きょうはイザヤ書から最後のメッセージです。聖書全体の最後が黙示録であり、その最後に新しい天と新しい地の預言で終わっているように、このイザヤ書の最後も新しい天と新しい地の預言で終わります。きょうはこの最後の箇所から、「永遠をどこで」というタイトルでお話したいと思います。
Ⅰ.のがれた者たち(18-19)
まず18節と19節をご覧ください。18節には「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた物たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」
どういうことでしょうか。ここには、主がどのようにご自身の栄光を諸国の民に告げ知らせるのか、その計画と方法が語られています。それはイスラエルの中ののがれた者たちにしるしを置き、彼らを諸国に遣わして、まだ一度もまことの神について聞いたことのない人々に神の栄光を告げ知らせるというものです。ここには、「タルシシュ、プル、弓を引くものルデ、トバル、ヤワン、遠い島々」とあります。タルシシュとは今のスペインです。それからプル、これはエジプトに隣接するリビアのことだろうと考えられています。それからルデ、これも北アフリカの西方の地域のことと考えられています。そしてトバル、これは今のトルコあたりのことで、ヤワンはギリシャのことです。遠い島々、これは世界中の遠い島々のことで、この中には日本も含まれます。すなわち、彼らを通して全世界に神の栄光が宣べ伝えられるというのです。
ところで19節に、「彼らの中にしるしを置く」とありますが、このしるしを置かれた人とは誰のことでしょうか。ある人たちはこれを黙示録7章に出てくる十四万四千人のことだと考えています。彼らはその額に印を押されていて、その数は十四万四千人でした。この人たちは誰かははっきりわかりませんが、ここには、イスラエルの12部族からそれぞれ1万2千人ずつ選ばれた人であるとあります。彼らはその後、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集とともに、御座と小羊との前に立って礼拝をささげます。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙示録7:10)と。すなわち、彼らは諸国の民を救いに導くために遣わされたユダヤ人であり、彼らによって救われた人たちと一緒に、天国で大声で主を賛美するようになった人たちだ、というのです。
いったいそれはだれのことでしょうか?ある人たちこれを使徒の働き1章15節に出てくる120人のキリストの弟子たちのことだと考えます。彼らはイエスさまが天に昇って行かれた後エルサレムにあった家に泊まり、心を合わせて祈っていましたが、その時天から聖霊が下り、イエス様のことを力強く語り始めました。そして最初の教会が誕生するのです。そして、彼らを通して福音がエルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで宣べ伝えられていきます。そこにはペテロやヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモン、ヤコブの子ユダといったキリストの弟子たちでしたが、彼らを通してキリストの福音が全世界に宣べ伝えられていきました。この人たちのことを指しているのではないかというのです。
しかし、このしるしとはおそらくそうではないと思います。このしるしとはイエスさまご自身のことを指していると思われます。というのは、マタイの福音書12章38-~40節にこうあるからです。
「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」
イエスさまは、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられていないと言われました。そのしるしとは何か。ヨナが三日三晩大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるということです。イエスさまこそ十字架で死なれ、よみにくだられ、三日三晩地の中におられた方です。ですから、このしるしとはイエスさまのことを示していたのです。だとすると、このしるしを置かれた人とはだれのことかというと、イエスさまを信じたクリスチャンのことなのです。神が選ばれたのがれた者たちとはクリスチャンのことであり、神はキリストというしるしを彼らの上に置き、彼らを通して全世界の、まだイエスさまを知らない人たちに福音を宣べ伝えさせ、そこに救われる人たちを備えてくださり、神の元に集めてくださるという預言だったのです。ですから、これは福音が全世界に宣べ伝えられている今の時代の預言であり、今も継続して行われていることなのです。神は私たちクリスチャンを通して、地の果てにまで、神の栄光を宣べ伝えよるようにと計画しておられたのです。
神はそのために私たちを選んでくださいました。「あなたがたが私たちを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って、実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしのなによって求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16) 神はこの尊い働きのためにあなたも選んでくださいました。あなたは「のがれた者たち」なのです。そののがれた者として、すべての国々に主の栄光を伝える使命が与えられているのです。あなたはその準備ができているでしょうか。主の栄光をすべての国々伝えるために、あなたはどのように備えているでしょうか。
Ⅱ.歴史の最終ゴール(20-23)
次に20節から23節をご覧ください。20節には、「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。」とあります。
20節の「彼ら」とは、こののがれた者たちのことです。彼らは、すべての国々から救われた人たちを呼び集め、「主への贈り物」として聖なる山エルサレムに連れて来るのです。何のためでしょうか。礼拝するためです。そこでユダヤ人の中でイエス様を信じて救われたクリスチャンと、異邦人の中でイエス様を信じて救われたクリスチャンが一つになって神を礼拝するためです。
22節をご覧ください。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、―主の御告げ―あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」
神が造られる新しい天と新しい地は、神の前にいつまでも続きます。それは決して滅びることはありません。そして、神のみもとに集められた神の民たちも、決して滅びることはありません。彼らは永遠に生き続けるのです。この世の終わりにはすべてのものが焼けてくずれ去りますが、新しい天と新しい地はいつまでも続きます。そして、その新しい天と新しい地を相続するクリスチャンもいつまでも生きることになります。そこで終わることのない神の保護と助けを受けて、永遠に神と共に生き続けるのです。いったい私たちは、そこで何をするのでしょうか。23節をご覧ください。
「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と主は仰せられる。」
彼らはそこで神を礼拝します。すべての人が主の前に来て、礼拝をささげるのです。これが天国です。救い主イエス・キリストを信じ神の民とされたクリスチャンは、永遠に神をほめたたえるようになるのです。黙示録21章にはその様子が語られています。
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」(黙示録21:1-7)
皆さん、神の民であるクリスチャンには、この勝利が約束されているのです。神の幕屋が人とともにあり、神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。神ご自身が彼らとともにいて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら、以前のものが過ぎ去ったからです。新しい天と新しい地で神からいのちの水を、価なしに飲ませていただけるのです。私たちはこの天国で、永遠に神を礼拝するのです。何という慰めでしょうか。
皆さん、これが歴史の最後、歴史の最終ゴールです。すべての人は神の前に来て、礼拝をささげるようになるのです。これが神の救いの計画の究極の目的なのです。私たちはいったい何のために造られたのでしょうか。それは神を礼拝するためです。永遠に神をほめたたえるためです。そのために罪が贖われました。だから、礼拝なんかしたくないという人は、天国には一人もいません。神様なんて信じないなんていう人は誰もいないのです。天国にいる人はみなイエスさまの救いのみわざに感動し、感謝しているので、その救い主に心から礼拝をささげたいのです。
私は1994年に初めて韓国を訪れたとき、光林教会という世界で一番大きなホーリネス教会の礼拝に出席したことがありますが、とても驚きました。3千人は入ると言われるその礼拝堂で、大勢の聖歌隊とオーケストラといっしょに礼拝をささげるのです。礼拝が始まると自動的にカーテンが閉じて、オーケストラが奏でる讃美歌が流れます。新聖歌23番の「来る朝ごとに」でした。とても厳かな感じがしました。賛美しながら体が震えるような聖さを感じました。涙がとまりませんでした。ものすごい主のご臨在に圧倒されました。もういつまでもそこにいたい、いつまでも主を賛美していたい、そんな時間でした。
天国での賛美はそれ以上です。主がそこにおられるのですから。大勢の人で神をほめたたえのです。これほどすばらしいことはないと思えるような感動と喜びに包まれるでしょう。他のことはもうどうでもいいと思うくらいに、永遠に神をほめたたえることができる。それが天国です。こんなにすばらしい世界は他にはありません。すべての人がこの天国で神の前に来て、神をほめたたえるのです。これが神の民であるクリスチャンに約束されている最後です。あなたはこの中に含まれているでしょうか。
Ⅲ.永遠をどこで(24)
しかし、イザヤ書はこれだけで終わってはいません。24節のことばが加えられています。23節で終わってもよかったのに、24節のことばが加えられているのです。それはどのような内容でしょうか。最後にこの24節をお読みします。
「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」
実は、これは地獄の描写です。これがゲヘナと呼ばれる所です。マルコの福音書9章47~48節を見ると、イエス様はここから引用されました。
「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
イエス様がこれを引用されたということは、これがほんとうにあるということなのです。皆さん、人は死んだらどうなるのでしょうか。
先週の日曜日の夜のNHKスペシャルで、「臨死体験 人は死ぬときどうなるのか」が放映されました。20年余り前、臨死体験について徹底的に取材し考察を深めてきたジャーナリストで評論家の立花隆さんは74歳を迎え、がんや心臓の病を抱えて死を間近に感じている今、再び臨死体験の最新研究の現場を見つめ、“死”について見つめ直しました。果たして人は死んだらどうなるのか。死の間際に一定の人が見る臨死体験が世界で注目され始めた1980年代以降、それは脳内現象として科学で説明できるとする「脳内現象説」と、肉体が死んでも“魂”が存在し続けるという「魂存在説」の二つの説が互いに相容れない、激しい議論が続けられてきた中で、立花さんは新たな臨死体験の掘り起こしをすると同時に、そもそも魂とは何なのかを最新の脳科学や心理学、哲学にいたるまで、徹底した取材に基づいて正面から挑みました。科学的に見て、死後の世界があると言える余地はどれくらいあるのか。死後の世界がないとしたら、『私(自分)』という存在をどう説明することができるのか。私たちが当たり前と思っている『私』という存在はいったい何なのか。有史以来、人類が追い求め続けてきた生と死にまつわる壮大な謎に挑むわけのです。 立花さんの結論としてはわからないということですが、その中で長らく死後の世界を否定してきた二人の科学者が、死後の世界はあると確信するようになったことを紹介していました。 一人はエベン・アレキサンダー(Eben Alexander)博士です。彼は脳神経外科の権威ですが2008年に急性細菌性髄膜炎という重い病にかかり、脳の新皮質に深刻なダメージを受けてこん睡状態に陥った経験から、死後の世界はあると確信するようになったというのです。ハーバード大学で教育を受け、25年にわたって神経外科医として一線で活躍する彼は、自分が病気にかかる以前はこの死後の世界を否定していましたが、この経験を通して彼の確信は全く変えられたのです。 もう一人はレイモンド・ムーディ(Raymond Moody)という科学者です。彼はアメリカの医師で心理学者でもありますが、長年、臨死体験を研究してきた第一人者で、著書に「かいまみた死後の世界」とか「死者との再会」など多数書いておられます。彼は1991年3月にNHKが放送した「立花隆リポート 臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか」で死後の世界を否定していたのですが、その23年後のこのレポートでは、死に対して大きな心境の変化がありました。レイモンド博士はこの23年の間に精神が病み自殺を図り臨死体験をする中で、死後の世界を信じるようになりました。「なぜそこまで見解が変わったのですか?」という立花さんの問いに、彼はこう答えています。
「私は、自分の心をより見つめるようになったのです。心はすばらしく魅力的なものです。当時は死後の世界を認めず、他の説明をこじつけようとしました。しかし、それは死後の世界はあると明確に言い切れなかったので、認めることから逃げていたのだと思います。その一方で、今自分が自分で言っていることに驚いています。客観的に考えてみれば、死後の世界があり、人生の終わりにあの世が続いているとはっきり言えること自分に矛盾を感じます。なぜそうなったのかは本当に自分でもわかりません。でもそもそも人生は死ぬまで理解できないものなのです。私たちが死ぬとき何があるのか、私たちの論理や思考が不十分であるため、なかなかわからないのだと思います。ただわかっていることは私たちが死ぬとき臨死体験という冒険をしながら人生を全うしていくということでしょう。あなたが永遠に落ち着ける場所を見つけられるように祈っています。」これが長年臨死体験を研究してきたムーディー博士の言葉です。
人は死んだらどうなるのでしょうか。この二人の体験に基づかなく共、聖書は明確に語っています。人は死んで肉体が滅んでも、魂は永遠に生き続ける・・・と。ただ生き続けるだけではありません。そこには天国と地獄があって、そのどちらかで生きるようになると語っています。すなわち、神の子イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる人は天国で、永遠に神とともに生きるようになり、そうでない人、つまり、イエスさまを信じない人は地獄に行くようになるのです。そこにはうじがわいていて、そのうじは死なず、その火も消えることもありません。それが地獄です。あなたはどこで永遠を過ごしたいですか。天国ですか、それとも地獄ですか。私は地獄には行きたくないけど、天国にも行かなくてもいい、私は中国がいい、なんて言う人がいますが、死後の世界には中国はありません。天国か地獄のいずれかしかないのです。だとしたら、神の救いであるイエス・キリストを信じて天国に行った方がいいじゃないですか。神はそのためにイエスをこの世に遣わしてくださったのです。神はあなたが救われて永遠のいのちを持つことを願っておられるのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)
これが聖書の要約であり、イザヤ書の結論でもあります。御子を信じる者はさばかれません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれているのです。どうかさばかれることがないように、神の御子を信じてください。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ロー10:9-10)
イエスを信じて、口で告白する者だけが救われます。そうでない者は、天国に行くことができません。そういう人は地獄に行きます。そういうことがないように、あなたも罪を悔い改めて、救い主イエスを信じてください。信じるなら天国に行くことができ、そこで永遠に神をほめたたえ、神を喜ぶことができます。それこそ神によって造られた私たち人間にとっての究極のゴール、目的なのです。天国でも一緒に永遠に神を賛美しようではありませんか。天国か地獄か、どちらを選ぶかは、あなたの選択にゆだねられているのです。