Ⅰ列王記15章

 今日は、列王記第一15章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王アビヤム(1-8)

まず、1~8節までをご覧ください。「1 ネバテの子ヤロブアムの第十八年に、アビヤムがユダの王となり、2 エルサレムで三年間、王であった。彼の母の名はマアカといい、アブサロムの娘であった。3 彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった。4 しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。5 それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからである。6 レハブアムとヤロブアムの間には、彼の一生の間、戦いがあった。7 アビヤムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。アビヤムとヤロブアムの間には戦いがあった。8 アビヤムは先祖とともに眠りにつき、人々は彼をダビデの町に葬った。彼の子アサが代わって王となった。」

前回は、イスラエルが南北に分裂し、それぞれの初代王であったヤロブアムとレハブアムについて学びました。そして今回は、その後に出てくる王たちの話となります。初めに、南王国ユダの王レハブアムの子アビヤムです。彼はヤロブアムの治世第十八年目に出てきて、エルサレムで3年間王でした。

彼の母の名は「マアカ」といい、アブサロムの娘でした。アブサロムとはダビデの3番目の息子で、後に父ダビデに反逆しダビデをエルサレムから追い出した人物です。そのアブサロムの娘がマアかで、その子がこのアビヤムでした。ここに母親の名前が記されてあるのは、その悪影響が息子に及んでいることを示すためです。

さらに、彼には父親からの悪い影響もありました。3節に「彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった。」とあるように、かつて父親のレハブアムが行ったあらゆる罪のうちを歩みました。つまり、彼は悪い王だったということです。彼の祖父はソロモンですが、ソロモンのような知恵のひとかけらもありませんでした。また、曾祖父はダビデですが、ダビテのように、主と心が一つになっていませんでした。

これは、子どもを養育する上で両親の責任がいかに大きいかを示すものです。エペソ6:4に「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあるように、主の教育と訓戒によって育てることの大切さを思い知らされます。

ところで、ここにもダビデのことが記されてあります。アビヤムは悪い王でしたが、主はダビデの子孫が王位を継承することをよしとされたので、「ダビデに免じて」、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられました。ここにある「一つのともしび」とは、闇に光を灯すような王位継承者のことで、それは次に王となるアサのことを指しています。それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからです。私たちはこれまでずっとダビデの生涯を学んで来たものにとってはあれっ?と思うような内容ですね。というのは、ダビテはウリヤのこと以外にも多くの罪を犯しました。それなのにここには、ウリヤのことのほかには、一生の間、主が命じられたことからそれなかったとあります。これはどういうことでしょうか?これは、ダビデがヒッタイト人ウリヤのこと、すなわち、バテ・シェバのこと以外にも罪を犯さなかったということではなく、ダビデがいつも主を追い求めて生きていた姿勢が述べられているのです。

その有名なことばが、詩篇16:8でしょう。ここには「私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。」とあります。私たちの教会の今年の目標聖句ですね。皆さんはどうですか。いつも自分の前に主を置いているでしょうか。今年も残り4か月になりましたが、何とかダビデのような信仰の歩みをしたいですね。

ここで重要なのは、この「ダビデに免じて」という言葉です。アビヤムは、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心はダビデの心のように、主と一つにはなっていませんでしたが、このダビデに免じて、主は彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えてくださいました。彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられたのです。アサ王です。

このことは、イエス・キリストを信じる者が、キリストが行われた御業によって義と認められることに通じます。私たちは罪ある者で、神にさばかれても致し方ない者ですが、神はその罪をキリストに負わせ、十字架で処理してくださったので、私たちは罪なき者となり、神の祝福を受け継ぐ者となりました。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。キリストに免じて、そうした祝福に与る者とされたのです。

Ⅱ.ユダの王アサ(9-24)

次に、その一つのともしびであるアサ王についてみていきたいと思います。9~14節をご覧ください。「9 イスラエルの王ヤロブアムの第二十年に、ユダの王アサが王となった。10 彼はエルサレムで四十一年間、王であった。彼の母の名はマアカといい、アブサロムの娘であった。11 アサは父祖ダビデのように、主の目にかなうことを行った。12 彼は神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除いた。13 また、母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を皇太后の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、これをキデロンの谷で焼いた。14 高き所は取り除かれなかったが、アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった。15 彼は、父が聖別した物と自分が聖別した物、銀、金、器を、【主】の宮に運び入れた。」

アビヤムの跡を継いだのは、息子のアサでした。彼は、北王国イスラエルの王ヤロブアムの治世の第二十年に、南王国の王となりました。ヤロブアムの治世は22年間でしたから、彼はその治世の終わり頃に王となったということです。

彼はエルサレムで41年間、王として治めました。彼の母の名は「マアカ」といい、アブサロムの娘でした。この「マアカ」については2節にも出てきましたが、アビヤムの母であり、アサにとっては祖母に当たります。祖母なのに「母」とあるのはおかしいのではないかと思う方もいるかもしれませんが、へブル的な表現では、数世代先の先祖であっても「母」と呼ぶ場合があります。「マアカ」をアサの母と位置づけているのは、「王母」という地位が宮廷内で歴然として存在していたからでしょう。その地位に着くのはひとりであることを示しているのです。

アサは、父祖ダビデのように、主の目にかなうことを行いました。南王国では19人の王が登場しますが、そのうち8人が善王です。そして、その最初の王がこのアサ王です。彼はどのように主の目にかなうことを行ったのか。12~13節に記されてあります。

彼はまず神殿男娼を国から追放しました。神殿男娼とは同性愛者のことです。それは重大な罪だと認め、それを国から追放したのです。また彼は、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除きました。そればかりではありません。彼は、母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を皇太后の位から退けました。これは非常に勇気が要ることです。でも彼は主への信仰のゆえにそれを断行したのです。彼は、その憎むべき像を切り倒し、これをキデロンの谷で焼きました。

彼は高き所は取り除きませんでしたが、その心は生涯、主とともにあり、全きものでありました。「高き所」とは、偶像礼拝が行われていた所を意味しています。それを取り除かれなかったというのは、偶像礼拝を一掃できなかったということです。それでも彼の心が、生涯、主とともにあり、全きものであったと言われているのは、彼が主だけを礼拝していたからです。

15節には銀、金、器とありますが、これらのものは、北イスラエルとの戦いやエジプトとの戦いで勝利した際に得た戦利品のことでしょう(Ⅱ歴代誌13:16~17,14:12~13)。彼はそれを主の宮に運び入れたので、再び主の宝物倉は豊かになりました。それが彼の晩年に、彼の足を引っ張るものとなります。

次に16~17節をご覧ください。「16 アサとイスラエルの王バアシャの間には、彼らが生きている間、戦いがあった。17 イスラエルの王バアシャはユダに上って来て、ラマを築き直し、ユダの王アサのもとにだれも出入りできないようにした。」

南ユダの王アサと北イスラエルの王バシャとの間には、彼らが生きている間、戦いがありました。バシャは、ユダを攻撃するために、活発に策略を巡らしました。その一つがエルサレムから北に8㎞ほど離れたラマに要塞を築くことでした。これによって南北の交通を遮断し、ユダを押さえつけようとしたのです。それはアサにとっては危機的な状況でした。この危機は、アサが主に信頼するかどうかの試金石となりました。もしアサが主に助けを求めるなら、主は彼を助け、その国を解放してくれますが、そうでないと、敗北してしまうことになります。アサはどうしたでしょうか。彼は主ではなく人間に助けを求めました。彼は、シリヤのベン・ハダテに助けを求めたのです。

18~22節をご覧ください。「18 アサは、主の宮の宝物倉と王宮の宝物倉に残っていた銀と金をことごとく取って、自分の家来たちの手に渡した。アサ王は、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王、ヘズヨンの子タブリンモンの子ベン・ハダドのもとに遣わして言った。19 「私の父とあなたの父上の間にあったように、私とあなたの間にも盟約を結びましょう。ご覧ください。私はあなたに銀と金の贈り物をしました。どうか、イスラエルの王バアシャとの盟約を破棄して、彼が私のもとから離れ去るようにしてください。」20 ベン・ハダドはアサ王の願いを聞き入れ、自分の配下の軍の高官たちをイスラエルの町々に差し向け、イヨンと、ダンと、アベル・ベテ・マアカ、およびキネレテ全域とナフタリの全土を攻撃した。21 バアシャはこれを聞くと、ラマを築き直すのを中止して、ティルツァにとどまった。22 そこで、アサ王はユダ全土にもれなく布告し、バアシャが建築に用いたラマの石材と木材を運び出させた。アサ王は、これを用いてベニヤミンのゲバとミツパを建てた。」

アサは、主の宝物倉と王宮の宝物倉に残っていた銀と金をことごとく取って、それを自分たちの家来に渡し、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王ベン・ハダテのもとに遣わし、助けを求めました。彼は、使者たちを遣わしてこう言わせました。「私の父とあなたの父上の間にあったように、私とあなたの間にも盟約を結びましょう。ご覧ください。私はあなたに銀と金の贈り物をしました。どうか、イスラエルの王バアシャとの盟約を破棄して、彼が私のもとから離れ去るようにしてください。」

これは、ベン・ハダテにとっては好都合でした。北からイスラエルを攻めれば、自国の領土を拡張することができるからです。それでベン・ハダテはアサ王の願い聞き入れ、自分の配下の軍の高官たちをイスラエルの町々に差し向け、イヨン、ダン、アベル・ベテ・マアカ、およびキネレテ全域とナフタリの全土を攻撃しました。バシャはこれを聞くと、ラマでの要塞建設を中止し、ティルツァにとどまりました。

そこでアサ王はユダ全土に布告し、バシャが建築に用いようとした材料を運び出させ、それをゲバとミツパの建設に用いました。この時のアサの得意顔が目に浮かぶようです。してやったりと思ったことでしょう。しかし、自分の知恵と力に過信することは、滅びの一歩です。それは先日の礼拝で学んだ通りです。「主はこう言われる。知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」(エレミヤ9:23)

Ⅱ歴代誌16:7には、そのとき、予見者ハナニが彼のもとに来て、彼にこう告げました。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。」そして、「これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう。」(Ⅱ歴代16:9)と宣告したのです。23節には、「ただ、彼は年を取ってから、両足とも病気になった。」とありますが、そのこともⅡ歴代誌の方に詳細に記録されています。Ⅱ歴代誌16:12です。彼の治世の第三十九年目に、彼は両足とも病気になりましたが、その病気の中でさえ、彼は主を求めず、医師を求めたのです。

アサは、大変優秀で、信仰深い王でしたが、残念ながら、最後までその信仰を貫きませんでした。初めは主に信頼していましたが、最後は自分の知恵、自分の力に頼ってしまいました。聖書には、最後まで走ることの大切さが書かれています。例えば、カレブは、85歳のときに「私は私の神、主に従い通しました。」(ヨシュア14:8)と言っています。最後まで最初の確信を貫くことが重要です。この警告を心に留めて、この地上での信仰生活を全うしようではありませんか。そして、彼がベン・ハダデに助けを求めたとき、予見者ハナニが言った主の言葉を心に刻みましょう。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(Ⅱ歴代16:9)

Ⅲ.北イスラエルの王ナダブとバシャの治世(25-34)

最後に、25~34節を見て終わります。「25 ユダの王アサの第二年に、ヤロブアムの子ナダブがイスラエルの王となり、二年間イスラエルの王であった。26 彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪の道を歩んだ。27 イッサカルの家のアヒヤの子バアシャは、彼に謀反を企てた。バアシャはペリシテ人のギベトンで彼を討った。ナダブとイスラエル全軍はギベトンを攻め囲んでいたのである。28 こうして、バアシャはユダの王アサの第三年にナダブを殺し、彼に代わって王となった。29 彼は王となったとき、ヤロブアムの全家を討ち、ヤロブアムに属する息ある者を一人も残さず、根絶やしにした。主がそのしもべ、シロ人アヒヤを通して言われたことばのとおりであった。30 これはヤロブアムが犯した罪のゆえ、またイスラエルに犯させた罪のゆえであり、彼が引き起こしたイスラエルの神、主の怒りによるものであった。31 ナダブについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。32 アサとイスラエルの王バアシャの間には、彼らが生きている間、戦いがあった。33 ユダの王アサの第三年に、アヒヤの子バアシャがティルツァで全イスラエルの王となった。治世は二十四年であった。34 彼は主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩み、ヤロブアムがイスラエルに犯させた罪の道に歩んだ。」

ユダの王アサの治世の第二年に、ヤロブアムの息子のナダブが北イスラエルで二代目の王となりました。でもそれはわずか2年間の治世でした。それは、彼が主の前に悪を行い、彼の父ヤロブアムの道に歩、父がイスラエルに犯させた罪の道を歩んだからです。この「彼の父の道」とは、金の子牛を拝むという偶像礼拝の罪です。そして、一般の人々の中から祭司を任命するといった、律法を逸脱した行為のことを指しています。彼は、主のみこころに歩まなかったのです。

それで主は、イッサカルの家のアヒヤの子バシャという人物を起こし、謀反を起こさせます。彼はペリシテ人のギベトンでナダブを殺し彼に代わって王となりました。アサの治世の第三年のことです。彼はティルツァで全イスラエルの王となり、24年間イスラエルを治めました。

彼が王になったとき、バシャはヤロブアムの全家を討ち、ヤロブアムに属する息ある者を一人も残さず根絶やしにしました。こうしてヤロブアムの家系が絶えたのです。それは、預言者アヒヤが語った預言の通りです(Ⅰ列王14:14)。ここにも、神の言葉の確かさ示されています。神は、ご自身が語られたことを、必ず実現なさる方なのです。

30節にはその理由が述べられています。それは、ヤロブアムが犯した罪のゆえ、またイスラエルに犯させた罪のゆえであり、彼が引き起こしたイスラエルの神、主の怒りによるものでした。ヤロブアムの家系は、「ネバテの子ヤロブアムの道」と呼ばれた罪のゆえに裁かれ、地上から姿を消したのです。しかし、ヤロブアムが考えた偶像礼拝の影響はその後も残り、北王国イスラエルの王たちに悪影響を与え続けます。私たちは、子孫に何を残そうとしているでしょうか。良い影響を与えるために、偶像礼拝から離れ、主への信仰の道を歩みましょう。

エレミヤ書9章17~26節「誇る者は主を誇れ」

Word PDF

今日は、エレミヤ書9:17~26のみことばから、「誇る者は主を誇れ」というタイトルでお話します。今日のメッセージのタイトルは、24節から取りました。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」皆さんは、何を誇っていますか。「いや~、私は誇るものなんて何もない」と思っていらっしゃる方もおられると思いますが、この「誇る」というのは、「頼る」ということでもあります。そうすると、私たちは皆何かに頼りながら生きているわけですから、その何かが何であるかということです。「私は何も信じない」「頼るのは自分だけだ」という人は、自分を誇っているわけです。その誇っているものは何かということです。それは、普段は気付かないかもしれませんが、いざという時に見えてきます。

この9章には、主を知る事を拒んだユダの民に対する神のさばきが語られてきました。7節には「それゆえ、万軍の主はこう言われる。『見よ、わたしは彼らを精錬して試す。』」とあります。それは具体的には、バビロンという国によってエルサレムを滅ぼすということです。完全に滅ぼし尽くすということではありません。ユダが悔い改めるために、神はそのような懲らしめを与えられるのです。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜に至るまで、すべて逃げ去ってしまいます。主はエルサレムを石ころとし、ジャッカルの住みかとするのです。主は彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませることになります。そして、ついには、彼らも先祖たちも知らなかった国々に彼らを散らし、彼らを断ち滅ぼしてしまうのです。

それは彼らが主を知らなかったからです。彼らは、自分では知っていると思っていました。知っているつまりでしたが、それは表面的なもので、実際には知りませんでした。彼らが誇っていたのは主ではなく、自分自身でした。自分の知恵、自分の力、自分の富を誇っていたのです。大切なのは、主を知ることです。主を知っていることを誇り、この主に信頼することなのです。今日は、このことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.やがて起ころうとしている悲劇(17-22,25-26)

まず、17~22節と、25~26節をご覧ください。まず、17~19節をお読みします。「17 万軍の主はこう言われる。「よく考えて、泣き女を呼んで来させよ。人を遣わして、巧みな女を来させよ。」18 彼女たちを急がせて、私たちのために嘆きの声をあげさせよ。私たちの目から涙を流れさせ、私たちのまぶたに水をあふれさせよ。19 シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、ひどく恥を見た。私たちが地を見捨て、自分たちの住まいが投げ捨てられたからだ。」

ここには「よく考えて、泣き女を呼んで来させよ。」とあります。「泣き女」とは、泣くことを商売としていたプロの泣き屋のことです。こうした泣き屋を呼んでくることで、葬儀の時などに知人や友人が訪問した際、その人たちも心動かされて泣きやすくしたのです。そうした泣き女を呼んで来て、嘆きの声をあげさせよというのです。

なぜでしょうか。なぜなら、ユダの状況があまりにも悲惨だからです。19節には、「シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、ひどく恥を見た。私たちが地を見捨て、自分たちの住まいが投げ捨てられたからだ。」とあるように、バビロン軍がやって来て、エルサレムを踏みにじることになるからです。こうした泣き女たちの嘆きの声は、略奪された祖国の悲しみをより一層深いものにしたことでしょう。

21節と22節をご覧ください。ここでエレミヤは「死」を擬人化することによって、やがて起ころうとしている悲劇がどのようなものなのかを、生き生きと描いています。21節には、「死が私たちの窓によじ登り、私たちの高殿に入り、道端では幼子を、広場では若い男を断ち滅ぼすからだ」とあります。ここでは、死が窓によじ登るとか、高殿に入ってくるとありますが、それはそのことです。敵が攻めて来ると、道端で幼子を、広場で若い男を虐殺することになるからです。その結果、22節にあるように「人間の死体は、畑の肥やしのように、刈り入れ人のうしろの、集める者もない束のように落ちる」ことになります。これはどういうことかというと、死体があちらこちらに放置されるということです。それが腐って畑の肥やしのようになるわけです。だれも葬ることができほど大量に虐殺され、そのまま捨て置かれることになります。いったい何が問題だったのでしょうか。

25~26節をご覧ください。ここでは、それが別のことばで表現されています。「25 「見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26 エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」」

「その時代が来る」とは、終末の預言が語られる時の特徴的なことばです。こうした預言は、近い未来に起こることと遠い未来に起こることが山のように重なり合っています。この場合、近い未来においてはバビロン軍がやって来て南ユダを滅ぼすということですが、遠い未来においては、世の終わりの究極的な神のさばきのことを示しています。神の救い、キリストを拒絶する世界に対する神のさばきです。そのとき主は、すべて包皮に割礼を受けている者を罰することになります。割礼とはこれまで何度もお話しているように、男性の性器の先端を覆っている包皮を切り取ることです。それは神の民であることの大切なしるしでした。ですからユダヤ人の男性は、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。ここではそのように割礼を受けている者を罰すると言われています。なぜでしょうか。たとえ肉体の割礼を受けていても、受けていないような歩みをしているとしたら、それは割礼を受けていない人と何ら変わりがないからです。大切なのは、心に割礼を受けるということです。このことについては、すでに4章で見てきました。4:4には、「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」とありましたね。どんなに割礼を受けていても、それが形だけの表面的なものであるならば、それは受けていない者、すなわち、異邦人と何ら変わりはありません。それが26節で言われていることです。ここには、エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人とあります。これを見て、何かお気付きになりませんか。エジプトとかエドム、アンモン、モアブといった異邦人の中に、神の民であるユダが並記されています。異邦人たち、すなわち、無割礼の者たちと同列に置かれているのです。同等に扱われているということです。なぜでしょうか。それは今申し上げた通り、どんなに割礼を受けていても、自分たちはアブラハムの子孫だといって悔い改めないなら、他の異邦人と何ら変わりはないからです。やがて滅ぼされてしまうことになります。

使徒パウロも、このことについてこう述べています。ローマ2:25~29です。「25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

重要なのは、肉体に割礼を受けているかどうかということではなく、心に割礼を受けているかどうかです。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、内面のユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼です。すなわち、心にイエス・キリストを信じて、神の御言葉に従って生きているかどうかが問われているのです。

あなたはどうでしょうか。心に割礼を受けていらっしゃいますか。自分はバプテスマ(洗礼)を受けているから大丈夫だと思っていませんか。バプテスマ(洗礼)を受けることはとても重要なことです。でも、バプテスマを受けていれば自動的に天国に行けるわけではありません。勿論、悔い改めるなら、神は赦してくださいます。でも悔い改めなければ、その限りではありません。エジプト、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住民のように、自分の罪の中に滅んでいくことになります。ノンクリスチャンと同じさばきを受けることになるのです。大切なのは心に割礼を受けるということです。私たちは心に割礼を受けているかどうかを、もう一度考えなければなりません。

Ⅱ.自分を誇るな(23)

次に、23節をご覧ください。「─主はこう言われる─知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」

そんな神の民イスラエルに対して、主はこう仰せられました。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」
彼らの問題は、自分を誇っていたことでした。自分の知恵を誇り、自分の力を誇り、自分の富を誇っていました。こうしたものを誇るのは愚かなことです。なぜなら、こうしたものは私たちが必要なものとして神様が私たちに与えてくださる恵みであり、祝福だからです。その神様ではなく自分を誇っていたら本末転倒です。

皆さんは、どうでしょうか。自分の知恵、自分の力、自分の富を誇っていませんか。こういうものはだれでも誇りたくなるものです。神様を知らなければ自然とそうなります。現代で言うならそれは学歴とか、地位とか、名誉とか、財産といったものになるでしょうか。どこどこの大学を出て、どのような地位にあり、どれだけの財産があるかということが、その人の価値を決めるものだとみんな思っています。だから一生懸命勉強して、少しでもいい学校に入り、いいところに就職し、いい人と結婚して、立派な家を建て、豊かに生きようと躍起になっているのです。それが人生の成功であり、幸福だと思っています。でも、主はそうしたものを誇るなと言っています。誇るなとは、頼りにするなということです。それを自分の栄光にしてはならないということです。

それは、エデンの園の中央にある木の実のようなものです。創世記3:6には、「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。」とあります。それはいかにも好ましいものでした。しかし神は、その木の実について、それを食べてはならないし、それに触れてもいけないと、アダムとエバに警告していました。それを食べると、死ぬと。しかし、蛇に誘惑されたエバは、それを見るともう我慢することができませんでした。もうどうにもとまらない、です。それはほんとうに目に麗しく、賢くしてくれそうで好ましかったので、食べてしまいました。自分だけだと悪いので夫にも与えたので、夫も食べました。 その結果、どうなったでしょうか。全人類に死がもたらされました。この死とは霊的死のことですが、その結果、肉体も死ぬことになってしまいました。それは目に麗しく、賢くしてくれそうで、いかにも好ましく見えますが、死をもたらすのです。

東京オリンピックのスポンサー契約を巡り汚職事件が広がりを見せています。それは人間的にはまことに魅力的なものですが、それを食べるその時死ぬことになります。だから聖書はこういうのです。「自分の知恵を誇るな。自分の力を誇るな。自分の富を誇るな。」と。

ヨハネはこのことについて、Ⅰヨハネ2:16~17でこう言っています。「16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。17 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったものは、神から出たものではなく、この世から出たものです。そうしたものは、結局のところ、過ぎ去ることになります。これさえ手に入れば自分は幸せになれる、繁栄する、満たされると私たちが信じて疑わないもの、それは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢であって、そうしたものは、やがて消えて無くなってしまうことになるのです。ですから、こうしたものを誇ってはならない。頼ってはならないのです。

Ⅲ.誇る者は主を誇れ(24)

では、何を誇ったらいいのでしょうか。それが24節にあることです。ご一緒にお読みしましょう。「24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。─主のことば。』」」

原文では、24節の冒頭には、「むしろ」とか「それとは反対に」という意味の接続詞があります。英語の聖書では「しかし」と訳されていますが、正確には「むしろ」とか「それとは反対に」です。つまり、23節で語られたことに対して、むしろ、それとは反対に、という意味になります。つまり、人は自分の知恵を誇り、自分の力を誇り、自分の富を誇りますが、それとは反対に、むしろ「誇るものは、ただ、これを誇れ」と言うのです。それは何ですか。その次にあります。それは、「悟りを得て、わたしを知っていることを。」です。つまり、主を誇れというのです。なぜなら、主は神であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからです。これは、イスラエルの民が持っているものとは正反対のものでした。

たとえば「恵み」ですが、「恵み」とは「ヘッセド」というヘブル語が使われています。これは「誠実」とか「真実」という意味で、契約に基づいた愛のことです。皆さん、誠実な愛とはどういう愛でしょうか。それは、約束を守る愛です。どんなことがあっても見離したり、見捨てたりしません。それが誠実であるということです。今週、粟倉兄と石黒姉の結婚式が行われますが、結婚生活において最も重要なのはこれです。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は、決して絶えることはありません。それは、このヘッセドに基づいているからです。私たちがヘッセドなのではなく、神がヘッセドなのです。私たちは真実でなくても、神は真実なのです。どんなことがあっても決してあなたを裏切ったりはしません。

ここでは、その永遠に変わることがない神の愛が、イスラエル民の移り気と対比されています。そして主は、その契約に基づく愛を神の民であるイスラエルに、そして私たちに求めておられるのです。それは決して裏切らない愛、真実な愛です。知恵や力や富を求める人たちは、こうした恵みとか公正、正義といったものを疎かにする傾向があります。こうしたものを軽んじ、こうしたものに何の価値も見出そうとしないのです。こうしたものを捨ててまでも自分の知恵や、自分の強さ、自分の富を求めようとするのです。でも私たちは、悟りを得て、主を知ることを求めなければなりません。主を知らなければ、恵みと公正と正義を行うことはできないからです。それは、主から出ているものなのです。だから、主がどのような方であるのかを知って初めて、私たちは契約に基づいた神の愛、神の恵みを知ることができるのです。主を知って初めて、公正とは何かを知ることができます。また、正義とは何かを知ることができるのです。そうでなければ、すべて自分勝手な愛と公正と正義になってしまいます。ですから、私たちは主を知ることを求めなければならないのです。主を知ることを誇りとしなければなりません。

預言者ホセアは、こう言っています。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」(ホセア6:6)。皆さん神様が喜びとするのは「真実な愛」です。いけにえではありません。形式的なささげもの、全焼のいけにえではないのです。神が求めておられるのは真実な愛です。この愛は、先ほどから述べている「ヘッセド」のことです。全焼のささげ物よりもむしろ、神を知ることを主はそれを喜ばれる。いったい私たちは何のためにきょうここに来たのでしょうか。それはただ全焼のいけにえをささげるためではありません。日曜日だからしょうがなくて来たのではありません。そうではなく、神の御言葉を通して主がどのような方なのかを知り、その主と交わるために来たのです。そうでしょ?主がそれを喜ばれるからです。

イエス様はこう言われました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

皆さん、永遠のいのちとは何でしょうか。永遠のいのちとは、唯一まことの神と、その神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。これが永遠のいのちです。この「知る」ということばは「ギノスコー」というギリシャ語ですが、ヘブル語の「ヤダー」と同じ意味の言葉です。もう皆さんはよく知っていますよね、この「ヤダー」という語を。それは単に知的に知るということではなく、人格的に、体験的に深く知るということです。主を知るということが、私たちが誇りとすべきもの、私たちの人生において目標にすべきものなのです。いったいあなたは何のために生きておられるのでしょうか。それは自分の知恵を誇るためではありません。自分の力、自分の富を誇るためでもないのです。むしろ、主を知るためです。主と人格的に深く交わるためです。それが永遠のいのちです。永遠のいのちは、死んでからもたらされるものではありません。それは生きている今、この地上にあって体験することができるものです。それは唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることによってもたらされます。イエス・キリストのうちにあり、キリストと深く交わること、それが永遠のいのちです。主があなたとともにおられること、これほどすばらしい体験はありません。そしてこれは一時的なものではなく、永遠に続きます。だから、主を知ることは誇りなのです。それが一時的なものなら、どうして誇りにすることができるでしょうか。滅んでしまうもののために人生をかけるとしたら、ただ空しいだけです。そのような人生にいったい何の意味があると言えるでしょうか。しかし、それが永遠に続くものならば、永遠のいのちにつながるものならば、それこそ価値があります。それを誇りとすることは正しいことです。そのために人生を費やすのならば意味があるのです。

パウロはそのことを、ピリピ3:7~9でこう言っています。「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」

パウロは、自分にとって得であると思っていたこれらすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。「これらすべてのもの」とは、人間的に誇れるようなものすべて、という意味です。たとえば、その前のところには、律法についてはパリサイ人とありますが、そのようなものです。彼はユダヤ教の中では超エリートに属する者でした。ユダヤの最高議会の議員の一人であったラビ・ガマリエルに師事し、そのガマリエルから、もう教えることは何もないと言わしめたほどの者です。パウロはユダヤ教の指導者の中でも最高峰の教師として君臨し、歴史に名を残すほどの人物だったのです。しかし、パウロはそのようなものを損と思うようになりました。いや、ちりあくたとさえ思うようになりました。「ちりあくた」とは、ちりと、あくたのことです。広辞苑には、「値うちのないもの、つまらないものなどのたとえ。ごみくず。」とあります。ごみくずです。それまで自分が目指してきた知恵とか、力とか、富とか、そういったものはごみくずに思えたのです。それは彼が復活のキリストに出会ったからです。そのキリストを知っていることのすばらしさのゆえに、もうそんな過去の栄光などどうでもよくなってしまった。そんなものは全く色あせてしまったのです。それほどキリストに魅了されたということです。

あなたはどうでしょうか。それほどにイエス・キリストに魅了されているでしょうか。自分が今まで大事だと思って来たもの、これさえあれば、あれさえあればと思っていたもの、自分が頼りにしてきたもの、そうしたものが主イエスを知ってからはもうどうてもいいと思えるほど、キリストに魅了されているでしょうか。

パウロは、Ⅰコリント1:26~31で、このエレミヤ書9:24を引用してこう言っています。「26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

これは旧約聖書だけのメッセージではありません。旧約聖書も新約聖書も含めて、聖書全体が私たちに語り掛けているメッセージなのです。人間的に見れば、私たちは本当に取るに足りない者ですが、しかし神はこのように取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を選んでくださいました。何のために?それは、有るものを無いものとするためにです。肉なる者がだれも誇ることがないためです。しかし、私たちは神によってキリスト・イエスのうちにある者とされました。このキリスト・イエスこそ、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。ですから、パウロのように主がどのような方であるかを知っているなら、主だけを誇るようになります。もうすべては「ちりあくた」となるからです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんは何を誇っていますか。まだこの世の知恵、力、富を誇りとしていますか。それらは「ちりあくた」です。主がどのような方であるかを知っているならば、です。ですから、私たちは主を知ることを求めなければなりません。主を知ることを、他のどんな活動よりも大切にしなければなりません。主を知ることを他の何よりも優先し、何よりも誇りとしなければならないのです。他のことで自慢してはなりません。それらは何も残らないからです。むしろ、主を知っていることのすばらしさを誇りとしてほしいと思います。まさに、「誇る者は主を誇れ」とあるとおりです。

私たちの人生には、時として、ユダの民が経験したような絶望的な瞬間がやって来ることもあるでしょう。でもそのような時、あなたは何を誇り、何に信頼すればいいのか。そのように時、私たちはキリスト・イエスのうちにあること、主なる神を知っていること誇り、その主に信頼しようではありませんか。

エレミヤ9章10~16節「どうしてこの国は滅びたのか」

Word PDF

今日は、エレミヤ書9:10~16の短い箇所から、「どうしてこの国は滅びたのか」というタイトルでお話します。これは12節から取りました。「何のために、この国は滅びたのか。荒野のように滅ぼされ、通人もいないのか」。第三版では「どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われて、通る人もないのか。」と訳されています。同じ意味ですが、「何のために」と訳すと目的を問うているような感じになりますが、「どうして」とした方が明確にその理由を問うているとわかるので、そのように訳した方がピンとくるのではないかと思います。「どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われてしまったのか。」ということです。この「なぜ」とか「どうして」というと問に答えることはとても重要です。それによって悟りを得ることができるからです。神の恵みは悟ることから始まります。どうしてエルサレムは滅びたのか、この問いに対する答えを見出す中で、私たちも私たちの人生が滅びないためにはどうしたらよいかを、御言葉からご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.神が懲らしめを与える目的(10-11)

まず、10~11節をご覧ください。「10 私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧場のために哀歌を歌う。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、みな逃げ去っているからだ。11 「わたしはエルサレムを石ころの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てた地とし、住む者のいない所とする。」」

10節の「私」は、エレミヤのことです。エレミヤは、愛する祖国ユダの崩壊を思い、泣き声をあげて嘆いているのです。青草を茂らせていた牧場は焼き払われ、不毛の地となるからです。空の鳥から家畜まで逃げ去り、そこは石ころの山となり、ジャッカルの住みかとなります。「ジャッカル」とは小さい山犬のような動物ですが、聖書では荒廃してだれも住む人がいないような所に棲む動物として描かれています。完全に廃墟となってしまうのです。それは、彼らの罪が招いた結果でした。神のさばきによって南ユダは滅ぼされてしまうのです。そのことをエレミヤは、嘆いているのです。これは他人事のように聞こえるかもしれませんが、私たちにも言えることです。ですから、どうぞ自分のこととして受け止めていただいたいと思います。

しかし、11節を見ると、これが単なるさばきではないことがわかります。というのは、ここに「わたし」とあるからです。この「わたし」はひらがなで書かれてありますが、神様のことを指しています。つまり、これは神様がなされたこと、神様が与えたさばきであるということです。このさばきは、神様が許されたことなのです。それは神の民であるイスラエルを滅ぼすためではなく、彼らを矯正するために、彼らを立て上げるために、神が与えた懲らしめであるということです。ですからこれは、前回も申し上げたとおり、希望に満ちた言葉でもあるのです。

聖書には、神様は真実な方とあります。Ⅱテモテ2:13です。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」皆さん、私たちは真実でなくても、神様は常に真実です。私たちがいくら約束を破ろうとも、神様は決して破ったりはなさいません。ということは、もし神様が何らの罰を与えるようなことがあるとしたらそれは私たちを滅ぼすことが目的ではなく、立て上げる目的であるということです。「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)と言われた主は、どんなことがあってもあなたを見捨てることはないからです。痛い思いをすることはあるでしょう。辛いなぁ、苦しいなぁという思うこともあります。でも、すべてを失ってしまうことはありません。滅ぼし尽くされることはないのです。そうしたレッスンを通して、それは高い授業料かもしれませんが、それはあなたが神に立ち返るために、あえて神が与えておられる懲らしめなのです。

二番目の娘が小学生の時、歯の矯正をしました。上のはぐきから1本だけ歯が飛び出していたのです。口の大きさに対して歯の数が多く入りきれなかったのです。それでワイヤーのようなものを装着したのです。驚いたのはその治療費です。たった1本の歯を矯正するめために何十万円もかかりました。牧師の給料ではとても支払えるような額ではありませんでしたが、妻が教えていた英会話クラスに歯科医の方がいて、その方に矯正歯科クリニックを紹介していただき、分割で支払うことができました。痛かったですよ。それは矯正装具を付けた娘だけでなく、私たちの懐も。でも、お陰できれいな歯並びになりました。

神様が私たちを懲らしめるのも同じです。神様は私たちを滅ぼすためではなく、私たちが神に立ち返るために、私たちを立て上げるために、あえてそのようになさるのです。ヤコブがイスラエルに戻ることが神様のみこころです。「ヤコブ」とは「押しのける者」という意味でしたね。「イスラエル」とは「神に支配される者」です。ヤコブがイスラエルに、押しのける者が神に支配される者となるために、神様はあえてこのようなことをなさるのです。人を押しのけて自分を神とするような傲慢な民を砕き、柔らかくして新しく作り変えるために、懲らしめを与えるのです。そのためにバビロンという国を用いるのであって、それはいわゆる私たちを懲らしめるためのスパンク棒にすぎません。神様はあなたをいじめたり、滅ぼしたりするために試練や災難を与えるのではありません。そうではなく、あなたを立て上げるためにそうなさるだということを、忘れないでください。私たちは真実でなくても、神は常に真実なのです。

Ⅱ.どうしてこの国は滅びたのか(12-14)

いったいどうしてこの国は滅んでしまったのでしょうか。次に、12~14節をご覧ください。ここに、その理由が語られています。「12 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。主の御口が自分に語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか。何のために、この国は滅びたのか。荒野のように滅ぼされ、通る人もいないのか。13 主は言われる。「それは、彼らが、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、律法に歩まず、14 彼らの頑なな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルの神々に従って歩んだからだ。」」

いったいどうしてこの国は滅んでしまったのでしょうか。それは、彼らが主の御言葉を捨てたからです。主の律法を捨て、主の声に聞き従わず、彼らの頑なな心のままに歩んだからです。そして、先祖たちが教えたバアルの神々に従って歩んだからです。

遡る事エレミヤの時代から800年も前に、神はモーセに律法を与え、この律法に歩むようにと何度も何度も語られました。たとえば、レビ26章にはこうあります。「3 もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、4 わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。5 あなたがたの麦打ちはぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れは種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。・・・・

14 しかし、もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらすべての命令を行わないなら、15 また、わたしの掟を拒み、あなたがた自身がわたしの定めを嫌って退け、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、16 わたしもあなたがたに次のことを行う。わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは種を蒔いても無駄である。あなたがたの敵がそれを食べる。17 わたしはあなたがたに敵対してわたしの顔を向ける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。あなたがたを追う者がいないのに、あなたがたは逃げる。18 もし、これらのことが起こっても、あなたがたがなおもわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍重く懲らしめる。19 わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。20 あなたがたの力は無駄に費やされる。あなたがたの地は産物を出さず、地の木々も実を結ばない。・・・・

31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたの芳ばしい香りをかぐことはしない。」(レビ26:3~5,14~20,31)

これはまだイスラエルが約束の地に入る前のことです。神様はモーセに律法を与え、彼らが約束の地に入って後、主のみことばに聞き従うならどのような祝福がもたらされ、反対に、聞き従わなければどのような災いが下るのかを語りました。そのポイントはただ一つです。それは、主のことばに聞き従いなさいということです。皆さん、わかりますか?わかりますよね。でも彼らはわかりませんでした。自分ではわかっているつもりでしたが、わかっていませでした。そして主のみことばを捨て、頑なな心のままに歩んだのです。

皆さん、悟ることが大切です。神の恵みは、悟ることから始まるからです。勿論、毎週礼拝に来ることは大切なことです。毎日家で聖書を読み祈ることも大きな助けになるでしょう。でも、そのようにしていれば自動的に悟れるかというとそうではありません。悟るためには、イエス様のことばが心に深く住むようにしなければなりません。イエス様が私たちのために何をしてくださったのか、そして今、何をしておられることを理解しなければならないのです。

コロサイ3:16に、こうあります。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」キリストのことばが、私たちのうちに豊かに住むようにしなければなりません。どういうことですか?これは、言い換えると、キリストを知るということです。前回のところで、この「知る」ということをお話しました。この「知る」という言葉は、ヘブル語で「ヤダー」という言葉でしたが、ギリシャ語では「ギノスコー」と言います。意味は同じです。これは表面的に知っているということではなく、人格的に、体験的に深く知っているということです。たとえば、皆さんは岸田文雄という人を知っていると思いまが、本当に彼のことを知っているかというとそうではありません。私たちが知っているのはその名前とか、出身地とか、以前は外務大臣をやっていたとか、そういう情報として知っているというだけで、彼がどのような人なのかについてはほとんど知りません。本当の意味で知っているのは、恐らく奥様だけでしょう。そのように、私たちがキリストを知るというのは、キリストについて知っているということではなく、キリストを人格的に、体験的に、深く知るということです。そのために、キリストのことばが、私たちのうちに豊かに住むようにしなければなりません。

ですからパウロはエペソの教会に次のように書き送ったのです。「17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

ここでパウロは、彼らの心の目がはっきり見えるようになって、と祈っています。心の目がはっきり見えるとはどういうことでしょうか。それは単なる経験ではありません。主が語っておられることがどういうことなのかがストンと落ちるというか、御言葉がわかるということです。すなわち、キリストによって心が圧倒されるということです。それは、聖霊に満たされることによってもたらされます。それによって、キリストが私たちのためにどのようなことをしてくださったのか、また今、何をしておられることを知ることができるのです。そしてキリスト(神)を知ることによって、私たちの考え方が変わります。私たちの考え方が変わると私たちの動機が変わります。動機が変わると、行動が変わるのです。その人の中に神の御言葉が生きて働くからです。それは私たちの力ではできません。それは神の御霊が、神の御言葉をもって私たちの心と思いに働くことによって始めて可能となるのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

だから、パウロは祈ったのです。彼らの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光にとんだものか、神の大能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるのかを、知ることができるようにと。

ちょうどこのメッセージを書いていた時、一本の電話がありました。三重県で牧会しておられる80歳を過ぎた牧師先生からでした。それは、Ⅱサムエル記24章にあるダビデが人口調査の罪を犯した結果もたらされた災いについてでした。その罪の結果神様はダビデに、7年間の飢饉か、3か月間の敵からの敗走か、3日間の疫病か、どれか一つを選ぶようにと言われました。結局、ダビデは3日間の疫病を受け入れるわけですが、その結果イスラエルの中で7万人が疫病で死にました。それで、お尋ねは何かというと、この「7年間」の飢饉が他の訳では「3年間」と訳してあるんですね。これをどう整合性を取ったらよいかということでした。いろいろと悩んで調べていた時に、教会のホームページにアップしている私のメッセージを見て光が与えられたというのです。確かに3年間の飢饉とした方が、3か月間の敵からの敗走3日間の疫病ということで、「3、3、3」と語呂合わせがいいのですが、必ずしもそのようにする必要はありません。重要なのは、元々の言葉はどうなっているかということです。原文が「7年間」とあれば、そのように訳せばいいだけのことです。また、仮に「3年間」であったとしても、ここで重要なのはダビデが罪を犯した結果、それほど大きな悲惨がもたらされることになったということを理解することではないかとお話ししたのです。

ところで、どうしてこの牧師先生がこんなことを聞いてきたのかというと、これはこの牧師先生が気づいたのではなくて、牧師先生の4番目の娘さんと幼なじみ男の子がいて、男の子といってももう50歳になりますが、小さい頃からよく知っている人で、その人が何らかの事情で刑務所に入ったのです。そこで創造主訳聖書を送ったところ、それを読んで手紙をくれたのです。そしてその手紙の中に「なぜ7年でなく3年なのか」という質問が書いてあったそうです。確かに創造主訳聖書を見ると「3年間」と訳されてあるんですね。でも、原語では「7年間」となっているので、それがどうしてなのか、いろいろ調べているうちに私が書いたものに行き着いたらしいのです。

それにしても、刑務所に服役中の方がそういうところに気付くなんて不思議だと思いますが、何よりもその方自身に大きな変化があって、誰が見てもわかるくらい変わったらしいのです。それで、このような質問にもきちんと答えて、彼の更生を助けてあげたいというのです。「何がきっかけでそんなに変わったんですか」と尋ねると、先生がこう言いました。

「聖書のことばがはっきりわかるようになったんです。」

これまでも聖書は読んでいましたが、そこまで心に迫って来なかったのですが、今回は違うのです。誰が見てもそう見えるのです。聖書を何度も何度も読む中で、聖霊が働いて、はっきり見えるようになったのです。

それは私たちも同じです。「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある。」と思い違いをしていると、先の者が後の者になってしまいます。そうではなく、主の御前にへりくだり、柔らかい素直な心を持って主の御言葉に聞き従うなら、神の御霊が働いて、あなたの心の目が見えるようになり、キリストのように変えられていくのです。

Ⅲ.罪から来る報酬は死です(15-16)

最後に、その結果を見て終わりたいと思います。15~16節をご覧ください。「15 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。16 彼らも先祖も知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶ち滅ぼす。」」

それゆえ、主は彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませます。「苦よもぎ」は、麻酔としても使われますが、基本的に精神攪乱をもたらす毒草です。それは「毒の水」同様、死に至らしめるものです。つまり、彼らが神のみことばを捨て、自分勝手に歩んだ結果、死に至る苦しい思いをするようになるということです。それは16節にあるように、彼らも先祖たちも知らなかった国々に散らされ、剣を彼らのうしろに送り、ついには断ち滅ぼされることになるということです。これはバビロン捕囚という出来事によって成就します。罪の結果、死に至るということです。それはこの神の民イスラエルのことだけでなく、私たちにも言えることです。神の御言葉を捨て、自分勝手に歩むなら、このような結果を招くことになります。聖書に、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)とあるとおりです。

この「死」とは何でしょうか。それは第一に、霊的死のことです。肉体的には生きていても、霊的には死んでいる状態です。人は神を信じ、神と交わりを持つことで生きるのに、その神を信じないで、自分を信じ、自分の思いのままに生きている人のことです。その人は、確かに肉体は生きていても、その霊は死んでいます。その結果は仕事に行き詰まり、家庭が崩壊し、政治生命が断たれるといった目に見える形で表れることになります。  

第二にそれは、肉体的な死です。これは私たちが経験している死です。人は死ぬと肉体から霊が離れ、それぞれ生前の行いに応じて相応しいところに行くことになります。

第三にそれは、永遠の滅びのことです。人は一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっていますが、そのとき、神さまは私たちが生きていたときに行った行為に従って公正な裁きをなさいます。その時、神さまに背を向けて神などいない、いらないという人たちは、その望み通りに神のいない所に永遠に住むことになります。それがゲヘナです。地獄です。聖書はこれを永遠の死と呼んでいます。「罪から来る報酬は死です。」神の前に罪が解決されていなければ、最終的にこの永遠の滅びに向かうことになります。

では、どうしたら良いのでしょうか。ここには、「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。

永遠のいのちとはなんでしょうか?それは、先ほどお話した「死」と反対のことです。それは、第一に、神がともにおられること、第二に、からだの復活のこと、第三に、永遠に神とともに生きるいのちのことです。

私は、かつて、神様なんているはずがないと、自分勝手な人生を歩んでいました。しかし、18歳の時に教会に導かれ、イエス様を信じて、神さまとともに生きるようになりました。何が変わったでしょうか?まず、人生の目的がわかりました。それまでは、結局、人は死んだらすべてが終わりだと思っていたので、人生にどんな意味があるのかわかりませんでした。地に足が着いていないようなフワフワした人生、空しい人生を生きていました。しかし、人は神によって造られ、神の栄光を現わすために生きているということがわかった時、生きることに意味を見出し、本当にうれしくなりました。

第二に、神様がいつも共にいてくださることがわかりました。イエス様を信じて、イエス様の十字架と復活によって、私のすべての罪が赦され、神の御霊が私の心の中に住んでおられることがわかったのです。ですから、いつ死んでも天国です。

第三に、永遠のいのち、天国の希望が与えられました。やがてこの肉体が滅び、最後の審判で神様の前に出る時、イエス様が「あなたの罪の呪いは、すべてわたしが十字架で背負いました」と言ってくださり無罪と宣告され、天国というすばらしい住まいに入れていただくことがわかりました。わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのですと、イエス様が約束してくださった永遠のいのちを受けるのです。それは希望ではないでしょうか。

イエス様を信じて罪赦された者であるとはいえ、まるで不十分であることを認めざるを得ませんが、そんな者でもイエス様を信じて生活するうちに、少しずつ変えられていることがわかります。イエス様を信じて43年、本当によかったなあと思います。この先、あとどれくらい生きられるかはわかりませんが、行き先が神の永遠の住まいであることは安心です。私は、確信をもって言いたいです。イエス様を信じて、イエス様に聞き従うことがいのちですと。それは死んでからのことだけでなく、今この地上に生きている間にも言えることなのです。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

あなたは、このいのちを受け取りましたか。まだ罪の中を歩んではいないでしょうか。神の民イスラエルのように、「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある。」と思い違いをしていないでしょうか。神の恵みは悟ることから始まります。どうしてこの国は滅びたのか、どうして自分の人生は滅びたのかを思い巡らしましょう。そして、それは神の律法を捨て、神から離れ、自分勝手に歩んだからだということを悟り、神に立ち返りましょう。そして、キリスト・イエスにある永遠のいのちを受け取りましょう。「罪から来る報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」今からでも、決して遅くはありません。神様は、今もあなたが神のくださるギフトを受け入れることを待っておられます。このギフトを受け取ってください。苦よもぎや毒の水ではなく、永遠のいのちに生きていただきたいと思います。

Ⅰ列王記14章

 今日は、列王記第一14章から学びます。

 Ⅰ.ヤロブアムの愚かさ(1-20)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 このころ、ヤロブアムの子アビヤが病気になったので、2 ヤロブアムは妻に言った。「さあ、変装し、ヤロブアムの妻だと分からないようにしてシロへ行ってくれ。そこには、私がこの民の王となることを私に告げた預言者アヒヤがいる。3 パン十個と菓子数個、それに蜜の瓶を持って彼のところへ行ってくれ。彼は子どもがどうなるか教えてくれるだろう。」4 ヤロブアムの妻は言われたとおりにして、シロへ出かけ、アヒヤの家に行ったが、アヒヤは年をとって目がこわばり、見ることができなかった。5 しかし、主はアヒヤに言われた。「今、ヤロブアムの妻が来て、子どものことをあなたに尋ねようとしている。その子が病気だからだ。あなたは、これこれのことを彼女に告げなければならない。入って来るときには、彼女はほかの女のようなふりをしている。」」

「王と預言者の年代記」をご覧ください。今私たちは、イスラエルの歴史の中でダビデの子のソロモン以降、王国が二つに分かれた歴史を見ています。イスラエルの王レハブアムは、ヤロブアムを筆頭とする民の嘆願に耳を傾けず彼らに重税を課したので、イスラエルは分裂し、ヤロブアムを王とする北王国イスラエルと、レハブアムを王とする南王国ユダに分裂してしまいました。B.C.931年のことです。きょうの箇所には、この二人の王の歴史が同時に出てきます。

まず、北王国イスラエルです。13章には、一人の神の人によって、ヤロブアムから始まった背教の罪が、北王国イスラエルの中に霊的腐敗をもたらし、ついには、北王国イスラエルは、大地の面から根絶やしにされることが告げられますが、そのことを今回のところでは、預言者アヒヤが預言します。

1節をご覧ください。そのころ、ヤロブアムの息子アビヤが病気になると、ヤロブアムは妻に、シロに行ってそのことを預言者アヒヤに告げるように言いました。預言者アヒヤは、子どもがどうなるかを教えてくれると思ったからです。アビヤとか、アヒヤとか、似たような名前が出てくるのでわかりづらいですが、アヒヤはシロにいた預言者で、アビヤは北王国イスラエルのヤロブアム王の息子です。預言者アヒヤは、かつてヤロブアムに良いことを告げた預言者でした(1列王11:29~39)。ですから、今回も良いことを告げてくれるのではないかと期待したのでしょう。

ところで、ヤロブアムが妻にそのことを告げたとき、彼女がヤロブアムの妻だと分からないように変装してシロに行くようにと言いました。なぜそんなことを言ったのでしょうか。もしかしたら、アヒヤの預言のとおりヤロブアムが北イスラエルの王になったにもかかわらず、彼が主の目の前に悪を行い、金の子牛を作ったり、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命したり、祭りの日を変更したりしたことで、関係が疎遠になっていたからかもしれません。あるいは、自分が預言者のもとに使者を遣わすことを、民に知られたくないと思ったからかもしれません。とにかく彼は、妻にパン菓子数個と蜜の入った瓶を持たせてアヒヤのところに送り出しました。

ヤロブアムの妻が預言者アヒヤのところへ行くと、アヒヤは年をとって目がこばわり、見ることができませんでした。しかし、主が彼に今ヤロブアムの妻が来ていること、子どものことで彼に尋ねようとしていること、その子が病気であること、彼女はほかの女のようなふりをしていること、そして、彼女に対しては、主が命じられることをそのまま伝えなければならないと言われました。

ヤロブアムの愚かさは、主には妻の変装を見破ることができないだろうと思ったことです。彼は主に背いたことで良心の呵責を感じていましたが、それでも悪の道から立ち返ろうとしませんでした。子どもが病気になることは辛いことですが、それもまた彼が悪い道から立ち返るために主が与えられたことだったのです。それにもかかわらず彼は悔い改めることをせず、人間的な解決を求めて策略を巡らしました。それはまことに愚かなことだと言わざるを得ません。私たちにもそのようなことがあるのではないでしょうか。

次に、6~16節をご覧ください。「6 アヒヤは、戸口に入って来る彼女の足音を聞いて言った。「入りなさい、ヤロブアムの妻よ。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか。私はあなたに厳しいことを伝えなければなりません。7 行って、ヤロブアムに言いなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしは民の中からあなたを高く上げ、わたしの民イスラエルを治める君主とし、8 ダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。しかしあなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。9 ところがあなたは、これまでのだれよりも悪いことをした。行って自分のためにほかの神々や鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。10 だから、見よ、わたしはヤロブアムの家にわざわいをもたらす。イスラエルの中の、ヤロブアムに属する小童から奴隷や自由な者に至るまで絶ち滅ぼし、人が糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家の跡を除き去る。11 ヤロブアムに属する者は、町で死ぬなら犬がこれを食らい、野で死ぬなら空の鳥がこれを食らう。』主が、こう言われたのです。2 さあ、家に帰りなさい。あなたの足が町に入るとき、その子は死にます。13 全イスラエルがその子のために悼み悲しんで葬るでしょう。ヤロブアムの家の者で墓に葬られるのは、彼だけです。ヤロブアムの家の中で、彼だけに、イスラエルの神、【主】のみこころにかなうことがあったからです。14 主はご自分のためにイスラエルの上に一人の王を起こされます。彼はその日、いや、今にもヤロブアムの家を絶ち滅ぼします。15 主はイスラエルを打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖に与えられたこの良い地の面からイスラエルを引き抜き、あの大河の向こうに散らされるでしょう。彼らがアシェラ像を造って主の怒りを引き起こしたからです。16 ヤロブアムが自分で犯した罪と、彼がイスラエルに犯させた罪のゆえに、主はイスラエルを捨てられるのです。」」

ほかの女に変装していたヤロブアムの妻でしたが、戸口に入って来る彼女の足音を聞くと、彼は彼女に言いました。それは彼女にとって厳しいことばでした。それは、主がヤロブアムの家にわざわいをもたらすという内容でした。イスラエルの中の、ヤロブアムに属する小童から自由な者に至るまですべて滅ぼし、人が糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家の跡を除き去るというものでした。なぜなら、ヤロブアムは主によって高く上げられ、イスラエルを治める君主として立てられたのに、ダビデのように主の命令を守り、心を尽くして主に従い、主の目にかなうことを行わなかったからです。確かにダビデも多くの罪を犯しましたが、彼は心から悔い改め、主を求める人生を歩みました。ところが彼は、これまでのだれよりも悪いことをして、主の怒りを引き起こしました。彼は自分のために鋳物の像を造り、主をうしろに捨て去ったのです。それで主は、ヤロブアムの家にわざわいをもたらすのです。

その死に方も無残です。ヤロブアムに属する者は、町で死ぬなら犬がこれを食らい、野で死ぬなら空の鳥がこれを食らうようになるというのです。ヤロブアムの家の者で墓に葬られるのは、ヤロブアムの子アビヤだけです。14:14の「ひとりの王」とは、イッサカルの家のアヒヤの子のバシャ(15:27)です。ヤロブアムの次の王は彼の子のナダブでしたが、このバシャが謀反を起こし、ナダブが王のとなったとき、ヤロブアムの全家を打ち滅ぼすことになります。

そればかりではありません。神のさばきは、北王国イスラエル全体に下ります。主はイスラエルを打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖に与えた良い地の面から彼らを引き抜き、あの大河の向こうに散らされるのです。これは、アッシリヤによって滅ぼされ、捕囚の民となるという預言です。

ここで、ヤロブアムに対する神の約束を思い出します。それは、彼が北イスラエルの王として神に立てられた時に神が語られたことばです。「35 わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。36 彼の子には一つの部族を与える。それは、わたしの名を置くために選んだ都エルサレムで、わたしのしもべダビデが、わたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。37 わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。38 もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。」(11:35~38)

ヤロブアムには、すばらしい約束が用意されていました。それを台無しにしたのは、ヤロブアム自身でした。このことは、私たちへの教訓でもあります。どんなにすばらしい祝福が約束されていても、私たちがそれを台無しにしてしまうことがあるのです。パウロはⅠコリント15:10で、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」と言っていますが、ヤロブアムにはこの思いが足りませんでした。彼は、あたかも自分の力によってイスラエルの王にでもなったかのように錯覚していたのです。しかし彼が王として立てられたのも、一方的な神の恵みによるものでした。それは私たちも同じです。私たちが今の私たちになったのは、神の恵みによってです。そのことを覚えて神の恵みに感謝し、へりくだって、神に仕えるものでありたいと思います。

Ⅱ.ヤロブアムの業績(17-20)

次に、17~20節をご覧ください。「17 ヤロブアムの妻は立ち去って、ティルツァに着いた。彼女が家の敷居をまたいだとき、その子は死んだ。18 人々はその子を葬り、全イスラエルは彼のために悼み悲しんだ。主がそのしもべ、預言者アヒヤによって語られたことばのとおりであった。

19 ヤロブアムについてのその他の事柄、彼がいかに戦い、いかに治めたかは、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。20 ヤロブアムが王であった期間は二十二年であった。彼は先祖とともに眠りにつき、その子ナダブが代わって王となった。」

ヤロブアムの妻が立ち去って、ティルツァに着き、彼女が家の敷居をまたいたとき、その子は死にました。預言者アヒヤを通して主が語られたとおりです。人々はその子を葬り、全イスラエルは彼のために悼み悲しみました。神の厳しい裁きに直面した民は、神のことばが必ず実現することを知って、どんなにか神への畏れを抱いたことでしょう。

しかし、この裁きは彼らを信仰に立ち返らせるために、神がもたらしたものでした。イスラエルに対する神の愛は変わることがありません。大切なのは、そのような悼みや悲しみに直面したとき、それが神からの愛のしるしであることを覚えて、神に立ち返ることです。

ヤロブアムが王であった期間は22年間でした。Ⅱ歴代誌13:20らは、「主が彼を打たれたので、彼は死んだ。」とあります。彼は、主に打たれて死んだのです。彼が死ぬと、その息子のナダブが変わって王となりました。

ヤロブアムの死は実にみじめなものでした。モーセが死んだときには、30日間喪に服する期間がありました(申命記34:8)。サウル王の場合でさえ7日間の服喪期間がありました。それなのにこのヤロブアムの場合は、喪に服する期間はありませんでした。どのような人生を歩んだかの評価は、死の瞬間に決まります。ですから、主を恐れ、誠実に歩むことを心掛けたいものです。

Ⅲ.レハブアムの治世(21-31)

最後に、21~31節を見て終わります。まず21~24節をご覧ください。「21 ユダではソロモンの子レハブアムが王になっていた。レハブアムは四十一歳で王となり、主がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった。彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。22 ユダの人々は【主】の目に悪であることを行い、彼らが犯した罪によって、その先祖たちが行ったすべてのこと以上に主のねたみを引き起こした。23 彼らも、すべての高い丘の上や青々と茂るあらゆる木の下に、高き所や、石の柱や、アシェラ像を立てた。24 この国には神殿男娼もいた。彼らは、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、すべての忌み嫌うべき慣わしをまねて行っていた。」

今度は、南王国ユダの王レハブアムについての記録です。一方、ユダ(南王国ユダ)では、ソロモンの王レハブアムが王となっていました。レハブアムは41歳で王となり、エルサレムで17年間治めました。彼の母の名は「ナアマ」と言って、アンモン人でした。アンモン人は、外国人です。彼女はソロモンがめとった外国人の妻の一人でした。彼女はアンモン人の偶像モレクを礼拝しました(1列11:5,11:33)。レハブアムの治世において、カナン人の偶像礼拝が復興した理由の一つは、このレハブアムの母ナアマの存在があります。ソロモンが数多くの外国人の妻を愛して、外国の神々に仕えた結果がこれです。レハブアムはその結実と言ってもよい子だったのです。

25~31節をご覧ください。「25 レハブアム王の第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来て、26 主の宮の財宝と王宮の財宝を奪い取った。彼は何もかも奪い取った。ソロモンが作った金の盾もすべて奪い取った。27 レハブアム王は、その代わりに青銅の盾を作り、これを王宮の門を守る近衛兵の隊長の手に託した。28 王が主の宮に入るたびに、近衛兵がこれを運び、また近衛兵の控え室に戻した。29 レハブアムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。30 レハブアムとヤロブアムの間には、いつも戦いがあった。31 レハブアムは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られた。彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。彼の子アビヤムが代わって王となった。」

レハブアムが王位に着いて5年目に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来て、主の宮の財宝と王宮の財宝を奪い取って行きました。覚えていますか。ソロモンが王であったとき、彼は延べ金で大盾二百を作り、盾三百を作りました(10:16)。シシャクはこれに目をつけていて、そして奪い取ったのです。ソロモンがファラオの娘を自分の妻としていたことの代償が、ここにも出ています。そしてもちろん、これはレハブアムが犯していた罪のゆえです。つまり、これも神の裁きによるものであったということです。

南王国ユダにとって良かったことは、このことがきっかけとなって、王と指導者たちの間に悔い改めの心が与えられたことです(2歴代12:1~12)。ここに、神の民が経験する「裁きと回復」のサイクルが見られます。つまり、

(1)傲慢になって、偶像礼拝に陥る。

(2)主からのさばきが下る。

(3)悔い改めが起こる。

(4)主による解放 

というサイクルです。

レハブアムの場合は、滅亡からは逃れますが、シシャクに支配される状態がその後も続きました。これは、神から与えられた訓練でした。罪を犯した時、ただちに罪を告白して、神様の赦しを受け取る人は幸いです。聖書にこのように約束されています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

私たちも、時として苦難に遭うことがありますが、神から与えられた懲らしめと思って耐え忍びましょう。そして、そのことを通して自分に罪がないかを点検し、悔い改めて神に立ち返りましょう。神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。神の民とされたクリスチャンは、決して滅ぼし尽くされることはないのです。

Ⅰ列王記13章

 今日は、列王記第一13章から学びます。

 Ⅰ.1人の神の人(1-10)

まず、1~10節までをご覧ください。「1 一人の神の人が、主の命令によってユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。2 すると、この人は主の命令によって祭壇に向かい、これに呼びかけて言った。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」3 その日、彼は一つのしるしを与えて、次のように言った。「これが主の告げられたしるしである。見よ、祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。」4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして「彼を捕らえよ」と言った。すると、彼に向けて伸ばしていた手はしなび、戻すことができなくなった。5 神の人が主のことばによって与えたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。6 そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手は元に戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手は元に戻り、前と同じようになった。7 王は神の人に言った。「私と一緒に宮殿に来て、食事をして元気をつけてください。あなたに贈り物をしたいのです。」8 すると神の人は王に言った。「たとえ、あなたの宮殿の半分を私に下さっても、私はあなたと一緒に参りません。また、この場所ではパンも食べず、水も飲みません。9 というのは、主のことばによって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない』と命じられているからです。」10 こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰った。」

前回のところでは、ソロモンの子レハブアムが王位に着いたとき、北イスラエルの人々はヤロブアムを立てて、彼を通して重税を軽減してくれるようにレハブアムに頼みましたが、彼はそれを受け入れなかったので、北イスラエルはヤロブアムを王に立て、それで王国が北イスラエルと南ユダに分裂しましたこと学びました。それは、預言者アヒヤを通して語られたことを実現しようと、主がそのように仕向けられたからです。

しかしヤロブアムは、イスラエルの民がエルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行けば、民の心が自分から離れてしまうのではないかと恐れ、何と金の子牛を造って、それをダンとベテルに置きました。そればかりか、レビ人ではない一般人を祭司に任命して、自分勝手な祭儀を行いました。今日のところには、このヤロブアムの悪行を止めさせるために主が遣わされた一人の神の人が登場します。

この神の人は、主の命令によってユダからベテルにやって来ました。ここでのポイントは「主の命令によって」という言葉です。この言葉が、何度も出てきます(1,2,9節)。彼は主の命令によって南ユダから遣わされたのです。

ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていました。すると、この人は主の命令によって祭壇に向かい、これに呼びかけて言いました。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、一人の男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちを、いけにえとしておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。これが主の告げられたしるしである。見よ、祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。

どういうことでしょうか。ダビデ王朝にヨシヤという一人の男の子が生まれるが、彼は高き所で仕える祭司たちをいけにえとして、その祭壇の上で焼いてしまうということです。そのしるしは、祭壇が裂け、その上の灰がこぼれ落ちるということです。

これは、驚くべき預言です。なぜなら、ヨシヤという具体的な王の名前を挙げて、ヤロブアムの祭壇の上で、人の骨が焼かれることを預言したからです。これは、約300年後に南ユダの王ヨシヤによって、ことごとく実現しました。Ⅱ列王記23:15~17に書いてあります。ヨシヤ王は、偶像礼拝をなくすために、ユダだけでなくイスラエルにも行って、ヤロブアムが造った祭壇も高き所も打ち壊し、焼いて粉々に砕いて灰にしました。また、墓から骨を取り出して、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとしたのです。この「一つのしるし」とは、将来に起こることの預言が確実であることを証明するための、今すぐに起こる出来事のことです。それは、祭壇が裂け、その上の灰はこぼれ出るということでした。つまり、祭壇で焼かれるいけにえが祭壇からこぼれ出て、生焼けのままで地に落ちるということです。

するとそれが実現します。ヤロブアムが、ベテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして「彼を捕らえよ」と言うと、彼に伸ばしていたヤロブアムの手がしなびて、元に戻すことができなくなってしまいました。そして、この神の人が語ったとおりに、祭壇が裂け、祭壇から灰がこぼれ出たのです。この神の人が語った「しるし」が、すぐに成就したのです。

驚いたヤロブアムは、神の人に向かってこう言いました。「どうか、あなたの神、主にお願いして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手は元に戻るでしょう。」

ここで注目していただきたいことは、ヤロブアムが「あなたの神、主」と言っていることです。彼はもはや、主との関係はなくなっていました。それで、神の人は、ヤロブアムの願いを聞き入れて祈ってあげると、彼の手は元に戻り、前と同じようになりました。これは、神の権威が王の権威に優るものであったことを示しています。それは、ヤロブアムが主に立ち返るようにするための主の御業でした。

ヤロブアムは感激し、この神の人に、自分と一緒に来て、食事をして元気をつけてくれるように頼みます。彼に贈り物をしたかったのです。しかし、その神の人はヤロブアムの申し出をきっぱりと断ります。「たとえ、あなたの宮殿の半分を私に下さっても、私はあなたと一緒に参りません。」また、「この場所ではパンも食べず、水も飲みません。」と言いました。なぜなら、主のことばによって、『パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない』と命じられていたからです。おそらくこれは、北イスラエルが偶像で汚れており、これらの人々と交流しないで、ただ主が与えた使命を果たすという意図があったものと思われます。こうして、彼はベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰って行きました。

Ⅱ.ベテルに住む老預言者(11-19)

しかし、次の箇所を見ると、これほどの神の人も誘惑に陥ってしまいます。11~19節をご覧ください。「11 一人の年老いた預言者がベテルに住んでいた。その息子たちが来て、その日、ベテルで神の人がしたことを残らず彼に話した。また、彼らは、この人が王に告げたことばも父に話した。12 すると父は「その人はどの道を行ったか」と彼らに尋ねた。息子たちは、ユダから来た神の人が行った道を知っていた。13 父は息子たちに「ろばに鞍を置いてくれ」と言った。彼らがろばに鞍を置くと、父はろばに乗り、14 神の人の後を追って行った。そして、その人が樫の木の下に座っているのを見つけると、「ユダからおいでになった神の人はあなたですか」と尋ねた。その人は「私です」と答えた。15 彼はその人に「私と一緒に家に来て、パンを食べてください」と言った。16 するとその人は言った。「私は、あなたと一緒に引き返して、あなたと一緒に行くことはできません。また、この場所では、あなたと一緒にパンも食べず、水も飲みません。17 というのは、私は主のことばによって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない』と言われているからです。」18 彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主のことばを受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と告げました。」こうして彼はその人をだました。19 そこで、その人は彼と一緒に帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。」

ここに一人の老預言者が登場します。彼はベテルに住んでいました。そして、彼の息子たちが彼のところに来て、ベテルでこの神の人がしたことを残らず話しました。また、この神の人が王に告げたことも話しました。

すると、父親である年老いた預言者は、息子たちから神の人が行った道を聞き出すと、ろばに乗って、後を追って行きました。そして、樫の木に座っていた神の人を見つけると、自分と一緒に家に来て、パンを食べてくれるようにと言いました。なぜこの老預言者は、このようなことを言ったのでしょうか。もしかすると、子どもたちの話を聞いて、このように主を愛する、すばらしい若者がいることを知って、ぜひとも時間を共に過ごしたいと思ったのかもしれません。自分はベテルにいながらヤロブアム王の悪行について何も言うことができなかったのに、この若者はわざわざユダからやって来て、すばらしい主の御業を行ったからです。あるいは、最初からこの神の人を陥れようとしていたのかもしれません。それはこの後で明らかになりますが、ただ一つだけ確かなことは、このこともまた主から出たことであったということです。この神の人は、その申し出を断りました。主から、ベテルではパンを食べてはならない、水を飲んでもならないと、命じられていたからです。

すると、この老預言者は何と言ったでしょうか。彼はこう言って神の人を騙します。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主のことばを受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と告げました。」

しつこいですね。ここにははっきりと「だました」とあります。老預言者は、自分の願望を果たすために神の人を騙したのです。何としてもこの神の人と一緒に食事をしたいと思ったのかもしれません。あるいは、自分も預言者のはしくれとして主から任職を受けている者としてプライドがあったのかもしれません。

すると、この神の人は彼と一緒に行き、彼の家でパンを食べ、水を飲んでしまいました。彼はそれが嘘であることを見抜けず、その誘いに乗ってしまったのです。つまり彼は、留まってはならないというベテルに留まってしまったのです。どうしてでしょうか。いろいろな理由が考えられます。たとえば、この老預言者が自分よりも年上の預言者であるということで、尊敬しなければならないという思いがあったかもしれません。あるいは、そこに同じ神のことばを伝える預言者という仲間意識が働いたのかもしれません。一つだけ確かなことは、一仕事終えた彼に安心感や心の緩みがあったということです。何か大きなことを成し遂げた後は、だれでも心に緩みが生じるものです。そういう心の隙を、悪魔が攻撃したのです。

イエス様はこう言われました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです。」また、Ⅰペテロ5:8には、「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探しまわっています。」とあります。私たちの敵である悪魔は、吠えたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めて探しまわっています。このような失敗は私たちにも起こり得ます。ですから私たちも、誘惑に陥らないように祈らなければなりません。

Ⅲ.老預言者の嘆き(20-34)

問題は、その結果どうなってしまったかということです。そのことについて、20~34節にこうあります。「20 彼らが食卓に着いていたとき、その人を連れ戻した預言者に主のことばがあったので、21 彼は、ユダから来た神の人に呼びかけて言った。「主はこう言われる。『あなたは主のことばに背き、あなたの神、主が命じた命令を守らず、22 引き返して、主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならないと言った場所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたの亡骸は、あなたの先祖の墓には入らない。』」23 彼はパンを食べ、水を飲んだ後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。24 その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に放り出され、ろばは、そのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。25 そこを人々が通りかかり、道に放り出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。彼らは、あの年老いた預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。

26 その人を途中から連れ帰ったあの預言者は、それを聞いて言った。「それは、主のことばに背いた神の人だ。主が彼に告げたことばどおりに、主が彼を獅子に渡され、獅子が彼を裂いて殺したのだ。」27 そして、息子たちに「ろばに鞍を置いてくれ」と言ったので、彼らは鞍を置いた。28 彼は出かけて行って、道に放り出されている死体と、その死体のそばに立っている、ろばと獅子を見つけた。獅子はその死体を食べず、ろばを引き裂いてもいなかった。29 そこで、年老いた預言者は神の人の遺体を取り上げ、それをろばに乗せて自分の町に持ち帰り、悼み悲しんで葬った。30 彼が遺体を自分の墓に納めると、皆はその人のために、「ああ、わが兄弟」と言って悼み悲しんだ。31 彼はその人を葬った後、息子たちに言った。「私が死んだら、あの神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。32 あの人が主のことばにしたがって、ベテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての高き所の宮に向かって叫んだことばは、必ず成就するからだ。」

33 このことがあった後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることをせず、引き続き一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。34 このことは、ヤロブアムの家の罪となり、ついには大地の面から根絶やしにされることとなった。」

この老預言者は、自分で騙しておきながら、ユダから来た神の人にこう言いました。「「主はこう言われる。『あなたは主のことばに背き、あなたの神、主が命じた命令を守らず、引き返して、主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならないと言った場所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたの亡骸は、あなたの先祖の墓には入らない。』」

これは神の人に対する神の裁きの預言です。ひどいですね、自分で罠をかけておきながら、相手が罠に陥ると「ほら、みろ」と、今度は神の裁きを宣言するのです。実際、ユダから来たこの神の人は、神の命令に従わなかったので、この預言のとおりさばかれることになります。

24節以下をご覧ください。この神の人が用意されたろばに乗って帰路に着こうとすると、道で獅子に会い、殺されてしまいました。この獅子は、神の裁きの道具として神から送られたものでした。なぜなら、獅子はこの人をかみ殺しましたが、死体を食べることも、ろばを襲うこともしなかったからです。ただ死体のそばに立っていただけでした。

そのことを聞いた年老いた預言者は、死んだ神の人の遺体を持ち帰り、悼み悲しんで自分の墓に手厚く葬りました。また、町の人たちも皆、神の人の死を悼み悲しみました。彼はその人を葬った後、息子たちに、自分が死んだら、あの神の人を葬った墓に葬り、あの人の骨のそばに納めてくれと頼みます。全く理解に苦しみます。元はと言えば、自分のせいであの神の人が殺されることになったのではありませんか。それなのに、その神の人の死を悼み悲しみ、自分が死んだら彼の葬られた墓に葬ってくれと言うのは変な話です。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

33~34節に、その意味が記されてあります。「33 このことがあった後も、ヤロブアムは悪い道から立ち返ることをせず、引き続き一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした。34 このことは、ヤロブアムの家の罪となり、ついには大地の面から根絶やしにされることとなった。」

ここで強調されているのは、ヤロブアムの罪です。ヤロブアムから始まった背教の罪は、北イスラエルの中に霊的腐敗をもたらしました。その結果、北王国イスラエルは、大地の面から根絶やしにされることになります。これは、B.C.722年にアッシリヤによって滅ぼされるという預言です。事実、その通りになります。そして、この神の人が神にさばかれるというこの出来事は、それを象徴していたのです。つまり、たとえ神の人(祭司、預言者、聖職者)であっても、神の命令に従わなければ、厳しくさばかれることになるということです。彼はパンを食べ、水を飲むというわずかばかりのことのために、真剣で忠実な態度を崩してしまいました。そして、神の命令に背いてしまったために滅びなければならなかったのです。

それは私たちに対する教訓でもあります。私たちは神を信じている者として、神のみことばに立ち、神のみこころを行いたちと願っています。しかし、ややもすると、このくらいなら大丈夫だろうと、神の命令を破ってしまうことがあります。その結果、この神の人が経験したような神の裁きを受けることになるのです。それはやがてアッシリヤによって滅ぼされてしまう北イスラエルの象徴でもありました。ですから、私たちはどんなささいなことでも、神のみこころから離れ、罪を犯しているなら、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。ヤロブアムは、それでも悔い改めず、悪の道から立ち返ることをせず、引き続き一般の民の中から祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して祭司にしました。そのことがヤロブアムの家の罪となり、ついには大地から根絶やしにされることになりました。これは、あなたにも言えることなのです。これは私たちに対する警告なのです。主はいつも、私たちに警告を与え、主に立ち返る機会を与えてくださいます。その警告を聞き入れるかどうかは、一人一人に委ねられています。私たちはヤロブアムのように神を無視して悪を続けるのではなく、悔い改めて、主に立ち返りましょう。それがこの神の人の死が私たちに語っていることだったのです。

エレミヤ書9章1~9節「主を知るということ」

Word PDF

主の御名を賛美します。今日はエレミヤ9:1~9のみことばから、「主を知るということ」というタイトルでお話したいと思います。

前回は、「エレミヤの涙」というタイトルでお話しました。エレミヤは、同胞が滅ぼされると聞いて、涙に打ちひしがれました。彼はそれを聞いたとき、いてもたってもいられなかったのです。それはきょうの箇所にも見られます。1節には「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」とあります。これは、どれほど泣いても泣き足りないという意味です。新共同訳では、9:1を8:23としていますが、そのようにも分けることもできます。ここにも、エレミヤと神様の民に対する心の痛みがよく描かれています。

ちなみに、漢字の「優」という字がありますが、これは「人」と「憂」の合成語です。人のために泣く人は優しい人です。エレミヤは「ああ」と叫んで、神への背信行為を続ける同胞イスラエルのために泣きました。いったいなぜユダの民は背信行為を続けたのでしょうか。いったいなぜ滅びなければならなかったのでしょうか。

きょうのところに、その原因が語られています。それは、主を知らなかったからです。3節後半と6節後半にそのことが繰り返して語られています。彼らは主を知らなかったので悪の道へと突き進んで行ったのです。いったい主を知るとはどういうことなのでしょうか。きょうはこのことについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.不真実な民(1-3a)

まず、1~3a節をご覧ください。「1 ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。2 ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。3 「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。」

今お話したように、エルサレムの崩壊を告げられたエレミヤは、敵の侵略によって殺される人たちの悲惨さを思い、涙を流します。「私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、昼も夜も、泣こうものを。」とは、どれほど泣いてもなき足りないという彼の思いを表しています。

ところが2節を見ると、「ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。」とあります。どういうことでしょうか。とてもエルサレムには住んでいられないということです。そこには姦通する者、裏切る者たちがいたからです。そういう人たちとは一緒に住むことができない。だから、もし荒野に旅人の宿を持っていたらそこに行って、彼らから距離を置きたいと言っているのです。あれっ、たった今、彼らのことをあわれんで、どんなに泣いても泣き切れないと言ったばかりなのに、今度は、そんな彼らから距離を置きたいと言っています。ここにエレミヤの心の動きというか、彼の心情がよく表われています。彼らが滅ぼされることを考えると本当にかわいそうで、かわいそうで、何とかならないものかともがいていますが、でも、いくら言っても聞こうとしない彼らには、ほとほと疲れ果てているのです。できれば少し離れたい。だれもいない静かなところで過ごしたい。もし荒野に旅人の宿があったら、そこに逃れて暮らしたい。そういっているのです。そんな彼のジレンマがよく表れているのではないでしょうか。

なぜエレミヤは彼らから距離を置きたいと思ったのでしょうか。それは、彼らはみな姦通する者であり、裏切り者だからです。そこには真実がありません。たとえば、ここに「姦通者」とありますが、姦通者とは何かというと、夫や妻を裏切る者のことです。そこには真実の愛がありません。イスラエルの民は、彼らの神、主という夫を裏切る者、姦通者でした。そこには主に対する真実な愛がありませんでした。彼らは裏切り者の集まりだったのです。

また、3節には、「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ」とあります。「舌をつがえて」という言い方はあまり聞きませんね。「つがえる」というのは元々、弓に矢をかけることです。それが総じて「曲げる」になりました。ですから、これは「舌を曲げて偽りを言う」ということです。第3版ではそのように訳しています。「彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる」と。つまり、彼らは嘘つきであったということです。「嘘も方便」という言葉がありますが、方便どころじゃありません。嘘ばかり言っていました。

このどちらにも共通しているのは何かというと、真実ではないということです。主が私たちに求めておられるのは何でしょうか。真実であるということです。どれだけ大きなことをしたかとか、どれだけ多くのものをささげたか、どれだけ伝道したかということではなく、真実であったか、誠実であったか、忠実であったかということです。

イエス様はこう言われました。「21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-22)

彼らとは、偽預言者たちのことです。彼らは主の名によって預言し、主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって多くの奇跡を行いました。しかし、主はそんな彼らにこう言われたのです。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」恐ろしいですね。全然知らないというのですから。個人的に何の関係もなければ、話をしたこともないというのです。彼らはイエス様を知っているつもりでしたが、イエス様の方では全然知りませんでした。彼らは口では「主よ、主よ」と言っていましたが、そこに真実がなかったからです。

あなたはどうでしょうか。主があなたをご覧になられる時、何と言われるでしょうか。そこに偽りはないでしょうか。主が荒野に退きたい、あなたから距離を置きたいと思うような、不真実はないでしょうか。主があなたに求めておられるのは真実なのです。

「ある夜,ある男が隣人の畑からトウモロコシを盗もうと出かけて行きました。幼い息子を連れて行き、柵の上に座らせて,人が通りかかったときには警告するんだぞと告げて、見張りをさせました。男は大きな袋を腕に抱えて柵を飛び越え、トウモロコシを取り始める前にまず一方を見て、反対を見て、袋に詰めるところを目撃している人がいないか見渡しました。すると、息子が叫びました。

『お父さん、まだ見ていない方向があるよ!・・・上を見忘れてるよ!』」

だれもが受ける誘惑ですが、不誠実であるように誘惑されるとき、だれにも分からないと思うかもしれませんが、でも、天の神様はいつも見ておられます。私たちに必要なことは正直であることです。そうすれば、主はいつも私たちとともにいてくださいます。

ピリピ4:8にはこうあります。「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。9 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」

どうすれば、神があなたとともにいてくださるのですか。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと、また、何か徳とされることや称賛に値することに心を止めることによってです。そうすれば、平和の神があなたとともにいてくださいます。神があなたから離れて荒野にある旅人の宿に住みたいと言われることがないように、真実、全き心をもって主に仕えていきたいと思います。

Ⅱ.主を知ることを拒んだ民(20-21)

いったいなぜイスラエルの民は不真実の民、偽りの民となってしまったのでしょうか。次に、3b~6節をご覧ください。ここに、その最大の原因が語られています。それは彼らが主を知らなかったからです。「悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。──主のことば──4 それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き、どの友も中傷して歩き回るからだ。5 彼らはそれぞれ、互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く。6 あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む。──主のことば。」」

彼らが真実でなかったのは、彼らが主を知らなかったからです。この「知る」ということばは、ヘブル語で「ヤダー」と言います。皆さんは言わないでくださいよ。「ヤダー」。神様は「ヤダー」と言いませんが、私たちはよく「ヤダー」と言います。「宿題しなさい」、「ヤダー」。「手を洗いなさい」、「ヤダ―」。「部屋を片付けなさい」、「ヤダー」。「お手伝いしなさい」、「ヤダー」。何を言っても「ヤダー」です。先日、4歳になった孫を見ていると、いつもそうです。「ヤダー」。

この言葉が聖書の中で最初に使われているのは、創世記4:1です。ここには、「人は、その妻を知った。」とあります。この「知った」がそうです。この「人」とはアダムのことです。最初の人アダムは、その妻エバを知りました。この「知った」という言葉です。これはただ対面してエバという存在を知ったということではなく、もっと親密なレベルで、個人的に、人格的に知ったということです。それが夫婦であれば、性的関係を持ったということを表現しています。これ以上に親密なレベルでの知り方はありません。

エレミヤの時代、イスラエルの民は主を知っていると思っていました。彼らには主の宮がありました。また、祭司やレビ人がいて、主なる神に動物のいけにえをささげていました。しかし、確かにそこで宗教的な儀式を行っていたかもしれませんが、それは表面的ものにすぎませんでした。知識としては知っていましたが、自分の伴侶を知るというような深いレベルで知るということではありませんでした。

主を知らないとどうなるでしょうか。4~6節には、その結果三つの状況に陥ると言われています。第一に、人間関係がギクシャクします。4節には、「それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き、どの友も中傷して歩き回るからだ。」とあります。

ユダの民は、神様との関係が完全に崩壊していました。神様を個人的、人格的なレベルで深く知っていたのではなく、ただ表面的に知っているにすぎませんでした。そのように神との関係が崩壊すると、人間関係も崩壊することになります。神様との愛の関係が壊れると、それぞれ互いの愛の関係も壊れてしまうことになるのです。神を信じられないので、人も信じられなくなります。ここには「それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。」とあります。互いに不信感を抱くようになるのです。皆さん、どうして人間関係がうまくいかないのでしょうか。どうして人間関係がギクシャクするのでしょうか。それは神様との関係がうまくいっていないからです。神との関係がギクシャクすると、人との関係もぎくしゃくするようになります。ですから、人間関係がうまくいかない時に考えてほしいことは、あなたと相手との関係がどうであるかということではなく、あなたと神様との関係がどうであるかということです。もしあなたと神様と関係が良ければ、人との関係もうまくいきます。

4節には「どの兄弟も出し抜き」とありますね。この「出し抜き」という言葉は、ヘブル語で「アーコーブ」と言います。どこかで聞いたことはありませんか。「アーコーブ」、そうです、これはあの「ヤコブ」という名前の語源となった言葉です。ご存知のように、ヤコブはイスラエルの先祖となった人物です。「ヤコブ」という名前がイスラエルに改名されました。その子孫がイスラエル人です。この「ヤコブ」という名前は、「出し抜く」とか「押しのける」という意味があります。双子の弟ヤコブは、お母さんのおなかの中にいるときから兄のエサウのかかとをつかんで、エサウを出し抜きにいて、押しのけて先に出てこようとしました。長男の座を奪おうとしたのです。それは生まれてからもそうでした。彼は押しのける者だったのです。

そんなヤコブが砕かれる時がやって来ます。いつですか。叔父のラバンのところで20年間も仕えて、家族と一緒に故郷に戻って来る途中のことです。ヤボクの渡し場で一晩中神と格闘した時がありました。その時彼のももの関節が外れてしまいました。そのとき、神は彼に言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)彼はヤコブからイスラエルになりました。人を押しのける者から神によって支配される者へと変えられたのです。名は体を表します。名前が変わったということは、古い性質から新しい性質に変わったということを表しています。これまでは自分が中心となって人を押しのけ、ただ自分だけを信じ、自分の力、自分の思いですべてを成そうとしていました。そんなヤコブが神によって支配される者に変えられたのです。人を押しのけるという古い性質が、神によって砕かれて、神によって支配される者に変えられたのです。

それなのに、ヤコブの子孫であるイスラエルは、古い性質に逆戻りしてしまいました。「イスラエル」ではなく「ヤコブ」に戻ってしまったのです。その結果、人を信用できなくなってしまったのです。どの兄弟も出し抜き、どの友も中傷して歩き回るようになっていました。人間関係がギクシャクし、完全に崩壊していたのです。それは神を知らなかったからです。神を知らなかったので、人間関係まで崩壊してしまったのです。

第二に、神様を知らなかった結果、疲れきるまで悪事を働くようになりました。5節です。「彼らはそれぞれ、互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く。」

「疲れきるまで悪事を働く」とは、悪を働くことに熱心であるという意味です。悪を働くことに一生懸命なのです。汗水たらして悪事を働きます。それでも悔い改めません。それほど腐っていたのです。まさにうなじのこわい民です。頑固な民でした。ここまで来たら救いようがありません。そういう状態にまで堕ちていたのです。

第三に、神様を知らなかった結果、彼らは人を欺くというだけでなく、自分も欺いていました。6節には「あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む。」とあります。彼らが住んでいたのは欺きの世界でした。うそで懲り固められた世界だったのです。人にも嘘をつくし、自分にも嘘をつきます。嘘だらけです。何一つ本当のことはありません。頭ではわかっていても、それとは裏腹のことをしていたのです。皆さんもそういうことありませんか。何が正しいかがわかっていても、それとは反対の行動を取ってしまうということが。

なぜでしょうか。それは、彼らが主を知ることを拒んだからです。知りたくないのです。頭で知っていればそれで十分だと思っていたのです。それを心まで引き下げようとしませんでした。そんなことしようものなら、へりくだることが求められるからです。そのためにはプライドを捨てなければなりません。やりたくないこともやらなければならないのです。自分の意志を殺してでも、神のみこころを行わなければならないからです。そんなの嫌です。ヤダモン!となるわけです。イエス様は言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自 分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)

そんなことしたくありません。それは大変なことです。イエス様はゲッセマネの園で、「父よ。みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈られました。それは汗が血のしずくのようにしたたり落ちるほどの壮絶な祈りでした。

でも、同じことが私たちにも求められています。私の思いではなく、あなたのみこころのとおりにしてください。これが私たちに求められている祈りです。これが主を知るということです。それでも神を人格的に、個人的に知りたいと願う人は、それを厭いませんと。どんな犠牲を払ってでも、神様に近づきたいと願うのです。肉においては拒否反応があっても、霊においてはもっと神様に近づきたい、神様を知りたい、神様と深い関係を持つことを求めているからです。

Ⅲ.最後の希望(7-9)

最後に、7~9節をご覧ください。「7 それゆえ、万軍の主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らを精錬して試す。いったい、娘であるわたしの民に対してほかに何ができるだろうか。8 彼らの舌はとがった矢。人を欺くことを言う。口先では友に向かって平和を語るが、心の中では待ち伏せを企む。9 これらについて、わたしが彼らを罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」」

それゆえ、万軍の主は彼らを精錬して試されます。彼らを炉の中で精錬されるのです。ちょうど金属の不純物を火で溶かして取り除くように精錬されるのです。本当に価値あるもの、ピュアなものだけを抽出するように、神のさばきを通して彼らを精錬されるわけです。

いったい、ほかに何ができるというのでしょうか。娘である神の民が神に立ち返るために、ほかにどんなことができるというのでしょうか。彼らの舌はとがった矢です。人を欺くことを言います。口先では友に向かって平和を語りますが、心の中ではそうではありません。心の中では待ち伏せを企みます。常に悪意に満ちているのです。顔ではニコニコしていても、また友達のフリをしながら、いつでも裏切る準備をしています。怖いですね。人間というのは。何を考えているのかわかりません。常に悪意を心に含んでいるわけです。そのような人たちは神のさばきを免れることはできません。でもそれは、神のあわれみを尽くした結果だということを忘れないでください。神様は最初からさばきを宣告しているのではありません。何度も何度も警告しても心をかたくなにして悔い改めず、神に反抗する者に対してさばきを宣告しているのです。

しかし、そのさばきの目的は何でしょうか。それは彼らを精錬することです。そのことを忘れてはなりません。神様からの再三の忠告を無視し、悔い改めることを拒み、自分勝手な道に進んでいった結果、神は最終的にさばかれるわけです。しかし、そのさばきでさえ、彼らを滅ぼすためではなく、建て上げるためなのです。それはいわば、神の民にとって最後の希望なのです。それは具体的にはバビロンによって滅ぼされるということですが、神の民はそれで終わりではありません。神は70年という時を経て、回復の御業を成されるのです。

それは私たちも同じです。神に背き、いつまでも頑なに神を拒み続けることでさばきを受けることがありますが、それで終わりではありません。それは私たちを聖めるための神の愛の御業なのです。精錬されるのはだれでもイヤです。でもそれで不純物が取り除かれるならば、これほど幸いなことはありません。

ハリソン・フォード主演の映画「心の旅」をご覧になられた方もおられるでしょう。ハリソン・フォード演じる主演のヘンリーが、ある日タバコを買いに行くと、店に押し入った強盗にピストルで撃たれてしまいます。一命は取りとめたものの、すべての記憶を失ってしまいました。昨日まではNYを代表する有能な弁護士。でも今は、自分の家族の顔もわからず、文字も読めないリハビリに励む一人の男です。そんな彼のリハビリを担当したのが、理学療法士のブラッドリーという黒人でした。彼は明るく陽気な性格で、ヘンリーが記憶喪失になってからの彼の良き理解者となります。やがて自宅に戻り、職場復帰を果たしたヘンリーですが、以前の自分とのギャップに苦しみ、落ち込んでいる彼を励ますために、ブラッドリーがヘンリーの家にやって来ます。実のところ、ヘンリーの妻が彼にお願いしたのですが。そこで彼は、自分がどうして理学療法士になったのかを語るのです。

「おれは大学でフットボール選手だったが、膝の故障で選手生命を断たれた。しかしそのおかけでリハビリ師に出会い仕事を得た。あんたにも会えたし歩かせることもできた。あんたも状況が変化し、別の人生が始まったんた。あれは試練だったんだ。」

ヘンリーはこの言葉に勇気づけられ閉じこもり生活に終止符を打つことができたのです。

私たちも、挫折や試練を遭遇すると、これで自分の人生も終わりだと思うことがあるかもしれません。しかし、それは神があなたの人生から信仰の不純物を取り除くために、神が与えてくださった試練なのです。私たちは試練に会うと辛いので、早くこの時を終わらせてくださいと祈りますが、神様は私たちの最善をご存知であって、その痛みを無駄にされません。

ですから、このことをぜひ覚えていただきたいのです。たとえあなたの人生の中で精錬されるようなことがあったとしても、それで終わりではないということを。それはあなたが聖められために、あなたが本当の意味で神を知るようになるために、神があなたに与えてくださった手段であるということを。神は今でもあなたが神のもとに帰って来ることを待っておられます。救い主から離れないようにしましょう。神の慰めと平安が豊かにありますように。

Ⅰ列王記12章

今日は、列王記第一12章から学びます。

 Ⅰ.長老たちの助言を退けたレハブアム(1-15)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 レハブアムはシェケムに行った。全イスラエルが彼を王とするために、シェケムに来ていたからである。2 ネバテの子ヤロブアムは、まだソロモン王の顔を避けてエジプトに逃れていた間に、レハブアムのことを聞いた。そのとき、ヤロブアムはエジプトに住んでいた。3 人々は使者を遣わして、彼を呼び寄せた。ヤロブアムは、イスラエルの全会衆とともにレハブアムのところに来て言った。4 「あなたの父上は、私たちのくびきを重くしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えます。」5 するとレハブアムは彼らに、「行け。三日たったら私のところに戻って来るがよい」と言った。そこで民は出て行った。」

ソロモンが死ぬと、その子レハブアムが王となりました。レハブアムはシェケムへ行きました。それは、全イスラエルが彼を王とするためにシェケムに来ていたからです。シェケムはエフライム族の主要な町であり、北の10部族が集合するのに適した場所でした。彼は、北の10部族のプライドを傷つけないように、エルサレムではなく、シェケムを選んだのです。

ネバテの子ヤロブアムは、ソロモン王の顔を恐れてエジプトに逃れていましたが、そのエジプトにいた時に、レハブアムのことを聞きました。ヤロブアムについては11章に記されてあります。彼は、アヒヤという預言者によって、「神がソロモンから国を引き裂き、あなたにイスラエルの10部族を与える。」(11:31)と伝えられていました。しかし、ソロモンが彼を殺そうとしたので、彼はエジプトに逃れ、ソロモンが死ぬまでそこにいました。彼は反乱によって神の預言を成し遂げようとするのではなく、神の導きにゆだねようとしたのです。

しかし、イスラエルの人々がヤロブアムのところに使者を遣わし彼を呼び寄せたので、彼はイスラエルの全会衆とともにレハブアムのところに来て、あることを直訴しました。それは4節にあるように、民のくびきを軽くしてほしいということです。ソロモンの時代、王国の維持のために、民は過剰な負担を強いられていました。その過酷な労働と思いくびきを軽減してほしいと訴えたのです。

それに対してレハブアムは何と答えたでしょうか。「行け。三日経ったら私のところに戻って来るがよい。」と言いました。どういうことでしょうか。彼は即答を避けました。三日というのは、エルサレムから助言者たちを呼び寄せるために必要な日数です。もしこの時、レハブアムが彼らの要請に前向きに応えていたなら、当面の間は分裂を避けることができたでしょう。しかし、レハブアムにはそこまでの知恵がありませんでした。かつてソロモンは主から、「あなたに何を与えようか。願え。」(1列王3:5)と尋ねられたとき、ソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。」(1列王3:9)と答えましたが、レハブアムはそうではありませんでした。彼に求められていたのは、この善悪を判断して民をさばく心、知恵の心でした。相手の立場を思いやることのできる人こそ人格者であり、知恵ある人です。それは主を恐れることからもたらされます。ですから、私たちはいつも主を恐れ、主に祈り、主のみこころを歩むことによって主から知恵を与えられ、真の人格者となることを目指しましょう。

次に、6~11節をご覧ください。「6 レハブアム王は、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちに、「この民にどう返答したらよいと思うか」と相談した。7 彼らは王に答えた。「今日、もしあなたがこの民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えて親切なことばをかけてやるなら、彼らはいつまでも、あなたのしもべとなるでしょう。」8 しかし、王はこの長老たちが与えた助言を退け、自分とともに育ち、自分に仕えている若者たちにこう相談した。9 「この民に何と返答したらよいと思うか。私に『あなたの父上が私たちに負わせたくびきを軽くしてください』と言ってきたのだが。」10 彼とともに育った若者たちは答えた。「『あなたの父上は私たちのくびきを重くしました。けれども、あなたはそれを軽くしてください』と言ってきたこの民には、こう答えたらよいでしょう。彼らにこう言いなさい。『私の小指は父の腰よりも太い。11 私の父がおまえたちに重いくびきを負わせたのであれば、私はおまえたちのくびきをもっと重くする。私の父がおまえたちをむちで懲らしめたのであれば、私はサソリでおまえたちを懲らしめる』と。」」

レハブアムはまず、父ソロモンが生きている間にソロモンに仕えていた長老たちに相談しました。この長老たちは、恐らく、父ソロモンと同年輩だったと思われます。彼らは王国における職制上の長老であり、経験豊かな政治家たちでした。彼らは、民の負担を軽減し、彼らに親切なことばをかけてやるなら、彼らはいつまでも、レハブアムのしもべとなるでしょうと、助言しました。

一方、レハブアムは、自分とともに育ち、自分に仕えている若者たちにも相談しました。当時レハブアムは41歳(14:21)でした。ですから、これらの若者たちも、それくらいの年齢であったと推定されます。すると彼らは、長老たちのそれとは正反対のことを助言しました。民のくびきをもっと重くし、父ソロモンは彼らをむちによって懲らしめたが、あなたはさそりで懲らしめるというようにと助言したのです(10-11)。「私の小指は父の腰よりも太い」というのは、誇張法です。つまり、つまり父ソロモンよりも、もっと偉大だということです。「サソリ」というのは、金属片を埋め込んだむちのことです。奴隷を打つためのものです。それはソロモンのむちより強力で残酷なものでした。彼は自分の偉大さを誇示しようとしたのです。

1ペテロ5:5にこうあります。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へり くだる者に恵みを与えられるからです。」川の水が高い所から低い所に流れるように、神の恵みはへりくだった人に注がれます。それなのに彼らは「若さ」ゆえに「自分に出来る」という思いが強くありました。それゆえに彼らは失敗を招くことになります。

12~15節をご覧ください。「12 ヤロブアムとすべての民は、三日目にレハブアムのところに来た。王が「三日目に私のところに戻って来るがよい」と命じたからである。13 王は民に厳しく答え、長老たちが彼に与えた助言を退け、14 若者たちの助言どおりに彼らに答えた。「私の父がおまえたちのくびきを重くしたのなら、私はおまえたちのくびきをもっと重くする。私の父がおまえたちをむちで懲らしめたのなら、私はサソリでおまえたちを懲らしめる。」15 王は民の願いを聞き入れなかった。かつて主がシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムにお告げになった約束を実現しようと、主がそう仕向けられたからである。」

三日目に、ヤロブアムとすべての民は、レハブアムのところに戻ってきました。するとレハブアム王は民に厳しく答え、長老たちの助言を退け、若者たちの助言どおりに伝えました。つまり、レハブアムは彼らの願いを聞き入れなかったのです。彼の問題は、知恵ある助言ではなく、自分が聞きたいことを求めたところにありました。若者たちの助言は彼の願いに合致するものだったので、その助言を受け入れてしまったのです。今、NHKの大河ドラマで「鎌倉殿の13人」を放映していますが、源頼朝の後を受け継いだ頼家の姿に似ています。実際はどうであったかはわかりませんが、あのドラマの中で頼家は、頼朝に仕えた13人の家臣たちではなく、自分と同じ年齢の若い者たちを側近に付け、やりたい放題をして失敗します。それに似ています。長老たちの助言ではなく、自分の言いなりになる若者たちの助言を求めたのです。

しかし、この愚かなレハブアムの決断について、別の視点でその理由が述べられています。それは、「かつて主がシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムにお告げになった約束を実現しようと、主がそう仕向けられたからである。」(15)ということです。王国が分裂するというのは、元々、ソロモンの罪に対する神の裁きだったのです(11:11-13)。それがソロモンの生存中に起こらなかったのは、ダビデ契約のゆえです。王国が分裂することは、すでに預言者アヒヤを通して語られていました。それが今起ころうとしていたのです。すなわち、主がそのように仕向けられたことなのです。

それは、主がこのようなレハブアムによる荒々しい態度を起こさせたという意味ではありません。レハブアムが荒々しい態度を取る選択をしたということです。しかし、初めからレハブアムがこのような態度を取ることを知っておられた主が、積極的にこの選択によって王国を分裂させることを意図しておられたのです。主は悪に対して主権を持っておられるという真理を知ることは大切です。悪をもご自分の計画の遂行のために用いられるのです。

しかし何よりも、ソロモンの罪がこのように尾を引いていることを思うと、罪のおぞましさというものをまざまざと見せつけられます。と同時に、私たちもこのような悲惨を招くことがないように、主に指摘される罪があれば悔い改め、いつも主に喜ばれる者であることを求めていきたいと思います。

Ⅱ.北の10部族の反乱(16-24)

次に、16~20節をご覧ください。「16 全イスラエルは、王が自分たちに耳を貸さないのを見てとった。そこで、民は王にことばを返した。「ダビデのうちには、われわれのためのどんな割り当て地があろうか。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、自分たちの天幕に帰れ。ダビデよ、今、あなたの家を見よ。」イスラエルは自分たちの天幕に帰って行った。17 ただし、ユダの町々に住んでいるイスラエルの子らにとっては、レハブアムがその王であった。18 レハブアム王は役務長官アドラムを遣わしたが、全イスラエルは彼を石で打ち殺した。レハブアム王はやっとの思いで戦車に乗り込み、エルサレムに逃げた。19 このようにして、イスラエルはダビデの家に背いた。今日もそうである。20 全イスラエルは、ヤロブアムが戻って来たことを聞いたので、人を遣わして彼を会衆のところに招き、彼を全イスラエルの王とした。ユダの部族以外には、ダビデの家に従う者はいなかった。」

レハブアムが自分たちの要求に耳を貸さないのを見て、民は王にことばを返しました。「ダビデのうちには、われわれのためのどんな割り当て地があろうか。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、自分たちの天幕に帰れ。ダビデよ、今、あなたの家を見よ。」

これは、単なる不満の言葉ではなく、戦の叫びです。これは、約40年前にダビデが王として全イスラエルに迎え入れられたとき、イスラエル10部族とユダの人々との間に確執が生じましたが、そのとき、よこしまな者でシェバが語った言葉と同じです(Ⅱサムエル20:1-2)。つまり、北イスラエルの10部族はダビデ王朝に対してずっと不満を抱えていたということです。不当に扱われたという怒りは、そう簡単に消えるものではありません。

この問題を治めるべく、レハブアムは役務長官アドラムを彼らのところへ遣わしましたが、全イスラエルは彼を石で打ち殺してしまいました。それで事の深刻さを理解したレハブアムは、いのちからがらシェケムからエルサレムに逃れました。このようにして、イスラエルはダビデの家に背いたのです。そして、人を遣わしてヤロブアムを招き、彼を全イスラエルの王としました。イスラエルの分裂王国の始まりです。ユダの部族以外はダビデの家に従う者はありませんでした。実際にはベニヤミン族もいましたが、小部族だったので数の内に入っていません。北の10部族によるイスラエルと、南のユダとベニヤミンの2部族に分裂したのです。預言者アヒヤを通して語られた通りです。

ダビデとソロモンが約40年かけて築き上げてきた王国が、数日で崩壊してしまいました。築くのは大変ですが、壊すのは簡単です。愚かな行為は一瞬にしてすべてを壊してしまいます。ここから教訓を学びたいですね。私たちの教会も大田原で開拓して18年が経ちましたが、その間、那須とさくらにも開拓することができました。それはただ主のあわれみによるものですが、そこにどれほどの労苦があったことでしょう。でも壊すのは簡単です。神のみこころに立たないで自分の思いを通すなら、すぐに壊れてしまいます。それは私たちにとって一番残念なことです。教会がみことばの上にしっかりと立てられ、ずっとこの地域で主を証するために、主に従う群れでありたいと思います。

21~24節をご覧ください。「21 レハブアムはエルサレムに帰り、ユダの全家とベニヤミンの部族から選り抜きの戦士十八万を召集し、王位をソロモンの子レハブアムのもとに取り戻すため、イスラエルの家と戦おうとした。22 すると、神の人シェマヤに次のような神のことばがあった。23 「ユダの王、ソロモンの子レハブアム、ユダとベニヤミンの全家、およびそのほかの民に告げよ。24 『主はこう言われる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエルの人々と戦ってはならない。それぞれ自分の家に帰れ。わたしが、こうなるように仕向けたのだから。』」そこで、彼らは主のことばに聞き従い、主のことばのとおりに帰って行った。」

外交交渉に失敗したレハブアムは、エルサレムに返ると、ユダとベニヤミンの部族から選り抜きの戦士18万人を召集し、北の10部族と戦おうとしました。

すると、神の人シェマヤに、神のことばがありました。それは、「上って行ってはならない」ということでした。彼らの兄弟であるイスラエルの人々と戦ってはならないということです。シェマヤは南で活躍した預言者でした。一方、アヒヤは北で活躍した預言者です。いったいなぜ主はシェマヤにこのように告げられたのでしょうか。それは、主がそのように仕向けられたからです。それは偶然の出来事ではなく、主が導かれたことであるということです。それゆえ、彼らの兄弟たちと戦ってはならないのです。

それで彼らは主のことばに従い、主のことばとおりに帰って行きました。レハブアムはもっと早くこのような態度を取っていれば分裂の危機を乗り越えることができたであろうに、高慢にも「私の小指は父の腰よりも太い」なんて言って、自分の思いを通してしまった結果、北と南は分裂することになってしまいました。しかし、このことも主が仕向けられたことでした。これは主が起こされていることなのだから、自分がそれに対して争ってはいけないと、彼は戦いことを止めたのです。このように、あくまでも自分の思いで突き進み状況をさらに悪化させるのではなく、これも主が仕向けられたことだからと、主の御手にゆだねることも大切です。その時、主が憐れんでくださり、最善に導いてくださいますから。

私たちの人生には自分でも予期せぬ出来事が起こりますが、それさえも主が許されたことであって、その背後で主が導いておられると信じて、どうしてそのようなことが起こったのか自分ではわからなくても、すべてを主にゆだねて、主のみこころに歩むことが求められるのです。

Ⅲ.ヤロブアムの恐れ(25-33)

最後に、25~33節をご覧ください。「25 ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを築き直し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直した。26 ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。27 この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」28 そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」29 それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。30 このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。31 それから彼は高き所の宮を造り、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。32 そのうえ、ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でささげ物を献げた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえを献げた。また、彼が造った高き所の祭司たちをベテルに常駐させた。33 彼は、自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえを献げた。このように、彼はイスラエルの人々のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえを献げ、香をたいた。」

北王国の王となったヤロブアムは、エフライムの山地にシェケムを築き直しました。彼はシェケムを北王国の首都に定め、そこを補強し、拡張したのです。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直しました。首都をシェケムからペヌエルに移したということです。シェケムはユダに近すぎると判断したのでしょう。ペヌエルはヨルダン川の東側の山地にあったので、そこなら大丈夫だろうと思い、ペヌエルを再建してそこに移ったのです。実は、ペヌエルに移る前にシェケムからティルツァに移動していたことがわかります(14:17)。ですからシェケム、ティルツァ、そしてペヌエルと移動したのです。そして最終的に、オムリ王の時代に首都をサマリヤに定めます。

そして彼は、イスラエルの民の心を自分に向けさせるために、とんでもないことをします。何と金の子牛を二つ作りました。これは明らかに偶像礼拝です。かつてアロンが金の子牛を作って民に拝ませたとき、イスラエルの民の上に神の怒りがどれほど注がれたのかを、彼は知らなかったのでしょうか(出32章)。また、彼はダンとベテルに神殿を設け、その金の子牛を据えました。それによって民が、エルサレムに上らなくても、宗教的儀式を行うことができるようにしたのです。

さらに彼は、祭司を新しく任命しました。31節をご覧ください。ここには、「それから彼は高き所の宮を造り、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。」とあります。彼が任命した祭司は、一般の民の中から選ばれました。民数記18:1~7には、幕屋で仕えることができる祭司は、アロンの子孫から選ばれることが定められていました。アロンが属していたレビ族はそれを手伝うことができましたが、他の者が携わることはできませんでした。それを一般の民の中から選んだというのは、明らかに律法違反です。それは、祭司は彼らが選んだからではなく、神が選び出されたからです。神の選びと召命がなければ、その人は祭司の務めを行なうことができないのに、彼らはそんなことはお構いなしでした。それは彼らの中に神を恐れる思いがなかったことを表しています。

さらに32節を見ると、祭りの日も変更しました。これは仮庵の祭りです。仮庵の祭りは第七の月の15日に行われますが、ここではそれをそれよりもひと月遅らせた第八の月の15日に、行うようにしたとあります。

いったい彼はなぜこんなことをしたのでしょうか。彼は神様から、北王国の確立を約束されていました(Ⅰ列王11:31,11:37~38)。もし彼がダビデのように主の命令を守るなら、彼の王国は主によって守られ、祝福されたはずです。しかし彼は主のことばに背を向け、不信仰に陥ってしまいました。民が自分から離れてしまうのではないかと恐れたからです。そのような時こそ神に信頼し、すべてを神にゆだねて祈ればいいものを、彼は自分の策略で身の安全を確保しようとしたのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。私たちの人生にも、仕事や人間関係、将来のことで不安を覚えることがあります。そして、そのようなときこそ神様に信頼すべきなのに、自分で何とかしようとするのです。しかし、そういう時だからこそすべてを主にゆだね、主に信頼して歩まなければなりません。たとえ不安があっても、主の御手に落ちることが最善なのです。人間の不安や恐れがもたらす影響力がどれほど大きいかを知り、愚かな自分の策略を捨て、神の御手にすべてをゆだね、神を信頼して歩みましょう。

エレミヤ書8章18~22節「エレミヤの涙」

Word PDF

きょうは、エレミヤ書8章後半から「エレミヤの涙」というタイトルでお話します。前回のところで主は、エレミヤを通して「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか」と、自然の法則を用いて語られました。しかし、彼らは主のもとに帰ろうとしませんでした。「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言って、主のことば、主の招きを拒んだのです。その結果、主は彼らにさばきを宣告されました。12節にあるように、「彼らは倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる」ことになったのです。具体的には、バビロン軍がやって来て、エルサレムとその住民を食らうことになります。17節にある「まじないの効かないコブラや、まむし」とはそのことです。神様はバビロン軍を送って、彼らを食い尽くすと宣言されたのです。

それを聞いたエレミヤはどうなったでしょうか。18節をご覧ください。ここには「私の悲しみは癒されず、私の心は弱り果てている。」と言っています。エレミヤは、同胞イスラエルの民が滅びることを思って死ぬほどの悲しみに押しつぶされました。彼はとても複雑な心境だったと思います。こんなに神様のことばを語っているのに受け入れず、耳を傾けようとしなかったのですから。普通なら「だったら、もう勝手にしなさい!」とさじを投げてもおかしくないのに、その悲惨な民の姿を見てエレミヤ自身が涙しているのです。それは、エレミヤがユダの民と一体となって民の苦しみを、自分の苦しみとして受け止めていたからです。それは神に背き続ける民に心を痛め、嘆きながらも、それでも彼らをあきらめずに愛される神様の思いそのものを表していました。きょうはこのエレミヤの涙から、神に背き続ける民に対する神の思い、神の愛を学びたいと思います。

Ⅰ.民の思い違い(18-19)

まず、18~19節をご覧ください。「18 私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。

8:19 見よ。遠い地から娘である私の民の叫び声がする。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」」

19節の「遠い地から」とは、バビロンのことを指しています。ユダの民はバビロンに連行されて行くことになります。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。実際にはこの後に起こることですが、エレミヤは預言者として、その時のユダの民の姿を幻で見ているのです。彼らはそこで悲しみ、嘆いています。そして、このように叫ぶのです。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」どういうことでしょうか。

「シオン」とはエルサレムのことです。これは7章に出てきた民のことばに対応しています。7:4で彼らは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。」と叫びました。エルサレムには主の宮があるではないか、だったら滅びることがないという間違った思い込みです。これは彼らの勝手な思いに基づくものでした。そこにどんなに主の名が置かれている神殿があったとしても、主のことばに従い、行いと生き方を改めなければ何の意味もありません。それなのに彼らは、ここには主の宮があるから大丈夫だ、絶対に滅びることはないと思い込んでいたのです。それなのにそのシオンは滅ぼされ、神の民はバビロンに連行されて行きました。いったいどうしてそのようになったのか、主はシオンにおられないのかと嘆いているのです。

それに対して主は何と言われたでしょうか。19節の次の「」のことばを見てください。ここには、「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」とあります。これは主なる神様の御声です。民の叫び、嘆きに対して、主が答えておられるのです。つまり、主がシオンにおられるかどうかということが問題なのではなく、問題は、彼らが犯していた偶像礼拝にあるというのです。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、主の怒りを引き起こしていました。それなのに、「主はいないのか」というのはおかしいじゃないかというのです。思い違いをしてはいけません。主の宮があれば何をしてもいいということではありません。たとえそこに主の宮があっても、偶像礼拝をしていたら、むしろ神の怒りを引き起こすことになります。それは神様の問題ではなく、神の民であるイスラエルの問題であり、彼らの勝手な思い違いによるものだったのです。

このことは、私たちにも言えることです。時として私たちも何らかの問題が起こると、自分の問題を棚に上げ神様のせいにすることがあります。「もし神様がおられるのなら、どうしてこのようなことが起こるんですか」「神様が愛のお方なら、このようなことを許されないでしょう。」と叫ぶことがあります。でも私たちはそのような問いが正しいかどうかを、自分自身に問うてみなければなりません。自分が神様に従っていないのに、あたかも問題は自分にではなくだれか他の人であったり、神様のせいにしていることがあるのではないでしょうか。

たとえば、ここには偶像礼拝について言及されていますが、イスラエルの民は、それぞれ自分の思いつくものを拝んでいました。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、神の怒りを引き起こしていました。2:27には「彼らは木に向かって、『あなたはわたしの父』、石に向かって『あなたはわたしを生んだ』と言っている。」とありますが、木や石に向かってそのように言っていました。当時のイスラエルは農業に依存していたので、私たち以上に天気には敏感だったでしょう。ですから、神の民が約束の地に入った時も、土着の宗教であったバアルやアシュタロテといった偶像に惹かれて行ったのも理解できます。自分たちの生活とかいのちに直接影響を与えるようなものに、しかも目に見えるものに、だれでも頼りたくなりますから。これは昔だけでなく今でもそうです。たとえば、健康のことや経済のこと、あるいはこれから先のことで多くの人は不安を抱えています。だからこそこの天地を造られた神様を頼ればいいものを、そうは問屋は降ろさないわけです。目に見える何かに頼ってしまいます。昔ならバアルやアシュタロテといった偶像でしょうが、現代ではそれが姿を変え、たとえば自分の力や努力であったり、お金であったり、健康であったりするわけです。母が生きていた時の口癖があります。それは「健康が一番だ!」という言葉です。クリスチャンになってからもしょっちゅう言っていました。「健康一番!」確かに健康は大切なものですが、その健康でさえ神様からの贈り物だということをすっかり忘れています。健康も経済も、すべて神からの賜物なのです。詩篇127:1~2にこうあります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きは空しい。あなたが朝早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(詩篇127:1-2)

新改訳改訂第3版では、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」と訳されています。主は愛する者には、眠っている間に、このように添えてくださるのです。

今週は修養会が持たれますが、テーマは「教会を建て上げる喜び」です。教会が神の家族としてしっかりと建て上げられるように、そして、神様のご計画の中心であるより多くの教会を建て上げていくための心構えを学びます。そのためには働き人が必要ですね。イエス様も言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 と。ですから、私は毎日そのために祈っていますが、これってそう簡単なことではありません。

しかし、先月娘の結婚式でシカゴに行ったとき、日曜日に近くの教会に行った時のことです。Faith Bible Churchという教会でした。すると礼拝後に、1人の若い青年が私たちのところに来て挨拶してくれました。彼はHenryという名前の人で、高校を卒業したばかりでこれからムーディー聖書カレッジで学ぶために備えているということでした。彼は小さい時から宣教師になるように召されていて、その少し前にも南米エクアドルに短期宣教に出かけて帰って来たばかりだと話していました。でも自分の母親がラオスの出身ということで、いつかアジアの国々、特に中国か、韓国か、日本に、宣教師として行きたいと教えてくれました。礼拝後に昼食会があったので参加したら彼のお母さんがやって来て、彼にどんなにタラントが与えられているかを教えてくれました。語学は英語とスペイン語のほかにラオス語、中国語ができます。スポーツも得意で特にバレーボールでは全米の大会に出場したほどです。そればかりか音楽も得意でヴァイオリンも弾くことができ、大学に行ってからは交響楽団に所属することになっていると教えてくれました。何でもできる優秀に人材を、神様は宣教師のために備えておられることを知ったとき、私は、あの聖書のことばを思い出したのです。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」私たちは何でも自分の力で何とかしようとしますが、そこには神様がいません。主が家を建てるのでなく、自分で建てようとしている。それは偶像礼拝と同じです。そうした偶像を抱えながら、「主はシオンにおられないのか」と言うのはおかしいのです。

私たちはそうした思い違いをしないように気を付けなければなりません。神様を自分の手の中に収められるかのように思いそれを言い訳にして嘆くのではなく、神様を神様として、その神様を恐れ、神様に従っているかどうかということを吟味しなければならないのです。

Ⅱ.エレミヤの涙20-21)

次に、20~21節をご覧ください。イスラエルの民の嘆きが続きます。次に彼らはこのように嘆いています。20節、「20 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

エレミヤは、さらに預言者の目で将来を見ています。ユダの民は、捕囚の民となった自らの運命をこう嘆いています。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

何とも悲しい詩です。これほど悲しい詩はありません。「刈り入れ時」とは、春の刈り入れ時のことを指しています。春の刈り入れの時が過ぎ、夏が過ぎても私たちは救われていないと嘆いているのです。収穫の時が来ているのに収穫の喜びがありません。つまり、捕囚の状態から解放されていないということです。

その民の嘆きを見たエレミヤは何と言っていますか。21節です。彼はこう言っています。「娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私をとらえる。」

エレミヤは、民が傷ついているのを見て、深い悲しみに襲われました。決して他人事とは思えないのです。民が傷ついているのを見て、自分も傷つき、悲しみに打ちひしがれました。もう感情を抑えることなどできません。そのこみ上げてくる感情を、ここでさらけ出しているのです。涙とともに・・。

9:1を見ると、そのことがよくわかると思います。9:1でエレミヤはこう言っています。「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」

エレミヤは民の救いのために生きていました。それなのに、その民が目の前で死んでいくのです。それを見た彼は、ただ泣くしかありませんでした。彼が泣き虫だったからということではありません。同胞が死んでいくのを見てあまりにも悲しくて涙が止まらなかったのです。私はあまり泣きません。あまり泣かないので涙腺が乾いてドライアイになったほどです。時々テレビを見ていて感動して涙を流すことがありますが、そういう時でも妻にわからないようにそっと鼻をすすります。まして、人前で泣くことはほとんどありません。どこか恥ずかしいという思いがあるんでしょうね。でもエレミヤはそういうレベルではありませんでした。泣くとか、泣かないとかということではなく、泣かずにはいられなかったのです。同胞イスラエルの民のことを思うとあまりも悲しくて、あまりにも辛くて、涙が溢れてきたのです。信仰ってこういうことだと思うのです。信仰とはただことばだけではなく、それを全身で受け止めるというか、心で感じることなのです。

エレミヤは、4:19で何と言いましたか。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と言いました。それはこういうことだと思うんです。彼はユダの民に対する神のさばきが下るということを聞いたとき、はらわたが悶えると表現しました。はらわたが引き裂かれるような思いであったということです。それはエレミヤにとって耐えがたいほどの苦しみであり、耐えがたいほどの悲しみだったからです。エレミヤはそれを、自分の苦しみとして受け止めたのです。

それは私たちの主イエスもそうでした。ルカ19:41には、「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。」とあります。都とはエルサレムのことです。イエス様はラザロが死んだときも涙を流されましたが、ここでも、神の都エルサレムのために泣かれました。やがてエルサレムが滅ぼされてしまうことを知っておられたからです。この「泣く」とことばは、テレビを見て感動して涙を流すというようなレベルではなく、大声を出して泣くという意味です。一人の男が皆の前で、大声で泣いているのです。それは、エルサレムが滅ぼされることになるからです。実際エルサレムは、イエス様がこの預言を語られてから30年後に、ローマによって滅ぼされることになります。そのことを知っておられたイエス様は大声で泣かれたのです。エレミヤもそうでした。エレミヤも、この時から約20年後にエルサレムがバビロンによって滅ぼされ、神の民が捕囚の民としてバビロンで苦しむ姿を見た時、大声で泣いたのです。ただイエス様の場合は、それを見て深く悲しみ、涙を流されただけではありませんでした。イエス様は人々の痛みや悲しみをその身に負われました。ツァラアトという重い皮膚病の人がご自分の前に来た時には、感染するかもしれないという恐れの中でも、深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、こう言って癒されました。「わたしの心だ、きよくなれ。」(マルコ1:41)いわゆる濃厚接触ですね。コロナの感染が収まらずソーシャルディスタンスが叫ばれている今では考えられないことです。またイエス様は、当時差別されていた罪人や取税人たちと一緒に食事をされました。これも濃厚接触です。イエス様は罪に病んでいる人を見てただあわれまれたというだけでなく、その傷を癒すために、自ら肉体を取ってこの地上に来てくださり、その痛みを一身に受けられたのです。イエス様は天国からテレワークをされたわけではありません。イエス様は神様ですからテレワークも出来たでしょう。でも神の子は罪人と同じ姿を取られ、罪人に触れて罪人を癒してくださいました。そして最後はその罪をご自身の両肩に十字架を負ってくださり、神の怒りを私たちに代わって死んでくださいました。それが私たちの主イエスです。ただ遠くから見つめているだけではありませんでした。痛み、悲しみ、悩み、苦しんでいる人と同じ姿となりそれを共に担うこと、それが愛です。それが信仰なのではないでしょうか。エレミヤがここでこんなにも痛み、苦しみ、うなだれ、絶望したのは、民の痛みを負い、それを自分のこととして担ったからでした。あなたはどうでしょうか。そのような魂への情熱があるでしょうか。そのような愛を実践しているでしょうか。

1800年代半ば、南アフリカで宣教したアンドリュー・マーレ―は、宣教を「教会の究極のもの」と考え、南アフリカのリバイバルに貢献しました。そのアンドリュー・マーレ―が、次のようなことばを残しています。

「ああ、魂が滅びつつあるというのに、私は何と安楽に満足して生活していることだろうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちは何と少ししか感じることができなかったのだろうか。私たちの心に休むことができなかったほどに、魂への情熱が満ち溢れていたならば、私たちは今の私たちと非常に違った存在になったであろうに。」

アンドリュー・マーレ―のことばです。魂が滅びつつあるというのに、私たちは自分さえよければいいと思っています。自分さえ天国に行けるならそれでいいと思っているのです。あとは気楽に何不自由のない生活ができればそれでいいと。でも実際にイエス様を信じなければ、彼らの魂は滅んでしまいます。それなのに、何と安楽に満足した生活をしていることでしょうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちはあまり感じてはいないのではないでしょうか。魂への情熱が満ち溢れていたら、今の自分とは非常に違った存在になるのではないかと、アンドリュー・マーレ―は言ったのです。あなたはどう思いますか。

第二次世界大戦時に、ナチスによって処刑されたドイツの神学者にボンヘッファーという人がいました。彼はヒトラーの暗殺計画に関わって、ドイツ敗戦の直前に39才の若さで処刑されました。ヒトラー暗殺計画ですから殺人計画に加わったということになります。そのことについて彼は後にこう言っています。「目の前に暴走しているトラックがあり、そのトラックが次々と人を跳ねていたら、その運転席から運転手を引きずり降ろさないだろうか。あなたはどう思うか。」そういう言い方をしています。私たちも彼の生き方をどう捉えるかが問われるわけです。

実は、彼はアメリカに亡命するチャンスがありました。1936年6月に、アメリカの著名な神学者にラインホルド・二―バーという人がいて、彼に招かれてアメリカに渡りました。そこで仕事を紹介され、働く道も用意されていました。それは、若くて将来が期待されていたボンヘッファーが殺されてしまうことを心配したニーバーが、配慮してくれたことによるものでした。その時の日記が残っています。1939年6月13日の日記にボンヘッファーはこう記しています。

「今まで蛍など見たことがなかった。全くファンタジーに溢れた光景だ。非常に心のこもった、肩ひじ張らないもてなしを受けた。にもかかわらず、ここで自分に欠けているのは、ドイツと兄弟たちだった。初めて一人で過ごした時間が、重苦しくのしかかってくる。どうしてここに自分がいるのか理解に苦しむ。たとえそれに深い意味があったとしても、また、償って余りあろうとも、毎晩最後に行き着くところは、聖書日課と故郷に残してきた仕事への思いである。祖国(ドイツ)のことについて何の知らせも受けずに過ごすようになってから、かれこれもう2週間になる。これはほとんど耐え難いことだ。」

ボンヘッファーには、ドイツの人たちを祖国に残してアメリカに来たことに対する疑問と、自責の念があったのです。それで彼はドイツに戻る決断をします。そして、ニーバーに宛てて手紙を書き送るのです。そこにはこう書きました。

「もし私がこの時代の試練を同胞と共に分かち合うことをしなかったら、私は戦後のドイツにおけるキリスト教の再建に与る権利を有しないでしょう。」
 彼は、旧約聖書と新約聖書の聖書日課を読んでいましたが、ある日読んだ聖書箇所にこう書かれてありました。「何とかして冬になる前に来てください。」(Ⅱテモテ4:21)これはパウロがテモテに宛てて書いた手紙のことばです。「冬になる前に来てほしい」。ボンヘッファーは、これを自分に語られたことばとして受け止めたのです。

彼はドイツ人の苦しみを背負って生きようとしました。私たちも小さなキリスト者ですが、キリスト者という名前を持っている者です。エレミヤは預言者として民の苦しみを負って生きましたが、私たちも小さなキリスト者として、この社会であったり、自分の家であったり、教会であったり、それぞれ置かれたところで、その破れ口に立ち、その痛みや苦しみを共に負い、祈り、キリスト者としての務めを全うさせていただきたいと思うのです。

エレミヤはこの苦しみを背負うことで、お腹が痛くなったり、もだえ苦しんだり、泣けてきたりしましたが、苦しみや悲しみを負うということはそういうことだと思うんです。私たちはそこから逃れることはできないし、逃れてはいけないと思います。なぜなら、イエス様は私たちのために十字架を負ってくださったからです。そのイエス様に従って行く者に求められているのは、十字架を負うということだからです。イエス様はご自分についてくる者に、その心構えとしてこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

私たちにも、それぞれ自分の十字架があります。エレミヤもそうでした。その十字架を負ってイエス様について行くことが求められています。イエス様は十字架を通って復活されました。十字架を通らなければ復活の栄光に至ることはできません。私たちも十字架を通って復活の栄光に至る者になりたいと思うのです。

Ⅲ.ここに真の医者がいる(22)

最後に、22節をご覧ください。「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか。」

これもエレミヤのことばです。「乳香」とは、傷を癒す薬として用いられていました。「ギルアデ」は、ヨルダン川の東側の地域のことです。そこには傷を癒す乳香がありましたが、その乳香がないのか、どうして癒すことができないのかと、そのもどかしさを表現しているのです。また、傷口を癒すことができる医者はいないのかと嘆いています。皆さん、どうですか。民の傷を癒す薬はないのでしようか。その傷を癒すことができる医者はいないのでしょうか。います!それは私たちの主イエス・キリストです。私たちの主イエスは、私たちの罪のための苦しみ、すべての傷をいやすことができます。なぜなら、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださったからです。私たちは、ギルアデの乳香によってではなく、主イエスの打たれた傷、流された血潮によって癒されるのです。その結果、私たちは罪と悪魔の支配から完全に解放されます。

それなのに私たちはなかなか主の許に行こうとしません。目の前に治療の手段があるのに、それを用いようとしないのです。残念ですね。救いは目の前にあるのに、癒しは目の前にあるのに、罪の赦しはすぐそこくにあるのに、解決は目の前にあるのに、それを受け取ろうとしないのです。

神様はどんな病気でも癒すことができます。どんな罪でも赦すことができます。どんな問題やトラブルでも解決することかできます。でも神様がどんなに薬を提供しても、どんなにすばらしい治療を約束しても、それを受けなければ癒されることはできません。

イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)

これは、健康な人には医者はいらないということではありません。というのは、すべての人が罪という病にかかっているからです。すべての人に魂の医者が必要です。しかし、その癒しを求めて医者のもとに行こうとする人はごく僅かです。自分が病気だと認めなければその必要性を感じないからです。病気なのに病気じゃないと思っている。そういう人は気が付いたときにはもう手遅れになってしまいます。もっと早く診てもらっていたらこんなことにはならなかったのに、ちゃんと検査していたらもっと早く発見して治療することができたのに、後悔してもしきれません。自分が病気だと認めさえすれば、もっと素直になっていれば、治るものもあったのです。病気を認めようとしない人たち、罪を認めようとしない人たちは、自分の罪の中に死んでいくことになります。イエス様は、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来られました。そのイエス様があなたの目の前におられるのです。ですから、いつでもすがることができるし、いつでも助けを求めることができます。もしあなたが頑なにならないで、心を開いて、素直になるなら、主はあなたの傷も癒してくださるのです。

あるセミナーでの話です。講師が、講演の冒頭で20ドル紙幣を見せて、「欲しい人は手を上げてください。」と言いました。すると何人もの人が手を上げました。

「これをだれかに差し上げようと思いますが、まずこれをさせてください。」と、講師が言うと、講師はその紙幣をくしゃくしゃにしました。そして、「これでも欲しい人はいますか?」と聞きました。たくさんの人が手を上げました。

そこで講師は、その紙幣を床に落として、靴で踏みつけ、それから汚くなった紙幣を拾って言いました。

「さあ、これでも欲しい人がいますか?」」

すると、それでもたくさんの人が手を上げました。

それを見て、講師はこう言いました。

「今みなさんは、非常に大切な教訓を学ばれました。私がこの紙幣に何をしても、みなさんはそれを欲しいと言われました。紙幣の価値が減ったわけではないからです。私たちの人生も、くしゃくしゃになったり、踏みつけられたり、汚れたりすることがあります。時には、自分は無価値だと思うこともあるでしょう。しかし、何が起ころうとも、神様から見たあなたの価値は変わりません。私たちのいのちは、神にとってかけがいのないものなのです。

そうです、私たちのいのちは、神にとってかけがえのないものです。神様は、あなたがどんなに落ちても、決してあきらめたりしません。あなたを助け、あなたを癒し、あなたを救いたいのです。必要なのは、あなたがへりくだって主の御前にへりくだり、主にすがることです。そうすれば、主はあなたの傷を癒し、あなたを罪から救ってくださいます。そのために主は十字架にかかって死んでくださいました。主は今もあなたのために悲しみ、痛みを負ってくださいます。その主に感謝して、主に信頼して、あなたの傷も癒していただきましょう。

エレミヤ書8章4~17節「倒れたら起き上がる、離れたら帰って来る」

きょうは、エレミヤ書8:4~17のみことばからお話したいと思います。タイトルは、「倒れたら起き上がる、離れたら帰って来る」です。7章からエレミヤの第二のメッセージが語られています。語っているのは、主の宮の門のところです。エレミヤは、主の宮の門に立ち、主を礼拝するために神殿に入るすべてのユダの人々に語っています。その内容は、生き方と行いを改めよということでした。また、主の御声に聞き従えということでした。なぜなら、彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言いながら、主のことばに耳を傾ないで、頑なな悪い心で歩んでいたからです。その結果彼らは、前進どころか後退していました。

今回はその続きです。信仰が後退していた彼らに、主は次のように呼び掛けられました。4節と5節です。「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。彼らは偽りを握りしめ、帰って来ることを拒む。」

神の民イスラエルは、神から離れてしまいました。神に背いてしまったのです。ではどうすれば良いのでしょうか。ここには、「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか」とあります。それが自然の道理です。人は倒れたら起き上がり、離れたら、帰って来ます。倒れたままずっとそこにいるようなことはしません。勿論、起き上がりたくても起き上がれない場合は別ですが。しかし、そのような時でも立ち上がろうとします。けれども、神の民、ユダの民はそうではありませんでした。彼らは倒れたら倒れっぱなし、離れたら離れっぱなしでした。それはおかしいじゃないかというのです。倒れたら起き上がり、離れたら帰ってくる。それが自然の定めなのです。

「帰って来る」という言葉は、ヘブル語で「シューブ」と言いますが、実はこの4節と5節に5回も使われています。日本語で読むとわかりませんが、4節の「離れたら」という言葉がそうです。また、その後の「帰って来るものではないか」もそうです。それから、5節の「背信者」、その後の「いつまでも背信を続けているのか」、「帰って来ることを拒む」、これらはすべて「シューブ」という言葉が使われています。つまり、このことが強調されているのです。この言葉には元々「最初の出発点に戻るために反対の方向を見る」という意味があります。すなわち、本来あるべき方向から反対の方に向かって行ったら、向きを変えてかえって来るべきではないかということです。それなのに、ユダの民はかえって来ませんでした。

皆さん、私たちの人生には、つまずき倒れたり、神から離れてしまうことがあります。でも重要なのは、つまずき倒れたか、離れたかということではなく、その時にどうしたかということです。倒れたら起き上がり、離れたら立ち返ればいいのです。いったいどうしたら起き上がることができるのでしょう。どうしたら立ち返ることができるのでしょうか。きょうは、そのために必要な三つのことをお話します。

Ⅰ.主の定めを知る(6-7)

第一のことは、主の定めを知るということです。6~7節をご覧ください。「6 わたしは気をつけて聞いたが、彼らは正しくないことを語り、「私は何ということをしたのか」と言って自分の悪を悔いる者は、一人もいない。彼らはみな、戦いに突き進む馬のように、自分の走路に走り去る。7 空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。」

「わたしは気をつけて聞いていたが」とは、神様のことです。神様は耳を傾けて注意深く聞いておられました。神様はいつでも耳を傾けてくださるお方です。私たちが背信者になっても、私たちが何を言うのか、何を語るのかを、注意深く聞いておられるのです。私たちは、罪を犯したり、神様から離れたりすると、なかなかこのようなイメージを持つことができません。むしろ主は遠くにおられ、自分から距離を置き、何か忌み嫌うようなものを見るような冷たい目で見ているのではないかといったイメージを持っています。しかしそうではありません。主は怒るのに遅く、あわれみ深い方です。私たちが主から離れても、主は気を付けて、私たちの叫びを聞いておられるのです。

それなのに、彼らはどうだったでしょうか。彼らは正しくないことを語り、「私は何をしたというのか」と言って、自分の悪を悔いようとしませんでした。むしろ、戦いに突き進む軍馬のように、滅びの道に向かって突っ走って行きました。本当に自分は情けない者だ。ふがいない。なぜこんなバカなことをしてしまったのだろう。とり返しのつかないことをしてしまった。本当に神様に申し訳ないと、悪を悔いるのではなく、自分の道に向かって走って行ったのです。

7節をご覧ください。ここにも、主の定めに背くユダの民の姿が描かれています。「空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。」

「こうのとり」とか、「山鳩」、「燕」、「鶴」とは、渡り鳥ことです。こうした渡り鳥は、移動する季節や自分の巣に帰る時を知っています。これは渡り鳥だけではなく、多くの動物にも言えることですが、それらはみな帰巣本能を持っているわけです。「巣」に「帰る」と書いて「帰巣本能」と言います。伝書鳩などは、1000㎞も離れたところからでも戻ってきます。カーナビもなければグルーグルナビもありません。どうやってできるのか科学的にはまだ解明されていませんが、神様がそのように造られたからです。そして人間にも帰巣本能があります。人間もこれを造られた方のもとに帰るように造られているのです。それによって、生きる意味や目的を持つことができます。皆さん、人は何のために生まれ、何のために生きているのでしようか。それは私たちを造られた神を喜び、神の栄光を現わすためです。創世記1:27に「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とあります。人は神のかたちに創造されました。ですから、これを造られた神に帰るのです。神を喜び、神の栄光を現わすために生きるのです。ですから、聖書によって生きる意味と目的を見出した人は、その目的に従って生きることができますが、そうでないと、空しい人生を生きることになります。

先日、二番目の娘が結婚しました。結婚した相手はデザインエンジニアとって、物を作る際のデザインをする仕事をしています。たとえば、皆さんが腰かけている椅子も、こういうものを造ろうと考えてデザインした人がいるからできたわけです。それが製品となるわけです。今はゴルフ場をデザインしていると言っていました。へぇ、ゴルフ場って自然に出来るのではないのかと思っていたらそうじゃなく、そういう人たちによってちゃんとデザインされているのです。このコースは、ここにバンカーを作り、ここに池を作ろうとか、グリーンの傾斜は何度にしようとか、ギャラリーはこのエリアに作ろうとか、全部デザインされているのです。

それは私たち人間も同じです。私たちは創造主であられる神の作品であって、良いことをするように、あらかじめ神によってデザインされているのです。どのように?永遠を慕い求めるように、です。伝道者の書3:11にこうあります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

神様はまた、人に永遠を与えられました。私たちはこの地上がすべてではありません。人は死んで終わりではないのです。何かこれ以上のものがあるに違いないという思いを持っているのです。それが永遠の思いです。それが帰巣本能です。ですから、心の中にポッカリ穴が開いているような感覚があるのです。哲学者のパスカルはこう言いました。「人の心には、本当の神以外には満たすことができない、真空がある。」これは科学では証明できませんが、事実です。人の心の中には、本当の神様しか満たすことができない真空があるのです。

であれば、私たちはそのように造られた創造主なる神様の定めを知り、それに従って生きることが求められているのです。思い出してください。5:22には何とありましたか。「わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることができない。波が逆巻いても、鳴りとどろいても越えられない。」神は砂浜を海の境としました。どんなに波が渦巻いても勝てないし、鳴りとどろいてもても越えることはできません。神がそのように定められたからです。神によって造られた者はみな、この神の定めを知らなければなりません。そして、この神に立ち返らなければならないのです。

しかし、神の民イスラエルはそうではありませんでした。彼らは正しくないことを語り、「私は何ということをしたのか」と言って、自分の悪を悔いることをしませんでした。彼らに求められていたのは、自分は神に立ち返るように造られているという神の定めを知り、その定めに従うことだったのです。あなたの心には、どんな神の声が聞こえていますか。もしあなたが倒れているなら起き上がりましょう。離れているなら立ち返りましょう。それが、神が定めておられる自然の道なのです。

Ⅱ.主のことばに聞き従う(8-12)

主に立ち返るにはどうしたら良いのでしょうか。第二のことは、主のことばに聞き従うということです。8~9節をご覧ください。「8 どうして、あなたがたは、「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言えるのか。だが、見よ、書記たちの偽りの筆が、それを偽りにしてしまった。9 知恵ある者たちは恥を見、うろたえて、捕らえられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろうか。」

どうしてイスラエルの民は、神に背いてしまったのでしょうか。自分たちは知恵のある者、主の律法があると思っていたからです。ここに「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」とあります。これは、当時神の民が言っていたことばです。これは7:4に出てきた「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」ということばと同じです。単にそのように思い込んでいただけです。

当時、南ユダ王国は、ヨシヤ王の時代に宗教改革が行われましたが、その時に神殿の内部から律法の書が発見されました。長らく失われていたトーラー(律法)が発見され、読み上げられたことで、国全体にリバイバルがもたらされました。彼らはその律法を誇らしげに思っていたのです。それがこの「私たちは知恵がある者、私たちには主の律法がある」という言葉に表れています。でもこれは迷信というか、単なる思い込みです。どんなに主の律法があっても、それに従わなければ何の意味もありません。でも彼らは、自分たちが律法を持っているというだけで、あたかも立派な信仰者であるかのように思い込んでいたのです。

私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。聖書を持っているというだけで、何だか自分がクリスチャンであるかのように思ってしまうことがあります。私は高校生の時、国際ギデオン協会の方々が校門で配布していた聖書を手にしました。クラスメートの多くはそれを教室のごみ箱に捨てていましたが、私はできませんでした。家に持ち帰って読もうと思った。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み・・・。」(マタイ1:1-2)何だ、これ?と思って、それで読むのを止めてしまいました。でもその聖書を捨てることができませんでした。それは赤いカバーのポケットサイズの新約聖書でした。なんだかそれを持っているだけで天国に行けるような気がしたのです。それで何回か引っ越しをしましたが、それでもその聖書を大切にし、いつも本棚に飾っておきました。まさか、やがて妻と出会い、教会に導かれるなんて思ってもいませんでしたが、ずっと聖書を手放すことができなかったのです。

皆さんも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書を持っているというだけで、何だか自分の罪がきよめられるような気がして、それをずっと持っているということが。でも、聖書を持っているだけでは意味がありません。勿論、全然読んでいないというわけではないでしょう。事実、こうやって礼拝に来て聖書の言葉を聞いているのですから。家にいてもできる限り聖書を読んでおられるのではないかと思います。でもどんなに聖書を読んでも聖書に従うのでなければ意味がありません。あるいは、自分に都合がいいように聖書を勝手に解釈しているとすれば、聖書読みの聖書知らずということになってしまいます。大切なのは、その聖書に従うことです。

イエス様は何と言われましたか。イエス様はこのように言われました。「わたしに向かって「主よ、主よ」という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:20)

どんなに「主よ、主よ」と叫んでも、天の神様のみこころを行うのではなければ、天の御国に入ることはできません。あなたを救うのは、あなたのために十字架で死んで、三日目によみがえってくださった主イエスを信じることによってのみです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)そして、その人が本当にイエス様を信じたかどうかは、その実によって見分けると、主は言われました。茨からぶどうは採れないし、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶからです。

皆さん、天国と地獄の距離がどのくらいあるかご存知でしょうか。天国と地獄の距離、それはたったの30cmです。つまり頭、脳のところと、心、心臓の距離です。それが約30cmです。つまり、どんなに頭でわかっていてもそれが心に落ちなければ、神のことばに従って生きるのでなければ天国に行くことができないということです。その距離はたった30cmです。たった30cmと思うかもしれませんが、それが永遠を分けてしまうのです。

8月末に、那須の小島楓君と凜さんがバプテスマを受けることになりました。3年前に受洗された小島兄夫妻の息子さんと娘さんです。今年20歳と16歳になります。先日バプテスマ準備クラスをしているとき、お二人に尋ねました。どうして二人はイエス様を信じようと思ったんですか?すると二人とも同じことを言いました。それは親が変わったからですち。イエス様を信じたら、両親とも優しくなった・・・。特に父親は怒るとすぐに物を投げつけていて怖かったんですが、イエス様を信じてからそういうことがなくなりました。前はひどかったですよ。テレビのリモコンがあるじゃないですか、そのリモコンを投げたらテレビに当たって壊してしまったんです。でもイエス様を信じたら、本当に穏やかになったんですよと、教えてくれました。それは、両親が神のみことばをただ頭で学んでいるだけでなく、それを自分の生活に適用しているというか、みことばに生きているからです。

その楓君と凜ちゃんに、将来どのように生きていきたいですかと尋ねると、こう言いました。「主に自分をささげたいです」。すばらしいですね。本当に素直です。これが信じるということではないでしょうか。ただ「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」というのではなく、自分を主にささげ、主のみこころのままに生きること、それこそ信仰の本質なんだと思うのです。

10~12節をご覧ください。「10 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に、彼らの畑を侵略者に与える。なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」彼らはわたしの民の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。12 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──主は言われる。」

ここには神の民に対する神のさばきが宣言されています。「他人」とか「侵略者」とは、バビロンのことを指しています。バビロンは、妻や畑、財産を奪い去って行きます。それは、神の民が神のことばに従わないで、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っていました。

その具体的な一つの例が11節に書かれてあります。彼らは神の民の傷を適当に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていました。平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていたのです。これは嘘です。なぜなら、イザヤ48:22に「悪しき者には平安がない」とあるからです。皆さん、悪しき者には平安がありません。

先週、タイヤが盗まれました。家の駐車場の軒先に置いておいたスタッドレスタイヤですが、2台分8本です。安いタイヤなので別に被害届を出さなくてもいいかなと思いましたが、もしかすると後でタイヤが出てきたとき、被害届を出しておけば自分たちのところに戻るかもしれないと思い、警察に連絡しました。すると、地域課のおまわりさんが3人と刑事課の刑事さん2人計5人も来て、現場を検証してくれました。道の向かい側にはコンビニがあるのでもしかすると防犯カメラに写っているかもしれないと調べてくれましたが、残念ながら防犯カメラには映っていませんでした。すると、被害届を書いてくれた刑事さんが言いました。「きっと犯人は気が気じゃないと思いますよ。いつ捕まるかと不安なはずです」と。そうです。悪者には平安はありません。

Ⅲ.機会を逃さない(13-17)

どうしたら神に立ち返ることができるでしょうか。第三のことは、機会を逃さないということです。13~17節をご覧ください。13節には「わたしは彼らを刈り入れたい。──主のことば──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。』」とあります。

ここでイスラエルの民が、再びぶどうの木にたとえられています。主は彼らから実を刈り取りたいのです。しかし、ぶどうの木には、ぶどうがありません。いちじくの木には、いちじくがありません。その葉しおれているのです。しかも、主はそれらをそのままにしておくと言と言われます。どういうことでしょうか。敵の攻撃のなすがままにされるということです。本当に悲しいことです。いったい何が問題だったのでしょうか。

14節と15節にこうあります。「14 「何のために私たちは座っているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで滅んでしまおう。私たちの神、主が、私たちを滅びに定め、主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが主に罪を犯したからだ。15 平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。」」

ここに至って、ユダの民は自らの罪にやっと気付きます。これは彼らのことばです。彼らは、偽預言者たちのことばが偽りであったことに気付きました。しかし、時すでに遅し、でした。悔い改めのタイミングを失ってしまったのです。それで絶望した彼らは、城壁のある町々に逃げ込み、そこで滅んでしまおうと言っているのです。だからと言って、そこに希望があるわけではありません。彼らがどんなに平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、恐怖しかないのです。

これは私たちにも言えることです。後になってどんなに平安を待ち望んでも、得られず、癒しの時を待ち望んでも、恐怖しかありません。ですから、その前に自分の罪を悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。機会を逃してはならないのです。今がその時です。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)とあります。この恵みを無駄にしてはなりません。今ならまだ間に合います。しかし、やがて後ろの戸が閉ざされる時がやって来ます。その時になってから、「私がばかだった。なぜ神様の言うことを聞かなかったんだろう。なぜ聖書に書かれてある通りにしなかったんだろう」と嘆いても遅いのです。救いの門が開かれているうちに悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。機会を逃さないようにしなければなりません。

ルカの福音書15章には、有名な放蕩息子の話があります。彼は父親の元から離れ遠い国に旅立ち、そこで放蕩して、湯水のように財産を使い果たしました。すると、食べるのに困り果てた彼は、そこである人のところに身を寄せますが、その人は彼を畑に送って、豚の世話をすることになりました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。

その時です。彼はこう思いました。「父のところには、パンのあり余っている雇人が、大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。あなたの雇人の一人にしてください。」(ルカ15:17-19)

そして、彼はお父さんのもとに帰ります。家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、何回も口づけしました。そして、しもべたちに、急いで一番良い着物をもって来させて彼に着せ、また、手には指輪をはめ、足には履き物をはかせ、そして、肥えた子牛を引いて来て屠り、こう言ってお祝いしました。「」この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」

彼は、自分が堕ちるのを見てはっと我に返りました。この体験が重要です。はっと我に返ったら、あなたも自分に問うてみなければなりません。「私はいったいここで何をしているのか。父のところにはあり余っている恵みが溢れているではないか。それなのに私はここで飢え死にしようとしている。そうだ、父のもとに帰ろう。そしてこう言おう、「私はあなたの前に罪を犯しました。私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。しかし、どうか私をあわれんでください。」と」そうすれば、主は喜んであなたを受け入れ、あなたに恵みの冠をかぶらせてくださいます。

もし今日、御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。神様から離れていると感じているなら、信仰が後退していると感じているなら、どうか神に立ち返ってください。神様はあなたが帰って来るのを、首を長くして待っておられます。そのために神の定めを知り、神のみことばに聞き従い、神の機会を逃さないでください。確かに今は恵みの時、今は救いの日なのです。

Ⅰ列王記11章

 今日は、列王記第一11章から学びます。

 Ⅰ.ソロモンの背教(1-13)

まず、1節から13節までをご覧ください。1~8節を読みます。「1 ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。2 この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われた、その国々の者であった。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。3 彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。5 ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。6 こうしてソロモンは、主の目に悪であることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。7 当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした。8 彼は異国人であるすべての妻のためにも同じようにしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げた。」

前回学んだ10章では、ソロモンの栄華がいかにすごいものであったかを学びました。シェバの女王が彼を表敬訪問したときには、彼の知恵と富に圧倒されて帰りました。彼女はそれらを見た時「息も止まらんばかりであった」(10:5)でした。また、ソロモンのところには多くの金が贈られてきたので、すべては金でできていました。銀は、ソロモンの時代には価値があるものとはみなされていなかったほどです(10:21)。さらに、貿易も盛んに行ないました。その一つに、エジプトからの馬と戦車の輸入がありました。10章の最後に、「エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。」とあります。けれども、これは申命記17章に書かれている、主の命令に反することでした。このように、ソロモンの繁栄の陰には、彼の心の隙というか、主の命令に対する認識の甘さがあったことがわかります。そして、今回の11章において、その問題が表面化します。

1節に「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。」とあります。前回のところで、馬を増やすこと(軍事力の増強)が禁じられていることを見ましたが(申命記17:16)、多くの妻を持つことも禁じられていました(申命記17:17)。しかし、ソロモンはこの命令にも背きました。

ソロモンには、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブの女、アンモン人の女、エドムの女、シドン人の女、ヒッタイトの女を愛しました。彼には何と七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいたのです。主はかつてソロモンに、こうした異邦人の中に入って行ってはならない。そうでないと、そうした女性たちによって彼の心が転じて彼らの神々に従うことになると警告されていたのに、ソロモンは彼女たちを愛して止めなかったのです。その結果、その妻たちが彼の心を転じてしまいました。Ⅱコリント6:14には、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」とありますが、私たちがその点で妥協すると、それは妥協で終わるだけでなく、主ご自身を否むようになってしまいます。

ソロモンの晩年は、父ダビデとは大きく異なっていました。その妻たちが彼の心をほかの神々へ向けたので、彼は、他の神々も拝むようになったのです。彼はヤハウェ信仰を捨てたわけではありません。そうではなく、主なる神様以外に、妻たちがもたらした偶像神も礼拝するようになったということのです。異国の妻を持つことで、心が二つに分かれてしまい、一方で主を礼拝したかと思えば、他方では外国の妻たちが拝んでいる神々を拝むという何ともチグハグな行動を獲るうになってしまったのです。

ソロモンが拝んだ偶像神は、シドンの女神アシュタロテと、アモン人の神ミルコムです。アシュタロテは、豊穣と性の女神です。その礼拝には淫乱な要素が含まれていました。主に、イスラエルの北にいるシドン人が拝む神です。そしてアンモン人の神です。死海の東では、ミルコムが拝まれていました。これは別名モレクで、子どもをいけにえとして火の中にささげなければいけない神です。レビ18:21は、名指しでミルコムを警戒するようにと命じられていたのに、これにも従いませんでした。さらにソロモンは、モアブ人の神ケモシュとアモン人の神モレク(ミルコムの別名)のために、エルサレムの東にある山の上(オリーブ山)に高き所(祭壇)を築きました。

いったいなぜ彼はこのようなことをしたのでしょうか。それは彼が主から離れ、自らの使命忘れてしまったことです。ソロモンの偉大さは、主から与えられた賜物だったのに、いつしかそのことを忘れ、自分で得たものであるかのように思ってしまったのです。彼は主の目に悪であることを行い、父ダビデのように主に従い通しませんでした。主から離れ、自らに与えられた使命を忘れたことで、彼は背教の王となってしまったのです。

次に、9~13節をご覧ください。「9主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から離れたからである。主が二度も彼に現れ、10 このことについて、ほかの神々に従っていってはならないと命じておられたのに、彼が主の命令を守らなかったのである。11 そのため、主はソロモンに言われた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。12 しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。13 ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える。」」

主はソロモンに怒りを発せられました。それは彼の心がイスラエルの神、主から離れたからです。これまでに主は二度も彼に現れて、ほかの神々に従っていってはならないと命じておられたのに、その命令を守らなかったのです。一度目は、Ⅰ列王記3:5にあります。主はギブオンで彼に現れたとき、彼が願ったことを与えると約束されました。しかし、そこには一つの条件がありました。それは、主の掟と命令を守って主の道に従うなら(3:14)ということでした。もう一回は、ソロモンが神殿を完成させたとき(Ⅰ列王9:2)です。そのときも主は、ほかの神々に従うことの危険性について語られました(9:6-7)。このように主は何度も彼に現れて、ほかの神々に従って拝んではならないと警告してきたのに、それを守りませんでした。

それゆえ、主はソロモンの王国を引き裂いて、彼の家来に与えると言われました。「あなたの家来」とは、ヤロブアムのことです。しかし、それはソロモンの存命中ではなく、ソロモンの死後に起こります。神は、ダビデにお与えになった約束のゆえに、その時まで忍耐されます。ただし、王国の全部を引き裂くのではありません。「一つの部分だけ」は、彼とその子に与えられます。それは、ユダ部族のことです。ベニヤミン族もユダ族に付き従いましたが、ベニヤミン部族は弱小部族だったので、ここでは一つの部族に数えられていません。ユダ族とベニヤミン族が一つとなって、南ユダ王国を形成することになります。

ソロモンの父ダビデも大きな罪を犯しましたが、ダビデの心はいつも主と一つになっていました。それに対してソロモンは、最初は主の御前にへりくだり、知恵と判断力を求めましたが、豊かになるにつれ心が高ぶり、その心が主から離れてしまいました。これがダビデとソロモンの大きな違いです。主は最後までへりくだってご自身を求めることを願っておられます。私たちがどのような状況でも、主から離れず、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛する者となりましょう。最初はよかったけどだんだん悪くなったではなく、最初はパッとしなかったけど、最後はすばらしい信仰を貫いたと言われる生涯を送れるような者となるように、主に思いを集中しましょう。

Ⅱ.外敵の台頭(14-25)

次に、10~14節をご覧ください。「10 ソロモンが主の宮と王宮との二つの家を二十年かけて建て終えたとき、11 ツロの王ヒラムが、ソロモンの要請に応じて、杉の木材、もみの木材、および金を用立てたので、ソロモン王はガリラヤ地方の二十の町をヒラムに与えた。12 ヒラムはツロからやって来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たが、彼はそれらが気に入らなかった。13 彼は、「兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか」と言った。そのため、これらの町々はカブルの地と呼ばれ、今日に至っている。14 ヒラムは王に金百二十タラントを贈っていた。」

ソロモンが主に背いたために、主は、ソロモンに敵対する者を起こされました。まず、エドム人のハダドです。エドムは死海の南東に位置する国です。彼はエドムの王の子孫でした。かつてダビデの将軍ヨアブは、エドムの男子を皆殺しにしたことがありましたが(Ⅱサムエル8:13-14)、その時の唯一の生き残りがこのハダドです。その時彼は少年でしたが、エジプトに亡命しました。すると、エジプトの王ファラオは、このハダドをことのほか気に入り、彼に家と、食料と、土地を与えました。さらに自分の妻タフぺネスの妹を、妻として与えました。当時ファラオは、ソロモンとは友好関係にありましたが、同時に、将来ソロモンに敵対するであろう人物を養っていたのです。

ハダドは、ダビデと将軍のヨアブが死んだことを聞くと、ファラオに「私を国へ帰らせてください」と願い出ました。その子ソロモンに復讐のために戦いを仕掛けるためです。ファラオはなぜハダドがそのように言っているのか理解できませんでしたが、「とにかく帰らせてください」というので、それを許しました。

もう一人、ソロモンに敵対する者として主は、エリヤダの子レゾンを起こされました。彼は、自分の主人ツォバの王ハダドエゼルのもとから逃亡していた者でした。ダビデがハダドエゼルの兵士たちを殺害した後(Ⅱサムエル8:3-9)、人々を自分のもとに集め、略奪隊の隊長としてダマスコに住み、ダマスコを支配していました。彼は、ソロモンが生きている間ハダドのように悪を行い、イスラエルに敵対し、ソロモンを苦しめました。

ソロモンは、生きている間は王座から追われることはありませんでしたが、このような形で神のさばきを受けました。神はソロモンの罪を罰するために、2人の敵を置かれたのです。南にはハダド、北にはレゾンです。私たちの人生も同じです。主に背くことで、このような警告的なさばきを受けることがあります。それは神からのシグナルです。それは私たちを滅ぼすためではなく、私たちが罪を悔い改めて神に立ち返るための神からの懲らしめなのです。ですから、自分の罪に気付いたら悔い改めなければなりません。そうでないと、最終的にもっと大きな神のさばきを受けることになってしまいます。

Ⅲ.ネバテの子ヤロブアム(26-43)

次に、26~43節をご覧ください。ソロモンが主に背いたことで、主は2人の外敵を起こされましたが、それは外側からだけではありませんでした。内側からの敵も起こされました。それがネバテの子ヤロブアムです。まず26~28節をお読みします。「26 ツェレダ出身のエフライム人、ネバテの子ヤロブアムはソロモンの家来であった。彼の母の名はツェルアといい、やもめであった。ところが彼も王に反逆した。27 彼が王に反逆するようになった事情はこうである。ソロモンはミロを建て、彼の父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。28 ヤロブアムは手腕家であった。ソロモンはこの若者の働きぶりを見て、ヨセフの家のすべての役務を管理させた。」

ネバテの子ヤロブアムは、ソロモンの下で働いていた家来です。彼はエフライム族の出身です。エフライム族は、北イスラエル10部族の中でもっとも大きな影響がありました。全部族のまとめ役のような役目があったのです。彼の父親はすでに死んでおり、母親はやもめになっていました。そのヤロブアムがソロモン王に反逆したのです。その事情は27節以降にありますが、ソロモンの神殿やエルサレムの町の補強工事においてヤロブアムは手腕を発揮したので、ソロモンはヨセフの家、つまりエフライムとマナセのすべての役務を任せました。エフライム族は、南ユダ族による統治に対して不満を抱いていた北の10部族のリーダーです。ソロモンから与えられたこの重責は、結果的に王に反逆する機会をヤロブアムに与えることになってしまったのです。

ソロモンは知恵のある王でした。しかし彼はその知恵によって自らの身に困難を招いてしまいました。神から与えられた賜物や知恵も、神を恐れることを忘れた人にとっては、無用の長物どころか、むしろ危険なものになってしまいます。晩年のソロモンは、私たちにとっての反面教師です。

29~40節をご覧ください。「29 そのころ、ヤロブアムがエルサレムから出て来ると、シロ人で預言者であるアヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい外套を着ていた。彼ら二人だけが野にいた。30 アヒヤは着ていた新しい外套をつかみ、それを十二切れに引き裂き、31 ヤロブアムに言った。「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。32 ただし、ソロモンには一つの部族だけ残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ都、エルサレムに免じてのことである。33 というのは、人々がわたしを捨て、シドン人の女神アシュタロテや、モアブの神ケモシュや、アンモン人の神ミルコムを拝み、父ダビデのようには、わたしの目にかなうことを行わず、わたしの掟と定めを守らず、わたしの道に歩まなかったからである。34 しかし、わたしはソロモンの手から王国のすべてを取り上げることはしない。わたしが選び、わたしの命令と掟を守った、わたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きている間は、彼を君主としておく。35 わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。36 彼の子には一つの部族を与える。それは、わたしの名を置くために選んだ都エルサレムで、わたしのしもべダビデが、わたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。37 わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。38 もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。39 このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。』」40 ソロモンはヤロブアムを殺そうとしたが、ヤロブアムは立ち去ってエジプトに逃れ、エジプトの王シシャクのもとに行き、ソロモンが死ぬまでエジプトにいた。」

そのころ、ヤロブアムがエルサレムから出て来ると、シロ人で預言者のアヒヤと出会いました。「シロ人」とは、エフライム人という意味です。シロはエフライムの山地にある町で、かつて幕屋が置かれていた聖なる地でした。預言者アヒヤは、ヤロブアムと道で出会いますが、これは神の摂理的なみわざでした。アヒヤは着ていた新しい外套を12に切り裂いて預言を語りました。これは絵画的な方法で伝える預言です。イスラエルの預言者たちは、たびたびこうした方法で預言を伝えました(エレミヤ13:1-11,エゼキエル3:1-3)。アヒヤはこう言いました。「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。」「十部族」とは、北の十部族のことです。ヤロブアムにどれだけの衝撃が走ったことでしょう。

しかし、ソロモンには一つの部族だけが残されます。それは、かつて主がダビデと契約を交わされたからです。この「一つの部族」とは、ユダ族のことです。ベニヤミン族もこの中に含まれていますが、ベニヤミン族は小さな部族だったので、ユダ族と合わせて一つの部族とみなされていました。

ところで、このようにソロモンには一つの部族だけが残されるのはどうしてなのかというと、それはソロモンが神の命令に背いて罪を犯したからです。彼はダビデのように、主の目にかなうことを行わず、主のおきてと定めを守らず、主の道に歩みませんでした。その結果、このようなさばきが下ったのです。

このように罪は、単に霊的な分野だけでなく、現実の世界にまで悪影響を及ぼします。彼らの祝福は、神に従うかどうか、罪から離れるかどうかにかかっていたのです。これは、私たちにも言えることです。私たちは、罪の及ぼす結果がどういうものなのかを見て、いつも主のみことばに従って歩みたいと思います。

また、ここにはヤロブアムに対する約束も語られます。38節です。「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。」

これはダビデに与えられた約束に似ています。また、ソロモンに与えられた約束に似ています。これはダビデであろうがソロモンであろうが、あるいは、その他どんな人であろうが、共通している約束です。すなわち、主が命じることを守り行い、主の目にかなうことをするなら、主はその人とともにいて、確かな家を与えてくださるのです。

しかし、結果的に彼はこの約束を守りませんでした。ソロモンのように偶像礼拝に走り、神の祝福を失うことになるのです。これが人間の姿です。このヤロブアムの失敗から、教訓を学びたいと思います。ソロモンはヤロブアムを殺そうとしましたが、彼もエジプトに逃れ、ソロモンが死ぬまでエジプトに留まっていました。

この章の最後の部分には、ソロモンの業績が記されてあります。ソロモンがエルサレムで全イスラエルの王であった期間は、40年でした。ソロモンが死ぬと、その子レハブアムが変わって王となりました。

ソロモンは、神から多くの賜物と祝福を受けていました。ところが、人生の後半に入ると、賜物を与えてくださった方ではなく、賜物そのものや自らの可能性に目を留めるようになりました。そして、主の道から反れてしまいました。偶像礼拝の罪に対する神のさばきは、彼の死後、その王国に下ります。けれども彼は、神のあわれみのゆえに救われていました。確かに彼は神の目にかなうことはしませんでしたが、伝道者の書を彼の作と考えるなら、彼は間違いなく救われていたことになります。彼は、人生の快楽や苦難を通過した後、次のような結論に達しました。「13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」(伝道者12:13-14)

これが、彼の結論です。結局のところ、もうすべてが聞かされていることですが、神を恐れるということ、そして、神の命令を守ること、それが人間にとってすべてなのです。私たちも、多くの祝福を与えてくださる方から離れることなく、いつも主だけを見て、主の目にかなうことを行い、与えられた地上での生涯を全うしたいと思います。