創世記2章

きょうは、創世記2章から学びます。

 

Ⅰ.神の安息(1-7)

 

まず1~7節をご覧ください。

「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」

 

神は、六日間で天地創造の御業を完成されると、七日目になさっていたすべてのわざを休まれました。これは、神が人間のように疲れたからということではありません。イザヤ書40:28には、「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」とあります。神は疲れることなく、たゆむことがない方です。ですから、この休まれたというのは、いわゆる人間の休息とは違います。神が休まれたというのは、その創造の御業を完成されたので、その活動を停止されたということです。その一切のわざを完成されたので、それをご覧になられて満足されたのです。ですから、神が休まれたというのは、ご自身の天地創造の御業に対して満足されたということなのです。

 

それが3節の「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた」ということばからもわかります。「聖」であるとは、「他のものから分離して、神のものになる」という意味です。たとえば、聖書は聖なる書物です。それは、他の書物とは区別された、神の書物です。したがって、「この日を聖であるとされた。」というのは、他の日と区別されて神の日とされたということなのです。つまり、天地創造の目的は人間を創造されたことで終わらず、その創造された人間が神を喜び、神を礼拝することによって、神の栄光を現すことであったのです。

 

次に4節から7節までをご覧ください。これは天と地が創造されたときの経緯です。特に、1章27節には「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とありますが、その詳しい叙述がなされているのです。いったい人はどのように造られたのでしょうか。7節には、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とあります。

神である主はまず土地のちりで人を形造りました。ですから、人間の肉体にある17の主成分のほとんどは、土にある主成分と同じなのです。それは、私たちの肉体が土のちりからできているからです。皆さんは土のちりです。このことを思うと、とかく傲慢になりがちな私たちにへりくだることを教えられ、高ぶりに陥らないようにとの教訓が示されているように感じます。この「形造る」ということばは、原語で「アサー」という言葉が使われています。夜ではなく「アサー」です。創世記1章の「創造された」という言葉は「バラ―」という言葉で、使い分けされています。この「アサー」という言葉は、陶器師が物を造る時に用いられる言葉です。この言葉は、エレミヤ書18章6節の言葉を連想させます。「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」つまり、私たちは造り主なる神の手の中に自由に練り上げられる存在であるということです。このことからも、造り主なる神の前にへりくだって歩むことの大切さを教えられます。

 

しかし、人は土のちりで形造られただけでなく、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きものとなりました。この「息」は、原語のヘブル語では「ルアッハ」という言葉で、「霊」と訳されています。つまり、神は霊ですから、人間にも霊を与えられたのです。1章27節の「神は人をご自身のかたちとして創造された」の「ご自身のかたち」とは、この「霊」のことを示しています。人間には、動物と違って、この霊が与えられています。神に対する思いや永遠を慕う思いが与えられているのです。伝道者の書3章11節には、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」とあります。自分はどこから来たのか、そしてどこにいるのか、自分が死んでからどこへ行くのか、そうした思いが私たちに与えられています。それは、人間が霊的な存在だからです。だから私たちは、神を礼拝し、神に祈ることによって、真の平安と満足を得ることができるのです。

 

Ⅱ.エデンの園(8-17)

 

次に8節から18節までをご覧ください。

「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 

神である主は東の方エデンに園を設け、そこに人を置かれました。そこには、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木が生えていました。神は、人間が食べるために必要なものをすべて用意しておられたのです。人は汗を流し、苦労して働かずして、食物を得ることができました。

また、この園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木がありました。いのちの木とはいのちを与える気のことです。それは神ご自身の存在を現わしていました。なぜなら、命を与えることができるのは神だからです。ですから、このエデンの園は、神の楽園(パラダイス)だったのです。神の楽園、神の国の本質は何かというと、そこに神がおられるところです。エデンの園の中央には、神が住んでおられました。その神と交わり、神とともに生きることこそ、神によって造られた人間にとっての最高の喜びだったのです。

 

もう一つ、園の中央には、善悪の知識の木が生えていました。善悪の知識の木とは何でしょうか。16-17節には、「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。

 

これは、取って食べてはならないと神が命じられた木です。それを取って食べる時、あなたは必ず死にます。これは人間には限界があることを示しています。人間は何でもできるのではありません。何をしてもいいわけではないのです。することが許されていることと許されていないことがあります。越えてはならない一線があるのです。そして、人間に許されていないことは、自分で善悪を判断することです。なぜなら、善悪を判断することは神がなさることだからです。その神の指示を仰がないで自分で判断するということは自分が神のようになろうとすることであり、人には許されていないことだったのです。ですから、それを食べるようなことがあれば、必ず死ぬのです。ここでの死は、神との関係が断たれることを意味します。神は人が生きるためにふさわしい最高の環境を備えてくださったのに、その中心である神との関係が断たれることによってそこから追放され、すべての祝福を失うことになってしまうのです。

 

であれば、なぜ神はわざわざこのような木を園の中央に置かれたのでしょうか。この木から取って食べるということがわかっていたのならば、最初から置かない方が良かったのではないでしょうか。そうではありません。神は人をロボットとして造られたのではなく、自由意志を持つ者として造られました。心から神に信頼して生きるようにと造られたのです。ですから、この善悪を知る知識の木は、神によって造られた人間が神に信頼して生きるために備えられたのであり、その善悪を知る木から取って食べることは、神以外の何ものも信頼すべきではないことを示すためのものだったのです。また、この善悪を知る知識の木は、そのような中で、人間が創造者のみこころに忠実に従うかどうかをためすためのものだったのです。このような木の存在を通して、人間がより成長し、道徳的にも円熟していくことを、神は願っておられたのです。

 

10節から14節までをご覧ください。このエデンの園の中央にはいのちの木があっただけでなく、この園を潤すために四つの川が流れていました。第一の川の名前はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金がありました。第二の川の名前はギホンで、それはクシュの全土を巡って流れます。第三の川の名前はティグリスで、それはアシュルの東を流れます。第四の川はユーフラテス川です。この川は人にいのちと潤いを与える川です。預言者エゼキエルは、その水の中にいる魚は生き生きとし、そのほとりに生えている果樹は、新しい実を結び続けます、と言っています。(エゼキエル47:1-12)それは、世の終わりに現われる天の御国の描写でした。黙示録22章1節には、神によってもたらされる新しい天と新しい地の真ん中に神と小羊との御座があり、都の大通りの中央を流れていた、とあります。それはいのちの水の川で、その川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができました。また、その木の葉は諸国の民をいやした、とあります。(黙示録22:1-2)

 

したがって、ここに書かれているエデンの園は、人間が生きるための最適な場所であり、神は終わりの時に罪によって堕落したこの世界を再び新しくしてくださるということの象徴としての神の啓示でもあったのです。

 

Ⅲ.結婚の奥義(18-25)

 

最後に18節から25節までをご覧ください。

「その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」

 

ここには、1章27節の「神は人ご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」という御言葉の詳しい説明が記されてあります。神は天地万物をお造りになられたとき、造られたすべてのものをご覧になられ、「それは非常に良かった」(1:31)と仰せになられましたが、どこを見ても人(アダム)にふさわしい助け手はいませんでした。神の霊が与えられた人間と交わることができるものは、ほかにいなかったのです。人格をもった者は、他に人格をもった者と交わりをもたずにはいられません。もちろん、神が造られたものは、みな彼を楽しませてくれましたが、彼の助け手として、彼と真に交われるものはありませんでした。

 

そこで神は、「人が、ひとりでいるのは良くない。」と仰せになられ、彼のためにふさわしい助け手を造ろうとされたのです。この「ふさわしい」とはどういう意味でしょうか。それはただ単に「孤独」や「多忙」を補うという意味での「ふさわしい」存在というのではなく、人間の使命を達成するにあたりかけがいのない必要な相手としてふさわしいということであり、肉体的にも、精神的にも、霊的にも一つになれるという点でふさわしい助け手であったのです。単に孤独や寂しさを補うだけの助け手であれば他の男でも良かったわけですが、男では満たすことのできない存在、つまり女が必要だったのです。

 

それでは、なぜ神は人間を最初から男と女に造らなかったのでしょうか。神はまず男を造り、その後で女を造られました。それは男と女の結合(結婚)は、本来ふたりの男女の結合なのではなく、もともとひとりであったふたりの男女がそのもとの姿にかえることだからです。男と女というふたつの人格が一個の人格として歩むことなのです。

 

アダムは、神が造られたあらゆる動物に名前を付ける特権が与えられました。彼が生き物につける名はみな、そのとおりとなりました。いったい何のために彼は動物に名前をつけたのでしょうか。それは単に名前をつけたということ以上に、その動物たちの性質を見たということです。何のために?自分にふさわしい助け手はどのようなものなのかを考えさせたのでしょう。しかし、彼はふさわしい助け手は見つけることができませんでした。

 

それで神はどうされましたか?神はかれに深い眠りを下されたので、彼は眠りました。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれました。これはどういうことでしょうか。神は妻となるべき女を造られた時、夫となるべき男にまさる者としては造られなかったということです。男から、そのあばら骨を取って造られました。それはアダムと同質の存在であるということ、またアダムをもとにして造られたということです。決して男の頭から作りませんでした。また神は夫が妻を踏みつけるようにと、足元からも作られませんでした。妻は夫の助け手となるべく男のあばら骨から(わき)造られたのです。妻は夫の良き友、愛すべき者、保護すべき者、夫を助ける者として、夫のわきから造られたのです。したがって、夫は妻を愛し、妻は夫に従うのは自然です。本来そのように創られたからです。

 

女が造られたことで、いよいよアダムの結婚生活が始まろうとしていました。神である主によって導かれ、自分の前に現われた女性を見た時、アダムの心はどんなに興奮したことでしょう。それは23節を見るとわかります。

「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

これはアダムの心にあった率直な表現です。「私の骨からの骨、私の肉からの肉。」すごい表現です。自分の肉親でさえこのようには言えません。まさにアダムにとってエバはこのように言える存在であり、これが結婚の原点であると言えます。アダムは彼女を「女」と名づけました。男から取られたからです。女とはこのような意味で男から取られたもの、妻は夫から取られたものなのです。ここに結婚の奥義があります。それゆえ、結婚は、神が計画し、神が成立させてくれるものです。アダムとエバはすべてを神にゆだね、神に従ったことで、結果としてこのような喜びと感謝に満たされたのです。

 

「それゆえ男はその父母から離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」これは神が啓示された結婚観です。結婚とは何でしょうか。それは父母を離れ、妻と結び合い、ふたりが一体となることです。

 

この「父母から離れ」とは、父母から独立することを意味しています。男も女も両親から独立しなければ結婚することはできません。しかし、独立するとはもう両親とは関係を持たないとか、親の言うことを聞かないということではありません。あるいは、親の面倒を見ないということでもないのです。それはまず精神的に独立することを意味しています。親に依存したままでは結婚しても、それでは結婚したとは言えません。自分が主体的にひとりで物事を考えることができて初めて結婚が成り立つのです。

 

また、「妻と結び合い」とは、霊的、精神的、肉体的に一つとなることを意味しています。この「結び合い」ということばはとても強い言葉で「糊付けすること」を表しています。糊付けしたものを剥がそうとするとどうなるでしょうか。ビリビリに敗れてしまいます。それほど強く結びついているからです。ここでも同じように、夫と妻の結び合いは、切り離すことのできないほど強力なものなのです。

 

離婚の第一の理由で最も多いのは「性格の違い」です。しかし、性格が一致するわけがありません。もしこれが結婚の条件であれば、その条件がなくなったときに結婚は破綻してしまうことになります。しかし、夫と妻の結び付というものはそのようなものによって破られてしまうものでありません。どんなことがあっても切り離されないほどの強い結び付なのです。ですから、結婚にとって最も重要なことは、神への献身であるということです。結婚の相手がどんな人であろうとも、それは神が自分のところに導いてくださった相手であると認め、どんなことがあっても神に従うという神への献身が求められるのです。

 

そして、もう一つ、ここには「二人は一体となる」です。英語では”one flesh”、「一つの肉となる」と訳されています。つまり、夫婦は一つの体になるのですが、その体にはそれぞれの人格があります。神が唯一であられるのに父、子、聖霊がおられるように、夫婦も結婚においてふたりが一人になるのでする

 

このように、結婚は神が制定された幸福な制度です。だから罪が入ってくるまでは、人間において結婚のみが正常な男女の営みであって、いわゆるホモセクチャルなどの在り方はこの教えから逸脱していると言えます。それは罪が入ってきたことによって混乱した人類の状態の一つなのです。

 

このように、神が定めた結婚の結果、ふたりはどのようになったでしょうか。ここには、「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。ここで意味していることは、彼らは互いに隠すものが何一つなかったと言うことです。神の前に出ても、そしてお互いの間にも、隠し立てすることが何もなかったのです。私たちの結婚においても、すべてを透明にして相手に自分のことを正直に打ち明かす透明な関係を築いていきたいと思います。

創世記1章

 きょうからご一緒に創世記を学んでいきましょう。「創世記」というタイトルは、「始まり」という意味です。創世記は神以外のすべての始まりについて私たちに知らせてくれます。つまり、天地万物の始まり(1:1-25)、人の始まり(1:26-2:25)、人類の罪の始まり(3:1-7)、神の救いの始まり(3:8-24)、家族の始まり(4:1-15)、文明の始まり(4:16-9:29)、世界の諸国民と言語の始まり(11-12)、イスラエル民族の始まり(12-50)についてです。
 それでは、早速、聖書の第1ページから開いていきましょう。

 Ⅰ.天地万物の始まり(1-31)

 まず1~5節をご覧ください。
「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」

あなたは、この天地がどのようにして始まったのかを考えたことがありますか。いくら考えても答えが出ないので、いつしか考えることすらしなくなったという人も少なくないかと思います。宇宙と人間の起源が、水、火、土、空気、原始、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと唱える進化論を、全く疑うことなく受け入れるようになってしまいました。しかし、本当に宇宙はそうしたものから進化してきたのでしょうか。もしそうであるなら、次の質問にどのように答えるのでしょうか。
①もしも、宇宙が「何か」から始まったのだとしたら、その「何か」はいったいどこから来たのでしょうか。
②もしそであるなら、物質の中から、人間のような感情や愛情といったものが生まれてくるでしょうか。
③もしも、進化論が事実であるとすれば、すべては偶然であり、私たちの人生や宇宙には何の意味もないことになります。
進化論は、一つの仮説にすぎず、すでに証明された事実ではありません。ではいったいこの宇宙はどのようにして始まったのでしょうか。

1-2節を見ると、「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」とあります。宇宙の初めは何もありませんでした。ただ神だけが存在し、神がこの天と地を創造されたのです。このことから、真の神とはどのような方であるかがわかります。それは永遠から永遠まで存在しておられ、この天と地を造られた創造主であられるということです。人間の手で造られたものは神ではありません。神は創造者であって、無から有を創造することができる方なのです。

その神が最初に造られたものは何でしょうか。3節には、神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」とあります。この光とは何の光のことでしょうか。というのは、14~16節の第四日の創造の記録に、太陽や月、そして星々が造られた、とあるからです。ですから、ここでいう光は、そのような星を光源とする物理的な光ではないことがわかります。それでは、この光とは何なのかと問われても、正直な話わかりません。いろいろな説明がなされています。それは「時間的な秩序だ」という人がいれば、それは「エネルギーのことだ」という人もいます。「太陽の光だが地球に到達するまでには時間がかかるのだ」という人もいます。「いのちの光だ」という人もいます。また、「神の御業を白日のもとにさらす光だ」という人もいます。どれもなるほどとは思いますが、聖書的な根拠に曖昧さが残ります。結局、この光が何であるかは分かりません。おそらくそれは太陽の光でも、人造の光でもなく、私たちの心の闇を照らす光のことでしょう。あるいは、そうした光のすべての源といってもいいかもしれません。私たちには、太陽の光や人造の光をもってしても照らすことができない闇があります。そのような闇に神が「光あれ」と仰せられたのです。この神の言葉が、闇の中に光をもたらしました。この光に照らされて歩む人はどんなに幸いなことでしょうか。

次に6~8節までをご覧ください。
「神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。」

神が第二日目に創造されたものは何でしょうか。それは「大空」です。神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別されました。これはどういうことかというと、水と水の間に空間が出来たということです。空の下に水があるだけではなく、空の上にも水がありました。もしかしたら、地球のオゾン層のように、地球のまわりに水の層があったのかもしれません。現在はその層は存在していません。なぜなら、ノアの時代にその水が地上に降ったからです。こうして、ただ光があるところから、空が造り出されました。

三日目には造られたものは何でしょうか。9~13節をご覧ください。
「神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第三日。」
神が三日目に造られたのは、海と地です。神は、水しかなかったところを海と陸とに分け、陸地に植物を生えさせました。ここに、「種を生じる草」とか、「種のある実」とあります。これは、植物に自己繁殖する能力を備えられたということです。また、「おのおのその種類にしたがって」とあります。植物はおのおのその種類にしたがって造られました。ひとつの種から、別の種に進化するということはありません。植物がなぜか魚になって、魚がいつのまにか陸に這い上がって、それがわにのような爬虫類となり、それが巡り巡って猿になり、猿が進化して人間になった、ということはないのです。植物や動物は、おのおのその種類にしたがって造られたのです。

四日目に造られたものは何でしょうか。14~19節をご覧ください。
「神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第四日。」

四日目に造られたのは太陽と月と星です。神は二つの大きな光る物を造られました。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さい方の光ものには夜をつかさどらせました。また星を造られました。神は第一日日に「光」を創造されましたが、その光が集められて保持しておく物として、こうした星を造られたのでしょう。

この大田原市は、環境省が行う「星空継続観察」において、過去に4度日本一に輝きました。自宅から見る星空は回りが明るすぎてそれほどきれいには見えませんが、車で20分ほど離れた「ふれあいの丘」から見る夜空は、恵まれた自然環境のもとでとてもきれいに見えます。しかし、「ふれあいの丘」まで行かなくとも、夜空に輝く星を見てどれほど感動したことでしょうか。それは単に夜空がきれいだからということではなく、果てしない宇宙の広がりを思うとき、神の創造の偉大さを感じるからです。ヨブ記26:7には、「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。」とあります。何もそれは地球だけでなく、すべての星に言えることです。その星の数は何と、一つの銀河に数千億個もあると言われています。その銀河が数千億個もあるわけですから、宇宙には「数千億個×数千億個」の星が存在しているのです。まさに海の砂のようです。それだけの数の星が何もない空間に掛けられているということを考えると、宇宙の広がりに圧倒されます。このような宇宙が存在していることを思うとき、そこには神が存在しているとしか言いようがありません。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)のです。

第五日目に造られたものは何でしょうか?20~23節までをご覧ください。
「神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」夕があり、朝があった。第五日。」

第五日目に造られたものは、魚類と鳥類でした。神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造されました。

第六日目はどうでしょうか。24~31節をご覧ください。
「神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」

第六日目に造られたのは何でしょうか。第六日目に造られたのは家畜や、はうもの、野の獣です。そして、人を造られました。神は六日間で天と地と、その中の生き物のすべてを創造されました。

このように見てくると、神の創造の御業に、何か特徴があることにお気づきでしょうか。そうです、神はその種類にしたがって、すべての生き物を創造されました。したがって、宇宙と人間の起源は、水、火、土、空気、原始、アメーバのようなものから始まったのではなく、神がその種類にしたがって創造されたのです。そして、その神の創造の目的は何だったのでしょうか。それは人間です。なぜなら、神は人を最初に造られたのではなく、すべてのものを造られた後で最後に造られたからです。もし最初に造られたとしたらどうでしょうか。生きていくことができなかったでしょう。しかし、神は人がちゃんと生きていくことができるように、人に必要なすべてのものを事前に備えてくださったのです。それはちょうど赤ちゃんが産まれる時に親が生まれてくる赤ちゃんが生命を維持していくために必要なすべての環境を整えるようなものです。神にとって人はそれだけ重要な、創造の目的なり、中心だったのです。

 Ⅱ.神のかたちに造られた人(26-27)

 では、神はどのように人を造られたのでしょうか。26節と27節をご覧ください。ここには、「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあります。

 神は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せになられました。「われわれのかたち」とはどういうことでしょうか。神は霊ですから(ヨハネ4:24)、神はわれわれのように目や鼻や耳を、手や足といった肉体をもっておられるということではありません。神のかたちとは、神の性質や特徴のことを指しています。その特徴とは何でしょうか。それは「霊」です。神はわれわれが神と交わることができるように、霊を持つものとして造ってくださいました。これは他の動物には無いものです。人だけが神と交わることができるように、霊を与えてくださいました。これが人格の最も中心にあるもので、われわれはこの霊をもって神を慕い求め、神に祈り、神と交わるのです。これはいわば手を合わせる部分と言ってもいいでしょう。どうして人は手を合わせるのでしょうか。それが創造主なる真の神であるかどうかは別として、人はすべて、どの時代の人でも、何らかを神として拝むように造られたからです。

 娘がまだ小さいころ、青森の三内丸山遺跡を見学に行ったことがあります。三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡ですが、その集落の真ん中に櫓(やぐら)が組まれてありました。「いったい何のために櫓が組まれたのか」と思いガイドさんの説明を聞いていたら、それは神を祭るためであったというのです。ずっと昔の日本人も、その生活の中心は神を祭ることだったということを知った時、それは当然と言えば当然だと思いました。なぜなら、人はそのように創られたからです。人は単に肉体と精神を持っているだけでなく、その中心に霊魂を持つものとして造られ、この霊魂を通して神を仰ぎ、神と交わるように造られたのです。

 よく東京の超高層ビルの屋上に鳥居があるのを見ます。現代の建築の技術を結集してつくられた超高層ビルなのに、なぜその屋上に鳥居があるのか。それは、どんなに建築技術が進歩しても、それだけでは解決できないものがあるからです。それは人知を超えた神の存在です。人の思いを超えた神の守りがあるようにという祈りから置かれているのではないでしょうか。それは、人がそのようなものとして造られているからです。世界中のどの民族でも、またどの時代でも、みな神を恐れ、神を敬い、神に祈って生きてきました。木や石で作られたものを神として拝む気持ちもわかります。それは罪によって真の神がわからないために、自分で神を作って拝んでいるからです。しかし、それもまたわれわれが神のかたちに造られているということの証明でもあります。人は、造り主である神に向かい、神と交わり、神のいのちに満たされてこそ、真の幸福を味わうことができるのであって、それが満たされるまでは、どんなに物質的に満たされていても、真の満足を得ることはできないのです。

 Ⅲ.神の栄光と喜びのため(31)

 では、神はいったい何のために人を造られたのでしょうか。言い換えると、人はいったい何のために生きているのでしょうか。皆さんは考えたことがありますか。皆さんはいったい何のために生きているのでしょうか。この聖書の箇所にはそのことについて二つのことが教えられています。

 第一のことは、支配するためです。28節をご覧ください。
「神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
 神は人をご自身のかたちに創造すると、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われました。神はこの地上のすべての生き物を支配するようにと、人を創造されました。詩篇8:5-6には、このことを別の表現で次のように言及されています。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」
 これが神のかたちに造られた人類に対する神の命令です。人間は神の代理者として、被造物を管理するようにという使命がゆだねられたのです。それは、人は神に信頼された者であるということです。だから、人には考える力、この世界を形作る能力が与えられたのです。また、文化を創造することもできます。人は特別な被造物なのです。そして、特別な使命がゆだねられたのです。

 第二のことは、これが人の造られた主な目的ですが、それは、造り主である神を喜び、永遠に神をほめたたえることです。31節には、神はお造りになったすべてのものをご覧になられたとき、「それは非常に良かった」と言われました。「なぜこんなものを造ってしまったんだろう」と悲しみませんでした。「非常に良かった」と言って、喜んでくださったのです。それは言い換えると、われわれ人間は、このように喜んでくださる神のために生き、存在しているということです。もし、私たちが何のために生きているのかがわからなかったらどうでしょうか。人生はほんとうに空しいものになってしまいます。何のために生きているかがわからなければ、生きる力や喜びは生まれてこないのです。

 ある中学校の女子生徒が、担任の教師の所に行ってこう質問しました。「先生。私たちはいったい何のために勉強するのでしょうか。」この生徒は勉強していてもその意味がわからず、空しい思いを抱いて先生に質問したのです。しかし、その教師の答えはこうでした。「バカ!そんなことを考える暇があったら勉強しなさい!」でも、何のために勉強しているのかがわからなかったら、どこからその力が出てくるでしょう。どこからも出てきません。いったい何のために生きているのか、何のために勉強しているのかがわかって、初めて力が生まれてきます。人生の目的を知っているということは、私たちの人生にとって最も大切なことなのです。今、若い青少年が、人生の意味がわからなくて悩んでいます。その結果ひきこりや、不登校といった社会問題が起こっています。彼らにとって最も大切なことはどうしたらひきこもりから解放されるかということではなく、何のために生きているのか、その意味を知ることです。そのことがわかったらどれほど生きる喜びと希望、力が与えられることでしょう。

 あなたは何のために生きていますか?多くの人は「生きるために生きている」とか、「食うために生きている」というようなピントがズレたような答えをします。それだけこの問いに対して答えを持っている人は少ないのです。しかし、聖書はその問に対して明快な答えを与えてくれます。それは、神のためです。神の栄光のためです。永遠に神を喜ぶためです。なぜなら、人は神のかたちに創られたからです。このことがわかったら、私たちの人生がどんなに意味あるものとなるでしょう。

 ところで、神の栄光のために生きるとはどういうことでしょうか。それは神のために何か特別なことをすることではありません。神の喜びのために生きるとは、神に造られた者として神の御前に、神を信じて生きるということです。そうすれば、きっと神が自分に与えられた賜物を見い出すことでしょう。その賜物を用いて、心から神に仕えて生きることです。

 神はお造りになられたすべての者をご覧になられたとき、「非常に良かった」と言われました。神はあなたをご覧になられた時、何と言わるでしょう。「非常に良かった」と言って喜んでくださるような、そんな人生を歩ませていただきましょう。それこそ、私たちが造られた目的なのですから。

創世記18章

 聖書には、アブラハムは「神の友」と呼ばれています。(ヤコブ2:23,イザヤ41:8)それは、彼のある一つの行動を通してそう呼ばれるようになったというよりも、彼の生涯がまさにそのような歩みだったからです。しかし、このところには、彼がそのような光栄ある名が与えられるにふさわしい人物であったことがよく表されています。 

 1.旅人をもてなしたアブラハム(1-8) 

 まず1節から8節までをご覧ください。ある日、主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れてくださいました。彼は日の暑いころ、天幕の入り口にすわっていました。近東では、日中の暑さはものすごく、卵が焼けるほど暑いと言われています。そのような時に人々のたいていは家の中で休み、外で働くことはしません。アブラハムも天幕の入り口にすわり、休んでいました。そこに三人の人がやってきたのです。暑さのためただボーとしていたアブラハムは、何も考えることもなく地面に目をやったのでしょう。そして目を上げたとき、そこに三人の人が彼に向かって立っていました。そのときアブラハムはどのような行動を取ったでしょうか?2節には、「彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした」とあります。ここにアブラハムの信仰が生活の中に深く浸透していたことを見ることができます。旅人をもてなすことは神が命じておられることであり、神の民の義務でした(ヘブル13:2)。この当時は、今日のように旅館やホテルがあったわけではなく、こうした旅人をもてなすことが神の民の義務として、最高の徳であったわけです。まあホテルや旅館があるなしにかかわらず、こうやって人々をもてなすこと自体しもべのようになることですから、今日においてもとても大切な徳であると言えます。しかも素性のわからない人をもてなしたわけですから、それはただ信仰によってのみできたと言えるでしょう。3節の「ご主人」ということばは、下の欄外を見ると「主よ」となっていて、この時アブラハムがこの客を主なる神であるとわかっていたかのような印象がありますが、実際にはこの言葉は、「主人」とか「主」など、一般の客に対して使う丁寧な呼び方なので、必ずしも彼が神として認識していたわけではないことがわかります。ですから、アブラハムがここで三人の旅人をもてなしたのは、普通の旅人に対してごく自然にした行為だったのです。そして彼は、自分のもっている最上のものをもって、彼らをもてなしました。 

 2.主に不可能なことがあろうか(9-15) 

 次に9節から15節までをご覧ください。するとその旅人はアブラハムに尋ねました。「あなたの妻サラはどこにいるか」と。「天幕にいます」と告げると、その中のひとりが、こう言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのとこに戻ってきますが、そのとき、サラには、男の子ができている」と。

サラはそれを天幕のうしろの方で聞いていましたが、それを聞いていて、心の中で笑いました。なぜなら、彼女には普通の女にあることが止まっていたからです。もう子供を産めるような体ではなかったのです。だから、そんなことあり得ないと思ったのです。

すると主が、「サラはなぜ「私はほんとうに子を産めるだろうか。こんな年をとっているのに」と言って笑うのか」と告げました。主にとって不可能なことはありません。そして、主は続けてこう言われました。「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」 するとサラは恐ろしくなったのか、「いいえ、笑いませんでした」と言って打ち消しました。 

 この13,14節の「主」は太字の主になっています。これは父なる神「ヤーウェー」のことです。ヘブル語では「יהוה (YHWH)」と書きますが、ユダヤ人たちは、神の御名を発音することを恐れ、「יהוה (YHWH)」という御名が出て来ると、それを「アドナイ」と読み替えました。アドナイとは、「我が主」という意味です。新改訳聖書で太字の「主」と、普通の「主」を使い分けています。太字の「主」はこのエホバなる主のことであり、太字でない「主」が出て来た場合は「יהוה (YHWH)」ではなく、普通名詞の「主」です。新約聖書に出てくる主はほとんどがイエスのことです。しかし旧約聖書からの引用箇所にある主はやはりエホバのことを指し示しています。エホバはイエスの父にあたります。そして、イエスは神の子です。ですから、両者とも「主」なのです。それはイエスが言われた、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)のことばからもわかります。ですから、これは人の子として生まれる前に、人として現れてくださったイエスご自身だったのです。 

その主イエスにとって不可能なことは一つもありません。これまでアブラハムに与えられた約束が実現していなかったのはそれが全く不可能なことだったからではなく、彼らの信仰の訓練のためだったのです。神には神の時があって、その時が満ちるとき、それが実現するのです。神にとって不可能なことは一つもないのです。神は人間には不可能に見えることでも可能にすることができる全能の神なのです。あなたはこのことを信じていますか。これが私たちの信仰です。ここで全能の主が人の姿をとって来られたというのも、このことを教えるためだったに違いありません。 

 3.とりなしの祈り手アブラハム(16-33) 

 最後に、16節から終わりまでを見ていきましょう。主はアブラハムにみこころを示し、これからソドムに対してなそうとしておられることを明らかにされました。それはソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重いため、彼らを滅ぼすということでした。するとアブラハムはどうしたでしょうか?23節からのところです。彼は驚き、かつ心配し、とりなしの祈りをしました。とりなしとは、その人に代わって祈ることです。ソドムとゴモラの滅びをわがことのように嘆き、神の怒りからソドムとゴモラを救おうとしたのです。なぜアブラハムはこんなに必死にとりなしたのでしょうか。それは、そこに甥のロトがいたからです。 

 アブラハムはどのようにとりなしたでしょうか。彼は大胆に祈りました。23節を見ると、「アブラハムは近づいて申し上げた」とあります。罪に汚れた人間が、聖く、正しい神に近づくなど考えられないことです。しかし、神とともに歩み、神の友と呼ばれたアブラハムは、大胆にも神に近づき、率直の自分の思いを打ち明けたのです。 

 第二に、彼は熱心に、忍耐強く祈りました。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか」と、もしそこに50人の正しい人がいたら、もしそこに50人に5人足りない45人がいたらと、最後には10人がいたら・・・と、忍耐強く祈っています。イエスは「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを教えるために、あるしつこいやもめのたとえを話されました。(ルカ18章)神様が望んでおられるのは、私たちがあきらめないで、失望しないでいのることです。そうした祈りを聞いて、最後にはそれをかなえてくださるのです。 

 第三に、彼は謙遜に祈りました。27節を見ると、「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」とあります。また、30,32節を見ると、「主よ。どうかお怒りにならないでください」と言っています。彼は謙遜に、かつ大胆に、熱心に祈ったのです。 

 神様は大きな知恵と恵みをもってこの歴史を支配し導いておられます。その神の歴史の中に、私たちは祈りによって携わることができる恵みを与えてくださいました。それがとりなしの祈りです。ヘブル7:25には、「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしておられるのです」とあります。とりなしはその人に対する愛から生まれるものです。Ⅰテモテ2:1には、「すべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」とあります。とりなしは、神のみこころなのです。私たちもこの国が滅びることがないように、アブラハムのように神の前にとりなす者でありたいと願わされます。

創世記17章

 1.アブラムからアブラハムへ(1-8)

きょうは創世記17章から学びたいと思います。1節を見ると、「アブラムが99歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。」とあります。アブラムが不信仰によって失敗した出来事から早13年が経過していました。13年前にどんな出来事があったのでしょうか?アブラハムがカナンに来てから10年後に、彼はサライの女奴隷を通して彼女の中に入り子どもを儲けてしまいました。イシュマエルです。

神は、アブラハムが75歳の時、「あなたの生まれ故郷、あなたの家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)と命じられました。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12:2)と言われました。そして、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」(創世記12:3)と約束されました。

けれども、それから10年経っても何の実現の兆しも見えない中で、アブラハムは神様を疑ってしまったのです。そしてイシュマエルをもうけてしまったのです。それはアブラハムが86歳の時でした。それから13年、アブラハムは今99歳になっていました。そのとき主はアブラムに現れて仰せられたのです。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

 いったいなぜ神はこのように言われたのでしょうか。これは15章で語られた内容と同じものです。それは、これが人間的なものではなく、神の御業によるものであり、その成就すべき時がきたことを示すためでした。それにしても、あの出来事からすでに13年が経過していました。神が最初にアブラハムを召してから実に24年が経過していました。にもかかわらず、神の約束は一向に実現しようとはしていませんでした。神は全く沈黙しておられたのです。おそらくアブラハムの中には、もうダメだろうという思いがあったと思います。そのような時に神はこのように語られたのです。それは人間的には不可能なことでも、神にとっては可能であることを示すためでした。

 ここで神は、ご自身を「全能の神」「エル・シャダイ」であると言われました。「エル・シャダイ」の「エル」はヘブル語で神、「シャダイ」は「シャダット」、つまり「破壊する」「力を持つ」という意味のことばです。神は力の神、全能の神なのです。この全能の神という御名は、たとえ自然の秩序において、神の約束が成就される見込みが全くなく、また自然の力では約束を成就されることが保証できないときでも、神は、それを成就する力をもっておられることを示しているものです。神は、この重要な局面でその約束を成就する力をもっておられることを示されたのです。

 

 しかし、神がどんな力をもった「エル・シャダイ」であっても、それを受ける人間が信じなければ意味がありません。そこで神様はアブラハムに、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と言われました。「全き者」とはどういう者のことでしょうか。これは創世記6章9節で神がノアに対して言われた言葉と同じです。ノアはその時代にあって全き人でした。それは彼が何の失敗もしない完全な人であったということではなく、神を信じ、神のことばに忠実に歩みました。彼はそのような意味で「全き人」であったのです。それと同じことがアブラハムに求められました。確かに彼は人間的には弱さがありました。失敗もしました。しかし、それでも彼の心が神様に向けられ、神のことばに信頼し、そのことばに生きることが求められたのです。つまり、信仰によって歩むようにということです。もちろん、不信仰による失敗もたくさんありました。それでも神に信頼していく。それが求められたのです。

 この契約において神は、それが確かなものであることの保証として二つのしるしを与えました。一つはアブラムとサライに新しい名前を与えたことです。そしてもう一つは割礼です。まず神様は、「あなたの名はアブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。」と仰せになられました。「アブラム」とは「高貴な父」という意味です。おそらく「高貴な族長」という意味でしょう。それが「アブラハム」と変えられました。意味は「多くの国民の父」です。よく名は体を表すとありますが、ここでアブラハムに新しい名前が与えられたということは、これまで語られたた約束(12:1-3,15:4-5)がいよいよもって実現する時がきたことを表しているものと思われます。

2.割礼を受けなさい(9-14)

 そんなアブラハムに対して、神はその契約が確かなものであることを示すために、そのしるしとして割礼を受けるようにと命じられました。それは彼だけでなく、彼に与えられた契約に預かるすべての子孫においても同じです。つまり神はこの契約のもとで、人々が肉体にしるしをつけることを望まれたのです。この「割礼」とは、男性の生殖器からその包皮の一部を切り取る儀式です。このような行為は早くからエチオピアやアラビヤなどで行われていましたが、それらは衛生を目的としたものでした。しかしここで命じられた割礼とは衛生を目的としたことではなくあくまでも宗教的な儀式でした。実際には衛生面もかねていたと思われますが、それが第一義的な目的ではなく、神の選民であるすべてのユダヤ人が、神の契約が代々にわたって続いていることを、思い出させるためだったのです。

 この契約がのちにイエス・キリストの贖いによって成就したとき不要なものとなりました。それはあくまでも神の選民であることの外的なしるしであって、神の恵を思い出させるためだったので、大切なのはそうした外的なしるしではなく、心に割礼を受けることでした。パウロはそれをこう言っています。「割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)しかし、ユダヤ人はあくまでもこの割礼にこだわり、割礼を受けていないものは救われないと説いたので、パウロとバルナバはそのことについてユダヤ主義的クリスチャンたちと戦わなければなりませんでした。救いのしるしとしての割礼ではなく、大切なのは心の割礼だということを受け入れることはほんとうに大変なことだったかと思いますが、それが神様のみこころだったのです。私たちも霊的にいつも柔軟でないと、こうした神様のみこころを理解できなくなって、自分の信仰に陥ってしまいます。大切なのは、神のみこころは何なのか、何が神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えることなのです。

 ところで、イスラエルは生まれて八日目に割礼を受けさせましたが、それは本人の信仰というよりは親の信仰告白に基づくものでした。それは両親の信仰告白でもあったのです。これが新約時代における幼児洗礼を授ける根拠にもなりました。私たちは幼児洗礼を否定します。信仰は親の信仰告白に基づくものではなく、あくまでも本人の信仰告白に基づくものだからです。しかし、この両親の信仰告白というのは重要です。それは両親の祈りとも言えるでしょう。そういう意味では幼児洗礼を授けるまでしなくとも、その子がやがて自分で信仰を告白することができるように育てていくという責任がゆだねられていることを覚え、そのように両親の神への信仰としてしっかりと信仰に歩めるように育てていかなければなりません。両親の信仰と祈りがその子の信仰に大きな影響をもたらすことは確かなことだと思います。

 3.サライからサラへ(15-21)

 さて、15節からのところには、サライもまた改名を命じられたことがしるされてあります。「サライ」は「サラ」と呼ばれるようになりました。「サライ」という名前は「わたしの女王」という意味ですが、それが「サラ」、女王になるのです。それは、国々の民の母となるからです。「わたし」に限定されないすべての国々の女王になるという意味です。

 しかし、17節を見ると、この時アブラハムは笑い、心の中で、「百歳の者に子どもが生まれようか。また、九十歳の女が子どもを産むことができようか」と言ったとあります。信仰の父ともあろう彼がいったいなぜこのようなことを言ったのでしょうか。それはアブラハムが不信仰であったからというよりも、それが彼の持っていた信仰の限界であったということでしょう。しかし、選ばれた者を最後まで忍耐し鍛錬される神は、そうした彼をやさしく取り扱い、彼らの考えを正しく正されました。ここには神のやさしさが感じられます。どんなに信仰の父と呼ばれるような者でも、所詮人間であることには変わりありません。しかし、そうした中にあっても神は私たちの手を取って助け、導かれる方なのです。そうした私たちに求められていることは、限界の中にあっても神に従うということです。

 23節を見ると、アブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取ったすべての者に割礼を授けました。なかなか信じることができないという人間の弱さがあっても、彼は神に従ったのです。それが彼の義とみなされたのです。信仰と不信仰のはざまにあってもためらうことなく神のみことばに従うこと、それが、神が喜ばれる全き者の姿なのです。全き者というのは、このように神のみことばに従順な者のことなのです。それが神のあふれんばかりの祝福を得られる秘訣なのです。

 私たちもなかなか神のことばを信じることのできない弱さがありますが、その中にあってもただ神が語られることに従順に従う者でありたいと思います。それがアブラハム、サラの信仰に歩む者の姿であり、神が求めておられる全き者の姿なのです。

創世記16章

今日は、創世記16章から学びたいと思います。

1.不信仰による失敗(1-3)

前回は、アブラハムの信仰について学びました。アブラハムは老年になって、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まるどころかますます強くなり、神には約束されたことを成就する力があると信じました。主が彼を外に連れ出して天の星を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われたとき、アブラムはその神の言葉を信じました。それゆえに神は、それを彼の義とみなしてくださったのです。ところが、きょうのところにはそれほどの信仰をもっていたアブラハムが不信仰に陥ったことが記されてあります。まず、1~4節前半のところをご覧ください。

「アブラハムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が小どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。」

ここでサラはアブラハムに、女奴隷ハガルのところに入るようにと言っています。なぜでしょうか?彼女は、主が自分には子どもを産むことができないと考え、だったら自分の女奴隷によって子をもうけようとしたのです。彼女は神のことばに信頼してその御業を待ち望むというより、人間的な方法によって子どもを得ようとしました。一方、アブラハムはどうだったでしょうか。彼はサラがそのように言うのを聞いて、あったさりとそれを受け入れました。なぜでしょうか?3節には、「アブラムがカナンに住んでから10年後に・・・」とあります。彼もまた神が約束してくださったことが実現しないのを見て、自分たちで何とかしなければならないと思ったのです。

しかし、それは大きな間違いでした。神は私たちの助けを必要とされる方ではないからです。私たちにとって必要なことは、ただ黙って神を待ち望むことです。しかし、神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐なのです(ヘブル10:36)。

2.不信仰の結果(4-6)

さて、その結果どんなことが起こったでしょうか。4b~6節までのところをご覧ください。

「彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。」

アブラムがハガルの所に入ったので、彼女はみごもりました。すると彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになりました。そこでサライはアブラムに言います。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」つまり、彼らが不信仰に陥った結果、彼らの関係に亀裂が生じたのです。アブラハムとサライは、ハガルから子孫をつくることは良い考えだと思っていたでしょう。けれども、どんなに優れた考えでも、それが神のみこころでなければ、そこには混乱や争いが生じます。私たちの生活の中で、そのようなプレッシャーを感じている部分はないでしょうか。それは多くの場合、肉の行いが原因で起こります。ですから、神に心を尽くしてより頼む事が最善なのです。箴言には、「心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)とあります。

3.女主人のもとにかえりなさい(7-12)

ところで、女主人のもとから去ったハガイはどうなったでしょうか?7~9節をご覧ください。

「7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

神様は人生の裏街道を歩いている者をも、決して見過ごされる方ではありません。ハガルは主人の家から、実に理不尽なやり方で追い出され、ひとり寂しく生まれ故郷のエジプトに向かっていました。そこは荒野で、途中にオアシスがあり、泉がわき出ていましたた。ハガルはそこで旅路の疲れをいやそうと腰をおろすと、そこに主の使いが現れて、こう言いました。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」なぜなら、彼女はサライの女奴隷だからです。これは、彼女がどのような者であり、どこから来たのか、どこに行くのかを告げている言葉です。彼女はサライの女奴隷であって、彼女のもとに戻り、身を低くして仕えることが彼女に与えられていた使命であり、彼女にとって最も幸福な道だったのです。

それにしても、なぜ主はそのようにハガイに言われたのでしょうか?それは、どんな理由があるにせよそのように主人を見下げることは主のみこころではなかったからです。確かに問題はアブラムとサライにありました。彼らが神のことばを疑って人間的になってしまったことがすべての間違いの原因です。しかし、だからといって奴隷の立場であったハガルが自分の立場を忘れ愚かにも女主人を見下げるということは、奴隷としてあってはならないことでした。彼女はどんなことがあってもりっぱに行動すべきだったのにそれができませんでした。だから悔い改め、女主人サライのもとに戻って、彼女のもとで身を低くし、その手に自分の身をゆだねるように、と言われたのです。

そればかりではありません。主はそんなハガルを見捨てることをせず、彼女を顧みてくださる方だからです。10~12節をご覧ください。

「10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

ここで主は彼女の子孫を数え切れないほどに増やしてくださると約束してくださいました。胎の実は神からの報酬であると信じられていた時代にあって、この約束はどれほど大きな慰めであったことかわかりません。そればかりではありません。そして、その名を「イシュマエル」と名づけるようにと言われました。意味は、「神は受け入れられる」です。人が彼女を見捨てても、神は見捨てる方ではありません。神はどこまでも受け入れてくださいます。

しかし、神はこのイシュマエルについて、次のようなことも言われました。「彼は野生のろばのようになり、その手は、すべての人の手も、彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵対して住むようになる」どういうことでしょうか?「野生のろば」は、荒々しい性質を表しています。彼はすべての人に逆らい、敵対して住むというのです。なぜ神がこのようなことを預言されたのかはわかりませんが、おそらく、ハガルによって生まれてくる子がサラによって生まれてくる子供と本質的に違っていることを示したかったのでしょう。すなわち、サラの子どもが神の約束のこどもであったのに対して、ハガルの子どもそうではないということです。

このイサクとイシュマエルの対比は、パウロがガラテヤ人への手紙4章28~31節までのところで論じられています。すなわち、イシュマエルが女奴隷の子どもであり肉の子どもであったのに対して、イサクは約束の子どもであったということです。つまりハガルの子どもは肉の子どもであったのに対して、サラの子どもは御霊によって生まれた子どもだったということです。すなわちハガルは肉的な誕生しかしていない人の象徴であるのに対して、イサクはイエス・キリストの十字架の贖いによって新しく生まれた人を現していたのです。

このイシュマエルはアラブ民族の祖先となりました。イシュマエルの子孫は、歴史を通じて他の民族に、とくにイスラエル民族に敵対して生きてきたことを思うと、この預言が確かなものであったことがわかります。しかし、これは単にアラブ民族に対する預言というよりも、イエス・キリストを信じないすべての人のことを指し示しているのであり、イエス・キリストを信じない肉のままの人は、霊的な意味でこのアラブの系統にある人なのです。それは逆に、たとえアラブの人であってもイエス・キリストを信じて約束の子どもとされた人は、みなイサクの子どもになるのです。

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼びました。エル・ロイとは、神は見ておられるという意味です。ベエル・ラハイ・ロイは、生きて見ておられるお方の井戸、という意味です。彼女は苦しみの中で、神が自分を見ておられることを知りました。また、神が自分の叫びを聞き入れてくださるのも知ったのです。私たちが苦しみを持っているとき、だれも自分を省みてくれない、神でさえも省みられないと思ってしまうことがありますが、神は私たちに聞き入り、その苦しみをご覧になっておられるのです。

 

創世記15章

1.神様の約束(1-5)

1節を見ると、「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちに亜プラムに臨み・・・」とあります。「これらの出来事」とは何でしょうか。そのすぐ前の章には、アブラハムが諸王を破って帰還して後、ソドムの王がこの世の財宝を差し出しましたが、アブラハムはそれを拒んだという内容が記されてありました。その出来事の後でということです。その時に神様が語られたのは、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きい。」ということでした。これは神様が、ご自分が恵み深い方として彼を守り、彼に報いを与えという約束です。ソドムの王が提示した物質的な財宝を拒んだアブラハムに、神様が慰めを与えてくださったのでしょう。

これに対してアブラハムは何と答えたでしょうか?彼は恵み深い神様の語りかけに対して、「神、主よ。私に何を私にお与えくださるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマス子のエリエゼルになるのでしょうか。」(2)と言いました。まさに打てば響くとはこのことです。アブラハムは「あなたの受ける報いは大きい」と言われた主の約束に対して、「じゃ、何を与えてくださるのですか」と答えたのです。ここに神様の報いに期待していた彼の信仰が読み取れます。そして、彼が最も心配していたことは、彼の跡取りに関することでした。ですから、彼はすぐにこう言ったのです。「私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」12章3節、13章15~16節で語られた神の約束が全く実現する雰囲気が感じられず、絶望の中にいたのです。アブラハムもサラも年をとっていて、もう新しいいのちを生み出す力がなくなっていました。ですから、ダマスコのエリエゼルを養子にしてでも、その子孫をと考えざるをえなかったのです。

すると主は言われました。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出る者が、あなたの跡を継がなければならない。」えっ、ウソでしょう。人間的に考えたら、普通の常識で考えたなら無理です。なぜ?その時期はもうとっくにすぎていたからです。ローマ4章19節には、「自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても」とあります。もう胎は「死んでいた」のです。ですから、これからいのちを生み出すなどということは全く考えられない状態でした。にもかかわらず神は、「ただ」、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」と言われたのです。

そして神は、アブラハムを外に連れ出して言われました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

あなたの子孫はこのようになる、とビジュアル的に示してくださいました。これほどわかりやすいことはありません。「ああ、こうなるのか」とアブラハムは思ったでしょう。でも、現実的に考えると、それは全く不可能なことでした。

2.神の約束を信じたアブラハム(6)

それに対して、アブラハムはどのように応答したでしょうか。6節をご覧ください。ここには、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。どういうことでしょうか?彼は、自分のからだは死んだも同然だけれども、神にはできないことはないと信じたのです。すなわち、自分のからだのことや人間的な考えで判断することをやめ、天地万物を創造された全能の神様を、イエス・キリストを死者の中から復活させることのできる全能の神様を信じたのです。そして、その力がこどもを宿す力である以上、神様の約束は必ず実現すると信じたのです。

このような信仰を持つことが重要です。なぜなら、このような神への信仰が私たちの心を満たされる時、その人は真の自由を得るからです。そこには全く限界はありません。この神様がどんなことでもしてくださるという喜びが溢れます。反対に人間的になって限界もうけるとむると、心配が募り、顔色が悪くなってしまいます。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とあります。私たちは、私たちの力や思いではなく、すべてをこの神様にゆだねなければなりません。死人をよみがえらせることができる方は、どんなことでもすることができるお方だからです。そうでしょ。もし、今、皆さんに心配や悩みがあるなら、この全能の神に信頼してください。信仰とはそういうことなのです。すなわち、「望み得ない時に望みを抱いて信じ」(ローマ4:18)、「死者を生かし、無から有を呼び出される神(ローマ4:17)と信じることです。アブラハムは復活の力をもっておられる神様を待ち望み、いのちの源でいます神が、自由にいのちを与えられる方であるということを信じたのです。信仰とは、神が神でいますこと、人間は人間でしかないことを、そののまま認めることなのです。神様は、神様であられるがゆえに、人の思いをはるかに越えたことをなされるのです。

この6節のみことばは、聖書の中で最も重要な聖句の一つです。新約聖書には、この聖句を引用して、アブラハムの信仰について教えている箇所が三箇所あります。(ローマ4:3,ガラテヤ3:6,ヤコブ2:23)聖書において、人が義と認められる方法は、旧約、新約を通してただ一つだけです。それは、「信仰による」ということです。信仰以外にはありません。

ダビデも信仰によって義と認められる人の幸いについて語っています。(詩篇32:1,2、ローマ4:7,8)ハバククも「義人はその信仰によって生きる」ことを語っています。(ハバクク2:4,ローマ1:17,ガラテヤ3:11,ヘブル10:38) パウロも徹頭徹尾、この教理に貫かれていました。 聖書のどこを見ても、人間の功績が救いにあずかる力とはなり得ないことを教えています。たとえ人間が難行・苦行をしても、どんなに信仰心が深くでも、どんなにあわれみ深く慈善事業を行ったとしても、信仰によらなければ義と認められることはできません。それははアブラハムが信じていなかったときのように、死んだからだのようで、何の役にも立たないのです。その心が新しく生まれ変わらなければならないのです。それは人間によるのではなく、神によらなければならないのです。アブラハムが自分のからだは死んでいても、神にはどんなことでもできると信じて新しく生まれ変わったように、聖霊によって、新しく生まれかわらなければならないのです。自分の力ではどうにもならないのです。ただ神に信頼するしかないのです。このように、自分の罪に対する人間性への絶望があってのみ、初めて神への信頼が生まれてくるのです。これが神の義と認められる信仰なのです。

ついで神は土地についての約束をされました。7節と8節です。「また彼に仰せられた。・・・・カルデヤのウルから連れ出した主である。」アブラハムがカルデヤのウルから連れ出され、カナンに着いた時、神は「この地を与える」(12:7)と約束されました。あれから何年になるでしょうか。約束を与えたままで、それがなかなか実現しない現実に、アブラハムもどれだけまだるっこい思いが拭えなかったかと思います。彼は、その確証を求めていました。それで、「神、主よ。それが私の所有であることを、どうやって知ることができるでしょうか。」と問うているのです。

3.神様の約束(9-21)

すると、神は言われました。9節と10節をご覧ください。「すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし鳥は切り裂かなかった。」

これは契約を結ぶ時のセレモニーです。真っ二つに切り裂かれた動物を互いに向かい合わせ、契約を交わした両者がその間を通ることによって、契約が締結されました(エレミヤ34:18)。鳥が切り裂かれなかったのは、小さかったからでしょう。犠牲の家畜を二つに裂き、血を流し、それを両側に一つずつおき、その間を契約した両者が通るということは、その「間」を埋めることであり、二つのものを一つにすることを表していました。そうやって契約が結ばれたのです。これは、神が私たち人間と契約を結ばれた時と同じです。神はそのひとり子イエス・キリストを十字架で引き裂かれ、血を流されることによって、埋めてくださいましたるそれで神と私たちの契約を成し遂げてくださったのです。

17節には、「煙の立つかまど」と「燃えているたいまつ」が、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎたとあります。これは神の臨在の象徴です。神の跡にアブラハムが通ったというのは、この契約が神様の全くの恵みによるものであることを表しています。人間はそのために何もせず、努力も協力もしなかったのに、神様だけがすべてをしてくださいました。人間はその受益者にすぎません。救いは神様の一方的な賜物なのです。

11節を見ると、「猛禽がその死体の上に下りて来た」とありますが、この「猛禽」とは、アブラハムの子孫がその約束の地を受け継ぐ前に経験しなければならない試練や困難を表しています。その具体的なことは、13~16節までに記されてあることです。それはエジプトでの400年間にわたる奴隷としての生活を指しています。けれども神様は、その四代目の者たちによって再び帰ることも預言されました。これはモーセとヨシュアの時代のことです。ここにイスラエルのエジプト滞在について預言されていることは、実に驚くべきことです。本当に、神様の約束の実現までには多くの困難や苦しみがありますが、しかし、神が語られたことは必ず実現するのです。私たちはただ神様が約束してくださったことを信じて、神の御国に向かって前進していく者でありたいと思います。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なことは忍耐です。」(ヘブル10:36)

創世記14章

1.選択の結果(1-12)

前の章において、アブラハムとロトが、それぞれ自分の信仰のはかりにしたがって、山地と平地とを選択したことを見ました。きょうところには、その結果、彼らがどうなってしまったかが記録されています。北東の四人の王と死海近くにいた五人の王との間に行われた戦争によって、ソドムとゴモラの王が戦いに敗れ洞穴に逃げ込んだとき、その四人の王はソドムとゴモラの全財産と食料全部を奪って逃げて行きました。ということは、ロトも捕らえられてしまったということです。12節に「彼らはまた、アブラハムのおいのロトとその財産をも奪い去った。」とあります。ロトはソドムに住んでいたからです。主の園のようによく潤っていたこの地が、まさか戦いに敗れて敵に奪われてしまうというようなことを、いったいだれが想像することができたでしょうか。しかし、これが現実なのです。自分の欲望にしたがって肥沃な平地を選んだロトは、この戦いに巻き込まれて悲惨な事態を招くことになってしまったのです。信仰によってではなく、自分の欲望にしたがって歩む者には、このような結果が待ち受けていることを覚えておかなければなりません。

2.ロトを助けたアブラハム(13-16)

問題はその後です。13-16節までをご覧ください。そのことがアブラハムのもとに知らされると、アブラハムはどのような行動を取ったでしょうか?「フン、いい気味だ。欲望によって選択したからそうなったんだ」と言ったでしょうか。アブラハムはその知らせを聞くと、彼の家で生まれた318人のしもべを召集して、ダンまで追跡し、彼らと戦って打ち破り、すべての財産を取り戻しました。いったいなぜアブラハムはそのような行動をとったのでしょうか?もしかしたら自分の家族が巻き込まれて大きな損害を受けるかもしれません。にもかかわらず彼は追跡して、彼らと戦ったのです。14節には、「アブラハムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き・・・」とあります。一度は別れたものの、ロトと親類関係にあったアブラハムは、ロトと無関係ではありえませんでした。ただ兄弟に対する愛のゆえに、ロトを助けようとして、追いかけて行ったのです。

本当の信仰とは、人を独立させはしても、決して他人のことに無頓着ではありません。ほかの人が困苦にあえいでいる時に、どうして知らぬふりをしていられるでしょうか。自分だけがよければいいという思いは信仰から出た思いではありません。

ルカ10:30~37のところでイエス様は、良きサマリヤ人のたとえを話されました。ある人がエルサレムから絵里子に下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取って、殴りつけ、半殺しにして逃げていきました。そこへ祭司が、レビ人が通りかかりましたが、彼らは見て、見ぬふりをして通りすぎて行きました。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中で通りかかったのです。彼はどうしたかというと、かわいそうに思って、オリーブ油を注いで、ほうたいをして、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してあげました。この三人の中で、だれがこの人の隣人になったでしょうか?このサマリヤ人です。するとイエス様は言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」と。あなたの隣人をあなた自身のように愛することを、実行しなさいというのです。 これが信仰者の態度です。もちろん、救われるためにするのではありません。救われた者として、神様のみこころに歩む者は、このような歩みは当然のことなのです。それを実行しなさいと言われたのです。

アブラハムは、この神様のみこころに従っただけです。アブラハムは兄弟への愛をあらわし、ついには勝利をはくしたのです。

3.シャレムの王メルキデゼク(17-24)

さて、18節を見ると、そのようにして勝利したアブラハムを迎えたのは、シャレムの王メルキデゼクでした。彼はいと高き神の祭司でもありました。彼はアブラハムを祝福して言ったのです。

「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」

いったいこれはどういうことなのでしょうか?このシャレムの王メルキデゼクについては、ヘブル5-7章に言及されていますが、7:3にしるしてあるように、彼がどこの出なのか、どのような人なのかについては明らかではありませんが、彼がイエス・キリストの型であることは間違いありません。そのメルキデゼクがアブラハムを祝福したとき、アブラハムは彼に自分のすべての持ち物の中からその十分の一をささげたのです。これが十分の一献金の起源です。アブラハムは創造主なる神からの祝福を受けたとき、彼はその全ての持ち物が神から与えられたものであることを認めて、その十分の一をささげました。すなわち、十分の一献金とは何かというと、私たちに与えられたすべてのものは神様のものであって、神様からの祝福であるということを認め、その一部を神様にお返しする信仰の表明なのです。すなわち、これはアブラハムの神への礼拝だったのです。ですから、ここにこのメルキデゼクがいと高き神の祭司であり、「パンとぶどう酒を持ってきた」とあるのです。神からの祝福をいただき、神への信仰を十分の一献金という形で表したのです。

それにしても、なぜここにメルキデゼクが登場し、このような礼拝をささげる必要があったのでしょうか?それは続く21節にあるソドムの王とのやりとりをみるとわかります。ここにはソドムの王が現れて、アブラハムに、「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」とあります。どういうことでしょうか?これは、「財産はあんたにやるから」ということでしょう。すなわち、自分が財産をアブラハムにやったので、アブラハムは富む者となったというのです。そのときアブラハムは何と言ったでしょうか。22,23節には、彼が、糸一本でも取らないと言いました。それは、アブラハムを富ませたのは私だとソドムの王に言わせないためです。すなわち、アブラハムはこの世の力によって支配されることを恐れたのです。彼にとって神様だけで十分でした。神様がおられれば、神様が祝福してくだいます。人間的にいろいろな小細工をしなくても、最終的に神様が祝福し、神様が責任を持って下さる。その信仰の表れだったのです。

そのような信仰に立つためには、神様を見上げなければなりません。それがシャレムの王メルキデゼクを通しての礼拝だったのです。このところをよく見ると、このシャレムの王メルキデゼクが表れたのは、17節で、ソドムの王がアブラハムを迎えに出て来たときでした。そのような外敵を打ち破ったときこそより深刻な内的な戦いがあることがわかります。それがこうした物質的な誘惑だったのです。そうした誘惑に勝利するために必要だったのは何でしょうか?そうです。神礼拝だったのです。礼拝を通して自分がどのような者であり、自分がよって立っているのは何なのかを確信して、自分を神様にささげること、それが必要だったのです。アブラハムの信仰は、そうした神礼拝に支えられていたのです。

考えてみると、彼がいたところにはいつも主のための祭壇があり、彼はいつも主の御名によって祈りました。(12:7,13:4,13:18)アブラハムの信仰は、そうした神礼拝によって支えられていたのです。ここに私たちの信仰の原点があります。それは、私たちは礼拝から始めていかなければならないということです。私たちが礼拝をささげるとき、神様が私たちの人生を守り、導いてくださいます。そうでないと本質を見失って失敗してしまうということです。礼拝が私たちの信仰生活の生命線なのです。アブラハムはそのことを知っていました。ですから、そうした物質的な誘惑が襲ってきたとき、彼はまず神様を礼拝し、自分をささげ、自分の持っているものをささげて、自分が何によって生きているのかを確認したのです。それが十分の一献金だったのです。

それは私たちも同じです。私たちもいつも神への礼拝を通して、神様がすべてであり、神様だけで十分であること、神様がともにおられるならば、神様が祝福してくださり、その必要のすべてを満たしてくださるということを確信しながら生きていかなければなりません。そうでないと、私たちもまたこの世の流れにながされて、いつも揺り動かされながら生きることになってしまうのです。人生の節目節目に、日々の歩みの節目節目に、神様を礼拝すること、それが私たちの生きる力となり、誘惑に勝利する力となるのです。アブラハムがささげた礼拝は、まさにそのためだったのです。

創世記13章

きょうは創世記13章から学びたいと思います。タイトルは「信仰による選択」です。

1.信仰者の場所(1-7)

アブラハムは、ききんのためエジプトに下りましたが、神様のご介入によってもとの地ネゲブに戻ってきました。こここそが、神様の約束の地だったからです。彼は神様から目を離し人間的になってしまったのでエジプトに下って行きましたが、もう一度もとの場所、神様のもとに戻って来たのです。信仰は一度失敗すると、失敗した最初のところにもどって来てこそ、ようやく回復されるのです。アブラハムも彼が出た最初のところに戻ってきました。そこはどのようなところだったのでしょうか。4節を見ると、

「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の名によって祈った。」

とあります。そこには主の祭壇があり、主の名による祈りがあります。そこはかつて下って行ったエジプトのような豊かな地ではないかもしれませんが、主がともにおられるところです。そこで主を礼拝し、主の名によって祈るのです。それこそ、信仰者がいるべき所なのです。アブラハムはその場所に戻ったのです。

2.アブラハムとロトの間に起こった問題(6-7)

 

ところで、その地に戻って住んでみると、一つの問題が起こりました。それは場所が狭いという問題です。彼らの持ち物が多すぎて、いっしょに住むことができなかったのです。ですから、アブラムの家畜の牧者たちと、おいのロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こりました。

問題はいつでもささいなところから生じます。財産が少なくて喧嘩になったのではなく、多くて喧嘩になりました。現代風に言えば、遺産相続の争いをしているようなものです。相続する遺産がなければ喧嘩にもなりませんが、多いために兄弟が互いに憎しみ合うこともあります。しかも、彼らの牧者たちとの間にも争いが起こりました。いったい何が問題だったのでしょうか。もし財産が多くて喧嘩になったのであれば、ロトは財産をアブラハムにそっくりあげればよかったはずです。もともと彼の財産はアブラハムによって与えられたものなのですから・・・・。また、そのような争いが起こってもきちんと話し合えば解決できたはずです。にもかかわらず彼らは、カナン人やペリジ人が住んでいる前で醜い争いを繰り広げました。ということは、こうした争いというのは表面的なことであって、本質的な問題は別なところにあったということです。では、その本当の問題とは何だったのでしょうか?

3.信仰による選択(8-13)

8節からのところを見ると、その争いの本質的な原因が見えてくると思います。8,9節を見ると、アブラハムはロトに一つの提案をしたことがわかります。それは、自分から別れてほしいということです。そして、もし彼が右に行けば左に、左に行けば右に行くと言ったのです。なぜアブラハムはこのような提案をしたのでしょうか?おそらく彼の中にはこのような思いがあったことでしょう。テモテ第二の手紙2章24~25節です。

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しく、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」

主のしもべが争うことは、神様のみこころではありません。主のしもべはすべての人に優しく、忍耐して、反対する人たちを柔和な心で訓戒すべきです。そうした思いがあったに違いありません。ですから彼は何とかしてこの問題を解決したいと思ったのです。そしてその解決のカギは、ロトにその選択の優先権を与えるということでした。元々そのあたり一帯は、アブラハムが神様から賜った土地です。その土地をどうしようとそれは彼の自由であったはずなのです。そして、彼とて、よく潤っていた低地全体に心がひかれたことでしょう。しかし彼は自分自身の思いにまかせることをせず、まずロトに好きな土地を選ばせ、自分は残りの土地を受けることにしたのです。どうしてでしょうか。詩篇16篇6節をご覧ください。

「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」

一般には測りなわがどこに落ちるかが大きな問題のようですが、しかし、信仰によるならばそうではありません。どこに落ちるかではなく、だれが落とすのか、投げるのかです。神様が投げられるのであれば、そこがどのような地であっても、好ましいところとなるのです。アブラハムはそのような信仰を持っていたのです。つまり彼は、神様に信頼したのです。

それに対してロトはどうだったでしょうか。彼はアブラハムのようではありませんてでした。彼が低地全体を見渡すとそこが主の園のようにどこも潤っていたので、その地を選び取りました。彼は、自分が欲するところを手に入れようとしたのです。自分の選択を神様にまかせることをしませんでした。なぜでしょうか?信仰に生きていなかったからです。これが問題の本質です。問題は財産が多いか少ないかということではなく、どこを見て生きていたのかということだったのです。アブラハムは神を見て神に信頼して生きていたのに対して、ロトは自分の欲に従い自分の思い、自分の考えを基準に生きていました。これが問題だったのです。

何年か前に、当時聖書宣教会の教師であった内田先生を迎えて修養会を行いましたが、その時、教会に起こる問題の根底には救いの問題があると言われました。イエス様を信じて救われているようでも、本当の意味で救われていないと、問題は解決できないと言われたのです。もし教会にいる人がみな救われ御霊によって生きていたら、たとえ問題が起こっても御霊によって解決できるはずです。しかし、実際にそのようにならないのは、本当の意味で神に従いたいと思っていないからです。まだ自分が中心になっているからです。すなわち、肉の思いが御霊の思いを妨げているのです。それが問題の根底にあるのです。

まさにロトの問題はここにあったのです。そして、問題の根底にこのような要因があると解決するのが非常に困難ですが、アブラハムはそれを見事に乗り越えました。どのようにしたのでしょうか。彼は主の前にへりくだり、自分に執着することを捨てたのです。謙遜になってロトにその選択の優先権を与えのでした。これこそ、私たちが求めていかなければならない態度です。自分を捨て、主にすべてをゆだねるのです。そうすれば、主が最善に導いてくださいます。

4.神の祝福(14-18)

さて、ロトとアブラハムは別れて、それぞれどうなったでしょうか?ロトについては後にこのソドムとゴモラが滅ぼされることになっていくことがわかります。自分の欲に従い自分の思いで人間的に判断した彼は、神のさばきを受けなければなりませんでした。一方のアブラハムはどうなったかというと、14節からのところにあるように、神様の祝福を受けました。この地を全部アブラハムとその子孫に与えると約束してくださったのです。そればかりではありません。彼の子孫を地のちりのようにならせると言われました。このとき、彼にはまだ子どもがありませんでした。そのアブラハムに、地のちりのように子孫を与えるというのは、本当に大きな慰めです。

そこでアブラハムは天幕を移し、ヘブロンの樫の木のそばに来て住み、そこに主のための祭壇を築きました。どこにいても、神が祝福してくださるところが最善です。ですから、アブラハムはどこにいても、神のために祭壇を築き、そこで主の名によって祈ったのです。

それにしてもアブラハムは、どうしてこのような信仰に生きることができたのでしょうか?12章の後半を見る限り、そこには信仰の「し」の字もないかのような彼の生き様が描かれていたのですが、ここにはあの信仰の人アブラハムが復活したかのようです。おそらく彼は、あのエジプトでの失敗から学んだのではないでしょうか。信仰者とて完全な人はいません。ですから、時には失敗して痛い目に遭うこともありますが、大切なのはそこから学ぶことです。彼は、どんな時でも神に信頼することを学びました。ですから、この問題も信仰によって乗り越えることができたのです。私たちの信仰生活にもいろいろな問題が起こりますが、そうした問題が問題なのではなく、私たちがどこを見てむ歩むか、誰とともに歩むのかが重要です。神とともに歩むなら、そこが山地のでこぼこしたような所であっても祝福となりますが、自分の思いや考えによって生きようとするなら、絶えず問題にさいなまれるばかりか、結果的に近視眼的な判断をしてしまうことになるのまです。ですから私たちは、いつでも、どんなときでも、神のみこころを求め、この神のみこころに歩む者でありたいと思います。

創世記12章

きょうは創世記12章から学びます。

1.アブラハムの召命(1-9)

まず1節から9節までをご覧ください。1節には、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」とあります。11章31節を見ると、これはアブラハムが父テラとハランの孫のロトといっしょにカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからハランまでやって来て、そこに住み着いた時に語られたかのように記されてありますが、実際はそうではありません。使徒の働き7章2-3節をみると、そこに「アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミヤにいたとき、」に栄光の神が彼に現れて、この命令を与えたと記されてとあります。ですからこれは、カルデヤのウルにいた時にすでに与えられていた命令だったのです。ですから、注解者の中には、アブラハムがこのような命令を受けたときすぐに父や甥から離れなかったことを非難する人がいるのですが、そうではありません。アブラムはカルデヤのウルで召命をうけたとき、その時期をずっと待っていたのです。そして兄弟ハランがウルで死に、父テラもハランの地で死んだとき、彼は信仰によって歩むべき時がやってきたことを悟ったのです。物事には時期があります。信仰、信仰と、信仰だからいつでもいいかというとそうではなく、その信仰によって歩み出すべき契機となる出来事があるのです。アブラムにとってテラの死は、まさにその一つの大きな出来事であったに違いありません。

ところで、この命令の内容は「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」というものでした。いったいなぜ彼は父の家を出る必要があったのでしょうか?それは父の家が偶像礼拝の盛んなところだったからです。そのことは前回もみましたが、ヨシュア24章2節をみるとわかります。そこには、テラはほかの神々に仕えていたということばからもわかります。そこがたとえ長年住み慣れた国、長年つきあってきた気心の知れた人たちであっても、そうした偶像礼拝の盛んなカルデヤのウルやハランの地から離れ、神様が示す地に行かなければならなかったのです。それが神様のみこころだったのです。

次に2節と3節をご覧ください。ここには、「それすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福とな。あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」とあります。

ここには3つの祝福が約束されています。第一に、あなたを大いなる国民とするということです。この「国民」とはKing James Versionでは「Nation」と訳されています。民族、国、国民全体のことです。つまり、彼を通して一つの国民が造られるという約束です。考えてみてください。このとき妻サライは不妊の女(11:30)でした。それにもかかわらず、彼を「大いなる国民とする」というのです。それは本当に驚きと同時に、大きな慰めだったのではないでしょうか。

第二の祝福は、アブラハムを祝福し彼を祝福の基とするということでした。「アブラハムを祝福する者を祝福し、のろう者をのろう」とあります。つまり、彼を通して他の人も祝福の恩恵を受けるようになるということです。

そしてもう一つの約束は、彼に与えられた約束の中でも最も素晴らしい約束ですが、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」というものです。これはどういう意味でしょうか?これはこの地上に救いをもたらす方を、彼の子孫から送られるというものだからです。最初の人アダムが罪に陥ったとき、神様はそのサタンの力を打ち破る救いをもたらす方を送ると約束されましたが、それが何とアブラハムの子孫から生まれるというのです。地上のすべての人は、アブラムから出る一人の子孫によって救われるようになるというのです。もちろん、この約束には私たちも含まれています。

さて、アブラムがそのような召しを受けたとき、彼はどのように応答したでしょうか?4節と5節をご覧ください。「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」とあります。この時彼は75歳という高齢でした。一般的に考えればもうゆっくり暮らしたいという年なのではないでしょうか。今よりも全体的に寿命が長かったとはいえ、それでも75歳という年は高齢でありました。にもかかわらず彼は、主がお告げになったとおりに出かけて行きました。しかもおいのロトと、彼らが得たすべての財産、ハランで加えられた人々を伴ってです。それがどのくらいの量であったかを前に調べたことがありましたが、かなりの量でした。そういったものを携えて彼は、カナンに向かって旅立って行ったのです。なぜでしょうか?なぜ彼は出かけて行くことができたのでしょうか?ヘブル11章8~10節には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しをうけたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」とあります。

それは「信仰によって」でありました。それは単なる気まぐれや冒険心からではありませんでした。アブラムは神を信じていたので、出て行くことにしたのです。彼は裕福で名声もありました。その彼が今、旅をし、テント生活をしなければならないのです。こうしたさまざまな不便な生活や社会からの圧力があったにもかかわらず、アブラムは神を信じていたので、彼のすべて、家族や所有物そして名声まで神にゆだねて、神に従ったのです。

これが信仰者の生き方の基本にあるものです。彼は、神様からそのように告げられたので、そのとおりに出かけて行くのです。そしてこの時点ではまだどこに行くのかも曖昧でした。にもかかわらずそうやって従うことができたのは、彼が神にのみ望みを置いていたからなのです。

聖書全体の真ん中はどの章だかわかりますか。詩篇118篇です。その前が全部で594章、後が594章です。この数字をたすと全部で1188です。そして、聖書全体の真ん中の節はどこかというと、詩篇118:8です。信じられないですが本当です。こんなことを調べている学者がいるんですね。ところでその詩篇118篇8節にはこうあります。

「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。」

アブラハムはまさに主に身を避けた人、主のみことばに信頼した人なのです。だから神のみことばに従って出て行くことができたのです。

そうしたアブラムの信仰は、彼が約束の地に入ってからも見られます。6節から9節までをご覧ください。

「6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。7 そのころ、がアブラムに現れ、そして、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。
8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼はのため、そこに祭壇を築き、の御名によって祈った。9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。」

アブラムは神様が示してくださったカナンの地に着くと、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈りました。どういうことでしょうか?6節には、アブラムがカナンに入って行ったとき、そこにはすでにカナン人たちがいました。このカナン人たちはどこから来たのでしょうか。そう、あのハムの子カナンの子孫です。彼らはバベルの塔の出来事以来散らされてその一部がここに住み着くようになっていたのです。そこにアブラムたちが渡り鳥のようにやって来たわけです。そこにしっかりと居を構えていた先住民族カナン人に対して、彼らはよそ者であり、天幕に住むような実に弱い存在でしかありませんでした。しかし、そこが、神が示してくださった地であり、彼らが住むべき土地だったのです。そんな彼らの生活を支えたのは実にこの神でした。彼らにとっての頼りといえば、ただ神の約束だけだったのです。だから彼らはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。もし彼らが出てきたところのことを考えたなら、帰る機会はいくらでもあったでしょう。その方が楽に暮らすことができたはずです。けれども彼らは、もっと良い、天の故郷を仰ぎ見ていたので、この地上ではたとえ旅人であったとしても、それに堪え忍び、神が仰せになられたことを淡々と行って行ったのです。彼は、天に用意された神の都を望んでいたので、神が示された地に安んじることができたのです。そこに祭壇を築いて礼拝し、自分が生かされている目的、自分たちに与えられている使命、そういったものをいつも確認しながら、そのように導いてくださった主に感謝して祈ったのです。

これが信仰の原点です。信仰はその人が、その置かれてある状況がどうのこうのではなく、どんな状況にあってもこの主を覚え、主に祈り、主に信頼して生きようとすることです。人に信頼するのではなく、神に信頼するのです。しかし、どちらかというと私たちはすぐに回りの状況に心が奪われてしまいます。ですからそこに祭壇を築いて主を礼拝し、主に祈り、自分たちの置かれている場所をたえず確認していかなければならない。それが礼拝であり、祈祷会なのだと思います。私たちも日々の生活の中に祈りの祭壇を築き、この神によって生かされていることを覚えながら、神を中心としていつも歩む者でありたいと思います。

2.信仰の試練(10)

アブラハムは、いよいよ神様が約束してくださったカナンの地に着きました。そこで彼は主のために祭壇を築き、主の名によって祈りました。まさに「信仰によって」歩んだ彼の姿が描き出されています。しかし、そんなアブラハムも完全な人間ではありませんでした。さまざまな試練の中で苦しむことも多かったのです。その一つの試練が、ここにある内容です。

アブラハムに与えられた最初の試練は何だったでしょうか。それは「ききん」の問題でした。いわば生活問題です。10節を見ると、ここに「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。」とあります。神から与えられたこの試練こそ、彼の信仰の試験にほかなりませんでした。何も問題がなければいいのですが、私たちの信仰生活はそういうわけにはいきません。なぜなら、神様はその試練を通して私たちの信仰を成熟させようとしておられるからです。サタンは倒して、殺すために私たちを試みますが、神様はそうではありません。神様は倒すためではなく、建て上げるために試練をお与えになるのです。このような試練に耐え、その中で神様に従い、神様のみこころをよく知るために、このような機会を与えておられるのです。ですから、大切なのはこのような試練があることではなく、このような試練にどのように対処するかということです。アブラハムは、この試練にどのように対処したでしょうか?

11~13節をご覧ください。「 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

何と彼はエジプトに下って行き、そこに入ろうとする時、妻のサライに、自分の妹だと言ってくれと頼みました。そうすれば、サラのゆえにアブラハムもよくしてもらい、生き延びることができるから・・・と。ここにはアブラハムの信仰の陰さえ見られません。人間的、肉的な考え方が頭をもたげてきたのです。それは、妻の美貌に対する危惧の念であり、そのことにより起こるであろう自分の身の危険に、人間的な小細工をすることによって、当座の処置をしようと考えたのです。つまり愛すべき妻の貞節を犠牲にしてまで、自己の身の安全を計ろうとしたのです。

いったいなぜアブラハムはこのようなことをたのでしょうか?確かに生活の不安は大きかったと思います。ききんで明日からどうやって食べて行ったらよいのかわからない時、人はだれもみな不安を抱えると思います。今回の地震や津波、原発の事故で非難して来られた人を訪問して、那須町の体育館に行って話しを聞きましたが、やはり一番不安なのはこの先どうなるかということでした。家も、仕事もなくなって、これから先どうやって生活していったらいいのか。ちゃんと保障してもらいたいということでした。

アメリカの心理学者でアブラハム・マズローという人が欲求段階説を唱えましたが、それによると、こうした衣食住の欲求は、人が生きていくために必要な根源的な欲求なのです。これが脅かされるというのは、相当の不安が生じるのは確かです。しかし、アブラハムの失敗の原因はどこにあったのかというと、そうした生活上の不安が生じたことではなく、神様から目が離れてしまったことです。

かつて弟子たちだけでガリラヤ湖を舟で渡っていたとき、向かい風に悩まされて、なかなか前に進めないでいたときイエス様が湖の上を歩いて近寄られたことがありました。そして、ペテロに「舟を出て、水の上を歩いて来なさい。」と言われました。するとペテロは湖の上を歩き出したのです。しかし、風を見て怖くなり、沈みかけたので、イエス様が手を伸ばして助けました。そのときイエス様が言われたことはこうでした。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのだ。」(マタイ14:31)同じように、アブラハムも神様から目を離してしまったのです。

神様がアブラハムに願っておられたことはどんなことだったのでしょうか?それは彼が神様に示された地にとどまっていることでした。そこがどのような地であろうとも、またそこでどんなことが起ころうとも、そこに留まっているべきだったのです。その彼がついに生活難に耐えかねて、約束の地をみすみす捨て、エジプトへと下って行ってしまった。それが彼の失敗の原因だったのです。マタイ6章にあるように、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかについて心配するのではなく、そのようなものは神様が与えてくださると信じて、神の国とその義とを第一に求めることが彼に必要なことだったのです。

ここでちょっと注意したいことは、困難があるかないかが道の正、不正を示すものではないということです。しばしば正しい道、神に服従する道に最も大きな困難が横たわっている場合があるのです。神の約束されたカナンの地にも、強力な力を持ったカナン人がおり、こうしたききんが起こってきたのです。

3.約束を守られる神(14-20)

アブラハムがエジプトに下って行った結果、どういうことが起こったでしょうか?エジプト人はサライの非常に美しいのを見て彼女をパロに推奨したので、彼女は宮廷に召しかかえられることになりました。そして彼女のゆえにパロはアブラムによくしてやり、彼は羊の群れ、牛の群れ、ろばやらくだ、それら男女の奴隷を所有するようになりました。しかし、それはアブラハムが行ったことが正しかったということではありません。それはただ神のあわれみであり、神が彼らを守ってくださったからなのです。主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけると事の真相が明らかにされ、パロはアブラムとサラをエジプトから去らせました。いったいなぜ神様はパロに、こんなひどい災害で痛めつけられたのでしょうか。それは、神がアブラハムと交わされた約束を守るためです。神様はアブラムに、あなたによって、地上のすべての民族は祝福されると約束されました。アブラハムの子孫から多くの子孫が出て、その子孫から救い主が出るという約束です。この神様の約束が成就されるためには、神様の特別な選びが必要であり、ただアブラハムの子であるだけでは不十分だったのです。どのような女の胎から生まれるかが重要だったのです。それはサラの胎でした。神様が選ばれた胎は、不妊の女と言われていた彼女の胎を通して実現されるものでした。彼女もまた神様から選ばれた胎だったのです。にもかかわらず、もし彼女がエジプトに召し入れられ、そこでパロのそばめとして仕えるようになったとしたら、あの神様の約束が無効になってしまう危険があったのです。アブラハムはこの聖なる神様の約束が成就されるはずだったサラの胎を、自分の身の保全のために犠牲に供しようとしたのです。神様はそれを拒まれた。もしこの時、神様が御手を伸ばし事態に干渉されなかったら、あるいはアブラハムはいつまでも愛すべきサラをパロの宮廷においたなら、確かにそれで多くの財産を得、安易な生活にとどまることができたかもしれませんが、それ以上に重要な祝福を失うことになってしまう危険に直面していたのです。 しかし、たとえ人が不真実であっても、神の真実はいつまでも変わりません。神様はご自分が約束されたことを忠実に保護し、履行されるのです。すなわち神様はパロとその家とに疫病を送られて、悩まされたので、ついに事の真相が明らかにされ、パロは驚いてアブラムとサラをエジプトからさらせたのです。

私たちにもアブラハムのような試練に会うことがありますが、その時には神のみこころを求めて祈り、そのみこころに従うことによって、勝利していかなければなりません。イエス様もその宣教のはじめに悪魔の試みを受けられました。四十日四十夜断食して祈っていたとき、悪魔がやって来て、「この石がパンになるように命じなさい」と言って誘惑してきたのです。神のみこころを忘れさせ、曲がった道を求めるように誘惑してきたのです。そのための道具が「パン」でした。私たちの信仰生活にも、こうしたききんがやってくることがあります。その誘惑に勝利する力は、ただ神から与えられる力です。イエス様が一人荒野に出て神様と交わり、祈ることによってその力を求められたように、私たちも人生の荒野の中で神様の前に出て祈り、神の力を求めなければなりません。その神様との交わりの中で、神様のみこころを知り、それに従っていく力が与えられるようにと祈らなければならないのです。アブラハムが失敗に陥ったのは、それがなかったからでしょう。生活の中に祭壇が取り除かれ、主の名によって祈ることもなくなってしまった。それが一番大きな問題でした。私たちはこのアブラハムの失敗を通して、できるだけそのような失敗に陥ることがないように、いつも神様の御声を聞き、その神様のみこころから離れることがないように祈っていく者でありたいと思います。

創世記11章

きょうは、「バベルの塔」から一緒に学んでいきたいと思います。1節を見ると、「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。」あります。それがヘブル語であったのか、アラム語であったのかわかりませんが、全地は一つのことば、一つの話ことばしかありませんでした。このようにことばが一つであったということは、なによりも精神生活が一つであったということです。たとえ彼らの中に堕落している者たちがいたとしても、同じことばで、自分の思いと考えを伝えることができたわけです。

1.シヌアルの地に(1-2)

ところが、それが変わり始める出来事が起こります。2節をご覧ください。「そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。このシヌアルの地というのは、10章8~10節にしるされてある世の権力者ニムロデの国にありました。ニムロデとは、ハムの子クシュの子どもです。クシュとはエチオピアのことですから、彼らの多くはエジプトへと移住した民族のことですが、このニムロデは違いました。彼は、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住したのです。これはどこかというと、バビロンのことです。その平野に定住したということは、彼らはそこに安心の根拠を得ようとしたからでしょう。ノアの箱舟以来、人々が拠り所としていたのは神のことばであったはずなのに、いつしか彼らはその神のことばではなく、そうした地理的優位さを安心の拠り所にするようになっていたのです。ですから、彼らは互いに次のように言ったのです。3~4節です。

2.名をあげようとした人たち(3-4)

「彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにレンガを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らはこう言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

瀝青とはアスファルトのことです。彼らは石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いるようになりました。アスファルトを用いたり、塔を造ったりすること自体は問題ではありませんが、彼らはそれによって自分たちの名をあげようとしました。それが問題でした。人間はこうしたアスファルトのようなものを発見し用いたりすると、自分たちの手のわざを誇るようになり、もう神にでもなったかのように高ぶってしまうのです。「天にまで届く塔」とは、そういう意味でしょう。彼らは公然と神を無視し、神に対抗しようとしました。彼らは愚かにも自分たちの力、自分たちの手で、神のさばきを防げるとさえ思ったのです。

神がアダムとエバに、そして、ノアに与えた命令とはどんなことだったでしょうか。創世記1章28節、9章1-2には、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地にあるすべてのものを支配せよ。」ということでした。神様は、人間が一箇所に集まって満足することだけを願っておられませんでした。神様は、そのように集まって互いに励まし合い、力をいただいたなら、今度はその人たちが地を満たすために出て行くことを願っておられたのです。神様は、彼らが一箇所に凝り固まって住んだら、すぐに神様とそのみこころを忘れてしまうということを知っておられたのです。案の定、彼らはこのシヌアルの地に定住し、そこで次々に文明の力を発見し、生活が便利になってきますと、いつしか自分たちの力を誇るようなってしまったのです。しかし、神様のみこころは何かというと、地を満たすことです。散らされることです。もし、福音を満たすために出て行こうとしないと、神様は別の方法でそのように導かれます。あの使徒の働きを見てください。神様のみこころは、エルサレムからユダヤ、サマリヤ、および地の果てまで主の証人になることでした。しかし、彼らはなかなか出ていこうとしませんでした。人はそこにとどまっていた方が安定感がありますから、わざわざ冒険してまで出て行こうとはしないのです。その結果、どんなことが起こったでしょうか。神様は迫害を与えました。なかなか重い腰をあげなかった彼らが、そうせずにはいられないように迫害を与えて散らされたのです。ピリポはサマリヤに、別の人たちはアンテオケまで進んでいきました。そして、そのアンテオケからパウロとバルナバが全世界に遣わされて行ったのです。

3年半前に東日本大地震で原発事故が起こりました。なぜあのような悲惨な出来事が起こったのでしょうか。わかりません。しかし、一つだけ言えることは、そのことによって散らされた人たちがキリストの証人として、遣わされたところで証するためではなかったのではないでしょうか。この時もシヌアルの平地で、アスファルトまで作って、れんがも作って、文明がどんどん発達し、生活も安定していく中で、人々はその中にとどまろう、とどまろうという傾向があったに違いありません。それ自体は問題ではないのですが、そのように内側に、内側にと凝り固まっていくうちに、彼らの考え方や思いも凝り固まってそこから出られなくなってしまっただけでなく、いつしか彼らは自分たちの手のわざを誇るようになり、神様を無視し、自らが神になったかのように高ぶっていたのです。それが問題でした。

3.ことばを混乱させた神(5-7)

すると神様はどうされたでしょうか?5-7節です。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

バビロンの町と塔が、彼らの思惑通りに進捗していたとき、神は行動を開始されました。神はどんなことでも決して見逃される方ではありません。まさにそのとき、人間が建てた町と塔をご覧になられるために降りて来られました。それはこれまでのことを神様が知らなかったということではなく、それまでのすべてのことをご存知であられましたが、神の時が来るまで、待っておられたということです。

町はその面積を増し、塔はその高さを加えつつあり、人々が会心の笑みをもって眺めていたまさにそのとき、突如として神が仰せられました。彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

一致団結するということは、人が何かをする場合とても大切なことですが、その団結が間違ったことのために用いられるとしたそれもまた悲惨なことです。彼らが一つの民、一つのことばで、精神生活が一つであったということはすばらしいことでしたが、それを用いて、神に反逆するとしたら、それほどひどいことはありません。ですから、神はそれができないように立ち上がられたのです。どのように?神様は降って行かれ、彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしたのです。「悪いけど、石を取ってくれる?」「何?」「石」「何?」「石だでば・・・」「もういい。」なんだか私たち夫婦の会話のようです。ことばが通じないというのは辛いところがあります。互いの考えがかみ合わず、行動もすれ違い、その中が大混乱するのです。当然、仕事のつじつまは合わなくなりますし、しまいには怒り出す始末です。そしてついには人間関係が分裂してしまうのです。だからコミュニケーションというのは、とても大切ですね。ことばが通じ合ってもコミュニケーションがうまくいかないと、互いの信頼関係にもひびが入ってきます。神様は、彼らのことばを混乱させたので、彼らは互いにことばが通じ合わないようになってしまったのです。

4.バベル(8-9)

その結果、どうなったでしょうか。8-9節です。「 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」

彼らはその町を建てるのをやめ、そこから地の全面に散らされて行きました。それは、人間の力がどれほど偉大であっても、神様のさばきを防ぐことはできないということです。神の力はどんな人間の力よりもはるかにまさっているのです。人は事に失敗するまで、このことが本当にわからないのです。まさに霊的盲目です。いや、たとえ事に失敗しても、このことに気づく人は本当に少ないのです。たいていは、今までやっていたことを止めるだけで、そのことから本当の意味で悟ろうとはしません。人は神様によって霊のまなこを開いてもらうまでは、本当に盲目なのです。

それゆう、その町の名は「バベル」と呼ばれました。「バベル」とは、「神の門」という意味です。バビロンの人たちは、この塔を自分たちの手で天に届くように、自分たちの手で天国に行けるようにと名付けましたが、そうした人間の高慢さを見られた神は、彼らのことばを混乱させ、ヘブル語で「混乱する」という意味の「バベル」と呼ばれたのです。

このバベルの塔の話は、私たちに重要な教訓を与えてくれます。それは、人間が一つになるという問題についてです。人間は、しばしば一つにならなければならない必要に迫られます。そして一つになるために多くのことを考えます。また一つの同じ目的のもとに、同じ働きをすれば一つになれると考えますが、それは違います。それこそバベルの塔の建設にほかなりません。私たちが一つになれるのは聖霊によってであって、そうでなかったら必ず失敗するのです。人間的に一つになろうとしても、自己中心的な者たちが自分たちで一つになろうとしたら、そこには必ずほころびが生じます。しかし、キリストの十字架によって一つになっていくとき、そこに完全な一致と調和が生まれてくるのです。というのは、神が一つにされるからです。あのペンテコステの出来事はまさにそのことを物語っているのではないでしょうか。人間は、罪によって神にむ逆らい、人間関係の中に分裂が生じましたが、神様は、聖霊によってその分裂を一つにされたのです。一同が聖霊に満たされることによって、一つにされたのです。現代社会におけるイデオロギーを始めとしたあらゆる種類の対立も、聖霊によって一致する以外に真の解決の道はないのです。

5.生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

次に10節と11節をご覧ください。ここには、「 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。」とあります。

この系図を見てまず気がつくことは、5章に記されてある系図と比べてみると、5章の方にはそれぞれの人を「そして彼は死んだ」という悲しいことばで結んでいるのに対して、ここにはそのような「そして彼は死んだ」というようなことばは一切なく、「生んだ」ということばで終わっていることです。いったいこれはどういうことでしょうか?「生んだ」ということばから考えると、9章1節のところで洪水後のノアに対して神が、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と言われた神の祝福を思い出します。そうです。この「生んだ」という表現は、神の祝福を現しているわけです。そしてこれがバベルの塔の事件の後に記されてあるということは、バベルの人々が神に敵対し強制的に散らされて混乱に陥ったのと異なり、セムの子孫は、神の約束の通りに、そこには秩序があり、順調に増えていったことが現されているのです。あのバベルの時のように「頂きが天に届く塔を建て、名をあげよう」というように、神様よりも自分たちの考え、自分たちの思い、自分たちの手のわざを誇るようになると、そこには混乱が生じてまいりますが、セムの歴史に代表される信仰の道、神に従って生きる人生には、秩序と祝福が生まれるということです。

6.選ばれた者の系図(12~26)

それから14~20節までに注目してください。「シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは、三十四年生きて、ペレグを生んだ。エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セレグを生んだ。」

ここにエベルが生まれます。「エベル」という名は「ヘブル」という語の起源になっている言葉です。すなわち、ここからヘブル人が出ました。しかもこの後10章の系図にはエベルにはペレグとヨクタンという子どもが生まれたことがわかりますが、この11章の系図にはヨクタンのことは記されておらず、ペレグの子レウへとつながっているのです。これはどういうことかというと、この系図は10章の系図とは違いセムからエベル、そしてアブラハムへとつながっていく系図を示しているからなのです。すなわち、神の選びがアダムからセツ、ノア、セム、ペレグ、そしてアブラハムに次第にせばめられている様子が描かれているのです。そして12章からの神の選民の歴史がはじまるアブラハムへとつながっていくわけです。ですから、ここではそのアブラハム以前の歴史がどうであったのかを、このセムから始まる系図の中に記していたのです。そして、この系図の中に私たちもまたいます。今の時代を生きる私たちはみな、選ばれた者の系図の終わりに記録されているのです。自分が救いの歴史の中にいると確信して歩めることは何と幸いなことでしょうか。単に目に見える現象にとらわれることなく、神の国全体の視点の中で生きることができるからです。

7.テラの歴史(27~32)

最後にテラの歴史を見ていきましょう。テラと言ってもお寺の歴史ではありません。27~32節です。セツから始まった系図はエベル、ペレグと続いてテラまで続きます。ここから12章のアブラハムの生涯が始まります。そういう意味ではこれは「アブラハムの歴史」なのに、ここには「テラの歴史」という表題がつけられているのはどうしてなのでしょうか?それはこのアブラハムがテラの子どもであり、彼の家族の中から選ばれた者であるということを描こうとしていたのです。アブラハムの生涯において重要なことは彼が最初から特別な家族の中にいたのではなく、異教的なテラの家庭の中からいて、その中から選ばれた者であるということです。それはヨシュア記24章2~節を見るとわかります。テラは他の神々に仕えていたのです。確かにウルとハランは月礼拝の中心地であったと言われています。テラたちはカナンに向かって移住したはずなのにハランに住み着いてしまったというのは、この偶像礼拝と関係があったからではないでしょうか。そうした中から神様はアブラハムを選ばれたのです。そして、やがて約束の地カナンへと導かれた。それがここで言われていることです。アブラハムの信仰の出発点は、こうした異教的な家庭にあったのです。

そういう意味では、私たちもまた最初からキリスト教の環境の中にあったのではなく、アブラハムと同じように偶像に縛られた異教的な背景の中から出た者です。そんな私たちが救われたのはただ神様の一方的な恵み、神様の選びによるものでしかありません。それが信仰の出発点なのです。そのことを覚えながら、そうした虚しい偶像の中から行ける神様に立ち返るようにしてくださった神の恵みに感謝して、神の示される道を歩む者でありたいと思います。