ヨハネ13章31~38節「互いに愛し合いなさい」

ヨハネの福音書13章後半です。前回は、イスカリオテ・ユダの裏切りを学びました。イエス様は彼に何度も悔い改めの機会を与えましたが、彼は最後まで悔い改めませんでした。最後の晩餐の席で、イエス様からパン切れを受け取ると、すぐに出て行きました。時はいつでしたか?時は夜でした。それは単に夜であったということではなく、永遠の暗闇を表していました。彼はイエス様から離れて、永遠の暗闇に落ちることを選んだのです。しかし本当の弟子は、イエスのもとに留まります。ユダが出て行った後で、イエス様はとても大切なことを話されました。それがきょうの箇所です。

 Ⅰ.栄光を受けるとき(31-32)

まず、31節と32節をご覧ください。
「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」

ユダが出て行ったとき、イエスは大切な話をされました。それは、「今、人の子は栄光を受けた」ということです。「今」とはいつですか?今とは、ユダが悔い改めないで出て行った今です。人の子とはイエス様のことですが、今、人の子は栄光を受けられました。なぜユダが出て行った今、栄光を受ける時なのでしょうか。

これまでも何回か語ってきましたが、ヨハネの福音書において「栄光を受ける」というのは、キリストが十字架で死なれることを指し示していました。ユダの裏切りによってキリストが十字架で死なれます。だから栄光を受けられるのです。どうして十字架で死なれることが栄光なのでしょうか。それは、私たちを罪から救うという神の永遠の計画が成し遂げられるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、神が予め定めておられたことでした。それが完成する時、それが十字架なのです。イエスが十字架で死なれることで、アダムによって全人類にもたらされた罪が贖われるのです。ですから、この後17章に入ると、そこにイエス様の最後の祈りが記されてありますが、こう言われました。4節です。
「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」
イエス様は多くの奇跡をもって神の栄光を現しましたが、最終的には、神がイエスに行うようにと与えてくださったわざを成し遂げることによって現わされます。それが十字架なのでした。十字架のわざを通して神の栄光が完全に現されました。ですから、イエス様が十字架ら付けられたとき最後に発せられたことばは、「完了した」(19:30)ということばだったのです。「完了した」。「テテレスタイ」。これは、神の救いのみわざが完了したという意味です。私とあなたの罪の負債、借金を、イエスが代わりに支払ってくださいました。完済してくだった。すべての借金から解放されたらどんなに気持ちが楽になるでしょう。これまでずっと重くのしかかっていた荷物を下ろすことができます。もうそのことで思い悩む必要はありません。イエス様があなたの罪の負債を完済してくださったからです。ですから、十字架は人の子が栄光を受けられる時なのです。

また、ここには、「神も人の子によって栄光をお受けになりました」とあります。イエス様だけではありません。そのことによって、父なる神も栄光を受けらます。なぜなら、イエスが十字架で死なれることによって神がどのような方なのか、そのご性質がはっきりと示されるからです。皆さん、神はどのような方ですか?聖書には、神は愛であると教えられていますね。どうやって神が愛であるということがわかるのでしょうか?それは単なる絵に描いた餅ではありません。神はことばだけでなく行いによって、そのことをはっきりと示してくださいました。それが十字架でした。十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に示されたのです。そのことをパウロはこう言っています。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)
私たちがまだ罪人であったとき、私たちがまだ神を信じないで、神を無視し自分勝手に生きていたとき、そのような状態であったにも関わらず、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神の私たちに対する愛というものを明らかにしてくださいました。
Ⅰヨハネ4:9-10には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。どこに愛があるのですか?ここにあります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださったということの中にあるのです。具体的には、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされたという事実の中にです。それは十字架のことです。それはいわば「にもかかわらずの愛」です。十字架で神の愛がはっきりと示されました。だから、十字架はキリストだけでなく、父なる神の栄光も現わすのです。

十字架はキリストが栄光を受ける時であり、また、父なる神も栄光を受けられるときです。あなたは、十字架をどのように受け止めておられますか。私たちの人生にも十字架があるでしょう。自分自身の十字架があります。できますなら、この杯を取り除いてくださいと祈りたくなるようなとき、どうしても乗り越えられないと思うような困難に直面するときです。しかし、それは栄光のときでもあるのです。あなたが祝福されるときであり、神が栄光を受けられるときでもあります。問題は、あなたがその十字架をどのように受け止めていらっしゃるかということです。神の御心に従順になるとき、神が栄光をお受けになり、あなたもまた祝福されるのだということを覚え、あなたの十字架を負って、キリストに従って参りましょう。

Ⅱ.イエスが愛したように(33-34)

次に、33~35節をご覧ください。
「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

イエス様は、弟子たちに対して「子どもたちよ」と呼びかけられました。この福音書の中では初めて使われている呼び方です。非常に親しみと愛情を感じる呼び方です。なぜイエス様は彼らを「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょうか。それは彼らといられる時間がほんの数時間しか残されていなかったからです。もうすぐこの地上を去って行かなければなりませんでした。そんな彼らとの別れを惜しんで「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょう。今まではすべての人に対して救いのメッセージを語ってきました。でも今は愛する者たちだけに、本当に言いたいことを伝えようとしていました。それは、「わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ということでした。どういうことでしょうか?

「わたしが行くところ」とは、父なる神のところ、天の御国のことです。イエスはかつてユダヤ人たちに、「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われましたが、それを弟子たちにも言われました。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ただユダヤ人たちに言った時と違うのは、今はついて来ることができないが、後にはついて来るということでした。(36)なぜ今はついて行くことができないのですか。なぜなら、まだその場所が用意されていないからです。ですから、イエスが行って、彼らのために場所を用意したら、また来て、彼らをご自分のもとに迎えてくださいます。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。しかし、ユダヤ人たちはそうではありません。彼らは今ついて行くことが出来ないというだけでなく、後もついて行くことができません。なぜなら、イエスを信じなかったからです。イエスの弟子たちはその後も大きな失敗をしでかします。ペテロに至っては、イエスを知らないと三度も否定するという罪を犯しますが、それでも悔い改めてイエスを信じたことですべての罪が聖められたので、イエスの行かれるところ、天の御国に行くことができるのです。

そのことを前提として、イエスは大切なことを語られます。それが34節と35節の御言葉です。ご一緒に声に出して読みましょう。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

もうすぐ彼らからいなくなるという直前に、いわば遺言のように語られたのがこの言葉です。イエス様は彼らに新しい戒めを与えられました。それは、「互いに愛し合いなさい。」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。どうしてこれが新しい戒めなのでしょうか。旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならないという戒めがありました。たとえば、レビ記19:18には「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:8 )とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずです。いったいどういう点で、これが新しい戒めなのでしょうか。それは、どのように隣人を愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身を愛するように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。では、イエスが愛したように愛するとはどういうことでしょうか。

私たちはこの少し前にその模範を学びました。それはイエス様が弟子たちの足を洗われたという出来事です。そのとき主は何と言われたかというと、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14)と言われました。イエス様はそのことによって、愛するとはこういうことなのだということの、模範を示してくださったのです。それは最も高いところにおられた神ご自身が、人として現れてくださり、仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われたということを意味していました。そのように愛するのです。つまり、自分を捨てて兄弟姉妹に仕えるということです。自分を愛するようにではありません。自分を捨てて愛するのです。自分を捨てると口で言うのは簡単なことですが、いざこれを実行しようと思うと大変なとこです。できません。ですから、イエスはこの後で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)と言われたのです。これが愛です。これより大きな愛はありません。そのような愛で互いに愛し合いなさいと言われたのです。

とてもじゃないですが、そんなことできるはずがないじゃないですか。私たちも愛が一番大切だとか、最後は愛が勝つなんて言っていますがそれはただの口先だけであって、結局最後はみんな自分がかわいいのです。だから嫌になったり、都合が悪くなったりすると、「や~めた」となるんじゃなるのです。それが自然ですよ。人間は自分を捨てるという愛を持ち合わせていないのです。

そうなんです。ですからこの新しい戒めを、それだけの意味として捉えるとしたら、それは人間の道徳の教えの領域にとどまってしまうことになります。しかし、イエスがここで言いたかったのは単なる愛の模範ということではなく、私たちが互いに愛し合うための源がここにあるという意味で語られたのです。それが「わたしがあなたがたを愛したように」という意味です。弟子たちはその愛を見ました。彼らはただ愛の教えを聞いただけではなく、実際に見て、触れて、体験しました。そのキリストの愛を模範にして、互いに愛し合うことが、ここでイエスが与えられた新しい戒めだったのです。それは、キリストの十字架の死によって示された神の愛を受けた者にだけできる愛です。神はそのために力を与えてくださいました。それが神の霊、聖霊です。

ローマ5:5には、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。聖霊によって神の愛が注がれています。あなたがイエス様を救い主として信じた時、その瞬間に、イエス様があなたの心の内に来てくださいました。どのように来てくださったんですか?聖霊によってです。聖霊はキリストの霊、神の霊です。イエス様を信じた瞬間に、この聖霊があなたの心に住んでくださいました。これがクリスチャンです。クリスチャンとは、神の霊、聖霊を持っている人です。今までは持っていませんでした。今までは罪があったので神がお住になることができませんでしたが、イエス様を信じたことですべての罪が取り除かれ、賜物として聖霊が与えられました。この聖霊が私たちを助け、愛する力を与えてくださいます。聖霊があなたを内側からイエス様と同じご性質を持つ者に変えてくださるのです。その性質とは何でしょうか。愛です。

ガラテヤ5: 22~23をご覧ください。ここには、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。御霊の実は「愛」です。ですから、キリストを信じた者はみな、イエス様のように愛の人に変えられていくのです。自動的に変えられるわけではありません。また、信じた瞬間にすぐに変えられるというわけでもありません。信じた瞬間に全く怒らなくなったとか、いつもニコニコしていて、問題にも全く動じなくなったとか、もう何でも赦してくれる!となればすごいですが、現実にはそういうわけにはいきません。むしろ、本当に自分はイエス様を信じているのだろうかと、自分を疑いたくなるような醜い性質が頭をもたげることが多いのですが、しかし、神の御霊が与えられるなら、少しずつ愛の人に変えられていきます。植物の種が蒔かれると、必ず実を結びます。時間はかかりますが、やがて実を結ぶようになるのです。御霊の実も同じで、あなたの心に信仰の種が蒔かれると、あなたの心に神の御霊が宿り、神の愛があなたに注がれるようになるのです。そして、やがて御霊の実を結ぶようになります。愛の人へと変えられていくのです。それは御霊なる主の働きによるのです。

いったいなぜイエス様は、互いに愛し合うようにと命じられたのでしょうか。35節をご覧ください。それは、互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになるからです。もし私たちが自分を低くして互いに愛し合うなら、それによって、信仰のない周りの人たちが「ああ、あの人たちはキリストを本当に信じている人たちなんだ」「クリスチャンってすごいなぁ」と言って、神を認めるようになります。すなわち、神を信じるようになるのです。どんなに私たちがイエス様は主ですと叫んでも、互いにいがみ合ったり、憎み合ったりしているなら、だれも本気にしないでしょう。私たちがキリストの命令に従って互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であるということを、すべての人が認めるようになるのです。

以前紹介しましたが、奥山実先生が今回の新型コロナウイルス感染症について、フェイスブックに投稿された記事を見ましたが、アーメンでした。混乱のただ中にある武漢市で、クリスチャンらは黄色い防護スーツを来て犠牲的な奉仕をしました。彼らは無料のマスクとともに福音のトラクトを配布したのです。それによって多くの人々、役人や警官たちさえも、クリスチャンの真実の姿に敬服し評価し始めているとの情報もあります。武漢ではこの困難が永遠に変わらぬ希望の福音を宣べ伝える機会となっています。
私たちの希望はいつも暗闇の中にこそ輝くのだということを覚え、彼らのために祈りたいと思います。この混乱が、一見脅威と思えることではありますが、中国のみならず、この国の人々にとっても、真実に信頼に足るものが一体何であるのかを示す機会になるのだと信じて疑いません。
私たちの信じている神様はこの困難の中にあって、こま国においても大きな霊的祝福をもたらすことのできる方だと信じます。ともに祈りましょう。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。そのやみの中でこそ、私たちクリスチャンの真価が問われているのです。それが互いに愛し合うということです。イエス様が愛したように互いに愛し合うこと、それを実行することによって、すべての人がイエスを認めるようになるのです。

Ⅲ.最後まで愛されるイエス(36-38)

最後に、36節から38節までをご覧ください。
「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

シモン・ペテロは、キリストの一番でしたが、彼は、イエス様が「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(33)と言われたことがよく理解できませんでした。それで、イエス様に尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか。」
するとイエス様は、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と答えられました。これは先ほど言ったように、天国のことです。イエス様は、父なる神のみもと、天国に行かれます。今は来ることができませんが、しかし後にはついて来ます。

この言葉のとおり、ペテロは後にイエス様のもとに行きました。ローマ皇帝ネロの大迫害のとき、ペテロはローマで処刑されました。当時、ローマの処刑法は十字架刑でしたが、彼は主と同じ姿では申し訳ないと逆さにしてくれるように頼み、逆さ十字架につけられたと言われています。でもペテロは、そのときはわかりませんでした。イエス様が言われたことがどういうことなのか。それでイエス様に尋ねました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」ペテロらしいですね。彼は直情的な人間でしたから、あなたのためならいのちを捨てます!と啖呵を切ったのです。これは彼の本心だったでしょう。彼は本当にイエス様を愛していました。いのちをかけるほど愛していた。だからこそ、漁師という仕事を捨てでまで従ったのです。

でもどうでしょう。私たちはこの後でどんなことが起こるのかを知っています。イエス様が十字架につけられるために捕らえられると、彼はイエス様を知らないと言うようになります。イエス様はそのことも全部知っておられ、その上でこのように言われました。38節です。
「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
「まことに、まことに」とは、大切なことを言われる時に使われたことばです。ペテロよ、あなたはわたしのためにいのちを捨てるというのですか。わたしはあなたに言います。あなたは、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言います。マルコ14:31には、「ペテロは力を込めて言い張った。」とあります。絶対にそんなことはない!彼はそのように言い張りました。三度目にはのろいをかけてまで誓ったとあります。しかし、その後で彼はイエス様が言われたように、三度イエスを知らないと言いました。これが人間の弱さです。私たちはどんなに誓っても、最後までそれを貫くことは並大抵のことではありません。。イエス様はそういうことを重々承知の上で、彼を愛されました。ルカ22:31~32には、イエス様が彼にこのように言われたことが書いてあります。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
さまざまな問題によって、あるいはサタンの攻撃や困難、迫害によって、信仰を失いそうになることがあります。でも、イエス様は決して見捨てることはなさいません。それは私たちの信仰が強いからではありません。イエス様が祈っていてくださるからです。イエス様は、ペテロの信仰が無くならないように祈ってくださいました。あなたが信仰にとどまっていられるのも、イエス様が祈ってくださったからです。救われたのもそうです。だれかが陰で祈ってくれたからです。そして何よりもイエス様ご自身が祈ってくれました。今でもとりなしていてくださっています。それは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるためです。確かにペテロはイエス様を三度も否定しました。しかし、イエス様がよみがえられて、彼の信仰を回復させました。そして信仰を回復させていただいた彼は教会の指導者として立てられ、多くの人々を励まし、死に至るまで忠実にキリストに従うことができました。

イエス様は、私たちの弱さも知っておられます。失敗することもすべて知っておられます。その上で愛してくださったのです。私たちの過去だけでなく、今も、そしてこれからもそうです。それでも私たちをあきらめることをせず、最後まで愛してくださるのです。

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。イエス様はあなたの罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。まだ信じていらっしゃらない方は、信じてください。そうすれば、すべての罪は赦され、イエス様が行かれたところ、天の御国に入れていただくことができます。永遠のいのちが与えられるのです。

もう信じているという方は、すでに救われています。だんだん救われて行くのではなく、信じた瞬間に救われました。もうすべての罪が赦されました。ただ足は洗わなければなりません。足を洗うってどういうことでしたか?日々の歩みの中で犯した罪を悔い改めるということでしたね。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。赦されない罪などありません。聖霊を冒涜する罪、すなわち、イエスを信じないという罪以外は、どんな罪でも赦されます。どうぞこのことを覚えておいてください。長い信仰生活にはいろいろなことがあります。いろいろな問題が起こってきます。健康の問題、結婚の問題、子育ての問題、仕事の問題、人間関係の問題、本当にいろいろな問題が起こります。あるいは、自分自身のことで大きな失敗をしでかすかもしれません。しかし、それがどんな問題であっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。むしろ、そうした問題は、あなたがもっと神の愛を体験する良い機会として、神が与えておられるのかもしれません。問題そのものは辛いことですが、その問題の中で神に祈り、御言葉を読み、イエス様と交わることによって、さらに深く神の愛を体験することができます。主は、決してあなたを離れず、あなたを捨てません。ですから、この神の愛にしっかりとどまりましょう。キリストの恵みにとどまり続けましょう。そして、イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。その愛に心から応答したいと思うのです。

ヨハネ13章21~30節「暗闇から光へ」

 ヨハネの福音書の続きです。この箇所には、イスカリオテのユダの裏切りについて記されてあります。きょうは、この箇所から「暗闇から光へ」というタイトルで話しします。

Ⅰ.心が騒いだイエス(21)

まず、21節をご覧ください。
「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

「これらのこと」とは、その前のところでイエスが語られたことです。18節を見ると、イエスは旧約聖書のことばを引用して、「わたしのパンを食べる者が、わたしに向かってかかとをあげます。」と言われました。「かかとを上げる」とは裏切るという意味です。イエス様はユダが裏切ることを前もって語られたのです。これらのことを話されたときイエスは、心が騒ぎました。なぜ騒いだのでしょうか。それは、イスカリオテのユダが自分を裏切るということを知っておられたからです。いや、ユダが裏切るだけでなく、そのことを悔い改めなかったからです。その結果、彼が永遠に滅びてしまうことを思うといたたまれなかったのです。その心の深い部分で霊の憤りを感じ、心が騒がずにはいられませんでした。

イエスは弟子たちを愛しておられました。当然、ユダのことも最後まで愛しておられました。そして彼の足さえも洗ってくださいました。イエスはこれまで何度もご自身を裏切る者がいると警告し、悔い改めを促してこられました。ヨハネは、このユダの裏切りについて、イエスが3度も語られたことを記録しています。たとえば、6章では「わたしがあなたがた12人を選んだのではありません。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」(ヨハネ6:70)と言われました。これはイスカリオテ・ユダのことです。イエスは、ユダのことを指してこう言われたのです。
また、この13章10節には、主が弟子たちの足を洗われた時「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(13:10)と言われました。これはユダのことです。ユダはきよめられていませんでした。
さらに、先ほども申し上げたように、18節でも旧約聖書のことばを引用して、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることは成就する、と言われました。
このように、イエスは弟子たちの中にご自分を裏切る者がいるということを何度も語り、悔い改めるように促してきたのに、彼はそれを受け入れませんでした。3年余りイエスのそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に、自分を裏切る者がいるということはどんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果永遠に滅びてしまうことを思うと、心を騒がせずにはいられなかったのです。
それでこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
これで4度目です。「まことに、まことに」とは、本当に重要なことを語られる時に使われる言葉です。それは、ユダに対して、今からでも遅くはない。だから何とか悔い改めてほしいという、主の痛いほどの思いが込められていたことがわかります。

それは、このユダだけに言えることではありません。私たちにも同じです。大切なのは、何をしたかではなく、何をしなかったかです。私たちもすぐに主を裏切るような弱い者であり罪深い者ですが、それでももし、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。そのことを忘れてはなりません。そして罪が示されたなら、悔い改めなければならないのです。そうすれば、主は赦してくださいます。今からでも決して遅くはありません。もし、あなたに罪があるなら、ユダのように頑(かたくな)にならないで悔い改めましょう。

Ⅱ.イエスの懐で(22-25)

次に、22~25節をご覧ください。22節には「弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」とあります。マタイ26:22には、「弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。」とありますが、彼らは大変ショックでした。まさか自分のことではないだろうと、自分さえも疑ったほどです。

23節、24節を見てください。それで、弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていたので、ペテロは彼に、だれのことを言われたのかを尋ねるように合図をしました。どういうことかというと、これは最後の晩餐でのことですが、最後の晩餐とは言っても、当時はレオナルド・ダヴィンチの絵にあるようにテーブルを囲んで皆が椅子に座って食べていたわけではありません。当時はコの字型のテーブルに左ひじを付いて横になり、右手で食べました。テーブルを囲み左から2番目に主人が座りました。一番左、すなわち、主人の右側に座っていたのはヨハネです。主人の右側には、主人が最も信頼する人が座ることになっていました。それがヨハネだったのです。また、主人の左側はゲスト席となっていましたが、そこに座っていたのがイスカリオテのユダでした。そこから弟子たちが順に座り、イエス様から一番左の端に座っていたのがシモン・ペテロだったのです。彼はテーブルをぐるっと回って、向かい側の一番しもべの席にいました。ですから、ヨハネから見るとヨハネは向かい側にいたので、お互いに顔をよく見ることができたのです。そこでペテロはヨハネに、口パクだったか、あるいは目くばせによってかはわかりませんが合図をしました。こんなふうに・・・。「だれのことをいわれたのか聞いて・・・」ヨハネはどこにいましたか?ヨハネはイエス様の右側にいました。右側で横になっていたので、ちょうどイエス様の胸の辺りで横になっているように見えたのです。

イエス様の右に座るというのは、イエス様に最も信頼された者であるという証です。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスが愛しておられた弟子である。」別にイエス様は彼だけを愛しておられたわけではありません。弟子たちみんなを愛しておられました。いや、弟子たちばかりでなく、私たちすべての人を愛しておられました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16)
イエス様はみんなを愛しておられます。それなのに彼は、自分のことを、イエスが愛しておられた弟子であると言っているのです。このように言える人は幸いです。なぜなら、そこに真の平安を得ることができるからです。そうでしょ、もし自分がだれからも愛されていないと感じていたら不安になってしまいます。また、あの人から憎まれ、この人から嫌われていると思ったら悲しくなってしまいます。ヨハネは、自分はイエス様に特別に愛されている、深く愛されていると思っていました。でもそれはヨハネだけではありません。すべての人に言えることです。ただ彼はそのように実感することができました。なぜでしょうか。それは単に彼がイエスの右側に座っていたからというだけでなく、イエスの愛がどのようなものであるかをよく知っていたからです。彼はこう言っています。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)
どこに愛があるんですか。ここにあります。神がそのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪のために、宥めのささげ物として死んでくださったことにあるのです。神は、私たちが愛される資格があるから愛したのではありません。そうでなくても、そうでないにもかかわらず愛してくださいました。あれができる、これができるから愛してくださったのではありません。もしそうだとしたら、それができなくなったらもう愛される資格はなくなってしまうことになります。でも、神の愛はそういうものではありません。私たちがまだ神を知らなかった時、神のみこころではなく自分勝手に生きていた時、聖書ではそれを罪と言っていますが、そんな罪人であったにもかかわらず、愛してくださいました。

聖書に、放蕩息子のたとえ話があります。ある人に二人の息子がいました。弟のほうが父に、「お父さん、財産の分け前を私にください」と言いました。それで、父は財産を二つに分けてやりました。すると、それから何日もたたないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまいました。何もかも使い果たした後でその地方に大飢饉が起こり、彼は食べることに困り果ててしまいました。いったいどうしたら良いものか・・・。そこで彼はある人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。
その時、はっと我に返った彼は、父のところに行ってこう言おうと決心します。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」
すると父親はどうしましたか。息子が立ち上がって、父のもとに向かうと、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、何度も口づけしました。息子が父親に、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたに対して罪を犯しました。もうあなたの子どもと呼ばれる資格はありません。」と言うと、父親は彼に一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつを履かせました。そして肥えた子牛を引いて来てほふり、食べてお祝いしたのです。

この父親は天の神様の姿です。そして、弟息子は、私たち人間、一人一人のことです。私たちは神から愛される資格などありませんでした。むしろ、神に反逆し、自分勝手に生きていました。それにもかかわらず神はあわれんでくださり、赦してくださいました。救われるはずのない私たちを救ってくださったのです。救ってくださっただけでなく、ずっとその愛で愛してくださいます。私たちがどんなに罪を犯しても、神のもとに立ち返るなら、神は赦してくだるのです。神の愛は変わることがありません。私たちはそんな愛で愛されているのです。これが私たちキリストを信じた者たち、クリスチャンです。

ヨハネはそこに座っていました。座っていたというか、横たわっていました。それはちょうどイエス様の懐に抱かれているようでした。彼はイエス様の心臓の音を聞いたと言われていますが、まさに彼はイエス様の心臓の音が聞こえるくらい、イエスのそばにいました。彼はそのように自覚していたのです。そこに彼の安心感がありました。

あなたはどうですか。イエス様の心臓の音を聞いていますか。イエス様のハートが届いていますか。だれも自分のことなんか愛してくれないと思っていませんか。みんな自分を嫌っていると思っていませんか。そう思うと人間関係が非常に難しくなります。だれからも愛されていないと感じることがあっても、イエス様はあなたを愛しておられます。あなたもイエスの心臓の音を聞くべきです。あなたがいるべき所は、イエス様の胸元なのです。そこでイエスの愛を感じ、安心感を持っていただきたいと思うのです。

Ⅲ.暗闇から光へ(26-30)

最後に、26節から30節までをご覧ください。26節には、「イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。」とあります。イエスは、「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」と言われましたが、その後のところを見てもわかるように、それでも弟子たちには、それがだれのことを言っているのかがわかりませんでした。というのは、当時の習慣では、このように過越の食事において、パン切れを浸して渡すという行為は、主人がゲストをもてなしたり、給仕したり、親しみを示すものであったからです。ですから、だれもイエスがしていることを見て、ユダがイエスを裏切ろうとしているとは思わなかったのです。ということはどういうことかと言うと、イエスは最後の最後まで、ほかの弟子たちにはわからないように、彼の罪をみんなの前であばき出すようなことをせず、しかも本人には分かるような方法で、悔い改めを迫る愛の訴えをし続けておられたということです。イエスは最後まで彼をあわれみ、愛と恵みを示されたのです。

しかし、彼はイエスの御言葉に耳を貸そうとはしませんでした。27節をご覧ください。ここには、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」」とあります。すごい言葉です。「サタンがはいった」どういうことでしょうか。どんな人でも主の愛の訴えを拒み続けるなら、自分では意識していないかもしれませんが、そこに巧妙なサタンの働きがあって、その働きに支配されてしまうのです。勿論、クリスチャンにサタンが入ることはありません。なぜなら、クリスチャンには神の聖霊が入っているからです。Ⅰヨハネ4:4には、「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」とあります。私たちのうちにおられる方は、これは神の御霊、聖霊のことですが、この方は、この世にいるあの者よりも力があるので、入ることができないのです。しかし、主の愛を拒み続け、聖霊を受けなければ、サタンに支配される、すなわち、サタンが入ることがあるのです。ユダは主の愛と恵みを完全に拒んで、パン切れだけを受け取りました。そのとき、サタンが彼に入ったのです。サタンは最初、彼の思いに働きかけました。2節には「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを与えていた。」とあります。そして、この最後の晩餐において、主の最後の愛の訴えがなされましたがユダがそれを拒んだことで、サタンが彼に入ったのです。

ですから、イエスは彼にこう言われたのです。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」もうこれ以上、望みはないということです。彼はイエスよりもサタンを選んでしまったからです。主が彼を見捨てられたので彼が悪魔の道を選んだのではありません。彼が主の愛を最後まで拒んだので、その結果、見捨てられることになってしまったのです。このことは、私たちにも言えることです。主は何度も、悔い改めなければ危険であること、そのままでは最後の裁きに会わなければならないということを、手を変え、品を変え、繰り返して語っておられます。ユダの場合のように直接的にではなくとも、ある時には聖書を通して、ある時にはクリスチャンの友人を通して語り掛けてくださっています。そのようにして悔い改めのチャンスを与えてくだっているのです。しかし、それを永久になさるわけではありません。後ろの扉が閉ざされる時がやって来るのです。ですから、もしあなたがその愛の訴えを頑なに拒み続けるなら、あなたは自分で悪魔を選び取ってしまうことになるのです。そして、もはや救いの望みは完全に断たれてしまうことになります。

それが30節にあることです。ここには、「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」とあります。ほかの弟子たちは、ユダが裏切るために出て行ったとは思いませんでした。というのは、彼は会計係だったので、イエスが彼に「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人々に何か施しをするように」とかと言われたのだと思っていたからです。しかし、そうではありませんでした。彼はイエスを裏切るために出て行ったのです。彼が出て行った時、外はどうなっていましたか?時は夜でした。新改訳第三版では、「すでに夜であった。」とあります。すでに夜であったとは言っても、過越の食事は夕食ですから、夜であるのは当然です。それなのに、ここにわざわざ「時は夜であった」とあるのは、それが単に時間的な状況を伝えたかったからではなく、彼の心の状態、彼の心の闇を強調したかったからなのです。イエスは最後までユダを愛し、悔い改める機会を与えておられたのに、彼は出て行きました。外はすでに夜だったのです。夜は不安です。でも、どんな不安や恐れがあっても必ず朝がやって来ます。朝太陽が昇ると、あれほど不安だった夜が、嘘のようにすべてが消えて行きます。でも想像してみてください。朝が来ない夜というのを。太陽が昇って来ない朝を。繰る日も繰る日も真っ暗闇です。それがずっと続くとしたらどうでしょうか。恐ろしいですね。でもそれがキリストから離れた人の状態です。キリストから出て行ってしまった人の状態なのです。そこは永遠に光を見ない暗闇の世界です。そこで泣いて歯ぎしりすると、聖書は言っています。そこで永遠を過ごさなければなりません。

しかし、キリストを信じた人は違います。その暗闇から光の中に移されます。コロサイ1:13~14に、このように書かれてあります。
「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」
神は私たちを暗闇の力から解放して、愛する御子のご支配の中に、光の中に移してくださいました。どのように移してくださったのですか?「この御子にあって」です。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。イエス・キリストにあって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちをいただいたのです。

あなたはどうですか?まだ暗闇の中にいませんか。もう生きる望みもない。何を頼っていいのかわからない。今まで望みだと思っていたものが消えてしまった。いったいこれから何を頼って生きていけばいいのか。この世が作り出す望みはそんなものです。得たと思ったらすぐに消えてしまいます。しかし、神は私たちに生ける望みを与えてくださいました。神はそのひとり子をこの世に遣わし、あなたの罪の身代わりとして、そして私の罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。この方がイエス・キリストです。キリストは、死の恐怖に打ちひしがれていた人たちを解放し、罪の奴隷として、これはやってはいけないとわかっていてもついつい行い、みじめになっている私たちをそこから救ってくださいます。自分ではどうすることもできない悪の支配にあって、そこから解放してくださいます。この方にあって私たちは、罪の赦し、永遠のいのちを受けることができるのです。暗闇から光へと移されるのです。

ただ移されるというだけではありません。ずっとその光の中を歩むことができます。イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。」(13:10)と言われました。水浴した者は、風呂に入ったら、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。足だけ洗ってもらえばいいのです。これは毎日です。私たちの足は汚れます。だから、毎日洗ってもらう必要があります。罪があると祈ることができなくなります。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。もう光の中へ移されたからです。罪を思い出させる涙の夜は去り、笑みと感謝の朝を生きることができるのです。

きょうは、この後で美香姉とあかね姉のバプテスマ式が行われます。それは、主イエス・キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しを得ていることを表しています。暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移されました。もう闇の中ではなく、光の中を歩むのです。

私たちも同じです。私たちも、キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しをいただきました。もはや闇があなたを支配することはありません。私たちは光の中を歩むのです。どんなことがあっても、主はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたはイエス様に愛された者、イエス様の懐に抱かれた者なのです。後は、足だけ洗えばいい。日々汚れた足を洗ってもらい、聖霊によって日々きよめられながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきましょう。

ヨハネの福音書13章16~20節「しもべは主人にまさらず」

前回は、13章の前半部分から、互いに足を洗うことについてお話ししました。主に足を洗ってもらわなければ、主と何の関係も持つことができません。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいからです。つまり、イエス様にきよめていただいた者は、足だけ洗っていただけばいいんですね。足を洗ってもらうとはどういうことでしたか?それは日々の歩みにおいて汚れる罪を悔い改めて、きよめていただくということでした。そのように全身をきよめていただいたということを前提に、互いに足を洗い合いなさいと言われたのです。

きょうは、その後の16節から20節までの箇所から、「しもべは主人にまさらず」という題で、クリスチャンの幸いについてお話ししたいと思います。

Ⅰ.しもべは主人にまさらず(16-17)

まず、16節と17節をご覧ください。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」

「まことに、まことに」という言い回しは、イエス様が重要な真理を語られる時に使われた言葉です。この13章には4回使われていますが、その最初に出てくる場面です。何が重要なのでしょうか。「しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません」ということです。どういうことでしょうか?

これは、キリストの弟子とはどのような者であるかを示しています。つまり、キリストの弟子とはしもべであるということです。また、遣わされた者であるということです。何を言おうとしているのかというと、この前のところには、イエスが弟子たちの足を洗われたことが記されてありましたが、「先生」とか「主」とか呼ばれていたイエスがそのようにして仕えたのであれば、主の弟子である私たちはそれ以上ではないということ、つまり、キリストの弟子である私たちはそれ以上に仕えるべきであるということです。

ヨハネ3:26~30には、バプテスマのヨハネの弟子たちが彼のところに来て、イエスがバプテスマを授けていること、そして、皆が彼の方に行っているということを告げたとき、ヨハネが次のように答えたとあります。
「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(3:27-30)
人は、天から与えられるものでなければ、何も受けることができません。すばらしいことばですね。自分の置かれた立場も、自分の成すべきことも、すべて天から与えられるのでなければ、何も受けることができないのです。このバプテスマのヨハネのことばは、ここでキリストが言われたことをよく表しています。自分はあくまでしもべにすぎないのであって、遣わされた者でしかありません。天から与えられるのでなければ、何も受けることはできないし、何もすることはできないのです。ですから、しもべは、主人に言いつけられたことを、ただ忠実にこなすだけでいいのです。遣わされた者も、遣わした方のメッセージを語るだけでいい。何か自分の考えを加えたり、自分の意見を加えたり必要はありません。自分の思いや考えで動いたりする立場ではないのです。あくまでも主人の、あるいは遣わされた方の意向にそって動くだけでいいのです。それが「しもべ」です。これが、「しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」という意味です。私たちは、天から与えられるのでなければ何もできないし、私たちの成し得ることはすべて、神の恵みによるのです。

その中には、主人の言っていることを理解できないこともあるでしょう。でも、今はわからなくても、後でわかるようになります。ですから、しもべがすべきことは、主人が言っていることを理解できるかどうかではなく、理解できてもできなくても、主人に従うことなのです。これがしもべの役割です。ですから、この「しもべは主人にまさらず」というのは、たとえ主人が言われたことがわからなくても、その言われたことに忠実に従わなければならないということです。それがしもべの姿、私たちの立場です。

17節をご覧ください。ここには、「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」とあります。「これらのこと」とは何でしょうか。それは、今述べてきたように、しもべは主人にまさらないということです。そのことをわきまえて、主人が言っていることを理解できても、できなくても、それに従うということです。それが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。ここでは、ただ知っているというだけでなく、それを行うことの大切さが強調されています。
ヤコブ1:22~25には、「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とあります。
みことばを聞くだけでなく、行う人にならなければなりません。こういう人は、その行いによって祝福されるからです。私たちは、行いによって救われたのではありません。キリストの十字架の贖いのゆえに、それを信じる信仰によって救われたのです。救いは、一方的な神の恵みによるのです。しかし、そのように恵みによって救われたのであれば、結果としてそこに必ず行いが伴うはずなのです。そうでないとしたら、神の恵みによって救われるということがどういうことなのかを正しく理解していないか、あるいは、本当の意味で救われてはいないかのどちらかです。これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いなのです。

この「幸い」ということですが、これはマタイの福音書5章の山上の説教で語られている「幸い」と同じです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)この「幸い」と同じです。それは単に物事が自分の願い通りになるということではありません。それは、霊的な祝福にあずかることを意味しています。神の祝福を受けることがまことの幸いです。皆さん、幸せって何ですか?一般に幸せというと、たとえば有名な大学に入ることとか、いい人と結婚すること、仕事に成功すること、マイホームを手に入れること、あの資格この資格を手に入れること、健康であること、こういうことが幸せなことだと思っていますが、そうではありません。そうしたものが悪いと言っているのではありませんが、そうしたものがないと幸せになれないと考えていることが間違っているのです。実際に、そのようなものをすべて手に入れても、虚しくなって自殺する人もいます。本当の幸せは神との関係にあります。「神共にいまし」、これが天国です。これが祝福です。まことに幸いな人とは、これらのことが分かっている人、そして、それを行う人です。そういう人こそ幸いな人なのです。

アメリカの有名な伝道者D.L.ムーディーは、このように言いました。「聖書は私たちの情報のためではなく、私たちの変革のために与えられたものである。」聖書はただの情報のために与えられたものではなく、私たち自身が変えられるために与えられたものです。罪人から聖徒に、罪の奴隷からキリストのしもべに、罪人から義人に変えられるために与えられました。私たちがキリストを信じてすべての罪が赦され、しもべは主人にまさらず、という木リスとのことばに従い、それを行うなら、あなたは幸いなのです。

Ⅱ.あなたがたが信じるため(18-19)

次に、18~19節をご覧ください。
「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」

ここから話の流れが大きく変わります。イエス様はこれまで足を洗うこと、仕えることの意味を語ってきました。そして、それがどういうことなのかがわからなくても、しもべとして主人の言われるとおりにすることが祝福なのだと語られたのです。しかし、ここからはユダの裏切りについて語り始めます。

「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのでありません。」というのは、10節、11節でも述べられていたことです。イエスは、水浴した者は足以外に洗う必要はないが、皆がきよいわけではない、と言われました。これは、イスカリオテ・ユダのことを指して言われました。ユダはキリストの弟子でありながら、きよめられていませんでした。彼はイエスに足を洗ってもらいましたが、全身がきよめられていませんでした。うわべだけのきよめ、名ばかりの弟子だったのです。彼はまことの弟子ではありませんでした。6:70でも、彼は悪魔であったと言われています。ですから、彼は他の弟子たちのように全身がきよめられていませんでした。足だけ洗ってもらうだけではだめだったのです。全身洗ってもらわなければなりませんでした。水浴しなければなりませんでした。だれも彼を裏切り者だなんて思っていなかったでしょう。彼は有能な人物でした。他の弟子たちからも一目置かれる存在でした。ですから、この後でイエスが「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」(13:21)と言っても、だれも彼をその人物だとは思いませんでした。それほど信頼が厚かったのです。しかし、イエスだけは知っていました。ここに、「わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。」とあります。けれども、聖書に、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることが成就するために、この事が起こりました。このこととは、ユダがイエスを裏切るという事です。これは詩篇41:10の引用です。「かかとをあげる」とは、反逆するとか、敵対するという意味です。イエスはご自分が選んだ者たちの中から、自分に向かって反逆する者、裏切る者が出てくることを知っておられたのです。

このことを前提に、イエスは19節でこのようにおっしゃられました。「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」どういうことでしょうか?
「事が起こる前に」とは、ユダがイエスを裏切るという事が起こる前にということです。そのことが起こる前に、そのことを弟子たちに言っておくというのです。何のためでしょうか?それは、その事が起こったとき、わたしが「わたしはある」であることを、あなたがたが信じるためです。また出ました。「わたしは、「わたしはある」というものである。」これは出エジプト記3:14に出てきた言葉で、主がどのような方であるのかを表した言葉です。つまり、主はほかの何ものにも依存しない方、自存の神、全能者であるという意味です。そのことを信じるためです。

こんなことが本当に起こったら大変です。それこそ弟子たちの信仰を揺るがしかねません。そうでしょ、たとえば、教会で何か問題が起こったらどうなるでしょうか。「クリスチャンなのに信じられない」とか、「牧師なのにひどい」とかなりませんか。そのことに動揺して躓いてしまう人もいるでしょう。人の言動や罪、失敗、醜さなどに動揺し、うろたえては教会から離れたり、信仰から離れてしまうことがあります。しかし、ここでは、その事が弟子たちの信仰を揺るがすどころか、むしろ、そのことを通してイエスはどのような方なのか、「わたしはある」というものであることを、弟子たち信じるために用いられると言われたのです。

これはすごいことです。ユダの裏切り行為はショッキングなことであり、そのことだけを見たら信仰が揺れ動いてしまうかもしれませんが、しかし、聖書の御言葉に目を留め、それが旧約聖書の中にちゃんと預言されていたことであったということを知ると、むしろ、そのことによって、ああ、ほんとうにイエス様は神様なんだということを確信し、ますます神に信頼できるようになるのです。ですから、この出来事をどのように捉えるかは大切なことです。それを人間の視点で捉えるのか、神の視点で捉えるのかということです。人間の視点で見たら、何というひどいことをとなるでしょうが、神の視点で捉えるなら、「そういうことだったのか」と、逆に信仰が強められることになるのです。

ですから、どこを見るのか、だれに信頼するのかは、とても重要なことです。もし人を見れば動揺するでしょうが、神を見て、神のことばに耳を傾けるなら、どんなことが起こっても決して失望することはありません。なぜなら、聖書に、主に信頼する者は、決して失望させられることがない、とあるからです。(ローマ10:11)

Ⅰペテロ1:23~25には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。」とあります。
人はみな草のようです。その栄えはみな草の花のようです。ですから、人に信頼すると萎れてしまうことになります。裏切られたり、そのことばでいつも振り回される結果になります。しかし、主のことばはとこしえに変わることがありません。ですから、もしあなたが主のことばに目を留め、それに心を寄せるなら、あなたの心が揺れ動くどころか、むしろ強められることになるでしょう。確かにユダの裏切り行為自体は、あってはならないことです。そのこと自体を正当化されてはなりません。しかし、そのことがすべての人たちの救いにつながっていったということ、そして、神の栄光を現すために用いられたということも事実なのであって、そのことを覚えておかなければなりません。そして、主のことばに目を留め、主に信頼しましょう。そういう人が主から幸いを受けるのです。

Ⅲ.イエスによって遣わされた者(20)

第三に、20節をご覧ください。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

ここにも「まことに、まことに」という言葉が使われています。ですから、ここでの内容も重要です。それはどんなことかというと、「わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」ということです。「わたし」とは、勿論イエスご自身のことです。イエスが遣わす者を受け入れる者は、イエスを受け入れるのであり、イエスを受け入れる者は、イエスを遣わされた方、これは父なる神のことですが、その方を受け入れることなのです。イエスはこれまで何度も、ご自分を遣わされた者を受け入れる者は、遣わされた方を受け入れることであると述べてきました。なぜなら、イエスが「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われたように、イエスと父なる神は全く一つであられるからです。ですから、キリストを受け入れる者は、キリストを遣わされた方、父なる神を受け入れる者でもあるのです。しかし、ここでは、キリストを受け入れる者だけでなく、キリストが遣わされた者を受け入れる者は、キリストを受け入れると言っています。そして、キリストを受け入れる者は、キリストを遣わされた方を受け入れることになるのです。

なぜ、このことがそれほど重要なのでしょうか。それは、ここにも私たちがどのような者であるかが示されているからです。すなわち、私たちはキリストによって遣わされた者であるということです。何のために遣わされたのかというと、私たちを通して語られるキリストのことばを通して、それを耳にした人が信じるためです。すなわち、キリストを受け入れる者となるためです。クリスチャンになるためです。そうでないと、その人たちはクリスチャンになることはできません。私たちを通して聖書のことばを聞き、それを教えてもらって、初めて信じることができるのです。イエス様は、この尊い務めを私たちにゆだねてくださったのです。

ローマ10:17には、「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」とあります。信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。美しい夜空を眺めていたら、突然イエス様を信じるようになったというようなことがあるでしょうか?美味しい食事をしていたら、気持ちよくなってイエス様を信じようと思ったというようなことがあるでしょうか?その感情が一時的に盛り上がるということはあるかもしれませんが、それが信仰に結びつくことはありません。なぜなら、信仰は聞くことから始まるからです。そして、聞くことはキリストについてのことばを通して実現するからです。それは、イエス・キリストの十字架と復活という事実に基づいているのです。キリストを信じるためには、キリストについてのことばを聞かなければなりません。その中で聖霊が働いてくださいます。何回聞いてもピンと来ない人が、ある日、ある時、キリストのことばを聞いて「あ、そういうことだったのか」とわかる時があります。それは一方的な聖霊の働きによるのです。私たちはただこのキリストについてのみことばを語らなければなりません。キリストのみことばに出会うなら、そのとき信仰が生まれるからです。

そして、そのためには遣わされなければなりません。ローマ10:14には、「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。」とあります。みことばを聞くためにはそれを宣べ伝える人が必要です。イエスはこう言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)と言われました。不思議ですね、全能であられる主が、収穫のためには働き手が必要だと言われたのですから。「わたしはある」と言われたる方が、この福音を伝えるために人を求めておられるのです。そのために主は、私たちを遣わしておられるのです。

近藤先生の書かれた証の中に、先生がどのように救いに導かれたのかが書かれてあります。先生が大学を卒業後高校の音楽の教師として働いていた時、生徒から「人間どうして努力しなくちゃいけないのか」「何のために生きているのか」と聞かれたそうです。その問に答える術がなく、悶々としていた時、人生に何か目標を持ちたいと、死ぬまでに一か国語でもいいから、外国語を話せるようになりたいと、フランス語を学び始め、翌年の夏休みを利用してフランスに行かれました。何気なく散歩していたら教会から流れてきたパイプオルガンの音色に、それまで味わったことのない感銘を受けるのですが、帰国して2学期が始まり、10月頃、風邪をひいて、家庭医の診察を受けました。その医師はクリスチャンの方で、診察の合間に、訪れた患者さんに神様のことをさりげなく語るということをしていたそうです。そして、近藤先生の診察が終わると、「近藤さん、よろしかったお茶でもしていきませんか」と誘ってくださいました。普通ならお断りするところですが、なぜかこの時は受け入れてしまいました。応接間に通されると、奥さんがお茶とお菓子を持ってきて、もてなしてくれました。片付けを終えるとその医師も応接間に入って来て、先生が恐れていたとおり、聖書を開いて、この世界には神様がおられること、そして人間には罪があること、その罪の赦しのためにイエス様が十字架で死なれたことをこくこくと話されたのです。先生はその医師が語っていることをすべて理解したわけではありませんでしたが、フランスで体験したことを彼に話してみると、その医者は「近藤君、神様は近藤君を招いていらっしゃる。聖書を読みなさい。」と勧めてくれました。
その翌日、学校からの帰りに駅前の本屋に行き、新約聖書を入手し、その夜から読み始めると、よく理解できませんでしたが、聖書のことばには力があって、自分が引っ張られていくような感じがしたそうです。それで、その医師が勧めたように教会にも行くようになり、伝道者の書のことばが目に留まり、信仰に導かれたのです。
私はその証を読ませていただきながら、この医師の方すごいなぁと思いました。牧師とか伝道者であれば当然かもしれませんが、自分が遣わされたところ、自分が置かれたところで、良いことを伝える足となったのです。それは、この方が自分はイエス様によってここに遣わされた者であるという使命感をしっかりと持っていたからです。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
私たちも、主に遣わされた者です。本当に取るに足りない者ですが、そのような者を受け入れる者は、キリストを受け入れるのです。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。私たちは、しもべにすぎず、遣わされた者であるということを肝に銘じ、主人であられる主の命じられることを、淡々と行う者でありたいと思います。それが主のしもべです。天から与えられるものでなければ、私たちは何もすることができません。すべては主の恵みによるのです。そのように生きる者こそ幸いな者であり、主からの幸いを受ける者なのです。

ヨハネの福音書13章1~15節「互いに足を洗いなさい」

 きょうは、「互いに足を洗い合いなさい」というタイトルでお話しします。イエス様は、ご自分が十字架で死なれることが近づいているのを知ると、弟子たちとのプライベートな時間を持たれました。それが、この13章から17章まで続く内容です。これはマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の福音書には記録されていない内容です。このヨハネの福音書だけに記されてあります。しかも、ヨハネはそのために実に全体の4分の1のスペースを割いています。この中てイエス様は、最後に弟子たちに何とかして伝えたいことがありました。その一つのことが、互いに足を洗い合いなさいということです。

Ⅰ.最後まで愛されたイエス(1-2)

まず、1節と2節をご覧ください。
「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」

過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられました。「この世を去って父のみもとに行く」とは、具体的には、十字架で死なれ、三日目によみがえられること、そして、その後天に昇って父なる神の右の座に着かれることを意味しています。ヨハネの福音書ではそれを「ご自分の時」と言っていますが、イエス様は、その時が来たことを知っておられました。そして、世にいる自分の者たちを愛されたイエスは、彼らを最後まで愛されました。新改訳第三版では、「その愛を残るところなく示された」と訳しています。「最後まで」、「残すところなく」という言葉は、下の欄外にあるように、「極みまで」という意味の言葉です。極限まで愛されました。最後の最後まで、とことん愛されたのです。これがイエス様の愛です。イエス様の愛は途中で放棄するようなものではありません。最後の最後まで、とことん愛する愛です。でも、イエス様が愛された弟子たちとはどういう人たちだったでしょうか。彼らはイエス様に愛されるにふさわしい人たちだったでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

たとえば、ルカ9:54には「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」」とあります。「これを見て」とは、サマリヤ人たちがイエス様を受け入れなかったのを見て、ということです。弟子のヤコブとヨハネ、このヨハネとはこのヨハネの福音書を書いているヨハネのことですが、彼らは、サマリヤの人たちがイエス様を受け入れないのを見ると、彼らを焼き滅ぼしましょうかと言ったのです。とても激しい気性です。人を人とも思わない情け容赦ない人たちでした。自分たちを拒絶する者たちがいると、そういう人たちを平気で焼き滅ぼしてしまいたいと思うような人たちだったのです。すぐにカッとなって頭に血が上るような人でした。ですから、彼らにはあだ名がありました。「ボアネルゲ」、「雷の子」です。いつも嫌なこと、気に食わないことがあると、ゴロゴロと雷のようにうなりました。皆さんの中にもそういう人がいるでしょう。自分が受け入れられないと、すぐに「フン」と言ってそっぽを向いてしまうという人が。それだけだったらいいですが、その人を焼き滅ぼしてしまいましょうか、というところまでいくとヤバいです。

ヨハネ1:46には、弟子の一人のナタナエルについて紹介されています。彼は、同じ町の出身であったピリポから「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言うのを聞くと、「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」(1:46)と言いました。これはイエス様を侮辱した言い方です。ナザレという無名の町からいったいどうして良いものが出るというのか、出るはずないだろう、と皮肉ったのです。

ルカ22:24には、最後の晩餐の席で、弟子たちはあることで議論していたことが記されてあります。それはだれが一番偉いかということです。もうすぐイエス様が十字架に付けられて死なれるという時に、だれが一番偉いかと議論していたのです。

また、ルカ22:31~32には「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とあります。イエス様は、ペテロが三度もご自分を否定することを知っていましたが、それにもかかわらず、ペテロの信仰がなくならないように祈られました。そして、彼が立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいと、言われたのです。

極め付けはこれでしょう。2節に出てくるイスカリオテのユダです。「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」彼はイエス様を裏切ろうとしていました。「裏切る」という言葉は「引き渡す」という意味の言葉です。彼は銀貨30枚でイエス様を引き渡そうとしていました。これはひどいですね。許されざる行為です。しかし、イエス様はそういう心を知ったうえで愛されました。もし私たちがそういうことを知っていたらどうでしょうか。決して愛すことなどできません。しかし、イエス様は違います。最後の最後まで、とことん愛されました。これがイエスの愛です。これが愛するということなのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださいました。ここに愛があります。なぜイエス様はそんな弟子たちを愛されたのでしょうか。わかりません。しかし、ただ一つだけわかることは、愛するということがどういうことなのかの模範を、実際に示してくださったということです。それが足を洗うという行為です。いったい愛するとはどういうことなのでしょうか。

Ⅱ.愛の模範(3-11)

では次に、3~11節をご覧ください。まず、3~6節までをお読みします。
「イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」

イエス様は夕食の席から立ちあがると、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。それから、たらいに水を入れると、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭き始められました。それには、シモン・ペテロもびっくりしました。なぜなら、それは奴隷の仕事、しかも異邦人の奴隷のする仕事だったからです。それは当時、極めて卑しい仕事とされていました。それを「先生」とか「主」とか呼ばれていたイエス様がしたわけですから、その驚き様はどれほどであったかと思います。6節を見ると、シモン・ペテロがこう言っています。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」とんでもないです。止めてください。そんなニュアンスが伝わってきます。イエス様が弟子たちの足を洗うというこの行為は、いったいどんな意味があったのでしょうかす。二つの意味がありました。一つは、イエス様は、私たちを罪からきよめてくださるということです。ペテロがイエス様に、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」と言うと、イエス様はこう言われました。
「わたしがしていることは、今はわからなくても、後で分かるようになります。」
どういうことでしょうか?今は分からないかもしれませんが、後で分かるようになります。「後で」というのは、イエス様が足を洗い、手ぬぐいで拭かれ、上着を着て、再び席に着かれた時です。これはどういうことかというと、イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられ、天に昇り、神の右の座に着かれるという救いの御業のことです。そうです、イエス様が弟子たちの足を洗われたこの行為は、このことを象徴していたのです。

イエス様はまずは上着を脱がれました。これは、神としての特権を脱ぎ捨ててこの地上に来てくださったことを表しています。そして、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。これは仕える者の姿です。イエス様は、人としての姿をもって現れ、自らを低くし、死にまで、実に十字架の死にまでも従われました。そして、たらに水を入れられました。この「水」はみことばによるきよめの象徴です。というのは、エペソ5:26には、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり」とあるからです。また、ヨハネ15:3にも、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。イエス様は、水の洗いをもって私たちを聖なるものとしてくださいました。そればかりではありません。弟子たちの足を洗うと、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭かれました。それは、その働きを完成してくださったということを表しています。ですから、イエス様が弟子たちの足を洗うというこの一連の出来事は、第一義的には、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、私たちの罪をきよめてくださるということを示していたのです。

そのことをよく表しているのは、ピリピ2:6~11のみことばです。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

それは、ペテロがその後で「決して私の足を洗わないでください」と言ったとき、イエス様が「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」と言われことからもわかります。イエス様に足を洗ってもらわなければ、イエス様と何の関係も持つことができません。イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられるという出来事によってそれを信じる者の罪は赦され聖められるのであって、それがなかったら、何の関係も持つことができないのです。あなたは、イエス様に足を洗っていただきましたか?

ちなみに、ペテロがここで言った「決して私の足を洗わないでください」という言葉ですが、これは強い否定形になっています。「どんなことがあっても」とか、「絶対に」という意味です。「あなたが他の弟子たちに何を成さろうとも、私の足だけは決して洗わないでください。」といったニュアンスです。なぜペテロはそのように言ったのでしょうか。それは、イエス様が弟子たちの足を洗うということがどういうことなのかを全く理解していなかったからです。そんなことあり得ないことです。前代未聞です。絶対に洗わないでくださいと言いました。

しかし、イエス様が「わたしがあなたの足を洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と言われると、今度は、「じゃ、洗ってください。足だけでなく、手も頭も。」と言いました。調子いいですね。「決して洗わないでください」と言ったのに、イエス様がもしわしが洗わなければ・・・・と言われると、今度は、「じゃ、全部洗ってください。足だけでなく、手も頭も・・・と言ったのですから。なぜペテロはこんなことを言ったのでしょうか?実は、何を言ったらいいのかわからなかったのです。そういうタイプの人がいます。何か言わないと気が済まないのですが、何を言ったらいいのかわからないで、何でも言っちゃえみたいな人が。自分もそういうタイプなのでペテロの気持ちがよ~くわかるような気がします。でもペテロは憎めません。なぜなら、ペテロがこのように言ったのは何とかしてイエス様との関係を失いたくない。何とかして持ち続けていたいという思いがあったからでしょ。自分がどんなことをしても、どんなに失敗しても、イエス様から絶対離れたくないという思いがあったのです。そこを評価してあげたいですね。だれも完全な人などいません。みんな失敗だらけです。でも、どんな失敗をしてもイエス様について行きます。その気持ちが大切です。しかし、このペテロの態度には二つの極端が見られます。

一つの極端は、イエス様に足を洗われることを頑なに拒むという極端です。イエス様が彼の足を洗おうとした時、ペテロは、「決して私の足を洗わないでください」と言いました。私たちの周りには、そのように足を洗ってもらうことを極端に拒む人がいます。あなたに足を洗ってもらわなくても結構です。あなたの話など聞きたくありません。そのような話には興味がないのです。自分と関わらないでください。そのように頑なに拒むのです。

一方、このペテロのように、「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」という人がいます。これは全面的に依存するタイプの人です。クリスチャンなら、どんな時でも、どんなことでも助けてくれるはずだと、必要以上に要求する人がいるのです。それは愛するとはどういうことかを誤解していることから生じる極端と言えるでしょう。そのような時には、はっきりとNOと言わなければなりません。そうでないと、あなたが疲れ果て、倒れてしまうことになるからです。

このように、汚れた足を洗うということ、イエス様の愛を示すということは簡単なことではありません。その愛を拒む人がいれば、逆に、必要以上に依存する人がいますから。ですから、私たちはその置かれた状況を踏まえながら、本当に主が求めておられることは何なのかを見極めて、イエスさまの愛を示していかなければなりません。

ところで、「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」というペテロに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。10節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。
「イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」」
どういうことでしょうか。「水浴する」とは、英語の聖書(NKJV)には、「He who is bathed」と訳されています。「bath」はお風呂です。お風呂に入った者です。日本でもお風呂に入るという習慣がありますね。お風呂に入った者は、足以外に洗う必要がありません。なぜなら、全身がきよいからです。足だけでいいのです。なぜ全身がきよいのに、足だけは汚れているのかというと、日本でも昔はそうですが、お風呂が母屋から離れて外にあったので、お風呂から上がって母屋に来るうちに、また汚れてしまことがあるからです。その場合、全身はきよいのですが、足だけが汚れています。だから足だけ洗えばいいのです。これはどういうことかというと、イエス様を信じた者はすでにきよくされているので全身を洗う必要はありませんが、足だけは洗わなければならないということです。その足とは何かというと、日々の歩みのことを指しています。イエス様に全身を洗っていただいた人はすべての罪が赦され、イエス様と関係を持つことができました。しかし、日々の歩みの中で犯してしまう罪のために、イエス様との関係が曇ってしまうことがあります。救いの恵みを失うことはありませんが、イエス様との親しい交わりに陰りが生じることがあるのです。イザヤ59:1-2に、「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにするのです。

ですから、私たちはその汚れをきよめていただくために、その時々に犯す罪を悔い改めなければなりません。もちろん、その前にまず全身を洗っていただかなければなりません。そのためにイエス・キリストが上着を脱いで、手ぬぐいを取り、たらいに水を入れて足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭いてくださいました。そのようにして全身をきよめていただいた者は、つまり、水浴した者は、足以外は洗う必要がないのです。全身がきよいからです。その人は、足だけ洗えばいい。すなわち、日々の歩みの中で犯した個々の罪を悔い改めるだけでいいのです。そうすれば、主はそのすべての罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。私はイエス様を信じてきよめられたのだから、すべての罪が赦されました。ハレルヤ!もう悔い改める必要なんてないの、と言うとしたら、その人は自分自身を欺いていることになります。なぜなら、聖書は、「もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(Ⅰヨハネ1:8)と言っているからです。ですから、イエス様を信じてきよめられた人は全身を洗う必要はありませんが、日々の歩みの中で犯してしまった罪の汚れを、その度、その度洗っていただかなければならないのです。

11節には、「イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。」とあります。イエス様が「皆がきよいわけではない」と言われたのは、イスカリオテのユダのことを指していました。彼はキリストの弟子でしたが、水浴していませんでした。彼はそのようにふるまっていましたが、実際にはそうではありませんでした。何が問題だったのでしょうか。中身がなかったことです。ただ形式的に弟子となっていただけでした。自分にとって何が得であり、何が損なのかという損得勘定ばかり考えていて、悔い改めませんでした。もし彼が心から悔い改めてイエス様に従っていたのであれば、彼も救われていたはずです。足だけ洗えば良かったのです。けれども、彼には真の悔い改めがありませんでした。だから、彼はきよめられていなかったのです。

ペテロも多くの失敗をしました。彼は主を三度も否定するという大きな罪も犯しました。しかし、ペテロとイスカリオテのユダとの決定な違いは、ペテロは真に悔い改めたのに対して、ユダはそうではなかったということです。ペテロも罪を犯しましたが、彼は悔い改めてイエスの十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちを信じましたが、ユダはそうしませんでした。

あなたはどうですか。自分の罪を悔い改め、その罪のためにイエス様が十字架で死んでくださり、三日目によみがえってくださったと信じていますか。信じる者は救われます。全身がきよめられています。あとは、足だけ洗えばいいのです。全身をきよめていただいて、また日々の歩みにおいて犯す数々の罪を悔い改めて、いつも新鮮に主との交わりの中に生きる者でありたいと思います。

Ⅲ.互いに足を洗いなさい(12-15)

ですから、第三のことは、私たちも互いに足を洗わなければならないということです。12~15節をご覧ください。
「イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」

イエス様は彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着かれました。これは、先ほども言いましたが、イエスが十字架と復活の御業を成し遂げて天に昇って行かれ、神の栄光の右の座に着かれたことを象徴的に表していました。つまり、イエス様が弟子たちの足を洗われたことの第一の意味は、イエス・キリストの十字架と復活という出来事によって私たちの罪がきよめられるということでした。このことがなければ、また、このようにして罪の贖いを成し遂げてくださったイエス様を信じることがなければ罪の赦しはありません。イエス様と何の関係も持つことができません。つまり、このように私たちを罪から救ってくださるのは、イエス様の他にはいないということです。そのことの上に、主はもう一つの意味を教えてくださいました。それは、イエス様が弟子たちにしたように、私たちもするようにと、模範を示されたということです。つまり、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(14)ということです。これはどういうことでしょうか。

ローマ・カトリック教会では、この言葉を文字通り解釈しました。すなわち、イエス様が弟子たちの足を洗ったように、自分たちも実際に兄弟姉妹の足を洗わなければならないと受け止めたのです。ですから、ローマ・カトリック教会では、受難週に洗足の儀式として、互いの足を洗い合うという習慣があるのです。それはローマ・カトリックだけでなく、プロテスタントの一部でもそのように解釈して実行している教会があります。しかし、これはそういうことではありません。15節の御言葉を見るとその判断の助けになります。イエス様はここで、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」と言われました。「わたしがあなたがたにしたと同じことを、あなたがたもするように」とは言われませんでした。つまり、主はご自分がなさったことと同じことをせよと仰せられたのではなく、ご自分がなされたとおりに弟子たちがするようにと模範を示されたのです。

それでは、主がなさったとおりに弟子たちもするようにと示された模範とはどんなことでしょうか。それは、「先生」とか、「主」とか呼ばれている人が、弟子の足を洗われように、へりくだって互いに仕え合いなさいということです。それが愛するということです。ヨハネは、主が弟子たちの足を洗うという出来事を記すにあたり、「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」と書いて、その実例としてこの出来事を記しました。また、この後のところで、主は、この足を洗うということを愛するという言葉に言い換えて、次のように言っています。34節です。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

ですから、ここで主が教えられた実物教育は、主の弟子たちである私たちが主に倣って、愛と謙遜もって仕え合いなさいということだったのです。もう一度繰り返して言いますが、これはキリストの身代わりの十字架の救いということの上にある教えです。このへりくだって互いに愛し合うことができるのは、キリストの救いの恵みに与った者でなければできないということです。生まれながらの人間にはできません。生まれながら人間は、このような要求の前には絶望しかないでしょう。しかし、イエス様の十字架の救いを信じて救われた者は、互いに愛することができます。なぜなら、十字架の救いを通して神の愛を知ったからです。このことは、もし私たちが、「あの人は好かない」とか、「あの人は嫌だ」ということがあっても、そんなことは関係ないということです。なぜなら、神は、神を信じないで敵として歩んでいた私たちさえ愛してくださり、十字架で死んでくださったからです。これが互いに愛し合うことの土台です。これがなかったら、愛し合うことなんてできません。夫婦の関係でも、親子の関係でも、この愛がなかったら無理です。学校でも、職場でも、教会でも、それを根底から支えているのはこの愛なのです。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)
ここに愛があります。私たちはこの愛を知りました。神がとれほどまでに私たちを愛してくださったのかを知りました。だから、私たちは互いに愛し合うことができるのです。最後の最後まで、その極みにまで、とことん愛することができるのです。最近、ビジネスの世界でもこのようなリーダーが求められています。サーバントリーダーです。仕えるしもべです。リーダーは、仕えるしもべでなければなりません。これはイエス様を信じて神の愛を知った者でなければできません。イエス様の愛を知った者だけが、真の意味でサーバントリーダーになれるのです。

イエス様は、世にいる自分の者を最後まで愛されました。最後の最後まで、その極みまで、とことん愛されました。夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれ、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで拭かれました。決して手ぬぐいを投げたりしませんでした。手ぬぐいを投げるというのは、働きを放棄することを意味します。ですから、ボクシングの試合でもうこれ以上は戦えないという時には、セコンドからタオルが投げ込まれるのです。しかし、イエス様は決してタオルを投げませんでした。最後の最後まで、とことん愛してくださいました。私たちは、このイエスの愛を知りました。だから、私たちも互いに愛し合うことができるのです。たとえ、相手の足が臭くても、たとえ、顔をそむけたくなるような足でも、互いにその足を洗わなければならないのです。イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、私たちもするようにと、私たちに模範を示すためだったのです。私たちもイエス様によって足を洗っていただきましょう。そして、互いに足を洗い合いましょう。そのようにして、キリストの弟子としての歩みを全うしていきたいと思います。

ヨハネの福音書12章37~50節「大きな声で」

 きょうは、「大きな声で」というタイトルでお話しします。44節には、「イエスは大きな声でこう言われた。」とあります。ヨハネの福音書には、イエス様が大声を発せられたということが4回記録されてあります。7:28と7:37、そして11:43とこの箇所です。このように主が大きな声を発せられた時は単にそこにたくさんの徴収がいて、大きな声を出さなければ聞こえなかったからではなく、他に理由がありました。それは、イエス様が神から遣わされた方、メシアであることを、それを聞いていた人たちに信じてほしかったからです。

 ヨハネの福音書は、大きく分けると2つに分けられます。1章から11章までと、12章から終わりの21章までです。しかし、公生涯という観点から分けると、1章から12章までと、13章から終わりまでとなります。これまでは一般群衆やユダヤ人の指導者たちに向かって語られてきましたが、13章からは弟子たちに対して語られます。そういう意味では、この箇所はイエス様の一般の群衆たちに対する最後のメッセージ、最後の勧告となっている箇所です。その最後の勧告においてどうしても信じてほしかった。だからイエスは大きな声で言われたのです。

私たちは日頃、大きな声を出すという習慣があまりありません。大きな声を出すのは何か急を要した時や、緊急の事態が生じた時くらいです。でも、イエス様はご自身が神から遣わされた者であり、ご自身を信じる者には永遠のいのちが与えられるということを知らせるために、また、それを信じてもらうために、大きな声を出されました。私たちも大きな声で宣言しようではありませんか。イエス様を信じる者は、永遠のいのちを持つことができると。きょうは、このことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。

Ⅰ.イエスを信じなかった人たち(37-40)

まず、37~40節までをご覧ください。
「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」

イエス様は、「あなたがたに光があるうちに、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(36)と言われると、そこを立ち去り、彼らから身を隠されました。イエス様はこれほど多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかったからです。奇跡が行われればだれでも信じるのかというと、そうではありません。奇跡が行われても、信じない人はたくさんいます。なぜ彼らは信じなかったのでしょうか。

ヨハネはその理由を、旧約聖書のイザヤ書の預言を引用してこう説明しています。38節、「それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」「私たちが聞いたこと」とは、神の救いに関する良い知らせのことです。このすばらしい救いの知らせを、いったいだれが信じたでしょうか。だれも信じませんでした。なぜでしょうか?なぜなら、この時のイエスの姿が、彼らが想像していたメシア像とはあまりにもかけ離れていたからです。彼らが信じていたメシアとは、イスラエルを政治的にも、軍事的にも復興してくれる方でした。ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的メシアです。それなのに、イエスはそうではなかったので、受け入れることができなかったのです。

それはどの時代も同じです。どんなに福音を語っても、人々は信じようとしません。人々が求めているのはいやし、力、栄光、祝福、成功、繁栄といったものだからです。そのような話には魚が餌に飛びつくように飛びつきます。この近くに「幸福の科学」という新興宗教の四番目の総本山と言われている那須精舎がありますが、家の工事をしてくれた工務店の方がその施設の外構工事をしたらしく、「まあ、たまげた」と言っていました。内装は全部、金!どうしたらあんなふうになれるのか・・・と。最近は学校まで作って、教育しているということですが、そのような栄光、繁栄、成功といった幸福には関心があっても、見るかぎりみすぼらしいように見えるものには見向きもしません。みんな去っていきます。

それは驚くことではありません。イエス様が生まれる700年も前に、イザヤという預言者によってちゃんと預言されていたことだからです。いくらイエス様が多くの奇跡を行ったとしてもユダヤ人が信じないのは、そのように予め預言されていたことであり、別に不思議なことではないのです。

でも、いったいなぜ彼らは信じなかったのでしょうか。ヨハネはそのことを説明して、続く40節でこのように言っています。「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」これもイザヤ書からの引用です。ヨハネはここでイザヤのみことばを引用して、その理由を述べたのです。それは、主が彼らの目を見えないようにされたからです。また、彼らの心を頑なにされました。それは、彼の目が見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないためです。どういうことでしょうか。二つの意味があります。

一つは、これが神のご計画であったということです。すなわち、神は私たち異邦人を救うために、ユダヤ人の目を意図的に盲目にされたということです。これはユダヤ人に対する神様の特別な計画でした。私たち異邦人が神によって盲目にされたり、頑なにされたりすることはありません。もし私たち異邦人が盲目にされるということがあるとしたら、それはこの世の神であるサタンがその目をくらませて、福音の輝きを見ることができないようにしているからです(Ⅱコリント4:4)。ですから、これはユダヤ人に限って言える特別なことであって、それは、このように彼らの目が盲目になり、心が頑なにされることによって、福音が異邦人にもたらされるようになるためであったということです。このようなイスラエルの不信仰が、私たち異邦人の救いにつながったのです。これが神のご計画でした。これは驚くべき計画と言えます。これが、ローマ9~11章でパウロが語っていることです。パウロは同胞ユダヤ人の救いのために祈っていました。そのためなら、自分自身がキリストから引き離されて、のろわれたものになっても良いとさえ言ったほどです(ローマ0:3)。それほどにイスラエルの救いのために祈っていましたが、肝心の彼らは、信じようとしませんでした。いったいなぜなのか?パウロはその理由を神から示されました。それは、異邦人の救いの時までであり、そのことによってイスラエルにねたみを引き起こし、その後でイスラエルを救われるということでした。「こうしてイスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)「こうして」とは、救いが異邦人にもたらされ、そのことによってイスラエルに救いがもたらされるということです。こうしてイスラエルはみな救われるのです。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」(ローマ11:29)何というでしょうか。だれがそのようなことを考えることができるでしょうか。だれもできません。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神はイスラエルを救うために、まず異邦人に福音をもたらし、その残りの民を通してイスラエルを救おうと計画しておられたのです。そのために神は、彼らの目を見えないようにされたのです。彼らの心を頑なにされました。

もう一つのことは、この「頑なにされた」というのは、神がそのようにされたということではなく、結果としてそのようになったということです。たとい目覚ましい奇跡が成されようと、真理が語られようと、それに対して素直になろうとしないなら、その人の心は頑なになり、その頑な心のままでいると、遂には神から見捨てられてしまうことがあるということです。その良い例が、出エジプト記に出てくるエジプトの王ファラオです。昔イスラエルがエジプトに捕らえられていたとき、神はモーセを通して彼らを救い出そうと、彼をファラオの所に遣わしました。しかし、ファラオは神のしもべモーセの要求を拒み続けたので、遂には神によって心を頑なにされました(出エジプト9:12,10:1,20,11:10)。それは神がファラオの心を無理矢理に頑なにされたということではありません。神が何度言っても聞かなかったので、神は彼の心を頑ななままにされたということです。それはちょうど言うことを聞かない子供に対して、親が言う言葉のようです。何度言っても子ども言うことを聞かないと、親はこう言うのではないでしょうか。「だったら勝手にしなさい」ここで言われていることはそういうことです。神がファラオの心を頑なにしたという意味です。神がどんなに言ってもどんなに促してもそれを受け入れないと、神はそのままにされ遂には神のあわれみが取り去られてしまうことになるのです。

ですから、もしあなたがどこまでも神に反抗し続けるなら、神はファラオにしたように、あなたの心も頑なにされるのです。「私は天国なんて行きたくない。地獄に行くんだ」と言うなら、そして、それをどうしても曲げないというのなら、神はその意志を何度も確認した上で、遂にはそれを追認せざるを得ないのです。「そうか、わかった。仕方ない」と。神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられますが、もし私たちが心を頑なしてそれを受け入れず、拒み続けるなら、神はそのことを認めざるを得ないのです。神がそうしたいのではありません。自分でそのように選択したのです。ですから、「そんなはずはない」とか、「そんなのはずるい」というのは子どもじみた言い訳にすぎませんもしあなたが頑なになりたくないと思うなら、神はあなたの思いを尊重して、あなたの心を柔らかくしてくださいます。ですから、一度頑なな思いをもったらもう二度と柔らかな心を持つことはできないということではないのです。今信じられないから、もう二度と信じることができないということではありません。私たちが望みさえすれば、神はいくらでも働いてくださり、私たちの心を柔らかくしてくださいます。私たちの心を清めてくださり、私たちを罪から救ってくださるのです。そうでないと、逆にもっと頑なにされて、信じる機会を完全に失ってしまうことになります。それがここで言われている「主は彼らの心を頑なにされた」ということなのです。

それは、まだイエス様を信じていない人だけのことではなく、すでにイエス様を信じた人たちにも言えることです。神はみことばを通して「こうしなさい」とか、「ああしなさい」と語っておられますが、その言葉を聞く度にそれに従わないでいると、もっと心が頑なになって、次に聞く時には従うのがもっと難しくなります。ですから、私たちはいつも柔らかな心をもって、神のみことばに聞き従うことが求められているのです。

Ⅱ.人からの栄誉よりも、神からの栄誉を(41-43)

次に、41~43節をご覧ください。まず、41節だけをお読みします。「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」

ヨハネは、イザヤの預言を引いてきて彼らが信じない理由を説明していますが、イザヤがそのように言ったのはどうしてか、その理由をこのように言いました。イザヤが実に言いにくいことをはっきりと言うことができたのは、イエスの栄光を見ていたからであるというのです。どういうことでしょうか。ここでヨハネが引用したのはイザヤ6:10節の御言葉ですが、その前の6:1~4節にこうあります。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。」

ウジヤ王が死んだのは紀元前740年です。その年にイザヤは預言者としての召しを受けましたが、当然、その時にはまだイエス様は生まれていませんでした。ですから、イザヤが見たのは「高く上げられた御座に着いておられる主」だったのです。それなのに、「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」とヨハネが言っているのは、この主こそ受肉前のイエスご自身であり、この方がただの人間ではなく、栄光に輝いておられた主であったと、彼が信じていたからです。というのは、ズバリ聖書の中心はイエス・キリストだからです。聖書を通してイエス・キリストを見るなら、そこにイエスの栄光を見ることができますが、そうでないと、イエスの栄光を見ることはできません。そのような信仰は、たとえイエスを信じているとはいっても弱いものであり、何かあるとすぐにぐらついてしまうことになります。この世の力にすぐに屈してしまうのです。その良い例が42~43節に見られる議員たちの信仰です。ここには、「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」とあります。

「しかし、それにもかかわらず」とは、その前の節までのところで語られていた内容を受けてのことです。37節には、イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じませんでした。「しかし、それにもかかわらず」です。それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいました。この「議員たち」とは、「サンヘドリン」という71人で構成されていたユダヤの最高議会の議員たちのことです。ですから、ユダヤでは超エリートの人たちでした。日本でいえば東大の教授であり、最高裁の判事であり、衆議院の議員であるといった人たちです。そういう議員たちの中にもイエスを信じる者たちが多くいました。あのニコデモはそうでした。また、アリマタヤのヨセフもそうです。そういう人たちが結構いたのです。しかし、そのような人たちの中には、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、信仰を告白しない人たちもいました。どういうことですか?信じてはいたが、告白していなかったということです。つまり、純粋に信じていなかったということです。というのは、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。ローマ10:9~10には、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。皆さん、どうすれば人は救われるのですか。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。心で信じているというだけではだめです。信じているけれど、そのことを誰にも言っていませんというのは違います。私たちが神と証人の前で洗礼、バプテスマを受けるのはそのためです。私たちがイエスを主と信じたら、それを神と人の前に告白する、それが洗礼式です。人の前で証をしたり、水に浸るのは恥ずかしいと感じるかもしれませんが、それは信仰を告白することなのです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです

イエス様はマタイ10:32節でこう言われました。「ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」この「認める」という言葉のギリシャ語は「告白する」と同じ原語の「ホモロゲオー」です。イエスを人々の前で認めるなら、イエスも父の前でその人を認めてくださいます。すなわち、救われるということです。そうでないと救われません。というのは、この「告白する」ということの反対が「拒否する」とか「否定する」ことだからです。告白しない者は救われません。それは本物の信仰ではないからです。

彼らはイエスを信じたのに、なぜ告白しなかったのでしょうか。ここには「パリサイ人たちを気にして」とありますが、新改訳第三版では「はばかって」と訳しています。口語訳も新共同訳も同じです。「はばかって」です。パリサイ人たちをはばかって、気にして、告白しませんでした。なぜなら、告白しようものなら、会堂から追放されてしまうからです。そのことを恐れたのです。会堂から追放されるということは、ユダヤ社会から締め出されることを意味していました。自分たちの身分や特権、名誉、さらにはこれまで蓄積、家族もみんな失ってしまうことになります。そうなったら生きていくことさえできません。彼らはそのことを恐れたのです。どうして彼らはそのことをそんなに恐れたのでしょうか。それは43節にあるように、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛していたからです。この「栄誉」と訳されている言葉は「イエスの栄光」と訳された「栄光」と同じ言葉です。彼らはイエスの栄光を見ていたのではなく、自分の栄光を見ていました。だから、人々の目を気にして、公然と信仰の告白ができなかったのです。この世の人々からの目がこわいというのは、人からの栄誉を愛しているからです。そういう人は周囲の人々からよく思われることばかり気にしているので、確かな信仰を持つことが難しいのです。

あなたはどうですか。人からの評判を恐れていませんか。周囲の人々との関係を悪化させたくないと、周囲の人々の目を気にして、それに合わせるようなふるまいをしてはいないでしょうか。人からの栄誉を受けることを願う人は、神からの栄誉を期待することはできません。なぜなら、イエス様はこのように言われたからです。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)
また、ヤコブの手紙にはこうあります。
「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。」(ヤコブ4:8)

ですから、私たちはイエスの栄光を見なければなりません。栄光に輝いたイエス・キリストを見るとき、人からの栄誉や、朽ちていくこの世の栄光、この世の栄誉などを求めることの愚かさを、主は分からせてくださいます。

南米エクアドルで宣教したジム・エリオットという宣教師がいます。彼は1956年このエクアドルのアウカ属に伝道している時に、惨殺されました。アウカ族というのはとても戦闘的な民族で、彼と共に4人の宣教師がその時殉教しました。この時ジム・エリオット29歳でした。その彼が書いた日記が発見されましたが、その日記の中にこう書いてありました。「失うことができないものを得るために持ち続けることができないものを手放す者は、愚かな者ではない。」
「失うことができないもの」とは永遠のいのちのことですが、失うことができないものを得るために、この世のものを手放すことができる者は愚かな者ではありません。事実、彼らの殺害に関わった5人のアウカ族のインディアンのうち3人が、その後イエス・キリストを信じて、アウカ族の教会の指導者になりました。
そして、このジム・エリオットが殺された2年後に、彼の妻と幼い娘がアウカ族に伝道するために出かけて行きました。なぜ、アウカ族の人たちは夫を殺したのかを尋ねると、白人は人食い人種だと聞かされていたので、自分たちの身を守るためにそのようにしたということがわかりました。それで妻は彼らを許し、キリストの福音を伝えました。それでアウカ族の人たちはビックリして、奥さんと娘が何かを伝えるためにやって来たというが、それは信じるに値すると、多くの人たちがイエス様を信じました。
生前ジム・エリオットは、「主よ、私を世界のためのささげものとしてください。私の血は、あなたの祭壇の前に流される時に価値あるものとなるのです。」と言っていましたが、まさにその言葉の通りに、彼の流された血が価値あるものとなったのです。それはイエス様が12:24節で語られたことでもありました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

議員たちは持ち続けることができないものを愛しました。それが人からの栄誉であり、地位や名誉や財産というこの世の物でした。しかし、そのようなものを愛するなら、神を愛することはできません。人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を愛するなら、あなたは揺るぎない信仰を持つことができるのです。

Ⅲ.大きな声で(44-50)

最後に44~50節を見たいと思います。
「イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」」

ここには、「イエスは大声でこう言われた。」とあります。イエス様がこのように大声で言われるというのは珍しいことで、先ほども申し上げたように、このヨハネの福音書においては4回だけです。そして、これがその最後の箇所となります。いったいなぜ大きな声でいわれたのでしょうか。それは先ほど述べたように、それが重要なことであり、それを聞いていた人たちに何とか理解してほしかったからです。では、その内容とはどのようなものだったのでしょうか。

イエス様はまず、「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。」(44-45)と言われました。イエス様は、これまでもご自分とご自分を遣わされた父なる神が一体であることを述べてこられましたが(8:16,10:30)、ここではそのことをもう一度確認されました。。
また、46節には、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」とありますが、これも8:12や12:35節で語られてきたことです。8:12には、「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とあります。また12:35にも「そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。」とあります。
また47節の「だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。」という言葉も、あの有名なヨハネ3:16を彷彿とさせるものです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
さらに、49~50の御言葉も8:26の御言葉と同じです。「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」
ですから、ここには真新しいことは特にありません。これまで語ってこられたことを繰り返して語られたのです。なぜなら、彼らはイエスを信じなかったからです。彼らは、イエスがこれほど多くのしるしを行われたのに信じませんでした。そんな彼らの頑なな心を嘆きながら、今、最後にもう一度彼らがイエスの言葉を受け入れるようにと招いておられるのです。

12:36のところで、イエス様は、「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」と言われました。私たちは、光があるうちに、光がはっきり見えているうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなければなりません。
私たちの人生には時があり、波があります。明るい時代があり、暗い時代があります。平穏な時があり、困難な時があります。私たちはさまざまな時の中を生きているのです。もっとも平穏な時、困難の少ない時が、光がある時というわけでもありません。ここで言う「光」というのは、この世の「光」のことではないからです。それは、イエス・キリストのことです。この光があるうちに、光の子どもとなるために、光を信じなければなりません。

光が見えるとか、見えないというのは、一種の状態でしょう。しかし、その光を信じるということは、状態ではなく決断なのです。私たちは、この光を自分のうちにお迎えする。この光と共に歩むという決断をするのです。その信仰の決断をする時に、それが自分の中で積極的な意味を持ってくるようになるのです。

そのチャンスはいつもあるわけではありません。ちょうど電車が向こうからやってくるようなものでしょうか。それが自分の前に来た時に、私たちは無意識であるかも知れませんが、それに乗るか乗らないかの決断をしなければなりません。そこで乗らなければ、電車は自分の前から過ぎ去ってしまいます。次の電車まで待つという決断をすることもあるでしょう。しかしもう来ないかも知れないのです。困難の中でイエス・キリストに救いを求めて、その時は一条の光がそこに見えていた。しかしその困難が過ぎ去った時には、他にもいろんな光が見えてきた。そうすると、逆にイエス・キリストの方の光がくすんで見えなくなってしまった、ということはしばしばあることです。その時を逃してはなりません。確かに「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

あなたは、この光を信じましたか。この恵みの時、救いの日に、光であられる主イエス・キリストを信じてください。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)
これがイエス様の願いであり、最後の叫びです。イエス様は大きな声で言われました。どうかイエス様の大きな声に信仰をもって応答してください。今こそイエス・キリストを私の救い主として信じる時なのです。

ヨハネの福音書12章27~36節「光があるうちに」

きょうは、「光があるうちに」というタイトルでお話しします。「光」とはイエス様のことです。イエス様は、「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。」(35)と言われました。また、「光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(36)と言われました。きょうは、この「光があるうちに」ということで三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.イエスの祈り(27-28)

 まず、27~28節をご覧ください。
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」」

イエス様は、過越の祭りを祝うためにエルサレムに来られました。これがイエス様にとっての最後の過越の祭りです。イエス様は、この祭りの間にほふられる子羊となって十字架で死なれるからです。すると、そこに何人かのギリシア人がいて、弟子のピリポを通して、「イエスにお目にかかりたいのです」(21)と頼みました。ピリポはアンデレと一緒にイエス様のところに行きそのことを伝えると、イエス様は驚くべきことを言われました。それがあの有名な「一粒の麦」の話です。24節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」それは、イエス様の十字架上での死のことを表していましたが、そのことをもっと明確に示すために、それに続いてこう言われました。27節、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」

これはイエス様の告白であり、祈りです。イエス様の心は騒いでいました。なぜなら、間もなくご自分が十字架につけられることを知っていたからです。ヨハネの福音書では、この「時」のことがずっと語られてきました。例えば、カナの婚礼では、母マリヤに対して、「わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)と言われました。しかし、今その時が来ました。十字架につけられる時です。それで心が騒いでいたのです。神の御子であるならどうして心を騒がせる必要があったのでしょうか。それは、たとえ神の御子であっても、たとえ、それが永遠の神のご計画であるということがわかっていても、十字架で死ぬことがどんなに恐ろしいものであるかを知っていたからです。それを知っていたなら苦しみ悶えるのは当然のことです。それは、十字架での死というものが単に肉体的な苦しみを意味していただけでなく、それ以上に父なる神から見捨てられることを意味していたからです。イエス様は、「わたしと父はひとつです。」(10:30)と言われましたが、そのように言うことができる方が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばなければならないのです。それほど理不尽なことはありません。それは、イエス様にとってもっとも恐ろしいことでした。それゆえ、「この時から私をお救いください。」と祈らずにはいられなかったのです。

イエス様はここで、「この時からわたしをお救いください」と祈られましたが、あのゲッセマネの園でも同じように祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」(ルカ22:42)それは、同様の理由からです。人類の罪を背負って十字架で死ぬということが、どれほど恐ろしい神の刑罰なのかをよく知っておられました。だから、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と祈らずにはいられなかったのです。ここでも同じです。

しかし、イエス様の祈りはそれだけではありません。それに続いてこう祈られました。「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」それがどんなに苦しく恐ろしいものであっても、それが神の御心であり、ご自分がそのために来られたことを確信していたので、イエス様はこのように祈ることができたのです。あのゲッセマネの園での祈りで「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)と祈られたのと同じです。これはご自身がメシアであることの確信を表していました。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだと。だから、「父よ、御名の栄光を現してください。」と祈ることができたのです。私たちもこのように祈りたいですね。自分の願いよりも、御名の栄光が現されるようにと。そのためには、自分が何のためにここにいて、この時に至ったのかを確信しなければなりません。そうでないと、ちょっとでも嫌なことや苦しいことがあると、すぐにつぶやいてしまうことになってしまいます。しかし、ここにいるのは神がそのように導いてくださったからだと、信仰によって確信することができるなら、イエス様のように、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈ることができるようになるのではないでしょうか。

米沢の恵泉キリスト教会から送られてきた週報に、脳梗塞で入院しておられた佐藤信幸さんという方の証しが掲載してありました。それには「神さまのご計画」という題が付けられていましたが、つぎのような証でした。
11/24(日)の夜9時30分頃、午後はずうっとソファに横になっていたので筋トレして浴室に向かった。あれっ右手が経験したことのない感覚。物がつかめない。すぐ直るだろうと思い、シャワーを済ませて上がった。この日は、気温が高く浴槽にお湯は貼らなかった。その後リビングで家内と会話をしている時、ろれつがまわらないのではと家内が問いかけてくれた。その時、自分でもおかしいと自覚できた。病院に行こう。市立病院に電話をし、救急車で来て下さいと言われましたが、家内の車で11時に到着。ほとんど待たずに診察室にベッドに乗せられて入った。その後CT検査をし、自分に起こった現実を見ることになった。左側の脳に出血が広がっていた。信じられなかった。診察されたドクターは、厳しい口調で話された。天井ばかり見ていました。でもなぜか心は平安でした。「神さまは最善以下になさらない」このことばが、思い浮かばれ安心感がありました。あとで、聞いたのですが、家内は主治医に深刻なことを言われたそうで、家に一人でかえって一晩中泣いていたそうです。
入院翌日、千田先生が見舞いに来てくださいました。必ず良くなる、また車の運転をお願いしたいとおっしゃってくださいました。とても嬉しかったです。この日から、回復が始まっていました。3日目からリハビリが始まっていました。最初に手のリハビリでした。積み木を右から左へ、またその逆を片手で移動するテストでした。評価は、左右ともに98点、右が左より逆に2㎏強かった。次は、脚部のリハビリ、何の障害もなく楽しくトレーニングをしました。次は頭のリハビリでした。図の認識、漢字捜しで今までこんなにできる患者さんは初めてと評価を頂きました。最後は車の運転テストでした。シュミレーションドライブできるのかと期待しましたが、縦横6マスで36組の交差点を埋めていく絵合わせテストでした。何の問題もないと評価して頂きました。5日目にリハビリの先生方と看護師と主治医の方々が集まり、評価してくださったそうで、リハビリは特に問題ないので早めの退院可能となりました。12/1看護師長と面談があり、明日にでも退院してもよいとおっしゃっていただき、12/4に退院することができました。感謝でいっぱいです。
今回の病気を通して、家内のやさしさが身に染みました。夫婦の絆がさらに強まったと思います。また、同室のKさんと友達になれました。私より2日遅れて私の真向かいに来られた方で、昨年の夏前から茨城から米沢に来られた日系ブラジル人男性で、日本語、英語、ポルトガル語の3か国語が話せる方です。退院したら福田町チャペルで会おうと約束してくださいました。
そしてこの病気を通して神さまは、わたしに忠実になりなさいと言ってくださいました。
「主は二日後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ちあがらせる。私たちは御前に生きるのだ。」(ホセア書6:2)
12/17退院2週間後に再診査を受けた。CT画像から白い部分は無くなっていた。順調に回復していますとのことであった。そして翌日から仕事に復帰しました。感謝です。
ハレルヤ!この病気を通して、御名の栄光が現されました。驚異的な回復もさることながら、この病を通して主が兄弟に忠実になりなさいと語ってくださり、みことばの約束の通りに、兄弟を立ち上がらせてくださいました。そればかりか夫婦の絆が強められ、同室の方と友達になり、その方と教会で会うことまで約束できました。すばらしいですね。私たちもこのように祈ろうではありませんか。「父よ、御名の栄光を現してください」と。

28節をご覧ください。すると、天から声が聞こえました。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」どういうことでしょうか。神様は、イエス様の生涯を通して栄光を現されました。特にヨハネはこれまでイエスが神の子である証拠としての奇跡を七つ記してきました。
最初のしるしは、ガリラヤのカナの婚礼で、水をぶどう酒に変える奇跡でした。それから、カペナウムでは病気で死にそうだった役人の息子を癒されました。また、ベテスダの池では、38年間も病気で伏せていた人を癒されました。さらに、男だけで五千人、女の人や子供を合わせるとゆうに1万人を越えていたでしょう、その人たちの空腹を5つのパンと2匹の魚で満たされました。そればかりか、余ったパン屑を拾い集めてみると、何と大きなかごが12個にもなりました。
五番目の奇跡は、弟子たちが舟でガリラヤ湖を渡っていると、夜中の3時頃ですが、イエス様が湖の上を歩いて近づかれたことです。近づいて何をするのかと思ったら、そのまま通り過ぎるおつもりであったなんて、何とも意地悪な感じもしないでもないですが、弟子たちが強風で恐れているのを見て、「わたしだ。恐れることはない。」(6:20)と言われ、舟はほどなく目的地に着きました。また、生まれつきの盲人を見ると、地面に唾をして泥を造り、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアムの池に行って洗いなさい。」(9:7)と言われました。すると、彼は見えるようになりました。
そして、七番目のしるしは、死んだラザロが生き返るという奇跡でした。死んだばかりの状態ではなく、死んで四日も経っていたラザロを、蘇生することは全く不可能だったラザロを生き返らせたのです。

これら7つのしるしによって、神はご自分の栄光を主イエスにあって現わされました。しかし、ここではもう一度栄光を現わそう、とおっしゃっています。どのようにしてもう一度栄光を現されるのでしょうか。それは十字架の死と復活を通してです。十字架での死と復活が、どうして神の栄光なのでしょうか。人々にあざけられ、苦しめられて死んでいくのです。その十字架が、いったいどうして神の栄光なのでしょうか。その理由が、次の29~33節で語られます。それは、この十字架こそ、私たちをキリストのもとに引き寄せてくれるからです。

Ⅱ.イエスの十字架での死(29-33)

そのことが、続く29節から33節に述べられています。
「そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。」

天からの声が聞こえてきたのは、そう何回もあるわけではありません。主イエスの地上での生涯においては3回だけでした。それはイエス様がバプテスマを受けられた時と、ペテロとヤコブとヨハネの三人の弟子たちを連れて高い山に登られ、そこで御姿が変貌したとき、そして、今回です。今回というのは、きょう学んでいるこの箇所においてです。

いったいなぜ神様はこの時、御声を発せられたのでしょうか。ここにその理由が記されてあります。29節です。「イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。」どうしてこれが私たちのためなのでしょうか。31,32節で主はこのように言われました。「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」どういうことでしょうか?

イエス様は、続く33節のところで、「これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。」と言っておられます。つまり、イエス様がここで語っておられることは、十字架で死なれることでした。イエス様が十字架で死なれることによって、「この世を支配する者」が追い出されるのです。「この世を支配する者」とは誰ですか?それは言うまでもなく、悪魔、サタンのことです。この悪魔に下るわざ、悪魔にくだるさばきが十字架なのです。アダムとエバが罪を犯して以来、悪魔はずっと人を神から引き離していました。しかし、イエス様が十字架で死なれることによってその悪魔の仕業を、根本的に、完全に打ち破られました。なぜなら、イエスの十字架の死によって、罪によってこれまで断絶していた神との関係が産められ、神と一つになることができるようになったからです。イエスの十字架の死によって、悪魔の力は完全に無力になりました。それが、「この世に対するさばきが行われ」ということです。この世を支配していた悪魔が追い出されるのです。イエス様が十字架で死んでくださったので、私たちは悪魔に完全に勝利することができるようになったのです。

勿論、それは直ちに悪魔がこの世から完全に追い出されて、もはや何の誘惑もなくなったということではありません。悪魔が完全に力を失い、誘惑することができなくなるのは主の再臨の時であり、それまで待たなければなりませんが、しかし、イエス様が十字架で死なれた時、これまでわがもの顔にふるまっていた悪魔が、そのようにはできなくなりました。ですから、悪魔をあなどることは極めて危険なことですが、そうかと言って、びくびくする必要もないのです。イエス様が十字架で死なれたことによって、悪魔はすでに征服され、ある限られた力しか持っていないからです。

そればかりではありません。32節には、「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」とあります。「わたしが地上から上げられるとき」とは、イエス様が十字架に付けられる時のことを指していますが、そのときイエス様はすべての人をご自分のもとに引き寄せられるのです。これは、ニコデモとの会話と同じです。イエス様は、人が新しく生まれるためには、水と御霊によらなければならないと言われましたが、その御霊によって生まれるために、神の救いの御業を信じなければなりません。それが十字架にあげられるということです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(3:14)と言われました。「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(3:15)ここでも同じことが言われています。イエス様が地上から上げられる時、すべての人がイエス様のもとに引き寄せられます。ユダヤ人だけではありません。すべての人です。ユダヤ人も異邦人も、すべての人を、ご自分のもとに近づけてくださり、イエスをキリスト、救い主と信じることができるようにしてくださるのです。

ヨハネは、この書の冒頭で「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(1:12-13)と言いました。この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子としての特権が与えられますが、それは血によってではなく、また人の願いや意志によってでもなく、ただ、神によってです。私たちがキリストを信じるのは、自分の意思や力によってではありません。私たちが信仰を持つことができるのは、永遠の神の御子がこの世に来られ、私たちと同じ人間の姿を取ってくださり、あらゆる悩み、あらゆる苦しみをつぶさになめられ、ついには私たちが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに引き受けて十字架で死なれるという、たぐいまれな出来事によってなのです。キリストの十字架によって、私たちは主のみもとに引き寄せられたのです。ですから、十字架こそ、私たちの救いの土台なのです。十字架で死なれたイエス・キリストこそ、神が人となってこの世に来られた、まことの救い主にほかなりません。

Ⅲ.光があるうちに歩みなさい(34-36)

ですから、第三のことは、この光があるうちに、光の子どもとなるために、光を信じなさいということです。34節から36節までをご覧ください。34節には、「そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」」とあります。

これを聞いていた群衆は、イエス様が言われたことをよく理解することができなかったのか、イエス様に質問しました。それは、「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」ということでした。
旧約聖書には、確かに救い主(キリスト)は永遠に生きておられると教えられています(詩篇110:4、イザヤ9:6-7)が、しかし、イザヤ書53章には、このメシアが苦しみを受けて、断たれることについても教えられています。つまり、救い主は苦しみを受けてから栄光に至るというのが、旧約聖書全体で語られていましたが、彼らはそれを無視し、メシアの永遠性についての預言にのみ目を留めていたのです。ですから、イエス様が語られた内容を理解することができなかったのです。それで、「あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」と問うたのです。

それに対してイエス様は、彼らの質問には答えられないで、その人の子がご自分であることを前提にこのように言われました。35,36節です。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」」

ここには、「闇があなたがたを襲うことがないように、光があるうちに、光を信じなさい。」とあります。「襲う」という言葉は、1章5節では「打ち勝つ」と訳されています。そこには、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(1:5)と言われています。イエス様がこの世に来られた時、この闇の中で輝いておられました。このように、イエス様が闇に打ち勝たれたお方であるなら、私たちも自動的に闇に打ち勝つことができるのではないかと考えやすいのですが、この箇所で言われていることはそうではなく、まだしばらくの間、光であられるイエス様があなたがたの間におられるのですから、闇があなたがたを襲うことが無いように、光があるうちに、光を信じなさいということです。つまり、闇に征服されてしまわないために、光であるわたしを信じなさいということです。

今日、私たちにとって光のない生活など考えることなどできません。昔の人々は、日が昇ると起き出し、日が沈むと寝るという生活をしていました。それから、ランプを考え出すと、たとえ太陽が西に沈んでも、そのランプの光によって、生活することができるようになりました。そして、エジソンが電気を発明してからは、夜も電気の光で昼間と変わりがないような生活をすることができるようになりました。今では電気のない生活は考えられません。もし災害等で停電にでもなったりしたら、あるいは、街灯も何もない夜道を懐中電灯も何もなしで歩かなければならないとしたら、月の光でもあればまだしも、真っ暗闇の夜などは歩けるものではありません。時々、那須の会堂で夜学び会がありますが、それが終わって消える頃になると辺りはレストランの営業も終わり真っ暗闇になります。会堂の電気を消して駐車場に歩いて向かう時には真っ暗で何も見えず、どこを歩いているのかさえわかりません。光のない生活など考えられません。

その光こそイエス・キリストです。イエス・キリストを持たない人の人生は、「闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません」とあるように、何のために生きているのか、どこに向かって生きているのか、そういった人生の目的がわかりません。ですから、闇があなたがたを襲うことがないように、光があるうちに、光の子供となるために、光を信じなければなりません。

イエス様がここで、「光があるうちに」とおっしゃっているのは、直接的には、光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまいます。

また、ここにはもう一つのことが勧められています。それは、闇があなたがたを襲うことがないように、光があるうちに歩きなさいということです。まず、光があるうちに、光の子どもとなるために、光であられるイエス様を信じなければなりません。そして、そればかりではなく、この光がある間に歩かなければなりません。「歩く」というのは「生活する」ということです。イエス・キリストを信じた者は、イエス様が歩まれたように歩まなければなりません。それは具体的にどういこうとかというと、この文脈に従って見るなら、イエス様が語られたあの一粒の麦のように生きなければならないということです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(12:24)
つまり、自己中心的な生き方ではなく、神中心の、神のために生きるということです。この世の価値観よりも神の国の価値観を本当に重視した生き方です。それがなかなかできないのは、本当に「光のある間」というものがあるのだということを、信じられないからではないです。だれも自分が死ぬなんて考えられません。自分だけはこのままずっと生き続けるのではないかと思っています。しかし、それはすべての人にやって来ます。100%です。
詩篇90篇には、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」(詩篇90:10)とありますが、私たちの人生は本当にはかないものです。それは草花のようにすぐに枯れてしまいます。その時この世のものはどんなに価値あるものでも、すべて過ぎ去ってしまうのです。ただそこには永遠の御国、神の国だけが残ります。また、神が私たちにもたらしてくださる報いだけが待っているのです。ですから、光がある間に、光を信じなければなりません。そして、光であられるキリストの弟子として、どこに行くのかわからないような生き方ではなく、天の御国を目指して歩まなければならないのです。

私たちはいつでも決断できると考えではなりません。その決断はいつするのですか。「今でしょ。」確かに今は恵みの時、救いの日です。信仰の決断も、できなくなる時がやってきます。闇があなたを襲うことがないように、この光がある間に、光であられるイエス様を信じ、イエス様が歩まれたように歩む決断をなさってください。あなたにとって今なすべきこととは何でしょうか。光がある間に光を信じること、それが、私たちにとって今なすことなのです。

ヨハネの福音書12章20~26節「一粒の麦となって」

新年おめでとうございます。この新しい年も、主の栄光が現される年となるように祈ります。この新年の初めに、まず一つのクイズから入りたいと思います。「りんごの種の中にはいくつのりんごがあるでしょうか?」答えは、「無数」です。どうですか、正解だったでしょうか。正解した人はきっといい年になるでしょう。そうでなかった人もいい年になります。主が共におられるなら、すべては「良い」ですから。

きょうは、イエス様が言われた御言葉、「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(12:24)から、「一粒の麦となって」という題でお話しします。

 Ⅰ.イエスとの出会いを求めて(20-21)

 まず、20~22節をご覧ください。
「さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。」

この祭りとは「過越しの祭り」です。イエス様は、この祭りの間にほふられる子羊となって十字架につけられて死なれます。この祭りに、何人かのギリシア人がいました。ここには「礼拝のために上って来た人々」とありますから、彼らはユダヤ教に改宗した異邦人であったことがわかります。ここには、「主イエスにお目にかかりたいのです」と言っていることから、彼らはイエス様に会うことを熱心に願っていました。なぜ彼らはイエス様に会いたかったのでしょうか。おそらく、イエス様に対する群衆の熱狂ぶりを見て、自分たちもイエスという方に是非とも会ってみたいと思ったのでしょう。そして、確かに彼らはユダヤ教に改宗していましたが、どこかマンネリ化していたユダヤ教の教えに限界を感じていたのかもしれません。主なる神との生ける交わりを求めていたのです。

様々な人々が、様々な理由でイエス様のもとに来られます。教会には、他の場所には無い安らぎがあります。そこに自分の疲れた身を置き、暫しの安息の時を持ちたいという動機で来られる方もいるでしょう。また、妻や夫や子供が、教会に行きたいと言っているから仕方なく着いてきた、という人もいるかもしれません。あるいは、ただ讃美歌を歌いたくて来た、という人もいるでしょう。それがどのような動機であったとしても、キリストのもとに来るなら、キリストとの出会いを通して真の解決を得ることができます。ですから、それがどのような動機であっても、キリストのもとに来て、キリストと会いたいという人々を、教会は心から歓迎するのです。なぜなら、それらの人々を招かれたのは、他でもない、教会の頭であられるイエス・キリストご自身であられるからです。

このギリシア人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、そのことを頼みました。なぜ彼らは直接イエス様のところへ行かなかいで、ピリポのところに来たのでしょうか。おそらく、イエス様に直接声をかけるのは畏れ多いと思ったのでしょう。それでだれか弟子の一人にお願いしようと思ったのですが、それがピリポだったのです。なぜピリポだったのか?それは、彼がガレラヤのベツサイダという所の出身だったからです。ここにはわざわざ「ガリラヤのベツサイダ出身のピリポ」とあります。ベツサイダという町は、ヘロデ大王の子ピリポが再興した町です。そこはローマ帝国の色彩が強い町でした。このピリポという名前もこのヘロデ大王の子ピリポにちなんで付けられた名前ですがギリシア名であったことから、彼らにとっては近づきやすい存在だったのでしょう。ピリポはその役割を果たすにはピッタリの人物でした。というのは、彼は、人々を執り成す役割をよくしていたからです。弟子のナタナエルをイエス様のところに導いたのも彼でした。神様は、願い求める者に最も相応しい導き手を用意してくださるんですね。

さて、何人かのギリシア人たちに頼まれたピリポはどうしたでしょうか。彼はいきなりイエス様の所には行かないで、まず弟子の仲間のアンデレに話しました。このアンデレも、執り成し手です。覚えていらっしゃいますか。イエス様に最初に着いて行った弟子のうちの一人がこのアンデレでした。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」(ヨハネ1:41)と言いました。そのようにしてアンデレは、自分の兄弟のペテロをイエスのもとに導いたのです。ピリポはこのアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに伝えたのです。

このように、様々な理由でイエス様に会いたいという人を、イエス様のもとに導くこと、これが伝道です。伝道とは、何かすばらしい音楽を聞かせることとか、だれかすばらしい人を紹介するということではなく、人々をイエスのもとに導くことです。私たちは先に救われた者として、このように人々をイエス様のもとに導く役割が与えられています。それは、私たち自身が福音を理路整然と語らなくてはいけないということではなく、人々を、イエスのもとに連れて行くことなのです。具体的には、教会に案内することです。今私たちはこのように教会に来ていますが、最初から一人で来た訳ではありません。必ず、誰かが執り成し手になってくれたので来ることができました。ピリポやアンデレのような人がいたので教会に来てイエス様に出会い、救われることができたのです。

全世界に教会が存在する限り、人々は教会の門を叩いてこう尋ねるでしょう。「本当に、神様はおられるんですか。」「いったい私たちは何のために生きているのですか。」「私たちの人生に確かな望みはあるのでしょうか。」「この世にあって、愛するということが本当に可能なのでしょうか。」「今の私の悩みは、どうしたら解決するんですか。」そうした様々な問い掛けに対して、主イエスが確かな答えを与えてくださるのです。

Ⅱ.一粒の麦(23-24)

では、その答えとはどのようなものでしょうか。23節と24節をご覧ください。ここには、「すると、イエスは彼らに答えられた。『人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。』」とあります。

これが答えです。彼らはいったい何のことを言っているのかと、驚いたのではないかと思います。でも、これが答えなんです。すべての問いに対する答えがここにあります。それは、一粒の麦が、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ねば、実を結ぶということです。どういうことでしょうか。

「まことに、まことに」というのは、イエス様が重要なことを語られる時に言われる言葉です。意味は「アーメン、アーメン」です。まことにそのとおりです、真実です、という意味です。何が真実なのでしょうか。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままですが、しかし、死ねば、豊かな実を結ぶということです。

イエス様はここで旧約聖書の言葉を一切用いず、あえて自然の法則を用いて語られました。それは、語っている相手がギリシア人であったからです。パウロも言っているように、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシア人にはギリシア人のように語られました。彼らがよく理解できるように、彼らの思考レベルに合わせて語られたのです。それがこの一粒の麦のたとえでした。

時は、過越の祭りの時でしたから3~4月頃です。大麦の収穫が終わり、小麦の収穫が始まる頃です。小麦はギリシア人にとってもとても身近な食べ物でした。その一粒の麦が地に落ちることを死ぬと言っていますが、そのように死ぬことがなければ、多くの実を結ぶことはできません。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶのです。

これは一般的な真理として語られただけでなく、ご自分について語られたのです。また、その後の言葉を見ると、これがご弟子たちへの勧めとして、あるいは、覚悟として語られたことがわかります。一粒の麦は、そのまま食べてしまえばそれだけのことです。しかし、もしこれを地中に蒔けば一粒の麦としては食べられなくなってしまいますが、その麦から芽が出て、やがて多くの実を成らせることになります。それと同じように、イエス様が地上の王、政治的な救い主として、この地上のいのちを用いるのであれば、そこにいる人々が一時的に良い生活をすることができるかもしれませんが、それまでのことです。しかし、十字架に掛かって死なれるのなら、多くの人々を救うことになります。それはその時代の人々だけでなく、それ以前に生きた人も、それ以後に生まれて来る人も含めたすべての人です。そのすべての人を救うことができるのです。それはただ単にこの地上で良い生活をすることができるというだけではなく、永遠に神の国において主と共に生きるという、豊かないのちのことです。ですから、これは直前に迫って来ていた十字架上での贖いの死を予告しておられたのです。この一粒の麦のたとえによって、イエス様の死が、殉教の死とか、自己否定の模範としての死ではなく、私たちの身代わりとしての死であるということを、はっきりと示されたわけです。

これが、すべての問いに対する答えであり、私たちに与えられている唯一の答えです。麦が、土の中に姿を隠してしまった。見えなくなってしまった。死んだとしか思えない。しかし、そんなところから緑の芽が芽生え、やがて豊かな実が実るようになるのです。そして、その実が私たちの養いになります。毎年、繰り返されている自然の営みですが、しかし、もし、この一粒の麦が、ここで死んでしまうのは嫌だと言って、倉庫の片隅に、留まっているとしたら、この実りはもたらされません。私たちのいのちが養われることはありませんでした。イエス様ご自身が、一粒の麦として死ぬことが、父なる神様の御心であることを、だれよりもはっきりと知っておられました。

そして、この過ぎ越しの祭りの時こそが、それが成される時でした。ですから、主はここで、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたのです。「人の子」というのは、イエス様ご自身のことです。「栄光を受ける」とは、イエス様が十字架に掛けられて死なれ、復活されることを意味しています。一般的に「栄光を受ける」という言葉を聞いて私たちが思い浮かべるのは、オリンピックの表彰台ではないでしょうか。優勝者が、金メダルを授けられる場面です。それは人生の頂点に立つようなすばらしい瞬間です。イエス様も、ここで、栄光を受けようとしておられました。しかし、それは華やかな表彰台に上って、金メダルを授けられることではありません。それは、「一粒の麦」として死なれることでした。イエス様が栄光を受けられた場所は、晴れやかな表彰台ではなく、ゴルゴダの丘に立てられた十字架でした。イエス様は、表彰台に上られたのではなく、十字架に上られました。授けられたメダルは金メダルではなく、茨の冠でした。そのどこにも、人々が考えていたような、栄光の輝きはありませんでした。そのように、イエス様の栄光は、最も低い所に現れたのです。主イエスは、最も低い所に立たれました。しかし、私たちは、この主の十字架の犠牲によって罪赦され、希望に生きることができるのです。私たちは、そのことを知っています。つまり、イエスの死と埋葬と復活がなければ、永遠のいのちはないということです。これが答えです。私たちが求めなければならないのは、この十字架につけられたイエス・キリストなのです。パウロはそのことを、次のように言いました。
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」(Ⅰコリント1:22-24)

いったい私たちは何を求めているでしょうか。ユダヤ人のようにしるしや奇跡でしょうか。あるいは、ギリシア人たちのように、知恵や知識でしょうか。しかし、どんなにしるしを求めても、またどんなに知恵を追及しても、イエスのいのちにあずかることはできません。でも、十字架につけられたキリストを求めるなら、そこにキリストのいのちが溢れるようになります。なぜなら、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことでも、ユダヤ人であっても、キリシア人であっても、召された者たちにとっては、十字架こそ神の力、神の知恵だからです。十字架につけられたキリストが答えです。この世は知恵とか、知識とか、力とか、しるしとか、奇跡を追い求めるでしょうが、私たちが求めるのは、十字架につけられたキリストなのです。これが答えであり、すべてのニーズに応えるものなのです。

100歳を超えても現役の医師として活躍された日野原重明先生が、最も大切にしていたという御言葉も、これでした。日野原先生は、「私を変えた聖書の言葉」、という本の中で、その理由を書いておられます。
1970年3月30日、羽田から、福岡空港に向かって、飛び立った「よど号」が、日本赤軍によってハイジャックされました。日野原先生は、この飛行機に乗っていました。飛行機は韓国の金浦空港に拘留され、四日間に亘って韓国当局と、赤軍の交渉が続けられました。もし、交渉が上手くいかなければハイジャック犯は、ポケットに持っているダイナマイトを使うかもしれない。そうなったら、命が危ない。そうした緊張と不安の中で、日野原先生は、ハイジャック犯から借りた「カラマーゾフの兄弟」という本を読みました。そして、その本の表紙に書かれていた御言葉がこれでした。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ねば実を結ぶ」。日野原先生は、この御言葉によって平安を与えられました。
無事に、日本に帰還できた日野原先生は、心配してくれた多くの方々へのお礼状で、こう述べました。「許された第二の人生が、多少なりとも、自分以外のことのために捧げられればと願ってやみません」。
この御言葉が、日野原先生に新しい人生観をもたらしてくれたのです。それは日野原先生だけでなく私たちも同じです。この御言葉が、私たちの人生にも新しい人生観をもたらしてくれます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

Ⅲ.一粒の麦となって(25-26)

ですから、第三のとこは、私たちも一粒の麦となりましょう、ということです。25-26節をご覧ください。ここには、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」とあります。

「自分の命を愛する者」とは、自分が自分の命の主人になろうとしている人のことです。イエス様を自分の命の主人として受け入れない人のことです。この私を生かすために、主イエス様が一粒の麦となって死んでくださったということを受け入れないのです。自分は、自分の力だけで生きている。そう思っている人。それが、「自分の命を愛する者」です。もっと分かり易く言えば、自分中心に生きている人のことです。

一方、「自分の命を憎む者」とは、自分中心の生き方からキリスト中心の生き方へと向きを変えた人のことです。自分が今生かされているのは、一粒の麦が死んでくださったからだ。自分は、キリストによって、生かされているのだ。そういう思いに生きている人のことです。そういう人は、永遠の命に至ることができる、と主は言われたのです。

星野富弘さんが「いのちよりも大切なもの」という詩を書きましたが、それはこの真理を語ったものです。
「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
いのちよりも大切なものとは何でしょうか。それはキリストにあるいのち、永遠のいのちです。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者、すなわち、自分中心の生き方からキリスト中心の生き方へと向きを変えた人は、永遠のいのちに至るのです。それがあると知った時、生きるのが嬉しくなったのです。人生のベクトルが自分、自分と、自分の方を向いている時は、これほど楽しいことはないと思うでしょう。でも実際は違います。生きるのが苦しくなります。自分のすべてが満たされていて、もう何もすることがない。これほど辛いことはありません。しかし、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちが与えられ、世のため、人のため、そして神の栄光のために自分が生かされているという新しい使命が与えられ、その使命に生きる人は幸いです。そのような人は古い殻が破られて、そこに神のいのちが流れるようになります。そういう人は、生きるのが嬉しくなるのです。

私たちは、どんな人でも犠牲を払うことを好みません。そういう意味では、みな自己保身的であるわけです。これは人間の生まれながらの性質です。しかし、主に従って行こうと思うなら、イエス様のように一粒の麦にならなければなりません。自分がいのちを全うし、自分は少しも傷つかないで、主の弟子という栄誉だけを得ようとしても、それは無理なことなのです。自分のいのちを愛する者は、永遠のいのちを失ってしまいます。しかし、自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠いのちに至るのです。

26節をご覧ください。ここで、主は、このように言っておられます。
「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」

主に仕えようと思う人は、主が行かれるところへ行き、主がおられるところにいなければなりません。なぜなら、私たちはキリストと一つにされた者だからです。それはキリストのいのちに与ったというだけでなく、キリストの死にも与ったということです。キリストの苦しみをも賜ったのです。賜ったのです。イエス様はこのように言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16:24)
また、こう言われました。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:27)
キリストの弟子というのは、十字架を負う者です。自分の十字架を負って、キリストに従う者、それがキリストの弟子です。自分の十字架を負ってキリストについて行かない者は、キリストの弟子になることはできません。

インドの宣教師にエミー・カーマイケルという人がおられますが、彼女は「カルバリの愛を知っていますか」という本の中でこう言っています。「地に落ちて死ぬ。そういう一粒の麦となることをもし拒絶するならば、その時私はカルバリの愛を全く知らない。」一粒の麦として、自己否定、自己犠牲を拒むならば、カルバリの愛、十字架の愛を全く知らない、というのです。

私たちもクリスチャンとしてイエス様のいのちに与りましたが、同時に、イエス様の死にも与っているのです。これがキリストの弟子像です。ですから、キリストの弟子たる者は、イエス様と同じ性質、同じ考え、同じ価値観、同じ歩みをすべきなのです。

よく「才能が埋もれる」とか、「異国の土となる」という言葉を聞くことがありますが、これは骨を埋めるということです。これを聞くと、宣教師たちのことを思い出します。イエス・キリストもさることながら、イエス・キリストによって遣わされた宣教師たちは、まさにこの一粒の麦となって地に落ちてくだいました。日本にも大勢の宣教師が来て、文字通り骨を埋めてくれました。その結果、彼らが蒔いた種によって新しく生まれた人がたくさんいるのです。私もそのうちの一人ですが、最近の宣教師はそれほどでもありませんが、昔の宣教師が日本に来るということはまさに命がけでした。自分を犠牲にして、自分の命を犠牲にしてまで日本を愛し、日本人のために生涯をささげられました。そうした一粒の麦によって、多くの実を結ぶことができたのです。

これは宣教師だけのことではありません。私たちも同じなのです。同じ使命が与えられています。もし豊かな実を結びたいと思うなら、多くのたましいを獲得したいと思うなら、私たちも地に落ちなければなりません。死ねば、豊かな実を結ぶのです。イエスは種まきのたとえの中で、良い地に蒔かれた種は、30倍、60倍、100倍の実を結んだと話されましたが、それが良い地に蒔かれるということです。良い地に蒔かれた種とは、御言葉を聞いてそれを悟る人のことですが、究極的には、このイエス様と同じようになることです。そういう人は豊かな実を結びます。そればかりではありません。ここには、「わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます」とあります。これは、主が与えてくださる報いのことです。自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うなら、父なる神はその人を重んじてくださいます。「重んじてくださる」は、新共同訳では「大切にしてくださる」と訳しています。主に従い、喜びも、悲しみも共にし、どんな時も主と共にいる者を、父なる神様が大切にしてくださるのです。

父なる神様がおられ、そして、主イエスがおられる。この聖なる交わりの中に、私たちを招いてくださるために、主は、一粒の麦となって死んでくださいました。それほどまでに、神は私たちを愛してくださいました。イエスは言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

大正から、昭和の前半にかけて、素晴らしい働きをした人で、升崎外彦(ますざきそとひこ)という伝道者がおられます。この人の伝記、『荒野に水は湧く』という本に、一粒の麦のように生きた、若い女性の話が書かれています。
キリスト教に対する迫害の激しかった出雲の地で、秘かに信仰を持った旧家の娘がいました。名前を香代と言いますが、その香代が、若くして結核にかかり、死も間近と宣告されます。
そこで、最後の願いを聞いてあげよう、ということになりました。香代は、土地の人たちから迫害されていた升崎牧師からバプテスマを受けたい、と言いました。その願いがかなえられ、香代は、病床でバプテスマを受けました。
ところが、その後、奇跡的に、病状が回復し、香代は、元気を取り戻したのです。そこで、困ったのは、家の人たちです。「香代さんが、ヤソになった」、という噂が村中に知れ渡り、大問題になったからです。家の人たちは、香代に、信仰を捨てるようにと、強く迫りました。でも、彼女は、頑として、信仰を捨てませんでした。そこで、家の人たちは、彼女を座敷牢に閉じ込めてしまいました。
ある冬の寒い朝、香代が、祈りの姿勢のままで死んでいるのが発見されました。その後、香代の遺品を整理したところ、彼女の日記が出て来ました。その日記は、死の二日前までのことが、綴られていました。そこには、家の者に対する恨みや辛みは、一言も書かれておらず、それどころか、どのページも、両親のための祈りと、神様への賛美の言葉で満ちていました。
家の人たちは、それを読んで、激しい感動を覚えました。彼らの心は、一変しました。そして、何と、一家11人が、イエス様を信じたのです。香代の墓標には、この24節の御言葉が、記されています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

香代は、大正時代の出雲の村で豊かな実を結んだ、一粒の麦だったのです。イエス様は一粒の麦が地に落ちて死ぬように、十字架で死なれました。しかし、それによって、私たちは、永遠の命に生きる者とさせて頂くことができたのです。この主イエスの愛を自分のものとして受け取って生きる時に、私たちも一粒の麦としての生き方に招かれます。周りの人たちのために、自分を献げて生きる生き方へと招かれるのです。

先ほど、日野原先生のことを話させていただきました。日野原先生も、命の危険が迫る中で、この御言葉に出会い、平安へと導かれました。そして、その後の人生を、自分のためだけに生きるのではなく、多少なりとも、自分以外のことのために、献げたいという願いに導かれていったのです。私たちも、主イエスという、一粒の麦によって、生かされた者です。そうであるなら、周りの人たちの救いのために、小さな実を結ぶことを、願う生き方へと、導かれてまいりたいと思うのです。この新しい年がそのような一年になりますように。主の聖霊によって、主イエスの価値観と考え方をもって、与えられた人生を全うさせていただきたいと思うのです。

ヨハネの福音書12章12~19節「ろばの子に乗って来られた主イエス」

今年最後の主日礼拝を迎えました。この1年も主が一人一人と共におられ、みことばをもって励ましてくださったと信じて感謝します。きょう、主が私たちに与えてくださった御言葉は、ヨハネの福音書12章12~19節のみことばです。きょうはこの箇所から、「ろばの子に乗って来られた主イエス」という題でお話ししたいと思います。

 

ヨハネの福音書は、12章から後半部分に入ります。ここから主イエスの最後の一週間が始まります。主イエスは、過越の祭りの六日前にベタニアに来られました。そこでベタニアのマリアからの驚くべき愛、純粋で非常に高価なナルドの香油を受け、それを自分の髪の毛で拭うという行為を受けると、いよいよエルサレムに入場して行きます。十字架に掛けられて死なれるためです。ここにはその様子が記録されてあります。そして、それによると、イエスは何とろばの子に乗って入場されました。なぜ、ろばの子に乗って入られたのでしょうか。それは、イエスは平和の王として来られたからです。

 

Ⅰ.群衆たちの叫び(12-13)

 

まず、12~13節をご覧ください。

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。『ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』」

 

「その翌日」とは、1節から11節までの出来事の翌日のことです。イエス様は過越の祭りの六日前にベタニアに来られました。そこでマリアからの心からの礼拝を受けられました。その翌日のことです。祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行きました。

 

この祭りとは過越の祭りです。イスラエルには三つの大きな祭りがありました。それは、過越の祭りと七週の祭り(ペンテコステ)、それと仮庵の祭りです。その中でもこの過越の祭りは最も重要な祭りで、盛大に祝われました。それは、神がイスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出してくださったことを記念して行われる祭りでした。イスラエルはモーセの時代、400年もの間、エジプトの奴隷でした。彼らはその苦しみの中で主に助けを求めると、主は助けを送ってくれました。それがモーセです。神はモーセを遣わして、彼らをエジプトの奴隷の中から救い出されました。同じように神は救い主を遣わして、罪の奴隷であった私たちを救い出されます。ですから、キリストが十字架にお掛かりになられるのも、この過越の祭りの時でなければならないのです。それは神が予め定めておられたことでした。それはちょうど神がモーセを通してイスラエルをエジプトの奴隷から救い出したように、キリストを通して私たちを罪の奴隷から救い出されるためです。それが過越の祭りでした。その祭りが近づいていたのです。

 

この祭りには大勢の人々が集まっていました。当時のユダヤ人の歴史家でヨセフスという人の記録によると、250万人以上の人々がこの祭りに集まっていたとあります。それほど大勢の群衆が、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て来たのです。

 

「なつめ椰子の枝」は「しゅろの木の枝」のことです。英語では「Palm」と言うことから、この日はPalm Sundayと呼ばれています。旧約聖書では、この「しゅろ」は喜びの日、祝いの日、あるいは勝利の日に用いられました。たとえば、レビ記23:40には、仮庵の祭りの時に、このなつめ椰子の木を取って、主の前で喜び楽しむとあります。モーセの時代、彼らはエジプトの奴隷でしたが、神が彼らを救い出してくださり、約束の地に導き入れてくださいました。そしてダビデの時代にその王国が建てられると、その子ソロモンによって確立され、繁栄していきました。しかし、彼らが繁栄すると自分たちを奴隷の中から救い出してくださった主を忘れてしまいました。その結果、イスラエルは様々な国に支配されるようになります。紀元前722年には北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、紀元前586年には、南王国ユダがバビロンに滅ぼされ捕囚として連れて行かれます。その後、旧約聖書は預言者マラキを最後に400年間沈黙の時代を迎えますが、その400年の間にもペルシャ、ギリシャ、エジプト、シリアといった国々に支配されます。その中でも特筆すべきく出来事は、紀元前200年にシリアの王アンティオコスⅣエピファネスが、エルサレムの神殿に豚をささげ、また、ゼウスの偶像でエルサレムの神殿を汚したという出来事です。その時に立ちあがったのがハスモン家の祭司ユダ・マカベアという祭司でしたが、彼は神殿を奪い返すことに成功するのですと、人々はこのなつめ椰市の枝、しゅろの木の枝を手に取って彼を迎えました。つまり、ここで群衆がなつめ椰子の枝を持ってイエスを迎えに出て来たというのは、イエスがあのハスモン家の祭司ユダ・マカベアのように、当時ユダヤを支配していたローマ帝国から独立を勝ち取るための政治的な王として迎えたということだったのです。彼らはラザロのことも聞いていましたから、死人をもよみがえらせることができるこのお方なら、ローマ帝国にも打ち勝つことができるはずだと思ったのです。

 

それは彼らの叫びにも表れています。13節後半から14節をご覧ください。彼らはこう叫びました。

「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

これは詩篇118:25~27の引用です。「ホザナ」とは、「主よ、今、私たちを救ってください」という意味です。苦しいんです。助けてください。ローマの支配から解放してください。神様、私たちをあわれんでください。この苦しみから解放してください。あなたならおできになります。あのシリアから救い出したマカベアのように、ローマ帝国の圧政から救ってください。そう叫んだのです。そして、「イスラエルの王に」と言って、喜んで迎えました。

 

しかし、熱狂的に叫べば良いというわけではありません。18節には、彼らがイエスを出迎えた理由が記されてあります。それは、「イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。」からです。「このしるし」とは何ですか。それはイエスがラザロを死人の中からよみがえらせたという奇跡です。その時イエスと一緒にいた群衆がそのことを証し続けていたので、祭りのためにエルサレムに集まっていた群衆はこのように叫んだのです。死人が生き返ったというのは大きなインパクトがありますから、すぐに祭りに来ていた大勢の人たちに広まりました。しかし、それは単なる好奇心でしかありませんでした。みんなが集まっているから自分も行ってみよう。なんか楽しそうだし・・。いわゆる「ノリの信仰」です。イエスのことばに聞こうとするのではなくその流れに乗ろうというものです。群衆心理とも呼ばれます。何か自分のためになることがあるんじゃないかと、ただご利益を求めるだけです。死人がよみがえったなんてすごいじゃないか。いったいこの人はどういう人なんだろう。そうした好奇心から集まっていただけでした。こうした好奇心が全く悪いわけではありません。そこから少しずつ神について知り、本物の信仰に至ればいいわけですから。しかし、この段階では本物ではありませんでした。ですから、自分たちが期待していたメシアではないということがわかると、彼らはどうなりますか。手のひらを返したかのような態度を取るようになるのです。このわずか五日後のことですよ。イエスが捕らえられると、それまで「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んでいたこの群衆が、今度は、「十字架につけろ。十字架につけろ」と狂ったように叫ぶのです。同じ群衆です。何ということでしょうか。でもイエス様は、人々の心というものがどのようなものであるかをよく知っておられたので、最初からそのような人々に自分をゆだねるということはしませんでした。2章で見たように、イエスのなされた多くのしるしを見て、その名を信じた人たちに、自分をお任せにならなかったのです(2:24)。感情はすぐに冷めてしまいます。だから感情ではなく、イエスのことばに聞かなければなりません。イエスのことばを聞いて、イエスがどのような方であり、何を求めておられるのかを知らなければならないのです。

 

Ⅱ.ろばの子に乗って来られた主イエス(14-15)

 

第二のことは、イエスはろばの子に乗って来られたということです。14~15節です。「イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。『恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。』」

 

イエスはろばの子を見つけ、それに乗ってエルサレムに入場されました。それは遡ること、およそ500年前に書かれたゼカリヤ書の預言にこうあるからです。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ書9:9)この預言が成就するためでした。

 

先日、テレビを見ていたら、北朝鮮の金正恩総書記が、軍事施設を視察する際に妻と白馬に乗っているのを見ました。そうなんです、王であれば白馬に乗って勇ましく登場しまが、イエス様は馬ではなく、ろばに乗って来られました。しかも、雌ろばの子のろばにです。「ろば」は英語で「donkey」と言いますが、「愚か者」とか「まぬけ」という意味があります。千本松牧場に行くとこの「ろば」を見ることができます。その顔をじっと見ると、実に情けない顔をしています。私はろばの顔を見ながら、それが自分のようであるのを感じて、とても親近感を感じます。ろばは当時荷物の運搬のために用いられました。このろばの子に乗って来られたのです。どうして馬ではなくろばだったのでしょうか。それはイエスが平和をもたらすために来られたことを示すためでした。当時馬は戦争の象徴でした。戦う時はみんな馬に乗って行きます。だれもろばになんて乗って行きません。そんな、のろいろばに乗って行ったら、たちまち敵に打ち負かされてしまいます。だから、戦いに行く時には馬に乗って行くのです。それに対してろばは平和の象徴でした。イエスは戦いのために来られたのではなく、平和の王として来られました。だからろばなのです。これはどういうことでしょうか?

 

それは、イエス様が2000年前に来られた時は、私たちと神様との間に平和をもたらすために来られたということです。私たちは生まれながら自分の罪のゆえに神に対して敵対していました。神を知らないというだけでなく、神を全く無視していました。いや神にいてほしくなかったのです。なぜなら、神がいると都合が悪いからです。自分の好きなように生きることができません。だから神を認めたくなかったのです。そのようにして神に敵対していたのです。神が私たちに敵対していたのではありません。敵対していたのは私たちの方です。しかし神は私たちをあわれみ、私たちを愛し、私たちに救いの手を差し伸べられました。それがイエス・キリストです。私たちに和解の方法を備えてくださいました。それが十字架と復活です。神のひとり子が人となって来られ、私たちの罪のために十字架で死んでくださり、その死の中からよみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。罪が赦されるのです。これが、私たちの罪が赦される唯一の方法であり、神との平和を持つために神が永遠の昔から持っておられた計画でした。ローマ4:25~5:1にこうあります。

「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

イエスが十字架に掛けられたのは私たちの罪のためでした。そして、よみがえられたのは、私たちが義と認められるためでした。ですから、このイエスを信じる信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っているのです。このようにイエスが2000年前に最初に来られたのは、神と私たちの間に平和をもたらすためでした。ですから、イエスは平和の象徴であるろばの子に乗って来られたです、それはゼカリヤによって預言されたとおりでした。

 

しかし、イエス様が再び来られる時にはそうではありません。再び来られる時には栄光の主として白い馬に乗って来られると黙示録19:11にあります。

「また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。」

黙示録は同じヨハネが書いたものですが、将来のことを預言しています。そしてここには、白い馬に乗って来られ、義をもってさばき、戦いをされる、とあります。2000年前に来られた時は柔和な方として、平和の王として、私たちと神との和解のために来られましたが、しかし再び戻って来られる時にはそうではありません。罪をさばくために戻って来られるのです。どうして神がおられるのにこんな悲惨なことが起こるのか、どうして神がおられるのに悪が栄えるのか、あんな悪いことをしている者を、どうして神はさばきをなさらないのかと思うことがあるでしょう。しかし、神はさばきをなさらないのではなく、さばきを遅らせておられるのです。そして最後に正しくおさばきになります。それぞれ各々の行いに応じてさばきをされます。それが終わりの時に起こるのです。だれも隠すことはできません。私たちは自分の行いに応じてさばきを受けることになります。しかし、感謝なことに、イエス・キリストを信じた者はさばきに会うことがありません。良いことをした評価は受けます。しかし、さばかれることはありません。なぜなら、あなたの罪はすべて十字架の上に置かれ、キリストが代わりにさばきを受けてくださったからです。これが神の恵みです。何が恵みかって、これが恵みです。あっと驚くべき恵み、アメージング・グレースです。

 

あの有名なアメージング・グレースを書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。ある日、奴隷たちを積んで英国に戻る途中、大嵐の中で船が転覆しそうになったとき、彼は神に祈りました。すると、神は彼を助け、無事にイギリスに帰港することができたのです。それから数年経って、彼はその時の経験を思い起こし、何という恵みだろう。こんな自分を救ってくださったと、この讃美歌を書いたのです。

 

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

 

だから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。信じる者はだれでも罪から救われます。ヨハネ3:17にこうあります。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

さらにこうあります。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(3:18)

私たちはさばかれません。御子を信じているからです。代わりに御子がさばかれました。御子イエスが身代わりに死んでくださったのです。でも御子を信じない者はさばかれます。それは神のひとり子の名を信じなかったからです。ここには、「すでにさばかれている」とあります。これは有罪が確定しているということです。信じなければその有罪のとおりになります。でも信じるならキリストがすべての罪の身代わりとなって死んでくださったので、さばかれることはありません。神との平和を持つことができるのです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたの罪は赦されているでしょうか。心に罪の責めを感じることはないでしょうか。神の前にさばかれるのではないかという恐れや不安はないでしょうか。きょうは2019年の最後の主の日の礼拝です。私たちの罪の精算をして新しい年を迎えたいですね。その罪の精算とは、私たちの罪を悔い改め、その罪のために十字架で身代わりとなってくださった主に感謝し、主に信頼することではないでしょうか。そうすれば、主はすべての罪からあなたを清めてくださいます。主はあなたをさばきたいのではありません。救いたいのです。あなたを罪から救いたいのです。主イエスはさばくためではなく救うために来られました。ですから、イエスはろばの子に乗って来られたのです。この平和の王であるキリストを信じる時なら、すべての罪が赦され、神との平和を持つことができるのです。

 

Ⅲ.イエスを平和の王として迎えよう(16-19)

 

ですから、第三のことは、このイエスを平和の王として迎えましょう、ということです。16~19節をご覧ください。

「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」」

 

「これらのこと」とは何でしょうか。それは、群衆が大声で「ホサナ。祝福あれ、主の御名よって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んだことです。また、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入場されたことです。これらのことは、このヨハネを含め、初め弟子たちにもわかりませんでした。弟子たちも群衆たちと同じように、イエスがすぐにローマの圧政から自分たちを救い出してくれるものと思っていたのです。ですから、この後でイエスが捕らえられると、彼らはすぐに逃げ出してしまいます。十字架につけられると自分たちも捕らえられるのではないかと恐れて、部屋に閉じこもってしまいました。彼らもこれらのことがどういうことなのか分かりませんでした。彼らがそれらのことが分かったのは、イエスが栄光を受けられた後でした。

 

イエスが栄光を受けられたのはいつでしょうか。それはイエスが十字架で死なれ、復活した後、弟子たちの見ている前で天に昇り、神の右の座に着かれた時です。それまでは分かりませんでした。なぜその時に分かったのでしょうか。なぜなら、その時聖霊が降ったからです。聖霊が降ったので、イエスが彼らに教えたすべてのことを思い出させてくださったのです。それは真理の御霊で、この御霊が来ると、すべての真理に導いてくれます。これを書いたヨハネも、この時の様子を見ていました。イエスがろばの子に乗って来るのを見て、「なんでだろう」と思っていました。また、大勢の群衆が「ホザナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と言うのも聞いていました。でもよく理解していませんでした。それがどういうことなのか分からなかったのです。しかし、イエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえり、天に昇って行かれてから、約束の聖霊が降った時、それがあのゼカリヤ書9:9の預言の成就だったということ、また、群衆が「ホサナ」と叫んだのも詩篇118篇の預言の成就だったんだということが分かったのです。それが預言の成就だったんだ、ということを思い出したのです。

 

今日でも多くのユダヤ人は、旧約聖書に書かれてあるメシアの預言が、イエス・キリストによって成就したということを知りません。いや、認めようとしないのです。それはユダヤ人ばかりでなく私たち日本人も同じです。そのことを受け入れようとしません。それは、聖書に次のようにある通りです。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」(Ⅰコリント2:14)

生まれながらの人間は、神の真理を理解することができません。なぜなら、それは神の御霊に属することだからです。御霊に属することは御霊によって判断しなければなりません。ですから、どんなに知的に優れていても、霊的には全く盲目であるということがあるのです。ピントがずれています。しかし、これは決して他人事ではなく、私たちにも言えることで、私たちもピントがズレていないかどうかを検証しなければなりません。

 

19節をご覧ください。ここには、もう一種類の人たちのことが記されてあります。パリサイ人たちです。「それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

このパリサイ人とはユダヤ教の宗教指導者たちのことです。彼らはすでにイエスを殺す計画を立てていました。しかし、祭りの間はいけない。多くの群衆がイエスを政治的なメシアとして期待していたので、そこで殺そうものなら大騒ぎになるからです。そうなれば、ローマ軍が攻めて来てエルサレムを滅ぼしてしまうことになります。そうなると自分たちの立場が危うくなります。それで祭りが終わった後でイエスを殺すつもりでした。しかし、あまりにも大勢の人が熱狂的にイエスを歓迎するので、彼らは互いにこう言いました。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」

彼らのイライラ感、焦り、怒り、ねたみが見えます。結局、彼らのこうしたねたみによってイエスは十字架につけられるわけです。その敵意が彼らの中でますます大きくなっていきました。

 

でも彼らは、イエスを訴える口実を何一つ見つけることができませんでした。それもそうです。イエス様は全く罪の無い方なのですから。言葉にも、行いにも、罪の無い完全な神の子でした。その方が私たちを神と和解させるために、平和の王として来てくださいました。ろばの子に乗って。それは、私たちに神との平和をもたらすためでした。神と私たちとの間にある壁はどんなものをもってしても壊すことができませんが、しかし、キリストはその隔ての壁を打ち破ることができます。そして、神との平和を持つことができるように、平和の王として、ろばの子に乗って来てくださったのです。そして私たちの罪を負い十字架で死なれ、三日目によみがえられました。この方を信じる者はだれでも罪が赦され、神との平和を持つことができるのです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたの罪は赦されましたか。キリストを信じて受け入れましたか。キリストを信じたのであればあなたのすべての罪は赦され、神との平和を持つことができます。そして神との平和が与えられると、今度は周りの人との間にも平和を持つことができます。神との平和がないと、自分の内に平和がないので、いつもイライラすることになり、いつもだれかのせいにしたり、だれかをさばくようになるので、周りの人とも平和がないんです。これは罪の問題なんです。でも神によって罪が赦されると心に平安が与えられます。神の愛が注がれ、赦す心が与えられ、喜びで満たされ、感謝の心に満ち溢れるようになります。平和を作り出す人は幸いです。あなたもその平和を持つことかできます。そのためにイエス様が来てくださいました。この方に心を開き、この方を信じて、神との平和を持ってください。また、キリストをあなたの心の王座に迎え入れ、キリストの平和があなたを支配しますように。そうすれば、「ああ、キリストは本当にすばらしい」とキリストの御名があがめられるようになるでしょう。あなたの心に、神の平和が豊かにありますように。

ヨハネの福音書12章4~11節「礼拝を妨げるもの」

前回は、イエスが過越の祭りの6日前にベタニアに来られた時、マルタとマリアとラザロがどのようにしていたのかを見ました。すなわち、マルタの奉仕とラザロの証し、そしてマリアの礼拝です。特にマリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。それはマリアにとってイエスがすべてのすべてであったからです。彼女は自分自身を主にささげました。それが礼拝です。なぜ彼女はそのようにしたのでしょうか。それは勿論イエスが兄弟ラザロを生き返らせてくださったことへの感謝もありましたが、それ以上の理由がありました。それは、主が彼女のためにいのちを捧げるほど深く愛してくださったからです。その愛に対する応答でした。彼女にはそれがよくわかりました。いつも主の足もとにひれ伏して、主のみことばを聞いていたのでわかったのです。そしてそれが礼拝となって表れたのです。

 

きょうのところには、それとは裏腹にそうした主への礼拝を妨げる者の姿が描かれています。イスカリオテのユダや、祭司長たちです。いったい何が問題だったのでしょうか。私たちはイスカリオテのユダや祭司長たちのように礼拝を妨げる者ではなく、マリアのようにイエスに心から礼拝をささげる者でありたいと思います。

 

Ⅰ.イスカリオテのユダ(4-6)

 

まず、4~6節をご覧ください。

「弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」

 

ここにイエスの弟子の一人で、イスカリオテのユダという人物が出てきます。新改訳聖書第三版には「ところが」という接続詞があります。残念ながらこの新改訳2017と他の日本語の聖書には訳されていません。英語では「but」(New International Version)、あるいは「Then」(King James Version)と訳しています。原語には、「ουν」という接続詞があって、これは「しかし」とか、「それから」、「ところが」という意味の言葉です。これは訳してほしかったですね。なぜなら、このイスカリオテのユダの行為が3節のマリアの行為と対比されているからです。マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの足にぬり、それを自分の髪の毛でぬぐいましたが、一方、弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダはそうではありませんでした。

 

「イエスを裏切ろうと」の直訳は、脚注にもあるように「引き渡そうと」です。ユダはイエスをユダヤ人の当局者たちに引き渡そうとしていました。イエスを裏切ろうとしていたとはそういうことです。「イスカリオテ」とはカリオテの人という意味です。「カリオテ」とはイスラエル南部の地方都市の名前で、「大都会」という意味があります。イエスの弟子たちのほとんどがガリラヤ地方出身の田舎者であったのに対して、彼はユダヤ地方の大都会の出身でした。今で言うとシティボーイです。ですから、それなりにプライドもあったでしょう。何よりも頭が切れていました。会計管理の才能を生かして弟子団の財務担当を担っていたのですから。財務省です。かなり優秀でないとなれません。ですから、人からの信頼も厚かったようです。そのイスカリオテのユダがマリアに言いました。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

 

これが聖書の中に出てくるユダの最初の言葉です。「どうして」ここに彼のメンタリティーがよく表われているのではないでしょうか。マリアが心から主イエスに対して向き合ったのに対して、彼はそのマリアに「どうして」と言いました。私たちもよく「どうして」と言うことがあるかと思いますが、このように「どうして」という時は気を付けなければなりません。そこにはナルドの香りではなく危険な香りがするからです。他の人を批判して「どうして」と言うのは危険です。彼はマリアを公然と批判しました。「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さないのか。」と。この香油とは、3節で彼女がイエスに注いだナルドの香油のことです。これは純粋で非常に高価なものでした。300デナリもの価値がありました。300デナリとは300日分の労働者の賃金に相当します。つまり年収ですね。マリアはそれをすべてイエスにささげました。おそらく、結婚の準備のためにとコツコツと蓄えていたものでしょう。もしかすと、両親の遺産の一部であったのかもしれません。いずれにせよ、それを全部イエスにささげました。それを見ていたユダは、「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言ったのです。どうして彼はこのように言ったのでしょうか。

 

6節をご覧ください。ここにその理由が記されてあります。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」彼がこのように言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではありません。彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからです。どういうことでしょうか?貧しい人に施しをするということはユダヤ教では非常に大切なことでした。それは律法にこうあるからです。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの中ででも、あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない。必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。」(申命記15:7-8)

これが律法です。これが主のみおしえなのです。それは主が彼らを祝福してくださるからです。マタイ25:40でイエスが、「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」と言われたのは、こうした律法の背景があったからです。最も小さい者たちにしたこととは何ですか。空腹であったときに食べ物を与え、渇いたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに服を着せ、病気であったときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれるといったことです。つまり、貧しい人々に施すことです。それは神を信じて生きる者たちにとってとても大切なことだったのです。ですから、イスカリオテのユダが言っていることは正しいのです。

 

しかし、彼には問題がありました。それは、彼がこのように言ったのは貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かっていながら、そこに入っているものを盗んでいたことです。どういうことかというと、ヨハネ13:27-29を見てください。ここには、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。」とあります。これは最後の晩餐の席でのことです。イエスは弟子たちの一人が、自分を裏切ると言われました。弟子たちが、それはだれですかと尋ねると、イエスは「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」と答えました。そしてイエスはパン切れをユダに与えると、彼にこう言いました。「あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい。」弟子たちはなぜイエスがそのように言ったのかが分かりませんでした。彼らはユダが金入れを預かっていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにと、言われたのではないかと思ったのです。でも実際は違いました。彼はその金入りから盗んでいたのです。つまり、フェイントですね。そのように見せかけておいて、実際には自分の利益を追及していたのです。

 

このように、人の言葉には、その裏に、それとは別の本当の意図が隠されていることがあります。ことに、りっぱなことを言う人は、その陰に全く違った動機が隠れている場合があります。ほかの人を批判したり、裁いたりする人も、あたかも正しいことを言っているようですが、実はその言葉の裏には、自分を正当化しようという思いが働いていることがあります。だから注意しなければなりません。イスカリオテのユダは確かにりっぱなことを言いましたが、一つとしてりっぱなことはしませんでした。彼はただ自分の利益を追及していただけだったのです。

 

でもこれはユダだけではありません。私たちにもあります。口ではりっぱなことを言っていても、その動機を探られたら、このユダと五十歩百歩ということがあるのではないでしょうか。たとえば、私はこうやって毎週講壇から説教していますが、それがもし人から称賛されたいからとか、名誉なことだからとか、注目されたい、かっこいいといった動機からだとしたら、このユダと全く変わりません。それはただの見せかけであって、偽善にすぎないのです。私は自分を戒めてこう言っているのですが・・。私たちが奉仕をするのはどうしてでしょうか。もし自分が敬虔なクリスチャンに見せたいからとか、教会のリーダーとして認められたいから、あるいは、何か大きなことを成し遂げたという達成感なり自己満足を得たいからというなら、それはこのユダと少しも変わりません。彼が本当に心にかけていたのは貧しい人々のことではなく自分自身でした。イエスを愛していたのではなく、自分を愛していたのです。彼は霊的なことには全く価値を見出すことができませんでした。だからイエスに対する愛情の表現としてささげたマリアの礼拝を全く理解できず、むしろそれを真っ向から非難して蔑んだのです。礼拝にそんなにお金をかけるなんてもったいない。そんなお金があるんだったら貧しい人々を支援した方がずっといいに決まっている。もっと実際的なことのためにお金を使うべきだ・・。どうですか、皆さん、何だかもっともらしいと思いませんか。でもそれは単なる口実です。彼がそのように言ったのは本当にそのように思っていたからではなく、自分の利益を求めていたからなのです。彼の心を支配していたのは損得勘定でした。本当に貧しい人のことを考えていたわけではありませんでした。

 

礼拝に行けませんという人の多くは同じ問題を抱えています。「忙しくて礼拝になかなか行けません。」「いろいろやらなければならないことが多くて礼拝に行っている時間がないのです。」これらはもっともらしい口実ですが、でも本当の理由はそこにあるのではなく、まさにユダが言っているように、自分のことしか考えていないことです。彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたのではなく、金入れに入ってくるものを盗んでいたのである。つまり、イエスのことを心にかけていたのではなく、イエスを愛しているのではなく、自分を愛していたのです。これが本当の問題です。イエスはこう言われました。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)

 

皆さん、だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。私たちは神にも仕え、富にも仕えることはできないのです。それなのに、あたかも神に仕えているかのようにふるまうとしたら、そこにユダのような偽善が生じてしまいます。そのような偽善こそがイエスを礼拝することを妨げてしまうことになるのです。イスカリオテのユダはそういう仮面をかぶり、自分をごまかして、神と人を欺いていました。もし私たちにこうした思いがあるなら悔い改めなければなりません。そして、マリアのように純粋にキリストを愛し、キリストを礼拝する者でなければならないのです。

 

Ⅱ.りっぱなこと(7-8)

 

次に、7-8節をご覧ください。イスカリオテのユダのことばに対して、イエスは何と言われたでしょうか。

「イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」

 

並行箇所のマルコ14:6(新改訳聖書第三版)には、「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」とあります。イエスは彼女がしたことをりっぱなことであるとほめてくださいました。そればかりではなく、「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14:9)と仰せになられました。これほどほめられた人はそれほど多くはありません。弟子たちでさえここまでほめられた人はいません。しかも、彼女の場合、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょうと言われました。そのことが聖書に記され、賛美歌にもなって語り伝えられるというのです。そんなこと当の本人でさえ想像することができなかったでしょう。彼女のこの奉仕は、彼女自身の小さな感覚をはるかに越えて用いられていったのです。

 

こうしたイエスに対する奉仕は、もしかしたら周りの人たちに理解されず、非難されていたかもしれません。しかし、イエスは理解し、評価して、このように認めてくださるのです。イエスにほめられたら本望です。それで十分です。マリアのようにイエスを礼拝することは、イエスにとってもとてもうれしいことなのです。どうしてマリアはこのような奉仕をささげることができたのでしょうか。

 

ここにもう一つの理由が語られています。それは、マリアは、イエスを埋葬するために、それを取っておいたということです。どういうことですか?マリアがナルドの香油をイエスにささげたのは、イエスの死を予見して埋葬の用意をするような、神の十字架のご計画の中にきちんと組み込まれたタイムリーな奉仕であったということです。

これは本当に驚くべきことです。私たちは11章でラザロの死とよみがえりの出来事を見ましたが、マリアの香油はそのために使われても不思議ではありませんでした。自分の愛する弟が葬られたとき、その死体が腐らないように、あるいは臭いを消すために使われても少しもおかしくなかったのに、マリアはそれを使いませんでした。なぜなら、イエスの葬りのために取っておきたかったからです。マリアはイエスの葬りのために取っておこうと、前もって決めていました。ラザロが死ぬはるか前からです。だから、マリアがイエスに香油を塗ったのは思いつきや気まぐれによってではなく、ずっと前から決めていたことだったのです。

 

同じマリアでもマグダラのマリアは、イエスが復活した朝、イエスのからだに香料を塗ろうと墓に出かけて行きましたが、このベタニアのマリアのように、前もってイエスのからだに香料を塗ることはしませんでした。イエスが死ぬ前に塗ったのか、後に塗ったのかでは大きな違いがあります。また、こんなにイエスを愛したマリアが、イエスが十字架につけられた時そこにいなかったことは不思議です。イエスの十字架のそばには、イエスの母マリアとその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアといったたくさんのマリアがいました。でも、このベタニアのマリアはいませんでした。なぜこれほどイエスを愛していたベタニアのマリアがそこにいなかったのでしょうか。なぜベタニアのマリアは、イエスの死と埋葬に直接関わらなかったのでしょうか。もしかしたら、他の弟子たちのように脅えて逃げ隠れしていたのでしょうか。そうではありません。この12章でユダヤ人たちから迫害を受けることを覚悟してイエスを食事に招いていました。ですから、イエスが十字架につけられるからといって、逃げ隠れするようなことはしなかったでしょう。だったらなぜ彼女はイエスの死と葬りに全く関わらなかったのでしょうか。それは彼女が他のだれも理解できなかったことを理解していたからです。それはイエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられるということです。イエスは弟子たちにそのことを語っていました。でも弟子たちのだれ一人としてそのことをまともに受け止めることができなかったのです。でも彼女だけは別です。彼女は、イエスのことばを額面通りに受け入れていました。だから、彼女はイエスが葬られた墓には行かなかったのです。行く必要がなかったのです。なぜなら、イエスは死んでよみがえられるからです。彼女はまさにイエスが語った福音を信じていたのです。皆さん、福音とは何ですか。それはイエスの十字架と復活です。Ⅰコリント15:1~5にこうあります。

「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

彼女は、この福音を信じていたのです。彼女はイエスが葬られて終わりだとは思っていませんでした。三日目によみがえることを信じていたのです。死人の埋葬のために香料はとても役に立ちます。でもよみがえってしまうのであれば無駄になってしまいます。それこそもったいない話です。だから、ベタニアのマリアにとっては今がチャンスだったのです。それはまさにタイムリーな奉仕だったと言えるのです。マリアの驚くべき洞察力というか信仰には驚かされます。いったいどうして彼女はそのような知識なり、信仰なり、啓示を持っていたのでしょうか。

 

それは、彼女がいつも、どんな時でも、主の足もとにひれ伏していたからです。そこでただ主のみことばに聞き入っていました。新約聖書には、彼女が登場する場面が3回出てきますが、3回とも彼女はイエスの足もとにいます。それ以外には出てきません。たとえば、その1回はルカ10:39ですが、そこには「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」とあります。もう1回は、ちょっと前に学びましたが、このヨハネ11:32です。そこには、「マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」」とあります。ここでも彼女はイエスの足もとにひれ伏しています。そしてもう1回がこの箇所です。ここで彼女は、自分のすべてをイエスにささげています。マリアの信仰は、このラザロのよみがえりを通して揺るがないものになっていました。他のマリアたちはイエスの十字架と復活についてその重要性に気付いていましたが、信じることができませんでした。しかし、このベタニアのマリアだけはその重要性に気付いていただけでなく、それを額面通り信じて受け入れることができました。それは彼女がイエスの足もとにいて、いつもイエスの話に聞き入っていたからです。

 

私たちもイエスの足もとにいて、イエスのことばに聞き入って、イエスを礼拝する者となりましょう。そしてそでイエスとの麗しい関係を体験し、あなたにしかわからない真理をしっかりと受け止めたいと思うのです。

Ⅲ.イエスに敵対する人たち(9-11)

 

最後に9~11節を見て終わりたいと思います。

「すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。」

 

ここにはマルタとマリア、そして兄弟ラザロ、またイスカリオテのユダの他に、あと2種類の人たちが登場しています。大勢のユダヤ人の群衆と祭司長たちです。彼らはイエスに対してどんな応答をしたでしょうか。まず大勢のユダヤ人たちです。彼らは9節にあるように、そこにイエスがおられると知って、やって来ました。いったい何のためにやって来たのでしょう。それはイエスに会うためではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでした。それは過越しの祭りといってユダヤ教三大祭の時でした。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、当時250万人のユダヤ人が集まっていたと記録されています。そこはイエスのうわさでもちきりでした。イエスがラザロをよみがえらせたということで、一目そのラザロを見たいと集まって来たのです。彼らはただ好奇心で、興味本位で見たいと思っていただけです。これが人間の性質です。彼らは信じようとして来たのではなく、異常なものを見たいと思って来ました。でもそれを自分のこととして受け止めることができませんでした。いわゆる傍観者にすぎなかったのです。

 

一方、祭司長たちはどうだったかというと、ラザロを殺そうと相談していました。なぜラザロを殺す必要があったのでしょうか。それは彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからです。彼がよみがえったことでイエスの影響があまりにも大きくなっていました。それまでは自分たちが中心でした。しかし、ラザロがよみがえったことでその人気が全部イエスの方に流れていくのを見て、証拠隠滅を図ろうとしていたのです。彼はまさに目の上のたんこぶでした。聖書には、ラザロの言葉は一つも記録されていませんが、彼がそこに存在していたというだけで、大きなインパクトがありました。彼は生きた証人だったのです。それで多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになりました。そこには一般群衆だけでなく、ラビと呼ばれていたイスラエルの教師もいたでしょう。あるいは、宮に仕える祭司たちもいたでしょう。そうした人までもイエスを信じるようになっていくのを見て焦りを感じ、ラザロを殺そうとしたのです。

 

パウロは、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)と言っています。この世は、自分たちと同じ価値観を持たないクリスチャンを迫害します。それは、使徒たちとその後の時代ばかりでなく、現代でも同じです。信仰の自由のない国だけでなく、アメリカや日本でも、迫害は形を変えて存在します。「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」もったいない。礼拝のためにそんなにお金や時間やエネルギーを使うなんて考えられない。そんなお金があれば、もっと実際的なことのために使うべきだ。現に今、台風の災害でどれだけ多くの人々が苦しんでいると思うんだ!そういう人のために使うべきではないかと公然と非難してくるのです。まことの礼拝者はいつの時代でも非難の的となります。ノンクリスチャンからだけでなく、クリスチャンからも非難されることがあります。そのような非難に対して、あなたはどのように応答しますか。マリアは、なりふり構わずイエスに礼拝をささげました。他の人にどう思われても、イエスに自分のすべてをささげたのです。そんなマリアの礼拝をイエスは「りっぱなことをしてくれたのです。」とほめてくださいました。そして、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と評価してくださいました。イエスにほめられ、評価されるなら本望です。あなたの礼拝はどうでしょうか。あなたの奉仕はどうでしょうか。そこに打算を越えた、主に対する燃えるような応答の心があるでしょうか。それとも人からの評価を気にして、人との比較の中でささげられる、義務的な奉仕になってはいないでしょうか。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。でも、イエスが私たちのために成してくださった大きな愛のゆえに、その愛に応答して、マリアのように心からの礼拝をささげる者でありたいと思います。

ヨハネの福音書12章1~3節「ナルドの香油」

ヨハネの福音書12章に入ります。ヨハネの福音書は、大きく分けると二つに分けられます。1章から11章までのキリストの公的宣教と、12章から21章までの最後の1週間です。ですから、ここはイエスの公的宣教の最終段階の場面です。過越しの祭りの六日前にベタニアの村に来られたイエスは、ここでマリアの高価な香油の注ぎを受け、その翌日、最後のエルサレム入場をされ、13章からの受難物語へと続いていくのです。そんなピリピリと張り詰めた空気の中で、一切の打算抜きの一人の女性の奉仕があったことを、ヨハネはここに記しているのです。その女性とは、ベタニアのマリアです。かつて兄弟のラザロを、イエスによみがえらせていただいた彼女は、心からの感謝と献身の思いを込めて、心からの奉仕をささげるのです。それはまさに、この直後十字架に向かって行くキリストの道にふさわしい麗しい奉仕でもありました。きょうは、このマリアの奉仕を中心に、イエスに喜ばれる奉仕とはどのようなものなのかをご一緒に学びたいと思います。

 

 

Ⅰ.マルタの奉仕(2)

 

まず、マルタの奉仕です。もう一度12:1~3をお読みします。

「さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」

 

イエスは過越しの祭りの六日前にベタニアに来られました。ベタニアは、マルタとマリアの兄弟ラザロが生き返るという奇跡が行われた村です。その奇跡を見た多くのユダヤ人はイエスを信じましたが、しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを裂耐えたので、祭司長たちやパリサイ人たちは焦りを感じ、遂に、イエスを殺そうと企みました(11:53)。それでイエスはもはやユダヤ人たちの間を歩くことをせず、そこから北に20キロほど離れたエフライムという町に入りました。そこはのどかな牧草地でしたので、そこで父なる神様とのしばしの交わりの時、祈りの時を過ごされたのです。

 

「しかし」(11:55)、ユダヤ人の過越しの祭りが近づいたとき、イエスは弟子たちを連れてエルサレムに上られました。なぜ?前回お話ししました。それが神のみこころだったからです。イエスはこの時に捕らえられ、十字架につけられることになります。それを重々承知の上で、キリストはこの過越しの祭りに行かれたのです。

 

その過越の祭りの六日前、イエスはベタニアに来られました。ベタニアはエルサレムか3キロメートルほどの道のりだったので、イエスがエルサレムに来られた時にはいつもここに泊まっておられたようです。そこにはあのラザロもいました。イエスが死人の中からよみがえらせたラザロです。

 

人々はイエスのためにそこに夕食を用意しました。おそらくそれは、ツァラートに冒された人シモンの家であったろうと思われます。というのは、同じ出来事を記したマタイ26章とマルコ14章にそのようにあるからです。ちなみに、ルカ7章にある同様の出来事は、全く別のものです。シモンという人の家であるということと、婦人が香油を注ぐという点では似ていますが、一方はツァラートに冒された人人シモンであるのに対して、ルカの記述にはパリサイ人シモンとあるからです。また、一方はベタニアのマリアであるのに対して、ルカには罪深い女とあり、しかも状況が全く違うからです。ですから、イエスがベタニアにやって来たとき、このツァラートに冒された人シモンの家に、ラザロとその姉妹マルタとマリアも集まっていたのでしょう。

 

その夕食を用意していたとき、マルタは何をしていたでしょうか。ここには「マルタは給仕し、」とあります。彼女は相変わらず給仕していました。覚えていますか、ルカ10:38~42にあった出来事を。この数か月前にイエスがマルタとマリアの家に来た時も、彼女は給仕していました。でも、あの時と今回は状況が違います。あの時はもてなしのために心が落ち着かず、イエスのところに来て、「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」(ルカ10:40)と不満を訴えました。でも今回はそういうことはなく、黙って仕えています。今回はあの時に比べてかなりの大人数であるにもかかわらずです。夕食を準備するのも大変だったろうと思いますが、ただ淡々と給仕に専念しているのです。いったい何があったのでしょうか。

 

彼女はあの出来事から学んでいたのです。イエス様から「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)と言われた時、「ああそうか、主のためにおもてなしをするということは大切なことだけれども、いろいろなことを心配して思い煩っているとしたら本末転倒だ。何をするかということよりも、誰に対してしているのか、どのような心でするかが大切なんだ」を教えられ、イエスがしてくださったことに感謝して、心から喜んで仕えていたのです。

 

マルタは私たちの模範です。私たちの中にも、どちらと言えばマルタのように体を動かすのが好きです、という方がおられるのではないでしょうか。人をもてなすことが好きなんです、食事を作ることが生きがいなんです、掃除をすることなら全然苦になりません。そういう人がいるでしょう。それ自体は全然問題ではありません。むしろ、すばらしいことです。教会はマルタのような働き人を本当に必要としています。しかし、注意しなければなりません。最初のうちは喜んでやっていてもだんだん疲れて来て、いつの間にかそれが重荷となり、そこに何の喜びも感じられなくなっていることがあります。その結果、愚痴や不平不満が出てきているとしたら、それこそ本末転倒です。それが原因で口論や争いに発展することもあります。ですから、心から感謝して、喜んでささげられるのならいいのですが、そうでないとしたら、どこに問題があるのかを点検し、主の前に静まることから始めなければなりません。コロサイ3:20には「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」とあります。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からすることが大切です。マルタはそれを学んだのです。

 

Ⅱ.ラザロの証し(2)

 

次に、兄弟ラザロを見たいと思います。もう一度2節をご覧ください。ここには、「ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」とあります。彼については、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた、とあるだけです。彼は何もしていないし、何もしゃべっていません。聖書には、彼が何かをしゃべったという記録は一つもないんですね。彼はどちらかというと無口だったのかもしれません。無口でも全く問題ありません。なぜなら、彼の存在そのものが大きな証しだったからです。キリストを証しするというのは何かを語ることだけではないからです。キリストを証しするというのは、キリストによって生きること、キリストの証人となることです。むしろ、そっちの方が効果的な証だと言えるでしょう。使徒1:8をご覧ください。ここには、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とあります。ここには「地の果てまでわたしを証言します」ではなく「わたしの証人となります」とあります。聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたは単に証言をする人になるのではなく、証人になるのです。私たちもかつてはラザロのように死んでいたような者でした。しかし、神の救い、イエス・キリストを信じたことで、その中から救われました。罪の奴隷から解放され神の子としていただけたのです。それはまさにあのラザロが死人の中からよみがえったような衝撃をもたらすことでしょう。

 

ある人が牧師にこう尋ねました。「空っぽの教会を一杯にするにはどうしたらいいでしょうか」するとその牧師はこう答えました。「ラザロを連れて来なさい。そうすれば、教会は一杯になるでしょう。」なるほど、人々はいったいこの人はどのようにしてよみがえったのかを見たさに教会にこぞって来るようになるでしょう。そのラザロとはだれですか。それは私たちです。私たちは死人の中からよみがえらされました。罪に死んでいたのがキリストにあって新しいいのちによみがえったのです。今私が生きているのは私を愛し、私のためにご自身のいのちを与えてくださったこのキリストの力によってなのです。それはどれほど大きな衝撃を人々にもたらすのです。

 

きょう、この後でバプテスマを受けられる下野さんと任さんの証を週報にはさんでおきました。お二人に証を見て共通していると思ったことは、二人がキリストを信じるように導かれたきっかけが息子、あるいは娘の証しによるものであったということです。任さんは中国にいる娘さんの証しを通して、また、下野さんは、今は天国にいる次男の文男さんの証しを通して教会に導かれました。

私は昨日、下野さんから与った文男の証しを読みました。それは本当に分厚いファイルにまとめられていました。

文男さんは、私と同じ年ということですが、信仰に導かれたのも同じ頃で、高校3年生の終わり頃でした。ある教会で上映した「塩狩峠」という映画と集会でのメッセージを通して「愛」というテーマで随分悩みました。この「塩狩峠」という映画は、三浦綾子さんの小説を映画化したものですが、汽車が北海道の塩狩峠という峠に差し掛かった時に、車両が外れてしまうんですね。しかし、ブレーキが思うように利かず、このままでは目前に迫ったカーブを曲がり切れないと判断した車掌が、自らの身体を車両の前に投げ出して身体で車両を止め乗客の命を救ったという実話に基づいた話です。

この映画を観たとき、人を愛するって本当はどういうことなんだろうかと、自分の今までの生活に当てはめて考えたのです。例えば、中学生の頃、その当時親友と思っていた友達が体育の授業中にリンチにあいましたが、その時、足が竦(すく)んで何一つできなかった自分自身に無力さを痛感し、人のために自分を犠牲にすることはできないが、それこそ大きな愛はないということを知り、その後何度か教会に行くようになって、キリストを信じる信仰を持ちました。それで浪人期間の2年間と大学での4年間、合計6年間をほとんど教会を中心に費やすのです。

その後、一時的に教会から離れ、本当に大変な苦労をされますが、その苦労を通して再びキリストのもとに戻り、それからはもう迷いがありませんでした。2001年3月にご病気で東大病院に入院以降、教えられた聖書の言葉が21書き止められていて、文男さんがどれほど誠実に主の前に歩まれたかがわかります。それは文男さんが天国に行かれる直前にお母さんに言われた最後の言葉からもわかります。

「おかあちゃん、ぼく、もうすぐ天国に行くのでぼくの分まで生きて、教会に行ってイエス・キリスト神さまを信じてと約束して」

それは文男さんのいのちをかけた祈りでした。そのような祈りが伝わらないはずがありません。それから何年経ったでしょうか、今年下野さんが教会に電話をくださって来られようになり、イエス様を信じて、きょうバプテスマの恵みに与るようになりました。ハレルヤ!それは主イエス・キリストのあわれみと、文男さんの生きた証によるものだったのです。下野さんは一昨日85歳の誕生日を迎えましたが、天国に行くまでにはまだまだかとは思いますが、その前にイエス様を信じることができて本当に良かったと思います。

 

Ⅲ.マリアの礼拝(3)

 

次にマリアです。3節をご覧ください。マルタは奉仕の模範でした。ラザロは証の模範でした。ではマリアはどうでしょうか。マリアは礼拝の模範です。ここには、「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」とあります。

 

先ほども申し上げましたが、並行箇所のマルコの福音書には、ある女がナルドの香油が入った小さな壺を持って来て、それを割って、イエスの頭に注いだ、とあります。これは非常に高価なものでした。どれほど高価なものであったのかは、この後でイスカリオテのユダが語ったことばからもわかります。5節には、「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか」とあります。1デナリは1日分の給料に相当する金額ですから、300デナリとは300日分の給料、すなわち年収に相当する額です。このような香油は、通常王族や貴族が使用しました。おそらく、マリアがこれだけの香油を持っていたのは、両親の遺産として相続していたのかもしれません。当時は財産を銀行に預けておくのではなく、金とか、銀とか、香油にして壺の中に入れ、地面に隠しておきました。女性であれば、香油を壺に入れて蓄えておくのが一般的でした。というのは、そこにはある一つの大きな目的があったからです。それは、結婚に備えるということです。少しでもいい男性と結婚するためにコツコツと蓄えたのです。愛があればお金なんてと言う人もいますが、当時はそうではありませんでした。どれだけ結婚持参金があるかによって結婚が決まりました。少しでもお金を蓄えていれば、それだけ結婚に有利だったのです。いい人と結婚できるかどうかは、どれだけお金を持っているかによって決まったのです。

でもマリアはその香油をイエスに注ぎました。しかもそれを入れておいた壺を割ってです。壺を割ってとは、全部使い切ったということです。もう香油は一滴も残されていません。全部イエスにささげたのです。これはどういうことでしょうか。これでマリアがいい人と結婚できる可能性はほぼ無くなったと言うことです。彼女は無一文の女性になりました。そんな人と結婚したい男性なんてほとんどいません。だから、マリアがこのナルドの香油をすべてイエスに注いだというのは、自分のすべてをイエスにささげたということなのです。自分の結婚も、自分の将来も、すべてイエスにささげたのです。それは目に見える高価な香油をささげたというだけでなく、彼女のすべてをささげたということなのです。いったいなぜ彼女はこのようなことをしたのでしょうか。

 

それはマリアにとってイエスがすべてであったからです。マリアにとってイエスは結婚以上に大切な方でした。一般的に女性なら、結婚すれば幸せになれると思うでしょう。安定した生活が送れるし、安心して生きられると思います。しかし、マリアはそうではありませんでした。彼女にとってはイエスがすべてでした。だから喜んで犠牲を払うことができたのです。そればかりではありません。イエスの足に塗った香油を自分の髪の毛で拭うということまでしました。これは当時として考えられないことでした。というのは、当時は女性が人前で髪の毛をほどいてバラバラにするということは恥ずべきことだとされていたからです。その髪の毛でイエスの足に塗った香油を拭いました。まさに「なりふりかまわず」です。だれがいようが、だれが見ていようが構いません。自分の思いのたけをそのように表したのです。

 

そこには弟のラザロを生き返らせていただいたことへの感謝の気持ちもあったでしょう。しかしそれだけでなく、彼女はもっと深いものを感じていました。それはこの後の所に出てきますが、イエスが自分のためにいのちを捧げてくださったということ、そして自分を罪から救ってくださったという感謝に溢れていたからなのです。この時点でそれがまだ明らかにはされていませんが、彼女はイエスが語ることばを聞いて、そのように受け止めていました。それを深く感じていました。次元が違います。もうこの世の次元ではありません。霊的な次元でイエスを見ていたのです。

 

彼女は文字通りイエスのために人生を投げ打ちました。壺を割るかのように自分の人生を投げ打ったのです。自分の人生を生きた供え物として捧げました。これこそ神に喜ばれる礼拝です。ローマ12:1にはこうあります。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

「それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」は、新改訳聖書第三版では、「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と訳されています。あなたがたにふさわしい礼拝、霊的な礼拝とはどのような礼拝でしょうか。それは、あなたがたのからだを、神に受け入れられる、生きたささげものとして献げる礼拝です。あなたがたのからだとは、あなたがたのすべてと言ってもいいでしょう。あなたがたのすべてをささげる礼拝、それこそ神が望んでおられる礼拝です。神に喜ばれる礼拝なのです。マリアの礼拝はまさにそれでした。彼女は自分のすべてをイエスに捧げました。誰かに強制されてそうしたのではありません。自ら進んで、喜んで自分のすべてを主に捧げたのです。

 

同じように、自分のすべてをささげた女性がいます。だれでしょう。そうです、あのレプタ銅貨2枚をささげたやもめです。多くの金持ちはあり余るお金の中からたくさん投げ入れましたが、このやもめはレプタ銅貨2枚しかささげることができませんでした。レプタ銅貨というのは1デナリの128分の1、それを2枚ですから、今で言ったら100円というところでしょうか、それを捧げたのです。しかし、イエスは弟子たちにこう言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12:43-44)

 

同じです。マリアは、年収に相当するだけの香油をイエスに献げ、やもめはレプタ銅貨2枚を献げましたが、そこにあった思いは同じです。それは自分のすべてをささげたということです。自分のいのちそのものをささげたのです。これが礼拝するということです。

 

「礼拝」とはギリシャ語で「プロスクネオー」と言いますが、意味は「ひれ伏す」とか、「尊敬を帰する」です。何ものかに価値や尊敬を帰することです。イエスを、礼拝を受けるのにふさわしいお方として認め、心からの尊敬をささげることを意味しています。礼拝というと、どちらかというと受けるというイメージがありますが、礼拝とはささげることです。イエスに価値と尊敬を帰すること、それが礼拝です。マリアにとってイエスは最高に価値あるお方でした。だから自分のもっていた最高のものをささげることができたのです。レプタ銅貨2枚をささげたやもめも、イエスが最高に価値あるお方でした。だから、自分のすべてをささげることができたのです。それは金額の問題ではありません。ハートの問題です。どれだけささげるのかということではなく、どのような心でささげるのかです。イエスは尊い犠牲を払っても尊敬を受けるに値する方です。なぜなら、イエスは私たちを罪から救ってくださるために、ご自分のいのちを投げ打ってくださったからです。

 

昔、ひとりのイギリス人の少女がドイツのある町に留学しました。彼女はその町の美術館で、一枚の忘れることができない絵に出会いました。

その絵には、「エッケ・ホモ(この人を見よ)」という題が付けられていました。そしてその絵の下には、その絵を描いた画家のことばが書かれてありました。

「私はあなたのために命を捨てた。あなたは、私のために何をしたか」

少女はこの絵とこの画家のことばを深く心に刻みつけました。イギリスに帰った彼女は成長して、賛美歌作家になりました。彼女の名前は、フランシス・ハヴァーガルと言います。彼女は、ドイツで出会ったあの絵と画家のことばをもとに、私たちがイエス様の十字架の愛にどのように応えるかという歌詞の賛美歌を作りました。それが「主はいのちを与えませり」(新聖歌102番)です。

1. 主は生命を与えませり

主は血しおを流しませり その死によりてぞわれは生きぬ われ何をなして主に報いし

  1. 主はみ父のもとを離れ

わびしき世に住みたまえり かくもわがために栄えを捨つ われは主のために何を捨てし

  1. 主は赦しと慈しみと 救いをもて降りませり 豊けき賜物身にぞあまる ただ身と魂とを捧げまつらん

 

「私はあなたのために命を捨てた。あなたは、私のために何をしたか」主が求めておられるのは、霊的な礼拝です。主を最高に価値のある方として認め、全身全霊をもって主を愛すること、自分のいのちをかけて主を愛すること、それを求めておられるのです。

 

スコットランドの探検家で、宣教師、また医師でもあったデイヴィッド・リヴィングストンは、ヨーロッパ人として初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した人です。彼がアフリカのある村で伝道していたとき、イエス様を信じたその村の村長が喜びに溢れ、自分の気持ちを何らかの形で表現したいと思いました。それで彼はリヴィングストンのもとに小麦粉を持ってきました。「宣教師先生。私は神様に感謝をささげたくて、小麦粉を持ってきました。」私だったら、それはすばらしい。神様はきっと喜んでくださいますよ、と言うでしょうが、リヴィングストンは、こう言いました。「すみませんが、神さまは小麦粉などでは満足されません。」それで彼は、白馬なら喜ばれるだろうと、今度は白馬を連れて来ました。するとリヴィングストンは笑いながらこう言いました。「神様は白馬などでは満足されません。」しばらくして、また村長がやって来ました。「今回は、村長の権威と名誉を象徴しているこのピンを持ってきました。これがなければ私は死んだも同然です。」するとリヴィングストンは「どうでしょう。神様はそれくらいで満足されるでしょうか。」と答えました。するとその村長は怒って言いました。「それでは、何をささげればよいのですか。もう「私」しか残っていません。」するとリヴィングストンは言いました。「そうです。神様が願っておられるのは、そのあなたです。」

 

マリアが石膏の壺を割ったのはそういうことでした。マリアは石膏の壺を割るように、自分自身という壺を割ったのです。自分自身を主にささげたのです。いったい彼女はどうしてそのようなことができたのでしょうか。それは彼女がイエスという方がどのような方であるのかをよく知っていたからです。イエスを知れば知るほど豊かな礼拝をささげることができるようになります。そのためにはイエスの足もとに行かなければなりません。イエスの足もとに行って、イエスのみことばに聞き入る必要があるのです。あなたがどのように礼拝をささげておられるかを見れば、あなたの価値観がわかります。どれほどイエスを愛しておられるかがわかるのです。もしイエスを礼拝することがただの義務感でしかないとしたら、重荷になっているとしたら、その人はほんとうの意味でイエスのことを知らないということです。だから、イエスの足もとに行って、イエスのことばを聞きましょう。そして、イエスがどれほど価値ある方なのかを知り、心からイエスを礼拝する者となりましょう。

 

きょうバプテスマを受けられたお二人に主イエスが最も願っておられるのはこのことではないでしょうか。ただ形でイエスに向き合うのではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛することです。それが、主が私たちに求めておられることです。マリアはそれに応答しました。非常に高価なナルドの香油を主にささげたのです。私たちも主の愛に応答し、心からの感謝と礼拝を主にささげる者となりたいと思います。