ヨハネ20章19~21節「平安があなたがたにあるように」

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イースターおめでとうございます。きょうはイースターをお祝いしての礼拝ですが、私たちがこうしてイースターをお祝いするのは、イエス・キリストの復活の出来事が私たちにとって重要な出来事だからです。私たちは毎年クリスマスを盛大にお祝いますが、このイースターはクリスマス以上に重要な出来事だと言えるかもしれません。確かにクリスマスは神様が私たちを愛し、私たちを罪から救うためにひとり子イエスをこの地上に送って下さった日ですからとても重要な日ですが、イースターは、その御子が十字架でなされ罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださったということが真実であることを保証するものですから、そういう意味ではもっと重要な出来事だと言えます。イエス様が死からよみがえらなかったなら、私たちはどうやって罪から救われたと確信することができるでしょうか。どうやって天国に行くことができると確信することができるでしょうか。というのは、ローマ人への手紙6章23節には「罪から来る報酬は死です」とあるからです。もしキリストが死んで復活しなかったら、キリストにも罪があったということになるのです。そうであれば、私たちが救われたというのは単なる思い込みにすぎず、盲信でしかないということになります。しかし、イエス様はよみがえられました。イエス様が復活されたことで、聖書が言っているとおり、この方を信じる者は永遠のいのちを持ち、天の御国で永遠に神とともに生きるようになるという希望を持つことができるのです。もう死を恐れる必要はありません。確かに死は怖いですが、死は永遠の入り口にすぎず、イエス様を信じる人は、やがて栄光の御国に入るのです。それはイエス様が復活してくださったからです。イエス様が復活されたので、私たちは確信をもって死の不安と恐怖から解放され、永遠のいのちの希望に生きることができるのです。きょうは、このすばらしいキリストの復活の出来事から、キリストにあるいのちと希望をいただきたいと思います。

 

Ⅰ.弟子たちの真中に立たれたイエス(19-20)

 

まず、19~20節をご覧ください。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」

 

「その日」とは、マグダラのマリヤが復活の主イエスに会った日のことです。それは週の初めの日、すなわち、イエス様が十字架につけられてから三日目の日曜日のことでした。マグダラのマリヤは、その日、朝早くまだ暗いうちに、イエスのお体に香油を塗ろうと墓に行くと、そこに置かれていた石が取り除けられているのを見ました。だれかが墓から主を取って行ったのだと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとヨハネに告げます。それを聞いたペテロとヨハネは急いで墓に向かいましたが、墓に着いてみると、そこには亜麻布は置かれてありましたが、主イエスのお体はありませんでした。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを理解していなかったので、まさか主がよみがえられたとは思いもしませんでした。

 

一方、マリヤも何が起こったかがわからず、墓の外でたたずんでいましたが、そんな彼女に主が現れてくださり、「マリヤ」と声をかけられました。その声を聴いたときマリヤはすぐにそれがイエス様だということがわかり、イエス様にすがりつこうとしましたが、イエス様は「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのもとに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(17)と言われました。それで彼女は行って弟子たちにそのことを告げたのです。「その日」のことです。

 

その日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていました。弟子たちは、イエスに従っていた自分たちも捕らえられ、裁判にかけられるのではないかと恐れていたのです。復活したキリストが、自分たちのところに来て姿を見せてくださるまで、弟子たちは完全に恐れに打ちのめされていました。彼らはいつもイエス様と一緒にしてそのすばらしい御業を見たり、聞いたりしていましたが、いざイエス様が十字架で処刑されると、どうしたらいいのか、何を信じたらいいのかわからなくなってしまったのです。

 

今は亡き毒舌落語家に、立川談志(たてかわだんし)という方がおられました。彼はとにかく、自分の目で見たもの以外は信用しないという人でした。著書の中で、テレビはやらせ、新聞はウソと言い放っています。「ものごとってなぁ、自分が見たものだけが本物だ。あとは全部うわさ話よ。」とよく言っていました。しかし、どうして人の話を、頭から信じないようになったのかというと、それは日本の敗戦にありました。

子供のころ談志さんは、日本軍は連戦連勝を続けているという、この大本営発表を信じ切っていましたが、それなのに、日本の本土は簡単に空襲を受けたのです。まだ小学生だった彼は、東京大空襲を経験し、その目で、その耳で、地獄を経験するのです。母と兄の3人で避難する途中、川の中から聞こえてくる「助けてくれ」という声と、土手からの「助けてやれない」という声が交差する中を必死で走り回ったといいます。信じ切っていた発表が、真っ赤な嘘だとわかったとき、それから彼は疑い深い人間になったというのです。

 

主イエスこそ人となった神であり、全能の救い主だと信じていた弟子たちは、このイエスが死刑にされ、墓にまで埋葬されてしまったとき、もうすべてが終わった、いったい自分たちが信じてきたことは何だったのかと、頭が混乱していたに違いありません。彼らは意気消沈し、また同時に、次に当局は自分たちを捕らえに来るかもしれない、と恐れていたのです。

 

すると、そこにイエスが来られました。イエスが来て彼らの真ん中に立たれると何と言われましたか?「平安があなたがたにあるように。」と言われました。閉まっていた戸を通り抜けることができたのは、イエス様のからだが地上での物理的制約を受けない霊のからだであったことを示しています。復活されたイエス様のお体は物質的な障壁を越えられるものであったということです。しかしそれは単なる霊ではなくちゃんとした肉体をもっていました。ルカの福音書24章には、復活したイエス様を見て幽霊だと思った弟子たちに対して、イエス様が「なぜ取り乱しているのですか。わたしにさわって、よく見なさい。」と言われました(24:38-39)。「幽霊なら肉や骨はありません。でも私にはあります。」そう言って、彼らに手と脇腹を見せられたのです。手と脇腹というのは、イエス様が十字架につけられた時の釘の跡と槍の跡のことです。ですから、復活されたイエスは確かに肉や骨がありましたが、それはこの肉体とは違い、物理的な障壁を越えられるものだったのです。

 

そして、こう言われました。「平安があなたがたにあるように。」イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。この言葉は、ギリシャ語で「シャローム」という言葉です。これは今もユダヤ人があいさつで使っている言葉ですが、「平安があなたがたにあるように」とか「ごきげんよう」といったニュアンスの言葉です。しかし、ここでイエス様が彼らに「シャローム」と言われたのは単なるあいさつではなく、それ以上の意味がありました。それは不信仰に陥り不安と恐れに脅えていた彼らの信仰を回復し、彼らにメシヤの到来を告げ知らせることによって、喜びと平安をもたらすためだったのです。

 

このとき彼らは不信仰に陥っていました。第一に、彼らはイエス様からガリラヤに行くようにと言われていたのにもかかわらず、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れ、戸を閉めて家の中に閉じこもっていました。第二に、彼らはイエス様があらかじめ語っておられた復活の預言を信じていませんでした。第三に、イエス様が復活されても、自分たちは幽霊を見ているのではないかと思っていました。

このように彼らはイエス様が言われたことを信じることができなかったため、恐れと不安に脅えていたのです。

 

しかし、イエス様が彼らの真中に立たれ「平安があなたがたにあるように」と言われ、その手と脇腹を示されたとき、彼らは主を見て喜びました。あの恐れと不安が、喜びに変えられたのです。復活した主イエスが現れ「平安があなたがたにあるように」とみことばをかけてくださることによって、その手と脇腹を示されることによって、彼らに再び信仰が与えられたのです。イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえると言われていたことばを思い出したのです。弟子たちはそれを見て喜んだのです。

 

皆さん、信仰の対極にあるのは何でしょうか?信仰の対極にあるのは恐れとか不安です。恐れや不安は霊の眼を閉ざしイエス・キリストを見えなくさせます。反対に信仰は、喜びと希望を与えてくれます。不安と恐れのどん底にいた弟子たちが喜ぶことができたのは、復活したイエス様が現れて「平安があなたがたにあるように」と御声をかけてくださったからです。それはイエス様の恵み以外の何ものでもありません。イエス様は恐れと不安で何も見えなくなっていた彼らに「シャローム」と言われ、彼らの信仰を回復させてくださいました。同じように主は今も、この時の弟子たちのように不安と恐れに苛まれている私たちに現われてくださり、同じように御声をかけておられるのです。「シャローム」「平安があなたがたにあるように。」あなたが不安や悲しみでどんなに落ち込んでいても、主があなたの前に立っておられることを認め、そのみことばを聞くならば、あなたも弟子たちのようにそれを見て喜ぶことができます。いや、あなたが落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなるのです。

 

生涯現役の医師として活躍された日野原重明さんが、2017年に天国に召されました。たくさんの本を残されましたが、その一冊に学生時代の思い出について書かれたものがあります。

京都大学の医学部を受験した日野原さんは、合格発表を見に行くため、家を出ようとしていました。するとそこに友人から電話がかかってくるのです。彼は日野原さんの受験番号を知っていました。そして自分の合格を確認するだけではなく、ついでに日野原さんの合否を見に行ってみたというのです。その結果「番号はなかったよ」というのです。内心自信があった日野原さんは、本当にがっかりしました。誰も近づくことができない程に落ち込んだのですが、やがて大学から連絡が入りました。「合格しているのにどうして手続きに来ないのですか?」
どういうことか。実は当時の医学部受験には、二つのコースがあったのです。友人はそれを知らずに、もともと日野原さんが受けていない方のコースの合格掲示板を見て、早合点したのです。もう一つの方にはちゃんと受験番号がありました。それが分かったとき、喜びが爆発したそうです。がっかりした気持ちが深かった分、それをくつがえす事実に向き合ったとき、天にも昇るような気持ちだったと言います。

 

それは私たちも同じです。私たちも辛くて、悲しくて、不安で、落ち込むことがあります。でも落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなります。信仰によって復活の主イエスを見るとき、私たちの悲しみは喜びに変えられるからです。あなたはどうでしょうか。あなたの心は不安や悲しみでいっぱいになっていませんか。もしそうであるならば、復活されてあなたの前に立ち、「平安があるように」と言われる主の御声を聞いてください。死から復活して今も生きておられる主を信じ、主のみことばを聞くとき、あなたも喜びに満たされるようになるのです。

 

Ⅱ.わたしもあなたがたを遣わします(21-23)

 

次に、21~23節をご覧ください。「イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 

この喜びと平安によって眠っていた弟子たちの使命感が、はっきりと呼び覚まされます。それは、罪の赦しの宣言のために遣わされるということです。イエスは彼らにこう言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

イエス様はここで再び彼らに「平安があなたがたにあるように。」と言われました。どうしてでしょうか。このときの「平安があなたがたにあるように」ということばは、19節で言われたことと意味が違います。19節で言われた時は弟子たちの信仰を回復させ、恐れと不安の中にあった彼らに喜びをもたらすためでしたが、ここではそうではありません。別の目的で語られているのです。それは、彼らを福音宣教の使命に遣わすためでした。父なる神は、ご自身の権威をもって御子イエスを派遣されましたが、それと同じように、今度は主イエスの権威によって彼らが遣わされるのです。そのために必要だったことは何でしょうか。それは神との平安です。罪責感を負ったままでは、主の使命を果たすことはできません。ですからここで主は再び「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。

 

そればかりではありません。イエス様はそのように言われると、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

これはペンテコステに起こった聖霊降臨のことではありません。この「息を吹きかける」という言葉は、創世記2章7節にもありますが、そこには、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とあります。ここには、土地のちりで形造られた人間に神が息を吹きかけることで、人は生きるものとなったとあります。この「息」という言葉と「霊」という言葉はヘブル語では同じ言葉(ヘルアッハ)が使われています。つまりイエス様が弟子たちに息を吹きかけたのは、そのことによって彼らが生きるものとなるためだったのです。そのことで弟子たちは、新しく生まれ変わったのです。ですからここで「聖霊を受けなさい」と言われているのです。聖霊を受けるとは、その人の罪が赦され、神のいのちが与えられるということです。つまり、この時キリストは彼らの罪を赦し、ご自身の聖なる霊を彼らに与えられたのです。これはイエスを信じるすべての人にされることです。神はイエスを信じるすべての人の罪を赦し、ご自分の聖なる御霊を与えてくださいます。それが「救われる」ということです。

 

そのことによって、私たちは神から与えられた使命を全うすることができます。その使命とは何でしょうか。罪の赦しの宣言です。23節にこうあります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

もちろんこれは私たちがだれかの罪を赦したり、残したりする権威があるということではありません。罪を赦すことができるのは神だけです。私たちにはそのような権威はありません。しかし私たちにはその神が決定されたことを宣言する役割が与えられているのです。その権威が与えられているということです。聖霊を受け、主イエスが父なる神から権威が与えられたように、そのイエスの権威によって遣わされる者にも同じ権威、罪の赦す権威が与えられているのです。すごいですね。信じられないことですが、聖霊によって新しく生まれ変わった私たちには、そのような権威が与えられているのです。私たちもこの時の弟子たちのように不信仰な者で、罪深い者にすぎませんが、復活のイエス様を信じることでイエス様に息を吹きかけられ、聖霊によって新しく生まれ変わった者であることを覚え、この神の権威と聖霊の導きによって、きょうも周りの人々に神の愛と罪の赦しの福音を伝えていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.キリストの復活がもたらしたもの

 

最後に、このキリストの復活がもたらしたものを考えてみたいと思います。このあと弟子たちはこの罪の赦しの宣言を伝えて行くことになります。その様子は使徒の働きを見るとわかりますが、彼らはいのちがけで伝えていきました。それで初代教会のクリスチャンたちは破竹の勢いで広がっていき、ついにはヨーロッパ大陸全土がキリストの福音に圧倒されていきます。いったいその原動力は何だったのでしょうか。それは、キリストの復活がもたらしたものです。キリストは私たちの罪を背負い十字架で死んで下さった後に、三日目に復活してくださいました。この復活によって死を滅ぼされたという歴史的事実が、彼らにそのような力を与えたのです。それが原動力となったのです。つまり、この復活の事実こそが、キリストが死から復活したということが迷信ではなく、実際にあった事実であったということを物語っているのです。

 

私は最近、「言霊信仰」に関する本を読みました。日本人は昔から起こって欲しくないことを言葉にして出すと、本当にそれが実現すると信じているところがあります。ですから、結婚式では「切れる」とか「別れる」とか「割れる」といったことばは禁句です。受験生がいる家では「すべる」とか「落ちる」がタブーですね。逆に、むかしから「勝つ」と「カツ」をかけて、勝負や試験の前に「豚カツ」を食べる験担ぎになっています。そんなのバカバカしいと思っている人でも、実は知らず知らずの間に使っているのです。たとえば、会合や宴会などを終えるとき「お開きにする」という言い方をしますが、本当は「おしまいにする」とか「会を閉める」なのです。でも、それでは縁起が悪いと考えて、あえて反対の「開く」という言い方をするようになり、それがすっかり定着するようになったのです。

こういう現象は日本社会では随所に見受けられます。しかしこれこそが日本の安全保障の障害になっているのではないか、と指摘する人もいるのです。起こって欲しくないことは考えないようにすることによって、万が一のことに備えることができなくなってしまうからです。

 

これは個人の人生についても言えることで、その代表が、死につながることをいっさい隠すということです。ですから病院では4号室や、4番ベッドはなく、飛行機には4番シートがありません。それは縁起の悪いものがあったら、本当に死んでしまうかもしれない、と恐れるからです。しかし4という数字をどんなに使わないようにしていても、死は必ずやって来るのです。必ずやって来るものについては、考えないようにするのではなく、そのためにしっかりと準備しておくことの方が賢明です。しかし、死に対する準備などできるのでしょうか。できます!

 

キリストは私たちの罪を背負って、十字架で死んで下さった後、三日目に復活することで、死を滅ぼしてくださいました。これは迷信でも何でもなく、この歴史の中で実際に起こった事実です。それは、私たちの罪が赦され、永遠のいのちを与えるために神が成してくださった神のみわざです。この神のみわざを受け入れる者、すなわち、この方を信じる者は罪が赦されて、死んでも生きる永遠のいのちが与えられるのです。

 

キリストはあなたのために死なれました。そして文字通りよみがえられました。あなたの前に立って「平安があなたがたにあるように」と言っておられます。どうぞ、この復活された主イエス・キリストを信じてください。そして、あなたの人生が天国に向かう喜びと平安なものになってほしいと思います。主はよみがえられました。復活の主の力と喜びがあなたにもありますように。「平安があなたがたにあるように。」

Ⅰコリント15章1~11節 「最もたいせつなこと」

イースターを迎えました。主の復活を喜び、心から主の御をほめたたえます。私たちは今朝、使徒パウロがコリントの教会に書き送った手紙の中から、「最もたいせつなもの」と題してお話ししたいと思います。

 

世の中には大切なものがたくさんあります。それは人それぞれ違うでしょう。ある人はお金だ、健康だ、仕事だという人がいれば、思いやりだとか、愛だ、いのちだという人もいます。あるいは人と人の絆だという人もいるでしょう。確かにこの世で生きていくためには、これらのものも大切です。しかし、きょうのところでパウロは、最もたいせつなことを私たちに伝えています。それは福音のことばです。きょうは、この「最もたいせつなこと」についてご一緒に考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.この福音によって救われる(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

 

12章から14章にかけて御霊の賜物について語ってきたパウロは、この15章に入ると、「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」と言って、「福音」について語り始めます。「福音」とは何でしょうか。

「福音」とは「良い知らせ」という意味です。福音を国語辞書で調べると「喜ばしい知らせ」「イエス・キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ」とあります。和英辞典を見てみると「Good News」とあります。この福音という言葉は聖書の最も大切なことを的確に表している言葉だと思います。私たちはテレビやラジオ、新聞で様々なニュースを見たり、聞いたりします。それは「どこで」「誰が」「何をしたか」という情報です。実は聖書で最も大切なこととして書かれているのは、「教え」ではなく、「情報」、ニュース、知らせなのです。

 

パウロはここで、「兄弟たち。私は今、この福音を知らせましょう。」と言っています。これは特に、荘厳な面持ちで大事なことを伝える時に伝える言葉です。なぜ大事なのかというと、2節にあるように、この福音のことばをしっかり保っていれば救われるからです。この福音のことばをあなたが素直に受け入れ、この福音のことばに立って生きるなら、あなたは救われるのです。この救いとは罪からの救いのことです。私たちはよく病気が癒されたとか、貧乏から解放された、問題が解決したことを指して「救われた」と言うことがありますが、聖書でいう救いは、そうしたさまざまな問題や困難からの救いだけでなく、それらの問題の根本的な原因である罪からの救いのことを意味しています。罪が赦されるとどうなりますか。罪が赦されると神に受け入れられ、神の御国、天国で永遠に神とともに生きることができるようになります。私たちの人生はこの世だけのものではありません。やがてこの世での生を終え、神の前に立たされる時がやってきます。その時、神が約束してくださったように神の国を相続するようになるのです。この世の中には大切なものがたくさんありますが、この福音はそうしたものの中でも最もたいせつなものであるのは、この世だけではなく永遠にかかわるものだからなのです。

 

ある時、「日本人百人に聞く」というアンケートがありました。その最初の質問は、「あなたは死後の世界はあると思いますか。ないと思いますか。」というものでした。すると、「ある」と答えた人と、「ない」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、ちょうど三分の一ずつでした。

そして、死後の世界が「ある」と答えた人にさらに、「あなたの考える死後の世界は、明るいですか。暗いですか。」と質問すると、その答えは、「明るい」と答えた人と、「暗い」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、やっぱり三分の一ずつでした。

もしみなさんに同じ質問をしたら何と答えるでしょうか。死後の世界はあると思いますかという質問には、全員が、「ある」とお答えになると思います。そして、「それは明るいですか、暗いですか」という問いには、「明るい」と答えるのではないでしょうか。なぜなら、この福音のことばをしっかりと保っているからです。どうかこの福音を受け入れ、このことばに立ってください。この福音によって救われるからです。

 

Ⅱ.最もたいせつなこと(3-5)

 

第二に、この福音とはどのようなものなのでしょうか。次に3節から5節までをご覧ください。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」

 

パウロは、この福音の内容を最も大切なこととして、次の四つのことにまとめています。

第一に、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」、第二に、「葬られたこと」、つまり、本当に死なれたということです。キリストは十字架につけられた時、単に気絶したということではなく、本当に死んで葬られたということです。第三に、「聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」、そして第四に、「ケパに現われ、それから十二弟子に現われたこと」です。これが、最も大切なこととして、パウロが伝えたかったことです。

 

これを見ると、最もたいせつなことは、イエス・キリストの教えやイエスがなされた奇跡の数々ではなく、イエス・キリストの十字架の死と、葬りと復活の事実であり、それを見た人たちがいるという証拠です。それが福音の中心です。

 

近代になって、ある人々は実に軽々しく主イエスの復活の事実を否定するようになりました。復活抜きのキリスト教を打ちたてようとしたのです。イエス様が復活したかどうかなんてどうでもいいじゃないか、第一、そんなこと確かめようがないし、仮に確かめることができたとしても、それがいったいどうなるというのか。大切なのは、そこから意味をくみ取ることだよ。イエスが復活したということが、自分にどんなことを教えているのかを見い出すことだ、というのです。しかしその結果残ったのは、もはやキリスト教とは言えない代物となってしまいました。主イエスの復活の事実に裏付けられない復活の教えには意味がないのです。そういうことがあったことにしておこう。そう仮定しておこう。そう信じておこう、ということではないのです。この事実の上に私たちの信仰も、希望もその確かさがあるのです。だからパウロは続けて6節から8節までのところでこう言っているのです。

「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(6-8)

 

どういうことでしょうか。これはキリストの復活が事実であったということです。まずケパに現われ、十二弟子に現われたというのは、彼らは生前のイエスをよく知っていた人たちですから、よみがえったイエスと出会った時、その二人は同一人物であるということを確認することができました。他の人がよみがえって、「私がイエス」だと言ったわけではなく、本当にあの方が死んでよみがえられたのだと確認することができたのです。

 

それから「五百人以上の兄弟たちに同時に現われた」とは、キリストがよみがえられたことは幻覚でも何でもない、はっきりとした事実ですよ、という意味です。もし一人や二人であったら、キリストがよみがえったと言っても、ただの思い込みじゃないのと言われても仕方ありません。でも五百人以上の人たちに同時に現われたということになれば話は別です。それは紛れもない事実であると言えるからです。

 

またヤコブに現われ、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださったというのは、まさに神の恵みであるということです。ご存知のように、このヤコブとはイエスの実の兄弟のヤコブのことですが、彼はイエスが十字架に付けられるまでイエスをメシヤとは信じていませんでした。しかし、この復活のキリストに出会うことによって、「ああ、本当にお兄さんのイエスはメシヤだったんだ」と信じることができました。またパウロが自分のことを「月足らずで生まれた者と同様な私」、「未熟児のような私」と言っているのは、彼が以前教会を迫害していた者だからです。そんな者にもキリストは現われてくださいました。ですから、それは紛れもない事実なのです。

 

しかもここで大切なのは、これらのことが他の誰でもない「私たちの罪のため」であったということです。いやもっと言うならば、ほかならぬこの私のためであったということです。キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、私たちのために葬られ、私たちのために三日目によみがえられ、私たちのために現われてくださいました。そう信じて受け入れるなら、あなたは救われるからです。その中でも最も中心的なことは、主イエス・キリストが死からよみがえられたということでした。なぜなら、キリストの復活は、私たちの人生にとって最大の問題である死に対して最終的な解決を与えるものだからです。ですから、キリストが復活したという事実は、私たちにとって大きな出来事なのです。

 

ハイデルベルク信仰問答書には次のようにあります。

〔問45〕キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。   第1に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。  第2に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。  第3に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。

 

これはどういうことかというと、キリストの復活は私たちに過去において、現在において、また未来において、益をもたらしてくれるということです。過去においてとは、主イエスが成し遂げられた十字架の死と復活という贖いの御業によって、すでに主イエスを信じる者たちが義と認められているということであり、現在においてとは、主イエスによって義と認められた私たちが今すでに主イエス・キリストにあって永遠のいのちの祝福の中に生かされているということ、そして未来においてとは、キリストの復活がやがて私たちも復活するという保証であり、初穂であるということです。

 

ここにおいて主イエスのよみがえりは私たちを明日へと生かしめる希望となり、力となるということがわかります。希望とは何か遠い先の事柄ではなく、むしろ確かな約束に基づいた、日々を生きる力、日常的で具体的な力なのです。その力に生きることができるところに、復活の最大の益があると言えるのです。

 

これが、教会が「最もたいせつなこととして」ずっと昔から受け継いできたことです。パウロは3節で、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって」と言っていますが、この「伝える」とか、「受ける」という言葉は、誰かの思いつきで、突然どこからか降ってきた教えというのでもなく、教会がずっと昔から繰り返して受け継いできた教えであるということです。それは最もたいせつなことであり、キリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたという事実なのです。

 

Ⅲ.神の恵みによって(8-11)

 

それにしても、これほどにパウロが主イエスの復活の事実にこだわるのはなぜなのでしょうか。そこにはパウロ自身の深い経験があったことが分かります。8節から11節までをご覧ください。

「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」。

 

パウロはここで復活の主イエスが「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました」と言っています。主イエスの十字架と復活の場面にはパウロは出てこないのに、これはどういうことなのでしょうか。そこで私たちが思い至るのは、使徒の働き9章にある、あのダマスコ途上での主イエスとの出会いの経験です。かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い詰めることを生きがいとしていたパウロに、主イエスは出会ってくださり、それによって彼の人生はまったく変えられ、キリストを宣べ伝える者へとされていったのです。ですからパウロにとってはキリストの復活は事実であるばかりでなく、まさに彼にとっての人生の原点でもあり、生きる目的でもあったのです。だからこそ彼にとっては復活の事実はないがしろにできないばかりか、それを伝えることこそが彼の生きがいとなっていったのです。

 

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い込んでいったパウロ、自分こそは律法を完璧に守り、その行いによって自分の救いを獲得していた者でしたが、彼をそのような人生に駆り立てていった一つの動機はやはり死への恐れだったのです。それを遠ざけ、振り払うかのように懸命になって生きていました。しかしその人生には本当の平安はなく、本当の確かさもなく、また本当の希望もありませんでした。しかし、そんな人生の途上で主イエス・キリストに出会い、その十字架と復活の福音を自らが聞き、受け入れたとき、彼の人生は全く新しくされ、そしてその福音に生きる者となりました。その時、彼は、死を乗り越えることができたのです。そしてそこで彼が言い得た言葉が、「私は神の恵みによって今の私になった」というこの言葉だったのです。

 

「恵み」とは、それを受けるに値しない者に、神が一方的に与えてくださる賜物です。それにふさわしいから与えられるものは、恵みではありません。それは「報酬」と言います。でもそれを受ける理由などどこにもないのに、神が与えてくださるもの、それが恵みです。パウロは、この神の恵みによって、今の私になりました。それまで彼は、クリスチャンを捕らえては迫害してきました。一撃のように神に打たれて死んでも、文句の言えないようなことをしてきたのです。そのような者に対して、いったい神は何をしてくださったのか。そんな自分を赦してくださいました。それだけでなく、自分を福音の宣教者として選んでくださった。これは、神の恵み以外の何ものでもない、と言ったのです。

 

私は自分の人生を振り返ってみると、そこには多くの罪があり、多くの失敗もあり、穴があったら入りたいくらいですが、それでもなお、神は私を信仰者として、建て上げてくださっていることを思うとき、それはまさに神の恵み以外の何ものでもありません。本当に私の人生を私の人生として生かすもの、私のいのちを私のいのちとして輝かせるもの、死の恐れを超えて、永遠のいのちの希望に生かすもの、それがこの神の恵みであり、神の恵みによってもたらされた復活の信仰なのです。

 

南北戦争で北軍の将軍にまで上り詰め、文学的にも秀でた才能を発揮したルー・ウォーレスとう人がいました。彼はよく知られた無神論者でした。彼は二年間に渡り、ヨーロッパやアメリカの主要な図書館で、キリスト教を破滅に追いやるための資料を求めて研究しました。ウォーレスは「キリスト教撲滅論」という本の第二章を書いている時、 突然ひざまずき「私の主、私の神よ」と言ってイエスに泣き叫んだのです。議論の余地のない明白な証拠によって、ウォーレスはイエス・キリストが神の子であることを否定できなくなりました。後に彼は『ベン・ハー』という小説を書き、この小説はやがて映画化され、アカデミー賞11部門を受賞しました。この記録は「ロード・オブ・ザ・リング」と並ぶ記録として映画史に輝いています。

 

またイギリスのオックスフォード大学教授であったC.S.ルイスは、宗教を否定する不可知論者でした。しかし彼も、イエスが神であるという反論しがたい証拠を研究した後、イエスを自分の神、救い主として受け入れました。 その後ルイスはキリストを証言する多くの本を書きました。最近映画化された「ナルニア国物語」もその中のひとつです。「ナルニア国物語」の主要登場人物の一人にアスランというライオンが登場しますが、このアスランは実はキリストを表しています。聖書の中にはキリストがライオンに例えられている箇所があり、ルイスはアスランをライオンに設定したといいます。

 

他にも数え切れないほど多くの人が、聖書が最も大切なこととして伝えているこの福音を信じて救われ、人生が変えられました。あなたはこの福音、良い知らせ、グッドニュースを聞いてどのようにお感じになりますか?このニュースがもし事実ではないなら、聖書もキリスト教も土台が無くなり、価値のないものとなります。しかしもしこれが事実であるなら、あなたの人生にも大きな影響を与えるものでしょう。

 

たとえあなたが、どんな過去を背負っていようとも、どんな傷を残していようとも、どんなに拭い切れない罪責を負っていようとも、主イエスはそのあなたのすべての罪を背負って死なれ、そして復活してくださいました。すべては主イエスの死とよみがえりによって解決されたのです。復活の主イエスのお体には釘の後、槍の後が残っていました。このことの意味深さを繰り返し思います。確かに今、私たちにも過去の傷は残っていても、しかしそれはもはや私を苦しめ、責めるものでなく、主イエスによるまったき赦しと慈しみと恵みの傷跡なのであって、それ故に私たちもまたパウロと共にこういうことができるのです。「神の恵みによって、私は今の私になりました」。この最も大切な福音を信じ、心を高く挙げて、復活の主イエスの御名を賛美いたしましょう。

マタイ27章45~56節 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

キリスト教では、イエス・キリストが最後にエルサレムに入城した日から復活の前日までの一週間を受難週と呼んでいます。そしてキリストが十字架につけられたのは金曜日で、その日の午後3時頃に息を引き取られました。罪も汚れも無い神の子キリストが、全人類の罪を負って十字架に付けられて死なれたのです。その直前、キリストは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫ばれました。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と言われました。そして、ローマ兵が酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプにつけて、それをイエスの口もとに差し出すと、イエスはその酸いぶどう酒を受けられ、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、最後に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られたのです。

これが、キリストが十字架に付けられた日の出来事です。イエスは十字架上で七つのことばを発せられましたが、その中で第四番目に発せられたのがこの言葉なのです。この言葉は永遠の神秘と言われ、理解するのが最も難しいと言われていいます。なぜなら、キリストが神の子、救い主であられるのなら、どうしてこのように叫ばなければならなかったのかがわからないからです。私はこれまで多くの求道者の方から尋ねられることがあります。それは、「キリストが神ならば、どうしてこのように叫ばなければならなかったのか。」ということです。そんなこと最初からわかっていたはずではないか、それなのにこのように叫んだということは、キリストがただの人間だったということ示しているのではないか、というのです。それなのに、このように叫ばなければならなかったというところに、この言葉の神秘があるのです。いったいキリストはどうしてこのように叫ばれたのでしょうか。きょうはこの言葉の意味をご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.罪を犯さなかったイエス

まず、第一に、主がこのように叫ばれたのは、ご自分の罪のためではなかったということです。46節を見ると、主がこのように叫ばれたのは、午後3時ごろであったとあります。それは十字架につけられてから6時間が経過した頃のことです。この時の肉体的な苦しみは相当のものだったでしょう。手足を引き伸ばされて釘で打ち付けられ、そこに全身の重みがかかっていたのですから、激しい苦痛が伴っていたことでしょう。特に釘が神経に当たっていたら、その痛みは耐えがたいものだったはずです。釘が入っていた回りの肉がはれて腐り始め、脳が充血して激しい頭痛を引き起こします。発熱のためにのども渇きます。それが直射日光の下にさらされていたのであればなおさらのことです。体力が奪われ、肉体の苦痛は極度に達していたにちがいありません。それにもまして苦しめていたのは、精神的・霊的苦しみです。人々から侮辱され、あざけられるというだけでなく、神にも見捨てられたという思いの中で、言葉には言い尽くせない苦痛を受けておられたのです。

ところで、このことばは詩篇22篇1節から引用です。詩篇22篇はダビデの賛歌とありますが、ダビデが自分の人生において、神に見捨てられたのではないかと思えるような状況の中で歌った詩なのです。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私を御救いにならないのですか。私のうめきのことばも。」(詩篇22:1)

ダビデは、自分の人生における困難の中で、そうした苦しみを体験していたのです。そのような苦しみの中で彼は、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばずにはいられなかったのです。それは神にも見捨てられたのではないかと思えるような激しい苦しみが伴う経験でした。しかし、ダビデがこのように歌ったのは自分の置かれた状況における困難や苦しみばかりでなく、同時にやがて来られるメシヤの姿を預言していたのです。

この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が、ヘブル語なのか、アラム語なのかは、意見が分かれているところですが、しかしそれがヘブル語であっても、アラム語であったとしても、イエスがこうした極限の苦しみの中から叫ばれたものであるのは事実です。

いったいなぜイエスはこのように叫ばれたのでしょうか。それはこの十字架の刑が人々から裏切られるということ以上に、神に見捨てられるという経験だったからです。それはまさに地獄の経験でした。よく私たちは「地獄を味わった」ということを耳にすることがありますが、この時イエスは本当に地獄を味わったのです。なぜなら、神に見捨てられ、神から話されることこそ地獄だからです。イエスはこれまで永遠の昔からずっと父なる神と一緒でした。ひと時も離れたことがなく、常に親しい交わりを保っておられました。その主が一時的であっても父なる神から離されること、それは地獄の苦しみだったのです。ですから、この叫びは地獄の叫びと言っても過言ではありません。いったいなぜこのように叫ばなければならなかったのか。

一つだけはっきりしていることは、それはイエスご自身の罪のためではなかったということです。主は全く罪のない方であり、ご自分の罪のために見捨てられることはないからです。それはイエスを十字架に引き渡したローマの総督ピラトの言葉からもわかります。ユダヤ教の祭司長がイエス様をローマの総督ピラトの下に連れて行ったとき、彼の判決はこうでした。

「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」(ヨハネ19:4)

またこうも言いました。

「この人は、死罪にあたることは、何一つしていません。」(ルカ23:15)また、ピラトは三度目に彼らにこう言いました。

「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死にあたる罪は、何も見つかりません。」(ルカ23:22)

そしてついにピラトは、「この人の血については、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」(マタイ27:24)とさじを投げ出してしまいました。

しかし、最終的に彼はイエスを十字架に付けたのは、群衆を恐れたからです。群衆が暴動でも起こしたら自分の立場が危うくなると、群衆の要求通りにイエスを十字架につけたのでした。濡れ衣を着せられたこの時のイエスは、どんなお気持ちだったでしょう。

またイエス様といっしょに十字架につけられた犯罪人の一人でさえも、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:41)とイエス様の無罪を主張しています。

さらにヘブル人への手紙4章15節には、主は罪を犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです、とあります。

ですから、キリストが神に見捨てられたのはご自分の罪のためではなかったことは明らかです。ではいったいなぜ主は十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

Ⅱ.私たちのために死なれたイエス

 

それは私たちの罪のためでした。全く罪のない方が、私たち人間のために、全人類のために死なれたのです。というのは、神は罪を処罰される方だからです。罪とは、的外れのことです。神によって造られた人間は、本来神を信じ、神のことばに従って生きるはずなのに、自分勝手に生きるようになりました。それが罪です。確かに悪い行いもそうですが、それはこの罪の結果なのです。神を神としないことから、さまざまな問題が生じるようになってしまいました。聖書はこう言っています。

「何が原因で、あなたがたに戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブ4:1-2)

つまり、自分の思うとおりにならないと我慢することができず、争ったり、戦ったりするのです。ですから、自己中心こそが罪の本質なのです。そしてそれを言い換えるなら、このように言えるのではないでしょうか。すなわち、罪とは、神を見捨てることであると・・・。神ではなく、自分が中心となることで、神を見捨てるようになってしまったのです。もしそうであれば、そのような人は、神に捨てられることになります。なぜなら、神は罪を放置されることはないからです。必ずその罪に対して報いをなさいます。その報いこそ、神から捨てられるということなのです。それこそ神によって造られた人間にとって最も不幸なことなのです。人の一生はこの地上のいのちだけではありません。やがて肉体が滅びる時、その人のたましいは神のみもとに行くようになります。その時神から捨てられた人は永遠の滅び、聖書ではこれを地獄と言っていますが、入らなければなりません。

するとどういうことになるでしょうか。すると、人間はみな神に見捨てられなければならないということになります。なぜなら、聖書には、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)とあるからです。そして、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるからです。私たちはだれ一人として完全な者はおらず、したがって、生まれながらのままであればだれ一人として神のみもとに行くことはできないからです。しかし、神は私たちが滅びることがないように救い主をこの世に送り、罪の処理をしてくださいました。それがキリストの十字架上での死だったのです。主が十字架に付けられたのはご自分の罪のためではなく、私たちの罪のためであり、私たちの罪を負い、私たちが受けるべき罪の代価を身代わりとなって受けるためだったのです。それは私たちが神に見捨てられることがないように、代わりに神に見捨てられるためだったのです。

かつて、ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が法廷に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄でした。裁判官も、自分の弟が犯人であることを知りました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しましたが、裁判官である兄は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令したのです。そして翌朝には、彼は死刑にされることになりました。一方、その犯人は獄中で、翌日の死のことを考えて悶々とした眠れぬ一夜を明かしました。ところが、夜中に急に裁判官が官服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを告げたのです。  「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を刑に処した。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救うためだ。急いで、お前の服と私の官服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、今後、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけない。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのです。二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ5:6-8)。

「神は、罪を知らない方を、私たちの身代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ1:4-5)

Ⅲ.絶対に見捨てられない私たち

ということは、どのようなことが言えるでしょうか。イエスがあなたの身代わりとなって神に見捨てられたので、あなたは絶対に見捨てられることはないということです。主が私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが罪の刑罰を受けないためであり、私たちが神から見捨てられないためでした。私たちが罪から解放されて、永遠の死から救われるためでした。ペテロはそのことを次のように言っています。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

したがって、主イエスを信じて救われている者は、もはや罪に定められることはありません。つまり、絶対に神に見捨てられることはないのです。パウロは、この真理を次のように宣言しています。少し長いですが引用したいと思います。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:31-39)

主はご自身を信じる者のいと近くにいて、いつも励まし、慰め、救ってくださいます。目に見えないということは、主がおられないということではありません。神がともにおられるかどうかということは、人間の感情に依存するものではないのです。主はいつもともにおられます。それは主があなたの代わりに、神に見捨てられたものとなってくださったからです。それゆえに、この方を信じる者は、決して神に見捨てられることはないのです。

私たちは人生において、「どうして」と叫ばずにはいられないことがあります。どうしてこのような苦しみに会わなければならないのか、どうしてこのような悲しみ、困難、患難を受けなければならないのかという時があります。神に見捨てられたのではないかと思うような時があるのです。しかし、主が私たちのために、すでにその「どうして」という問いを発してくださり、その解答を与えてくださいました。あらゆる「どうして」という解答が与えられているのです。それゆえに、どのようなことがあっても、神はあなたを見捨てることはありません。

 

旧約聖書に登場するヨブは、まさにこの「どうして」を経験した人でした。彼は東の人々の中で一番の富豪でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。家族も愛し自分の息子たちや娘たちのために祝宴を開き、彼らといっしょに飲み食いをするのを常にしていました。

しかし、そんな彼にある日悲劇が襲います。シェバ人が襲って来て彼の家畜を奪うと、若い者たちを剣の刃で打ち殺してしまいました。そればかりではありません。ヨブがこの知らせを受けている時別のしもべがやって来て、彼の息子や娘たちが一緒に食事をしていたとき荒野の方から大型の台風がやって来たかと思うと彼らがいた建物が崩壊し、全員が死んでしまったというのです。その知らせを聞いた彼は上着を引き裂いて、頭をそり、地に触れ費して主を礼拝しました。ヨブはそれでも罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。

けれども、ヨブに襲った試練はそれだけではありませんでした。何と彼のからだの全体に、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれたのです。唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白せざるを得ませんでした。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです。そして、彼はこう祈りました。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)その結果どうなったでしょうか。神はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。その脱出の道こそ、イエスの十字架でした。イエスがあなたに代わって死んでくださったので、あなたは救われたのです。あなたがこのイエスを救い主と信じるなら、あなたは神に見捨てられることはありません。人生の暗やみの中で、全く孤独を感じるときでも、あなたがいやされる唯一の道は、キリストのように叫ぶことです。その叫びは、暗黒を貫いて必ず神にまで届きます。暗黒はいつまでも続くものではありません。決して長く続くものではないのです。それは、栄光の光への入口であるということを覚えていただきたいと思います。キリストがその暗やみを取り除いてくださったからです。

最後に、アメリカの有名な大衆伝道者D.L.ムーディー(1837-1899)の実話をもってこの話を結びたいと思います。1849年にゴールドラッシュがカリフォルニアに起こり、ある人が東部のニュー・イングランドを旅立って、西へ西へと黄金に引かれて行きました。妻と息子を残して。そこで彼は、金を掘り当てたので、家族呼び寄せることにしました。妻は大いに喜んで、ニューヨークから息子を連れて、サンフランシスコ行きの客船に乗ったのです。沖に出て間もなく、「火事だ。火事だ」とだれかが叫ぶ声がしました。船には火薬庫があり、船長はもし火がそこについたらひとたまりもなく、沈んでしまうことを知っていました。救命ボートがおろされました。小さかったので、少人数しか乗れませんでした。すぐに一杯になりました。そして最後のボートがおろされました。この母親は是非乗せてほしいと、懇願しました。しかし、船長は「もうひとりも乗せられない。乗せたらボートが沈む」と言って、どうしても許しませんでした。それで母親はさらに熱心に頼みました。船員は、「それではひとりだけ乗せてもよい」と許しました。すると母親は息子を押し退けて、船に飛び乗ったでしょうか。そうではありませんでした。母親は息子を抱きしめて、ボートに乗せると、最後の別れのことばをかけました。

「おまえ、お父さんに会ったら、こう言っておくれ。私がおまえの代わりに死んだのよ」と。

主イエスは、私たちに代わって、神に見捨てられ、死んでくださいました。だから私たちは決して見捨てられることはないのです。罪なきお方が、私たちの代わりに罪とされたことによって、キリストは神に見捨てられましたが、そのことによって、私たちはもはや、どのようなことがあっても見捨てられることはなくなったのです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、というこのイエス様の叫びは、この事実を私たちに教えていたのです。あなたもこの主イエスの叫びにご自分の身を置いて、この永遠の約束を受け取っていただきたいと思います。