雅歌からの最後のメッセージです。雅歌の最後の最後は、「私の愛する方よ、急いで来てください。」という花嫁のことばで終わっています。聖書の一番最後はヨハネの黙示録ですが、その最後も同じです。花婿であるキリストに対する花嫁のことば、キリストの花嫁であるである教会のこのことばで終わっています。「主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)
ここに、私たちの見るべき目標があります。私たちはどこに向かって走るのか、何のために走るのかを知ることはとても重要なことです。聖書はそれを、主イエス・キリストを待ち望むことであると言っているのです。使徒パウロもこのように言っています。
「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:20-21)
彼の生きる目標は何だったのでしょうか。それは天の御国でした。そこから主イエスが救い主として再び来られるのを待ち望んでいたのです。なぜなら、そのとき主イエスは私たちの卑しいからだを、栄光に輝くキリストのからだと同じ姿に変えてくださるからです。これが花嫁である教会、私たちクリスチャンの究極の目標です。
この地上にあっては艱難があります。様々な災害があれば病気もあります。私たちはその度に悩み、苦しみ、最後にはその生涯を終えるのです。であれば、いったいどこに生きる意味があるというのでしょうか。私たちは何のために生きるのでしょうか。それはこの地上を越えた天の御国、キリストの再臨を待ち望むことにあるのです。私たちも「主イエスよ、来てください。」という再臨の信仰をもって主を待ち望まなければなりません。
今日の御言葉を見ていきましょう。まず8~10節をご覧ください。「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげようか。もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」
ちょっと読んだだけでは何のことを言っているのかわかりにくい文章です。ここに「私たちの妹」とありますが、これまで妹のことについては全く触れられていませんでした。この妹とはだれのことなのか。花嫁の妹のことです。花嫁が妹のことを心配して、自分の兄たちと一緒に、妹が結婚するまでどうやって妹の純潔を守って上げることができるかと心配しているのです。これは霊的には未熟なクリスチャンのことを指しています。外からの攻撃に何の防備もできていないのです。
そんな花嫁の問いに対して、兄たちはこう答えます。9節です。「もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。」どういうことでしょうか。
「城壁」とは、自分たちの城を守る防壁のことです。また「胸壁」とは、その城壁に付いている砦のことです。その砦が付くことによって、より一層防備を固めることができます。すなわち、妹がどんな男も寄せ付けない強い意志を持っているなら、城壁の上にさらに胸壁を建てて、守りをしっかりと固めようと言っているのです。
一方、「彼女が戸だったら」どうでしょうか。「戸」というのは、家の中に何でも取り入れてしまう弱い心を表しています。すなわち、自分で心と体のドアを簡単に開けてしまう脆さを持っている状態のことです。もし彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう、つまり彼女を囲んで守ってあげよう、というのです。
あなたは城壁ですか、それとも戸ですか。私たちは城壁なのか戸なのかによって、その結果が決まります。主イエスとの関係を城壁のようにしっかりと守るなら、私たちは安心して過ごすことができます。それは10節に「私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」とあるように、主の目に平安をもたらすような存在となるからです。
しかし、逆にあなたが戸であるならば、すなわち、霊的貞潔を守らずに、来るものは拒まずで、何でも簡単に取り入れてしまうようであるなら、主イエスとの関係が損なわれ、主から離れてしまうことになります。ですから、私たちは城壁になるように心がけたいと思います。そうすれば主は必ずあなたを盤石にし、ますます強固にしてくださいます。
10節をご覧ください。「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」
これは花嫁のことばです。彼女はここで、「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。」と言っています。つまり、私は強い意志で貞潔を守ってきたと言っているのです。キリストの花嫁である教会もそうでありたいですね。
イエス様はそのような教会は、「ハデスの門もそれには勝つことができません。」(マタイ16:17)と言われました。「それには」とは、岩の上にしっかりと建てられた教会のことです。「あなたは生ける神の子キリストです」と告白して止まない教会は、岩の上に建てられた家のように、どんな強敵が襲ってきてもビクともすることがありません。もしかするとあなたはそのように感じていないかもしれません。私はすぐに誘惑に負けてしまうような者で情けないなぁとか、ふがいないなぁと思っているかもしれませんが、しかし城壁があるなら大丈夫です。イエス・キリストという岩の上にしっかりと建てられているなら、主が必ず守ってくださるからです。
また、ここには「私の乳房はやぐらのよう。」とあります。この「乳房」とは、成熟を表しています。9節には妹の乳房についての言及がありましたが、妹の乳房はどうだったかというと、「乳房はない」とありました。すなわち、成熟していなかった、未熟だったというのです。それに対して、姉である花嫁の乳房はどうであるかというと、あるというだけでなく「やぐらのよう」と言われています。やぐらのように堅固であるということです。そのために花婿に、平安をもたらす者のようになったのです。
私たちもクリスチャンとして成長すればするほど、やぐらのように強い信仰を持つことができるようになります。そうなれば、花婿キリストに平安をもたらす者になることができるのです。どうしたらそのような者になることができるのでしょうか。
第一に、みことばを慕い求めることです。Ⅰペテロ2章1~2節にこうあります。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
「霊の乳」とはみことばのことです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めることです。そうすれば成長し、救いを得ることができます。
第二に、キリストのからだである教会に身を置くことです。使徒20章32節にはこうあります。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」
これはパウロのことばです。パウロはミレトの港にエペソの長老たちを集めて言いました。何が彼らを成長させ、御国を継がせることができるのか。「みことば」です。みことばが、あなたがたを成長させてくださいます。しかしその後にとても重要なことを語っています。それは、「聖なるものとされたすべての人々ともに」ということです。「聖なるものとされた人々」とは、クリスチャンのこと、すなわち、クリスチャンたちの群れである教会のことを指しています。そのようなすべての人々とともに、御国を受け継がせることができるのです。「いや、私は家で一人で聖書を読んでいるので大丈夫です」とか、「私は聖書のメッセージをインターネットで聞いています」という方もおられますが、それでは御国を継がせていただくことはできません。勿論、一人で聖書を読んだり祈ったりすることは大切なことです。でもそれで十分かというとそうではなく、私たちは常に「聖なるものとされたすべての人々」とともにあることが必要なのです。そうすれば、御国を継がせていただくことができます。やぐらのような乳房になることができるのです。これが、聖書が教えていることです。
第三に、神の与えてくださるすべての武具を身につけることです。エペソ6章10~11節にはこうあります。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」
使徒パウロはここで、悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさいと勧めています。それはどんな武具なのかというと、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべての上に信仰の盾を取らなければなりません。それによって、悪い者が放つ火矢を消すことができるからです。また救いのかぶとをかぶり、御霊の剣である神のことばを取らなければなりません。そしてどんなときにも御霊によって祈らなければなりません。そうすれば、悪い者が放つ火矢を消すことができるのです。
あなたはどうですか。神のすべての武具を身につけていますか。それは高いお金を払って勝ち取らなければならないというようなものではありません。イエス様を信じる者にはだれにでも備えられているものです。ただで受け取ることができます。問題は、あなたがそれに関心をもっているかどうかです。キリストの花嫁は城壁、乳房はやぐらのようです。私たちも神が備えてくださるすべての武具を身に着け、どんなに敵が攻撃して来てもビクともしない堅固なやぐらのように、成熟したクリスチャンになることを求めていきたいと思います。
Ⅱ.花婿の愛に応えて(11-13)
次に、11~13節をご覧ください。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があって、そのぶどう畑を、守る者たちに任せていた。それぞれは、そのぶどうの実に代えて銀千枚を納めることになっていた。私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせておくれ。」
これは花嫁のことばです。花婿ソロモンは、バアル・ハモンという所にぶどう畑を持っていました。それを農夫に貸して、ぶどうの収穫に代えて、それぞれに銀千枚を納めさせていたのです。いわゆる小作料ですね。
そして、花嫁自身もぶどう畑をもっていました。12節の「私」とは花嫁のことです。彼女はかつてぶどう畑で働く労働者でしたが、ソロモン王と結婚したことで、ソロモンの妻、妃となりました。しかし、なぜかここで彼女はソロモンに銀千枚を納め、そこで働く労働者たちには銀二百枚を支払うと言っています。でも彼女は小作人ではありません。彼女はソロモン王の妻です。王妃です。であれば、ソロモン王のものはすべて自分のもとでもあります。夫に支払う義務などないのです。私は妻の財布からは取りませんが、妻が支払ったものを支払うようなことはしません。妻のものは私のもの、私のものは私のもの・・・。しかも夫のソロモンは広大なぶどう畑をもっていましたから、妻からお金をもらうなんて必要もなかったのです。にもかかわらず、彼女は夫に銀千枚を支払うと言っているのです。また、その実を守る者には銀二百枚与えるというのです。どういうことでしょうか。
これは彼女がそうしなければならないという義務があったからではなく、彼女が自分からそうしたいと願っているのです。またその実を守る者とは、そのぶどう園で働く労働者のことですが、それは彼女の兄たちのことです。兄たちは自分をちゃんと育ててくれたのでその報奨金として、銀二百枚を与えたいと言っているのです。それは義務ではなく、彼女の心からの願いから出たことだったのです。
このことは、私たちの信仰生活においてもとても大切なことです。私たちもイエス様を信じてイエス様の花嫁となりました。それで今はこうしなければならないという律法から解放されて自由となりました。イエス様が律法から解放してくださったからです。私たちは今律法の下にではなく、恵みの下にいるのです。すべての律法や義務から解放されたのです。しかしそれは私たちが何をしてもいいということではなく、そこには責任が利根なうことを意味しています。その責任とは何でしょうか。それは、そのように解放してくださった主に感謝して生きるということです。そこには当然感謝と喜びが溢れ、それに応答したいという思いが生まれてくるからです。つまり律法はささげることを要求しますが、一方で、愛は自発的にささげることで応答するということです。この違いがわかるでしょうか。要求と応答は全く違うのです。
こうして私たちが主を礼拝しているのは、要求ではなく応答です。主が私たちを愛してくださったので、私たちはその愛に応答して主を礼拝したいのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主を愛しなさいという主の戒めを、愛の応答として実践したいのです。出エジプト記20章に、有名なモーセの十戒があります。その十戒の前提がこれなのです。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神、主である。」(出エジプト記20:2)
だから、それはもう律法ではないのです。主は「わたしの他に、ほかの神々があってはならない」とか「自分のために偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と仰せられましたが、それは主が彼らをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださったから、罪の奴隷の中から救い出し解放してくださったからです。つまり、この主の愛に対する応答としてなされる行為であるということです。だから、喜んで礼拝をささげたい、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するのです。
聖書にはマグダラのマリヤという一人の女性のことについて記されてあります。彼女は最後まで主に従った女性たちの中の一人です。彼女はイエス様が十字架につけられた時もそこにいました。また埋葬の様子も見届け、そして、週の初めの日の明け方早く主イエスの亡骸がおさめられてあった墓に向かいました。そんなことをしたら捕まるかもしれないのに、そんなことをしたら処刑されるかもしれないのに、だれよりも先にイエスに会いたいという一心で墓に向かったのです。なぜでしょうか。
それは、主に愛されたからです。ルカの福音書を見ると、彼女は七つの悪霊に憑かれていたとあります(ルカ8:2)。七つの悪霊ですよ、一つの悪霊でも大変なのに、彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは完全にという意味です。聖書で「7」という数字は完全を表していますから。彼女は完全に悪霊に取り憑かれていたのです。その結果、ありとあらゆる罪に陥ってしまいました。自分でも何をしているのかわかりませんでした。誰も彼女を救うことができませんでした。しかし彼女はそこから解放されました。主が彼女から悪霊を追い出してくださったからです。主が彼女を救ってくださいました。それで彼女はそのイエスの愛に応えたかったのです。その結果彼女は、最後まで主に従って行ったのです。喜んで・・。
私たちも同じです。私たちもかつては神に背き、自分勝手に生きていた者でした。かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として不従順の子らの中に今も働いている悪霊に従って歩んでいました。その結果、何が何だかわからず、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、神の御怒りを受けるような者でした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。アメージング・グレースです。それゆえに私たちは、このアメージング・グレースに応答して、心から主を愛する者でありたいと思うのです。
最後に14節をご覧ください。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと。」
これも花嫁のことばです。ここで花嫁は花婿に言っています。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと」。「かもしかのように」とか「若い鹿のように」とは、軽快に山を跳び越え、丘の上を跳ねて来る様を表しています。そのように来てくださいと言うのです。
これは、キリストの花嫁である私たち教会の祈りでもあります。Ⅰコリント16章22~24節をご覧ください。ここには、「主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。」とあります。「主よ、来てください。」は、アラム語で「マラナ・タ」と言います。これは初代教会において生まれた祈りの言葉です。ペンテコステの出来事によって誕生した、アラム語を話すユダヤ人たちの群れである最初の教会で祈られていた祈りの言葉が、そのまま新約聖書の言葉となったのです。そういう意味でこの言葉は、初代の教会の信仰をよく表わしたものであると言えます。
「主よ、来てください」という意味のこの「マラナ・タ」が初代の教会においてしばしば祈られた大切な祈りであったということは何を意味するのでしょうか。それは、主イエス・キリストに「来てください」と祈ることが、初代教会の信仰の中心であったということです。それは主イエスご自身の約束に基づくことでした。マルコ13章24~27節に、主イエスが、この世の終わりについて語られたこのような言葉があります。
「しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」
「人の子」とは主イエスご自身のことですが、世の終わりに、人の子であられるイエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度この世に来られ、選ばれた人たち、救いにあずかった者たちを呼び集め、神の国を完成して下さると約束して下さいました。
また使徒1章11節には、復活された主イエスが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに天使がこう言いました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
主イエスがもう一度この世においでになることがこのように約束されているのです。これらの約束の言葉に支えられて、教会は、主イエスがもう一度来て下さること、即ち主イエスの再臨を待ち望んでいたのです。
したがって「マラナ・タ」ということばは、キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りなのです。「主よ、来てください」と言うと、「イエス様ちょっとここへ来て私を助けて下さい。今困っているこの問題を解決して下さい」という意味にとられがちですが、そういうことではありません。勿論私たちは日々の生活の中で、主イエスが聖霊の働きによって、目には見えなくても共にいて下さることを信じています。様々な具体的な問題、悩み苦しみにおいて私たちは、「主よ、私を助けて下さい、歩むべき道を示し、歩む力を与えて下さい」と祈ることができるし、主イエスはそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さると信じています。しかしこの「マラナ・タ」という祈りは、主イエスの再臨によってもたらされる究極的な救いを待ち望む祈りだったのです。
そして、この祈りは新約聖書の一番最後のヨハネの黙示録22章20節にも出てきます。「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(黙示録22:20-21)
ここには「マラナ・タ」という言葉ではありませんが、同じ意味の祈りです。「主イエスよ、来てください」これが聖書の一番最後に書かれてあるのです。新約聖書はこの祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体が、この祈りに向けて書かれていると言ってもよいでしょう。つまりこれが聖書の締めくくりとして、神様が一番強調したかったことなのです。「私の愛する方よ、急いでください。」「主イエスよ、来てください。」「マラナ・タ」
なぜこれが最も重要な祈りなのでしょうか。それは主イエスが再び来られるとき、罪によって壊滅状態になってしまったこの世を刷新してくださるからです。今の世の中を見てください。昨年からのコロナ感染によって全世界が悲鳴を上げています。いつまで続くのか、どこまで続くのか、みんな不安になっています。アメリカと中国の緊張関係はどうでしょう。いつ戦争に発展するかわかりません。今度世界戦争が起こったら核戦争となり、取り返しがつかないことになってしまいます。世界の環境はどうでしょうか。今イギリスでCOP26が行われていますが、世界がひとつとなって取り組むべき課題として、この気候変動対策があげられています。このような問題は永遠に続きます。私たちの生活はどうでしょうか。悩みや苦しみは絶えることはありません。一難去ってまた一難です。いったいどこに希望があるのでしょうか。罪によって汚されたこの世には、どこにも希望はありません。
しかし、ここに希望があります。それはイエス・キリストです。主イエスが来られるとき、主はすべてを新しくしてくださいます。私たちをご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちの究極的な希望なのです。私たちに必要なのは、コロナ感染や自然災害、戦争の不安に脅えることではなく、またそれを人間の力によって解決しようとすることではなく、そうした努力をしつつも、この世界を創造された方、万物の支配者であられる神に立ち返ることです。神の救いを待ち望むことなのです。それが「マラナ・タ」「主よ、来てください。」という祈りなのです。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)
その上で、主の再臨を待ち望むのです。そうすれば、主がこの世界を刷新し、完全な御国をもたらしてくださいます。真の平和を与えてくださるのです。
明日、教会でインド人のルイバ・ラムチャンという方の葬儀が行われます。かつてアジア学院で働いておられた奥様とテモテ先生がお知り合いであったことから、そして、ルイバさんご自身がインドで熱心なバプテスト教会の信者さんであったことから、ここでやってほしいとの依頼があったのです。私は生前のルイバさんとお会いしたことがありませんが、インドで農業をしながら人々に貢献したいと、アジア学院で農業を学び、また南那須にある養豚場で研修を受けて帰国後、インドで十数年間村の開発に尽力しました。しかし、数年前に咽頭がんを発病しインドのニューデリーの病院で治療していましたが、日本で治療した方がいいのではないかと4年前に再入国して治療を続けていました。
召天される数時間前に奥様とのビデオ通話でルイバさんのことをお聴きしました。それによると、ルイバさんは神がともにいてくださるので大丈夫と言っているとのことでした。毎日聖書を読み、神に祈り、すべてを神にゆだねているとのことでした。ご主人は熱心なクリスチャンでインドのバプテスト教会に通っていたので、神がともにおられることを感謝しているとおっしゃっておられました。もう大きくなられた3人のお子様を残して天国に行かれるのは残念なことだったでしょう。結婚されるまで生きていたかったに違いありません。しかしルイバさんにとっての何よりの希望、それは主がともにいてくださるということだったのです。
皆さんの希望は何ですか。どこに希望があるのでしょうか。私たちにはいろいろな希望がありますが、これこそ究極的な希望です。主イエスよ、来てください。マラナ・タ。キリストの花嫁である私たちクリスチャン、教会にふさわしい祈り、それは「マラナ・タ」、主よ、来てくださいという祈りなのです。これが、雅歌を通して神が私たちに伝えたかったことなのです。