Ⅰサムエル記17章1-30節

サムエル記第一17章前半から学びます。ここには、ダビデがペリシテ人ゴリヤテを倒すという有名な話が記されてあります。これを前半と後半の二つに分けて学びたいと思います。

 Ⅰ.ペリシテ人ゴリヤア(1-11)

 まず、1~11節までをご覧ください。
「1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。ユダのソコに集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。2 一方、サウルとイスラエル人は集まってエラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをした。3 ペリシテ人は向かい側の山の上に構え、イスラエル人は手前側の山の上に構えた。その間には谷があった。4 一人の代表戦士が、ペリシテ人の陣営から出て来た。その名はゴリヤテ。ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。5 頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていた。胸当ての重さは青銅で五千シェケル。6 足には青銅のすね当てを着け、背には青銅の投げ槍を負っていた。7 槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は鉄で、六百シェケルあった。盾持ちが彼の前を歩いていた。8 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。9 おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」10 そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」

ペリシテ人は戦いのために軍隊を招集しました。彼らはいつもイスラエルを攻撃する機会をうかがっていましたが、その好機がやって来たと判断したのです。それでユダのソコという所に集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷きました。一方イスラエルは、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをしました。両者の間には谷があったので、お互いにそう簡単には相手側に攻め込むことができませんでした。それで、対峙したまま膠着状態が続いていました。

そのとき、一人の代表戦士がペリシテ人の陣営から出て来て、一つの提案をしました。それは、一人の代表戦士を送り、代表戦士同士の戦いによって決着をつけようというものでした。その戦いで負けた方は、勝った方の奴隷として仕えなければならないというものです。これは当時よく行われていた習慣です。
ペリシテ人の代表戦士は、「ゴリヤテ」という名で、ガテの生まれ、その背の高さは6キュビト半という人物でした。1キュビトは約44センチですから、6キュビト半ということは2メートル86センチになります。今年NBAで活躍している八村塁選手は2メートル3センチですから、それよりも80センチも高いことになる巨人です。しかも、この男が装備していた武具がすごいです。頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていました。胸当ての重さは青銅で五千シェケル(約57キロ)です。足には青銅のすね当てを着け、背中には青銅の投げ槍を負っていました。槍の穂先は手地で、600シェケル(約6.8キロ)もありました。完全武装です。このゴリヤテが、「今日、この日、おれがイスラエルの陣営を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負しようではないか。」(10)と言って来たのです。

サウルと全イスラエルは、このペリシテ人ゴリヤテのことばを聞いた時どのように反応したでしょうか。11節をご覧ください。ここには、「サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」とあります。ゴリヤテのことばを聞いたサウルとイスラエル人のすべては意気消沈し、気をくじかれて非常に恐れました。ゴリヤテの目的は、まさにここにありました。非常に大きな武器を身につけ、その巨体を見せつけて、脅し文句を口から吐くことで、彼らに恐れを抱かせようとしたのです。戦いにおける最大の敵は、心の中の恐れです。これを相手に抱かせることができれば、簡単に勝利をたぐり寄せることができます。戦わずして相手が撤退するかもしれないし、戦ったとしても、恐れて混乱に陥っている陣など打ち倒すのは簡単です。サウルもイスラエルの兵士たちも、恐れのために縮み上がり、立ち向かうことができませんでした。彼らはまんまとゴリヤテの戦法にはまってしまったのです。

C・S・ルイスが、このように言っています。「サタン、「人々に不安や恐れ、パニックを引き起こし、ビジネスを停止させ、学校や礼拝所、スポーツイベントを閉鎖し、経済を混乱させてやる。」ジーザス、「人々を一つにし、家庭を回復させよう。食卓に食べ物を並べ、みんながペースを落とし、人生の中の本当に大切なものに目を向けられるよう助けよう。子供たちには、この世ではなく、お金や物でもなく、私に信頼することを教えよう。」

まさに、今の新型コロナウイルスの問題はここにあるのではないでしょうか。敵である悪魔、サタンは、人々に不安や恐れ、パニックを引き起こし、学校や礼拝所さえも閉鎖しようとして襲い掛かってきますが、主は、私たちが主を見上げ、主に信頼し、本当に大切なものに目を向けられるようにしてくださいます。私たちが見なければならないのは、すべてを支配しておられる神です。神が、すべてのことを働かせて益としてくださると信じて、神に信頼しなければなりません。敵を見て恐れてはなりません。怖気ついてはならないのです。

いったい彼らはなぜ恐れてしまったのでしょうか。その原因はどこにあったのでしょうか。それは元をたどれば、サウルが主に背いたことで、主の霊が彼から去って行ったことです。その結果、彼は勇気をもってゴリヤテに対抗することができませんでした。恐れは人を身動きできない状態に陥れ、苦しめます。しかし、神が共におられるなら、たとえ敵がどのような巨人であっても、また罵声によって脅してきても恐れる必要はありません。神が戦ってくださるからです。

もしあなたが神を信じ、神の前に正しく歩んでいるなら、突如襲ってくる悲劇を恐れる必要はありません。神があなたとともにいて戦ってくださるからです。あるいはそれは、より大きな勝利をもたらし、父なる神に栄光を帰す機会となるかもしれません。ですから、私たちにとって最も大切なのは敵がどのような者であるかではなく、誰と共に歩むのかということです。私たちが経験する悲劇は、より大きな勝利をもたらすための戦場であることを覚え、いつも神を第一とし、神とともに歩むことを求めましょう。

Ⅱ.戦場に遣わされたダビデ(12-19)

次に、12節から19節までをご覧ください。
「12 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに行っていた三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであった。
17:14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていたのである。15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を世話するためであった。16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て立ち構えた。17 エッサイは息子ダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を確認しなさい。そして、しるしを持って来なさい。19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人はみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているから。」

ベツレヘムのエッサイには8人の息子がいましたが、そのうちの上の3人の息子たちが、サウルに従って戦いに出ていました。長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマがそれです。ダビデは末っ子で若かったので、戦いに行くことはできませんでした。彼はサウルのところへ行ったり、帰ったりしていました。サウルのところへ行ったのは、サウルがわざわいの霊によっておびえるときに竪琴を弾いて心を穏やかにさせるためです。ベツレヘムの自分の家に帰ったのは、羊を世話するためでした。彼がそのように王宮と家との間を行ったり来たりしているとき、例のペリシテ人ゴリヤテは、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て、イスラエルの軍勢をあざけり、罵倒していました。しかしダビデは、イスラエルが非常な危機に直面していることを、まだ知りませんでした。

そんな時です。父エッサイから兄さんたちのために、炒り麦1エパと、パン10個を陣営に急いで持って行くようにと言われました。エッサイは老人になっていたので、自分で行くことができなかったので、ダビデを遣わすことにしたのです。遣わした目的は、3人の息子たちの安否を確かめることでした。入り麦とパンとチーズを千人隊長に届けたのは、息子たちの安否を確かめ、彼らを安全な所に置いてもらうようにするためだったのでしょう。そして、彼らが無事であるというしるし(証拠)を持ち変えるようにと命じました。

ちょっとした出来事ですが、ここにも神の摂理の御手が働いているのを見ることができます。このことによってダビデはゴリヤテの罵声を聞くことになるからです。そのことが事態の転換点となりました。それは人間が計画したことではなく、神から出たことでした。父エッサイは息子たちの安否を気遣ってダビデを戦場に送りましたが、ダビデを戦場に送り、ゴリヤテと戦うように導かれたのは神です。私たちの人生にもこのようなことが起こります。自分の人生に起こっていることがどういうことなのかわからないことがありますが、すべては神の導きによるのです。神は私たちの計画を用いて、それよりもさらにすばらしいことを成さろうとしておられるのです。それゆえ、私たちにも求められていることは、そこに神の不思議な摂理の御手を認めることです。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)
心を尽くして主に拠り頼むなら、主があなたの道もまっすぐにしてくださるのです。

Ⅲ.生ける神の陣(20-30)

その結果、どのようなことが起こったでしょうか。20節から30節までをご覧ください。
「ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、言われた物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて陣地に向かうところであった。21 イスラエル人とペリシテ人は、向かい合って陣を敷いていた。22 ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に走って来て、兄たちに安否を尋ねた。23 ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。25 イスラエルの人々は言った。「この上って来た男を見たか。イスラエルをそしるために上って来たのだ。あれを討ち取る者がいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」27 兵たちは、先のことばのように、彼を討ち取った者には、これこれをされる、と言った。28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして言った。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言、話しただけではありませんか。」30 ダビデは兄から別の人の方に向き直り、同じことを尋ねた。すると、兵たちは先ほどと同じ返事をした。」

翌朝早くダビデは、父エッサイに言われたとおりに、羊を番人に預け、言われた物を持って兄たちのところへ出かけて行きました。それはちょうど軍勢が陣地に向かうところでした。ダビデは、父から託けられた物を武器を守る者に預け、陣地に向かって走って行き、兄たちに安否を尋ねると、そのときちょうどゴリヤテがペリシテ人の陣営から上って来ました。これは先に述べたように決して偶然のことではなく、主の導きによるものでした。ゴリヤテは上ってくると、イスラエル軍を罵倒しました。イスラエルの人はみな、ゴリヤテを見て、非常に恐れ、彼の前から逃げ出しました。彼らは、ゴリヤテを討ち取る者がいれば、サウルがその者に多額の賞金を与え、自分の娘を妻として与え、その者の家の者には兵役や納税の義務を免除するということを聞いていましたが、だれもゴリヤテと戦おうとする者はいませんでした。

しかし、ダビデだけは例外で、彼は生ける神の陣をそしるゴリヤテに対して、そばに立っている人たちにこう言いました。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」(26)
すごいですね。目の前に2メートル86センチの大男がいようが、ダビデにとってそんなことは関係ありませんでした。彼にとって重要だったことは、だれと共におられるのかということでした。確かに敵は強そうに見えましたが、彼は無割礼の者です。しかし、こちらには生ける神がついています。その生ける神の陣をそしるというのは、神ご自身をそしることであって、決して許されることではありません。ダビデは、この敵に義なる憤りを感じました。

ダビデが人々と話しているのを見た兄のエリアブは、ダビデに怒りを燃やして言いました。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」(28)
エリアブは、ダビデの言動が生意気だと思ったのでしょう。確かに人間的に見れば、ダビデの言動は横柄に見えたかもしれません。しかし、問題はダビデの態度ではなく、エリアブがダビデのことを何も理解していなかったことです。彼は、ダビデが羊を置き去りにしてやって来たのではないかと思ったようですが、そうではなく、彼は父に頼まれて来たのです。しかも、羊はちゃんと番人に預けて来ました。ですから、ダビデはただの興味本位で来たわけではなく、自分に与えられた責任を果たすために来たのです。エッサイは、そのことを分かっていませんでした。
このようなことが私たちの人生にも起こることがあります。主の働きに献身しようとするとき、あるいは意味のある働きを始めようとするとき、一番近くにいて応援してもらいたいと思っていた人たちから理解してもらえなかったり、蔑まれたりすることがあります。そのような時私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか。

ダビデは、そんなエリアブに対して、このように言いました。「私が今、何をしたというのですか。一言、話しただけではありませんか。」彼は兄の無理解な態度に怒ることなく、丁重に反論しつつも、自分に与えられた使命をしっかりと果たしました。これがもしサウルだったらどうだったでしょうか。自分が悪く言われたことで、非常に怒って、そのことをずっと思っていたでしょう。これが、人を恐れる人と、神のことを思っている人の違いです。

Ⅰペテロ2:22-24には、「22キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」とあります。私たちも人から批判されることがありますが、そのような人たちの声によって失望する必要はありません。神のみこころを歩むなら、必ず道が開かれるからです。

出エジプト記23章

  今回は、出エジプト記23章から学びます。

1. 法廷での証言について(1-13)

 まず、1節から3節までをご覧ください。
「1 偽りのうわさを口にしてはならない。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならない。2 多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。3 また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。」

20章で語られた十戒の具体的な適用としての定めが語られています。これまでは、一般の社会生活の中でどのように適用したらよいかが語られてきましたが、今回の箇所には、裁判での証言について取り上げられています。裁判においてはまず、偽りのうわさを口にしてはなりません。「偽りのうわさ」とは、現代訳聖書には「根拠のないうわさ」と訳されていますが、根も葉もないうわさのことです。これを流すことによって真実がどれほどゆがめられることになるでしょう。それが裁判の判決に大きな影響をもたらすのは明らかです。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならないのです。

また、2節には「多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。」とあります。新改訳第三版では「権力者」と訳していますが、直訳では「多数の者」という言葉なので、その点ではこの新改訳2017の訳の方がより原文に近い訳です。しかし、「多数に従って悪の側に立ってはならない」とはどういうことなのでしょうか。関根訳ではこれを、「悪を行うために多くの者に追随してはならない」と訳しています。権力者や多くの者に追随して不正な証言をしてはならないということです。

だからと言って、弱い者を特に重んじてもなりません。正義を曲げてまで味方する必要はないのです。申命記16:20には、「正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を自分の所有とすることができる。」とあります。これが、神が求めておられることです。

次に、4節と5節をご覧ください。ここには、「4 あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。5 あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。」とあります。
 敵の牛やろばが迷っているのに出会ったら、必ずそれを彼のところに連れ戻さなければなりません。また、あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見たら、それを見過ごしにせず、一緒に起こしてやらなければなりません。なぜなら、神様はそのような方であられるからです。神様は良い日にも悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます(マタイ5:45)。自分を愛してくれる人を愛したからといって、何の報いも受けられません。そんなことはだれにでもできることです。また、自分にあいさつしてくれる人にだけあいさつしたからといって、特に勝ったことをしているわけではありません。異邦人でも同じことをします。神によって救われた神の民に求められていることは、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなのです。

  次に、6節から8節までをご覧ください。ここには、「6 訴訟において、あなたの貧しい者たちへのさばきを曲げてはならない。7 偽りの告訴から遠く離れなければならない。咎のない者、正しい者を殺してはならない。わたしが悪者を正しいとすることはない。8 賄賂を受け取ってはならない。賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる。」とあります。

 再び、裁判における正義と構成について語られています。しかし、1~3節で語られていたことと違う点は、そこには証人としてのあり方が述べられていましたが、ここには裁判官としてのあり方が述べられている点です。裁判においては、貧しい者たちへのさばきを曲げてはいけません。偽りの告訴から遠く離れなければならないのです。咎のない者、正しい者を殺したり、逆に悪者を正しいとしてはいけませんでした。裁判においては客観的な事実だけが重要で、その人が貧しいか富んでいるかといったことは関係ありません。偽りの告訴から遠く離れるとは、無実の人を訴えてはならないということです。罪のない者、正しい者を殺してはならないというのも同じで、冤罪を排除せよということです。日本では冤罪の被害で苦しんでいる方がいます。日本で起訴されたら99.8%は有罪になるということで、このことでどれだけの人が苦しんでいるかと思うと、訴訟の難しさを感じます。さらに、賄賂を受け取ってはならないとあります。贈賄、収賄の禁止です。なぜなら、賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからです。

 こうしたことは、私たちの住んでいる今の時代にも言えることです。どうしたら正義と公正を行うことができるのでしょうか。それは、ただ神を信じ、神のことばに従うことによってです。神のご性質を考えることが、正義と公正を行う動機となります。どのように判断し、どのように行動したら良いか迷った時には、神の性質を思い起こし、正義と公正を実現する道を選び取りたいと思います。

9節をご覧ください。ここには、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。」とあります。「寄留者」とは、「在留異国人」のことです。在留異国人を大切にするようにという勧めは、すでに22:21で語られていました。この規定の背後にあるのは、かつて、彼らもエジプトの地で寄留者であったという経験です。自らが経験した苦しみが、他者への思いやりを生むのです。パウロは、Ⅱコリント1:4で「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」と言っていますが、私たちも苦しみの中で神の慰めを受けたという経験が、他者への慰めとなることを覚え、苦しみの意味というものをもう一度思い巡らしましょう。

 次に、10節から13節までをご覧ください。
「10 六年間は、あなたは地に種を蒔き、収穫をする。11 しかし、七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない。12 六日間は自分の仕事をし、七日目には、それをやめなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や寄留者が息をつくためである。13 わたしがあなたがたに言ったすべてのことを守らなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。」

ここには安息年、および安息日に関する規定が述べられています。十戒では「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という戒めはありましたが、安息年を守るということは規定されていませんでした。それがここで語られているわけです。これが、後にレビ記25章で重要な遵守事項として定められていくことになります。六年間、地を耕し、収穫してもよいが、七年目には、その土地を休ませなければなりませんでした。なぜなら、そのことによって貧しい人々に食べさせ、その残りのものを野の獣に食べさせることになるからです。つまり、そのようにすることで、あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせることができるからです。環境に優しくするためにとか、農業の収穫をもっとあげるために土地を休ませるのではありません。貧しい人たちや野の獣への配慮を示すためです。七年目に土地を休ませるということは、六年目には二倍の収穫があるという信仰が求められます。結果的により多くの収穫が得られることになります。一生懸命働けば良いというものではありません。どのように働くのかが重要です。神のみことばに従い、神が命じられる通りに働くなら、結果的により多くの収穫が得られるようになるのです。それは安息日についても言えることです。

2. 祭りの規定(14-19)

 次に、14節から17節までをご覧ください。
 「14 年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。15 種なしパンの祭りを守らなければならない。 わたしが命じたとおり、 アビブの月の定められた時に、 七日間、 種なしパンを食べなければならない。 それは、 その月にあなたがエジプトを出たからである。 何も持たずにわたしの前に出てはならない。16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂を献げる刈り入れの祭りと、年の終わりに、あなたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない。17 年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。」

 ここには年に三度、祭りを行わなければならないとあります。17節には、「主の前に」とありますが、これは幕屋か神殿がある場所でということです。最初は「シロ」という所にありましたが、後にエルサレムがその場所となります。いったい何のためにわざわざ主の前に出て行かなければならなかったのでしょうか。それはここに「わたしのために」とあるように、主の恵みを思い出すためでした。また、今も働いておられる神の恵みに感謝するためです。

まず、「種なしパンの祭り」を守らなければなりませんでした。この「種なしパンの祭り」とは、過ぎ越しの祭りも含まれています。この時にはパン種を入れないパンを食べました。それは、その月にエジプトを出たからです。その大いなる神の救いの御業を覚えて、この祭りを行わなければなりませんでした。
次は「初穂を献げる刈り入れの祭り」(16)です。この祭りは、春の終わりから初夏にかけてやって来る祭りです。民数記28:26には「初穂の日、すなわち七週の祭り」と呼ばれています。また、申命記16:10には「七週の祭り」となっています。使徒2:1では「五旬節」(ギリシャ語でペンテコステ)と呼ばれています。
そして、もう一つが「年の終わりに、勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭」です。この祭りは秋の祭りです。レビ23:34には、「仮庵の祭り」と呼ばれています。

この年に三回やって来る巡礼祭は、新約時代の出来事を預言していました。すなわち、種なしパンの祭りは、キリストの十字架の死と復活です。また、ペンテコステ、これは五旬節ですが、聖霊降臨を予表していました。そして仮庵の祭りは、キリストの再臨と千年王国です。私たちがモーセの律法を学ぶ理由はここにあります。旧約聖書に示されたことは、そのとおりに成就します。すでにキリストの十字架の死と復活、そして、聖霊降臨は成就しました。もうすぐキリストの再臨と千年王国がもたらされます。私たちはこのみことばが成就するのを待ち望みながら、主に仕える者でありたいと思います。

18節と19節をご覧ください。ここには、「18 わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。

 ここには、ささげものの規定が記されてあります。「わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。」聖書に「パン種」という象徴的に用いられている場合は、必ず「罪」とか「汚れ」を指しています。パウロは、「7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」 (Ⅰコリント5:7-8)と言いました。私たちは種なしパンです。なぜなら、イエス様が私たちの罪を取り除いてくださったからです。それゆえ、私たちは古いパン種を用いたり、悪意と邪悪なパン種を用いたりしないで、聖実と真実というパン種で祭りをしなければなりません。これこそ、神が喜ばれるいけにえなのです。

ところで、19節には「あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。どういう意味でしょうか。この命令は、この箇所以外に出エジプト記34:26と、申命記14:21にも出てきます。この命令の背景にあるのは、異教徒の習慣で、カナンの偶像礼拝でした。まず子やぎを殺し、次に母親の乳をしぼり、その乳で子やぎを煮ました。そのようにすることで多産になる(やぎは多産)という迷信があったのです。カナンの地では実際にこのような料理が振る舞われていたそうですが、これが偶像礼拝となっていたのです。

このような命令は、今もユダヤ人の食物の規定に大きな影響を与えています。厳格なユダヤ教徒は、肉製品と乳製品を一緒に食べません。肉料理用の鍋と、乳製品用の料理用の鍋が分けられているそうです。それはユダヤ教徒がこうした教えを拡大解釈したためです。熱心なユダヤ人たちは本来の目的から逸脱し、律法を拡大解釈してしまいました。それは熱心なユダヤ人だけの問題ではありません。クリスチャンの中にも見られます。本来の目的である神の愛から離れて、人間の律法を作ってしまうことがあります。注意しなければなりません。

3.主の使いの約束(20-33)

 最後に、20節から33節までを見て終わります。20節から22節までをご覧ください。
「20 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。21 あなたは、その者に心を留め、その声に聞き従いなさい。彼に逆らってはならない。 わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。22 しかし、 もしあなたが確かにその声に聞き従い、 わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、 あなたの仇には仇となる。」

「使い」とは、主の使いのことです。これは受肉前のキリストです。なぜなら、ここに「わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。」とあるからです。罪を赦す権威を持っているのは神とそのひとり子イエス・キリストだけです。マルコ2:10には「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを示すために」と言って、イエスは中風で病んでいた人を癒されました。ここで律法学者たちは面食らうわけです。罪を赦す権威を持っているのは神だけであって、その神を冒涜した・・・と。神だけが罪を赦すことができます。そして、イエスはその神なのです。なぜなら、彼はあなたがたの背きを赦さないからです。ですから、ここでこの使いに対して絶対的な服従が求められているのです。もしイスラエルがこの使いに従うなら、イスラエルの敵に対して敵となり、イスラエルの仇となってくださいます。この主を彼らの前に遣わし、彼らの道を守り、神が備えた所、すなわち、約束の地へと導いてくださるのです。ですから、彼らは彼らの神、主だけに仕えなければなりません。その地の神々を拝んではならないのです。

 23節と24節をご覧ください。「23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き、わたしが彼らを消し去るとき、24 あなたは彼らの神々を拝んではならない。それらに仕えてはならない。また、彼らの風習に倣ってはならない。それらの神々を徹底的に破壊し、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。」とあります。

 25節と26節には、「25 あなたがたの神、主に仕えよ。そうすれば、主はあなたのパンと水を祝福する。わたしはあなたの中から病気を取り除く。26 あなたの国には、流産する女も不妊の女もいなくなる。わたしはあなたの日数を満たす。」とあります。
 イスラエルが主に仕えなければならない理由は他にもあります。それは、主に仕えるなら、主は彼らにパンと水を与えてくださるからです。食べ物と飲み物が豊かになり、健康が祝福されるのです。 そればかりではありません。子孫の繁栄も約束されています。さらに、長寿も約束されています。

 最後に、27節から33節をご覧ください。
 「27 わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に送り、あなたが入って行く先のすべての民をかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を向けるようにする。28 わたしはまた、スズメバチをあなたの先に遣わす。これが、ヒビ人、カナン人、ヒッタイト人をあなたの前から追い払う。29 しかし、 わたしは彼らを一年のうちに、 あなたの前から追い払いはしない。 土地が荒れ果て、野の生き物が増え、あなたを害することのないようにするためである。30 あなたが増え広がって、その地を相続するまで、少しずつ、わたしは彼らをあなたの前から追い払う。31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また荒野からあの大河に至るまでとする。それは、わたしがその地に住んでいる者たちをあなたがたの手に渡し、あなたが彼らを自分の前から追い払うからである。32 あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。33 彼らはあなたの国に住んではならない。彼らがあなたを、わたしの前に罪ある者としないようにするためである。あなたが彼らの神々に仕え、あなたにとって罠となるからである。」

カナンの地は、主からの贈り物です。それはすでにアブラハムとその子孫に約束されていました。イスラエルはその地を侵略するのではなく、その地に帰還するのです。なぜこのモーセの時代になったのでしょうか。それは創世記15:16にそのように約束されていたからです。いったい主はどのように彼らをイスラエルに帰還させるのでしょうか。主はご自身の恐れを彼らの先にカナンに送り、彼らが入って行く先のすべての民をかき乱されます。それで、イスラエルのすべての敵が彼らに背を向けるようにされるのです。また、主はスズメバチを彼らの先に遣わします。これがカナンの住人を追い払うことになります。

しかし、それは一年のうちに起こることではありません。徐々に、少しずつ追い払われます。一気に追い払ってもらった方が楽かもしれませんが、主はそのようなことはなさいません。それは私たちの歩みと同じです。私たちの目標はキリストのようになることですが、それは一瞬にしてなるのではありません。徐々に、です。一気に変えられたのなら気絶してしまうでしょう。あまりにも違うので・・・主は少しずつ、少しずつ、主と同じ姿に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。大切なのは、私たちが私たちの主にだけ仕えることです。主の使いであるキリストに従うことです。そうすれば、私たちもやがて主のように変えられていきます。32節には「彼らの神々と契約を結んではならない」とあります。これは「彼らと契約を結んではならない」という意味です。この世と調子を合わせてはなりません。むしろ、何がよいことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。そうです、毎日、毎日の積み重ねの中で、毎日、毎日、主に従っていくことの中で、そのことが成されていくのです。ですから、私たちは主が私たちを変えてくださると信じ、主のみこころはいったい何なのかを知るために、みことばから学び、それに聞き従う者でありたいと願わされます。

ヨハネ13章31~38節「互いに愛し合いなさい」

ヨハネの福音書13章後半です。前回は、イスカリオテ・ユダの裏切りを学びました。イエス様は彼に何度も悔い改めの機会を与えましたが、彼は最後まで悔い改めませんでした。最後の晩餐の席で、イエス様からパン切れを受け取ると、すぐに出て行きました。時はいつでしたか?時は夜でした。それは単に夜であったということではなく、永遠の暗闇を表していました。彼はイエス様から離れて、永遠の暗闇に落ちることを選んだのです。しかし本当の弟子は、イエスのもとに留まります。ユダが出て行った後で、イエス様はとても大切なことを話されました。それがきょうの箇所です。

 Ⅰ.栄光を受けるとき(31-32)

まず、31節と32節をご覧ください。
「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」

ユダが出て行ったとき、イエスは大切な話をされました。それは、「今、人の子は栄光を受けた」ということです。「今」とはいつですか?今とは、ユダが悔い改めないで出て行った今です。人の子とはイエス様のことですが、今、人の子は栄光を受けられました。なぜユダが出て行った今、栄光を受ける時なのでしょうか。

これまでも何回か語ってきましたが、ヨハネの福音書において「栄光を受ける」というのは、キリストが十字架で死なれることを指し示していました。ユダの裏切りによってキリストが十字架で死なれます。だから栄光を受けられるのです。どうして十字架で死なれることが栄光なのでしょうか。それは、私たちを罪から救うという神の永遠の計画が成し遂げられるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、神が予め定めておられたことでした。それが完成する時、それが十字架なのです。イエスが十字架で死なれることで、アダムによって全人類にもたらされた罪が贖われるのです。ですから、この後17章に入ると、そこにイエス様の最後の祈りが記されてありますが、こう言われました。4節です。
「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」
イエス様は多くの奇跡をもって神の栄光を現しましたが、最終的には、神がイエスに行うようにと与えてくださったわざを成し遂げることによって現わされます。それが十字架なのでした。十字架のわざを通して神の栄光が完全に現されました。ですから、イエス様が十字架ら付けられたとき最後に発せられたことばは、「完了した」(19:30)ということばだったのです。「完了した」。「テテレスタイ」。これは、神の救いのみわざが完了したという意味です。私とあなたの罪の負債、借金を、イエスが代わりに支払ってくださいました。完済してくだった。すべての借金から解放されたらどんなに気持ちが楽になるでしょう。これまでずっと重くのしかかっていた荷物を下ろすことができます。もうそのことで思い悩む必要はありません。イエス様があなたの罪の負債を完済してくださったからです。ですから、十字架は人の子が栄光を受けられる時なのです。

また、ここには、「神も人の子によって栄光をお受けになりました」とあります。イエス様だけではありません。そのことによって、父なる神も栄光を受けらます。なぜなら、イエスが十字架で死なれることによって神がどのような方なのか、そのご性質がはっきりと示されるからです。皆さん、神はどのような方ですか?聖書には、神は愛であると教えられていますね。どうやって神が愛であるということがわかるのでしょうか?それは単なる絵に描いた餅ではありません。神はことばだけでなく行いによって、そのことをはっきりと示してくださいました。それが十字架でした。十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に示されたのです。そのことをパウロはこう言っています。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)
私たちがまだ罪人であったとき、私たちがまだ神を信じないで、神を無視し自分勝手に生きていたとき、そのような状態であったにも関わらず、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神の私たちに対する愛というものを明らかにしてくださいました。
Ⅰヨハネ4:9-10には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。どこに愛があるのですか?ここにあります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださったということの中にあるのです。具体的には、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされたという事実の中にです。それは十字架のことです。それはいわば「にもかかわらずの愛」です。十字架で神の愛がはっきりと示されました。だから、十字架はキリストだけでなく、父なる神の栄光も現わすのです。

十字架はキリストが栄光を受ける時であり、また、父なる神も栄光を受けられるときです。あなたは、十字架をどのように受け止めておられますか。私たちの人生にも十字架があるでしょう。自分自身の十字架があります。できますなら、この杯を取り除いてくださいと祈りたくなるようなとき、どうしても乗り越えられないと思うような困難に直面するときです。しかし、それは栄光のときでもあるのです。あなたが祝福されるときであり、神が栄光を受けられるときでもあります。問題は、あなたがその十字架をどのように受け止めていらっしゃるかということです。神の御心に従順になるとき、神が栄光をお受けになり、あなたもまた祝福されるのだということを覚え、あなたの十字架を負って、キリストに従って参りましょう。

Ⅱ.イエスが愛したように(33-34)

次に、33~35節をご覧ください。
「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

イエス様は、弟子たちに対して「子どもたちよ」と呼びかけられました。この福音書の中では初めて使われている呼び方です。非常に親しみと愛情を感じる呼び方です。なぜイエス様は彼らを「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょうか。それは彼らといられる時間がほんの数時間しか残されていなかったからです。もうすぐこの地上を去って行かなければなりませんでした。そんな彼らとの別れを惜しんで「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょう。今まではすべての人に対して救いのメッセージを語ってきました。でも今は愛する者たちだけに、本当に言いたいことを伝えようとしていました。それは、「わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ということでした。どういうことでしょうか?

「わたしが行くところ」とは、父なる神のところ、天の御国のことです。イエスはかつてユダヤ人たちに、「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われましたが、それを弟子たちにも言われました。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ただユダヤ人たちに言った時と違うのは、今はついて来ることができないが、後にはついて来るということでした。(36)なぜ今はついて行くことができないのですか。なぜなら、まだその場所が用意されていないからです。ですから、イエスが行って、彼らのために場所を用意したら、また来て、彼らをご自分のもとに迎えてくださいます。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。しかし、ユダヤ人たちはそうではありません。彼らは今ついて行くことが出来ないというだけでなく、後もついて行くことができません。なぜなら、イエスを信じなかったからです。イエスの弟子たちはその後も大きな失敗をしでかします。ペテロに至っては、イエスを知らないと三度も否定するという罪を犯しますが、それでも悔い改めてイエスを信じたことですべての罪が聖められたので、イエスの行かれるところ、天の御国に行くことができるのです。

そのことを前提として、イエスは大切なことを語られます。それが34節と35節の御言葉です。ご一緒に声に出して読みましょう。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

もうすぐ彼らからいなくなるという直前に、いわば遺言のように語られたのがこの言葉です。イエス様は彼らに新しい戒めを与えられました。それは、「互いに愛し合いなさい。」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。どうしてこれが新しい戒めなのでしょうか。旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならないという戒めがありました。たとえば、レビ記19:18には「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:8 )とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずです。いったいどういう点で、これが新しい戒めなのでしょうか。それは、どのように隣人を愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身を愛するように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。では、イエスが愛したように愛するとはどういうことでしょうか。

私たちはこの少し前にその模範を学びました。それはイエス様が弟子たちの足を洗われたという出来事です。そのとき主は何と言われたかというと、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14)と言われました。イエス様はそのことによって、愛するとはこういうことなのだということの、模範を示してくださったのです。それは最も高いところにおられた神ご自身が、人として現れてくださり、仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われたということを意味していました。そのように愛するのです。つまり、自分を捨てて兄弟姉妹に仕えるということです。自分を愛するようにではありません。自分を捨てて愛するのです。自分を捨てると口で言うのは簡単なことですが、いざこれを実行しようと思うと大変なとこです。できません。ですから、イエスはこの後で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)と言われたのです。これが愛です。これより大きな愛はありません。そのような愛で互いに愛し合いなさいと言われたのです。

とてもじゃないですが、そんなことできるはずがないじゃないですか。私たちも愛が一番大切だとか、最後は愛が勝つなんて言っていますがそれはただの口先だけであって、結局最後はみんな自分がかわいいのです。だから嫌になったり、都合が悪くなったりすると、「や~めた」となるんじゃなるのです。それが自然ですよ。人間は自分を捨てるという愛を持ち合わせていないのです。

そうなんです。ですからこの新しい戒めを、それだけの意味として捉えるとしたら、それは人間の道徳の教えの領域にとどまってしまうことになります。しかし、イエスがここで言いたかったのは単なる愛の模範ということではなく、私たちが互いに愛し合うための源がここにあるという意味で語られたのです。それが「わたしがあなたがたを愛したように」という意味です。弟子たちはその愛を見ました。彼らはただ愛の教えを聞いただけではなく、実際に見て、触れて、体験しました。そのキリストの愛を模範にして、互いに愛し合うことが、ここでイエスが与えられた新しい戒めだったのです。それは、キリストの十字架の死によって示された神の愛を受けた者にだけできる愛です。神はそのために力を与えてくださいました。それが神の霊、聖霊です。

ローマ5:5には、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。聖霊によって神の愛が注がれています。あなたがイエス様を救い主として信じた時、その瞬間に、イエス様があなたの心の内に来てくださいました。どのように来てくださったんですか?聖霊によってです。聖霊はキリストの霊、神の霊です。イエス様を信じた瞬間に、この聖霊があなたの心に住んでくださいました。これがクリスチャンです。クリスチャンとは、神の霊、聖霊を持っている人です。今までは持っていませんでした。今までは罪があったので神がお住になることができませんでしたが、イエス様を信じたことですべての罪が取り除かれ、賜物として聖霊が与えられました。この聖霊が私たちを助け、愛する力を与えてくださいます。聖霊があなたを内側からイエス様と同じご性質を持つ者に変えてくださるのです。その性質とは何でしょうか。愛です。

ガラテヤ5: 22~23をご覧ください。ここには、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。御霊の実は「愛」です。ですから、キリストを信じた者はみな、イエス様のように愛の人に変えられていくのです。自動的に変えられるわけではありません。また、信じた瞬間にすぐに変えられるというわけでもありません。信じた瞬間に全く怒らなくなったとか、いつもニコニコしていて、問題にも全く動じなくなったとか、もう何でも赦してくれる!となればすごいですが、現実にはそういうわけにはいきません。むしろ、本当に自分はイエス様を信じているのだろうかと、自分を疑いたくなるような醜い性質が頭をもたげることが多いのですが、しかし、神の御霊が与えられるなら、少しずつ愛の人に変えられていきます。植物の種が蒔かれると、必ず実を結びます。時間はかかりますが、やがて実を結ぶようになるのです。御霊の実も同じで、あなたの心に信仰の種が蒔かれると、あなたの心に神の御霊が宿り、神の愛があなたに注がれるようになるのです。そして、やがて御霊の実を結ぶようになります。愛の人へと変えられていくのです。それは御霊なる主の働きによるのです。

いったいなぜイエス様は、互いに愛し合うようにと命じられたのでしょうか。35節をご覧ください。それは、互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになるからです。もし私たちが自分を低くして互いに愛し合うなら、それによって、信仰のない周りの人たちが「ああ、あの人たちはキリストを本当に信じている人たちなんだ」「クリスチャンってすごいなぁ」と言って、神を認めるようになります。すなわち、神を信じるようになるのです。どんなに私たちがイエス様は主ですと叫んでも、互いにいがみ合ったり、憎み合ったりしているなら、だれも本気にしないでしょう。私たちがキリストの命令に従って互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であるということを、すべての人が認めるようになるのです。

以前紹介しましたが、奥山実先生が今回の新型コロナウイルス感染症について、フェイスブックに投稿された記事を見ましたが、アーメンでした。混乱のただ中にある武漢市で、クリスチャンらは黄色い防護スーツを来て犠牲的な奉仕をしました。彼らは無料のマスクとともに福音のトラクトを配布したのです。それによって多くの人々、役人や警官たちさえも、クリスチャンの真実の姿に敬服し評価し始めているとの情報もあります。武漢ではこの困難が永遠に変わらぬ希望の福音を宣べ伝える機会となっています。
私たちの希望はいつも暗闇の中にこそ輝くのだということを覚え、彼らのために祈りたいと思います。この混乱が、一見脅威と思えることではありますが、中国のみならず、この国の人々にとっても、真実に信頼に足るものが一体何であるのかを示す機会になるのだと信じて疑いません。
私たちの信じている神様はこの困難の中にあって、こま国においても大きな霊的祝福をもたらすことのできる方だと信じます。ともに祈りましょう。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。そのやみの中でこそ、私たちクリスチャンの真価が問われているのです。それが互いに愛し合うということです。イエス様が愛したように互いに愛し合うこと、それを実行することによって、すべての人がイエスを認めるようになるのです。

Ⅲ.最後まで愛されるイエス(36-38)

最後に、36節から38節までをご覧ください。
「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

シモン・ペテロは、キリストの一番でしたが、彼は、イエス様が「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(33)と言われたことがよく理解できませんでした。それで、イエス様に尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか。」
するとイエス様は、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と答えられました。これは先ほど言ったように、天国のことです。イエス様は、父なる神のみもと、天国に行かれます。今は来ることができませんが、しかし後にはついて来ます。

この言葉のとおり、ペテロは後にイエス様のもとに行きました。ローマ皇帝ネロの大迫害のとき、ペテロはローマで処刑されました。当時、ローマの処刑法は十字架刑でしたが、彼は主と同じ姿では申し訳ないと逆さにしてくれるように頼み、逆さ十字架につけられたと言われています。でもペテロは、そのときはわかりませんでした。イエス様が言われたことがどういうことなのか。それでイエス様に尋ねました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」ペテロらしいですね。彼は直情的な人間でしたから、あなたのためならいのちを捨てます!と啖呵を切ったのです。これは彼の本心だったでしょう。彼は本当にイエス様を愛していました。いのちをかけるほど愛していた。だからこそ、漁師という仕事を捨てでまで従ったのです。

でもどうでしょう。私たちはこの後でどんなことが起こるのかを知っています。イエス様が十字架につけられるために捕らえられると、彼はイエス様を知らないと言うようになります。イエス様はそのことも全部知っておられ、その上でこのように言われました。38節です。
「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
「まことに、まことに」とは、大切なことを言われる時に使われたことばです。ペテロよ、あなたはわたしのためにいのちを捨てるというのですか。わたしはあなたに言います。あなたは、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言います。マルコ14:31には、「ペテロは力を込めて言い張った。」とあります。絶対にそんなことはない!彼はそのように言い張りました。三度目にはのろいをかけてまで誓ったとあります。しかし、その後で彼はイエス様が言われたように、三度イエスを知らないと言いました。これが人間の弱さです。私たちはどんなに誓っても、最後までそれを貫くことは並大抵のことではありません。。イエス様はそういうことを重々承知の上で、彼を愛されました。ルカ22:31~32には、イエス様が彼にこのように言われたことが書いてあります。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
さまざまな問題によって、あるいはサタンの攻撃や困難、迫害によって、信仰を失いそうになることがあります。でも、イエス様は決して見捨てることはなさいません。それは私たちの信仰が強いからではありません。イエス様が祈っていてくださるからです。イエス様は、ペテロの信仰が無くならないように祈ってくださいました。あなたが信仰にとどまっていられるのも、イエス様が祈ってくださったからです。救われたのもそうです。だれかが陰で祈ってくれたからです。そして何よりもイエス様ご自身が祈ってくれました。今でもとりなしていてくださっています。それは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるためです。確かにペテロはイエス様を三度も否定しました。しかし、イエス様がよみがえられて、彼の信仰を回復させました。そして信仰を回復させていただいた彼は教会の指導者として立てられ、多くの人々を励まし、死に至るまで忠実にキリストに従うことができました。

イエス様は、私たちの弱さも知っておられます。失敗することもすべて知っておられます。その上で愛してくださったのです。私たちの過去だけでなく、今も、そしてこれからもそうです。それでも私たちをあきらめることをせず、最後まで愛してくださるのです。

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。イエス様はあなたの罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。まだ信じていらっしゃらない方は、信じてください。そうすれば、すべての罪は赦され、イエス様が行かれたところ、天の御国に入れていただくことができます。永遠のいのちが与えられるのです。

もう信じているという方は、すでに救われています。だんだん救われて行くのではなく、信じた瞬間に救われました。もうすべての罪が赦されました。ただ足は洗わなければなりません。足を洗うってどういうことでしたか?日々の歩みの中で犯した罪を悔い改めるということでしたね。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。赦されない罪などありません。聖霊を冒涜する罪、すなわち、イエスを信じないという罪以外は、どんな罪でも赦されます。どうぞこのことを覚えておいてください。長い信仰生活にはいろいろなことがあります。いろいろな問題が起こってきます。健康の問題、結婚の問題、子育ての問題、仕事の問題、人間関係の問題、本当にいろいろな問題が起こります。あるいは、自分自身のことで大きな失敗をしでかすかもしれません。しかし、それがどんな問題であっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。むしろ、そうした問題は、あなたがもっと神の愛を体験する良い機会として、神が与えておられるのかもしれません。問題そのものは辛いことですが、その問題の中で神に祈り、御言葉を読み、イエス様と交わることによって、さらに深く神の愛を体験することができます。主は、決してあなたを離れず、あなたを捨てません。ですから、この神の愛にしっかりとどまりましょう。キリストの恵みにとどまり続けましょう。そして、イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。その愛に心から応答したいと思うのです。

Ⅰサムエル記16章

 今回は、サムエル記第一16章から学びます。

 Ⅰ.いつまで悲しんでいるのか(1-5)

 まず、1~5節までをご覧ください。
「1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」2 サムエルは言った。「どうして私が行けるでしょうか。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は言われた。「一頭の雌の子牛を手にし、『主にいけにえを献げるために来ました』と言い、3 エッサイを祝宴に招け。わたしが、あなたのなすべきことを教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油を注げ。」4 サムエルは主がお告げになったとおりにして、ベツレヘムにやって来た。町の長老たちは身震いしながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」5 サムエルは言った。「平和なことです。主にいけにえを献げるために来ました。身を聖別して、一緒に祝宴に来てください。」そして、サムエルはエッサイと彼の息子たちを聖別し、彼らを祝宴に招いた。

サムエルは、サウルのことで悲しんでいました。なぜなら、サウルが主の命令に背き、アマレク人の王アガグと、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しみ、これらを聖絶しなかったからです。それで彼はイスラエルの王位から退けられることが決定的となりました。サムエルはそのことを悲しんでいました。自分が王として油を注いだ人物が退けられるのですから当然のことでしょう。しかし、そんなサムエルに主は、「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」と言われました。確かにサウルのことは悲しかったでしょう。しかし、それもまた主が成されたことなのです。いつまでも悲しんでいてはいけません。向きを変えて出発しなければなりませんでした。「角に油を満たせ」とは、新しい王に油を注いで即位させるようにということです。イスラエルでは預言者と祭司、王が即位する際に油を注ぎました。サムエルが油を注ぐべき新しい王はどこにいるのでしょうか。それはベツレヘム人エッサイのところでした。主は彼の息子たちの中から、主のための新しい王を用意しておられました。

それを聞いたサムエルは、とても恐れました。そんなことをしたら、サウルの耳に届いて、殺されてしまうと思ったのです。しかし主は、そんなサムエルに「一頭の雌の子牛を手にし、『主にいけにえを献げるために来ました』と言い、エッサイを祝宴に招け。」と言われました。あとは、何をすべきかを教えてくださるというのです。サムエルは主のために、主が選んでおられる者に油を注がなければなりませんでした。

それでサムエルは、主がお告げになったとおりにベツレヘムに行きました。するとどうでしょう。町の長老たちは身震いしながら彼を迎えました。イスラエルの預言者がやって来るなんて考えられないことであったからです。というのは、当時、預言者は常日頃から訓戒と叱責のために巡回していたからです。また、普通は礼拝者がいけにえを携えて祭司、または預言者のところへ行きますが、ここでは逆に預言者がわざわざいけにえを携えてやって来たからです。ですから町の人たちは、自分たちが何か大きな過ちを犯したのではないかと心配したのです。それで恐る恐る尋ねました。「平和なことのためにおいでになったのですか。」するとサムエルは、平和のために来たことを告げ、エッサイと彼の息子たちを聖別して彼らを祝宴に招きました。

Ⅱ.神に選ばれた人ダビデ(6-13)

6節から13節までをご覧ください。
「6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。7 主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませた。サムエルは「この者も主は選んでおられない」と言った。9 エッサイはシャンマを進ませたが、サムエルは「この者も主は選んでおられない」と言った。10 エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んでおられない。」11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。まだ末の子が残っています。今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人を遣わして、連れて来なさい。その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」12 エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰って行った。」

彼らが来たとき、サムエルが最初に見たのは長男のエリアブでした。「エリアブ」という名前は、「神は父」という意味です。サムエルは彼を見たとき、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油注がれる者だ。」と思いました。しかし、その判断は間違っていました。確かに彼はサウルのように背が高く、容貌が優れた者でしたが、主が選んでおられたのは彼ではありませんでした。なぜなら、主は人が見るようには見ないからです。人はうわべを見るが、主は心を見られます。不思議ですね。サムエルほどの人物でも、外見にとらわれるという弱さがありました。
次に、サムエルのところに連れて来られたのは次男のアビナダブでした。「アビナダブ」という名前の意味は、「わが父は気高い」です。でも、主は彼も選んでおられませんでした。次に連れて来られたのはシャンマです。「シャンマ」という名前の意味は明確にはわかりませんが、下の脚注の説明には「シムア」のことではないかとも考えられており、もし「シムア」という名前であれば「うわさ」という意味になります。「うわさの人」とか「評判の良い人」という意味でしょうか。しかし、主は彼も選んではいませんでした。こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませましたが、いずれも主が選んでおられる人物ではありませんでした。

そこでサムエルはエッサイに尋ねました。「こどもたちはこれで全部ですか。」するとエッサイは、「まだ末の子が残っています。今、羊の番をしています。」と言いました。エッサイには息子が八人いたんですね。末の息子とは、この八番目の息子のことです。しかし、エッサイは彼をサムエルのもとに連れて来ませんでした。まさか、羊の番をしているような一番末の息子を、神が選んでいる者だとは思えなかったからです。ですから、このエッサイのことばには、「まだ末の子が残っていますが、彼は羊の番をしているような者だから・・・」といったニュアンスがありました。しかし、サムエルはエッサイに言いました。「人を遣わして、連れて来なさい。その故が来るまで、私たちはここを離れないから。」
そして、その子がサムエルの所に連れて来られると、主はサムエルに言われました。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」それでサムエルは、油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油を注ぎました。

その日以来、主の霊がこの末の息子ダビデの上に激しく下りました。それでサムエルは立ち上がって、ラマにある自分の家に帰って行きました。ダビデはすでに主を信じる信仰者でした。すなわち、聖霊による救いの体験をしていました。しかし、彼は油注ぎを受けると、主の霊が激しく彼に下りました。これは、使命を全うするために必要な聖霊の力が与えられたということです。それは王としての知恵、力、判断力、信仰のことでしょう。

いったいなぜダビデだったのでしょうか。わかりません。確かに彼がサムエルのところに連れて来られた時、彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だったとあります(12)。しかし、父親の目では他の兄弟には劣っているように見え、無視されているような存在でした。しかし、神はそんなダビデを選んでおられたのです。神の選びは本当に不思議です。人の目には劣っているような小さな者、取るに足りない者でも、ご自身のために選び、用いてくださるのです。それは、私たちの救いについても言えることです。神は本当に罪深い私たちをご自身の子として選び、恵みを注いでくださいました。パウロはこの神の選びについてこのように言っています。「26兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:26-28)
私たちも、外面的にはこの世から評価されないような存在かもしれませんが、イエス・キリストにあって神に選ばれた者です。選ばれた証拠として、聖霊による証印が押されています。神の霊に導かれる人は誰でも、神の子どもです。ちなみに「ダビデ」という名前の意味は、「愛された者」という意味です。ダビデは、神に愛された者でした。私たちも神に愛された者、神の恵みを受けた者であることを感謝しましょう。

Ⅲ.竪琴を弾く者(14-23)

次に、14節から23節までをご覧ください。
「さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。15 サウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。わざわいをもたらす、神の霊が王をおびえさせています。16 わが君。どうか御前におりますこの家来どもに命じて、上手に竪琴を弾く者を探させてください。わざわいをもたらす、神の霊が王に臨むとき、その者が竪琴を手にして弾くと、王は良くなられるでしょう。」17 サウルは家来たちに言った。「私のために上手な弾き手を見つけて、私のところに連れて来なさい。」18 家来の一人が答えた。「ご覧ください。ベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。弦を上手に奏でることができ、勇士であり、戦士の出です。物事の判断ができ、体格も良い人です。主が彼とともにおられます。」19 サウルは使いをエッサイのところに送って、「羊とともにいるあなたの息子ダビデを、私のところによこしなさい」と言った。20 エッサイは、ろば一頭分のパンと、ぶどう酒の皮袋一つ、子やぎ一匹を取り、息子ダビデの手に託してサウルに送った。21 ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルは彼がたいへん気に入り、ダビデはサウルの道具持ちとなった。22 サウルはエッサイのところに人を遣わして、「ダビデを私に仕えさせなさい。気に入ったから」と言った。23 神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。」
主に背を向けたサウルと、油注ぎを受けたダビデの差は、大きいものがありました。ダビデの上には主の霊が激しく下りましたが、同じ主の霊はサウルを離れ去り、悪い霊、わざわいの霊が彼をおびえさせました。そこでサウルの家来たちが、竪琴を弾く者を探させましょうと提案しました。わざわいをもたらす霊が王に臨むとき、竪琴の音を聞くと状態が良くなると思ったのです。いわゆる「音楽療法」です。竪琴の音が悪霊に対して効果を発揮するということではなく、琴の音によってサウルのたましいが穏やかになるということです。ここには、「主からのわざわいの霊」とか、「わざわいをもたらす、神の霊」とありますが、これはどういうことでしょうか。わざわいをもたらす霊とは悪霊のことですが、それが「主からの」と言われているのは、悪霊の働きでさえも主が支配しておられ、主のお許しがなければ働くことはできないという意味です。サウルは、家来たちの提案を受け入れました。そして自分のために上手な弾き手を見つけて、連れて来るようにと命じました。たまたま家来たちの中にダビデのことを知っている者がいて、サウルに推薦しました。その家来はダビデのことを、「弦を上手に奏でることができ」、「勇士であり」、「戦士の出です」と言っています。また、「物事の判断ができ」、「体格も良く」、「主が彼とともにおられます」と言っています。ダビデはまだ幼くて戦いに出たことがありませんでしたが、羊飼いとして羊を守るために、ライオンや熊などの野獣と戦って勝利していたので、戦士と思われていたのでしょう。何よりも主が彼とともにおられるということが見えるほど、信仰に満ち溢れていたのでしょう。

サウルは使いをエッサイのところに送り、ダビデを王宮に召し抱えたので、ダビデはサウルの下で仕えることになりました。するとサウルはダビデをとても気に入ったので、彼はサウルの道具持ちとなりました。道具持ちとは、文字通り王の道具(武具)を運ぶ者のことですが、それはまた宮中の王の近くにて王を警護する近衛兵でもありました。兵士にとっては非常に名誉なことでした。

わざわいの霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾きました。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去りました。いったいなぜ神はサウルにわざわいをもたらす霊を送られたのか、なぜダビデがサウルのもとで仕えるようになったのでしょうか。ダビデが次の王として油注ぎを受けていることは、サウルはまだこの時点では知りませんでした。彼はただ「琴を奏でる者」として宮廷に住むようになりましたが、それはまた、彼が次の王になるための備えの時でもありました。かつてモーセがイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地カナンに導くためのリーダーとして備えるために、彼がエジプトの王宮で育てられ、後にミデアンの地で40年間過ごすような経験が与えられたのも、後に彼がイスラエルを救うリーダーとして立てられていくための備えの時だったのです。時として私たちも、いったいなぜ自分はこんなことをしなければならないのかと思うことがありますが、「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」(ピリピ2:14)とあるように、神はすべてのことを働かせて益としてくださるばかりか、神ご自身の栄光のために私たちを用いるためであることを覚え、すべてのことをつぶやかず、疑わずに行う者でありたいと思います。そして、私たちの人生においても不思議なことをなさる主の御名をほめたたえようではありませんか。

ヨハネ13章21~30節「暗闇から光へ」

 ヨハネの福音書の続きです。この箇所には、イスカリオテのユダの裏切りについて記されてあります。きょうは、この箇所から「暗闇から光へ」というタイトルで話しします。

Ⅰ.心が騒いだイエス(21)

まず、21節をご覧ください。
「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

「これらのこと」とは、その前のところでイエスが語られたことです。18節を見ると、イエスは旧約聖書のことばを引用して、「わたしのパンを食べる者が、わたしに向かってかかとをあげます。」と言われました。「かかとを上げる」とは裏切るという意味です。イエス様はユダが裏切ることを前もって語られたのです。これらのことを話されたときイエスは、心が騒ぎました。なぜ騒いだのでしょうか。それは、イスカリオテのユダが自分を裏切るということを知っておられたからです。いや、ユダが裏切るだけでなく、そのことを悔い改めなかったからです。その結果、彼が永遠に滅びてしまうことを思うといたたまれなかったのです。その心の深い部分で霊の憤りを感じ、心が騒がずにはいられませんでした。

イエスは弟子たちを愛しておられました。当然、ユダのことも最後まで愛しておられました。そして彼の足さえも洗ってくださいました。イエスはこれまで何度もご自身を裏切る者がいると警告し、悔い改めを促してこられました。ヨハネは、このユダの裏切りについて、イエスが3度も語られたことを記録しています。たとえば、6章では「わたしがあなたがた12人を選んだのではありません。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」(ヨハネ6:70)と言われました。これはイスカリオテ・ユダのことです。イエスは、ユダのことを指してこう言われたのです。
また、この13章10節には、主が弟子たちの足を洗われた時「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(13:10)と言われました。これはユダのことです。ユダはきよめられていませんでした。
さらに、先ほども申し上げたように、18節でも旧約聖書のことばを引用して、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることは成就する、と言われました。
このように、イエスは弟子たちの中にご自分を裏切る者がいるということを何度も語り、悔い改めるように促してきたのに、彼はそれを受け入れませんでした。3年余りイエスのそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に、自分を裏切る者がいるということはどんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果永遠に滅びてしまうことを思うと、心を騒がせずにはいられなかったのです。
それでこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
これで4度目です。「まことに、まことに」とは、本当に重要なことを語られる時に使われる言葉です。それは、ユダに対して、今からでも遅くはない。だから何とか悔い改めてほしいという、主の痛いほどの思いが込められていたことがわかります。

それは、このユダだけに言えることではありません。私たちにも同じです。大切なのは、何をしたかではなく、何をしなかったかです。私たちもすぐに主を裏切るような弱い者であり罪深い者ですが、それでももし、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。そのことを忘れてはなりません。そして罪が示されたなら、悔い改めなければならないのです。そうすれば、主は赦してくださいます。今からでも決して遅くはありません。もし、あなたに罪があるなら、ユダのように頑(かたくな)にならないで悔い改めましょう。

Ⅱ.イエスの懐で(22-25)

次に、22~25節をご覧ください。22節には「弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」とあります。マタイ26:22には、「弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。」とありますが、彼らは大変ショックでした。まさか自分のことではないだろうと、自分さえも疑ったほどです。

23節、24節を見てください。それで、弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていたので、ペテロは彼に、だれのことを言われたのかを尋ねるように合図をしました。どういうことかというと、これは最後の晩餐でのことですが、最後の晩餐とは言っても、当時はレオナルド・ダヴィンチの絵にあるようにテーブルを囲んで皆が椅子に座って食べていたわけではありません。当時はコの字型のテーブルに左ひじを付いて横になり、右手で食べました。テーブルを囲み左から2番目に主人が座りました。一番左、すなわち、主人の右側に座っていたのはヨハネです。主人の右側には、主人が最も信頼する人が座ることになっていました。それがヨハネだったのです。また、主人の左側はゲスト席となっていましたが、そこに座っていたのがイスカリオテのユダでした。そこから弟子たちが順に座り、イエス様から一番左の端に座っていたのがシモン・ペテロだったのです。彼はテーブルをぐるっと回って、向かい側の一番しもべの席にいました。ですから、ヨハネから見るとヨハネは向かい側にいたので、お互いに顔をよく見ることができたのです。そこでペテロはヨハネに、口パクだったか、あるいは目くばせによってかはわかりませんが合図をしました。こんなふうに・・・。「だれのことをいわれたのか聞いて・・・」ヨハネはどこにいましたか?ヨハネはイエス様の右側にいました。右側で横になっていたので、ちょうどイエス様の胸の辺りで横になっているように見えたのです。

イエス様の右に座るというのは、イエス様に最も信頼された者であるという証です。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスが愛しておられた弟子である。」別にイエス様は彼だけを愛しておられたわけではありません。弟子たちみんなを愛しておられました。いや、弟子たちばかりでなく、私たちすべての人を愛しておられました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16)
イエス様はみんなを愛しておられます。それなのに彼は、自分のことを、イエスが愛しておられた弟子であると言っているのです。このように言える人は幸いです。なぜなら、そこに真の平安を得ることができるからです。そうでしょ、もし自分がだれからも愛されていないと感じていたら不安になってしまいます。また、あの人から憎まれ、この人から嫌われていると思ったら悲しくなってしまいます。ヨハネは、自分はイエス様に特別に愛されている、深く愛されていると思っていました。でもそれはヨハネだけではありません。すべての人に言えることです。ただ彼はそのように実感することができました。なぜでしょうか。それは単に彼がイエスの右側に座っていたからというだけでなく、イエスの愛がどのようなものであるかをよく知っていたからです。彼はこう言っています。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)
どこに愛があるんですか。ここにあります。神がそのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪のために、宥めのささげ物として死んでくださったことにあるのです。神は、私たちが愛される資格があるから愛したのではありません。そうでなくても、そうでないにもかかわらず愛してくださいました。あれができる、これができるから愛してくださったのではありません。もしそうだとしたら、それができなくなったらもう愛される資格はなくなってしまうことになります。でも、神の愛はそういうものではありません。私たちがまだ神を知らなかった時、神のみこころではなく自分勝手に生きていた時、聖書ではそれを罪と言っていますが、そんな罪人であったにもかかわらず、愛してくださいました。

聖書に、放蕩息子のたとえ話があります。ある人に二人の息子がいました。弟のほうが父に、「お父さん、財産の分け前を私にください」と言いました。それで、父は財産を二つに分けてやりました。すると、それから何日もたたないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまいました。何もかも使い果たした後でその地方に大飢饉が起こり、彼は食べることに困り果ててしまいました。いったいどうしたら良いものか・・・。そこで彼はある人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。
その時、はっと我に返った彼は、父のところに行ってこう言おうと決心します。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」
すると父親はどうしましたか。息子が立ち上がって、父のもとに向かうと、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、何度も口づけしました。息子が父親に、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたに対して罪を犯しました。もうあなたの子どもと呼ばれる資格はありません。」と言うと、父親は彼に一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつを履かせました。そして肥えた子牛を引いて来てほふり、食べてお祝いしたのです。

この父親は天の神様の姿です。そして、弟息子は、私たち人間、一人一人のことです。私たちは神から愛される資格などありませんでした。むしろ、神に反逆し、自分勝手に生きていました。それにもかかわらず神はあわれんでくださり、赦してくださいました。救われるはずのない私たちを救ってくださったのです。救ってくださっただけでなく、ずっとその愛で愛してくださいます。私たちがどんなに罪を犯しても、神のもとに立ち返るなら、神は赦してくだるのです。神の愛は変わることがありません。私たちはそんな愛で愛されているのです。これが私たちキリストを信じた者たち、クリスチャンです。

ヨハネはそこに座っていました。座っていたというか、横たわっていました。それはちょうどイエス様の懐に抱かれているようでした。彼はイエス様の心臓の音を聞いたと言われていますが、まさに彼はイエス様の心臓の音が聞こえるくらい、イエスのそばにいました。彼はそのように自覚していたのです。そこに彼の安心感がありました。

あなたはどうですか。イエス様の心臓の音を聞いていますか。イエス様のハートが届いていますか。だれも自分のことなんか愛してくれないと思っていませんか。みんな自分を嫌っていると思っていませんか。そう思うと人間関係が非常に難しくなります。だれからも愛されていないと感じることがあっても、イエス様はあなたを愛しておられます。あなたもイエスの心臓の音を聞くべきです。あなたがいるべき所は、イエス様の胸元なのです。そこでイエスの愛を感じ、安心感を持っていただきたいと思うのです。

Ⅲ.暗闇から光へ(26-30)

最後に、26節から30節までをご覧ください。26節には、「イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。」とあります。イエスは、「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」と言われましたが、その後のところを見てもわかるように、それでも弟子たちには、それがだれのことを言っているのかがわかりませんでした。というのは、当時の習慣では、このように過越の食事において、パン切れを浸して渡すという行為は、主人がゲストをもてなしたり、給仕したり、親しみを示すものであったからです。ですから、だれもイエスがしていることを見て、ユダがイエスを裏切ろうとしているとは思わなかったのです。ということはどういうことかと言うと、イエスは最後の最後まで、ほかの弟子たちにはわからないように、彼の罪をみんなの前であばき出すようなことをせず、しかも本人には分かるような方法で、悔い改めを迫る愛の訴えをし続けておられたということです。イエスは最後まで彼をあわれみ、愛と恵みを示されたのです。

しかし、彼はイエスの御言葉に耳を貸そうとはしませんでした。27節をご覧ください。ここには、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」」とあります。すごい言葉です。「サタンがはいった」どういうことでしょうか。どんな人でも主の愛の訴えを拒み続けるなら、自分では意識していないかもしれませんが、そこに巧妙なサタンの働きがあって、その働きに支配されてしまうのです。勿論、クリスチャンにサタンが入ることはありません。なぜなら、クリスチャンには神の聖霊が入っているからです。Ⅰヨハネ4:4には、「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」とあります。私たちのうちにおられる方は、これは神の御霊、聖霊のことですが、この方は、この世にいるあの者よりも力があるので、入ることができないのです。しかし、主の愛を拒み続け、聖霊を受けなければ、サタンに支配される、すなわち、サタンが入ることがあるのです。ユダは主の愛と恵みを完全に拒んで、パン切れだけを受け取りました。そのとき、サタンが彼に入ったのです。サタンは最初、彼の思いに働きかけました。2節には「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを与えていた。」とあります。そして、この最後の晩餐において、主の最後の愛の訴えがなされましたがユダがそれを拒んだことで、サタンが彼に入ったのです。

ですから、イエスは彼にこう言われたのです。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」もうこれ以上、望みはないということです。彼はイエスよりもサタンを選んでしまったからです。主が彼を見捨てられたので彼が悪魔の道を選んだのではありません。彼が主の愛を最後まで拒んだので、その結果、見捨てられることになってしまったのです。このことは、私たちにも言えることです。主は何度も、悔い改めなければ危険であること、そのままでは最後の裁きに会わなければならないということを、手を変え、品を変え、繰り返して語っておられます。ユダの場合のように直接的にではなくとも、ある時には聖書を通して、ある時にはクリスチャンの友人を通して語り掛けてくださっています。そのようにして悔い改めのチャンスを与えてくだっているのです。しかし、それを永久になさるわけではありません。後ろの扉が閉ざされる時がやって来るのです。ですから、もしあなたがその愛の訴えを頑なに拒み続けるなら、あなたは自分で悪魔を選び取ってしまうことになるのです。そして、もはや救いの望みは完全に断たれてしまうことになります。

それが30節にあることです。ここには、「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」とあります。ほかの弟子たちは、ユダが裏切るために出て行ったとは思いませんでした。というのは、彼は会計係だったので、イエスが彼に「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人々に何か施しをするように」とかと言われたのだと思っていたからです。しかし、そうではありませんでした。彼はイエスを裏切るために出て行ったのです。彼が出て行った時、外はどうなっていましたか?時は夜でした。新改訳第三版では、「すでに夜であった。」とあります。すでに夜であったとは言っても、過越の食事は夕食ですから、夜であるのは当然です。それなのに、ここにわざわざ「時は夜であった」とあるのは、それが単に時間的な状況を伝えたかったからではなく、彼の心の状態、彼の心の闇を強調したかったからなのです。イエスは最後までユダを愛し、悔い改める機会を与えておられたのに、彼は出て行きました。外はすでに夜だったのです。夜は不安です。でも、どんな不安や恐れがあっても必ず朝がやって来ます。朝太陽が昇ると、あれほど不安だった夜が、嘘のようにすべてが消えて行きます。でも想像してみてください。朝が来ない夜というのを。太陽が昇って来ない朝を。繰る日も繰る日も真っ暗闇です。それがずっと続くとしたらどうでしょうか。恐ろしいですね。でもそれがキリストから離れた人の状態です。キリストから出て行ってしまった人の状態なのです。そこは永遠に光を見ない暗闇の世界です。そこで泣いて歯ぎしりすると、聖書は言っています。そこで永遠を過ごさなければなりません。

しかし、キリストを信じた人は違います。その暗闇から光の中に移されます。コロサイ1:13~14に、このように書かれてあります。
「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」
神は私たちを暗闇の力から解放して、愛する御子のご支配の中に、光の中に移してくださいました。どのように移してくださったのですか?「この御子にあって」です。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。イエス・キリストにあって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちをいただいたのです。

あなたはどうですか?まだ暗闇の中にいませんか。もう生きる望みもない。何を頼っていいのかわからない。今まで望みだと思っていたものが消えてしまった。いったいこれから何を頼って生きていけばいいのか。この世が作り出す望みはそんなものです。得たと思ったらすぐに消えてしまいます。しかし、神は私たちに生ける望みを与えてくださいました。神はそのひとり子をこの世に遣わし、あなたの罪の身代わりとして、そして私の罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。この方がイエス・キリストです。キリストは、死の恐怖に打ちひしがれていた人たちを解放し、罪の奴隷として、これはやってはいけないとわかっていてもついつい行い、みじめになっている私たちをそこから救ってくださいます。自分ではどうすることもできない悪の支配にあって、そこから解放してくださいます。この方にあって私たちは、罪の赦し、永遠のいのちを受けることができるのです。暗闇から光へと移されるのです。

ただ移されるというだけではありません。ずっとその光の中を歩むことができます。イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。」(13:10)と言われました。水浴した者は、風呂に入ったら、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。足だけ洗ってもらえばいいのです。これは毎日です。私たちの足は汚れます。だから、毎日洗ってもらう必要があります。罪があると祈ることができなくなります。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。もう光の中へ移されたからです。罪を思い出させる涙の夜は去り、笑みと感謝の朝を生きることができるのです。

きょうは、この後で美香姉とあかね姉のバプテスマ式が行われます。それは、主イエス・キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しを得ていることを表しています。暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移されました。もう闇の中ではなく、光の中を歩むのです。

私たちも同じです。私たちも、キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しをいただきました。もはや闇があなたを支配することはありません。私たちは光の中を歩むのです。どんなことがあっても、主はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたはイエス様に愛された者、イエス様の懐に抱かれた者なのです。後は、足だけ洗えばいい。日々汚れた足を洗ってもらい、聖霊によって日々きよめられながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきましょう。

出エジプト記22章

 今回は、出エジプト記22章から学びます。

 Ⅰ.他人の所有物の侵害に関する定め(1-15)

まず1節から15節までをご覧ください。4節までをお読みします。
「1 人が牛あるいは羊を盗み、これを屠るか売るかした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一匹を羊四匹で償わなければならない。2 もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、 打った者に血の責任はない。3 もし日が昇っていれば、血の責任は打った者にある。盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし盗人が何も持っていなければ、盗みの代償としてその人自身が売られなければならない。4 もしも、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗んだ物が生きたままで彼の手もとにあるのが確認されたなら、それを二倍にして償わなければならない。」

 人がもし牛とか羊を盗み、その盗んだ牛や羊をすでに殺したり打ってしまった場合、どうしたらいいのでしょうか。その場合は、牛一頭につき牛五頭をもって、羊一匹につき羊四匹をもって償わなければなりませんでした。当時、家畜は大切な財産だったからです。もしも、牛であれ、ろばであれ、羊で荒れ、盗んだ物が生きたままその人の手もとにあるのが確認されたら、それを二倍にして償わなければなりませんでした(4)。ルカ19:8でザアカイが、「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と言っているのは、盗んだ羊を返す時の額です。

では、盗みをした者はどうなるでしょう。もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んでも、打った者に血の責任はありませんでした(2)。ここに「抜け穴」とありますが、当時の家は泥土造りの家で、簡単に壁に穴を開けて入り込むことができました。そのような盗人がだれで、どのような状態なのかを判別することができないため、夜間であれば、たとえ相手を殺したとしても許されたのです。しかし、日中はいのちを奪ってはいけませんでした。もし日が昇っていれば、血の責任は打った者にありました。昼間であれば、単なる盗人であることが分かるはずなので、殺すことまでする必要はないからです。それは過剰防衛と見なされました。いずれにせよ、盗みをした者は必ず償いをしなければならず、もし償う物がなければ自分自身を売らなければなりませんでした。

5節をご覧ください。ここには、「人が畑あるいはぶどう畑で家畜に牧草を食べさせるとき、 放った家畜が他人の畑を食い荒らした場合、 その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければならない。」とあります。
当時は隣地との地境がはっきりしていなかったために、自分の家畜に牧草を食べさせようと放つと、家畜が地境を越えて隣地の畑に行き、それを食い荒らすことがありました。その時にはどのように償ったら良いのかということです。その時には、その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければなりませんでした。ここでは「最良のものをもって償うように」と言われています。自分のベストをもって、誠意をもって賠償しなさいということです。「これは動物がやったことだから仕方がない」と開き直ったり、家畜がやったことで自分には何の関係もありません」といった言い訳をしないで、誠意をもって償いをすべきなのです。そうすれば、トラブルはそれ以上に発展することはありません。これは、非常に知恵のある教えではないでしょうか。

 6節をご覧ください。ここには、「また、火が出て茨に燃え移り、積み上げた穀物の束、刈られていない麦穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、その火を出した者は必ず償いをしなければならない。」とあります。火災を起こすことによって、他人の収穫物を焼いて損害を与えてしまった場合はどうすれば良いかということです。その場合も、償いをしなければなりませんでした。それが不注意によるものであっても、その責任を問われました。

 次に、7~15節をご覧ください。
 「人が金銭あるいは物品を隣人に預けて保管してもらい、それがその人の家から盗まれた場合、もしその盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。8 もし盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の所有物に決して手を触れなかったと誓わなければならない。9 所有をめぐるすべての違反行為に関しては、それが、牛、ろば、羊、上着、またいかなる紛失物についてであれ、一方が『これは自分のものだ』と言うなら、 その双方の言い分を神の前に持ち出さなければならない。そして、神が有罪と宣告した者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。10 人が、ろば、牛、羊、またいかなる家畜でも、隣人に預けてその番をしてもらい、それが死ぬか、負傷するか、連れ去られるかしたが、目撃者がいない場合、11 隣人の所有物に決して手を触れなかったという主への誓いが、双方の間になければならない。その持ち主はこれを受け入れなければならない。隣人は償いをする必要はない。12 しかし、もしも、それが確かにその人のところから盗まれたのであれば、その持ち主に償いをしなければならない。13 もしも、それが確かに野獣にかみ裂かれたのであれば、証拠としてそれを差し出さなければならない。かみ裂かれたものの償いをする必要はない。14 人が隣人から家畜を借り、それが負傷するか死ぬかして、その持ち主が一緒にいなかった場合は、必ず償いをしなければならない。
22:15 もし持ち主が一緒にいたなら、償いをする必要はない。しかし、それが賃借りした家畜であれば、 その借り賃は払わなければならない。」

 人が金銭あるいは物品を他人に預けて保管してもらいましたが、それがその人の家から盗まれてしまった場合どうしたら良いのでしょうか。もし盗人が見つかったなら、盗人がそれを二倍にして償えば良かったのですが、問題は盗人が見つからなかったらどうするかということです。当然預かった人に嫌疑がかかるわけです。それで預かった人は、神の前に出て、自分が盗まなかったことをはっきりと誓わなければなりませんでした(8)。「神の前に出て」とは、裁判官の前に出てという意味です。それは、裁判官は神から任されて、さばきを二者の間で行なう存在だからです。当時は神のことばを預かった人、聖職者が民をさばきました。

「所有をめぐるすべての違反行為に関しては」とは、ある人の持ち物について、それが盗品であるという疑いを掛けられた時には、疑った人も疑われた人も神の前に出て、神が罪に定めた者は、二倍にして相手に償わなければなりませんでした。すなわち、不当に盗んだのであれば当然盗んだ物が償いをし、もしもその疑いが誤っていたのであれば、逆に訴えた人が二倍にして相手に償わなければなりませんでした。

他人に預けておいた家畜が損害を受けた場合はどうしたら良いでしょうか。すなわち、隣人に預けてその番をしてもらい、それが死ぬか、負傷するか、連れ去られるかしたが、目撃者がいない場合です。その場合は、預かった人が隣人との所有物、ここでは家畜ですね、それに決して手を触れなかったという誓いをし、その誓いを預けた人が認めた場合には償いの必要がありませんでした(11)。

しかし、もしも、それが確かにその人のところから盗まれたのであれば、その持ち主に償いをしなければなりませんでした(12)。もしもそれが確かに野獣にかみ裂かれたのであれば、証拠としてそれを差し出さなければなりませんでした。その場合は償う必要はありませんでした。

隣人から借りていた家畜が傷ついたり死んでしまった場合はどうしたら良いでしょうか。家畜のレンタルですね。その場合、借り手は償いをしなければなりませんでした(14)。しかし、そこにもし持主が一緒にいたのであれば、償いをする必要はありませんでした(15)。持主も、一緒にいたことで、その責任に預かっていたからです。ただし、その家畜を賃借りしていた場合は、レンタル料は支払わなければなりませんでした。

 Ⅱ.道徳に関する定め

 次に16節から20節までをご覧ください。
「16 人が、まだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝た場合、その人は必ず、彼女の花嫁料を払って彼女を自分の妻としなければならない。17 もしその父が彼女をその人に与えることを固く拒むなら、その人は処女の花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。18 呪術を行う女は生かしておいてはならない。19 動物と寝る者はみな、必ず殺されなければならない。20 ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」

 イスラエルでは、婚約を経て結婚に至りました。ですから、婚約を終えると、法的に結婚した者と見なされたのです。「まだ婚約していない娘」とは、まだそういう状態にない処女のことです。人が、まだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝た場合はどうしたら良いのかということです。その場合は、その人はかならず、彼女の花嫁料(結納金)を払って彼女を自分の妻としなければなりませんでした(16)。しかし、もし彼女の父が「こんな男に大事な娘をやるわけにはいかない」と拒んだら、その人はその処女のために定められた花嫁料を支払わなければなりませんでした。その花嫁料は、銀50シェケルと定められていました(申命記22:29)。

この規定が与えられている目的は、結婚の尊厳を教えるためです。結婚とは、「ふたりは一体となる」ことであり、このようにして肉体関係を持つことは、男と女が一生涯、霊的に、精神的に、また社会的に一組の夫婦として生きていくことの証しだったのです。ですから、肉体関係を持つことと結婚を引き離すことは決してできず、ここで婚前交渉をしたのなら必ずすぐに結婚して、一生涯その人を自分の妻にしなければならなかったのです。

 18節をご覧ください。ここには、「呪術を行う女は生かしておいてはならない。」とあります。呪術とは魔術のことです。オカルトや占いですね。そのようなことをする者は、死刑に定められていました。それは悪霊と直接的に関わることだからです(申命記18:10-11)。神は霊です。神は、霊において人と交わりをすることを願っておられ、もし人が異なる霊と交わりをするなら、霊的姦淫を犯すことになります。そして、悪霊は悪しき霊です。この悪しき霊と交わるなら、悪霊に支配されてしまうことになります。それゆえ、呪術者は死罪に定められたのです。ここに「呪術を行う女」とあるのは、呪術を行うのは主に女性だからです。聖書を見ても、霊媒師の女が多いことがわかります。

19節には、「動物と寝る者はみな、必ず殺されなければならない。」とあります。獣姦とも呼ばれる行為です。当時の異教社会では頻繁に行われていました。それは神が定めた道に背くものであり、死刑に定められていました。

20節には、「ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」とあります。

 十戒の中にある、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」の戒めの適用です。十戒の第一戒を破る偶像礼拝の行為は、カナン人と同じように聖絶されなければなりませんでした。こうした偶像礼拝は、イスラエル人の純粋な信仰に悪影響を与える危険があったからです。

 Ⅲ.社会的弱者を守るための教え(21-27)

21節から27節までには、社会的弱者を守るための教えが書かれています。
「21 寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。22 やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。23 もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。24 そして、わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣によってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。25 もし、あなたとともにいる、わたしの民の貧しい人に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。利息を取ってはならない。26 もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。27 それは彼のただ一つの覆い、 彼の肌をおおう衣だからである。 彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか。 彼がわたしに向かって叫ぶとき、 わたしはそれを聞き入れる。 わたしは情け深いからである。」

 「寄留者」とは、「在留異国人」のことです。在留異国人を苦しめたり、虐げてはなりませんでした。なぜなら、彼らもエジプトの地で寄留者であったからです。その体験は、自分の国にいる異国人を思いやるために用いられるべきなのです。外国に住んでみないとわからない苦しみがあります。私たちも、日本に住む外国人に対して、特別な配慮が求められます。外国人に限らず、新しく来た人、不慣れな人が、教会の交わりにそのまま入って来ることができるような態勢を整えておく必要があります。

22節には、やもめやみなしごに対してどのようにすべきかが教えられています。やも
めとは未亡人のこと、みなしごとは孤児のことです。働き手に先立たれたやもめや、両親に先立たれたみなしごを大切にするのは、イスラエルの律法の大きな特徴です。今のように、女性が働ける職場や、また孤児院などの制度が整っていたわけではありませんから、乞食に近い生活が強いられました。このような人たちに対しては、大切にし、丁重に扱わなければなりませんでした。このような人たちを悩ませる者には必ず神のさばきが下り、彼ら自身がやもめや、みなしごのようになると警告されています。
果たして、私たちの教会はやもめやみなしごに十分な配慮をしているでしょうか。自分のことだけで精いっぱいになってはいないかを吟味しなければなりません。

 25節には、貧しい人にお金を貸す場合にはどうしたら良いかが教えられています。すなわち、彼らにお金を貸すなら、金貸しのようであってはなりませんでした。つまり、彼から利息を取ってはならかったのです。利息を取ることは許されませんでしたが、貸したお金の補償として、着物を質に取ることは許されました。しかし、その場合は、日没までに返さなければなりませんでした。なぜなら、その貧しい人にとっては、その着物が寝具にもなったからです。それを取ってしまったら、何も着るものがありません。それではあまりにも可哀想です。そんなことがあってはなりません。なぜなら、「わたしはあわれみ深いからである。」(27)

 Ⅳ.神に対する義務(28-31)

最後に、神に対して私たちのあるべき態度についてです。28~31節までをご覧ください。
「28 神をののしってはならない。また、あなたの民の族長をのろってはならない。29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を遅らせてはならない。あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない。30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にはわたしに献げなければならない。31 あなたがたは、 わたしにとって聖なる者でなければならない。野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。」

28節には「神をののしってはならない」とあります。神への畏怖の念を忘れてはならないということです。また、「あなたの民の族長をのろってはならない。」神によって立てられた秩序を重んじて、その権威に従うべきです。なぜなら、それは神によって立てられた権威だからです。ローマ13:1~2には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」とあります。最近の新型コロナウイルス感染に対する政府の対応は、少し後手後手に回っている感がありますが、その判断にあたる阿部総理はかなりの重責で疲労困憊しているのではないかと思います。今こそ私たちは阿部総理のために祈り、彼が正しく判断できるように支えなければなりません。

29節と30節はささげものに関する定めです。「29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を遅らせてはならない。あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない。30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にはわたしに献げなければならない。」
あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を送らせてはなりません。どれくらいの量をささげなければならないのかは、規定されていません。すなわち、自発的にささげるということです。
息子と家畜に関する規定ですが、長子は主のものですから、主にささげなければなりませんでした。つまり、長子が祭司として主に仕えるためにささげられたということです。後にレビ人が祭司として仕えることになりました。これは13:2の再確認です。それは牛と羊も同様でした。男子の初子も、牛と羊の初子も、八日目に主にささげられなければなりませんでした(29-30)。

最後に、野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてよいかどうかの規定です。その肉は食べてはなりませんでした。それは、犬に投げ与えなければならなかったのです。なぜなら、それは汚れていたかです。獣に殺された家畜の肉を食べることは、血のついた肉を食べることとみなされ、神が忌み嫌われることだったのです(レビ17:10-11)。そのような肉を食べて身を汚すようなことをしてはいけませんでした。なぜなら、イスラエルは、神の聖なる国民(19:6)であるからです。
私たちも神に贖われた神の民、聖なる国民です。それゆえ、この世の考えに従って身を汚すようなことをせず、神に喜ばれる聖なる者となることを求めていきたいと思います。

Ⅰサムエル記15章

 今回は、サムエル記第一15章から学びます。

 Ⅰ.アマレク人を聖絶せよ(1-9)

 まず、1~9節までをご覧ください。
「1 サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、その民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。2 万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。3 今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』」4 そこでサウルは民を呼び集めた。テライムで彼らを数えると、歩兵が二十万、ユダの兵士が一万であった。5 サウルはアマレクの町へ行って、谷で待ち伏せた。6 サウルはケニ人たちに言った。「さあ、あなたがたはアマレク人の中から離れて下って行きなさい。私があなたがたを彼らといっしょにするといけないから。あなたがたは、イスラエルの民がすべてエジプトから上って来るとき、彼らに親切にしてくれたのです。」そこでケニ人はアマレク人の中から離れた。7 サウルは、ハビラから、エジプトの東にあるシュルのほうのアマレク人を打ち、8 アマレク人の王アガグを生けどりにし、その民を残らず剣の刃で聖絶した。9 しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。」

サムエルは再びサウルに対して、神の命令を伝えます。それは、「行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。」(3)というものでした。サウルはかつてギルガルで神の命令に背きサムエルを待たずに自分で全焼のいけにえをささげたことで、神に退けられることになりました(13:14)。しかし、主はここでもう一度チャンスを与えるようなかたちで、サウルに命じられたのです。それがこの命令でした。

「聖絶」とは、神へのささげ物として、異教の神を拝む者とそれに関する事柄を滅ぼし尽くすことです。それが人であれ、動物であれ、すべてのものを滅ぼし尽くさなければなれませんでした。それにしても、これは一見、あまりにも残酷な命令のように聞こえますが、それはイスラエルのためでもありました。というのは、それは神が、ご自身の民とされたイスラエルが聖なる者として先住民の習慣や誘惑に負けて罪を犯さないようにするための配慮であったからです。しかし、このアマレクの場合、その理由がはっきりしていました。それは2節にあるように、かつてイスラエルがエジプトから上ってくる途中で、アマレクがイスラエルに対して行ったことを、主が覚えておられたからです。申命記25:17~19をご覧ください。ここには、かつてイスラエルがエジプトを出て荒野を旅していた時、アマレク人が彼らを襲ったことが記録されています。しかも彼らは、後ろのほうにいた体力的に弱い人々を背後から襲撃するという卑劣なことを行いました。この時主は、モーセの祈りに応え、ヨシュアを戦いの指導者に立て自分はアロンとフルとともに丘に上って手を上げて祈ることで勝利することができましたが、神はそのことを覚えておられ、あれから400年ほど経った今、アマレク人への罰として彼らを聖絶するようにサウルに命じられたのです。

サウルはテライムに歩兵20万人、ユダの兵士が1万人を呼び集めました。そして、アマレクの町へ行って、谷で待ち伏せしました。しかし、ケニ人たちには、アマレク人のもとを離れるようにと伝えます。それは、彼らがアマレク人と一緒に滅ぼされることがないようにするためです。というのは、彼らはかつてイスラエルがエジプトから上って来たとき、イスラエルに親切にしてくれたからです。ケニ人はモーセの義理の兄弟ホハブの子孫です(民数記10:29)。つまり、モーセと親戚関係にあった民族で、彼らはイスラエルがエジプトから出る際にイスラエルを助けてくれただけでなく、定住後もイスラエルに対して好意的な姿勢を示してきました。(民数記10:29~32)そのためサウルは、彼らに対して善意を示したのです。

サウルは、ハビラからエジプトの東の方、国境にあるシュルに至るまで、アマレクを打ちました。そして、アマレク人の王アガクを生け捕りにし、その民のすべてを剣の刃で聖絶しましたが、アガクと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、聖絶しませんでした。ただ、つまらない値打ちのたないものだけを聖絶したのです。なぜでしょうか。もったいないと思ったからです。彼はそんな自分の思いを優先させてしまいました。サウルは表面的には主に従っているようでしたが、実際には自分の思いに従っていのです。それは中途半端な従順でした。このような従順では、主に喜んでいただくことができません。それは占いの罪と同じであり、偶像礼拝の悪と同じなのです。

ちなみに、聖書にはアマレクの存在がしばしば、私たちの肉の象徴として描かれています。肉は殺さなければいけないものです。それを生かしておけばその奴隷となって死に至るようになります。ですから、サウルはとんでもない過ちを犯したのでした。

Ⅱ.主の御声に従うことは全焼のいけにえにまさる(10-23)

次に、10~23節までをご覧ください。
「そのとき、サムエルに次のような主のことばがあった。11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。12 翌朝早く、サムエルがサウルに会いに行こうとしていたとき、サムエルに告げて言う者があった。「サウルはカルメルに行って、もう、自分のために記念碑を立てました。それから、引き返して、進んで、ギルガルに下りました。」13 サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」14 しかしサムエルは言った。「では、私の耳に入るあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」17 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。18 主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』19 あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行ったのですか。」20 サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。21 しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

そのとき、主のことばがサムエルに臨みました。それは、サウルを王として任じたことを悔やむというものでした。彼が主に背き、主のことばを守らなかったからです。この「悔やむ」という言葉は、29節にある「悔やむ」とは別の言葉が使われています。29節には、「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」とありますが、この「悔やむ」という語は「変更しない」(does not change)という意味ですが、11節の「悔いる」は「悲しむ」(grieve)という意味の語です。ちなみに、35節の「悔やんだ」は「悲しんだ」(mourned)で、11節の「悔いる」と同じ意味の語が使われています。すなわち、主は、サウルを王に任じたことを後悔したのではなく、悲しんだのです。なぜなら、彼は主に背を向け、わたしのことばを守らなかったからです。このことによって、サウルが王位から退けられることが決定的になりました。それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫びました。彼は、それが無理だと知りながらサウルのためにとりなしの祈りをささげたのです。彼はサウルが王として成功することを心から願っていましたが、それがかないませんでした。

すると、彼のもとに、サウルはカルメルに来て、自分自身のために戦勝記念碑を立てたと報告がありました。それでギルガルにいたサウルのもとに行きました。するとどうでしょう。サウルはサムエルに会うなりこう言いましたか。
「あなたが主に祝福されますように。私は主のことばを守りました。」(13)
それでサムエルが尋ねました。
「では、私の耳に入るあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」
するとサウルはその責任をイスラエルの兵士になすりつけ、さらに、最上の家畜を残したのは、主にいけにえを献げるためだと言い逃れをしました。聖絶のものを主にいけにえとして献げること自体、主への冒涜なのに、その言い訳をして逃れようとしまたのです。彼の本心は何だったのでしょうか。最上のものを取っておきたかったのです。それなのに彼は、あたかも主に対して正しい行いをしているかのように装いました。私たちもこのようなことがあるのではないでしょうか。こうした貪欲という隠れた動機を悔い改め、主のみこころに従って正しい行動ができるように祈らなければなりません。

すると、サムエルは、主が彼に伝えたことを知らせました。それは、主がどのようにして彼をイスラエルの王として立てられたのか、また、それにもかかわらず、サウルが主の命令に背き、主の目の前に悪を行ったのかということです。にもかかわらず、サウルは自分の正当性を主張し悔い改めようとしませんでした。彼は主の命令に背いたのに、あくまでも自分は正しいと言い張ったのです。このような人がいますね。だれが見ても間違っていても、どこまでも自分の正しさを主張する人が。自分は正しいことをやっている・・と。

するとサムエルは、旧約聖書の中でも最も重要なことばの一つを語ります。22節と23節です。ご一緒に読みしましょう。
「22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
主は、全焼のいけにえやその他のいけにえよりも、主の御声に聞き従うことを喜ばれます。従順であることはいけにえよりも勝っています。不従順や反逆は、占いの罪や偶像礼拝の罪に等しい重罪です。サウルは主のことばを退けたので、主もサウルを王座から退けました。

私たちも、何かすることで自分の正しさを主張することがあります。ルカの福音書18章には、イエス様がパリサイ人と取税人の祈りについて教えられたことが書かれてあります。パリサイ人は、自分は、ほかの人のようにゆすったり、奪い取ったり、不正なこと、姦淫などをしたことがなく、この取税人のようでないことを感謝しますと祈りました。週に二度は断食し、自分の得ているすべてのものの中から、十分の一をささげていると言いました。
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に上げようともせず、自分の胸をたたき、「神様、罪人の私をあわれんでください。」と祈りました。どちらが、義と認められて家に帰ったでしょうか。あのパリサイ人ではなく、この取税人でした。なぜなら、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

まさに私たちもこのパリサイ人のように、自分はこれだけのことをやっていると主張しつつも、その心が神から遠くから離れていることがあります。でも、主が求めておられるのは、どれだけのことをしたかということではなく、私たちの心であり、献身です。私たちはもう一度自らの心を吟味し、主に喜ばれる者となることを求めましょう。

Ⅲ.サウルの後悔(24-35)

最後に24節から終わりまでを見て終わりたいと思います。
「サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。25 どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」26 すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」27 サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。28 サムエルは彼に言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」30 サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」31 それで、サムエルはサウルについて帰った。こうしてサウルは主を礼拝した。
32 その後、サムエルは言った。「アマレク人の王アガグを私のところに連れて来なさい。」アガグはいやいやながら彼のもとに行き、「ああ、死の苦しみは去ろう」と言った。33 サムエルは言った。「あなたの剣が、女たちから子を奪ったように、女たちのうちであなたの母は、子を奪われる。」こうしてサムエルは、ギルガルの主の前で、アガグをずたずたに切った。34 サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。35 サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」

サムエルのことばを聞いたサウルは、「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」と言いました。サムエルのことばを聞いたサウルは、表面的には悔い改めているかのように見えますが、これは真の悔い改めではありませんでした。というのは、30節を見ると、彼は「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。」と言っているからです。つまり、彼は自分の面目が保たれることを求めていたのです。本当に悔い改めたのであれば、自分のメンツなんてどうでも良かったはずです。砕かれた、悔いた心は、神様との間には他の人のことなど全く入り込まないはずです。彼は神を恐れたのではなく人の顔色を恐れていました。
パウロは、「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」(ガラテヤ1:10)と言っていますが、私たちはだれに取り入ろうとしているのか、だれを喜ばせようとしているのかを吟味しなければなりません。

サムエルが、「私はあなたと一緒に帰りません。」と言うと、サウルはサムエルの上着の裾をつかんだので、上着が裂けました。これは一つのことを象徴していました。それは、王国が引き裂かれてサウルよりも立派な者に与えられるということです。「この方は人間ではないので、悔やむことがない。」とは、神の決定は覆ることはない(does not change)という意味です。

32節と33節をご覧ください。サムエルは、アマレク人の王アガグを連れて来させると、ずたずたに切り裂きました。これによって主が命じたアマレク人の聖絶が完了したのです。アガグは、自分の命が助かった思い、喜び勇んでやって来ましたが、最後は、自分の蒔いた種の刈り取りをさせられました。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

その後、サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ帰りました。これが二人の地上での最後の会見となりました。サムエルは死ぬ日まで、再びサウルを見ることはありませんでしたが、サムエルはサウルのことで悲しんでいました。日夜心を痛めていたのです。

このようにして、サウルの治世は終わりを迎えました。最初は良いスタートを切ったサウルでしたが、最後は失敗で終わりました。神は心を変えたり、悔やまれたりはされませんが、サウルが神から離れたので、神はサウルにゆだねていた計画を変更されたのです。私たちは、神が私たちに与えておられる計画を成就してくださるように、神のみこころに歩む者でありたいと思います。

出エジプト記21章

 きょうは、出エジプト記21章から学びます。1節には、「これらはあなたが彼らの前に置くべき定めである。」とあります。これは「定め」であって、「律法」ではありません。「律法」は、行動の規範としてそれに従わなければならないものですが、「定め」は、国民の生活における秩序を保つために必要なものであり、一種の権利の規定です。この場合の権利というのは、ひとりひとりが他の人に対する関係に関するものです。

 1.奴隷に関する定め(1-11)

 まず2節から6節までをご覧ください。
「2あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。3 彼が独身で来たのなら独身で去る。彼に妻があれば、その妻は彼とともに去る。4 彼の主人が彼に妻を与えて、その妻が彼に息子あるいは娘を産んでいたなら、この妻とその子どもたちは主人のものとなり、彼は一人で去らなければならない。5 しかし、もしもその奴隷が『私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と明言するようなことがあるなら、6 その主人は彼を神のもとに連れて行く。それから戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」

 この定めは、まず主人と奴隷の関係についての教えから始まっています。なぜ奴隷についての教えから始まっているのでしょうか。それはイスラエル自身がエジプトの奴隷だったからであり、神の恵みとあわれみによって解放された民だからです。そのことを彼らが思い出し、神のあわれみを覚えるためだったのでしょう。レビ記や申命記には、彼らがかつては奴隷の身分から贖いだされたことを思い出すことによって、奴隷に対して思いやりをもって扱うようにと勧められています(レビ記25:42,申命記15:12-18)。

へブル人の奴隷は身売りされても、六年間仕えたなら、七年目には自由の身として無償で去ることができました(2)。この時主人は、彼らに何も持たせないで去らせることはできませんでした(申命記15:13-14)。七年目に奴隷が解放される時は、独身で来た者は独身で去り、妻があれば、その妻とともに去ることができました。しかし、奴隷の間に主人から妻を与えられた場合は、妻と子供たちを主人のもとに残さなければなりませんでした(4)。いったいなぜ妻と子供を残さなければならなかったのでしょうか。それは、本来奴隷は自分のものを何一つ持っていないのであって、妻子は主人のものであったからです。ですから、その妻子が主人のもとにとどまるのは当然と言えば当然のことですが、ここでは、夫婦、子供がいっしょにいられる方法も残されていたのです。もし夫が一人で去るよりも妻子と共に主人のもとに残ることを望めば、そして、その奴隷が神の御前で、「私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と宣言すれば、彼は自分の妻子のもとにとどまることができました。その時は、戸または門柱のところで、きりで彼の耳を刺し通さなければなりませんでした。それはその宣言のしるしであり、服従を示すためでした。神のもとに連れて行かれたのは、神の御名によってなされる裁判であることを意味していました。その奴隷はそこで自分が自由になる権利を放棄するわけですが、そのことを裁判の法廷において、神の御名にかけて宣言したのです。

7節から11節までをご覧ください。
「7人が娘を女奴隷として売るような場合、その女奴隷は、男奴隷が去る場合のように去ってはならない。8 彼女を自分のものと定めた主人が、彼女を気に入らなくなった場合は、その主人は彼女が贖い出されるようにしなければならない。主人が彼女を裏切ったのだから、異国の民に売る権利はない。9 その主人が彼女を自分の息子のものと定めるなら、彼女を自分の娘のように扱わなければならない。10 その主人が別の女を妻とするなら、先の女への食べ物、衣服、夫婦の務めを減らしてはならない。11 もしこれら三つのことを彼女に行わないなら、彼女は金を払わないで無償で出て行くことができる。」

ここでは、父親が自分の娘を女奴隷として売った場合のことが規定されています。当時、貧しい人は、自分の娘を、経済的な理由から、裕福な人に売るというようなことがありました。その場合、妻のような立場であったのか、家政婦のような立場であったのかはわかりませんが、男奴隷が去る場合のように去らせてはなりませんでした。彼女を自分のものとして定めた主人が、彼女を気に入らなくなった場合は、その主人は彼女を贖い出されるようにしなければなりませんでした。つまり、彼女の親戚によって適切な額で贖い出されるようにしなければならなかったのです。異国の民に得る権利はありませんでした。もしその娘を息子の妻にしていた場合には、自分の娘に対するように扱わなければなりませんでした。またその主人が、その後に別の女を妻とする場合には、先の女に対して、食べ物、衣服、夫婦の務めを減らしてはならず、その義務を全うしなければなりませんでした。もしこれらの三つのことを彼女に行わなければ、彼女は無償で出て行くことができました。

このような定めを見ると、少し受け入れられないような思いを持つ人もいるかもしれませんが、これは律法ではなく定めであるということ、そして、その時代の生活の安定と秩序を保つために定められたものであるということを考えると、そうした昔の時代の規定としては、女の奴隷に対するものとしては、その権利というものによく配慮されているのではないかと思います。

2.殺人者に対する定め(12-17)

 これまでは、人間の自由という問題が取り上げていましたが、ここからはそれよりももっと重要な人間の生命に関する問題が取り上げられています。まず12節から17節までをご覧ください。

「12 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。13 ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する。14 しかし、人が隣人に対して不遜にふるまい、策略をめぐらして殺した場合には、この者を、わたしの祭壇のところからであっても、連れ出して殺さなければならない。15 自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。16 人を誘拐した者は、その人を売った場合も、自分の手もとに置いている場合も、必ず殺されなければならない。17 自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。」

 人まず殺人に対する刑罰の一般的な原則が示されています。それは、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」ということです。それはすでに十戒の中で、「殺してはならない。」と命じられていたからです。また、創世記9:6にも、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。(創世9:6)」とあるように、殺人に対しては、その人のいのちが要求されたからです。それは、人は神のかたちに創造された神聖なものであるという考えに基づいています。

 ただし、その人に殺意がなく神が御手によって事が起こされた場合は、のがれることができる場所が指定されました。殺意がなく神が御手によって事が起こされた場合とは、偶然に人を殺してしまった場合のことです。また、「のがれることができる場所」とは、具体的には「逃れの町」のことです。殺意がなく人を殺してしまった人に対して、その人が逆に復讐によって殺されることがないようにのがれの町を用意してくださったのです。この「のがれの町」は、のちに六つののがれの町として指定されるようになりました。(民数記35:9-15,申命記19:1-13,ヨシュア20)しかし、はっきりとした殺意をもって殺した場合には、どのような場所逃げたとしても、死刑に処せられました。たとえそこが主の祭壇であったとしても、死刑を免れることはできませんでした。

自分の父母を打つ者も、必ず殺されなければなりませんでした。父母を打つだけではありません。ののしる者も、殺されなければなりませんでした(17)。それはすでに十戒において、父母が神の代理人としての立場として立てられているがゆえに尊い存在であるということを学びましたが、その尊さのゆえに、父母に反抗したり、打ったりのろったりするだけでも死刑に処せられたのです。箴言にも、次のような警告が記されてあります。
「自分の父や母をののしる者、そのともしびは、闇が近づくと消える。」(箴言20:20)
「自分の父を嘲り、母への従順を蔑む目は、谷の烏にえぐり取られ、鷲の子に食われる。」(箴言30:17)

ここにはさらに、人を誘拐した者についての刑罰が述べられています。「人を誘拐した者は、その人を売った場合も、自分の手もとに置いている場合も、必ず殺されなければならない。」(16)ここには、その人を売った場合も、自分の手元に置いている場合も、とありますが、イスラエルでは、誘拐された同胞を売り買いすることは許されていなかったので、異邦人に売るために誘拐する者がいたのでしょう。

3.傷害事件 (18-32)

 次は、傷害事件についての定めです。死に至らない場合です。ここでは人による傷害と家畜による傷害のケースが取り上げられています。まず人による傷害のケースです。まず27節までをご覧ください。

「18人が争い、一人が石か拳で相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、19 もし彼が再び起き上がり、杖によって外を歩けるようになれば、打った者は罰を免れる。ただ彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に治るようにしてやらなければならない。自分の男奴隷あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その人は必ず復讐されなければならない。ただし、もしその奴隷が一日か二日生き延びたなら、その人は復讐されてはならない。奴隷は彼の財産だからである。人が人と争っていて、身ごもった女に突き当たり、早産させた場合、重大な傷害がなければ、彼はその女の夫が要求するとおりの罰金を必ず科せられなければならない。彼は法廷が定めるところに基づいて支払う。しかし、重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。人が自分の男奴隷の片目あるいは女奴隷の片目を打ち、目をつぶした場合、その目の償いとして、その奴隷を自由の身にしなければならない。27 また、自分の男奴隷の歯一本あるいは女奴隷の歯一本を打ち、折ったなら、その歯の償いとして、その奴隷を自由の身にしなければならない。」

 人と争って相手を死なせた場合は12節のみことばが適用されますが、そうでなく傷害を負わせた場合には、罰は免れますが、被害者が仕事を休んだ分を弁償し、傷が完全に治るようにしなければなりませんでした。つまり、治療のための費用を払わなければなりませんでした。これは非常に近代的な教えです。

主人が奴隷を杖で打って死なせた場合はどうでしょう。その場合、主人は必ず復讐されなければならないとあります。恐らく12節にあるように、死刑にされたのでしょう。裁判官の状況判断によって罰せられたのではないかという解釈もあります。
いずれにせよ、これは奴隷の生存権を認めているということであり、当時の近隣諸国では主人が奴隷の生存権に関しても絶対的な権利を持っていたことを考えると、はるかに進んだ定めであったと言えます。

もしも人が争って妊婦を早産させてしまった場合はどうしたらいいのでしょうか。この「早産」ということばは、原文では「子どもが外に出てくること」を意味しています。その場合、子どもの受けた傷に応じて刑罰が加えられました。重大な傷がなければ、その女の夫が要求するとおりの罰金を支払わなければなりませんでした。それは法律に基づいて、裁判が行われました。

しかし、そのことによって重大な傷害があれば、相手の傷に応じて刑罰が加えられました。すなわち、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならなかったのです。これは、一見残忍な定めのようですが、当時としては、善良な市民の被害を守り、法律を公平に適用できる定めでした。というのは、一般的に人は、損害を受けたら、さらにひどく、二倍、三倍にして返したくなります。子供のけんかも、大人のけんかも、国家間の争いも、このようにだんだんとエスカレートしいきます。これに対して聖書は、自分が受けた傷以上のものを相手に要求してはならないと告げているからです。しかし、聖書が最も求めていることは、報復することよりも、むしろその人を赦すことであり、善をもって返すことです。
「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19:18)
「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。 なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。」(箴言25:21-22)
これは旧約だけではなく新約にも、全体に貫かれた教えです。イエス様も、山上の説教の中で次のように教えられました。
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:38-48)

また、自分の奴隷の目や歯に傷を負わせた場合には、奴隷を解放しなければなりませんでした。奴隷を虐待しながら苦役を強いることは、神の律法では決して許されていなかったのです。ですから、近代の残酷な奴隷制度の根拠を聖書に求めることなどは、決してできません。

次に、家畜によって傷害を与えてしまったケースを見て終わります。28~32節までをご覧ください。
「28牛が男または女を突いて死なせた場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罰を免れる。29しかし、もし牛に以前から突く癖があり、その持ち主が注意されていたのにそれを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺され、その持ち主も殺されなければならない。30 もし彼に償い金が科せられたなら、彼は自分に科せられたとおりに、自分のいのちの贖いの代価を支払わなければならない。31 息子を突いても娘を突いても、この規定のとおりに扱われる。32 もしその牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。」

もし家畜が角で人を突いて殺してしまった場合には、その家畜は石で殺されなければなりませんでした。石で殺されるということは罪の刑罰を受けることを意味していましたから、その家畜はのろわれ、汚れたものとなるので、食べることは許されませんでした。しかし、その家畜の所有者には罪はありませんでした(28)。

 しかし、その家畜が角で人を突くくせを持っていて、何度もそのことで警告を受けていたにもかかわらず、少しも注意をせず、その家畜をつなぎとめておかなかったために、その家畜が人を突いて殺してしまうようなことがあったら、その家畜もその家畜の主人も殺されなければなりませんでした(29)。

 しかし、もし罰金を支払うことですませてくれるような時には、その要求された金額を支払うことで処理もできました(30)。モーセの律法の中で、死刑の代わりに贖い金が許されています。

 たとえ子供でも、同じように定めは適用されます。ここに再び神が、社会的弱者の人権と尊厳を定めておられることが分かります。奴隷、女性、子供はみな、神によって守られています。

 牛が奴隷を殺した場合でも、その牛はやはり殺されなければなりませんでした。奴隷が一人の人格として認められていたことが、ここでも明確に示されています。そして、牛の持ち主は奴隷の主人に、銀貨三十シュケルを支払わなければなりませんでした。この金額は、イエス・キリストがイスカリオテのユダによって売られ額です。彼がイエスの価値を奴隷の値段としてしか見積っていなかったことがわかります。自由なイスラエル人を贖うには五十シェケルが必要でした。(レビ27:3)
 
4.財産に関する問題(33-36)

「33 人が水溜めのふたを開けたままにしておくか、あるいは、水溜めを掘って、それにふたをせずにおいて、牛やろばがそこに落ちた場合、34 その水溜めの持ち主は償いをしなければならない。彼は家畜の持ち主に金を支払わなければならない。しかし、その死んだ家畜は彼のものとなる。35 ある人の牛が隣人の牛を突いて、その牛が死んだ場合、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければならない。36 しかし、もしその牛に以前から突く癖があることが分かっていて、その持ち主が監視しなかったのなら、その人は必ず牛を牛で償わなければならない。しかし、その死んだ牛は彼のものとなる。」

人間のいのちの問題から、次に財産の問題に移っていきます。イスラエルにとって家畜は重要な財産でした。その財産、家畜のために水だめが必要でした。そのためにかなり大きな穴が掘られていることがあったのです。その入口はさほど大きくなかったのに、その中はかなり大きく掘られていたので、一度そこに落ちてしまいますと、救い出すことは極めて困難でした。そのため、そのような危険な水だめには、必ずふたをすることになっていましたが、それでも誤って中に落ちてしまうことが少なくありませんでした。その場合井戸の持ち主は、家畜の持ち主にお金を支払い、償いをしなければなりませんでした。その場合、その家畜は、その井戸の持ち主のものとなりました。

また、牛が隣人の牛を突いて死なせた場合は、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければなりませんでした。しかし、もし以前からその牛に突く癖があることが分かっていて、その牛の持ち主が監視していなかったのなら、その人は必ず牛を牛で償わなければなりませんでした。しかしその代わりに、死んだ牛はその人のものとなりました。

ヨハネの福音書13章16~20節「しもべは主人にまさらず」

前回は、13章の前半部分から、互いに足を洗うことについてお話ししました。主に足を洗ってもらわなければ、主と何の関係も持つことができません。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいからです。つまり、イエス様にきよめていただいた者は、足だけ洗っていただけばいいんですね。足を洗ってもらうとはどういうことでしたか?それは日々の歩みにおいて汚れる罪を悔い改めて、きよめていただくということでした。そのように全身をきよめていただいたということを前提に、互いに足を洗い合いなさいと言われたのです。

きょうは、その後の16節から20節までの箇所から、「しもべは主人にまさらず」という題で、クリスチャンの幸いについてお話ししたいと思います。

Ⅰ.しもべは主人にまさらず(16-17)

まず、16節と17節をご覧ください。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」

「まことに、まことに」という言い回しは、イエス様が重要な真理を語られる時に使われた言葉です。この13章には4回使われていますが、その最初に出てくる場面です。何が重要なのでしょうか。「しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません」ということです。どういうことでしょうか?

これは、キリストの弟子とはどのような者であるかを示しています。つまり、キリストの弟子とはしもべであるということです。また、遣わされた者であるということです。何を言おうとしているのかというと、この前のところには、イエスが弟子たちの足を洗われたことが記されてありましたが、「先生」とか「主」とか呼ばれていたイエスがそのようにして仕えたのであれば、主の弟子である私たちはそれ以上ではないということ、つまり、キリストの弟子である私たちはそれ以上に仕えるべきであるということです。

ヨハネ3:26~30には、バプテスマのヨハネの弟子たちが彼のところに来て、イエスがバプテスマを授けていること、そして、皆が彼の方に行っているということを告げたとき、ヨハネが次のように答えたとあります。
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(3:27-30)
人は、天から与えられるものでなければ、何も受けることができません。すばらしいことばですね。自分の置かれた立場も、自分の成すべきことも、すべて天から与えられるのでなければ、何も受けることができないのです。このバプテスマのヨハネのことばは、ここでキリストが言われたことをよく表しています。自分はあくまでしもべにすぎないのであって、遣わされた者でしかありません。天から与えられるのでなければ、何も受けることはできないし、何もすることはできないのです。ですから、しもべは、主人に言いつけられたことを、ただ忠実にこなすだけでいいのです。遣わされた者も、遣わした方のメッセージを語るだけでいい。何か自分の考えを加えたり、自分の意見を加えたり必要はありません。自分の思いや考えで動いたりする立場ではないのです。あくまでも主人の、あるいは遣わされた方の意向にそって動くだけでいいのです。それが「しもべ」です。これが、「しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」という意味です。私たちは、天から与えられるのでなければ何もできないし、私たちの成し得ることはすべて、神の恵みによるのです。

その中には、主人の言っていることを理解できないこともあるでしょう。でも、今はわからなくても、後でわかるようになります。ですから、しもべがすべきことは、主人が言っていることを理解できるかどうかではなく、理解できてもできなくても、主人に従うことなのです。これがしもべの役割です。ですから、この「しもべは主人にまさらず」というのは、たとえ主人が言われたことがわからなくても、その言われたことに忠実に従わなければならないということです。それがしもべの姿、私たちの立場です。

17節をご覧ください。ここには、「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」とあります。「これらのこと」とは何でしょうか。それは、今述べてきたように、しもべは主人にまさらないということです。そのことをわきまえて、主人が言っていることを理解できても、できなくても、それに従うということです。それが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。ここでは、ただ知っているというだけでなく、それを行うことの大切さが強調されています。
ヤコブ1:22~25には、「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とあります。
みことばを聞くだけでなく、行う人にならなければなりません。こういう人は、その行いによって祝福されるからです。私たちは、行いによって救われたのではありません。キリストの十字架の贖いのゆえに、それを信じる信仰によって救われたのです。救いは、一方的な神の恵みによるのです。しかし、そのように恵みによって救われたのであれば、結果としてそこに必ず行いが伴うはずなのです。そうでないとしたら、神の恵みによって救われるということがどういうことなのかを正しく理解していないか、あるいは、本当の意味で救われてはいないかのどちらかです。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いなのです。

この「幸い」ということですが、これはマタイの福音書5章の山上の説教で語られている「幸い」と同じです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)この「幸い」と同じです。それは単に物事が自分の願い通りになるということではありません。それは、霊的な祝福にあずかることを意味しています。神の祝福を受けることがまことの幸いです。皆さん、幸せって何ですか?一般に幸せというと、たとえば有名な大学に入ることとか、いい人と結婚すること、仕事に成功すること、マイホームを手に入れること、あの資格この資格を手に入れること、健康であること、こういうことが幸せなことだと思っていますが、そうではありません。そうしたものが悪いと言っているのではありませんが、そうしたものがないと幸せになれないと考えていることが間違っているのです。実際に、そのようなものをすべて手に入れても、虚しくなって自殺する人もいます。本当の幸せは神との関係にあります。「神共にいまし」、これが天国です。これが祝福です。まことに幸いな人とは、これらのことが分かっている人、そして、それを行う人です。そういう人こそ幸いな人なのです。

アメリカの有名な伝道者D.L.ムーディーは、このように言いました。「聖書は私たちの情報のためではなく、私たちの変革のために与えられたものである。」聖書はただの情報のために与えられたものではなく、私たち自身が変えられるために与えられたものです。罪人から聖徒に、罪の奴隷からキリストのしもべに、罪人から義人に変えられるために与えられました。私たちがキリストを信じてすべての罪が赦され、しもべは主人にまさらず、という木リスとのことばに従い、それを行うなら、あなたは幸いなのです。

Ⅱ.あなたがたが信じるため(18-19)

次に、18~19節をご覧ください。
「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」

ここから話の流れが大きく変わります。イエス様はこれまで足を洗うこと、仕えることの意味を語ってきました。そして、それがどういうことなのかがわからなくても、しもべとして主人の言われるとおりにすることが祝福なのだと語られたのです。しかし、ここからはユダの裏切りについて語り始めます。

「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのでありません。」というのは、10節、11節でも述べられていたことです。イエスは、水浴した者は足以外に洗う必要はないが、皆がきよいわけではない、と言われました。これは、イスカリオテ・ユダのことを指して言われました。ユダはキリストの弟子でありながら、きよめられていませんでした。彼はイエスに足を洗ってもらいましたが、全身がきよめられていませんでした。うわべだけのきよめ、名ばかりの弟子だったのです。彼はまことの弟子ではありませんでした。6:70でも、彼は悪魔であったと言われています。ですから、彼は他の弟子たちのように全身がきよめられていませんでした。足だけ洗ってもらうだけではだめだったのです。全身洗ってもらわなければなりませんでした。水浴しなければなりませんでした。だれも彼を裏切り者だなんて思っていなかったでしょう。彼は有能な人物でした。他の弟子たちからも一目置かれる存在でした。ですから、この後でイエスが「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」(13:21)と言っても、だれも彼をその人物だとは思いませんでした。それほど信頼が厚かったのです。しかし、イエスだけは知っていました。ここに、「わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。」とあります。けれども、聖書に、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることが成就するために、この事が起こりました。このこととは、ユダがイエスを裏切るという事です。これは詩篇41:10の引用です。「かかとをあげる」とは、反逆するとか、敵対するという意味です。イエスはご自分が選んだ者たちの中から、自分に向かって反逆する者、裏切る者が出てくることを知っておられたのです。

このことを前提に、イエスは19節でこのようにおっしゃられました。「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」どういうことでしょうか?
「事が起こる前に」とは、ユダがイエスを裏切るという事が起こる前にということです。そのことが起こる前に、そのことを弟子たちに言っておくというのです。何のためでしょうか?それは、その事が起こったとき、わたしが「わたしはある」であることを、あなたがたが信じるためです。また出ました。「わたしは、「わたしはある」というものである。」これは出エジプト記3:14に出てきた言葉で、主がどのような方であるのかを表した言葉です。つまり、主はほかの何ものにも依存しない方、自存の神、全能者であるという意味です。そのことを信じるためです。

こんなことが本当に起こったら大変です。それこそ弟子たちの信仰を揺るがしかねません。そうでしょ、たとえば、教会で何か問題が起こったらどうなるでしょうか。「クリスチャンなのに信じられない」とか、「牧師なのにひどい」とかなりませんか。そのことに動揺して躓いてしまう人もいるでしょう。人の言動や罪、失敗、醜さなどに動揺し、うろたえては教会から離れたり、信仰から離れてしまうことがあります。しかし、ここでは、その事が弟子たちの信仰を揺るがすどころか、むしろ、そのことを通してイエスはどのような方なのか、「わたしはある」というものであることを、弟子たち信じるために用いられると言われたのです。

これはすごいことです。ユダの裏切り行為はショッキングなことであり、そのことだけを見たら信仰が揺れ動いてしまうかもしれませんが、しかし、聖書の御言葉に目を留め、それが旧約聖書の中にちゃんと預言されていたことであったということを知ると、むしろ、そのことによって、ああ、ほんとうにイエス様は神様なんだということを確信し、ますます神に信頼できるようになるのです。ですから、この出来事をどのように捉えるかは大切なことです。それを人間の視点で捉えるのか、神の視点で捉えるのかということです。人間の視点で見たら、何というひどいことをとなるでしょうが、神の視点で捉えるなら、「そういうことだったのか」と、逆に信仰が強められることになるのです。

ですから、どこを見るのか、だれに信頼するのかは、とても重要なことです。もし人を見れば動揺するでしょうが、神を見て、神のことばに耳を傾けるなら、どんなことが起こっても決して失望することはありません。なぜなら、聖書に、主に信頼する者は、決して失望させられることがない、とあるからです。(ローマ10:11)

Ⅰペテロ1:23~25には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。」とあります。
人はみな草のようです。その栄えはみな草の花のようです。ですから、人に信頼すると萎れてしまうことになります。裏切られたり、そのことばでいつも振り回される結果になります。しかし、主のことばはとこしえに変わることがありません。ですから、もしあなたが主のことばに目を留め、それに心を寄せるなら、あなたの心が揺れ動くどころか、むしろ強められることになるでしょう。確かにユダの裏切り行為自体は、あってはならないことです。そのこと自体を正当化されてはなりません。しかし、そのことがすべての人たちの救いにつながっていったということ、そして、神の栄光を現すために用いられたということも事実なのであって、そのことを覚えておかなければなりません。そして、主のことばに目を留め、主に信頼しましょう。そういう人が主から幸いを受けるのです。

Ⅲ.イエスによって遣わされた者(20)

第三に、20節をご覧ください。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

ここにも「まことに、まことに」という言葉が使われています。ですから、ここでの内容も重要です。それはどんなことかというと、「わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」ということです。「わたし」とは、勿論イエスご自身のことです。イエスが遣わす者を受け入れる者は、イエスを受け入れるのであり、イエスを受け入れる者は、イエスを遣わされた方、これは父なる神のことですが、その方を受け入れることなのです。イエスはこれまで何度も、ご自分を遣わされた者を受け入れる者は、遣わされた方を受け入れることであると述べてきました。なぜなら、イエスが「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われたように、イエスと父なる神は全く一つであられるからです。ですから、キリストを受け入れる者は、キリストを遣わされた方、父なる神を受け入れる者でもあるのです。しかし、ここでは、キリストを受け入れる者だけでなく、キリストが遣わされた者を受け入れる者は、キリストを受け入れると言っています。そして、キリストを受け入れる者は、キリストを遣わされた方を受け入れることになるのです。

なぜ、このことがそれほど重要なのでしょうか。それは、ここにも私たちがどのような者であるかが示されているからです。すなわち、私たちはキリストによって遣わされた者であるということです。何のために遣わされたのかというと、私たちを通して語られるキリストのことばを通して、それを耳にした人が信じるためです。すなわち、キリストを受け入れる者となるためです。クリスチャンになるためです。そうでないと、その人たちはクリスチャンになることはできません。私たちを通して聖書のことばを聞き、それを教えてもらって、初めて信じることができるのです。イエス様は、この尊い務めを私たちにゆだねてくださったのです。

ローマ10:17には、「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」とあります。信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。美しい夜空を眺めていたら、突然イエス様を信じるようになったというようなことがあるでしょうか?美味しい食事をしていたら、気持ちよくなってイエス様を信じようと思ったというようなことがあるでしょうか?その感情が一時的に盛り上がるということはあるかもしれませんが、それが信仰に結びつくことはありません。なぜなら、信仰は聞くことから始まるからです。そして、聞くことはキリストについてのことばを通して実現するからです。それは、イエス・キリストの十字架と復活という事実に基づいているのです。キリストを信じるためには、キリストについてのことばを聞かなければなりません。その中で聖霊が働いてくださいます。何回聞いてもピンと来ない人が、ある日、ある時、キリストのことばを聞いて「あ、そういうことだったのか」とわかる時があります。それは一方的な聖霊の働きによるのです。私たちはただこのキリストについてのみことばを語らなければなりません。キリストのみことばに出会うなら、そのとき信仰が生まれるからです。

そして、そのためには遣わされなければなりません。ローマ10:14には、「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。」とあります。みことばを聞くためにはそれを宣べ伝える人が必要です。イエスはこう言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)と言われました。不思議ですね、全能であられる主が、収穫のためには働き手が必要だと言われたのですから。「わたしはある」と言われたる方が、この福音を伝えるために人を求めておられるのです。そのために主は、私たちを遣わしておられるのです。

近藤先生の書かれた証の中に、先生がどのように救いに導かれたのかが書かれてあります。先生が大学を卒業後高校の音楽の教師として働いていた時、生徒から「人間どうして努力しなくちゃいけないのか」「何のために生きているのか」と聞かれたそうです。その問に答える術がなく、悶々としていた時、人生に何か目標を持ちたいと、死ぬまでに一か国語でもいいから、外国語を話せるようになりたいと、フランス語を学び始め、翌年の夏休みを利用してフランスに行かれました。何気なく散歩していたら教会から流れてきたパイプオルガンの音色に、それまで味わったことのない感銘を受けるのですが、帰国して2学期が始まり、10月頃、風邪をひいて、家庭医の診察を受けました。その医師はクリスチャンの方で、診察の合間に、訪れた患者さんに神様のことをさりげなく語るということをしていたそうです。そして、近藤先生の診察が終わると、「近藤さん、よろしかったお茶でもしていきませんか」と誘ってくださいました。普通ならお断りするところですが、なぜかこの時は受け入れてしまいました。応接間に通されると、奥さんがお茶とお菓子を持ってきて、もてなしてくれました。片付けを終えるとその医師も応接間に入って来て、先生が恐れていたとおり、聖書を開いて、この世界には神様がおられること、そして人間には罪があること、その罪の赦しのためにイエス様が十字架で死なれたことをこくこくと話されたのです。先生はその医師が語っていることをすべて理解したわけではありませんでしたが、フランスで体験したことを彼に話してみると、その医者は「近藤君、神様は近藤君を招いていらっしゃる。聖書を読みなさい。」と勧めてくれました。
その翌日、学校からの帰りに駅前の本屋に行き、新約聖書を入手し、その夜から読み始めると、よく理解できませんでしたが、聖書のことばには力があって、自分が引っ張られていくような感じがしたそうです。それで、その医師が勧めたように教会にも行くようになり、伝道者の書のことばが目に留まり、信仰に導かれたのです。
私はその証を読ませていただきながら、この医師の方すごいなぁと思いました。牧師とか伝道者であれば当然かもしれませんが、自分が遣わされたところ、自分が置かれたところで、良いことを伝える足となったのです。それは、この方が自分はイエス様によってここに遣わされた者であるという使命感をしっかりと持っていたからです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
私たちも、主に遣わされた者です。本当に取るに足りない者ですが、そのような者を受け入れる者は、キリストを受け入れるのです。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。私たちは、しもべにすぎず、遣わされた者であるということを肝に銘じ、主人であられる主の命じられることを、淡々と行う者でありたいと思います。それが主のしもべです。天から与えられるものでなければ、私たちは何もすることができません。すべては主の恵みによるのです。そのように生きる者こそ幸いな者であり、主からの幸いを受ける者なのです。

Ⅰサムエル記14章

 今回は、サムエル記第一14章から学びます。

 Ⅰ.信仰による勝利(1-15)

 まず、1~15節までをご覧ください。
「道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣の方へ行こう。」しかし、ヨナタンは父にそのことを知らせなかった。サウルはギブアの外れで、ミグロンにある、ざくろの木の下に座っていた。彼とともにいた兵は約六百人であった。アヒヤは、エポデを身に着けていた。アヒヤはアヒトブの子で、アヒトブはイ・カボデの兄弟、イ・カボデはピネハスの子、ピネハスは、シロで主の祭司であったエリの子である。兵たちは、ヨナタンが出て行ったことを知らなかった。ヨナタンがペリシテ人の先陣の側に越えて行こうとしていた山峡には、手前側にも、向こう側にも、切り立った岩があって、一方の側の名はボツェツ、もう一方の側の名はセンネといった。一方の岩は北側、ミクマスの側にあり、もう一方の岩は南側、ゲバの側にそそり立っていた。ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」道具持ちは言った。「何でも、お心のままになさってください。さあ、お進みください。私も一緒に参ります。お心のままに。」ヨナタンは言った。「さあ、あの者どものところに渡って行って、われわれの姿を現すのだ。もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これが、われわれへのしるしだ。」二人はペリシテ人の先陣に身を現した。するとペリシテ人が言った。「おい、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」ヨナタンは手足を使ってよじ登り、道具持ちも後に続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがうしろで彼らを打ち殺した。ヨナタンと道具持ちが最初に討ち取ったのは約二十人で、一ツェメドのおおよそ半分の広さの場所で行われた。そして陣営にも野にも、すべての兵のうちに恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。

ペリシテ人との戦いにおいて、イスラエルは追い詰められていました。招集した三千人の兵士のうち二千四百人はサウルのもとから離れて行き、六百人だけが残っていました。敵はさらに三方向から強力な布陣で攻撃してきました。武器の数も歴然としていました。これでは戦いになりません。そしてサムエルも、サウルが罪を犯したことで怒って去って行きました。このような状況にあったある日、サウルの息子ヨナタンは、道具持ちの若者に言いました。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣の方へ行こう。」彼は、道具持ちの若者とたった二人だけで、ペリシテ人の先陣のただ中に攻めていこうとしたのです。たった二人で攻めていくなんて無謀です。いったいなぜ彼はそのようにしようと思ったのでしょうか。それは4節を見るとわかります。イスラエル人の側とペリシテ人の側の両方に切り立った岩があったので、ペリシテ人たちはまさかイスラエルがその岩を乗り越えて攻撃してくるとは夢にも思わなかったのです。

それだけではありません。6節にはヨナタンが「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。」と言っていますが、「割礼」とは神の民のしるしです。その割礼を受けていない異邦の民に、神の民が打ちのめされるなんて考えられなかったのです。ヨナタンは、「おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」と言っています。すばらしい信仰です。人数は関係ありません。大勢でも、わずかな人でも、主がお救いになるのを妨げるものは何もありません。問題はだれとともに戦うのかです。主がともに戦うなら、小人数でも勝利することができます。ヨナタンは、主が勝利を与えてくださると信じ、その一歩を踏み出そうとしたのです。

とは言っても、彼は盲目に前進して行くことはありませんでした。もしペリシテ人が「おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ」と言ったら、その場に立ちとどまり、もし彼らが「おれたちのところに上って来い」と言ったら、上って行くことにしたのです。それが、主が彼らを自分たちの手に渡されたことのしるしだと思ったからです。彼は、主の導きを求めて一歩、一歩前進したのです。信仰の冒険は盲目に前進するのではなく、少しずつ、主の導きを確かめながら進むものです。するとペリシテ人の先陣の者たちが、「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」と言ったので、彼はこれを主の導きと信じて、出て行くことにしました。

するとどうなったでしょうか。ヨナタンは手足を使って岩をよじ登り、道具持ちもそれに続きました。そしてその日二人は、約二十人を討ち取りました。しかも、それは一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行われました。そんな狭い所で、たった二十人しか打ち殺すことができなかったのかと思うかもしれませんが、そのことがペリシテ人全体に与えた影響は計り知れないほどのものがありました。15節をご覧ください。そのことによって、ペリシテの陣営にも、野にも、すべての兵のうちに恐れが生じ、先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいたのです。地は震え、非常な恐れとなりました。「非常な恐れとなった」は、直訳では「神の恐れとなった」です。文語訳では「神よりの戦慄(おののき)なりき」と訳しています。ペリシテ人たちが感じた恐れがどのようなものであったのかを見事に描写していると思います。

このことから教えられることは、私たちが主のみこころに従い、信仰の一歩を踏み出すなら、あとは主がすべて行ってくださるということです。二人が討ち殺したのはたった二十人でしたが、主はこの出来事を用いて、ペリシテ人の陣営全体、そして民全体に恐れを起こされました。そして、おまけに地震まで起こしてくださいました。すべてを自分で行なわなければいけないというのは、間違いです。ヨナタンに勝利を与えてくださった主は今も生きていて、信じる者に同じような勝利を与えてくださるのです。

Ⅱ.サウルの反応(16-23)

次に、16~23節までをご覧ください。
「ベニヤミンのギブアでサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、大軍は震えおののいて右往左往していた。サウルは彼とともにいる兵に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、点呼して調べなさい。」彼らが点呼すると、ヨナタンと道具持ちがいなかった。サウルはアヒヤに言った。「神の箱を持って来なさい。」神の箱は、そのころ、イスラエル人の間にあったからである。サウルが祭司とまだ話している間に、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。サウルは祭司に「手を戻しなさい」と言った。サウルと、彼とともにいた兵がみな集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士討ちをしていて、非常に大きな混乱が起こっていた。それまでペリシテ人について、彼らと一緒に陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。その日、主はイスラエルを救われた。そして、戦いはベテ・アベンに移った。

敵の大群が震えおののいて右往左往しているのを見たサウルは、だれが先陣に攻撃を仕掛けたのかを調べ、それがヨナタンと道具持ちであることがわかると、それをどのように受け止めたらいいのかを尋ねるために、祭司アヒヤに神の箱を持ってくるように命じました。神の箱とは、エポデのことです。ですから、口語訳では「エポデをここに持ってきなさい」と訳しています。エポデ、つまり、祭司の胸当てにある二つの石を使って、ペリシテ人と戦うべきなのかどうかを伺おうとしたのです。しかし、サウルが祭司とまだ話をしている間に、ペリシテ人の陣営でうろたえている様子がひどくなっているのが見えたので、主に伺う必要がなくなりました。サウルは祭司に「手を戻しなさい」と言って、即刻戦場に乗り込むことにしました。彼は主のみこころを伺うことなしに戦場に出かけて行きました。ここにも、彼のご都合主義が伺えます。状況が良ければ主の助けを求める必要はないと考えるのは、人間の傲慢です。私たちは、どんな時でも主に祈り、主のみこころを求めて進まなければなりません。

サウルたちが戦場に出かけてみるとどうでしょう。そこでは敵が剣を持って同士討ちをしていました。非常に大きな混乱が起こっていたのです。神からの恐れが、ペリシテ人たちに平常心を失わせていたからです。これまで同胞を裏切ってペリシテ人たちについていたへブル人も再び寝返って、イスラエルの側に付くようになりました。さらに、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人もペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わりました。こうしてその日、主はイスラエルを救われたのです。

ヨナタンによって始められた信仰の戦いは、イスラエルの大勝利につながりました。聖書はイスラエルが勝利した理由を、こう述べています。23節、「その日、主はイスラエルを救われた。」と。それは主がもたらされたものでした。主がヨナタンとその道具持ちの信仰に応えてくださり、ペリシテ人に恐れと混乱を起こしてくださったので、勝利することができたのです。すべての良きものは、主からの賜物です。そのことを忘れて高ぶることがないようにしましょう。そして、いつもへりくだって、主に信頼し、主が成してくださることを待ち望む者でありたいと思います。

Ⅲ.愚かな誓い(24-30)

次に24~30節までをご覧ください。
「さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。この地はどこでも、森に入って行くと、地面に蜜があった。兵たちが森に入ると、なんと、蜜が滴っていたが、だれも手に付けて口に入れる者はいなかった。兵たちは誓いを恐れていたのである。しかし、ヨナタンは、父が兵たちに誓わせたことを聞いていなかった。彼は手にあった杖の先を伸ばして、蜜蜂の巣に浸し、それを手に付けて口に入れた。すると彼の目が輝いた。兵の一人がそれを見て言った。「あなたの父上は、兵たちに堅く誓わせて、『今日、食物を食べる者はのろわれる』とおっしゃいました。それで兵たちは疲れているのです。」
ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ほら、この蜜を少し口にしたので、私の目は輝いている。もしも今日、兵たちが、自分たちが見つけた敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を討ち取っていただろうに。」」

サウルはイスラエルの兵たちに、あることを誓わせていました。それは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」ということです。彼は、戦いのさなか、厳しい呪いをかけた断食の誓いを民に強要したのです。食事の時間も惜しんで敵を追跡した方がよいと判断したのでしょう。しかし、その結果、イスラエルの民はひどく苦しむことになりました。人間には霊的、精神的必要と同時に、肉体的な必要もあります。私たちは、食事や睡眠、そして適度な休息を必要としているので、こうした必要を無視するとバランスを崩すことにつながります。確かに聖書には祈りのために断食することを教えている箇所がありますが、それも正しい理解のもとに行わないとただの見せかけとなり、自分自身を苦しめるだけで、神に喜ばれないものとなってしまいます。

ヨナタンは、そのことを知りませんでした。それで彼が森の中へ入って行くと、密が滴っていたので、手にあった杖の先を伸ばして、密蜂の巣に浸し、それを手に付けて口に入れました。すると彼の目は輝きました。蜂蜜にある糖分が、元気付けたのです。現在でもスポーツ選手が甘い物を摂取しますが、それはすぐにエネルギーとして消化されるからです。ヨナタンは、その後で、初めて誓いのことを知らされましたが、彼は大いに驚き、父の愚かさを批判しました。これは本当に愚かな誓いです。このような無駄な誓いのために、民は束縛の中に置かれてしまうことになり、ペリシテ人を追跡するという、主の働きが妨げられる結果となってしまいました。しかし、真理はあなたがたを自由にします。キリストにある自由は、このヨナタンのように、主に喜ばれることは何かを知り、それを行うことができるという自由です。私たちにはそのような自由が与えれているのです。

Ⅳ.サウルが築いた祭壇(31-35)

31~35節をご覧ください。
「その日彼らは、ミクマスからアヤロンに至るまでペリシテ人を討った。それで兵たちはたいへん疲れていた。兵たちは分捕り物に飛びかかり、羊、牛、若い牛を取り、その場で屠った。兵たちは血が付いたままで、それを食べた。すると、「ご覧ください。兵たちが血のままで食べて、主に罪を犯しています」と、サウルに告げる者がいた。サウルは言った。「おまえたちは裏切った。今、大きな石を転がして来なさい。」そしてサウルは言った。「兵の中に散って行って、彼らに言いなさい。『それぞれ自分の牛か羊を私のところに連れて来て、ここで屠って食べなさい。血のままで食べて主に罪を犯してはならない。』」兵はみな、その夜、それぞれ自分の手で牛を連れて来て、そこで屠った。サウルは主のために祭壇を築いた。これは、彼が主のために築いた最初の祭壇であった。」

ミクマスからアヤロンに至るまでペリシテ人を討ったイスラエルの兵たちは、断食していたのでたいへん疲れていました。それで、禁止された期間が終わるとすぐに分捕り物に飛びかかり、羊、牛、若い牛を取り、その場で屠って食べました。彼らは血が付いたままで食べました。血を絞り出さないで食べるのは、モーセの律法に違反しています。(レビ17:10-14,申命記12:23-25)サウルの愚かな誓いが、民に罪を犯させる結果をもたらしたのです。そのことがサウルの耳に届くと、彼は大きな石を転がしてくるようにと命じました。何のためですか。それで血を抜いて食べることができるようにするためです。

サウルはそこに主のための祭壇を築きました。これが、彼が築いた最初の祭壇です。彼は祭司ではなかったので、いけにえをささげる資格がありませんでした。それなのに、彼はなぜ祭壇を築いたのでしょうか。それは、祭司に命じてその祭壇の上で罪のためのいけにえをささげるためです。しかし、それは見せかけの祭壇でした。確かに、アブラハムやイサク、ヤコブ、そしてモーセも主のために祭壇を築きましたが、それは主に感謝し、主を礼拝するためでした。たとえば、アブラハムは神から告げられた場所、モリヤの山に祭壇を築き、そこで神から告げられたとおりに息子イサクをささげました。彼はそこで最高のものを神にささげたのです。この祭壇は、「主の山には備えがある」ことを証明する祭壇になりました。主は身代わりの犠牲としての雄羊を用意してくださったので、彼はイサクの代わりにその雄羊を全焼のいけにえとしてささげました。この祭壇は、イエス・キリストの十字架を予表する祭壇ともなりましたが、彼は人生で最大の試練を通して、自らの信仰が真実であることを証明したのです。私たちもこのような祭壇を築こうではありませんか。サウルのような見せかけの祭壇ではなく、アブラムのような真実の祭壇、日々神に感謝し、神を礼拝する祭壇を築きましょう。

Ⅴ.ヨナタンの危機(36-42)

36~42節をご覧ください。
「サウルは言った。「夜、ペリシテ人を追って下り、明け方までに彼らからかすめ奪い、一人も残しておかないようにしよう。」すると兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」サウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日、神は彼にお答えにならなかった。サウルは言った。「民のかしらたちはみな、ここに近寄りなさい。今日、どうしてこの罪が起こったのかを確かめてみなさい。まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとえ、それが私の息子ヨナタンであっても、必ず死ななければならない。」しかし、民のうちだれも彼に答える者はいなかった。サウルはすべてのイスラエル人たちに言った。「おまえたちは、こちら側にいなさい。私と息子ヨナタンは、あちら側にいることにしよう。」民はサウルに言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」」

サウルは、明け方までペリシテ人を追い、絶滅させようと言うと、民は、「あなたが良いと思うようにしてください。」と答えました。敵の分捕り物を食べたからか、彼らに新たな力が湧いてきたのです。しかし、祭司アヒヤは、神の前に出ることを進言しました。それでサウルが神に伺いを立てましたが、その日、神は彼にお答えになりませんでした。サウルは、その原因は神への誓いを破った者がいるからだと思い、その犯人を追及しようとします。すると、ヨナタンが取り分けられました。それでサウルが何をしたのかとヨナタンに問い詰めると、ヨナタンは、例の蜂蜜の事件を告白しました。彼は自分がしたことを一切自己弁護せず、正直に告白しました。皮肉なことに、知っていて罪を犯したサウルが、知らないで罪を犯したヨナタンをさばいていることです。神の権威に反抗的な者ほど、自分の権威に従わない者を厳しく扱うという構図がここに見られます。サウルの傲慢さ、愚かさ、利己的な性格が、ここに至って明らかになります。

サウルは、息子ヨナタンに死刑を宣告しましたが民の激しい抵抗にあったので、ヨナタンの命は救われました。しかし、こういう問題があったため、サウルはペリシテ人を追うことをやめて引き揚げたので、ペリシテ人は自分たちのところへ帰って行きました。敵を攻撃する機会を逃してしまったのです。神から離れた者は、頑迷と愚かさの道を歩むようになります。いつも神のみこころを求め、みこころに歩みましょう。

Ⅵ.サウルの業績(47-52)

最後に、47~52節までをご覧ください。ここには、サウルの統治のまとめが記されてあります。
「さてサウルは、イスラエルの王権を握ってから、周囲のすべての敵と戦った。モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを敗走させた。彼は勇気を奮って、アマレク人を討ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した。さて、サウルの息子は、ヨナタン、イシュウィ、マルキ・シュア、二人の娘の名は、姉がメラブ、妹がミカルであった。サウルの妻の名はアヒノアムで、アヒマアツの娘であった。軍の長の名はアブネルで、ネルの子でサウルのおじであった。キシュはサウルの父であり、アブネルの父ネルは、アビエルの子であった。サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その人たちをみな、召しかかえることにしていた。」

サウルは不従順であったにも関わらず、イスラエルの王権を握ってから、モアブ人、アンモン人、エドム人、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦って、勝利を収めました。アマレク人との戦いだけは、他の民族との戦いと区別して書かれています。その理由は、15章になって明らかになりますが、彼の重大な過ちについて述べるためです。

サウルには、3人の息子と2人の娘がいました。ここには書かれてありませんが、実は彼にはもう一人の息子がいました。それがイシュ・ボシェテです(Ⅱサムエル2:8)。彼がサウルの後継者として残される人物です。妻はアヒノアムで、アヒマアツの娘でした。そして、将軍となったのはアブネルです。

サウルの一生の間、ペリシテ人との間に激しい戦いがありました。平安がなかったということです。神から離れた人の人生は、サウルのような人生です。そこには真の平安がありません。しかし、神とともに歩む人は、たとえ戦いがあってもそこに平安があり、将来と希望が溢れています。私たちはサウルのような人生ではなく、神と共に歩む人生を目指して前進していきたいと思います。