Ⅰサムエル記27章

今日は、サムエル記第一27章から学びたいと思います。

Ⅰ.ペリシテの地に逃れたダビデ(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。「ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住んだ。ダビデも、その二人の妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルと一緒であった。ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度と彼を追おうとはしなかった。」

ダビデのいのちを狙ったサウルでしたが、主はダビデの信仰(26:24)に報いてくださり、ダビデをいのちの危険から救い出してくださいました。サウルはそんなダビデを祝福し、自分のところに戻ってくるようにと勧めましたが、ダビデはそんな彼の申し出を断り自分の道を行きました。

自分のところに帰ったダビデは、心の中でこう言いました。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」

それで彼は、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王アキシュの所へ行き、彼のもとに住みました。そこは以前ダビデがサウルの手から逃れて間もなくして行った所です。そのときは、アキシュの家来がそれがダビデであると見破ったことで、ダビデは気違いを装うことでその窮地を逃れることができました。それなのに、彼はまたペリシテ人の地ガテに行ったのでしょうか。ここには、「そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」とあります。つまり、彼の心を動かしていたものは、サウルに対する恐れだったのです。それにしても、彼はこれまでも様々な困難の中でもずっとイスラエルの地にとどまり、サウルに対峙してきました。また、自分を侮辱したナバルの家をこっぱみじんにしてやろうと思った時も、アビガイルのとりなしによってその過ちに気が付き、すべてのさばきを主にゆだねました。そして前回も自分を追って来たサウルに対して、その陣営の中に忍び込み、サウルが寝ているそばにあった水差しと槍を取って、さばきを主にゆだねました。彼は多くの困難と試みの中でも主に拠り頼むことで、サウルの手から逃げてきたのです。ところが今彼はそのサウルから逃れるために、イスラエルの敵であるペリシテ人の中に住むことに決め、渡って行ったのです。それは彼の不信仰から出たことでした。ダビデほどの信仰者でも、その信仰が揺らぐことがあるのです。

彼の気持ちもわからないわけではありません。これまでずっと緊張した中にいて、疲れてしまい、もうこんなに緊張しながら生きるのは懲り懲りだと思ったのかもしれません。ダビデはこれまで、人間的な方法を使えばいくらでも使えたのに、それを拒み続けてきました。サウルを殺そうと思えば殺すことができたし、ナバルを殺そうと思えば簡単にできました。しかしあえて、さばきを主にゆだねてきたのです。けれども、こうしたことに疲れてしまい、ほっとできる場がほしかったのでしょう。  けれども、人間的に考えて安全であると考えられる場、いくらほっとできるような場であっても、信仰者にとってはそうではあるとは限りません。イエスさまを信じていながら、たとえその信仰のゆえに多くの試みがあろうとも、この世にその安住を求めることは正しい判断とは言えません。それに、この時彼には特別な啓示が与えられていました。そうです、イスラエルの王になるという約束です。それが神のみこころであるなら必ず成就します。つまり、彼はイスラエルの王になるまで決して死ぬことはないのです。これが信仰です。ところがダビデは、神の守りがあることを忘れ、自分の判断で行動しました。イスラエルの地を離れてペリシテの地に避難すること自体が間違っています。そこには、神の守りはないからです。イスラエルの地にとどまっていることはダビデにとって危険が伴いましたが、彼の成すべきことは、それでもそこに神の守りがあると信じて踏みとどまることだったのです。

このことは、私たちにも言えることです。今置かれているところは必ずしも安息があるようなところには思えないかもしれません。絶えず戦いがあり、恐れが付きまとうかもしれない。しかし、神の約束は、必ず成就します。神の約束にしっかりと踏み留まりたいと思います。自分で判断するのではなく、神のみことばと祈りによって信仰によって判断しましょう。

Ⅱ.ツィケラグを与えられたダビデ(5-6)

次に、5-6節をご覧ください。「ダビデはアキシュに言った。「もし、私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私に下さい。そこに住みます。どうして、このしもべが王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう。」 その日、アキシュはツィクラグをダビデに与えた。」

ダビデはガテの王アキシュに、ペリシテの地方の町の一つの場所をくれるようにと頼みました。それは、自分のような者が王の都であるガテに住むのは、あまりにも恐れ多いと思ったからです。しかし、それはあくまでも建て前であって、本音は、ガテからできるだけ遠くの所に身を置いて、ペリシテ人の監視の目から逃れようと思ったのです。また、ダビデは、部下たちがペリシテ人と同化することを恐れたのでしょう。たとえ異邦人の地に身を寄せたとしても、彼は自分たちがイスラエル人であるということを忘れていませんでした。

それでアキシュはダビデに、ツィケラグの町を与えました。ツィケラグはガテから30㎞ほど南に行ったところにあります。ガテからは適度な距離にありました。この町は、本来シメオン部族の領地に属していましたが(ヨシュア19:5)、この当時はペリシテ人に占領されていました。

Ⅲ.ツィケラグでのダビデ(7-12)

7-12節をご覧ください。「ダビデがペリシテ人の地に住んでいた日数は一年四か月であった。ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいた。ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしてはおかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのところに帰って来た。アキシュが「今日は、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。ダビデは男も女も生かしておかず、ガテに一人も連れて来なかった。「彼らが『ダビデはこういうことをした』と言って、私たちのことを告げるといけない」と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をした。アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。」」

ダビデはツィケラグに1年4か月間住みました。1年4か月というのは、短いようで長い年月だったでしょう。この間、ダビデはどんな生活をしていたのでしょうか。彼はツィケラグを本拠地として、部下たちとともに略奪に出かけました。彼が討ったのは、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人などです。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいました。これらの地は、実はヨシュアや士師たちの時代に完了しておくべきものでしたが、皮肉なことにそれを、不信仰に陥ったダビデが行ったのです。

ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのもとに帰って来ていましたが、アキシュに報告するときにそれを隠し、自分がユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブ、つまり、イスラエル人やその町々を攻めて来たように報告したのです。なぜでしょうか。それはアキシュに疑われないようにするためです。その嘘がバレないように、彼は略奪した町の住民を皆殺しにし、ガテに一人も連れて来ませんでした。いくら何でも、ダビデがどんなに落ちぶれたとしても、同胞のユダヤ人を殺すことはできなかったでしょう。一方、アキシュはそんなダビデをどのように見ていたでしょうか。アキシュはダビデを信用して、ダビデはいつまでも自分のしもべとして仕えてくるものと思い込んでいました。

結局ダビデは、ペリシテ人の地に1年4カ月もとどまりましたが、この間、彼の生活は決して祝福されたものではありませんでした。自分では最善と思ったことでも、それが主のみこころにかなったものでなければ、必ずボロが出ます。ダビデの場合は、嘘に嘘を塗り重ねるような生活を強いられることになりました。彼は霊的にも道徳的にも、日が当たらない者のような生活を余儀なくされたのです。それはダビデだけではありません。私たちも約束の地から離れることがあれば、ダビデと同じようになるでしょう。嘘がバレないようにと、何かに脅えながら生活するようになってしまうのです。そういうことがないように、私たちも悔い改め、神のもとに立ち返りましょう。そして、それが自分にとって状況が不利のようであっても、主がすべての苦難から救い出してくださると信じて、しっかりと信仰に留まり、神に喜ばれる道を歩ませていただきたいと思います。

Ⅰサムエル記26章

今日は、サムエル記第一26章全体から学びたいと思います。

Ⅰ.再びダビデのいのちをねらうサウル(1-12)

まず、1~12節までをご覧ください。5節までをお読みします。
「ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているのではないでしょうか。」サウルは立って、三千人のイスラエルの精鋭とともに、ジフの荒野へ下って行った。ジフの荒野でダビデを捜すためであった。サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道の傍らに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデは、サウルが自分を追って荒野に来たのを見て、偵察を送り、サウルが確かに来たことを知った。ダビデは立って、サウルが陣を敷いている場所にやって来た。そしてダビデは、サウルと、その軍の長ネルの子アブネルが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ていて、兵たちは彼の周りに宿営していた。」

ダビデのいのちをねらってエン・ゲディの荒野にやって来たサウルでしたが、用をたすためにある洞窟に入ったとき、その奥にダビデとその部下が座っていることに気付きませんでした。「今こそ、主があなた様に敵を渡された時です」という部下からの進言があったにもかかわらず、ダビデはサウルを殺すことをしませんでした。彼は主に逆らって、主に油注がれた方に、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだと言って、こっそりとサウルの上着の裾を、切り取りました。洞窟から出たサウルにそのことを告げると、サウルは声を上げて泣き、悔い改めたはずでした。しかし、その悔い改めはただの感情的なものであって、真の悔い改めではありませんでした。それは、今日の箇所を見るとわかります。

ジフ人がギブアにいたサウルのところに来て、ダビデがエシモンの東にあるハキラの丘に隠れていることを告げました。覚えていますか、彼らは23章でもダビデを追っていたサウルに、ダビデが自分たちのところに隠れていることを密告しました。それは祭司の町ノブが皆殺しにされたことで、その二の舞にはなりたくないという思いがあったからでしょう。ここで再びサウルに密告しています。ジフはユダのヘブロンから南東に10キロ、エン・ゲディからですと西に20キロのところにあります。その彼らが北に40キロも離れていたギブアにいたサウルのところまでやって来て、しかも、自ら進んでそれをしました。

それを聞いたサウルはどうしたでしょうか。彼は立って、三千人の精鋭とともに、ジフの荒野に下って行きました。もちろん、ダビデを探し出して殺すためです。サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道の傍らに陣を敷きました。一方、ダビデは、サウルが自分を追って荒野に来たのを見て、偵察を送り確かめると、確かにサウルが来たことを知りました。それでダビデは立って、サウルと、その軍の長アブネルの陣営の忍び込み、彼らが寝ていた場所を確認しました。

6~12節までをご覧ください。
「ダビデは、ヒッタイト人アヒメレクと、ヨアブの兄弟で、ツェルヤの子アビシャイに言った。「だれか、私と一緒に陣営のサウルのところへ下って行く者はいないか。」アビシャイが答えた。「私が一緒に下って参ります。」ダビデとアビシャイは夜、兵たちのところに来た。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵たちも、その周りに眠っていた。アビシャイはダビデに言った。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。【主】に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」ダビデは言った。「【主】は生きておられる。【主】は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。 私が【主】に逆らって、【主】に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」ダビデはサウルの枕もとの槍と水差しを取り、二人は立ち去ったが、だれ一人としてこれを見た者も、気づいた者も、目を覚ました者もいなかった。【主】が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠り込んでいたのである。」

それでダビデは、アビシャイを伴って夜、兵たちの所に行ってみると、サウルは陣営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してありました。アブネルも兵たちもみな、その周りに眠っていました。ダビデと一緒に行ったアビシャイはそれを見て、今がチャンスとばかり、ダビデにこう言いました。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」

これは、ダビデにとって大きな誘惑でした。なぜなら、今サウルを殺せば自分が直面している困難から解放されるからです。しかし、ダビデはアビシャイの進言を拒否してこう言いました。「殺してはならない。【主】に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」ダビデは言った。「【主】は生きておられる。【主】は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。 私が【主】に逆らって、【主】に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」

ダビデはすべてのさばきを主にゆだね、自分からサウルに手を下すことをしませんでした。なぜなら、主が最善の時にサウルを滅ぼされるという確信があったからです。それでダビデは、サウルの枕もとにあった槍と水差しを取って、立ち去りました。それは彼らがサウルを殺す機会があったのにそれをしなかったことを証明するためです。ここにも、主に全く信頼するダビデの信仰をみることができます。彼は自分から動こうとせず、主の時を待ったのです。

それにしても、ダビデとアビシャイがサウルの陣営に侵入しても、彼らはそれに全く気付きませんでした。なぜでしょうか。みな眠り込んでいたからです。ここには、「主が彼らを深い眠りに陥れられたので、眠りこけていた」とあります。これは主が与えた眠りだったのです。主はご自身のみこころを行うために、このように人の眠りさえも支配されるのです。

このような例は、聖書の他の箇所にもみられます。たとえば、創世記2:21には、「神である【主】は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。」とあります。主なる神はアダムに助け手を作られる際に、彼に深い眠りを与えられました。どうしてでしょうね?それは彼のあばら骨を取って造られたので、手術をする時の麻酔のように、痛みを感じなくするためだったのかもしれません。あるいは、どのような形で造られても、彼が驚かないようにするためだったのかもしれません。深層はわかりません。

また、創世記15:12には、「日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。」とあります。これは、アブラハム契約の締結にあたり、神はアブラハムに深い眠りを与えたわけですが、それは一方的に神から出た契約であることを表すためでした。

また、エステル記6:1には、「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じた。そしてそれは王の前で読まれた。」とあります。これは逆に神が眠りを与えられなかった例です。なぜ神はアハシュエロス王に深い眠りを与えられなかったのか。それはユダヤ人絶滅の危機にあって、ハマンの策略を無に帰するためでした。このことによって、ユダヤ人モルデカイと、全イスラエルのいのちが助かることになったのです。

このように神は、人に深い眠りを与えたり、与えなかったりと、人の眠りを支配することができるのです。この主の御前に、私たちは何の成す術もありません。大切なのは、全てを主にゆだね、主のみこころに生きることです。

Ⅱ.ダビデの訴え(13-20)

次に、13-20節までをご覧ください。まず16節までをお読みします。
「ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、大きな隔たりがあった。ダビデは、兵たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル、返事をしないのか。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があるだろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を護衛していなかったのか。兵の一人が、おまえの主君である王を殺しに入り込んだのだ。おまえのやったことは良くない。【主】に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、【主】に油注がれた方を護衛していなかったのだから。今、王の枕もとにあった槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」」

ダビデは剣と水差しを取って帰り、遠く離れた山の頂上に立って、将軍アブネルに呼びかけて言いました。ダビデは彼が有能な戦士であることを認めた上で、自分の主君であるサウル王をしっかり守られなかった罪を指摘しました。それは、死刑に値する罪であるというのがダビデの見解です。そのことを証明するために、サウル王の枕もとにあった槍と水差しを示します。つまり、彼らが寝ていた間に自分たちが忍び込んで盗んで来たということです。本来であれば、サウル王を殺すことだって出来ました。それを証明するのがその槍と水差しです。将軍アブネルは、まったくその役目を果たしていませんでした。それゆえ、彼らは殺されなければなりません。なぜなら、主に油注がれた方を護衛していなかったからです。

それを聞いたサウルはどうしたでしょうか。17-20節をご覧ください。
「サウルはダビデの声と気づいて、言った。「わが子ダビデよ、これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「わが君、王様。私の声です。」そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべの後を追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。わが君、王様。どうか今、しもべのことばを聞いてください。もし私に敵対するようあなたに誘いかけたのが【主】であれば、主がささげ物を受け入れられますように。しかし、それが人によるのであれば、その人たちが【主】の前でのろわれますように。彼らは今日、私を追い払って、【主】のゆずりの地にあずからせず、『行って、ほかの神々に仕えよ』と言っているからです。どうか今、私の血が【主】の御顔から離れた地に流されることがありませんように。イスラエルの王が、山でしゃこを追うように、一匹の蚤を狙って出て来ておられるのですから。」

それがダビデの声であることがわかると、サウルはダビデに「わが子ダビデよ、これはおまえの声ではないか」と言いました。するとダビデは、再びサウルに自分が無実であることを訴えます。その訴えの内容は19節ですが、新改訳聖書の訳は少しわかりづらいです。新共同訳聖書ではこれを、「わが主君、王よ。僕の言葉をお聞きください。もし、王がわたしに対して憤られるように仕向けられたのが主であるなら、どうか、主が献げ物によってなだめられますように。もし、人間であるなら、主の御前に彼らが呪われますように。彼らは、『行け、他の神々に仕えよ』と言って、この日、主がお与えくださった嗣業の地からわたしを追い払うのです」と訳しています。つまり、サウルがダビデを殺すように仕向けているのが人間によるものであるならば、それは彼をイスラエルの地の外に追い出すようなことであり、偶像崇拝を強いるのと同じことで、決して許されることではないということです。その上で、ダビデの血が主の御前から離れた地に流されることがないようにと言いました。主の御前から離れた地に流されないようにとは、イスラエルの地から離れることがないようにという意味です。つまり、ダビデは、主の御前から離れることを恐れたのです。それは、ダビデにとって霊的な死を意味していたからです。

ダビデは、相手から攻撃されてもなお、最後まで説得と弁明を繰り返し、決して暴力的な手段に訴えようとはしませんでした。パウロは、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」と言っています(ローマ13:1)。なぜなら、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立られているからです。」(同13:1)また、ペテロも「しもべたちよ。敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。」(Ⅰペテロ2:18)と言っています。この「意地悪な」というのは「横暴な」という意味です。優しい主人だけでなく、横暴な主人であっても従うようにというのが、聖書が勧めていることです。時として私たちは、自分の思うようにいかないと暴力に訴えてもそれを成し遂げようとする傾向がありますが、聖書が教えていることはそういうことではなく、あくまでも間違いは間違いとして訴えつつも、最後まで丁寧に説得なり、弁明をしながら、誠実の限りを尽くして理解し合う努力をすべきであると教えています。結果をすべて主にゆだねて。

Ⅲ.サウルの悔い改め(21-25)

最後に、21-25節を見て終わります。
「サウルは言った。「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。わたしは愚かであった。大きな過ちを犯した。」ダビデは答えた。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。」

ダビデの訴えを聞いたサウルは、自分の間違いに気付き、「私が間違っていた。」と認めました。これで二度目です。以前、エン・ゲディの荒野でも同じようなことがあったとき彼は、「お前は私より正しい。私に欲してくれたのに、私はお前に悪い仕打ちをした。」(24:17)と泣いて悔い改めたはずです。しかし、その悔い改めは単なる感情から出たことであって、信仰に基づいたものではありませんでした。ですから、ここで同じことを繰り返しているのです。

サウルは、自分が間違っていたと認めたうえで、ダビデに「わが子ダビデよ、かえって来なさい。もう害を加えない。」と約束します。しかしダビデは、サウルがすぐに心変わりすることを知っていたので、その招きには応ぜず、王の槍と水差しを取りに、だれか若い者の一人をよこしてくれるようにと言いました。ここにダビデのすばらしい信仰を見ます。彼は、「主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」と言っています。ダビデの確信は、主が自分のいのちを必ず守ってくださるということでした。

その言葉を聞いたサウルは、ダビデを祝福しました。そして、ダビデは多くのことをするようになるが、それはきっと成功すると、預言的なことを言いました。主がそう言わせたのでしょう。しかし、ダビデは調子に乗ることはありませんでした。ダビデは自分の道を行き、サウルはサウルで自分のところへ帰って行きました。これが二人にとって最後の別れとなります。これ以降、ふたりが出会うことはありません。

サウルに対するダビデの行動を見ると、その背後にあったのは主への全き信頼でした。そして、主が油注がれた者に対する尊敬と信頼です。それがたとえ主に従わない者たちであっても、主が立てた権威のゆえに従ったのであり、自分でそれに敵対しようとはしませんでした。最後まで主の導きにゆだねたのです。主に信頼し、すべてのさばきを主にゆだねた人こそ、あらゆる状況の中を生き延びることができる人なのです。

Ⅰサムエル記25章

今日は、少し長いですが、サムエル記第一25章全体から学びたいと思います。

Ⅰ.愚か者ナバル(1-12)

まず、1~8節までをご覧ください。
「サムエルは死んだ。全イスラエルは集まって、彼のために悼み悲しみ、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒野に下って行った。マオンに一人の人がいた。カルメルで事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていた。彼はカルメルで羊の毛の刈り取りをしていた。この人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。ダビデは、ナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行ってナバルのところに着いたら、私の名で彼に安否を尋ね、わが同胞に、こう言いなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。 今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちと一緒にいましたが、彼らに恥をかかせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何かが失われることもありませんでした。あなたの若者たちに尋ねてみてください。彼らはそう報告するでしょう。ですから、私の若者たちに親切にしてやってください。祝いの日に来たのですから。どうか、しもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」

サムエルが死にました。彼の死は、全イスラエルに深い悲しみをもたらしました。それはダビデにとっても同じで、彼もまたサムエルの死を悼み悲しみました。ダビデにとってサムエルは霊的支えとなっていましたが、そのサムエルが死んだことで、これからは彼の祈りと助言を期待することができなくなってしまいました。それは、600人の部下を率いて荒野を放浪していたダビデにとって、すぐに現れました。彼らを養うという責任がダビデの肩に重くのしかかっていたからです。ちょうどそのようなとき、ダビデの耳にナバルという人の情報が飛び込んできました。

この人は、マオンに家があり、カルメルで事業をしていて、非常に裕福でした。彼は羊三千匹、やぎ千匹を持っていました。当時は、その人がどれだけ家畜を持っているかによって、その人がどれだけ裕福であるかがわかりました。そのことからすると、彼は非常に裕福であったことがわかります。この人の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言いました。「ナバル」とは「愚か者」という意味があります。彼がどれほど愚か者であるかは、この後で起こる出来事によって示されますが、ここには、彼は「頑迷で行状が悪かった。」と紹介されています。頑迷とは、彼の心が頑なであったということを表しています。彼はカレブ人であったとあります。カレブと言えば、あのヨシュアとカレブのカレブで、非常に信仰的であった家系から出た者でしたが、実際にはそれとは裏腹に心が頑な人でした。しかし、彼の妻は彼とは対照的に、賢明で、姿が美しかったとあります。彼女は聡明で、美人だったのです。

そのナバルがカルメルで羊の毛の刈り取りをしていたとき、ダビデは彼のもとに若者十人を遣わして、彼と彼の家を祝福し、彼の手もとにある物を与えてくれるようにと頼みました。それはダビデが彼の羊飼いたちを守ってきたという事実に基づいての依頼でした。

それに対して、ナバルはどのように応答したでしょうか。9節から12節までをご覧ください。
「ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか。」ダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。」

ダビデの若者たちは行って、ダビデに言われたとおりのことをナバルに告げると、ナバルはダビデを侮辱して言いました。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。」ナバルはダビデについて聞いて知っていたはずです。それなのに彼はダビデを知らないふりをして侮辱したのです。そればかりではありません。「このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。」と言って、ダビデを悪者扱いしました。さらに、「私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか。」と大口をたたいて、ダビデの要請をキッパリと断ったのです。

「ナバル」という名前にはどんな意味がありましたか?ここにナバルの愚かさがあります。物質的か霊的かを問わず、祝福された者には貧しい者を助けるという義務があります。これが、神の国の原則なのです。それなのに彼は、この神の国の原則に生きようとしませんでした。なぜでしょうか?神への恐れがなかったからです。詩篇14:1には、「愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。」とあります。つまり、彼は神に対して心が閉ざされていたのです。神への恐れがありませんでした。それゆえに、だれの忠告も受けようとしなかったのです。そのような人を待ち受けているのは、滅びしかありません。私たちはナバルのように神に対して心を閉ざすのではなく、神に対して心を開き、神を恐れて生きるものでありたいと願わされます。

Ⅱ.アビガイルのとりなし(13-31)

それに対してダビデはどのような態度を取ったでしょうか。13節をご覧ください。
「ダビデは部下に「各自、自分の剣を帯びよ」と命じた。それで、みな剣を身に帯びた。ダビデも剣を帯びた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。」

若者たちの報告を受けたダビデは激怒し、「各自、自分の剣を帯よ。」と命じました。そしてダビデ自身も剣を帯び、ただちにナバル討伐に立ち上がりました。四百人ほどがダビデについて上って行き、二百人は本営に留まりました。当然と言えば当然でしょう。人間的に見れば、恩を仇で返すような相手を赦すことはできません。しかし、ここで自分を侮辱するわずかばかりの言葉を聞いて、感情をコントロールすることができなくなるほどに激怒し、ナバル一家を滅ぼそうとしたダビデの姿には、かつてサウルが祭司の町ノブを皆殺しにしたのを思い起こさせます(Ⅰサムエル22:19)。これは、明らかにダビデの罪でした。人間はどんなにすばらしい人であっても、必ずなんらかの欠点があるものです。そうした弱さに学びながら、ダビデの子として来られた神の子イエス様だけが何の罪もない完全な方であることを認め、この方に信頼して歩まなければなりません。

次に、14-22節までをご覧ください。
「ナバルの妻アビガイルに、若者の一人が告げて言った。「ダビデがご主人様に祝福のあいさつをするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、ご主人様は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにとても良くしてくれたのです。私たちは恥をかかされたこともなく、野で一緒にいて行動をともにしていた間、何も失いませんでした。一緒に羊を飼っている間は、夜も昼も、彼らは私たちのために防壁となってくれました。今、あなたがどうすればよいか、よく考えてください。わざわいがご主人とその一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」アビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。あなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。アビガイルがろばに乗って山陰を下って行くと、ちょうど、ダビデとその部下が彼女の方に下って来るのに出会った。ダビデは、こう言ったばかりであった。「荒野で、あの男のものをすべて守ってやったので、その財産は何一つ失われなかったが、それは全く無駄だった。あの男は善に代えて悪を返した。もし私が明日の朝までに、あの男に属する者のうち小童一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」」

すると、ナバルの妻アビガイルの下に若者の一人がやって来て、その一部始終を告げました。彼が告げたことは、ダビデがナバルに祝福のあいさつをするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、主人ナバルは彼らをののしったということ。そのののしったダビデとその部下たちというのは非常に良い人たちで、自分たちが野で羊を飼っていたときに良くしてくれたばかりか、自分たちのために防壁となってくれたということ。それゆえ、どうすればよいかをよく考えていただきたいということでした。そして、最後にこの若者はこう言いました。「ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」

何とも大胆なことばです。実際、ナバルとはそれほど愚かな男であったのでしょう。また、この若者はアビガイルもそのように思っていて、自分の意見に同意してくれるという確信を持っていたのだと思います。

それを聞いたアビガイルはどうしたでしょうか。彼女は何が起こったのかをすぐに理解し、ただちに行動に移しました。パン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個を取って、これをろばに乗せ、若者たちを先に進ませて、ダビデのもとへと向かったのです。しかも、このことは夫ナバルには何も告げていませんでした。

アビガイルがろばに乗って山陰を下って行くと、ちょうど、ダビデとその部下が彼女の方に下って来るのに出会いました。彼女はダビデを見ると、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏し、ダビデの足もとにひれ伏してこう言いました。24-31節です。
「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。どうか、はしための背きをお赦しください。主は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」(24-31)

ここでアビガイルはダビデにどんなことを言ったのでしょうか。彼女はまず、「あの責めは私にあります」と、自分の罪を認めて告白しました。ダビデが遣わした若者たちに気付かなかったのは、自分の罪だというのです。すごいですね。その上で、自分の罪を赦してほしいと願っています。一方、夫については、何と言っていますか。夫ナバルはその名のとおりよこしまな者、愚かな者だから、彼のことに関しては気にかけないでほしいと懇願しています。また、自分がダビデのもとに来たことで、ダビデが自分の手で復讐されることを主が止められたことを告げ、その主が復讐してくださるようにと祈りました。それはダビデが主の戦いをしているからです。主の戦いにおいて重要なことは、悪が見出されてはならないということです。それなのに、もしダビデがナバルと戦うというのであればそれは単なる復讐にすぎず、ダビデの名を汚すことになります。彼女は、ダビデがイスラエルの王になることを確信していました。それゆえ、理由もなく血を流したり、復讐をして、ダビデのつまずきとなったり、心のさまたげとなったりすることがないようにし、主がダビデを栄えさせてくださるようにと祈ったのです。

これは、感情的になっていたダビデにとっては最善のアドバイスでした。もしダビデが感情的になってナバルを攻撃していたとすれば、彼の人生にとって大きな汚点となっていたことでしょう。ですから、アビガイルのことばは、そんなダビデを悪からから救ったといっても過言ではありません。

アビガイルのとりなしは言葉には、深い感動を覚えます。なんと聡明で、行動力と説得力をもった女性でしょうか。彼女はダビデに贈り物をささげて、夫とその家のためにとりなしをしました。私たちのためにとりなしてくださるのはイエス様です。イエス様は自らのいのちをささげて、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と言ってとりなしてくださいました。そのとりなしによって、私たちの罪は赦され、神の子とされました。そして、イエス様は今も天で大祭司として、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

そんなアビガイルのとりなしに対して、ダビデは何と言ったでしょうか。32~35節をご覧ください。
「ダビデはアビガイルに言った。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は今日、あなたを送り、私に会わせてくださった。あなたの判断がほめたたえられるように。また、あなたが、ほめたたえられるように。あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと、明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。」ダビデはアビガイルの手から、彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、家へ上って行きなさい。見なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」」

ダビデは、イスラエルの神をほめたたえ、アビガイルと合わせてくれた主に、心からの感謝をささげました。それは彼女が、ダビデが血を流すという罪、復讐するという罪から免れるようにしてくれたからです。もしアビガイルが来て引き止めてくれなかったら、きっとナバル一家を皆殺しに、主に罪を犯していたことでしょう。そう思うとダビデは、このアビガイルの判断をほめたたえずにはいられませんでした。ダビデは、アビガイルが持って来た贈り物を受け取り、彼女の願いのすべてを聞き届けました。

忠告してくれる人の言葉に耳を傾ける人は、知恵のある人です。そして、忠告してくれる人に感謝することができるなら、それはさらにすばらしいことです。忠告してくれる人の言葉は、時として痛く感じることがありますが、大切なのは自分がどう感じているかということではなく、その忠告者の言葉に耳を傾け、その言葉を受け入れることなのです。

Ⅲ.神のさばき(36-44)

最後に、36-44節を見て終わります。38節までをご覧ください。
「アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは、自分の家で王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上機嫌で、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。十日ほどたって、主はナバルを打たれ、彼は死んだ。」

アビガイルがナバルのところに帰って来ると、彼はちょうど自分の家で王の宴会のようなものを開いていました。ナバルはかなり酔っていたので、彼女は明け方まで、何一つ話しませんでした。朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、彼女が一連の出来事について彼に告げると、彼は気を失って石のようになりました。そして、それから10日後に息絶えたのです。いたいなぜ彼は死んでしまったのでしょうか。ここには、「主はナバルを打たれ」とあります。彼は単に病気で死んだのではなく、主が彼を打たれたので、彼は死んだのです。つまり、主が彼をさばかれたので、彼は死んだのです。ダビデが復讐を思いとどまったとき、主の出番がやって来ました。自分で復讐するのではなく、裁きを主にゆだねる人は幸いです。ローマ12:19にはこうあります。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」私たちも自分で復讐したいと思うことがありますが、復讐は神がなさることです。その神の怒りに任せましょう。そして、私たちは神のみこころに従い、悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけたいと思います。

最後に、39-44節をご覧ください。
「ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「主がほめたたえられますように。主は、私がナバルの手から受けた恥辱に対する私の訴えを取り上げ、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった。主はナバルの悪の報いをその頭上に返された。」ダビデは人を遣わして、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。ダビデのしもべたちはカルメルのアビガイルのところに来て、彼女に、「ダビデはあなたを妻として迎えるために私たちを遣わしました」と言った。彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「さあ。このはしためは、ご主人様のしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女を後に従え、ダビデの使者たちの後に従って行った。彼女はダビデの妻となった。ダビデはイズレエルの出であるアヒノアムを妻としていたので、二人ともダビデの妻となった。サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えていた。」

ナバルが死んだという知らせを聞き、ダビデは主をほめたたえました。自分で復讐せずとも、主が彼をさばいてくださったからです。それからしばらくして、ダビデは人を遣わして、アビガイルに結婚を申し入れました。ダビデの最初の妻はサウルの娘のミルカでしたが、サウルは彼女をガリム出身のライシュの子パルティに与えていたからです。しかし、彼にはもう一人の妻がいました。イズレエルの出身のアヒノアムという女性です。今の間隔からすると、不思議な感覚です。旧約聖書を見ると、確かに申命記17:17には、「多くの妻を持ってはならない。」とありますが、たとえば、アブラハムにしても、ヤコブにしても、このダビデにしても、ソロモンにしても、複数の妻がいました。しかも神は、そのことを明確には糾弾しておられません。なぜでしょうか。

その一つの背景には、当時の婦人たちが、父親、兄弟、夫などに依存して生活していたことがあげられます。未婚の女性や夫に先立たれた婦人は、非常に厳しい状況の中に置かれました。彼女たちに残された道は、娼婦になるか、奴隷になるか、餓死するか、のいずれかだったのです。そう考えると、一夫多妻制には、女性を救済するという側面があったことが分かります。と同時に、一夫多妻制によって数々の問題が生じたことも事実です。たとえば、アブラハムもヤコブも、妻たちの対立関係によって苦しめられました。ダビデもまた、家庭内の不和に苦しみました。ソロモンの場合は、異教の妻たちを通して偶像礼拝をイスラエルに持ち込むことになりました。 それなのに、どうしてこのことが許容されたのでしょうか。

創世記2:24には、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」 とあります。従って、一夫多妻制は神が積極的に認めたものではなく、堕落した人間が始めた習慣だと言えます。新約聖書を見ると、神の計画が、結婚の最初の形態である一夫一婦制を回復する段階に入ったことがわかります。マタイ19:4からのところでイエス様は、「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっていることでしょうか。」というパリサイ人の質問に対して、あの創世記2:24のことばを引用し、二人は一体であることを教えられました。つまり、一夫一婦を支持されたのです。そして、もし妻を離縁し、別の女を妻とする者は姦淫を犯すことになると言われました。もし一夫多妻制が神のみこころなら、イエス様はこのようなことを言わなかったでしょう。ですから、聖書が教えていることは、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのであって、複数の女性と結びつくことではありません。それなのに神が一夫多妻制を一時的に黙認されたのは、先に述べた理由があったからです。しかし、近代社会においては、女性が自立して生きる可能性は広がりました。今でも一夫多妻制を必要とする文化圏があるかもしれませんが、それは極めて希なケースです。現在、ほとんどの国で一夫一婦制が法制化されています。クリスチャンは、神の御心に反しない限り、自分の国の法律に従うように命じられています。それゆえ、今は一夫一婦制だけが有効な結婚の在り方であると言えるのです。

アビガイルはすぐに行動を起こします。彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、「さあ、このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」と言いました。彼女の姿勢は、仕えるしもべそのものでした。しもべたちのしもべになろうというのですから。そして、急いで用意して、彼女の5人の侍女を後に従え、ダビデの使いたちのあとに従って行きました。こうして彼女はダビデの最初の妻ミカル、二番目の妻アヒノアムに続いて3番目の妻となりました。

アビガイルは、先にある栄光のゆえに、ダビデとともに苦しむことを選び取ったのです。私たちもまた、将来の祝福の約束を信じて、キリストとともに苦しむことを選び取った者たちです。かつてロトの妻が後ろを振り返って塩の柱となってしまったように、この世を振り返って塩の柱にならないように、主が与えてくださった栄光を見つめて、前進していきましょう

Ⅰサムエル記24章

今日は、サムエル記第一24章から学びます。

Ⅰ.サウルの上着の裾を切り取ったダビデ(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。
「サウルがペリシテ人を追うのをやめて帰って来たとき、「ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいます」と言って、彼に告げる者がいた。サウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭を選り抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。道の傍らにある羊の群れの囲い場に来ると、そこに洞穴があった。サウルは用をたすために中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、その洞穴の奥の方に座っていた。ダビデの部下はダビデに言った。「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」ダビデは立ち上がり、サウルの上着の裾を、こっそり切り取った。後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」ダビデはこのことで部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、洞穴から出て道を歩いて行った。」

ダビデを追ってマオンの荒野に向かったサウルでしたが、ペリシテ人がイスラエルに襲いかかって来たという知らせを受け、ダビデを追うのを止めて帰り、ペリシテ人との戦いに向かいました。そのペリシテ人との戦いも一段落ついたとき、そのサウルのもとに、ダビデが今度はエン・ゲディの荒野にいると告げる者がいました。エン・ゲディは、死海西岸にあります。滝から流れ落ちる水が豊富にあったため、逃亡者が身を隠して暮らすには最適な環境でした。ダビデはおよそ600人の部下を連れて、そこに身を隠していたのです。それでサウルは、イスラエル全体の中から3,000人の精鋭を選り抜いて、ダビデとその部下を捜しに出かけて行きました。

サウルは、エン・ゲディにやって来るとそこに洞窟があったので、用をたすために中に入りました。この洞窟は、夜間に羊の群れを入れておく所でした。ダビデとその部下たちは、その付近一帯の洞穴に分散して隠れていたのですが、サウルが入った洞穴は、ダビデとその部下数人が隠れていた所だったのです。彼らはその洞窟の一番奥の方にいたので、サウルにはその姿が見えませんでした。

するとダビデの部下たちがダビデに、「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ。』と言われた、その日です。」(4)と言いました。彼らはこの出来事を、主がサウルをダビデの手に渡されたものと解釈したのです。それに対してダビデはどのように行動したでしょうか。彼は立ち上がると、用をたしているサウルに近づき、サウルの上着の裾を、こっそりと切り取りました。それどころか、サウルの上着の裾を切り取ったことについてさえも心を痛めたのです。どうしてダビデはそのことで心を痛めたのでしょうか。どうしてダビデは自分のいのちを狙うために出て来たサウルをその場で殺さなかったのでしょうか。それはその後で彼が自分の部下たちに言った言葉からわかります。彼はこう言いました。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」(6)どういうことでしょうか?主に油注がれた方、自分の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだというのです。この時点でサウルは完全に神のみこころから外れて歩んでいましたが、だからといって、それが主に油を注がれて王になっている人を殺してもよいという理由にはなりません。なぜなら、イスラエルの王として彼を立て、彼に油を注がれたのは主ご自身であられるからです。従って、サウルに手を下すことは、サウルを王として立てられた主に背くことになるのです。サウルをさばくのは神ご自身であって、自分がすべきことではありません。たとえ上着の裾を切り取るという行為であっても許されることではありません。ダビデはそのことで心を痛めたのです。

詩篇57篇は、その時のダビデの心境を歌った詩です。表題には、「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。」とあります。ですから、この歌は、まさにこの時にダビデが歌った詩なのです。
「私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。私は いと高き方神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。神は 天から助けを送って 私を救い 私を踏みつける者どもを辱められます。セラ 神は 恵みとまことを送ってくださいます。私のたましいは 獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で 横たわっています。彼らの歯は槍と矢 彼らの舌は鋭い剣です。神よ あなたが天で あなたの栄光が 全世界であがめられますように。彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。セラ
神よ 私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。私のたましいよ 目を覚ませ。琴よ 竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。主よ 私は国々の民の間であなたに感謝し もろもろの国民の間で あなたをほめ歌います。あなたの恵みは大きく 天にまで及び あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ あなたが天で あなたの栄光が全地であがめられますように。」

4節には、「私のたましいは 獅子たちの間で 人の子らを食う者の間で 横たわっています。」とあります。まさに彼の置かれた状況はそのようなものでした。少しも安らぎなど感じることができない緊張した状況にありました。しかしそのような中でもダビデは、神に信頼しました。7節で彼は、「神よ 私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。」と告白しています。そして主がその危険な状況から救い出してくださると確信して、主に感謝し、主にほめ歌を歌ったのです。

私たちの人生においても、同じような状況に置かれることがあります。自分に対して敵対心を持って向かってくる相手がいます。そのような時、ダビデの部下たちのように、自分で復讐しようと思うことがありますが、しかし、ローマ12:19に「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。」とあるように、神の怒りにゆだねなければなりません。なぜなら、私たちは神のあわれみを受けた者だからです。神が私たちを愛し、私たちのために御子イエスを与えてくださり、その罪を贖ってくださいました。一方的に。私たちは神に敵対するものであって神にさばかれても致し方ないような者でしたが、神はそんな私たちをさばくことをせず、むしろ御子イエスによって赦してくださいました。それゆえ、天の神があわれみ深い方であるように、私たちもあわれみ深い者でなければならないのです。そうすれば、私たちは敵の頭上に燃える炭火を積むことになるからです(ローマ12:20)。これは敵に復讐するという意味ではありません。こちらのそうした態度によって、相手が恥ずかしいと思うほど良心の痛みを感じるということです。

そういう意味でダビデは、真の意味で神のしもべでした。どんな時でも神に信頼し、神のみこころに歩もうとしました。その信頼から生まれたものが神への感謝と賛美だったのです。私たちもどんな時でも神に信頼し、神が自分の状況を解決してくださると信じて、すべてを神にゆだねたいと思います。そして、いつでも、神への感謝と賛美の日々を送らせていただきたいと思うのです。

Ⅱ.ダビデの訴え(8-15)

次に、8-15節までをご覧ください。
「ダビデも洞穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウルに言った。「なぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のことばに、耳を傾けられるのですか。今日、主が洞穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたの目はご覧になったのです。ある者はあなたを殺すようにと言ったのですが、私は、あなたのことを思って、『私の主君に手を下すことはしない。あの方は主に油注がれた方だから』と言いました。わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着の裾をよくご覧ください。あなたの上着の裾を切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって、私の手に悪も背きもないことを、お分かりください。あなたに罪を犯していないのに、あなたは私のいのちを取ろうと狙っておられるのです。どうか、主が私とあなたの間をさばき、主が私のために、あなたに報いられますように。しかし、私はあなたを手にかけることはいたしません。昔のことわざに『悪は悪者から出る』と言います。私はあなたを手にかけることはいたしません。イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。だれを追いかけておられるのですか。死んだ犬の後でしょうか。一匹の蚤の後でしょうか。どうか主が、さばき人となって私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて擁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」」

サウルが洞穴から出て行き、道を歩いて行くと、ダビデも洞穴から出て行って、サウルの後ろから「王よ」と呼びかけました。サウルが後ろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏し、礼をしました。それは、ダビデが依然としてサウルをイスラエルの王として認めていたということです。そしてダビデは、油注がれた王に対する精一杯の抗議をしました。それは、なぜダビデがサウルに害を加えようとしているという人のことばに耳を傾けているのか、ということです。そんなことは全くのうわざであり、自分はそのような思いを抱いていないということ、そしてその証拠に、自分がいたほら穴にサウルが入って来たとき、部下たちが、主がサウルをお渡しになったと言っても、「自分は主に油注がれた方に手を下すことはしない」と言ってそのことばを退けました。そしてそれが真実であることのしるしに、自分が切り取ったサウルの上着の裾を持っており、それこそサウルに対して何の悪も背きも抱いていない証拠です。それなのになぜ自分のいのちを取ろうと狙っているのかと問うたのです。そして彼は、「どうか、主が私とあなたの間をさばき、主が私のために、あなたに報いられますように。しかし、私はあなたを手にかけることはいたしません。」と言いました(12)。

ここでダビデは昔から知られていた格言を引用しています。それは「悪は悪者から出る」ということばです。その意味は、もしダビデが悪い者ならば、サウルを殺していたはずであるという意味です。しかし、そうでないとしたら、悪者ではないということです。

最後にダビデは、自分ことを「死んだ犬」とか、「一匹の蚤」と言っています。つまり、サウルがいのちを狙うには値しない存在であるという意味です。パウロは、ローマ12:17-19で「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」と言っていますが、ダビデはこの聖書の原則に立って、すべてのさばきを主にゆだね、自分に関する限り、すべての人と平和を保つようにしたのです。

これは大切な真理です。自分がさばくのではなく主がさばいてくださり、自分ではなく主が弁護してくださり、救ってくださいますように、という祈りです。私たちは悪いことをされたとき、自分で何とかしようと対処するあまり、逆に深い溝に落ちてしまうことがあります。主が弁護してくださいます。そうすれば、後に必ず真実が明らかにされるのです。

Ⅲ.サウルの表面的な謝罪(16-22)

最後に、16-22節をご覧ください。
「ダビデがこれらのことばをサウルに語り終えたとき、サウルは「これはおまえの声なのか。わが子ダビデよ」と言った。サウルは声をあげて泣いた。そしてダビデに言った。「おまえは私より正しい。私に良くしてくれたのに、私はおまえに悪い仕打ちをした。私に良いことをしてくれたことを、今日、おまえは知らせてくれた。主が私をおまえの手に渡されたのに、私を殺さなかったのだから。人が自分の敵を見つけたとき、その敵を無傷で去らせるだろうか。おまえが今日、私にしてくれたことの報いとして、主がおまえに幸いを与えられるように。おまえが必ず王になり、おまえの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。今、主にかけて私に誓ってくれ。私の後の子孫を断たず、私の名を父の家から消し去らないことを。」ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。」

ダビデの弁明を聞いて、サウルは感動のあまり声を上げて泣きました。そして、ダビデに「おまえは私より正しい。私に良くしてくれたのに、私はおまえに悪い仕打ちをした。」と言いました。つまり、彼はダビデが自分よりも正しいということ、そして、そのダビデに自分は悪い仕打ちをしてきたということを認めたのです。さらに彼は、主が彼をダビデの手に渡されたのに殺さなかったことで、ダビデには何の悪意がないことも認めました。そして彼はここで驚くべきことを語っています。20節と21節です。「おまえが必ず王になり、おまえの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。今、主にかけて私に誓ってくれ。私の後の子孫を断たず、私の名を父の家から消し去らないことを。」どういうことですか?サウルは、ダビデが次の王となって、彼の手によってイスラエル王国が確立されるであろうということを確信したと言っているのです。その上で、サウルの子孫を断たず、自分の名が父の家から消し去られることがないようにと懇願したのです。

ダビデはそれを受け入れ、サウルに誓いました。ダビデにとってそれは、かつてヨナタンと結んだ契約の内容そのものでした(20:14-15)。ヨナタンは早くからそのことを知っていましたが、サウルはここにきて、ようやくそのことを悟ったのです。しかし、それは一時的な告白にすぎませんでした。いわゆる真の悔い改めではなかったのです。なぜなら、その後で彼は再びダビデのいのちを執拗に追いまわすようになるからです。サウルの言葉はその時の一時的な感情に基づくものであり、心からのものではなかったのです。どんなに自分の罪を認めて涙しても、真の悔い改めに至らない場合があります。この時のサウルがそのよい例です。感情だけが左右上下に動いても、それが真実な悔い改めであるというわけではありません。

パウロは、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)と言っています。私たちが外見でどんなにクリスチャンのようであっても、もしイエス・キリストを信じ、神の聖霊によって新しく生まれ変わっていなければ、それはただの感情的な悔い改めにすぎません。大切なのは「新しい創造」です。イエス・キリストによって神の子として新しく生まれ変わることなのです。新しく生まれ変わった人は自分の肉を十字架に付けるので、神の聖霊がその人を新しく変えてくださいます。サウルのような一時的で表面的な悔い改めではなく、イエス・キリストがご自分の肉を十字架に付けて死んでくださり、三日目によみがえられたように、私たちも自分の肉を十字架に付け、キリストのいのちによって生きる新しい人生を歩ませていただきたいと思います。それが真の悔い改めであり、キリストのいのちに生きる信仰の歩みなのです。

Ⅰサムエル記23章

今日は、サムエル記第一23章から学びます。

Ⅰ.ケイラを救ったダビデ(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。

「1 「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています」と言って、ダビデに告げる者がいた。2 ダビデは主に伺って言った。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」3 ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」4 ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えられた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」5 ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。6 アヒメレクの子エブヤタルは、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、エポデを携えていた。

サウルの嫉妬によってダビデはサウルの手を逃れ、まずノブの祭司アヒメレクのところへ逃れました。その後、敵地ペリシテの町ガテに潜伏しました。イスラエルにいればサウルに見つけられてしまうのではないかと思いそうしたのではないかと思いますが、そこですぐに捕らえられ絶体絶命のピンチを迎えました。その時、主はダビデに知恵を与え、ガテの王アキシュの前できちがいを装ったので、そこから追い出され、アドラムの洞穴に避難しました。そこへ彼の家族や困窮している者、負債のある者、サウルに不満のある者たちが集まったので、約400人がダビデとともにいるようになりました。

その後ダビデはモアブの地ミツパに逃れましたが、預言者ガドを通して「ユダの地に帰りなさい」との神のことばを告げられたので、ユダの地に戻っていました。ところが、そこではサウルを通して残虐な行為が繰り広げられていました。ダビデをかくまったということでノブの祭司85人と、ノブの町の男も女も、幼子も乳飲み子も、みな殺されてしまったのです。ただ一人祭司アヒメレクの子エブヤタルだけが難を逃れてダビデのところに逃げて来ました。

そのような時ダビデのもとに、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しているという知らせが入りました。ケイラはユダ族の領地にある町で穀物の産地として知られていましたが、ペリシテ人たちは、その収穫物を略奪するために攻撃していたのです。ケイラは、ダビデがいたアドラムからは10㎞しか離れていなかったので、数時間で駆け付けることができる距離にありました。問題は、彼は戦えるような状態ではなかったことです。彼は今逃亡中の身でした。また、自分が抱えていた兵士の数にも限界がありました。そのような状況でペリシテ人と戦うということには無理がありました。

そこでダビデはどうしたかというと、主に伺って言いました。伺ったとは、祈ったということです。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」彼は自分の思いや考えではなく、神様の導きを求めて祈ったのです。すると、すぐに主からの応答がありました。それは、「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」ということでした。しかし、ダビデの部下たちは彼に言いました。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」彼らの気持ちもわからないでもありません。この時ダビデは逃亡の身であり、人を助けるような状況にはなかったからです。たとえそれが神のみこころだとしても、いったいどうやって助けることができるでしょうか。無理です。それが部下たちの反応でした。

それでダビデはどうしましたか?彼はもう一度主に伺いました。本当に主は、行って、ペリシテ人を討ち、ケイラを救うようにと願っておられるのかどうかを確認し、確信を得てから出て行こうとしたのです。すると主は、「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」と言われました。主がペリシテ人をダビデの手に渡されると言われたのです。それでダビデとその部下はケイラに下って行き、ペリシテ人と戦ってこれに勝利し、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えました。こうしてダビデはケイラの住民をペリシテ人の手から救いました。大切なことは、私たちの状況がどうであるかということではなく、神のみこころは何かということです。たとえ現実の状況が苦しくても、それが神のみこころなら、神は必ず答えてくださいます。ですから、私たちは神が願われることを知り、それを行わなければなりません。

私たちは4年前さくら市で開拓を始めるために、その場所が与えられるように祈っていました。当初はどこかを借りて始めようとしましたがふさわしい物件がなかったので、どのようにすべきかを祈っていたところ、さくら市総合運動公園の駐車場の前の土地(教会の建物がある土地)が示されました。しかし、資金が全くありませんでしたので、無理だと思っていたときに、このみことばが与えられました。

「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。」(民数記14:11)

これは、かつてイスラエルがエジプトを出てカデシュ・バルネヤに着いた時、モーセはカナンの地を偵察するために12人のスパイを遣わしたところ、その中の10人がその地の住人を恐れ、イスラエルの民に悪く言いふらしたことに対して、主が怒って言われたことばです。彼らはモーセにこう報告しました。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。・・あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」

しかし、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは違いました。彼らは他の偵察隊のことばを聞き、自分たちの衣を引き裂き、イスラエルの全会衆に向かって次のように言いました。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:6-9)

彼らは、主が私たちとともにおられるので大丈夫だ。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」と言ったのです。ヨシュアとカレブは、自分たちの力や置かれた状況ではなく主を見上げていたのです。

その結果、どうなりましたか。他の12人の偵察隊の声が大きかったので、イスラエルの民は上って行きませんでした。そして、40年間も荒野をさまようことになり、約束の地に入ることができませんでした。彼らの中ではただヨシュアとカレブだけが入ることができました。彼らが神のことばを信じなかったからです。彼らは自分たちの状況を見て、神の約束を信じなかったのです。

それで、私たちはいつまでも信じようとしない罪を悔い改めて祈りました。そして、主のみこころならば、主が必ず与えてくださると信じて祈ったとき、主が必要を満たしてくださいました。問題は、私たちが主の約束を見ないで、自分の置かれている状況を見てしまうことです。

ところで、6節に「アヒメレクの子エブヤタルは、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、エポデを携えていた。」とあります。エポデとは、大祭司が身に着けていた装束ですが、そのエポデの胸には、さばきの胸当てが付いていました。そこにはイスラエル12部族を表す12の宝石が埋め込められていましたが、その中に神のみこころを求めるウリムとトンミムというくじみたいなものがありました。ウリムが出たら「行け」、トンミムが出てら「行くな」というように、それで神のみこころがわかるようになっていました。エブヤタルはこのエポデを携えていたので、エポデの中にあったウリムとトンミムを使って、神のみこころを求めたのです。9節でダビデがエブヤタルに「エポデを持って来なさい。」と命じているのはそのためです。

しかし、私たちにはウリムとトンミムに代わる確かな神の導きがあります。それは神のみことばです。神のみことばを読みながら、神にみこころを求めるなら、主は必ずその道を示してくださいます。あとはそれを行うだけです。たとえ状況がどうであれ、神のみことばを通してみこころを求め、そのみこころに従いましょう。主は必ずあなたに勝利をもたらしてくださいますから。

Ⅱ.ケイラの裏切り(7-14)

次に、7-14節までをご覧ください。

「7 一方、ダビデがケイラに来たことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された。彼は扉とかんぬきのある町に入って、自分自身を閉じ込めてしまったのだから」と言った。8 サウルは、ケイラへ下ってダビデとその部下を攻めて封じ込めるため、兵をみな召集した。9 ダビデは、サウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」10 そしてダビデは言った。「イスラエルの神、主よ。しもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。11 ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、しもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ。どうか、しもべにお告げください。」主は言われた。「彼は下って来る。」12 ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」主は言われた。「彼らは引き渡す。」13 ダビデとその部下およそ六百人は立って、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラから逃れたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。14 ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」

一方、ダビデがケイラに来たことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された」と言って喜びました。これは単なる彼の誤解です。彼は霊的に盲目となっており、何でも自分に都合のよいように解釈する癖がありました。サウルの戦略は、ダビデをケイラの町に閉じ込めて捕らえるということだったのです。

ダビデは、サウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに「エポデを持って来るように」と言いました。ここでもダビデは主のみこころを求めたのです。ここでダビデが主に尋ねたことはどんなことだったでしょうか。ここで彼は二つのことを主に尋ねています。一つは、サウルがダビデのことでケイラに下ってくるかどうかということ、そしてもう一つのことは、ケイラの住民はダビデとその部下たちをサウルの手に引き渡すかどうかということでした。主の答えは何でしたか。「サウルは下ってくる」ということであり、ケイラの住民は、ダビデとその部下をサウルに引き渡すということでした。何ということでしょう。ケイラの住民はダビデに救ってもらったにもかかわらず、ダビデに対して真実ではありませんでした。それは恩を仇で返すような行為です。おそらく、彼らはあの祭司の町ノブの二の舞にだけはなのたくなかったのでしょう。自分たちを救ってくれたダビデではありましたが、何をするかわからないサウルの前に屈する形になったのです。

長い間荒野で逃亡生活をしていたダビデにとっては、ケイラの人々に頼って定着したいという思いがあったでしょうが、その願いは叶いませんでした。ダビデとその部下およそ600人は立って、ケイラから出て行き、そこここと、さまようことになりました。もう一度神だけに頼って、荒野に出て行かなければならなかったのです。しかし、それこそ完全な守りです。荒野には鉄の要塞はありませんが、神の要塞があります。神の完全な守りがあるのです。神に信頼するなら、たとえ死の陰の谷を歩くようなことがあっても恐れることはありません。神が守ってくださいますから。結局、神はダビデを捕らえようとするサウルの努力をすべてむなしいものとされました。ダビデがケイラから逃れたことを聞いたサウルは、討伐をやめました。彼は毎日ダビデを追い続けましたが、神はダビデをサウルの手には渡されなかったのです。

Ⅲ.仕切りの岩山(15-29)

次に、15-18節をご覧ください。

「15 ダビデは、サウルが自分のいのちを狙って、戦いに出て来たのを見た。そのとき、ダビデはジフの荒野のホレシュにいた。16 サウルの息子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに行って、神によってダビデを力づけた。17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。父サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。父サウルも、そうなることを確かに知っているのです。」18 二人主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家に帰った。」

サウルがダビデのいのちを狙って、戦いに出て来たとき、ダビデはジフの荒野のホレシュという所にいました。するとそこにサウルの息子ヨナタンが来て、神によってダビデを力づけました。彼はダビデに、父サウルの手が彼に及ぶことはないので、恐れることはないと言って励まし、ダビデこそイスラエルの王となり、自分は彼の次に立つ者となると告げています。つまり、ヨナタンは神の計画を完全に受け入れていたのです。サウルも、そうなることを確かに知っていましたが、サウルはその神の計画に反抗していました。ヨナタンの訪問は、ダビデにとってどれほどの励ましとなったことでしょう。挫折の中で経験するこのような励ましは格別なものです。ケイラからジフに戻ったダビデは、つらい時間を過ごしていました。そこは何も頼るところもない落胆するような寂しい所でした。神はそのようなダビデのところにヨナタンを遣わしてくださったのです。ヨナタンは神の特別な約束を伝え、ダビデを力づけました。ヨナタンの励ましよりダビデは、神に頼ってもう一度立ちあがることができたのです。

19-29節をご覧ください。

「19 ジフ人たちは、ギブアのサウルのところに上って行って、言った。「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。20 王よ。今、下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちが彼を王の手に引き渡します。」21 サウルは言った。「主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。22 さあ行って、さらに確かめてくれ。彼が足を運ぶ場所と、だれがそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いとの評判だから。23 彼が潜んでいる隠れ場所をみな、よく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻って来てくれ。そのとき、私はあなたがたと一緒に行く。彼がこの地にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を捜し出す。」24 彼らはサウルに先立ってジフへ行った。一方、ダビデとその部下は、エシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいた。25 サウルとその部下はダビデを捜しに出て行った。このことがダビデに知らされたので、彼は岩場に下り、マオンの荒野にとどまった。サウルはこれを聞き、マオンの荒野でダビデを追った。26 サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとした。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来たとき、27 一人の使者がサウルのもとに来て、「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました」と言った。28 サウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人の方に向かった。こういうわけで、この場所は「仕切りの岩山」と呼ばれた。29 ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ。」

ヨナタンの訪問によりダビデは再び勇気を得ますが、彼の置かれていた状況はさらに緊迫さを増していきます。ダビデが隠れていたジフの人々がギブアのサウルのところに上って行って、ダビデの様子を密告したからです。

「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。 王よ。今、下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちが彼を王の手に引き渡します。」(19-20)

ジフの人々もケイラの町の人々同様、祭司の町ノブの二の舞になるのを恐れたのでしょう。しかし、この裏切りはケイラの場合よりも悪いものでした。なぜなら、ジフ人たちは積極的にサウルのもとに上って行ったからです。サウルはその情報を聞いて非常に喜びました。そして、さらに正確な情報を得るために、よく調べてくれるようにと頼みました。

その頃、ダビデとその部下は、エシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいました。サウルとその部下はダビデを捜しに出て行き、マオンの荒野でダビデを追いました。サウルとその部下は山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進みました。両軍が出くわすのは、もはや時間の問題です。状況はとても緊迫していました。

そのとき、サウルのもとに一人の使者がやって来て、ペリシテ人がイスラエルに襲いかかって来たので、急いで来てくださいと告げました。そのため、サウルはやむなく引き返さなければならなくなりました。何とも言えないタイミングです。でもこれは決して偶然ではなく、神がなされた救いの御業でした。

詩篇54篇は、ダビデがこの時に歌った詩です。表題には、指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール。ジフの人たちが来て、サウルに「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか」と言ったときに、とあります。                                                                                                                                                                                                                   1 神よ あなたの御名によって私をお救いください。あなたの力強いみわざによって私を弁護してください。                2 神よ 私の祈りを聞いてください。私の口のことばに耳を傾けてください。                                                                         3 見知らぬ者たちが私に立ち向かい横暴な者たちが私のいのちを求めています。彼らは神を前にしていないのです。セラ                                                                                                                                                                                                                     4 見よ 神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方。                                                                                                               5 神は私を待ち伏せる者たちにわざわいをもって報いられます。あなたの真実によって彼らを滅ぼしてください。       6 私は心からのささげ物をもってあなたにいけにえを献げます。主よ あなたの御名に感謝します。すばらしい御名に。                                                                                                                                                                                                                  7 神がすべての苦難から私を救い出し私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。

この時ダビデは主の御名によって救いを求めました。「セラ」を区切りとして、前半が神への嘆願、後半が神への感謝となっています。ダビデは、祈りの中で、自らの祈りが答えられたという確信を得たのです。ダビデの祈りは、私たちの祈りでもあります。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われます。」(ローマ10:13)神の民であるクリスチャンは、最も絶望的な状況で、起死回生の奇跡を経験することができるのです。

この山は、「仕切りの岩山」と呼ばれました。その山が神のみわざの象徴となったからです。ダビデは神の保護を受け、そこを無事に脱出し、死海の西岸にあるエン・ゲディの要害に住みました。主はあなたの祈りにも答えてくださり、あなたをあらゆる危機から救い出してくださいます。どんな状況でも、この主に救いを求めて祈りましょう。

 

Ⅰサムエル記22章

今日は、サムエル記第一22章から学びます。

Ⅰ.ユダの地に帰りなさい(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。

「1 ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。彼の兄弟たちや父の家の者はみな、これを聞いてダビデのところに下って来た。2 そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。3 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどのようなことをされるか分かるまで、どうか、父と母をあなたがたと一緒に住まわせてください。」4 ダビデは両親をモアブの王の前に連れて来た。彼らは、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。5 預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」それで、ダビデはそこを出て、ハレテの森へやって来た。」

ペリシテ人の町ガテの王アキシュの手から救われたダビデは、そこを去って、アドラムの洞穴に避難しました。そこは、ベツレヘムの南西20㎞のところにありますが、ペリシテの領地とユダの領地の境にあり、周辺には多くのほら穴がありました。それらのほら穴は、ダビデが身を隠すのに格好の場所だったのです。                                          すると、そこへいろいろな人たちがやって来ました。まず、彼の家族たちです。サウルはダビデを殺そうとしていたのですから、彼の家族も殺そうとしていたのは明らかです。それで、ダビデがいるほら穴にやって来たのです。また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来ました。彼らはサウルの統治に不満があったり、見捨てられたり、困窮していた人たちで、彼らはダビデを指導者として認めていたのでしょう。彼らもダビデのもとに集まって来たので、ダビデは彼らの長となりました。その数約400人で、彼らもダビデとともにいるようになったのです。

ダビデはそこからモアブのミツパに行きました。モアブは異邦人の地でしたが、ダビデと無縁ではありませんでした。というのは、ダビデの先祖ルツがその地の出身だったからです。そういうこともあってダビデはモアブの地に行ったのではないかと思われます。                                                       ダビデは、モアブの地に行くとモアブの王に「神が私にどのようなことをされるか分かるまで、どうか、父と母をあなたがたと一緒に住まわせてください。」と願いました。年老いた両親にとって、モアブでの生活は過酷な環境だったので、モアブの王に保護を求めたのです。モアブの王はダビデの願いを受け入れ彼の両親を引き受けたので、両親はダビデがモアブの要害にいる間、王のもとに住みました。

すると、預言者ガドを通して主のことばがダビデにありました。それは、「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」というものでした。どういうことでしょうか。ユダの地に戻るということは、それだけ危険が増すことを意味していました。そこには自分のいのちをねらっていたサウルがいます。また、いつイスラエル人に見つけられてしまうかわかりません。事実、ダビデがノブの祭司アヒメレクのところへ逃れたとき、そこでエドム人ドエグに見つかったことで、この後で大惨事を招くことになります。それなのに、どうして主はユダの地に戻るように言われたのでしょうか。それは、彼が召されたのがユダの地であったからです。彼はそこで王として主に仕えるように召されたのであって、他の地ではありませんでした。それはちょうど主イエスが遣わされたのがイスラエルの地であって、異邦人の地ではなかったのと同じです。主イエスはそこで彼らの手によって十字架に付けられて死なれますが、それが神の救いのご計画でした。同じように、ダビデにとってユダの地に行くことは危険が伴うことですが、そこが彼にとって召された地であったのです。それは、私たちにも言えることです。どんなに危険な場所のように見えても、神が召された場所こそ最も安全な場所なのです。時には、どうして自分はここにいるんだろうと、神のみこころがわからなくなる時があるかもしれませんが、しかし、今置かれているところが神が召された所と信じて、神が示されるところで主に仕えなければなりません。もしなあたが主のみこころから離れているのなら、あなたにとっての「ユダの地」に帰らなければならないのです。

ダビデは、主のことばにどのように応答したでしょうか。彼は、そこを出て、ハレテの森へやって来ました。彼の従順は見事です。それが自らの身を危険にさらすことであっても、すぐに主のことばに従ったのです。私たちもダビデのように、主のみこころから離れているなら、私たちが本来いるところではないところにいるのなら、主のみこころに従ってユダの地に戻ろうではありませんか。

Ⅱ.エドム人ドエグの密告(6-10)

次に、6~10節までをご覧ください。

「6 サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかったことを聞いた。サウルはギブアにある高台のタマリスクの木の下で、槍を手にして座っていた。彼の家来たちはみな、彼のそばに立っていた。7 サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け、ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全員に畑やぶどう畑をくれたり、おまえたち全員を千人隊の長、百人隊の長にしたりするだろうか。8 それなのに、おまえたちはみな私に謀反を企てている。息子がエッサイの子と契約を結んでも、だれも私の耳に入れない。おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めることをせず、今日のように、息子が私のしもべを私に逆らわせて、待ち伏せさせても、私の耳に入れない。」9 サウルの家来たちのそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。10 アヒメレクは彼のために主に伺って、彼に食糧を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」」

一方、サウルは何をしていたでしょうか。サウルは、ギブアにある高台のタマリスクの木の下で、槍を手にして座っていました。「タマリスク」とは、別訳「ぎょりゅう」(御柳)とありますが、柳の木のことです。高さは5~8mあり、赤みを帯びた細い枝が長く伸びるのが特徴だそうです。そこで槍を手にして座っていたというのは、いつでもダビデを殺すことができるように準備していたということです。彼のそばには彼の家来たちがいましたが、その家来たちにこんな愚痴を言っていました。7節と8節をご覧ください。

彼は、「聞け、ベニヤミン人。」と呼びかけています。ベニヤミンはサウルの出身地です。自分と同じ出身地の者で家来をかためていたようですが、そのベニヤミンの人たちに対して、ダビデが王になったとしても、彼らに畑やぶどう畑を与えたり、千人隊の長や百人隊の長にしたりしないのに、どうして自分に謀反を企てるのかというのです。だれもダビデのことを自分の耳に入れてくれないし、息子のヨナタンがダビデをけしかけて自分にはむかわせているのに、それも知らせてくれないというのです。だれも自分のことを思って心を痛めることをしないと嘆いています。この時のサウルは、かなりの被害妄想というか、自己憐憫に陥っていました。神に反逆し続けると、正しい判断ができなくなり、ついには周りの者すべてが敵に見えてくるのです。友人が周りにいないサウルは、実に惨めな状態でした。

そんな時、サウルの家来たちのそばに立っていたエドム人ドエグが、ノブの祭司アヒメレクのところにいたとき、そこでダビデを見たことを告げました。ただ見たというのではありません。アヒメレクがダビデのために主に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えたと言いました。サウルの家来たちは、サウル王のしていることは良くないことを知っていたので黙っていましたが、神をも、イスラエルをも顧みないドエグは、ここぞ!とばかりに、サウルに協力しました。このドエグの発言は、祭司アヒメレクを危険に陥れるものでした。その結果、アヒメレク以下ノブの町の祭司たちが、サウルによって虐殺されることになります。不意に発した言葉が、このような凶器になり得るのです。ヤコブは、舌は人生の車輪を焼き尽くし(3:6)、死の毒で満ちている(3:8)と言っていますが、私たちの舌は、これほど大きな影響を及ぼすということを覚え、自らの舌をしっかりと制御しなければなりません。

Ⅲ.神を恐れ、神に信頼して(11-23)

最後に、11節から終わりまでを見ていきたいと思います。19節までをご覧ください。

「11 王は人を遣わして、祭司アヒトブの子アヒメレクと、彼の父の家の者全員、すなわち、ノブにいる祭司たちを呼び寄せた。彼らはみな、王のところに来た。12 サウルは言った。「聞け、アヒトブの子よ。」彼は答えた。「はい、王様。ここにおります。」13 サウルは彼に言った。「おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンと剣を与え、彼のために神に伺い、そうして彼は今日のように私に逆らって待ち伏せしている。」14 アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来の中に、ダビデほど忠実な者が、だれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛兵の長であり、あなたの家で重んじられているではありませんか。15 私が彼のために神に伺うのは、今日に始まったことでしょうか。決して、そんなことはありません。王様。このしもべや、父の家の者全員に汚名を着せないでください。あなたのしもべは、この事件について、いっさい知らないのですから。」16 王は言った。「アヒメレク、おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全員もだ。」17 王は、そばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、主の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、ダビデが逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、主の祭司たちに手を下して討ちかかろうとはしなかった。18 王はドエグに言った。「おまえが行って祭司たちに討ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが行って、祭司たちに討ちかかった。その日彼は、亜麻布のエポデを着ていた人を八十五人殺した。19 彼は祭司の町ノブを、男も女も、幼子も乳飲み子も、剣の刃で討った。牛もろばも羊も、剣の刃で。」

早速サウル王は人を遣わして、祭司たちを全員自分のところに呼び寄せました。そして、アヒメレクがダビデにパンと剣を与え、自分に逆らっていることを責めました。それに対してアヒメレクは熱心に、しかも順序だててダビデを弁護し、さらに自らの潔白も主張しましたが、サウルは聞く耳を持ちませんでした。そして、「アヒメレク、おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全員もだ。」と宣言し、そばに立っていた近衛兵たちに処刑するように命じましたが、さすがに近衛兵たちは、主に油注がれた祭司を殺すことなんてできませんでした。彼らを殺すということは、無実の者を殺すこと以上に、重大な意味があったからです。

そこでサウルは、エドム人ドエグに死刑の執行を命じました。彼はエドム人でしたから、主を恐れることを知らない男でした。それで彼はその場で祭司85人を虐殺し、さらに、祭司の町ノブを打ち、男も女も、幼子も乳飲み子も、牛やろば、羊も、剣の刃で討ちました。何ということでしょうか。このような虐殺ができること自体信じられませんが、いったいどうして彼は平気にこんなことができたのでしょうか。それは、サウルにせよ、ドエグにせよ、神を恐れていなかったからです。

ダビデはこの事件に関して、詩篇52篇を書いています。表題には、「指揮者のために。ダビデのマスキール。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたときに。」とあります。ですから、これはまさにドエグがサウルに密告した時のことについて書いた詩なのです。

「1 勇士よ なぜおまえは悪を誇りとするのか。神の恵みはいつもある。                     2 欺く者よ おまえの舌は破壊を企む。まるで鋭い刃物のように。                            3 おまえは善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している。セラ                           4 欺きの舌よ おまえはあらゆる滅びのことばを愛している。                                           5 だが神はおまえを打ち砕いて倒し 幕屋からおまえを引き抜かれる。生ける者の地からおまえは根絶やしにされる。セラ                                                                      6 正しい人たちは見て恐れ 彼に向かって笑う。                                              7 「見よ 彼こそは神を力とせず自分の大きな富に頼り 破滅のわざを勝ち誇る者。」                                 8 しかし私は神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む。                              9 私はとこしえに感謝します。あなたのみわざのゆえに。私はあなたにある敬虔な人たちの前で すばらしいあなたの御名を待ち望みます。」

サウルに密告したドエグの舌は破壊を企みました。まるで鋭い刃物のように。彼の舌は義よりも偽りを愛していました。あらゆる滅びのことばを愛していました。いったい何が問題だったのでしょうか。7節でダビデはこう言っています。「見よ 彼こそは神を力とせず 自分の大きな富に頼り 破滅のわざを勝ち誇る者。」そうです、彼は神を力とせず、自分の大きな富に頼り、破滅のわざを勝ち誇っていました。神を恐れていなかったのです。それであれほど悪魔的になれたのです。彼らには、あわれみのひとかけらもありませんでした。神に背を向けた者が、いかに悪魔的になれるかという例がここにあります。それは彼らだけではなく、すべての人に言えることです。神を恐れず、自分を神とするなら、そこには破滅しかありません。今の北朝鮮にも同じことが言えるでしょう。原因は同じです。神を神としないこと、神を恐れていないことです。そのような者に対して、神は黙ってはおられません。そんな彼らを討ち砕いて倒し、幕屋から引き抜かれると宣言しておられます。また、生ける者の地から、完全に根絶やしにされるのです。

しかし、神を恐れ、神に信頼して歩む者は違います。そういう人は、神の家に生い茂るオリーブの木であり、豊かないのちがもたらされます。私たちはサウルやドエグのように神を恐れない者にならないで、ダビデのように神を恐れ、神の家に生い茂るオリーブの木のようにさせていただこうではありませんか。

最後に、20~23節を見て終わりたいと思います。

「20 アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、一人逃れてダビデのところに逃げて来た。21 エブヤタルはダビデに、サウルが主の祭司たちを殺したことを告げた。22 ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、彼がきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全員の死を引き起こしたのだ。23 私と一緒にいなさい。恐れることはない。私のいのちを狙う者は、あなたのいのちを狙う。しかし私と一緒にいれば、あなたは安全だ。」」

ドエグの殺戮からのがれることができた人が一人いました。祭司アヒメレクの息子のエブヤタルです。「エブヤタル」という名前の意味は、「父は豊かに与える」とか、「父は豊かである」という意味です。彼はダビデのところに来て、サウルがドエグを使って祭司たちを虐殺したことを告げました。するとダビデは、その原因は自分にあると認め、自分の責任を感じて、彼に、「私と一緒にいなさい。恐れることはない。私のいのちを狙う者は、あなたのいのちを狙う。しかし私と一緒にいれば、あなたは安全だ。」と言いました。彼の保護を申し出て、その身の安全を保証したのです。ダビデは、自分の上に神の守りがあること、また、自分といっしょにいれば、彼は大丈夫であると確信していたのです。

私たちにも、ダビデの子として来られた主イエスがおられます。主イエスとともにいるなら、私たちの歩みは守られます。あなたはどうでしょうか。主イエスに助けを求め、その守りの中を歩んでいますか。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)この方に守ってくださると信じ、この方に信頼して歩みましょう。

Ⅰサムエル記21章

サムエル記第一21章から学びます。

Ⅰ.ノブの祭司アヒメレクのところに逃れたダビデ(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。

「1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」5 ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」6 祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。7 ──その日、そこにはサウルのしもべの一人が主の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった──8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまりに急だったので。」9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」

前回は、ダビデとヨナタンの契約について学びました。ヨナタンは、サウルがダビデを殺そうとしていることがわかったらそのことをダビデに告げると約束しました。そのしるしは何でしたか。それは、ヨナタンが射る3本の矢でした。矢が、連れて来た小さな子どもよりも手前に落ちれば大丈夫。ダビデが殺されることはありません。しかし、矢がその子の向こう側に落ちれば、サウルが殺そうとしているサインでした。矢はどちら側に落ちましたか。向こう側に落ちました。すなわち、サウルはダビデを殺そうとしていのです。それでダビデはその場を去って行きますが、二人は別れ際熱い抱擁を交わし、激しく泣きました。それでダビデは立ち去り、ヨナタンは町へ帰って行きました。

ヨナタンと別れたダビデは、どこへ逃れたでしょうか。1節には、「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。」とあります。ノブは、エルサレムの北方にあったベニヤミンの町です。この町は、当時の都であったサウルがいたギブアからダビデの故郷ベツレヘムに向かう途中にありました。それまで幕屋はシロにありましたが、シロが破壊されて以降、短期間ですが、ここに幕屋が置かれていました。そのためここは、「祭司の町」と呼ばれていたのです。サウルのもとから逃れたダビデは、このノブの祭司アヒメレクのところに来たのですが、ダビデがたった一人で来たので、アヒメレクは異変を感じました。ダビデほどの身分の者が、ひとりで旅をするなど考えられなかったからです。

そこで、「なぜ、お一人で、だれもお伴がいないのですか。」と尋ねると、ダビデは、「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。」と答えました。まさか、サウルが自分を殺そうとしているなんて、とても言えなかったのでしょう。それで、彼は逃亡の途中で何も食べておらずお腹が空いていたので、「お手元に何かあったら、パン五つでも、ある物をください。」と言いました。

すると祭司は、普通のパンはないけれども、聖別されたパンならあると答えました。「聖別されたパン」とは、幕屋の聖所にある机の上に置かれた臨在のパンのことです。しかし、このパンは儀式的に汚れた者は食べられないので、ダビデとその部下たちが汚れていないことを確かめる必要がありました。それはレビ記15:16~18に、このような規定があったからです。「男が精を漏らしたときは全身に水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。精が付いた衣服と皮はすべて、水で洗う。それは夕方まで汚れる。男が女と寝て交わったなら、二人はともに水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。」

これは、必ずしも道徳的な意味での性的汚れのことについて言われているのではなく、自分の妻と寝たことも意味しています。勿論、ダビデは逃亡の途中でしたから、そのような関係はなかったし、普通の旅でもそうですから、まして今はそういうことは全くないと答えると、祭司アヒメレクは、聖別されたパンを与えました。

新約聖書の中で、イエス様がこの出来事について言及しています。マタイ12:3-4に、イエス様が安息日に麦畑を通られたとき同行していた弟子たちがひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めると、パリサイ人たちがやってきて、安息日にそれを食べたということを非難すると、イエス様はこう言われました。「3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。」(マタイ12:3-4)

臨在のパンは、本来なら祭司以外に食べることはできませんでしたが、主は、人間の基本的な必要を満たすというあわれみの行為が、そうした祭司についての規定よりも優先されることがあると教えられたのです。神の律法は、人を束縛するためのものではなく、人を生かすために与えられたものです。祭司アヒメレクは、律法よりもあわれみを重視したのです。そして、イエス様は彼のこの態度を支持されたのです。

あなたは、神の戒めにがんじがらめになり、その神の戒めが本来目指している意味を見失っているということはないでしょうか。神の御言葉に生きるものとして、神が本来願っている思いを汲み取り、神のみこころに歩ませていただきましょう。

Ⅱ.信仰が揺らぐとき(7-9)

次に、7~9節までをご覧ください。

「7 ──その日、そこにはサウルのしもべの一人が主の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった──8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまりに急だったので。」9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」」

その日、そこにはサウルのしもべの一人、エドム人でドエグという人物が、主の前に引き止められていました。主の前に引き止められていたというのは、主の幕屋に来て、礼拝の儀式に参加していたということです。彼はサウルの牧者たちの長でした。彼はエドム人とありますが、エドム人の先祖はヤコブの兄エサウです。彼らはずっとイスラエルに敵対してきましたが、彼もまた例外ではありません。そんな彼が、どうして主の幕屋に来ていたのでしょうか。恐らく、戦争によって奴隷となっていたのでしょう。その彼が、清めか、請願のために、幕屋に来ていたのです。もちろん、真の信仰心をもってそこに来ていたのではありません。サウルの下で働くために義務として来ていたのです。このドエグの密告により、後にこの祭司の町ノブに大虐殺の惨事が起こります(Ⅰサムエル22章)。

ダビデは、アヒメレクに言いました。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。」どういうことでしょうか。ダビデは逃げている身ですから、当然ながら護身用の武具が必要ですが、なかったのです。それで槍か剣はないかと聞いたのです。でも、思い出してください。彼がペリシテ人ゴリヤテと戦った時のことを。あの時彼は、そのような武具を何一つ持っていませんでした。彼が持っていたのはたった一つの石投げだけでした。それだけでゴリヤテを倒すことができました。彼は、万軍の主の御名によって、立ち向かいました。主が救いをもたらすと確信していたからです。それなのにここでは護身用の武具を求めています。なぜでしょうか。それは、彼の信仰が揺らいでいたからです。彼は自己保身のためにアヒメレクに嘘をつきました。また、パンのほかに武具も求めました。そして、ゴリヤテの剣がそこにあることを知ると、それを喜んで受け取りました。後になってダビデは、このときの失敗を大いに後悔しています。私たちの信仰も揺らぐことがあります。そのような時、このダビデの失敗を思い出しましょう。そして、ただ主イエスだけに信頼して歩みましょう。

Ⅲ.きちがいを装ったダビデ(10-15)

次に10~15節までをご覧ください。

「10 ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た。11 アキシュの家来たちはアキシュに言った。「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。13 ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした。14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見ているように、この男は気がふれている。なぜ、私のところに連れて来たのか。15 私のところに気がふれた者が不足しているとでもいうのか。私の前で気がふれているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」」

ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテのアキシュのところに来ました。ガテは、ペリシテ人の五大都市の一つで、ゴリヤテの領地にありました。ダビデはそこにゴリヤテの剣を持って行ったのです。なぜガテに行ったのでしょうか。それは、イスラエルには彼のいる場所がなかったからです。彼にとってイスラエルの地は、自分の敵であるサウルが支配していたので、危険がありました。そこでペリシテ人のところへ行きました。神を愛し、またイスラエルを愛しているダビデが、宿敵ペリシテ人の地に行かなければならないというのは、どれほど屈辱的なことだったでしょうか。でも、自分の身を守るためにはそうせざるを得ませんでした。恐らくガテの地で、匿名で身を潜めていたら大丈夫だろうと思ったのかもしれません。

しかし、ダビデの正体は、すぐにアキシュの人たちにばれてしまいました。彼らは、ペリシテ人の英雄ゴリヤテを、石投げ一つで打ち倒したダビデのことをよく覚えていたのです。正体がばれてしまったダビデはどうしたでしょうか。彼は、アキシュの家来たちが「「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」ということばを聞いて、空き主を非常に恐れました。この時の彼の心境が、詩篇56篇にあります。

指揮者のために。「遠くの人の、もの言わぬ鳩」の調べにのせて。ダビデによる。ミクタム。ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたときに。

56:1 神よ私をあわれんでください。人が私を踏みつけ一日中戦って私を虐げているからです。

56:2 私の敵は一日中私を踏みつけています。高ぶって私に戦いを挑む者が多いのです。

56:3 心に恐れを覚える日私はあなたに信頼します。

56:4 神にあって私はみことばをほめたたえます。神に信頼し私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。

56:5 一日中彼らは私のことを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな私に対する悪です。

56:6 彼らは襲おうとして待ち伏せし私の跡をつけています。私のいのちを狙って。

56:7 不法があるのに彼らを見逃されるのですか。神よ御怒りで国々の民を打ち倒してください。

56:8 あなたは私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。それともあなたの書に記されていないのですか。

56:9 そのとき私の敵は退きます。私が呼び求める日に。私は知っています。神が味方であることを。

56:10 神にあって私はみことばをほめたたえます。主にあって私はみことばをほめたたえます。

56:11 神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。

56:12 神よあなたへの誓いは私の上にあります。感謝のいけにえであなたにそれを果たします。

56:13 まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに神の御前に歩むために。

これを見ると、確かに彼は心に恐れを覚えていましたが、それでも主に信頼していたのがわかります。彼は4節で、「神にあって私はみことばをほめたたえます。神に信頼し私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。」と言っています。その窮地から救い出してくださいと祈っていたのです。不信仰になりノブの祭司アヒメレクに偽りを言った人を悔改めたダビデは、敵に捕らえられた時に神をほめたたえていたのです。

それで彼はどのような態度を取ったでしょうか。きちがいを装いました。門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりして、おかしくなったかのようにふるまったのです。それを見たガテの王アキシュは家来たちに言いました。「おい、おまえたちも見ているように、この男は気がふれている。なぜ、私のところに連れて来たのか。私のところに気がふれた者が不足しているとでもいうのか。私の前で気がふれているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

結局、ただのきちがいに思われて、相手にされませんでした。よほど演技が上手かったのでしょうか。私などは演技が出来ないからダメです。絶対に役者にはなれないと思っています。どうやってあのような演技ができるのかと感心します。ドラマを見ている家内の顔を見ると、もうその世界に吸い込まれています。役者ってすごいですね。でもこの時のダビデの演技はそれ以上でした。ここまでやれるというのはすごいです。それにして、彼はどうしてこのような態度を取ったのでしょうか。多くの学者は、ダビデが不信仰に陥り、このような態度を取ってしまたと考えていますが、詩篇34篇をみるとそうでなかったことがわかります。

詩篇34篇の表題には、「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。」とあります。

34:1 私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。

34:2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

34:3 私とともに主をほめよ。一つになって御名をあがめよう。

34:4 私が主を求めると主は答えすべての恐怖から私を救い出してくださった。

34:5 主を仰ぎ見ると彼らは輝いた。彼らの顔は辱められることがない。

34:6 この苦しむ者が呼ぶと主は聞かれすべての苦難から救ってくださった。

34:7 主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出される。

34:8 味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。

34:9 主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。

34:10 若い獅子も乏しくなり飢える。しかし主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。

34:11 来なさい。子たちよ私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。

34:12 いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと日数の多いことを愛する人は。

34:13 あなたの舌に悪口を言わせず唇に欺きを語らせるな。

34:14 悪を離れて善を行い平和を求めそれを追い続けよ。

34:15 主の目は正しい人たちの上にあり主の耳は彼らの叫びに傾けられる。

34:16 主の御顔は悪をなす者どもに敵対し主は彼らの記憶を地から消し去られる。

34:17 苦しむ者が叫ぶと主は聞かれそのすべての苦難から救い出してくださる。

34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。

34:19 正しい人には苦しみが多い。しかし主はそのすべてから救い出してくださる。

34:20 主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない。

34:21 悪は悪しき者を殺し正しい人を憎む者は責めを負う。

34:22 主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける人はだれも責めを負わない。

これはちょうどダビデがアビメレクの前できちがいを装い、彼に追われて去ったときに歌った歌です。1節で彼は、「私はあらゆるときに 主をほめたたえる」と言っています。良い時だけではありません。悪い時も、あらゆるときです。あらゆるときに主をほめたたえていました。なぜでしょうか?彼が主に信頼していたからです。彼が主を求めると 主は答え、すべての恐怖から救い出してくださいました。彼は、主がすべての苦しみから救ってくださると信じていました。どのように?主はご自身の使いを送り、主を恐れる者の周りに陣を張り、助け出されるのです。もちろん、非常な恐れがあったのは確かです。そのような中でこのようにふるまうことがたできたのは、それは彼の信仰の祈りに対する神の答えであり、神の知恵と力によるものでした。まさかこのようにして助け出されるなんて、だれが考えることができるでしょう。ダビデは、その主の恵み深さを体験し、主に対する感謝をこの詩篇に表したのです。

私たちの人生にも、このような窮地に追い込まれる時があります。その時ダビデのように、あらゆるときに、主をほめたたえる者でありたいと願わされます。その口には、いつも主への賛美があると。そして、その主の目気味をいつも味わい、見つめることができますように。また、このような苦難の中でこそ、麗しい賛美が生まれました。もしダビデがこの苦難に遭っていなければ、この詩篇は生まれていなかったでしょう。今週の礼拝でも、ヨハネ16:7のみことばから、「去って行くことは益になる」と教えられました。何かを失うことは、新しい何かを受ける時でもあるのです。まさにダビデの苦難は、このような麗しい賛美が生まれる時でもありました。私たちの人生で遭遇する苦難も、このように麗しいものが生み出される原動力となるということを覚え、あらゆるときに主をほめたたえましょう。まことに、主に身を避ける人は幸いな人なのです。

Ⅰサムエル記20章

サムエル記第一20章から学びます。サウルはダビデを殺そうとしたので、ダビデは、ラマのサムエルのところに行きました。ダビデがサムエルのところにいるということを聞いたサウルは、ダビデを捕らえようと使者たちを遣わしましたが、神の霊が彼らの上に臨み、彼らは預言しました。そんなことが三度続いたので、サウルは自らラマのサムエルのところに来ましたが、何と今度はサウル自身が預言し、一昼夜、裸のまま倒れているという有様でした。預言するとは、神のことばを預言することなので良いことですが、ここでは残念ながら神の裁きを示していました。サウルがダビデを殺そうとしていたので、神はご自身の霊をサウルに送って預言させ、ダビデを殺せないようにしたのです。今回は、その続きです。

Ⅰ.3本の矢のサイン(1-23)

まず、1~23節までをご覧ください。まず4節までをお読みします。

「1 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」2 ヨナタンは彼に言った。「とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は、事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」3 ダビデはなおも誓って言った。「父上は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」4 ヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」

ダビデは、サウルが裸のまま地に倒れている間に、ラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て窮状を訴えました。「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」

驚いたのは、ヨナタンです。彼は、父サウルからそのようなことを聞いていませんでした。もしそのようなことがあれば、サウルがヨナタンに話さないわけがありません。しかし、実際のところは、サウルはヨナタンとダビデの友情関係を知っていたので、ヨナタンが悲しまないように、何も話さないでダビデを殺そうしていたのです。それは死と隣り合わせのような状態でした。ダビデはここで、「私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません」(3)と言っています。

するとヨナタンは、目が覚めたかのように、ダビデに言いました。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」(4)

そこでダビデはある提案をしました。5~8節にある内容です。

「5 ダビデはヨナタンに言った。「明日はちょうど新月祭で、私は王と一緒に食事の席に着かなければなりません。でも、私を行かせて、三日目の夕方まで、野に隠れさせてください。6 もし、父上が私のことをとがめたら、おっしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえを献げることになっているからです』と。7 もし父上が『良し』とおっしゃれば、あなたのしもべは安全です。もし激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。主に誓って、しもべと契約を結んでくださったのですから。もし私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして父上のところにまで、私を連れ出す必要があるでしょうか。」

それは、翌日から始まる新月祭りで、本当にサウルがダビデを殺そうとしているのかを確かめようというものでした。ダビデは、新月祭の祝いの席を無断で欠席するので、もしサウルがそれをとがめるなら、それはダビデに対して殺意を抱いているという証拠だというのです。

ダビデとヨナタンは、友情の契約関係を結んでいました。だからもしダビデに何らかの咎があれば、サウルよりもむしろヨナタンに自分を殺してほしいと言いました。ダビデは、それほど主の前で誓った契約に忠実に歩む人物でした。

そこでヨナタンは、もし父サウルがダビデに害を加えようとしていることがわかったら、必ず知らせると約束しました。9~11節です。

「9 ヨナタンは言った。「とんでもないことです。父があなたに害を加える決心をしていることが確かに分かったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が厳しい返事をなさったら、だれが私に知らせてくださいますか。」11 ヨナタンはダビデに言った。「野に出ましょう。」それで、二人は野に出た。

10節でダビデが言っていることは、伝えると言っても、どうやって伝えるのか、ということです。もしサウルが厳しい返事をしたら、だれが自分に知らせてくれるのか。もしかすると、その知らせを持ってくる使者もまた自分に対して厳しい態度をするのではないかと不安になったのです。

するとヨナタンはダビデに言いました。「野に出ましょう。」それで二人は野に出ました。どういうことでしょうか。ヨナタンは、二人きりで話が出来るように、また、リラックスして話が出来るようにダビデを町の外に誘ったのです。

12~16節までご覧ください。

「12 ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、主にかけて誓います。明日かあさっての今ごろまでに、父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。寛大でなければ、必ず人を遣わして、あなたの耳に入れます。13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。14 もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、主の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。15 しかし、あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。主がダビデの敵を地の面から一人残らず断たれるときにも。」16 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。」

ヨナタンは、父サウルの意志を確かめ、もし父がダビデに対して殺意を抱いているなら、必ずダビデを逃がすようにすると約束します。もしそのことをダビデの耳に入れず、ダビデを無事に逃がさなかったら、主が自分を幾重にも罰せられるようにと言っています。そして、たとえ自分が死ぬようなことがあったとしても、自分の家には恵みを施してほしいと懇願しました。どういうことでしょうか。ヨナタンは、この時、ダビデこそ次の時代の王として選ばれた器であると信じていたのです。普通、王位がある人から他の人に移ると、新しく王になった者は、残された王の家族をみな殺します。王位を取り戻そうとして、自分に反逆する可能性があるからです。ですからヨナタンは、たとえ王位がダビデに移っても、「あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください」とお願いしたのです。これは、後にサウルとヨナタンが死んでから、ヨナタンの子メフィボシェテによって実現します(Ⅱサムエル9章)。ヨナタンがダビデの家と契約を結んだのはそのためでしょう。

17節をご覧ください。

「17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。」

ヨナタンとダビデには、このような堅い結束がありました。友としての愛がありました。ここには、「ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していた」(17)とあります。それは、サウルとの敵対関係によって、反故にされることはありませんでした。これはちょうど、イエス様と私たちの関係と同じです。イエス様は弟子たちにこう言われました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:13-14)イエス様は、私たちを「友」と呼んでくださいました。そして、その友のためにいのちを捨ててくださったのです。私たちがいかに大きな失敗をしようとも、失敗して罪を犯してしまっても、主の愛にとどまるなら、主の愛に立ち戻るならば、主は決して私たちを見放すことはなく、いつまでも愛してくださるのです。ここに友としての愛があります。ヨナタンもそのような愛をもってダビデを愛していました。

18~23節をご覧ください。

「ヨナタンはダビデに言った。「明日は新月祭です。あなたの席が空くので、あなたがいないことが分かるでしょう。19 三日目に、日が暮れてから、あの事件の日に隠れた場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。20 私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。21 私が子どもを遣わして、『行って、矢を見つけて来い』と言い、もし子どもに『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い』と言ったら、出て来てください。主は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。22 しかし、私が少年に『それ、矢はおまえの向こう側だ』と言ったら、行ってください。主があなたを去らせるのです。23 私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたの間の永遠の証人です。」

ヨナタンはダビデに言いました。明日は新月祭なので、ダビデの席が空いていれば、そのことにサウルが気付くでしょう。そのときサウルがどのような態度を取るのか。もしサウルがダビデを殺そうとしていることがわかったら、そのことをダビデに知らせるというのです。そのしるしは何ですか。3本の矢です。ヨナタンが父サウルの意図を確かめた後で、3本の矢をサインとして射るというのです。その矢が連れて来た子どもたちよりも手前に落ちたら、それは安心して出て来て良いというサインです。けれども、もしその矢が子どもたちよりも向こうに落ちたら、危険であるというサインになります。ヨナタンは、「私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたの間の永遠の証人です。」(23)と言いました。もしどちらかが契約を破ったら、主の罰を受けても当然です、という意味です。

ヨナタンは、ダビデが真実で、愛に富んだ人物であることを信じていました。彼は、自分の王位を失うことがあっても、ダビデを信頼したのです。もしヨナタンがそれほどにダビデを信頼したのであれば、私たちがダビデの子であるイエス様に全幅の信頼を置くのは当然ではないでしょうか。イエス様はいのちをかけて私たちを愛してくださいました。この方に信頼し、従い続けましょう。

Ⅱ.サウルの怒り(24-34)

次に、24~34節までをご覧ください。

「24 ダビデは野に隠れた。新月祭になって、王は食事の席に着いた。25 王は、いつものように自分の席、つまり壁寄りの席に着いた。ヨナタンはその向かい側、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの席は空いていた。26 しかし、その日、サウルは何も言わなかった。「思わぬことが起こって身を汚したのだろう。きっと汚れているためだろう」と思ったからであった。27 しかし、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデの席は空いていた。サウルは息子のヨナタンに言った。「どうしてエッサイの子は、昨日も今日も食事に来なかったのか。」28 ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。29 『どうか、私を行かせてください。氏族の祝宴がその町であります。長兄が命じているのです。今、あなたのご好意を得ているなら、どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください』と言ったのです。それで彼は王の食卓に来ていないのです。」30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである。」

いよいよ新月祭になって、サウル王は食事の席に着きました。向かい側にヨナタン、アブネルはサウルの横の席、ダビデの席は空いていました。しかし、サウルはダビデの席が空席であることをあまり気にしませんでした。思わぬことが起こって身を汚したのだろうと思ったからです。この食事は儀式的なものであり、身を清めでからでないと食べることができませんでした。ですから、サウルはダビデが身を汚したのだろうと思ったのです。

ところが、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデは姿を現わしませんでした。それでサウルかそのことをヨナタンに尋ねると、ダビデがベツレヘムに行かせてほしいと自分にしきりに頼んだのでそれを許可したと答えました。

するとサウルはカンカンに怒りました。それはヨナタンのせいでダビデを殺す機会を失ってしまったからです。サウルは息子ヨナタンを汚い言葉で罵倒しました。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」サウルは、自分の家から王位が離れて、ダビデの家に行くではないかと心配したのです。

しかし、そんなことおかまいなしに、ヨナタンは率直に自分の思いを父サウルにぶつけます。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」

するとサウルは、槍を投げつけてヨナタンを撃ち殺そうとしました。それでヨナタンは、父サウルがダビデを殺そうとしていることを知りました。ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がると、新月祭の二日目の食事を取りませんでした。サウルがダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからです。

ヨナタンは、自分がどんなに厳しい状況に追い込まれようとも、神のしもべダビデの側に付きました。神のしもべの側に付き、その人を支援することは、大きな祝福をもたらします。一時的に不利な状況になり、それがいかに危険で犠牲が伴うように見えても、最終的には必ず神の祝福を受けることになります。

昨年の夏に、那須のぞみ教会に来会した香港チームのイングリッド姉から、香港の自由のために祈ってほしいというメールがありました。ご存知のように、中国は先の全人代で国家安全法制の導入を決定したことで、この法が香港市民の権利や言論の自由、宗教の自由に大きな制限を与えると危機感から、反対しているわけですが、その中でイングリッド姉はこう言っています。

「主よ。トンネルの中の私たちはトンネルの中で過ごしていて、向こうの光が見えないでいます。我らをパウロみたいに主の力を信じ、『夜は深まり、昼が近づきました』の景色が見えるように助けてください。歴史の中でどんなに邪悪な政権でも最後まで暴れたことはありません。荒淫(こういん)で道徳がない紂王(ちゅうおう)、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)をした、始皇帝、アッシリア、バビロン、ローマ、ナチスなど、そして権力に依存する無数の平凡な悪者は、どんなことを企て図っても、主は必ず彼らをあざけり、憤りをもって彼らに語るであろう。ですから、私たちは主に祈りを捧げます。私たちや平和を求める人たちを助けてください。私たちが光の兵器、知恵や勇気をもって困難の中でも忍耐をもって、神様を待ち望むことができるように。」

あなたはどうですか。あなたは、神を恐れ、神を信じる人たちとともに歩んでいるでしょうか。表面的で一時的な雰囲気に呑みこまれないように、いつも主と主のことばに信頼しましょう。

Ⅲ.ダビデとヨナタンの別れ(35~42)

最後に、35~42節までを見て終わりたいと思います。

「35 朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行った。36 そして子どもに言った。「走って行って、私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。37 子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」38 ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。39 子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味が分かっていた。40 ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。41 子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。42 ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。」

翌朝、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行きました。父サウルの意志を伝えるためです。伝える方法は、3本の矢のサインでした。自分の放つ矢が、子どもより手前に落ちたら大丈夫。向こうに落ちたら、サウルがダビデを殺そうとしているというサインでした。ヨナタンが放った矢は、その子の向こう側に落ちました。そして、叫びました。「矢は、おまえよりも、もっと向こうではないか。」「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」それは、ダビデに早く逃げるようにというメッセージでした。子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけが、その意味を分かっていました。

ヨナタンがその場から子どもを立ち去らせると、ダビデは南側から出て来て、地にひれ伏し、三度礼をしました。二人は口づけし、抱き合って、泣きました。ダビデはいっそう激しく泣きました。この別離は、ふたりにとって非常に辛いものでした。もしかすると、もう会えないかもしれません。そう思うとより一層悲しみがこみ上げて来たのでしょう。

最後にヨナタンはダビデにこう言いました。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」(42)どういうことでしょうか。

ヨナタンはここで、決してダビデを裏切らないという約束をします。それは彼らだけのことではなく、彼らの子孫におけるまでの永遠の誓いです。ダビデは、自分が王になっても、ヨナタンの家系を抹消しないと約束しました。そしてダビデはこれを最後まで守ります。

これが神様との契約です。私たちは言葉や約束が軽く扱われる時代に住んでいます。約束は破るためにある・・とか。そのため、聖書に書かれてある約束についても、その重さをなかなか理解することができないのです。しかし、聖書の約束は非常に重いものがあります。神の約束は永遠に破棄されることはありません。キリストの血によって結ばれた神との契約は、どんなことがあっても破られることはないのです。私たちの状況によってコロコロと変わるものではないのです。

私の好きな聖書の言葉に、「永遠の腕が下に。」という言葉があります。申命記33:27です。「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。神はあなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じられた。」

神は、イスラエルを助けるために雲に乗って来られます。彼らの下には永遠の腕があり、支えられていました。それは私たちも同じです。私たちはキリストの血によって神と永遠の契約を結びました。どんなに自分がだめでも、私たちの下にはいつもこの永遠の腕があるのです。この永遠の腕によって守られているのです。それは何かあって破られるようなものではありません。私たちが何か間違いを犯したからと無効になってしまうようなものではないのです。これは永遠の契約です。イエス様はこう言われました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(ヨハネ10:28)

私たちの下にはこの永遠の腕があることを覚えて、大きな慰めと励ましを受けながら、神の国とその義を求めてこの世に出てまいりましょう。

Ⅰサムエル記19章

今回は、サムエル記第一19章から学びます。18章では、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」と喜び歌った女たちの声を聞いたサウルが、ダビデを妬み彼を殺そうとしましたが、神がダビデともとにおられたので、どんなことをしてもダビデが殺されることはありませんでした。今回の箇所はその続きです。

Ⅰ.ヨナタンのとりなし(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。

「1 サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。2 ヨナタンはダビデに告げた。「父サウルは、あなたを殺そうとしています。明日の朝は注意してください。隠れ場にとどまり、身を隠していてください。3 私はあなたのいる野に出て行って、父のそばに立ち、あなたのことを父に話します。何か分かったら、あなたに知らせます。」4 ヨナタンはダビデを弁護し、父サウルに言った。「王よ、しもべダビデのことで罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。むしろ、彼のしたことは、あなたにとって大きな益となっています。5 彼が自分のいのちをかけてペリシテ人を討ったので、主は大きな勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て喜ばれました。なぜ、何の理由もなくダビデを殺し、咎のない者の血を流して、罪ある者となられるのですか。」6 サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」7 ヨナタンはダビデを呼んで、このことすべてを告げた。ヨナタンがダビデをサウルのところに連れて来たので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになった。」

サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来たちに告げました。それでヨナタンは、ダビデのところへ行きそのことを告げ、安全な場所に身を隠すように忠告しました。それはヨナタンがダビデを非常に愛していたからです。また、前回のところで見たように、ダビデと友人としての契約を交わしていたからです。

さらにヨナタンはダビデを弁護し、父サウルに、ダビデがこれまでどれほどイスラエル全体のために貢献してきたか、また、サウルにとって大きな益をもたらしたかを語り、彼を殺さないようにととりなしました。

サウルはヨナタンの言うことを聞き入れ、「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」(6)と言って誓いました。それでヨナタンはダビデを呼び、これらすべてのことを告げ、ダビデをサウルのところに連れて来たので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになりました。

それにしても、ヨナタンのとりなしは立派です。彼は愛するダビデのために、父の前でとりなしました。そんなことをしたら父サウルに殺されるかもしれないのに。しかし、彼は恐れることなく、ダビデを弁護し彼のために父サウルにとりなしたのでした。それは彼がダビデと契約を結んでいた(18:3)からです。彼は自分の命にかけてダビデを守ろうとしました。

それはまさに、私たちのためにとりなしてくださる主イエスの姿そのものです。ローマ8:34には、「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」とあります。主イエスが私たちのために、いつもとりなしていてくださいます。それは、私たちが主イエスを信じ、その血によって契約を交わしたからです。私たちは神から遠く離れた者でしたが、イエスの血によって、その血の注ぎを受けたことで、主イエスの友と呼ばれるようになりました。本当の友は、その友のためにいのちを捨てます。ヨナタンがダビデのためにいのちがけでサウルにとりなしたように、主イエスは私たちのためにいのちを捨てて、父なる神にとりなしてくださいました。ですから、私たちも日々落胆することがあっても、私たちのためにとりなしておられる主イエスを見上げて感謝しましょう。

Ⅱ.ミカルの策略(8-17)

次に、8~17節をご覧ください。まず10節までをお読みします。

「8 再び戦いが起こった。ダビデは出て行って、ペリシテ人と戦い、彼らを討って大損害を与えた。彼らはダビデの前から逃げた。9 わざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは竪琴を手にして弾いていた。10 サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた。」

しかし、再び戦いが起こりました。それでダビデが出て行ってペリシテ人と戦い、彼らを討って大損害を与えました。すると、わざわいをもたらす主の霊が、サウルに臨みました。彼は再び嫉妬心を燃え上がらせたのです。そこに付け込んだのが悪霊でした。悪霊が彼に臨み、ダビデに対して殺意を抱かせたのです。サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとしましたが、ダビデがサウルから身を避けたので、難を逃れました。

サウルは、ダビデが殺されることはないと主の御名によって誓ったのにその誓いを簡単に破り、主の前に悪を行いました。彼が抱いた嫉妬心はすぐに処理されてはいなかったのです。そうした隙間に悪魔が入り込みました。主に喜ばれない思いを抱くことは、悪魔に付け込む隙を与えることになります。私たちはそうならないように、目を覚ましていなければなりません。

11~17節をご覧ください。

「サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」12 そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。13 ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。14 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った。15 サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」16 使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった。17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私をだまし、私の敵を逃がして、逃れさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人が、『逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せるだろうか』と私に言ったのです。」」

そこでサウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとしました。そのことを知ったダビデの妻ミカルはダビデに告げ、ダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて難を逃れることができました。ミカルはテラフィムを取って、それを寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを枕のところに置き、それを着物でおおいました。テラフィムとは、家の守り神を表していた偶像でした。これは、ミカルが所有していたもので、もしダビデがそれを知っていたなら、家に置いておくことはしなかったでしょう。それだけ、サウルの家は完全には偶像礼拝から解放されていなかったということです。形式的に主に仕えていただけでした。ミカルがそのテラフィムを寝床に置いたのは、病気のダビデがそこで寝ているかのように装うためでした。

ミカルはダビデのために時間かせぎをしましたが、最後は使者たちを欺いたことがバレてしまいました。なぜこのようなことをして父である自分をだまし、ダビデを逃したのかと問われると、「あの人が、「逃がしてくれ。私はどうしておまえを殺せるだろうか」と言ったからだ」と答えました。つまり、ダビデが恐怖のあまり自分を殺そうとし脅迫したので、そのようにするしかなかったのだ、と弁明したのです。

ここでヨナタンとミカルの違いが見られます。ヨナタンは、正々堂々とダビデが正しいことを父サウルに進言しましたが、ミカルは、自分を守るためにダビデを悪役に仕立てました。ダビデを救ったことは良いことですが、父を恐れて妥協する姿勢は、やがてダビデが主の前で踊った時に彼を見下げる態度として表れます。私たちにもそのような弱さがあります。自分を守ろうとする思いから、真実をねじ曲げてしまうのは、キリスト者としてふさわしい態度ではありません。まさに人を恐れるとわなにかかります。しかし、主を恐れる者は守られるのです。

ところで、この時の困難を背景に、ダビデは詩篇59篇を書きました。開いてみましょう。

「指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに。

1 私の神よ私を敵から救い出してください。向かい立つ者たちよりも高く私を引き上げてください。2 不法を行う者どもから私を救い出してください。人の血を流す者どもから私を救ってください。3 今しも彼らは私のたましいを待ち伏せし力ある者どもは私に襲いかかろうとしています。主よそれは私の背きのゆえでもなく私の罪のゆえでもありません。4 私には咎がないのに彼らは走り身構えています。どうか目を覚ましここに来て見てください。5 あなたは万軍の神 主イスラエルの神。どうか目を覚ましすべての国を罰してください。邪悪な裏切り者をだれもあわれまないでください。セラ6 彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回ります。7 ご覧ください。彼らの唇には多くの剣がありその口で放言しているのです。「だれが聞くものか」と。8 しかし主よあなたは彼らを笑いすべての国々を嘲られます。9 私の力よ私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。10 私の恵みの神は私を迎えに来てくださる。神は私に敵を平然と眺めるようにしてくださる。11 彼らを殺してしまわないでください。私の民が忘れることのないように。御力によって彼らをさまよわせてください。彼らを打ち倒してください。主よ私たちの盾よ。12 彼らの口の罪は彼らの唇のことば。彼らは高慢にとらえられるがよい。彼らが語る呪いとへつらいのゆえに。13 憤りをもって滅ぼし尽くしてください。滅ぼし尽くしてください。彼らがいなくなるまで。神が地の果てまでもヤコブを治められることを彼らが知るようにしてください。セラ14 彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回ります。15 食を求めてさまよい歩き満ち足りなければ夜を明かします。16 しかしこの私はあなたの力を歌います。朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日にあなたが私の砦また私の逃れ場であられたからです。17 私の力よ私はあなたにほめ歌を歌います。神は私の砦私の恵みの神であるからです。」

何とすばらしい賛美でしょう。この美しい歌はこのような苦しみの中から生まれました。ダビデがこのような苦難を経験しなければ、生まれることはなかったのです。私たちの人生にも、試練や苦しみを通らなければ味わえない恵みや喜びがあることを覚え、もし今そのような中にあるならば、そのことを覚えて主に感謝しようではありませんか。

Ⅲ.サムエルのもとへ(18-24)

次に、18節から24節までをご覧ください。

「18 ダビデは逃げて、難を逃れ、ラマのサムエルのところに来た。そしてサウルが自分にしたこと一切をサムエルに告げた。彼とサムエルは、ナヨテに行って住んだ。19 するとサウルに「ダビデは、なんとラマのナヨテにいます」という知らせがあった。20 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が預言し、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。21 このことをサウルに告げる者がいたので、彼はほかの使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。サウルはさらに三度目の使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。22 サウル自身もラマに来た。彼はセクにある大きな井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるか」と尋ねた。すると、「今、ラマのナヨテにいます」という答えが返ってきた。23 サウルはそこへ、ラマのナヨテへ出て行った。彼にも神の霊が臨んだので、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテまで来た。24 彼もまた衣類を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていた。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになった。」

ダビデは何とか逃れて、ラマにいるサムエルのところへ行きました。ここから、およそ10年におよぶダビデの放浪生活が始まります。この期間は、人間的に見れば実に苦しい人生の荒野でしたが、神の視点から見ると、ダビデの信仰が試され、純化されていく時でした。それは、彼がイスラエルの王として立てられていくために必要な準備の期間でもあったのです。なぜダビデはラマのサムエルのところへ行ったのでしょうか。それは、彼がダビデに油を注いで王としたからでしょう。ダビデがラマのサムエルのところにいることがサウルに告げられると、サウルはダビデを捕らえようと使者たちを遣わしました。サウルのいたギブアからラマまでは5㎞ほど離れていました。しかし、使者たちがサムエルのところへ行ってみると、不思議なことが起こりました。神の霊が彼らの上に臨み、彼らもまた預言したのです。

このことがサウルに告げられると、サウルはほかの使者たちを遣わしましたが、彼らもまた、預言しました。いったいどうなっているのか、サウルはさらに三度目の使者を遣わしましたが、彼らもまた、預言したのです。

それで、サウル自身がラマに出向くことになりました。彼はセクにある井戸まで来たとき、「サムエルとダビデはどこにいるか」と尋ねると、ラマのナヨテにいることを聞いたので、そこに向かいました。するとどうでしょう。彼もまた衣服を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていました。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになりました。これはどういうことでしょうか。

サウルが預言したのは、これが二度目です。最初のものは、10:10にあります。これはサウルに対する神の裁きです。ダビデを殺そうとする彼の計画は、再び失敗しました。主の霊がサウルに臨み、預言させることによってダビデを守られたのです。サウルが気付いていなかったのは、ダビデの上には神の守りがあったということです。だから、どんなことがあっても殺されることはありません。神の計画に反抗することは恐ろしいことです。大切なことは、神のみこころに生きることです。今、主の御手がどこに伸ばされているのかをよく吟味し、神のみこころにかなった歩みを求めましょう。

Ⅰサムエル記18章

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今回は、サムエル記第一18章から学びます。

 

Ⅰ.ヨナタンの信仰(1-4)

 

まず、1~4節までをご覧ください。

「1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した。2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。3 ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。4 ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」

 

ヨナタンは、サウルの息子です。ダビデがペリシテ人を討ち破り、そのことをサウルに報告したとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びつきました。ダビデの行動を見て、またその言葉を聞いて、感動したのでしょう。

その日サウルは、ダビデを召しかかえ、家に帰らせませんでした。親衛隊として仕えさせ、王宮に住まわせることにしたのです。この時から、ダビデはサウルの側近として生活するようになりました。

 

息子ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、彼はダビデと契約を結びまた。何の契約でしょうか。友人としての契約です。ここに彼がダビデを愛したとあるのは、勿論恋愛感情のことではありません。言ったことは必ず成し遂げるという契約に基づいた関係のことです。その証拠として、彼は自分が来ていた上着を脱いでダビデに渡しました。そればかりか、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えました。このように、自分の上着やよろいかぶと、剣、弓、帯を与える行為は、自分の将来の王位をダビデに引き渡したことを意味しています。昔、ヤコブが息子ヨセフに長服を与えましたが、それと似ています。それはヤコブがヨセフに長子の権利を与えることを意味していましたが、ここでも、ヨナタンがダビデに自分の武具を引き渡したということは、父サウルから受け継ぐべき王位を彼に明け渡したことを意味しているのです。

 

ヨナタンはダビデよりも年長でした。しかし彼は、ダビデの成功や人気をねたむどころか、ともに喜ぶことができる人でした。言い換えれば、彼は主がダビデの人生を通して行っておられることを喜ぶことができたということです。バプテスマのヨハネはイエス様に対して、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言いましたが、それと同じです。

あなたの中に、他の人を通して神が行っていることを喜ぶ心があるでしょう。これこそ真にへりくだった人の心です。神は、それぞれに賜物を与えてくださいました。その与えられた賜物を互いに認め合い、互いに尊重し合い、互いに喜び合う者でありたいと思います。

 

Ⅱ.サウルの妬み(5-16)

 

次に、5~16節をご覧ください。まず11節までをお読みします。

「5 ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収めた。サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれた。6 皆が戻り、ダビデがあのペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、女たちは、イスラエルのすべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌い踊りながら出て来て、サウル王を迎えた。7 女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」8 サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」9 その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。10その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデはいつものように竪琴を手にして弾いたが、サウルの手には槍があった。11 サウルは槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろうと思ったのである。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした。」

 

ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収めました。それでサウルは彼を戦士たちの長としました。そのことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれることでした。

しかし、そうでない人物が一人だけいました。サウルです。最初はサウルも、ダビデのような勇士が与えられたことを喜んでいましたが、残念ながら、彼はダビデを妬み、自分の王位を脅かす人物として敵視するようになります。

そのきっかけとなったのが、女たちの歌です。ダビデがゴリヤテを討ち取ってかえって来たとき、女たちは、すべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びながら踊りながらサウルを迎えた時、このように歌ったからです。笑いながら・・。

「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」

それでサウルは激しく怒り、不機嫌になりました。ダビデに万と言い、自分には千と言ったからです。つまり、自分よりもダビデを上に置いたと感じたのです。ダビデにないものがあるとしたら、それは王位だけです。その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになりました。これが罪人の特徴でもあります。信仰の目でみれば、私たちには上下などありません。私たちはみなキリストのからだであり、互いに補い合い、助け合います。だれが上で、だれが下かという差はありません。ところが、サウルは自分のことしか考えていませんでした。彼はダビデに王位が奪われるのではないかと疑心暗鬼になったのです。そして、その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼が家の中で狂いわめくと、ダビデはいつものように竪琴を手にして弾きましたが、サウルは槍でダビデを殺そうとしました。彼が高ぶりや妬みという自分の肉の問題を処理していなかったので、悪い霊の影響をまともに受けてしまったのです。

 

妬みは私たちから平常心を奪います。妬みが起こってくるのは、私たちが神のわざよりも自分の成功に関心があるからです。伝道者の書4:4には、「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」とあります。主に用いられている人に対して妬みを起こすことがないように祈りましょう。また、一人一人がその賜物にふさわしく用いられるように祈りましょう。

 

12節から16節までをご覧ください。

「12 サウルはダビデを恐れた。それは、主がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。13 サウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは兵の先に立って行動した。14 主が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。15 彼が大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。16 イスラエルもユダも、皆がダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動したからである。」

 

サウルはダビデを恐れました。それは、主が自分から離れ去り、ダビデとともにおられることを感じたからです。それで彼はダビデを千人隊長に任じ、戦場に送り出すことで、敵の手で彼を殺そうと企みました。しかし、主が彼とともにおられたので、ダビデは、行く先々で勝利を収めました。それでサウルはますます彼を恐れましたが、イスラエルもユダも、皆ダビデを愛しました。それは彼自らが先頭に立って行動したからです。自分を犠牲にすることを決して厭わなかったのです。ここに真のリーダーの姿が描かれています。真のリーダーとは、後ろの方であぐらをかいて座っている人ではなく、民の先頭に立って仕える人です。イエス様も、「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)と言われました。私たちも自分のいのちを与える覚悟で仕える者でありたいと思います。

 

Ⅲ.陽の皮百(17-30)

 

次に、17節から30節までをご覧ください。19節まで見てください。

「17 サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをおまえの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人に手を下させよう、と思ったのである。18 ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるとは。」19 ところが、サウルの娘メラブをダビデに与えるというときになって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。」

 

サウルは槍でダビデを殺そうとしましたが、失敗に終わりました。それで千人隊長に任じ、戦場に送ることで自然に討ち取られるように計りました。しかし、主がダビデとともにおられたので彼はどこででも勝利を収め、むしろ、民の尊敬と信頼を勝ち取ることになりました。そこでサウルが次に考えたことは、ダビデをペリシテ人と戦わせ、彼らの手によって葬り去ることでした。

 

サウルはダビデに、もし、ペリシテ人との戦いで勇敢にふるまい、勝利した暁には、自分の娘メラブを妻として与えると言いました。この約束はすでにペリシテ人ゴリヤテに勝利した時に実行されていなければならないものでしたが、不誠実なサウルはそれを実行せず、ここでさらに新たな条件を加えたのです。それがこの戦いです。

 

ダビデは、謙虚に王の申し出を受け入れましたが、その娘メラブをダビデに与えるときになって、サウルは何とそのメラブをメホラ人アデリエルに妻として与えてしまったのです。これはダビデにとって大いなる侮辱でした。いやそれ以上に、神に対する侮辱でした。彼が公に誓った約束をいとも簡単に破ったからです。彼は他人には厳しく、自分には甘いという弱さがありました。それは私たちも同じです。他人には厳しくても、自分には甘いという面があります。それは神に信頼を置いているのではなく、利己的に歩んでいるからです。まことに主を恐れ、主に信頼する人は幸いです。いつも主を恐れて歩ませていただきましょう。

 

次に、20~30節をご覧ください。

「20 サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。そのことがサウルに告げられた。そのことは、サウルの目には良いことに思えた。21 サウルは、「ミカルを彼にやろう。ミカルは彼にとって罠となり、ペリシテ人の手が彼に下るだろう」と思った。そして、サウルはもう一度ダビデに言った。「今日こそ、おまえは婿になるのだ。」22 サウルは家来たちに命じた。「ダビデにひそかにこう告げなさい。『ご覧ください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。』」23 サウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。ダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことに見えるのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」24 サウルの家来たちは、ダビデがこのように言っています、と言ってサウルに報告した。25 サウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいると。」サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。26 サウルの家来たちはこのことばをダビデに告げた。王の婿になることは、ダビデの目には良いことに思えた。そこで、期限が過ぎる前に、27 ダビデは立って、部下と出て行き、ペリシテ人二百人を討って、その陽の皮を持ち帰った。こうしてダビデは、王の婿になるために、王に対して約束を果たした。サウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。28 サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。29 サウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはずっと、ダビデの敵となった。30 ペリシテ人の首長たちが出陣して来たが、彼らが出て来るたびに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげ、彼の名は大いに尊ばれた。」

 

サウルのもう一人の娘ミカルはダビデを愛していました。そのことがサウルに告げられると、それは良いことだと思いました。ミカルを利用してダビデを殺そうと思ったのです。そこでサウルは家来たちに命じて、そのことをひそかにダビデに伝えました。なぜひそかに告げたのでしょうか。メラブの一件があったので、受け入れられないと思ったのでしょう。

 

案の定、サウルの家来たちがそのことをダビデに告げたとき、彼は「王の婿になるのがたやすいことに見えるのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」(23)と言いました。自分は貧しく、身分が低い者なので、花嫁料が支払えないと断ったのです。

 

その報告を聞いたサウルは、さらにダビデに伝言を届けました。それは、花嫁料は望まないがが、その代わりにペリシテ人の陽の皮を百持ってくるようにということでした。「陽の皮」とは、男性の性器の先端部分の包皮のことです。イスラエル人は生後すぐに割礼するのでら陽皮はありませんが、ペリシテ人は異邦の民なのでみな陽皮がありました。その陽の皮を持ってくるとは、彼らを打ち倒しその証拠として割礼と同じ処置を行い、それを持ってくるということです。もしダビデがそのような屈辱的なことをするなら、ペリシテ人は総力を挙げてダビデを殺そうとするでしょう。それがサウルの狙いだったのです。

 

王の婿になれるのであればと、ダビデは期限が過ぎる前に部下とともに出て行き、ペリシテ人200人を討って、その陽の皮を持ち帰りました。要求された100の陽の皮でしたが、彼はその倍の200をサウルに与えたのです。それでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えました。

 

この出来事を見たサウルは、ますますダビデを恐れました。なぜなら、主がダビデとともにおられることが明らかとなったからです。また、娘ミカルがダビデを愛していることを見たからです。

 

このことからわかることは、人は神がその人に与えた計画が成就するまでは、決して死なないということです。ダビデには、イスラエルの王になるという預言、神ことばが与えられていました。その預言が実現するまでは、決して死ぬことはありません。これはダビデだけでなく、私たちも同じです。すべてのクリスチャンには、神からの使命と計画が与えられています。それが成就するまでは、決して死ぬことはありません。今、世界中がコロナウイルスで不安と混乱の中にありますが、このことを知り、すべてを計画しておられる神にゆだねることができれば、どんなに平安なことでしょう。すべてを支配しておられる主の御手にゆだね、主の御手の中で平安をいただきましょう。