Ⅰサムエル記22章

今日は、サムエル記第一22章から学びます。

Ⅰ.ユダの地に帰りなさい(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。

「1 ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。彼の兄弟たちや父の家の者はみな、これを聞いてダビデのところに下って来た。2 そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。3 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどのようなことをされるか分かるまで、どうか、父と母をあなたがたと一緒に住まわせてください。」4 ダビデは両親をモアブの王の前に連れて来た。彼らは、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。5 預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」それで、ダビデはそこを出て、ハレテの森へやって来た。」

ペリシテ人の町ガテの王アキシュの手から救われたダビデは、そこを去って、アドラムの洞穴に避難しました。そこは、ベツレヘムの南西20㎞のところにありますが、ペリシテの領地とユダの領地の境にあり、周辺には多くのほら穴がありました。それらのほら穴は、ダビデが身を隠すのに格好の場所だったのです。                                          すると、そこへいろいろな人たちがやって来ました。まず、彼の家族たちです。サウルはダビデを殺そうとしていたのですから、彼の家族も殺そうとしていたのは明らかです。それで、ダビデがいるほら穴にやって来たのです。また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来ました。彼らはサウルの統治に不満があったり、見捨てられたり、困窮していた人たちで、彼らはダビデを指導者として認めていたのでしょう。彼らもダビデのもとに集まって来たので、ダビデは彼らの長となりました。その数約400人で、彼らもダビデとともにいるようになったのです。

ダビデはそこからモアブのミツパに行きました。モアブは異邦人の地でしたが、ダビデと無縁ではありませんでした。というのは、ダビデの先祖ルツがその地の出身だったからです。そういうこともあってダビデはモアブの地に行ったのではないかと思われます。                                                       ダビデは、モアブの地に行くとモアブの王に「神が私にどのようなことをされるか分かるまで、どうか、父と母をあなたがたと一緒に住まわせてください。」と願いました。年老いた両親にとって、モアブでの生活は過酷な環境だったので、モアブの王に保護を求めたのです。モアブの王はダビデの願いを受け入れ彼の両親を引き受けたので、両親はダビデがモアブの要害にいる間、王のもとに住みました。

すると、預言者ガドを通して主のことばがダビデにありました。それは、「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」というものでした。どういうことでしょうか。ユダの地に戻るということは、それだけ危険が増すことを意味していました。そこには自分のいのちをねらっていたサウルがいます。また、いつイスラエル人に見つけられてしまうかわかりません。事実、ダビデがノブの祭司アヒメレクのところへ逃れたとき、そこでエドム人ドエグに見つかったことで、この後で大惨事を招くことになります。それなのに、どうして主はユダの地に戻るように言われたのでしょうか。それは、彼が召されたのがユダの地であったからです。彼はそこで王として主に仕えるように召されたのであって、他の地ではありませんでした。それはちょうど主イエスが遣わされたのがイスラエルの地であって、異邦人の地ではなかったのと同じです。主イエスはそこで彼らの手によって十字架に付けられて死なれますが、それが神の救いのご計画でした。同じように、ダビデにとってユダの地に行くことは危険が伴うことですが、そこが彼にとって召された地であったのです。それは、私たちにも言えることです。どんなに危険な場所のように見えても、神が召された場所こそ最も安全な場所なのです。時には、どうして自分はここにいるんだろうと、神のみこころがわからなくなる時があるかもしれませんが、しかし、今置かれているところが神が召された所と信じて、神が示されるところで主に仕えなければなりません。もしなあたが主のみこころから離れているのなら、あなたにとっての「ユダの地」に帰らなければならないのです。

ダビデは、主のことばにどのように応答したでしょうか。彼は、そこを出て、ハレテの森へやって来ました。彼の従順は見事です。それが自らの身を危険にさらすことであっても、すぐに主のことばに従ったのです。私たちもダビデのように、主のみこころから離れているなら、私たちが本来いるところではないところにいるのなら、主のみこころに従ってユダの地に戻ろうではありませんか。

Ⅱ.エドム人ドエグの密告(6-10)

次に、6~10節までをご覧ください。

「6 サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかったことを聞いた。サウルはギブアにある高台のタマリスクの木の下で、槍を手にして座っていた。彼の家来たちはみな、彼のそばに立っていた。7 サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け、ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全員に畑やぶどう畑をくれたり、おまえたち全員を千人隊の長、百人隊の長にしたりするだろうか。8 それなのに、おまえたちはみな私に謀反を企てている。息子がエッサイの子と契約を結んでも、だれも私の耳に入れない。おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めることをせず、今日のように、息子が私のしもべを私に逆らわせて、待ち伏せさせても、私の耳に入れない。」9 サウルの家来たちのそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。10 アヒメレクは彼のために主に伺って、彼に食糧を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」」

一方、サウルは何をしていたでしょうか。サウルは、ギブアにある高台のタマリスクの木の下で、槍を手にして座っていました。「タマリスク」とは、別訳「ぎょりゅう」(御柳)とありますが、柳の木のことです。高さは5~8mあり、赤みを帯びた細い枝が長く伸びるのが特徴だそうです。そこで槍を手にして座っていたというのは、いつでもダビデを殺すことができるように準備していたということです。彼のそばには彼の家来たちがいましたが、その家来たちにこんな愚痴を言っていました。7節と8節をご覧ください。

彼は、「聞け、ベニヤミン人。」と呼びかけています。ベニヤミンはサウルの出身地です。自分と同じ出身地の者で家来をかためていたようですが、そのベニヤミンの人たちに対して、ダビデが王になったとしても、彼らに畑やぶどう畑を与えたり、千人隊の長や百人隊の長にしたりしないのに、どうして自分に謀反を企てるのかというのです。だれもダビデのことを自分の耳に入れてくれないし、息子のヨナタンがダビデをけしかけて自分にはむかわせているのに、それも知らせてくれないというのです。だれも自分のことを思って心を痛めることをしないと嘆いています。この時のサウルは、かなりの被害妄想というか、自己憐憫に陥っていました。神に反逆し続けると、正しい判断ができなくなり、ついには周りの者すべてが敵に見えてくるのです。友人が周りにいないサウルは、実に惨めな状態でした。

そんな時、サウルの家来たちのそばに立っていたエドム人ドエグが、ノブの祭司アヒメレクのところにいたとき、そこでダビデを見たことを告げました。ただ見たというのではありません。アヒメレクがダビデのために主に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えたと言いました。サウルの家来たちは、サウル王のしていることは良くないことを知っていたので黙っていましたが、神をも、イスラエルをも顧みないドエグは、ここぞ!とばかりに、サウルに協力しました。このドエグの発言は、祭司アヒメレクを危険に陥れるものでした。その結果、アヒメレク以下ノブの町の祭司たちが、サウルによって虐殺されることになります。不意に発した言葉が、このような凶器になり得るのです。ヤコブは、舌は人生の車輪を焼き尽くし(3:6)、死の毒で満ちている(3:8)と言っていますが、私たちの舌は、これほど大きな影響を及ぼすということを覚え、自らの舌をしっかりと制御しなければなりません。

Ⅲ.神を恐れ、神に信頼して(11-23)

最後に、11節から終わりまでを見ていきたいと思います。19節までをご覧ください。

「11 王は人を遣わして、祭司アヒトブの子アヒメレクと、彼の父の家の者全員、すなわち、ノブにいる祭司たちを呼び寄せた。彼らはみな、王のところに来た。12 サウルは言った。「聞け、アヒトブの子よ。」彼は答えた。「はい、王様。ここにおります。」13 サウルは彼に言った。「おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンと剣を与え、彼のために神に伺い、そうして彼は今日のように私に逆らって待ち伏せしている。」14 アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来の中に、ダビデほど忠実な者が、だれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛兵の長であり、あなたの家で重んじられているではありませんか。15 私が彼のために神に伺うのは、今日に始まったことでしょうか。決して、そんなことはありません。王様。このしもべや、父の家の者全員に汚名を着せないでください。あなたのしもべは、この事件について、いっさい知らないのですから。」16 王は言った。「アヒメレク、おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全員もだ。」17 王は、そばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、主の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、ダビデが逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、主の祭司たちに手を下して討ちかかろうとはしなかった。18 王はドエグに言った。「おまえが行って祭司たちに討ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが行って、祭司たちに討ちかかった。その日彼は、亜麻布のエポデを着ていた人を八十五人殺した。19 彼は祭司の町ノブを、男も女も、幼子も乳飲み子も、剣の刃で討った。牛もろばも羊も、剣の刃で。」

早速サウル王は人を遣わして、祭司たちを全員自分のところに呼び寄せました。そして、アヒメレクがダビデにパンと剣を与え、自分に逆らっていることを責めました。それに対してアヒメレクは熱心に、しかも順序だててダビデを弁護し、さらに自らの潔白も主張しましたが、サウルは聞く耳を持ちませんでした。そして、「アヒメレク、おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全員もだ。」と宣言し、そばに立っていた近衛兵たちに処刑するように命じましたが、さすがに近衛兵たちは、主に油注がれた祭司を殺すことなんてできませんでした。彼らを殺すということは、無実の者を殺すこと以上に、重大な意味があったからです。

そこでサウルは、エドム人ドエグに死刑の執行を命じました。彼はエドム人でしたから、主を恐れることを知らない男でした。それで彼はその場で祭司85人を虐殺し、さらに、祭司の町ノブを打ち、男も女も、幼子も乳飲み子も、牛やろば、羊も、剣の刃で討ちました。何ということでしょうか。このような虐殺ができること自体信じられませんが、いったいどうして彼は平気にこんなことができたのでしょうか。それは、サウルにせよ、ドエグにせよ、神を恐れていなかったからです。

ダビデはこの事件に関して、詩篇52篇を書いています。表題には、「指揮者のために。ダビデのマスキール。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたときに。」とあります。ですから、これはまさにドエグがサウルに密告した時のことについて書いた詩なのです。

「1 勇士よ なぜおまえは悪を誇りとするのか。神の恵みはいつもある。                     2 欺く者よ おまえの舌は破壊を企む。まるで鋭い刃物のように。                            3 おまえは善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している。セラ                           4 欺きの舌よ おまえはあらゆる滅びのことばを愛している。                                           5 だが神はおまえを打ち砕いて倒し 幕屋からおまえを引き抜かれる。生ける者の地からおまえは根絶やしにされる。セラ                                                                      6 正しい人たちは見て恐れ 彼に向かって笑う。                                              7 「見よ 彼こそは神を力とせず自分の大きな富に頼り 破滅のわざを勝ち誇る者。」                                 8 しかし私は神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む。                              9 私はとこしえに感謝します。あなたのみわざのゆえに。私はあなたにある敬虔な人たちの前で すばらしいあなたの御名を待ち望みます。」

サウルに密告したドエグの舌は破壊を企みました。まるで鋭い刃物のように。彼の舌は義よりも偽りを愛していました。あらゆる滅びのことばを愛していました。いったい何が問題だったのでしょうか。7節でダビデはこう言っています。「見よ 彼こそは神を力とせず 自分の大きな富に頼り 破滅のわざを勝ち誇る者。」そうです、彼は神を力とせず、自分の大きな富に頼り、破滅のわざを勝ち誇っていました。神を恐れていなかったのです。それであれほど悪魔的になれたのです。彼らには、あわれみのひとかけらもありませんでした。神に背を向けた者が、いかに悪魔的になれるかという例がここにあります。それは彼らだけではなく、すべての人に言えることです。神を恐れず、自分を神とするなら、そこには破滅しかありません。今の北朝鮮にも同じことが言えるでしょう。原因は同じです。神を神としないこと、神を恐れていないことです。そのような者に対して、神は黙ってはおられません。そんな彼らを討ち砕いて倒し、幕屋から引き抜かれると宣言しておられます。また、生ける者の地から、完全に根絶やしにされるのです。

しかし、神を恐れ、神に信頼して歩む者は違います。そういう人は、神の家に生い茂るオリーブの木であり、豊かないのちがもたらされます。私たちはサウルやドエグのように神を恐れない者にならないで、ダビデのように神を恐れ、神の家に生い茂るオリーブの木のようにさせていただこうではありませんか。

最後に、20~23節を見て終わりたいと思います。

「20 アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、一人逃れてダビデのところに逃げて来た。21 エブヤタルはダビデに、サウルが主の祭司たちを殺したことを告げた。22 ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、彼がきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全員の死を引き起こしたのだ。23 私と一緒にいなさい。恐れることはない。私のいのちを狙う者は、あなたのいのちを狙う。しかし私と一緒にいれば、あなたは安全だ。」」

ドエグの殺戮からのがれることができた人が一人いました。祭司アヒメレクの息子のエブヤタルです。「エブヤタル」という名前の意味は、「父は豊かに与える」とか、「父は豊かである」という意味です。彼はダビデのところに来て、サウルがドエグを使って祭司たちを虐殺したことを告げました。するとダビデは、その原因は自分にあると認め、自分の責任を感じて、彼に、「私と一緒にいなさい。恐れることはない。私のいのちを狙う者は、あなたのいのちを狙う。しかし私と一緒にいれば、あなたは安全だ。」と言いました。彼の保護を申し出て、その身の安全を保証したのです。ダビデは、自分の上に神の守りがあること、また、自分といっしょにいれば、彼は大丈夫であると確信していたのです。

私たちにも、ダビデの子として来られた主イエスがおられます。主イエスとともにいるなら、私たちの歩みは守られます。あなたはどうでしょうか。主イエスに助けを求め、その守りの中を歩んでいますか。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)この方に守ってくださると信じ、この方に信頼して歩みましょう。

Ⅰサムエル記21章

サムエル記第一21章から学びます。

Ⅰ.ノブの祭司アヒメレクのところに逃れたダビデ(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。

「1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」5 ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」6 祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。7 ──その日、そこにはサウルのしもべの一人が主の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった──8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまりに急だったので。」9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」

前回は、ダビデとヨナタンの契約について学びました。ヨナタンは、サウルがダビデを殺そうとしていることがわかったらそのことをダビデに告げると約束しました。そのしるしは何でしたか。それは、ヨナタンが射る3本の矢でした。矢が、連れて来た小さな子どもよりも手前に落ちれば大丈夫。ダビデが殺されることはありません。しかし、矢がその子の向こう側に落ちれば、サウルが殺そうとしているサインでした。矢はどちら側に落ちましたか。向こう側に落ちました。すなわち、サウルはダビデを殺そうとしていのです。それでダビデはその場を去って行きますが、二人は別れ際熱い抱擁を交わし、激しく泣きました。それでダビデは立ち去り、ヨナタンは町へ帰って行きました。

ヨナタンと別れたダビデは、どこへ逃れたでしょうか。1節には、「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。」とあります。ノブは、エルサレムの北方にあったベニヤミンの町です。この町は、当時の都であったサウルがいたギブアからダビデの故郷ベツレヘムに向かう途中にありました。それまで幕屋はシロにありましたが、シロが破壊されて以降、短期間ですが、ここに幕屋が置かれていました。そのためここは、「祭司の町」と呼ばれていたのです。サウルのもとから逃れたダビデは、このノブの祭司アヒメレクのところに来たのですが、ダビデがたった一人で来たので、アヒメレクは異変を感じました。ダビデほどの身分の者が、ひとりで旅をするなど考えられなかったからです。

そこで、「なぜ、お一人で、だれもお伴がいないのですか。」と尋ねると、ダビデは、「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。」と答えました。まさか、サウルが自分を殺そうとしているなんて、とても言えなかったのでしょう。それで、彼は逃亡の途中で何も食べておらずお腹が空いていたので、「お手元に何かあったら、パン五つでも、ある物をください。」と言いました。

すると祭司は、普通のパンはないけれども、聖別されたパンならあると答えました。「聖別されたパン」とは、幕屋の聖所にある机の上に置かれた臨在のパンのことです。しかし、このパンは儀式的に汚れた者は食べられないので、ダビデとその部下たちが汚れていないことを確かめる必要がありました。それはレビ記15:16~18に、このような規定があったからです。「男が精を漏らしたときは全身に水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。精が付いた衣服と皮はすべて、水で洗う。それは夕方まで汚れる。男が女と寝て交わったなら、二人はともに水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。」

これは、必ずしも道徳的な意味での性的汚れのことについて言われているのではなく、自分の妻と寝たことも意味しています。勿論、ダビデは逃亡の途中でしたから、そのような関係はなかったし、普通の旅でもそうですから、まして今はそういうことは全くないと答えると、祭司アヒメレクは、聖別されたパンを与えました。

新約聖書の中で、イエス様がこの出来事について言及しています。マタイ12:3-4に、イエス様が安息日に麦畑を通られたとき同行していた弟子たちがひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めると、パリサイ人たちがやってきて、安息日にそれを食べたということを非難すると、イエス様はこう言われました。「3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。」(マタイ12:3-4)

臨在のパンは、本来なら祭司以外に食べることはできませんでしたが、主は、人間の基本的な必要を満たすというあわれみの行為が、そうした祭司についての規定よりも優先されることがあると教えられたのです。神の律法は、人を束縛するためのものではなく、人を生かすために与えられたものです。祭司アヒメレクは、律法よりもあわれみを重視したのです。そして、イエス様は彼のこの態度を支持されたのです。

あなたは、神の戒めにがんじがらめになり、その神の戒めが本来目指している意味を見失っているということはないでしょうか。神の御言葉に生きるものとして、神が本来願っている思いを汲み取り、神のみこころに歩ませていただきましょう。

Ⅱ.信仰が揺らぐとき(7-9)

次に、7~9節までをご覧ください。

「7 ──その日、そこにはサウルのしもべの一人が主の前に引き止められていた。その名はドエグといい、エドム人で、サウルの牧者たちの長であった──8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまりに急だったので。」9 祭司は言った。「ご覧ください。あなたがエラの谷で討ち取ったペリシテ人ゴリヤテの剣が、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それにまさるものはありません。私に下さい。」」

その日、そこにはサウルのしもべの一人、エドム人でドエグという人物が、主の前に引き止められていました。主の前に引き止められていたというのは、主の幕屋に来て、礼拝の儀式に参加していたということです。彼はサウルの牧者たちの長でした。彼はエドム人とありますが、エドム人の先祖はヤコブの兄エサウです。彼らはずっとイスラエルに敵対してきましたが、彼もまた例外ではありません。そんな彼が、どうして主の幕屋に来ていたのでしょうか。恐らく、戦争によって奴隷となっていたのでしょう。その彼が、清めか、請願のために、幕屋に来ていたのです。もちろん、真の信仰心をもってそこに来ていたのではありません。サウルの下で働くために義務として来ていたのです。このドエグの密告により、後にこの祭司の町ノブに大虐殺の惨事が起こります(Ⅰサムエル22章)。

ダビデは、アヒメレクに言いました。「ここには、あなたの手もとに、槍か剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。」どういうことでしょうか。ダビデは逃げている身ですから、当然ながら護身用の武具が必要ですが、なかったのです。それで槍か剣はないかと聞いたのです。でも、思い出してください。彼がペリシテ人ゴリヤテと戦った時のことを。あの時彼は、そのような武具を何一つ持っていませんでした。彼が持っていたのはたった一つの石投げだけでした。それだけでゴリヤテを倒すことができました。彼は、万軍の主の御名によって、立ち向かいました。主が救いをもたらすと確信していたからです。それなのにここでは護身用の武具を求めています。なぜでしょうか。それは、彼の信仰が揺らいでいたからです。彼は自己保身のためにアヒメレクに嘘をつきました。また、パンのほかに武具も求めました。そして、ゴリヤテの剣がそこにあることを知ると、それを喜んで受け取りました。後になってダビデは、このときの失敗を大いに後悔しています。私たちの信仰も揺らぐことがあります。そのような時、このダビデの失敗を思い出しましょう。そして、ただ主イエスだけに信頼して歩みましょう。

Ⅲ.きちがいを装ったダビデ(10-15)

次に10~15節までをご覧ください。

「10 ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た。11 アキシュの家来たちはアキシュに言った。「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。13 ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした。14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見ているように、この男は気がふれている。なぜ、私のところに連れて来たのか。15 私のところに気がふれた者が不足しているとでもいうのか。私の前で気がふれているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」」

ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテのアキシュのところに来ました。ガテは、ペリシテ人の五大都市の一つで、ゴリヤテの領地にありました。ダビデはそこにゴリヤテの剣を持って行ったのです。なぜガテに行ったのでしょうか。それは、イスラエルには彼のいる場所がなかったからです。彼にとってイスラエルの地は、自分の敵であるサウルが支配していたので、危険がありました。そこでペリシテ人のところへ行きました。神を愛し、またイスラエルを愛しているダビデが、宿敵ペリシテ人の地に行かなければならないというのは、どれほど屈辱的なことだったでしょうか。でも、自分の身を守るためにはそうせざるを得ませんでした。恐らくガテの地で、匿名で身を潜めていたら大丈夫だろうと思ったのかもしれません。

しかし、ダビデの正体は、すぐにアキシュの人たちにばれてしまいました。彼らは、ペリシテ人の英雄ゴリヤテを、石投げ一つで打ち倒したダビデのことをよく覚えていたのです。正体がばれてしまったダビデはどうしたでしょうか。彼は、アキシュの家来たちが「「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」ということばを聞いて、空き主を非常に恐れました。この時の彼の心境が、詩篇56篇にあります。

指揮者のために。「遠くの人の、もの言わぬ鳩」の調べにのせて。ダビデによる。ミクタム。ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたときに。

56:1 神よ私をあわれんでください。人が私を踏みつけ一日中戦って私を虐げているからです。

56:2 私の敵は一日中私を踏みつけています。高ぶって私に戦いを挑む者が多いのです。

56:3 心に恐れを覚える日私はあなたに信頼します。

56:4 神にあって私はみことばをほめたたえます。神に信頼し私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。

56:5 一日中彼らは私のことを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな私に対する悪です。

56:6 彼らは襲おうとして待ち伏せし私の跡をつけています。私のいのちを狙って。

56:7 不法があるのに彼らを見逃されるのですか。神よ御怒りで国々の民を打ち倒してください。

56:8 あなたは私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。それともあなたの書に記されていないのですか。

56:9 そのとき私の敵は退きます。私が呼び求める日に。私は知っています。神が味方であることを。

56:10 神にあって私はみことばをほめたたえます。主にあって私はみことばをほめたたえます。

56:11 神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。

56:12 神よあなたへの誓いは私の上にあります。感謝のいけにえであなたにそれを果たします。

56:13 まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに神の御前に歩むために。

これを見ると、確かに彼は心に恐れを覚えていましたが、それでも主に信頼していたのがわかります。彼は4節で、「神にあって私はみことばをほめたたえます。神に信頼し私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。」と言っています。その窮地から救い出してくださいと祈っていたのです。不信仰になりノブの祭司アヒメレクに偽りを言った人を悔改めたダビデは、敵に捕らえられた時に神をほめたたえていたのです。

それで彼はどのような態度を取ったでしょうか。きちがいを装いました。門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりして、おかしくなったかのようにふるまったのです。それを見たガテの王アキシュは家来たちに言いました。「おい、おまえたちも見ているように、この男は気がふれている。なぜ、私のところに連れて来たのか。私のところに気がふれた者が不足しているとでもいうのか。私の前で気がふれているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

結局、ただのきちがいに思われて、相手にされませんでした。よほど演技が上手かったのでしょうか。私などは演技が出来ないからダメです。絶対に役者にはなれないと思っています。どうやってあのような演技ができるのかと感心します。ドラマを見ている家内の顔を見ると、もうその世界に吸い込まれています。役者ってすごいですね。でもこの時のダビデの演技はそれ以上でした。ここまでやれるというのはすごいです。それにして、彼はどうしてこのような態度を取ったのでしょうか。多くの学者は、ダビデが不信仰に陥り、このような態度を取ってしまたと考えていますが、詩篇34篇をみるとそうでなかったことがわかります。

詩篇34篇の表題には、「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。」とあります。

34:1 私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。

34:2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

34:3 私とともに主をほめよ。一つになって御名をあがめよう。

34:4 私が主を求めると主は答えすべての恐怖から私を救い出してくださった。

34:5 主を仰ぎ見ると彼らは輝いた。彼らの顔は辱められることがない。

34:6 この苦しむ者が呼ぶと主は聞かれすべての苦難から救ってくださった。

34:7 主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出される。

34:8 味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。

34:9 主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。

34:10 若い獅子も乏しくなり飢える。しかし主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。

34:11 来なさい。子たちよ私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。

34:12 いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと日数の多いことを愛する人は。

34:13 あなたの舌に悪口を言わせず唇に欺きを語らせるな。

34:14 悪を離れて善を行い平和を求めそれを追い続けよ。

34:15 主の目は正しい人たちの上にあり主の耳は彼らの叫びに傾けられる。

34:16 主の御顔は悪をなす者どもに敵対し主は彼らの記憶を地から消し去られる。

34:17 苦しむ者が叫ぶと主は聞かれそのすべての苦難から救い出してくださる。

34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。

34:19 正しい人には苦しみが多い。しかし主はそのすべてから救い出してくださる。

34:20 主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない。

34:21 悪は悪しき者を殺し正しい人を憎む者は責めを負う。

34:22 主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける人はだれも責めを負わない。

これはちょうどダビデがアビメレクの前できちがいを装い、彼に追われて去ったときに歌った歌です。1節で彼は、「私はあらゆるときに 主をほめたたえる」と言っています。良い時だけではありません。悪い時も、あらゆるときです。あらゆるときに主をほめたたえていました。なぜでしょうか?彼が主に信頼していたからです。彼が主を求めると 主は答え、すべての恐怖から救い出してくださいました。彼は、主がすべての苦しみから救ってくださると信じていました。どのように?主はご自身の使いを送り、主を恐れる者の周りに陣を張り、助け出されるのです。もちろん、非常な恐れがあったのは確かです。そのような中でこのようにふるまうことがたできたのは、それは彼の信仰の祈りに対する神の答えであり、神の知恵と力によるものでした。まさかこのようにして助け出されるなんて、だれが考えることができるでしょう。ダビデは、その主の恵み深さを体験し、主に対する感謝をこの詩篇に表したのです。

私たちの人生にも、このような窮地に追い込まれる時があります。その時ダビデのように、あらゆるときに、主をほめたたえる者でありたいと願わされます。その口には、いつも主への賛美があると。そして、その主の目気味をいつも味わい、見つめることができますように。また、このような苦難の中でこそ、麗しい賛美が生まれました。もしダビデがこの苦難に遭っていなければ、この詩篇は生まれていなかったでしょう。今週の礼拝でも、ヨハネ16:7のみことばから、「去って行くことは益になる」と教えられました。何かを失うことは、新しい何かを受ける時でもあるのです。まさにダビデの苦難は、このような麗しい賛美が生まれる時でもありました。私たちの人生で遭遇する苦難も、このように麗しいものが生み出される原動力となるということを覚え、あらゆるときに主をほめたたえましょう。まことに、主に身を避ける人は幸いな人なのです。

Ⅰサムエル記20章

サムエル記第一20章から学びます。サウルはダビデを殺そうとしたので、ダビデは、ラマのサムエルのところに行きました。ダビデがサムエルのところにいるということを聞いたサウルは、ダビデを捕らえようと使者たちを遣わしましたが、神の霊が彼らの上に臨み、彼らは預言しました。そんなことが三度続いたので、サウルは自らラマのサムエルのところに来ましたが、何と今度はサウル自身が預言し、一昼夜、裸のまま倒れているという有様でした。預言するとは、神のことばを預言することなので良いことですが、ここでは残念ながら神の裁きを示していました。サウルがダビデを殺そうとしていたので、神はご自身の霊をサウルに送って預言させ、ダビデを殺せないようにしたのです。今回は、その続きです。

Ⅰ.3本の矢のサイン(1-23)

まず、1~23節までをご覧ください。まず4節までをお読みします。

「1 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」2 ヨナタンは彼に言った。「とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は、事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」3 ダビデはなおも誓って言った。「父上は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」4 ヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」

ダビデは、サウルが裸のまま地に倒れている間に、ラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て窮状を訴えました。「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」

驚いたのは、ヨナタンです。彼は、父サウルからそのようなことを聞いていませんでした。もしそのようなことがあれば、サウルがヨナタンに話さないわけがありません。しかし、実際のところは、サウルはヨナタンとダビデの友情関係を知っていたので、ヨナタンが悲しまないように、何も話さないでダビデを殺そうしていたのです。それは死と隣り合わせのような状態でした。ダビデはここで、「私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません」(3)と言っています。

するとヨナタンは、目が覚めたかのように、ダビデに言いました。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにします。」(4)

そこでダビデはある提案をしました。5~8節にある内容です。

「5 ダビデはヨナタンに言った。「明日はちょうど新月祭で、私は王と一緒に食事の席に着かなければなりません。でも、私を行かせて、三日目の夕方まで、野に隠れさせてください。6 もし、父上が私のことをとがめたら、おっしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえを献げることになっているからです』と。7 もし父上が『良し』とおっしゃれば、あなたのしもべは安全です。もし激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。主に誓って、しもべと契約を結んでくださったのですから。もし私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして父上のところにまで、私を連れ出す必要があるでしょうか。」

それは、翌日から始まる新月祭りで、本当にサウルがダビデを殺そうとしているのかを確かめようというものでした。ダビデは、新月祭の祝いの席を無断で欠席するので、もしサウルがそれをとがめるなら、それはダビデに対して殺意を抱いているという証拠だというのです。

ダビデとヨナタンは、友情の契約関係を結んでいました。だからもしダビデに何らかの咎があれば、サウルよりもむしろヨナタンに自分を殺してほしいと言いました。ダビデは、それほど主の前で誓った契約に忠実に歩む人物でした。

そこでヨナタンは、もし父サウルがダビデに害を加えようとしていることがわかったら、必ず知らせると約束しました。9~11節です。

「9 ヨナタンは言った。「とんでもないことです。父があなたに害を加える決心をしていることが確かに分かったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が厳しい返事をなさったら、だれが私に知らせてくださいますか。」11 ヨナタンはダビデに言った。「野に出ましょう。」それで、二人は野に出た。

10節でダビデが言っていることは、伝えると言っても、どうやって伝えるのか、ということです。もしサウルが厳しい返事をしたら、だれが自分に知らせてくれるのか。もしかすると、その知らせを持ってくる使者もまた自分に対して厳しい態度をするのではないかと不安になったのです。

するとヨナタンはダビデに言いました。「野に出ましょう。」それで二人は野に出ました。どういうことでしょうか。ヨナタンは、二人きりで話が出来るように、また、リラックスして話が出来るようにダビデを町の外に誘ったのです。

12~16節までご覧ください。

「12 ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、主にかけて誓います。明日かあさっての今ごろまでに、父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。寛大でなければ、必ず人を遣わして、あなたの耳に入れます。13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。14 もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、主の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。15 しかし、あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。主がダビデの敵を地の面から一人残らず断たれるときにも。」16 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。」

ヨナタンは、父サウルの意志を確かめ、もし父がダビデに対して殺意を抱いているなら、必ずダビデを逃がすようにすると約束します。もしそのことをダビデの耳に入れず、ダビデを無事に逃がさなかったら、主が自分を幾重にも罰せられるようにと言っています。そして、たとえ自分が死ぬようなことがあったとしても、自分の家には恵みを施してほしいと懇願しました。どういうことでしょうか。ヨナタンは、この時、ダビデこそ次の時代の王として選ばれた器であると信じていたのです。普通、王位がある人から他の人に移ると、新しく王になった者は、残された王の家族をみな殺します。王位を取り戻そうとして、自分に反逆する可能性があるからです。ですからヨナタンは、たとえ王位がダビデに移っても、「あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください」とお願いしたのです。これは、後にサウルとヨナタンが死んでから、ヨナタンの子メフィボシェテによって実現します(Ⅱサムエル9章)。ヨナタンがダビデの家と契約を結んだのはそのためでしょう。

17節をご覧ください。

「17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。」

ヨナタンとダビデには、このような堅い結束がありました。友としての愛がありました。ここには、「ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していた」(17)とあります。それは、サウルとの敵対関係によって、反故にされることはありませんでした。これはちょうど、イエス様と私たちの関係と同じです。イエス様は弟子たちにこう言われました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:13-14)イエス様は、私たちを「友」と呼んでくださいました。そして、その友のためにいのちを捨ててくださったのです。私たちがいかに大きな失敗をしようとも、失敗して罪を犯してしまっても、主の愛にとどまるなら、主の愛に立ち戻るならば、主は決して私たちを見放すことはなく、いつまでも愛してくださるのです。ここに友としての愛があります。ヨナタンもそのような愛をもってダビデを愛していました。

18~23節をご覧ください。

「ヨナタンはダビデに言った。「明日は新月祭です。あなたの席が空くので、あなたがいないことが分かるでしょう。19 三日目に、日が暮れてから、あの事件の日に隠れた場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。20 私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。21 私が子どもを遣わして、『行って、矢を見つけて来い』と言い、もし子どもに『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い』と言ったら、出て来てください。主は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。22 しかし、私が少年に『それ、矢はおまえの向こう側だ』と言ったら、行ってください。主があなたを去らせるのです。23 私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたの間の永遠の証人です。」

ヨナタンはダビデに言いました。明日は新月祭なので、ダビデの席が空いていれば、そのことにサウルが気付くでしょう。そのときサウルがどのような態度を取るのか。もしサウルがダビデを殺そうとしていることがわかったら、そのことをダビデに知らせるというのです。そのしるしは何ですか。3本の矢です。ヨナタンが父サウルの意図を確かめた後で、3本の矢をサインとして射るというのです。その矢が連れて来た子どもたちよりも手前に落ちたら、それは安心して出て来て良いというサインです。けれども、もしその矢が子どもたちよりも向こうに落ちたら、危険であるというサインになります。ヨナタンは、「私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたの間の永遠の証人です。」(23)と言いました。もしどちらかが契約を破ったら、主の罰を受けても当然です、という意味です。

ヨナタンは、ダビデが真実で、愛に富んだ人物であることを信じていました。彼は、自分の王位を失うことがあっても、ダビデを信頼したのです。もしヨナタンがそれほどにダビデを信頼したのであれば、私たちがダビデの子であるイエス様に全幅の信頼を置くのは当然ではないでしょうか。イエス様はいのちをかけて私たちを愛してくださいました。この方に信頼し、従い続けましょう。

Ⅱ.サウルの怒り(24-34)

次に、24~34節までをご覧ください。

「24 ダビデは野に隠れた。新月祭になって、王は食事の席に着いた。25 王は、いつものように自分の席、つまり壁寄りの席に着いた。ヨナタンはその向かい側、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの席は空いていた。26 しかし、その日、サウルは何も言わなかった。「思わぬことが起こって身を汚したのだろう。きっと汚れているためだろう」と思ったからであった。27 しかし、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデの席は空いていた。サウルは息子のヨナタンに言った。「どうしてエッサイの子は、昨日も今日も食事に来なかったのか。」28 ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。29 『どうか、私を行かせてください。氏族の祝宴がその町であります。長兄が命じているのです。今、あなたのご好意を得ているなら、どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください』と言ったのです。それで彼は王の食卓に来ていないのです。」30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである。」

いよいよ新月祭になって、サウル王は食事の席に着きました。向かい側にヨナタン、アブネルはサウルの横の席、ダビデの席は空いていました。しかし、サウルはダビデの席が空席であることをあまり気にしませんでした。思わぬことが起こって身を汚したのだろうと思ったからです。この食事は儀式的なものであり、身を清めでからでないと食べることができませんでした。ですから、サウルはダビデが身を汚したのだろうと思ったのです。

ところが、その翌日、新月祭の二日目にも、ダビデは姿を現わしませんでした。それでサウルかそのことをヨナタンに尋ねると、ダビデがベツレヘムに行かせてほしいと自分にしきりに頼んだのでそれを許可したと答えました。

するとサウルはカンカンに怒りました。それはヨナタンのせいでダビデを殺す機会を失ってしまったからです。サウルは息子ヨナタンを汚い言葉で罵倒しました。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」サウルは、自分の家から王位が離れて、ダビデの家に行くではないかと心配したのです。

しかし、そんなことおかまいなしに、ヨナタンは率直に自分の思いを父サウルにぶつけます。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」

するとサウルは、槍を投げつけてヨナタンを撃ち殺そうとしました。それでヨナタンは、父サウルがダビデを殺そうとしていることを知りました。ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がると、新月祭の二日目の食事を取りませんでした。サウルがダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからです。

ヨナタンは、自分がどんなに厳しい状況に追い込まれようとも、神のしもべダビデの側に付きました。神のしもべの側に付き、その人を支援することは、大きな祝福をもたらします。一時的に不利な状況になり、それがいかに危険で犠牲が伴うように見えても、最終的には必ず神の祝福を受けることになります。

昨年の夏に、那須のぞみ教会に来会した香港チームのイングリッド姉から、香港の自由のために祈ってほしいというメールがありました。ご存知のように、中国は先の全人代で国家安全法制の導入を決定したことで、この法が香港市民の権利や言論の自由、宗教の自由に大きな制限を与えると危機感から、反対しているわけですが、その中でイングリッド姉はこう言っています。

「主よ。トンネルの中の私たちはトンネルの中で過ごしていて、向こうの光が見えないでいます。我らをパウロみたいに主の力を信じ、『夜は深まり、昼が近づきました』の景色が見えるように助けてください。歴史の中でどんなに邪悪な政権でも最後まで暴れたことはありません。荒淫(こういん)で道徳がない紂王(ちゅうおう)、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)をした、始皇帝、アッシリア、バビロン、ローマ、ナチスなど、そして権力に依存する無数の平凡な悪者は、どんなことを企て図っても、主は必ず彼らをあざけり、憤りをもって彼らに語るであろう。ですから、私たちは主に祈りを捧げます。私たちや平和を求める人たちを助けてください。私たちが光の兵器、知恵や勇気をもって困難の中でも忍耐をもって、神様を待ち望むことができるように。」

あなたはどうですか。あなたは、神を恐れ、神を信じる人たちとともに歩んでいるでしょうか。表面的で一時的な雰囲気に呑みこまれないように、いつも主と主のことばに信頼しましょう。

Ⅲ.ダビデとヨナタンの別れ(35~42)

最後に、35~42節までを見て終わりたいと思います。

「35 朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行った。36 そして子どもに言った。「走って行って、私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。37 子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」38 ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。39 子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味が分かっていた。40 ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。41 子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。42 ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。」

翌朝、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行きました。父サウルの意志を伝えるためです。伝える方法は、3本の矢のサインでした。自分の放つ矢が、子どもより手前に落ちたら大丈夫。向こうに落ちたら、サウルがダビデを殺そうとしているというサインでした。ヨナタンが放った矢は、その子の向こう側に落ちました。そして、叫びました。「矢は、おまえよりも、もっと向こうではないか。」「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」それは、ダビデに早く逃げるようにというメッセージでした。子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけが、その意味を分かっていました。

ヨナタンがその場から子どもを立ち去らせると、ダビデは南側から出て来て、地にひれ伏し、三度礼をしました。二人は口づけし、抱き合って、泣きました。ダビデはいっそう激しく泣きました。この別離は、ふたりにとって非常に辛いものでした。もしかすると、もう会えないかもしれません。そう思うとより一層悲しみがこみ上げて来たのでしょう。

最後にヨナタンはダビデにこう言いました。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」(42)どういうことでしょうか。

ヨナタンはここで、決してダビデを裏切らないという約束をします。それは彼らだけのことではなく、彼らの子孫におけるまでの永遠の誓いです。ダビデは、自分が王になっても、ヨナタンの家系を抹消しないと約束しました。そしてダビデはこれを最後まで守ります。

これが神様との契約です。私たちは言葉や約束が軽く扱われる時代に住んでいます。約束は破るためにある・・とか。そのため、聖書に書かれてある約束についても、その重さをなかなか理解することができないのです。しかし、聖書の約束は非常に重いものがあります。神の約束は永遠に破棄されることはありません。キリストの血によって結ばれた神との契約は、どんなことがあっても破られることはないのです。私たちの状況によってコロコロと変わるものではないのです。

私の好きな聖書の言葉に、「永遠の腕が下に。」という言葉があります。申命記33:27です。「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。神はあなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じられた。」

神は、イスラエルを助けるために雲に乗って来られます。彼らの下には永遠の腕があり、支えられていました。それは私たちも同じです。私たちはキリストの血によって神と永遠の契約を結びました。どんなに自分がだめでも、私たちの下にはいつもこの永遠の腕があるのです。この永遠の腕によって守られているのです。それは何かあって破られるようなものではありません。私たちが何か間違いを犯したからと無効になってしまうようなものではないのです。これは永遠の契約です。イエス様はこう言われました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(ヨハネ10:28)

私たちの下にはこの永遠の腕があることを覚えて、大きな慰めと励ましを受けながら、神の国とその義を求めてこの世に出てまいりましょう。

Ⅰサムエル記19章

今回は、サムエル記第一19章から学びます。18章では、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」と喜び歌った女たちの声を聞いたサウルが、ダビデを妬み彼を殺そうとしましたが、神がダビデともとにおられたので、どんなことをしてもダビデが殺されることはありませんでした。今回の箇所はその続きです。

Ⅰ.ヨナタンのとりなし(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。

「1 サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた。しかし、サウルの息子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。2 ヨナタンはダビデに告げた。「父サウルは、あなたを殺そうとしています。明日の朝は注意してください。隠れ場にとどまり、身を隠していてください。3 私はあなたのいる野に出て行って、父のそばに立ち、あなたのことを父に話します。何か分かったら、あなたに知らせます。」4 ヨナタンはダビデを弁護し、父サウルに言った。「王よ、しもべダビデのことで罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。むしろ、彼のしたことは、あなたにとって大きな益となっています。5 彼が自分のいのちをかけてペリシテ人を討ったので、主は大きな勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て喜ばれました。なぜ、何の理由もなくダビデを殺し、咎のない者の血を流して、罪ある者となられるのですか。」6 サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」7 ヨナタンはダビデを呼んで、このことすべてを告げた。ヨナタンがダビデをサウルのところに連れて来たので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになった。」

サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来たちに告げました。それでヨナタンは、ダビデのところへ行きそのことを告げ、安全な場所に身を隠すように忠告しました。それはヨナタンがダビデを非常に愛していたからです。また、前回のところで見たように、ダビデと友人としての契約を交わしていたからです。

さらにヨナタンはダビデを弁護し、父サウルに、ダビデがこれまでどれほどイスラエル全体のために貢献してきたか、また、サウルにとって大きな益をもたらしたかを語り、彼を殺さないようにととりなしました。

サウルはヨナタンの言うことを聞き入れ、「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」(6)と言って誓いました。それでヨナタンはダビデを呼び、これらすべてのことを告げ、ダビデをサウルのところに連れて来たので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになりました。

それにしても、ヨナタンのとりなしは立派です。彼は愛するダビデのために、父の前でとりなしました。そんなことをしたら父サウルに殺されるかもしれないのに。しかし、彼は恐れることなく、ダビデを弁護し彼のために父サウルにとりなしたのでした。それは彼がダビデと契約を結んでいた(18:3)からです。彼は自分の命にかけてダビデを守ろうとしました。

それはまさに、私たちのためにとりなしてくださる主イエスの姿そのものです。ローマ8:34には、「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」とあります。主イエスが私たちのために、いつもとりなしていてくださいます。それは、私たちが主イエスを信じ、その血によって契約を交わしたからです。私たちは神から遠く離れた者でしたが、イエスの血によって、その血の注ぎを受けたことで、主イエスの友と呼ばれるようになりました。本当の友は、その友のためにいのちを捨てます。ヨナタンがダビデのためにいのちがけでサウルにとりなしたように、主イエスは私たちのためにいのちを捨てて、父なる神にとりなしてくださいました。ですから、私たちも日々落胆することがあっても、私たちのためにとりなしておられる主イエスを見上げて感謝しましょう。

Ⅱ.ミカルの策略(8-17)

次に、8~17節をご覧ください。まず10節までをお読みします。

「8 再び戦いが起こった。ダビデは出て行って、ペリシテ人と戦い、彼らを討って大損害を与えた。彼らはダビデの前から逃げた。9 わざわいをもたらす、主の霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家で座っていて、手には槍を持っていた。ダビデは竪琴を手にして弾いていた。10 サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた。」

しかし、再び戦いが起こりました。それでダビデが出て行ってペリシテ人と戦い、彼らを討って大損害を与えました。すると、わざわいをもたらす主の霊が、サウルに臨みました。彼は再び嫉妬心を燃え上がらせたのです。そこに付け込んだのが悪霊でした。悪霊が彼に臨み、ダビデに対して殺意を抱かせたのです。サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとしましたが、ダビデがサウルから身を避けたので、難を逃れました。

サウルは、ダビデが殺されることはないと主の御名によって誓ったのにその誓いを簡単に破り、主の前に悪を行いました。彼が抱いた嫉妬心はすぐに処理されてはいなかったのです。そうした隙間に悪魔が入り込みました。主に喜ばれない思いを抱くことは、悪魔に付け込む隙を与えることになります。私たちはそうならないように、目を覚ましていなければなりません。

11~17節をご覧ください。

「サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」12 そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。13 ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。14 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った。15 サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」16 使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった。17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私をだまし、私の敵を逃がして、逃れさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人が、『逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せるだろうか』と私に言ったのです。」」

そこでサウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとしました。そのことを知ったダビデの妻ミカルはダビデに告げ、ダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて難を逃れることができました。ミカルはテラフィムを取って、それを寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを枕のところに置き、それを着物でおおいました。テラフィムとは、家の守り神を表していた偶像でした。これは、ミカルが所有していたもので、もしダビデがそれを知っていたなら、家に置いておくことはしなかったでしょう。それだけ、サウルの家は完全には偶像礼拝から解放されていなかったということです。形式的に主に仕えていただけでした。ミカルがそのテラフィムを寝床に置いたのは、病気のダビデがそこで寝ているかのように装うためでした。

ミカルはダビデのために時間かせぎをしましたが、最後は使者たちを欺いたことがバレてしまいました。なぜこのようなことをして父である自分をだまし、ダビデを逃したのかと問われると、「あの人が、「逃がしてくれ。私はどうしておまえを殺せるだろうか」と言ったからだ」と答えました。つまり、ダビデが恐怖のあまり自分を殺そうとし脅迫したので、そのようにするしかなかったのだ、と弁明したのです。

ここでヨナタンとミカルの違いが見られます。ヨナタンは、正々堂々とダビデが正しいことを父サウルに進言しましたが、ミカルは、自分を守るためにダビデを悪役に仕立てました。ダビデを救ったことは良いことですが、父を恐れて妥協する姿勢は、やがてダビデが主の前で踊った時に彼を見下げる態度として表れます。私たちにもそのような弱さがあります。自分を守ろうとする思いから、真実をねじ曲げてしまうのは、キリスト者としてふさわしい態度ではありません。まさに人を恐れるとわなにかかります。しかし、主を恐れる者は守られるのです。

ところで、この時の困難を背景に、ダビデは詩篇59篇を書きました。開いてみましょう。

「指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに。

1 私の神よ私を敵から救い出してください。向かい立つ者たちよりも高く私を引き上げてください。2 不法を行う者どもから私を救い出してください。人の血を流す者どもから私を救ってください。3 今しも彼らは私のたましいを待ち伏せし力ある者どもは私に襲いかかろうとしています。主よそれは私の背きのゆえでもなく私の罪のゆえでもありません。4 私には咎がないのに彼らは走り身構えています。どうか目を覚ましここに来て見てください。5 あなたは万軍の神 主イスラエルの神。どうか目を覚ましすべての国を罰してください。邪悪な裏切り者をだれもあわれまないでください。セラ6 彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回ります。7 ご覧ください。彼らの唇には多くの剣がありその口で放言しているのです。「だれが聞くものか」と。8 しかし主よあなたは彼らを笑いすべての国々を嘲られます。9 私の力よ私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。10 私の恵みの神は私を迎えに来てくださる。神は私に敵を平然と眺めるようにしてくださる。11 彼らを殺してしまわないでください。私の民が忘れることのないように。御力によって彼らをさまよわせてください。彼らを打ち倒してください。主よ私たちの盾よ。12 彼らの口の罪は彼らの唇のことば。彼らは高慢にとらえられるがよい。彼らが語る呪いとへつらいのゆえに。13 憤りをもって滅ぼし尽くしてください。滅ぼし尽くしてください。彼らがいなくなるまで。神が地の果てまでもヤコブを治められることを彼らが知るようにしてください。セラ14 彼らは夕べに帰って来ては犬のようにほえ町をうろつき回ります。15 食を求めてさまよい歩き満ち足りなければ夜を明かします。16 しかしこの私はあなたの力を歌います。朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日にあなたが私の砦また私の逃れ場であられたからです。17 私の力よ私はあなたにほめ歌を歌います。神は私の砦私の恵みの神であるからです。」

何とすばらしい賛美でしょう。この美しい歌はこのような苦しみの中から生まれました。ダビデがこのような苦難を経験しなければ、生まれることはなかったのです。私たちの人生にも、試練や苦しみを通らなければ味わえない恵みや喜びがあることを覚え、もし今そのような中にあるならば、そのことを覚えて主に感謝しようではありませんか。

Ⅲ.サムエルのもとへ(18-24)

次に、18節から24節までをご覧ください。

「18 ダビデは逃げて、難を逃れ、ラマのサムエルのところに来た。そしてサウルが自分にしたこと一切をサムエルに告げた。彼とサムエルは、ナヨテに行って住んだ。19 するとサウルに「ダビデは、なんとラマのナヨテにいます」という知らせがあった。20 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が預言し、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。21 このことをサウルに告げる者がいたので、彼はほかの使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。サウルはさらに三度目の使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。22 サウル自身もラマに来た。彼はセクにある大きな井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるか」と尋ねた。すると、「今、ラマのナヨテにいます」という答えが返ってきた。23 サウルはそこへ、ラマのナヨテへ出て行った。彼にも神の霊が臨んだので、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテまで来た。24 彼もまた衣類を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていた。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになった。」

ダビデは何とか逃れて、ラマにいるサムエルのところへ行きました。ここから、およそ10年におよぶダビデの放浪生活が始まります。この期間は、人間的に見れば実に苦しい人生の荒野でしたが、神の視点から見ると、ダビデの信仰が試され、純化されていく時でした。それは、彼がイスラエルの王として立てられていくために必要な準備の期間でもあったのです。なぜダビデはラマのサムエルのところへ行ったのでしょうか。それは、彼がダビデに油を注いで王としたからでしょう。ダビデがラマのサムエルのところにいることがサウルに告げられると、サウルはダビデを捕らえようと使者たちを遣わしました。サウルのいたギブアからラマまでは5㎞ほど離れていました。しかし、使者たちがサムエルのところへ行ってみると、不思議なことが起こりました。神の霊が彼らの上に臨み、彼らもまた預言したのです。

このことがサウルに告げられると、サウルはほかの使者たちを遣わしましたが、彼らもまた、預言しました。いったいどうなっているのか、サウルはさらに三度目の使者を遣わしましたが、彼らもまた、預言したのです。

それで、サウル自身がラマに出向くことになりました。彼はセクにある井戸まで来たとき、「サムエルとダビデはどこにいるか」と尋ねると、ラマのナヨテにいることを聞いたので、そこに向かいました。するとどうでしょう。彼もまた衣服を脱ぎ、サムエルの前で預言し、一昼夜、裸のまま倒れていました。このために、「サウルも預言者の一人なのか」と言われるようになりました。これはどういうことでしょうか。

サウルが預言したのは、これが二度目です。最初のものは、10:10にあります。これはサウルに対する神の裁きです。ダビデを殺そうとする彼の計画は、再び失敗しました。主の霊がサウルに臨み、預言させることによってダビデを守られたのです。サウルが気付いていなかったのは、ダビデの上には神の守りがあったということです。だから、どんなことがあっても殺されることはありません。神の計画に反抗することは恐ろしいことです。大切なことは、神のみこころに生きることです。今、主の御手がどこに伸ばされているのかをよく吟味し、神のみこころにかなった歩みを求めましょう。

Ⅰサムエル記18章

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今回は、サムエル記第一18章から学びます。

 

Ⅰ.ヨナタンの信仰(1-4)

 

まず、1~4節までをご覧ください。

「1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した。2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。3 ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。4 ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」

 

ヨナタンは、サウルの息子です。ダビデがペリシテ人を討ち破り、そのことをサウルに報告したとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びつきました。ダビデの行動を見て、またその言葉を聞いて、感動したのでしょう。

その日サウルは、ダビデを召しかかえ、家に帰らせませんでした。親衛隊として仕えさせ、王宮に住まわせることにしたのです。この時から、ダビデはサウルの側近として生活するようになりました。

 

息子ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、彼はダビデと契約を結びまた。何の契約でしょうか。友人としての契約です。ここに彼がダビデを愛したとあるのは、勿論恋愛感情のことではありません。言ったことは必ず成し遂げるという契約に基づいた関係のことです。その証拠として、彼は自分が来ていた上着を脱いでダビデに渡しました。そればかりか、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えました。このように、自分の上着やよろいかぶと、剣、弓、帯を与える行為は、自分の将来の王位をダビデに引き渡したことを意味しています。昔、ヤコブが息子ヨセフに長服を与えましたが、それと似ています。それはヤコブがヨセフに長子の権利を与えることを意味していましたが、ここでも、ヨナタンがダビデに自分の武具を引き渡したということは、父サウルから受け継ぐべき王位を彼に明け渡したことを意味しているのです。

 

ヨナタンはダビデよりも年長でした。しかし彼は、ダビデの成功や人気をねたむどころか、ともに喜ぶことができる人でした。言い換えれば、彼は主がダビデの人生を通して行っておられることを喜ぶことができたということです。バプテスマのヨハネはイエス様に対して、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言いましたが、それと同じです。

あなたの中に、他の人を通して神が行っていることを喜ぶ心があるでしょう。これこそ真にへりくだった人の心です。神は、それぞれに賜物を与えてくださいました。その与えられた賜物を互いに認め合い、互いに尊重し合い、互いに喜び合う者でありたいと思います。

 

Ⅱ.サウルの妬み(5-16)

 

次に、5~16節をご覧ください。まず11節までをお読みします。

「5 ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収めた。サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれた。6 皆が戻り、ダビデがあのペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、女たちは、イスラエルのすべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌い踊りながら出て来て、サウル王を迎えた。7 女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」8 サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」9 その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。10その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデはいつものように竪琴を手にして弾いたが、サウルの手には槍があった。11 サウルは槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろうと思ったのである。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした。」

 

ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行き、勝利を収めました。それでサウルは彼を戦士たちの長としました。そのことは、すべての兵たちにも、サウルの家来たちにも喜ばれることでした。

しかし、そうでない人物が一人だけいました。サウルです。最初はサウルも、ダビデのような勇士が与えられたことを喜んでいましたが、残念ながら、彼はダビデを妬み、自分の王位を脅かす人物として敵視するようになります。

そのきっかけとなったのが、女たちの歌です。ダビデがゴリヤテを討ち取ってかえって来たとき、女たちは、すべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びながら踊りながらサウルを迎えた時、このように歌ったからです。笑いながら・・。

「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」

それでサウルは激しく怒り、不機嫌になりました。ダビデに万と言い、自分には千と言ったからです。つまり、自分よりもダビデを上に置いたと感じたのです。ダビデにないものがあるとしたら、それは王位だけです。その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになりました。これが罪人の特徴でもあります。信仰の目でみれば、私たちには上下などありません。私たちはみなキリストのからだであり、互いに補い合い、助け合います。だれが上で、だれが下かという差はありません。ところが、サウルは自分のことしか考えていませんでした。彼はダビデに王位が奪われるのではないかと疑心暗鬼になったのです。そして、その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼が家の中で狂いわめくと、ダビデはいつものように竪琴を手にして弾きましたが、サウルは槍でダビデを殺そうとしました。彼が高ぶりや妬みという自分の肉の問題を処理していなかったので、悪い霊の影響をまともに受けてしまったのです。

 

妬みは私たちから平常心を奪います。妬みが起こってくるのは、私たちが神のわざよりも自分の成功に関心があるからです。伝道者の書4:4には、「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」とあります。主に用いられている人に対して妬みを起こすことがないように祈りましょう。また、一人一人がその賜物にふさわしく用いられるように祈りましょう。

 

12節から16節までをご覧ください。

「12 サウルはダビデを恐れた。それは、主がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。13 サウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは兵の先に立って行動した。14 主が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。15 彼が大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。16 イスラエルもユダも、皆がダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動したからである。」

 

サウルはダビデを恐れました。それは、主が自分から離れ去り、ダビデとともにおられることを感じたからです。それで彼はダビデを千人隊長に任じ、戦場に送り出すことで、敵の手で彼を殺そうと企みました。しかし、主が彼とともにおられたので、ダビデは、行く先々で勝利を収めました。それでサウルはますます彼を恐れましたが、イスラエルもユダも、皆ダビデを愛しました。それは彼自らが先頭に立って行動したからです。自分を犠牲にすることを決して厭わなかったのです。ここに真のリーダーの姿が描かれています。真のリーダーとは、後ろの方であぐらをかいて座っている人ではなく、民の先頭に立って仕える人です。イエス様も、「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)と言われました。私たちも自分のいのちを与える覚悟で仕える者でありたいと思います。

 

Ⅲ.陽の皮百(17-30)

 

次に、17節から30節までをご覧ください。19節まで見てください。

「17 サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをおまえの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人に手を下させよう、と思ったのである。18 ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるとは。」19 ところが、サウルの娘メラブをダビデに与えるというときになって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。」

 

サウルは槍でダビデを殺そうとしましたが、失敗に終わりました。それで千人隊長に任じ、戦場に送ることで自然に討ち取られるように計りました。しかし、主がダビデとともにおられたので彼はどこででも勝利を収め、むしろ、民の尊敬と信頼を勝ち取ることになりました。そこでサウルが次に考えたことは、ダビデをペリシテ人と戦わせ、彼らの手によって葬り去ることでした。

 

サウルはダビデに、もし、ペリシテ人との戦いで勇敢にふるまい、勝利した暁には、自分の娘メラブを妻として与えると言いました。この約束はすでにペリシテ人ゴリヤテに勝利した時に実行されていなければならないものでしたが、不誠実なサウルはそれを実行せず、ここでさらに新たな条件を加えたのです。それがこの戦いです。

 

ダビデは、謙虚に王の申し出を受け入れましたが、その娘メラブをダビデに与えるときになって、サウルは何とそのメラブをメホラ人アデリエルに妻として与えてしまったのです。これはダビデにとって大いなる侮辱でした。いやそれ以上に、神に対する侮辱でした。彼が公に誓った約束をいとも簡単に破ったからです。彼は他人には厳しく、自分には甘いという弱さがありました。それは私たちも同じです。他人には厳しくても、自分には甘いという面があります。それは神に信頼を置いているのではなく、利己的に歩んでいるからです。まことに主を恐れ、主に信頼する人は幸いです。いつも主を恐れて歩ませていただきましょう。

 

次に、20~30節をご覧ください。

「20 サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。そのことがサウルに告げられた。そのことは、サウルの目には良いことに思えた。21 サウルは、「ミカルを彼にやろう。ミカルは彼にとって罠となり、ペリシテ人の手が彼に下るだろう」と思った。そして、サウルはもう一度ダビデに言った。「今日こそ、おまえは婿になるのだ。」22 サウルは家来たちに命じた。「ダビデにひそかにこう告げなさい。『ご覧ください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。』」23 サウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。ダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことに見えるのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」24 サウルの家来たちは、ダビデがこのように言っています、と言ってサウルに報告した。25 サウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいると。」サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。26 サウルの家来たちはこのことばをダビデに告げた。王の婿になることは、ダビデの目には良いことに思えた。そこで、期限が過ぎる前に、27 ダビデは立って、部下と出て行き、ペリシテ人二百人を討って、その陽の皮を持ち帰った。こうしてダビデは、王の婿になるために、王に対して約束を果たした。サウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。28 サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。29 サウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはずっと、ダビデの敵となった。30 ペリシテ人の首長たちが出陣して来たが、彼らが出て来るたびに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげ、彼の名は大いに尊ばれた。」

 

サウルのもう一人の娘ミカルはダビデを愛していました。そのことがサウルに告げられると、それは良いことだと思いました。ミカルを利用してダビデを殺そうと思ったのです。そこでサウルは家来たちに命じて、そのことをひそかにダビデに伝えました。なぜひそかに告げたのでしょうか。メラブの一件があったので、受け入れられないと思ったのでしょう。

 

案の定、サウルの家来たちがそのことをダビデに告げたとき、彼は「王の婿になるのがたやすいことに見えるのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」(23)と言いました。自分は貧しく、身分が低い者なので、花嫁料が支払えないと断ったのです。

 

その報告を聞いたサウルは、さらにダビデに伝言を届けました。それは、花嫁料は望まないがが、その代わりにペリシテ人の陽の皮を百持ってくるようにということでした。「陽の皮」とは、男性の性器の先端部分の包皮のことです。イスラエル人は生後すぐに割礼するのでら陽皮はありませんが、ペリシテ人は異邦の民なのでみな陽皮がありました。その陽の皮を持ってくるとは、彼らを打ち倒しその証拠として割礼と同じ処置を行い、それを持ってくるということです。もしダビデがそのような屈辱的なことをするなら、ペリシテ人は総力を挙げてダビデを殺そうとするでしょう。それがサウルの狙いだったのです。

 

王の婿になれるのであればと、ダビデは期限が過ぎる前に部下とともに出て行き、ペリシテ人200人を討って、その陽の皮を持ち帰りました。要求された100の陽の皮でしたが、彼はその倍の200をサウルに与えたのです。それでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えました。

 

この出来事を見たサウルは、ますますダビデを恐れました。なぜなら、主がダビデとともにおられることが明らかとなったからです。また、娘ミカルがダビデを愛していることを見たからです。

 

このことからわかることは、人は神がその人に与えた計画が成就するまでは、決して死なないということです。ダビデには、イスラエルの王になるという預言、神ことばが与えられていました。その預言が実現するまでは、決して死ぬことはありません。これはダビデだけでなく、私たちも同じです。すべてのクリスチャンには、神からの使命と計画が与えられています。それが成就するまでは、決して死ぬことはありません。今、世界中がコロナウイルスで不安と混乱の中にありますが、このことを知り、すべてを計画しておられる神にゆだねることができれば、どんなに平安なことでしょう。すべてを支配しておられる主の御手にゆだね、主の御手の中で平安をいただきましょう。

Ⅰサムエル記17章41~58節

今回は、サムエル記第一17章後半から学びます。イスラエルの陣営に炒り麦とパン、そしてチーズを届けるように父エッサイから依頼されたダビデは、戦地でペリシテ人の巨人ゴリヤテが、イスラエル人を脅しているのを見ました。それを見たイスラエルの人々は、脅えて戦う意欲を失っていましたが、ダビデは「この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神をそしるとは。」と言って、信仰によって立ち向かいました。

 

Ⅰ.石投げを手にして(31-40)

 

まず、31~40節までをご覧ください。

「31 ダビデが言ったことは人々の耳に入り、サウルに告げられた。それで、サウルはダビデを呼び寄せた。32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」33 サウルはダビデに言った。「おまえは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若いときから戦士だったのだから。」34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」37 そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主がおまえとともにいてくださるように。」38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。39 ダビデは、そのよろいの上にサウルの剣を帯びた。慣れていなかったので、ためしに歩いてみた。ダビデはサウルに言った。「これらのものを着けては、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれを脱いだ。40 そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。」

 

ダビデが言ったことはサウルの耳に入り、彼はサウルに呼び寄せられました。そこでダビデが言ったことは、自分が出て行って、あのペリシテ人と戦うということでした。当然、サウルはダビデのことばを受け入れることはできませんでした。なぜなら、ダビデはまだ若く、戦いの経験もなかったからです。一方、ゴリヤテは若い時から戦士でした。いわゆる百戦錬磨です。そんな相手にどうやって戦うというのでしょう。無理だ、できない、というのがサウルの反応でした。

 

それに対してダビデはこう言いました。34節から36節までです。「34しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」

そして、こう言いました。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」(37)

何という信仰でしょうか。彼はすでに主にあって戦ってきました。その戦いは、父の羊の群れを守るために、獅子や熊と戦いうというものでしたが、相手が獅子でも熊でも自分に襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、その口から羊を救い出しました。けれども、今回の戦いは、生ける神の陣をそしった無割礼のペリシテ人ゴリヤテとの戦いです。主が助けてくださらないわけがありません。獅子や熊の爪から救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも必ず救い出してくださいます。

ほんとうに、見上げた信仰です。ダビデは敵の大きさとか、強さなどを全く見ませんでした。彼が見たのは、これまでずっと自分を支え、救い出してくださった、真実な力ある主ご自身でした。人を見たら罠にかかります。しかし、主に信頼するものは守られます。

 

イエス様を乗せ舟でガリラヤ湖を渡っていた弟子たちが、突然、激しい嵐にあい、湖で転覆しそうなとき、彼らがパニックを起こしたのはなぜでしょうか。それは彼らが嵐の大きさに目を奪われてしまい、そこに嵐を静めることのできるお方がいることを見なかったからです。私たちの神、主は、どんな嵐をも静める力を持っておられる方です。この方が私たちともにおられるのです。であれば、何を恐れる必要があるでしょうか。私たちが見なければならないのは目の前の嵐ではなく、その嵐を静めることができる神ご自身なのです。

 

ダビデの話を聞いて納得したサウルは、ダビデを代表戦士として戦場に送ることに同意しました。ダビデの熱意に並々ならぬものを感じたのでしょう。それでサウルは自分のよろいかぶとと剣を与えました。しかし、武具に慣れていなかったダビデは、ためしに歩いてみましたが、まともに歩くことができなかったので、「これらのものを着けては、歩くことができません。」と言って、脱ぎました。そして自分の杖を手に取り、川から5つの滑らかな石を選び、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、ゴリヤテに近づいて行くことにしました。ここに教訓があります。つまり、借物では、戦うことができないということです。それがどんなに立派な武具でも人のもので戦うことはできないのです。自分の武器で戦わなければなりません。人にはみなそれぞれに合った戦い方があります。そのやり方で戦わなければ実力を発揮することができないのです。また、それが仮にどんなに質素なものであっても、自分の武器こそが最高に用いられます。むしろ武器が貧弱であればあるほど、勝利した時に神の御名が称えられることになります。あなたの武器は何ですか。主の御名の栄光のために、自分の武器を取り、信仰をもって戦おうではありませんか。

 

Ⅱ.万軍の主の御名によって(41-47)

 

次に、41節から47節までをご覧ください。

「41 そのペリシテ人は盾持ちを前に立て、ダビデの方にじりじりと進んで来た。42 ペリシテ人は、ダビデに目を留めて彼を見つめ、彼を蔑んだ。ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったからである。43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46 今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 

ペリシテ人ゴリヤテが盾持ちを前に立て、ダビデの方に近づいて来ると、ダビデに目を留め、彼を見つめて、蔑みました。ゴリヤテにとっては拍子抜けでした。紅顔の美少年が、しかも羊の番の格好でやってきたからです。そんなダビデにゴリヤテが言いました。「おれは犬か。」当時、「犬」ということばは人を侮辱することばとしても使われました。そして、自分の神々によってダビデをのろいました。自分たちの神々とは、ダゴンの神のことです。ダゴンとは、魚の下半身に人間の上半身をもった姿をしている神で、「魚の偶像」だとも「穀物の神」だともいわれており、豊穣の神としてペリシテ人に拝まれていました。その神々の名によってのろったのです。

 

一方、ダビデはどうだったでしょうか。彼はゴリヤテに、「45おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46 今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(45-47)と言いました。ゴリヤテは、剣と槍と投げ槍をもって向かってくるが、ダビデの武器は、万軍の主の御名でした。彼は、この戦いが主の戦いであることを認識していたのです。つまり、これがペリシテ人の偶像とイスラエルの神との戦いであるということです。そして、主は必ず勝利を与えてくださいます。その結果、ゴリヤテの体は頭と胴体が切り離され、ペリシテ人の軍勢の屍は、空の鳥、地の獣の餌食となります。そして、すべての国は、イスラエルに神がおられるということを知ることになります。

 

詩篇20:7には、「ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神、主の御名を呼び求める。」とあります。まさにダビデの戦いがこれでした。彼は戦車や馬ではなく、主の御名を呼び求めました。万軍の主の御名によって戦ったのです。私たちに求められているのはこれでしょう。科学が進歩すると、あたかもそれがすべてであるかのように思われがちな現代にあって、実はそうしたものが逆に社会を混乱させていることも事実です。昭和、平成、令和と時代が進んでくる中で、どんなにITが進歩してきても、かえって社会がおかしくなってきたということを多くの人が感じているのではないでしょうか。ある者は戦車を、ある者は馬を求めますが、しかし私たちが求めるのは、私たちの神、主の御名なのです。これに勝る武具はありません。

 

パウロはエペソ人への手紙で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(6:12)と言っています。ダビデは自分の戦いが、剣や盾のような物質的なものによる戦いなのではなく、霊の戦いであることを認識していました。私たちの戦いも同じです。血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものなのです。このことに気付いているかどうかです。自分がいま直面している問題が、物理的、肉体的なものではなく、霊的なものであることに気付き、それに対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取らなければなりません。それが真理であり、正義、平和の福音、信仰、救い、御霊の剣である神のことば、そして祈りなのです。すなわち、万軍の主の御名による戦いなのです。

 

Ⅲ.ダビデの勝利(48-58)

 

その結果、どうなったでしょうか。48節から58節までをご覧ください。

「48 そのとき、そのペリシテ人はダビデの方に近づき始めた。ダビデは、すばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。49 ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。50 ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち、このペリシテ人を撃って、彼を殺した。ダビデの手に剣はなかったが。51 ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見て逃げた。52 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガイの谷間に至るまで、そしてエクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムの道に、ガテとエクロンに至るまで、刺し殺されて倒れていた。53 イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。54 ダビデは、あのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰った。しかし、武具は自分の天幕に置いた。55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に向かって出て行くのを見たとき、軍の長アブネルに言った。「アブネル、あの若者はだれの息子か。」アブネルは言った。「王様、お誓いしますが、私は存じません。」56 そこで、王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの息子かを調べなさい。」57 ダビデがペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて来た。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。58 サウルは彼に言った。「若者よ、おまえはだれの息子か。」ダビデは言った。「あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの息子です。」

 

ペリシテ人ゴリヤテがダビデの方に近づいて来ると、ダビデはすばやく戦場を走って行き、ゴリヤテに立ち向かいました。彼は手を袋の中に入れ、石を一つ取り出すと、それを石投げの中に入れ、それを放って、ゴリヤテの額に命中させました。すると石は額に食い込み、ゴリヤテはうつぶせに地面に倒れました。完全武装していたゴリヤテも、顔だけは隠すことができませんでした。ダビデはゴリヤテのところに走って行くと、彼の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねました。ダビデは、石投げと石一つでこのペリシテ人ゴリヤテに勝ったのです。ペリシテ人たちは、自分たちの勇士が死んだのを見ると逃げ出しましたが、追って来たイスラエル人に打たれたので倒れ、空の鳥や野の獣のえじきとなりました。ダビデは、ゴリヤテの首を取ってエルサレムに持ち帰りましたが、武具は自分の天幕に置きました。

 

サウルは、将軍アブネルにダビデのことを尋ねています。それは、あのペリシテ人を倒した者には自分の娘を与え、その父の家には税を課さないと約束していたからです。彼は自分の将来の婿がどのような人物なのかを知ろうとしたのでしょう。しかし、アブネルはダビデについて詳しいことを知りませんでした。そこでアブネルがサウルの前に連れて来ると、ダビデはペリシテ人の首を手にしていました。

 

サウルはダビデに、「若者よ、おまえはだれの息子か」と尋ねました。だれの息子かって、もう何度も彼のそばで竪琴を弾いては、彼にわざわいをもたらす霊を静め、穏やかにしてきたではありませんか。それなのに、お前はだれの息子かと聞くのは変です。実のことろ、彼はダビデを音楽療法士として知ってはいましたが、さほどの関心を示していなかったのです。

 

新約聖書を見ると、イエス様も同じであったことがわかります。ナザレ人たちがイエスにつまずいたのは、彼らがあまりにもイエスの近くにいたからです。サウルはダビデがあまりにも近くにいたので、その賜物と人物を見抜くことができませんでした。私たちも主のみわざがあまりにも近くで行われているために、その祝福が見えなくなっていることがあります。そういうことがないように、いつも自分のそばで働いておられる主の恵みを数えて感謝しようではありませんか。

Ⅰサムエル記17章1~30節

サムエル記第一17章前半から学びます。ここには、ダビデがペリシテ人ゴリヤテを倒すという有名な話が記されてあります。これを前半と後半の二つに分けて学びたいと思います。

Ⅰ.ペリシテ人ゴリヤア(1-11)

まず、1~11節までをご覧ください。
「1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。ユダのソコに集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。2 一方、サウルとイスラエル人は集まってエラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをした。3 ペリシテ人は向かい側の山の上に構え、イスラエル人は手前側の山の上に構えた。その間には谷があった。4 一人の代表戦士が、ペリシテ人の陣営から出て来た。その名はゴリヤテ。ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。5 頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていた。胸当ての重さは青銅で五千シェケル。6 足には青銅のすね当てを着け、背には青銅の投げ槍を負っていた。7 槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は鉄で、六百シェケルあった。盾持ちが彼の前を歩いていた。8 ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。9 おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」10 そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」11 サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」

ペリシテ人は戦いのために軍隊を招集しました。彼らはいつもイスラエルを攻撃する機会をうかがっていましたが、その好機がやって来たと判断したのです。それでユダのソコという所に集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷きました。一方イスラエルは、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをしました。両者の間には谷があったので、お互いにそう簡単には相手側に攻め込むことができませんでした。それで、対峙したまま膠着状態が続いていたのです。

そのとき、一人の代表戦士がペリシテ人の陣営から出て来て、一つの提案をしました。それは、「一人を選んで、おれたちのところによこせ」(8)ということでした。つまり、代表戦士同士の戦いによって決着をつけようというものです。その戦いで負けた方は、勝った方の奴隷となって仕えなければなりませんでした。これは当時よく行われていた習慣でした。しかし、ペリシテ人の陣営から出て来た代表戦士は、普通ではありませんでした。その名はゴリヤテで、ガテの生まれで、背の高さは6キュビト半もありました。1キュビトは約44センチですから、6キュビト半ということは2メートル86センチになります。今年NBAで活躍している八村塁選手は2メートル3センチですから、それよりも80センチも高い巨人です。しかも、この男が装備していた武具がすごいです。頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていました。胸当ての重さは青銅で五千シェケル(約57キロ)です。足には青銅のすね当てを着け、背中には青銅の投げ槍を負っていました。槍の穂先は手地で、600シェケル(約6.8キロ)もありました。完全武装です。このゴリヤテが、イスラエル人の前に立って、「今日、この日、おれがイスラエルの陣営を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負しようではないか。」(10)と言って来たのです。

このペリシテ人ゴリヤテのことばを聞いた時、サウルと全イスラエルはどのように反応したでしょうか。11節をご覧ください。
「サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」ゴリヤテの目的は、まさにここにありました。非常に大きな武器を身につけ、その巨体を
見せつけて、脅し文句を口から吐くことで、彼らに恐れを抱かせようとしたのです。戦いに
おける最大の敵は心の中の恐れです。これを相手に抱かせることができれば、勝利を手中に
収めたと言っても過言ではありません。案の定、サウルもイスラエルの兵士たちも、恐れの
ために縮み上がり、立ち向かうことができませんでした。彼らはまんまとゴリヤテの戦法に
はまってしまったのです。

今、世界中をコロナウイルスの猛威が吹き荒れています。確かに、この問題を軽く見てはいけないでしょう。しかし、私たちはこの敵を見て恐れてはなりません。この敵の攻撃でさえ神のご支配の中にあり、神がすべてを働かせて益としてくださると信じ、神に信頼しなければならないのです。

C・S・ルイスが、このように言っています。「サタンは、「人々に不安や恐れ、パニックを引き起こし、ビジネスを停止させ、学校や礼拝所、スポーツイベントを閉鎖し、経済を混乱させてやる。」と主張するが、ジーザスは、「人々を一つにし、家庭を回復させよう。食卓に食べ物を並べ、みんながペースを落とし、人生の中の本当に大切なものに目を向けられるよう助けよう。子供たちには、この世ではなく、お金や物でもなく、私に信頼することを教えよう。」と言われる。」

それにしても、いったい彼らはなぜ恐れてしまったのでしょうか。その原因はどこにあったのでしょうか。それは元をたどれば、サウルが主に背いたことで、主の霊が彼から去って行ったことです。その結果、彼は勇気をもってゴリヤテに対抗することができませんでした。恐れは人を身動きできない状態に陥れ、苦しめます。しかし、神が共におられるなら、たとえ敵がどのような巨人であっても、また罵声によって脅してきても恐れる必要はありません。神が戦ってくださるからです。

もしあなたが神を信じ、神の前に正しく歩んでいるなら、突如襲ってくる悲劇を恐れる必要はありません。神があなたとともにいて戦ってくださるからです。あるいはそれは、より大きな勝利をもたらし、父なる神に栄光を帰す機会となるかもしれません。ですから、私たちにとって最も大切なのは敵がどのような者であるかではなく、誰と共に歩むのかということです。私たちが経験する悲劇は、より大きな勝利をもたらすための戦場であることを覚え、いつも神を第一とし、神とともに歩むことを求めましょう。

Ⅱ.戦場に遣わされたダビデ(12-23)

次に、12節から23節までをご覧ください。
「12 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに行っていた三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであった。
17:14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていたのである。15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を世話するためであった。16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て立ち構えた。17 エッサイは息子ダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を確認しなさい。そして、しるしを持って来なさい。19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人はみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているから。ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、言われた物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて陣地に向かうところであった。21 イスラエル人とペリシテ人は、向かい合って陣を敷いていた。22 ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に走って来て、兄たちに安否を尋ねた。23 ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。」

ベツレヘムのエッサイには8人の息子がいましたが、そのうちの上の3人の息子たちが、サウルに従って戦いに出ていました。長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマがそれです。ダビデは末っ子で若かったので、戦いに行くことはできませんでした。彼はサウルのところへ行ったり、帰ったりしていました。サウルのところへ行ったのは、サウルがわざわいの霊によっておびえるときに竪琴を弾いて心を穏やかにさせるためです。ベツレヘムの自分の家に帰ったのは、羊を世話するためでした。彼がそのように王宮と家との間を行ったり来たりしているとき、例のペリシテ人ゴリヤテは、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て、イスラエルの軍勢をあざけり、罵倒していました。しかしダビデは、イスラエルが非常な危機に直面していることを、まだ知りませんでした。

そんな時です。父エッサイから兄さんたちのために、炒り麦1エパと、パン10個を陣営に急いで持って行くようにと言われました。エッサイは老人になっていたので、自分で行くことができなかったので、ダビデを遣わすことにしたのです。遣わした目的は、3人の息子たちの安否を確かめることでした。入り麦とパンとチーズを千人隊長に届けたのは、息子たちの安否を確かめ、彼らを安全な所に置いてもらうように依頼するためだったのでしょう。そして、彼らが無事であるというしるし(証拠)を持ち変えるようにと命じました。

それでダビデは翌朝早く、父エッサイに言われたとおりに、羊を番人に預け、言われた物を持って出かけて行きました。それはちょうど軍勢が陣地に向かうところでした。ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に向かって走って行き、兄たちに安否を尋ねると、なんと、ちょうどそのとき、ゴリヤテがペリシテ人の陣営から上って来たのです。それでダビデは、ゴリヤテの言葉を聞いたのです。

これは小さなことのようですが決して偶然のことではなく、主の導きによるものでした。ちょっとした出来事ですが、ここにも神の摂理の御手が働いているのを見ることができます。このことによってダビデはゴリヤテの罵声を聞くことになったからです。そして、このことが事態の転換点となりました。それは人間が計画したことではなく、神から出たことでした。父エッサイは息子たちの安否を気遣ってダビデを戦場に送りましたが、ダビデを戦場に送り、ゴリヤテと戦うように導かれたのは神です。私たちの人生にもこのようなことが起こります。自分の人生に起こっていることがどういうことなのかわからないことがありますが、すべては神の導きによるのです。神は私たちの計画を用いて、それよりもさらにすばらしいことを成さろうとしておられるのです。それゆえ、私たちにも求められていることは、そこに神の不思議な摂理の御手を認めることです。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)
心を尽くして主に拠り頼むなら、主があなたの道もまっすぐにしてくださるのです。

Ⅲ.生ける神の陣(24-30)

その結果、どのようなことが起こったでしょうか。24節から30節までをご覧ください。
「24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、彼の前から逃げ、非常に恐れた。25 イスラエルの人々は言った。「この上って来た男を見たか。イスラエルをそしるために上って来たのだ。あれを討ち取る者がいれば、王はその人を大いに富ませ、その人に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」26 ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」27 兵たちは、先のことばのように、彼を討ち取った者には、これこれをされる、と言った。28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして言った。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言、話しただけではありませんか。」30 ダビデは兄から別の人の方に向き直り、同じことを尋ねた。すると、兵たちは先ほどと同じ返事をした。」

ゴリヤテは上ってくると、イスラエル軍を罵倒しました。それを聞いたイスラエルの人はみな、非常に恐れ、彼の前から逃げ出しました。彼らは、ゴリヤテを討ち取る者がいれば、サウルがその者に多額の賞金を与え、自分の娘を妻として与え、その者の家の者には兵役や納税の義務を免除するということを聞いていましたが、だれもゴリヤテと戦おうとする者はいませんでした。

しかし、ダビデだけは例外でした。彼は生ける神の陣をそしるゴリヤテに対して、そばに立っている人たちに言いました。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」(26)
すごいですね。自分の倍もあるような巨人を目の前にしても、ダビデにとってそんなことは全く関係ありませんでした。彼にとって重要だったことは、だれと共におられるのかということでした。確かに敵は強そうに見えましたが、彼は無割礼の者です。しかし、こちらには生ける神がついています。その生ける神の陣をそしるというのは、神ご自身をそしることであって、決して許されることではありません。ダビデは、この敵に義なる憤りを感じました。ここにダビデの信仰を見ることができます。

ダビデが人々と話しているのを見た兄のエリアブは、ダビデに怒りを燃やして言いました。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」(28)
エリアブは、なぜダビデに怒りを燃やしたのでしょうか。ダビデの言動が生意気だと思ったからでしょう。確かに人間的に見れば、ダビデの言動は横柄に見えたかもしれません。しかし、問題はダビデの態度ではなく、エリアブがダビデのことを何も理解していなかったことです。彼は、ダビデが羊を置き去りにして勝手にやって来たかのように思ったようですが、そうではなく彼は父に頼まれて来たのです。しかも、羊はちゃんと番人に預けて来ました。ですから、ダビデはただの興味本位で来たわけではなく、自分に与えられた責任を果たすために来たのです。エッサイは、そのことを分かっていませんでした。

そんなエリアブに対してダビデは何と言ったでしょうか。「私が今、何をしたというのですか。一言、話しただけではありませんか。」彼は兄の無理解な態度に怒ることなく、丁重に反論しつつも、自分に与えられた使命をしっかりと果たしました。これがもしサウルだったらどうだったでしょうか。自分が悪く言われたことで、非常に怒って、そのことをずっと思っていたでしょう。これが、人を恐れる人と、神のことを思っている人の違いです。

このようなことが私たちの人生にもよくあります。主の働きに献身しようとするとき、あるいは意味のある働きを始めようとするとき、一番近くにいて応援してもらいたいと思っていた人たちから理解してもらえなかったり、蔑まれたりすることがあるのです。それでも、ダビデが、そのことで怒ったり、わめいたりせずに、丁寧に、冷静に対処していったように、私たちも信仰によって霊性に対処しなければなりません。

それは、私たちの主イエスに見られる態度です。「22キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(Ⅰペテロ2:22-24)とあります。私たちも人から批判されることがあっても、そのような人たちの声によって失望する必要はありません。神のみこころを歩むなら、必ず道が開かれるからです。大切なのは、正しくさばかれる主にすべてをお任せすることなのです。

Ⅰサムエル記15章

 今回は、サムエル記第一15章から学びます。

 Ⅰ.アマレク人を聖絶せよ(1-9)

 まず、1~9節までをご覧ください。
「1 サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、その民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。2 万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。3 今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』」4 そこでサウルは民を呼び集めた。テライムで彼らを数えると、歩兵が二十万、ユダの兵士が一万であった。5 サウルはアマレクの町へ行って、谷で待ち伏せた。6 サウルはケニ人たちに言った。「さあ、あなたがたはアマレク人の中から離れて下って行きなさい。私があなたがたを彼らといっしょにするといけないから。あなたがたは、イスラエルの民がすべてエジプトから上って来るとき、彼らに親切にしてくれたのです。」そこでケニ人はアマレク人の中から離れた。7 サウルは、ハビラから、エジプトの東にあるシュルのほうのアマレク人を打ち、8 アマレク人の王アガグを生けどりにし、その民を残らず剣の刃で聖絶した。9 しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。」

サムエルは再びサウルに対して、神の命令を伝えます。それは、「行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。」(3)というものでした。サウルはかつてギルガルで神の命令に背きサムエルを待たずに自分で全焼のいけにえをささげたことで、神に退けられることになりました(13:14)。しかし、主はここでもう一度チャンスを与えるようなかたちで、サウルに命じられたのです。それがこの命令でした。

「聖絶」とは、神へのささげ物として、異教の神を拝む者とそれに関する事柄を滅ぼし尽くすことです。それが人であれ、動物であれ、すべてのものを滅ぼし尽くさなければなれませんでした。それにしても、これは一見、あまりにも残酷な命令のように聞こえますが、それはイスラエルのためでもありました。というのは、それは神が、ご自身の民とされたイスラエルが聖なる者として先住民の習慣や誘惑に負けて罪を犯さないようにするための配慮であったからです。しかし、このアマレクの場合、その理由がはっきりしていました。それは2節にあるように、かつてイスラエルがエジプトから上ってくる途中で、アマレクがイスラエルに対して行ったことを、主が覚えておられたからです。申命記25:17~19をご覧ください。ここには、かつてイスラエルがエジプトを出て荒野を旅していた時、アマレク人が彼らを襲ったことが記録されています。しかも彼らは、後ろのほうにいた体力的に弱い人々を背後から襲撃するという卑劣なことを行いました。この時主は、モーセの祈りに応え、ヨシュアを戦いの指導者に立て自分はアロンとフルとともに丘に上って手を上げて祈ることで勝利することができましたが、神はそのことを覚えておられ、あれから400年ほど経った今、アマレク人への罰として彼らを聖絶するようにサウルに命じられたのです。

サウルはテライムに歩兵20万人、ユダの兵士が1万人を呼び集めました。そして、アマレクの町へ行って、谷で待ち伏せしました。しかし、ケニ人たちには、アマレク人のもとを離れるようにと伝えます。それは、彼らがアマレク人と一緒に滅ぼされることがないようにするためです。というのは、彼らはかつてイスラエルがエジプトから上って来たとき、イスラエルに親切にしてくれたからです。ケニ人はモーセの義理の兄弟ホハブの子孫です(民数記10:29)。つまり、モーセと親戚関係にあった民族で、彼らはイスラエルがエジプトから出る際にイスラエルを助けてくれただけでなく、定住後もイスラエルに対して好意的な姿勢を示してきました。(民数記10:29~32)そのためサウルは、彼らに対して善意を示したのです。

サウルは、ハビラからエジプトの東の方、国境にあるシュルに至るまで、アマレクを打ちました。そして、アマレク人の王アガクを生け捕りにし、その民のすべてを剣の刃で聖絶しましたが、アガクと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、聖絶しませんでした。ただ、つまらない値打ちのたないものだけを聖絶したのです。なぜでしょうか。もったいないと思ったからです。彼はそんな自分の思いを優先させてしまいました。サウルは表面的には主に従っているようでしたが、実際には自分の思いに従っていのです。それは中途半端な従順でした。このような従順では、主に喜んでいただくことができません。それは占いの罪と同じであり、偶像礼拝の悪と同じなのです。

ちなみに、聖書にはアマレクの存在がしばしば、私たちの肉の象徴として描かれています。肉は殺さなければいけないものです。それを生かしておけばその奴隷となって死に至るようになります。ですから、サウルはとんでもない過ちを犯したのでした。

Ⅱ.主の御声に従うことは全焼のいけにえにまさる(10-23)

次に、10~23節までをご覧ください。
「そのとき、サムエルに次のような主のことばがあった。11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。12 翌朝早く、サムエルがサウルに会いに行こうとしていたとき、サムエルに告げて言う者があった。「サウルはカルメルに行って、もう、自分のために記念碑を立てました。それから、引き返して、進んで、ギルガルに下りました。」13 サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」14 しかしサムエルは言った。「では、私の耳に入るあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」17 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。18 主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』19 あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行ったのですか。」20 サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。21 しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

そのとき、主のことばがサムエルに臨みました。それは、サウルを王として任じたことを悔やむというものでした。彼が主に背き、主のことばを守らなかったからです。この「悔やむ」という言葉は、29節にある「悔やむ」とは別の言葉が使われています。29節には、「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」とありますが、この「悔やむ」という語は「変更しない」(does not change)という意味ですが、11節の「悔いる」は「悲しむ」(grieve)という意味の語です。ちなみに、35節の「悔やんだ」は「悲しんだ」(mourned)で、11節の「悔いる」と同じ意味の語が使われています。すなわち、主は、サウルを王に任じたことを後悔したのではなく、悲しんだのです。なぜなら、彼は主に背を向け、わたしのことばを守らなかったからです。このことによって、サウルが王位から退けられることが決定的になりました。それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫びました。彼は、それが無理だと知りながらサウルのためにとりなしの祈りをささげたのです。彼はサウルが王として成功することを心から願っていましたが、それがかないませんでした。

すると、彼のもとに、サウルはカルメルに来て、自分自身のために戦勝記念碑を立てたと報告がありました。それでギルガルにいたサウルのもとに行きました。するとどうでしょう。サウルはサムエルに会うなりこう言いましたか。
「あなたが主に祝福されますように。私は主のことばを守りました。」(13)
それでサムエルが尋ねました。
「では、私の耳に入るあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」
するとサウルはその責任をイスラエルの兵士になすりつけ、さらに、最上の家畜を残したのは、主にいけにえを献げるためだと言い逃れをしました。聖絶のものを主にいけにえとして献げること自体、主への冒涜なのに、その言い訳をして逃れようとしまたのです。彼の本心は何だったのでしょうか。最上のものを取っておきたかったのです。それなのに彼は、あたかも主に対して正しい行いをしているかのように装いました。私たちもこのようなことがあるのではないでしょうか。こうした貪欲という隠れた動機を悔い改め、主のみこころに従って正しい行動ができるように祈らなければなりません。

すると、サムエルは、主が彼に伝えたことを知らせました。それは、主がどのようにして彼をイスラエルの王として立てられたのか、また、それにもかかわらず、サウルが主の命令に背き、主の目の前に悪を行ったのかということです。にもかかわらず、サウルは自分の正当性を主張し悔い改めようとしませんでした。彼は主の命令に背いたのに、あくまでも自分は正しいと言い張ったのです。このような人がいますね。だれが見ても間違っていても、どこまでも自分の正しさを主張する人が。自分は正しいことをやっている・・と。

するとサムエルは、旧約聖書の中でも最も重要なことばの一つを語ります。22節と23節です。ご一緒に読みしましょう。
「22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
主は、全焼のいけにえやその他のいけにえよりも、主の御声に聞き従うことを喜ばれます。従順であることはいけにえよりも勝っています。不従順や反逆は、占いの罪や偶像礼拝の罪に等しい重罪です。サウルは主のことばを退けたので、主もサウルを王座から退けました。

私たちも、何かすることで自分の正しさを主張することがあります。ルカの福音書18章には、イエス様がパリサイ人と取税人の祈りについて教えられたことが書かれてあります。パリサイ人は、自分は、ほかの人のようにゆすったり、奪い取ったり、不正なこと、姦淫などをしたことがなく、この取税人のようでないことを感謝しますと祈りました。週に二度は断食し、自分の得ているすべてのものの中から、十分の一をささげていると言いました。
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に上げようともせず、自分の胸をたたき、「神様、罪人の私をあわれんでください。」と祈りました。どちらが、義と認められて家に帰ったでしょうか。あのパリサイ人ではなく、この取税人でした。なぜなら、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

まさに私たちもこのパリサイ人のように、自分はこれだけのことをやっていると主張しつつも、その心が神から遠くから離れていることがあります。でも、主が求めておられるのは、どれだけのことをしたかということではなく、私たちの心であり、献身です。私たちはもう一度自らの心を吟味し、主に喜ばれる者となることを求めましょう。

Ⅲ.サウルの後悔(24-35)

最後に24節から終わりまでを見て終わりたいと思います。
「サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。25 どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」26 すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」27 サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。28 サムエルは彼に言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」30 サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」31 それで、サムエルはサウルについて帰った。こうしてサウルは主を礼拝した。
32 その後、サムエルは言った。「アマレク人の王アガグを私のところに連れて来なさい。」アガグはいやいやながら彼のもとに行き、「ああ、死の苦しみは去ろう」と言った。33 サムエルは言った。「あなたの剣が、女たちから子を奪ったように、女たちのうちであなたの母は、子を奪われる。」こうしてサムエルは、ギルガルの主の前で、アガグをずたずたに切った。34 サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。35 サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」

サムエルのことばを聞いたサウルは、「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」と言いました。サムエルのことばを聞いたサウルは、表面的には悔い改めているかのように見えますが、これは真の悔い改めではありませんでした。というのは、30節を見ると、彼は「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。」と言っているからです。つまり、彼は自分の面目が保たれることを求めていたのです。本当に悔い改めたのであれば、自分のメンツなんてどうでも良かったはずです。砕かれた、悔いた心は、神様との間には他の人のことなど全く入り込まないはずです。彼は神を恐れたのではなく人の顔色を恐れていました。
パウロは、「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」(ガラテヤ1:10)と言っていますが、私たちはだれに取り入ろうとしているのか、だれを喜ばせようとしているのかを吟味しなければなりません。

サムエルが、「私はあなたと一緒に帰りません。」と言うと、サウルはサムエルの上着の裾をつかんだので、上着が裂けました。これは一つのことを象徴していました。それは、王国が引き裂かれてサウルよりも立派な者に与えられるということです。「この方は人間ではないので、悔やむことがない。」とは、神の決定は覆ることはない(does not change)という意味です。

32節と33節をご覧ください。サムエルは、アマレク人の王アガグを連れて来させると、ずたずたに切り裂きました。これによって主が命じたアマレク人の聖絶が完了したのです。アガグは、自分の命が助かった思い、喜び勇んでやって来ましたが、最後は、自分の蒔いた種の刈り取りをさせられました。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

その後、サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ帰りました。これが二人の地上での最後の会見となりました。サムエルは死ぬ日まで、再びサウルを見ることはありませんでしたが、サムエルはサウルのことで悲しんでいました。日夜心を痛めていたのです。

このようにして、サウルの治世は終わりを迎えました。最初は良いスタートを切ったサウルでしたが、最後は失敗で終わりました。神は心を変えたり、悔やまれたりはされませんが、サウルが神から離れたので、神はサウルにゆだねていた計画を変更されたのです。私たちは、神が私たちに与えておられる計画を成就してくださるように、神のみこころに歩む者でありたいと思います。

Ⅰサムエル記14章

 今回は、サムエル記第一14章から学びます。

 Ⅰ.信仰による勝利(1-15)

 まず、1~15節までをご覧ください。
「道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣の方へ行こう。」しかし、ヨナタンは父にそのことを知らせなかった。サウルはギブアの外れで、ミグロンにある、ざくろの木の下に座っていた。彼とともにいた兵は約六百人であった。アヒヤは、エポデを身に着けていた。アヒヤはアヒトブの子で、アヒトブはイ・カボデの兄弟、イ・カボデはピネハスの子、ピネハスは、シロで主の祭司であったエリの子である。兵たちは、ヨナタンが出て行ったことを知らなかった。ヨナタンがペリシテ人の先陣の側に越えて行こうとしていた山峡には、手前側にも、向こう側にも、切り立った岩があって、一方の側の名はボツェツ、もう一方の側の名はセンネといった。一方の岩は北側、ミクマスの側にあり、もう一方の岩は南側、ゲバの側にそそり立っていた。ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」道具持ちは言った。「何でも、お心のままになさってください。さあ、お進みください。私も一緒に参ります。お心のままに。」ヨナタンは言った。「さあ、あの者どものところに渡って行って、われわれの姿を現すのだ。もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これが、われわれへのしるしだ。」二人はペリシテ人の先陣に身を現した。するとペリシテ人が言った。「おい、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」ヨナタンは手足を使ってよじ登り、道具持ちも後に続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがうしろで彼らを打ち殺した。ヨナタンと道具持ちが最初に討ち取ったのは約二十人で、一ツェメドのおおよそ半分の広さの場所で行われた。そして陣営にも野にも、すべての兵のうちに恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。

ペリシテ人との戦いにおいて、イスラエルは追い詰められていました。招集した三千人の兵士のうち二千四百人はサウルのもとから離れて行き、六百人だけが残っていました。敵はさらに三方向から強力な布陣で攻撃してきました。武器の数も歴然としていました。これでは戦いになりません。そしてサムエルも、サウルが罪を犯したことで怒って去って行きました。このような状況にあったある日、サウルの息子ヨナタンは、道具持ちの若者に言いました。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣の方へ行こう。」彼は、道具持ちの若者とたった二人だけで、ペリシテ人の先陣のただ中に攻めていこうとしたのです。たった二人で攻めていくなんて無謀です。いったいなぜ彼はそのようにしようと思ったのでしょうか。それは4節を見るとわかります。イスラエル人の側とペリシテ人の側の両方に切り立った岩があったので、ペリシテ人たちはまさかイスラエルがその岩を乗り越えて攻撃してくるとは夢にも思わなかったのです。

それだけではありません。6節にはヨナタンが「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。」と言っていますが、「割礼」とは神の民のしるしです。その割礼を受けていない異邦の民に、神の民が打ちのめされるなんて考えられなかったのです。ヨナタンは、「おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」と言っています。すばらしい信仰です。人数は関係ありません。大勢でも、わずかな人でも、主がお救いになるのを妨げるものは何もありません。問題はだれとともに戦うのかです。主がともに戦うなら、小人数でも勝利することができます。ヨナタンは、主が勝利を与えてくださると信じ、その一歩を踏み出そうとしたのです。

とは言っても、彼は盲目に前進して行くことはありませんでした。もしペリシテ人が「おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ」と言ったら、その場に立ちとどまり、もし彼らが「おれたちのところに上って来い」と言ったら、上って行くことにしたのです。それが、主が彼らを自分たちの手に渡されたことのしるしだと思ったからです。彼は、主の導きを求めて一歩、一歩前進したのです。信仰の冒険は盲目に前進するのではなく、少しずつ、主の導きを確かめながら進むものです。するとペリシテ人の先陣の者たちが、「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」と言ったので、彼はこれを主の導きと信じて、出て行くことにしました。

するとどうなったでしょうか。ヨナタンは手足を使って岩をよじ登り、道具持ちもそれに続きました。そしてその日二人は、約二十人を討ち取りました。しかも、それは一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行われました。そんな狭い所で、たった二十人しか打ち殺すことができなかったのかと思うかもしれませんが、そのことがペリシテ人全体に与えた影響は計り知れないほどのものがありました。15節をご覧ください。そのことによって、ペリシテの陣営にも、野にも、すべての兵のうちに恐れが生じ、先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいたのです。地は震え、非常な恐れとなりました。「非常な恐れとなった」は、直訳では「神の恐れとなった」です。文語訳では「神よりの戦慄(おののき)なりき」と訳しています。ペリシテ人たちが感じた恐れがどのようなものであったのかを見事に描写していると思います。

このことから教えられることは、私たちが主のみこころに従い、信仰の一歩を踏み出すなら、あとは主がすべて行ってくださるということです。二人が討ち殺したのはたった二十人でしたが、主はこの出来事を用いて、ペリシテ人の陣営全体、そして民全体に恐れを起こされました。そして、おまけに地震まで起こしてくださいました。すべてを自分で行なわなければいけないというのは、間違いです。ヨナタンに勝利を与えてくださった主は今も生きていて、信じる者に同じような勝利を与えてくださるのです。

Ⅱ.サウルの反応(16-23)

次に、16~23節までをご覧ください。
「ベニヤミンのギブアでサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、大軍は震えおののいて右往左往していた。サウルは彼とともにいる兵に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、点呼して調べなさい。」彼らが点呼すると、ヨナタンと道具持ちがいなかった。サウルはアヒヤに言った。「神の箱を持って来なさい。」神の箱は、そのころ、イスラエル人の間にあったからである。サウルが祭司とまだ話している間に、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。サウルは祭司に「手を戻しなさい」と言った。サウルと、彼とともにいた兵がみな集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士討ちをしていて、非常に大きな混乱が起こっていた。それまでペリシテ人について、彼らと一緒に陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。その日、主はイスラエルを救われた。そして、戦いはベテ・アベンに移った。

敵の大群が震えおののいて右往左往しているのを見たサウルは、だれが先陣に攻撃を仕掛けたのかを調べ、それがヨナタンと道具持ちであることがわかると、それをどのように受け止めたらいいのかを尋ねるために、祭司アヒヤに神の箱を持ってくるように命じました。神の箱とは、エポデのことです。ですから、口語訳では「エポデをここに持ってきなさい」と訳しています。エポデ、つまり、祭司の胸当てにある二つの石を使って、ペリシテ人と戦うべきなのかどうかを伺おうとしたのです。しかし、サウルが祭司とまだ話をしている間に、ペリシテ人の陣営でうろたえている様子がひどくなっているのが見えたので、主に伺う必要がなくなりました。サウルは祭司に「手を戻しなさい」と言って、即刻戦場に乗り込むことにしました。彼は主のみこころを伺うことなしに戦場に出かけて行きました。ここにも、彼のご都合主義が伺えます。状況が良ければ主の助けを求める必要はないと考えるのは、人間の傲慢です。私たちは、どんな時でも主に祈り、主のみこころを求めて進まなければなりません。

サウルたちが戦場に出かけてみるとどうでしょう。そこでは敵が剣を持って同士討ちをしていました。非常に大きな混乱が起こっていたのです。神からの恐れが、ペリシテ人たちに平常心を失わせていたからです。これまで同胞を裏切ってペリシテ人たちについていたへブル人も再び寝返って、イスラエルの側に付くようになりました。さらに、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人もペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わりました。こうしてその日、主はイスラエルを救われたのです。

ヨナタンによって始められた信仰の戦いは、イスラエルの大勝利につながりました。聖書はイスラエルが勝利した理由を、こう述べています。23節、「その日、主はイスラエルを救われた。」と。それは主がもたらされたものでした。主がヨナタンとその道具持ちの信仰に応えてくださり、ペリシテ人に恐れと混乱を起こしてくださったので、勝利することができたのです。すべての良きものは、主からの賜物です。そのことを忘れて高ぶることがないようにしましょう。そして、いつもへりくだって、主に信頼し、主が成してくださることを待ち望む者でありたいと思います。

Ⅲ.愚かな誓い(24-30)

次に24~30節までをご覧ください。
「さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。この地はどこでも、森に入って行くと、地面に蜜があった。兵たちが森に入ると、なんと、蜜が滴っていたが、だれも手に付けて口に入れる者はいなかった。兵たちは誓いを恐れていたのである。しかし、ヨナタンは、父が兵たちに誓わせたことを聞いていなかった。彼は手にあった杖の先を伸ばして、蜜蜂の巣に浸し、それを手に付けて口に入れた。すると彼の目が輝いた。兵の一人がそれを見て言った。「あなたの父上は、兵たちに堅く誓わせて、『今日、食物を食べる者はのろわれる』とおっしゃいました。それで兵たちは疲れているのです。」
ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ほら、この蜜を少し口にしたので、私の目は輝いている。もしも今日、兵たちが、自分たちが見つけた敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を討ち取っていただろうに。」」

サウルはイスラエルの兵たちに、あることを誓わせていました。それは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」ということです。彼は、戦いのさなか、厳しい呪いをかけた断食の誓いを民に強要したのです。食事の時間も惜しんで敵を追跡した方がよいと判断したのでしょう。しかし、その結果、イスラエルの民はひどく苦しむことになりました。人間には霊的、精神的必要と同時に、肉体的な必要もあります。私たちは、食事や睡眠、そして適度な休息を必要としているので、こうした必要を無視するとバランスを崩すことにつながります。確かに聖書には祈りのために断食することを教えている箇所がありますが、それも正しい理解のもとに行わないとただの見せかけとなり、自分自身を苦しめるだけで、神に喜ばれないものとなってしまいます。

ヨナタンは、そのことを知りませんでした。それで彼が森の中へ入って行くと、密が滴っていたので、手にあった杖の先を伸ばして、密蜂の巣に浸し、それを手に付けて口に入れました。すると彼の目は輝きました。蜂蜜にある糖分が、元気付けたのです。現在でもスポーツ選手が甘い物を摂取しますが、それはすぐにエネルギーとして消化されるからです。ヨナタンは、その後で、初めて誓いのことを知らされましたが、彼は大いに驚き、父の愚かさを批判しました。これは本当に愚かな誓いです。このような無駄な誓いのために、民は束縛の中に置かれてしまうことになり、ペリシテ人を追跡するという、主の働きが妨げられる結果となってしまいました。しかし、真理はあなたがたを自由にします。キリストにある自由は、このヨナタンのように、主に喜ばれることは何かを知り、それを行うことができるという自由です。私たちにはそのような自由が与えれているのです。

Ⅳ.サウルが築いた祭壇(31-35)

31~35節をご覧ください。
「その日彼らは、ミクマスからアヤロンに至るまでペリシテ人を討った。それで兵たちはたいへん疲れていた。兵たちは分捕り物に飛びかかり、羊、牛、若い牛を取り、その場で屠った。兵たちは血が付いたままで、それを食べた。すると、「ご覧ください。兵たちが血のままで食べて、主に罪を犯しています」と、サウルに告げる者がいた。サウルは言った。「おまえたちは裏切った。今、大きな石を転がして来なさい。」そしてサウルは言った。「兵の中に散って行って、彼らに言いなさい。『それぞれ自分の牛か羊を私のところに連れて来て、ここで屠って食べなさい。血のままで食べて主に罪を犯してはならない。』」兵はみな、その夜、それぞれ自分の手で牛を連れて来て、そこで屠った。サウルは主のために祭壇を築いた。これは、彼が主のために築いた最初の祭壇であった。」

ミクマスからアヤロンに至るまでペリシテ人を討ったイスラエルの兵たちは、断食していたのでたいへん疲れていました。それで、禁止された期間が終わるとすぐに分捕り物に飛びかかり、羊、牛、若い牛を取り、その場で屠って食べました。彼らは血が付いたままで食べました。血を絞り出さないで食べるのは、モーセの律法に違反しています。(レビ17:10-14,申命記12:23-25)サウルの愚かな誓いが、民に罪を犯させる結果をもたらしたのです。そのことがサウルの耳に届くと、彼は大きな石を転がしてくるようにと命じました。何のためですか。それで血を抜いて食べることができるようにするためです。

サウルはそこに主のための祭壇を築きました。これが、彼が築いた最初の祭壇です。彼は祭司ではなかったので、いけにえをささげる資格がありませんでした。それなのに、彼はなぜ祭壇を築いたのでしょうか。それは、祭司に命じてその祭壇の上で罪のためのいけにえをささげるためです。しかし、それは見せかけの祭壇でした。確かに、アブラハムやイサク、ヤコブ、そしてモーセも主のために祭壇を築きましたが、それは主に感謝し、主を礼拝するためでした。たとえば、アブラハムは神から告げられた場所、モリヤの山に祭壇を築き、そこで神から告げられたとおりに息子イサクをささげました。彼はそこで最高のものを神にささげたのです。この祭壇は、「主の山には備えがある」ことを証明する祭壇になりました。主は身代わりの犠牲としての雄羊を用意してくださったので、彼はイサクの代わりにその雄羊を全焼のいけにえとしてささげました。この祭壇は、イエス・キリストの十字架を予表する祭壇ともなりましたが、彼は人生で最大の試練を通して、自らの信仰が真実であることを証明したのです。私たちもこのような祭壇を築こうではありませんか。サウルのような見せかけの祭壇ではなく、アブラムのような真実の祭壇、日々神に感謝し、神を礼拝する祭壇を築きましょう。

Ⅴ.ヨナタンの危機(36-42)

36~42節をご覧ください。
「サウルは言った。「夜、ペリシテ人を追って下り、明け方までに彼らからかすめ奪い、一人も残しておかないようにしよう。」すると兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」サウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日、神は彼にお答えにならなかった。サウルは言った。「民のかしらたちはみな、ここに近寄りなさい。今日、どうしてこの罪が起こったのかを確かめてみなさい。まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとえ、それが私の息子ヨナタンであっても、必ず死ななければならない。」しかし、民のうちだれも彼に答える者はいなかった。サウルはすべてのイスラエル人たちに言った。「おまえたちは、こちら側にいなさい。私と息子ヨナタンは、あちら側にいることにしよう。」民はサウルに言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」」

サウルは、明け方までペリシテ人を追い、絶滅させようと言うと、民は、「あなたが良いと思うようにしてください。」と答えました。敵の分捕り物を食べたからか、彼らに新たな力が湧いてきたのです。しかし、祭司アヒヤは、神の前に出ることを進言しました。それでサウルが神に伺いを立てましたが、その日、神は彼にお答えになりませんでした。サウルは、その原因は神への誓いを破った者がいるからだと思い、その犯人を追及しようとします。すると、ヨナタンが取り分けられました。それでサウルが何をしたのかとヨナタンに問い詰めると、ヨナタンは、例の蜂蜜の事件を告白しました。彼は自分がしたことを一切自己弁護せず、正直に告白しました。皮肉なことに、知っていて罪を犯したサウルが、知らないで罪を犯したヨナタンをさばいていることです。神の権威に反抗的な者ほど、自分の権威に従わない者を厳しく扱うという構図がここに見られます。サウルの傲慢さ、愚かさ、利己的な性格が、ここに至って明らかになります。

サウルは、息子ヨナタンに死刑を宣告しましたが民の激しい抵抗にあったので、ヨナタンの命は救われました。しかし、こういう問題があったため、サウルはペリシテ人を追うことをやめて引き揚げたので、ペリシテ人は自分たちのところへ帰って行きました。敵を攻撃する機会を逃してしまったのです。神から離れた者は、頑迷と愚かさの道を歩むようになります。いつも神のみこころを求め、みこころに歩みましょう。

Ⅵ.サウルの業績(47-52)

最後に、47~52節までをご覧ください。ここには、サウルの統治のまとめが記されてあります。
「さてサウルは、イスラエルの王権を握ってから、周囲のすべての敵と戦った。モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを敗走させた。彼は勇気を奮って、アマレク人を討ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した。さて、サウルの息子は、ヨナタン、イシュウィ、マルキ・シュア、二人の娘の名は、姉がメラブ、妹がミカルであった。サウルの妻の名はアヒノアムで、アヒマアツの娘であった。軍の長の名はアブネルで、ネルの子でサウルのおじであった。キシュはサウルの父であり、アブネルの父ネルは、アビエルの子であった。サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その人たちをみな、召しかかえることにしていた。」

サウルは不従順であったにも関わらず、イスラエルの王権を握ってから、モアブ人、アンモン人、エドム人、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦って、勝利を収めました。アマレク人との戦いだけは、他の民族との戦いと区別して書かれています。その理由は、15章になって明らかになりますが、彼の重大な過ちについて述べるためです。

サウルには、3人の息子と2人の娘がいました。ここには書かれてありませんが、実は彼にはもう一人の息子がいました。それがイシュ・ボシェテです(Ⅱサムエル2:8)。彼がサウルの後継者として残される人物です。妻はアヒノアムで、アヒマアツの娘でした。そして、将軍となったのはアブネルです。

サウルの一生の間、ペリシテ人との間に激しい戦いがありました。平安がなかったということです。神から離れた人の人生は、サウルのような人生です。そこには真の平安がありません。しかし、神とともに歩む人は、たとえ戦いがあってもそこに平安があり、将来と希望が溢れています。私たちはサウルのような人生ではなく、神と共に歩む人生を目指して前進していきたいと思います。

Ⅰサムエル記13章

 今回は、サムエル記第一13章から学びます。

 Ⅰ.恐れるな(1-7)

 まず、1~7節までをご覧ください。
「サウルは、ある年齢で王となり、二年間だけイスラエルを治めた。サウルは、自分のためにイスラエルから三千人を選んだ。二千人はサウルとともにミクマスとベテルの山地にいて、千人はヨナタンとともにベニヤミンのギブアにいた。残りの兵は、それぞれ自分の天幕に帰した。ヨナタンは、ゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺した。サウルのほうは国中に角笛を吹き鳴らした。ペリシテ人たちは、だれかが「ヘブル人に思い知らせてやろう」と言うのを聞いた。全イスラエルは、「サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち殺し、しかも、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った」ということを聞いた。兵はギルガルでサウルのもとに呼び集められた。ペリシテ人はイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように数多くの兵たちであった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。イスラエルの人々は、自分たちが危険なのを見てとった。兵たちがひどく追いつめられていたからである。兵たちは洞穴や、奥まったところ、岩間、地下室、水溜めの中に隠れた。あるヘブル人たちはヨルダン川を渡って、ガドの地、すなわちギルアデに行った。しかしサウルはなおギルガルにとどまり、兵たちはみな震えながら彼に従っていた。」

サウルは、ある年齢で王となり、2年間だけイスラエルを治めました。新改訳聖書第三版では、「サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった。」となっています。どうしてこのように違うのかというと、へブル語本文では数字が欠けていて、サウルがいつ王様になり、何年間イスラエルを治めたのかは、はっきりわからないからです。口語訳では、 「サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。」と訳しています。それは、イスラエルで王になることができたのは30歳になったときであったこと、また、本文には何年間というところが[ ]年となっているからだと思われます。それはこの新改訳2017と同じです。しかし、サウルの治世に起こったことを2年の間の出来事とするのは、無理があります。それで英語の聖書(NKJV)は、「Saul reigned one year; and when he had reigned two years over Israel,」と訳しています。「2年間」ではなく「2年以上」としたのです。これが最も原文に忠実な訳となるでしょう。いずれにせよ、12章と13章との間には、かなりの時間の経過があると考えられます。その間に、海岸平野に居住していたペリシテ人たちは、彼らのいた山地まで進出してきていたのです。

それでサウルは、イスラエルの中から兵を招集し戦いに備えようとしたのです。その数3,000人です。2,000人はサウルととともにミクマスとベテルの山地にいて、1,000人はヨナタンとともにベニヤミンのギブアにいました。ヨナタンとは、サウルの息子です。そのヨナタンがペリシテ人の守備隊長を打ち殺すと、サウルは国中に角笛を吹き鳴らしました。ここに戦いの火ぶたが切って下ろされたのです。それにしてもその後の文が、「ペリシテ人たちは、だれかが「ヘブル人に思い知らせてやろう」と言うのを聞いた。」となっていますが、これがどういう意味なのか通じません。新改訳改訂第3版では、「ヨナタンはゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺した。ペリシテ人はこれを聞いた。サウルは国中に角笛を吹き鳴らし、「ヘブル人よ。聞け」と言わせた。」と訳しています。これならよくわかります。ヨナタンのした行為がきっかけとなって、戦いが始まったわけですが、それでサウルは国中に「へブル人よ。聞け」と言って、彼らを招集したのです。

それに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。全イスラエルは、「サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち殺し、しかも、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った」ということを聞いて、兵士たちがギルガルでサウルのもとに呼び集められますが、彼らは喜び勇んでやって来たというよりも、仕方なく、恐る恐るやって来たようなニュアンスがあります。それもそのはずです。5節には、ペリシテ人たちも戦うためにやって来ましたが、その数戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように数多くの兵たちがいたからです。これでは戦いになりません。それを見たイスラエル人たちは、戦意を喪失し、洞穴や、岩間、地下室、水溜めの中に隠れてしまいました。ある者たちは、ヨルダン川を渡り、東側のガドとギルアデの地に逃げて行きました。サウルはなおギルガルにとどまっていましたが、兵たちはみな震えながら彼に従っていました。

いったいなぜ彼らはペリシテ人たちをこんなにも恐れたのでしょうか。それは彼らが万軍の主を仰ぎ見なかったことです。自分に向かってくる敵の数を見て、またその装備を見て、恐れてしまいました。サウルが王として選ばれた時は、彼が主に信頼していたので主の霊によってアンモン人を打ち破ることができました。しかし、時間の経過とともに、彼らは自分の力に頼るようになっていました。これが問題の原因です。もし彼らがそのような状況に置かれても、主に信頼し、主を仰ぎ見たなら、主の聖霊の力によって恐れを克服することができたでしょう。しかし、彼らが見たのは主ではなく、自分自身、自分の力でした。だから、恐れに苛まれてしまったのです。

あなたはどうですか。あなたは今、恐れの霊、おくびょうの霊に支配されていないでしょうか。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」(Ⅱテモテ1:7)
聖書には、「恐れるな」という命令が、366回も出てきます。なぜそんなに多く出てくるのでしょうか。それは、私たち人間の心の奥底に、本能的に「恐れ」という感情が宿っているからです。ですから、神は日々の状況を見て恐れてしまう私たちの心を静めるために、毎日毎日「恐れるな」と語りかけておられるのです。罪が赦されて神の子とされた私たちは、日々の歩みの中で、内側から湧いてくる恐れの感情ではなく、神の約束の御言葉に耳を傾けなければなりません。

Ⅱ.待ち切れなかったサウル(8-15)

次に、8~15節までをご覧ください。
「サウルは、サムエルがいることになっている例祭まで、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで、兵たちはサウルから離れて散って行こうとした。サウルは、「全焼のささげ物と交わりのいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。そして全焼のささげ物を献げた。 彼が全焼のささげ物を献げ終えたとき、なんと、サムエルが来た。サウルは迎えに出て、彼にあいさつした。サムエルは言った。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」サムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギブアへ上って行った。サウルが彼とともにいた兵を数えると、おおよそ六百人であった。」

サウルは、戦いの前にいけにえを捧げなければならないことを知っていました。それは、10:8に命じられていたからです。そこには、サウルがサムエルを待つ期間は七日間であると言われていました。しかし、その七日が経っても、サムエルは来ていませんでした。いったいどうしたらよいものか・・・。サムエルが来ていないということで、兵たちはサウルのもとから離れて散って行こうとしていました。事態は刻一刻と深刻な状況になっていきました。そこで、しびれを切られたサウルは、全焼のいけにえと交わりのいけにえをささげるようにと命じました。それをすることは、祭司のみに与えられていた特権でした。しかし、サウルはその役割を自ら果たそうと決意し、全焼のいけにえと交わりのいけにえを持ってこさせて、ささげてしまいました。確かに、約束の七日が過ぎようとしていましたが、実際にはまだ七日が満ちたわけではありませんでした。しかし、彼は待つことができなかったのです。

 ちょうどその時、すなわち、サウルがささげものをささげ終えたとき、何とそこへサムエルがやって来ました。タイミングが悪すぎますね。ギリギリのところです。サウルはそのギリギリのところで待つことができず、主の命令に背きいけにえをささげたところでした。サムエルがやって来たとき、サウルは彼を迎えに出て、あいさつしました。「ああ、どうも、お待ちしていました。」みたいに。サムエルは、サウルがいけにえを捧げたことを見ると、「何ということをしたのか」とそのことを指摘すると、サウルは次のように言いました。
 「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」」
 
 彼は自分のしたことを悔い改めもせず、ただ言い訳をしただけでした。彼がまず言ったことは、自分に着いていた兵たちが離れて散っていこうとしていた、ということです。また、ペリシテがミクマスに集まってきたというのに、サムエルは来ていなかったということ、だから、そのような状況の中でペリシテ人がギルガルの自分たちのところに向かって来ていたのだから、主に嘆願するというのはもっともなことではないか。だから、自分はいけにえを捧げたのだ・・と。つまり、彼は自分の罪を悔い改めるどころか、それを正当化したのです。

 それを聞いたサムエルは、こう言いました。13~14節です。
「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」
サウルは、主が命じたことを守らなかったので、彼の王国は永遠に確立されることはなく、まだ誰になるかはわかりませんが、主はご自分の心にかなう人を君主として立てられる、と言いました。
サムエルが、ギルガルからギブアに上って行くと、彼とともにいた兵は600人しかいませんでした。当初は3,000人いたのですから、2,400人もの兵士が逃亡したことになります。これではどこから見ても、勝ち目がないのは明らかです。
いったい何が問題だったのでしょうか。待つことができなかったことです。敵が攻めて来るという危機的な状況の中で、神の命令に従わず自分の思いで動いてしまったことです。しかも、そのことについて全く悔い改めるどころか、むしろ言い訳をして自分を正当化しました。これが問題だったのです。

私たちにもこのようなことがあるのではないでしょうか。このような試練に直面すると、神の御言葉よりも、自分の思いや感情で判断してしまうことです。神からの語りかけがないのに、神は私にこう命じておられると早合点して動いてしまうのです。
私たちは新年度の計画しながら動き出していますが、その中で今年の夏サマーチームが来ることについてアメリカにいるネイサン兄とメールで打ち合わせをする中で、彼から次のような内容のメールを受け取りました。
I will also try to make an announcement at church this week about the possibility of doing another summer mission team in Japan. I remain hopeful that many people will want to participate, but we will have to wait and see where the Spirit leads. He always has a way of blowing all of my expectations out of the water. It kind of makes me wonder why I develop all these complicated plans about the future sometimes
彼は、その件について彼の教会でアナウンスするつもりですし、そのために日本に行きたいという人日とが起こされることを確信していますが、しかし、主は最善のご計画をもって導いておられるので、そのために待たなければならない、言いました。すごいですね。自分はそのように願うが、しかし、主のみこころは何なのかを祈って待つという姿勢です。主は最善に導いておられます。だから、そのために待たなければなりません。主が導いておられるのになかなか重い腰を上げずに失敗することもありますが、主が導いていないのにもかかわらず自分で勝手に思い込んで行動し失敗することも少なくありません。主のみこころが何なのかを祈りとみことばの中で確信し、その時を待たなければなりません。

Ⅲ.悲惨な結果(16-23)

最後に、16~23節までをご覧ください。
「サウルと、息子ヨナタン、および彼らとともにいた兵は、ベニヤミンのゲバにとどまっていた。一方、ペリシテ人はミクマスに陣を敷いていた。ペリシテ人の陣営から、三つの組に分かれて略奪隊が出て来た。一つの組はオフラの道を進んでシュアルの地に向かい、一つの組はベテ・ホロンの道を進み、一つの組は荒野の方、ツェボイムの谷を見下ろす国境の道を進んだ。さて、イスラエルの地には、どこにも鍛冶屋を見つけることができなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけない、とペリシテ人が言っていたからであった。イスラエルはみな、鋤や、鍬、斧、鎌を研ぐためにペリシテ人のところへ下って行っていた。鎌や、鍬、三又の矛、斧、突き棒を直すのに、料金は一ピムであった。戦いの日に、サウルやヨナタンと一緒にいた兵のうちだれの手にも、剣や槍はなかった。ただサウルと息子ヨナタンだけが持っていた。ペリシテ人の先陣はミクマスの渡りに出た。」

サウルと、息子ヨナタン、および彼らとともにいた兵は、ベニヤミンのゲバにとどまっていました。一方、ペリシテ人はミクマスに陣を敷いていました。彼らは3組の略奪体を西と北と南に送り、より一層の力をつけていました。

イスラエル人がペリシテ人よりも劣っていたのは、兵士の数だけではありませんでした。武器においても圧倒的な劣勢に置かれていました。時代は、青銅器時代から鉄器時代へと移っていた時です。ペリシテ人の装備は鉄器時代を反映させたものですが、イスラエル人の装備はいまだに青銅器時代のものでした。ペリシテ人たちは鉄器の技術を独占し、イスラエル人に鉄の武器を作らせないようにしました。そればかりか農具の製作も独占し、その修理費のために1ピム、これは3分の2シェケルですが、それほどの高額を要求していました。その結果、イスラエルで剣や槍を持っていたのはサウルとヨナタンくらいで、兵士たちのだれの手にもありませんでした。これでは戦う前から勝敗が決しているようなものです。

サウルは王になった段階で、早急にこの事態を改善する必要がありましたが、彼はそれを放置したままにしていました。そのような状態でペリシテ人との戦いに突入していったのです。無謀と言えば無謀です。ここに、彼の判断の甘さというか、ミスがありました。勿論、それでも主が共におられたのであればそれでも勝利することができたでしょう。しかし、その肝心要の主が離れて行っただけでなく、実際の戦力を見ても、全く勝ち目のない戦いでした。主の命令を守らず、自分の思いや感情で勝手に判断した結果、イスラエル全体に大きな負の影響をもたらすことになったのです。

私たちの置かれている状況も決して安泰ではないかもしれませんが、それがどのような状況であったても、最も重要なのは誰と共に歩むかということです。あなたが主と共に歩むなら、主が勝利をもたらしてくださいます。ですから、主の命令を守り、主のみこころに適った者となり、いつも主とともに歩む者でありたいと思います。