Ⅰペテロ5章12~14節 「神の恵みの中に立っていなさい」

 これまで21回にわたり、ペテロの手紙第一を学んできました。きょうは、その最後のメッセージとなります。ペテロは、これまでポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビデニヤに散って寄留していたクリスチャンたちに対して、試練の向こう側にある救いの喜びを見据えながら、励ましの言葉を語ってきました。その最後のところで彼は、「これが神の真の恵みである」と語り、この恵みの中に、しっかりと立ち続けているようにと勧めるのです。

 Ⅰ.真の神の恵み(12a)

 まず12節の前半をご覧ください。ここには、「私の認めている兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。」とあります。

「シルワノ」とは、使徒の働きにおけるシラスのことです。使徒の働き15章のエルサレム会議では、異邦人キリスト者が割礼を受けなければならないかどうかを議論し、結果として割礼を受けなくても構わないことが決議されたとき、その知らせをパウロやバルナバとともにアンテオケ教会に報告する重要な任務を担ったのが、このシラスです(使徒15:22)。その後、彼はパウロとともに第二次伝道旅行に遣わされ、教会開拓のためにパウロの片腕として働きました。その後、どのような経緯によってかは分かりませんがペテロと行動を共にするようになり、ペテロが信頼した忠実な兄弟となっていたのです。ペテロはここで、この手紙はシルワノによって書き送られたと言っています。この表現は、ペテロが語ったことをシルワノが書き留めたというだけでなく、シルワノが持っていた卓越した信仰と語学の賜物をもって、この手紙が書き記されたということを表しています。おそらく、ペテロが語った要点をシルワノが聞いて、それをまとめたのでしょう。その後でこの手紙を書き終えるにあたり、この12節から終わりまでの最後のあいさつの部分だけを、ペテロが自筆で書き加えたのではないかと考えられています。ですから、11節の終わりに「アーメン」という言葉があるのです。本当はここで終わっていてもよかったのですが、ここからペテロが自筆で、「この手紙はシルワノがいてくれたからこそ、書き送ることができたのだ」と言っているのです。ペテロにとってシルワノは単なる同労者であったと言うだけでなく、なくてはならない信仰の友であり、支えであり、励ましであったことがわかります。

互いに支え合える信仰の友がいるということは、何と素晴らしいことでしょうか。キリストを中心に置いた、互いの愛の励ましは、強い信頼関係で結ばれているがゆえに、大きな益をもたらしてくれます。年齢も、性別も、性格も全く違う者同士がキリストにあって一つとなり、支え合うように導かれ、共に神に仕えることができるというのは、神の恵みと導き以外の何ものでもありません。

それゆえ、神によって導かれた信仰の友を大事にして、人間的な目で見るのではなく、キリストを中心とした霊のつながりを、神が支え合うように導いてくださった友として受け入れることが求められます。

そのシルワノによって書き送られた内容、勧めとはどのようなものだったのでしょうか。ここには、「これが神の真の恵みであることをあかししました」とあります。彼が書き送った内容は、神の真の恵みでした。恵みとは何でしょうか。恵みとは、受けるに値しない者が受ける賜物のことです。言い換えると、自分の力、知恵、才能、意志の強さ、努力、行いによっては得られない、ただ一方的に神からもたらされる恩寵のことです。

ペテロは、この手紙の中で、神の恵みについて9回も言及してきました。それは、この神の恵みに生きることが、キリスト者の生き方の中心であることを示すためです。ペテロが言いたかったことは、一言で言えば、神の恵みだったのです。あなたが強い信仰心をもって頑張って生きるというのではなく、神が一方的に与えてくださったこの神の恵みを味わい、その恵みを喜び、恵みの中を生きることが、信仰生活の中心だと言うのです。それは、夫婦の間でも、また、他のクリスチャン同士でも言える事です。そこに真の尊敬が生まれるのは、相手を「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として」(3:7)見ているからです。嫌だなぁと思うこともあるでしょう。何でこんな人と一緒にいなければならないのだろうと嘆くこともあるかもしれません。しかし、私たちは互いに「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として召された」ということを思うとき、逆に、そこに愛情とあわれみが溢れてくるのではないでしょうか。

その恵みはまず、私たちを罪の中から救い出してくださった神の救いの御業を通して現されました。神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれることによって、この方を信じる者を義と認めてくださいました。私たちが何かをしたからではなく、いや何もしないのに、何もできなくても、神の側でそのために必要なすべての代価を支払ってくださったのです。それは恵みではないでしょうか。私たちは、そのようにして救われたのです。それは一方的な神の恵みです。そのことをパウロはこう言っています。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:1-9)

ここには、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」とあります。死んでいる者は何もすることができません。しかし、そんな者を神はあわれんでくださいました。神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過と罪との中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

このことを考える時、今年9月に行われたギターコンサートを思い出します。その中で池田宏里さんが、叔父さんの救いについて証してくれました。この叔父さんは池田さんが8歳でギターを始めた時の師匠で、徹底的にギターテクニックを叩き込んだ人です。そのおかげで、池田さんは15歳でソロデビューし、10代後半で6弦ギターから8弦ギターを弾きこなすまでになりました。ところが、池田さんが20歳の時、パタッと演奏活動を止めてしまうのです。それで20代から30代半ばまで約15年間の空白の時を経るのです。その原因は、この叔父さんにありました。この叔父さんはとにかく身勝手な人で、自分の好きなように生きていた人でした。演奏活動であちこちに行くと、そこでいろいろな女性と関係を持ったりしていましたが、それが自分の母親ともあったことを知り、ショックでギターを止めてしまうのです。
それからしばらく父親の実家の青森でリンゴの収穫の手伝いをしていたのですが、そのお昼休みに弾いていたギターの音を郵便配達の人が聞いて感動し、それが当時ノアという音楽ホールを経営していた奥様に伝わり、それで彼は信仰に導かれるとともに奥様と結婚するのです。しかし、経営していた音楽ホールが行き詰まり上京することになるとそこで新たな出会いが与えられ、東京フィルハーモニーオーケストラをバックに演奏するまでになりました。
一方、自分にギターを教えてくれたあの叔父さんはどうなったかというと、演奏でロシアに行ったときに出会った女性と結婚するも別れ、80歳を過ぎて日本に帰国するのですが、誰も身よりがいないということで池田さんのもとに連絡が入るのです。当初はあんなひどい叔父の面倒なんてみたくないと思いましたが、実際に会ってみると昔の面影がなくとても弱々しいというか情けなく見えたので、面倒をみてやることにしました。
叔父さんを入れる都内の老人施設を片っ端に電話しましたが、どこも空いておらず、ただ偶然にというか、神の導きによって救世軍の施設が空いており、その日だったら入所できるということで、入所させていただきました。
ところが、そこはキリスト教の施設でしょ、だからそこでは毎日礼拝があるわけです。そして、その礼拝に出席しているうちに、何とこの叔父さんがイエス様を信じちゃったのです。あれほどワルをしてきた人なのに、ただ「信じます」と言っただけで、罪から救われたのです。
池田さんはその時こう思ったそうです。「ああ、これがキリスト教の救いなんだ」と。叔父さんがかつてどれほど悪いことをしても、どれだけひどいことをしてきても、その罪を悔い改めてイエス様を信じるだけで救われるのです。これがキリスト教の救いなんです。
叔父さんが召される三日前に、もうすぐサントリーホールでコンサートがあって、何とかそこに来てほしいと思っていましたがそれが叶わなかったので、池田さんが師匠の所に出向いてコンサートをしました。

皆さん、これがキリスト教の救いです。主イエスを自分の罪からの救い主として信じるだけで救われるのです。あなたがこれまでどんなことをしてきたかとか、どんな業績を残してきたかとか、どんなに真面目に生きてきたかということと全く関係なく、自分の罪を悔い改めて、神の救いであられるイエス様を信じるだけで救われるのです。何という恵みでしょうか。

しかし、この神の恵みは、救いの恵みだけにとどまりません。10節には、「あらゆる恵みに満ちた方」とありますように、神は、あらゆる恵みに満ちた方です。ペテロがこのことをあえて強調しているのは、確かに罪の中から救われたことは恵みですが、神の恵みはそれだけにとどまらず、苦しい道を通されることもあれば、悪魔が野放しにされて厳しい戦いを強いられることもあるし、また、いろいろな問題で悩むこともありますが、そうした苦しいことも含めそれらすべてが神の恵みであるということです。

人間は、自分にとって良いと思えることしか恵みと感じ取ることができない身勝手な存在です。しかし、神の恵みは、よいと思えることも、悪いと思えることも、つらいことも、うれしいことも、すべてのことにおいて、示されるものです。なぜなら、神はそうしたすべてのことを働かせて、益としてくださるからです。

前回の祈祷会で、ヨシュア記15章から学びました。そこには、ユダ族がくじでイスラエルの南の地帯を相続地の割り当て地が与えられたことが記されてありました。せっかく最初に相続地の割り当て地を与えられたというのに、一番ひどい所が与えられました。イスラエルは北部によく肥えた緑の地が多く、南部に行けば行くほど岩や砂が多い荒地となっているのです。彼らが引き当てた地は最も環境が悪く、住むのにも適さない、農耕にも適さない、荒地だったのです。おそらく彼らは、「何という貧乏くじを引いてしまったんだ」「運が悪いなあ」と思ったことでしょう。しかし、そのような所であったがゆえに、彼らは偶像崇拝の悪しき影響から免れ宗教的な純粋さを保つことができたのです。北部の肥えた地は、確かに環境的には申し分がありませんでしたが、それに伴って農耕神、豊穣神と呼ばれるバアル宗教がはびこっており、こうした偶像との戦いを強いられることになったたからです。それゆえに、やがてイスラエルの北はアッシリヤに滅ぼされてしまうことになります。
それに対してユダ族は、こうした環境的困難さの故に、唯一の神、ヤハウェ信仰から離れることなく、常に純粋な信仰を保ち続けることができました。それだけではありません。この環境的困難さによって、ユダ族はさらに強くたくましい民族へと育て上げられて行きました。そして南イスラエルは、「南王国ユダ」と呼ばれるまでになったのです。すなわち、このユダ部族が南に住んでいた全部族を代表して呼ばれるほどに、強力な部族になっていったということです。

時として、私たちは、自分が望まない困難な状況に置かれることがありますが、そこにも神のご計画と導きがあるのです。ですから、自らの不遇な状況を嘆いて、「ああ、私は貧乏くじを引かせられた」と言って、自己憐憫になってはいけないのです。むしろ、その所こそ、主が私たちに与えてくださった場所だと信じて、主を賛美しなければなりません。

このように、自分の置かれている状況と全く関係なく、そこに生きて働いておられる神の恵みを覚えて感謝することができるということがクリスチャンに与えられている特権であり、信仰の醍醐味なのです。

新聖歌172番に、「望みも消え行くまでに」という讃美歌がありますが、この中には「数えてみよ、主の恵み」と歌われています。この曲を作曲したEDWIN.O.エクセルという人は、この歌の題を「Count your blessings」と名付けています。「Count your blessings」。文字通り、「あなたに賜った恵みの一つ一つを数えなさい」という意味です。この歌は詩篇103:2の「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」が元になっていますが、この賛美によって、どれほど多くの人が生きる希望を与えられたことでしょう。

その中の一人に、蒲田シオン教会の牧師をされておられた、砂山貞夫牧師の奥様の砂山節子先生という方がおられます。戦前、満州伝道の召命を受けた牧師たち数名が満州に赴きました。砂山貞夫牧師もその一人でした。しかしそれは、凄まじい困難や試練が待ち受ける過酷な道でした。節子夫人は、結婚前は宝塚歌劇団にいたこともある美しい方であったそうです。そんな方が、ご主人の伝道への熱い思いに従って、満州に渡り、伝道困難な熱河省興隆(ねっかしょうこうりゅう)、現在の河北省ですね、その地へと赴いたのです。
その伝道は困難を極めました。着任してから1年半後に、長男の正ちゃんがひどい下痢の末に天に召されました。十分な治療を受けられなかったからです。この時の体験を節子夫人はこう語っています。「興隆教会の最初の一粒の麦として、わが子が召されようとは。…皆で輪になって正の遺骸を興隆の河原で賛美のなかに火葬にふしましたときは、涙が溢れてたまりませんでした」
このような試練の中でも、少しずつ伝道の実が実り、信者が与えられていきました。ところが、戦局が悪化すると、ご主人の砂山牧師が召集され、戦場へと送られて行ったのです。残された節子夫人は女手一つで、娘3人を何とか育てます。
戦後、ご主人の砂山牧師は奇跡的に家族のもとに帰ってきますが、間もなく侵入してきた中国共産党の八路軍(はちろぐん、パーロぐん)によって連れ去られ、行方不明になってしまします。節子夫人は、ご主人の帰りを待って、興隆の地に残り続けました。村の女性たちと一緒にミシンかけ、糸をつむぎ、靴下作りで食いつないでいくという生活でした。「一粒のとうもろこしも、真冬に一かけらの石炭もない」ことがめずらしくなかったということです。
そんな窮乏生活のため、次女が栄養失調のため召されてしまいます。そして、節子夫人自身も栄養失調のため失明してしまうのです。
終戦から8年も経ってから、節子夫人は漸くご主人の帰りを待つことを諦めて、日本に帰る決心をします。日本に戻る引き揚げ船の甲板に立った時、節子夫人は暗澹(あんたん)たる思いに捕らわれたそうです。幼い娘二人を抱え、自分は目が見えなくなってしまった。あぁ、これから私は、一体どうやって生きていけばよいのだろうか。そう思った瞬間、止めどもなく涙が流れたそうです。涙の中で、必死になって祈っていた時、節子夫人の耳に聞こえてきた讃美歌がありました。
それがこの賛美歌でした。「数えよ 主の恵み、数えよ 主の恵み、数えよ 一つずつ、数えてみよ 主の恵み」。
この賛美歌の歌詞が、繰り返して節子夫人の耳に響いてきたのです。
「数えてみよ 主の恵み」。
「そうだ、私は目が見えなくても、まだ耳は聞こえる。口はしゃべることができる。手も、足もある。そして、何よりも私には、イエス・キリストがいてくださるではないか」。
節子夫人は、この賛美歌の歌詞によって、共にいてくださる主の恵みに目を向けることができたのです。そうだ、困難の中にも、主はいつも共にいてくださったではないか。あの時も、そして、あの時も。だから、これからも主は必ず共にいてくださるに違いない。節子夫人の心の中の、不安と恐れの荒波が静まり、平安が訪れました。
その後、日本に帰った節子夫人は、盲学校に学び、卒業後は盲人伝道に広く用いられ、日本中の視覚障害者の方々を励まし、慰めてきたのです。

神の恵みは、私たちを罪から救ってくださったばかりでなく、あらゆる恵みに満ちたものです。これが神の恵みであり、真の恵みです。それはいいことばかりでなく、時には喜び、時には苦しみ、時には耐えがたいと思えるような試練もあるでしょうが、しかし、それらすべてを働かせて益としてくださる恵み、それが神の恵みなのです。ここではそれを「神の真の恵み」と言っています。神の恵みは真実な恵みです。それは朝毎に新しい恵みです。私たちにはそのような恵みがもたらされていることを覚え、この恵みを一つ一つ数えながらこの年も終えたいと思います。

Ⅱ.この恵みの中に立っていなさい(12b)

では、このような神の恵みが与えられている私たちは、どうあるべきでしょうか。
12節後半をご覧ください。ここには、「この恵みの中に、しっかりと立っていなさい」とあります。神の真実な恵みの中に入れられた者は、この恵みの中に、しっかりと立っていなければなりません。

しかし現実には、この恵みの中にしっかりと立っているということがどれだけ困難なことであるかを、私たちは実際の生活の中で嫌というほど経験しています。まず、信仰のゆえの試練です。そのような試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさい、と聖書に書かれてあっても、私たちは、ただひたすらそこから逃れることしか考えられません。イエス様を信じているためにこんなに苦しい思いをするのなら、いっそのこと信じることを止めてしまった方がどれほど楽なことか思ってしまうのです。

また、世俗化との戦いもあります。悪魔は絶えず私たちに「現実」という二文字をちらつかせては、信仰に堅く立つことが馬鹿らしいように思わせます。そして、この世にある様々な誘惑を通して信仰をゆがめ、さらに信仰から離れてさせようと襲いかかってくるのです。現代の社会は、特にこうした傾向にあります。

ですから、この恵みの中にしっかり立っていることは容易いことではありません。だからこそ、私たちがしなければならないことは、この恵みの中にとどまっているようにと頑張ることではなく、神の恵みがいかに大きなものであるかを心に止めることです。神は、こんな罪深い者をあわれんでくださって、愛する御子を十字架にまでかけて救ってくださったということを信仰によって心に刻み付け、いつも思い起こさなければなりません。だからこそ、私たちはどのような時にも、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなければならないのです。

預言者エレミヤは、神のさばきによってユダとエルサレムがバビロンによって滅ぼされた時、その激しい苦しみの中で、こう言いました。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝毎に新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」(哀歌3:22-24)
エレミヤが、神のさばきのただ中でも、主を待ち望むことができたのは、彼に降り注がれている主の恵みの大きさを知っていたからです。主のあわれみは決して尽きることがないという信仰があったからです。それは朝毎に新しいということを体験していたからなのです。

それは私たちも同じです。どんなに頭でわかっていても、私たちは本当にもろいものです。すぐに躓いてしまいます。しかし、そのような中にあってもこの恵みに立ち続けていくことができるかどうかは、尽きない神の恵み、朝毎に新しく注がれる主の恵みにとどまっているかどうかで決まるのです。

主の恵みは尽きることがありません。それは真実な恵みです。きょうは恵んでも、明日はわからないというものではありせん。あなたを滅びの穴から救い出してくださった主は、最後まであなたに恵みを注いでくださいます。だから、私たちもこの恵みの中に、しっかりと立ち続けようではありませんか。

Ⅲ.聖徒の交わり(13-14)

最後に13節と14節を見て終わりたいと思います。
「バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。」

この「バビロン」とは、実際のバビロンのことではありません。これは、神に敵対する勢力としてのバビロンのことです。つまり、当時の世俗勢力の頂点はローマでしたから、ここではローマのことを指していると考えてよいでしょう。それは、その後のところに「あなたがたとともに選ばれた婦人」の「婦人」に※が付いていることからもわかります。これは「教会」とも訳すことが出来る言葉です。すなわち、これはローマにいたクリスチャンたちのこと、ローマの教会のことを指して言われていたのです。なぜペテロはこのような暗号のようなものを使って言っているのかというと、彼が置かれていた状況がとても危険だったからです。それで「ローマ」と名指しすることをしないで、「バビロンにいる婦人たち」という言い方をしたのです。ここから、ペテロはこの手紙をローマから書き送ったのではないかと考えられてきました。たぶんそうでしょう。彼は迫害の真っただ中にあるローマの教会と、小アジアの教会とは、置かれた場所は違っても、キリストにあって深く結び合わされた同じ教会であるという理解からそのつながりを大切にして、「よろしく」と言って励ましているのです。

さらに、ここには「また私の子マルコもよろしくと言っています」とあります。このマルコとは、マルコの福音書を書いたマルコです。彼はパウロの第一次伝道旅行に同行しましたが、どういう理由かはわかりませんが、途中で逃げ出してしまったので、一時、パウロから見放されてしまいました。しかし、後にパウロとの関係が修復されてからは「同労者」と呼ばれるまでになりました(ピレモン24)。
そのマルコが、ここで「私の子」と呼ばれています。恐らく、マルコは福音書を書くためにいつもペテロと一緒にいてペテロから話を聞き、ペテロが語ることを福音書にまとめたのだと思います。このマルコもよろしくと言っています。

このことから、クリスチャンというのは、キリストを中心として深くつながっている者であることがわかります。これまで一度も会ったことがなくても、それぞれの地で、主にあって奮闘している兄弟姉妹たちのことを思って祈るのです。

そして最後のところで、ペテロは、「愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。」と勧めています。「愛の口づけ」は、クリスチャン同士の愛と善意の表現です。同じ信仰の戦いを戦い、同じ救いの目標を持っている者として、互いに愛し合い、互いに苦しみを分かち合う者としての思いを、このような形で表現するのです。国によっては習慣や文化的背景も違いますから、必ずしもこのような方法によって愛と善意を表現しなければならないというのではなく、むしろ、神の家族として、ともに一つのゴールに向かって歩む兄弟姉妹として、私はあなたを本当に大切に思っていますという思いを何らかの形で表すことが求められているということです。

そしてペテロは最後に「キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。」と祈って、この手紙を結んでいます。キリストにあって、初めて平安が与えられます。そしてその平安は、キリストにあるすべての者に共有されるのです。主なる神様によって真の恵み、キリストの十字架による救いが与えられた者は、すでに与えられている救いの喜びと感謝があるからこそ、どのような試練・艱難・誘惑の中にあっても、信仰から離れることなく、平安を持って歩み続けていくことができるのです。

こんな短い、しかもすっと読んでしまえば一つも大切な要素がないかのように見える「挨拶」の中にも、たくさんの恵みが込められています。神の恵みによって生きるという、信仰のあり方をしっかり捉え、その恵の中に、しっかりと立つということを心にとめて、キリストにあるあなたがたすべてに、神の平安がありますようにと祈りつつ、このペテロの手紙第一のメッセージを終えたいと思います。

Ⅰペテロ5章8~11節 「悪魔に立ち向かいなさい」

 ペテロの手紙第一の最後の章を迎えております。前回のところでは、力強い神の御手の下にへりくだりなさいという御言葉をいただきました。そのためには、あなたがたの思い煩いを、いったい神にゆだねなければなりません。神があなたがたのことを心配してくださるからです。このように、神にすべてをゆだねるができる人こそ謙遜な人であり、そのような人は神から恵みをうけることができます。

 きょうのところには、悪魔に立ち向かいなさい、と勧められています。悪魔に立ち向かうこと、そして次回は最後になりますが、神の恵みの中にしっかりととどまっていることを勧めて、ペテロはこの手紙を締めくくるのです。次週からしばらくの間クリスマスのメッセージを送りたいと思いますので、次回は今年最後の大晦日の礼拝で取り上げることにし、今回はこの悪魔に立ち向かうというテーマだけを取り上げたいと思います。

 Ⅰ.身を慎み、目をさましていなさい(8)

 まず8節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。
 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

 「身を慎み、目をさましていなさい」とは、今の時代がどのような時代なのかを見分け、それに祈りつつ備えていなさいという意味です。ペテロは今、ローマ帝国全体に及ぶ迫害を予感しながらこの手紙を書いているわけですが、そのような時にクリスチャンが何もしないでボーっと過ごしていてよいわけはありません。身を慎み、目を覚ましていなければならないと、勧めているのです。なぜなら、あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているからです。悪魔とか、悪霊ということを聞くと、「またですか、教会に来るとすぐに悪魔とか、悪霊といった非科学的な話になるのですが、そんなのいるはずがないじゃないですか」という声が聞こえてきそうです。悪魔のことを取り上げると、何か過激な思想に走っているかのように思われがちですが、それは実在していて、私たちが気付かないうちに働いています。聖書は悪魔が存在していることと、クリスチャンに対して絶えず攻撃していることを教えています。

 たとえば、エペソ人への手紙6:11~12には、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:11-12)とありますし、イエスご自身も、悪霊につかれていた男から悪霊を追い出し(ルカ8:26-33)、12弟子を宣教に遣わされた時も、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになられました。まさに福音宣教は霊の戦いであり、悪魔は、さまざまな形で絶えずクリスチャンに戦いを挑んで来ているのです。

この手紙を書いているペテロも、そのような攻撃を受けました。たとえば、イエスが十字架に付けられる前夜、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(ルカ22:31)と言われると、「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と豪語したにもかかわらず、その翌日に、大祭司の家で女中に「あなたもあの人の弟子でしょう」と言われると、いとも簡単に、イエスを否んでしまいました。彼はイエスの警告を聞いていても、悪魔の攻撃に屈してしまったのです。それは、彼が身を慎み、目を覚ましていなかったからです。

 ルカの福音書を見ると、このイエスの言葉とペテロの失敗との間には、ある一つの出来事があったことがわかります。それは、ゲッセマネの園での祈りです。イエスは、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちもそれに従いました。いつもの場所に着いたとき、イエス様は彼らに、このように言われました。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:40)
そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、祈っておられました。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られました。すると、汗が血のしずくのように地に落ちました。それは激しい祈りの格闘でした。
その時、弟子たちは何をしていたかというと、すっかり眠りこけていました。イエスが祈り終わって、弟子たちのところに来てみると、聖書には悲しみの果てに、とありますが、何はどうあれ眠り込んでいたのです。それで、イエスは弟子たちに言われました。
「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:46)。
 
「なぜ、眠っているのですか。」心にグサッと刺さる言葉です。おそらくペテロは、その時のことを思い出していたのでしょう。まさに、ペテロがこの手紙を書いていたころの状況は、目を覚まして祈るべき時でした。それは、私たちの時代も同じです。悪魔は、今もクリスチャンを神から引き離そうと躍起になっています。ここには、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。皆さんは、獅子がほえたけるのを聞いたことがありますか?私は以前、孫を連れて宇都宮の動物園に行ったことがありますが、ちょうど飼育員に手懐けられたライオンが檻の外に出されていた所を見たことがあります。「触っても大丈夫ですよ」というので尻尾をちょっと触ったら、「ウォー」と大きな声で叫んだのでびっくりしました。それは、動物園の反対側にも聞こえるほどの大きな声でした。まさに、悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら、歩き回っています。誘惑者として、私たちを神から引き離すために、闇に引きずり込むために、歩き回っているのです。

私たちは様々な形で、この悪魔の力を感じることがあります。それが暴力であり、あるいは国家権力であり、自分の内側に潜む憤りや怒りであったり、あるいは様々な情欲や欲望であったり、強引に私たちを神のもとから引き離し、罪と死の世界に引きずり込もうとするのです。その悪魔に対して私たちがすべきことは、身を慎み、目を覚ましていることです。なぜなら、心は燃えていても、肉体は弱いからです。どんなに私たちが心の中で、「よし、こうしよう」と思っても、そんな決意はすぐにどこかへ吹っ飛んでしまいます。所詮人間は弱いのです。ほえたける獅子が獲物を捜し求めて歩き回っているこの世にあって、私たちが悪魔から守られる唯一の道は、祈り以外にはありません。自分の弱さをよく自覚し、所詮人間というのは悪魔の前にはなす術がないということを自覚して祈らなければならないのです。

Ⅱ.悪魔に立ち向かいなさい(9)

第二のことは、この悪魔に立ち向かいなさい、ということです。9節をご覧ください。ここには、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」とあります。

「立ち向かう」とは、悪魔の攻撃に対して対決姿勢で、毅然とした態度を取ることです。あいまいな態度が一番危険です。この位は大丈夫だろうとか、私は大丈夫だといった甘い考えが、死を招くのです。ペテロは、イエスからサタン呼ばわりをされたことを決して忘れていなかったでしょう。イエスが十字架の予告をされたとき、彼は「主よ、そんなことがあなたに起こるはずがありません。」といさめると、主は、「下がれ。サタン。あなたは、神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)ときっぱりと言われました。

このことから、悪魔に立ち向かうということについて、二つのことが分かります。一つは、人間的な愛情が神の道を妨げることがあり、それはサタンの働きによるものであるということです。そしてもう一つは、そうした働きに対しては、毅然とした態度で臨まなければならないということです。それが悪魔に立ち向かう態度です。

では、どのようにして悪魔に立ち向かったら良いのでしょうか。ここには、「堅く信仰に立って」とあります。堅く信仰に立つとは、神を第一にして、悪魔に立ち向かうということです。悪魔はほえたける獅子のようですが、ユダ族から出た獅子であるキリストはそれよりもはるかに強い獅子です。サタンに簡単に縛り上げられて、家財のように捕えられている私たちを、イエス・キリストは解放することができるのです。このキリストの前に静まり、平安を受ける時、キリストの圧倒的な力が私たちを覆ってくださいます。このキリストの力、神の力によって悪魔に立ち向かうのです。

9節後半のところには、「ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来ました。」とあります。それはペテロの時代の人々だけではなく、これまでこの世に生きてきたすべてのクリスチャンが通って来た道なのです。これは励ましではないでしょうか。

私たちはみな、それぞれに戦いがあり、その戦いにおいて、私たちの置かれている状況はみな違います。しかし、サタンに立ち向かう、あるいはサタンと戦いを交えるという点では、古今東西、信仰者はみな同じなのです。サタンとの戦いに倒れて、傷ついて、疲れ切っているのはあなただけではなく、世にある信仰の先輩たちもみな同じ苦しみを通ってきたのです。このことを思うと、励まされます。

旧約聖書Ⅰ列王記18章に、エリヤが偶像神バアルの預言者たちと戦った時のことが記されてあります。彼はその戦いでの勝利の後で急に孤独感と恐れでいっぱいになりました。あんな大勝利を収めたのに、どうしてそんなに怯えているのだろうと不思議に思うほどです。実は、当時のイスラエルの王であったアハブと、その王妃イゼベルがエリヤの預言者の仲間をすべて殺してしまったのです。そして、イスラエルの人々はみな信仰を捨ててしまったのです。それでエリヤは神に向かって、私一人残りました、私一人だけ残りました、と繰り返して、神の御前に打ちひしがれていたのです。
 そのとき、主はどうされたでしょうか。主はエリヤにこう仰せられました。「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(Ⅰ列王記19:18)
この言葉は、エリヤにとってどれほど大きな慰めを与えてくれたことかと思います。自分だけかと思ったらそうだはなかった。自分ひとりだけがこんなに苦しんでいるのかと思ったらそうではない、同じようにバアルに膝をかがめない7千人の信仰者がイスラエルに残してあるというのです。それを聞いた時、エリヤはどんなに励まされたかわかりません。
 私たちは戦いに疲れると、自分だけがこんなに苦しんでいると思いがちです。けれども、そうではありません。世にいるあなたがたの兄弟たちもみな同じような苦しみを通ってきたのです。私たちが疲れて孤独になっている時、そんな私たちのために祈ってくれている兄弟姉妹がいるということを覚えておかなければなりません。

Ⅲ.不動の者としてくださる神(10-11)

そればかりではありません。そこには神の助けもあります。10節と11節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」
ここでペテロは、悪魔との戦いで疲れ果て、苦しんでいる人たちに対して、あなただけではない。世にある信仰者は皆同じ戦いをしているんだ、ということを述べた後で、神も、あなたと共に立ち、戦っていてくださると述べています。

この神はどのような方でしょうか。「あらゆる恵みに満ちた神、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神」です。皆さん、私たちの神は、あらゆる恵みに満ちた神です。そして、私たちをキリストにあってその永遠の栄光の中に招いてくださった方なのです。それは、信仰の結果であるたましいの救いのことです。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これは私たちのために天にたくわえられているのです。このようにして神は、一方的な恵みによって私たちを救ってくださったのです。この神があなたと共にいて、助けてくださるのです。

どのように助けてくださるのでしょうか。ここには、「あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」とあります。確かに、しばらくの苦しみはあります。しかし、苦しみだけでなく、そのあとで完全にしてくださいます。完全にするとは、完全に回復させるということです。口語訳では、「その方はあなたがたをいやし」と訳しています。「完全にする」という訳の方がストレートですが、しかし「いやしてくださる」という訳も尊いです。なぜなら、私たちは悪魔との戦いによって傷つくことがあるからです。悪魔との戦いによって様々に傷ついた私たちの傷を、神ご自身がいやしてくださるのです。

そればかりか、堅く立たせてくださいます。試練に会うとき、私たちの信仰は葦のように大きく揺さぶられますが、神は、私たちが揺れ動くことがないように、しっかりと立たせてくださいます。この「堅く立たせ」という言葉は、岩のようにしてくださるという意味です。この手紙を書いたペテロの、以前の名前は何だったでしょうか。シモンです。シモンは、感情が様々と揺れ動く人物でした。そこが人間らしくて共感を覚えるところでもありますが、あまりにも直感で行動するので、安定さに欠いていました。顔を見ているとよくわかるのです。嫌だったら嫌な顔するし、うれしいとうれしい顔をする。わかりやすい人物でした。でもいつも揺れ動いていました。

しかしそんな彼に、イエス様はこう言われました。
「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)
ペテロというのは「岩」という意味です。シモンは葦のように揺れ動く人でしたが、サタンによって麦のようにふるいにかけられた後、彼は岩のような人になりました。ペテロは今、立派に立ち直って、岩のようになりました。そして、同じように試練の中で苦しんでいる人たちを力づけているのです。

そればかりではありません。強くしてくださいます。「強くし」しとは、「堅く立たせ」と同じです。信仰が建て上げられること、確立することです。しばらくの苦しみはありますが、その後で完全にし、堅く立たせ、びくともしないほど強い信仰者として立たせてくださいます。

そして、最後は、「不動の者としてくださいます」です。なるほど、沢山の試練を通って来られた方は、不動の信仰を持っておられるのがわかります。けれども、人間はどこまでも脆い者です。あんなに信仰が深かったのにという人でも、ある日、突然倒れてしまうことがあります。しかし、どんなことがあっても倒れない方、不動の礎であられる方がおられます。それは、イエス・キリストです。Ⅰペテロ2:6には、こうあります。
「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』」
イエス・キリストは、どんなことがあっても動かされることはありません。イエスは不動の礎であり、確かな土台なのです。ですから、彼に信頼する者は、決して失望させられることはありません。私たちが不動な者になり得るのは、これ以外にはありません。あなたが不動な者になりたいのなら、不動であられるイエス・キリストのもとに来なければなりません。ですから、ペテロはこう言っているのです。
「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも入れる石として、霊の家に築き上げられなさい。」(Ⅰペテロ2:4-5)

あなたはイエス様のもとに来ていますか?イエス様という霊の家に築き上げられているでしょうか。私たちは生ける石として教会の中に築き上げられて行くときに、私たちもまた不動の者になるというのが、ペテロの信仰だったのです。おおよそ揺れ動いているばかりいる私たちが、この霊の家である教会の中に組み込まれていくときに、イエス・キリストを信じてこの方により頼んでいくときに、決して失望させられることはないのです。悪魔の試みによって失敗し、もうだめだという時でさえ、あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるのです。

ビクトル・ユーゴー(1802~1885フランスの詩人・小説家・政治家)原作のレ・ミゼラブル(「ああ、無情」1862)という小説を、皆さんもよく知っておられると思います。
物語の始まりは、わずか一切れのパンを盗んで、なんと19年間刑務所に服役していたジャン・バルジャンが出獄した日から始まります。どこへ行っても水一杯飲ませてくれない、パンを買うお金もない、そんな彼が、教会を訪ねるのです。教会にはミリエルという司教がいて、初対面の彼を出獄して来た人物だと知った上で、一緒に食事をし、そして彼を教会に泊めます。夜中、目が覚めたジャン・バルジャンは、夕食の時にパンが載っていた銀の食器が気になります。そして、司教の寝室に潜り込み、銀の皿を盗んで、逃亡するのです。翌日、うろついていた彼は警察に捕まり、教会に引っ張って来られます。
「司教様、こいつは泥棒です。この銀の皿は、お宅のものですね。ふてぶてしいにもほどがありますよ。こいつは、この皿を司教様からもらったなんて言っています」
 すると、ミリエル司教はそばにあった銀の燭台を持って来て、ジャン・バルジャンにこう言うのです。
「どうした、君。この燭台もお皿と一緒に上げると言ったのに。遠慮したのか?燭台の方は忘れてしまったのか?」
 それで、ジャン・バルジャンは再び牢獄に入ることを免れます。刑事が去って行った後、司教はジャン・バルジャンに言います。
「忘れてはいけません。決して忘れてはいけませんぞ。あなたはもう正しい人になられたのじゃ。あなたのたましいは、すでに神に捧げられていますのじゃ。」

これですね。ペテロが言いたいのは、まさにこれです。「どんなにサタンの戦いが激しかったとしても、あなたはすでに神ご自身によって救いの栄光の中に入れられているのです。神ご自身があなたの傍らにおられる。あらゆる恵みをあなたに与え、あなたが迷い出たら、再びあなたを連れ戻すことがおできになるのです。あなたのたましいは既に神に捧げられているということを忘れてはいけない。」

しかし、物語はこれで終わりません。ジャベルという刑事は、とてもしつこいのです。ジャン・バルジャンの尻尾を捕まえようと何度も彼を追いかけて来ては、彼の有罪を証明して、刑務所に引き戻そうと必死にかぎ回るのです。ジャン・バルジャンは、最初は名前を変えます。名前を変えて正しく生きて、彼はなんと市長にまで上りつめます。それでも、ジャベル刑事は、サタンのようにしつこく、彼を追いかけて来ます。
 しかし、この長い物語の中で、ジャン・バルジャンは最後まで元に戻ることはありませんでした。それは、「あなたのたましいは、神に捧げられた」という、あのミリエル司教の言葉をずっと覚えていたからです。悪に対して、悪をもって報いず、善をもって報い、隣人を愛し、右の頬を打たれれば、左の頬を差し出していくのです。あの日、ミリエル神父の言われた言葉、「あなたのたましいは、すでに神に捧げられています」を忘れないのです。

それは私たちも同じです。あなたのたましいも、神に捧げられたのです。それゆえ、私たちもジャンベル刑事のようなしつこいサタンの攻撃によってつまずいてしまうことがあるかもしれませんが、しかし、忘れてはいけません。あなたのたましいは、神に捧げられているのです。どんなにサタンが激しく攻撃してきても、神は私たちを永遠の栄光の中に招き入れてくださいました。この神が、私たちをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるのです。

ですから、最も重要なことは、あなたはこの神の永遠の栄光の中に入れられているかどうかです。イエス・キリストを信じて、あなたのたましいが神に捧げられているかどうかなのです。あなたはこの神のご支配の中にいるでしょうか。
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたもこの生ける石として、霊の家に築き上げられてください。

キリストは、そのためにこの世に来てくださいました。このアドベントの時、このキリストをあなたの救い主として信じ、この方にあなたのたましいが捧げられることこそ、キリストを迎えるのにもっともふさわしい姿勢です。そして、この世にあっては悪魔との激しい戦いがありますが、その中にあっても、この信仰に堅く立ち続けようではありませんか。そして、心から主に賛美を捧げましょう。
「どうか、神のご支配が世々かぎりなくありますように。アーメン。」

Ⅰペテロ5章5~7節 「へりくだる者に与えられる恵み」

 きょうは、「へりくだる者に与えられる恵み」というタイトルでお話したいと思います。前回のところでペテロは、教会の長老たちに、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい」と命じました。それは、この手紙の受取人であった小アジヤにいたクリスチャンたちが、激しい迫害の中にあっても堅く信仰に立ち、神の恵みにとどまっているためです。その鍵は教会の指導者です。教会の指導者たちが、与えられた役割をしっかりと果たすことで教会が強められ群れの羊が守られ、どんな苦難の中にあっても堅く信仰に立ち続けることができます。そこで教会の長老たちに対して、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心からそれをするように、また、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範になりなさいと勧めたのです。

 きょうの箇所には、そうした長老たちの指導に対して、その指導を受ける信徒たちはどうあるべきなのか、その姿勢について教えられています。それは一言で言えば「へりくだる」ということです。

 Ⅰ.みな互いに謙遜を身に着けなさい(5)

 まず、5節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。
 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」

 「同じように」というのは、長老たちが神の羊の群れを牧するにあたり、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、群れの模範となるように、同じように、「若い人たち」も、長老たちに従いなさい、というのです。「若い人たち」とは、年齢的に若いという意味もありますが、ここではむしろ、「長老たち」に従う者という意味での「若い人たち」のことです。つまり、一般信徒のことです。一般信徒に対して、長老たちに従うようにと勧められているのです。なぜでしょうか?なぜなら、長老たちは神によって立てられ、神の御心を行う者たちだからです。ですから、しもべが、たとい横暴な主人であっても従うように、たとい、長老たちが自分たちから見て正しくない、適切でないと思われるような指導をする場合でも、若い人たちは長老たちに従うべきなのです。

いったいどうしたらそのような態度をとることができるのでしょうか。その後のところでペテロはこう言っています。
「みな互いに謙遜を身につけなさい。」
ペテロはここで「みな互いに」と言っています。これは、長老であろうが、若い人であろうが関係なく、ということです。それは、すべての人に求められていることです。もちろん、若者も、長老たちもそうですが、同時に、若い者同士も互いに謙遜でなければならないという意味です。

この「謙遜を身に着ける」という言葉ですが、これは奴隷が仕事をするときに裾などをまくり上げる動作を意味します。つまり、謙遜という姿が板についているようにという意味です。もしかしたらペテロは、最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちの足を洗われた姿を思い出していたのかもしれません。イエスさまは、夕食の席から立ち上がると、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられた手ぬぐいで、ふかれました。イエスさまが着ておられたのは、謙遜という衣でした。この衣を着るように、この衣を身に着けるようにというのです。

なぜでしょうか?その後のところに理由が記されてあります。それは、「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」この言葉は、箴言3章34節のみことばの引用です。そこには、「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」(箴言3:34)とあります。高ぶるとは、自分自身を他の誰よりも重要と考えることです。高ぶる人は自分に信頼しますが、謙遜な人は神に信頼します。高ぶる人は自分に栄光を帰しますが、謙遜な人は神に栄光をお返しします。ですから、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお授けになられるのです。ちょうど、水が高い所から低い所に流れるように、神の恵みは低い所に注がれるのです。そして、高ぶる者には敵対されるのです。

ルカ18章10~14節には、自分を義人だと自認し、他の人を見下している者たちに対して、イエスさまはこのようなたとえを話されました。
 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:10~14)

このたとえの中でパリサイ人は、取税人と自分を比較しました。確かに、彼の生き方は立派でした。彼は取税人のようにゆする者ではなく、不正な者、姦淫をする者ではありませんでした。彼は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、ちゃんとその十分の一をささげていました。しかし、彼が取税人を見たとき、心が高ぶってしまいました。彼は取税人と自分を比較し、「自分はほかの人々のようにゆする者ではない。ことにこの取税人のようではない」と言った途端、彼の心は傲慢でいっぱいに満たされてしまいました。
一方、取税人は、まともなことは何一つしていませんでした。それに彼の祈りも、非常に乏しい。13節には、彼は「遠く離れて立ち」とあります。それが遠慮からなのか、後ろめたさからなのかわかりませんが、神さまから非常に遠い所に立ちました。そして、目を天に向けることができない程、罪深さを感じていたのでしょう。「胸をたたいて」罪を悔いました。ですから、心が砕かれて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と言うしかなかったのです。しかし、神さまは、そんな彼を義と認めてくださったのです。

神殿で誇らしげに祈ったパリサイ人は神さまに受け入れてもらえず、しかし、神から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、胸をたたいて、神の御前にひざまずいたあの取税人の祈りは聞き入れられました。彼は義と認められました。義と認められて家に帰ったのはパリサイ人ではありませんでした。顔を上げることもできない罪深い男、胸をたたいて悔い改めるしかなかった罪人、しかし、真実にひざまずいて、赦しを請うたこの男だったのです。なぜでしょうか?なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお授けになるのです。

ですから、ペテロがここで「みな互いに謙遜を身に着けなさい」と言ったのは、謙遜であるということが単に人間関係における問題だからではなく、それが神様との関係における問題だからです。そもそも神様は、高ぶりを嫌われます。それが長老であろうが、若い人であろうが関係ありません。高ぶりそのものに敵対されるのです。なぜでしょうか?なぜなら、高ぶりこそ罪の本質だからです。

いったいどうして人類に罪が入って来たのでしょうか。それは高ぶったからです。イザヤ書14章12~15節を開いてください。ここには、サタンの起源について言及されています。
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ14:12~15)

サタンもかつては良い天使でした。「暁の子、明けの明星」とあるように、非常に輝いた存在だったのです。それなのになぜよみに落とされ、穴の底に落とされてしまったのか。高ぶってしまったからです。私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てある会合の山、これは天の御座のことですが、そこに座ろうとしました。すなわち、いと高き方のようになろうとしたのです。それゆえ、神は彼をよみに落とし、穴の底に落とされたのです。これがサタンの高ぶりであり、神のようになりたいという欲望が彼を滅ぼしました。サタンがエバに、「これを食べれば、神のように賢くなる」と惑わしたのも、そのためです。そのため、私たちの中に「神のようになりたい」という性質があるのです。神のようになりたい、つまり神から独立して、自分の判断で、自分の知恵と自分の思いで生きていきたいと思いが働くのです。イエス様を信じていない人は、自分を信じて、自分で生きていくことは当然のことであると思っていますが、それはそのまま悪魔から来ている考えなのです。高ぶりこそ罪の本質であり、このような傾向から逃れることは、たとえ罪赦されたクリスチャンであってもなかなか困難なことです。

ある若い牧師が、地域のキリスト教団体から、その年の最も謙遜な牧師として表彰されました。教会員もみんな感謝して表彰式に行きました。その式で彼は、最も謙遜な牧師として、謙遜がいかに大切であるかをスピーチしました。
 ところが次の週、教会員がその表彰状をその団体の本部に返しに来たというのです。その理由は、なんとその牧師はいただいた表彰状を額に入れ、それを教会のロビーに飾ろうとしたからでした。「先生、止めてください。これは返上した方がいいです」と、返しに来たというのです。もちろん、これはジョークだと思いますが、でも、同時に真理を突いていると思います。へりくだるというのは、それほど難しいことなのです。

18世紀イギリスのリバイバル運動を指導したジョン・ウェスレー(1703~1791)は、「キリスト者の完全」という書物の中でこう言っています。
「もしあなたが完全に罪から解放されていると信じるなら、まず高ぶりの罪に警戒しなさい。この罪だけは、あらゆる欲から解放された心の人も捉えることができることを私は知っている。」それほど、この高慢の罪から解放されるということは難しいことなのです。

皆さん、なぜ長老たちに従うことができないのでしょうか。なぜ互いに従うことができないのでしょうか。高ぶっているからです。これが罪の本質であって、このことが解決するなら、どのような問題も解決することができるでしょう。なぜなら、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになられるからです。

Ⅱ.力強い神の御手の下にへりくだりなさい(6)

であれば、私たちにとって大切なことは、長老たちに従うかどうかということではなく、神に従うということです。ですから、6節にこうあるのです。ご一緒に読みましょう。
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

ペテロは、人間同士が互いにへりくだる必要を述べた後で、本当の問題は神との関係であることを示され、神の御前にへりくだることの必要性を説いています。被造物にすぎない人間が創造主である神の御前でへりくだることは当然のことです。そのことをペテロは、次のことばをもって表しています。すなわち、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」ということです。

神は力強い御手をもってこの世のすべてを支配しておられます。それに比べて私たちは何とちっぽけな者でしょうか。だから、この力強い御手の下にへりくだらなければなりません。「へりくだる」というのは、神の主権の中に自分をゆだねることです。いろいろ、自分に不利なことが起こったとき、「なぜ私をこのような目に合わせるのですか」と神に訴えるようなことをせず、また、神が立てておられないのに、ある重要な位置に自分を置くようなことをしないで、自分の弱さ、足らなさ、小ささを徹底的に認めて、偉大な神の御手に自分の人生のすべてをおゆだねすることなのです。

それは、神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。私たちが徹底的にへりくだる時、神は不思議なことをなさいます。ちょうど良い時に、高くしてくださるのです。たとえば、ヨセフはどうでしたか?彼は17歳の時、お兄さんたちに売られてエジプトの奴隷となりました。エジプトで囚人となったこともあります。しかし、彼が30歳になった時、神は彼を高くしてくださいました。エジプトの宰相となったのです。それはカナンに住んでいた家族がききんで苦しんでいた時でした。それでイスラエル人はみなエジプトに下ることができました。神はちょうどよい時に彼を高くしてくださったのです。

それは私たちの主イエスのご生涯を見てもわかります。主は最後まで神に従順でした。主は自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるすべてのものが、ひざをかがめて、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。イエスさまは、父なる神の下にへりくだられたので、ちょうど良い時に、神はキリストを高くあげてくださいました。

それは私たちも同じです。私たちも神の力強い御手の下にへりくだるなら、神は本当に不思議なことをなさいます。私たちを地の低いところから、天の高みまで引き上げてくださるのです。それは、この世においても起こることですし、次の世においても同じです。力強い神の御手の下にへりくだるなら、ちょうど良い時に、神が最善と思われる形で、私たちを高くしてくださるのです。

Ⅲ.思い煩いを神にゆだねて(7)

では、どうしたら神の御手の下にへりくだることができるのでしょうか?7節をご覧ください。ここもご一緒に読みましょう。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

この7節は、6節の続きです。6節でペテロは、「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい」と言いましたが、どのようにへりくだったらいいのでしょうか。ここには、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」とあります。これは命令形ではなく、現在分詞といって、どのようにして神の力強い御手の下にへりくだったらよいかが説明されているのです。それは、あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねて、です。神の前での謙遜は、私たちの思い煩いを神にゆだねるという姿勢に表れるとペテロは言うのです。

 この「思い煩い」(メリムナ)と訳されているギリシャ語は、「別々の方向に引っ張ること」を意味します。希望は私たちを一つの方向に引っ張りますが、恐れは私たちを反対の方向に引っ張ります。それで私たちは引き裂かれてしまうのです。それは絞め殺すことを表わしています。皆さんも思い煩うことがあるかと思いますが、それがどんなにか人を絞め殺すかをご存知だと思います。思い煩いは頭痛、肩こり、めまい、背中の痛みなど、肉体の障害を引き起こすだけでなく、思考力や消化力にも影響を及ぼします。その上、思い煩ったからといって何も良いものを生み出しません。イエス様も「あなたがたのうちでだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(マタイ6:27)と言われました。思い煩ったからといって、自分では何もすることができません。ではどうしたらいいのでしょうか。

ペテロはここで、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」と言っています。私たちの思い煩いを自分で何とかしようとするのではなく、その思い煩いのいっさいを、神にゆだねなさいというのです。「ゆだねる」という言葉は、投げ捨てて忘れてしまうことを意味します。石を遠くに投げてしまうように、思い煩いを遠くに投げ捨てなければなりません。どこかに投げ捨てて、忘れなければなりません。では、どこに投げるのかというと、神に向かってです。神に向かってあなたの思い煩いを投げ切るのです。これが祈りです。「神さま、私には無理ですから、あなたにすべてを任せます。あなたが解決してください。よろしくお願いします。」と、神に祈り、祈ったらもう忘れるのです。それが「ゆだねる」ということです。

このことをパウロはピリピ人への手紙の中でこのように言っています。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6)これはあなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさいということです。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

 それなのに、私たちはなぜいつまでも思い煩っているのでしょうか。それは、神様にゆだねると言いながら、本当の意味でゆだねていないからです。思い煩いという石を投げ切ったようでもそれに紐をつけて、何度も何度も引っ張るようなことをしているのです。ですから、ゆだねているようでも、すぐにまた思い煩ってしまうのです。

 実は、へりくだることとゆだねることには関係があります。本当にへりくだってないとゆだねることができません。高ぶっている人は、自分の心配事を決して他人にゆだねません。自分で何とかしようとするからです。本当にへりくだっている人だけが、へりくだった自分の弱さを認める人だけが、ゆだねることができます。ですから、あなたが神に自分をゆだねたいと思うなら、あなたは、神の下にへりくだらなければなりません。それは逆もまた真なりで、あなたが神の下にへりくだるためには、あなたがあなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなければなりません。これは相関関係があるのです。

 いったいなぜあなたの思い煩いのすべてを、神にゆだねなければならないのでしょうか。ここにはその理由が次のように述べられています。それは、「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」私たちが自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねるなら、神があなたがたのことを心配してくださいます。ここでペテロが「神があなたがたのことを心配してくださる」の「心配する」(メロー)は、「あなたがたの思い煩いを」の「思い煩う」(メリムナ)とは違う言葉で、「ケアする」とか、「面倒をみる」という意味があります。本当に神様は私たちのことを心配してくださるのか、信じられないという人もいるかもしれませんが、ここではそのように約束しておられるのです。エレベーターで重い荷物を3階まで運ばなければならない時、その荷物をしっかりと抱えたまま立っている人は少ないでしょう。荷物は下に下ろしてよいのです。エレベーターがどんなに重い荷物でも運んでくれるからです。ましてエレベーターよりも遥かに強力な永遠の神の右の手が私たちの下にあって支えてくださっています。思い煩うという荷物も一緒に運んでいただきましょう。

 ですから、へりくだるとは、特別な思いや取り組みではありません。私たちのありのままの姿を神の前で見つめ、その弱さ、足らなさ、いや罪深い姿をも主の御前にさらけ出して、「神さま、どうかよろしくお願いします」と、神様におゆだねするという心の営みです。

 星野富広さんの詩の中に、「あけび」という詩があります。
「あけびを見ろよ。
木の枝にぶら下がり、
体を二つに割って
鳥がつつきにくるのを動きもしないで
待っている
誰に教えられたのか
あんなにも気持ちよく自分を投げ出せる
あけびを見ろよ

星野さんは実がざっくり二つに割れたあけびが、図々しいくらい、気持ちよく、自分を投げ出している様を見て、私たちもそのくらい開き直って、「神さま、頼みます!」と、自分を神様に投げ出すくらいがいいんじゃないか、と言っているのです。

そうです。私たちもあけびになればいいんです。何でも、構わないから、ど~んと来るがいい。それがどんな重荷でも、ぜ~んぶ、イエスさまにゆだねます・・。それでいいんです、と語り掛けているような気がします。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 あなたは、重荷をまだ自分で背負っていませんか。あなたの重荷はどんなものでしょうか。それがどんなものであっても、その思い煩いを、いっさい神にゆだねるなら、神があなたのことを心配してくださいます。そう信じて、この神の力強い御手の下にへりくだりましょう。

Ⅰペテロ5章1~4節 「神の羊の群れを牧しなさい」

 ペテロの手紙第一5章に入ります。きょうのテーマは、「神の羊の群れを、牧しなさい」です。2節に、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」とあります。「牧する」という言葉は一般ではあまり聞かない言葉ですが、辞書を見ると、家畜を飼ってふやすとか、人民をやしないおさめること、とあります。キリスト教用語辞典では、「牧会をする。聖書で神を羊の牧者、民を羊にたとえているところから来た表現。」とあります。ですから、これは羊飼いが羊を飼うように神の民であるクリスチャンを導くことです。

 私は時々、「神父さん」と呼ばれることがありますが、私は神父ではなく牧師です。皆さんは、神父と牧師がどのように違うかをご存知でしょうか?神父はカトリックと東方教会の聖職者のことで、牧師はプロテスタントにおける教職者のことです。どうしてこのような違いがあるのかというと、たとえばカトリックではローマ教皇をトップに司教、司祭、助祭といった序列があるのに対して、プロテスタントではそうした序列はなく、羊を飼うという働き以外は他の信徒と同じ立場にあるという考え方を持っているからです。

ペテロはここで、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」と言っています。いったいなぜ彼はこのように勧めているのでしょうか。これまでペテロは迫害で苦しみ小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンたちに、そのような迫害の中にあっても励まされ、堅く信仰に立ち、神の恵みの中にしっかりととどまっているように励ましてきました。そして、これから一段と厳しい迫害が迫っているという中で、そのような試練の中にあっても彼らが堅く信仰に立ち続けるためには、教会の長老をはじめとしたリーダーたちが、自分たちに与えられた役割をしっかりと果たすことで教会が強められることが必要だったからです。教会はリーダーで決まると言っても過言ではありません。その牧師なり、長老がどのような考えで、どのように群れを導くのかによって、教会がしっかりと立ち続けもし、倒れたりもする。ですから、教会の牧師、長老の責任はとても重大であることがわかります。私も牧師のひとりとして、身が引き締まるような思いです。

しかし、これは教会だけのことではありません。国のリーダーや学校の教師、会社のリーダー、家庭の親に至るまで、すべての領域で言えることです。すべてはリーダーで決まるのです。勿論、良い牧師は良い信徒によって育てられ、良い教師は良い生徒によって育てられるという側面もありますから、互いがその役割と責任をしっかり果たすことが大切ですが、いかなる組織においても指導者の役割と責任はとても大きいことは確かです。
ですから、ここでは教会の牧師、長老に対して勧められていますが、それぞれ自分の置かれている立場に置き換えて考えていただけたらと思います。

 Ⅰ.神の羊の群れを牧しなさい(1-2a)

 まず牧者の務めについて見ていきたいと思います。1節と2節の前半をご覧ください。
 「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」

 ペテロの勧めの対象は、「あなたがたのうちにいる長老たち」です。ペテロの時代は、今で言うところの牧師とか、長老、監督といった制度ははっきりしていませんでした。同じ人がある時は牧師、ある時は長老、ある時は監督というように使い分けられていたようです。ここで「長老」と言われているのはユダヤ教の名残が強いかと思われます。ユダヤ教では民の指導者を「長老」と呼ばれていました。モーセは姑のイテロの助言を受けてイスラエルの民の上に五十人の長、百人の長、千人の長を立てた時、それは、「神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々」出エジプト18:21)でした。それは民をさばくことができる判断力のある人で、群れを治めることができる能力のある人のことです。今でいえば牧師、役員のような立場の人でしょう。パウロは、第一次伝道旅行で小アジヤの各地で伝道した時、教会を開拓すると、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりととどまるように勧め、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、彼らをその信じていた主にゆだねた(使徒14:22~23)とありますから、その小アジヤの諸教会ごとに長老が立てられていたものと思われます。

ペテロはここで自分のことを、「同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者」と言っています。彼は自分を、他の人よりも上にいる者だとか、偉い者であるかのようには考えていませんでした。自分は他の長老たちと同じ立場にあり、そのひとりであると受け止めていたのです。それは彼の中に、これから語る勧めは、彼らだけでなく自分自身にも当てはまることだという思いがあったからでしょう。

また彼は、苦難の証人、やがて現われる栄光にあずかる者とも言っています。それは、彼がキリストの十字架の苦難の目撃者であるということと、キリストが再び来られることによって現われる世で、その栄光にあずかる者であるという確信があったからです。

そのペテロから長老たちに勧められていることはどんなことでしょうか。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」(2節)ということです。
先ほども申し上げましたが、牧するとは、羊飼いが羊の世話をするときに用いる言葉です。ダビデは詩篇23篇でこう言いました。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:1~6)

つまり、牧するとは羊を守り、導き、養うことです。まず羊が健康でいられるようにちゃんと食べ、ちゃんと飲むことができるように、神の御言葉をもって養います。また、羊が病気になれば介抱するように、病めるたましいを慰め、癒されるように祈ります。そして、狼やライオンといった猛獣から守るように、絶えず教会の中に入り込んでくる異端的な教えや偽りの教えかどうか、またその行動はどうか見張り、そういったものから守ります。そのようにして、神の羊のたましいのケアをするのです。それは必ずしも楽な仕事ではありませんでした。はっきり言って、辛いなぁと思うことの連続でしょう。その神の羊を牧しなさいというのです。

その背景には、かつてペテロがイエス様を否定した出来事があったものと思われます。どんなことがあっても、私はあなたについて行きますと豪語したペテロでしたが、彼のそんな決意は脆くも崩れてしまい、イエス様が預言したように鶏が鳴く前に三度も否定したのです。
そんなペテロに対して、復活されたイエス様は特別に目をかけ、彼を回復されました。ガリラヤ湖畔で三度目に弟子たちにご自分を表されたイエス様は、ペテロにこのように言われました。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15)
すると、すかさず彼が、「はい。主よ。私があなたを愛することを、あなたはご存知です。」(ヨハネ21:15)と言うと、主はこう言われました。
「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)
このことを三度も繰り返して言われました。繰り返して言われました。なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。それは、この羊を飼うということは、イエス様の愛への応答であるからです。ペテロはイエス様にこのように応えながら、自分の頭の中ではイエス様にそのようにと言われた時、自分の罪が赦されたということ、そしてそのようにして愛してくださったイエス様を、今度は自分が愛するのだということ、それは主の羊を飼うということによって表していくことなのだということをはっきりと理解したのです。つまり、キリストを愛するその延長にキリストの羊を飼うことがあったのです。
私たちは自分の力で人を愛するなんてできません。しかし、キリストが私を愛してくださったので、私も愛することができるのです。ですから、ここでペテロが神の羊の群れを牧しなさいと言ったのは、自分の罪深さを感じ、そんな自分を愛してくださった主イエスの愛の応答として、主にゆだねられた神の羊を飼うようにということだったのです。
それはここに、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」と言っていることからもわかります。それは、神の羊の群れであり、神があなたに送ってくださった群れなのです。それは、神様のものであり、イエス様のものなのです。もう少し丁寧に言うと、私たち一人ひとりは、イエス様が愛しておられるイエス様の羊であるということです。

イエス様は、「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(ルカ15:4)と言われました。また、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われました。   

ここに私たちの存在感があります。私たちはほんとうに弱く、欠けだらけなものですが、そのような私たちを、主は「わたしの羊」と言って見つけるまで捜し出してくださる、いや、いのちさえも投げ出してくださるのです。私たち一人ひとりはそれほどまでに愛されているのです。大切にされているのです。その人に何ができるかとか、どれだけ奉仕しているかとか、どれだけ献金したかといったことと全く関係なく、私たちの存在そのものを大切にしておられるのです。そんな大切な一人ひとりの羊を牧するということはあまりにも大きな責任であり、あまりにも大きな労苦です。しかし、主は「わたしの羊を、牧しなさい」と言われました。それはイエス様の羊、神の羊なのです。そういう意味では、私たちはほんとうに無力な者ですが、イエス様が私の罪を赦してくださった、その愛の大きさに応えて、神から託されている神の羊の群れを、牧していきたいと思うのです。

Ⅱ.群れの模範となりなさい(2b-3)

ではいったいどのように牧したらいいのでしょうか。第二のことは、牧者の心構えです。2節の後半から3節をご覧ください。
「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」

ここでペテロは、神の羊の群れを牧する羊飼いとしての心構えを三つ上げています。第一に、義務感からでなく、自発的にしなさいということです。2節に、「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし」とあります。強制されて牧会するということがあるのでしょうか。人と接する仕事をしている人であればだれもが感じたことだと思いますが、人を動かすことは簡単なことではありません。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われています。人はそれぞれ自分の考えをもっていて、どちらかというとそうでない考え方をなかなか受け入れられない傾向にあるので、そういう人を導くということは並大抵のことではありません。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神がその人のうちに働いて、その人の中に神の思いが与えられてくださり、そのような人さえも変えてくださるのです。しかし、そこには相当の忍耐と労苦が求められます。時には、「なんで自分がこんなことをしていなければならないのか」とか、「できるならやりたくない」という思いが沸いてくることもあります。

私はある時、あまりにも辛くてある老姉妹にぽつりと愚痴ったことがあります。
「なんで私が牧師になったかわからないんですよ。もっと違う道もあったんじゃないかと思うこともあります。」
すると、その老姉妹がこう言われたんです。
「あら、先生、牧師さんってすばらしいじゃないですか。人のお仕事じゃなくて神様のお仕事をしているんですから。」
それを聞いてはっとさせられたというか、私はそれまで何を考えていたんだろうと恥ずかしくなりました。別に牧師じゃなくても辛いことはたくさんあるのに、ついつい不平や不満を言っていた自分を情けなく感じたのでした。むしろ、神の羊を牧するというのは光栄なことであり、ほんとうにすばらしいことを求めることなのです。なぜなら、それは人に仕えるのではなく、神に仕えることですから。それは神がお許しにならなければできないことです。また、私には妻や家族の支えがあり、このようにすばらしい教会員の方々の祈りがあり、何よりも私のためにご自分のいのちを捨てられたイエス様の大きな愛があるのですから、これほどすばらしい務めはありません。

それなのに、そのように思うことがあるとしたら、それは自分自身が傲慢であること以外の何ものでもありません。それは牧会に限らずすべての奉仕に言えることです。コリント第二の手紙9章7節で、パウロはこのように言っています。
「ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)
主は、強いられてするものを喜ばれません。ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を、義務感からでなく、自発的に、自らささげる人を、仕える人を愛してくださいます。それこそ、神が私たちのために喜んでひとり子さえも与えてくださった大きな愛への応答なのです。

第二のことは、その後に記されてありますが、卑しい利得を求める心からでなく、心を込めてそれをしなさいということです。
牧師や長老が、その働きにふさわしい報酬を得ることは当然ですが、しかし、牧師が報酬を目的として働くとしたら、牧師でなくなってしまいます。まして、不当な方法で利得を追求するようなことがあるとしたらとんでもないことです。昔、預言者エゼキエルはそのような指導者を糾弾しました。エゼキエル書34章2~6節を開いてください。
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」(エゼキエル34:2~6)
これはイスラエルの牧者だけでなく、私たちにも言えることです。このような牧者になることのないように自戒し、心を込めてこれをするように努めていきたいと思います。

第三のことは、群れの模範者になるということです。3節に、「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」とあります。
先ほど説明したとおり、私たちが牧しているのは、あくまでも「その割り当てられている人たち」です。神の恵みによって、自分に割り当てられている人たちがいるのであって、恣意的に人々を自分の下に集めるのではありません。もしそのようなことがあるとしたら、そこに自分の言いなりにさせるという支配が入り込んでくることになります。神のみこころではなく、自分の目的を達成するための手段として群れを利用することになってしまいます。ですから、そういうことがないように、ペテロはここで、その人たちを支配するのではなく、群れの模範者となりなさいと勧めているのです。

イエス様は、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られると、世にいるご自分の者たちを、最後まで愛されました。夕食の間のことですが、夕食の席から立ち上がられると、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました。それから、たらいを水に入れ、弟子たちの足を洗われたのです。
「何をなさるんですか」とペテロが言うと、
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになる。」と言われると、ペテロは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着かれました。いったいなぜイエス様はこんなことをしたのでしょうか。イエス様はこのように言われました。
「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:13-15)
そうです、イエス様は模範を示されたのです。彼らに、互いに足を洗うべきですと説教したのではなく、自らの彼らの足を洗うことで、その模範を示されたのです。ある人は、これを読んで、「イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、弟子たちの中にものすごく足の臭い奴がいて、イエス様もさすがに食事をする気にならなかったんだよ。だから、しょうがなく足を洗い始めたのさ。でも一人だけ洗ったらその人を傷つけてしまうから、みんなの足を洗ったんじゃないか」と言う人がいますが、そういうことではありません。イエス様は模範を示されたのです。

パウロは若き伝道者テモテに、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(Ⅰテモテ4:12)と言っていますが、それは外側の行動ではなく、内側の心の在り方です。あまりにも模範を意識しすぎると、くたびれてきますし、偽善的にもなりかねません。ですから、真実にキリストを見習う生活をコツコツと続けるだけでいいのです。

Ⅲ.しぼむことのない栄光の冠を受ける(4)

 最後に、神の羊の群れを牧する者にもたらされる結果を見て終わりたいと思います。4節をご覧ください。ここには、「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」とあります。

「そうすれば」というのは、そのように神の羊の群れを牧するならば、ということです。そうすれば、どのような結果がもたらされるのでしょうか。大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄冠を受けることになります。「大牧者」とは、勿論、イエス様のことです。私たちはこの大牧者の下にある小牧者にすぎません。ほんとうの牧者は、私たちの主イエス・キリストです。この大牧者であられるイエス様が戻ってこられるときに、私たちはしぼむことのない栄光の冠を受けるのです。この「栄光の冠」とは何でしょうか?聖書には、義の冠とか、いのちの冠といった冠が出てきますが、それらは救いとの関係で受ける冠のことです。しかし、この「栄光の冠」というのは、キリストのさばきの御座において受ける冠、報いのことです。イエス・キリストを信じる者にはみないのちの冠が与えられます。しかし、クリスチャンのそれぞれの業に応じて報いを受けます。それが栄光の冠です。いのちの冠が与えられるだけでものすごい栄光なのに、さらにその働きに応じて「栄光の冠」が与えられるとすれば、それは二重の栄光です。

この大牧者であられるキリストが戻って来られます。そのとき、あなたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。ですから、私たちは自分たちに与えられた役割をしっかりと果たしていきましょう。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。あなたに託されている神の羊の群れとはだれですか。それは神の教会の中の羊の群れかもしれないし、家庭や職場など、教会の外にいる群れかもしれません。しかし、それはあなたが牧するように、神があなたに送っておられる神の羊の群れなのです。その羊の群れを牧しなさい。卑しい利得を求める心からでなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、心を込めてそれをしなさい。その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。

Ⅰペテロ4章12~19節 「火のような試練が来るとき」

 きょうは、第一ペテロ4章後半の箇所から、「火のような試練が来るとき」というテーマでお話します。聖書には、たびたび試練を「火」と表現されています。たとえば、この第一ペテロ1章7節には、「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く」とあります。信仰の試練を火で精錬されると表現しています。きょうの箇所にも、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」とあります。そんな火のような試練が来たら、だれも喜べるものではありません。辛く、悲しく、苦しいでしょう。そんな火のような試練が来るとき、私たちはどのように対処したらいいのでしょうか。

きょうは、このことについてみことばからご一緒に考えたいと思います。キーとなることばは、「喜んでいなさい」(13)「神をあがめなさい」(16)、「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」(19)という三つの言葉です。

 Ⅰ.喜んでいなさい(12-14)

 まず、12節から13節の前半までをご覧ください。
 「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。」

 ペテロは、10節で賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と語り、11節で「アーメン」と言って一区切りをつけると、ここから再びキリスト者の苦難をテーマに取り上げて語り出します。ペテロはこれまでずっと迫害で苦しんでいたクリスチャンを励ますために語ってきましたが、ここから一層力を入れてそれを語ります。というのは、彼らにそれまで以上の迫害が迫っていたからです。彼らにはこれまでもローマ帝国やユダヤ人からの迫害がありましたが、それに加えて、時のローマ皇帝ネロがクリスチャンをターゲットに激しい迫害を始めたというニュースを聞いたからです。それはこれまでのものとは比較にならないほどの激しいものでした。ここではそれを「燃えさかる火の試練」と表現しています。そのような燃えさかる火の試練が来たときどうしたら良いのでしょうか?ペテロはこう言っています。そのような「燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、喜んでいなさい。」と言っています。それを何か特別なケースとして考えるのではなく、むしろそれは想定内のこととして受け止めて、気持ちを落ち着かせるようにというのです。なぜでしょうか。なぜなら、キリストの苦しみにあずかれるのだからです。

ペテロは、試練や苦しみを経験する恵みの一つは、それを通してキリストが受けられた苦しみの何分の一かを経験する事ができることだと言います。主の思い、主の心は私たち人間には、なかなか分かりにくいものです。しかし、私たちが苦しみを経験することによってキリストの心を体験的に理解できるようになるとしたら、それはすばらしいことではないでしょうか。

そればかりではありません。ここには、「それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」とあります。キリストの栄光が現われる時とはいつでしょうか。そうです、キリストが再び来られるときです。そのとき、主は、これまでの全てのことを正しくさばかれ、報いをもたらされます。この地上において不正があり、曲がったことが行われ、義が踏みにじられることがあっても、キリストの栄光が現われる時、キリストはそれらの全て正しくさばかれ、それに正しく報いてくださいます。ですからそれはクリスチャンにとっては喜びの時なのです。改訂版では、「キリスとの栄光が現われるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」と訳されています。イエス様も、「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:12)と言われました。

ですから、別にやせ我慢しているのではありません。クリスチャンにとって試練や苦しみにあずかることはキリストを体験的に知ることができるばかりか、キリストの栄光の現われのときに、大きな報いがもたらされるのですから、むしろそれは喜びなのです。だから、もし私たちに燃えさかる火の試練が襲って来るようなことがあっても、それを何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんだり、こうやっていつも貧乏くじばかり引くんだよなと悲しんだりしないで、それは想定内ですと、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるので感謝ですと受け止め、喜びおどる者でありたいと思います。

 次に14節をご覧ください。ペテロはここでクリスチャンが苦難に会うことが喜びであるもう一つの理由を述べています。それは、そのようにクリスチャンがキリストの名のために非難を受けるようなことがあるとしたら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるということです。どういうことでしょうか。

 元々、キリストを信じる者には栄光の御霊、神の御霊が宿っておられます。しかし、クリスチャンがキリストの名のために、すなわち信仰のゆえに非難を受けるようなことがあるとしたら、それこそ、神の御霊、栄光の御霊が特別に働いてくださる時だというのです。これはほんとうに慰めではないでしょうか。というのは、試練の中にいる人というのは孤独になりがちだからです。そのような時、決して私はひとりじゃない、神様が共におられるということを確信することができるとしたら、どれほど大きな励ましが与えられることでしょう。

 マーガレット・F・パワーズというアメリカ人女性が書いた「あしあと」という詩は、そのことを私たちに思い起こさせてくれます。
「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
(「あしあと」マーガレット・F・パワーズ)

 自分が辛く、苦しい時、神にも見捨てられたのではないかと感じることがありますが、そうではありません。むしろ逆です。そのような苦しみの中にある時こそ、栄光の御霊、神の御霊が、私たちの上にとどまってくださるのです。

 Mary Ann Birdという女性が、〝The Whisper Test〞という本を書きました。彼女は普通の子どもとは違い、口蓋裂という、生まれながらに唇が裂けている病気で生まれてきました。今は手術方法が確立されていますが、当時はまだ上手に手術ができない時代でした。それで彼女が学校に行き始めると、その裂けた唇と、食い込んだ、変形した歯で、上手に話ができませんでした。すると「君はどうしたの?」と友だちから聞かれるのです。生まれつきの病気だと説明するよりも、事故でそうなってしまったと答えた方が簡単だったので、「思わず転んだ時に下にガラスがあって、唇を切ってしまった」と答えていました。それはとても辛い経験でした。
ところが彼女が2年生の時に、レオナルドという女性の先生が担任になるのです。その先生は背が低くとっても陽気な先生でした。その先生がある時クラスの子どもたちに「聞き取りテスト」をしました。それは生徒が一人ずつ教室のドアのところに行って片方の耳を塞ぎ、先生がもう片方の耳元でささやいたことを言い当てるのです。「ささやく」ことを英語でWhisperというので、Whisper Testというのです。
彼女の番がやってきました。彼女は、聞き耳を立てて聞いていました。すると、その先生はこうささやきました。“I wish you were my little girl”意味は、あなたが先生の娘だったらよかったのに、という意味です。先生のこのささやいた言葉が彼女の人生を変えるんです。それは彼女が小学校2年生の時でしたが、彼女の人生にとって忘れられない言葉となりました。
そして彼女はそのことばを振り返ってこう言うのです。「それは、神さまがこの先生を通して私におっしゃったことばだ」と。神さまがこの先生を通して私におっしゃったことばが、「あなたはわたしの愛する子だ」。ということだったのです。
孤独と悲しみの中に打ちひしがれていた彼女にとって、そのことばはどれほど大きな励ましと希望を与えてくれたことでしょう。

私たちも同じです。キリストを信じる信仰のゆえに非難を受けたり、苦難に会うとき、何とも言いようのない孤独を感じることがありますが、しかし、そのような時こそ、神の御霊があなたにこうささやくのです。「あなたはわたしの愛する子です」と。それはほんとうに大きな慰めではないでしょうか。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の神、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

Ⅱ.神をあがめなさい(15-18)

第二のことは、そのようにキリスト者として苦しみを受けるなら、恥じることはない、かえって、この名のゆえに神をあがめなさい、ということです。15節から18節までをご覧ください。
「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」

人殺しや泥棒、その他、悪を行う者、他人に干渉する者が、苦しみを受けることは、当然のことなので、そのようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、それは幸いなことなのです。それを恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなければなりません。なぜでしょうか?17節にはこうあります。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」どういうことでしょうか。

このことばは、少し唐突な感じがしないわけでもありません。というのは、ここでペテロは、あくまでも、神の御心に従って正しいことを行い、それによって苦しみを受けるようなことがあるなら、そのことのゆえに神をあがめなさいと勧めているのに、その理由が、「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」とあるからです。その前の文章につながっていないように感じます。しかし、よくみるとこれは不自然ではありません。というのは、ここでは、キリストを信じる群れである神の教会と、福音に従わない者たちの終わりがどうなのかを比較されているからです。それを際立たせているのです。まず神の家である教会です。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうと言って、18節の結論に結び付けているのです。

この17節を、新改訳の改訂版はわかりやすく訳しています。改訂版ではここを、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。」と訳しています。第三版では、どちらかというと神のさばきが教会から始まるということに強調点が置かれているのに対して、改訂版では、福音に従わない者たちの終わりがどうなるのかということに強調点が置かれています。ここで言わんとしていることは、後者のことです。

そして、ペテロはその結論を18節でこう言っています。
「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」
これは箴言11章31節からの引用です。「もし正しい人者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」どうにもなりません。正しい者、すなわち、神の恵みにより、キリスト・イエスを信じて義と認められた者がかろうじて救われるとしたら、そうでない者が救われるはずがないというのです。

これまで私たちは3章19節の「キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」とか、4章6節の「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、」というみことばからの解釈をめぐり、福音を信じないで死んだ人も救われるチャンスがあるのかという、いわゆるセカンドチャンス論について見てきましたが、この箇所をみると、そうした考え方が一掃されます。なぜなら、福音を信じた、いわゆる正しい人でさえかろうじて救われるのであれば、そうでない人たちが救われるということがあるでしょうか。ありません。それは一方的な神の恵みであり、神の奇蹟的なみわざなのです。私たちはみな、地獄に行ってしかるべきなのに、そんな私たちを神はあわれんでくださいました。神はそんな私たちを救うために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。私たちはかろうじて救われたのです。

私の父は74歳の時に亡くなりました。その少し前にすでにクリスチャンになっていた母とどうやったら父がイエス様を信じるだろうかと話し合っていましたが、母は、「だめだぞい」というのです。「とうちゃんは何言ってもわがんねがら」と。でも私は何とか父にも信じてほしいと思い、ある日、テープレコーダーとカセットテープを持って家に行き、父に聞いてもらいました。それは本田弘慈先生の「マルコの福音書」からのメッセージテープでした。息子の話はあまり聞きたくないだろうから、他の牧師の話だったら聞いてくれるかもしれないと思って、持って行ったのです。その日、父はいつものようにこたつに座っていました。「いいがい、よく聞いてね。」とテープを流すと、あまりにもいい話なのかすぐに深い眠りに落ちました。一応、一つの話を全部聞いてから父に、「どうだった。とうちゃんもイエス様信じる?」と聞くと、父が突然目を開けて、「うん、信じる」と言ったのです。ずっと寝ていたのにあり得ないと思い、「うそでしょ」と言うと、「ん、ホントだ」と言うのです。じゃ、いっしょに祈ろうと言ったら、素直にイエス様を信じますと祈ったのです。もしかすると、母に何か言われていたのかもしれません。末息子の私の言うことだから、聞いてやろうと思ったのかもしれない。どうして信じると告白したのかわかりません。しかし、それまで何度言っても信じなかった父が、その日に限って信じると信仰を告白したのです。
その週のことです。母から、父が動けないから来てほしいと電話があったので家に行き、父をおんぶして車に乗せて病院に行くと、そのまま入院することになりました。そして、その二日後に父は息を引き取ったのです。そのとき私はわかりました。なぜ父が信じると言ったのか。それはもうすぐ死ぬことを悟っていたからかもしれません。イエス様のことをそんなに知らなかったのに、ただイエス様を信じただけで救われたのです。これがキリスト教の救いです。信じるだけで救われる。何か特別なことをしたわけでもなく、真剣に学んだわけでもない。半分いつも寝ているような人だったのに、罪から救われたのです。これが聖書の言う救いです。これはどんなに知識があっても、どんなに立派なことをしても得られるものではありません。ただ幼子のように救い主イエス・キリストを信じなければなりません。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9-10)
だから、今でもよく思います。父はかろうじて救われたと。今ごろ天国にぶら下がっているんじゃないかと思います。しかし、それは父だけのことではありません。私たちもそうです。私たちもかろうじて救われたのです。私たちは救われるに値するような者ではなかったのに、神のあわれみによってかろうじて救っていただきました。であれば、神の福音に従わない人たちの終わりはどうなることでしょう。神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなることでしょう。どうにもなりません。

だとしたら、私たちはこのように神の救いを受けた者として、キリスト者として苦しみを受けることがあるとしても、それを恥じたりすることなく、かえって、この名のゆえに神をあがめなければならないのです。

Ⅲ.真実な創造者に自分のたましいをお任せしなさい(19)

ですから、結論は何かというと、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさいということです。19節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。
「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」

これが、ペテロがここで言いたかったことです。神のみこころを行ってなお苦しみに会う時、私たちがすべきことは、自分のたましいを、創造者である神にお任せすることです。ここでペテロが、「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」と言っているのは興味深いです。ここではさばきのことが言及されているのですから、「公平にさばかれる方」(1:17)とか、あるいは、「正しくさばかれる方」(2:23)と表現した方が自然なのに、「真実であられる創造者」と呼んだのはどうしてなのでしょうか。それは、創造者であられる神が、創造されたすべてのものに対して真実を尽くされる方であるということに、私たちの目を留めさせるためです。つまり、神は救い主イエス・キリストを信じ、彼により頼む者のために、その真実をもって、守り、保ってくださるということです。この方に自分のたましいをお任せする以外に、ほんとうの平安は生まれません。この創造主なる神を信じ、ゆだねきるなら、たましいに深い平安がもたらされるのです。

私たちの主イエスも、あらゆる苦しみと辱めの中で、「正しくさばかれる方にお任せになりました。」(2:23)ご自身が最後の息を引き取られるときには、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。(ルカ23:46)」と言われました。私たちのたましいの平安は、この真実であられる創造者に、自分のたましいをお任せすることができるかどうかにかかっているのです。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたはいま、どんな試練に会っておられますか。それがどのような試練であっても、真実な神は、あなたがたを、耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。そのことを信じましょう。そして、たとえあなたの前に燃えさかる火の試練が襲ってきても、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむのではなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、いっそう喜び、この名のゆえに、かえって、神をあがめ、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしましょう。かろうじてであれ、何であれ、私たちは救われたのです。この救い主に自分のたましいをお任せすること、そこに真の平安があるのです。これこそ、火のような試練が来ても、それを乗り越える道なのです。

Ⅰペテロ4章7~11節 「万物の終わりに備えて」

 きょうは、「万物の終わりに備えて」というタイトルでお話ししたいと思います。7節には、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」とあります。

万物の終わりとはすべての物の終わりのこと、つまり、この世の終わりのことです。そんなことあるはずないじゃないかと言う方もおられるかもしれませんが、聖書は万物には始まりがあったことともに、その終わりもあることを教えています。たとえば、イエス様は弟子たちがエルサレムの神殿をさし示したとき、「まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石が崩されずに、積まれたままで残ることはありません。」(マタイ24:2)と言われました。それは、ローマ帝国によって神殿が破壊されるということとを預言して言われたことですが、それと同時にこの世の終わりに起こることを指して語られたことでした。そして、この世の終わりにはどんなことが起こるのかというその兆候を語りながら、「だから、目を覚ましていなさい。」(マタイ24:42)と言われたのです。

また、ペテロもⅡペテロ3章10節で、「主の日は、盗人のようにやって来ます。」と語り、その時どんなことが起こるのかを預言してこう言っています。
「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:10-13)

ですから、万物の終わりは必ずやって来るのです。問題は、その万物の終わりにどのように備えたらよいかということです。ペテロはここで、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」と言っています。万物の終わりが近づいている今、私たちがすべきことはどこかに逃げたり、避難することではなく、祈りのために、心を整え、身を慎むことです。祈りのために心を整え、身を慎むとはどういうことでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.互いに熱く愛し合う(8)

 それはまず互いに愛し合うことです。8節をご覧ください。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

ここでペテロは、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」と言っています。「何よりもまず」とあるのは、何よりも優先して、ということです。万物の終わりが近づいているいま、クリスチャンが他の何よりも優先してしなければならないことは互いに愛し合うことです。ただ愛し合うというのではありません。ここには「熱心に」とあります。「熱心に」とは、「心を込めて」とか「深く」という意味です。なぜクリスチャンでは、何よりもまず、互いに深く愛し合わなければならないのでしょうか?なぜなら、愛は多くの罪をおおうからです。これはどういうことでしょうか。この言葉を一番よく表現しているのはヨハネの福音書8章に見られるイエス様の態度ではないかと思います。

ここには、皆さんもよくご存じの姦淫の現場で捕らえられたひとりの女性のことが記されてあります。律法学者やパリサイ人たちは、律法によれば、こういう御名は石打ちにすべきだとあるが、イエスよ、あなたはどうされるか?と問うと、イエスは、彼らが問い続けてやめなかったので、何やら地面に書いておられれましたが身を起こしてこう言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
すると、年長者たちから始めて、ひとりひとりその場を去って行きました。さすがに彼らも良心の呵責を感じたからです。
そしてイエス様は、その卑しめられた女性に言われました。「あなたを罪に定める者はなかったのですか。」(ヨハネ8:10)
女が「いません。」と言うと、イエス様は言われました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めなさい」と言われました。律法学者やパリサイ人たちはこの女の罪を暴き出そうとしました。けれども、イエス様は彼女の罪を暴き出そうとしたのではなくおおいました。それは決して彼女の罪などどうでもいいとか、それを許容したということではありません。罪を悔い改めた彼女に対して、神の深いあわれみを示したのです。いったいこの女が悔い改めたかどうかを、どうやって知ることができるでしょうか?それは、この女性が律法学者やパリサイ人たちがその場を立ち去っても、ずっとそのままそこにいたことからわかります。自分を訴えた者たちがみんなその場を立ち去ったのであれば、彼女もそっと立ち去ることができたはずです。それなのに彼女はずっとそこにとどまっていました。なぜでしょうか?逃げたからと言って、彼女の本当の問題、黒い雲に覆われたような罪の問題の解決にはならないと思ったからです。それよりも、殺されても仕方ないような自分の人生に解決を与えることができる主に、自分の罪の問題を解決していただきたいと思ったのです。その点で律法学者やパリサイたちとこの女性との間には大きな違いがありました。律法学者とパリサイ人たちは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたとき良心の呵責を感じたかもしれませんが、その罪の解決のためにイエス様のもとに来ようとはしませんでした。一方、この女性は自分の罪を嫌と言うほど自覚していただけでなく、その問題の解決のためにイエス様のもとに来ました。もうさばかれても致し方ないような者をさばくのではなく赦してくださるイエス様の前に、自分の罪を悔い改めたのです。ですからイエス様は、「わたしもあなたを罪に定めなさい。」と言われたのです。イエス様は彼女の罪をいい加減に扱ったのではなく、彼女が自分の罪を悔い改めその解決を真剣に求めていたので、罪の赦しを宣言されたのです。

このことは、私たちがいかに罪を赦すという心が必要であるかを教えています。時に、罪に対しては厳しい態度で臨まなければならないこともあります。ほんの小さなパン種がパン全体をふくらませるように、ほんの小さな罪が神の教会全体に影響を及ぼすことがあるからです。けれども、罪を悔い改めた人に対しては罪を赦すこと、おおうことが必要なのです。なぜなら、罪を責める目的はその人が立ち直ることにあるからです。しばしば、「不正を暴かなければいけない」という正義感に燃えて、その罪を暴き出したがる人がいますが、愛は多くの罪をおおうのです。これが神の愛、イエス様の愛です。神は、罪深い私たちを赦すためにそのひとり子をこの世に送ってくださいました。そして、私たちの罪の身代わりとして十字架につけてくださったのです。私たちをさばいたのではなくおおってくださいました。これはすばらしい知らせではないでしょうか。これが福音です。ヨハネはこのように言いました。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)
  
神が罪人である私たちをあるがままに愛してくださったということ、そして、そのためにご自身の御子をこの世に送ってくださったという事実は、私たちにどれほど大きな喜びと力を与えてくれることでしょうか。だから、ヨハネはこう言うのです。
「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのだから、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)
 
万物の終わりが近づいている今、私たちに求められている第一のことは、何よりもまず、互いに熱心に愛し合うことです。愛は多くの罪をおおうからです。

Ⅱ.互いに親切にもてなし合う(9)

第二のことは、互いに親切にもてなし合うことです。9節をご覧ください。
「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」

もてなすこと、接待することが、万物の終わりに近づいているいま、祈りのために心を慎み、身を慎むことの具体的なこととして勧められていることに、意外な感じを持たれる方もおられるかと思います。しかし、当時は今のようにホテルや旅館といった宿泊施設が整っていたわけではなかったので、旅人をもてなすことがなければ、巡回して福音を宣べ伝える伝道の働きをすることは困難でした。また、教会もはじめの約二百年の間は建物らしきものを持っていなかったので、礼拝やその他の集会のためには自分の家を開放してくれる人が必要でした。ですから、聖書には旅人をもてなすこと、互いに親切にもてなし合うことを繰り返して語られているのです。パウロは、Ⅰテモテ3章2節で、「監督はこういう人でなければなりません。」と教会のリーダーたちが、このよくもてなす人でなければならないと語っています。それはクリスチャンにとってとても大切な愛のわざであったのです。

しかし、旅人をもてなすことはそんなに楽なことではありません。我が家には国内外を問わず実に多くの来客があります。また、教会の二階に住んでいるので、教会の集会で下がいっぱいの時は二階のダイニングキッチンで集会が持たれます。それは私たちにとってほんとうに感謝なことですが、かなりの負担が強いられるのも事実です。まずそのために家中を掃除しなければなりません。またお食事でもてなすために買い物をしたり、お料理を作ったりと、多くの労苦が伴うのです。すると、ついつい「ああ、もっと広い会堂があったら良かったのに」とか、「もうこんなにまでしてやる必要があるのだろうか」といったつぶやきが出てくるものです。ペテロは、そうした思いを知ってか知らずかわかりませんが、ここで、「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」と言っているのです。

私は、昨年の夏に中国の家の教会を訪問しました。上海空港に着くなり家の教会のリーダーが、「今晩、田舎の家の教会の集会があるので、これからまっすぐ行ってみましょう」と私たちを連れて行ってくれました。そこはK市の郊外にある農村地帯でした。行ってみると1階がガレージのような造りの家でしたが、そこに食卓を囲んで座れるようになっており、テーブルにはたくさんのお料理が作って置かれていました。「さあ、どうぞ食べてください」と、そこに私たち夫婦とその家のご主人夫婦、それに家の教会のリーダーたちが座り、その他の方々はみな外で自由に食べていました。その日の夕食は、その家の持ち主を中心として、いえの教会の人たちがみんなで準備されたとのことでした。お手洗いに行くといくつかのパイプを継ぎ合わせてあり、見るからに貧しい家であることがわかれましたが、私たちのために盛大なおもてなしをしてくれたのには、とても心が熱くなりました。
夕食の後で集会をするというので、ここでするのかなぁと思っていたら、歩いて2~3分離れたところでするというのでそちらへ移動すると、そこは古い農家の納屋のようなところでした。100人くらい入るスペースに椅子が並べてあり、私たちは一番前に案内されて座ると、集会は2時間くらい続きました。その間、その家の持ち主であるというおばあちゃんが、私たちのために何度も何度もお茶を注いでくれるのです。せっかくいれていただいたものを飲まないと申し訳ないと思い少しずつ飲んでいると、まだグラスには4分の3くらい残っているのに、またやって来て注いでくれるのです。ニコニコしながら・・。
 あとで同行したOさんに、どうしてこんなに親切にしてくれるのかと尋ねると、Oさんが言われました。「それは当たり前ですよ。中国人は兄弟姉妹には親切にするのです。兄弟姉妹は家族であり、仲間ですから。そういう人たちには親切にするのです。」まさにここで言われていることを文字通り実践しているかのようでした。

万物の終わりが近づいているいま、私たちに求められているのは、このおもてなしです。それは来客に対してのおもてなしということだけでなく、私たちの生き様そのものでもあります。教会に来られる方々を温かく迎えたり、親切にもてなしたりということも含むのです。互いに親切にもてなし合うこと、それは互いに熱心に愛し合うということの具体的な一つの表れでもあるのです。

Ⅲ.互いに仕え合う(10-11)

第三のことは、互いに仕え合うことです。10節と11節をご覧ください。
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」

互いに愛し合うこと、互いにもてなし合うことに続いて、ペテロは、互いに賜物を用いて仕え合いなさい、と勧めています。「賜物」とは、神の恵みによって与えられたものです。何らかの価値があってとか、何らかの報酬としてということでもなく、何の価値もなく、何かの報いとしてでもなく、ただで与えられたものです。ここには、「それぞれが賜物を受けているのですから」とあるように、それは、クリスチャンのすべての人に与えられているものです。クリスチャンであるなら例外なく皆、何らかの賜物を与えられているのです。賜物が与えられていないという人はいません。みんな与えられています。その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい、というのです。それは自分の賜物のすばらしさを自慢するためではなく、他の人の益のため、そして、キリストのからだである教会を建て上げるためです。ちょうど家を建てるのに、ハンマーやのこぎりや釘といった違った道具が必要なように、それぞれの違う賜物が用いられ、神の教会が建て上げられていくのです。

そのためには、さまざまな恵みのよい管理者として、その賜物をもって互いに仕え合うことが必要です。ここには、「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」とあります。これは二つの賜物が取り上げられているというよりも、教会の二つの重要な働き、すなわち宣教と実際的な奉仕について述べられていると言えるでしょう。「語る人があれば、神のことばとしてふさわしく語り」というのは、神のことばを語る人は、神のことばを語る人らしく神の権威をもって、しかも自分の意見や考えを述べるのではなく、神のみこころのみを伝えるという決意をもって語るべきであるということです。また、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさいというのは、自分の力によってではなく、神から与えられている力によってしなければならないということです。それは自分の力によってではなく、神から与えられたものとしての自覚をもって、惜しむことなく、また、へりくだって仕えることなのです。

具体的な賜物の種類については、Ⅰコリント12章、エペソ4章、ローマ12章に書かれてありますが、その内容は千差万別です。この三つの箇所を照らし合わせてみると、少なくとも18種類以上の賜物があることがわかります。それはまた別の機会に学びたいと思いますが、ここでは特にその最終的な目的は何かということをみたいと思うのです。11節の後半のところをご覧ください。ここには、「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」とあります。

これが最終的な目的です。神がそれぞれに賜物を与えてくださったのは、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合うためですが、それはどうしてなのかというと、そのことによって、イエス・キリストを通して神があがめられるためなのです。説教は説教者の力を見せるためではなく、人々を神の御前に連れて行くためになされるものです。奉仕はそれを与える人に感謝や尊敬をもたらすためではなく、人々の心を神に向けさせるためになされるべきなのです。

有名な音楽家、ヨハン・セバスチャン・バッハが、宗教改革者マルチン・ルターに書き送った手紙が残っています。その中でバッハは、「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と書いています。少なくともバッハはそう思ったのです。彼は自分の音楽を作る目的は「神の栄光を現すことだ」と言ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後の所に、いつも彼は「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。それは「SOLI DEO GLORIA」、つまり「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は、新しい曲を作る毎に、この曲が神の栄光を現すものであるように、そしてこの曲を聞く人の魂が新たにされるように、という願いを込めて、曲を作っていったのです。

あなたはどうでしょうか?神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合っているでしょうか。その賜物にふさわしく奉仕していますか。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。私には賜物が一つもありませんという人はいません。それぞれが賜物を受けているのですから、その賜物を用いて、互いに仕え合わなければなりません。私たちすべてのクリスチャンが自分自身のために生きることを止め、神のために生きるようになるなら、新しい神の恵みと栄光が教会をおおうことでしょう。すべてのことが神の栄光のために用いられるように、私の小さな奉仕を心から主に捧げたいと思います。そして、このように賛美しましょう。「栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」これが万物の終わりが近づいているいま、私たちに求められていることなのです。

Ⅰペテロ4章1~6節 「自分自身を武装しなさい」

 きょうは、「自分自身を武装しなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。1節に、「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」とあります。この「武装する」という言葉は軍事用語で、兵士が戦いに出かけていく時の様を表しています。兵士はどのような格好で戦いに出て行くのでしょうか。まさかマラソンのような短パンとランニングシャツで出て行くというようなことはありません。兵士が戦いに出かけていくときは重装備で出かけて行きます。腰には帯を締め、胸には胸当てを着け、足にはすね当てを着け、頭には兜をかぶります。また、敵の放つ火矢を消すために大盾を持ち、敵を倒すために鋭い剣を持って出かけるのです。

ペテロはここでなぜ自分自身を武装しなさいと言っているのでしょうか?それは、私たちの信仰生活はまさに戦いだからです。私たちの信仰生活にはいろいろな問題や葛藤が起こりますが、それは表面的なことであって、本当の戦いはその背後にある悪魔との戦いなのです。

パウロは、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊との戦いであると語り、その戦いに対抗できるように神のすべての武具をとるようにと言っています。エペソ6:10~18をご覧ください。
「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」

皆さん、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものなのです。この戦いに対処するためには、神のすべての武具を取り、それで自分自身を武装しなければなりません。「私は大丈夫です。私は悪魔になんて絶対にやられません。悪魔がやって来たら私のパワーでやっつけてやますから・・・。」だめです。これは霊の戦いですから、私たちがどんなに肉体を鍛え、強靭な身体を持っていても、この悪魔の前には太刀打ちできないのです。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、罪を犯します。また、悪魔はさまざまな問題を利用して、私たちを何とかして神から引き離そうと躍起になっています。私たちの思いの中にいろいろな否定的な思いを植えつけては、私たちを神から引き離そうとするのです。何で信仰を持ったのにこんなに苦しまなければならないのか、神がおられるならなぜこのようなことが起こるのか、神は私を愛しておられないんじゃないか、そもそも神なんていないに決まっている、信じたって、信じなくたってちっとも変わらない、いや、もっと苦しくなるだけだ、いったい神を信じることにどんな意味があるというのか・・。悪魔は私たちの中にこのような思いを吹き込んでくるのです。ほとんど毎日のように、です。
あのC.S.ルイスの「悪魔の手紙」にあるように、この世の現実を見せることによって、神を信じることがいかに愚かなことであるのかを訴えてくるのです。これがとても厄介な問題です。というのは、だれもそれが悪魔の誘惑だなんて思わないからです。そして、いかにもそれが正しいことであるかのように思い込んでしまうのです。それが敵である悪魔の常套手段でもあります。悪魔は私たちが気づかないうちにそのような思いを与えて神に対する疑いを引き起こし、不信仰に陥れるのです。

このペテロ自身がその一番良い例です。なぜなら、彼はこの霊的な武装にことごとく失敗してしまった過去があるからです。彼はイエス様のように目を覚まして祈っていなかったので、主を三度も知らないという罪を犯したのです。彼は、「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言ったほどです。けれども、その数時間後には「イエスなんて知らない」と否定してしまいました。なぜでしょうか。この霊の戦いのことを本気にしていなかったからです。イエス様と同じ心構えで、自分自身を武装していなかったからです。

しかし、イエス様が復活した後、その主とお会いして、彼は、イエス様が言われたことがほんへんとうであったということに気付かされました。そして、自分と同じ失敗をすることがないように、ここで「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と勧めているのです。きょうはこの自分自身を武装することについて三つのことについてお話ししたいと思います。

 Ⅰ.キリストと同じ心構えで(1)

 まず1節をご覧ください。
「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」

「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから」というのは、3章18節から22節までの内容を受けてのことです。特に18節を念頭に語られていると思われます。キリストは、私たちの罪のために苦しみを受け、十字架で死なれました。キリストは正しい方であられたのに、悪い人々の身代わりとなって死なれたのです。それは、肉において、死に渡され、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。すなわち、私たちを罪から救うためでした。私たちはこのキリストを信じて罪から救われました。私たちが救われたのは、キリストが私たちの罪を負って死んでくださったからです。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです。」(2:24)
それなのに、罪を楽しむことができるでしょうか。もしキリストが私たちの罪のために死んでくださったのであれば、その罪から救われた私たちは、そこから離れようとするはずです。なぜなら、キリストはそのために苦しみを受けてくださったからです。ですから、ペテロはここで「あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」と言っているのです。「同じ心構えで」とは、イエスさまと同じ心構えでということです。

キリストはどのような心構えだったのでしょうか。それは、ここに、キリストは正しい方が悪い人々の身代わりとなられた、とあるように、人のためには自分のいのちを捨てるという覚悟、心構えです。これはものすごい覚悟です。そして、ものすごく大きな愛です。使徒ヨハネはこのように言っています。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)
これよりも大きな愛はだれも持っていません。これがキリストの心構えでした。あなたがたもこれと同じ心構えで自分自身を武装しなさい、というのです。

この心構えについて、パウロはピリピ2:5~9で次のように言っています。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
キリストは神であられるのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿を取られ、実に十字架の死にまでも従われました。これは、ほんとうにへりくだっていなければできないことです。自分を無にするって難しいことですよね。これができなくてみんな悩んでいるのです。みんな自分の思うように生きていきたいのです。けれども、キリストは自分を無にして、仕える者の姿をとり、神の御旨に従って死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。この心構えです。

また、イエス様はこう言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)
これがキリストに従う者の心構えです。だれでもキリストについて行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてキリストについて行かなければなりません。自分を捨て、自分の十字架を負うとはどういうことでしょうか?それは別に毎日十字架のネックレスを着けるということではありません。十字架の意味は一つだけです。それは死ぬということです。ですから、十字架を負いなさいとは、死になさいということです。何に対して死ぬのでしょうか。自分に対してです。以前は罪の奴隷として生きていましたが、今はそうではありません。今は自分に死んで、神のみこころに生きるべきなのです。

最近、牧師の娘ですという方のお話しを聞く機会がありました。牧師である父親はこどもの伝道にも熱心で、彼女が小学校の頃にはマウンテンバイクで彼女の通う小学校の校門のところにやって来て子どもの集会のチラシを配っているのを見て、心の中で「止めて!」と叫んだそうです。父親が、一生懸命子ども伝道をすればするほど、「自分は愛されていない」と思いました。お父さんが愛しているのは他の子どもたちだ・・・。それから両親にも、イエス様にも反抗して、ずっと信仰から離れていたのです。
しかし、ある時父親が「ごめんなさい」と謝ってくれたことで彼女の心が開け、父親の語るメッセージがすんなり心にしみるようになりました。そして、約10年間の放浪生活を経て、イエス様のもとに戻ることができました。
イエス様のもとに戻った彼女は、最初はクリスチャンであればそれでいいと、礼拝には行ける時に行けばいいと思っていましたが、聖書を読んでいるうちに、いや、それではだめだと、少しずつ教会の奉仕にも携わるようになりました。そうしているうちに、キリストにあって励ましをいただき、愛の慰めと、御霊の交わりを受けて、自分のすべてを主に捧げたいと思うようになったと言うのです。

クリスチャンはみな、最初から自分に死んで、神のみこころに生きることはできませんが、キリストにある神の恵みを知れば知るほど、その愛の高さ、広さ、深さを知れば知るほど、このように変えられていきます。だれでもキリストについて行きたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい、ではなく、あなたについていきたい!という思いになるのです。

ペテロはここで、「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」と言っています。どういうことでしょうか?肉体において苦しみを受けた人とは、死んだ人のことを指しています。イエス様が十字架にかかって死なれたように、罪に対して死にました。罪に対して死んだ人は、もう罪とのかかわりを断ったのです。いま私たちがこの世に生きているのは、私たちを愛し、私たちのためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。これがバプテスマの意味です。バプテスマの時に水の中に沈められるのは、私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたことを、また、水から上がることは、キリストとともに生きる新しいいのちを象徴しています。

死んでしまった人は何の反応もないはずです。死んだ人が「ヨイシュ、ドッコイショ」と突然起き上がったかと思ったら、「私はあれがしたい」「これがしたい」とか言いますか?言いません。死んでいるからです。死んだ人はもう罪から解放されているのです。罪から自由にされました。もはや罪に支配されることはありません。以前は罪の奴隷でしたが、今は義の奴隷となりました。キリストが死からよみがえったとき、私たちもキリストともに新しく生きるものにとされたのです。このように、肉において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ったのです。

Ⅱ.神のみこころのために生きる(2-5)

次に、2節から5節までをご覧ください。2節をご一緒に読みましょう。そのように、罪とのかかわりを断った人はどのようになるのでしょうか。
「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」
このように罪とのかかわりを断った人は、この地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために生きるようになります。皆さん、これが神の知恵です。いったい私たちは、地上の残された時を、何のために生きるのでしょうか。どのように過ごしたらいいのでしょうか。それはここにあるように、自分の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすのです。

ですから、モーセはこう祈りました。詩篇90篇10、12節です。
「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び散るのです。・・・それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」
知恵ある生き方とは、いのちがどれだけあるかを数えて、いまを生きることです。地上の残された時はそう長くありません。それは早く過ぎ去ります。人生はほんとうに短いですね。あっという間に過ぎて行きます。ちょっと前まではあんなにピチピチしていたのに、今はもう首もよく回りません。身体をひねることさえ困難になりました。あっちこっちに弱さを覚えるようになりました。あの元気はどこへ行ってしまったのでしょう。私もあと何年生きられるかわかりません。その残された人生をどのように過ごすのか、ということです。何のために生きるのでしょうか。人生はどれだけ長く生きるかということではありません。神によって与えられたこの期間をどのように過ごすかということです。ペテロはここで、その残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごそうではないかと言っています。モーセは、それこそが知恵の心であり、知恵ある生き方だと勧めているのです。あなたはどうですか。残されたこの地上の時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごそうではありませんか。

3節をご覧ください。ここでペテロは、「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」と言っています。
私たちは過ぎ去った過去がどういうものであったのかを、覚えておく必要があります。以前は異邦人たち、すなわち、神を知らない人たちがしたいと思っていることにふけっていました。それは好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝といった類のものです。しかし、それは過ぎ去った時で、もう十分です。もう二度と以前のような生活に後戻りすべきではありません。それはもう過ぎ去ったのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
古いものは過ぎ去りました。すべてが新しくなりました。その新しい時代にふさわしい生き方とは、これまでのような自分の欲望のために生きるのではなく、神のみこころのために生きることなのです。

ところで、そのように私たちが神のみこころに生きようとすると、思わぬところに波紋が広がります。それはこれまで仲間だったはずの人たちからの攻撃です。彼らから思わぬ嫌がらせを受けることがあります。ペテロはそのことを4節で次のように言っています。
「彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないのを不思議に思い、また悪口を言います。」

「彼ら」とは、これまでいっしょに罪にふけっていた仲間たちのことです。彼らは、あなたがこれまでのように酒を飲んでドンチャン騒ぎをしたり、下ネタに耳を貸さないのを見て、あれっ、どうしたんだろうと不思議に思い、馬鹿にしたりします。それはそうです。それまでは神さまのことなんてさっぱりわからなかったのに、聖書を学んでいくうちに、自分の愚かさや罪深さがわかり、こんな罪深い自分を救ってくださった神の恵みがわかるようになると、それに応答して生きていきたいと思うようになるからです。罪の赦しと救いの喜びを体験すると、もはや以前のような罪の生活に戻りたいとは思わなくなります。今まで楽しいと思っていたことが虚しく感じられるようになるからです。しかし、私たちの生活が変わったことは、友人たちには全く意味がわかりません。何で毎週日曜日に教会に行くのかと不思議に思います。最近付き合いが悪くなったなと言ったりもします。以前はいっしょに飲みに行き、ドンチャン騒ぎをし、何でもやりたい放題だったのに、度を過ぎた放蕩にも走らないので不思議に思うのです。何度誘っても応じないとだんだん腹を立てて、「あつはああなんだ、こうなんだ」と他の人に悪口を言ったりします。こうした仲間からのプレッシャーを受けるのです。

これは日本の社会によくあることだと思います。会社の仲間に見られるプレッシャーです。「仲間との和」を重んじる家族的な環境では、「仲間に迷惑をかけられない」といった心理が働きます。そのことが仲間との関係をより密接にし、大きな成果に結びつく一方で、こうした傾向が行き過ぎると、互いが監視し合う居心地の悪い環境が生まれてきます。すなわち、仲間と同じ行動をとらないと仲間はずれにされるといった息苦しい人間関係になってしまうのです。まさにペテロがこの手紙を書き送ったクリスチャンたちは、その直前まで圧倒的多数の異教社会の中にどっぷりと浸かり、彼らと同じような行動やふるまいをしていました。それがクリスチャンになったことで、聖い生き方を送ろうとしたときに、こうした仲間からのプレッシャーを受けて苦しんでいたのです。
しかし、神の恵みをほんとうに知った人は、人から何を言われようと、再び罪の生活に戻りたいとは決して思いません。なぜなら、罪の生活の結末がどのようなものであるかを知っているからです。

5節には、「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。」とあります。
申し開きをするとは、英語では〝give account〞という言葉が使われています。この〝give account〞という言葉は「会計報告をする」というニュアンスがあります。会計報告をする際は、お金の出し入れについて一切の曖昧さが許されません。お金の出し入れについて、帳尻があっていなければならないのです。すなわち、完全な透明性が求められるのです。ここでペテロは、彼らはこの神の前に完全な申し開きをしなければならないと言っているのです。そこでは一切の曖昧さも許されません。彼らがこの地上でどのように歩んだのかをすべて透明にして、その行いに応じてさばかれることになるのです。

それは彼らだけのことではありません。生きている人も死んだ人々も、正しくさばかれる神の前に申し開きをしなければなりません。ヘブル9:27にこう書かれてあります。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」
私たちはみなこの地上に生まれてきました。生まれてきた者はだれでも必ず一度死にます。死んだ後どうなるのでしょうか?聖書は、死後にさばきがあると教えています。死後にみな神の前に立たされるというのです。そのさばきの場で、これまで生きてきたことの報告をしなければなりません。

ヘブル4:13には、「造られたもので、神の前で隠せるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」とあります。人の前には隠せても、神の前には何一つ隠せるものはありません。私たちはこの神の前に弁明をするのです。あなたはどのように自分を弁明されますか?

それは、私たちのこの地上の残された時を、どのように過ごすのかにかかっています。キリストの十字架と復活によって新しく造られた者として、この地上の残された時を、自分の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごそうではありませんか。そこには仲間からのプレッシャーを受けることもあるかもしれませんが、そうした仲間の顔色を見て恐れるのではなく、生きている人も死んだ人も正しくさばかれる方を覚え、この方から受ける報いのすばらしさに目を留めて、この道を進んでいきたいと思います。

Ⅲ.霊において生きる(6)

最後に6節を見て終わりたいと思います。
「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられたのですが、それはその人々が肉体において人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」

どういうことでしょうか。この箇所は前回の箇所でも説明しました。キリストが捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを語ったとの関連で、キリストは死んだ人たちのとこに行って福音を語った、すなわち、死後にも福音を聞いて救われるチャンスがあるということではありません。死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたとは、福音を聞いて死んだ人々のことです。最近新しく出された新改訳聖書の改訂版では、「このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。」と訳されています。つまり、この手紙の読者たちも福音を聞いて信じましたが、今は死んでしまったということです。ここでペテロが言っているのは、その人たちのことです。彼らは生きている時に福音を聞きました。そして、イエス・キリストを信じて救われたのです。そのことで、悪口雑言を言われたり、仲間はずれにされたりすることもありましたが、このさばきがあることを信じていたので、どんなに仲間はずれにされても、福音を聞いて信じたのです。彼らは肉においてはさばかれることもありました。不思議に思われ、悪口も言われました。不当な苦しみにも会いました。そのことでいのちを失う人たちもいました。しかし、そのように肉体において苦しみを受けても、霊においては生きました。それはちょうど、イエス・キリストが肉においては殺されたけれども、霊は生かされたということと同じことです。3章18節にあるとおりです。キリストは肉においては死に渡されましたが、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導いてくださいました。キリストを信じた者は、同じように肉体は死んだとしても、その霊は永遠のいのちが与えられているので、永遠に神とともに生きるのです。

ですから、どんな不当な苦しみを受けても、迫害する者たちがいたとしても、恐れることはありません。たとえそのために命を落とすことがあったとしても、それは栄光の御国の入口であり、永遠に神とともに生きることになるのです。
イエス様は、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われました。私たちが恐れなければならないのは、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる神だけなのです。そんな雀の一羽でも、ちゃんと覚えられています。
「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイ10:29)
二羽の雀が一アサリオンというのは、一羽では値段が付けられないくらいの雀のこと、いわばおまけのようなものです。そんな雀の一羽でも、神の御許しがなければ地に落ちることはないのです。

私たちはそんな一羽の雀のようなものですが、神に覚えられ守られていることを覚え、ただこの方だけを恐れて歩んでいきたいと思います。たとえあなたが仲間から馬鹿にされたり、辱められるようなことがあっても、何も恐れる必要はないのです。キリストによって新しく造られた者として、キリストと同じ心構えで自分自身を武装し、この残された地上での生涯を、罪とのかかわりを断って、ただ神のみこころのために過ごしていきましょう。

Ⅰペテロ3章13~22節 「キリストを主としてあがめなさい」

  きょうは、「キリストを主としてあがめなさい」という題でお話ししたいと思います。前回のところでペテロは、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(8節)と勧めました。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るなんてできるわけがありません。そこで彼はダビデの詩篇を引用し、「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」(12節)と語り、すべてを主にゆだねるようにと語りました。きょうの箇所はその続きです。つまり、悪をもって向かってくる相手にどのように対処したらよいのかとです。

Ⅰ.義ための苦しみ(13-14)

まず13節と14節をご覧ください。
「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」

この手紙は、ペテロからローマの迫害によって、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビデニヤに散らされ、寄留していたクリスチャンに宛てて書き送られたものです。彼らは圧倒的多数の異邦人社会の中で、また、数は少ないながらもキリスト教に反感を持っていた保守的ユダヤ教徒に囲まれながら、見える形、見えない形のさまざまな圧迫を受けて苦しんでいました。そうした彼らを励ますためにペテロは、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです、と勧めました。そして、ここでは「もしあなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなた方に害を加えるでしょう。」と言っています。どういうことでしょうか。

普通、たとえ人種が違っても、宗教が違っても、良いことをする人は回りの人から認められ、尊敬されます。たとえば、近所の貧しい人々を一生懸命に励ましたり、助けたりしている人は社会からも認められ、尊敬されるでしょう。それはどんな宗教を持っているかということとは関係ないのです。そのような人は、たとい回りの人が攻撃しようとしてもその口実さえも与えないでしょう。たとえ義のために苦しむことがあっても、それは回りの人たちがただ誤解しているだけであって、そのようなことがあるとしたら、それはまさに天において受ける報いが大きいということの保証でもあるわけですから、それは幸いなことなのです。

イエス様は山上の垂訓の中でこのように言われました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」(マタイ5:10-12)

確かにクリスチャンであるということは、多かれ少なかれこうした迫害を受けるということです。IIテモテ3:12には「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。また、ピリピ1:29には、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」ともあります。それがどのような苦しみなのかはわかりませんが、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、多かれ少なかれこうした圧迫を受けるのです。それは、クリスチャンはこの世のものではなく神のものだからです。ですから、そこに何らかの摩擦が生じるのはむしろ当然のことなのです。しかし、そのような迫害にあっても善に熱心であるなら、だれもあなたに危害を加えるようなことはないどころか、むしろあなたを尊敬するようにさえなるのです。ですから、彼らの脅かしを恐れてはいけません。それによって心を動揺させたりしてはいけないのです。あなたが成すべきことは、この世において善に熱心であることです。

皆さんは、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩をご存知だと思います。この詩はある一人のクリスチャンがモデルになっていると言われています。そのクリスチャンとは斎藤宗次郎という人で、岩手県花巻市で最初にクリスチャンになった人です。彼は1877年、岩手県花巻で、禅宗の寺の三男として生まれた。15歳の時、母の甥にあたる人の養子となり、斉藤家の人となります。彼は小学校の先生となり、一時、国粋主義に傾きましたが、やがてふとしたきっかけで内村鑑三の著書に出会い、聖書を読むようになりました。そして1900年に信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになるのです。
彼がクリスチャンになったのは、キリスト教が「耶蘇教(やそ)」とか、「国賊(こくぞく)」などと呼ばれていた時代のことです。クリスチャンとして生きていくことがどれほど苦しい時代であったかわかりません。洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強くなりました。親からは勘当され、以後、生家には一歩たりとも入ることを禁じられてしまいます。町を歩いていると「ヤソ、ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられました。近所で火事が起きた時には、全然関係ないのに家の窓ガラスを割られたこともありました。いわれなき中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めさせられてしまうのです。
迫害は彼だけにとどまらず、家族にまでも及んでいきました。長女の愛子ちゃんはある日、国粋主義思想が高まる中、ヤソの子供と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こし、何日か後に、9歳という若さで主の御元に召されました。その葬儀の席上、賛美歌が歌われ、天国の希望のなかに平安に彼女を見送りましたが、愛する子を、このようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の内なる心情はどのようなものであったか、察するに余りあります。
彼はその後、新聞配達と牛乳配達をして生計を立てました。雪の日には、朝の仕事が終わる頃、小学校への通路の雪かきをして道を作りました。小さい子どもを見ると、抱っこして校門まで走ったと言われています。雨の日も、風の日も、雪の日も休むことな
く、地域の人々のために働き続けました。病気の人がいると聞きつけると、新聞配達の帰りに、病人を見舞い、励まし、慰めました。彼は、「でくのぼう」と言われながらも最後まで愛を貫き通したのです。
その宗次郎が、内村鑑三の勧めで上京することになりました。1926年、住み慣れた故郷を離れ、東京に移る日、‘誰も見送りに来てくれないだろう’と思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、またたくさんの生徒たちが見送りに来ていました。中には神社の神主や僧侶もいました。さらに一般の人たちも来ていて、駅は身動きができないほどでした。それで駅長は停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたほどです。その群衆の中に、実は若き日の宮沢賢治がいたのです。「雨ニモマケズ」の詩は、この時の感動に基づいて、彼の生きざまを書かれたものだと言われているのです。

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも 夏の暑さにも負けず
丈夫な体をもち
慾はなく 決して怒らず
いつも 静かに笑っている
一日に 玄米四合と 味噌と
少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく 見聞きし 分かり
そして 忘れず
野原の 松の林の 陰の
小さな 萱ぶきの 小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って 看病してやり
西に疲れた母あれば
行って その稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って 怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、
つまらないから やめろと言い
日照りの時は 涙を流し
寒さの夏は おろおろ歩き
みんなに 木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい
(宮沢賢治、「雨ニモマケズ」)

この詩の締め括り「そういう者に私はなりたい」とは、宮沢賢治のその思いが込められています。斎藤宗次郎がそれだけ多くの人々に愛されていたのは、彼が普段からしていたことを、周囲の人たちが見ていたからなのです。彼は、人にほめられたいなど、人を基準にして生きていたのではなく、ただ、神を、主イエス・キリストを基準に物事を考え、キリストと同じ思いを感じることができるように変えられていたのです。人々は斎藤宗次郎の内側から醸し出されていたキリストの香りを感じ、彼を通して表されたキリストを見ていたのです。

ですから、彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させてはなりません。もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれもあなたがたに害を加えることはできないからです。

Ⅱ.キリストを主としてあがめなさい(15-17)

第二のことは、キリストを主としてあがめなさい、ということです。15節から17節までをご覧ください。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」

人から脅かしを受けているときに、何も言えないときがあります。ただ我慢するしかないと思う時、ただそのように防御的になるだけでなく、もっと積極的にすべきことがあります。それは、心の中でキリストを主としてあがめることです。キリストを主としてあがめるとはどういうことでしょうか。この「あがめる」という言葉は、原語で「ハギアゾー」という言葉が使われていて、これき「きよめる」ということを意味しています。ですから、直訳としては、「むしろ、心の中でキリストを主としてきよめなさい」となります。キリストをきよめなさいと言っても、キリストはもともときよい方ですから、きよめる必要などありません。では、キリストをきよめなさいとはどういうことなのでしょうか?それはキリストをきよい方として尊びなさいとか、敬いなさいということです。たとえ義のために苦しむことがあっても、彼らの脅かしを恐れたり、心を動揺するのではなく、キリストがすべてを支配しておられることを認めて、信頼しなさいということです。

そればかりではありません。ここには、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。「あなたがたのうちにある希望」とは、1:3にある「生ける望み」のことです。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持つようにしてくださいました。それは朽ちて行くようなものではなく、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともないものです。それは天にたくわえられている資産なのです。私たちは、この資産、永遠のいのちを受け継ぐようになりました。それは私たちにとって最もすばらしい望みではないでしょうか。これこそ本当の希望です。この希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなければなりません。

ペテロはここで、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明しなさい」ではなく、「弁明できる用意をしていなさい」と言っているのは意味深です。私たちは、誰かに悪口を言われた時などそれにすぐに反応して言い返してしまうということがあります。その結果どうなるかというと、争いがおさまるどころかますますエスカレートすることも少なくありません。しかし、悪口を言われてもじっと我慢して、すぐに言い返すのではなく一呼吸おいて静かになると、相手が心を開いてくることがあります。「そんな風に言われてもあなたが穏やかにしていられるのはどうしてなの?」その時、「それはね、イエス様のおかげなの。ほんとうに私はだめな人間で、あなたのように全然立派な人じゃないから、どうしてこうなのかといつも落ち込んでばかりいるのよ。でも、教会に行ってイエス様の話を聞いているうちに少しずつ変えられて、こんな私でも愛されているということがわかると、他の人に何と言われても我慢できるようになったのよ。」と伝えることができます。

いま、さくらで看護学校に通うある青年と聖書を学んでいますが、この方がどうして聖書を学ぶようになったのかというと、実は同じクラスにクリスチャンの友人がいて、その方に自分の悩みを相談したのがきっかけでした。クラスには48人の生徒が学んでいますが、48人もいるといろいろな人がいて、中には「この人どうかな?」と思う人もいるらしいのです。ところが、ある時そのクリスチャンの友人とお話ししていたら、よく話を聞いてくれるので、「どうしてあなたはそんなに優しいの?」と尋ねたら、「別に優しいわけじゃないけど、私、クリスチャンで教会に行っているの。」と答えたのです。「へぇ、それじゃ私も行ってみたい」と、聖書を学ぶようになったのです。

伝道ってこういうことではないかと思います。こちらから一方的に聖書のことを説明するのではなく、むしろ相手の話をよく聞いて、「どうしてなの?」とか「どうしたらそのようにできるの?」と聞いてきた時にさりげなくお話しするのです。それが弁明するということです。そのためには、ここにあるように、いつでも、だれにでも、弁明できる用意をしておかなければなりません。その用意とはよく聖書を学ぶというのは勿論ですが、それを自分の生活にあてはめ、そのみことばに生きるということが大切です。なぜなら、そのようなみことばの実践が大きな裏付けとなるからです。

 そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。それは2:12にあるように、「何かのことで悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになる」ということです。すばらしいことではないですか。

Ⅲ.栄光の主を見上げて(17-22)

第三に、栄光の主を見上げることです。17~22節をご覧ください。17節と18節をお読みします。
「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」

「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです」というテーマは、すでに2章20節でも語られてきました。私たちが召されたのは実にそのためだと、ペテロはそこでキリストの十字架の模範を取り上げ、そのキリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのですと語ったのです。すべての解決はここにあります。私たちの人生のさまざまな苦しみや悩みの解決は十字架にあるのです。ですから、ペテロはイザヤ書53章から引用して、キリストの打ち傷のゆえにあなたがたはいやされたのです、と語ったのです。

そして、彼はここで再びキリストの模範を取り上げています。しかし、ここでは単に、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいということの模範としてではなく、キリストが悪い人々、すなわち私たちのために身代わりとなったのはどうしてなのかという、その目的なり、理由を語っているのです。それは、「肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」どういうことでしょうか?誰に近づくよりも神に近づくことは困難なことです。罪に汚れた人間が、聖なる神の前に出ようものなら、たちまちその場で倒れてしまいます。罪深い人間がこの聖なる神に近づくことなどできないのです。しかし、神の子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことで、その不可能なことを可能にしてくださいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」というインマヌエルの預言が成就したのです。これ以上の喜びはありません。キリストはご自身の苦しみによってその喜びをもたらしてくださいました。それは私たちの模範であり、慰めです。私たちも、神のみこころを行って苦しみを受けることがあるかもしれませんが、そのことがわかったら力が与えられます。悪を行って苦しみを受けるよりも善を行って苦しみを受ける方がよいのです。ペテロはこの決定的で完全な救いという事実こそが、信仰者の人生に起こる様々な不条理に対する解毒剤であり、解決であると言っているのです。

いったいなぜそのような苦しみ起こるのかわかりません。そこでペテロはこれをノアの箱舟の事実によって説明を加えています。19節から21節です。「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」

ここは非常に難解な箇所です。いったいなぜこんなことが書かれてあるのかわかりません。ここではイエス・キリストの苦難がクリスチャンに対する模範であり、慰めであり、究極的な解決であるということが語られているのに、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたとか、ノアの箱舟があらかじめバプテスマを示した型であるといったことが語られているからです。ですから、多くの学者は、この箇所は、後代の人が付け加えたのではないかと考えているほどです。つまり、前後の文脈との関係で書かれてあるのではなく、そうしたこととは全く関係なくここにポッと挿入されたと考えた方がよい、というのです。どうですか?しかし、ペテロがここでこのことを取り上げているのは、やはりそれなりに意味があったからです。それは何かというと、このことを記すことによって読者たちを励まそうとしていたということです。いったいこれがどういう点で励ましになるというのでしょうか。

それは、彼らがあのノアの箱舟によって救われたわずか8人の者たちと同じであるという点においてです。圧倒的多数の異教的社会の中にあって、本当に一握りの者たちでした。でも恐れることはありません。イエス様もおっしゃられました。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32)まさにここで言いたかったことはこのことだったと思うのです。どんな小さな者でも、神は守ってくださいます。それは、昔、箱舟の中で救われたノアの家族のように、です。彼らは大洪水の中を通りながらも救われ、守られました。わずか8人の人々が、箱舟の中にあって水の中を通って救われたのです。ペテロはそれを、この不条理な人生における唯一の支えだと言いたかったのでしょう。

この「水を通る時も救われる」というのは、イザヤ43:2にも出てきます。
「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」
私たちは、「水の中を通らない」とか「火の中を歩かない」というのではありません。水の中をとおった、火の中を歩くような時もあります。しかし、そのような時にも「神はあなたと共にあり」「あなたは押し流されない」「炎はあなたに燃えつかない」のです。これこそが、不条理とも思える苦難の中にあって最大の支えとなり、慰めとなるのです。それほどキリストの救いは完全であり、圧倒的に大きいのです。

ところで、この話はこれで終わっていません。19節と20節の前半のところに、「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」とあるのです。その霊とは、「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。」とある。これはいったいどういうことなのでしょうか。

この箇所は、大きく分けると三つの解釈があります。一つは、これは受肉前のキリストが聖霊によってノアの時代に神を信じなかった人たちに宣教したという考えです。この解釈によると、キリストが捕らわれの霊たちのところへ行ってみことばを語ったのはノアの時代のことであり、十字架で死なれた後、よみへ行かれた時ではないと考えます。

もう一つの考えは、これはキリストが十字架につけられて死んだ後、復活する前に、霊において生かされて、よみへ下り、捕らわれている人たちにみことばを語ったとするものです。この説によると、キリストがよみ下ったことを受け入れます。そして、捕らわれの霊たちにみことばを語られましたが、問題はそのみことばとはどのようなみことばであったのかということです。ある人たちはそれを4:6のみことばとの関連で福音のことばと解釈し、ノアの時代に悔い改めなかった人々、すなわち、捕らわれた霊たちのところに行って、福音を宣べ伝えた、と言います。ということは、死んだ後でも救われるチャンスがあるということになります。死んだ後でも福音を聞くチャンスがあるわけですから。こういうのをセカンドチャンス論と言います。死んでからでも救われるチャンスがあるという考えです。しかし、死後に救いのチャンスがあるという考えは聖書全体の教えから見ても困難です。たとえば、イエス様はラザロと金持ちの話をされましたが、生きている間に神を信じなかった金持ちは、死んで後悔い改める機会がなかったばかりか、彼の兄弟がそのような辛い思いをすることがないようにラザロを私の父の家に送ってくださいと言ったとき、アブラハムは何と言いましたか?アブラハムはこう言いました。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」(ルカ16:28)
彼らにはモーセと預言者、つまり聖書があります。その言うことを聞くべきです。それを聞かないなら、どんなことがあっても信じることはありません。
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)なのです。したがって死んでから救われるということはありません。

ではこれはどういうことでしょうか。そこである人たちはこのように解釈します。つまり、キリストが十字架で死なれ、よみに下られ、キリストの福音を信じなかった人たち、すなわち、捕われの霊たちのところへ行ってみことばを語りましたが、そのみことばは救いのことばではなく、さばきのことばであったというものです。キリストは彼らのところに下って行き、救いの勝利を宣言されたというのです。というのは、喜びの訪れを伝える場合、ギリシャ語では「ユーアンゲリゾウ」という言葉を用いますが、ここでは単にみことばを告げ知らせるという意味の「ケリグマ」が使われているからです。そしてその後のところにキリストが復活され、天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座に着かれたとあるのも、このことを証明していると言えます。

ですから、これはキリストの勝利の宣言なのです。キリストは私たちの罪の身代わりとなって死に渡されましたが、三日目によみがえり、天に昇られ、神の右の座に着座されました。キリストは圧倒的な勝利者なのです。この栄光の主が、私たちとともにおられるなら、たとえ不条理と思えるような状況に置かれていたとしても、私たちはキリストが死から復活して神の栄光の座に着いたように、やがて神の栄光を受け継ぐ者となるのです。

であれば、それでもう十分ではないでしょうか。私たちに求められているのは、私たちがどのような状況に置かれていても、私たちの心の中でこのキリストを主としてあがめることなのです。義のために苦しむとき、あなたは何を見ておられますか。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させてはなりません。あなたが見つめなければならないもの、それはあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、神の右の座に着かれた栄光の主イエス・キリストです。この主を見上げるとき、どんな苦しみにあってもあなたは勝利することができるのです。ですから、信仰の勝利者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。この主を見上げること、それがあなたの勝利の力なのです。

Ⅰペテロ3章8~12節 「祝福を受け継ぐ者」

 きょうは、「祝福を受け継ぐ者」というタイトルでお話ししたいと思います。ペテロは、異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさいという勧めを、それぞれの立場の人たちに具体的に勧めてきました。きょうのところには、こうした具体的な勧めのまとめとして、どうすれば祝福を受け継ぐことができるのかを教えられています。

Ⅰ.心を一つにし(8)

 まず8節をご覧ください。
「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」

「最後に申します」の「最後に」とは、2章11節以降語られてきたことを受けてのことです。ペテロは、神の民とされたクリスチャンはこの地上でどのように生きていくべきかというテーマに対して、この地上にあっては旅人であり寄留者であるのだから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけ、異邦人の中にあっても、りっぱにふるまいなさい、と勧めました。そして、その具体的な内容が「従いなさい」ということだったのです。人の立てたすべての制度に、主のゆえに従うように。また、主人に対しては、尊敬の心を込めて服従するように。それは善良でやさしい主人に対してだけではありません。横暴な主人に対してもそうです。同じように、妻たちも、夫たちも、互いに服従しなければなりません。それはすべての人に言えることなのです。ですから2章17節には、「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」とあるのです。こうした内容を受けて、ペテロが最後に勧めていることが、これなのです。

ペテロはまず、「あなたがたはみな、心を一つにし」と言っています。心を一つにするとは、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにすることです。教会が主を愛し主に仕えるとき、それと同じ方向を向くことなのです。いったいどうしたら同じ方向を向くことができるでしょうか。ここには、そのために四つのことが挙げられています。それは同情し合うこと、兄弟愛を示すこと、あわれみ深くあること、そして謙遜であることです。自然に一つになることはありません。私たちはみなそれぞれに思いがあり、考えがありますから、その思いや考えに従っていたらいつまでたっても一つになることはできません。私たちが一つになるためには互いに同情し合い、互いに兄弟愛を示し、互いにあわれみ深く、互いに謙遜にならなければなりません。ここで「互いに」と言ったのは、私たちは一人では神の神のみこころを行うことはできないということです。一人で静かに神との交わりを持つことは大切です。しかし、神のみこころは、私たちが互いに愛し合うことなのです。そのためには他の兄弟姉妹との交わりは欠かせません。だから教会があるのです。神のみことばを実践する場として、神は教会を与えてくださいました。私たちは互いを必要としているのです。私たちは教会を通して共に主を礼拝し、共に祈り、共に交わり、共に仕えるのです。そこにはいろいろな性格の人やいろいろな考えの人がいますから、必ずしも自分の思うようにはいかずしばしば苦悩することもありますが、神はこの教会を通してご自分のみこころを成し遂げようとしておられるのです。そして、そのような問題を乗り越える力も与えておられます。それが御霊の一致です。

ピリピ人への手紙2章1~3節をご覧ください。
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされているように、あなたがたは同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」
これは使徒パウロの言葉ですが、パウロはどうしたら心を合わせ、志を一つにすることができると言っているでしょうか?キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、です。これは自分の意志によってできることではありません。キリストにある励ましとキリストにある慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみがあるなら、です。だからパウロはここで、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者となりなさい。」と言っているのです。自分の考えに固執していたら、いつまでたっても一つになることはできません。ですから、私たちの一致は人間的なものではなく、キリストに従い、キリストの愛と慰めによってもたらされる御霊の一致なのです。そのとき初めて同じ方向を向くことができる。それがへりくだるということなのです。

ペテロはここで同じことを言っています。心を一つにするということは全体が一つにまとまるように体裁を整えるということではありません。それは互いに同情し合い、互いに愛し合い、互いに共感し合い、互いに尊敬し合うという御霊の一致によってもたらされるものなのです。相手に同情するとき、その人と心を一つにすることができます。兄弟姉妹として愛するときも同じです。人はだれでも完全ではありませんので、時として嫌だなぁと思うこともあれば、受け入れられないこともありますが、それでも神のみこころに従って同情し、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜であるなら、その人と一つになることができるのです。

「そんなことできません。私は嫌です。私にはできません。私は自分の信念に従って決めるのであって、決して人の言いなりにはなりません。」皆さん、どうですか?このような人の問題は、いつも自分が中心であることです。神のみこころがどうであっても自分の思いや考えに従っているかぎり、何の解決も生まれてきません。このような態度ではいつまでも心を一つにすることはできないばかりか、神からの祝福も失ってしまうことになります。それは、自分がどのような者であるのかという根本的な理解が欠如していることに起因しています。ですからペテロは2章9節と10節のところでこのように言っているのです。皆さんで読んでみましょう。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

ペテロがこのように語るのは、この御言葉に基づいているからなのです。すなわち、私たちはどのような者なのか、そうです、私たちは神の所有とされた民です。私たちの古い性質はキリストとともに十字架につけられました。もはや私たちが生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きているのです。いま私たちがこの世に生きているのは、私たちを愛し私たちのために命を捨ててくださった神の御子を信じる信仰によっているのです。これは、私たちは神の所有とされた民であるということです。神の民、神のしもべ、それがクリスチャンです。しもべは主人に従います。ですから、神のしもべであるクリスチャンは神に従うのです。それをしたくないと言うなら、それは園人の信仰の理解に問題があるのか、そもそも罪から救われるということがどういうことなのかを理解していないからなのです。私たちが神の所有とされた民であるのなら神に従うのが当然であって、私たちがどのように思うかとか、どのように考えているかは関係ないのです。私たちが神の御言葉に従って互いに同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜であるなら、心を一つにすることができる。それが神からの祝福を受け継ぐ者なのです。

Ⅱ.かえって祝福を与えなさい(9)

次に9節をご覧ください。ここには、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えるということは、パウロも言っています。ローマ人への手紙12章17節には、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」とあります。また、それはイエス様ご自身の教えでもありました。少し長いですが、マタイの福音書5章38~45節をお開きください。
「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」とか、「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」といったことは、なかなかできることではありません。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、というのは頭ではわかってもいざ実行に移そうとしたら簡単なことではありません。

アメリカにラインホルト・二―バーという神学者がいますが、彼はこれを現実の世界で実践することには無理があると言っています。そんなことをしたら家族は守れないし、国は滅びてしまいます。神の国が完成していない今の世界にあっては、これは理想論にすぎず現実的には不可能なことなのだから、その理想をそのまま現実の社会の中で実践することはできない、というのです。どうでしょうか?

それに対して、ハワード・ヨーダーという神学者は、聖書の教えは、私たちがそれをどのように受け入れるかということ以上に、イエス様と弟子たち、そして初代教会の人たちが、それをどのように受け止めていたのかをまず第一に考えるべきだ、と言いました。つまり、イエス様やペテロが、「悪に対して悪に報いず、侮辱に対して侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」と言われたとき、それをどのように受け止めていたのかを考え、それを実際に受け止めるということです。それは理想論ではなくて、現実的なリアリティーをもったテーマとして、当時の初代教会の人たちがきちんと受け取っていたように受け止めるということです。確かにこの世の現実という問題はありますが、あくまでも私たちの現実に聖書を合わせるのではなく、聖書の教えに私たちの現実を合わせていかなければならない、というのです。

それを実践した人がいます。私の手元に「闇に輝くともしびを継いで」(Take the torch shining in the Dark)という本がありますが、これを読んでとても感動しました。これはスティーブン・メティカフ(Stephen A. Metcalf)というイギリス人宣教師が書いた本です。彼は1952年にOMFの宣教師としてイギリスから来日し38年間日本で宣教活動を続けられました。そして、1990年に母国に帰国されました。彼は青森を中心に5つ6つの教会を開拓されました。私も開拓伝道者のはしくれとして、開拓伝道の厳しさを知っている者ですが、東北地方の端のような所で教会を建て上げることは並大抵のことではなく、相当のご苦労があったかと思いますが、メティカフ先生は、それを実践されました。いったいどこからそんな宣教のスピリットを得ておられたのでしょうか。
それは、あの映画「炎のランナー」のモデルとなったエリック・リデルとの出会いによるのです。エリック・リデルは、1924年に行われたパリオリンピックで男子100メートル走の代表に選ばれていながら、その予選がどうしても日曜日の午前中にあたる、自分はどうしても神様を礼拝したいということで、代表を辞退しました。そして代わりに400メートルリレーのアンカーを走り、イギリスに金メダルをもたらすのです。彼は最下位でバトンを受け取って、なんとトップに躍り出て優勝したのです。これは実話です。
一躍ヒーローとなった彼は、すべての陸上競技を捨てて、ハドソン・テーラーとともに、中国の奥地に福音を伝えるために、宣教師となって生涯をささげるのです。しかし、太平洋戦争がはじまり、妊娠中の妻と二人の娘を母国に戻し、残務処理をするために一人残っていたところを日本軍につかまり、上海の日本軍の強制収容所に入れられました。しかし、エリック・リデルはその収容所でも聖書のクラスを開いていました。そこにいたのが当時14歳だったメティカフ少年だったのです。宣教師の子どもたちが学んでいた学校の生徒であったメティカフ少年も同じ収容所に入れられ、共に暮らすようになり、エリック・リデルが教えるその聖書のクラスで学んでいたのです。
そして「山上の垂訓」を学んでいたときに、少年たちから質問が出されました。「『汝の敵を愛せよ』とキリストは言っているが、そんなことは実際にできっこない。これは単なる理想なのではないか?」彼らにしてみたら、その時の敵とは自分たちを散々いじめていた日本兵でした。するとリデルは微笑みながらこのように言いました。「ぼくもそう思うところだったんだ。だけど、この言葉には続きがあることに気が付いたんだよ。『迫害する者のために祈りなさい。』ってね。・・イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だから君たちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、君たちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りは君たちの姿勢を変えるんだ。」そういうリデル自身、毎朝早く起きて日本と日本人のために祈っていました。リデルは脳腫瘍で間もなく収容所で亡くなりますが、しかし、メティカフは、その墓前で、リデル先生が残した仕事をするために「宣教師になって日本へ行く」という決意をするのです。そしてハドソン・テーラー宣教団体に入り、やがてOMFの宣教師として来日、1953年から38年間、日本人のために伝道し、神様の愛を伝えたのです。彼の人生を変えた言葉、それは「祈るとき、君は神中心の人間になる。祈りは君の姿勢を変える」という言葉だったのです。

だから、不可能ではないのです。聖書の教えに自分の現実を合わせていくことができるのです。祈るなら神中心の人になることができる。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。私たちが神の言葉である聖書に自分を合わせていくのなら、私たちも神の人に変えられるのです。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えることができる。

いったいなぜクリスチャンは悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなければならないのか、ペテロはその理由を次のように言っています。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」どういうことでしょうか。これは三つの意味に捉えることができると思います。

一つは、私たちは祝福を受け継ぐように召されているということです。だから、どんなことがあっても祝福されるということです。たとえ敵が私たちに悪意をもって向かって来ようとも、たとえ敵が私たちを侮辱するようなことがあっても、神が私たちを守り、助けてくださいます。私たちは祝福を受け継ぐために召されているのだからです。私たちがすべきことは悪をもって悪に報いることではなく、侮辱をもって侮辱に報いることでもなく、かえって祝福を与えることです。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなのです。

第二のことは、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えることによって、その祝福が倍になって返ってくるという解釈です。悪に対する報復は何も生み出しません。生み出すものがあるとしたら、それは悪意の増幅です。しかし、祝福を祈るとき、その祝福は悪を行う者に注がれ、それが自分自身への祝福となって跳ね返ってくるというのです。

しばらく前に「倍返し」という言葉が流行になりました。「やられたらやり返す。倍返しだ!」これはドラマ「半沢直樹」の名言というか、決めセリフで、2013年の流行語大賞になりました。なぜこのセリフが人気あったのかというと、スカッとするからでしょ。やられたらやり返す、いや、倍返しにしたら、どれほどスカッとすることか・・。しかし、実際にはできないのです。やられたらやられっぱなしです。ですから、あのドラマのように倍返ししている人を見ると、気持ちがスカッとするわけです。みんなそうなんだと思いますよ。でもそんなことをしたらどうなるのかもわかっている。だからできないわけです。だからいつも心がムズムズするのです。そして赦せないという気持ちでいっぱいになり、だんだん暗くなっていく。だからそこには何の解決もありません。悪に対して報復しても何も良いものは生まれてこないのです。ではどうしたらいいのでしょうか。かえって祝福を与えるのです。なぜなら、あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。そのように祝福を与えることによって、その祝福が倍になって返ってくる。祝福の倍返しです。

第三に、私たちには祝福するという使命が与えられているということです。召命という言葉を聞くとき、私たちは自分にはどのような召しが与えられているのかと悩むことがありますが、そのような思いはとかく、自己実現のような、自分自身の可能性を求めるものになりがちです。けれども、聖書は、何のために私たちを召してくださったのかを、はっきりと書いています。それは「祝福を受け継ぐため」、「祝福を与えるため」です。皆さん、私たちは何のために召されたのでしょうか。祝福を与えるためです。皆さんはどのように祝福を与えているでしょうか?神様から呼びかけられているのは、「ほら、あそこにいる人を、祝福しなさい」「ここにいる人を、祝福しなさい」ということであって、呪うことではありません。

それはアブラハムの生涯を見るとわかります。創世記12章1~3節には、「主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」とあります。
いったいアブラハムは何のために召されたのでしょうか。それは祝福の基となるためです。地上のすべての民族は、彼によって祝福されるのです。そのために召されたのです。同じように、私たちもそのために召されました。地上のすべての民族はあなたを通して祝福されるように、あなたは召されたのです。それは正確に言うと、あなたの信じた救い主イエス・キリストを信じることによってという意味です。あなたは祝福するために召されたのであって、のろうためではありません。どうしたら悪をもって向かってくる相手を祝福することができるのでしょうか。たとえ相手が悪をもって向かってくるような人であっても、尊敬の心をもって従い、その人の上に神が働いてやがておとずれの日に神をほめたたえるように祈ることによって、祝福を与えることができるのです。私たちはそのために召されているのです。そのことを信じ、従う者でありたいと思います。

Ⅲ.すべてを神にゆだねて(10-12)

第三のことは、すべてを神にゆだねましょう、ということです。10節から12節までをご覧ください。ペテロは、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐだめに召されたのだからです。」ということを説明するために、旧約聖書の言葉を引用して、次のように言っています。
「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

これは詩篇34篇からの引用です。ここで、その詩篇34篇を開いてみたいと思います。ペテロが引用しているのは詩篇34篇12~16節の部分です。冒頭に表題がありまして、そこには、「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が狂ったかのようにふるまい、彼に追われて去ったとき」とあります。ダビデはサウル王の嫉妬と悪意によって殺されかけ王宮を追われ、国外での逃亡生活を余儀なくされました。その逃亡生活の中で、ダビデがペリシテ人の王アビメレクのもとに逃げ込むと、彼がサウル王のもとから逃げて来たことが分かり、アビメレクはダビデを殺そうとしました。そのときダビデはどうしたかというと、気が狂ったふりをしたのです。口からよだれを垂らして泡を吹き、気がくるっているかのように振る舞いました。(Ⅰサムエル21:13)サウル王に王宮を追われたことも屈辱であれば、追われた先で再びいのちを狙われ、その難を逃れるために気が狂ったふりをしなければならないことはもっと惨めです。しかし、そのような苦しみの中から助け出されたとき、彼はこのように主を賛美しました。6~10節です。
「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」
ダビデは自分のことを「悩む者」と呼んでいます。その悩む者が呼ばわったとき、主は聞いてくださいました。こうして主はすべての苦しみから彼を救ってくださった。彼は、主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出されるということを確信し、この主のすばらしさを味わい、これを見つめよ、と歌ったのです。若い獅子も乏しくなって飢えるが、主を尋ね求める者には、良いものに何一つ欠けることはない、と神を賛美したのです。つまり、どんなに周囲から非難されても、悪意を向けられても、呪われても、批判されても、神様は私を愛し、私を守ってくださるがゆえに、この主に身を避けると賛美したのです。

私たちの人生においても、ものすごい失望と屈辱を味わうような時があります。しかし、それでも、悪に悪をもって報いたり、侮辱に侮辱をもって報いたり、人間的な方法で打って出ないのは、神様が私を守ってくだるという確信があるからです。私たちはそのように召されているからです。どんなことがあっても神は私を助け、私を祝福してくださるということがわかっていれば、そうした失望や屈辱を味わうようなことがあっても、それを乗り越えることができる。いや、そうした相手さえもかえって祝福することができるのです。

ダビデは、この経験に基づいて、悪をなす者に対して悪をもって報いず、神にすべてをゆだねることを学びます。それが13~16節の言葉です。
「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」

私たちは時に、悪口を言う者に対して、実際、直接に言い返した方が効果的のある場合もあります。しかし、多くの場合、それを行うとき、私たちの中にある怒りや苦々しさといった感情が入ってしまい、冷静に言えないものです。そしてかえって人間関係を悪くするのが落ちです。ですからダビデは、「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。」と言っているのです。言葉を慎むことを学び、「主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」と言って、そのさばきを神にゆだねるようにと語るのです。ペテロがダビデを引用した狙いはここにあったのです。

私たちはその人生の中で、色々な人とぶつかります。すべての人が自分のことをよく思ってくれるのであれば良いのですが、そういう人はめったにいません。私たちのことをよく思っていない人がいれば、直接悪意をもって向かってくる人もいます。しかし、私たちはそんな人に対しても、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えることができます。なぜなら、私たちは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対することができるでしょうか。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)
私たちは神に深く愛されているのです。どんなことがあっても神はあなたを助け、あなたを守ってくださいます。なぜなら、あなたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。それゆえ、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねましょう。神があなたがたのことを心配してくださいます。あの人が祝福されるなんて許せない、などといったケチをつけずに、かえってその人の祝福を祈りましょう。それが、あなたが祝福を受ける道なのです。

Ⅰペテロ3章1~7節 「妻たちよ、夫たちよ」

 きょうは、「妻たちよ、夫たちよ」というタイトルでお話ししたいと思います。ペテロは、異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさいと勧めましたが、その具体的な一つのことは、人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい、ということでした。それが主権者である王であっても、また、王から遣わされた総督であっても、です。

それはまた、当時の奴隷制度においても同じでした。18節には、「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。」とありましたね。それが「善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても」そうです。

また、それは結婚関係においても同じです。3章1節には、「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」とありますし、7節には、「同じように、夫たちよ。」とあります。この「同じように」というのは、これまで語られてきたことと同じようにということです。クリスチャンが異邦人の社会において王や主権者に従うように、また、しもべたちが、自分の主人に従うように、夫婦関係においてもそれぞれ自分の夫に、自分の妻に従いなさい、というのです。

Ⅰ.妻たちよ(1-2)

 まず、妻に対して勧められていることから見ていきましょう。1節と2節をご覧ください。1節には、「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」とあります。

ここでペテロは妻たちに、「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」と言っています。市民が主権者である王や総督に従うように、あるいは、しもべが主人に従うように、妻は夫に従いなさいというのです。冗談じゃない!!夫が自分に従うというのならわかるけど、自分が夫に従わなければならないなんて、何とも古めかしくて聞いていられない、という方もおられるかもしれません。エペソ人への手紙5章22~24節を見ると、パウロも同じように勧めていることがわかります。
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」

ここでは、夫が妻のかしらであると言われています。キリストが教会のかしらであって、教会はどんなことでもキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきである、というのです。ですから、これはペテロだけが言っていることではなく、パウロも言っていることであり、聖書全体が教えていることなのです。ウーマンリブ運動が盛んになって以来、このような教えはあまり魅力がないというか、受け入れられなくなってしまいました。男女は平等であって、女が男に従わなければならないとか、妻が夫に従わなければならないというのはおかしい!と言うのです。だからでしょうか、リビングバイブルでは、もっと柔らかい口調で訳されています。「妻は夫に歩調を合わせなさい」となっています。また、J.B.フィッリプス訳では「夫に順応しなさい」と訳しています。しかし、これは「歩調を合わせる」とか、「順応する」ということではないのです。もしそのように訳するのであれば、この2章13節以降の内容もすべてそのように訳さなければなりません。「人の立てたすべての制度に、主のゆえに歩調を合わせなさい。」どうですか、変でしょう。しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に順応しなさい。」変です。これは「従いなさい」と訳さなければならない言葉です。「歩調を合わせなさい」とか、「順応しなさい」というのは、いかにも聞き触りのいい言葉ですが、それがどんなに聞き触りのいい言葉であっても、それは「従いなさい」ということであって、聖書が一貫して教えていることなのです。

では、夫に従うとはどういうことなのでしょうか。ある奥さんがご主人に聞きました。「あなた、従うってどういうこと?」すると夫は答えました。「ひとかけらの抵抗もないことだ。」これが従うということです。「従えばいいんでしょう、従えば!」と大声を上げながらすることではありません。

それはこの「同じように」という言葉からもわかります。「同じように」とは、これまで勧められてきたことと同じように、という意味です。市民はどのように王や主権者に従うようにと言われていたでしょうか。人の立てたすべての制度に、主ゆえに従いなさい、ということです。これには従うけれど、これには従わないということではなく、すべての制度に従うのです。勿論、それが神のみこころに反することであるなら、その限りではありませんが・・。ですから、「あなたがたは自由人として行動しなさい。」と言われていたのです。しかし、このようなことは稀にしかないことです。つまり、私たちは主が敵をも愛したように、この世の主権者に対してすべてにおいて従わなければならないのです。

また、2章18節にはしもべに対して、このように勧められていました。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」と。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばしいことです。イエス様もそのようにされました。イエス様はその模範を残されたのです。「同じように」です。ですから、ここでも、「たとい、みことばに従わない夫であっても」と言われているのです。そのように従わなければなりません。

柿谷正期先生が、「しあわせな夫婦になるために」という本を書いておられますが、その中で先生は、夫に従うということがどういうことなのかを、次のように言っておられます。
「夫に従うというのは、「主に従うように」と記されているように、キリストに従うような従い方が要求されているのです。仮にキリストが「花子。仕事を辞めなさい」と言われたら、クリスチャン女性はそれに従うことでしょう。たとえもう少し仕事を続けていたいという気持ちがあったとしても、です。同じように夫が、「花子。仕事をやめてほしい」と言った時、「はい」とそれに従うことが求められているのです。何も話し合ってはいけないということではありません。しかしやめることが夫の最終的意志だとわかったら、それに従うことです。このような従い方ができたら夫婦関係に変化が起こること間違いなしです。
「夫は妻のかしらである」とはどういうことでしょうか。夫が王様ぶって妻を使用人のように扱うことではありません。民主主義のルールで説明すれば次のようになります。夫にも妻にも一票ずつの投票権があるが、夫がかしらということは、夫にはさらに議長権があるということです。仮に台所の壁紙を何色にするかということで夫と妻が話し合っているとします。妻は落ち着いたグリーンがいいと言います。夫はピンクがいいと言っています。ここで賢明な夫ならこう考えます。「台所仕事するのは僕じゃない、彼女だ。だったら壁紙も妻の言う通りグリーンにしよう。」ここでグリーンが決まるわけです。
しかし賢明でない夫も時にいるものです。賢明でない夫はどうしても「ピンク」を主張し、議長権を行使して2対1でピンクが決定します。すると従うことが求められている妻は、ピンクをまるで自分が選んだ色かのように受け入れることです。台所に立ちながら、「このピンク野郎!」などと思わないことです。
しばらくすると、ピンクに飽きた夫が言うかもしれません。「台所の壁紙、何か別の色にしようか。」この時、待ってましたとばかりに、「だからあなた、言ったでしょう!」と言ってはいけないのです。自分がピンクを選んだかのように応答することです。」

わかりやすい例だと思います。夫に従うというのは、それがたとい自分の意志ではなくても、主のみこころに反しない限り、それを自分の意志であるかのように受け入れることなのです。

いったいなぜ妻は夫に従わなければならないのでしょうか。1節の後半から2節にかけて、その理由が書かれています。「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるからです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」

みことばに従わない夫であっても、というのは、未信者の夫であってもという意味です。当時の教会も、今日の日本の教会のように、女性が先に信仰を持つというケースが多かったようです。するとクリスチャンになった妻が取りやすい行動は、未信者の夫を何とかして救いに導こうと、必死に伝道することです。部屋の至るところにみことばを貼ったり、車の助手席で永遠に夫に証をしたりします。面白いことを聞いたことがあります。実際にクリスチャンになった奥さんが、車を運転している旦那さんに証をしていたら、その旦那さんは顔を横に向けながら、目だけが前方を向いて運転していたそうです。夫は聞きたくないのです。クリスチャンになると真理がわかってくるので、だんだん夫が無能に見えてくることがあります。するといつしか夫を見下げた態度を取りやすいのです。そのような態度ではいくら「教会に行きましょう!」と誘っても決して来てくれることはありません。なぜなら、夫はそんな妻に負けたくないからです。しかし、みことばにあるように、夫を敬い、夫に従い、夫に仕えるなら、逆に夫の方からこう言ってくることでしょう。「妻をこんなに変えた教会が、どんなところか一度行ってみたい」と。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

善良でやさしい夫に従うことは何の抵抗もないでしょう。鼻歌でも歌いながら喜んで従うことができます。しかし、みことばに従わない夫に従うことは、時に涙することもあります。それでも聖書は「従いなさい」と言うのです。「こんな横暴な夫に従っていたら家庭がめちゃくちゃになる」と心配される方もおられるかもしれません。しかしそのような夫であっても従うなら、そのようなあなたの、神を恐れかしこむ清い生き方を見て、あなたの夫も神のものとされるようになるのです。

それは、「夫が何かを盗んでこいと」言うことに従うことではありません。夫の要求することが聖書の要求することと対立する時は、あくまでも人に従うよりも神に従うべきですという原則が適用されます。しかし、このような極限の状況は、そうめったに起こるものではありません。

Ⅱ.サラの子となるのです(3-6)

 次に3節から6節までをご覧ください。3節と4節をお読みします。
「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」

ここでペテロは、「神を恐れかしこむ清い生き方」とはどのようなものなのかを説明しています。それは神を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにすることです。

「柔和で穏やかな霊」とはどのような霊のことでしょうか。英語のN.I.V.では「gentle and quiet spirit」(優しく静かな霊)と訳しています。また、K.J.V.では「meek and quiet spirit」(謙遜で静かな霊)と訳しています。つまり、ヒステリックでなく、怒りっぽくなくということです。たまに、ひとこと言うと、10倍くらいにして言い返してくる方もいます。箴言21章9節には、「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。」とあります。怒ったり、争ったりするのではなく、柔和に穏やかに接するのです。生まれつき穏やかで控え目な方もいます。しかし、これは御霊が与える人格的な実です。なぜなら、ガラテヤ5章22、23節に、「御霊の実は、愛、喜び、平安,寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあるからです。神を知れば知るほど、神に従えば従うほど、このような御霊の実を結ぶようになるはずですし、そのようになりたいものです。実際長年主に従ってきた婦人たちの多くは、どこか品があるというか、やっぱりこの世の女性とは違うなぁと感じます。それは、本当に価値あるものは何かを求めて歩んでこられた結果と言えるでしょう。

5節と6節をご覧ください。ここには、そのように生きた一つの例として、アブラハムの妻であったサラについて取り上げています。
「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。」

いったいなぜペテロはここでサラのことを取り上げているのでしょうか。文語訳ではここを、「神に望みを置きたる清き女たち」と訳しています。その代表としてサラのことが取り上げられているのは、やっぱり彼女が忍耐をもって夫に従った妻の模範であったからだと思います。

 サラは夫に対してずっと忍耐してきました。アブラハムが、神から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。」と召しを受けたとき、彼女は、夫に従ってカルデヤのウルからカナンに向かって引っ越しました。この時アブラハムは75歳、サラは65歳でした。当時、ウルと言えば大都会です。それがわけのわからない田舎に引っ越すと言われたらどうでしょう。「あなた、何歳だと思っているんですか。勝手にしてください。私は行きませんからね。」と言うでしょう。しかし、彼女はそんなことを言わないで、黙ってアブラハムについて行きました。アブラハムは「あなたの生まれ故郷とあなたの家を捨てて、わたしが示す地に行きなさい」と神様に言われた時彼に問われたのは信仰だったかと思いますが、サラに問われたのは、もしかしたら忍耐だったのかもしれません。

 そして、約束されている子どもがなかなか与えられなかった時、彼女は諦めていました。そして、自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与え、彼女との間に子どもをもうけました。イシュマエルです。それはサラにとっては、きっとものすごく屈辱的で苦しい出来事だったに違いありません。しかも生まれたイシュマエルが後に生まれた自分の息子イサクをいじめるのを見ていると、苦しくて、苦しくてたまらなかったでしょう。実にサラの人生は複雑でした。それでも、彼女は忍耐しました。神に望みを置いて生きたのです。時にはその苦しみを夫にぶつけることもありました。すると夫もまた忍耐して彼女をなだめたりしました。実に、夫婦生活というのはこんな感じですね。気持ちにズレを感じながらも、互いにフーフー言いながらじっと忍耐する。それが夫婦なんです。

 35年間仲の良い夫婦がいました。妻は結婚して以来毎朝毎朝、夫が好物だと思っていたグレープフルーツを出していました。ところが35年目のある朝、グレープフルーツが冷蔵庫の中に入っていないのに気づきました。買ってくるのを忘れてしまったのです。これだけは忘れまいと、35年間頑張ってきた妻は主人に謝りました。
「あなた、ごめんね。グレープフルーツを出せなくて」
するとご主人は素っ気なく言いました。「いいんだよ。気にしなくてもいい。僕は、そもそもグレープフルーツはあまり好きじゃない」
 夫婦ってこんな感じじゃないですか。悪いと思ってなかなか自分の気持ちをストレートに言えないこともあります。35年間じっと忍耐してグレープフルーツを食べ続けているということがあるのです。これが夫婦の何とも言えない複雑さで、二つの人格がすれ違うというか、ま、人生の悲哀と言えばいいのか、時にはおかしくなるほど、私たちはやっぱりどこかですれ違っているんですよね。

 ペテロはそんなどこにでもあるサラの人生を振り返りながら、心に留めたことは、それでも神に望みを置いて、忍耐して生きた敬虔な妻としての姿だったと思うのです。確かにアブラハムは信仰の人でしたが、彼女にとってはついていくのが一苦労で、「もうこれ以上は無理です」と弱音を吐いてもおかしくなかったのに、「あなたはなんて人の気持ちがわからない人なんでしょうか」と思うようなことがあっても、アブラハムを「主」と呼んで彼に従ったのです。「主」とは「主人」という意味です。

皆さんは自分のご主人を何と呼んでいるでしょうか。名前で呼ぶこともあれば、「うちの旦那」と呼ぶこともあるでしょう。ひどいのになると「うちのあれ」とか「うちのこれ」とか言うのを聞くことがあります。でもサラは違います。サラはアブラハムがそんな夫であったにもかかわらず、「主人」と呼んだのです。「ご主人」なんて呼んだら、何だか自分が奴隷みたいで嫌だと言う方もおられるかもしれませんが、ま、そのように呼ぶかどうかはともかく、そのような気持ちで敬っていたということです。ペテロはサラのそのような態度を評価したのです。彼女にもずいぶん人間的な面もありましたが、しかし、そのような中にあっても、神に望みを置き、忍耐して生きました。自分の内側を飾って、夫に従いました。それこそ妻の鏡です。そして、あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。

「どんなことでも恐れないで善を行えば」というのは、このように生きることには恐れが生じることもあるということです。どんな恐れがあるでしょうか。回りの人たちからあまり理解されずに苦しむことがあるかもしれません。このように柔和で穏やかに振る舞っていると嫌味を言われたり、いじわるされたり、脅かされたりすることもあります。あるいは、こんなに頑張っているのに、それがなかなか夫に届かないというもどかしさもあるかもしれません。それでも恐れないで、忍耐しつつ、善を行うなら、あなたもサラの子となるのです。サラのように心の中の隠れた人柄を飾りとする敬虔な人となるのです。

Ⅲ.夫たちよ(7)

最後に、夫たちに勧められていることを見ていきたいと思います。7節をご覧ください。
「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

夫に勧められていることは非常に少ないです。妻に対しては6節も使って勧められているのに、夫に対してはたった1節だけです。不公平ではないですか。もっと言ってください、夫はこうあるべきだとか、こくこくと説得してください・・、というのが妻の本音ではないかと思いますが、夫にはこれだけでいいのです。なぜなら、夫は単純だからです。どういう意味で単純なのかというと、まず脳の仕組みが違います。女性は左脳と右脳を結ぶ、海馬というのが男性よりも太いそうです。この海馬が太いとどうなるかというと、海馬というのは情報を伝達する役割を果たすのですが、それだけたくさんの情報を右脳から左脳に、左脳から右脳に伝達することができるということなのです。ピッ、ピッ、ピッと絶えず伝達しているから忙しいのです。ですから、女性は一度にいろいろなことが考えられるし、同時にいろいろなことができるのです。テレビを見ながら洗濯物をたたみ、こどもと会話ができます。これはすごい能力です。歯を磨きながら洗濯をし、食洗機の食器を片付けることができます。すごい能力です。男性にはできません。男性はこの海馬が細いので、一回に一つのことしかできないのです。男性は一度に複数のことを行うのは苦手なのです。魚を焼いて、味噌汁の鍋をかける。そしてフライパンで何かを揚げていると、フライパンと味噌汁に集中するので、魚が焦げてしまうのです。「あっ、魚焼いていたんだ」と気付く頃には真っ黒くなっています。しかし、男性は、一つのことに集中できるという長所があります。一度にたくさんの情報が飛び交うということがないので、パニックになりにくいのです。しかし、女性は一度にいろいろなことができますが、あまりにもたくさんの情報が飛び交うので、パニックになりやすいという欠点があるのです。ま、いい意味で気が付くのですが、悪い意味では混乱しやすいということです。でも男は単純だからそんなにたくさんいらないのです。夫に対して勧められていることはこれです。

「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」

ここで重要なのは、妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい、ということです。ここに、「自分よりも弱い器だということをわきまえて」とあります。「えっ、本当に弱いの?」と疑問に思う方もおられるかもしれません。女性は子供を産むときにあれだけの痛みに耐えられるのだから、肉体的にも強いのではないかと思うかもしれませんが、そうではないのです。最近では女性の社会進出も大きく取り上げられ、男性を頼らなくても生きていける時代です。職場においても男女平等が叫ばれているので、女性が弱いとは思えません。女性の方も「男になんて負けていられない」と思って、それをエネルギーに頑張っています。しかし、神の言葉である聖書は何と言っているかというと、「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し」と言っているのです。

この「弱い器である」というのは長生きするかどうかという意味ではありません。女性は男性に比べて肉体的に弱いということです。たとえば、ペットボトルのキャップを開ける時はどうでしょうか。家内はいつも私のところに来て、ペットボトルのふたを開けてちょうだい、と頼みます。「こんなの開けられないの?」と思いながら「どれどれ」と開いてやると「ありがとう」と言って喜びます。簡単なことです。ペットボトルのふたを開けてやるだけでそんなに喜んでくれるなら、何回でも開けてやります。でもそれは妻にとって大変なことなのです。力がありません。高い所に上って作業するのはどうでしょうか?「あの換気扇のカバーを取ってください。掃除しますから。」そんなの自分でやったらいいと思いますが、「いいよ」と言って椅子に上がり、ちょ、ちょい、のちょい、と取りますと、「ありがとう」と言って喜びます。どうですか、もし家の中にゴキブリが出たら?ある日家に帰ったら床にカップが置いてあったので、「これ、何?」と尋ねると、中にゴキブリがいる、というのです。どれどれとカップを取ってみると、それはゴキブリではないのです。本当に小さな蚊みたいな虫です。そんなの箒を持ってきてパーンと叩いてテッシュでごみ箱にポーンと捨てれば何でもないことです。でも家内にとっては怖いことなのです。あんなに大きな体をしているのに爪の垢ほどの小さな虫でも怖い。それは、ここにあるように女性は弱い器だからです。

それは肉体だけのことではありません。実は感情的にも脆さがあるのです。こみあげてくる感情を抑えることができません。それがまた女性の美しいところでもありますが、そういう面での弱さもあるのです。男性はあまりにも単純なため、むしろ逆に自分を責め立てる妻の姿を見て自分よりも弱いのだということを忘れて、敵対心を抱くことさえありますが、そうではなくて、妻が女性であるということ、そして、自分よりも弱い器だということをわきまえて、妻とともに生活しなければなりません。

そしてここには、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい」とも言われています。「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」とはどういうことでしょうか。それは、主にある姉妹として、ともに永遠のいのちを受け継ぐ者であるということです。つまり、この世にあっては共に住み、来るべき世にあっては、永遠のいのちをともに受け継ぐ者としてということです。この世における関係だけかと思ったら、来るべき世においてもまだ関係が続くのですか?と言われる方がおられますが、そういうことではありません。結婚関係はこの世に限ってのことであって、来るべき世にまで続くものではありません。なぜなら、神の国はとついだり、とつがれたりすることはないからです。私たちはみなキリストの花嫁として、キリストとの婚宴に入るのですから。しかし、たとえそれがこの世だけの関係であっても、ともに永遠のいのちを受け継ぐ者として、互いにいたわり合い、尊敬し合うということが求められているのです。

韓国のある牧師の証です。この牧師の奥様は音楽家で大変プライドの高い人でした。それで夫であるこの牧師は、奥様の些細な欠点を攻撃しました。「どかん」とではなく、針で刺すように、あっち、こっちと、ちくちくと刺したのです。すると、この奥様はどうなったでしょうか。すっかり自信をなくしてしまいました。それで家庭生活にも影響を及ぼすようになりました。それでこの牧師は悔い改めて、奥様のことを尊敬し、小さなことでもほめるようにしました。食卓の椅子をそろえただけでも、「ありがとう」と感謝し、奥様が奏でる音楽には「すばらしい」とほめました。すると奥様はだんだんと自信を取り戻し、お元気になられたそうです。

ダムが決壊するのは、蟻の穴のような小さなところからだそうですが、私たちはその小さなことを意外と無視していることが多いのかもしれません。それが日本の文化の一つだと言えばそれまでですが、そうした文化の中にあっても、神の言葉に従うことを求めていかなければなりません。いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなければならないのです。

最後に、その理由が記されてあります。それは、あなたの祈りが妨げられないためです。これはどういうことかというと、このように妻をいたわり、妻を尊敬していないと、それがあなたの祈りに影響を及ぼすことになる、祈りが妨げられてしまうことになるということです。妻と喧嘩をすると祈れなくなります。妻をいたわり、大切にしていないと、あなたの霊的生活にも大きな問題が生じることになる、ということです。なぜなら、夫が妻をいたわり、いのちの恵みをともに受ける者として尊敬するのは、神のみこころだからです。もしそれがなされなければ、神との関係にも影響をきたすことは当然のことであって、祈りが妨げられてしまうことになるのです。ですから、夫たちは、妻が女性であって、自分よりも弱い器であるということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなければならないのです。

これが結婚関係における、妻に対して、また夫に対して、神が私たちに求めておられることです。これは今日の社会とはかなりかけ離れた教えのようですが、神のことばである聖書が教えていることなのです。この神のことばにしたがって、妻は自分の夫に従い、夫は自分の妻をいたわり、尊敬する。その関係に生きることを求めていきたいと思います。