Ⅱ列王記18章

 今日は、Ⅱ列王記18章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王ヒゼキヤ(1-8)

まず、1~8節をご覧ください。「1 イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。3 彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、【主】の目にかなうことを行った。4 高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇を砕いた。そのころまで、イスラエル人がこれに犠牲を供えていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。5 彼はイスラエルの神、【主】に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。6 彼は【主】に堅くつき従って離れることなく、【主】がモーセに命じられた命令を守った。7 【主】は彼とともにおられた。彼はどこへ出て行っても成功を収めた。彼はアッシリアの王に反逆し、彼に仕えなかった。8 彼はペリシテ人を討ってガザにまで至り、見張りのやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破った。」

イスラエルの王ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王になりました。北イスラエルは、このホセアが王の時アッシリアの捕囚となります。ですから、ヒゼキヤは北王国が滅びた時の南ユダの王でした。彼は25歳で王となり、エルサレムで29年間治めました。彼について特筆すべきことは、彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことをおこなったということです。彼は高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが造った青銅の蛇を砕きました。歴代のユダの王も比較的善い王で主の目にかなうことを行なっていましたが、高き所は取り除きませんでした。けれどもヒゼキヤは違います。彼は高き所も取り除きました。そして父アハズ王が導入させた異教の神々の像を打ち壊しました。それだけではありません。かつて、モーセが作った青銅の蛇を打ち砕いたのです。この青銅の蛇は「ネフシュタン」と呼ばれていたものですが、これはイスラエルの民が荒野の旅をしていた時、水がないことやいつもマナばかり食べていることについて不平を鳴らしたとき、主が怒られ彼らに燃える蛇を送られましたが、そこから救われるためにモーセが作り、旗ざおの上に掲げたものです。「かまれた者はみな、それを仰ぎ見ると生きる」と。(民数記21:5~9)それ以来、イスラエルの民はこれを偶像化し、犠牲を供えていました。ヒゼキヤは、青銅の蛇も砕いたのです。

かつて祝福をもたらしたものでも、それを偶像化すると信仰の妨げになってしまうことがあります。それがいかによいものであっても、それを神以上に大切にするなら、それは偶像礼拝となり、霊的成長を妨げてしまいます。私たちの生活の中で、そのようなものがないかどうか吟味しなければなりません。

5節と6節をご覧ください。彼はイスラエルの神、主に信頼していました。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいませんでした。彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守りました。

ヒゼキヤは、南ユダの王たちの中で最もすばらしい王でした。なぜ彼が最もすばらしい王だったと言えるのでしょうか。どういう点が彼のすばらしい点だったのでしょうか。それは彼がイスラエルの神、主に信頼していたという点においてです。これは、他の王たちとの能力的な比較ではなく、信仰の面での比較です。ヒゼキヤは、何よりも、イスラエルの神、主への信頼を第一にした王だったのです。

彼は、6節にあるように、主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守りました。彼は、他の王たちのように晩年になって自分の信仰を放棄するようなことをせず、最後までモーセの律法を守り続けました。それは、この後に出てくるアッシリアの王セナケリブの脅しにも屈せない彼の態度や、神殿の修理や再建(Ⅱ歴代29:3~36)、過越しの祭りや他の祭りの実行(Ⅱ歴代30:1~27)、種々の宗教改革(Ⅱ歴代31:2~21)に表れています。

主はそのようなセゼキヤの信仰を祝福し、主は彼とともにおられ、彼がどこへ出て行っても成功を収めさせました。まず彼はアッシリアの王に反逆し、彼に仕えることをしませんでした。これはすごいことです。彼の父のアハズ王は親アッシリア政策をとっていたからです。でも彼はアッシリアに仕えることを拒みました。近隣諸国と同盟関係を結び、アッシリアに対抗したのです。
  また彼は、ペリシテ人を討ってガザにまで至り、見張のやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破りました。これはどういうことかというと、彼の父アハズ王の時代に、ペリシテ人はユダの町々をいくつか奪っていましたが、ヒゼキヤはそれを奪還したということです。ガザはペリシテの地の最南端の町ですので、彼の征服はペリシテ全土に及んだことが分かります。

ヒゼキヤは、私たちの手本のような人物です。彼は神を恐れ、神の命令を実行しました。私たちもそのような者であるように目指しましょう。その人は肉体的にも霊的にも、主の大いなる祝福を受けるのです。


Ⅱ.ヒゼキヤの試練(9-16)

次に、9~16節をご覧ください。12節までを読みます。「9 ヒゼキヤ王の第四年、イスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッシリアの王シャルマネセルがサマリアに攻め上って来て、これを包囲し、10 三年後にこれを攻め取った。すなわち、ヒゼキヤの第六年、イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリアは攻め取られた。11 アッシリアの王はイスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に定住させた。12 これは、彼らが彼らの神、【主】の御声に聞き従わず、その契約を破り、【主】のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである。」

「サマリア」は、北イスラエルの首都です。ヒゼキヤの治世の第四年に、アッシリアの王シャルマネセルがサマリアに攻め上って、これを包囲し、三年後に攻め取りました。このことは既に17:1~6で見てきたとおりです。ここで再び取り上げられているのは、これがヒゼキヤにとっても重要な意味を持つ出来事だったからです。つまり、アッシリアの王はユダにも進出してきたということです。

13~16節をご覧ください。「13 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。14 ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュのアッシリアの王のところに人を遣わして言った。「私は過ちを犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに、銀三百タラントと金三十タラントを要求した。15 ヒゼキヤは、【主】の宮と王宮の宝物倉にある銀をすべて渡した。16 そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、自分が【主】の神殿の扉と柱に張り付けた金を剥ぎ取り、これをアッシリアの王に渡した。」

北王国を滅ぼしたのはアッシリアの王サルゴン2世でしたが、サルゴンが死ぬと、息子のセナケリブが王位を継承しました。そのセナケリブが、ヒゼキヤ王の第十四年にユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取りました。残るはエルサレムだけとなりました。セナケリブは、エルサレムに攻め上るために、ペリシテの地に近いラキシュに本営を置きました。包囲されたことを知ったヒゼキヤは、降伏したほうが良いと判断して、そのことを、ラキシュにいるセナケリブに伝えます。そこで、セナケリブが要求してきた通りの金銀を、主の宮と王宮の中にあるものから取って支払いました。セナケリブが要求してきたものは、銀300タラント(約11トン)と金30タラント(約1トン)でした。代価を支払って平和を買い取るのは、決して賢明なこととは言えません。敵は、一度味を占めると、二度も、三度も、要求してくるようになるからです。信仰者と悪魔の戦いも同じです。最初に妥協すると、その流れが続くことになります。

Ⅲ.セナケリブの脅迫(17-37)

それが、17~37節に見られるセナケリブの脅迫です。まず27節までをご覧ください。「17 アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケを、大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来ると、布さらしの野への大路にある、上の池の水道のそばに立った。18 彼らが王に呼びかけたので、ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、およびアサフの子である史官ヨアフは、彼らのところに出て行った。19 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。『いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。20 口先だけのことばが、戦略であり戦力だというのか。今おまえは、だれに拠り頼んでいるのか。私に反逆しているが。21 今おまえは、あの傷んだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、それは、それに寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ。22 おまえたちは私に「われわれは、われわれの神、【主】に拠り頼む」と言う。その主とは、ヒゼキヤがその高き所と祭壇を取り除いて、ユダとエルサレムに「エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め」と言った、そういう主ではないか。23 さあ今、私の主君、アッシリアの王と賭けをしないか。もし、おまえのほうで乗り手をそろえることができるのなら、おまえに二千頭の馬を与えよう。24 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来である総督一人さえ追い返せないのだ。25 今、私がこの場所を滅ぼすために上って来たのは、【主】を差し置いてのことであろうか。【主】が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。』」26 ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアフは、ラブ・シャケに言った。「どうか、しもべたちにはアラム語で話してください。われわれはアラム語が分かりますから。城壁の上にいる民が聞いているところでは、われわれにユダのことばで話さないでください。」27 ラブ・シャケは彼らに言った。「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上に座っている者たちのためではないか。彼らはおまえたちと一緒に、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」」

セナケリブは、ヒゼキヤが差し出した貢ぎ物で満足することなく、完全な服従を要求してきました。セナケリブは3人の大使を大軍とともに派遣し、エルサレムに送りました。彼らはエルサレムに上って来ると、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立ちました。これはギホンの泉から荒野に向かって水が流れる場所で、洗濯場になっていました。城壁のすぐ外に位置しており、とても賑やかな場所です。

彼らはヒゼキヤに呼び掛けましたが、ヒゼキヤは直接対応することをせず、3人の代理人を送り、彼らと交渉させました。すなわち、ヒルキヤの子である宮廷長官のエルヤキム、書記のシェブナ、およびアサフの子である史官ヨアフです。

アッシリアの大使のラブ・シャケは、エルサレムの住民にもわかるような言葉で、脅迫の言葉を告げます。それが19~25節の言葉です。その強調点は、彼らの王セナケリブの偉大さです。彼はまずヒゼキヤが拠り頼んでいるものがいかに無力なものであるかを示します。その一つが「あの傷んだ葦の杖」であるエジプトです。そんなのにより頼んでも無駄だというのです。これは正しい分析です。

次に彼が指摘したのは、「われわれの神、主に拠り頼む」ことについてです。彼は、ヒゼキヤが高き所を取り除いて、偶像礼拝を一掃したことを知っていました。そんな無慈悲で排他的な神にいったいどんな力があるというのかというのです。彼はヒゼキヤの宗教改革をこのように非難したのです。

その上で彼は、アッシリアの王と賭けをしないかと提案します。それは、ヒゼキヤが乗り手をそろえることができるなら、アッシリアの王が二千頭の馬を与えるというものでした。それはユダがエジプトに期待したのは、馬を提供してくれることだったからです。どんなに馬をそろえても、乗り手がいなければ何の意味もありません。いや、アッシリアの総督の一人さえも追い返させないだろうというのです。

そして彼はこう結論付けるのです。「今、私がこの場所を滅ぼすために上って来たのは、主を差し置いてのことであろうか。主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。」これは衝撃的な言葉です。アッシリア軍がエルサレムに上って来たのは、主のみこころによるものだというのですから。これは全くあり得ないことではありませんが、ラブ・シャケの巧みな誘導による言葉です。「主」によるものであると聞いたら、ユダの民が激しく動揺するからです。


  それを聞いたヒゼキヤの使者のエルヤキムとシェブナとヨアブは、住民にわかるユダの言葉ではなく、アラム語で話してほしいと要請します。高等教育を受けた高官たちはアラム語を理解することができたので、アラム語で話してほしいと言ったのです。住民に分かられると都合が悪かったからです。

するとラブ・シャケはその要求をはねつけました。なぜなら、彼がこのようなことを話すのは彼らのためではなく、むしろ住民たちのためだったからです。エルサレムを陥落させるためには、住民の戦闘意欲を砕く必要があったのです。エルサレムが包囲されて一番苦しむのは住民です。その時には自分の排泄物まで食べるようになるからです。

ラブ・シャケのことばはあまりにも傲慢でした。神の民を侮辱することは神の御名を侮辱することと同じことだからです。このような者には神のさばきが下ることを覚えておかなければなりません。そして、たとえどんなに脅されても、主に信頼する者は失望させられることはないと信じて、主に拠り頼み続けなければなりません。

最後に、28~37節までをご覧ください。「28 ラブ・シャケは突っ立って、ユダのことばで大声で叫んで、こう告げた。「大王、アッシリアの王のことばを聞け。29 王はこう言っておられる。『ヒゼキヤにごまかされるな。あれは、おまえたちを私の手から救い出すことができないからだ。30 ヒゼキヤは、「【主】が必ずわれわれを救い出してくださる。この都は決してアッシリアの王の手に渡されることはない」と言って、おまえたちに【主】を信頼させようとするが、そうはさせない。』31 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリアの王はこう言っておられるからだ。『私と和を結び、私に降伏せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるようになる。32 その後私は来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行く。そこは穀物と新しいぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブの木と蜜の地である。おまえたちが生き延びて死ぬことのないようにするためである。たとえヒゼキヤが、「【主】はわれわれを救い出してくださる」と言って、おまえたちをそそのかしても、ヒゼキヤに聞き従ってはならない。33  国々の神々は、それぞれ自分の国をアッシリアの王の手から救い出しただろうか。34 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリアを私の手から救い出したか。35 国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。【主】がエルサレムを私の手から救い出せるとでもいうのか。』」36 民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。37 ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である史官ヨアフは、自分たちの衣を引き裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。」


  しかし、ラブ・シャケは聞き入るどころか、ますます声を大きくし、今度は、一般民衆に対して告げて、彼らの心がヒゼキヤから離れるように仕向けます。彼は、ヒゼキヤに従ってアッシリアと戦うよりは、降参して自分の命を救うほうが良いと説得します。もしアッシリアの王と和を結び、幸福するなら、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるようになると。これは大きな誘惑です。「自分のぶどうと自分のいちじくを食べ」とか、「自分の井戸の水を飲む」とは、食べる物、飲む物に困らないようにさせてあげるぞという意味です。

「その後私は来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行く。」とは、アッシリアの征服方法です。原住民を他の地域に移住させ、そこで生活させることです。そのようにすることで、アッシリアに反逆させる力を削ぐ狙いがありました。しかし、そこで彼らは穀物とぶどう酒、パン、オリーブと蜜が味わえるようになると誘惑しているのです。

それゆえ、ヒゼキヤにそそのかされて死ぬよりは、自分の命を大切にした方が良いというのです。なかなか説得力がありますね。

「国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。主エルサレムを私の手から救い出せるとでもいうのか。」というのは、それぞれの国で「神、神、といっているが、どの神がアッシリアの王の手から救い出すことができるというのか。どの神も無力ではないか、という問いかけです。これは、エルサレムの住民を不安に陥れるには十分な力を持っています。

私たちも、このような責めを心の中のささやきで、あるいは、実際の声として聞くことがあります。イエス・キリストを信じていても、問題は解決しないばかりか、状況はもっと悪くなっている。神に拠りすがることに、いったいどんな意味があるのかと。

このような言葉に騙されないようにしましょう。ラブ・シャケの言葉は、悪魔的なものです。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。」(ヨハネ8:44-45)悪魔の言葉ではなくイエスの言葉、真理の言葉に耳を傾けなければなりません。

「民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。」

ラブ・シャケは城壁の上に集まっていた民に大声で語りかけましたが、何の反応もありませんでした。それは「彼に答えるな」というのが、ヒゼキヤ王の命令だったからです。これは賢い判断です。敵の目的は、民の心を煽ることです。自分の議論の中に、相手を引き込みたいことです。しかしその手に乗るな、とヒゼキヤは戒めたのです。それでも民は激しく動揺し、議論し合ったことでしょう。ラブ・シャケのことばには、なるほどと思わせるものが多く含まれていたからです。けれども、そのような時こそ黙する必要があります。そこに神の救いがあるからです。ダビデは詩篇62:1~2でこう言っています。「私のたましいは、黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。」

私たちも黙って主を待ち望みましょう。私たちの救いは神から来るからです。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら、私は決して揺るがされることはないからです。

Ⅱ列王記17章

 今日は、Ⅱ列王記17章から学びます。

 Ⅰ.アッシリア捕囚(1-23)

まず、1~6節をご覧ください。「1 ユダの王アハズの第十二年に、エラの子ホセアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間、王であった。2 彼は【主】の目に悪であることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。3 アッシリアの王シャルマネセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。4 しかし、アッシリアの王はホセアの謀反に気がついた。ホセアがエジプトの王ソに使者たちを遣わし、アッシリアの王には年々の貢ぎ物を納めなかったからである。そこで、アッシリアの王は彼を捕らえて牢獄につないだ。5 アッシリアの王はこの国全土に攻め上り、サマリアに攻め上って、三年間これを包囲した。6 ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。」

話は再び北イスラエルに移ります。ユダの王アハズの第十二年に、エラの子ホセアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間、治めました。彼は主の目の前に悪を行いましたが、彼以前の北イスラエルの王たちのようではありませんでした。どういうことかというと、彼以前の王たちのように、ネバテの子ヤロブアムの道を歩まなかったということです。当時の政治状況が極めて深刻であったため、そういう余裕がなかったのでしょう。というのは、3節にあるように、アッシリアの王シャルマネセルが攻め上って来ていたからです。そのときホセアは彼に服従して貢ぎ物を治めましたが、その裏でエジプトの王ソと連携して、アッシリアに対抗しようとしていました。このことに気付いたアッシリアの王シャルマネセルは激怒し、彼を捕らえて牢獄につなぎました。

その後、アッシリアの王は北イスラエルの首都サマリアに攻め上り、3年間これを
包囲しました。そしてホセアの治世の第九年にアッシリアの王はサマリアを完全に攻め取りました。そしてイスラエル人をアッシリアに捕え移し、彼らをバラフとゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせました。アッシリア捕囚です。アッシリアの政策は、サマリアの住民を他国に移住させ、別の民族をそこに移り住まわせることによって、彼らがアッシリアに反抗する力がなくなるようにすることでした。

北王国はB.C.931~721年まで約200年間存在しましたが、ここに完全に消滅することになりました。いったいこのようになってしまったのでしょうか。次の7~12節を見るとその理由がわかります。「7 こうなったのは、イスラエルの子らが、自分たちをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王ファラオの支配下から解放した自分たちの神、【主】に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、8 【主】がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習にしたがって歩んだからである。9 イスラエルの子らは、自分たちの神、【主】に対して、正しくないことをひそかに行い、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町に高き所を築き、10 すべての小高い丘の上や、青々と茂るどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、11 【主】が彼らの前から移された異邦の民のように、すべての高き所で犠牲を供え、悪事を行って【主】の怒りを引き起こした。12 【主】が彼らに「このようなことをしてはならない」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。」

彼らがこのようになったのは、彼らが自分たちをエジプトから解放してくださった主に対して罪を犯し、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習にしたがって歩んだからです。最後の王ホセアは、エジプトに援助を求めました。なんという皮肉でしょうか。700年以上も前にそこを脱出したエジプトに救いを求めたのです。

彼らは、自分たちの神、主に対して、正しくないことをひそかに行いとあるように、全面的に主から離れていたわけではありませんでした。主を礼拝することと並行して、これらのことを行ったのです。9節の「すべての町に高き所を築き」とは、偶像礼拝の場所のことです。彼らはすべての町に高き所を築き、石の柱やアシェラ像を立て、主が彼らの前から移された異邦の民のように、すべての高き所で犠牲を供え、悪事を行って主の怒りを引き起こしたのです。主が彼らに「このようなことをしてはならない」と命じておいたにもかかわらず、です。

主はどのように彼らに語られたのでしょうか。13節には、「主はすべての預言者とすべての先見者を通して」とあります。主は預言者と先見者をイスラエルとユダに送り、悪の道から立ち返るように、そして主の定めと掟を守るようにと伝えました。つまり、これは以前から警告されていたこであるということです。滅びは突如として襲ってくるのではありません。彼らには何度も悔い改めの機会が与えられていましたが、彼らが預言者たちの警告を無視し続けたので、最終的に滅びが彼らを襲ったのです。今が恵みの時、今が救いの日です。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)のです。

16節と17節をご覧ください。ここには、彼らが仕えた空しいもの、主が倣ってはならないと命じられた、周囲の異邦の民の偶像がどのようなものであったのかが記されてあります。「16 彼らの神、【主】のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。17 また、自分たちの息子や娘たちに火の中を通らせ、占いをし、まじないをし、【主】の目に悪であることを行うことに身を任せ、主の怒りを引き起こした」

彼らはまず自分たちのために鋳物の像、二頭の金の子牛の像を造り、それをダンとベテルに置いて拝みました(Ⅰ列王12:28~29)。これがヤロブアムの罪です。また、サマリアにアシェラ像を立てました。アシェラとはカナン人の豊穣の女神です。さらに彼らは、天の万象を拝み、バアルに仕えました。バアルも豊穣の神です。アシェラは女神ですが、バアルは男神です。周囲の異邦の民が拝んでいたポピュラーな偶像でした。彼らはそれも取り入れたのです。また彼らは、自分の子どもたちを人身供養のためにささげるようなことまでしました(Ⅱ列王16:3、申命18:10)

そこで、主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを取り除かれたのです。ただユダの部族だけが残りました。つまり彼らが取り除かれたのは、彼らの不信仰の故であったということです。不信仰と罪は、今も私たちを神から遠ざけるものです。すみやかに悔い改めて、神のもとに立ち返らなければなりません。

次に、19~23節までをご覧ください。「19 ユダも、彼らの神、【主】の命令を守らず、イスラエルが取り入れた風習にしたがって歩んだ。20 そのため【主】はイスラエルのすべての子孫を蔑み、彼らを苦しめ、略奪者たちの手に渡し、ついに彼らを御前から投げ捨てられた。21 主がイスラエルをダビデの家から引き裂かれたとき、彼らはネバテの子ヤロブアムを王としたが、ヤロブアムはイスラエルを【主】に従わないように仕向け、そうして彼らに大きな罪を犯させた。22 イスラエルの人々は、ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかったので、23 【主】は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。」

それは北王国イスラエルだけでなく、南ユダ王国も同じです。彼らも、彼らの神、主の命令を守らず、イスラエルが取り入れた風習に従って歩んだので、彼らもまた御前から投げ捨てられることになります。ユダもまた捕囚の憂き目にあったということです。バビロン捕囚のことです。列王記の著者は、バビロン捕囚後にこの記録を書いているので、ユダもイスラエルと同じ道を辿ったことを伝えているわけです。

主はダビデ王朝を引き裂き、それをヤロブアムに与えました。しかし、ヤロブアムはイスラエルを主に従わないように仕向け、金の子牛を礼拝させました。それ以来、イスラエルの民はその罪から離れなかったので、主が預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から取り除かれたのです。イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれることになっりました。今日もそのままであるとは、列王記の著者がこれを書いている時点で、イスラエルのアッシリア捕囚が続いているということです。彼らは、エジプトの奴隷の状態から解放され、約束の地に導かれ、聖なる国民とされたのに、神に反逆することによって、これらの祝福を失ってしまったのです。

Ⅱ.アッシリア捕囚の結果(24-33)

次に、24~33節をご覧ください。「24 アッシリアの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そしてセファルワイムから人々を連れて来て、イスラエル人の代わりにサマリアの町々に住まわせた。こうして、彼らはサマリアを占領して、その町々に住んだ。25 彼らはそこに住み始めたとき、【主】を恐れなかったので、【主】は彼らの中に獅子を送り込まれた。獅子は彼らの何人かを殺した。26 彼らはアッシリアの王に次のように報告した。「あなたがサマリアの町々に移した諸国の民は、この土地の神についての慣わしを知りません。それで、神が彼らのうちに獅子を送り込みました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの土地の神についての慣わしを知らないからです。」27 そこで、アッシリアの王は次のように命じた。「おまえたちがそこから捕らえ移した祭司の一人を、そこに連れて行け。行かせて、そこに住まわせ、その土地の神についての慣わしを教えさせよ。」28 こうして、サマリアから捕らえ移された祭司の一人が来てベテルに住み、どのようにして【主】を礼拝するべきかを教えた。29 しかし、それぞれの民は、それぞれ自分たちの神々を造り、サマリア人が造った高き所の宮にそれを安置した。それぞれの民は自分が住む町々でそのようにした。30 バビロンの人々はスコテ・ベノテを造り、クテの人々はネルガルを造り、ハマテの人々はアシマを造り、31 アワ人はニブハズとタルタクを造り、セファルワイム人はセファルワイムの神々、アデラメレクとアナメレクに自分たちの子どもを火で焼いて献げた。32 彼らは【主】を礼拝したが、自分たちの中から高き所の祭司たちを自分たちで任命し、この祭司たちが彼らのために高き所の宮で祭儀を行った。33 彼らは【主】を礼拝しながら、同時に、自分たちが移される前にいた国々の慣わしによって、自分たちの神々にも仕えていた。」

アッシリア捕囚が行われた結果、どうなったでしょうか。アッシリアの占領政策は、占領地の優秀な人材をアッシリアに連行し、人口が減少した占領地にアッシリア人を送り込むというものでした。こうすることによってそこで雑婚が生まれ、将来における復讐行為を防ぐことができるからです。アッシリアの人たちは、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファイルワイムから人々を連れて来て、イスラエル人の代わりにサマリアの町々に住ませました。

しかし、そうしたサマリア人たちがイスラエルの町々に住み始めたとき、彼らは主を恐れなかったので、主は彼らの中に獅子を送り込まれました。それで、獅子が彼らの何人かを殺したのです。そこで彼らはアッシリアの王にそのことを報告しました。するとアッシリアの王は、彼らがサマリアから捕え移した祭司の中からひとりを選び、サマリアに送り返すようにと命じました。

こうして、サマリアに捕らえ移された祭司の一人が来てベテルに住み、どのようにして主を礼拝すべきかを教えましたが、それぞれの民は、それぞれ自分たちのために神々を造り、サマリア人が造った高き所の宮にそれを安置しました。それぞれの民は自分が住む町々でそのようにしました。バビロンの人々はスコテ・ベノテを造り、クテの人々はネルガルを造り、ネルガルとはバビロンの偶像です。ハマテの人々はアシマを造り、アワの人はニブハズとタルタクを造り、セファルワイムの人はセファルワイムの神々、アデラメレクとアナメレクに自分たちの子どもを火で焼いてささげました。つまり、サマリアが多神教と混合宗教の地になってしまったということです。サマリアに移住した雑多な民が、それぞれの神々と習慣を持ち込んだからです。おそらくサマリアから捕え移された祭司の一人がベテルに住み、どのようにして主を礼拝すべきかを教えたとき、ヤハウェ礼拝と金の子牛礼拝が混合した宗教を教えたのではないかと考えられます。というのは、このベテルにはあのヤロブアムが造った金の子牛が置かれていたからです。

その結果、どうなりましたか。32~33節をご覧ください。「32 彼らは【主】を礼拝したが、自分たちの中から高き所の祭司たちを自分たちで任命し、この祭司たちが彼らのために高き所の宮で祭儀を行った。33 彼らは【主】を礼拝しながら、同時に、自分たちが移される前にいた国々の慣わしによって、自分たちの神々にも仕えていた。」

主を礼拝しながら、自分たちが移される前にいた国々の慣わしに従って、自分たちの神々を礼拝するというスタイルが生まれました。つまり、イスラエルの神、主を、もうひとりの神として、すでにある神々のリストに加えるようなことが起こったのです。しかし、これはモーセの律法で厳しく禁じられていることでした。十戒の第一戒には、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」とあります。これが容易に破られることになってしまったのです。このことは、私たち日本人にも言えることです。聖書の神、真の神を信じていても、それが既にある土着の宗教の一つに加えられる形で信じていることがあるからです。しかし、聖書が教えていることは、まことの神は唯一であって、その神以外に神々があってはならないということです。真の神だけを信じ、この神に仕えなければなりません。

ところで、この個所にはサマリア人の起源について記されてあります。サマリア人は、人種的にはイスラエル人と中近東の諸民族の混血によって誕生したため、ユダヤ人からは偏見の目で見られるようになりました。ヨハネの福音書4章にあるサマリアの女の話は、こうしたことが背景にあります。ユダヤ人がサマリア人と付き合いをしなかったのは、サマリア人が人種的に混血族だったからです。しかし、イエスはそのサマリア人を愛されました。そしてイエスの愛は、サマリア人だけでなく極東の地に住む私たち日本人の上にも注がれているのです。

Ⅲ.主だけを恐れなければならない(34-41)

最後に、34~41節見て終わりたいと思います。「34 彼らは今日まで、以前の慣わしのとおりに行っている。彼らは【主】を恐れることはなく、【主】がイスラエルと名をつけたヤコブの子たちに命じられた、掟や定めや律法や命令のとおりに行うこともない。35 【主】はイスラエル人と契約を結び、次のように命じられた。「ほかの神々を恐れてはならない。これを拝み、これに仕えてはならない。これにいけにえを献げてはならない。36 大きな力と、伸ばされた腕をもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った【主】だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえを献げなければならない。37 主があなたがたのために書き記した掟と定めと律法と命令をいつも守り行わなければならない。ほかの神々を恐れてはならない。38 わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。ほかの神々を恐れてはならない。39 あなたがたの神、【主】だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。」40 しかし、彼らは聞かず、以前の彼らの慣わしのとおりに行った。41 このようにして、これらの民は【主】を礼拝すると同時に、彼らの刻んだ像にも仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行った。今日もそうである。」

「彼ら」とは、アッシリアの王によってサマリアに移された諸国の民のことです。彼らはこの列王記が記されている時点で、以前の慣わしに従っていました。彼らは主を恐れることはなく、主が定めた掟や定めに従うこともありませんでした。

一方、主はイスラエルの民とは契約を結ばれました。それは、ほかの神々を拝みこれに仕えてはいけないということです。これにいけにえをささげてもいけません。彼らを大いなる力と、伸ばされた腕をもって、エジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主にだけ仕えなければなりません。そうすれば、主はすべての敵から彼らを救い出されると。しかし、残念ながら彼らはその主の命令に聞き従わず、以前の慣わしに従いました。つまり主を礼拝すると同時に、彼らの刻んだ像にも仕えたのです。それは彼らだけではありません。その子たちも、孫たちも同じです。その先祖がしたとおりに行いました。

彼らには真の意味で主への畏れがありませんでした。もしあれば、刻んだ像に仕えることはできなかったはずです。彼らの主への礼拝は、形式的なものにすぎませんでした。混合宗教の悪影響は、それいたら何世代にもわたって続くことになります。私たちも悪の種を蒔くのではなく、信仰の継承を自分の代から始めていきたいと思います。

Ⅱ列王記16章

 

 今日は、Ⅱ列王記16章から学びます。

 Ⅰ.主の目にかなうことを行わなかったアハズ(1-4)

まず、1~4節をご覧ください。「1 レマルヤの子ペカの第十七年に、ユダの王ヨタムの子アハズが王となった。2 アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、【主】の目にかなうことを行わず、3 イスラエルの王たちの道に歩み、【主】がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子どもに火の中を通らせることまでした。4 彼は高き所、丘の上、青々と茂るあらゆる木の下でいけにえを献げ、犠牲を供えた。」

北イスラエル王ペカの第17年に、ユダの王ヨタムの子アハズが王となりました。それは、B.C.735年です。アハズは20歳で王となり、エルサレムで16年間治めました。しかし彼はその父祖ダビデと違って、彼の神、主の目にかなうことを行いませんでした。彼はイスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエルの前から追い払われた異邦の民のも忌むべき慣わしをまねて、自分の子どもに火の中を通らせることまでしました。彼は高き所、丘の上で、青々と茂るあらゆる木の下でいけにえを献げ、犠牲を供えたのです。自分の子どもたちに火の中を通らせるというのは、カナン人の偶像礼拝の一形態です。それはモレクという神の礼拝でした。青々と茂るあらゆる木の下でいけにえを献げ、犠牲を供えたとは、国中の至るところで偶像礼拝を行ったということです。その程度があまりにもひどかったので、列王記の著者は「青々と茂るあらゆる木の下で」と誇張法を用いてこのように表現したのです。

これまでのユダの王たちの主な特徴は、ダビデの道に歩み、主の目に正しいことを行なったが高き所は取り除かなかった、ということでしたが、このアハズ王は違います。彼は北イスラエルの王たちと同じように、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪を行ったように、異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目にかなう道とは反対のことを行ったのです。

ここには、「主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、忌むべき慣わしをまねて」とあります。このような異邦の民の慣わしをまねてはならないことは、彼らが約束の地に入る前からモーセを通して語られていたことでした。申命記7:1~3にはこうあります。「1 あなたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの神、【主】があなたを導き入れるとき、主は、あなたよりも数多くまた強い七つの異邦の民、すなわち、ヒッタイト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人をあなたの前から追い払われる。2 あなたの神、【主】が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。3 また、彼らと姻戚関係に入ってはならない。あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。」

彼らが約束の地に導き入れられた時には、必ず彼らを聖絶しなければなりませんでした。何の契約も結んではいけなかったのです。彼らにあわれみを示してもいけませんでした。勿論、婚姻関係に入ってもいけませんでした。なぜなら、彼らは息子たちを主から引き離し、ほかの神々に仕えさせるからです。ですから、彼らを根絶やしにしなければならなかったのです。それなのに彼らはその地の異邦の民を追い払うどころか彼らの忌むべき慣わしをまねて、自分の子どもたちに火の中を通らせるようなことをしました。妥協したのです。このように、神の命令に背いて妥協すると、悲惨な結果を招いてしまうことになります。

パウロはコロサイ3:5で「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」と言っています。こうした偶像礼拝と関わりを持つなではなく、殺してしまいなさいと言うのです。捨て去らなければならないのです。そのようなものを残しておくなら、そのようなものに妥協するなら、アハズのように霊的堕落を招き、悲惨な結果を招いてしまうことになるからです。

Ⅱ.アッシリアにより頼んだアハズ(5-9)

次に、5~9節をご覧ください。「5 そのころ、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、戦いのためにエルサレムに上って来て、アハズを包囲したが、攻め切れなかった。6 このとき、アラムの王レツィンはエイラトをアラムに復帰させ、ユダの人々をエイラトから追い払った。ところが、エドム人がエイラトに来て、そこに住みついた。今日もそのままである。7 アハズは使者たちをアッシリアの王ティグラト・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から救ってください。」8 アハズが【主】の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物としてアッシリアの王に送ったので、9 アッシリアの王は彼の願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕らえ移した。彼はレツィンを殺した。」

そのころのことです。アハズに一つの問題が起こります。何とアラムの王レツィンとイスラエルの王ペカが、戦いのためにエルサレムに上って来たのです。なぜアラムの王レツィンとイスラエルの王ペカがアハズと戦うためにエルサレムに上ってきたのかというと、アッシリアが台頭し、アラムを攻めて来ていたからです。それでアラムとイスラエルはアッシリアに対抗するために同盟を結びアッシリアに対抗しようとしたのですが、それに南ユダも加わるようにとけしかけたのです。でもアハズは加わろうとしなかったので、ユダに戦いをしかけたのです。おそらくアハズは、アラムや北イスラエルほどアッシリアの脅威を感じていなかったのでしょう。むしろ、融和策を取った方が賢明だと思ったのです。それでアラムの王のレツィンとイスラエルの王のペカはエルサレムのアハズのところに攻めてきましたが、攻め切れませんでした。

イザヤ7:2を見ると、この時のアハズの心境が描かれています。アラムがエフライムと組んだという知らせがもたらされた時、彼の心は林の木々が風にゆらぐように揺らいだ、とあります。それで彼はアッシリアの王ティグラト・ピレセルに使いを送って援助を求めたのです。実はその時主がイザヤを彼のもとに遣わして、「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤ子(ペカ)の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。」と語るのですが、アハズはその動揺を抑えようと、アッシリアに助けを求めて問題を打開しようとしたのです。

これが人間の考えることです。人は何か問題が起こると、その場しのぎの解決や対策を講じようとします。ちょうどコンビニでインスタント食品を買うように、その場しのぎの神々を手に入れようとするのです。しかしそれは一時的な解決をもたらしてくれるかもしれませんが、ほんとうの解決にはなりません。ユダはアッシリアに助けを求めることでその場の危機をしのぐことができたかもしれませんが、後でほんとうの危機がやって来ることになります。「昨日の友が今日の敵」というようなことが起こります。何とそのアッシリアによって脅かされることになるわけです。アハズはアッシリアと同盟を結ぶことで、確かにつじつまが合ったかのように見えますが、そのつけは30年後に大きく膨らんで返ってくることになるのです。B.C.701年にアッシリアの王セナケリブがエルサレムにやって来てこれを包囲し、陥落させる寸前にまで追い込むことになるのです。

アハズはアッシリアの王への贈り物として、神殿と王宮にあった銀と金を送りました。つまりアハズは自ら進んでアッシリアの従属国となることを選んだのです。その結果どなりましたか。アッシリアの王は彼の願いを聞き入れ、アラムの首都であるダマスコに攻め入り、これを取り、その住民をキルへ捕え移しました。そして彼はレツィンを殺しました。すなわち、B.C.732年にアラムが、またB.C.722年にはサマリアが滅ぼされます。ユダの王アハズにとっては「してやったり」という気持ちだったでしょう。自分が思っていたとおりになったわけですから。アラムとイスラエルの攻撃という難局を乗り越えることができました。でも、それは真の解決ではありませんでした。イザヤ9:5~8を見ると、この時アハズが主をないがしろにしてアッシリアにより頼んだことを責めておられます。先ほども申し上げたように、やがてユダはそのアッシリアによって苦しめられることになるのです。それは、ユダの王アハズが主をないがしろにして、アッシリアにより頼んだからです。

Ⅲ.アハズの霊的堕落(10-20)

アッシリアに援助を求めたアハズの行為は愚かなことでしたが、そのことで彼はとんでもないことをしでかします。10~16節をご覧ください。「10 アハズ王は、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。アハズ王は、祭壇の図面とその模型を、詳細な作り方と一緒に祭司ウリヤに送った。11 祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものとそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。12 王はダマスコから帰って来た。その祭壇を見て、王は祭壇に近づき、その上に上った。13 彼は全焼のささげ物と、穀物のささげ物を焼いて煙にし、注ぎのささげ物を注ぎ、自分のための交わりのいけにえの血をこの祭壇に振りかけた。14 【主】の前にあった青銅の祭壇は、神殿の前から、すなわち、この祭壇と【主】の神殿の間から動かし、この祭壇の北側に置いた。15 それから、アハズ王は祭司ウリヤに次のように命じた。「朝の全焼のささげ物と夕方の穀物のささげ物、また、王の全焼のささげ物と穀物のささげ物、この国の民全体の全焼のささげ物と穀物のささげ物、ならびにこれらに添える注ぎのささげ物を、この大いなる祭壇の上で焼いて煙にせよ。また全焼のささげ物の血といけにえの血は、すべてこの祭壇の上に振りかけなければならない。青銅の祭壇は、私が伺いを立てるためのものとする。」16 祭司ウリヤは、すべてアハズ王が命じたとおりに行った。」

アハズ王は、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに遭うためにダマスコに行きました。これはアハズがティグラト・ピレセルを表敬訪問したということです。自分たちの窮地を救ってくれたアッシリアに感謝の意を伝えようとしたのです。そこで彼が見たものは、巨大な祭壇でした。これは勿論、異教の祭壇です。アラムのものである可能性もありますが、おそらくアッシリアのものでしょう。彼はその祭壇を見て感動しました。そしてどうしたかというと、その祭壇の図面と模型を、詳細な作り方と一緒にエルサレムにいる祭司ウリヤに送りました。それと同じものを制作するためです。何と愚かなことでしょうか。アッシリアに援助を求めること自体愚かなことですが、そのアッシリアの神々を自分たちのところに導入しようとするのはもっと愚かなことです。おそらく彼はアッシリアの祭壇を見て、そのすばらしさに、それと同じ祭壇を作れば自分たちも強くなれるに違いないと思ったのでしょう。何とも安易な考えです。彼はさっそくその図面と模型を、作り方と一緒に祭司ウリヤに送りました。

それを受け取った祭司ウリヤはどうしたかというと、アハズ王がダマスコから帰って来る前にそれとそっくりの祭壇を築きました。アハズ王もアハズ王ですが、祭司ウリヤもウリヤです。それがいかに愚かなことかを考えずに、ただアハズ王の言うことに従ったのですから。当時の祭司がいかに堕落していたかがわかります。

アハズ王はダマスコから帰って来ると、その祭壇を見て、祭壇に近づき、その上に上りました。そこでいけにえをささげたということです。彼は全焼のいけにえと、穀物のささげ物を焼いて煙にし、注ぎのささげ物を注ぎ、自分のための交わりのいけにえの血をその祭壇に振りかけました。そして、元からあった祭壇は、新しい祭壇の北側に移動させられました。

これは、とてつもない背教です。祭壇でのささげものは祭司しか行なうことができませんでした。それなのに、ここではアハズ自らがささげ物をささげています。礼拝は本来、神に対してなされるものですが、彼はそれを自分の益のために利用したのです。また、主によって命じられて造った青銅の祭壇は、その新しく造られた異教の祭壇によって、横に追いやってしまいました。つまり、異教の祭壇よりも価値が劣るものとみなしたということです。

アハズ王がやったことはとんでもない礼拝の逸脱行為ですが、ややもすると私たちもこれと同じような過ちを犯してしまうことがあります。主を礼拝するための祭壇が自分の目的を達成するために利用することがあるとしたら、このアハズと何ら変わらないことをしていることになります。自分の礼拝が純粋なものになっているかどうかを吟味しなければなりません。

15~16節ご覧ください。「15それから、アハズ王は祭司ウリヤに次のように命じた。「朝の全焼のささげ物と夕方の穀物のささげ物、また、王の全焼のささげ物と穀物のささげ物、この国の民全体の全焼のささげ物と穀物のささげ物、ならびにこれらに添える注ぎのささげ物を、この大いなる祭壇の上で焼いて煙にせよ。また全焼のささげ物の血といけにえの血は、すべてこの祭壇の上に振りかけなければならない。青銅の祭壇は、私が伺いを立てるためのものとする。」16 祭司ウリヤは、すべてアハズ王が命じたとおりに行った。」

アハズは祭司ウリヤに命じて、朝の全焼のささげものと夕方の穀物のささげ物と夕方の穀物のささげ物、また、王の全焼のささげ物と穀物のささげ物、この国の民全体の全焼のささげ物と穀物のささけげ物を持って来るようにと命じました。そこで主にいけにえをささげるためです。彼は自分が偶像礼拝の罪を犯しただけでなく、ユダの国のすべてのいけにえを偶像礼拝にするように仕向けたのです。ユダの人々が持ってくるものはみな、アハズが自分の趣味でこしらえた、自分勝手な神にささげられたのです。そして、主の祭壇は伺いを立てるために、つまり、占いのために用いられることになりました。

それに対して祭司ウリヤはどうしたかというと、それが主のみこころに反するものであることを知りながら、すべてアハズ王が命じたとおりに行いました。これが主の命令に従うのであればすばらしいことですが、偶像礼拝を推進するためのものでしたから、とんでもない従順であったと言えます。

最後に、17~20節をご覧ください。「17 アハズ王は、車輪付きの台の鏡板を切り離し、その台の上から洗盤を外し、またその下にある青銅の牛の上から「海」も降ろして、それを敷き石の上に置いた。18 彼は、宮の中に造られていた安息日用の覆いのある通路も、外側の王の出入り口も、アッシリアの王のために【主】の宮から取り除いた。19 アハズが行ったその他の事柄、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。20 アハズは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られた。彼の子ヒゼキヤが代わって王となった。」

ソロモンが建てた神殿の説明書には、動物のいけにえを洗うための10の洗盤がありました。それは車輪付きで、移動可能のものでした。また、非常に大きい、青銅の洗盤もありました。牛や海が装飾されている洗盤です。アハズはこれらを移動させたり、取り除いたりしました。なぜこのようなことをしたのかはわかりません。ただここに「アッシリアの王のために主の宮から取り除いた」とありますので、それはアッシリアの王のためであったこと間違いありません。

人はここまで堕落するのかと思ってしまいますが、けれどもこれが人間の現実なのです。このことはクリスチャンと言えども起こり得ることです。ペテロは、その手紙の中でこう言っています。「20 主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる戒めから再び離れるよりは、義の道を知らなかったほうがよかったのです。22 「犬は自分が吐いた物に戻る」、「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。」(Ⅱペテロ:20-22)

これは決して他人事ではありません。主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされることがあります。アハズが経験したように、林の木々が風にゆらぐように揺らぐことがあります。そのような時、主ではなく主以外のものにより頼むことがあるとしたら、私たちもアハズのように堕落してしまうことがあるということです。そうならないために必要なことは何か。ペテロが彼の手紙の最後のところで言っていることが重要ではないかと思います。すなわち、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(Ⅱペテロ3:18)

私たちの心が林の木々が揺らぐように揺らぐ時、それでも信仰に堅く立ち続けることができるのは私たちの考えや力によるのではなく、一方的な主の恵みによります。私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長すること、それがどんな時でも主により頼むために必要なこと、信仰から信仰へと進むために必要なことなのです。

Ⅱ列王記15章

 今日は、Ⅱ列王記15章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王アザルヤ(1-7)

まず、1~7節をご覧ください。「1 イスラエルの王ヤロブアムの第二十七年に、ユダの王アマツヤの子アザルヤが王となった。2 彼は十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレム出身であった。3 彼は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、【主】の目にかなうことを行った。4 ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。5 【主】が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔離された家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、民衆をさばいた。6 アザルヤについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。7 アザルヤは彼の先祖とともに眠りについた。人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。彼の子ヨタムが代わって王となった。」

話は、再び南ユダになります。イスラエルの王がヤロブアムの時、その27年目に、アマツヤの子アザルヤが南ユダの王となりました。彼の別名は「ウジヤ」と言い、ユダの王たちの中では善王に数えられています。彼は16歳で王となりました。というのは、彼の父アマツヤが北イスラエルとの戦いに敗れ連行されていたからです。アザルヤは、その時に王に即位しました。それは、B.C.767年のことです。

彼は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行いました。しかし、父アマツヤ同様、高きところは取り除きませんでした。高き所とは、偶像礼拝が行われていた場所のことです。そこを破壊せず放置しておいたのです。そのため民はなおも、その高き所でいけにえを捧げたり、犠牲を供えたりしていました。これは、律法に違反していたということです。モーセの律法では、主が定められた場所以外でいけにえを捧げることが禁じられていました(申命記12:2~7)。それをことごとく破壊しなければならなかったのにしませんでした。偶像礼拝のために用いたものを、神を礼拝するために用いることはできません。けれどもアザルヤは、それを取り除かなかったのです。これは私たちにも言えることです。私たちも過去の罪と決別しなければなりません。その上に信仰を築き上げることはできないからです。

その結果、アザルヤはどうなったでしょうか。5節には、「【主】が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔離された家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、民衆をさばいた。」とあります。彼は主に打たれてツァラアトに冒されました。ツァラアトは重い皮膚病で、汚れているとされていたので、社会から隔離されなければなりませんでした。彼は隔離された家で生活することを余儀なくされたのです。それで息子のヨタムと共同で統治することになりました。それは10年間続くことになります。これは神のさばきによるものでした。最終的に彼は先祖たちとともに眠りにつき、その遺体は、ダビデの町の王たちの墓に葬られました。

アザルヤはユダの王たちの中で最も影響力のあった王のひとりです。彼の働きによってユダは領地を拡大することができました。主なる神の祝福を受けたのです。にもかかわらず、最終的に彼はツァラアトに冒されて隔離された生活を強いられました。いったい何が問題だったのでしょうか。そのような祝福の陰に高慢という落とし穴があったのです。箴言16:18には、「高慢は破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」私たちはこのアザルヤの失敗から学び、どんな時も主の御前にへりくだって歩みたいと思います。

Ⅱ.北イスラエルの王たちと第一次アッシリア捕囚(8-31)

次に、8~31節をご覧ください。ここには、ユダの王アザルヤの時代に北イスラエルの王たちはどうであったかが記録されています。北イスラエルでは、謀反が繰り返され、王たちが目まぐるしく交代し、ついにはアッシリアによって滅ぼされてしまうことになります。「8 ユダの王アザルヤの第三十八年に、ヤロブアムの子ゼカリヤがサマリアでイスラエルの王となり、六か月の間、王であった。9 彼は先祖たちがしたように、【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。10 ヤベシュの子シャルムは、彼に対して謀反を企て、民の前で彼を打ち殺し、彼に代わって王となった。11 ゼカリヤについてのその他の事柄は、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。12 【主】がかつてエフーに告げられたことばは、「あなたの子孫は四代までイスラエルの王座に着く」ということであったが、はたして、そのとおりになった。13 ヤベシュの子シャルムは、ユダの王ウジヤの第三十九年に王となり、サマリアで一か月間、王であった。14 ガディの子メナヘムは、ティルツァから上ってサマリアに至り、ヤベシュの子シャルムをサマリアで打ち、彼を殺して、彼に代わって王となった。15 シャルムについてのその他の事柄、彼が企てた謀反は、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。16 そのとき、メナヘムはティルツァから出て、ティフサフとその住民、その領地を討った。彼らが城門を開かなかったので、その中のすべての妊婦たちを打ち殺して切り裂いた。17 ユダの王アザルヤの第三十九年に、ガディの子メナヘムがイスラエルの王となり、サマリアで十年間、王であった。18 彼は【主】の目に悪であることを行い、一生の間、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。19 アッシリアの王プルがこの国に来たとき、メナヘムは銀千タラントをプルに与えた。プルの援助によって、王国を強くするためであった。20 メナヘムは、イスラエルのすべての有力者にそれぞれ銀五十シェケルを供出させ、これをアッシリアの王に与えたので、アッシリアの王は引き返し、この国にとどまらなかった。21 メナヘムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。22 メナヘムは先祖とともに眠りにつき、その子ペカフヤが代わって王となった。23 ユダの王アザルヤの第五十年に、メナヘムの子ペカフヤがサマリアでイスラエルの王となり、二年間、王であった。24 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。25 彼の侍従、レマルヤの子ペカは、彼に対して謀反を企て、サマリアの王宮の高殿で、ペカフヤとアルゴブとアルエを打ち殺した。ペカには五十人のギルアデ人が加わっていた。ペカはペカフヤを殺し、彼に代わって王となった。26 ペカフヤについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのことは、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。27 ユダの王アザルヤの第五十二年に、レマルヤの子ペカがサマリアでイスラエルの王となり、二十年間、王であった。28 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。29 イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリアへ捕らえ移した。30 そのとき、エラの子ホセアはレマルヤの子ペカに対して謀反を企て、彼を打ち殺して、ウジヤの子ヨタムの第二十年に、彼に代わって王となった。31 ペカについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのことは、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。」

ここから、アザルヤすなわちウジヤがユダで王であったときの、イスラエルの王について書かれています。謀反から謀反へ、短い期間しか王たちは統治しませんでした。アザルヤの第三十八年に北イスラエルの王となったのは、ヤロブアムの子ゼカリヤでしたが、その治世はわずか六か月でした。それは彼が先祖たちがしたように、主の目の前に悪であることを行ったからです。彼はイスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかったからです。彼はヤベシュの子シャロムの謀反によって殺されます。それでシャロムが、彼に代わって王になりました。

ここで注目したいことは、それはかつて主がエフーに告げた通りであったということです。12節に、そのことが記されてあります。主はエフーに「あなたの子孫は四代までイスラエルの王座に着く」(Ⅱ列王10:30)と告げられましたが、はたして、そのとおりになったのです。彼はアハブ家の者たちに対して主が心に定めたことをことごとく行いましたが、その後、ヤロブアムの道を歩んだことによって、神の祝福がとどめられてしまったのです。それで彼(エフー)に告げられた通り、彼の子孫は四代目までイスラエルの王座に着くことができましたが、その後、家系が途絶えてしまったのです。ゼカリヤはその王朝の四代目の王だったのです。

謀反を企てたヤベシュの子シャルムは、ユダの王ウジヤの第三十九年に王となりましたが、その治世はわずか一か月でした。ガディの子メナヘムによって殺されてしまったからです。これは北王国の歴史では2番目に短い記録です。最短は、ジムリの7日間です(Ⅰ列王16:15~20)。シャルム王朝は北王国では第六番目の王朝でしたが、彼一代で終わりました。

彼の後に王となったのは、シャルムを暗殺したメナヘムでした。メナヘムはティルツァから出て、ティサフとその住民、その領地を打ち、その中のすべての妊婦たちを打ち殺して切り裂くということをしました。ティサフの住民は彼を王として認めず、城門を閉じて抵抗姿勢を示したからです。それでメナヘムはこの町を攻撃し、徹底的に破壊したのです。それにしても自国民の妊婦を切り裂くなんて何とも残忍な男です。彼がこのような残忍な行為に及んだのは、抵抗する可能性のある他の町々を恐れされるためでした。今でも北朝鮮などでは公開処刑が行われていますが、同じようなことです。

メナヘムは、イスラエルの王となると、サマリアで十年間王として治めました。彼は主の目の前に悪であることを行い、一生の間、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れませんでした。

19節と20節をご覧ください。ここにⅡ列王記では初めてアッシリアについての言及があります。「アッシリアの王プルがこの国に来たとき、メナヘムは銀千タラントをプルに与えた。プルの援助によって、王国を強くするためであった。メナヘムは、イスラエルのすべての有力者にそれぞれ銀五十シェケルを供出させ、これをアッシリアの王に与えたので、アッシリアの王は引き返し、この国にとどまらなかった。」

「アッシリアの王プル」とは、ティグラテ・ピレセル3世(Ⅱ列王15:29)のことです。当時、イスラエルに敵対していたシリアの力が弱くなり、代わりにアッシリアが台頭しつつありました。そのアッシリアが北王国に侵入して来たのです。それでメナヘムはどうしたかというと、アッシリアに犯行するのではなく、アッシリアの援助によって自らの統治を強くしようと考えました。それで彼はアッシリアの王プルに銀一千タラントを与えました。メナヘムはこれを、イスラエルのすべての有力者に銀五十シェケルを供出させることによって集めました。この五十シェケルというのは、当時アッシリアで奴隷ひとりの価格とされていた額です。そのことは、イスラエルの民がアッシリアの奴隷となったことを象徴しているかのようでした。真の神に仕えない人は、やがて別のものの奴隷となります。私たちはキリストにあって自由にされた者です。私たちが使えるのは真の王であり神であられるイエス・キリストだけであることを覚え、この方だけに仕えましょう。貢物を受けたプルは、満足してアッシリアに引き返し、北王国にとどまりませんでした。

メナヘムが死んだ後でイスラエルの王となったのは、その子ペカフヤでした。彼はユダの王アザルヤの第五十年にサマリアで王となり、2年間、北王国を治めました。彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れませんでした。北王国の後半の王たちは、力によって王座に着いた者たちばかりですが、ペカフヤの場合は例外で、王位を父メナヘムから継承しました。しかし、彼の治世は二年間という短い期間で終わりました。彼もまた、謀反によって暗殺されたからです。

彼を殺したのは、彼の侍従、レマルヤの子ペカです。ペカは彼に対して謀反を企て、サマリアの王宮の高殿で、ペカフヤとアルゴブとアルエを打ち殺しました。侍従とは、軍の司令官のことです。彼にはヨルダン川の東岸から来て加わった50人の部下がいました。彼らとともにペカフヤを打ったのです。「サマリアの王宮の高殿」は砦のようになっており、町の中では最も安全な場所ですが、彼はそこで殺されました。どんなに安全と思われる場所であっても、神から離れたら限界があります。ペカフヤの問題も、主の目の前に悪であることを行ったことです。神から離れたらどんなに安全だと思われる砦でも危険です。真の安全は、ただ全能者であられる神イエス・キリストの御翼の陰に宿ることです。

ペカフヤの後に北王国の王となったのは、彼を暗殺したペカです。ペカはサマリアでイスラエルの王になると、20年間イスラエルを治めました。彼もまた、彼以前の王たちと同じように、ネバテの子ヤロブアムの罪から離れることはありませんでした。

29節と30節をご覧ください。このイスラエルの王ペカの時代に、アッシリアのティグラト・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリアへ捕らえ移しました。第一次アッシリア捕囚です。B.C.734年のことです。サマリアの町は残っていましたが、次の王ホセアの時にサマリアも陥落し、北イスラエルは完全に滅びてしまうことになります。ここまで、イスラエルが悪を繰り返し、謀反に謀反を重ね、神に立ち返ることがなかったからです。

このとき、エラの子ホセアはペカに対して謀反を企て、彼を撃ち殺し、彼に代わって王になりました。そのホセアも後にアッシリアによって滅ぼされ、北王国は完全に滅んでしまうことになります。B.C.722年のことです。

悲しいことですが、主を立ち返ることをせず悪に悪を重ねる民は、滅びの道をたどるしかありません。今からでも決して遅くはありません。神は悔い改めてご自身の下に立ち返る者を赦し、受け入れてくださいます。悔い改めることの重要性とどこまでも忍耐してそれを待っておられる神の恵みを改めて覚えさせられます。

Ⅲ.信仰を試す神からのテスト(32-38)

最後に、32~38節をご覧ください。「32 イスラエルの王レマルヤの子ペカの第二年に、ユダの王ウジヤの子ヨタムが王となった。33 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼の母の名はエルシャといい、ツァドクの娘であった。34 彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、【主】の目にかなうことを行った。35 ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。彼は【主】の宮の上の門を建てた。36 ヨタムが行ったその他の事柄、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。37 そのころ、【主】はアラムの王レツィンとレマルヤの子ペカを、ユダに対して送り始められた。38 ヨタムは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにその父ダビデの町に葬られた。彼の子アハズが代わって王となった。」

イスラエルの王レマルヤの子ペカの第二年に、ユダの王ウジヤの子ヨタムが王となりました。ウジヤ王は52年間という長い間ユダを治めました。その後に王となったのがウジヤの子ヨタムです。彼は25歳で王になると、エルサレムで16年間、王でした。

彼はすべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行いましたが、高き所は取り除くことができませんでした。それで民はなおも、高き所でいけにえを捧げたり、犠牲をささげたりしていました。つまり、偶像礼拝の場をそのまま容認したということです。偶像礼拝はそれほど民の心に沁みついていたということです。それを取り除くことは並大抵のことではありません。それはヨタムに限ったことではありません。私たちの心の偶像を取り除くことも容易いことではありません。神の力が無ければ決して取り除くことはできません。神の力、聖霊の力をいただいて、心の偶像を取り除きましょう。

このヨタムが行った良い業の一つは、「主の宮の上の門を建てた」ということです。それは神殿の北の門を再建したということです。これは主を礼拝することを促すための行われた工事でした。彼は数々の良い業を行いましたが、肝心なことが抜けていたら、それらのことはすべてむなしいものになります。それは神を第一にして生きることです。神を愛し、神に信頼し、神に従うこと。これに勝る良い業はありません。主が求めておられることは、主に聞き従うことだからです。彼はこの肝心なことが抜けていたので、彼の良い業も何の意味もありませんでした。

37節をご覧ください。「そのころ、【主】はアラムの王レツィンとレマルヤの子ペカを、ユダに対して送り始められた。」

「そのころ」とは、ヨタムとその子アハズの治世のころのことです。南王国は、北方からの攻撃に悩まされていました。アラムの王レツィンと北王国の王のペカが、ユダに圧力をかけていたのです。彼らは南王国を味方につけて、アッシリアに対抗しようとしていたのです。ユダの王たちは困難な決断を迫られていました。アラムの王レツィンと北王国の王ペカの同盟に参加してアッシリアと戦うか、それとも逆に、アッシリアの援助を受けて、レツィンとペカの同盟国と戦うかです。37節には、これはユダに対して主が送り始められたことであるとあります。すなわち、主が期待していたのはそのどちらでもなく、ただ主だけに信頼して歩むことでした。すなわち、地上の権力に頼るのではなく、ただ主だけに信頼することです。そうです、こうした北からの脅威は、ユダの王の信仰を試す主からのテストだったのです。それは主が私たちにも送っておられるものです。こうした信仰の試練に会うとき、あなたはどのように対処していますか。試練の時こそ信仰の真価が問われます。人間的な考え、肉の思いで決断するのではなく、ただ神を見上げ、神に信頼しましょう。それが神が喜ばれる道であり、真に私たちが守られる道なのです。

Ⅱ列王記14章

 今日は、Ⅱ列王記14章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王ヨアシュの子アマツヤ(1-14)

まず、1~7節をご覧ください。「1 イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となった。2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はエホアダンといい、エルサレム出身であった。3 彼は【主】の目にかなうことを行った。ただし、彼の父祖ダビデのようではなく、すべて父ヨアシュが行ったとおりに行った。4 すなわち、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。5 王国が彼の手によって強くなると、彼は、自分の父である王を討った家来たちを打ち殺した。6 しかし、その殺害者の子どもたちは殺さなかった。モーセの律法の書に記されているところに基づいてのことであった。【主】はその中でこう命じておられた。「父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。7 アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討って、セラを取り、その場所をヨクテエルと呼んだ。今日もそうである。」

舞台は再び北イスラエルから南ユダに移ります。イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となりました。ここには、イスラエルの王エホアハズの子のヨアシュと、ユダの王ヨアシュの子アマツヤと、ヨアシュという同名の王が北と南の王の名前に出てくるので混乱しないように注意が必要です。ここでは、南ユダの王ヨアシュの子のアマツヤのことが記録されています。彼は25歳で王となり、29年間南ユダを治めました。彼は父のヨアシュ同様主の目にかなうことを行いましたが、彼の父祖ダビデのようではありませんでした。どのようにダビデのようではなかったのかというと、高き所を取り除かなかったという点においてです。この「高き所」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。彼は心を尽くして主を愛し主に仕えていましたが、高き所を取り除かなかったので、その結果、民は主を礼拝しながらも、依然として偶像礼拝を続けていたのです。

彼は王になってからその影響力が強くなると、自分の父であるヨアシュ王を討った家来たちを打ち殺しましたが、その子どもたちは殺しませんでした。通常なら、このような場合その子どもたちまで殺害するのが一般的ですが、彼はそのようにしませんでした。なぜなら、モーセの律法の書にこう記してあったからです。「父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。」
  アマツヤは、この神のことばに従ったのです。たとえそれが一般的な習慣であったとしても、あくまでも主の前に正しく生きようとしていたのです。私たちも、あくまでも主のことばに基づいて、主の前に正しく生きることを選び取らなければなりません。

7節をご覧ください。アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討ってセラを取り、その場所を「ヨクテエル」と呼びました。この時アマツヤは大勝利を収めましたが、Ⅱ歴代誌25:14を見ると、残念ながら、この時アマツヤはエドム人を討ち破って帰って来る時セイルの者たちの神々を持ち帰り、これを自分の神々として立て、その前に伏拝、これに香をたいたとあります。アマツヤはなぜこんなことをしたのでしょうか。エドムに勝利したことが、その大きな要因の一つでした。成功している時こそ主への信頼と謙遜を学ぶ必要があるのに、彼は高ぶってしまったのです。

次に、8~14節をご覧ください。「8 そのときアマツヤは、エフーの子エホアハズの子、イスラエルの王ヨアシュに使者を送って言った。「さあ、直接、対決しようではないか。」9 イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに人を遣わして言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に人を遣わして、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。10 あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」11 しかし、アマツヤが聞き入れなかったので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った。彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで直接、対決した。12 ユダはイスラエルに打ち負かされ、それぞれ自分の天幕に逃げ帰った。13 イスラエルの王ヨアシュは、アハズヤの子ヨアシュの子、ユダの王アマツヤをベテ・シェメシュで捕らえ、エルサレムにやって来た。そして、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ち壊した。14 彼は、【主】の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、すべての器、および人質を取って、サマリアに帰った。」

今度は、北イスラエルの王ヨアシュが登場します。エドムに勝利したユダの王アマツヤは、父ヨアシュがそうであったように高ぶっていました。彼は北イスラエルの王ヨアシュに使いを送り、「さあ、直接、対決しようではないか。」と言いました。彼は、こともあろうに、北イスラエルに戦いを挑んだのです。なぜ彼はこんなことをしたのでしょうか。13章を見るとわかりますが、当時北王国は、アラムのハザエルに苦しめられていました(Ⅱ列王13:22)。ですから、エドムに勝利したアマツヤは、今だったら北イスラエルに容易に勝てると思ったのです。

それに対してヨアシュは何と応答しましたか。彼は、こう言いました。9~10節をご覧ください。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に人を遣わして、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」と言いました。

「あざみ」も「杉」も、レバノンでは有名です。この「あざみ」はアマツヤのことを、「レバノンの杉」はヨアシュを象徴しています。つまり、あざみであるアマツヤがレバノンの杉であるヨアシュに、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と身分不相応な要求をしたら、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじってしまいました。あざみはそれほど弱い存在にすぎないということです。それなのに、あざみは高ぶって戦いを挑もうとしているのはおかしいというのです。そんなことは止めて家にとどまった方がいい。なぜ、そんなことをして、あえてわざわいを引き起こし、ユダとともに倒れようとするのか。ここでヨアシュは、アマツヤに戦いを思いとどまるように勧告したのです。

しかし、アマツヤはそれを聞き入れませんでした。それでイスラエルの王ヨアシュは攻め上り、ユダのベテ・シェメシュで直接、対決することになりました。その結果、ユダの王アマツヤはイスラエルの王ヨアシュに打ち負かされ、それぞれ自分の天幕に逃げ帰りました。ヨアシュはアマツヤをベテ・シェメシュで捕らえエルサレムにやって来ると、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ち壊しました。そればかりではなく、主の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、および人質を奪い取りました。

いったい何が問題だったのでしょうか。アマツヤが高ぶったことです。彼の高慢が、南ユダを破滅に導きました。北イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤにちゃんと警告していました。誇ってもよいが、自分の家にとどまっているようにと。なぜ、あえてわざわいを引き起こすようなことをするのか。そんなことをすれば、あなたとともにユダもともに倒れてしまうことになると。それが実現したのです。

しかし、Ⅱ歴代誌25:20を見ると、この時アマツヤがヨアシュの忠告を受け入れなかったのは、神から出たことであった、と言われています。彼らがエドムの神々を求めたので、彼らを敵の手に渡すためです。つまり、アマツヤが敗北した最も大きな理由は、彼らが神に背いて偶像を求めことだったのです。神との関係が正しくなかったことが、その最大の原因だったのです。目に見える出来事の根底には、見には見えない霊的な要因があるということです。その根本的な要素が「神との関係」です。神との関係が正されることこそ、私たちの現実の生活が祝福される秘訣なのです。


Ⅱ.アマツヤの業績(15-22)

次に、15~22節をご覧ください。「15 ヨアシュが行ったその他の事柄、その功績、ユダの王アマツヤと戦った戦績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。16 ヨアシュは先祖とともに眠りにつき、イスラエルの王たちとともにサマリアに葬られた。彼の子ヤロブアムが代わって王となった。17 ユダの王ヨアシュの子アマツヤは、イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの死後、なお十五年生きた。18 アマツヤについてのその他の事柄、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。19 エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てた。彼はラキシュに逃げたが、人々はラキシュに追っ手を送り、そこで彼を殺した。20 彼らは彼を馬に乗せて運んだ。彼はエルサレムで先祖とともに、ダビデの町に葬られた。21 ユダの民はみな、当時十六歳であったアザルヤを立てて、その父アマツヤの代わりに王とした。22 彼は、アマツヤが先祖とともに眠った後、エイラトを築き直し、それをユダに復帰させた。」

ここには、北王国イスラエルのヨアシュ王の死に関することが記録されてあります。彼の死については13:13で既に言及されていたので、これが二度目の言及となります。彼は先祖とともに眠りにつき、イスラエルの王たちとともにサマリアに葬られました。そして、彼の子ヤロブアムが変わって王になりました。これはヤロブアム2世のことです。

一方、ユダの王アマツヤはどうなったかというと、彼はヨアシュとの戦いに敗れ北王国イスラエルの捕虜となっていましたが、北イスラエルの王ヨアシュが死んだ時に解放され、南ユダへの帰還が許されました。そしてヨアシュの死後、なお15年生きながらえましたが、彼の最期は実にあわれなものでした。19節にこうあります。「エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てた。彼はラキシュに逃げたが、人々はラキシュに追っ手を送り、そこで彼を殺した。」

アマツヤは、エルサレムの城壁が壊され財宝が奪い取られた後、国民の信頼を失ってしまいました。そして、父と同じように謀反によって殺されてしまいます。彼はラキシュに逃れましたが、人々はラキシュまで彼を追って来て、彼を殺しました。主よりも偶像に頼ることを選んだアマツヤは、愚かな人生を歩んだのです。

彼の後に南王国の王となったのがアザルヤです。アザルヤはウジヤとも呼ばれます。ウジヤの方が有名ですね。彼は父アザルヤが捕虜としてイスラエルに連れて行かれた年に16歳で王になりました。そして、アマツヤが死んだ年に単独の王となりました。彼についての特徴的な言及が22節にあります。「彼は、アマツヤが先祖とともに眠った後、エイラトを築き直し、それをユダに復帰させた。」

「エイラト」とは、紅海に隣接している町で、ソロモンの時に貿易港として用いられていた町です。その「エイラト」が、アザルヤ(ウジヤ)によってユダに復帰したのです。

アマツヤという悪王の後に、アザルヤ(ウジヤ)という善王が登場するのは不思議なことです。ここに神の恵みとあわれみを思わずにはいられません。神は、アブラハムと結んだ契約のゆえに、また、ダビデと結んだ契約のゆえに、南ユダを守られたのです。イスラエルの神、主は、実に契約を守られる忠実な方なのです。

Ⅲ.北王国ヨアシュの子ヤロブアム(23-29)

最後に、23~29節をご覧ください。「23 ユダの王ヨアシュの子アマツヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムが王となり、サマリアで四十一年間、王であった。24 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れなかった。25 彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。26 イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、【主】がご覧になったからである。そこには、奴隷も自由な者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。27 【主】はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。28 ヤロブアムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼が戦いであげた功績、すなわち、かつてユダのものであったダマスコとハマテをイスラエルに取り戻したこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。29 ヤロブアムは、彼の先祖たち、イスラエルの王たちとともに眠り、その子ゼカリヤが代わって王となった。」

イスラエルの王ヨアシュの死後、彼の子でヤロブアムが王となり、サマリアで41年間治めました。彼は北イスラエルの初代の王と同名ですが、彼とは何の関係もありません。しかし、彼は初代の王ヤロブアムと同じように主の目に悪であることを行い、ヤロブアムのすべての罪から離れませんでした。

「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。」(26)

彼はレボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復しました。「レボ・ハマテ」とは、ガリラヤ湖の北東240キロの地点にあり、「アラバの海」とは死海のことですから、相当広い範囲を回復したことになります。

ここで重要なのは、これが預言者ヨナによって預言されていたことであったという点です。ヨナ書にはこの預言の記録がありません。でも大切なのは、ヨナが活動していた時期がこのヤロブアム2世の治世と重なるという点です。これがわかると、ヨナ書を読む時の時代背景がわかります。ヨナの奉仕によってアッシリアの首都ニネべの人たちは悔い改めましたが、それからわずか50~60年後に、このアッシリアが北イスラエルを滅ぼし、捕囚の民として連れて行くのです。これは本当に驚くべきことです。

26節には、なぜヤロブアム2世が登場したのかその理由が記されてあります。それは、イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、主がご覧になられたからです。だれもイスラエルを助ける者がいませんでした。この時イスラエルはアラムの王ハザエルの侵攻によって苦しんでいました。その苦しみが頂点に達したとき、主はヤロブアム2世を送り、彼らを助けようとされたのです。主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとはしなかったのです。イスラエルがどんなに主に背き、主の目に悪であることを行っても、彼らを消し去ることを望まれていなかったのです。それは、ローマ書11章にて、イスラエルに対する神の賜物と召命は変わることがない、と書かれてあるとおりです。それで、主はまずヨアシュを送りイスラエルを助け、次にヤロブアム2世を送って彼らを救おうとされたのです。イスラエルもユダも最終的には滅ぼされてしまいますが、それが彼らの最後ではありません。聖書には、さらにそこからの回復が約束されています。これもまた主の憐れみによるものです。

本当に主は憐れみ深い方です。それは私たちに対しても同じです。主は私たちを救おうと今も憐れんでおられます。私たちが罪を犯したから終わりなのではなく、そこから回復できるように私たちのために救い主イエス・キリストを送ってくださいました。私たちが悔い改めて神の救いを受け入れるなら、私たちが私たちにも回復の希望があるのです。

「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」(詩篇50:15)

私たちも神の憐れみに拠りすがりましょう。苦難の日に主を呼び求めましょう。そうすれば、主は私たちを助け出してくださいます。私たちの救いは、この神の憐れみと神の救いの約束の確かさに基礎を置いているのです。

Ⅱ列王記13章

 私たちは前回、12章でユダのヨアシュ王の生涯について学びました。けれども、今回再び場面が北イスラエル王国に移ります。

 Ⅰ.イスラエルの王エホアハズ(1-13)

まず、1~7節をご覧ください。「13:1 ユダの王アハズヤの子ヨアシュの第二十三年に、エフーの子エホアハズがサマリアでイスラエルの王となり、十七年間、王であった。13:2 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続け、それから離れなかった。13:3 そのため、【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダドの手に絶えず渡しておられた。13:4 しかし、エホアハズが【主】に願ったので、【主】はこれを聞き入れられた。アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである。13:5 【主】がイスラエルに一人の救う者を与えられたので、彼らはアラムの支配を脱した。こうしてイスラエル人は以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。13:6 それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままであった。13:7 また、アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十、歩兵一万の軍隊しか残されていなかった。」

ユダの王アハズヤの子ヨアシュの第二十三年に、エフーの子エホアハズがサマリアでイスラエルの王となり、十七年間、王として治めました。彼はどのようにイスラエルを治めたでしょうか。2節には、「彼は主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続け、それから離れなかった。」とあります。彼は、ネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けました。

ネバテの子ヤロブアムの罪とは、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えるという罪です。金の子牛は、ヤロブアムは北王国イスラエルの初代王でしたが、人々の心が「自分から離れないために」金の子牛をベテルとダンに置きました。そして、「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」と言ったのです(1列王記12:26~参照)。エホアハズは、そのヤロブアムの罪から離れませんでした。あのヤロブアムの罪が、ここでも悪影響を与えています。

そのため、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダドの手に絶えず渡しておられました。でもエホアハズが主に願うと、主はこれを聞き入れました。これはすごいあわれみですね。ヤロブアムの道を歩む者が、主に願ったら主はそれを聞き入れられたのですから。その理由は、アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になり、見るに耐えなかったからです。

私たちは前回、南ユダのヨアシュ王が晩年に高慢になって、自分の信仰の父である祭司エホヤダの子ゼカリヤを殺すという蛮行を行ったことを学びました。幼い時から霊的な環境で育てられ神殿修復まで成し遂げた彼が、最終的に高ぶってアシェラ像を拝むようになり、それを警告したゼカリヤを殺したのです。それとは対照的に、ここにはどんなに悪人であっても、主は悔い改め、ご自分の名を呼ぶ者に、助けの御手を控えるような方ではないと言われています。

5節の「一人の救う者」とは、おそらくアッシリヤの王アダッド・ニナリ3世のことでしょう。彼がアラムを攻撃してきたので、アラムは自国防衛に専念せざるをえなくなり、イスラエルの支配を放棄しなければならなくなったのです。こうしてイスラエルは自分たちの天幕に住むようになったのです。つまり、平穏を取り戻すことができたのです。主があわれみのゆえに悪王エホアハズの願いを聞き入れられたからです。このタイミングも凄いですね。主はこのようにアッシリヤという国を用いて、エホアハズの祈りに応えてくださったのです。

それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままでした。何ということでしょう。せっかく主がイスラエルに良くしてくださったというのに、そこから離れようとしないとは。私たちは、主のあわれみがあるときにその中に逃げ込むようにしなければなりません。そうでないと、本当に滅ぼされてしまうことになります。

それが7節にあることです。「また、アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十、歩兵一万の軍隊しか残されていなかった。」

「脱穀のときのちりのよう」とは、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、二度と戻ってくることがない様のことです。まさに、脱穀のときのちりのように、過ぎ去っていくことになります。

次に、8~13節をご覧ください。「13:8 エホアハズについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、その功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。13:9 エホアハズは先祖とともに眠りにつき、人々は彼をサマリアに葬った。彼の子ヨアシュが代わって王となった。13:10 ユダの王ヨアシュの第三十七年に、エホアハズの子ヨアシュがサマリアでイスラエルの王となり、十六年間、王であった。13:11 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けた。13:12 ヨアシュについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、ユダの王アマツヤと戦ったその功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。13:13 ヨアシュは先祖とともに眠りにつき、ヤロブアムがその王座に就いた。ヨアシュはイスラエルの王たちとともにサマリアに葬られた。」

エホアハズの死後、彼に代わって王となったのは、彼の子のヨアシュでした。ヨアシュという同じ名前の王が南ユダにもいるので混同しないように注意してください。12章で見てきたのはその南ユダ王国のヨアシュでしたが、このヨアシュは北イスラエル王国のエホアハズの子のヨアシュです。彼は、その南ユダの王ヨアシュの第三十七年に北イスラエルの王となり、16年間、王として治めました。

彼は主の目の前に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けました。ヨアシュもまた、父エホアハズと同じように、ネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れようとしませんでした。何という悲劇でしょうか。

12節には、このヨアシュの業績がまとめられています。これは、王たちの業績をまとめる際に使用する定型句ですが、ヨアシュの場合普通とちょっと違います。彼の治世はまだ続くのに、ここに早々と「まとめ」が記されている点です。なぜこのような書き方となったのか。それは彼の陰がうすくなったからです。13節の「ヤロブアム」とは彼の息子のヤロブアムⅡのことですが、彼はその息子のヤロブアムⅡと共同統治を開始すると、その存在価値が大幅に下がったのです。さらに、偶像礼拝の罪に留まり続けたヨアシュは、すでに死んだのも同然だったからです。

人生の岐路に立たされたとき、信仰の道を選ぶか、自分勝手な道を選ぶかで、その人の運命が変わってきます。先に行けば行くほど、両者の差は大きくなっていきます。前者の終着点は永遠のいのちですが、後者のそれは永遠の滅びです。私たちを救いに導いてくれるのは、ただ神の恵みだけです。この神の恵みに信頼して、信仰にしっかり留まり続けましょう。

Ⅱ.ヨアシュの不信仰(14-19)

次に、14~19節をご覧ください。「13:14 エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだ。13:15 エリシャが王に「弓と矢を持って来なさい」と言ったので、王は弓と矢をエリシャのところに持って来た。13:16 エリシャはイスラエルの王に「弓に手をかけなさい」と言ったので、王は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上に置いて、13:17 「東側の窓を開けなさい」と言った。王が開けると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「【主】の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを討ち、これを絶ち滅ぼす。」13:18 それからエリシャは、「矢を取りなさい」と言ったので、イスラエルの王は取った。そしてエリシャは王に「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。13:19 神の人は彼に激怒して言った。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討つことになる。」」

ここに、エリシャが再び登場します。エリシャが死の病をわずらっていたとき、イスラエルの王のヨアシュは、エリシャのところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びました。どういうことでしょうか。彼は、ネバテの子ヤロブアムの道から離れず、それを行い続けましたが、同時に、イスラエルの神にも信頼を置いていたので、イスラエルの神、主の預言者であったエリシャを尊敬していたということです。「イスラエルの戦車と騎兵たち」という呼びかけは、イスラエルを防衛する力は、エリシャの神にあると表明したものです。ヨアシュは、預言者エリシャが死ぬことは、イスラエルにとって大きな損失であることを知っていたのです。

すると、エリシャはヨアシュに「弓と矢を持って来るように」と言いました。それでヨアシュが弓と矢をエリシャのところに持って来ると、エリシャが「弓に手をかけなさい」と言ったので、王が手をかけると、エリシャは自分の手を王の手の上に置いて「東側の窓を開けなさい」と言いました。ヨアシュがそのようにすると、エリシャはさらに「矢を射なさい」と言いました。ヨアシュが矢を射ると、エリシャはこう言いました。

「主の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを討ち、これを絶ち滅ぼす。」

そうです、その矢は、主による勝利を象徴していました。エリシャが自分の手をヨアシュの手の上に置いたのは、勝利は預言者を通して主から来るということを示していました。

それからエリシャは「もっと多くの矢を取りなさい」と言ったので、ヨアシュは矢を取りました。するとエリシャは「それで地面を打ちなさい」と言ったので、ヨアシュ王がそれで3回止めてしまいました。彼は、手に持っているすべての矢を射るべきだったのに、3回で止めてしまいました。

するとエリシャはヨアシュ王に激怒してこう言いました。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討つことになる。」どういうことですか。

エリシャが激怒した理由は、ヨアシュが不信仰であったからです。シリヤに対して徹底的な打撃を加えることができたのに、ヨアシュはそのことばに完全に応答しませんでした。矢を三回打ったところで「もうこれで十分だ」と思ったのか「シリヤには勝つことができない」と思ったのかわかりませんが、彼はそれ以上打つのを止めてしまったのです。その態度に対してエリシャは怒ったのです。ただ怒ったのではありません。激怒しました。

私たちも同じように、神の約束に対して、自分の思惑や不安などによって、思いとどまるときがあります。主が門戸を開いて導いておられるのに、その道を前進するのではなく現状にとどまろうとすることがあります。主が開かれた扉は、徹底的に前進していかなければなりません。そして、主が用意されたすべてのものを受け取る必要があります。信仰生活における勝利は、主への従順の度合いにかかっているのです。

Ⅲ.エリシャの死(20-25)

最後に、20~25節をご覧ください。「13:20 こうして、エリシャは死んで葬られた。その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入して来た。13:21 人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がった。13:22 アラムの王ハザエルはヨアハズの生きている間、絶えずイスラエルに圧迫を加えた。13:23 しかし、主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨てることはなさらなかった。13:24 アラムの王ハザエルは死んで、その子ベン・ハダドが代わって王となった。13:25 ヨアハズの子ヨアシュは、父ヨアハズの手から奪い取られた町々を、ハザエルの子ベン・ハダドの手から取り返した。ヨアシュは三度彼を撃ち破り、イスラエルの町々を取り返した。」

こうして、エリシャは死んで葬られました。彼の預言活動は、アハブの治世(B.C.853年に終わる)からヨアシュの治世(B.C.786年に終わる)まで、50年以上に渡って行われました。

その頃、モアブの略奪隊が、年が改まるたびにイスラエルに侵入していましたが、ある時、ひとりの人が死んだので、人々はその人を墓に葬ろうとしたとき、そこにそのモアブの略奪隊がやって来たので、彼らはその墓に遺体を投げ入れ、慌ててそこから立ち去りました。

すると、その人がエリシャの骨に触れるやいなや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がったのです。すごいですね。エリシャは死んでからも用いられました。死体になっているときでさえ、死人を生き返らせるという奇蹟を行なったのです。まあ、エリシャがというよりは主なる神がなさったわけですが。問題は、どうしてこの出来事がここに記されてあるのかということです。

おそらくこの奇跡は、ヨアシュを励ますために神様が行われたのでしょう。ヨアシュはエリシャが叱られてハッとして悔い改めたはずです。そのヨアシュに対して、人を生き返らせることができる主に信頼するなら、アラムとの戦いにおいても絶対に勝利することができると伝えたかったのでと思います。

アラムの王ハザエルはエホアハズの生きている間、絶えずイスラエルに圧迫を加えました。しかし、主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨てることはなさいませんでした。

アラムの王ハザエルは、エホアハズが生きている間中、イスラエルを虐げましたが、彼らを滅ぼし尽くすことはありませんでした。なぜでしょうか。ここには、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、」とあります。主は、ご自分が結ばれた契約のゆえに、ご自分の名のゆえに、イスラエルに良くして下さったのです。これを聖書では「神のあわれみ」と言います。

私たちは、何か良いことが起これば、自分たちの今までのことを正当化する傾向があります。しかし、多くの場合、神がご自分の名のゆえにあわれんでおられるのです。例えば、ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯し、夫ウリヤを殺す罪を犯しましたが、彼はその後バテ・シェバと離縁することなく、むしろ彼女をいたわり、その子ソロモンをもうけました。このソロモンがダビデの王座を受け継ぐことになりました。それはただ神のあわれみによるものです。それは決して神の導きによるものではありませんでした。しかし、ダビデが自分の罪を悔い改め、砕かれた、悔いた心を持った時、神はダビデをあわれみ、バテ・シェバを妻とし続けることができるようにされ、そこから出てくる世継ぎの子ソロモンが王座を受け継ぐことができるようにされたのです。

自分が神の恵みによって今の自分がいるのだ、神のあわれみによって滅ぼされずに、生されているのだ、と知ることは非常に重要です。私たちの神は契約を忠実にお守りになられる方です。私たちの救いの確かさは、この変わることのない神の愛に基づいているのです。

アラムの王ハザエルが死に、その子ベン・ハダドが変わって王となりましたが、エホアハズの子ヨアシュは、その父エホアハズの手からハザエルが攻め取った町々を、ハザエルの子ベン・ハダドから取り返しました。ヨアシュは三度彼を打ち破って、イスラエルの町々を取り戻したのです。これは17節でエリシャが語った預言の通りです。神のことばは一つも滅びることなく、すべてが成就するのです。

Ⅱ列王記12章

 今回は、Ⅱ列王記12章から学びます。

 Ⅰ.高き所を取り除かなかったヨアシュ(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「12:1 ヨアシュはエフーの第七年に王となり、エルサレムで四十年間、王であった。彼の母の名はツィブヤといい、ベエル・シェバ出身であった。12:2 ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも【主】の目にかなうことを行った。12:3 ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。」

ヨアシュは、エフーが北王国で治めていた第七年目に南王国の王となり、エルサレムで40年間治めました。彼の父はアハズヤで、母はツィブヤです。彼女はベエル・シェバの出身でした。

ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えていた間は、いつも主の目にかなうことを行いましたが、彼は、エホヤダの養育から離れてからは変わってしまいます。しかし、エホヤダが教えていた間でも問題がありました。それは、高き所は取り除かなかったということです。「高き所」とは偶像礼拝が行われていた場所です。それは必ずしも彼らが偶像礼拝を行っていたということではありません。彼らはヤハウェーなる神を礼拝していましたが、その高き所で礼拝していたのです。それは明らかにモーセの律法に違反することでした。というのは、申命記12章2~7節、13~14節には、全焼のささげ物を自分勝手な場所で献げないように気をつけなさいとあるからです。彼らは全部族のうちから選ばれる一つの場所、すなわち、エルサレムの神殿で献げものをしなければならなかったのに、この高き所でいけにえをささげることが習慣になっていました。そしてそれを変えられずにいたのです。おそらく、彼は高き所が存在することをさほど問題視していなかったのでしょう。伝統的に、南王国の王たちは高き所を軽く扱ってきたので、ヨアシュも同じような対応をしたのだと思います。

このようなことは、私たちクリスチャンにも見られることです。昔からのしきたりや習慣、言い伝えといったものを取り入れたまま、それをなかなか変えられずにいる場合があります。それらが心の深くに入り込んでいるので、それを変えることが難しいです。けれども、本当に神の方法で礼拝をささげたいと思うなら、それを変えなければなりません。パウロはローマ12章1~2節でこう言っています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

この世と調子を合わせてはいけません。神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられることなのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。

Ⅱ.神殿の修復(4-16)

次に、4~16節をご覧ください。「12:4 ヨアシュは祭司たちに言った。「【主】の宮に献げられる、聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金や、自発的に【主】の宮に献げられる金のすべては、12:5 祭司たちが、それぞれ自分の担当する者から受け取りなさい。神殿のどこかが破損していれば、その破損の修繕にそれを充てなければならない。」12:6 しかし、ヨアシュ王の第二十三年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しなかった。12:7 ヨアシュ王は、祭司エホヤダと祭司たちを呼んで、彼らに言った。「なぜ、神殿の破損を修理しないのか。もう、あなたがたは、自分の担当する者たちから金を受け取ってはならない。神殿の破損にそれを充てなければならないからだ。」12:8 祭司たちは、民から金を受け取らないことと、神殿の破損の修理に責任を持たないことに同意した。12:9 祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴を開け、それを祭壇のわき、【主】の宮の入り口の右側に置いた。こうして、入り口を守る祭司たちは、【主】の宮に納められる金をみな、そこに入れた。12:10 箱の中に金が多くなるのを確認すると、王の書記と大祭司は上って来て、それを袋に入れ、【主】の宮に納められている金を計算した。12:11 こうして、勘定された金は、【主】の宮で工事をしている監督者たちの手に渡された。彼らは、それを【主】の宮を造る木工と建築する者たち、12:12 石工、石切り工に支払い、また、【主】の宮の破損修理のための木材や切り石を買うために支払った。つまり、金は神殿修理のための出費のすべてに充てられた。12:13 ただし、【主】の宮のための銀の皿、芯取りばさみ、鉢、ラッパなど、いかなる金の用具、銀の用具も、【主】の宮に納められる金で作られることはなかった。12:14 その金は、工事する者たちに渡され、彼らはそれと引き替えに【主】の宮を修理したからである。12:15 また、工事する者に支払うように金を渡した人々が精算を求められることはなかった。彼らが忠実に働いていたからである。12:16 代償のささげ物の金と、罪のきよめのささげ物の金は、【主】の宮に納められず、祭司たちのものとなった。」

ヨアシュ王の最大の貢献は、神殿を修復したことです。これは列王記に出てくる最初の修復です。ヨアシュ王は、そのために主の宮に献げられるお金を充てようとしました。聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金とは、登録されたすべての人が献げる献金のことです。出エジプト記30章11~16節には、それは半シェケルと定められていました。また、自発的に主の宮に献げられる金とは、レビ記27章が規定する特別な誓願を立てた者たちの献げた金のことです。当初、ヨアシュはそのお金で神殿の修復工事をしようと考えていました。それを担ったのは祭司たちです。

ところが、ヨアシュ王の23年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しませんでした。つまり、これらの金では、祭司やレビ人の生活を賄い、神殿での礼拝を維持するだけで精一杯で、神殿の破損か所を修理する余剰金は出なかったのです。それでヨアシュは新しい計画を立て、このプロジェクトから祭司たちを除外しました。

7節に着目してください。ヨアシュは、祭司エホヤダと祭司たちを呼んでそのことを告げました。祭司エホヤダは、彼の霊的な親でもあります。そのエホヤダに命じるほど彼は王として、また霊の人として成長していたことがわかります。彼は7歳で王となり、これはその23年目のことですから、この時彼は30歳だったことがわかります。彼はエホヤダの養育から離れ、霊的な事柄においても識別力を働かせるほど成熟していたのです。

その新しい計画が9節に記されてあります。「祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴を開け、それを祭壇のわき、【主】の宮の入り口の右側に置いた。こうして、入り口を守る祭司たちは、【主】の宮に納められる金をみな、そこに入れた。」

要するに、エホヤダは、献金箱を設けることによって宮の修繕のための特別献金枠を設けました。その結果どうなったでしょうか。そうしたら、人々からどんどん金を入れたので、箱がいっぱいになりました。それで、箱の中に金が多くなると、王の書記官と大祭司は上って来て、それを箱から取り出して袋に入れ、主の宮に納められているかを計算しました。

こうして勘定された金は、主の宮で工事をしている監督者たちの手に渡されました。監督者たちはその金を、宮で働く木工や建築師たち、石工や石切り工たちに賃金として支払いました。 ただし、主の宮に納められる金で、主の宮のために銀の皿、心切りばさみ、鉢、ラッパなど、すべての金の器、銀の器を作ることはありませんでした。また、工事する者に支払うように金を渡した人々と、残高を勘定することもしませんでした。彼らが忠実に働いていたからです。すばらしいですね。忠実な者たちが働いていたので、公の会計報告をしなくても安心だったのです。エペソ6章7節には、「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」とあるように、何事も主に仕えるように心を込めて、忠実に仕えるよう心掛けたいと思います。

Ⅲ.ヨアシュの死(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「12:17 そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取った。さらに、ハザエルはエルサレムを目指して攻め上った。12:18 ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、【主】の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。12:19 ヨアシュについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。12:20 ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。12:21 彼の家来シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデが彼を討ったので、彼は死んだ。人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。彼の子アマツヤが代わって王となった。」

そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取りました。ハザエルはさらにエルサレムを目指して攻め上って来ました。このハザエルについては、8章で見たように、主君ベン・ハダデを殺して王となりました。それはエリシャが預言した通りでした。その時エリシャは、彼が残虐な仕打ちをイスラエルに対して行なうことを預言しましたが、果たしてそれが今、実現することになります。彼はイスラエルを攻め、さらにユダにまで攻めて来ました。ガテは、イスラエル南部の沿岸地域にある町で、ペリシテ人の町として有名なところでした。ハザエルはそこを攻め、今度はエルサレムを目指して攻め上って来たのです。

それに対してヨアシュはどのように対応したでしょうか。18節をご覧ください。「ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、【主】の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。」

なんとヨアシュは、自分たちの神である主(ヤハウェ)に敵からの救いを祈り求めるのではなく、主の宮にある金をかすめ奪い、それをハザエルに贈り、和平を求めました。霊的堕落です。エルサレムの財宝を手に入れたハザエルは、そのまま去って行きました。

2歴代誌24章には、ヨアシュがどのように堕落したかその経緯が書かれています。祭司エホヤダが死ぬと、ヨアシュはユダの高官たちの影響を受け、アシェラ像とその他の偶像を礼拝するようになりました。それで主は彼と高官たちに預言者たちを送りましたが、ヨアシュと高官たちはそれを無視しました。最後に、祭司エホヤダの子ゼカリヤが立ち上がり、偶像礼拝の罪を糾弾しますが、ヨアシュはそのゼカリヤを石打にして殺すのです。

いったいなぜヨアシュは、このように堕落してしまったのでしょうか?幼い頃から非常に霊的な環境の中に育てられ、大人になってからも霊的な改革を行なっていたのに、どうしてこんなにも堕落してしまったのでしょうか?一言でいえば、「高ぶり」が大きな原因の一つでした。これはヨアシュだけでなく、他のユダの王たちも言えることですが、最初のころは、主に対して熱心だったけれども、主が国を繁栄させ力を増し加えてくださるにしたがって、主ではなく自分を誇るようになり、自分の力でこの国が成り立っているのだと考えるようになったのです。北王国イスラエルでは完全に主から離れているという問題がありましたが、南ユダでは、その霊的な力が逆に仇となって、主の前におけるへりくだりを忘れてしまうという問題があったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分が信仰に歩んでいると思うあまり、いつの間にか高慢になり、神さまの恵みに拠り頼み、必死にあわれみを請う謙虚さを失ってしまう危険があります。私たちはいつも、自分が主のみを自分の分け前としているのか、それとも、主に関する霊的環境に満足して、それに依存してしまっているかを吟味してみる必要があります。主を愛する牧者がいること、互いに愛する兄弟がいること、健全な教会形成なされていること、立派な会堂が与えられていることといった霊的な環境ではなく、ただ主のみを自分の分け前とし、日々、その新しいあわれみにすがっているかが問われているのです。

そんなヨアシュの最後はどうだったでしょうか。20節をご覧ください。「ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。」

彼は彼の家来たちの謀反によって殺されてしまいます。手を下したのは、シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデです。この謀反自体は悪です。しかし、それを招いたのはヨアシュ本人でした。正義に支配された王のところに謀反は起こりません。みなが平和に暮らすことができるからです。支配者や指導者が道をそれますと、必ずこのような混乱が生じることになるのです。

21節には、「人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。」とありますが、彼は王たちの墓には葬られませんでした。2歴代誌24章25節には、「人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には葬らなかった。」とあります。なぜなら、彼は神のさばきを受けて死んだからです。

何ということでしょう。彼は神殿の修復工事に情熱を燃やすほど信仰的な王でしたが、最後は、神殿の財宝を敵に与えても痛みを感じない王になっていました。人生の最後を信仰者として生きるのはなんと難しいことでしょうか。日々、クリスチャンとしての自分の立ち位置を確認しながら歩まなければなりません。

Ⅱ列王記11章

 今回は、Ⅱ列王記11章から学びます。

 Ⅰ.ヨアシュの保護(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「11:1 アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族全員を滅ぼした。11:2 しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れた。人々が彼をアタルヤから隠したので、彼は殺されなかった。11:3 彼は乳母とともに、【主】の宮に六年間、身を隠していた。その間、アタルヤが国を治めていた。」

場面は南ユダ王国に移ります。アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族全員を滅ぼしました。アハズヤは南ユダ王国の王でしたが、戦いで傷を負っていたイスラエルの王ヨラムを見舞うためにイズレエルにやって来ていましたが、彼もまたエフーによって殺されてしまいました。それでアタルヤは、ただちに一族全員を滅ぼしたのです。なぜ彼女はそんなことをしたのでしょうか。自分が南王国ユダを支配する王になるためです。
   彼女は、北王国イスラエルの王であったアハブとイゼベルの娘です。彼女は、南王国の王ヨラムと結婚し妻となり数人の子を儲けましたが、ペリシテ人とアラビア人の攻撃を受け、末子アハズヤ(別名エホアハズ)以外は、皆殺されてしまいした(2歴代21:17)。そのアハズヤが殺されたので、彼女が王の実権を握るには一族全員を滅ぼさなければならなかったのです。それにしても一族全員を殺すとはおぞましいことです。彼女がこのような恐ろしいことができたのは、彼女の中に母イゼベルの性質が宿っていたからです。イゼベルはかつてヤハウェの預言者を次々と殺し、もはや主に忠実な者がほとんど残されていないのではないかと思われたほど殺しました。そしてアタルヤもその残虐性を受け継いで、目的のためには手段を選ばない女になっていたのです。

しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れました。エホシェバは、ヨラム王の娘で、死んだアハズヤの腹違いの姉妹です。彼女は、アタルヤが殺そうとした孫たちの中からヨアシュを盗み出し、寝具をしまう小部屋に隠したのです。この時ヨアシュはわずか1歳でした。こうして彼は乳母とともに、主の宮に六年間、身を隠していました。その間、アタルヤが国を治めていました。彼女は南王国で唯一の女王であり、ダビデの家系ではない唯一の王です。もし、アタルヤがヨアシュを殺していたら、ダビデの家系は完全に途絶えてしまい、メシヤ誕生の約束が挫折するところでした。しかし、神はそれをお許しになりませんでした。

このように神の働きが失敗し、悪魔が勝利しているように見えるときがありますが、決してそんなことはありません。主は必ずご自分のみこころを成就するために、一人の赤ん坊を守られたように守ってくださいます。アタルヤは悪魔の手先ですが、神はそんな敵の攻撃からヨアシュを守り、悪魔の策略を砕かれたのです。

Ⅱ.祭司エホヤダの計画(4-16)

次に、4~8節をご覧ください。「11:4 七年目に、エホヤダは人を遣わして、カリ人と近衛兵それぞれの百人隊の長たちを【主】の宮の自分のもとに来させ、彼らと契約を結んで【主】の宮で彼らに誓いを立てさせ、彼らに王の子を見せた。11:5 彼は命じた。「あなたがたのなすべきことはこうだ。あなたがたのうちの三分の一は、安息日に務めに当たり、王宮の護衛の任務につく。11:6 三分の一はスルの門に、もう三分の一は近衛兵舎の裏の門にいるように。あなたがたは交互に王宮の護衛の任務につく。11:7 あなたがたのうち二組は、みな安息日に務めに当たらない者であるが、【主】の宮で王の護衛の任務につかなければならない。11:8 それぞれ武器を手にして王の周りを囲め。その列を侵す者は殺されなければならない。あなたがたは、王が出るときにも入るときにも、王とともにいなさい。」」

7年目とは、アタルヤの治世の第七年目ということです。祭司エホヤダがヨアシュを王にするために動きます。彼は、ヨアシュが主の宮で隠されていることを知っていました。そして、その時を待っていたのです。彼は密かに人を遣わして、カリ人と近衛兵それぞれの百人隊の長たちを主の宮の自分のもとに来させ、彼らと契約を結んで主の宮で彼らに誓いを立てさせ、彼らに王の子を見せました。つまり、正当な後継者が存在していることを彼らに示したのです。カリ人とは、ケレテ人のことです。彼らはダビデに忠誠を誓った兵士たちです(2サムエル20:23)。彼らは ダビデの子孫が王にならなければいけないことをよく知っていました。彼らはアタルヤにくみしていない忠実な兵士たちでした。ですから、彼らがそのことを聞いた時どれほど喜んだことでしょう。そして、エホヤダは彼らと契約を結び、王位奪還計画を開始するのです。それが5~8節にある内容です。

彼らのうちの三分の一は安息日の務めに当たり、王宮の護衛の任務につきます。三分の一は東のスルの門を固め、残りの三分の一は近衛兵舎の裏の門の護衛に当たります。王宮の護衛は交代制とし、三組の二組は安息日には勤務しないが、主の宮の王子の護衛に当たります。それぞれ武装して王子の身辺警備を厳重にするようにと。これは王の戴冠式に備えるための準備です。

祭司エホヤダの信仰と勇気はすごいですね。彼は個人的な理由でアタルヤを殺害し、ヨアシュを王にしようしたのではありません。彼はあくまでも神のみこころが成就するために動いたのです。つまり彼は主の代理人として、悪魔が送り込んだ強奪者を排除しようとしたのです。彼は信仰により、いのちがけで王位奪還に動き出しました。

9~16をご覧ください。「11:9 百人隊の長たちは、すべて祭司エホヤダが命じたとおりに行った。彼らは、それぞれ自分の部下たちを、安息日に務めに当たる者も、安息日に務めに当たらない者も、祭司エホヤダのところに連れて来た。11:10 祭司は百人隊の長たちに、【主】の宮にあったダビデ王の槍と丸い小盾を与えた。11:11 近衛兵たちはそれぞれ武器を手にして、神殿の右側から神殿の左側まで、祭壇と神殿に向かって王の周りに立った。11:12 エホヤダは王の子を連れ出し、王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。こうして人々は彼を王と宣言し、彼に油を注ぎ、手をたたいて「王様万歳」と叫んだ。11:13 アタルヤは近衛兵と民の声を聞いて、【主】の宮の民のところに行った。11:14 彼女が見ると、なんと、王が定めのとおりに柱のそばに立っていた。王の傍らに隊長たちやラッパ奏者たちがいて、民衆がみな喜んでラッパを吹き鳴らしていた。アタルヤは自分の衣を引き裂き、「謀反だ、謀反だ」と叫んだ。11:15 祭司エホヤダは、部隊を委ねられた百人隊の長たちに命じた。「この女を列の間から連れ出せ。この女に従って来る者は剣で殺せ。」祭司が「この女は【主】の宮で殺されてはならない」と言ったからである。11:16 彼らは彼女を取り押さえた。彼女が馬の出入り口を通って王宮に着くと、彼女はそこで殺された。」

百人隊の長たちは、すべて祭司エホヤダが命じたとおりに行いました。それぞれ自分の部下たちを、安息日に務めに当たる者も、当たらない者も、祭司エホヤダのところに連れてきました。

すると祭司エホヤダは百人隊の長たちに、主の宮にあったダビデ王の槍と丸い小盾を与えました。これらの槍と小盾は国家行事の際に用いられるもので、この戴冠式が正式なものであることを示すものでした。近衛兵たちはそれぞれ武装し、主の宮の正面に向かって王の周りに立って護衛しました。エホヤダは王の子を連れ出し、王冠をかぶらせ、モーセ五書を渡しました。こうして人々は彼を王と宣言し、彼に油を注ぎ、手をたたいて「王様万歳」と叫んだのです。

アタルヤはヨアシュの存在について知りませんでした。彼女は近衛兵と民の声を聞いて、主の宮にいる民のところに行ってみると、なんと、王が立つ定位置にヨアシュが立っているではありませんか。それはヨアシュが新しい王として即位したことを示していました。そして、民が喜んでラッパを吹き鳴らしていました。それを見たアタルヤは自分の衣を引き裂き、「謀反だ、謀反だ」と叫びましたが、だれも彼女に加勢する者はいませんでした。

すると祭司エホヤダは、百人隊の長たちに、彼女を捕らえ、王宮まで連行するように命じました。そして、彼女に従って来るものは剣で殺すようにと命じました。主の宮は礼拝する場所であって、処刑所ではないからです。そこで彼らは彼女を取り押さえ、王宮の馬の門に着くと、彼女はそこで処刑されました。

アタルヤは、栄華の絶頂期の中で突然の死を迎えました。詩篇49篇20節に「人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。」とありますが、たとえどんな栄華の中にあっても悟ることがなければ、それは滅び失せる獣と何ら変わりありません。日々主のみことばを通して悟りが与えられ、主の御前に誠実に歩まなければなりません。

Ⅲ.バアル神殿の破壊(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「11:17 エホヤダは、【主】と、王および民との間で、彼らが【主】の民となるという契約を結ばせ、王と民との間でも契約を結ばせた。11:18 民衆はみなバアルの神殿に行って、それを打ち壊した。彼らはその祭壇と像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司マタンを祭壇の前で殺した。祭司エホヤダは【主】の宮に管理人を置いた。11:19 彼は百人隊の長たち、カリ人、近衛兵たちと民衆すべてを率いた。彼らは王を【主】の宮から連れて下り、近衛兵の門を通って王宮に入った。王は王の座に着いた。11:20 民衆はみな喜んだ。アタルヤは王宮で剣で殺され、この町は平穏となった。11:21 ヨアシュは七歳で王となった。」

エホヤダは、主と、王および民との間で、彼らが主の民となるという契約を結ばせ、また、王と民との間でも契約を結ばせました。これは、モーセの律法に従って、主の民として生きるという再献身の表明です。また、王はモーセの律法に従って民を統治し、民はその王に従うという内容の契約です。すばらしいですね、私たちは主の所有の民である、主のものであるということを再認識することは。ある時には神様のものだけれども、ある時には自分の好きなようにということではなく、いつでも、どこでも、自分たちは主の民、その牧場の羊であり、そこに立てられた王の統治に従って生きると認識することは大切なことです。

それで民はどうしたかというと、バアルの神殿に行って、それを打ち壊しました。エルサレムになんとバアルの神殿が建っていたのです。これはアタルヤが南王国にバアル礼拝を広げるために建てたたものです。民は、それを打ち壊したのです。そればかりでなく、彼らはその祭壇と像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司マタンを祭壇の前で殺しました。アタルヤによって持ち込まれたバアル礼拝が、この時点で一掃されたのです。そして祭司エホヤダは、バアル礼拝者たちがそこに入らないように主の宮を管理する管理人たちを置きました。エホヤダは百人隊の長たち、カリ人、近衛兵たちと民衆を率いて、王を主の宮から連れ下り、王宮に導きました。そこでヨアシュは王の座に着きました。ヨアシュが7歳の時です。ヨアシュは7歳で王になりました。

一方アタルヤはどうなったかと言うと、彼女は王宮で殺されました。それでこの町は平穏になりました。この町とはエルサレムのことです。エルサレムは再び平穏になりました。アタルヤが南王国にバアル礼拝を持ち込んで以降、エルサレムは霊的混乱が蔓延していましたが、それが解消されたのです。北王国ではイゼベルがバアル礼拝を推進し、南王国ではイゼベルの娘のアタルヤがその役割を果たしました。しかし、南王国は北王国ほどバアル礼拝の影響を受けていませんでした。それはダビデの血筋に属する南王国の王たちの中に主を恐れる者たちが何人かいて、南王国を霊的堕落から守ったからです。私たちも祭司エホヤダに導かれた民を見習って、主の民であるという身分が与えられたことを感謝し、主に喜ばれる歩みを求めていきたいと思います。

Ⅱ列王記10章

 今回は、Ⅱ列王記10章から学びます。前回は、エフーがイスラエルの王ヨラムに謀反を起こし、彼を殺して王なったこと、また、アハブの妻イゼベルを殺したことを学びました。

 Ⅰ.エフーによる粛清(1-17)

まず、1~17節をご覧ください。11節までをお読みします。「1 アハブにはサマリアに七十人の子どもがあった。エフーは手紙を書いてサマリアに送り、イズレエルの長たちや長老たち、および、アハブの子の養育係たちにこう伝えた。2 「この手紙が届いたら、あなたがたのところに、あなたがたの主君の子どもたちがいて、戦車や馬も、城壁のある町や武器も、あなたがたのところにあるのだから、すぐ、3 あなたがたの主君の子どもの中から最も善良で真っ直ぐな人物を選んで、その父の王座に就かせ、あなたがたの主君の家のために戦え。」4 彼らは非常に恐れて言った。「二人の王たちでさえ、彼に当たることができなかったのに、どうしてこのわれわれが当たることができるだろうか。」5 そこで、宮廷長官、町のつかさ、長老たち、および養育係たちは、エフーに人を送って言った。「私どもはあなたのしもべです。あなたが私どもにお命じになることは何でもいたしますが、だれも王に立てるつもりはありません。あなたのお気に召すようにしてください。」6 エフーは再び彼らに手紙を書いてこう言った。「もしあなたがたが私に味方し、私の声に聞くのなら、あなたがたの主君の子どもたちの首を取り、明日の今ごろ、イズレエルの私のもとに持って来るように。」そのころ、王の子どもたち七十人は、彼らを養育していた町のおもだった人たちのもとにいた。7 その手紙が彼らに届くと、彼らは王の子どもたちを捕らえ、その七十人を切り殺し、その首をいくつかのかごに入れ、それをイズレエルのエフーのもとに送り届けた。8 使者が来て、「彼らは王の子どもたちの首を持って参りました」とエフーに報告した。すると彼は、「それを二つに分けて積み重ね、朝まで門の入り口に置いておけ」と命じた。9 朝になるとエフーは出て行き、立ってすべての民に言った。「あなたたちに罪はない。聞きなさい。私が主君に対して謀反を起こして、彼を殺したのだ。しかし、これらの者を皆殺しにしたのはだれか。10 だから知れ。【主】がアハブの家について告げられた【主】のことばは一つも地に落ちないことを。【主】は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」11 エフーは、アハブの家に属する者でイズレエルに残っていたすべての者、身分の高い者、親しい者、その祭司たちをみな打ち殺し、一人も生き残る者がないまでにした。

きょうのところでは、エフーによる粛清がさらに続きます。それは、イスラエルの王ヨラムやアハブの妻イゼベルの死だけでなく、アハブの家のすべての者を抹消するまで続きます。

エフーは自らの統治を強固なものにするために、サマリアに手紙を送りました。サマリアにはアハブの子どもたち70人が住んでいたからです。彼はイズレエルの長たちや長老たち、および、アハブの養育係たちにこう伝えました。2~3節です。「この手紙が届いたら、あなたがたのところに、あなたがたの主君の子どもたちがいて、戦車や馬も、城壁のある町や武器も、あなたがたのところにあるのだから、すぐ、3 あなたがたの主君の子どもの中から最も善良で真っ直ぐな人物を選んで、その父の王座に就かせ、あなたがたの主君の家のために戦え。」

どういうことでしょうか。彼らには主君アハブの子どもたちがいるのだから、主君に忠誠を示すために、息子たちの中から新しい王を立てて、自分と戦えということです。これは脅迫状です。そうすれば、北イスラエルの王ヨラムにしたように、また、南王国のアハズヤにしたようにおまえたちもしてやるというのですから。

それに対して、彼らはどのように応答したでしょうか。4節には、彼らは非常に恐れ、ヨラムとアハズヤという二人の王でさえできなかったのに、どうして自分たちに出来るだろうかと言ったとあります。

そこで、宮廷長官、町のつかさ、長老たち、および養育係たちは、エフーに手紙を送って言いました。「私どもはあなたのしもべです。あなたが私どもにお命じになることは何でもいたしますが、だれも王に立てるつもりはありません。あなたのお気に召すようにしてください。」

するとエフーはこう言いましたか。6節です。「もしあなたがたが私に味方し、私の声に聞くのなら、あなたがたの主君の子どもたちの首を取り、明日の今ごろ、イズレエルの私のもとに持って来るように。」

もし本当に彼らが自分に味方し、自分の声に聞き従うというのであれば、明日の今ごろまでに、アハブの子どもたちの首を取り、イズレエルの自分のもとに持って来るように、と言うのです。厳しい暗殺によって王が王位から退けられた場合、その王と血縁関係にある親族を生かしておくことは、将来の内戦を招きかねなかったので、そうならないように、王の親族を抹殺するという行為は、古代においては、イスラエルだけでなく中近東の諸国においても、一般的に行われていました。ですから、アハブの70人たちの子どもたちの首を取り、それを自分のところに持って来るようにと言ったのです。

これは、非常に厳しい要求でした。なかなか受け入れがたい要求です。いったいどうしてこんなことになってしまったのでしょうか。エフーの要求に対して、長老たちは、自分たちはだれも王を立てないというところで終わっていればよかったのに、それ以上のことを約束してしまったからです。「あなたがお命じになることは何でもいたします。」というのがそれです。狡猾なエフーは、その機会を見逃しませんでした。しかし、人に対して完全な忠誠を誓うのは愚かなことです。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」( 箴言29:25)とある通りです。私たちが全面的に従うのは、神のみだからです。

その手紙が届くと、彼らはどうしましたか。7節です。彼らは王の子どもたちを捕らえ、その70人を切り殺し、その首をいくつかのかごに入れ、それをイズレエルにいたエフーのもとに届けました。するとエフーは、それを二つに分けて積み重ね、朝まで門の入り口に置いておくように命じました。すごい光景ですが、これは当時の社会ではよく見られた光景でした。当時の社会では、このように負けた者たちの首を陳列することによって、自分たちが勝ったことを示すことがよくあったのです。いわゆる見せしめですね。

イスラエルの民は、このような首さらしの光景を見て動揺していたのでしょう。翌朝、エフーは出て行き、何が起こっているのかをすべての民に説明します(9)。それは、主君ヨラムを殺したのは自分であって、イスラエルの民には責任はないということ、しかし、この70人の首については、誰が殺しにしたのかはわからないということ、その上で、これらの悲劇は、主が預言者エリヤを通して語られたことの成就であり、主がそのしもべエリヤに告げられたことが成就したのだと。これは半分本当で半分嘘です。半分本当であるというのは、これは預言者エリヤを通して語られたことが成就するためであり、主が告げられたことばは一つも地に落ちることはないということです。しかし、半分は嘘というのは、アハブの70人の子どもを殺したのはエフー自身であって、それを知らないというのは全くの嘘です。エフーは本当に狡猾な人間でした。このような嘘をついてまで、自分のやっていることを正当化しようとしたわけです。

そうした彼の残虐さは、その後の悲劇を生みます。11節をご覧ください。エフーは、アハブの家に属する者でイズレエルに残っていたすべての者、身分の高い者、その祭司たちをみな打ち殺し、一人も生き残る者がないまでにしました。エフーは、ヨラム王朝に仕えた高官、親友、祭司たちまで皆殺しにしてしまったのです。いったいなぜ彼は罪のない人まで大量に虐殺したのでしょうか。それは彼の傲慢さのゆえです。彼は「イスラエルの王」として担ぎ出され、物事全てが自分の思うままに進むと、いつしか傲慢になっていきました。傲慢な人は、自分が神であるかのように振る舞います。自分に傲慢な思いがないかどうか、聖霊に吟味していただかなければなりません。

エフーによる悲劇は、それだけにとどまりませんでした。12~14節をご覧ください。ここには、もう一つの悲劇が記されてあります。「12 それから、エフーは立ってサマリアへ行った。その途中、羊飼いのベテ・エケデというところで、13 エフーはユダの王アハズヤの身内の者たちに出会った。彼が「おまえたちはだれか」と聞くと、彼らは、「私たちはアハズヤの身内の者です。王の子どもたちと、王母の子どもたちの安否を尋ねに下って来ました」と答えた。14 エフーが「彼らを生け捕りにせよ」と言ったので、人々は彼らを生け捕りにした。そして、ベテ・エケデの水溜め場で彼ら四十二人を殺し、一人も残さなかった。

それから、エフーは南下してサマリアに向かいました。その途中に羊飼いのベテ・エケデというところがありましたが、そこでユダの王アハズヤの身内の者たちに出会いました。彼らはエフーが起こしたクーデターのことを知りませんでした。それでエフーが「おまえたちはだれか」と聞くと、彼らは、自分たちがアハズヤの身内の者で、王の子どもたちと王母の子どもたちの安否を尋ねに下って来たと答えると、エフーは「彼らを生け捕りにせよ」と言ったので、人々は彼らを生け捕りにしました。そして、ベテ・エケデの水溜め場で彼ら42人を殺し、一人も残しませんでした。この42人の中には殺す必要のなかった者もいました。というのは、直接アハブの家と血縁関係になかった人たちだったからです。それなのに彼は、無惨にも42人全員を殺したのです。

次に、15~17節までをご覧子ください。「彼がそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナダブに出会った。エフーは彼にあいさつして言った。「あなたの心は、私の心があなたの心に対してそうであるように、真っ直ぐですか。」ヨナダブは、「そうです」と答えた。「そうなら、こちらに手を伸ばしなさい。」ヨナダブが手を差し出すと、エフーは彼を戦車の上に引き上げて、16 「私と一緒に来て、【主】に対する私の熱心さを見なさい」と言った。エフーは彼を自分の戦車に乗せて、17 サマリアに行った。エフーは、アハブに属する者でサマリアに残っていた者を皆殺しにし、その一族を根絶やしにした。【主】がエリヤにお告げになったことばのとおりであった。」

エフーがそこを去って行くと、彼を迎えに来たレカブの子ヨナタブに出会いました。レカブ人については、民数記10章29節、士師記1章16節、Ⅰサムエル記15章6節にあります。彼らはケニ人とつながっています。ケニ人はモーセの舅の子であり、いわばモーセの従兄弟にあたります。彼らはユダ族と共にカナンに入国しながらも、カナンの宗教に染まることなく、ユダの荒野で独自の共同体を形成していました。そのケニ人の系譜の中にレカブの子ヨナダブという人物がいたのです。彼はオムリ王朝打倒のために、エフーの軍勢に加わった人物です。このヨナダブの行動に端を発し、これを受け継ぐ少数の人々が「レカブ人」と呼ばれるようになりました。

ですから、当然、バアル礼拝には反対の立場を取っていました。彼はアハブ王朝の崩壊も歓迎していました。そのレカブの子ヨナタブにエフーが、「あなたの心は、私の心があなたの心に対してそうであるように、真っ直ぐですか」と尋ねると、ヨナタブが「そうです」と答えたので、彼はヨナタブを自分の戦車の上に引き上げ、一緒にサマリアに向かいました。アハブに属する者でサマリアに残っていた者を皆殺しにするためです。サマリアに着くと、エフーはアハブ王朝の親族全員を皆殺しにしました。

それは、主がエリヤにお告げになったことばのとおりでした。エフーは、神のさばきを行う代理人として神に立てられたのです。しかし、それはあまりにも残虐でした。その熱心さは異常なものでした。16節に、エフーがヨナタブを戦車に招き入れた時に語った言葉が記されてありますが、彼はこう言っています。「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい。」彼は、主の御心を行うのに熱心でしたが、彼自身が救われていたかどうかはわかりません。少なくても、彼の信仰には問題があったのは確かです。というのは、29節に、彼はイスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとしなかったしあるからです。

信仰に熱心であればいいというわけではありません。問題は、その熱心がどこから出ているかということです。エフーの問題は、主の働きについては熱心だったけれども、主との関係においては弱かったことです。今日の教会に当てはめれば、伝道や教会活動には熱心だけれども、本当の意味で、主を知っていなかった、主との親しい交わりを持っているわけではないという感じです。バアルの偶像礼拝については、非常に怒りを覚えているのに、ヤロブアムの金の子牛は捨てることができなかった、ということは、一つの使命感は強く感じていて、それを、とことんまでやっているのに、他の主の命令には無頓着であったということです。私たちも、自分の熱心さについて吟味しましょう。エフーのように(いびつ)な信仰でないかどうかを。

Ⅱ. エフーによるバアル撲滅運動(18-28)

次に、18~28節をご覧ください。「18 エフーはすべての民を集めて、彼らに言った。「アハブは少ししかバアルに仕えなかったが、エフーは大いに仕えるつもりだ。19 だから今、バアルの預言者や、その信者、およびその祭司たちをみな、私のところに呼び寄せよ。一人も欠けてはならない。私は大いなるいけにえをバアルに献げるつもりである。列席しない者は、だれも生かしてはおかない。」エフーは、バアルの信者たちを滅ぼすために、策略をめぐらしたのである。20 エフーが、「バアルのためにきよめの集会を催せ」と命じると、彼らはこれを布告した。21 エフーが全イスラエルに人を遣わしたので、バアルの信者たちがみなやって来た。残っていて、来なかった者は一人もいなかった。彼らがバアルの神殿に入ると、バアルの神殿は端から端までいっぱいになった。22 エフーが衣装係に、「バアルの信者すべてに祭服を出してやれ」と命じたので、彼らのために祭服を取り出した。23 エフーとレカブの子ヨナダブは、バアルの神殿に入り、バアルの信者たちに言った。「よく見回して、ここには【主】のしもべがあなたがたと一緒に一人もおらず、ただバアルの信者たちだけがいるようにせよ。」24 こうして彼らは、いけにえと全焼のささげ物を献げる準備をした。エフーは八十人の者を神殿の外に配置して言った。「私がおまえたちの手に渡す者を一人でも逃す者があれば、そのいのちを、逃れた者のいのちに代える。」25 全焼のささげ物を献げ終えたとき、エフーは近衛兵と侍従たちに言った。「入って行って、彼らを討ち取れ。一人も外に出すな。」そこで、近衛兵と侍従たちは剣の刃で彼らを討って投げ捨て、バアルの神殿の奥の間にまで踏み込んだ。26 そして、バアルの神殿の石の柱を運び出して、これを焼き、27 バアルの石の柱を打ち壊し、バアルの神殿も打ち壊し、これを便所とした。それは今日まで残っている。28 このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。」

エフーは、アハブ家を根絶やしにするだけでは終わりませんでした。アハブ家が残した最悪のもの、バアル信仰を滅ぼすことに着手しました。彼は自分が熱心なバアル礼拝者であることを装い、バアルのためのきよめの集会を催せというお触れを出しました。これはエフーがバアルの信者たちを滅ぼすために、めぐらした策略です。

そのお触れに従って、イスラエル全土からバアルの信者たちがやって来ました。残っていて、来なかった者は一人もいませんでした。彼らがバアルの神殿に入ると、バアルの神殿は端から端までいっぱいになりました。

エフーは衣装係に、バアルの信者すべてに祭服を出してやれと命じたので、衣装係は彼らのために祭服を取り出しました。これは、誰がバアルの信者かを見分けるための策略です。

さらにエフーとレカブの子ヨナタブは、バアルの神殿に入り、神殿の中に主のしもべが一人も紛れ込まないように細心の注意を払い、ただバアルの信者だけがいるように告げました。これは、誤って主のしもべたちを殺してしまわないためです。

こうして彼らは、いけにえと全焼のささげ物を献げる準備をしました。そしてエフーは80人の者を神殿の外に配置し、それらの者に、全焼のいけにえをささげ終わったとき、「入って行って、彼らを打ち取るように。一人も外に出さないように」と命じました。それで彼らはバアルの神殿の奥の間にまで踏み込んで、バアルの信者たちを剣の刃で打って投げ捨てました。そして、バアルの神殿を破壊し、それを便所にしました。

こうした一連のエフーの行動の結論は、28節にあります。「このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。」

エリヤが始めたバアル礼拝撲滅運動は、エフーによって終わりを迎えました。エフーは、北王国のバアル礼拝の罪を裁く神の道具として用いられました。しかし、彼自身は救われていなかったか、救われていたとしても、その信仰はかなり(いびつ)なものでした。というのは、29節に、「ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。」とあるからです。

彼はバアル礼拝撲滅運動には熱心でしたが、彼自身は信仰的にはかなり(いびつ)でした。なんという皮肉でしょうか。彼はただイスラエルをさばく道具としてアッシリヤが用いられたように、また南ユダをさばくためにバビロンが用いられたように、バアル礼拝をさばく道具として用いられただったのです。

Ⅲ.エフーの評価(29-36)

最後に、エフーに対する評価です。29~36節をご覧ください。「29 ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。30 【主】はエフーに言われた。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」31 しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、【主】の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。32 そのころ、【主】はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土で彼らを打ち破ったのである。33 すなわち、ヨルダン川の東側、ガド人、ルベン人、マナセ人のギルアデ全土、つまり、アルノン川のほとりにあるアロエルからギルアデ、バシャンの地方にまで及んだ。34 エフーについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼のすべての功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。35 エフーは先祖とともに眠りにつき、人々は彼をサマリアに葬った。彼の子エホアハズが代わって王となった。36 エフーがサマリアでイスラエルの王であった期間は二十八年であった。」

エフーは、バアル礼拝を撲滅しましたが、北王国の伝統的な偶像礼拝はそのまま保持しました。それは、ベテルとダンにあった金の子牛を礼拝することでした。エフーの宗教改革は中途半端なもので終わってしまったのです。

そんなエフーに対して主はこう言われました。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」

不思議ですね。あれほど傲慢で身勝手にアハブの家と関係ない人まで殺したエフーに対して主は、「あなたはわたしの目にかなったことをよく成し遂げ・・・」とエフーの従順をほめました。これはアハブの家を滅ぼすという主の御心を、エフーが最後まで行ったということです。実際のところ、エフーは北王国の中では一番熱心に主に従った王です。それゆえ主は彼に、「あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」と約束されました。つまり、彼が第5番目の王朝の創始者となり、その後に4代の王(エホアハズ、ヨアシュ、ヤロブアム2世、ゼカリヤ)が続くということです。北王国は、このエフー王朝の時に最も繁栄し、ヤロブアム2世の時代に黄金期を迎えます。(北王国イスラエルの年代表参照)

しかし、エフーの信仰は中途半端なものでした。彼は自分に与えられた使命に対しては熱心でしたが、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうとせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れませんでした。彼はモーセの律法に関心を払わず、ヤロブアムが始めた金の子牛礼拝に心を向けていたのです。彼はすでに主から祝福のことばを受けていました。もし彼が、心から主に従っていたら、彼はどれほど偉大な王になっていたことでしょうか。

そうしたエフーの中途半端な信仰の結果、どんな悲劇がもたらされたでしょうか。32節には、「そのころ、【主】はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土で彼らを打ち破ったのである。」とあります。アハブの家を裁く器としてエフーが用いられましたが、今度はエフーを裁く器としてアラムの王ハザエルが用いられることになります。彼は先祖たちとともに眠りにつき、人々は彼をサマリアに葬りました。

エフーがサマリアで王として治めた期間は、38年間でした。北王国が弱体化していく中で彼がこれほど長く北王国を治めることができたのは、ただ神のあわれみによるものであると言えます。ハザエルとエフーの働きについて見ました。どちらも主君に謀反を起こした形でさばきが行なわれましたが、時に神様はご自身の目的のために、人間の怒りや罪さえもお用いになることが分かります。神はこの歴史を支配しておられます。そのお方の前にひれ伏し、心から信頼して歩ませていただきましょう。

Ⅱ列王記9章

 今回は、Ⅱ列王記9章から学びます。

 Ⅰ.エフーへの油注ぎ(1-13)

まず、1~13をご覧ください。「1 預言者エリシャは預言者の仲間たちの一人を呼んで言った。「腰に帯を締め、手にこの油の壺を持って、ラモテ・ギルアデに行きなさい。2 そこに行ったら、ニムシの子ヨシャファテの子エフーを見つけなさい。家に入って、その同僚たちの中から彼を立たせ、奥の間に連れて行き、3 油の壺を取って、彼の頭の上に油を注いで言いなさい。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とする。』それから、戸を開け、ぐずぐずしていないで逃げなさい。」4 その若者、預言者に仕える若者は、ラモテ・ギルアデに行った。5 彼が来てみると、ちょうど、軍の高官たちが会議中であった。彼は言った。「隊長、申し上げることがございます。」エフーは言った。「このわれわれのうちのだれにか。」若者は「隊長、あなたにです」と答えた。6 エフーは立って、家に入った。そこで若者は油をエフーの頭に注いで言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。7 あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流されたすべての主のしもべたちの血の復讐をする。8 それでアハブの家はことごとく滅び失せる。わたしは、イスラエルの中の、アハブに属する小童から奴隷や自由の者に至るまでを絶ち滅ぼし、9 アハブの家をネバテの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バアシャの家のようにする。10 犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、彼女を葬る者はだれもいない。』」こう言って、彼は戸を開けて逃げた。11 エフーが彼の主君の家来たちのところに出て来ると、一人が彼に尋ねた。「何事もなかったのですか。あの気のふれた者は何のために来たのですか。」すると、エフーは彼らに答えた。「あなたたちは、あの男も、あの男の言ったこともよく知っているはずだ。」12 彼らは言った。「?でしょう。われわれに教えてください。」そこで、彼は答えた。「あの男は私にこんなことを言った。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』と。」13 すると、彼らはみな大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、「エフーは王である」と言った。」

預言者エリシャは、預言者の仲間たちの一人を呼んで、腰に帯を締め、手に油の壺を持って、ラモテ・ギルアデに行くようにと言いました。何のためでしょうか。ニムシの子ヨシャファテの子エフーに油を注いで王とするためです。エフーは、イスラエルの王ヨラムの家臣として、ラモテ・ギルアデでシリヤ(アラム)の王ハザエルと戦っていましたが、そこへ行って彼に油を注げというのです。そして注ぎ終わったら、そこから急いで逃げるようにと言ったのです。

ラモテ・ギルアデは、つい先ごろアラムとの戦いが行われた場所です。負傷したヨラム王はすでにイズレエルに帰っていましたが、将軍であったエフーはまだヨルダン川の東にあるラモテ・ギルアデに留まっていました。

預言者の仲間がラモテ・ギルアデに行ってみると、エフーは軍の高官たちと会議中でした。彼がエフーに個人的に伝えたいことがあるというと、エフーは彼とともに家に入ったので、彼はエフーの頭に油を注いで言いました。それが6~9節までの内容です。「イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。7 あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流されたすべての主のしもべたちの血の復讐をする。8 それでアハブの家はことごとく滅び失せる。わたしは、イスラエルの中の、アハブに属する小童から奴隷や自由の者に至るまでを絶ち滅ぼし、9 アハブの家をネバテの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バアシャの家のようにする。10 犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らい、彼女を葬る者はだれもいない。」

アハブの家の滅亡については、すでにエリヤによって預言されていました(Ⅰ列王21:17~24)。それが延期されていたのは、アハブが一時的に主の前にへりくだったからです(Ⅰ列王21:29)。しかし、主によって語られたことは必ず成就します。ヤロブアムの家がバシャによって滅ぼされたように、また、バシャの家がジムリによって滅ぼされたように、アハブ家も滅ぼされます。そのために用いられるのがエフーです。エフーはアハブの子ヨラムを討つことによってアハブの家を滅ぼすのです。エフーのような狂暴な人物が主の器として用いられることに違和感を覚えますが、神様は、ご自身の目的のためにはこうした悪人さえも用いられるのです。預言者の仲間は、エリシャに言われた通りに告げると戸を開けて逃げました。クーデターのとばっちりを受ける恐れがあったからです。

エフーが彼の主君の家来たちのところに出て来ると、あの若い預言者が何を告げに来たのかを知りたがりました。「あの気のあふれた者」という表現は、その預言者が、さっさと走り去って逃げていくという奇妙な行動を指しているのでしょう。エフーは「あなたたちは、あの男も、あの男の言ったこともよく知っているはずだ」と話をそらそうとしましたが、家来たちが教えてほしいとしつこく迫って来たので、本当のことを話しました。12節です。「あの男は私にこんなことを言った。『主はこう言われる。わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』と。」

すると彼らは大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を鳴らして、「エフーは王である」と言いました。これはエフーが王となったという公の宣言です。こうして、エフーはイスラエルの王ヨラム、彼の主君に対して謀反を起こすことになります。

これはエリヤによってすでに預言されていたことでした。主によって語られたことは必ず成就します。まさか家臣のエフーによってとは誰も想像できなかったと思いますが、主によって語られたことは必ず成就するのです。

Ⅱ. エフーの謀反(14-29)

次に、14~29節をご覧ください。「14 こうして、ニムシの子ヨシャファテの子エフーは、ヨラムに対して謀反を起こした。先にヨラムはイスラエル全軍を率いて、ラモテ・ギルアデでアラムの王ハザエルを防いだが、15 ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにアラム人に負わされた傷を癒やすため、イズレエルに帰っていたのである。エフーは言った。「もし、これがあなたたちの本心であるなら、だれもこの町から逃れ出て、イズレエルに知らせに行ってはならない。」16 それからエフーは車に乗ってイズレエルへ行った。ヨラムがそこで床についていて、ユダの王アハズヤもヨラムを見舞いに下っていたからである。17 イズレエルのやぐらの上に、一人の見張りが立っていたが、エフーの軍勢がやって来るのを見て、「軍勢が見える」と言った。ヨラムは、「騎兵一人を選んで彼らを迎えに送り、元気かどうか尋ねさせなさい」と言った。18 そこで、騎兵は彼を迎えに行き、こう言った。「王が、元気かどうか尋ねておられます。」エフーは言った。「元気かどうか、おまえの知ったことではない。私のうしろについて来い。」一方、見張りは報告して言った。「使者は彼らのところに着きましたが、帰って来ません。」19 そこでヨラムは、もう一人の騎兵を送った。彼は彼らのところに行って言った。「王が、元気かどうか尋ねておられます。」すると、エフーは言った。「元気かどうか、おまえの知ったことではない。私のうしろについて来い。」20 見張りはまた報告した。「あれは彼らのところに着きましたが、帰って来ません。しかし、車の御し方は、ニムシの子エフーの御し方に似ています。狂ったように御しています。」21 ヨラムは「馬をつけよ」と命じた。馬が戦車につけられると、イスラエルの王ヨラムとユダの王アハズヤは、それぞれ自分の戦車に乗って出て行った。彼らはエフーを迎えに出て行き、イズレエル人ナボテの所有地で彼に出会った。22 ヨラムはエフーを見ると、「エフー、元気か」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術が盛んに行われているのに。」23 それでヨラムは手綱を返して逃げ、アハズヤに「裏切りだ、アハズヤ」と叫んだ。24 エフーは力いっぱい弓を引き絞り、ヨラムの胸を射た。矢は彼の心臓を射抜いたので、彼は戦車の中に崩れ落ちた。25 エフーは侍従のビデカルに命じた。「彼を運んで、イズレエル人ナボテの所有地であった畑に投げ捨てよ。思い起こすがよい。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブの後に並んで従って行ったときに、主が彼についてこの宣告を下されたことを。26 『わたしは、昨日、ナボテの血とその子たちの血を確かに見届けた─主のことば─。わたしは、この地所であなたに報復する─主のことば。』それで今、彼を運んで、主が語られたとおり、あの地所に彼を投げ捨てよ。」27 ユダの王アハズヤはこれを見ると、ベテ・ハ・ガンの道へ逃げた。エフーはその後を追いかけて、「あいつも討ち取れ」と叫んだので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせた。それでも彼はメギドに逃げたが、そこで死んだ。28 彼の家来たちは彼を車に乗せて、エルサレムに運び、ダビデの町の彼の墓に先祖とともに葬った。」

イスラエルの王ヨラムは、ラモテ・ギルガルとアラムの王ハザエルとの戦いで負傷したため、イズレエルで療養していました。それでエフーは、このことをイズレエルにいるヨラムに伝えてはならないと言いました。つまり、自分が王座に着いたことをイズレエルにいるヨラムに知らせてはならないというのです。なぜでしょうか?エフーがヨラムを暗殺するためにイズレエルに、これからイズレエルに向かうからです。

それからエフーは車に乗ってイズレエルに行きました。ヨラムはアラムとの戦いで負った傷を癒すために床についていましたが、そこへユダの王のアハズヤが彼を見舞いに下って来ていました。

イズレエルのやぐらの上にいた見張り人が、遠方からエフーの軍勢がやって来るのを見て、そのことをヨラムに告げました。するとヨラムは不安に思ったのか、騎兵一人を遣わして様子を探らせます。騎兵がエフーに、「王が、元気かどうか尋ねておられます」と言うと、エフーの答えは素っ気のないものでした。「元気かどうか、おまえの知ったことではない。私のうしろについて来い。」これは、元気かどうかなんてお前に関係のないことだ。お前は俺に着いてくれば良いということです。

最初の使いがなかなか帰って来ないので不安に思ったヨラムは、もう一人の騎兵を遣わしました。するとエフーは、最初の騎兵に言った言葉と同じことを言いました。

すると見張り人から、どうやらその軍勢はニムシの子エフーが先導しているようですという報告が入ると、ヨラムは「馬をつけよ」と命じました。少しでも早く対処すべきと考えたのです。自分が直接エフーと会って話を聞くため自ら戦車に乗って出て行きました。そのときユダの王アハズヤも一緒でした。

するとどうなりましたか。彼らはイズレエルのナボテの所有地でエフーに会いました。そこでヨラムが「エフー、元気か」と尋ねると、エフーの答えは、敵対的なものでした。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術が盛んにおこなわれているのに。」

ここに至ってようやく、ヨラムはエフーの謀反に気付きました。それでヨラムは手綱を返して逃げ、ユダの王アハズヤに「裏切りだ、アハズヤ」と叫びました。

エフーが力いっぱい弓を引くと、ヨラムの胸を射たので、彼は戦車の中に崩れ落ちました。するとエフーは侍従のピデカルにこう命じました。「彼を運んで、イズレエル人ナボテの所有地であった畑に投げ捨てよ。思い起こすがよい。私とあなたが馬に乗って彼の父アハブの後に並んで従って行ったときに、主が彼についてこの宣告を下されたことを。『わたしは、昨日、ナボテの血とその子たちの血を確かに見届けた─主のことば─。わたしは、この地所であなたに報復する─主のことば。』それで今、彼を運んで、主が語られたとおり、あの地所に彼を投げ捨てよ。」(25-26)

両者がナボテの所有地で会ったのは、人間的には偶然のように見えます。もしエフーの進軍速度が少しでも遅かったり、ヨラムが出てくるタイミングが少しでもズレていたら、両者がそこで会うことはあり得えなかったからです。しかし、そうではありません。ここには驚くべき神の摂理が働いていました。神はアハブの罪をナボテの所有地で裁くと預言したおられました(Ⅰ列王21:1~29)が、その通りそれが実現したのです。神のことばは必ず成就するのです。

そのとき、ユダの王アハズヤもヨラムと一緒にいましたが、アハズヤはこれを見ると、ベテ・ハ・ガンの道へ逃げました。エフーはその後を追いかけて、「あいつも討ち取れ」と命じたので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせました。それでも彼はメギドに逃れましたが、彼はそこで死にました。28~29節には、彼の家来たちは彼を車に乗せて、エルサレムに運び、ダビデの町の彼の墓に先祖とともに葬ったとあります。彼は善王ヨシャパテの子であったので、王家の墓に葬られることになったのです。アハズヤの治世はわずか1年(2列王8:26)でしたが、彼はエルサレムにすでに自分の墓を用意していたのです。彼の家来たちはその墓に彼の遺体を葬りました。そこは先祖の王たちが埋葬された場所でもありました。

Ⅲ.イゼベルの死(30-37)

最後に、30~37節をご覧ください。「30 エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直して、窓から見下ろしていた。31 エフーが門に入って来たので、彼女は「お元気ですか。主君殺しのジムリ」と言った。32 彼は窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか」と言った。二、三人の宦官が彼を見下ろしていたので、33 彼が「その女を突き落とせ」と言うと、彼らは彼女を突き落とし、彼女の血が壁や馬にはねかかった。エフーは彼女を踏みつけた。34 彼は中に入って食べたり飲んだりし、それから言った。「あののろわれた女の世話をしてやれ。彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」35 彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両手首しか残っていなかったので、36 帰って来てエフーにこのことを知らせた。するとエフーは言った。「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。『イズレエルの地所で犬がイゼベルの肉を食らい、37 イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれもこれがイゼベルだと言えなくなる。』」

エフーがイズレエルに着いたとき、アハブの妻イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直して、窓から見下ろしていました。目の縁を塗り、髪を結い直してとは、彼女が王女としての威厳を保ちながら死ぬための準備です。

エフーが門に入って来ると、彼女は「お元気ですか。主君殺しのジムリ」と言いました。これはイゼベル流の皮肉です。ジムリについては1列王16章8節以降にありますが、彼はバアシャの子エラがイスラエルの王であったとき、彼に謀反を企ててエラを打ち殺し、彼に代わって王となりました(1列王16:9-10)。イゼベルはここでバシャがやっていることはそのジムリがやっていることと同じだと言っているのです。ジムリもまた謀反人でしたが、彼の統治はたった7日間で終わりました。イゼベルはエフーに、自分の主人に謀反を働いて平安があるのかと問うたのです。

するとエフーは窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか」と言うと、2~3人の宦官が彼を見下ろしたので、彼は「その女を突き落とせ」と言いました。それで彼らは彼女を突き落としたので、彼女の血は、壁や馬に跳ね返りました。

エフーは中に入って食べたり飲んだりしましたが、それから彼はこう言いました。「あののろわれた女の世話をしてやれ。彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」それで彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両手首しか残っていなかったので、そのことを帰ってエフーに伝えると、エフーはこう言いました。36~37節です。

「これは、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。『イズレエルの地所で犬がイゼベルの肉を食らい、イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれもこれがイゼベルだと言えなくなる。」

どういうことかというと、これはエリヤが語ったことばの通りになったということです。エフーがこのことをどれだけ意識していたかどうかはわかりませんが、彼が意識しようとしまいと、神によって語られたことばは必ずその通りに実現するのです。それはイゼベルの死ばかりでなく、アハブの家がエフーによって滅ぼされることや、それがナボテの所有地で行われることなども、すべてのことに及びます。ここではかつてエリヤに語られた主のことばがどのように成就したのかが描かれているのです。つまり、主が言われたことは必ず実現するということです。

であれば、私たちに求められていることは、主が語られたことばにを聞き、それに従うということです。そうすれば主がご自身のみことばにあるように私たちを祝福してくださいます。

それにしても、このイゼベルの死に方はあまりにも悲惨です。彼女は、殺人と盗みの罪を犯したその場所で、このような死に方をしました。それは彼女の行ったことがそれほど神の目で悪であったからです。私たちもイゼベルのような悲惨な死を遂げることがないように、いつも主のことばに聞き従う者でありたいと思います。