きょうは、創世記2章から学びます。
Ⅰ.神の安息(1-7)
まず1~7節をご覧ください。
「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」
神は、六日間で天地創造の御業を完成されると、七日目になさっていたすべてのわざを休まれました。これは、神が人間のように疲れたからということではありません。イザヤ書40:28には、「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」とあります。神は疲れることなく、たゆむことがない方です。ですから、この休まれたというのは、いわゆる人間の休息とは違います。神が休まれたというのは、その創造の御業を完成されたので、その活動を停止されたということです。その一切のわざを完成されたので、それをご覧になられて満足されたのです。ですから、神が休まれたというのは、ご自身の天地創造の御業に対して満足されたということなのです。
それが3節の「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた」ということばからもわかります。「聖」であるとは、「他のものから分離して、神のものになる」という意味です。たとえば、聖書は聖なる書物です。それは、他の書物とは区別された、神の書物です。したがって、「この日を聖であるとされた。」というのは、他の日と区別されて神の日とされたということなのです。つまり、天地創造の目的は人間を創造されたことで終わらず、その創造された人間が神を喜び、神を礼拝することによって、神の栄光を現すことであったのです。
次に4節から7節までをご覧ください。これは天と地が創造されたときの経緯です。特に、1章27節には「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とありますが、その詳しい叙述がなされているのです。いったい人はどのように造られたのでしょうか。7節には、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とあります。
神である主はまず土地のちりで人を形造りました。ですから、人間の肉体にある17の主成分のほとんどは、土にある主成分と同じなのです。それは、私たちの肉体が土のちりからできているからです。皆さんは土のちりです。このことを思うと、とかく傲慢になりがちな私たちにへりくだることを教えられ、高ぶりに陥らないようにとの教訓が示されているように感じます。この「形造る」ということばは、原語で「アサー」という言葉が使われています。夜ではなく「アサー」です。創世記1章の「創造された」という言葉は「バラ―」という言葉で、使い分けされています。この「アサー」という言葉は、陶器師が物を造る時に用いられる言葉です。この言葉は、エレミヤ書18章6節の言葉を連想させます。「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」つまり、私たちは造り主なる神の手の中に自由に練り上げられる存在であるということです。このことからも、造り主なる神の前にへりくだって歩むことの大切さを教えられます。
しかし、人は土のちりで形造られただけでなく、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きものとなりました。この「息」は、原語のヘブル語では「ルアッハ」という言葉で、「霊」と訳されています。つまり、神は霊ですから、人間にも霊を与えられたのです。1章27節の「神は人をご自身のかたちとして創造された」の「ご自身のかたち」とは、この「霊」のことを示しています。人間には、動物と違って、この霊が与えられています。神に対する思いや永遠を慕う思いが与えられているのです。伝道者の書3章11節には、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」とあります。自分はどこから来たのか、そしてどこにいるのか、自分が死んでからどこへ行くのか、そうした思いが私たちに与えられています。それは、人間が霊的な存在だからです。だから私たちは、神を礼拝し、神に祈ることによって、真の平安と満足を得ることができるのです。
Ⅱ.エデンの園(8-17)
次に8節から18節までをご覧ください。
「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
神である主は東の方エデンに園を設け、そこに人を置かれました。そこには、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木が生えていました。神は、人間が食べるために必要なものをすべて用意しておられたのです。人は汗を流し、苦労して働かずして、食物を得ることができました。
また、この園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木がありました。いのちの木とはいのちを与える気のことです。それは神ご自身の存在を現わしていました。なぜなら、命を与えることができるのは神だからです。ですから、このエデンの園は、神の楽園(パラダイス)だったのです。神の楽園、神の国の本質は何かというと、そこに神がおられるところです。エデンの園の中央には、神が住んでおられました。その神と交わり、神とともに生きることこそ、神によって造られた人間にとっての最高の喜びだったのです。
もう一つ、園の中央には、善悪の知識の木が生えていました。善悪の知識の木とは何でしょうか。16-17節には、「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。
これは、取って食べてはならないと神が命じられた木です。それを取って食べる時、あなたは必ず死にます。これは人間には限界があることを示しています。人間は何でもできるのではありません。何をしてもいいわけではないのです。することが許されていることと許されていないことがあります。越えてはならない一線があるのです。そして、人間に許されていないことは、自分で善悪を判断することです。なぜなら、善悪を判断することは神がなさることだからです。その神の指示を仰がないで自分で判断するということは自分が神のようになろうとすることであり、人には許されていないことだったのです。ですから、それを食べるようなことがあれば、必ず死ぬのです。ここでの死は、神との関係が断たれることを意味します。神は人が生きるためにふさわしい最高の環境を備えてくださったのに、その中心である神との関係が断たれることによってそこから追放され、すべての祝福を失うことになってしまうのです。
であれば、なぜ神はわざわざこのような木を園の中央に置かれたのでしょうか。この木から取って食べるということがわかっていたのならば、最初から置かない方が良かったのではないでしょうか。そうではありません。神は人をロボットとして造られたのではなく、自由意志を持つ者として造られました。心から神に信頼して生きるようにと造られたのです。ですから、この善悪を知る知識の木は、神によって造られた人間が神に信頼して生きるために備えられたのであり、その善悪を知る木から取って食べることは、神以外の何ものも信頼すべきではないことを示すためのものだったのです。また、この善悪を知る知識の木は、そのような中で、人間が創造者のみこころに忠実に従うかどうかをためすためのものだったのです。このような木の存在を通して、人間がより成長し、道徳的にも円熟していくことを、神は願っておられたのです。
10節から14節までをご覧ください。このエデンの園の中央にはいのちの木があっただけでなく、この園を潤すために四つの川が流れていました。第一の川の名前はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金がありました。第二の川の名前はギホンで、それはクシュの全土を巡って流れます。第三の川の名前はティグリスで、それはアシュルの東を流れます。第四の川はユーフラテス川です。この川は人にいのちと潤いを与える川です。預言者エゼキエルは、その水の中にいる魚は生き生きとし、そのほとりに生えている果樹は、新しい実を結び続けます、と言っています。(エゼキエル47:1-12)それは、世の終わりに現われる天の御国の描写でした。黙示録22章1節には、神によってもたらされる新しい天と新しい地の真ん中に神と小羊との御座があり、都の大通りの中央を流れていた、とあります。それはいのちの水の川で、その川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができました。また、その木の葉は諸国の民をいやした、とあります。(黙示録22:1-2)
したがって、ここに書かれているエデンの園は、人間が生きるための最適な場所であり、神は終わりの時に罪によって堕落したこの世界を再び新しくしてくださるということの象徴としての神の啓示でもあったのです。
Ⅲ.結婚の奥義(18-25)
最後に18節から25節までをご覧ください。
「その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」
ここには、1章27節の「神は人ご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」という御言葉の詳しい説明が記されてあります。神は天地万物をお造りになられたとき、造られたすべてのものをご覧になられ、「それは非常に良かった」(1:31)と仰せになられましたが、どこを見ても人(アダム)にふさわしい助け手はいませんでした。神の霊が与えられた人間と交わることができるものは、ほかにいなかったのです。人格をもった者は、他に人格をもった者と交わりをもたずにはいられません。もちろん、神が造られたものは、みな彼を楽しませてくれましたが、彼の助け手として、彼と真に交われるものはありませんでした。
そこで神は、「人が、ひとりでいるのは良くない。」と仰せになられ、彼のためにふさわしい助け手を造ろうとされたのです。この「ふさわしい」とはどういう意味でしょうか。それはただ単に「孤独」や「多忙」を補うという意味での「ふさわしい」存在というのではなく、人間の使命を達成するにあたりかけがいのない必要な相手としてふさわしいということであり、肉体的にも、精神的にも、霊的にも一つになれるという点でふさわしい助け手であったのです。単に孤独や寂しさを補うだけの助け手であれば他の男でも良かったわけですが、男では満たすことのできない存在、つまり女が必要だったのです。
それでは、なぜ神は人間を最初から男と女に造らなかったのでしょうか。神はまず男を造り、その後で女を造られました。それは男と女の結合(結婚)は、本来ふたりの男女の結合なのではなく、もともとひとりであったふたりの男女がそのもとの姿にかえることだからです。男と女というふたつの人格が一個の人格として歩むことなのです。
アダムは、神が造られたあらゆる動物に名前を付ける特権が与えられました。彼が生き物につける名はみな、そのとおりとなりました。いったい何のために彼は動物に名前をつけたのでしょうか。それは単に名前をつけたということ以上に、その動物たちの性質を見たということです。何のために?自分にふさわしい助け手はどのようなものなのかを考えさせたのでしょう。しかし、彼はふさわしい助け手は見つけることができませんでした。
それで神はどうされましたか?神はかれに深い眠りを下されたので、彼は眠りました。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれました。これはどういうことでしょうか。神は妻となるべき女を造られた時、夫となるべき男にまさる者としては造られなかったということです。男から、そのあばら骨を取って造られました。それはアダムと同質の存在であるということ、またアダムをもとにして造られたということです。決して男の頭から作りませんでした。また神は夫が妻を踏みつけるようにと、足元からも作られませんでした。妻は夫の助け手となるべく男のあばら骨から(わき)造られたのです。妻は夫の良き友、愛すべき者、保護すべき者、夫を助ける者として、夫のわきから造られたのです。したがって、夫は妻を愛し、妻は夫に従うのは自然です。本来そのように創られたからです。
女が造られたことで、いよいよアダムの結婚生活が始まろうとしていました。神である主によって導かれ、自分の前に現われた女性を見た時、アダムの心はどんなに興奮したことでしょう。それは23節を見るとわかります。
「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
これはアダムの心にあった率直な表現です。「私の骨からの骨、私の肉からの肉。」すごい表現です。自分の肉親でさえこのようには言えません。まさにアダムにとってエバはこのように言える存在であり、これが結婚の原点であると言えます。アダムは彼女を「女」と名づけました。男から取られたからです。女とはこのような意味で男から取られたもの、妻は夫から取られたものなのです。ここに結婚の奥義があります。それゆえ、結婚は、神が計画し、神が成立させてくれるものです。アダムとエバはすべてを神にゆだね、神に従ったことで、結果としてこのような喜びと感謝に満たされたのです。
「それゆえ男はその父母から離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」これは神が啓示された結婚観です。結婚とは何でしょうか。それは父母を離れ、妻と結び合い、ふたりが一体となることです。
この「父母から離れ」とは、父母から独立することを意味しています。男も女も両親から独立しなければ結婚することはできません。しかし、独立するとはもう両親とは関係を持たないとか、親の言うことを聞かないということではありません。あるいは、親の面倒を見ないということでもないのです。それはまず精神的に独立することを意味しています。親に依存したままでは結婚しても、それでは結婚したとは言えません。自分が主体的にひとりで物事を考えることができて初めて結婚が成り立つのです。
また、「妻と結び合い」とは、霊的、精神的、肉体的に一つとなることを意味しています。この「結び合い」ということばはとても強い言葉で「糊付けすること」を表しています。糊付けしたものを剥がそうとするとどうなるでしょうか。ビリビリに敗れてしまいます。それほど強く結びついているからです。ここでも同じように、夫と妻の結び合いは、切り離すことのできないほど強力なものなのです。
離婚の第一の理由で最も多いのは「性格の違い」です。しかし、性格が一致するわけがありません。もしこれが結婚の条件であれば、その条件がなくなったときに結婚は破綻してしまうことになります。しかし、夫と妻の結び付というものはそのようなものによって破られてしまうものでありません。どんなことがあっても切り離されないほどの強い結び付なのです。ですから、結婚にとって最も重要なことは、神への献身であるということです。結婚の相手がどんな人であろうとも、それは神が自分のところに導いてくださった相手であると認め、どんなことがあっても神に従うという神への献身が求められるのです。
そして、もう一つ、ここには「二人は一体となる」です。英語では”one flesh”、「一つの肉となる」と訳されています。つまり、夫婦は一つの体になるのですが、その体にはそれぞれの人格があります。神が唯一であられるのに父、子、聖霊がおられるように、夫婦も結婚においてふたりが一人になるのでする
このように、結婚は神が制定された幸福な制度です。だから罪が入ってくるまでは、人間において結婚のみが正常な男女の営みであって、いわゆるホモセクチャルなどの在り方はこの教えから逸脱していると言えます。それは罪が入ってきたことによって混乱した人類の状態の一つなのです。
このように、神が定めた結婚の結果、ふたりはどのようになったでしょうか。ここには、「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。ここで意味していることは、彼らは互いに隠すものが何一つなかったと言うことです。神の前に出ても、そしてお互いの間にも、隠し立てすることが何もなかったのです。私たちの結婚においても、すべてを透明にして相手に自分のことを正直に打ち明かす透明な関係を築いていきたいと思います。