Ⅱ列王記24章

 Ⅱ列王記24章から学びます。

 Ⅰ.第一次バビロン捕囚(1-7)

まず、1~7節をご覧ください。「1 エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。2 そこで【主】は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。【主】がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。3 実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという【主】の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、4 また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため【主】は赦そうとはされなかったのである。5 エホヤキムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。6 エホヤキムは先祖とともに眠りにつき、その子エホヤキンが代わって王となった。7 エジプトの王は自分の国から再び出て来ることがなかった。バビロンの王が、エジプト川から大河ユーフラテスに至るまで、かつてエジプトの王に属していた全領土を占領したからである。」

1節に「エホヤキムの時代に」とあります。エホヤキムについては23章36節と37節から記録されてあります。前章で学んだヨシヤ王の後を継いだのは、ヨシヤ王の次男であったエホアハズでした。彼については23章31~35節まで記されてありますが、彼は23歳で王となり、3か月間、王でした。彼は、すべてその先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行いました。彼は父ヨシヤがあれほどいのちがけで宗教改革を行ったにもかかわらず、何の影響も受けなかったというのは不思議なことです。

結局、彼はリブナに宿営していたエジプトの王にファラオ・ネコに呼び寄せられ、幽閉されます。そればかりか、エジプトの属国となり銀100タラントと金1タラントという多額の科料を課せられることになるのです。その後エホアハズはエジプトに連行され、そこで死ぬことになります。それはエレミヤが預言していた通りでした(エレミヤ22:11~12)。彼の統治が短命に終わったのも、当然のことと言えるでしょう。

エジプトの王ファラオ・ネコは、そのエホアハズに変えて彼の兄のエルヤキムをユダの王に据えました。彼は25歳で王となり、エルサレムで11年間、王でした。彼も、すべてその先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行いました。そのエホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来ました。それまでユダはエジプトの王ファラオ・ネコの支配下にありましたが、その頃バビロンの勢力が強まり、バビロンはB.C.605年にネブカドネツァルが王になると、あの有名なカルケミシュの戦いでエジプトを打ち破り、ユダに攻め上って来たのです。そしてこの年(B.C.605)にダニエルを初めとする数人(王族や貴族)をバビロンに捕囚として引いて行きました。これが第一次バビロン捕囚です(ダニエル1:1~3)。エホヤキムは3年間バビロンのしもべとなりましたが、その後再び反逆します。

そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められました。ユダを攻めて滅ぼすことは主から出たことであり、主のみこころだったのです。それはマナセが犯したすべての罪のゆえであり、また、マナセが流した咎のない者の血のためでした。主はそれを赦そうとはなさらなかったのです。それはヨシヤ王の二人の子どもを見てもわかります。ヨシヤ王がどんなに宗教改革を行い、心からへりくだり、心を尽くして主に従っても、その子エホアハズとエホヤキムは、主の目に悪であることを行いました。それはすでにマナセが行なったその罪によって人々の心は主に立ち返ることができないほどになっていたということです。

エホヤキムが死ぬと、その子エホヤキンが代わって王となりました。エジプトの王は自分の国から再び出てくることはありませんでした。バビロンが、エジプト川から大河ユーフラテスに至るまで、かつてエジプトの王に属していたすべての領土を占領していたからです。

Ⅱ.第二次バビロン捕囚(8-16)

次に、8~16節をご覧ください。「8 エホヤキンは十八歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。彼の母の名はネフシュタといい、エルサレム出身のエルナタンの娘であった。9 彼は、すべて先祖たちがしたように、【主】の目に悪であることを行った。10 そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの家来たちがエルサレムに攻め上り、都は包囲された。11 バビロンの王ネブカドネツァルが都にやって来たとき、彼の家来たちは都を包囲していた。12 ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。13 バビロンの王は、【主】の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、【主】の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。【主】が告げられたとおりであった。14 彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。15 彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。16 バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。」

エホヤキムの後にユダの王となったのは、その子エホヤキンです。父がエホヤキムでその子がエホヤキンです。「ム」と「ン」の違いです。彼は18歳で王となると、エルサレムで3か月間、王でした。彼は、すべて先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行いました。

そのころ、のことです。バビロンの王ネブカドネツァルの家来たちがエルサレムにやって来ると、これを完全に包囲しました。そして、ネブカドネツァルがエルサレムにやって来ると、エホヤキンは王母や家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、彼らはバビロンに連行されました。これはB.C.597年の出来事です。ネブカドネツァルの治世の第8年のことです。これが第二回目のバビロン捕囚です。

13~16節をご覧ください。バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂きました。これは、イザヤを通して主がヒゼキヤに告げられたとおりです(Ⅱ列王20:16~20)。あの時は小国にしかすぎなかったバビロンでユダとの同盟国だったのですが、今や自分たちのすべてのものを取り上げる強奪者になったのです。

そればかりではありません。彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者だけで1万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚としてバビロンに捕え移しました。ユダの地に残されたのは、貧しい民衆だけでした。エレミヤ書には、その合計は4千600人とあります(エレミヤ52:30)。おそらく、その違いはエレミヤがこの時に捕え移された人数を上げているのに対して、Ⅱ列王記の著者は、それまでの捕囚の民をすべて足した数を上げているからではないかと思われます。この時、預言者エゼキエルも捕囚の民として連れて行かれました(エゼキエル1:1~3)。彼の預言者としての活動は、この時から始まっています(4)。バビロンの王は、さらにすべての勇士たち7千人と職人、鍛冶職人千人を捕囚としてバビロンに連れて行きました。

このように、不信仰な者が土地から追い出されるということは、モーセの時代から預言されていたことです。それが今ここに起こったということです。確かに神はその中からも回復させてくださいますが、大切なのは、神の警告を受けたならこの約束を思い起こして主に立ち返ることです。

Ⅲ.第三次バビロン捕囚(17-20)

最後に、17~20節を見て終わります。「17 バビロンの王は、エホヤキンのおじマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。18 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナ出身のエレミヤの娘であった。19 彼は、すべてエホヤキムがしたように、【主】の目に悪であることを行った。20 実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、【主】の怒りによることであったのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。」

バビロンの王ネブカドネツァルは、エホヤキンのおじのマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせました。エホヤキンは別名エコンヤですが、彼のことについてはエレミヤ22章で学びました。彼については、「子を残さず、一生栄えない男」と記録されるようになるとありました。それは、彼にはや人の息子がいましたが、だれ一人ダビデの王座について、再びユダを治める者はいないからです(エレミヤ22:30)。つまり、彼の子孫からは誰もユダを治める王が出ないということです。事実、彼(エホヤキン)の後に王となったのは、彼の子ではなく彼の父(エホヤキム)の弟のマタンヤでした。つまり、エホヤキンから見るとおじに当たる人物です。

バビロンの王ネブカドネツァルは、このマタンヤを王としますが、名前を「ゼデキヤ」に改名します。意味は「主は正義」です。どうしてこのような名前に改名したのかはわかりません。もしかすると、エレミヤ22:30のみことばの通り、エホヤキンの息子ではなくそのおじのエコンヤが王になるという主のことばが成就したからでしょうか。はっきりしたことはわかりません。

ゼデキヤは21歳で王になると、エルサレムで11年間、王でした。彼は南ユダ王国最後の王でしたが、民は彼を王と認めていませんでした。前の王であったエホヤキンが捕囚の地でまだ生きていたからです。さらに、ゼデキヤはバビロンの王ネブカドネツァルによって任命されていたからです。

彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目に悪であることを行いました。ここで「エホヤキンがしたように」ではなく「エホヤキムがしたように」とあるのは、エホヤキンの治世が3か月という短い期間であったこと、それとエホヤキムが実兄であり、彼がその兄のエホヤキムの悪政を見習っていたということを強調しようとしたからではないかと思われます。それでエルサレムとユダは完全に主の前から投げ捨てられることになります。完全に投げ捨てられるとは、エルサレムの町と神殿が破壊され、その土地から追い出されるという意味です。これがB.C.586年に起こる第三次バビロン捕囚のことです。

そのような中でもゼデキヤはバビロンの王に反逆します。数年間はバビロンに服従するのですが、国内の国粋主義者の圧力に屈し、バビロンに反逆するのです。その時に頼ったのがまたしてもエジプトでした(エゼキエル17:11~21)。彼は捕囚という悲劇を目撃しながら、悔い改めに至りませんでした。偽預言者たちの声に惑わされ、エレミヤたちの預言を受け入れず、むしろそうした預言者たちを迫害したのです。この時の様子はエレミヤ書で見た通りです。ユダはバビロンから解放される、救い出されるという偽預言者たちの語る耳障りの良いことばに、すっかり騙されていたのです。

苦難は人を謙遜にするか、より頑なにするかのいずれかです。バビロンに服せよ、というメッセージは聞くことは過酷なことですが、その苦難によって砕かれるなら幸いです。バビロン捕囚は3回に渡って行われましたが、最終的にエルサレムが滅ぼされたのは3回目の時でした。もしその前にバビロンに降伏していたら破壊は免れていたかもしれません。大切なことは神のみこころは何かをよく悟ことです。この時のみこころはバビロンに反逆することではなく、バビロンに服することでした。私たちも思い込みをしないように、注意しなければなりません。何が神のみこころなのかを知り、それに従うこと、それが私たちにとって求められていることなのです。

エレミヤ31章1~6節「永遠の愛をもってあなたを愛した」

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今日は、エレミヤ書31章前半から、「永遠の愛をもってあなたを愛した」というテーマでお話します。前回もお話したように、この30章と31章はエレミヤ書全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所です。30章には、ヤコブには苦難の時がやって来ますが、彼らはそこから救われるということが語られました。彼らの受けた傷は癒されがたい傷ですが、主はそんな彼らの傷を治し、打ち傷を癒されます(30:17)。主は彼らを引き裂きましたが、また、いやし、彼らを討ちましたが、また、包んでくださるのです。神の怒りの目的は、彼らをさばくことではなく、彼らの霊的な回復にあったからです。今日の箇所はその続きです。

Ⅰ.出て行って休みを得よ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「1 「そのとき──【主】のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」2 【主】はこう言われる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを見出す。イスラエルよ、出て行って休みを得よ。」」

1節の「そのとき──【主】のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」というのは、30章22節でも語られたことです。神との正しい関係が修復されて、回復するということです。これがキリスト教です。キリスト教はまさに神との関係です。「そのとき」とは、二重の預言を表しています。それは近い将来においては、バビロンに捕らえられたユダの民がその捕囚から回復するということであり、遠い未来においては、バビロン捕囚のような出来事、つまり想像を絶するような世の終わりの患難時代を通過したイスラエルの民が悔い改めて神に立ち返り、神との関係を回復するということです。世の終わりに、キリストが再臨される時、イスラエルの民は自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆くようになります。ゼカリヤ12章10節にある通りです。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)彼らは自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は自分たちの先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったという事実に出会い、この再臨のメシヤを通して、神に立ち返ることになるのです。「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)こうして「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束が実現するのです。すばらしいですね。彼らは神との関係を破棄しても、神は彼らを見捨てるようなことはなさいません。「そのとき」悔い改めて神に立ち返ることができるようにしてくださるのです。

2節の「剣を免れて生き残った民」とは、その患難時代を通過したイスラエルの民のことを指しています。これも二重の預言になっています。バビロン捕囚によって滅びずに生き残った人たちと、世の終わりの大患難、ヤコブの苦難から生き残った人たちのことです。ゼカリヤ3章8~9節によると、それはイスラエル全体の三分の一に相当する人たちです。彼らは荒野で恵みを見出すようになります。この「荒野」とは、黙示録12:6によると、1260日の間、すなわち患難時代の後半の3年半の間、恵みを得るように神によって養われる場所のことです。それはイザヤ63章1節によると、エドム周辺の荒野、ボツラ周辺の荒野、今のヨルダンのペトラ周辺の荒野であることがわかります。というのは、そこにこうあるからです。「エドムから来る方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を来て来る方は。」イスラエルの民は、患難を避けてこの荒野に逃れて来て、そこで恵みを見出すのです。そこで彼らは休みを得るようになります。この休みとは、たましいの救いから来る安息のことです。

それはクリスチャンも同じです。主イエスはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
  イエスのもとに行くなら、たましいの救い、たましいのやすらぎを得ることができます。イエスこそわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神です。わが盾、わが救いの角、わがやぐらです。この方に身を避けるなら、私たちは剣を免れて生き残ることかでできます。荒野で恵みを見出し、出て行って休みを得ることができるのです。

あなたはどこに身を避けていらっしゃいますか。あなたが身を避けるべきところ、それは高き方の隠れ場、全能者の陰、あなたのたましいの救い主イエス・キリストです。この方のもとに身を避けるなら、あなたも恵みを見出すことができます。休みを得ることができるのです。

Ⅱ.永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した(3)

次に、3節をご覧ください。いったい神はどうしてイスラエルをそこまでして守られるのでしょうか。ここにその理由が述べられています。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

イスラエルが守られる理由は、永遠の愛をもって、神が彼らを愛されたからです。主はこう言われます。「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」主は永遠の愛をもってあなたを愛されたので、あなたを滅ぼし尽くすことはなさらないのです。この愛は、私たちの状況によってコロコロと変わるようなものではないからです。これは「永遠の愛」なのです。永遠の愛とは、いつまでもというのは勿論のことですが、常時、継続的にという意味でもあります。継続的に愛し続けるという愛です。神の愛とはこういうものなのです。つまり、私たちがどんなに堕落しようとも、私たちが取り返しのつかないような罪を犯しても、私たちの状態とは関係なく、ずっと愛してくださるという愛です。神の愛は永遠に変わることなくあなたに注がれているのです。

一方、人間の愛はどうでしょうか。人間にはこのような愛はありません。まず人間自身が永遠の存在ではありませんから。人間は有限な存在にすぎません。口では永遠の愛を誓いますが、それは不可能です。夫婦の愛ですら永遠ではありません。天国に行ったら嫁ぐこともめとることもないと、聖書は教えています。(マタイ22:30)それはあくまでもこの地上での限られた期間においてのことであって、永遠においてではないのです。それはすべて一時的なものであり、移り変わり、やがて絶えてしまうものです。

しかし、神の愛は違います。神の愛はいつまでも続きます。ここに有名な聖書のことばがあります。結婚式では必ずといってよいほど読まれる箇所です。それはⅠコリント13章13節のみことばです。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
  皆さん、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。この愛こそ神の愛、アガペーの愛、永遠の愛です。それは人間にはない愛です。そこには初めも終わりもありません。そもそも永遠には時間がありませんから、始まりとか終わりはないのです。神はこの永遠の愛をもってあなたを愛しました。神があなたを愛さなかった瞬間は、これまで一度もなかったのです。これまでもそうですし、これからもずっと、神はあなたを愛しておられるのです。

ローマ5章8節を開いてください。ここには、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」とあります。ここには、「私たちがまだ罪人であったとき」とあります。私たちがまだ罪人であったときでさえ、神はあなたを愛しておられました。ただあなたが知らなかっただけです。神はあなたがまだ罪人であったときでさえあなたを愛し、あなたのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。そのことによって、あなたに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのです。これ以上の愛はありません。この愛は考えられない愛です。これは私たちの考えをはるかに超えた愛なのです。

エペソ1章3~5節を開いてください。「3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
  ここにも、神がどれほどあなたを愛しておられるかが書かれてあります。それは何と世界の基の置かれる前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたほどです。天地創造の前から、あなたは神に愛されていたのです。神に見出されていました。それは人知をはるかに超えた愛です。そしてパウロは、この人知をはるかに超えたこのキリストの愛を知ることかできるようにと祈りました(エペソ3:19)。これは矛盾していることです。人知をはるかに超えた愛を知ることなんてできません。それは知りようもないほどの愛なんですから。でも知ることかできます。どうやって?祈りによってです。人には理解できないこのキリストの愛を、祈りによって知ることができます。だからパウロはこう祈っているのです。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:14-19)
  それは人知をはるかに超えた愛です。でも、祈りによって神が聖霊を注いでくださり、その聖霊の力によって内なる人が強められ、キリストの愛に根差し、愛に基礎を置くなら、その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるようになります。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようになるのです。

この愛は、ヘブル語では「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。それが1節のことばです。30章22節にもあります。それは「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」です。これは神がアブラハム、イサク、ヤコブと個人的に結ばれた契約ですが、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救い出され、シナイ山までやって来たとき、そこでイスラエルの民と契約を結ばれました。そこで主はこのように言われました。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:4-6)
  ここで主は、もし彼らが主の声に聞き従い、主との契約を守るなら、主は彼らをあらゆる民族の中にあって、ご自身の宝の民とされると言われました。これは、神にとって大切な財産、特別な宝、神と特別な関係と価値を有するものとなるという意味です。そればかりではありません。「祭司の王国、聖なる国民となる」と言われました。「祭司の王国」とは、イスラエルの民が神と他の民族との間の仲介者となり、全世界にいる他の民族を神に導くためのとりなしの祈り手とされるということです。また、「聖なる国民」とされるというのは、神のために特別にきよめ分たれた国民にされることを意味しています。つまり、神の民となるということです。

その結果、どうなったでしょうか。ご存知のように、イスラエルの民は神に背き、自分勝手な道に歩み、簡単に神との契約を破棄してしまいました。でも神は違います。神はどこまでも誠実な方であって、どんなことがあっても、一度約束したことを破棄することはなさらないのです。それが「ヘッセド」ということばの意味です。私たちがどんな人間であろうと、過去に何をしようと、何者であろうと全く関係なく、無条件で愛してくださるのです。それは今に始まったことはでありません。世界の基の置かれる前からです。それは愛する対象の変化によってコロコロ変わるものではありません。昔はこの人も優しかったのに、今とは全然違う。こんなはずじゃなかった。もうこんな人と一緒にいるのは嫌!私たちはそうなりますが、神様は違います。神様は対象の変化と関係なく、どこまでも愛してくださるのです。
  箴言19章22節「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とありますが、私たちが求めているのはこの愛です。変わらない愛、色あせない愛、永遠の愛です。私たちはこのような愛を求めています。でも残念なことに、このような愛を人間に求めることはできません。人間の中にはこの愛はないからです。これは神にしかない愛です。でもこの神の愛、ヘッセドの愛、アガペーの愛が、あなたに注がれていることがわかるとき、あなたはこの愛に行かされるようになるのです。

あなたはこの愛で愛されているのです。それはあなたが他の人よりも頭がいいから、良い人だからではありません。優れているからでもないのです。それはただ神があなたを愛されたからです。申命記7章7~8節にこうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」
  主があなたを慕い、あなたを愛されたのは、あなたがどの民よりも数が多かったからではありません。優れていたからでもない。主があなたを慕われたのは、主があなたがたを愛されたからです。またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。それは一方的な愛なのです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。

この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることかできます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができる。回復することができるのです。イスラエルも壊滅的な状況でしたが、でもこの愛によってもう一度建て直されます。もう一度神に立ち返り、やり直すことができるのです。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。

この永遠の愛をもって愛したというのは、神に対して忠実に信仰生活を送っている人にだけ語られていることばではありません。逆です。もうどうしようもない人、反逆に反逆を重ね、自ら墓穴を掘っているような人にも語られています。バビロン捕囚になったような、まさに惨めな人たちに語られているのです。そんな彼らに対して、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と言われているのです。ですから、今、私はバビロン捕囚の憂き目にあっていますという人にも希望があることを知っていただきたいのです。勿論、罪を犯さないで生きることができるならそれに越したことはありません。極力、蒔いた種を刈り取るというようなことはしない方がいいのは当然のことです。でも、たとえ失敗したとしても、神の永遠の愛が変わらずに注がれていることを知ってほしいのです。この愛によってあなたはやり直すことができるのです。

Ⅲ.あなたは建て直される(4-6)

ですから、第三のことは、あなたは建て直されるということです。4~6節をご覧ください。「4 おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。5 再びあなたはサマリアの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植え、その初物を味わう。6 エフライムの山で、見張る者たちが『さあ、シオンに、私たちの神、【主】のもとに行こう』と呼びかける日が来るからだ。」」

イスラエルの民がバビロン捕囚の時もそうですが、世の終わりの患難時代の剣を逃れて生き残り、荒野で恵みを見出すことができるのは、出て行って休みを得ることかできるのは、一方的な神の愛のゆえであるということが語られました。永遠の愛をもって神が彼らを愛したので、真実の愛を尽くしつづけたので、彼らは守られることができたのです。その結果どうなったでしょうか。ここには、イスラエルに与えられる数々の祝福が列挙されてあります。

第一に、4節にあるように、彼らは「おとめイスラエルよ」と呼ばれるようになります。これはどういうことかというと、霊的姦淫を犯した淫婦ではなく、おとめ、処女とよばれるようになるということです。それは、イスラエルの罪がメシヤによって完全にきよめられるからです。第二に、4節後半にあるように、彼らは再び建て直されることになります。第三に、彼らは喜びをもって戻ってくるようになります。4節の「タンバリンで身を飾り」とは、その様子を表しています。第四に、再び彼らは安心してぶどう畑を作り、それを収穫するようになります。5節にありますね。第五に、シオン、これはエルサレムのことですが、そこが霊的に復興します。6節にあるとおりです。ここに「エフライムの山」とありますが、これは北イスラエルのことです。ここはかつてエルサレムに対抗して偶像礼拝の宮が立てられました。金の子牛です。北イスラエルの民がわざわざ南ユダ、エルサレムに上って礼拝しなくても良いように、北はダンに、南はベテルに金の子牛の偶像を造り、これがイスラエルの神だと言って拝ませたのです。北イスラエルの最初の王であったヤロブアムⅠ世の時代です。それ以来北イスラエルではずっとダンとベテルで金の子牛を拝んでいました。しかし、世の終わりに剣を免れて生き残った民は、もうその必要は全くなくなります。彼らは真の神である主イエスに立ち返り、霊とまことをもって礼拝するようになるからです。エフライムの山で見張っていた者たちが、「さあ、シオンに、私たちの神、主のもとに行こう」と呼びかけるようになるからです。」これはいわば霊的復興のことです。リバイバルです。神の愛によって大患難時代を生き残った民は、神の民として再び建て直されるのです。

これは私たちにも言えることです。永遠の愛をもって愛されている私たちも、再び建て直されます。人生をやり直すなんて無理ですと思っておられる方もいらっしゃるかもしれません。確かに過去が戻って来ることはありません。失ったものを取り戻すことはできません。でもあなたはやり直すことができるんです。神があなたを立て直してくださるからです。永遠の愛をもって、神はあなたを愛してくださいました。それはあなたも例外ではありません。この愛はあなたにも注がれているのです。神は決してあなたを見捨てることはありません。なぜなら、この永遠の愛をもってあなたを愛しておられるからです。神が結ばれた契約はどんなことがあっても破られることはありません。神は最後の最後まで、永遠にあなたを愛しておられます。だから、あなたは安心してやり直すことができるのです。神に立ち返ってください。神は再びあなたを立て直し、あなたは建て直されます。この神の永遠の愛に応答することができるように。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるように。その愛が今もあなたに注がれていることを知ることかできますように。

Ⅱ列王記23章

 Ⅱ列王記23章から学びます。

 Ⅰ.ヨシヤ王の宗教改革(1-27)

まず、1~3節をご覧ください。「1 王は使者を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老たちを彼のところに集めた。2 王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、および下の者から上の者まで、すべての民とともに【主】の宮に上り、【主】の宮で見つかった契約の書のことばをすべて彼らに読み聞かせた。3 それから王は柱のわきに立ち、【主】の前に契約を結び、【主】に従って歩み、心を尽くし、いのちを尽くして主の命令と証しと掟を守り、この書物に記されているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみなこの契約に加わった。」

ヨシヤの宗教改革が続きます。彼は使者を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老たちを集めました。そして、ユダのすべての人々とともに主の宮に上り、主の宮で見つかった契約の書のことばをすべて彼らに読み聞かせました。ここで重要なことは、彼はユダの長老たちだけでなく、ユダのすべての人々に契約の書のことばを聞かせたことです。彼はユダのすべての民がみことばを聞く必要があると強く感じたのです。牧師、役員、リーダーだけでなく、教会のすべての人がみことばを聞かなければなりません。教会の中心は神のみことばなのです。それなのに、教会は神のみことばを聞くよりも、どうしたら居心地の良い教会でいられるかを求める傾向があります。教会が教会であるために必要なことは、ただ神のみことばを聞き、それに従うことなのです。

ヨシュアはユダのすべての民に契約の書を読み聞かせるだけで終わりませんでした。彼は、主の宮の柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、いのちを尽くして主の命令と証と掟を守り行うことを誓いました。すると民もみなこの契約に加わりました。

次に、4~14節をご覧ください。「4 王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入り口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた祭具をことごとく【主】の神殿から運び出し、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれらを焼き、その灰をベテルへ持って行った。5 彼はまた、偶像に仕える祭司たちを取り除いた。ユダの王たちが任命して、ユダの町々やエルサレム周辺の高き所で犠牲を供えていた祭司たちである。バアルや太陽や月や星座や天の万象に犠牲を供える者たちも取り除いた。6 彼はまた、アシェラ像を【主】の宮からエルサレム郊外のキデロンの谷に運び出し、それをキデロンの谷で焼いた。それを粉々に砕いて灰にし、その灰を共同墓地にまき散らした。7 さらに、【主】の宮の中にあった神殿男娼の家を打ち壊した。そこでは、女たちがアシェラ像のために覆いを織っていた。8 彼はユダの町々から祭司たちをみな連れて来て、祭司たちが犠牲を供えていたゲバからベエル・シェバに至るまでの高き所を汚し、門にあった高き所を打ち壊した。それは町の長ヨシュアの門の入り口にあり、町の門に入る人の左側にあった。9 高き所の祭司たちは、エルサレムの【主】の祭壇に上ることはなかったが、その兄弟たちの間で種なしパンを食べていた。10 彼はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれも、自分の息子や娘に火の中を通らせてモレクに献げることのないようにした。11 それから、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、【主】の宮の入り口、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそばから取り除き、太陽の車を火で焼いた。12 王は、ユダの王たちがアハズの屋上の部屋の上に造った祭壇と、マナセが【主】の宮の二つの庭に造った祭壇を、そこから外して打ち壊し、砕いた。そうして、その灰をキデロンの谷に投げ捨てた。13 王は、エルサレムの東、破壊の山の南にあった高き所を汚れたものとした。これは、イスラエルの王ソロモンが、シドン人の忌むべき女神アシュタロテ、モアブの忌むべき神ケモシュ、アンモン人の忌み嫌うべき神ミルコムのために築いたものであった。14 また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たした。」

それから、ヨシヤ王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく主の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルへ持って行かせました(4節)。彼はまた、偶像に仕える祭司たちも取り除きました(5節)。さらに、アシェラ像を主の宮からエルサレム郊外のキデロンの谷に運び出し、それらをキデロンの谷で焼きました(6節)。それを粉々に砕いては灰にし、その灰を共同墓地にまき散らしました。灰を共同墓地にまき散らすという行為は、その偶像を完全に使い物にさせなくするということです。さらに、主の宮の中にあった神殿男娼の家を打ち壊しました(7節)。さらに彼は、ユダの町々にあった高き所を打ち砕きました(8節)。ゲバからベエル・シェバに至るまでとは、ゲバというのはユダの北端にある町であり、ベエル・シェバは南端の町ですから、ユダ全体を行き巡って、ということです。そこにある高き所を打ち壊したのです。また、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し(10節)、だれも、自分の息子や娘に火の中を通らせてモレクに献げることのないようにしました。それから、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、主の宮の入り口、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそばから取り除き、太陽の車を火で焼きました(11節)。

彼は歴代の王たち(アハズ、マナセ、ソロモン、ヤロブアム)が作った異教の祭壇(12節)、エルサレムの東、破壊の山の南にあった高き所を汚れたものとしました(13節)。これは、イスラエルの王ソロモンが、シドン人の忌むべき女神アシュタロテ、モアブの忌むべき神ケモシュ、アンモン人の忌み嫌うべき神ミルコムのために築いたものでした。彼は偶像礼拝を初めに導入させたソロモン王の時の偶像にまでさかのぼって、改革をしようとしたのです。また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たしました(14)。人の骨で満たしたとは、もう礼拝物として使用できないようにしたということです。

ヨシヤ王の宗教改革は徹底していました。こうしたことを行うにはかなり勇気が要ったことと思います。長年の伝統や遺物になっていたものを徹底的に破壊したのですから。それは彼が主のみことば通りに実行しようとしたからです。確かにヨシヤの目的は崇高なものでした。でもそれを実現する手段が必ずしも知恵あるものだったとは言えません。というのは、彼は説得や崇高な人格がもたらす影響力によってではなく、暴力的な方法によって偶像礼拝を一掃しようとしたからです。外からの強制では、内面を変えることはできません。心の一新のためには、神のあわれみと、聖霊の働きが必要なのです。

ヨシヤ王の宗教改革は北王国のサマリアにまでも及びました15~20節をご覧ください。「15 さらに彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムが造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所も打ち壊し、さらに高き所を焼いて粉々に砕いて灰にし、アシェラ像も焼いた。16 ヨシヤが振り向くと、山の中に墓があるのが見えた。そこで彼は人を遣わしてその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとした。かつて、神の人がこのことを預言して叫んだ【主】のことばのとおりであった。17 ヨシヤは言った。「あそこに見える石碑は何か。」すると、町の人々は彼に答えた。「ユダから出て来て、あなたがベテルの祭壇に対してされたこれらのことを預言した神の人の墓です。」18 王は言った。「そのままにしておけ。だれも彼の骨を移してはならない。」そこで人々は彼の骨を、サマリアから出て来たあの預言者の骨と一緒にそのままにしておいた。19 ヨシヤはまた、イスラエルの王たちが造って主の怒りを引き起こした、サマリアの町々の高き所の宮もすべて取り除き、彼がベテルでしたのと全く同じことを、それらに対しても行った。20 彼は、そこにいた高き所の祭司たちをみな、祭壇の上で屠り、その祭壇の上で人の骨を焼いた。こうして、彼はエルサレムに帰った。」

北イスラエルと言えば、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムが造った金の子牛礼拝が有名ですが、彼はその祭壇も高き所も打ち壊し、粉々に砕いて灰にし、アシェラ像も焼きました。

16節には、ヨシヤが振り向くと、山の中に墓があるのが見えたとあります。そこで彼は人を遣わしてその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとしました。これは約350年前、ヤロブアムに対して神の人が預言した言葉の成就でした。ユダから来た神の人は、ヨシヤという実名まで挙げて、この祭壇が汚されることを宣言したのです(1列王13:2)。その神のことばが、その通りに成就しました。

17節と18節をご覧ください。ここにもⅠ列王記13章の預言の成就が見られます。あの神の人がユダに帰るときに、主から、どこも寄り道をしてはいけないと命じられていましたが、ベテルに住む老預言者が彼をだまして、自分の家に連れて来ました。けれども、この不従順によって神の人は獅子に殺されましたが、その老預言者は彼の死を悲しみ、同じところに自分も埋葬されることを望みました。その神の人の墓です。その預言の通りに、彼の骨はサマリアから出てきたあの老預言者と一緒にそのままそこに置かれます(Ⅰ列王13:31-32)。

19,20節には、「ヨシヤはまた、イスラエルの王たちが造って主の怒りを引き起こした、サマリアの町々の高き所の宮もすべて取り除き、彼がベテルでしたのと全く同じことを、それらに対しても行った。彼は、そこにいた高き所の祭司たちをみな、祭壇の上で屠り、その祭壇の上で人の骨を焼いた。」とあります。高き所で偶像礼拝を導いていた祭司たちをみな祭壇の上で屠り、その祭壇の上で人の骨を焼いた。すなわち、死刑にしました。

ヨシヤの宗教改革は実に徹底していました。しかし、ここで少し疑問に残るのは、彼はなぜユダの宗教改革にとどまらず北イスラエルの宗教改革まで行ったのかということです。また、当時北イスラエルはアッシリヤの支配にあったのに、どうして彼はこれを行うことができたのかということです。これについては、モーセの律法には、北イスラエルも南ユダの区別はなく一つのイスラエルとして語られているのですから、みことばの通りにしようとすれば北イスラエルの改革を行おうとするのも当然のことだったのでしょう。

それにしても、アッシリヤの支配下の中で彼はどのようにしてこのような改革を実行することができたのでしょうか。それは、歴史はすでに、アッシリヤからバビロンに移っていたからです。バビロンが大きくなり、アッシリヤが小さくなっていきます。実に、ヨシヤの存命中に、アッシリヤはバビロンとの戦いに敗れ、紀元前612年その首都ニネベが滅びます。ですから、この地域におけるアッシリヤの支配がかなり弱められていたのです。

21~23節をご覧ください。ヨシヤ王の宗教改革のクライマックスは、過ぎ越しの祭りの復活でした。「21 王は民全体に次のように命じた。「この契約の書に記されているとおり、あなたがたの神、【主】に、過越のいけにえを献げよ。」22 実に、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代以来、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえが献げられたことはなかった。23 ただ、ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越のいけにえが【主】に献げられただけであった。」

ヨシヤは、イスラエルの国民的な霊的生活の要であった、過越の祭りを復活させました。「さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代」とは、士師の時代のことです。それ以来、過越の祭りが全く行われなかったということではなく、確かにそれからも行われてはいましたが、その重要な祭りが軽視されていたということです。ヨシヤは士師記に登場したどの王たちよりも厳密に、モーセの律法の命令に従って過越しの祭りを守ろうとしたのです。

どうして彼はこれほどの宗教改革を行うことができたのでしょうか。24節と25節に、その理由が述べられています。「24 さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。こうして、彼は祭司ヒルキヤが【主】の宮で見つけた書物に記されている律法のことばを実行した。25 ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって【主】に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。

聖書の記者は、「ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって【主】に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。」と彼を評価しています。それはヨシヤが神との契約の書と出会ったからです。彼が王になってから18年間、契約の書に出会うまで、宮の偶像は放置されたままでした。しかし、契約の書を読むことで、それが罪であることを悟らされたのです。主のことばに心を開く時に聖霊が働くからです。心から悔い改め、主の御心に応じようとするところに、新しいいのちのわざが生じます。悔い改めの連続が、私たちの新しい信仰生活を形作ることになるのです。

Ⅱ.それにもかかわらず(26-27)

次に、26~27節をご覧ください。「26 それにもかかわらず、マナセが引き起こした主のすべての怒りのゆえに、【主】はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとはされなかった。27 【主】は言われた。「わたしがイスラエルを除いたのと同じように、ユダもわたしの前から除く。わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの宮も、わたしは退ける。」

ヨシヤ王の徹底した宗教改革にも関わらず、主はなぜユダに向けて燃やされた激しい怒りを収めようとされなかったのでしょうか(26節)。それは、マナセが引き起こした罪があまりにも大きかったからです。それに対する主のすべての怒りのゆえに、主はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとしませんでした。どういうことですか? マナセが引き起こした罪があまりにも大きかったので、民はもはや悔い改めることさえできなない状態まで来ていたということです。ヨシヤは最善を尽くしましたが、もはや一人の王のリバイバルによって回復できるような状態ではなかったのです。それで主はイスラエルを除いたのと同じように、ユダもご自身の前から取り除くと宣言されたのです。これは具体的にはバビロンに滅ぼされるということです。バビロン捕囚という出来事です。

これは丁度今礼拝の説教でエレミヤ書を学んでいるのでわかりますが、それさえも神の計画の中にあることでした。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるものだったのです。なぜなら、そのことによって彼らは真に悔い改め、その先にある回復を見るようになるからです。それは終末に起こることの預言でもあります。「こうしてイスラエルはみな救われる」(ローマ11:26)とありますが、どのようにしてイスラエルはみな救われるのでしょうか。「こうして」です。彼らが悔い改めないで主を拒絶し続けることで、世の終わりに7年間の大患難が襲うことになります。その苦難の中で彼らは再臨のメシヤこそ、自分たちの先祖たちが突き刺して殺したナザレのイエスであることを知り、胸をたたいて悔い改めるようになります。こうして、イスラエルはみな救われるのです。そして、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたの神となる。」(エレミヤ30:22)という神との約束が実現することになるのです。誰がそのようなことを考えることができるでしょうか。そのようなことは誰も考えることなどできないことです。しかし、神はできるのです。神は私たち人間と約束されたことは必ず守られる方だからです。

もともと人間が良いことをしたからといって、神は罪の結果を帳消しにすることはありません。人間が良いことをすれば神は喜び、悪いことをすれば悲しまれる、ということはあるでしょう。でも神は人間の態度に一々左右されながら歴史を導かれるお方ではありません。むしろご自身の最終計画を進められる中で、人間のありようをご覧になり、介入し、あわれみを注がれる方なのです。神が終末の裁きの計画を変えることはありません。しかし滅びに向かう人類の歩みの中で、個々の悔い改めがなされる時に、そこにあわれみを注ぎ、祝福を注いでくださるのです。だからといって、私たちは何もしなくても良い、ということではありません。ヨシヤのように心からへりくだり、心を尽くして主に仕えることができます。その中で、もう修復不能と思われるような中で、神は回復の希望をもたらしてくださるのです。あなたはもう一度建て上げられるのです。

Ⅲ.主のことばに対する柔軟さ(28-30)

最後に、28~30節を見て終わります。ここには、ヨシヤのもう一つの特筆すべき出来事が記されてあります。それは、彼が神のことばに逆らって自らの命を落としたという出来事です。

「28 ヨシヤについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。29 彼の時代に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王のもとに行こうと、ユーフラテス川を目指して上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、ファラオ・ネコはメギドで彼に出会った際、彼を殺した。30 ヨシヤの家来たちは、彼の遺体を戦車に載せ、メギドからエルサレムに運んで、彼の墓に葬った。その国の民は、ヨシヤの子エホアハズを選んで油を注ぎ、彼の父に代えて王とした。」

ヨシヤの時代に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王のもとに行こうと、ユーフラテス川を目指して上って来時のことです。彼はファラオ・ネコを迎え撃ちに出て行くと、メギドで彼に出会ったファラオ・ネコは、彼を殺したのです。なぜ彼はそのような終わり方をしたのでしょうか。

この戦いは、BC609年頃、エジプトの王ファラオ・ネコが、カルケミシュでバビロンの王ナボポラッサルとの戦いのために出て来た時のことです。ヨシヤは、バビロン軍に挑戦しようとその途上にあったネコの軍隊を迎撃しようとした。Ⅱ歴代誌を読むと、エジプトの王ネコは目標はユダではなくバビロンなのだから、この戦いから手を引くようにとヨシヤに警告をしていました(35:21)。それなのにどうして彼はそこから手を引かなかったのか?神のみこころを第一とするヨシヤが、どうして「神の御口から出たネコのことばに聞こうとしなかった」(Ⅱ歴代35:22)のでしょうか?

二つの理由が考えられます。第一のことは、これは主のあわれみによるということです。覚えておられますか、主の宮で律法の書が見つかった時、彼は心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて、主の前で泣いたのを。その時主もまた彼の願いを聞き入れると言って、次のように言われました。22章20節です。

「それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。』」彼らはそれを王に報告した。」

ユダの罪があまりにも大きいので、もはや主は彼らに対する激しい怒りを収めようとはされませんでした。それがバビロン捕囚です。主はヨシヤに対して、彼が主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて、主の前で泣いたので、主がこの場所、エルサレムにもたらすすべてのわざわいを見ることがないようにしてくださったのです。ヨシヤがエジプトの王ファラオ・猫との戦いで死んだのはB.C.609年のことでしたが、ユダがバビロンによって捕囚とされた出来事は、その後大きく分けて3回にわたって行われました。B.C.605年、B.C.597年、B.C.586年です。ですから、ヨシヤはこのみことばの約束のとおり、自分の目でエルサレムにもたらされるすべてのわざわいを見ることなく死ぬことができました。これは主のあわれみによるのです。

もう一つの理由は、神のことばに対する受け止め方の問題です。確かに彼は徹底的に神のことばに従いました。しかし、神のことば、聖書通りにいきさえすればよいというのではありません。聖書を読み、主が語られることを聞くことが大切なのです。いうなら、彼の問題は聖書信仰という立場よりも、主の御言葉に対する柔軟さが欠落していたということです。聖書どおりに生きさえすればよいというのではありません。大切なのは、聖書を読み主が語っておられることを聞き、そのことばに応答して生きることなのです。

エレミヤ30章12~24節「あなたの傷を癒される主」

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今日は、エレミヤ書30章後半から、「あなたの傷を癒される主」というタイトルでお話します。イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいます。それは近い将来においてはバビロン捕囚という出来事のことであり、遠い未来においてはヤコブの苦難と呼ばれる世の終わりに起こる7年間の患難時代のことを指しています。しかし、神はそんなヤコブ、イスラエルを見捨てることなく、赦し、救い出してくださるとおっしゃられました(30:7)。神は懲らしめを与えますが、彼らを滅ぼし尽くされることはありません。罪ゆえに大きな痛みや傷、苦しみを与えられますが、その後には赦しと救いを用意してくださるのです。いったい神はどのようにしてそれを行われるのでしょうか。

今日の箇所には、その方法が明確に記されています。それは、彼らの中から出る権力者、その支配者によってです。21節には、「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあります。いのちをかけて神に近づく者はだれでしょうか。そうです、それは神の御子イエス・キリストです。エレミヤはここで命をかけて神に近づき、民の受けるべき罰を担ってくださる方を預言しているのです。イエス・キリストによって私たちのすべての罪咎は赦され、赦しと救いを受けることができるのです。今日は、私たちのすべての傷を癒してくださる主イエス・キリストの救いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.癒されがたい傷(12-17)

まず、12~17節をご覧ください。「12 まことに【主】はこう言われる。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。13 あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。14 あなたの恋人たちはみな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。15 なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは癒やされがたい。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために、わたしはこれらのことを、あなたにしたのだ。」

この「あなた」とは、ヤコブ、イスラエルのことです。主は彼らにこう言われました。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。」彼らの痛みは、癒されがたいものでした。14節の「あなたの恋人たち」とは、イスラエルと同盟関係を結んでいた周辺諸国のことです。そうした同盟国もヤコブを救うことはできませんでした。彼らはヤコブを忘れ、尋ねようともしません。彼らの傷をいやすことができないのです。なぜなら、それは普通の傷ではないからです。14節後半に「わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。」とあるように、それは主が与えたものだからです。彼らの咎が大きく、彼らの罪が重いからです。つまり、それは罪から来る傷、罪から来る病であったのです。ローマ6:23に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とある通りです。それは、罪から来る報酬なのです。罪から来る傷はだれも癒すことができません。それは死をもたらすだけです。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」しかし、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられます。この永遠のいのちは、あなたの恋人が癒すことができない傷や病すら癒すことができるのです。
  それが17節で言われていることです。「まことに、わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」

主は「わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。」と言われます。主があなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒されます。あなたの傷を癒すことができる人は誰もいません。精神科医でも無理です。そこで処方される薬も癒すことはできません。勿論、肉体的な病気であれば神は薬を用いて癒すこともできますが、ここで言われている傷はそういう傷ではなく罪から来ているものなので、人には癒すことができないのです。それは神にしかできないことです。罪を赦すことができるのは神にしかできないからです。

マルコの福音書2章に、中風の人の癒しについて書かれてあります。友人たちが彼をイエスの下に連れて来たときイエスはこの人に何と言われましたか?「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたんです(マルコ2:5)。彼は罪の赦しを求めて来たのではありません。彼は中風を癒してもらうために来ました。それなのにイエス様は「あなたの罪は赦された」と言われたのです。なぜでしょうか?罪を赦すことができるのは神しかいないからです。神以外にだれも罪赦すことはできません。罪を赦すことができる方は神であり、中風を癒すことなど何でもないことだからです。だからイエスは、彼らに罪が赦される信仰があるのを見て、そのように言われたのです。あなたを罪から救うことができるのは、あなたを永遠の滅びから救うことができるのは、イスラエルの救い主、私たちの主イエス・キリスト以外にはいないのです。

ですから、使徒4章12節にはこうあるのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
  「この方」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。この方以外には、イスラエルの同盟国であろうと、イスラエルが慕った偶像であろうと、この世のあらゆる国家権力であろうと、いかなる富であろうと、あなたを救うことはできないのです。私たちが救われるべき名としては、人間には与えられていなからです。イエス・キリストだけが救われるべき唯一の道であり、真理であり、いのちです。イエス・キリストを通してでなければ、だれ一人、父のみもとに行くことはできません。

いったいなぜ主はヤコブ、イスラエルを癒してくださるのでしょうか。17節後半をご覧ください。ここに「─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」とあります。それは彼らが「捨てられた女」、「尋ねる者のないシオン」と呼ばれたからです。どういうことですか?これは、彼らの絶望的な状況を見た者たちあざけって言ったことばです。確かに、主はヤコブの罪のゆえに懲らしめを与えられますが、滅ぼし尽くすことはなさいません。だから、異邦人たちが神の選びの民を見下しているのを見て、決して黙っておられることはないのです。彼らの傷を治し、打ち傷を癒され、立ち上がらせてくださるのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分の罪とか咎のゆえに神から懲らしめを受けることがあるかもしれません。それは癒されがたく、時として絶望を感じることもあるでしょう。でも私たちの神はヤコブを見捨てることなく彼らの傷を治し、打ち傷を癒されたように、あなたの罪を赦し、あなたの傷を癒してくださいます。あなたを救ってくださるのです。Ⅱコリント4章8~9節にこうある通りです。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
  私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。ボクシングの試合では相手のパンチを食らってノックダウンすることがありますが、でも試合はそれで終わりません。ノックアウトされるまで続きます。まさに、私たちの信仰はそうです。ノックダウンすることはあってもノックアウトすることはありません。これがイエス・キリストを信じる者に与えられている約束です。神が私たちに立てておられる計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。29:11にありますね。この「あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」ということばは、最後は希望だという意味です。皆さん、イエス・キリストを信じる者に与えられている最後は希望なのです。その約束をしっかり握りしめていなければなりません。これが私たちに求められている信仰です。絶望と思える中にあっても、真心から主に信頼し、パウロが持っていた確信を持ち続けていただきたいと思うのです。

Ⅱ.ヤコブの回復(18-22)

次に、18~22節をご覧ください。「18 ─【主】はこう言われる─見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。19 彼らから、感謝の歌と、喜び笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。20 その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。21 その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。──【主】のことば──22 あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」」

ここにも、近い将来における預言と遠い未来における預言が二重の預言になって語られています。「見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に立て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。」とは、近い将来においてはバビロン捕囚からの解放のことであり、遠い未来においては、寄留者となって全世界に散らされているイスラエルの民が、約束の地に帰還するようになることを預言しています。

「ヤコブの天幕」とは、一時的な住まいのことを指しています。バビロンでの彼らの生活は、まさに天幕生活でした。それはキャンピングをしているようなものです。キャンピングと聞くと、いいなぁ、のんびりできて、と思うかもしれませんが、それが毎日続くとしたらどうでしょう。たまったもんじゃありません。不自由ですよ。ゆったりとお風呂にはいっていることさえできません。でも、祖国に帰って自宅に住むと、やっぱり我が家はいいなあ、落ち着くなあということになるわけです。彼らは祖国に帰り、廃墟となった場所に都を建て直し、宮殿はその定められていた場所に建つようになります。人の数も増え、大いに繁栄するようになります。

これは遠い未来のことで言うなら、全世界に散らされていたユダヤ人がイスラエルに帰還することを預言しています。そして、私たちが生きているこの時代にこの預言が実現します。そうです、世界中に散らされていたユダヤ人が1800年代後半からイスラエルに帰還するようになり、ついに1948年5月14日にイスラエルという国として国連で承認されることになったんですね。そのこともこの預言の中に含まれています。

しかし、それはこれから後のこと、世の終わりに起こることの預言でもあります。それは、私たちがこの肉体という地上の幕屋を脱ぎ捨て、天から与えられる幕屋を着ることです。パウロはⅡコリント5章1~2節でこのように言っています。「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。」

この「地上の住まいである幕屋」とは、私たちの肉体のことです。私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされますとあるように、外なる人は日々衰えていきます。また、自分がしたいことではなく、したくない悪を行ってしまうという不自由さ、生きづらさというものがあります。でもそれがいつまでも続くのではありません。私たちはやがてこの地上の幕屋を脱ぎ捨て天から与えられる住まいを着るのです。それは人手によらない永遠の住まいです。決して衰えることはありません。病気になることもなく、障害を負うこともなく、老いることもなく、罪を犯すこともない完全なからだをいただくのです。そこは永遠の住まいで、感謝の歌と、喜び笑う声が沸き上がります。それが「天国」です。そこへいつか私たちは帰ることになるのです。その預言です。

  そのような祝福へと導いてくださるのはだれでしょうか。21節をご覧ください。「その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。─主のことば─」
  これは、メシヤ預言です。イスラエルの民に約束された祝福は、メシヤを通して与えられます。「その支配者はその中からでる」とあるように、メシヤはイスラエルの中から出ると言われています。これは近未来の預言では、バビロン捕囚からの解放された後に現れる権力者であり、支配者のことで、具体的にはダビデ王家の「ゼルバベル」という総督と、彼をサポートする「大祭司ヨシュア」のことです。彼らのことについては、エズラ記やゼカリヤ書に記録されてあるので、後で読んで確認しておいてください。

でも遠い未来のことで言うと、これはダビデの子イエス・キリストのことを指しています。それはここに「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあることからもわかります。神に近づくことができるのは祭司と呼ばれる人たちだけでが、イエス・キリストはその祭司としてご自身のいのちをかけて神に近づいてくださいました。へブル4章15~16節をご覧ください。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
  「私たちの大祭司」とは、イエス・キリストのことです。キリストは私たちに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みを受けられました。それは私たちの弱さを知っておられるということです。ですから、私たちの最も身近な存在として、どんな時でも寄り添ってくださることができるのです。あなたの気持ちを誰よりも理解してくださる方、あなたよりももっと深い闇の中にまで下りて行ってくださったお方です。ですから、あなた以上に苦しまれた方、あなた以上に理不尽な扱いをされました。人から裏切られ、友からも裏切られました。全世界が彼の敵となりました。そして最後は十字架にかけられ死なれたのです。何一つ罪を犯さなかったのに。文字通り、イエスはいのちをかけてくださったのです。この方が私たちの大祭司としてとりなしてくださるので、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。ですから、神の裁きや懲らしめにおびえることなく、主によって救われた喜びと平安の中で生きることができるのです。

このメシヤ、イエス・キリストを通して彼らは悔い改めて神に立ち返り、神の救いを受けようになるのです。それが22節にあることです。「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
  これは神と神の民との契約です。神を信じる者は、神の民となります。そして、神が私たちの個人的な神となってくださいます。これが神との関係です。これがキリスト教です。キリスト教は宗教ではありません。キリスト教は神との関係なんです。この契約を結んだ者がクリスチャンです。この契約を結んだ者がイスラエルの民でした。これは個人的には神がアブラハムと結ばれたものです。しかし、イスラエルがエジプトを出てシナイ山までやって来たとき、神はイスラエルの民と結ばれました。しかし、この契約は彼らの罪によって一方的に破棄されてしまいました。その結果、契約に違反して自らの身に呪いを招いてしまったのです。でも、神は彼らを見捨てられませんでした。神様は最初からわかっていたのです。どんなに契約を結んでも裏切られるということを。でも神様は絶対に約束を破ることはなさいません。最後まで誠実に守られるのです。そしてその壊れた関係を修復するために、私たちに出来ないことをしてくださいました。それがイエス・キリストです。神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に送り、その契約違反の罪をこの方に負わせて、十字架につけてくださったのです。未だかつてだれも見たこともない、聞いたこともない驚くべき方法によって、神は人類に救いの道を与えてくださったのです。私たちはそのことによって救われたのです。

それが世の終わりに実現することになります。キリストが再臨される時、イスラエルの民は、自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆き、主に立ち返るようになるのです。そのことがゼカリヤ12章10節と黙示録1章7節にこう預言されてあります。
  「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12章10節)
  「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。」(黙示録1章7節)
  キリストが再臨される時、全世界の人々がこの方を仰ぎ見るようになりますが、ユダヤ人にとっては、それは特に驚愕の出来事になります。それは、自分たちのために戦ってくださっている、自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったということを知るようになるからです。そして、彼らは胸をたたいて悲しみ、悔い改めて神に立ち返るようになります。イスラエルのすべての人たちがイエスを救い主として信じ受け入れるようになるのです。こうして、神の約束が成就することになります。その約束とは、「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)という約束です。それがこの「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束です。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。こうしてイスラエルはみな救われるのです。彼らと約束された契約が実現することになるのです。

Ⅲ.神に立ち返れ(23-24)

ですから、第三のことは、神に立ち返れ、ということです。23~24節をご覧ください。「23 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。渦巻く暴風が悪者の頭上に荒れ狂う。24 【主】の燃える怒りは、去ることはない。主が心の思うところを行って、成し遂げるまでは。終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」

24節に「終わりの日に」とあるので、ここでも世の終わりの患難時代のことが語られていることがわかります。それは、キリストを拒絶する者に対する神の怒りが注がれる時です。ヤコブの苦難と呼ばれているものです。それがここでは「主のつむじ風」とか、「渦巻く暴風」ということばで表現されています。これらは、終末にイスラエルの民を襲う患難の激しさを描写しています。主の燃える怒りは、去ることはありません。主が心の思うことを行って、成し遂げるまでは。つまり、その暴風は途中で止むことなく、主が命じたことを最後まで成し遂げるということです。患難時代がいかに困難なものであるかがわかります。しかし、神の怒りの目的は、イスラエルを滅ぼすことではなく、イスラエルを悔い改めに導くことでした。それが、「終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」とあることです。そして、31章1節の、「そのとき、主のことば、わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」ということです。これは22節でも語られたことですが、ここでもう一度語られています。実はこの31章1節のことばは30章に含まれます。つまり、そのとき、イスラエルは神の懲らしめの意味を悟り、主に立ち返るようになるということです。つまり、神の怒りの目的が、イスラエルの霊的な回復であったことが明らかになるのです。それは預言者ホセアが預言していることでもあります。「1 さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。3 私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:1-3)

このことから言えることは、私たちの人生において遭遇する患難、苦難は、危機であると同時に主に立ち返るチャンスの時でもあるということです。ですから、今もし苦難に会っているなら、それを通して神が何を語っておられるのかを聞かなければなりません。その苦難がチャンスに変えられるように祈らなければなりません。あなたが神に立ち返り神との関係の回復を望むなら、神はいくらでもやり直しの機会を与えてくださいます。回復を与えてくださるのです。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
  この脱出の道こそ、悔い改めて、神に立ち返ることです。そうするなら、神はあなたとの関係を修復してくださり、燃える神の怒りから、あなたも救われるのです。今がそのとき、今が恵みの時、今が救いの日です。そのとき、あなたは神の怒りではなく、神の赦しと救いをいただき、あなたの傷も完全に癒されることになるのです。

Ⅱ列王記22章

 

 Ⅱ列王記22章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王ヨシヤ(1-7)

まず、1~7節をご覧ください。「1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテ出身のアダヤの娘であった。2 彼は【主】の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。3 ヨシヤ王の第十八年に、王は、メシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンを【主】の宮に遣わして言った。4 「大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、【主】の宮に納められていた金、すなわち、入り口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させよ。5 彼らが【主】の宮で工事をしている監督者たちにそれを手渡すようにせよ。そして、監督者たちは、神殿の破損の修理をするために、【主】の宮で工事をしている者たちにそれを渡すようにせよ。6 大工、建築する者、石工に渡し、神殿の修理のための木材や切り石を買わせよ。7 ただし、彼らの手に渡した金の精算がなされる必要はない。彼らは忠実に働いているからである。」」

マナセ、アモンと続いた悪王の次に王となったのはヨシヤです。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘でした。彼は8歳で王となり、エルサレムで31年間治めました。彼が8歳で王に就いたのは、彼の父親のアモンが家来の謀反によって殺されたからです。そこでまだ8歳でしかなかったヨシヤが王として立てられたのです。

彼の特筆すべき点は、彼が主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかったという点です。南王国ユダには、アヒヤやセゼキヤのような善王がいましたが、その中でも彼はかつてないほどの善王、ユダの王たちの中でも最善の王と称せられるほどでした。彼は父祖ダビデのすべての道に歩、右にも左にもそれませんでした。彼の信仰は、それほど徹底していたのです。

ヨシヤは、その治世の18年、すなわち、彼が26歳の時に神殿の修理に着手します。それは単に神殿が老朽化したからということではなく、祖父マナセと父アモンによって神殿が荒らされていたからです。主のための器具は取り壊され、代わりに、偶像礼拝のための器具や祭壇、偶像などが持ち込まれていました。そのため破損がひどくなっていたのです。

彼はそのために必要な献金を集めると、それを、工事をしている者たちに渡し、神殿の修理に必要な木材や切り石を購入させました。しかし、彼らの手に渡した金の清算、すなわち会計報告を要求することはありませんでした。彼らが忠実に働いていたからです。このようにすることで、工事の進捗状況は一段と進んだはずです。彼は年が若くても、どうすれば人は動くのかをよく理解していました。

南王国ユダでは、これまでアサ、ヨシャパテ、ヒゼキヤの3人が宗教改革を行いましたが、ヨシヤが行った宗教改革は最大のものでした。彼は彼以前の誰よりも、徹底した改革を行ったのです。彼がこのような宗教改革を行うことができたのは、彼が主の目にかなうことを行い、父祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかったからです。私たちも主のみことばを握りしめ、主に信頼して歩むなら、主がその業を祝福してくださいます。

Ⅱ.律法の書の発見(8-13)

次に、8~13節をご覧ください。「8 そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「【主】の宮で律法の書を見つけました」と言った。そしてヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。9 書記シャファンは王のもとに行って、王に報告した。「しもべたちは、神殿にあった金を取り出して、これを【主】の宮で工事している監督者たちの手に渡しました。」10 さらに書記シャファンは王に告げた。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」シャファンは王の前でそれを読み上げた。11 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。12 王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記シャファン、王の家来アサヤに次のように命じた。13 「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、【主】を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった【主】の憤りが激しいからだ。」

「そのとき」、大祭司ヒルキヤが主の宮で律法の書を発見しました。これは申命記の一部であったと考えられています。恐らく、モーセ五書だったものをマナセ王かアモン王が破壊したため、神殿に残されたのはそのうちの一部の申命記だったのではないかと思われます。

大祭司ヒルキヤはそれを読むと、それを書記のシャファンに渡して読むようにと勧めました。それを呼んだシェファンはどれほど驚いたことでしょうか。彼はすぐに王のもとに行って、王に報告しました。そしてそれをヨシヤ王の前で読み上げると、それを聞いたヨシヤ王は自分の衣を引き裂きました。これは、深い悔い改めを示す行為です。彼は、自分たちがとんでもない罪を行なってきたことに気づいたのです。そこには、イスラエルが主に背いて偶像礼拝を行なうならばどうなるか、すなわち、主の憤りとのろいが来るということが書かれてあったのでしょう。彼はそのモーセの預言が、まさに自分の世代で起ころうとしていることに気づいたのです。ということはどういうことかというと、確かにヨシヤ王は主の目にかなうことを起こってはいましたが、それはどちらというと感覚的なもの、感覚的な信仰であったということです。自分では主の目にかなったことを行っていると思ってはいましたが、実際に律法の書のことばを聞いたとき、自分の行いがそれとはかけ離れたものであることに気付いたのです。

そのようなことが私たちにもあります。自分では主の目にかなったことを行っていると思っていても実際には主のみこころからかけ離れているということが。信仰において重要なのは感覚的に従うのではなく、主のみことばを聞いて、それに従うことです。そして、もし主のみこころから離れていると気づいたなら、悔い改めて神に立ち返ることです。

それで彼はどうしましたか?彼は、祭司ヒルキヤとシャファンの子アヒカム、ミカの子アクボル、書記シャファン、王の家来アサヤを呼び、主のみこころを求めるように次のように命じました。

「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ。」(13)

ヨシヤ王は、先祖たちの時代から律法の書に記された主のことばが無視されてきたことを知り、主の裁きが下ることを恐れました。そして自分のために、また民のために、主の憤りと怒りとが取り去られるようにと願ったのです。

ヨシヤは、律法の書に記された神のことばを一度聞いただけで、すぐに宗教改革に着手しました。今の時代、私たちには聖書全巻が与えられていても、それに聞き従おうとしないことが多くあります。ヤコブ1章23~25節には、「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とあります。みことばは鏡のようなものです。みことばを聞いてもそれを行わなければ、自分の顔がどのような顔だったか忘れてしまいます。けれども、みことばを求め、そこから離れず、それを行う人は、その行いによって祝福されます。それは、自分にどのような変化がもたらされたかがわかるほどです。

ヨシヤのすばらしいかった点は、この点です。彼はいつも神のみことばを求め、それをすぐに実践しました。実に彼の信仰は、このみことばに裏付けられた、みことばに基づいたものだったのです。

Ⅲ.マナセの子アモン(14-20)

最後に、14~20節をご覧ください。「14 そこで、祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは、女預言者フルダのもとに行った。彼女は、ハルハスの子ティクワの子である装束係シャルムの妻で、エルサレムの第二区に住んでいた。彼らが彼女に伝えると、15 彼女は彼らに答えた。「イスラエルの神である【主】はこう言われます。『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に言え。16 【主】はこう言われる。見よ。わたしは、ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばどおりに、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。17 彼らはわたしを捨て、ほかの神々に犠牲を供え、自分たちのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こした。こうして、わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることはない。』18 【主】を求めるためにあなたがたを遣わしたユダの王には、こう言いなさい。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神である【主】は、こう言われる。19 あなたは、わたしがこの場所とその住民について、これは恐怖のもととなり、ののしりの的となると告げたのを聞いた。そのとき、あなたは心を痛めて【主】の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いてわたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる──【主】のことば──。20 それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。』」彼らはそれを王に報告した。」

そこで彼らは、女預言者フルダのもとに行きました。当時、エルサレムには、エレミヤやゼパニヤ、ハバククおといったすぐれた預言者たちがいましたが、彼らはその中で女預言者フルダを選んだのです。なぜ彼女が選ばれたのかはわかりません。彼女の夫が祭司の衣装係のシャルムという人であったことも関係あるかもしれません。彼女は、よほど信頼されていたのでしょう。

フルダは王の使者たちに主のことばを伝えました。それは、この場所、すなわちエルサレムとその住民にわざわいをもたらされるということです。それはユダの民が主を捨て、ほかの神々に犠牲を供え、主の怒りを引き起こしたからです。その罪に対する神の憤りが消えることはありません。

けれども、主のみこころを求めたヨシヤには、以下のことばが伝えられます。19~20節です。「あなたは、わたしがこの場所とその住民について、これは恐怖のもととなり、ののしりの的となると告げたのを聞いた。そのとき、あなたは心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いてわたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる─主のことば─。それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。』」彼らはそれを王に報告した。」

ヨシュアは個人的に神のあわれみを受けるようになります。そのあわれみとは、彼が生きている間は神の裁きを免れるというものです。この神のさばきとは何を指しているのかというと、バビロンがユダを攻めてきて、ユダの民がバビロンに捕え移されることです。彼が生きている間はこの裁きはくだりません。なぜなら、ユダとエルサレムに対する神の裁きを聞いたとき、彼が心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて主の前で泣いたからです。それで主は彼の願いを聞き入れてくださったからです。

この約束の通り、彼はバビロンの王ネブカドネツァルが最初にエルサレムを攻める前に死にます。バビロンの王ネブカドネツァルが最初にエルサレムを攻めたのは前605年ですが、彼はその前の前609年に死に、墓に葬られました。彼は平安のうちに自分の墓に集められたのです。それは、彼が主のみことばに基づいて主を求めたからです。ここがヨシヤの素晴らしかった点です。

ところで、このヨシヤ王は12章に登場したヨアシュ王と似ている点があります。ヨシヤは8歳で王となると、エルサレムで31年間治めましたが、一方、ヨアシュは7歳で王になると、エルサレムで40年間ユダを治めました。どちらも神殿の修繕作業を行いました。ヨアシュも主のみこころにかなうことを行いました。しかし、明らかに違う点があります。それは、ヨシヤはいつも主のみこころを求め、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかったのに対して、ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも主の目にかなうことを行いましたが、エホヤダが死ぬと、主のみこころからそれて行った点です。いったいどうしてヨアシュは主のみこころからそれ、ヨシヤはそれなかったのでしょうか。それは、ヨアシュは祭司エホヤダに支えられた信仰だったのに対して、ヨシヤは主のみことばに裏付けられた信仰であったからです。ヨシヤは主の神殿を再建したのみならず、再建途中に律法の書を見つけると、彼はそれを読み、悔い改め、神のみことばに従おうと努力しました。ただ教えられたとおりにするだけのヨアシュと、教えられたみことばを自らの生活に取り入れ、それを実践しようとしたヨシヤには、違いがあったのです。

大切なのは、神のみことばに対する姿勢です。神のみことばが、私たちの心を照らし、私たちに罪を示す時に、これを素直に受け入れる、あるいは神のみことばが私たちの心を照らし、みこころを示されるなら、それを素直に受け入れ、それを実際に行うかどうかということです。あるいは、神のみことばが私たちの心を照らし約束を語るならば、その約束に信頼してみことばに応答するかどうかです。ヨシヤにあってヨアシュになかったものはまさにこのことだったのです。 それは私たちにも言えることです。私たちの信仰も誰かに支えられてではなく、自ら神のみことばを読み、みことばを土台として生きるものでなければなりません。そして読んだみことばを素直に受け入れ、そのみことばに信仰をもって応答するなら、ヨシヤのような祝福がもたらされるのです。

エレミヤ30章1~11節「だが、ヤコブはそこから救われる」

今日は、エレミヤ書30章からお話します。今日のメッセージのタイトルは、「だが、ヤコブはそこから救われる」です。7節から取りました。ここには「だが、彼はそこから救われる」とあります。「そこから」とは、その前に「それはヤコブには苦難の時」とあるように、苦難から救われるということです。ヤコブ、イスラエルは、その日大いなる苦難を受けますが、彼らはそこから救われるのです。それは私たちクリスチャンへの約束でもあります。私たちも患難を受けますが、そこから救われるのです。何という慰めに満ちた約束でしょうか。

前回もお話したように、エレミヤ書は29章から33章までが全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所となります。29章10節には、バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダの民、イスラエルを顧みて、いつくしみを施し、彼らを祖国に帰らせるとありましたが、この30章には、それが具体的にどのようになされるのかが語られます。

Ⅰ.その時代が来る(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 イスラエルの神、【主】はこう言われる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。3 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」」

主はエレミヤに、「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。」と言われました。書き記す内容は、主がエレミヤに語ったすべてのことばです。それはエレミヤ書全体を指しますが、特に30章と31章の内容となります。そして、その中心的な内容がこの3節のことばです。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」

ここでは、「見よ、その時代が来る」とか「そのとき」ということばが強調されています。新改訳第3版では、どちらも「その日」と訳しています。このように、聖書に「その時代」とか「その日」という表現がある時は、未来のことを預言する時に使われています。つまり、ここでは山が何重にも重なって見えるように、バビロン捕囚からの回復と同時に世の終わりに起こることが二重の預言として語られているのです。神はエレミヤに近い将来に起こることだけでなく、遠い未来に起こることも見せてくださいました。近い将来に起こることとは、70年間のバビロン捕囚からの解放のことです。彼らはバビロン捕囚から解放され、神がその父祖に与えた地に帰ることができるようになります。そればかりか、遠い未来においては、全世界に離散したイスラエルの民が祖国に帰還し、そこを所有するようになるというのです。

ここには「イスラエルとユダ」とあります。当時イスラエルは統一国家ではなく、北と南に分かれていました。北王国イスラエルと南王国ユダです。この時、北王国イスラエルは既にアッシリヤ帝国によって滅ぼされていました。B.C.722年のことです。それで北王国イスラエルの民はアッシリヤの捕囚となったり、周辺の国々に避難して行きました。いわゆる離散の民となったのです。これを何というかというと「ディアスポラ」と言います。「離散の民」です。その後、バビロンという新興国が起こりアッシリヤ帝国を呑み込むと、今度はそのバビロンが南王国ユダを滅ぼしました。しかし、ユダの人たちはバビロン捕囚となっても70年後には必ず祖国に帰れると預言されていて、それがB.C.539年に実現します。しかし、北イスラエルの民はアッシリヤによって滅ぼされて以来、世界中に散らされたままになっていますが、その北イスラエルの民も祖国に帰るようになるというのです。

果たして、それが実現することになります。いつですか?ここには「その日」とあります。それは驚くことなかれ、今私たちが生きているこの時代に起こったのです。1948年5月14日に、イスラエルは国連によって独立国家として認められたのです。それは1900年ぶりの奇跡でした。A.D.70年にローマ帝国の属国となっていたイスラエルは、ローマの激しい迫害によって国を失うと、世界中に散らされて行きました。それで北イスラエルだけでなく南ユダも離散の民となるのです。しかし、1800年代後半頃から世界中に離散していたイスラエルの民が急速に戻り始めると、これをシオニズム運動と言いますが、第一次世界大戦でトルコが負けイギリスの統治下に置かれ、第二次世界大戦を経て奇跡的に国として再興を果たすのです。信じられないことが起こりました。1900年の時空を超えて、神は再びイスラエルとユダを祖国に帰らせたのです。それは世界中の誰もが目を疑うような出来事でした。1900年もの間世界中に散らされていた民族が、再び祖国を取り戻したというような話など聞いたことがありません。でもそれが実際に起こったのです。それはどういうことかというと、今は世の終わりの時でもあるということです。

マタイ24章には、世の終わりにはどのようなことが起こるのかその前兆となることを、イエスが弟子たちに話されましたが、世の終わりになると、戦争や戦争のうわさを聞くようになると言われました。飢饉と地震が起こります。偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。もうこれだけでも、現代が世の終わりに限りなく近いことがわかります。でも、イエスは、このようなことが起こってもうろたえないようにしなさいと言われました。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではないからです。世の終わりの前には世界中に散らされた選びの民が再び集められるようになるからです。

ですから、イエスはこう言われたのです。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」(マタイ24:31)
  「選びの民」とはイスラエルの民のことです。世の終わりになると、神は選びの民であるイスラエルを集められます。これはエレミヤ書29章と30章で預言されていることです。そのことがここで預言されているのです。ですから、32節にこう言われているのです。「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出てくると、夏が近いことがわかります。」(マタイ24:32)
  いちじくの木は、イスラエルのシンボルです。そのいちじくの木の枝がやわらかくなって葉が出てくるということは、イスラエルが復興するということです。そのようになると夏が近いことがわかります。夏とは、いちじくの実を収穫する時、すなわち、イエスが再び来られる時のことです。その前にイスラエルの民が再び集められるのです。これらのことをすべて見たら、人の子が戸口まで近いことを知りなさいと、言われたのです。それが起こったのです。1948年に。ということは、もうイエスの再臨、世の終わりがすぐそこまで来ているということです。世の終わりのカウントダウンが始まったのです。私たちはそういう時代に生きているのです。

でも、まだイエスは再臨していないじゃないですか。あれからもう70年が経っていますよ。それなのにそれが実現してないのは、聖書には誤りがあるということですか?あるいは、聖書は信頼に値しない書物であるということですか?そうではありません。本来であれば、もういつ来てもいいのです。ただ、そうされなかったというだけです。それは一重に神が忍耐しておられるからです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。もしその時にイエスが再臨されすべての悪を一掃されたとしたらどうでしょう。ここにいる多くの人たちは救われなかったでしょう。でも神はひとりも滅びることを望んでおられないので、未だに時を延ばしておられるのです。しかし、それはいつまでも続くものではありません。それはもうギリギリのところまで来ています。それがまだ来ていないというだけのことです。もうすぐ起こります。神のことばはすべて必ず実現するからです。神の民イスラエルとユダは回復し、父祖たちに与えた地に帰り、それを所有するようになるのです。今はどんなに荒れ果てていても、必ず回復するのです。

これは慰めではないでしょうか。それが私たちにも与えられている約束です。神が私たちに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。最後は希望なのです。必ず回復の時が来ます。この約束を信じて、神とそのことばに希望を置く者でありたいと思います。

Ⅱ.ヤコブには苦難の時(4-7a)

次に、4~7a節をご覧ください。「4 【主】がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。5 まことに【主】はこう言われる。「恐れてわななく声を、われわれは聞いた。『恐怖だ。平安がない』と。6 さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。7 わざわいだ。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。」

ここには、その時どんなことが起こるかが書かれてあります。それが「ヤコブの苦難」です。ここも二重の預言になっています。「その日」とか「大いなる日」とあるからです。聖書においてこのことばが使われる時は、例外なしに終末時代を指しています。これは近い将来においてはバビロン捕囚によって成就しますが、遠い未来においては世の終わりの患難時代に起こることを指しています。

その日には大いなる患難が襲ってきます。5節には「恐れてわななく声」とか「恐怖だ。平安がない声」とありますが、それはまさにそのことを表現しています。男に子が産めるはずがないのに「男に子が産めるか、尋ねてみよ」とあるのは、男が産婦のように産みの苦しみをするようになるということです。私は痛風の痛みしか経験したことがありませんが、人間にとって最も激しい痛みは子どもを出産する時の痛み、産みの苦しみだそうです。その日には、男も激痛で腰に手を当て、顔が青ざめるようになります。実にその日は大いなる日で、他に比べようもない日なのです。前代未聞の日です。それはバビロン捕囚の比どころではありません。もっと恐ろしい、もっと激しい苦難が襲うようになるのです。それが世の終わりに起こる患難時代です。それがここでは「ヤコブには苦難の時」と言われています。ヤコブとはイスラエルのことです。イスラエルは世の終わりに激しい患難時代を通るようになるということです。それはバビロン捕囚のように苦痛が伴うものですが、それとも比較できないほどの苦痛、まさに陣痛のように激しい痛みが伴うのです。ゼカリヤ書によると、「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」(ゼカリヤ13:8)と言われています。これは反キリストの迫害によって世界中のユダヤ人の三分の二が死に絶えるということです。第二次世界大戦時に、あのヒトラーによって約600万人のユダヤ人が虐殺されましたが、それは全世界のユダヤ人の三分の一でした。ですから、それ以上の患難が襲うということです。私たちはあのホロコーストの悲劇を知っています。あれほど恐ろしいことがあるかと思うほど恐ろしいことですが、世の終わりにもたらされる患難はそれ以上のもの、もっと恐ろしい患難です。それがユダヤ人を襲うことになるのです。これが黙示録6~19章に描かれている内容です。黙示録6章16~17節には、それがあまりにもひどい患難なので、地の王たち、高官たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞窟と山の岩間に身を隠し、山々や岩に向かってこう叫ぶほどです。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」

このことについては、イエスご自身も語られました。マタイ24章15~21節をご覧ください。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」
  これがエレミヤ書で言われている「ヤコブの苦難」です。それはこれまで経験したことがないような、また今後も決して経験しないような大きな苦難です。ユダヤ人たちが反キリストによって迫害されるからです。なぜ彼らが迫害されるのかというと、ユダヤ人は反キリストを絶対に拝まないからです。反キリストは自分を現人神であると宣言するのですが、ユダヤ人は真の神以外を拝まないので迫害されるのです。ここに「荒らす忌むべきものが聖なるところに立っているのを見たら」とありますが、それはこの7年間の患難時代のちょうど半分、1260日、3年半が経った時のことです。反キリストはユダヤ人のためにエルサレムに神殿を建てるので、ユダヤ人たちはすっかり騙されて彼をメシヤだと信じるのですが、3年半が経ったとき彼は神殿の最も聖なるところに立ち、「我こそ神である」と宣言するようになります。その時になってユダヤ人たちは自分たちが騙されたことに気付くのですが時すでに遅しで、激しい迫害を受けるようになるのです。それがこのヤコブには苦難の時のことです。

その時には山に逃げるようにと言われています。この「山」とは、旧約聖書では「ボツラ」と呼ばれている山で、現在の「ペトラ」という町のことだと考えられています。ここは今、世界遺産になっています。岩だらけで何もない場所ですが、「逃れの町」としての役割を担ってきたところです。そこは岩だらけで、難攻不落の天然の要塞となっています。イスラエルの民はそこでかくまわれることになります。その間に反キリストは逃げないユダヤ人を追い回し、迫害して虐殺するのです。それが世界のユダヤ人の全人口の三分の二に相当するのです。他の三分の一は山に逃れて助かります。ここに「逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」とあるのは、冬は雨期なのでぬかるんで歩けないからです。また、安息日というのは、旅行が許されていないので、歩ける距離が律法で決まっていたからです。

この患難時代は、それほど苦しい時です。それはまさに出産の時の激しい痛み、いやそれ以上の苦痛です。ヤコブ、イスラエルはそこを通るようになります。しかし、イエス・キリストを信じる者はこの患難を受けることはありません。イエス・キリストが私たちの岩であり、隠れ場であり、避け所であり、砦、大盾となって、私たちを匿ってくだるからです。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)とある通りです。

主はその前に再臨され、ご自身を信じる者を引き上げてくださいます。これを「携挙」と言います。主が天から下って来られます。そしてまず、キリストにあって死んだ人が墓からよみがえり、次に、生き残っているクリスチャンが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがⅡテサロニケ4章16~17節で言われていることです。もし引き上げられなければ大変なことになります。それはあなたが重い思いからではありません。あなたが主イエスを信じなかったからです。これはもう死にたいと思うくらい苦しい患難です。でもこの患難時代の前に携挙が起こり、私たちはそこから救われるのです。これがⅠテサロニケ5章9節で約束されていることです。ご一緒に読みましょう。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」
  神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださいました。この御怒りとは、この患難時代にもたらされる苦難のことです。私たちは主イエス・キリストによって、神の御怒りから救われるように定められているのです。ですから、恐れることはありません。

Ⅲ.だが、彼はそこから救われる(7b-11)

第三に、だが、彼はそこから救われます。7節後半~11節をご覧ください。「7bだが、彼はそこから救われる。8 その日になると──万軍の【主】のことば──わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。9 彼らは彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。10 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない。11 わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」」

だが、ヤコブには希望があります。それはヤコブには苦難の時ですが、彼はそこから救われることになるからです。その様子が8節以降に語られています。「その日になると─万軍の【主】のことば─わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。」
  その日、主は反キリストをさばき、ヤコブを解放されます。他国人が再び彼らを奴隷にすることはありません。彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えるようになります(9)これはどういうことかというと、千年王国で復活したダビデとともにイスラエルを統治するようになるということです。

10節をご覧ください。ヤコブは、散らされた先の国々から約束の地に帰還し、そこで安らかに住まうようになります。ヤコブ、イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいますが、滅ぼし尽くされることはありません。その罪のゆえに大きな痛みや傷、苦しみを味わったあとには、赦しと救いを用意しておられるのです。なぜ?なぜなら、神がそのように約束してくださったからです。

11節をご覧ください。ここには、「わたしがあなたとともにいて─主のことば─あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」とあります。これもすばらしい約束です。確かに、ヤコブは主に背き自分勝手な道に歩んだので、主は決して彼らを罰せずにおくことはしませんが、だからと言って滅ぼし尽くすことはありません。それはヤコブには苦難の時ですが、その苦難は母鳥が心地よい巣をわざと壊し、雛鳥たちを何もない空間に落とすことによって雛鳥が高く飛ぶことを学ぶことができるようにするように、ご自分の民を懲らしめるために与えるのです。
  ですから、彼らが滅ぼし尽くされることはありません。神はこの約束に基づいて、大きな痛みや苦しみを味わった後に、赦しと救いを与えてくださるのです。神は約束を守られる方です。もしイスラエルが滅びたり、国が完全に失われることがあるとしたら、それは約束違反をしたことになりますが、神はそういう方ではありません。神はご自身の約束に基づいて、イスラエルを滅ぼし尽くすことは絶対になさらないのです。逆に、イスラエルに敵対する者は滅ぼし尽くされることになります。

そして世の終わりに、これが成就することになります。ゼカリヤ12章10節を開いてください。ここには、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」とあります。これはどういうことかというと、ヤコブの苦難を通して悔い改めたイスラエルが、信仰を持って再臨のイエスを迎えるようになるということです。
「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)
  だから、イスラエルの平和のために祈らなければなりません。イスラエルの救いがイエスの再臨の条件となっているからです。

だれが、こんなことを考えることができるでしょうか。主のご計画は、人間の思いをはるかに超えています。イスラエルは自分たちの罪ゆえに神から懲らしめを受けますが、それはヤコブには苦難の時です。でも、彼はそこから救われます。それは私たちも同じです。私たちも神に背くことで神から懲らしめを受けますが、その懲らしめを通して神に立ち返り、悔い改めてイエス・キリストを受け入れることによって、そこから救われることになります。

ですから、恐れないでください。おののかないでください。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。患難の先にある希望を見上げ、主イエスを信じ、主とともに歩む決断をしようではありませんか。あなたの上に、主が恵みと哀願の霊を注いでくださいますように。その霊によって主を仰ぎ見て、主が与えておられる約束を受け取ることができますように。

エレミヤ29章1~14節 「驚くべき神の計画」

今日は、エレミヤ書29章からお話します。ここはエレミヤ書の中心的な箇所です。まさに、エレミヤ書の心臓部と言える箇所でもあります。ここには、世界中のクリスチャンから愛されている聖句も出てきます。29章11節のみことばです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

これは、キリスト教国際NGOの団体で「ワールド・ビジョン」という団体があるのですが、その英国支部が行ったデジタル調査で、世界で二番目に人気のある聖書の一節に選ばれた聖句です。ちなみに、一番人気があったのは、皆様もよくご存知のヨハネ3章16節です。その次に人気があったのが、このエレミヤ書29章11節です。しかし、それほどよく知られている聖句ですが、前後の文脈から外れて理解されていることが多いのも事実です。今日は、この箇所から「驚くべき神の計画」について、ご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.驚くべき神の計画(1-9)

まず、1~9節をご覧ください。1~3節をお読みします。「1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。2  この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。」

これは、エレミヤがエルサレムからバビロンに捕囚の民としては引いて行かれたユダの民に書き送った手紙です。2節には、この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、とありますが、第二回目のバビロン捕囚が行われた後に書かれたものです。バビロン捕囚は全部で3回行われました。第一回目がB.C.605年、第二回目がB.C.597年、そして第三回目がB.C.586年です。ユダの王エコンヤが捕囚の民として連れて行かれたのは第二回目の時ですから、この手紙が書き送られたのは、第二次バビロン捕囚が行われたB.C.597年頃ということになります。

エレミヤはなぜ彼らに手紙を書き送ったのでしょうか?それは、エレミヤが彼らのことを憂いでいたからです。なぜなら、そこには偽預言者が横行していたからです。そこには本物の預言者もいましたが、それ以上に偽預言者が多くいました。彼らは主の名を使って偽りを預言していましたが、ユダの民の中にはそうした偽預言のことばに騙されて、浮足立った生活をしている人たちがいたのです。たとえば、28章に登場したハナンヤがそうでした。彼はバビロンに連れて行かれたユダの民は2年のうちに戻ってくると預言していました。でもそれは事実ではありませんでした。ユダの民がエルサレムに戻ってくるのはいつですか?70年の時が満ちる時です。25章12節のところで、そのように語られていました。それなのに彼は2年で戻ることができると偽ったのです。それを聞いたユダの民はどう思ったでしょうか。彼らはそんな偽預言者の甘いことばに騙されて淡い期待を抱き、だったら2年間だけ我慢して適当な生活をしていればいいと思っていたのです。皆さん、何を信じるかはとても重要なことです。なぜなら、それはその人の生活に大きな影響を及ぼすからです。それはただの教えでは済まないのです。その人のライフスタイルに大きな影響が及ぶことになるのです。

ですから、エレミヤは彼らにこのように書き送りました。8~9節をご覧ください。「8 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──【主】のことば。』」
  つまり、地に足を付けて生活しなさい、ということです。浮足立っていてはいけません。偽預言者たちや、占い師たちにごまかされてはなりません。夢見る者たちのことばに騙されてはいけないのです。むしろ、落ち着いて生活するように心がけなければなりません。

それは具体的にはどういう生活ですか?4~7節にこうあります。「4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。」

それは具体的には、家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べるようにしなさいということです。そこに定住することを覚悟して、しっかり仕事をするように。その働きによって食べていけるようにしなさい、ということです。

それだけではありません。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えるように。減ってはならない。つまり、結婚して子どもを産み、家庭を築き、エルサレムに帰還してから後に備えるようにしなさいということです。

そればかりではありません。その町の平安を求め、その町のために主に祈らなければなりません。「その町」とはどこですか?そのバビロンのことです。バビロンの平安を求め、その町のために祈らなければなりません。なぜなら、その町の平安によって、あなたは平安を得ることになるからです。どういうことでしょうか?バビロンは自分たちを苦しめた相手ですよ。いわゆる自分たちの敵です。そのバビロンのために祈ることが、どうして自分たちが平安を得ることになるのでしょうか。それは、それこそが神の計画によるものだったからです。神の計画は彼らがバビロンの捕囚民としてバビロンに引いて行かれ、そこで懲らしめを受け神の民としてふさわしく整えられバビロンから出て約束の地に戻ること、それが神の計画だったのです。だから、その町の平安を祈ることが、自分たちが平安を得ることになるのです。

それは、4節と7節で次のように言われていることからもわかります。「わたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」。「わたし」とは誰ですか?これは神ご自身のことです。彼らがバビロンに引いて行かれたのは神ご自身が成されたことだったのです。人間的に見たら、ユダの民がバビロンに引いて行かれたのはバビロンの王ネブカデネツァルによることであったかのようですが、実はそうではなく、それは神ご自身が成されたこと、神が引いて行かせたことだったのです。
  皆さん、誰の目を通して物事を見て行くか、自分の置かれた状況を見て行くのかは、とても重要なことです。人間の目を通して見るなら失望することもあるでしょうが、でも、神の目を通して見るからそこに特別な神のご計画があることを知って励まされます。確かに今の状況は神の警告を無視した結果かもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、神は私たちを見捨てるお方ではなく、いつまでも共におられる方です。蒔いた種は刈り取らなければなりません。しかし、そうした作業の中にも神は共にいて下さり驚くべきことをしてくださるのです。そこには驚くべき神の計画があるのです。まさにバビロン捕囚という出来事は、驚くべき神の計画によるものだったのです。神の計画は私たちの目で良いことばかりではありません。わざわいだと思えることでも、神が深い目的をもって与えておられるのです。それが「わたしが引いて行かせた」という意味です。

エレミヤは、バビロンの捕囚になった民に対してそれを明かそうとしているのです。言うならば、これは彼らを滅ぼすための刑罰ではなく、むしろ、彼らを鍛え上げ、もっと良いものに造り変えるための神の懲らしめ、訓練だったのです。自分の子どもの成長を願わない親がいるでしょうか。これは父が子を思うからこその訓練であって、それがバビロン捕囚だったのです。

Ⅱ.将来と希望を与えるためのもの(10-11)

次に、10節と11節をご覧ください。「10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

いよいよ、この箇所の中心の節に来ました。10節には「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」とあります。つまり、バビロン捕囚の民に対して、神の時が来たら、神ご自身が彼らを顧みて、神が与えた約束のことばを実現してくださるということです。その約束とは、この場所に帰らせる、ということです。祖国に帰ることができるのです。神の家で再び主を礼拝することができる。それは「バビロンに七十年が満ちるころ」です。

この70年とは、いつからいつまでなのかははっきりわかりません。ある人は、ヨシヤ王が死んだB.C.609年からペルシャの王キュロスによってエルサレムに帰還してもいいという勅令が出されたB.C.539年までの70年間だと考えています。また、ある人は、第三次バビロン捕囚でエルサレムの神殿が崩壊したB.C.586年から、神殿が再建されたB.C.516年までの70年間だという人がいます。いずれにせよ、かなりの年月になります。でも、神は必ずこの約束を実現してくださいます。必ずエルサレムに戻ることができるし、神殿も再建されるのです。神の約束は、たとえ時間がかかっても必ず成就するからです。そのことをしっかりと受け止めなければなりません。焦ってはいけません。神の時、神のタイミングがあります。自分の時と神の時は違います。自分の時ほどあてにならないものはありません。なぜなら、私たちはあまりにも無知だからです。私たちの時というのはせいぜい有限な時間の中での時にすぎませんが、神の時は無限の世界における時です。過去とか、現在とか、未来とか、全く関係ありません。その永遠の中で語られていることですから、私たちの知恵をはるかに超えているのです。ですから、神の時は完全であり、ベストなのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とある通りです。どんなに時間がかかろうとも、どんなに自分の時とかけ離れていようとも、神のなさることは時にかなって美しいのです。そのことを信じなければなりません。

11節をご覧ください。ですから、神はこう言われるのです。ご一緒に読みましょう。「わたし自身、あなたがたのために建てている計画をよく知っている。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  これは、私たちが立てている計画ではありません。神が私たちのために立てている計画です。神は、その計画をよく知っておられます。私たちは自分のために立てている計画をよく知っていると思っていますが、実際のところは何も知っていません。だから、計画倒れということが起こってくるのです。「ご利用は計画的に」なんて言われるのです。でも、神は違います。神は私たちのために立てている計画をよく知っておられます。その計画とはどんな計画でしょうか。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  皆さん、神が私たちのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画です。この「平安」という語は、元々の言葉では「シャローム」です。それは、何の欠けもない満ち足りた状態のことを指します。そこには繁栄も含まれますし、健康も、祝福も、成功も含めた理想的な状態のことです。そういう計画を神はあなたのためにもっておられるのです。それは将来と希望を与えるためのものです。でも忘れてはならないのは、これは神の目における平安であって、私たちの目における平安ではないということです。神の目における平安とは何でしょうか。

それは、ピリピ4章6~7節にあることです。「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
  ここに「すべての理解を超えた神の平安」とあります。それは人のすべての理解を超えた、人のすべての考えにまさる平安です。それは想像を絶するもの、私たちの頭では到底想像できないような驚くべき計画です。それが神の計画なのです。ここではそれは何を指しているのかというと、バビロン捕囚のことです。神が彼らのために立てておられた計画とは、何と彼らがバビロンに引いて行かれ、そこで70年間奴隷として生きるということだったのです。なぜそれが平安を与える計画なんですか?そんなのわざわいじゃないですか。わざわいじゃないんです。だからここにわざわざ但し書きがあるんです。「それはわざわいではなく」と。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものなのです。なぜこれが平安を与える計画だと言えるんですか?それは、そのことによって神はあなたに真の平安を与えてくださるからです。それは私たちにはわざわいにしか見えなくても、神はそのわざわいにしか見えないような事を通して将来と希望を与えてくださるのです。

この「将来と希望」の「将来」ですが、これは「終わりに」とか、「最後に」、「~後に」という意味の語なんです。つまり、最後は希望だということです。神があなたのために立てている計画は、最後は希望なのです。絶望ではなく希望。神に従う者の最後は、途中経過はどうであれ、最後は希望なのです。途中経過は失望のように見えても、終わってみれば希望であったことがわかるのです。なぜなら、神はいつも私たちの益のために働いておられるからです。

それがローマ8章28~29節で言われていることです。ここには、「28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(新改訳改訂第3版)とあります。これも有名なみことばですが、ここにも「知っている」とあります。何を知っているんですか?神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、です。アーメン?これは、最後は益であるということです。これは私もあなたも知っていることです。バビロン捕囚も含めて、神はあなたの苦しみも、あなたの悲しみも、あなたの辛さも、全部ひっくるめて益としてくださるのです。そのことは知っています。

では、その益とは何でしょうか?それが29節で言われていることです。「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」
  それは、御子と同じ姿に変えてくださるということです。皆さん、これが益です。これが究極的な益なんです。究極的な益は那須塩原駅ではありません。究極的な益は、私たちが神の似姿に変えられるということです。このことは私たちも知っていることです。バビロン捕囚も全く同じです。神がご自身の計画をもって彼らを召されました。それはバビロンから逃れるということではなく、またバビロンと戦うということでもなく、バビロンの軍門に下るということ、バビロン捕囚に従うということです。それで彼らは苦しめられ、卑しめられ、傷つけられますが、その中で彼らは砕かれ、練られ、すべての不純物を取り除かれて、神の民として、神の国に入るためにふさわしい者となって、最後はバビロンを出て行くことになるのです。そのことを通して、神は彼らを御国の民としてふさわしい者として整えてくださるのです。ほら、益でしょ。これは彼らにとって益だったのです。

それは私たちも同じです。ジョン・バニヤンは「天路歴程」という本を書きましたが、私たちも天の御国に着くまでには実に様々なことがあります。でも最後には御子と同じ姿となってこの世というバビロンを出て行くことになるのです。そして、神が約束された地、天の御国へと引き上げられるのです。それが私たちのバビロン捕囚です。すべてのことはこのためです。それがどのように機能するのか私たちにはわかりません。このバビロン捕囚のような出来事が、このような悲劇、損失、状況が、本当に私をキリストの似姿に変えてくれるものになるのかどうかわかりませんが、わかっていることは、神は知っておられるということです。神はご自身の考えで、ご自分の方法で、私たちをご自分の御子と同じ姿に変えてくださる。だから、神があなたのために立てている計画というのは良いことばかりでなく、辛いなぁ、苦しいなあと思うようなことも含めてすべてです。それは私たちにはわかりません。でも、一つだけわかることは、神を愛する人々、すなわち、神のご計画のために召されたすべての人たちのために、神はすべてを働いて益としてくださるということです。信じますか?そのことを通して、最後は希望を与えてくださいます。御子と同じ姿に変えられるからです。それが、ここで語られていることです。

よく、人生は刺繍のようなものだ、と言われます。刺繍は、表と裏を見ると全然違います。裏を見ればほころびだらけです。何の絵柄が描かれているのか全然わかりません。検討もつきません。まるでカオスです。そこにはいろいろな色の糸があるだけで、ただごちゃごちゃしているだけのように見えます。しかし、裏面を表にしてみるとどうでしょうか。そこには理路整然とした美しい絵柄が浮かび上がっています。これが将来、私たちに約束されている表の面です。今は裏面しか見ていないので理解できませんが、でも苦難の裏側には神の美しい栄光に満ちた計画が既に織り込まれているのです。

ですから、裏面ばかりを見て文句ばかり言うのではなく、その表の方を絶えず意識しなければなりません。どんな絵柄が浮かび上がってくるのかを楽しみに、主がどんなことをなそうとしておられるのか、どんな結果をもたらしてくださるのかを楽しみにして、今置かれている状況をわざわいとしてではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだと受け止めなければならないのです。

私たちの教会では英語の礼拝も行っていますが、そこでご奉仕しておられるR・フレミング先生ご夫妻が、先月、フィリピンにいる息子さん夫婦を尋ねた時のことです。そこでフレミング先生ご夫妻は毎朝散歩をしていたら、ある日、デニスさんという62歳のフィリピン人のクリスチャンに出会いました。彼はマニラに家を建てるためにサウジアラビアで22歳の時から20年間働いて、お金を少しずつ貯めました。若い時彼はクリスチャンではなく、反対でした。クリスチャンではなくより多くのお金を得ることに人生を捧げていました。サウジアラビアでは他のクリスチャンから何度も何度も聖書をもらいましたが、そこでは聖書を所有することは違法だったので、怖くて読まずに、その聖書をいつも捨てていました。20年前、42歳のデニスさんが休暇でマニラに帰った時、一週間くらいの休暇でしたが、ある警察署長が、フィリピンでは違法な花火を没収していました。そしてその警察署長は新年にその違法な花火を打ち上げていましたが、デニスさんは道路脇で爆発していない花火を見つけました。彼はそれを家に持ち帰り、新聞紙に包んで火を付けました。しばらくして何も起こらなかったので、彼が手に取ると、花火が爆発して、彼の手を吹き飛ばしてしまいました。その写真を見せてくれたのですが、右手の手首から先がありませんでした。何と悲惨な出来事でしょう。
  しかし、デニスさんはこの恐ろしい事故を、神様からの素晴らしい祝福と思いました。サウジアラビアに戻って働くことはできませんでしたが、何人かの近所の人が病院にいるクリスチャンが彼を見舞いに来て聖書を読み、一緒に祈ってくれました。その時デニスさんはクリスチャンになりました。彼は病院でクリスチャンになりました。デニスさんは右手と大切な仕事を失いましたが、神の恵みの賜物を受け取ることかできた、と言いました。彼は喜んでその手を見せてくれて、喜んでイエス様による救いについて毎朝話してくれたそうです。誰がみてもわざわいにしか見えない出来事が、実は彼にとって平安と希望を与えるためのものだったのです。

今年は、1月1日に能登半島で大きな地震がありました。いったいこの先どうなるのだろうかと、だれもが不安に思ったことでしょう。今も復旧、復興作業が続いています。そして一日も早く復旧するようにと教会でも祈っていますが、それはあの3.11の時も同じでした。もう世の終わりが来たのではないかとさえ思いました。全世界が一つとなって祈り、東北の復旧、復興のために祈り、取り組みました。
  そのとき、かねてから親しくさせていただいている恵泉キリスト教会の牧師で、千田次郎という先生がいらっしゃるのですが、ある集会で先生が講壇からお話をしていたとき、先生が「もっとよくなる!」と言われるのを聞いて、凄いなぁと思いました。だれもが、神も仏もないと落ち込んでいたとき、何と悲惨なことが起こったのかと悲しんでいたとき、先生は「もっと良くなる!」と言われたのですから。先生はその言葉の後にこう続けて言われました。「だって、聖書にそう書いてあるでしょ。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださると」。なかなか言えない言葉です。被災された方を前にしてそんなことを言ったらどんなふうに思われるか、そのように考えたらとても言えなません。これは先ほどのローマ8章28節のことばを本当に信じていないと言えないことばだと思うのです。千田先生は、このみことばを信仰によって受け止め、しっかりと握り締め、このみことばに生きているからこそ言えたのだと思いました。それは何も地震だけのことではなく、先生の生き方のすべてにおいて言えることだからです。

今、目の前で起こっている出来事はすべて神が私たちの益のために成しておられること。たとえそれが苦しいこと、辛いこと、悲しいことであっても、神はそれさえも益に変えてくださる。そのことを通して、神は私たちを御子と同じ姿に変えてくださるという御業をなしておられるのです。

私たちの人生の途中ではわからないことばかりですが、でもはっきりわかることは、終わってみれば希望であるということです。それが私たちの人生なのです。終わってみないとわかりません。私たちが完全に御子と同じ姿に変えられるとしたら、それは本当にすばらしい希望ではないでしょうか。

だからクリスチャンはみんなワクワクしているのです。その途中、辛いところを通っても、最後にはキリストを信じる者に用意されている救いをいただくということを知っているのですから。その時には神の御子と同じ姿に完全に変えられるのです。それがこの世の人たちとの大きな違いです。この世の人たちは、目の前の状況を見て一喜一憂しています。なぜなら、終わりを知らないからです。今がよくても終わりに何があるか知りません。だから不安になってしまうのです。でもクリスチャンは違います。クリスチャンは、この世にあっては、今しばらくの間、様々な試練の中で苦しんだり、悲しんだりしなければならないこともありますが、最後は希望だということを知っているので喜ぶことができるのです。

Ⅲ.神を呼び求めよ(12-14)

では、バビロンにいる70年間はどのように生きればいいんですか?じっと我慢していればいいんですか?そうではありません。それは人生の訓練の時ですから、そのような時こそ神を捜し求めなければなりません。それが12~14節で言われていることです。「12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」

教会がないから祈れないということはありません。エルサレムから1,000キロも離れたバビロンで、たとえ神殿がなくても、たとえ悲劇の真只中にあっても、たとえ苦難の真最中においても、そこで神を呼び求めよ、というのです。そうすれば、あなたはわたしを見つけることができます。そして、やがて神の不思議を見るようになる、というのです。具体的には、あなたが引かれて行った先から元の場所へ帰らせるのです。夢も希望もないんじゃない。あなたは元の場所に戻るんだから。神殿までも新しくなるという未来があるんだから、がっかりしないで、遠く離れた場所で祈れ。神様との関係をしっかり築きなさい、というのです。

米国クリスチャン・ジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーが、「光の注がれる場所」という自伝を書いています。これは自らの半生を回想したものですが、「痛むとき、神はどこにいるのか」「祈りは本当に聞かれるのか」という問いかけを持つにいたった理由が明かされているのです。彼の半生は壮絶なものでした。記憶にない父親の死の秘密、過剰なまでの母親の期待、トレーラーハウスでの貧しい生活、白人至上主義に立つ教会とバイブルカレッジ……と。そうした状況をどのように乗り越え、心の癒やしをたどってきたのか。それは、この場所に光が注がれていると信じることによってです。

それはこの捕囚の民も同じでした。遠く離れたエルサレムから1,000キロも離れたこの場所にも光が注がれていると信じることができたからこそ、これが彼らに与えられている神の深いご計画だと信じることができたからこそ、彼らは耐えることができたのです。

それは私たちも同じです。あなたにも神の光が注がれています。神はあなたのために最善の計画を持っておられるのです。それはわざわいではありません。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それによってあなたは揺るぎない信仰を築くことができます。そういう経験がなかったら、あなたはこういう信仰にはならなかったでしょう。ですから、これが神の計画であると信じて、浮足立つのではなく、夢見る者には気を付けて、置かれたその所で地に足を付けて、落ち着いた生活を心がけなければなりません。そこで神を呼び求めなければならないのです。そうすれば、あなたは神を見出すようになるでしょう。そして、やがて70年がやって来ますよ。その時あなたは信じられない奇跡を見ますよ。あなたの思いをはるかに超えた神の不思議を見るようになるのです。神があなたがたに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものであると信じて、主に感謝しましょう。そして、主がなされる信じられない御業を待ち望みましょう。


Ⅱ列王記21章

 

マタイ6章25~34節「まず神の国と神の義を求めなさい」

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主の2024年、明けましておめでとうございます。皆さんは、どのような思いで新年を迎えられたでしょうか。こうしてこの新しい年も主への賛美と礼拝をもって始めることができることを感謝します。
  毎年1年の始まりの時に、今年神様は教会にどんなことを願っておられるのかと祈り求めますが、しばらく前から私の中に与えられていたみことばが、マタイ6章33節のみことばでした。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
  今年は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めなさい、というテーマで歩みたいと願っています。でも、神の国と神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。このみことばはクリスチャンであれば1度は聞いたことがある有名なみことばですが、その意味を知っているかどうかは別です。今日は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めるということについて3つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神の国を第一に求めるとは(33)

まず、神の国を第一に求めるとはどういうことかについて考えてみたいと思います。皆さん、神の国を求めるとはどういうことですか?「神の国」とは「天国」とか、「御国」とも言われますが、昨年の賛美フェスタのテーマもこれでしたね。「御国がこの地に」でした。神の御国がこの地に来ますようにというテーマでした。それは何を意味しているかというと、「神の支配」のことです。神の支配がこの地にありますように、ということです。すなわち、神の国とは「神が支配するところ」のことです。ですから、もし私たちが心から神を信じ、神に従いたいと願い、そのように生きるなら、そこが神の国となるわけです。神を信じ、神に従う人の心に神の国が宿るのです。それは目には見えませんが、目に見える形となって実際に現れます。

イエスは神の国はパン種のようだと言われました。パン粉にパン種を入れるとどうなりますか?それはパンパンに大きく膨らみます。それと同じように、神の国も目には見えないほど小さなものですが、それが私たちの心に入ると大きく膨らんで行くのです。
  また、イエスは神の国はからし種のようだとも言われました。皆さんは、からし種を見たことがありますか?私はイスラエル旅行に行った方が現地で購入したというからし種を見せてもらったことがありますが、本当に小さな種です。胡椒のように小さい種ですが、それが生長すると3~4メートルもの大きな木になるのです。

このように神の国は目に見えない小さなものですが、これが私たちの中に宿すと大きな力をもって広がっていきます。それはイエスがこの地上でなされた御業を見ればわかります。イエスは目の見えない人の目を開かれ、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにし、足の萎えた人を癒されました。ヨハネの福音書5章には、38年間も病気で伏せていた人を癒されたことが記されてありますが、それはどういうことかというと、神の国が地上に来ているということを表していました。イエスが来られたことによって神の国がやって来たのです。ですから、イエスはこう言われたのです。「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」(マタイ4:17)
  「天の御国が近づいた」。どのようにして近づいたのでしょうか?イエスが来られたことによってです。イエスは神の国をもたらすためにこの地上に来てくださったのです。それは目に見えないほど小さなものですが、神の力となって現れました。それは、死んでから入るところだけでなく、生きている今、この地上で体験することができるもの、神が支配しているところなのです。

では、この神の国を第一に求めるとはどういうことでしょうか?これは自分の力でたぐり寄せるということではありません。神の国は人間の力でたぐり寄せることができるようなものではないからです。その必要もありません。神の国はそれ自体、力をもって私たちのところにすでに押し寄せてきているからです。この神の国を謙虚に受け入れることです。そして、神がこの世のすべて治め、生きて働いておられると信じて、神に賭けるというか、へりくだって神を求め、神に祈り、神に信頼して生きることです。

この正月にディボーションでエズラ記を読みました。ペルシャの王キュロスの命令によってバビロンからエルサレムに帰ったユダの民は、さまざまな妨害に遭いながらもついに神殿建設を完成しました。そして神はアルタクセルクセス王の心を動かし、神の律法を行わせるためにエズラをリーダーとする一団をエルサレムに遣わします。その数男だけで1500人、女、子供も合わせると3,000人に達しました。バビロンからエルサレムまでは約1,450キロと、かなりの長旅です。しかも彼らは現在の価値で約10億円もの金や銀を持っていました。どこで敵に襲われるかわかりません。しかし、エズラは道中の敵から自分たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めませんでした。それは、神は、神を尋ね求めるすべての者を守ってくださると信じていたからです。それで彼はこのことのために断食して祈り、へりくだって、道中の無事を神に願い求めました。すると、神は彼らの願いを聞き入れてくださいました。神の恵みの御手が彼らとともにあったので、その道中、敵の手、待ち伏せしている者の手から救い出していただくことができたのです。このように、へりくだって神を求め、神に祈り、神に賭ける信仰、それこそ、神の国を第一に求めるということなのです。

よく「神さまとか、信仰とか言っても、それは余裕のある人がすることであって、現実はもっと厳しいですよ」と言うことを聞くことがあります。確かに現実は厳しいものです。だからこそその厳しい現実の中で、さらに確かな神の国の現実に目を留めるために、私たちはこうして教会の礼拝に来たり、互いに交わりを持って励まし合っているのではないでしょうか。どんな苦しみの中でも神が生きて働き、この世を支配しておられるということを信じるためです。自分自身との格闘の中で、人生を導いてくださる神に自分を明け渡していく。それが「神の国を求める」ということなのです。それを第一に求めなければなりません。

Ⅱ.神の義を第一に求めるとは(33)

では、神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。イエスは、まず神の国を求めなさいと言われただけでなく、神の義を求めなさいとも言われました。「神の義」とは何でしょうか。それは、神の前での正しさのことです。ローマ14章17節に、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」とあります。神の国は「聖霊による義と平和と喜び」です。ですから、正しくない人は、神の国に入ることが出来ません。では、人はどうしたら神の前に正しい者、義と認めていただくことができるのでしょうか。

ここで注目したいのは、マタイ5章20節のみことばです。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」
  イエスは、あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、決して天の御国に入れない、と言われました。どういうことでしょうか?律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書の律法を守ることによって神の前に義と認められると考えていました。それで彼らは一つの掟にいくつもの細則を付け加え、膨大な規則集を作りあげました。その数なんと六百以上もあったと伝えられています。そして、彼らはそれを守っていると自負していました。だから、自分たちは正しい者であって、神の国にふさわしい者だとうぬぼれていたのです。でも、彼らは最も大切な戒めを忘れていました。最も大切な戒めとは何ですか。そうです、申命記6章5節のことばですね。「シェマー」、「聞きなさい」ということばで有名なみことばですね。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」です。また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という戒めも、これと同じように大切です。すなわち、神と隣人を愛するということです。これが律法の中心であり、戒めの中で最も大切なものなのに、これを忘れていたのです。つまり、彼らは自分では聖書の戒めを守っていると思っていましたが、それは形式的なものにすぎなかったということです。それでイエスは「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国にはいることはできない」と言われたのです。それは律法学者やパリサイ人たちのようにうわべだけを取り繕ったもの、つじつま合わせをしただけのものではなく、神の目にどうなのか、神の目に正しい者、神に義と認められる者でなければならないということです。

でも、どうでしょうか。神に義と認められるということは簡単なことではありません。たとえば、その後のところでイエスは、「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:20-21)と言っておられますが、この観点から見たら、私たちは皆お手上げではないでしょうか。確かに私たちは人を殺すようなことなどしません。でも、兄弟に対してはよく「ばか者」とか「愚か者」と言っていないでしょうか。私などはしょっちゅうですよ。嫌なことや変なことがあると、つい心の中で「ばかだなぁ」と思ってしまいます。だから、私は最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれてしまいます。私だけではありません。皆さんだってそうです。兄弟に対して腹を立てない人がいますか?兄弟にひどいことを言われ放題言われたら、「いい加減にして」と腹を立てるじゃないですか。「バカ野郎」とか「マヌケ」と言うんじゃないですか。ですから、皆さんもアウトです。最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。だから聖書は「義人はいない。一人もいない。」ローマ3:10)と言っているのです。
  しかし、律法学者やパリサイ人たちは、そのことに気付いていませんでした。そして自分は正しい者であって、神の国にふさわしい者だと錯覚していたのです。そういう律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、私たちも決して天国に入ることはできません。では、どうしたらそのような義を持つことができるのでしょうか。

神が与えてくださる義を求めなければなりません。神の目から見れば正しい人など一人もいません。しかも、だれも自分でその不義をきよめることはできないのです。今、旧約聖書のエレミヤを学んでいますが、エレミヤ書には、それは豹がその斑点を変えることが出来ないのと同じだと言われているとおりです(エレミヤ13:23)。しかしそのような私たちのために神はイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。キリストが私たちの罪を負い、十字架で死なれたことによって、罪人の私たちが義と認めていただくためです。神はご自分のひとり子を罪人として死なせることによって、御子イエスを信じる者にイエスの持っておられた義を与えてくださるのです。私たちの罪がキリストのところに行き、キリストの義がわたしたちのところに来るためです。神はイエス・キリストを信じる者が罪を赦され、神の前に正しい者として立つことができるようにしてくださったのです。私たちが求めるべき「神の義」とは、この義、神が与えてくださる「イエス・キリストの義」なのです。

この「神の義」をまず求めなければなりません。神の国が信仰によって受け取るものであるように、神の義も信仰によって受け取るものです。イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と言われました。罪ある私たちは神の国から遠く離れていました。しかし、神の国が罪の赦しと神の義を伴って、罪ある私たちのところ来てくださいました。ですから私たちは自分の不義を認め、告白し、悔い改め、へりくだった心でこれを受け取らなければなりません。そして、その義に生きることを求めなければなりません。

イギリスに一人の尊敬されている軍曹がおりました。とても立派なのである人が「どうしてそのように人から好かれるようになったのですか」と尋ねると、「つい最近まではそうではなかったのです」と答えると、それがどうしてそうなったのかを話してくれました。彼の部隊に一人だけクリスチャンがいたそうです。そのクリスチャンは他の人からの嫌がらせを受けていましたが、じっと耐えていました。ところがある時、この軍曹の隣に寝ることになりました。彼はいつも寝る前に祈りの時間を持っていました。軍曹は軍隊の重い靴で彼の頭を叩いたそうです。でも彼は何もいいませんでした。そればかりか次の朝起きて見ると自分の靴が綺麗に磨かれておいてあったのです。それを見た時この軍曹は、自分は負けたと思いました。軍曹は即座にイエス様を信じ、その時から変わったのです。

イエスはこう言われました。「43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)

これが神の義を求めるということです。それは私たちにはできないことです。しかし、神の義であられるイエス・キリストによって与えられた義によって、私たちはこの義に生きることができるのです。

Ⅲ.まず神の国と神の義を第一に求める(33)  

第三のことは、まず神の国と神の義を求めなさい、ということです。イエスは、この神の国と神の義をまず、第一に求めなさい、と言われました。どういうことでしょうか?これを最優先にしなさいということです。この優先順位がとても重要です。私たちは、自分の中にある優先順位に従って生きています。私たちの人生には、大切なものがたくさんあります。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかといったこともそうですし、それに加えて経済的な問題や対人関係の悩み、健康上の問題、仕事ことそうです。そんな時そうした目の前の問題で頭がいっぱいになり、神様のことがどこかに吹っ飛んでしまうことがあります。優先すべき順序が逆になり、生活する上で必要な様々なものを第一に求めてしまうのです。そのために走り回り、あたふたし、不安に呑み込まれ、不安が不安を呼び、思い煩いでどうにもならなくなってしまうことがあります。でも聖書はこう言っています。「まず神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

それは、他のことは何もしなくても良いということではありません。学生なら勉強に専念しなければなりませんし、仕事を持っている人ならしっかり働かなければなりません。英語に “bring home the bacon” ということわざがあります。しっかり働いて家族を支えるという意味です。イエスが「まず、第一に」と言われたのは、第二、第三にも、果たすべき義務があることを示しています。ある修道院の記録映画を観ましたが、山奥でくらす修道士たちでさえ、祈りの生活の他に労働の時間があって、それで日々の糧を得ていました。また、スポーツや趣味を楽しむ時間も持っていました。神の国と神の義を求めるということは、神がお与えくださったこの世での義務や、私たちのこころやからだに必要なものを無視するということではないのです。それは、神の民として生き、神に仕えることを第一にする、神の義という、私たちにとって一番必要なものをまず第一にすることです。そして、神のことを第一にするとき、その後に続くさまざまな義務は、感謝と喜びをもって果たすことができるようになります。その他の必要もおのずと満たされていくのです。

その他の必要とは、たとえば何を食べるかとか、何を飲むか、何を着るかといったことです。神の国とその義とを第一に求めるなら、神はそれに加えて、これらのものをすべて与えてくださいます。なぜなら、天の父である神様は、これらのものが私たちに必要であることを知っておられるからです。空の鳥を見てください。種まきもせず、刈り入れもしません。倉に納めることもしない。でも、天の父はこれを養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があります。野の花を見てください。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、どうしてあなたがたのためには、もっと良くしてくださらないことがあるでしょうか。神は、ご自身の国とその義を第一にする者を、守ってくださるのです。

クリスチャンの実業家で五十嵐健治さんと言う方がおられました。彼はクリーニング業界最大手の「白洋舎」の創業者です。それまで三越に勤めていた彼がなぜ洗濯屋を家業としたのか。その転身した一番大きな理由は、「日曜礼拝や伝道に妨げにならないもの」でした。さらに、キリスト教倫理観として「嘘や駆け引きのいらぬもの」「人の利益となって害にならぬもの」でした。彼はその創業にあたり、次のように言っています。「汚れた罪を一身に引き受けて、十字架の苦しみと恥辱を受け給うキリストを思ったとき、自分のごとき人間が人様の垢を洗うことが何で恥ずかしいことがあろう。洗濯業は神から与えられた職業である。」と。そして、汚れたもの清潔にし、破れたるものを繕い、以て衛生に資し、家庭経済を助けるものと考えて、1906年に日本橋呉服町に開業したのです。
  彼は自分のお店を持つとき、教会の近くがいい、そうしたら、祈り会などに参加できるからと考え、教会の近く、川の土手沿いの物件を手に入れました。そこは町から遠く、「そんなところで店を開いても、お客さんは来ないよ」と回りの人から言われたそうです。ところが、しばらくたって、川の土手が整備されて、自転車や歩行者のための道路になりました。大勢の人がその道を利用して、通勤、通学をするようになりました。それで、彼の店に立ち寄るお客さんが増えました。彼の丁寧な仕事が評判になり、さらに多くの固定客を得るようになりました。この人の、もっと神に近づきたい、神のことを第一にしたいという思いが報われ、目に見える形でも祝福が与えられたのです。神の国と神の義を第一にする人には、この世においても大きな祝福が与えられるのです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」第一のことが第一になるなら、第二、第三のことは、かならず備えられていきます。それはほんとうのことです。イエスは私たちを、この祝福の人生へと招いていてくださっています。この一年、この神の国と神の義を第一に求めていきましょう。主のみことばに従い、神の国の義と平和と聖霊による喜びで満たされた一年となるように祈り求めていきたいと思います。

エレミヤ28章1~17節「神のことばにとどまるように」

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聖書箇所:エレミヤ書28章1~17節(エレミヤ書講解説教51回目)
タイトル:「神のことばにとどまるように」
今日は、今年最後の礼拝です。この一年も教会とそれぞれの生活においていろいろなことがありましたが、すべてが主の恵みと信じて、主に感謝し心から御名をあがめます。
今年最後の礼拝で主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書28章のみことばです。ここには、エレミヤとは全く異なる預言をしていたハナンヤという預言者が登場します。今日は、このにせ預言者ハナンヤとエレミヤとの対決を通して、私たちが拠り頼むものは何か、それは神のみことばであるということ、だからこのことばにとどまるようにというお話したいと思います。
Ⅰ.人を喜ばせようとするのではなく神を(1-4)
まず、1~4節をご覧ください。「1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、【主】の宮で、祭司たちと民全体の前で、私に語って言った。2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを砕く。3 二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪い取ってバビロンに運んだ【主】の宮のすべての器をこの場所に戻す。4 バビロンに行ったユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの場所に帰らせる──【主】のことば──。わたしがバビロンの王のくびきを砕くからだ。」」
「その同じ年」とは、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年のことです。ゼデキヤが王として即位したのはB.C.597年ですから、これはB.C.593年になります。ギブオン出身の預言者で、アズルの子ハナンヤが、主の宮で、祭司たちと民全体の前で、エレミヤに語って言いました。イスラエルの神、万軍の主は、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを砕き、2年のうちに、彼がこの場所、これは主の宮、エルサレム神殿のことですが、ここから奪い取ってバビロンに運んだすべての器をこの場所に戻すと。そればかりではありません。バビロンに連れて行かれたユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、この場所に帰らせると。彼の預言は、ユダの民にとって喜ばしい内容でした。しかも「2年のうちに」ということばは、明るい兆しを感じる魅力的なものです。でもこれはエレミヤが預言したこととは異なることでした。エレミヤは何と言っていましたか。25章11~14節をご覧ください。エレミヤはこのように預言していました。
「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」
エレミヤが預言していたのは「2年のうちに」ではありません。70年の終わりに、です。ユダの民は廃墟となって荒れ果て、バビロンの王に70年間仕えようになります。その70年の終わりに、主はバビロンの王とその民を彼らの咎のゆえに罰し、永遠に荒れ果てた地とし、代わりにペルシャの王クロスを用いて、ユダの民が元の場所に帰ることができるようにするというものでした。それが27章22節で言われている「わたしがそれを顧みる日」のことです。それまでバビロンの王によって運び去られた主の宮の器はそこにありますが、70年後に主がユダを顧みられる日に、主はそれらを携え上り、この場所エルサレムに戻すようにするのです。それが、主がエレミヤを通して言われたことでした。だから2年のうちにではないのです。70年後のことです。最初のバビロン捕囚があったのはB.C.609年ですから、それから70年後というのは、B.C.539年になります。
果たしてどちらの預言が正しかったでしょうか?歴史を見ればわかります。ハナンヤが言った「2年のうちに」というのは偽りでした。むしろ、その数年後のB.C.586年には3回目のバビロン捕囚が行われることになります。その時エルサレムは陥落し、神殿は完全に崩壊することになります。主の宮にまだ残っていた器も、すべてバビロンに運び去られることになるのです。つまり、ハナンヤの預言は間違っていたということです。彼はにせ預言者でした。それなのに彼はエレミヤを捕らえて祭司たちと民全体の前で、エレミヤが間違っていると豪語しました。2年のうちにバビロンの王のくびきは砕かれ、バビロンがエルサレムから奪い取ったものはすべて戻されるし、すべての捕囚の民も帰るようになると言ったのです。
この両者の名前には、どちらにも「ヤ」が付いていますが、これは「ヤダー」の「ヤ」ではなく、「ヤハウェ」の「ヤ」です。つまり、主の御名で語る者です。それなのに、預言の内容は全く違うものでした。しかも、ハナンヤは「ギブオンの出身の預言者」とありますが、ギブオンはエレミヤの出身地のアナトテと同じベニヤミン族の領地にある祭司の町でした。ですから、彼はエレミヤと同じように祭司の家系だったのではないかと思われます。エレミヤと同じようなバックグランドを持っていた彼が、エレミヤとは全く違う預言をしていたのです。
さらに2節を見ると、彼は「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる」と言っていますが、本物の預言者が使うような言い回しをしています。それがあたかも本当に主から出たことばであるかのように語っていたのです。
でも、一つだけ違いがありました。それは何かというと、エレミヤは主が語れと言われることを語ったのに対して、ハナンヤは民が聞きたいことを語ったという点です。人々が望むようなことばかり、都合の良いことばかり、耳障りの良いことばかり語っていたのです。ホッ、ホッ、ホタル来い、ではありませんが、彼の言葉は甘い言葉の集大成のようなものだったのです。
しかし、真の預言者は人を喜ばせようとして語るのではなく、神に喜んでいただこうと語らなければなりません。Ⅰテサロニケ2章3~4節にこうあります。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」
人を喜ばせようとしてではなく、神を喜んでいただこうとして語る。これが真の預言者です。つまり、焦点がだれに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。人を気にすると、文字通り人気取りになってしまいます。でも私たちが気にしなければならないのは人ではなく神です。神に喜ばれているかどうか、神がどう思っていらっしゃるのか、ということです。私たちはついつい人に喜ばれたいことを語ってあげたいと思いますが、それでは本末転倒になってしまいます。
先日、以前大田原教会のメンバーで、仕事でオーストラリアのパースに移られた西田兄が、15年ぶりに来会されました。ずっと日本で働きたいと願っていましたがその願いが叶い、家族をパースに残し、今年東京で働くようになりました。オーストラリアというとワーシップで有名なメガ・チャーチが各地にありますが、その教会に行っているのではないかと思い尋ねると、以前はそこに行っていましたが、今は違うシンガポール系の教会(Faith Community Church)に行っているということでした。なぜなら、毎週の礼拝のメッセージがいつも同じで、どちらかといえば求道者やクリスチャンになったばかりの人に受け入れやすくい内容ばかりで、聖書からの教えがなかったからです。じゃ、スモール・グループに行けば聖書を学ぶことができるかなと思って行ってみると、そこでもお茶を飲んで楽しく雑談するだけで聖書の学びがありませんでした。それでもっと聖書をしっかり教えている教会に行こうと、現在の教会に導かれたということでした。
確かに求道者に配慮することは大切ですが、あまりにも配慮しすぎるあまり、本来配慮しなければならない神がどこかに行ってしまうことがあります。よく教会は敷居が高いと言われますが、敷居が高いとはどういうことなのでしょうか。それは求道者を意識しての視点です。求道者ができるだけ心地よく礼拝に参加できるように、彼らが興味を持ってくれるような話題とか聞きたいと思っているような話を、できるだけおもしろく、おかしく、たまにジョーク混ぜながらお話しできたらいい。ひどいのになると聖書も使わない方がいいんじゃないかと言う人もいます。聖書は難しいから。最初から礼拝に来ると難しいと感じて躓いてしまうから、最初はクッキングクラスとかコンサートなどに誘った方がいいんじゃないですか。そうすれば敷居が低くなって求道者も気やすくなるから。
皆さん、どう思いますか。もちろん宣教の方策として、礼拝以外のこうした集会を持つことはあると思いますが、私たちが伝道する目標点を見失わないように注意しなければなりません。焦点がどこに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。私たちは人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを求めなければならないということです。では神が喜んでおられることは何か。勿論、神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それだけではありません。それは一つの通過点にすぎないからです。神が望んでおられることはすべての人が救われて真理を知るようになるだけでなく、救われた人がその救いにとどまっていること、そして今度は神に向かって生きるようになることです。神を喜び、永遠に神をほめたたえて生きる神の民となることなのです。それなのにいくらクッキングクラスで人を救いに導き、教会形成に向かおうとしても、それは容易なことではありません。目標点が違うからです。自分の喜びや楽しみと神の栄光とでは、全然違います。
ですから、私たちはその目標点見失ってはいけないわけです。そのためにはどうしても神のみことばが必要となります。なぜなら、「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができる」(使徒20:32)からです。ですから、大切なのは敷居を低くすることでなく、誰に喜んでもらうのかということです。人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを考え、求めなければなりません。
Ⅱ.平安を預言する預言者について(5-9)
それに対してエレミヤは何と言いましたか?5~9節をご覧ください。「5 そこで預言者エレミヤは、【主】の宮に立っている祭司たちや民全体の前で、預言者ハナンヤに言った。6 預言者エレミヤは言った。「アーメン。そのとおりに【主】がしてくださるように。あなたが預言したことばを【主】が成就させ、【主】の宮の器と、すべての捕囚の民をバビロンからこの場所に戻してくださるように。7 しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語ろうとするこのことばを聞きなさい。8 昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの地域と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病を預言した。9 平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に【主】が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」」
エレミヤは、ハナンヤのことばに対して「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。」と言いました。これはエレミヤがハナンヤの語ったことばに同意しているのではありません。自分もハナンヤの預言どおりになることを望まないわけではない。主が祖国に祝福をもたらすことをどんな願っていることか。バビロンによって奪い去られた主の宮の器とすべての捕囚の民をバビロンからこの場所にすぐに戻してくれることをどんなに願っていることか、という意味です。
しかし、主が語っておられることはそういうことではありません。主が語っておられることは、この民に戦いとわざわいと疫病がもたらされるということです。つまり、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということです。バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える人々を、主はその土地にとどまらせるということでした。それは昔から、エレミヤと、彼の先に出た預言者たちの預言と一致していて、これこそ主から出た主のことばです。
しかし、ハナンヤはそれとは異なり、平安を預言しました。平安を預言すること自体は問題ではありません。問題は、それが本当にもたらされるかということです。平安を預言する預言者については、その預言のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だということが証明されるのであって、その預言の成就を待たなければなりません。どんなに人々が喜ぶ内容でも、それが成就しなければ空しいことになります。人はハナンヤのように、周囲の人たちの願望を、まるで神からのことばであるかのようにすり替えてしまうことがあります。しかし、エレミヤは人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別することができました。ここが重要なポイントです。人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主からのことばを語らなければなりません。
エレミヤは平安が来ないと言っていたのではありません。27章7節で彼は「彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。」と預言していました。「彼」とはバビロンの王ネブカドネツァルのことです。すべての国が彼に仕えるのは、「彼の地に時が来るまで」です。それまでは彼とその子と、その子の子に仕えますが、しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。「その子の子」とは、ネブカデネツァルの孫のベルシャツァル王のことです。その時代になるときまで、ユダはバビロンに仕えますが、その時が来れば、そこから解放されるようになります。平安が来ると預言したのです。エレミヤは、平安は真の悔い改めと、神との契約に対して従順でなければ来ないことを知っていたのです。ハナンヤのような平安の預言は、むしろ真の悔い改めを妨害するもの以外の何ものでもありません。
今の時代でも、平安を安売りする預言者がたくさんいます。エレミヤのこうした態度から、私たちも学ぶ必要があります。私たちも人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主が望んでおられることが何なのかを知るために、この世と調子を合わせるのではなく、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるように、心を新たにしていただかなければなりません。
Ⅲ.偽りに拠り頼まされないように(10-17)
第三のことは、だから神のことばにとどまるようにということです。10~17節をご覧ください。10~11節をお読みします。「10 しかし預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。11 そしてハナンヤは、民全体の前でこう言った。「【主】はこう言われる。このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。」
ハナンヤはエレミヤが語ったことばを聞いて、よほど激怒したのでしょう。エレミヤの首についていた木のくびきを取って砕いてこう言いました。「主はこう言われる。このとおり、わたしは2年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」(11)
これは1つのデモンストレーションです。覚えていますか?27章2節で、主はエレミヤに「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。」と言われたことを。それは、ユダがバビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということでした。ですから、エレミヤの首には木のかせが付いていたのですが、ハナンヤはそのかせを砕き、「このとおりになる」つまり、バビロンのくびきから解放されると言ったのです。
それに対して、エレミヤは何と言いましたか?彼は何も言いませんでした。何も言わないで彼はそのままそこを立ち去ったのです。これは賢いことです。別に対抗することはないからです。時期に明らかになるでしょう。どちらが正しかが。
でもエレミヤが語らなくても、主が語ってくださいました。12~14節をご覧ください。「12 預言者ハナンヤが預言者エレミヤの首からかせを取って砕いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「行って、ハナンヤに次のように言え。『【主】はこう言われる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。14 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らは彼に仕える。野の生き物まで、わたしは彼に与えた。』」
主が言われたことは、ハナンヤは木のかせを砕いたが、その代わり鉄のかせを作ることになるということでした。ユダは捕囚から解放されるどころか、より深刻な事態を迎えるようになるということです。ハナンヤの預言は、神の民に自由ではなく、鉄のくびきをもたらすものとなるのです。「鉄のくびき」とは、「木のくびき」に比べ、一層厳しい状況になることを象徴していました。
そこでエレミヤは、ハナンヤにこう言いました。15~16節です。「ハナンヤ、聞きなさい。【主】はあなたを遣わされていない。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。16 それゆえ、【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたを地の面から追い出す。今年、あなたは死ぬ。【主】への反逆をそそのかしたからだ。」
ハナンヤがしたことは、民を偽りに拠り頼ませるということでした。主ではなく、偽りに拠り頼ませたのです。恐ろしいですね。民を何に拠り頼ませるかは、預言者に託された大きな責任です。だから、主は彼をこの地の面から追い出されるのです。彼はその年のうちに死ぬことになります。ハナンヤは2年のうちに、ユダの民は解放されると預言しましたが、皮肉にも彼はこれを預言した2か月後に死ぬことになるのです。恐ろしいですね。というか、預言者の働きがどれほど重大であるかがわかります。もしエレミヤが語ったこのことばが成就しなかったら、エレミヤがにせ預言者となって殺されなければなりません。本当に預言者の働きは厳粛な働きだなぁと思います。だからこそ、牧師、伝道者、宣教師のためにとりなしの祈りをささげてほしいのです。民を偽りに拠り頼ませるのではなく、主に拠り頼ませるために、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただくために、神のことばを語ることができるように。
17節をご覧ください。「17 預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死んだ。」預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死にました。1節には、彼がこれを語ったのは「第四年の第五の月」とありますから、彼はこれを語ったわずか2か月後に死んだことになります。2年ではなく2か月後に死んでしまったのです。エレミヤはハナンヤに、「今年、あなたは死ぬ」と預言しましたが、エレミヤが預言したとおりになりました。これは、エレミヤが真の預言者であることが証明されたということです。そして、にせ預言者の最期は、このように空しいものです。
このエレミヤの時代と私たちの時代は、そうかけ離れていません。主イエスも言われたように、今は終わりの時代ですから、にせ預言者がそこかしこに横行しています。もしかすると、私たちはそれを知らずに信奉しているかもしれません。ネットでたまたま見た有名な牧師の話を間に受けたり、ベストセラーの本を読んで虜になったりして。魅力的な集会に飛びついて、喜んで参加して、ハナンヤのようなにせ預言者に騙されていることん゛あるかもしれません。いつの間にか、偽りに拠り頼むようにさせられているかもしれないのです。その背後には、偽りの父と言われているサタンの存在があることも忘れてはなりません。サタンは光の御使い、天使のように変装してやって来ます。義のしもべの姿でやって来るのです。
ですから、しっかりと霊を見分けて、この時代のしるしを見分けて、ますますもって主のことばに目を留めなければなりません。これは、昔から変わらないものです。ここから離れたら神から離れてしまうことになります。もし、にせ預言者に惑わされていたり、騙されたりして、偽りに拠り頼んでいたという人がいたら、もう一度主の言葉に立ち返って、これからはエレミヤのように終わりの時代になっても神のことばをしっかりと受け取って、それを誰に対しても恐れずに語っていく者になってほしいと思います。たとえそれで自分にとって不利益に働いたとしても、エレミヤが語り続けたように、神のことばにとどまり、神のことばをまっすぐに語り続ける者でありたいと思うのです。
今日は、今年最後の礼拝となりましたが、この最後の礼拝において主が私たちにチャレンジしておられることは、昔から変わらない、いつまでも変わらない神のことばにしっかりととどまり続けるように、この神のことばに生きるようにということです。それが古いようで新しいいつまでも新鮮に、私たちが主のうちにとどまっている秘訣であるということです。新しい年も、この神のことばにとどまって神に喜ばれる道を歩ませていただきましょう。