イザヤ書66章18~24章 「永遠をどこで」

きょうはイザヤ書から最後のメッセージです。聖書全体の最後が黙示録であり、その最後に新しい天と新しい地の預言で終わっているように、このイザヤ書の最後も新しい天と新しい地の預言で終わります。きょうはこの最後の箇所から、「永遠をどこで」というタイトルでお話したいと思います。

Ⅰ.のがれた者たち(18-19)

まず18節と19節をご覧ください。18節には「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた物たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」

どういうことでしょうか。ここには、主がどのようにご自身の栄光を諸国の民に告げ知らせるのか、その計画と方法が語られています。それはイスラエルの中ののがれた者たちにしるしを置き、彼らを諸国に遣わして、まだ一度もまことの神について聞いたことのない人々に神の栄光を告げ知らせるというものです。ここには、「タルシシュ、プル、弓を引くものルデ、トバル、ヤワン、遠い島々」とあります。タルシシュとは今のスペインです。それからプル、これはエジプトに隣接するリビアのことだろうと考えられています。それからルデ、これも北アフリカの西方の地域のことと考えられています。そしてトバル、これは今のトルコあたりのことで、ヤワンはギリシャのことです。遠い島々、これは世界中の遠い島々のことで、この中には日本も含まれます。すなわち、彼らを通して全世界に神の栄光が宣べ伝えられるというのです。

ところで19節に、「彼らの中にしるしを置く」とありますが、このしるしを置かれた人とは誰のことでしょうか。ある人たちはこれを黙示録7章に出てくる十四万四千人のことだと考えています。彼らはその額に印を押されていて、その数は十四万四千人でした。この人たちは誰かははっきりわかりませんが、ここには、イスラエルの12部族からそれぞれ1万2千人ずつ選ばれた人であるとあります。彼らはその後、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集とともに、御座と小羊との前に立って礼拝をささげます。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙示録7:10)と。すなわち、彼らは諸国の民を救いに導くために遣わされたユダヤ人であり、彼らによって救われた人たちと一緒に、天国で大声で主を賛美するようになった人たちだ、というのです。

いったいそれはだれのことでしょうか?ある人たちこれを使徒の働き1章15節に出てくる120人のキリストの弟子たちのことだと考えます。彼らはイエスさまが天に昇って行かれた後エルサレムにあった家に泊まり、心を合わせて祈っていましたが、その時天から聖霊が下り、イエス様のことを力強く語り始めました。そして最初の教会が誕生するのです。そして、彼らを通して福音がエルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで宣べ伝えられていきます。そこにはペテロやヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモン、ヤコブの子ユダといったキリストの弟子たちでしたが、彼らを通してキリストの福音が全世界に宣べ伝えられていきました。この人たちのことを指しているのではないかというのです。

しかし、このしるしとはおそらくそうではないと思います。このしるしとはイエスさまご自身のことを指していると思われます。というのは、マタイの福音書12章38-~40節にこうあるからです。

「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」

イエスさまは、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられていないと言われました。そのしるしとは何か。ヨナが三日三晩大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるということです。イエスさまこそ十字架で死なれ、よみにくだられ、三日三晩地の中におられた方です。ですから、このしるしとはイエスさまのことを示していたのです。だとすると、このしるしを置かれた人とはだれのことかというと、イエスさまを信じたクリスチャンのことなのです。神が選ばれたのがれた者たちとはクリスチャンのことであり、神はキリストというしるしを彼らの上に置き、彼らを通して全世界の、まだイエスさまを知らない人たちに福音を宣べ伝えさせ、そこに救われる人たちを備えてくださり、神の元に集めてくださるという預言だったのです。ですから、これは福音が全世界に宣べ伝えられている今の時代の預言であり、今も継続して行われていることなのです。神は私たちクリスチャンを通して、地の果てにまで、神の栄光を宣べ伝えよるようにと計画しておられたのです。

神はそのために私たちを選んでくださいました。「あなたがたが私たちを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って、実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしのなによって求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)  神はこの尊い働きのためにあなたも選んでくださいました。あなたは「のがれた者たち」なのです。そののがれた者として、すべての国々に主の栄光を伝える使命が与えられているのです。あなたはその準備ができているでしょうか。主の栄光をすべての国々伝えるために、あなたはどのように備えているでしょうか。

Ⅱ.歴史の最終ゴール(20-23)

次に20節から23節をご覧ください。20節には、「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。」とあります。

20節の「彼ら」とは、こののがれた者たちのことです。彼らは、すべての国々から救われた人たちを呼び集め、「主への贈り物」として聖なる山エルサレムに連れて来るのです。何のためでしょうか。礼拝するためです。そこでユダヤ人の中でイエス様を信じて救われたクリスチャンと、異邦人の中でイエス様を信じて救われたクリスチャンが一つになって神を礼拝するためです。

22節をご覧ください。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、―主の御告げ―あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」

神が造られる新しい天と新しい地は、神の前にいつまでも続きます。それは決して滅びることはありません。そして、神のみもとに集められた神の民たちも、決して滅びることはありません。彼らは永遠に生き続けるのです。この世の終わりにはすべてのものが焼けてくずれ去りますが、新しい天と新しい地はいつまでも続きます。そして、その新しい天と新しい地を相続するクリスチャンもいつまでも生きることになります。そこで終わることのない神の保護と助けを受けて、永遠に神と共に生き続けるのです。いったい私たちは、そこで何をするのでしょうか。23節をご覧ください。

「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と主は仰せられる。」

彼らはそこで神を礼拝します。すべての人が主の前に来て、礼拝をささげるのです。これが天国です。救い主イエス・キリストを信じ神の民とされたクリスチャンは、永遠に神をほめたたえるようになるのです。黙示録21章にはその様子が語られています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」(黙示録21:1-7)

皆さん、神の民であるクリスチャンには、この勝利が約束されているのです。神の幕屋が人とともにあり、神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。神ご自身が彼らとともにいて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら、以前のものが過ぎ去ったからです。新しい天と新しい地で神からいのちの水を、価なしに飲ませていただけるのです。私たちはこの天国で、永遠に神を礼拝するのです。何という慰めでしょうか。

皆さん、これが歴史の最後、歴史の最終ゴールです。すべての人は神の前に来て、礼拝をささげるようになるのです。これが神の救いの計画の究極の目的なのです。私たちはいったい何のために造られたのでしょうか。それは神を礼拝するためです。永遠に神をほめたたえるためです。そのために罪が贖われました。だから、礼拝なんかしたくないという人は、天国には一人もいません。神様なんて信じないなんていう人は誰もいないのです。天国にいる人はみなイエスさまの救いのみわざに感動し、感謝しているので、その救い主に心から礼拝をささげたいのです。

私は1994年に初めて韓国を訪れたとき、光林教会という世界で一番大きなホーリネス教会の礼拝に出席したことがありますが、とても驚きました。3千人は入ると言われるその礼拝堂で、大勢の聖歌隊とオーケストラといっしょに礼拝をささげるのです。礼拝が始まると自動的にカーテンが閉じて、オーケストラが奏でる讃美歌が流れます。新聖歌23番の「来る朝ごとに」でした。とても厳かな感じがしました。賛美しながら体が震えるような聖さを感じました。涙がとまりませんでした。ものすごい主のご臨在に圧倒されました。もういつまでもそこにいたい、いつまでも主を賛美していたい、そんな時間でした。

天国での賛美はそれ以上です。主がそこにおられるのですから。大勢の人で神をほめたたえのです。これほどすばらしいことはないと思えるような感動と喜びに包まれるでしょう。他のことはもうどうでもいいと思うくらいに、永遠に神をほめたたえることができる。それが天国です。こんなにすばらしい世界は他にはありません。すべての人がこの天国で神の前に来て、神をほめたたえるのです。これが神の民であるクリスチャンに約束されている最後です。あなたはこの中に含まれているでしょうか。

Ⅲ.永遠をどこで(24)

しかし、イザヤ書はこれだけで終わってはいません。24節のことばが加えられています。23節で終わってもよかったのに、24節のことばが加えられているのです。それはどのような内容でしょうか。最後にこの24節をお読みします。

「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」

実は、これは地獄の描写です。これがゲヘナと呼ばれる所です。マルコの福音書9章47~48節を見ると、イエス様はここから引用されました。

「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」

イエス様がこれを引用されたということは、これがほんとうにあるということなのです。皆さん、人は死んだらどうなるのでしょうか。

先週の日曜日の夜のNHKスペシャルで、「臨死体験  人は死ぬときどうなるのか」が放映されました。20年余り前、臨死体験について徹底的に取材し考察を深めてきたジャーナリストで評論家の立花隆さんは74歳を迎え、がんや心臓の病を抱えて死を間近に感じている今、再び臨死体験の最新研究の現場を見つめ、“死”について見つめ直しました。果たして人は死んだらどうなるのか。死の間際に一定の人が見る臨死体験が世界で注目され始めた1980年代以降、それは脳内現象として科学で説明できるとする「脳内現象説」と、肉体が死んでも“魂”が存在し続けるという「魂存在説」の二つの説が互いに相容れない、激しい議論が続けられてきた中で、立花さんは新たな臨死体験の掘り起こしをすると同時に、そもそも魂とは何なのかを最新の脳科学や心理学、哲学にいたるまで、徹底した取材に基づいて正面から挑みました。科学的に見て、死後の世界があると言える余地はどれくらいあるのか。死後の世界がないとしたら、『私(自分)』という存在をどう説明することができるのか。私たちが当たり前と思っている『私』という存在はいったい何なのか。有史以来、人類が追い求め続けてきた生と死にまつわる壮大な謎に挑むわけのです。  立花さんの結論としてはわからないということですが、その中で長らく死後の世界を否定してきた二人の科学者が、死後の世界はあると確信するようになったことを紹介していました。  一人はエベン・アレキサンダー(Eben Alexander)博士です。彼は脳神経外科の権威ですが2008年に急性細菌性髄膜炎という重い病にかかり、脳の新皮質に深刻なダメージを受けてこん睡状態に陥った経験から、死後の世界はあると確信するようになったというのです。ハーバード大学で教育を受け、25年にわたって神経外科医として一線で活躍する彼は、自分が病気にかかる以前はこの死後の世界を否定していましたが、この経験を通して彼の確信は全く変えられたのです。  もう一人はレイモンド・ムーディ(Raymond Moody)という科学者です。彼はアメリカの医師で心理学者でもありますが、長年、臨死体験を研究してきた第一人者で、著書に「かいまみた死後の世界」とか「死者との再会」など多数書いておられます。彼は1991年3月にNHKが放送した「立花隆リポート 臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか」で死後の世界を否定していたのですが、その23年後のこのレポートでは、死に対して大きな心境の変化がありました。レイモンド博士はこの23年の間に精神が病み自殺を図り臨死体験をする中で、死後の世界を信じるようになりました。「なぜそこまで見解が変わったのですか?」という立花さんの問いに、彼はこう答えています。

「私は、自分の心をより見つめるようになったのです。心はすばらしく魅力的なものです。当時は死後の世界を認めず、他の説明をこじつけようとしました。しかし、それは死後の世界はあると明確に言い切れなかったので、認めることから逃げていたのだと思います。その一方で、今自分が自分で言っていることに驚いています。客観的に考えてみれば、死後の世界があり、人生の終わりにあの世が続いているとはっきり言えること自分に矛盾を感じます。なぜそうなったのかは本当に自分でもわかりません。でもそもそも人生は死ぬまで理解できないものなのです。私たちが死ぬとき何があるのか、私たちの論理や思考が不十分であるため、なかなかわからないのだと思います。ただわかっていることは私たちが死ぬとき臨死体験という冒険をしながら人生を全うしていくということでしょう。あなたが永遠に落ち着ける場所を見つけられるように祈っています。」これが長年臨死体験を研究してきたムーディー博士の言葉です。

人は死んだらどうなるのでしょうか。この二人の体験に基づかなく共、聖書は明確に語っています。人は死んで肉体が滅んでも、魂は永遠に生き続ける・・・と。ただ生き続けるだけではありません。そこには天国と地獄があって、そのどちらかで生きるようになると語っています。すなわち、神の子イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる人は天国で、永遠に神とともに生きるようになり、そうでない人、つまり、イエスさまを信じない人は地獄に行くようになるのです。そこにはうじがわいていて、そのうじは死なず、その火も消えることもありません。それが地獄です。あなたはどこで永遠を過ごしたいですか。天国ですか、それとも地獄ですか。私は地獄には行きたくないけど、天国にも行かなくてもいい、私は中国がいい、なんて言う人がいますが、死後の世界には中国はありません。天国か地獄のいずれかしかないのです。だとしたら、神の救いであるイエス・キリストを信じて天国に行った方がいいじゃないですか。神はそのためにイエスをこの世に遣わしてくださったのです。神はあなたが救われて永遠のいのちを持つことを願っておられるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

これが聖書の要約であり、イザヤ書の結論でもあります。御子を信じる者はさばかれません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれているのです。どうかさばかれることがないように、神の御子を信じてください。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ロー10:9-10)

イエスを信じて、口で告白する者だけが救われます。そうでない者は、天国に行くことができません。そういう人は地獄に行きます。そういうことがないように、あなたも罪を悔い改めて、救い主イエスを信じてください。信じるなら天国に行くことができ、そこで永遠に神をほめたたえ、神を喜ぶことができます。それこそ神によって造られた私たち人間にとっての究極のゴール、目的なのです。天国でも一緒に永遠に神を賛美しようではありませんか。天国か地獄か、どちらを選ぶかは、あなたの選択にゆだねられているのです。

イザヤ書66章6~17節「エルサレムとともに喜べ」

イザヤ書の最後の章を学んでいます。きょうは6節から17節までのみこばから、「エルサレムとともに喜べ」というタイトルでお話します。この66章は65章の続きです。「主よ、いつまでですか」(6:11)というイザヤの質問に対して、主はエルサレムの荒廃とさばきのメッセージを語りますが、それで終わりではありません。その先に新しいイスラエル、霊のイスラエルがエルサレムとともに喜ぶ日がやってくることが示されます。きょうは、それがどれほどの喜びなのかをみことばからご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.神の民の誕生(6-9)

まず、6節から9節までをごらんください。 「聞け。町からの騒ぎ、宮からの声、敵に報復しておられる主の御声を。彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか」と主は仰せられる。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」とあなたの神は仰せられる。」

ここには、キリストが再臨される時の様子が語られています。キリストが再臨される時、キリストその敵に報復されます。それで町には騒ぎが、宮からは声が聞こえて来るのです。しかし、エルサレムはすみやかに回復されます。7節を見ると「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした」とあります。「彼女」とはもちろんシオン、エルサレムのことです。シオンが産みの苦しみが臨む前に産み、陣痛が起こる前に男の子を産み落とすのです。これはどういうことかというと、8節を見るとわかります。

「地は一日の陣痛で生み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」

これはシオンがその子ら、すなわち神の民を産み出すという預言です。それは一瞬のうちになされます。「陣痛が起こる前に、一日の陣痛で、陣痛を起こすと同時に」産まれるのです。私は出産をしたことがありませんが、出産の前兆である陣痛がないまま出産できたらどれほど楽でしょうか。そのように神の民は一瞬にして産み出されるのです。あなたが新しく生まれた時も同じです。あなたはイエスさまを救い主と信じた瞬間に新しく生まれました。

ヨハネの福音書3章を見ると、ニコデモはイエスさまに尋ねます。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)と。  するとイエス様は答えて言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)

皆さん、人は水と御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできません。肉は神の国を相続することができないからです。ですから、御霊によって生まれなければ、だれも神の国に入ることはできないのです。御霊によって生まれるとは、御霊のことばである聖書のことばを聞き、それを信じて受け入れることです。あなたが神の国に入るには、あなたが幼子のようにへりくだり、神のことばを聞き、そこにある神の救いを受け入れなければならないのです。そうすれば、あなたもその瞬間に新しく生まれ変わります。そして、神の国に入ることができるようになるのです。

ところで、ここにはシオンが産み出すとあります。シオンとはエルサレムのことです。神の臨在とご支配のあるところを意味しています。それは何を指しているのでしょうか。教会です。神の祝福は教会を通して流れるのです。もちろんそれはキリストのからだである天上の教会のことですが、それと同時に、この地上の教会のことであもあります。なぜなら、この地上にある一つ一つの教会はどんなに小さく、欠陥があったとしても、それは天上の教会の現れだからです。ですからイエスさまは、「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」(マタイ18:18)と言われたのです。「まことにあなたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしのなにおいて集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19-20)  何ということでしょうか。こんな欠陥だらで、不完全な教会でも、この地上に立てられた教会のふたりが、どんなことでも、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神様は、それをかなえてくださるのです。この地上の教会の私たちがつなぐなら、それは天においてもつながれており、解くなら、それは天においても解かれているのです。この地上の教会をみる限りほんとうにみすぼらしいと感じることさえありますが、でも主はこの地上の教会が解くなら、解かれ、つなぐならつなぐと仰せになられました。この地上の教会はどんなに小さくとも、そこにキリストが満ちておられ、この教会を通して新しく救われる人たちを起こしてくださるのです。だから教会が大きいか小さいかということは全く関係ありません。大切なのは、そこにキリストのいのちが流れているかということです。キリストのいのちはキリストにとどまり、キリストのことばに従うところに流れます。イエスさまは言われました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

また、こう言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)

ですから、キリストのことばに従い、キリストにとどまるなら、そこにキリストのいのちが溢れるようになります。たとえその教会がどんなに小さくとも、この地上の教会のふたりが、心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの神は、それをかなえてくださるのです。私たちの教会を通して、神の祝福が流れるようになるのです。神の民が生み出さるのです。

それゆえ、3世紀の有名な教父キプリアヌスは(Thascius Caecilius Cyprianus)は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。もちろん、救いは主のわざであり、産み出される方は神ご自身です。しかし、神は教会を通してそれを行ってくださるのです。ですから彼は、「教会の外には、救いはない」と言ったのです。  また、あの有名な宗教改革者マルチン・ルターはこう言いました。「教会の外には、望みもなく、罪の赦しもない。永遠の死とさばきがあるのみである。」そこまで言い切ったのです。なぜなら、教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところだからです。そして、教会には福音を宣べ伝える使命がゆだねられているからです。ですから、イエスさまはペテロに「わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。」(マタイ16:19)と言われたのです。何を血迷ったのか、ローマカトリック教会はローマ教皇こそがこのペテロの後継者であると主張し、教皇をあたかも神のように敬っていますが、そういうことではありません。これは、「あなたは生ける神の子キリストです」と言ったペテロの信仰告白を指しているのです。イエスさまはその岩の上にわたしの教会を建てると言われたのです。そのような信仰告白の上に立てられた教会は、ハデスの門もそれに打ち勝つことはできないのです。それは教会には福音を宣教するという使命がゆだねられているからです。神は教会を通して救われる人を生み出しておられるのです。そういう意味で、マルチン・ルターが言ったことはあながち間違いではないのです。教会はこの福音を宣べ伝えているがゆえに救いがあるのです。

皆さんはどうでしょうか。こうした教会の理解の上に立って、教会を愛し、教会に仕えておられるでしょうか。教会を通してなされる神の救いのみわざに取り組んでおられるでしょうか。教会を通して生み出される新しい神の民を待ち望み、福音を宣べ伝えておられるでしょうか。「シオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」このすばらしい恵みに、私たちも加わらせていただきましょう。

Ⅱ.エルサレムとともに喜べ(10-14)

次に10節から14節までをご覧ください。10節には、「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。」とあります。

ここには、「喜べ」とか「楽しめ」という言葉が何回も出てきます。新しい神の国の中心であるエルサレムが喜びと楽しみの所となります。それまで荒廃していたエルサレムが回復し、栄光に輝くようになるからです。すべてこれを愛する者、すべてこのために悲しんだ者が慰めを受けるようになり、喜びにあふれるようになります。

それは11節にあるように、赤ちゃんが母親の乳房から飲んで飽き足りるかのようです。皆さん、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲んでいる姿を見たことがありますか。赤ちゃんはそれさえあれば満足です。安心してぐっすり休みます。おっぱいは赤ちゃんにとってオールマイティなのです。それさえあれば満足します。そのような満足が与えられます。

おもしろいことに、かつて主はアブラハムに「エル・シャダイ」としてご自身現わされましたが、この「エル・シャダイ」とは母親が赤ん坊に乳を飲ませることがその語源となっています。「エル」は神、「シャダイ」は女性の乳房を指す言葉です。言わば、神はおっぱいの神です。赤ちゃんはそれさえあれば十分に満ち足ります。おっぱいを飲んでいれば大喜びなのです。ここで言われていることはそういうことです。おっぱいを通して赤ちゃんのすべての必要が満たされるように、神はご自身の民のすべての必要を満たしてくださるのです。

12節から14節をご覧ください。 「主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる。」

12節の「繁栄」と訳されている言葉は「シャローム」ということばです。これはあらゆるわざわいから解放された平和な状態を表しています。新しいエルサレムはまさに川のような繁栄と平和が与えられ、あふれる流れのような富がもたらされます。

「あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」また乳が出てきています。あなたがたはおっぱいを飲み、わきに抱かれて、ひざの上でかわいがられる。つまり、神は母親が赤ちゃんを完全に養い、保護するように、イスラエルを完全に守られるのです。

13節を見てください。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」それは母に慰められる者のようです。ここには「慰め」という言葉が3回も使われています。母親は慰めに満ちています。子どもが痛い思いをしたらどこに行くでしょうか。大抵は母親のところに行きます。なぜなら、慰めてくれるからです。滑り台から落ちて、ブランコから落ちて、テーブルにつかまり立ちしていたら落ちてあびをぶつけたとき、ワンワン泣くと、お母さんのところに行きます。お父さんのところには行きません。お父さんは慰めことを知らないからです。「何やってんの。ちゃんとつかまってないからだよ。」なんて冷たい言葉を発します。あっ、お母さんも言いますね。でもその後の対応が違います。 「何やっての。ちゃんとつかまっていないからよ。」 「しょうがないわね。」 「痛い、痛い、痛かったね。」 「痛いの、痛いの飛んで行け!」 「ほら、もう直った。よかったね」 なんて言って慰めてくれます。やっぱりお母さんです。お母さんは慰めに満ちています。私たちの神はお父さんのような力強さもありますが、お母さんのような優しさも持っておられる方です。あなたを慰め、あなたの必要を満たしてくださるのです。

皆さん、いったいどこに慰めがあるのでしょうか。人はみな慰めを必要としています。みなさんの中に「私は慰めがいらない」という人がいるでしょうか。誰もいないと思います。私たちは、生きている限りさまざまな困難にぶつかります。多くの人が、仕事のことや家庭のこと、人間関係のこと、自分の健康のことなど、さまざまな問題を抱えながら生きているのです。元気で活動的な人でも、身近に自分の悩みを打ち明けることのできる人がいなければ、やはり孤独に陥るでしょう。そんな時、いったい私たちはどこに慰めを見いだすことができるのでしょうか。

ある人は慰めを求めて、エンターテーメントに走ります。それもいいでしょう。しかし、こうしたエンターテーメントは一時的な気晴らしにはなっても、真の意味で人の心を深く慰めることはできません。エンターテーメントで満足できないと、人はやたらと高価なものを買ったり、お酒やギャンブル、ドラッグと、もっと強い刺激を求めて走り回りますが、こうしたものも一時的には渇きをいやしてくれても真の満足は与えることはできません。それは慰めるどころか、もっとひどい状態に引きずり込んでしまうこともあります。ではほんとうの慰めはどこにあるのでしょうか。

ここには、「わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあります。慰めてくださるのは神です。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(40:1)という言葉をもって始まるこのイザヤ書の後半部分には、その神の慰めが随所に語られています。(49:13、51:3、52:9他)まことに神は慰めの神です。その神がイスラエルだけでなく、今の時代を生きる私たちクリスチャンにも与えられているのです。キリストはこのように言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

人は、さまざまなところに慰めを求めます。しかし、神以外のところに本当の慰めはありません。神の慰めは母親が赤ん坊を扱うようにやさしく、温かいものですが、同時に力あるものです。それは、いったん亡びた国をよみがえらせるほどの力です。罪の中に死んでいた者をそこから引き上げることのできるほどの慰めなのです。神が、この慰めを与えてくださるのに、どうして私たちは、慰めにもならないものを求め、救いにもないところに行くのでしょうか。神の救いと慰めを知っていながら、なんの救いも慰めもないかのように嘆くのでしょうか。イザヤ51章12節で、主は、私たちに呼びかけておられます。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。」ほんとうの慰め主のところに行きましょう。このお方を信じ、このお方から深く、大きい慰めを受け取りましょう。

1977年11月15日、土曜日、新潟市で、学校のクラブ活動を終えたひとりの女子中学生が忽然(こつぜん)と姿を消しました。横田めぐみさんです。警察の必死の捜査にもかかわらず、彼女の行方は全くわかりませんでした。母親の早紀江さんは、娘に深い心の悩みがあって、それで行方をくらましたのではないかと考えました。「どうして、娘の気持ちを分かってあげられなかったのだろう。」と自分を責めました。この事件があって、いろんな人が彼女を訪ね、さまざまなアドバイスを与えましたが、その多くは「因果応報」に基づいた話でした。この家族には、過去に悪事があって、それが娘に報いとなって表われたのだというのです。だからお祓いをしてもらいなさい、先祖を供養しなさいというのですが、それは彼女をもっと苦しめました。

そんな時、ひとりの友人が、「聖書のヨブ記を読んでみたら」と言って一冊の聖書を置いて帰りました。悶々とした日を過ごしていた彼女はすぐには聖書を開くことができませんでしたが、ある日、大きな悲しみが襲ってきたので、彼女は聖書を開いて読んでみることにしました。彼女は、それまでも聖書のことばに断片的には触れていましたが、この時はじめて読んで感動しました。それはヨブ1章21節の「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ということばです。そのとき彼女は、「人間よりも偉大なお方がおられ、すべてを包んでおられる」ということが分かり、聖書から深い慰めを得たのです。

めぐみさんの失踪から20年がたち、それが北朝鮮による誘拐であることが明らかになり、それからさらに10年がたちましたが、めぐみさんの行方はまだ明らかになっていません。そんな中で横田早紀江さんは、毎月、北朝鮮のために祈る、祈り会を開いています。彼女はこう言っています。「北朝鮮は、私から娘を奪い、私を苦しめた国ですが、北朝鮮の人たちは、私の娘以上に苦しめられています。神は全能で奇跡をなさるお方です。生きて娘に会いたい。けれどもそれもみこころの中にあります。今は、苦しめられている人たちが救われ、世界に平和が来るようにと祈っています。」  自分の娘の人生を台無しにした国とその人々を憎んでも当然なのに、早紀江さんは、その国の人々のために祈っているのです。このようなことは人間の慰めだけしか知らない人にはできません。神の慰めを知っている人だけが、他の人にもそれを分け与えることができます。人間の慰めは小さくて、不十分で、自分のためにも足りないほどですから、まして他の人に分け与えることなどできませんが、神からの慰めは大きくて、満ちあふれるほどですので、いくらでも人に分け与えることができます。分け与えずにはおれなくなるのです。

私たちも神の慰めのことばを聞き、深く慰められ、この神の慰めを人々と分かちあうことができますようにと祈り求めましょう。

Ⅲ.敵を激しく怒られる主(15-17)

最後に15節から17節を見て終わりたいと思います。 「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。―主の御告げ―」

主はご自分に頼る者たちを見捨てることはされず、母のような愛によって慰めてくださいますが、敵に対してはそうではありません。その憤りが敵に向かって燃え上がるのです。

15節ではそれを「火」と「つむじ風」と「炎」という言葉で表しています。「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。」「火」は神のさばきを、また、「つむじ風」は破壊的なイメージを、そして「火の炎」は激しい神の怒りを表しています。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばかれるのです。

いったいこの敵とはだれのことでしょうか。17節には、「おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。」とあります。自ら身を聖別し、きよめているといいながら、園に行って、異教の神々に仕えていた人たちのことです。彼らは神に仕えているようで、一方では豚の肉や、忌むべき物、ねずみを食らう者たちでした。そうです、彼らは3節と4節に出てきた自分勝手な敬虔を求めていた人たちです。神によって産み出された子らと関係のない人たちです。それは言い換えると神のエルサレムとともに喜ぶことができない人たちのことなのです。神のことばも悟れず、ただ自分勝手な敬虔を求めるならば、その身に神のさばきを招くことになります。神が与えてくださるすべての祝福は、まことの教会を通して流れ出るからです。神が約束された共同体ではなく、自分勝手な信仰、自分勝手な礼拝を求めて走り回る霊的な高ぶりを遠ざけなければなりません。

あなたはどうですか?エルサレムとともに喜んでいますか。神のみことばにおののいておられますか。エルサレムとともに喜べ。エルサレム、神の教会とともに喜び、神の喜びと繁栄、慰めと満たしを体験させていただきたいと思います。

イザヤ書66章1~5節 「主のことばにおののく者」

きょうからイザヤ書の最後の章に入ります。この章は64章12節のイザヤの祈り、あるいはイザヤの叫びに対する神の答えと同時に、このイザヤ書全体の結論となっています。  イザヤはバビロンによって滅ぼされ、荒れ果てた神の都エルサレムを見て、「主よ。これでもあなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)と祈りました。その祈りに対する神の答えは、驚くべき内容のものでした。

「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。」(65:1)

つまり、そのことによってそれまで神を呼び求めなった異邦人たちに、神の救いがもたらされるようになったということです。いったいだれがそんなことを考えることができたでしょう。だれもできません。ただ神だけが永遠の計画をもって導いておられたのです。

そればかりではありません。65章17節には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。」とあります。初めに神が天と地を創造したように、まったく新しい秩序をもって新しい天と新しい地を創造されると言われたのです。先の事は思い出されず、心に上ることもありません。罪によってもたらされる悲しみや叫びは消え去ります。そういう新しい天と新しい地を創造するというのです。これこそ真の希望であり、慰めです。この時イスラエルはバビロンによって滅ぼされるという歴史的なクライシス、危機に直面していましたが、神はそのような時に真の慰めと希望を語ってくださったのです。

このイザヤ書は40章から後半部分が始まりました。それは「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(40:1)という語りかけをもって始まりました。いったい何が慰めなのでしょうか。それは、この新しい天と新しい地がもたらされるということだったのです。古い天と地は過ぎ去り、先の苦難は忘れられ、心に上ることもありません。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない、そういう世界がもたらされる。それこそ本当の慰めです。

そしてこの66章にも65章同様、神のさばきと祝福が網を編むかのように交互に語られながら、神の民に対する深い神のご計画が明らかにされて行くのです。

Ⅰ.天はわたしの王座、地はわたしの足台(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」とあります。

主のイスラエルに対する最後の問いかけ、チャレンジです。それは「あなたの建てる家はどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」です。これはいったいどういうことなのでしょうか。「あなたがたの建てる家」とはエルサレムの神殿のことです。彼らはエルサレムの神殿こそ神がおられ、神の霊が満ちておられるところと信じていました。しかしここで神は、わたしのために建てる家はどこにあるのか。どこにわたしにとってのいこいの場があるというのか、と言うのです。そのような家はどこにもありません。なぜなら、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」だからです。そんなちっぽけな神殿にこの天地万物を創造された方をお入れすることなどできません。

イスラエルの王ソロモンは、エルサレムに神殿を建てその奉献の日にこのように祈りました。Ⅰ列王記8章27節です。

「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(Ⅰ列王記8:27)

この天地を造られた創造者なる神を入れることができるものなどない。どんなに立派な神殿を建てようとも、いやこの天の天でさえも、この神をお入れすることなどできないと言ったのです。

いったいなぜ神はこんなことを言われたのでしょうか。それは当時のイスラエルの中に神殿を中心とした宗教儀式を行っていれば神に認められるといった間違った考えを持っている人たちがいたからです。それがいかに重要な位置を占めていたかは、バビロン捕囚後に帰還したイスラエル人たちが真っ先に取り組んだのが、この神殿の再建工事であったことからもわかります。エルサレムの神殿はユダヤ教の信仰にとって中心的なことであり、そこでの宗教的な務めを行うことが最も重要なことだったのです。ですから、それさえ行っていれば神に認められると思っていたというのも納得できます。それは今日のクリスチャンが日曜日の礼拝を守っていれば救われていると誤解したり、献金をしたり、奉仕をすれば神に認められると勘違いしているのに似ています。こうした宗教的な行いが悪いのではありません。むしろ、こうした行いはクリスチャンとして当然のことでしょう。しかしこうしたことをしていれば自分が聖められていると考えているとしたら、それは違うということです。そうしたことで聖められることはできません。

私たちの神はこうした神殿にお住みになられる方ではないからです。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」と言われる神は、人間の手でこしらえた家などでゆっくりと休まれる方ではないのです。こうしたものは天にあるもののひな型にすぎません。実体は神殿という建物にあるのではなく、天にある神の御座にあるのです。ですから私たちはこうした外見的なことに惑わされないで、神の喜ばれることはどんなことなのかを正しく理解し、それを求めていかなければならないのです。

Ⅱ.わたしが目を留める者(2)

では、神が求めておられることはどんなことでしょうか。2節をご覧ください。 「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心を砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

「これらすべて」とは、神が造られたすべてのものを指しています。「これらすべてはわたしのものだ」この「わたしのもの」には※がついています。下の欄外の説明には、七十人訳、シリヤ語による、とあります。七十人訳聖書とはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、それをシリヤ語に訳したものという意味です。その訳からこれを「これはすべてわたしのものだ」と訳したのです。しかし、原語のヘブル後ではこれは「ある」ということばが使われているのです。つまりヘブル語では「これらすべてはある」なのです。「これらすべてはある」ではどういう意味なのかさっぱりわからないので、七十人訳の、シリヤ語の訳を参考に「これはすべてわたしのものだ」と訳したのです。  新共同訳聖書ではこれを、「これらすべて、それゆえに存在すると主は言われる」と訳しています。こちらの方がよく訳していると思います。「ある」を「存在する」と訳したのです。「これらすべて、わたしの手で造り、これらすべて、それゆえに存在すると主は言われる。」(新共同訳)主はこれらすべてを造られました。それゆえにすべてのものが存在しているのです。これらすべてのものは神のものであるという意味です。

ですから、たくさんのものを神にささげればそれで神が喜ばれるかというとそうではなく、神のために立派な神殿を建てればそこに神が住まわれるのかというとそうでもないのです。すべてのものを造られ、すべてのものはこの方のものなのであり、すべてのものの根源であられる神が求めておられるものはそういうものではなく、私たちの心、私たち自身です。そのわたしたちとはどのような私たちなのかというと、ここにはこうあります。

「―主の御告げ―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

皆さん、神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。「へりくだって心砕かれる」とは、単に謙遜になることではありません。自分の心が悲しみと絶望で打ちひしがれ、粉々に砕かれた状態になることです。自分が本当に罪深い人間であることを思い知らされ、神の前にある自分の魂が砕かれることなのです。それがへりくだるということです。そのようなへりくだった心で神の言葉を聴くからこそ、神のことばにおののくことになります。

ダビデはバテ・シェバという女性と姦淫を行い、その罪を預言者ナタンに示されたとき、へりくだって心砕かれ、神の前に悔い改めました。詩篇51篇には、そんなダビデの悔い改めの歌が記されてありますが、彼は、「1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。」と祈りました。「2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」と心から主に求めました。「3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。」と正直に罪を認めました。そして、「7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」と罪の赦しを求めました。また、「10神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と祈りました。そして、「16たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」と神のご恩寵にすがったのです。これがへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者の姿です。

「おののく」という単に恐ろしいということではなく、「ものすごい」といった畏怖の念が含まれた言葉です。生きておられる神が語られる言葉を、神の言葉として聴く時、そこにこうした怖れが生まれるのは当然のことです。

神が目を留める者は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。 神様助けてください。もうみことばがないと生きていけません。私には神のことばが必要です。神のことばによらずして生きることなどできません。あなたのみことばだけが私の生きる支えです、と神のみことばを救いの唯一の希望とする人です。神は、このような者を決してさげすまれることはされないのです。

Ⅲ.自分かってな道を選ぶ者(3-5)

第三のことは、それとは逆に神のことばを聴かないで自分かってな道を選ぶ者です。3節から5節を見てください。3節をお読みします。 「牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。」

どういうことでしょうか。これは牛をほふる人は、人を打ち殺しているということではありません。羊をいけにえにする人は、犬を絞め殺しているということでもないのです。穀物のささげものをしながら、豚の血をささげているわけでもありません。乳香をささげながら、偶像をほめたたえているということでもないのです。そうではなく宗教的な敬虔さを誇る者たちが形だけ、外見だけを重要視して、霊的な礼拝とそれにふさわしい信仰の歩みの重要性を忘れている人たちを非難していることばなのです。そのような人がいくら律法が命じているところのいけにえをささげたとしても、それは偶像礼拝にすぎないのです。なぜなら、彼らは自分勝手な道を選び、その心は忌むべき物を喜んでいるからです。彼らは神が喜ばれることよりも自分の考えを優先させ、あくまでも自分の考えに従っていけにえをささげていました。彼らは神のみことば(教え)に従うことを求めていたのではなく、自分を優先させていたのです。ですから、どんなに外見では敬虔を装っていても、その実は偶像崇拝そのものだったのです。

それは私たちも注意しなければならないことです。もし私たちがへりくだって、心砕かれることなく、神のことばに聞き従おうとせず、あくまでも自分の思い、自分の考えで進もうとするなら、どんなに熱心に集会に集っても、どんなに一生懸命に奉仕をしても、どんなに多額の献金をささげても、決して神に喜ばれることはないのです。立派な神殿を建てれば神は喜んでくださると思ったら大間違いです。それは人を打ち殺し、犬を絞め殺し、豚の血をささげ、偶像をほめたたえていることと何ら変わりません。それは偽善であり、神が最も忌み嫌われることなのです。イエス様はそんな偽善者たちを厳しく戒められました。「白く塗った墓」(マタイ23:27)と。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、彼らの外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいなのです。

もちろん、それは神殿なんていらないということではありません。神を礼拝する場所なんてどうでもいいと言っているのではないのです。礼拝なんて行かなくてもいいとか、献金なんて必要ない、と言っているのではないのです。こうしたことも大切なことですが、それが信仰の結果として生まれたものでなければ、全く意味がないのです。それが目的になり、神に従うことがないがしろにされているとしたら、そうしたことは全く意味がないばかりか、偽善的なものとして神に忌み嫌われることになってしまうのです。

イスラエルの王として最初に立てられたのはサウル王は、預言者サムエルを通して語られた神のことばに従いませんでした。彼は、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよと言われたにもかかわらず、牛や羊で最も良いものは聖絶せず、ただ値うちのないものだけを聖絶したのです。あるとき、サムエルがサウル王のところに行ってみると、何やら羊の声や牛の声が聞こえてくるではありませんか。メェヱ、メェエ。「いったいこれはどういうことですか」と尋ねると、サウルはこう答えました。 「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」(Ⅰサムエル15:15)  一見、理屈が通っているかのように聞こえますが、それは全くの誤解です。サウルは自分では主の声に従っているつもりでしたが、実際には自分の思いに従って行動していたのです。

こういうことって、実は私たちの中にもよくあるのです。神に従っていますよ、と言いながら、実際には自分に都合がいいように受け止めて行動しているということが・・・。しかし、それは神が喜ばれることではありません。それゆえに神は、そういう人を座から降ろされてしまうのです。サムエルはサウルにこう言いました。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

皆さん、聞き従うことはいけにえにまさります。耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさるのです。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。」いくら全焼のいけにえをささげても、それが神に聞き従うことに優るわけではないのです。大事なのは、自分の考えや判断、善し悪しに従って判断するのではなく、神のことばに従うことです。ただへりくだって、心砕かれ、神のことばにおののくこと、神のことばに聞き従うことなのです。そうでないと神の命令を行っているようでも、その実は、ほとんど自分の考えに基づいた信仰になってしまいます。

5節には、「主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。『主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』しかし、彼らは恥を見る。」とあります。

ここには、ただ宗教的に熱心になるとどうなるかが語られています。そういう人はまことの信者を馬鹿にしたり、あざ笑ったり、迫害したりします。「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。『主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』」 これはどういうことかというと、ユダヤ人が、主のことばに真剣に聞き入る同じユダヤ人を押しのけるということです。彼らは同じユダヤ人たちにこう言ってあざ笑うのです。「主に栄光を現させよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。」

主のみことばにおののき、神のみことばに聞き入るユダヤ人たちは終わりの日にもたらされる神の栄光を喜びをもって待ち望みますが、偽善者たちはそうではありません。彼らはそうした姿を見てあざ笑い、ののしり、迫害するのです。しかし、そのような偽善者の最後はどうなるでしょうか。「しかし、彼らは恥を見る。」そうした人たちは、最後に恥を見るようになるのです。

皆さん、神が私たちに願っておられることは、私たちが神のことばを聞いておののくことです。神のみことばに耳を傾けることなくただ宗教的な行いに熱心になるのではなく、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののくことなのです。皆さんはどうでしょうか。神のことばにおののいておられるでしょうか。

私たちの人生には二つの道があります。一つはへりくだって心砕かれ、神のことばにおののく道であり、もう一つの道は自分勝手な道です。この二つの道を同時に歩くことはできません。どちらかの道を選ばなければならないのです。しかしどちらの道を選ぶかによって、その人にとって正反対の結果がもたらされることになります。へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく人には神が目を留めてくださる、つまり、神の祝福がもたらされます。その人には新しい天と新しい地を受け継ぐようになるのです。しかし、もう一つの道である自分勝手な道を歩む人には恐怖がもたらされます。その人が行き着くところは永遠の滅びです。彼らにとって自分自身が神なのです。彼らは神のことばに聞き従うよりも、自分の思いを優先します。彼らの心は偶像崇拝で満ちていて、自分の欲が満たされることを喜び、自分が正しいと思う通りに歩むので、その結果、自分の身に滅びを招くことになるのです。あなたはどちらの道を選びますか。

イエスさまはこう言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

私たちにはいつも自分勝手な道を歩もうとする誘惑があります。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。みんなと同じことをしていた方が安全で楽なように見えます。しかし、それは滅びに至る道なのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。しかし、その行き着くところは永遠のいのちです。その道だけが天国に通じる道なのです。その狭い門から入ってください。いのちに至る道を歩んでください。その道は狭く、それを見いだす者はまれですが、それこそ私たちを永遠のいのちへと導き、永遠の輝きをもたらす道なのです。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

神が私たちに願っておられることは、ただへりくだって心砕かれ、神のことばに聞き従う者です。私たちはそういう者にさせていただきたいと思います。そういう人にはやがて神の栄光がもたらされることになるのです。

イザヤ書65章13~25節 「新しい天と新しい地」

きょうは、イザヤ書65章後半のみことばからお話します。65章前半のところには、「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(64:12)というイザヤの祈りに対する、主の驚くべき答えが示されました。それは、「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(65:1)ということです。つまり、イスラエルが神に逆らってバビロンに滅ぼされることになったのは、それによって救いが異邦人にもたらされるようになるためであったということです。しかも、それはユダヤ人がつまずき倒れるためではありません。かえってそのことによって、イスラエルが救われるためです。異邦人が救われることを見たイスラエルにねたみが引き起こされ、今度は彼らが主を呼び求めるようになるためです。そのようにしてイスラエルの中の幾人かが救われるためだったのです。何という神の知恵でしょう。神の知恵は底知れず深く、私たちはそんな神の計画をはかり知ることはできません。

そして、この箇所には、エルサレムが荒れ果ててしまったもう一つの理由が記されてあります。それは神の新しい創造です。新しい天と新しい地の創造です。先のことは思い出されず、心に上ることもありません。神は新しい天と新しい地を創造してくださるのです。この古い天と地は滅びます。地上のエルサレムは消えて無くなります。しかし、新しいエルサレムは決して滅びることはありません。私たちはそこに希望を置かなければならないのです。  きょうは、この新しい天と新しい地について三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.新しい民の創造(13-16)

まず13節から16節までをご覧ください。13節と14節です。 「それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなたがたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがたは恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。」

「わたしのしもべたち」とは神の救いを受け入れ、神の民とされた人たちのことです。また、「あなたがた」とは、逆に、差し出された神の御手を拒み、神に反逆し続けていた人たちのことです。彼らは神の呼びかけに応じず、神の目の前に悪を行い続けます。そのような人たちには神のさばきが下ります。神のしもべたちが食べても、彼らは飢え、神のしもべたちが飲んでも、渇き、神のしもべたちが喜んでも、恥を見、神のしもべたちが心の楽しみによって喜び歌っても、心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめくようになるのです。

15節後半を見ると、神はご自分のしもべたちを「ほかの名」で呼ばれるようにされるとあります。それはどのような名でしょうか。「クリスチャン」です。神の民はクリスチャンという名で呼ばれるようになります。使徒の働き11章25節から26節までを開いてみましょう。

「バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

イエスを信じる人たちが「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、彼らがアンテオケに来てからのことです。それまでは「この道の者」(使徒9:2)と呼ばれていました。それはイエス様がご自身のことを「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と教えておられたからです。ですから、信者同士では兄弟姉妹と呼び合っていましたが、一般では「この道の者」と呼ばれていたのです。それがアンテオケに来てからは「クリスティアノス」「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。なぜでしょう?彼らがいつもイエス・キリストのことを口にしていたからです。何でもかんでもイエス・キリストです。「クリスティアノス」とはキリストきちがい、キリストバカという意味です。これはキリストを信じる者たちにつけられたあだ名なのです。いつでも、どこでも、イエス・キリスト、イエス・キリストと言っていたので、こいつらはキリストきちがいだと、「クリスチィアノス」、「キリスト者」と呼ばれるようになったのです。つまり、彼らはイエス様を信じてからは、だれの目にも明らかなライフスタイルを送っていたということです。それがクリスチャンです。

皆さんはどうでしょうか。クリスティアノスになっているでしょうか。イエス様でいつもいっぱいです、いつもイエス様のことを考えています。口を開いたらイエス様、寝ても覚めてもイエス様、そのようになっているでしょうか。いつもイエス様を愛し、イエス様に喜ばれる道を歩んでおられるでしょうか。いや、私は自分がクリスチャンだということはあまり言いませんが、自分の生活を通して証していますという方がおられます。それも立派です。しかし、私たちは立派だからクリスチャンになれたのではありません。本当に愚かで罪深い者であるにもかかわらず、神の恵みによって選ばれ、救いの中に入れていただきました。神様って何とすばらしいのでしょう。ハレルヤ!と証できたら、どんなにすばらしいかと思います。立派な人はこの世にはたくさんいます。しかし、立派じゃなくても救っていただける。そして、神に喜ばれるような生き方に変えられると証できれば、本当にすばらしいと思うのです。

大河ドラマの軍師官兵衛もイエス・キリストを信じて洗礼を受けましたが、洗礼を受けてからは、その胸にいつも十字架の首飾りをつけるようになりました。もちろん、クリスチャン大名の高山右近もそうです。官兵衛はこの高山右近に影響されてクリスチャンになりました。「キリシタンは人が苦しい時こそ助けてあげるのですよ。あなたの前にも門が開かれています」という右近の勧めで、彼は「私にも門が開かれているでしょうか」と言ってキリシタンになるのです。あの時代キリシタンとして生きていくことは並大抵のことではなかったと思いますが、そうした右近の証によって彼はキリシタンの道を歩むようになったのです。そして、それからは以前のそれとは全く違う生き方となりました。誰の目にも、この人はクリスチャンだとわかるようなライフスタイルになったのです。皆さんはどうでしょうか。

16節をご覧ください。「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。」

皆さん、クリスチャンはまことの神によって祝福されます。この「まことの神」とは誰でしょうか。まことの神とはヘブル語で「アーメンの神」です。それはイエス・キリストのことであります。黙示録3章14節にはこうあります。

「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」

1章17節と18節を見れると、これはイエス・キリストが書き送っている手紙であることがわかります。この方が「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方」と言っているのです。イエス・キリストこそまことの神であり、アーメンの神なのです。クリスチャンはこの神によって祝福されるのです。

Ⅰヨハネ5章20節にも、「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」 とあります。この方こそまことの神、永遠のいのちです。イエス・キリストこそまことの神であり、クリスチャンはこのまことの神によって祝福されるのです。

そして、この方によって先の苦難が忘れ去られます。キリストを知る前は様々な罪、悩み、苦しみ、傷、痛み、悲しみ、重荷でいっぱいでしたが、キリストを信じたことによって、先の苦難が忘れ去られました。キリストの血潮によって洗い聖めていただいたのです。過去の罪悪感、罪責感にさいなまれなくてもいいのです。敗北感にいつまでもしたっていなくてもいいのです。キリストがあなたの罪を贖ってくださいました。あなたはキリストによって神のしもべ、クリスチャンとして新しく造られたのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。それは新しい創造です。キリストにある新しい創造です。先の苦難は忘れ去られ、すべてが新しくされるのです。私たちはよく人生をやり直せるリセットボタンがあったらいいなあ、と思うことがあります。過去の失敗、罪や汚れ、苦しみ、傷のすべてを消し去り新しくやり直すことができたら、どんなにいいだろうと思うのです。そして、神はイエス・キリストにあってあなたの人生も新しくやり直せる道を開いてくださいました。あなたがキリストを信じるなら新しく造られます。あなたがキリストのうちにあるなら、新しく造り変えられ、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。

Ⅱ.新しい天と新しい地の創造(17)

第二に、神の新しい創造のみわざは新しい天と新しい地の創造です。17節をご覧ください。 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」

ここで神はイザヤを通して、「新しい天と新しい地を創造する」と約束されました。今、私たちが住んでいるこの地球を中心とする世界は、「新しい創造」に対して「古い創造」に属しているものです。それが何年前であったかははっきりわかりませんが、創世記1章1節に「初めに、神が天と地を創造した」とあるように、神によって創造されたものです。しかし、この古い天と地は過ぎ去ります。そして、神は新しい天と地を創造してくださるのです。    この「創造する」という言葉は、全く何もないところから何かを造り出す時に使われる「バーラー」ということばです。これは無からの創造を表わしています。それに対して、すでに在るものを使って何かを作るときは「アーサー」という言葉を使います。これはすでにある素材を使ってそこから何か別の新しいものを作ることで、人間にもできることです。ここでは「パーラー」です。神は今の転と地とは全く違う違う新しい天と地を創造するのです。

皆さん、私たちは今住んでいる世界がまるで永遠に続いていくように思いがちですが、そうではないのです。この罪によって汚れた天地は滅ぼされ、全く新しい天と地に造り変えられる時がやって来るのです。少し長いですがⅡペテロ3章7節から13節までをご覧いただきたいと思います。

「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:7-13)

ここには、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまう、とあります。すべての物質、原子に至るまですべて溶け去ってしまうのです。天の万象が完全に崩壊して、見る影もなくなってしまいます。しかしながら、神を信じて救い出された神の子どもたちのためには、義の住む新しい天と新しい地とが備えられています。それは何でしょうか。そうです、天国です。

そこでは、先の事は思い出されず、心に上ることもありません。以前のものが過ぎ去ったからです。そこには神がともにおられ、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくざいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません(黙示録21:4)。この地上で経験した様々な悲しみや嘆き、痛みや苦しみのすべてが思い出されることがなく、心に上ることもないのです。なぜなら、以前のものは過ぎ去るからです。これまでのものとは全く違う、別の次元の世界がもたらされるのです。それはクリスチャンにとって本当に大きな慰めではないでしょうか。

罪を悔い改めてイエス・キリストを信じた者にとって、この世はある意味で住みにくい所かもしれません。神が共におられるということを感じながら歩めるということは感謝なことですが、一方で、信じれば信じるほど辛いことや、苦しいこと、受け入れられないようなことにぶつかるのも事実です。迫害があったり、人々から認められなかったり、多くの軋轢(プレッシャー)なども起こります。しかし神はいつまでもクリスチャンをそのままにしておくことはなさいません。やがて新しい天と新しい地で暮らすことができるようにしてくださいます。ですから私たちはここに希望を置き、この希望に結びつくような生涯を送らなければなりません。この地上の目の前のことで「スッテン、バッテン、滑った、転んだ、思うようにいった、いかなかった」といったことだけで生涯を終えてしまうとしたら、何と残念なことでしょう。周囲がどうであれ、どんなことが起ころうとも、「私たちはやがて、最後にはこういう希望があるんだ」と告白して歩むものでありたいと思います。これが、神がイザヤを通してイスラエルに、いや私たち人類に伝えたかったことなのではないでしょうか。

最近、福田姉を天に送らせていただきましたが、他にもたくさんの方が病気で苦しんでおられます。そうした方々のところに行って賛美したり、祈ったりして思うことは、私たちにとって最後はこれしかないんだなぁ、ということです。死んでも生きるいのち、永遠のいのちこそ、私たちにとっての究極の望みなのです。

Ⅲ.新しい祝福の創造(18-25)

最後に18節から終わりまでを見て終わりたいと思います。18節をご覧ください。 「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」

ここで神は「エルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と言っておられます。このエルサレムとは何のことでしょうか。これは先ほど申し上げた新しい天と新しい地の聖なる都のことです。天のエルサレムのことです。黙示録21章2節には、「わたしはまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るの見た。」とあります。この「聖なる都、新しいエルサレム」のことです。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれません(19)。数日しか生きられない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もなく、百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされます(20)。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べるようになります(21)。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはありません(22)。この世では自分がどんなに汗水流して働いても搾取されるということがありますが、新しいエルサレムではそういうことはありません。働いたら働いた分だけ報いを受けることができます。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが飢えて他人が食べることはないのです。

24節には、「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」とあります。すばらしいですね。「イエス様」を呼ばないうちに「何だい」という答えがかえってきます。私たちのことをすべてご存じであられる主がいつもそばにいて、すぐに答えてくださるからです。今まではそうではありませんでした。「主よ、聞いてください。」と祈ってもウンともツンともでした。罪があったからです。主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠いので聞こえないのでもないのです。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしていました。その罪が全部取り除かれて、神と非常に親しい交わりの中に入れられたので、「神様」と呼ぶとすぐに答えてくださるのです。

そして25節には、狼と子羊が共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、神の聖なる山のどこにおいても、これらが害を加えることはなく、そこなわれることはありません。そこには弱肉強食はありません。一緒になって草やわらを食べるようになります。そういう平和な世界がやってくるのです。

ところで、新しいエルサレムにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない(黙示録21:4)はずなのに、20節を見ると、「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳でならないで死ぬ者は、のろわれたものとされる」とあるのはどういうことでしょうか。寿命が伸びて長生きすることと、死がないというのは全く違います。

実はこの19節までと20節以降の内容は、同じ終末の預言でもちょっと違う時代のことを描いています。19節までの内容はこの天地が滅び失せた後にもたらされる新しい天と新しい地の光景ですが、20節からのところは、その前にもたらされるこの地上の千年王国の預言です。イザヤはこの千年王国とその後にもたらされる新しい天と地という二つの光景を区別せずに見ていたのです。それはちょうど私たちが遠くを見るときと同じです。たとえば、こちらから大阪と広島の方を見ると実際にはそこにはかなりの距離がありますが、だいたい同じ位置関係に見えるのと同じです。イザヤも世の終わりの幻を見たとき、実際には千年王国と新しいエルサレムの間にはかなりの時間的な差がありますが同じ終わりの時代に起こることとして見えていたのです。

新約聖書のヨハネの黙示録では、それがもう少しはっきり描かれています。キリスト再臨されるとき、キリストにある者は一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会います。その後、キリストとともにこの地上の平和な千年間を治めた後、新しい天と新しい地、聖なる神のエルサレムに入ります。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになるのです。これは希望ではないでしょうか。

これは決してたわごとではありません。主イエス・キリストの十字架と復活という事実に基づいたものだからです。キリストは、弟子たちにこう言われました。 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたのために場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)  その場所こそ天国です。イエス様はその場所を備えるために天に昇られました。その場所を備えたら、私たちを迎えに来てくださいます。そして、その日は近いのです。

ですから、私たちはこのような希望が約束されていることを知り、たとえ現実の生活において辛いことや苦しいこと、耐えられないと思うようなことがあってもここに希望を置き、神にすがりながら、讃美と感謝をもって歩んでいきたいと思うのです。あなたはやがて新しい天と新しい地に入るのです。先の苦難は忘れられ、あなたの目の涙はすっかりぬぐい取られます。あなたは神の慰めを受けるようになるのです。神の約束に信頼しましょう。

イザヤ書65章1~12節 「すべての主、すべての神」

いよいよイザヤ書のクライマックスに入ります。前回はイザヤの祈りから学びました。主がイスラエルの救い主となられたことはわかった、いつも共にいて、彼らが苦しむ時には苦しみ、その愛とあわれみによって彼らを贖い、昔からずっと背負い続けて来られたこともわかりました。だったらなぜこのような状況を許されるのですか?それがイザヤの祈りでした。それは具体的には、なぜバビロンによってエルサレムが荒廃しているということをお許しになられるのですかということです。そして、きょうのところでその理由が明らかにされます。

Ⅰ.不思議な神の救いの計画(1)

まず1節をご覧ください。 「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。」    「わたしに問わなかった者たち」とか、「わたしを捜さなかった者たち」とは、異邦人のことを指しています。神の民であるイスラエルは神の民であったのに、その神への反逆のゆえに、エルサレムは完全に荒れ果ててしまいました。でも、なぜ主はそのようなことを許されるのでしょうか。それは、神の救いの御手が、神を呼び求めなかった者たちに向けられるようになるためだったのです。

考えてみると、イザヤが預言者として召命を受けたとき、主は彼にこう仰せられました。「行って、この民に言え。聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」(6:9-10)本当に不思議な言葉です。これから預言者として神の言葉を語ろうとしているというのに、聞いても悟るなとか、見ても、知るな、その目を堅く閉ざせ、自分の耳で聞くなとか、立ち返っていやされることのないために、というのですから・・。それはいったいどういうことだったのでしょうか。このことのためだったのです。すなわち、そのように彼らが悟らないことによって、救いの御手が異邦人に向けられるためです。

ローマ人への手紙11章11~14節を見ると、ここには、ユダヤ人の救いに関する神の計画が書かれてあります。 「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。」

「彼ら」とはユダヤ人のことです。彼らがつまずいたのはいったい何のためだったのでしょうか。それは彼らが倒れるためではありません。むしろ彼らが救われるためです。彼らが神に反逆することによって、救いが異邦人に及ぶためだったのです。しかし、それだけではありません。そのように救いが異邦人に及ぶことによってイスラエルにねたみが起こされ、そのようにしてイスラエルが救われるためなのです。こうしてイスラエルはみな救われるという神の救いのご計画が完成するためだったのです。

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)

これがイスラエルを救う神の計画だったんですね。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。だれもできません。ただ神だけがおできになることです。神は全知全能であり、その計画は測り知れず、私たちが考えることもできないような知恵を持っておられます。それゆえに、私たちはこう祈りながら、そのこの神の測り知れない計画にすべてをおゆだねするしかありません。ローマ人への手紙11章33~36節です。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:33-36)

すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです。私たちは、到底、神様の思いを知ることはできません。神様のご計画のすべてを、初めから終わりまで見極めることはできません。しかし、神様はその大きな知恵と豊かな知識をもって、私たちのために備えておられるのです。

先週、大田原に中国の家の教会出身の王淵さんのお母さんとお婆ちゃんが来会され、証をしてくださいました。王さんの通っておられる教会の牧師は、毛沢東によるあの文化大革命の時に何度も投獄されました。それは毛沢東の徹底した弾圧が加えられたからです。教会という教会は根こそぎにされたかと思われましたが、キリストの命は地下で脈々と生き続けていました。そして文化大革命が終わり1980年代に入ると家の教会はものすごい勢いで成長し、今では中国全土で1億3千万人以上のクリスチャンがいると言われています。いったいなぜ神様は中国にそんなにひどい迫害をもたらしたのでしょうか。  それは中国を救うためでした。文化大革命によって宗教が徹底的に否定され、教会や寺院、宗教的な文化財が破壊されてしまったことで、彼らから因習が取り除かれ、純粋に神を求める心が与えられました。また、そのようにして指導者が捕えられたことで、一般の信徒が家々で群れを導いていくことになったのです。 文化大革命は中国に激しい苦難を与えましたが、それによってリバイバルの備えができ、多くの人たちが救われる結果をもたらしたのです。

先日、ペルーに遣わされている下田宣教師からメールがありました。10月に滝元順先生がペルーに来て聖会を行うということで、その準備のために4時間くらい離れたところに車で向かっていたとき、運転手が居眠りをして大事故を起こしてしましいました。車は横転して何度も回転しぺしゃんこになってひっくりかえって止まりました。下田宣教師は額を何針か縫う怪我をして、顔面血まみれになりました。本当に生きているのが不思議なくらいの大事故でしたが、運転手はほぼ無傷でした。  運転手が警察の事情聴取を受けているとき、下田宣教師は運転手の後ろから、「こうして命があるのは奇跡だ。神様に感謝しなさい!!」とずっと言い続けたそうです。すると、この運転手クリスチャンではなかったのですが、下田宣教師の言葉を通してイエス様を受け入れたそうです。下田宣教師曰く、「人を一人導くために大変な怪我をした」

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高いのです。神は完全な計画を持っておられます。その神は今に至るまで、私たちのために働いておられるのです。問題はあなたがそのことを信じ、その神の御手にすべてをゆだねるかどうかです。もしあなたが、あなたの道を主にゆだね、主に信頼するなら、主が成し遂げてくださいます。

Ⅱ.反逆の民(2-7)

次に2節から7節までをご覧ください。それとは対照的に、自分は神の民だと自称しながらも、あくまでも神に反逆し、自分の思いに従って歩む者には、神のさばきが下ります。5節前半までをお読みします。

「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」と言う。

3節の「園の中でいけにえをささげ」とか、「れんがの上で香をたき」というのは、どれも異教的な礼拝のことを指しています。彼らは何度も何度も差し伸べられた主の御手をはねのけ、そうした異教の神々にいけにえをさささげたり、不道徳な祭りごとに夢中になり、神のみ思いを痛めるようなことをしていていました。

そればかりではありません。「墓地にすわり」とは、イスラエルでは厳格に禁じられていた霊媒のことを表しています。彼らは占いをするために墓を訪れ、死んだ者の霊との接触を試みていたのです。「見張り小屋に宿り」というのも超自然的な存在と接触しようとする試みのことです。彼らはそうした隠れた所で夜を過ごし、死者や悪霊から啓示を受けようとしていたのです。「豚」は汚れた動物として食べることが禁じられていました(レビ11:7)。「汚れた肉の吸い物を器に入れる」とは、その豚の肉を煮た汁を器に入れることです。彼らはこのような異教的な儀式に関わることで、自分たちが特別に聖い存在になっていると勘違いして誇り、そうでない人たちをさばいていたのです。神はイスラエルに何度も何度も救いの御手を差し伸べられたのに、彼らは何度も何度もそれを拒み、反逆を繰り返してきました。そのような神の愛の御手をはねのけて、自分の思いに従って歩んだのです。

皆さん、主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのでもないのです。彼らの咎が、彼らと神との仕切りとなり、彼らの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。そしてその結果は何かというと、神のさばきです。そのような人の上には神のさばきがくだるのです。5節後半から7節までのところにこうあります。

「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。―山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎とをともどもに。わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する」と主は仰せられる。」

ここには「報復する」ということが3回繰り返して言われています。皆さん、神は報復する神です。「怒りの煙」とは、神の怒りの息づかいを表しています。また、「一日中燃え続ける火」とは、神のさばきの炎を象徴しています。そのような悪は神の前に置かれたノートにちゃんと記録してあって、決して見過ごされることはありません。彼らのした行いに応じて、必ず裁かれることになるのです。

皆さんはいかがでしょうか。こうした神のさばきを受けることがないように、差し出された神の愛の御手を受け入れておられるでしょうか。神の御手はいつもあなたの前に差し出されています。あなたは、その御手を受け入れておられるでしょうか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)

御子を信じる者はさばかれません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれています。どうかさばかれることがないように、神の御子イエス・キリストを信じてください。キリストはあなたが神にさばれないように、代わりにそのさばきを受けてくださいました。十字架の上で・・・。ですから、あなたが、あなたの身代わりとなって、あなたが受けるはずの刑罰を全部受けて死んでくださったと信じるなら、あなたは神のさばきから救われるのです。救われて天国に行くことができます。これが福音です。グッド・ニュースです。どうかこの福音を信じて救われてください。また、この福音を信じて多くの人が救われるように、この福音を宣べ伝えていきたいと思います。

Ⅲ.わたしが選んだ者(8-12)

ところで、イスラエルは神に反逆したからといって、神は彼らを全く退けられたのかというとそうではありません。神は全く新しい計画をもって彼らを救われました。それが残りの民です。8節から12節までをご覧ください。8節にはこうあります。

「主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」

どういうことでしょうか。神はイスラエルの全部を滅ぼすことはなさいません。そこに残りの民を残しておられます。それはちょうどぶどうのふさの中にある甘い汁のようなのものです。ぶどう全体が腐っていてもう食べられない状態でも、その中に甘い汁が残っているというのです。それは何でしょうか。それが残りの民です。彼らは神にとって祝福となるような存在です。神はイスラエルのために、その全部を滅ぼすようなことはなさいません。そこにちゃんと残りの民を残しておられるのです。                         9節をご覧ください。「わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。」

神はヤコブから子孫を、ユダから神の山々を所有する者を生まれさせよう、と言われました。それが神の選んだ者です。神の選んだ者がこれを所有し、そこに住むようになります。しかし、聖書ではこのように神が選んだ者とは残りの民だけのことではありません。実は私たちクリスチャンもそうなのです。クリスチャンも神によって選ばれた者だからです。ヨハネの福音書15章16節にはこうあります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

これはイエス様の言葉です。「あなたがた」とは弟子たちのこと、すなわち、キリストを信じるクリスチャンのことです。私たちがキリストを選んだのではありません。キリストが私たちを選び、任命したのです。それは、私たちが行って、実を結ぶためです。私たちは神によって選ばれた者、神の民なのです。そのような者は神の山々を所有するようになるのです。

そして、そのように神の山を所有する者はどのような祝福を受けるのかが10節にあります。 「わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる。」

「シャロン」とは荒廃した地、「アコルの谷」とはのろいの谷という意味です。そのようにかつて荒廃していた地が羊の群れの牧場となり、のろわれた谷が牛の群れの伏すところになるのです。

神はご自分の選んだ民をひどくさばかれることはあっても完全に滅ぼされることはしません。そこにちゃんと救われる者を残しておられるのです。イスラエルであるからといって、すべてが神の民なのではありません。またイスラエルだからといって、すべてが主に反逆したのでもないのです。主はこのイスラエルの中に、本当のイスラエルを残しておられたのです。

パウロはこのことをローマ人への手紙11章1~5節のところでこう言っています。 「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」

これは励ましではないでしょうか。パウロはこの奥義を伝えるために、エリヤの時代に、バアルにひざをかかめなかった人たちのことを例に取り上げています。あのときアハブとその妻イゼベルは主の預言者たちを殺しました。エリヤをそれを嘆き、「主よ。私だけが残されました。彼らは今この私のいのちさえも取ろうとしています」と言ったとき、神は「エリヤよ、そうじゃないよ。バアルにひざをかがめてない人はあなただけではない。他に七千人の人をわたしのために用意している」と言われたのです。それと同じように、今も、恵みの選びによって残されている人たちがいるのです。ここにも。この大田原にも。

皆さん、私たちは時としてエリヤのように嘆いてしまうことがあります。「主よ、あなたを信じている人はほとんどいません。私はひとりぼっちです。孤独でさびしいです。どんなに伝道しても、だれも信じてくれません。私だけが、私だけが、残されています。」でも本当ですか。違います。あなただけではありません。あなたの他にも、神は七千人を、神のためにちゃんと残しておられるのです。今も、恵みの選びによって残されている人がいるのです。何と感謝なことでしょうか。私だけが・・・と思っていたらそうじゃない。私の他にも、残りの民がちゃんと残されているのです。神のために共に手を携え、共に祈り、励まし合う民が残されているのです。あなたは決してひとりぼっちではありません。これは励ましではないでしょうか。

一方、主に反逆する者たちには、一転して厳しいさばきが下されます。11節です。 「しかし、あなたがた、主を捨てる者、わたしの聖なる山を忘れる者、ガドのために食卓を整える者、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。」

「聖なる山」とは「シオン」のことです。このシオンを忘れるとは、神を礼拝することを止めてしまう、忘れてしまうという意味です。そういう人は、代わりにガドのために食卓を整え、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛ったりします。    この「ガド」とは幸運の女神のことです。新共同訳では「禍福(かふく)の神」と訳しています。またメニは「運命の神」です。カナン人だけでなくアラブ人たちも信仰していました。いわば異教の神です。そうした神々に食卓を整え、混ぜ合わせた酒を盛ってドンチャン騒ぎをするのです。それは昔も今も変わりません。

現代でもこのガドとメニを求めて人々は走り回っています。幸運の女神、運命の神を求めて夢中になっているのです。たとえば、ギャンブルとか宝くじはそうでしょう。幸運の女神、運命の神と呼ばれています。そうした神々に夢中になって、本当の神がないがしろにされています。だれもそんなのに夢中になっていませんよ、と言うかもしれませんが、気がついたらいつの間にか買っていたりとか、気になってしょうがないということがあるのです。それは依存しているということです。

先日厚生労働省から発表された統計によると、我が国のパチンコや競馬などのギャンブル依存症の人の割合は成人人口の4.8%に当たる536万人だそうです。これは5年前の1.5倍に増えました。アメリカの1.58%、香港の1.8%、韓国のo.8%に比べても、日本の依存度は極めて高いことがわかります。オーエンさんが中国から来て驚いたことは、日本にはこうした娯楽施設がたくさんあるということです。これでさらにカジノも導入しようと検討されているわけですから、日本にはどれほどガド礼拝、メニ礼拝が多いかがわかると思います。幸運を求めて、運命を求めて走り回っている。まことの神を忘れて・・。それは神が忌み嫌われることなのです。そのような人には、神の激しいさばきがくだります。12節をご覧ください。

「わたしはあなたがたを剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行い、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」

ここで神は、そのような人を剣に渡すと言っています。それで虐殺されて倒れてしまうのです。それは神が忌み嫌われることだからです。神が呼んでも答えず、語りかけても聞こうとせず、神の目の前に悪を行い続け、神が喜ばないことを故意に、意図的に行ってしまうのなら、そのような人には、当然、神のさばきが下るのです。なぜなら、わかっていても平気で逆らう、故意に、意図的に逆らうことがあるとしたら、それは聖霊に逆らう罪であり、決して許されることではないからです。イエス様は言われました。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)

皆さんはどうでしょうか。神が選ばれた者、残りの民ですか。それとも神を忘れてガド礼拝、メニ礼拝に走り回っている人でしょうか。神が救いの御手を差し伸べているのに、故意に逆らって、神の怒りを引き起こしてはいないでしょうか。

どうか神に逆らわないでください。信じない者にならないで信じる者になってください。神はすべてのすべてです。私たちの思いをはるかに越えて神は働き、私たちの人生に完全な計画をもっておられます。その計画にすべてをゆだねてください。この神を信じ、この神に従うことが、あなたにとっての最善の道なのです。やがてそれが明になるでしょう。しかし、その前にどうかこの神の恵みを受け入れてください。神は今もあなたにその手を差し伸べておられます。どうかその御手に信頼してください。そしてこの驚くべき神の救いの計画を知り、共にこの神に心からの賛美と礼拝をささげたいと思います。

イザヤ書63章15節~64章12節 「イザヤの祈り」

先週は63章の前半の箇所から、神の豊かな恵みについて学びました。神に背き続けるイスラエルを、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」(8)と呼んでくださり、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いを彼らに送って、救ってくださいました(9)。そればかりか、主は昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた(9)のです。そのようにして主は、ずっと昔から彼らを導いて来られました。

それならば、なぜイスラエルはバビロンに苦しめられなければならないのでしょうか。なぜ主はじっと黙って、その状況を見ておられるのでしょうか。きょうの箇所には、そのことに対するイザヤの祈りが記されてあります。この祈りの答えが65章と66章に続くわけです。

きょうはこのイザヤの祈りから、神に聞き届けられる祈りとはどのような祈りなのかを学びたいとと思います。

Ⅰ.神のあわれみを求めて祈る祈り(63:15~19)

まず第一に、それは神のあわれみを求めて祈る祈りです。15節から19節までに注目してください。まず15節をお読みします。

「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。」

ここでイザヤは、「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。」と祈っています。これは、主が天の輝かしい聖なる御住まいから見ておられるという認識の上で、その熱心と力あるみわざは、いったいどこにあるのですか、と訴えているのです。私たちへのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか・・・と。どうかそんなことはしないでください。押さえることをしないで、私たちの上にそれを注いでください、と祈っているのです。

ここに「たぎる思い」という言葉がありますが、これはエレミヤ書でも使われていますが、そこでは「はらわたがわななく」(エレミヤ31:20)と訳しています。63章10節には主の聖なる御霊を痛むという表現がありましたが、ここでははらわたがわななくのです。神はあなたに対してたぎるような思い、はらわたがわななくような思いを持っておられるのです。その思いを押さえないでください、豊かに注いでください、というのです。そんなこと祈ったらおこがましいんじゃないとか、ズーズーしいんじゃないかとと思う必要はありません。なぜなら、神はあなたの父であられるからです。16節をご覧ください。

「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」

ここに、「まことに、あなたは私たちの父です。」とあります。そのことが何度も繰り返して言われています。そうです、神様は私たちの父なんです。神はあなたを我が子と呼んでくださる。たとえあなたがイスラエルの父アブラハムのことを知らなくても、たとえあなたがイスラエルに認められなくとも、神はあなたの父となってくださいました。あなたが救い主イエスを信じたことによって・・・。すごいじゃないですか。神は私たちの父なのです。

ローマ人への手紙8章14~15節には、「 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」とあります。

皆さん、神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもなのです。ここには、、「アバ、父」と呼ぶとあります。「アバ、父」というのはアラム語で父を呼ぶ言葉だそうです。ちなみにお母さんのことは「イマ」と呼びます。「アバもイマ」も赤ちゃんが一番最初に発音するようなごく親しい言葉です。日本語では「パパ、ママ」でしょう。英語では「Daddy」とか「Mommy」です。これはとても親しい呼びかけなのです。神は私たちにとってそのような関係になりました。「アバ・父」と呼べるようになったのです。これはものずこいことです。

J.Iパッカーという神学者は、「新約聖書の教えを一言に要約するとすれば、創造者なる神が、父であるということに関する啓示」なのだといいました。また彼は、「キリスト教の信仰を本当に理解し、自分のものとしているかどうかは、その人が、自分が神の子であるということを、どの程度認めているか、神を自分の父としてどの程度認めているか、ということでわかる」と言いました。ですから、私たちが神を「アバ、父」と呼べることはものすごい特権なのです。私たちはこのような特権をいただいているのです。

ヨハネの福音書1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。皆さん、これは特権なんです。あなたがアブラハムの子孫であるかどうかなんていうことは全く関係ありません。たとえあなたがアブラハムの子孫じゃなくとも、あなたがイエスを救い主として信じ、受け入れるなら、神の子としての特権が与えられ、「アバ・父」と呼ぶことができるようになるのです。

皆さん、これが私たちの信仰です。神が父であるということ、その父を、「アバ」と呼べる身分にさせていただいたということ、それはいかにもったいなく、かたじけないことではありますが、それが私たちに与えられている恵みであり、その恵みを感じながら、神をお父さんと呼ばせていただく。それが私たちの礼拝なのです。だからこそイザヤは大胆に神に求めたているのです。どうか、天から見下ろして、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざはどこにあるのですか。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。そんなことをしないでください。どうかあなたの燃えたぎるあわれみを、私の上に注いでください。私はあなたは私の父なのですから・・・・と。

皆さん、神様は、あなたが神様に向かって「アバ、父」と呼びかけることを求めておられます。神にあわれみを求めて祈ることを願っておられるのです。それはあなたがお父さんやお母さんの立場であるならよくわかるはずです。自分の息子や娘が音信不通で、何の関係もないことほど寂しいことはありません。多少うるさいなぁと思うくらいがちょうどいいのです。そうやってお父さんやお母さんを慕い求め、助けを求めてくるくらいがちょうどいいのです。神はあなたと親しい関係を持つことを求めておられるからです。

ルカの福音書11章9~13節にはこうあります。 「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見いだし、ただく者には開かれます。なぜなら、天の神はあなたの父だからです。子どもが魚をくださいというのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親はいません。卵をくださいというのに、さそりを与えるような父親がいるでしょうか。たまにそういう人もいますね。でもそれは普通じゃありません。普通、父親は子どもがこれこれ欲しいという時には、何とかその願いを叶えてあげたいと思うものです。皆さん、神はあなたの父です。あなたをあわれみたいと願っておられるのです。無関心であってはいけません。その父なる神に、あわれみを求めて祈らなければならないのです。求めなさい。そうすれば、与えられるからです。

Ⅱ.へりくだって祈る祈り(64:1~7)

第二のことは、へりくだって祈る祈りです。64章1~7節までをご覧ください。まず1~4節です。

「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。 火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

これは、イエス・キリストがさばき主として天から降りて来られる預言です。そのとき、神に敵対している者たち、聖所を踏みつけている者たちは、震えます。主は、私たちが予想もしなかった恐ろしいことをされるので、山々は御前で揺れ動くのです。それは63章前半部分で見たとおりです。そのとき主は敵の流す返り血で、その衣服が真っ赤に染まりるのです。このようなことまでしてくださる神が他にいるでしょうか。いません。4節にこうあるとおりです。

「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

このことばは、Ⅰコリント2章9節でパウロが引用しています。そこには「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みそうである。」とあります。これが、イザヤ書に記されてあることの意味です。

皆さんは、このようなことを聞いたことがあるでしょうか。どの宗教がそのようなことを告げているでしょうか。それはどの宗教にも見られない、キリスト教だけが、聖書だけが告げていることです。キリスト教以外のどの宗教も、人間が何とかして神に近づくことができると教えます。その救いのベクトル、矢印がすべて下から上に向かっているのです。しかし、キリスト教だけは違います。キリスト教だけはその矢印が上から下に、天から地に向かっているのです。神のが人となられ、神が人となって十字架につけられました。神が人となって私たちのすべての罪を引き受けて死んでくださいました。そして、その名を信じるだけで救われると約束してくださいました。神の救いは上から下に向けられたのです。神の救いは一方的な神の恵みによるのです。信じるだけで救われるのです。しかし、信じない者は罪に定められます。どんなに善いことをしても、どんなに努力しても、どんなに真面目に生きても、自分の行いによっては救われないのです。そのような人は神のひとり子を信じなかったので罪に定められます。やがてキリストが天から降りて来られるときに、さばかれることになります。

このようなことは、私たちの理解を越えています。私たちがいまだかつて見たことも、聞いたこともないようなことです。しかし、神は、このようなことを、 ご自身を愛する者たちのためにそのようにしてくださるのです。

5~7節をご覧ください。 「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。」

ここでイザヤは言っています。「それでも私たちは救われるでしょうか。」いい質問ですね。主よ、あなたは喜んで正義を行う者、あなたの道をを歩み、あなたを忘れない者を、あなたは迎えてくださいます。けれども、私たちは昔からずっと罪を犯しているのです。こんな私でも救われるでしょうか。救われるのです。なぜでしょうか?6節と7節をご覧ください。それは私たち義ではなく、神の義に信頼しているからです。私たちの義など何でもありません。それは不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、風のように吹き上げられるような存在にすぎません。

この「不潔な着物」という言葉には※がついています。下の欄外の説明を見ると、これは「月のもので汚れた」という意味です。ちょっと生々しい表現になりますが、使用済みのナプキンのことを指しているのです。私たちの義とはそんなものなのです。使用済みのナプキンのようで、汚れた着物のようなのです。私たちは自分の善い行いが自分を救うかのように思っていますが、そんなものは汚れたナプキンのようなものだというのです。被災地に行ってボランティアをする、発展途上国の恵まれない国の人たちを助けようと慈善団体に寄付をする。立派なことです。しかし、そのような行いによって救われると思ったら大間違いです。なぜなら、私たちの義はみな、汚れた着物のようだからです。そのような行いが悪いと言ってるのではありません。そのような行いでは救われないということを言っているのです。

私たちを救うことができるのはただ神の義だけであって、それは神の救いであるイエス・キリストを信じることによってのみなのです。61章10節を振り返ってみましょう。ここには、「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」とあります。ここに「救いの衣」とか「正義の外套」といった言葉があります。私たちが救われるのは私たちの義、不潔な着物ではなく、神が与えてくださる神の義、救いの衣、正義の外套なのです。ですから、私たちはその古い不潔な着物を脱ぎ捨てて、キリストという義の衣を着せていただかなければなりません。

なのにどうでしょうか。7節を見てください。「しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。」これが現実です。問題は神なのではなく、その神の救いにすがろうとしない私たち人間なのです。 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのでもない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1-2)

「主の御名を呼び求めるなら、だれでも救われる」のです。」(ローマ10:13)

あなたはどうですか。神の前にへりくだって、主の御名を呼び求めておられるでしょうか。それとも、あくまでも自分の義、自分の行いを誇っておられるでしょうか。しかし、覚えていただきたいことは、そんなのは不潔な着物にすぎないということです。木の葉のように枯れ、風が吹けばすぐにどこかに吹き飛んでしまうようなはかないものなのです。そんなものに頼らないで、神に頼ってください。へりくだって神を求めてください。神はへりくだってご自身を求める祈りを、決してないがしろにはなさいません。

Ⅲ.神にすべてをゆだねて祈る祈り(64:8~12)

第三に、神に聞かれる祈りは、神にすべてをゆだねて祈る祈りだということです。8節から12節までをご覧ください。8節、「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」

いいですね、この「しかし、主よ・・・」という言葉が。私たちの罪のゆえに神の御名を求めようとしない、神にすがることもしない、それが神との仕切りとなり、神との間に断絶が生じてしまいました。しかし、それで終わりではありません。「しかし、主よ」なのです。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手によって造られたものです。

どういうことでしょうか。たとえ私たちがかたくなでも、たとえ私たちが不忠実でも、神は変わらない愛をもって救ってくださるということです。この愛はヘブル語「ヘセド」といって契約に基づいた愛です。たとえ相手が契約を破っても神は決して破ることはしない、一方的に愛する愛です。 「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)

神はどこまでも愛してくださる方なのです。私たちに求められているのは、この神の愛の懐の中に飛び込むことです。子どもが父の懐に飛び込むように、神の懐の中に飛び込めばいいのです。それを何というかというと、ゆだねると言います。

ここには「陶器師」という言葉が出てきます。この「陶器師」という言葉が意味していることは、神は主権者であられるということです。好きなものを自由に造る権利があるということです。神は、まさに好きなものを造ることができる陶器師です。しかし、造るだけではありません。陶器師ですから、それを壊すこともできます。壊して、捨ててしまうこともできるのです。何でも自由にすることができる。それが陶器師です。

ここでイザヤが、「あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」と言ってるのは、主は私たちをどのように造ろうが、いや、それを壊して、捨ててしまおうが、煮ようが、焼こうが、何をしようが、主はその権利を持っておられるということです。なぜなら、主は陶器師だからです。主が私たちを造られました。

しかし、ここでもう一つの確信があります。それは、主は私たちの父であるということです。ということは、決してひどいことはなさらないということでもあります。私たちにとって最善のことをしてくださるという確信です。私たちは、本来なら捨てられても致し方ないような粘土にすぎない者ですが、主はそれを決して捨てたりはなさいません。それを新しいものに造り替えてくださり、神に喜ばれる、聖い器に造り替えてくださいます。なぜなら、主は陶器師であると同時に、私たちの父だからです。そう信じて、この陶器師の手にわたしたち自身を、あなた自身をゆだねて祈らなければならないのです。

なのに、現状はどうでしょうか。10節と11節を見てください。「あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。」

これは直接的にはバビロン捕囚のこと、究極的には世の終わりの日に荒らす忌むべき者によって、エルサレムが荒らされることを預言しています。しかし、それはイスラエルがバビロンによって滅ぼされた時だけでなく、あるいはこの世の終わりに荒らす忌むべき者によって荒らされるであろう時だけでなく、いつの時代でも起こることです。それは今の、私たちの時代でも、私たちの日々の生活の中にも起こっています。私たちの人生がまさにバビロンや荒らす忌むべき者によって踏みにじられ、荒れ果てたような状態になることがあるのです。主が陶器師であり、私たちの父であられるのなら、いったいどうしてそのようなことを許されるのでしょうか。それが最後の12節のみことばです。

「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」

これは祈りの締めくくりの言葉です。これは63章15-17節に出てきた内容に似ています。祈りの始めと祈りの終わりが同じ言葉が使われています。これからバビロンに侵略されて、すべてが破壊されてしまう。それでもあなたは黙って見過ごされるのですか?

この祈りの答えが65章と66章に展開されるわけですが、そこには信じられないような驚くべき祈りの答えが出てきます。これがイザヤ書のクライマックスです。主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、溜まって、見過ごされるのですか。私たちを悩まされるのですか。いや、そうではない。その答えをここに示されるのです。祈りに答えてくださる義務などないのに、神は祈り以上のことをしてくださるのです。私たちが祈る以上に、私たちが願う以上のことをしてくださるのです。ですから私たちはこの神を信じて、この神にすべてをゆだねて祈らなければなりません。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)

あなたの道を主にゆだねて祈りましょう。主に信頼しましょう。主が成し遂げてくださいます。それが主に喜ばれる祈りであり、主が聞いてくださる祈りなのです。

イザヤ書63章1~14節 「豊かな神の恵み」

きょうはイザヤ書63章からお話したいと思います。ここには、やがてキリストが再臨される時、どのようなことが起こるのかが記されてあります。実に、聖書には終末に起こる出来事が数多く予言されているのです。そして、それらの予言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが神からのことばを語ったものなので、100パーセント必ずそのとおりになります。それではきょうの箇所に書かれてある預言を見ていきましょう。

Ⅰ.敵を滅ぼされる方(1~6)

まず1節から6節までをご覧ください。1節をお読みします。 「エドムから来る者、ボツラから真紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」

エドムとは、死海の南方にある地域です。聖書では常に神の民イスラエルに敵対する民族として登場しています。それはエドムの祖先であるエサウが、神の特別の祝福である長子の権利を、一杯の煮物と引き替えに双子の弟ヤコブに売り渡してしまったからです。それで兄が弟に仕えることになってしまいました。それでエサウはヤコブを憎むようになったのです。その子孫であるエドム人は常にイスラエルに敵対する者として存在するようになってしまったのです。ボツラとはそのエドムの首都ですが、キリストが再する時このボツラからやって来るというのです。

なぜでしょうか?なぜなら、彼らは神に敵対したので、神は怒って、彼らを踏みにじられるからです。2節と3節をご覧ください。 「なぜ、あなたの着物は紅く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」

なぜキリストの着物は赤く、その衣は酒ぶねを踏む者のようなのでしょうか。それは、キリストが怒りの酒ぶねを踏んだからです。それで彼らの血のしたたりが、キリストの衣にふりかかり、それですっかり汚れてしまったからです。中には、この血はイエス様が十字架につけられた時に流された血ではないかと考える方がおられますが、違います。これは敵を踏みつけた時の血、その返り血なのです。それがキリストの衣にふりかかったので、真っ赤になってしまったのです。

このことは、黙示録14章17~20節にも記されてあります。ここにもキリストが再臨される時の様子が描かれています。 「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」

このところによると、その酒ぶねから流れ出る血は馬のくつわに届くほどになり、1600スタディオンに広がるとあります。馬のくつわほどというのは馬の顔くらいの高さです。大体2メートルくらいでしょうか。それが1600スタディオンにわたって広がるのです。1スタディンは185メートルです。ですから約300キロにわたって広がるということです。まさに血の海です。イザヤはその時のことを預言していたのです。

皆さんはこの酒ぶねで踏まれることがないように、キリストを信じて救われているでしょうか。それとも、エドムのように、ボツラのように、神の敵となっていますか。神なんてどうでもいいと神に敵対し、あくまでも自分の思いのままに生きようとしていると、やがて神の怒りの酒ぶねで踏まれてしまうことになります。神が用意してくださった救い、イエス・キリストを信じて救われていただきたいと思います。御子を信じる者はさばかれることはありません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれています。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです。ですから、あなたも救われるために、この御子を信じていただきたいのです。

Ⅱ.豊かな神の恵み(7-10)

次に7~9節までをご覧ください。まず7節です。 「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」

この「私」とはイザヤのことです。イザヤはこの幻を見たとき、その口から神への賛美がほとばしり出ました。キリストが再臨する時、敵を踏みにじり、自分たちに報いをもたらしてくださるという神のみわざを聞いたとき、主にほめたたえずにはいられませんでした。それは私たちも同じです。クリスチャンは圧倒的な神の恵みのみわざを知ったとき、黙っていることなんてできません。その恵みに感動して、応答して、そのみわざをほめ歌うようになります。エペソ2:3-5にはこうあります。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:3-5)

私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。何の功績もない者が、全く救われるに値しないような者が救われました。これが恵みです。私たちは生まれながらに罪人であり、ゆえに、神のさばきを受けるべき子らでした。まさに酒ぶねで踏みつけられるような者でした。しかし、そのような者を一方的に神が救ってくださいました。私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。だから私たちは神をほめたたえるのです。そうしないと救われないかもしれないからではありません。この大きな愛と恵みによって救われたので、神をほめ歌うのです。

皆さん、なぜ私たちはこうやって神を礼拝しているのでしょうか?たまにはテレビでも観ながらのんびりしていたいと思うのも無理もありません。なのにこうして教会に来て神を礼拝するのは祝福されるためではありません。祝福していただいたからなのです。もう捨てられても致し方ないような者が救われたので、その神のみわざを賛美せずにはいられないからです。尽きることがない神の恵みに応答したいからです。それは宗教的な義務でも、何でもありません。そうしないと救われないからでもありません。そうすれば何か見返りがもらえるからでもないのです。神が愛してくださったので、その恵みによって救われたので、私たちはそうしたいのです。クリスチャンの生活というのは、まさにこの恵みによって貫かれているものなのです。

では神はどれほどあなたを愛してくださったのでしょうか。8節と9節には、神があなたをどれほどあわれんでくださったかが三つの言葉で表されています。「主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのな子たちだ」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自分の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」

まず第一に、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」という言葉です。「彼ら」とは、直接的にはイスラエルのことです。元々イスラエルの名はヤコブでした。意味は「かかとをつかむ者」「ずる賢い者」です。人をけ落としても自分を優先する者、偽りだらけの者でした。そんな彼らを、主は「偽りのない子たちだ」と呼んでくださるのです。これは恵みではないでしょうか。いったいなぜ神はこのように言ってくださるのでしょうか。それは彼らの罪を見て見ぬふりをしているからではありません。彼らの罪を代わりに受けて贖ってくださったからです。それは私たちも同じです。私たちも罪だらけな者で、偽りだらけな者ですが、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死んで、その罪を贖ってくださいました。それゆえに私たちは、「偽りのない子たちだ」と言ってくださるのです。

第二のことは、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」という言葉です。あなたが苦しむときには、主もまたいつも苦しんでくださいます。ただ苦しむだけではありません。その苦しみのすべてを引き受けてくださいます。その究極的な表れが十字架なのです。

私たちはよく「親身になって」という言いますが葉が、イエス様はまさに親身になってくださいます。イエス様は私たちの身代わりに死んでくださったので、私たちの弱さを理解し、同情することがおできになるのです。

人はよくこう言います。「あなたの気持ちがよくわかるよ!」と。でも本当はわかりません。人の痛みや苦しみはそれぞれみな違うからです。ある程度のことは理解できるかもしれませんが、それはその人が経験したことにおいて理解できるのであって、その経験が必ずしも同じだとは限りません。だから完全に理解することはできないのです。しかし、キリストはあなたのために死んでくださいました。そこまで親身になってくださいました。だからイエス様はあなたの悲しみも、苦しみも、辛さも、全部くみ取って理解することができるのです。ですからへブル人への手紙にはこうあるのです。 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)  そこまで親身になってくださる方はいません。ですから、このイエス様にあなたの人生のすべてを任せていただきたいのです。

ところで、9節には「ご自身の使いが彼らを救った」とありますが、この「ご自身の使い」とは何のことでしょうか。これは直訳では「彼の顔の使い」です。彼の顔、神の目の前にいる使い、それは受肉前のイエス・キリストのことです。イエス様が彼らを救ってくださいました。イエス様があなたを救ってくださいました。イエス様はあなたのために十字架にかかって死んでくださることによって、あなたを救ってくださったのです。このイエスを信じる者はだれでも救われるのです。

もう一つの言葉は、9節後半の「その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」という言葉です。すばらしい言葉です。主はその愛とあわれみによって彼らを贖ってくださったので、ずっと、彼らを背負い、抱いてくださいます。

「贖う」とはヘブル語で「ガアール」という言葉ですが、「代価を払って買い戻す」という意味です。イエス様はご自分のいのちという代価を払って私たちを買い取ってくださったので、どんなことがあっても見捨てることはなさいません。昔からずっと背負い、抱いてこられたのです。46章3-4節をご覧ください。ここには、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(46:3-4)とあります。

皆さん、主はあなたを胎内にいるときから担い、生まれる前から運んでくださいました。それはこれからも同じです。年を取っても変わりません。あなたがしらがになっても、主はあなたを背負ってくださいます。ずっと運んでくださいます。何という恵みでしょうか。神が私たちを救ってくださったということはそういうことなのです。どんなことがあってもあなたを見離したり、見捨てたりすることはしません。これが神の愛です。そのような大きな愛をもって、神はあなたを愛してくださったのです。

であれば、当然、イザヤのように、その奇しい主のみわざに感動して、その恵みをほめたたえ、心から神に従うだろうと思うかもしれませんが、イスラエルはそうではありませんでした。残念ながら、彼らは神に逆らい、神の御霊を痛ませました。10節を見てください。

「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」

そんなに大きな愛と恵みによって救ってくださったのに、ご自分のいのちをかけて救ってくださったのに、その御恩に報いようとするどころかかえって逆らい、主の御霊を痛めつけたのです。これが人間です。これが私たちの姿でもあります。 主は、その豊かな恵みによって私たちを贖い、昔からずっと背負い、抱いて来られたのに、私たちは主に逆らい、主の御霊を悲しませるようなことばかりしているのです。

皆さん、皆さんが神に逆らい、神の救いを拒絶するようなことがあると、主の聖なる御霊は悲しまれます。なぜなら、神はあなたに救われてほしいと願っておられるからです。そのためにひとり子さえも惜しまずに死に渡されました。ですから、その愛を無駄にするようなことをすると悲しまれるのです。どうか神の恵みを無駄にしないでください。信じるだけで救われるんですから、信じるだけですべての罪が赦されるんですから、どうか救い主イエスを信じてください。そして、ここにある神の豊かな恵みを体験してください。

Ⅲ.主の恵みを思い出して(11-14)

いったいどうしたらこの神の恵みを信じることができるのでしょうか。第三のことは、主の恵みを思い出してください、ということです。11節から14節をご覧ください。 「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。」このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。」                                                     そのとき、主の民は、どうしたでしょうか。そのとき、彼らは、いにしえのモーセの日を思い出しました。「いにしえ」とは「昔」のことです。ずっと昔のモーの時代のことを思い出したのです。モーセの時代というのはこのイザヤの時代よりも約700年前のことです。いったいなぜそんなに昔のことを思い出したのでしょうか。それは思い出すためです。神がどれほど偉大な方であり、恵み深く、あわれみ深い方なのかをです。神が自分たちに報いてくだった恵みを思い出せば、神を切に慕い求めるようになるからです。

モーセの時代にはどんなことがあったでしょうか。エジプトに奴隷として400年間も捕えられていましたが、神は大いなる御業をもって彼らを救い出してくださいました。また、追ってくるエジプト軍を背に、目の前には紅海が広がっているという絶対絶命のピンチの中で主は紅海を二つに分け、そこに乾いた陸地を造られ、そこを通らせて彼らを救ってくださいました。また荒野では、家畜が谷を下るように、主が彼らをいこわせてくださり、ついに彼らを約束の地に導いてくださいました。その主はどこらおられるのですか。第二の出エジプトであるこのバビロンからの解放にあたっても、主は同じようにしてくだいます。いいえ、第三の出エジプトであるこの罪からの救いにおいても、確かに主は大いなるみわざをもって導いてくださいます。そのことを思い出すなら、あなたに感謝と喜びが溢れるようになります。

イザヤ書51章1節には、「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」とあります。あなたがたがどこからどこから切り出され、どこから救われたのかを思い出せというのです。なぜなら、思い出すことによって希望が与えられるからです。だから、イスラエルにはお祭りがたくさんあるのです。過ぎ越しの祭りから始まって種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭りです。ラッパを吹き鳴らす日、贖罪の日、仮庵の祭りです。それは神が彼らにどんなことをしてくださったのかを思い出させ、どのような状況にあっても神に信頼して歩むためです。

それは私たちも同じです。私たちも神の恵みを思い出すなら、その神の豊かな恵みに感動して、心から神を信じ、神について行きたいと思うようになるでしょう。私たちにとってのモーセの日とはいつのことでしょうか。それはキリストがあなたのために十字架にかかって死んでくださった日のことです。キリストがあなたの罪のために死んでくださいました。その死によってあなたは救われました。あなたはそれほどに愛されました。そして、今も愛されています。あなたはずっと主に担われているのです。す何という恵みでしょうか。このことを思い出すならあなたはうれしくなり、喜んで神を信じたいと願うようになるでしょう。

「恵み」という漢字をよくみると、十字架を思うと書くんですね。十字架の恵みを思い出すなら、あなたがそのときからずっと主に守られて来たことを思い出すなら、あなたも必ず感謝にあふれるようになるのです。

ですから、どうか思い出してください。あなたがどのようにして救われたのか、また、あなたが救われてからこれまで、どのように神に導かれてきたのか・・・を。そうすれば、あなたは力を受けます。そして主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌うようになるのです。どうかあなたの置かれた現状を見て悲しみに沈むことがありませんように。むしろ神の恵みを思い出して、感謝にあふれた日々を送ることができますように。大切なのは、神はどのような方であるかを知ることです。そうすれば、あなたの心に確かな確信と希望がもたらされるでしょう。神はそのあわれみと、豊かな恵みによって、あなたを救い、あなたを守ってくださる方なのです。

イザヤ書62章1~12節 「黙っていてはならない」

きょうは、イザヤ書62章のみことばからお話したいと思います。タイトルは、「黙ってはならない」です。ここにはエルサレムの回復が預言されています。バビロンによって滅ぼされ、荒廃したエルサレムを、主がもう一度建て直してくださるということが約束されているのです。それは私たちに対する約束でもあります。主は荒廃した私たちの人生をもう一度立て直してくださるのです。では、早速、本文を見ていきましょう。まず1節から5節までをご覧ください。

Ⅰ.黙っておられない神(1-5)

1節には、「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」とあります。シオンとはエルサレムのことです。ここには、主がシオンのために黙ってはおられることをせず、その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまで、働いてくださることが約束されています。

ヘブル人への手紙7章24、25節にはこうあります。 「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」  キリストはいつも生きていて、あなたのためにとりなしをしておられます。黙っているということはありません。ずっと働いていてくださるのです。

何という励ましでしょうか。私たち人間はそうではありません。59章16節には、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」とありましたが、人のためにとりなす人がいないのです。いつも自分のことばかり。自分さえよければいい。自分のたるには祈っても、人のために祈ることができません。それが人間です。しかし、キリストはいつも生きていて、あなたのために、とりなしておられるのです。

これはイザヤの時代で言うなら、バビロン捕囚から解放されることを現しています。イスラエルは罪の結果70年もの間、捕囚としてはバビロンに囚われていましたが、そこから解放してくださるという約束です。主はそのためにずっととりなしておられたのです。

いったい主はどのように働いてくださるのでしょうか。2節をご覧ください。 「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。」

「そのとき」とは、エルサレムが回復するときのことです。そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見るようになります。世界中のすべての人が、あなたの上に神の大いなる御業が成されたことを見て、神をほめたたえるようになるのです。そしてあなたは、主の口が名付ける新しい名で呼ばれるようになるのです。「新しい名」で呼ばれるというのは、新しい性質に変えられることを表しています。

そのような性質でしょうか。3~5節をご覧ください。 「あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」

それまでは、「見捨てられている」とか「荒れ果てている」と呼ばれていましたが、これからはそのように呼ばれることはありません。これからは「わたしの喜びは彼女にある」とか、「あなたの国は夫のある国」こう呼ばれるようになります。

どうですか、このように呼ばれたら、どんなにうれしいことでしょう。この「わたしの喜びは、彼女にある」という言葉はⅡ列王記21章1節に出てくる「ヘフツィ・バハ」という言葉です。そこではユダの王ヒゼキヤの奥さんの名前として使われています。彼女はヒゼキヤの喜びでした。「ヘフツィ・バハ」。「あなたは私にとって喜びだ」とか、「私の喜びはあなたにある」と言ってもらえる妻はどれほど幸せでしょうか。「あなたは私の悲しみだ」とか、「顔もみたくない」なんて言われたら、もう死にたい気持ちになるでしょう。逆に、「あなたは喜びだよ」なんて言われたら、もう天にも上るような気分になります。

私たちはもともと「見捨てられたもの」と呼ばれても致し方ないような者だったんです。自分勝手な道を歩み、何度も何度も神を裏切ってきました。もう見捨てられても、見放されてもしょうがない者だったのに、神は一方的なあわれみによって赦してくださいました。神はあなたを、「あなたはわたしの喜び」、「あなたは夫のある国」と呼んでくださるのです。

いったいこのような神が他にいるでしょうか。どの神があなたのことをこのように受け入れてくれるでしょうか。どの宗教があなたを心から喜んでくれるくれるでしょうか。ただ聖書の神だけが、イエス・キリストだけがあなたを喜び、あなたを心から受け入れてくださいます。なぜなら、キリストはあなたのためにいのちを捨ててくださったからです。いのちをかけてあなたを贖ってくださいました。だから、たとえあなたがどんなに裏切っても、たとえあなたがどんなに失敗を繰り返しても、あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、受け入れてくださるのです。

今、NHKの大河ドラマで豊臣秀吉に仕えた「軍師、官兵衛」の生涯を描いたドラマが放映されていますが、そこに親を早くに亡くして黒田家に引き取られ、幼い長政(松寿丸)と兄弟のように育てられた後藤又兵衛という家臣が登場しますが、彼は一度ならず二度も黒田家を裏切り、敵となってしまいました。しかし、戦いに敗れた又兵衛が謝罪のため黒田家を訪れたとき、彼は自分はとても許されるに値しない者と身を引こうとしましたが、そんな又兵衛に官兵衛の妻、光(てる)が、こう言って引き留めるのです。「又兵衛、おまえは一度ならず、二度も母を捨てるのですか?」何度捨てても、わたしはおまえの母なんですよ、そう言って受け入れるんですね。それを見ていて、ああ、私たちの天のお父さんと同じだなぁと思いました。いや、天の父はもっと完全な愛をもって受け入れてくださいます。何度失敗しても、悔い改めて立ち返るなら、どこまでも赦してくださいます。「見捨てられている」とか「荒れ果てている」という名前ではなく、「わたしの喜びは、あなたにある」と言ってくださる。それが天の父、あなたの神です。

ゼパニヤ書3章17節にはこうあります。 「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」

すばらしい約束です。イエス様の目に、私たちはこのように写っているのです。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与えてくださいます。主は高らかに、あなたのことを喜ばれるのです。主はあなたのことを怒っているのではもなく、嫌っているのでもありません。あなたのことを喜んでおられるのです。あなたがイエスを信じて、神の子とされたので、主はあなたのただ中におられるからです。あなたはなかなか神のみこころにかなった者になれないかもしれません。何度も同じ失敗を繰り返すかもしれない。それでも神はあなたのことを喜ばれるのです。

だから私たちは、その主から目を背けてはいけません。決してイエス様から離れてはならないのです。やっぱり自分はひどい人間だと落ち込んで、主の下に来ることを拒んではいけないのです。私たちをご自身のものとし、常に私たちを愛し、私たちを喜んでくださる主に心を開いて、あたかも親しい夫婦のように、すべてをさらけ出して、ありのままに出て行かなければならないのです。

Ⅱ.黙っていてはならない(6-9)

第二のことは、であれば私たちも黙っていてはならないということです。6節をご覧ください。 「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」

ここに、「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。」とあります。「見張り人」とはだれのことでしょうか。見張り人とは、城壁に敵がやって来ているかどうかを見張っている人のことです。イザヤの時代であれば、それはイザヤをはじめとした預言者たちのことでした。いわばイスラエルに向かって警告を発する人たちのことです。神のさばきが近づいているという警告です。彼らは、昼も間も、夜の間も、決して黙っていてはいけませんでした。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはなりませんでした。

それは私たちクリスチャンも同じです。神は私たちを見張り人としてこの世に置かれました。ですから、どんな時でも、その希望が実現するその時までこの世を見張っていなければなりません。黙っていてはならないのです。私たちはこの世の終わりが近づいているという警告を発するために、だから悔い改めて神を信じるようにと勧めるために、ここに置かれているのです。

このことについてパウロはこのように言っています。Ⅱテモテ4章2~5節です。 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。これは、私が伝道者として召された時に与えられたみことばでもあります。それまでこの社会で普通に働いて、平凡でもいい、クリスチャンの家庭を築き、幸せに生きていきたいと思っていましたが、そのような時、友達が運転する車が車が崖から転落して友達が即死するという事故がありました。翌日、友人の家を訪れ、そこに横たわる友人の亡骸を見て、いったい人は何のためな生きているのだろうと、考えさせられました。その時主はみことばを通してこのように語りかけてくださいました。 「人は、たとえ全世界を得ても、まことのいのちを損じたら何の得があるでしょう。」  それで私はなくなる食物のためにではなく、なくならない食物のために働きたいと主のために働くことを決心したのですが、でも、現実的にはこの日本の社会で伝道者として立っていくことは困難なように感じました。しかし、そのような時に主はこのみことばをもって励ましてくださったのです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても、悪くてもしっかりやりなさい。」時が良くても悪くても、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たすように・・と。

みなさん、今は良い時でしょうか、それとも悪い時でしょうか。良い時もあれば、悪い時もありますね。どちらかというと悪い時かもしれません。パウロがここで言っているように、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを変え、自分たちのために寄せ集め、真理から耳を背け、空想話にそれて行くような時代だからです。パウロはこういう時代になるということを、この時からちゃんとわかっていました。というのは、昔も今も本質は変わらないからです。どちらかというとその傾向が強くなっているということです。しかし、たとえ時が悪くても、みことばを宣べ伝えなければなりません。困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たさなければならないのです。だれも信じないからだめだと悲観するのではなく、神の約束に信頼しても、みことばを宣べ伝えなければなりません。それが私たちに求められていることです。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなければならないのです。そうすれば、主が働いてくださいます。私たちに求められていることは、この「見張り人」としての使命を果たすことなのです。見張り人として神の警告を発しなければなりません。黙ってはなりません。この町にはわたしの民がたくさんいる、と主は言われます。そう言われる主のみことばを信じて、みことばを宣べ伝えなければなりません。黙っていてはいけないのです。なぜなら、神はあなたのために黙っていないからです。キリストはあなたのために、いのちを捨ててくださいました。そして、今もあなたのためにとりなしておられるからです。そうであるなら、私たちもキリストのように人々のためにとりなす者でなければなりません。エルサレムのために祈らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの救いが来る(10-12)

最後に、10節から12節まで見たいと思います。10節には、「通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。」とあります。なぜなら、あなたの救いが来るからです。

11節をご覧ください。 「見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。」  主は地の果てのすべての人に聞こえるように、大声で呼び掛けておられます。

これは黙示録22章12節にも引用されているみことばでもあります。やがて世の終わりになると、イエス・キリストがさばき主としてやって来られます。その時、主はそれぞれのしたわざに応じて報いてくださるのです。あなたの救いがやってきます。それがもうすぐ完成するのです。

12節を見てください。ここには、また新しい名前で呼ばれると言われています。そのとき彼らは、「聖なる民」、「主に贖われた者」と呼ばれるようになります。「尋ね求められる者」とか、「見捨てられない町」と呼ばれるようになるのです。これまでは、そうではありませんでした。これまでは見捨てられ、荒れ果てていました。しかし、やがてイエス・キリストが来られるとき、あなたは聖なる民、主に贖われた者、見捨てられない町と呼ばれるようになるのです。なぜなら、あなたはイエス・キリストによって贖われた者だからです。イエス・キリストにあるという、たったこれだけのことで、神のものとされたからです。あなたに何か得があったからではありません。あなたが何かすばらしい、特別なことをしたからでもないのです。ただあなたが神を信じ、キリストによって罪贖われて神の子どもとされたので、あなたは特別の存在となったからです。あなたは神にとって喜ばれる存在であり、目の中に入れても痛くないほど尊い者となったのです。それは一方的な神の恵みによるのであって、あなたはそれをもうすぐ受け取る日がやって来るのです。あなたは救い主によってその報いを受け取ります。見よ。あなたの救いがもうすぐ来るのです。あなたはこのことを地の果てまで聞こえるように叫ばなければならないのです。

あなたが今、ここにいるのはそのためです。あなたはこのすばらしい喜びの知らせを宣べ伝えるために、ここに置かれているのです。それまで荒廃していた生涯が神のあわれみによって、そのひとり子が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたという事実を信じることによって救われ、見捨てられない町と呼ばれるようになるというすばらしい知らせを伝えるために、ここに置かれているのです。

神のみこころは、ひとりも滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることです。この救いの知らせを、ひとりでも多く人に伝えようではありませんか。主が地の果てにまで聞こえるように叫ばれたように、私たちもこの救いのことばを大きな声で叫ぼうではありませんか。

 

イザヤ書61章1~11節 「主によって喜ぶ」

前回は60章1節のみことばから、「起きよ。光を放て」というメッセージでした。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからです。罪を悔い改めて、主の贖いをいただいた神の民は、光輝く存在になって、周りの国々を照らすようにというのです。  この61章はその続きですが、続き以上です。そのように主に贖われた者はものずこい祝福を受けるようになることが語られます。それまでの悲しみが喜びに、憂いが賛美に変えられるのです。だから私たちはどんな状況にあっても、この主によって喜ぶことができるのです。

Ⅰ.悲しみが喜びに(1-3)

まず1~3節を見ていきましょう。 「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」

ここに「神である主の霊が、わたしの上にある」とありまりますが、この「わたし」とは誰のことでしょうか。これはイザヤ書の中でずっと示されてきた「主のしもべ」のことです。この方は主の使命を遂行するために選ばれ、立てられた人物ですが、ここには、主によって油を注がれ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために遣わされる方だと言われています。この方は捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰めてくださいます。ここまで読むと、これが誰のことを指していたかがわかるでしょう。そうです、これはやがて神によって遣わされる救い主イエス・キリストのことです。この「油をそそぎ」という言葉はヘブル語で「メシヤ」と言いますが、「救い主」のことです。すなわち、これは人々を罪から救ってくださる救い主イエスのことを預言していたのです。

ルカの福音書4章18~19節を開いてください。この箇所がイエス様によって引用されています。イエス様はその宣教の初期、自分の育った町ナザレに行き、いつものとおりに会堂に入って、聖書を朗読されました。それはイザヤ書でしたが、当時は巻物になっていましたのでその巻物を開くと、こう書いてある所を見つけました。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)

これはイザヤ書61章1,2節のみことばです。イエス様はこれを朗読されると巻物を巻き、係りの者に渡してすわられました。そこにいた人たちが固唾を呑んでイエスを見つめていると、イエスは人々に向かってこう言われたのです。

「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(21)

そこにいた人たちはみんなびっくりしたでしょう。イエス様は、このイザヤ書で預言されていた救い主はご自分のことであったと宣言されたのですから。イエスこそ油注がれた者、メシヤ、キリストだと宣言されたのですから。それで人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚きました。

しかしこのところを見ると、イエス様はイザヤ書61章1節と2節の途中までしか引用していないことがわかります。「主の恵みの年を告げ知らせるために。」で終わっています。本来なら「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ・・」と続くはずなのに、「主の恵みの年を告げ知らせるために」で終わっているのです。なぜでしょうか。それはここまでが救い主イエスが最初に来られた目的であったからです。その後の「われわれの神の復讐を告げ、」という部分は、後で成就します。それはキリストが再臨するときに成就することなのです。そのときキリストはさばき主として再び来られます。しかし、その前にキリストは救い主として来られます。その預言だっのです。その預言のとおりに、キリストは今から約二千年前に救い主としてこの世に来られました。貧しい人には良い知らせ伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げるために来られたのです。

皆さん、キリストは私たちを救うためにこの世に来られました。貧しい人に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、来てくださいました。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年を告げるために来てくださったのです。

皆さん、私たちは何と多くのものにとらわれながら生きていることでしょうか。私たちは、往々にして自分の欲望の赴くままに行動しています。それが自由だと錯覚しているからです。しかし、本当の自由とは自分の欲望のまま生きることではなく、自分の意志によって生き方を選択できることです。しかし、罪に捕らわれた者はそうした罪の誘惑を拒否しようとしてもできず、自分の意志によって選択することさえもできなくなってしまいました。

そんな罪に囚われたみじめな人間の姿を嘆いて、使徒パウロはこう告白しています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:24,25)

それは本当にみじめな人間の姿です。それはまさに死のからだなのです。いったいだれが罪に囚われた死のからだから私たちを救うことができるのでしょうか。だれもいません。ただ神だけが、神が遣わされた救い主だけができます。それゆえに彼は、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言ったのです。

イエスはこう言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31)罪を行っている者はみな罪の奴隷です。しかし、真理はあなたがたを自由にします。「もしキリストがあなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ8:36)キリストは、あなたを自由にすることができます。罪に囚われた状態から完全に解放することができるのです。

ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 – 1976年5月26日)は、「人間というのはみな死に閉じ込められいる存在だ」と言いました。死の奴隷になっているのが人間だというのです。そういうものの奴隷になつて、結局のところ死に服するのが人間だとあきらめていたわけですが、そういう私たちのために、イエス様は来られました。イエス様は、私たちの罪を全部背負って十字架について身代わりに死んでくださいました。それだけではありません。三日目によみがえられました。その復活の力をもって死を爆破するかのように征服されたのです。イエス様は「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年」を告げるために来られたのです。

ここには「主の恵みの年」という言葉がありますが、これはレビ記25章にある「ヨベルの年」のことです。この「ヨベルの年」とは、五十年ごとにやってくる解放の年です。その時にはあらゆる借金が棒引きになりました。また、奴隷に売られていた人々は解放されて家に帰ることができました。要するにこれは恵みの大解放であったわけです。そういう時がやって来るとイザヤは預言したのです。それは何を意味していたのかというと、このことです。やがてこの世界に救い主が来られ、罪に囚われている私たち解放してくださるということの預言だったわけです。罪によって苦しんできたこの人類がその罪から解放され、その罪を問わないという救いの時代がやってくるということのひな型だったのです。

イエスは、この恵みの年を告げ知らせるために来られました。それは霊的な問題であれ、精神的な問題であれ、肉体的な問題であれ、経済的な問題であれ、すべての問題における大解放です。ですからイエス様がおいでになられた時、その口から出る恵みの言葉に多くの人々が慰められたのです。盲人には目が開かれることを、足のなえた人はいやされ、死人は生き返りました。悪霊に縛られていた人も解放され、さまざまな問題に捕らわれていた人が解放されました。それだけではありません。罪を犯して、その結果である死に捕らわれていた人が赦される時が来たのです。それが主の恵みの年です。何という恵みでしょう。まさにアメージング グレーズです。それは私たちの人生を一変させます。3節をご覧ください。

「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」

シオンの悲しむ者たちは、灰の代わりに頭の飾りを着けてもらえます。灰というのは悲しみや嘆きのシンボルです。イスラエルでは大きな悲しみを被ったときに灰をかぶりました。たとえば、ダビデの娘タマルが異母兄弟アムノンに辱められたとき、タマルは頭に灰をかぶり、着ていたそでつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣いた(Ⅱサムエル13:19)とあります。それは悲しみの極致、極みの表現だったからです。しかし、キリストによって罪から解放されると、灰の代わりに頭に飾りをつけてもらえるのです。頭の飾りはお祝いのシンボルです。キリストはあなたの悲しみを祝福に代えてくださるのです。

また、悲しみの代わりに喜びの油を、とあります。これは祝福のシンボルです。油は王としての任職される時に注がれました。それは元気な者としての身だしなみでもありました。ぱさぱさしていません。しっとりとして、つやつやしています。悲しみの油がそのような祝福の油に変えられるのです。救い主イエスは、あなたの悲しみを喜びに変えてくださるのです。

また、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである、とあります。 憂いの心も讃美に代わるのです。

その結果どうなるか?「彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」とあります。皆さん、樫の木というのは堅くて立派な木です。一年中、常に緑の葉をつけ、生命力に溢れています。そんな樫の木のようになるというのです。樫の木は樫の木でも、1章30節には「葉のしぼんだ樫の木」もあります。神から離れ、自分勝手に生きる人は、葉のしぼんだ樫の木のようです。しかし、救い主キリストによって罪贖われ、罪から解放された人は、義の樫の木のようになるのです。

Ⅱ.主の祭司ととなえられる(4-9)

次に4節から9節までをご覧ください。まず4~6節までをお読みします。 「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。」

「彼ら」とは神のキリストによって罪贖われた人たちのことです。彼らは廃墟となったエルサレムと神殿を建て直し、荒廃した他の町々を新しくします。そして他国人は、彼らの羊の群れを飼い、ぶどう作りに励むようになります。これまではそうではありませんでした。これまでは他国人はイスラエルを苦しめていました。そうした他国人がエルサレムの人たちのために羊を飼い、畑を耕し、ぶどう畑の手入れをするようになるのです。

しかし、あなたがたは違います。あなたがたというのは神に贖われた者、シオンのことです。シオンは主の祭司となって、神に仕える者と呼ばれるようになり、世界の富と栄光をその身に受けるようになるのです。    これはものすごい祝福です。皆さん、祭司というのをご存じでしょうか。祭司とは民に代わって神にとりなしをする人のことです。また、神の恵みと祝福を民にとりつぐ人でもありました。この祭司ととなえられるのです。

たとえば、アブラハムはゲラルの王アビメレクのために祈りました(創世記20:17)。また、ヤコブがエジプトの王パロを祝福しました(創世記47:10)。これはどういうことかというと、立場が逆転しているということです。普通、身分の高い人が低い人を祝福するのに、下の人が高い人を祝福したのです。それは神がアブラハムやヤコブに、その地の王に勝る権威や立場を与えてくださったということです。ですから、神の祭司であるということはとても栄誉なことなのです。その神の祭司ととなえられるようになるのです。そして、私たちクリスチャンにはこの立場が与えられていると約束されています。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Iペテロ2:9)

「あなたがた」とはクリスチャンのことです。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためなのです。

そればかりではありません。7節をご覧ください。 「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」

二倍の祝福です。あなたの恥に代えて、あなたは二倍のものを受けます。この二倍というのは文字通りの二倍というよりも象徴的な数字と考えた方がいいかと思います。豊かな祝福を受けるということです。旧約聖書の律法でも、「盗んだものは必ず二倍にして返さなければならない」(出エジプト22:4)とあります。倍返しです。イスラエルはずっと略奪されてきましたが、ちゃんと報われる時がやってくるのです。このように失われたものが倍にして返されるなら、私たちも期待したいと思います。あなたから奪い去られるものがあるでしょうか。あなたの時間も、労力も、お金も、持ち物も、いろいろな物が盗まれたとか、いろいろなひどい目に遭ってきたということがあるかもしれません。でも神様は二倍にして報いてくださいます。

そして8節には、「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。」 とあります。

「わたし」とは主なる神のことです。主はどのような方なのでしょうか。主は公義を愛する方です。公義とは律法にかなった正しい行いのことです。聖書にしたがって正しい行いをすること、それは神様が愛されることです。だから私たちもそれに従うのです。神が愛されることを行うわけです。もしかしたら、それは少数派の、ほんの一握りの人たちかもしれません。マイナーかもしれません。大多数の人は聖書なんてどうでもいいと、自分たちの考えに従って行動するかもしれませんが、我が家と我は主に仕えん、です。私たちはただ主が示される道を歩むのです。それは主は公義を愛する方だからです。人はあなたを非難するかもしれません。人はあなたを煙たがるかもしれません。しかし、それでも私たちは主が示される道を歩みます。なぜなら、主は公義を愛する方であって、そのような者を祝福してくださるからです。  そのような人は9節にあるように、決して揺らぐことのない永遠の祝福を受けるようになるのです。

Ⅲ.主によって喜ぶ(10-11)

ですから結論は何かというと、主によって喜ぶということです。10、11節をご覧ください。 「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ。」    10節の「わたし」というのは、文脈上、1節から見ていただくとわかりますが、メシヤのことです。救い主イエス・キリストのことを指して言われています。

ですから、これはイエスが主によって大いに楽しみ、イエスのたましいも、父なる神によって喜ぶということです。主がイエスに、救いの衣を着せ、正義の外套をかぶらせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからです。ということは、イエス様も救いが必要だったという意味ではありません。これはイエス様が救いを帯びて来られたという意味です。イエス様は救いを帯びて来られました。正義の外套をまとい、花婿のような栄冠と、花嫁のような宝石で飾られてやって来られました。

それはイエス様だけのことではありません。このイエスを信じ、イエスに連なる者とされた私たちも、イエス様と同じ祝福にあずかることができるのです。なぜなら、私たちはキリストとともに、キリストとの共同相続人であるからです(ローマ8:17)。イエス様が祝福されるとき、私たちも祝福されます。イエスの栄光は私たちの栄光でもあるのです。イエスのものはすべて私たちのものなのです。なぜなら、私たちはイエス様とともに神の祝福にあずかる共同相続人だからです。私たちはそのような祝福が約束されています。来るべき千年王国では、イエス様とともに王としてこの地上を治めるようになるのです。何とすばらしい約束でしょうか。本当に私たちは弱く、足りない者ですが、それでもイエス様が主によって大いに楽しみ、喜ばれるように、私たちもこの神によって楽しみ、喜ぶことができるのです。

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)

私たちにはこのような栄光が約束されているのです。現実の生活は厳しいことばかりです。誰もがさまざまな悩みや苦しみを抱えています。社会の問題も深刻です。経済の事も、こどもの教育のことも、親の介護のことも、家族の病気のことも、どれも厳しいことばかりです。けれども、私たちには確かな希望が与えられているのです。貧しい者に福音が伝えられ、心傷ついた人もいやされます。捕らわれ人には解放を、主の恵みの年が告げられました。すべての者が慰められ、悲しみの代わりに喜びが、憂いの代わりに賛美がもたらされました。こうした現実の生活の中にあっても、私たちはキリストにあって喜ぶことができるのです。感謝することができるのです。厳しい現実の中に、こうした主の恵みを忘れないで、主に賛美と感謝をささげようではありませんか。

これは「一生感謝365日」にあった言葉です。アメリカの新聞に15歳の少女がこのような投稿をした。 「私は不幸です。自分の部屋をもってないし、両親の干渉が強くて私を信じてくれません。私のことを好きな男の子もいないし、素敵な服ももっていません。私の将来は真っ暗です。」  この投稿を読んだ13歳の少女が、新聞社にこのような文を送った。 「私は歩くことができません。人が歩いたりすることがどれほど大きな幸せでしょうか。私は歩くことができませんが、見たり聞いたり、話したりすることができるので、足の不幸に不平を言う代わりに、感謝をしています。」

考えさせられる内容です。私たちはこの世で無いものを見てはすぐに嘆き、不平を言う者ですが、自分たちに与えられているものがどれほど大きな恵みなのを見ていません。神は私たちに救いを与えてくださいました。将来の希望も祝福も与えてくださいました。私たちが見なければならないのは、私たちに救いを与えてくださった主です。私たちはこの方にあって大いに楽しみ、喜び、賛美することができます。今週も、私たちに与えられた救いを見て、主に賛美と感謝をささげましょう。

イザヤ書60章1~22節 「起きよ。光を放て。」

きょうは、イザヤ書60章から「起きよ。光を放て」というタイトルでお話します。これは、神の恵みによって救われた神の民に対して語られていることばです。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(59:16)主は一方的な恵みによって私たちを救ってくださいました。その神の民に語られていることは「起きよ。光を放て」ということです。  きょうはこの箇所から、神の民であるクリスチャンにもたらされる栄光がどのようなものか、どのように輝いたものなのかを一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.起きよ。光を放て(1-3)

まず最初に1節から3節までをご覧ください。1節には、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」とあります。 この「あなた」とは誰のことでしょうか。それは罪を悔い改めた者、シオンのことです。59章19,20節には、「そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上る方では、主の栄光が恐れられ。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」とあります。これは主イエスの再臨の預言なのです。主イエスはどのような人のところに来られるのでしょうか。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者たちのところ、その罪が贖われた者たちのところです。ですから、これはクリスチャンたちのことを指して言われているのです。そのクリスチャンたちに語られていることはどういうことでしょうか。起きて、光を放て、です。なぜなら、あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからです。

「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」(2)

まさに現代はやみです。暗やみです。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっています。しかし、クリスチャンは決してやみの中を歩むことはありません。なぜなら、クリスチャンの上には主が輝いているからです。主はこう言われました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

イエス様はこの世の光です。あなたではありません。あなたが世の光なのではないのです。イエス様が世の光です。私たちはその光を受けて、その光が私たちの上に輝いているので、私たちは決してやみの中を歩むことはないのです。いや、そればかりではなく、国々の民はこの私たちの光のうちに歩み、王たちは私たちの輝きに照らされて歩むのです。私たちにはまさに燈台のような使命が与えられているのです。

マタイの福音書5章14~16節を開いてください。そのところで主はこう言っておられます。 「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14~16)

皆さん、私たちは世界の光なのです。光は何のために存在しているのでしょうか。照らすためです。その光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられる私たちの父があがめられるようにしなければなりません。

ゴスペルシンガーのレーナ・マリアさんは、生まれたときから両手がありませんでした。そのうえ、左足の長さも右足の半分ぐらいしかなかったのです。両親は初めびっくりしましたが、すべての人は等しく価値ある人間だという信念から、精一杯の愛情を注いでレーナさんを育てました。障害があるからといって甘やかさず、普通の子どもと同じように育てました。もちろん、困難なことはたくさんあったでしょうが、レーナさんは、何でもできるだけ自分でするようにして、辛抱強く一つ一つを克復していきました。字を書くことはもちろんのこと、お料理も、裁縫や編み物も、パソコンも、ピアノを弾くことも、そして車を運転することも、できるようになりました。口とあごと両手を使って何でもできるようになったのです。3歳からは水泳を始めて、ソオルのパラリンピックでは優秀な成績を収めました。  そのレーナ・マリアさんが日本のテレビに出演したとき、キャスターが、「体が不自由で大変でしょう。それなのに、どうしてそんなに明るい笑顔でいらるんですか」と尋ねると、レーナさんはにこにこしながら、こう答えました。「私は神様からたくさんのものをいただいているので、不自由だと思ったことがありません。イエス様はいつも私のそばにいてくださいます。だから、いつも神様に感謝しているんです」  レーナさんは、このような体で生まれたのは、神様が特別な目的をもっていらっしゃるからだと考えています。そして、その神様の目的を達成するために精一杯努力したいと言って、美しい声で神様を賛美し、さわやかな笑顔で神様のすばらしさを証しているのです。長野のパラリンピックの開会式では、「わが魂、いざたたえよ。大いなる御神を」と高らかに神様を賛美して、世界中の人に感銘を与えました。また、先の震災復興のコンサートでも多くの人たちに慰めを与えました。

それは何もレーナさんのように特別な人だけのことではありません。私たちもそうなのです。今、阿久津恵美さんが証をしてくださいました。阿久津さんがクリスチャンになられたのは、かつて米国の証券会社に勤めていた時に同じフロアーにいた一人の女性との出会いがきっかけでした。毎日怒号が飛び交う殺伐とした職場の中でも、その方はつも笑顔を絶やさないで、だれにでも親切に接しておられたので、誰からも愛されていました。こんな殺伐とした職場でどうしてそんなに穏やかにしていにれるのかと思った阿久津さんは、ある日その女性に尋ねました。すると彼女は「神様を信じているから」と言いました。その方はいろいろと説明してくれたのですが、ただ一つわかったことは、その神様というのは仏陀でも、マホメットでもなく、イエス・キリストであるということです。それで阿久津さんはその週末から近くの教会に行くようになったのです。その方の存在が阿久津さんを救いへと導くきっかけを与えてくれたのです。阿久津さんにとってその方は光のような役割を果たしてくれました。阿久津さん曰く、「人は行いだけでは救われませんが、しかし、彼女の存在そのものがイエス様の香り放ち、愛を示していたことで、私の中に蒔かれていた信仰の芽を芽吹かせるきっかけとなりました。」    アーメン!皆さん、私たちの存在そのものがこの世の暗やみを照らす光なのです。人は行いだけによっては救われませんが、私たちの良い行いを見て、天の父をあがめるようになるのです。そういう意味では笑顔は大切ですね。一生懸命に作る笑顔ではなくその人の心から溢れ出るような笑顔、優しい言葉、親切な態度、愛に溢れた行動、そうした良い行いによって、天の父があがめられるようにしなければなりません。

Ⅱ.目を上げて、あたりを見よ(4-9)

次に4~9節までをご覧ください。4節には「目を上げて、あたりを見よ。彼らは集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」とあります。

どういうことでしょうか。これは終末的預言で、やがて神の子とされる数えきれない人々が救われ、主に導かれてくるということです。リバイバルです。具体的には、あなたの証しによって、イエス様を信じ、救われた神の子たち、ここでは息子とか娘と呼ばれていますが、そういう人たちが教会に集うようになるのです。伝道というと、人の誤りや罪を指摘し、イエス様を信じるようにと説得することだと考えている人が多いようですが、このところを見ると、伝道とはそういうものではないことがわかります。伝道とは、あなた自身がイエス様とイエス様の御言葉にしっかりつながることによって愛の実を結び、あなたの内にあるイエス様の光に、人々が引き寄せられてくることなのです。いつでも、どこでも、あなたは光であるイエス様だけを見上げて、人々を愛し、仕えればよいのです。そうすれば、人々はあなたに引き寄せられてきます。それが伝道です。あなたを救われたイエス様の光を指し示すのが伝道なのです。

そのとき、主の祝福が、あなたのもとにやって来ます。5節には、「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。」とあります。「海の富」とは、海からの産物のこと、諸国の財宝も彼らのものとなります。

そればかりではありません。6節を見てください。6節には、「らくだの大群、ミデヤンとエファの若いらくだが、あなたのところに押し寄せる。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて来る、主の奇しいみわざを宣べ伝える。」とあります。  「ミデヤン」とか「エファ」とは、イスラエルの南方にある広大な砂漠地帯のことです。モーセはエジプトから逃れたときこのミデヤンの荒野に来て、ここで羊を飼っていました。そのミデヤンとエファからはらくだの大軍が押し寄せてくるというのです。  「シェバ」とは今のサウジアラビヤのことですが、そこから来る者は黄金と乳香を携えてやって来ます。イエス様がお生まれになったとき、東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬をイエス様に献げましたが、それはこの預言の成就でもあると言えます。

7節を見てください。7節には、「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕え、これらは受け入れられるいけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。わたしは、わたしの美しい家を輝かす。」とあります。「ケダル」も南方の荒野の地域のことですが、そこからは羊の群れを携えてやって来るようになります。しかし、これは単なる羊の群れというよりも、主を礼拝するためのいけにえとしてささげられるということが言われています。どういうことでしょうか?

ケダルとはイシュマエルの子孫たちのことです。アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたこどもですね。それがイシュマエルです。その子孫がケダルです。聖書を見ると、このイシュマエルの子孫であるケダルは、ずっと神の民であるイスラエルに敵対すると預言されています(創世記16:12,25:18)。その預言のとおりに、イシュマエルの子孫であるアラブ人はずっとイスラエルに敵対していました。それはこの聖書の預言でもあるのです。イスラム教の創始者であるムハンマドは、自分はこのイシュマエルの子ケダルの子孫であると言っていますが、イスラム教徒やアラブ人は昔から今に至るまでずっと、イスラエルに敵対してきたのです。しかし、そのような人たちでさえも、世の終わりになると神の都にやって来て、まことの神を礼拝するようになります。自分のたちの家畜をいけにえとしてイスラエルの神の神殿でささげるようになるのです。これは本当に麗しいことではないでしょうか。これまでどんなに神に敵対していた人でも、どんなに呪われていたような人でも、主は必ず救いの手を差し伸べてくださいます。そして神の民の一員として加えてくださり、神の民と一緒に神の救いをほめたたえ、心からの感謝のささげ物をささげるようになるのです。ここに「わたしは、わたしの美しい家を輝かす」とありますが、そのようなことによってさらに主の宮は美しく輝くようになるのです。

そして8節と9節です。「タルシシュの船は真っ先に、あなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに、あなたの神、主の名のために、イスラエルの聖なる者のために運んで来る。」

「タルシシュ」とは今のスペインにある町のことです。後に、そこには多くのイタリヤ人が移民しました。ですから、ここにはヨーロッパから運ばれてくる品々がどんなものであるのかが記されてあるのです。そしてヨーロッパから運ばれてくるのは多くの金銀、莫大な財宝であります。それはまさに大きな雲が押し寄せて来るようであり、巣に帰る鳩が群れをなして押し寄せて来るようです。つまり、この世の終わりには、世界の果てから、四方八方から、多くの人々がそうした財宝を携えて、あなたのもとにやって来るようになるのです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。「主があなたを輝かされたから」です。私たちは神の子どもとして、神のすべての祝福を相続するようになったからです。

神の子どもとされたことで得た栄光、やがて来る栄光はどんなに輝いたものでしょう。あなたはこれを見なければなりません。目をあげて、あたりを見なければならないのです。罪贖われて神の子どもとされた者に与えられる祝福がどんなに大きなものなのか、その栄光がどんなに輝いたものであるかを見るなら、あなたはこの主の光を輝かせることができるようになるでしょう。

Ⅲ.主があなたの永遠の光となる(10-22)

最後に、この御国の栄光とその輝きについて見たいと思います。10節から終わりまでのところです。10節から13節をご覧ください。 「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたをあわれんだ。あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、共に、あなたのもとに来て、わたしの聖所を美しくする。わたしは、わたしの足台を尊くする。」

「城壁」とは、エルサレムの神殿の城壁のことです。これまで外国人の王たちは、城壁を打ち壊す者でした。アッシリヤにしてもそうですし、バビロンにしてもそうです。またローマ帝国もそうでした。外国の王たちはみなエルサレムを踏みにじり、その神殿を粉々に破壊しました。今、そこには嘆きの壁と呼ばれている壁があるだけです。しかし、この世の終わりにはそうではありません。逆に、彼らは城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕えるようになります。エルサレムの再建のために、王たちが仕えるようになるのです。

11節には、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。」とあります。  これはやがてもたらされる新しいエルサレムの光景です。黙示録21章25節にも同じことが言われています。つまり、これは天の御国のことが語られているのです。このイザヤ書60章と黙示録21章は対になっている箇所です。同じことが預言されています。紀元前700年頃に見たイザヤの幻と紀元100年頃に見たヨハネの幻は同じものだったのです。ということはどういうことかというと、これは必ず起こるというこです。天国は絶対にあるということです。私は牧師として時々思うことがあります。こうやって天国のことをいつも宣べ伝えておきながら死んだ後で天国がなかったらどうしよう・・・と。私の一生は何だったのか・・・と。そのために仕え、そのために労してきたのに、死んでみたらそれがなかったとしたら、それほど虚しいことはありません。けれども、こうしてイザヤもヨハネも同じものを見ていたことを知るなら、「ああ、やっぱり間違いではなかった!」という確信が与えられます。イザヤもヨハネも言っていることは、この都の門は一日中決して閉じることがない、ということです。なぜ?そこにはいつも国々の財宝が運ばれて来るからです。そこにはレバノンの杉やもみの木、すずかげ、檜といった木々が運ばれて来て、神の神殿を美しく飾るようになります。かつてレバノンの杉を使ってソロモンが神殿を建てたように、世の終わりの新しいエルサレム(天国)も完全なレバノンの杉が神の神殿を美しく飾るのです。

これと同じ光景が19節と20節にもあります。 「太陽がもうあなたの昼の光とならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」

この神の都は、太陽と月はもはや必要ありません。なぜなら、主ご自身が永遠の光となって、太陽にまさる光で都を照らされるからです。暗い夜に星が輝いているときれいですね。昔はその星によって旅人が旅の方角を知りました。航海する舟が後悔することがないように、ちゃんと行く道を定めるように星を見て航海したのです。ところがその星でさえ、太陽が出たら消えてしまいます。太陽の光というのはものすごく明るいです。ところが、その太陽の光でさえ、栄光の主の前には消えてしまうのです。私たちは太陽を見ると、目が焼けてしまいますから、いぶしたガラスなどで見ますが、主の栄光を見るということは太陽どころではありません。罪人はその前で立っていられないのです。しかし、その私たちの罪が赦され、聖められて主イエスが再びおいでになられたるとき、太陽の光にもまさる栄光を私たちはこの眼をもって見ることができ、拝することができるのです。いいえ、そればかりではなく、この栄光の主と永遠に交わりをもつことができるのです。そういう時が来ます。

ここに「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない」とあります。いい言葉ですね。いくら明るい太陽でも雲があったら隠れてしまいます。夜になったら沈んでしまいます。けれどもこの太陽は隠れることも、沈むこともありません。私たちの心のうちに与えられた神の恵みが、永遠に輝き続けるからです

22節の最後のところには、「時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。」とあります。そういう時が必ず来るぞ!とイザヤは告げました。時が来れば、主がすみやかにそれをされます。それは私たちでさえまだ見ていない、これから何年先、何千年先に起こるかわからない出来事、けれども、それは必ず起こる出来事であると、イザヤは神の聖霊によって見ていたのです。あなたはこのことを見ておられますか。あなたが見ておられるのは何ですか。目の前の苦しみや患難ですか、それとも、やがてもたらされる栄光でしょうか。今の生活がどんなに苦しくても、それがすべてではありません。クリスチャンには暗やみを照らす光があるのです。その光があなたの上に輝いています。この光に照らされることによって、私たちは現実の生活での不安や絶望を克復していくことができるのです。どんな暗やみの中にあっても輝くことができるのです。その光を私たちはこの世の中で輝かせなければなりません。

昨年、7月22日午前9時15分、JR南浦和駅のホームで30歳の女性が足を滑らせて京浜東北線の電車とホームに間に挟まれるという事故が起こりました。その女性は幸い電車とホームの間にウエストがひっかかり、線路のある地面に落ちませんでした。しかし、その女性を救い出すためには電車をゆっくりと動かさなければなりませんでした。駅のスタッフはホームと乗客にこのことを伝え、このため電車が遅れるとアナウンスすると、約40人くらいの人が線路に下りて行き、みんなでゆっくりと電車を反対側に押し始めました。それで電車とホームにはさまれていた女性は全く無傷で、何のけがをするみとなく救い出されたのです。彼らはホームに落ちて危ない人がいるということを聞いたとき、何とかしなければならないという気持ちになり、自分にもできるならと、ホームに下りて行ったのです。一人一人の力は小さくても、このようにみんなで協力し合うことによって一人の女性が救い出されたのです。

これは私たちの伝道においても言えることです。私たち一人一人の力は小さいですが、この世の中で迷っている人がいることを知り、何とかしなければならないという思いを持って立ち上がり、お互いに協力し合うなら、必ず救い出すことができます。それがあなたがたの光を輝かせるということではないでしょうか。私たちはそういう教会でありたいと願います。神を知らないで滅びに向かっている人を救い出すために一つ一つの光が助け合って大きな光となってキリストを証していく。そこに大きな神の栄光が現されていくのです。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」私たちも主の光を受けて、主の証人として輝かせていただきましょう。