ヨシュア記17章

きょうはヨシュア記17章から学びたいと思います。

 Ⅰ.戦士マキル(1-2)

 まず1節から2節をご覧ください。
「マナセ部族が、くじで割り当てられた地は次のとおりである。マナセはヨセフの長子であった。マナセの長子で、ギルアデの父であるマキルは戦士であったので、ギルアデとバシャンが彼のものとなった。さらにそれはマナセ族のほかの諸氏族、アビエゼル族、ヘレク族、アスリエル族、シェケム族、ヘフェル族、シェミダ族のものになった。これらは、ヨセフの子マナセの男子の子孫の諸氏族である。」

16章ではエフライム族が受けた相続地について記されてありましたが、この17章にはマナセ族に割り当てられた相続地について記されてあります。マナセはヨセフの長男でしたが、先に相続地を受けたのは弟のエフライムでした。それは創世記48:19にあるように、「弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう」と語ったイスラエルの預言の成就でもありました。

1節には、マナセの長男であるマキルという人物が、ギルアデとバシャンという二つの土地を獲得したことが書かれてあります。その地はくじによって割り当てられましたが、「彼は戦士であったので」とあるように、戦ってその地を獲得しました。つまり、イスラエルの相続地というのは自動的に与えられたというのではなく、その地を確保できる自由が与えられたに過ぎないということだったのです。そこには先住民族が住んでいたわけですから、いくら神がこの地を与えるとは言っても、それは棚ぼた式にもたらされるものではなく、自分たちの努力によって獲得していかなければならなかったのです。マキルは戦士だったので、自分に割り当てられた相続地を獲得していきました。

ここに、「信仰」とはいかなるものであるかが教えられています。つまり、私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって神の救い、驚くほどの祝福を与えられましたが、そのような約束を与えられた者は、自らの手でそれをしっかりと掴まなければならないということです。ちょうど今週の日曜日の礼拝でⅡペテロ1:5~11までを学びましたが、そこには、「あらゆる努力をして、信仰には徳を、特には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5-7)とありました。また、「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」(同1:10)とありました。救いは一方的な神の恵みであり、私たちの行いによるのではありません。しかし、そのように一方的な神の恵みによって救われた者は、その恵みに応答してますます実を結ぶ者となるように熱心に求めていかなければなりません。信仰を持つというのは、決してあなた任せになるということではありません。自分は何もしなくても、神様がみんなやってくれるのだというのではなく、みんなやってくれた神の驚くべき恵みに感謝して、キリストのご性質にあずかるためにあらゆる努力をしなければならないのです。その時神の聖霊が働いてくたさいます。神が与えてくださった祝福を、自分たちの最大限の力をもって応答し、神の約束と命令を遂行していくことなのです。

Ⅱ.ツェロフハデの娘たち(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。
「ところが、マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデには、娘だけで息子がなかった。その娘たちの名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。彼女たちは、祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、族長たちとの前に進み出て、「私たちの親類の間で、私たちにも相続地を与えるように、主はモーセに命じられました。」と言ったので、ヨシュアは主の命令で、彼女たちの父の兄弟たちの間で、彼女たちに相続地を与えた。こうして、マナセはヨルダン川の向こう側のギルアデとバシャンの地のほかに、なお十の割り当て地があてがわれた。マナセの娘たちが、彼の息子たちの間に、相続地を受けたからである。ギルアデの地は、マナセのほかの子孫のものとなった。」

ここには、マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデの娘たちのことが記されてあります。マナセから見たら曾曾曾孫に当たります。この娘たちが、相続地を受けるために、祭司エルアザルとヨシュアのもとに来て、自分たちにも相続地を与えるようにと懇願しました。なぜこんなことをしたのでしょうか。当時の女性は、戦前の日本と同じように財産を受け継ぐ権利はなく、その資格を持っていなかったからです。彼らはその権利を主張したのです。しかも彼らはマナセから数えたら曾曾曾孫です。そのような意味からもこのように懇願することは極めて異例のことであり、考えられないことでした。がしかし、彼女たちは大胆にも願い出て、その結果、驚くべきことに相続地を得ることができました。しかも、あの戦士マキルでさえその武力を行使してやっと二つの相続地を獲得したというのに、彼らには何の努力もなしに、十の割り当て地が与えられたのです。これはどういうことなのでしょうか。

このツェロフハデの娘たちのことについては、以前、民数記で学びました。民数記27章です。そこには、このツェロフハデの娘たちがモーセのところにやって来て、男の子がいないという理由で相続地が与えられないのはおかしいと、自分たちにも与えてほしいと訴えたところ、モーセはそれを主の前に持って行き祈りました。すると主は、「彼女たちの言い分は正しい」と、彼女たちにも相続地を与えるようにと命じられたばかりか、もし子どもに男子がいない時にはその娘に相続地を渡すように、また娘もいない時には父の兄弟たちに、兄弟もいなければ、彼の氏族の中で最も近い血族に継がせるというおきてを作るようにと命じたのです。それは、このツェロフハデの娘たちの訴えがきっかけとなってできたおきてでした。

ここで彼女たちが大祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、自分たちにも相続地を与えてほしいと懇願したのは、この出来事が根拠になっています。つまり彼女たちは、主がそのように約束されたので、それを自分たちのものとしたいと願い出たのです。確かに、彼女たちは男子ではありませんでした。しかし、そうした障害にも関わらず主の前に出て、主のみこころを求め大胆に願い出たのです。私たちの神は、このようにみこころを求めて大胆に願う者の祈りを聞いてくださるのです。

主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われました。どのような人が受け、見つけ出し、開かれるのでしょうか。求め続け、捜し続け、たたき続ける人です。そのような人は与えられ、見つけ出し、開かれるのです。

イエス様はそのことを教えるために、不正な裁判官のたとえを話されました。ルカの福音書18章です。一人の不正な裁判官がいました。彼は神を恐れず人を人とも思わない人でした。そんな彼のところにひとりのやもめがやって来て、「どうか、私のために裁きを行って、私を守ってください。」と懇願しました。しかし、彼はその訴えを無視しました。それでも、このやもめが毎日やって来ては、「どうか私を訴える者をさばいてください」と叫び続けたので、彼は神を恐れず、人を人とも思わない裁判官でしたが、あまりにもうるさいので、さばきをつけてやることにしました。神はこのようなお方だというのです。だとしたら、私たちもあつかましいと思われるほど執拗に求め続けていくのなら、神は心を動かしてくださるのではないか、と言われたのです。

しかし、このツェロフハデの娘たちは、ただ執拗に訴えたのではありませんでした。彼女たちは神の約束のことばに信頼して訴えたのです。4節を見ると、「主はモーセに命じられました」とあります。それはかつてモーセを通して命じられたことなので、その神の約束を握りしめて訴えたのです。「神さま、あなたはこのように約束してくださったではありませんか。ですから、どうかこれを実現してください。」と、迫ったのです。そして、ヨシュアはこの約束を知った時、彼女たちは受ける資格のない者たちでしたが、その約束のごとく彼らに与えたのです。ですから、大切なのは自分たちが執拗に祈ればいいということよりも、それが神の約束であることを確信して祈ることです。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、私たちの神に対する確信なのです。

Ⅲ.マナセ族の失敗(7-13)

次に7節から13節までをご覧ください。
「マナセの境界線は、アシェルからシェケムに面したミクメタテに向かい、その境界線は、さらに南に行って、エン・タプアハの住民のところに至った。タプアハの地は、マナセのものであったが、マナセの境界に近いタプアハは、エフライム族のものであった。またその境界線は、カナ川に下り、川の南に向かった。そこの町々は、マナセの町々の中にあって、エフライムのものであった。マナセの境界線は、川の北で、その終わりは海であった。その南は、エフライムのもの、北はマナセのものであった。海がその境界となった。マナセは、北はアシェルに、東はイッサカルに達していた。またマナセには、イッサカルとアシェルの中に、ベテ・シェアンとそれに属する村落、イブレアムとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、エン・ドルの住民とそれに属する村落、タナクの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落があった。この第三番目は高地であった。しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」

ここには、マナセ族が受けた相続地の地域がリストアップされています。しかし、何度も述べてきたように、相続地が与えられたとは言っても、そこにはまだカナン人が住んでおり、このカナン人と戦って獲得しなければ、それを自分たちの土地にすることはできませんでした。かくしてマナセ族はカナン人の原住民と戦い、次々とその地を占領していきました。しかし、12節を見ると、マナセの子孫は、これらの町々を取ることができなかったので、カナン人は長くこの地に住みとおしました。つまり、実際にはかなり多くの地を占領できずにいたのです。けれども、長い戦いの時を経て、彼らは次第に力をつけて強くなって行くと、やがて、完全にカナン人を征服するに至りました。13節には、「イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」とあります。どういうことでしょうか。彼らは戦いに勝って、やっとその地を占領することができました。しかし、占領した時、彼らはカナン人をどのように熱かったかというと、カナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことはしませんでした。なぜでしょうか。その地を占領したならば、その地の住人を追い払うか、あるいは聖絶するようにというのが、主の命令であったはずです。それなのに彼らはそのようにしませんでした。カナン人に苦役を課したが、追い払ってしまうまでしなかったのです。どうしてでしょうか。

ある学者は、ここはイスラエルの人道主義の表れだと評価します。長い間定住地を持っていなかったイスラエルの民にとって、その厳しい生活を顧みる時に、カナン人たちに対して、自分たちが歩んできたと同じ運命を担わせるにはあなりに忍びなかったのだと言うのです。苦難が私たちにもたらす大切な意味の一つは、自らが経験した苦労や苦悩によって、他者への思いやりを持つことができることだというのです。

しかし、そうではありません。ここでマナセ族が強くなってもその地に住むカナン人を追い払わなかったのは、彼らが神の命令を割り引いて従い、妥協してしまったからです。苦役を課していれば、追い払わなくてもいいだろうと、それでも自分たちは神に従っていると思い込んでいたのです。しかし、神の命令は聖絶することでした。その地の住人を追い払い、その地の偶像を完全に破壊し、その地において神の民として聖く生きることだったのです。それなのに、彼らはカナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことをしませんでした。

その結果、イスラエルがどうなったかを、私たちはイスラエルの歴史を通して見ることができます。彼らは自分たちの目で良いと思われるようなことをしたので、後になってそのカナン人からの攻撃によって苦しみ、その苦しみの中から叫ぶことで、神はさばきつかさ(士師)を送りイスラエルを救い出されました。そうやってイスラエルが神に従い、安定し、豊かになると、彼らは再び神を忘れて自分勝手に行動し、自らそのさばきを招くことになってしまうのです。その結果、国が二つに分裂し、北も南も諸外国によって攻撃されてしまいます。ほんの小さなほころびが、大きな滅亡を招くことになったのです。

これは私たちも注意しなければなりません。自分では神に従っていると思っていても、ただそのように思い込んでいるだけで、この時のイスラエル人のように徹底的に神に従っているのでなければ、実際には従っていないことになるのです。それは信仰の敗北を招くことになってしまいます。99%従っていても1%従っていなければ、従っているとは言えません。誰も完全に主に従うことなどできませんが、その中にあってこうしてみことばに教えられながら、ご聖霊の助けをいただいて、神のみこころにかなった者となるように努めていきたいと思います。

Ⅳ.信仰の目で見る(14-18)

最後に14節から18節までを見て終わりたいと思います。
「ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」ヨシュアは彼らに言った。「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」ヨセフ族は答えた。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

ヨセフ族の子孫エフライム族とマナセ族に対する土地の分配が終わると、そのヨセフ族がヨシュアのところに来てこう言いました。「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」
これはどういうことかというと、自分たちは主が祝福してくださったので、こんなに数の多い民となったのに、なぜただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのか、ということです。つまり、彼らは、これでは不十分だと、ヨシュアに不満を訴えたのです。何ということでしょう。彼らが与えられたのはカナンの地の中心部分の最良の地でした。しかも最も広大な土地が与えられたのです。しかも、それは彼らが何かをしたからではなく、彼らの先祖ヨセフの遺徳のゆえです。どれほど感謝してもしきれないはずなのに、彼らは深く感謝したかというとそうではなく、逆に不満タラタラ訴えました。

以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちに、それぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろいことに調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もう少し収入がほしい」と回答しました。人間の欲望は止まるところを知らないようで、「満足です」というよりも「もう少しほしい」と思っているのです。
このヨセフの子孫たちもまた、この調査結果にあるように、神の恵みによって与えられた土地なのに、これでは足りない、もっと欲しいと言いました。

それに対してヨセフは何と言ったでしようか。16節には、「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」とあります。だっだ自分たちで上って行って、山地を切り開いたらいいじゃないか、と言いました。

するとヨセフ族が言いました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」
なるほど、彼らがヨシュアに不満を漏らすのもわかります。確かに彼らが受けた相続地は良い地でありその領地は最も広くても、そのほとんどが山岳地帯であり、しかもそこには強い敵が住んでいたので、その領地を自分たちのものとするには、極めて困難だったのです。山岳地帯であり、住むのに適さず、しかも強力な敵がいたので、「この地を与える」と言われても、実際に彼らが使用できる土地、支配することができた土地はほんの僅かしかありませんでした。そこで彼らは、「もっと別の領地を、もっと広い地を・・」と願い出たのです。

彼らの気持ちはわかります。けれども、カナンの地であればどこにでもカナン人は住んでいたはずであって、それはマナセとエフライムだけではなく、他のどの部族も同じことでした。そのカナン人と戦って与えられた相続地を自分たちのものにしなければならなかったのです。それなのに彼らは、そうした問題点を見つけてはヨシュアに文句を言い、自分で切り開くということをしませんでした。むしろ彼らはその広い土地が与えられていることを喜び、感謝して、敵と戦ってその地を自分のものにしなければならなかったのです。彼らに欠けていたのは、こうした信仰であり、開拓者精神だったのです。

それは日本の教会にも言えます。確かに地方での伝道は困難を極めます。人口が減少しているというだけでなく、因習との戦いもあります。都会で伝道すればどんなに楽かという同労者の声をどれほど聞いたことでしょう。けれども、都会には都会の悩みもあります。都会で一定の土地を確保しようとしたらどれほど大変なことでしょう。しかし、地方では都会と比べてそれほど困難ではありません。都会ではできないようなダイナミックな伝道ができるのです。要するにどこで伝道しているかということではなく、どこで伝道しても、どこに遣わされても、自分たちに与えられている使命を確認して、その置かれた地で咲くことなのです。

それに対してヨシュアはどのように答えたでしょうか。17節と18節をご覧ください。ここには、「するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

まずヨセフの子孫たちが訴えた、自分たちは数が多い民であるので、山地は自分たちが住むのには十分ではないということに対しては、何を言っているんですか、数が多いということはそれだけ力があるということですから、その力で山地を切り開いていくべきではないか、と言いました。
また、ヨセフの子孫たちが、自分たちが住んでいる所にはカナン人がいて、彼らは鉄の戦車を持っていて強い、と言うと、敵が強いということ、鉄の戦車を持っているということは、神の全能の力が働く余地があるということだから、その神に信頼して、その信仰によって敵を打ち破ることができる、と言いました。
このように、ヨシュアから見るとヨセフの子孫たちが挙げた不利な条件は、むしろ有利な条件だったことがわかります。ヨシュアは不利と思われる状況の中に有利な条件を見出して、それを神のみこころを行っていく力へと転換していったのです。神を信じるということはこういうことです。信仰を持つとはこういうことなのです。

私たちもこの世の目で見れば不利だと思える条件を信仰の目で見て、それを有利な条件へと転換し主の力に支えられながら、大胆に神のみこころを行う者とさせていただこうではありませんか。

Ⅱペテロ1章5~11節 「救いを確かなものとしなさい」

  きょうは、ペテロの手紙第二1章5節から11節まで箇所から、「救いを確かなものとしなさい」というタイトルでお話しします。この手紙はペテロによって書かれた彼の生涯の最後の手紙です。既に見てきたように、第一の手紙では迫害によって苦しんでいた人たちを励ますために書かれましたが、この第二の手紙は、同じ読者ですが、教会の内側にいた偽教師たちの攻撃に対してどのように対処したらよいかを教えるために書かれました。彼らは聖書の教えを曲げ、教会の人たちを混乱させていました。そんな偽りの教えに惑わされないために何が必要なのか、それは正しい知識です。

 ですからペテロは、前回の箇所で救いに関する正しい知識を教えました。その中でもベースになるのが救いに関する教えです。悪魔が最初に攻撃してくるのは、救いに関することだからです。パウロはエペソ書の中で、「救いのかぶとをかぶり」と言いました。それは頭を守るようなもので、しっかりとかぶとをかぶっていないと、致命的な傷を負ってしまうことになります。

きょうのところでペテロは、そのようにして救われた私たちが、その救いを確かなものとすること、すなわち、救いの確信を持つことについて教えています。

 Ⅰ.キリスト者の7つの性質(5-7)

 まず5節から7節までをご覧ください。
「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」

 「こういうわけですから」とは、これまで彼が語ってきたことを受けてのことです。ペテロは、私たちが主イエスを知ることによって、いのちと敬虔に関するすべてのものが与えられたと述べました。この約束のゆえに、世にある欲によって滅びていくような者であったのにもかかわらずそこからも免れさせてくださり、イエス・キリストのご性質にあずかる者とされたのです。

「こういうわけですから、あなたがたはあらゆる努力をして」それは、一方的な神の恵みによるものでした。しかしそれは、私たちはもう何もしなくてもいい、ということではありません。「こういうわけですから、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
あらゆる努力して救われなさい、ということではありません。私たちはすでにイエス・キリストを信じる信仰によって救われました。行いによるのではありません。神の恵みのゆえに、信じただけで救われました。救いは神の賜物であって、私たちの努力や行いとは全く関係ありません。救われた後で、努力して良い行いをしないと救いを失ってしまうということでもありません。恵みによって始められた救いの御業は、恵みによって貫かれ、恵みによって完成します。神は、そのために必要な一切のことをしてくださいました。

ではペテロはなぜここで「あらゆる努力をして」と言っているのでしょうか。努力するとは「勤勉である」とか、「熱心である」、「励む」、「奮闘する」という意味があります。たとえば、皆さんが親から1,000坪の畑をもらったとしましょう。畑だけでなく作物の収穫に必要な一切のもの、種とか、肥料とか、農機具とかもすべてです。あとはあなたが働いて、収穫を楽しむだけです。もうすべてあなたのものです。ただし収穫するためには働かなければなりません。そのためには勤勉でなければなりません。だから、聖書には、勤勉で、怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい、とあるのです。もし怠けて何もしなければ、畑を無駄にしてしまうことになります。せっかく良い土地が与えられたのに、そこには雑草しか生えてないとしたら、何ともったいないことでしょう。私たちの救いも同じです。神は私たちにすべてのものを与えてくださいました。永遠のいのちが与えられました。そして、イエス・キリストの神のご性質にあずかる者としてくださいました。しかし、それは自動的にもたらされるというのではありません。私たちが豊かな実を結ぶためには、神と共に働かなければならないのです。神が既にしてくださったことに従って、私たちが熱心にそれに応答するとき、神の御霊なる聖霊が働いて、私たちを神が望んでおられる者に変えてくださるのです。多くの実を結ばせてくださるのです。

ペテロはここで、私たちが実を結ぶべき7つの性質を述べています。それは徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛です。この7つの性質の土台となるのは何ですか?信仰です。ここでの信仰とは救いの信仰です。私たちはキリストを信じる信仰によって救われました。すべての罪は赦され、義とされ、新しく生まれ、神の子とされました。その始まりは、イエス・キリストを信じたことによってです。そして信じた人にはみな、神の子としての性質が与えられました。ですから、イエス・キリストのご性質、神のご性質へと変えられていくのです。しかし、それはほっといておいて自動的にそうなっていくというのではありません。それは、私たちがあらゆる努力をして、熱心に、追い求めなければならないことなのです。

私たちが追い求めるべき7つの性質、それはまず徳です。信仰には徳をとあります。徳とは何でしょうか。徳とは、優れた道徳のことです。信仰は優れた道徳を生み出します。その力も与えます。キリストを信じる前は、不道徳でした。しかし、信じた後は少しずつですが、モラルが向上していきます。今まで平気でしていたことができなくなります。なぜできなくなるのでしょうか。キリストを知ったからです。イエス・キリストは最高の徳を持っておられました。イエス様はその言葉にも、行いにも、全く完全な方でした。私たちはこの方を知ったので、この方を信じたので、この方と一つになったので、変えられました。イエス・キリストを知ればしるほど、親しくなればなるほど、そのようになっていくのです。友達もそうですよね。悪い友達といればその人の悪い影響を受けることになります。逆に、いい友達といればその良い影響を受けるようになります。私たちは以前イエス様を知りませんでしたが、イエス様を知ったので、イエス様のようになっていくのです。

次は何でしょうか。次は知識です。徳には知識を加えなさい、とあります。優れた徳を持つためには知識が必要です。何が良いことなのか、何が悪いことなのかを知らなければ、優れた徳を行うことはできません。徳には識別力が求められるのです。偽りの知識は私たちを偽りの道へと導きますが、正しい知識、真の知識は、良い行いへと導きます。では真の知識とは何でしょうか。それは神のみことばです。神のことばは真理です。詩篇119:130には、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」とあります。ですから、私たちが熱心に神のことばを学ぶなら、真の知識を知り、良い行いへと導かれていくのです。

そして、知識には自制を加えます。信仰はすぐれた徳を生み出します。優れた徳のためには真の知識が必要です。でも知っていても自制しなければ、ブレーキをかけることができなければ、愚かな結果を招くことになります。そのためには自分の肉の欲を自制しなければなりません。この「自制」という言葉はアスリートに使われた言葉です。アスリートは賞を得るために自分のからだを鞭打ってでも従わせます。同じように、私たちも神からの賞を得るために誘惑に負けないように自制しなければなりません。Ⅰコリント9章でパウロはこう言っています。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせています。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:24-27)

そして、自制には忍耐を加えます。忍耐とはただ何もしないで辛抱するということではありません。忍耐とは積極的に、勇敢に、試練に立ち向かうことです。どんなに苦しくてもあきらめません。最後まで戦い続けます。ではどうしたら忍耐を身に着けることができるのでしょうか?それは試練を通ることによってです。パウロはローマ5:3でこう言っています。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3-4)
患難が忍耐を生み出します。パウロには多くの患難がありましたが、彼はその患難を喜んでいると言いました。なぜでしょうか。なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っていたからです。

最近、80歳を超えた一人の姉妹とお話ししていました。信仰をもって25年になるというその方は、謙遜で、柔和で、穏やかな方です。がしかし、内側には主に対して燃えるような愛を持っておられる方で、礼拝や祈祷会を休まないのはもちろんこと、機会があれば積極的にご友人を教会に誘っておられます。どうしたらそんなにりっぱな信仰者になれるのと思いながら話を聞いていたらわかりました。それはその方が試練の数々を通られたからです。60を過ぎてご主人を病気で天に送るとご主人の後を継ぎ、女手一つで砂利屋の社長として7年間切り盛りし、その後ご家庭に降りかかる数々の試練を乗り越えたことで、その品性が磨かれたのです。できれば試練は避けて通りたいものですが、その試練を通して忍耐が与えられ、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出したのです。

ヘブル10:36にはこうあります。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」もしあなたがいま試練の中にあるなら感謝です。それは、この忍耐が生み出される時でもあるからです。

この忍耐に敬虔を加えなければなりません。敬虔とは、神を恐れ敬って生活することです。神を礼拝すること、キリストのように生きることです。実際の生活の中で神を意識して生活すること、信仰を働かせることです。実際の生活と信仰とを切り分けて考えるのではありません。実際の生活の中で信仰によって生きることです。教会に来る時は神を賛美し、神を礼拝し、神のことばを聞いて、神に集中しますが、家に帰ると「あれっ、さっき牧師が言っていたことって何だったけ?」と忘れてしまうのではなく、いつもそのことを思い巡らし、心に留めて生きることです。

時々週の半ば頃に、「先生、実は今週こんなことがあって悩んでいたんですが、礼拝で語られたあのみことばを思い出して祈っていたら、平安が与えられました。感謝します。」ということを聞くことがあります。礼拝で聞いたあのみことばをずっと心に留めて生活しているということに、とても励まされることがあります。まさに敬虔に生きるとはそういうことです。いつも神を意識して生きるのです。家に帰っても神を意識してください。主があなたとともにおられます。学校や職場でも神を意識してください。私たちが主を認めて、主を意識して生きるなら、主もまたそこにいてくださいます。そうすれば、当然、悪いことはできません。
私たちはよく子どもたちに「悪いことはするなよ」と言いますが、実際はそのように言うよりも、「いつもイエス様のことを思っていなさい」言った方がよっぽど効果があります。なぜなら、イエス様のことをいつも思っているなら悪いことはできなくなるからです。それは大人も同じです。主イエスをよく知ることです。主イエスを知れば、当然悪から離れ、神に喜ばれる生活をするようになります。完全にではありませんが、良い業に励むようになるのです。ですから、敬虔なクリスチャンというのはいつも神を恐れ敬い、神を喜び、神とともに生きる人のことなのです。

パウロはⅠテモテの中で、「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(Ⅰテモテ4:7-8)と言っています。肉体を鍛えるということはとても大切です。特に年を重ねていくと、体が堅くなって動かなくなっていきます。ですから、ウォーキングをしたり、筋トレをしたりといったことが重要になってくるわけで、それを怠るとすぐに結果に表れます。ですから、肉体の鍛錬は有益だと教えているわけですが、しかし、それ以上に、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてにおいて有益です。私たちがこの敬虔を鍛錬していけばいくほど今の生活において有益ですが、将来においても有益のです。それは永遠に益となることだと言うのです。忍耐に敬虔を加える。私たちも敬虔のために自分を鍛錬しましょう。

さらにペテロはここで敬虔には兄弟愛を加えなさいと言っています。兄弟愛とは友情の愛です。信仰の仲間を愛することです。Ⅰヨハネ4:20~21にこう書かれてあります。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目の見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(Ⅰヨハネ4:20-21)
キリストの命令は何でしたか。それは、「互いに愛し合いなさい」ということでした。イエス様はこう言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)
兄弟愛、すなわち、私たちが互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であることを信仰のない人たちも認めるようになるのです。

最後に、兄弟愛に愛を加えなさいとあります。愛とは神の愛のことです。アガペーの愛、犠牲的な愛、意志の愛です。好き嫌いは関係ありません。自分の好みといったことも関係ありません。意志で愛します。犠牲的な愛、本物の愛です。神は愛です。どのようにして神は愛だとわかったのでしょうか。神の愛を知ったからです。神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛されました。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。問題は、その「世」とは、どのような世であったかということです。その「世」は神に背を向け、神に敵対している世でした。にもかかわらず、神は私たちに対する愛を示してくださいました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子をお遣わしになりました。ここに神の愛が示されたのです。その神の愛を知りました。その愛を知った時、その愛に応答して、神を愛する者になりました。そして、神を愛するだけでなく同じ信仰の仲間である兄弟を愛するようになります。さらにその愛は広がりを見せて隣人を、そしてすべての人を愛するようになりました。また神を愛する者は、神の言葉に従って生活するようになります。神の言葉に従って生活をするので敬虔な人となり、試練の中でも忍耐をします。そして誘惑に遭っても自制し、真の知識に従って賢く、優れた行いをするようになるのです。その土台は何でしょうか。信仰です。主イエスを知ったことです。すべては主イエスを知ったことから始まりました。主イエスを知って、永遠のいのちが与えられたことから始まりました。永遠のいのちが与えられ、敬虔に関するすべてのこと、その思いや考え方、そして人生のすべてが変えられました。ですから、今度は私たちがあらゆる努力をしてこれらのものを加えるなら、聖霊の助けによって、イエス・キリストの性質に変えられるのです。

Ⅱ.実を結ぶ者とそうでない者(8-9)

「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」

聖書は、イエス・キリストを信じた者はみな、例外なく、多くの実を結ぶと約束しています。これが神の約束の一つです。神はたくさんの約束を、聖書を通してなさっています。その一つが多くの実を結ぶことです。イエス様はヨハネによる福音書15章において、ぶどうの木のたとえを話されました。それは、イエス様がぶどうの木であり、私たちが枝であるということです。そして、人がわたしにとどまり、わたしがその人にとどまるなら、その人は多くの実を結びます。キリストを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。私たちがキリストにとどまっているなら、そしてキリストも私たちの中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結ぶのです。これは神の約束です。これは自然界の真理であって、霊的にも言えることです。もし多くの実を結んでいないとしたら、何かが間違っているのです。どこかおかしいのです。ですから、自分を点検する必要があります。

ペテロは、この実を結んでいる人とそうでない人を比較しています。9節には、「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」とあります。

信じた者にはみな神の性質が与えられていて、その性質はキリストのように変えられていくわけですが、その一方でこれらの性質を備えていない人がいます。ペテロはこれらの人は、近視眼であり、盲目であると言っています。近視の人は遠くのものがはっきり見えません。盲目だと完全に見ることができません。私たちは、キリストを信じる前は盲目でした。神について何も知りませんでした。霊的に完全な盲目だったわけです。ですから不道徳だったわけです。その基準を知りませんでした。自分のやりたいこと、それが基準でした。自分のやりたい放題のことをしていたのです。誘惑がきたら喜んでそれについて行き、罪を楽しむようなことをしていました。また横柄で、人を見ては蔑み、神を敬うということなどは全くありませんでした。しかし今は違います。今はキリストを知って、神の愛を知って、神を愛するようになりました。隣人を愛するようになりました。神に喜ばれるような生活をしたいと願い、良い行いに励もうと努力するようになりました。なぜですか?主イエス知ったからです。聖書を通して真理であられる主イエスを知ったからです。そしてこの方を知れば知るほど、友達から影響を受けるように、この方からもっと大きな影響を受けて、この方の性質にどんどん変えられて行って、豊かな実を結ぶようになったのです。枝が木についていれば実を結ぶのと同じです。

しかし、この方から離れてしまうと、枝が木から離れると実を結ばないように、実を結ばなくなるのです。ですから、元の生活へと後戻りしていきます。不道徳になります。善悪の判断がつきません。否、知っていても、自分から誘惑の方に向かっていきます。そして自分の欲望に従って罪を楽しみ、罪を犯して、結果、楽しいのかというとそうではなく、みじめになるのです。みじめだとわかりながらも、良いことをする力がありません。木から離れているからです。木から離れ、いのちから離れているので、何の力もないのです。それを繰り返していると、自分は救われていないのではないかと思うようになります。神は私を愛していない。神に見捨てられてしまったと思ったりもするわけです。その人はどういう人だとペテロは言っていますか?その人は、自分の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。救われたはずなのに、救われているのに、救われていないかのように、救われたことをすっかり忘れているのです。それを思い出すことができません。自分の過去がどうだったのか、救われた時どうだったのか、キリストが救ってくださった時のことを思い出すことができない。忘れてしまった。その人が本当にキリストを知っているかどうかは実をみるとわかります。キリストにとどまる人は多くの実を結びます。しかし、キリストから離れてしまっている人は、実を結ぶことができません。

Ⅲ.救われたことを確かなものとしなさい(10-11)

ですから結論は何かというと、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい、ということです。10節と11節をご覧ください。
「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。」

「ですから」とは、実を結ばないのは、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったので、ということです。キリストのご性質にあずかれないのは、自分の罪がきよめられたということを忘れていることが原因なのです。ですから、ペテロはここで、ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい、と述べているのです。召されたことと、選ばれたことと、いうのは同じことを指しています。それは私たちが救われたことです。神が私たちを救いに召してくださいました。神が救いに選んでくださいました。私たちが選んだのではありません。神が選び、神が任命してくださいました。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。その救われたことを確かなものとしなさいと言うのです。

皆さんはどうでしょうか。自分が救われたという確信を持っているでしょうか。ある人は、「いや、ある時は救われているような気がするんだけれども、そうでない時もあります」と言います。またある人は、「いや、そんなの死んでみないとわかんね~と言う人がいます。そのような状態ではどんな不安のことかと思います。なぜなら、私たちが安心して生活できるのは将来に対する保証があるからです。それがなかったら不安になります。老後の生活をする時は老後の生活を計算して大丈夫だという確信があるから安心して過ごせるんでしょ。それがなければ、安心して過ごせません。それは永遠のいのちも同じです。死んでみないとわからないというのでは不安になります。ですから、救いの保証なり、確信を持つということは、私たちが安心して生きるためにどうしても必要なことなのです。ではどうしたら救いの確信を持つことができるのでしょうか。

そのためには二つのことが必要です。まず、いつまでも変わることのない神のことばです。神のことばは何と言っているかということです。もし私たちの救いが感情によるのであれば今日のように天気のいい日は救われていると思っても、吹雪のような荒れた日になれば、一気にその気分は吹っ飛んでしまうでしょう。こうして礼拝で賛賛美しているとし気持ちよくて救われたような気がしますが、ここから帰る途中車を運転していて、追い越されたりすると、「クソッ」と思って、「ああ、やっぱり私は救われていないんじゃないだろうか」と思ったりします。このように感情をあてにしていたら、上がったり下がったりして安定感がありません。

それでは私たちの信仰の経験はどうでしょうか。こんなすばらしい体験をした、こんな奇跡を体験した、いやしを体験したから、だから私は救われている。どうでしょうか。こうした体験そのものはすばらしいものですが、そうした体験も救いを保証するものにはなりません。なぜなら、そういう体験をしなければ、自分は救われていないのではないかと思ってしまうからです。ですから、感情も、体験も、私たちに確かな救いの保証を与えるものではありません。では何が私たちに救いの確信を与えてくれるのでしょうか。神のことばです。神のことばは永遠に変わることがありません。この神のことばが何と言っているか、聖書に何と書いてあるかです。たとえば、ヨハネ1:12にはこうあります。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)
キリストを信じた人々、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられました。ですから、もしあなたがイエス・キリストを信じているのなら、あなたは神の子としての特権を持っています。
また、ローマ10:9-10にはこう書かれてあります。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:910)
どうしたら救われるのですか。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。あなたはこのことを聞いたでしょうか。知ったでしょうか。そしてそのことを信じたでしょうか。イエス・キリストが私の罪からの救い主、主であると信じたでしょうか。「はい、信じました」とはっきりと告白できるのであれば、あなたはもう救われています。神の子とされたのです。そして本当に救われたのであれば、救いを失うことはありません。イエス様はヨハネ10:28でこう言われました。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
キリストの手から誰も奪い去るようなことはできません。さらにイエス様はこう言われました。
「わたしに彼らを御与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:29)
このような確かな保証が私たちに与えられているのです。これが神のことばである聖書が私たちに約束していることです。ですから、この神の言葉にしっかりと立ってください。聖書にあるその約束のことばをどうか握ってください。何か電撃的に、雷が落ちて、あなたの内側ですごい体験をした、このことばはすごく響いたという感覚で受け取る必要はありません。聖書を読んでいて、そのみことばを、あなたの心にしっかりととどめるということです。神のことばがこう約束しているから、私はイエス・キリストを信じました。私の罪からの救い主として信じました。イエス様、どうぞ私の心の内に来てください。あなたこそ私の救い主、主です。このことをあなたが自分の意志で受け取ったなら、あなたは救われるのです。神のことばがそう約束しているので、聖書にそう書かれてあるので、そう確信できるのです。これが私たちの救いの確信です。神のことばによってその確信が与えられます。そのことばをしっかりと握ることです。

それから、救いの確信を持つためにもう一つ大切なことがあります。10節をご覧ください。ここでペテロは、「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません」と言っています。どういうことでしょうか。私たちが救われるために必要なのはキリストを信じる信仰だけです。行いによるのではありません。それなのにここでは、「これらのことを行っていれば」とあります。これは救われるためには行いが必要だということではなく、生きた信仰には行いが伴うということです。行いの伴わない信仰は、それだけでは死んだものです。救われるためには信じるだけで十分です。しかし、救われたのならば、当然そこには行いが伴ってくるのです。ペテロはここでそのことを言っているのです。では「これらのこと」とはどのようなことでしょうか。それは先ほど5節から7節までのところで見てきた7つの性質のことです。まず主イエスを知ることでした。信仰がベースです。すべては信仰からスタートします。信仰はすべての土台でした。そして信仰には徳を加え、徳には知識、知識には自制、自制には忍耐、忍耐には敬虔、経験には兄弟愛、兄弟愛には愛を加えることです。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。こうした性質はもう既に与えられています。私たちがイエス・キリストを信じた時に、そうした性質が与えられたのです。これはすべて神が成してくださったことです。今度はこれを私たちがする時です。あらゆる努力をして、熱心に励むことです。そうすれば神の子としての7つの性質の実を見ることができるでしょう。こどもが生まれると「ああ、この子が生まれて立派に成長したな」ということがわかりますが、神の子として生まれたならば、当然その性質があるわけですから、その性質が実っていくことによって、「ああ、本当に新しく生まれたんだ」ということがわかるようになります。個人差はありますが、みな成長して行って、自分も変わっていくのがだんだんわかるようになります。私たちの回りもその実を見ることができます。実を見て、確かにイエス様を知っていることがわかります。神の子であるのがわかるのです。それは人に見せるためではなく、その行いによって自分の正しさを証明するためでもなく、心から主を愛する者としてこれらを行うとき、「ああ、私は救われている」ということを実感することができるのです。

これらのことを完全に行うことが救いの保証になるのではありません。そこは気を付けてください。そうでないと、私は完全にできていないから、救いの確信がありません、ということになってしまいます。だから、そういうことではありません。完全に行うことができる人などだれもいないのですから。私たちはそこを目指して走っているのですから。完全になるのは、イエス様と再び会う時です。それまでは私たちは欠けがたくさんありながらも、主の御姿に変えられようと、ひたすら主を追い求めているわけです。パウロはそのことをピリピ3章でこう言っています。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捉えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどとは考えてはいません。ただ、この一時に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたすら前に向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。ですから、聖人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」(ピリピ3:12-14)

パウロは、もし、あなたがたどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます、と言っています。どのように考えるかはとても重要なのです。このように考えるなら、すなわち、神はイエス・キリストを信じることによって、私たちを救ってくださったということ、それは聖書のみことばを通して、その約束をしっかり握っていることによってもたらされるものですが、同時に、「これらのことを行っているなら」とあるように、同時に、救われたのであれば、その恵みに感謝して、これらのことを行っていくという面も重要なのです。それは救われるためではなく、本当に神が自分を救ってくださったという確信を持つために、そして、この神の御名をほめたたえ、この神の栄光のために生きるために、どうしても求められていることなのです。私たちは今年、神の約束のみことばをしっかりと握りながら、これらのことを行うということを追い求め、キリストのご性質に与る者でありたいと思います。

Ⅱペテロ1章1~4節 「主イエスを知ること」

 新年あけましておめでとうございます。この新しい年は、ペテロの第二の手紙からご一緒に学んでいきたいと思います。きょうのメッセージのタイトルは、「主イエスを知ること」です。

 Ⅰ.主イエスを知ることによって(1-2)

 まず1節と2節をご覧ください。1節には、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」とあります。

この手紙は、イエス・キリストの弟子であったペテロから、同じ信仰を受けたクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。ここにはだれに宛てて書かれたかはありませんが、これはペテロの第一の手紙と同様、迫害で小アジヤに散らされていたクリスチャンに宛てて書かれたものです。なぜなら、3章1節に「愛する人たち、いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」とあるからです。ペテロがこのように書いているのは、先の手紙の存在を前提にしているからです。ここには、「これらの手紙により、記憶を呼び先させて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです」とりあます。これが、この手紙が書かれた目的です。ペテロは先に書いた第一の手紙で迫害で苦しんでいたクリスチャンたちに与えられた永遠のいのちの希望を示すことによって、この恵みに堅く立っているようにと励ましましたが、この第二の手紙では、その記憶を呼び覚まさせて彼らの心を奮い立たせようとしたのです。ですから、ペテロの第一の手紙が希望と励ましの手紙だとすれば、この第二の手紙は、心を奮い立たせる手紙だと言えます。

この手紙はペテロの生涯における最後の手紙となりました。先に書かれた第一の手紙のすぐ後に書かれたものだと言われています。先に書かれた手紙は、ローマ皇帝ネロの迫害が厳しさを増そうとしていたA.D.63~64年頃でしたので、あれから3年くらいが経ったA.D.66~67年頃に書かれたものだと推測されます。この後すぐに、彼は迫害によって殉教します。ですから、これは彼の遺言ともいえる手紙です。この最後の手紙で彼はどんなことを勧めているのでしょうか。

この手紙の冒頭で、彼は自分のことを、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから」と言っています。これは第一の手紙にはなかった呼び方です。第一の手紙では自分のことをどのように呼んでいたかというと、「イエス・キリストの使徒」と呼びました。しかし、ここでは「使徒」の前に「しもべであり」という言葉が付け加えられています。このしもべという言葉は、原語では「デゥーロス」という語ですが、これはローマ時代の下級奴隷のことを指す言葉です。「奴隷」には、権利も自由も認められず主人の支配の下に、完全な服従が求められていました。つまり、ペテロはこのように記すことによって、自分がイエス・キリストの言葉に全面的にひれ伏し、服従している者であることを表そうとしていたのです。いったいなぜ彼は自分のことをそのように呼んだのでしょうか。それは、ただ隷属的に服従が求められているからというのではなく、このイエスのしもべであることがどれほど光栄なことであり、それに伴って与えられる恵みがどれほど豊かなものであるのかを見据えていたからでしょう。それは2節に、「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」とあることからもわかります。神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安で豊かにされます。

 ペテロはこのことを、「私たちの神であるイエス・キリスト」という言葉を何度も繰り返すことによって強調しています。このイエス・キリストはどのような方なのか、イエス・キリストは神であり救い主なるお方です。これがペテロの信仰であり、ペテロが強調したかったことです。皆さん、私たちの主イエスはどのようなお方ですか?イエス様は神のひとり子であられ、私たちの罪を救うために人間となられました。33年間にわたり、神の力あるわざをなされ、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられました。そして、天に昇られ、神の右の座に着かれました。キリストは今も生きていてとりなしておられます。イエス・キリストは私たちの神であり救い主です。ペテロはいつもこのように言っていました。それが「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」という言葉です。

同じような表現がこの手紙の中に何度も繰り返して出てきます。たとえば、1:11には、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリスト」と言っていますし、2:20でも「主であり救い主であるイエス・キリスト」と言っています。3章でも同じように、2節で、「主であり救い主である方の命令」とあり、最後の3:18でも「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」と言っています。このようにペテロは繰り返し、繰り返し、イエス・キリストは「私たちの神であり救い主である」と告白しているのです。それは彼が、キリストは神であり救い主であるということを強調したかったからです。

これが神のことばである聖書が私たちに教えていることです。イエス・キリストは神であり救い主です。半分神であり、半分救い主であるということではありません。キリストは100%神であり、100%人となって来られた救い主であるということです。神は霊ですから私たちの目で見ることができません。ですから、父のふところにおられたひとり子の神が、神を説き明かされたのです。それが人となって来られた神イエス・キリストです。キリストは神であられる方なのに、私たちを罪から救うために人となって来られたのです。ですから、ローマ9:5には「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」(ローマ9:5)とあるのです。またテトス2:13にも、「祝福された望み、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」(テトス2:13)とあるのです。

このように聖書は、イエス・キリストは神であり救い主であるとはっきりと教えています。これを否定する人は聖書の教えを否定する人です。聖書が教える神は三位一体の神であって、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つで一つの神です。三つで一つというのは人間の頭ではなかなか理解できません。また、説明することもできません。どんなに分かりやすく説明しようとしても限界があるからです。しかし、聖書がそのように言っているのであれば、それをそのまま受け入れること、それが信仰です。聖書が教えていることを否定したり、曲げたりするのは、神を否定することになるのです。

先日、教会の近くに住んでおられる一人の婦人から電話がありました。数年前に離婚したものの、病弱で、とても孤独なので、離婚した前の夫を呼び寄せて一緒に住んでいるのですが、とても寂しいのです。そしたら、近くに住む方から「あら、内にいらっしゃいませんか。毎週聖書の学びをしているのですが、聖書から慰めと励ましをいただき、一緒に学んでいる仲間ともお話ができるので、とても楽しいですよ。私も以前同じような孤独を敬虔したことがあるのですが、聖書を学んだら癒されました」と言われたのですが、行っても大丈夫でしょうか、というものでした。
確かに孤独から解放されるのなら行ってみたいという気持ちはあるのですが話を聞いていると「ん」と思うことがあるというのです。「どういう点でそう思うのですか」と尋ねると、「どうもイエスの父は大工のヨセフであって、父なる神ではないと云うのです。」「もしかすると、それはエホバの証人というグループではありませんか。エホバの証人の方は聖書から学んでいるとはいうものの、イエスは神でないと言うんですよ。神に近い人間だと言われます。神であるのと、神に近い人間とでは全然違います。それは天と地ほどの違いがあるんです。神を人というのですから、神を冒涜することにもなります。」と伝えると、
「そうですよね、何かおかしいからネットでイエスの父を調べてみたら、神だと書いてあったので、それを人間のヨセフだと言うのはおかしいと思ったんです。実はもう亡くなったのですが父と母も教会に行っておりましてクリスチャンでした。二人とも「教会に行きなさい」とは言わなかったのですが、何となくイエス様は神様だと言っていたので、ちょっと変だと思ったのです。父も亡くなる三日前に病床で洗礼を受けてクリスチャンになったのでキリスト教式でお葬式をしましたが、とても慰められました。やっぱりキリストは人間だという教会には行かない方がいいですね。」
「はい、キリスト教は宗派によって考え方に違いがありますが、一つだけ共通していることは、イエス様は神様だと信じていることです。そういう教会に行った方がいいと思います。」というと、「はい、そうします。また、ご連絡したいと思います」と言って電話を切られました。
皆さん、イエス・キリストは神であり救い主であられます。救い主だけど神ではないというのは間違いなのです。完全な神であり完全な救い主であるというのが聖書の一貫した教えであり、ペテロが強く信じていたことなのです。

そしてペテロは、この「イエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」と言っています。どういうことでしょうか?それは、私たちの信仰は私たちの義によって与えられたものではなく、キリストの義によって与えられたものであるということです。それがペテロの信仰であり、この手紙の受取人であったクリスチャンの信仰でした。ここではそれが「尊い」と言われているのは、それが自分自身から出たものではなく、神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって一方的に与えられた神からの賜物であるからです。
そのことについてパウロはこう言っています。「あなたがたが救われたのは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
 つまり私たちの救いとは、私たちの義によってではなく、一方的な神ご自身の義、神の恵みによるものであるということです。私たちは皆、生まれながらに罪人あって、神のさばきを受けなければならない者でしたが、あわれみ豊かな神さまは、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。キリストがその罪のために十字架にかかって死なれ、その罪を贖ってくださいました。それだけではありません。キリストは三日目にその死からよみがえられました。それはこのキリストを信じる者が罪の赦しと永遠のいのちを受けるためです。ですから、私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。これがペテロの信仰だったのです。この手紙の受取人であった人たちも同じ信仰を持っていました。神の恵みによって、イエス・キリストを信じるだけでもたらされる尊い信仰を受けていたのです。

この主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされます。私たちは以前、神がどのような方であるかを知りませんでした。それは神について聞いたことがなかったからです。しかし今、この聖書を通して、神がどのような方であるかを知りました。神は聖書を通してご自身を啓示してくださいました。神がご自身を現してくださらない限り、私たちがどんなに神を求めても神を見出すことはできませんが、聖書を通してご自身を現してくださったので、神を知ることができるようになったのです。ですから、聖書を通してまことの神がどういう方であり、イエス・キリストを通してどのようなことをしてくださったのかを知ることができました。このイエスを知ることによって、恵みと平安が豊かにされました。

しかし、この「知る」というのはただ知的に知るということではありません。それ以上のことです。つまり、「知る」というのは体験的に知るということです。神の言葉である聖書を通して、個人的に親しくキリストを知ることです。そして祈りを通してキリストは今も生きて働いておられる方であることを知ることができます。さらに信仰の仲間である教会の交わりを通して、キリストの愛の深さ、広さを知ることができます。キリストを個人的に深く知れば知るほど、神の恵みをさらに深く理解することができます。ですから、キリストを個人的に深く知るためには、時間を取ってキリストと深く交わらなければなりません。

私たちの人間関係もそうでしょう。互いに会えば会うほど、会う回数が増えれば増えるほど、互いをよく知ることができます。最初は外見だけを見て、「この人どういう人だろう」と思いますが、会えば会うほどその人がどういう人であるかを知るようになり、もっと親近感が生まれてきます。逆に、その人を知れば知るほど嫌になるという場合もありますが・・。しかし、それもその人と親しくなったからわかることであって、親しくならなければ何も知ることができません。家族であれば毎日会っているので、良いところも悪いところもひっくるめて、その人がどういう人であるかがわかります。イエス様との交わりも同じです。主イエスを知れば知るほど、イエス様のすばらしさ、イエス様の愛と力を知るようになるので、神の恵みと平安に満ち溢れるようになるのです。主イエスを知ることが、恵みと平安が増し加えられるための近道であり、霊的に成長するための秘訣なのです。私たちは今年、この主イエスを知ることによって、恵みと平安でますます豊かにされていきたいと思います。

 Ⅱ.いのちと敬虔に関するすべてのことを与える(3)

 なぜ主イエスを知ることによって、恵みと平安が、ますます豊かにされるのでしょうか。その理由が3節に記されてあります。
「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」

 なかなか回りくどい言い方ですが、簡単に言うと、この方を知ったことによって、主イエスの神としての御力が私たちに与えられたからです。ここでは、この方がどのような方であるのかということと、この方を知ったことで、どのような力が与えられたのかの説明が加えられています。

まず、この方は、ご自身の栄光と徳によって私たちをお召しになった方です。ヘブル1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、」(ヘブル1:3)とあります。キリストは神の栄光の輝き、神の本質の完全な現われです。ペテロは、このキリストの神としての輝きを、あのヘルモン山で目撃しました。そのお姿は、非常に白く光り輝き、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでした。その時、天からの声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」(マルコ9:7)それは父なる神の御声でした。それは神の栄光としての輝きだったのです。

また主イエスご自身も、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われました。これは、弟子のピリポがイエス様に、「私たちに神を見せてください。そうすれば満足します。」と言ったことに対して、イエス様が言われた言葉です。それに対してイエス様は、「わたしを見た者は父を見たのです」と言われました。神は目に見ることができない方ですが、その神を見える形で示してくださったのがイエス・キリストです。この主イエスの中に、神の栄光の輝き、神の本質の現われが完全に見られます。このイエスを見る者は、父を見るのです。

 またペテロはここで「徳」とも言っています。これは、キリストの神としてのご性質のこと、また、力のことです。Ⅰペテロ2:22でペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。」(Ⅰペテロ2:22)と言いました。これはイエス様が全く聖い方であり、道徳的にも立派な方であったことを表しています。キリストは何一つ罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。キリストは言葉においても、行いにおいても、完全な方だったのです。ペテロはそのことを知っていました。あらゆる病をいやし、悪霊を追い出し、力あるわざをなさいました。キリストは神としての栄光をお持ちであっただけでなく、その行いにも、ことばにも、思いにも、また力においても、すべてにおいてすぐれたお方、この方が私たちの主イエス・キリストなのです。

このことを、パウロはこう言っています。「このキリストのうちに、知恵の知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3)また、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)
いまだかつて神を見た者はいません。しかし、その見えない神が見える形で降りて来てくださいました。それが神の子、救い主イエス・キリストです。この方は神の栄光に満ちた方でした。そしてその徳、性質もまさにすぐれたお方でした。

この方があなたを召してくださいました。「召してくださった」とは「呼んでくださった」ということです。イエス様はあなたを呼んでくださいました。イエス様はすべての人を招いておられます。「すへて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)有名なマタイの福音書11:28のみことばですね。そのようにキリストはすべての人を招いておられておられます。そのように、あなたことも招いてくださいました。あなたのことを呼んで、召してくださいました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちをご自身のもとに引き寄せてくださいました。神が私たちを引き寄せてくださらない限り、だれも神の許に行くことはできません。しかし、神はあなたを呼んでくださったので、神のもとに行くことができたのです。そして、聖書を通してキリストが神であり救い主であることを知ることができました。聖書によってキリストの神としての栄光と、神としてのご性質を知ったので、信じることができたのです。何も聞かないで信じたのではなく、聞いて、調べて、本当だとわかったので、信じたのです。

そのように信じたことで、そのようにして私たちを召してくださった方を知ったことによって、主イエスの、神のとしての御力が与えられました。3節の後半の所に、「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えてくれるからです。」とあります。

「いのち」というのは神のいのち、永遠のいのちのことです。私たちはイエス・キリストを信じる以前は、このいのちを持っていませんでした。すなわち、神のいのちがなかったわけです。いのちはありましたがそれはこの地上の肉体のいのちであって、やがて滅んでいくものでした。しかし、今はキリストを信じて神のいのちが与えられました。神が永遠なる方なので、私たちもこの神とともに永遠に生きるいのちが与えられたのです。どのように与えられたのでしょうか。知ったことによってです。何を知ったのでしょうか。イエス・キリストは神であり、救い主であるということです。イエス・キリストが私の罪からの救い主、主ですと信じ、口で告白して救われました。その瞬間にこのいのちが与えられ、キリストの神としての力があなたの内側に、私の内側に働いたのです。内側に与えられたいのちは、外側に表れていきます。今までは道徳的にも無感覚で、人が見ているか、いないかということを基準で生きたいたような者が、このいのちが与えられたことで、私たちの人生にあふれたようになりました。それがここにある「敬虔」ということです。

「敬虔」とは、他の訳では「信心」(新共同訳、口語訳)と訳しています。これは原語では「ユーセベイア」という語で、神を信じて生きる人の実践的な生活のことを意味しています。つまり、イエス・キリストを信じて生きる人の歩み、その生き方のことです。

ですから、キリストを知ったのであれば、本当に信じたのであれば、本当に救われたのであれば、それはその人の内側にある神のいのちが外側に溢れて出るようになり、その人の生活が変えられていくのです。「私は罪を悔い改めて、イエス様を信じました。イエス様を信じて神の子とされました。新しく生まれ変わりました。」とイエス様を信じ、イエス様を人生の主とするとき、まずあなたの心と思いが変えられ、次にことばが変えられ、やがて行動が変えられ、生活全体が変えられていくのです。なぜ変わっていくのでしょうか。知ったからです。イエス・キリストを知ったので、イエス・キリストの神としてのいのちがあなたの内側に働いて、その神のいのちが外側に溢れて行き、内側にある栄光が外側全体にあふれ出るのです。すごいですね。ですから、主イエスを知るということはものすごいことなのです。イエス様を信じたのにちっとも変わらないという人がいるとしたら、その信仰のどこかがおかしいのです。確かにイエス様を信じて救われているかもしれませんが、まだイエス様にあなたの人生の主導権を渡していないのかもしれません。イエス様が願っておられることよりも、自分が考える信仰生活をしている場合が少なくありません。もしあなたが主イエスを知っているなら、その神としての御力が、いのちと敬虔に関するすべてのことを与えてくださるので、その神のいのちがあなたの生活において表れるようになるのです。ですから、大切なのは主イエスを知ることなのです。

 Ⅲ.すばらしい約束(4)

最後に4節を見て終わりたいと思います。「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

ここには、主イエスを知るその目的が記されてあります。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。その約束とはどのようなものでしょうか。それは永遠のいのち、救いのことです。すべての罪が赦され、神の子とされました。永遠のいのちが与えら、神の国の相続人とされました。それは将来においてだけのことではありません。このいのちは今も私たちとともにあり、私たちを守り、導き、助け、日々の生活の中で必要なすべてのものを備え、満たしてくださいます。神はそのようなすばらしい約束を与えてくださいました。いったい何のためにこのような約束を与えてくださったのでしょうか。その後のところでペテロはこう言っています。「それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びから免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

ここには、神がこのようなすばらしい約束を与えてくださったのは、キリストを信じたあなたが、私が、神のご性質にあずかる者となるためである、とあります。キリストを信じた者はみな永遠のいのちが与えられるだけでなく、キリストと同じ性質に変えられると約束されています。これが、神が私たちを救ってくださった目的です。以前はそうではありませんでした。キリストのご性質どころか、肉の性質に満ちていました。しかし今はキリストを知ったので、キリストと同じご性質にあずかるものとなったのです。キリストはどのような方ですか。キリストは愛です。キリストが愛であられたように、私たちも神を愛し、人々を愛する者へと変えられます。またキリストは聖いお方でした。ことばにも、行いにも、罪のない方でした。私たちは多くの点で失敗します。言わなくてもいいようなことを言ってしまったり、やらなければいいことをやってしまったり、あまりにもいいかげん自分の姿に嫌気がさしてしまうこともあります。しかし、キリストを知れば知るほど、キリストと親しくなればなるほど、私たちの内側が変えられますから、当然思いが変えられ、言葉が変えられ、行いが変えられ、あらゆる面で聖くされていくのです。これが、私たちが救われた目的です。

いったいどうしたらそのようなご性質にあずかる者となるのでしょうか。それは主イエスを知ることによってです。主イエスを信じて、主イエスとともに歩むことによってです。その前に、キリストと個人的に出会わなければなりません。私はこの方を自分の罪からの救い主であると信じていますと、口先でけではなくて、また知識としてだけなく、本当に心から自分の罪からの救い主、人生の主として受け入れ、この方と親しく交わるなら、あなたもこのようなご性質にあずかることができるのです。そういう意味で主イエスを知っているかどうかなのです。

あなたは主イエスを知っていますか?「はい、知っています」という方は、どのように知っているでしょうか。「あ、何となくです」というのは、本当に知っているということにはなりません。イエス様はぶどうの木と枝のたとえの中でこのように言われました。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(同15:7)
つまり、主イエスを知るということは、主イエスにとどまることであって、主イエスにとどまるということは、主イエスのみことばにとどまることです。そういう人は多くの実を結ぶのです。
あなたはキリストのみことばにとどまっているでしょうか。自分ではとどまっているようでも、実際はそうでない場合もあります。キリストのみことばよりも、自分の都合を優先して行動していることが何と多いことでしょう。どうぞキリストのことばにとどまってください。そしてキリストと親しく交わってください。そこで人格的な関わりを持ってください。そうすれば、変えられない人などひとりもいません。神はそのために私たちを救ってくださったのですから。どうか礼拝を休まないでください。もし礼拝に来なければ、どこでみことばを聞くことができるでしょうか。もしかしたら、インターネットで聞くこともできるでしょう。確かに知識では聞くことができるでしょう。でももしあなたが本当に神のことばを聞きたいと思うなら、神を礼拝する場に出てこなければなりません。なぜなら、そこに神が臨在しておられるからです。その神の臨在に触れて初めてみことばを知るという経験ができます。そしてそれがそれぞれの個人の礼拝、ディボーションの力となるのです。信仰は聞くことから始まり、聞くことは、イエス・キリストのみことばによるのです。そのイエス・キリストのみことばを聞いて、主イエスと深く交わってください。そうすれば、主がご自身と同じご性質にあずからせてくださることでしょう。私たちは自分の力で自分を変えることはできません。それは神の一方的な恵みとあわれみによって神がなしてくださる御業なのです。あなたが主イエスを知り、あなたの人生を主イエスにゆだねることによって、あなたも神のご性質にあずかることができるのです。

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。この新しい年が、このような一年となりますように。イエス・キリストの恵みと知識において成長することができますように。このことを求めてご一緒に歩んでまいりましょう。

ヨシュア記16章

きょうはヨシュア記16章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ヨセフ族の相続地(1-4)

 まず1節から4節までをご覧ください。
「ヨセフ族が、くじで割り当てられた地の境界線は、東、エリコのあたりのヨルダン川、すなわちエリコの水から荒野に出、エリコから山地を上ってベテルに至り、ベテルからルズに出て、アルキ人の領土アタロテに進み、西のほう、ヤフレテ人の領土に下り、下ベテ・ホロンの地境、さらにゲゼルに至り、その終わりは海であった。こうして、ヨセフ族、マナセとエフライムは、彼らの相続地を受けた。」

15章から、イスラエルのそれぞれの部族への相続地の分割が始まりました。最初に分割の恵みに与ったのはユダ族でした。長男がルベン、次男がシメオン、三男がレビ、そして四番目がユダです。その四番目であった彼らがどうして最初に土地の分割に与ることができたのでしょうか?長男のルベンは、父ヤコブのそばめ、ビルハと寝たことで、長男としての特権を失ってしまいました。二男のシメオンと三男のレビも、妹のディナがヒビ人のシェケムという男に辱められたことに怒り、彼らと親戚関係を結ぶと偽って彼らを虐殺してしまいました。ですから、その次のユダが最初に相続地の分割に与ることができたのです。しかし、それは兄たちに問題があったからというだけでなく、ユダ族はそれにふさわしい部族でもあったからです。彼らは信仰の勇者カレブに代表されるような、信仰の大胆さと勇気を持っていました。それゆえ、主は彼らを祝福し、彼らが最初に土地の相続に与るようにしてくださったのです。

ユダ族の次に相続地の分割に与ったのはヨセフ族でした。ヨセフ族が、くじで割り当てられた地の境界線は、1節から4節までに記されてある土地でした。これは彼らが相続した土地の南側の境界線です。それは聖書の巻末にある地図を見ていただくとわかりますが、ちょうどカナンの地の中央部に当たります。それは最も良い地であり、しかも、最も広大な地でした。ユダ族は最初に相続地の分割に与るという特権が与えられましたが、ヨセフ族には二倍の分け前、マナセ族とエフライム族の二部族に相続地が与えられました。彼らは他のどの部族にもまさって大きな祝福を受けました。いったいなぜ彼らはそれほど大きな祝福を受けたのでしょうか。それは先祖ヨセフの功績のゆえです。マナセとエフライムの先祖ヨセフは真実なる生涯を送ったので、その祝福は彼のみならず、彼の子孫にまでもたらされることになったのです。

 創世記に登場するヨセフは、どのような点で真実な生涯を送ったのでしょうか。彼は、その生涯の中で苦難や悲運の中にあっても尚、神に対して怒ったり、不信仰に陥ったりしませんでした。彼は兄たちの策略によりエジプトに売られていきましたが、それでも一切呟いたりせず、常に主なる神を信頼し続け、徹底的に神に従いました。彼には従順という徳が豊かに備わっていました。彼の前半の半生は奴隷としての人生でしたが、それでも決して神を呪ったり、人を恨んだりしませんでした。いつも主の御心は何かを求め、主とともに歩みました。また、様々な誘惑にも決して屈しませんでした。しかも、自分を陥れた人々を訴えたりすることもせず、常に真実であり続けたのです。ある時は濡れ衣を着せられ、囚人としての人生を歩まなければなりませんでしたが、そのような絶望的な状況の中でも常に神を賛美し、真実であり続けました。これはすごいですよね。最近冤罪で刑務所に20年以上も服役していた人の再審が認められ、逆転無罪判決を受けた人のニュースを見ましたが、刑務所にいる間はもちろんですが、刑務所から出てからもそれがトラウマになってなかなかうまく社会に適応できなくて苦しんでおられました。そう簡単に赦せることではありません。しかし、彼は自分をひどい目に会わせ、苦しい目に会せた人たちを赦し、自分をエジプトに売り飛ばした兄たちをも救い出したのです。
 
 このようなヨセフの生涯の中に、愛と赦しという徳が見事に現われているのを見ます。このヨセフの高尚な生涯は、遂に彼自身をエジプトの「国のつかさ」すなわち総理大臣にまで上りつめらせただけでなく、その子孫に対する遺徳となって、祝福と繁栄をもたらしていったのです。このヨセフに見られるように、ひとりの人が神を信じ心から神に仕えて生きるなら、その徳はその人ばかりでなくその子孫に受け継がれ豊かな祝福と繁栄をもたらしていくのです。この新年のスタートにあたり、私たちはもう一度信仰に歩むことの尊さというものを覚えたいと思います。

 ところで、このヨセフの生涯は、だれの生涯を表していたのでしょうか。そうです、イエス・キリストです。イエス・キリストも徹底的に父なる神に従い、その全生涯に渡って愛と赦しに徹せられました。キリストは、神であられる方なのに、神であるという考えを捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われました。キリストの十字架の贖いは、その総括として成された御業だったのです。イエス・キリストの十字架は、従順のしるしであり、真実のしるしであり、そして愛と赦しのしるしでした。ヨセフの生涯は、このキリストの生涯のひな型だったのです。

であれば、このヨセフの子孫がどのような祝福と繁栄を受けたかを知るとき、キリストの子孫である私たちが、どのような祝福と繁栄を受けるかを知ることができます。その子孫マナセとエフライムが最良の地、しかも最大の地を受け継いだように、最高の祝福を受けることになるのです。

同志社大学の創設者、新島襄については、日本で広く知られています。上州安中藩に生まれた彼は、若い頃聖書と出会い、キリスト教の感化を受け、西洋のキリスト教社会への非常な憧れから、密かにアメリカへ渡ったと言われています。しかし良く調べてみると、実際はそうではなかったようです。彼が初めてキリスト教信仰に触れたのはアメリカに渡ってからのことで、それまではキリスト教には触れていませんでした。ではどうして密かに出国したのか。それは、ある時、酒が入って酔っぱらい、仲間と喧嘩をして、その相手を殺傷してしまったからです。その追求が怖くて、そこから逃れるために密出国したのです。その逃亡先のアメリカでキリスト教信仰に触れて入信し、帰国後彼は日本の教育にキリスト教信仰を取り入れることで救いをもたらしたいという志と情熱を抱きました。そして、帰国後京都に同志社大学を設立したのです。彼の眉間には、深い刀の傷跡が残っていましたが、それは喧嘩によって相手を殺した時に、同時に彼が受けた傷なのです。言うならば、新島襄は決して聖人君子ではなく、むしろ卑怯者、臆病者と言われてもしかたがないような人物だったのです。しかしそんな彼がキリストを信じたことで全く変えられ、同志社大学を設立したばかりでなく、彼の門下からは、次世代を担う大変優れた指導者が多く輩出されていきました。一人の人がキリストと出会って救われることで、その人が天の御国を相続するという祝福を受けたばかりか、その祝福は後代にまで大きな影響をもたらしていったのです。キリストを信じて神の子どもとされるということは、このように大きな祝福なのです。それは恵みの高嶺、その頂きを手に入れるということなのです。

それならばなぜ、同じキリストを信じていながら、あるクリスチャンは恵まれ、あるクリスチャンはそうでないということが起こってくるのでしょうか。ここで言うところの恵まれるということは、決して裕福な生活を送っているとか、何かすばらしい業績を残したかといったことではなく、神との関係における豊かさのことです。それは信仰のあり方に問題があるからです。主イエスがどのような方であるのかを本当の意味で理解していないからなのです。

それはルカの福音書15章には有名な放蕩息子の話を見るとわかります。放蕩三昧をして帰って来た弟息子を父親は赦し、盛大な祝宴を設けて彼の帰宅を喜びました。一方、兄の方はこつこつと一生懸命に働き、少しも間違ったことはしない模範的人間でした。しかし、その兄は家に帰って弟のために宴会が設けられているのを見て、嫉妬し、ひがみ、祝宴の場に入ろうとせず、父親に文句を言いました。「私は何年もあなたに仕えてきたのに、ただの一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友達と楽しむために子ヤギ一匹もくださったことはありませんでした。それなのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました。」
 すると父親は彼に言いました。「子よ、あなたはいつも私と一緒にいるではないか。私のものは全部あなたのものだ。しかし、この息子は、死んでいたのに行き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」

この譬え話が教えているころは、父なる神は私たちに最高の祝福を与えようとされるけれども、しかしそれは、私たちが人間的に立派だからではなく、また優れた業績を残したからでもなく、ただ神の恵みによって、イエス・キリストを主と信じたからです。その祝福は神の恵みにより、無条件でもたらされたのです。父なる神とは実にそのようなお方なのです。注意しないと、信じ方を間違えると、私たちもこの兄のようになってしまいます。兄は、自分自身の中に救いの根拠を作ろうとしました。この兄は律法主義的な信仰者の典型です。律法主義的なクリスチャンとは品行方正な生き方をし、真面目であり、物事に一生懸命取り組みますが、しかし、その努力の結果を自分の業の結果として、自分の内に救いの根拠を作ろうとするのです。しかし、そのように努力をすればするほど、私たちの内側が重くなってしまいます。そして逆に、神の祝福を手に入れることができなくなってしまうのです。

今日本の相撲界は揺れに揺れています。日馬富士の暴行問題から、日本相撲協会のあり方まで問われることになってしまいました。そこには「相撲道」とはどのようなものかという誤解があるように思います。相撲界は数年前から外国の力士たちも受け入れるようになりました。今その大半をモンゴルの力士たちが占めています。実に4人の横綱のうち3人がモンゴル出身です。その力士たちに日本の相撲道がわからないからと、それを何とか教えてやらなければならないと、考えている親方もいます。それに対して、モンゴルから来日した元横綱朝青龍が、「もういいじゃないですか。この問題をいつまでも長く引きずらないで、みんなで仲良くすればいいと思いますよ。だって相撲界は一つの家族なんだから。相撲協会も、親方も、力士も、ファンもみんなファミリー、そういう近い関係を築き上げることが大切だと思いますよ。」と言いました。
私はそれを聞いていて、なるほどと思いました。だれが加害者で、だが被害者だということではなく、みんな家族であり、仲間だという意識を持ち、みんな仲良くやっていくことが大切だというのは、相撲界だけでなくすべての業界に言えることではないかと思ったのです。あまりにも「相撲道」を追求しすぎると、見えるものまで見えなくなってしまうこともあります。そのような考えは祝福を失うことになってしまいます。そうでなくて、私たちはみなこの放蕩息子のようにどうしようもない者であったにもかかわらず、神の恵みによって、一方的に救っていただいたことを喜び、感謝するなら、必ずそれが外側に溢れるようになるのではないでしょうか。ですから、信仰において最も重要なことはこの主イエスの救いを知ることです。知るというのは単に頭で知るということ以上のことです。それは体験的に知るということです。本当に主イエスを知るなら、そこに神のいのちが満ち溢れ、それが外側にも現われるようになるからです。

私たちは、そのように自分自身の力によって救いの根拠を得て、救われようとするのではなく、イエス・キリストの十字架を信じる信仰によってのみ、ただ一方的な神の恵みによってのみ、救われることに徹し、ただひたすら感謝して歩みたいものです。そして、この神の恩寵に心を開き、ゆだねていきたいと思うのです。その信仰に生きるなら、私たちはイエス・キリストの子どもとされ、キリストの豊かな祝福に与ることができるばかりか、その祝福を子孫へと継承していくことができるのです。私たちはヨセフの子孫として、イエス・キリストの子孫として、最上で、最高の祝福を受け継ぐ者となったことを感謝したいと思います。

Ⅱ.エフライム族の地域(5-9)

次に5節から9節までをご覧ください。ここにはエフライム族が受けた相続地が記されてあります。「エフライム族の諸氏族の地域は、次のとおりである。彼らの相続地の東の境界線は、アテロテ・アダルから上ベテ・ホロンに至り、」

エフライムは、ヨセフの二人の子どもの弟の方です。生まれた順で言えばマナセ、エフライムとなりますが、弟のエフライム族から先に相続地が分割されています。どうしてでしょうか?これは、創世記48章の出来事と関係しています。ヤコブは年老いて病気になった時、ヨセフの子を祝福するために呼び寄せました。ヨセフはその際、父ヤコブの右手が長男マナセの上に来るように子供たちを配置しましたが、ヤコブは手を交差させて、弟のエフライムの上に置きました。ヨセフはあわてて父の右手を長男の上に移そうとしましたが、ヤコブは「わかっている、わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」(創世記48:19)と言いました。どういうことでしょうか。聖書には弟が兄に勝るという記事が結構あります。カインとアベル、エサウとヤコブ、放蕩息子の話もそうです。そういう箇所が読まれると、神は兄ではなく弟を愛し、特別に選んでおられるのかと思いますが、そういうことではありません。ここで兄が弟に仕えるというのは、神は人間のしきたりや考え方に縛られないお方であるということです。言い換えると、神の私たちに対する取り扱いは、ただ一方的な神の恵みによるということです。人間の社会の中では長男が後継ぎとして大事にされ、重く見られるのが普通です。しかし、そのように長男がいつも特別な立場に置かれるとしたらどうなってしまうでしょうか。おそらく、シラス知らずのうちに高慢になってしまうでしょう。自分が祝福されるのは当然であると思い込み、感謝もせず、自分と自分の立場を誇るようになります。しかし聖書はしばしば兄よりも弟をより祝福します。それは神の祝福はただ恵みによるものであることを教えるためであって、兄がへりくだって歩むためなのです。神は無に等しい者、何の功績もない者を、恵みによって祝福して下さるのです。このメッセージを真に理解するなら、どんな人でも望みを持つことができます。私たちがどういう立場にあろうと、どんな卑しい者であっても、神は恵みによって祝福してくださるからです。大切なのは、私たちがどんな立場であってもただこの恵みに感謝し、へりくだって歩むことです。

さて、エフライムが受けた相続地については、5節から8節までに記されてあります。1~4節にあるヨセフ族全体の境界線が、そのままエフライム族の南の境界線となります。エフライム族の残りの境界線が5節から記されます。5節は今見た1~4節の要約です。6~8節が北側の境界線となっています。

Ⅲ.エフライム族の失敗(10)

最後に10節を見て終わりたいと思います。このエフライムの相続地を記すにあたり、10節に、ヨシュアは特筆すべきことを書きました。それは、「彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいた。今日もそうである。カナン人は苦役に服する奴隷となった。」ということです。

エフライムの諸氏族は、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいました。彼らはエフライムに服する奴隷となったのです。これはどういうことでしょうか。これまで何回も見てきたように、モーセによる神の命令はカナンに住む人たちを聖絶することでした。容赦してはなりません。それは、彼らがその地の偶像に心を奪われて罪を犯すことがないための神の配慮でもありました。それなのに彼らは聖絶しませんでした。なぜでしょうか。カナン人を奴隷とすることで彼らを征服していると思ったからです。それで十分だと思った。それで主に従っていると思ったのです。しかし、どんなに追い払っていると思っても聖絶しなければ、神に従っているとは言えません。妥協は許されません。

それは、今日に生きる私たちにとっては、私たちの魂に戦いを挑む肉の欲との戦いのことです。Ⅰペテロ2章11節には、「愛する人たち、あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」とあります。これがこの地上での生活を旅人として生きるクリスチャンに求められていることです。旅人であり寄留者である私たちは、この世でどのように生きていけばいいのでしょうか。どのように振舞うべきなのでしょうか。ここには、「たましい戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」とあります。この肉の欲を避けるというのは、肉の欲を抑えて、禁欲的な生活をしなさいということではありません。そうした肉の欲を殺してしまいなさいということです。なぜなら、この肉の欲とはあれこれの欲望のことを言っているのではなく、堕落した人間の罪の本質のことを言っているからです。それはイエス・キリストを信じたことで、私たちの古い罪の性質が十字架につけられたからです。死んでしまったのであれば、再び何かをするということはありません。
パウロは、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)と言いました。偶像礼拝は何も、目に見える偶像だけではありません。地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。これらのものこそ、たましいに戦いを挑む肉の欲なのです。ここでは、そうしたものに対して殺してしまいなさいと言われています。うまく共栄共存しなさいとか、支配しなさいというのではなく、殺してしまいなさい、と言われているのです。それらと分離しなければなりません。それが聖絶ということです。

私たちは自分たちの肉の問題を完全に支配していると思っているかもしれませんが、もし奴隷にしているだけであれば、聖絶しているとは言えません。それはこのイスラエル人と同じです。やがてその小さなほころびから信仰の敗北を招くことになってしまいます。そういうことがないように、ここまで従っていれば十分だろうというのではなく、主が命じていることに徹底的に従うことが求められているのです。このように徹底的に主に従うことで、この新しい一年が主の勝利と祝福に満たされた年となるように祈ります。

Ⅰペテロ5章12~14節 「神の恵みの中に立っていなさい」

 これまで21回にわたり、ペテロの手紙第一を学んできました。きょうは、その最後のメッセージとなります。ペテロは、これまでポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビデニヤに散って寄留していたクリスチャンたちに対して、試練の向こう側にある救いの喜びを見据えながら、励ましの言葉を語ってきました。その最後のところで彼は、「これが神の真の恵みである」と語り、この恵みの中に、しっかりと立ち続けているようにと勧めるのです。

 Ⅰ.真の神の恵み(12a)

 まず12節の前半をご覧ください。ここには、「私の認めている兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。」とあります。

「シルワノ」とは、使徒の働きにおけるシラスのことです。使徒の働き15章のエルサレム会議では、異邦人キリスト者が割礼を受けなければならないかどうかを議論し、結果として割礼を受けなくても構わないことが決議されたとき、その知らせをパウロやバルナバとともにアンテオケ教会に報告する重要な任務を担ったのが、このシラスです(使徒15:22)。その後、彼はパウロとともに第二次伝道旅行に遣わされ、教会開拓のためにパウロの片腕として働きました。その後、どのような経緯によってかは分かりませんがペテロと行動を共にするようになり、ペテロが信頼した忠実な兄弟となっていたのです。ペテロはここで、この手紙はシルワノによって書き送られたと言っています。この表現は、ペテロが語ったことをシルワノが書き留めたというだけでなく、シルワノが持っていた卓越した信仰と語学の賜物をもって、この手紙が書き記されたということを表しています。おそらく、ペテロが語った要点をシルワノが聞いて、それをまとめたのでしょう。その後でこの手紙を書き終えるにあたり、この12節から終わりまでの最後のあいさつの部分だけを、ペテロが自筆で書き加えたのではないかと考えられています。ですから、11節の終わりに「アーメン」という言葉があるのです。本当はここで終わっていてもよかったのですが、ここからペテロが自筆で、「この手紙はシルワノがいてくれたからこそ、書き送ることができたのだ」と言っているのです。ペテロにとってシルワノは単なる同労者であったと言うだけでなく、なくてはならない信仰の友であり、支えであり、励ましであったことがわかります。

互いに支え合える信仰の友がいるということは、何と素晴らしいことでしょうか。キリストを中心に置いた、互いの愛の励ましは、強い信頼関係で結ばれているがゆえに、大きな益をもたらしてくれます。年齢も、性別も、性格も全く違う者同士がキリストにあって一つとなり、支え合うように導かれ、共に神に仕えることができるというのは、神の恵みと導き以外の何ものでもありません。

それゆえ、神によって導かれた信仰の友を大事にして、人間的な目で見るのではなく、キリストを中心とした霊のつながりを、神が支え合うように導いてくださった友として受け入れることが求められます。

そのシルワノによって書き送られた内容、勧めとはどのようなものだったのでしょうか。ここには、「これが神の真の恵みであることをあかししました」とあります。彼が書き送った内容は、神の真の恵みでした。恵みとは何でしょうか。恵みとは、受けるに値しない者が受ける賜物のことです。言い換えると、自分の力、知恵、才能、意志の強さ、努力、行いによっては得られない、ただ一方的に神からもたらされる恩寵のことです。

ペテロは、この手紙の中で、神の恵みについて9回も言及してきました。それは、この神の恵みに生きることが、キリスト者の生き方の中心であることを示すためです。ペテロが言いたかったことは、一言で言えば、神の恵みだったのです。あなたが強い信仰心をもって頑張って生きるというのではなく、神が一方的に与えてくださったこの神の恵みを味わい、その恵みを喜び、恵みの中を生きることが、信仰生活の中心だと言うのです。それは、夫婦の間でも、また、他のクリスチャン同士でも言える事です。そこに真の尊敬が生まれるのは、相手を「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として」(3:7)見ているからです。嫌だなぁと思うこともあるでしょう。何でこんな人と一緒にいなければならないのだろうと嘆くこともあるかもしれません。しかし、私たちは互いに「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として召された」ということを思うとき、逆に、そこに愛情とあわれみが溢れてくるのではないでしょうか。

その恵みはまず、私たちを罪の中から救い出してくださった神の救いの御業を通して現されました。神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれることによって、この方を信じる者を義と認めてくださいました。私たちが何かをしたからではなく、いや何もしないのに、何もできなくても、神の側でそのために必要なすべての代価を支払ってくださったのです。それは恵みではないでしょうか。私たちは、そのようにして救われたのです。それは一方的な神の恵みです。そのことをパウロはこう言っています。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:1-9)

ここには、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」とあります。死んでいる者は何もすることができません。しかし、そんな者を神はあわれんでくださいました。神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過と罪との中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

このことを考える時、今年9月に行われたギターコンサートを思い出します。その中で池田宏里さんが、叔父さんの救いについて証してくれました。この叔父さんは池田さんが8歳でギターを始めた時の師匠で、徹底的にギターテクニックを叩き込んだ人です。そのおかげで、池田さんは15歳でソロデビューし、10代後半で6弦ギターから8弦ギターを弾きこなすまでになりました。ところが、池田さんが20歳の時、パタッと演奏活動を止めてしまうのです。それで20代から30代半ばまで約15年間の空白の時を経るのです。その原因は、この叔父さんにありました。この叔父さんはとにかく身勝手な人で、自分の好きなように生きていた人でした。演奏活動であちこちに行くと、そこでいろいろな女性と関係を持ったりしていましたが、それが自分の母親ともあったことを知り、ショックでギターを止めてしまうのです。
それからしばらく父親の実家の青森でリンゴの収穫の手伝いをしていたのですが、そのお昼休みに弾いていたギターの音を郵便配達の人が聞いて感動し、それが当時ノアという音楽ホールを経営していた奥様に伝わり、それで彼は信仰に導かれるとともに奥様と結婚するのです。しかし、経営していた音楽ホールが行き詰まり上京することになるとそこで新たな出会いが与えられ、東京フィルハーモニーオーケストラをバックに演奏するまでになりました。
一方、自分にギターを教えてくれたあの叔父さんはどうなったかというと、演奏でロシアに行ったときに出会った女性と結婚するも別れ、80歳を過ぎて日本に帰国するのですが、誰も身よりがいないということで池田さんのもとに連絡が入るのです。当初はあんなひどい叔父の面倒なんてみたくないと思いましたが、実際に会ってみると昔の面影がなくとても弱々しいというか情けなく見えたので、面倒をみてやることにしました。
叔父さんを入れる都内の老人施設を片っ端に電話しましたが、どこも空いておらず、ただ偶然にというか、神の導きによって救世軍の施設が空いており、その日だったら入所できるということで、入所させていただきました。
ところが、そこはキリスト教の施設でしょ、だからそこでは毎日礼拝があるわけです。そして、その礼拝に出席しているうちに、何とこの叔父さんがイエス様を信じちゃったのです。あれほどワルをしてきた人なのに、ただ「信じます」と言っただけで、罪から救われたのです。
池田さんはその時こう思ったそうです。「ああ、これがキリスト教の救いなんだ」と。叔父さんがかつてどれほど悪いことをしても、どれだけひどいことをしてきても、その罪を悔い改めてイエス様を信じるだけで救われるのです。これがキリスト教の救いなんです。
叔父さんが召される三日前に、もうすぐサントリーホールでコンサートがあって、何とかそこに来てほしいと思っていましたがそれが叶わなかったので、池田さんが師匠の所に出向いてコンサートをしました。

皆さん、これがキリスト教の救いです。主イエスを自分の罪からの救い主として信じるだけで救われるのです。あなたがこれまでどんなことをしてきたかとか、どんな業績を残してきたかとか、どんなに真面目に生きてきたかということと全く関係なく、自分の罪を悔い改めて、神の救いであられるイエス様を信じるだけで救われるのです。何という恵みでしょうか。

しかし、この神の恵みは、救いの恵みだけにとどまりません。10節には、「あらゆる恵みに満ちた方」とありますように、神は、あらゆる恵みに満ちた方です。ペテロがこのことをあえて強調しているのは、確かに罪の中から救われたことは恵みですが、神の恵みはそれだけにとどまらず、苦しい道を通されることもあれば、悪魔が野放しにされて厳しい戦いを強いられることもあるし、また、いろいろな問題で悩むこともありますが、そうした苦しいことも含めそれらすべてが神の恵みであるということです。

人間は、自分にとって良いと思えることしか恵みと感じ取ることができない身勝手な存在です。しかし、神の恵みは、よいと思えることも、悪いと思えることも、つらいことも、うれしいことも、すべてのことにおいて、示されるものです。なぜなら、神はそうしたすべてのことを働かせて、益としてくださるからです。

前回の祈祷会で、ヨシュア記15章から学びました。そこには、ユダ族がくじでイスラエルの南の地帯を相続地の割り当て地が与えられたことが記されてありました。せっかく最初に相続地の割り当て地を与えられたというのに、一番ひどい所が与えられました。イスラエルは北部によく肥えた緑の地が多く、南部に行けば行くほど岩や砂が多い荒地となっているのです。彼らが引き当てた地は最も環境が悪く、住むのにも適さない、農耕にも適さない、荒地だったのです。おそらく彼らは、「何という貧乏くじを引いてしまったんだ」「運が悪いなあ」と思ったことでしょう。しかし、そのような所であったがゆえに、彼らは偶像崇拝の悪しき影響から免れ宗教的な純粋さを保つことができたのです。北部の肥えた地は、確かに環境的には申し分がありませんでしたが、それに伴って農耕神、豊穣神と呼ばれるバアル宗教がはびこっており、こうした偶像との戦いを強いられることになったたからです。それゆえに、やがてイスラエルの北はアッシリヤに滅ぼされてしまうことになります。
それに対してユダ族は、こうした環境的困難さの故に、唯一の神、ヤハウェ信仰から離れることなく、常に純粋な信仰を保ち続けることができました。それだけではありません。この環境的困難さによって、ユダ族はさらに強くたくましい民族へと育て上げられて行きました。そして南イスラエルは、「南王国ユダ」と呼ばれるまでになったのです。すなわち、このユダ部族が南に住んでいた全部族を代表して呼ばれるほどに、強力な部族になっていったということです。

時として、私たちは、自分が望まない困難な状況に置かれることがありますが、そこにも神のご計画と導きがあるのです。ですから、自らの不遇な状況を嘆いて、「ああ、私は貧乏くじを引かせられた」と言って、自己憐憫になってはいけないのです。むしろ、その所こそ、主が私たちに与えてくださった場所だと信じて、主を賛美しなければなりません。

このように、自分の置かれている状況と全く関係なく、そこに生きて働いておられる神の恵みを覚えて感謝することができるということがクリスチャンに与えられている特権であり、信仰の醍醐味なのです。

新聖歌172番に、「望みも消え行くまでに」という讃美歌がありますが、この中には「数えてみよ、主の恵み」と歌われています。この曲を作曲したEDWIN.O.エクセルという人は、この歌の題を「Count your blessings」と名付けています。「Count your blessings」。文字通り、「あなたに賜った恵みの一つ一つを数えなさい」という意味です。この歌は詩篇103:2の「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」が元になっていますが、この賛美によって、どれほど多くの人が生きる希望を与えられたことでしょう。

その中の一人に、蒲田シオン教会の牧師をされておられた、砂山貞夫牧師の奥様の砂山節子先生という方がおられます。戦前、満州伝道の召命を受けた牧師たち数名が満州に赴きました。砂山貞夫牧師もその一人でした。しかしそれは、凄まじい困難や試練が待ち受ける過酷な道でした。節子夫人は、結婚前は宝塚歌劇団にいたこともある美しい方であったそうです。そんな方が、ご主人の伝道への熱い思いに従って、満州に渡り、伝道困難な熱河省興隆(ねっかしょうこうりゅう)、現在の河北省ですね、その地へと赴いたのです。
その伝道は困難を極めました。着任してから1年半後に、長男の正ちゃんがひどい下痢の末に天に召されました。十分な治療を受けられなかったからです。この時の体験を節子夫人はこう語っています。「興隆教会の最初の一粒の麦として、わが子が召されようとは。…皆で輪になって正の遺骸を興隆の河原で賛美のなかに火葬にふしましたときは、涙が溢れてたまりませんでした」
このような試練の中でも、少しずつ伝道の実が実り、信者が与えられていきました。ところが、戦局が悪化すると、ご主人の砂山牧師が召集され、戦場へと送られて行ったのです。残された節子夫人は女手一つで、娘3人を何とか育てます。
戦後、ご主人の砂山牧師は奇跡的に家族のもとに帰ってきますが、間もなく侵入してきた中国共産党の八路軍(はちろぐん、パーロぐん)によって連れ去られ、行方不明になってしまします。節子夫人は、ご主人の帰りを待って、興隆の地に残り続けました。村の女性たちと一緒にミシンかけ、糸をつむぎ、靴下作りで食いつないでいくという生活でした。「一粒のとうもろこしも、真冬に一かけらの石炭もない」ことがめずらしくなかったということです。
そんな窮乏生活のため、次女が栄養失調のため召されてしまいます。そして、節子夫人自身も栄養失調のため失明してしまうのです。
終戦から8年も経ってから、節子夫人は漸くご主人の帰りを待つことを諦めて、日本に帰る決心をします。日本に戻る引き揚げ船の甲板に立った時、節子夫人は暗澹(あんたん)たる思いに捕らわれたそうです。幼い娘二人を抱え、自分は目が見えなくなってしまった。あぁ、これから私は、一体どうやって生きていけばよいのだろうか。そう思った瞬間、止めどもなく涙が流れたそうです。涙の中で、必死になって祈っていた時、節子夫人の耳に聞こえてきた讃美歌がありました。
それがこの賛美歌でした。「数えよ 主の恵み、数えよ 主の恵み、数えよ 一つずつ、数えてみよ 主の恵み」。
この賛美歌の歌詞が、繰り返して節子夫人の耳に響いてきたのです。
「数えてみよ 主の恵み」。
「そうだ、私は目が見えなくても、まだ耳は聞こえる。口はしゃべることができる。手も、足もある。そして、何よりも私には、イエス・キリストがいてくださるではないか」。
節子夫人は、この賛美歌の歌詞によって、共にいてくださる主の恵みに目を向けることができたのです。そうだ、困難の中にも、主はいつも共にいてくださったではないか。あの時も、そして、あの時も。だから、これからも主は必ず共にいてくださるに違いない。節子夫人の心の中の、不安と恐れの荒波が静まり、平安が訪れました。
その後、日本に帰った節子夫人は、盲学校に学び、卒業後は盲人伝道に広く用いられ、日本中の視覚障害者の方々を励まし、慰めてきたのです。

神の恵みは、私たちを罪から救ってくださったばかりでなく、あらゆる恵みに満ちたものです。これが神の恵みであり、真の恵みです。それはいいことばかりでなく、時には喜び、時には苦しみ、時には耐えがたいと思えるような試練もあるでしょうが、しかし、それらすべてを働かせて益としてくださる恵み、それが神の恵みなのです。ここではそれを「神の真の恵み」と言っています。神の恵みは真実な恵みです。それは朝毎に新しい恵みです。私たちにはそのような恵みがもたらされていることを覚え、この恵みを一つ一つ数えながらこの年も終えたいと思います。

Ⅱ.この恵みの中に立っていなさい(12b)

では、このような神の恵みが与えられている私たちは、どうあるべきでしょうか。
12節後半をご覧ください。ここには、「この恵みの中に、しっかりと立っていなさい」とあります。神の真実な恵みの中に入れられた者は、この恵みの中に、しっかりと立っていなければなりません。

しかし現実には、この恵みの中にしっかりと立っているということがどれだけ困難なことであるかを、私たちは実際の生活の中で嫌というほど経験しています。まず、信仰のゆえの試練です。そのような試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさい、と聖書に書かれてあっても、私たちは、ただひたすらそこから逃れることしか考えられません。イエス様を信じているためにこんなに苦しい思いをするのなら、いっそのこと信じることを止めてしまった方がどれほど楽なことか思ってしまうのです。

また、世俗化との戦いもあります。悪魔は絶えず私たちに「現実」という二文字をちらつかせては、信仰に堅く立つことが馬鹿らしいように思わせます。そして、この世にある様々な誘惑を通して信仰をゆがめ、さらに信仰から離れてさせようと襲いかかってくるのです。現代の社会は、特にこうした傾向にあります。

ですから、この恵みの中にしっかり立っていることは容易いことではありません。だからこそ、私たちがしなければならないことは、この恵みの中にとどまっているようにと頑張ることではなく、神の恵みがいかに大きなものであるかを心に止めることです。神は、こんな罪深い者をあわれんでくださって、愛する御子を十字架にまでかけて救ってくださったということを信仰によって心に刻み付け、いつも思い起こさなければなりません。だからこそ、私たちはどのような時にも、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなければならないのです。

預言者エレミヤは、神のさばきによってユダとエルサレムがバビロンによって滅ぼされた時、その激しい苦しみの中で、こう言いました。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝毎に新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」(哀歌3:22-24)
エレミヤが、神のさばきのただ中でも、主を待ち望むことができたのは、彼に降り注がれている主の恵みの大きさを知っていたからです。主のあわれみは決して尽きることがないという信仰があったからです。それは朝毎に新しいということを体験していたからなのです。

それは私たちも同じです。どんなに頭でわかっていても、私たちは本当にもろいものです。すぐに躓いてしまいます。しかし、そのような中にあってもこの恵みに立ち続けていくことができるかどうかは、尽きない神の恵み、朝毎に新しく注がれる主の恵みにとどまっているかどうかで決まるのです。

主の恵みは尽きることがありません。それは真実な恵みです。きょうは恵んでも、明日はわからないというものではありせん。あなたを滅びの穴から救い出してくださった主は、最後まであなたに恵みを注いでくださいます。だから、私たちもこの恵みの中に、しっかりと立ち続けようではありませんか。

Ⅲ.聖徒の交わり(13-14)

最後に13節と14節を見て終わりたいと思います。
「バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。」

この「バビロン」とは、実際のバビロンのことではありません。これは、神に敵対する勢力としてのバビロンのことです。つまり、当時の世俗勢力の頂点はローマでしたから、ここではローマのことを指していると考えてよいでしょう。それは、その後のところに「あなたがたとともに選ばれた婦人」の「婦人」に※が付いていることからもわかります。これは「教会」とも訳すことが出来る言葉です。すなわち、これはローマにいたクリスチャンたちのこと、ローマの教会のことを指して言われていたのです。なぜペテロはこのような暗号のようなものを使って言っているのかというと、彼が置かれていた状況がとても危険だったからです。それで「ローマ」と名指しすることをしないで、「バビロンにいる婦人たち」という言い方をしたのです。ここから、ペテロはこの手紙をローマから書き送ったのではないかと考えられてきました。たぶんそうでしょう。彼は迫害の真っただ中にあるローマの教会と、小アジアの教会とは、置かれた場所は違っても、キリストにあって深く結び合わされた同じ教会であるという理解からそのつながりを大切にして、「よろしく」と言って励ましているのです。

さらに、ここには「また私の子マルコもよろしくと言っています」とあります。このマルコとは、マルコの福音書を書いたマルコです。彼はパウロの第一次伝道旅行に同行しましたが、どういう理由かはわかりませんが、途中で逃げ出してしまったので、一時、パウロから見放されてしまいました。しかし、後にパウロとの関係が修復されてからは「同労者」と呼ばれるまでになりました(ピレモン24)。
そのマルコが、ここで「私の子」と呼ばれています。恐らく、マルコは福音書を書くためにいつもペテロと一緒にいてペテロから話を聞き、ペテロが語ることを福音書にまとめたのだと思います。このマルコもよろしくと言っています。

このことから、クリスチャンというのは、キリストを中心として深くつながっている者であることがわかります。これまで一度も会ったことがなくても、それぞれの地で、主にあって奮闘している兄弟姉妹たちのことを思って祈るのです。

そして最後のところで、ペテロは、「愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。」と勧めています。「愛の口づけ」は、クリスチャン同士の愛と善意の表現です。同じ信仰の戦いを戦い、同じ救いの目標を持っている者として、互いに愛し合い、互いに苦しみを分かち合う者としての思いを、このような形で表現するのです。国によっては習慣や文化的背景も違いますから、必ずしもこのような方法によって愛と善意を表現しなければならないというのではなく、むしろ、神の家族として、ともに一つのゴールに向かって歩む兄弟姉妹として、私はあなたを本当に大切に思っていますという思いを何らかの形で表すことが求められているということです。

そしてペテロは最後に「キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。」と祈って、この手紙を結んでいます。キリストにあって、初めて平安が与えられます。そしてその平安は、キリストにあるすべての者に共有されるのです。主なる神様によって真の恵み、キリストの十字架による救いが与えられた者は、すでに与えられている救いの喜びと感謝があるからこそ、どのような試練・艱難・誘惑の中にあっても、信仰から離れることなく、平安を持って歩み続けていくことができるのです。

こんな短い、しかもすっと読んでしまえば一つも大切な要素がないかのように見える「挨拶」の中にも、たくさんの恵みが込められています。神の恵みによって生きるという、信仰のあり方をしっかり捉え、その恵の中に、しっかりと立つということを心にとめて、キリストにあるあなたがたすべてに、神の平安がありますようにと祈りつつ、このペテロの手紙第一のメッセージを終えたいと思います。

ヨシュア記15章

きょうはヨシュア記15章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ユダ族の相続地の境界線(1-12)

 まず1節から12節までをご覧ください。
「ユダ族の諸氏族が、くじで割り当てられた地は、エドムの国境に至り、その南端は、南のほうのツィンの荒野であった。その南の境界線は、塩の海の端、南に面する入江から、アクラビムの坂の南に出て、ツィンに進み、カデシュ・バルネアの南から上って、ヘツロンに進み、さらにアダルに上って、カルカに回り、アツモンに進んで、エジプト川に出て、その境界線の終わりは海である。これが、あなたがたの南の境界線である。東の境界線は、塩の海であって、ヨルダン川の川口までで、北側の境界線は、ヨルダン川の川口の湖の入江から始まり、境界線は、ベテ・ホグラに上り、ベテ・ハアラバの北に進み、境界線は、ルベンの子ボハンの石に上って行き、境界線はまた、アコルの谷からデビルに上り、川の南側のアドミムの坂の反対側にあるギルガルに向かって北に向かう。また境界線はエン・シェメシュの水に進み、その終わりはエン・ロゲルであった。またその境界線は、ベン・ヒノムの谷を上って、南のほう、エブス人のいる傾斜地、すなわちエルサレムに至る。また境界線は、西のほうヒノムの谷を見おろす山の頂に上る。この谷はレファイムの谷の北のほうの端にある。それからその境界線は、この山の頂から、メ・ネフトアハの泉のほうに折れ、エフロン山の町々に出て、それから境界線は、バアラ、すなわちキルヤテ・エアリムのほうに折れる。またその境界線は、バアラから西に回って、セイル山に至り、エアリム山の北側、すなわちケサロンに進み、ベテ・シェメシュに下り、さらにティムナに進み、その境界線は、エクロンの北側に出て、それから境界線は、シカロンのほうに折れ、バアラ山に進み、ヤブネエルに出て、その境界線の終わりは海であった。また西の境界線は、大海とその沿岸であった。これが、ユダ族の諸氏族の周囲の境界線であった。」

いよいよイスラエルの民は、占領したカナンの地の領土の分割を開始します。その最初の分割に与ったのはユダ族でした。なぜユダ族だったのでしょうか。それは14章でもお話ししたように、信仰の勇者カレブに代表されるように、ユダ族が一番信仰による勇気と大胆さを持っていたからです。
元来、ユダ族の先祖ユダは、ヤコブの四番目の子にすぎませんでした。長男がルベン、次男がシメオン、三男がレビ、そして四番目がユダです。ですから、長子の特権という面からすれば、ルベン族が最初に分割に与っていいはずなのに、四番目のユダ族が最初にこの特権に与ったのは、どうしてでしょうか。長男のルベンについては、口に出すのも恥ずかしい罪を犯したことがありました。父ヤコブのそばめ、ビルハと寝たことです。それゆえに彼は長男としての特権を失ってしまいました。創世記49:3には、「ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。彼は私の寝床に上った。」とあります。
二男のシメオンと三男のレビも、父に大きなショックを与える罪を犯しました。妹のディナがヒビ人のシェケムという男に辱められたことに怒り、その町の住民に復讐したことです。彼らはその町の男たちに割礼を要求し、彼らの傷が痛んでいる頃を見計らって、全滅させました。ヤコブはこの二人について、同じく創世記49 :5-7の中で、「シメオンとレビとは兄弟。彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」と言いました。
ですから、四番目のユダが、主に最初に相続地の分割に与る特権を受けたのです。しかし、ただ兄たちに問題があったからというだけでなく、ユダ族はそれにふさわしい部族でした。それは、信仰の勇者カレブに代表されるような信仰の勇気と大胆さを持っていた点です。

創世記49:9-12のヤコブの遺言の中に、彼について語られていることは勝利、リーダーシップ、繁栄と良いことばかりです。ルベンから取り上げられた長子の権利はヨセフに行きましたが、後にユダの部族からは支配者、王が出ると宣言されました。創世記49:10には、「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。」とあります。そして事実、このユダ族から後にダビデ王が誕生し、さらにその子孫から、やがてまことの王イエス・キリストが誕生するのです。イエス様はこのユダ族から出た獅子なのです。このようなユダ族の優位性が暗示される中で、彼らが土地の割り当ての最初に来ているのでしょう。

さて、ユダ族はどの地を相続したのでしょうか。1節から12節までその境界線が記されてあります。巻末の聖書の地図をご覧いただくとわかりますが、ユダ族が、他の部族の中で、もっとも広い土地を得ていることがわかります。まず南の境界線については1~4節に記されてあります。それは、塩の海、すなわち死海の南端からエジプト川に出て、海、すなわち地中海までです。東の境界線については5節の前半にあります。それは塩の海、すなわち死海の沿岸そのもので、ヨルダン川の川口までです。北の境界線については5節後半から11節までにありますが、ヨルダン川が死海に注ぐ入江から始まり、少々複雑に入り組んでいて、最後は海、すなわち地中海に至ります。西の境界線は12節にありますが、地中海の沿岸そのものです。

いったいこの地はどのようにしてユダ族に分割されたのでしようか。1節を見ると、「ユダ族の諸氏族が、くじで割り当てられた地は・・」とあるように、これはくじで割り当てられました。確かに14章を見ると、カレブがヨシュアのもとにやって来て、この山地を与えてくださいと要求したことに対して、ヨシュアがカレブに与えたかのような印象がありますが、しかし、最終的にくじで決められたのです。ユダ族はくじによってカナンの地の南側が与えられたのです。

ところが、この南部の山岳地帯は不毛の地です。イスラエルの地は北側によく肥えた緑の地が多く、南に行けば行くほど岩や砂が多い荒地となっているのです。ユダ族は最初にくじを引くという特権が与えられたにもかかわらず、彼らが得た地は南側の最も環境が悪く、住むのに適さない地でした。そこは農耕にも適さない、荒地だったのです。いったいなぜこのような地を、主はユダ族に与えたのでしょうか。

そこには、神様のすばらしいご計画がありました。この土地をくじで引いた時、おそらくユダ族の人々は心の中で不平を言ったに違いありません。「せっかく最初にくじを引くことができたのに、こんなひどいと地が当たってしまった。何と運の悪いことだ」と。しかし、そのような地理的に環境が悪いがゆえに、彼らは偶像崇拝の悪しき影響から免れ、宗教的な純粋さを保つことができたのです。北部の肥えた地は、確かに環境的には申し分がありませんでした。しかし、それに伴って農耕神、豊穣神と呼ばれるバアル宗教がはびこっており、こうした偶像との戦いを強いられることになりました。
それに対してユダ族は、こうした環境的困難さの故に、唯一の神、ヤハウェから離れることなく、常に純粋な信仰を保ち続けることができました。それだけではありません。この環境的困難さによって、ユダ族はさらに強くたくましい民族へと育て上げられて行きました。やがてイスラエルが二つに分裂した時、南王国は何と呼ばれたでしょうか。「南王国ユダ」と呼ばれました。すなわち、このユダ部族が南に住んでいた全部族を代表して呼ばれるほどに、強力な部族になっていったのです。

時として私たちは自分が願わない望まない困難な状況に置かれることがありますが、そこにも神のご計画と導きがあることを覚えなければなりません。それゆえに自らの不遇な状況を嘆いたりしてはならないのです。「ああ、私は貧乏くじを引かせられた」と言って、自己憐憫になってはいけません。むしろ、その所こそ、主があなたに与えてくださった場所なのだと信じて、主を賛美しなければならないのです。他の人と比較して、ひどい状況であるならば、それはむしろ幸いなのです。そこに神が生きて働いてくださるからです。また逆に、私たちが他の人よりも優って良い場所が与えられたという時には、自分自身に気を付けなければなりません。高ぶって、自分が神にようにならないように、注意しなければなりません。

私たちは、祈りつつ、信仰によって決断しつつも、なお困難な状況に置かれることがあるとしたら、それは主の御計画であり、主が私たちを通して御旨を成し遂げようとしておられると信じて、主をほめたたえ、喜んでその困難な状況の中で果たすべき役割というものを、しっかりと果たしていこうではありませんか。

Ⅱ.水の泉を求めて(13-19)

次に13節から19節までをご覧ください。ここにはユダ族の代表であるカレブについてのエピソードが記されています。
「ヨシュアは、主の命令で、エフネの子カレブに、ユダ族の中で、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナクの父であった。カレブは、その所からアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払った。これらはアナクの子どもである。その後、その所から彼は、デビルの住民のところに攻め上った。デビルの名は、以前はキルヤテ・セフェルであった。
そのとき、カレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」ケナズの子で、カレブの兄弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを、彼に妻として与えた。彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか。」と尋ねた。彼女は言った。「私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」

カレブについてはすでに14章で見ましたが、彼は85歳になっていたのに、45年前と同じく今も壮健です、と語り、アナク人の町ヘブロンを攻め取ることを願い出ました。そしてそれを本当に成し遂げた記録がここにあるのです。カレブは14節にある通り、ヘブロンからアナクの3人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払います。一人でも恐ろしいはずの敵を3人もまとめてやっつけたのです。14:12でカレブは、「主が私とともにいてくだされば、私は彼らを追い払うことができましょう。」と言いましたが、カレブの素晴らしい点はただ目の前の状況を見るのではなく、主の視点で状況を見つめ直していたことです。人間的にはとても不可能に思えても、そこに主の約束があり、主がともにいてくださるなら、主が御業を成し遂げてくださると信じて前進したことです。その結果、85歳の彼が本当にアナクの子孫を追い払うことができました。これぞイスラエルの模範であり、信仰に歩む私たちの模範でもあります。

しかし、彼がヘブロンからデビル、すなわちキルヤテ・セフィルに攻め上って行ったとき、ある限界に達していたことがわかります。16節には、その際彼は、「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言っています。軍隊の将軍が、このように報償をぶら下げて、ある町を攻略する戦士を募るというのは古代オリエントでは良く見られた習慣でした。後にダビデもエルサレムを攻め取る際、「だれでも真っ先にエブス人を打つ者をかしらとし、つかさとしよう。」(Ⅰ歴代誌11:6)と言って戦士を募っています。それはエブス人が、ダビデに「あなたはここに上って来ることはできない」と言ったからです。それほどエルサレムの攻略は困難でした。そこでダビデはこのように言って勇士を募ったのです。ここでも同じでしょう。「デビル」という町は「至聖所」という意味で、すなわち、人間が入ることができない聖なる場所という意味です。従って、かなり堅固な要塞の町であったことがわかります。いわば「難攻不落」の町だったのです。それはこれまでの歴戦を信仰によって勝利してきたカレブでさえも攻めあぐねていた町だったのです。それで窮地に陥っていたカレブは、このように言って勇士を募ったのです。それは、「自分の愛する娘を報償にするから、だれかあのデビルを攻め落としてみよ」というものであったのです。

これに対してカレブの兄弟オテニエルが名乗りを上げます。彼は次の士師記において、イスラエルの最初のさばきつかさとなる人です。その彼が見事にデビルを攻め取ったので、カレブは約束通りに娘のアクサを、彼に妻として与えました。これはカレブの信仰が良い意味で彼に伝染したということです。その模範にならったオテニエルは祝福を手にすることができました。

ところで、カレブの娘アクサがとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めました。この「そそのかして」という言葉は、口語訳や新共同訳には出てきません。新改訳の改訂版にも出ておらず、改訂版ではこれを、「しきりに促した」と訳しています。ですから、オテニエルが彼女をそそのかしたというよりも、彼は畑が欲しかったというだけなのです。

それに対して、娘のアクサは何と言ったでしょうか。19節のところには、「私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」とあります。アクサは、畑ではなくその畑を生かすための泉を求めたのです。それでカレブは、娘のこの要求を非常に喜び、上の泉だけでなく下の泉も与えました。この泉とはため池のことです。ため池は、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などでは、農業用水を確保するために水を貯え取水ができるよう、人工的に造成された池のことですが、恐らく、このため池を与えたのでしょう。泉を与えると言っても、泉は自然のものですからそれをどこかに持っていくことはできませんから。娘の要求に対して過分とも思えるこの措置は、父親のカレブの言い知れない感動と喜びを表しています。いったいなぜカレブはこんなにも喜んだのでしょうか。それは娘の要求が実に理にかなったものであり、深い真理が隠されていたからです。

このネゲブの地は乾燥した地域であり、畑の収穫のためには、より一層の水を必要とした地でした。つまりオテニエルが要求した「畑」とは収穫をするその場所そのもののことですが、それに対してアクサが求めたのは、その収穫をもたらすために必要な、より根源的なものだったのです。

これは私たちの信仰にとっても大切なことが教えられるのではないでしょうか。とかく私たちは表面的なもの、たとえば、今はクリスマスの時期ですが、そうしたプログラムとか、会場とか、雰囲気とか、やり方とかといったものに関心が向きがちですが、より本質的なもの、より根源的なものはそうしたものではなく、それは祈りとみことばであり、そこから湧き出てくる神のいのち、聖霊の満たしであるということです。私たちはまずそれを求め、そこに生きるものでなければなりません。それを優先していかなければなりません。そうしていくなら、実際的な事柄や、現実的な事柄は必ず変えられていき、私たちのうちに神の御業があらわされていくのです。そうでないと、私たちの信仰は極めて表面的で、薄っぺらいものになってしまいます。そして、人間としての本来の在り方というものを失ってしまうことになるのです。そのようにならないように、私たちはいつも信仰の本質的なもの、根源的なものを求めていかなければなりません。それが祈りとみことばです。また、そこから溢れ出る神のいのち、聖霊の臨在なのです。アクサはそれを求めました。それでカレブは非常に喜んだのです。私たちもこの神のいのちを求めるなら、神は喜んでそれを与えてくださいます。このクリスマスに、私たちが真に求めなければならないものを、もう一度見つめ直したいと思います。

Ⅲ.相続した町々(20-63)

最後に、ユダ族が相続した町々を見て終わりたいと思います。20節から63節までをご覧ください。これはユダ族の相続地で、神がユダ族に与えられた町々がリストです。カナンの地で最も広い領域であったこの地に、ユダ族はどんどんと勢力を伸ばし、これらの町々を占領していきました。しかし、その中でただ一つだけ占領できない町がありました。どこですか?そうです。それは後のイスラエルの都、エルサレムです。そこにはエブス人がおり、ユダの人々は、このエブス人をエルサレムから追い払うことができませんでした。なぜでしょうか。10章ではイスラエル軍はこのエブス人の王アドニツェデク率いる連合軍を打ち破り、11章では、エブス人を含むパレスチナの連合軍を打ち破っています。また15章13節から19節においては、カレブ率いるユダ族は、カナンの中で最も強力な力を誇っていたアナク人さえも打ち破っています。あの巨人ゴリヤテは、このアナク人の子孫です。それにもかかわらず、それほど強くもないエブス人をなぜエルサレムから追い払うことができなかったのでしょうか。

それは、神があえてそのようにされたからです。つまり、神がエブス人に力を与えて、ユダの人々の敵対者として、わざわざそこに置かれたからなのです。私たちには理解を超えることですが、時として神は、このように私たちの身近に、あえて敵対者を置かれることがあります。それは未熟な私たちを整え、成熟させるためです。私たちはこうした敵対者によってさらに訓練されて、その信仰をますます強められていくのです。

それは人間ばかりでなく、植物などにも同じです。植物学者の宮脇明氏はその著書「植物と人間」において、このように言っています。「対立者あるいは障害物というものがなくなると、それは生物にとって最も危険な状態だ。敵対者がいなくなることは、その植物を休息に衰退に追いやることだ。」これは霊的にも言えることであって、自分に敵対してくる人の存在があってこそ、人は鍛えられ、強められ、さらに引き上げられていくのです。であれば、私たちもたとえ自分の思うように事が進まなくても、そこに依然として自分に敵対する人がいたとしても、それは自分の成長にとって欠かす事ができないことであると受け取る、感謝しなければなりません。

その後、このエブス人はどうなったでしょうか。これほどイスラエルを手こずらせ、その手の内に落とし得なかったエブス人ではありましたが、しかし実はダビデが天下を治めた時に、このエルサレムからあっけなく追い出されていきました。もう必要なくなったからです。ダビデの時代はイスラエルにとっての黄金時代であり、絶頂を極めた時でした。それはイスラエルがこのヨシュアの時代からこうした敵によって鍛えられ、成熟させられた結果であったとも言えます。しかし、イスラエルが天下を治めた時は、もうその必要がなくなりました。彼らは強められ、神の御心にかなった成長を遂げることができたので、もはや敵対者を置く必要はなくなったからです。あれほど打ち破ることができない困難な敵であったにもかかわらず、イスラエルの黄金時代の幕開けと共に、彼らは滅んでいったのです。これらはすべて神がイスラエルのために計画されたことだったのです。

私たちの人生にも困難や苦難が置かれることがあります。また、私たちを悩ませてくれる人々が置かれることがありますが、それらは私たち自身が練り鍛えられ、強くされ、神のみこころにかなったものに造り変えていただくための神の御業であることを覚え、そのことを信仰をもって謙虚に受け入れ、それらの苦難や困難から、また敵対してくる人々から学び、よく多くのものを習得していく者でありたいと思います。そうするなら、神は私たちをさらに引き上げてくださり、やがて時至ったならば、主ご自身がそうした困難や苦難を取り去ってくださり、私たちをさらに一段と飛躍した信仰者に成熟させてくださるのです。

Ⅰペテロ5章8~11節 「悪魔に立ち向かいなさい」

 ペテロの手紙第一の最後の章を迎えております。前回のところでは、力強い神の御手の下にへりくだりなさいという御言葉をいただきました。そのためには、あなたがたの思い煩いを、いったい神にゆだねなければなりません。神があなたがたのことを心配してくださるからです。このように、神にすべてをゆだねるができる人こそ謙遜な人であり、そのような人は神から恵みをうけることができます。

 きょうのところには、悪魔に立ち向かいなさい、と勧められています。悪魔に立ち向かうこと、そして次回は最後になりますが、神の恵みの中にしっかりととどまっていることを勧めて、ペテロはこの手紙を締めくくるのです。次週からしばらくの間クリスマスのメッセージを送りたいと思いますので、次回は今年最後の大晦日の礼拝で取り上げることにし、今回はこの悪魔に立ち向かうというテーマだけを取り上げたいと思います。

 Ⅰ.身を慎み、目をさましていなさい(8)

 まず8節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。
 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

 「身を慎み、目をさましていなさい」とは、今の時代がどのような時代なのかを見分け、それに祈りつつ備えていなさいという意味です。ペテロは今、ローマ帝国全体に及ぶ迫害を予感しながらこの手紙を書いているわけですが、そのような時にクリスチャンが何もしないでボーっと過ごしていてよいわけはありません。身を慎み、目を覚ましていなければならないと、勧めているのです。なぜなら、あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているからです。悪魔とか、悪霊ということを聞くと、「またですか、教会に来るとすぐに悪魔とか、悪霊といった非科学的な話になるのですが、そんなのいるはずがないじゃないですか」という声が聞こえてきそうです。悪魔のことを取り上げると、何か過激な思想に走っているかのように思われがちですが、それは実在していて、私たちが気付かないうちに働いています。聖書は悪魔が存在していることと、クリスチャンに対して絶えず攻撃していることを教えています。

 たとえば、エペソ人への手紙6:11~12には、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:11-12)とありますし、イエスご自身も、悪霊につかれていた男から悪霊を追い出し(ルカ8:26-33)、12弟子を宣教に遣わされた時も、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになられました。まさに福音宣教は霊の戦いであり、悪魔は、さまざまな形で絶えずクリスチャンに戦いを挑んで来ているのです。

この手紙を書いているペテロも、そのような攻撃を受けました。たとえば、イエスが十字架に付けられる前夜、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(ルカ22:31)と言われると、「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と豪語したにもかかわらず、その翌日に、大祭司の家で女中に「あなたもあの人の弟子でしょう」と言われると、いとも簡単に、イエスを否んでしまいました。彼はイエスの警告を聞いていても、悪魔の攻撃に屈してしまったのです。それは、彼が身を慎み、目を覚ましていなかったからです。

 ルカの福音書を見ると、このイエスの言葉とペテロの失敗との間には、ある一つの出来事があったことがわかります。それは、ゲッセマネの園での祈りです。イエスは、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちもそれに従いました。いつもの場所に着いたとき、イエス様は彼らに、このように言われました。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:40)
そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、祈っておられました。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られました。すると、汗が血のしずくのように地に落ちました。それは激しい祈りの格闘でした。
その時、弟子たちは何をしていたかというと、すっかり眠りこけていました。イエスが祈り終わって、弟子たちのところに来てみると、聖書には悲しみの果てに、とありますが、何はどうあれ眠り込んでいたのです。それで、イエスは弟子たちに言われました。
「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:46)。
 
「なぜ、眠っているのですか。」心にグサッと刺さる言葉です。おそらくペテロは、その時のことを思い出していたのでしょう。まさに、ペテロがこの手紙を書いていたころの状況は、目を覚まして祈るべき時でした。それは、私たちの時代も同じです。悪魔は、今もクリスチャンを神から引き離そうと躍起になっています。ここには、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。皆さんは、獅子がほえたけるのを聞いたことがありますか?私は以前、孫を連れて宇都宮の動物園に行ったことがありますが、ちょうど飼育員に手懐けられたライオンが檻の外に出されていた所を見たことがあります。「触っても大丈夫ですよ」というので尻尾をちょっと触ったら、「ウォー」と大きな声で叫んだのでびっくりしました。それは、動物園の反対側にも聞こえるほどの大きな声でした。まさに、悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら、歩き回っています。誘惑者として、私たちを神から引き離すために、闇に引きずり込むために、歩き回っているのです。

私たちは様々な形で、この悪魔の力を感じることがあります。それが暴力であり、あるいは国家権力であり、自分の内側に潜む憤りや怒りであったり、あるいは様々な情欲や欲望であったり、強引に私たちを神のもとから引き離し、罪と死の世界に引きずり込もうとするのです。その悪魔に対して私たちがすべきことは、身を慎み、目を覚ましていることです。なぜなら、心は燃えていても、肉体は弱いからです。どんなに私たちが心の中で、「よし、こうしよう」と思っても、そんな決意はすぐにどこかへ吹っ飛んでしまいます。所詮人間は弱いのです。ほえたける獅子が獲物を捜し求めて歩き回っているこの世にあって、私たちが悪魔から守られる唯一の道は、祈り以外にはありません。自分の弱さをよく自覚し、所詮人間というのは悪魔の前にはなす術がないということを自覚して祈らなければならないのです。

Ⅱ.悪魔に立ち向かいなさい(9)

第二のことは、この悪魔に立ち向かいなさい、ということです。9節をご覧ください。ここには、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」とあります。

「立ち向かう」とは、悪魔の攻撃に対して対決姿勢で、毅然とした態度を取ることです。あいまいな態度が一番危険です。この位は大丈夫だろうとか、私は大丈夫だといった甘い考えが、死を招くのです。ペテロは、イエスからサタン呼ばわりをされたことを決して忘れていなかったでしょう。イエスが十字架の予告をされたとき、彼は「主よ、そんなことがあなたに起こるはずがありません。」といさめると、主は、「下がれ。サタン。あなたは、神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)ときっぱりと言われました。

このことから、悪魔に立ち向かうということについて、二つのことが分かります。一つは、人間的な愛情が神の道を妨げることがあり、それはサタンの働きによるものであるということです。そしてもう一つは、そうした働きに対しては、毅然とした態度で臨まなければならないということです。それが悪魔に立ち向かう態度です。

では、どのようにして悪魔に立ち向かったら良いのでしょうか。ここには、「堅く信仰に立って」とあります。堅く信仰に立つとは、神を第一にして、悪魔に立ち向かうということです。悪魔はほえたける獅子のようですが、ユダ族から出た獅子であるキリストはそれよりもはるかに強い獅子です。サタンに簡単に縛り上げられて、家財のように捕えられている私たちを、イエス・キリストは解放することができるのです。このキリストの前に静まり、平安を受ける時、キリストの圧倒的な力が私たちを覆ってくださいます。このキリストの力、神の力によって悪魔に立ち向かうのです。

9節後半のところには、「ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来ました。」とあります。それはペテロの時代の人々だけではなく、これまでこの世に生きてきたすべてのクリスチャンが通って来た道なのです。これは励ましではないでしょうか。

私たちはみな、それぞれに戦いがあり、その戦いにおいて、私たちの置かれている状況はみな違います。しかし、サタンに立ち向かう、あるいはサタンと戦いを交えるという点では、古今東西、信仰者はみな同じなのです。サタンとの戦いに倒れて、傷ついて、疲れ切っているのはあなただけではなく、世にある信仰の先輩たちもみな同じ苦しみを通ってきたのです。このことを思うと、励まされます。

旧約聖書Ⅰ列王記18章に、エリヤが偶像神バアルの預言者たちと戦った時のことが記されてあります。彼はその戦いでの勝利の後で急に孤独感と恐れでいっぱいになりました。あんな大勝利を収めたのに、どうしてそんなに怯えているのだろうと不思議に思うほどです。実は、当時のイスラエルの王であったアハブと、その王妃イゼベルがエリヤの預言者の仲間をすべて殺してしまったのです。そして、イスラエルの人々はみな信仰を捨ててしまったのです。それでエリヤは神に向かって、私一人残りました、私一人だけ残りました、と繰り返して、神の御前に打ちひしがれていたのです。
 そのとき、主はどうされたでしょうか。主はエリヤにこう仰せられました。「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(Ⅰ列王記19:18)
この言葉は、エリヤにとってどれほど大きな慰めを与えてくれたことかと思います。自分だけかと思ったらそうだはなかった。自分ひとりだけがこんなに苦しんでいるのかと思ったらそうではない、同じようにバアルに膝をかがめない7千人の信仰者がイスラエルに残してあるというのです。それを聞いた時、エリヤはどんなに励まされたかわかりません。
 私たちは戦いに疲れると、自分だけがこんなに苦しんでいると思いがちです。けれども、そうではありません。世にいるあなたがたの兄弟たちもみな同じような苦しみを通ってきたのです。私たちが疲れて孤独になっている時、そんな私たちのために祈ってくれている兄弟姉妹がいるということを覚えておかなければなりません。

Ⅲ.不動の者としてくださる神(10-11)

そればかりではありません。そこには神の助けもあります。10節と11節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」
ここでペテロは、悪魔との戦いで疲れ果て、苦しんでいる人たちに対して、あなただけではない。世にある信仰者は皆同じ戦いをしているんだ、ということを述べた後で、神も、あなたと共に立ち、戦っていてくださると述べています。

この神はどのような方でしょうか。「あらゆる恵みに満ちた神、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神」です。皆さん、私たちの神は、あらゆる恵みに満ちた神です。そして、私たちをキリストにあってその永遠の栄光の中に招いてくださった方なのです。それは、信仰の結果であるたましいの救いのことです。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これは私たちのために天にたくわえられているのです。このようにして神は、一方的な恵みによって私たちを救ってくださったのです。この神があなたと共にいて、助けてくださるのです。

どのように助けてくださるのでしょうか。ここには、「あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」とあります。確かに、しばらくの苦しみはあります。しかし、苦しみだけでなく、そのあとで完全にしてくださいます。完全にするとは、完全に回復させるということです。口語訳では、「その方はあなたがたをいやし」と訳しています。「完全にする」という訳の方がストレートですが、しかし「いやしてくださる」という訳も尊いです。なぜなら、私たちは悪魔との戦いによって傷つくことがあるからです。悪魔との戦いによって様々に傷ついた私たちの傷を、神ご自身がいやしてくださるのです。

そればかりか、堅く立たせてくださいます。試練に会うとき、私たちの信仰は葦のように大きく揺さぶられますが、神は、私たちが揺れ動くことがないように、しっかりと立たせてくださいます。この「堅く立たせ」という言葉は、岩のようにしてくださるという意味です。この手紙を書いたペテロの、以前の名前は何だったでしょうか。シモンです。シモンは、感情が様々と揺れ動く人物でした。そこが人間らしくて共感を覚えるところでもありますが、あまりにも直感で行動するので、安定さに欠いていました。顔を見ているとよくわかるのです。嫌だったら嫌な顔するし、うれしいとうれしい顔をする。わかりやすい人物でした。でもいつも揺れ動いていました。

しかしそんな彼に、イエス様はこう言われました。
「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)
ペテロというのは「岩」という意味です。シモンは葦のように揺れ動く人でしたが、サタンによって麦のようにふるいにかけられた後、彼は岩のような人になりました。ペテロは今、立派に立ち直って、岩のようになりました。そして、同じように試練の中で苦しんでいる人たちを力づけているのです。

そればかりではありません。強くしてくださいます。「強くし」しとは、「堅く立たせ」と同じです。信仰が建て上げられること、確立することです。しばらくの苦しみはありますが、その後で完全にし、堅く立たせ、びくともしないほど強い信仰者として立たせてくださいます。

そして、最後は、「不動の者としてくださいます」です。なるほど、沢山の試練を通って来られた方は、不動の信仰を持っておられるのがわかります。けれども、人間はどこまでも脆い者です。あんなに信仰が深かったのにという人でも、ある日、突然倒れてしまうことがあります。しかし、どんなことがあっても倒れない方、不動の礎であられる方がおられます。それは、イエス・キリストです。Ⅰペテロ2:6には、こうあります。
「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』」
イエス・キリストは、どんなことがあっても動かされることはありません。イエスは不動の礎であり、確かな土台なのです。ですから、彼に信頼する者は、決して失望させられることはありません。私たちが不動な者になり得るのは、これ以外にはありません。あなたが不動な者になりたいのなら、不動であられるイエス・キリストのもとに来なければなりません。ですから、ペテロはこう言っているのです。
「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも入れる石として、霊の家に築き上げられなさい。」(Ⅰペテロ2:4-5)

あなたはイエス様のもとに来ていますか?イエス様という霊の家に築き上げられているでしょうか。私たちは生ける石として教会の中に築き上げられて行くときに、私たちもまた不動の者になるというのが、ペテロの信仰だったのです。おおよそ揺れ動いているばかりいる私たちが、この霊の家である教会の中に組み込まれていくときに、イエス・キリストを信じてこの方により頼んでいくときに、決して失望させられることはないのです。悪魔の試みによって失敗し、もうだめだという時でさえ、あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるのです。

ビクトル・ユーゴー(1802~1885フランスの詩人・小説家・政治家)原作のレ・ミゼラブル(「ああ、無情」1862)という小説を、皆さんもよく知っておられると思います。
物語の始まりは、わずか一切れのパンを盗んで、なんと19年間刑務所に服役していたジャン・バルジャンが出獄した日から始まります。どこへ行っても水一杯飲ませてくれない、パンを買うお金もない、そんな彼が、教会を訪ねるのです。教会にはミリエルという司教がいて、初対面の彼を出獄して来た人物だと知った上で、一緒に食事をし、そして彼を教会に泊めます。夜中、目が覚めたジャン・バルジャンは、夕食の時にパンが載っていた銀の食器が気になります。そして、司教の寝室に潜り込み、銀の皿を盗んで、逃亡するのです。翌日、うろついていた彼は警察に捕まり、教会に引っ張って来られます。
「司教様、こいつは泥棒です。この銀の皿は、お宅のものですね。ふてぶてしいにもほどがありますよ。こいつは、この皿を司教様からもらったなんて言っています」
 すると、ミリエル司教はそばにあった銀の燭台を持って来て、ジャン・バルジャンにこう言うのです。
「どうした、君。この燭台もお皿と一緒に上げると言ったのに。遠慮したのか?燭台の方は忘れてしまったのか?」
 それで、ジャン・バルジャンは再び牢獄に入ることを免れます。刑事が去って行った後、司教はジャン・バルジャンに言います。
「忘れてはいけません。決して忘れてはいけませんぞ。あなたはもう正しい人になられたのじゃ。あなたのたましいは、すでに神に捧げられていますのじゃ。」

これですね。ペテロが言いたいのは、まさにこれです。「どんなにサタンの戦いが激しかったとしても、あなたはすでに神ご自身によって救いの栄光の中に入れられているのです。神ご自身があなたの傍らにおられる。あらゆる恵みをあなたに与え、あなたが迷い出たら、再びあなたを連れ戻すことがおできになるのです。あなたのたましいは既に神に捧げられているということを忘れてはいけない。」

しかし、物語はこれで終わりません。ジャベルという刑事は、とてもしつこいのです。ジャン・バルジャンの尻尾を捕まえようと何度も彼を追いかけて来ては、彼の有罪を証明して、刑務所に引き戻そうと必死にかぎ回るのです。ジャン・バルジャンは、最初は名前を変えます。名前を変えて正しく生きて、彼はなんと市長にまで上りつめます。それでも、ジャベル刑事は、サタンのようにしつこく、彼を追いかけて来ます。
 しかし、この長い物語の中で、ジャン・バルジャンは最後まで元に戻ることはありませんでした。それは、「あなたのたましいは、神に捧げられた」という、あのミリエル司教の言葉をずっと覚えていたからです。悪に対して、悪をもって報いず、善をもって報い、隣人を愛し、右の頬を打たれれば、左の頬を差し出していくのです。あの日、ミリエル神父の言われた言葉、「あなたのたましいは、すでに神に捧げられています」を忘れないのです。

それは私たちも同じです。あなたのたましいも、神に捧げられたのです。それゆえ、私たちもジャンベル刑事のようなしつこいサタンの攻撃によってつまずいてしまうことがあるかもしれませんが、しかし、忘れてはいけません。あなたのたましいは、神に捧げられているのです。どんなにサタンが激しく攻撃してきても、神は私たちを永遠の栄光の中に招き入れてくださいました。この神が、私たちをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるのです。

ですから、最も重要なことは、あなたはこの神の永遠の栄光の中に入れられているかどうかです。イエス・キリストを信じて、あなたのたましいが神に捧げられているかどうかなのです。あなたはこの神のご支配の中にいるでしょうか。
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたもこの生ける石として、霊の家に築き上げられてください。

キリストは、そのためにこの世に来てくださいました。このアドベントの時、このキリストをあなたの救い主として信じ、この方にあなたのたましいが捧げられることこそ、キリストを迎えるのにもっともふさわしい姿勢です。そして、この世にあっては悪魔との激しい戦いがありますが、その中にあっても、この信仰に堅く立ち続けようではありませんか。そして、心から主に賛美を捧げましょう。
「どうか、神のご支配が世々かぎりなくありますように。アーメン。」

ヨシュア記14章

きょうはヨシュア記14章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ヨセフの子孫マナセとエフライム(1-5)

 まず1節から5節までをご覧ください。
「イスラエル人がカナンの地で相続地の割り当てをした地は次のとおりである。その地を祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、イスラエル人の諸部族の一族のかしらたちが、彼らに割り当て、主がモーセを通して命じたとおりに、九部族と半部族とにくじで相続地を割り当てた。モーセはすでに二部族と半部族とに、ヨルダン川の向こう側で相続地を与えており、またレビ人には、彼らの中で相続地を与えなかったからであり、ヨセフの子孫が、マナセとエフライムの二部族になっていたからである。彼らは、レビ族には、その住むための町々と彼らの所有になる家畜のための放牧地を除いては、その地で割り当て地を与えなかった。イスラエル人は、主がモーセに命じたとおりに行なって、その地を割り当てた。」

前回は、ヨルダン川の東側の相続地の分割について見ました。今回は、ヨルダン川のこちら側、すなわち、西側における土地の分割のことが記録されてあります。まず1節から5節まではその前置きです。この作業に携わったのは祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、イスラエル人の部族の一族のかしらたちでした。祭司エルアザルはアロンの第三子です。彼がこの作業に関わることは、モーセの時代に主によって命じられていました。その彼と、ヨシュアと、イスラエルの部族のそれぞれの代表が集まってくじを引きました。くじを引くというのは意外な感じのする方もいるかもしれませんが、箴言16章33節に、「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」とあるように、これは主のみこころを伺う方法であり、この土地分割を決定する方法として主が前もって指定しておられたものでした。

ヨルダン川のこちら側の土地は、主がモーセに命じたとおりに、9つの部族と半部族とにくじで割り当てられました。イスラエルは12部族なのに、なぜ9つの部族と半部族なのでしょうか。その理由が3節にあります。
「モーセはすでに二部族と半部族とに、ヨルダン川の向こう側で相続地を与えており、またレビ人には、彼らの中で相続地を与えてなかったからであり、」
ここまで読むと納得したかのように感じますが、よく考えると、イスラエルの部族は全部で12部族であり、そのうちの2部族と半部族には既に相続地を与え、それにレビ族はイスラエルの各地に散って礼拝生活を助けるため、自分たちの相続地は持たないということであれば、残りは9部族と半部族ではなく、8部族と半部族になります。それなのにここに9部族と半部族とあるのはどういうことなのでしょうか?
その理由が4節にあります。それは、「ヨセフの子孫が、マナセとエフライムの二部族になっていたからである。」すなわち、ヨルダン川の向こう側が2部族半に与えられ、レビ族は特別な待遇となって相続地の分割から抜けた分を、ヨセフ族がマナセとエフライムの二つの部族に分かれて、相続地を受けたのです。なぜヨセフ族がこのような祝福を受けたのでしょうか。その経緯については創世記48章5節にあります。
「今、私がエジプトに来る前に、エジプトで生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子となる。」
この「あなたのふたりの子」の「あなた」とはヨセフのことです。ヤコブはその死を前にして、このヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムに対して特別の祈りをささげ、二人の孫は単なる孫ではなく、自分の12人の子どもと同じように自分の子どもとなる、と宣言したのです。子どもであれば、親の相続を受けることになります。ですから、このヨセフの二人の息子は、他のヤコブの子どもと同じようにそれぞれ相続地を受けたのです。このことは、モーセがその死に際してこのヨセフ族に与えた特別の祝福を見てもわかります(申命記33:13~17)。語っていることがわかります。いったいなぜ神は、これほどまでにヨセフを祝福したのでしょうか。

それは、あのヨセフの極めて高尚な生涯を見ればわかります。ヨセフについては創世記37章から50章までのところに詳しく書かれてありますが、兄たちにねたまれてエジプトに売られ、そこで長い間奴隷として生活し、無実の罪で獄屋に入れられることがあっても兄たちを憎むことをせず、ついにはエジプトの第二の地位にまで上りつめることができたからです。それは、主が彼とともにいてくださったからです。ヨセフの生涯を見ると、彼には三つの優れた点があったことがわかります。第一に、彼はどんな苦難や悲運の中にあっても、決して神に呟かず、神を信頼し続け、そして神に従っていったということ、第二に、彼はどんな誘惑にも屈せず、しかも自らを陥れた人々を訴えたりしなかったということ、第三に、彼は自分を奴隷として売り飛ばし、ひどい目に遭わせた兄たちに対して、これを赦し、なおかつ救ったということです。ヨセフはそのような信仰のゆえに、彼ばかりではなく、彼の子孫までもがその祝福を受けることになったのです。彼の子孫は、イスラエル12部族のうち2部族を占めたばかりでなく、その内の一つであるエフライムは非常に強力な部族となって行き、やがて旧約聖書においては、「北王国イスラエル」のことを、「エフライム」と呼んでいる箇所があるほどに、北王国10部族の中でも、最も優れた部族となっていったのです。

このヨセフの生涯を見ると、そこにキリストの姿が重なって見えます。キリストもご自分の民をその罪から救うためにこの世に来てくださったのに十字架に付けられて死なれました。キリストは、十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。」と、自分を十字架につけた人たちのために祈られました。全く罪のない方が、私たちの罪の身代わりとなって自分のいのちをお捨てになられまたのです。それゆえ、神は、この方を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。

ということはどういうことかと言うと、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムが神から多くの祝福を受けたように、キリストを信じて、キリストの子とされた私たちクリスチャンも、キリストのゆえに多くの祝福を受ける者となったということです。私たちは、キリストのゆえに、すばらしい身分と特権が与えられているのです。であれば、私たちはさらにこの主をあがめ、主に従い、主を賛美しつつ、キリストから与えられる祝福を受け継ぐ者となり、その祝福を、私たちの子孫にまで及ぼしていく者でなければなりません。

 Ⅱ.信仰の目を持って見る(6-12)

次に6節から12節までをご覧ください。その地の割り当てにおいて、最初にヨシュアのところに近づいて来たのはユダ族です。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアにこのように言いました。6節から12節までの内容です。
「ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」

カレブとは、イスラエルがエジプトを出て、シナイ山から約束の地に向かって旅をし、その入り口に当たるカデシュ・バルネアで、カナンの地を偵察するためにモーセが遣わした12人のスパイの一人です。モーセは、イスラエルの12部族のかしらに、その地に入って偵察してくるように命じましたが、エフライム族のかしらがヨシュアで、ユダ族のかしらがこのカレブでした。カレブは今、その時のことを思い起こさせています。

当時、カレブは40歳でした。そしてそれから45年間という長い歳月をかけて、ヨシュアとともに民を指導してきました。このカレブの特徴は何かというと、8節にあるように、「主に従い通した」ということです。9節にもあります。彼はその生涯ずっと主に従い通しました。エジプトを出た時は40歳でした。あれから45年が経ち、今では85歳になりましたが、彼はその間ずっと主に従い通したのです。そのように言える人はそう多くはありません。ずっと長い信仰生活を送ったという人はいるでしょうが、カレブのように、主に従い通したと言える人はそれほど多くないのではないでしょうか。私たちも彼のような信仰者になりたいですね。

そんなカレブの要求は何でしたか。12節を見ると、彼はヨシュアに、「どうか今、主があの日に約束されたこの山脈を私たちに与えてください。」ということでした。ずっと長い間主に従い通してきたカレブの実績からいっても、この要求はむしろ当然のことであり、決して無理なものではありませんでした。しかし、このカレブの要求には一つだけ問題がありました。何でしょうか。そうです、そこにはまだアナク人がおり、城壁のある大きな町々がたくさんあったということです。まだイスラエルの領地になっていなかったのです。ですから、彼がその地の割り当てを願うということは、生易しいことではありませんでした。彼はその地を占領するために強力なアナク人を打ち破り、その土地を奪い取らなければならなかったのです。それは、自らに対する厳しい要求でもありました。

この問題に対して、カレブは何と言っているでしょうか。彼はこう言いました。12節の後半です。「主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」すごいですね、この時カレブは何歳でしたか?85歳です。でも、主が共にいてくだされば年齢なんて関係ない、必ず勝利することができると宣言しています。11節を見ると、「しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」と言っています。この時彼は何ですか?85歳です。普通なら、もう85です、そんな力はありません。若い時は良かったですよ、でも今はそんな力はありません・・、と言うでしょう。でもカレブは違います。今も壮健です。私の今の力は、あの時と同様です。まだまだ戦えます。問題ありません、そう言っているのです。強がりでしょうか?いいえ、違います。事実です。主がともにいてくだされば、主が約束されたように、彼らを追い払うことができます。私は弱くても、主は強いからです。これは事実です。こういうのを何というかというと、「信仰の目を持って見る」と言います。確かに人間的に見れば若くはありません。力もないでしょう。記憶力は著しく衰えました。何もいいところがありません。しかし、信仰の目をもって見るなら、今でも壮健なのです。主がそのようにしてくださいますから、主が戦ってくださいますから、まだまだ戦う力があるのです。私たちもこのカレブのような信仰の目をもって歩みたいですね。

カレブはこの時だけでなく、若い時から、いつもそうでした。あのカデシュ・バネアからスパイとして遣わされた時も、他の10人のスパイは、「カナンの地は乳と密の流れる大変すばらしい地です。しかしあそこには強力な軍隊がいて、とても上っていくことなんてできません。そんなことをしようものなら、たちまちのうちにやられてしまうでしょう。」とヨシュアに報告したのに対して、彼はそうではありませんでした。彼はヨシュアとともに立ち、こう言いました。「いやそうではない。我々には主なる神がついている。だから私たちが信仰と勇気を持って戦うなら、かならずそれを占領することができる。」
12人のスパイの内、10人の者たちは目の前の現実に対して、人間的な計算と考えの中でしか物事を捉えることができず、肉の思いで状況を判断しましたが、しかしヨシュアとカレブの2人は信仰の目を持って神の可能性を信じ、主によって道は開かれると確信し、その状況を判断したのです。その結果、主はこの信仰によって判断した2人を大いに祝福し、この2人が約束の地カナンに入ることを許し、信仰の目を持たなかった他の10人の者たちは、カナンの地に入ることができませんでした(民数記14:30)。

私たちは、現実的な消極主義者にならないで、信仰的な積極主義者にならなければなりません。神のみこころが何かを求め、それがみこころならば、人間的に見てたとえ不可能なことのように見えても、神の可能性に賭け、神のみこころを果たしていかなければなりません。現実を見るなら、確かにそれは困難であり不可能に思えるかもしれませんが、しかし、私たちの信じる神は全能の主、この天地宇宙を統べ治めておられる偉大な方なのです。私たちはこの主により頼み、さらに信仰の目をもって、積極的にありとあらゆる事柄に雄々しく立ち向かっていかなければなりません。

かつて、私が福島で牧会していた時、会堂建設に取り組んだことがあります。それは人間的に見たら全く不可能なことでした。まずその土地は市街化調整区域といって、建物が立てられない場所でした。悪いことに、福島県ではそれまで宗教法人が市街化調整区域に開発許可を得た例は一度もありませんでした。その時、私たちはまだ宗教法人すら持っていなかったのです。また、仮にそれが許可となっても建物を建てる費用がありませんでした。人間的に見たら全く不可能でした。しかし、主が私たちとともにいてくださったので、その一つ一つの壁を乗り越えさせてくださり、立派な会堂を建てることができました。どのようにしてできたのかを話したら、話しは尽きないでしょう。ですから、もし興味のある方がいましたらどうぞ個人的に聞いてください。時間が許す限りお話ししますから。しかし、このことを通して私が学んだ最も重要なことは、会堂はお金があれば立つのではなく、信仰によって立つということでした。それが神のみこころならば、神がともにいてくださるなら、必ず立つのです。私はそれまで多くの牧師の話を伺いながら、その教会は特別に神が働いておきな奇跡を受けたのであって、自分たちは無理だろうと考えていましたが、後で振り返ってみると、それらのどの教会よりも多くの神の奇跡を拝することができたと思います。それは、神がともにいてくださったからです。神がともにいてくださるなら不可能はないのです。

それと同じことが、これからの私たちの前にも置かれています。私たちは神から与えられている福音宣教のために、多くの教会を生み出したいと願っています。霊的に不毛なこの国で、牧師の墓場と言われているこの栃木県の中で、カレブじゃないですが、だんだん年をとってくるという現実の中で、いったいどうやってこれを成し遂げることができるのでしょうか。信仰によってです。カレブのように、主がともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう、と言ったように、私たちもそのように言うことができるのです。

一つの有名な逸話があります。アフリカの新興国に、アメリカから二人の靴製造会社の社員が調査のため派遣されました。この二人の社員は、そのアフリカの新興国を訪れた時に、国民がまだ靴を履いていないという現実に見て、本国に電報を送り、それぞれ違う報告をしました。一人の社員は、「この国の住民は靴を履かない。だから市場開拓は不可能だ」。しかしもう一人の社員はこう打電しました。「この国の住民は靴を履かない。だから大いに可能性あり。」と。

またかつて日本の伝道が非常に困難だと嘆いていた一人の牧師がいました。彼は韓国を訪れた時、韓国の牧師たちの前で、そのことを嘆いてこう言いました。「日本はこのような状況です。日本の伝道はとても難しいです。しかし韓国はいいですね。」
しかしそれに対して韓国の一人の牧師はこう言いました。「いいえ韓国では教会がもうどこへ行ってもあります。飽和状態です。私たちが見るならば、むしろ日本が羨ましい。日本では、いくらでもその可能性が広がっているのですから。」

私たちはどちらの人でしょうか。現実の困難さに戸惑い、不可能と見なし、「もうだめだ」と思ってしまうでしょうか。それとも、むしろ現実がそのような状況だからこそ神の助けを求めてこの現状を打ち破り、そこに確かな実現をもたらそうとする人でしょうか。カレブのように正しい信仰を確立し、神の偉大な御力に信頼して、みこころを行っていく者となろうではありませんか。

Ⅲ.主に従い通したカレブ(13-15)

最後に、その結果を見て終わりたいと思います。その結果どうなったでしょうか。13節から15節までをご覧ください。
「それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。ヘブロンの名は、以前はキルヤテ・アルバであった。アルバというのは、アナク人の中の最も偉大な人物であった。そして、その地に戦争はやんだ。」

ヘブロンは、かつてアブラハムが住んでいた場所であり、アブラハムが死んだサラを葬るために購入した土地があるところです。主がアブラハムに現われてくださったところです。たとえそこにアナク人が住んでいようとも、主ご自身が現われてくださった、そのところをカレブは欲していたのです。私たちは、目に見えることよりも、目に見えない、永遠に価値あるものに対して、どこまで情熱を持っているでしょうか。

それで、ヘブロンは、カレブの相続地となりました。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからです。ヘブロンの名は、以前はキルヤテ・アルバでした。「アルバ」というのは、アナク人の中の最も偉大な人物でしたが、敵がどんなに偉大な人物であったとしても、主の前にも風が吹けば飛んでいくもみがらにすぎません。主はどんな敵をも追い払ってくださいます。私たちも、主がともにいてくださることを信じ、主が約束したことを、信仰によって勝ち取っていきたいと思います。

Ⅰペテロ5章5~7節 「へりくだる者に与えられる恵み」

 きょうは、「へりくだる者に与えられる恵み」というタイトルでお話したいと思います。前回のところでペテロは、教会の長老たちに、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい」と命じました。それは、この手紙の受取人であった小アジヤにいたクリスチャンたちが、激しい迫害の中にあっても堅く信仰に立ち、神の恵みにとどまっているためです。その鍵は教会の指導者です。教会の指導者たちが、与えられた役割をしっかりと果たすことで教会が強められ群れの羊が守られ、どんな苦難の中にあっても堅く信仰に立ち続けることができます。そこで教会の長老たちに対して、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心からそれをするように、また、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範になりなさいと勧めたのです。

 きょうの箇所には、そうした長老たちの指導に対して、その指導を受ける信徒たちはどうあるべきなのか、その姿勢について教えられています。それは一言で言えば「へりくだる」ということです。

 Ⅰ.みな互いに謙遜を身に着けなさい(5)

 まず、5節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。
 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」

 「同じように」というのは、長老たちが神の羊の群れを牧するにあたり、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、群れの模範となるように、同じように、「若い人たち」も、長老たちに従いなさい、というのです。「若い人たち」とは、年齢的に若いという意味もありますが、ここではむしろ、「長老たち」に従う者という意味での「若い人たち」のことです。つまり、一般信徒のことです。一般信徒に対して、長老たちに従うようにと勧められているのです。なぜでしょうか?なぜなら、長老たちは神によって立てられ、神の御心を行う者たちだからです。ですから、しもべが、たとい横暴な主人であっても従うように、たとい、長老たちが自分たちから見て正しくない、適切でないと思われるような指導をする場合でも、若い人たちは長老たちに従うべきなのです。

いったいどうしたらそのような態度をとることができるのでしょうか。その後のところでペテロはこう言っています。
「みな互いに謙遜を身につけなさい。」
ペテロはここで「みな互いに」と言っています。これは、長老であろうが、若い人であろうが関係なく、ということです。それは、すべての人に求められていることです。もちろん、若者も、長老たちもそうですが、同時に、若い者同士も互いに謙遜でなければならないという意味です。

この「謙遜を身に着ける」という言葉ですが、これは奴隷が仕事をするときに裾などをまくり上げる動作を意味します。つまり、謙遜という姿が板についているようにという意味です。もしかしたらペテロは、最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちの足を洗われた姿を思い出していたのかもしれません。イエスさまは、夕食の席から立ち上がると、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで、ふかれました。イエスさまが着ておられたのは、謙遜という衣でした。この衣を着るように、この衣を身に着けるようにというのです。

なぜでしょうか?その後のところに理由が記されてあります。それは、「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」この言葉は、箴言3章34節のみことばの引用です。そこには、「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」(箴言3:34)とあります。高ぶるとは、自分自身を他の誰よりも重要と考えることです。高ぶる人は自分に信頼しますが、謙遜な人は神に信頼します。高ぶる人は自分に栄光を帰しますが、謙遜な人は神に栄光をお返しします。ですから、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお授けになられるのです。ちょうど、水が高い所から低い所に流れるように、神の恵みは低い所に注がれるのです。そして、高ぶる者には敵対されるのです。

ルカ18章10~14節には、自分を義人だと自認し、他の人を見下している者たちに対して、イエスさまはこのようなたとえを話されました。
 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:10~14)

このたとえの中でパリサイ人は、取税人と自分を比較しました。確かに、彼の生き方は立派でした。彼は取税人のようにゆする者ではなく、不正な者、姦淫をする者ではありませんでした。彼は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、ちゃんとその十分の一をささげていました。しかし、彼が取税人を見たとき、心が高ぶってしまいました。彼は取税人と自分を比較し、「自分はほかの人々のようにゆする者ではない。ことにこの取税人のようではない」と言った途端、彼の心は傲慢でいっぱいに満たされてしまいました。
一方、取税人は、まともなことは何一つしていませんでした。それに彼の祈りも、非常に乏しい。13節には、彼は「遠く離れて立ち」とあります。それが遠慮からなのか、後ろめたさからなのかわかりませんが、神さまから非常に遠い所に立ちました。そして、目を天に向けることができない程、罪深さを感じていたのでしょう。「胸をたたいて」罪を悔いました。ですから、心が砕かれて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と言うしかなかったのです。しかし、神さまは、そんな彼を義と認めてくださったのです。

神殿で誇らしげに祈ったパリサイ人は神さまに受け入れてもらえず、しかし、神から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、胸をたたいて、神の御前にひざまずいたあの取税人の祈りは聞き入れられました。彼は義と認められました。義と認められて家に帰ったのはパリサイ人ではありませんでした。顔を上げることもできない罪深い男、胸をたたいて悔い改めるしかなかった罪人、しかし、真実にひざまずいて、赦しを請うたこの男だったのです。なぜでしょうか?なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお授けになるのです。

ですから、ペテロがここで「みな互いに謙遜を身に着けなさい」と言ったのは、謙遜であるということが単に人間関係における問題だからではなく、それが神様との関係における問題だからです。そもそも神様は、高ぶりを嫌われます。それが長老であろうが、若い人であろうが関係ありません。高ぶりそのものに敵対されるのです。なぜでしょうか?なぜなら、高ぶりこそ罪の本質だからです。

いったいどうして人類に罪が入って来たのでしょうか。それは高ぶったからです。イザヤ書14章12~15節を開いてください。ここには、サタンの起源について言及されています。
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ14:12~15)

サタンもかつては良い天使でした。「暁の子、明けの明星」とあるように、非常に輝いた存在だったのです。それなのになぜよみに落とされ、穴の底に落とされてしまったのか。高ぶってしまったからです。私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てある会合の山、これは天の御座のことですが、そこに座ろうとしました。すなわち、いと高き方のようになろうとしたのです。それゆえ、神は彼をよみに落とし、穴の底に落とされたのです。これがサタンの高ぶりであり、神のようになりたいという欲望が彼を滅ぼしました。サタンがエバに、「これを食べれば、神のように賢くなる」と惑わしたのも、そのためです。そのため、私たちの中に「神のようになりたい」という性質があるのです。神のようになりたい、つまり神から独立して、自分の判断で、自分の知恵と自分の思いで生きていきたいと思いが働くのです。イエス様を信じていない人は、自分を信じて、自分で生きていくことは当然のことであると思っていますが、それはそのまま悪魔から来ている考えなのです。高ぶりこそ罪の本質であり、このような傾向から逃れることは、たとえ罪赦されたクリスチャンであってもなかなか困難なことです。

ある若い牧師が、地域のキリスト教団体から、その年の最も謙遜な牧師として表彰されました。教会員もみんな感謝して表彰式に行きました。その式で彼は、最も謙遜な牧師として、謙遜がいかに大切であるかをスピーチしました。
 ところが次の週、教会員がその表彰状をその団体の本部に返しに来たというのです。その理由は、なんとその牧師はいただいた表彰状を額に入れ、それを教会のロビーに飾ろうとしたからでした。「先生、止めてください。これは返上した方がいいです」と、返しに来たというのです。もちろん、これはジョークだと思いますが、でも、同時に真理を突いていると思います。へりくだるというのは、それほど難しいことなのです。

18世紀イギリスのリバイバル運動を指導したジョン・ウェスレー(1703~1791)は、「キリスト者の完全」という書物の中でこう言っています。
「もしあなたが完全に罪から解放されていると信じるなら、まず高ぶりの罪に警戒しなさい。この罪だけは、あらゆる欲から解放された心の人も捉えることができることを私は知っている。」それほど、この高慢の罪から解放されるということは難しいことなのです。

皆さん、なぜ長老たちに従うことができないのでしょうか。なぜ互いに従うことができないのでしょうか。高ぶっているからです。これが罪の本質であって、このことが解決するなら、どのような問題も解決することができるでしょう。なぜなら、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになられるからです。

Ⅱ.力強い神の御手の下にへりくだりなさい(6)

であれば、私たちにとって大切なことは、長老たちに従うかどうかということではなく、神に従うということです。ですから、6節にこうあるのです。ご一緒に読みましょう。
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

ペテロは、人間同士が互いにへりくだる必要を述べた後で、本当の問題は神との関係であることを示され、神の御前にへりくだることの必要性を説いています。被造物にすぎない人間が創造主である神の御前でへりくだることは当然のことです。そのことをペテロは、次のことばをもって表しています。すなわち、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」ということです。

神は力強い御手をもってこの世のすべてを支配しておられます。それに比べて私たちは何とちっぽけな者でしょうか。だから、この力強い御手の下にへりくだらなければなりません。「へりくだる」というのは、神の主権の中に自分をゆだねることです。いろいろ、自分に不利なことが起こったとき、「なぜ私をこのような目に合わせるのですか」と神に訴えるようなことをせず、また、神が立てておられないのに、ある重要な位置に自分を置くようなことをしないで、自分の弱さ、足らなさ、小ささを徹底的に認めて、偉大な神の御手に自分の人生のすべてをおゆだねすることなのです。

それは、神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。私たちが徹底的にへりくだる時、神は不思議なことをなさいます。ちょうど良い時に、高くしてくださるのです。たとえば、ヨセフはどうでしたか?彼は17歳の時、お兄さんたちに売られてエジプトの奴隷となりました。エジプトで囚人となったこともあります。しかし、彼が30歳になった時、神は彼を高くしてくださいました。エジプトの宰相となったのです。それはカナンに住んでいた家族がききんで苦しんでいた時でした。それでイスラエル人はみなエジプトに下ることができました。神はちょうどよい時に彼を高くしてくださったのです。

それは私たちの主イエスのご生涯を見てもわかります。主は最後まで神に従順でした。主は自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるすべてのものが、ひざをかがめて、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。イエスさまは、父なる神の下にへりくだられたので、ちょうど良い時に、神はキリストを高くあげてくださいました。

それは私たちも同じです。私たちも神の力強い御手の下にへりくだるなら、神は本当に不思議なことをなさいます。私たちを地の低いところから、天の高みまで引き上げてくださるのです。それは、この世においても起こることですし、次の世においても同じです。力強い神の御手の下にへりくだるなら、ちょうど良い時に、神が最善と思われる形で、私たちを高くしてくださるのです。

Ⅲ.思い煩いを神にゆだねて(7)

では、どうしたら神の御手の下にへりくだることができるのでしょうか?7節をご覧ください。ここもご一緒に読みましょう。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

この7節は、6節の続きです。6節でペテロは、「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい」と言いましたが、どのようにへりくだったらいいのでしょうか。ここには、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」とあります。これは命令形ではなく、現在分詞といって、どのようにして神の力強い御手の下にへりくだったらよいかが説明されているのです。それは、あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねて、です。神の前での謙遜は、私たちの思い煩いを神にゆだねるという姿勢に表れるとペテロは言うのです。

 この「思い煩い」(メリムナ)と訳されているギリシャ語は、「別々の方向に引っ張ること」を意味します。希望は私たちを一つの方向に引っ張りますが、恐れは私たちを反対の方向に引っ張ります。それで私たちは引き裂かれてしまうのです。それは絞め殺すことを表わしています。皆さんも思い煩うことがあるかと思いますが、それがどんなにか人を絞め殺すかをご存知だと思います。思い煩いは頭痛、肩こり、めまい、背中の痛みなど、肉体の障害を引き起こすだけでなく、思考力や消化力にも影響を及ぼします。その上、思い煩ったからといって何も良いものを生み出しません。イエス様も「あなたがたのうちでだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(マタイ6:27)と言われました。思い煩ったからといって、自分では何もすることができません。ではどうしたらいいのでしょうか。

ペテロはここで、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」と言っています。私たちの思い煩いを自分で何とかしようとするのではなく、その思い煩いのいっさいを、神にゆだねなさいというのです。「ゆだねる」という言葉は、投げ捨てて忘れてしまうことを意味します。石を遠くに投げてしまうように、思い煩いを遠くに投げ捨てなければなりません。どこかに投げ捨てて、忘れなければなりません。では、どこに投げるのかというと、神に向かってです。神に向かってあなたの思い煩いを投げ切るのです。これが祈りです。「神さま、私には無理ですから、あなたにすべてを任せます。あなたが解決してください。よろしくお願いします。」と、神に祈り、祈ったらもう忘れるのです。それが「ゆだねる」ということです。

このことをパウロはピリピ人への手紙の中でこのように言っています。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)これはあなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさいということです。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

 それなのに、私たちはなぜいつまでも思い煩っているのでしょうか。それは、神様にゆだねると言いながら、本当の意味でゆだねていないからです。思い煩いという石を投げ切ったようでもそれに紐をつけて、何度も何度も引っ張るようなことをしているのです。ですから、ゆだねているようでも、すぐにまた思い煩ってしまうのです。

 実は、へりくだることとゆだねることには関係があります。本当にへりくだってないとゆだねることができません。高ぶっている人は、自分の心配事を決して他人にゆだねません。自分で何とかしようとするからです。本当にへりくだっている人だけが、へりくだった自分の弱さを認める人だけが、ゆだねることができます。ですから、あなたが神に自分をゆだねたいと思うなら、あなたは、神の下にへりくだらなければなりません。それは逆もまた真なりで、あなたが神の下にへりくだるためには、あなたがあなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなければなりません。これは相関関係があるのです。

 いったいなぜあなたの思い煩いのすべてを、神にゆだねなければならないのでしょうか。ここにはその理由が次のように述べられています。それは、「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」私たちが自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねるなら、神があなたがたのことを心配してくださいます。ここでペテロが「神があなたがたのことを心配してくださる」の「心配する」(メロー)は、「あなたがたの思い煩いを」の「思い煩う」(メリムナ)とは違う言葉で、「ケアする」とか、「面倒をみる」という意味があります。本当に神様は私たちのことを心配してくださるのか、信じられないという人もいるかもしれませんが、ここではそのように約束しておられるのです。エレベーターで重い荷物を3階まで運ばなければならない時、その荷物をしっかりと抱えたまま立っている人は少ないでしょう。荷物は下に下ろしてよいのです。エレベーターがどんなに重い荷物でも運んでくれるからです。ましてエレベーターよりも遥かに強力な永遠の神の右の手が私たちの下にあって支えてくださっています。思い煩うという荷物も一緒に運んでいただきましょう。

 ですから、へりくだるとは、特別な思いや取り組みではありません。私たちのありのままの姿を神の前で見つめ、その弱さ、足らなさ、いや罪深い姿をも主の御前にさらけ出して、「神さま、どうかよろしくお願いします」と、神様におゆだねするという心の営みです。

 星野富広さんの詩の中に、「あけび」という詩があります。
「あけびを見ろよ。
木の枝にぶら下がり、
体を二つに割って
鳥がつつきにくるのを動きもしないで
待っている
誰に教えられたのか
あんなにも気持ちよく自分を投げ出せる
あけびを見ろよ

星野さんは実がざっくり二つに割れたあけびが、図々しいくらい、気持ちよく、自分を投げ出している様を見て、私たちもそのくらい開き直って、「神さま、頼みます!」と、自分を神様に投げ出すくらいがいいんじゃないか、と言っているのです。

そうです。私たちもあけびになればいいんです。何でも、構わないから、ど~んと来るがいい。それがどんな重荷でも、ぜ~んぶ、イエスさまにゆだねます・・。それでいいんです、と語り掛けているような気がします。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 あなたは、重荷をまだ自分で背負っていませんか。あなたの重荷はどんなものでしょうか。それがどんなものであっても、その思い煩いを、いっさい神にゆだねるなら、神があなたのことを心配してくださいます。そう信じて、この神の力強い御手の下にへりくだりましょう。

Ⅰペテロ5章1~4節 「神の羊の群れを牧しなさい」

 ペテロの手紙第一5章に入ります。きょうのテーマは、「神の羊の群れを、牧しなさい」です。2節に、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」とあります。「牧する」という言葉は一般ではあまり聞かない言葉ですが、辞書を見ると、家畜を飼ってふやすとか、人民をやしないおさめること、とあります。キリスト教用語辞典では、「牧会をする。聖書で神を羊の牧者、民を羊にたとえているところから来た表現。」とあります。ですから、これは羊飼いが羊を飼うように神の民であるクリスチャンを導くことです。

 私は時々、「神父さん」と呼ばれることがありますが、私は神父ではなく牧師です。皆さんは、神父と牧師がどのように違うかをご存知でしょうか?神父はカトリックと東方教会の聖職者のことで、牧師はプロテスタントにおける教職者のことです。どうしてこのような違いがあるのかというと、たとえばカトリックではローマ教皇をトップに司教、司祭、助祭といった序列があるのに対して、プロテスタントではそうした序列はなく、羊を飼うという働き以外は他の信徒と同じ立場にあるという考え方を持っているからです。

ペテロはここで、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」と言っています。いったいなぜ彼はこのように勧めているのでしょうか。これまでペテロは迫害で苦しみ小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンたちに、そのような迫害の中にあっても励まされ、堅く信仰に立ち、神の恵みの中にしっかりととどまっているように励ましてきました。そして、これから一段と厳しい迫害が迫っているという中で、そのような試練の中にあっても彼らが堅く信仰に立ち続けるためには、教会の長老をはじめとしたリーダーたちが、自分たちに与えられた役割をしっかりと果たすことで教会が強められることが必要だったからです。教会はリーダーで決まると言っても過言ではありません。その牧師なり、長老がどのような考えで、どのように群れを導くのかによって、教会がしっかりと立ち続けもし、倒れたりもする。ですから、教会の牧師、長老の責任はとても重大であることがわかります。私も牧師のひとりとして、身が引き締まるような思いです。

しかし、これは教会だけのことではありません。国のリーダーや学校の教師、会社のリーダー、家庭の親に至るまで、すべての領域で言えることです。すべてはリーダーで決まるのです。勿論、良い牧師は良い信徒によって育てられ、良い教師は良い生徒によって育てられるという側面もありますから、互いがその役割と責任をしっかり果たすことが大切ですが、いかなる組織においても指導者の役割と責任はとても大きいことは確かです。
ですから、ここでは教会の牧師、長老に対して勧められていますが、それぞれ自分の置かれている立場に置き換えて考えていただけたらと思います。

 Ⅰ.神の羊の群れを牧しなさい(1-2a)

 まず牧者の務めについて見ていきたいと思います。1節と2節の前半をご覧ください。
 「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」

 ペテロの勧めの対象は、「あなたがたのうちにいる長老たち」です。ペテロの時代は、今で言うところの牧師とか、長老、監督といった制度ははっきりしていませんでした。同じ人がある時は牧師、ある時は長老、ある時は監督というように使い分けられていたようです。ここで「長老」と言われているのはユダヤ教の名残が強いかと思われます。ユダヤ教では民の指導者を「長老」と呼ばれていました。モーセは姑のイテロの助言を受けてイスラエルの民の上に五十人の長、百人の長、千人の長を立てた時、それは、「神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々」出エジプト18:21)でした。それは民をさばくことができる判断力のある人で、群れを治めることができる能力のある人のことです。今でいえば牧師、役員のような立場の人でしょう。パウロは、第一次伝道旅行で小アジヤの各地で伝道した時、教会を開拓すると、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりととどまるように勧め、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、彼らをその信じていた主にゆだねた(使徒14:22~23)とありますから、その小アジヤの諸教会ごとに長老が立てられていたものと思われます。

ペテロはここで自分のことを、「同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者」と言っています。彼は自分を、他の人よりも上にいる者だとか、偉い者であるかのようには考えていませんでした。自分は他の長老たちと同じ立場にあり、そのひとりであると受け止めていたのです。それは彼の中に、これから語る勧めは、彼らだけでなく自分自身にも当てはまることだという思いがあったからでしょう。

また彼は、苦難の証人、やがて現われる栄光にあずかる者とも言っています。それは、彼がキリストの十字架の苦難の目撃者であるということと、キリストが再び来られることによって現われる世で、その栄光にあずかる者であるという確信があったからです。

そのペテロから長老たちに勧められていることはどんなことでしょうか。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」(2節)ということです。
先ほども申し上げましたが、牧するとは、羊飼いが羊の世話をするときに用いる言葉です。ダビデは詩篇23篇でこう言いました。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:1~6)

つまり、牧するとは羊を守り、導き、養うことです。まず羊が健康でいられるようにちゃんと食べ、ちゃんと飲むことができるように、神の御言葉をもって養います。また、羊が病気になれば介抱するように、病めるたましいを慰め、癒されるように祈ります。そして、狼やライオンといった猛獣から守るように、絶えず教会の中に入り込んでくる異端的な教えや偽りの教えかどうか、またその行動はどうか見張り、そういったものから守ります。そのようにして、神の羊のたましいのケアをするのです。それは必ずしも楽な仕事ではありませんでした。はっきり言って、辛いなぁと思うことの連続でしょう。その神の羊を牧しなさいというのです。

その背景には、かつてペテロがイエス様を否定した出来事があったものと思われます。どんなことがあっても、私はあなたについて行きますと豪語したペテロでしたが、彼のそんな決意は脆くも崩れてしまい、イエス様が預言したように鶏が鳴く前に三度も否定したのです。
そんなペテロに対して、復活されたイエス様は特別に目をかけ、彼を回復されました。ガリラヤ湖畔で三度目に弟子たちにご自分を表されたイエス様は、ペテロにこのように言われました。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15)
すると、すかさず彼が、「はい。主よ。私があなたを愛することを、あなたはご存知です。」(ヨハネ21:15)と言うと、主はこう言われました。
「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)
このことを三度も繰り返して言われました。繰り返して言われました。なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。それは、この羊を飼うということは、イエス様の愛への応答であるからです。ペテロはイエス様にこのように応えながら、自分の頭の中ではイエス様にそのようにと言われた時、自分の罪が赦されたということ、そしてそのようにして愛してくださったイエス様を、今度は自分が愛するのだということ、それは主の羊を飼うということによって表していくことなのだということをはっきりと理解したのです。つまり、キリストを愛するその延長にキリストの羊を飼うことがあったのです。
私たちは自分の力で人を愛するなんてできません。しかし、キリストが私を愛してくださったので、私も愛することができるのです。ですから、ここでペテロが神の羊の群れを牧しなさいと言ったのは、自分の罪深さを感じ、そんな自分を愛してくださった主イエスの愛の応答として、主にゆだねられた神の羊を飼うようにということだったのです。
それはここに、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」と言っていることからもわかります。それは、神の羊の群れであり、神があなたに送ってくださった群れなのです。それは、神様のものであり、イエス様のものなのです。もう少し丁寧に言うと、私たち一人ひとりは、イエス様が愛しておられるイエス様の羊であるということです。

イエス様は、「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(ルカ15:4)と言われました。また、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われました。   

ここに私たちの存在感があります。私たちはほんとうに弱く、欠けだらけなものですが、そのような私たちを、主は「わたしの羊」と言って見つけるまで捜し出してくださる、いや、いのちさえも投げ出してくださるのです。私たち一人ひとりはそれほどまでに愛されているのです。大切にされているのです。その人に何ができるかとか、どれだけ奉仕しているかとか、どれだけ献金したかといったことと全く関係なく、私たちの存在そのものを大切にしておられるのです。そんな大切な一人ひとりの羊を牧するということはあまりにも大きな責任であり、あまりにも大きな労苦です。しかし、主は「わたしの羊を、牧しなさい」と言われました。それはイエス様の羊、神の羊なのです。そういう意味では、私たちはほんとうに無力な者ですが、イエス様が私の罪を赦してくださった、その愛の大きさに応えて、神から託されている神の羊の群れを、牧していきたいと思うのです。

Ⅱ.群れの模範となりなさい(2b-3)

ではいったいどのように牧したらいいのでしょうか。第二のことは、牧者の心構えです。2節の後半から3節をご覧ください。
「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」

ここでペテロは、神の羊の群れを牧する羊飼いとしての心構えを三つ上げています。第一に、義務感からでなく、自発的にしなさいということです。2節に、「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし」とあります。強制されて牧会するということがあるのでしょうか。人と接する仕事をしている人であればだれもが感じたことだと思いますが、人を動かすことは簡単なことではありません。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われています。人はそれぞれ自分の考えをもっていて、どちらかというとそうでない考え方をなかなか受け入れられない傾向にあるので、そういう人を導くということは並大抵のことではありません。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神がその人のうちに働いて、その人の中に神の思いが与えられてくださり、そのような人さえも変えてくださるのです。しかし、そこには相当の忍耐と労苦が求められます。時には、「なんで自分がこんなことをしていなければならないのか」とか、「できるならやりたくない」という思いが沸いてくることもあります。

私はある時、あまりにも辛くてある老姉妹にぽつりと愚痴ったことがあります。
「なんで私が牧師になったかわからないんですよ。もっと違う道もあったんじゃないかと思うこともあります。」
すると、その老姉妹がこう言われたんです。
「あら、先生、牧師さんってすばらしいじゃないですか。人のお仕事じゃなくて神様のお仕事をしているんですから。」
それを聞いてはっとさせられたというか、私はそれまで何を考えていたんだろうと恥ずかしくなりました。別に牧師じゃなくても辛いことはたくさんあるのに、ついつい不平や不満を言っていた自分を情けなく感じたのでした。むしろ、神の羊を牧するというのは光栄なことであり、ほんとうにすばらしいことを求めることなのです。なぜなら、それは人に仕えるのではなく、神に仕えることですから。それは神がお許しにならなければできないことです。また、私には妻や家族の支えがあり、このようにすばらしい教会員の方々の祈りがあり、何よりも私のためにご自分のいのちを捨てられたイエス様の大きな愛があるのですから、これほどすばらしい務めはありません。

それなのに、そのように思うことがあるとしたら、それは自分自身が傲慢であること以外の何ものでもありません。それは牧会に限らずすべての奉仕に言えることです。コリント第二の手紙9章7節で、パウロはこのように言っています。
「ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)
主は、強いられてするものを喜ばれません。ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を、義務感からでなく、自発的に、自らささげる人を、仕える人を愛してくださいます。それこそ、神が私たちのために喜んでひとり子さえも与えてくださった大きな愛への応答なのです。

第二のことは、その後に記されてありますが、卑しい利得を求める心からでなく、心を込めてそれをしなさいということです。
牧師や長老が、その働きにふさわしい報酬を得ることは当然ですが、しかし、牧師が報酬を目的として働くとしたら、牧師でなくなってしまいます。まして、不当な方法で利得を追求するようなことがあるとしたらとんでもないことです。昔、預言者エゼキエルはそのような指導者を糾弾しました。エゼキエル書34章2~6節を開いてください。
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」(エゼキエル34:2~6)
これはイスラエルの牧者だけでなく、私たちにも言えることです。このような牧者になることのないように自戒し、心を込めてこれをするように努めていきたいと思います。

第三のことは、群れの模範者になるということです。3節に、「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」とあります。
先ほど説明したとおり、私たちが牧しているのは、あくまでも「その割り当てられている人たち」です。神の恵みによって、自分に割り当てられている人たちがいるのであって、恣意的に人々を自分の下に集めるのではありません。もしそのようなことがあるとしたら、そこに自分の言いなりにさせるという支配が入り込んでくることになります。神のみこころではなく、自分の目的を達成するための手段として群れを利用することになってしまいます。ですから、そういうことがないように、ペテロはここで、その人たちを支配するのではなく、群れの模範者となりなさいと勧めているのです。

イエス様は、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られると、世にいるご自分の者たちを、最後まで愛されました。夕食の間のことですが、夕食の席から立ち上がられると、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました。それから、たらいを水に入れ、弟子たちの足を洗われたのです。
「何をなさるんですか」とペテロが言うと、
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになる。」と言われると、ペテロは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着かれました。いったいなぜイエス様はこんなことをしたのでしょうか。イエス様はこのように言われました。
「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:13-15)
そうです、イエス様は模範を示されたのです。彼らに、互いに足を洗うべきですと説教したのではなく、自らの彼らの足を洗うことで、その模範を示されたのです。ある人は、これを読んで、「イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、弟子たちの中にものすごく足の臭い奴がいて、イエス様もさすがに食事をする気にならなかったんだよ。だから、しょうがなく足を洗い始めたのさ。でも一人だけ洗ったらその人を傷つけてしまうから、みんなの足を洗ったんじゃないか」と言う人がいますが、そういうことではありません。イエス様は模範を示されたのです。

パウロは若き伝道者テモテに、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(Ⅰテモテ4:12)と言っていますが、それは外側の行動ではなく、内側の心の在り方です。あまりにも模範を意識しすぎると、くたびれてきますし、偽善的にもなりかねません。ですから、真実にキリストを見習う生活をコツコツと続けるだけでいいのです。

Ⅲ.しぼむことのない栄光の冠を受ける(4)

 最後に、神の羊の群れを牧する者にもたらされる結果を見て終わりたいと思います。4節をご覧ください。ここには、「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」とあります。

「そうすれば」というのは、そのように神の羊の群れを牧するならば、ということです。そうすれば、どのような結果がもたらされるのでしょうか。大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄冠を受けることになります。「大牧者」とは、勿論、イエス様のことです。私たちはこの大牧者の下にある小牧者にすぎません。ほんとうの牧者は、私たちの主イエス・キリストです。この大牧者であられるイエス様が戻ってこられるときに、私たちはしぼむことのない栄光の冠を受けるのです。この「栄光の冠」とは何でしょうか?聖書には、義の冠とか、いのちの冠といった冠が出てきますが、それらは救いとの関係で受ける冠のことです。しかし、この「栄光の冠」というのは、キリストのさばきの御座において受ける冠、報いのことです。イエス・キリストを信じる者にはみないのちの冠が与えられます。しかし、クリスチャンのそれぞれの業に応じて報いを受けます。それが栄光の冠です。いのちの冠が与えられるだけでものすごい栄光なのに、さらにその働きに応じて「栄光の冠」が与えられるとすれば、それは二重の栄光です。

この大牧者であられるキリストが戻って来られます。そのとき、あなたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。ですから、私たちは自分たちに与えられた役割をしっかりと果たしていきましょう。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。あなたに託されている神の羊の群れとはだれですか。それは神の教会の中の羊の群れかもしれないし、家庭や職場など、教会の外にいる群れかもしれません。しかし、それはあなたが牧するように、神があなたに送っておられる神の羊の群れなのです。その羊の群れを牧しなさい。卑しい利得を求める心からでなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、心を込めてそれをしなさい。その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。