出エジプト記23章

  今回は、出エジプト記23章から学びます。

1. 法廷での証言について(1-13)

 まず、1節から3節までをご覧ください。
「1 偽りのうわさを口にしてはならない。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならない。2 多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。3 また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。」

20章で語られた十戒の具体的な適用としての定めが語られています。これまでは、一般の社会生活の中でどのように適用したらよいかが語られてきましたが、今回の箇所には、裁判での証言について取り上げられています。裁判においてはまず、偽りのうわさを口にしてはなりません。「偽りのうわさ」とは、現代訳聖書には「根拠のないうわさ」と訳されていますが、根も葉もないうわさのことです。これを流すことによって真実がどれほどゆがめられることになるでしょう。それが裁判の判決に大きな影響をもたらすのは明らかです。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならないのです。

また、2節には「多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。」とあります。新改訳第三版では「権力者」と訳していますが、直訳では「多数の者」という言葉なので、その点ではこの新改訳2017の訳の方がより原文に近い訳です。しかし、「多数に従って悪の側に立ってはならない」とはどういうことなのでしょうか。関根訳ではこれを、「悪を行うために多くの者に追随してはならない」と訳しています。権力者や多くの者に追随して不正な証言をしてはならないということです。

だからと言って、弱い者を特に重んじてもなりません。正義を曲げてまで味方する必要はないのです。申命記16:20には、「正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を自分の所有とすることができる。」とあります。これが、神が求めておられることです。

次に、4節と5節をご覧ください。ここには、「4 あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。5 あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。」とあります。
 敵の牛やろばが迷っているのに出会ったら、必ずそれを彼のところに連れ戻さなければなりません。また、あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見たら、それを見過ごしにせず、一緒に起こしてやらなければなりません。なぜなら、神様はそのような方であられるからです。神様は良い日にも悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます(マタイ5:45)。自分を愛してくれる人を愛したからといって、何の報いも受けられません。そんなことはだれにでもできることです。また、自分にあいさつしてくれる人にだけあいさつしたからといって、特に勝ったことをしているわけではありません。異邦人でも同じことをします。神によって救われた神の民に求められていることは、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなのです。

  次に、6節から8節までをご覧ください。ここには、「6 訴訟において、あなたの貧しい者たちへのさばきを曲げてはならない。7 偽りの告訴から遠く離れなければならない。咎のない者、正しい者を殺してはならない。わたしが悪者を正しいとすることはない。8 賄賂を受け取ってはならない。賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる。」とあります。

 再び、裁判における正義と構成について語られています。しかし、1~3節で語られていたことと違う点は、そこには証人としてのあり方が述べられていましたが、ここには裁判官としてのあり方が述べられている点です。裁判においては、貧しい者たちへのさばきを曲げてはいけません。偽りの告訴から遠く離れなければならないのです。咎のない者、正しい者を殺したり、逆に悪者を正しいとしてはいけませんでした。裁判においては客観的な事実だけが重要で、その人が貧しいか富んでいるかといったことは関係ありません。偽りの告訴から遠く離れるとは、無実の人を訴えてはならないということです。罪のない者、正しい者を殺してはならないというのも同じで、冤罪を排除せよということです。日本では冤罪の被害で苦しんでいる方がいます。日本で起訴されたら99.8%は有罪になるということで、このことでどれだけの人が苦しんでいるかと思うと、訴訟の難しさを感じます。さらに、賄賂を受け取ってはならないとあります。贈賄、収賄の禁止です。なぜなら、賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからです。

 こうしたことは、私たちの住んでいる今の時代にも言えることです。どうしたら正義と公正を行うことができるのでしょうか。それは、ただ神を信じ、神のことばに従うことによってです。神のご性質を考えることが、正義と公正を行う動機となります。どのように判断し、どのように行動したら良いか迷った時には、神の性質を思い起こし、正義と公正を実現する道を選び取りたいと思います。

9節をご覧ください。ここには、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。」とあります。「寄留者」とは、「在留異国人」のことです。在留異国人を大切にするようにという勧めは、すでに22:21で語られていました。この規定の背後にあるのは、かつて、彼らもエジプトの地で寄留者であったという経験です。自らが経験した苦しみが、他者への思いやりを生むのです。パウロは、Ⅱコリント1:4で「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」と言っていますが、私たちも苦しみの中で神の慰めを受けたという経験が、他者への慰めとなることを覚え、苦しみの意味というものをもう一度思い巡らしましょう。

 次に、10節から13節までをご覧ください。
「10 六年間は、あなたは地に種を蒔き、収穫をする。11 しかし、七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない。12 六日間は自分の仕事をし、七日目には、それをやめなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や寄留者が息をつくためである。13 わたしがあなたがたに言ったすべてのことを守らなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。」

ここには安息年、および安息日に関する規定が述べられています。十戒では「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という戒めはありましたが、安息年を守るということは規定されていませんでした。それがここで語られているわけです。これが、後にレビ記25章で重要な遵守事項として定められていくことになります。六年間、地を耕し、収穫してもよいが、七年目には、その土地を休ませなければなりませんでした。なぜなら、そのことによって貧しい人々に食べさせ、その残りのものを野の獣に食べさせることになるからです。つまり、そのようにすることで、あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせることができるからです。環境に優しくするためにとか、農業の収穫をもっとあげるために土地を休ませるのではありません。貧しい人たちや野の獣への配慮を示すためです。七年目に土地を休ませるということは、六年目には二倍の収穫があるという信仰が求められます。結果的により多くの収穫が得られることになります。一生懸命働けば良いというものではありません。どのように働くのかが重要です。神のみことばに従い、神が命じられる通りに働くなら、結果的により多くの収穫が得られるようになるのです。それは安息日についても言えることです。

2. 祭りの規定(14-19)

 次に、14節から17節までをご覧ください。
 「14 年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。15 種なしパンの祭りを守らなければならない。 わたしが命じたとおり、 アビブの月の定められた時に、 七日間、 種なしパンを食べなければならない。 それは、 その月にあなたがエジプトを出たからである。 何も持たずにわたしの前に出てはならない。16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂を献げる刈り入れの祭りと、年の終わりに、あなたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない。17 年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。」

 ここには年に三度、祭りを行わなければならないとあります。17節には、「主の前に」とありますが、これは幕屋か神殿がある場所でということです。最初は「シロ」という所にありましたが、後にエルサレムがその場所となります。いったい何のためにわざわざ主の前に出て行かなければならなかったのでしょうか。それはここに「わたしのために」とあるように、主の恵みを思い出すためでした。また、今も働いておられる神の恵みに感謝するためです。

まず、「種なしパンの祭り」を守らなければなりませんでした。この「種なしパンの祭り」とは、過ぎ越しの祭りも含まれています。この時にはパン種を入れないパンを食べました。それは、その月にエジプトを出たからです。その大いなる神の救いの御業を覚えて、この祭りを行わなければなりませんでした。
次は「初穂を献げる刈り入れの祭り」(16)です。この祭りは、春の終わりから初夏にかけてやって来る祭りです。民数記28:26には「初穂の日、すなわち七週の祭り」と呼ばれています。また、申命記16:10には「七週の祭り」となっています。使徒2:1では「五旬節」(ギリシャ語でペンテコステ)と呼ばれています。
そして、もう一つが「年の終わりに、勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭」です。この祭りは秋の祭りです。レビ23:34には、「仮庵の祭り」と呼ばれています。

この年に三回やって来る巡礼祭は、新約時代の出来事を預言していました。すなわち、種なしパンの祭りは、キリストの十字架の死と復活です。また、ペンテコステ、これは五旬節ですが、聖霊降臨を予表していました。そして仮庵の祭りは、キリストの再臨と千年王国です。私たちがモーセの律法を学ぶ理由はここにあります。旧約聖書に示されたことは、そのとおりに成就します。すでにキリストの十字架の死と復活、そして、聖霊降臨は成就しました。もうすぐキリストの再臨と千年王国がもたらされます。私たちはこのみことばが成就するのを待ち望みながら、主に仕える者でありたいと思います。

18節と19節をご覧ください。ここには、「18 わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。

 ここには、ささげものの規定が記されてあります。「わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。」聖書に「パン種」という象徴的に用いられている場合は、必ず「罪」とか「汚れ」を指しています。パウロは、「7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」 (Ⅰコリント5:7-8)と言いました。私たちは種なしパンです。なぜなら、イエス様が私たちの罪を取り除いてくださったからです。それゆえ、私たちは古いパン種を用いたり、悪意と邪悪なパン種を用いたりしないで、聖実と真実というパン種で祭りをしなければなりません。これこそ、神が喜ばれるいけにえなのです。

ところで、19節には「あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。どういう意味でしょうか。この命令は、この箇所以外に出エジプト記34:26と、申命記14:21にも出てきます。この命令の背景にあるのは、異教徒の習慣で、カナンの偶像礼拝でした。まず子やぎを殺し、次に母親の乳をしぼり、その乳で子やぎを煮ました。そのようにすることで多産になる(やぎは多産)という迷信があったのです。カナンの地では実際にこのような料理が振る舞われていたそうですが、これが偶像礼拝となっていたのです。

このような命令は、今もユダヤ人の食物の規定に大きな影響を与えています。厳格なユダヤ教徒は、肉製品と乳製品を一緒に食べません。肉料理用の鍋と、乳製品用の料理用の鍋が分けられているそうです。それはユダヤ教徒がこうした教えを拡大解釈したためです。熱心なユダヤ人たちは本来の目的から逸脱し、律法を拡大解釈してしまいました。それは熱心なユダヤ人だけの問題ではありません。クリスチャンの中にも見られます。本来の目的である神の愛から離れて、人間の律法を作ってしまうことがあります。注意しなければなりません。

3.主の使いの約束(20-33)

 最後に、20節から33節までを見て終わります。20節から22節までをご覧ください。
「20 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。21 あなたは、その者に心を留め、その声に聞き従いなさい。彼に逆らってはならない。 わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。22 しかし、 もしあなたが確かにその声に聞き従い、 わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、 あなたの仇には仇となる。」

「使い」とは、主の使いのことです。これは受肉前のキリストです。なぜなら、ここに「わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。」とあるからです。罪を赦す権威を持っているのは神とそのひとり子イエス・キリストだけです。マルコ2:10には「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを示すために」と言って、イエスは中風で病んでいた人を癒されました。ここで律法学者たちは面食らうわけです。罪を赦す権威を持っているのは神だけであって、その神を冒涜した・・・と。神だけが罪を赦すことができます。そして、イエスはその神なのです。なぜなら、彼はあなたがたの背きを赦さないからです。ですから、ここでこの使いに対して絶対的な服従が求められているのです。もしイスラエルがこの使いに従うなら、イスラエルの敵に対して敵となり、イスラエルの仇となってくださいます。この主を彼らの前に遣わし、彼らの道を守り、神が備えた所、すなわち、約束の地へと導いてくださるのです。ですから、彼らは彼らの神、主だけに仕えなければなりません。その地の神々を拝んではならないのです。

 23節と24節をご覧ください。「23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き、わたしが彼らを消し去るとき、24 あなたは彼らの神々を拝んではならない。それらに仕えてはならない。また、彼らの風習に倣ってはならない。それらの神々を徹底的に破壊し、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。」とあります。

 25節と26節には、「25 あなたがたの神、主に仕えよ。そうすれば、主はあなたのパンと水を祝福する。わたしはあなたの中から病気を取り除く。26 あなたの国には、流産する女も不妊の女もいなくなる。わたしはあなたの日数を満たす。」とあります。
 イスラエルが主に仕えなければならない理由は他にもあります。それは、主に仕えるなら、主は彼らにパンと水を与えてくださるからです。食べ物と飲み物が豊かになり、健康が祝福されるのです。 そればかりではありません。子孫の繁栄も約束されています。さらに、長寿も約束されています。

 最後に、27節から33節をご覧ください。
 「27 わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に送り、あなたが入って行く先のすべての民をかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を向けるようにする。28 わたしはまた、スズメバチをあなたの先に遣わす。これが、ヒビ人、カナン人、ヒッタイト人をあなたの前から追い払う。29 しかし、 わたしは彼らを一年のうちに、 あなたの前から追い払いはしない。 土地が荒れ果て、野の生き物が増え、あなたを害することのないようにするためである。30 あなたが増え広がって、その地を相続するまで、少しずつ、わたしは彼らをあなたの前から追い払う。31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また荒野からあの大河に至るまでとする。それは、わたしがその地に住んでいる者たちをあなたがたの手に渡し、あなたが彼らを自分の前から追い払うからである。32 あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。33 彼らはあなたの国に住んではならない。彼らがあなたを、わたしの前に罪ある者としないようにするためである。あなたが彼らの神々に仕え、あなたにとって罠となるからである。」

カナンの地は、主からの贈り物です。それはすでにアブラハムとその子孫に約束されていました。イスラエルはその地を侵略するのではなく、その地に帰還するのです。なぜこのモーセの時代になったのでしょうか。それは創世記15:16にそのように約束されていたからです。いったい主はどのように彼らをイスラエルに帰還させるのでしょうか。主はご自身の恐れを彼らの先にカナンに送り、彼らが入って行く先のすべての民をかき乱されます。それで、イスラエルのすべての敵が彼らに背を向けるようにされるのです。また、主はスズメバチを彼らの先に遣わします。これがカナンの住人を追い払うことになります。

しかし、それは一年のうちに起こることではありません。徐々に、少しずつ追い払われます。一気に追い払ってもらった方が楽かもしれませんが、主はそのようなことはなさいません。それは私たちの歩みと同じです。私たちの目標はキリストのようになることですが、それは一瞬にしてなるのではありません。徐々に、です。一気に変えられたのなら気絶してしまうでしょう。あまりにも違うので・・・主は少しずつ、少しずつ、主と同じ姿に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。大切なのは、私たちが私たちの主にだけ仕えることです。主の使いであるキリストに従うことです。そうすれば、私たちもやがて主のように変えられていきます。32節には「彼らの神々と契約を結んではならない」とあります。これは「彼らと契約を結んではならない」という意味です。この世と調子を合わせてはなりません。むしろ、何がよいことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。そうです、毎日、毎日の積み重ねの中で、毎日、毎日、主に従っていくことの中で、そのことが成されていくのです。ですから、私たちは主が私たちを変えてくださると信じ、主のみこころはいったい何なのかを知るために、みことばから学び、それに聞き従う者でありたいと願わされます。

出エジプト記22章

 今回は、出エジプト記22章から学びます。

 Ⅰ.他人の所有物の侵害に関する定め(1-15)

まず1節から15節までをご覧ください。4節までをお読みします。
「1 人が牛あるいは羊を盗み、これを屠るか売るかした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一匹を羊四匹で償わなければならない。2 もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、 打った者に血の責任はない。3 もし日が昇っていれば、血の責任は打った者にある。盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし盗人が何も持っていなければ、盗みの代償としてその人自身が売られなければならない。4 もしも、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗んだ物が生きたままで彼の手もとにあるのが確認されたなら、それを二倍にして償わなければならない。」

 人がもし牛とか羊を盗み、その盗んだ牛や羊をすでに殺したり打ってしまった場合、どうしたらいいのでしょうか。その場合は、牛一頭につき牛五頭をもって、羊一匹につき羊四匹をもって償わなければなりませんでした。当時、家畜は大切な財産だったからです。もしも、牛であれ、ろばであれ、羊で荒れ、盗んだ物が生きたままその人の手もとにあるのが確認されたら、それを二倍にして償わなければなりませんでした(4)。ルカ19:8でザアカイが、「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と言っているのは、盗んだ羊を返す時の額です。

では、盗みをした者はどうなるでしょう。もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んでも、打った者に血の責任はありませんでした(2)。ここに「抜け穴」とありますが、当時の家は泥土造りの家で、簡単に壁に穴を開けて入り込むことができました。そのような盗人がだれで、どのような状態なのかを判別することができないため、夜間であれば、たとえ相手を殺したとしても許されたのです。しかし、日中はいのちを奪ってはいけませんでした。もし日が昇っていれば、血の責任は打った者にありました。昼間であれば、単なる盗人であることが分かるはずなので、殺すことまでする必要はないからです。それは過剰防衛と見なされました。いずれにせよ、盗みをした者は必ず償いをしなければならず、もし償う物がなければ自分自身を売らなければなりませんでした。

5節をご覧ください。ここには、「人が畑あるいはぶどう畑で家畜に牧草を食べさせるとき、 放った家畜が他人の畑を食い荒らした場合、 その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければならない。」とあります。
当時は隣地との地境がはっきりしていなかったために、自分の家畜に牧草を食べさせようと放つと、家畜が地境を越えて隣地の畑に行き、それを食い荒らすことがありました。その時にはどのように償ったら良いのかということです。その時には、その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければなりませんでした。ここでは「最良のものをもって償うように」と言われています。自分のベストをもって、誠意をもって賠償しなさいということです。「これは動物がやったことだから仕方がない」と開き直ったり、家畜がやったことで自分には何の関係もありません」といった言い訳をしないで、誠意をもって償いをすべきなのです。そうすれば、トラブルはそれ以上に発展することはありません。これは、非常に知恵のある教えではないでしょうか。

 6節をご覧ください。ここには、「また、火が出て茨に燃え移り、積み上げた穀物の束、刈られていない麦穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、その火を出した者は必ず償いをしなければならない。」とあります。火災を起こすことによって、他人の収穫物を焼いて損害を与えてしまった場合はどうすれば良いかということです。その場合も、償いをしなければなりませんでした。それが不注意によるものであっても、その責任を問われました。

 次に、7~15節をご覧ください。
 「人が金銭あるいは物品を隣人に預けて保管してもらい、それがその人の家から盗まれた場合、もしその盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。8 もし盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の所有物に決して手を触れなかったと誓わなければならない。9 所有をめぐるすべての違反行為に関しては、それが、牛、ろば、羊、上着、またいかなる紛失物についてであれ、一方が『これは自分のものだ』と言うなら、 その双方の言い分を神の前に持ち出さなければならない。そして、神が有罪と宣告した者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。10 人が、ろば、牛、羊、またいかなる家畜でも、隣人に預けてその番をしてもらい、それが死ぬか、負傷するか、連れ去られるかしたが、目撃者がいない場合、11 隣人の所有物に決して手を触れなかったという主への誓いが、双方の間になければならない。その持ち主はこれを受け入れなければならない。隣人は償いをする必要はない。12 しかし、もしも、それが確かにその人のところから盗まれたのであれば、その持ち主に償いをしなければならない。13 もしも、それが確かに野獣にかみ裂かれたのであれば、証拠としてそれを差し出さなければならない。かみ裂かれたものの償いをする必要はない。14 人が隣人から家畜を借り、それが負傷するか死ぬかして、その持ち主が一緒にいなかった場合は、必ず償いをしなければならない。
22:15 もし持ち主が一緒にいたなら、償いをする必要はない。しかし、それが賃借りした家畜であれば、 その借り賃は払わなければならない。」

 人が金銭あるいは物品を他人に預けて保管してもらいましたが、それがその人の家から盗まれてしまった場合どうしたら良いのでしょうか。もし盗人が見つかったなら、盗人がそれを二倍にして償えば良かったのですが、問題は盗人が見つからなかったらどうするかということです。当然預かった人に嫌疑がかかるわけです。それで預かった人は、神の前に出て、自分が盗まなかったことをはっきりと誓わなければなりませんでした(8)。「神の前に出て」とは、裁判官の前に出てという意味です。それは、裁判官は神から任されて、さばきを二者の間で行なう存在だからです。当時は神のことばを預かった人、聖職者が民をさばきました。

「所有をめぐるすべての違反行為に関しては」とは、ある人の持ち物について、それが盗品であるという疑いを掛けられた時には、疑った人も疑われた人も神の前に出て、神が罪に定めた者は、二倍にして相手に償わなければなりませんでした。すなわち、不当に盗んだのであれば当然盗んだ物が償いをし、もしもその疑いが誤っていたのであれば、逆に訴えた人が二倍にして相手に償わなければなりませんでした。

他人に預けておいた家畜が損害を受けた場合はどうしたら良いでしょうか。すなわち、隣人に預けてその番をしてもらい、それが死ぬか、負傷するか、連れ去られるかしたが、目撃者がいない場合です。その場合は、預かった人が隣人との所有物、ここでは家畜ですね、それに決して手を触れなかったという誓いをし、その誓いを預けた人が認めた場合には償いの必要がありませんでした(11)。

しかし、もしも、それが確かにその人のところから盗まれたのであれば、その持ち主に償いをしなければなりませんでした(12)。もしもそれが確かに野獣にかみ裂かれたのであれば、証拠としてそれを差し出さなければなりませんでした。その場合は償う必要はありませんでした。

隣人から借りていた家畜が傷ついたり死んでしまった場合はどうしたら良いでしょうか。家畜のレンタルですね。その場合、借り手は償いをしなければなりませんでした(14)。しかし、そこにもし持主が一緒にいたのであれば、償いをする必要はありませんでした(15)。持主も、一緒にいたことで、その責任に預かっていたからです。ただし、その家畜を賃借りしていた場合は、レンタル料は支払わなければなりませんでした。

 Ⅱ.道徳に関する定め

 次に16節から20節までをご覧ください。
「16 人が、まだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝た場合、その人は必ず、彼女の花嫁料を払って彼女を自分の妻としなければならない。17 もしその父が彼女をその人に与えることを固く拒むなら、その人は処女の花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。18 呪術を行う女は生かしておいてはならない。19 動物と寝る者はみな、必ず殺されなければならない。20 ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」

 イスラエルでは、婚約を経て結婚に至りました。ですから、婚約を終えると、法的に結婚した者と見なされたのです。「まだ婚約していない娘」とは、まだそういう状態にない処女のことです。人が、まだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝た場合はどうしたら良いのかということです。その場合は、その人はかならず、彼女の花嫁料(結納金)を払って彼女を自分の妻としなければなりませんでした(16)。しかし、もし彼女の父が「こんな男に大事な娘をやるわけにはいかない」と拒んだら、その人はその処女のために定められた花嫁料を支払わなければなりませんでした。その花嫁料は、銀50シェケルと定められていました(申命記22:29)。

この規定が与えられている目的は、結婚の尊厳を教えるためです。結婚とは、「ふたりは一体となる」ことであり、このようにして肉体関係を持つことは、男と女が一生涯、霊的に、精神的に、また社会的に一組の夫婦として生きていくことの証しだったのです。ですから、肉体関係を持つことと結婚を引き離すことは決してできず、ここで婚前交渉をしたのなら必ずすぐに結婚して、一生涯その人を自分の妻にしなければならなかったのです。

 18節をご覧ください。ここには、「呪術を行う女は生かしておいてはならない。」とあります。呪術とは魔術のことです。オカルトや占いですね。そのようなことをする者は、死刑に定められていました。それは悪霊と直接的に関わることだからです(申命記18:10-11)。神は霊です。神は、霊において人と交わりをすることを願っておられ、もし人が異なる霊と交わりをするなら、霊的姦淫を犯すことになります。そして、悪霊は悪しき霊です。この悪しき霊と交わるなら、悪霊に支配されてしまうことになります。それゆえ、呪術者は死罪に定められたのです。ここに「呪術を行う女」とあるのは、呪術を行うのは主に女性だからです。聖書を見ても、霊媒師の女が多いことがわかります。

19節には、「動物と寝る者はみな、必ず殺されなければならない。」とあります。獣姦とも呼ばれる行為です。当時の異教社会では頻繁に行われていました。それは神が定めた道に背くものであり、死刑に定められていました。

20節には、「ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」とあります。

 十戒の中にある、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」の戒めの適用です。十戒の第一戒を破る偶像礼拝の行為は、カナン人と同じように聖絶されなければなりませんでした。こうした偶像礼拝は、イスラエル人の純粋な信仰に悪影響を与える危険があったからです。

 Ⅲ.社会的弱者を守るための教え(21-27)

21節から27節までには、社会的弱者を守るための教えが書かれています。
「21 寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。22 やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。23 もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。24 そして、わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣によってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。25 もし、あなたとともにいる、わたしの民の貧しい人に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。利息を取ってはならない。26 もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。27 それは彼のただ一つの覆い、 彼の肌をおおう衣だからである。 彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか。 彼がわたしに向かって叫ぶとき、 わたしはそれを聞き入れる。 わたしは情け深いからである。」

 「寄留者」とは、「在留異国人」のことです。在留異国人を苦しめたり、虐げてはなりませんでした。なぜなら、彼らもエジプトの地で寄留者であったからです。その体験は、自分の国にいる異国人を思いやるために用いられるべきなのです。外国に住んでみないとわからない苦しみがあります。私たちも、日本に住む外国人に対して、特別な配慮が求められます。外国人に限らず、新しく来た人、不慣れな人が、教会の交わりにそのまま入って来ることができるような態勢を整えておく必要があります。

22節には、やもめやみなしごに対してどのようにすべきかが教えられています。やも
めとは未亡人のこと、みなしごとは孤児のことです。働き手に先立たれたやもめや、両親に先立たれたみなしごを大切にするのは、イスラエルの律法の大きな特徴です。今のように、女性が働ける職場や、また孤児院などの制度が整っていたわけではありませんから、乞食に近い生活が強いられました。このような人たちに対しては、大切にし、丁重に扱わなければなりませんでした。このような人たちを悩ませる者には必ず神のさばきが下り、彼ら自身がやもめや、みなしごのようになると警告されています。
果たして、私たちの教会はやもめやみなしごに十分な配慮をしているでしょうか。自分のことだけで精いっぱいになってはいないかを吟味しなければなりません。

 25節には、貧しい人にお金を貸す場合にはどうしたら良いかが教えられています。すなわち、彼らにお金を貸すなら、金貸しのようであってはなりませんでした。つまり、彼から利息を取ってはならかったのです。利息を取ることは許されませんでしたが、貸したお金の補償として、着物を質に取ることは許されました。しかし、その場合は、日没までに返さなければなりませんでした。なぜなら、その貧しい人にとっては、その着物が寝具にもなったからです。それを取ってしまったら、何も着るものがありません。それではあまりにも可哀想です。そんなことがあってはなりません。なぜなら、「わたしはあわれみ深いからである。」(27)

 Ⅳ.神に対する義務(28-31)

最後に、神に対して私たちのあるべき態度についてです。28~31節までをご覧ください。
「28 神をののしってはならない。また、あなたの民の族長をのろってはならない。29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を遅らせてはならない。あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない。30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にはわたしに献げなければならない。31 あなたがたは、 わたしにとって聖なる者でなければならない。野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。」

28節には「神をののしってはならない」とあります。神への畏怖の念を忘れてはならないということです。また、「あなたの民の族長をのろってはならない。」神によって立てられた秩序を重んじて、その権威に従うべきです。なぜなら、それは神によって立てられた権威だからです。ローマ13:1~2には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」とあります。最近の新型コロナウイルス感染に対する政府の対応は、少し後手後手に回っている感がありますが、その判断にあたる阿部総理はかなりの重責で疲労困憊しているのではないかと思います。今こそ私たちは阿部総理のために祈り、彼が正しく判断できるように支えなければなりません。

29節と30節はささげものに関する定めです。「29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を遅らせてはならない。あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない。30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にはわたしに献げなければならない。」
あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を送らせてはなりません。どれくらいの量をささげなければならないのかは、規定されていません。すなわち、自発的にささげるということです。
息子と家畜に関する規定ですが、長子は主のものですから、主にささげなければなりませんでした。つまり、長子が祭司として主に仕えるためにささげられたということです。後にレビ人が祭司として仕えることになりました。これは13:2の再確認です。それは牛と羊も同様でした。男子の初子も、牛と羊の初子も、八日目に主にささげられなければなりませんでした(29-30)。

最後に、野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてよいかどうかの規定です。その肉は食べてはなりませんでした。それは、犬に投げ与えなければならなかったのです。なぜなら、それは汚れていたかです。獣に殺された家畜の肉を食べることは、血のついた肉を食べることとみなされ、神が忌み嫌われることだったのです(レビ17:10-11)。そのような肉を食べて身を汚すようなことをしてはいけませんでした。なぜなら、イスラエルは、神の聖なる国民(19:6)であるからです。
私たちも神に贖われた神の民、聖なる国民です。それゆえ、この世の考えに従って身を汚すようなことをせず、神に喜ばれる聖なる者となることを求めていきたいと思います。

出エジプト記21章

 きょうは、出エジプト記21章から学びます。1節には、「これらはあなたが彼らの前に置くべき定めである。」とあります。これは「定め」であって、「律法」ではありません。「律法」は、行動の規範としてそれに従わなければならないものですが、「定め」は、国民の生活における秩序を保つために必要なものであり、一種の権利の規定です。この場合の権利というのは、ひとりひとりが他の人に対する関係に関するものです。

 1.奴隷に関する定め(1-11)

 まず2節から6節までをご覧ください。
「2あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。3 彼が独身で来たのなら独身で去る。彼に妻があれば、その妻は彼とともに去る。4 彼の主人が彼に妻を与えて、その妻が彼に息子あるいは娘を産んでいたなら、この妻とその子どもたちは主人のものとなり、彼は一人で去らなければならない。5 しかし、もしもその奴隷が『私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と明言するようなことがあるなら、6 その主人は彼を神のもとに連れて行く。それから戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」

 この定めは、まず主人と奴隷の関係についての教えから始まっています。なぜ奴隷についての教えから始まっているのでしょうか。それはイスラエル自身がエジプトの奴隷だったからであり、神の恵みとあわれみによって解放された民だからです。そのことを彼らが思い出し、神のあわれみを覚えるためだったのでしょう。レビ記や申命記には、彼らがかつては奴隷の身分から贖いだされたことを思い出すことによって、奴隷に対して思いやりをもって扱うようにと勧められています(レビ記25:42,申命記15:12-18)。

へブル人の奴隷は身売りされても、六年間仕えたなら、七年目には自由の身として無償で去ることができました(2)。この時主人は、彼らに何も持たせないで去らせることはできませんでした(申命記15:13-14)。七年目に奴隷が解放される時は、独身で来た者は独身で去り、妻があれば、その妻とともに去ることができました。しかし、奴隷の間に主人から妻を与えられた場合は、妻と子供たちを主人のもとに残さなければなりませんでした(4)。いったいなぜ妻と子供を残さなければならなかったのでしょうか。それは、本来奴隷は自分のものを何一つ持っていないのであって、妻子は主人のものであったからです。ですから、その妻子が主人のもとにとどまるのは当然と言えば当然のことですが、ここでは、夫婦、子供がいっしょにいられる方法も残されていたのです。もし夫が一人で去るよりも妻子と共に主人のもとに残ることを望めば、そして、その奴隷が神の御前で、「私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と宣言すれば、彼は自分の妻子のもとにとどまることができました。その時は、戸または門柱のところで、きりで彼の耳を刺し通さなければなりませんでした。それはその宣言のしるしであり、服従を示すためでした。神のもとに連れて行かれたのは、神の御名によってなされる裁判であることを意味していました。その奴隷はそこで自分が自由になる権利を放棄するわけですが、そのことを裁判の法廷において、神の御名にかけて宣言したのです。

7節から11節までをご覧ください。
「7人が娘を女奴隷として売るような場合、その女奴隷は、男奴隷が去る場合のように去ってはならない。8 彼女を自分のものと定めた主人が、彼女を気に入らなくなった場合は、その主人は彼女が贖い出されるようにしなければならない。主人が彼女を裏切ったのだから、異国の民に売る権利はない。9 その主人が彼女を自分の息子のものと定めるなら、彼女を自分の娘のように扱わなければならない。10 その主人が別の女を妻とするなら、先の女への食べ物、衣服、夫婦の務めを減らしてはならない。11 もしこれら三つのことを彼女に行わないなら、彼女は金を払わないで無償で出て行くことができる。」

ここでは、父親が自分の娘を女奴隷として売った場合のことが規定されています。当時、貧しい人は、自分の娘を、経済的な理由から、裕福な人に売るというようなことがありました。その場合、妻のような立場であったのか、家政婦のような立場であったのかはわかりませんが、男奴隷が去る場合のように去らせてはなりませんでした。彼女を自分のものとして定めた主人が、彼女を気に入らなくなった場合は、その主人は彼女を贖い出されるようにしなければなりませんでした。つまり、彼女の親戚によって適切な額で贖い出されるようにしなければならなかったのです。異国の民に得る権利はありませんでした。もしその娘を息子の妻にしていた場合には、自分の娘に対するように扱わなければなりませんでした。またその主人が、その後に別の女を妻とする場合には、先の女に対して、食べ物、衣服、夫婦の務めを減らしてはならず、その義務を全うしなければなりませんでした。もしこれらの三つのことを彼女に行わなければ、彼女は無償で出て行くことができました。

このような定めを見ると、少し受け入れられないような思いを持つ人もいるかもしれませんが、これは律法ではなく定めであるということ、そして、その時代の生活の安定と秩序を保つために定められたものであるということを考えると、そうした昔の時代の規定としては、女の奴隷に対するものとしては、その権利というものによく配慮されているのではないかと思います。

2.殺人者に対する定め(12-17)

 これまでは、人間の自由という問題が取り上げていましたが、ここからはそれよりももっと重要な人間の生命に関する問題が取り上げられています。まず12節から17節までをご覧ください。

「12 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。13 ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する。14 しかし、人が隣人に対して不遜にふるまい、策略をめぐらして殺した場合には、この者を、わたしの祭壇のところからであっても、連れ出して殺さなければならない。15 自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。16 人を誘拐した者は、その人を売った場合も、自分の手もとに置いている場合も、必ず殺されなければならない。17 自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。」

 人まず殺人に対する刑罰の一般的な原則が示されています。それは、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」ということです。それはすでに十戒の中で、「殺してはならない。」と命じられていたからです。また、創世記9:6にも、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。(創世9:6)」とあるように、殺人に対しては、その人のいのちが要求されたからです。それは、人は神のかたちに創造された神聖なものであるという考えに基づいています。

 ただし、その人に殺意がなく神が御手によって事が起こされた場合は、のがれることができる場所が指定されました。殺意がなく神が御手によって事が起こされた場合とは、偶然に人を殺してしまった場合のことです。また、「のがれることができる場所」とは、具体的には「逃れの町」のことです。殺意がなく人を殺してしまった人に対して、その人が逆に復讐によって殺されることがないようにのがれの町を用意してくださったのです。この「のがれの町」は、のちに六つののがれの町として指定されるようになりました。(民数記35:9-15,申命記19:1-13,ヨシュア20)しかし、はっきりとした殺意をもって殺した場合には、どのような場所逃げたとしても、死刑に処せられました。たとえそこが主の祭壇であったとしても、死刑を免れることはできませんでした。

自分の父母を打つ者も、必ず殺されなければなりませんでした。父母を打つだけではありません。ののしる者も、殺されなければなりませんでした(17)。それはすでに十戒において、父母が神の代理人としての立場として立てられているがゆえに尊い存在であるということを学びましたが、その尊さのゆえに、父母に反抗したり、打ったりのろったりするだけでも死刑に処せられたのです。箴言にも、次のような警告が記されてあります。
「自分の父や母をののしる者、そのともしびは、闇が近づくと消える。」(箴言20:20)
「自分の父を嘲り、母への従順を蔑む目は、谷の烏にえぐり取られ、鷲の子に食われる。」(箴言30:17)

ここにはさらに、人を誘拐した者についての刑罰が述べられています。「人を誘拐した者は、その人を売った場合も、自分の手もとに置いている場合も、必ず殺されなければならない。」(16)ここには、その人を売った場合も、自分の手元に置いている場合も、とありますが、イスラエルでは、誘拐された同胞を売り買いすることは許されていなかったので、異邦人に売るために誘拐する者がいたのでしょう。

3.傷害事件 (18-32)

 次は、傷害事件についての定めです。死に至らない場合です。ここでは人による傷害と家畜による傷害のケースが取り上げられています。まず人による傷害のケースです。まず27節までをご覧ください。

「18人が争い、一人が石か拳で相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、19 もし彼が再び起き上がり、杖によって外を歩けるようになれば、打った者は罰を免れる。ただ彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に治るようにしてやらなければならない。自分の男奴隷あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その人は必ず復讐されなければならない。ただし、もしその奴隷が一日か二日生き延びたなら、その人は復讐されてはならない。奴隷は彼の財産だからである。人が人と争っていて、身ごもった女に突き当たり、早産させた場合、重大な傷害がなければ、彼はその女の夫が要求するとおりの罰金を必ず科せられなければならない。彼は法廷が定めるところに基づいて支払う。しかし、重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。人が自分の男奴隷の片目あるいは女奴隷の片目を打ち、目をつぶした場合、その目の償いとして、その奴隷を自由の身にしなければならない。27 また、自分の男奴隷の歯一本あるいは女奴隷の歯一本を打ち、折ったなら、その歯の償いとして、その奴隷を自由の身にしなければならない。」

 人と争って相手を死なせた場合は12節のみことばが適用されますが、そうでなく傷害を負わせた場合には、罰は免れますが、被害者が仕事を休んだ分を弁償し、傷が完全に治るようにしなければなりませんでした。つまり、治療のための費用を払わなければなりませんでした。これは非常に近代的な教えです。

主人が奴隷を杖で打って死なせた場合はどうでしょう。その場合、主人は必ず復讐されなければならないとあります。恐らく12節にあるように、死刑にされたのでしょう。裁判官の状況判断によって罰せられたのではないかという解釈もあります。
いずれにせよ、これは奴隷の生存権を認めているということであり、当時の近隣諸国では主人が奴隷の生存権に関しても絶対的な権利を持っていたことを考えると、はるかに進んだ定めであったと言えます。

もしも人が争って妊婦を早産させてしまった場合はどうしたらいいのでしょうか。この「早産」ということばは、原文では「子どもが外に出てくること」を意味しています。その場合、子どもの受けた傷に応じて刑罰が加えられました。重大な傷がなければ、その女の夫が要求するとおりの罰金を支払わなければなりませんでした。それは法律に基づいて、裁判が行われました。

しかし、そのことによって重大な傷害があれば、相手の傷に応じて刑罰が加えられました。すなわち、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならなかったのです。これは、一見残忍な定めのようですが、当時としては、善良な市民の被害を守り、法律を公平に適用できる定めでした。というのは、一般的に人は、損害を受けたら、さらにひどく、二倍、三倍にして返したくなります。子供のけんかも、大人のけんかも、国家間の争いも、このようにだんだんとエスカレートしいきます。これに対して聖書は、自分が受けた傷以上のものを相手に要求してはならないと告げているからです。しかし、聖書が最も求めていることは、報復することよりも、むしろその人を赦すことであり、善をもって返すことです。
「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19:18)
「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。 なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。」(箴言25:21-22)
これは旧約だけではなく新約にも、全体に貫かれた教えです。イエス様も、山上の説教の中で次のように教えられました。
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:38-48)

また、自分の奴隷の目や歯に傷を負わせた場合には、奴隷を解放しなければなりませんでした。奴隷を虐待しながら苦役を強いることは、神の律法では決して許されていなかったのです。ですから、近代の残酷な奴隷制度の根拠を聖書に求めることなどは、決してできません。

次に、家畜によって傷害を与えてしまったケースを見て終わります。28~32節までをご覧ください。
「28牛が男または女を突いて死なせた場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罰を免れる。29しかし、もし牛に以前から突く癖があり、その持ち主が注意されていたのにそれを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺され、その持ち主も殺されなければならない。30 もし彼に償い金が科せられたなら、彼は自分に科せられたとおりに、自分のいのちの贖いの代価を支払わなければならない。31 息子を突いても娘を突いても、この規定のとおりに扱われる。32 もしその牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。」

もし家畜が角で人を突いて殺してしまった場合には、その家畜は石で殺されなければなりませんでした。石で殺されるということは罪の刑罰を受けることを意味していましたから、その家畜はのろわれ、汚れたものとなるので、食べることは許されませんでした。しかし、その家畜の所有者には罪はありませんでした(28)。

 しかし、その家畜が角で人を突くくせを持っていて、何度もそのことで警告を受けていたにもかかわらず、少しも注意をせず、その家畜をつなぎとめておかなかったために、その家畜が人を突いて殺してしまうようなことがあったら、その家畜もその家畜の主人も殺されなければなりませんでした(29)。

 しかし、もし罰金を支払うことですませてくれるような時には、その要求された金額を支払うことで処理もできました(30)。モーセの律法の中で、死刑の代わりに贖い金が許されています。

 たとえ子供でも、同じように定めは適用されます。ここに再び神が、社会的弱者の人権と尊厳を定めておられることが分かります。奴隷、女性、子供はみな、神によって守られています。

 牛が奴隷を殺した場合でも、その牛はやはり殺されなければなりませんでした。奴隷が一人の人格として認められていたことが、ここでも明確に示されています。そして、牛の持ち主は奴隷の主人に、銀貨三十シュケルを支払わなければなりませんでした。この金額は、イエス・キリストがイスカリオテのユダによって売られ額です。彼がイエスの価値を奴隷の値段としてしか見積っていなかったことがわかります。自由なイスラエル人を贖うには五十シェケルが必要でした。(レビ27:3)
 
4.財産に関する問題(33-36)

「33 人が水溜めのふたを開けたままにしておくか、あるいは、水溜めを掘って、それにふたをせずにおいて、牛やろばがそこに落ちた場合、34 その水溜めの持ち主は償いをしなければならない。彼は家畜の持ち主に金を支払わなければならない。しかし、その死んだ家畜は彼のものとなる。35 ある人の牛が隣人の牛を突いて、その牛が死んだ場合、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければならない。36 しかし、もしその牛に以前から突く癖があることが分かっていて、その持ち主が監視しなかったのなら、その人は必ず牛を牛で償わなければならない。しかし、その死んだ牛は彼のものとなる。」

人間のいのちの問題から、次に財産の問題に移っていきます。イスラエルにとって家畜は重要な財産でした。その財産、家畜のために水だめが必要でした。そのためにかなり大きな穴が掘られていることがあったのです。その入口はさほど大きくなかったのに、その中はかなり大きく掘られていたので、一度そこに落ちてしまいますと、救い出すことは極めて困難でした。そのため、そのような危険な水だめには、必ずふたをすることになっていましたが、それでも誤って中に落ちてしまうことが少なくありませんでした。その場合井戸の持ち主は、家畜の持ち主にお金を支払い、償いをしなければなりませんでした。その場合、その家畜は、その井戸の持ち主のものとなりました。

また、牛が隣人の牛を突いて死なせた場合は、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければなりませんでした。しかし、もし以前からその牛に突く癖があることが分かっていて、その牛の持ち主が監視していなかったのなら、その人は必ず牛を牛で償わなければなりませんでした。しかしその代わりに、死んだ牛はその人のものとなりました。

出エジプト記20章

出エジプト記20章を学びます。ここには、神の律法(モーセの律法)が記されてあります。モーセの律法は613からなっていますが、十戒は、その最初に出てくるものです。この十戒に関して多くの誤解や混乱があります。たとえば、ある人たちは十戒の規定は今も有効であると考え、土曜日に礼拝しなければならないと主張したり、逆に、律法そのものを悪と見る人たちもいます。そのような人たちは、旧約は終わったのだから新約だけを読めばいいと言います。しかし、神の救いの計画を正しく理解するためには、モーセの律法に関して正しく理解しなければなりません。

Ⅰ.十戒の前提(1-2)

まず1~2節をご覧ください。
「それから神は次のすべてのことばを告げられた。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」

ここには、これから十戒を与えられる神がどのような方であるかが記されてあります。それは、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」ということです。これはどういうことかというと、神はイスラエルの民をエジプトから贖われた方であるということです。すなわち、神によって救い出された者たち、神の所有とされた民であるということです。イスラエルの民は、神の力と恵みを体験しました。それゆえ、その神との信頼関係をベースとして契約が結ばれるのです。つまり、これは贖われた者たちに対する神の命令であるということです。これは彼らが救われるためではなく、すでに救われた者たちに対する戒めであるということです。しかもここには、「あなたの神、主である」とあります。あなたがたの神ではなく、あなたの神です。神との個人的な関係があって、その上で語られている戒めなのです。

 これはクリスチャン生活にも同じことが言えます。私たちは神に愛され、赦されました。それゆえに、神の愛への応答として献身の生涯を歩むのです。パウロはローマ12:1~2節で、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」と言っています。彼は1~11章にかけて、神の救いとはどういうものか、すなわち、すべての人は罪を犯したので、神からの栄光を受けることがでず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって、義と認められる、ということを語りました。そのような神の恵みがベースになり、自分自身を神にささげるという霊的な礼拝が始まるのです。ですから、これがなかったら、ただの律法となってしまいます。私たちが神の命令に従うのは、私たちが救われるためではなく、私たちが神の恵みによって罪から救われたのだからということを覚えておかなければなりません。

Ⅱ.十戒の内容(2-17)

 では、その神の戒めとはどのようなものでしょうか。3~17節には、十戒の内容が記されてあのます。

まず、3節をご覧ください。ここには、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」とあります。いったいまことの神、主のほかに、神がいるでしょうか。いません。イザヤ45:22には、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」とあります。イスラエルの主だけが神であり、ほかにはいません。それなのに、なぜこのようなことが命じられているのでしょうか。それは、人間は神以外のものを神にしたがる傾向があるからです。思い出してください。彼らがエジプトにいた時には、そこには多くの神々がいました。ナイルの神、かえるの神、牛の神など、あらゆるものが礼拝の対象とされていました。あの十の災いは、そうした神々に対するさばきでもあったわけです。

当時は、自分たちの欲望を満たすものをみな神としていました。たとえば、カナンの土着信仰として有名なのは「バアル」と「アシュタロテ」です。バアルとアシュタロテは男神と女神の夫婦であり、双方が交わることによって、子どもや家畜、作物の高収穫がもたらされると信じられていました。いわば、家内安全、商売繁盛の神といったところでしょうか。新年にはこの日本の多くの人が初詣に出かけますが、そこで何を祈るのかというと、この家内安全、商売繁盛です。それが自分の欲望を満たすものです。それを神としたがるのです。聖書には「マモン」という神も登場します。これはお金の神です。ここから「money」という言葉が派生しました。もしお金がすべてだと考えているとしたら、それはこのマモンという神を持っていることになります。

つまり、もし私たちが主なる神よりも大事にするものがあるとしたら、それが神になってしまうということです。自分が大事にしているもの、最も情熱を傾けているものがあれば、それが神になってしまうことがあるのです。

第二の戒めは、自分のために偶像を作ってはならないし、それらを拝んではならない、ということです。4~6節にあります。
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

「偶像」とはヘブル語で「ベセル」と言います。意味は刻んだものです。神のイメージにかたどって造られたもの、それが偶像です。神を真似たもの、神のイメージに刻んだものです。ギリシャ語ではこれを「エイドーロン」と言いますが、ここから英語の「idol」という語が生まれました。これは現代語にもなっています。それは崇拝されるものです。ですから、偶像とは、崇拝されるために神にかたどって刻まれた像のことです。でも、彫刻などの美術を禁じているわけではありません。

なぜ神様は偶像を造ることを禁じているのでしょうか。それは間違った方法で神を礼拝してほしくないからです。自分のイメージで、自分の考えで、自分の思いつきで、自分の概念で、勝手に礼拝してほしくないのです。どちらかというと、人は神に対して勝手なイメージを持ちがちです。たとえば、何か神々しいものをみると、神はこういうものであるにちがいないと思い、それを神にしたがります。
32章を見てください。モーセが山から下りてくるのに手間取っていると、民はアロンに言いました。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」(32:1)
それで彼はイスラエルの民がつけていた金の耳輪を持って来させると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にして、こう言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」(32:4)アロンはなぜこんなものを造ったのでしょうか。それは彼がエジプトにいた時、牛が神だったからです。アビスという神です。そういうイメージを持っていたのです。バカじゃないかと笑えません。意外と日本人の多くもこんなイメージを持っているからです。このようなものを造って神にしたがるのです。

ヨハネの福音書4章の中てで、主はサマリヤの女に、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(4:24)」と言われました。神は霊ですから、私たちの目には見えない方です。ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。私たちはこの見えない神を、真理の御言葉をとおして礼拝することができます。なぜなら、御言葉には、見えない神を見せてくださったキリストについて記されてあるからです。このキリストを見た者は神を見たのです。このキリストを礼拝する者は、神を礼拝するのです。

けれども、人は目に見えないものよりも、見えるものに頼りたくなります。神のご臨在を強く意識することができるからです。それが偶像です。そういうものを神としてはいけません。間違った方法で神を礼拝してはいけないし、正しい方法で神を礼拝しなければならないのです。

5節をご覧ください。ここには、なぜ偶像を造ったり、それらを拝んではならないのかの理由が記されてあります。それは、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」からです。神はねたむ神です。この「ねたむ」というのは、それらの偶像に嫉妬するということではありません。そうではなく、あなた自身をねたまれるということです。なぜなら、神はあなたの神だからです。神はあなたを奴隷の家から連れ出された方です。そのために大切な御子イエス・キリストを犠牲にされました。それほどにあなたを愛してくださったのに、それなのに、そのあなたが他の神々に仕えるというようなことがあるとしたら、悲しまれるのは当然のことでしょう。

また、ここには、「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」とあります。とあります。どういうことでしょうか。これもよく誤解されることです。もし偶像を拝むようなことがあれば、あなたの家は呪われることになるのでそれを断ち切らなければならないと、呪いを断ち切る祈りをする人がいますが、ここで教えていることはそういうことではありません。神を憎む者の咎が親から子に、子から孫に代々受け継がれていくということではありません。影響が及んでいくということです。逆に、神の命令と教えとを守るなら、良い影響が及んでいきます。その人が神の命令を守らないのに、必死になって呪いを断ち切ろうとしても、何の意味もありません。あなたとあなたの家族が主を信じ、主に従うなら、あなたは救われます。その良い影響はあなたの子孫にまで及ぶのです。そうでなければ、その影響はあなたの子孫にも伝わっていくということです。ですから、呪いを断ち切るのではなく、あなたが悔い改めて神に立ち返ることが求められているのです。

 第三の戒めは、主の御名をみだりに唱えてはならないということです。7節をご覧ください。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」主の御名をみだりに唱えるとはどういうことでしょうか。

 ユダヤ人は、この戒めを文字通りに唱え、主の御名を呼びません。主とはヘブル語で「יהוה ヤハウェ」と言いますが、英語のアルファベットで表記すると「Y」「H」「W」「H」の四つの文字で表します。これは「神聖四文字」、テトラグラマトンと呼ばれています。これはあまりにも神聖なためヤハウェと呼ばず、「アドナイ」と呼びました。日本語では「エホバ」と表記されています。ユタヤ人は「ヤハウェ」があまりにも神聖なので、この戒めに従って一切口にしないのです。

しかし、たとえばエレミヤ33:2~3節には、「地を造った主、それを形造って堅く立てた主、その名が主である方が言われる。 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」とあります。この「主」は「ヤハウェ」です。この主が、「わたしを呼べ」と言っておられるのです。「呼べ」とは、主の御名によって祈れということです。ですから、主の御名をみだりに唱えてはならないというのは、主の御名を一切口にしてはいけないということではありません。ではこれはどういうことなのでしょうか。

ここで鍵になるのは「みだりに」ということばです。これはヘブル語で「シャーブ」ということばですが、意味は「中味がない」とか、「実体が伴わない」、「価値がない」、「空虚である」という意味です。名前には意味があります。よく「名は体を表す」と言われますが、神の名前には神のご性質や神の働きがどのようなものであるかが反映されているのです。それは、「わたしは、「わたしはあるというものである」という意味です。主は他の何にも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。その神の名が空虚なものになってはいけないということです。つまり、これは「主の御名を無価値なものにしてはならない」とか、「無意味なものにしてはならない」ということであって、「主の御名」を唱えてはならないということではないのです。むしろ私たちは主の御名によって祈らなければならないし、祈るべきです。ただ口で唱えるというのではなく、神の御名が崇められるように祈らなければなりません。

では、いったいどういう時に神の御名が無価値なものになるでしょうか。主よ。主と呼びながら、主の言われるとおりにしない、そのとおりに生きようとしなければ、それは主の御名をみだりに唱えていることになります。マタイ7:21~23には、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」とあります。
ここで問題となるのは、主よ。主よと呼びながら、実体がないことです。主の御名を呼びながら、主のみこころに反することを行っています。そういう人に対して主は、「不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」と言われるのです。これが主の御名を、みだりに唱えるということです。ここに「罰せずにはおかない」とあります。主の御名によって罪を行うことがあるとしたら、それこそ大きな過ちなのです。

ですから、私たちも注意しなければなりません。信仰の実体が伴うように生きていくことを求めていかなければなりません。キリスト教的であるとか、そうした雰囲気ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、主に仕えなければならないのです。

第四の戒めは、安息日に関する規定です。8~11節までをご覧ください。「安息日を覚えて、こ
れを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」

安息日を覚えて聖なる日としなければなりません。なぜですか?なぜなら、主が六日のうちに、天と地と海と、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからです。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言されました。

これを読むと、主が創造のみわざをなされ七日目に休まれたので、私たちにも休みが必要だというように捉えがちですが、意味は全然違います。「安息日」はヘブル語で「「שבת「シャバット」と言いますが、ここから英語の「Sabbath (Day)」ということばが派生しました。これはもともと休むではなく、「止める」という意味です。神は六日間働いて七日目にその働きを止めたので、私たちも止めなければならないのです。なぜ神は七日目に休まれたのでしょうか。それは疲れたからではありません。神は疲れることなく、たゆむことのない方です。ですから、神様は休む必要などないのです。それなのにその手を休まれたのは、創造のみわざを完成され、その御業の数々をご覧になって満足なさるためでした。

ですから、申命記5:15には、同じ十戒が書かれてありますが、出エジプトには書かれてないことが記されてあるのです。それは、彼らがエジプトの地で奴隷であったこと、そして、彼らの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、彼らをそこから導き出したことを覚えていなければならない、ということです。それゆえ、主は安息日を守るようと命じたのです。すなわち、神が安息日の戒めを定められたのは、その手を休めて、普段やっていることを止めて、この日を特別の日にするためです。いつもしている六日間とは別に、この日だけはそれらの日と区別して、主なる神はどのような方なのかを覚え、礼拝するためなのです。

ここに「安息日を覚えて」とあるのはそのためです。安息日には、このことを覚えなければなりません。この日は創造主なる神を覚える日なのです。これが命令されているということは、私たちは忘れやすいからですね。自分が造られたものにすぎないということを忘れ、自分が神であるかのように思い込んでしまいます。そうではなく、あくまでも自分たちは造られたものにすぎないということを覚え、私たちを造ってくださった方をほめたたえなければなりません。これが、安息日が目指していることです。この日、私たちは主のものであり、私たちに与えられたもののすべては神様のものであって、すべてが恵みだということを思い起こすのです。これが結果として休息、安息につながるわけです。日常的なことを休むので、その結果、体が休みます。休息、安息となるのです。

けれども、どちらかというと私たちは休まない傾向があります。何かしていないと気が済みません。あれもしなければならない、これもしなければならない、時間がない、忙しいといって走り回っています。特に日本人は勤勉で有名ですが、このような人間に神様は休むことの豊かさを教えてもいるのです。ユダヤ人は金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として、この日にはいっさいの仕事をしませんでした。これは珍しいことなのです。日本では日曜日に休むようになったのは明治時代に入ってからのことでした。しかもそれは官公庁に限られていました。一般の社会では働くことが美徳でした。働いていないとだめです。ちょっとでも休んだりすると「だらしない」と思われていました。

ですから、どちらかというと休むことができないのです。「そんなビジネスチャンスの時に休んでなどいられるか。」「若いんだから、今働かなければいつ働くんですか。」「もっと年をとったら休みます」と言って、休もうとしません。マナを集めに行ったイスラエルの民も、七日目は主の安息だから休めるようにと、神は前日に二日分のマナをちゃんと用意してくださったのに、「こんな稼ぎ時に休んでいられるか」と行って集めようとした人がいました。人間は休まないで働こうとする。しかし、そこに祝福はありません。一週間に1日は普段の生活を止めて、その日を主の日として聖別して、その日を、主を礼拝する日として休むようにすること。それがこの安息日の規定です。

それなのに、いつしかこの戒めの本質が見失われ、これはユダヤ人に対する戒めであってクリスチャンには関係ないとか、これを厳格に日曜日と理解して、日曜日は聖日だからクリスチャンは聖日を厳守しなければならないとか、(これはすばらしいことだが、日曜日だけが安息日なのではないことに気づいていない。その本来の目的を見失っている)、安息日は土曜日なんだから土曜日に礼拝を守らなければならないと主張する人たちもいます。しかし、このような考えには、この安息日の本来の意味が見失われています。

新約聖書には、安息日論争が繰り広げられています。一つは福音書の中で、イエス様ご自身が律法学者やパリサイ人と論争されている箇所が出てきます。主は、安息日は人のためにあるのであり、人が安息日のためにあるのではない、と言われました。ユダヤ教は、この安息日についての規則を細部に至るまで定めています。その結果、安息をもたらすはずの喜びの日が、自分でも負いきれないほどの重荷となっていました。

 そして、新約聖書ではもう一つ安息日についての論争がありました。教会が誕生し、ユダヤ人だけでなく異邦人にもキリストの救いが広がって行ったとき、ある問題が提起されたのです。それは、異邦人クリスチャンも安息日を守るべきなのかどうか、ということです。それに対する使徒たちの答えは、明白でした。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。」(コロサイ2:16-17)
つまり、安息日は、次に来るものの影であり、その本体はキリストにある、とパウロは論じたのです。

これは、クリスチャンが礼拝に行かなくても良いということではありません。旧約の神は、新約の神でもあります。使徒の働きや手紙の中には、初代教会の信者たちが週の初め、つまり日曜日に集まっていたことが記録されています。それはキリストが復活された日が日曜日であり、また聖霊が臨まれて教会が誕生した日も日曜日だったからでしょう。日々の働きを止めて、礼拝に集い、主をともにあがめることはとても大切なことです。神が休まれたので、神が止められたので、私たちも日々の働きを止め、安息の主を覚えて、これを聖なる日としなければならないのです。

次に12節をご覧ください。ここには、第五の戒めが記されてあります。それは、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」というものです。これまでは神と人との関係についての戒めでしたが、ここからは人と人との関係、対人関係についての戒めが語られます。この順番が大切です。人と人との関係が正されるためには、まず神との関係が正しくなければなりません。

その対人関係の最初に出てくる戒めは、父と母との関係に関するものです。なぜ父と母との関係に関する戒めが対人関係の最初に語られているのでしょうか。それは、父と母が、神の代表として立てられている存在だからです。神に対して恐れと尊厳をもって仕えるように、神の代理者である父母に対しても恐れと尊厳をもって仕えなければならないのです。それは神が定められた秩序です。その秩序を重んじるようにというのが、この戒めが意図しているところです。ですから、これは単に父母を敬えというだけでなく、神が定められた社会の秩序において、上に立てられた権威に従うことも含まれているのです。家庭における両親、社会における年長者、組織における責任者、国における政治を司る人々のことです。そうした人々を敬わなければなりません。

ところで、「父と母を敬う」とはどういうことでしょうか。それは、神が私たちの上に立てられた人々に対して、私たちが尊敬と服従と感謝を表すことです。特に両親を尊敬しなければなりません。それは、私たちが今この世にこうしているのは両親のお陰でもあるからです。だから、両親を尊敬しないものは、人間として最も基本的にところに欠けていると言えます。

創世記9章に出てくるノアの3人の子どもの内、ハムは父を尊敬しませんでした。彼は父ノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸で寝ていたとき、「あざ笑った」とあります。当時、裸をさらすということはのろいに値することでした。その父の裸を見て彼はあざ笑ったのです。これは父の名誉を傷つけることでした。他の2人の子どもセムとヤペテはそうではありませんでした。彼らは父の裸を見ないようにそれを覆いました。父を尊重するように、その弱さ、醜さ、罪を見ないように覆ったのです。しかし、ハムはあざ笑いました。それゆえに彼は呪われてしまいました(9:25)。ここでハムではなくその子孫であるカナンが呪われているのは、その呪いが子孫にまで影響を及ぼしているということです。父と母を敬わない人は、その人の人生だけでなく、その子孫にまで影響を及ぼすことになるのです。

この戒めには特別な祝福が約束されています。それは、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」というものです。これは単に長生きするということではなく、質の高い豊かな人生を味わうことができるという意味です。たとえば、神に従わなかった最初のアダムは930歳まで生きましたが、神に従った第二のアダム(イエス・キリスト)は、33歳でこの世を去られましたが神の右の座に引き上げられました。そういう生涯が約束されているのです。

この戒めについて注意すべきことは、使徒パウロがエペソ6:1で言っているように、「主にあって」従うということです。つまり、この服従は信仰の行為としてなされなければならないということです。と同時に、親が信仰に反対し、神の律法を犯すようなことがある時には、当然、私たちは真の権威者であられる神に従わなければなりません。それは両親ばかりでなく、家庭であれば夫であり、会社であれば上司、学校であれば先生など、あるゆる場合において言えることです。そして、そうした人たちのために、私たちはとりなしの祈りをささげるべきなのです。それこそ、父母を真に敬うということであり、愛することなのです。

第六の戒めは、「殺してはならない。」(13)です。当たり前と言えば当たり前のことでいすが、どうして神はこのように言われたのでしょうか。この「殺してはならない」という戒めをめぐっては、いろいろな誤解があります。たとえば、ここに「殺してはならない」とあるので、これは一切、人を殺してはならないということであって、それは戦争で武力を行使することや、警察がいわゆる正当防衛で犯人を殺してしまうことも含まれる、つまり、聖書は戦争をしてはならないと教えているという解釈です。

けれども、これはそういうことではありません。この「殺してはならない」ということばはヘブル語で「ラツァック」ということばですが、英語では”murder”と翻訳されているように、明らかに人が故意に、計画的に、不法に人を殺害する場合を指しています。つまり、自分の身を守ろうとする正当防衛や、他国からの攻撃に対して自国を守るための反撃、また殺人を犯した罪による死刑は、これらに該当しないのです。もちろん、戦争や死刑制度などは神様が望むはずはありませんが、人間に罪がある以上、悪がはびこることは避けられないことです。そうした悪が増殖するのを防ぐための抑止力として神様が用いられることがあるのです。

また、旧約聖書をみると、イスラエルがカナンの地に入っていくとき、その地の住民を皆殺しにするようにと命じています。女も、子供も、家畜に至るまで。これを「聖絶」と言いますが、ただ読んだだけでは、聖書の神は何と残酷なことをされるのかと思ってしまいます。神は愛だと言いながら、みな殺しにせよというのはひどいじゃないか・・・と。そのような記述を読むと、聖書は矛盾しているのではないかと感じたりします。そして、求道者はそのようなことに躓いてしまうのです。
しかし、あの箇所をよく見ると、あれは神のイスラエルに対するあわれみのゆえの命令であったことがわかります。つまり、カナンの地は偶像に満ちていました。そのような偶像に満ちていた地には昔からの習慣があって、そうした習慣から彼らを守るための神の計画だったのです。

また、この前の章には、「山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。」(19:12)とあり、21:12には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければいけない。」とあります。一方で殺してはいけないと命じておきながら、もう一方で殺しなさいと言うのは矛盾しています。その他にも、聖書には数多く、神ご自身が殺しなさいと命じている箇所があります。普通に読めば、ここは殺意を持って、不法に殺すこと、つまり殺人を禁じている箇所です。警察が、他の人や自分を殺そうとしている凶悪犯に最後の手段として銃を使って殺すことや、また攻撃してくる外国の敵に対して自国の軍隊が反撃することではありません。もちろん、これらのことも理想的な状態ではあるとは言えません。しかし、現実には罪のゆえにこうしたケースが起こるわけで、そうしたことに対してはきちんと対処することを、聖書は禁じてはいないのです。

もう一つの誤解は、ここに「殺してはならない」とあるので死刑制度はおかしいのではないかという考えです。しかし、創世記9:6には、「人の血を流す者は、人によって、血をながされる。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とあることから、人の血を流す者は、人によって血を流されなければなりません。これが、神が定めている死刑制度です。これは律法が定められる前のことであり、神が人類に与えておられる普遍的な原則なのです。このみことばは、カインの殺人事件にまで遡ります。ご存知のように、人類最初の殺人事件はアダムとエバの子カインがアベルを殺したことに端を発します。自分のささげたものを神は受け入れずアベルのものを受け入れたことを知ったカインは、弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。その時神は何と言われましたか。「カインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」(4:15)と言って、だれも彼を殺すことがないように守ってくださいました。そして、その子孫のレメクにはこう言っている。「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」(4:24)。これはどういうことかというと、俺は何をしても赦される。だれも俺に手を出すことなどできないと宣言しているのです。つまり、彼は神のあわれみをねじ曲げそれを利用するかのようにして、自分のやりたい放題のことをしたのです。カインが人を殺しても死刑にならなかった。カインが殺されなかったのであれば、自分も何をしても赦される、という思いです。そして、その結果がノアの時代に続きます。創世記6:5に、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあります。何をしてもいい。人を殺したって大した問題ではないといった思いです。そうした人間を神はどうされたかというと、大洪水で滅ぼされたわけです。人を殺してはならない。人を殺せば、自分も殺されると。残酷なようだけども、人を殺すなら、その責任を負わなければなりません。もちろん、だからといって救われないということではありません。悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら救われます。しかし、この地上での責任は負わなければならないのです。これが神の定めた死刑制度なのです。

もう一つの誤解は、この戒めは自分には関係ないと思っていることです。そのような人に対してイエス様はこのように言われました。マタイ5:20~26です。イエスさまは「殺してはならない」の戒めの真意を、山上の垂訓でさらにお語りになっています。もし兄弟に向かって、馬鹿、と言ったら、あなたがたは最高法院に引き出される、と言われました。つまり物理的に殺さなくとも、殺意を抱けばそれでこの戒めを破ったことになるのです。「こいつさえいなければ、幸せなのに」と思ったとき、私たちは、実は人を殺していることになるのです。そういう意味では、私たちはどれだけの人を殺しているでしょうか。そういう意味では、この戒めは私たちとも無関係ではありません。私たちは人を憎んだり、馬鹿者と思ったりする弱い者ですから、この律法を完全に守ることなどできません。だから、イエス様の赦しを、イエス様の義を求めなければならないのです。人を殺している人を見て、何てひどいことを・・と思いますが、実は私たちもそのような者なのだということを覚えて、イエスの十字架の赦しの中に生きなければならないのです。

 次は、「姦淫してはならない」(14)です。これは第七の戒めとなります。これは婚外交渉をしてはいけないということです。結婚前に性交渉を持つことも含まれます。結婚の外でのありとあらゆる性行為や不健全な性行為全般のことです。それが禁じられているのです。神は天地を創造されたとき、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地に従えよ。」と命じられました。ですから、生殖行為は神から与えられた賜物ですが、それを神が定めたところ以外で用いることを、禁じているのです。この世ではばからしいと感じられるかもしれません。この世では全く反対の動きがあります。この世の性的な価値観は聖書のそれとはかなりの違いがあります。

この教えについても、自分には関係がないと、人ごとのように感じておられる方もいるかもしれません。しかし、イエス様はこの戒めの真意を次のように教えられました。マタイ5:27~28です。ここには、「情欲をもって女を見るならば、姦淫の罪を犯したことになる」とあります。当時の律法学者たちは、外側の行ないが良ければ律法を守ったことになる、としていました。しかし、聖書は私たちの内面を取り扱っています。心の中で情欲をもって女を見るなら、姦淫を犯すことになるのです。つまり、殺人もそうですが、こうした姦淫も心の中が問われているのです。心の中でそうした思いを抱くので、それが外側に行為となって表れるのです。ですから、心の中でそのような思いを抱いた段階で罪を犯すことになるのです。そういう意味では、本当に私たちは弱い者に過ぎず、主イエスの助けと赦しがなければ生きていくことはできません。

この「姦淫してはならない」という戒めを破ることのおそろしい点は、これが自分自身を滅ぼすことにつながっていくことです。箴言6:32には、「女と姦通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす」とあります。この「自分自身」ということば「自分のたましい」という意味です。「ネフェシュ」ということばが使われています。自分のたましいを滅ぼすことになります。それは肉体的な面だけでなく、感情的な面でも、人格の面でも、それ以上に霊的な面にまで及びます。主イエスは、あなたの目がつまずかせるなら、それを取ってしまいなさいと言われましたが、こうした情欲を抱かせる者に対しては徹底的に捨てる、遠ざける必要があります。

第八番目の戒めは、「盗んではならない」(15)です。これも自分とは関係がないと思う人が多いかもしれませんが、実は私たちと深い関わりがあります。というのは、これは物を盗むことだけではなく、所有権を犯すことだからです。もちろん、泥棒、詐欺、万引きは盗みですが、たとえば借りたものを返さないこともそうなのです。試験でカンニングするのもそうです。キセルも料金も盗む罪です。脱税や税金をごまかすことも、会社の備品を持って帰ることも含まれます。カイザルのものはカイザルに、そして、神のものは神に返さなければなりません。

詩篇24:1には「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」とあります。この地のすべては主のものです。ですから、私たちは主のものを主のものとして返さなければなりません。それを返さなかったら盗んでいることになるのです。それが十分の一献金です。十分の一を主にお返しすることによって、私たちは主のものを主のものと認めているわけです。それをしなかったら盗んでいることになります。マラキ書4章で十分の一をささげていなかったイスラエルに対して神は何と言われましたか?「あなたがたは盗んでいる」と言われました。彼らはドキッとしたでしょう。

その神のものを神のものとせずに盗んでいた人に対して、どんなさばきがあったでしょうか。ヨシュア6,7章には、アカンの罪について記されてあります。アカンは、アカンことをしました。イスラエルがエリコの町を占領したとき、彼は神のものに手につけたのです。神はすべてのものを聖絶するようにと命じられましたが、彼は一部の物を取っておきました。その結果、次のアイとの戦いにおいて、イスラエルは大敗を喫しました。原因はアカンが神の命令に背いて、自分のために取っておいたことです。神のものを神のものとしませんでした。神のものを盗んでいたのです。そういうことには神のさばきが伴うのだということを覚えておきたいと思います。

第九番目の戒めは、「偽りの証言をしてはならない」ということです。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」(20:9)とあります。これは法廷において事実と異なる証言をすることを禁じることですが、ここではそれ以上の意味が込められています。

ハイデルベルグ信仰問答書があります。その112問に次のような問答があります。
「十戒の中の第九戒では、何が求められていますか?」
それに対する答えはこうです。
「私がだれに対しても偽りの証言をせず、誰のことばをも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。かえってあらゆる嘘やごまかしを悪魔のわざとして、神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他あらゆる取引においては真理を愛し、正直に語り、また告白すること。さらにまた、私の隣人の栄誉と威信とを、私の力の限り守り、促進するということです。」

よくまとめられていると思います。ですから、これは単に嘘を言ってはならないということではないのです。その具体的な例として、マタイ26:59~63で、イエスを訴えるための偽証をあげることができます。ここで問題だったのはどんなことでしょうか?それは彼らが自分たちに都合がいいようにイエス様のことばを勝手に解釈し、それをねじ曲げたことです。確かにイエス様は「わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる」と言いましたが、それは目に見える神殿のことではなく、御自分のからだのことを指して言われました。十字架と復活のことです。それなのに、彼らはそれを、イエス様を訴える口実として利用しました。偽りの証言のいやらしさがここにあります。彼らの動機が間違っていました。彼らはイエス様を訴えるためにそれを用いたのです。

これが悪魔のすることです。ヨハネ8:44には、悪魔は真理に立っていない、とあります。自分にふさわしい話し方をしているが、偽っているわけです。最初の人アダムとエバもそうでした。悪魔はエバに、「神は本当に言われたのですか」と神が言われたことを引用して、それを用いて騙しました。それを食べるそのとき、あなたの目が開かれ、神のようになる・・・と。嘘も方便ということばがありますが、半分本当でも、半分嘘なのです。自分に都合がいいように勝手にねじ曲げました。それが悪魔のやることです。

しかし、嘘が必ずしも悪いことではありません。ヨシュア記をみると、カナンの娼婦であったラハブはイスラエルのスパイをかくまったとき、嘘をついて彼らを守りました。そして、それゆえに称賛されています。かつてナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺の事件のときも、コーリー・テンブーン家族はユダヤ人をかくまって守りました。そのように人のいのちを生かすとき、他者の利益のために、嘘をつくことがありますが、よほどのことがないかぎり、嘘をついてはいけないのです。なぜなら、それはサタン的だからです。

黙示録12:10を開いてください。ここには「私たち兄弟たちの告発者」とあります。これはサタンのことです。皆さん、サタンは告発者なのです。神の前に訴える者です。私たちの犯した罪を並び立てて訴えるのです。だれでも罪を犯したり、失敗したりします。ですから、そのように訴えられたら弁解しようがないわけです。しかし、偽りの証人は自分にとって都合がいいように事実をねじ曲げます。半分は事実ですが、半分は間違っています。その動機が間違っています。Iヨハネ2:1には、私たちには弁護人がいます。義なるキリストです。私たちはどうしようもない罪人です。しかし、そんな私たちのために罪を清めてくださった方がおられる。それがキリストです。これも事実なのです。それなのにサタンは半分しか言いません。これがサタンの巧妙なわざです。

これは私たちも注意しなければなりません。クリスチャンならみな天国に行きます。にもかかわらず、あのクリスチャンが、このクリスチャンが、と悪く言うとしたら、神はどう思われるでしょうか。そうした偽りの証言を、神はどれほど忌み嫌われることでしょうか。箴言19:5には、「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。」とあります。半分の事実だけを取り上げて、ねじ曲げて、その人のことを悪く言うとしたら、それはサタンと同じようなことをしていることになります。神は、そういうことを忌み嫌われるのだということを覚えておきたいと思います。

ではどうしたらいいのでしょうか。イエス様はこのように言われました。マタイ5:37です。「はい、は、はい。いいえは、いいえ、はいいえと言いなさい。」と。口は災いのもとと言われますが、そうです。これは物を盗むことよりも被害が大きくなることがあります。人の噂話によって広がっていき、ある人の信用を傷つければ、その人は一時的に物を失うよりももっと長い、いや死ぬまで続くほどの害を被ることさえあります。ヤコブは、「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」(3:6)と言いました。

ですから、自分が偽りの証言をしないように、いつも主が自分の口を守ってくださるように祈らなければなりません。詩篇119:29,120:2,箴言3:8を参照してください。このように祈ることが偽りの証言から自分の身を守る秘訣なのです。

17節をご覧ください。十番目の戒めです。「あなたの隣人の家を欲しはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲してはならない。」(17)
 最後の戒めは、むさぼってはならないという戒めです。この戒めの特徴は心に関することであるということです。他の戒めは行為に関することですが、これは心から出るむさぼりを取り扱っています。欲しがること、あるいは、むさぼりは他の戒めを破ることにつながる、最初の欲望です。盗むのは他人のものをむさぼっているからです。姦淫するのも、他人の妻をむさぼっているからです。嘘をつくのは、自分がむさぼっていることを隠したいからです。父母をののしるようなことをするのは、父母に与えられた神の権威を欲しがっているからです。今あるもので満足すること、神の恵みが自分に十分にあることを知ることが、むさぼりから守られる秘訣です。ヘブル13:5にはこう書いてあります。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」

 マタイ19:16~22には、金持ちの青年がイエス様のもとに来て、救われるためにはどうしたら良いと尋ねる場面が出てきます。それに対してイエス様が律法を守るようにと言うと、彼はそのようなものはみな守っています、と答えました。そこでイエス様は最後にこの戒めを言うのです。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」すると彼は悲しんで去って行きました。財産と霊性は切っても切り離せない関係にあります。お金の使い方でその人の霊的状態がわかります。いま持っているもので満足しなさい。神を第一に求めていくこと、それが、この戒めが指摘していることだったのです。

Ⅲ.神への恐れ(18-26)

すると、民はどのように応答したでしょうか。18~19節をご覧ください。
「民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」

イスラエルの民は十戒を聞いて、神が恐くなり、たじろぎ、遠く離れました。律法によって神に近づけられたのではなく、神から遠ざかろうとしたのです。これは単に、彼らが雷や稲妻などの物理的な現象に驚いていたからではありません。神の聖さに触れたからです。あの預言者イザヤも、高く上げられた御座に着いておられる主を見たとき、「ああ、私は滅んでしまう」と叫びました。「この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主の栄光を見たとき、彼もたじろぎました。ここでも、イスラエルの民は、聖なる神の臨在に触れた時、自分たちがいかに汚れた者であるかがわかったのです。

 神の律法に触れると、私たちにも同じようになります。律法は聖なるものであり、正しいものであり、そこには神の聖いご性質が表れています。したがって、律法の鏡に写し出されてみてはじめて、自分がいかに罪深い者であるかを知ることになるのです。そして、律法を守ることによっては神に正しいと認められることなどできないということ、むしろ自分がいかに汚れ、罪人であり、死罪に値する者であるかに気づかされます。私たちは地獄があるなんて恐ろしく、神がそこに人を入れるなんてひどいと思うかもしれませんが、律法が与えられるとき自分が地獄に行かなければならない存在であり、永遠のさばきを受けなければいけない存在なのだと気づくのです。

 そして、神のあわれみにすがるようになります。「どうかあなたのあわれみによって、私の罪を赦してください。」と。その結果、神の救い、キリストの十字架による贖いの死を信じる信仰へと導かれます。ローマ8:3に、「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」とある通りです。
このように、律法は私たちを清める力はありませんが、私たちを救い主の許へと導きます。ですから、パウロはガラテヤ書で、律法はキリストへ導く養育係であると言っているのです。イスラエル人と違い、私たちは神に大胆に近づくことができます。それは、キリストの血によって、神の御座がさばきの座ではなく、恵みの座になったからです。おりにかなった助けを受けるために、神の御座に大胆に近づくことができるのです。信仰により、恵みによって義とされていることを感謝しましょう。

20~21節をご覧ください。「それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」民は遠く離れて立ち、モーセは神がおられる黒雲に近づいて行った。」

モーセは、「恐れてはいけません」と言いました。神が来られたのは彼らが恐れるためではありません。彼らを試みるためです。彼らがいかに罪深い者であるかを悟り、自分の義ではなく神の義に頼るかどうか、そして、神に従って生きるようになるためだったのです。それなのに神を恐れて、「やっぱりだめだ。自分は汚れている。とても神様に従うことなんてできない」と思ったら本末転倒です。そうではなく、彼らが神を恐れ、神の愛と恵みに生きることを神は願っておられたのです。

最後に、22~26節をご覧ください。
「主はモーセに言われた。「あなたはイスラエルの子らにこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたに語ったのを見た。あなたがたは、わたしと並べて銀の神々を造ってはならない。また自分のために、金の神々も造ってはならない。あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」

ここで神はどのように神を礼拝したらよいかを語られます。彼らは、神が天から語ったように銀の神々や金の神々を造ってはなりません。彼らは、神のために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛を全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければなりませんでした。そうすれば、主が彼らに臨み、彼らを祝福してくださるというのです。どういうことでしょうか。これは、彼らが神を礼拝する時には、シンプルでなければならないということを意味していました。金や銀で出来たあでやかな祭壇ではなく、土で出来た質素な祭壇です。なぜなら、もし金や銀で祭壇を作るなら、そうしたものに心が奪われ、神に集中することができなくなってしまうからです。神は、自分以外に人々の注意がそれることを望まれませんでした。神を礼拝するときは、それを妨げる要素をなるべくなくさなければなりません。それで土の祭壇です。私たちの礼拝はどうでしょうか。礼拝堂は金や銀のようにあでやかになってはいませんか。賛美をリードする人は、神ご自身よりも自分の音楽技術を披露するようなことにはなっていないでしょうか。牧師が説教する時、神のみことばではなく、自分の体験談ばかり話たりして、神の栄光に陰りが出ていないでしょうか。神を礼拝する時は、神に集中できるように、土で祭壇を造らなければなりません。また、その上に、全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげなければなりません。なぜなら、神への礼拝は動物の犠牲によって成り立つからです。この動物のいけにえこそイエス・キリストを指し示していました。私たちは、言えうす・キリストの犠牲のゆえに神のものとされ、神に受け入れられる礼拝をささげることができるのです。

そのことは、次の所でも言われています。25節には、「もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」とあります。ここには、もし祭壇を築いて主を礼拝しようするなら、次の三つのことをまもらなければならないと命じられました。すなわち、石で祭壇を造るなら、それは切り石で築いてはならないということ、また、それにのみを当ててはならないということ、そして、主の祭壇に階段で上るようにしてはならないということ、つまり、高くしてはならないということです。そして三つ目のことは、その上で、あなたの裸をあらわにしてはならないということです。

切り石で築いてはならないとか、のみを当ててはならないというのは、加工された石を使ってはいけないということです。それは先ほども申し上げたように、そのようなものに心が奪われ、神に集中することができなくなってしまうからです。祭壇は、その上でいけにえをささげるためのものです。ですから、それに人が勝手に手を加えることなど出来ないのです。ここには「わたしの祭壇」とあるように、それは主の祭壇であって、そこでは主のいけにえがささげられるのです。キリストの十字架がたてられたのは、土や石のあるゴルゴタの丘でした。切り石で築いたきれいな丘ではありませんでした。自然の石の上に立てられたのです。同じように、主の祭壇も、切り石やのみを当てたりしない自然の石ので築かなければなりません。

それから、主の祭壇に階段で上るようにしてはいけませんでした。高くしてはならないということです。世界各地に残っている当時の祭壇は、高く、きれいなものであることが多いです。そこに、裸の祭司が上って、いけにえをささげる事が多かったのです。太陽礼拝、月礼拝などの祭壇は、特に高く造られていました。バベルの塔がそのいい例です。それは、ほんとうの神への挑戦を意味していました。この世での様々な宗教においては、誰からも見えるところに造られたのです。でも、主が定めた祭壇の掟は、むしろ簡素な、目立たないものでした。これは、人の側の謙遜を意味するものでした。後のところで、幕屋と祭壇が作られますが、それは、幕屋の中の、隠されたところにありました。当時の人々は、神を礼拝する事を、人に見せびらかすため、そして、神にアピールするために行っていました。それはとても派手で、華々しく、仰々しい事だったでしょう。祭司が高い祭壇に上って行き、そこで儀式が行われたのです。しかし、神を礼拝するのは神にアピールするためでも、人に見せびらかすためでもありません。イエス様は、「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。」と言われました(マタイ6:6)そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われたのです。これが祈りです。これが礼拝です。それは人に見せることでも、神に見せることでもありません。ただ単純に神を恐れ、単純に神を愛し、単純に神を求め、単純に神に感謝し、ささげものをし、そして、常に謙遜であることです。それは、形式でもありません。祭壇は、すぐに崩れてしまうようなもので十分でした。きらびやかなものである必要はなかったのです。高い所に造る必要もありませんでした。

そして、ここには、「その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」とあります。私たちの派だかがあらわにならないようにするために必要なのは、そのようにして造られた祭壇の上に、全焼のいけにえと交わり(和解)のいけにえをささげることによってです。それは、私たちのために十字架で死んでくださったキリストの贖いを示しています。私たちが神を礼拝できるのは、このキリストの犠牲のゆえなのです。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉で綴り合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい、全く役に立たなかったでしょう。しかし、神はそんな彼らのために動物の皮で作った着物を着せてくださいました。まさに、その動物こそがキリストの血を象徴していたのです。そのように神がしてくださいました。

ですから、私たちに必要なのは、私たちが何か神のためにするということではなく、神が私たちにしてくださったことを思い、そのことに感謝し、神を神として、心から神に感謝をささげることです。これが神を礼拝するということです。神を神として畏れ、ひれ伏す事。神を神として、価値のある方、素晴らしい方として礼拝する事。神を王の王、主の主、すべてを支配なさる方として敬う事です。その神の前で、わたしたちは、ちっぽけで、罪深く、価値のない、虫けらのような存在であることを自覚する事です。そして、その虫けらのわたしたちを愛してくださる主に、心から感謝する事なのです。

出エジプト記19章

Ⅰ.神との契約(1-9)

 

「エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

エジプトを出たイスラエルの民は、約束の地を目指して旅を続けてきましたが、レフィディムから次の宿営地であるシナイの荒野に入りました。それは、第三の新月の日でした。つまり、3月1日のことです。イスラエルがエジプトを出たのは第一の月の14日でしたから、ここまで来るのに約1か月半かかったことになります。休みながらの移動だったので、相当な時間を要したのでしょう。シナイの荒野に入ると、彼らは山を前に宿営しました。この山とはシナイ山です。かつてモーセはこの山で神から召命を受けました。あれから1年後、モーセは再び神の山に戻ってきたのです。

モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んでこう言われました。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。」

主は、ご自身がイスラエルの民をエジプトから解放するために何をしたのか、また、どのようにここまで導いて来られたのかを語られました。「鷲の翼に乗せて」とは、追って来る敵の手からすみやかに救出したという意味です。また、「わたしのもとに連れて来た」とは、このシナイ山に来たことを指しています。なぜ主は彼らにこのように過去のことを回顧させているのでしょうか。それは、これがこれから民と契約を結ぶ前提となるからです。

5節、6節をご覧ください。ここでは、その契約の内容が語られています。それは、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」ということです。どういうことでしょうか。もし、神の声に聞き従い、神の契約を守るなら、あらゆる民族の中にあって、彼らは神の宝の民となるというのです。つまり、神が所有される特別な宝となるということです。これは特別な祝福です。というのは、全世界は主のものであり、それゆえに主は、ご自分のみこころのままに人を祝福したり、罰したりすることができるわけですが、イスラエルの民は、その神の特別な宝となるのです。つまり、神の特別な所有財産となるのです。これ以上の特権はありません。

そればかりではありません。ここには、「全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。祭司とは、神と人を仲介する人のことです。イスラエルの民を見て、神がどのような方であるのかを人々が知るようになり、また人々のためにイスラエルが神に執り成しをするのです。これはアブラハムと結ばれた契約の延長でもあります。かつて神はアブラハムにこう仰せられました。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)。それは彼らの自己満足のためではなく、すべての国々の中で光となるためであり、他の民族がこの方が主であると認めるためでした。けれどもイスラエルは自分を求めるだけで、この使命を失ってしまいました。

そればかりではありません。ここには、「聖なる国民となる」とも言われました。「聖」とは、分離するという意味があります。つまり、諸国の中から分離された国民となるということです。これまでは他の国民のように自分の欲望と満足のために生きてきましたが、これからは神の民として、真の神を信じ、その神の教えと戒めに従って歩む聖なる国民となるのです。

モーセは、神から告げられたことを民の長老たちに示すと、彼らはどのように応答したでしょうか。8節には「民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。」とあります。民はモーセが語ることばに同意し、自分たちは、主が仰せられたことを、すべて行います、と言いました。すばらしいですね。主が仰せになられたことをすべて行うことは不可能なことですが、それでも彼らはそのようにしたいと応答しました。

それで、モーセは、民のことばを携えて主のもとに戻りました。すると主はモーセに言われました。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」(9)

主は濃い雲の中にあって、モーセに現われました。それは主がモーセに語られるとき、イスラエルの民がそれを聞いて、彼らがモーセを信じるためです。つまり、モーセが本当に神と語っていることを彼らが知り、モーセのリーダーシップを認めるためです。モーセはここで仲介的な役割を果たしています。民の言葉を神に告げ、主のみことばを民に告げています。同じような役割をイスラエルの民にも与えられていました。それは、神の愛と義を諸国民に示し、また、神と諸国民の間に立って、両者をとりなす役割です。しかし、後の歴史が示しているように、彼らはその使命を果たすことができませんでした。彼らの信仰があまりにも表面的であったというか、みことばに深く根差していなかったからです。確かに彼らは、「私たちは主の言われたことをすべて行います」と応答しましたが、それがどういうことなのかを深く考えることができなかったのです。

イエスは種まきのたとえ話の中で、岩地に蒔かれた種は、土が深くなかったので、すぐに芽を出したが、しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまったと話されました。この時のイスラエルはまさに岩地に蒔かれた種のようでした。神のことばを聞いて「私たちは主の言われたことをすべて行います。」と応答しましたが、それがどういうことなのかを深く考えることをしませんでした。

私たちも同じです。主はご自身を信じる者にすばらしい約束を与えておられますが、その約束を受けるためには、「もし、あなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、」とあるように、神の声に聞き従い、神との契約を守ることが求めてられています。そのためには、神のことばが何と言っているのかを良く聞き、ご聖霊の助けと力を仰ぎながら、神に全く信頼しなければなりません。私たちの表面的な感情や力だけでは、主の御声に聞き従うことはできないのです。神のことばに深く根差しながら、イエス・キリストの救いの恵みに感謝して、神の声に聞き従う者でありたいと思います。

Ⅱ. イスラエルの民の聖別(10-15)

モーセが民のことばを主に告げると、主は何と言われたでしょうか。10~15節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」 モーセは山から民のところに下りて行って、民を聖別した。彼らは自分たちの衣服を洗った。モーセは民に言った。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」」

モーセが民のことばを主に告げると、主はモーセに、民のところに行き、きょうとあす彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせるようにと言いました。三日目に、主が民全体の前でシナイ山に降りて来られるからです。彼らは二日間かけて自らをきよめなければなりませんでした。具体的には、衣服を洗うということです。自分の衣服を洗うことが、どうしてきよめることと関係があったのでしょうか。主はきよめるということがどういうことなのかを教えるために、外側のきよめという目に見える形を通して示されたのです。神が聖なる方であるから、彼らにも聖であることを求められました。その聖であるということがどういうことであるのかを理解させるために、外側のきよめを命じたのです。イエスは、外側からのものは厠に流されるだけで、人を汚すのは内側から出てくるもの、嘘、偽り、好色、殺人といった類のものであると言われました。ただキリストの血によって、また神のみことばによって私たちの心はきよめられるのです。

次に主は、周囲に境を設けるようにと言われました。12~13節です。「あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」

シナイ山の周囲に境を設ける必要がありました。なぜなら、そこには聖なる主が下りてこられるからです。山に触れる者があれば、その人は石で打ち殺されなければなりませんでした。主はそれほど聖なる方であられるからです。人間も動物も、その境を越えることは許されませんでした。汚れたものが聖なる地に足を踏み入れることは、そのまま死を意味したのです。では、いつ山に登ることができたのでしょうか。このように二日間身を聖め、角笛が長く鳴り響くのを待たなければなりませんでした。

新約の時代に生きている私たちは、別の方法で神に近づくことができます。それはイエス・キリストによってです。イエスは私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。この十字架の血が私たちをきよめることができます。だれでも、神に近づきたいと思うなら、この血のきよめを受けなければなりません。へブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とあります。これが、私たちが神に近づくことができる唯一の方法です。これ以外の方法で神に近づくことはできません。そのようにすることは、「境」を越えることであり、神の裁きを身に招くことになります。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)主イエスだけが、罪と死の問題から私たちを解放してくださるお方であり、このイエスによってのみ、すなわち、イエスを信じることによってのみ、神に近づくことができるのです。

モーセは、山から民のところに下って行って、民を聖別し、彼らの衣服を洗いました。そしてこう言いました。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」ここにはもう一つのことが付け加えられています。それは、「女に近づいてはならない」ということです。これはどういうことでしょうか。これは、必ずしも不品行のことではありません。自分の妻との性的な関係を控えなさい、という意味です。夫婦の肉体関係が罪であるとか汚れているということではありません。衣服を洗って身を聖めるように、外側の行ないによって、内側の聖さを示す必要があったのです。

Ⅲ.神の顕現(16-25)

次に16~25節をご覧ください。

「三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。主はシナイ山の頂に降りて来られた。主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセは登って行った。主はモーセに言われた。「下って行って、民に警告せよ。彼らが見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように。主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」モーセは主に言った。「民はシナイ山に登ることができません。あなたご自身が私たちに警告して、『山の周りに境を設け、それを聖なるものとせよ』と言われたからです。」主は彼に言われた。「下りて行け。そして、あなた自身はアロンと一緒に上れ。しかし、祭司たちと民は、主のところに上ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」

三日目の朝になると、山の上に雷鳴と稲妻と厚い雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がりました。神の臨在に触れたからです。モーセは、神に会わせようと、彼らを宿営から連れ出し、山のふもとに立たせました。するとシナイ山は全山が煙っていました。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからです。煙はかまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えました。ものすごい光景ですね。そして、主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセが登って行くと、主は、「まず、下って行って、彼らが主を見ようとして主の方に近寄って来て、滅びることがないように警告するように」と言われました。それは祭司たちも例外ではありませんでした。主に近づく祭司たちも、自分自身を聖めなければなりませんでした。主は限りなく聖なるお方なので、この方に近づこうとするなら、主が怒りを発して、滅ばされてしまうからです。

ヘブル12:18~24には、これがどういうことなのかが記されています。

「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」

これは、この時のことを述べています。それは、シナイ山が揺れ動くほど恐ろしいものでした。だれも主の山に近づくことなどできませんでした。近づこうものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまうことになります。主はあまりにも聖なる方なので、だれも近づくことができなかったのです。

しかし、私たちには、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。どうやって?イエスの血の注ぎかけによってです。私たちが近づいているのは、地上のシナイ山ではなく、天のエルサレム、「生ける神の都」です。そこでは無数の御使いたちの大宴会が開かれています。これはただ神の恵み、イエスの血の注ぎかけによるのです。つまり、恵みの時代に生きている私たちクリスチャンは、恐れることなく大胆に、恵みの座に近づくことができるのです。これらのことを可能にするのは、すべて、新しい契約の仲介者である主イエスが、ご自身の血を御座にお注ぎになったからです。
私たちは、どのように神に近づいているでしょうか。旧約時代のイスラエルの民のように、自分が何か悪いことをしたのでは神は受け入れてくださらないのではないかと、びくびくしながら近づいてはいないでしょうか?もし、そうであれば、それは神がキリストによって成してくださった神の恵みに対する信仰が薄くなっているからです。私たちが近づいているのは、黒雲と煙が立ち上がっているシナイ山ではなく、シオンの山です。主が、私たちが神に近づくことができるためのすべてのことを、ご自分の血とその肉体によって成し遂げてくださったのです。だから、良心をきよめられて、大胆に神に近づくことができるのです。

神が聖なる方であることを知ることはとても大事です。しかし聖なる方に近づくためにその尊いひとり子の血が流されたことを忘れないでください。この方によって、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。これ以外に、私たちが神に近づく方法はありません。天の下で、私たちが救われるべき御名は、人間に与えられていないからです。まだこの神に近づいていない方は、どうかこの神の救い、イエス・キリストを信じてください。キリストが十字架で流された血潮を信じて、すべての罪をきよめていただき、大胆に神に近づこうではありませんか。

出エジプト記18章

出エジプト記18章から学びます。  Ⅰ.モーセのしゅうとイテロ

 

まず1-6節をご覧ください。

「さて、モーセのしゅうと、ミデヤンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、すなわち、どのようにして主がイスラエルをエジプトから連れ出されたかを聞いた。 それでモーセのしゅうとイテロは、先に送り返されていたモーセの妻チッポラとそのふたりの息子を連れて行った。そのひとりの名はゲルショムであった。それは「私は外国にいる寄留者だ」という意味である。もうひとりの名はエリエゼル。それは「私の父の神は私の助けであり、パロの剣から私を救われた」という意味である。モーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻といっしょに、荒野のモーセのところに行った。彼はそこの神の山に宿営していた。イテロはモーセに伝えた。「あなたのしゅうとである私イテロは、あなたの妻とそのふたりの息子といっしょに、あなたのところに来ています。」」

アマレクとの戦いに勝利したイスラエルは、さらに南下を続け神の山ホレブに宿営していました。

そこは、一年前にモーセが燃える柴を見たホレブの山の近くであったようですが、そこでモーセは彼のしゅうとで、ミデヤンの祭司イテロの訪問を受けます。

「イテロ」は、2:18では「レウエル」と呼ばれています。これが本来の彼の名前です。意味は「神の友」です。彼はここで「イテロ」と呼ばれていますが、これは地位を表すタイトルで、「卓越した」という意味があります。ミデヤンには王がいなかったので、祭司が首長となっていました。彼はミデヤンの祭司で、他国で言えば王のような存在であったのです。創世記36:4を見ると、「バセマテはレウエルを産み」とあります。つまり、彼はエサウとイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテとの間に生まれた子どもです。アブラハムのひ孫に当たります。モーセが彼の娘ツィポラと結婚したことから、彼はモーセのしゅうとなっていました。モーセがどのようにイテロの娘と結婚するようになったかは2:16-22にその経緯が説明されています。エジプトからミデヤンに逃れたモーセは、そこで井戸のそばでイテロの7人の娘たちを助けたことで、父イテロはモーセに彼の娘の一人でツィポラを与えたのでした。そのイテロが、神がモーセと御民イスラエルのためになされたすべてのこと、どのようにして主がイスラエルをエジプトから導き出されたのかを聞いて、荒野にいたモーセのところにやって来たのです。

 

イテロはモーセの妻ツィポラと彼の二人の息子を連れて行きました。ここには、「先に送り返されていた」とあります。何があったのでしょうか。覚えていますか?4章には、モーセが妻のツィポラと二人の息子を連れてエジプトに行こうとしていたことが記されてあります。ところが、彼らがエジプトに向かっていた途中でモーセが寝ていたとき、主が彼を殺そうとしたのです。それはふたりの息子が割礼を受けていなかったからです。そこでツィポラは息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足につけて、「まことに、あなたは血の花婿です」(4:25)と言いました。それで、主はモーセから御手を放されましたが、ツィポラとモーセにとってこの旅が、妻子がいてはあまりにも危険すぎると判断して、彼らを実家のイテロのもとに帰していたのです。それでモーセは、ツィポラと二人の息子と離れ離れになっていたのです。そのモーセのもとにイテロはこの三人を連れて来ました。久しぶりの家族水入らずの生活に、モーセもリラックスしたことでしょう。

 

二人の息子のうちの一人は「ゲルショム」です。意味は、「私は他国にいる寄留者だ」です。新共同訳では、「私は異国にいる寄留者だ」と言って、ゲルショムと名付け」と訳されています。これはモーセの信仰告白でもありました。彼はエジプトでも、ミディアンでも、他国人として生活していることを認識していました。彼の帰るべき所はカナンです。それは私たちも同じです。私たちが帰るべき所は天のカナンです。今はこの地に寄留者として生きていますが、それは一時的に滞在しているにすぎません。へブル11:13には、「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」とあります。聖書に登場した信仰者たちは皆このように告白して生きていました。私たちもそのように告白しながらこの地上の旅路を歩んでいきたいものです。

 

もう一人の子どもの名前は「エリエゼル」です。意味しは「私の父の神は私の助けであり、ファラオの剣から私を救い出された」です。新共同訳では、「もう一人は、「わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた」と言って、エリエゼルと名付けた」とあります。これはエジプト人を殺したモーセが、エジプトを逃れた時の心境を表しています。モーセはそれを父なる神のおかげであると認識していました。エリエゼルという名前はここで初めて登場しますが、彼は、4章でツィポラが急いで割礼を施した息子です。

 

ここにわざわざ二人の息子が連れて来られたのは、彼らが重要な人物になっていたからでしょう。そしてわざわざ名前の意味まで記されているのは、モーセがどのように神に信頼して歩んできたのかを示す意図があったのではないかと思います。すなわち、彼は神とともに、神を畏れながら歩んできたということです。その信仰告白だったのです。神を恐れる者こそ、最終的に神の祝福を受ける者なのです。

 

Ⅱ.モーセとイテロの会見(7-12)

 

次に7-12節をご覧ください。

「モーセはしゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕に入った。モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、ファラオとエジプトになさったすべてのこと、道中で自分たちに降りかかったすべての困難、そして主が彼らを救い出された次第を語った。イテロは、主がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、とりわけ、エジプト人の手から救い出してくださったことを喜んだ。イテロは言った。「主がほめたたえられますように。主はあなたがたをエジプト人の手とファラオの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。今、私は、主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。」モーセのしゅうとイテロは、神への全焼のささげ物といけにえを携えて来たので、アロンとイスラエルのすべての長老たちは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をしようとやって来た。」

 

モーセはしゅうとを迎えに出て行きました。ここには「身をかがめ」とあります。イテロはモーセのしゅうとであると同時にミデヤンの祭司でもあったので、最大限の敬意を表しているのです。モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、ファラオとエジプトになさったすべてのこと、また道中で自分たちに降りかかったすべての困難、そして主が彼らを救い出された次第を語りました。

 

モーセの報告を聞いたイテロは、非常に喜んでこう言いました。「主がほめたたえられますように。主はあなたがたをエジプト人の手とファラオの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。今、私は、主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。」(10-11)異邦人であるイテロがイスラエルの神である主(ヤハウェ)をほめたたえたのです。彼はこれまでにも主に関する知識を持っていましたが、モーセの話を聞いて体験的に主を知ったのです。そしてアロンとイスラエルのすべての長老たちとともに神の前で食事をしました。

 

このように異教徒への証がなされることによって、やがてイスラエルの主ヤハウェこそ神であるという認識に至るケースが聖書の中にいくつか見られます。たとえば、バビロンの王ネブカデネザルは、バビロンの神ベルを拝んでいましたかが、ダニエルが彼の夢を言い当てて、それを解き明かしをしたこと、またダニエルの3人の友人が燃える火の炉の中に投げ入れられても、無傷だったこと、そして自分自身が獣のようになってそこから回復したことを通して、ヤハウェのみが神々の神、王の王、主の主であると告白するに至りました。  私たちは西欧の文化とは違い、エジプトやバビロンのような偶像の中に生きています。福音を伝えてもなかなか信じてもらえないことが多い中で、このように主の証がなされていく中で、イエスが主であるということを多く人が認めるようになることを信じて、根気よく証しする者でありたいと思います。

 

Ⅲ.イテロの助言(13-27)

 

最後に、13節から終わりまで見ていきたいと思います。まず13-16節までをご覧ください。

「翌日、モーセは民をさばくために座に着いた。民は朝から夕方までモーセの周りに立っていた。モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜ、あなた一人だけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたの周りに立っているのですか。」モーセはしゅうとに答えた。「民は神のみこころを求めて、私のところに来るのです。彼らは、何か事があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神の掟とおしえを知らせるのです。」」   翌日、モーセは民をさばくために座に着きました。そして、民は朝から夕方までモーセの周りに立っていました。「座に着く」とは、さばきつかさとしての責務を行っているということです。今で言うなら、牧師に信徒が相談しにいって、そのアドバイスを聞くようなものです。それを朝から夕方まで行っていました。200万人の問題がすべてモーセのところに持ち込まれていたのですから、それはかなりの激務です。

 

その様子を見ていたイテロがこう言いました。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜ、あなた一人だけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたの周りに立っているのですか。」(14)「見る」とは「観察している」ということです。イテロは、モーセが一人でさばきをしているのを見て驚きました。「なぜ責任を分担しないのか」、「民はいつまであなたの周りに立っていなければならないのか」と。

 

それに対してモーセは答えました。「民は神のみこころを求めて、私のところに来るのです。彼らは、何か事があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神の掟とおしえを知らせるのです。」

「神のみこころを求めて」とは、何かの決定にあたって何が神のみこころなのかわからない時、その解決を求めてということです。私たちにもよくありますね。天が地より遠く離れているように、自分の思いと神の思い、自分の道と神の道が違うことがあります。確かに常識的に考えればこうするということでも、それが必ずしも神のみこころなのかどうかわからないことがあります。でも、大きな事であればあるほどその決定に大きな影響を及ぼすので、その前に神のみこころは何なのか、何が良いことで神に受け入れられ、完全をあるのかをわきまえ知るために、神のみこころを求めてモーセのもとに来ていたのです。

 

また「何か事があると」というのは、何らかの事件のことです。モーセは、双方の言い訳を聞いて判断し、何をなすべきかを教えました。今の裁判官のような役割です。まだ律法が与えられていなかったので、個別に判断する必要があったのです。

 

それに対してイテロは何と言ったでしょうか。17-23節です。

「すると、モーセのしゅうとは言った。「あなたがしていることは良くありません。あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。さあ、私の言うことを聞きなさい。あなたに助言しましょう。どうか神があなたとともにいてくださるように。あなたは神の前で民の代わりとなり、様々な事件をあなたが神のところに持って行くようにしなさい。あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。」」  それに対してイテロはきっぱりと言います。「あなたのしていることは良くありません。」なぜなら、そんなことをしていたらモーセも、またモーセとともにいるこの民も、疲れ果ててしまうことになるからです。モーセだけで行なっていたら、モーセは燃え尽きてしまうことになります。また、長い列をつくって待っているイスラエル人たちも、早く解決しなければならないのに、なかなか解決しないため疲れ果ててしまうことになります。それは双方にとって良くありません。

 

ではどうしたらいいのでしょうか。イテロはモーセに具体的に助言しました。まず、モーセは民の代表として神の前に出て、様々な事件をモーセが神の前に持って行くようにします。彼がすべきことは、神の教えとなすべきことを民に伝えることです。そして、イスラエルの民の管理については、民の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立て、いつもは彼らがさばくようにするのです。大きい事件はすべてモーセのところに持って来させ、小さな事件は彼らにさばかせて、モーセの重荷を軽くしなければなりません。そのようにして彼らはモーセとともに重荷を負うのです。そのようにするならモーセは立ち続けることができ、民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。  すばらしい助言ですね。これは、教会においても言えることです。教会のことすべてを牧師一人で行なうなら、牧師が疲れ果ててしまいます。でも、新約聖書にあるようにすべての人が神の祭司としてその働きをするなら、神の恵みによって与えられた賜物を用いながら、共に主に仕えることができます。これこそ神の与えてくださった神の知恵です。

 

それにしても、このイテロの助言は折にかなった助けでした。このままではモーセは疲れ果ててしまい、民全体が進んでいくことができなかったでしょう。しかし、こうした助言をしてくれる人がいたので、彼は助けられ、支えられ、守られました。こうした助言者を持っている人は幸いです。その助言によって助けられ、勝利を得ることができるからです。(箴言24:6)そして、何といっても最大の助言者は、私たちの主イエス・キリストです。イザヤ9:6には、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」とあります。これはメシア預言です。キリストは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。Wonderful Counselorなのです。この方は疲れ果てることはありません。私たちの問題に完全な解決と助言を与えることができる方なのです。この方の助言を聞き受け入れること、そして、この方に信頼して生きることこそ、私たちにとっての真の助けなのです。  それに対してモーセはどのように応答したでしょうか。24-27節をご覧ください。ここには、「モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした。モーセはイスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じた。いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来たが、小さな事件はみな彼ら自身でさばいた。それからモーセはしゅうとを送り出した。しゅうとは自分の国へ帰って行った。」とあります。

モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が行ったとおりにしました。すなわち、イスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じました。そして、いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来ましたが、小さな事件はみな彼ら自身でさばきました。なかなかできることではありません。それがどんなに良いアドバイスであっても受け入れ、実行に移すことは簡単なことではありません。それなのに彼は、イテロの助言を受け入れ、その通りにしました。モーセはとても謙遜な人でした。民数記12:3には、「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。」とあります。彼には謙遜という資質がありました。200~300万人を率いるリーダーであれば、そんな助言を退けることは簡単なことでした。しかし彼は謙遜にその助言に耳を傾けたのです。それは彼が確かにイスラエルのリーダーであっても、神のしもべであるという自覚を持っていたからです。

 

しかし、モーセが実際にこれを実行に移したのは、かなり後になってからのことです。申命記1:9~18で、モーセはイテロの案を採用していますが、そのタイミングは、モーセに律法が与えられてからのことです。つまりそれはこの時からかなり後になってからの事であるということです。それはモーセがその前に神に祈りながら熟慮していたからでしょう。それが神のみこころだからとすぐに行動に移す前に、状況を熟慮しながらよく祈って実行に移すことの大切さを教えられます。すなわち、神のみこころを求め、状況を確認しながら、民の同意も得て、その上で実行に移すという慎重さも必要なのです。

 

「それからモーセはしゅうとを送り出した。しゅうとは自分の国へ帰って行った。」この時からチッポラと二人の息子はイスラエル人の旅に加わることになります。イテロだけが自分の国へ帰って行きました。

出エジプト記17章

きょうは、出エジプト記17章から学びます。

 

Ⅰ.マサ、またメリバ(1-7)

 

まず、1-7節をご覧ください。

「イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。」

 

イスラエルの全会衆は、シンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに導かれました。レフィディムに着くと、今までよりもさらに深刻な状況が訪れました。「そこには飲み水がなかった」のです。いったいなぜこのような試練があるのでしょうか。それは、彼らの信仰を試すためです。ここには「主の命により」(1)とあります。イスラエルの民がシンの荒野からレフィディムに向かったのは、主がそのように導かれたからです。そうであれば、主が最後までちゃんと導いてくださるはずです。それなのに、イスラエルの民はそのように受け止められませんでした。2節をご覧ください。ここには、「民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。」とあります。彼らはモーセに訴えました。ただ訴えたのではありません。ここには「争い」とあります。彼らはモーセと争ったのです。つぶやきが、争いに変わりました。

 

それに対するモーセは何と言ったでしょうか。「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言いました。どういうことですか。7節には、「『主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。」とあります。つまり、彼らは主が彼らの間におられるのかどうか、主が彼らを本当に守ってくれるのかどうかを試みたのです。主を試みることは罪です。イエスは申命記6:16を引用して、「あなたの神である主を試みてはならない」と言われました。それなのに彼らは主を試したのです。

 

イスラエルの民は、さらにモーセに反撃しました。3節、「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」と。これは少し前に、彼らがエジプトを出て荒野に導かれた時に叫んだ叫びと同じです。のど元過ぎれば熱さ忘れる、です。彼らは、以前主がどのように追って来るエジプト軍から救われたかをすっかり忘れていました。何と目の前の紅海を分け、そこに乾いた道を作って救われました。ものすごい奇跡です。その大いなる主のみわざを忘れていたのです。

 

彼らの誤解は、自分たちをエジプトから連れ上ったのはモーセであると思っていたことでした。しかし、イスラエルの民をエジプトから連れ上ったのはモーセではなく主です。彼らはそのことを忘れていたのです。また、「私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」と言っていますが、あのマラでの出来事もすっかり忘れています。

 

民の不満を聞いて、モーセはいつものように主に祈りました。それは祈りというよりも叫びでした。というのは、民の不満は単なる不満の域を越え、暴徒化していたからです。すると主は、「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」(5-6)と言われました。

 

「民の前を通り」とは、民はあなたを打つことはないから堂々と行けいうことです。また「イスラエルの長老たちを何人か連れて」というのは、証人となる人を連れて行けということです。確かに、モーセが奇跡を行ったと証言する人が必要でした。そうでないと、民はそれを否定するでしょう。「ナイル川を打ったあの杖を手に取り」とは、「杖」とは神の権威と力を象徴していました。今、神が、再びご自分の大いなる御業をお示しになるというしるしです。それを見れば、民も希望を抱くようになるでしょう。さらに主は、「さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」と言われました。これは主がこの問題の解決のために積極的に関わってくださるということです。モーセが岩を打てば、そこから水が流れ出て、民はそれを飲むようになるのです。

モーセはそのとおりにしました。するとどうでしょう。岩から水が出て、イスラエルの民はそれを

飲みました。これはどういうことでしょうか。詩篇78:15-16には、その情景を詳しく描いています。「荒野で神は岩を割り大いなる深淵の水を豊かに飲ませてくださった。あふれる流れを岩からほとばしらせ水を豊かな川のように流れさせてくださった。」

岩から出た水は、ちょろちょろとした流れではありませんでした。それはほとばしり出る水でした。勢いよく飛び散る、激しく流れ出る豊かな川のように流れる水だったのです。主は岩から水が流れ出るようにされました。しかも、ちょろちょろとした流れの水ではなく、ほとばしり出る水です。このことはどんなことを意味していたのでしょうか。

 

主イエスはサマリアの女にこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)主イエスは私たちに決して渇くことのない水を与えてくださいます。それは永遠のいのちへの水です。ヨハネ7:39には、それは後になってから受ける聖霊のことであるとあります。主イエスはその水を与えてくださるのです。

 

それにしても、なぜ、岩を打つ必要があったのでしょうか。実は、民数記20章に似たような出来事が記してあります。1-13節です。少し長いですが、開いて確認してみましょう。これは同じ「メリバ」という地名での出来事ですが、場所は異なります。しかも、これは約40年後のことです。このメリバで主は、「岩に命じなさい」と言われました。しかし、モーセは主のことばに従わないで、岩を打ってしまいました。しかも二度までも・・・。その結果、水はほとばしり出たのですが、主はモーセに、「あなたは約束の地に入ることはできない。」と言われました。いったい何が問題だったのでしょうか。  Ⅰコリント10:1-4を開いてください。ここには、「兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」とあります。このところを見ると、あの「岩」とはキリストであったことがわかります。イスラエルの民は、「主は私たちの中におられるのか。」と言って主を試みましたが、主は実際はおられたのです。それがキリストであり、パウロは、「その岩とはキリストのことです。」と言ったのです。つまり、モーセが打った岩とはキリストのことだったのです。キリストは、聖書の至るところに「岩」とか「石」にたとえられています。教会の礎であり、かなめ石です。また、終わりの日に世界の諸国をことごとく打ち砕く石であり、救いの岩です。そして、その岩を打つということはどういうことかというと、キリストが十字架で死なれることを表していました。イザヤ書53:4には、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」とあります。これはキリストが十字架で打たれることを指していたのです。私たちは、その打ち傷によって癒されるのです。そして、民数記には岩を打つのではなく、岩に命じるように(岩に語るように)と言われました。なぜでしょうか。それはキリストが再び死ぬ必要はなかったからです。キリストは、すべての人のために、ただ一度だけ死なれたのです。

そして、岩から水があふれ出ましたが、この水についてパウロは、「御霊の飲み物」と呼んでいます。さらに、詳しく見るためにヨハネ7:37-39を見てください。ここには、「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」とあります。ですから、岩から出た水は御霊のことを表していました。キリストの十字架の御業を信じた者には、この神の御霊、聖霊の満たしを与えてくださるのです。  つまり、こういうことです。イスラエルの民は不信仰になって神がおられるかどうか試しましたが、神はご自分が彼らの中におられることを示すために、キリストなる岩を見せてくださり、キリストが打たれることで、そこから聖霊があふれ出る事を表してくださったのです。このことを信じる者は、聖書が言っているように、その人の心の奥底から聖霊の水が流れ出るようになります。神がともにおられることを絶えず経験することができるのです。主が私たちの中におられることを体験し、私たちをとおして周りの人に潤いをもたしてくださることを知ることができるのです。
モーセはその所の名を「マサ」、また「メリバ」と名付けました。「マサ」とは、「試みる」あるいは、「テストする」という意味です。イスラエルの民が主を試みたので、そういう名前になりました。もう一つは「メリバ」です。意味は「争う」です。イスラエルの民がモーセと争ったので、そういう名前になりました。私たちは、イスラエルの民のように不信仰になり、ここに神がおられるかどうかと神を試したりするのではなく、ここに主がおられることを信じることによって、主の与えてくださる御霊の豊かさの中を生きる者となりましょう。

 

Ⅱ アマレクとの戦い(8-13)

 

次に、8-13節をご覧ください。

「さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。モーセはヨシュアに言った。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で討ち破った。」

 

イスラエルがレフィディムにいたとき、今度はアマレク人の攻撃を受けます。アマレクとの戦いは、イスラエルにとって最初の戦いとなります。それはイスラエルの存立に関わる重大な事件でした。いったいイスラエルは、どのようにアマレクと戦ったでしょうか。

 

まず、モーセはヨシュアを指揮官に任命してこう命じました。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」(9)「男たちを選び」とは、最強の兵士たちを選び、陣営を整えるということです。戦いにおける勝利の秘訣は、最も優秀な兵士を揃えることです。

 

しかし、それだけでは戦いに勝つことはできません。最も重要なことは、自分の力ではなく、神の力で戦うことです。それでモーセは、さらにこう言いました。「私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」散歩するためではありません。とりなしの祈りをささげるためです。ヨシュアはモーセが言ったとおり、アマレクと戦い、モーセとアロンとフルは丘の頂に登りました。そして、モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手をおろすとアマレクが優勢になりました。すなわち、この戦いの勝敗の鍵は、モーセの祈りにあったのです。それで、彼らはモーセの手が下りないように必死に支えました。アロンとフルが一人はこちらから、もう一人はあちらからモーセの手を支えました。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていたので、イスラエルはアマレクを打ち破ることができました。いったいこの出来事はどんなことを私たちに教えているのでしょうか。

 

霊の戦いにおける勝利の鍵は、祈りにあるということです。エペソ6:18には、「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」とあります。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、この戦いでは神の武具を身に着けなければなりません。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取らなければなりません。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができるからです。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取らなければなりません。そして、あらゆるときに、御霊によって祈らなければなりないのです。それによって敵である悪魔に勝利することができます。悪魔は私たちが想像している以上に手ごわい相手です。この敵に自分の力で対抗しようものならひとたまりもありません。しかし、神が与えてくださる御霊の武具を取り、それによって戦うなら必ず勝利することができます。どんな時にも目を覚まし、御霊によって祈らなければならないのです。モーセの手が重くなってきたように、祈ることは戦いなのです。敵は、なんとかして私たちが祈るのを妨げようとしています。祈ることが勝利の決め手であると悟らせないようにしようとするのです。だから戦いなのです。そして、モーセの手が重くなったときに、アロンとフルが手を支えました。私たちには祈りの支えが必要です。互いに祈り合うことが必要なのです。そして指導者であるモーセが支えられたように、教会の指導者は祈りによって支えられなければいけません。 大事なことは、戦いはヨシュアにあったのではなくモーセにあったということです。

 

また、このモーセを支えた二人の援助者の存在を忘れてはなりません。アロンとフルです。このフルという人物がだれであったのかは不明ですが、ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、これがモーセの姉ミリアムの夫であったとしています。この二人の援助によって、モーセは日が沈むまで継続して祈りをささげることができ、ヨシュアに勝利をもたらしました。祈る人も大切ですし、それを支える人も大切です。また、ヨシュアのように実際に出て行って戦う人も大切です。あなたにはどのような役割が与えられているでしょうか。神の栄光と、神の家族の勝利のために、自分に与えられている役割を果たしましょう。

 

Ⅲ.アドナイ・ニシ(14-16)

 

最後に14-16節を見て終わりたいと思います。

「主はモーセに言われた。「このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、そして言った。「主の御座の上にある手。主は代々にわたりアマレクと戦われる。」」

 

イスラエルがアマレクとの戦いに勝利した後、主はモーセに、「このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」と言われました。その目的は、ヨシュアに読んで聞かせるためです。これは次世代のリーダー訓練のためであったのです。そして、主はアマレクの記憶を天の下から永遠に消し去ると言われました。それはアマレクが神の民イスラエルに敵対し、神の計画に反抗したからです。

 

モーセは祭壇を築き、それを「アドナイ・ニシ」と呼びました。それは「主がわが旗」という意味です。勝利の旗です。主が勝利をもたらしてくださいます。16節には、「主の御座の上の手」とあります。これは、主が手を上げられたという意味です。主が手を上げられるとき、勝利が与えられます。主は世々にわたりアマレクと戦われるのです。

 

悪魔の攻撃を受けるとき、このアマレクとの戦いを思い起こしましょう。私たちのためには、大祭司であられるイエス様がいつもとりなしていてくださいます。主イエスの執り成しの祈りを思い出し、勇気と力をいただいて、悪魔に立ち向かっていきましょう。キリストが勝利の旗です。私たちはキリストによって悪魔に勝利することができるのです。

出エジプト記16章

きょうは、出エジプト記16章から学びたいと思います。エジプトを出たイスラエルの民は、紅海を渡りシュルの荒野に導かれました。しかし、三日間荒野を歩いても、飲み水が見つかりませんでした。マラに来たときやっとの思いで飲み水を見つけたと思いきや、その水は苦くて飲むことができませんでした。それで彼らはモーセに向かって不平を言いました。三日前には主を賛美した彼らが、今度は不平を言ったのです。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示されたので、それを水の中に投げ入れました。するとその水は甘くなりました。その後、彼らはようやくエリムに到着しました。そこには12の水の泉と70本のなつめ椰子の木がありました。まさに砂漠の中のオアシスです。人生にはマラのような体験もあれば、エリムのような体験もあります。マラを通ってエリムに到着することができます。それは信仰の訓練でした。主は、苦い水を甘い水に変えられたようにいやしを与えてくださる方ですが、それは主が命じられたことに聞き従い、その命令を守り行い、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守ることによってもたらされる恵みです。棚ぼた式に与えられるのではなく、積極的に主のみことばに取り組む中での祝福なのです。今回はこのこと、つまり、神のみことばによって生きることについて学びます。  Ⅰ.主の試み(1-12)

 

まず1~12節をご覧ください。1節には、「イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。」とあります。イスラエルがエジプトを出たのは第一の月の15日ですから、ちょうど一か月が経過したことになります。彼らがエジプトを出た時に持って来た種なしパンも、そろそろ尽きてきた頃です。彼らはエリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入りました。  そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言いました(2)。 なぜでしょうか。3節には、彼らの不平の原因が次ようにあります。「イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」

彼らは、現状への不満を口にしました。食べ物がないということです。それにしても「飢え死にさせようとしている」というのはひどいです。彼らにはエジプトから連れて来た大量の家畜がいたはずです。パンはなくなったかもしれませんが、その肉を食べようと思えば食べられたはずなのです。また、エジプトで肉のなべを食べ、パンを満ち足りるまで食べていたとき、私たちは主の手にかかって死んでいた方がよかったのに・・・」と言っていますが、それは事実ではありません。彼らがエジプトにいたときは奴隷生活があまりにも酷かったので、日々叫び、うめいていました。彼らは、過去をあまりにも美化しすぎています。私たちも試練がおとずれると、このように過去を美化する傾向があります。あの時は良かった・・・と。しかしそれはただ、古い生活がいかにひどかったかということを忘れているだけのことです。それに、「私は主の手にかかって死んでいたらよかったのに」と言っていますが、これはあまりにもひどいいい方です。エジプトに下った10の災いがどれほど激しいものであったかを思えばそこから救い出されたことを感謝すべきなのに、厳しい現状の前に、彼らはここまで否定的になっていました。

 

信仰とは、今に感謝し将来に希望を持つことです。彼らは、エジプトに下った10のわざわいから守られました。なぜそれに感謝しないのでしょうか。彼らは、紅海を渡ることかできました。甘くなった水も飲むこともできました。さらに、エリムに導かれました。なぜこれらのことに感謝しないのでしょうか。もし主が彼らを殺すつもりなら、とっくの昔に滅びていたはずです。それなのに滅びないでいたのは、ただ神のあわれみ以外の何ものでもないことを肝に銘じるべきでした。

けれども、それはこの時のイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。私たちもイスラエルと同じように、主がこれほど良くしてくださったのにそのことを忘れ、現状の不満を口にすることが多いからです。詩篇103篇には、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(103:2) とありますが、主が良くしてくださったことに感謝して、信仰をもって歩ませていただきましょう。

 

次に、4~12節をご覧ください。イスラエルの民のつぶやきに対して、主からの答えがありました。4,5節です。

「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」」

ここに「見よ」とあります。何か驚くべき主のみわざが起ころうとしているのです。それは、パンが天から降ってくるということでした。この約束には命令が伴っていて、それは、毎日、その日の分を集めなければならない、ということでした。しかし、六日目には、日ごとに集める分の二倍を集めることができるということでした。なぜ六日目には二倍の量を集めるのでしょうかそれは後で出てきますが、安息日には集めないようにするためです。いったいなぜ主はこのような命令を与えたのでしょうか。4節にその理由が記されてあります。

「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」

イスラエルが祝福されること、物質的な必要が満たされることは、実は二義的なことだったのです。主が彼らに求めていたのは、彼らが主に信頼して歩むかどうかということです。彼らが神のみことばにとどまり、それによって、彼らが神の中に生きる、神の民になることが、この奇跡の目的だったのです。  人間の願望は、一時的に大量のものを集め蓄えを増やすということでしょう。蓄えが増えると安心感が与えられますが、同時に神から離れた生活、自立した生活につながる恐れがあります。主イエスは、金持ちが天国に入ることがいかに困難なことであるかを語られました(マタイ19:23~24)。金持ちは誤った安心感を抱くようになるので、神に信頼することが難しくなるのです。私たちはどうでしょうか。そのような思いがないかどうかを、聖霊によって点検していただきましょう。自分でそう思っていなくても、いつしか熱くもなく、冷たくもない、生ぬるい信仰に陥っていることがあります。生活の安定を求めることは決して悪いことではありませんが、そのことで主に信頼することが失われていることがないように注意したいものです。

 

6~12節をご覧ください。

「それでモーセとアロンは、すべてのイスラエルの子らに言った。「あなたがたは、夕方には、エジプトの地からあなたがたを導き出したのが主であったことを知り、朝には主の栄光を見る。主に対するあなたがたの不平を主が聞かれたからだ。私たちが何だというので、私たちに不平を言うのか。」モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」モーセはアロンに言った。「イスラエルの全会衆に言いなさい。『主の前に近づきなさい。主があなたがたの不平を聞かれたから』と。」アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、彼らが荒野の方を振り向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。主はモーセに告げられた。「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」

イスラエルの民は、モーセとアロンが自分たちをエジプトから導き出したと言って、モーセとアロ

ンに対してつぶやきましたが、彼らをエジプトから導き出されたのはモーセとアロンではなく主ご自身でした。そのことを証明するために、主は夕方には彼らに肉を与え、朝には主の栄光を見るようになると言いました。それは主が彼らの不平を聞かれたからです。具体的には、夕方には肉を食べ、朝には満ち足りるほどのパンを食べるようになるということです。そして、このことをモーセがアロンに告げ、アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、主の栄光が雲の中に現れました。その雲の中から、主はモーセにこう告げられました。

「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」(12)

主は、イスラエル人のつぶやきをお聞きになられました。そのつぶやきに対する主の答えは、彼にが夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるということでした。その目的は何ですか。それは、彼らが、主こそ彼らの神、主であることを知るようになるためです。これは、主が契約の神、恵み深い神、必要なものはすべて与えてくださる神であるということを知るようになるという意味です。

私たちの神は、私たちの必要をすべて知っておられます。この方にきょうも信頼を置いて歩もうではありませんか。

「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:31-34)

 

Ⅱ.イスラエル失敗(13-30)

 

次に、13~21節をご覧ください。

「すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない。」しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。」  すると、その日の夕方に、うずらが飛んで来て宿営をおおいました。また、朝になると、宿営の周り一面に露が下りました。その露が消えると、一面には薄く細かいもの、地に落ちた霜のような細かいものがありました。「これは何だろう」と言い合っていると、モーセが彼らに言いました。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンだ。」と。それを自分の食べる分に応じて、一人当たり1オメルずつ、集めなければなりませんでした。1オメルとは約2.3リットルです。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取るのです。そこで、イスラエルの子らがそのとおりにすると、ある者はたくさん集め、ある者は少しだけ集めましたが、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはありませんでした。

 

これはとても大切なことです。つまり、神は、私たちに必要以上のものを持つべきではないと教えているのです。そして、必要以上のものが与えられたら、それを必要が満たされていない人に分け与えなければなりません。パウロが、この箇所を引用して、献金のことを話しました。Ⅱコリント8:13~15です。

「私は、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、むしろ平等になるように図っています。今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。」

 

また、この天からのパンは、朝まで残しておいてはいけませんでした。それは、主が日々の糧を供給してくださることを学ばせるためです。ところが、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておきました。恐らく、それを蓄えておこうとしたのでしょう。自分の欲から出た思いですね。要するに、不信仰だったのです。彼らは、翌日もマナが供給されることを信じていなかったのです。しかし、残ったマナには虫がわき、臭くなりました。これはマナが腐りやすいということではありません。これは、彼らの不信仰に対する神のさばきです。モーセは、民が神の命令に従わなかったのを見て、怒りました。それで民は朝毎に、各自が食べる分を集め、日が高くなると、それは溶けました。このマナは、主イエスを象徴しています。主イエスは、ご自身のことを「天から下って来たパンです。」と言われました(ヨハネ6:58)。それは日ごとに集めなければならないのです。つまり、日々主イエスと交わりを持たなければならないということです。日々主イエスと交わり、いのちのパンをいただいている人は何と幸いでしょうか。

 

22~30節をご覧ください。 「六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり二オメルずつを集めた。会衆の上に立つ者た

ちがみなモーセのところに来て、告げると、モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうだ。

『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残っ

たものはすべて取っておき、朝まで保存せよ。』」モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで

取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。モーセは言った。「今

日は、それを食べなさい。今日は主の安息だから。今日は、それを野で見つけることはできない。

六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない。」七日目になっ

て、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。主はモーセに言

われた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。心せよ。主が

あなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えてい

る。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。だれも自分のところから出てはならない。」

それで民は七日目に休んだ。」

 

六日目には二倍のパンを集めるようにというのが、主の命令でした(5)。ここにその理由が記

されてあります。それは、七日目が主の聖なる安息日だからです。ですから、六日目のマナは

保存しておくことができました。彼らがそれを朝まで取っておいても、それは臭くもならず、そこに

はうじ虫もわきませんでした。ですから、七日目にはマナは降りません。集めに行っても無駄です。その日は主を礼拝するために仕事をしなくても良いように、主がちゃんと備えてくださるからです。それなのに、民の中のある者たちは、この七日目も集めに出て行きました。その人たちは食べ物が足りなくて出て行ったのではありません。モーセが語った言葉が本当かどうかを確かめるために出て行ったのです。結局、何も見つけることができませんでした。それをご覧になられた主は、彼らが戒めを守らないことを叱責し7日目に休むようにと命じられました。

このように、主は安息日を非常に尊ばれました。イスラエルの民が自分の働きをやめることと、主を礼拝することをとても大切にされたのです。それで、彼らが休んだときに得られない分のパンの必要も満たしてくださったのです。  ここから私たちは、自分の日々の働きをやめ主に礼拝をささげるとき、主は必ず必要を満たしてくださることを知ることができます。勉学にしろ、仕事にしろ、私たちは礼拝を守る日にもそれを続けたくなる誘惑がありますが、主の日を守るなら、私たちの日々の必要は奇蹟的に満たされるようになるのです。また、彼らは前日に2日分パンを集めなければなりませんでしたが、同じように、私たちも礼拝を守るために、前もって準備する必要があります。考えられる用事を前もって行ない、主の日の礼拝のために備えなければならないのです。  Ⅲ.マナ(31-36)

 

最後に、31~36節までをご覧ください。 「イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜

を入れた薄焼きパンのようであった。モーセは言った。「主が命じられたことはこうだ。『それを一オメル分、あなたがたの子孫のために保存しなさい。わたしがあなたがたをエジプトの地から導き出したときに、荒野であなたがたに食べさせたパンを、彼らが見ることができるようにするためである。』」モーセはアロンに言った。「壺を一つ持って来て、マナを一オメル分その中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」主がモーセに命じられたとおり、アロンはそれを保存するために、さとしの板の前に置いた。イスラエルの子らは、人が住んでいる土地に来るまで、四十年の間マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまでマナを食べた。一オメルは一エパの十分の一である。」

イスラエルの家は、それを「マナ」と名付けました。「マナ」という名称は、「これは何だろう」という意味の「マン・フー」から来ています。特徴は、コエンドロの種のようで、白く、その味は密を入れた薄焼きパンのようであるということです。コエンドロというのは、その実を香辛料や薬用に用いるそうです。その種は白色です。

 

主はそのマナを一オメル分を壺に入れ、それを主の箱の前に置いて保存するようにと命じられました。今度は、二日分腐らずに保存できるようにしてくださるどころか、イスラエルが約束の地に住んでからも腐らずに残るようにされたのです。それは何のためでしょうか。それは、イスラエルの子孫がそれを見ることができるようにするためです。それは彼らが荒野を旅する40年間続きます。イスラエルの民が約束の地に入った時点で、マナの供給は止みます(ヨシュア5:10~12)。彼らは、そこでの産物を食べるようになるからです。

 

それにしても、イスラエルをエジプトから導き出された神は、最後まで彼らをお守りになりました。私たちが信じている神は、ご自身の約束に忠実な方であり、私たちがこの人生の旅路を送るに当たり足りないものは何一つないように備えてくださる方なのです。確かにイスラエルの民は毎日、同じマナを食べて飽きることもあったかもしれません。また、荒野の旅には苦しみがあり、飢えと渇きもありました。しかし、過去を振り返ってみると、何一つ乏しいことはなく、すべての必要が見事に満たされたことを見ることができます。神は必要を備えてくださる真実な方なのです。

出エジプト記15章

出エジプト記15章から学びます。

Ⅰ.モーセの歌(1-18)

まず1~18節までをご覧ください。1~3節をお読みします。

「 そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」

「そのとき」とは、主がイスラエルをエジプト人の手から救われたときです。主は圧倒的な御業で、

イスラエルをエジプト人の手から救われました。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。そのときです。

 

モーセとイスラエルの子らは、主に向かって歌いました。まずモーセは、「主に向かって歌おう」と、民に呼びかけています。それは、「主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた」からです。まことに、「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」と。

モーセはここで、神がどのような方なのかを歌いました。主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神、いくさびと、その名は「主」です。「主」とは、「わたしは、あるというものである」という意味でしたね。他の何ものにも依存しなくても存在することができる方、自存の神です。ここで重要なのは、この主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神であると言っていることです。つまり彼らは、神を体験したのです。その結果、父祖の神として認識していた方を、「わが神」として認識するようになりました。

 

この「神を知る」ということが重要です。単に、神がどのような方であるのかを頭で知るということ以上に、この方を自分の救い主として体験することです。パウロは、エペソ1:17~19で、こう祈っています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

あなたは、神を知っているでしょうか。私たち神を信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができるように祈りましょう。

 

次に4-10節までをご覧ください。

「主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦

の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。主よ、あなたの右の手は力に輝き、主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなるご威光によって、向かい立つ者たちを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それが彼らを刈り株のように焼き尽くす。あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。」

主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれました。彼らが葦の海に沈んだのはどう

してでしょうか。それは、主が右の手で敵を打ち砕かれたからです。8節には、「あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。」とあります。「鼻の息」とは、強い東風のことです。東風は自然現象ですが、それによって、「水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった」というのは、超自然現象です。主がその風を吹かせると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈みました。

 

次に11-18節をご覧ください。

「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ。あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。主はとこしえまでも統べ治められる。」」  主なる神と他の神々とを比較して、主なる神がはるかに優っていることを歌っています。海が分けられて、その乾いた地を何百万人もの人が通り過ぎたなどというのは、どんな科学技術をもってしてもできません。そうです、主は全能者なのです。であれば、私たちはいったい何を怖がる必要があるでしょうか。神が、このように偉大な方であることを知るならば、何も怖がることなどありません。

 

そして、神はただ力ある方であるというだけでなく、13節には、この方は恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われました。この「恵み」という語は、ヘブル語では「ヘセッド」という語ですが、これは非常に重要な概念を含んでいる語です。これはただ「恵み」というだけでなく、神の契約に基づく「恵み」のことです。神は、アブラハム契約をいつまでも覚えておられ、その約束を忠実に守ってくださるお方であるということです。モーセはここで、この「ヘセッド」を思い起こし、将来において大きな希望を見いだしているのです。そして、17節にあるように、主は彼らを導き、彼らをゆずりの山に植えられます。「ゆずりの山」とは「相続の山」のことで、約束の地のことを指しています。つまり、主は彼らを約束の地に導かれるということです。そして、そこで主は、とこしえまでも統べ治められるのです。

 

これはすべて主の恵みによるのです。そして、この恵みは、私たちにも注がれています。ローマ10:12には、「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。」とあるからです。この主を呼び求めましょう。そして、この主に感謝しましょう。主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまでです(詩篇107:1)。

 

Ⅱ.ミリアムの歌(19-21)

 

次に、19-21節までをご覧ください。ここにはモーセの姉ミリアムの歌が記されてあります。  「ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」

出エジプトにおいて重要な役割を果たしたのはモーセとアロンですが、ミカ6:4を見ると、彼らだ

けでなく、彼らの姉ミリアムもまた指導的な役割を果たしていたことがわかります。彼女もまた、主がファラオの馬や戦車、騎兵を海の中に沈めたとき、そして、イスラエルが海の真ん中で乾いた地面を歩いて行ったとき、この歌を歌いました。彼女はただ歌ったのではなく、踊りながら賛美しました。ここには、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た、とあります。ミリアムは、このとき90歳を越えたおばあさんになっていましたが、イスラエルの女たち全員を導いて、タンバリンを使って主をほめたたえたのです。

21節のことばは、1節と同じ内容です。おそらくコーラスになっていたのでしょう。古代世界では、儀式的な踊りや歌は、男女別々に行いました。モーセは男たちの賛美の先頭に立ち、ミリアムは女たちの賛美の先頭に立ったのです。

 

ここでミリアムは、「アロンの姉、女預言者ミリアム」とあります。なぜ「モーセの姉」ではなく、「アロンの姉」と書かれているのでしょうか。恐らく、モーセは幼い頃から家を出てエジプトの王宮にいたために、ミリアムはアロンの姉としてイスラエルの民の間に知られていたのでしょう。「女預言者」という言葉は、ここで初めて出てきます。彼女は、そのような指導的な役割が与えられていたということです。。

 

いずれにせよ、モーセも、アロンも、ミリアムも、イスラエルの民を指導する立場にありましたが、彼らは主をほめたたえ、主を心から賛美しました。指導者にとって、特に、主をほめたたえることが重要です。主が自分の人生においてなしてくださった恵みのみわざを思い起こし、また、今、様々な困難な中にあっても、主が勝利を与えてくださることを信じて、主をほめたたえましょう。

 

Ⅲ.マラでの体験とエリムでの体験(22-27)

 

さて、このようにイスラエルの民は主の大いなる恵みによって葦の海から旅たちました。しかし、それはバラ色の世界ではなく、すぐに困難が彼らを襲いました。22-27をご覧ください。

「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」

 

イスラエルの民は、主の奇跡的なご介入によって、紅海を渡ることができました。そして、そのように勝利を与えてくださった主に賛美の歌を歌いました。さあ、いよいよ荒野の旅が始まります。彼らはシュルの荒野に出て行き、そこに3日間、彷徨いました。しかし、その後彼らはすぐにつぶやくことになります。彼らには水が見つかりませんでした。3日間水を飲めないのは辛いということを越えて、命の危険が伴います。3日間という言葉は、生死にかかわる時によく使われる言葉でもあります。その3日間歩いても、水が見つからなかったのです。そして、「マラ」に来た時に水がありましたが、そこの水は苦くて飲めませんでした。その時、イスラエルの民はどうしたでしょうか。24節には、「民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。」とあります。3日前に喜び踊った民が、モーセに対してつぶやいたのです。彼らは、紅海の奇跡から教訓を学んだはずなのに、全然身についていませんでした。しかし、それはイスラエルの民だけではありません。それは私たちも同じです。調子がいい時は喜べますが、そうでないとすぐに不平をもらしてしまいます。それが習慣化しています。すぐに不平が出るのです。このような習慣的なつぶやきは、祝福を失い、神のさばきを招くことになります。私たちは、このイスラエルの民の失敗から教訓を学ぶ必要があります。

 

さて、その民のつぶやきに対して、モーセはどうしたでしょうか。モーセは、すぐに主に祈りました。すると主は一本の木を示されたので、モーセがそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなりました。その木に癒しの力があったというよりも、モーセの信仰が、超自然的な神の力を引き出したということです。このようなことが、これ以降のイスラエルの荒野の旅において何回も繰り返されることになります。それは、彼らがそのことによって、主が自分たちの必要を満たしてくださる方であるという教訓を学ぶためでした。しかし、のど元過ぎれば熱さ忘れるで、自分たちの必要が満たされるとすぐにその教訓を忘れてしまうということの繰り返しでした。

 

しかし、それはイスラエルの民だけのことではありません。私たちも同じです。私たちも人生の荒野においてイスラエルの民のように苦しくなるとすぐにつぶやいてしまいます。その中で主が私たちの必要を満たしてくださるのに、すぐにその恵みを忘れ、つぶやきを繰り返してしまうのです。私たちは、この人生の荒野の中で、信仰の教訓を学びましょう。26節、「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」

どんなに苦しくても、主の御声に聞き従いましょう。そのとき、主はエジプトで下したような病気は何一つ下しません。主は、私たちの癒し主であると信じて、この方に信頼し、その声に聞き従いたいと思います。

 

「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。」(27)    こうして彼らはエリムに着きました。「エリム」とは、「なつめやし」という意味です。なつめやしのあるところに、水の泉があります。そこは砂漠のオアシス、完璧なやすらぎの場所です。そこには12の泉と70本のなつめやしの木がありました。12も70も完全数です。イスラエルは、その水のほとりに宿営することができたのです。これまでの荒野の旅の後に行き継いだオアシスですから、どれほど癒されたことかわかりません。苦しみのあとの潤いです。困難の後の祝福です。彼らはマラで苦い思いをしましたが、エリムまで来て恵みがありました。これが神のくださる恵みであり、私たちの信仰の歩みです。マラがありますが、その後でエリムがあります。ですから、マラでとどまるのではなく、エリムに向かって進んでいかなければなりません。そのとき、私たちも完全な癒しを体験することができるのです。

出エジプト記14章

出エジプト記14章から学びます。

 

  1. パロの追跡(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」

 

いよいよ出エジプトのクライマックスを迎えます。主の力強い御手によってイスラエルの民はエジプトを出て、約束の地に向かって行きます。イスラエルの民は、スコテを旅立って、エタムに宿営しました(13:20)。エタムは荒野の端にあります。つまり、その先は荒野(シナイ半島)であるということです。そこから荒野の旅が始まります。その荒野は、「シュルの荒野」と呼ばれていますが、「エタム」はそのシュルの荒野の一部です。その「エタム」に宿営していた時、主がモーセに告げられました。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」と。

何ということでしょう。折角、エジプトから出て来て、「さあ、これからだ」と言う時に、「引き返して」というのですから。そして、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンに宿営せよと命じられたのです。いったいなぜ主はそのように命じられたのでしょうか。3節、4節をご覧ください。それは、エジプトの王ファラオをおびき出すためでした。

「ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。」

そこは、海と山に囲まれたような所でした。つまり、迷路のように間違ったところに入ってしまったか

のように思えるような場所だったのです。ですから、ファラオは、イスラエル人が道に迷ったと思い、あとを追って来るでしょう。その結果、神の民を苦しめたエジプトに最終的なさばきが下されることになるのです。このエジプト軍のさばきこそ、出エジプトの一連の出来事のクライマックスです。この出来事を通して、神はご自身の性質と力を示され、ご自身の栄光を現されるのです。その結果、エジプトは、主こそ神であるということを知るようになります。また、イスラエルの民も、主が自分たちのために戦われるということを知るようになるのです。イスラエルの民は、主が仰せられるとおりに、引き返しました。皆さんはどうでしょうか。それが自分の思いと違っても、主の言葉に従うでしょうか。

 

5節から9節までをご覧ください。

「民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちは民に対する考えを変えて言った。「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」そこでファラオは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの全戦車を、それぞれに補佐官をつけて率いて行った。主がエジプトの王ファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを追跡した。一方、イスラエルの子らは臆することなく出て行った。エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。」

 

イスラエルの民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちはイスラエルの民に対する考え方を変えてこう言いました。

「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」

そこで、ファラオは、戦車を整え、自分でその軍勢を率いてイスラエルの民を追跡しました。そして、ファラオの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツァフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたイスラエルの民に追いつきました。これはイスラエルにとっては予想外の展開でした。海辺に宿営していたので、逃げ場がなかったのです。また、主の導きによってその地に宿営するようになったのに、窮地に追い込まれてしまったのです。

 

物事がうまく行っている時はだれでも喜べますが、問題は、そうでない時はどうかということです。なかなか受け入れられないのが現実です。しかし、試練の中に置かれた時は神のお許しなしには何一つ起こらないことを思い起こし、忍耐することを学びましょう。時が来れば、神のみわざが現されるようになるからです。

 

  1. 絶体絶命のピンチの中で(10-18)

 

そのような状況の中で、イスラエルの民はどのような態度を取ったでしょうか。10-12節をご覧ください。

「ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

 

ファラオは間近に迫っているのを見たイスラエルの民は、大いに恐れて主に向かって叫びました。

この叫びは主に助けを求めての叫びではなく、主につぶやくための叫びでした。いわゆる不信仰の叫びです。叫びには二種類の叫びがあります。一つは信仰の叫びであり、もう一つは不信仰の叫びです。彼らの叫びは信仰によるものではなく不信仰によるものでした。それはその後のところで、彼らがモーセに対して非難していることからもわかります。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(12)

 

彼らは、どのようにモーセを非難しましたか。イスラエル人は多いためエジプトではどれだけ墓があっても足りないので荒野に連れてきたのか、ということでした。これは皮肉です。荒野で死ねば、埋葬の心配はいりません。要するに、信仰の冒険よりも奴隷としての安全が欲しかったのです。いわば奴隷根性ですね。奴隷根性が彼らの心を支配していました。今まで奴隷として酷使されてきたので、自分たちが解放されることよりも、むしろ奴隷として生きることのほうが楽だという思いです。

 

これは、罪の奴隷から解放された私たちも抱きがちな思いです。物事が順調に進んでいる時は良いのですが、ちょっとでも困難に直面すると、こんなことならいっその事、信じなければ良かった・・・というようなことを口走ってしまうことがあります。信仰によって前進しないと、こうした罪の奴隷になってしまいます。

 

確かに、彼らのこれからの荒野での生活は過酷です。灼熱と、喉の渇きがあります。けれども、彼

らには主がともにおられ必要を備えてくださり、敵から守ってくださいます。自分たちが主によって生き

ていることを、荒野の旅を通して知ることができるのです。イエス・キリストを信じた人は、同じように荒

野の旅をするようになります。けれどもそれは、主だけがすべての源であり、主との関係があらゆる祝

福にまさることを知るためなのだということを覚えていなければなりません。

 

13節、14節をご覧ください。

「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

 

動揺するイスラエルの民に向かって、モーセは何と言ったでしょうか?モーセはまず、「恐れてはならない」と言いました。つまり、ファラオとその軍勢を恐れてはならないということで、恐れるべき方を畏れよ、ということです。恐れは信仰と相容れない感情です。信仰の反対が恐れです。イエス様は、何度も「恐れてはならない」と言われました。

 

次に、しなければならないことは、しっかりと立つことです。つまり、逃げ出そうとするなということです。「しっかり立って」とあります。私たちはこうした状況に直面すると、すぐにそこから逃げだそうとします。しかし、主が私たちに命じておられることは逃げることではなく、しっかりと立つことです。ペテロは、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(1ペテロ5:9)。と言いました。

 

そして次に、「今日あなたがたのために行われる主の救いを見な」ければなりません。つまり、主からの解決を待ち望まなければならないということです。それは「今日」もたらされます。明日ではなく「今日」です。それはすみやかにもたらされるのです。主の救いは近いのです。

 

その結果はどうなりますか?「あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」つまり、今見ているエジプト人はいなくなるという意味です。モーセは、それがどのようにしてもたらさるのかわからなかったでしょう。しかし、彼は自分たちの目の前からエジプト人が消え去るということを確信していたのです。

 

主があなたがたのために戦われます。戦うのは自分ではありません。主があなたがたのために戦ってくださいます。主は、海と風を軍勢して戦ってくださいます。ですから、自分たちに戦闘の経験がなくても心配する必要はありません。

 

ですから、私たちに必要なことは何でしょうか。私たちに必要なことは、「ただ黙っていなさい」ということです。つまり、何かに脅えて叫んだり、自分の感情で動いたりするのではなく、主がなされることを待ち望まなければなりません。霊的な戦いにおいて自分で何とか解決しようとすると、必ずサタンの餌食になります。たとえば、根も歯もない自分についてのうわさが教会の中に蔓延していると、だれがそんなうわさを流したのかと捜し回りたくなるでしょうが、それこそが敵の策略なのです。そうなると大変なことになります。「主よ。すべてをあなたにゆだねます。あなたが戦ってください。」と祈るなら、勝利がもたらされるのです。

 

15節から18節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」」  モーセは、主に叫んでいました。それはイスラエルの民のように不信仰の叫びではなく、信仰の叫びでした。モーセは叫ぶようにして祈っていたのです。そんなモーセに対する主の言葉は、「イスラエルの子らに、前進するように言え」ということでした。前進すると言っても、それは大変なことです。背後から敵が迫っていたのですから。前進するためには海に向かって進まなければなりません。イスラエルの民は、海がまだ分かれていない状態で前進しなければなりませんでした。それが信仰です。海が分かれてから前進するのは信仰とは言いません。それは確認と言います。でも、海がまだ分かれていないのに前進するなら、それは信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないことを確信させるものだからです。彼らに求められていたのは、主の言葉を信じて前進することでした。

 

いったいどうやって前進して行ったらいいのでしょうか。主はモーセに、「あなたの手を挙げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい」と言われました。そうすれば、イスラエルの子らは海の中の乾いた地面を行くことができます。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか?ここに「エジプトは、わたしが主であることを知る。」とあります。主とは、「わたしは、あるというものである」です。他の何ものにも依存することなく存在することができるという意味です。すなわち、全能者であられます。この天と地と海と、その中のすべてのものを造られた主は、海を分けることなど簡単におできになるのです。問題は、この主のことばに対して、どのように応答するかです。もし信じて従うなら、主の栄光を見るでしょう。エジプトは主こそ神であるということを知るようになるのです。

 

私たちが信じている神がいかに偉大なお方であるかを思い巡らしましょう。そして、この神にすべてをゆだね、そのおことばに信仰をもって応答したいと思うのです。

 

Ⅲ.紅海を渡る(19-31)  最後に、19節から31節までをみて終わりたいと思います。

「イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。「主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」

 

イスラエルを導いていたのは、雲の柱だけでなく神の使いもそうでした。この「神の使い」は、雲の柱の中にいる受肉前のキリストのことです。イスラエルの陣営の前を進んでいた雲の柱は、民のうしろに移動し、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に立つ分離壁となりました。それは真っ暗な雲でした。エジプトの陣営は、この真っ暗な雲の中に迷い込ませられたので、イスラエルの陣営に近づくことができませんでした。

 

次に、モーセが手を海の上に伸ばすと、強い東風が吹いて来て、紅海の水が右と左に分かれて、そこに乾いた地ができました。それでイスラエルの民は、その海の真中の乾いたところを進んで行きました。世界中のだれが、このような奇蹟を体験したことがあるでしょうか。ないでしょう。考えられません。一時的に、浅い海が強風になって陸となることはありえても、深い海が壁となる奇蹟は、地球の歴史の中でこれ一回限りです。神は、ご自分がどのような方であるかを、イスラエル人と全世界の民に知らせるために、この奇蹟を行なわれました。神は全能者であられるのです。  それから主は、モーセに「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車と、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」(26)と言われました。モーセがそのようにすると、朝明けに海が元の通りに戻りました。水が元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおったので、彼らはみな海に沈んでしまいました。残った者は一人もいませんでした。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われたのです。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見ました。彼らは今こそ真の意味で、エジプトの奴隷の状態から救い出されたことを確信しました。自分たちを支配していた者は海辺に死にました。古い時代の象徴であったエジプトは、すでに海のかなたに葬られたのです。そして、目の前には自分たちが進んで行く新しい世界が広がっていました。それはまさに罪の奴隷であった古い人に死に、新しいいのちに生まれ変わったことを象徴しています。私たちは、キリスト・イエスにつくバプテスマによって、罪の奴隷から解放されたのです。

彼らは見ました。エジプト人が確かにひとりも残らず死んだのを。もう自分たちを襲ってくるものは何

一つありません。完全な勝利です。私たちも古い自分はもう死んでしまったということを、信仰をもって見なければいけません。罪に支配された古い人は、もう死んだのです。それがあなたを支配することは決してありません。私たちは今、それを信仰にもって受け止めなければならないのです。もう罪は葬り去られたのです。罪はもはや私たちを支配することはありません。詩篇103:12に、「東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」とあります。また、ミカ7:19には、「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。」とあります。

 

31節をご覧ください。

「イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」

イスラエルの民は、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。それまでは信じていなかったのでしょうか。それまでも信じていましたが、半信半疑でした。しかし、今、この大いなる御力を見て確信したのです。これは、私たちにとっても言えることです。イスラエルが、主の大きな御力を見て信じたように、私たちはキリストの十字架と復活を信じて信じました。このことがはっきりしていることが大切です。自分がキリストとともに十字架で死に、キリストにあってよみがえったという事実にしっかりと立っているなら、たとえ自分が罪から解放されていないように感じることがあっても、実際には、キリストとともによみがえったという事実を見て、いのちに歩み続けることができるからです。この確信に基づいて生きるとき、神は確かに約束の御霊を注いでくださり、私たちに豊かないのちを与えてくださるのです。