エレミヤ書12章1~6節「どうして、どうして、どうして」

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きょうは、エレミヤ書12章前半の箇所からお話します。説教題は、「どうして、どうして、どうして」です。すごい題ですね。でも、皆さん、いつもこのように叫んでいるんじゃないですか。「どうして、どうして、どうして」と。
 エレミヤのメッセージは、11章から第三のメッセージに入りました。その最後のところ、つまり、11:18には、主がエレミヤの暗殺計画について知らせてくださいました。何とエレミヤの出身地のアナトテの人たちが、彼を殺そうと企んでいたのです。彼は同胞の救いのために涙をもって神からのことばを語ってきたのに、故郷の人たちはそれを快く思わなかったばかりか、彼を殺そうと企んでいたのです。それを知ったエレミヤはどうしたでしょうか。

彼はそのさばきを主にゆだねました。11:20にあるように、主は正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試される方だからです。しかし、彼の心は晴れませんでした。いったいどうしてこのようなことになるのか、自分の中で悶々とする中で、主に祈るのです。それが今日の箇所です。

ですから、これはエレミヤの祈りですが、祈りというよりも嘆きです。1節には、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。」とあります。主よ、どうしてですか。納得できません。おかしいじゃないですか、と叫んでいるのです。エレミヤの心情を知れば、そのように叫びたくなるのも理解できます。神様からのことばを真面目に伝えているのにそれを受け入れるどころか、かえってそれを語っている自分を殺そうとしているのですから。エレミヤのような偉大な預言者でも神様にぼやくことがあります。弱さのあまりついつい愚痴ってしまうことがあるのです。

それはエレミヤに限ったことではありません。私たちも同じです。私たちも自分が納得できないことがあると、このように叫ぶのではないでしょうか。「主よ、どうしてですか」。そのような時、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どのようにしてそれを解決することができるのでしょうか。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの訴え(1-2)

まず、エレミヤの訴えを見ましょう。1~2節です。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。2 あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

ここでエレミヤは主に訴えています。彼ははまず、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。」と言っています。彼は神が正しい方であることを認めています。だれが神の正しさを疑うことができるでしょうか。神様は全く聖なる方であり、義なる方です。ですから、どんなに神様と論じ合ったとしても、神様の方が正しいのは明らかです。それでも、彼はさばきについて神に聞きたかったのです。なぜ悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかでいるのかということを。どこかで聞いたことがあるフレーズですね。「なぜ、悪者が栄えるのか」。

これは、古今東西、すべての人に共通している問いです。旧約の聖徒たちもこの問題と格闘しました。ヨブ記全体が、これらの疑問に答えるために書かれています。また、ダビデは詩篇37篇で、アサフは詩篇73篇で、このテーマと格闘しています。多くの聖徒たちがこの問題にぶち当たったのです。それは現代の私たちも例外ではありません。理不尽だと思うようなことがあると、「主よ、どうしてですか。なぜ、悪者が栄えるのですか」と叫びたくなります。これはすべての人に共通している疑問なのです。神が正しい方であるならば、どうして悪者が栄え、裏切り者が安らかでいるのか。どうして正しくさばいてくださらないのか。おかしいじゃないですか。納得いきません。そう思うのです。ましてそれが自分の身に振りかかる問題であれば黙ってなどいられません。どうして私が仕事を失わなければならないのですか。どうして病気にならなければならないのでしょう。どうしてこんなひどい目に合わなければならないのですか。どうして陰で噂され、除け者にされなければならないのですか。どうして自分ばかりこんな惨めな生活をしなければならないのですか。どうして、どうして、どうして・・・と。

ここでエレミヤが言っていることは、確かに神は正しい方であるというのはわかっています。それは間違いありません。でも現実はどうかというと、その正しさがなされていないのではないかということです。悪者が栄えています。それはおかしいんじゃないですか。神様が義なる方であられるならば、どうしてその義を実現なさらないのか。むしろ悪の方が栄えています。どうしてそういうことが許されるのでしょうか。これは私たちもぶち当たる疑問です。

2節をご覧ください。「あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

「彼ら」とは、アナトテの人たちのことです。「あなたは彼らを植え」とは、神が彼らを植えられたということです。神が彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って、実を結ぶことができました。つまり、すべての出来事の背後には神がおられるということです。今この世に存在している悪でさえも神の御手の中にあり、神が支配しておられるということです。どんなにおぞましいことでも神が見ておられないこと、神が知らないことはありません。このように、エレミヤはこうした状況の背後に神の主権があることを認めているのです。

でも、その彼らは神に対してどうだったでしょうか。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」どういうことでしょうか。彼らは口先では神を敬っているようでも、その心は神から遠く離れていたということです。口先では神に祈り、賛美し、礼拝しているようでも、その心は神から遠く離れていました。彼らの信仰は見せかけだったのです。そんな彼らが栄えていいんですか。それはおかしいじゃないですか。どうしてあなたはそれを許されるのですか。これが、エレミヤが抱いていた疑問だったのです。

Ⅱ.エレミヤを試された主(3-4) 

それに対して主はどのようにお答えになられたでしょうか。3~4節をご覧ください。「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これはエレミヤの祈りです。まだ神は何も答えていません。しかし、エレミヤは自分の祈りの中で一つのヒントを得ました。それは、主がエレミヤの心を試しておられるのではないかということです。ここには、「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。」とあります。神様がこのようなことを許される一つの理由は、エレミヤ自身の心を試すためであったということです。事実、エレミヤの質問に対して神様は一言も答えていません。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかというエレミヤの疑問に対して、「それはね、これ、これ、こういう理由だからだよ」という答えは一切ありません。それはエレミヤだけでなく他の聖徒たちの問いに対しても同じです。たとえば、ヨブ記を見ても、ヨブの訴えに対して神様は何も答えていません。答えたところで、私たちのようなちっぽけな者には理解できないからです。

でも、神様がもっと関心をもっておられることがあります。何でしょうか。それは私たち自身です。あなた自身です。神様の関心は私たちの質問に対して答えることではなく、私たち自身にあるのです。神様は私たち自身に、私たちの心に、私たちの信仰に関心を持っておられるのです。このことを通して私たちはどうなって行くのか、この出来事、あの出来事をあなたがどのように受け止め、どのように応答し、どのように成長していくのかということに関心を持っておられるのです。神は私たちが疑問に思うことに全く関心がないとはいいませんが、それよりもむしろ、私たち自身に関心を持っておられるのです。これは大事なポイントです。神様の焦点はあなたがどのような状況にあるかとか、どのような問題に置かれているかということではなく、あなた自身にあるということです。あなたがそれをどのように受け止め、どのように変えられようとしているかということにあるのです。未熟な私たちにはそれがわからないので、自分が嫌なことや苦しいこと、理解できないことがあると、すぐに「主よ、これはどういうことですか」と説明を求めるのですが、しかし、それはこのことに気付いていないからです。

私には3人の娘がいますが、まだ2~3歳の頃、よく「お父さん、どうして?」と聞いてきました。

「遊んだら片付けるように」 「どうして?」

「食べる前には手を洗うこと」 「どうして」

「お友達には親切にすること」 「どうして?」

何かつけ「どうして?」と聞いてくるのです。最初のうちは「これはね、これこれこういうことだからだよ」と丁寧に答えていましたが、今度はその説明に対して「どうして」と聞いてくるのです。「なぜ」とか「どうして」という問いに答えることは、ある面で子供に何かを教えていくチャンスでもあり、その子の成長につながることですが、どんなに答えても完全に納得できるかというとそうではありません。どんなに答えても親が考えているすべてのことを理解することはできないのです。

最近、面白い話を聞きました。有限な人間と無限の神の例話です。人間は有限であり、無限の神様を理解できない事も多くあります。例えば象の爪しか見えない蟻が、象全体を理解するのは困難です。その象が住んでいる、ジャングル全体を理解しようとしても不可能です。

子どもが親の考えのすべてを知ることができないのも同じです。有限な人間が無限の神を理解することはできないのです。

ですから神は最低限必要なことは答えても、何でもかんでも答えることはしないのです。大切なのは私たち人間が納得できるかどうかということではなく、誰がそのように言っておられるのかということです。それが神様であるなら、私たちが納得できてもでなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様が主権者だからです。主権者であられる神に従うかどうかが重要であって、神様はそれを試しておられるのです。

3年前に召されましたが、アメリカにウォーレン・W・ワーズビー(Warren Wendel Wiersbe)という牧師がおられました。「喜びにあふれて」とか、「試練を勝利に」という本を書いて日本語にも翻訳されています。ワーズビー牧師は、アメリカの教会成長論で幅をきかせていた統計による数量的増加というものが一般的風潮の中にあって、教会の霊的働きは統計だけでは量れないということを指摘し、量は質を保証するものではない、とまで言い切った人です。簡単に言うと、教会が大きいから質がいいというわけではない、ということです。それは、ワーズビー牧師がそれだけ聖書の真理に忠実であり、その真理に正しく生かされてきた証拠ではないかと思いますが、そのワーズビー牧師が次のように言いました。「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」

含蓄のある言葉ではないでしょうか。神のしもべ(クリスチャン)は説明によって生きるのではありません。約束によって生きるのです。「主よ、どうしてですか」といろいろ神様に尋ね、答えをいただいてから「あっ、そういうことだったら私は従います。」とか、「こういう理由だったら従いません。」というのは違うというのです。それは神のしもべの態度ではありません。神のしもべは、主人である神から言われたことに対して有無を言わさず、文句もつけず、疑問も抱かず、そのとおりにします。それがどういう意味であろうと、自分が納得できてもできなくても従うのです。それが神のしもべであるということです。神のしもべは説明によって生きるのではなく、約束によって生きるとはそういうことです。

いろいろな疑問があります。納得いかないこともあるでしょう。説明を求めてなかなか前に進めなくなってしまうこともあります。状況が呑み込めないこともある。どうしてこんなことになってしまったのか、なぜうまくいなかいのか、なぜこの人たちはこんなに私に敵対してくるのか、なぜこんなに悪が栄え、裏切りを働く者たちがみな安らかなのか、それがわからなくて、ついつい立ち止まってしまうこともあります。でも、前に進むことを止めてはなりません。

神のしもべは、成熟すればするほど次のように受け止めることができるようになります。すなわち、私のような者にはすべてを理解することはできないが、でも私は全知全能の神様に信頼している。そして神様の約束を信じて、そこに希望を置いている。だから納得できてもできなくても、好むと好まざると、神様が言われることは間違いないので、信じて従います。これが、神のしもべである私たちクリスチャンのあるべき態度なのです。

エレミヤは、自分の心が試されていることを知っていました。神に逆らっている人たち、自分を迫害しようとしている人たちが栄えているのを見て、どうして悪者が栄え、裏切る者が安らかなのか納得できませんでした。しかし彼は、これは主が与えておられる試験であることを知り、何とかそれに合格したいと、彼らに対するさばきを主にゆだねました。それが3節後半~4節にあることです。「どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これは、彼らの不正を神が正してくださるようにといことです。それは4節にあるように、彼らの罪によって、約束の地が荒れ果てているからです。彼らの罪のために、そこに住むすべての畑が枯れています。そこに住む者たちの悪のために、家畜も取り去られています。このままでは土地は呪われて荒れ果ててしまうことになります。だから主よ、すみやかにさばきを下してください、主が復讐してください、と祈っているのです。自分の置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とぼやいていたエレミヤでしたが、問題はそうでなく自分自身にあるということに気付かされて、そのすべてをゆだねて祈ることができたのです。

Ⅲ.神の答え(5-6)

第三に、5~6節をご覧ください。「5 「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。6 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」

これは、エレミヤの疑問に対する神の答えです。しかしよく見ると、全然答えになっていません。エレミヤは「主よ、どうしてですか」と尋ねているのに、主は、「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」と答えているからです。どういうことでしょうか。主はエレミヤの疑問に対して、別の形で答えているのです。

この「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに」とは、エレミヤが今直面している困難のことを指しています。エレミヤは今、故郷アナトテという町にいました。彼らに憎まれ、(うと)まれ、まさに殺されそうになっていました。彼はただ神のことばを忠実に語っただけなのに、嫌われて、命までも狙われていたのです。しかも6節には、「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ」とあるように、自分の家族や親族からも裏切られていたのです。自分の愛する者たちのためにいのちを賭けて仕えているのに、その愛する者からも裏切られ、殺されそうになっていましました。それは本当に辛いことでした。それはまさに徒歩の者と競争して疲れていた者の姿でした。

しかし神は、そんなエレミヤにこう言われました。「どうして馬と走り競うことができるだろうか」。これはどういうことかというと、徒歩の人と競争して疲れているのに、どうやって馬と走って競争することができるのかということです。できません。徒歩の人と競争して疲れているのに、馬と競争できるはずがありません。この馬と競争するというのは、これから先に起こる困難のことを指しています。来るべきさらなる試練のことです。具体的にはバビロン捕囚という出来事のことです。エレミヤは今、試練の真只中にいました。故郷のアナトテの人たちから裏切られ、殺されそうになっていました。なぜこんなことが起こるのかどうしても納得いかないと、神に食ってかかっていたわけです。そんなエレミヤに対して主は、あなたは今、徒歩の者と競争して疲れているのに、どうやって馬と競争することができるのか、と言われたのです。つまり、確かに今辛いかもしれけれども、これから先もっと辛いこと起こるわけで、であったらどうやってそれに耐えられるのかというのです。神に向かって「どうしてですか」と愚痴る暇があったら、将来の苦難に備えて信仰を増し加えるべきではないかというのです。

5節のその後のことばも同じです。「平穏な地で安心して過ごしているのに」とは、今の状態のことです。確かにアナトテの人たちはエレミヤを裏切るようなひどい人たちかもしれないが、それはまだ序の口です。平安の地で安心に過ごしているにすぎません。しかし、これからヨルダンの密林で過ごすようになります。ヨルダンの密林とは、まさに人が住めないような危険なところを意味しています。アナトテよりよっぽどひどいところです。バビロンに連れて行かれることになります。こんな平穏な地で安心して過ごしているのに、どうやってヨルダンの密林で過ごすことができるか。できません。だったらそれに備えて、信仰を増してくださいと祈るべきではないかというのです。

全く答えになっていません。何の慰めにもなりません。それはエレミヤが期待していた答えではありませんでした。彼が期待していたのは「これこれ、こういうわけだから、今はこうだけど、やがてこうなるよ」といったちゃんとした答えというか、納得できるような答えでした。あるいは、「そうだよね。本当に辛いと思うよ。頑張ってね。」というような慰めのことばだったと思います。それなのに神から示された答えは全く意外なものでした。それは、エレミヤを叱咤激励するような厳しいものだったのです。「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

皆さん、どう思いますか。私はハッとさせられました。というのは、まさに今の自分はエレミヤのようだと思ったからです。以前のような体力がなくなりました。5年前にできたことができません。人の名前も思い出せなくなりました。自分に自信を無くしたというか、この先どうやってやっていけばいいんですかと、つぶやくようになりました。そんな時に与えられたのがこの御言葉でした。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

こんなことで音を上げていてどうするんですか。これから先もっと大変なことが起こるんだよ。今はまだ平安な地で過ごしているようなものじゃないですか。これからヨルダンの密林で過ごすようになります。だから今を感謝し、ますます主に信頼して、将来に備えていかなければなりません。まさに目から鱗でした。これからもっと大変な時代がやって来るのであれば、今は恵みの時であって、多少の衰えで悲観している場合ではないと思ったのです。そう思ったら俄然力が満ち溢れるようになりました。これが主の答えだったのです。

本当に主はすばらしい答えをもっておられます。それは、私たちの想像をはるかに超えた答えです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。納得できるまで従わないのではなく、納得できてもできなくても、すべてを支配し治めておられる主の主権を認め、そのことばに従わなければならないのです。まさにウォーレン・W・ワーズビーが言ったように、「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」。説明によってではなく、神のことば、神の約束によって生きなければなりません。

その究極の約束こそ、主が再臨されるということです。その時、主イエスを信じる者は墓からよみがえり、朽ちることのない栄光のからだをもって、主のみもとに引き上げられることになります。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これが神の僕である私たちクリスチャンにとっての究極の希望です。世の終わりが近づくと、戦争や戦争のうわさを聞くことになります。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると、イエス様は言われましたが、今まさにそのような時代を迎えてこいます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。イエス様が再臨されるその時、栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになります。これがクリスチャンの究極の希望なのです。ですから、Ⅰテサロニケ4:18にはこのように勧められているのです。

「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)

それゆえ私たちは、この困難な時代を耐え抜いて、生き抜いて、希望をもって生きることができるのです

ですから、もう疲れたとか、もうだめだと言わないでください。もう終わりだと言わないでください。失業することもあるかもしれません。失恋することもあるかもしれない。病気になることもあるでしょう。愛する人を失うこともあるかもしれない。自分自身が死ぬこともあるかもしれません。でも、あきらめないでください。イエス様はこう言われました。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

人生に苦難はつきものです。「しかし、勇気を出しなさい。」と主は言われました。なぜなら、「わたしはすでに世に勝ったからです。」イエス様はすでに世に勝利されました。

もしあなたが神のしもべとして説明によって生きることを止め、約束によって生きることを始めるなら、すでに世に勝利された主イエスの恵みと力によって、この世の苦難を必ず乗り越えることができます。

「あなたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはありません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたは今、どのような試練の中にありますか。それがどのような試練であれ、神はあなたを耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えることができるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

どうぞ、神の約束を信じてください。主よ、どうしてですかと、説明を求めることを止めて、神の約束によって生きることを始めるなら、神はあなたに必ずご自身を現わしてくださるのです。

Ⅰ列王記19章

 今日は、列王記第一19章から学びます。

 Ⅰ.自分の死を願ったエリヤ(1-8)

まず、1~8節までをご覧ください。4節までをお読みします。「1 アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」3 彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4 自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」」

18章には、エリヤとバアル預言者との戦いが記されてありました。1対450です。火をもって答える神、それが真の神です。まずバアルの預言者450人が一日中祈りました。しかし、何も起こりませんでした。次にエリヤが祈ると、雄牛にたくさんの水をかけたのにも関らず、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くしました。それによって、主こそ神であることが明らかとなりました。エリヤが勝利したのです。それでエリヤは、バアルの預言者たちをキション川で殺しました。今回の箇所は、その後の出来事です。

アハブはカルメル山でエリヤがしたこと、また、預言者たちを皆殺しにしたことの一部始終を、妻のイゼベルに報告しました。するとイゼベルは使者をエリヤのところに遣わして、こう言いました。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

どういうことでしょうか。24時間以内にエリヤを殺すということです。もしそれが達成できなかったら、神々が自分を幾重にも罰せられるように、つまり、自分のいのちにかけてエリヤを殺すということです。ここに彼女の並々ならぬ決意が表れています。

それを聞いたエリヤはどうしたでしょうか。彼は、イゼベルのことばを恐れてベエル・シェバまで逃亡しました。イズレエルからベエル・シェバまでは、南に約 160㎞も離れています。どうしてそんな所まで逃げたのでしょうか。そこまで逃げれば大丈夫と思ったのでしょう。しかし、それで彼の恐れは消えることがありませんでした。彼は若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行くと、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言いました。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

エリヤは、自分の死を願うほどのひどい鬱状態に陥りました。信じられません。私たちは前の章で彼の信仰について学びましたが、彼は「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」(18:15)と言って、カルメル山で450人のバアルの預言者と対決して勝利した人です。それなのに今、たった一人の異教徒の女イゼベルの脅しによって恐れを抱き、逃げられるところまで逃げて、自殺願望まで抱くようになるなんて考えられません。どうして彼はそんなに恐れたのでしょうか。霊的大勝利を体験したエリヤほどの信仰者であっても、このような状態に陥ることがあります。いや、不思議なことですが、こうした大活躍をした後こそ、このような状態に陥ることが多いのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

3節をご覧ください。ここには「彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」とあります。彼は、自分のいのちを救おうとしました。言い換えると、神様から目を離してしまいました。彼は神様ではなく、自分自身に目を向けました。自分、自分、自分と、自分に関心が向いてしまうと、このように落ち込んでしまいます。でも、自分から神様に目を向けると守られます。イエス様もこのように言われました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(ヨハネ2:25)自分のいのちを愛そうとする者は、いのちを失うことになります。でも自分ではなく神様に目を向けるなら、守られます。エリヤの関心は自分のいのちを救うことでした。エリヤも普通の人でした。神から目を離した瞬間に、恐れに支配されてしまいました。その結果、恐れと落胆、孤独と失望にさいなまれてしまうようになったのです。

次に、5~8節までをご覧ください。「5 彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。6 彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。7 主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。8 彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。」

エリヤがエニシダの木の下で横になって眠っていると、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言いました。死を願うほどひどく落ち込んでいたエリヤを癒すために主が取られた方法は、食事を取らせることでした。体調を守り、肉体を整えようとされたのです。

彼が見てみると、そこに焼け石で焼かれたパン菓子一つと、水の入った壺があったので、彼はそれを食べ、また飲みました。それを食べて飲むと、彼は再び横になりました。相当疲れていたのでしょう。再び横になり眠ってしまいました。そこで御使いがもう一度彼に触れ「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのですから。」と言うと、エリヤは起きて食べ、そして飲んで力が与えられました。すると彼は、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブまでやって来ました。なぜホレブまでやって来たのでしょうか。誰も神の山ホレブに行くようになんて言っていません。そこはかつてモーセが神から律法を受けた場所です。おそらく彼は、そこに行けば神からの新しい啓示が与えられるのではないかと思ったのでしょう。しかし、それは神の指示によるものではなく、自分勝手な判断によるものでした。これまでのエリヤの働きはすべて神からの指示によるものでした。たとえば、ケレテ川のほとりに行ったのも(Ⅰ列王17:3)、また、ツァレファテのやもめのところに行ったのもそうです(Ⅰ列王17:9)。アハブに会いに行った時もそうです(Ⅰ列王18:1)。つまり、神の御心から外れて自分勝手な道を歩み始めると、日々の生活の方向性を失ってしまい、信仰の漂流が始まるのです。そんなエリヤに、主は何と言われたでしょうか。

Ⅱ.ここで何をしているのか(9-18)

次に、9~18節をご覧ください。「9 彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」11 主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」14 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」15【主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。17 ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」」

神の山ホレブに着いたエリヤは、そこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごししまた。すると主は彼にこう言われました。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。どういうことでしょうか。このことばで、神はエリヤに何を問うておられたのでしょうか。

彼は神の御心から外れて日々の生活の方向性を見失っていました。彼は本来いるべきところにいなかったのです。そこで主は彼に「ここで何をしているのか」と問われたのです。つまり、あなたはどこにいるのか、あなたはわたしが望んでおられるところにいるのかと問われたのです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。彼は10節でこのように答えました。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

エリヤは、「ただ私だけが残りました」と言っています。これは事実ではありません。アハブ王の側近であるオバデヤがすでに、主の預言者100人をほら穴に隠して養っていたことをエリヤは知っていました。それなのに彼は自分だけが主に仕えていると言いました。エリヤは、落胆と孤独で事実が見えなくなっていたのです。否定的なことしか見ることができなくなっていました。私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。たとえば、長いこと病気でいると、どうして自分ばかりこんなに辛い思いをしなければならないのか・・と。つまり、自分の置かれた状況に振り回されてしまうのです。

それに対して主は何と言われましたか。11節です。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると主が通り過ぎて行かれました。でもそこには主はおられませんでした。大風が山々を裂き、岩々を砕きましたが、そこにも主はおられませんでした。風の後に地震が起こりましたが、その火の中にも主はおられませんでした。そうした激しい自然現象の中には、主はおられませんでした。ではどこにおられましたか。火の後です。火の後に、かすかな細い声がありました。それは主の声でした。エリヤはそれが主の声でだとわかったので、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立ちました。エリヤが外套で顔をおおったのは、神に対する畏怖の念があったからです。

すると声がしました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」主はここで彼に同じ質問を繰り返されました。その質問に対してエリヤも同じ答えを繰り返しています。彼は依然として否定的な面にしか目を向けることができないでいました。なぜでしょうか。エリヤはこれまで多くの奇蹟を見ていきましたが、そのような奇蹟をもたらすのが万軍の主だと思い込んでいたからです。しかし主は、そのような奇跡の中だけにおられるのではありません。むしろ、そうしたことにばかり目が行ってしまうと、そうでない現実に疲れや落胆を抱くようになってしまいます。でもこのような奇跡が私たちを動かすのではなく、ただ自分の内に語られる神様のかすかな細い声、しずかな声によって私たちは動かされるのです。エリヤも激しい自然現象によってではなく、かすかな細い声に動かされて、ほら穴から出て来ることができました。この神のかすかな細い声が、私たちを人生の洞穴から導き出してくださるのです。その声が、私たちのじたばたやもがきを止めてくれるのです。私たちはこの声を聞くべきなのです。

Ⅲ.エリヤの後継者エリシャ(15-21)

最後に、15~21節をご覧ください。15~18節をお読みします。「15 主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。17 ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」

エリヤは、自分がどういうことをしたのか、他のイスラエルの民は何をしたのかとなど、いろいろな事を主の前に並べ立てました。しかし、主にとってそんなことはどうでも良いことでした。主が求めておられたことは、エリヤが自分に与えられている使命を果たすことだったのです。

そこで主は彼に、主は新しい使命を与えられました。それは、ダマスコの荒野へ帰って行き、そこでハザエルに油を注いで、アラムの王とすることでした。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とすること、そして、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、彼に代わる預言者とすることでした。アラムの王ハザエルは、偶像礼拝と不信仰に陥っていたイスラエルの民を裁く器となります。また、ニムシの子エフーは、北イスラエルの王アハブの家を罰し、滅亡させる器となります。シャファテの子エリシャは、エリヤに代わる預言者となります。この3人は、エリヤが始めたバアル撲滅運動を完成させる器なのです。ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺します。そんなことをしたらイスラエルにはだれも残らなくなってしまうんじゃないですか。いいえ、違います。主はこのように約束してくださいました。18節です。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」

ここで、エリヤの過剰なまでの自負心と孤独に対する最終的な解決が与えられます。それが、七千人の残りの者たちです。この「イスラエルの残りの者たち」(レムナント)という概念は、エリヤの時代に明らかになりました。彼らは、各時代にあって主を信頼した真の信仰者たちです。イスラエルの残れる者は、いつの時代にあっても少数者です。そしてそれは、イエスの時代も、使徒たちの時代も、さらに今の時代も、変わることがない真理なのです。

ですから、クリスチャンが少ないからと言って、悲しむ必要はありません。真の信仰者は、いつの時代であっても少数者だからです。それよりも、少数者でもバアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちがいることを喜び、感謝すべきです。エリヤは「自分だけが」という思いから深い孤独と絶望の中にいましたが、自分だけでなく、何と多くの兄弟姉妹たち、同労者たちに囲まれているということを知り、励ましと慰めを受け鬱から解放されたのです。立ち上がることができました。

19~21節をご覧ください。「19 エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けたので、20 エリシャは牛を放って、エリヤの後を追いかけて言った。「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」21 エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせた。それから彼は立ってエリヤについて行き、彼に仕えた。」

そればかりではありません。彼はもう一つの事実を知って、完全に立ち直ります。それは、後継者が備えられていたという事実です。エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャのところへ行きました。エリシャの出身はアベル・メホラです。すなわち、彼はシナイ山から、アベル・メホラまでやって来たということです。アベル・メホラは、死海とガリラヤ湖の中間にあるヨルダン渓谷の町です。エリシャは12くびきの牛を先に立て、その12番目のくびきのそばで耕していました。農作業に従事していたということです。

エリヤが彼のところを通り過ぎると、彼はエリシャに自分の外套を彼に掛けました。この外套を掛けるという行為は、自分の後継者として選んだということです。エリシャはそれをすぐに理解して、それで自分の職を捨て、エリヤに従っていきます。そして、こう言いました。

「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」

どういうことでしょうか。エリヤについて行く前に、父と母に挨拶させてください。それからあなたに従って行きますと。するとエリヤは、「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」と言いました。これは「あなたの思うようにしなさい」ということです。これはあなたと神様との問題なのだから、神の召しに答えるのに、自分がとやかく言えるものではないといった意味です。

エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせてからエリヤについて行きました。エリシャは家族のためにさよならパーティーを開き、その後でエリヤについて行ったのです。

主はエリヤに、イスラエルの中にバアルに膝をかがめず、口づけしなかった七千人を残すと言われましたが、ここでは、彼の後継者として、神の働きを行う者を備えておられました。神の働きは決して途絶えることはありません。神は、いつの時代も、ご自身のしもべを用意しておられるのです。このことを通して、エリヤは完全に孤独と落胆から解放されました。彼は「自分だけが・・」と思っていましたが、実際には自分だけでなく、バアルに膝をかがめない、口づけしない七千人の勇士と、彼の働きを受け継ぐエリシャが備えられていることを知って、大いに励ましを受け、そこから立ち上がることができたのです。

それは私たちも同じです。私たちも恐れや困難に直面すると自分のことしか見えなくなってしまいます。「自分だけが・・・」と、孤独と落胆に陥ってしまうのです。しかし、実際はそうではありません。神様は少数者でも私たちと同じように主に信頼する真の信仰者を残しておられるのです。そればかりか、この働きを担う後継者までちゃんと用意しておられるのです。あなたは決して一人ではないのです。あなたはその事実をきちんと見なければなりません。

エリヤは神様によってその事実を見せられることによって大いに励ましを受け、孤独と落胆から立ち上がることができました。私たちもこの事実をしっかりと見ましょう。そして、そこに励ましと慰めを受けたいと思います。それはかすかな主の御声を聞くことから始まります。御声によってその事実に目が開かれるとき、あなたはあなたの目を自分から神に向けることができるようになり、神に感謝することができるようになるのです。

エレミヤ書11章11~23節「実りの良い、緑のオリーブの木」

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きょうは、エレミヤ書11章後半の部分からお話します。タイトルは「実りの良い、緑のオリーブの木」です。16節のみことばから取りました。「主かつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。」
 主はかつてイスラエルを、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれましたが、その木が焼かれて、枝が台無しになってしまいました。どうしてでしょうか。それは彼らが悪を行い、神の怒りを引き起こしたからです。

それは私たちにも言えることです。どんなに実りの良い、オリーブの木として植えられても、主の前に悪を行い、主の怒りを引き起こすようなことがあると、焼かれてしまうことになります。ですから、私たちは「あなたを植えた万軍の主」とあるように、主が私たちを植えてくださったという事実を忘れないで、へりくだって主のみこころを歩まなければなりません。

Ⅰ.聞かれない祈り(11-13)

まず、11~13節をご覧ください。「11 それゆえ─主はこう言われる─見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない。12 ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。13 『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

「それゆえ」とは、11章前半で語って来たことを受けてということです。10節には「イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った」とあります。それゆえ、主は彼らにわざわいを下すと宣告されました。それは「彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」ということです。彼らの祈りを聞かないということは既に7:16にもありましたが、ここでもう一度繰り返して告げられています。これは本当に悲惨なことです。祈りが聞かれるというのは神の民の特権であるらです。Ⅰヨハネ5:14にはこうあります。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

神は、私たちの祈りを聞いてくださるということ、これこそ、神に対する私たちの確信です。それなのに、その祈りが聞かれないとしたらどんなに悲しいことでしょうか。たとえ祈っても単なる独り言になってしまうのです。本当に悲しいことです。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。

「それゆえ」です。それは彼らが神の言うことを聞かなかったからです。神の言うことを聞かないのに自分の言うことは聞いてくれというのは虫のいい話です。もしあなたの子どもがあなたの言うことを散々無視して、何一つあなたの言うことを聞かないのに、「俺の言うことを聞け」と言ったらどうしょうか。「何言ってるんだ、お前!」となります。それと同じです。イザヤ59:1~2にこうあります。

「1 見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

神様の耳は、あなたのように遠くはありません。最近、耳が遠くなって、幸い嫌なことも聞かなくなって良かったという人もおられるかもしれませんが、しかし神様は、私たちのどんな小さなささやきにもちゃんと耳を傾けて聞いてくださいます。でも、もし私たちに罪があるなら、その罪が私たちと神様との仕切りとなり、聞いてくださらないのです。昔であれば電話の線が切れたような状態です。今でいうと、電波が届かないと言ったらいいでしょうか。どんなに最新のスマホを持っていても、電波が届かなければ何の役にも立ちません。その電波障害を引き起こす原因が罪です。その罪が神との仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのです。

ですから、神様は意地悪だなぁと思わないでください。これは裏を返せば、あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち返るなら、あなたの祈りは聞かれるということなのですから。Wi-Fiが復旧して障害が無くなったら、またつながるようになります。

12節をご覧ください。「ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。」

これは、少しわかりづらい訳です。原文では、この節の冒頭に「それで」とか、「そこで」という接続詞があります。

「そこで、ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない。」    

つまり、ユダの町々とエルサレムの住民は自分たちの祈りが聞かれないので、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、それらは、決して彼らを救わないということです。「犠牲を供えている神々」とは、偶像礼拝のことです。困ったときの神頼みですね。でも、偶像に頼っても、これらはあなたを救ってはくれません。それは10:5にあったように「きゅうり畑のかかし」のようなもので、ものも言えず、歩くこともできず、だれかに運んでもらわなければ動くことができません。何の頼みにもならないのです。そんなものに頼ってどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。ただ失望するだけです。でも彼らは、天地を造られたまことの神、主に祈っても答えてもらえないと、今度は偶像にお願いしました。

私たちにもこういうところがあるのではないでしょうか。こっちがだめならあっち、あっちがだめならこっちと、自分の願望が叶えられるまであちらこちらと走り回ることが。こういうのを何というかというと、ご利益信仰と言います。教会に来て礼拝し一生懸命に祈っても自分の願いが叶わないと、この世の神々にお願いするわけです。これは何も当時のイスラエル、ユダの町々とエルサレムの住民だけのことではありません。この日本にいる私たちにもあり得ることなのです。でも、そうした偶像に頼っても無駄です。それらはあなたを救うことはできないからです。まことの神を捨てて他に満たしを求めても、それはただ徒労に終わるだけのことです。あなたに罪がある限り何をしても解決にはなりません。真の解決はあなたが罪を悔い改めて、真の神に立ち返ることです。あなた自身が変えられることです。そのことを忘れないでください。

13節をご覧ください。「『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

彼らの神々は、彼らの町の数ほどありました。これがいつのことだったかを思い出してください。これは、ヨシヤ王の宗教改革後のことです。ヨシヤ王の宗教改革はB.C.621年でした。その時ユダの町々のすべての偶像は排除されたはずなのです。それなのに、ヨシヤ王の死後(B.C.609)、再び偶像が造られました。それは彼らの町の数ほどになっていました。元の状態に戻ってしまったのです。ということはどういうことかというと、彼らの信仰は本物ではなかったということです。ヨシヤ王の宗教改革も、民の内面を変えるまでには至りませんでした。民が神殿で行った宗教的儀式は、心のこもっていない、表面的なものにすぎなかったのです。

これは私たちにも言えることです。信仰が単なるパフォーマンスになってしまうことがあります。信仰が私たちの生活の中に根差し、私たちの生活を変えるところまでいかないことがあるのです。私たちも考えなければなりません。私たちの中には、町の数のほどの偶像はないかということを。私たちの中心に主イエスがおられ、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださった神の御霊が、私たちの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださるように祈りましょう。

Ⅱ.焼かれる緑のオリーブの木(14-17)

次に14~17節をご覧ください。14~15節をお読みします。「14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。15 『わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。聖なるいけにえの肉が、わざわいをあなたから過ぎ去らせるのか。そのときには喜び躍るがよい。」

これは、とりなしの祈りの禁止令です。ここで主はエレミヤに、イスラエルの民の祈りを聞かないというだけでなく、彼らのために祈ってはならないと言われました。それは彼らが神との契約を破棄したからです。

15節には、「わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。」とあります。何のために神殿に来たのかと問うているのです。彼らは、表面的にはいけにえをささげるために来ていましたが、一方では、バアルやアシュタロテといった偶像も拝んでいました。ですから、ここでその動機が問われているのです。いったい何のために神殿に来たのか、そこで何をしているのか、何を企んでいるのかというのです。彼らの神殿で行う宗教的儀式というは彼らの心から出たものではなく、表面的なものにすぎませんでした。主はそれをご覧になられたのです。まさに、人はうわべを見るが、主は心を見られます。

16~17節をご覧ください。「主はかつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。17 あなたを植えた万軍の主が、あなたにわざわいを告げる。イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに犠牲を供え、わたしの怒りを引き起こしたからである。』」

「実りの良い、緑のオリーブの木」とは、イスラエルの民のことを指しています。主はかつて彼らの名を「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれました。ところが、その美しいオリーブの木が焼かれて、その枝が台無しになってしまいます。彼らを植えた万軍の主が、彼らにわざわいを告げられたからです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。それは、彼らが悪を行い、主の怒りを引き起こしたからです。

オリーブの木が焼かれることについては、パウロがローマ人への手紙で語っている、「折られたオリーブの枝」を思い出させます。ちょっと開いてみましょう。ローマ11:17~21です。

「17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。21 もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」

折られたオリーブの枝とは、イスラエルのことです。そのオリーブの枝が折られたのは、彼らが不信仰であったからですが、神様はそのことを通して何と野生のオリーブである異邦人が救われるように計画してくださいました。すなわち神は、不信仰によって折られたオリーブの枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、異邦人が救われるようにしてくださったのです。接ぎ木とは、果樹を育てるときによく用いられる方法です。たとえば、「たむらりんご」という奇跡のりんごがありますが、これは梨の木にりんごの木を接ぎ木して作ったものです。りんごの外観をもちながらも、梨のような強い甘みを持つりんごで、世界中を探しても北海道の七飯町(ななえちょう)にしか見られない大変珍しいりんごなのです。そのように、不信仰なオリーブの枝であるイスラエルが折られ、その折られた枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、神は異邦人も神の民に加えてくださったのです。それは異邦人の満ちる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。こうしてイスラエルはみな救われます。神の賜物と召命は変わることがないからです。すごいですね、神様の救いのご計画は。神様は私たちが到底考えつかないような驚くべき方法によって、異邦人である私たちを救ってくださったのです。

にもかかわらず、その「実りの良い、オリーブの木」が焼かれ、その枝は台無しになってしまいます。なぜでしょうか。ここに「あなたを植えた万軍の主が」とありますが、彼らは主によって植えられた者であるという事実を忘れてしまったからです。彼らは自分を植えてくださった主を忘れ、バアル神を礼拝して、主の怒りを引き起こしてしまったのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。私たちがこのように救われて今日があるのは神が接ぎ木してくださったからであり、一方的な神の恵みによるのに、あたかも自分の力でそうなったかのように誇ってしまうことがあるのです。そういうことがあるとしたら、このユダの民のように「実りの良い、緑のオリーブの木」が、折られてしまうことがあるということを覚えなければなりません。すべては神の恵みなのです。自分の力によるのではありません。まして私たちが信仰を持つようになった背後には、どれだけ多くの方々の祈りと犠牲があったことでしょうか。私たちはそのことをすっかり忘れてしまいます。この「支えられている」という事実を忘れてはなりません。私たちが神様に支えられているからこそ今の自分があるのだということが本当の意味でわかるとき、私たちの中からつぶやきや不満といったものが消え去り、感謝が満ち溢れるようになるのではないでしょうか。

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(18-23)

最後に18~23節を見て終わります。「18 「主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。それからあなたは、彼らのわざを私に見せてくださいました。19 私は、屠り場に引かれて行く、おとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して計略をめぐらしていたことを、私は知りませんでした。『木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう』と。20 しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」21 それゆえ、主はアナトテの人々について、こう言われる。「彼らはあなたのいのちを狙い、『主の名によって預言するな。われわれの手にかかって、あなたが死なないように』と言っている。22 それゆえ─万軍の主はこう言われる─見よ、わたしは彼らを罰する。若い男は剣で死に、彼らの息子、娘は飢えで死に、23 彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。」」

「主が私に知らせてくだったので」とか、「彼らのわざわいを私に見せてくださいました」とは、エレミヤに対する暗殺計画についてです。それを計画していたのは何と、エレミヤの出身地アナトテの人たちでした。彼らはエレミヤの語る主のことばを聞いて「ウザい!」と思っていました。そして彼を殺そうとしていたのです。エレミヤ当初その計画に気付いていませんでした。「屠り場に引かれて行くおとなしい子羊」とは、間もなく殺されることも知らず、おとなしくしている子羊のことで、エレミヤのことを指しています。また、「木を実とともに滅ぼう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」とは、エレミヤとその働きを完全に破壊するという意味です。神はエレミヤにその暗殺計画を知らせくださいました。

主の働きに携わっている人で、他の人からの批判や中傷を受けたことのない人はいないと思います。どんなに一生懸命にやっても、必ず批判やその類のことばはあるものです。私も理屈に合わないような批判を受けることがたまにありますが、しかし不思議なことに、そのような時に限って、その直後に、別の人から励ましの手紙やメールを受けることがよくあります。そんな時、神様は私たちの心を本当によくご存知であられるなぁと思わされます。

いったいエレミヤの出身地アナトテの人たちは、どうして彼を殺そうとしたのでしょうか。バイブルナビに、その理由が4つ挙げられています。

  • 経済的理由。彼の偶像礼拝に対する非難は、偶像を造る者たちの商売に損失を与えたから。
  • 宗教的理由。破滅と闇のメッセージは、人々を憂うつにさせ、罪悪感を起こさせた。
  • 政治的理由。彼は公に偽善的な政治を非難した。
  • 個人的理由。民は自分たちが間違っていると指摘されたので、彼を嫌った。

皆さんはどう思いますか。恐らく、この4つのすべての理由が絡んでいたのだと思いま

す。というのは、パウロも言っているように、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思う人は、必ず迫害に遭うからです(Ⅱテモテ3:12)。

問題は、そのような迫害があるとき、どうしたら良いかということです。20節に戻ってください。ここでエレミヤは何と言っていますか。彼はこう言っています。「しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」

これはエレミヤの祈りです。暗殺計画を知ったエレミヤは、神様に祈りました。彼には二つの選択肢がありました。逃げて隠れるか、それとも神様に拠り頼むかのどちらかです。彼は神に拠り頼むことを選択しました。それで神に祈ったのです。ここには、「あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。」とありますが、彼は、自分のために復讐を求めたのではありません。神の復讐がなされるように、つまり、神の義が守られるようにと祈ったのです。また、彼はすべてのさばきを神にゆだねました。復讐は、神のなさることだからです。

その結果、神はエレミヤの祈りに応えてくださいました。それが21~23節にあることです。それは、この計画に加わったアナトテの人々にわざわいを下すということです。23節には「残る者がいなくなる」とありますが、それはアナトテの人たちがすべて死ぬということではなく、この暗殺計画に加わった者たちが完全に滅び去るという意味です。

あなたはどうですか?不当に扱われたり、迫害を受けたりしたとき、どのように対処していますか。逃げて隠れますか、それとも、神様に拠り頼みますか。神に拠り頼み、神様に助けを求めますか。逃げて隠れることは本当の解決にはなりません。なぜなら、同じ問題がいつも起こるからです。一難去ってまた一難です。本当の解決はすべてを主にゆだね、主に信頼することです。あなたも問題は違ってもエレミヤのように神への熱心のあまり反対勢力に直面することがあるかと思いますが、どんな問題に直面しても唯一の解決は主にゆだねることです。詩篇にこうあります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)主はすべてをご存知です。あなたのすべてを主にゆだねましょう。

Ⅰ列王記18章

 

 今日は、列王記第一18章から学びます。

 Ⅰ.主を深く恐れていたオバデヤ(1-15)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 かなりの日数を経て、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」2 そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリアでは飢饉がひどかった。3 アハブは宮廷長官オバデヤを呼び寄せた。オバデヤは主を深く恐れていた。4 かつてイゼベルが主の預言者たちを殺したときに、オバデヤは百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養ったのである。5 アハブはオバデヤに言った。「国内のすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。馬とらばを生かしておく草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない。」6 二人はこの国を分けて巡り歩くことにし、アハブは一人で一つの道を行き、オバデヤは一人で別の道を行った。」

干ばつが始まって3年目に、アハブに会いに行くようにという主のことばが、エリヤにありました。それは「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らそう。」というものでした。それでエリヤは、アハブに会うためにサマリアに出かけて行きました。というのは、特にサマリアでの飢饉がひどかったからです。これは、主に敵対するアハブとイゼベルに向けられていたものだったのです。

アハブには宮廷長官でオバデヤという名の家臣がいました。彼は主を深く恐れていました。彼は、かつてアハブの妻イゼベルが主の預言者たちを殺したときに、百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養いました。飢饉のときに、百人分の食料を調達するのは容易なことではありません。それは信仰がなければできないことです。彼は主を深く恐れていたので、アハブに背いても主に従ったのです。

極悪な王アハブのもとで、北王国イスラエルがバアル礼拝へと向かっていた中でも、彼のように真実な信仰を持っていた人が残っていたということは驚きです。そして、神は今もこのような少数の者たちを残しておかれ、彼らを用いて、ご自身の御業を行っておられるのです。ですから、クリスチャンが少ないからと言ってがっかりしないでください。数が問題なのではありません。問題はそこにオバデヤのような神を恐れる真の神の民がいるかどうかということです。私たちの置かれている状況がどうであれ、私たちはいつも「私と、私の家とは主に仕える」という信仰に堅く立っていなければなりません。

アハブはオバデヤに言いました。「国内のすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。馬とらばを生かしておくための牧草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない」と。馬とらばは、戦いに必要な家畜です。ですから、何とかして家畜を絶やさないようにしたかったのです。それで、アハブとオバデヤは、国を分けてそれぞれ別の道を巡り歩くことにしました。その方が効率がよいからです。

7~15節をご覧ください。「7 オバデヤがその道にいたところ、エリヤが彼に会いに来た。オバデヤにはそれがエリヤだと分かったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」8 エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」9 すると、オバデヤは言った。「私にどんな罪があると言うのですか。あなたがこのしもべをアハブの手に渡し、殺そうとされるとは。10 あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために人を遣わさなかった民や王国は一つもありません。その王国や民が、あなたはいないと言うと、主人は彼らに、あなたが見つからないという誓いをさせています。11 今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。12 私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らないところに連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、あなたを見つけられなければ、彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。13 あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。14 今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。彼は私を殺すでしょう。」15 すると、エリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」」

オバデヤが道を歩いていた時、エリヤが彼に会いにやって来ました。オバデヤはそれがエリヤだとすぐにわかったので、その場にひれ伏しました。彼はエリヤに、「あなたはわたしの主人エリヤではありませんか」と言いました。それは、エリヤに対する恐れと尊敬の表れでした。エリヤが預言したとおり干ばつが起こったことを知っていたオバデヤは、エリヤを恐れていたのです。

エリヤはオバデヤに、「そうです」と言うと、「行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」と言いました。あなたの主人とはアハブ王のことです。

するとオバデヤは大いに恐れました。なぜ?エリヤが自分をアハブに渡し、殺すのではないかと思ったのです。どういうことかというと、これまでアハブはエリヤを殺そうといろいろなところに人を遣わして捜させましたが、「いない」と報告すると「本当か?」と言って誓いまで書かせていました。もし自分がそのエリヤがいることをアハブに報告している間にエリヤ本人がいなくなってしまったら、自分が殺されるのではないかと思ったのです。12節でオバデヤが言っていることはそういうことです。自分がアハブのところに報告にいっている間に、主の霊が彼をどこか知らないところに連れて行くことがあれば、私は殺されてしまうことになると言っています。エリヤは3年間アハブから逃れて隠れた生活をしていました。そのためエリヤは「主の霊」によって取り去られたのではないかという噂が広がっていたのです。そんなことが私の身に起こったら大変です。子どものころから主を信じ、主を恐れている自分にそのような悲劇があるとしたら、あまりにも理不尽です。

オバデヤは自分がしてきたことをエリヤに伝えます。13節です。「あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。」

彼がしたことは、主の預言者たちの間ではよく知られていました。当然、エリヤにも知らされていたはずです。彼はいのちがけで主の預言者をかくまい、彼らを養ったのです。そんな自分に災難が降りかかるようなことをしないでくださいとお願いしているのです。

するとエリヤは何と言ったでしょうか。15節をご覧ください。彼はこう言いました。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」

エリヤは、自分のいのちを狙っているアハブの前に出ることは相当の恐れがあったと思いますが、彼が仕えている主は万軍の主であって、今も生きておられるお方であると信じていました。であれば、主は必ず守ってくださいます。その信仰をもって、今日、アハブの前に出ると言っているのです。どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。

エリヤは最初からこのような信仰を持っていたわけではありません。17章にあったことを思い出してください。彼はまずケレテ川のほとりに身を隠せと主から言われたのでそのようにすると、主は烏をもって彼を養ってくださいました。毎日、朝と晩に、肉とパンを運んできたのです。それから主はエリヤを、ツァレファテのやもめのところに遣わされました。このやもめは本当に貧しく、かめの中には一握りの粉と、壺の中にはほんの少しの油しか持っておらず、それを自分の息子のために調理して食べて、死のうとしていました。しかし、「主が血の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、壺の油はなくならない。」という主のことばを信じて従うと、そのことばの通りになりました。エリヤはこうしたケレテ川での体験や、ツァレファテのやもめの家での体験を通して信仰が強められ、揺るぎないものとなっていきました。それがこのことばの中に表れているのです。私たちも試練を通して練られ、強くされていきます。そうした苦難を通して信仰が養われていると信じ、神の御業を体験させていただきたいと思います。

Ⅱ.バアルとアシェラの預言者たちとの戦い(16-40)

次に、16~29節をご覧ください。「16 オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。17 アハブがエリヤを見るやいなや、アハブは彼に言った。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は。」18 エリヤは言った。「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている。19 今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」

20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた。21 エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。23 私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。24 おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。」

25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「おまえたちで一頭の雄牛を選び、おまえたちのほうから、まず始めよ。人数が多いのだから。おまえたちの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」26 そこで彼らは、与えられた雄牛を取って、それを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んだ。「バアルよ、私たちに答えてください。」しかし何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちが造った祭壇のあたりで踊り回った。27 真昼になると、エリヤは彼らを嘲って言った。「もっと大声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているのだろう。もしかすると寝ているのかもしれないから、起こしたらよいだろう。」28 彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。」

オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来ました。アハブはエリヤを見るやいなや、エリヤに言いました。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は」。アハブは、エリヤがイスラエルに災いをもたらしていると思っていたのです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。エリヤはこう言いました。18節、「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている」。イスラエルに災いをもたらしているのは自分ではなく、アハブと彼の家族であると指摘し、彼らが主の命令を捨てて、バアルの神々に従っている結果だと告げたのです。

そこでエリヤは続けてこう言いました。「今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」(19)

どういうことですか。真の神はだれなのかということです。エリヤが信じている万軍の神、主なのか、それともバアルなのかということです。そのことをはっきりさせようではないかというのです。それをはっきりさせるために、バアルの預言者とアシェラの預言者をカルメル山にいる私の自分のところに集めよ、といったのです。巻末の地図をご覧ください。カルメル山は、イズレエル平原の北西にある地中海沿岸から南東に伸びる、標高およそ520メートルの山脈です。そこに450人のバアルの預言者と、400人のアシェラの預言者を集めるようにというのです。この預言者の数によって、当時の北王国イスラエルにおけるバアル礼拝の規模がどれほどのものであったかを想像することができます。それは相当の規模でした。

ここに彼らの問題の真の原因がありました。北王国イスラエルの物質的問題も霊的問題も、すべて主を退けバアルやアシェラといった偶像を礼拝していたことにあったのです。私たちも、自分が直面している問題の真の原因はどこにあるのかを考えなければなりません。それらすべての問題の原因は、神を神としないで、偶像を礼拝していることにあります。あなたのバアルは何でしょうか。あなたのアシェラは何でしょうか。私たちはバアルやアシェラといった目に見える偶像を拝むことはしていないかもしれませんが、神以上に愛するものがあるなら、それがあなたの偶像なのです。神を神として認め、この神を第一として歩むなら、神があなたを祝福してくださいます。

昨日、「1対1弟子養育聖書研究」という本を学んでいたら、サタンは「この世」を通して私たちクリスチャンを攻撃してくるとありました。そこに次のようなケースが紹介されていました。

ある若い夫婦が熱心に主に仕えていましたが、急に教会に出席するのを止めました。その理由を探ってみると、彼らが一生懸命に貯めたお金で家を勝ってから、妻は家を飾ることに神経を使い、夫は車を買うお金を稼ぐために仕事により多くの時間と勢力を費やすようになったということです。家と車を買うこと自体は罪ではありませんが、彼らがそれらを神様よりもってと愛したので、ついにサタンの誘惑に負けてしまったのです。私たちはこのような試みにどのように対処すべきでしょうか。

私たちの心を攻撃するこの世の心配が、短い人生の中で比重を占めています。今日のような物質主義、消費主義の社会においては、もっとそうなります。町の中で豪華なレストランやお店などが私たちを誘惑します。また、高級乗用車などが私たちの関心を引きます。このような誘惑は神様に対する私たちの愛が冷え始めると、その空白の中に入って来ます。このような外敵な試みは逃げて解決できるものではありません。この世を通して入って来た試みはこの世から逃げるよりは、神様に対する自分の愛がどうであるかで決まります。そのためには、自分の敬虔の生活を顧みなければなりません。

20節をご覧ください。そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めました。カルメル山は、バアル礼拝の聖地です。つまり、バアル神の力が最も発揮される所と言っていいでしょう。そこが霊的戦いの場となりました。しかし、エリヤにとってそんなことは問題ではありませんでした。むしろ、カルメル山がそのような所だからこそ、バアルの預言者たちとの戦いには最適なところだと考えたのです。本当の神はどちらかが明らかになるからです。

エリヤはイスラエルの民、皆の前に進み出て何と言いましたか。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」(21)

イスラエルの民は、主なる神とバアルの間を揺れ動いていました。いつまでもどっちつかずによろめいていたのです。それはよいことではありません。もし主が神であるならば主に従い、バアルが神であるなら、バアルに従えばいい。どっちつかずにいることを「二心」と言います。ヤコブ1:8-9にあるように、そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は、歩むすべてにおいて心が定まっていないのです。どちらかに決めなければなりません。主に仕えるのか、バアルに仕えるのか。しかし、イスラエルの民は一言も答えることができませんでした。

そこで、エリヤは民に向かって言いました。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。」(22)1対450です。エリヤは、彼以外にも主の預言者がいたことを知っていましたが(18:13)、この戦いに関しては、彼一人でした。敵は450人もいました。人間的に見れば勝敗は決まっているかのようですが、エリヤは自分の仕えている神は万軍の主であって、生きておられる神であると信じていたので、ただ主に信頼して戦いました。

彼は、2頭の雄牛を全焼のいけにえために用意するように命じました。そして、相手に自分たちの気に入った牛を選ばせ、それを切り裂いて薪の上に乗せるようにと言いました。そして、それぞれの神の名を呼んで、その呼びかけに対して、火をもって答える神が真の神であるということでよいかを確かめると、民が「それがよい」と言いったので、いよいよここにバアルの預言者たちとエリヤとの戦いの幕が下されました。

エリヤはバアルの預言者たちから始めるようにと言いました。人数が多かったからです。そこで彼らは、自分たちが選んだ雄牛を取って、朝から真昼までバアルの名を呼びました。「バアルよ、私たちに答えてください。」と。バアルは、天から雨を降らせ、作物を実らせる豊穣の神です。また、天から稲妻を降らせる神でもあります。ですから、彼らは必死になって彼らの神、バアルの名を呼びました。この光景がよく聖書の紙芝居に描かれていますが、おもしろいですね。阿波踊りのような格好で自分たちが造った祭壇のあたりで踊り狂っています。でも結果はどうだったでしょうか。何の声もありませんでした。何の声もなく、答える者もありませんでした。

それを見ていたエリヤは彼らを嘲って言いました。「もっと大きな声で読んでみたらどうか」「彼は神なのだから、呼べばきっと答えてくれるはずだ」。「もしかすると何かに没頭しているのかもしれない。旅に出ているのかな。もしかすると寝ているのかもしれない。」「だから、もっと大きな声で叫んで起こした方がいいんじゃないか」。

それで彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちのからだに傷つけたりしました。しかし、それでも何の声もなく、答える者もなく、注目する者もありませんでした。バアルには実体がないからです。偶像礼拝とは、実体のないものを神として礼拝しているだけのことです。それはただ森から切り出された木や石に、金箔とか、銀箔を塗っただけのものにすぎません。中身がないのです。ですから、どんなに叫んでも聞かれることはありません。空の空、すべては空です。偶像を拝む者もこれと同じです。それは空しいだけなのです。

それに対して、エリヤはどうしたでしょうか。30~40節をご覧ください。「30 エリヤが民全体に「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄って来た。彼は、壊れていた主の祭壇を築き直した。31 エリヤは、主がかつて「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって、十二の石を取った。32 その石で、彼は主の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、二セアの種が入るほどの溝を掘った。33 それから彼は薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に載せ、34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のささげ物と薪の上に注げ」と命じた。それから「もう一度それをせよ」と言ったので、彼らはもう一度そうした。さらに、彼が「三度目をせよ」と言ったので、彼らは三度目をした。35 水は祭壇の周りに流れ出した。彼は溝にも水を満たした。

36 ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37 私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」38 すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。39 民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。」

エリヤは、すべての民を呼び寄せると、まず壊れていた主の祭壇を築き直しました。主の祭壇が破壊されたというのは、彼らの信仰が崩れていたことを表しています。北王国イスラエルは、主からも、主との契約からも、遠く離れた状態にありました。それをまず立て直さなければならなかったのです。すべては主の祭壇を立て直すことから始めなければなりません。それが個人であっても、教会であっても、また国であっても、私たちは壊れた祭壇を立て直すことから始めなければならないのです。あなたの祭壇は壊れていませんか。あなたの心の祭壇を建て直し、主との関係を再建することから始めなければなりません。

次に彼は「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって12の石を取りました。これはイスラエル12部族を象徴していました。その石で彼は、主の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、2セアの種が入るほどの溝を掘りました。2セアとは、1セアが7.6リットルですから、約15リットルとなります。それほどの水が入る溝を掘ったのです。なぜでしょうか。次のところを見るとわかりますが、これから祭壇に注ごうとしている水が流れ出さないようにするためです。

それからエリヤは薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に乗せると、四つのかめに水を満たし「この全焼のささげものと薪の上に注げ。」と命じました。干ばつが3年以上も続く中、いったいどこからこの水を汲んできたのでしょうか。おそらく、カルメル山の麓のどこかに枯れていなかった泉が残っていたのでしょう。その水を全焼のいけにえと薪の上に3度も注いだのは、これから起こることがトリックではなく、神の御業であることを示すためでした。そのことばの通り3度水を注ぐと、周囲に掘られた溝に水が流れ出しました。エリヤは溝にも水を満たしました。それは絶対にトリックなどではないことを示すためです。

ささげ物をささげるころになると、エリヤは進み出て祈りました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37 私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」

エリヤはどのように祈ったでしょうか。エリヤは、バアルの預言者のようにやみくもに祈ったり、何度も同じことばを繰り返したりはしませんでした。彼はまず、「アブラハム、イサク、イスラエルの神」と呼びました。これは、イスラエルの神は契約の神であるということです。つまり、このことが神のみことばの約束に基づいて行われたことであると訴えているのです。次に彼は、主がこの祈りに応えてくださることによって、神の民であるイスラエルが主こそ神であることを知ることができるように、また、その心を翻してくださるようにと祈りました。

その結果はどうだったでしょうか。38~39節をご覧ください。「すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」

すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、何と溝の水もなめ尽くしました。主が勝利したということです。民はこれを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言いました。民はようやく、主だけが真の神であることを認識したのです。

私たちの誰もが、エリヤが体験したような奇跡を体験するわけではありません。しかし、日々の生活において、神はこのような奇跡を行っておられます。何よりも私たちの存在と生き方がそうなのではないでしょうか。

先週、那須で88歳と83歳の御夫妻が洗礼を受けられましたが、それは東京に住んでおられる一人娘さんの生き方に深く感動してのことでした。鬱で寝たきりの御主人を真心を込めて介護する力は、主イエスを信じる信仰から出ているということを、その姿から伝わってきました。

まことに私たちは取るになりない小さな者ですが、このような小さな者を通して成される主の御業を通して、それを見る人たちが「主こそ神です。主こそ神です。」と告白することができたらどんなに素晴らしいことでしょうか。

Ⅲ.福音のためなら何でする(41-46)

最後に、41~46節をご覧ください。「41 エリヤはアハブに言った。「上って行って、食べたり飲んだりしなさい。激しい大雨の音がするから。」42 そこで、アハブは食べたり飲んだりするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。43 彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。44 七回目に若い者は、「ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています」と言った。エリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗って、イズレエルへ行った。46 主の手がエリヤの上に下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行った。」

「上って行って」とは、カルメル山の山頂に上って行ってということではありません。自分の宿営地に帰って行ってということです。そこで食べてり、飲んだりするようにということです。なぜなら、激しい大雨の音がするからです。干ばつが終わり、もうすぐ雨が降るからということです。だから宴会を開いてお祝いするようにというのです。

すると、アハブは食べたり飲んだりするために上って行きました。彼には悔い改めも霊的洞察力もなく、ただ現状を見てホッとしたのです。何事もなかったかのように振る舞いました。

すると、エリヤはカルメル山の頂上に上り、地にひざまずいて祈りました。「自分の顔を膝の間にうずめる」とは、彼の祈りが真剣なものであったことを表しています。そして若い者に言いました。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」

若い者は上って行って見ましたが、何も見えなかったので「何もありません」と言うと、エリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返しました。そして七回目に上って行ったとき、人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上ってくるのが見えました。するとエリヤはその若者に、アハブにこう伝えるように言いました。「大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。」どういうことでしょうか。

エリヤは、手のひらほどの小さな雲が、やがて大雨に変わることを知っていました。それは、そのように前もって知らされていたからです。しかし、ただ知らされていただけでなく、彼が祈っていたからです。エリヤはずっと祈っていたので、それがどういうことなのかを悟ることができたのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも祈っていなければ、見えるものも見えなくなってしまいます。しかし、エリヤのように祈り求めていると、確かに約束がかなえられていることを悟ることができるのです。たとえそれが小さな兆候でも。小さな始まりを軽んじてはいけません。

しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい雨になりました。アハブは、その雨の中戦車に乗って、イズレエルへ行きました。それはカルメル山とイズレエル平原の間に、彼が冬を過ごす宮殿があったからです。すると主の手がエリヤに下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行きました。どういうことでしょうか。カルメル山からイズレエルの入り口までは、約35~40㎞あります。その距離を走り続けるというのは並大抵のことではありません。それは、主から超自然的な力が与えられていなければできなかったことです。エリヤは主の力をいただいて、アハブの車の前を走り続けました。何とかしてアハブを主に立ち返らせようと思ったからです。エリヤは背教の王を主に立ち返らせるために何でもしようと思ったのです。それで、アハブの車の前を35㎞も走ったのです。

このエリヤの姿から、主のしもべとはどのような者なのかを教えられます。彼の行動はすべて福音のため、主の栄光のためでした。主の栄光のために彼は、バアルとアシェラの預言者たちと戦い、主の栄光のために祈りました。主の栄光のためにアハブ王の車の前を何十キロと走り続けました。それは私たちも同じです。福音のためなら何でもするという決意で、ただ主の栄光が現わされることを求めなければなりません。ピリピ1:21で、パウロはこう言っています。「生きることはキリスト、死ぬことは益です。」これがパウロの生き方でした。生きることはキリスト、死ぬこともまた益なのです。私たちも、私たちの身をもって、ただキリストの栄光が現わされることをひたすら求めて歩もうではありませんか。

エレミヤ書11章1~10節「この契約のことばを聞け」

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エレミヤ書11章に入ります。ここから、エレミヤの第三のメッセージが始まります。第一のメッセージは2~6章にありましたが、そこでは、神から離れたイスラエルに対して、神に立ち返れと語られました。第二のメッセージは7~10章にありますが、そこには、神のことばに従わないイスラエルに対する神のさばきが語られました。そしてこの11章から第三のメッセージが語られます。その中心が、この「契約のことばを聞け」ということです。

結論から申し上げますと、この契約のことばに完全に聞き従うことは無理です。これに従おうとすることは大切なことですが、完全に行うことができる人など一人もいないのです。ではどうすればいいのでしょうか。それがきょうのポイントです。この契約のことばが指し示していたものをしっかり見て、そこに歩むことです。それがイエス・キリストです。イエス様の十字架の贖いを受け、神の聖霊をいただいて、新しい契約に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。きょうはこのことについてみことばを聞きたいと思います。

Ⅰ.この契約のことばを聞け(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語れ。3 『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。5 それは、わたしがあなたがたの父祖たちに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことを、今日のとおり成就するためであった。』」私は答えた。「アーメン。主よ。」

再びエレミヤに主の言葉がありました。これがいつのことなのか学者によって見解が分かれます。恐らく、南ユダ王国のヨシヤ王が死んだ後のことではないかと思います。ヨシヤ王の時代、大祭司でヒルキヤという人が神殿で律法の書を発見すると(B.C621)、それがきっかけとなって宗教改革につながっていきました。しかし、それは長くは続かずB.C.609年にヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死んでしまうと、ユダの民は元の状態に逆戻りしてしまいました。その時に語られたのがこれです。「この契約のことばを聞け。これをエルサレムの住民に語れ。」(2)

この「この契約のことば」とは、かつて神がモーセを通してイスラエルの民と結ばれたあの契約のことば、シナイ契約のことです。それはイスラエルの民がエジプトを出てシナイ山までやって来た時、彼らと結ばれた契約です。ですから、4節に「これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。」とあるのです。その契約を結んだ舞台がシナイ山だったので、この契約を「シナイ契約」と言うのです。シナイ契約といっても、契約をしないということではありません。ちゃんと契約をしましたが、シナイ契約と言います。この契約については出エジプト記19:4~5のところに、前提として次のように言われています。

「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

もし彼らが主の声に聞き従い、この契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の宝の民となると約束されていました。つまり、この契約のことばを守るなら祝福されるということです。これがイスラエルの原点でした。ですから、ここで神がエレミヤを通して語っておられることは、この原点に立ち返りなさいということです。そうすれば、祝福されると。それは彼らの父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことが成就するためでした。その約束通り主は、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださいました。しかし、その地に住むことと、その地に住んで祝福を味わうこととは別のことです。もしイスラエルの民がその契約を守るなら祝福を味わうことができますが、そうでなければ、のろわれることになります。それが3節で言われていることです。「『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。」

これが、モーセを通して神がイスラエルに約束してくださったことばです。この契約のことばを聞く者は祝福されますが、そうでなければのろわれることになります。

しかし残念ながら今、ヨシヤ王が死に人々が再び偶像礼拝に走って行ったことで、主は「もうここまで」と言われたのです。契約のことばを聞かなかった彼らに、のろいがもたらされると宣告をしているのです。奇しくも、申命記28:63のことばが実現しようとしていました。そこにはこうあります。「あなたがたは、あなたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる。」(申命記28:63)
 それが今、実現しようとしていました。神の民であるユダヤ人が約束の地から引き抜かれて、彼らの知らない異邦人のところ、つまり、バビロンに捕え移されようとしていたのです。

それに対してエレミヤは何と答えていますか。5節後半のところで彼は、「アーメン。主よ。」と答えています。「アーメン」とは、「その通りです」という意味です。そうなりますように、まことにそうです、ということです。つまり、契約にはペナルティーが伴うということです。もし神のことばに聞き従うなら神の祝福を受けますが、そうでなければのろいを招くことになります。その主のことばに対してエレミヤは、「アーメン、主よ。」と答えたのです。

私の妻は、1979年にカリフォルニア州のガーディナという町にあるカルバリーバプテストという教会から日本に遣わされました。その教会の牧師はアール・キースターという人でしたが、世界宣教、特にアジアの宣教に非常に重荷を持っていました。それは教会を退職してからも同じで、退職後はカールソンという教育担当の牧師をしていた御夫妻とオーカーストという町に移り住み、そこでりんごを栽培しながら後身の指導に当たっておられました。ですから、私たちが行くといつも大歓迎してくれて、私たちの日本での働きについて関心をもって聞いてくれました。

そのオーカーストという町のすぐ近くにアメリカでも有名な「ヨセミテ国立公園」があります。そこは岩肌がとても美しい大自然です。これはそのヨセミテで、1999年10月22日に起こった悲劇です。

この日、プロのパラシューダー(パラシュートを使って地上に曲芸的に降りる人)であるジャン・デイビス夫人が、事故で亡くなりました。ベース・ジャンプという大変危険なスポーツがありますが、彼女は、そのスポーツを行っていたのです。

その日、5人のジャンパーが、960mの絶壁から下に飛び降りる予定でした。彼女は、その4番目でした。しかし、パラシュートが開かないまま20秒間落下し、そのまま岩盤に叩きつけられたのです。彼女の夫は、その様子をビデオに納めていました。他に、数名の記者も同行していました。彼らは、その惨劇に、自分の目を疑いました。

そこは、この危険なスポーツであるベース・ジャンプは禁止されていました。というのも、それまでに6人もの人がそのスポーツでいのちを落としていたからです。

その日集まった5人のジャンパーたちは、ヨセミテ国立公園でのベース・ジャンプが禁止されているのを知っていましたが、皮肉なことに、彼らはベース・ジャンプが危険なものではないことを証明するために、あえて飛んだのです。彼らは、このスポーツの危険性だけでなく、違法性までも知っていました。ジャン・デイビスは、いのちの代価を払ってその償いをしたのです。

それはイスラエルの民も同じです。彼らもこの契約のことばを聞かなければどうなるかということをちゃんと知っていました。にもかかわらず、彼らはそれに聞き従いませんでした。その結果、神ののろいを受けることになってしまったのです。それは、私たちにも言えることです。この契約のことばを聞くなら祝福されますが、そうでなければのろわれてしまうことになるのです。

あるテレビの番組で、最近の若者の文化について特集していました。そこでは、最近の若者は「約束の時間を守らない、借りた物を返さない」ことが特徴だと言っていました。つまり、「いいかげん」な文化であるというのです。このままでは日本の将来が思いやられると嘆いていました。約束を守るということは、住みやすい社会を作るための基本的なルールです。神様と私たちの関係も同じで、約束(契約)というルールで成り立っています。神はイスラエルの民と契約を結ばれました。それは彼らが幸せに生きるためであって、その契約を守るなら祝福されますが、そうでなければのろわれることになるのです。

Ⅱ.わたしの声を聞け(6-8)

それに対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。6~8節をご覧ください。「6 すると、主は私に言われた。「これらのことばのすべてを、ユダの町々と、エルサレムの通りで叫べ。『この契約のことばを聞いて、これを行え。7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。8 しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。』」

「この契約のことばを聞け」ということが、何度も繰り返されています。「聞け」というのはただ聞くというだけでなく、聞き従うこと、聞いてそれを行うということです。聞いたらメモをしておこうではありません。聞いたら自分の感じたことをシェアしなさいということでもありません。聞いたら、それを実行しなさいということです。

7節をご覧ください。ここには、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。」とあります。新改訳聖書第三版では「しきりに戒めてきた」と訳しています。主は今日まで「わたしの声を聞け」と、しきりに、しばしば戒めてきました。2~3回ということではありません。しきりに、しばしば、です。何回も、何回も、忍耐をもって戒めてきたのです。なぜなら、やがて聞けなくなる時がやって来るからです。それがいつなのかはわかりません。しかし、その日は間違いなくやって来ます。このエレミヤの時代も、バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼそうとしていました。そうなったらもう聞けなくなってしまいます。私たちの時代でいえば、イエス様の再臨の時はそうでしょう。イエス様が再臨してからでは遅いのです。聞きたくても聞けなくなります。ですから、その前に聞かなければなりません。神様がこうやって戒めてくださるのは、本当に幸いなことなのです。ですから、「わたしの声を聞け」という主のことばをスルーしないでください。「いつかそのうちに」とか、「今のところはまだ」などと言わないでください。「今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)とあるように、主の御声を聞いていただきたいと思います。

いったいなぜ主は「わたしの声を聞け」と言われるのでしょうか。それはあなたを責めるためではありません。また、あなたを叱るためでもないのです。それは、あなたに信仰を与えたいからです。というのは、信仰は聞くことから始まるからです。ローマ10:17にこうあります。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

皆さん、信仰は聞くことから始まります。神はあなたに、イエス・キリストに対する信仰を与えたいのです。神が語られるとき、それは時として耳に痛いことばかもしれません。とても聞くに耐えられないと思うかもしれない。このエレミヤのことばもそうでした。当時のユダヤ人にとっては非常に厳しい言葉だったので、故郷アナトテの人たちは彼を殺そうとしたほどです。もう聞きたくないと思いました。でも、信仰は聞くことから始まります。どんな言葉であろうと、どんな内容であろうと、聖書のことばを聞くことを止めないでいただきたい。聞くことを止めてしまったら、あなたは信仰に立ち続けることができなくなってしまいます。でも聞き続けるなら、あなたはしっかりと立つことができます。ですから、主のことばを聞くことを止めないでください。ヤコブ1:21には、「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなければなりません。その御言葉が、あなたのたましいを救うことができるからです。あなたの考えがあなたを救うのではありません。神の御言葉があなたを救うのです。神の御言葉は完全だからです。詩篇19:7~10にこうあります。「7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ 主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。8 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで人の目を明るくする。9主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。10 それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」

8節をご覧ください。「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。」

しかし、イスラエルの民は聞かず、耳を傾けませんでした。そして、頑なな悪い心のままに歩みました。それゆえ、主はこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませました。臨ませたとは、実現させたということです。つまり、神のことばを聞かない者はのろわれるということばを実現させたということです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。約束の地から引き抜かれることになります。それは主が行うようにと命じられたのに、彼らが行わなかったからです。

Ⅲ.契約のことばを破ったイスラエル(9-10)

では、どうしたらいいのでしょうか。9~10節をご覧ください。「9 主は私に言われた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。10 彼らはわたしのことばを聞くことを拒んだ自分たちのかつての先祖の咎に戻り、彼ら自身もほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った。」

6~8節で言われたことが、ここでも繰り返されています。こうやって見ると、イスラエルの民はいつも罪を犯していることがわかります。でもこれはイスラエルの民だけのことだけでありません。私たちも同じなのです。私たちもいつも罪を犯しています。私たちはあからさまにバアルとかアシェラといった偶像を拝むことはしないかもしれませんが、テレビやネットなどの情報を信じてまことの神から心が離れてしまうことがあります。つまり、どの時代の人でも本質的にはみな罪人なのです。聖書に「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:11)と書いてある通りです。だれ一人として神の律法を守り行うことができる人などいないのです。であれば、この契約ことば、律法にいったいどんな意味があるというのでしょうか。

この問題について取り上げているのが、ガラテヤ人への手紙3章です。この中でパウロは次のように言っています。「10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:10-13)

律法の行いによるならば、人はみなのろわれた者です。なぜなら、義人はいない、一人もいないのですから。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないのです。しかし、信仰によるのであれば別です。信仰によるなら義と認めていただくことができます。「義人は信仰によって生きる」とあるからです。そのために、キリストはご自分がのろわれた者となって、十字架にかかって死んでくださいました。それは、罪のために神ののろいを受けて死ななければならない私たちの代わりとなって、私たちを律法ののろいから贖い出すためでした。木にかけられる者はのろわれた者なのです。律法を行うことができなくてのろわれた者となった姿こそ、この木にかけられた者の姿なのです。これが私たちの本来の姿です。しかし、律法をすべて行うことができる方、全く罪のない完全な神の御子イエス・キリストが代わりにのろいを受けてくださることによって、この方を信じる者を義と認めてくださったのです。

これが、永遠の神の救いのご計画でした。これが「新しい契約」と呼ばれているものです。新しい契約があるということは古い契約もあるということですが、その古い契約こそ、このシナ契約です。つまり、このシナイ契約が指し示していたもの、シナイ契約の先にあったのもの、それがこの新しい契約だったのです。それは新約聖書で明らかにされたのではなく、このエレミヤの時代にすでに啓示されていました。たとえば、エレミヤ31:31~33にこうあります。「31 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─主のことば─。33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

新しい時代に、主がイスラエルと結ばれる新しい契約は、エジプトの地から導き出された日に、彼らと結んだような古い契約とは違います。それは、彼らの心に書き記される律法です。それは行いによるのではなく、神の真実に基づくものであって、イエス・キリストが流された血によって結ばれる契約なのです。イエス様がこのように言われました。「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:20)

したがって、ここでは私たちクリスチャンにとって非常に重要なことが教えているのです。それは、人は律法の行いによっては救われないということです。「この契約のことばを聞け」とか、「わたしの声を聞け」とありますが、残念ながら私たちは聞き従うことができないのです。律法を守り行おうとすることは大切なことですが、その律法によってはだれも罪から救われないということです。結果、神ののろいを受けるしかありません。

では、この契約のことばにいったいどんな意味があるというのでしょうか。何のために律法が与えられたのでしょうか。それは、私たちが罪人であることを示すためです。そして、その罪から救われたいという願いを起こすためです。律法があるからこそ、私たちは神の前にどのような者であるかがわかります。律法は、いわば私たちの姿を写し出す鏡なのです。それがなかったら、義人はいない、一人もいないと言われても、ピンとこないでしょう。 「いや、私はそんなに悪い人間ではありません」とか、「隣の人を見てください。その人の方がよっぽど悪い人ですよ」となります。

でも、この律法の前に置かれたらどうでしょうか。神様の前に顔向けできなくなります。目も合わせることもできません。違反が示されるからです。律法が与えられた目的はここにあります。ガラテヤ3:22にこうあります。「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。」つまり、律法は私たちを罪の下に閉じ込めてしまうのです。ですから、律法によっては救われないことは明らかです。律法によるなら、のろわれるしかありません。だからこそ神は、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。それは、私たちが律法を行うことによってではなく、信仰によって義と認められるためです。律法の行いによっては永遠にのろわれて当然な者なのに、神は救い主を私たちのところへ送り、この救い主を信じる信仰によって救おうとしてくださいました。永遠ののろいから、永遠の祝福へと移してくださったのです。ですから、主イエスを信じるならだれでも救われるのです。

大切なのは、何を信じるのか、だれを信じるのかということです。今、あなたが信じているものは何でしょうか。それは大丈夫ですか。それはあなたを救うことができるでしょうか。あなたが愛して止まないもの、あなたが頼りにしているものは、あなたを裏切らないでしょうか。ほんとうに困ったとき、あなたを助けてくれるでしょうか。あなたに永遠のいのちを与えてくれるでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。

しかし、イエス様を信じる者は、だれでも救われます。何かをしなければならないということではありません。ただ信じるだけでいいのです。イエス・キリストを信じる者はみな救われます。律法によってはのろわれた者でしかない私たちを、神は救ってくださいました。十字架の贖いによって。この神の救い、イエス様の十字架の贖いを受け、神が与えてくださる聖霊の力によって、神のみことばに従う者とさせていただきましょう。自分の力、肉の力では限界があります。神が与えてくださる聖霊の力こそ、私たちが神のみことばに従う秘訣なのです。それは神の救い、イエス・キリストの贖いを受けることから始まります。この契約ことばは、イエス・キリストによって結ばれる新しい契約を指示していたのです。

Ⅰ列王記17章

 今日は、列王記第一17章から学びます。

 Ⅰ.ティシュベ人エリヤ(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。「1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。」

いよいよ旧約聖書における、代表的な預言者エリヤが登場します。エリヤが登場するのは、この北王国イスラエルの王アハブの時代です。彼は、ティシュベの出身でした。ティシュベは、ヨルダン川の東側のギルアデにある町です。彼は、アハブ王がシドン人の娘イゼベルを妻とし、バアルに仕えそれを拝んでいると聞いて、神の怒りに燃え、サマリアにいるアハブのところにやって来たのです。その距離、約50㎞です(新改訳聖書第三版巻末の地図、「イスラエルとユダの王国」参照)。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。彼は神のことばを受けて、それをアハブに伝えました。

それは、「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」(1)というものでした。エリヤが仕えているイスラエルの神、主は生きておられる神です。バアルのように何もできない偶像ではありません。これは、その主が言われることばなのです。それは、ここ数年の間は露も降らず、雨も降らないということでした。つまり、干ばつになるということです。干ばつになるという預言は、バアルを礼拝する者にとっては致命的なことでした。なぜなら、バアルは雨を降らせる神、豊穣神と考えられていたからです。その雨が降らなくなるということは、イスラエルの神、主は、バアルの専門分野をも支配することになります。すなわち、バアル以上の神となるわけです。ですから、このエリヤの干ばつの預言は、ある意味でバアルに対する宣戦布告であったのです。

現代に生きる私たちも、私たちの人生に真の恵みの雨をもたらしてくれるものは何かを考えなければなりません。それは自分の力、家族、友人、偶像の神々ではなく、生きておられるまことの神、主であられるということです。エリヤの力の源は、この主なる神への信頼にあったのです。生けるまことの神に信頼するなら、恐れたり、不安になったり、絶望したりする必要はありません。

ところで、ヤコブ5:16~18に、このエリヤについての言及があります。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」

ここでのポイントは、エリヤは私たちと同じ人間でしたが、という点です。彼は決して特別な人ではありませんでした。私たちと同じ人間でした。しかし、雨が降らないように祈ると、そのようになりました。義人の祈りが働くと大きな力があるからです。義人とは、神の目で正しい人であるということです。神に信頼して生きる人のことであります。生ける神に信頼し、この方に祈るなら、私たちも神から大きな力が与えられるのです。

それから、エリヤに次のようなことばがありました。「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3-4)

ケリテ川がどこにあるか、はっきりしたことはわかっていませんが、ティシュベの北を流れる川であったと考えられています。エリヤは、ヨルダン川の東にあるティシュベから北イスラエルの首都サマリアに行ったかと思ったら、再びヨルダン川の東側に戻らなければなりませんでした。そいったい何のためでしょうか。ケリテ川のほとりに身を隠すためでした。主は、アハブの手から彼を守ろうとしたのです。それは同時に、彼の信仰を養うためでもありました。そのような飢饉の中でも彼を養うことを通して、彼の信仰を強めようとされたのです。どのように?何と主は、烏にエリヤを養うように命じたというのです。

エリヤは主のことばのとおりケリテ川のほとりに行って住むと、何羽かの烏が「カー、カー」とやって来て、朝、夕とパンと肉を運んできました。また、彼はその川から水を飲みました。烏は、自らのひな鳥にさえ餌を忘れるような鳥です。その烏がエリヤのところに朝、夕と食べ物を運んで来たというのはアメージングです。これは神様の奇跡なのです。この「パン」という言葉は、へブル語で「レヘム」という語ですが、食べ物一般を指すことばです。ですから、パンという特定の食べ物だけでなく、そこには果物やナッツ、卵といったものも含まれていたことでしょう。主なる神さまの配慮とその方法には驚かされますね。でも、これが神の方法なのです。神の方法は私たちの想像をはるかに超えています。ですから、今月は食べるお金がないと言って心配しなくても大丈夫です。神様がちゃんと養ってくださいますから。

先日、さくらチャーチの礼拝で、長谷川先生が「さば缶」の話をされました。寒川の教会を開拓される中で食べるのにも困り果て、しょうがなく奥様が近くの施設で仕事をするようになりましたが、どうも平安がありませんでした。自分たちは主に召されたのだから、必要ならば主が与えてくださるのではないかとお仕事を辞めました。さて、この先どうしたらいいものかと途方に暮れていた時、信徒の方が「先生、これを食べてください」と、さばの缶詰をいただいたのです。ちょうど烏がエリヤのもとにパンと肉を運んで来たように、先生のもとに信徒を遣わしてさばの缶詰と大根か何かを運んでくださったのを忘れることができないと、話しておられました。まさにそうです。主は烏を用いて私たちを養ってくださるのです。

しかし、しばらくすると、その川が枯れてしまいました。その地に雨が降らなかったからです。干ばつの影響が出始めたのです。すると、主は彼にシドンのツァレファテに行き、そこに住むようにと言われました。すると主はどうされたでしょうか。

Ⅱ.ツァレファテのやもめの所で(8-16)

8~16節をご覧ください。「8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」

主はエリヤに、シドンのツァレファテに行き、そこに住め、と言われました。そこに一人のやもめに命じて、彼を養うようにしているというのです。「ツァレファテ」は、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ヨルダンの東にあったケレテ川からは100㎞ほど離れたところにあります。主はなぜわざわざツァレファテに行くようにと言われたのでしょうか。

一つの理由は、そこはアハブの妻イゼベルの出身地であったからです(16:31)。つまり、そこはバアル礼拝の中心地であったということです。そこで主は、ご自身がバアルよりも偉大なお方であることを示そうとされたのです。

二つ目に、このことによって神のご計画を示そうとしておられたからです。ルカ4:25~26にこうあります。「25 まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。」これは、イエス様がご自身の出身地であるナザレで受け入られなかった時に言われたことばです。ここで主はご自身が誰の所に遣わされたのかを述べるにあたり、このツァレファテの、一人のやもめに遣わされたと言われました。ツァレファテは異邦人の地です。つまり、イエス様はユダヤ人の中で拒まれたために、その名は異邦人の中でほめたたえられるようになるということを啓示しておられたのです。

三つ目に、このことによって神の偉大な御業を示そうとしておられたからです。一人のやもめに養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度が整っている今日とは異なり、こじきより多少ましであるという程度の貧しい存在であったからです。そんなこと考えられません。もし遣わすなら、もっと裕福な人のところに遣わした方が良いに決まっています。けれども神は人の考えとは違い、人の考えをはるかに超えたところで働かれるお方です。神はこのことを通してエリヤの信仰を訓練しようとしておられたのです。

主のことばに従って、エリヤがそのツァレファテに行くと、ちょうどそこに薪を拾い集めている一人のやもめがいました。そこでエリヤは彼女に、ほんの少しの水を飲ませてくれるようにと頼みました。これは、やもめが好意的に受け入れてくれるかどうかを試すためだったのでしょう。すると彼女が好意的に応答し、水を取りに行こうとしたので、彼は一口のパンも持って来てくださいとお願いしました。

すると彼女は何と言いましたか。彼女は、「あなたの神、主はき生きておられます。」と言いました。これは驚くべきことです。なぜなら、彼女は異邦人でしたが、イスラエルの神に対する信仰を持っていたからです。いわばこれは、彼女の信仰告白と言ってもいいでしょう。それにしてもどうして彼女はエリヤを見たとき、彼がイスラエルの預言者だとわかったのでしょうか。いずれにせよ、彼女はイスラエルの神、主は生きておられると告白することができました。けれども、彼女には焼いたパンはおろか、あるのはかめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油だけでした。彼女は今集めている薪で、帰って、自分と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしていたのです。その時に現れたのがエリヤです。まさに絶妙なタイミングです。これは偶然ではなく神の摂理的な導きによるものでした。このことを通して主はエリヤだけでなく、彼女の信仰も養おうとしておられたのです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。彼は、「それは大変ですね。わかりました。そうしてください」とは言いませんでした。エリヤは彼女にこう言いました。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13-14)

エリヤは、最初のパン菓子を、自分のところに持ってくるようにと命じました。それが終わってから、自分たちのために作りなさいと。 たとえ主からのことばが与えられていたからと言っても、このようなことはなかなか言いにくかったことでしょう。人間的に聞いたら、ずいぶん身勝手というか、調子がいい話です。いや、残酷な話です。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものなのですから。しかし、エリヤは大胆にそれを伝えました。それは、エリヤが主のことばを信じていただけでなく、このやもめもイスラエルの神である主を知るためです。彼女自身が、神を信じるその信仰を試しておられたのです。どのような信仰でしょうか。神の国とその義とを第一にするなら、神はそれに加えてすべてのものを備えてくださるという信仰です。彼女がエリヤのためにまず小さなパン菓子を作ったら、自分たちのためのものはありません。しかし、主のみことばに従って主を第一にするなら、主は必ず必要を与えてくださいます。主が血の上に雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くならないということです。

彼女は、エリヤが言ったとおりにしました。するとどうなったでしょうか。15節をご覧ください。すると、主は約束通り、エリヤとそのやもめの一家を養われました。彼らは長い間食べることができたのです。主が言われたとおり、かめの中の粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。すばらしいですね。「かめの中の粉は尽きず、壺の中の油はなくならない。」私はこの言葉が好きです。

ここからどういうことが言えるでしょうか。主は生きておられる方であり、この方に信頼するなら失望させられることはないということです。ツァレファテは、バアル礼拝の中心地シドンの地方にありました。ですから、そこでも干ばつが起こっていました。しかし、主はどんなに干ばつが続いても、麦から取れる粉とオリーブから取れる油を供給し続けてくださったのです。そうです、私たちの主は、バアルよりも偉大なお方なのです。この天地を造られた創造主であられ、今も生きて働いておられる神なのです。私たちも、このイスラエルの神、主こそ、天地を支配しておられる神であると認め、この方だけに信頼しましょう。

Ⅲ.やもめの息子の死(17-24)

最後に、17~24節をご覧ください。「17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。20 彼は主叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」22主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」

それからどれくらい経ったかわかりませんが、このやもめにさらなる試みが襲い掛かります。彼女の息子が病気なり、ついに死んでしまったのです。やもめにとっては何が何だかわからなかったでしょう。死のうとしていたところを生かしてくれたかと思ったら、今度は息子が死のうとしていたのですから。18節のやもめのことばには、こうした彼女の心境が見て取れます。

するとエリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言うと、やもめからその子を受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせました。ここに「その子を彼女の懐から受け取り」とか「抱えて上がり」とあるので、この子がまだ幼かったことがわかります。

エリヤはその子を自分の寝床の上に寝かせると、主に叫んで言いました。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」 そして、その子の上に三度身を伏せて、主に叫んで言いました。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」するとどうでしょう。主はエリヤの祈りを聞かれ、子どものいのちがその子のうちに宿り、その子は生き返ったのです。ある人は、この子は本当は死んだのではなく意識を失っていただけだと考えますが、そうではありません。やもめの絶望とエリヤの必死の祈りが、この子が死んでいたことを示しています。ここでエリヤは三度祈っています。ただ祈ったのではありません。三度も必死に忍耐強く祈り続けました。ここにエリヤの必死に求める信仰が表されています。あの王室の役人の息子が死んだときも、父親はイエス様のもとに来て、息子が癒されるようにとひれ伏して祈りました(ヨハネ4:47)。イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)と言われましたが、主は愛する者のために、こうした必死の祈りに応えてくださる方なのです。それは主が生きておられる神であり、そのことばが確かなものであることを示すためです。

その子が生き返ったとき、彼女はエリヤにこう言いました。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」(24)

それは彼女の信仰を引き上げ、彼女が主こそ神であることを示すために神がなされた御業だったのです。

その主は今も生きて働いておられます。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は豊かに応えてくださいます。私たちはその主に叫び、主が祈りに応えてくださることを通して、主こそ神であり、この主に信頼して信仰から信仰へと歩ませていただきましょう。

エレミヤ書10章17~25節「あなたの道を主にゆだねよ」

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きょうは、エレミヤ書10章後半から、「あなたの道を主にゆだねよ」というタイトルでお話します。きょうのタイトルは23節から取りました。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」
 ここには、人にはその歩む道を確かにする力はないと言われています。ではどこにその力があるのでしょうか。勿論、それは主なる神様です。ここにはそれが省略されていますが、言わんとしていることは明らかです。箴言にはこのことがもっとはっきりと言われています。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)
 であれば、私たちは自分の道をすべて主にゆだねなければなりません。そうすれば、主が成し遂げてくださいます。それは必ずしも平坦な道ではないかもしれません。しかし、それが主が定めておられる道ならば、主が確かなものにしてくださいます。
 きょうは、そのことを悟れなかったユダと、それを悟った預言者エレミヤの姿を対比しながらお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの嘆き(17-21)

まず17~21節までをご覧ください。17節と18節をお読みします。「17 包囲されている女よ、あなたの荷物を地から取り集めよ。18 まことに主はこう言われる。「見よ。わたしはこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめる。彼らが思い知るためだ。」」

「包囲されている女」とは、エルサレムの住民のことです。そのエルサレムの住民に対して主は、「あなたの荷物を地から取り集めよ」と命じています。なぜでしょうか。なぜなら、これから長い旅に出ることになるからです。それはGo to travelのような楽しい旅ではなく、バビロンまで捕虜として歩いていかなければならないという過酷な旅です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされてしまうのです。でも彼らには信じられませんでした。当時はアッシリヤ帝国がオリエント世界を支配していました。どうやってバビロンなどという新興国がアッシリヤを倒し、南ユダを滅ぼすことができるというのでしょうか。そんなことはあり得ないと。しかも、ここには主の宮がある。契約の箱もあれば、主の律法もある。そんな神の民を、どうやって滅ぼすというのか。そんなこと絶対にあり得ないと、高をくくっていたのです。しかしそれは彼らの単なる思い込みにすぎませんでした。18節にあるように、主はこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめます。「今度こそ」というのは、今までもそういうことがあっても何度か生き延びることができましたが、今度はそういうことはない。今度こそ間違いなく放り出されることになるいう、神の強い意志が表されています。これは勿論、捕囚の民としてバビロンに連行されるということです。力ずくで町から追い出され、捕虜として連れ去られることになるのです。

それを知ったエレミヤはどうなったでしょうか。19~20節をご覧ください。「ああ、私は悲しい。この傷のために。この打ち傷は癒やしがたい。しかし、私は言った。「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」20 私の天幕は荒らされ、そのすべての綱は断たれ、私の子らも私から去って、もういない。もう私の天幕を張る者はなく、その幕を広げる者もいない。」

エレミヤは、深い悲しみに打ちひしがれました。それは天幕が荒らされ、そのすべての綱が断ち切られ、神の民が捕囚の民として連れて行かれることになるからです。天幕が荒らされるとか、そのすべての綱が断ち切られるというのは、彼らの土地が踏みにじられるという意味です。エレミヤは、エルサレムがそのような状態になることを聞いて、嘆いているのです。それは癒しがたい傷だと。

ここで注目していただきたいのは、エレミヤがそれを自分のこととして受け止めていることです。たとえば、19節では「わたしは悲しい」とか、「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」と言っています。また、20節でも「私の天幕は荒らされ」とか、「私の子らも私から去って、もういない」と言っています。「私の天幕は荒らされ、そのすべての綱は断たれ」と言っています。彼らの天幕が荒らされるといっているのではありません。彼らの子らが彼らから去ってというのではないのです。自分の天幕が荒らされ、自分の天幕の綱が断ち切られ、自分の子らが取り去られると言っているのです。エレミヤは、ユダの滅びを完全に自分のものとして受け止めていました。

いったいなぜ彼はここまで彼らと一体となっていたのでしょうか。それは前にもお話したように、同胞ユダヤ人をこよなく愛していたからです。自分はここから離れたいと思っても、決して離れることができない、そういう愛の絆で結ばれていたのです。

そしてそれは、私たちに対する神の愛と同じです。神は罪に苦しむ私たちを見て、「この傷は癒しがたい。」「まことに、これこそが私が負わなければならない病だ。」と言ってくださるのです。そしてその通りに、主は私たちの罪を負ってくださいました。十字架の上で。それが私たちの主イエス・キリストです。キリストは私たちが負わなければならない病を、その身に負ってくださいました。そのことが、キリストが生まれる700年も前に、それはちょうどこのエレミヤ書が書かれた約100年前ですが、預言者イザヤによって預言されていました。イザヤ書53章です。イザヤ書53章は、メシヤ預言として、来るべきメシヤがどのような方なのかを、イザヤが預言したものですが、その中に次のようにあります。

「4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4-6)

やがて来られるメシヤは、私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださいました。その打ち傷によって私たちは癒されたのです。本来、私たちが受けるべき罪の刑罰を、彼が代わりに負ってくださったからです。それが十字架です。ここに神様の私たちに対する愛がいかんなく表されていると思います。

クリスチャンのシンガーソングライターで岩渕まことさんという方がおられますが、岩渕さんはクリスチャンになって7年目に、愛する8歳の娘さんを天に送られました。その経験を通して、父なる神さまの苦しみを改めて感じられたそうです。わが子イエスを十字架につける神さまの苦しみは、どれだけ深かったことでしょう。しかしその十字架は、私たちに対する神さまの愛の証しでした。それを歌った詩があります。それが「父の涙」という詩です。

心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎて行く
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

父が静かにみつめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よかれらを赦してほしいと
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛
(作詞・作曲 岩渕まこと、アルバム『HEAVENLY』より)

恐らく、岩渕さんは娘さんが病気になって苦しんでいるのを見て、できれば代わってやりたいとどれほど思ったことでしょう。願っても叶わない歯がゆさを覚えたに違いありません。でも神はそれをしてくださいました。神は罪に苦しんでいる私たちを見て、代わりに死んでくださったのです。これこそわたしが負わなければならない病だと言って。その打ち傷のゆえに、私たちは癒されました。これが神の愛です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ひとり子さえも与えてくださる愛、神様の愛は本当に偉大ですね。この神の愛に、あなたはどのように応答されますか。

Ⅱ.エレミヤの悟り(22-23)

次に、22~23節をご覧ください。「22 声がする。見よ、一つの知らせが届いた。大いなるざわめきが北の地から来る。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするために。23 主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

ここでエレミヤは一つの声を聞きます。第三版では「うわさ」と訳しています。どんな声を聞くのでしょうか。それは、大いなるざわめきが北から来る、という声です。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするためにです。

それに対してエレミヤは何と言っていますか。23節には、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」とあります。

どういうことでしょうか。エレミヤは、ユダの滅びを前にして、自分の道を主にゆだねているのです。エレミヤは知っていました。人には歩むべき道を決定することも、その歩みを確かなものにする力もないということを。その人の歩みを確かなものにするのは神様です。神によってのみ、人の道は確かなものとなるのです。箴言16:9にはこうあります。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(新改訳改訂第3版)

また詩篇37:23~24にはこうあります。

「23 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

すばらしい約束ですね。人は神によって定められた道を歩むとき、神がその人を支えてくださいます。たとえ倒れることがあってもまっさかさまに倒れることはありません。主が支えておられるからです。ですから、どうぞ皆さん安心してください。

あなたはどうでしょうか。主がすべてを支配していると認め、主にすべてをゆだねておられるでしょうか。それとも、まだ自分の悟りに頼っているでしょうか。詩篇37:5にはこうあります。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)

また、箴言3:5-6にもこうあります。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)

ある人のクリスチャンの証です。主に示された道を進もうとした時、未信者の親族たちから猛反対されました。代わるがわる説得され、何やかにやと言われる。しかしこの事は主の御心だと思え、祈りに祈っていました。しかしなかなか道が開かれず、なおも祈り続けていました。 

でも周囲からの反対は変わらず、こんなに祈っているのに、どうして道が開かれないのか。しかし更に祈り続けました。するとその祈りの中で、心が探られ内側が照らされました。確かにそれは主の御心ではあるのだが、周囲の余りの反対に、反発心が起きて、心の中では反抗的になり、意地になっている自分に気づかされたのです。

心が頑なになっていて、何としてでも、自分の意志と力で突き進もうとしていました。主の栄光などではなく、自我そのものであったのです。心から悔い改めて、今一度主に自分自身を明け渡しました。真に主の御心が成りますようにと祈ると、心に平安が与えられました。

そして、すべてを主に委ねて祈っていると、時満ちて、門が開かれたのです。時と共に周囲も認めてくれて、御心の道へと進む事ができました。とにかく祈りに持って行くなら、間違った動機も、態度も教えられます。そして祈りも軌道修正されながら、御心へと導かれていくのです。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主を認め、主に拠り頼む人は、何と幸いでしょうか。主がその人の道をまっすぐにしてくださいます。自分の悟りではなく、主に拠り頼みましょう。主によって定められている道を、歩もうではありませんか。

Ⅲ.エレミヤの祈り(24-25)

最後に、24~25節をご覧ください。「24主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。25 あなたを知らない国々の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。」

これは、エレミヤの祈りです。人は神の恵みと助けがなければ一歩も動けないということを悟ったエレミヤは、民のために泣きながら祈っています。御怒りによるのではなく、ただ、公正をもって懲らしめてくださいと。これはどういうことかというと、神のさばきがイスラエルの民が滅亡するような厳しいさばきではなく、立ち上がることができる程度の懲らしめであるようにということです。また25節には、イスラエルの民を攻撃する敵、これはバビロンのことですが、そのバビロンの上に神の憤りを注いでくだるようにと祈っています。なぜなら、彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。これはどういうことかというと、バビロンはやりすぎたということです。彼らはユダの民を懲らしめるための単なる神の道具にすぎなかったのに、ヤコブを食らって滅ぼそうとしました。それはやりすぎだと、エレミヤは訴えているのです。だから彼らの上に神さまの憤りを注いで、彼らを滅ぼしてくださいと祈っているのです。それはひいてはユダの救いにつながることになりますから。直接的には、ユダの救いのために祈っていませんが、敵の滅びを祈ることで、間接的にというか、遠回しにユダの救いを祈っているのです。

でも私たちは先に、神がエレミヤにこう言われてことを知っています。「この民のために祈ってはならない。」(7:16)彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。とりなしてはならないということを。それは11:11とか、11:14にも出てきます。それなのに、エレミヤはこの民のために祈っているじゃないですか。これはどういうことでしょうか。

よく見ると、エレミヤは民のために祈っていません。彼は自分のために祈っています。ここには、「主よ、私を懲らしめないでください。」とか、「そうでなければ、私は無に帰してしまいます」と言っています。ユダの民のためではなく自分のために祈っているのです。しかし、その自分というのはだれかというと、ユダの民の代表としての自分です。ですから、直接的にはユダの民のためには祈っていませんが、その民の代表としての「私」のために祈ることによって、結局、民のために祈っているわけです。ここにエレミヤの知恵というか、賢さを感じます。そんなの屁理屈だという人もおられるかもしれませんが、これは神から与えられたエレミヤの知恵なのです。それは神の願いでもありました。それほどまでに民を愛していたからです。それが私たちの神です。神は、ご自身の民を冷たく突き放すような方ではありません。神はあなたが救われるようにと祈っておられるのです。あなたを助けたいのです。あなたを滅びから救いたのです。ここまで願ってくださるのが私たちの神様です。ここまで考えてくださるのが私たちの神様なのです。このような神の愛にあなたはどのように応答されますか。

これほどまでの愛のメッセージを聞かされて、ユダの民はさぞ感動したことでしょう。と思いきや、26:8~11を見るとそうでないことがわかります。ここにはこうあります。「8 主が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。9 なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、主の名によって預言したのか。」そこで、民全体は主の宮のエレミヤのところに集まった。10 これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着いた。11 祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」
 信じられません。主が語れと言われたことをエレミヤがすべて語り終えると、何と祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえ、死刑を宣告するのです。でも神が特別にエレミヤを守ってくださったので、死から逃れることができました。これほどすばらしいメッセージを聞いてもそれを拒絶されるだけでなく、迫害されることもあるのです。神を信じて、神の道に歩もうとする時、それを快く思ってくれない人がいるわけです。もしかすると、それはあなたのごく親しい人かもしれません。あなたの夫とか、妻とか、息子、娘かもしれない。必ずしも、みながこの救いのメッセージを受け入れるとは限らないのです。

9月10日、11日と、保守バプテスト同盟のチームが、福島県西会津町の教会未設置町に宣教に行った時の報告書を見ました。そこは、かつてイギリス人の婦人宣教師のパルマー先生が、47歳で召しを受け、会津若松市で10年間仕えたのち、移り住んだ町です。80歳で帰国するまで22年間一度も帰国せずに開拓伝道に取り組みました。私も毎年夏、近くの金山町という町にある沼沢湖に家族でキャンプに行ったとき、日曜日の礼拝にお邪魔したことがありますが、そこには1人の兄弟とまだ洗礼を受けていない2~3名の婦人たちが集まっていました。22年間伝道してたった1人です。80歳を過ぎてパルマー先生は帰国しなければならなくなったとき、恵泉キリスト教会の会津チャペルがその働きを引き継ぎました。

バルマー先生によって22年間の種まきがなされてきたこともあって、刈り入れるばかりになっていると信じて、9月10日と11日の2日間、21名の兄姉が数名のチームに分かれて訪問伝道を繰り広げたのです。

その結果、あるチームは40軒以上訪問して、ほぼ全て断られました。結局、167軒を訪問して、返事なしが60件、拒否57件、ただの受け入れ10件、祈りの受け入れ8件、キリストを受け入れると表明したのはたった1人だったそうです。たった1人でも、そこにキリストの福音を聞き、受け入れるという人がいたことはすばらしいことですが、これがこの世の現実なのです。

こんなにすばらしい救いなのに、こんなにすばらしい神様なのに、受け入れるのはごくわずかです。それは決して平坦な道のりではありません。でもそれがどんなに茨の道でも、主はエレミヤにこう約束してくださいました。「18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」」(エレミヤ1:18-19)

どんなに人々があなたを拒み、あなたを憎み、あなたを弾圧することがあっても、がっかりしないでください。主はあなたとともにいて、あなたを助け出してくださいますから。あなたが一人ぼっちになっても、主はあなたを見捨てることはなさいません。あなたとともにいて、あなたを守ってくださいます。あなたを助け、あなたを強くしてくださるのです。あなたに求められているのは、彼らを恐れないで、主が語れと言われたことを語ることです。あなたは、神によって定められている道を歩まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。人の道はその人によるのではなく、その歩みを確かにするのは、主ご自身であられるからです。その主の道を歩もうではありませんか。主があなたに求めておられるのは、主を求め、主の道に歩むことです。どれだけの人を救いに導いたかとか、どれだけ立派なことをしたかということではなく、あなたがどれだけ主に忠実であったかということ、どれだけ誠実であり続けたかどうが問われているのです。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。この約束を握りしめながら、すべてを主にゆだね、主が示される道を歩もうではありませんか。

Ⅰ列王記16章

 今日は、列王記第一16章から学びます。

 Ⅰ.北王国イスラエルの王バアシャとエラ(1-14)

まず、1~14節までをご覧ください。や節までをお読みします。「1 そのとき、ハナニの子エフーに、バアシャに対する次のような主のことばがあった。2 「わたしは、あなたをちりから引き上げ、わたしの民イスラエルの君主としたが、あなたはヤロブアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪によってわたしの怒りを引き起こした。3 今、わたしはバアシャとその家を除き去り、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにする。4 バアシャに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」

5 バアシャについてのその他の事柄、彼が行ったこと、その功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。6 バアシャは先祖とともに眠りにつき、ティルツァに葬られた。彼の子エラが代わって王となった。7 主のことばはまた、ハナニの子、預言者エフーを通してバアシャとその家に向けられた。それは、彼が【主】の目に悪であるすべてのことを行い、その手のわざによって主の怒りを引き起こしてヤロブアムの家のようになり、また彼がヤロブアムを打ち殺したからである。」

北イスラエル王国の3代目の王バアシャについての記述です。彼については、15:27~に帰されてあります。今回はその続きです。預言者ハナニの子エフーに、主のことばがありました。2~4節です。「わたしは、あなたをちりから引き上げ、わたしの民イスラエルの君主としたが、あなたはヤロブアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪によってわたしの怒りを引き起こした。3 今、わたしはバアシャとその家を除き去り、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにする。4 バアシャに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」

主は彼を、ちりから引き上げてくださいました。それは何もないところから引き上げてくださったということです。彼は貧しい家の出で何もなかったのに、主がそのような中から引き上げてくださったのです。それは彼がイスラエルの王として、神の偉大な使命を果たすためでした。しかし、彼にはその認識がありませんでした。彼は、あのヤロブアムの道に歩み、神の民イスラエルに罪を犯させ、主の目に悪であることをすべて行って、主の怒りを引き起こしてしまいました。「ヤロブアムの道」とは、偶像礼拝の罪のことです。彼はイスラエルを偶像礼拝の罪に導きました。いったい何が問題だったのでしょうか。神から与えられた使命を忘れてしまったことです。それで彼は主の目の前に悪を行いました。主はそんな彼の家をヤロブアムの家のようにすると言われました。それはバシャに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らうということです。興味深いことに、ほぼ同じ裁きの言葉が、預言者アヒヤによってヤロブアムに語られていました(Ⅰ列王14:10-11)。彼は、自分が倒したヤロブアム家に対する神のさばきと、全く同じ裁きを受けることになったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分に与えられている使命を忘れると、バアシャのようになってしまいます。この世には2種類の人がいます。神から与えられた賜物や権力を、自分の利益と満足のために用いる人と、神のために用いる人です。バアシャは自分ために用いました。せっかく神によってちりから引き上げられイスラエルの君主としてもらったのに、それを神のためではなく自分のために用いてしまったのです。私たちはバシャのようにならないように気を付けなければなりません。私たちが神から受けている祝福や恵みは他の人を祝福するためであって自分の利益や満足のためではないことを覚えて、それを神の栄光のために用いなければならないのです。

次に、8~14節までをご覧ください。「8 ユダの王アサの第二十六年に、バアシャの子エラがティルツァでイスラエルの王となった。治世は二年であった。9 彼がティルツァにいて、ティルツァの宮廷長官アルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、彼の家来で、戦車隊の半分の長であるジムリが彼に謀反を企てた。10 ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが入って来てエラを打ち殺し、彼に代わって王となった。11 ジムリは王となり王座に就くと、すぐにバアシャの全家を討ち、小童から親類、友人に至るまで、一人も残さなかった。12 こうして、ジムリはバアシャの全家を根絶やしにした。預言者エフーを通してバアシャに言われた主のことばのとおりであった。13 これは、バアシャのすべての罪とその子エラの罪のゆえであり、彼らが罪を犯し、また彼らがイスラエルに罪を犯させ、彼らの空しい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こしたためである。14 エラについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。」

バアシャのあとに北王国イスラエルの王となったのは、バアシャの子エラでした。彼の治世は2年でした。彼についてはほとんど何も記されてありません。ただ彼は自分の家来、宮廷長官アルツァの家で酒を飲んで酔っ払っていたとき、彼の家来で戦車隊の半分の長であったジムリが起こした謀反によって殺されてしまったということです。エラは家来の家に行って酒を飲むことが習慣になっていたのでしょう。まことに愚かな王であったと言えます。そのようにして、敵に隙を見せることをしたのですから。彼は酒を飲んだだけでなく、酒に飲まれてしまったのです。

ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが入って来てエラを打ち殺し、彼に代わって王となりました。ジムリが王となると何をしたでしょうか。彼はすぐにバアシャの全家を根絶やしにしました。彼は、王位継承の可能性のある者たち全員を抹殺したのです。ここには、「小童から親類、友人に至るまで、一人も残さなかった」とあります。ヤロブアム家が滅んだように、まったく同じような形でバシャの家も滅んでしまいました。それは、16:3~4で預言者エフーが語った通りでした。その預言が成就したのです。

13節には、エラの上に下った裁きの理由が要約されています。「これは、バアシャのすべての罪とその子エラの罪のゆえであり、彼らが罪を犯し、また彼らがイスラエルに罪を犯させ、彼らの空しい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こしたためである。」

ここにある「空しい神々」とは、「偶像」のことです。つまり、偶像とは、実体のない空しい神々なのです。私たちの前には、偶像礼拝か、まことの神礼拝かの、二つの道しかありません。私は無宗教だという人は、自分の腹(欲望)を神としています。もし偶像を礼拝するなら、そこには虚しさだけが残ることになります。偶像ではなくまことの神を礼拝しましょう。

Ⅱ.北王国イスラエルの王ジムリとオムリ(15-28)

次に、15~28節をご覧ください。まず20節までをお読みします。「15 ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが七日間ティルツァで王となった。そのとき、兵はペリシテ人のギベトンに対して陣を敷いていた。16 陣を敷いていたこの兵は、「ジムリが謀反を起こして王を打ち殺した」と言われるのを聞いた。すると、全イスラエルはその日、その陣営で軍の長オムリをイスラエルの王とした。17 オムリは全イスラエルとともにギベトンから上って来て、ティルツァを包囲した。18 ジムリは町が攻め取られるのを見ると、王宮の高殿に入り、自ら王宮に火を放って死んだ。19 これは、彼が罪を犯して主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩んだその罪のゆえであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪のゆえであった。20 ジムリについてのその他の事柄、彼が企てた謀反、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。」

ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが七日間ティルツァで王となりました。日本語に「三日天下」という言葉があります。これは、権力を握っている期間が非常に短いことを形容する言葉です。まさにジムリは「三日天下」でした。彼が王であったのはたった七日間でした。ジムリが謀反を起こしてエラを打ち殺したことを聞いた全イスラエルは、ペリシテのギベトンに対して陣を敷いていましたが、その陣営の軍の長であったオムリをイスラエルの王とし、ギベトンからティルツァに引き返して来て、これを包囲したのです。ジムリは町が攻め取られるのを見ると、王宮の高殿に入り、自ら火を放って死にました。

いったいなぜジムリはこのような結末を迎えたのでしょうか。19節にその理由が記されてあります。「これは、彼が罪を犯して主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩んだその罪のゆえであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪のゆえであった。」

これは、13節にも記されてありましたが、繰り返して何度も言われていることです。「ヤロブアムの道に歩んだその罪のゆえ」です。それは偶像礼拝の罪のことです。ジムリもまた主の目の前に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩んだので、主の怒りを引き起こし、彼の王国は三日天下で終わってしまいました。ガラテヤ6:7に「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」とありますが、ジムリは、自らの罪の刈り取りをしたのです。列王記を貫く一つの原則はこれです。偶像礼拝の罪を犯した者は、必ずその刈り取りをするようになるということです。あなたはどんな種を蒔いているでしょうか。自分の肉に蒔くのではなく御霊に蒔いて、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。

次に、21~28節をご覧ください。「21 当時、イスラエルの民は二派に分裂していた。民の半分はギナテの子ティブニに従って彼を王にしようとし、もう半分はオムリに従った。22 オムリに従った民は、ギナテの子ティブニに従った民より強かったので、ティブニが死ぬとオムリが王となった。23 ユダの王アサの第三十一年に、オムリはイスラエルの王となり、十二年間、王であった。六年間はティルツァで王であった。24 彼は銀二タラントでシェメルからサマリアの山を買い、その山に町を建て、彼が建てたこの町の名を、その山の持ち主であったシェメルの名にちなんでサマリアと呼んだ。25 オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。26 彼はネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み、イスラエルに罪を犯させ、彼らの空しい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こした。27 オムリが行ったその他の事柄、彼が立てた功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。28 オムリは先祖とともに眠りにつき、サマリアに葬られた。彼の子アハブが代わって王となった。」

ジムリが死んでも、オムリが自動的に王になったのではありません。当時、イスラエルの民は二派に分裂していて、民の半分はティブニに従い、もう半分はオムリに従っていました。半分はティブニを、もう半分はオムリを王にしようとしていたのです。この期間は4年間です。結局、オムリに従った民はティブニに従った民よりも強かったので、ティブニが死ぬとオムリが王になりました。このオムリについて特筆すべきことは、新しい首都をサマリアに移したということです。彼の治世は12年間でしたが、6年間は古くから首都であったティルツァで、残りの6年間はサマリアで治めました。

24節には、彼がどのようにサマリアを建てたのか、その経緯が記されてあります。サマリアは、ティルツァから西に約11㎞のところに位置する丘です。周りが谷に囲まれたていたので、地形的に軍事的要塞として適所でした。オムリはこの丘を銀2タラント(6,000シェケル:当時戦車1台600シェケル、馬1頭150シェケル)で買い取り、その山に町を建設しました。町の名は、その山の持ち主であったシェメルの名にちなんで「サマリア」と名付けました。そこは南北の交通の要所で、西の海岸方面にも容易に移動できる絶好の場所でした。丘の上に建てられたこの町は、難攻不落の要塞となりました。

オムリは、これまで北王国イスラエルに登場した王たちの中では、恐らく最強の王だと思われます。謀反人ジムリを征伐し、政敵ティブニにも打ち勝ち、サマリアに新都を建設し、自らの王位を確実なものにしました。しかし、そんな彼も滅んでいくことになります。それはなぜでしょうか。その理由が25~26節にあります。ここにもまたあの言葉が出てきます。

「25 オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。26 彼はネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み、イスラエルに罪を犯させ、彼らの空しい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」

しかも彼は、彼以前のだれよりも悪いことをしたとあります。これまでの王は単にヤロブアムの道に歩んだ、とありましたが、ここでは、彼以前のどの王よりも悪い事をした、と書かれてあります。彼には霊的関心は全くありませんでした。王が神によって立てられているのは、民にまことの神を示すためです。それなのに彼は、それとは正反対のことをして、主の怒りを引き起こしたのです。

Ⅲ.オムリの子アハブ(29-34)

となれば、その子たちはもっとひどい結果をもたらすことは目に見えています。それが、次に王となるアハブです。29~34節をご覧ください。「29 オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリアで二十二年間、イスラエルの王であった。30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。34 彼の時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えたとき長子アビラムを失い、門を建てたとき末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」

オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となりました。彼はサマリアで22年間、イスラエルの王でした。彼は、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行いました。彼の父オムリも、彼以前のだれよりも悪いことをした(16:25)とありましたが、アハブはそれよりも悪い王でした。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことでした。相当悪いことをしたのです。彼はどんな悪いことをしたのでしょうか。

ネバテの子ヤロブアムの罪とは偶像礼拝のことですが、彼はそれだけではありませんでした。31節は、彼はシドンの王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだのです。「バアル」とは、「主人」とか「夫」という意味がありますが、権力や所有権を持つ者を指し,具体的には旧約時代におけるカナンの地の土着の豊穰神として知られていました。従ってバアルは男神であり,カナンにおける農業宗教として大きな感化を社会に与えていました。この外国のまったく新しい偶像の神バアルをイスラエルに導入したのです。確かにこれまでもヤロブアムによってもたらされた偶像礼拝によって神の怒りが引き起こされましたが、それはあくまでもイスラエルの宗教を改良したところの新興宗教でした。金の子牛を作り、自分勝手に祭司を雇ったり、仮庵の祭りの日程を変更したりと、礼拝対象はイスラエルの神であるヤハウェとされていましたが、今回は全く異質のもので、カナンの土着の神を導入したのです。

さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築きました。さらに彼はアシェラ像も造りました。アシェラ像は、バアルの相方となる女神です。バアル礼拝は、性的堕落を伴った偶像礼拝であったということです。こうして彼は、彼以前のイスラエルのすべての王にも増して、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行ったということです。

34節は、文脈上、アハブとは無関係ではないかと思われる節です。アハブの時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建したのですが、彼がその礎を据えたとき、その長子アビラムが死に、門を建てたとき末の子のセレグが死にました。いったいこれはどういうことでしょうか。ここには、「ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」とあります。実は、遡ること五百年前にヨシュアは、このエリコの町を再建する者があれば、その人はのろわれ、その長子と末の子を失うということを預言しました。ヨシュア6:26です。「ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」」果たして、この預言がここに成就したのです。

問題は、いったいこれがどういうことかということです。それは神の命令に背くなら、必ずその預言の通りに神の裁きが下るということです。それは一見アハブとは何の関係もないようですが、実は大いに関係があります。つまり、神の命令に背いてエリコを再建したヒエルが、神のことばのとおりにさばきに会ったように、バアル礼拝を取り入れたアハブの上には、必ず主のさばきが下るということです。17章以降、そのことが展開されていきます。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7-8)

私たちは思い違いをしないように注意しなければなりません。神は決して侮られる方ではありません。人は種を蒔けば、必ずその刈り取りもすることになります。神の言葉に従って、御霊に種を蒔き、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。

エレミヤ書10章1~16節「偶像か、まことの神か」

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エレミヤ書10章に入ります。きょうのメッセージのタイトルは、「偶像か、まことの神か」です。エレミヤはここで、偶像とまことの神を対比しながら、まことの神を信じるようにと勧めています。最初の比較は、1~7節までにあります。第二の比較は、8~10節まで、第三の比較は、11~13節まで、そして第四の比較は、14~16節までに見られます。この中でエレミヤは偶像とまことの神について交互に語るわけです。エレミヤがこのように語るのは、人は何を信じるかによってその生き方が決まるからです。偶像を信じ、偶像に信頼すれば、偶像と同じように空しい生き方となります。しかし、まことの神を信じて生きるなら、その神の恵みと祝福を受けることになります。ですから、私たちは偶像か、それともまことの神を信じるかを選択しなければならないのです。

Ⅰ.諸国の道を見習うな(1-7)

早速、本文を見ていきましょう。まず、1~2節をご覧ください。「1 イスラエルの家よ、主があなたがたに語られたことばを聞け。2 「主はこう言われる。諸国の道を見習うな。天のしるしにうろたえるな。諸国がそれらにうろたえても。」

「諸国の道」と訳された言葉は、第三版と口語訳では「異邦人の道」、新共同訳では「異国の道」と訳しています。これは生き方や考え方、ライフスタイルのことで、具体的には異国の宗教のことを指しています。彼らは「天のしるしに」うろたえていました。これは、天に現れるさまざまな現象のことです。天の星を見た異邦人は、そういう現象があると、自分たちに何か影響を及ぼすのではないかと恐れていました。そうした天のしるしをはじめ、その土地の偶像礼拝など、あらゆる迷信的な世界観にとらわれていたのです。そうした異国の宗教に見習うな、天のしるしにうろたえるなと言うのです。

なぜでしょうか。3~5節をご覧ください。ここにその理由が語られています。「3 国々の民の慣わしは空しいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで作った物にすぎない。4 それは銀と金で飾られ、釘や槌で、ぐらつかないよう打ち付けられる。5 それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ。」

それは、異国の民の習わしは空しいからです。それは森から切り出された木にすぎません。木工が、なたで刻んで作った物でしかないのです。それは銀と金で飾られ、釘と金槌で、ぐらつかないように打ち付けられたものです。それは、きゅうり畑のかかしのようです。おもしろいですね、きゅうりの畑のかかしのようであると言われています。それはどういうことかというと、中身が無いということです。皆さんも「かかし」をよく見かけると思います。田んぼとか畑の中に立っています。あれは作物を荒らす烏などの害獣を追い払うための仕掛けですが、竹やわらなどで作った人形を立てておくわけです。それはただの木でしかありません。竹とかわらでしかありません。偶像は見た目では立派でも、中身はかかしと同じなのです。

この近くには、幸福の科学の総本山があります。「幸福の科学那須精舎」と言います。皆さん、行ったことありますか?ないですよね、私もありません。行ったこともなければ、行きたいとも思いませんが、大田原の家を建ててくれた工務店の方が、この那須精舎の建築に関わったようで、教会の修繕に来る時によく話をされるのです。「あの幸福の科学の建物はすごいぞい。金ピカだ!たまげたよ」なんて。私の前で言うのです。いかにも教会はみすぼらしいということを言っているかのように聞こえます。まあ、一般の人にはわかりません。一般の人は見た目でしか判断することができないですから。どんなに金ピカでも、それはかかしと同じです。森から切り出した木を刻み、金箔を塗って、いかにも豪華に見えますが、きゅうり畑のかかしと同じなのです。

どうして偶像はきゅうり畑のかかしと同じなのでしょうか。エレミヤはここで、偶像の本質を見抜いています。そして、それをこで「・・できない」という否定の言葉を持って暴くのです。5節です。まず、ものを言うことができません。また、歩くこともできません。ですから、誰かに運んでもらわなければならないのです。また、害になることも益になることもできません。良いことも悪いことも何もできないのです。それは全く無能で、無益であるということです。3節には「国々の民の習わしは空しいからだ。」とありますが、それは空しいだけです。この「空しい」という言葉は伝道者の書に何回も使われていました。「空」ということばです。へブル語では「へーベル」と言います。「空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)その空です。それは「空っぽ」という意味です。中身がありません。偶像は中身がないのです。

そんなものを拝んでいったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。詩篇115篇4~8節には、こうあります。「4 彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。5 口があっても語れず目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。7 手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。8 これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。」

おもしろいですね。偶像は口があっても語れず、目があっても見ることができません。鼻があっても嗅げず、手があってもさわることができず、足があっても歩くことができません。問題はこれを造る者も、これに信頼する者も、みなこれと同じであるということです。これとは偶像のことです。偶像を造り、偶像を拝む者は、偶像と同じだというのです。だから、何を礼拝するかということはとても重要なことなのです。それがあなたの生き方、あなたのライフスタイルを決めるからです。

それに対して、まことの神はどのようなお方でしょうか。6~7節にそのことが展開されています。「6 主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。7 国々の王である方、あなたを恐れない者がいるでしょうか。そのことは、あなたにとっては当然のことです。まことに、国々のすべての知恵ある者の中にも、そのすべての王国の中にも、あなたに並ぶものはありません。」

偶像は林から切り出された木にすぎず、木工が、なたで作った物にすぎません。それは銀と金で飾られ、ぐらつかないように釘や槌で打ち付けられたものです。きゅうり畑のかかしのようで、ものを言えず、歩くことができません。

しかし、まことの神はそのようなものではありません。まことの神は、大いなる方です。その御名は力ある大いなるものです。国々の王であられ、この方を恐れない者はいません。国々のすべての知恵ある者の中にも、そのすべての王国の中にも、この方に並ぶものはありません。この方はまさに比類なき方なのです。

「リビングプレイズ」という賛美デボーションシリーズ2の中に、あるクリスチャンの証が載っていました。この方は、ニクソン・ショック以来、ご主人が経営する会社が急に経営不振に陥り、不渡り手形を毎月、何百枚となく出すようになりました。しかも利害関係で結ばれた親族間のみにくい人間関係が急に露骨になり、家庭はまっくらになりました。毎日、死にたいと思いました。そんなある日、神や仏からの御利益が著しく現れるというお不動さんを紹介され、毎日その前で祈ることにしました。ところが、いくら祈っても、自分の思いが届きません。本当の神であったら来るはずの平安が、いっこうに感じられませんでした。そこでそのお不動さんに、こう祈ったのです。「あなたには、わたしの願いが届きません。あなたでは、だめです。あなたの背後にあり、しかもわたしを造り、天地を造られた神に、わたしの思いを伝えてください。」

それからしばらくして教会に行くようになりました。そしてそこで天地を造られたまことの神さまに出会いました。すると、それまでの、死んで自分の何もかも消滅させたいと思っていた自己否定感が無くなり、生きることに積極的になりました。主の愛と臨在を感じ、不思議な平安が心を覆うようになったからです。それだけでなく、死んだのちも神とともにある永遠のいのちをいただくわけですから、死も恐れなくなりました。(P14)

皆さん、お不動さんではだめです。お不動さんはあなたを救うことはできません。あなたを救うことができるのは、あなたの救い主イエス・キリストだけです。この方以外には、だれによっても救いはありません。この方だけが、あなたを救うことができる大いなる方、他に並ぶものはないのです。

Ⅱ.主はまことの神(8-10)

次に8~10節をご覧ください。まず、8~9節をお読みします。「8 彼らはみな間抜けであり、愚かなことをする。空しい神々の訓戒──それは木にすぎない。9 銀箔はタルシシュから、金はウファズから運ばれる。これは木工と金細工人の手のわざ。これらの衣は青色と紫色、すべて名匠の作。」

エレミヤは、偶像を造りそれを拝む者がいかに間抜けであり、愚かであるかを語ります。「タルシシュ」は、今のスペインの南部にある町です。鉱物が採掘できるところです。そして「ウファズ」は、どこなのかはっきりわかりません。アラビヤのどこかではないかと考えられています。いずれにせよ、そこからは金が採掘されました。衣は、青色や紫色に染められた鮮やかな色彩で、ここには「名匠の作」とあります。そうですね芸術的、美術的に見れば、高度なものがたくさんあります。日本のお寺などでも芸術作品としては見事です。けれども、その礼拝対象はあくまでも木なのです。外国から運ばれて来た金銀を、木の上にかぶせたにすぎません。そこにはいのちがありません。

しかし、まことの神はそうではありません。10節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。「しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その御怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。」

しかし、皆さん、主はまことの神です。「生ける神」であり、「とこしえの王」であられます。見た目では金箔や銀箔がかぶせられ、芸術的も美術的にもすばらしいものでも、木にすぎないいのちのないものと違って、生きておられる神なのです。これがまことの神、わたしたちの主であられます。それなのに、人間は弱いですね。見た目に騙されてしまいます。見た目が豪華だと、中身もすごいものだと錯覚してしまうのです。聖書は、そんな彼らは間抜けであり、愚かであると断言します。

絶滅の危機に瀕しているアホウドリを救うために、伊豆諸島のある島に、木で作った「おとりのアホウドリ」が100個、設置されました。そこにアホウドリを集め、繁殖を促そうとしたのです。

デコいうあだ名のついた5歳の鳥は、2年間も「おとりのアホウドリ」に求愛し続けました。デコは見事な巣を作り、競争相手を追い払い、涙ぐましい努力を続けました。観察者の報告では、彼は1日中「おとりのアホウドリ」のそばを離れなかったそうです。研究員の佐藤文男氏は、デコの求愛についてこう語りました。

「この鳥は、本物のアホウドリには全く関心を示さないんですよ。」

偶像に目が奪われる人もこのアホウドリのようです。彼らは、本当の神には全く関心を示さないで、もの言わぬ偶像に求愛しているのですから。

あなたはどうでしょうか。本物の神には関心を示さないで、もの言わぬ偶像に求愛しているということはないでしょうか。しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの神です。あなたが求愛すべき方は、生けるまことの神なのです。

Ⅲ.天と地を造られた方(11-13)

第三の対比は、11~13節にあります。11節をお読みします。「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる』と。」

これは、非常に興味深い節です。これを語っておられるのは神様です。まことの神様が、そうでない神々を拝んでいるすべての民に語っているのです。おもしろいことに、ここには※があります。欄外を見るとここに、「この節はアラム語で記されている」とあります。アラム語はアッシリヤ帝国の言葉で、その後バビロニア帝国でも使われるようになります。そして、当時の世界の共通語として使われるようになりました。イスラエルの民は、バビロン捕囚によってバビロンに70年間とらえられますが、その間にこのアラム語を使うことが強要されました。ですから、新約時代になってもこのアラム語がよく使われていたのです。イエス様もアラム語も使われました。「アバ父よ」の「アバ」はアラム語です。でも、どうしてここだけアラム語が使われているのでしょうか。おそらく、イスラエルに対してだけでなく、すべての国民に宣言することを意図しておられたからではないかと思います。外国人にはわからないので、外国人でもわかる世界共通語のアラム後で語られたのです。それは、この日本に住んでいる私たちも例外ではありません。私たちの住むこの国は八百万の神を拝んでいます。しかし、それはまことの神ではありません。あれも神、これも神、たぶん神、きっと神と、すべてを神にして拝んでいるわけですが、そうしたものは神ではあり得ないのです。なぜなら、まことの神は人の手によって造られたものではなく、この天と地を造られたお方だからです。天と地を造らなかったものは、地からも、天からも滅びてしまうことになります。それは何も手でこしらえたものだけのことではありません。あなたが神様以上に愛しているものがあるならば、神様以上に大切にしているものがあるならば、それがあなたの偶像となります。ですから、そうしたものも、地からも天からも滅びてしまうことになるのです。神様はそのことを全世界の人々に宣言するかのように、特に、八百万の神々を拝んでいる私たち日本人にもわかるように、アラム語で語られたのです。

12~13節をご覧ください。それに対して、まことの神はどのようなお方なのかが語られています。「12 主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。13 主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。」

皆さん、まことの神はどのようなお方でしょうか。偶像は天と地を造らなかった神々で、人の手によって造られたものですが、まことの神は、この天と地を創造された方です。そして、今も雨を降らせ、わたしたちの生活を守っておられるお方なのです。

今年も世界中で猛暑が続き、干ばつの災害のニュースがネットやテレビを騒がせました。「記録的」とか「過去最高」、「いままで経験したことのない」といったフレーズを、頻繁に聞くようになりました。いったいどうしてこうした干ばつが起こるのでしょうか。どうして記録的な猛暑になるのでしょうか。さまざまな要因がありますが、その中でも最も大きな原因の一つが、人間活動による温室効果ガスの影響で地球の平均気温が上昇していることがあげられています。地球温暖化です。神様が造られたこの世界を、人間が破壊しているのです。いったいこの先どうなるのでしょうか。神様が天と地を創造され、神様がこれを守っておられるのに、そこに住む人間がこれをぶち壊しているのです。この天地を造られた方ではなく、そうでないものを拝むようになってしまったからです。いわば、これは人間の罪が引き起こしている結果なのです。

Ⅳ.万軍の主(14-16)

第四の比較は、14~16節にあります。14~15節には、偶像の特徴についてこのようにあります。「14 すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。15 それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。」

偶像には息がありません。それは偽りの神なのです。それを造る者も、それに信頼する者も、ともに恥を見るようになります。

それに対してまことの神は、16節にあるように、万物を創る方、万軍の主です。ここで注目していただきたいのは、「ヤコブの受ける分はこのようなものではない。」という言葉です。これはイスラエルが受ける分のことです。神の民イスラエルが受ける分は、そのようなものではありません。ヤコブの受ける分はどのようなものでしょうか。ここには「イスラエルは主のゆずりの民」とあります。これはちょっとわかりづらいですね。下の欄外の説明には「ゆずり」とは「相続」のこと、「民」とは「部族」のこととあります。これはどういうことかというと、イスラエルは主ご自身の民であるということです。イスラエルが相続するのは神ご自身であるということなのです。これほどすばらしい相続はありません。私たちは一等地の広い土地と建物を相続できたらどんなにすばらしいものかと思うかもしれませんが、イスラエルが相続するものはそんなものではないのです。もっとすばらしいもの、それはこの世が与えるものとは比べようのないものなのです。それは天の御国です。神ご自身です。それを相続することができるということです。この世が与える恩恵とは比較のしようがありません。それは超自然的な恵みです。その恵みの究極が、神のひとり子イエス・キリストご自身なのです。神様はそれを与えてくださるのです。主イエスと比べたら、この世のものはすべて色あせてしまいます。パウロは、それらは「ちりあくた」だと言ったほどです。イエス・キリストこそ、まことの神から賜った世界最高の、最上のギフトなのです。この以上の恵みは他にないということです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

これは、他の宗教では得られない恵みです。まことの神を信じない者には体験できない、到達しえない恵みなのです。これがヤコブの分け前、私たちが相続するものなのです。

それなのに、人はどうして、まことの神と偶像の違いに気が付かないのでしょうか。それは、この世の神が不信者の目におおいをかけているからです。この世の神とは悪魔のことです。このことについてパウロはこう言っています。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)

ですから私たちは、私たちの心の目が開かれ、まことの神がどのような方であるかを知り、この神の偉大さをほめたたえなければなりません。私たちはいのちに満ちた生けるまことの神を信頼して生きるのか、それとも、人間の造った偶像を頼って生きるのかを選ばなければならないのです。私たちの前にはこの二者択一が置かれているのです。それによってあなたの道が、あなたの生き方が、あなたのライフスタイルが決まります。このどちらかを選ばなければならないのです。

イエス様は「だれも二人の主人に仕えることはでません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて、他方を軽んじることになるからです。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)と言われました。神と富とに仕えることはできません。この「富」を、「偶像」に置き換えてもいいと思います。まことの神と偶像に仕えることはできません。

でも、残念ながら神の民イスラエルは、この選択に失敗しました。まことの神を選べばいいのに、よりにもよって、偶像を選んでしまったのです。その結果、滅びてしまうことになってしまいました。バビロンという国の捕囚の民となってしまったのです。

あなたは偶像か、まことの神か、どちらを選びますか。このイスラエルの民のようにならないために、私たちはしっかりとまことの神を選びましょう。そして、この世では得られない神の恵みと祝福を味わいたいと思います。

Ⅰ列王記15章

 今日は、列王記第一15章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王アビヤム(1-8)

まず、1~8節までをご覧ください。「1 ネバテの子ヤロブアムの第十八年に、アビヤムがユダの王となり、2 エルサレムで三年間、王であった。彼の母の名はマアカといい、アブサロムの娘であった。3 彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった。4 しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。5 それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからである。6 レハブアムとヤロブアムの間には、彼の一生の間、戦いがあった。7 アビヤムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。アビヤムとヤロブアムの間には戦いがあった。8 アビヤムは先祖とともに眠りにつき、人々は彼をダビデの町に葬った。彼の子アサが代わって王となった。」

前回は、イスラエルが南北に分裂し、それぞれの初代王であったヤロブアムとレハブアムについて学びました。そして今回は、その後に出てくる王たちの話となります。初めに、南王国ユダの王レハブアムの子アビヤムです。彼はヤロブアムの治世第十八年目に出てきて、エルサレムで3年間王でした。

彼の母の名は「マアカ」といい、アブサロムの娘でした。アブサロムとはダビデの3番目の息子で、後に父ダビデに反逆しダビデをエルサレムから追い出した人物です。そのアブサロムの娘がマアかで、その子がこのアビヤムでした。ここに母親の名前が記されてあるのは、その悪影響が息子に及んでいることを示すためです。

さらに、彼には父親からの悪い影響もありました。3節に「彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった。」とあるように、かつて父親のレハブアムが行ったあらゆる罪のうちを歩みました。つまり、彼は悪い王だったということです。彼の祖父はソロモンですが、ソロモンのような知恵のひとかけらもありませんでした。また、曾祖父はダビデですが、ダビテのように、主と心が一つになっていませんでした。

これは、子どもを養育する上で両親の責任がいかに大きいかを示すものです。エペソ6:4に「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあるように、主の教育と訓戒によって育てることの大切さを思い知らされます。

ところで、ここにもダビデのことが記されてあります。アビヤムは悪い王でしたが、主はダビデの子孫が王位を継承することをよしとされたので、「ダビデに免じて」、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられました。ここにある「一つのともしび」とは、闇に光を灯すような王位継承者のことで、それは次に王となるアサのことを指しています。それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからです。私たちはこれまでずっとダビデの生涯を学んで来たものにとってはあれっ?と思うような内容ですね。というのは、ダビテはウリヤのこと以外にも多くの罪を犯しました。それなのにここには、ウリヤのことのほかには、一生の間、主が命じられたことからそれなかったとあります。これはどういうことでしょうか?これは、ダビデがヒッタイト人ウリヤのこと、すなわち、バテ・シェバのこと以外にも罪を犯さなかったということではなく、ダビデがいつも主を追い求めて生きていた姿勢が述べられているのです。

その有名なことばが、詩篇16:8でしょう。ここには「私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。」とあります。私たちの教会の今年の目標聖句ですね。皆さんはどうですか。いつも自分の前に主を置いているでしょうか。今年も残り4か月になりましたが、何とかダビデのような信仰の歩みをしたいですね。

ここで重要なのは、この「ダビデに免じて」という言葉です。アビヤムは、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心はダビデの心のように、主と一つにはなっていませんでしたが、このダビデに免じて、主は彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えてくださいました。彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられたのです。アサ王です。

このことは、イエス・キリストを信じる者が、キリストが行われた御業によって義と認められることに通じます。私たちは罪ある者で、神にさばかれても致し方ない者ですが、神はその罪をキリストに負わせ、十字架で処理してくださったので、私たちは罪なき者となり、神の祝福を受け継ぐ者となりました。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。キリストに免じて、そうした祝福に与る者とされたのです。

Ⅱ.ユダの王アサ(9-24)

次に、その一つのともしびであるアサ王についてみていきたいと思います。9~14節をご覧ください。「9 イスラエルの王ヤロブアムの第二十年に、ユダの王アサが王となった。10 彼はエルサレムで四十一年間、王であった。彼の母の名はマアカといい、アブサロムの娘であった。11 アサは父祖ダビデのように、主の目にかなうことを行った。12 彼は神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除いた。13 また、母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を皇太后の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、これをキデロンの谷で焼いた。14 高き所は取り除かれなかったが、アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった。15 彼は、父が聖別した物と自分が聖別した物、銀、金、器を、【主】の宮に運び入れた。」

アビヤムの跡を継いだのは、息子のアサでした。彼は、北王国イスラエルの王ヤロブアムの治世の第二十年に、南王国の王となりました。ヤロブアムの治世は22年間でしたから、彼はその治世の終わり頃に王となったということです。

彼はエルサレムで41年間、王として治めました。彼の母の名は「マアカ」といい、アブサロムの娘でした。この「マアカ」については2節にも出てきましたが、アビヤムの母であり、アサにとっては祖母に当たります。祖母なのに「母」とあるのはおかしいのではないかと思う方もいるかもしれませんが、へブル的な表現では、数世代先の先祖であっても「母」と呼ぶ場合があります。「マアカ」をアサの母と位置づけているのは、「王母」という地位が宮廷内で歴然として存在していたからでしょう。その地位に着くのはひとりであることを示しているのです。

アサは、父祖ダビデのように、主の目にかなうことを行いました。南王国では19人の王が登場しますが、そのうち8人が善王です。そして、その最初の王がこのアサ王です。彼はどのように主の目にかなうことを行ったのか。12~13節に記されてあります。

彼はまず神殿男娼を国から追放しました。神殿男娼とは同性愛者のことです。それは重大な罪だと認め、それを国から追放したのです。また彼は、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除きました。そればかりではありません。彼は、母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を皇太后の位から退けました。これは非常に勇気が要ることです。でも彼は主への信仰のゆえにそれを断行したのです。彼は、その憎むべき像を切り倒し、これをキデロンの谷で焼きました。

彼は高き所は取り除きませんでしたが、その心は生涯、主とともにあり、全きものでありました。「高き所」とは、偶像礼拝が行われていた所を意味しています。それを取り除かれなかったというのは、偶像礼拝を一掃できなかったということです。それでも彼の心が、生涯、主とともにあり、全きものであったと言われているのは、彼が主だけを礼拝していたからです。

15節には銀、金、器とありますが、これらのものは、北イスラエルとの戦いやエジプトとの戦いで勝利した際に得た戦利品のことでしょう(Ⅱ歴代誌13:16~17,14:12~13)。彼はそれを主の宮に運び入れたので、再び主の宝物倉は豊かになりました。それが彼の晩年に、彼の足を引っ張るものとなります。

次に16~17節をご覧ください。「16 アサとイスラエルの王バアシャの間には、彼らが生きている間、戦いがあった。17 イスラエルの王バアシャはユダに上って来て、ラマを築き直し、ユダの王アサのもとにだれも出入りできないようにした。」

南ユダの王アサと北イスラエルの王バシャとの間には、彼らが生きている間、戦いがありました。バシャは、ユダを攻撃するために、活発に策略を巡らしました。その一つがエルサレムから北に8㎞ほど離れたラマに要塞を築くことでした。これによって南北の交通を遮断し、ユダを押さえつけようとしたのです。それはアサにとっては危機的な状況でした。この危機は、アサが主に信頼するかどうかの試金石となりました。もしアサが主に助けを求めるなら、主は彼を助け、その国を解放してくれますが、そうでないと、敗北してしまうことになります。アサはどうしたでしょうか。彼は主ではなく人間に助けを求めました。彼は、シリヤのベン・ハダテに助けを求めたのです。

18~22節をご覧ください。「18 アサは、主の宮の宝物倉と王宮の宝物倉に残っていた銀と金をことごとく取って、自分の家来たちの手に渡した。アサ王は、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王、ヘズヨンの子タブリンモンの子ベン・ハダドのもとに遣わして言った。19 「私の父とあなたの父上の間にあったように、私とあなたの間にも盟約を結びましょう。ご覧ください。私はあなたに銀と金の贈り物をしました。どうか、イスラエルの王バアシャとの盟約を破棄して、彼が私のもとから離れ去るようにしてください。」20 ベン・ハダドはアサ王の願いを聞き入れ、自分の配下の軍の高官たちをイスラエルの町々に差し向け、イヨンと、ダンと、アベル・ベテ・マアカ、およびキネレテ全域とナフタリの全土を攻撃した。21 バアシャはこれを聞くと、ラマを築き直すのを中止して、ティルツァにとどまった。22 そこで、アサ王はユダ全土にもれなく布告し、バアシャが建築に用いたラマの石材と木材を運び出させた。アサ王は、これを用いてベニヤミンのゲバとミツパを建てた。」

アサは、主の宝物倉と王宮の宝物倉に残っていた銀と金をことごとく取って、それを自分たちの家来に渡し、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王ベン・ハダテのもとに遣わし、助けを求めました。彼は、使者たちを遣わしてこう言わせました。「私の父とあなたの父上の間にあったように、私とあなたの間にも盟約を結びましょう。ご覧ください。私はあなたに銀と金の贈り物をしました。どうか、イスラエルの王バアシャとの盟約を破棄して、彼が私のもとから離れ去るようにしてください。」

これは、ベン・ハダテにとっては好都合でした。北からイスラエルを攻めれば、自国の領土を拡張することができるからです。それでベン・ハダテはアサ王の願い聞き入れ、自分の配下の軍の高官たちをイスラエルの町々に差し向け、イヨン、ダン、アベル・ベテ・マアカ、およびキネレテ全域とナフタリの全土を攻撃しました。バシャはこれを聞くと、ラマでの要塞建設を中止し、ティルツァにとどまりました。

そこでアサ王はユダ全土に布告し、バシャが建築に用いようとした材料を運び出させ、それをゲバとミツパの建設に用いました。この時のアサの得意顔が目に浮かぶようです。してやったりと思ったことでしょう。しかし、自分の知恵と力に過信することは、滅びの一歩です。それは先日の礼拝で学んだ通りです。「主はこう言われる。知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」(エレミヤ9:23)

Ⅱ歴代誌16:7には、そのとき、予見者ハナニが彼のもとに来て、彼にこう告げました。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。」そして、「これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう。」(Ⅱ歴代16:9)と宣告したのです。23節には、「ただ、彼は年を取ってから、両足とも病気になった。」とありますが、そのこともⅡ歴代誌の方に詳細に記録されています。Ⅱ歴代誌16:12です。彼の治世の第三十九年目に、彼は両足とも病気になりましたが、その病気の中でさえ、彼は主を求めず、医師を求めたのです。

アサは、大変優秀で、信仰深い王でしたが、残念ながら、最後までその信仰を貫きませんでした。初めは主に信頼していましたが、最後は自分の知恵、自分の力に頼ってしまいました。聖書には、最後まで走ることの大切さが書かれています。例えば、カレブは、85歳のときに「私は私の神、主に従い通しました。」(ヨシュア14:8)と言っています。最後まで最初の確信を貫くことが重要です。この警告を心に留めて、この地上での信仰生活を全うしようではありませんか。そして、彼がベン・ハダデに助けを求めたとき、予見者ハナニが言った主の言葉を心に刻みましょう。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(Ⅱ歴代16:9)

Ⅲ.北イスラエルの王ナダブとバシャの治世(25-34)

最後に、25~34節を見て終わります。「25 ユダの王アサの第二年に、ヤロブアムの子ナダブがイスラエルの王となり、二年間イスラエルの王であった。26 彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪の道を歩んだ。27 イッサカルの家のアヒヤの子バアシャは、彼に謀反を企てた。バアシャはペリシテ人のギベトンで彼を討った。ナダブとイスラエル全軍はギベトンを攻め囲んでいたのである。28 こうして、バアシャはユダの王アサの第三年にナダブを殺し、彼に代わって王となった。29 彼は王となったとき、ヤロブアムの全家を討ち、ヤロブアムに属する息ある者を一人も残さず、根絶やしにした。主がそのしもべ、シロ人アヒヤを通して言われたことばのとおりであった。30 これはヤロブアムが犯した罪のゆえ、またイスラエルに犯させた罪のゆえであり、彼が引き起こしたイスラエルの神、主の怒りによるものであった。31 ナダブについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。32 アサとイスラエルの王バアシャの間には、彼らが生きている間、戦いがあった。33 ユダの王アサの第三年に、アヒヤの子バアシャがティルツァで全イスラエルの王となった。治世は二十四年であった。34 彼は主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩み、ヤロブアムがイスラエルに犯させた罪の道に歩んだ。」

ユダの王アサの治世の第二年に、ヤロブアムの息子のナダブが北イスラエルで二代目の王となりました。でもそれはわずか2年間の治世でした。それは、彼が主の前に悪を行い、彼の父ヤロブアムの道に歩、父がイスラエルに犯させた罪の道を歩んだからです。この「彼の父の道」とは、金の子牛を拝むという偶像礼拝の罪です。そして、一般の人々の中から祭司を任命するといった、律法を逸脱した行為のことを指しています。彼は、主のみこころに歩まなかったのです。

それで主は、イッサカルの家のアヒヤの子バシャという人物を起こし、謀反を起こさせます。彼はペリシテ人のギベトンでナダブを殺し彼に代わって王となりました。アサの治世の第三年のことです。彼はティルツァで全イスラエルの王となり、24年間イスラエルを治めました。

彼が王になったとき、バシャはヤロブアムの全家を討ち、ヤロブアムに属する息ある者を一人も残さず根絶やしにしました。こうしてヤロブアムの家系が絶えたのです。それは、預言者アヒヤが語った預言の通りです(Ⅰ列王14:14)。ここにも、神の言葉の確かさ示されています。神は、ご自身が語られたことを、必ず実現なさる方なのです。

30節にはその理由が述べられています。それは、ヤロブアムが犯した罪のゆえ、またイスラエルに犯させた罪のゆえであり、彼が引き起こしたイスラエルの神、主の怒りによるものでした。ヤロブアムの家系は、「ネバテの子ヤロブアムの道」と呼ばれた罪のゆえに裁かれ、地上から姿を消したのです。しかし、ヤロブアムが考えた偶像礼拝の影響はその後も残り、北王国イスラエルの王たちに悪影響を与え続けます。私たちは、子孫に何を残そうとしているでしょうか。良い影響を与えるために、偶像礼拝から離れ、主への信仰の道を歩みましょう。