出エジプト記28章

今日は、出エジプト記28章から学びます。これまで幕屋の建築について見てきましたが、28章と29章には祭司について書かれています。その幕屋で人がどのように奉仕するのか、その奉仕者である祭司について学びます。今日は前半部分28章です。

Ⅰ.祭司として仕えさせよ(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。

「1 あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビフ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。2 また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。3 あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。 彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。」

ここにはアロンとその子たちを祭司として仕えさせるようにとあります。祭司とは、簡単に言えば、神と人との仲介者のことで、神の幕屋に仕える人たちのことです。神に対して、祭司は人を代表します。とりなしの祈りをしたりすることは、祭司の務めです。そして人に対しては、神の祝福や恵みやいやしを分け与える神の代表者でもあります。祭司の働きによって、イスラエル人は神に近づくことができました。この祭司もイエス・キリストの型であり、イエス・キリストのことを表していました。イエス・キリストこそまことの大祭司です。ですから、この祭司について学ぶとキリストがどのような方であるのかがわかるのです。

モーセの兄アロンと彼の子どもたちが祭司として任じられました。何のためでしょうか。主に仕えるためです。ここには、「祭司としてわたしに仕えさせよ。」とあります。主に仕えるということは何か主のために特別のことをすることではなく、主が命じられたことを行うことです。

2節をご覧ください。ここには「あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ」とあります。大祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着なければいけませんでした。普通の服装では聖所に入ることができなかったのです。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストを表していたからです。イエス・キリストによらなければ、だれも神に近づくことはできません。ヘブル1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」とありますが、栄光と美を表す聖なる装束は、この栄光のキリストを表していたのです。そのために、主が知恵の霊を満たした、心に知恵ある人たちが用いられました。

Ⅱ.大祭司の装束(4-39)

4-39節までに、栄光と美を表す聖なる装束がどのようなものであったかが記されてあります。まず、4-5節をご覧ください。

「4 彼らが作る装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らが、祭司としてわたしに仕えるために、 聖なる装束を作る。5 彼らは、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を受け取る。6 彼らに、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、意匠を凝らしてエポデを作らせる。」

彼らは大祭司のために、胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯を作らなければなりませんでした。なぜなら、それはイエス・キリストを指し示していたからです。大祭司はそのままの姿で、神のみもとに近づくことはできませんでした。また、自分を良くすることによっても、神に近づくことはできませんでした。イザヤ書に、「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」(64:6)とあるように、罪に汚れた者だからです。そのような者が神の幕屋に入って行き、神に近づくことができるのは、イエス・キリストの義を身に着けていなければならないのです。パウロは、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)と言いました。ですから、イエス・キリストが、私たちにとって聖なる栄光と美の装束です。私たちは、自分の正しさではなく、キリストの完全な義を身にまとうことによって神に近づくことができるのです。

最初はエポデを作りました。これはエプロンのような形をしており、大祭司の胸と腹の部分を覆っていました。その材質は、金色、青、紫、緋色の撚り糸と、亜麻布が用いられていました。金色は何を表していましたか。キリストの神性です。キリストが神であることを表していました。青色は天、神の国ですね。それは、キリストが天から来られた方であることを示していました。紫色は王としてのキリストです。緋色は赤ですが、これはキリストの十字架の血による贖いを表していました。そして亜麻布は白ですが、これはキリストの聖さ、キリストの義を表していました。このエポデはキリストの権威を象徴していたのです。

7-14節をご覧ください。これに二つの肩当てが付けられました。この肩当てはイスラエル12部族を表していました。その肩当てにはそれぞれしまめのうがはめ込まれていて、片方にはイスラエル12部族のうちの6つの部族の名前が、またもう一方には6つの部族の名が記されてありました。つまり、キリストはご自身の民であるイスラエルの12の部族(クリスチャン)を背負ってくださるということです。イザヤ46:3-4には、「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とあります。私たちは、大祭司であられる主イエスに担われているのです。ずっと・・。何と感謝なことでしょうか。

8節をご覧ください。ここには「エポデの上に来るあや織りの帯」を作るようにとあります。材料と色はエポデを作る時と同じ色、同じ材料です。すなわち、これもイエス・キリストのことを表していました。この帯は何を象徴していたのでしょうか。出エジプト12:11には、帯を引き締めて、足にくつをはき、急いで行くようにとありますが、それは、着物がはだけないためでした。要するに、働きやすくするために帯を締めるのです。それは、しもべとしてのキリストの姿を象徴していたのです。キリストは仕えるしもべとしてこの世に来てくださいました。そして、この帯がエポデと同じ材質と色で作られなければならなかったのは、権威者であられるキリストとしもべとしてのキリストというこの二つの性質がキリストの中にあるということです。神としての権威をもっておられた方が、しもべとなって仕えてくださいました。栄光の神であられるキリストは仕えるしもべでした。これが真のリーダーです。真のリーダーとは、サーバント・リーダーなのです。

次に15-21節までをご覧ください。

「15 あなたはさばきの胸当てを意匠を凝らして作る。それをエポデの細工と同じように作る。すなわち、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて作る。16 それは正方形で二重にする。 長さ一ゼレト、幅一ゼレト。17 その中に宝石をはめ込み四列にする。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。18 第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。20 第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれる。21 これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表す。」

ここには、「さばきの胸当て」を作るようにと命じられています。この「さばき」というのは神のさばきというよりも、神のみこころは何かということを判断するさばきのことです。イスラエルが何かのさばき、判断、知恵を求めたとき、彼らは大祭司の所にやって来て、神のみこころを伺ったのです。それがさばきの胸当てです。このさばきの胸当てにはウリムとトンミムが入っていました(30)。ウリムとトンミムとはどのようなものであったかは明確ではありませんが、Iサムエル14:41には、これがくじとして用いられていたことが記されてあります。くじとして用いられていたことから、神のみこころを求めるくじのようなものであったのではないかと考えられているのです。ウリムが出たらイエス,トンミムがノーというように判断していたのでしょうす。判断がくじによって与えられるというのは、このくじは単なる偶然にではなく、神がその判断と決定をそれによって与えられるという信仰が基調にあったのです。

このさばきの胸当てもエポデと同じ色、同じ材質で作られました。ということは、これもまたイエス・キリストのことを表していたということです。違うのは何かというと、この胸当てには高価な宝石がちりばめられていたということです。宝石は3個ずつ4列にしてはめ込められていました。この12の宝石は、イスラエルの12部族を表していました(21)。それがこの胸当てにはめ込まれていたのは、大祭司の心にイスラエル12部族の名前が刻まれていたということです。イエス・キリストの心にクリスチャンの名前がしっかりと刻まれているのです。彼らはそれぞれ違う石で表されていましたが、どれも皆、宝石です。どの部族も価値があります。皆、それぞれ光を持っています。光り方は違いますが、どれもみな大祭司のハートにしっかりと刻み込まれていたのです。

イザヤ49:15-16には、「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」とあります。私たちはキリストから忘れられるということは決してありません。その心にしっかりと刻まれているからです。それぞれ輝き方はみな違いますが、宝石のように価値ある者として見られているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

どの教団、どの教派、どの教会の人であっても、あなたがキリストを信じて神のものになっているのなら、神の目にあなたは高価で尊い存在なのです。宝石のように輝いていめのです。まだ輝いていないという人がいますか?そういう人がいたら、その人は宝石の原石なのです。そのうちに輝いてきますから、心配堂しないでください。

それは私たちだけでなく、あなたの隣人も同じです。あなたの隣人もキリストを信じて神のものとなったのであれば、キリストの目には同じように高価で尊いのです。私たちは、そのような目で隣人を見ていく必要があります。

22-29節をご覧ください。

「22また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作る。23 胸当てのために金の環を二個作り、その二個の環を胸当ての両端に付ける。24その胸当ての両端の二個の環に、二本の金のひもを付ける。25その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付ける。26さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付ける。27 また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付ける。28 胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにしなければならない。29 このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」

ここには、胸当てを身に着けるための鎖と環について述べられています。この鎖は、純金で作られました。胸当てを体に固定するために、胸当ての四隅に金の環がつけられます。そして上の環は金の鎖で肩当ての環につなぎあわせ、下の環はエポデにつけられた環に青ひもでつなぎます。それは何のためでしょうか。胸当てがエポデからずり落ちないようにするためです。大祭司の胸当てはイエス・キリストの心です。私たちはあの宝石のように主のみ胸に抱かれて大切に守られているのです。それは決してずり落ちることはありません。

29節には、「このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」とあります。これはキリストの愛情のしるしです。こうして大祭司はイスラエルの民族を代表して聖所で奉仕し、神と人との間のとりなしをするのです。ヘブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とありますが、キリストはこの大祭司として、私たちのために神にとりなしていてくださるのです。

次に31-35節までをご覧ください。

「31 エポデの下に着る青服を青の撚り糸だけで作る。32 その真ん中に、首を通す口を作る。その口の周りには、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付け、よろいの襟のようにする。33 その裾周りには、青、紫、緋色の撚り糸でざくろを作る。その裾周りのざくろの間には金の鈴を付ける。34 すなわち、青服の裾周りに、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。35 アロンはこれを、務めを行うために着る。 彼が聖所に入って主の前に出るとき、 またそこを去るとき、 その音が聞こえるようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。」

ここには、エポデの下に着る青服の作り方が記されてあります。これは青色の撚り糸で作られました。これにはそでがなく、ひざが隠れるほどの長さのものでしたが、あるものは足首にまで達する長いものでした。というのは、33節に裾のことが記されてありますが、それによると足首まである長い服であったのがわかるからです。その真ん中には頭を通す穴を開け、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付けました。その裾周りには青色、紫色、緋色の撚り糸で作ったざくろを作り、その裾の周りに付けました。また、その周りのざくろの間に金の鈴をつけました。ざくろは、多数の実を付けていることから肥沃、豊かさ、生命の象徴でした。それはキリストの生命の豊かさを表わしていました。また、金の鈴は、大祭司キリストの働きを示していました。それはとりなしの祈りです。35節を見ると、アロンが聖所での務めをするときにはこれを着なければなりませんでした。そして、彼が聖所にはいり、主の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにしなければならなかったのです。それは、彼が神と人とに覚えられているというしるしでした。そうしないと、彼は打たれて死んだのです。鈴の音が止まると死んだということが、神と人の両方にわかりました。

36-38節をご覧ください。

「36 また、純金の札を作り、その上に印章を彫るように主の聖なるもの』と彫り、37 これを青ひもに付け、それをかぶり物に付ける。それがかぶり物の前面にくるようにする。38 これがアロンの額の上にあって、アロンは、イスラエルの子らが聖別する聖なるもの、彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。これは、彼らが主の前に受け入れられるように、絶えずアロンの額の上になければならない。」

ここには、「純金の札」について記されてあります。純金の札を作り、その上に印を彫るように、「主への聖なるもの」と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物の前面にくるように付けばなりませんでした。その大きさについてはいろいろな節があります。ある伝承では幅4センチ、長さは耳から耳に届くほどの大きさであったとされています。

しかし、最も重要なのは、そこに「主への聖なるもの」と彫られた純金の札を付けなければならなかったということです。これが、38節に「彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。」とあるように、。イスラエルの咎を負うためであったからです。イスラエル人が持ってきた物はいろいろな清めと洗いがなされていますが、完全に聖い神の御前には汚れています。そこで、民を代表するアロンは、それを額の上に置きその汚れたささげ物がすべて聖められるようにしたのです。これでイスラエル人のささげ物が、絶えず神の御前に受け入れられるようになりました。エペソ書1:7には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。」とありますが、私たちはこの大祭司であられるキリストの贖いによって罪が赦され、聖められているのです。この方にあって私たちは神に受け入れられた物、聖い者とされたのです。大祭司であられるキリストが私たちの咎を負ってくださったからです。そのことによって、私たちは大胆に神の御前に出ることができるようにされたのです。

39節をご覧ください。

「さらに亜麻布で市松模様の長服を作り、亜麻布でかぶり物を作る。飾り帯は刺を施して作る。」

長服は亜麻布で市松模様に作られました。市松模様というのは白と黒の正方形を、互い違いに並べた基盤目模様のことです。「石畳」「あられ」などとも言われます。かぶりものは亜麻布で作られました。これは恐らく主への敬意のしるしだったのでしょう。飾り帯は刺繍で作る。大祭司の装束の中に履物についての言及がないのは、おそらく彼らがはだしで務めをしていたからと考えられます。

Ⅲ. アロンの子らの装束 (40-43)

最後に、40-43をご覧ください。                             「40 あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表すターバンを作らなければならない。41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。42 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。43 アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためである。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟である。」  大祭司アロンの働きを補佐するアロンの子らたちのためには、長服と飾り帯とターバンが作られました。ターバンは栄光と美を表していました。彼らは聖別された油を注がれて祭司に任命されました

彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作りました。それは腰からももに届くようにしました。これはアロンと彼の子らが聖所で務めを行うために祭壇に近づく時に着ました。これは彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないようにするためのものでした(20:26)。もしも彼らの裸があらわにされてしまうなら、神に打たれて死ななければならなかったからです。どういうことでしょうか。これはキリストの贖いを象徴していました。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉をつづり合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい全く役に立ちませんでした。自分の力や働きによって裸をおおうことはできません。自分の裸をおおうことができるのは、神が用意してくださった動物の皮で作られた着物でした。まさにその動物こそキリストの血を象徴していたのです。神は、そのようにして彼らの裸をおおってくださいました。同じように、私たちの裸をおおうのは亜麻布のももひきです。それはイエス・キリストを指し示していました。それを着なければならないのです。アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着ました。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためです。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟です。

今日、完全なる大祭司であるイエス・キリスト(ヘブル3:1)が私たちのために神の前にとりなしをしていて下さいます(ヘブル7:24-27)。大祭司アロンはイエスキリストのひな型であり、イエス・キリストこそが永遠の大祭司として神の御前に私たちのためにいつもとりなしておられます。今もキリストは大祭司として真の幕屋である聖所で仕えていることを覚え(ヘブル8:1,2)、キリストによって罪を贖っていただいたことを感謝しましょう。

出エジプト記27章

出エジプト記27章から学びます。幕屋の建設について学んでいます。「主は、「彼らにわたしのための聖所を造らせ。そうすれば、わたしは彼らの中に住む。」(25:8)と言われました。最初に作ったのは契約の箱でした。以下、宥めの蓋、臨在のパンを置く机、燭台を作り、幕屋の幕、幕屋の本体である壁、聖所と至聖所を仕切る幕、天幕の入口の幕と進んできました。幕屋の建設は、最も重要な契約の箱から作られてその周辺のものへと広げられていきました。きょうは、外庭に置く祭壇について学びます。

Ⅰ.祭壇(1-8)

まず1~8節までをご覧ください。                          「1 祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの正方形とし、高さは三キュビトとする。2 その四隅の上に角を作る。その角は祭壇から出ているようにし、青銅をその祭壇にかぶせる。3 灰壺、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな青銅で作る。4 祭壇のために青銅の網細工の格子を作る。その網の上の四隅に青銅の環を四個作る。5 その網を下の方、祭壇の張り出した部分の下に取り付け、これが祭壇の高さの半ばに達するようにする。6 祭壇のために棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。7 それらの棒は環に通す。祭壇が担がれるとき、棒が祭壇の両側にあるようにする。8 祭壇は、板で、中が空洞になるように作る。山であなたに示されたとおりに作らなければならない。」

祭壇をアカシヤ材で作ります。祭壇は、幕屋の外庭というところに置かれていたもので、幕屋に入ると最初に目にするものです。一番大きなものですぐに目に付きました。「祭壇」はヘブル語で「ミズベーアッハ」と言いますが、「動物をいけにえとしてほふる」ことを意味しています。そのサイズは、長さが5キュビト、幅も5キュビトの正方形で、高さが3キュビトありました。1キュビトは約44㎝ですから、1辺が約2.2m、高さは約1.3mの大きさです。ですから、とても大きいものでした。それをアカシヤ材で作らなければなりませんでした。

その祭壇の四隅に角を作りました。角は力の象徴です。血の持つ力を象徴していました。この祭壇の四隅にある四つの角に贖罪の血を塗ることで、あたかも神がご自身を求めようとする人の心に平安を与えることを示していたのです。その祭壇に青銅をかぶせました。3節以降を見ると、祭壇だけでなく、その道具のすべてに青銅をかぶせなければなりませんでした。それは、罪に対する神の怒りを表していたからです。つまり、それは裁きの象徴だったのです。そこで、罪のためにいけにえがささげられました。罪を贖うためのいけにえです。傷も、しみもない動物(雄牛とか、雄やぎとか、小羊)が連れて来られると、民はその動物の頭の上に手を置き、自分の罪を言い表わしました。そして、自分の罪を動物に転嫁したのです。その動物をほふり祭壇の上で焼くことによって、自分のすべての罪が贖われると信じていました。それはあまりにも残酷なことなので、それを見るともう二度と罪を犯さないようにと心に思うのですが、残念ながら人間は弱いもので、また同じような罪を犯してしまうのです。ですから、毎年かわいい動物を連れて来ては、むごたらしい残酷な全焼のいけにえの儀式を行わなければならなかったのです。

このいけにえの動物こそイエス・キリストを指し示していました。イエス・キリストは全く罪も、しみも、しわもないお方でしたが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。青銅の祭壇で神の裁きを受けて死んでくださったのです。それは私たちの罪を永遠に贖うためでした。それがヘブル書で言われていることです。(ヘブル10:1~10)雄牛ややぎの血は、人間の罪を取り除くことができません。むしろ、これらのいけにえによってかえって罪が思い出されるのです。しかし、キリストは、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。それが十字架です。なぜキリストは十字架にかかって死ななければならなかったのでしょうか?それは、キリストが神の怒りの火を受けて裁かれなければなかったからです。

民数記21:4~9をご覧ください。ここには荒野でパンもない、水もない、みじめな食物に飽き飽きしたと不平不満を言うイスラエルの態度に怒られた主が、民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死んだことが記録されてあります。その神のさばきから逃れるために、神がモーセに言われたことは、青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に掛けるということでした。すべて、これを仰ぎ見た者は生きると約束されたのです。不思議な方法です。青銅の蛇です。蛇はサタンの象徴、そして、青銅は神の裁きの象徴です。この青銅の蛇こそイエス・キリストを表していました。それはヨハネ3:14~15を見てもわかります。「人の子もあげられなければならない」とイエスは言われました。イエスは、青銅の蛇として上げられ(十字架につけられ)たのです。これを仰ぎ見る者が救われるために。それが、私たちの罪が赦されるために神が定められた方法だったのです。その通りにキリストは神の怒りを受けて裁かれたのです。

「灰壺、十能、鉢、肉刺し、火皿」を作りました。灰つぼは、灰を取るつぼのことで、宿営の外のきよい所に持ち出すためのものでした。これが意味することは、イエスが十字架にかかった場所が「宿営の外」でなければならなかったということです。十能と肉刺しは、いけにえを焼き尽くための器具でした。神のみこころを執行するためのものと言えるでしょう。鉢は、いけにえの血をその中に入れて持ち運ぶためのものです。火皿は、熱い炭火を運ぶためのものです。

祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、その網の上の四隅に、青銅の環を四個作りました。まさにバーベキューの世界です。また、祭壇も、他の用具と同じように環を作り、棒が差し込まれるようにしました。この祭壇はいつでも、どこにでも運ばれたのです。このことは、私たちの罪のいけにえとしてほふられた小羊は、いつでも、どこでも、有効であるということを表しています。これは永遠の贖いなのです。キリストはただ一度、まことの聖所に入られましたが、その救いは、いつでも、どこでも、有効なのです。いつの時代でも、だれでも、この贖いを信じる者は救われるのです。

Ⅱ.掛け幕(9-19)

次に、9~19節までを見ていきましょう。

「9 次に幕屋の庭を造る。南側は、撚り糸で織った長さ百キュビトの亜麻布の庭の掛け幕を、その側に張る。10 その柱は二十本、 その台座は二十個で青銅、 その柱の鉤と頭つなぎは銀とする。11 同じように、北側も長さ百キュビトの掛け幕とする。その柱は二十本、その台座は二十個で青銅、その柱の鉤と頭つなぎは銀とする。12 また、庭の西側は幅五十キュビトの掛け幕、その柱は十本、その台座は十個とする。13 正面の、庭の東側の幅も五十キュビト。14 門の片側には十五キュビトの掛け幕、その柱は三本、その台座は三個とする。15 もう片方の側も十五キュビトの掛け幕、その柱は三本、その台座は三個とする。16 庭の門には、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いた、長さ二十キュビトの、刺?した垂れ幕を張る。その柱は四本、その台座は四個とする。17 庭の周囲の柱はみな、銀の頭つなぎでつなぎ合わせ、その鉤は銀、台座は青銅とする。18 この庭は長さ百キュビト、幅五十キュビト、そして高さは撚り糸で織った亜麻布の幕の五キュビトとし、その台座は青銅とする。19 幕屋の奉仕に用いるすべての備品、すべての杭、庭のすべての杭は青銅とする。」

ここには幕屋の庭を造る規定が記されてあります。これは外庭のことです。掛け幕で囲んで庭を造りました。そのために長さ100キュビト、約44メートルの亜麻布を張りました。幅は50キュビト、約22メートルです。亜麻布については以前学びましたが、これは聖さを象徴していました。それは人の聖さではありません。神の聖さであり、神によって罪を贖っていただいた聖徒たちの聖さです。柱は20本で、その20個の台座は青銅、柱の鉤と頭つなぎは銀でした。青銅は裁き、銀は贖いの象徴です。

13節を見ると、東に面する庭の幅も50キュビトですが、そこには門が作られたので、片側に15キュビト、もう片側に15キュビトの掛け幕が作られ、その真ん中に20キュビトの門が造られました。16節には、この門には、青色、紫色、緋色のより糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った幕を張る、とあります。この4つの色については既に学びましたが、これはイエス・キリストを表しています。イエスは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)と言われました。この門を通って入るなら救われるのです。聖所に近づく道は、この門から入る以外はありません。「すべての道は神に通じる」のではないのです。多くの人が、仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、結局、同じ神を信じているとか、良いことを行っていれば誰でも神に到達できると思っていますが、そうではありません。それはあたかも亜麻布の掛け幕から中に侵入するようなものです。そうすれば、青銅の柱また台座が表している神の裁きによって滅んでしまうだけです。神に近づくためにはこの門を通って入らなければならないのです。しかも、この門には鍵がついていませんでした。いつでもオープンです。いつでも入ることができます。神はいつでも私たちを招いておられるということです。いつでも、だれでも、この門を通って入るなら救われるのです。

ところで、これで神に近づくための門は3つになります。一つはこの幕屋の庭に入るための門、もう一つは聖所に入るための門です。そして、もう一つは至聖所に入るための門です。これは垂れ幕のことですが、全部で3つです。しかもこの3つの垂れ幕はみな同じように作られていました。これは全部イエス・キリストのことを表していたからです。神の臨在に近づくためには、その都度イエス・キリストを通らなければならないということです。いつでも、その度ごとにイエス・キリストの十字架を忘れてはならないのです。私たちの信仰の原点、またその土台は、十字架の神の恵みなのです。パウロはコリント第一の手紙2:2で、「十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」と言いました。キリストが私たちの信仰の原点であって、いつもこの方から目を離してはいけないのです。この方から目を離した瞬間、つまずいてしまうことになります。私たちはいつもこの方を通っていかなければならないのです。

ところで、この門は東側にありました。東側から入って西側に向かいました。しかし、当時のカナン人など異教の祭壇はその反対で、西側から入って東側に向かいました。なぜかというと、東が日の出る方向なので、東から出てくる太陽を拝んだからです。それを神として崇めていたからです。しかし、イスラエルの主、神はそうではありません。まことの神をあがめる時は、その反対方向を向いて、敢えて「わたしは、主にお従いします。」という行為を取るようにさせたわけです。生きた信仰というのは、世の流れに逆らうようなものです。「死んだ魚は川の流れに流されますが、生きている魚は、流れに逆らって泳ぎます。それが生きている証拠なのです。

幕屋の後に、ソロモンの時代には神殿が建てられますが、その時の入り口も東側にありました。そして、主が終わりの日に建ててくださる神殿がエゼキエル書に幻の中に記されていますが、東向きの門です。そしてエゼキエル書43章によると、「主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。」(43:44)とあります。メシヤがエルサレムに来られるのも、東からです。

Ⅲ.ともしび(20-21)

最後に、20節と21節を見て終わります。

「20 あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。21 会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である。」

話は外庭から、聖所の中にある燭台に戻ります。聖所に入ると、左側に金の燭台がありました。祭司はそれをいつも絶やすことなく、ともしびを整えておかなければなりませんでした。その中にあるものは、この光がなければ見ることができません。前回学んだように、その光はキリストご自身の光であり、また私たちがその光の中で歩むことを表していました。そしてその光をともすのが「油」です。聖書には「油」に関する言及が数多く出てきますが、神のために用いられる時には聖霊の働きを表しています。

この油については2つの言及があります。その一つのことは、ここに「イスラエルの子らに命じて」とあるように、イスラエルの民に命じられていたことです。彼らは、ともしび用の油を持って来なければなりませんでした。これはどういうことかというと、私たちは日々聖霊に満たされていなければならないということです。聖霊に満たされるために教会に来るのではなく、聖霊に満たされている人たちが教会に来ることによって教会は明るくなるのです。教会は、牧師が輝いていれば明るくなるのではなく、クリスチャン一人一人が神に向かい、いつも聖霊に満たされていることによって明るくなるのです。その聖霊の油を持ってくることによって明るくなるのです。もちろん、教会に来て満たされることを求めることが悪いことではありません。しかし、何かを期待してそれがかなわないと満たされないというのではなく、神を神として拝み、神を礼拝することから私たちの信仰が輝いてくることを求めなければなりません。

もう一つのことは、夕方から朝までともしびを整えておかなければならないということです。祭司は、これは私たちクリスチャン一人一人のことですが、いつも絶やすことなく、ともしびを整えておかなければなりません。夕方から朝までです。おもしろいのは、朝から夕方までではなく、夕方から朝までと言われていることです。イスラエルの一日は夕方から始まりました。安息日も、金曜日の日没から始まって土曜日の日没までとなっていました。一日の始まりは夕方から始まるのです。夕方から始まるというのはどういうことかというと、最初は暗いがだんだん明るくなっていくということです。クリスチャン生活も同じです。最初は暗いけどだんだん明るくなっていきます。聖霊の油に満たされて、それをともしび皿に注ぐので、最初は暗くてもだんだん明るくなっていきます。

これが私たちの歩みです。明るいところから暗くなっていくのではなく、最初は暗くてもだんだん明るくなっていく生涯です。純粋なオリーブ油を持って来て、それを24時間ともしびをともすことによってそのような生涯を送ることができるのです。

出エジプト記26章

出エジプト記26章から学びます。前回は、幕屋の最も重要な部分である神の箱と、宥めの蓋、臨在のパンを置く机、それと燭台の作り方について学びました。今回は幕屋本体の作り方についての規定を学びます。

Ⅰ.幕(1-14)

まず、1節から14節までをご覧ください。まず1節から6節までを見ていきましょう。

「1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。2 幕の長さはそれぞれ二十八キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビトで、幕はみな同じ寸法とする。3 五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、もう五枚の幕も互いにつなぎ合わせる。4 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に、青いひもの輪を付ける。もう一つのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにする。5 その一枚の幕に五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の端にも五十個の輪を付け、その輪を互いに向かい合わせにする。6 金の留め金を五十個作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせ、こうして一つの幕屋にする。」

幕屋は10枚の幕で造らなければなりませんでした。それはおのおの亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸を用い、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければなりませんでした。この4つの撚り糸の色にはそれぞれに意味がありました。亜麻布は白ですが、これはキリストの聖さ表していました。マルコ9:2-3には、「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。」とあります。このキリストの聖さです。

青色は天の色です。ヨハネ3:13には、「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。」とあります。また、3:31には、「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。すなわち、キリストは天から来られた方であるということです。

紫は、王の色を表しています。つまり、キリストは王の王であられることを表していました。そして、緋色ですが、これは血の色です。すなわち、私たちの罪を贖うために十字架で死なれたキリストを象徴していました。この4食は、祭司の式服にも使われました。神の幕屋ではいつもこの白、青、紫、緋色の4色の拠り糸が使用されました。

そして、ここには「意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。」とあります。このケルビムについては前にもふれましたが、神の御座を守る天使のことです。契約の箱の上の贖いのふたの上に二つの翼を広げて向かい合って座っていました。神はその間から彼らと会見すると言われました(25:22)が、そのケルビムを織り出されていたということは、そこが神の臨在と神の栄光に溢れていたことを示しています。これは、聖所と至聖所の天上部分になりました。これは、私たちが毎日、天を見上げて神の栄光を拝し、神に感謝と賛美を捧げつつ、キリストの臨在を仰ぎましょうという意味があります。コロサイ3:1-2に、「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」とあるとおりです。

2節と3節には、幕の長さは28キュビト、幅は4キュビトでした。1キュビトが約44cmですから、約12.32mになります。幅は4キュビトですから、約1.76mです。それを10枚つくり、その内の5枚を互いにつなぎ合わせ、もう5枚の幕も互いにつなぎ合わせるとあります。すなわち、2枚の大きな幕にしたのです。そのつなぎ合わせた幕の端に青いひもの輪を付けました(4)。この青色というのは、先程も申し上げたように天の色です。その青いひもの輪を付けたのは、この二つのものをつなぎ合わせるのは、人間の努力によっては不可能であること、そして、神によってのみ可能となることを示していました。

また、5,6節には、それぞれの幕に輪を50個付け、金の留め金50個でつなぎ合わせ、一つの幕にするとあります。これはどういうことでしょうか?「金の留め金」はキリストの神性と力を象徴していました。その留め金で50個の輪を結んだのです。つまり、この2枚の幕を結び付けるのは、キリストによってであるということです。では、この2枚の幕とは何を表していたのでしょうか。それは「ユダヤ人」と「異邦人」です。パウロは、神の御住まいとなる教会について、エペソ2:21~22でこのように言っています。

「21 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。22 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

どのようにして神の御住まいである教会が建て上げられていくのでしょうか。キリストにあってユダヤ人と異邦人という2つのものがともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。ですから、この2枚の幕は「ユダヤ人」と「異邦人」のことであり、この2つがキリストにあって、御霊によって結び付けられ、神の御住まいとなるのです。ここに記されてあることは、このことを表していたのです。それは私たちの力でできることではありません。キリストにあって、御霊によってのみ可能となるのです。

次に、7節から14節までをご覧ください。「7 また、あなたは、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作らなければならない。その幕を十一枚作る。8 幕の長さはそれぞれ三十キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビト、その十一枚の幕は同じ寸法とする。9 そのうち五枚の幕を一つに、 もう六枚の幕も一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。10 つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも五十個の輪を付ける。11 青銅の留め金を五十個作って、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。12 天幕の幕の余って垂れる部分、すなわちその余りの半幕は幕屋のうしろに垂らす。13 そして、このうち一キュビトともう一方の一キュビトの、天幕の幕の長さで余る部分は、幕屋をおおうように、その天幕の両側、手前と奥側に垂らしておく。14 天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆いを作り、その上に掛ける覆いをじゅごんの皮で作る。」

7節には、「また、あなたは、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作らなければならない。その幕を十一枚作る。」とあります。幕屋の幕は四重になっていました。最初の幕は豪華絢爛な幕でした。その上にまた別の幕が掛けられました。それは、やぎの毛で作られたものでした。やぎの毛というと白というイメージがありますが、実際は黒です(雅歌1:5)。それは罪を象徴していました。幕屋をおおう内側の二枚の幕はワンセットでした。内側の幕はキリストの栄光を象徴していましたが、その上をおおっているやぎの黒い毛で作った天幕は「罪」を象徴し、罪のために犠牲となったキリストを表していたのです。

8節には、その幕のサイズが記されてあります。幕の長さはそれぞれ30キュビト、幕の幅はそれぞれ4キュビトです。長さは、内側の幕よりも2キュビト長くなっています。幅は4キュビトで同じです。それは、13節にあるように、残りの2キュビトで幕屋を覆うように垂らさなければならなかったからです。また、それを11枚作らなければなりませんでした。それは12節にあるように、幕屋の後ろにも垂らさなければならなかったからです。

9節をご覧ください。「そのうち五枚の幕を一つに、 もう六枚の幕も一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。」とあります。内側の幕よりも1枚多かったのは、六枚目の幕を天幕の前で折り重ねるためでした。幕屋の東側の「折り重ねられたやぎの毛の幕」は、外から人々がいつも見ることのできる唯一の部分でした。それは自分たちが絶えず罪人であることを認識させるためだったのです。

9節から11節までをご覧ください。その5枚の幕と6枚の幕も一つにつなぎ合わせなければなりませんでした。つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には50個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも50個の輪を付けました。しかし、それを留める留め金には「青銅の留め金」が用いられました。なぜ「青銅の留め金」だったのでしょうか。内側の幕には金の留め金が用いられましたが、ここでは青銅の留め金です。それは、神のさばきを象徴していたからです。黒の幕が青銅の留め金でつなぎ合わされていたのは、人の罪に対する神のさばきを表していたからです。イエス・キリストは、まさに私たちの罪のために神のさばきを受けられたということを表していたのです。

次に14節をご覧ください。ここには、「天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆いを作り、その上に掛ける覆いをじゅごんの皮で作る。」とあります。やぎの毛の幕の上にさらに覆いが2枚用いられました。やぎの毛で作られた幕の上には、赤くなめした雄羊の皮で作られた幕が、その上にはじゅごんの皮で作った覆いが掛けられました。どういうことでしょうか。

まず「赤くなめした雄羊の皮で作られた幕」ですが、なぜ「赤くなめした雄羊の皮」だったのでしょうか。それは、雄羊が身代わりの象徴だからです。イサクの身代わりとして、「全焼のいけにえ」のための雄羊が備えられたことで、イサクは死なずに生かされました(創世記22:13~14)。この出来事は、やがて主イエスがゴルゴタで私たちの身代わりとなって十字架にかかって死ぬことを予表していました。やぎの毛でできた黒い「天幕」はすべての罪の象徴ですから、それを覆うのは「赤くなめした雄羊の皮」でなければならなかったのです。

Ⅰペテロ1:18-19には、「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、キリストの尊い血こそ、私たちの罪を贖うことができるものです。私達は、この御子の内にあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによる事です(エペソ1:7)。

四枚目の覆いは、じゅごんの皮で作られたものです。この「じゅごん」というのは紅海に生息していた動物で、アザラシのことではないかと考えられています。ちなみに、七十人訳聖書は、「くすぶった青の皮」と訳しています。それは、風雨にさらされても丈夫な皮です。それは、どんなに強大な人生の嵐の中でも、私たちの霊魂を守る質実剛健な屋根であることを示しています。しかし、それはとりわけ人の目を引くような魅力のあるものではありませんでした。誰も入りたいとは思えないこの幕屋のみすぼらしい外観は、イザヤが預言した、この地を歩まれたキリストの姿そのものでした。

イザヤ53:2には「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。

しかし、見た目にはみすぼらしく、人々を引きつけるには何の魅力もないようなこの幕屋が、ひとたび中に入ったら、そこは神の栄光の輝きを放っていました。全く次元の違う輝きを放っていたのです。それは人の目には隠されています。イエスは大工の息子として来られましたが、そこには神の本質と栄光の輝きが隠されていたのです。

ですから、私たちはイエス・キリストを、目に見えるうわべだけで判断し評価してはなりません。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。

「このキリストの内に、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3)

あなたは、このキリストの栄光を見たでしょうか。この内側の輝きを知る事のできた人は幸いです。見みすぼらしく見える幕屋も、十字架も、イエス様の生涯も、その中に入った人には、素晴らしい神のご計画・力・栄光・・・を見る事となるのです。

 

Ⅱ.立て板(15-30)

次に、15節から30節までをご覧ください。15節から25節までをお読みします。

「15 この幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。16 一枚の板は、長さ十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。17 板一枚ごとに、はめ込みのほぞを二つ作り、幕屋のすべての板にそのようにする。18 幕屋のために板を作る。南側に二十枚。19 その二十枚の板の下に銀の台座を四十個作る。一枚の板の下に、 その二つのほぞのために二個の台座があり、ほかの板の下にも、 二つのほぞのために二個の台座を作る。20 幕屋のもう一つの側、北側に板二十枚。21 銀の台座四十個。すなわち、一枚の板の下に二個の台座。次の板の下にも二個の台座。22 幕屋のうしろ、西側に板六枚を作る。23 幕屋のうしろの両隅のために板二枚を作る。24 これらは底部では別々であるが、上部では、一つの環のところで一つに合わさるようにする。二枚とも、そのようにする。これらが両隅となる。25 板は八枚、その銀の台座は十六個。すなわち、一枚の板の下に二個の台座、ほかの板の下にも二個ずつの台座となる。26 また、アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、27 幕屋のもう一方の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、西側の板のために横木を五本作る。28 板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。29 その板に金をかぶせ、横木を通す環を金で作る。横木にも金をかぶせる。30 こうして、あなたは、山で示された定めのとおりに幕屋を設営しなければならない。」

 

ここには幕屋のために使われた立て板についての規定が記されてあります。これは幕屋の骨組みとなる立板(立枠、壁板)のことです。15節には、「この幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。」とあります。「アカシヤ」は、旧約聖書では主として材木として使用されている落葉高木で、鋭いとげを持った堅い木です。幕屋における材料の木材はすべてこのアカシヤ材で作られました。アカシヤは根が深いだけでなく、まっすぐに伸びないという性質を持っているため、このアカシヤ材で、長さ4.4mの板をまっすぐに作るということは大変な作業であったはずです。

16節から25節までには、1枚の板のサイズと作り方が記されてあります。長さは10キュビト、板1枚の幅は1キュビト半です。1キュビトは約44㎝ですから、長さは約4.4mとなります。幅は、1キュビト半です。約66㎝となります。南側と北側にそれぞれ20枚ずつ、西側に6枚、さらに幕の後ろ側に2枚作りました。

板1枚ごとに、はめ込みのほぞを2つ作り、幕屋のすべての板にそのようにしました。「ほぞ」とは、木材などを接合するとき一方の材にあけた穴にはめこむため、他方の材の一端につくった突起のことです。板1枚ごとに、2つのほぞを作るとありますから、南側の板だけで40箇所、北に40箇所、西側に16のほぞが作られました。

また、板1枚につき、板の下に銀の台座を2個作りました。すなわち、南側だけで合計40個の台座を取り付けました。北側と合わせると80個になります。幕屋の後ろ、西側には6枚の板が付けられ、また、幕屋全体をさらに補強するためにその(幕屋の後ろ側)両隅に2枚の板が付けられましたので、全部で16個の台座を作りました。上部は一つの環の所で一つに合わさるようにしました。

26節から30節までをご覧ください。

「26 また、アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、27 幕屋のもう一方の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、西側の板のために横木を五本作る。28 板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。29 その板に金をかぶせ、横木を通す環を金で作る。横木にも金をかぶせる。30 こうして、あなたは、山で示された定めのとおりに幕屋を設営しなければならない。」

ここには、板を固定するための横木の説明が書かれてあります。この横木はアカシヤ材で作られました。すなわち、幕屋の一方の側の板のために5本、もう一方の側のために5本、幕屋のうしろ、西側の板のために5本です。板の中央にある中間の横木は、端から端まで通るようになっていました。ですから、それぞれの板は連結するためにはめ込みのほぞ(2個)と、5本の横木でつなげられていました。また、その板に金をかぶせ、横木を通す環を金で作り、横木にも金をかぶせませした。

この幕屋の板が象徴していたことはどんことだったのでしょうか。まず、金については先に述べた通り、神の栄光としてのキリストの姿を、また、アカシヤは人としてのキリストの姿を表していました。キリストは神の栄光の表れであり、人となってこの世に来てくださいました。しかもそれが銀の台座の上に置かれたのです。銀は贖いの象徴です。キリストが地面と板との間になって贖ってくださいました。それによって私たちの罪が赦されたのです。栄光の神であられたキリストが人となって来られたのは、その血という代価によって永遠の贖いを成し遂げるためだったのです。ここに金の板が地の上に置かれた「銀の台座」を必要とする必然性があったのです。キリストは永遠の贖いをとおして、今も永遠に祭司としての務めをしておられます。天と地をつないで永遠に一つとされる方はただ一人、イエス・キリストだけです。揺るがされることのない御国の民として、王なるイエスを、さらに深く知る者となれるように祈りましょう。

また、ここにはこの板がこの5本の横木によって支えられているとあります。これは神が御住まいになられる教会とはどのようなものであるかを表しています。すなわち、教会はからだ全体が、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力によって、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに立てられていくということです(エペソ4:16)。29節に、横木を通す環を金で作らなければならないとありますが、それはこのことを示していました。環とは永遠のしるしです。それは愛のしるしです。横木を通す環は、愛という棒によって貫かれていなければならないのです。そうでないと、崩壊してしまいます。愛は結びの帯として完全なものです。キリストのからだである教会も、この愛によって結ばれていなければなりません。あなたは山で示された定めのとおりに、この幕屋を建てなければなりません。

Ⅲ.垂れ幕(31-37)

31節から35節までをご覧ください。ここには、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕についての説明が記されてあります。

「31 また、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出す。32 この垂れ幕を、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱に付ける。その鉤は金で、柱は四つの銀の台座の上に据えられる。33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。34 至聖所にあるあかしの箱の上には『宥めの蓋』を置く。35 垂れ幕の外側には机を置く。机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。その机は北側に置く。36 あなたは天幕の入り口のために、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、刺?を施して垂れ幕を作らなければならない。37 その幕のためにアカシヤ材の柱を五本作り、これに金をかぶせる。その鉤も金である。それらの柱のために青銅の台座を五つ鋳造する。」

聖所と至聖所を仕切る垂れ幕は、「青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。」とあります。この4つの色については1節で説明したとおりです。そうです、この垂れ幕も、イエス・キリストご自身を象徴していました。

ヘブル10:19-20には、「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」とあります。「聖所」とは何でしょうか。天国のことです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちがまことの聖所である天国に入ることができる道を備えてくださったのです。それが十字架です。

33節には、「その垂れ幕を留め金の下に掛け」とあります。この垂れ幕は掛けられていました。それは、十字架を指し示していました。キリストは、十字架にかけられその肉体が裂かれることによって、だれでも大胆に至聖所に行くことができるようにしてくださったのです。このことをよく表されている出来事があります。マタイ27:50-51を開いてください。

「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

これはイエスが十字架に掛けられて息を引き取られた時のことです。そのとき、神殿の幕が真っ二つに裂けました。その幕こそ、この「垂れ幕」です。もちろん、これはヘロデの神殿のことで、モーセの幕屋のものとはサイズが違います(高さが18m、幅が9m、厚さ4-25㎝)が、それが上から下まで真っ二つに裂けたのは、このことを表していたのです。下から上にではなく、上から下に、です。それはあまりにも高かったので、下から上に裂くことはできませんでした。それは上から下に裂かれなければならなかったのです。すなわち、この幕を裂かれたのは神であられたということです。神はそのひとり子をこの世に遣わし、この方を十字架にかけることによって、それまで神との間の仕切りとなっていた罪、咎の一切を負わせたのです。その仕切りの幕が破られたことによって、この方を信じる人はだれでも、いつでも、大胆に、まことの聖所に行くことができるようになったのです。

それまでは、この垂れ幕の向こう側、至聖所に行くことができたのは大祭司だけでした。しかも、年に一度だけ、贖いの日と呼ばれている日だけでした。その時、大祭司は装束に鈴をつけて入って行ったと言われています。鈴が鳴っていれば「あっ、まだ生きているな」ということがわかりますが、鈴の音が消えたら、それは神によって打たれて死んだということなので、人々は大祭司につけていたロープで大祭司を引きずり出したのです。

私たちは旧約聖書を見ると、この神の前に立つということがいかに困難なことであるかがわかります。そのためには、多くのいけにえをささげなければなりませんでした。たくさんの儀式が行われました。それでも神はあまりにも聖い方なので、誰も近づくこともできませんでした。しかし、キリストが私たちの代わりに罪の罰を受けて死んでくだったので、私たちを隔てていた仕切りが取り除かれました。それで私たちは、大胆に恵みの座に出ていくことができるようになったのです。ヘロデの神殿の幕が真っ二つに裂けたのは、そのことを表していたのです。

このことを考えると、キリストが十字架で死なれたことがいかに尊いものであったかがわかります。神ご自身が、人間が決して近づくことができなくしていた幕を裂いてくださったのですから。近づけばすぐに殺されてしまうような神との隔たりはもうなくなり、大胆に恵みの御座に近づけるようになったのです。

今はただ、イエスの御名によって大胆に神に近づくことができます。それだけでいいのです。けれども、人間は簡単なものを複雑にしたがります。神の恵みをそのまま受け取るのではなく、自分でいろいろな規則を作って神に近づこうとするのです。しかし、垂れ幕はすでに引き裂かれました。神への道は大きく開かれました。あとは、その贖いの業を受け入れるだけでいいのです。自分で幕を破ろうとしないでください。イエス様は、十字架の上でこう言われました。「完了した」。もうすべてのことは完了しました。この至聖所に入るために、あなたがしなければならないことは何もありません。ただ信じるだけでいいのです。そうすれば、あなたも神に近づくことができるのです。

36節と37節を見て終わりたいと思います。「36 あなたは天幕の入り口のために、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、刺繍を施して垂れ幕を作らなければならない。37 その幕のためにアカシヤ材の柱を五本作り、これに金をかぶせる。その鉤も金である。それらの柱のために青銅の台座を五つ鋳造する。」

天幕の入口とは、聖所の入り口のことです。この入口、この門のために垂れ幕を作らなければなりませんでした。この門とは何でしょうか。それはイエス・キリストご自身のことです。この門を通って入る者は救われます。ここには、アカシヤ材で作られた5本の柱が立っており、それらには金をかぶせました。これも人としてのキリストと、神としてのキリストを表しています。また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造しなければなりませんでした。青銅は神の裁きを表していると述べました。また台座は神の恵みの象徴です。裁きと恵みが一緒に出てきます。それはキリストの裁きと恵みを表しています。キリストは神に裁かれたことによって、私たちに神の恵みをもたらしてくださいました。ですから、この方を通って入る者は救われるのです。だれでも、牧草を見付けます。私たちも、この門から入りましょう。そして、牧草を見つけますとあるように、キリストにある豊かないのちを体験しましょう。

出エジプト記25章

出エジプト記25章から学びます。主なる神とイスラエルの民が血による契約を交わすと、イスラエルの民は、主との親しい交わりを持つことが出来ました。そして、主はモーセを呼ばれたので、モーセは神の山に登りました。モーセはそこに40日40夜とどまり、主のことばを受けました。それがきょうの箇所です。

1.幕屋のための奉納物(1-9)

まず、1節から9節までをご覧ください。

「1 主はモーセに告げられた。2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。3 彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、6 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、7 エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。」

まず、主がモーセに語られたのは、主への奉納物を携えで来るようにということでした。それで幕屋を作るためです。このような記事に関心のある人は、おそらく大工さんとか、土木作業とか建築関係に携わっている方ぐらいで、それ以外の人はあまり関心がないかもしれませんが、ここにも大切なことが教えられています。それは、主がどのようにイスラエルの民の中に住まわれるかということです。その方法が幕屋でした。幕屋が作られることによって、主が臨在される方法に変化がもたらされました。創世記3章では、アダムとエバが罪を犯して以降、人は神から遠く離れてしまいましたが、この幕屋が建設されることによって、神が彼らの中に住むことになったからです。新約の時代に生きている私たちにとって、幕屋は不要です。なぜなら、イエス・キリストがご自分の肉体を取ってこの地上に来てくださったからです。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とありますが、この「住まわれた」ということばは、「幕屋を張られた」ということばと同じです。つまり、イエスが幕屋となられたのです。それによって私たちにインマヌエル、神ともにいまし、という神の臨在がもたらされました。つまり、この幕屋とはイエス・キリスト表すものであったのです。ですから、この幕屋のことを学べば、イエスがどのような方であるかがよくわかります。神とお会いするにはどうしたらいいのか、神に近づくにはどうしたらいいのかがわかるのです。

まず1節と2節をご覧ください。ここには、「1 主はモーセに告げられた。2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」とあります。

主はこの幕屋の建設のために、モーセを通してイスラエルに奉納物を携え来るようにと言われました。幕屋の建設のために携われるというのは大きな特権です。彼らは奉納物をささげることによってそれに携わることができました。しかし、荒野を旅していた彼らが、どのようにしてそれらの奉納物をささげることができたのでしょうか。12:35を見てください。ここには「イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。」とあります。イスラエルの民がエジプトを出てくる時、エジプトに銀の飾りや、金の飾り、そして衣服を求めましたが、それらのものはこのためだったのです。そのために主はモーセを通して、それらのものをエジプトに求めるようにと言われたのです。

これらの奉納物はどのようにしてささげなければならなかったのでしょうか。2節には、「あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」とあります。それは進んで献げる心のある人からでなければなりませんでした。義務感とか、何か奪い取られるといった気持ちからではなく、心から進んでささげられるものの中から、献げられなければならなかったのです。

パウロは献金についてⅡコリント9:6-7でこのように言っています。「6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」

これが、聖書が教えている献金の心構えです。献金とは、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにささげられなければなりません。他の人と比較する必要などないのです。あの人はどれだけささげているとか、この人はあまりささげていないとか、みんなもっと献金すべきだなどというのは間違っています。それはいやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに、喜んでささげられるものだからです。実際、イスラエルの民は心から進んでささげました。35:5、21、22、29を見ると、彼らは心から進んでささげたことがわかります。その結果、36:5~7にあるように、その献げものはあり余るほどになりました。心から進んで献げれば、あり余るほどになります。「5 モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」6 それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。7 手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。」すばらしいですね。彼らは喜んでささげたのであり余るほどになり、ついにはモーセが「もう持って来ないでください」と言うほどだったのです。

さて、3節から7節までをご覧ください。ここには、彼らから受け取る奉納物の種類について記されてあります。それは、「金、銀、青銅、 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石」です。全部で15種類の建築資材です。亜麻布はエジプトの名産で、祭司の衣装に用いられました。やぎの毛は、天幕の材料として最適です。赤くなめした雄羊の皮は、幕屋のおおいとして使用されました。じゅごんというのは、海に住む哺乳動物です。紅海に住んでいました。アカシヤ材は、シナイ半島にある唯一の木です。根が地ちゅう深くに張ります。ともしび用の油とはオリーブ油のことです。

あなたには、どのような賜物が与えられているでしょうか。誰にでも少なくとも一つの賜物は与えられています。それを自分から進んで献げる人は幸いです。あなたに与えられている賜物が、主の働きにどのように用いられるかを考えましょう。

8節と9節をご覧ください。ここには、この幕屋を作る目的が記されてあります。それは、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」ということです。これはすごいことですね。全能の神が彼らの中に住まれるのです。アブラハム・イサク・ヤコブには、「エル・シャダイ」、「全能の神」としてご自身を現わしてくださった神が、またモーセの時代には、「ヤハウェ」、「わたしはあるというものである」という自存の神として現われてくだった主が、彼らのただ中に住んでくださるというのです。神ご自身がともにおられます。ここに神の栄光が現されるのです。イエス・キリストの中に神はご自身の栄光を現されるのです。

Ⅱ.契約の箱(10-22)

次に、10~22節までをご覧ください。

「アカシヤ材の箱を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半、高さを一キュビト半とする。11 それに純金をかぶせる。その内側と外側にかぶせ、その周りに金の飾り縁を作る。12 箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。13 また、アカシヤ材で棒を作り、それに金をかぶせる。14 その箱を棒で担ぐために、その棒を箱の両側の環に通す。15 その棒は箱の環に差し込んだままにする。外してはならない。16 その箱に、わたしが与えるさとしの板を納める。17 また、純金で『宥めの蓋』を作り、その長さを二キュビト半、幅を一キュビト半とする。18 二つの金のケルビムを作る。槌で打って、『宥めの蓋』の両端に作る。19 一つを一方の端に、もう一つを他方の端に作る。『宥めの蓋』の一部として、ケルビムをその両端に作る。20 ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする。21 その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。22 わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。」

この神の幕屋は、どのようにして作れば良いのでしょうか。ここには、幕屋建設のための具体的な指示が記されてあります。まずは契約の箱です。10節に「アカシヤ材の箱」とありますが、これが契約の箱です。その長さは2キュビト半で、幅は1キュビト半、高さは1キュビト半でした。1キュビトは約44㎝ですから、長さは110㎝、幅66㎝、高さは44㎝となります。不思議なことに、神はこの幕屋を建設するにあたり外側からではなく内側にあるもの、いわゆる家具とか調度品といったものから作られました。普通、家を建てる時にはまず建物本体から作り、その後で家具とか調度品とかを作りますが、神はまず内側のものから作られたのです。それは、これが幕屋の中心であり、最も重要なものだったからです。重要なものから始まり、そこから外側へと広がっていったのです。

契約の箱は、アカシヤ材で作らなければなりませんでした。なぜアカシヤ材が用いられたのかというと、アカシヤ材は腐食しにくい木材であったからです。つまり、それはイエス・キリストを象徴していました。イエスは腐食しにくい、つまり清廉潔白な(完全)人間でした。イエスは罪深い人間のような生身の身体をもって生まれてきましたが、彼には全く罪がありませんでした。このイエスの人間性を示すものとしてアカシヤが用いられたのです。それに純金をかぶせました。それは、その内側と外側とにかぶせなければなりませんでした。その回りには金の飾り縁を作ります。なぜ純金がかぶせられたのでしょうか。それは、この純金が神性を表していたからです。ですから、純金で覆われたアカシヤ材で作られた箱は、人として来られた神の御子イエス・キリストのことを象徴していたのです。

それにしても、契約の箱の内側と外側に純金がかぶせられていたら、どれほど豪華に輝いていたことでしょう。今日の価値にすれば何十億にも相当する豪華な飾りです。いったいなぜこれほど輝くようにしたのでしょうか。なぜなら、それはキリストの栄光、神の栄光の表れであったからです。

外側はみすぼらしい作りです。それはヤギの皮が用いられました。ヤギの皮ですよ。黒っぽい、何とも質素なふるまいです。けれども、その幕屋の内側は栄光の輝きです。それはまさにキリストのご性質そのものでした。イザヤ書53章には、キリストの姿を預言して「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」(53:2)とありますが、キリストは見た目には何の輝きもないかのように見えました。しかしその内側は神の栄光に輝いていました。私たちも、このような人になりたいですね。外側はともかくその内側が神の栄光で輝いているという人に。

12節をご覧ください。「箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付ける。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付ける。」この箱の四隅には、金の環が取り付けられました。持ち運びすることできるようにするためです。そこに棒を通して担いだのです。誤って人が触れないようにするためです。契約の箱に触れてしまったために悲劇が起こったことを、聖書は告げています。ダビデが、契約の箱を自分の町に運ぼうとした時、それを新しい車に乗せて運びましたが、牛がよろめいて傾いたのでウザが手を伸ばして神の箱をつかむと、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はその場で打たれて死んでしまいました(Ⅱサムエル6:6-7)。棒はアカシヤ材で作られ、それに金がかぶせられました。そして、その棒は箱の両側に通し、差し込んだままにしておかなければなりませんでした。外してはならなかったのです。

その箱に、神が与えるさとしの板を納めました。「さとし」とは十戒のことです。二枚の石の板に刻まれた十戒が収められたのです。なぜ十戒が収められる箱がこんなに豪華でなければならなかったのでしょうか。それは、この神のことばこそ神ご自身を表していたからです。神は霊ですから、神を見ることはできませんが、神はことばを通してご自身を現わしてくださいました。そうです、そのことばとは、イエス・キリストのことだったのです。ヨハネ1:1には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。勿論、このことばとはイエス・キリストのことです。神の御子イエス・キリストもご自身をことばとして表されました。ことばは神であった。これが神の本質です。私たちは、このことばによって神と交わることができます。ですから、神のことばこそ信仰の中心であり、本質なのです。神のことばを通して、神の栄光を見ることができるのです。

次に17節から22節までをご覧ください。ここには「宥めの蓋」を作るようにとあります。新改訳第三版では「贖いのふた」とあります。これは、契約の箱の上に乗せるふたのことです。大きさは、契約の箱のサイズと同じです。違うのは何かというと、その作り方です。契約の箱はアカシヤ材が用いられ、そのアカシヤ材の内と外に純金が塗られましたが、この宥めの蓋は、すべて純金で作られました。なぜなら、22節にあるように、そこで神が会見されるからです。いわば、ここが最も神聖な場所なのです。

このふたは「宥めの蓋」と呼ばれました。この「宥め」ということばは、ギリシャ語で「ヒラステーリオン」という言葉ですが、これは「宥めの供え物」を意味しています。Iヨハネ2:2には、「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」とありますが、この「宥めのささげ物」のことです。これは神の怒りを宥めるためる蓋でした。いったい神は何に対して怒っておられたのでしょうか。それは人間の罪に対してです。その怒りをなだめるもの、それが「宥めの蓋」だったのです。それはイエス・キリストの十字架の血にほかなりません。ですから、これはイエス・キリストの十字架の贖いを表していたのです。私たちの罪に対する神の怒りがなだめられ、私たちが神に近づき、神にお会いする方法は、このイエス・キリストの十字架以外にはありません。

私たちは、自分の力では神に近づくことはできません。ですから、神のさとしの板がどこに置かれたかをご覧ください。それは箱の中でした。なぜ箱の中に置かれたのでしようか。それは私たちの力では守れないからです。ですから、私たちの目に見えないように、その箱に蓋がされたのです。その蓋こそキリストなのです。この戒めを完全に守られたイエス・キリストがその十戒の上を覆うようになって、私たちの罪とその罰をすべて引き受けて代わりに死んでくださったのです。死んでくださったというのは、血を流してくださったということです。これは血による契約です。血の注ぎかけがなければ罪の赦しはありません。キリストは、十字架で血を流してくださったので、この方を信じる者はだれでも救われるようにされたのです。

このキリストのおかげで、私たちは神にお会いし、神の前に立つことができるようになりました。他に何の条件もありません。たくさんささげなければならないとか、奉仕をしなければならないとか、そういった条件は何一つありません。ただ私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、血を流してくださったイエス・キリストを信じるだけで救われるのです。神にお会いすることができるようになりました。ですから、主は22節で「わたしはそこであなたと会見し」と言っておられるのです。「そこ」とはどこですか。宥めの蓋の上です。血が注がれるその場所のことです。イエスが血を流してくださったそのところで会見すると言われたのです。これが福音です。救いはイエス・キリストです。イエス・キリスト以外に救われる道は他にありません(使徒4:12,Iテモテ2:4-5,ヨハネ14:6)。

ですから、この蓋は純金で作られたのです。また、その両端には二つの金のケルビムが置かれました。ケルビムは神の御使いです。ケルブとは、ヘブル語で単数形ですが、複数形になると「イム」を後ろにつけるので「ケルビム」となります。ケルビムは、神の御座の周りにいる御使いです。エデンの園からアダムとエバが追放されたとき、そこでいのちの木を守っていたのは、このケルビムでした。エゼキエル書1章にも不思議な生き物が出てきますが、彼らもケルビムでした。そして黙示録4章にも4人の生き物が出てきますが、彼らもケルビムであると考えられます。おそらくこのケルビムは神の御座にいて、しこの宥めの蓋を見守っていたのでしょう。神は、この二人のケルビムの間におられて、そこで会見し、そこから語られたからです。

ここに神の福音が余すところなく表されています。幕屋が重要であることの意味はここにあるのです。なぜなら、ここに神にお会いするにはどうしたらいいのか、どうしたら救われるのかがはっきりと示されているからです。

しかし、このように神の一方的な恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救われたにもかかわらず、信仰をもって歩んでいるうちに、再び過去の考えに戻ってしまうことがあります。すなわち、自分の力によって神に近づこうとすることがあるのです。神の祝福を受けるためにはもっと奉仕しなければならないとか、もっと献金しなければならない、もっと良い人でなければならないと、行いを強調してしまうことがあるのです。しかし、救いは一方的な主の恵みによります。キリストが私たちのために十字架で死んでくださり、神の怒りを宥めてくださったということを信じるだけで救われるのです。そこで神にお会いすることができるのです。

Ⅲ.臨在のパンを置く机と純金の燭台(23-40)
次に、23~30節までをご覧ください。

「23 また、アカシヤ材で机を作り、その長さを二キュビト、幅を一キュビト、高さを一キュビト半とする。24 これに純金をかぶせ、その周りに金の飾り縁を作り、25 その周りに一手幅の枠を作り、その枠の周りに金の飾り縁を作る。26 その机のために金の環を四つ作り、四本の脚のところの四隅にその環を取り付ける。27 環は枠の脇に付け、そこに机を担ぐ棒を入れる。28 アカシヤ材で机を担ぐための棒を作り、これに金をかぶせる。29 また、注ぎのささげ物を注ぐための皿、ひしゃく、瓶、水差しを作る。これらを純金で作る。30 机の上には臨在のパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。」

ここには、机を作る規定が記されてあります。この机は、30節には「臨在のパンを置き」とありますが、パンを置くための机でした。第三版には、「供えのパンの机」とあります。供えのパンとは、神の前に供えたパンという意味です。これは、パン種が入っていない丸くて薄いパンですが、全部で12個置かれてありました。それはイスラエル12部族を表していました。それはイスラエル12部族が、常に神の御前に覚えられているということです。それと、29節にあるように、注ぎのささげ物、これはぶどう酒のことですが、それを注ぐための皿とひしゃく、瓶や水差しが置かれました。

この机も、アカシヤ材で作られ、その上に純金がかぶせられました。また、持ち運びできるように、金の環とかつぐ棒が作られました。サイズは、長さ2キュビト、幅1キュビト、高さ1キュビト半ですから、契約の箱よりも少し小さめでした。

この神の臨在のパンの机も、キリストを指し示していました。イエスは、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)と言われました。イエスがいのちのパンです。イエスのもとに来るものは決して飢えることがなく、渇くことがありません。このイエスが、私たちの霊の糧となってくださるので、イエスのもとに来るなら、決して飢えることはないのです。それはキリストの臨在を体験することができるからです。これが臨在のパンの机と呼ばれているのは、そういう意味です。これは同時に聖餐を表していました。イエスは、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」(Iコリント11:23)と言われました。聖餐はキリストの裂かれた肉、流された血をいただくときですが、それはキリストの臨在を体験する時でもあります。神の恵みを味わうとき、それが聖餐であり、それがこの供えのパンが置かれていたことの意味なのです。

31~40節をご覧ください。それからこの机の真向かいには燭台が置かれていました。

「31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作る。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁があるようにする。32 六本の枝がその脇の部分から、すなわち燭台の三本の枝が一方の脇から、燭台のもう三本の枝がもう一方の脇から出る。33 一方の枝に、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくを、また、もう一方の枝に、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくを付ける。燭台から出る六本の枝はみな、そのようにする。34 燭台そのものには、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある四つのがくを付ける。35 それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。36 それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作る。37 また、ともしび皿を七つ作る。ともしび皿は、その前方を照らすように上にあげる。38 その芯切りばさみも芯取り皿も純金である。39 純金一タラントで、燭台とこれらのすべての器具を作る。40 よく注意して、山であなたに示された型どおりに作らなければならない。」

燭台はどのように作られたでしょうか。31節には「また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作る。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁があるようにする。」とあります。これも純金で作られていました。契約の箱や供えのパンの机もそうでしたが、純金で作られているということは、キリストの神性を表していたということです。しかし、この燭台は槌で打って作られなければなりませんでした。槌とはハンマーのことです。ハンマーで打って作られました。金を溶かして、何か鋳物のような型にはめて作るのではなく、ハンマーでたたいて作らなければならなかったのです。このようにハンマーでたたいてということばを聞くと、皆さんの中には「ああ」と思う人がいるのではないでしょうか。そうです。このハンマーとは、イエス・キリストを十字架に釘付けしたあの時のハンマーのことです。ですから、そのハンマーで打ってというのは、キリストの十字架を表していたのです。ただハンマーに打たれて死んだだけでは意味がありません。イエスはその死からよみがえられました。ですから、この一連のことは、キリストの神性を表していたのです。それには、台座と支柱、がくと節、花弁がなければなりませんでした。がくとは花びらの外側にあるもので、節とは茎の中で、葉や芽が出る部分のことです。花弁とは花びらのことです。

32節をご覧ください。その燭台から左右3本ずつ枝が出ていました。一方の枝には、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある3つのがくを、また、もう一方の枝にも、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある3つのがくを付けました。そして、支柱と6つの枝の上に7つのともしび皿が載せられてありました。それらの節と枝とは燭台と一体にして、その全体を一つの純金で作らなければなりませんでした。その重さは1タラントです。約30㎏になります。純金30㎏というのは相当の価格です。

この燭台が指し示していたものとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。キリストは、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)言われました。暗やみの中の灯のように、イエス様が灯となって、私たちの進むべき道を照らしてくださいます。イエス様が私たちの光です。イエス様に従えば、決して道に迷うことなく、また空しくなることもなく、真実に生きることができるのです。私たちはその光を受けた者です。この世の光として、その光を輝かせなければなりません。

いったいどうしたら輝かすことができるのでしょうか?36節をご覧ください。この燭台は、支柱から出た6つの枝の節と枝と一体にして作らなければなりませんでした。それは、キリストと一つに結ばれていることを表しています。

イエス様はこう言われました。「5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」

つまり、キリストにとどまっていなければならないということです。キリストにとどまることによって、私たちはキリストと一つになることができます。そして、キリストのいのちにあずかることができるのです。キリストのように、キリストの光をこの世で輝かすことができるのです。しかし、そのためには二つのことが求められています。一つは、この燭台が槌で打って作られたように、キリストとともに打たれることを恐れてはならないということです。私たちはキリストの救いに与ったばかりでなく、その苦しみをも賜わりました(ピリピ1:29)。その苦しみこそ、私たちをご自身のように作り上げてくれる重要な要素なのです。

もう一つのことは、37節に「また、ともしび皿を七つ作る。ともしび皿は、その前方を照らすように上にあげる。」とあるように、油を絶やしてはならないということです。油とは何ですか。聖霊のことです。いつも聖霊に満たされ、その油によって、前方を照らさなければなりません。もし、その油の供給が弱い時には、芯切りばさみで芯を切ることも必要です。いつも主の前に悔い改め、聖霊の油を注いでいただき、前方を照らす者でありたいと思います。

出エジプト記24章

出エジプト記24章から学びます。エジプトから救い出されたイスラエルの民に対して主は、「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(19:5-6)と言われました。その神の声、神のことばとは何か。それが20章から23章まで語られた十戒めとそれに付加された定めです。神との契約における次のステップは何でしょうか。それは、イスラエルの民の応答です。もしそれに同意すれば、彼らは神との契約関係に入ることになります。

 

Ⅰ.遠く離れて伏し拝め(1-3)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。  「1 主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。2 モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。」3 モーセは来て、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主の言われたことはすべて行います。」  主はモーセに、彼とアロン、それにナダブとアビフ、それにイスラエルの長老70人と、主のもとに上って来て、遠く離れて伏し拝むようにと言われました。アロンはモーセの兄で、大祭司でした。ナダブとアビフはアロンの息子たちです。彼らも祭司でした。また、イスラエルの長老70人というのは、イスラエルをさばくために立てられたリーダーたちです。モーセ1人では250万人から300万人とも言われるイスラエルの民を治めるのは困難なので、神はモーセとともに民を治めるリーダーたちを立てられたのです。それがモーセの姑イテロによって与えられた助言でした。彼らを連れて主のところに上り、遠く離れて伏し拝むようにと言われたのです。

 

なぜ遠く離れて伏し拝まなければならなかったのでしょうか。それは、主は聖なる方であり、人間はだれ一人として近づくことができなかったからです。もし近づこうものなら、罪と汚れのためにたちまちに殺されてしまうことになります。19章には主が民全体の目の前でシナイ山に降りて来るという出来事が記されてありますが、その山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければなりませんでした(19:12)。そして、主が山から降りて来られた時、シナイ山全山に煙が立ち上り、激しく震えました。主は、それほど聖い方であり、だれも近づくことができない方なのです。

 

しかし、モーセだけは近づくことができました。神はモーセに、「主のもとに近づけ」と命じられました。ほかの者は近づくことはできません。ただモーセだけが近づくことを許されたのです。それで、モーセは、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げました。

すると、民はみな声を一つにして答えました。「主の言われたことはすべて行います。」彼らとしては、本気でそう思ったのでしょう。しかし、それはあまりにも浅はかで、軽いものでした。主が言われたことをすべて行うなどできるはずがありません。洗礼式の中で誓約を行いますが、その中には「あなたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか。」とか、「あなたは、自分の最善を尽くして、教会の礼拝を守り、教会員としての務めを果たし、あかしの生活をすることを願いますか」とあります。そこで「行いますか」ではなく「願いますか」とあるのは、それを完全に行うことはできないからです。できないけれども、そのように願うのです。

しかし、イスラエルの民は「主が言われたことをすべて行います」と答えました。彼らは自分たちの弱さや限界を理解していませんでした。もし律法が要求していることを正しく理解していないと、形式的な信仰に陥ってしまうことになります。イエス様の時代になって、イエス様が律法学者やパリサイ人たちを激しく糾弾されたのはそのためです。彼らは自分では神の律法を行っているつもりでしたが、それは中身のない形だけのものでした。そうした律法学者やパリサイ人たちの形式的な信仰の芽は、すでにこの時点で存在していたと言えます。メシアとして来られたイエス様は、こうした彼らの律法の解釈を正そうとされました。

 

こうした形式的な信仰は、私たちにも見られることがあります。しかし、主が求めておられることはこうした形式的な律法主義ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛することです。私たちは神の聖さを知り、そこに自分の限界を悟りながら、主の恵みに拠り頼んで、心から主を愛する者でありたいと思います。それは、私たちの内側に真実な信仰と愛の実質が伴うことなのです。

 

2.契約の血(4-8)

 

次に4節から8節までをご覧ください。

「4 モーセは主のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。 」」 それで、モーセは主のことばをことごとく書き記しました。そして翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの12の部族にしたがって12の石の柱を立てました。祭壇は、主の臨在の象徴であり、12の石の柱は、イスラエル12部族を象徴していました。 それはこの12部族が主と契約を締結した記念のしるしであるばかりか、主が彼らとともにいてくださるということの象徴でもありました。

 

それからモーセはイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げました。そしてその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけました。どういうことでしょうか。これは血によって結ばれる契約であるということです。アブラハムが神と契約を結んだ時にも、血が流されました(創世記15:9-21)。

 

そして契約の書を取り、民に読んで聞かせると、彼らは「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」と言ったので、モーセは鉢にとったもう半分の血を、民に振りかけました。これは、主が彼らと結ばれる契約の血です。この血によって契約は結ばれ、効力を持ちます。祭壇に注がれた血は主に対するものであり、民に注がれた血は、民が神と結ばれたことを意味するものでした。これはどういうことかというと、神との契約の土台となるのは、いけにえの血であるということです。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

この血は、キリストが十字架で流された血潮を予表していました。私たちはキリストの流された血の振りかけを受けたことによって、罪の赦しという神との契約を結ぶことができたのです。そのことを、へブル9:15-22でこのように説明してあります。

「15 キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。16 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。17 遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。18 ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。19 モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、20 「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。21 また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました。22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」

初めの契約とは、このシナイ契約のことです。初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。モーセは、律法にしたがってすべての戒めを語った後で、子牛や雄やぎの血を取って、それを祭壇と契約の書に、そして民全体に振りかけたのです。それはキリストによってもたらされる新しい契約を指し示していたのです。

 

主イエスは同じ表現を用いて、最後の晩餐の席でこう言われました。「26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:26-28)

この杯は何を表していたのでしょうか。それは、多くの人のために、罪の赦しのために流される、主の契約の血です。この血の注ぎがなければ、罪の赦しはありません。しかし、主イエスがそのいけにえとなって死んでくださったことによって、その流された血の注ぎかけを受けたことで、私の罪は赦されたのです。

 

クリスチャンとは、このキリストの血による契約にサインをした人のことを言います。そのサインとは、キリストの血の注ぎかけを受けるということ、すなわち、キリストの十字架の贖いを信じるということです。あなたが信仰によってキリストの十字架の贖いを信じるなら、罪の赦しという神との契約を結ぶのです。

 

Ⅲ.神との平和(9-11)

 

9節から11節までをご覧ください。

「それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は登って行った。10 彼らはイスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった。11 神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、 食べたり飲んだりした。」

 

それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老70人は登って行きました。何のためでしょうか。神と共に食事をし、交わりを持つためです。ここには、「彼らはイスラエルの神を見た」とあります。神を見たとは言っても、神の姿を見たわけではありません。彼らが見たのは、神の臨在に伴う神の栄光でした。それは宝石のように輝いていました。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようでした。神は聖なる方なので、だれも近づくことができません。まして、神を見るなどもってのほかです。神を見たなら死ぬというのが、イスラエル人の一般的な認識でした。しかし、神は彼らに手を下されませんでした。彼らは特別の恵みをいただいたのです。なぜなら、彼らの罪は赦され、聖められたからです。そればかりではありません。彼らは神を見て、食べたり飲んだりしました。親しい交わりを持つことができました。これは和解のいけにえ、交わりのいけにえを共に食べたということです。

 

これは、主の晩餐を表していました。主の晩餐は、主との新しい契約に入れていただいた者が、キリストの死を記念し、その再臨を覚えるために、私たちに与えられたものです。それは罪が赦された者が、主との親しい交わりを持つことを表しています。私たちはキリストの十字架の贖いによって、父なる神と交わることができるようになりました。それはキリストの血による新しい契約です。神との交わりを与えてくださった主に感謝しましょう。

 

Ⅳ.主のみことばを聞くために(12-18)

 

最後に、12節から18節までをご覧ください。

「12 主はモーセに言われた。 「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。 それは、彼らを教えるために、 わたしが書き記したおしえと命令である。 」13 そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。14 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに戻って来るまで、私たちのために、ここにとどまりなさい。 見よ、 アロンとフルがあなたがたと一緒にいる。訴え事のある者はだれでも彼らのところに行きなさい。」15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。16 主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。17 主の栄光の現れは、 イスラエルの子らの目には、 山の頂を焼き尽くす火のようであった。18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。」

 

主はモーセに、「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。」と言われました。それは、神から石の板を受けるためです。それは、主がイスラエルの民を教えるために、主ご自身が下記記された教えと命令です。

 

そこで、モーセとその従者ヨシュアが立ち上がり、モーセが神の山に登りました。ヨシュアは一緒に行きましたが頂上までではなく、途中で待機していました。モーセは、自分がいなくなった後をアロンとフルに任せました。彼らは、アマレクとの戦いの時に、モーセの両手を支えた人たちです(出17:12)。

モーセが山に登ると、どのようになったでしょうか。まず雲が山をおおいました。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は6日間、山をおおいました。そして7日目に、主はモーセを呼ばれました。山のふもとにいたイスラエルの民の眼には、主の栄光の現れは、山の上の頂を焼き尽くす火のようでした。モーセは雲の中に入って行き、そこで40日40夜、いました。その間彼は、断食していたことがわかります。申命記9:9には、「私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。」とあるからです。それはモーセにとっても、決して楽な時間ではなかったでしょう。どうしてこれほどの時間がかかったのでしょうか。そこで主がご自身の教えを語られるからです。彼は主なる神との交わりの中で、神の声を聞き、それを民に伝えなければなりませんでした。その神の御声を聞かなければならなかったのです。

 

神の御声を聞くということは、楽なことではありません。時間がかかります。時にはこの時のモーセのように断食して聞くということもあるかもしれません。ですから、主のみことばを聞くためには、私たちも聖別して、忍耐をもって聞かなければならないのです。しかし、そのようにして主の御声を聞くなら、そこに主の栄光が現れるでしょう。主との交わりの中でこそ主の栄光を受け、真に輝いて生きることができるのです。あなたは、どのように主のみことばと取り組んでいますか。毎日の忙しい生活の中であなたの手と足を止め、山の中に入って行き、そこで主の御声を聞く時をしっかりと持ってください。

出エジプト記23章

  今回は、出エジプト記23章から学びます。

1. 法廷での証言について(1-13)

 まず、1節から3節までをご覧ください。
「1 偽りのうわさを口にしてはならない。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならない。2 多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。3 また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。」

20章で語られた十戒の具体的な適用としての定めが語られています。これまでは、一般の社会生活の中でどのように適用したらよいかが語られてきましたが、今回の箇所には、裁判での証言について取り上げられています。裁判においてはまず、偽りのうわさを口にしてはなりません。「偽りのうわさ」とは、現代訳聖書には「根拠のないうわさ」と訳されていますが、根も葉もないうわさのことです。これを流すことによって真実がどれほどゆがめられることになるでしょう。それが裁判の判決に大きな影響をもたらすのは明らかです。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならないのです。

また、2節には「多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。」とあります。新改訳第三版では「権力者」と訳していますが、直訳では「多数の者」という言葉なので、その点ではこの新改訳2017の訳の方がより原文に近い訳です。しかし、「多数に従って悪の側に立ってはならない」とはどういうことなのでしょうか。関根訳ではこれを、「悪を行うために多くの者に追随してはならない」と訳しています。権力者や多くの者に追随して不正な証言をしてはならないということです。

だからと言って、弱い者を特に重んじてもなりません。正義を曲げてまで味方する必要はないのです。申命記16:20には、「正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を自分の所有とすることができる。」とあります。これが、神が求めておられることです。

次に、4節と5節をご覧ください。ここには、「4 あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。5 あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。」とあります。
 敵の牛やろばが迷っているのに出会ったら、必ずそれを彼のところに連れ戻さなければなりません。また、あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見たら、それを見過ごしにせず、一緒に起こしてやらなければなりません。なぜなら、神様はそのような方であられるからです。神様は良い日にも悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます(マタイ5:45)。自分を愛してくれる人を愛したからといって、何の報いも受けられません。そんなことはだれにでもできることです。また、自分にあいさつしてくれる人にだけあいさつしたからといって、特に勝ったことをしているわけではありません。異邦人でも同じことをします。神によって救われた神の民に求められていることは、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなのです。

  次に、6節から8節までをご覧ください。ここには、「6 訴訟において、あなたの貧しい者たちへのさばきを曲げてはならない。7 偽りの告訴から遠く離れなければならない。咎のない者、正しい者を殺してはならない。わたしが悪者を正しいとすることはない。8 賄賂を受け取ってはならない。賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる。」とあります。

 再び、裁判における正義と構成について語られています。しかし、1~3節で語られていたことと違う点は、そこには証人としてのあり方が述べられていましたが、ここには裁判官としてのあり方が述べられている点です。裁判においては、貧しい者たちへのさばきを曲げてはいけません。偽りの告訴から遠く離れなければならないのです。咎のない者、正しい者を殺したり、逆に悪者を正しいとしてはいけませんでした。裁判においては客観的な事実だけが重要で、その人が貧しいか富んでいるかといったことは関係ありません。偽りの告訴から遠く離れるとは、無実の人を訴えてはならないということです。罪のない者、正しい者を殺してはならないというのも同じで、冤罪を排除せよということです。日本では冤罪の被害で苦しんでいる方がいます。日本で起訴されたら99.8%は有罪になるということで、このことでどれだけの人が苦しんでいるかと思うと、訴訟の難しさを感じます。さらに、賄賂を受け取ってはならないとあります。贈賄、収賄の禁止です。なぜなら、賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからです。

 こうしたことは、私たちの住んでいる今の時代にも言えることです。どうしたら正義と公正を行うことができるのでしょうか。それは、ただ神を信じ、神のことばに従うことによってです。神のご性質を考えることが、正義と公正を行う動機となります。どのように判断し、どのように行動したら良いか迷った時には、神の性質を思い起こし、正義と公正を実現する道を選び取りたいと思います。

9節をご覧ください。ここには、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。」とあります。「寄留者」とは、「在留異国人」のことです。在留異国人を大切にするようにという勧めは、すでに22:21で語られていました。この規定の背後にあるのは、かつて、彼らもエジプトの地で寄留者であったという経験です。自らが経験した苦しみが、他者への思いやりを生むのです。パウロは、Ⅱコリント1:4で「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」と言っていますが、私たちも苦しみの中で神の慰めを受けたという経験が、他者への慰めとなることを覚え、苦しみの意味というものをもう一度思い巡らしましょう。

 次に、10節から13節までをご覧ください。
「10 六年間は、あなたは地に種を蒔き、収穫をする。11 しかし、七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない。12 六日間は自分の仕事をし、七日目には、それをやめなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や寄留者が息をつくためである。13 わたしがあなたがたに言ったすべてのことを守らなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。」

ここには安息年、および安息日に関する規定が述べられています。十戒では「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という戒めはありましたが、安息年を守るということは規定されていませんでした。それがここで語られているわけです。これが、後にレビ記25章で重要な遵守事項として定められていくことになります。六年間、地を耕し、収穫してもよいが、七年目には、その土地を休ませなければなりませんでした。なぜなら、そのことによって貧しい人々に食べさせ、その残りのものを野の獣に食べさせることになるからです。つまり、そのようにすることで、あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせることができるからです。環境に優しくするためにとか、農業の収穫をもっとあげるために土地を休ませるのではありません。貧しい人たちや野の獣への配慮を示すためです。七年目に土地を休ませるということは、六年目には二倍の収穫があるという信仰が求められます。結果的により多くの収穫が得られることになります。一生懸命働けば良いというものではありません。どのように働くのかが重要です。神のみことばに従い、神が命じられる通りに働くなら、結果的により多くの収穫が得られるようになるのです。それは安息日についても言えることです。

2. 祭りの規定(14-19)

 次に、14節から17節までをご覧ください。
 「14 年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。15 種なしパンの祭りを守らなければならない。 わたしが命じたとおり、 アビブの月の定められた時に、 七日間、 種なしパンを食べなければならない。 それは、 その月にあなたがエジプトを出たからである。 何も持たずにわたしの前に出てはならない。16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂を献げる刈り入れの祭りと、年の終わりに、あなたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない。17 年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。」

 ここには年に三度、祭りを行わなければならないとあります。17節には、「主の前に」とありますが、これは幕屋か神殿がある場所でということです。最初は「シロ」という所にありましたが、後にエルサレムがその場所となります。いったい何のためにわざわざ主の前に出て行かなければならなかったのでしょうか。それはここに「わたしのために」とあるように、主の恵みを思い出すためでした。また、今も働いておられる神の恵みに感謝するためです。

まず、「種なしパンの祭り」を守らなければなりませんでした。この「種なしパンの祭り」とは、過ぎ越しの祭りも含まれています。この時にはパン種を入れないパンを食べました。それは、その月にエジプトを出たからです。その大いなる神の救いの御業を覚えて、この祭りを行わなければなりませんでした。
次は「初穂を献げる刈り入れの祭り」(16)です。この祭りは、春の終わりから初夏にかけてやって来る祭りです。民数記28:26には「初穂の日、すなわち七週の祭り」と呼ばれています。また、申命記16:10には「七週の祭り」となっています。使徒2:1では「五旬節」(ギリシャ語でペンテコステ)と呼ばれています。
そして、もう一つが「年の終わりに、勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭」です。この祭りは秋の祭りです。レビ23:34には、「仮庵の祭り」と呼ばれています。

この年に三回やって来る巡礼祭は、新約時代の出来事を預言していました。すなわち、種なしパンの祭りは、キリストの十字架の死と復活です。また、ペンテコステ、これは五旬節ですが、聖霊降臨を予表していました。そして仮庵の祭りは、キリストの再臨と千年王国です。私たちがモーセの律法を学ぶ理由はここにあります。旧約聖書に示されたことは、そのとおりに成就します。すでにキリストの十字架の死と復活、そして、聖霊降臨は成就しました。もうすぐキリストの再臨と千年王国がもたらされます。私たちはこのみことばが成就するのを待ち望みながら、主に仕える者でありたいと思います。

18節と19節をご覧ください。ここには、「18 わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。

 ここには、ささげものの規定が記されてあります。「わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。」聖書に「パン種」という象徴的に用いられている場合は、必ず「罪」とか「汚れ」を指しています。パウロは、「7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」 (Ⅰコリント5:7-8)と言いました。私たちは種なしパンです。なぜなら、イエス様が私たちの罪を取り除いてくださったからです。それゆえ、私たちは古いパン種を用いたり、悪意と邪悪なパン種を用いたりしないで、聖実と真実というパン種で祭りをしなければなりません。これこそ、神が喜ばれるいけにえなのです。

ところで、19節には「あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。どういう意味でしょうか。この命令は、この箇所以外に出エジプト記34:26と、申命記14:21にも出てきます。この命令の背景にあるのは、異教徒の習慣で、カナンの偶像礼拝でした。まず子やぎを殺し、次に母親の乳をしぼり、その乳で子やぎを煮ました。そのようにすることで多産になる(やぎは多産)という迷信があったのです。カナンの地では実際にこのような料理が振る舞われていたそうですが、これが偶像礼拝となっていたのです。

このような命令は、今もユダヤ人の食物の規定に大きな影響を与えています。厳格なユダヤ教徒は、肉製品と乳製品を一緒に食べません。肉料理用の鍋と、乳製品用の料理用の鍋が分けられているそうです。それはユダヤ教徒がこうした教えを拡大解釈したためです。熱心なユダヤ人たちは本来の目的から逸脱し、律法を拡大解釈してしまいました。それは熱心なユダヤ人だけの問題ではありません。クリスチャンの中にも見られます。本来の目的である神の愛から離れて、人間の律法を作ってしまうことがあります。注意しなければなりません。

3.主の使いの約束(20-33)

 最後に、20節から33節までを見て終わります。20節から22節までをご覧ください。
「20 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。21 あなたは、その者に心を留め、その声に聞き従いなさい。彼に逆らってはならない。 わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。22 しかし、 もしあなたが確かにその声に聞き従い、 わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、 あなたの仇には仇となる。」

「使い」とは、主の使いのことです。これは受肉前のキリストです。なぜなら、ここに「わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。」とあるからです。罪を赦す権威を持っているのは神とそのひとり子イエス・キリストだけです。マルコ2:10には「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを示すために」と言って、イエスは中風で病んでいた人を癒されました。ここで律法学者たちは面食らうわけです。罪を赦す権威を持っているのは神だけであって、その神を冒涜した・・・と。神だけが罪を赦すことができます。そして、イエスはその神なのです。なぜなら、彼はあなたがたの背きを赦さないからです。ですから、ここでこの使いに対して絶対的な服従が求められているのです。もしイスラエルがこの使いに従うなら、イスラエルの敵に対して敵となり、イスラエルの仇となってくださいます。この主を彼らの前に遣わし、彼らの道を守り、神が備えた所、すなわち、約束の地へと導いてくださるのです。ですから、彼らは彼らの神、主だけに仕えなければなりません。その地の神々を拝んではならないのです。

 23節と24節をご覧ください。「23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き、わたしが彼らを消し去るとき、24 あなたは彼らの神々を拝んではならない。それらに仕えてはならない。また、彼らの風習に倣ってはならない。それらの神々を徹底的に破壊し、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。」とあります。

 25節と26節には、「25 あなたがたの神、主に仕えよ。そうすれば、主はあなたのパンと水を祝福する。わたしはあなたの中から病気を取り除く。26 あなたの国には、流産する女も不妊の女もいなくなる。わたしはあなたの日数を満たす。」とあります。
 イスラエルが主に仕えなければならない理由は他にもあります。それは、主に仕えるなら、主は彼らにパンと水を与えてくださるからです。食べ物と飲み物が豊かになり、健康が祝福されるのです。 そればかりではありません。子孫の繁栄も約束されています。さらに、長寿も約束されています。

 最後に、27節から33節をご覧ください。
 「27 わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に送り、あなたが入って行く先のすべての民をかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を向けるようにする。28 わたしはまた、スズメバチをあなたの先に遣わす。これが、ヒビ人、カナン人、ヒッタイト人をあなたの前から追い払う。29 しかし、 わたしは彼らを一年のうちに、 あなたの前から追い払いはしない。 土地が荒れ果て、野の生き物が増え、あなたを害することのないようにするためである。30 あなたが増え広がって、その地を相続するまで、少しずつ、わたしは彼らをあなたの前から追い払う。31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また荒野からあの大河に至るまでとする。それは、わたしがその地に住んでいる者たちをあなたがたの手に渡し、あなたが彼らを自分の前から追い払うからである。32 あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。33 彼らはあなたの国に住んではならない。彼らがあなたを、わたしの前に罪ある者としないようにするためである。あなたが彼らの神々に仕え、あなたにとって罠となるからである。」

カナンの地は、主からの贈り物です。それはすでにアブラハムとその子孫に約束されていました。イスラエルはその地を侵略するのではなく、その地に帰還するのです。なぜこのモーセの時代になったのでしょうか。それは創世記15:16にそのように約束されていたからです。いったい主はどのように彼らをイスラエルに帰還させるのでしょうか。主はご自身の恐れを彼らの先にカナンに送り、彼らが入って行く先のすべての民をかき乱されます。それで、イスラエルのすべての敵が彼らに背を向けるようにされるのです。また、主はスズメバチを彼らの先に遣わします。これがカナンの住人を追い払うことになります。

しかし、それは一年のうちに起こることではありません。徐々に、少しずつ追い払われます。一気に追い払ってもらった方が楽かもしれませんが、主はそのようなことはなさいません。それは私たちの歩みと同じです。私たちの目標はキリストのようになることですが、それは一瞬にしてなるのではありません。徐々に、です。一気に変えられたのなら気絶してしまうでしょう。あまりにも違うので・・・主は少しずつ、少しずつ、主と同じ姿に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。大切なのは、私たちが私たちの主にだけ仕えることです。主の使いであるキリストに従うことです。そうすれば、私たちもやがて主のように変えられていきます。32節には「彼らの神々と契約を結んではならない」とあります。これは「彼らと契約を結んではならない」という意味です。この世と調子を合わせてはなりません。むしろ、何がよいことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。そうです、毎日、毎日の積み重ねの中で、毎日、毎日、主に従っていくことの中で、そのことが成されていくのです。ですから、私たちは主が私たちを変えてくださると信じ、主のみこころはいったい何なのかを知るために、みことばから学び、それに聞き従う者でありたいと願わされます。

出エジプト記22章

 今回は、出エジプト記22章から学びます。

 Ⅰ.他人の所有物の侵害に関する定め(1-15)

まず1節から15節までをご覧ください。4節までをお読みします。
「1 人が牛あるいは羊を盗み、これを屠るか売るかした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一匹を羊四匹で償わなければならない。2 もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、 打った者に血の責任はない。3 もし日が昇っていれば、血の責任は打った者にある。盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし盗人が何も持っていなければ、盗みの代償としてその人自身が売られなければならない。4 もしも、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗んだ物が生きたままで彼の手もとにあるのが確認されたなら、それを二倍にして償わなければならない。」

 人がもし牛とか羊を盗み、その盗んだ牛や羊をすでに殺したり打ってしまった場合、どうしたらいいのでしょうか。その場合は、牛一頭につき牛五頭をもって、羊一匹につき羊四匹をもって償わなければなりませんでした。当時、家畜は大切な財産だったからです。もしも、牛であれ、ろばであれ、羊で荒れ、盗んだ物が生きたままその人の手もとにあるのが確認されたら、それを二倍にして償わなければなりませんでした(4)。ルカ19:8でザアカイが、「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と言っているのは、盗んだ羊を返す時の額です。

では、盗みをした者はどうなるでしょう。もし盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んでも、打った者に血の責任はありませんでした(2)。ここに「抜け穴」とありますが、当時の家は泥土造りの家で、簡単に壁に穴を開けて入り込むことができました。そのような盗人がだれで、どのような状態なのかを判別することができないため、夜間であれば、たとえ相手を殺したとしても許されたのです。しかし、日中はいのちを奪ってはいけませんでした。もし日が昇っていれば、血の責任は打った者にありました。昼間であれば、単なる盗人であることが分かるはずなので、殺すことまでする必要はないからです。それは過剰防衛と見なされました。いずれにせよ、盗みをした者は必ず償いをしなければならず、もし償う物がなければ自分自身を売らなければなりませんでした。

5節をご覧ください。ここには、「人が畑あるいはぶどう畑で家畜に牧草を食べさせるとき、 放った家畜が他人の畑を食い荒らした場合、 その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければならない。」とあります。
当時は隣地との地境がはっきりしていなかったために、自分の家畜に牧草を食べさせようと放つと、家畜が地境を越えて隣地の畑に行き、それを食い荒らすことがありました。その時にはどのように償ったら良いのかということです。その時には、その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければなりませんでした。ここでは「最良のものをもって償うように」と言われています。自分のベストをもって、誠意をもって賠償しなさいということです。「これは動物がやったことだから仕方がない」と開き直ったり、家畜がやったことで自分には何の関係もありません」といった言い訳をしないで、誠意をもって償いをすべきなのです。そうすれば、トラブルはそれ以上に発展することはありません。これは、非常に知恵のある教えではないでしょうか。

 6節をご覧ください。ここには、「また、火が出て茨に燃え移り、積み上げた穀物の束、刈られていない麦穂、あるいは畑を焼き尽くした場合、その火を出した者は必ず償いをしなければならない。」とあります。火災を起こすことによって、他人の収穫物を焼いて損害を与えてしまった場合はどうすれば良いかということです。その場合も、償いをしなければなりませんでした。それが不注意によるものであっても、その責任を問われました。

 次に、7~15節をご覧ください。
 「人が金銭あるいは物品を隣人に預けて保管してもらい、それがその人の家から盗まれた場合、もしその盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。8 もし盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の所有物に決して手を触れなかったと誓わなければならない。9 所有をめぐるすべての違反行為に関しては、それが、牛、ろば、羊、上着、またいかなる紛失物についてであれ、一方が『これは自分のものだ』と言うなら、 その双方の言い分を神の前に持ち出さなければならない。そして、神が有罪と宣告した者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。10 人が、ろば、牛、羊、またいかなる家畜でも、隣人に預けてその番をしてもらい、それが死ぬか、負傷するか、連れ去られるかしたが、目撃者がいない場合、11 隣人の所有物に決して手を触れなかったという主への誓いが、双方の間になければならない。その持ち主はこれを受け入れなければならない。隣人は償いをする必要はない。12 しかし、もしも、それが確かにその人のところから盗まれたのであれば、その持ち主に償いをしなければならない。13 もしも、それが確かに野獣にかみ裂かれたのであれば、証拠としてそれを差し出さなければならない。かみ裂かれたものの償いをする必要はない。14 人が隣人から家畜を借り、それが負傷するか死ぬかして、その持ち主が一緒にいなかった場合は、必ず償いをしなければならない。
22:15 もし持ち主が一緒にいたなら、償いをする必要はない。しかし、それが賃借りした家畜であれば、 その借り賃は払わなければならない。」

 人が金銭あるいは物品を他人に預けて保管してもらいましたが、それがその人の家から盗まれてしまった場合どうしたら良いのでしょうか。もし盗人が見つかったなら、盗人がそれを二倍にして償えば良かったのですが、問題は盗人が見つからなかったらどうするかということです。当然預かった人に嫌疑がかかるわけです。それで預かった人は、神の前に出て、自分が盗まなかったことをはっきりと誓わなければなりませんでした(8)。「神の前に出て」とは、裁判官の前に出てという意味です。それは、裁判官は神から任されて、さばきを二者の間で行なう存在だからです。当時は神のことばを預かった人、聖職者が民をさばきました。

「所有をめぐるすべての違反行為に関しては」とは、ある人の持ち物について、それが盗品であるという疑いを掛けられた時には、疑った人も疑われた人も神の前に出て、神が罪に定めた者は、二倍にして相手に償わなければなりませんでした。すなわち、不当に盗んだのであれば当然盗んだ物が償いをし、もしもその疑いが誤っていたのであれば、逆に訴えた人が二倍にして相手に償わなければなりませんでした。

他人に預けておいた家畜が損害を受けた場合はどうしたら良いでしょうか。すなわち、隣人に預けてその番をしてもらい、それが死ぬか、負傷するか、連れ去られるかしたが、目撃者がいない場合です。その場合は、預かった人が隣人との所有物、ここでは家畜ですね、それに決して手を触れなかったという誓いをし、その誓いを預けた人が認めた場合には償いの必要がありませんでした(11)。

しかし、もしも、それが確かにその人のところから盗まれたのであれば、その持ち主に償いをしなければなりませんでした(12)。もしもそれが確かに野獣にかみ裂かれたのであれば、証拠としてそれを差し出さなければなりませんでした。その場合は償う必要はありませんでした。

隣人から借りていた家畜が傷ついたり死んでしまった場合はどうしたら良いでしょうか。家畜のレンタルですね。その場合、借り手は償いをしなければなりませんでした(14)。しかし、そこにもし持主が一緒にいたのであれば、償いをする必要はありませんでした(15)。持主も、一緒にいたことで、その責任に預かっていたからです。ただし、その家畜を賃借りしていた場合は、レンタル料は支払わなければなりませんでした。

 Ⅱ.道徳に関する定め

 次に16節から20節までをご覧ください。
「16 人が、まだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝た場合、その人は必ず、彼女の花嫁料を払って彼女を自分の妻としなければならない。17 もしその父が彼女をその人に与えることを固く拒むなら、その人は処女の花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。18 呪術を行う女は生かしておいてはならない。19 動物と寝る者はみな、必ず殺されなければならない。20 ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」

 イスラエルでは、婚約を経て結婚に至りました。ですから、婚約を終えると、法的に結婚した者と見なされたのです。「まだ婚約していない娘」とは、まだそういう状態にない処女のことです。人が、まだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝た場合はどうしたら良いのかということです。その場合は、その人はかならず、彼女の花嫁料(結納金)を払って彼女を自分の妻としなければなりませんでした(16)。しかし、もし彼女の父が「こんな男に大事な娘をやるわけにはいかない」と拒んだら、その人はその処女のために定められた花嫁料を支払わなければなりませんでした。その花嫁料は、銀50シェケルと定められていました(申命記22:29)。

この規定が与えられている目的は、結婚の尊厳を教えるためです。結婚とは、「ふたりは一体となる」ことであり、このようにして肉体関係を持つことは、男と女が一生涯、霊的に、精神的に、また社会的に一組の夫婦として生きていくことの証しだったのです。ですから、肉体関係を持つことと結婚を引き離すことは決してできず、ここで婚前交渉をしたのなら必ずすぐに結婚して、一生涯その人を自分の妻にしなければならなかったのです。

 18節をご覧ください。ここには、「呪術を行う女は生かしておいてはならない。」とあります。呪術とは魔術のことです。オカルトや占いですね。そのようなことをする者は、死刑に定められていました。それは悪霊と直接的に関わることだからです(申命記18:10-11)。神は霊です。神は、霊において人と交わりをすることを願っておられ、もし人が異なる霊と交わりをするなら、霊的姦淫を犯すことになります。そして、悪霊は悪しき霊です。この悪しき霊と交わるなら、悪霊に支配されてしまうことになります。それゆえ、呪術者は死罪に定められたのです。ここに「呪術を行う女」とあるのは、呪術を行うのは主に女性だからです。聖書を見ても、霊媒師の女が多いことがわかります。

19節には、「動物と寝る者はみな、必ず殺されなければならない。」とあります。獣姦とも呼ばれる行為です。当時の異教社会では頻繁に行われていました。それは神が定めた道に背くものであり、死刑に定められていました。

20節には、「ただ主ひとりのほかに、神々にいけにえを献げる者は、聖絶されなければならない。」とあります。

 十戒の中にある、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」の戒めの適用です。十戒の第一戒を破る偶像礼拝の行為は、カナン人と同じように聖絶されなければなりませんでした。こうした偶像礼拝は、イスラエル人の純粋な信仰に悪影響を与える危険があったからです。

 Ⅲ.社会的弱者を守るための教え(21-27)

21節から27節までには、社会的弱者を守るための教えが書かれています。
「21 寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。22 やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。23 もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。24 そして、わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣によってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる。25 もし、あなたとともにいる、わたしの民の貧しい人に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。利息を取ってはならない。26 もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。27 それは彼のただ一つの覆い、 彼の肌をおおう衣だからである。 彼はほかに何を着て寝ることができるだろうか。 彼がわたしに向かって叫ぶとき、 わたしはそれを聞き入れる。 わたしは情け深いからである。」

 「寄留者」とは、「在留異国人」のことです。在留異国人を苦しめたり、虐げてはなりませんでした。なぜなら、彼らもエジプトの地で寄留者であったからです。その体験は、自分の国にいる異国人を思いやるために用いられるべきなのです。外国に住んでみないとわからない苦しみがあります。私たちも、日本に住む外国人に対して、特別な配慮が求められます。外国人に限らず、新しく来た人、不慣れな人が、教会の交わりにそのまま入って来ることができるような態勢を整えておく必要があります。

22節には、やもめやみなしごに対してどのようにすべきかが教えられています。やも
めとは未亡人のこと、みなしごとは孤児のことです。働き手に先立たれたやもめや、両親に先立たれたみなしごを大切にするのは、イスラエルの律法の大きな特徴です。今のように、女性が働ける職場や、また孤児院などの制度が整っていたわけではありませんから、乞食に近い生活が強いられました。このような人たちに対しては、大切にし、丁重に扱わなければなりませんでした。このような人たちを悩ませる者には必ず神のさばきが下り、彼ら自身がやもめや、みなしごのようになると警告されています。
果たして、私たちの教会はやもめやみなしごに十分な配慮をしているでしょうか。自分のことだけで精いっぱいになってはいないかを吟味しなければなりません。

 25節には、貧しい人にお金を貸す場合にはどうしたら良いかが教えられています。すなわち、彼らにお金を貸すなら、金貸しのようであってはなりませんでした。つまり、彼から利息を取ってはならかったのです。利息を取ることは許されませんでしたが、貸したお金の補償として、着物を質に取ることは許されました。しかし、その場合は、日没までに返さなければなりませんでした。なぜなら、その貧しい人にとっては、その着物が寝具にもなったからです。それを取ってしまったら、何も着るものがありません。それではあまりにも可哀想です。そんなことがあってはなりません。なぜなら、「わたしはあわれみ深いからである。」(27)

 Ⅳ.神に対する義務(28-31)

最後に、神に対して私たちのあるべき態度についてです。28~31節までをご覧ください。
「28 神をののしってはならない。また、あなたの民の族長をのろってはならない。29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を遅らせてはならない。あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない。30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にはわたしに献げなければならない。31 あなたがたは、 わたしにとって聖なる者でなければならない。野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。」

28節には「神をののしってはならない」とあります。神への畏怖の念を忘れてはならないということです。また、「あなたの民の族長をのろってはならない。」神によって立てられた秩序を重んじて、その権威に従うべきです。なぜなら、それは神によって立てられた権威だからです。ローマ13:1~2には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」とあります。最近の新型コロナウイルス感染に対する政府の対応は、少し後手後手に回っている感がありますが、その判断にあたる阿部総理はかなりの重責で疲労困憊しているのではないかと思います。今こそ私たちは阿部総理のために祈り、彼が正しく判断できるように支えなければなりません。

29節と30節はささげものに関する定めです。「29 あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を遅らせてはならない。あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない。30 あなたの牛と羊についても同様にしなければならない。七日間、その母親のそばに置き、八日目にはわたしに献げなければならない。」
あなたの豊かな産物と、あふれる酒とのささげ物を送らせてはなりません。どれくらいの量をささげなければならないのかは、規定されていません。すなわち、自発的にささげるということです。
息子と家畜に関する規定ですが、長子は主のものですから、主にささげなければなりませんでした。つまり、長子が祭司として主に仕えるためにささげられたということです。後にレビ人が祭司として仕えることになりました。これは13:2の再確認です。それは牛と羊も同様でした。男子の初子も、牛と羊の初子も、八日目に主にささげられなければなりませんでした(29-30)。

最後に、野で獣にかみ裂かれたものの肉を食べてよいかどうかの規定です。その肉は食べてはなりませんでした。それは、犬に投げ与えなければならなかったのです。なぜなら、それは汚れていたかです。獣に殺された家畜の肉を食べることは、血のついた肉を食べることとみなされ、神が忌み嫌われることだったのです(レビ17:10-11)。そのような肉を食べて身を汚すようなことをしてはいけませんでした。なぜなら、イスラエルは、神の聖なる国民(19:6)であるからです。
私たちも神に贖われた神の民、聖なる国民です。それゆえ、この世の考えに従って身を汚すようなことをせず、神に喜ばれる聖なる者となることを求めていきたいと思います。

出エジプト記21章

 きょうは、出エジプト記21章から学びます。1節には、「これらはあなたが彼らの前に置くべき定めである。」とあります。これは「定め」であって、「律法」ではありません。「律法」は、行動の規範としてそれに従わなければならないものですが、「定め」は、国民の生活における秩序を保つために必要なものであり、一種の権利の規定です。この場合の権利というのは、ひとりひとりが他の人に対する関係に関するものです。

 1.奴隷に関する定め(1-11)

 まず2節から6節までをご覧ください。
「2あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。3 彼が独身で来たのなら独身で去る。彼に妻があれば、その妻は彼とともに去る。4 彼の主人が彼に妻を与えて、その妻が彼に息子あるいは娘を産んでいたなら、この妻とその子どもたちは主人のものとなり、彼は一人で去らなければならない。5 しかし、もしもその奴隷が『私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と明言するようなことがあるなら、6 その主人は彼を神のもとに連れて行く。それから戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」

 この定めは、まず主人と奴隷の関係についての教えから始まっています。なぜ奴隷についての教えから始まっているのでしょうか。それはイスラエル自身がエジプトの奴隷だったからであり、神の恵みとあわれみによって解放された民だからです。そのことを彼らが思い出し、神のあわれみを覚えるためだったのでしょう。レビ記や申命記には、彼らがかつては奴隷の身分から贖いだされたことを思い出すことによって、奴隷に対して思いやりをもって扱うようにと勧められています(レビ記25:42,申命記15:12-18)。

へブル人の奴隷は身売りされても、六年間仕えたなら、七年目には自由の身として無償で去ることができました(2)。この時主人は、彼らに何も持たせないで去らせることはできませんでした(申命記15:13-14)。七年目に奴隷が解放される時は、独身で来た者は独身で去り、妻があれば、その妻とともに去ることができました。しかし、奴隷の間に主人から妻を与えられた場合は、妻と子供たちを主人のもとに残さなければなりませんでした(4)。いったいなぜ妻と子供を残さなければならなかったのでしょうか。それは、本来奴隷は自分のものを何一つ持っていないのであって、妻子は主人のものであったからです。ですから、その妻子が主人のもとにとどまるのは当然と言えば当然のことですが、ここでは、夫婦、子供がいっしょにいられる方法も残されていたのです。もし夫が一人で去るよりも妻子と共に主人のもとに残ることを望めば、そして、その奴隷が神の御前で、「私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と宣言すれば、彼は自分の妻子のもとにとどまることができました。その時は、戸または門柱のところで、きりで彼の耳を刺し通さなければなりませんでした。それはその宣言のしるしであり、服従を示すためでした。神のもとに連れて行かれたのは、神の御名によってなされる裁判であることを意味していました。その奴隷はそこで自分が自由になる権利を放棄するわけですが、そのことを裁判の法廷において、神の御名にかけて宣言したのです。

7節から11節までをご覧ください。
「7人が娘を女奴隷として売るような場合、その女奴隷は、男奴隷が去る場合のように去ってはならない。8 彼女を自分のものと定めた主人が、彼女を気に入らなくなった場合は、その主人は彼女が贖い出されるようにしなければならない。主人が彼女を裏切ったのだから、異国の民に売る権利はない。9 その主人が彼女を自分の息子のものと定めるなら、彼女を自分の娘のように扱わなければならない。10 その主人が別の女を妻とするなら、先の女への食べ物、衣服、夫婦の務めを減らしてはならない。11 もしこれら三つのことを彼女に行わないなら、彼女は金を払わないで無償で出て行くことができる。」

ここでは、父親が自分の娘を女奴隷として売った場合のことが規定されています。当時、貧しい人は、自分の娘を、経済的な理由から、裕福な人に売るというようなことがありました。その場合、妻のような立場であったのか、家政婦のような立場であったのかはわかりませんが、男奴隷が去る場合のように去らせてはなりませんでした。彼女を自分のものとして定めた主人が、彼女を気に入らなくなった場合は、その主人は彼女を贖い出されるようにしなければなりませんでした。つまり、彼女の親戚によって適切な額で贖い出されるようにしなければならなかったのです。異国の民に得る権利はありませんでした。もしその娘を息子の妻にしていた場合には、自分の娘に対するように扱わなければなりませんでした。またその主人が、その後に別の女を妻とする場合には、先の女に対して、食べ物、衣服、夫婦の務めを減らしてはならず、その義務を全うしなければなりませんでした。もしこれらの三つのことを彼女に行わなければ、彼女は無償で出て行くことができました。

このような定めを見ると、少し受け入れられないような思いを持つ人もいるかもしれませんが、これは律法ではなく定めであるということ、そして、その時代の生活の安定と秩序を保つために定められたものであるということを考えると、そうした昔の時代の規定としては、女の奴隷に対するものとしては、その権利というものによく配慮されているのではないかと思います。

2.殺人者に対する定め(12-17)

 これまでは、人間の自由という問題が取り上げていましたが、ここからはそれよりももっと重要な人間の生命に関する問題が取り上げられています。まず12節から17節までをご覧ください。

「12 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。13 ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する。14 しかし、人が隣人に対して不遜にふるまい、策略をめぐらして殺した場合には、この者を、わたしの祭壇のところからであっても、連れ出して殺さなければならない。15 自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。16 人を誘拐した者は、その人を売った場合も、自分の手もとに置いている場合も、必ず殺されなければならない。17 自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。」

 人まず殺人に対する刑罰の一般的な原則が示されています。それは、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」ということです。それはすでに十戒の中で、「殺してはならない。」と命じられていたからです。また、創世記9:6にも、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。(創世9:6)」とあるように、殺人に対しては、その人のいのちが要求されたからです。それは、人は神のかたちに創造された神聖なものであるという考えに基づいています。

 ただし、その人に殺意がなく神が御手によって事が起こされた場合は、のがれることができる場所が指定されました。殺意がなく神が御手によって事が起こされた場合とは、偶然に人を殺してしまった場合のことです。また、「のがれることができる場所」とは、具体的には「逃れの町」のことです。殺意がなく人を殺してしまった人に対して、その人が逆に復讐によって殺されることがないようにのがれの町を用意してくださったのです。この「のがれの町」は、のちに六つののがれの町として指定されるようになりました。(民数記35:9-15,申命記19:1-13,ヨシュア20)しかし、はっきりとした殺意をもって殺した場合には、どのような場所逃げたとしても、死刑に処せられました。たとえそこが主の祭壇であったとしても、死刑を免れることはできませんでした。

自分の父母を打つ者も、必ず殺されなければなりませんでした。父母を打つだけではありません。ののしる者も、殺されなければなりませんでした(17)。それはすでに十戒において、父母が神の代理人としての立場として立てられているがゆえに尊い存在であるということを学びましたが、その尊さのゆえに、父母に反抗したり、打ったりのろったりするだけでも死刑に処せられたのです。箴言にも、次のような警告が記されてあります。
「自分の父や母をののしる者、そのともしびは、闇が近づくと消える。」(箴言20:20)
「自分の父を嘲り、母への従順を蔑む目は、谷の烏にえぐり取られ、鷲の子に食われる。」(箴言30:17)

ここにはさらに、人を誘拐した者についての刑罰が述べられています。「人を誘拐した者は、その人を売った場合も、自分の手もとに置いている場合も、必ず殺されなければならない。」(16)ここには、その人を売った場合も、自分の手元に置いている場合も、とありますが、イスラエルでは、誘拐された同胞を売り買いすることは許されていなかったので、異邦人に売るために誘拐する者がいたのでしょう。

3.傷害事件 (18-32)

 次は、傷害事件についての定めです。死に至らない場合です。ここでは人による傷害と家畜による傷害のケースが取り上げられています。まず人による傷害のケースです。まず27節までをご覧ください。

「18人が争い、一人が石か拳で相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、19 もし彼が再び起き上がり、杖によって外を歩けるようになれば、打った者は罰を免れる。ただ彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に治るようにしてやらなければならない。自分の男奴隷あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その人は必ず復讐されなければならない。ただし、もしその奴隷が一日か二日生き延びたなら、その人は復讐されてはならない。奴隷は彼の財産だからである。人が人と争っていて、身ごもった女に突き当たり、早産させた場合、重大な傷害がなければ、彼はその女の夫が要求するとおりの罰金を必ず科せられなければならない。彼は法廷が定めるところに基づいて支払う。しかし、重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。人が自分の男奴隷の片目あるいは女奴隷の片目を打ち、目をつぶした場合、その目の償いとして、その奴隷を自由の身にしなければならない。27 また、自分の男奴隷の歯一本あるいは女奴隷の歯一本を打ち、折ったなら、その歯の償いとして、その奴隷を自由の身にしなければならない。」

 人と争って相手を死なせた場合は12節のみことばが適用されますが、そうでなく傷害を負わせた場合には、罰は免れますが、被害者が仕事を休んだ分を弁償し、傷が完全に治るようにしなければなりませんでした。つまり、治療のための費用を払わなければなりませんでした。これは非常に近代的な教えです。

主人が奴隷を杖で打って死なせた場合はどうでしょう。その場合、主人は必ず復讐されなければならないとあります。恐らく12節にあるように、死刑にされたのでしょう。裁判官の状況判断によって罰せられたのではないかという解釈もあります。
いずれにせよ、これは奴隷の生存権を認めているということであり、当時の近隣諸国では主人が奴隷の生存権に関しても絶対的な権利を持っていたことを考えると、はるかに進んだ定めであったと言えます。

もしも人が争って妊婦を早産させてしまった場合はどうしたらいいのでしょうか。この「早産」ということばは、原文では「子どもが外に出てくること」を意味しています。その場合、子どもの受けた傷に応じて刑罰が加えられました。重大な傷がなければ、その女の夫が要求するとおりの罰金を支払わなければなりませんでした。それは法律に基づいて、裁判が行われました。

しかし、そのことによって重大な傷害があれば、相手の傷に応じて刑罰が加えられました。すなわち、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならなかったのです。これは、一見残忍な定めのようですが、当時としては、善良な市民の被害を守り、法律を公平に適用できる定めでした。というのは、一般的に人は、損害を受けたら、さらにひどく、二倍、三倍にして返したくなります。子供のけんかも、大人のけんかも、国家間の争いも、このようにだんだんとエスカレートしいきます。これに対して聖書は、自分が受けた傷以上のものを相手に要求してはならないと告げているからです。しかし、聖書が最も求めていることは、報復することよりも、むしろその人を赦すことであり、善をもって返すことです。
「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19:18)
「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。 なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。」(箴言25:21-22)
これは旧約だけではなく新約にも、全体に貫かれた教えです。イエス様も、山上の説教の中で次のように教えられました。
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:38-48)

また、自分の奴隷の目や歯に傷を負わせた場合には、奴隷を解放しなければなりませんでした。奴隷を虐待しながら苦役を強いることは、神の律法では決して許されていなかったのです。ですから、近代の残酷な奴隷制度の根拠を聖書に求めることなどは、決してできません。

次に、家畜によって傷害を与えてしまったケースを見て終わります。28~32節までをご覧ください。
「28牛が男または女を突いて死なせた場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罰を免れる。29しかし、もし牛に以前から突く癖があり、その持ち主が注意されていたのにそれを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺され、その持ち主も殺されなければならない。30 もし彼に償い金が科せられたなら、彼は自分に科せられたとおりに、自分のいのちの贖いの代価を支払わなければならない。31 息子を突いても娘を突いても、この規定のとおりに扱われる。32 もしその牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。」

もし家畜が角で人を突いて殺してしまった場合には、その家畜は石で殺されなければなりませんでした。石で殺されるということは罪の刑罰を受けることを意味していましたから、その家畜はのろわれ、汚れたものとなるので、食べることは許されませんでした。しかし、その家畜の所有者には罪はありませんでした(28)。

 しかし、その家畜が角で人を突くくせを持っていて、何度もそのことで警告を受けていたにもかかわらず、少しも注意をせず、その家畜をつなぎとめておかなかったために、その家畜が人を突いて殺してしまうようなことがあったら、その家畜もその家畜の主人も殺されなければなりませんでした(29)。

 しかし、もし罰金を支払うことですませてくれるような時には、その要求された金額を支払うことで処理もできました(30)。モーセの律法の中で、死刑の代わりに贖い金が許されています。

 たとえ子供でも、同じように定めは適用されます。ここに再び神が、社会的弱者の人権と尊厳を定めておられることが分かります。奴隷、女性、子供はみな、神によって守られています。

 牛が奴隷を殺した場合でも、その牛はやはり殺されなければなりませんでした。奴隷が一人の人格として認められていたことが、ここでも明確に示されています。そして、牛の持ち主は奴隷の主人に、銀貨三十シュケルを支払わなければなりませんでした。この金額は、イエス・キリストがイスカリオテのユダによって売られ額です。彼がイエスの価値を奴隷の値段としてしか見積っていなかったことがわかります。自由なイスラエル人を贖うには五十シェケルが必要でした。(レビ27:3)
 
4.財産に関する問題(33-36)

「33 人が水溜めのふたを開けたままにしておくか、あるいは、水溜めを掘って、それにふたをせずにおいて、牛やろばがそこに落ちた場合、34 その水溜めの持ち主は償いをしなければならない。彼は家畜の持ち主に金を支払わなければならない。しかし、その死んだ家畜は彼のものとなる。35 ある人の牛が隣人の牛を突いて、その牛が死んだ場合、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければならない。36 しかし、もしその牛に以前から突く癖があることが分かっていて、その持ち主が監視しなかったのなら、その人は必ず牛を牛で償わなければならない。しかし、その死んだ牛は彼のものとなる。」

人間のいのちの問題から、次に財産の問題に移っていきます。イスラエルにとって家畜は重要な財産でした。その財産、家畜のために水だめが必要でした。そのためにかなり大きな穴が掘られていることがあったのです。その入口はさほど大きくなかったのに、その中はかなり大きく掘られていたので、一度そこに落ちてしまいますと、救い出すことは極めて困難でした。そのため、そのような危険な水だめには、必ずふたをすることになっていましたが、それでも誤って中に落ちてしまうことが少なくありませんでした。その場合井戸の持ち主は、家畜の持ち主にお金を支払い、償いをしなければなりませんでした。その場合、その家畜は、その井戸の持ち主のものとなりました。

また、牛が隣人の牛を突いて死なせた場合は、両者は生きている牛を売って、その金を分け、また死んだ牛も分けなければなりませんでした。しかし、もし以前からその牛に突く癖があることが分かっていて、その牛の持ち主が監視していなかったのなら、その人は必ず牛を牛で償わなければなりませんでした。しかしその代わりに、死んだ牛はその人のものとなりました。

出エジプト記20章

出エジプト記20章を学びます。ここには、神の律法(モーセの律法)が記されてあります。モーセの律法は613からなっていますが、十戒は、その最初に出てくるものです。この十戒に関して多くの誤解や混乱があります。たとえば、ある人たちは十戒の規定は今も有効であると考え、土曜日に礼拝しなければならないと主張したり、逆に、律法そのものを悪と見る人たちもいます。そのような人たちは、旧約は終わったのだから新約だけを読めばいいと言います。しかし、神の救いの計画を正しく理解するためには、モーセの律法に関して正しく理解しなければなりません。

Ⅰ.十戒の前提(1-2)

まず1~2節をご覧ください。
「それから神は次のすべてのことばを告げられた。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」

ここには、これから十戒を与えられる神がどのような方であるかが記されてあります。それは、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」ということです。これはどういうことかというと、神はイスラエルの民をエジプトから贖われた方であるということです。すなわち、神によって救い出された者たち、神の所有とされた民であるということです。イスラエルの民は、神の力と恵みを体験しました。それゆえ、その神との信頼関係をベースとして契約が結ばれるのです。つまり、これは贖われた者たちに対する神の命令であるということです。これは彼らが救われるためではなく、すでに救われた者たちに対する戒めであるということです。しかもここには、「あなたの神、主である」とあります。あなたがたの神ではなく、あなたの神です。神との個人的な関係があって、その上で語られている戒めなのです。

これはクリスチャン生活にも同じことが言えます。私たちは神に愛され、赦されました。それゆえに、神の愛への応答として献身の生涯を歩むのです。パウロはローマ12:1~2節で、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」と言っています。彼は1~11章にかけて、神の救いとはどういうものか、すなわち、すべての人は罪を犯したので、神からの栄光を受けることがでず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって、義と認められる、ということを語りました。そのような神の恵みがベースになり、自分自身を神にささげるという霊的な礼拝が始まるのです。ですから、これがなかったら、ただの律法となってしまいます。私たちが神の命令に従うのは、私たちが救われるためではなく、私たちが神の恵みによって罪から救われたのだからということを覚えておかなければなりません。

Ⅱ.十戒の内容(2-17)

では、その神の戒めとはどのようなものでしょうか。3~17節には、十戒の内容が記されてあのます。

まず、3節をご覧ください。ここには、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」とあります。いったいまことの神、主のほかに、神がいるでしょうか。いません。イザヤ45:22には、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」とあります。イスラエルの主だけが神であり、ほかにはいません。それなのに、なぜこのようなことが命じられているのでしょうか。それは、人間は神以外のものを神にしたがる傾向があるからです。思い出してください。彼らがエジプトにいた時には、そこには多くの神々がいました。ナイルの神、かえるの神、牛の神など、あらゆるものが礼拝の対象とされていました。あの十の災いは、そうした神々に対するさばきでもあったわけです。

当時は、自分たちの欲望を満たすものをみな神としていました。たとえば、カナンの土着信仰として有名なのは「バアル」と「アシュタロテ」です。バアルとアシュタロテは男神と女神の夫婦であり、双方が交わることによって、子どもや家畜、作物の高収穫がもたらされると信じられていました。いわば、家内安全、商売繁盛の神といったところでしょうか。新年にはこの日本の多くの人が初詣に出かけますが、そこで何を祈るのかというと、この家内安全、商売繁盛です。それが自分の欲望を満たすものです。それを神としたがるのです。聖書には「マモン」という神も登場します。これはお金の神です。ここから「money」という言葉が派生しました。もしお金がすべてだと考えているとしたら、それはこのマモンという神を持っていることになります。

つまり、もし私たちが主なる神よりも大事にするものがあるとしたら、それが神になってしまうということです。自分が大事にしているもの、最も情熱を傾けているものがあれば、それが神になってしまうことがあるのです。

第二の戒めは、自分のために偶像を作ってはならないし、それらを拝んではならない、ということです。4~6節にあります。
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

「偶像」とはヘブル語で「ベセル」と言います。意味は刻んだものです。神のイメージにかたどって造られたもの、それが偶像です。神を真似たもの、神のイメージに刻んだものです。ギリシャ語ではこれを「エイドーロン」と言いますが、ここから英語の「idol」という語が生まれました。これは現代語にもなっています。それは崇拝されるものです。ですから、偶像とは、崇拝されるために神にかたどって刻まれた像のことです。でも、彫刻などの美術を禁じているわけではありません。

なぜ神様は偶像を造ることを禁じているのでしょうか。それは間違った方法で神を礼拝してほしくないからです。自分のイメージで、自分の考えで、自分の思いつきで、自分の概念で、勝手に礼拝してほしくないのです。どちらかというと、人は神に対して勝手なイメージを持ちがちです。たとえば、何か神々しいものをみると、神はこういうものであるにちがいないと思い、それを神にしたがります。
32章を見てください。モーセが山から下りてくるのに手間取っていると、民はアロンに言いました。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」(32:1)
それで彼はイスラエルの民がつけていた金の耳輪を持って来させると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にして、こう言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」(32:4)アロンはなぜこんなものを造ったのでしょうか。それは彼がエジプトにいた時、牛が神だったからです。アビスという神です。そういうイメージを持っていたのです。バカじゃないかと笑えません。意外と日本人の多くもこんなイメージを持っているからです。このようなものを造って神にしたがるのです。

ヨハネの福音書4章の中てで、主はサマリヤの女に、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(4:24)」と言われました。神は霊ですから、私たちの目には見えない方です。ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。私たちはこの見えない神を、真理の御言葉をとおして礼拝することができます。なぜなら、御言葉には、見えない神を見せてくださったキリストについて記されてあるからです。このキリストを見た者は神を見たのです。このキリストを礼拝する者は、神を礼拝するのです。

けれども、人は目に見えないものよりも、見えるものに頼りたくなります。神のご臨在を強く意識することができるからです。それが偶像です。そういうものを神としてはいけません。間違った方法で神を礼拝してはいけないし、正しい方法で神を礼拝しなければならないのです。

5節をご覧ください。ここには、なぜ偶像を造ったり、それらを拝んではならないのかの理由が記されてあります。それは、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」からです。神はねたむ神です。この「ねたむ」というのは、それらの偶像に嫉妬するということではありません。そうではなく、あなた自身をねたまれるということです。なぜなら、神はあなたの神だからです。神はあなたを奴隷の家から連れ出された方です。そのために大切な御子イエス・キリストを犠牲にされました。それほどにあなたを愛してくださったのに、それなのに、そのあなたが他の神々に仕えるというようなことがあるとしたら、悲しまれるのは当然のことでしょう。

また、ここには、「わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」とあります。とあります。どういうことでしょうか。これもよく誤解されることです。もし偶像を拝むようなことがあれば、あなたの家は呪われることになるのでそれを断ち切らなければならないと、呪いを断ち切る祈りをする人がいますが、ここで教えていることはそういうことではありません。神を憎む者の咎が親から子に、子から孫に代々受け継がれていくということではありません。影響が及んでいくということです。逆に、神の命令と教えとを守るなら、良い影響が及んでいきます。その人が神の命令を守らないのに、必死になって呪いを断ち切ろうとしても、何の意味もありません。あなたとあなたの家族が主を信じ、主に従うなら、あなたは救われます。その良い影響はあなたの子孫にまで及ぶのです。そうでなければ、その影響はあなたの子孫にも伝わっていくということです。ですから、呪いを断ち切るのではなく、あなたが悔い改めて神に立ち返ることが求められているのです。

第三の戒めは、主の御名をみだりに唱えてはならないということです。7節をご覧ください。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」主の御名をみだりに唱えるとはどういうことでしょうか。

ユダヤ人は、この戒めを文字通りに唱え、主の御名を呼びません。主とはヘブル語で「יהוה ヤハウェ」と言いますが、英語のアルファベットで表記すると「Y」「H」「W」「H」の四つの文字で表します。これは「神聖四文字」、テトラグラマトンと呼ばれています。これはあまりにも神聖なためヤハウェと呼ばず、「アドナイ」と呼びました。日本語では「エホバ」と表記されています。ユタヤ人は「ヤハウェ」があまりにも神聖なので、この戒めに従って一切口にしないのです。

しかし、たとえばエレミヤ33:2~3節には、「地を造った主、それを形造って堅く立てた主、その名が主である方が言われる。 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」とあります。この「主」は「ヤハウェ」です。この主が、「わたしを呼べ」と言っておられるのです。「呼べ」とは、主の御名によって祈れということです。ですから、主の御名をみだりに唱えてはならないというのは、主の御名を一切口にしてはいけないということではありません。ではこれはどういうことなのでしょうか。

ここで鍵になるのは「みだりに」ということばです。これはヘブル語で「シャーブ」ということばですが、意味は「中味がない」とか、「実体が伴わない」、「価値がない」、「空虚である」という意味です。名前には意味があります。よく「名は体を表す」と言われますが、神の名前には神のご性質や神の働きがどのようなものであるかが反映されているのです。それは、「わたしは、「わたしはあるというものである」という意味です。主は他の何にも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。その神の名が空虚なものになってはいけないということです。つまり、これは「主の御名を無価値なものにしてはならない」とか、「無意味なものにしてはならない」ということであって、「主の御名」を唱えてはならないということではないのです。むしろ私たちは主の御名によって祈らなければならないし、祈るべきです。ただ口で唱えるというのではなく、神の御名が崇められるように祈らなければなりません。

では、いったいどういう時に神の御名が無価値なものになるでしょうか。主よ。主と呼びながら、主の言われるとおりにしない、そのとおりに生きようとしなければ、それは主の御名をみだりに唱えていることになります。マタイ7:21~23には、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」とあります。
ここで問題となるのは、主よ。主よと呼びながら、実体がないことです。主の御名を呼びながら、主のみこころに反することを行っています。そういう人に対して主は、「不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」と言われるのです。これが主の御名を、みだりに唱えるということです。ここに「罰せずにはおかない」とあります。主の御名によって罪を行うことがあるとしたら、それこそ大きな過ちなのです。

ですから、私たちも注意しなければなりません。信仰の実体が伴うように生きていくことを求めていかなければなりません。キリスト教的であるとか、そうした雰囲気ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、主に仕えなければならないのです。

第四の戒めは、安息日に関する規定です。8~11節までをご覧ください。「安息日を覚えて、こ
れを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」

安息日を覚えて聖なる日としなければなりません。なぜですか?なぜなら、主が六日のうちに、天と地と海と、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからです。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言されました。

これを読むと、主が創造のみわざをなされ七日目に休まれたので、私たちにも休みが必要だというように捉えがちですが、意味は全然違います。「安息日」はヘブル語で「「שבת「シャバット」と言いますが、ここから英語の「Sabbath (Day)」ということばが派生しました。これはもともと休むではなく、「止める」という意味です。神は六日間働いて七日目にその働きを止めたので、私たちも止めなければならないのです。なぜ神は七日目に休まれたのでしょうか。それは疲れたからではありません。神は疲れることなく、たゆむことのない方です。ですから、神様は休む必要などないのです。それなのにその手を休まれたのは、創造のみわざを完成され、その御業の数々をご覧になって満足なさるためでした。

ですから、申命記5:15には、同じ十戒が書かれてありますが、出エジプトには書かれてないことが記されてあるのです。それは、彼らがエジプトの地で奴隷であったこと、そして、彼らの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、彼らをそこから導き出したことを覚えていなければならない、ということです。それゆえ、主は安息日を守るようと命じたのです。すなわち、神が安息日の戒めを定められたのは、その手を休めて、普段やっていることを止めて、この日を特別の日にするためです。いつもしている六日間とは別に、この日だけはそれらの日と区別して、主なる神はどのような方なのかを覚え、礼拝するためなのです。

ここに「安息日を覚えて」とあるのはそのためです。安息日には、このことを覚えなければなりません。この日は創造主なる神を覚える日なのです。これが命令されているということは、私たちは忘れやすいからですね。自分が造られたものにすぎないということを忘れ、自分が神であるかのように思い込んでしまいます。そうではなく、あくまでも自分たちは造られたものにすぎないということを覚え、私たちを造ってくださった方をほめたたえなければなりません。これが、安息日が目指していることです。この日、私たちは主のものであり、私たちに与えられたもののすべては神様のものであって、すべてが恵みだということを思い起こすのです。これが結果として休息、安息につながるわけです。日常的なことを休むので、その結果、体が休みます。休息、安息となるのです。

けれども、どちらかというと私たちは休まない傾向があります。何かしていないと気が済みません。あれもしなければならない、これもしなければならない、時間がない、忙しいといって走り回っています。特に日本人は勤勉で有名ですが、このような人間に神様は休むことの豊かさを教えてもいるのです。ユダヤ人は金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として、この日にはいっさいの仕事をしませんでした。これは珍しいことなのです。日本では日曜日に休むようになったのは明治時代に入ってからのことでした。しかもそれは官公庁に限られていました。一般の社会では働くことが美徳でした。働いていないとだめです。ちょっとでも休んだりすると「だらしない」と思われていました。

ですから、どちらかというと休むことができないのです。「そんなビジネスチャンスの時に休んでなどいられるか。」「若いんだから、今働かなければいつ働くんですか。」「もっと年をとったら休みます」と言って、休もうとしません。マナを集めに行ったイスラエルの民も、七日目は主の安息だから休めるようにと、神は前日に二日分のマナをちゃんと用意してくださったのに、「こんな稼ぎ時に休んでいられるか」と行って集めようとした人がいました。人間は休まないで働こうとする。しかし、そこに祝福はありません。一週間に1日は普段の生活を止めて、その日を主の日として聖別して、その日を、主を礼拝する日として休むようにすること。それがこの安息日の規定です。

それなのに、いつしかこの戒めの本質が見失われ、これはユダヤ人に対する戒めであってクリスチャンには関係ないとか、これを厳格に日曜日と理解して、日曜日は聖日だからクリスチャンは聖日を厳守しなければならないとか、(これはすばらしいことだが、日曜日だけが安息日なのではないことに気づいていない。その本来の目的を見失っている)、安息日は土曜日なんだから土曜日に礼拝を守らなければならないと主張する人たちもいます。しかし、このような考えには、この安息日の本来の意味が見失われています。

新約聖書には、安息日論争が繰り広げられています。一つは福音書の中で、イエス様ご自身が律法学者やパリサイ人と論争されている箇所が出てきます。主は、安息日は人のためにあるのであり、人が安息日のためにあるのではない、と言われました。ユダヤ教は、この安息日についての規則を細部に至るまで定めています。その結果、安息をもたらすはずの喜びの日が、自分でも負いきれないほどの重荷となっていました。

そして、新約聖書ではもう一つ安息日についての論争がありました。教会が誕生し、ユダヤ人だけでなく異邦人にもキリストの救いが広がって行ったとき、ある問題が提起されたのです。それは、異邦人クリスチャンも安息日を守るべきなのかどうか、ということです。それに対する使徒たちの答えは、明白でした。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。」(コロサイ2:16-17)
つまり、安息日は、次に来るものの影であり、その本体はキリストにある、とパウロは論じたのです。

これは、クリスチャンが礼拝に行かなくても良いということではありません。旧約の神は、新約の神でもあります。使徒の働きや手紙の中には、初代教会の信者たちが週の初め、つまり日曜日に集まっていたことが記録されています。それはキリストが復活された日が日曜日であり、また聖霊が臨まれて教会が誕生した日も日曜日だったからでしょう。日々の働きを止めて、礼拝に集い、主をともにあがめることはとても大切なことです。神が休まれたので、神が止められたので、私たちも日々の働きを止め、安息の主を覚えて、これを聖なる日としなければならないのです。

次に12節をご覧ください。ここには、第五の戒めが記されてあります。それは、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」というものです。これまでは神と人との関係についての戒めでしたが、ここからは人と人との関係、対人関係についての戒めが語られます。この順番が大切です。人と人との関係が正されるためには、まず神との関係が正しくなければなりません。

その対人関係の最初に出てくる戒めは、父と母との関係に関するものです。なぜ父と母との関係に関する戒めが対人関係の最初に語られているのでしょうか。それは、父と母が、神の代表として立てられている存在だからです。神に対して恐れと尊厳をもって仕えるように、神の代理者である父母に対しても恐れと尊厳をもって仕えなければならないのです。それは神が定められた秩序です。その秩序を重んじるようにというのが、この戒めが意図しているところです。ですから、これは単に父母を敬えというだけでなく、神が定められた社会の秩序において、上に立てられた権威に従うことも含まれているのです。家庭における両親、社会における年長者、組織における責任者、国における政治を司る人々のことです。そうした人々を敬わなければなりません。

ところで、「父と母を敬う」とはどういうことでしょうか。それは、神が私たちの上に立てられた人々に対して、私たちが尊敬と服従と感謝を表すことです。特に両親を尊敬しなければなりません。それは、私たちが今この世にこうしているのは両親のお陰でもあるからです。だから、両親を尊敬しないものは、人間として最も基本的にところに欠けていると言えます。

創世記9章に出てくるノアの3人の子どもの内、ハムは父を尊敬しませんでした。彼は父ノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸で寝ていたとき、「あざ笑った」とあります。当時、裸をさらすということはのろいに値することでした。その父の裸を見て彼はあざ笑ったのです。これは父の名誉を傷つけることでした。他の2人の子どもセムとヤペテはそうではありませんでした。彼らは父の裸を見ないようにそれを覆いました。父を尊重するように、その弱さ、醜さ、罪を見ないように覆ったのです。しかし、ハムはあざ笑いました。それゆえに彼は呪われてしまいました(9:25)。ここでハムではなくその子孫であるカナンが呪われているのは、その呪いが子孫にまで影響を及ぼしているということです。父と母を敬わない人は、その人の人生だけでなく、その子孫にまで影響を及ぼすことになるのです。

この戒めには特別な祝福が約束されています。それは、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」というものです。これは単に長生きするということではなく、質の高い豊かな人生を味わうことができるという意味です。たとえば、神に従わなかった最初のアダムは930歳まで生きましたが、神に従った第二のアダム(イエス・キリスト)は、33歳でこの世を去られましたが神の右の座に引き上げられました。そういう生涯が約束されているのです。

この戒めについて注意すべきことは、使徒パウロがエペソ6:1で言っているように、「主にあって」従うということです。つまり、この服従は信仰の行為としてなされなければならないということです。と同時に、親が信仰に反対し、神の律法を犯すようなことがある時には、当然、私たちは真の権威者であられる神に従わなければなりません。それは両親ばかりでなく、家庭であれば夫であり、会社であれば上司、学校であれば先生など、あるゆる場合において言えることです。そして、そうした人たちのために、私たちはとりなしの祈りをささげるべきなのです。それこそ、父母を真に敬うということであり、愛することなのです。

第六の戒めは、「殺してはならない。」(13)です。当たり前と言えば当たり前のことでいすが、どうして神はこのように言われたのでしょうか。この「殺してはならない」という戒めをめぐっては、いろいろな誤解があります。たとえば、ここに「殺してはならない」とあるので、これは一切、人を殺してはならないということであって、それは戦争で武力を行使することや、警察がいわゆる正当防衛で犯人を殺してしまうことも含まれる、つまり、聖書は戦争をしてはならないと教えているという解釈です。

けれども、これはそういうことではありません。この「殺してはならない」ということばはヘブル語で「ラツァック」ということばですが、英語では”murder”と翻訳されているように、明らかに人が故意に、計画的に、不法に人を殺害する場合を指しています。つまり、自分の身を守ろうとする正当防衛や、他国からの攻撃に対して自国を守るための反撃、また殺人を犯した罪による死刑は、これらに該当しないのです。もちろん、戦争や死刑制度などは神様が望むはずはありませんが、人間に罪がある以上、悪がはびこることは避けられないことです。そうした悪が増殖するのを防ぐための抑止力として神様が用いられることがあるのです。

また、旧約聖書をみると、イスラエルがカナンの地に入っていくとき、その地の住民を皆殺しにするようにと命じています。女も、子供も、家畜に至るまで。これを「聖絶」と言いますが、ただ読んだだけでは、聖書の神は何と残酷なことをされるのかと思ってしまいます。神は愛だと言いながら、みな殺しにせよというのはひどいじゃないか・・・と。そのような記述を読むと、聖書は矛盾しているのではないかと感じたりします。そして、求道者はそのようなことに躓いてしまうのです。
しかし、あの箇所をよく見ると、あれは神のイスラエルに対するあわれみのゆえの命令であったことがわかります。つまり、カナンの地は偶像に満ちていました。そのような偶像に満ちていた地には昔からの習慣があって、そうした習慣から彼らを守るための神の計画だったのです。

また、この前の章には、「山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。」(19:12)とあり、21:12には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければいけない。」とあります。一方で殺してはいけないと命じておきながら、もう一方で殺しなさいと言うのは矛盾しています。その他にも、聖書には数多く、神ご自身が殺しなさいと命じている箇所があります。普通に読めば、ここは殺意を持って、不法に殺すこと、つまり殺人を禁じている箇所です。警察が、他の人や自分を殺そうとしている凶悪犯に最後の手段として銃を使って殺すことや、また攻撃してくる外国の敵に対して自国の軍隊が反撃することではありません。もちろん、これらのことも理想的な状態ではあるとは言えません。しかし、現実には罪のゆえにこうしたケースが起こるわけで、そうしたことに対してはきちんと対処することを、聖書は禁じてはいないのです。

もう一つの誤解は、ここに「殺してはならない」とあるので死刑制度はおかしいのではないかという考えです。しかし、創世記9:6には、「人の血を流す者は、人によって、血をながされる。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とあることから、人の血を流す者は、人によって血を流されなければなりません。これが、神が定めている死刑制度です。これは律法が定められる前のことであり、神が人類に与えておられる普遍的な原則なのです。このみことばは、カインの殺人事件にまで遡ります。ご存知のように、人類最初の殺人事件はアダムとエバの子カインがアベルを殺したことに端を発します。自分のささげたものを神は受け入れずアベルのものを受け入れたことを知ったカインは、弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。その時神は何と言われましたか。「カインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」(4:15)と言って、だれも彼を殺すことがないように守ってくださいました。そして、その子孫のレメクにはこう言っている。「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」(4:24)。これはどういうことかというと、俺は何をしても赦される。だれも俺に手を出すことなどできないと宣言しているのです。つまり、彼は神のあわれみをねじ曲げそれを利用するかのようにして、自分のやりたい放題のことをしたのです。カインが人を殺しても死刑にならなかった。カインが殺されなかったのであれば、自分も何をしても赦される、という思いです。そして、その結果がノアの時代に続きます。創世記6:5に、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあります。何をしてもいい。人を殺したって大した問題ではないといった思いです。そうした人間を神はどうされたかというと、大洪水で滅ぼされたわけです。人を殺してはならない。人を殺せば、自分も殺されると。残酷なようだけども、人を殺すなら、その責任を負わなければなりません。もちろん、だからといって救われないということではありません。悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら救われます。しかし、この地上での責任は負わなければならないのです。これが神の定めた死刑制度なのです。

もう一つの誤解は、この戒めは自分には関係ないと思っていることです。そのような人に対してイエス様はこのように言われました。マタイ5:20~26です。イエスさまは「殺してはならない」の戒めの真意を、山上の垂訓でさらにお語りになっています。もし兄弟に向かって、馬鹿、と言ったら、あなたがたは最高法院に引き出される、と言われました。つまり物理的に殺さなくとも、殺意を抱けばそれでこの戒めを破ったことになるのです。「こいつさえいなければ、幸せなのに」と思ったとき、私たちは、実は人を殺していることになるのです。そういう意味では、私たちはどれだけの人を殺しているでしょうか。そういう意味では、この戒めは私たちとも無関係ではありません。私たちは人を憎んだり、馬鹿者と思ったりする弱い者ですから、この律法を完全に守ることなどできません。だから、イエス様の赦しを、イエス様の義を求めなければならないのです。人を殺している人を見て、何てひどいことを・・と思いますが、実は私たちもそのような者なのだということを覚えて、イエスの十字架の赦しの中に生きなければならないのです。

次は、「姦淫してはならない」(14)です。これは第七の戒めとなります。これは婚外交渉をしてはいけないということです。結婚前に性交渉を持つことも含まれます。結婚の外でのありとあらゆる性行為や不健全な性行為全般のことです。それが禁じられているのです。神は天地を創造されたとき、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地に従えよ。」と命じられました。ですから、生殖行為は神から与えられた賜物ですが、それを神が定めたところ以外で用いることを、禁じているのです。この世ではばからしいと感じられるかもしれません。この世では全く反対の動きがあります。この世の性的な価値観は聖書のそれとはかなりの違いがあります。

この教えについても、自分には関係がないと、人ごとのように感じておられる方もいるかもしれません。しかし、イエス様はこの戒めの真意を次のように教えられました。マタイ5:27~28です。ここには、「情欲をもって女を見るならば、姦淫の罪を犯したことになる」とあります。当時の律法学者たちは、外側の行ないが良ければ律法を守ったことになる、としていました。しかし、聖書は私たちの内面を取り扱っています。心の中で情欲をもって女を見るなら、姦淫を犯すことになるのです。つまり、殺人もそうですが、こうした姦淫も心の中が問われているのです。心の中でそうした思いを抱くので、それが外側に行為となって表れるのです。ですから、心の中でそのような思いを抱いた段階で罪を犯すことになるのです。そういう意味では、本当に私たちは弱い者に過ぎず、主イエスの助けと赦しがなければ生きていくことはできません。

この「姦淫してはならない」という戒めを破ることのおそろしい点は、これが自分自身を滅ぼすことにつながっていくことです。箴言6:32には、「女と姦通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす」とあります。この「自分自身」ということば「自分のたましい」という意味です。「ネフェシュ」ということばが使われています。自分のたましいを滅ぼすことになります。それは肉体的な面だけでなく、感情的な面でも、人格の面でも、それ以上に霊的な面にまで及びます。主イエスは、あなたの目がつまずかせるなら、それを取ってしまいなさいと言われましたが、こうした情欲を抱かせる者に対しては徹底的に捨てる、遠ざける必要があります。

第八番目の戒めは、「盗んではならない」(15)です。これも自分とは関係がないと思う人が多いかもしれませんが、実は私たちと深い関わりがあります。というのは、これは物を盗むことだけではなく、所有権を犯すことだからです。もちろん、泥棒、詐欺、万引きは盗みですが、たとえば借りたものを返さないこともそうなのです。試験でカンニングするのもそうです。キセルも料金も盗む罪です。脱税や税金をごまかすことも、会社の備品を持って帰ることも含まれます。カイザルのものはカイザルに、そして、神のものは神に返さなければなりません。

詩篇24:1には「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」とあります。この地のすべては主のものです。ですから、私たちは主のものを主のものとして返さなければなりません。それを返さなかったら盗んでいることになるのです。それが十分の一献金です。十分の一を主にお返しすることによって、私たちは主のものを主のものと認めているわけです。それをしなかったら盗んでいることになります。マラキ書4章で十分の一をささげていなかったイスラエルに対して神は何と言われましたか?「あなたがたは盗んでいる」と言われました。彼らはドキッとしたでしょう。

その神のものを神のものとせずに盗んでいた人に対して、どんなさばきがあったでしょうか。ヨシュア6,7章には、アカンの罪について記されてあります。アカンは、アカンことをしました。イスラエルがエリコの町を占領したとき、彼は神のものに手につけたのです。神はすべてのものを聖絶するようにと命じられましたが、彼は一部の物を取っておきました。その結果、次のアイとの戦いにおいて、イスラエルは大敗を喫しました。原因はアカンが神の命令に背いて、自分のために取っておいたことです。神のものを神のものとしませんでした。神のものを盗んでいたのです。そういうことには神のさばきが伴うのだということを覚えておきたいと思います。

第九番目の戒めは、「偽りの証言をしてはならない」ということです。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」(20:9)とあります。これは法廷において事実と異なる証言をすることを禁じることですが、ここではそれ以上の意味が込められています。

ハイデルベルグ信仰問答書があります。その112問に次のような問答があります。
「十戒の中の第九戒では、何が求められていますか?」
それに対する答えはこうです。
「私がだれに対しても偽りの証言をせず、誰のことばをも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。かえってあらゆる嘘やごまかしを悪魔のわざとして、神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他あらゆる取引においては真理を愛し、正直に語り、また告白すること。さらにまた、私の隣人の栄誉と威信とを、私の力の限り守り、促進するということです。」

よくまとめられていると思います。ですから、これは単に嘘を言ってはならないということではないのです。その具体的な例として、マタイ26:59~63で、イエスを訴えるための偽証をあげることができます。ここで問題だったのはどんなことでしょうか?それは彼らが自分たちに都合がいいようにイエス様のことばを勝手に解釈し、それをねじ曲げたことです。確かにイエス様は「わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる」と言いましたが、それは目に見える神殿のことではなく、御自分のからだのことを指して言われました。十字架と復活のことです。それなのに、彼らはそれを、イエス様を訴える口実として利用しました。偽りの証言のいやらしさがここにあります。彼らの動機が間違っていました。彼らはイエス様を訴えるためにそれを用いたのです。

これが悪魔のすることです。ヨハネ8:44には、悪魔は真理に立っていない、とあります。自分にふさわしい話し方をしているが、偽っているわけです。最初の人アダムとエバもそうでした。悪魔はエバに、「神は本当に言われたのですか」と神が言われたことを引用して、それを用いて騙しました。それを食べるそのとき、あなたの目が開かれ、神のようになる・・・と。嘘も方便ということばがありますが、半分本当でも、半分嘘なのです。自分に都合がいいように勝手にねじ曲げました。それが悪魔のやることです。

しかし、嘘が必ずしも悪いことではありません。ヨシュア記をみると、カナンの娼婦であったラハブはイスラエルのスパイをかくまったとき、嘘をついて彼らを守りました。そして、それゆえに称賛されています。かつてナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺の事件のときも、コーリー・テンブーン家族はユダヤ人をかくまって守りました。そのように人のいのちを生かすとき、他者の利益のために、嘘をつくことがありますが、よほどのことがないかぎり、嘘をついてはいけないのです。なぜなら、それはサタン的だからです。

黙示録12:10を開いてください。ここには「私たち兄弟たちの告発者」とあります。これはサタンのことです。皆さん、サタンは告発者なのです。神の前に訴える者です。私たちの犯した罪を並び立てて訴えるのです。だれでも罪を犯したり、失敗したりします。ですから、そのように訴えられたら弁解しようがないわけです。しかし、偽りの証人は自分にとって都合がいいように事実をねじ曲げます。半分は事実ですが、半分は間違っています。その動機が間違っています。Iヨハネ2:1には、私たちには弁護人がいます。義なるキリストです。私たちはどうしようもない罪人です。しかし、そんな私たちのために罪を清めてくださった方がおられる。それがキリストです。これも事実なのです。それなのにサタンは半分しか言いません。これがサタンの巧妙なわざです。

これは私たちも注意しなければなりません。クリスチャンならみな天国に行きます。にもかかわらず、あのクリスチャンが、このクリスチャンが、と悪く言うとしたら、神はどう思われるでしょうか。そうした偽りの証言を、神はどれほど忌み嫌われることでしょうか。箴言19:5には、「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。」とあります。半分の事実だけを取り上げて、ねじ曲げて、その人のことを悪く言うとしたら、それはサタンと同じようなことをしていることになります。神は、そういうことを忌み嫌われるのだということを覚えておきたいと思います。

ではどうしたらいいのでしょうか。イエス様はこのように言われました。マタイ5:37です。「はい、は、はい。いいえは、いいえ、はいいえと言いなさい。」と。口は災いのもとと言われますが、そうです。これは物を盗むことよりも被害が大きくなることがあります。人の噂話によって広がっていき、ある人の信用を傷つければ、その人は一時的に物を失うよりももっと長い、いや死ぬまで続くほどの害を被ることさえあります。ヤコブは、「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」(3:6)と言いました。

ですから、自分が偽りの証言をしないように、いつも主が自分の口を守ってくださるように祈らなければなりません。詩篇119:29,120:2,箴言3:8を参照してください。このように祈ることが偽りの証言から自分の身を守る秘訣なのです。

17節をご覧ください。十番目の戒めです。「あなたの隣人の家を欲しはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲してはならない。」(17)
最後の戒めは、むさぼってはならないという戒めです。この戒めの特徴は心に関することであるということです。他の戒めは行為に関することですが、これは心から出るむさぼりを取り扱っています。欲しがること、あるいは、むさぼりは他の戒めを破ることにつながる、最初の欲望です。盗むのは他人のものをむさぼっているからです。姦淫するのも、他人の妻をむさぼっているからです。嘘をつくのは、自分がむさぼっていることを隠したいからです。父母をののしるようなことをするのは、父母に与えられた神の権威を欲しがっているからです。今あるもので満足すること、神の恵みが自分に十分にあることを知ることが、むさぼりから守られる秘訣です。ヘブル13:5にはこう書いてあります。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」

マタイ19:16~22には、金持ちの青年がイエス様のもとに来て、救われるためにはどうしたら良いと尋ねる場面が出てきます。それに対してイエス様が律法を守るようにと言うと、彼はそのようなものはみな守っています、と答えました。そこでイエス様は最後にこの戒めを言うのです。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」すると彼は悲しんで去って行きました。財産と霊性は切っても切り離せない関係にあります。お金の使い方でその人の霊的状態がわかります。いま持っているもので満足しなさい。神を第一に求めていくこと、それが、この戒めが指摘していることだったのです。

Ⅲ.神への恐れ(18-26)

すると、民はどのように応答したでしょうか。18~19節をご覧ください。
「民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた。彼らはモーセに言った。「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。」

イスラエルの民は十戒を聞いて、神が恐くなり、たじろぎ、遠く離れました。律法によって神に近づけられたのではなく、神から遠ざかろうとしたのです。これは単に、彼らが雷や稲妻などの物理的な現象に驚いていたからではありません。神の聖さに触れたからです。あの預言者イザヤも、高く上げられた御座に着いておられる主を見たとき、「ああ、私は滅んでしまう」と叫びました。「この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主の栄光を見たとき、彼もたじろぎました。ここでも、イスラエルの民は、聖なる神の臨在に触れた時、自分たちがいかに汚れた者であるかがわかったのです。

神の律法に触れると、私たちにも同じようになります。律法は聖なるものであり、正しいものであり、そこには神の聖いご性質が表れています。したがって、律法の鏡に写し出されてみてはじめて、自分がいかに罪深い者であるかを知ることになるのです。そして、律法を守ることによっては神に正しいと認められることなどできないということ、むしろ自分がいかに汚れ、罪人であり、死罪に値する者であるかに気づかされます。私たちは地獄があるなんて恐ろしく、神がそこに人を入れるなんてひどいと思うかもしれませんが、律法が与えられるとき自分が地獄に行かなければならない存在であり、永遠のさばきを受けなければいけない存在なのだと気づくのです。

そして、神のあわれみにすがるようになります。「どうかあなたのあわれみによって、私の罪を赦してください。」と。その結果、神の救い、キリストの十字架による贖いの死を信じる信仰へと導かれます。ローマ8:3に、「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」とある通りです。
このように、律法は私たちを清める力はありませんが、私たちを救い主の許へと導きます。ですから、パウロはガラテヤ書で、律法はキリストへ導く養育係であると言っているのです。イスラエル人と違い、私たちは神に大胆に近づくことができます。それは、キリストの血によって、神の御座がさばきの座ではなく、恵みの座になったからです。おりにかなった助けを受けるために、神の御座に大胆に近づくことができるのです。信仰により、恵みによって義とされていることを感謝しましょう。

20~21節をご覧ください。「それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」民は遠く離れて立ち、モーセは神がおられる黒雲に近づいて行った。」

モーセは、「恐れてはいけません」と言いました。神が来られたのは彼らが恐れるためではありません。彼らを試みるためです。彼らがいかに罪深い者であるかを悟り、自分の義ではなく神の義に頼るかどうか、そして、神に従って生きるようになるためだったのです。それなのに神を恐れて、「やっぱりだめだ。自分は汚れている。とても神様に従うことなんてできない」と思ったら本末転倒です。そうではなく、彼らが神を恐れ、神の愛と恵みに生きることを神は願っておられたのです。

最後に、22~26節をご覧ください。
「主はモーセに言われた。「あなたはイスラエルの子らにこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたに語ったのを見た。あなたがたは、わたしと並べて銀の神々を造ってはならない。また自分のために、金の神々も造ってはならない。あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」

ここで神はどのように神を礼拝したらよいかを語られます。彼らは、神が天から語ったように銀の神々や金の神々を造ってはなりません。彼らは、神のために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛を全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければなりませんでした。そうすれば、主が彼らに臨み、彼らを祝福してくださるというのです。どういうことでしょうか。これは、彼らが神を礼拝する時には、シンプルでなければならないということを意味していました。金や銀で出来たあでやかな祭壇ではなく、土で出来た質素な祭壇です。なぜなら、もし金や銀で祭壇を作るなら、そうしたものに心が奪われ、神に集中することができなくなってしまうからです。神は、自分以外に人々の注意がそれることを望まれませんでした。神を礼拝するときは、それを妨げる要素をなるべくなくさなければなりません。それで土の祭壇です。私たちの礼拝はどうでしょうか。礼拝堂は金や銀のようにあでやかになってはいませんか。賛美をリードする人は、神ご自身よりも自分の音楽技術を披露するようなことにはなっていないでしょうか。牧師が説教する時、神のみことばではなく、自分の体験談ばかり話たりして、神の栄光に陰りが出ていないでしょうか。神を礼拝する時は、神に集中できるように、土で祭壇を造らなければなりません。また、その上に、全焼のいけにえと、和解のいけにえをささげなければなりません。なぜなら、神への礼拝は動物の犠牲によって成り立つからです。この動物のいけにえこそイエス・キリストを指し示していました。私たちは、言えうす・キリストの犠牲のゆえに神のものとされ、神に受け入れられる礼拝をささげることができるのです。

そのことは、次の所でも言われています。25節には、「もしあなたが、わたしのために石で祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。それに、のみを当てることで、それを冒すことになるからである。あなたはわたしの祭壇に階段で上るようにしてはならない。その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」とあります。ここには、もし祭壇を築いて主を礼拝しようするなら、次の三つのことをまもらなければならないと命じられました。すなわち、石で祭壇を造るなら、それは切り石で築いてはならないということ、また、それにのみを当ててはならないということ、そして、主の祭壇に階段で上るようにしてはならないということ、つまり、高くしてはならないということです。そして三つ目のことは、その上で、あなたの裸をあらわにしてはならないということです。

切り石で築いてはならないとか、のみを当ててはならないというのは、加工された石を使ってはいけないということです。それは先ほども申し上げたように、そのようなものに心が奪われ、神に集中することができなくなってしまうからです。祭壇は、その上でいけにえをささげるためのものです。ですから、それに人が勝手に手を加えることなど出来ないのです。ここには「わたしの祭壇」とあるように、それは主の祭壇であって、そこでは主のいけにえがささげられるのです。キリストの十字架がたてられたのは、土や石のあるゴルゴタの丘でした。切り石で築いたきれいな丘ではありませんでした。自然の石の上に立てられたのです。同じように、主の祭壇も、切り石やのみを当てたりしない自然の石ので築かなければなりません。

それから、主の祭壇に階段で上るようにしてはいけませんでした。高くしてはならないということです。世界各地に残っている当時の祭壇は、高く、きれいなものであることが多いです。そこに、裸の祭司が上って、いけにえをささげる事が多かったのです。太陽礼拝、月礼拝などの祭壇は、特に高く造られていました。バベルの塔がそのいい例です。それは、ほんとうの神への挑戦を意味していました。この世での様々な宗教においては、誰からも見えるところに造られたのです。でも、主が定めた祭壇の掟は、むしろ簡素な、目立たないものでした。これは、人の側の謙遜を意味するものでした。後のところで、幕屋と祭壇が作られますが、それは、幕屋の中の、隠されたところにありました。当時の人々は、神を礼拝する事を、人に見せびらかすため、そして、神にアピールするために行っていました。それはとても派手で、華々しく、仰々しい事だったでしょう。祭司が高い祭壇に上って行き、そこで儀式が行われたのです。しかし、神を礼拝するのは神にアピールするためでも、人に見せびらかすためでもありません。イエス様は、「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。」と言われました(マタイ6:6)そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われたのです。これが祈りです。これが礼拝です。それは人に見せることでも、神に見せることでもありません。ただ単純に神を恐れ、単純に神を愛し、単純に神を求め、単純に神に感謝し、ささげものをし、そして、常に謙遜であることです。それは、形式でもありません。祭壇は、すぐに崩れてしまうようなもので十分でした。きらびやかなものである必要はなかったのです。高い所に造る必要もありませんでした。

そして、ここには、「その上で、あなたの裸があらわにならないようにするためである。」とあります。私たちの裸があらわにならないようにするために必要なのは、そのようにして造られた祭壇の上に、全焼のいけにえと交わり(和解)のいけにえをささげることによってです。それは、私たちのために十字架で死んでくださったキリストの贖いを示しています。私たちが神を礼拝できるのは、このキリストの犠牲のゆえなのです。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉で綴り合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい、全く役に立たなかったでしょう。しかし、神はそんな彼らのために動物の皮で作った着物を着せてくださいました。まさに、その動物こそがキリストの血を象徴していたのです。そのように神がしてくださいました。

ですから、私たちに必要なのは、私たちが何か神のためにするということではなく、神が私たちにしてくださったことを思い、そのことに感謝し、神を神として、心から神に感謝をささげることです。これが神を礼拝するということです。神を神として畏れ、ひれ伏す事。神を神として、価値のある方、素晴らしい方として礼拝する事。神を王の王、主の主、すべてを支配なさる方として敬う事です。その神の前で、わたしたちは、ちっぽけで、罪深く、価値のない、虫けらのような存在であることを自覚する事です。そして、その虫けらのわたしたちを愛してくださる主に、心から感謝する事なのです。

出エジプト記19章

Ⅰ.神との契約(1-9)

 

「エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

エジプトを出たイスラエルの民は、約束の地を目指して旅を続けてきましたが、レフィディムから次の宿営地であるシナイの荒野に入りました。それは、第三の新月の日でした。つまり、3月1日のことです。イスラエルがエジプトを出たのは第一の月の14日でしたから、ここまで来るのに約1か月半かかったことになります。休みながらの移動だったので、相当な時間を要したのでしょう。シナイの荒野に入ると、彼らは山を前に宿営しました。この山とはシナイ山です。かつてモーセはこの山で神から召命を受けました。あれから1年後、モーセは再び神の山に戻ってきたのです。

モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んでこう言われました。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。」

主は、ご自身がイスラエルの民をエジプトから解放するために何をしたのか、また、どのようにここまで導いて来られたのかを語られました。「鷲の翼に乗せて」とは、追って来る敵の手からすみやかに救出したという意味です。また、「わたしのもとに連れて来た」とは、このシナイ山に来たことを指しています。なぜ主は彼らにこのように過去のことを回顧させているのでしょうか。それは、これがこれから民と契約を結ぶ前提となるからです。

5節、6節をご覧ください。ここでは、その契約の内容が語られています。それは、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」ということです。どういうことでしょうか。もし、神の声に聞き従い、神の契約を守るなら、あらゆる民族の中にあって、彼らは神の宝の民となるというのです。つまり、神が所有される特別な宝となるということです。これは特別な祝福です。というのは、全世界は主のものであり、それゆえに主は、ご自分のみこころのままに人を祝福したり、罰したりすることができるわけですが、イスラエルの民は、その神の特別な宝となるのです。つまり、神の特別な所有財産となるのです。これ以上の特権はありません。

そればかりではありません。ここには、「全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。祭司とは、神と人を仲介する人のことです。イスラエルの民を見て、神がどのような方であるのかを人々が知るようになり、また人々のためにイスラエルが神に執り成しをするのです。これはアブラハムと結ばれた契約の延長でもあります。かつて神はアブラハムにこう仰せられました。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)。それは彼らの自己満足のためではなく、すべての国々の中で光となるためであり、他の民族がこの方が主であると認めるためでした。けれどもイスラエルは自分を求めるだけで、この使命を失ってしまいました。

そればかりではありません。ここには、「聖なる国民となる」とも言われました。「聖」とは、分離するという意味があります。つまり、諸国の中から分離された国民となるということです。これまでは他の国民のように自分の欲望と満足のために生きてきましたが、これからは神の民として、真の神を信じ、その神の教えと戒めに従って歩む聖なる国民となるのです。

モーセは、神から告げられたことを民の長老たちに示すと、彼らはどのように応答したでしょうか。8節には「民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主の言われたことをすべて行います。」それでモーセは民のことばを携えて主のもとに帰った。」とあります。民はモーセが語ることばに同意し、自分たちは、主が仰せられたことを、すべて行います、と言いました。すばらしいですね。主が仰せになられたことをすべて行うことは不可能なことですが、それでも彼らはそのようにしたいと応答しました。

それで、モーセは、民のことばを携えて主のもとに戻りました。すると主はモーセに言われました。「見よ。わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む。わたしがあなたに語るとき、民が聞いて、あなたをいつまでも信じるためである。」(9)

主は濃い雲の中にあって、モーセに現われました。それは主がモーセに語られるとき、イスラエルの民がそれを聞いて、彼らがモーセを信じるためです。つまり、モーセが本当に神と語っていることを彼らが知り、モーセのリーダーシップを認めるためです。モーセはここで仲介的な役割を果たしています。民の言葉を神に告げ、主のみことばを民に告げています。同じような役割をイスラエルの民にも与えられていました。それは、神の愛と義を諸国民に示し、また、神と諸国民の間に立って、両者をとりなす役割です。しかし、後の歴史が示しているように、彼らはその使命を果たすことができませんでした。彼らの信仰があまりにも表面的であったというか、みことばに深く根差していなかったからです。確かに彼らは、「私たちは主の言われたことをすべて行います」と応答しましたが、それがどういうことなのかを深く考えることができなかったのです。

イエスは種まきのたとえ話の中で、岩地に蒔かれた種は、土が深くなかったので、すぐに芽を出したが、しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまったと話されました。この時のイスラエルはまさに岩地に蒔かれた種のようでした。神のことばを聞いて「私たちは主の言われたことをすべて行います。」と応答しましたが、それがどういうことなのかを深く考えることをしませんでした。

私たちも同じです。主はご自身を信じる者にすばらしい約束を与えておられますが、その約束を受けるためには、「もし、あなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、」とあるように、神の声に聞き従い、神との契約を守ることが求めてられています。そのためには、神のことばが何と言っているのかを良く聞き、ご聖霊の助けと力を仰ぎながら、神に全く信頼しなければなりません。私たちの表面的な感情や力だけでは、主の御声に聞き従うことはできないのです。神のことばに深く根差しながら、イエス・キリストの救いの恵みに感謝して、神の声に聞き従う者でありたいと思います。

Ⅱ. イスラエルの民の聖別(10-15)

モーセが民のことばを主に告げると、主は何と言われたでしょうか。10~15節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたは民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせよ。彼らに三日目のために準備させよ。三日目に、主が民全体の目の前でシナイ山に降りて行くからである。あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」 モーセは山から民のところに下りて行って、民を聖別した。彼らは自分たちの衣服を洗った。モーセは民に言った。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」」

モーセが民のことばを主に告げると、主はモーセに、民のところに行き、きょうとあす彼らを聖別し、自分たちの衣服を洗わせるようにと言いました。三日目に、主が民全体の前でシナイ山に降りて来られるからです。彼らは二日間かけて自らをきよめなければなりませんでした。具体的には、衣服を洗うということです。自分の衣服を洗うことが、どうしてきよめることと関係があったのでしょうか。主はきよめるということがどういうことなのかを教えるために、外側のきよめという目に見える形を通して示されたのです。神が聖なる方であるから、彼らにも聖であることを求められました。その聖であるということがどういうことであるのかを理解させるために、外側のきよめを命じたのです。イエスは、外側からのものは厠に流されるだけで、人を汚すのは内側から出てくるもの、嘘、偽り、好色、殺人といった類のものであると言われました。ただキリストの血によって、また神のみことばによって私たちの心はきよめられるのです。

次に主は、周囲に境を設けるようにと言われました。12~13節です。「あなたは民のために周囲に境を設けて言え。『山に登り、その境界に触れないように注意せよ。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。その人に手を触れてはならない。その人は必ず石で打ち殺されるか、矢で殺されなければならない。獣でも人でも、生かしておいてはならない。』雄羊の角が長く鳴り響くときは、彼らは山に登ることができる。」

シナイ山の周囲に境を設ける必要がありました。なぜなら、そこには聖なる主が下りてこられるからです。山に触れる者があれば、その人は石で打ち殺されなければなりませんでした。主はそれほど聖なる方であられるからです。人間も動物も、その境を越えることは許されませんでした。汚れたものが聖なる地に足を踏み入れることは、そのまま死を意味したのです。では、いつ山に登ることができたのでしょうか。このように二日間身を聖め、角笛が長く鳴り響くのを待たなければなりませんでした。

新約の時代に生きている私たちは、別の方法で神に近づくことができます。それはイエス・キリストによってです。イエスは私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。この十字架の血が私たちをきよめることができます。だれでも、神に近づきたいと思うなら、この血のきよめを受けなければなりません。へブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とあります。これが、私たちが神に近づくことができる唯一の方法です。これ以外の方法で神に近づくことはできません。そのようにすることは、「境」を越えることであり、神の裁きを身に招くことになります。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)主イエスだけが、罪と死の問題から私たちを解放してくださるお方であり、このイエスによってのみ、すなわち、イエスを信じることによってのみ、神に近づくことができるのです。

モーセは、山から民のところに下って行って、民を聖別し、彼らの衣服を洗いました。そしてこう言いました。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない。」ここにはもう一つのことが付け加えられています。それは、「女に近づいてはならない」ということです。これはどういうことでしょうか。これは、必ずしも不品行のことではありません。自分の妻との性的な関係を控えなさい、という意味です。夫婦の肉体関係が罪であるとか汚れているということではありません。衣服を洗って身を聖めるように、外側の行ないによって、内側の聖さを示す必要があったのです。

Ⅲ.神の顕現(16-25)

次に16~25節をご覧ください。

「三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。主はシナイ山の頂に降りて来られた。主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセは登って行った。主はモーセに言われた。「下って行って、民に警告せよ。彼らが見ようとして主の方に押し破って来て、多くの者が滅びることのないように。主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」モーセは主に言った。「民はシナイ山に登ることができません。あなたご自身が私たちに警告して、『山の周りに境を設け、それを聖なるものとせよ』と言われたからです。」主は彼に言われた。「下りて行け。そして、あなた自身はアロンと一緒に上れ。しかし、祭司たちと民は、主のところに上ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」

三日目の朝になると、山の上に雷鳴と稲妻と厚い雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がりました。神の臨在に触れたからです。モーセは、神に会わせようと、彼らを宿営から連れ出し、山のふもとに立たせました。するとシナイ山は全山が煙っていました。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからです。煙はかまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えました。ものすごい光景ですね。そして、主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセが登って行くと、主は、「まず、下って行って、彼らが主を見ようとして主の方に近寄って来て、滅びることがないように警告するように」と言われました。それは祭司たちも例外ではありませんでした。主に近づく祭司たちも、自分自身を聖めなければなりませんでした。主は限りなく聖なるお方なので、この方に近づこうとするなら、主が怒りを発して、滅ばされてしまうからです。

ヘブル12:18~24には、これがどういうことなのかが記されています。

「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」

これは、この時のことを述べています。それは、シナイ山が揺れ動くほど恐ろしいものでした。だれも主の山に近づくことなどできませんでした。近づこうものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまうことになります。主はあまりにも聖なる方なので、だれも近づくことができなかったのです。

しかし、私たちには、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。どうやって?イエスの血の注ぎかけによってです。私たちが近づいているのは、地上のシナイ山ではなく、天のエルサレム、「生ける神の都」です。そこでは無数の御使いたちの大宴会が開かれています。これはただ神の恵み、イエスの血の注ぎかけによるのです。つまり、恵みの時代に生きている私たちクリスチャンは、恐れることなく大胆に、恵みの座に近づくことができるのです。これらのことを可能にするのは、すべて、新しい契約の仲介者である主イエスが、ご自身の血を御座にお注ぎになったからです。
私たちは、どのように神に近づいているでしょうか。旧約時代のイスラエルの民のように、自分が何か悪いことをしたのでは神は受け入れてくださらないのではないかと、びくびくしながら近づいてはいないでしょうか?もし、そうであれば、それは神がキリストによって成してくださった神の恵みに対する信仰が薄くなっているからです。私たちが近づいているのは、黒雲と煙が立ち上がっているシナイ山ではなく、シオンの山です。主が、私たちが神に近づくことができるためのすべてのことを、ご自分の血とその肉体によって成し遂げてくださったのです。だから、良心をきよめられて、大胆に神に近づくことができるのです。

神が聖なる方であることを知ることはとても大事です。しかし聖なる方に近づくためにその尊いひとり子の血が流されたことを忘れないでください。この方によって、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。これ以外に、私たちが神に近づく方法はありません。天の下で、私たちが救われるべき御名は、人間に与えられていないからです。まだこの神に近づいていない方は、どうかこの神の救い、イエス・キリストを信じてください。キリストが十字架で流された血潮を信じて、すべての罪をきよめていただき、大胆に神に近づこうではありませんか。