エレミヤ書31章から学んでいます。29書から31章はエレミヤ書の中心部、まさに心臓部分です。今日はこの31章15~22節までから「あなたの将来には望みがある」というタイトルでお話します。今日のタイトルは17節から取りました。イスラエルは主に背き自分勝手な道に歩んだため、主はバビロンという国を用いて彼らを懲らしめます。バビロン捕囚という出来事です。でも彼らはそれで終わりではありませんでした。その70年後には祖国に帰ることになります。彼らの将来には望みがあったのです。
Ⅰ.あなたの労苦には報いがある(15-17)
まず、15~17節をご覧ください。「15 【主】はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──【主】のことば──彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」
15節には「ラマ」という地名と「ラケル」という人名が出て来ています。「ラマ」はエルサレムの北方8㎞にある町です。「ラケル」はヤコブの最愛の妻でした。このラケルにはヤコブとの間に二人の息子が生まれました。一人はヨセフで、もう一人はベニヤミンです。このベニヤミンが生まれた時にラケルが死にました。ラケルは息子を産むと同時に死んでしまったのです。そのラケルが葬られた所が「ラマ」でした。それはあまりにも悲しいことでした。命をかけてせっかく産んだのに、産んだとたんに死んでしまったのです。息子の顔を見ることもなく。彼女はただ「生まれました。男の子です」という声を聞いて死んでしまったのです。せっかく男の子を産んだのにその子の顔をほとんど見ることなく、育てることもなく死んでしまった。それほど悲しいことはありません。その悲しみがここで表現されているのです。そのような悲しみがバビロン捕囚の時にも起こるというのです。バビロン捕囚の際にユダの民が一旦このラマに集められて、そこからバビロンに連れて行かれました。その悲しみを、ラケルが息子を産んだ直後に死んでしまい、息子の顔を見ることができなかった悲しみになぞらえているのです。これほど悲しいことはありません。
興味深いことに、この箇所がマタイ2章17~18節に引用されています。「17そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」」
このエレミヤを通して語られたことというのが、この31章15節のことばです。このマタイの前後の文脈を読むとわかりますが、これはメシヤについての預言が成就したということを表しています。ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子が、ヘロデ大王によって虐殺されました。ヘロデ大王はユダヤの王として来られたイエスを殺し損ねたので、イエスと同年代の男の子を手あたり次第に殺したのです。非常におぞましい殺戮劇です。その時に泣き叫んだ母親たちの嘆きが、ここに成就したということです。ですから、これは一読しただけですとバビロン捕囚の嘆き悲しみが語られているかのようですが、実はメシヤ預言について語られている深いことばなのです。つまり、このおぞましい殺戮劇の向こうにメシヤが生まれるという希望が隠されているということです。確かに悲しみは避けられません。でもその悲しみの向こうに希望があるということです。確かにバビロン捕囚は悲しい出来事ですが、その70年後に彼らは祖国に帰ることができる。それは私たちがこの世というバビロンから救われて、天国に帰ることを指し示しています。罪から救われて罪のない世界、天国に移されるのです。これほどすばらしい知らせはありません。これは本当に喜ばしい良い知らせです。それがメシヤであるイエスを信じる者にもたらされるということです。
16節と17節をご覧ください。「16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。─【主】のことば─彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。─【主】のことば─あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」
どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、あなたの将来には望みがあります。敵の地から帰って来るようになるからです。あなたの子らは自分の土地に帰って来るのです。確かに彼らは罪を犯したことでその蒔いた種を刈り取らなければなりません。それはバビロン捕囚のことです。それはここで「労苦」と呼ばれていますが、その労苦には報いがあります。将来には希望があるのです。
この希望については、既に29章11節で語られました。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
神はあなたのために計画を立てておられます。あなたもそれなりにいろいろと計画を立てていると思います。向こう3年、5年どうするか、老後はどうするかと、いろいろシュミレーションして、収入を計算して、保険や書類とかを引っ張り出しては調べて、人生設計を立てるわけですが、でも、神はあなたに対して計画を持っておられます。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものです。この「将来」ということばは「終わり」という意味の言葉であると説明しました。終わりは希望です。人生いろいろなことがありますが、最後は希望なのです。それが、神が私たちのために立てている計画です。だから、たとえそれが自分の罪の結果招いてしまった労苦であったとしても、どんなに時間がかかろうとも、最後には希望があるのです。
だから、16節のところで、主はこう言われるのです。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。」
あなたの目の涙を止めなければなりません。嘆き悲しむことを止めなければならないのです。何であんなこと、何でこんなことをしてしまったんだろう、そんな気持ちになれば泣きたくなります。でも泣いたからと言って状況が変わるわけではありません。むしろ神の恵みに目を留めて、粛々と神の御取り扱いを受けるべきなのです。もしあなたが悔い改めるなら、神はあなたの罪を赦してくださるのですから、あとは自分がやるべきことをすればいいのです。蒔いた種を刈り取るということを粛々とやっていけばいい。泣いている暇があったらその刈り取り作業を進めていくべきです。そうすれば、もっと早く刈り取り作業が終わるかもしれません。将来に希望があればこそ、そのように前向きに進むことができるのです。希望がなければ、なぜこんなふうになってしまったのかと、いつまでも嘆いていることになります。そうなれば、せっかくの「労苦」が無駄になってしまいます。でも、あなたの労苦には報いがあります。あなたの将来には希望があるのだから、あなたの目の涙を止め、神の約束に立ち、ただ神が示されることを行えばいいのです。
いったいなぜ神はあなたの将来にこのような希望を与えてくださるのでしょうか。それは、あなたをこよなく愛しておられるからです。18~20節をご覧ください。「18 わたしは、エフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。【主】よ、あなたは私の神だからです。19 私は立ち去った後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。20 エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば─」
ここには、主はエフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた、とあります。エフライムとは北イスラエルのこと、イスラエルのことです。主はイスラエルが嘆き悲しむのを聞きました。これは彼らの自己憐憫の嘆きでありません。自己憐憫とは、自分を哀れみかわいそうだと思い込むことです。そういう悲しみではありません。そうではなく、自分たちの罪を悔い改めて悲しみ嘆いているのです。ちょうど放蕩息子が父のところに行って、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:18-19)と悔い改めように、エフライムもまた自分の罪を嘆き悔い改めているのです。主はその悔い改めの嘆きを確かに聞いてくださいます。主が、このような嘆きを聞き逃すことは絶対にありません。ただ自分を可哀そうに思う嘆き、自己憐憫の嘆きは聞かれませんが、ひとたび悔い改めて嘆くなら、確かに聞いてくださるのです。
18節には「私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。」とあります。これは、私たちは自分の力では帰れないことを表しています。自分の力では悔い改めることはできないのです。悔い改めは神賜物であり、神の御業なのです。私たちは自分の意志で悔い改めますが、それさえも悔い改めるようにと神が促してくださったので出来ただけのことであって、自分の力ではできることではないのです。あなたの中には悔い改める気持ちなんて微塵もないからです。それが私たち人間なのです。
エレミヤ17章9節に、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」とありましたね。人の心は何よりも陰険で、それは直りません。私たちの心は何よりも陰険なのです。そこには善いものはありません。パウロはローマ7章で、私たちの心には善は住んでいないと言っています。自分には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、したいと願う善を行わないでしたくない悪を行ってしまいます。これは正直な告白ではないでしょうか。私たちの内には善が住んでいないのです。だから、悔い改める気持ちなんてさらさらないわけです。それほどねじ曲がっているのです。それほど堕落しきっています。もうどうしようもない、救いようがありません。でも神は、そんな私たちに悔い改めの心を起こしてくださいます。これは実に神の御業でしかないのです。
悔い改めが神の賜物であるということは、使徒5章31節でも言われています。「神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。」 神はイスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、イエスを導き手、また救い主としてご自分の右に挙げられたのです。悔い改めは、神からのギフトなのです。私たちはそれをただ受け取るだけでいいのです。そして神はこの悔い改めのギフトを、今日もあなたに与えてくださいます。それを受け取るか、受け取らないかはあなた次第です。救いも、罪の赦しも、みな神からの賜物であるということを覚えていただきたいと思うのです。
いったいなぜ私たちは悔い改めて神に帰ることができるのでしょうか。18節の後半にこうあります。「主よ、あなたは私の神だからです。」ここに「私の神」ということばが使われています。これは神と個人的な関係がなければ口に出せないことばです。神は私の神だから、私を帰らせてください。そうすれば、私はあなたのもとに帰ります。神は「私の神」です。あなたの神は誰ですか?あなたは聖書の神を「私の神」と、はっきり宣言することができるでしょうか?それほど親しい交わりをもっていらっしゃるでしょうか。聖書の神、イスラエルの神が私の神ですと、胸を張ってそう言えるかどうかが問われているのです。
19節をご覧ください。患難を通って彼らが救われるというのは、残りの民が救われるというのは、この悔い改めを通してです。ここに「ももを打ちました」とありますが、これは原語では性器の部分を打ったことを表しています。これは創世記32章にあるヤボクの渡しでの出来事でも使われています。ヤコブが伯父のラバンの下から帰るとき、兄エサウとの対面を前に非常な不安を抱え神と夜通し格闘したという出来事です。それは祈りの格闘をしたということです。ヤコブは言いました。「私を祝福してください。祝福してくださるまではあなたを去らせません。」それは執拗なまでの祈りでした。神に対してヤコブはそのような執拗な祈りをささげました。そして最終的に彼は神に勝利し神の祝福を受けましたが、その代償にももを打たれたのです。それで彼は自分の力では歩けない状態になってしまいました。それは人を出し抜いて、人を騙して生きるような性質が打ち砕かれたことを表していました。彼は自分の知恵や力では生きていくことはできない。神様に寄りすがって、神の支えがなければ一歩も進めないということを知ったのです。それで彼の名は神によって勝利する者、「イスラエル」となったのです。ももを打たれるとはそういうことです。
それはとても痛いことです。それは男性の性器を打たれるような痛みです。男性が急所を打たれたらどうなるか、女性の皆さんにはわからないかもしれませんが、非常に痛いんです。聞いたところによると、それは陣痛よりも痛いそうです。「ちょっとためしてみますか」なんて言わないでください。陣痛よりも痛いとされているので、もしあなたのご主人が陣痛の痛みがわからないというなら、ちょっとやってみたらよいかもしれません。一瞬でわかると思います。もう気絶するかもしれません。そういう一撃を受けたということです。そういう痛い思いをしたのです。確かにそれは痛いことですが、その痛みによって自分の罪の悲しみ、嘆きを知りました。まさに「悲しむ者は幸いです」と主が言われた通りです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
20節をご覧ください。ここには「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。─【主】のことば─」とあります。
これもすばらしいことばです。これまでエレミヤは一貫として神の怒りと裁きを語って来ましたが、ここに来て急に神のあわれみとか、神の愛、神の回復、神の癒しということを強調して語るようになりました。ここでも、「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか」と言われています。主はイスラエルを責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになりました。「責めるたびに」とは、「裁きを宣言するたびに」という意味です。主は彼らにさばきを宣言するたびに、ますます彼らのことを思い起こすようになりました。ここには、神様が彼らに裁きを宣告するたびに彼らのことをどう思っておられたかが明かされています。神様はそのたびにますます彼らのことを思い起こすようになっておられたのです。裁きを宣言するたびに知らんふりをしていたのではありません。もうお前なんてどうでもいい。勝手にしたらいい。どこにでも行ったらいいんじゃないか。もう二度とこの家の敷居をまたぐなよ。顔も見たくない。という気持ちではなく、ますます彼らのことを思い起こしておられたのです。もう頭の中、心の中は、彼らのことで一杯だったのです。
「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」これが、私たちの信じている神様です。これが私の神、あなたの神です。厳しいことを宣告されるかもしれませんが、その都度、神はあなたのことを思っておられるのです。ますます思い起こしてくださる。常に思っていてくださいます。それは「はらわたがわななくほど」だとあります。はらわたが煮えかえるのではありません。はらわたがわななくのです。はらわたがわななくとは、文字通り「断腸の思い」ということです。腸が引きちぎれるような思いです。ルターはこれをこのように訳しました。「彼のゆえに、私の心臓は破れる。」まさに胸が張り裂けるような思いということです。これは東洋の人とヨーロッパの人の違いです。東洋の人は、感情の座ははらわたにあるという感覚を持っていますが、ヨーロッパの人はそういう感覚がないので、心臓が張り裂けるような思いという表現をするのです。はらわたがわななくような思いにせよ、心臓が張り裂けるような思いにせよ、言っていることは同じです。これが、神が私たちに感じておられる思いなのです。神が厳しいさばきを宣告する時、神はあなたのことを思って、もうはらわたがわななくような思い、引きちぎれるような思いになっておられるのです。もう死んでしまいたいと思うほど痛い思いをしているのです。もうあわれまずにはいられません。想像もつかないほどあなたのことを思っておられるのです。これが神の愛です。神に感謝します。私の神はそれほどまであわれんでくださるのですから。それゆえ、主よ、私はあなたの下に帰ります。帰らせてください。そうすれば、帰ります。あなたは私の神だからです。
最後に、21~22節を見て終わります。「21 あなたは自分のために標識を立てて道しるべを置き、あなたが歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ、帰れ。これらの、あなたの町に帰れ。22 背信の娘よ、いつまで迷い歩くのか。【主】はこの地に、一つの新しいことを創造される。女の優しさが一人の勇士を包む。」」
ここには「標識」とか「道しるべ」を置くようにと言われています。なぜかというと、その道のりは長いからです。その道のりとは、バビロン捕囚からの帰還の道のりです。その道のりは長いので、どこから来たのかを覚えるために標識や道しるべを置かなければならないのです。その道のりを忘れてはいけません。彼らは必ず敵の地から帰ってくるようになるのだから。だから、イスラエルよ、帰れ、と呼び掛けられています。いつまで彷徨っているのか。これらのあなたの町に帰らなければなりません。
彼らが帰るとき、どんなことが起こるのでしょうか。22節には、「主はこの地に、一つの新しいことを創造される。」とあります。主はその地に一つの新しいことを創造されます。この「創造する」ということばはヘブル語で「バーラー」と言いますが、これは、何もないところから何かを創造する時に使われることばです。たとえば、聖書の一番初め、創世記1章1節に「はじめに、神が天と地を創造された。」とありますが、この「創造された」ということばが「バーラー」です。神は何もないところに天と地を創造されました。そういう意味です。既にあるものに何かを使って作り直すということではありません。それは「アーサー」という別のヘブル語が使われます。でも、ここでは「アーサー」ではなく「バーラー」です。つまり、以前には全くなかったものを新しく創造するということです。それは何でしょうか。
22節の最後のことばを見てください。ここには「女の優しさが一人の勇士を包む」とあります。どういうことでしょうか。これは難解です。
新改訳第3版では、「ひとりの女がひとりの男を抱こう」と訳しています。
口語訳では「女が男を保護することである」と訳しています。新共同訳も同じです。「女が男を保護するであろう」です。
英語の訳もほとんど同じです。NIVは、「a woman will surround a man」、
NKJVは「A woman shall encompass a man.」、
TEVは「a woman protecting a man.」です。
Surroundとか、encompass、protectというのは、守るとか、囲むとか、保護するということですから、口語訳とか新共同訳の方の訳が近いです。でも、ひとりの女がひとりの男を守る、とはどういうことなのでしょうか。ハーベストタイムの中川健一先生は「姦淫の民イスラエル」を「おとめイスラエル」と呼んで、彼らと再婚することだと解釈しています(クレイ聖書解釈コレクション「エレミヤ書」P208)が、ここでは男が女を抱くのではなく、女が男を抱くとあるので、逆です。
そこで、新聖書注解書では、これは女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くようになることだと説明しています。女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くとはどういうことなのでしょうか。そこで古い注解者たちの中には、これは処女マリヤがその胎内に男の子を抱くということを意味していると考える学者もいますが、それは少し読み込みすぎだと思います。
この箇所を最も適切に訳しているのは創造主訳聖書ではないかと思います。創造主訳聖書ではこれを、「イスラエルがわたしを求めるようになる」と訳しています。それは新しいことです。これまで反逆に反逆を重ねてきたイスラエルが、まことの神を愛し、まことの神を求めるようになるのは、彼らが新しく創造されるからです。人の心は何よりも陰険だと申し上げましたが、神はそんなイスラエルを新しく造り変えてくださるとしたら、それこそ新しい創造です。
ダビデは詩篇51篇10節で「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。」と言っていますが、まさにそのことです。それは人にはできないことです。でも神にはどんなことでもできるのです。神は何もないところから全く新しいものを造り出すことができる方であり、あなたの心を新しくすることがおできになるのです。神はあなたにきよい心を与え、揺るがない霊を、あなたのうちに新しくすることがおできになるのです。バカは死んでも直らないということわざがありますが、死ななくても直すことができます。神があなたを新しく造り変えることによって。あなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたも新しく造り変えていただくことができます。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
私たちは、キリスト・イエスにあって新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるということを経験することができるのです。女の優しさが一人の勇士を包む、すなわち、私たちが神を愛し、神を慕い求める者、神によって勝利する者、イスラエルとして、神とともに歩むようになるのです。いや、私は無理です。これは親から引き継いだ性格だからしょうがない。変わりようがありませんと言われるかもしれませんが、神はそんなあなたの心を新しく造り変えることができるのです。主はこの地に、一つの新しいことを創造されるのです。
だから、この神を信じてください。神はあなたも新しく創造してくださいますから。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたが想像することができないことをしてくださるのです。全く新しいことをしてくださいます。あなたが願っている以上のことをしてくださるのです。そのことを信じて、今、神のもとに帰らせていただきましょう。あなたの将来には望みがあるのです。