Ⅱテモテ4章9~22節 「最後まで忘れられない名前」

きょうは、第二テモテの最後の箇所、これはこの地上におけるパウロの最後の手紙ですので、パウロの最後の言葉となります。この最後の言葉からご一緒に学びたいと思います。

パウロの手紙の最後には、よく親しい人たちに向けてのあいさつが書かれていることが多いですが、ここにも同じようにあいさつが書かれています。しかし、ただ親しい人たちに向けてのあいさつばかりではなく、不名誉ながら、パウロを苦しめた人たちの名前も記録されています。いい意味でも、悪い意味でも、彼らはパウロにとって最後まで忘れられない名前でした。しかし、どうせ残るなら、いい意味で記憶に残る者でありたいと思います。きょうは、いい意味で最後まで忘れられなかった人たちとはどういう人たちだったのかを見ていきたいと思います。

Ⅰ.最後までパウロのそばにいた人たち(9-13)

まず9節から13節までをご覧ください。

「あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。私はテキコをエペソに遣わしました。あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。」

ここには、最後までパウロのそばにいた人たちの名前が記されてあります。パウロはここでテモテに、「何とかして、早く私のところに来てください。」と言っています。それは21節でも繰り返して書かれてあります。しかも「何とかして」とか、「早く」とあるように、その思いが強く表れているのです。いったいなぜパウロはそんなにテモテに会いたかったのでしょうか。それは、自分の死期が近いことを感じていたからです。だれでも自分の死が近づくと、「あの人に会いたいなぁ」とか、「この人に会いたいなぁ」と思う人がいるものです。普段はなかなか会えない人でも、最後の時だから何とかして会いたいと思うものなのです。パウロにとってテモテはそういう人でした。パウロはテモテを「信仰によるわが子」と呼んでいますが、彼は実際の家族以上のつながりを持っていたのです。これまでずっと忠実に主に従ってきたテモテに、自分の最期の時をともにいてほしいと思ったのです。だれかの死が近づいたとき、あなたに会いたいと願う人がいるでしょうか。そのような存在になるためには、どうしたらいいのでしょうか。考えさせられますね。

10節をご覧ください。10節にはデマスという人について語られています。「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい」ました。ピレモンへの手紙24節を見ると、ここには「私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。」と書いてあって、彼は「同労者」と呼ばれていましたほどの人であったことがわかります。あれからわずか6~7年の間に、彼は信仰から脱落してしまいました。最後まで信仰の道を走りぬくことができなかったのです。なぜでしょうか?ここには、「デマスは今の世を愛し」とあります。彼は、キリストに対する愛をこの世に向けてしまったのです。キリストに対する愛をこの世に向けてしまうと、このように悲しい結果になってしまいます。しかしながらそれはデマスだけのことでしょうか。私たちも同じような弱さを抱えているのではないでしょうか。だから私たちは互いに集まることを止めたりしないで、かの日が近づいていることを知り、ますますそうしようではないかと勧められているのです。そうしようではないかというのは、互いに励まし合い、助け合おうではないかということです。私たちは強いようでも、実際は本当に弱い者であることを覚えておかなければなりません。一人では信仰を保つことさえもできないのです。だから互いに集まって、助け合い、励まし合うことが必要なのです。どんなに初めが良くても、最後が悪ければ、それまでのすべての行程が悪くなってしまいます。

次に出てくるのは「クレメンス」と「テトス」です。彼らはそれぞれガラテヤとダルマテヤ、これは今のユーゴスラビアのことですが、そこに行きました。この「行った」というのはデマスのようにパウロを見捨てて行ったということではなく、パウロに遣わされて行ったということです。なぜそこへ行ったのかはわかりませんが、テトスは次のテトスへの手紙の受取人ですので、彼はテモテと同じように、問題のある教会に遣わされてその立て直しのために尽力したのでしょう。

そして11節をご覧ください。ここには感動的な二人の名前が出てきます。一人はルカで、もう一人はマルコです。まずルカについてですが、ここには、「ルカだけは私とともにおります。」とあります。いったいルカはなぜパウロとともにいたのでしょうか?それは、彼は片時もパウロから離れたくないと思っていたからです。ここからルカがどういう人であったかがわかります。彼はパウロの最も愛すべき人物のひとりでした。というのは、この時パウロはローマの地下牢に捕えられ間もなく打ち首にされようとしていましたが、それでも彼はパウロから離れないで、使徒の働き27章1節を見ると、「さて、私たちが船でイタリヤへ行くことが決まったとき、パウロはほかの数人の囚人は、ユリアスという親衛隊の百人隊長に引き渡された。」とあります。ここに「私たち」とあるのは、この時ルカも一緒だったということです。というのは、この使徒の働きはルカによって書かれたからです。パウロが囚人としてローマに行ったとき、ルカも同行したのです。当時はこのように逮捕された囚人がローマで裁判を受けるために送られるときには、二人の奴隷が同行することが許されていましたが、その一人がルカ自身だったのです。すなわち、彼はローマの獄中にパウロに同行するために自分を奴隷として登録したのです。だからパウロがこのルカのことを感動的な愛をもって語っているのも無理はありません。確かにこれ以上の献身はあり得ないからです。ルカはパウロから離れるよりもむしろ彼の奴隷となり、彼に仕えたいと願ったのです。

このルカについて新約聖書の中ではっきりと言及されている箇所は、他に二つしかありません。一つはコロサイ人への手紙4章14節ですが、そこには、「愛する医者」として紹介されています。ルカは医者でした。パウロは何らかの病気を抱えていてそれで苦しんでいましたが、そんなパウロを看護したのがこのルカだったのです。そして、パウロの苦痛を少しでも和らげるために、その持てる技術を駆使したのです。そうした看護のおかげで、パウロは働きを続けることができました。ルカは、ほんとうに親切な人でした。彼は大説教者でも大伝道者でもありませんでしたが、個人的奉仕という点から貢献した人だったのです。彼は医師として自分に与えられた賜物を通して主に仕えました。こうした親切心は、特に心に残るものがあります。雄弁は忘れられても、こうした親切心はいつまでも人々の心の中にしっかりと生き続けるからです。

私たちは明後日から渡米しますが、滞在する先はほとんど以前来日して交わりのあった人たちです。私たちは特に何かしたわけでもないのに多くの方々が「ぜひうちに来て泊まってください」と言っていただけるのはほんとうに感謝なことです。それはその人たちの中に、そのようなことを通して私たちと共に主にお仕えしたいという思いがあるからです。ピレモンへの手紙24節を見ると、パウロは彼を「同労者」と呼んでいますが、まさに彼はパウロの同労者だったのです。

ルカについてのもう一つの言及はⅡコリント8章18節と19にあります。そこには、「また私たちは、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送ります。この人は、福音の働きによって、すべての教会で称賛されていますが、そればかりでなく、この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会かの任命を受けたのです。」とあります。この兄弟がだれのことなのかははっきり書かれてありませんが、これはルカのことでしょう。なぜなら彼はパウロに同行し、パウロの働きを助けていたからです。彼は、この福音の働きによって、すべての教会で称賛されていたのです。彼は誰からも慕われる存在でした。彼は死に至るまで忠実なパウロの友だったのです。そのルカについてパウロはここで言及しているのです。「ルカだけは私とともにいます。」

あなたはだれのそばにいますか。だれのそばにいて、その労苦を分かち合おうとしておられるでしょうか。ルカのようにパウロとともにいて、パウロの友となり、パウロの働きを担い、その奉仕に献身したいと思うような、そんな人になりたいとは思わないでしょうか。彼のように親切な心をもって主の働き人を支えていくような、そんな人になりたいとは思わないでしょうか。そういう人は、誰からも良く思われるようなすばらしい生涯を送ることができるのです。

11節には、もう一人感動的な人の名前が記されてあります。それはマルコです。このマルコはマルコの福音書を書いたマルコです。このマルコについてパウロは、彼を伴って、いっしょに来てください、とテモテに頼んでいます。彼はパウロの働きに役に立つからです。しかし、これまでの経緯を知っている人なら、パウロがこのように言うことに驚きを隠せないでしょう。というのは、マルコはパウロの第一次伝道旅行に同行しましたが、どういうわけか途中で働きを止め、さっさと家に帰ってしまったからです(使徒13:13)。思ったよりも大変だったのか、その危険と苦難に耐えられなかったのか、その理由ははっきりわかりません。しかし、数年後にもう一度伝道旅行に出かけることになった時、バルナバはこのマルコを連れて行こうとしましたが、パウロは働きの途中で仕事を投げ出してしまうような者は神の働きにふさわしくないと、断固として反対したのです。それでバルナバとパウロは激しい反目となり、結局バルナバはマルコを連れて、パウロはシラスを連れて出かけて行くことになり、彼らは別々の道を行くことになったのです。あの時は「あいつは役に立たない」と言ったパウロですが、今は違います。ここには、「彼は私の務めのために役に立つからです。」と言っているのです。

これは私たちにとっても励ましではないでしょうか。かつては自分のわがままでその働きを途中でやめてしまうような中途半端な者でも、やがて立ち直って主のお役に立つ者となれるのです。過去においてどんなに失敗しても、それで終わりということはありません。失敗しても希望があるのです。この人がマルコの福音書を書いたマルコになりました。

次に12節をご覧ください。ここには「テキコ」という人のことが紹介されています。パウロはこのテキコをエペソに遣わしました。つまりエペソにいたテモテにこの手紙を届けさせたということです。彼はコロサイの教会にも手紙を届けました(コロサイ4:7)が、それは、それだけ彼がパウロに信頼されていたということです。信頼されていなかったら、自分の大事なものを託すことはしないでしょう。

そして13節には、「あなたが来るときには、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。」とあります。パウロは、テモテが来るときは、トロアスに残しておいた上着を持って来てほしいと頼んでいます。多くの学者はこの記述から、パウロはローマの軟禁生活から解放されイスパニヤにまで行ったあと、このトロアスに戻って来たときに再び捕えられたのではないかと考えているのです。だから急いでいたので、上着を持って来ることができなかったのだろうというのです。しかし、もうすぐ冬になるのでその前に何とか上着を持って来てほしいと頼んでいるのです。

それから書物も持ってくるようにと頼んでいます。この書物が何であったかはわかりませんが、おそらく旧約聖書だったのではないかと考えられています。というのは、ここに「特に羊皮紙の物を持って来てください」とあるからです。当時、羊皮紙に書かれたものは大切な文書か、神聖な書物であったからです。死を前にした彼は神のことばを読み、栄光の天の御国に思いを馳せたかったのでしょう。

パウロが、その人生の最期の瞬間に会いたいと願っていたのはこのような人たちでした。このような人がずっとパウロのそばにいて助けてくれた人たちでした。彼らはパウロの喜びだったのです。私たちもそのような人になりたいですね。ですから、最後まで信仰の道を走り続ける者でありたいと願います。

Ⅱ.パウロを助けてくれた主(14-18)

次に14節から18節までをご覧ください。まず16節までをお読みします。

「銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。」

パウロはその生涯の終わりに、自分に仕え、支えてくれた人たちばかりでなく、逆に自分を苦しめた人たちの名前もあげています。そのひとりがアレキサンデルです。彼についてはⅠテモテ1章20節にも、信仰の破船にあった人と紹介されていました。彼は違った教えを説いて、パウロに激しく敵対しました。しかしパウロは、そんなアレキサンデルに対して個人的に恨むようなことをせず、神の怒りに任せました。「そのしわざに応じて主が彼に報いられます。」と言っています。そして、彼のことを警戒するようにとテモテに勧めています。

その他にもアレキサンデルのようにパウロを裏切り、彼を見捨ててしまった人はたくさんいました。16節には、「私の最初の弁明の最には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。」とあります。彼らはみな、パウロを見捨ててしまいました。けれども、パウロは、彼らが神によってさばかれることがないようにと祈っています。ここがパウロのすごいところです。人に恨まれても自分が恨むようなことはしませんでした。むしろ、そうした神のさばきから免れるようにと、罪の赦しのための祈りをささげているのです。なぜでしょうか?それは、彼も経験したことだからです。パウロはかつて主イエスを信じる人たちを迫害する者でした。そして、主の弟子であったステパノを殺す時には賛成もしたのです。そして、人々がステパノに向かって一斉に石を投げつけたとき、ステパノが祈った祈りを聞きました。ステパノはひざまずいて、こう叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)しかし、パウロはそんな声をかき消すかのように、その後ますます激しく迫害していくのですが、彼がダマスコに向かっていた時、復活の主イエスと出会いました。「あなたはどなたですか」「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」それを聞いたとき、彼はあのステパノの祈りを思い出したのです。

しかし、それは主イエスの祈りでもありました。主イエスは十字架に付けられたとき、その十字架の上でこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でもわからないのです。」(ルカ23:34)ここでパウロも同じ祈りをしているのです。これは私たちの祈りでもあるべきです。人々があなたをさげすみ、あなたにひどいことをしたり、あなたを裏切って見捨てて行ってしまうとき、あなたは何を言うでしょうか。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でもわからないのです。」それでこそ、父なる神の子どもになれるのです。

また、そのように同労者に見捨てかられても、彼らのためにパウロが祈ることができたのは、真に助けてくださる方に信頼していたからです。17節と18節のところでパウロはこう言っています。

「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」

すべての人がパウロを見捨ててしまった。一番助けてほしい、一番証言してほしい、そのような時に助けてくれるどころかみな去ってしまった。「しかし、主は」これはパウロが好んで使う表現です。「しかし、あなたは」「しかし、テモテよ」という表現がたくさん出てきます。状況はこうであっても、確かにそれで苦しいことがあっても、しかし、主は、パウロを見捨てることはしませんでした。パウロと一緒に立つ人はいなかったかもしれませんが、しかし、主は、ともに立ってくださり、力を与えてくださいました。それはパウロを通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。現に、この時パウロはローマ皇帝ネロの前に立ち、主を証することができました。彼は大胆に福音を語ることができたのです。主は彼をすべての悪のわざわいから助け出し、天の御国に入れてくださるという確信がありました。たとえこの地上の裁判の判決がどうであれ、たとえそれによって打ち首にされようとも、主は栄光の天の御国に入れてくださるということを思うと、もう賛美せずにはいられませんでした。彼は勝利の思いに満たされてこう賛美しました。「主に、御栄がとこしえにありますように。アーメン。」

これが信仰者の姿です。たとえあなたを苦しめる人がいても、あなたを見捨てて去って行く人がいたとしても、あなたはそのことでがっかりする必要はありません。しかし、主は、あなたとともに立ち、あなたに力を与えてくださり、すべての悪のわざわいから助け出して、天の御国に救い入れてくださるのですから、大いに喜び、賛美することができるのです。むしろ、あなたはそうした人たちのためにとりなし祈ることができるのです。何ということでしょうか。このことを思うとき、あなたは勝利の雄叫びを上げることができるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたをひどく苦しめる人がいますか。あなたのことばに激しく逆らい、あなたを口汚くののしる人がいるでしょうか。もしそのような人がいるなら幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天において、あなたの受ける報いは大きいからです。神はあなたのためにすべてを働かせて益としてくださす。この神に感謝し、賛美しようではありませんか。

Ⅲ.すべては主の恵み(19-22)

最後に19節から22節までを見て終わりたいと思います。

「プリスカとアクラによろしく。また、オネシポロの家族によろしく。エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。何とかして、冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。 」

ここには、パウロの最後の挨拶が記されてあります。ブリスカとアクラは、パウロが行くところどこにでも行って、パウロの働きを助けてくれた夫婦です。そのパウロが捕えられて、彼らは今どこにいるかというと、この手紙を送っているテモテが牧会していたエペソにいました。パウロがいなくなった今、彼らはエペソにいてテモテを助けていたのです。そのプリスカとアクラによろしくとあいさつを送っています。

つぎはオネシポロの家族によろしくと言っています。オネシポロについては1章16節にも出てきましたが、そこには、彼はローマにいたパウロを捜して見つけ出し、パウロが鎖につながれていることなど何のその、恥とも思わず、パウロに仕え、パウロを励ましてくれた、とあります。そして、パウロはそのことをとても感謝し、「かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように。」と言っているのです。おそらくこの時オネシポロはすでに召されていたのでしょう。でもその栄誉に報い、そのオネシポロの家族によろしくと言っているのだと思います。

そしてエラストにもあいさつを送っています。エラストはコリントの町の収入役でした(ローマ16:23-24)。彼はパウロの働きをよく助けてくれました。そんな彼をパウロはコリントにとどまらせていたのです

トロピモへの挨拶もあります。トロピモは病気のためにミレトに残してきました。パウロにはいやしの賜物が与えられていて、彼の前かけに触れただけで多くの人々がいやされましたが、トロピモはいやされませんでした。信仰があればすべての病気がいやされるわけではありません。いやされることもあれば、いやされないこともあります。でもいやされないからといって、必ずしもそれが不信仰だというわけではないのです。いやされるのは主ご自身であり、主が必要に応じてご自身の御業を行ってくださるので、その主にすべてをゆだねて祈ることが大切です。

その他、21節には、ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。彼らも最後までパウロに従い、パウロにとってかけがえのない信仰の友でした。

そして、パウロの最後のことばです。22節をご一緒に読みましょう。「主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。」

これがパウロの最後のことばです。最後にパウロはテモテの内側が強められるように祈りました。主があなたの霊とともにおられますように。神が彼に与えてくださったのは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。その霊があなたとともにありますように。それはテモテばかりではありません。あなたも同じです。私たちの人生にもいろいろな問題が起こり、その度に、心が弱くなり臆病になってしまいがちですが、力と愛と慎みとの霊が、あなたとともにあって、あなたの心が強められるようにと祈っているのです。

そして、主の恵みが、あなたがたとともにありますようにと祈っています。すべては主の恵みです。主の恵みによって私たちは救われました。また、主の恵みによって主の働きをすることができます。すべては主の恵みなのです。主の恵みに始まり、最後までこの恵みの中を歩ませていただきましょう。そしてこの地上での生涯を賛美と感謝をもって全うさせていただきたいと思います。そういう人こそ最後まで忘れられない人なのです。

Ⅱテモテ4章6~8節 「走るべき道のりを走り終え」

きょうは、第二テモテ4章6~8節の箇所から、「走るべき道のりを走り終え」というタイトルでお話したいと思います。この手紙はパウロが書いた最後の手紙です。その最後のところでパウロがテモテに命じたことは、「みことばを宣べ伝えなさい」ということでした。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」そのようにして、自分の務めを全うしなければなりません。

きょうの箇所には、パウロがそれをどのように果たしたのかを語っています。きょうはこのパウロの生き方を通して、私たちも自分に与えられた務めを十分に果たしたいと思います。

Ⅰ.私が世を去る時(6)

まず6節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。

「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」

ここでパウロは現在、過去、未来の三つの観点から自分の生涯を振り返っています。まず現在です。パウロは自分が今置かれている状況をよく理解していました。それは、もうすぐ打ち首にされるということです。そのことを彼は、「今や注ぎの供え物となります」と表現しています。

「注ぎの供え物」という表現はあまり聞かない言葉ですが、これは旧約聖書の中で自分を神様にささげるときに使われた表現です。その時には動物のいけにえとともに、ぶどう酒による注ぎの供え物を祭壇に注ぎました。それは神への香りのささげものです。パウロはもうすぐ死ぬことが決まっていましたが、それはこの注ぎの供え物だと言っているのです。どういうことでしょうか。

ローマ人への手紙12章1節にはこうあります。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ここには、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」とあります。なぜでしょうか?「そういうわけですから」です。つまり、人はみな生まれながらに罪人であり、神の御怒りを受けるべき者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださったからです。神はこのキリストの上に私たちのすべての罪咎を負わせ十字架で死んでくださいました。そのことによって私たちのすべての罪を贖ってくださいました。だから、だれでもイエスを信じるなら救われるのです。それは私たちの行いによるのではありません。神からの賜物です。私たちは、この神の恵みのゆえに、信仰によって救われました。

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23,24)

そういうわけだからです。そのようにあなたは神の一方的な恵みによって罪から救い出されたのですから、あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなければならないのです。

パウロはそのように生きました。そのことを彼はガラテヤ書2章20節でこう言っています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

彼は救い主イエス・キリストを信じたとき、古い自分に死に、キリストにあって生きると決めました。彼がこの世にあって生きているのは自分の喜びや満足のためではなく、自分を愛し、自分のために命までもお捨てになられた神の御子を信じる信仰によってでした。彼は自分のすべてを主に全くささげたのです。これ献身と言います。献身とはこのように神のために生かされていることを覚え、神にすべてをささげ、神のために生きることです。クリスチャンはみなそのように告白したはずです。献身こそ、私たちが神様に対してなすべき最も基本的な行為であり、最も大切な行為です。これがなかったら何も始まりませんし、何の変化も生まれてきません。私は神様によって贖われた者であり、神様のために生かされている者ですから、そのすべてはあなたのものであり、あなたにささげますという献身があるからこそ、私たちは神様のみこころにかなった歩みをすることができるのです。

アメリカの有名な伝道者D・L・ムーディは、ある時神の迫りを感じて、その献金皿が回ってきたとき、その上に、「D・L・ムーディ」と書いた紙切れを置いたと言われています。彼は、自分自身のすべてをささげたいという思いになったのでしょう。わたしのすべてをささげますと、そのように書いたのです。もう献金の皿の中に横になりたい気持ちだったのでしょう。私たちの献金袋は袋ですから、その中にもぐりこみたいという気持ちでしょうか。もぐりこむか、横になるかは別にしても、私たちのからだをささげるとはそういうことなのです。

パウロはそのように生きました。彼は自分の全生涯を神にささげたのです。そして今その生涯の最後の時を迎えようとしていました。そのように生きたパウロにとってふさわしい最後とはどのようなものだったのでしょうか。それは同じように注ぎの供え物となるということでした。彼にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益でした。彼の存在そのものが、香ばしい香としての神への注ぎの供え物だったのです。私たちもパウロのように、自分自身を神への注ぎの供え物としてささげ、神の栄光のために生き、また神の栄光のために死ぬ者でありたいと思います。

ところで、パウロは死をどのように受け止めていたのでしょうか。パウロはここで、「私が世を去る時はすでに来ました。」と言っています。この「去る」ということばは、農夫が一日の仕事を終えた牛やろばからくびきを外す時に使われた言葉です。一日の仕事を終えた牛さんに、「お疲れさん」と言ってそれから解放してあげる時に使われた言葉なのです。また、船が錨をあげて出航するときにも使われました。ともづなを「解く」という意味です。さらに、旅人がテントをたたんで次の目的地に向かう時にも使われました。テントのロープを緩めたり、解いたりする時に使われたのです。すなわち、パウロにとって世を去る時というのは、そうした労苦から解放され、主のみもとに凱旋すること、輝ける天の御国へ出発するときであると理解していたのです。

皆さんは「死」をどのように受け止めておられるでしょうか?一般的な日本人にとって死は悲しく不幸なものであり、忌むべきものです。なぜなら、すべてが終わってしまうからです。自分の存在が消えて無くなってしまうと思えばそれは悲しいことですが、パウロはそのようにはとらえていませんでした。パウロにとって死は肉体という地上のテントをたたんで、天にある家で永遠に住むために出発する時だったのです。だからそれは悲しいことではなく、むしろ喜びの時であり、感謝の時、希望の時だったのです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんは死をどのように受け止めておられるでしょうか。これは100パーセント、だれもが経験することです。いわば私たちの生は死に向かって歩んでいるのです。その死に対する備えがなかったら、それほど恐ろしいことはないでしょう。なぜなら、私たちはそこで永遠を過ごすのですから・・・。そして、パウロはその死とは何なのかを、聖霊によってはっきり知っていました。それは永遠への入り口であるということを。救い主イエスを信じるものは、天国で永遠に過ごすのです。この地上のすべての労苦から解き放たれて自由になり、栄光の天の御国で神とともに永遠に生きるのです。それゆえに、死を恐れる必要はありません。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れなくてもいいのです。

先日、Fさんが78歳のこの地上の生涯を終えて天に帰られました。召される2週間前に病室を訪問したとき、彼女は「死ぬのが怖い」と言われました。ずっと前から教会に来てはいましたがイエス様を信じるには至りませんでした。しかし、今年2月にお見舞いに行ったとき、「イエス様を信じてください」と勧めたら、「はい」と素直に信じて洗礼を受けました。あれから4か月、なかなかお会いすることができず久しぶりの再会となりましたが、そこでイエス様の約束の言葉を読みました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)Fさんはこの言葉を信じました。すると翌週訪問したとき「どうですか」と尋ねると、「苦しいですが、平安はあります。」とお答えになられました。苦しいですが、平安があります。それは死に勝利されたイエス・キリストが与えてくださる天国の確かな希望だったのです。イエスを信じる人には、この平安と希望が与えられるのです。あなたもイエス様を信じてください。そして、苦しみの中にもある確かな平安をいただいていただきたいと思います。

Ⅱ.走るべき道のりを走り終え(7)

次にパウロの過去を振り返ってみたいと思います。7節をご覧ください。ここにはパウロの過去がどのようなものであったかが要約されています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」 彼は立派なボクサーのように信仰の戦いを勇敢に戦い、また、目標を目指して走るアスリートのように、走るべき道のりを走り終えました。

ピリピ3章13節と14節を見ると、そこにはこうあります。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」

これはテモテへの手紙が書かれる数年前に書かれたものですが、その時にはまだゴールしていませんでした。彼は、神の栄冠を目指して一心に走っていました。しかしここでは違います。ここでパウロは、「走るべき道のりを走り終えた」と言っています。また、信仰を守り通したとも言っています。これはただ単に自分の信仰を最後まで貫いたというよりも、ゆだねられた神のことばである福音を偽りの教師たちと戦って、最後までその真理を守り通したということです。

このようなパウロの確信は、何か凱歌のように私たちの胸に響いてきます。私たちもパウロのように凱歌の詩を歌いながら、永遠の御国に帰って行けるように、日ごとのわざに励もうではありませんか。信仰の生涯で最も難しいのはその終わり方です。始めることは易しいことですが、それを最後まで全うすることは並大抵のことではありません。いったいどうしたら最後まで信仰の戦いを戦い抜くことができるのでしょうか。

パウロは、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」と言いました。ここにその答えがあります。彼はキリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して走りました。彼は今自分を取り巻いている現実がどれほど困難なものであるのかを見ていませんでした。彼が見ていたのは、やがてもたらされる神の栄冠がどれほどすばらしいものであるのかを見て、それを目指して走ったのです。そういう期待感でいっぱいでした。だから今を乗り越えることができたのです。

これが現実の困難を乗り越える大きな鍵です。もし目の前の困難ばかりを見ていたら、その重圧に押しつぶされてしまうでしょう。しかし、その先にある栄光を見るなら、それがどんな困難であっても必ず耐えることができるのです

このことについてパウロはすでに2章でキリスト・イエスのりっぱな兵士のたとえをもって語りました。また、アスリートにもたらされる栄冠のたとえによっても語りました。そして、労苦した農夫にもたらされる収穫のたとえによっても語りました。「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」( 詩篇30:5)のです。この喜びに目をとめるべきです。そうすれば、信仰の戦いを勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、最後まで信仰を守り通すことができるのです。

Ⅲ.義の栄冠(8)

では、やがてもたらされる栄光とはどのようなものなのでしょうか。8節をご覧ください。

「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

ここでパウロは、「今からは、義の栄冠が私のために用意されているのです。」と言っています。彼は、義の栄冠を受けることを確信していました。義の栄冠とは何でしょうか?それは、イエス・キリストを信じる者すべてに与えられる永遠のいのちことです。パウロの生きた時代、運動競技の勝利者には月桂樹の冠やオリーブの花輪が与えられましたが、それと同じように、イエス・キリストを信じ、最後までその信仰を守り通した人には「義の冠」が与えられるのです。これは先週お話したキリストのさばきとは違います。キリストのさばきとは、イエス・キリストを信じた者がこの地上で成したことに対する評価のことでしたが、この「義の冠」は、イエス・キリストを信じるすべての人にもたらされる栄光です。ヤコブ1章12節には「いのちの冠」と表現されていますが、それと同じものです。また、Ⅰペテロ5章4節には「しぼむことのない栄光の冠」とありますが、それとも同じものです。これはパウロだけでなく、彼と同じようにイエスを信じ、全身全霊をもってイエスに従い、イエス・キリストの再臨を待ち望んでいるすべての人にもたらされる栄冠です。私たちはやがてこの栄冠を受けるのです。

これはテモテにとってどれほど大きな励ましであったことでしょう。しかし、それはテモテばかりでなく、パウロと同じように最後まで信仰を守り通したすべての人に約束されていることです。やがて将来においてこのような義の栄冠が与えられるという約束は、今を生きる私たちにとって大きな力になるのです。

織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名、高山右近(1552~1615年)が年内にも、マザー・テレサらと並ぶカトリック教徒の崇敬の対象である「福者(ふくしゃ)」としてローマ法王庁から認定されることになりました。高山右近は12歳で洗礼を受け、高槻城主時代の領民のうち約7割がキリスト教徒だったとされます。秀吉の側近、黒田官兵衛らに入信を勧めるなど、布教活動にも熱心でした。しかし、秀吉からのキリスト教を棄てるようにとの命令を受けそれを拒否したことから地位や領地を失い国外追放となりましたが、それでも信仰を捨てませんでした。彼は、「信仰のため国を追われた殉教者」となったのです。それが評価されて福者として認定されることになったのですが、福者として認定されるかどうかは別にしても、彼にはそれにふさわしい義の冠が用意されていることでしょう。彼は走るべき道のりを走り終え、最後まで信仰を守り通したからです。

ベルギーのダミアン神父もそうでした。ダミアン神父は、ハワイのモロカイ島でハンセン病患者を救うためにその生涯をささげました。当時ハンセン病は不治の病で伝染性が強いとされていたので、患者は家族から引き離され、モロカイ島に送り込まれていました。絶望的な患者で満ちていたこの島は、悲惨な様相を呈していました。そこへダミアン神父が単身でやって来たのです。彼は患者の心の友となり、伝道者、医師、裁判官、測量士、葬儀屋、墓堀りとして働きました。16年間に千六百人もの人々を葬り、千個の棺を自分の手で作りました。初めは冷たい目で彼を見ていた人々も、次第にダミアンの愛と偉大さがわかってきて、彼のことばを聞くようになって行きました。晩年、彼もハンセン病になりました。1889年4月15日朝8時、ダミアンは48年のこの地上の生涯を終えて天に召されました。死に臨んだ彼のことばが記録されています。「何もかも、持てる限りを与え尽くした私は幸福者である。今は貧しくて死んでゆく。自分自身の物と名の付くものは何もない。ああ何と幸福なことであろう。」

皆さん、どう思いますか。この地上の生涯を終えるとき、「私は幸福者だ」と言える人は本当に幸いではないでしょうか。人がその人生の最期に語る言葉というのは、その人の生きざまをよく表していると思います。最後に何を語るのかは、その人がどのように生きてきたのかということと深い関係があるからです。ダミアン神父のように、そしてパウロのように、「何もかも、持てる限りを与え尽くした私は幸福者である」と言えるような、また、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言えるような、そんな生涯を全うさせていただこうではありませんか。今からでも決して遅くはありません。あなたがイエス・キリストを信じて、走るべき信仰の道のりを走り終えるなら、あなたにも栄光の義の冠が用意されているのです。

Ⅱテモテ4章1~5節 「みことばを宣べ伝えなさい」

きょうは、テモテ第二の手紙4章前半の箇所から、「みことばを宣べ伝えなさい」というテーマでお話します。これはパウロから弟子のテモテに、いや信仰によるわが子テモテに宛てて書かれた手紙です。この時パウロはローマの地下牢に捕えられていて、もう打ち首になることが決まっていました。そんなパウロがエペソの教会の牧会で疲れ果てていたテモテを励ますためにこの手紙を書いたわけですが、その最後の部分となります。自分がこの世を去って行く前に、父親として息子に残しておきたかった言葉とはいったい何だったのでしょうか。最後のことばですからとても重みのある、重要な言葉です。聖霊に動かされて書いたパウロの最後の言葉に、ご一緒に耳を傾けていきたいと思います。

Ⅰ.みことばを宣べ伝えなさい(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。

「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

パウロがその生涯の終わりに、どうしてもテモテに伝えたかったことは、みことばを宣べ伝えなさいということでした。「みことばを宣べ伝える」とは、神のことば、キリストの救いのメッセージを人々に宣言し、伝達することです。この「宣べ伝える」ということばは、王がその国民に何らかの布告を出したとき、それを宣言し、伝達することを表すのに用いられました。ですから、「私はこう思います」とか、「私はこのように感じます」といった自分の意見や考えを述べることではなく、神が言われることをそのまま脚色なしで伝えることなのです。

なぜ、みことばを宣べ伝えなければならないのでしょうか。なぜなら、人は神のみことばによって救いに導かれるからです。そのことをパウロはすでに3章15節でこのように語りました。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」聖書は、あなたがキリストを信じるように、その救いに導いてくれるのです。

このことをペテロはこう言っています。Ⅰペテロ1章23~25節です。開いてみましょう。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草の花のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」

あなたがたに伝えられた福音のことばがこれです。あなたが新しく生まれるのは、とこしえに変わることのない神のことばによってであるということです。このみことばによってあなたは救われるのです。だから、この救いのみことばを宣べ伝えなければなりません。

そればかりではありません。そのように救いに導かれた人が霊的に成長し、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためにでもあります。そのことをパウロは3章16~17節でこう言いました。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

また、使徒の働き20章32節にはこうあります。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

何があなたがたを育成するのでしょうか。何がすべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのでしょうか。神のことばです。神のみことばはあなたがたを育成し、すべての聖なる人々の中にあって御国を継がせることができます。これ以外に私たちクリスチャンを霊的に成長させることはできません。だから私たちは神のことばを熱心に聞かなければならないのです。

ところで、第二テモテ4章に戻っていただきまして、1節を見ると、ここに、「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」とあります。どういうことでしょうか。何度も申し上げておりますように、この時パウロはローマの地下牢に捕えられていました。彼は自分がもうすぐこの世を去り、神の御前に出ることを知っていたのです。そして、キリストのさばきの座に出ることを知っていました。キリストのさばきの座とは何でしょうか?これは黙示録20章11節にある白い御座のさばき、すなわち、キリストを信じなかった者にくだされる最後の審判のことではありません。これは第二コリント5章10節にあるキリストのさばきの座のことです。ちょっと開いてみましょう。Ⅱコリント5章10節です。

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」

ここに「キリストのさばきの座」という言葉が出てきます。私たちはみな、このキリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになります。それがいつなのかというと、キリストの現れの時です。これはイエス・キリストの再臨の日のことです。このとき、私たちクリスチャンがみなさばきを受けます。このさばきは、天国に行くのか、地獄に行くのかというさばきのことではありません。なぜなら、クリスチャンはみな天国に行くことが決まっているからです。イエス・キリストはこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

ですから、あなたがイエス・キリストを信じているのなら、絶対に地獄に行くことはありません。もう死からいのちに移っているのです。必ず天国に行きます。

ここで言われているさばきとはキリストのさばきのことです。キリストが再臨するとき、クリスチャンはみな天に引き上げらます。まずキリストにあって死んだ人たちです。彼らは墓から出て栄光のからだによみがえり、キリストのもとに引き上げられるのです。次にキリストを信じて生き残っている人たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。それがいつなのかはわかりません。それがいつなのかはわかりませんが、キリストが再臨される時キリストにあって死んだ人たちと生き残っている人たちはみな天に引き上げられ、空中で主イエスと会うのです。そのことを、ここでは「生きている人と死んだ人とをとばかれる」と表現されているのです。私たちはみな、キリストが再臨されるとき、そのさばきの座で、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に報いを受けるのです。ですからこの「さばきの座」というのは、その人が天国にふさわしいのか、地獄にふさわしいのかというさばきのことではなく、天国にふさわしい人が、与えられたその命や人生をどのように使ったのかを評価される時のことなのです。

皆さんは美人コンテストを見たことがありますか。あの美人コンテストに参加している人はみな美人です。あれは、美人かどうかを決めるコンテストではありません。みんな美人ですが、その中からその人の持っている特技とか内面性をアピールして、美人にふさわしい人を決めているコンテストなのです。この「キリストのさばきの座」もよく似ています。そこに集まっているのは、みんな「義人」です。みんに義とされた人たちなのです。ただそのクリスチャンたちが、与えられた永遠の命を、この地上でどのように使ったかのかを評価されるのです。

パウロはこのことを第一コリント3章で建物のたとえを用いてこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(Ⅰコリント3:10-15)

土台はキリストです。この土台であるキリストの上にどのように建てるかについては注意しなければなりません。もし、だれかがこの土台の上に、それぞれ金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするからです。どのように明らかになるのでしょうか。金、銀、宝石で建てるなら永遠に残りますが、木、草、わらなどで建てますと、それらは火によって燃えてしまいます。この材料の違いは、私たちが何かをする時の動機です。すなわち、神の栄光のためにしたのか、自分の名誉のためにしたのか。神を喜ばすためにしたのか、ただ自分が喜びたいからしたのか。その動機が問われているのです。クリスチャンとして神を信じてから天に帰るまで、この地上で何一つ神に喜ばれることをしたことがない人でも、イエス・キリストを信じたら必ず天国に行きます。アーメン。天使が大喜びであなたを天国に迎え入れてくれるでしょう。しかし、もし何もしなかったという人がいるとしたら、その人はちょうど家が火事になった時に 火の中をくぐるようにして助かるようなものです。家財道具はすべて焼け、着の身着のままに焼け出され、顔はすすだらけの状態になりです。でもその人は助かったのです。助かるのと助からないのでは雲泥のちがいです。天国と地獄はまったく違います。ですから、助かったということはそれだけでものすごい恵みなのです。どんな形でも天国に入ることができれば、その人は人生の成功者です。でも、そのようにして助け出されるよりも、無傷で助け出された方がいいに決まっています。ですから、金や銀、宝石といった火に燃えないもので家を建てる必要があるのです。

アメリカのリック・C・ハワードという人が「キリストの裁きの御座」という本を書きました。彼はこの本の最後の方に、ウィリアム・ブースという人が見た幻を紹介しています。ウィリアム・ブースという人は、イギリス人で、救世軍というクリスチャンの世界的な組織を建て上げた人です。救世軍は、世界の貧しい人々のために、あるいは身寄りのない子供たちのために、救いの手を伸ばそう、という主旨で始まった大きなグループです。彼は小さな時に、人と比べて、自分はかなり熱心なクリスチャンだと思っていました。毎週、日曜日の礼拝は欠かしたことがなく、毎朝聖書は読むし、祈るし、そして教会でもたくさんの奉仕をしているから、自分はもう十分に、立派なクリスチャンだと思っていたそうです。そんな時に、神は天国の幻を見せてくださいました。彼が天国に着くと、神の御座の回りで多くの人々が行進していく幻を見たそうです。神の軍隊のように、勝利の凱旋の行列のように、多くの人々が、目の前を通って行きました。その行進している人の顔を見たら、ほんとうに喜びと栄光に輝いていました。この人たちはずらしいクリスチャンだということが一目でわかり、この人たちと自分を比べた時に、もし自分が天国に着いたら、この義を行列にはふさわしくないと感じました。自分はこの人たちほど神を愛していないことに気がついたのです。がっかりしている時に、イエス様が彼のところにやって来て、こうおっしゃったそうです。

「地上に戻りなさい。私はおまえにもう一度チャンスを与えます。自分が、わたしの名にふさわしい者であることを証明してきなさい。おまえがわたしの聖霊を帯びていることを、行いによって、この世の人々に示してあげなさい。そして、わたしの代理者として、人々を救いに導きなさい。その勝利の戦いを済ませて、再び戻って来なさい。そうすれば、お前も、わたしが勝ち取ったこれらの者たちの行列の中に加えてあげよう。」

こうして彼は天国の幻から帰ってきました。そして、彼はその後、神のために一生懸命に働きました。

何度も言いますように、ただ、イエス様を信じるだけで救われます。救われて、天国に行くことができます。それは神の一方的な恵みなのです。そのために神は私たちには何の行いも要求されません。でも、「ただ自分が救われて良かった」「ああ自分の家族も救われて良かった。もうこれでいい。あとは天国に行くのを待とう」「罪も赦されたし、平安だし、問題もそんなにないし、あとは天国を楽しみにして待っていよう」といって座り込んでいるのではなく、やがてキリストが再臨され、そのさばきの座で正しくさばかれるその時に、神からの栄冠を受けるために、私たちはどうあるべきなのかを考え、そのように生きるべきだとチャレンジしているのです。そして、それにふさわしい生き方とはどのようなものなのでしょうか。それは、「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えずお家ながら、責め、戒め、また勧めなさい。」ということです。

これはテモテに対してばかりでなく、その後に続くすべてのクリスチャンにも命じられていることです。私たちは、みことばを宣べ伝えなければなりません。時がよくても悪くても、寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。

皆さん、今はどんな時ですか?良い時ですか?それとも悪い時でしょうか?テモテの時代は悪い時でした。外からはローマ皇帝ネロによる激しい迫害がありました。また、教会の内部にも違ったことを教えて混乱を引き起こす人たちもいました。みことばを宣べ伝えたくてもそれを妨げるさまざまな障害があったのです。しかし、そういう時でも、いやむしろそういう時だからこそ、しっかりとみことばを宣べ伝えなければなりません。なぜなら、みことばによって人は救いに導かれ、キリストが現れるその時に、神から正しい評価を受けることになるからです。そのみことばを伝えなければ、いったい人はどのようにしてそのことを知ることができるでしょうか。信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。その知らせを宣べ伝える人がいなければ、だれも聞くことができません。だからみことばを宣べ伝えなければなりません。時が良くても悪くても、寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。

Ⅱ.真理から耳をそむける時代(3-4)

なぜ、みことばを宣べ伝えなければならないのでしょうか。もう一つの理由が3節と4節にあります。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」

なぜ、みことばを宣べ伝えなければならないのでしょうか?積極的な意味では、それによって人々が救いに導かれ、霊的に成長していき、やがてキリストの現れの時に、正しくさばかれる神の御前で、その報いを受けるためですが、消極的な意味では、人々が健全な教えに耳を貸そうとしないからです。そういう時代がやって来ます。いや、もうすでにそのような時代が来ているのです。

このことについてパウロは前の章で、終わりの時代には、人々がどうなっていくのかについて語りました。その時に人々は「自分を愛する者」になります。世の終わりが近くなると、人々はまず自分を愛するようになるのです。神を愛するよりも自分を、隣人を愛するよりも自分を愛するようになるのです。不法がはびこるので愛が冷えてくるからです。牧師、伝道者が健全な教えを語っても、そういう話は聞きたくありません。なぜなら、そこには自分を捨てることが求められるからです。イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)と言われました。だれでもイエスについて行きたいと思うなら、自分を捨てことが求められます。もちろん、イエス様を信じたらその愛と恵みの大きさに感動し、喜んで自分を捨て神の道に従いたいと願うものですが、しかし、本質的に自己中心的な私たちは、このようなことを嫌がる傾向があるのです。健全な聖書の教えに耳をかしたくありません。そして、自分に都合の良いことを言ってもらう牧師や教師を次々に捜し歩き、自分たちのために寄せ集めるのです。すると真理ではなく、空想話にそれていくようになります。

だから、みことばを宣べ伝えなければなりません。そうした時代になっていくからこそ、真理のことばである神のことばをまっすぐに説き明かさなければならないのです。人がどう考え、どのように思い、何を言っているかではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかを聞かなければならないからです。

Ⅲ.自分の務めを十分に果たしなさい(5)

ですから、結論としてはこうです。5節をご一緒読みましょう。

「しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

「しかし、あなたは」とは、これまでパウロが語ってきたように、終わりの日が近くなると、人々は健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理からそれて、空想話にそれて行くようになりますが、しかし、あなたは、です。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければなりません。テモテに与えられた務めとは何でしょうか?みことばを宣べ伝えることです。テモテに伝道者としての力があったかどうかはわかりません。彼が力強い牧会者であったかどうかもわかりません。ただわかることは、みことばを宣べ伝えることが、彼に与えられた務めであったということです。そのために彼は召されたのです。その務めを十分に果たさなければなりませんでした。

それは私たちも同じです。私たちも自分たちに与えられた務めを十分に果たさなければなりません。皆さんはどうでしょうか。皆さんに与えられている務めとは何でしょうか。皆さんは、その務めを十分に果たしておられるでしょうか?

私はここに一冊の記念誌を持ってきました。これは保守バプテスト同盟の山形福音伝道隊65周年を記念してまとめられたものです。現在山形には約20の保守バプテスト同盟の教会がありますが、その最初は1948年に山形で宣教を開始したジョセフ・G・ミーコ宣教師ご夫妻の働きによるものが大きいのです。先生は「いちご伝道」といって、いちごが実を結ぶとき、実を結ぶ前に次のところにつるを伸ばして実を結ぶように、開拓伝道を始めたら、同時に次のところの準備も始め、同時に実を結ばせようとして、その結果、多く教会を生み出して行ったのです。先生は持病で1948年から10年後に一時帰国し、再び来られたのは1973年でした。そして帰国した1979年までの16年間に、本当に多くの教会を生み出していったのです。私が実践している開拓伝道はこのいちご伝道がモデルになっています。それにしても、戦後の混乱期にあって、しかも持病を抱えながら伝道することはどれほどのご苦労があったことかと思います。

このミーコ先生と一緒に働いたジョー・グーデンという宣教師が、ミーコ先生についてこのように語っています。「私はあの日のことを決して忘れない。山形盆地、そこに教会が一つもない沢山の町々村々があった。小高い山からそれらの村々を見ながら、彼は32か所を指さしていた。私がもっと彼に近づいてよく見ると、彼の目には涙が浮かんでいた。彼の声は震えて、「私はあの一つ一つの所に教会でも、聖書研究会でも、あればと願っている。ジョー、私と一緒に働いてくれないか。あなたと私は人柄も才能も違う。私にはあなたが必要なのだ。お互いに助け合えばきっとよい成果がある。どうか私と一緒に働きに来てください。」そして、ジョー・グーデン宣教師は彼のもとに来たのでした。そして、ミーコ先生の宣教の情熱、一人の魂に対する愛、ねばり強さ、若者の心をとらえたい心、主のためなら何でも平気だという図太い神経、そして、彼の重荷を見たのでした。

ミーコ先生は天に召されるまで日本に残された、まだ福音の伝わっていない地のことを思っていました。もう痛みも絶頂に達していたとき、その痛みをおして、彼の伝道を背負っている日本の牧師たちと話し合うために来日しましたが、来るたびに、これが最後にかもしれないと思われた中で、最後の教訓を残して成田から去って行かれたのでした。ミーコ先生は、自分に与えられた務めを十分に果たしました。今ごろ天国で義の栄冠を受け、主イエスからこのような報いを受けておられるでしょう。

「よくやった。良い忠実なしもべただ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

それはミーコ先生だけではありません。キリストのみことばに従って自分の務めを十分に果たしたすべてのクリスチャンにもたらされる約束でもあるのです。ここには、「自分の務めを十分に果たしなさい」とあります。それは途中であきらめるなという意味です。あきらめないで、最後まで走り続けなければなりません。神があなたにゆだねられた使命を果たし終えるまで、最後まで走り続けなければならないのです。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」「しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」これがこの世を去る直前にパウロがテモテにどうしても伝えたかったことであり、二千年の時を越えて、今もなお私たちに語り続けている命令なのです。お祈りしましょう。

Ⅱテモテ3章10~17節 「聖書は神のことば」

きょうは、Ⅱテモテ3章後半の箇所から、「聖書は神のことば」というタイトルでお話したいと思います。パウロは3章前半のところで、終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい、と勧めました。なぜなら、そのことを事前に知っているならたとえ困難な事態に直面しても落ち着いてそれに対処することができるからです。

そしてきょうの箇所には、そうした困難な時代の中でクリスチャンはどあるべきなのかについて教えています。困難な時代がやってくることを避けることはできませんが、しかし、そのような困難な状況の中にも堅く信仰に立つことができます。いったいどうしたらいいのでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.良い模範を見ならう(10-12)

まず10節から12節までをご覧ください。

「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついてきてくれました。何というひどい迫害にも私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

終わりの日の困難な時代に私たちが信仰に堅く立つために必要な第一のことは、良い模範を見ならうということです。ここでパウロはテモテに対して、神のしもべとして歩んできた自分に、「よくついて来てくれました」と感謝しています。エペソの教会はパウロによって始められた教会です。最初のうちはキリストの愛に溢れ、宣教の情熱に燃えるすばらしい教会でしたが、パウロがエペソを去った後でだんだん雲行きが怪しくなってきました。狂暴な狼が入り込み、群れを荒らすようになったからです。聖書の教えとは違うことを主張したり、ああでもない、こうでもないと、自分を主張する人たちが出てきたのです。それは教会の中に癌のように広がり、ある人たちの信仰をくつがえしてしまうほどでしたが、しかし、テモテは、彼らとは違っていました。彼は、パウロの教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、そればかりか、アンテオケ、イコニオム、ルステラでパウロにふりかかった迫害や苦難にも、よくついて行きました。彼は最後までパウロの教えから離れることはありませんでした。その模範に見習ったのです。

皆さん、終わりの日にはこうした困難な時代がやってきますが、そうした中にあっても私たちは信仰に堅く立ち続けることができます。それは、信仰の良い模範を見習うことによってです。クリスチャンの歩む道は必ずしも孤独なものではありません。そこには信仰の先達者たちの良い模範が数多く残されているのです。たとえば、ヘブル12章1節にはこうあります。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

いったいどうしたら目の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けることができるのでしょうか。それは多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるからです。私たちだけでなく、私たちの先に生きた多くのクリスチャンたちも同じような経験をしながらも、忍耐をもって最後まで走り続けました。そのことを思うと励ましが与えられます。確かにテモテには困難がありましたが、しかしそうした中にあっても同じような困難を通ったパウロのそばにいて、パウロがどのように主に信頼しているのかを間近に見ながらその姿から学ぶことができたことは大きな恵みでした。

いったいテモテはパウロの何を見習ったのでしょうか。まずテモテが見習ったのはパウロの教えでした。パウロの教えは人から聞いたものではなく、主イエスから直接聞いたものでした。それはガラテヤ書1章11~20節のところで言われているとおりです。彼はクリスチャンを迫害するためにダマスコという町に向かっていた時、突然、天からまばゆいばかりの光を見ました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」それで彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、街に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」それで彼は目が見えませんでしたが、人々に手を引いてもらってダマスコに行き、そこで三日の間、目が見えず、また飲み食いもせず、神のみこころを待ち望みました。そこへアナニヤという弟子が現れて、彼がしなければならないことを告げるのです。それでパウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになり、ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めました。ですから、パウロの教えはだれか他の人から聞いたことではなく、主ご自身から聞いた主の教えでした。テモテはその教えにとどまったのです。

いったいなぜ人は聖書が教えている主イエスの教えから外れてしまうのでしょうか。それは主イエスから聞いたことではなく、人から聞いたことや、だれか別の人が言ったことを鵜呑みにするからです。そうではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかを聞かなければなりません。聖書は何と言っているのか、また、それはどういう意味なのか、そして、それは私の生活にとってどういうことなのか祈りながら適用しなければなりません。そうでなかったらいつまでも人の話に振り回されてしまい、それと違った考えや教えが入ってきてもどこが違うのかを判別することができず、惑わされてしまうことになります。

またテモテはパウロの教えばかりでなく、パウロの行動も見習いました。パウロの行動は、その教えと一致していました。彼は自分が語っているメッセージをその生涯で実証していたからです。主のために犠牲を惜しまずに伝道し、自らが華美で贅沢な暮らしを求めるようなことはしませんでした。自分が人から受ける以上のものを人に与えました。また、真理のためなら、自らのいのちを落とすことも厭いませんでした。彼は神と人に仕える僕だったのです。

またパウロの計画は、これは目的と言い換えたほうが良いかと思いますが、それはただ神の栄光を現すことでした。パウロはこう証しています。「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)パウロはこの地に福音が満たされ、救われる人たちが起こされることによって、神の栄光が現されることをひたすら願いました。彼の関心は自分が人から注目を浴びることではなく、自分の名声を得ることでもなく、ただ神の栄光が現されることでした。テモテはずっとパウロのそばにいてその姿を見ていました。パウロは自分に頼らないで、主に信頼していたのです。

そればかりでなく、パウロが反対する人たちがたくさんいる中でも、寛容な心をもって教えているのを見ていました。また迫害する人たちに対しても、神の愛をもって赦す姿、どんな困難な状況にあっても、じっと忍耐する姿をそばで見ていたのです。

パウロは11節でそのことを言っています。彼が福音のゆえに受けた迫害や苦難は、私たちの想像以上のものでした。ピシデヤのアンテオケではユダヤ人たちの激しいねたみによってその地方から追い出され、イコニオム、ルステラでも同様の迫害がありましたが、ルステラでは石打にされ、死んだと思われて捨てられたほどです。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。しかし、テモテが見たのはそれだけではありませんした。そうした激しい迫害や苦難にあっても、主はいっさいのことから救い出してくださったということも目の当たりにしていました。

ここでパウロは、主が迫害や苦難から救い出してくださったということを思い出しています。このように自分の過去を振り返る時、神がどのようなことをしてくださったのかを思い出すなら、今置かれている状況がどんなに苦しくても希望を持つことができます。この時パウロはローマの地下牢にいてこれを書いていましたが、この時には打ち首になることが決まっていました。そこにはもう何の希望もないかのようでしたが、そのような中にあっても彼は決してあきらめませんでした。主が必ず救ってくださるという希望を持っていたのです。どういうふうに救い出してくださるのかはわかりません。もしかしたらそれが延期になって事態が一変し、そこから奇跡的に逃れられるようになるのか、あるいは、かつてピリピの獄舎で経験したように、大地震が起こって救い出されるのか、どのようにして救い出されるのかはわかりませんが、神が必ず救い出してくださるという確信がありました。たとえそうでなくても、主は彼に最善のことをしてくださると信じていました。たとえ処刑されて命を失うようなことがあっても、それは主イエスのそばに行くということを意味しているので、それもまた喜ぶことができました。彼は迫害の中にあっても、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができたのです。

テモテはいつもパウロのそばにいて、そうしたパウロの姿をつぶさに見ながら、そこから学んでいました。彼にはそうした信仰の模範がありました。ですから、実際の困難な状況にあったとき、そのことを思い出して励まされ、忍耐することができたのです。

私たちも、時に困難に直面することがありますが、そのような時にはぜひこうした信仰の先達者たちの姿を思い出したいものです。そして、そこから励ましを受け、そうした困難の中にあっても目標に向かって前進していきたいと思うのです。

Ⅱ.神のことばにとどまる(13-15a)

困難な時代にあっても、私たちが信仰に堅く立つために必要な第二のことは、神のことばである聖書にとどまることです。13~15節前半までをご覧ください。ここには、「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。」とあります。

終わりの日が近くなると、こうした「悪人」とか「詐欺師たち」と呼ばれる人たちが増えてきます。「悪人」とか「詐欺師たち」とは名ばかりのクリスチャンたちのことで、言っていることとやっていることが一致しない人たちのことです。口ではイエス様信じます!と言いながら、その主のことばに従って歩もうとしないのです。そういう人は信じているとは言っても行いによってそれを否定するので、信じていることにはならないのです。

主イエスはマタイの福音書の中で、「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う人者がみな天の御国に入るのではなく、無店におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)と言われました。終わりの日にはこういう人たちが多くなっていくのです。そして、こういう人たちはだましだまされながら、ますます悪に落ちて行くのです。

では、どうしたらいいのでしょうか。そのような現実の中でいったいどうやって信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。聖書はこう言っています。14節です。「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」

いったいなぜこうした悪人や詐欺師たちにだまされるのでしょうか?それは、聖書を学ぼうとしないからです。聖書が何と言っているかということよりも、自分の考えや思いによって行動しようとするからです。ですから、そうした偽りの教えがやってきてもそれを正しく判別することができないので、その結果、振り回されてしまうのです。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。勿論、この学んでというのは「聖書」のことです。「聖書」を学んで確信したところにとどまっていなければなりません。なぜなら、その聖書をだれから学んだのかをよく知っているからです。

テモテはだれから聖書を学んだのでしょうか。テモテの父親はギリシャ人で、母親はユダヤ人でした。でもテモテを信仰に育てたのは母親でした。なぜなら、ユダヤ人の誇りは、子供たちを幼い時から律法に基づいて教育し、訓練することだったからです。ユダヤ人は、律法が子供たちの魂にも精神にも深く印象づけられているので、自分の名前を忘れることはあっても律法は忘れないと言っています。そのようにテモテは幼い頃から母親から聖書を学んでいました。

テモテはそれを知らない人から聞いたのではありません。まして偽りの教師たちから聞いたのでもないのです。彼はそれを信頼できる人から学びました。ですから、それは信頼できる教えなのです。そしてそうした信頼できる教えは、必ず健全な信仰を生み出します。そしてそこにとどまっているなら、たとえ偽りの教えが入ってきても惑わされることはないのです。

Ⅲ.聖書の価値(15b-17)

では、テモテが幼いころから親しんできた聖書とはどのようなものなのでしょうか。15節の後半から17節までをご覧ください。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

ここでパウロは、聖書について四つの大切なことを語っています。第一に、聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるということです。これが、聖書が書かれた一番大きな目的です。聖書は単なる文学書や歴史書ではありません。聖書は、イエス・キリストによる救いを受けさせるために書かれたものなのです。

ヨハネの福音書20章31節には、「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とあります。聖書が書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、そして、信じて、イエスの御名によっていのちを得るためなのです。ですから、どんなに聖書を読みその内容を知っていても、それによってイエスを信じなければ何の意味もありません。それは聖書読みの聖書知らずということになります。しかし、聖書は私たちがそれを読んで、イエスが神の子キリストであることを信じるために書かれたのです。この目的を理解してあなたが聖書を読むなら、あなたもキリスト・イエスを信じる信仰へと導かれ、永遠のいのちを得ることができるのです。

A.M.チャーギンは、「世界伝道における聖書」という本の中で、あるイギリスの小児科病院の看護婦長の話をしています。彼女の告白した話では、彼女は人生がくだらぬ、無意味なものだと思っていました。そして、彼女は人生の意味を見出すために、次から次に本を読みました。しかし、何の満足も得られなかったので、次に彼女は哲学書を苦労して読み始めました。しかし聖書を開こうとはしませんでした。彼女の友人が、ことこまかに、聖書がいかに偽りであって、真実性のないものであるのかを語っていたので、そう信じ込まされていたからです。しかし、ある日病室に訪問者がやって来て福音書の一冊を贈り物として残して行きました。その婦長はヨハネの福音書を読むようにと勧められていたので読んでみると、そこにはこう書かれてありました。「そこでピラトはイエスに行った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネの福音書18章37節)そして彼女は救い主を発見したのです。

この婦人は、聖書を読むまで真理がわかりませんでした。けれども、直ぐな心で聖書を読むなら、そこに驚くべきことが起こります。他のどんな本にもない救いの知恵がその中にあるからです。

第二のことは、聖書はすべて神の霊感によるものであるということです。ここには、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、」とあります。どういう意味でしょうか?それは、聖書は神の霊の息吹によって書かれたということです。聖書は40人の著者たちによって、約1600年の歳月をかけて書かれましたが、その内容をみると統一性があり、全体が見事に調和していることがわかります。バラバラではないのです。もしここにいる人たちがイエス・キリストというテーマで書いたとしたら、その内容はバラバラなものになってしまうでしょう。全く違う人たちが違った視点で書くからです。けれども、聖書は40人の著者たちによって書かれましたが、真の著者は神ご自身であって、神がそれぞれに聖霊によって語りかけ、聖霊は神の人を用いて神のみことばを書かせたので、そこには統一性や一貫性があるのです。それはちょうど法隆寺が聖徳太子によって立てられたのと同じです。実際には聖徳太子が建てたのではなく、宮大工職人によって建てられたものですが、それは聖徳太子の命によって建てられました。ですから、法隆寺は聖徳太子によって建てられたのです。同じように聖書も実際には40人もの人間によって書かれましたが、それを意図して書かせたのは神ご自身なのです。聖書が神のことばであるゆえんはここにあります。

いったい神はどのようにして彼らに書かせたのでしょうか。それは彼らが単なるインスピレーションやひらめきによって書いたというのではありません。またその人たちが意識を失って、手が勝手に動き出して書いたというのでもないのです。神が語られたことを、聖霊に動かされて人たちが書いたのです。そのことをⅡペテロ1章21節では、こう言っています。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人とたちが、神からのことばを語ったのだからです。」

「預言」とは「聖書」のことです。聖書は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、神の聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。それゆえに聖書は神のことばであると言えるのです。しかも部分的にではありません。すべてです。聖書はすへて神の霊感による、神のことばなのです。

そして第三に、聖書は教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。聖書は、何が真理であり、何が悪であるかをしっかり教えてくれます。また、私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行う力を与えてくれるのです。

リック・ウォーレンの書いた「人生を変える力」という本の中に、南太平洋に浮かぶある島の人食い人種の話があります。その人はキリストを信じて聖書を読むようになりました。ある日、その人が大きなつぼのそばに座って聖書を読んでいると、ヘルメットをかぶった一人の文化人類学者が近寄って来て、「何をしているんだい」と尋ねました。その原住民が「聖書を読んでいるのです」と答えると、その文化人類学者は笑って言いました。「現代の文明人がその本を拒絶してきたことを知らないのかい?ウソのかたまり以外の何ものでもないさ。そんなものを読んで、自分の時間を無駄にしないほうがいい」すると、この人食い人種は、その文化人類学者の頭のてっぺんからつま先までゆっくり眺めた後で、こう言いました。「先生、もしこの本がなかったら、あなたは今頃このつぼの中ですよ。」神のみことばによって、その人食い人種の人生は見事に変えられたのです。このように聖書は、人を変える力があるのです。

もし本気で自分の人生を変えたいと願うなら、聖書に向かわなければなりません。聖書を読んで、そこから学び、ただ学ぶだけでなく暗記したり黙想して、それを自分の生活に適用しなければなりません。そうでなければ、信仰の成長を期待することはできないのです。

それは子供の成長と同じです。小さな子供はわがままで自己主張が強くて大変ですが、そういう子供を立派な大人に成長させたいと願うとき、いったい親はどうするでしょうか。まず何が正しくて、何が正しくないかを教えます。そして、それと違ったことをしたら「それは違う」と教えます。何度言っても聞かない時にはムチを使うかもしれませんね。そしてそれができるようにトレーニングします。同じように、神は私たちを子として扱っておられるので、私たちに教え、戒め、矯正し、義の訓練をされるのです。その道具が聖書なのです。生まれながらの人間は、自分のやり方を通そうとします。真理に従いたくないのです。自分の思うようにしたいのです。それを聖書では肉と言っています。肉は神のみこころに反します。しかし、聖書のことばに従うと成長し、霊的に成熟していくのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益なのです。

第四に、聖書は神の人が、すべての良い働きのためにふさわしく十分に整えます。Ⅰテモテ6章11節で、パウロはテモテを「神の人」と呼びましたが、ここではテモテに限らず、神のみことばを学び、それに従い、それによって支配された人たちを「神の人」と呼んでいます。そして神のことばは、そのような人たちがすべての良い働きのためにふさわしく十分に整えてくれるのです。聖書を学ぶ目的は、ただ聖書の教えを理解し、信仰を守るといった消極的なものだけでなく、みことばによって神の人が神のわざを行っていくという積極的な面で整えられるためでもあるのです。

有名なイギリスの説教者C・H・スポルジョンは、あるとき古くてボロボロになった聖書を手に入れました。普通に扱うと壊れてしまうので、彼は机の上にその聖書を置いて、慎重に1枚1枚開いて読まなければなりませんでした。毎日読んでいるうちに、ふと聖書の中に小さい穴があいているのに気が付きました。その穴は表紙から裏表紙までを貫いていました。それはシミという小さな虫の食った穴でした。シミという虫は銀色のむかでみたいなやつです。以来彼は、「神よ、どうぞ私をこのシミのようにしてください」と祈ったそうです。そして彼は、シミのように聖書の初めから終わりまで何度も何度も繰り返して読んだと言われています。そこに彼の奉仕の原動力の秘密を見るような気がします。

私たちも祈りましょう。「主よ、どうぞ私をシミのようにしてください。」と。聖書の最初から最後まで何度も読んで神の人に創り変えられ、良い働きのために備えられるようにと祈ろうではありませんか。

終わりの日が近くなると、偽りの教えがはびこり、困難な時代がやって来ますが、しかし、動じることはありません。永遠に変わることのない神のことばを握りしめ、そこに根を下ろすなら、どんな困難な中にも堅く立ち続けることができるのです。

Ⅱテモテ3章1~9節 「終わりの日には」

きょうは、「終わりの日には」というタイトルでお話をしたいと思います。パウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、困難に耐えるためにどうしたらよいかを語ってきました。そしてそのためにはまず、神が私たちに与えてくださったものがどのようなものかを思い出さなければなりません。神が与えってくださったものは、おくびょうの霊ではなく力と愛と慎みとの霊です。(1:7)このことを思い起こすなら力が与えられ奮い立つことができます。それから、イエス・キリストの恵みによって強くならなければなりません。それは兵士のようであり、またアスリートのようです。そして労苦して働く農夫のようです。確かに目の前には戦いがあり、労苦がありますが、その先にもたらされるのは勝利であり、栄光であり、収穫の分け前です。このことを知っていれば、困難の中にあっても強くなれるのです。

それからパウロは、ダビデの子孫であり、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい(2:7)と勧めました。私たちは決して孤独の戦いをしているわけではありません。そこにはいつもイエス様がおられ、イエス様の助けがあることを忘れてはなりません。

これらのことを人々に思い出さなければなりません。そして、聞いている人々を滅ぼすような無意味な話を避けなければなりません。そのような話は聞いている人々を滅ぼし、人々の信仰をくつがえしてしまいます。むしろ、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければなりません。

そして今日の箇所では、特に終わりの日にはそうした俗悪な無駄話というか、信仰からそれていくような時代になることを警告しています。なぜなら、終わりの日にはどのようなことが起こるのかを前もって知っていると、それに備えることができるからです。

Ⅰ.困難な時代がやって来る(1)

まず1節をご覧ください。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」

ここには、終わりの日には困難な時代がやって来る、とあります。いったい終わりの日とはいつのことなのでしょうか?ヘブル人への手紙1章1,2節にはこうあります。

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」ここには、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、神のことばを語られた時を、終わり日と言っています。

また、ペテロはペンテコステの時に聖霊が下られたのを見て、驚き、あやしんでいた群集に、預言者ヨエルのことばを引用してこう言いました。使徒の働き2章16~21節です。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」

ですから、ヨエルが終わりの日に起こることとして預言したことは、ペンテコステにおいて成就したことがわかります。いや、もっと正確に言うなら、このペンテコステの時に成就しましたが、やがてもっと完全な形で成就するということです。ですから、終わりの日とはイエス様が最初にこの地上に来られた時に始まり、再び来られる時までのことを指しているということです。キリストが最初に来られた時は救い主として来られましたが、二度目に来られる時にはさばき主として来られます。そのときが終わりの時です。その時にはどんなに「時間よ、止まれ」と叫んでも、止まることはありません。終わりの時が来て、すべての人がさばかれるのです。

ですから、今は恵みの時、今は救いの日なのです。イエス様が最初に来て救いの御業を成し遂げられて天に昇られ、さばき主として再び来られるのを待っている時なのです。だれでもイエス・キリストを信じるなら救われます。救われて天の御国に入ることができるのです。過去においてどんなに大きな罪を犯した人でも、また、生まれた環境がどうであれ、もう自分なんか生きる価値もないと思えるような人でも、だれでも救われます。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

イエス・キリストを信じるなら、あなたも罪から救われて、新しい人生を始めることができるのです。今は恵みの時、今は救いの日です。ですから、この恵みの時にイエス・キリストを信じて救われてほしいと思います。やがて信じたくても信じることができない時がやってくるのですから。そして終わりの時がやって来ます。キリストが再びこの地上に来られるとき、彼を信じるすべての人は救われて永遠のいのちを頂き、そうでない人はさばかれます。永遠の滅びへと突き落とされるのです。そういうことがないように、あなたもイエスを信じて救われてください。今は、この終わりの日に限りなく近づいている時なのです。聖書の預言がことごとく成就し、主イエスがいつ来られてもおかしくないような、そういう時に生かされているのです。その恵みの時に、神の救いを受け入れていただきたいのです。

では、その終わりの日には、どんなことが起こるのでしょうか。ここには「困難な時代がやって来る」とあります。悲観的に聞こえるかもしれませんが、これが聖書の言っていることです。なぜ終わりが近づくと困難な時代になっていくのでしょうか。なぜなら、神はその後で新しい天と新しい地を創造されるからです。出産の前には産みの苦しみがあるように、新しい天と新しい地が創造される前にも苦しみがあります。それは産みの苦しみなのです。

この「困難」と訳された言葉は、マタイの福音書8章28節にある「狂暴」という言葉と同じ言葉です。イエスがガリラヤ湖の向こう岸のガダラ人の地に行くと、そこに悪霊につかれた人がふたり墓から出て来ました。彼らは墓場に住みついていました。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどでした。その「狂暴」と同じ言葉が使われているのです。ですから、世の終わりの時は、悪魔や悪霊が猛威を奮うときなのです。テモテへの手紙第一にもありましたね。後の時代には、ある人たちが惑わす霊と悪霊の教えとに心が奪われる・・と(4:1)。この時代は単に、悪いことが起こるというだけでなく、悪霊がはびこるのです。世界で起こっている事柄が、まさに悪魔的な様相を呈するのです。

パウロは、終わりの日にはこうした困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい、と言いました。なぜなら、そのような困難な時代がやって来るということを覚えているなら、それに備えることができるからです。パウロ自身も、彼の人生の終わりの日が、もう目の前に迫っていました。彼は何度も牢の中に入れられました。別に何か悪いことをしたからではありません。福音のために、良いことのために捕われていたわけです。この手紙を書いた時には打ち首になることが決まっていて、ローマの地下牢に閉じ込められていました。しかし、パウロの心は少しも萎えませんでした。むしろ希望を持っていました。そうした困難な中にあっても、牧会で苦しんでいたテモテを励ますことができたのです。なぜでしょうか?それは、終わりの日にはそうした困難な時代になるということをちゃんと知っていたからです。そして、そのような時代の中にあっても、イエス・キリストが再び来られ、彼を信じるすべての者たちに報いてくださると信じていたからです。ですからパウロは、そうした困難な時代にあっても勇気を失うことなく、苦難の中にあったテモテを励ますことができたのです。

皆さんはどうでしょうか。終わりの日には困難な時代がやって来ることを知っていましたか。日々突然襲って来る苦難に、「なんでこうなるの」と嘆いてはいないでしょうか。でも心配する必要はありません。焦らなくても大丈夫です。それはずっと前から聖書で言われていたことですから・・。「ああ来たな」と思ったら、これが聖書で言われていた患難かと思い、すべてを神様にゆだねて祈ればいいのです。そうすれば主が守り、患難に耐える力を与えてくださいます。

新聖歌247番の2番の歌詞にこうあります。

「来なば来たれ試みよ 襲いかかれ悪しき者

主に隠れし魂の などで揺らぐことやある

主の手にある魂を 揺り動かいものあらじ」

主の手にある魂を、揺り動かすものはありません。ですから、そういう困難は来るということを十分覚えながら、その時には岩なる主に隠れればいいわけです。主の手にある魂を、揺り動かす者は何もないのですから。

Ⅱ.そのときに人々は(2-8)

では、そのとき人々はどのようになるのでしょうか。それが2節から8節までに記されてあります。まず2節から5節までをお読みします。

「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

ここでパウロは、そのとき人々はどうなっていくのかを具体的に18のリストを挙げて説明しています。その最初にリストアップされているのは、自分を愛する者です。世の終わりが近くなると、人々は自分を愛するようになります。ここでは特にイエス様を信じていない人のとこが言われているのではありません。イエス様を信じているはずのクリスチャンのことが言われているのです。そのクリスチャンが自己中心になり、神から離れて行くようになるというのです。

イエス様はマタイの福音書24章の中で世の終わりの兆しを語っておられますが、その最大のしるしは何かというと、多くの人たちの愛が冷たくなるということでした。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです(マタイ24:12)。神に対する愛も、教会に対する愛も、兄弟姉妹たちに対する愛も、隣人に対する愛も冷えるのです。なぜでしょうか?不法がはびこるからです。聖書に教えられていることとは違うことを教えたり、聖書に反するようなことを言ったりすると、愛が冷え、自己中心になるのです。世の終わりが近くなると、そういう人たちが多くなるのです。今はそのような傾向が強くなっているのではないでしょうか。

では、このことについて聖書ではどのように教えているでしょうか?マルコの福音書8章34節を開いてください。ここでイエス様はこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34)」

また、こうも言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』…『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」(マルコ12:30-31)

だれでもイエスについて行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスについて行かなければなりません。自分を愛するのではなく自分を捨てて、イエスについて行く、それがクリスチャンの信仰の土台です。そして、神を愛し、隣人を愛します。自分を愛するようにということは、聖書には書かれてありません。健全なセルフイメージを持つことは大切なことですが、それと自分を愛することは違います。自分を愛することができなければ神を愛することもできないし、隣人を愛することだってできないのだから、まずは自分を愛さなければならないと言う人がいますが、それはこの世の知恵が教えていることで、聖書が言っていることではないのです。聖書が言っていることは、あなたが神である主を愛せよ、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよということです。そうすれば、あなたに真の自由と平和がもらされるのです。なぜなら、真理はあなたがたを自由にするからです。真理のみことばに従うなら、その真理があなたを自由にするのです。

次に挙げられているのは、金を愛する者です。終わりの日が近くなると、人々は金を愛するようになるというのです。金を愛して何が悪いのか?世の中すべてが金じゃないですか?しかし、聖書はこう言っています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:10)金を愛することがすべての悪の根であり、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通すことになります。必要であれば、必ず神が与えてくださいます。ですから、金を愛するのではなく、神を愛さなければなりません。お金を何に使うかによってその人の心がどこにあるか、何に関心があるのかがわかります。自己中心的になると神のために使ったり、人のために使ったりということがなくなり、自分のために使うようになります。なぜなら、だれもふたりの主人に仕えることはできないからです。神にも仕え、また富にも使えるということはできません。神を愛すれば、神に仕えるようになり、金を愛すれば、金に仕えるようになるのです。その結果、信仰から迷い出て、悲惨な結果を見に招くことになるのです。

第三のことは、大言壮語する者です。大言壮語とは何でしょうか。それは自慢することです。できそうにもないことや威勢のいいことを言って誇るのです。終わりの日が近くなると、多くの人がこのように大言壮語するようになります。

第四に、不遜な者です。不遜な者とはギリシャ語で「ヒュペレーファノス」という言葉ですが、これは自分を高く示すという意味です。自分を高くするので、そこには当然相手を見下す態度が生まれます。このような心があると、上から目線で言ったり、やったりするようになるのです。

ルカの福音書18章には、有名なパリサイ人の祈りが紹介されています。彼は、立って、心の中でこう祈りました。「神よ。私はわかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11-12)

このパリサイ人は、自分を高い所に置きました。そして、取税人をはじめとする罪人をいつも見下していました。それがこの祈りによく表われています。「ことにこの取税人のようでないことを感謝します」と、祈っています。これが傲慢な者、不遜な者の姿です。

次に、神を汚す者です。つまり、神を侮辱する者です。このような人は神を敬うことをしません。神を敬うのではなく自分を敬います。そうした自尊心は常に神への侮辱を生み出します。神よりも自分の方がもっと知っているとか、神を信じて何にもならないと豪語するのです。こうした思いはやがて人を軽蔑し、人を傷つける言動となって表われます。

次は、両親に従わない者です。終わりの日が近くなると、だんだんと両親にも従わなくなる人が増えてきます。両親のことより自分のことが大切だと思うからです。でも、モーセの十戒では何と言っているでしょうか?モーセの十戒の最初の四つの戒めは神との関係について、後半の六つの戒めは対人関係について言われていますが、その対人関係の最初に言われているのは両親に対する戒めです。そこには、「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト20:12)とあります。それが「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるため」なのです。なぜこのように言われているのでしょうか?なぜなら、あなたの両親は神の代理者として立てられているからです。目に見える親を愛することのできない人が、どうして目に見えない神を愛することができるでしょうか。きょうは奇しくも父の日ということですから、両親から離れて住んでいる方は、ぜひ両親に電話なり、メールなりで感謝を表したいものです。

次は、「感謝することを知らない者」です。終わりの日が近くなると感謝することを知らない人が増えてきます。皆さんは感謝していますか?ブツブツ文句ばっかり言ってはいないでしょうか?不平不満ばかり漏らしてはいないでしょうか?なぜ感謝することができないのでしょうか?それが当たり前だと思っているからです。でも、あなたが生きているのは決して当たり前のことではありません。生きたくても生きられない人がたくさんいます。だから、生きていること自体が奇跡であり、感謝であり、恵みなのです。そればかりか、神はあなたを罪から救ってくださいました。永遠の滅びから、永遠のいのちへと移してくださったのです。神はこんな者でも救ってくださったと思うと、本当に感謝ではないでしょうか。いや、私は自分で頑張って生きてきたんです!誰の世話にもなっていません!自分で一生懸命努力して生きてきたんです!そういう人は感謝することができません。それが当たり前だと思っていたり、自分の力でやって来たと思っている人は感謝ができないのです。そういう人は感謝することをしないばかりか、与えられてもまだ足りないと言って文句を言います。終わりの日が近くなると感謝することを知らない者が増えてきますが、そのような中でも私たちは神を覚え、神によって生かされていることを感謝したいと思います。

次に、汚れた者です。汚れた者とは何でしょうか?汚れた者という言葉はギリシャ語の「アノシオス」ということばですが、これは成文化された法律を破るということでよりも、成文化されていない法律を犯すということです。たとえば、ギリシャ人にとっては、死者を埋葬することを拒むことはアノシオスでした。また、兄弟が姉妹と、もしくは、息子が母親と結婚することもアノシオスであったそうです。つまり、律法の文言に書かれているかいないかということと関係なく、その人が生きていく上での基本的な倫理観や道徳観、マナーやモラルといった面で欠如している人のことを言うのです。

そして次は情け知らずの者です。これは家族や友人への愛情がなくなることです。人は自己中心的になると、もっとも親密なはずの家族のつながりも無くなってしまいます。自己中心的な喜びを追及するあまり、自分の人生がそうした基本的なつながりの上に建てられていることも認めようとしなくなるのです。

M兄から聞いたお話ですが、お借りしている畑の近くの小さな池にカモが親子で泳いでいるそうです。しかし、M兄が近づくと近くの茂みに隠れます。すると突然親カモ傷ついたふりをするのだそうです。M兄の関心を自分に向けさせて、子カモを守ろうとするのです。そしてM兄がそこから離れるとまた子カモのところに戻ります。カモでさえこんなに愛情があるのに人間はどうでしょう。そこに傷ついた人がいても知らんふりをするのです。カモ~ン!私たちはカモよりももっとすぐれたものじゃないですか。困った人や苦しんでいる人を見たら、深い同情心、あわれみの心をもって接したいものです。

次に、和解しない者です。これは「アスポンドス」というギリシャ語ですが、憎悪のあまり、争った相手を決して赦そうとしない態度のことです。この語は精神的な残酷さ、冷酷さを述べることばであって、無慈悲な冷酷さのゆえに、相手を分離しようとすることです。どこまでも執念深く、他の人と仲良くやろうとする心がありません。

次に、そしる者です。これは陰口をたたく者、中傷する者のことです。これはギリシャ語では「ディアボロス」という言葉ですが、英語の「devil」(悪魔)の語源になった語です。ですから、もし人を中傷する人がいれば、それは悪魔から来ているのです。終わりの日には、こうした中傷者が増えてきます。

次は、節制のない者です。節制がない者とは、欲望を抑えられない人のことです。人はその心の願望を叶えたい存在なのです。そしていつの間にか習慣や欲望の奴隷になってしまい、その人自身を滅ぼしてしまいます。銀貨30枚でイエスを裏切ってしまったイスカリオテのユダは、この欲望を抑えることができませんでした。彼は節制のない者でした。その結果、彼は自らそのつけを受けることになってしまいました。しかし、それはユダだけのことではなく、私たにも言えることです。

次は、粗暴な者です。粗暴な者とは野蛮な者、獣のように残忍な者のことです。このような人には人間としての同情心やあわれみの心はありません。犬でさえも、自分の主人を傷つけると申し訳なさそうな動作をしますが、粗暴な人にはこのような感情すらありません。

次に、善を好まない人です。善を好まないで悪を好みます。そんな人がいるのでしょうか。いるんです。このような人は、良いことが煩わしく感じます。光よりも闇を愛するのです。その方が安心するのです。このような人は精神的な味覚、感覚を失っているのです。そして、終わりの日には、このような人がだんだん増えてくるのです。

次は、裏切る者です。いつも近くにいて親しい友人だと思っていたら、ただのふりだったとか、自分に都合が悪くなるとすぐに見捨ててしまう人たちのことです。

向こうみずな者とは、無謀なことをする人のことです。その人は、わがままで分別がありません。一見情熱的に見えますが、それはただ自分がやりたいからやっているだけで、そういう人はもはや他の人の意見を聞く耳を持ちません。情熱的であることと無謀であることはまさに紙一重です。

次は、慢心する者です。慢心する者とは、うぬぼれる人、思い上がる人のことです。原語の「テトュフォーメノス」は、自負心で膨張する者という意味です。俺はこんなにすごいんだと、風船が膨張するように心が膨張するのです。

そして、神よりも快楽を愛する者です。趣味やレジャーが悪いというのではありません。それはリフレッシュするために、リラックスするために、神が与えてくださった祝福です。でも、それを神よりも大事にすれば問題が生じてきます。

ここにあるリストの最後は5節に書いてあることです。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」です。どういうことでしょうか?イエスは主です!救い主です!と言いながら、それと矛盾するようなことをやっている人のことです。こういう人は、結局はイエス・キリストに従うのではなくて、自分の肉に従って生きています。宗教の形を気にしているだけで中身が伴わないのです。神のことばがどれだけ私たちの生活を変える力があることを理解することができませか。こういう人を避けなければなりません。

そればかりではありません。6節と7節にはこうあります。「こういう人々の中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。」

どういうことでしょうか?「たぶらかす者たち」は、入り込む者たちです。彼らは、愚かな女たちがさまざまな情欲に引き回されていることを知っているので、そこに入り込み、自分の虜にします。大抵の場合、女性は家にいて、子育てと家事の平凡な日々の繰り返しにむなしさを感じています。いったい何のために生きているのかわからなくなったり、過去の罪責感などで悩んで落ち込むことがありますが、そんな時に「ピンポン」と玄関のチャイムが鳴るので行ってみると、優しそうな二人連れがニコニコしながら話しかけです。「聖書を学んでみませんか」「いいえ、私はいいです。」と一度は断るものの、何度か話をしているうちに、この人たち、「本当にいい人たちだわ、ちょっとくらいだったら聞いてみようかしたら」と思い始めます。すると、生きる目的とか、人生の意味など、これまで考えたこともないようなことを教えてくれるのでおもしろくなって、だんだんとのめり込んでいくのです。それがあからさまに間違っていたらすぐにおかしいと気づくのですが、そこにはちょっと真理が混ざっているので、それが聖書の教えとは違うということに気付かないのです。そして時間が経つうちに、聖書とは全く違うところに導かれてしまいます。だから、彼らはいつも学んではいても、いつになっても真理を知ることができません。パウロの時代にもそういう人たちがいました。彼らはいつも学んでいても、いつになっても真理を知ることができないのです。

8節をご覧ください。「また、こういう人たちは、ちょうどヤンネとヤンプレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。」

この「ヤンネとヤンブレ」とはだれのことなのかははっきりわかりません。彼らのことは聖書の他のところには出ていないからです。でも確かなことはモーセの時代に生きていた人物で、モーセに逆らった人たちであるということです。多くの人たちは、ユダヤ人の伝承から、出エジプト記7~9章に登場するエジプトの呪法師のことではないかと考えています。あるいは、出エジプト記12章38節に出てくるイスラエルの民と一緒に入り混じってエジプトを出てきた外国人の中にいた人物ではないかとも考えられています。彼らは後に荒野に導かれたとき、激しい欲望にかられ、「ああ肉が食べたい。エジプトで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」と言って、モーセに激しくつぶやきました(民数記11:4-5)。確かなことはわかりませんが、彼らについてわかることは、彼らはだましごとにたけていて、人々を惑わしていたということです。彼らの知性は腐っていました。彼らは信仰の失格者です。

だから目を覚ましていなければなりません。敵である悪魔は、食い尽くすべき獲物を探し求めて歩き回っているからです。聖書は悲観的なことを教えているわけではありませんが、でも厳しい現実があるということを予め教えています。ですから、私たちはそのことを覚えて、そうした困難な時代に対処していかなければならないのです。

Ⅲ.しかし、これ以上は進むことはできない(9)

しかし、感謝なことに、聖書はそれだけで終わっていません。最後の9節には力強い約束が記されてあります。ご一緒に読んでみましょう。「でも、彼らはもうこれ以上進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりの場合のように、すべての人にはっきりわかるからです。」

彼らとはだれのことでしょうか。このように知性の腐った人たちのことです。真理に逆らう人たちです。終わりの日にはそのような人たちがやって来て、狂暴な狼のように群れを荒らし回しますが、彼らはそれ以上進むことはできません。彼らの力もそこまでで、それ以上は進むことはできないのです。化けの皮がはがれるからです。それが真理の光に暴露されると、必然的にしぼみ、滅亡するからです。神の不動の礎は堅く置かれています。だから教会は決して揺り動かされることはありません。だからたとえどんな人が現れても、どんな困難な時代がやって来てもびくともすることはないのです。そのような時代にあっても、堅く立ち続けることができるのです。

ですから、私たちにとって必要なことは、この真理の上にしっかりと立ち続けていることです。そうすれば、どんなことがあっても揺り動かされることはありません。今は、終わりの日の終わりの時です。終わりの日が限りなく近づいています。このような時代には、ますます不法がはびこり、愛が冷えるでしょう。教会もそうした影響を受けることも少なくありません。けれども、私たちは神のものであり、神に属している者として、この神に従うのです。そうすれば、どんな時代にあっても神が守り、決して動かされることがないように支えていてくださいます。そのことを覚えて、終わりの日に困難な時代がやって来ても慌てることなく、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かっていきましょう。敵である悪魔はもうそれ以上は進むことはできないからです。

Ⅱテモテ2章20~26節 「尊いことに用いられる器」

きょうは、「尊いことに用いられる器」というタイトルでお話します。2章の前半の所でパウロは、エペソの教会で牧会していたテモテを励ますために、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい、と勧めました。また、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえられたイエス・キリストを、いつも思っていなさい、とも勧めました。なぜなら、テモテの問題がどのようなものであれ、すべての解決の鍵はイエス・キリストにあるからです。キリストがどのような方であるのかを思い出すなら、どのような苦しみの中にあったとしても、必ずそれに耐えることができるからです。

そしてパウロは先週のところで、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前で厳しく命じるようにと言いました。そうした論争は人を建て上げるどころか、人を滅ぼすことになるからです。実際にエペソの教会にはそういう人たちがいました。ヒメナオとかピレトといった人たちです。彼らの話は癌のように広がっていました。癌がからだ全体を蝕んで滅ぼしてしまうように、そうした話はキリストのからだである教会を蝕んでいくことになるのです。

それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれています。神の不動の礎とは教会のことでした。たとえ神の教会にそういう話が起こっても、神の教会は決して揺り動かされることはありません。なぜなら、教会は神のものであり、神はご自身に属する者を知っておられるからです。そうした人たちは不義から離れます。だから教会はいろいろな問題や攻撃に遭うことがありますが、決して揺らぐことはないのです。決して揺らぐことがない神のことばの上に堅く立っているからです。教会は、神の不動の礎なのです。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。それがきょうのテーマです。であれば私たちは、そうした不義から離れなければなりません。そして、神に用いられる器にならなければなりません。いったいどうしたらそのような器になることができるのでしょうか。

Ⅰ.尊いことに用いられる器(20-21)

まず20節と21節をご覧ください。

「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」

「大きな家」とは何でしょうか。それは教会のことです。大きな家には金や銀の器だけでなく、木や土の器など、あらゆる種類の器があるように、教会にもいろいろな器があります。いろいろな人たちがいるのです。また、尊いことのために用いられる器もあれば、卑しいことのために用いられる器もあります。たとえば、金や銀でできた高価な器は食べる時に使われるだけでなく、装飾品としても用いられます。それは高価なものだからです。食器という領域を超えているわけです。もちろん、食器としても使われますが、そうした飾り物としても使われるのです。

それとは違ってごみ箱とか残飯入れは卑しいことのために用いられます。だから大抵の場合は外のベランダとか、台所の隅の目立たないところに置かれるのです。家の中にはいろいろな器がありますが、ある物は尊いことのために、またある物は卑しいことに用いられるのです。それと同じように、教会にもあらゆる器がありますが、すべてが同じように用いられるかというとそうではなく、あるものは尊いことのために用いられ、ある物は卑しいことのために用いられるのです。

では、それを分ける基準は何でしょうか。どのような人が尊いことのために用いられ、どのような人が卑しいことのために用いられるのでしょうか。それはその人がどれだけ賜物や能力を持っているかということとは関係ありません。また、その人がどのような奉仕をしているかということとも関係ないのです。それは、その人がどれだけ汚れから離れて、自分自身をきよめるかということによって決まります。21節をご覧ください。ここには、「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とあります。

皆さん、想像してみてください。たとえば、ここにとても高価なワイングラスがあるとしましょう。しかし、それがどんなに高価なグラスであっても、そのグラスの底にカビが生えていたらどうでしょう。それでも飲めるという人は少ないのではないでしょうか。また、どんなに豪華な器でも、ごみがいっぱい溜まっているとした使うことができません。使うためにはその器が汚れていないことが必要なのです。きれいでなければなりません。それが第一の条件です。ましてお客さんに出す時などはなおさらのことです。それは神の働き人であるクリスチャンも同じです。どんなに賜物があっても、どんな能力が高くても、聖くなければ神に用いられることはできません。神に用いられる尊い器とは、自分自身をきよめて、これらのことから離れなければならないのです。

「これらのこと」とは何でしょうか。その前にヒメナオとかピレトといった人たちのことが書かれてありました。彼らは真理からはずれてしまい、ある人々の信仰をくつがえすような、それを聞いている人たちを滅ぼすようなことを教えていました。すなわち、人々を建て上げるのではなく滅ぼすようなこと、人々が信仰から離れて不敬虔に深入りして、真理から離れていくようなことのことです。そうしたことは器を汚すことです。そうした不義から離れるなら、あなたは尊いことのために用いられる器になれるのです。

そのことを預言者イザヤはこう述べています。イザヤ書52章11節です。「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。の器をになう者たち。」神の民であったイスラエルは、神の一方的な恵みによって救われました。彼らは義の衣という美しい衣を着せていただいたのです。そんな彼らに求められていたことはどんなことかというと、汚れから去ることだったのです。それが「去れよ。去れよ。そこを出よ。」という呼びかけでした。あなたはバビロンから救われて美しい衣を着せられたのだから、そのちりを払い落とし、かせをふりほどかなければなりません。そして、そこを出て、汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめなければなりません。それが主の器をになう者たちなのです。

箴言25章4節にも、同じようなことが記されてあります。「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。」かなかすとは不純物のことです。どうしたら良い器ができるのでしょうか。かなかす、不純物を除くことです。そうすれば、寝られて良い器ができるのです。では、かなかすを取り除くとはどういうことでしょうか。

Ⅱ.きよい器になるために(22)

22節をご覧ください。

「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

パウロはここで、神に用いられるきよい器になるために、避けなければならないことと追い求めるべきことを教えています。まず避けなければならないことは何でしょうか。若い時の情欲です。若い時の情欲とは肉体的な欲望のことだけでなく、それをはるかに越えた汚れの全般を含みます。バークレーはその注解書でこう言っています。

それは、性急であるという意味も含んでいる。すなわち、徐々に速度を速めることを知らず、あまり急ぐと、益よりもむしろ害になることに気づかないことである。 次に、自己中心を含んでいる。すなわち、自分の意見を抑えることができないことと、その表現が傲慢なことである。そして、自分以外の者の意見にもある優れた点を認め、共感し、理解することを知らぬことである。またさらに論争を好むことである。したがって議論が多く実行は少なくなる。夜を徹して語り明かしても、ただ未解決の問題をまき散らすだけである。また新しがり家である。ただ古いという理由だけである物を批判し、反面、ただ新しいとの理由だけである物を熱望する。体験の価値を低く評価し、昔の人々が信じてきたことに旧式の烙印を押す。」

若い時にはこうした感情に支配されやいものです。しかし、それは若い時だけに限りません。いくつになっても同じです。そうした汚れを避けなければなりません。いったいどのようにして若い人はそれを避けることができるのでしょうか。

詩篇119篇9節~11節には、こうあります。

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。
よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。」

どのようにして若い人は自分の道をきよく保つことができるのでしょうか。ここで詩篇の作者は、それは神のことばに従ってそれを守ることだと言っています。神のことばを心に蓄え、神のことばに従ってそれを守ることです。神のことばが心に満ちることが大切だというのです。なぜでしょうか。人は心にあることを話し、心にあるように行動するからです。だからあなたの心が何で満たされているかということが重要なのです。あなたの心が神のことばで満たされているなら、そのような態度に変わっていくからです。

それからパウロはここで悪を避けるだけでなく、良いことを追い求めるようにと勧めています。その良いこととは何でしょうか。ここには4つのことが書かれています。それは義と信仰と愛と平和です。 まず義です。義と正しいということです。これはイエス・キリストを信じて罪から救われ、義と認められることではなく、義と認められたクリスチャンが追い求めなければならないことです。それは不正ではなく正義のことなのです。クリスチャンはいつも正義を求めなければなりません。

第二のことは、信仰です。信仰とは、神に信頼することです。神のみことばを聞いたら、神に信頼して、それに従わなければなりません。そうすることによって信仰が強められ、成長していくことができるからです。多くの場合、信仰が弱っている時というのは、神のことばをあまり聞いていない時です。あるいは聞いているようでも、実際には聞いていない場合がほとんどです。自分の思いや考えが優先して、神に従うことができないのです。

イエス様は種まきのたとえを語られました。ある人が種を蒔いたら、それぞれ道ばた、岩地、いばらの中、そして良い地に落ちました。道ばたに落ちた種はどうなったでしょうか。烏が来て食べてしまったので美を結ぶことができませんでした。岩地に蒔かれた種も、土がなかったのですぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないため枯れてしまいました。いばらの中に蒔かれた種も、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ぶことができませんでした。しかし、良い地に聞かれた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びました。良い地に蒔かれた種、それはみことばを聞くと、それを悟り、そのみことばに従って生きる人のことです。神に信頼する人は、何倍もの実を結ぶのです。

次にクリスチャンが追い求めなければならないのは、愛です。愛とは何でしょうか。有名なⅠコリント13章にはこうあります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(13:4-7)

私たちは、生まれながらにしてこのような性質を持っていません。これは神の愛、アガペーの愛であり、自己犠牲の愛、与える愛です。神はこの愛を、ご自身の御子を十字架につけて死なせることによって表してくださいました。ここに愛があるのです。だから教会には十字架があるのです。ローマ時代に処刑の道具だった十字架が、いったいなぜ教会に掲げられているのでしょうか。ここに愛があるからです。クリスチャンはこの神の愛を知り、この愛を受けました。でもそれで十分かというとそうではなく、今度はこの愛に生きる者でなければなりません。それはクリスチャンが生涯にわたって追い求めていかなければならないことなのです。

第四のことは、平和です。平和とは神との正しい関係によってもたらされたが、人との交わりにおいて保つべき一致であり、調和であり、ハーモニーのことです。神のことばを聞き、それに従って生きるなら、そこには必ず平和がもたらされます。そうでないと、そこには平和はなく、むしろ混乱や争いが生じるのです。

ピリピ4章8~9節を開いてください。ここにはこう書かれてあります。「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。どうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださるのでしょうか。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判のよいこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することに心を留めることによってです。ただ留めるだけでなく、それを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

あなたは尊いことに用いられる器になりたいでしょうか。神に用いられる器になりたいですか。もしそのように願っておられるのなら、悪を避け、このようなものに心を留めなければなりません。そしてそれを実行しなければなりません。そうすれば、平和の神がともにいてくださるのです。

しかし、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、ということです。クリスチャンはこれらのものを決して一人で追い求めるのではありません。きよい心で主を求める人たちとともに、追い求めるのです。それはキリストの共同体であり、神の家族である教会とともにという意味です。クリスチャンは一人になることを求め、自分の仲間から遠ざかってはいけません。その方が何の摩擦も生じないので楽かもしれませんが、聖書では「共に」ということが強調されているのです。その喜び、その力、支えを、その交わりの中に見出さなければなりません。

イギリスの伝道者であったジョン・ウェスレーはこう言いました。「人は友人を持っていなければならない。さもなければ作らなければならない。だれも独りでは天国に行けないからである。」これは含蓄のあることばではないでしょうか。「人」という漢字を見てもわかるように、人は互いに支え合って生きているわけです。独りで生きることはできません。それはクリスチャンの信仰生活も同じで、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなければならないのです。

Ⅲ.争いを避ける(23-26)

第三に、クリスチャンが尊いことのために用いられるために注意しなければならないもう一つのことは、争いを避けなさいということです。23節をご覧ください。ここには、「愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたがたが知っているとおりです。」とあります。「愚かな思弁」とは、中身のないただ単なる観念的な話のことですが、このような話からは論争しか生れず、何の益にもたらされません。それはただ聞いている人々を滅ぼすだけなのです。エペソの教会には、このような話が癌のように広がっていました。しかし、主のしもべが争ってはいけません。主のしもべにとってふさわしい態度とは、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒することです。

第一に、すべての人に優しくしなければなりません。争うのではなく、優しくすることがクリスチャンの取るべき態度です。大抵の場合、言い争っている時はお互いに感情的になっているので、そのような状態からは良い結果は生まれてきません。でも優しくし、穏やかな態度で、穏やかなことばで接すると、相手の気持ちも穏やかになり、場合によっては、相手に聞く耳を持たせる場合もあります。

箴言15章1節には、「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」とあります。売り言葉に買い言葉ではなく、たとえ相手が感情的になっても、穏やかな態度で、柔らかなことばで返すなら、相手の憤りを静めることもあるのです。ですから、争うのではなく、むしろ、すべての人に対して優しくしましょう。私たちが目指しているのは、そういう教会です。

次に、よく教えることです。言い争うのではなく、みことばからよく教え、よく学ぶのです。真理とは何なのか、神の御心は何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。それは時間がかかるように見えるかもしれませんが、確かな道に歩むための、いちばん確実で、一番近い道なのです。

そして次は、よく忍びです。よく忍耐することです。特に、自分につらく当たる人には忍耐が必要です。これは口で言うのは簡単ですが、実際の場面では本当に難しいことです。攻撃する人には仕返しをしたくなるからです。それが人間の自然な姿です。けれども神の子どもとされたクリスチャンは、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」ではなく、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈らなければなりません。

もう一つのことは、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい、ということです。訓戒するというのは正すということです。しかし怒って正すのではなく、柔和な心で正さなければなりません。上から目線でではなく、柔和な心で、謙遜な心で正さなければなりません。そうすれば、氷のような冷たく堅く閉ざされた心も、キリストの愛の温かさで溶かされることでしょう。

なぜ、主のしもべはこのような態度を取らなければならないのでしょうか。25節の後半をご覧ください。ここにはこうあります。「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」そして26節にも、「それで、悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることがあるでしょう。」とあります。つまり、その人が生きている間に救いに導かれるかもしれないからた゜というのです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)だから、私たちもできるだけ忍耐し、神のみこころにかなった態度をとるようにと努めなければならないのです。

パウロは2章10節で、「ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。」と言いました。救われるようにと神に選ばれている人たちがいるのです。その人たちが救われるために、パウロが耐え忍びました。それは私たちも同じです。だれが救いに選ばれているかがわからないので、でも、確かにそのような人たちがいるのですから、その人たちがキリストにある救いにあずかり、とこしえの栄光を受けるようになるために忍耐しなければならないのです。すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒するのです。悔い改めの心を与えてくださるのは神ですが、その悔い改めの心に導くのは神のしもべである私たちクリスチャンの働きなのです。このような人こそ、神に用いられる器です。神に用いられる器は、それがどれほど高価で、華やかであるかということとではなく、それがどれだけきれいであるかにかかっています。自分自身をきよめて、不義から離れるなら、その人は尊いことに用いられる器になるのです。

あなたは神に用いられる器でしょうか。あなたが避けるべきことは何ですか。また、あなたが追い求めるものは何でしょうか。主人であるキリストにとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるために、まず器を整えることから始めていきたいと思います。

Ⅱテモテ2章14~19節 「熟練した者として」

きょうはⅡテモテ2章14~18節のみことばから、「熟練した者として」というテーマでお話したいと思います。前回のところでパウロは、教会の牧会で苦しんでいたテモテを励ますために、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい、と言いました。私たちと同じ人間としてお生まれになられたイエスは、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じような試みに会われたのです。ですから、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。また、この方は死者の中からよみがえられました。キリストは死からよみがえられて永遠に生きておられる方です。この方が今も生きて、私たちを助けてくださいます。だから、このイエス・キリストをいつも思っているなら、それがどんな苦難であっても耐えることができるのです。きょうのところでパウロは、そのような苦難の中で神の働き人はどうあるべきかを教えています。

Ⅰ.ことばについての論争などしないように(14)

まず14節をご覧ください。

「これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」

ここでパウロは「これらのことを人々に思い出させなさい」と言っていますが、「これらのこと」とは何でしょうか。「これらのこと」とは、その前のところでパウロが語ってきたことです。すなわち、耐え忍ぶ者にもたらされる栄光がどのようなものであるかということ、また、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえられたイエス・キリストが今も生きて、助けてくださるということ、そして、もし耐え忍ぶなら、キリストとともに治めるようになるということです。これらのことを人々に思い出させなければなりません。

そしてその一方で、ことばについての論争などをしないように、神の御前できびしく命じなければなりません。なぜなら、そのような論争は何の益もならず、聞いている人々を滅ぼすことになるからです。テモテが牧会していたエペソの教会には、こういう人たちが忍び込んでいました。彼らは違ったことを教えたり、健全なことばと敬虔にかなう教えに同意しないばかりか、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをする病気にかかっていました。そこから、ねたみや、争い、そしりや悪意の疑りが生じ、絶え間のない紛争が生じていたのです(Ⅰテモテ6:3-5)。

このようなことばについての論争から、いったいどんな良いものが生まれてくるというのでしょうか。言い争ったら人が救われるのでしょうか。言い争うことによって、それを聞いた人たちの信仰が建て上げられるのでしょうか。いいえ、そういうことはありません。むしろ、そうした言い争いによって、それを聞いている人々を滅ぼすことになるだけです。何の益にもなりません。だから、そのようなことばについての論争などしないように、きびしく命じなければなりません。ただ命じればいいというのではません。神の御前できびしく命じなさい、とあります。これは、それほど重要なことなのです。

エペソ4章29節には、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話、聞く人に恵みを与えなさい。」とあります。人を滅ぼすようなことばの論争などの悪いことばを、いっさい出してはいけない。ただ、人々の徳を高める、人々の信仰の成長の助けとなるような、聞く人に恵みを与えるようなことばを語らなければなりません。そういうことのために時間とエネルギーを使いたいものです。

しかし、こうしたことばについての論争は、意外と多くのところで見られます。たとえば、ある人たちは洗礼の方法について言い争ったりします。洗礼は浸礼じゃなければならないとか、いや滴礼でいいんだ、いや頭に水を注がなければならない、洗礼の時は後ろに倒すんだ、前に倒すんだ、下に沈めるんだと、いろいろな方法論を論じるのですが、大切なのは洗礼の方法なのでしょうか。そうじゃないですよね。大切なのは方法ではなく本質です。信じてバプテスマを受ける者は救われます。信じない者は罪に定められます。たとえ信じないで形だけ洗礼を受けたとしても何の意味もありません。それがどういう方法であろうとも、信じてバプテスマを受ける者は救われるのです。私は、基本的に洗礼は浸礼だと信じていますが、でも例外もあります。病気で寝たきりの人を水に沈めることは難しいですし、状況によってはその場で洗礼を授けた方がいい場合もあります。そういう時には滴礼でもいいから洗礼を授けるべきだと考えています。しかしある人は、だったらそういう人は、別に洗礼を授けなくてもいいじゃないか、という人がいます。あくまでも沈めることにこだわっている人は、そのようにまで言うのです。しかし、聖書は信じてバプテスマを受けるようにと命じていますから、それがどのようなやり方でも、信じて洗礼を受けるなら、そこに神の恵みと祝福が注がれるのです。

もちろん、明らかに真理に反するような教えに対しては論じなければならないこともあります。たとえば、三位一体の教理とか、イエス・キリストの神性を否定するようなものに対してはきちんと論証しなければなりません。そこはゆずれないところです。信仰によって救われるということもそうですね。大切な教えです。しかし、細かい聖書の解釈の違いについては言い争うのではなく、それぞれの違いを認め、受け入れることも必要なことなのです。

しかし、それは信仰だけのことではありません。日常の生活においても、私たちは意外と他人のことばじりをとらえて論争してしまうことがあります。私は最近、パソコン型のタブレットを買いましたが、それが届く予定の時間に届かなかったことがありました。別に出かける予定もなかったので多少遅れても問題なかったのですが、予定していた時間が過ぎていたので、確かめようとコールセンターに電話したのです。すると電話の相手の方は、確かにこの日の午前中配達になっているということ、もし届いていないとしたら大変ご迷惑をかけて申し訳ないということ、どうなっているのかすぐに調べてみるということでした。するとすぐに玄関のチャイムがなったので下に降りて行ってみると、宅配の方で、午前中配達予定のタブレットを積むのを忘れたので、これから戻って取ってきますから少し待っていてくださいということでした。するとまたコールセンターからまた電話がありました。調べてみたところ宅配の方は確かに配達には出かけているようだが、遅れて大変申し訳ないということでした。申し訳ないのはこちらの方で、どうでもいいことのために相手を戸惑わせたことを恥ずかしく思いました。このように私たちはどうでもいいことでも、自分が正しいと思うとついつい争ってしまうのです。

でも、このような態度は何の益ももたらしません。聞く人に恵みを与えるどころか全く非生産的な結果を生み出してしまうのです。だから、ことばについての論争などをしないように、私たちは注意しなければなりません。

Ⅱ.熟練した働き人(15-18)

ではそのためにはどうしたらいいのでしょうか。15節から18節までをご覧ください。15節には、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」とあります。 パウロはここで、ことばについての論争などをする人たちとは対照的に、神に仕える働き人はどうあるべきかを語っています。そして、その人は熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげなければなりません。

この「熟練した人」とは、その働きにふさわしい、適格者として認められた人のことです。たとえば、家を建てるとき、建てたのはいいけれど傾いていたというのでは、職人さんとして恥ずかしいことです。新しく建てたのに雨漏れがしたというのも、大工さんとしては失格ということになります。そういうことがないように、土台をしっかり据え、寸法通りにまっすぐに切ってつなぎ合わせ、地震などの揺れがあっても大丈夫なように、柱と柱の間には筋交いを入れて強度を保ったりするわけです。

あるとき、この家を建てた大工さんに聞いたことがあります。この筋交は邪魔だから取れないですかね。すると大工さんがいいました。「これがあるから家がちゃんと建っていられるんですよ。これを取ったらすぐに倒れてしまいますよ。」これは熟練した人の見方です。私のような素人は、「ちょっと邪魔だから、とれないかなぁ」みたいなことを考えるんですが、プロは違います。熟練した人は見えないところまでちゃんと考えて作るのです。また一つ一つの材料がきちんと入るように作ります。作ったのはいいけど後で窓が入らなかったとか、ドアが入らなかったというのでは恥ずかしいことです。熟練した職人さんは、ピタッと入るのです。そうでいなと大工さんとしては失格となるからです。

寿司職人の方もそうです。「はいよ!」と威勢の良い声でにぎりを出してくれますが、もし出された途端に崩れたり、サイズがバラバラだったりしたらどうでしょう。「なんだ!この寿司は」ということになります。それではお寿司の職人さんとしては恥ずかしいことになります。同じサイズの寿司を、ちょ、ちょいの、ちょいで、リズミカルに、しっかりと握ってこそ寿司職人です。名人クラスになると握った感覚で米粒の数までわかると言います。それが熟練した人です。同じように、神のみことばに仕える者もそうでなければなりません。熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かし、恥じることのない働き人として、自分を神にささげなければならないのです。

この「まっすぐに説き明かし」とは、まっすぐに切るという意味です。これは元来農夫がみぞをまっすぐに掘るという意味で用いられました。曲がって掘ってはいけません。神のことばも同じで、曲解しないで、まっすぐに、正確に説き明かさなければなりません。これを人間の知恵によって歪曲したりしてはいけないのです。パウロが、「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことをせず」(Ⅱコリント2:17)と言っていますが、神のみことばに混ぜ物をして売ったり、自分の思想や経験を証明する道具として、神のことばを曲げて用いてはならないのです。聖書そのものから語りかけてくるメッセージを忠実に聞き、それを伝えていかなければならないのです。

いったいどうしたらそのような熟練した働き人になることができるのでしょうか。ここには、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい、とあります。それは終始一貫して、献身的な思いによってなされるということです。自分を神にささげた者として熱心に神のことばを学び、全身全霊をもってこれに取り組まなければなりません。聖書が教えている意味を正しく理解しなければ、他の人に教えることばできません。

私はこうやって毎週メッセージの奉仕をさせていただいておりますが、私はできるだけ同じ箇所からは話さないように心がけています。なぜなら、いつも同じ箇所から話していたら、自分が学ぶことがないからです。学ぶことがなければ理解することはできません。理解できなければ、他の人に伝えることはできないのです。だから、毎週のメッセージの準備のためにはかなり時間がかかるのですが、私にとってこのような学びができるということは本当に感謝なことです。しかし、それは奇跡でもあります。私は元来座っているのは苦手で、どちらかというと、いつも動いていたいんですね。若い時からスポーツが得意でいつも走ってばかりいたせいか、動いていた方が楽なんです。だから家内からはいつも「あなたは落ち着きがない」と言われるのですが、こういう落ち着きのない人間がずっと座って勉強しているんです。まあ、勉強しているのか、遊んでいるのか、寝ているのかはわかりませんが、とにかくずっと座っているんです。大体30分のメッセージのために、計ったことはありませんが、相当の時間じっと座っています。これは奇跡です。それをほとんど毎週日曜日と祈祷会のために準備します。じっと座っていられない者が毎週何十時間も座って勉強するとしたら、しかも勉強が好きな人ならいいですが、嫌いな私が必死になって勉強しているとしたら、それはまさに神のわざであって、聖霊の助けがないとできないことです。ですからそれが継続して続けられるように、私のために祈ってほしいと思います。でも、なぜこのようにするのかというと、みことばを学ばないとわからないからです。わからないと伝えることはできません。だから真理のみことばをまっすぐと説き明かすために、熟練した働き人になるために、自分を神にささげるよう、努め励まなければならないのです。神にあなたをささげなければならない。まな板の鯉のように、神様、煮ても、焼いても、何をしてもいいです。どうか、あなたのために用いてくださいと、捧げなければならないのです。

16節から18節をご覧ください。ここには、「俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。」とあります。

ここには、熟練した働き人のもう一つの特徴が語られています。それは、俗悪なむだ話を避けるということです。それは真理からずれた話で、人々を信仰から遠ざけ、人々をますます不敬虔に深入りさせます。彼らの話は癌のように広がるとあります。不思議と悪い話は良い話よりも早く広まりますね。聖書は悪のことをパン種にとえていますが、ほんの少しのパン種がパン全体をふくらませるように、そうした話はキリストのからだである教会全体に広がって、破壊していくのです。ここでは、ヒメナオとピラトという二人の名前が具体的にあげられています。ヒメナオについてはⅠテモテ1章20節にも、信仰の破船に会った人物として名指しであげられていました。そこでの中心人物はヒメナオだけでしたが、ここではピレトも仲間に加わっていることがわかります。そのように、こうした俗悪な話というのは癌のようにすぐに広がっていくのです。

いったい彼らはどういう点で間違っていたのでしょうか。彼らは真理からはずれてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしていました。彼らは復活を単なる霊的な出来事、精神的なことであるとして、将来、肉体が復活するなんてあり得ないし、そんなことを信じるのは愚かなことだと吹聴していたのでしょう。でも聖書が教えている復活というのは、そういうことでしょうか。違います。聖書が教えている復活とは、イエス様が再臨されるとき、私たちの肉体が、朽ちないからだ、滅びないからだ、栄光のからだに実際に変えられるということです。まずキリストにあって死んだ人たちです。次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。それは文字通り実際に起こる事であって、単に霊的に復活することではないのです。

Ⅰコリント15章51~52節を開いてください。ここには、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあります。主が再び戻って来られるとき、私たちのからだは一瞬のうちに朽ちないものに、朽ちないからだに変えられるのです。朽ちるものは必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは必ず不死を着なければならないからです。朽ちるものが朽ちないものを着、死が不死を着るとき、死は勝利にのまれたという聖書のことばが実現するからです。このように聖書ははっきりと、私たちに朽ちないからだが与えられることを約束しているのです。ですから、熟練した者は、そうした俗悪なむだ話を避けなければならないのです。そうしたものが群れの中に入って来ないように注意しなければなりません。

Ⅲ.神の不動の礎(19)

最後に19節を見ておわりたいと思います。「それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」

「それにもかかわらず」とは、偽りの教えが癌のように広まり、ある人たちの信仰をくつがえすようなことがあってもということです。エペソの教会には偽りの教えをする者たちがいました。そういう人たちは敬虔な人たちを自分たちの方に引き込もうとしていたので、多くの人たちがそれに巻き込まれ信仰がくつがえされるということがありましたが、しかし、それにもかかわらずです。それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれているのです。神の不動の礎とは何でしょうか。それは教会のことです。新共同訳聖書はこれを、「神が据えられた堅固な基礎」と訳しています。英語では「Gods solid foundation」と訳しています。何ゆえにこれは堅固な基礎なのでしょうか。それは、決してゆらぐことのない神が据えた基礎だからです。それは神の教会のことであり、それはどんなことがあってもびくともしない土台なのです。たとえそこに偽りの教えが入ってきても、その教えが教会を混乱させるようなことがあったとしても、教会は決して揺るがされることがありません。なぜなら、教会はキリストによって立てられた神のものだからです。

マタイ16章18節を開いてください。ここでイエス様はこう言われました。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」これは、人々はわたしをだれだと言いますかというイエスの質問に対して、弟子たちが、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白した、その信仰の告白に対してイエス様が言われたことです。ペテロは正しい信仰の告白をしました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」でもそれは彼の理解力によってそう言えたのではなく、神様がそのようにはっきりと示してくださったのでそういうことができたのです。その信仰の告白の上に、キリストはご自身の教会を建てると言われたのです。それはハデスの門も打ち勝つことはできません。それは堅固な土台に建てられています。それが教会なのです。もし教会が人によって始められたとしたにどうでしょう。それはどんなに立派なようでも、滅びてしまうでしょう。人間はそのようにいつも不安定なものだからです。しかし、神は違います。天地が滅び去っても、神のことばは決して滅びることはありません。全部が成就します。それほど確かなものです。ですから、神によって始められた教会はどんなことがあってもびくともしないのです。たとえ教会に偽りの教えが入ってきても、たとえ大きな問題が起きようとも、教会は堅く立ち続けるのです。

いったい何がそれを保証するのでしょうか。パウロはここで、その礎、土台には二つの銘が刻まれていると言っています。一つは「主はご自分に属する者を知っておられる」ということであり、それからもう一つは、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」という銘です。これはどういうことでしょうか。これはどちらも民数記16章にあるコラの子たちの出来事というか、その話の中からの引用されている言葉ですが、よく見ると、それがイエス様の言葉に照らし合わせて理解されていることがわかります。

ここであまり詳しく学ぶことはできませんが、ウイリアム・バークレーという聖書注解者が、この二つのことばの意味を説明しているので、それを紹介したいと思います。第一に、教会は神に属する人々で成立している。もはや、自分で自分を所有しようとは思わず、また世間も、自分を所有せず、ただ神のみが自分を所有している、というように自分を神に与えてしまった人々で成立しているのである。

第二に、教会は不義から離れた人々によって成立している。このことは、教会が完成された人々の集まりであるということではない。もしそうなら、教会は存在しえなくなる。よく言われるように、神の大きな関心事は、人間が、どのような地点に到達したかではなく、人間が、どの方向に向いているかである。教会がその顔が、聖と義の方向に向いている人々で成立しているのである。彼らはしばしば失敗し、倒れる。そして、ゴールが、時には悲劇的に、また、落胆させるほどに遠のくことがある。それでも、彼らの顔は絶えずゴールに向き、彼らの願いは常に正義に向かっている。教会は神に所属する人々、正義のための戦いに自分自身をささげた人々で成り立っている。」(ウィリアム・バークレー、聖書注解シリーズ12、ヨルダン社)

教会は神に所属する人たちによって成り立っており、正義のために自分自身をささげた人たちによって成り立っているのです。だから、たとえ失敗して倒れ、ゴールが遠のくことがあっても、また、落胆させられることがあっても、それでもその顔は絶えずゴールに向かっているのです。だから、神の教会はどんなことがあっても揺るがされることはないのです。この神の約束を信じて、私たちも神に所属する者であるということ、また、神に自分自身をささげた者であるということを確認し、神のゴールを目指して前進していこうではありませんか。

Ⅱテモテ2章8~13節 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」

先週のところでパウロは、教会のさまざまな問題で苦しんでいたテモテに対して、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさいと勧めました。そして、キリストの恵みによって強くされた人はどのような人なのかについて、三つの例を用いて説明しました。それは兵士のようであり、アスリートのようであり、農夫のようです。この三つに共通していたのは、苦しみの後に勝利が、栄冠が、収穫がもたらされるということでした。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫び踊りながら刈り取るのです。そのことを思うなら、今置かれている苦しみに耐えることができます。そのように勧めたのです。きょうのところでは、イエス・キリストをいつも思っていなさいと勧めています。

Ⅰ.イエス・キリストをいつも思っていなさい(8-9)

まず8節と9節をご覧ください。8節には、「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」とあります。

パウロは牧会で苦しんでいたテモテに対して、その苦しみに耐えるために、ここではイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい、と勧めています。なぜいつもイエス様のことを思っていなければならないのでしょうか。なぜなら、私たちの問題がどのようなものであれ、すべての答えはイエス・キリストにあるからです。キリストがどのような方であるのかを思い出すなら、どのような苦しみの中にあったとしても、必ずその苦しみに耐えることができるのです。

ではキリストはどのような方なのでしょうか。ここには二つのことが言われています。一つはダビデの子孫として生まれた方であるということ、そしてもう一つは、死者の中からよみがえった方であるということです。

ダビデの子孫として生まれ、というのはどのような意味でしょうか。それはこの方がメシヤ、救い主であるということです。救い主が生まれることは旧約聖書にずっと預言されていましたが、キリストはそのとおりに生まれました。それはこの方こそ旧約聖書に約束されていたメシヤ、救い主であるということなのです。

また、キリストがダビデの子孫からお生まれになられたというのは、神が人となって来られたということを表しています。神は霊ですから、私たちの肉眼によっては見ることはできませんが、その目に見えない神が見える形で現れてくださいました。それがイエス・キリストなのです。私たちは単なる霊や、霊的存在を信じているのではなく、実際に人となってこの地上に来られ、この地上での道を歩まれ、この地上で味わうであろうすべての苦しみを経験された神、イエス・キリストを信じているのです。この方は半分神で、半分人間だったということではありません。この方は100%神であり、100%人間として生まれてくださったのです。それゆえに、私たちが経験するすべての痛み、弱さ、苦しみといったものを十分理解することができるのです。ヘブル4章15節、16節にはこうあります。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

私たちの大祭司とはイエス・キリストのことですが、キリストは私たちの弱さに同情ではない方ではありません。なぜなら、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みに会われたからです。だから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。

それは私たちも経験があるのではないでしょうか。自分が苦しい体験を通ったことがあれば、他の人がそれと同じ苦しみを通っている時に、「ああ、本当にそれは大変だよね」と心から同情することができますが、苦しんだことがない人は、「そんなの大丈夫よ」と言って、余計にその人を苦しめてしまうことがあります。イエス様はご自分が苦しみを通られたので、同じように苦しみの中にある人を完全に理解することができるのです。しかもイエス様が通られた苦しみは私たちのそれとは全然比べものにならないくらい大きなものでした。それは十字架の苦しみでした。そのことを思うと、私たちが受けている苦しみなんて爪の垢のようにちっぽけなものでしかありません。そのイエスのことを思うなら、私たちに力と励ましが与えられます。

そればかりではありません。ここには、死者の中からよみがえったイエス・キリスト、とあります。死者の中からよみがえったイエス・キリストを思うとはどういうことでしょうか。それはイエスが死者の中から蘇ったという復活の事実を思っていなさいということではありません。それは。イエスが死から復活して、永遠に生きておられるということを思っていなさいということです。永遠ですから、今も生きておられるということです。今も生きてあなたに力を与え、あなたのために働いておられるのです。そのことを覚えなさい、というのです。クリスチャンが重大な任務に召される時、そしてそれが自分の力ではできないと思う時でも、あなたはそれを一人で行うのではないということを覚えなければなりません。死からよみがえり、永遠に生きておられる主イエスがあなたとともにいて、あなたに力を与え、あなたを助けてくださるのです。

昨日、桂珍姉が召天されました。数年前に子宮頸がんを患い抗がん剤の治療をしていましたが、今月に入ってからみるみるうちに体が衰え、昨日の朝早く息を引き取られ主の許に行かれました。桂珍さんから最後にメールが来たのは、先週の日曜日でした。お祈り感謝します。その二日前にもメールが来て、それは中国語で書かれてあったので王さんに訳してもらったら、「私は大橋牧師によって洗礼を受けました。私は永遠の命を受けることができます。神様の子どもになったのですから。」という内容でした。死を前にした苦しみの中で桂珍さんを支えていたのは永遠のいのちの約束と、今も生きて助けてくださるイエス・キリストだったのです。日本に来て13年、福島県三春町のご主人の家で仕えることはどんなにご苦労があったことかと思います。しかし、そのような中で聖書を読んでは祈り、主イエスから力をいただいて、50年のこの地上での生涯を全うしたのです。桂珍さんが洗礼を受けた時のことを、私は忘れることができません。水から上がった彼女は両手を高らかにあげ、満面の笑顔で「ハレルヤ」と叫びました。それは彼女が永遠のいのちをいただいたことの喜びと、死からよみがえられた主イエスの力を確信した瞬間だったのです。

主イエスのことを思うなら、たとえあなたが苦しみの中にあっても必ず乗り越えることができます。私たちは日々、さまざまな恐れと不安にさいなまれ、自分の無能力さで心をふさぐことがありますが、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを思うなら、あなたは苦しみをも乗り越えることができる力を受けるのです。

テモテは、エペソ教会の牧会に疲れ果てていました。度重なる教会内の問題で落ち込み、外からの迫害に苦しんで、体調も崩していました。このままでは牧会を続けることができないと感じていたそのとき、パウロはこのイエスのことをいつも思っていなさい、と勧めたのです。彼にとって必要だったのは、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい、ということでした。

それは私たちも同じです。私たちもテモテのように福音のゆえにさまざまな苦しみを受けることがありますが、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえらイエスを、いつも思っているなら、あなたも力を受け、その苦しみに耐えることができるのです。

Ⅱ.選ばれた人たちのために(9-10)

次に9節と10節をご覧ください。まず9節には、「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」とあります。今度はパウロです。パウロも福音のために苦しみを受けていました。何度も投獄され、鎖につながれました。今回は、特にローマの地下牢で打ち首にされるという最悪な状況にありました。しかし、神のことばは、つながれることはありません。たとえ自分がこのように鎖につながれて身動きできないような状況でも、神のみことばはつながれることはありません。なぜなら、神ご自身は全能であって、鎖につながれるようなお方ではないからです。その神の働きを留めることはだれにもできません。

ですから、パウロは10節でこう言っているのです。「ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。」

「ですから」というのは、9節で語ったように、どんなにパウロが福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれることがあっても、神のことばは、つながれてはいないのですから、ということです。ですから、パウロは選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍ぶのです。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

皆さん、聖書は、救われるようにと神に選ばれた人たちがいると言っています。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられますが、かといって、すべての人が信じるわけではありません。信じる人とそうでない人がいるのです。でも、私たちは誰が救われるのかがわからないのでとにかくみことばを伝えるわけですが、そのような中から神の恵みに応答して救われる人がいるのです。その人が神に選ばれた人たちです。しかし、こればかりは伝えてみないとわかりません。「あの人は難しいだろうな」と思う人が以外と素直に信じたり、表面的に柔らかそうな人が以外と頑固だということもあります。だれが救われるのかは全くわからないのです。救われるようにと選ばれた人たちがいるとは言っても、そういう人たちが何もしなくても自動的に救われるということはないのです。だから私たちはとにかくみことばを伝えなければならないのです。そのことをパウロはローマ10章13~17節でこのように言っています。

「「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

福音を聞かなければ信じることはできません。私たちもそうですよね。聞いて理解したから信じたわけです。私も18歳のとき初めて聖書のことばを聞きました。小さい頃から日曜学校に行っていたので聞いたつもりでいましたが、実際は全くわかっていませんでした。あることがきっかけで、「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」という聖書のことばを聞いたとき、ああそうか、イエス・キリストを信じることによって新しくされるんだ、ということがわかったのです。それまでは信じる人は信じたらいいじゃないか、自分は自分の道を行くみたいな感じで、別に信じている人を非難するわけではないし、かといって自分がその中に入ろうとも思いませんでした。それはキリストについてのことばを聞いたことがなかったからです。キリストについてのことばを聞き、神のことばである聖書を読んでわかったのです。そしてよくわかって私たちは信じることができました。だから信仰は聞くことから始まるのです。聞くことはキリストについてのみことばによるのです。宣べ伝える人がいなかったら、私たちは聞くことができませんでした。したがって、キリストにある救いを受けることはできなかったのです。しかし、あるとき、みことばを宣べ伝える人がいて、その人が語るのを聞いて、信じることができました。神が選んでいてくださったからです。しかし、伝道のことを考えるとわかりますが、そのためにはどれほどの苦しみが伴うことでしょうか。パウロはその福音を語る人で、そのために彼は苦しみがありました。けれども、そのように選ばれていた人が救われて、とこしえの栄光を受けるようになるのなら、たとえそれがどんなに苦しくても耐え忍ぶことができたのです。その喜びのゆえにです。

パウロはこれまで兵士のように、アスリートのように、農夫のようにと語ってきた後で、イエス・キリストもそうだったということを語りました。イエス様もご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。それはパウロも同じでした。パウロも多くの苦しみがありましたが、しかしそれを耐え忍ぶことかできました。それは、神に選ばれた人が救われて、とこしえの栄光を受けるようになるということを知っていたからです。

それは私たちも同じです。たとえ、福音のために苦しむことがあっても、そのことによって神に選ばれた人たちが救われ、とこしえの栄光を受けるようになるということを思うとき、たとえ目の前の苦しみがあったとしても、それに耐えることができるのではないでしょうか。

Ⅲ.彼は常に真実である(11-13)

最後に11節から終わりまでを見て終わりたいと思います。「次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

この「」の内容は、当時一般に広く知られていた賛美歌の一部であったと言われています。もし私たちが、キリストともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。これは洗礼、バプテスマのことを言っているかのように感じますが、それよりもここでパウロの心にあったのは殉教のことでした。なぜなら、12節のところでパウロは、「もし耐え忍んでいるなら、キリストともに治めるようになると言われています。反対に、もしキリストを否んだなら、キリストも私たちを否まれます。」と言っているからです。パウロは打ち首になることが決まっていました。しかし、たとえ殺されたとしてもキリストとともに生きるようになるということです。彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになるのだから、いったい何を恐れることがあるでしょう。死はもはや私たちを支配することはありません。たとえ肉体が滅んでも、たましいはさらにすばらしいところ、神の御国に入るのです。そこで永遠に生きるようになるのです。そうした確信がパウロにあったのです。

それとは裏腹に、もしキリストを否むようなことがあるとしたらどうでしょう。12節には、もし彼を否んだら、キリストも私たちを否まれる、とあります。この地上にあってキリストともに苦難をともにするなら、やがてキリストにある栄光をともにし、この地上にあって、苦しみを免れようとして、福音を恥と思い、キリストを否むようなことがあれば、キリストも私たちを否まれるのです。

キリストははこう言われました。「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:33)」

だから私たちは、たとえこの地上で苦しみがあってもその先に何が待っているのかをよく考えるべきです。この地上の一時的な苦しみのために主を否み、永遠の世界で主に知らないと言われることがないように、キリストとともに生きることの幸いを見なければなりません。

では私たちが主を否むようなことをしたら、もう赦されないのでしょうか。そうではありません。13節をご一緒に読みましょう。13節にはこうあります。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」神が真実な方であることは、旧約聖書の時代から変わることがありませんでした。初めの人アダムが罪を犯すと神様は救いの計画を実行されました。創世記3章15節には、女の子孫から出てくるキリストが、へびである悪魔を完全に滅ぼすと語られました。それが具体的な形として現れるのが創世記12章です。神はアブラハムを選び、彼を通してすべての民族が祝福されると言われました。しかし、アブラハムには子供がありませんでした。いったいどうやって神の約束が実現するでしょう。しかし、神は人間的には不可能だと思われたとき、ひとり子イサクを与えてくださいました。そしてイサクにヤコブが与えられ、ヤコブに12名の息子たちが与えられ、そこからイスラエル民族が生まれるのです。その子孫から約束のメシヤを贈られるのです。それがイエス・キリストでした。

けれども、そこに至るまでにもイスラエルは何回も神に反逆します。エジプトに下って行ったイスラエルはそこで400年間奴隷として過ごしますが、神はモーセを立てて、彼らをエジプトの奴隷から救い出しました。しかし、彼らが荒野に導かれると、主に文句ばかり言いました。食べ物がない、飲み物がない、あれがない、これがないと文句たらたら、いつもブツブツ言いました。そればかりか、自分たちを導いてくれる神を造ろうと、金の子牛を造って拝んだりもしたのです。それで山から下りて来たモーセは怒って、「主につく者は私のところに」と言うと、何人かの人たちが悔い改めたので、彼らを神のさばきから救われました。イスラエルの大きな罪にもかかわらず、神の約束は変わらなかったのです。イスラエルは何度も何度も神に反逆し、罪を犯しますが、神は彼らを赦し、彼らの子供たちをご自分が約束された地に入れられました。なぜでしょうか。それは、神は真実な方だからです。神の約束されたことを忠実に守られる方なのです。

それは彼らが神に反逆しバビロンによって滅ぼされた時も同じです。彼らはそこで70年の時を過ごしますが、神はペルシャの王クロスを立てて彼らを救い出し、カナンの地に帰還させてくださいました。

また、A.D.70年にローマによって滅ぼされた時、イスラエルは世界中に散らされましたが、神はご自身の約束を反故にされることはありませんでした。20世紀になると世界中からユダヤ人を集め、1948年にはついにイスラエル共和国を建設するに至りました。

いったいなぜこのようなことが起こるのでしょうか。私たちは真実でなくても、神は常に真実な方だからです。神の賜物と召命とは変わることがありません。神はどこまでも真実な方なのです。

その神の真実さは、放蕩息子の父親の姿にもはっきりと見ることができます。放蕩した息子が家に帰って来たとき、父親は彼をどうしましたか。まだ彼が遠くにいるのに、父親は彼を見つけるとかわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけをしました。「何でお前はこんなことをしたんだ」ととがめることもせず、それどころかしもべたちに一番良い着物を持って来させ、手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせ、子牛をほふらせて、お祝いしました。これが私たちの信じている神です。私たちの神は、放蕩息子の父親のように、自分から離れた息子が帰ってくるとき、喜んで迎え入れてくれる方なのです。

このように、私たちは真実でなくとも、彼は常に真実です。神の愛、神の恵みは決して変わることはありません。私たちが救われたのはこの神の恵みによるものです。救いは神からの賜物です。決して私たちががんばって獲得したものではありません。神が私たちを愛し、ご自身の御子を遣わし、その方が十字架で私たちの罪の身代わりとなり、死んでくださいました。それだけでなく、その死から復活され、この方を信じる者はだれでも救われるとしてくださいました。これが福音であり、私たちはこれを信仰によって受け取ったのです。この信仰さえも神からの賜物です。

では一度救われたらずっと救われているのですか。そうです。少なくとも神はあなたをお見捨てになることは絶対にありません。ヨハネ10章28節に、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と約束されているからです。本当に救われているのなら、救いは決して変わることはありません。けれども、その一方で信仰から離れて行ってしまうという現実があるのも事実です。神は決して見離さず、見捨てることはなさいませんが、私たちの方で自分から離れてしまうことがあるのです。放蕩息子のようにどこかで離れてしまうということもあり得るわけです。では、それで終わりかと言うとそうではありません。私たちは真実でなくても、神は常に真実なのです。だから、私たちは帰ってくるところを知っています。それがイエス・キリストです。たとえ信仰から離れることがあったとしても、たとえキリストを否むということがあったとしても、それでもあなたが神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、あなたを喜んで受け入れ、あなたに愛と恵みを注いでくださいます。だから、この神の愛に立ち返ってください。この神の愛を信じていただきたいです。私たちは真実でなくても、神は常に真実な方だからです。

イエス様の一番弟子といったらシモン・ペテロですが、彼は一番弟子でありながら、イエス様を簡単に裏切ってしまいました。「主よ、他の者があなたを知らないと言っても、私は決してそういうことはありません」と言ったのに、いざイエス様が捕えられると、彼はイエス様を知らないと否定しました。それは「ペテロ、あなたは鶏が鳴く前に三度私を知らないと言います」と言われたイエス様のおことばどおりでした。

大祭司カヤパの家の庭に行くと、「あなたはあの人と一緒にいましたね」と言いますが、彼は「何のことを言っているのか私にはさっぱりわからない」ととぼけるのですが、別の人が「確かにこの人はあの人といっしょにいた人だわ」言われると、「そんな人は知らない」としらを切りました。「いや、ぜったいこの人はあの人の仲間だわ。ことばのなまりでわかるもん。」と言われると、今度はのろいをかけて誓ったとあります。するとすぐに鶏が鳴いたのです。ペテロはイエス様が言われたあの言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。いったいこの時ペテロはどんな気持ちだったでしょう。どんなに自分を責めたかわかりません。あれほど誓ったのに、こんなにも簡単に裏切ってしまうのかと、自分の気持ちの弱さに情けなく思ったかもしれません。しかし、聖書のすばらしいところは、そこで終わらないところです。イエス様はペテロに言われました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)そして見事に彼は悔い改め、信仰を回復したばかりか、初代教会の指導者として用いられていったのです。

だから、失敗したからそれで終わりではありません。それでも神はあなたを赦してくださいます。そして、あなたをもう一度用いてくださるのです。それはあなたが真実だからではありません。彼、キリストが常に真実だからです。ですから私たちは何度失敗しても、何度主を裏切るようなことがあっても、その度に悔い改めて、神に立ち返りたいものです。そうすれば、主は赦してくださいます。苦しみのために、私たちももしかしたら主から離れてしまうこともあるかもしれませんが、何度離れても主のもとに立ち返り、主の赦しと愛にあずかりたいと思います。主はあわれみ深く、恵み深い方だからです。私たちは真実でなくても、彼は常に真実です。この真実な方に信頼して、私たちも何度も立ち上がっていく者でありたいと思います。

Ⅱテモテ2章1~7節 「キリストの恵みによって強くなりなさい」

Ⅱテモテ2章に入ります。きょうのタイトルは、「キリストにある恵みによって強くなりなさい」です。この手紙は使徒パウロによって書かれた彼の最後の手紙です。パウロは福音のゆえに再び捕えられ、ローマの地下牢に入れられました。いつ処刑されるかわからないという不安な状況の中で若いテモテに手紙を書き送ったのです。それは当時エペソの教会を牧会していたテモテが、教会にくすぶっていた問題の対応で疲れ、弱り果てていたからです。そんなテモテに対してパウロは、神から与えられた賜物を再び燃え立たせよと勧めました。なぜなら、神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊だからです。だから、この神の力によって、福音のために苦しみをともにしてほしい。そう勧めたのです。その良い模範がオネシポロという人でしたね。彼はパウロが捕えられたと聞くと多くの人たちがパウロから離れて行く中でも、むしろ、パウロが鎖につながれていることを恥じとも思わず、自分の命の危険をも顧みずに、ローマにいたパウロを捜してくれました。そのことでパウロはどれほど慰められたことでしょう。そのように、神の力によって、苦しみをともにしてほしいと願ったのです。

きょうのところでもパウロは、意気消沈していたテモテに対して、「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と勧め、どうしたら強くなれるのかを具体的な三つのたとえを用いてわかりやすく説明しています。私たちも日々、さまざまな苦しみの中で弱さを感じることがありますが、そのような時、いったいどうしたら強くなることができるのか。きょうはこのことについてご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.キリスト・イエスの恵みによって(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。1節を読みます。

「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」

パウロはⅠテモテ1章2節でも、テモテのことを「信仰による真実のわが子テモテ」と呼びましたが、ここで再び彼を「わが子よ」と呼んでいます。テモテはパウロによって救われた霊的な子どもでした。そんなわが子に対して霊的父親であったパウロが言いたかったことは、「強くなりなさい」ということでした。わが子に強くあってほしいと願うのはどの親も同じです。どんな困難な中にもめげないでほしい、むしろ困難な中にあればあるほどたくましくあってほしい、強くあってほしいと願うものですが、霊的父親であったパウロもそのように願っていたのです。いったいどうやったら強くなれるのでしょうか。

ここでパウロは、「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」と言っています。キリスト・イエスにある恵みによって強くなるとはどういうことでしょうか。

エペソ2章8節と9節には、私たちが救われたのは神の恵みによるということが書かれてあります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあります。

私たちは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。私たちが何か良い行いをしたから救われたのではなく、救いは神の恵みによって与えられたものです。それは神の賜物なのです。賜物というのはプレゼントということですよね。プレゼントは与える人の一方的な好意によってなされるものであって、その人がしたいからするのであって、したくなければしなくてもいいのです。でも神様はそのプレゼントを私たちに与えてくださいました。それは、神はあなたを愛しておられるからです。だから神は、したくて、したくてしょうがなかったのです。それがイエス・キリストであり、イエス・キリストが十字架につけられて死なれるということでした。このイエスを信じる者は誰でも救われます。それが信仰です。だから、私たちが救われたのは私たちの行いによるのではなく、神の恵みによるのです。それは、私たちが何か頑張って獲得したものではありません。もし自分の力で頑張って獲得したものであれば恵みではありません。それは自力本願と言います。でもこうした自力の世界は頑張ることができるうちはいいのですが、頑張ることができなくなったとたんに不安になってしまいます。ですから、私たちはキリスト・イエスにある恵みにとどまっていれば強くなれますが、この恵みの外に出るととたんに不安になってしまうわけです。だからテモテはこの恵みによって強くなりなさいと言ったのです。

だからこれは「恵みによって強くなりなさい」ということではなく、恵みによって強くされなさいということなのです。実際にこの「強くなりなさい」ということばは、原語では受動態になっています。つまり「強くされなさい」ということです。自分の力で頑張って強くなりなさいということではなく、外側からの力によって、キリスト・イエスにある神の恵みによって強くされなさいということです。

使徒の働き1章8節には、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。その力によって、エルサレム、ユダヤ、サマリやの全土、および地の果てまで、キリストの証人になることができるのです。私たちがキリストを証することができるのは、自分の力によるのではなく、聖霊の力を受けることによってであって、その時にそのようになれるのです。

そのことをパウロは、エペソ人への手紙3章20節でこう言っています。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」私たちの力ではなく、私たちの内に働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる方、それが私たちの神であり、神の力なる聖霊なのです。

ピリピ4章13節には、こうあります。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」私たちができると言えるのは、私たちを強くしてくださる方によってです。その方こそイエス・キリストであり、イエス・キリストの恵みとあわれみによるのです。この方が御霊を通して私たちのうちに働いて、私たちはどんなことでもできるのです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ステラさんのためにお祈りありがとうございます。ステラさんは先週の火曜日に377gの赤ちゃんを出産されました。妊娠中毒症でこのままだと赤ちゃんのいのちもステラさんの命も危ないということで、妊娠26週でしたが、手術で出産しました。低体重に超がつくほどの超低体重児で、いろいろな障害が心配されましたが、今のところ奇跡的に守られ、少しずつですが、順調に生育しています。皆さんのお祈りを本当に感謝します。そして何よりも神様の恵みに感謝します。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。私たちは、イエス・キリストにある神のめぐみによって強くなれるのです。

小さな赤ちゃんという点では、1982年にオーストラリアと生まれたニック・ブイチチ(Nick Vujicic)さんも同じでした。彼は、両手・両足のない赤ちゃんとして生まれました。生まれたとき上半身は肩から先がなく、下半身は2本の指を残して脚がありませんでした。原因は不明です。両親は牧師で、いつもイエス様のことは聞いていたので、神が愛であることは知っていました。そして、何度も手足をくださいと祈りましたが、応えられませんでした。やがて、自分は神に愛されていないのではないか、間違って生まれたのだと思うようになりました。将来、まともな職に就けないだろう。結婚もできないかもしれない。もしできても、生まれてきた子どもを抱くことすらできない。ニックさんは、少年時代から人生の希望を失っていました。学校では、できないことは山ほどありました。からかわれ、泣いた彼を両親は抱きしめてくれましたが、本当に心の痛みを知ることはできなかったでしょう。神がこの痛みを取り去ってくれないなら自分で・・と、10歳の時、風呂場で自殺を試みたほどです。でも、自分が死んだら両親がすごく悲しむことに気づき、思いとどまりました。しかし、今、ニックさんは「生きていることがとてもうれしい」と、言っています。「私を見てください。私は大学を卒業し、2つの学士を取得しました。不動産業の仕事にも就きました。各地に招かれて講演もしています」。小さな足で歩くことができる。水泳もできる。2本の足の指で、ピースサインはもちろん、1分間に43の単語が入力でき、字も書けます。
「真理が、私を自由にしたのです」。と晴れやかに言います。15 歳の時、ヨハネの福音書9章に出会いました。「盲人が盲目に生まれたのは、罪を犯したからではなく、神のわざが現れるため。」この個所を読んだとき、なぜ自分がこのようにして生まれてきたのかがわかりました。それは神の栄光のためです。神はご自分の栄光のために、自分にすべての人以上の計画をもっておられたのです。手足が与えられなくても、神を信じますと祈ったとき、神は状況ではなく心を変えてくださいました。そして、この神にあってどんなことでもできるという確信を持つことができるようになったのです。今、彼はキリスト教の伝道師として世界中を飛び回り、キリストの愛を至るところで語っています。先日も東京のビッグ・サイトで大きな集会がありました。そして、3年前には結婚して、今2歳になるこどもさんもおられるのです。すごいですね。彼は彼を強くしてくださる方によって今も力強く生き続けているのです。

私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる。これはニックさんだけでなく、神の恵みによって救われたすべての人に言えることです。私たちは弱い者ですが、しかし、私たちのうちにおられるイエス・キリストの恵みによって、どんなことでもできるのです。

イエス様はヨハネの福音書15章でこう言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(15:5)イエス様がぶどうの木で、私たちは枝です。枝が木につながっていれば実を結ぶことができます。離れていては結ぶことはできません。非常にシンプルです。イエス様は自然界の真理をもってお語りくださいました。当たり前のことです。そしてそれは霊的にも言えることなのです。キリストはまことのぶどうの木で、私たちは枝です。私たちがこの方につながるならば、とどまるならば、多くの実を結びます。その方によって強くされるからです。

だからパウロは弱っていたテモテに言ったのです。テモテはいろいろな問題で心が塞ぎ、沈んでいましたが、しかし、わが子テモテよ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。キリスト・イエスを見なさい。その恵みにとどまるように。そうすればあなたは強くされるのです・・と。

2節をご覧ください。2節には、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」とあります。

どういうことでしょうか。「私から聞いたこと」とは福音のことです。それを他の教える力のある忠実な人たちにゆだねなければなりません。テモテはパウロからこの福音のことばをゆだねられました。それを今度は他の教える力のある人たちに、次の世代の人たちにゆだねていかなければならないのです。なぜなら、そのように先に福音を信じた人がそれを他の人にゆだねて行くことによって、本当の意味で福音が広がり、霊的なリバイバルが持続されていくからです。これがキリストにある恵みによってあなたが強くされる理由であり、目的です。あなたはなぜ強くされなければならないのでしょうか。それはこの福音を他の人にゆだねていくためです。それはあなたのためではないのです。この福音のため、この福音が全世界に広がっていくために、あなたは強くされなければならないのです。

この時テモテはいろいろな問題に押しつぶされて、自分のことしか見えなくなっていました。そんなテモテにパウロはもっと広い視野で神様のみこころを示しているのです。あなたにゆだねられたこの福音が他の人たちにもゆだねられるために、あなたはキリストにある恵みによってほしいということだったのです。

Ⅱ.兵士のように、アスリートのように、農夫のように(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。パウロはここでキリストにある恵みによって強くされる人とはどういう人なのかを、三つのたとえを用いて説明しています。「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」

第一に、それは兵士のような人です。りっぱな兵士は勇敢です。彼らは自己犠牲の覚悟ができています。国を守るため、家族を守るため、どんな苦しみにも耐えて、いのちをかけて勇敢に戦うのです。しかし、一人で戦っているのではありません。私と苦しみをともにしてくださいとあるように、みんなで苦しみをともにするのです。みんなでその戦いの最前線に立って戦います。また戦っている最中は日常生活のことについて考えている暇などありません。24時間365日戦いに集中しています。彼らは司令官を喜ばせるために、自分に与えられた任務を最後まで全うするのです。

エペソ6章を見ると、クリスチャンにも戦いがあると言われています。それは霊的な戦いです。ですから、クリスチャンは霊的な戦いを戦っている兵士です。そうした戦いがあることを覚えていなければなりません。しかし、一人で戦っているのではありません。いっしょに戦っているのです。そして、司令官であるイエス・キリストを喜ばせるために、自分に与えられた任務を最後まで全うしなければなりません。

第二にパウロは、恵みによって強くされた人は兵士だけでなく、アスリートのようなものであると言っています。アスリートは、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。2011年韓国の大邱(テグ)で行われた世界陸上男子100メートルの決勝で、ウサイン・ボルト選手がまさかのフライングで一発退場になりました。彼の走りをみたかった私はとても残念でしたが、それが競技というものです。どんなに速くても、競技はルールに従って走らなければ栄冠を得ることできません。

当時のギリシャのオリンピックには3つの規定があったそうです。一つは、競技者は純粋なギリシャ人でなければなりませんでした。二つ目に、オリンピックに出場する人は10カ月間の練習に参加しなければなりませんでした。三つ目のことは、当日の競技は、規定に従って行わなければならないということです。これを守らなければ失格となったのです。

ですから、優秀なアスリートは自己鍛錬を怠りませんでした。どんなに才能があっても日々の練習を怠るのであれば当然良い結果は期待することができないからです。長い期間、厳しいトレーニングを繰り返し、繰り返し行うのです。また自分に害のあるものを避けていきます。こうした苦しみを乗り越えるのは栄冠を得るという目標があるからです。

同じように私たちクリスチャンも、栄冠を目指して走るアスリートのようなものです。栄冠を得るためには日々、敬虔のための鍛錬が求められます。Ⅰテモテでそれを学びました。肉体の鍛錬もいくらかの益にはなりますが、敬虔のための鍛錬は今の世ばかりでなく、永遠に私たちにとって益となるのです。

パウロはピリピ3章でこのように言いました。「兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」(13-15)

そしてローマ皇帝ネロによって処刑されようとしている今、この世での生涯を終えようとしている今、彼はこのように言っているのです。Ⅱテモテ4章6節から8節のところです。

「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(Ⅱテモテ4:6-8)

注ぎの供え物となるとは殉教することを指しています。もうすぐパウロは殉教します。そのような時にパウロが言ったことは、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」ということでした。目標を目指して一心に走っていたパウロは、そのように言うことができました。彼は勇敢に戦い、走るべき行程を走り終えたのです。すばらしいことばです。私が死んだときにもし墓があるとしたら、このみことばを墓石に刻んでほしいくらいです。「走るべき道のりを走り終え・・・」今からは義の栄冠が用意されています。それはパウロだけに用意されているものではなく、主の現れを慕っているすべての人に約束されていることです。私たちもイエス・キリストから、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われるように、栄冠を目指して、走り続けていきたいものです。

第三に、パウロはここで恵みによって強くされた人は、農夫のようだと言っています。兵士だけでなく、またアスリートのようであるだけでなく、農夫のような者でもあるのです。農夫のようであるとはどういうことでしょうか。農夫は労苦することを惜しみません。朝早くから夜遅くまで一生懸命に働きます。暑さにも寒さにも耐えて、汗水流しながら働くのです。アスリートはみんなから注目されますが、農夫が注目されることはありません。すごく地味ですよね。そして決まりきった毎日の作業をたんたんと繰り返し、繰り返しこなしているだけですが、でも根気強くそれを続けていけばどうなるかということをよく知っています。まず第一に収穫の分け前にあずかるということです。だれも注目しない、華やかでもない、エキサイトするような仕事でもありませんが、毎日たんたんと根気よく続けていけば、必ず収穫にあずかるのです。だから労苦を惜しまないのです。

私たちも農夫のような者です。福音のために労苦を惜しまなければ、必ず収穫にあずかれる時がやってきます。詩篇の作者はこう歌っています。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5-6)

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取るのです。必ず刈り取りのとき、収穫の時が来るので、農夫は労苦を惜しまないですることができるのです。

Ⅲ.よく考えなさい(7)

最後に7節を見て終わりたいと思います。「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。」

ここは、きょうの箇所のまとめの箇所です。パウロはテモテを励ますためにこの手紙を書きました。テモテは教会の内部の問題、そして、外からの迫害による苦しみによって、その信仰が弱まっていました。しかし、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。あなたは私から学んだことを他の人たちにも教えなさい。あなたは福音のために戦う兵士のようです。あなたは栄冠を目指して走るアスリートです。あなたは収穫のために労苦する農夫です。そしてここで、テモテよ、あなたは私があなたに言っていることをよく考えなさい、深く考えるようにと言うのです。そして、主が理解できるように、すべてのことについて理解する力を与えてくださるようにと祈っています。

私たちはどうでしょうか。パウロが言っていることを理解しているでしょうか。恵みが何であるかを本当に理解しているでしょうか。そして神のことばを他の人たちにゆだねていくことの大切さを理解しているでしょうか。あなたは自分が兵士であることをしっていましたか。アスリートであることを知っていますか。農夫であることを理解していましたか。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」ということを知っていますか。そうした収穫の喜びは労苦の後にもたらされるということを知っていたでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。そうすれば、困難に耐えることができます。福音のための苦しみをともにすることができるのです。

私たちの信仰生活は戦いの連続です。アスリートですから、それは競技場でもあります。農夫ですから、それは畑ですね。そこには労苦が伴いますが、しかし、やがて必ず勝利を、栄冠を、収穫を得ることになります。福音のために戦い続け、最後まで走り続け、労苦し続けるなら、必ず勝利と永遠と収穫を得るようになるのです。でもそれは私たちの力によるのではありません。聖書は何と言っていますか。キリスト・イエスにある恵みによってと言っています。キリスト・イエスにある恵みによって強められるのです。神の愛、神の恵み、神の力に満たされて、私たちも信仰の戦いを戦いつづけ、走り続け、収穫を得るために働き続け、神が与えてくださる栄冠を得させていただく者でありたいと思います。

Ⅱテモテ1章8~18節 「恥じてはいけません」

テモテへの手紙第二1章8節からのみことばです。きょうのタイトルは、「恥じてはいけません」です。これは、パウロによって書かれた最後の手紙です。使徒の働き28章30節を見ると、パウロは福音のゆえに二年間ローマで軟禁状態にありましたが、その後釈放されてマケドニヤ地方に行き、そしてスペインに行ったと言われています。その後スペインから戻って来ると再び捕えられ、今度はローマの地下牢に入れられました。そこでこの手紙を書くのです。なぜなら、エペソで牧会していたテモテが教会の問題で疲れ果て、弱っていたからです。先週のところには、「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」と勧めました。テモテは神から与えられた賜物を用いることができないほど弱っていたのです。そんなテモテを励ますために、パウロはこの手紙を書いたのです。

きょうのところでもパウロは、続いて彼を励ましてこう言っています。8節です。「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。」

ここには「恥じてはいけません」とあります。この言葉はきょうの箇所に3回も繰り返して使われています。8節と12節と16節です。このように同じ言葉が繰り返して使われているということは、そのことが強調されているということです。そして、このことがこの箇所を貫いているテーマであると言ってもいいでしょう。いったい何を「恥じてはいけない」のでしょうか。それは、私たちの主をあかしすることや、パウロが囚人であることです。昔も今もそうですが、このように誰か自分の知り合いが捕えられたりすると、「あいつは犯罪者の知り合いだ」と言われるのが嫌で、それを恥じ、そこから去って行く人たちがいます。しかし、恥じてはいけません。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。第一にその力です。いったいどうしたら苦しみをともにすることができるのでしょうか。それは神の力によってです。第二のことは、ではパウロはどうしてこのような苦しみを恥じなかったのでしょうか。それは自分の信じて来た方がどのような方であるかをよく知っていたからです。第三のことは、パウロのように恥じなかった人の模範です。その人はオネシポロという人です。この人の模範から学びたいと思います。

Ⅰ.神の力によって(8-10)

まず8節から10節までをご覧ください。8節をご一緒に読みましょう。「ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」

「ですから」というのは、その前のところで語られてきたことを受けてということです。すなわち、神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。先ほども述べたように、昔も今も、誰か自分の知り合いが捕えられたということになると、そういう人とは関わりを持ちたくないと去って行く人が少なくありません。現にパウロが捕えられると、それを恥じて、彼から去って行く人たちがいました。しかしテモテよ、あなたはそうであってはいけないというのです。なぜなら、パウロが捕えられたのはローマの囚人としてではなく、主の囚人としてであるからです。つまり、何か罪を犯したからではなく、イエス・キリストのために、福音のために捕えられたのだからです。福音のために捕えられて、いったい何を恥じる必要があるでしょう。恥じることなど全く必要ありません。なぜなら、イエス・キリストを信じる者が福音のために苦しみを受けることは当たり前のことだからです。たとえば、3章12節を開いてみてください。ここには何と書かれてありますか。ここには、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けるのです。ですから今パウロがこのような苦しみを受けているのは彼が敬虔に生きていたからであり、正しいことなのです。また、ピリピ1章29節にはこうあります。「あなたがたは、キリストのため、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」

私たちは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。霊的祝福だけを受けたのではなく、それと共に苦しみをも受けました。ですから、聖書が教えていることは、イエス様を信じればすべてがうまくいくということではなく、苦しみも受けるということです。でもそれは幸いなことでもあります。なぜなら、福音のために迫害を受けるということは、神の側に立つことができたという証でもあるからです。イエス様はそのように言われました。マタイの福音書5章10節から12節までをご一緒に読みましょう。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」

義のために迫害されている人は幸いです。主のために人々からののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられるとき、幸いなのです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。一般的にはこういう人は最悪で、不幸な人のように思いますが、イエス様はこのように主のために迫害される人は幸いだと言われたのです。そういう人は天で大きな報い受けます。だから、喜びなさい。喜び踊りなさいと言われたのです。主の囚人であることを恥じことなど必要ありません。ではどうしたらいいのでしょうか。ここには、「むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください」とあります。福音のために苦しみをともにしてほしい。でも自分の力で苦しみに耐えることはできません。そんなことをしたら疲れ果ててしまうでしょう。だからパウロはここで、「神の力によって」と言っているのです。神の力によって、福音のために私と苦しみをしてください。そういうのです。神が私たちに与えてくださったものは何でしょうか。それはおくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから私たちは、その神の力によって強められて、苦しみを担っていかなければならないのです。私たちが何とかがんばって耐えるのではなく、日々、御霊に満たされるなら、神がその苦しみに耐える力を与えてくださるのです。

では、神が与えてくださる力とはどのようなものなのでしょうか。9節と10節をご覧ください。

「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」

パウロはここで、私たちがどのようにして救われたのかを語っています。私たちが救われたのは私たちの力によるのではなく、神が私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいました。「聖」というのは選び別けるという意味で、この世と分離することを言います。この世と分離してどうなるのかというと、イエス様と同じ姿に変えられるわけです。それは御霊なる主の働きによるのです。このように私たちを救い、私たちをご自身と同じ姿に変えてくださるのは、私たちの働きによるのではなく、神のご計画と恵みによるのです。

そしてこの恵みはいつ与えられたのでしょうか。いつこの計画が立てられたのでしょうか。ここでパウロは「永遠の昔に与えられた」と言っています。エペソ1章4節には、「世界の基の置かれる前から」とあります。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」世界の置かれる前からキリストにあってあなたを選び、ご自身の子にしようとあらかじめ定めておられたのです。すごいですね。自分ではある日たまたま教会に来て、何となくイエス・キリストを信じたかのように思っていましたが、そうではなく、神が選んでおられたのです。その神の選びに私たちが応答したのです。

ヨハネ15章16節にもありますね。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)イエス・キリストが、真の神が、あなたを選んでくださった。これほど確かな保障はありません。神があなたを救ってくださったのです。あなたが救われたのは神のご計画と恵みによるのです。

それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。神様の救いと恵みは永遠の昔、この世界の基の置かれる前に定められたものですが、それが今、イエス・キリストがこの地上に来られたことによって明らかにされたということです。神の約束のことばが現実のものとなりました。見えない神が見える形で来られたのです。この方がイエス・キリストです。イエス・キリストが現れたことによって、その救いの計画と恵みが明らかになったのです。キリストが来られ、私たちの罪のために十字架で死なれ、死んだだけでなくに三日目によみがえられたことによって、死の力を滅ぼされました。ですから、このキリストを信じる者は死んでも生きるのです。死の力は何の効力ももありません。それは私たちが死なないということではなく、確かに肉体は滅びますが、魂は永遠に生きるということです。キリストを信じる者にはこのような希望が与えられているのです。これが福音です。グッド・ニュースなのです。この福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。だからもう何も恐れることなどありません。パウロを支えていたのは、この死に高らかに勝利されたイエス・キリストの福音だったのです。それがもし私たちの力によるものであったのならどうでしょう。もやしのようにすぐに萎れてしまうでしょう。だから私の力によってではなく神の力によってなのです。私たちは困難な時代になればなるほど、この世のものではなく、将来に約束された永遠のいのちの希望を支えにしなければなりません。この希望を与えてくださった神の力によって、福音のために苦しみをもともにすることができるのだと、パウロはテモテに勧めたのです。

Ⅱ.神は真実ですから(11-14)

次に11節から14節までをご覧ください。続いてパウロはこう述べています。11節と12節をご一緒に読みましょう。

「私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」

パウロは、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されました。宣教者というのは、イエスが救い主であることを公に宣べ伝える人のことです。まだイエス・キリストを信じていない人たちに対して、働きかけることです。私たちはみな罪人で、このままでは滅んでしまいます。でも神はあなたを愛しています。そのために神はイエス・キリストをこの世に与えてくださいました。そしてイエスがあなたの身代わりに十字架にかかってくださったので、あなたが罪を悔い改めてこのイエスを救い主として信じて受け入れるなら救われます。その福音を宣べ伝えることが宣教の働きです。

教師というのは、すでに救われた人たちがどのように歩むべきか、ただ救われるだけでなく神のみこころに従ってどのように歩むべきかを教える働きです。私たちは救われても神のことばを学ばなければ、霊的に、信仰的に成長していきません。ですから、神のことばを学ぶことはとても大切なことです。ですから、私たちの教会ではできるだけ1章1節ずつ、神のことばが何を教えているのかを学んでいるのです。イエス様は、「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と言われました。「この岩」とはイエス・キリストのことであり、イエスが神の御子であるという信仰の告白のことです。イエス様のことばと言ってもいいでしょう。イエスのことば、神のことばの上に立っている教会は絶対に倒れることはありません。それはハデスの門も打ち破ることができないのです。だから最初はチンプンカンプンかもしれませんが、忍耐して学び続けるなら、必ずわかるようになります。

ですから、まだイエス様のことを知らない人には、ぜひ福音を伝えてください。神が愛であること、罪人は滅んでしまうこと、だから神はイエス・キリストをこの世に与えてくださったということ、イエス・キリストがあなたの身代わりとして十字架にかかって死んでくださったということ、そして、三日目によみがえられたということ、そして悔い改めてこのイエスを信じるなら罪から救われ、永遠のいのちが与えられるということです。このことをぜひ伝えてください。そして、そのようにして救われた人は、神のみこころに歩むことができるように、神のことばを学んでください。教会ではそれを学ぶことができるのであって、パウロはそのために召されたのです。

そして使徒というのは遣わされた者たちのことです。これは狭い意味ではイエス様が直接任命した12名の弟子たちとパウロのことを指しますが、広い意味では主によって遣わされた者たちのことを言います。

パウロは、この福音のために召されたのです。そのために、このような苦しみに会っています。このような苦しみというのは、この時パウロは鎖につながれてローマの地下牢にいましたが、食べ物、飲み物もろくに与えられず、寒さに凍え、いつ処刑されるのかわからないという不安の中にいたわけです。でも彼の心は打ちひしがれてはいませんでした。彼はこう言っています。12節、「私はそれを恥とは思っていません。」なぜパウロはこのように言うことができたのでしょうか。その理由が、その次のところにあります。

「とういうのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」

というのは、彼は自分が信じて来た方がどういう方であるかをよく知っていたからです。また、その方は私のお任せになったものを、かの日のために守ってくださることができると確信していたからです。どういうことでしょうか。パウロは、神がどのような方であるのかをよく知っていました。ただ単に頭で知っていたというだけでなく、その生活の中で体験として知っていたのです。たとえば、彼は今投獄され、鎖につながれていましたが、これまでもそのような状態に置かれることが度々ありました。その度に神がどのようにしてくださったかを経験してきたのです。あのピリピで投獄された時はどうだったでしょうか。それは真夜中のことでした。パウロとシラスは神に祈りつつ賛美の詩を歌っていると、突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動いたかと思ったら、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。囚人を逃がしたらその責任を負って処刑されなければならない看守はもうだめだと思って自害しようとしたら、奥の方が声が聞こえてきました。それはパウロの声でした。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」すると看守ははあかりを取り、駆け込んできて、パウロとシラスの前に震えながらいうのです。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」するとふたりは落ち着いた声で、しかもはっきりとこう言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」そしてその夜、看守とその家の者全部がバプテスマを受けたのです。ハレルヤ!たとえパウロたちが囚われても、神は囚われるどころか、そのようなところでも働いて救いのみわざ、神の栄光を現してくださいました。

ローマで囚われた時はどうでしたか。パウロがローマにやって来た時は自費で借りた家に住むことが許されましたが、ローマの兵士に24時間監視されていました。いわば軟禁状態だったわけです。しかし、ピリピ人の1章を見ると、このことがローマの兵士たち全員に知れ渡ったので、彼らの中からも救われる人たちが起こされたばかりか、このことで勇気と確信が与えられた兄弟たちが、ますます大胆に神のことばを語るようになった、と言われています。まさに災い転じて福となすです。

だから、今回もこのようにローマの地下牢に閉じ込められてはいるが、これまでの経験から言えることは、たとえどんなことがあっても神は最善に導いてくださると確信することができたのです。仮にたとえこのことによって死ぬことがあったとしても、愛の神はそれさえも用いてくださると信じていたのです。それは私たちに対する神の約束でもあります。

Ⅰコリント10章13節にはこうあります。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

すばらしい約束です。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えることのできないような試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。あなたにはこの確信があるでしょうか。もしそうならば、あなたも何も恐れる必要はありません。あなたには、すでに脱出の道が備えられているからです。

そればかりではありません。パウロはここで、「その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」と言っています。どういうことでしょうか。「私のお任せしたもの」は新共同訳では、「私にゆだねられているもの」と訳しています。それは福音のことです。それをかの日まで、かの日とはキリストの再臨の日のことですが、その日まで守ってくださるという確信がありました。パウロは、たとえ肉体が滅んでも、神が永遠のいのちを保証してくださるという確信があったのです。また、神が彼に託された福音は、たとえ彼が殺されたとしても守られる、むしろ広がっていくと確信していたのです。

だから何も心配することはありませんでした。すべてを神にゆだねることができたのです。自分が信じていることの確信がある人は、どんな状況にあっても揺らぐことはありません。パウロは確信のある人でした。自分が信じている方がどういう方かをよく知っていたのです。だから彼はどんな状況にあっても揺らぐことはなかったのです。あなたはどうですか。このような確信がありますか。

だからあなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本としなければなりません。そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守らなければならなないのです。この健全なことばとか、良いものというのは、神のことば、福音のことです。テモテの回りには偽教師たちがたくさんいて、違ったことを教えていたので、何が真実なのかがわからなくなってしまうことがありました。ですから、彼が手本にし、彼が立たなければならなかったのは、彼がパウロから聞いた健全なことば、神からゆだねられた福音のことばだったのです。それを聖霊によって守らなければなりません。なぜなら、聖書の真の著者は聖霊ご自身ですから、それと違ったことを教えると、聖霊ご自身が「ちょっとおかしいなぁ」と気づかせてくれるからです。ですから、私たちは聖書が教えていることを正しく学び続けていく必要があるのです。

Ⅲ.福音を恥じと思わなかったオネシポロ(15-18)

最後に、福音を恥じと思わなかったオネシポロという信仰者の模範を見て終わりたいと思います。15節から18節までをご一緒に読みましょう。

「あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけてくれ、また私が鎖につながれていることを恥とも思わず、ローマに着いたときには、熱心に私を捜して見つけ出してくれたのです。―かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように―彼がエペソで、どれほど私に仕えてくれたかは、あなたが一番よく知っています。」

パウロはこのエペソの町で3年間神のことばを教えました。特にツラノの講堂では2年間毎日教えて、アジヤにいる人たちはみな主のことばを聞いたと言われたほどでした。今でいうとトルコ地方です。すべての人が主のことばを聞いたのです。

ところが数年後、パウロが捕えられると、その人たちはみな残念ながら彼から離れていきました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいますと名指しで言われています。おそらく彼らは長老だったのでしょう。罪を犯している長老はすべての人の前で責めなさいとありますから(Ⅰテモテ5:20)とありますから。彼らは自分たちに都合が悪くなるとパウロから離れていきました。

しかし、その人たちとは逆に、パウロが苦しかった時に助けてくれた人たちもいました。オネシポロの家族です。16節を見ると、彼はたびたびパウロを元気づけてくれ、またパウロが鎖につながれていることを恥じとも思わず、ローマについた時には、熱心にパウロを捜し出してくれました。

パウロが捕えられるとアジヤにいた人たちはみなパウロから離れ去って行きました。しかし、このオネシポロだけはそうではありませんでした。彼はエペソの教会の長老であり、ビジネスマンではなかったかと言われていますが、彼は主に仕えるということがどういうことかをよく理解していました。主に仕えるようにパウロに仕えました。そして、長老としてふさわしい行動をとったのです。物事が順調な時だけでなく、困難な時、苦しい時にどうするかでその人の真価が問われます。彼はみなが去って行く中、

自らパウロのところへ行ったのです。そしてパウロを元気づけました。おそらく食糧もなかったでしょうから、食糧を届けたことでしょう。そして、鎖につながれていたパウロを恥じとも思いませんでした。熱心にパウロを捜して見つけ出してくれました。パウロの仲間だと知れると、ローマに捕えられる危険性がありましたが、彼はその危険も顧みずにパウロを熱心に捜して見つけ出し、そして食糧も与えて元気づけて、パウロを励ましてくれたのです。パウロはどれほど慰められたことかと思います。

箴言17章17節をお開きください。

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」

苦しい時にひとりで苦しみを負うのは大変です。だれかがそばにいてくれるだけでその苦しみは和らぎます。その苦しみを分け合うために兄弟は存在しているのです。パウロは苦しい状況の中にいました。肉体的にも、精神的にも、霊的にも、いろいろなプレッシャーがある中で苦しんでいました。そして一番の苦しみは、そのような苦しみの中で去って行く人がいたことです。そんな中で苦しみや痛みを分かち合ってくれる兄弟、信仰の友、信仰の家族、仲間がいるといこうとは大きな慰めであり、支えです。それがオネシポロでした。だから、オネシポロのことを思ったとき、もう祈らずにはいられませんでした。主よ、かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように。その労苦に十分に報いてくださるように。そう祈らずにはいられませんでした。

オネシポロのような人が主に喜ばれる人です。私たちも神の力によって、主のために、また福音のために、苦しみをともにできる人でありたいですね。いい時だけでなくて、どんな時でも、主のために、福音のために苦しみをともにできる。そして福音を恥じとしない。パウロはあなたの力によって頑張りなさいとは勧めているのではありません。そこを勘違いなさらないでください。あくまでも神の力によってです。神の力によって、福音のために、私と苦しみをともにしてください。そのようにパウロはテモテに勧めました。私たちも主のために、福音のために、祝福と同時に、神の力によって苦しみもともにしてまいりましょう。