分が夫のものであるということを喜んでいるのです。彼女は花婿との関係の危機を経験したことで、人生の優先順位が変えられました。花婿に対する愛が深くなるにつれ、自己中心的であった愛が献身的な愛へと変わったのです。

それは私たちにも言えることです。イエスさまと出会い、イエスさまを信じたことで、イエスさま私のもの、私はイエスさまのものとなりました。このようにイエスさまと一つとなれることはすばらしいことですが、こうした夫婦の危機を乗り越えることによってイエスさまに対する愛がさらに深められ、それまで自己中心的であった愛が献身的な愛へと変えられていくのです。

あなたはどうですか。あなたは人生の試練を通して何を学びましたか。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」から「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」と人生の優先順位が変えられ、主への愛が深められ、それまで自己中心的であった信仰が、主のみこころにかなった献身的な信仰に変えられているでしょうか。

Ⅱ.旗を掲げた軍勢のように恐ろしい(4-10)

次に、4節から10節までをご覧ください。花嫁のことばを聞いた花婿は、花嫁の美しさをほめたたえます。4節には「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しい。あなたはエルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐れられる。」とあります。

「ティルツァ」とは、後にイスラエルは北と南に分かれますが、その北イスラエル王国の首都です。後に北王国イスラエルの首都は「ティルツァ」から「サマリヤ」に移ります。ですから、サマリヤに移される前に首都があった町が「ティルツァ」です。意味は「本物の美しさ」です。ですから「あなたはティルツァのように美しい」とは、「あなたは本当に美しい」という意味になります。花婿は花嫁を見てそのように喜んだのです。これが花婿であるイエスさまが花嫁である私たち教会を見る目です。

また「エルサレムのように愛らしい」とありますが、「エルサレム」とはご存知のようにイスラエル南ユダの首都です。哀歌2章15節には、このエルサレムを「美の極み」とか「喜びと言われた都」と言われています。ですから、これは美の極みであり、喜びの都です。

これら二つの町に共通しているのは、美しさと堅固さです。堅固な城壁に守られていて、揺るぎない土台にありました。王国の都としての栄光と尊厳があります。そのように花嫁も全イスラエルの美しさと栄光に輝いていたのです。

しかし、ここにはもう一つのことが言われています。それは「旗を掲げた軍勢のように恐れられる」です。どういうことでしょうか。旗を掲げるとは、戦いで勝利したことを表しています。勝利した軍勢が旗を掲げました。戦いに負ければ、旗は屈辱のうちに取り去られました。けれども、その旗が掲げられる時には、いつも勝利の栄光がありました。花嫁はそのような存在なのです。花婿の前で美しく愛らしい花嫁は、一方で、天の都のように堅固で揺るぐことがない、いつも勝利者としての尊厳があるということです。

でもここには「その軍勢は恐れられる」とあります。恐ろしいというのは、美しいとか愛らしいというイメージとは相入れない表現のように感じます。しかし、これは鬼のように恐ろしいというイメージではありません。その恐ろしさは、神の聖さと密接に関連しています。神は聖なる方です。ですから、イエス・キリストによって罪が贖われたクリスチャに求められていることは「聖なるもの」であることです。Ⅰペテロ章16節には、「あなたがたは聖なるものであなければならない。わたしが聖だからである。」と書いてあるからです。」(Ⅰペテロ1:16)とあります。もし花嫁なる教会がこの世に融合し、この世に媚びることがあるとしたら、神の聖さを失い、同時に「恐ろしさ」も失うことになってしまいます。反対に、その聖さを保つなら、旗を掲げた軍勢のように恐れられることになります。そのような花嫁には真の魅力があります。その姿に花婿はとりこにされ、釘付けにされるのです。ですから、花嫁のすばらしさはただ美しいというだけでなく、「美しさ」と「恐ろしさ」を合わせ持った存在として、主の栄光を現わし続ける存在なのです。

5節をご覧ください。「あなたの目を私からそらしておくれ。それが私を引きつける。あなたの髪は、ギルアデから下って来るやぎの群れのようだ。」

花嫁の目が花婿を引きつけます。花嫁のひとみが花婿の心を引きつけるのです。これはどういうことかというと、もしあなたがイエスさまを見るなら、イエスさまの心はあなたに釘付けになるということです。私たちはいつもイエスから目を離さないようにしましょう。

その後のところには、「あなたの髪は、ギルアデから下って来るやぎの群れのようだ」とあります。同じことが4章1節でも語られていました。流れるような黒髪の美しさを表現しています。

また、6節と7節には「歯は、洗い場から上って来た雌羊の群れのよう。それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない。頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」とありますが、これも4章2~3節で語られていたことです。「洗い場から上って来た雌羊の群れのよう」とは、真っ白であるということです。また、「双子で、一方を失ったものはそれらの中にはない」とは、歯並びの美しさを表現しています。上歯と下歯が見事に揃っています。欠けた歯は一つもありません。

「頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」というのは、赤くて思わずかみつきたくなるような美味しそうな頬であるということです。

8節と9節には、「王妃は六十人、側女は八十人、おとめたちは数知れない。汚れのないひと、私の鳩はただ一人。彼女は、母にはひとり子、産んだ者にはまばゆい存在。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、側女たちも見て、彼女をほめた。」とあります。

ソロモンには300人の王妃と、700人の側女がいました。ここに王妃は60人、側女は80人とありますから、その初期の頃のことでしょう。彼には多くの王妃と側女がいました。おとめたちは数知れないほどです。しかし、どれだけ多くの王妃がいても、どれだけ多くの側女がいても、どれだけ数知れないほどのおとめたちがいても、あなたは別格だと言っているのです。だったら花嫁だけにしておけばいいのにと思いますが、それがソロモンの弱さでもありました。しかし、それほど多くの女性たちがいても、花嫁だけは特別な存在でした。しかもそれはその王妃たちや側女たちも認めるほどでした。「娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、側女たちも見て、彼女をほめました。」

「あなたは私にとってはきれいだけど、客観的に見たらそうじゃないかもしれない」ではないのです。だれが見てもそうなのです。花婿が見ても、他のおとめたちが見ても、くらべものにならないくらい彼女はきれいで特別な存在でした。

10節をご覧ください。「このひとはだれでしょう。暁のように見下ろし、月のように美しく、太陽のように明るく、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」

彼女には、暁の光、月のような美しさ、太陽のような輝き、旗を掲げた軍勢のような恐ろしさがありました。これが花嫁である私たち教会の姿でもあります。花婿なるキリストにとって、教会はそのように特別な存在なのです。彼女が同じような罪、同じような失敗を繰り返したにも関わらず、です。彼女は同じような失敗を繰り返し花婿を見失ってしまいました。にもかかわらず花婿は花嫁を一切非難したり、責め立てたりしないで、心から受け入れています。いや、受け入れているどころか、これ以上ないことばで称賛しているのです。9節には「汚れのないひと、私の鳩はただ一人」と言っています。だから、汚れていますって。それなのに花婿は決して彼女を責めないのです。それは彼女の罪を大目に見ているとか、見逃しているということではなく、花婿が彼女の罪を代わりに負ってくださったからです。贖ってくださいました。ですから、もし罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主は何度でも赦してくださるのです。そして、それらの罪をすっかり思い出すことをしないのです。イザヤ1章18節にこうあります。

「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

すばらしいですね。たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださるのです。これが永遠の神の約束です。ですから、私たちも同じような失敗を繰り返すような者ですが、同じ罪を犯すような弱い者ですが、それでもイエスさまに立ち返るなら何度でもやり直すことができるのです。そして、あなたは暁の光のように、月のように美しく、太陽のように明るく、旗を掲げた軍隊のように、光り輝く存在となり、力強い存在となるのです。なぜなら、その旗じるしは「愛」だからです。私たちの花婿であられるキリストは愛によって戦ってくださるからです。

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(Ⅰコリント13:13)

最後に愛は勝ちます。正義で戦ってはいけません。律法で戦ってもいけません。それは人を滅ぼしてしまうことになります。しかし、愛は人を救います。愛はすべての罪を覆うからです。事実、神の愛があなたを救いました。花婿なるキリストはその十字架の愛によって私たちを救ってくださいました。この主イエスの愛を知れば知るほど、主イエスとの交わりが深くなればなるほど、私たちの主に対する愛と信頼も深められ、揺るぎないものになるのです。

Ⅲ.帰りなさい、帰りなさい(11-13)

最後に、11節から13節までをご覧ください。11節と12節をお読みします。「私はくるみの木の庭へ下って行きました。谷の新緑を見るために。ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るために。気づいたら、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」

これは花嫁のことばです。花嫁は、くるみの木の庭へ下って行きました。新緑を見るためにです。また、ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るためにです。新緑とはいのちの象徴であり、ぶどうの木とざくろの花は祝福と喜びの象徴です。このような庭で花嫁は花婿に会うのです。あなたもくるみの木の下に行ってみてください。そこで神との交わりをもってください。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。そこはあなたの心を清々(すがすが)しくしてくれます。

ところで、気づいたら、花嫁は民の高貴な人の車に乗せられていました。民の高貴な人とは花婿のことです。この方はイスラエルの王でした。その方の車に乗せられていたのです。知らないうちにさらわれたということではありません。花婿の庭の美しさに魅せられてうっとりしていたら、急に花婿の車に乗せられてドライブに連れて行かれたという感じです。こんなに素敵なことがあるでしょうか。あこがれの花婿の車に乗せられて連れて行かれるのです。嫌な人ならともかく、愛してやまない人の車に乗せられて、二人だけの時間を持つことができるのです。まさに夢のような時間です。もうずっとこのままいたいと思ったことでしょう。

しかし、そのときこのような声が聞こえました。13節です。「帰りなさい、帰りなさい。シュラムの女よ。帰りなさい、帰りなさい。私たちがあなたを見ることができるように。」

これはエルサレムの娘たちのことばです。この言葉から、この花嫁はシュラムの女であったことがわかります。「シュラム」という町の名前は聖書には他に記述がなく、どこにあるのかはっきりわかりません。それでこの「シュラムの女」は、架空の女だと解釈されるようになりました。

一方で、ダビデの晩年にダビデに仕えた美しい女性でシュネムの女でアビシャグという女性がいますが(Ⅰ列王記1:3)、この女性のことではないかと考える人もいます。すなわちこれは「シュラム」ではなく「シュネム」のことではないかというのです。

さらに、ソロモンには多くの王妃と側女がいましたが、その中の一人ではないかと考える人もいます。

いったい何が正しいのかわかりません。しかし、わからなくていいのです。なぜなら、これはある一人の女性というよりも、不特定多数の教会、私たちクリスチャンのことだからです。「シュラム」とはことばには「完全」とか「平和」という意味があります。ですから、「シュラムの女」とは完全な方の女性とか、平和の方の女性ということに意味になります。そうです、完全な花婿イエス・キリストの花嫁、シュラムの女なのです。

そのシュラムの女に、エルサレムの娘たちが呼び掛けています。「帰りなさい、帰りなさい。」です。これが繰り返して言われています。繰り返されているということは強調されているということですが、ここには強い願望が表れているのです。だれが言っているのでしょうか。エルサレムの娘たち、あるいは、彼女の周りにいた人たちです。彼女たちはこの花嫁のまばゆいばかりの存在に「幸いだ」と言い、彼女をほめたたえました。その彼女たちに「帰りなさい」と呼び掛けているのです。「帰って来てください」と強く願っているわけです。何のためでしょうか。ここに「私たちがあなたを見ることができるように」とあります。彼女を見るためです。ですから「帰りなさい」とは、どこかへ行ってしまいなさい、ということではなく、自分たちのところに帰って来てくださいということです。なぜ?私たちがあなたを見ることができるように。あなたを見たいのです。あなたがどんなに美しく、どんなにすばらしいのかを。

一方で花嫁は何をしていましたか。ドライブです。花婿の車に乗せられて、花婿と二人だけのデートを楽しんでいました。そこで花婿との親密な時間を堪能していたのです。その一方で、エルサレムの娘たちが「帰ってください」と叫んでいるのです。どういうことでしょうか。

この箇所から、イエス様の御姿が変貌した出来事を思い出します。マタイの福音書17章にあります。イエスさまはペテロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて高い山に登られると、弟子たちの目の前で御姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。それは神の子としてのイエスさまの栄光の御姿でした。

するとそこにモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていました。それを見たペテロは、そのすばらしい光景に黙っていることができず、こう言いました。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マタイ17:4)

つまり、そこにテントを三つ張って、ずっとキャンプしましょうと言ったのです。どうして彼はそんなことを言ったのでしょうか。あまりにもすばらしい光景だったからです。実のところ彼は何を言ったらよいのかわからなかったのです。それほどすばらしい光景だったのです。

しかし、山の麓では何が起こっていたでしょうか。そこには病気で苦しんでいる人たちや悪霊で苦しんでいる人たち、罪によってさまざまな問題で悩んでいる人たちがたくさんいました。彼らはみなイエスさまの救いを必要としていたのです。彼らは山の麓から叫んでいたでしょう。「帰って来てください」「帰って来てください」、帰って来て、私たちを助けてくださいと、懇願していました。

私たちにもこのような時があります。礼拝で祈りやみことばを通して主の臨在に包まれているように時、まるで夢心地であるかのようなすばらしい体験をしている時に、「帰って来てください」という声を聞くことがあるわけです。できればずっとそこにとどまっていたい。もうその場から離れたくない。そのすばらしい余韻にずっと浸っていたい。もう罪の現実には戻りたくないと思うような時があります。しかし、そのような時に「帰って来てください」という声が聞こえてくるのです。「私たちはあなたを見たいのです。私たちのために帰って来てください」そういう声を聞くわけです。山の上の栄光から下りて来て、麓にいる私たちを助けてくださいという声を聞くのです。そうです、私たちは主を礼拝し主と深い交わりを持つ時と同時に、そこから下りて来て、山の麓で輝くことが求められているのです。イエス様はこう言われました。

「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:14-16)

あなたがたは世の光です。光を升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らすことができます。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなければなりません。あなたに向かって「帰って来てください」という声に耳を傾かせる必要があるのです。あなたはその声を聞いているでしょうか。まず花婿であられるイエスさまとのりが必要です。くるみの木の庭に行って、そこで祈り、復活の主のいのちに触れてください。そこで永遠の喜び、永遠の平安、永遠の祝福を味わってください。気づいたら、花婿の車に乗ってドライブに連れて行かれることもあるでしょう。しかし、どうか忘れないでください。山の麓には、あなたを見たいと望んでいる人たちがいることを。あなたを通して、主がどれほどすばらしい方なのかを知り、天におられる父があがめられるようになることを、主は望んでおられるのです。

最後に、13節の残りの部分を見て終わりたいと思います。「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのか。二つの陣の舞のように。」

これは花婿のことばです。7章1節から花婿のことばが続くので、本来であれば、そちらに入れた方が自然ですが、ここにあるので、この13節との関係を見ていきたいと思います。これは、花婿がエルサレムの娘たちをはじめ、そこにいる人たちに言っていることばです。「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのか。二つの陣の舞のように。」

この「二つの陣」とはヘブル語では「マハナイム」と言います。新改訳聖書第三版には※が付いていて、下の説明に「マハナイムの舞」とあります。背景には、創世記32章1~2節の出来事がありますが、この「舞」は喜びの踊りを表しています。それは勝利の喜びです。しかし、こう言うこともできるのではないでしょうか。すなわち、それは救いの喜びであるということです。その喜びの踊り、喜びの舞です。

ルカの福音書15章10節にはこうあります。「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあふれるのです。私たちもその喜びの舞に招かれています。それは山の上の栄光の場にいるだけでは味わうことができないものです。山の麓で苦しんでいる人たちの前でキリストの光を輝かせることによってもたらされるのです。そこにいる人たちが花婿の愛を一杯受けて美しく輝いた栄光の花嫁、あなたの姿を見て、主に立ち返ることができるように、「帰りなさい、帰りなさい。」という叫びに応えて、彼らの前で主の栄光を輝かせたいと思います。そして、ともに二つの陣の舞、マハナイムの舞をしようではありませんか。

雅歌5章8~16節「これが私の愛する方」

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 きょうは、「これが私の愛する方」という題でお話します。これは花嫁のことばです。16節にあります。花婿を見失った花嫁は必至になって捜し求めますが見つかりませんでした。そこでエルサレムの娘たちに一緒に捜してくれるようにお願いすると、エルサレムの娘たちが、どうしてそんなに必死に探すのですかと尋ねます。それに対する答えがこれです。「これが私の愛する方、これが私の恋人です。」これはとても大切な告白です。私たちが何を信じ、何を大事にしているのかを明らかにするからです。私たちの愛する方はどのようなお方なのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に学びたいと思います。

 Ⅰ.何がまさっているのですか(8-9)

 まず、8節と9節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。あなたがたにお願いします。私の愛する方を見つけたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。女の中で最も美しいひとよ。あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。」

 ここで花嫁はエルサレムの娘たちにお願いしています。「私の愛する方を見つけたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。」いったい何があったのでしょうか。花婿を見失ってしまったのです。原因は何でしたか。無関心でした。やっとのことで花婿と結ばれたというのにある種の倦怠感に陥り、「戸を開けておくれ」という花婿のことばに応答しませんでした。「ああ、もう面倒かけないでください。私はベッドに入ってしまったんですから。また足を洗うなんて嫌です!」と言って開けようとしなかったのです。これは2回目でした。まだ結婚していない婚約時代にも同じようなことがありました。2章でしたね、11節には「冬は去り、雨も過ぎて行ったから、春がやって来て、地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山場との声が、国中に聞こえるようになったのだから、さあ立って、出ておいで。」と呼びかけたのに、花嫁は出て来ませんでした。もじもじしてベッドから起き上がろうとしなかったのです。その時は花婿のことをあまりよく知りませんでした。すなわち、無知が原因で応答しなかったのですが、今回は違います。今回は花婿と結ばれ共に生活する中で花婿のすばらしさを十分知っていたにもかかわらず、花婿の呼びかけに応答しませんでした。それは花婿のことを知らなかったからではなく、花婿に関心がなかったからです。そうした無関心によって花婿を見失ってしまったのです。

 すると、エルサレムの娘たちが尋ねます。9節です。「あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。女の中で最も美しいひとよ。あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。」

 これはとても大切な質問です。エルサレムの娘たちは、彼女が「愛に病んでいる」とは言うけれども、いったい彼のどこがそんなにすぐれているのですか、ほかの親しい者たちよりも何がそんなに優っているのですかと尋ねているのです。花嫁は、自分の愛する方の愛を取り戻すためにこの質問に答えなければなりませんでした。ただ自分が喪失感の中にいるから助けてほしいというのではなく、花婿こそが自分の愛する方であるということをはっきりさせなければならなかったのです。

 これは私たちにも言えることです。いったい私たちはなぜこうして日曜日に教会に来るのでしょうか。なぜ家で聖書を読んだり祈ったりするのでしょうか。なぜ神の家族である教会の交わりを大切にするのでしょうか。なぜ奉仕をしたり、献金したり、伝道したりするのでしょうか。すべての答えがここにあります。つまり、自分が何を信じているのか、何を大事にしているのかをはっきりさせなければならないということです。それを聞かれた時にはっきりさせることができるのは、その愛が本物であることのしるしでもあります。そうでないと私たちの信仰生活は海に浮かぶ舟のように、安定感を欠いたものになってしまいます。

Ⅱ.万人に抜きん出ている方(10)

それに対する彼女の答えを見てみましょう。10節をご覧ください。「私の愛する方は、輝いて赤く、万人に抜きん出ています。」

これは花嫁のことばです。花婿がどれほどすばらしい方なのか、何がそんなに優っているのかを語っています。ここでは、「私の愛する方は、輝いて赤い」とあります。この「輝く」といことばは、目もくらむほどの輝きを表しています。太陽よりも明るく、この世のものとは思えないほどの輝きです。

マタイの福音書17章には、イエス様がペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた時のことが記されてあります。すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。マルコの福音書には、その白さはこの世の職人にはとてもなし得ないほどの白さであったとあります。この世の職人とはクリーニング屋さんのことです。その衣はこの世のクリーニング屋さんがどんなに頑張ってもなし得ないほどの白さで、輝いていたのです。イエス様は目もくらむほどの輝きをもっておられる方なのです。これがイエス様の本当の姿です。普段気軽に話しかけ、教えを聞き、寝食を共にしている方は、本当は自分たちなど近づくことができないほど栄光に満ちたお方であり、天より遣わされた神のひとり子であられたのです。

その姿に圧倒されたペテロは、何を言ったらいいのかわからず、だったら黙っていればいいのに、思わず口走ってしまいました。「主よ、私たちがここにいるのはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、エリヤのために一つ、モーセのために一つ。」(マタイ17:4)実際には、彼は何を言ったらいいのかわかりませんでした。あまりにも恐ろしくて、気が動転していたからです。それほど白く、それほどきよく輝いていたのです。

また、ここには「赤く」とありますが、この「赤く」と訳されたことばは「血色が良い」ということです。Ⅰサムエル記16章12節にダビデのことについてこうあります。「エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。」この「血色が良く」ということばが「赤く」です。この時ダビデはまだ少年でしたが、彼の顔は血色が良く、健康的で、立派でした。ですから、この花婿はどのような方かというと、非常に血色が良く、パワフルな方、力強い方であるということです。

これが私たちの愛する方、主イエスです。イエス様は非常に輝いていて、力強いお方です。確かに心優しくへりくだっていますが、同時に、輝いて赤く神としての権威をもっておられる方なのです。イエス様は天地万物の創造主であられ、神としての栄光を身にまとっておられる方なのです。

ですから、万人に抜きんでているのです。この「抜きんでている」ということばは、へブル語で「ダガール」という語です。意味は「旗を持つ者」です。6章4節に「だが、旗を掲げた軍勢のように恐れられる」とありますが、この「旗を掲げる」です。同じことばが6章10節にも使われています。「抜きんでている」と「旗を掲げる者」にどんな関係があるのかというと、どちらも目立っていて際立っており、他と比べようがないほど優れているという点です。それで、ここに「抜きん出ている」と訳されているのです。イエス様は万人に抜きん出ているお方なのです。

イエス様と万人とを比べてみてください。この歴史上には偉大な人物が何人も登場しましたが、イエス様に優る人は一人もいませんでした。日本百科事典を見ると、アレキサンダー大王については4分の1ページが割かれてありますが、イエス・キリストについてはまるまる1ページが割かれています。本来であれば1ページでも収められないほどですが、何とか1ページでまとめたという感じです。ちなみにナポレオンについては2分の1ページです。明治天皇に至っては8分の1ページしか割かれていません。イエス様についてはまるまる1ページです。イエス様がどれほど偉大なお方であるかがお分かりいただけると思います。

また、イエス様は釈迦、孔子、ソクラテスと並んで4大聖人に数えられていますが、他の3人と比べてみてください。全く比べようがありません。イエス・キリストの方がはるかに優れています。ある人がこのように言いました。「もしソクラテスが部屋に入ってきたら、私たちは立ち上がって彼に敬意を表すでしょう。でも、もしイエス・キリストが部屋に入ってきたら、私たちはひれ伏して彼を礼拝するでしょう。」これはもっともなことです。イエス様はソクラテスとは比べものにならないほど偉大なお方だからです。

それはこの歴史を見てもわかります。イエス様は文字通り、歴史を二分されました。この方の誕生を境に、歴史は二つに分かれたのです。B.C(紀元前)とA.D(紀元)ですね。B.C.とは主が来られる前という意味のBefore Christの頭文字を取って表記されますが、A.D.は、主が来られてからという意味のAnno Dominiの頭文字です。これはラテン語で、「主が来られてから」を意味しています。だったらAfter ChristでA.C.でも良かったのではないかと思いますが、なぜか主が来られてからはラテン語のA.D.から取られました。

ある歴史学の教授が何人かの大学生たちに「今年は2021年ですが、この数字は何を表していますか」「人類の歴史を意味するHistoryとはどういう意味ですか」と聞くと、誰も答える学生がいなかったそうです。この2021年とは、主イエスが生まれてから2021年が経ったということです。すなわち、歴史を表すHistoryという言葉は、もちろんギリシャ語のヒストリアという言葉から来ていますが、またこういうこともできるのです。His Story、彼の物語です。彼とは誰でしょうか。イエス・キリストです。この歴史はイエス・キリストの物語なのです。イエス様は文字通り歴史を分けたお方、歴史を支配しておられるお方なのです。聖書では、イエス様は王の王、主の主と言われていますが、アレキサンダー大王や、ナポレオン、釈迦や孔子などが全く足元にも及ばないお方、万人に抜きん出ておられる方なのです。

Ⅲ.これが私の愛する方(11-16)

私の愛する方は、どのような方なのでしょうか。次に11~16節までをご覧ください。ここではもっと具体的に語られています。まず11節にはこうあります。「その頭は純金。髪はなつめ椰子の枝で、烏のように黒く、」

まずその頭です。その頭は純金、髪はなつめ椰子の枝で、烏のように黒いのです。想像してみてください。その頭は純金です。聖書では「純金」は神性の象徴として描かれています。すなわち、花婿なる主イエスは神であるということです。ただの聖人とか教祖とかということではなく神ご自身なのです。それはイエス様が「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:31)と宣言されたことからもわかります。これは明らかな神宣言でした。ですからそれを聞いたユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとしたのです。神を冒涜していると思ったからです。しかし実際は、イエス様は神を冒涜したのではなく神ご自身であられました。だから、「わたしと父とは一つです」と言われたのです。

髪の毛はどうでしょうか。髪はなつめ椰子の枝で、烏のように黒く、とあります。なつめ椰子の枝とは、なつめ椰子の枝についた実のことです。それはデーツで有名ですが、それはバナナのように大きな房になっています。すなわち、フサフサしているということです。また「烏のように黒く」とは、黒々としているということです。それはギルアデの山を下って来るやぎの群れのように美しく、勇ましくもあります。聖書では髪の毛は力の象徴でもありますので、花婿なるキリストは決して朽ちることがない永遠のいのちに溢れておられる方であると言えます。

12節をご覧子ください。「目は乳で洗われ、池のほとりに住む、水の流れのそばの鳩のよう。」

今度は目です。「目は乳で洗われ」とは、充血しないで潤っているということです。つまり、美しい、澄んだ目をしているということです。それは池のほとりに住む、水の流れのそばの鳩のようです。また出てきました。鳩です。ソロモンは鳩が好きなんですね。何回も出てきます。これは何度もお話してきたように美しさと聖さの象徴です。また、平和の象徴でもあります。イエス様があなたを見る目は鳩のようにきよらかで美しく、平和で優しい目なのです。

ルカの福音書22章61節に、「主は振り向いてペテロを見つめられた」とあります。鶏が鳴く前に三度も主を否定したペテロを見つめられた主の目は、彼の失敗を裁いたり咎めたりするような目ではなく、愛情とあわれみに溢れた目でした。というのは、そのことを前もって知っておられたからです。イエス様は彼にこう言われました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

イエス様は初めから知っておられました。ペテロがご自身を裏切るということを。それでもなお彼のために祈られました。立ち直ったら兄弟たちを力づけてやるためです。そのためにはペテロ自身が力づけてもらわなければなりませんでした。そして、イエス様はそのようにされました。そのような目で彼を見つめられたのです。その目は鳩のように優しく、平和に満ちていました。

13節をご覧ください。次は頬です。「頬は香料の花壇のようで、良い香りを放つ。唇はゆりの花。没薬の液を滴らせる。」

頬は香料の花壇のようです。何ですか、香料の花壇のようとは。イエス様と一緒に過ごせば過ごすほど良い香りに包まれるということです。イエス様と一緒にいると、花畑にいるようです。そんな香りが漂ってきます。アロマセラピーのように心をリラックスさせていただくことができます。

唇はゆりの花です。ゆりの花というと白いゆりを思い浮かべるかもしれませんが、これは赤い花です。野のゆりというとイスラエルではアネモネとかチューリップ、ひなげしなどの赤い花のことを指していました。そのように赤く美しいということです。ただ美しいだけでありません。ここには「没薬の液を滴らせる」とありますね。「没薬」は防腐剤としても使われました。ですから、イエス様の唇は防腐剤としての役割も果たしたのです。

詩篇119篇9節には、「どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」とあります。どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるのでしょうか。それは別に若い人だけということではなくすべての人に言えることですが、それは主のみことばのとおりに、道を守ることによってです。主イエスの唇には没薬の液が滴り落ちているからです。

14節です。14節には「腕は金の棒でタルシシュの宝石がはめ込まれ、からだは象牙の細工でサファイアでおおわれている。」とあります。

「金の棒」とは「金の輪」のことです。腕には金の輪があり、そこにタルシシュの宝石がはめ込まれていたということです。それは王の権威を象徴していました。イエス様は王としての権威を持っておられるということです。

その金の輪には、タルシシュの宝石がはめ込まれています。「タルシシュの宝石」とはエメラルドのことです。それは大祭司が付けていた胸当て、エポデと言いますが、それにも付けられていました。それはイスラエルの12部族のことを象徴しています。それはまた私たちクリスチャンのことでもあります。つまり、あなたは神であるイエス・キリストの腕でしっかり守られているということです。

さらに、からだはサファイアでおおわれた象牙の細工のようでした。サファイアも大祭司の胸当て、エポデに刻まれていました。天国を描写する新しいエルサレムを飾る宝石としても使われています。イエス様のからだはそのサファイアで包まれているのです。

足はどうでしょうか。15節をご覧ください。「足は大理石の柱で、純金の台座に据えられている。その姿はレバノンのよう。その杉の木のようにすばらしい。」

足は大理石の柱です。それはがっちりしていて力強いということです。しかも、その柱は純金の台座に据えられていました。純金も神の性質を表しています。決して崩れることがないという意味です。その姿はレバノンの杉の木のようです。レバノンの杉といったら最高の杉材です。花婿はレバノンの杉の木のようにすばらしいお方であるということです。

では口はどうですか。16節には、「その口は甘美そのもの。」とあります。英語の聖書の多くは、イエス様のことばを赤字にしています。そのことばを見ると、まさに甘いぶどう酒のようです。ルカの福音書4章22節には、「人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚いて」とあります。イエス様の口から出てくることばは、聞いている人に恵みを与えることばでした。

つまり花嫁は、花婿の頭のてっぺんから足のつま先まですべてが優れており、万人に抜きん出ている方であると言っているのです。すべてがいとしいと。この「いとしい」ということばは、英語のNKJV(欽定訳)では「lovely」と訳しています。好ましい、望ましい、慕わしい、麗しい、快いということです。すなわち、花婿はパーフェクトであり、完璧な方であるということです。どこか一部だけがすばらしいというのではなく、全部がすばらしいのです。すべてがいとしい。この花婿以外に完璧な方は、この世界広しといえども他にはいません。この方だけです。この方が私の愛する方、私たちの主イエス・キリストなのです。使徒4章12節にはこうあります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

私たちを救うことができるのは、私たちの主イエス・キリストだけなのです。この方以外にはだれによっても救いはありません。これが私の愛する方、これが私の恋人です。

新聖歌206番に「いつくしみふかき」という有名な賛美歌がありますが、この賛美歌のもともとのタイトルは「What A Friend We Have In Jesus 」となっています。訳すと「何とすばらしい友でしょう」となります。イエス様は何とすばらしい友でしょう。この歌は、アイルランドの大学教師ジョセフ・スクライヴェン(Joseph M. Scriven)によって書かれました。スクライヴェンは、自らの婚約者を事故と病気で2度とも失いました。愛する者を失い深い悲しみに暮れていた彼でしたが、闘病生活をしていた母親を慰めるために、どんな絶望の中でも主イエスに信頼する気持ちを詩に込めて送ったのです。これが原作です。

What a Friend we have in Jesus, all our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry everything to God in prayer!

イエスは何という友でしょう 私たちのすべての罪と悲しみを負ってくださるとは
何という恵みでしょう すべてを神にゆだねて祈ることができるのは

O what peace we often forfeit, O what needless pain we bear,
All because we do not carry everything to God in prayer.

しかし、私たちは何としばしば平安を失うことでしょう 何と不要な痛みを抱くことか 

すべてのことを神にゆだねて祈らないからです

Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?
We should never be discouraged; take it to the Lord in prayer.

試練や誘惑がありますか 困難がありますか
落胆してはいけません すべてを主にゆだねて祈ってください

Can we find a friend so faithful who will all our sorrows share?
Jesus knows our every weakness; take it to the Lord in prayer

こんなに真実な友があるでしょうか?私たちのすべての悲しみを共に担ってくださいます
主イエスは私たちの弱さのすべてを知っておられます すべてをゆだねて祈ってください。

 何とすばらしい友でしょう。これがあなたの愛する方、あなたの主イエスです。この方がどんなにすばらしい方なのかを知れば知るほど、あなたは確信をもって「あなたは生ける神の子キリストです」と告白することができるようになります。そしてこの告白があなたの信仰に直結していくのです。

 マタイの福音書16章のところで、イエス様は弟子たちに二つの質問をされました。一つは「人々はわたしのことを誰だと言っていますか」ということであり、もう一つは「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という質問です。

最初の質問に弟子たちはこう答えます。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」(マタイ16:14)つまり、群衆はイエス様に対して様々な見解を持っていましたが、突き詰めると、イエス様はキリスト、メシヤ、救い主という理解はなかったということです。

そのような中でイエス様は「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ6:15)と言われました。するとペテロがこう答えました。「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)

するとイエスは彼に言われました。「わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイ16:18)

何と、このペテロの信仰の告白の上に、神の教会を建て上げると言われたのです。この岩とは、ペテロのことではありません。ペテロが語った信仰の告白のことです。「あなたこそ生ける神の子キリストです」と言ったその告白の上に、キリストの教会が立っているのです。ですから、私たちがイエスをだれだと言うかはとても重要なことなのです。それによって私たちの信仰のあり方が決まるからです。あなたにとって、イエス様はどのような方でしょうか。

今月は保守バプテスト同盟の月です。同盟の諸教会の旗席を覚えてお祈りしたいと思いますが、同盟の新しい議長は米沢の恵泉キリスト教会の牧師、金野正義先生です。先日、教会から送られて来た週報を見ておりましたら、そこに先生のこんな証が載っていました。

「私は大学に入って、初めて親元を離れました。山形に来て、親戚の家に下宿させていただきました。親戚はクリスチャンではなかったので、「教会に行け」とは言いませんでした。大学で新しく出来た友人たちも「日曜日に遊ぼう」と誘ってくれました。私は、クリスチャンホームで育ちました。親が熱心で、「日曜礼拝を死ぬ気で守りなさい」と小さい時から教えられました。実家にいる時は、半ば強制的に「日曜日は教会」という生活を送りました。しかし、環境が変わり、私は「教会に行かない」という選択肢を気兼ねなく選べる環境になりました。ある日曜日、私は礼拝を休むという選択をしました。自分の意志で休みました。しかし、思い描いていたような一日にならず、なんとも言えない苦い思いを抱きました。次の週、今度は自分の意志で「教会に行く」という決意をしました。それまで、なんとなく教会に行っていましたが、そのときから自分の意志で「教会に行く」と決意したのです。この決断をもって「イエス様を、自分の主として生きる」と決めたその日から私の人生は変えられ続けています。あの日から神様とより親密になったと思います。」(2021.7.18.週報)

「あなたはわたしをだれだと言いますか」この質問はあなたにとっても大切な質問です。あなたの周りの人にとって、この方は「キリスト」ではないかもしれません。その周りの意見は周りの意見として、あなたは、イエス様をどのようなお方として告白するのか、この質問にどう答えるのかが、イエス様とより親密になるか、ならないかの分岐点となるのです。私たちも「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白したいものです。この花嫁のように「これが私の愛する方。これが私の恋人です。」と告白して生きたいと思うのです。

雅歌5章2~7節「戸をたたく花婿」

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きょうは、雅歌5章2節から7節までの箇所からお話します。タイトルは、「戸をたたく花婿」です。

ここから新しい場面に入ります。前回までのところには、花嫁と結ばれた花婿が、花嫁の美しさをほめたたえました。たとえば、4章7節には「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたは何の汚れもない。」とあります。こんなことを言われた花嫁はどんなうれしかったことでしょう。花嫁の美しさに花婿の心がすっかり奪われてしまったのです。これが花婿の花嫁を見る目、心です。これが花婿であるキリストが花嫁である教会、私たちクリスチャンを見る目です。すばらしいですね。

しかし、時間が経つにつれ花嫁の心がだんだん冷えていきます。花婿が帰宅し戸を開けておくれと言っても、なかなかベッドから起き上がろうとしないのです。面倒かけないでください。もうベッドに入ってしまったんですから、と言って。その結果、花婿は去って行きました。これが2回目です。花婿の姿はもうそこにはありませんでした。花嫁は後悔して花婿を捜しますが後の祭りです。見つけることができませんでした。

私たちにもこのようなことがあります。イエス様を信じてバプテスマを受けたばかりの頃は何をしても楽しいのですが、いつしか馴れ合いのようになってしまい、自分本位になってしまうことがあります。主が「開けておくれ」と頼んでも、それに応答するのが面倒くさいと思うようなことがあるのです。その結果、主がどこかへ行ってしまったかのように感じることがあります。そういうことがないように、私たちはいつも主をつかんで離さず、主と親密な関係を保つようにしなければなりません。

Ⅰ.戸をたたく花婿(2)

まず2節をご覧ください。「私は眠っていましたが、心は目覚めていました。すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」」

「私」とは「花嫁」のことです。花嫁は眠っていましたが、心は目覚めていました。寝てはいても心は起きているという状態です。こういうことがあります。からだは休んでいても心は目覚めているということが。なぜでしょうか?花婿がいなかったからです。花婿がいれば安心してぐっすりと休むこともできたでしょうが、花婿がいなかったので眠ろうとしてもなかなか寝付かれなかったのです。

すると声がしました。愛する花婿の声です。花婿が帰って来たのです。いったいどこに行っていたのでしょうか。こんなに遅くなるまで。まさか外をほっつき歩いていたということではないでしょう。仕事で遅くなったのでしょうか。わかりません。ここにはその理由が書かれていないので、どうしてそんなに遅くなったのかはわかりせらん。ただ一つだけ言えることは、どんなことがあっても花婿の花嫁に対する愛は変わらないということです。なぜなら、この方は花嫁のために自分のいのちを与えるほど愛しておられる方だからです。この方は私たちの主イエス・キリストです。この方はどんなことがあっても私たちを見捨てたり、見放したりはしません。

しかし主は、時にこのようなことをされることがあります。突如として、あなたから離れてしまったかのようなことをされることがあるのです。それは主があなたを愛していないからではありません。あなたへの愛が冷めてしまったからではないのです。むしろ、あなたとの関係をもっと深めるために、あえてそのようにされることがあるのです。そうすることによってそれまで以上に主を求めるようになるからです。たとえば、家族に何らかの問題や困難が起こるとき、それまで以上に夫婦の絆が深められることがあります。それまでは何とも思わなかったのに、いや、面倒くさいなあと思っていたのに、そうした試練を通されることによって夫婦の関係がもっと強められることがあります。こういう時だからこそ夫婦が力を合わせて艱難苦難を乗り越えようとするからです。そうした試練がお互いの関係を見つめ直し、冷え切った関係を取り戻すきっかけになります。これまで以上に二人の絆を深めていく機会となるのです。

皆さんもそのような経験をされたことがあるのではないでしょうか。あれは本当に辛い経験だったけど、あれがあったからこそ今の自分たちがある。あのことによって私たちの関係がもっと強められたということが。同じように、イエス様との関係においてもその関係がもっと強いものとなるために、主はあえて自分を隠されることがあるのです。イエス様はいつも私たちと一緒にいることを望んでおられますが、それは単に今の関係を維持するということではなく、あるいは、バックスライドしなければいいということでもなく、今まで以上に親密になることを望んでおられるのです。もっと深い関係を持ちたいと願っておられるのです。救われるということはすばらしいことですが、どんなに救われてもその喜びが冷めていき、こんなはずじゃなかった、一緒にいるのが苦痛です、と言いながら過ごすことがあるとしたら、どんなに残念なことでしょうか。イエス様はそのことに気付かせるために、あえてご自身を隠されることがあるのです。ですから私たちは、自分がどこから落ちたのか、どこからずれたのかを考えて、初めの愛に立ち返らなければなりません。

2節をもう一度ご覧ください。その次です。「すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」

別に何の問題もないと、そういう人の心は眠っているかのような状態になります。そのような時、花婿なるキリストは、その人の心の戸をたたいてくださるのです。実際そういう場面があります。黙示録3章20節です。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

これはラオデキアの教会に宛てて書き送られた手紙です。彼らは冷たくもなく、熱くもありませんでした。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと思っていましたが、実はみじめで、あわれで、貧しくて、盲目で、裸であるのが見えていませんでした。ですから、その目が見えるようになるために硝子体の手術を受けなさいとは言われませんでしたが、目に塗る目薬を買いなさい、と言われました。彼らに必要だったのは、熱心になって悔い改めることでした。そのために主は、彼らの心の戸をたたかれたのです。だれでも主の声を聞いて戸を開けるなら、主はその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もまた主とともに食事をするようになります。食事をするというのは親しい交わりを持つということです。もし、イエス様の声を聞いて戸を開けるなら、イエス様はあなたのところに入ってあなたとともに食事をし、あなたもイエス様とともに食事をするのです。

ホルマン・ハントという画家が、戸をたたくキリストの絵(「世の光」)を描きました。キリストが片手にランプを手に持って、家の戸をノックしている絵です。キリストがたたく扉には、外にノブが付いていません。中にいる人が開けなければ、戸は開かないのです。

私は、この絵を見るたびに、胸が締め付けられる思いがします。というのは、かつて、ずいぶん長い間、キリストを外に立たせたまま戸をたたき続けさせたことがあるからです。キリストは、私の所に来たいと願っているのに、私のほうが「いいえ結構です」、「私にはやりたいことがありますから」「束縛されたくないのです」と勝手なことを言って、開けるのを拒んでいました。今にして、何ともったいない、また何と申し訳ないことをしていたのだろうと思います。

しかし、キリストは、そんな傲慢で強情な私を、なお愛して、忍耐して、戸をたたき続けてくださいました。そのキリストの愛がわかったのは、自分の罪がわかり、神の前に悔い改め、この私の罪のためにキリストは十字架で死なれたのだと信じた時でした。こんな罪深い者のために、罪のない神の子がよくぞ死んでくださったと思います。

イエス様は、決して戸をこじ開けたり、蹴破ったりして、無理に入ろうとはしません。ただ、中の人が開けるのを待って、やさしく戸をたたき続けるのです。

キリストは、あなたの心の戸もをたたいておられます。あなたがその声を聞いて、自分で戸を開けるなら、キリストはいつでも中に入られ、あなたの魂の内に、すばらしい救いのみ業をなしてくださいます。

声を聞いているのに、戸を開けるのをためらったり、拒んだりしていると、やがてキリストは前から立ち去ってしまうかもしれません。そのときになって「しまった」ということにならないように、キリストの声に応答して、今、心の扉を開けていただきたいと思います。

また、ここで花婿は、「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れてのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭はぬれ、私の髪の毛も夜のしずくでぬれている」と言っています。「私の妹」という表現は4章9節にも出てきましたが、血を分けた妹のような存在であるということです。また、「私の鳩よ」という表現は、花嫁が鳩のように純粋で清らかな存在であるということです。花婿にとって花嫁は「妹」のような存在であり、「鳩」のような存在なのです。何年経っても花婿の花嫁に対する愛は変わりません。変わってしまったのは花嫁の方です。結婚したばかりの頃はあれほど燃えていたのに、いつの間にか花婿に対する愛が冷えてしまいました。「もうイヤ!勝手にして。あなたなんて別にいてもいなくてもどうでもいい。」なんて言わんばかりです。しかし花婿はそんな花嫁に、「私の妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。」と呼び掛けるのです。なぜでしょうか。ここには「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので」とあります。イスラエルは昼と夜の寒暖差があるので、特に夏になると夜露が降りるのです。そのため花婿の頭はびしょびしょに濡れていました。当然夜になると冷えてきます。ですから部屋の中に入ってタオルで頭を拭き、からだを温めてほしかったのです。だから「戸を開けておくれ」と呼びかけているのです。

皆さんには、この花婿の叫びが聞こえているでしょうか。あなたの花婿イエスは、戸の外にたってたたいておられます。その声を聞いてドアを開け、中に入れてくれますか。それとも、それとも、「別にいなくても間に合っています」といって無視するでしょうか。花婿イエスの頭は露に濡れ、身体も冷え切っています。「戸を開けておくれ」と言われる主の御声に応答し、あなたの心の戸を開けていただきたいと思います。

Ⅱ.去って行った花婿(3-6)

それに対して花嫁は、どのように応答したでしょうか。3節から6節までをご覧ください。まず3節だけをお読みします。「私は衣を脱いでしまいました。どうして、また着られるでしょう。足も洗ってしまいました。どうして、また汚せるでしょう。」どういうことでしょうか。

「衣」とは、くるぶしまで届く着物のことです。花嫁はそれを脱いでしまいました。つまり、もう寝支度をしてしまったということです。「足も洗ってしまいました」当時、道は舗装されていませんでしたから、また、履物もサンダルのようなものでしたから、外から帰った時やベッドに入る時などは足を洗う習慣がありました。それなのに、またドアのところまで行ったら足が汚れてしまいます。また足を洗うのですか?面倒くさいことです。そう言って断っているのです。なんて怠惰な妻でしょうか。自分の夫が帰宅したというのに面倒くさいと言って断るとは、何とも冷たい妻です。私の妻は決してこんなことは言いません。たぶん。どんなに疲れていても、どんなに面倒臭くてもベッドから起き上がって来て、ドアを開けてくれます。時々、何の反応もない時もあります。見ると熟睡しています。そういう時もあります。でも、起きていたら面倒くさいなんて決して言いません。

この花嫁は私たちの姿です。私たちも時々このようになることがあります。主が私たちの心のドアをノックしているのに、「今日は疲れているのでまた明日にしてください」とか、「今、少し忙しいんです。もう少し暇になったら開けます」と言って断ることがあります。でもそんな時だからこそ主は、私たちの心の戸をたたかれるのです。あなたはどうでしょうか。もう足も洗ってしまいました、面倒かけないでください、と言って断りますか。あまりたたかないでください。たまにゆっくりさせてくださいと言って断りますか。主イエス様と交わることができる絶好の機会を逃さないでください。

実はこれは花嫁にとって、初めてのことではありませんでした。過去にもそんなことがありました。覚えていますか。3章です。ちょっと振り返ってみましょう。3章11節のところで、冬は去り、春がやって来ました。新しい季節がやって来たのだから、さあ、立って、出ておいでと呼び掛けられたのに、彼女は出て行くことができませんでした。これは二人がまだ結婚する前のお付き合いをしていた時のことです。それでも彼女は自分の失敗に気付き花婿を捜しだすと、花婿をつかんで離すことをせず、彼女の実家の奥の間で親しい時を持ちました。やっとのことでそれを乗り越えたのに、またここで同じような失敗を繰り返しています。

するとどうなったでしょうか。4節をご覧ください。「私の愛する方が、戸の穴あたりに手を差し入れ、私の胸は、あの方のゆえにときめきました。私は起きて、私の愛する方のために戸を開けようとしました。私の手から没薬が滴り、私の指から没薬の液がかんぬきの取っ手に流れ落ちました。」

「戸の穴に手を差し入れる」とは、花婿がピッキングをしているということではありません。この戸の穴とは、誰がやって来たのかを見るための小さな穴のようなものです。花婿はこの小さな穴から手を差し入れ、戸を開けてくれるようにと合図をしたのです。そのとき、彼女の胸はときめきました。そこまでして自分と時間を過ごそうとする花婿に心が揺れ動いたのです。そしてベッドから起きて戸を開けようとしました。すると、花嫁の手から没薬が滴り、指から没薬の液がかんぬきの取っ手に流れ落ちました。どういうことでしょうか。

この没薬とは、花嫁が寝る前に手に塗っておくものです。それは甘い香りがしました。それは、性的欲情をかき立てるものでした。つまりそれは、夫婦の営みのために用いられるものだったのです。その没薬が彼女の手から滴り落ちました。それほどたくさん塗ったとは考えられませんが、おそらく滴り落ちるほどたっぷり塗ったというでしょう。

この「没薬」という言葉を聞くと、皆さんの中には何かピンと来る方もおられるのではないでしょうか。そうです、これは死人のためにも用いられるものでした。それがかんぬきの取っ手に落ちたのです。かんぬきとは、扉を閉じて内側から固めるための横木で、貫木(かんのき)とも書きますが、それはイエス様の十字架を指し示すものでもありました。イエス様はこの横木を担いでゴルゴタの丘に行かれました。いったいだれのためでしょうか。それはひとえに私のためであり、あなたのためでした。あなたのすべての罪を背負って十字架にかかってくださいました。それゆえに、私たちのすべての罪は赦されて、永遠のいのちが与えられたのです。イエス様はあなたのために没薬を塗られたのです。ここからも、イエス様の愛がどれほど尊いものであるか、どれほど大きいかを感じます。あなたはそれほどまでに愛されているのです。

6節をご覧ください。「愛する方のために戸を開けると、愛する方は、背を向けて去って行きました。私は、あの方のことばで気を失うばかりでした。あの方を捜しても、見つけることができませんでした。あの方を呼んでも、あの方は答えられませんでした。」

花婿の切なるアプローチに心動かされ、ようやくの思いで花嫁が戸を開けると、そこに花婿の姿はありませんでした。花婿は背を向けて去って行ったのです。せっかく戸を開けたのに背を向けて去っていくなんてひどい!と思う方もおられるかと思いますが、もとはと言えば花嫁がなかなか開けようとしなかったのが問題です。この時花婿が放ったことばに花嫁は気を失うばかりでした。この時花婿が何を言ったのかはわかりません。でもそれは花嫁が気を失うばかりだとあるので、相当ショッキングなことだったと思います。

私たちもイエス様の招きに応じないと、衝撃的なことばを聞くことになります。それは必ずしも悪いことばというよりも、心に突き刺さるようなことばです。たとえば、サマリヤの女がイエス様とお話をしていたとき、イエス様は「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言われると、彼女は「私が渇くことがないように、その水を私にください。」と言いました。 

するとイエス様は彼女にこのように言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(ヨハネ4:16)

それは彼女にとって痛いことばでした。それはちょうど石の割れ目に釘を打つようなものでした。そこだけには触れないでください。そうした部分をさらけ出すようにとイエス様は言われたのです。それは彼女にとって本当に衝撃的なことばでした。

同じです。花嫁にとって触れてほしくないこと、そうした心の闇をえぐり出すかかのようなことばを言われたのです。それはその後、彼女が必死になって花婿を捜し求めるようになったことからも想像できます。このように、時として主は、私たちにとって気を失うようなことを言われることがあります。けれども、それは私たちを傷つけるためではなく、私たちがそのことに気付き、もっと主を求めるようになるために、あえてそのようなことを言われることがあるのです。そのことをしっかり受け止めたいと思います。

花嫁は、必死になって花婿を捜しましたが、どこを捜しても見つけることができませんでした。花婿を呼んでも、花婿は答えられませんでした。どうしてでしょうか。先ほども申し上げように、花嫁が花婿を見失うのはこれが二回目です。最初の時と今回の時を比べてみると、共通点もありますが相違点もあります。その一番の違いは何かというと、花婿を見失った原因です。最初の時は婚約時代でしたが、そもそも花嫁は花婿のことをあまりよく知りませんでした。だから、花婿が「さあ立って、出ておいで」と言われても、花嫁は出て行くことをしなかったのです。

しかし、今回は違います。今回は花嫁と花婿と結ばれ、共に生活する中で花婿のすばらしさ体験していました。そのすばらしさ、その麗しさ、その偉大さを十分知っていたのです。にもかかわらず、彼女は花婿の呼びかけにすぐに応答しませんでした。それは花婿のことを知らなかったからではなく、花婿に関心がなかったからです。そうした花嫁の無関心が、花婿を見失う大きな原因だったのです。

もしかすると、私たちにもこのようなことがあるかもしれません。イエス様を知らないからではなく、知っているにもかかわらず、信じているにもかかわらず、無関心であるがゆえに、主を見失っていることがあります。これはただ単に私たちの怠慢によるものです。もうお風呂にも入ってしまったんですから、寝る支度も整えたんですから、わざわざ起きたくありませんと、自分の都合によって拒んでしまうことがあるのです。ついさっきまではハネムーンのように燃えていたのに、いつしか冷え切っているのです。それが大事だとわかっているのに自分のことでいっぱいになって、イエス様のことには関心が向かないのです。そうなると、花婿は去って行かれます。捜しても、捜しても、なかなか見つけることができなくなってしまのです。そうならないように注意したいですね。

Ⅲ.花嫁を打ちたたいた夜回りたち(7)

最後に7節をご覧ください。町を巡回している夜回りたちが私を見つけて、私を打ち、傷つけました。城壁を守る者たちも、私のかぶり物をはぎ取りました。」

花嫁は自分の過ちに気付き、必死になって花婿を捜しました。すると町を巡回している夜回りが彼女を見付け、彼女を打ちたたき、傷つけました。城壁を守る者たちも、彼女のかぶり物をはぎ取りました。想像してください。夜中に女性が一人で外をふらついているのです。夜回りが怪しいと思うのは当然でしょう。もしかしたら薬でもやっているんじゃないかと疑っても不思議ではありません。それで彼女を捕らえて打ちたたき、かぶり物をはぎ取るのです。

「夜回り」とは「夜警」とか「警備員」のことです。彼らはそうした不審な人物を見つけると、容赦なく打ちたたき、かぶり物をはぎ取ります。「かぶり物」とは「ベール」のことです。ベールをはぎ取ったのです。これが花婿を捜しに出た花嫁に夜回りたちがしたことです。

しかし、真の夜回りはそのようなことはしません。ガラテヤ6章1節には、「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」とあります。これが真の夜回りがすることです。もしだれかが何かの過ちに陥っているなら、柔和な心で正してあげます。打ちたたいたり、ベールをはぎ取ったりはしないのです。

これが私たちの主イエスです。イエス様は真の夜回りです。無知と無関心のゆえに神から遠く離れてしまった私たちを打ちたたく代わりにご自身が打ちたたかれ、十字架に掛かって死んでくださいました。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。そうです、イエス様はあなたのためにご自分のいのちを与えてくださったのです。それほどまでにあなたを愛してくださいました。あなたが誰かに責められたとき、傷つけられたとき、痛みつけられたとき、ぜひこのことを思い起こしてほしいと思います。イエス様はあなたをこよなく愛しているということを。

ヨハネの福音書8章に、姦淫の現場で捕らえられた女がイエス様のところに連れて来られた出来事が記されてあります。律法学者やパリサイ人は、その女を彼らの真ん中に立たせ、イエスに「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(8:4-5)

するとイエスは指で地面に何を書いておられましたが、彼らが問い続けて止めなかったので、身を起こしてこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に人を投げなさい。」(7)

すると、一人、一人と去って行き、真ん中にいた女とイエス様だけが残されました。すると、イエスは身を起こして、彼女に言われました。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さらなかったのですか。」(10)彼女が「はい、だれも。」と答えると、イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11)と言われました。

人々を罪に定める権威を持っておられたイエス様は、彼女に罪の赦しを宣言されました。罪をさばく権威のない人たちが人をさばこうとし、人をさばく権威を持っておられたイエス様がさばこうとされませんでした。律法学者やパリサイ人たちは、誰からも一番よく見えるところにこの女性をひきずり出しその罪をあばき出そうとしましたが、イエスはその女性に背を向けて、彼女の罪を見ないようにされました。どうしてでしょうか。それは主が彼女の罪を軽く扱っておられたからではありません。主が彼女の罪を背負われ、彼女が受けなければならない罪の刑罰を代わりに受けてくださったからです。これが、イエス様が私たちに対して取ってくださることです。本物の夜回りは、だれかが何かの過ちに陥っていたら、柔和な心でその人を正してあげるのです。ただ非難して、拒否して、責め立てて、打ちたたいて、ベールをはぎ取るのではなく、柔和な心で正して上げます。

しかし、時に間違いを犯した人は正されることが必要なので、厳しいことを告げられることもあります。まるで責め立てられているように感じてしまうこともあるかもしれません。でも忘れないでください。私たちの羊飼いであり、私たちの夜回りであられる主は、あなたを愛してやまないということを。イエス様があなたを見捨てるようなことは決してありません。むしろ、イエス様はあなたともっと近くになりたいし、あなたとの関係を深めたいと願っておられるのです。

あなたには、そんなイエス様の思いが届いているでしょうか。もしかしたら、霊的倦怠期を迎えておられるかもしれません。自分のことで一杯になり、イエス様との関係が後回しになっているということはないでしょうか。主はあなたの心の戸をたたいておられます。その御声に応答して、あなたの心の扉を開いてください。

雅歌4章8~16節「あなたは私の心を奪った」

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ソロモンの雅歌4章からお話しています。今日は「あなたは私の心を奪った」というタイトルでお話します。9節に「あなたは私の心を奪った」と、2回繰り返して使われています。「あなた」とは花嫁のこと、「私」とは花婿のことです。花婿が花嫁に対して、「あなたは私の心を奪った」と言っているのです。花婿の心を奪った花嫁です。やっとの思いで花嫁と結ばれた花婿は、うれしくて、うれしくて、何度も花嫁をほめ称えます。それが4章1節からの内容でした。1節には「ああ、あなたは美しい。」とあります。そして7節にも「あなたのすべてが美しい」(7)とあります。花嫁の目、髪、歯、唇、口、頬、首、乳房、そのすべてです。すべてが美しい。

きょうはその続きです。その花嫁の美しさは花婿の心を奪いました。この花嫁は、私たちのこと、私たち教会のことです。教会は、キリストの心を奪いました。どのように奪ったのでしょうか。

Ⅰ.レバノンから来ておくれ(8)

まず、8節をご覧ください。「花嫁よ。私と一緒にレバノンから、私と一緒にレバノンから来ておくれ。アマナの頂から、セニルの頂、ヘルモンの頂から、獅子の洞穴、豹の山から下りて来ておくれ。」

これまで花婿は花嫁を「わが愛する者」と呼んできましが、ここから「花嫁よ」と呼びかけています。それは、二人が結婚して結ばれたことでそのような関係となったからです。その花嫁に対して花婿は、「私と一緒にレバノンから、来ておくれ」と言っています。ここから、花嫁はレバノンに住んでいたことがわかります。その住み慣れたレバノンから出てきて、自分の宮殿に住みなさい、と言っているのです。

皆さんは、レバノンがどこにあるかわかりますか。「レバノン」とは、イスラエルの北部に隣接している小さな国です。面積は日本の岐阜県とほぼ同じです。アジア大陸でもっとも小さな主権国家として認められています。その割には頻繁にニュースで取り上げられています。昨年は首都のベイルートで爆発事故があったことが報じられました。カルロス・ゴーン氏が逃亡したのもこのレバノンです。

聖書では、「レバノン」は豊かさの象徴として用いられています。たとえば、詩篇72篇16節には、「地では、山々の頂に穀物が豊かにあり、その実りはレバノンのように豊かで」とあります。ここには「レバノンのように豊かで」と、実りが豊かである所として用いられています。また、今日の聖書の箇所にも、11節に「レバノンの香りのようだ」(11)とありますが、そこは絶えず香りで満ちていました。そのレバノンから来るようにというのです。なぜでしょうか。

その次にこうあります。「マナニの頂から、セニルの頂、ヘルモンの頂から、獅子の洞穴、豹の山から下りて来ておくれ」「マナニの頂」とか、「セニヌの頂」、「ヘルモンの頂」とは、このレバノンのことです。レバノンには南北に山脈が走っていて、そこにはこうした山々が連なっていました。北からアマニ山、セニル山と続き、一番南がヘルモン山です。これらは全長150キロにも及ぶ連山で、北はシリアから南はイスラエルまで続いていました。ですから、新約聖書にはヘルモン山がよく出てくるのです。ヘルモン山はイスラエルの北部にある山です。そこで主イエスはまばゆい姿に変貌されました。そこはイスラエルの北の果てにある山です。すなわち、この「レバノンから来ておくれ」の「レバノン」とは、花婿がいたエルサレムから離れているところ、遠いところを指していたのです。そのイスラエルの北の果て、エルサレムから一番離れたところから「来なさい」と言うのです。

私たちも時として神から離れてしまうことがあります。イスラエルの北の果てレバノンにいるようなことがありますが、でもどんなに神から離れてしまっても、北の果てに落ち込んでいたとしても、そこから来なければならないのです。

詩篇42篇6節には、「私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。」とあります。この「ヨルダンとヘルモンの地」とは、このことです。神から遠く離れたところです。この詩篇の作者は、神から遠く離れてうなだれていました。でもそこから神を思い起こしています。神から遠く離れていても、今さら神のもとには戻れないのではないかと思っても、あなたは戻ることができます。なぜなら、主が「来なさい」と呼び掛けておられるからです。

ここにはまた「獅子の洞穴、豹の山」から下りて来ておくれ。」あります。どういうことでしょうか。獅子の穴で有名なのは、ダニエルが投げ込まれた獅子の穴です。彼はペルシャの王ダリウス(ダレイオス)の時代に、ペルシャの王以外のものに祈願する者があれば獅子の穴に投げ込まれるという禁令を破り、いつものように日に三度ひざまずき、自分の神に祈って感謝をささげました。それで彼は捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれてしまいました。

しかし、神が獅子の口をふさいでくださったので、獅子は彼に何の害も加えることができませんでした。ダニエルが穴から引き上げられると、何と彼にはなんの傷もなかったのです。聖書はその理由をこう言っています。「彼が神に信頼していたからである。」(ダニエル6:23)もし彼が神に信頼していなかったら、彼はライオンに食われていたでしょう。ですから、この「獅子の穴」とは、不信仰の穴であると言えます。神に信頼しない、できないのです。いつも自分の力で生きようとしています。その結果、八方塞がりに陥っているのです。そんな不信仰の穴から出てくるようにと呼び掛けられているのです。

さらに、ここには「豹の山」とあります。「豹の山」から下りて来るようにと。黙示録13章2節に、「ひょう」が出てきます。「私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」とあります。これはやがて来る反キリストのことです。その獣は「ひょう」に似ていました。すなわち、この「豹の山」とはサタンの力、敵に取り囲まれて二進も三進もいかないような状態のことを指しています。そうした豹の山から下りて来なければなりません。そうすれば、あなたもキリストの救いのすばらしさを体験することができます。

あなたは今どこにいますか。アマニの頂、セニルの頂、ヘルモンの頂ですか。それとも、獅子の穴でしょうか。あるいは、豹の山ですか。花婿なるキリストは、そこから「来なさい」と呼び掛けておられます。もう来るなうっとうしい!顔も見たくない!あっちへ行け!と言うのではなく、「来なさい」と言ってくださるのです。たとえレバノンのように神から遠く離れたところにいても、何度でもやり直すことができます。何度もつまずき、主から離れたとしても、あなたはやり直すことができるのです。主はあなたを決して見放したり、見捨てたりすることはなさらず、「来なさい」と呼び掛けてくださるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

あなたが神から遠く離れ、人生に疲れ果て、重荷で押しつぶされそうであるなら、花婿であられるキリストのもとに来てください。そうすれば、主があなたを休ませてあげます。

どうやって来たら良いのでしょうか。ここには「私と一緒に来ておくれ」とあります。しかもこれも2回繰り返されています。この花婿であられるイエス・キリストと一緒に来ておくれと言うのです。自分一人ではとても行けないと思っている方がおられますか。大丈夫です。イエス様が一緒にいてくださいますから。あなたは一人ではありません。いつでもイエス様が一緒にいてくれます。だから恐れることはありません。安心して来ることができます。

ですから、あなたは安心して主のもとに来ることができます。たとえ主から遠く離れたところにいても、たとえ不信仰の穴に落ちていても、たとえ罪に支配され、自分で自分のことがわからないような状態にあっても、花婿なる主が共にいてくださるので、あなたは来ることができるのです。花嫁よ。私と一緒にレバノンから来ておくれと言われる花婿の声に応答して、花婿のもとに下りて来たいと思います。

Ⅱ.あなたは私の心を奪った(9-12)

次に、9~12節をご覧ください。まず9節をお読みします。「あなたは私の心を奪った。私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。ただ一度のまなざしと、首飾りのただ一つの宝石で。」

ここには「あなたは私の心を奪った」とあります。花嫁は花婿の心を奪いました。その目、鼻、口、歯、頬、すべてが美しい。8節では「花嫁よ」と呼ぶようになりましたが、ここではさらに「私の妹、花嫁よ。」と呼び掛けられています。10節にも、12節にも使われています。このような言い方は、4章だけで実に3回も使われているのです。どういうことでしょうか。花嫁と花婿はそれだけ近い関係であるということです。それは、妹のように血のつながりのある関係であるということです。

「妹」と訳されたことばはヘブル語で「アホーティ」と言いますが、「実際の血のつながった妹」を意味します。花婿にとって花嫁は血のつながりがあるほど親密な関係なのです。古語で「妹背(いもせ)」ということばがあります。新聖歌の504番には「妹背を契る」という讃美歌がありますね。現代で使われていません。これは親しい関係の男女を指すことばで、親しい男女が結婚することを意味しています。まさに血を分け合った兄と妹という関係です。

このことは、キリストと教会の関係を表しています。つまり、キリストの花嫁なる教会は、花婿なるイエスさまの血によって生まれたものであるということです。イエスさまにとって教会は、ご自身と同じほど尊い存在なのです。

その妹であり、花嫁である相手に、花婿は「あなたは私の心を奪った。」と言っています。「あなた」とは花嫁のことであり、私たち教会のことです。そして「私」とは花婿のこと、すなわちイエス様のことです。花嫁である教会は、花婿であられるイエス様の心を奪ってしまったというのです。イエス様は私たちを見てもうメロメロであるということです。

この「奪う」ということばはヘブル語で「ラバーブ」ですが、心をかき立てるとか、かき混ぜるという意味があります。家内は毎日のようにケーキを作っていますが、どのようにして作るのかを見ていると、ボールに小麦粉とかバター、卵、砂糖とかをバーって入れてミキサーにかけます。そのかき混ぜた状態のことです。イエス様が私たちを見るとき、そのように心がかき混ぜられたようになるのです。皆さんも好きな人を見るときなど胸がキュンとすることがありますがそれです。すっかり魅了されてしまいます。虜にされてしまいます。これが、イエス様が私たちを見る目です。いったい私たちのどこにそんな魅力があるのでしょうか。自分では何の取り柄もないと思っているのに。

その後のところを見てください。ここには「ただ一度のまなざしと、首飾りの宝石で。」とあります。花嫁のたった一度のまなざしで花婿の心が奪われてしまいました。いわば一目ぼれです。あなたが何者であるかは関係ありません。あなたが過去においてどうであったかとか、今何をしているのか、これから先どうなるかといったことは全く関係ないのです。たとえ金メダルを取れなくても、あなたの存在そのものが美しい。あなたをたった一度見ただけで、イエス様の心はもうヨレヨレなのです。へブル12章2節には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」とありますが、もしあなたがイエスを見るなら、イエスは喜んでくださいます。それが私たちの信仰です。信仰とは、イエスを見ることです。他のことは要求はされません。ただイエスを見るだけで、イエスは喜んでくださるのです。

また、ここには「首飾りの宝石で」とあります。「首飾りの宝石」とはネックレスのことです。花嫁のネックレスを見ただけで花婿の心が奪われてしまいました。なぜなら、花婿はそのネックレスに込められた花嫁の思いを知ってくださるからです。私たちの花婿イエスは、私たちの一挙手一投足を注意深く見られ、そこに込められた思いのすべてを察知してくださるのです。それほどあなたに夢中であるということです。義務的にではなく、義理でもなく、心からあなたを愛しておられるからです。

10節をご覧ください。「私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、あなたの香油の香りは、すべての香料にまさっている。」

これは花嫁が1章2~3節で語ったことばと全く同じことばです。そのことばを今度は花婿が花嫁に語っています。どういうことかというと、まず花婿が愛してくださったので、その愛を受けて、今度は花嫁が花婿を愛するようになったということです。

Ⅰヨハネ4章19節に「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」とあります。神がまず私たちを愛してくださいました。その愛を受けて、その愛を知って、今度は私たちが神を愛することができるのです。神の愛がわからなければ、神を愛することはできません。ですから、神がまず私たちを愛してくださったのです。その愛は、ぶどう酒にまさって美しいとあります。その香りは香料にまさっています。但し、私たちのキリストへの愛よりも、キリストの私たちに対する愛の方がはるかにすばらしいということを忘れないでください。キリストの愛は真実な愛です。それはどんなことがあっても破棄されることはありません。あなたがどんなに神に背いても、どんなに神から離れても、神はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。それは無限の愛であり、無条件の愛、無償の愛です。それはキリストが十字架の上で死なれたことによって現わされた愛です。人間にはこのような愛はありません。でも私たちのちっぽけな愛でも、キリストは喜んでくださるのです。

11節をご覧ください。ここには「花嫁よ。あなたの唇は蜂蜜を滴らせ、舌の裏には蜜と乳がある。衣の香りは、レバノンの香りのようだ。」とあります。

この「唇」とか「舌の裏」とは、花嫁との口づけを表しています。それは蜂蜜のように甘く、果実の蜜や乳のように豊かであるということです。この「蜜と乳がある」という表現は、「乳と蜜が流れる地」、約束の地カナンをイメージさせます。聖書には、約束の地カナンは乳と蜜が流れる地であると言われています。それは乳と蜜それ自体が流れているということではありません。これは牧草の豊かな、しかも蜂が蜜を吸うことのできる多くの花や樹木が生えている自然が豊かな地であるという意味です。そのように心が満たされるところがカナンなのです。花嫁との口づけはそのように甘く、心が満たされる行為であるというのです。

これは何を表しているのかというと、私たちの神への礼拝です。礼拝とはギリシャ語で「プロスクネオー」と言いますが、意味は「~に向かって口づけする」という意味があります。ですから、礼拝とは、主に向かって口づけする行為なのです。それはまさに蜂蜜のように甘く、乳と蜜のように私たちの心を満たしてくれるものなのです。これが毎週日曜日の礼拝でもあります。ですから、今皆さんは主イエスに向かって口づけしているのです。主を愛するがゆえに行う行為、それが礼拝なのです。それは私たちの花婿イエス・キリストの心を満たすものです。私たちのささげる礼拝は、イエス・キリストの心を満たすものなのです。これを取り違えないようにしなければなりません。私たちのささげる礼拝は私たちの心を満たすものではなく、私たちの主イエスの心を満たすものです。もちろん、私たちが礼拝することで結果的には私たちの心が満たされることになりますが、それが礼拝の第一の目的ではありません。礼拝は私たちの心を満たす前に、イエス・キリストの心を満たすことなのです。私たちはよくきょうの礼拝は良かった、恵まれた、満足した、と言うことがありますが、それもすばらしいことですが、その前に考えなければならないことがあります。それはあなたの花婿イエス・キリストはどうだったかということです。あなたのささげる口づけ(礼拝)が、イエス様の唇を甘くし、その舌の裏には蜜と乳があるかのような喜びと満足を与えるものであったかということです。主は私の礼拝を喜んでくださっただろうか。私の奉仕、私の献金を喜んでくださったかどうかということです。自分が満足したかどうかの前に、主はどのように受け止められたかということです。もちろん、そのような期待をしてはいけないということではありません。しかし、イエス・キリストに喜ばれる礼拝をささげたい。どうすれば主に喜ばれる礼拝をささげることができるかを、もっと真剣に考えなければなりません。

ルカの福音書の最後は、このことばで締めくくられています。「いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(ルカ24:53)この「ほめたたえていた」ということばは、祝福していたという意味です。イエス様が天に昇って行かれた後、弟子たちはエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていました。主を祝福していました。逆じゃないですか。主が私たちを祝福してくれるんじゃないですか。もちろん、そういう面もあります。しかし、礼拝とは神が私たちを祝福してくれるというだけでなく、私たちが神を祝福することでもあるのです。自分が祝福されることは感謝なことですが、何よりもイエス・キリストを祝福すること、イエス・キリストの心が満たされること、イエス・キリストの栄光が崇められることが、礼拝の最大の関心とならなければなりません。

11節に戻ってください。ここにはもう一つのことが言われています。それは「衣の香りは、レバノンの香りのようだ。」とあります。

「レバノン」については、8節にも出てきましたが、そこでは神から遠く離れた地の象徴として用いられていましたが、ここでは、香りが満ちている場所として用いられています。レバノンはレバノン杉で有名ですが、他にも芳香性が強い植物が生息していたことでも有名です。そこには絶えず香りが満ちていました。花嫁の衣は、このレバノンの香りのようだというのです。

この「衣」とは全身を覆うもので、花嫁が寝る時に着たものです。今でいうパジャマとかネグリジェのようなものです。その衣がレバノンの香りのようだというのです。それはイエス・キリストの香りでもあります。

コロサイ3章12節には、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」とあります。ですから、花嫁はキリストを着たのです。それはキリストとの親密な交わりによって、キリストのようになることを意味します。それはどんな香りでしょうか。コロサイ3章には続いてこのように勧められています。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」(コロサイ3:12-17)

あなたはどうでしょうか。キリストを着ていますか。キリストの香りを放っていますか。花婿であられるキリストは、あなたのそのような香りをとても喜んでくださいます。

12節をご覧ください。「私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。」

これらの表現はすべて花嫁の処女性を表しています。「閉じられた」「封じられた」という表現は、花婿以外にだれも入ることのできないように鍵がかかっているような状態であるという意味です。そこは花婿だけが開くことができる庭であり、源であり、泉です。たった一人の花嫁であるということです。それは純潔と貞潔を意味しています。花婿だけであるということです。花嫁にどうしてもなければならないもの、それが花婿に対する純潔なのです。

パウロもそのことを語っています。Ⅱコリント11章1~3節で次のように言われています。「私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。いや、あなたがたは我慢しています。私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。」

蛇が偽りによってエバを欺いたように、教会にもサタンが悪巧みによって欺こうとしてきます。パウロはそのことを心配していました。教会にとってどうしても必要なことは、イエスさまに対する「純潔と貞潔」です。サタンは偽りの教えによって私たちの思考に入り込み惑わしてきます。だから私たちは、いつも主のみことばをしっかり握って聖さを保つ必要があるのです。

私たちクリスチャンはみなキリストの花嫁です。キリストは、やがて再びこの世界に戻って来られます。その時のために傷のない、本当に純潔な教会を、キリストの花嫁として整えなければなりません。教会には聖書以外の様々な教えが入り込んできます。蛇がエバを欺いたように、間違った教えによって私たちを信仰から遠ざけようとしますが、そうした教えに警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。花婿への純潔と貞潔を守らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの産み出すもの(13-16)

最後に、13節から16節までをご覧ください。「あなたの産み出すものは、最上の実を実らせるざくろの園、ナルドとともにヘンナ樹、ナルドとサフラン、菖蒲とシナモンに、乳香の採れるすべての木、没薬とアロエに、香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」

ここで花婿は花嫁を、園に植えられた木や咲き乱れる花にたとえています。これらすべて花嫁について描写されているものです。あなたの産み出すもの、つまり花嫁が産み出すものが、ここに列挙されています。

まず、最上の実を実らせるざくろの園です。「ざくろ」については3節にも出てきましたが、それは豊かさといのちを象徴するものです。乾燥したイスラエルでは水分を補給するのに欠かせないものでした。まさに渇いた喉を潤す清涼飲料水のような最高のジュースとして重宝されました。ざくろを見ると、一つの実の中にたくさんの種が入っているのがわかります。それはまさに御霊の実を表しています。有名なガラテヤ5章22~23節にはこうあります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」花婿は花嫁が産み出す御霊の実を見て絶賛しているということです。

そればかりではありません。13節の後半には「ナルドとともにヘンナ樹、ナルドとサフラン、」とあります。ナルドについては1章12節にもありましたが、ヒマラヤやチベットといった標高の高いところに生息する植物で、古代からインド人により、薬用や香料として使われてきました。それに油を混ぜ合わせたものがナルドの香油です。それは非常に高価なものでした。「ナルド」という名前には、「かぐわしい」という意味があります。

また、「ヘンナ樹」についても1章14節に出てきました。これは「へんな木」ではありません。立派な木です。エジプト、インド、北アフリカ、イランなどの乾燥した水はけの良い丘陵に育つ、ミソハギ科の植物で、3メートルから6メートルほどの常緑低木です。熱い地方では日陰になる大切な木でした。まさにオアシス的な存在です。

そして14節には、「ナルドとサフラン、菖蒲とシナモンに、乳香の採れるすべての木、没薬とアロエに、香料の最上のものすべて、」とあります。

ナルド、サフラン、菖蒲、シナモン、乳香、没薬、アロエは、すべて香りを放つ草花です。まさに(かぐわ)しいということです。問題は、何のために芳しいのか、だれのために芳しい香りなのかということです。それはもちろん花婿のためです。自分を喜ばせるためのものではありません。花婿であられるイエス・キリストの喜びと、イエス・キリストの栄光のための香りなのです。私たちはそのために存在し、生かされているのです。

15節をご覧ください。ここには「庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」とあります。ここに「レバノンからの流れ」とあるように、レバノンの山々、特にヘルモン山の雪解けの水が湧き出ます。それはすべてを潤す水、いのちを与える水のことです。イエス様はこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

ここに「聖書が言っているとおり」とありますが、この聖書が言っているとおりとは、旧約聖書が言っているとおりにということで、実はこの箇所で言われているとおりにということです。イエスを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになりますが、それはここで言っているヘルモンの雪解けの湧き水のように流れるということだったのです。イエス様はそれを念頭に言われたのです。この「生ける水」とは何でしょうか。イエス様はその後のところで、このことについても説明しておられます。「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」(ヨハネ7:39)

この花嫁の美しさは、生ける水が流れ出ていたことでした。神の聖霊に満たされていたことです。あなたもイエスのもとに来て飲むなら、心の奥底から生ける水が流れ出て、美しい花嫁として整えられます。

あなたが産み出しているものは何でしょうか。あなたの特産物は何でしょうか。あなたの園はどんな園でしょうか。花が咲き乱れているでしょうか。豊かな実が実った果樹園でしょうか。良い香りが漂うハーブ園でしょうか。それはこの湧き水の井戸、レバノンの流れがあるかどうかで決まります。もしあなたが花婿のもとに来て生ける水を飲むなら、あなたの園は最上の実を実らせ、芳しい香りを放つ園となるのです。あなたの花婿キリストは、そんな花嫁を喜び称えているのです。

最後に16節を見て終わります。「北風よ、起きなさい。南風よ、吹きなさい。私の庭に吹いて、その香りを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入って、その最上の実を食べることができるように。」

これは花婿のことばを受けた花嫁のことばです。彼女はここで、「北風よ、起きなさい。南風よ、吹きなさい。私の庭に吹いて、その香りを漂わせておくれ。」と言っています。どうしてこのように言っているのでしょうか。それは、「私の愛する方が庭に入って、その最上の実を食べることができるように。」するためです。

聖書では、「風」は聖霊のシンボルとして使われています。15節の「泉」や「湧き水」もそうです。聖霊のシンボルとして用いられています。エデンの園にも風が吹いていました。エデンの園では、神が土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きるものとなりました。いのちの息が吹き込まれなければ、生きるものにはなりません。生きてはいても死んでいる、生ける屍でしかないわけです。それだけでは死んだ者です。肉体は生きていても、霊は死んでいます。ですから、そういう人は死んだら終わりです。でも、聖霊があなたの内に吹き込まれるなら、あなたは生きるものとなるのです。死んでもなくならない永遠のいのちをいただくのです。それはいのちの水となってあなたを潤します。あなただけでなく、あなたの周囲にいる人たちをも潤していきます。同時にあなたは庭ですから、花を咲かせ、実を結び、キリストの香りを漂わせるようになります。そのためには風が吹かなければなりません。聖霊があなたの庭に吹くとき、その香りを漂うのです。

あなたの愛する方が、あなたの主イエスがあなたの園に入って、その最上の実を食べることができるように、あなたの庭を整えてください。最善の実を結ばせていただきましょう。

雅歌4章1~7節「あなたのすべてが美しい」

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 きょうは、雅歌4章1~7節から学びたいと思います。タイトルは、「あなたのすべてが美しい」です。7節に「わが愛する者よ。あなたのすべてが美しく、あなたは何の汚れもない。」とあります。これは、花婿が花嫁に語っていることばです。結婚してエルサレムにある自分の宮殿に招き入れた花婿、ソロモンは、花嫁を見て「あなたのすべては美しい」と言うのです。

この花嫁は教会のこと、すなわち、私たちクリスチャンの姿でもあります。ですから、花婿であられるキリストが、花嫁である私たちクリスチャンを見て「あなたのすべてが美しい」と言ってくださるということです。しかも、ここには、目とか、髪とか、歯とか、唇とか、頬とか、首とか、乳房とか、花嫁のからだの一つ一つの部分を取り上げて具体的にほめています。これは、教会はキリストのからだとも言われていますが、そのからだを構成している一つ一つの器官を見て「美しい」と言っておられるということです。私たち一人一人が美しいのです。感謝ですね。いったいどのように美しいのかを、早速、見ていきたいと思います。

Ⅰ.美しい花嫁パートⅠ(1-3)

まず1~3節をご覧ください。ここには花嫁の美しさの具体的な七つの描写のうち、五つの部分が取り上げられています。すなわち、目と、髪と、歯と、唇と、口と、頬です。まず1節には、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は、ベールの向こうの鳩。髪は、ギルアデの山を下って来るやぎの群れのようだ。」とあります。

まずその目です。「あなたの目は、ベールの向こうの鳩」とあります。ベールとは、花嫁が結婚式で身に着けるベールのことです。これは処女のしるし、また従順さを象徴しています。そのベールの向こうの鳩だと言われています。鳩は前にも出ていましたね。1章15節には「あなたの目は鳩」とありました。それは美しいもの、清らかであることの象徴でした。また、平和のシンボルでもあります。ですから、あなたの目は鳩のようだというとき、それは最高の誉め言葉なのです。

また鳩は聖霊のシンボルでもあります。ですから、あなたの目は鳩というとき、それは単に美しいとか平和であるというだけでなく、聖霊のように聖く、何が正しく、何が間違っているのかを判別することができる目でもあるということです。

ちなみにイエス様はマタイ10章16節で、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」と言われました。ここでは鳩が素直な鳥であると言われています。よく公園などで鳩にえさをやっている人を見かけることがありますが、何も疑うことなくすぐに集まってきます。そのように神の招きのことばに素直に集まって来る人、心に蒔かれたみことばを素直に受け入れる人でもあります。

次は髪です。ここには「髪は、ギルアデの山を下りて来るやぎの群れのようだ。」とあります。ここでは黒髪の美しさがたたえられています。えっ、やぎって白いんじゃないですかと思われるかもしれませんが、ここでは黒やぎのことを言っています。黒やぎの群れがギルアデの山を流れ下るようななめらかでつやつやとしている美しい黒髪だというのです。まさにラックススーパーリッチです。あれはブロンドですが・・。それはまるでやぎの群れがギルアデの山を下って来るようです。ギルアデの山とは、ガリラヤとサマリヤの東側にある高原のことですが、そこはヨルダン川の渓谷から1000㍍も高いところにありました。その高くて険しい崖がそびえ立つギルアデの山から群れをなしてやぎが下ってくるのです。上空からの光景を想像してみてください。なんとも美しく、勇ましい姿です。抜け毛の心配などいりません。

ところで、この髪の毛ですが、これはどんなに年老いても伸び続けることから、聖書ではいのちと力の源と言われています。聖書には、髪は二つのシンボルとして用いられています。一つは聖別と献身です。そしてもう一つは服従です。

聖別と献身ということで有名なのはサムソンです。彼は一生涯髪の毛を切りませんでした。なぜなら、彼は神にささげられた者、聖別された者であったからです。それをナジル人と言います。彼はナジル人として生まれてきました。その特徴の一つは髪を切らないということです。それはいのちと力を象徴していたからです。いったいサムソンはどうしてそんなに強いのかと、その強さの秘密を探ろうと、敵のペリシテ人はひそかにデリラという女性を送り込み、その出生の秘密を知ります。それで彼の髪の毛が切られてしまいました。すると神(髪)が彼から離れて行きました。このように私たちクリスチャンの美しさとは、神に自分をささげている姿です。美しい髪は、その姿を表しています。

それから、髪のもう一つのシンボルである「服従」ですが、Ⅰコリント11章15節にあります。「女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。」

ここでは、女が長い髪をしていたら、それは彼女にとって栄誉だと言われています。別に髪が長ければいいと言っているのではなく、その髪が意味しているところの権威に従うことがすばらしいということです。なぜなら、髪はかぶり物として女性に与えられているからです。かぶり物とは、自分が夫の権威の下にあることを表すものでした。それが創造の秩序です。男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。それは男女に優劣があるということではありません。どちらが上でどちらが下かということではなく、男が神のかたちに造られ、女はその男から造られたという創造の秩序から、妻は夫に従うことが求められているのです。そのしるしがかぶり物だったのです。女性の長い髪はその服従のしるしでした。したがって、もし女性が髪を切るなら、頭にかぶり物を付けるべきです。もちろんこれは実際に頭にかぶり物をつけなければならないということではなく、キリストの権威に従うこと、夫の権威に従わなければならないということです。そのような女性は美しいということです。それはギルアデの山を下っ来るやぎの群れのようなのです。

ところで、髪は自分では数えられません。しかし、イエス様はマタイ10章30節でこのように言われました。「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」主はあなたのすべてを知っておられるということです。自分でも自分のことがわからないことがあります。でも主はあなた以上にあなたのことを知っておられます。それゆえ、安心してこの方に従うことができるのです。このように従う人は、ギルアデの山から下ってくるやぎの群れのように美しいのです。

次に2節をご覧ください。「歯は、洗い場から上って来た、毛を刈られた雌羊の群れのよう。それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない。」

次は歯です。それは洗い場から上って来た、毛を刈られた雌羊の群れのようです。どういうことでしょうか。「洗い場から上って来た羊」とは、毛を刈られる前に、毛の汚れを洗い場で洗い落としてもらった羊のことです。その羊の毛は真っ白です。1節にはやぎの毛のような黒髪について語られましたが、ここでは羊の毛のような白さが強調されています。

「それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない」というのは、これは歯の話です。上の歯と下の歯で一対になるわけですが、それをかみ合わせたとき欠けた歯がないということです。想像しみてください。ニヤッと笑ったとき前歯が1本欠けていると折角のきれいな歯が台無しです。しかし、花嫁の歯は完璧です。それはみな双子で、一方を失ったものはありません。きれいな歯並びをしています。よく「あの人の歯だけはきれいだ!」と言うのを聞くことがありますが、そういう歯です。他のところは大したことありませんが、歯だけはきれいなのです。「私はあの人の歯にほれて結婚した」という人さえいます。そんな歯並びです。現代人の歯は上下合わせて28本あると言われていますが、それが全部揃っているのです。花婿は、花嫁のそんなに歯の美しさかに圧倒されているのです。

聖書では、歯は食物を嚙み砕いて消化する働きがあるものとして用いられています。へブル5章12~14節には「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」とあります。乳歯(にゅうし)だと柔らかいので、固い物を噛み砕くことができません。それで乳ばかり飲まなければならないのです。乳ばかり飲んでいる人は、義の教えに通じていません。幼子なのです。しかし、大人の歯は固い物を噛み砕くことができます。それは霊的に成熟した者の歯です。そのような歯は真理をより深くかみしめ、理解し、自分のものとすることができます。

あなたの歯はどうですか。年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたみことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要がある状態でしょうか。花婿なるキリストは、花嫁の白くてきれいな歯、固くて食べ物を噛み砕くことができるような強い歯を見て、美しいと言ってくださいます。私たちもそのような歯を持ちましょう。神のみことばによって養っていただこうではありませんか。

3節をご覧ください。ここには「唇は紅の糸のようで、口は愛らしい。頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」とあります。

次は唇です。ここには「唇は紅の糸のよう」とあります。イザヤ1章18節には、「紅のように赤くても」とありますが、これは真っ赤であるということです。それは同時に高貴な色を表していました。女性の美しさを飾るものの一つに口紅がありますが、紅のように赤い唇は魅力的ですよね。ここで花婿は、そんな花嫁の唇を称賛しています。

ところで、この「唇」はヘブル語では「サーファー」と言います。意味は「終結」、「末端」、「行き着く先」です。つまり、唇は内面の思いとか考え、感情が溢れて出てくる所のことを指しています。イエス様はマタイ15章18~19節でこのように言われました。「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。」口から出るもの、唇から出るもの、それが人を汚します。すなわち、悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、ののしりといったものは、心から出てくるのです。その行き着くところ、その末端が唇であるということです。ですから、その唇が美しいというのは、そうした悪い考えとか、淫らな思い、偽りの心といったことのない純真な心を持つ人のことなのです。

詩篇45篇2節には、「あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの唇からは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。」とあります。いいですね、あなたの唇からはやさしさが流れ出るのは。あなたの唇からは毒が飛び散るとなったら大変です。実はこれはメシヤ詩篇と言ってイエス様のことを預言して歌われた歌です。イエス様の唇はどのようなものだったでしょうか。ここには、「あなたの唇からはやさしさが流れ出る。」とあります。イエス様の唇からはやさしさが流れ出ていました。そういう唇です。そのような唇は美しいのです。それは紅の糸のように、高貴で美しい。かつては紅のように汚れていたものでも、雪のように白くきよめられて美しくされるのです。

そして、次は口です。「口は愛らしい」とあります。口が愛らしいとはどういうことでしょうか。口が小さくてかわいいということですか、それとも、口の形がかっこいいということでしょうか。そういうことではありません。「口」はヘブル語で「ミルバーブ」と言いますが、それは「語ること」を意味しています。ですから、口が愛らしいというのはその口の大きさとか、形よりも、むしろその口から出てくることばのことです。それが美しいのです。

ヤコブ3章2節には、「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。」とあります。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、からだ全体を制御できる完全な人です。私たちは口でよく失敗するものです。言わなくてもいいようなことを言って相手を傷つけてみたり、言わなければならないことを言えない弱さがあります。そんな舌をヤコブは火にたとえて、「あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。」と言っています。

へブル3章15節には、「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず髪にささげようではありませんか。」とあります。「それなら」とは、イエスの血によって、聖なるものとされたのですからという意味です。ですから、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を絶えず神にささげようではありませんかというのです。そのような唇は、そのような口は美しいのです。

詩篇63篇3節には、「あなたの恵みはいのちにもまさるゆえ私の唇はあなたを賛美します。」とあります。このような口こそ、美しい口です。そのような口は愛らしいと、そのような花嫁の口を花婿は称賛しているのです。

次は「頬」です。「頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」どういうことでしょうか。「頬」はヘブル語では「ラー」という言葉ですが、「こめかみ」とも訳せます。ですから、新共同訳聖書ではこれを「こめかみ」と訳しています。その頬がざくろの片割れのようだというのです。ざくろはイスラエルの七つの果実の一つとして、聖書には豊かさとか繁栄、生命の象徴して用いられています。祭司がエポデの下に着る長服の裾周りにも付けられました(出エジプト記28:33)。それはざくろがキリストの生命の豊かさを表していたからです。ここで花嫁の頬がそのざくろの片割れのようだというのです。つまり、ざくろのように豊かな実を持っているということです。ですから、この「頬」とか「こめかみ」というのは、心の思いの源を表しているのです。心にどんな思いを抱くかによって結果が決まります。心に肉の思いを持つなら死という実を結びますが、御霊の思いを持つなら、いのちと平安の実を結びます。ざくろのように。それゆえ、聖書はこのように勧めているのです。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

あなたの心にはどんな思いを宿していますか。いのちの泉はここからわきます。ざくろの片割れのような豊かな実を結ぶために、あなたの心を見守りましょう。

Ⅱ.美しい花嫁パートⅡ(4-6)

花嫁の美しさの称賛が続きます。4~6節をご覧ください。4節には「首は、兵器倉として建てられたダビデのやぐらのよう。その上には千の盾が掛けられ、すべて勇士の丸い小盾だ。」とあります。

今度は首です。ここには、その首が、兵器倉として建てられたダビデのやぐらのようとあります。どういうことでしょうか。当時、ダビデのやぐらには盾が立て掛けてありました。盾が立て掛けられていないということは戦っていることを表していました。ですから、盾が立て掛けられているということは戦っていないということ、平和な状態であることを意味していました。ここには、花嫁の首は、その兵器倉として建てられたダビデのやぐらのようだとあります。そこには千の盾が掛けられていました。全く戦いがない平和な状態であったということです。

「首」は女性の美しさの象徴でもあります。京都の舞子さんとか着物姿の女性のうなじはきれいですね。あまりもきれいなのでお顔を見るとそうでもなくてがっかりすることがありますが、うなじがきれいだとうっとりして見入ってしまいます。ここでは花嫁の首が、うなじがきれいなのです。それは単に見た目がきれいであるというよりも、花嫁のその心の態度がきれいであったということです。

聖書には、「うなじがこわい」という表現が使われています。「こわい」とは強情であるとか頑固であるということです。本来は、牛がくびきをかけられるのを嫌って抵抗する様を表現したものですが、それがイスラエルの民に対して使われています。イザヤ書48章4節です。「あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので」彼らは、神のことばに耳を傾けず、聞くこともせず、訓戒を受け入れることもしようとしませんでした。まさに反抗的な民であったのです。そのような者のうなじは美しくありません。

でもイエス様はどうでしょう。イエス様はこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28)

イエス様は心優しく、へりくだっています。ですから、私たちもイエス様のくびきを負うことができます。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。イエス様を見るならうなだれることはありません。イエス様に従うなら、あなたの首はまっすぐになります。美しい首になるのです。

次に、5節と6節をご覧ください。「二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べている双子のかもしか、二匹の子鹿のようだ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。

ここに「二つの乳房」とあります。「二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べている双子のかもしか、二匹の子鹿のようだ。」と。乳房の話なんて、ちょっとエロティックじゃないかと思われるかもしれませんが、ここで花婿と花嫁は既に結婚しているのです。結婚している夫婦にとってはむしろ自然なことです。箴言5章19節には、「彼女の乳房がいつもあなたを潤すように」とあります。

「乳房」はヘブル語で「シャドー」と言いますが、それは祝福と恵みを象徴しています。イザヤ書66章12節には、「主はこう言われる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の栄光を与える。あなたがたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上でかわいがられる。」とあります。川のような繁栄とあふれる流れのような国々の栄光が乳を飲むようだと言われているのです。その二つの乳房が、ゆりの花の間で草を食べている双子のかもしか、二匹の小鹿にたとえられているのです。

双子とはバランスのとれた美しい乳房を表現しています。しかも小鹿です。小鹿とは若々しさ、みずみずしさ、張りのある若い乳房のことをたとえています。垂れていません。跳びはねるような張りのある乳房であるということです。別に乳房の美しさを言っているのではなく、霊的にそうであるということです。つまり、花嫁の心が若々しく、みずみずしく、張りがあって、跳びはねるように魅力的であるということです。ですから、私はもう張りがないという人も落ち込まないでください。あなたの心がどうであるかということですからあなたの心はみずみずしく張りがあるでしょうか。それとも、カサカサと萎れてはいないでしょうか。双子のかもしかとはバランスがとれているという意味だと申し上げましたが、あなたの心はバランスがとれているでしょうか。それとも、アンバランスでしょうか。不安定な状態ではないでしょうか。アップダウンの激しい状態でしょうか。でも、イエス・キリストにあるなら、あなたの乳房は双子のかもしかのようにバランスがとれたものとなります。

6節をご覧ください。ここには「そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。」とあります。「そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに」とは、日暮れになり、風が吹いて涼しくなるまでにということです。それまでに花婿は没薬の山、乳香の丘に行こう、というのです。これは、没薬の山、乳香の丘で花嫁に会いに行こうということです。花婿は、日が暮れる前に、花嫁を迎えに来られるのです。何のことかというと、これは再臨のことです。新聖歌148番に「夕べ雲焼くる 空を見れば、主の来たり給う 日のしのばる」(新聖歌148)とありますが、日が暮れる前に、花婿なる主は花嫁であるあなたを迎えに来られるのです。それはもうすぐです。そよかぜが吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたを迎えに来てくださるのです。

ここには「没薬の山、乳香の丘」とありますが、花婿が来られるのは没薬の山、乳香の丘です。これは以前も見たように、イエス様ことを象徴しています。つまり、私たちの身代わりとして死んでくださったイエス様を信じる者のところに迎えに来られるということです。ここではそれが妻の乳房によって表現されています。乳房は心を表していると言いましたが、そういう心の状態の人のところに来られるということです。あなたはどうでしょうか。双子のかもしか、二匹の小鹿のような心でしょうか。キリストの花嫁として、キリストの心を心として、キリストが迎えに来られるのを待ち望みたいと思います。

Ⅲ.あなたのすべてが美しい(7)

最後に、7節をご覧ください。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」とあります。

これが花嫁の姿です。花婿の愛の告白には、花嫁の美しさが称えられているだけで、花嫁の欠点とか、足りないところは一つもありません。花婿にとって花嫁は何の汚れもないのです。花婿であられるキリストが十字架であなたの一切の罪、汚れを贖ってくださったからです。そのことをパウロはエペソ5章26~27節でこのように言っています。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

「キリストがそうされたのは」とは、キリストが十字架でご自分をささげられたのは、ということです。それは、教会をきよめて聖なるものとするためです。しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためだったのです。

これが私たちの姿です。私たちはかつては神から遠く離れ、罪と欲に汚れた者でしたが、今はキリストのうちにあるものとされたことによって、きよめられ聖なるものとされました。確かに、罪を犯すことがあります。汚れることがある。けれども美しいのです。キリストがあなたの罪のためにご自身のいのちをささげてくださったからです。その血によってあなたのすべての罪は贖われたからです。教会はそうかもしれないけれども、私は本当に罪深い人間で聖くないと言う方がおられますが、あなたのその教会に加えられています。あなたが目なのか、鼻なのか、髪なのか、歯なのか、頬なのか、口なのか、唇なのか、首なのか、乳房なのかわかりませんが、あなたもこのキリストのからだである教会の一部なのです。そんなあなたを見てイエス様は「美しい」と言ってくださるのです。あなたの目は鳩です。髪はやぎの群れです。歯は洗い場から上って来た羊のようです。唇は紅の糸、口は愛らしい、頬はざくの片割れ、首はダビデのやぐらのよう、二つの乳房は双子のかもしか、二匹の小鹿と。感謝ですね。

であれば私たちは自分をどう見るかではなく、花婿であられるキリストがどう見ておられるのか、キリストの目、神の目で自分を見なければなりません。神さまはあなたを愛しておられます。それはご自分の御子をお与えになったほどにです。その御子の血によってあなたの罪、汚れはきよめられ、聖なるものとされたのです。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」これが花婿の花嫁であるあなたを見る目なのです。

アメリカの伝道者で、数年前に天に召されたビリー・グラハムはこう言いました。「過去を考えてむだな時間を過ごさずに、未来を見つめてキリストとの交わりに生きてください。キリストが赦すことのできないほどの大きな罪はないのですから、恵みとあわれみを感謝し、キリストを毎日賛美しましょう。」

これが、罪赦された花嫁にふさわしい姿ではないでしょうか。「あなたには何の汚れもない」と言ってくださる花婿に、心からの感謝と賛美をささげましょう。

雅歌3章6~11節「荒野から上って来るのは何か」

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 雅歌からお話しております。きょうはその7回目となりますが、「荒野から上ってくるのは何か」というタイトルでお話したいと思います。6節に「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう」とあります。きょうは、このタイトルで3つのことをお話します。

Ⅰ.あらゆる香料をくゆらして(6)

まず6節をご覧ください。「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう。没薬や乳香、隊商のあらゆる香料の粉末をくゆらせて来るのは。」

ここから場面が変わります。1章1節から2章7節までは、結婚式当日の思い出が語られました。そして前回の2章8節から3章5節までは、婚約時代の思い出が語られていました。ここからは結婚式に至るまでの出来事が描かれていきます。

「煙のように荒野から上って来るのは何だろう。」これは、王である花婿が花嫁をエルサレムに迎えるために使者たちを遣わし、その花嫁が行列をなしてエルサレムに上って来る様子です。それを見た群衆のひとりが語っていることばです。ここには「何だろう」とありますが、この「何」という原語のへブル語は「ゾー」ということばで、女性の単数形が使われています。ですから、これは明らかに1人の女性を指していることがわかります。それはこれまで登場してきた花嫁のことです。ですから、新共同訳ではこれを「おとめ」と訳しているのです。また、他の多くの聖書でも「何か」ではなく、「誰か」と訳しています。3章前半では、花婿を見失った花嫁が花婿を必死に探し出すシーンが描かれていましたが、花婿を見つけた花嫁は、彼をしっかりと捕まえると放すことなく、母の家に、すなわち、実家へと連れて行きました。その後花嫁は荒野へと導かれていたのです。花婿はその荒野から花嫁を連れ出し、自分のもとへと引き寄せているわけです。

「荒野」というと、皆さんは何を想像されるでしょうか。さくらチャーチでは今、祈祷会で民数記から学んでおりますが、エジプトを出て約束の地へ向かったイスラエルの民はバランの荒野に導かれると、彼らはひどく不平を言って主につぶやいたのです。「ああ、肉が食べたい。エジプトでただで魚を食べていたことを思い出す。きうりも、すいかも、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6)

失礼ですね。主がせっかくエジプトの奴隷の中から救い出してくださったというのに、それに感謝するのではなく、不平や不満を言うとは。いったいなぜ彼らはつぶやいたのでしょうか。荒野は決して楽な場所ではありませんでした。不便なことがあれば、困難もありました。空腹や疲れもあったでしょう。そんな荒野での三日間の旅で、彼らは「もう嫌だ、こんな生活は・・」と言ってつぶやいたのです。

それが荒野です。飢えと渇きに満ちたところ、不平不満、不信仰が渦巻いているところ、それが荒野なんです。花婿は花嫁をそんな不信仰の荒野から連れ出して、自分のもとで安らぐようにしてくれます。この花婿とはだれのことでしょうか。そうです、これは私たちの主イエス・キリストです。そして花嫁とは私たち教会のことです。すなわち、これはやがて主が私たちをこの地上の荒野から引き上げてくださり、ご自身のもとへと連れ出してくださる携挙のことを予表しているのです。感謝ですね。この地上では旅人、私たちもイスラエルの民が荒野で「ああ、肉が食べたい」と不平を言ったように、さまざまな試練や困難の中でもがき苦しむ者ですが、やがて主がこの人生の荒野から完全に引き上げてくださるときがやって来るのです。そのときを待ち望みながら、そこに希望を置いて、この荒野での歩みを信仰と忍耐をもって送れることは何と幸いなことでしょうか。

ところで、花嫁はどのように荒野から上ってくるのでしょうか。ここには「煙の柱のように、没薬や乳香、隊商のあらゆる香料の粉末をくゆらせて来るのは」とあります。どういうことでしょうか。花嫁は、あらゆる香料の煙をくゆらせて、垂直に上る柱のような煙を携えて上ってくるということです。

この香の煙とは、私たちの祈りのことです。聖書では、香の煙は神さまにささげられる香りであると言われています。たとえば、詩篇141篇2節には「私の祈りが 御前への香として 手を上げる祈りが 夕べのささげ物として 立ち上りますように。」とあります。また、ヨハネの黙示録5章8節にも、「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。」とあります。ここには「香は聖徒たちの祈りであった」とあります。香は聖徒たちの祈りを表しているのです。私たちの祈り、私たち自身が神さまへの香のささげ物なのです。それが煙の柱のように、没薬や乳香など、あらゆる香料の粉末をくゆらせて来るのです。

「くゆらせて」ということばは、あまり聞かないことばですね。「くゆらせて」ということばを辞書で調べてみると、「(くす)ぶらせて」とか、「(かお)らせて」とありました。よい匂いがほのかに立つことです。花嫁は、没薬や乳香、その他あらゆる良い香りを立ち上らせながらやって来るというのです。これが花嫁の香りです。これはもともと花婿なるキリストの香りですが、キリストと結ばれ、キリストに似た者とされるクリスチャンは、同じ香りを放つようになるのです。

あるとき、先生と弟子が道を歩いていました。すると一人の男が、道端で紐を見付けると拾って匂いを嗅いでいるのを見ました。ある紐は大事そうに袋に入れるのですが、別の紐は匂いを嗅ぐとポーンと捨てるのです。「先生、あの男は何をしているんですか」と尋ねました。

すると先生は答えました。「あなたたちは気が付きませんでしたか。彼が最初に拾った紐は、香木(こうぼく)と言って匂いの非常にいい木を縛ってあった木だ。だからその匂いがあの紐に染み付いて、とってもいい臭いがしたのだ。それで彼は大事そうにちゃんと袋に入れて持って帰ったんだ。でも二回目に拾った紐、あれは捨てただろう。あれはな、実は腐った魚を捨てるために縛っておいた木なんだ。だから、臭い匂いがしみ付いていたので捨てたんだよ。同じように、あなたたちも一緒にいる人のにおいが身に着くものだ。だから一緒に過ごす人をよく選びなさいよ。」と。

含蓄のあることばではないでしょうか。私たちが一緒に過ごすのは、私たちの花婿イエス・キリストです。この方は乳香、没薬など、あらゆる香料の良い香りがします。ですから、この方と結び合わされた私たちも同じ香りを放つことができるのです。それが花嫁である私たちクリスチャンに求められている務めでもあります。

エペソ5章1~2節を開いてください。ここには「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。」とあります。「ですから」というのは、私たちは、以前は闇でしたが、ということです。でも今は、主にあって光となりました。「ですから」です。もっと言うならば、私たちは、以前はキリストから遠く離れ、約束の契約については他国人で、この世にあっては望みもなく、神もない者たちでしたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされたのですから、ということです。ですから、私たちは、愛されている者らしく、神に倣う者でなければなりません。また、愛のうちに歩まなければなりません。なぜなら、キリストが私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとして、芳ばしい香りを献げてくださったからです。ほら、ここに、キリストご自身が、神への芳ばしい香りであり、その香りを献げてくださったとありますね。ですから、私たちも芳ばしい香りとして、自分を神にささげなければならないのです。

同じことが、Ⅱコリント2章15~16節にも書かれてあります。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。」
 私たちは、神に献げられた芳ばしいキリストの香りです。それは滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りですが、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。キリストの花嫁である私たちには、このような務めがゆだねられているのです。すごいですね。それは一人の人の運命を、永遠に変えてしまう香りです。人の一生を変えてしまうのです。そのような務めが与えられているのです。私たちはとてもこのような務めにふさわしい者ではありませんが、でも、神はこんな私でも、あなたでも用いてくださるのです。

あの星野富弘さんがこういう詩を作っていらっしゃいます。

風はみえない

だけど 木に吹けば緑の風になり

花に吹けば花の風になる

今 私を すぎていった風は

どんな風になるのだろう

(星野富弘「詩画集 風の詩―かけがえのない毎日」から)

風はみえませんが、いろいろな色があります。緑の木々に吹くと、何だか緑の色に見えるし、花に吹けば、ピンクの色に見えます。では、あなたに吹いた風はどんな色でしょうか。美しい色ですか、そしていい香りですか。もしそれがイエス様の香りがするなら、なんと幸いでしょうか。荒野から上って来る花嫁は、没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように上ってきます。それが私たちクリスチャンの香りです。私たちにはそのような生き方が求めてられているのです。それがキリストの香なのです。

Ⅱ.夜襲に備える勇士(7-8)

次に、7~8節をご覧ください。「見よ、あれはソロモンの乗る輿。周りには、イスラエルの勇士の六十人衆がいる。彼らはみな剣を帯びた練達の戦士。それぞれ腰に剣を帯びて夜襲に備える。」

これは、群衆の中にいた別の人が語っていることばです。花婿は花嫁が婚礼のパレードをしているときに、その人が「見よ、あれはソロモンの乗る輿」と言いました。「輿」とは、日本のお祭りのときに見るお神輿(みこし)を想像する人もいるかもしれませんが、これは移動式ベッドのことです。当時は長椅子としても使われていました。その移動式ベッドに乗っていたのです。まさにシンデレラですね。かぼちゃの馬車ではありませんが、王が乗る最高の乗り物に乗っていたのです。

それは私たちも同じです。私たちも王である花婿の輿に乗るようになります。なぜなら、私たちはキリストの花嫁とされたからです。花嫁であれば、花婿のものを受けるのは当然です。ローマ8章17節には、「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」(ローマ8:17)とあります。私たちは、神の子とされたわけですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。キリストが持っているすべてのものを共に持つ者とされました。だってキリストの花嫁なんですから。お嫁さんの立場ってすごいですね。花婿との共同相続人となるのです。玉の輿に乗るとはこのことです。特に私たちの花婿は天地万物を造られた方です。私たちはそのような方と夫婦になり、その方の持っているものを全部所有するようになるのですから。これが私たちに与えられている立場です。

7節の後半見てください。このソロモンの乗る輿の周りには、イスラエルの勇士60人衆がいます。これはこの輿を護衛する人たちです。強力なエス・ピー、ボディー・ガードです。彼らがガードしてくれるのです。なぜですか?8節には「夜襲に備える」とあります。「夜襲」とは、下の欄外注にあるように「夜の恐怖」のことです。夜になると様々な恐怖が襲ってきます。突然、脇からナイフを持った強盗が襲ってくるかもしれません。あるいき野獣が襲ってくるかもしれません。でも何が襲ってきても大丈夫です。なぜなら60人の勇士がいて守ってくれるからです。彼らはみな剣を帯びた練達の戦士たちです。最強のボディー・ガードなのです。

このようなボディー・ガードが私たちにも与えられています。それは天使たちです。へブル1章14節にはこうあります。「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。」「救いを受け継ぐことになる人々」とは誰のことでしょうか。そうです、私たちクリスチャンのことです。神はこの御使いを遣わし、救いを受け次ぐことになる私たちクリスチャンに仕え、すべてのわざわいから守っておられるのです。

詩篇34篇7節には、「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される。」とあります。「主を恐れる者」とは、クリスチャンのことです。主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出されるのです。すばらしいですね。

かつてイスラエルがアラムと戦っていたとき、アラムの戦略がすべてイスラエルの王にツーツーだったことがありました。それでアラムの王がその原因を突き止めると、それはイスラエルの預言者エリシャが、王室の中で語られていることばまでもイスラエルの王に告げているからだということがわかりました。それでエリシャを捕まえるために人をドタンというところに遣わしました。エリシャの召使いが外に出てみると、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していました。若者は焦ってエリシャに「ご主人様。どうしたらよいでしょう」と言うと、エリシャはこのように言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(Ⅱ列王記6:16)

そして、エリシャは主に祈って言いました。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」(Ⅱ列王記6:17)

するとどうでしょう。主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。結局、主が敵の目をくらませたので、敵は何もすることができませんでした。そして、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入することはなかったのです。

皆さん、私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのです。私たちには神の御霊、聖霊がともにおられるのでそれだけでも十分安心ですが、さらに幾千、幾万という天使たちが私たちの周りに陣を張り、助けてくださるのです。それは本当に心強いことです。あなたは今、何に脅えていますか。何を心配していますか。あなたの周りには、イスラエルの勇士の60人衆がいて、あなたをしっかりと守ってくださるということを信じていただきたいと思います。

ところで、クリスチャンにはこのような強力な護衛がいるのだから、一切危険な目に遭うことはないのかというと、そうではありません。クリスチャンでも交通事故に遭ったり、危険な目に遭ったりすることがあります。勿論、そのようなときでも主の使いが守ってくださいますが、それは一切の危険から守られるということではないのです。ここには「夜襲に備える」とあります。「夜の恐怖」から守ってくれるのです。夜の恐怖とは何でしょうか。それは、暗闇の世界の支配者たちのことです。天にいるもろもろの悪霊のことです。そのような敵から守ってくれるのです。

エペソ6章12節をご覧ください。ここには、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあります。皆さん、私たちの格闘は、目に見える血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。このような悪霊に襲われることはありません。たとえ襲われたとしても、御使いが守ってくれるので大丈夫です。もちろん、私たちも神の武具を身につけて戦いますが、私たちの戦いは一人で戦うものではありません。イスラエルの勇士60人衆が共に戦ってくれるのです。何よりも神ご自身がともにいて、戦ってくださいます。私たちとともにおられる方は、この世にいるあの者よりも強いのです(Ⅰヨハネ4:4)。だから、恐れることはありません。

サタンは日夜、クリスチャンであるあなたを訴えるでしょう。「また罪を犯した」「それでもクリスチャンか」「あなたがクリスチャンだとは思えない」そういってクリスチャンであるあなたを非難して攻撃してきます。でも恐れてはなりません。あなたには主の勇士60人衆がいて、守ってくれるのだから。あなたは決して一人ではありません。一人で戦うのではないのです。主の使いがあなたとともにいて、戦ってくださいます。そのことを忘れないでください。

Ⅲ.ご自分の婚礼の日、心の喜びの日に(9-11)

最後に、9~11節をご覧ください。9節と10節には「ソロモン王は、レバノンの木で自分のために駕籠を作った。その支柱は銀、背は金、座席は紫布で作り、内側には、エルサレムの娘たちの愛の切りばめ細工が施されている。」とあります。

ソロモン王は、レバノンの木で、自分のために駕籠を作りました。これは7節の輿、移動式ベッドのことではありません。新共同訳では「天蓋」と訳していますが、これは奥の間(寝室)に用意されている新郎新婦のためのベッドです。1章17節に「私たちの寝床も青々としています」とありますが、その寝床のことです。ソロモンは、花嫁のために豪華なベッドを用意したのです。それはレバノンの木でできた豪華なものでした。レバノンの木といったら、当時は最高の建材でした。支柱は銀、背は金です。座席は紫布でできていました。その内側には、エルサレムの娘たちが施した愛の切りばめ細工が施されていました。花婿であるソロモンが愛情を込めて作ったのです。どうしてでしょうか。それは、花婿にとって最高の喜びの日だからです。

11節をご覧ください。「シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。王は、ご自分の婚礼の日、心の喜びの日に、母がかぶらせた冠をかぶっている。」

「シオンの娘たち」とは「エルサレムの娘たち」のことです。ここではエルサレムの娘たちに呼びかけられています。ソロモン王を見に出かけなさいと。なぜ?王は、ご自分の婚礼の日、心の喜びの日に、母がかぶらせた冠をかぶっているからです。この「冠」とは王冠のことではありません。結婚式のときに花婿にかぶせられた冠のことで、植物の枝で編んだ花の冠でした。もうすぐオリンピックですが、マラソンの勝者には月桂樹の冠がかぶせられますが、それに似ています。それは喜びを表していました。喜びのしるしとしての冠です。それは花婿にとって最高の喜びの日なのです。

イタリヤのシチリヤでの結婚式の様子がテレビで紹介されていましたが、今でも中世のやり方が受け継がれています。新郎新婦が音楽隊の音楽に合わせて、村中を歩き回ります。花婿が花嫁を家まで迎えに行き、それから村中を歩き回り、結婚式場に入って行きます。村中に、喜びが溢れます。愛する新郎新婦が一緒にいる時、そこには喜びがあります。それは最高の喜びの日です。この花婿との婚礼にあなたも招かれているのです。

黙示録19章6~7節には、「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。」とあります。結婚式の準備には時間がかかります。しかし、王であるキリストとの結婚式は普通の結婚式ではなく、極めて特別な結婚式です。準備に約2,000年の歳月が費やされましたが、花婿が花嫁と結び合わされる時は急速に近づいています。Ⅰテサロニケ4章16~17節にあるように、主ご自身が天から下って来られ、私たちを一挙に引き上げてくださいます。そして天の御国で主と結ばれ、一つになる時がやって来るのです。そのためにしっかりと備えなければなりません。

キリストは幾世紀にもわたり、この天での結婚式のために花嫁なる教会を整えてこられました。使徒パウロによると、キリストが教会のためにご自身を献げられたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためである、とあります。そして、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自身の前に立たせるためでした(エペソ5:25-27)。

パウロはコリントのクリスチャンに、こう述べています。「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。」(Ⅱコリント11:2)

当時のユダヤ人の結婚式では、花嫁の友人という人がいました。普通は二人選ばれました。彼らの役割は何かというと、結婚式の日まで、花嫁の純潔を守ることでした。つまり、きれいな体のままで、花嫁を花婿のところに連れて行くことだったのです。パウロはここで、自分はそういう働きを任せられた者であると言っているのです。

キリストの教会、私たちクリスチャンはイエス・キリストの花嫁です。その花嫁に求められていることは、キリストがもう一度、この世界に戻って来られるとき、すなわち、再臨される時に、本当に傷のない、純粋な教会をキリストの花嫁として整えることです。私たちもイエス・キリストの花嫁として、愛する花婿に、自分が持っている最も良いものを捧げたいと思います。

あなたはどうでしょうか。そのために備えておられますか。この喜びの日に、あなたも招かれています。いや、驚くべきことに、この婚宴の席で、花嫁として立つようにと招かれているのです。感謝すべきことに、招待状は、すでにあなたの手に渡されています。ですから、どうか神の招きにふさわしく歩むことが出来ますように。私たちはきっとこれからも、何度も何度も罪を犯すことでしょう。何度も何度も神に背を向けてしまうかもしれません。でも、イエスさまはあなたのために祈っておられます。そのことを忘れないでください。そのことに気づくたびに、花婿なるイエスさまを見つめることが出来ますように。そしてその度に、神の招きに相応しく歩もうと思い直し、悔い改めて、将来招かれる子羊の婚宴を、喜びをもって見つめながら、歩んでいくことが出来ますように。

雅歌3章1~5節「捜し求める花嫁」

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 きょうは、雅歌3章1節から5節までの箇所から、「捜し求める花嫁」というタイトルでお話したいと思います。ここは先週に続いて婚約時代を思い起こして歌っています。羊飼いである花婿は花嫁の家を訪ね、壁の向こうでじっと立ち、格子越しに窓から中を見ました。そして、「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」と優しく語りかけましたが、花嫁は出てくることができませんでした。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と告白しつつも、立って、出て行くことができなかったのです。すると彼女は、花婿が取り去られる夢を見ます。それが今日の箇所です。

Ⅰ.見つからない花婿(1)

1節をご覧ください。「私は夜、床についていても、私のたましいの恋い慕う方を捜していました。私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。」

羊飼いである花婿が仕事に出かけると、花嫁は夢を見ました。それは花嫁が花婿を捜す夢です。彼女は夜、とこについても、たましいの恋い慕う方、これは花婿のことですが、彼を探していました。でも、捜しても探しても、花婿を見付けることができませんでした。この「夜」ということばですが、これは複数形になっています。ですから、「夜毎に」とか、「毎晩」ということです。一晩だけのことではありません。夜毎に必死になって花婿を捜しましたが、見つからなかったということです。ここには「捜す」という言葉が繰り返して使われています。2節も含めると、実に4回も使われています。このように繰り返して使われているということは、そのことが強調されているということです。ここに、必死になって捜している花嫁の姿がよく表れているのではないかと思います。それでも見つかりませんでした。なぜでしょうか。

前回のところを思い出してください。花婿は彼女のところにやって来て、「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで」(2:10)と呼び掛けました。冬が過ぎ去り、春(夏)がやって来ました。新しい季節がやって来たのですから、さあ立って、出ておいで、と呼び掛けられたのに、出て行くことができませんでした。そのタイミングを逃してしまったのです。それで、花婿を見失ってしまいました。もしその招きに応じていたら、彼女は花婿との親密な交わりを待つことができたのに、そうしなかったのです。2章15節の言葉を借りるなら、狐を捕らえませんでした。「狐」とは、花婿との親密な交わりを妨害するものです。それは何と彼女の内側にありました。彼女は花婿を自分の思いのままに支配しようとしました。そよかぜが吹き始め、影が逃げ去るまでに何とか戻って来てください、すなわち、夕暮れになるまで戻って来てよと、自分の意のままにしたいと思ったのです。花婿にすべてをゆだねることができませんでした。その結果、花婿を見失ってしまったのです。そして今、その花婿がどこにいるのかわからないのです。どこを捜してもいません。

私たちも同様の体験をしたことがあるのではないでしょうか。花婿なる主の招きに応えることができず、主を見失ってしまったということが。どこへ行ってしまったのかわかりません。主の臨在が全く感じられなくなってしまったということがあります。もしかすると、今そういう体験をしている方がおられるかもしれません。それはあなたがこの花嫁と同じように、主の招きに応答しないからです。「また後で」とか、「今度時間がある時に」と言って、その招きを蹴ってしまうのです。そして、再びベッドにゴロンとなるのです。その結果、どこかへ行ってしまったと思い、捜しても、捜しても見つからないのです。

ちなみに、「教会」はギリシャ語で「エクレシア」と言いますが、意味は「召しだされた者たちの群れ」です。主は私たちを召し出してくださいました。そして今も主との会見に召し出しておられます。そういう機会がたくさんあります。こうして毎週日曜日に集まって礼拝をささげる時もそうですし、今週の水曜日には祈祷会もあります。その他、小グループでのバイブルスタディーやC-BTEなど、様々な聖書の学びの機会が提供されています。このような絶好の機会をいとも簡単に逃していることがあります。たとえ教会に来ることができなくても、家で聖書を開き祈ることもできます。

それなのに、この花嫁のように、いろいろな理由をつけてはそれを拒んでしまうのです。今は忙しいからまた後でとか、きょうは疲れているので明日にしてください。今月はいろいろなスケジュールが入っているので無理ですと、ついつい後回しにしては、その機会を逃してしまうのです。その結果、この花嫁のように、主がどこかへ行ってしまったかのような距離感を感じ、その溝をなかなか埋められないでいるのです。あなたはどうでしょうか。そのような機会逃してはいないでしょうか。主と親しい交わりを持つために、いつも主の招きに応答したいものです。

Ⅱ.捜し求める花嫁 (2-3)

次に、2~3節をご覧ください。「「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私のたましいの恋い慕う方を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私のたましいの恋い慕う方を、お見かけになりませんでしたか。」」

花嫁は目を覚まし花婿を捜しに出かけます。私たちの主は、時にご自身を隠されるようなことをなさいます。あえてかくれんぼをするようなことをされるのです。それは主が意地悪だからではありません。あなたにご自身を現わしたくないからでもないのです。それは、私たちを子として扱っておられるからです。

「かわいい子には旅をさせよ」ということわざがありますが、神様は子供が成長するために、あえて訓練されることがあります。へブル12章5~6節にはこうあります。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

父親が訓練しない子はいません。もしそのような子がいるとしたら、それは私生児であって、本当の子ではないのです。だから、訓練と思って耐え忍ぶように。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。

私たちは主との関係を当たり前のものだと思い、もはやそれを有難いこととして、あるいは感謝なことであると受け止めることができなくなっています。それで、ついついあぐらをかいてしまうことがあるのです。別に主を求めなくてもどうせ主はそばにいてくれるから大丈夫だと、求めることをしないのです。イエス様を信じて天国に行けるようになったんだから、あとは別にどうでもいいと思っているのです。それで主は、そういう人からご自身を隠されることがあるのです。主との関係がどれほど大切なものであり、どれほど恵み深いものであるのかを教えるために、あえてご自身を隠されることがあるのです。決して私たちを困惑させたり、失望させるためではありません。

確かに私たちはイエス様を信じて救われました。死んだら天国に行くことができます。いや、今この世にありながら、さながら天国を味わうことができます。私の罪のすべてが赦されて、神が共にいてくださると約束してくださいました。それが天国です。天国とは、神がともにおられるところです。それは最高の祝福です。しかし、そのように救いに導いてくださった主を求め、主との交わりを持たなかったら、私たちの信仰はどんどん弱くなってしまいます。肉体の筋肉も使わないでいるとだんだん弱くなっていくように、霊の筋肉も使わないとだんだん弱くなっていくのです。主はそのことを知っておられるので、私たちを強くするためにあえてこのようなことをなさるのです。

詩篇13篇1~2節をお開きください。これはダビデの賛美ですが、この歌の中でダビデはこのように歌っています。「主よ、いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い悩まなければならないのでしょう。私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上におごり高ぶるのですか。」

ダビデは絶望的な心と苦しみの中で、いつまで神様は自分から御顔を隠されるのですかと言っています。それは苦しいことです。彼は自分のたましいのうちで思い悩み、心には、一日中悲しみがあると言っています。しかし、そのような苦しみの中で彼は、「主よ」と呼び求めるのです。

すべてのクリスチャンは主と関係を持っています。しかし、すべてのクリスチャンが主と交わりをもっているかというと、そうではありません。イエス様を信じて主との関係を持っていても、主と交わりをもっているわけではないのです。主と関係を持つということと、主と交わりを持つということは別のことです。ここで主が私たちに求めておられることは、イエス様を信じて救われた私たちがイエス様との関係においてただそれにあぐらをかいているのではなく、神様との関係を与えてくださった主に感謝し、主との交わりを切に追い求めることです。

たとえば、結婚している男女は夫婦の関係を持っていますが、それは必ずしも夫婦としての交わりをもっているということではありません。夫婦の関係であっても全く会話がないとか、コミュニケーションがないということもあります。確かに戸籍上は夫婦かもしれませんが、そこに夫婦としての関係というか実態がなければ、それは夫婦とは言えないのです。。それは仮面をかぶった夫婦、仮面夫婦です。

神様との関係も同じです。神様を信じたことで神様と関係を持つことができました。聖書ではそれを永遠のいのちと言っています。イエス・キリストにある永遠のいのちです。それは消えて無くなるものではありません。救いが失われることは決してありません。しかし、神様と関係を持っていても、神様と親しい交わりをもっているかというとそうでもありません。折角イエス様を信じて、神様との平和を持つことができたのに、その神様と交わりをもっていないことがあるのです。主との交わりを疎かにしないでほしいと思います。そして、私たちが主を求め主と深い交わりを持つために、主はあえてご自身を隠されることがあることを覚えてほしいと思います。

花嫁は2節で、「私のたましいの恋い慕う方を捜して来よう。」と言っています。この「私のたましいの恋い慕う方」という表現が、ここに何回も繰り返して出てきます。4節までに、実に4回も使われています。これは1章7節に出てきた時に説明しましたが、たましいから恋い慕う方という意味です。たましいとは、私たちの一番深いところにあるものです。そ単に心から愛するというのではなく、たましいの極みから愛するということです。最高の愛の表現です。皆さんもどなたかにご自分の愛を表現をなさる時にいうといいですよ。「私のたましいの恋慕う方よ」と。相手はびっくりして逃げていくかもしれませんが。

彼女は今わかったのです。花婿がどんなに麗しい方であるのかを。それは、彼女のたましいの恋い慕う方であるということです。花嫁は、羊飼いなる花婿がそのような存在なのだということに気付いたのです。失って初めて気づく世界があります。今までは何とも思わなかったのに、失ってみてそれがどんなに有難いものだったのか、どんなに感謝なことだったのかがわかることがあるのです。彼女は花婿から離れてみてはじめて、そのすばらしさ、麗しさに気付かされたのです。

3節をご覧ください。ここには、「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。」とあります。「夜回り」とは「町の見張り人」のこと、「警護する人」のことです。花嫁はこの夜回りを見つけたとき、「私のたましいの恋い慕う方を、お見掛けになりませんでしたか。」と尋ねています。しかし、夜回りも花婿を見つけることができませんでした。時に私たちは主を見失うと、教会の牧師やリーダーたちに相談すれば見つけることができるのではないかと思いますが、そうではありません。夜回りも彼女のために花婿を見つけることはできませんでした。ではどうすればいいのでしょうか。自分自身で見つけるしかないのです。だれかに見つけてもらうのではなく、自分自身で見つけなければなりません。あなた自身が見つけなければならないということです。

エレミヤ書29章13節を開いてください。ここには「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」とあります。

もしあなたが心を尽くして主を捜し求めるなら、見つけることができます。ここには「心を尽くしてわたしを求めるなら」とあります。英語では「with all your heart」となっています。「あなたのすべての心で」という意味です。半分の心ではありません。すべての心です。すべての心で主を求めるなら、あなたは主を見つけるのです。

ヨハネの福音書20章には、復活の朝、主のお身体に香油を塗ろうと墓に出かけて行ったマグダラのマリアのことが書かれています。彼女は墓に着いてみると、そこに置かれてあった大きな石が取り除かれているのを見て、困惑します。だれかが墓から主を取って行ったと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとはヨハネに告げました。そして彼女は墓の外でたたずんで泣いていたのです。すると「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」という声がしました。彼女はそれが園の管理人だと思って、「もしあなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」と言いました。すごいですね。「私が引き取ります」というのですから。この時彼女はもう50~60歳くらいになっていたかと思いますが、その彼女が50~60キロはあったでしょうイエス様のお身体を引き取るというのです。彼女はそれほど主を求めていました。心を尽くして主を求めていたのです。

すると、イエスは彼女に言われました。「マリア」。彼女はすぐにそれがイエスだとわかり、振り向いて、「ラボニ」、すなわち「先生」と言いました。するとイエスは彼女に言われました。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(ヨハネ20:17)

ここから彼女がイエス様にすがりつこうとしていたことがわかります。それほど主を愛していました。それほど主を求めていたのです。彼女は心を尽くして主を求めました。だから、主を見つけることができたのです。

あなたはどうでしょうか。マグダラのマリアのように主を愛していますか。心を尽くして主を求めているでしょうか。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

なたがたが主を求めるなら、与えられます。捜すなら、見出します。たたくなら、開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見出し、たたく者は開かれます。心を尽くして主を求めましょう。そうすれば、あなたも主を見つけることができるのです。

Ⅲ.しっかり捕まえて放さず(4-5)

その結果、どうなったでしょうか。最後に4~5節を見たいと思います。4節には「私は彼らのところを通り過ぎると間もなく、私のたましいの恋い慕う方を見つけました。私はこの方をしっかり捕まえて放さず、ついには私の母の家に、私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。」とあります。

花嫁は、ついに花婿を見つけました。すると彼女はどうしたでしょうか。彼女はこの方をしっかり捕まえて放さず、とあります。捕まえて放しませんでした。これまではどうでもいいと思っていたのに、失ってみてはじめてそのすばらしさ、有難さに気付いた彼女は、この方をしっかりと捕まえて放しませんでした。今まで失われていた主との関係を取り戻していくかのようです。

そればかりではありません。ここには「ついには私の母の家に、私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。」とあります。母の家とは彼女の実家のことです。そこにお連れしたのです。何のためでしょうか。ここに「私を身ごもった人の奥の間に」とありますが、これは親しい交わりを持つことを意味しています。これまではそんなに意識していませんでした。この方との交わりがそんなにすばらしいものであるのかということを。しかし、花婿がいなくなってみて、その存在の大きさに気付かされ、彼女が安心できる実家の奥の間にお連れし、そこで二人きりの親しい交わり、深い交わりの時を持ったのです。

神様を求めるのに特別な場所はいりません。そのためにわざわざ時間をかける必要もないのです。主を見つけたらしっかりと捕まえて、放さないようにしなければなりません。そして、だれにも邪魔されないように二人きりの場所で、二人きりの時間を持つことが大切です。

この「母の家」の「母」ということばは、へブル語で「エーム」と言いますが、これは「分岐点」「出発点」をも意味する言葉です。つまり、「母」は花婿と花嫁が出会った出発点、「初めの愛」を意味しています。初めの愛に立ち返らなければなりません。

黙示録2章には、主が書き送ったアジアにある七つの教会のうち、エペソの教会にこのように言われました。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」(黙示録2:3-5)

あなたが初めの愛に立ち返り、その愛にとどまるなら、あなたは主のすばらしさを見出し、主との関係がさらなる次元に引き上げられていくことになるでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは主を見つけましたか。もし主を見つけたのなら放さないでください。しっかりと捕まえてください。そして、二人だけの場所で、二人だけの時間を過ごしていただきたいと思います。

最後に5節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

同じフレーズが2章7節にもありましたね、そこでは愛を擬人化して、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。ここまでが恋愛の時代の思い出です。次の節から新しい場面に入ります。その区切りのフレーズがこれです。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」愛は外側からの刺激によってではなく、内側から自然に目覚めるものだからです。

ここでも同じです。神との関係は、外側からの働きかけによって改善できるものではありません。その人の内側から、そうしたいと思う気持ちが起こらない限り無理なのです。すなわち、愛がそうしたいと思うときまで待たなければなりません。それまでは揺り動かしたり、かき立てたりしてはならないのです。主から離れている人を見ると、確かに心が痛みます。残念だなぁ、悲しいなぁ、同じ主にある兄弟姉妹なのにどうして離れて行ってしまったんだろう。そしてその人のために祈り、自分に出来ることがあれば少しでも役に立ちたいと思います。必要であればその人の悩みを聞いてあげたり、励ましたりすることも大切です。しかし、そこから踏み込む必要はありません。そっとしてあげればいいのです。愛がそうしたいと思う時までは。なぜ離れてしまったんですか、なぜ主の招きに応答しないんですかと、かき立てる必要はないのです。愛がそうしたいと思う時まで待たなければなりません。そして、このことについては祈り、すべてを主にゆだねなければならないのです。それは主がなさることだからです。私たちがすることではありません。私たちがあれこれと思い煩い、分析し、解決できることではないのです。主はご自身のタイミングで、ご自身のやり方で解決してくださいます。まさに「神がなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3:11)です。あなたはそのことで騒ぎ立てたり、揺り起こしたりしなくてもいいのです。

これは主から離れて行った人たちのことだけでなく、私たちの生活に起こるすべてにおいて言えることではないでしょうか。私たちは日々いろいろなことで思い悩みますが、そのことで心を騒がせたり、思い煩ったりする必要はないのです。それをすべて主にゆだねなければなりません。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:7)

神にゆだねましょう。神があなたがたのことを心配してくださいます。愛がそうしたいと思うときまでは待たなければなりません。神がその人の心に働いてくださり、その人を動かしてくださいますから。私たちは揺り起こしたり、かき立てたりしないで、主がなさる最善を祈りながら、待ち望みたいと思います。

雅歌2章8~17節「さあ立って、出て行こう」

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 雅歌からの五回目のメッセージとなります。きょうは2章8節のところから、「さあ立って、出て行こう」というタイトルでお話したいと思います。

2章8節から新しい場面に入ります。ソロモンはこれまで結婚式当日のことを思い出して歌いましたが、ここから婚約の時代を思い起こして歌っています。これが3章5節まで続きます。ここで羊飼いである花婿は、花嫁に「さあ立って、出ておいで」と優しく語りかけています。私たちは花婿なる主の御声に応答して立ち上がり、出て行く者でありたいと思います。

Ⅰ.新しい季節がやって来た(8-13)

まず、8節から13節までをご覧ください。8~9節をお読みします。「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて。私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」

ここは故郷にある花嫁の家です。そこに後に花婿となる王が、迎えに来ているのです。結婚を前提に交際するために。

「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。」

春が来るのを待ちわびていた彼女は、彼が来るのを心待ちにしていました。今か、今かと待ちわびている彼女の思いが伝わってきます。そして彼の声が聞こえたとき、「ほら、あの方が来られる。」と胸をときめかしているのです。

彼はどのようにしてやってくるのでしょうか。ここには、「山を跳び越え、丘の上を跳ねて。」とあります。まるでかもしかや若い鹿のようにです。「かもしか」とは「ガセル」のことで、聖書では美しさの象徴として用いられています。また「若い鹿」とは、軽快に跳びはねる様を表しています。花婿なるフィアンセは、かもしかや若い鹿のように山を飛び跳ね、丘の上を跳ねてやって来るのです。

「ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」牢屋の外から格子越しに囚人を見ているというのではありません。久々の再会にフィアンセはすぐにドアをノックするのをためらい、彼女が何をしているのかを外から窓越しに眺めているのです。

そして、このように呼びかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」(10)この「私の愛する方」とは、花婿なるキリストのことです。もちろん花嫁とは教会のことです。花婿なるキリストは、私たちを「わが愛する者、私の美しいひとよ。」と呼んでくださいます。私たちはそのような者ではありません。自分勝手な者で、罪に罪を重ねるような者ですが、主そんな私たちをそのように言ってくださるのです。感謝ですね。そしてこう言われます。「さあ立って、出ておいで」

その理由の一つが、11節から13節までに述べられます。「ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」

それは冬が去り、雨も過ぎて行ったからです。つまり、新しい季節が訪れたからです。イスラエルでは、私たち日本人が言う四季のうち「春」とか「秋」という季節を表す言葉がありません。夏と冬だけです。先日フィリピンの姉妹とお話していたら、フィリピンでは夏だけだそうです。一年中夏。日本は春、夏、秋、冬があってとてもきれいだとおっしゃっていました。イスラエルも春と秋がなく、夏と冬だけです。夏は4月から10月頃まで続く長い「乾季」の期間で、冬は11月頃から3月頃までの「雨季」の期間です。11節に「雨も過ぎて行ったから」の「雨」とは、12~2月頃にかけて降る激しい雨のことで、「後の雨」と呼ばれているものです。

イスラエルでは雨のシーズンでも、日本で言うところの秋のはじめに降る「先の雨」と冬の終わりに降る「後の雨」があります。申命記11章14節には「わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。」とあります。この「初めの雨」とは「先の雨」のことで、この雨は乾季で岩のように硬くなった地を柔らかくしてくれる働きがあります。そのように柔らかくなった地を耕して種を蒔くのです。

一方、「後の雨」とは12~2月にかけて間欠的に激しく降る雨のことです。やがて春(夏)の収穫時期が近づくと、穀物を十分に実らせるために激しく降るのです。この「先の雨」と「後の雨」が降らなければ、種まきも刈り入れもできません。それは冬の季節の終わりと夏の季節の始まりを意味していました。

その激しい雨の季節が過ぎて行き、地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来たのだから、山鳩の声が国中に聞こえるようになったのだから、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放つようになったのだから、さあ立って、出ておいで、というのです。

この「花」は複数形になっています。「花々」ですね。冬が過ぎ春がやって来ると、地には花が咲き乱れます。アネモネ、アドリス、ヒナゲシ、チューリップといった真っ赤な花や、蘭やシクラメン、野生のアイリス、クロッカス、キルナスといった青やピンクの花など、色とりどりです。先日、那須フラワーワールドに行きましたが、そこにも花が咲き乱れていました。ハナビシソウ、ルピナス、ネモフィラ、ヒナゲシ、ハルジオンなどです。那須の山々をバックにした景色は最高でしたね。イスラエルでは三千種類もの植物が生息していますから、それ以上です。それらの花が一気に咲き乱れるわけです。

「刈り入れの季節」とは、欄外の説明にもあるように「歌」と訳される言葉で、第三版では「歌の季節がやって来た」と訳しています。前後の文脈を見ると、そのように訳した方が適当かと思います。山鳩の声が国中に響き渡るのです。皆さんは「山鳩」の声を聴いたことがありますか。ネットで検索して聴いてみたら、「トルットゥルール、トルットゥルール」と同じリズムで鳴いていました。それはまさに歌を歌っているようです。真冬の寒く冷たい雨が降っているような時には聞くことができませんが、冬が過ぎて春が来ると、こうした山鳩やキジ鳩が一斉に歌い始めるのです。

冬の大雨の季節が過ぎ去り、春の収穫の季節がやってきたのだから、「さあ立って、出ておいで」というのです。おそらく、花嫁は家の中に座っていたか、ベッドに横たわっていたのでしょう。なかなかやって来ないフィアンセにやきもきしていたのかもしれません。しかし冬が過ぎて春(夏)がやってきたのだから、これまでの自分の殻を脱ぎ捨て、新しいステージに出て行かなければなりません。そうです、これは実を結ばない季節の終わりと、花婿との新しい季節の始まりに対する招きなのです。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来たのだから、さあ立って、出ておいでと。

私たちの人生にも新たな始まりの季節があります。心機一転、過去を振り払い、新しい恵みのステージに一歩踏み出す時があるのです。でもそのためにはだれでも冬を通らなければなりません。それは激しい雨が降る厳しいシーズンかもしれません。しかし、私たちの人生にもそうした雨季が必要なのです。神様は私たちが実を結ぶために、そうしたシーズンを通されるのです。アブラハムやモーセ、ダビデもそうでした。荒野を通るシーズンがありました。その中で養われ整えられていったのです。私たちも同じです。実を結ばないシーズンがあります。それはそれでいいのです。そのシーズンを通って実を結ぶ季節へと変えられていくのですから。無理に結ぼうとしないでください。見せかけは必要ありません。荒野のカチカチと乾いた地面の中で、ふさわしい時が来るまでじっと待てばいいのです。その中で神様が後の雨を与え、地を潤してくださいます。それが過ぎ去ったら、一気に花が咲き乱れます。どんなにずさんな状態でも構いません。ほんの小さな信頼でもいいですから神様を信じて立ち上がればいいのです。そこからすべてが始まります。うめくときもあります。しかし、その中で自我が砕かれていきます。痛みも経験することがあるでしょう。でもそこから、私たちは希望を見い出すことができます。あなたが神の愛に目覚めるとき季節が変わるのです。この時から新しい季節が始まるのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

冬は過ぎ去り、雨も過ぎて行きました。あなたにも新しい季節が到来しています。地には花が咲き乱れ、山鳩の歌が国中に聞こえ、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放っているのですから、私たちは愛する主の御声に応答して、立ち上がって、出て行こうではありませんか。

Ⅱ.岩の裂け目にいる鳩(14)

花嫁が立って、出てく理由が、もう一つあります。14節をご覧ください。「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい。」」

また出ました!「私の鳩よ」。ここで花婿は花嫁を「私の鳩よ」と呼んでいます。鳩は、美しさと清らかさの象徴でした。1章15節にも出てきましたね。「あなたの目は鳩。」このような表現は5章2節、12節、6章9節にも出てきます。「嫌だ!鳩だなんて」という方もいらっしゃるかもしれませんが、これは最高の誉め言葉です。それほどあなたは美しく、清らかであるということですから。それは聖霊のシンボルとしても使われていることからもわかります。

なぜそんなに美しいのでしょうか。なぜなら、彼女は岩の裂け目、崖の隠れ場にいるからです。ですから、岩なる主がかくまってくださるのです。ですからここに、「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる鳩よ。」と呼び掛けられているのです。出エジプト記33章20~23節をお開きください。「また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

これはモーセが主の栄光を私に見せてくださいと祈ったときに、主が仰せられたことです。信仰者であればだれも願うことではないでしょうか。主の御顔を拝したいと。しかし主は「できない」と言われました。人は主の顔を見て、なお生きていることはできないからです。

しかしそんな彼に主は、うしろ姿を見せてくださると言われました。どのようにしてかというと、主が通り過ぎるとき、彼を岩の裂け目に入れてくださることによってです。主が通り過ぎるまで、主の手でおおってくださるので見ることはできませんが、主が手をのけると、うしろ姿を見ることができるというのです。私たちはこの目で主を見ることはできません。神と交わることも、神とともに歩むこともできません。神はあまりにも聖いお方だからです。でもその神を見ることができ、神と交わり、神とともに歩む方法があります。それは、モーセのように岩の裂け目に入れていただくことです。その岩とはだれのことでしょうか。

その岩とはイエス・キリストのことです。Ⅰコリント10章4節には「その岩とはキリストです。」とあります。そうです、この岩とはイエス・キリストのことなのです。あなたが岩なるキリストの裂け目に入れていただくなら、あなたは神を見ることができるのです。神と交わり、神とともに生きることができます。

ここで「私の鳩よ」とありますね。「鳩」は美しさの象徴、清らかさの象徴だと申し上げました。ここでは花嫁がその鳩にたとえられています。どうして花嫁が鳩のように美しいのでしょうか。それは岩の裂け目にいるからです。岩なるイエス・キリストにかくまってもらっているからなのです。花嫁だけを見れば、そんなに美しくないかもしれません。なかなか花婿が迎えに来てくれない、いつになったら来てくれるのかと、モジモジして引きこもっていました。ベッドに横になってみたり、縦になってみたりして落ち着かなかったと思います。お世辞にも美しいとは言えなかったでしょう。でも彼女は岩なるお方の裂け目、崖の隠れ場にいたので、「私の鳩よ」と呼んでもらえたのです。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしいと、言っていただけたのです。

それは私たちも同じです。私たちが美しいのは、私たちが美しいからではありません。私たちがすばらしいのは、私たちがすばらしいからではないのです。私たちが美しいのは、私たちがどこにいるかで決まります。私たちが岩の裂け目にいるなら、崖の隠れ場にいるから美しいのです。すなわち、岩なるイエス・キリストの内にいるなら、あなたは美しく、麗しいのです。そして自信をもってこう言うことができます。「私は黒いけれども美しい」(1:5)と。なぜ?なぜなら、岩なるキリストがかくまってくださるからです。私たちの罪、咎、汚れの一切をきよめてくださるからです。自分自身を見たら、とてもそのようには言えません。穴があったら入りたいくらいです。

使徒パウロも自分の姿に打ちのめされてこう言いました。「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。」(ローマ7:18-21)

彼はここで、自分の内には善なるものは一つもないと言っています。善は住んでいないと告白せざるを得ませんでした。しかし、彼はそんな罪深い自分の姿を見たのではなく、その罪を覆ってくださるイエス・キリストのうちに、いのちの御霊の原理を見出しました。それがいのちの御霊の原理です。

「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:1-11)

重要なのは、あなたがどこにいるかということです。もしあなたが岩なるキリストのもとに身を避け、神の御霊があなたのうちに住んでおられるなら、この御霊によってあなたの死ぬべきからだも生かされるのです。「私は黒いけれども美しい」と告白することができます。クリスチャンになることのすばらしさがここにあります。クリスチャンになることのすばらしさは、イエス・キリストがあなたの内に住み、あなたがイエス・キリストの内にいるということです。それゆえ、あなたがどんなに汚れていても、どんなにパッとしなくても、「さあ立って、出ておいで」と言われる花婿のことばに応答して、出て行くことができるのです。

Ⅲ.狐を捕らえてください(15-17)

そのためにはどうしたら良いのでしょうか。15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「私たちのために、あなたがたは狐を捕らえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

これは10節から続く花婿のことばなのか、それとも、花婿のことばを受けての花嫁のことばなのかはっきりしていません。新改訳聖書2017では14節までが花婿のことばになっていますが、第三版では15節までが花婿のことばになっています。前後の文脈と意味を考えると、おそらくこれは10節からの花婿のことばではないかと思います。なぜなら、ここに「狐を捕らえてください」とあるからです。これはどういうことでしょうか。

「狐」はヘブル語で「シュアール」と言います。意味は「手のひら、一握り、少量の」です。つまり、「狐」は小さいものの象徴なのです。「かもしか」は美しさの象徴、「鳩」は美しさと清らかさの象徴でしたが、「狐」は小さいものの象徴です。その性格は、陰険でずる賢いことから、ずる賢いものの代名詞としても使われるようになりました。イエス様もヘロデのことを「あの狐」(ルカ13:32)と呼んでいます。狐のように小さくてずる賢いものが侵入して来て、ぶどう畑を荒らすのです。その狐を捕らえてくださいというのです。

当時、ぶどう畑は石垣に囲まれていました。それは外敵からぶどうの実を守るためです。しかし、狐は小さいのでその隙間から入り込み、中のぶどうをかじることがあったのです。その狐を捕らえてくださいというのです。なぜ?「私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

ぶどう畑は、二人だけの語り合いの場であり、触れ合いの場です。これまで離れ離れになっていましたが、今やっとその恋が実る時がやってきました。まさに今が花盛りです。ですから、二人だけの時を妨げるものは取り除いてください、というのです。では、二人の関係を妨げる狐とは何でしょうか。

16節と17節をご覧ください。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」どういうことでしょうか。

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と言っています。すばらしいですね。私たちが主に「あなたは私のもの、私はあなたのものです」と告白できるのは、それほど親密な関係であるということです。これが夫婦の関係です。使徒パウロは、夫婦になった男女の互いの体はもはや自分だけのものではないと言っています。コリント第一7章4節には、「妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」とあります。

このように互いが互いの中にいる状態は、小羊の妻である天のエルサレムで実現します。「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、」(黙示21:3)私たちは神と小羊と、霊において一体になるのです。

しかし、注意しなければならないことがあります。それは、自分の思いが強くなることです。花婿の働きを、自分の思いでコントロールし、制限してしまうことがあります。その後のところを見てください。16節の最後から17節にかけてのことばです。「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」

「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」ということから、花婿が羊飼いであることがわかります。この方は羊飼いである王なのです。ですから、ゆりの花の間で羊の群れを飼っているわけですが、その花婿に対して花嫁は、そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでには戻って来てくださいと言っています。日本的に言うなら、日が暮れるまでには帰って来てね、ということでしょうか。その頃までには帰って来て、愛を確かめたいというのです。ある注解者はこれを、「夫がしている仕事について、夫と離れている時でも、それを疑うことがない」と解説していますが、そうでしょうか。私はその逆だと思います。夫の仕事に入りすぎています。ちょっとでも離れると、落ち着かなくなっているのです。日が暮れるまでには帰って来てください。険しい山々の上のかもしかや若い鹿のように跳んで帰ってくるのよ、とせかしているように感じます。これでは仕事になりません。

15節のところで、花婿は花嫁に「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえてください」と言いましたが、その「狐」とは、このことではないかと思うのです。つまり、花婿を自分の思うままにしたいという利己的な思い、独占欲です。花婿と花嫁の麗しい関係を破壊する狐は外側にいるのではなく、自分内側にいるということです。そうした「狐」を捕らえなければなりません。花婿を信頼し自分のすべてをゆだねることこそ花嫁の務めであり、そうすることによって二人の関係はより親密で麗しいものとなるのです。それが本当の意味での、私はあの方のもの、あの方は私のものということなのではないでしょうか。

ヤコブ4章2~3節にこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」  

私たちは願っても自分のものにならないと、人殺しをするのです。でも本当の問題はどこにあるのでしょうか。それは願いに答えてくれない主にではなく、私たちの側です。私たちの主は、この天地を造られた方、創造主です。主はあなたを造られました。この方は完全な方であり、完全な計画を持っておられます。それなのに私たちは、自分の思い通りにならないと、人殺しをするのです。争ったり、戦ったりします。私たちが良かれと思ってしていることが必ずしも正しいとは限りません。意外と自分の思い込みにすぎないことがあります。大切なのは、私たちがどう思うかではなく、花婿なる主が何と言われるかです。

「あなたがたは狐を捕らえてください。」そうすることで、私たちの花盛りのぶどう畑が守られることになります。主イエスの麗しい関係が保たれます。私たちの狐を捕らえましょう。そして、花婿の招きに心から応答しようではありませんか。花婿はあなたを招いておられます。「さあ立って、出ておいで」と言って。新しい季節がやってきました。どんなことがあっても岩なるキリストが、あなたを守ってくださいます。主の御声に応答して、立ち上がり、出て行きたいと思います。