Ⅰサムエル記29章

今日は、サムエル記第一29章から学びたいと思います。

Ⅰ.このへブル人たちは、いったい何なのか(1-3)

まず、1-3節をご覧ください。「ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続いた。ペリシテ人の首長たちは言った。「このヘブル人たちは、いったい何なのですか。」アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」」

話は再び、ダビデに戻ります。この箇所は、28:2に続くものです。ペリシテ人は全軍をアフェクに終結し、イスラエル人はイズレエルにあるほとりに陣を敷きました。「アフェク」とは、シュネムとイズレエルの間に位置していたと思われる町です。28:4には、ペリシテ人は集まって、シュネムに来て陣を敷いたとありますから、ペリシテ人が自分たちの支配地からイスラエルの地にかなり入ったところまで軍を前進させていたことがわかります。また、イスラエルもイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いたとありますから、それまで陣を敷いていたギルボアよりも軍を前進させていたことがわかります。

ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続きました。ペリシテ人の軍勢は、5大都市国家の連合軍から成っていました。各軍には首長(王)がいて、その首長たちによって率いられていましたが、アキシュはその一人で、ガテの王でした。ダビデとその部下は、そのアキシュと一緒にその軍の後に続きました。

すると、それを見た他の首長たちが、「このヘブル人たちは、いったい何なのですか。」と言いました。「ヘブル人」という言い方は、異邦人がイスラエル人を指して言う場合によく使われた呼び方です。これからそのイスラエル人と戦おうとしているのに、どうしてそのイスラエル人が一緒にいるのかといぶかしがったわけです。当然と言えば当然です。途中で寝がえりをされることも考えられるわけですから。

それに対してアキシュは、ペリシテの主張たちに言いました。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」

ダビデはサウルの手から逃れるためにアキシュのところで仕えましたが、王と同じところにいるのは畏れ多いと別の町を与えてくれるように願うと、アキシュは彼にツィケラグという町を与えたので、そこに住みました。そこでダビデは、アマレク人やゲゼル人などの町を襲っては、男も女も殺し、その略奪品の一部をアキシュに献納していたので、アキシュはダビデをすっかり信用していました。実際にはダビデが襲った町々はユダの町々ではなく他の町々でしたが、ダビデはアキシュの信頼を勝ち取るために、そのように虚偽の報告をしていたのです。その間、1年4か月です。ここでアキシュは他の首長たちに、「この1,2年、私のところにいる」と言っていますが、それはアキシュが説得力を増すために誇張して言ったことでした。また、「私のところかに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」と言っていることばからも、彼がどれだけダビデを信頼していたかがわかります。

Ⅱ.ペリシテの首長たちの反対 (4-5)

次に、4-5節前半をご覧ください。「ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。「この男を帰らせてほしい。あなたが指定した場所に帰し、私たちと一緒に戦いに行かせないでほしい。戦いの最中に、われわれに敵対する者となってはいけない。この男は、どのようにして自分の主君の好意を得るだろうか。ここにいる人たちの首を使わないだろうか。この男は、皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌っていたダビデではないか。」

しかし、他の4人の首長たちは、アキシュのことばを聞いて、腹を立てました。いくらアキシュに何の過ちを犯していないと言っても、戦いの最中に寝がえりしないとも限りません。自分の主君の好意を得るために、自分たちの首を使うことだって考えられます。何と言っても、この男は、皆が踊りながら、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っていたあのダビデですから、油断は禁物です。そう釘を刺したのです。どういうことでしょうか。

確かに、ダビデはイスラエル人と戦うつもりはありませんでした。むしろ、この状況からどのように脱出できるかと思案していたことでしょう。ですから、この出来事の背後には、主の御手があったのです。主はこのような方法でダビデが罪を犯すことがないように守ってくださったのです。ダビデは約束の地から離れてしまったために、このような危険な状況を招いてしまいましたが、主はそんな彼を苦しみから解放してくださるために、このペリシテの首長たちの怒りを用いられたのです。これはまさに主が導いたというか、主が引き起こしたことだったのです。

このようなことは私たちの生活の中にもよくあるのではないでしょうか。本当はあそに行く予定だったのに何らの出来事によって行くことができなかったけれども、そのことによって危険から救われたとか、あの時こうしたいと思っていたけども、こういう問題が起こってできなくなってしまったが、そのお陰でこうなったというようなことです。

先週「赦しのちから」という映画を観ました。とてもすばらしい映画です。福音が余すところなく自然に語られています。この映画は、クロスカントリー競技の一人の高校生の少女ハンナのストーリーです。彼女が通う高校はバスケットボール部が強く、州の決勝にも出場するほどの実力がありました。しかし、その町の工場が閉鎖されたことで、その高校に通う多くの生徒が他の地域へ引っ越すことが余儀なくされました。せっかく来年は州で優勝しようと思っていた矢先に部の存続さえ危うくなってしまいました。結局、バスケットボール部は廃部となりコーチのジョンはクロスカントリー競技のコーチになるのですが、部員はたった1人で、喘息持ちの少女でした。それがハンナでした。しかし、彼女もパッとしませんでした。どの大会に出場してもあまり良い成績ではなかったのです。

そんな時、彼が通う教会のメンバーのお見舞いに病院に行った際、隣の部屋に入院していた一人の男性と知り合いました。彼はかつてクロスカントリーで州で3位になったことがある人で、しかし、アルコールやドラッグで人生を台無しにしてしまったこと、今は糖尿病などの合併症で両目の視力を失い、死を待つだけの状態だが、神のあわれみによって神に立ち返ることができ、すべての罪が赦され、神の子とされて、新しい人生を始めることができたことを聞きました。それでジョンは、彼からクロスカントリーのコーチのやり方を教わるのですが、その時彼は15年前に一人の娘を捨てたことを告げるのです。それが、ハンナでした。ハンナは、祖母から両親は死んだと聞いていたので、そのことを聞いたときとても驚きますが、自分を捨てた父親を赦すことができませんでした。

しかし、ある日彼女は校長先生から、自分がどれほど神に愛された者であるか、そのために神は御子イエス・キリストを与えてくださったことを聞いて、イエス様を信じて心に受け入れたのです。そして、校長のアドバイスにしたがいエペソ書1,2章を読みながら、自分が何者であるかを知るのです。すなわち、自分は罪が贖われた者、罪が赦された者、神の子、クリスチャンであるということです。彼女は罪が赦されたことを思うと、父を赦そうと決心しました。そして、病院に行ってみると彼はICUに入っている状態でしたが、それを告げたのです。

そして、クロスカントリーの州大会で、ジョンはある秘策を思いつきました。レースをイメージさせて父親に彼女へのアドバイスを録音させたのです。それで彼女は州大会で、何と優勝することができたのです。

この映画は、赦しのちからがどれほどの力であるかということを描いていますが、同時に、バスケットボールの廃部によってクロスカントリーという別の道が開かれ、もっとすばらしい神の栄光にあずかることができたジョンの人生をも描いていると思いました。

私が福島に住んでいたとき、家のオーブンが壊れてしまったことがありました。オーブンといっても家のオーブンは小さなものではなく米国製の大きなものでした。家内の料理はオーブンを使うのがほとんどで、オーブンがないととても不便なのです。どこが悪いかとガス屋さんに点検してもらったら、どうもオーブンの裏の配管がネズミにかじられていたようでした。オーブンの裏には断熱材もあるので心地よかったんでしょうね。でもそのお陰でこちらは大変でした。交換するにしてもすぐには手に入らないし、お金もかかります。悪いことにというか、いつもですが、どこにもお金がありませんでした。でもそれがないと仕事になりません。神様、助けてくださいと祈ってもお金が降ってくるわけではないし、八方塞がりでした。しょうがないので生命保険の掛け金から借り入れようとしましたが利子が取られるので、あまり平安がありませんでした。結局、家内を説得して保険会社から借りようと申込書を投函したのですが、いつになっても連絡が来ませんでした。どうしたのかと電話をしても、先方では申込書が届いていないというのです。「おかしいな、ちゃんと送ったのにどうしたんだろう。早くしてください」とお願いしたのですが、それでも手続きが一向に進みませんでした。

そうこうしているうちに、アメリカの教会から連絡がありました。私たちのために献金を送ったので生活のために使ってほしいという内容でした。私たちはそのことをだれにもお話ししていなかったし、その頃はほとんどアメリカの教会からは献金はなかったので不思議に思いましたが、それがちょうど借り入れようとしていた金額と同じだったのです。

それですぐに保険会社に電話をして、借り入れが不要になった旨を伝えました。先方では申込書が届いていたのですが担当者のミスで見落としていたということでしたが、実はそうではなく、私たちが借り入れをしなくてもいいように、神が手続きを遅らせておられたのです。手続きがスムーズに進んでいたら手数料が取られていたでしょし、それを解約するにも手間がかかったことでしょう。しかし、そういうことがないように、担当者の方が見落としてくれるように導いてくださったのです。

日々の生活の中で、このように主の御手を見ることができる人は幸いです。私たちはどうしようもない時でも主に祈り、主がその中に働いていてくださることを信じて、主の解決、主の助け、主の導きを待ち望みたいと思います。

Ⅲ.ダビデの演技(6-11)

最後に、6-11節をご覧ください。「そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。あなたには陣営で、私と行動をともにしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、あなたには何の悪いところも見つけなかったからだ。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。だから今、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちが気に入らないことはしないでくれ。」ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。」アキシュはダビデに答えて言った。「私は、あなたが神の使いのように正しいということをよく知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが『彼はわれわれと一緒に戦いに行ってはならない』と言ったのだ。さあ、一緒に来た自分の主君の家来たちと、明日の朝早く起きなさい。朝早く、明るくなり次第出発しなさい。」ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。」

そこでアキシュは、ダビデを呼んで事情を説明します。なぜ彼を戦いに連れていかないのかを。まず彼は、ダビデがどれほど真実な者であるのかを認め、自分と一緒に戦いに来てほしかった思いを伝えます。ここで彼は、「主は生きておられます」と、ダビデの神の名、イスラエルの神の名を呼んでいます。それはアキシュが誠実に事態を伝えようとしていたからです。

しかし、ペリシテの他の領主たちがダビデのことを快く思いませんでした。自分がどんなに彼を連れて行きたくても、彼らがそのように思わない以上、ダビデを連れていくことはできません。したがって、このまま穏やかにツィケラグに帰ってほしいということでした。ツィケラグは、アキシュによって与えられた町でした。「穏やかに」とは、他の領主たちを起こらせないでということです。気持ちはわかるが、ここであれやこれやと言って波風を立てるようなことをしないでほしい。このまま静かに帰ってほしいということです。

それに対してダビデはどうしましたか。ダビデは、「私が何をしたというので、王の敵と戦うために出陣できないのか」(8)と、食ってかかります。内心は「ああ、助かった」とほっとしたはずですが、アキシュに対しては、いっしょに行けないのは心外であると答えたのです。ものすごい演技力ですね。彼は、おそらく最高の役者にも慣れたのではかと思うくらい、良いしもべを演じきりました。

それを聞いたアキシュはどうしたでしょうか。彼は、ダビデの演技が偽りであることにも気付かず、彼の忠誠心がどれほど正しいものであるかをよく知っていると勘違いして、でも、ペリシテの首長たちが反対している以上、連れて行くわけにはいかないので、自分の家来たちと、翌朝早く、明るくなり次第出発するように命じました。かくしてダビデは、自分で努力することなく、板挟みから解放されました。ペリシテ人たちの異議申し立てによって、ダビデはそこから解放されたのです。彼を戦いから解放することは主のみこころだったのです。それは神のあわれみによるものでした。

私たちの人生においても、主は同じように働いてくださいます。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)あなたの人生にも脱出の道も備えていてくださると信じて、ますます主に信頼しましょう。

出エジプト記33章

出エジプト記33章を学びます。前回のところで、イスラエルの不信仰について学びました。イスラエルは金の子牛を造ってそれを拝み、その回りで踊り狂うという信じられないことをしました。山から下りて来てそれを見たモーセは、二枚の石の板を粉々に砕くと、金の子牛を砕いてそれをイスラエルの民に煎じて飲ませました。それでも反抗する民がいたので、主につく者たち(レビ族)は、公然と反抗する者たちを殺しました。そしてモーセは、もし彼らが救われるのなら、自分の名がいのちの書から消されても良いと、とりなしの祈りをします。すると主は、「わたしが告げた場所に民を導くように」と言われました。きょうの箇所は、その続きです。まず、1-6節をご覧ください。

Ⅰ.わたしは上らない(1-6)

まず、1-6節をご覧ください。3節までをお読みします。「主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」」

主はモーセに「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。」と言われました。主は彼らを滅ぼそうとされたのではなく、約束の地に導こうとされたのです。そこは、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに「これをあなたの子孫に与える」と約束された地です(創世記12:7,26:3)。主は、どのように導いてくださるのでしょうか。ここには、「わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし」とあります。

「一人の使い」とは、天使のことです。23:23には「わたしの使いがあなたの前を行き」とありますが、ここでは「一人の使い」となっています。「わたしの使い」とは「主の使い」、すなわち、受肉前のキリストのことですが、ここでは「一人の使い」になっているのです。どうしてでしょうか。理由は3節にあります。彼らはうなじを固くする民なので、もし主が彼らの近くにいたら、その途中で彼らを滅ぼしてしまうことになるからです。うなじを固くするとは、強情になって神の仰せに聞き従わないことです。そのようにして罪を犯すので、聖なる神が近くにいたらたちまち滅ぼされてしまいます。そういうことがないように、民がそのまま生きているためには、聖なる神がそばにいることはできません。これは、約束された地は与えられているが、主がともにおられないということです。

皆さんは、これをどのように受け止めたらいいのでしょうか。別に神がいなくても約束されたものを手に入れることができればそれでいいじゃないかと思われますか。もしそのように受け止めるとしたら、それは私たちの信仰が少し歪んでいることになります。というのは、私たちの信仰は神ご自身を求めることだからです。クリスチャンがクリスチャンであることの特権と祝福は、神がともにおられることが確信できることです。主イエスは、そのためにこの世に来てくださいました。主がこの世に来られたことで「インマヌエル」、訳すと「神がともにおられる」という約束を成就してくださったのです。時が良くても悪くても、祝福の時も逆境の時も、どのような時も主がともにおられるという確信があるからこそ、私たちには平安があるのです。自分の人生がどんなに順調に進んでいるようでも、主がともにおられなかったら悲惨なのです。ダビデは詩篇27:4でこのように言っています。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」それなのに、ここで主は「わたしは、あなたがたの中にあっては上らない」と言われたのです。

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。4-6節をご覧ください。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。」

彼らはこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいませんでした。なかった。その悪い知らせを聞いて嘆き悲しんだのです。だれも飾り物を身につける者はいませんでした。それは、「飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。」と、主が命じておられたからです。

この「飾り物」とは、金の子牛の周りで踊った時に身に着けていた物です。民はそれを取り外しました。それは自らの罪の悔い改めるしるしでした。イスラエルの民は自らの罪によって主との交わりを失ったことを大いに悲しみ、悔い改めたのです。神との交わりを回復するためには、罪を悔い改め、罪から離れることが求められるのです。

Ⅱ.顔と顔とを合わせて(7-11)

次に、7-11節をご覧ください。「さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。」

金の子牛の事件後、神と民との会見に変化が生じました。それまでは、神の栄光は宿営の中に宿っていましたが、その事件後は宿営から離れてしまいました。それでモーセは宿営から離れたところに天幕を張ったのです。これが「会見の天幕」と呼ばれるものです。モーセは主と会見するために特別な場所を設けたわけです。この天幕は幕屋とは違います。ヘブル語で幕屋を「ミシュカー」と言いますが、これはテントのことです。単なる天幕です。モーセは神と民の和解のために、神と会見する必要がありました。それが会見の天幕です。それは宿営の真ん中ではなく、宿営から離れた所、宿営の外にありました。どうして宿営の外にあったのでしょうか。それは宿営の中はうるさかったからです。静かな場所が必要でした。イエス様もよく荒野に退いて祈っておられましたが、それはそこが静かな場所だったからです。モーセはその会見の天幕に行って祈りました。それはモーセにとって簡単なことではありませんでした。何しろ300万人もの民を率いてキャンプしていたのです。毎日の忙しい業務から離れて宿営の外に行くには、かなりの犠牲が強いられたことでしょう。しかし彼はそれだけの犠牲を払っても主が言われるように宿営の外に天幕を張り、主と会うためにそこへ行ったのです。

主とお会いするということはそういうことです。そこには犠牲が伴いますが、日々の雑多な生活の中から身を引いて主に向き合い、ひとり静まって祈ることが必要なのです。私たちは礼拝や祈祷会、聖書の学び、ディボーションを通して主に向かいますが、なぜそれが必要なのかというと、それはまさにモーセのように幕屋、テントを張るようなものだからです。あらゆる犠牲を払い会見の天幕に行かなければならないのです。

モーセが会見の天幕に行くとき、民はどのようにしていたでしょうか。8節には、「モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。」とあります。彼らはみな立ちあがり、自分の天幕の入口に立って、彼が天幕に入るまで見守りました。かつて民は、「あのモーセという者」と言ってモーセを蔑みましたが今は違います。モーセをリーダーとして、神の器と認めました。そして、神と民の仲介者として敬ったのです。

モーセが天幕に入ると、雲の柱が下りて来て、天幕の入口に立ちました。これは主が降りてこられたことのしるしです。こうして主はモーセと語られました。そのとき自分の天幕の入口にいた民も立ちあがって、それぞれ自分の天幕の入口で主を伏し拝みました。モーセが神と話しているという事実の前に、畏怖の念を感じたのでしょう。

11節には、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた。」とあります。これは文字通りモーセが神の顔を見たということではありません。なぜなら20節には「あなたはわたしの顔を見ることはできない」とあるし、Iヨハネ4:12にも「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」とあるからです。人となられた神の子イエスを見ることはできますが、父なる神を見ることはできません。神の栄光に与ることはできますが、神を見ることはできないのです。ですから、「顔と顔を合わせて」とはそれほど親しく語られたということです。私たちが友と話をするときは顔と顔とを合わせて語ります。それと同じです。

モーセ以前にも、神の友と呼ばれた人がいました。アブラハムです(ヤコブ2:23,Ⅱ歴代20:7)。主は人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセと語られましたが、同じように神はアブラハムに包み隠すことなく語られました。そしてそれはモーセやアブラハムだけでなく、私たちも同じです。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られたように、私たちを友と呼ばれ、私たちのために命を捨ててくださいました。ヨハネ15:13には、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました。そのイエス様は今私たちの心に住んでおられます(エペソ3:17)。友なるイエスが、聖霊によって、私たちの心に住んでおられるのです。顔と顔とを合わせて見ることができるのです。それなのに、私たちはこの主との会見を楽しんでいるでしょうか。主との語らい、主とともにいること、主ご自身を喜んでいるでしょうか。どちらかというと、日々にことで忙しく、主ご自身と顔と顔とを合わせることを後回しにしていることはないでしょうか。クリスチャンの祝福とは、いろいろな祝福を受けることよりも、その祝福を与えてくださる主とともにいること、主と顔と顔とを合わせて語り合うことなのです。

Ⅲ.モーセの祈り(12-23)

最後に、12-23節をご覧ください。ここでモーセは、神に三つの祈りをささげています。その一つが12-14節にある内容です。「さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」」

第一の祈りは、「あなたの道を教えてください」というものでした。主は、「一人の使い」を使わすと言われましたが、だれを遣わしてくれるのかがわかりませんでした。そこで彼は、主がともにおられるのでなければ、自分たちは進んでいくことができない。主がともにいて行くべき道を示してほしいと言ったのです。モーセは、主が彼に約束してくださったこと、すなわち、「あなたは名指しで選び出した」とか、「あなたは特にわたしの心にかなっている」ということを取り上げ、だから、自分から離れないで、あなたの道を教えてくださいと祈ったのです。

それに対して主は、こう答えました。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14)第三版では、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」とあります。主はモーセとともにあって、彼を休ませてくださると約束してくださったのです。それは、モーセにとってどれほどの慰めであったことでしょう。

それでモーセはさらに主に祈ります。15-16節です。「モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

主のことばに対してモーセは、自分だけでなく民とともにいてほしいと訴えます。もし、神がいっしょでなければ、自分たちをここから上らせないように(15)と。ここでモーセは民と一体化しています。モーセは民のためにとりなしているのです。そして、モーセとイスラエルが、この地上の民と区別されるのは、主がともにおられるかどうかということによるのですから、どうかイスラエルとともにいてほしいと訴えたのです。

それに対して主は何と言われましたか。17節です。「主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」」

イスラエルの民ともいっしょにいてくださるという約束です。すごいね。主がイスラエルとともにいると言われたのは、モーセのとりなしによるものでした。それと同じように、主が私たちとともにいてくださるのは、主イエスのとりなしのゆえです。私たちにはこのような祝福や特権にあずかる資格はありません。ただ主イエスのとりなしのお陰なのです。

第三の祈りは18-23節にあります。「モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

するとモーセは、主がともにいてくださるというだけでなく、「あなたの栄光を見せてください」と言いました。「栄光」とはヘブル語で「シェキーナー」語です。これはどういうことかというと、主ご自身を見たいということです。これは人間には不可能なことですが、信仰者であればだれもが抱く願いではないでしょうか。自分が信じている主をおぼろげながらではなく、顔と顔とを合わせてはっきり見たい。自分を救ってくださった主を、もっと知りたいという願いです。

これが信仰の本質です。信仰とは主を知ることです。主イエスは「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)と言われました。またIヨハネ1:1にも「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」とあります。永遠のいのちとは、主を知ることです。主を知ることを求め、このことから目を離していなければ、私たちの信仰の生活は安定し充実したものになっていきます。このことから離れると、とたんに永遠のいのちがわからなくなってしまいます。自分の思い込みの信仰になり、安定性に欠けることになります。主を知ること、主を見続けること、それが信仰の歩みなのです。

それに対して、主は何と言われましたか。19節には「主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」とあります。

神の栄光を見せてくださいというモーセに対して、主は「わたしのあらゆる良きものをあなたの前を通らせ、主の名であなたの前に宣言する。」と言われました。どういうことでしょうか。神の栄光が現される時には必ずあらゆる良きものが見られるということです。「善」と「栄光」は切っても切り離せない関係にあります。神の栄光を体感しているという人は、神の善を体感していると言い換えることもできます。God is so Good.なのです。神の良きものを経験している人は、まさに神の栄光を見ているのです。

そして、「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と言われました。これは、神は主権者であられるということです。これはローマ人への手紙9章の主題でもあります。。神は一方的にあわれまれるということです。私たちの行いとは全く関係ありません。神の善というのは、私たちの行いには左右されないのです。あくまでもご自分の主権として一方的にあわれまれるのです。私たちの善は条件付きです。これだけのことをしたから恵みを受けるとか、これだけの人だからあわれまれて当然といったところがありますが、神は違います。一方的な神のあわれみによるのです。主の一方的な恵みとあわれみによって私たちは救われました。それはただ主の自由な意志によるのです。

主はまた言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。」モーセは主の顔を見ることはできません。なぜなら、神の顔を見て、なお生きていることはできないからです。人間の限界性のゆえに、モーセは神の栄光のすべてを見ることはできなかったのです。聖書の中に、主の栄光を見て圧倒された人たちがいます。たとえば、イザヤ(6:5)もそうですし、ダニエル(10:8)もそうです。また、使徒ヨハネ(黙示録1:17)もそうです。主のすべてを見て、なお生きることができるのは、子なる神であられるキリストだけです(ヨハネ1:18)。Iテモテ6:16には、「人間がだれひとり見たこともない、見ることができない方」とあります。いまだかつて神を見た者はひとりもいません。モーセは神を見せてくださいと願いましたが、叶いませんでした。見たら死んでしまうからです。神はそれほど聖なる方なのです。

そこで主が言われたことは、「岩の上に立て」ということでした。主の栄光が通り過ぎるとき、主はモーセを岩の裂け目に入れるからです。そのとき、主がそこを通り過ぎるまで、主の手で彼をおおわれるためです。これはどういうことかというと、23節にあるように、主の手をのけるとモーセは主のうしろ姿を見るが、主の顔は決して見られないということです。チラッと見せてあげるということです。

しかし、新約時代に生きる私たちは、主の栄光をはっきりと見ることができます。それは、神のひとり子イエス・キリストを通してです。そして、その栄光は十字架の上に表されました。この岩とは、イエス・キリストのことです。この岩が裂けたのはキリストが十字架に掛かられたということです。その裂け目に入れると言われました。キリストの十字架という岩の裂け目に入るなら、神の栄光を見ることができます。そして、イエス・キリストの贖いを信じキリストの義の衣を着るなら、神の栄光を見ることができます。それ以外に方法はない。神の栄光を見たければ、キリストのうちにあることです。そこにいれば神に打たれることはありません。キリストがおおっていてくださるからです。

伝道者の書3章1~15節「すべての営みに時がある」

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きょうは、伝道者の書3章前半から学びます。「空の空。すべては空」と言った伝道者は、その空しさを埋めるものを日の下で徹底的に追及してきました。たとえば、知恵と知識を身につけたり、快楽を味わってみたり、さらには事業を拡大して、ありとあらゆる金、銀、財宝を手に入れ、立派な邸宅を建て、森を造成したり、美しい庭を造り、そこで最高のエンターテインメントを催したりしましたが、それもまた空しいものでした。彼は、おおよそ人間が望むもの、これさえあれば、あれさえあれば、自分は満足できるのではないかといったすべてのものを手に入れましたが、それらのもので満たされることはなかったのです。「ヘベル、ヘベル。すべてはヘベル」です。日の下で行われるわざは、すべは空しく、風を追うようなものでした。

そのような中で伝道者は、一つの真理を見出します。それは、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」ということです。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.すべての営みに時がある(1-8)

まず、1節から8節までをご覧ください。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」

有名な「時の詩」です。天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時があります。この「営み」とは、人間が意図的に行う行為のことです。ここには全部で28の営みを列挙していますが、これは、人生全体を示していると言えるでしょう。動詞に注目していただくと分かりますが、対句になっていて、それが14回繰り返されています。

まず、2節をご覧ください。ここには、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。」とあります。人生には始まりと終わりの時があるということです。その時を自分で決めることはできません。親でさえ、わが子の誕生の時を知りません。誰もその時を選ぶことができないのです。生まれるときと死ぬ時は、神によって定まっているのです。これは単なる運命論ではありません。私たちは神の時に生まれ、神の時にこの地上での生涯を送り、神の時に召され、やがて神のもとに帰るのです。

次にソロモンは、農業のサイクルに言及しています。「植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。」植える時と収穫の時は、神が決めた時があるのです。それを誤る徒、神の恵みを逃してしまうことになります。昨日はアジア学院で収穫感謝礼拝が行われましたが、講壇の前にはこの秋に収穫された作物がきれいに並べられていました。収穫のために、適切な収穫の時を与えてくださった主に感謝しました。

3節をご覧ください。「殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。」
「殺すのに時がある」とは、人を殺すのに時があるということではありません。おそらく、人のいのちが取り去られることにも時があるということでしょう。それは事件や事故、戦争などすべての営みの中においてです。癒すのにも時があります。たとえば、大切な人と死別する時だれでも痛みや悲しみを持ちますが、その悲しみが癒されるのにも時があります。何らかのことで受けた心の傷が癒されるのも同じです。癒されるのに時があるのです。

また、古くなったものを取り壊し、そこに新しいものを建てるのにも時があります。それは建物だけではなく、たとえば、組織の態勢の立て直しにおいても言えることです。崩すのに時があり、建てるのに時があるのです。

4節には、「泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」とあります。私たちの人生は悲劇と祝福の繰り返しです。良い事ばかりであればいいのすが、そういうわけにはいきません。逆に、どうしてこんなに不幸が続くのだろうと思うようなことがあっても、その中にも必ず良いことがあります。人生は悲しみと喜びの繰り返しですが、その時も神によって定められているのです。

5をご覧ください。「石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。」
「石を投げ捨てる」とは、耕作に適した農地を開墾するために、石を取り除くことを指しています。イザヤ5:2には、「彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。」とあります。これはイスラエルをぶどうの木にたとえ、良いぶどうがなるのを期待していた神が、農地を開墾して、石を取り除き、心待ちにしている様子を描いたものです。神はイスラエルが良い実を結ぶように石を取り除いて、開墾したのです。逆に、「石を集める」とは、家や塀などを作るのに石を集めることを示唆しています。それぞれの行為には、定まった時があるのです。

「抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある」とは、愛を表現する時とそうでない時があるということです。抱擁をやめる時とは、愛すべき人と死別して抱擁したくてもできない時か、あるいは、抱擁をやめることによって愛を示さない時のことを言っていると思われます。それは不道徳の場合の時などです。ですから、やみくもに抱擁すればいいということではなく、抱擁するのにも時があり、抱擁をやめるのにも時があるのです。

6節には、「求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。」とあります。ビジネスや商売をやっている人はわかりますが、あるいは、それ以外の事に携わっている人にも言えることですが、求めるのに時があり、あきらめるのに時があります。すべての物事が順調に進んで行けばいいのですが、いつもそうとは限りません。今日はうまくいっても、明日はどうなるかなんてだれにもわかりません。自分の力ではどうしようもないこともあるのです。また、それがいつ逆転するかもわかりません。求めるのに時があり、あきらめるのに時があるのです。

また、保つのに時があり、投げ捨てるのに時があります。「断捨離」がブームですね。断捨離とは、不要なものを捨てるというイメージが強いですが、実はそうではなく、物の整理を通して人生が変わる効果的な方法だと言われています。その「もの」でさえ、保つのに時があり、捨てるのに時があるのです。

7節をご覧ください。「裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。」
「裂く」と「縫う」とは、衣服に関する表現です。「裂く」とは、激しい悲しみを表現する際に衣を引き裂くという、イスラエルの習慣から来ています。創世記には、息子ヨセフが死んだと思い激しく痛み悲しんだヤコブが、自分の着ていた衣服を引き裂く場面があります(創世記37:34)。この裂く時が喪に服することを表現しているのならば、「縫う時」とは喪に服していた期間が終了した時のことを指していると考えられます。

黙っているのに時があり、話すのに時があります。私たちの人生には黙っているべき時と、反対に、口を開いて話さなければならない時があります。黙っていなければならない時に話し、話さなければならない時に話さないで失敗することがどれだけあるでしょう。黙っているのに時があり、話すのに時があることを心に留めたいと思います。

そして、8節です。「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」どういうことでしょうか。当時ソロモンの回りでも紛争が絶えなかったのでしょう。戦闘、殺戮、破壊といった悲劇的な事件が、日常的に繰り返されていました。そうした戦いに翻弄され、多くの涙が流されていたのです。そのような中で、束の間の愛する時、平和の時を経験していたのだと思います。

このように私たちの人生には定まった時期があり、すべての営みには時があります。その「神の時」に逆らうのではなく、今がどういう時なのかを見極めてその「時」に従って生きる人生こそ、幸いな人生だと言えるのです。

ドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1748年に両眼の視力を失ってしまいました。そのころライプチヒに来ていた英国の名医によって二度も手術を受けましたが、ついに全くの盲目になってしまいました。それ以来、バッハの生活は昼も夜も暗黒に包まれてしまいました。しかし、作曲活動は依然として続けられ、ついにその暗黒の日々の中からカンタータ第106番「神の時は最上の時なり」を作り上げたのです。
「神の内に私たちは生き、動き、在在する 神の意思であるかぎり。
私たちは最善の時に神の中で死ぬ、神が望まれる時に。
あぁ主よ、私たちの心に刻んでください、我々が死すべき者であることを、我々が賢明になるために。
あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ 生き続けるのではない。
これが いにしえの契約;人は必ず死ぬ。
そうです、主イエスよ、来てください!」
(「カンタータ第106番「神の時は最上の時なり」対訳:國井 健宏

ここに、バッハの心の思いが表れています。私たちは、神の内に生き、動き、在在しているのです。そして、神の最善の時に死にます。この神の時が最上の時なのです。自分であれこれと頑張らなくてもいいのです。神の時を待ち望むことが重要なのです。すべてのことに定まった時があるのですから。それゆえ、この神にすべてをゆだね、神のみ旨に生きる人こそ、真に幸いな人だと言えるのではないでしょうか。

Ⅱ.神のなさることは時にかなって美しい(9-11)

次、に9-11節をご覧ください。「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

9節は、1節から8節までの結論です。すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時があるのならば、私たち人間がどんなに頑張ってもそれに何かを付け加えたり、差し引いたりすることはできません。したがって、私たちがどんなに労苦しても何の益も得られないということになります。

しかしその一方で、伝道者は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言っています。すばらしいことばです。天の下のすべての営みには時がありますが、神がなさることは、すべて時にかなって美しいのです。

この「時」とは、へブル語で「エーマ」と言いますが、これは時間で計ることができる「時」ではなく、計ることができない時です。私たちは、有限な時間の中に生きていますが、この「神の時」はその時間の中に、突如として現れるものです。人生には、「あのとき、あの人に出会ったから、今ここにいる」とか、「あのときあの場所に行ったから、あの人に出会うことができた」ということがあります。あとから振り返ってみると、それは私たちの運命を決める決定的瞬間の「時」であったわけです。ある人はそれを偶然と言う人もいるし、神の摂理だという人もいますが、私たちの人生には、確かにそういう時があるのです。一瞬、時間が止まり、突然、神が介入したかのような不思議な「時」です。その時が人生を決めることがあります。神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」第三版には、「永遠の思いを与えられた」とあります。人は本能的に、有限な時間の先に何かがあることを感じながら生きています。なぜなら、神は人を造られた時、ご自身のかたちに創造さられたからです。永遠に神とともに生きるように造られました。ですから、人間の中にはどこか永遠の世界へのあこがれがあるのです。動物が巣に帰る、帰巣(きそう)本能があるように、人間も本来いるべきところに帰りたいという本能があるのです。この伝道者が「空の空。すべては空。」と言ったのはそのためです。心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しんだとしても空しさを感じたのは、この地上は永遠の世界ではないからです。人の心に永遠の思いが与えられているならば、その永遠の今を生きることこそ、真の解決につながるのです。

ところで、その後の言葉を見てください。ここには、「しかし人は、神が行うみわざを始まりから終わりまで見極めることができない。」とあります。人間は絶対者であられる神が持っている計画の全貌を知ることができません。神の計画を知らないでいくら労しても、それは空しい結果をもたらすだけです。せっかく上向いてきた伝道者の心が、ここでまたトーンダウンしています。「やっぱりだめだ」という思いになっているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。

すべての営みに時があります。そして、神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。神は、私たちの思いをはるかに超えた神のタイミングで、また、想像もしなかったご自身の方法でその御業を成してくださいます。しかし、その時は隠されているため、人はその時を見極めることができないのです。確かに、生まれる時と死ぬ時は、どんなに知恵を尽くしても、力を尽くしても、人には知ることも、変えることもできません。私たちは、そのことを理解しているので、人間の誕生の神秘に驚いたり、死の厳粛さを覚えるのです。しかし、ほかの「時」はどうでしょうか。日々のスケジュールを自分で決めて、人生の選択を自ら下しながら生きています。そのため、自分の人生は自分で完全にコントロールしている、コントロールできるものだと思い込んでいます。

ですから伝道者はここで、「しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」と言ったのです。「神の時」は、いつ、どんな形でやってくるかわかりません。であれば、私たちは、この「時」を支配しておられる神の前にひれ伏し、へりくだるしかありません。「神の支配」と聞くと、「自分の人生は自分で決めるんだ」と反発する人もいるかもしれません。もちろん、人生は各人が自由に選択して、主体的に生きていくべきです。しかし、神の行うみわざを、初めから終わりまで見極めることはできないのは事実です。であれば、私たちにできることは何でしょうか。その神の時に身を任せ、その中で、神の時を待ち望むことではないでしょうか。

愛喜恵のためにお祈りいただきありがとうございます。愛喜恵はシカゴの大学を卒業することができ、現在は来年1月から大学院で学ぶための準備をしています。しかし、生活のために何らかの仕事をしなければならないと、3月頃からずっと仕事を探していましたが、コロナウイルスの影響もあってなかなか見つけることができませんでした。車いすの状態ということもあって仕事も限られおり、どうしようかと悩んでいましたが、奇跡的に与えられました。それはノーストリッジグループという会社なのですが、電話でクレームの対応をしている人を評価する仕事です。その会社の顧客には日本の会社もあるので、日本語ができて、なおかつ日本人の心というか、文化もある程度理解できる人ということで採用されたようです。それは意外と時給も高く、チャレンジのある仕事で、自分のスケジュールに合わせて働くことができるので大学院での学びにも影響することがないという点でベストな仕事でした。本人もよほどうれしかったんでしょうね、珍しくラインでメッセージが届きました。
「神様は、いつも祈りに答えてくれる。それが、グレースが願っていた時と違うかもしれないけれども、神様は人生において、完璧な計画を持っていて、神様のタイミングで、恵みを与えてくださる!・・・3月から仕事を探していて、9からの仕事。半年間、仕事が見つかるかとか、インタビューしても、返事がなかったり、ストレスや困難が続いていたけれども、恵みに満たされて、神様はいつもその痛み、嘆きを聞いてくださる!」
本人としては、かなりストレスがあったんでしょう。そんな苦しみの中で主に祈ったとき、主がベストのタイミングで、ベストの仕事を与えてくださいました。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。このみことばは、あなたの人生においてもしかりです。神は、あなたの人生にも時にかなって美しいことをされるのです。そのことを信じて、神にすべてをゆだねて歩みたいと思います。

Ⅲ.神がなさることは永遠に変わらない (12-15)

最後に12-15節を見て終わりたいと思います。「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを神はなおも求められる。」

ここでのキーワードは「知った」という言葉です。この言葉が繰り返して使われています。伝道者は何を知ったのでしょうか。まず12節には、「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。」とあります。彼は、人の心には永遠の思いが与えられていることを知っていました。しかし、働く者が労苦して何の益もないとしたらも、果たして人生にはどんな意味があるというのでしょうか。彼は、人は生きている間に喜び楽しむことのほかは、何も良いことがないことを知ったのです。しかし、これまでの心境に変化が見られるのは、それだけで終わっていないことです。13節では、「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」と言っています。人が食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことができるとしたら、それもまた神の賜物だということも知ったのです。

伝道者はまた、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことも知りました。それゆえ、それに何かをつけ加えたり、取り去ったりすることはできません。人間は何かとつけ加えたがります。たとえば、神の救いについても、キリストの十字架だけでは足りないと、それに何かをつけ加えようとするのです。たとえば、信じるだけでは足りない、もっと聖書を読まなければならない。もっと祈らなければならない。もっと奉仕をしなければならない。もっと献金をしなければならない。もっと伝道しなければならない。もっといい人にならなければない、といろいろとつけ加えようとするのです。律法主義と呼ばれるものです。そうでないと救われないし、神に祝福してもらえない、神に認めてもらえないと考えるのです。しかし、そうではありません。神の救いの御業は完了しているのです。あなたはそれに何かをつけ加える必要は全くないのです。私たちは神の一方的な恵みによって、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われたのであって、その神に感謝し、喜んで主に仕えるのです。これが福音です。

また、取り去ろうとしてもなりません。神が語られることについて、それをすべて自分に語られたこととして受け入れなければなりません。それが他人について語られている分にはうなずいて、その通りだと言いますが、自分に語られていることだと思うと、どこか割り引いて受け止めようとする傾向があります。そして、自分に都合の良い部分だけを選り好みして聞いてしまうのです。そのように自分の都合に合わせた受け止め方、自分主体になるのではなく、神主体に、神が語られたすべてを受け入れなければならないのです。それは、私たちが神を恐れるようになるためであり、神の計画に従って生きるためです。

15節には「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを、神はなおも求められる。」神が支配される歴史は、同じことの繰り返しです。今あることは、すでにあったこと、これからあることも、すでにあったことです。追い求められてきたことを、神はなおも求められます。つまり、永遠に変わることのない完全な神の御業を認め、その神を恐れて生きることこそ、それがすべての問題の解決なのです。

私たちの人生は空です。それはほんの束の間です。しかしその空しい人生は、神が定めた「時」に支配されています。その不思議な神の時で満ちた人生は、謎に満ちていると言うほかありません。生まれる時も、死ぬ時も、いや私たちの人生のすべてが、神の時で満ちているのです。

人間は、有限な時間のあとを追いかけるようにして生きています。しかし、どんなに「時」をつかもうとしても、決して掴むことはできません。この手で「時をつかんだと思っても、すぐに指の間からこぼれ落ち、手には何も残りません。それだけではありません。人生には、どんなに避けようとしても、避けられない「時」もあります。すべてのことには定まった時があるのです。その「時」は、悪い時だけではありません。今、悪い時と思っても、あとから振り返ると、意味のある時だったとわかる時がくるでしょう。そんな今という「時」が、神からの賜物として私たち一人一人に与えられているのです。

であれば、たとえ人生が空、ヘベルであっても、あるいは、人生に悲しみや痛み、辛さといったものがあっても、いや、そうした現実だからこそ、むしろ、神から与えられた今という「時」を生きるようにと伝道者は語っているのではないでしょうか。すべての営みには時がある。その神の時を見極めながら、神のなさることに期待して、永遠の今を生きていきたいと思うのです。

Ⅰサムエル記28章

今日は、サムエル記第一28章から学びたいと思います。

Ⅰ.アキシュの護衛に任命されたダビデ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「そのころ、ペリシテ人はイスラエルと戦おうとして、軍隊を召集した。アキシュはダビデに言った。「承知してもらいたい。あなたと、あなたの部下は、私と一緒に出陣することになっている。」ダビデはアキシュに言った。「では、しもべがどうするか、お分かりになるでしょう。」アキシュはダビデに言った。「では、あなたをいつまでも、私の護衛に任命しておこう。」

「そのころ」とは、前回見たように、ダビデがガテ王アキシュのところに身を寄せていたころです。ダビデはサウルを恐れ、ペリシテ人の地に逃れていました。その間約1年4か月、ダビデはアキシュから信頼してもらうために、「今日は、ユダのネゲブを襲いました」とか、「今日は、エラフメエル人のネゲブを襲いました」とか、虚偽の報告をしていました。実際には、イスラエルの町を襲うようなことはしていませんでした。

しかし、そんなダビデにとって困ったことが起こりました。ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして、軍隊を招集したのです。アキシュがダビデに、自分と一緒に出陣してほしいと言うと、ダビデはあいまいな返答をしました。「では、しもべがどうするか、お分かりになるでしょう。」と表面ではアキシュに従っているかのように装いながら、心の中では「どうしたら良いものか」と悩んでいたのです。アキシュの要請を断れば、自分のいのちが危うくなります。かといって、イスラエルと戦うことなど、決してできません。どうしたらいいかわかりませんでした。身から出た錆です。彼は神のみこころに背き、自分の判断によってペリシテ人の地に逃れてきました。そのつけが回ってきたのです。アキシュは、ダビデの答えを自分に都合が良いように解釈し、彼を護衛に任じました。この話は29章に続きます。ですから、その後どうなったかについては、29章で学びたいと思います。

Ⅱ.霊媒する女(3-19)

次に、3-8節前半をご覧ください。「サムエルはすでに死に、全イスラエルは彼のために悼み悲しみ、彼を彼の町ラマに葬っていた。一方、サウルは国内から霊媒や口寄せを追い出していた。ペリシテ人は集まって、シュネムに来て陣を敷いた。サウルは全イスラエルを召集して、ギルボアに陣を敷いた。サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心は激しく震えた。サウルは【主】に伺ったが、【主】は、夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。サウルは家来たちに言った。「霊媒をする女を探して来い。私が彼女のところに行って、彼女に尋ねてみよう。」家来たちはサウルに言った。「エン・ドルに霊媒をする女がいます。サウルは変装して身なりを変え、二人の部下を連れて行った。彼らは夜、女のところにやって来た。」

ペリシテ人は集まってシュネムに来て陣を敷きました。シュネムは、カルメル山から東方に約24㎞、ガリラヤ湖の南西約30㎞にある町です。一方、サウルは、シュネムの南にあるギルボア山に陣を敷きました。ギルボア山は、イズレエルの南東にある位置518mの山です。彼らはイズレエルを挟んでにらみあっていたわけですが、サウルはペリシテの陣営を見て非常に恐れ、その心は激しく震えました。圧倒的な数の兵士がいたからでしょう。サウルはどうしたら良いかわかりませんでした。サムエルはすでに死んでいました。そこで彼は主に伺いましたが、主は、夢によっても、ウリムによっても、預言者たちによってもお答えになりませんでした。それもそのはずです。神のみこころに背き、自分のことだけを考えてダビデを殺そうとしたのですから。御霊の導きや、神の御声など聞こえるわけがありません。

そこでサウルは、とんでもない行動に出ました。何と霊媒をする女を探させたのです。霊媒とは、死人の霊を呼び出して未来の出来事や、ものごとの吉凶を語らせることです。霊媒はモーセの律法によって禁じられていました(レビ記19:31、申命記18:11)。霊媒や口寄せがいるなら、男でも女でも、必ず殺されなければなりませんでした(申命記20:27)。それでサウルは、国内から霊媒や口寄せを追い出していたのです。それなのに今、自分が国内から追い出したその霊媒をする女を探しに行かせたのです。

すると家来たちはエン・ドルに霊媒をする女を見つけました。そこでサウルは変装して身なりを変え、二人の部下を連れてエン・ドルに行きました。ちょっと前には主に伺ったかと思ったら、今度は霊媒です。結局のところ、彼の信仰とはうわべだけのもので、自分のために神を利用する信仰だったのです。そのような者の祈りに主が応えるはずがありません。

私たちも、ややもするとサウルのように自分に都合のいい神を求めていることがあるのではないでしょうか。ですから、物事が自分の思うように進んでいる時にはあたかも神に信頼しているかのように見えても、そうでないと手のひらを返したような言動をとってしまうのです。実際には神に従っているのではなく、自分に神を従わせているのです。神は、それのような者の祈りに答えられません。私たちは神を利用するのではなく、神を愛し神に従う者でありたいと思います。

8節後半から14節をご覧ください。「彼らは夜、女のところにやって来た。サウルは言った。「私のために霊媒によって占い、私のために、私が言う人を呼び出してもらいたい。」女は彼に言った。「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち切ったことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちに罠をかけて、私を殺そうとするのですか。」サウルは【主】にかけて彼女に誓って言った。「【主】は生きておられる。このことにより、あなたが咎を負うことは決してない。」女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「私のために、サムエルを呼び出してもらいたい。」女はサムエルを見て大声で叫んだ。女はサウルに言った。「あなたはなぜ、私をだましたのですか。あなたはサウルですね。」王は彼女に言った。「恐れることはない。何を見たのか。」女はサウルに言った。「神々しい方が地から上って来るのを見ました。」サウルは彼女に尋ねた。「どのような姿をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることが分かって、地にひれ伏し、拝した。」

そこでサウルは変装し、夜の間に、すなわち、誰にも気づかれないように女の下に行きました。そして、霊媒によって、自分が言う人を呼び出してもらいたいと頼みました。女は、自分が罠をかけられているのではないかと警戒していましたが、サウルが主にかけて誓ったので、彼の願いを受け入れることにしました。

彼女が、「だれを呼び出しましょうか。」と言うと、サウルは「サムエルを呼び出してもらいたい」と言いました。それで彼女がサムエルを呼び出すと、彼女は驚いてしまいました。本物のサムエルが出てきたからです。どういうことでしょうか。霊媒師は死者の霊を呼び出してその霊と交信しますが、霊媒師が呼び出しているのは、死者を装った悪霊です。ですから、霊媒師とは、霊媒の霊が宿る者のことを言うわけです。しかし、ここでは、通常では起こり得ない事が起こりました。本物のサムエルの霊が出てきたのです。女は驚いて、大声で叫びました。また、彼女は依頼人がサウルであることに気付き、「あなたはなぜ、私をだましたのですか。」と言いました。まさか目の前にいる人物がサウル本人であるとはな考えられなかったのです。サウルはかつてこの国から霊媒や口寄せをみな追い出した本人ですから。

驚きを隠し得ない女にサウルが、「恐れることはない。何が見えるか」と尋ねると、「神々しい方が、地から上って来るのを見ました。」と答えました。「神々しい方」とは、サムエルのことです。「地から上ってくる」とあるのは、旧約時代において聖徒はみな「よみ(シェオール)」にくだり、天に入ることを待っている状態だったからです。「シェオール」とは、死んだ者すべてが行く場所で、最終的な神のさばきを待っている所です。イエス様がこの世に来られ十字架で死なれよみにくだられたとありますが、その時、よみにいた神を信じた聖徒たちを天に上げられました。ですから、ここではまだ地から出てきたのです。サウルは、サムエルが生きていたときには、その助言に従おうとしませんでしたが、サムエルが死ぬと、律法の掟を破ってまでサムエルと語ろうとしたのです。全く「あまのじゃく」です。私たちもサウルのようにならないように気を付けましょう。主に従うのは「いつか」ではなく「今」なのです。

サウルは、その人がサムエルであることに気付き、地にひれ伏して拝みました。霊媒師によって現れたサムエルは何と言ったでしょうか。15-19節をご覧ください。「サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。【主】はあなたから去り、あなたの敵になられたのに。【主】は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。【主】は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。あなたが【主】の御声に聞き従わず、主の燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、【主】は今日、このことをあなたにされたのだ。【主】は、あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される。明日、あなたもあなたの息子たちも、私と一緒になるだろう。【主】は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡されるのだ。」」

こうした霊媒師の働きの背後には悪霊の働きがあり、悪霊が霊媒師に入り、死者のふりをして語るのですが、ここでは本物のサムエルの霊が現われて語りました。これは神の働きによるものです。サムエルはサウルに「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」と言いました。先ほども申し上げたように、旧約聖書の時代には、人は死ぬとみな「よみ」に行きました。そこは、聖徒たちが行くところと悪人たちが行くところに分けられていました。聖徒たちが行くところは神がともにいる平安な場所だったのでしょう。サムエルはそこから呼び出されたものですから、「なぜ私を煩わせるのか」と抗議したのです。

それでサウルは、自分が困りきっていることを説明します。ペリシテ人が攻めて来ているのに、神が預言者によっても、夢によっても、自分に答えてくださらないので、自分はどうすればよいのかを教えてもらうために呼んだのだと。

それに対してサムエルは、確かに主は彼から去られたこと、そして、主はサムエルを通して語られたように、サウルから王位をはぎ取って、ダビデに与えられたことを告げます。それはなぜか。サウルが主の御声に聞き従わなかったからです。ここでは具体的に一つの事例が取り上げられています。それは主の燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったことです。これは15章にあった出来事です。主はサウルにアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶するようにと命じられましたが、サウルは、アマレクの王アガクと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しませんでした。つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのです(Ⅰサムエル15:9)。彼は主の命令に従うふりをしながら、結局は、自分の思いを優先させました。それゆえ主は、イスラエルと一緒にサウルとサウルの息子たちを、明日、ペリシテ人の手に渡されると宣言されたのです。

サムエルが生きていた時にはその助言をひたすら無視し続けてきたサウルでしたが、サムエルが死ぬと熱心にその助言を求めるようになります。しかし、サウルが受けた助言は助言どころか、自分の死を予告するおそろしい神からのさばきの宣告でした。神のさばきは、ある日突然びっくりするようなかたちでやって来るのではありません。日々の生活の中で、神は私たちに語りかけ、悔い改めを迫っておられます。それなのにそれを無視し続けるとしたら、そこに神のさばきがくだるのは当然のことではないでしょうか。日々の生活の中で主の御声を聞き、それに応答して悔い改めて主のみもとに立ち返りたいと思います。

Ⅲ.悔い改めるのに遅すぎることはない(20-25)

最後に、20-25節をご覧ください。「すると、サウルはただちに地面に倒れて棒のようになり、サムエルのことばにおびえた。しかも、その日一昼夜、何も食べていなかったので、力は失せていた。女はサウルのところに来て、サウルが非常におじ惑っているのを見て彼に言った。「あなたのはしためは、あなたが言われたことに聞き従いました。私はいのちをかけて、あなたが言われたことばに従いました。今度はあなたが、このはしためが申し上げることをお聞きください。パンを少し差し上げます。それをお食べください。お帰りのとき、元気になられるでしょう。」サウルはこれを断って、「食べたくない」と言った。しかし、彼の家来も女もしきりに勧めたので、サウルはその言うことを聞き入れて地面から立ち上がり、床の上に座った。女の家に肥えた子牛がいたので、彼女は急いでそれを屠り、また、小麦粉を取って練り、種なしパンを焼いた。それをサウルと家来たちの前に差し出すと、彼らは食べた。そしてその夜、彼らは立ち去った。」

すると、サウルはサムエルのことばにおびえ、地面に倒れて棒のようになりました。しかも、その日一日何も食べていなかったので、力は失せてしまいました。それを見た霊媒の女は、再びサウルのもとに来て、彼に食事を取らせました。彼女が食事を用意したのは、サウルの哀れな姿を見てかわいそうに思ったからでしょう。しかしそればかりでなく、彼女自身のためでもありました。もしサウルが彼女の家で死んだとなれば、彼女は霊媒をしたことを追及され、死刑にされてしまうからです。

サウルは初めこれを断わり「食べたくない」と言いましたが、彼の家来もしきりに勧めたので、彼らの言うことを聞き入れて食べることにしました。それは肥えた子牛と種なしパンという豪華なものでした。サウルとその家来たちはそれを食べて元気になり、その夜戦場へと立ち去って行きました。

サウルは、自分が死ぬという神からの宣告を聞いておびえて地面に倒れ、棒のようになりましたが、彼は悔い改めることも、神のあわれみを求めることもしませんでした。彼は最後まで利己的な人間でした。もし彼が悔い改めて神に立ち返っていたらどうなっていたでしょう。もしかしたら、事態は変わっていたかもしれません。彼の生涯はそういうことの繰り返しでした。神は、どんな罪人の祈りでも聞いてくださいます。十字架の上で主イエスに赦しを求めた罪人は、「きょう、あなたは私とともにパラダイスにいます。」との罪の赦しの宣言を受けました。最後まで神のあわれみにすがり、熱心に悔い改めましょう。愛と恵みに富んだ神は、必ずその祈りを聞いて赦してくださいます。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた悔いた心。神ょ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)
悔い改めるのに遅すぎることはありません。もしあなたが神の御声を聞くならその時が、あなたが悔い改める時なのです。

 

伝道者の書2章12~26節「神のみこころのままに」

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伝道者の書から学んでおります。きょうは、2章後半の箇所から「神のみこころのままに」というタイトルでお話しします。

エルサレムの王、ダビデの子、伝道者ソロモンは、日の下で行われるすべてのことを見て、そこに何の益も見出すことができないと、「空の空。すべては空」と言いました。たとえば、この自然界を見てもそうです。一つの時代が去り、次の時代が来ますが、地はいつまでも変わることがありません。日は昇り、日は沈み、また、元の昇るとこへと帰ってきます。風は南に吹いたかと思うと、巡り巡って北に吹きますが、結局のところ、巡る道に帰って来ます。川はみな海に流れ込みますが、また元の場所に戻ってきます。つまり、同じことを繰り返しているだけなのです。

私たちの人生はどうでしょうか。私たちの人生も、もっと何かがあると思って、その満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、昔からすでにあったものにすぎません。

そこで伝道者は、日の下に何か益になるものはないかと探究します。彼はまず、知恵と知識を得ました。しかし皮肉なことに、知恵が多くなると悩みも多くなり、知識が増すと苛立ちも増しました。

次に試してみたのは、笑いと快楽でした。しかし、それもまた、空しいものでした。

それでは、事業を拡張したらどうでしょうか。そこで彼は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果実を植えました。木の茂った森を潤すために、いくつもの池も造りました。たくさんの男女の奴隷を得、多くの牛や羊、金、銀、財宝を集めました。毎晩有名なエンターテーナーを招き、ショーを催しました。人の子らの快楽である、多くの女性も手に入れました。彼は心の赴くままに、あらゆることを楽しみましたが、すべては空しく風を追うようなものでした。日の下には何一つ益になるものはなかったのです。

これが私たちの人生です。日の下でどんなに労苦しても、それらのものは私たちの人生に何の益ももたらしません。あの人はいいなぁ、あんたにお金持ちで、あんな豪邸に住んで、優秀な家族がいて、社会的にも地位があって、どんなに幸せなんだろうと思うことがありますが、そうでもないということです。日の下で、神様の抜きの生活は、たとえ心の赴くままに、あらゆることを楽しんだとしても、実に空しいのです。風を追うようなものなのです。それでは、どうしたらいいのでしょうか。ソロモンは、さらに二つのことに着目してその解決を求めます。

Ⅰ.知恵の空しさ(12-17)

まず、知恵です。12節から17節までをご覧ください。14節までをお読みします。「私は振り返って、知恵と狂気と愚かさを見た。そもそも、王の跡を継ぐ者も、すでになされたことをするにすぎない。私は見た。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。」

伝道者が行ったさまざまな探究は、空しい結果に終わりました。そこで彼は、次に知恵ある生き方と愚かな生き方を比較し、どちらの方が優れているかを探ろうとしました。その結果は、彼の跡を継ぐ後継者たちにも伝えられます。なぜなら、後継者たちがこれ以上のことを発見することはないからです。1:9に、日の下には新しいものは一つもないとあったように、「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは前の時代にすでにあったものにすぎません。ですから、彼の後継者たちが、これ以上のものを発見することはありません。

そして、わかったことは何ですか。知恵は愚かさに勝っているということです。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっています。当たり前と言えば当たり前のことですが、14節には、「知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。」とあります。知恵のある者は頭に角があるのではなく目があります。これはどういうことかというと、先が見通せるということです。将来の具体的な人生設計まで描くことができます。しかし、愚かな者はそれができません。愚かな者は闇の中を歩くからです。闇の中を歩く者は、心が盲目なので先を見ることができないのです。だから、闇の中を歩くしかありません。

しかし、です。確かに知恵のある者は愚かな者にまさっています。しかし、両者の結末はどうでしょうか。同じ結末に行き着きます。同じ結末とは、死ぬということです。どんなに知恵があっても、あるいは愚かであっても、結局のところ、どちらも死ぬわけです。死ぬときは何も持って行くことができません。よく言われますよね。「あなた、どんなに稼いだって、死ぬときは何も持っていけないのよ。」人は皆裸で生まれ、裸で死んで行きます。どんなに棺桶の中にいろいろな物を入れたとしても、すべて焼かれて無くなってしまいます。あの世には何も持っていくことはできないのです。どんなに知恵があっても・・。

そこで伝道者は何を思うのでしょうか。15節をご覧ください。「私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。」

伝道者はこう考えます。もし自分も愚かな者と同じ結末を迎えるのであれば、なぜ、知恵を追及する必要があるのか。死の現実を考えると、生涯をかけて知恵を追及することに、いったい何の意味があるというのでしょう。これもまた空しいことです。

16-17節を見てください。「事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」

事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはありません。どんなに有名な人でも、ノーベル賞を取るような偉大な人でも、死んでしまうと、いつかは忘れられてしまいます。悲しいですね。
「大田原キリスト教会の牧師、だれだったか覚えている。」
「ええと、大橋富男という人じゃない。」
「あっ、そう」
「だれ、それ?」
こんな感じです。でも、これが現実です。すぐに忘れ去られてしまいます。

その現実を悟った伝道者は何と言っていますか。「私は生きていることを憎んだ。」と言っています。生きていること自体を憎むようになりました。最近、テレビのドラマで俳優の三浦春馬さんを見ることがあります。亡くなる前に収録されたのでしょう。番組の終わりには、「三浦春馬さんは・・お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。」というテロップが流れます。生前の三浦春馬さんのお顔を見ながら、いったいどんなお気持ちだったんだろうと思います。つい最近も、私の好きな女優さんで竹内結子さんが亡くなりました。詳しい事情はわかりませが、もしかしたら、この伝道者と同じような気持ちだったのかもしれません。伝道者は、「日の下で行われるわざは、私にとってわざわいだからだ。」と言っています。すべては空しく、風を追うようなものだったのです。

人生を真剣に考えれば考えるほど、同じような結論に達するのではないでしょうか。死という現実の前に、私たちは何の成す術もありません。この伝道者の絶望は、私たち現代人の絶望でもあります。日の下でどんなに労苦しても、それが人にとっていったい何の益になるでしょうか。すべては空しく、風を追うようなものです。私たちの人生は、この地上生涯を越えたところに生きる目標を持たない限り、何の希望も見出せず、空しいままで終わってしまうのです。

Ⅱ.労苦のむなしさ(18-23)

次に伝道者が着目したのは「労苦」です。18~19節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。」

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を憎みました。なぜでしょうか。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからです。なぜそれが問題なのでしょうか。立派なことじゃないですか。そうです、立派なことです。跡を継ぐ者のために自分が労苦して残してあげる。立派なことです。問題はその跡を継ぐ者がどういう者であるかがわからないことです。その者が知者なのか、それとも愚かな者なのか、だれも知ることができません。その知らない者が、自分が骨折り、知恵を使って築いてきた財産を、支配するようになるのです。

事実、ソロモンの後継者はレハブアムという息子でしたが、彼は本当に愚かな者でした。ソロモンが築いた国の繁栄と栄華を、国家を二分させることで台無しにしたからです。彼については列王記第一12:6以降に記されてありますが、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちの助言を退け、自分に仕えている若者たちの助言を受け入れてイスラエルの民のくびきを重くしたため、結局、国が二分されることになってしまいました。そしてそれ以降、北はアッシリア帝国に、南はバビロニア帝国に捕囚され衰退の一途をたどることになりました。ソロモンが建てたエルサレムの神殿も破壊されてしまいます。日本でも、初代起こして、二代目まずまず、三代目につぶれるということを耳にすることがありますが、自分の跡を継ぐ者がどういう者であるかが、企業においても、教会においても、非常に重要なことです。しかし、それがどういう者なのかが分からないのです。ソロモンの場合は、自分のすぐ下、二代目でつぶれました。イスラエル王国はダビデによって盤石なものとされ、ソロモンによって黄金期を迎えましたが、三代目のレハブアムの時に衰退の一途をたどることになったのです。ですから、自分がどんなに汗水たらして一生懸命働き、立派なものを残したとしても、それを継ぐ者がそれをちゃんと使ってくれるかというと、その保証はありません。これはまた空しいことです。そういう目的のために労苦することも空しいことです。せっかく努力して築き上げたものが台無しにされてしまうのですから。逆に、そうしたものが仇になってしまうことさえあります。こうやって見ると、聖書って非常に現実的ですね。

20~21節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。」

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望しました。21節には、「これもまた空しく、大いに悪しきことだ」とあります。「大いに悪しきことだ」は、第三班では「非常に悪いことだ」と訳されています。これが悲観主義の根底にあるものです。「非常に悪い」という感情に支配されることです。非常に悪いという感情に支配されますと、悲観的になってしまいます。どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないとしたら、そして、その築き上げたものが台無しにされてしまうとしたら、いったい労苦そのものに何の意味があるというのでしょう。何もありません。これもまた空しいことです。最悪です。

それゆえ伝道者は、この労苦について次のように結論しました。22~23節です。ご一緒に読みましょう。「実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」

日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何の意味もありません。その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休めないのです。なかなか眠れません。どうですか、皆さん、共感するところがあるのではないでしょうか。毎日、朝から晩まで働いても、その労苦と思い煩いは、いったい何なのでしょうか。そう考えると早く退職して、自分の好きなことでもして、ゆっくりと過ごしたいと思うのもわかります。やっとその歳になったかと思ったら、病気にかかって死んでしまうということも少なくありません。そうであるなら、日の下だけを見て労苦することがどんなに空しく、悲しいことであるかがわかります。そこには絶望しかありません。

しかし、私たちは日の下だけではなく、日の上があることを知っています。そして、日の下での私たちの労苦はその日の上でのためであり、そこでもたらされる報いにつながるものであるということを知っているのです。Ⅰコリント15:58には、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」とあります。「ですから」とは、私たちは、一瞬のうちに変えられるのですから、という意味です。すなわち、終わりのラッパが鳴るとき、死者は朽ちないからだ、栄光のからだ、霊のからだによみがえるからです。そのとき、「死は勝利に呑まれた」と記されたみことばが実現します。そうです、神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利と希望を与えてくださいました。「ですから」です。この死に対する勝利、永遠の希望が与えられている人にとって、日の下での私たちの労苦は決して無駄ではありません。確かにどんなに労苦しても、人は死ななければならない存在であることを思うと、この地上での労苦に何の意味も見出せないかもしれませんが、しかし、日の下での労苦が日の上に続くものであることを知るなら、それは決して無駄ではないことがわかるのです。この地上で主に対して行われた労苦が、天の上でもたらされる報いから漏れることがないということを思うとき、むしろ、喜んで主のわざに励むことができるのです。

Ⅲ.神のみこころを求めて(24-26)

ですから、第三のことは、神のみこころを求めて生きましょうということです。24~26節をご覧ください。「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

「食べたり、飲んだりして」とは、ただいのちをつなぐだけの人生のことです。人には、食べたり飲んだりして自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがありません。しかし、そのようにすることもまた、神の御手によるのです。つまり、それもまた神の恵みによるのであって、神を除外してはあり得ないことなのです。実に神から離れては、だれも食べだれも楽しむことはできません。イエス様はマタイ6:34で、「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」と言われました。明日のための心配は無用です。明日のことは、明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。だれが、明日どうなるかを知っているでしょうか。私たちは、しばらくの間現れてすぐに消えてしまう霧にすぎません。であれば、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをとよう」と言うべきではないでしょうか。ヤコブは、彼の手紙の中でそのように勧めています(ヤコブ4:13-15)。それなのに私たちは、「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言うのです。これは、神を無視して富だけを追及する罪人たちへの警告であります。罪人は神を無視して富だけを追い求めるので、日毎に与えられる糧にさえ満足できないのです。使徒パウロは言いました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

それゆえ、伝道者の結論は何かというと、26節です。ご一緒に読みたいと思います。「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

神のみこころにかなう生き方をする人には知恵と知識と喜びが与えられるが、罪人には労苦の人生が与えられることになります。この伝道者の書のことばで言うなら、こういうことです。12:13-14、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

あなたはどうですか。食べること、飲むことに執着するあまり、それを豊かに与えておられる神に目を向けているでしょうか。

リビングライフのエッセイに、韓国のイ・チェチョルさんの証があります。ハンさんという聖徒が日曜日に礼拝をささげるために子どもたちと一緒にタクシーに乗りました。料金を払おうとして1万ウォンを出すと、運転手はおつりがないと言いました。ハンさんは子どもたちから小銭を借りて支払いましたが、その運転手から1万ウォンを返してもらっていないことに気付きました。しかし、手遅れでした。タクシーはもう行ってしまったのです。ハンさんは不愉快になりました。しかし、その瞬間「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)とのみことばが思い浮かび、「神様がお金に対する執着を捨てる訓練をさせてくれているのだ」と悟り、心が平安になりました。
子どもから借りたお金を返そうと近所の店で両替していると、子どもが叫びました。「お母さん!さっきタクシーのおじさんが、道の向こう側から窓の外に1万ウォンを振りながら小道に入って行ったよ。行ってみよう。」
しかし、ハンさんは次のように答えました。「いいのよ。あのおじさんは、あのお金を受け取る価値がある人なの。あの1万ウォンよりももっと大切な平安をお母さんにくれたんだから。」そして道を歩きながら心の中で祈りました。「イエス様、もしあの人がイエス様のことを知らないなら、きょうをきっかけに主を信じて、この平安が与えられますように。」

すごいですね。生活のすべてに主が生きて働いています。「主のみこころなら、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」というみことばに生きておられます。これこそ、伝道者が見出した結論でした。

あなたはどうですか。人は、神から離れては真の幸福を得ることはできません。それがなかったら、すべてが空しいだけでなく、絶望的な人生となってしまいます。しかし、神を恐れ、神とともに生きるなら、そこに感謝と喜びと平安が溢れるようになります。実に、人の幸せは神の御手にかかっているのです。神が恵みを施してくださらない限り、私たちは生きることがでないのです。神を喜ぶ人、神を喜ばせる人、神を第一にして生きる人に、神はこの世の知らない平和と喜びとあらゆる恵みを与えてくださいます。人の手ではなく、神の御手によるものが、私たちを幸せにするのです。

伝道者の書2章1~11節「あなたの心を満たすもの」

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前回から伝道者の書を学んでおります。前回もお話ししたように、この書のポイントはこれです。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「日の下」というのは「日の上」に対する表現で、神様抜きの、神様なしのという意味です。神様なしの人生は、実に空しい。どんなに楽しいことやすばらしいことをやっても、イマイチ心が満たされません。喜び、平安がありません。全然ないと言っているのではありません。イマイチなのです。それをやっている時はいいのですが、その後で急に空しさが襲って来ることがあります。日の下でどんなに労苦しても、それは人にとって何の益にもならないのです。

伝道者は「空の空。すべては空。」という言葉を繰り返して語っています。「空」という言葉は、文字通り「空っぽ」という意味です。実がないのです。見てくれは良くても、中身は空っぽです。それは煙のようにつかみようがありません。伝道者はいろいろな人生の経験を通して、このことを語るのです。たとえば、知恵とか知識ですね。人はみないろいろなことを学びたいし、知りたいです。私たちは好奇心でいっぱいですのでどの本屋さんも、どの図書館も、いつも人が絶えません。新しい情報、新しい知識、そうした知的関心や好奇心が旺盛なのです。しかしこの伝道者は、1:16に「今や、私は、私より前にエルサレムにいただけよりも、知恵を増し加えた。」とあるように、いろいろなことを知ろうと熱心に知恵、知識を増しました。もう知識王ですよ。もしクイズ王決定戦にでも出ようものなら、ピンポーン、ピンポーンと、すぐにスイッチを押して答えられるような人でした。本当にいろいろなことを知っていて、彼に抜きん出るような人はいませんでした。それほどよく学んだ人だったのです。

ところが、それほど多くの知識を得た伝道者は何と言いましたか。1:17には、「それもまた、風を追うようなものだ。」とあります。「空」です。「ヘベル」です。いろいろなことを学び、いろいろなことを探究しましたが、彼の心にあったものは、風を追うようなもの、つまり、何とも掴みようのないもの、ヘベルだったのです。むしろ、知恵が多くなることで皮肉なことに悩みも多くなりました。知識を増したことで、苛立ちも増しました。何か物事が整理できたかというとそうではなく、学べば学ぶほど、聞けば聞くほど、知れば知るほど、逆に心の中には喜びや満足感といったものが消え失せ、不安や恐れ、空しさが残ったのです。きょうの箇所はその続きです。

Ⅰ.快楽を味わってみて (1-2)

まず、1節と2節をご覧ください。「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」

伝道者が次に試してみたのは快楽でした。快楽を味わってみるということです。彼は心の中でこう言いました。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」彼は人生を十分楽しむことができれば、人は幸せになることができるのではないかと考えたのです。ソロモン王は最高の知者であるのみならず、富者、大金持ちでもありました。列王記第一10章を見ると、彼がどれほどの富を持っていたかがわかります。彼のところには1年間に666タラント、すなわち、数億円もの金が入ってきました。このほかに、隊商から得たもの、貿易商人の商いから得たもの、アラビアのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがありました。彼は、大縦1つに六百シェケルの金を使いました。大盾とは、足から頭まですっぽりおおってしまう大きな盾のことですが、これをすべて延べ金で作ったのです。六百シェケルは数十万円の価値になるでしょうか。金ですから、初めから戦うための実用性はなく、威光を表していた過ぎません。また延べ金で盾三百を作り、レバノンの森の宮殿に置きました。そこには大きな象牙の王座を作り、これにも純金をかぶせました。彼が飲み物に用いる器もすべて金です。レバノンの森の宮殿にあった器もすべて純金で、銀の物はありませんでした。銀はソロモンの時代には価値あるものとは見なされていなかったのです。それだけ富んでいたということです。私の名前も富んでいる男ですが、数億倍、いやそれ以上の違いがあります。信じられないほど富んでいました。ということはどういうことかというと、どんな快楽でも味わうことができたということです。

まあ、私たちも庶民の快楽を味わうことがあります。この辺は温泉も近いですから、ちょっと車を走らせるとゆったりと温泉に入ることができます。佐久山温泉。那須温泉。大田原温泉。喜連川温泉。いろいろありますね。私も温泉に入るのは好きですが、もう一年以上行っていません。寒い日などに行くことがありますが、本当に気持ちがいいです。他にも、楽しいことはたくさんあります。私の趣味は食い道楽なんですが、さくらに向かう途中、佐久山温泉の近くに小さな和菓子屋さんがあって、そこを通るたびに「アンドーナッツあります」という張り紙がしてあるんです。しかも、土日限定です。私は小さい時から母が買ってくれた「あぶら饅頭」の味を忘れられず、そこを通るたびに「ああ、食べたい」「ああ、食べたい」と言うものですから、家内が「だったら買って食べたら」と言うので買おうと思っても、いつも「本日完売」の張り紙が出ているのです。そうなると、ますます食べてみたくなるでしょう。ある日曜日さくらの教会に行く途中で言ってみたらありました。しかも最後の1袋でした。1袋に3つしか入っていなかったので、教会の皆さんの分はないなと、家内に1つ、私が2つ食べました。しかし、思っていたような味じゃなくてがっかりしました。でも楽しいものです。食べ歩きは。

中にはカフェに行ったり、映画を観たり、野山を散策したり、釣りに行ったり、スポーツを観戦したり、農作物を作ったりと、いろいろなことを楽しんでおられるのではないかと思いますが、ソロモンが味わったのは私たちのそれとは比較にならないものでした。ありとあらゆる快楽を味わうことができたのです。そのソロモンが感じたことはどんなことだったか。1節、「しかし、これもまた、なんと空しいことか。」何とも冷めた言い方です。そうした快楽や楽しみは全く無意味なものであり、何の実りももたらさなかったのです。

2節をご覧ください。ここには、「笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」とあります。第三版は、「笑いか。ばからしいことだ」と訳しています。笑いは、内容にもよりますが、おもしろいですよね。私はよく「笑点」をよく見ますが、一つのお題に対して回答者が答えるわけですが、実におもしろい。よくぞまあこんなことを考えられるものだなあと感心してしまいます。何だか心が軽くなるのを感じます。でもそんな笑いさえも、この伝道者は狂気だと言い切るのです。もちろん、ここで伝道者が言っていることはそうした笑いそのものがばかばかしいとか、趣味や楽しいことが全く無意味だということではありません。ここで伝道者が言っていることは、日の下で行われること、つまり、神を抜きにしての快楽や笑いは空しいということです。人間が自らの手で満足を作り出そうとすることの愚かさを言っているのです。というのは、その背後には狂気と悲しみが潜んでいるからです。この新改訳聖書2017で、「笑いか。それは狂気だ。」と訳しているのはそのためです。神を無視した人生において、どんなに快楽と笑いを求めても、結局それは意味のないことであり、何の役にも立たないのです。

心に病を抱えているひとりの男の人が、精神科医を訪ねました。彼は、極度のうつ病で苦しんでいたのです。それであらゆることを試してみましたが、なんの効果もありませんでした。朝目が覚めると、心に重いものがありました。その状態は、時間の経過とともに悪化して行きました。彼はこのままでは生きていくことができないと思い、助けを求めて精神科医のところに行きました。

その日の診察が終わって部屋を出ようとした時、精神科医からこんな提案を受けました。「町の劇場でショーが行われているから、それを観に行くといいですよ。イタリア人のピエロが出ています。彼は毎晩、腹がよじれるほど観客を笑わせてくれます。あなたもそれを観て苦しいことを忘れ、2時間ほど笑ったらどうですか。治療効果があると思いますよ。」
するとその患者は、無表情でこう答えました。「私がそのピエロなんです。」

ですから、ここで伝道者はやみくもに快楽や笑いはみな悪いものだとか、必要ないものだと言っているのではありません。クリスチャンはこうした楽しいことをすべて避けるようにと勧めているわけでもないのです。むしろ、クリスチャンも笑いのある楽しい生活であったらいいと思います。しかし、その楽しみというのはこの世の楽しみとは違い、日の上での楽しみ、神の御前で喜ぶことです。

ダビデは、人生における真の喜びについてこのように歌っています。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)

クリスチャンの喜びとはこれでしょう。神の御前での喜びです。ダビデが経験した喜びは、この喜びでした。「日の下」ではなく、「日の上」での喜び、神の御前での喜びだったのです。あなたの御前には喜びが満ち溢れ、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

いつだったか忘れましたが、私がまだ20代の頃、アメリカの家内を日本に派遣した教会の礼拝に行った時のことです。その教会の青年の方々が私たちを歓迎して礼拝後にポットラックパーティーを開いてくれました。その教会の牧師は、今はもう天国におられますがキュースターという牧師で、日本の宣教にとても重荷をもっておられた方で、私たちがアメリカに帰国するたびにいつも暖かくもてなしてくれました。その牧師から依頼されたのでしょう。青年の方々が私たちのために楽しい時を計画してくれたのです。

私たちが連れて行かれたのはある若い夫婦の家でした。バックヤードにはプールがあって、バーベキューができるスペースもありました。彼らはそこで思いっきりはしゃいでいました。私たちをウエルカムするのかと思ったら、私たちのことはそっちのけで、キャー、キャー言いながら自分たちが思いっきり楽しんでいるのです。そうかと思ったらランチの後で私たちについて話を聞きたいと言い、真剣に聞いて祈ってくれました。オンとオフがはっきりしているんですね。別に気取らないし、かた苦しさもないのです。本当にリラックスした一時でした。日の上での喜び、神の御前での楽しみというのはこういうことなんだなぁということを教えられたような気がしました。

Ⅱ.愚かさを身につけてみて(3-8)

次に、3節から8節までをご覧ください。3節には、「私は心の中で考えた。私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけよう。人の子がそのいのちの日数の間に天の下ですることについて、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていよう。」とあります。

そこで伝道者が次に考えたことは、ぶどう酒によって元気づけられることでした。ぶどう酒は伝道者が好んでいたものです。最良のぶどう酒を飲めば、からだは元気づけられるだろうと思ったのです。さらに「愚かさ」も身に着けてみることにしました。「愚かさ」とは1:17にも出てきましたが、「知恵」と真逆のものです。そこにも、知恵と知識を、そして、念のためにその真逆の狂気と愚かさを知ろうと心に決めたとあるように、自由奔放に生きる方が楽しいとは思うが、何が良いかを見つけるまでは、念のために愚かさも試してみようとしたのです。しかし彼の心は知恵によって導かれていたので、完全に愚かになることはありませんでした。心のどこかでブレーキをかけながら、からだはぶどう酒で元気づけようとしたのです。そういう時がありますよね。ちょっと羽目を外してみようと思っても、心のどこかでブレーキをかけているということが。そうやって少し愚かさを試してみようとしましたが、それでも彼の心が満たされることはありませんでした。

そこで伝道者が次にしたことは、自分の事業を拡張することでした。4-6節をご覧ください。「私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。」

すごいじゃないですか。彼は自分に与えられた仕事や、さまざまな事業をどんどんやる人でした。今日でもすばらしい事業家、サクセスストーリーを歩んでいる人がいます。ソロモンも彼は彼なりにその時代、自分に与えられた仕事に一生懸命打ち込み、事業を拡大していったのです。そして豪邸も建てました。広々としたぶどう畑もいくつも造りました。立派な庭園も造りました。そんな暮らしにあこがれませんか。私の家の前はセブンイレブンなので、もっと静かで森に囲まられたところでクラスことができたらなぁと思うことがあります。ソロモンにはそれがありました。いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹も植えました。いいですね。園を歩きながらリンゴを取っては食べられる。いろいろな果実をとってそれをシリアルに入れれば、あとは牛乳を注ぐだけです。そして、その森を潤すために池も造りました。もう彼の右に出る人はいませんでした。それくらいのすばらしい事業を展開していたのです。

一方でまた男女の奴隷もいました。7-8です。「私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。」

ここをよく見ると、家で生まれた奴隷も何人もいたとあります。つまりお金で買った奴隷だけでなく、自分が所有していた奴隷が生んだ奴隷がいたということです。それだけ多くの奴隷がいたわけです。当時はどれだけ奴隷を所有しているかも、その人の豊かさのステータスであり、一つのバロメーターだったのです。そして同じ7節には、「私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。」とあります。羊何頭、牛何頭を所有していたというのも、その人がいかに豊かな人であったか、富裕な人であったかを表していました。

そしてまた彼は、自分のために金や銀、それに王たちの宝や諸州の宝も集めました。もう珍しい金銀財宝をいっぱい手にすることができたのです。先ほども紹介したように、列王記第一10章を見ると、彼は銀を石ころのように使ったとあります。そしてシェバの女王など、諸国が宝をもって彼のところに貢ぎました。かつては無名の若い青年でした。そのソロモンが一代でここまで築くことができたというのはすごいことです。普通なら先代の成し遂げた事業の上にそれを拡張していくわけですが、彼は一代でここまで財を築きました。どれほど頑張って来たかがわかります。

さらに彼は男女の歌い手を得ました。ニューヨークのエンターテーメント、音楽、ショーを、毎晩自由に楽しむことかできたということです。そして人の子らの快楽である、多くの側女も手に入れました。列王記第一11章には、彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがいたとあります。そんなに妻がいれば名前を覚えるも大変だったと思いますが、彼はそれだけの女性がいれば充足できるのではないかと思ったのです。しかし残念ながらその結果は、そうした妻たちによって心が転じられてしまうということでした。彼の心がほかの神々へと向けられ、イスラエルの神、主から離れることになってしまったのです。結局、そのようなものによって心が満たされることはありませんでした。後に残ったのは何ですか?ただの空しさだけでした。

いったい何が問題だったのでしょうか。決して事業を拡張したり、邸宅を建てたり、いくつものぶどう畑を設けたり、きれいな庭や園を造ったりすることが問題なのではありません。問題は、それがすべて自分のためであったことです。この4節から8節までには「自分のために」ということばが繰り返して用いられていることがわかります。「自分の事業を拡張し」、「自分のために邸宅を建て」、「自分のためにいくつものぶどう畑を設け」、「自分のためにいくつもの庭と園を造り」、「自分のためにそこにあらゆる種類の果樹を植え」ました。また、「自分のために銀や金」を集め、「自分のために男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れました。」全部自分のためです。それは、自分の欲求にしたがって事業をするのだという意図です。

イザヤ書55:2にはこうあります。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。」

神に聞き従うことが、私たち人間にとって最良の食物なのです。自分のためではなく、神のために働き、神のために邸宅を建て、神のためにぶどう畑、庭や園、池を造り、神のために金銀財宝が用いられるなら、神の喜びと栄光で満たされるのです。

Ⅲ.すべてが空しい(9-11)

第三に、その結論です。9節から11節までをご覧ください。「こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

こうして彼は偉大な者となりました。それ以前にエルサレムにいただれよりも、です。彼は最高の富める者、富者になりました。しかも、その間、彼は知恵を失うことはありませんでした。9節後半の「私の知恵は私のうちにとどまった」とは、知恵を失うことがなかった、つまり、正気を保ったということです。もう知恵も豊かで、近くの国の王たちが謁見にやって来るほどでした。彼はそれほど知恵においても、働きにおいても、富においても、何事においても、成功した人だったのです。いろんな苦労もあったでしょう。しかし10節を見てもわかるように、彼はどんな苦労もいとわず、その苦労に立ち向かっていきました。しかし、どんなに物を手に入れても、いくら心の赴くままに、あらゆることを楽しんでも、彼の心が満たされることはありませんでした。彼は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った結果、こう言いました。11節です。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

本当に信じられないことばです。あんなにビジネスで成功し、立派な邸宅を建て、多くの財を築き、何もかもうまく行き、心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しむことができたソロモンが、その労苦を振り返って発した言葉は、「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。」ということだったのです。ここには書いてありませんが、ため息を入れるとピッタリするかもしれませんね。「見よ。すべてが空しいことか。ハァ~。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」これが、この時点における伝道者の正直な思いでした。私たちから見ればもっと喜んでいいはず、もっと感謝していいはず、もっと幸せですと言っていいはず、もっと私の人生は本当にすばらしいと言っていいはずなのに、彼は「空しい」と言ったのです。「すべては空しく、風を追うようなものだ」と。

何がこの伝道者の心に足りなかったのでしょうか。何が彼をしてそのように言わしめたのでしょう。その答えは11節の最後に書かれてあります。つまり、「日の下には何一つ益になるものはない。」ということです。「日の下」とは、先ほども申し上げたように、神様なしの、神様を無視した、ただ自分のために生きる人生という意味です。それが人の目にどんなに魅力的なもののように見えても、神様抜きの生活は空しいのです。それは、人は神のかたちに造られているからです。人は神と交わりを持ち、神のいのちをいただいてこそ、真に生きることができるからです。前回も紹介しましたが、そのことをパスカルは、「私の心には、本当の神以外には満たすことができない、真空がある」と言いました。私たちの心には、本当の神以外には満たすことができない真空があるのです。それが満たされて初めて、人は生きることができるのです。それを満たすことができるのは、唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストだけです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)とあるとおりです。ですから、救い主イエス・キリストを信じ、罪を赦していただいて、神のいのち、永遠のいのちをいただき、神と共に生きるとき、私たちは何をしても喜ぶことができるし、感謝することができるのです。それが上からの知恵です。

現代を生きる私たちも、この伝道者の生き方から学ぶべきです。物や快楽は、私たちに本当の喜びや満足をもたらすことはできません。大切なのは「何を手に入れ、何を成し遂げたか」ということではなく、「どのような人になり、どのように生きたか」ということです。あなたは何を求めて生きていらっしゃいますか。この世の富や快楽、名誉ですか。そうした物欲による葛藤や競争ではなく、日の上の喜び、神の国とその義を第一に求める生き方こそ、私たちが求めなければならないものです。

アメリカ中西部になだたる金持ちがいました。彼は、愛する娘にどのような遺産を残こしたらよいかを考えました。現金、証券類、株、不動産などと考えていきましたが、それらの遺産では満足できませんでした。そうした物質的なもので人は幸せになれないことを、十分に経験していたからです。
「信仰以外に、人を真に幸福にするものはない」ついに彼は、信仰が最も安心できる遺産であるとの結論に達しました。しかし、そこには大きな問題がありました。彼はお金持ちではありましたが、信仰を持っていなかったからです。そのうえ、信仰というものは娘自身が選び取らなければなりません。
「そうと決まったら、自分自身がまずその信仰を手に入れることだ」と、彼は聖書を読み始め、ついにイエスこそ救い主であると信じるに至りました。その結果、娘を誘って教会に行くようになったのです。

どうぞ、この伝道者のことばを聞いてください。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものです。日の下には何一つ益になるものはない。」(11)しかし、日の上には、あなたを真に満たすものがあります。神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さるということを、私たちは知っています。この神の下に来てください。イエス・キリストがあなたの救い主です。イエスはあなたを満たすことがおできになります。この地上のことに振り回された生き方から、主のみこころにかなった生き方へと、主体的に生きることができるようになります。それは、真にあなたの心を満たしてくれるでしょう。私たちは今朝、私たちに与えられているものがどんなに価値があり、真に私たちの心を満たすものであるかを知り、主だけで満足する人生を選び取る者でありたいと思います。

出エジプト記32章

出エジプト記32章から学びます。

Ⅰ.金の子牛(1-6)

まず、1-6節までをご覧ください。「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。」

モーセがシナイ山に登り40日40夜主と会っている間、地上ではどんなことが起こっていたでしょうか。1節には、「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」とあります。彼らの心は、モーセがいなくなると主から離れてしまいました。神の時を待つことができず、自分たちの手で神に代わるものを求めたのです。それが、過去に慣れ親しんでいたエジプトの神の一つであった子牛でした。彼らは、自分の手で安心を勝ち取ろうとしたのです。つまり、自分たちを守り導いてくれる神を造り出そうとしたのです。エジプトから救い出されたという神の救いの力を体験しても、神の臨在が感じられなくなると、過去のもの、目に見えるものに心が奪われてしまったのです。人は目に見えないものを待ち望むのができません。その代わりに目に見えるもの、手っ取り早いものを造ろうとします。それで彼らもアロンに、自分たちに先立って行く神を求めたのです。

それでアロンは、彼らの妻や息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外させて、自分のところに持って来るように言いました。そしてそれをのみの鋳型に流し込み、鋳物の講師にしたのです。そしてこう言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」そして、翌朝その金の子牛の像に全焼のささげものを捧げ、交わりのいけにえを捧げました。

それにしても、どうしてアロンまでもが民の要求を受け入れ金の子牛を造ってしまったのでしょうか。アロンはそれが罪であるということを十分知っていたはずです。人を恐れたからです。「人を恐れるとわなにかかる。」(箴言29:25)とあります。アロンは人を恐れてしまいました。このままでは民は何をするかわからない。だから、民の怒りを鎮めるために彼らの気持ちを満足させなればならない。それで民が要求したとおりのことを行ったのです。しかし、彼は人ではなく、神を恐れるべきでした。神を恐れる者は守られるのです。

このようなことは、私たちにもよくあります。人を恐れることてしまうことがあるのです。それで、人の顔色を伺いながら話したり、行動したりするのです。しかし、「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主を恐れる者は守られる。」とあるように、人を恐れるのではなく、主を恐れ、主にのみ従う者でありたいと思います。

Ⅱ.モーセのとりなし(7-14)

次に、7-10節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」

主は、そのことをモーセに伝えます。そこには、イスラエルの民に対する主の悲しみが表れています。7節には、イスラエルの民を「わたしの民」と呼ばないで、「あなたの民は」と呼んでいます。ご自分の民と呼ぶはずの親密さが無くなっているのです。そして、「堕落してしまった」と言っています。これは創世記6:12で、ノアの時代の人々が堕落した時に使った言葉と同じです。すなわち、ノアの時代の人々が水によってさばかれた時に匹敵する罪を行ったということです。

9節には「うなじを固くする民だ」とあります。「うなじを固くする」とは、これからもよく出てくることばですが、これは馬の乗り手が手綱で馬を引いても全然言うことをきかない状態のことを指しています。まさに彼らの心はかたくなで、どんなに神がみことばを語っても聞こうとしませんでした。

そのような彼らに対して、主は断ち滅ぼすと言われましたが、モーセに対しては、彼を大いなる国民とすると言われました。これはモーセにとって大きな誘惑であったにちがいありません。彼らが滅ぼされても自分は大いなる国民となるのだから。

しかし、モーセはそのことを良しとせず、主に嘆願してこう言いました。11-14節です。「しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると【主】は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」

彼はまず、「ご自分の民に向かって、どうして、御怒りを燃やされるのですか。」と言いました。彼らは神が創造された民であるばかりでなく、その偉大な力と力強い御手をもってエジプトの地から導きだされた民です。それほど愛されたご自身の民なのです。その民に対してどうして御怒りを燃やされるのでしょうか。

そんなことをすれば、神の名がそしられることになってしまいます。12節には、「どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。」とあります。そんなことをしたらエジプト人たちが神の名をそしることになるでしょう。ですから、彼らのためだけでなく主の名誉にかけて、その名誉が傷つけられないためにも、わざわいを思い直してくださいと訴えたのです。

そればかりではありません。ここでモーセは神の約束にも訴えています。13節には、「あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」」とあります。

つまり、モーセは神の贖い、神の御名、神の約束に訴えて、彼らを滅ぼさないでくださいと懇願したのです。徹頭徹尾、神を中心に、それを前面に押し出して訴えたわけです。イスラエルの民の正しさ、理屈などは一切関係ありません。ただ神の義に訴えたのです。これが神のみこころにかなった祈りです。私たちがだれかの救いのために祈るとき、それはその人がどういう人であるかということ以上に、それが神にとってどういうことなのかを考えて祈らなければなりません。

すると、主は何と言われましたか。14節です。「すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」どういうことでしょうか。主が考え直すということがあるのでしょうか。Iサムエル15:29には、「実に、イスラエルの栄光であられる方は、偽ることもなく、悔いることもない」とあります。神は悔いることのない方です。ですから、神の御心が変わることはありません。それなのに、ここで神の御心が変わったかのような印象を与えているのは、モーセにとりなしの祈りの機会を与えるためだったのです。ここに祈りの本質があります。私たちの祈りも、神の御心を変化させるためではなく、神の御心がなるようにというものなのです。

Ⅲ.懲らしめ(15-29)

次に、15-20節までをご覧ください。「モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中に戦の声があります。」モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。」

モーセが二枚の石の板を手にして山の中腹まで降りて来ると、そこに留まっていたヨシュアが麓で民が叫ぶ声を聞いて、「宿営の中にいくさの声が聞こえる」と言いました。それは何の声か?それは勝利を叫ぶ声ではなく、歌いさわぐ声でした。すなわち、民が金の子牛の前でどんちゃん騒ぎをしている声でした。モーセは宿営に近づき、そこで子牛と踊りを見るなり怒りが燃え上がり、手にしていたあの二枚の石の板を投げ捨て、山のふもとで砕いてしまいました。そして、彼らが造った子牛を火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らすと、イスラエル人に飲ませました。これはどういうことかというと、イスラエルの民が神の戒めをことごとく破ったことに対する神の怒りを表すものであり、それがどれほどこの大きな罪であるかを示し、もう二度と同じ罪を犯すことがないようにとその苦さを味わうようにさせたのです。

21-29節をご覧ください。「モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」アロンは言った。「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』それで私は彼らに『だれでも金を持っている者は、それを取り外せ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」モーセは、民が乱れていて、アロンが彼らを放っておいたので、敵の笑いものとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも【主】につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。モーセは言った。「あなたがたは各自、その子、その兄弟に逆らっても、今日、【主】に身を献げた。主があなたがたに、今日、祝福を与えてくださるように。」

モーセがアロンに、「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」と言うと、アロンは何と答えたでしょうか。彼はまず「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。」と言いました。つまり、民は本質的に悪い性質を持っていると言い訳したのです。つまり、自分の責任逃れです。

さらにアロンは、民がそのことを自分に強く要求したのだ、と答えています。「彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』」(23)ここでアロンは、なかなか山から降りて来なかったモーセにも責任があるのではないかと訴えていいます。

極めつけは、子牛は自然に出て来たという言い訳です。「民が、自分たちに先立って行く神々を作ってほしいというので、彼らが身に着けていた金を集めて火の中に入れたところ、この子牛が出て来たのです。」(24)そんなことがあるはずないじゃないですか。アロンがのみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にしたのです。それなのに、彼は火の中に金を入れたら子牛が出て来たかのように言いました。全く反省の色がありません。なぜアロンはこのようなことを言ったのでしょうか。申9:20に、「主はアロンに向かって激しく怒り、彼を滅ぼそうとされたが・・」とあることから、彼はそれを恐れたのではないかと思います。

モーセは民が乱れていてアロンが彼らを放っておいたので、敵の物笑いとなっているのを見て、神のさばきを執行します。モーセについたレビ族によって、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺すというさばきを行ったのです。その日、民のうち約三千人が剣で倒れました。なぜこのようなことをしたのでしょうか。それは、神の共同体の中に聖さがなくなれば、共同体全体が崩壊してしまうことになるからです。これは旧約聖書だけの話ではありません。新約聖書にも、アナニヤとサッピラの事件が記録されています。地所の代金の一部を自分のために取っておいたアナニヤとサッピラは、息が絶えてしまいました(使徒5:5)。また、父の妻を自分の妻にしていた者に対して、自分たちの中から取り除くべきだと言っています(Ⅱコリント5:2)。それは、わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることになるからです。その結果、どうなったでしょうか。アナニヤとサッピラの事件の時は、「これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」(使徒5:5)とあります。しかし、こうした執行は決して人間の思いとは違うので、これを行う時にはかなり注意が必要となります。

ところで、この時、主についたのは誰でしたか?レビ族です。彼らはモーセを通して主が語られた通りに自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺しました。愛する家族を殺すことはなかなかできません。しかし彼らは家族よりも主のみこころに立ったのです。なぜ彼らは主のみこころに立つことができたのでしょうか。それは、彼らが学んでいたからです。

創世記34章をご覧ください。ここには、シメオンとレビの妹ディナがヒビ人ハモルの子シェケムに犯されるという事件のことが記録されてあります。その解決のために出された条件は、互いに婚姻関係を結ぶということでした。しかし、割礼を受けていないヒビ人のところへイスラエル人をとつがせるわけにはいきません。そこで割礼を受けてイスラエルのようになるならそれを受け入れましょうと提案すると、ヒビ人はその条件を受け入れ、割礼を受けることになりました。ところが、彼らが割礼を受けて三日目になって、ディナの兄シメオンとレビが剣を取って何なくその町を襲い、ハモルとシェケム、そしてその町のすべての男子を殺してしまったのです。このことはヤコブにとって困ったことでした。なぜなら、そのことによってカナン人とペリジ人に憎まれることになったからです。シメオンとレビの問題は何だったのでしょうか。シェケムの住人を許せなかったということです。彼らはその過ちから学んだのです。

私たちも、主のみこころに立てず、時に失敗することがあります。しかし、その失敗をいつまでもくよくよするのではなく、そこから学ぶことが大切です。その失敗を次の機会に生かさなければなりません。レビ族はかつての失敗から学んでいました。そして、このような主のさばきを執行する苦しい局面でも、主につくことができたのです。

Ⅳ.神の書物(30-35)

最後に、30-35節を見て終わりたいと思います。「翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は【主】のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。」そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」【主】はモーセに言われた。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。」こうして【主】は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。」

モーセは、罪を犯したイスラエルの民をいさめると、主のもとに上って行きました。彼らの罪の宥めをすることができるかもしれないと思ったからです。そこで彼は主のもとに上って行くと、驚くべき祈りをささげました。それはもし、主が彼らの罪を赦してくださるのなら、自分の名前を神の書物から消し去っても構わないということです。この「あなたの書物」とは何でしょうか。これは「いのちの書」のことです。ルカ10:20で主イエスは、70人の弟子たちに対してこう言われました。「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と。また黙示録3:5には、「彼の名をいのちの書から消すようなことは決してない。」と言われました。この「いのちの書」のことです。だからここでモーセが言っていることは、彼らが天国に入るために、代わりに自分を地獄に送ってくださいということだったのです。かつてパウロも同胞ユダヤ人の救いのために同じように祈りました(ローマ9:3)。モーセは、それほどの愛をもって祈ったのです。

けれども主は、モーセの祈りを聞かれませんでした(33-34)。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。」と言われました。こうして主は民を打たれました。二十歳以上の男子はみな荒野で死に絶えたのです。それは35節にあるように、アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからです。アロンはモーセに代わって民を治めなければならなかったのにそれを怠り、民が欲していたこと、民が願っていたことにそのまま追従してしまいました。これは主に仕えるということではありません。主に仕えるとは主の御心を行うことです。人を恐れるとわなにかかる。しかし、主を恐れる者は守られる。この神を恐れ、神の中に人々を導いていくこと。そのために労することが求められているのです。

Ⅰサムエル記27章

今日は、サムエル記第一27章から学びたいと思います。

Ⅰ.ペリシテの地に逃れたダビデ(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。「ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住んだ。ダビデも、その二人の妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルと一緒であった。ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度と彼を追おうとはしなかった。」

ダビデのいのちを狙ったサウルでしたが、主はダビデの信仰(26:24)に報いてくださり、ダビデをいのちの危険から救い出してくださいました。サウルはそんなダビデを祝福し、自分のところに戻ってくるようにと勧めましたが、ダビデはそんな彼の申し出を断り自分の道を行きました。

自分のところに帰ったダビデは、心の中でこう言いました。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」

それで彼は、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王アキシュの所へ行き、彼のもとに住みました。そこは以前ダビデがサウルの手から逃れて間もなくして行った所です。そのときは、アキシュの家来がそれがダビデであると見破ったことで、ダビデは気違いを装うことでその窮地を逃れることができました。それなのに、彼はまたペリシテ人の地ガテに行ったのでしょうか。ここには、「そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」とあります。つまり、彼の心を動かしていたものは、サウルに対する恐れだったのです。それにしても、彼はこれまでも様々な困難の中でもずっとイスラエルの地にとどまり、サウルに対峙してきました。また、自分を侮辱したナバルの家をこっぱみじんにしてやろうと思った時も、アビガイルのとりなしによってその過ちに気が付き、すべてのさばきを主にゆだねました。そして前回も自分を追って来たサウルに対して、その陣営の中に忍び込み、サウルが寝ているそばにあった水差しと槍を取って、さばきを主にゆだねました。彼は多くの困難と試みの中でも主に拠り頼むことで、サウルの手から逃げてきたのです。ところが今彼はそのサウルから逃れるために、イスラエルの敵であるペリシテ人の中に住むことに決め、渡って行ったのです。それは彼の不信仰から出たことでした。ダビデほどの信仰者でも、その信仰が揺らぐことがあるのです。

彼の気持ちもわからないわけではありません。これまでずっと緊張した中にいて、疲れてしまい、もうこんなに緊張しながら生きるのは懲り懲りだと思ったのかもしれません。ダビデはこれまで、人間的な方法を使えばいくらでも使えたのに、それを拒み続けてきました。サウルを殺そうと思えば殺すことができたし、ナバルを殺そうと思えば簡単にできました。しかしあえて、さばきを主にゆだねてきたのです。けれども、こうしたことに疲れてしまい、ほっとできる場がほしかったのでしょう。  けれども、人間的に考えて安全であると考えられる場、いくらほっとできるような場であっても、信仰者にとってはそうではあるとは限りません。イエスさまを信じていながら、たとえその信仰のゆえに多くの試みがあろうとも、この世にその安住を求めることは正しい判断とは言えません。それに、この時彼には特別な啓示が与えられていました。そうです、イスラエルの王になるという約束です。それが神のみこころであるなら必ず成就します。つまり、彼はイスラエルの王になるまで決して死ぬことはないのです。これが信仰です。ところがダビデは、神の守りがあることを忘れ、自分の判断で行動しました。イスラエルの地を離れてペリシテの地に避難すること自体が間違っています。そこには、神の守りはないからです。イスラエルの地にとどまっていることはダビデにとって危険が伴いましたが、彼の成すべきことは、それでもそこに神の守りがあると信じて踏みとどまることだったのです。

このことは、私たちにも言えることです。今置かれているところは必ずしも安息があるようなところには思えないかもしれません。絶えず戦いがあり、恐れが付きまとうかもしれない。しかし、神の約束は、必ず成就します。神の約束にしっかりと踏み留まりたいと思います。自分で判断するのではなく、神のみことばと祈りによって信仰によって判断しましょう。

Ⅱ.ツィケラグを与えられたダビデ(5-6)

次に、5-6節をご覧ください。「ダビデはアキシュに言った。「もし、私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私に下さい。そこに住みます。どうして、このしもべが王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう。」 その日、アキシュはツィクラグをダビデに与えた。」

ダビデはガテの王アキシュに、ペリシテの地方の町の一つの場所をくれるようにと頼みました。それは、自分のような者が王の都であるガテに住むのは、あまりにも恐れ多いと思ったからです。しかし、それはあくまでも建て前であって、本音は、ガテからできるだけ遠くの所に身を置いて、ペリシテ人の監視の目から逃れようと思ったのです。また、ダビデは、部下たちがペリシテ人と同化することを恐れたのでしょう。たとえ異邦人の地に身を寄せたとしても、彼は自分たちがイスラエル人であるということを忘れていませんでした。

それでアキシュはダビデに、ツィケラグの町を与えました。ツィケラグはガテから30㎞ほど南に行ったところにあります。ガテからは適度な距離にありました。この町は、本来シメオン部族の領地に属していましたが(ヨシュア19:5)、この当時はペリシテ人に占領されていました。

Ⅲ.ツィケラグでのダビデ(7-12)

7-12節をご覧ください。「ダビデがペリシテ人の地に住んでいた日数は一年四か月であった。ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいた。ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしてはおかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのところに帰って来た。アキシュが「今日は、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。ダビデは男も女も生かしておかず、ガテに一人も連れて来なかった。「彼らが『ダビデはこういうことをした』と言って、私たちのことを告げるといけない」と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をした。アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。」」

ダビデはツィケラグに1年4か月間住みました。1年4か月というのは、短いようで長い年月だったでしょう。この間、ダビデはどんな生活をしていたのでしょうか。彼はツィケラグを本拠地として、部下たちとともに略奪に出かけました。彼が討ったのは、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人などです。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいました。これらの地は、実はヨシュアや士師たちの時代に完了しておくべきものでしたが、皮肉なことにそれを、不信仰に陥ったダビデが行ったのです。

ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのもとに帰って来ていましたが、アキシュに報告するときにそれを隠し、自分がユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブ、つまり、イスラエル人やその町々を攻めて来たように報告したのです。なぜでしょうか。それはアキシュに疑われないようにするためです。その嘘がバレないように、彼は略奪した町の住民を皆殺しにし、ガテに一人も連れて来ませんでした。いくら何でも、ダビデがどんなに落ちぶれたとしても、同胞のユダヤ人を殺すことはできなかったでしょう。一方、アキシュはそんなダビデをどのように見ていたでしょうか。アキシュはダビデを信用して、ダビデはいつまでも自分のしもべとして仕えてくるものと思い込んでいました。

結局ダビデは、ペリシテ人の地に1年4カ月もとどまりましたが、この間、彼の生活は決して祝福されたものではありませんでした。自分では最善と思ったことでも、それが主のみこころにかなったものでなければ、必ずボロが出ます。ダビデの場合は、嘘に嘘を塗り重ねるような生活を強いられることになりました。彼は霊的にも道徳的にも、日が当たらない者のような生活を余儀なくされたのです。それはダビデだけではありません。私たちも約束の地から離れることがあれば、ダビデと同じようになるでしょう。嘘がバレないようにと、何かに脅えながら生活するようになってしまうのです。そういうことがないように、私たちも悔い改め、神のもとに立ち返りましょう。そして、それが自分にとって状況が不利のようであっても、主がすべての苦難から救い出してくださると信じて、しっかりと信仰に留まり、神に喜ばれる道を歩ませていただきたいと思います。

伝道者の書1章1~18節「空の空 すべは空」

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今日からご一緒に伝道者の書を学びたいと思います。4月からNHKで放映されている「こころの時代、宗教・人生」という番組で、小友聡先生がこの「伝道者の書」からお話ししています。テレビで聖書の話を放映するのは珍しいと思って一度だけ観ましたが、そのタイトルがずっと心に残りました。「それでも生きる」です。ちょうど今、社会はコロナウイルスの問題で生きづらい状況にあるのではないかと思いますが、神が「それでも生きよ」と呼びかけておられるのではないかと思いました。これからしばらの間この伝道者の書からご一緒に学んでいきたいと思います。

Ⅰ.空の空 すべては空 (1-3)

まず、1~3節までをご覧ください。「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」

「エルサレムでの王、ダビデの子」と言えば、ソロモンですから、これはソロモンのことばと考えて良いでしょう。しかし、この「伝道者」という語はへブル語では「コヘレト」と言いますが、これは集会を主催する人、あるいは説教者という意味があることから、この書の著者はイスラエルの知者であり、ユダヤ教の会堂に人々を集めて「知恵」を語っていた人ではないか、その人がソロモンの名を借りて語ったのではないかと考える人もいます。それで新共同訳ではこの伝道者という語の原語である「コヘレト」から、これを「コヘレトの言葉」と呼んでいます。また英語の聖書では、「伝道者のことば」を「The words of the Preacher」と訳しています。

では、伝道者は何を伝えたかったのでしょうか。伝道者はその基本的なメッセージを最初と最後にまとめています。2節をご覧ください。ここには「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」とあります。「空」と訳されたことばは、へブル語で「ヘベル」です。これは「蒸気」とか「煙」のことを表しています。伝道者は、人生とはどのようなものかを表す比喩として、このことばを38回も使っています。つまり、人生とは煙のようにつかの間ではかなく消えていくものであり、掴みようがないものであるとうことです。皆さん、煙を掴んだことがありますか。煙は、確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。たとえば、この世には美しいもの、良いものがたくさんありますが、それを楽しんでいる最中に悲劇が起こり、すべてが吹き飛んでしまうことがあります。また、人は正義を信じていますが、往々にして善良な人に悪いことが起こることがあります。旧約聖書に登場するヨブの人生はまさにそうでしょう。そのように人生とは予想がつかず、安定せず、伝道者のことばを借りれば風を追うようなもの、つまり、「へベル」なのです。この「空の空」という言い方は、「主の主、王の王」という言い方と同じで、「空の中の空」という意味です。つまり、最も強い空しさを表しています。「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」ということです。「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」これが、伝道者が伝えたかったことです。何とも気がめいってしまうような話です。しかし、伝道者はそれだけで終わっていません。ずっと「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」と語りながら、最後にこう言うのです。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)

これが伝道者の言いたかったことです。この世のすべては空しいのだから、どこに希望を置いて生きるのか、何を見て生きるのか、どのように生きるべきなのか、そうです、結局はこれなのです。神を恐れること、神の命令を守ること、これが人間にとってすべてなのです。伝道者は、このことが言いたくて、この世がどれだけ空しいものなのかを、これでもか、これでもかと、たたみかけるように語るのです。

それにしても、なぜ伝道者はこのように言ったのでしょうか。聖書と言えばキリスト教の正典であり、だれもが心に響く言葉が書かれているものだと思っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と聞くと、そうだ、こんなことでつぶやいていちゃだめだ。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなきゃいけない。さすが、聖書の教えは違うな。神の教えだ、と思うでしょう。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)と聞けば、そうだな、なんで明日のことをそんなに心配しているんだろう。明日のことは明日が心配するんだから、神様にすべてをゆだねよう。感謝!となるのですが、「空の空。すべては空。」とあると、何だか生きる気力が削がれてしまうような気がします。それはこれを書いた伝道者が物事を斜に構えて見ていたからではありません。むしろ、こうした現実を突きつけることによって、ある一つの真実を強く訴えたかったからです。それは何でしょうか。それは、神を抜きにしての人生がいかに無意味であるかということです。一般に人々は、究極的には意味のないどうでもいいことに多くの時間とエネルギーを費やしては一喜一憂しているわけですが、果たしてそのことにどれだけの価値を見出すことができるでしょうか。そのことを伝えるために彼は、逆説的に「ヘベル。ヘベル。すべてはヘベル。」「空の空。すべては空。」「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」と最上級の表現を用いて、そうではないと、神を信じて生きることの重要さを訴えているのです。

3節をご覧ください。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」この「日の下で」ということばも、この書のキーワードの一つです。全体で29回、「地上」ということばと合わせると35回も使われています。これは地上の目に見える世界のことを表しています。それは神を忘れた人間の世界であり、神を抜きにした人生のことを意味しています。その日の下でどんなに労苦しても、いったいそれが人に何の益になるでしょうか。なりません。

人間は常により良い世界、より住みやすい世界を作り出そうと頑張ってきました。しかし、この驚くべき文明の発展が、どれだけ人の幸福につながってきたでしょうか。確かにインターネットは驚くべき発展を遂げ、社会はとても便利になりました。しかしそのことでかえって世の中が忙しくなり、みんな疲れ果てているのではないでしょうか。技術の進歩が競争を世界的なレベルまで引き上げ、私たちの心の余裕をますます奪っているのです。まさに、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」です。適度な労働は神が人間に与えてくださった祝福ですが、アダムとエバが罪を犯して以来、人間が神から離れてしまったことでその労働の真の意味が色あせてしまい、空しいものになってしまったのです。

Ⅱ.日の下には新しいものが一つもない(4-11)

次に、4節から11節までをご覧ください。日の下で、つまりこの世の人生には何の益もないということを述べるにあたり、伝道者はここでその理由を3つの角度から語ります。まず、4節です。「一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。」

人生の空しさの第一の理由は、人生はうつろいやすいということです。地はいつまでも変わりませんが、人は過ぎ去って行く存在にすぎません。新共同訳聖書ではこう訳されています。「一世代過ぎればまた一世代が起こり、永遠に耐えるのは大地。」しかし、その大地でさえ消え去ると聖書は言っています (Ⅱペテロ3:10)。こうやって見ますと、変わらないものは何もないということになります。人生はそのようにはかないものなのです。

第二の理由は、5節から7節までにあります。「日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。」

次に伝道者が上げている理由は、自然現象の繰り返しです。自然界は同じ動きを繰り返しているだけで、何か益になるものを作り出しているわけではありません。たとえば、日は上り、日は沈みます。そしてまた、元の昇るところへと戻って行きます。また風は南に吹いたかと思うと、巡って北に吹きます。つまり、ぐるぐると巡り巡って吹いているだけなのです。これは科学的にも証明されています。伝道者はそれを、今から三千年も前に知っていました。川はどうでしょうか。7節、川はみな海に流れ込みますが、それで海が満ちるかというとそうではありません。なぜ?水は蒸発して元の場所に戻って行くからです。どの川も同じ行程を繰り返しているだけなのです。これが水の循環システムです。私たちにとっては当たり前のことですが、このことは近代まで証明させていませんでした。ですから、日が昇ったり、風が吹いたり、雨が降ったりしても、実質的には昔から何も変わっていないことになります。それらは単調な、延々とした繰り返しで、何の変化もありません。

では、私たちの人生はどうでしょう。同じです。8節から11節までをご覧ください。「すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」

どういうことでしょうか。人生も同じで、満たされることはないということです。もっと、もっとと、何かあると思ってその満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。人間の労苦も同じことで、過去にあったものの繰り返しです。新しいものは何一つありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、それも昔からあったものにすぎません。たとえば、ファッションはどうでしょう。新しいファッションは、実は昔あったものと同じものであることが多いのです。考え方にしてもそうです。何か奇抜なアイデアのようなものでも、ずっと昔に既に考えられていたものです。日の下には新しいものは何一つないのです。「これを見よ。これは新しい」と言われるものは何一つありません。

しかし、日の上は違います。日の上には新しい創造があります。Ⅱコリント5:17には、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。だれでも、キリストのうちにある者は、新しく造られた者です。イエス・キリストを信じる者は、だれでも新しく造られます。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。それは、今までになかったものです。ですから、聖書にはイエス・キリストを信じた人は新しい人と呼ばれているのです。それに対して古い人もいます。考え方が古いというのではありません。イエス・キリストによって新しく生まれ変わっていない人のことです。イエス・キリストを信じるなら、だれでも新しく造られるのです。ですから、日の下にあって、単調な日々の繰り返しのようであっても、主イエス・キリストを信じて新しく造られ、神とともに生き生きとした創造的な人生を生きていただきたいと思うのです。

11節には、「前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」とあります。過去のことは忘れられてしまいます。これは老人になって記憶が衰えてしまうということではありません。どれほど偉大なことをしてもそれはその時のことだけで、後の時代の人々がずっと覚えていることはないということです。先週、新しい総理大臣が誕生しました。菅義偉さんです。しかし、その前の総理大臣がだれだったか覚えていますか。あの小渕官房長官が「平成」と書いて始まった時の総理大臣はだれですか。覚えている方は少ないでしょう。竹下登総理大臣です。今話題にしていることや注目していることも、少し時間が経てばすぐに忘れ去られてしまうのです。そのような一時的なもののために自分の人生のすべてを費やしているとしたら、それは本当に空しいことではないでしょうか。そのように語る伝道者のことばは、実に私たちの人生の空しさを的確に言い当てています。

映画やテレビの脚本を数多く手がけた脚本家の田中澄江さんは、23歳のとき東京にある聖心女子学院の教師になりました。そのとき、彼女は英国人のマザー・ラムから公教要理の講義を受けましたが、その時マザー・ラムが発したことばに衝撃を受けます。「人は何のために生まれましたか。神を知るためですね。」
これは彼女に取って衝撃的なことばでした。「『神を知るためだ』と言われたとき、大粒の涙が机の上にこぼれ落ちて、『そうだ、ほんとうにそうだ、神を知るために生まれたのだ」と全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。』」と言いました。

あなたはいったい何のために生きていますか。私たちももし神を知らなかったら、どんなに有名人になったとしても、決して心の飢え渇きを満たすことはできません。それは、神を知り、救い主イエス・キリストを信じることによってもたらされる恵みです。イエス・キリストを信じたことで永遠の命が与えられ、永遠の命に至る食物のために働く者とされたことを感謝しましょう。

Ⅲ.知的探求の空しさ(12-18)

第三に、12節から18節までをご覧ください。しかし、伝道者はそうは言いつつも、ここで改めて知恵の限りを尽くして、人生の満足を見いだそうといくつかのことを試みました。12-13節をお読みします。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。」

ここで伝道者は、改めて自分の立場を書き記します。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。」つまり、彼はエルサレムでイスラエルの王であり、富も地位も力も持っていたということです。彼は天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうとしました。つまり、知的探求によって人生の意味を見いだそうとしたのです。しかしそれは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事でした。つまり、人は「何のために生きるのだろう」「この人生の苦しみに意味があるのだろうか」などと思い巡らしているうちに、そのこと自体に疲れ果ててしまったのです。「人間は考える葦である」(パンセ347)と言ったのはパスカルです。確かに人が他の被造物に勝っているのは考えるという能力ですが、しかし、どんなに考えても究極的な答えを見出すことができなません。結局のところ、伝道者が見出した結論は次のことでした。14-15節です。「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。」

伝道者は、日の下で行われるすべてのわざを見ました。彼は最高の教育を受け、科学、哲学、歴史、芸術、文化、宗教などあらゆる分野において豊かな知識を得ました。しかし、彼が経験したすべてのことは空しく、風を追うようなものでした。「風を追うようなもの」とは、あの「ヘベル」、「空」であるということです。「ヘベル」とは、蒸気とか、煙のことだと申し上げましたが、煙のように確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。風も同じです。確かに吹いているのに、どんなに掴もうとしても掴むことができません。つまり、風を追うように、空しく、空虚で、無意味であるということです。

曲げられたものをまっすぐにすることはできません。欠けているものを、教えることはできません。これは、この世には不可解なものがたくさんありますが、それを人間の知恵で理解したり、修正したりすることはできないということです。ではどうすれば良いのでしょうか。どうすれば曲げられたものをまっすぐにすることができるのでしょうか。どうすれば、欠けているものを、数えることができるのでしょうか。

伝道者は、続いてこう述べています。16-18節です。「私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」

彼は、自分はエルサレムにいただれよりも豊富な知恵と知識を増し加えたと言っています。そればかりではありません。知恵と知識とともに、狂気と愚かさも知ろうとしました。念のために、両極端を試してみたというわけです。その結果わかったことはどんなことでしたか。それもまた、風を追うようなものであるということです。知恵と知識だけでなく、反対の狂気と愚かさも試してみて、それもまた、風を追うようなものであったというのは、何をやってもダメだということです。風を追うようなもの、ヘベルです。すべては空なのです。それどころか、彼は重要な真理を見出しました。それは何ですか。18節です。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」 知恵が多くなればなるほど悩みも多くなり、知識を増せば増すほど苛立ちも増します。このことがわかっただけでも大したものです。なぜなら、人は、知的探求の道に限界を感じる時、神を見上げるようになるからです。

ひとりのインテリ青年が牧師のところへきて、科学的、文学的にキリスト教に対して難解な質問をあびせかけ、牧師を困らせました。ついに牧師は答えに行き詰り、沈黙してしまいました。
すっかり得意になってしまった青年は、牧師に別れを告げて意気揚々と帰ろうとしました。その時、その牧師が静かに言いました。「もしもあなたに、謙遜があったなら」
このひとことが青年の胸を打ちました。彼は、自分はさまざまな知識を持ち、立派な人間だと思っていましたが、謙遜がなかったことに気がついたのです。そして心から悔い改め、その夜、彼は救われました。この青年こそ、後に伝道者になった河辺(かわべ)貞(てい)吉(きち)(1864~1953)という人です。彼は、日本自由メソジスト教会の創立者となり、説教者として活躍しました。

そうです。知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、本当に知るべきことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。本当の知恵は、イエス・キリストにあります。キリストは神の知恵、神の力と呼ばれました。ですから、この神の知恵であるキリストを知り、キリストを愛するなら、人生の生きる意味が教えられ、空しさから解放され、心満たされて生きることができるのです。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるというのでしょうか。何の益にもなりません。しかし、キリストを知り、キリストを愛するなら、すべてが益になります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

日の下には、新しいものは一つもありませんが、しかし、だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなります。どんなに知恵を求めても、どんなに知識を求めても、あるいは、その逆のことを求めても、日の下にはあなたの心を真に満たすものは何もありません。それらのことは、すべて空しく、風を追うようなものなのです。しかし、神の知恵であられるイエス・キリストを求めるなら、あなたの心は真の満たしを受けるでしょう。これが、伝道者が見出したことでした。

先ほどパスカルのことをお話ししましたが、彼は、「私の心の中には、本当の神以外にはとても満たすことができない、真空がある。」という有名なことばを残しています。彼は、ソロモン王のように様々な知識を探究しいろいろな発見もしましたが、それらのものが自分の中にある空洞を満たすことはできないことに気付いたとき、回心して、キリストを信じました。彼が23歳の時でした。

しかし、残念ながらその後彼は、数学や物理学の研究に熱中するあまり、生ける神から離れてしまいます。そして31歳になったとき、真の悔い改めに導かれ、神に立ち返ることができました。その時の彼の祈りが記録されています。それは1654年のことでした。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ。あなたは哲学者や学者の神にあらず。感動、歓喜、平安。ああイエス・キリストの父なる神よ。あなたが私の神となって下さったとは。キリストの神が私の神。私は、あなたを除くこの世のすべてと、その一切のものを忘れ去ります。福音書に示された神こそ真実の神です。私の心は大きく広がります。正しき父よ。世はあなたを知りません。しかし、私はあなたを知っています。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。私はあなたから離れていのちの水の源を塞いでいましたが、わが神よ。あなたは私を捨てたりなさいませんでした。どうか私がこれより後、永久にあなたから離れませんように。永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト、イエス・キリスト、私は、彼から離れて、彼を避け、彼を捨てて、彼を十字架につけました。しかし、これより後、私が彼から離れることが永遠にありませんように。福音書に記されたあなたこそ、まことの神です。ああ、全き心、心地よい自己放棄、イエス・キリストよ、私はあなたと、あなたのしもべたちに全く従います。私の地上の試練の1日は、永遠の歓喜となりました。私はあなたのみことばを永遠に忘れません。アーメン。」

この祈りには、彼の充実した思いが込められています。これまで知的に探究することで満たされるであろうと思っていた心の真空は満たされませんでしたが、イエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じたことによって与えられた神の霊によって、彼の心の空洞は完全に満たされたのです。

イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

あなたは、イエス様が与える水を飲みましたか。この水を飲む者はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。

あなたが探究しているものは何ですか。日の下で行われるものは、すべてヘベルです。空です。しかし、日の上から与えられるもの、主イエスが与えてくださるものは、あなたの心を完全に満たしてくださいます。どうぞこのイエス・キリストを信じてください。もう信じている方は、パスカルのように、もう一度自分の心を点検しましょう。あなたの心がキリストから離れていないかどうかを。そして、もし離れているなら、悔い改めて、主に立ち返りましょう。そして、主が与えてくださる永遠のいのちを受け取ろうではありませんか。イエス・キリストはあなたを満たしてくださいます。この方は、決してあなたを裏切ることはありません。ここに答えがあります。このキリストにすべてをゆだね、キリストに従い、あなたも真の満たしを受けてください。

出エジプト記31章

出エジプト記31章から学びます。

 

Ⅰ.ウリの子ベツァルエル(1-5)

まず、1節から5節までをご覧ください。
「【主】はモーセに次のように告げられた。「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」

 

モーセは今、シナイ山の頂上で、幕屋建設に関する指示を神から受けています。これまで、幕屋の建設と、それに仕える祭司の任職式について、また、常供の香のりささげものについて、そして祭司の奉仕に必要な聖なる油注ぎについて語ってきました。しかし、ここではもっと実際的な奉仕について語られます。すなわち、幕屋を建設する人についてです。それがユダ部族に属するフルの子ウリの子のベツァルエルです。「フルの子」の「フル」とは、アマレクとの戦いにおいてモーセの手を両側から支えた2人のうちの一人です(17:8-13)。そのフルの孫にあたるのが、このベツァルエルです。主はこの幕屋の建設にあたり、彼を名指しで召されました。彼は自分がやりたいからとか、自分から望んでいたからというよりも、神が名指しで召され、神から命じられてこの働きに就いたのです。この意識はとても重要です。よく、「牧師にとって一番重要なことは何ですか」と聞かれることがありますが、私は迷わずこう答えます。「それは、主が召してくださったという召命です」と。それは神によって召された奉仕であるということです。そうでないと続けていくことはできません。自分をみたらあまりにも能力がないことに落胆して、途中でその働きを放棄してしまうことになるでしょう。しかしこれは主が召してくださったのであり、主が命じられたことである故に、主が最後までこれを成し遂げる力を与えてくださいます。それは牧師だけではありません。こうした実際的な奉仕においても言えることなのです。どんな奉仕においても、神によって召されているという確信が大切です。

3節には、主は「彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。」とあります。英語の訳では、知恵はwisdom、英知はunderstanding、知識はknowledgeとあります。こうした実践的な奉仕においても、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊に満たされる必要がありました。確かに彼には生来そうした才能が与えられていたのかもしれませんが、それだけでなく、それを成し遂げることができるように神の霊、聖霊の賜物が必要だったのです。それは幕屋建設に際しては、人間の能力以上の力が必要であったからです。

その仕事の内容に関しては、4節と5節にこうあります。「それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」

彼の働きは祭司のような霊的な奉仕とは違い、幕屋の建設という実際的な奉仕でしたが、どちらも聖霊の力が求められました。教会には祈りとみことばといった霊的な奉仕もあれば、人々がよく礼拝できるように礼拝堂を掃除したり、司会や受付、献金、会場案内、プログラムの印刷、送迎といった実際的な奉仕があります。いずれも大切な奉仕であり、そうした奉仕もまた聖霊によって成されていかなければなりません。

 

Ⅱ.アヒサマクの子オホリアブ(6-11)

次に6-11節をご覧ください。
「見よ。わたしは、ダン部族に属する、アヒサマクの子オホリアブを彼とともにいるようにする。わたしは、すべて心に知恵ある者の心に知恵を授ける。彼らは、わたしがあなたに命じたすべてのものを作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『宥めの蓋』、天幕のすべての備品、 机とその備品、きよい燭台とそのすべての器具、香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、その子らが祭司として仕えるための装束、注ぎの油、聖所のための香り高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」

幕屋建設の統括者はベツァルエルですが、その補佐役としてオホリアブが任命されます。すなわち、アシスタントです。No2としてトップを陰で支えていた人です。このような人はとても貴重な存在です。トップはまとめ役で気遣いが必要です。あれもこれもと細かなことまで気を遣わなければなりません。それを陰で支えてくれる人がいれば、自分の働きに専念することができます。こうした補佐をする人、アシストをする人の存在が、教会ではとても重要となります。でもなかなかなれません。なぜなら、みな上に立ちたいと思うからです。そんな器じゃないのに、上に立ちたいと思うのが人間の性です。人を補佐するには謙遜が求められるのです。

オホリアブは、「ダン部族に属する、アヒサマクの子」とあります。ダン部族は12部族の中で最も小さな部族です。そこから無名の人物が選ばれました。そして、ベツァルエルとオホリアブを中心に、すべての知恵ある者たちが集められたのです。それは彼らが、主が命じられたすべてのものを作るためです。彼らは、幕屋とその中に入れる器具、祭司の装束、注ぎの油、聖所のための香り高い香を作りました。ここでの鍵は、彼らは、すべて、主が命じられたとおりに作らなければならなかったということです。自分が良いと思う方法ではなく、主の方法によって作らなければなりませんでした。信仰生活が長くなると、いつしか自分の考えややり方を通そうとする傾向になることがあります。これまでの経験から、自分がやっていることは何でも正しいと錯覚していることがあるのです。しかし大切なのは自分の考えややり方ではなく、主の考えに従わなければならないということです。そのためには、何が良いことで神に受け入れられ、正しいことなのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。神の言葉をつまびらかに読み、幼子のような純粋で、謙虚な心で、御言葉に聞く必要があります。そうでないと用いられません。こうした実際的な奉仕も、祭司のような霊的奉仕と同様、どちらも大切な奉仕なのです。

Ⅲ.安息日(12-18)

次に、12-17節をご覧ください。
「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。 わたしが【主】であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は【主】の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは【主】が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」

今モーセは、シナイ山の山頂で神から幕屋建設に関する指示を受けているわけですが、ここで急に安息日の規定について語られます。すなわち、幕屋を建設している人も、安息日を守らなければならないということです。なぜここで急に安息日について語られたのでしょうか。幕屋建設のプロジェクトと安息日の規定は無関係のように感じますが、実はそうではありません。なぜなら、こうしたプロジェクトに取り組んでいこうとするとプロジェクトそのものに心が奪われ、大切なものが置き去りにされてしまうことがあるからです。最も重要なことが何であるかが忘れられてしまうことがあるのです。最も大切なこととは何でしょうか。それは神ご自身であり、神を礼拝することです。神を第一とするということです。たとえ神の幕屋を作る仕事であっても、神を礼拝することが最も重要なことなのです。神に対する奉仕よりも神を礼拝することの方がもっと重要なことなのです。それはイエス様がマルタに語られた通りです(ルカ10:41-42)。私たちはややもすると教会の奉仕や周りの付随的なことを優先させ、主の前に静まることを忘れてしまうことがありますが、それでは本末転倒です。まず神を第一とし、神を礼拝し、神に仕えることから始めなければなりません。それを忘れてはなりません。だからここで主は安息日の規定を語ることによって、もう一度主ご自身に目を戻すようにされたのです。

13節には、「これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。」とあります。これは神とイスラエル人との間のしるしです。ノアの契約のしるしは虹でした。また、アブラハム契約のしるしは、割礼でした。それと同じように、このシナイ契約のしるしは、安息日だったのです。安息日の規定の目的は、イスラエルの民を聖別することでした。聖別とは、神のためにこの世から区別するということです。彼らが神の民であることの一つのしるしが、この安息日を守ることだったのです。彼らは、安息日が来るたびに、自分たちは神のものであるということを思い出しました。第二の目的は、神の性質を教えることでした。すなわち、主は六日間でこの天と地を造り、七日目に休まれたことを思い出すためだったのです。そして第三の目的は、イスラエルの民の信仰を育てることでした。安息日に休息することは、神がすべての必要を満たしてくださる方であるということを信じるためでもあったのです。

この規定に違反した場合は、だれでも殺されなければなりませんでした(14)。新約時代に生きるクリスチャンは、このモーセの律法はそのまま適用されません。セブンスデーアドベンティストという団体ではこれをそのまま守らなければならないと信じ、今でも毎週土曜日に礼拝しています。しかしこれはユダヤ人に対する契約であって、それをそのままクリスチャンに適用することはできません。たとえば、アブラハム契約としての割礼も、使徒の働き15章を見ると、異邦人クリスチャンに対してこの割礼を強いることはしないことが決議されました。それはユダヤ人に対する神の定めであって、クリスチャンに対する定めではないのです。新約に生きるクリスチャンにとって大切なのは、愛によって働く信仰だけです。神を愛し、人を愛することが、この律法の要求を完全に満たすことなのです。

最後に18節をご覧ください。
「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」

主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を2枚、それは神の指で書き記された石の板でしたが、それをモーセにお授けになりました。神の指で書かれたというのは、神ご自身が書かれたということです。

パウロはこの石の板について、次のように言及しています。Ⅱコリント3:6-9にこうあります。
「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。」

パウロは、古い契約と新しい契約を比較しています。文字に仕える者と御霊に仕える者を比較しているのです。そして、「文字は殺し、御霊は生かすからです。」と言っています。さらに、罪に定める務めさえ栄光があるのなら、これはシナイ契約のことですが、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちていると語っています。「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)今は恵みの時代です。文字によってではなく、恵みによって生かされる道を求めましょう。