ルツ記4章

きょうは、ルツ記4章から学びます。まず1節から6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ボアズの提案(1-6)

 

「一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこに座った。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類が通りかかった。ボアズは彼に言った。「どうぞこちらに来て、ここにお座りください。」彼はそこに来て座った。ボアズは町の長老十人を招いて、「ここにお座りください」と言ったので、彼らも座った。ボアズは、その買い戻しの権利のある親類に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここに座っている人たちと私の民の長老たちの前で、それを買ってくださいと言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。けれども、もし、それを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたを差し置いてそれを買い戻す人はいません。私はあなたの次です。」彼は言った。「私が買い戻しましょう。」ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買い受けるときには、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブの女ルツも引き受けなければなりません。」するとその買い戻しの権利のある親類は言った。「私には、その土地を自分のために買い戻すことはできません。自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから。私に代わって、あなたが買い戻してください。私は買い戻すことができません。」」

 

いよいよルツ記の最終章となりました。ルツはナオミが言うことに従い、主の約束のことばを握り締めてボアズにプロポーズしまたが、ボアズは自分の感情に流されることなく、主の定めに従って事を進めていきました。すなわち、彼よりももっと近い買戻しの権利のある親類と話し、もしその人がその役割を果たすというのであればそれでよし、しかし、もし果たすことを望まないというのであれば自分が彼女を買い戻すことにしたのです。

 

かといって、ボアズはいつまでもぐずぐずしているような人ではありませんでした。彼女のためにすぐに行動を起こします。ルツと話したその翌日に、門のところへ上って行って、そこに座りました。あの買戻しの権利のある親類と話すためです。町の門は、防衛上必要であっただけでなく、会議の場となったり、裁判所となったり、市場になったりもしました。ボアズはここで公に話し合おうと思ったのです。それは、どのような結論が出ようとも、事実に反する風評が立たないようにするためです。

 

すると、そこにその人が通りかかったので、ボアズは彼に言いました。「どうぞこちらに来て、ここにお座りください。」そればかりではなく彼は、町の長老たち10人を招いて、「ここにお座りください。」と言って、彼らにも座ってもらいました。法的に重要な決定を下すためには、10人という人数が必要だったからです。

このようにボアズは、この件を自分に都合がいいように小細工をしたり、隠れて事を行うようなことをせず、誰の目にも公明正大に行いました。私たちが取るべき道として最も安全なのは、正攻法で行くことです。まさに箴言に「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(箴言29:26)とあるとおりです。合法的、かつ正当なやり取りは、その人の信用を高め、将来の祝福を約束することになるのです。

 

ボアズは、その買戻しの権利のある親類に、モアブの野から帰って来たナオミが、自分たちの身内のエリメレクの畑を売ろうとしていることを告げ、もしその親類がそれを買い戻したいのであればそれでよし。でも買い戻さないというなら、自分が買い戻すと言いました。するとその親類が「買戻しましょう」と言ったので、もし買い戻すというのであれば、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブ人の女ルツも引き受けなればならないと言うと、だったら買い戻すことはできないと、断りました。自分自身の相続地を損なうことになると思ったからです。どういうことでしょうか。ルツを引き受けことが、どうして自分自身の相続地を損なうことになるのでしょうか。恐らく、ルツが産む子に財産を持っていかれるのではないかと思ったのでしょう。そんなことになったら大変です。また、彼にはルツがモアブ人であるという偏見があったようです。このような経済的な損得勘定や偏見で、人はどれほど多くの祝福を損なっているでしょうか。これはキリスト教に対しても同じで、多くの人は損得勘定や偏見によって見ることによって、キリストのすばらしい祝福を受け損なっているのは残念なことです。神のみこころは何なのか、何が良いことで神に受け入れられるのかをわきまえ知るために祈りましょう。

 

Ⅱ.あなたがたは証人です(7-12)

 

次に7節から12節までをご覧ください。

「昔イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける認証の方法であった。それで、この買い戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分の履き物を脱いだ。ボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、今日、私がナオミの手から、エリメレクのものすべて、キルヨンとマフロンのものすべてを買い取ったことの証人です。また、死んだ人の名を相続地に存続させるために、私は、マフロンの妻であったモアブの女ルツも買って、私の妻としました。死んだ人の名を、その身内の者たちの間から、またその町の門から絶えさせないためです。今日、あなたがたはその証人です。」門にいたすべての民と長老たちは言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。また、あなたがエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」」

 

その買戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい。」と言って、自分の履き物を脱いで渡しました。それは、昔イスラエルでは、買戻しの権利を譲渡する場合、すべての取引を有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡すという習慣があったからです。これがイスラエルにおける認証の方法だったのです。

 

そして、ボアズは、長老たちとすべての民に、自分がエリメレクのものすべて、またマフロンとキルヨンのものすべてを買い取ったことを宣言しました。もちろん、その中にはマフロンの妻であったモアブ人の女ルツも含まれています。ボアズは正当な方法でルツを自分の妻としました。

 

ボアズが、自分がルツを買い戻したと宣言すると、そこにいたすべての民と長老たちが、「私たちは証人です」と言い、彼に神の祝福を祈りました。それは、「どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのようにされますように。」という祈りでした。これはどういう意味でしょうか。ユダヤ人たちは、アブラハムの妻サラと、ヤコブの二人の妻ラケルとレアは、「民族の母」として特別な存在として考えていました。ここにはその「ラケルとレアの二人のようにされますように」とあります。ラケルとレアは、ヤコブの二人の妻です。この妻と女奴隷から12人の息子が生まれ、イスラエル12部族が出ました。特にラケルは、このベツレヘムの町で最年少の子ベニヤミンを産み、そして死にました。ですから、これはこのレアとラケルのように、子孫が祝福を受けますようにという祈りだったのです。

 

また、「エフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。」というのは、このベツレヘムで有力な人となるようにという祈りです。エフラテとベツレヘムは同じ意味です。やがてこのベツレヘムから救い主が生まれることで、ボアズは名をあげることになります。

 

また、長老たちは、「どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」と祈りました。ボアズの先祖はペレツです。そのペレツは、タマルという女とヤコブの12人の息子のひとりユダの間に生まれました。ユダはカナン人を妻としてめとり、その妻から三人の息子が生まれましたが、その息子にタマルという妻を迎えたのですが、兄息子が死に、そこで次男のオナンをタマルと結婚させました。まだ律法は与えられていませんでしたが、兄弟の名を残さなければいけないという習慣がすでにあったからです。オナンは兄の名のためにタマルとの間に子を持つことを嫌がり精子を地上に流していたため、神に打たれて死んでしまいました。そしてシェラという三男がいましたが、シェラも殺されるのではないかと思い、ユダはタマルに彼を与えなかったのです。これは神のみこころにそぐわないことでした。それでタマルはどうしたかというと、売春婦の姿に変装して、通りかかったユダを巧みに誘惑し、彼と関係を持ちました。ユダはあとでタマルが妊娠したのを知って、「あの女を引き出して、火で焼け。」と言いましたが、タマルがあのときの売春婦であると知ったとき、自分の過ちを認めました。自分が息子シェラをタマルに与えなかったために、このようなことになったのだと知りました。そこで生まれて来たのがペレツです。ペレツは、そうした人間の罪がドロドロと錯綜するような中で生まれたのです。しかし神はそんなペレツを祝福し、救い主の系図の中に入れてくださいました。ですから、タマルがユダに産んだペレツの家のようにとは、そのようにしてもたらされたペレツの家が神の祝福の中に加えられたように、ルツがボアズに産んだ子が、神の祝福の中に加えられるようにという祈りだったのです。加えられるどころか、救い主の系図の中にバッチリと収められています。私たちは、ここでの祈りがやがて救い主イエス・キリストがベツレヘムで誕生することによって成就するのを見ます。

 

Ⅲ.ナオミに男の子が生まれた(13-22)

 

最後に13節から22節までをご覧ください。

ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。女たちはナオミに言った。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」

ナオミはその子を取り、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。

これはペレツの系図である。ペレツはヘツロンを生み、ヘツロンはラムを生み、ラムはアミナダブを生み、アミナダブはナフションを生み、ナフションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生み、エッサイはダビデを生んだ。」

 

とうとうボアズはルツを妻に迎えることができました。そして、主はルツを身ごもらせたので、彼女は男の子を産みました。やがてその子の子孫としてメシアが誕生することになります。だれがそんなことを考えることができたでしょう。これが神のなさることです。しかも、ルツはモアブ人です。神の民から遠く離れた異邦人です。にもかかわらず、神は異邦人のルツを通して全人類に祝福をもたらされました。これは、神が異邦人のことも決して忘れていないことを示しています。ユダヤ人とか、異邦人といったことではなく、神はご自身の御旨とご計画によって、ご自身の救いの御業を進めておられたのです。

 

その日、町の女たちがナオミに言いました。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」

ルツの子どもは、ナオミにとっての子どもでもあります。なぜなら、ナオミは死んだ長男マフロンに代えてこの子を得たのですから。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名前をつけました。「オベデ」という名です。意味は、「神を礼拝する者」とか、「神に仕える者」です。ナオミは、ベツレヘムに来たとき、すべてを失って、悲しみの中にいました。自分を「ナオミ」と呼ばないでください、「マラ」と呼んでほしいと言いましたが、その悲しみが今、喜びに変えら名付けられたのでしょう。

 

そして、このオベデは、ダビデの父であるエッサイの父です。そのことがわかるように、18節から終わりまでのところにペレツの系図が記されてありますが、これはこのペレツからダビデが生まれたことを示しています。それは、私たちの救い主がここから生まれたことを示しています。神の計画は、人間の想像をはるかに超えています。それがこの系図によく表われているのではないかと思います。この系図はペレツの系図となっていますが、ペレツという人物も前述したとおり、あのユダとタマルとの間に生まれた子どもでしょ。そこから出たペレツの子孫にボアズが生まれ、そのボアズがルツと結婚することでダビデの祖父にあたるオベデが生まれ、そのオベデからダビデが生まれ、そのダビデの子孫から救い主イエス・キリストが生まれてくるのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。それは、神はすべてを支配しておられ、ご自身のご計画に従って、すべてのことを導いておられるからです。

 

それは、あなたも例外ではありません。私たちは本当に小さな者にすぎませんが、神はこのような小さな者をご自身の救いの計画の中にしっかりと組み込んでいてくださり、偉大な御業を行わっておられるのです。ルツはモアブの女にすぎませんでしたが、彼女を通して主は救いの御業を成し遂げられました。まさにそれは主の計らいなのです。私たちは本当にちっぽけな者にすぎませんが、神はこのような者にも驚くような計画をもっていてくださることを信じ、すべてのことをつぶやかず、疑わずに行う者でありたいと願わされます。その時、主がこんな私たちを通しても偉大な御業を行ってくださるのです。

ルツ記3章

きょうは、ルツ記3章から学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ルツの従順(1-5)

 

「姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。あなたが一緒にいた若い女たちの主人ボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがすべきことを教えてくれるでしょう。」ルツは姑に言った。「おっしゃることは、みないたします。」

 

ルツの大きな決断によって、ナオミはルツと一緒にベツレヘムに帰って来ました。すると彼女はナオミに「畑に行かせてください」と言って、落ち穂拾いに出かけて行くと、はからずも、そこはエリメレク一族に属するボアズの畑でした。ボアズは、ルツが大きな決断をしてベツレヘムまでやって来たこと、そこで大きな犠牲を払って落ち穂拾いをしていることに同情して彼女に慰めのことばをかけ、彼女に落ち穂をたくさん与えるように取り計らってくれました。こうしてナオミとルツは、なんとか食いつなぐことができたのです。

 

そんなある日、姑のナオミはルツに言いました。からだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行くように・・と。それはボアズのところでした。そこでボアズが寝るとき、その場所を見届け、後で入って行って一緒に寝るためです。当時、麦打ち場は戸外にあったため、収穫された麦が盗まれないように、主人か雇人が寝泊まりして番をしていました。ナオミは、そのことを知っていたのです。

 

それにしてもナオミは、どうしてこのようなことを言ったのでしょうか。1節には、「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」とあります。ナオミは、ルツとボアズが結婚できるように取り計らっているのです。ナオミは、ルツが自分について来たとき、彼女が再婚する見込みはないと思っていましたが、彼女がボアズの畑に導かれたことを聞いて、しかもボアズは買戻しの権利のある親戚の一人であることがわかると、ボアズと結婚することができると思ったのです。

 

このナオミの助言に対して、ルツはどのように応答したでしょうか。彼女は、「おっしゃることは、みないたします。」とナオミの助言を受け入れ、従順に従いました。彼女のこの従順が、後に大きな祝福を生むことになります。やがて彼女はボアズと結婚することで、オベデという子どもが生まれ、そのオベデからエッサイが生まれ、エッサイからあのダビデが生まれます。ダビデは、イスラエルの王になる人物で、イエス・キリストの先祖となる人物です。このルツとボアズから、やがて全世界の救い主イエス・キリストが誕生するのです。そういう意味で、この時のルツの従順がどれほど大きなものであったかが分かります。

 

そして、このルツの従順は、後にイエスが生まれる時に天使から受胎告知を受けた時のマリヤを思い出させます。マリヤは御使いガブリエルから、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:31)と告げられた時、まだ男の人を知らない身、処女であったにもかかわらず、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(同1:38)と言いました。その結果、全く罪のない神の子キリストがこの世に誕生することになったのです。

 

このように従順は大きな祝福をもちらします。あなたはどうですか。神の言葉に対して従順でしょうか。そして、主に用いられる器になっているでしょうか。あなたも、みこころがこの身になりますようにと、祈りましょう。

 

Ⅱ.御翼の陰に(6-13)

 

こうして、彼女が打ち場に下って行くと、どういうことになったでしょうか。6節から13節までをご覧ください。

「こうして、彼女は打ち場に下って行き、姑が命じたことをすべて行った。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてある麦の傍らに行って寝た。彼女はこっそりと行って、ボアズの足もとをまくり、そこに寝た。夜中になって、その人は驚いて起き直った。見ると、一人の女の人が自分の足もとに寝ていた。彼は言った。「あなたはだれだ。」彼女は言った。「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」

ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。娘さん、もう恐れる必要はありません。あなたが言うことはすべてしてあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っています。ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類ですが、私よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類がいます。今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、それでよいでしょう。その人に親類の役目を果たしてもらいましょう。もし、その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられます。さあ、朝までお休みなさい。」

 

彼女は、打ち場に下って行くと、姑が命じたことをすべて行いました。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてあった麦の傍らに行って寝ると、一人の女が自分の足もとにいるのを見てびっくり!彼は驚いて起き直り、「あなたはだれだ」と言うと、「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。」という声が聞こえました。「覆い」と訳されている言葉は、衣の「裾」のことで、直訳すると「翼」です。かつてボアズはルツに、「主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(2:12)と言いましたが、ルツは彼こそ主から与えられた避けどころであると信じて、その大きな翼の下に身を寄せようとしたのです。

 

今日でも、ユダヤ教の結婚式では、このような習慣があります。新郎はタリートと呼ばれる裾で花嫁の頭を覆います。これは新郎が花嫁を受け入れ、生涯彼女を守るという決意を示す象徴的行為です。ですからこれは、ボアズを性的に誘惑したのではなく、結婚のプロポースのしきたりでもあったのです。

 

ルツは、ボアズの買い戻しの権利に訴えました。これは2章にもありましたが、申命記25章5~10節にある律法の定めです。それは、人が子を残さずに死んだ場合は、買戻しの権利のある者がその妻をめとり、死んだ者の名を残すようにと定められたものです。ルツの夫マフロンは、子を残さないまま死にました。つまり、ルツにはボアズに買戻しを要求する権利があったのです。彼女は、自分がボアズと結婚するようなことなどとてもできないと思っていました。そんな値打ちなどないことは十分分かっていたのです。しかし、ルツは神のことばをしっかりと握っていました。神が、買い戻しの権利があると言われたのですから、自分はそれを求めることができると信じたのです。

 

それに対して、ボアズはどのように応えたでしょうか。ボアズは、「主があなたを祝福されるように」と答えています。それは、ルツが尽くした誠実さが、先の誠実さにまさっているからです。どういうことでしょうか。これは、ルツがナオミに対して尽くした誠実にまさって、今また結婚について誠実を尽くしているということです。ボアズはルツを「娘さん」と呼んでいますから、父と娘ぐらいの年が離れていたのではないかと考えられています。けれども、ルツは若い男たちの後を追いかけたりせず、神の律法を重んじて、買い戻しの権利があるボアズにプロポーズしたのです。

 

ボアズという名前には、「彼には力が宿る」という意味があります。その名のとおり、彼はは裕福な資産家であり、気力、体力ともに充実した人でした。しかし、彼が人格者として数えられた最大の理由は、彼が律法に精通していた人物であったということでしょう。それは、2章1節で「有力な」という言葉を説明したとおりです。とはいえ、彼がどんなに人格者であったとは言っても、40歳の若い女性が80歳のお爺ちゃんと結婚したいと思うでしょうか。遺産でも目当てでなければ考えられないことです。しかしルツはそんなボアズにプロポーズしました。それはそうしたボアズの人柄と立場というものを理解した上で、ルツが誠実を尽くしたいと思ったからです。

 

とはいえ、ボアズは感情で走る男性ではありませんでした。すべてが公明正大に行われるようにと計画を練ります。もし買戻しの権利のある人で優先権のある親類がいて、その人が買い戻したいというのであればそれでよし、でもその人が親類の義務を果たしたくないというのであれば、自分が彼女を買い戻すと申し出たのです。つまり、彼はすべてを主の御手にゆだねたのです。なかなかできることではありません。自分の気に入った女性がいて、その人から求婚されたのであれば、もう天にも昇るような気分なって、「O.Kそうしましょう!」と即答したいところですが、彼はそのように自分の感情に流されることはありませんでした。ここに、信仰者としてのボアズの誠実な姿が表れています。ボアズはルツに優しい言葉をかけ、朝まで彼女をそこで休ませました。

 

あなたがボアズだったらどうしますか。どのような行動を取ったでしょうか。あなたは主に信頼して待つことができますか。それとも、できずに自分から動いてしまうでしょうか。待つことは、信仰の重要な要素です。主の言葉に信頼し、忍耐して待つ者となりましょう。

 

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(14-18)

 

その結果、どうなったでしょうか。14節から18節までをご覧ください。

「ルツは朝まで彼の足もとで寝て、だれかれの見分けがつかないうちに起きた。彼は「打ち場に彼女が来たことが知られてはならない」と思い、 「あなたが着ている上着を持って、それをしっかりつかんでいなさい」と言った。彼女がそれをしっかりつかむと、彼は大麦六杯を量り、それを彼女に背負わせた。それから、彼は町へ行った。彼女が姑のところに行くと、姑は尋ねた。「娘よ、どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしてくれたことをすべて姑に告げて、こう言った。「あなたの姑のところに手ぶらで帰ってはならないと言って、あの方はこの大麦六杯を下さいました。」姑は言った。「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」

 

ボアズは本当に誠実な人です。妙なうわさが立つことを恐れた彼は、夜明け前の早いうちに起きて、ルツを自分の家に送り返します。そればかりでなく彼は、大麦6杯を量り、それを彼女に背負わせたのです。

 

彼女が姑のところに着くと、早速、姑から尋ねられました。「どうでしたか」そこでルツは、ボアズがしてくれたことをすべて姑に告げました。すると姑は、「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」(16)と助言しました。ボアズは、「朝になって」(13)、また、「あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから」とあるように、ルツと彼女の土地を買い戻すために、すぐに行動を起こします。実にボアズはルツにとって愛すべき、信頼に足る人でした。

 

そして、このボアズの姿はイエス・キリストの姿を表していました。ボアズがルツを買い戻すために行動を起こしたように、イエス様は私たちを買い戻すために、十字架の上で贖いとなってくださいました。

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」(Ⅰテモテ2:6)

キリストこそ私たちの愛すべき方、信頼に足るお方であり、私たちを買い戻すためにすぐに実行に移される方、いや、すでに実行に移してくださいました。

 

私たちは自分の努力や頑張りではどうしようもないことがあります。でも、このことを覚えておいてください。主は、あなたのために働いてくださる方であるということを。自分の成すべきことをしたなら、あとは主にすべてをゆだねましょう。待つことは決して簡単なことではありませんが、神の御業を待たなければなりません。ルツのように、座って待つという信仰がるなら、私たちの魂は平安で満たされるだけでなく、次の展開に向けて大きく動き出すことでしょう。

ルツ記2章

きょうは、ルツ記2章から学びます。まず1節から3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.はからずも(1-3)

 

「さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。」

 

モアブの野から戻って来たナオミとルツはどうなったでしょうか。ルツはベツレヘムに着くと、ナオミに言いました。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいたのです。その人の名はボアズです。彼女は、その人の畑に行かせて、落ち穂を拾い集めさせてほしいと言いました。落ち穂拾いとは、収穫が終わった畑に落ちている麦の穂を集めることです。律法には、貧しい人や在留異国人が落ち穂を拾うことができるように、すべてを刈り取ってはいけない、というおきてがあります。レビ記19章9-10節です。

「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

ルツは、神のおきてをよく知っていて、それに従ってナオミと自分の生計を立てようと考えたのです。彼女は、ナオミにそうするようにと言われたから出かけて行ったのではなく、自分の方からそのように申し出ました。

 

ナオミが、「娘よ、行っておいで」と言うと、ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めましたが、何とそれは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑でした。「はからずも」という言葉は、それが偶然のことではなく、そこに神の御手が働いていたことを表しています。ルツが行った畑はボアズという人の畑でした。彼は、エリメレクの一族に属する人、つまり、ナオミの夫の親戚にあたる人で有力者でした。「有力者」であったというのは単に資産家であったというだけでなく、神に従い、人格的にも優れた人物であったということを意味しています。このボアズの畑に導かれたのです。

 

私たちの人生にも、神の御手が働いています。私たちが、日々、主の御声を聞き従いながら歩んでいると、主は次の進むべき道を開いてくださいます。多くの人は、自分に対する神のご計画がよくわからないと言いますが、ルツのように今神から示されていることに忠実に従っていくなら、神は、ご自身の御業を表してくださるでしょう。

 

Ⅱ.主の慰め(4-16)

 

するとどのようなことが起こったでしょうか。4節から16節までをご覧ください。12節までをお読みします。

「ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」

 

「ちょうどそのとき」、ボアズがベツレヘムからやって来て、ルツたちが働いていた畑にやって来ました。すると彼は刈る人たちに、「主があなたがたとともにおられますように。」とねぎらいの言葉をかけました。すると、刈る人たちは「主があなたを祝福されますように。」と答えています。実に麗しい関係ですね。ボアズは心から神を慕い求め、神の言葉に生きていました。そんな彼を、しもべたちも尊敬していたのです。

 

するとボアズはルツに目を留め、刈る人たちの世話をしている若い者に、「あれはだれの娘か」と聞きました。勤勉に働いている姿に目が留まったのか、見た瞬間に美しい人だと思ったのかはわかりません。その若い者がルツについて知らせると、ボアズはその献身的な姿に感動し、ルツに、自分のところの若い女たちのそばを離れず、彼女たちの後について行くように、と言いました。そればかりではありません。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲むように、と言いました。ルツを労り、外国人であるがゆえの嫌がらせを受けないように取り計らってくれたのです。

 

ルツは顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言いました。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」すると、ボアズは答えて言いました。

「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(11-12)

ボアズは、この一連のルツの行動が、単にナオミに対する愛情だけではなく、イスラエルの神、主に対する信仰から出たものであると受け止め、主がその行為に報いてくださるようにと祈っています。つまり、ルツがその翼の下に身を避けようとしてやって来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように、と祈ったのです。

 

この言葉には本当に慰められます。私たちは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)私たちもイエス・キリストを通してイスラエルの神の翼の下に避け所を見出した者です。つまり、このボアズの姿は、イエス・キリストの姿を表していたのです。キリストこそ私たちの避け所です。その主に身を避ける者は幸いです。その人は、主から豊かな報いを受けることができるからです。

 

それに対して、ルツはこう答えています。13節です。

「彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」

ルツは、自分が、このような取り計らいを受けるに値しない者であることを知っていました。ボアズが雇っているわけでもない娘です。それにモアブ人でした。本来なら追い出されても仕方ない者であるにもかかわらず、ボアズの特別な計らいと好意にあずかることができました。このように、受けるに値しない者が受けることを「恵み」と言います。私たちも、神の民となるには全く値しない者であったにもかかわらず、神の民となりました。それは私たちに何かそれだけの価値があったからではなく、そうでないにもかかわらず、イエス・キリストの十字架の贖いを信じたことによって、そのようにさせていただけたのです。そうです、私たちが救われたのは、一方的な神の恵みによるのです。

 

14節から16節までをご覧ください。

「食事の時、ボアズはルツに言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る人たちのそばに座ったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若い者たちに命じた。「彼女には束の間でも落ち穂を拾い集めさせなさい。彼女にみじめな思いをさせてはならない。それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。彼女を叱ってはいけない。」

 

ボアズはルツに、パン切れを酢に浸して食べるように勧めています。また、炒り麦を取って、彼女に与えています。そして、ルツが知らないところでも、ボアズは、ルツに良くしています。彼は若い者たちに、たくさん穂が落ちる束の間から拾い集めさせ、彼女にみじめな思いをさせてはならない、と言いました。それだけでなく、彼女のためにわざと束から穂を抜き落としておくようにさせました。

このように、ルツは、ボアズをとおして、主から大きな慰めを受けました。これが、私たちが主からうける慰めです。私たちが主イエス・キリストに従うと決心したことで、確かに今まで慣れ親しんできた習慣から離れ、これまでの仲間から離れることで寂しい思いをすることがあるかもしれませんが、そのことによって私たちは主との深い交わりの中に入れていたたき、主の深い配慮にあずかるようになったのです。確かにルツは、自分の家族を失ったかもしれません。頼りにすることはできない、モアブ人の神々を頼りにすることもできません。けれども、主ご自身との個人的な関係、愛し合う関係を得たのです。これが、主にお従いする者にもたらされる報いです。

 

Ⅲ.帰宅して(17-23)

 

最後に17節から23節までをご覧ください。

「こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。集めたものを打つと、大麦一エパほどであった。彼女はそれを背負って町に行き、集めたものを姑に見せた。また、先に十分に食べたうえで残しておいたものを取り出して、姑に渡した。姑は彼女に言った。「今日、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女は姑に、だれのところで働いてきたかを告げた。「今日、私はボアズという名の人のところで働きました。」ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主、その方を祝福されますように。」ナオミは、また言った。「その方は私たちの近親の者で、しかも、買い戻しの権利のある親類の一人です。」モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、うちの若い者たちのそばについていなさい』と言われました。」

ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ、それは良かった。あの方のところの若い女たちと一緒に畑に出られるのですから。ほかの畑でいじめられなくてすみます。」それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女は姑と暮らした。

 

こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めました。集めたものを打つと、大麦一エパほどでした。大麦一エパとは23リットルです。ボアズの配慮があったとはいえ、これは大変な量です。彼女はそれを家に持って帰り、姑のナオミに見せました。また、それとは別に、十分に食べから残しておいた炒り麦を、ナオミに渡しました。驚いたナオミはルツに、どこで落ち穂を拾い集めたのかを聞くと、ルツが、ボアズという人のところですと答えたので、ナオミはさらに驚きました。ボアズはナオミの近親者で、買戻しの権利のある親戚のひとりだったからです。

 

買戻しの権利とは、だれかが所有していた土地が売られてしまい。それを再び自分のものにするとき、代価を払って買い戻すことを言います。レビ記25章25節には、「もしあなたの兄弟が落ちぶれて、その所有地を売ったときは、買い戻しの権利のある近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」とあります。この権利については3章でもう少し詳しく学びたいと思いますが、ボアズは、その買戻しの権利のある親戚のひとりだったのです。

 

ルツは、その方がこれからも自分の畑に来るように、と言ったことを伝えると、ナオミは「それは良かった」と答えました。ほかの畑でいじめられなくてすむからです。それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めました。こうして、彼女は姑と暮らしたのです。

 

ナオミとルツがモアブの野からベツレヘムに戻って来た時には、これから先どうなるか全くわかりませんでした。ナオミは自分を「ナオミ」と呼ばないで、「マラ」と呼んでください、と言いました。全能者である神が大きな苦しみにあわせたのですから。でも、その全能者であられる神が、ルツを通して彼女に報いてくださいました。はからずも、ルツはボアズの畑へと導かれたのです。誰がそのようになることを想像することができたでしょうか。しかし、話はそれで終わりません。それよりももっとすごいことになっていきます。人類の救済の歴史へと発展していくのです。これが神の世界です。人間の目では八方塞がりのような状況でも、そこに神の御手があるなら、私たちの知らない大いなることがそこに広がっていくのです。大切なのは、ルツが神の導きに忠実に従っていったように、今自分の目に広がっていることを自分に与えられた神の計画として受け止め、それに従っていくことです。私たちの信仰の道は必ずしも自分が思い描いたようには進んでいないかのように見えるかもしれませんが、主はあなたの信仰に報いてくださいます。雌鳥がその翼の下に身を避けるように、あなたの人生をかくまってくださるのです。これが主を信じて歩む私たちに与えられている約束なのです。

ルツ記1章

今回からルツ記の学びに入ります。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ナオミと二人の嫁(1-5)

 

「さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。」

 

これは、さばきつかさたちが治めていたころのことです。つまり、士師記の時代です。士師の時代がどのような時代であったかは、士師記の一番最後を見るとよくわかります。すなわち、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(士師21:25)時代でした。それは霊的混乱ばかりでなく、物質的混乱をももたらしました。ここには、「この地に飢饉が起こった」とあります。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野に行き、そこに滞在することにしました。その人の名前は「エリメレク」と言います。妻の名前は「ナオミ」です。二人には二人の息子がいました。「マフロンとキルヨン」です。

 

するとそこで思わぬでき出来事が起こりました。ナオミの夫のエリメレクが死んでしまったのです。なぜ死んでしまったのかはわかりません。しかし、そのことでナオミと二人の息子が残されてしまいました。そこで、二人の息子はモアブの女を妻に迎えました。一人の名は「オルパ」で、もう一人の名は「ルツ」です。残された家族で助け合って生きていこうと思ったのでしょう。ところが、その10年後に、その二人の息子のマフロンとキルヨンも死んでしまいました。何ということでしょう。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。

 

わかりません。それがどうしてなのかわかりませんが、私たちの人生にはそれがどうしてなのかわからないことが起こることがあるのです。しかし、それがどんなことであっても、今週の礼拝のみことばにあったように、主の御許しがなければ何も起こりません。すべては主の御手の中にあります。そしてこのことにも主の深いご計画と導きがあったがわかります。この時点ではそれがどうしたなのかはわからる術もなく受け入れられることではなかったでしょう・・・が。

 

ただこの地に飢饉が起こったとき、彼らがモアブの地へ行ったことが、果たして本当に良いことであったのかどうかはわかりません。というのは、カナンの地は、イスラエルの民に与えられた約束の地です。その地から離れることは決して神のみこころであったとは思えないからです。エリメレクが家族を守ろうとしたことは理解できますが、そのために約束の地を離れたことは評価できません。かつてアブラハムも約束の地カナンに入って後で、その地に飢饉が起こったとき、エジプトにしばらく滞在するために下って行きましたが、それは神のみこころではありませんでした(創世記12:10)。彼はそこで自分の妻を妹だと偽ったので、彼女は宮廷に召し入れられてしまいました。主はそのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれたので、彼らは所有するすべてのものと一緒にそこを出ることができましたが、明らかにそれは神のみこころではありませんでした。

 

ここでも同じことが言えます。モアブの地とは、ヨルダン川東岸にある、アルノン川とゼレデ川の間の高原地帯を指します。そこは肥沃な農業地帯でした。産物としては、小麦、大麦、ぶどうなどがあり、羊ややぎの牧畜も盛んでした。

モアブ人の祖先は、アブラハムの甥のロトです。ロトには二人の娘がいましたが、姉が父ロトによって産んだ子がモアブです(創世記19:30-38)。ちなみに、妹が父ロトによって産んだのがアンモン人の祖先ベン・アミです。ですから、モアブ人はイスラエル人と血縁関係にありましたが、そのように近親相姦によって生まれたアンモン人を、イスラエルは罪に汚れた民族と見ていたのです。

 

また、歴史的にもイスラエルがエジプトを出て約束の地を目指して北上したとき、イスラエル人を恐れたモアブの王バラクは、占い師のバラムを雇ってイスラエル人を呪わせましたが、これは失敗に終わりました(民数記22-24章)。そこでモアブの娘たちはイスラエル人を誘惑し、バアル・ペオル礼拝に陥らせました。主はその危機から救い出すためにピネハスを用いて2万4千人のイスラエル人を討たれました(民数記25:1-9)。それ以降、モアブ人は主の集会から除外されるようになったのです。ですから、たとえ飢饉が起こったからと言って、約束の地を離れてこのモアブに行ったことは、主のみこころであっとは言えません。むしろ彼はそれがどんな困難があってもその地にとどまっているべきだったのです。

 

これは、私たちにも言えることです。私たちの人生にも、避けて通ることのできない困難があります。しかし、それがいかに苦しくても、永遠に価値あるものを手に入れるためにそこから離れるのではなく、忍耐をもってそこにとどまっていなければなりません。神の導きがないままで場所や状況を変えても、根本的な問題の解決にはならないからです。

 

Ⅱ.ルツの信仰(6-18)

 

それでナオミたちはどうしたでしょうか。次に6節から18節までご覧ください。まず14節までお読みします。

「ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした。主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。彼女は二人の嫁と一緒に、今まで住んでいた場所を出て、ユダの地に戻るため帰途についた。ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。二人はナオミに言った。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」 ナオミは言った。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」 彼女たちはまた声をあげて泣いた。オルパは姑に別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついた。

 

夫とふたりの息子を失ったナオミは、主がご自分の民を顧みて、カナンの地を祝福し、彼らに豊かな収穫を与えてくださったということを聞き、ふたりの嫁といっしょに、モアブの野から故郷のベツレヘムに帰ることにしました。

しかし、その途中でナオミは、このふたりの嫁を実家に帰すことにしました。ふたりの嫁にとって一番幸せなのは、再婚相手を探してモアブに住むことだと考えたからです。ナオミはふたりの嫁にこう言いました。

「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」

このナオミの言葉には、愛が溢れています。この二人が亡くなった自分の夫と姑である自分にしてくれたことをねぎらい、主がその労に報いてくださるようにと祈っています。また、彼女たちが実家に戻って、モアブの地で新しい夫が与えられ、その家で安らかな暮らしができるようにと祈りました。そして、ふたりに分かれの口づけをすると、彼女たちは声をあげて泣きました。そして、ナオミにこう言いました。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」彼女たちにとっては異国の地です。自分の夫を失って、それでも姑について行きたいというのは、そこによほどのものがなければ言えないことです。ナオミとこのふたりの嫁たちの間には、深い愛と信頼関係がありました。

 

このような二人にナオミはこう言って説得します。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」

 

どういうことでしょうか。これは、申命記25章5-6節にある「レビラート婚」という聖書の律法に基づいたものです。「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」

これはユダヤ人の特殊な婚姻法で、死んだ者の兄弟が、そのやもめと結婚して、死んだ者の名を残し、イスラエルから消し去られることがないようにするための定めです。この場合、彼女たちの夫であるマフロンとキルヨンが死にました。ですから、彼らの弟がオルパとルツと結婚する必要がありますが、弟はいませんでした。そこでナオミがこれから子を宿して、その子が、彼女たちと結婚しなければならないことになります。けれども、そんなことは無理です。ですからナオミは、夫を持って息子たちを産んだとしても、彼らが成人になるまで待とうというのですか、と言っているのです。

 

それで彼女たちはまた声をあげて泣きました。結局、オルパは姑に口づけをして別れを告げましたが、ルツはナオミにすがりつきました。ここでふたりの嫁オルパとルツの決断が別れました。弟嫁のオルパは、自分の民とその神々のところに帰って行きました。そのこと自体は何の問題もありません。それはナオミが勧めたことですし、ナオミも彼女を責めてはいません。ある意味、それは常識的な判断だったと言えるでしょう。

 

しかし、兄嫁のルツはそうではありませんでした。ルツはこう言っています。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(16-17)

ルツがナオミに着いて行ったら、不安なことだらけです。夫はいないし、全く新しい土地で、外国人として暮らさなければなりません。それでもルツがナオミに着いて行こうとしたのは、姑ナオミに対する愛はもちろんのこと、ナオミの民であるイスラエルの民への愛、そして、イスラエルの神への愛から出たものでした。ルツはここで、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と言いました。どうして彼女は、このように言ったのでしょうか。

 

彼女の決断は大きなものでした。今まで住み慣れたモアブの地、モアブの民、そしてモアブの神と別れを告げ、ナオミの民、ナオミの神を自分の神とするのですから・・。彼女は、マフロンの妻になってから、イスラエルの神こそ天地を創造されたまことの神であるということを知りました。そして、この神がいかに、エジプトからイスラエルを救い出され、約束の地に導かれていたことも聞いていたでしょう。イスラエル人の家族の中にいて、生けるまことの神がどのような方であるかを知り、この方を自分の神としたのです。自分の支えである夫がいなくなり、かつて自分が暮らしていたモアブ人たちの中に戻ることはいくらでもできましたが、彼女は、自ら進んで、イスラエルの神を自分の神とする決心をしたのです。ナオミの信じているイスラエルの神の恵みの中で生き、そして死んで行きたいと思いました。モアブ(異邦人)の女である彼女は、このように信仰を告白することによって、イスラエルの民が受ける祝福に与ることができたのです。

 

それは私たちも同じです。私たちも肉においては異邦人でした。いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあっては望みもなく、神もない者でした。しかし、かつては遠く離れていた私たちも、イエス・キリストにあって、キリストの血によって近い者とされたのです。ルツのように異邦人であった私たちもナオミのような存在の人と出会いを通して、まことの神を知り、その中に加えていただくことができたのです。私たちもまた神から遠く離れていた者ですが、神の恵みによって、「あなたの民は私の神、あなた神は私の神です。」と信仰を告白することができ、神の民に加えていただくことができたのです。

 

Ⅲ.ベツレヘムに着いたナオミとルツ(19-22)

 

最後に19節から22節までをご覧ください。そのようにしてベツレヘムに帰ったナオミとルツはどうなったでしょうか。

「二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。 私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。」

 

ふたりは旅をして、ベツレヘムに着きました。ふたりがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出しました。そして、女たちは、「まあ、ナオミではありませんか。」と言うと、ナオミは、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。」と言いました。「ナオミ」とは「快い」という意味で、「マラ」は、「苦しむ」という意味です。全能者が私に大きな苦しみにあわせたのですから、満ち足りてかえって来たどころか素手で帰ってきたのですから、とても「ナオミ」ではない、「マラ」です、そう言ったのです。ここでナオミは自分の身に起こったことを、偶然の結果としてではなく、全能者のわざであるとみています。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。全能者が私を辛い目にあわせたのですから。どういうことでしょうか。

 

それが全能者のわざであると受け止めることができるなら、そこに希望があります。なぜなら、一時的な苦しみは必ず祝福へと変えられるからです。どのような試練の中にも、そこに神がおられ、神が導いておられると信じることができるなら、その試練にも何らかの意味があることを悟ることかできるからです。先日、亡くなられたマラソンの小出監督は、バルセロナオリンピックで銀メダルを取った有森裕子選手に、「人生に意味のないことはない。試練や苦しみがあったら、それを「せっかく」だと思え。」と言って指導したそうです。人生に意味のないことなどありません。なぜなら、神はご自身のご計画に従って、私たちの人生を導いておられるからです。たとえ今、試練の中にあってもそこに神の御手があると受け止められる人は、そこに神の希望の光を持つことができるのです。ナオミの場合、どこに希望を見出すことかできたのでしょうか。

 

22節をご覧ください。ここには「モアブの野から戻った嫁、モアブ人の女ルツが一緒であった」とあります。また、「ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった」とあります。人間の目では何でもないことですが、神の目を通してみるなら、そこに大きな希望がありました。この二つのことが、その後の話の展開に有利に働くからです。だれがこんなことを考えることができたでしょうか。

 

神はナオミとルツを見捨ててはいませんでした。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたにもルツが残されています。あなたの置かれている時は、大麦が始まったころではないですか。あなたが置かれている状況をよく見てください。神はそこに脱出の道を備えていてくださいます。現状を見て悲観するのではなく、そこに全能者の御手があると信じ、信仰の目をもって、神の働きに期待して祈りましょう。