Ⅰテサロニケ5:19~28

きょうは、テサロニケ第一の手紙からの最後のメッセージです。前回までのところでパウロは、主の再臨に備えた者の生き方として、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。と勧めてきました。これが、キリスト・イエスにあって神が私たちに望んでおられることです。そして、その続きがきょうの箇所です。特に、この手紙の最後にあるパウロの結びのことばが心に響きます。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」いったい、キリストの恵みがあふれる生活とはどのようなものなのでしょうか。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.御霊を消してはなりません(19-22)

まず19節から22節までのところをご覧ください。「19 御霊を消してはなりません。20 預言をないがしろにしてはいけません。21 しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。22 悪はどんな悪でも避けなさい。」

ここには、「御霊を消してはなりません」とあります。どういうことでしょうか?御霊とは神の御霊である聖霊のことです。この聖霊を消してはならないというのです。御霊を消すということは聖霊を否定することです。Ⅰコリント12章1節から3節をご覧ください。

「1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」

神の聖霊によらなければ、だれも「イエスは主」と告白することはできません。私たちがイエスを主と告白することができるのは、この聖霊の促しと導きによるのです。イエス様を信じたくても聖霊の導きがなければそのように告白することはできません。しかし、聖霊がそのように促しているにもかかわらずそれを拒むことがあるとしたら、それは聖霊を否定することになります。御霊を消してしまうことになるのです。

またⅠコリント12章4節から7節のところも見たいと思います。ここには、「4 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」あります。

ここでは御霊の賜物について語られています。御霊の賜物にはいろいろな種類があります。たとえば、知恵のことばとか、知識のことは、信仰、いやし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力などです。いったい何のためにこれらの賜物が与えられているのでしょうか?それは、みなの益のためです。そのような賜物が用いられることによって神の教会、キリストのからだである教会が建て上げられていくのです。みなが同じではありません。みんな違います。しかし、その違った賜物が与えられてこそ教会は建て上げられていくのです。それなのに、そうした賜物を否定することがあるとしたらどうなってしまうでしょうか。それはちょうど目が「耳ではないからからだに属さない」と言っているようなものです。だとしたら、いったいどこで見るというのでしょうか?鼻で見るんですか、それとも耳でしょうか。鼻や耳で見ることはできません。目で見るのです。目はからだの中でなくてはならない大切な器官なのです。それと同じように、私たち一人一人もキリストのからだを構成している器官なのです。一つのからだには多くの器官があるように、教会にもいろいろな賜物があります。その賜物を否定してはいけないのです。もし否定することがあるとしたら、それは御霊を否定することであり、キリストのからだを弱くしてしまうことになるのです。

しかし、パウロはこうした賜物の中でも預言をないがしろにしてはいけないと言っています。預言とは言葉を預かると書くように、未来のことを予め語ることも含めた神の言葉を預かり、それを語ることです。なぜ預言をないがしろにしてはならないのでしょうか。なぜなら、異言は自分の徳を高めますが、預言は教会の徳を高めるからです。それは必ず教会を養い育てます。だから預言をないがしろにしてはいけないのです。

パウロはこのことをⅠコリント14章1節のところでこう言っています。、「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」とあります。愛が一番です。なぜなら、愛はすべてを結ぶ帯だからです。たとい人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ、何の値打ちもありません。愛が一番すぐれているものです。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛なのです。そして次は何でしょうか。次は預言です。御霊の賜物の中でも、特に預言することを熱心に求めなければなりません。神のことばをひたすら求めなければならないのです。なぜなら、神の言葉が私たちを養い育て、教会を建て上げるからです。

また預言だからといってもやみくもに信じてはいけません。それが本当に神からのものであるかどうかを十分に吟味しなければなりません。これは有名な先生が言ったことだからとか、これは有名な先生の本に書いてあったことだからといって、鵜呑みにしてはいけないのです。ここには、「しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」とあります。

この「見分ける」ということばは「吟味する」とか「検証する」ということです。元々は金属を試すことから出たことばです。それが本当に良いものであるかどうかをテストしました。そのように、それが本当に神から発せられたものなのかどうかを十分に吟味し、それが本物であるならば、たとえ自分の感情がどうであっても、喜んで従わなければならないのです。

使徒の働き17章11節には、ベレヤという町のユダヤ人のことが紹介されていますが、彼らはパウロが語ったことをよく調べました。「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」彼らはパウロが語ったからといってそれを鵜呑みにすることをせず、はたしてそのとおりかどうかを吟味するために毎日聖書を調べたのです。そのため、彼らのうちの多くの者たちが信仰に入りました。毎日聖書を調べるくらいの努力をしたら、何が本物であるかがわかるでしょう。この時代にはまだ新約聖書はなく旧約聖書しかなかったので、彼らは旧約聖書をもって吟味しましたが、今の時代は旧約聖書に加えて新約聖書もあります。この聖書をもって調べるのです。そうすれば教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることはないはずです。

テサロニケのクリスチャンは本当に純粋で、パウロを通して語られた神のみことばを、多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもって受け入れました。その結果、彼らは主にならう者となり、その信仰はすべての信者の模範となりました。それはマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、あらゆる所に伝わっていったほどです。しかし、そうした純粋な人たちだからこそ注意しなければならなかったことは、それを鵜呑みにしてはいけないということでした。Ⅰヨハネ4章1節には、「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものであるかどうかを、ためしなさい。」とあります。彼らに求められていたことはためすこと、吟味することだったのです。はたしてそれがほんとうに神からのものなのかどうかを検証して、見分けなければならなかったのです。あまり理屈っぽくなるのも問題ですが、信仰はこうした幼子のように純粋に受け入れるという面と、それがほんとうに神からのものなのかどうかを見分けるといった面の両面の作業が求められます。なぜなら、22節にも「悪はどんな悪でも避けなさい」とありますが、それが神に喜ばれ信仰への確かな道だからです。

Ⅱ.神は真実ですから(23-24)

次に23節と24節をご覧ください。ここには、「23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」とあります。

原文には、「平和の神ご自身が」の前に「de」という言葉があります。「de」というのは「しかし」という意味です。「しかし、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいます。」これは22節の言葉に続いています。「悪はどんな悪でも避けなさい。」無理です。そんなことできるはずがありません。こんなに汚れた者がすべての悪を避けるなんてとてもできません。「しかし」です。悪を避けることは自分の力ではできないかもしれませんが、しかし、平和の神ご自身があなたを助けてくださいます。あなたを全く聖なる者としてくださるのです。主イエス・キリストの再臨のとき、責められるところがないように、あなたの霊、たましい、からだを完全に守ってくださいます。ですから、神を信じてくださいというのです。

ここには、「あなたがたの霊、たましい、からだ」とあります。これは私たちの全領域においてという意味です。私たちは肉体だけの存在ではありません。私たちは霊、たましい、からだという三つの部分が一つになった統一体なのです。全人的な存在です。立派な家に住み、何一つ足りないものがない生活をしているのに、何だか虚しい。ポッカリ穴が開いたような感じがするのはなぜでしょうか。それは霊が死んでいるからです。私たち人間は神によって造られましたが、どのようにして造られたのかというと、「神のかたち」にとあります。この「神のかたち」というのは肉体のことではありません。これは「霊」のことです。なぜなら、神は霊だからです。この霊をもって神と交わり、神に祈り、神をほめたたえる者として造られました。そのとき私たちの霊は満たされ、生きる喜びが与えられます。しかし、人類最初の人であったアダムが神の命令に背き、取ってはならないと命じられていた木から取って食べてしまったので、神との関係が断絶してしまいました。聖書ではこれを罪と言っています。意味は「的外れ」です。的を外した状態になってしまったのです。本来なら神を愛し、神とともに生きるはずの者が、自分中心に生きるようになってしまいました。その結果、霊が死んでしまったのです。しかし、私たちが幸せになるためには、私たちのからだやたましいだけでなく、霊も健やかでなければなりません。なぜなら、私たちはそのように造られているからです。私たちは霊とたましいとからだが統一されて造られているのです。ですから、この三つの領域が完全に守られることによって、平和で、幸せな人生を送ることができるのです。

動物には霊がありません。霊があるのは人間だけです。動物にあるのはたましいとからだだけです。たましいというのは、感情の部分、情緒的な部分のことです。知・情・意の部分です。動物を見ていると喜んだり、悲しんだりしているのがわかります。私はフェレットを飼っていますが、毎朝エサをあげに行くと、私の顔を見るなりそわそわし始めます。ケージに前足をかけ、からだを大きく伸ばして、「早く出してけれ」みたいなことを言います。その表情をみるとわかるのです。かつてコロという犬を飼っていましたが、この犬も喜びを爆発させていました。私の姿を見るだけでしっぽをふって喜びを表現するのです。しかし、知らない人が近寄るとうなったり、吠えたりします。犬は飼い主には忠実ですね。飼い主がいれば喜び、いないと悲しみます。それは犬にもたましいがあるからです。でも犬には霊はありません。霊は人間だけに備わったものだからです。皆さんの中で犬が祈っているのを見たことのある人がいますか?いないでしょう。犬は祈りませぬ。それは人間だけが持っているものだからです。

それなのに、人間が祈れなかったどうなるでしょうか?もう生ける屍でしかありません。どんなにエステに行ってきれいになっても、どんなにジムに行ってからだを鍛えても、どんなに仕事をがんばって大金持ちになっても、生きる力、生きる喜びがありません。人間にとって一番大きな喜びは、神が共にいることだからです。これを永遠のいのちと言います。死んでも生きるいのち、復活のいのち、天国に導き入れられるいのちを持つこと、それが最高の喜びだからです。

皆さん、医学界の最大の発見は何だか知っていますか?それは、クロロフォルム(麻酔薬)の発見だと言われています。これは、ジェームズ・シンプソンによって発見されました。この麻酔薬が発見されたことによって、痛みをあまり感じることなく、手術が受けられるようになりました。歯を抜くときにも、麻酔薬のおかげで、痛みを感じることなく抜けるので本当に助かります。 ある時、この麻酔薬を発見したジェームズ・シンプソンが新聞記者から、「あなたの人生の最大の発見は何ですか?」という質問を受けました。新聞記者が期待していた答えは、彼の口から、「クロロフォルムの発見です」ということでしたが、シンプソン、そのようには答えませんでした。彼は「私の人生の最大の発見は、イエス・キリストを通して与えられた永遠のいのちです。」と答えたのです。麻酔薬という偉大な発見をしたシンプソンであっても、人生最大の発見は、イエス・キリストを通して与えられる永遠のいのちだったのです。

人はみな、いつかは必ず死にます。死亡率は100%です。しかし、イエス・キリストを救い主として信じるなら、死んだ後も、天の御国に入り、永遠に生き続けるのです。この永遠のいのちこそ、私たち人類にもたらされた最高の発見なのです。イエス・キリストを信じるなら、神があなたの霊、たましい、からだを完全に守ってくださるのです。

24節を見てください。それは神が真実な方だからです。その根拠はあなたにあるのではなく、神にあります。あなたがたを召された方は真実な方ですから、きっとこのことをしてくださいます。あなたにできなくても、あなたが失敗しても、あなたがするのではありません。あなたを召してくださった神がしてくださいます。そのことを信じてほしいと思います。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるのはあなたの働きではなく、御霊なる主の働きです。イエスによって救われた人は、イエスによってずっと救われ続けます。救ってくださった方にその責任があるからです。神が私たちを救ってくださったのですから、それが完成する日まで、イエスが再臨するその時まで守ってくださいます。だからとって、イエスに丸投げするわけではなく、私たちの側にも責任があって、私たちも神に自分をゆだねなければなりませんが、そうするなら、神が喜ばれるような者に創り変えてくださいます。あなたは神が望まれる者に変えられているでしょうか。いつも喜んでいるでしょうか。絶えず祈っていますか。すべてのことについて感謝していますか。もしそうでなければ、あなたは神が望まれる者になっていません。でも、神はあなたをそのような者に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。そう信じて、おそれないで、あなた自身を神に明け渡していただきたいと思います。

Ⅲ.すべての兄弟たちに(25-28)

最後に、25節から終わりまでを見て終わります。25節には、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。」とあります。パウロが救われたばかりのベイビークリスチャンたちに祈ってくださいとお願いしています。教会の創立者が、生まれたばかりのクリスチャンに、私のためにも祈ってほしいと言っているのです。ほんとうにへりくだった人です。へりくだっていなければこのように言えことはできません。あなたのために祈ってやります、あなたのためにしてやります、聞いてやります、となるのですが、パウロは、私のためにも祈ってほしいと、頭を下げているのです。それだけ牧師には祈りが必要であるということです。私のためにも祈ってほしいと思います。それは私が成功するためではなく、私が神の国の建設のために用いられ、神の栄光があがめられるためにです。

26節、27節には、「すべての兄弟たちに」が強調されています。「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつしなさい。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。」

ただのあいさつではありません。聖なる口づけをもってするあいさつです。聖なる口づけの「聖なる」という言葉は「フィレマー」というギリシャが使われています。「フィレマー」とは兄弟愛を目に見える形で表してという意味です。そういうあいさつをしなさいというのです。この世でしているようなありきたりの、表面的であたりさわりのない、形だけのものではなく、心からの、相手のことをおもんぱかりのあいさつをしなさいというのです。

「ハレルヤ!お元気ですか?先日はお体の具合がよくなかったと聞いていましたが、その後いかがですか?毎日のお仕事の中で信仰を守るのは大変なことでしょう。どのようにしておられるんですか?神の聖霊が兄弟を守ってくださるように祈っています。」というふうに。

教会に行ったけどだれからも声をかけられなかったとか、だれも親切にしてくれなかったということがないように、回りの人たちのことを気にかけたいあいさつされなかったとか、だれもいうことがないように、できるだけ回りにおられる方々のことを気遣いたいですね。日本人はどちらかというとどこかよそよそしいところがあって、自分から声をかけるというのが苦手なことがありますが、私たちはイエス様を信じた時から自分捨てました。今、私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。だから、イエス様が望んでおられるように、イエス様が願っておられるように生きていきたいと思います。だからそのようにするのです。聖なる口づけをもってあいさつしなさいとあるように、「あなたにお会いできてうれしい」「あなたのために祈っています」ということを、目に見える形で表したいものです。そしてそのためには、いつも兄弟姉妹に関心を持って祈っていることが大切です。

27節の「すべての兄弟たち」は、この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、とあります。これは主の命令です。主の命令によって、私たちにもこの手紙が読まれました。これがすべての兄弟たちに読まれるようにしなければなりません。他の兄弟たちにもです。すべての人に対してです。なぜなら、この手紙が読まれるとき、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あふれるようになるからです。主の日が近づいています。主イエスが再び来られるそのとき、主にあって眠った人たちは、すなわち、主イエスを信じた人たちは、朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。それが私たちの救いが完成です。この希望は失望に終わることがありません。これは失望に終わらない希望、究極の希望の言葉なのです。これが私たちの慰めとなります。ですから、私たちはこのことばをもって互いに慰め合わなければなりません。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるようにしなければならないのです。そしてここに希望を置き、私たちの主イエス・キリストの恵みにあふれた人たちがもっともっと起こされるようにと祈る者でありたいと思います。イエス・キリストの恵みが、あながたとともにありますように。

Ⅰテサロニケ5章16~18節「神が望んでおられること」

きょうは、Ⅰテサロニケ5章16節から18節までの短い箇所から、「神が望んでおられること」というテーマでお話したいと思います。

Ⅰ.いつも喜んでいなさい(16)

まず、「いつも喜んでいなさい」です。これは「パントケカイレテ」というギリシャ語1語で、聖書の中で最も短い節になっています。日本語の聖書の訳で最も短い節はルカ20章30節の「次男も」という節ですが、ギリシャ語では、この「いつも喜んでいなさい」「パントケカイレテ」です。ちなみに英語の聖書で一番短い箇所は、ヨハネ10章35節の “Jesus wept.”です。訳によって長さも違いますが、原文のギリシャ語ではこの「パントケカイレテ」、「いつも喜んでいなさい」が一番短い節です。これは最も短い節ですが、この中には大切なことが語られているのではないでしょうか。

「いつも喜んでいなさい」と言われても、できません。無理です。うれしいことがあったり、楽しいことがあったら喜ぶことができますが、嫌なことがあったり、苦しいことがあったときに喜ぶことなどできません。しかし、神の命令は「いつも喜んでいなさい」です。うれしい時には喜びなさいというのではなく、いつも喜んでいなさいというのです。いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。

その鍵は18節にあります。「キリスト・イエスにあって」です。私たちの力ではいつも喜んでいることはできませんが、キリスト・イエスにあるならばできるのです。自分の力で喜ぼうとしてもできません。自分の殻に閉じこもっていたのでは無理なのです。というのは、私たちの人生には喜べないと思うようなことがたくさんあるからです。いやむしろ、そういうことの方が多いのではないでしょうか。あなたから喜びを奪ってしまう出来事がたくさんあるのです。しかし、そうした中にあってももしあなたが自分の考えや思いにとらわれることなく、キリスト・イエスにあるならできるのです。

パウロは、ピリピ4章4節で「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言っています。なぜ彼はこのように言うことができたのでしょうか。彼はこの時獄中にいました。ある程度の自由は許されていましたが、それでも24時間監視されながら生活することは相当のプレッシァーがあったと思います。そうした中にあっても彼は喜びに満ち溢れていました。それは「主にあって」です。彼の置かれていた状況を見たら、決して喜ぶことなどできなかったでしょう。しかし、彼は主にあって喜ぶことができたのです。

では「キリスト・イエスにあって」とか「主にあって」とはどういうことでしょうか。それはイエス様があなたのために十字架にかかって死んでくださったその恵みにあってということです。ヘブル12章2、3節を開いてください。ここにはこうあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

ここでへブル人の手紙の著者は、罪人たちのこのような犯行を忍ばれたイエス様ことを考えなさい。それはあなたがたの心に元気が与えられ、疲れ果ててしまわないためです、と言っています。そうすれば、むしろ感謝になります。こんな私のためにイエス様が身代わりとなって十字架で死んでくださった。私の罪はイエス様によって全部赦されました。これは恵みです。感謝なことです。このイエス様の恵みを思えばということなのです。イエス様はご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともされませんでした。イエス様はあなたのために喜んで命を捨ててくださったのです。このイエスの恵みにあるならです。私たちはこのイエスにあって罪の赦し、永遠のいのち、神の豊かな恵みを受けたのです。神が私たちとともにいてくださるのです。私たちの人生にとって最もすばらしい祝福は神がともにおられるということです。これこそ、何にも代えがたい喜びです。私たちはイエス様を信じたことによってこの恵みを受けているのです。であれば、この世のものは「ちりあくた」にすぎません。どうでもいいことなのです。私たちはイエス・キリストにあって最もすばらしい恵みと祝福をいただいているのですから、この世で遭遇する様々な問題や苦しみは、取るに足りないことなのです。私たちはこのキリスト・イエスにあっていつも喜んでいることができるのです。

私が卒業した神学校の校長であったマクダニエル先生が、今年の夏、天国に帰られました。この先生の口癖は「よ・ろ・こ・べ!」でした。いつも「よ・ろ・こ・べ」と号令をかけました。もう65歳を過ぎて、体もヨボヨボなのに、奥様の健康も思わしくないと聞いていました。神学校の運営でも相当のご苦労もあったことでしょう。でもいつも「よ・ろ・こ・べ」なのです。なぜ先生はそう言っていたのか。それはこの「キリスト・イエスにあって」だったのです。人間的はいつも喜んでいることはできないことですが、「主にあって」「キリスト・イエスにあって」できるのです。

皆さんいかがですか。皆さんはいつも喜んでおられるでしょうか。喜ぼうと思ったら顔を引きつったりして・・。もし皆さんが喜びたいならイエス・キリストを見なければなりません。自分を見たら決して喜ぶことなどできないからです。人生には嫌なことや苦しいこと、辛いことの方が多いのですから。たまに喜ぶことができても、そんな喜びはすぐに吹っ飛んでしまうでしょう。しかし、もしあなたがイエスを見るなら、いつも喜んでいることができます。どうぞこのイエスを見てください。このイエスを見て、喜び、楽しもうではありませんか。

ダビデはこう言いました。「8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8-11)ダビデはいつも彼の目の前に主を置きました。主が彼の右におられたので、彼の心はゆらぐことはありませんでした。それゆえ、彼の心は喜び、彼のたましいは楽しんだのです。彼がいつも喜ぶことができたのは、彼がいつも彼の前に主を置いたからなのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は喜んでいますか。あなたのたましいは楽しんでいますか。あなたは自分の思いでは喜ぶことなどできません。ただあなたの前に主を置くことによってのみ喜びにあふれるのです。それはキリスト・イエスにあってのみ可能なことなのです。このイエスから目を離してはいけません。いつもイエスに目を留めて、イエスがあなたのためにどんなすばらしいことをしてくださったのかを思い巡らさなければならないのです。そうすれば、あなたもいつも喜んでいることができます。

Ⅱ.絶えず祈りなさい(17)

神が願っておられる第二のことは、絶えず祈りなさいということです。絶えず祈るとはどういうことでしょうか?朝から晩までずっと祈っていることでしょうか?24時間何もしないで、四六時中ずっと祈っているということでしょうか?そんなの無理です。仕事もしなければなりませんし、勉強もしなければなりません。家族のこともしなければなりません。やらなければならないこともたくさんあるのに、いつも祈っていることなどできません。無理です。ましてそんな体力もありませんし・・。できるはずがありません。そう思われるかもしれません。もしあなたが絶えず祈るということをそのような理解しているとしたら、それ不可能なことでしょう。しかし、この「絶えず祈りなさい」というのはそういうことではないのです。

この、「絶えず祈りなさい」という原語のギリシァ語は、「隙間なく」という意味です。この「隙間なく」という言葉は、古代ローマにおいては、例えば「しつこい咳に苦しめられている人」を表現する時に使われました。ちょうど今インフルエンザの流行が始まって、あちこちで咳をしている人がいます。もし皆さんがいつも咳に苦しめられているとしたらどうでしょうか。いつも咳のことばかり考えるようになってしまうのではないでしょうか。「どうしたのかな、喉がイライラする、風邪でも引いたのかな。他の人にうつさないようにしなければならない。会議の時に咳き込んでいたらヤバイなぁ・・」とか。ですから、しつこい咳に苦しめられている人は、いつもそのことを意識するようになります。その状態を表しているのです。つまり「絶えず祈りなさい」というのは一秒も休まず祈り続けなさいという意味ではなく、主の臨在を常に意識していなさいということなのです。もちろん、主と親しく交わるためには特別に時間を取って祈ることも重要ですが、しかし、思わず祈りを込めて発する言葉や祈り心から出る神への思いも、それと同じくらい重要なのです。それは私たちが常に神様を意識して歩んでいる証しだからです。

たとえば、車を運転中、教会員のだれかを見かけたとしましょう。それは主がそのように行き合わせてくださったのですから、その人のために即座に祈るのです。「神様、今あの人を見ました。随分急いでいるようでしたが、どうか事故などに遭うことがないように守ってください」とか、「あの人の今日一日が祝福されますように」「あの人の生活を通して神の栄光が現されますように」と祈るのです。それはとっさの祈りです。思わず祈りを込めて発しているにすぎません。しかし、それはいつも主の臨在を意識していなければできないことです。

あるいは、あなたが家でテレビを観ていたとしましょう。すると気になるニュースがあったとします。それで心を痛め、心が騒ぐというようなことがあったとしたら、そのために祈るのです。心の中でも、声に出しても・・・。このように絶えず祈るというのは、私たちのあらゆる出来事の中で反射的に祈ることなのです。それはいつも主を意識していなければできないことなのです。

私は家で食事をしている時、家内がよく「きょうはあの人のために祈っていた」とか、「あのことのために祈っていた」ということを聞くことがありますが、本当に驚きます。毎日忙しくて、あまり時間がないのに、よく祈れるなぁと思うのですが、それはこの祈りです。特別に時間をとってその場にひれ伏し、目をつぶって何時間も祈るということではなく、もちろんそういう時間も重要ですが、日々の生活の中の瞬間、瞬間に祈る祈りなのです。それはいつも主を意識し主の臨在の中にいなければできないことです。

ピリピ4章6節には、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。私たちの心に心配や思い煩いがあるとき、私たちは即座にすべての思いを祈りに変えなければなりません。あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの心を神に知っていただかなければならないのです。そのためにパウロは、コロサイの信者にも「目を覚まして、感謝を持って、たゆみなく祈りなさい。」(コロサイ4:2)と言っています。またエペソのクリスチャンには、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(エペソ6:18)と勧めています。

日々の歩みの中で不安や恐れ、心配や憤り、怒り、悩み、苦しみに遭うとき、それらに対する私たちの最初の反応は祈りであるべきなのです。祈りを欠くとき、私たちは神の恵みに頼る代わりに、自分自身に頼るようになります。絶えず祈るということは、要するに、いつも神に信頼し、神と交わることなのです。

Ⅲ.すべてのことについて感謝しなさい(18)

神が私たちに望んでおられる三つ目のことは、すべてのことについて感謝することです。「すべてのことについて感謝しなさい」という言葉を聞くとき、人は次の二つの誤解を起こしやすいのです。一つは、感謝は神様が下さる良いものに対してのみするものだという考えです。そのため、成功したり、健康であったり、祝福があったり、財産が増えたり、素敵なプレゼントをいただいた時といった、うれしいこと、うまくいった時だけ感謝すればいいという考えです。

もう一つの間違いは、感謝は感謝の思いが溢れてきた時だけ感謝すればいいという考えです。しかし、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と言いました。これはすべてのこと、どんな状況でも、どんな成り行きになっても、すなわちうれしい時でも、悲しい時にも、失敗した時でも、さらには苦しみに直面している時でもです。すべてのことについて感謝しなさいという意味です。いったいどうしたらこのように感謝することができるのでしょうか。

ここで鍵になるのも18節にある「キリスト・イエスにあって」という言葉です。自分の力ではとても感謝することなどできません。しかし、キリスト・イエスにあるなら感謝することができます。キリスト・イエスにあるなら、すべてのことについて感謝することができるのです。災害に見舞われても、病気になっても、愛する人と死別するようなことがあっても、思うように事が進まなくてがっかりすることがあっても、この世を治めておられる神様の視点で物事を見るなら、どんな状況でも、感謝することができるのです。

ジョン・クゥアン師が書いた「一生感謝365日」という本の中に、すべての感謝の基本ということで、次のように書いてあります。「幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。ではどのように感謝することができるだろうか。お金をたくさん稼ぐこと、持っている不動産の値段が何倍にも跳ね上がったこと、商売がうまくいくこと、良い学校に合格したこと、就職したこと、進級したことなどはすべて感謝の対象となる。しかし聖書は、このような感謝はだれにでもできる感謝だと言っている。では、私たちがささげることのできる感謝とは何か。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によってやすらぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエスの十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。」

これがキリスト・イエスにあってということです。私たちはイエスにあってこのようなすばらしい救いを受けているのです。ですから、たとえこの地上で悲しいことや苦しいことがあっても、そうした目の前の出来事に押し潰されず、その先にある望みを見て喜び、感謝することができるのです。

先ほど、この手紙を書いたパウロが獄中にあっても喜んだということを紹介しましたが、彼の人生は苦難の連続でした。その宣教においては、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついには死さえも覚悟したとあります。そればかりか、彼は肉体に一つのとげを与えられ、それを去らせてくださいと三度も主に願ったにもかかわらず、取り去られることはありませんでした。人生を呪えと言われて呪うことかできる人がいるとしたら、このパウロとヨブの他にいたでしょうか。それほどの苦しみを味わったのです。そのパウロが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言うことができたのは、彼がこのすばらしい宝を見出していたからなのです。

「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13) これがパウロの喜び、パウロの感謝の秘訣だったのです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。わたしたちに永遠のいのちを与えてくださった神の恵みがあれば、すべてのことについて感謝することができるのです。

新聖歌252番の「やすけさは川のごとく」を書いたスパフォード(HORATIO G.SPAFORD)は、絶望的な状況でも、神の前で喜び、賛美し、感謝した人です。弁護士であり、法医学の教授であった彼は、ムーディーが赴任していたシカゴの教会の執事でした。しかし、シカゴ大火災で全財産を失い、妻と四人の娘たちがヨーロッパに行くために乗った船が衝突事故を起こし、娘たち全員が亡くなってしまいました。生き残った妻に会い行く途中、彼はこの讃美歌「やすけさは川のごとく」と作り、歌いながら感謝をささげたと言われています。

「安けさは川のごとく 心 浸す時、悲しみは波のごとく わが胸、満たす時、すべて安し、み神 共に いませば」「見よ わが罪は十字架に 釘付けられたり、 この安き この喜び誰も損ない得じ」

世界を信仰の目で見上げることができるなら、そこに変化が起こります。神様の力がどれほど大きいか、神様が自分をどれほど愛してくださっているかを知るなら、私たちは神様に感謝をせずにはいられません。信仰の目が感謝を生み出すからです。

皆さんはいかがですか。今、皆さんには不平や不満があるでしょうか。それならこう祈ってください。「神様。不平を言わないよう、私に信仰の目を与えてください。わたしに言葉や出来事を通して、神様の考えと思いを表してくださり、いつでも感謝があふれるようにしてください。」

「愛の原子爆弾」と呼ばれたソン・ヤンウォンという牧師は、それ以前に「感謝の水素爆弾」でした。彼は二人の息子の葬式の時でさえ感謝し、多くの人々を驚かせました。どれほど大きな恵みと悟りを得れば、息子の死を前に感謝できるのでしょうか。普段から感謝できない人が、ある日大きな感謝をささげることはできません。普段小さなことに感謝する人だけが、困難な時に感謝をささげることができるのです。このソン牧師は本当に感謝の人でした。彼の感謝に関する説教には、こう書いてあります。「水を飲みながら感謝せよ。息をしながら感謝せよ。太陽の光を下さる恵みに感謝せよ。土地が与えられている恵みに感謝せよ。死に至る罪から救われた恵みに感謝せよ。今までいのちが与えられている恵みに感謝せよ。永遠のいのちの国を保証されていることに感謝せよ。」

彼の感謝を読むと、神様はすでに私たちに必要なすべてのものを与えて満たしてくださっているということがわかります。水、空気、太陽、大地などはすべて私たちに必要不可欠なものですが、私たちの努力では決して得ることはできません。これらは神様が最初から与えてくださっている贈り物なのです。このように神様は、私たちの肉体に必要なもの、霊的に必要なもののすべてを満たしてくださっています。だから私たちは、与えられている祝福を数えて感謝すればいいのです。感謝は祝福を受ける器です。感謝の器を広げる時、すべてのことが満たされるのです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。これが神のみこころです。私たちの力ではこの神のみこころを行うことはできません。それはただキリスト・イエスにあってのみ可能なことなのです。このイエス・キリストによって与えられた救いの恵み、聖霊の喜び、神がともにおられることの感謝を、信仰によってささげてまいりましょう。

Ⅰテサロニケ5章12~15節 「互いに平和を保ちなさい」

きょうはⅠテサロニケ5章後半の箇所から、互いの間で平和を保つということについてお話したいと思います。パウロは5章前半のところで、主の再臨に備えてどう生きるべきかについて語りました。その基本は6節にあるように、目を覚まして、慎み深くしていましょう、ということでした。慎み深くとは「しらふで」と訳されることばです。酔ったような状態ではなく、しらふでいましょうということです。その具体的な表われが、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みをかぶるということでした。そのようにして互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことが必要なのです。

きょうの箇所はそれを受けて、ではどのように具体的に互いに建て上げていくのかが語られています。そしてここでは、お互いの間に平和を保ちなさいとあります。

きょうはこの平和を保つということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、互いに平和を保つとはどういうことでしょうか。第二のことは、それを教会の指導者たちとの間でどのように保ったらよいのか、第三のことは、教会の兄弟姉妹との間でそれをどのように保ったらよいのかということです。

Ⅰ.平和を保ちなさい(12-13)

まず12節と13節をご覧ください。ここには、「12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのうえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」とあります。

原文では12節の「兄弟たち」の前に「de」というギリシャ語が使われています。これは「それで」とか、「しかし」という意味の接続詞です。英語の聖書では「Now」という言葉が使われています。「Now we ask you ,brothers,」です。「それで、兄弟たちよ。あなたがたにお願いします」というニュアンスです。つまり、この節はその前に語られてきたこととつながりのある内容であるということです。すなわち、11節でパウロは、キリストの再臨に備えて互いに励まし合うようにと勧めましたが、その具体的な励ましの内容がここで語られているのです。それはあなたがたの指導者たちとの間に平和を保つようにということです。教会には指導者と呼ばれる人たちがいます。そのような人たちと平和を保つようにというのです。

この平和とは、私たちが一般的に考える平和とは異なります。5章3節にも、「人々が平和だ。安全だ」と言っているそのような時に、突如として滅びが彼らに襲いかかる」とありますが、そのような平和のことでありません。表面的にはにこにこしていても心の中では何を考えているのかわからないというような平和ではないのです。この平和はイエス・キリストによってもたらされる神との平和がその土台となっているものです。ローマ人への手紙5章1節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。

以前、私たちと神との間には平和がありませんでした。敵対関係にあったのです。神を神ともせずに自己中心に生きていた私たちは、神から遠く離れていました。聖書ではこれを罪と言います。その罪のゆえに、神との関係が断絶していました。いわば戦争状態にあったのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。神の子イエス・キリストの血によって、このイエスを救い主と信じることによって敵対関係を解消し、神に近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、神との間にあった隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄された方なのです。敵意は十字架によって葬り去られました。私たちは、このキリストによって、大胆に父のみもとに近づくことができるようになったのです。かつて日本とアメリカは激しい戦いを繰り広げましたが、今は互いに助け合う関係になったのと同じです。これが平和です。つまり、神と正しい関係に入ったのです。これがクリスチャンの平和です。クリスチャンは、互いの間にこの正しい関係が保たれなければなりません。それは、神が混乱の神ではなく、秩序の神だからです(Ⅰコリント14:33)。

23節にも、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」とありますね。私たちの神は平和の神です。そして、教会はこの平和の神を信じる信仰の共同体なのです。ですから、私たちはこの平和の神にならって、平和の神を私たちの中心に置いて、互いの間に平和を保たなければならないのです。

Ⅱ.指導者を認めなさい(12-13)

では、どのようにしたら平和を保つことができるのでしょうか。ここでパウロは、「あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13 その務めのうえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。」と言っています。

指導者たちとの間に平和を保つことによってです。教会には指導者と呼ばれる人たちがいます。それは上下関係があるということでありません。ローマカトリック教会ではこの上下関係を明確に設けた階級制度がありますが、プロテスタントでは、聖書ではそのような階級は存在しません。私たちはみな兄弟姉妹であり、祭司なのです。これを万人祭司と言います。ローマカトリック教会では司祭と呼ばれる人を通さなければ神に近づくことはできないと教えますが、プロテスタントではすべての人はイエス・キリストを信じることで、直接神に近づくことができると教えています。神と人との間には何人も入ることはできません。イエス様だけが唯一の仲介者であって、このイエスを信じるなら、だれでも神のもとに近づくことができるのです。

しかし、教会には使徒、預言者、伝道者、牧師または教師、監督、長老といった指導する立場にある火とたちがいるということです。この人たちは別にえらいというわけではありませんが、その与えられた賜物のゆえに、その務めをゆだねられた人たちなので、その人たちを認め、愛をもって深い尊敬を払いなさいというのです。

この「指導し」という言葉と同じ言葉が、Ⅰテモテ3章4節と5節にも使われていて、そこには、「4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう―」とあります。

この「自分の家庭をよく治め」の「治め」という言葉が、「指導し」と同じ言葉です。ここには監督と呼ばれる人の資質が語られていますが、その中でパウロは、監督者というのは自分の家庭をよく治める人でなければならないと言っています。夫として自分の妻をよく治める人、父親として自分の家庭をよく治める人が、監督者としての最低の条件だというのです。なぜでしょうか?自分の家庭こそ最小の単位であるからです。その自分の家庭をよく治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょうか。とても厳しい言葉です。これだけでも、監督者として立っていくということがどれほど難しいことであるかがわかります。夫婦関係がぎくしゃくしていたり、子供たちが全然聖書に従っていなければ、ましてや神の教会を治めていくなどできないでしょう。

 

ですから、こうした立場にある人というのは別に教会だけでなく、家庭の中にも、会社の中にも、学校にも、この社会の中にも、どこにでもあるのです。このように治める人がいてこそ、全体がまとまるのです。こういう人がいなかったらどうなるでしょうか。いいようで悪いです。みんなバラバラになってしまいます。それぞれが自分の言いたいことを主張し、好き勝手なことをするようになるのです。「私はこうしたい」、「ああしたい」とてんでバラバラなことを言い、まとまることはありません。そこには必ず治める人、指導する人、世話をする人、まとめる人、監督する人がいてこそ全体の調和と秩序が保たれ、健全に建て上げられていくのです。教会の場合、それが牧師とか、長老とか、監督とかと呼ばれる人たちで、そのような人たちに対して、その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさいというのです。

ここで大切なのは、「その務めのゆえに」ということです。牧師だから尊敬しなさいとか、監督者だから、指導者だから、尊敬しなさいと言っているのではありません。その務めのゆえにです。それはどんな務めでしょうか。

ここではまず「あなたがたの間で労苦し」とあります。指導者の特質の第一は、教会員の間にいて労苦している人です。Ⅱコリント11章28節には、牧会者であったパウロがどれだけ労苦していたかが書かれています。彼はここで、「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」と言っています。「このような外から来ること」というのは、その前に語られている牢に入れられたこととか、むち打たれたこと、石で打たれたこと、難船して海上を漂ったこと、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、飢え渇き、寒さに凍えるといったことですが、このような外から来ることのほかに、日々押しかかるすべての教会への心づかいがありました。これが労苦の中でも最も重いもの、労苦が伴うものでした。「教会への心づかい」です。イエス様は「良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てまい。」と言われましたが、いつも羊の間にいて、羊が守られるようにと、ありとあらゆる心づかいをします。それが羊飼いです。それによって時には命を捨てることもあります。それがどれだけ大きく、重い労苦であるかがわかります。

第二のことは、「主にあってあなたがたを指導し」とあります。教会の指導者は主にあって指導する人です。主にあって指導するとはどういうことでしょうか。主イエスにあって指導するということです。イエスのように歩み、イエスのように指導するということです。常に神のみこころは何なのかを求め、その主のみこころに従って指導するということです。

第三のことは、「訓戒している人」です。指導者とは訓戒する人です。何によって訓戒するのでしょうか。みことばによってです。訓戒するとは14節にも同じ言葉が使われていて、そこでは「戒める」と訳されていますが、聖書のみことばをもって戒め、訓戒し、警告することなのです。できればそんなことはしたくないです。そんなことは言わないで、優しい、親切な言葉だけを言いたいです。でも訓戒がなかったら立派に成長することはできません。それは子育てを考えたらわかります。親が小さなこどもに口うるさく注意するのは、その子に立派に成長してほしいからでしょう。それがなかったらどこに行ってしまうかわかりません。わがままで、勝手な道に進み、自分にも、回りにも害をもたらすようになってしまうでしょう。彼らは聞き分けのない大人になってしまいます。だから、そういうことがないように親は口うるさいくらいに注意するのです。それと同じです。

テサロニケのクリスチャンは生まれたばかりのベイビークリスチャンでした。そんな彼らにとって必要だったのは何かというと、この戒めるということだったのです。聖書のみことばからの訓戒がなかったら、いろいろな教えの風に振りまわされたり、波にもて遊ばれることになってしまいます。そういうことがないように、教会の指導者は、聖書のみことばを教えなければならないのです。そうすれば、どんなにいろいろなことを聞いても、いつも聖書からそれを確認して判断することができるようになるでしょう。それが大人のクリスチャンです。そうなるように、みことばによって教え、訓戒しなければなりません。それが牧師の主要な務めです。牧師には他にもたくさんしなければならないことがありますが、その中でも第一の務めは、みことばによって訓戒すること、みことばによって養うことです。

その務めのゆえに、です。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払わなければなりません。この「愛をもって深い尊敬を払う」というのは、最大、最高の愛と尊敬をもって、という意味です。それは、従えばいいんでしょ、従えば・・・といった表面的な尊敬のことではありません。愛をもった深い尊敬です。愛がなければ何の意味もありません。たとえ口先で敬っているようでも、それが表面的なものであれば何の意味もないのです。

レオン・モリスという注解者はこう言っています。「従う立場にある人たちが批判にさらされるとき、指導者たちは最善の働きをすることは決してできない。良い指導者に必要なのは、よく従う立場にある者たちの愛と尊敬である。」

また、イギリスの偉大な説教者のチャールズ・スポルジョンはこう言っています。「偉大な会衆は、必ずしも偉大な説教者によって作られるのではない。しかし偉大な説教者は、偉大な会衆によって作られる。」

もし教会員が自分の指導者たちに対して最高で、最大の愛と尊敬をもって扱うなら、その教会員も指導者と同じような存在になれるのです。ですから、深い愛と尊敬を払うことが求められているのです。

Ⅲ.すべての人に対して寛容であれ(14-15)

次に、14節と15節をご覧ください。ここには、指導者たちとの間ではなく、兄弟姉妹の間でどうあるべきなのかが教えられています。「14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」

原文では、14節の冒頭にも「de」という接続詞があります。これは13節までの流れを受けての「de」です。すなわち、お互いの間に平和を保ちなさい」そして、兄弟たちよ。すべての人たちに対してはこうですよ、こうありなさい、と語られているのです。それは、気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい、ということです。私たちは皆、聖人君子ばかりではないということを認めなければなりません。私たちはみな問題を抱えており、そういう罪赦された罪人たちが集まっているところが教会なのです。そのことを認めなければならないのです。その上で、私たちはいったいどうあるべきなのか。

まず、気ままな者を戒めなければなりません。この「気ままな者」という言葉のギリシャ語は軍隊用語で、隊列を乱す兵士を指す言葉です。命令系統を全く無視して、勝手気ままに行動している兵士のことです。詳訳聖書という聖書がありますが、それによるとこれを、「怠け者、だらしのない者、わがままな者」と訳しています。そういう人は面倒くさいからといって放っておき、波風立てないようにせよ、というのではなく、そういう人たちを戒めるようにと言われているのです。教会の秩序を乱す者がいれば、教会の方針に従わないで勝手なことをする人がいたら、教会の指導者を無視して、自分がまるで指導者であるかのようにふるまっている人がいるとしたら、そういう人を戒めるようにと言われているのです。

次は「小心な者を励まし」とあります。詳訳聖書では、「臆病な者」と訳しています。気弱な者、いつもくよくよしている者、いくじがない者、内気で適用性に欠けた者、そういう者がいれば励ますように・・・と。この「励ます」というのは、特にことばをもってというニュアンスなので、優しく、またねんごろに語るという意味になります。内気で、気弱な者、くよくよしている人に対しては優しく、ねんごろに語るというのが「励ます」ということなのです。

次は「弱い者を助け」です。詳訳聖書では、「弱いたましいを助け」とあります。ですから、これは単に身体的に弱いというよりも、信仰的に弱い人のことです。霊的に弱さがある人です。それは聖書もろくに知らないで、勝手気ままに歩んでいる人というよりも、むしろ、律法主義的な人たちのことを指しています。

パウロはローマ人への手紙14章で、偶像にささげた肉を食べてはならないと信じていたクリスチャンを弱いクリスチャンと呼びました。そういう人たちは、自分がそう思っていただけでなく、そうでない他のクリスチャンをさばいていたのです。本来ならキリストにあって自由にされているはずなのにその自由を満喫することができず、自分の中で勝手に律法を課して、クリスチャンとして、してはいけない、ふさわしくない、と線引きしては、自分の描いた基準に合っていない人をだめなクリスチャンとして見下したり、断罪していたのです。彼らは聖書のことはよく知っていたし、厳格に聖書に生きようとしていましたが、それによって、自分と同じようにしていないクリスチャンを見てさばいていたのです。パウロはそういう人たちを弱いクリスチャンと呼び、そういう弱いクリスチャンに対しては助けなければならない、と勧めているのです。この「助ける」という言葉は、しっかりつかむというニュアンスです。これは言葉によって助けるというよりも、彼らに寄り添うようにして、しっかりとつかみ上げるようにして助けるということなのです。

そしてもう一つのことは、「すべての人に対して寛容でありなさい」ということです。教会にはあなたの寛容を脅かす人たちがいます。堪忍袋の緒が切れそうになる人たちがいるのです。そういう人に対して寛容でありなさい、というのです。詳訳聖書ではこれを、「すべての人に対して忍耐強くありなさい」と訳しています。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。愛はすべてを耐え忍ぶのです。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。気ままな人がいてもぶち切れてはいけません。小心な者がいても、ムカついてはならないのです。弱い者がいたとしても腹を立ててはいけません。すべての人に対して寛容であれ、忍耐であれ、というのです。そのようにしてお互いの間に平和を保ちなさい、というのです。

そして、15節です。ここには、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」とあります。テサロニケのクリスチャンは激しい迫害に遭っていました。彼らはテサロニケの住人からも、テサロニケのユダヤ人たちからも迫害されていたのです。いわばダブルパンチです。それでパウロは三週間しか滞在することができず、そこから逃れなければならなかったのですが、彼らはそういうわけにはいきませんでした。そのような激しい迫害の中でじっと耐え忍んだのです。そうなるとどういうことが起こってくるかというと、復讐心ですね。よ~し、今に見てろ、後でどうなるかわからないからな・・・。神の呪いがあるように・・・なんて祈りたくなるわけです。しかしここでは、だれも悪に対して悪をもって報いることがないようにと戒められているのです。それはローマ12章17~21節にもあります。

「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

また、ペテロもこう言っています。Ⅰペテロ3章9節です。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

それは主であるイエスから受けた教えであるからです。マタイの福音書5章43~44節にはこうあります。「43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

それは聖書の一貫した教えであって、すべてのクリスチャンに求められていることなのです。むしろ、クリスチャンはお互いの間で、またすべての人に対して、いつも善行を行うように務めなければなりません。神の一方的な恵みによって罪が赦され、神との平和をいただいた者は、同じように兄弟姉妹を赦し、すべての人に対して善行を行うことができるのです。

私たちは主イエス・キリストによって神との平和が与えられました。平和が与えられた者として、私たちに求められていることは、教会の指導者と呼ばれる人たちを、その務めのゆえに、愛を持って深い尊敬を払い、教会の兄弟姉妹、あるいはすべての人に対して、いつも善行を行うということなのです。そのようにして私たちは、主がいつ戻って来てもいいように、互いに励まし合って、互いに立て上げていくものでありたいと思います。

Ⅰテサロニケ5章1~11節 「主の日に備えて」

きょうは、「主の日に備えよ」というテーマでお話します。先週は4章13節から、眠った人々のことについて学びました。イエス様を信じて死んだ人たちはどうなるのか。彼らはイエス様が再び来られるその時、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会います。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。これがクリスチャンの救いの完成です。それはクリスチャンにとっての本当の慰めとなります。このことばをもって互いに慰め合わなければなりません。そして今日の箇所には、そのキリストの再臨にどのように備えたらよいかが語られています。

Ⅰ.主の日は突然やって来る(1-3)

まず、第一のことは、主の日は盗人のように突然やって来るということです。1節から3節までをご覧ください。1節には、「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。」とあります。

「それら」という言葉は原文にはありませんが、これはキリストの空中再臨、携挙のことであることは、前後の文脈からわかります。その時については、あるいはその時期については、書いてもらう必要がないというのです。なぜなら、彼らはその時についてよく承知していたからです。2節を見ると、「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」とあります。彼らは主の日がどのようにしてやって来るかをよく承知していたのです。この「主の日」とは、主が再臨される日のことであり、神の激しい怒りが下る時でもあります。その日は夜中の盗人のようにやって来るのです。

3節をご覧ください。「人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如して滅びが彼らに襲いかかります。」この「彼ら」とは1節の「兄弟たち」とは別の人たちのことです。つまり、これはノンクリスチャンたちのことを指して言われているわけです。彼らが「平和だ。安全だ」と言っているようなときに、突然滅びが彼らに襲いかかるのです。もし泥棒が、いついつあなたの家に侵入しますからね、と事前に言ってくれたら、それに備えてしっかり戸締りとかをしてちゃんと用心することもできるのですが、それがいつなのかがわからないのです。それは突如として襲いかかって来るのです。

このことは、すでにイエス様が弟子たちにお話なさったことでもあります。マタイの福音書24章43節には、「しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」とあります。の子は思いがけない時に来るのです。ですからこのことを知り、このために用心している人は幸いです。けれども、それがいつなのかはわかりませんが、その前兆があります。イエス様はこう言われました。「32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:32-33)

これらのことを見たら、人の子が戸口まで近づいていることを知らなければなりません。いちじくの木から、たとえを学ばなければならないのです。枝が柔らかくなって、葉が出てくると、夏が近いということがわかるように、これらの前兆があれば、イエスの再臨が近いということがわかるのです。いったいそれはどんな前兆があるのでしょうか。

まず5節には、「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。大勢の偽キリストが現れます。「わたしこそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすのです。お隣の韓国はキリスト教の盛んな国ですが、多くの偽キリストが現れています。自分が再臨のキリストだと主張する人が50人もいるというのです。そしてそれを信じる人たちが少なくとも200万人から300万人もいるのです。日本のクリスチャン人口が約100万人ですから、これがどれほどの数であるかがわかるでしょう。これは韓国のキリスト教人口の約4分の1に相当するもので、多くの教会がこうした異端によって傷を受けており、その被害は深刻なものになっています。特に、「新天地」と言われるグループは素性を隠してひそかに教会に入り込むので見分けが難しく、韓国のキリスト教会の脅威になっているのです。

また6節には、「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょう」とあります。世の終わりが近くなると、戦争のことや戦争のうわさを聞きます。先に起こった二つの世界大戦は、歴史上前例を見ないほどの世界規模で行われました。そして今も戦いが止むことはありません。イスラム国(IS)をはじめ、イスラム過激派と呼ばれるグループが世界中でテロを企てています。これらのテログループはこれまでと違って豊富な資金源を背景に全世界から兵士を集め、世界中に拡がり続けているのです。

そして7節には、「方々にききんと地震が起こります」とあります。日本でも3年前に東日本大震災が発生しましたが、こうした地震やききんが世界中で頻繁に起こっているのです。その他、世の終わりの時には、不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。現代はまさにそのような時代となっているのです。インターネットが普及してからは、ネット犯罪と呼ばれる犯罪があとを絶たず、世界中に悪がはびこっています。

そして何といっても、世の終わりが近くなると、天の果てから果てまで、四方からその選びの民が集められるとあります。これは世界中に散らされているユダヤ人が集められるという預言ですが、この預言のとおりに、世界中に離散していたユダヤ人が集められ、イスラエルという国を再興しました。1948年5月14日のことです。これは世の終わりが近いということの確かなしるしと言えるでしょう。

まさにいちじくの木の枝が柔らかくなって、葉が出てきています。夏が近づいているのです。イエス様は戸口まで近づいているのです。私たちは今、そういう時代に生きているのです。それなのに人々は「平和だ。安全だ。」と言っています。しかし、人々が「平和だ。安全だ」と言っているまさにそのようなときに、突如として滅びが襲いかかるのです。

Ⅱ.しかし、兄弟たちを襲うことはない(4-5)

第二のことは、しかし、クリスチャンには、そのように主の日が、盗人のようにやって来て襲うようなことはありません。4節と5節をご覧ください。「4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。」

「兄弟たち」とは、先ほども言ったように、キリストにある人たちのことです。神のさばきは突如として彼らに襲いかかりますが、クリスチャンを襲うことはありません。なぜなら、クリスチャンは光であられるイエスを信じたことによって、光の子ども、昼の子どもとされたからです。大抵の場合、盗人がやって来るのは夜です。まあ白昼堂々というケースもありますが、大抵の場合は夜なのです。それは暗やみのわざだからです。ですから、光の子どもであるクリスチャンを襲うということはありません。むしろ、その日はクリスチャンにとっては喜びの日です。なぜなら、花婿であられるキリストが花嫁である教会を迎えに来る時だからです。

ヨハネの福音書8章12節に、次のようなイエスのことばがあります。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスは世の光であられ、このイエスを信じ、イエスに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。盗人が突然現れてあなたを滅ぼすというようなことはないのです。

またヨハネの福音書5章24節には、こうあります。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」イエスを信じる者はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。この場合のさばきとは、いのちの書に名が書き記されていない人が火の池に投げ込まれる最後のさばきであると同時に、キリストが再び来られる時にこの地上に下る大患難によるさばきのことでもあるのです。なぜなら、9節にあるように、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです」

皆さん、クリスチャンは、キリストが再臨される時にさばかれることはありません。神は私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにとお定めになられたからです。かつてはそうではありませんでした。エペソ2章3節にあるように、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:4-5)

どんなにいい人でも神の怒りから免れることはできません。どんなにいい人でも、神の目にはそうではないからです。みんなさばかれて致し方ないような者なのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのはただ恵みによるのです。イエスを主と告白し、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じただけで救ってくださいました。あなたがどれだけいい人で、どれだけ良いことをしたかなどということは全く関係ないのです。ただイエスを救い主と信じただけで救われたのです。イエス以外には救われる道はありません。このイエスを信じた人は光の子ども、昼の子どもですから、暗やみが襲いかかるということはないのです。あなたはイエスを救い主と信じておられるでしょうか。

Ⅲ.だから慎み深くしていましょう(6-11)

ですから、第三のことは、慎み深くしていましょう、ということです。6,7節には「6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。」とあります。

この「慎み深く」ということばは「しらふ」とも訳せることばです。「酔う者」に対しての「しらふ」です。イエス様は、ゲッセマネの園で祈っておられたとき、弟子たちに、「誘惑に陥らないで、目をさまして、祈っていなさい。」(ルカ22:40)と言われました。それは、これからイエス様が捕えられ、裁判にかけられ、むち打たれ、ののしられ、あげくの果てに十字架につけられて殺されるという事態に備えるためでした。それなのに弟子たちはどうしていたかというと、すっかり眠りこけていたのです。実際に眠っていたというだけでなく、霊的にも眠っていました。その結果どうなったでしょうか。実際の場面に遭遇したときどうすればよいかわからず、結局、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。そしてペテロは、「イエスなど知らない」と三度も主を否定して、大きな罪を犯してしまいました。眠っているとはこういうことです。自分の周りで起こるかもしれない、いろいろな状況を考えることができないで、自分のことしか考えられないのです。そうなると、何か困難が訪れたとき簡単に罪に陥ってしまうのです。眠っていると、罪を犯しやすくなるのです。だから、誘惑に陥らないように、目を覚ましていなければなりません。こういうことが起こったら自分はどのようにすべきか、このような事態に陥ったら自分はどのようにしてキリストに従うべきなのかを予期しながら、しっかりと備えておなかければならないのです。

その具体的な備えがどのようなものなのかが、8節にあります。「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」昼の者として慎み深く生きるためには、信仰と愛と望みによって生きなければなりません。ここではただの信仰、愛、希望ではなく、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、とあります。エペソ人への手紙6章にある霊の戦いのときに身に着ける、神の武具と同じようにたとえられているのです。兵士の胸当てとして、信仰と愛をつけます。そして、頭にかぶるかぶととして救いの望みをかぶるのです。

まず信仰の胸当てです。信仰を胸当てとして着けなければなりません。なぜでしょうか。この信仰が望みへとつながっていくからです。せっかく信仰の種が蒔かれても、岩地に蒔かれた種のように、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうようであれば、実を結ぶことはできません。あるいは、いばらの中に蒔かれた種のように、この世の心づかいや富の惑わしによってふさがれてしまうなら、実を結ぶことはできないのです。実を結ぶためには、良い地に蒔かれなければなりません。みことばを聞いてそれを悟らなければならないのです。聞いたみことばを信仰によって心に結びつけられなければならないのです。

また、胸当てとして愛も着けなければなりません。神はこの愛をイエス・キリストによって現してくださいました。ここに愛があります。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子をお与えになられました。ここに愛があるのです。この愛を胸当てとして着けなければならないのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、激しい迫害と極度の貧しさの中にあっても貧困で苦しんでいたユダヤの兄弟姉妹のために喜んで献げることができたのはどうしてでしょうか?それは彼らが神に深く愛されていたからです。この愛こそが私たちをキリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおりに信仰を堅くし、あふれるばかりの感謝へと導いてくれるのです。ですから、この神の愛を胸当てとしてしっかりと身に着けなければならないのです。

それからもう一つは、救いの望みのかぶとです。これは先週見たとおりです。やがてキリストが救いを完成してくださるということに望みを置くのです。私たちはイエス様を信じた瞬間に救われ、永遠のいのちが与えられます。しかし、その救いが完成するのはいつかというと、イエス・キリストが再臨される時なのです。そのとき、私たちは朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。そのとき、それまでのすべての苦しみから解き放たれ、永遠の喜びに満たされるのです。これが私たちの救いが完成するときです。

しかし、目の前に困難があったり、苦しみがあったりすると、なかなかこの望みを抱くことができなくなります。やがて天の御国の栄光に与るということがわかっていても、目の前のことですぐにつぶやいてしまうのです。この望みは「かぶと」だと言われています。ヘルメットです。頭がやられたらイチコロころです。敵であるサタンはこのことをよく知っているのす。そして、私たちからこの希望を奪おうとして躍起になっているのです。しかし希望というかぶとをしっかりかぶっていれば、サタンは何もすることができません。ですから、救いの望みというかぶとをかぶっていなければならないのです。いつも希望を告白していなければならないのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。この世の人たちには信仰がありません。したがって、愛もありません。ましてや永遠の希望などないのです。彼らが求めているのはこの世の一時的なものにすぎません。そのようなものはやがて朽ちていきます。いつまでも残るものは信仰と希望と愛なのです。テサロニケの人たちは、この三つの徳を持っていました。信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐を持っていたのです。それゆえに、たとえ救われたばかりでも、たとえ敵から迫害されるという苦しみの中にあって、キリストにしっかりととどまり続けることができました。私たちに求められているのは、この信仰と愛の胸当てを身につけ、救いの望みのかぶとをかぶって、慎み深く歩むことなのです。

最後に、11節を見て終わりたいと思います。ここには、「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」とあります。ここで強調されていることは「互いに」ということです。互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。このことからわかることは、一人ではイエスの命令を守ることはできないということです。一人の方が落に感じるかもしれません。一人でいた方がだれかと関わる必要もないので問題がなくていいと思うかもしれません。一人でいた方が何の制約も受けることなく、自由に聖書を学ぶことができるのではないかと考えるかもしれませんが、それは間違いです。それはあなたをこの信仰と愛と救いの望みから引き離すためのサタンの巧妙なたくらみなのです。なぜならここに「互いに」とあるからです。一人ではイエス様の命令を守ることはできないし、神のみこころに歩むことはできません。私たちは神の教会に集まってこそ、この互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさいという命令を守ることができるのです。

へブル人への手紙10章25節を開いてください。ここには、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。

ここで鍵になる言葉は「かの日」という言葉です。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか、です。イエス様が再び来られる日、救いが完成する日、その日が近づいているのですから、ますますそうしようではありませんか。いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おうではないかということです。たまに教会に行きますとか、何とか日曜日だけは行くようにしています、では足りません。本気で再臨を信じているのなら、本気でかの日が近づいていると信じているのなら、ますますそうしなければなりません。一緒に集まることをやめたりしないで、ますますそうしなければなりません。これが世の終わりに生きるクリスチャンの姿なのです。

それがいつなのか、またどういう時かについて、私たちは知りません。しかし、確かなことは、それが確実に近づいているということです。それは盗人のように、突如として襲いかかります。その時、私たちは慌てることがないように、しっかりと備えておきたいと思います。信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。今しているとおり、いっしょに集まることをやめたりしないで、かの日か近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。それが世の終わりに生きるクリスチャンに求められていることなのです。

Ⅰテサロニケ4章13~18節 「祝福された望み」 

きょうはⅠテサロニケ4章13~18節までの箇所から死者の復活についてお話したいと思います。タイトルは、「祝福された望み」です。パウロは4章でテサロニケのクリスチャンたちに三つのことを勧めています。一つは聖くなること、二つ目に互いに愛し合うことです。そして三つ目のことは、互いに慰め合うことです。きょうのところには、三つ目の互いに慰め合うことについて勧められています。いったいクリスチャンにとっての慰めとは何なのでしょうか。18節には、「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」とあります。これが慰めです。つまり、クリスチャンは死んで終わりではないということ、イエス・キリストが再び来られるとき死んだからだがよみがえり、朽ちることのない栄光のからだによみがえり、一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになるということ、そのようにして、いつまでも主とともにいるということです。これがクリスチャンの慰めなのです。私たちはこのことばをもって互いに慰め合わなければなりません。きょうはこのことについて三つのポイントお話をしたいと思います。

Ⅰ.知らないでいてもらいたくない(13)

まず13節をご覧ください。ここには「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」とあります。

「眠った人々」というのは、イエスさまを信じて死んだ人たちのことです。今、この中に眠っている方がおられるでしょうか?その人のことではありません。イエス・キリストを信じて死んで人たちのことです。

ヨハネの福音書11章には、マルタとマリヤの弟ラザロが死んだとき、イエスさまは「彼は眠っている」と言われました(11:11)。また、使徒の働き7章60節でも最初の殉教者ステパノが死んだ時、彼は「眠りについた」と言われています。ですから、眠っている人々というのは、死んだ人々のことを言っているのです。パウロは、この眠った人々のことについて、知らないでほしくないと言いました。なぜでしょうか。なぜなら、他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。

皆さん、何をどう考えるかはとても重要なことです。なぜなら、それによって私たちの世界観が決まるからです。テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまが間もなく再臨すると信じその日を迎えることに大きな確信と希望を抱いていましたが、パウロたちがテサロニケを去った後で何人かの兄弟姉妹が死んでしまった時、動揺を隠せませんでした。なぜなら、主の再臨を前にして死んだ人々は再臨の祝福とか、救いの完成にあずかることができないのではないかと思ったからです。しかし、それは彼らの誤解によるものでした。眠った人々のことについて彼らが正しく理解していたら、悲しみに沈むことはなかったのです。

それはテサロニケのクリスチャンたちだけに言えることではありません。私たちも死後のことを知らなかったり、誤解していると、悲しみに沈むことになってしまいます。ですから、聖書の教理を正しく知ることはとても重要なことなのです。私はあまり教理には興味がありませんと言う方もおられますが、もし知らなかったら、他の望みのない人々のように悲しみに沈むことになってしまうのです。そういうことがないように、私たちはこのことについての聖書の教理を正しく知らなければなりません。

特にこれはテサロニケのクリスチャンに向けて言われていることです。パウロはこのテサロニケに三つの安息日にわたって滞在しました。つまり、三週間程度しか滞在できませんでした。ユダヤ人の激しい迫害と妨害があって滞在することができなかたのです。そのような生まれたばかりのクリスチャンにとってどうしても必要な信仰の基礎しか話すことができなかったのです。そんな彼らに対して、眠った人々のことについては、知らないでいてほしくないと言いました。なぜならこれは救いに関する重要な教理だからです。知ってもいい、知らなくてもいいというレベルのことではなく、どうしても知っておかなければならない、キリスト教信仰の根幹に関わる重要な内容だったのです。皆さんは、このことについて知っておられるでしょうか。眠った人々がどうなるかについて、どのように受け止めて目おられるでしょうか。

私たちはイエスさまを信じれば救われるということを知っています。その人のすべての罪は赦されて永遠のいのちが与えられます。これを神学用語で「義認」(justification)と言います。そして、そのように罪が赦された人は、その罪の力から解放されます。それまでは罪の力に全く無力でしたが、罪が赦されたことによって徐々にその罪の支配から解放されて、罪に打ち勝てるようになりました。少しずつですが、イエスさまに似た者に変えられているのです。これを「聖化」(sanctification)と言います。このことはすべてのクリスチャンが経験していることです。しかし、救いはそれだけではありません。未来の側面もあります。やがてイエスさまが再臨される時どうなるかということです。そのときクリスチャンは、死んだ人も生き残っている人も栄光のからだによみがえり、一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。このことを何というかというと、「栄化」(glorification)と言います。これが救いの完成の時です。パウロがここで言っていることはこの救いの完成、glorificationのことです。そのことはピリピ3章20~21節でも言及されています。

「20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

私たちはイエスさまを信じて、天に国籍を持つ者とされました。しかし、それだけではありません。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望んでいるのです。その時、キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださいます。もう二度と罪を犯すことのないからだ、病気になることのないからだ、死ぬことのないからだ、栄光のからだに変えられるのです。まずキリストにあって死んだ人が、次に、生き残っている人が、たちまち雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。そのようにして、いつまでも主とともにいるようになるのです。これが救いの完成です。これが救いの全貌なのです。何だかビフォアー、アフターみたいですね。それでは全貌をご覧ください。これがその全貌です。だからイエスさまを信じて救われたというだけでは、まだ建物の土台と骨組、屋根、壁が完成して住めるようになったというようなもので、まだ完成はしていないのです。救いの完成はキリストが再臨される時にもたらされます。これがクリスチャンの希望です。そのことがわかるとき、あなたは悲しみに沈むことはありません。このことを知っていたら、現実の生活の様々な困難と苦しみの中にあっても、生きる希望と力が与えられるのです。

Ⅱ.イエスは死んで復活された(14)

では、その根拠は何でしょうか。なぜそのように言えるのでしょうか。なぜなら、聖書にそのように書いてあるからです。このようなことを言うと、中には「何バカなことを言っているんだ」とか、「あれからもう二千年が経っているというのに、キリストの再臨なんかないじゃないか」、「それは象徴にすぎないんだよ」という方がおられるのです。これがノンクリチャンならまだしも、イエスさまを信じているというクリスチャンの中にもそのように言われる方がおられるのです。そこでパウロは、これが実際に起こることであるという根拠、あるいはその保証をここで述べているのです。それは何でしょうか。それはイエスの復活です。14節をご覧ください。ここには、「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」とあります。

イエスさまが死んで復活されたのなら、そのイエスを信じるクリスチャンはキリストにつぎ合わされた者なのだから、キリストが復活したように、復活するというのです。「もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」というマルタに対して、イエスさまは、「あなたの兄弟ラザロはよみがえる」と言われました。いったいその根拠は何でしょうか。イエスさまはこのように言われました。ご一緒に読みましょう。ヨハネの福音書11章25節です。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

イエスはよみがえりであり、いのちです。だから、イエスさまを信じる者は、死んでも生きるのです。これが根拠です。これが、私たちが生と死の中で生きなければならない不条理に対する究極の解決であり、慰めなのです。ラザロが死んで悲しみ、泣いているマリヤの姿を見て、また、彼女といっしょにいた人たちも泣いているのを見て、イエスさまは涙を流されました。英語ではたった二文字でこれを表しています。「Jesus wept」(John11:35)です。これは英語の聖書の中で一番短い聖句になっています。イエスさまはなぜ涙を流されたのでしょうか。人は、いろいろな時に涙を流すものです。悲しい時、同情した時、後悔した時、嬉しい時、いろいろな涙があります。しかしそこに共通していることは、人が涙を流す時には必ず何らかの感情が伴っている時であるということです。では、この時イエスさまはどんな感情を持っておられたのでしょうか。33節を見ると、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」とあります。イエスさまは、死んだラザロの墓の前で、姉妹のマリアが泣き、一緒に来ていたユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されたのです。死という冷酷な事実の前に、人は全く無力であるということ、そして人間の愛は引き裂かれ、泣く以外にどうすることもできない存在であるという現実を前に、イエス様は憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されたのです。つまり、イエス様が涙を流されたのは、人間的には同情の心から出たもののように見えますが実はそうではなく、それ以上に、死というものが、人間にこれほどまでの悲しみをもたらすものであるかを感じられたからなのです。

Ⅰコリント15章26節には、死は「最後の敵」とあります。この死に高らかに勝利したのが、ご自身の死と復活の出来事でした。その主を信じる者は同じように復活することを証明したのが、このラザロの復活という奇跡だったのです。イエス・キリストの死と復活を信じるなら、それを信じるクリスチャンの上にもそれと同じことが必ず実現するのです。

皆さんは、どうでしょうか。やがて朽ちることのないからだ、栄光のからだによみがえるという確信を持っておられるでしょうか。栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うという希望を持っておられるでしょうか。そう信じていても、いざそれが本当に自分の上にも起こるという確信を持てなくなる時があります。しかし、やがて起こるからだにの復活を、感情的にとらえてはなりません。それはただ不安を増大されることになるからです。そうではなく、死んでもよみがえることの保証をイエス・キリストの死と復活、そしてそれを信じる信仰の中に置かなければならないのです。それは変わることのない神のみことばによる約束だからです。

Ⅲ.こういうわけだから(15-18)

最後に、15節から18節までをご覧ください。15節には、「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」とあります。

これはパウロが作り出した話ではなく、また、人間が勝手にあみだした教理でもないのです。これは主が語られたことです。それは主のみことばにしっかりと打ち出されていることなのです。その主のみことばのとおりに言うならば、主が再び来られる時まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。どういうことでしょうか?ここには復活の順序について語られています。主が再び来られるとき、まずキリストにある死者がはじめによみがえり、次に生き残っている人が、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。

ところでパウロはここで「生き残っている私たち」と言っています。彼は主の再臨が今すぐに、自分たちが生きている間に起こることとしてとらえていたのです。今この瞬間にも起こるかもしれないという切迫性をもって受け止めていたのです。皆さんはどうでしょうか。そのような切迫した思いでキリストが来られるのを待ち望んでいるでしょうか。もしそのように受け止めていれば、私たちの生活は一変するはずです。もし主が1時間後に来られるとしたらどうでしょうか?家に帰っていろいろ整理するかもしれませんね。これはいらないもの、これは必要なもの、でもやっぱりいらないか・・、と整理してみたら、何もいらなかったとか・・・。パウロはそのような切迫感をもって主を待ち望んでいたのです。

16節と17節をご覧ください。「16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。号令とは、兵士が上官から下される命令のことで、ここでは神の威厳と緊急性を表しています。また、御使いのかしらの声とは、天使長ミカエルの声とも考えられていますが、はっきりしたことはわかりません。それから、神のラッパの響きとは、Ⅰコリント15章52節にある「終わりのラッパ」のことです。このラッパの高らかな響きと共に、ご自身が天から下ってくると、一瞬のうちに、変えられるのです。まずキリストにある死者です。キリストにあって死んだ人たち初めによみがえり、次に、生き残っている人たちです。生き残っている人たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、いつまでも主とともにいることになるのです。

皆さん、これを想像してみてください。今までいっしょにいた人が急にいなくなるのです。「あれ、私の妻がいなくなった」「私の夫もよ」と大きな社会ニュースになりますが、いったいどこへ行ってしまったのかわからないのです。

全米でベストセラーになった小説で、映画にもなった「レフトビハインド」は、この出来事、つまり空中携挙といって、空中に引き上げられることを描いた映画です。ある日突然イエスさまを信じていた人々や幼い子供たちが姿を消してしまうのです。ジャンボジェットの機長をつとめるレイフォード・スティールは乗務員のハティーに夢中になっていました。彼には妻子がいましたが、妻のアイリーンはキリスト教信仰に深く傾倒していたので、彼はそんな妻を遠ざけていたのです。そんな彼がふと操縦室を出てハティーのもとに行くと、彼女が何かでおびえていました。彼女は慌ててレイフォードを調理室に引っ張っていくと、そこで突如として機内に起こった異常を告げたのです。何と乗っていた多くの乗客が、身につけていたものを残して消えてしまったのです。しかもこの現象は、機内に限らず全世界で起こっていました。いったい何が起こったのか・・。宇宙人による誘拐説などいろいろな説が入り混じる中、黙示録の予言が成就したのだということを見抜いた人もいました。その一人、ブルース・バーンズという牧師は携挙されませんでした。彼は牧師でありながら救われていなかったのです。しかし、この事で彼は自らの信仰を見つめ直し、人々にキリストを信じるようにと説得しました。一方、妻と息子を携挙で失ったレイフォードは牧師のブルースと出会い、信仰に生きるようになります。やがて反抗的であった娘も回心し、それ以外でも様々な人々が信仰に目覚めていったのです。

いったいなぜある人が突然いなくなってしまうのか。それは引き上げられるからです。イエスさまを信じた人はみな、死んだ人も、生き残っている人も一瞬のうちに朽ちないものによみがえり、空中に引き上げられるのです。これを「携挙」と言います。それで突然多くの人がいなくなってしまうのです。しかし、それは祝福された望みです。なぜなら、そのように引き上げられ、空中で主と会い、そのようにしていつまでも主とともにいるようになるからです。それはまさにイエスさまとの結婚式なのです。花婿なるキリストが、花嫁なる教会を迎えに来て、そこでふたりは固く結ばれます。もう二度と離れることはありません。ずっと待ち望んだイエスさまとの結婚式が実現するのです。ですから、それは最高の喜びの時でもあります。でも、地上はそうではありません。地上では神の怒りによるさばきの時を迎えます。彼らはイエスさまを信じなかったので、七年間にわたって患難がもたらされるのです。それは私たちが時々経験するような苦しみとか試練といったものではありません。それは神の怒りによる激しいさばきです。しかし、クリスチャンはこのさばきに会うことはありません。なぜなら、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)ですから、クリスチャンはこのさばきに会うことはないのです。クリスチャンは引き上げられて、空中で主と会い、いつまでも主とともにいることになるのです。これは希望ではないでしょうか。パウロはこの希望のことを「祝福された望み」と言っています。テトス2章13節をお開きください。ここには、「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」とあります。

皆さん、これはただの望みではありません。これは祝福された望みです。大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光の現れ、これはキリストの空中再臨のことですが、これは私たちにとって祝福された望みなのです。その時私たちは朽ちることのないからだによみがえって、一挙に引き上げられ、空中で主と会い、いつまでも主とともにいるようになるからです。その時私たちの救いは完成するのです。これが本当の望み、祝福された望みなのです。

皆さんも、たくさんの希望があると思います。将来はレスキュー隊に入り多くの命を救いたいとか、レントゲン技師になって、看護師になって多くの人を病気から救いたい、愛する人と結婚して幸せな家庭を築きたい、元気に赤ちゃんが生まれてきてほしい・・・。どれもすばらしい望みです。しかし、この望みは特別な望み、祝福された望みです。この希望は失望に終わることがありません。何があっても決して失われることのない希望、それがイエス・キリストの栄光ある現れ、携挙なのです。

クリスチャンにはこの希望が与えられています。この希望があることを知っていたら、あなたは悲しみに沈むことはありません。たとえ現実の生活の中に困難や苦難があっても、この希望のゆえに乗り越えることができるのです。この希望があなたの慰め、生きる力となるからです。

有名な賛美歌「いつくしみふかき」を書いたのは、ジョゼフ・スクラビンという19世紀のアイルランド人です。彼の生涯は、この世的には全く恵まれないものでした。大学卒業後に事業を営みますが、結婚式を目前にしてその婚約者を湖の事故で亡くします。事業においても失敗して破産するのです。その後アイルランドからカナダに渡り、教鞭を取りながら、不幸な人や貧しい方たちへの奉仕活動にその生涯を献げました。そんな活動の中で出会った女性と婚約しますが、その女性も結核を患い、帰らぬ人となるのです。彼は1度ならず2度までも愛する婚約者を失うのです。世をはかなみ、自分の人生をどれほど呪ったことでしょうか。神を恨んでも仕方がないと思えるような状況の中で、彼は郷里のアイルランドで病に苦しむ母を慰めるために、この讃美歌を書いたのです。神を呪いたくなるほどの試練と苦悩を味わいながらも、悩みと苦しみの中にある自分を慰め、力づけてくれたのは何だったのでしょうか。それはイエス・キリストでした。イエス・キリストによってもたらされる望みだったのです。

「1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

こ の神の愛は、あなたの心にも注がれているのです。なぜなら、あなたも、神の栄光を望んで大いに喜んでいるからです。「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」私たちはいつもここに希望を置き、このことばをもって互いに慰め合う者でありたいと思います。私たちには祝福された望みが与えられているのですから。

Ⅰテサロニケ4章1~12節 「主の召しにふさわしく」

きょうは、「主の召しにふさわしく」という題でお話します。「召し」とは「ご飯」のことではありません。呼び招くことです。クリスチャンは主に呼び招かれた者です。ですから、その召しにふさしく生きる者でなければなりません。きょうは、その召しにふさわしい歩みとはどのような者なのかについて学びたいと思います。

Ⅰ.クリスチャン生活の基準(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。「1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」

ここでパウロは、テサロニケの人たちにお願いし、勧告しています。これは3章13節のことばを受けての勧告です。3章13節には、「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」とあります。やがて主イエスが再び来られるのですから、その時に、私たちの神の御前で、聖く、責められるところがないように、しっかりとそれに備えておくようにということですが、そのための勧告であります。ここでは三つのことを勧めています。第一のことは聖くなること、第二のことは互いに愛し合うこと、そして第三のことは、互いに慰め合うことについてです。いったい何が慰めなのでしょうか。このことについては来週お話したいと思います。きょうは、最初のの二つの勧告を見ていきたいと思いますが、その前に、ここにはその前提が述べられています。それは、「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」ということです。

ここには「歩む」という言葉が強調されています。この「歩む」というのは何かというとクリスチャンライフのことです。私たちの信仰はただ聖書を頭で学ぶだけのものではありません。その学んだことを実際の生活に適用し、神に従うということを通して実践するわけです。それがクリスチャンの歩みです。その歩みのポイントは何かというと、どのようにして神を喜ばすことができるかということです。以前はそうではありませんでした。以前は、どのようにして自分を喜ばすことができるかということでした。しかし、神によって救われてクリスチャンになってからは、どのようにしたら神を喜ばすことができるかを考えて歩むようになりました。なぜなら、私たちは神によって造られ、神によって救われた者だからです。ですから、その造り主であり救い主である神の喜びは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえて生きるようになりました。ローマ12章1節、2節にそうあります。神の喜びは何かが、クリスチャン生活の基準なのです。

皆さんは、よくリストバンドなどにW.W.J.D.と印字されたものを見かけたことがあるでしょうか。あれはWhat would JESUS do?の頭文字をとったものです。意味は、イエス様ならどうするか?です。それまではいつも自分のしたいことをしていました。しかし、イエス様によって救われた今は違います。自分がしたいことではなく、イエス様が私たちにしてほしいと願っておられることを考えて歩むようになりました。それがクリスチャンです。それがクリスチャンの行動の基準なのです。

それはすでにこのテサロニケの教会の人たちが歩んでいたことです。しかし、パウロはここで「ますますそのように歩んでください」と言っています。クリスチャンにとってもう十分だということはありません。これで十分だと言ったとたんにバックスライドし始めます。クリスチャンが前に進んでいる限りにおいては大丈夫なのですが、もう十分ですそこに立ち止まった瞬間にバックスライド(後退)するのです。ですから、へブル人への手紙6章1節にはこう勧められているのです。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」

皆さん、私たちは初歩の教えで満足するのではなく、常に成熟を目指して進む者でありたいと願わされます。もちろん、そうでないと救いから落ちるということではありません。それでも天国にはいけるので問題ないのですが、神のみこころは、私たちが成熟を目指して歩み続けることなのです。

テサロニケ4章に戻りまして、2節を見ると、「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」とあります。1節にも「主イエスにあって、お願いし、また勧告します」とありました。どういうことかというと、これはパウロの個人的な意見ではないということです。これはパウロが主イエスから受けた命令なのです。それをパウロを通して語っているにすぎないのです。ですから、これを人の言葉として軽くあしらってはなりません。これは主イエスの勧告なのです。この天地万物を造られた創造主なる神の、王の王、主の主であられるイエスの言葉なのです。そう受け止めて、私たちは、ますますそのように歩む者でありたいと思います。

Ⅱ.神のみこころはきよくなること(3-8)

次に3節から8節までをご覧ください。「3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、6 また、このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」

私はよくクリスチャンの方から相談を受けることがあるのですが、その中で一番多い相談は、「神のみこころは何でしょうか」というものです。「神は私に何を望んでおられるのでしょうか」ということです。それが聖書に具体的に書いてある時は確信をもって「神のみこころは・・・です」と言うことができるのですが、時には微妙なケースもあります。微妙なケースというのは、聖書ではっきり言っていないことや、置かれた状況によってはどちらでもいい場合です。そういう時には返答に困ってしまう時があるのですが、ここには100パーセント、これは神のみこころだということが書かれてあります。それは何かというと、聖くなることです。ここには、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」とあります。

聖くなるとはどういうことでしょうか。この「聖い」と訳されている言葉はギリシャ語で「ハギオス」ということばですが、ある目的のために分けるという意味です。ここでは神の目的のために分けること、区別することを指しています。ですから、これを「聖別」とか、「聖化」とも言うのです。7節にも同じことばが使われていますが、ここでは「聖潔」と訳されています。聖潔の聖は、「清」ではなく「聖」ということばを使われています。これは単に清いということではなく、神のために区別されていることを示しているからです。Ⅰペテロ1:15-16には、「15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。16 それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」とあります。『』の部分はレビ記11章44節等からの引用ですが、神が私たちを召されたのは何のためか、それは私たちが神のようになるためです。それで、神は聖ですから、あなたがたも聖でなければならない、というのです。これが神のみこころなのです。

その具体的な一つのこととして、ここでは不品行を避けるということが語られています。不品行とは、性的な不道徳のことです。パウロが手紙を書き送っているテサロニケは異教の町で、異教的な習慣がはびこっていました。その一つは、妻の他にめかけがいたことのです。日本でも明治時代の前半までは、政治家や高級官僚、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主の多くは、こうしためかけがいたと言われています。それが普通の社会だったのです。ちゃんと働いて家族を養っていれば、めかけがいても問題ではないと思われていました。特にパウロはこの手紙をコリントという所で書いていましたが、コリントの町は性的不道徳がはびこっていた町で、教会の中でさえ、父の妻を妻とする者もいたほどで、そうしたコリントの人たちのふるまいを、「コリントのようにふるまう」と言われていたほどです。パウロはこのコリントの町にいて、テサロニケの人たちのことが心配だったのでしょう。異邦人の町ではこうしたことが当たり前のように行われているけれども、あなたがたの間ではそうであってはならない。神のみこころは、あなたがたが聖くなることであり、そうした異邦人の中にあっても情欲におぼれることなく、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保つようにと書き送ったのです。

いったいなぜ神はこのように望んでおられるのでしょうか。ここに二つの理由が述べられています。一つは、私たちのからだは神から受けた聖霊の宮であるからです。4節には、「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、」とありますが、この「からだ」と訳されたことばは「器」のことです。Ⅰコリント6章19-20節には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」とあります。私たちのからだは、神から受けた聖霊の宮なのです。大切な神の聖霊が住んでおられる器なのです。その器であるからだを不品行によって汚すようなことがあってはなりません。だから、不品行を避けなさい、と勧められているのです。

また、Ⅱコリント4章7節にもこの「器」ということばが使われていて、そこには、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。この宝とは、文脈からイエス・キリストのことであるのがわかります。あるいは、イエスの御霊である聖霊のことであると言ってもいいでしょう。その宝を、この土の器の中に入れているのです。この土の器とは何でしょうか。それはからだのことです。この土の器のように落としたらすぐに壊れて砕き散ってしまうような器の中に、計り知れない宝を入れているのです。その器を、いったい何のために使おうとしているのでしょうか。それを自分の快楽のためにではなく、神の栄光のために使いなさい、と言われているのです。これまでは自分のからだは自分のものだと思って、自分の目的のために使っていました。自分の快楽のためとか、願望のために使っていたのです。しかし、これからはそうであってはなりません。これからは神が喜ばれるように、神の栄光のために用いなさい、というのです。

もう一つの理由は6節にあります。それは、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりすることになるからです。踏みつけるということばは限度を超えるという意味ですが、神の家族としての一線を越えることになるのです。そのようなことで神の家族を破壊し、主にある兄弟姉妹を傷つけてはならないのです。神のみこころは、私たちが生くなることです。私たちが不品行を避け、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことなのです。

Ⅲ.互いに愛し合うこと(9-12)

主の召しにふさわしい第二のことは、互いに愛し合うことです。9節と10節をご覧ください。「9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。」

「兄弟愛」と訳されたことばギリシャ語でフィラデルティアという言葉ですが、これは主にある家族が兄弟姉妹として抱く愛のことです。ここでは、この愛については、何も書き送る必要がないと言われています。なぜでしょうか?なぜなら、彼らはこのことを神から教えられた人たちだからです。つまり、それをよく実践していた人たちであったということです。その具体的な例が10節にあります。実に彼らはマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行していました。彼らはマケドニヤ州全土にいる他のクリスチャンに対して、悩む者を慰め、貧しい人々に助けの手を差し伸べていたのです。後になってパウロはコリントの教会に宛てて、次のような手紙を書き送りました。Ⅱコリント8章1節から5節までを開いてみたいと思います。

「1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」(Ⅱコリント8:1-5)

このマケドニヤの諸教会というのは、テサロニケの教会を中心とした諸教会のことですが、彼らはエルサレムの教会を助けようと、迫害の苦しみの中にあっても、また、極度の貧しさの中にあっても、自ら進んで、力に応じて、いや力以上にささげました。彼らは自分たちが経済的に余裕のない者であったにもかかわらず、他者への支援を惜しみませんでした。なぜ彼らはそのようなことができたのでしょうか。それは主イエス・キリストの恵みを知っていたからです。すなわち、主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは、彼らがキリストの貧しさによって富む者となるためです。その恵みが満ちあふれる喜びとなって、あふれ出て、惜しみなく施す富となったのです。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)

「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら・・」神に深く愛された者だけが、兄弟姉妹を愛することができます。イエス様の足を涙でぬらし、それを髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油をぬった女もそうです。いったい彼女がなぜそこまでできたのか?それは彼女の多くの罪が赦されたからです。イエス様はこう言われました。「少ししか赦されない者は、少ししか愛せません。」(ルカ7:47)そうです、彼女の多くの罪は赦されたのでよけいに愛することができたのです。少ししか赦されない者は少ししか愛せません。私たちは主にどれだけ赦されたのか、どれだけ愛されたのかによって、互いに愛し合うことができるのです。それが互いに愛する原動力となります。ですから、私たちは互いの兄弟愛の足りなさを指摘する前に、もう一度、すべての愛の出発点であるこの神の愛から謙虚に学ばなければなりません。

それにしても、テサロニケの教会は受けるだけで満足する教会ではありませんでした。受けて、その満ちあふれる喜びが、惜しみなく施す富となってあふれ出ていたのです。そんなテサロニケの教会に対してパウロは、この兄弟愛については、もう何も書き送る必要はないと言いました。彼らに必要なのは、ますますそうであるようにということだったのです。私たちは時として自分のこととか、自分の教会のことにしか目がいかず、その枠の中での献金や奉仕で満足しがちですが、このマケドニヤの諸教会、テサロニケの教会のように、自分たちのことだけでなく、他者のことも顧みて、喜んでささげていく、そんな群れにさせていただきたいとものです。今日でも、まだ小さな群れであるにもかかわらず、海外宣教や対外援助に重荷を持って積極的にささげている教会の姿を見ることがありますが、そのような信仰の姿を見ると本当に励ましを受けます。私たちは、そのような教会になりたいと願っています。激しい戦いや極度の貧しさにもかかわらず、主に救われた喜びがあふれ出て、それが惜しみなく施す富となっていく教会、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願う教会、そんな教会になりたいのです。来週も錦秋湖のキャンプ場からキャンプラリーブリでお越しになられますが、最大級のおもてなしをさせていただきたいと思うのです。また、先日もウォーク・ウィズ・ジーザスが行われましたが、そんなささやかなおもてなしが、彼らのこころとからだをいやすために用いられたとしたら、どんなに幸いかと思うのです。何よりも、誰よりも、そうした交わりの恵みに預かりたいと願い、祈り、ささげ、労する人たちが一番大きな恵みを受けるのではないでしょうか。私はそう思うのです。そして、この愛のわざは、これで十分ということはありません。「どうか、さらにますますそうであってください」とあるように、ますますそうありたいと願います。

11節と12節には、「11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」とあります。互いに愛し合うことと、落ち着いた生活を志すこと、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことに、いったいどんな関係があるというのでしょうか?当時、このテサロニケの教会の中には、主の再臨について間違って理解している人たちがいました。確かに主はすぐにやって来ると言われましたが、だったら何をしたってむだだ、もう働く必要なんてないと、仕事を放棄している人たちがいたのです。しかしそれは極端な再臨の理解であり、不健全な信仰にほかなりません。落ち着いた生活を志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働いてこそ、主が来られるのを真剣に待ち望む者の姿なのです。

なぜなら、そのように自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことによって、外部の人々に対して良い証となるからです。また、自分にとっても乏しいことがなくなるからです。クリスチャンだと言いながら仕事が適当であったり、さぼりがちであったりしたら、まわりにいる人たちに対してあまりいい証にはなりません。クリスチャンだからといって学業をいい加減にしたり、さぼったりしていたら、それを見たまわりの人が「すばらしい」とか、「かっこいい」なんて言って、キリスト教の偉大さに心打たれることなどないでしょう。自分に与えられた仕事に身を入れ、人がやりたくないようなことでも熱心にやったりすることで、外部の人たちに対してもりっぱにふるまうことができるのです。

いったいなぜこんなことを書く必要があったのでしょうか。それはクリスチャンの中で互いに愛し合うということを間違って理解している人たちがいたからです。私たちの中にはどこか、この兄弟愛の意味をはき違えているところがあります。むやみに人を援助するだけでは、それが相手にとって本当の助けにはならないもあるのです。Ⅱテサロニケ3章8節には、テサロニケの教会に、人のパンをただで食べる人がいたことが指摘されていますが、ということは、教会内にそれを許している人たちがいたということです。もちろん、いろいろな事情があって働きたくても働けない人もいるでしょう。病気でからだが動かない人もおられます。そのような方々に対してはむしろ積極的に援助すべきです。しかし、そうでいない人たちに対しては、つまり、働けるのにそうしない人たちには、ただでパンをあげるということはふさわしくありません。それは決して兄弟愛でも何でもないのです。むしろ、その人をだめにしてしまいます。そのような人に必要なことは、自分の手で働くということです。そのことを教え、そのために援助すべきなのです。パウロは、健全な兄弟愛とは他の人を自立した生活へと導くことでもあるということを伝えたかったのです。

私たちはどうでしょうか。聖さにおいても、兄弟愛においても、神のみこころにかなった者となっているでしょうか。もしそうであるなら、さらにますますそうであるように求めていきましょう。もしそうでないなら、悔い改めて、神のみこころに歩めるように、ご聖霊の恵みに信頼したいと思います。あの姦淫の現場で捕えられ、イエス様のもとに連れて来られた女性に対して、主はこう言われました。「あなたを罪に定める人はいなかったのですか。わたしも、あなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません。」それは私たちに対する言葉でもあります。私たちも過去においては失敗や過ち、罪を犯して神のみこころにかなわない者であったかもしれません。兄弟愛についても、互いに愛し合うことよりも、人をさばくことがあったかもしれません。けれども、神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。その召しにふさわしく歩めるように、イエス様がいつも祈っていてくださいます。その祈りに答えて、神が喜ばれるような歩みを、歩もうではありませんか。ますますそのように歩もうではありませんか。私たちはそのために召されたのですから。

Ⅰテサロニケ3章1~13節 「クリスチャンの励まし」

きょうはⅠテサロニケ3章のみことばから「クリスチャンの励まし」について学びたいと思います。パウロはこの手紙においてずっと思い出すことに焦点を絞って語ってきました。彼ら自身の信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い出させ、また、パウロたちが激しい迫害の中でどのように主に仕えてきたのかを思い出させて、激しい苦闘の中にあっても、何とか主にとどまってほしいと願ったのです。その願いはこの3章においても続きます。しかし、ここでは思い出させることによってではなく、実際に同労者のテモテを彼らのところへ遣わして励まそうとします。ここにクリスチャンの励ましとはどのようなものなのかが教えられています。きょうはこのところからクリスチャンの励ましについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.パウロの励まし(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。

「1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんできず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。」

「そこで」とは、2章17節を受けての「そこで」です。2章17節には、「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。」とあります。パウロは彼らの顔をみたいと切に願っていたので、もはやがまんできなくなり、パウロたちだけがアテネにとどまり、テモテをテサロニケに遣わしたのでした。なぜそんなにも彼らの顔を見たいと思ったのでしょうか。彼らのことが心配だったからです。心配だったのでテモテを彼らのところへ遣わし、彼らが苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもいないように励まそうとしたのです。

私はここにクリスチャンの励ましとはどういうものなのかが教えられていると思います。それは、他の人たちの霊的状態に常に気を配り、彼らが様々なことで動揺し信仰から脱落することがないように励ますものであるということです。様々なこというのは、たとえばテサロニケの教会の場合はユダヤ人からの激しい迫害がありました。そうした苦難の中で信仰が動揺する人たちがいたのです。それは姿、形を変えて、現代の私たちクリスチャンも経験していることです。5節を見ると、「誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思い、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです」とありますが、パウロはちゃんと知っていたのです。彼らがそうした事態に直面したときどんなに気弱になるか、また、その弱さに付け込んで誘惑者であるサタンがどんなに巧妙に働きかけるのか・・・を。私たちは全能の神を信じる者として、神がいつもともにいて助けてくださるということを信じていますが、そうした事態に置かれるとすぐに躓いてしまうような弱い者なのです。特に、誘惑者であるサタンは、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら歩き回っています。私たちにはそうしたサタンの誘惑に勝利するだけの力はありません。神は力ある方だと信じていても、その神から離れてしまえば私たちには何の力もないのです。そのような時、いったい私たちはどうやって信仰に立ち続けていることができるのでしょうか。互いに励ますことによってです。クリスチャンは互いの信仰の状態や戦いについて無関心であってはなりません。互いの霊的状態に配慮しながら、動揺することがないように、信仰に堅く立ち続けることができるように励まし合わなければならないのです。

無理です!私は自分のことで精一杯なんですから・・。とても他の人のことまで配慮する余裕なんてありません。そう思っている方も少なくないと思います。しかし逆なんです。私たちが他の人のことを顧みて、その人が信仰に堅く立ち続けるように励ましいくなら逆に自分自身が恵まれ、自分自身が強められることになるのです。ですから、私たちは自分のことだけでなく他の人のことも常に顧み、パウロがテモテをテサロニケに遣わして励ましたように、具体的な行動をもって励ましていかなければならないのです。

信仰から離れていく人は、ある日突然そうなったのではありません。実はそれ以前から礼拝を休みがちになったり、クリスチャンとの交わりを避けるようになったりするなど、事前にそのシグナルを送っていたはずなのです。それを早期に発見し、手遅れにならないように励ましていれば、その中の相当数の方々は信仰にとどまっていることができたのではないでしょうか。ですから私たちは他のクリスチャンの霊的状態に常に気を配りながら、励ましていかなければならないのです。

3節を見ると、彼は「このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように」テモテを遣わしたとあります。また、5節でも、「あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。」とあります。初代教会の交わりの豊かさは、このように実際に会って目に見える形での交わりにあずかりたいと熱心に願っていたことにあります。彼らはただメールでのやりとりや、「祈っています」といったお決まりの挨拶程度の交わりではなく、実際に会って顔と顔とを合わせ、手を握り合い、声を掛け合う交わりを求めていたのです。使徒ヨハネはその手紙の中でこう言っています。

「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」(Ⅱヨハネ12)

パウロもまた10節で、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」と言っています。彼らの交わりは、顔と顔を合わせての交わりだったのです。私たちはメールやLINE、フェイスブックといった通信の便利な時代にあって、こうした交わりの原則を忘れがちになりがちですが、顔と顔を合わせての交わりの豊かさと祝福というものを大切にしていきたいものです。へブル人への手紙10章25節には、「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とありますが、なぜいっしょに集まることをやめたりしないのかというと、この顔と顔を合わせての交わりが重要だからなのではなでしょうか。

また、そればかりではなく、パウロはテサロニケの人たちにこう言っています。「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」

どういうことでしょうか。パウロははっきりと、クリスチャンの苦難は「定められている」ものであると断言しているのです。それは思いがけないことではなく、当然のことであるということです。また4節にあるように、それはまたテサロニケに滞在していた時にも前もって言っておいたことですが、それが今、果たしてその通りになっただけのことなのです。すなわち、こうした苦難は先刻承知のことなのですから、決してあわてふためいたり、信仰をぐらつかせたいしないでほしいということなのです。新しく信じた人や求道中の人に向かって私たちは、クリスチャン生活はすべてがバラ色であるかのような印象を与えやすいものですが、信仰を持ったことのために生じる困難もあるということを前もって語りながら、免疫をつけるというか、困難に対する心構えも同時に持つように勧めていく必要があります。その中で、キリスト教の救いがどんな確かで、苦難に勝ち得てあまりあるものであるかを力強くあかしして、励ましていかなければならないのです。

Ⅱ.パウロの生きがい(6-10)

次に6節から10節までをご覧ください。

「6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」

テモテの報告をパウロたちが聞いたのは、彼らがコリントにいた時でした(使徒18:5)。そして、テモテの報告は実に喜ばしいものでした。テサロニケの教会は、パウロたちの予想をはるかに越えて、主にあって固く信仰に立っていました。そればかりではなく、彼らの互いの間に愛が満ち溢れていたのです。また将来の、キリストの再臨の希望を持っていました。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(Ⅰコリント13:13)テサロニケの教会には、この信仰と希望と愛が溢れていました。

仮にパウロが、テサロニケには大勢のクリスチャンはいたけれども、パウロが宣べ伝えた福音とは異なるものを信じていた、と聞いたらどうだったでしょう。きっとその心は苦しみもだえたことと思います。あるいは、彼らの間に愛がなかったとしたら、悲しんだことでしょう。将来の、輝けるキリストの再臨の希望もなかったとしたら、残念に思ったに違いありません。けれども、今テモテが持ち帰った報告は、こうした心配や不安を一掃するほどのすばらしい喜びの知らせだったのです。

また、彼らはパウロたちのことをいつも考えていて、パウロたちが彼らに会いたいと思っているように、彼らもまた、しきりにパウロたちに会いたがっているということを聞いて、この上もない喜びを感じました。それは遠く離れてはいても、彼らもまた祈りの中でパウロたちのことを思い出してくれていたことを示しているからです。

このようなわけで、パウロはテサロニケの人たちの信仰によって、慰めを受けました。パウロの宣教の働きは苦しみの患難の連続でしたが、そうした押しつぶされそうになるプレッシャーやストレスとの戦いの中にあっても、こうした彼らの信仰はオアシスのような慰めをパウロにもたらしてくれたのです。

このことから、クリスチャンの励ましについてのもう一つの大切な原則が教えられます。それはクリスチャンの励ましは決して一方通行ではないということです。クリスチャンの交わりは、互いに良いものを分かち合う関係なのです。ちょうど愛情を注いで子供を育てると、その子供からも多くの喜びと慰めを受けるように、クリスチャンの交わりも互いに良い者を分かち合う関係なのです。パウロほどの人物であれば、直接神から慰めを十分受けているのだから、人間からの慰めや励ましなど必要なかったのではないかと考えられがちですが、決してそうではないのです。ピレモンに対しても彼は、「あなたの愛から多くの喜びと慰めを受けました。」(ピレモン7)と言っています。激しい霊的戦いの中に置かれ、大きな責任を持っている人ほど、その孤独で厳しい働きのゆえに他の人からの励ましと慰めを何よりも必要としているのです。

そして、こうしたテサロニケの人たちのような信仰の姿を見ることは、彼にとっての生きがいでもありました。8節には、「あなたがたが主にあって固く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。」とあります。パウロの生きがいは、人々が主にあって堅く立っているということでした。それは何にも代えがたいほどの力と励ましをパウロに与えてくれるものだったのです。パウロにとって他の兄弟姉妹の信仰の成長を見ることなしには、生きる目的も喜びもなかったのです。彼は自分だけの信仰が保たれ、神との交わりが満たされて満足するような信仰ではありませんでした。主にある人々とのよき信仰の分かち合いを離れては、クリスチャンとして存在理由を見いだせないと思うほど、他の兄弟姉妹のことを思い、彼らが主にあって堅く信仰に立っていてくれることを生きがいとしていたのです。

あなたの生きがいは何ですか。私たちはパウロの生きがいを生きがいとしたいものです。自分の喜びや満足ではなく、他の兄弟姉妹が信仰に堅く立っていてくれることを喜び、そのことを切に祈り求める者になりたいと思うのです。

Ⅲ.パウロの祈り(11-13)

 

第三に、パウロの祈りです。11節から13節までをご覧ください。

「11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」

テモテの報告を聞き、テサロニケの人たちの信仰を知ったパウロは喜びにあふれ、神への感謝へと導かれました。しかし、それだけで終わってはいません。その感謝の祈りは新たな祈りへの導火線になっているのがわかります。試練の中にあるクリスチャンが一番危機に陥りやすいのは、試練の最中にある時ではなく、それを乗り越えたと思われる時であるからです。試練に直面している時は、多くのとりなしの祈りがささげられますが、解決の知らせが伝えられると、みな安心してさっと祈りの手を引っ込めてしまうからです。ですから、パウロは喜びの知らせを聞いたからこそ、なお一層テサロニケの人たちのために祈っているのです。

パウロはここで三つのことを祈っています。第一に、主イエスご自身が、道を開いて、彼らのところに行かせてくださるように。第二に、彼らの互いの間の愛が増しくわえられますように。そして第三に、キリストの再臨に備えて、彼らが主の前に聖い歩みをすることができるようにということです。

まずパウロたちがテサロニケに行くことができるように、主ご自身が道を開いてくださるようにと祈っています。これは2章18節のところで、パウロたちが彼らのところに行こうとしても行けないのはサタンがそれを妨げているからだと言っていますが、その障害を取り除いてくださるのは全能の神ご自身です。パウロは、人間のどのような熱意と願望をもってしても、神が道を開いてくださらなければそれは不可能であることを知っていました。また、逆に、それがどんなに難しい状況にあっても神が道を開いてくださるなら、必ず可能になると確信していました。すべては神のご計画と導きの内になされるのです。私たちも私たちの置かれている環境の中で、神が道を開いて導いてくださるならば必ずそうなるし、そうでなければ開かれることはないということを覚え、どんな小さなことでも祈りによって道が開かれることを求めていきたいと思います。

次にパウロは、彼らの互いの間の愛が増し加えられるようにと祈っています。苦難の中にある教会は、その問題が解決し良い方向へ動き出すと、兄弟姉妹相互の結束が深められ、これまでにない愛の一致を生み出されます。しかし、同時にそれは逆の作用を生み出すこともあるのです。たとえば、迫害する者に対して憎しみを持つことが正当化されたり、そうした苦しみの中で動揺する弱い信仰者をさばいてみたり、やっぱり自分が正しかったと片意地になった信仰に陥ってしまうこと等です。心にゆとりを与えないほどの困難な事態は、兄弟姉妹の間にさまざまなあつれきを引き起こしやすいのです。

だからパウロは、「あなたがたの互いの間の愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」と祈ったのです。苦しみだけが満ちて愛が失われた群れは悲惨ですが、苦難が増すにつれて愛が満ちていく教会は、決して動揺したり倒れたりすることなく、そこに神の栄光が豊かに現されていくからです。

そしてパウロは、キリストの再臨についても祈っています。真の愛に満ちたクリスチャン生活とは、主が再び来られる日に備えて、聖く、責められるところのない者として整えられていく生活だからです。主イエスは終末の前兆として、多くの人たちの愛が冷えることを預言しました(マタイ24:12)。またパウロは終わりの日にやってくる困難な時代には、自分を愛したり、金を愛したり、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者が出てくると言いました(Ⅱテモテ3:1-3)。まさに今はそのような時代ではないでしょうか。愛と聖さが急速に失われている時代にあって、私たちはこの二つの特質をしっかりと追い求め、キリストの再臨に備えて主にある信仰の友がしっかりと整えられるように祈り求めていかなければならないのです。

私たちはますます、主によって心を強めていただかなければなりません。苦難は必ず訪れます。しかし、たとえ苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように励ましていく。それがクリスチャンの真の交わりなのです。

Ⅰテサロニケ2章13~20節 「信じる者に働く神のことば」

きょうはⅠテサロニケ2章の後半の箇所からお話したいと思います。前半のところには、パウロの伝道に対して非難していた人たちに対する弁明が述べられていました。ここではそれを受けて、テサロニケの人たちがどのように神に従ったのかが記録されています。それはパウロたちにとって、本当に喜びでした。19節と20節のところでパウロはこう言っています。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」いったいなぜテサロニケのクリスチャンたちはそのように受け止めることができたのでしょうか。きょうはこのことについて三つのポイントで見ていきたいと思います。

Ⅰ.神のことばとして(13)

まず13節をご覧ください。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」

「こういうわけで」というのは、今述べたように、パウロがどのように福音を語ったのかということを受けてのことです。彼は福音をゆだねられた者としてそれにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。彼は決して人をだましたりするような不純な心やだましごとで語ったのではありませんでした。こういうわけで・・・です。こういうわけで、パウロたちとしても、そのような宣教の働きにこのテサロニケの人たちが真実に応答してくれたことに感謝しています。それは彼らが、パウロたちが語ったことばを聞いたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおり神のことばとして受け入れてくれたからです。神のことばとして受け入れるとは、ただ単に知的に認めるというレベルではなく、絶対的な真理として受け入れるということです。人間のことばのように、「こうではないか」、「ああではないか」といった憶測や、「こうあるべきだ」といった自分の考えを捨てて、神のことばのとおりに生きようとすることです。伝道者や牧師が語る聖書のことばを聞いてそれにどんなに感銘を受けたとしても、それが単に「良い話だった」とか「感動的な話だった」というレベルに留まっているかぎりは、まだ人間のことばとして受け止められているにすぎません。神のことばとして受け入れるとは、ただ聞くだけでなく、その聞いたことばのとおりに生きることなのです。まさにテサロニケの人たちはそのように受け入れました。それを自分たちが従うべき絶対的な真理として受け入れたのです。それは神のことばを語る側の者として、どれほど大きな慰めと励ましを受けたことでしょう。牧師なり、伝道者なり、福音宣教の働きに携わっている者がかえって励まされるという経験をよくしますが、テサロニケの人たちの福音に対する応答は、まさにパウロたちに励ましを与えるものでした。いやパウロたちだけでなく、それは神ご自身を喜ばせるものだったのです。

いったいそれを可能にしたのは何だったのでしょうか?それは聖霊の働きです。1章6節を振り返ってみましょう。ここには、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とあります。テサロニケの人たちは聖霊による喜びをもってパウロたちが語ったことばを神のみことばとして受け入れたのです。

その結果、どういうことが起こったでしょうか?どのような神の御わざが起こったのでしょうか?「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」この神のことばが、それを信じた人たちのうちに働いたのです。この「働いている」ということばのギリシャ語は、「作用する」とか「動く」という意味のことばです。神のみことばがその人を動かして変化をもたらしたということです。リビングバイブルではここを、「信じる者の生活を一変させるのです」と訳しています。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われますが、この神のことばはそれを受け入人の心に変化を起こすのです。その神のことばがその人の内に働いて、信じる人の生活を一変させるのです。

先日、Yさんを施設に訪問したとき、ご自分が救われた時のことを話してくれました。三人兄弟の末っ子として生まれたYさんは、実にわがままに生きておられました。そんな時一番上のお兄さんが結核で亡くなるのです。これまで自分をかわいがってくれた兄が亡くなったとき、心にぽっかり穴が開いたように、虚しくなりました。いったい自分は何のために生きているのか・・・。そんな時、渋谷駅の前で行われてキリスト教の路傍伝道に出会いました。そこで歌われていた賛美歌を聞いていると、胸がスーとするのを感じました。それでキリスト教にのめりこんで行ったのです。しかし、当時は耶蘇教と言われていた時代です。ご両親の反対はなかったのですか、と尋ねると、全然なかったと言うのです。むしろ、応援してくれた、と言います。なぜなら、イエスさまを信じてからのYさんの生活が一変したからです。それまでは両親に反抗的でしたが、イエスさまを信じてからは逆に素直になって、両親の言うことを聞くようになりました。それで両親はとても喜ばれ、「キリスト教はいい宗教だ」と応援してくれたというのです。そればかりも自分たちも教会に行ってみたいと言ってくれました。それはYさんの生活が一変したからです。神のことばは、それを信じる者たちのうちに働いて、その人の生活を一変させる力があるのです。

イエス様は種蒔きのたとえの中で、この信じる者に働く神の力がどのように偉大であるのかをお語りくださいました。「3種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ13:3-8)

みことばを聞く姿勢が重要です。どのように聞くかによって結果が違います。神のことばを聞いても悟らないと悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪っていきます。道端に蒔かれるとはこのような人たちのことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んでそれを受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばないのです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。この神のことばは、信じている人のうちに働くのです。三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。ですから、どのように神のことばを聞くのかが重要です。

クリスチャンとは人間が与える影響や感動によってではなく、根本的には神のみことばによって内面が変えられ続ける者です。この信じる者の内に働くみことばの力にどれだけその人があずかっているかということによって、クリスチャンの成長の度合いも異なってきます。テサロニケのクリスチャンたちは、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れました。その結果、その神のことばが彼らのうちに働いて、彼らの生活を一変させたのです。

Ⅱ.神の諸教会にならう者(14-16)

次に14節から16節までをご覧ください。14節のところでパウロは、「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。」

ここでパウロはテサロニケのクリスチャンたちを、ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったと言っています。どういう点でならう者となったのでしょうか。同国民であるユダヤ人に苦しめられたという点においてです。イエスさまもユダヤ人であり、またパウロもユダヤ人ですが、同胞のユダヤ人から迫害を受けました。彼らは主であるイエスをも、預言者たちも殺し、神に喜ばれるどころか、すべての人の敵となってしまいました。しかし、そのような中でもパウロたちはひるむことをせず、福音を語ることをやめませんでした。それと同じようにテサロニケのクリスチャンたちも激しい迫害があるかもしれませんが、それにひるむことをせず、福音を語り続けてほしい。そういう点においてもキリスト・イエスにある神の諸教会にならう者になってほしいと言っているのです。そういう前例があるから、それにならってほしいと言ったのです。

Ⅱテモテ3章12節にはこうあります。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、必ず迫害を受けるようになります。すばらしい約束です。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、敬虔に生きていなくてもそのように願っただけで、その瞬間に、あなたは迫害を受けるのです。これは確かな約束です。逆に、迫害を受けていないとしたら問題です。敬虔に生きようと願うなら迫害を受けるのであれば、そのようには生きていないということになります。この世にどっぷりと浸かっていると何の迫害も受けません。でもキリストのように生きたいと願うなら、それができていなくても、そう願うだけで迫害を受けるのです。なぜなら、この世には確かにキリストの敵がいるからです。この敵の存在は現実であり、リアルです。悪魔、サタンはこの世の神と呼ばれ、この世の支配者とも呼ばれているのです。しかし、たとえそのような迫害を受けても、決してひるまないでいただきたいのです。なぜなら、それこそ真のクリスチャンであるということのしるしであり、正真正銘の救いを得たことにほかならないからです。それは紛れもなく神の諸教会にならう者となったという事実だからです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんにはどんな迫害がありますか。しかしそれがどのようなものであっても、それはあなたが真のクリスチャンであることのしるしなのだと覚え、感謝をもって受け止めましょう。そして、私たちも神の諸教会にならう者とさせていただきましょう。

Ⅲ.クリスチャンの交わり(17-20)

最後に17節から20節を見て終わりたいと思います。「17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので―といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、―なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。18 それで私たちは、あなたがたのところへ行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」

パウロたちは、テサロニケには三週間ほどしか滞在できなかったので、どうしてもテサロニケに戻って来て彼らに会いたいと願っていました。それでパウロたちは一度ならず二度までも彼らのところに行こうとしたのですが、その実現には至りませんでした。なぜか?それはサタンがそれを妨げたからです。サタンが妨げたとはどういうことでしょうか?サタンの実在についてはさきほども触れましたが、常に私たちの働きを妨害してきます。このサタンの妨害が実際には何を指しているのかはわかりません。ある人は、それはパウロが抱えていた肉体のとげ(Ⅱコリント12:7)ではないかと考えていますし、ある人は、テサロニケ市当局の厳しい監視の目があったということを指しているのではないかと考えています。またある人はアテネ、コリントと伝道してくる中で生じた様々な問題の対応に追われていたということではないかと考えていまが、はっきりしたことはわかりません。しかし、それがいずれの理由であったにせよ、パウロはその背後にあって神の働きを必至になって妨害しようとするサタンの存在と巧妙なしわざであったと見て取っていたのです。それは私たちもよく経験することです。教会に行こうとしたら急に来客があって行けなくなったとか、聖書を読もうとしたら電話があって読めなかった、祈ろうとしたらどうも体がだるくて祈れない、そういったことがよくあります。ですから、私たちの背後にはサタンの巧妙な妨げがあるということを見て、戦っていかなければなりません。

しかし、そのような困難にもかかわらず、パウロは決して落胆しませんでした。なかなか打開できない状況にありながらも、彼らは感謝を抱き続けたのです。なぜでしょうか?第一に、それはクリスチャンの交わりというのは、たとい直接顔を合わせられなくても、心においてしっかりと結び合わされた交わりであるということです。17節でパウロは、「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので―といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、」と言っています。顔を見て交わることはできないかもしれない。でも心においてではそうではありません。心において交わりを持つことができるのです。どのように?祈りを通してです。私たちには祈りによる交わりという賜物が与えられているのです。祈りを通して、全世界のまだ一度も会ったことのない兄弟姉妹と豊かな交わりを持つことができるのです。先の東日本大震災では世界中のクリスチャンが、まだ一度も会ったことのない人々から、たくさんの支援が送られてきました。また一度も会ったことはないけれども、それは彼らの祈りの中にあり、その祈りに答えて神が彼らの心を動かしてくださったのです。

家内は1979年にアメリカカリフォルニア州ガーデナ市にあるカルバリーバプテスト教会から遣わされて日本にやって来ました。その数年後私と結婚することになったので、私もアメリカに渡り挨拶をしながら、神が私たちを通して何をなそうとしておられるのかをお話ました。すると、そこにいた大勢の人たちが手放しで喜んでくれました。当時その教会の牧師で、今は天国に行かれましたが、キースターという牧師は、これは神さまのみこころだと信じますと言って、按手をして祈ってくれました。またユースのグループは自宅に私たちを招いて歓迎のパーティーをしてくれました。そのとき私は思いました。それまで私は一度も彼らと会ったことはありませんでしたが、ずっと祈られていたんだな・・と。ですから、初めて会ったような感じがしませんでした。もう何年も知っているかのような友のように感じたのです。それは祈りを通して交わっていたからです。クリスチャンはまだ一度も会ったことのない人でも祈りを通して豊かな交わりを持つことができるのです。教会には年齢や職業はもちろんのこと、趣味や考え方においても異なった人々が集まっていますが、目的において、また価値観においても一致することができるのは、そこに共通の土台が与えられているからです。聖書、祈り、信仰、聖霊の働きという共通の土台のゆえに、たとえ遠く離れていても、常に主にあって心は一つになることができる。それがクリスチャンの交わりなのです。

第二のことは、主イエスが再びこの地上に来られる時、必ず再会できるという約束があることです。19節を見てください。ここには、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」とあります。

いますぐに会うことはできないかもしれない、さまざまな妨げに会って会えないでいるかもしれない、でも必ず再会する時がやってきます。いつでしょうか。それはイエス・キリストが再び戻ってこられる時です。イエスが再臨する時です。その時には顔と顔とを合わせて会うことができるのです。その前に会うことができるかもしれませんが、たとえ会うことができなくても、その時には必ず会うことができます。なぜなら、クリスチャン死んでも生きる永遠のいのちが与えられているからです。ですから、この世で物理的に会えなくても、必ず天国で会えるのです。ですから、クリスチャンが死ぬとき、亡くなったとは言わないのです。肉体的には死んでも、霊においてはまだ生きているからです。ですから喪失感というものはありません。感情的には、この地上での別れいう寂しさはありますが、実際には、今も生きているのです。ですから私たちは失ったわけではないのです。

それはただ目に見えないだけで、一時的に会えないだけで、やがて必ず会う時がやってくるのです。この地上での別れは、天国での永遠の再会に比べれば、ほんのしばしの間の別れにすぎません。クリスチャンにとっては「天国でまた会いましょう」と言える再会を待つ希望の別れでもあるのです。これがクリスチャンの希望です。ですからパウロは今すぐに会えなくても、たとえサタンの妨害があって彼らのところに行くことができなくても、喜ぶことができました。彼は、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りとなるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」と言ったのです。それを知っていたからこそパウロは、会いたくても会えない悲しみ中でも、いつも神に感謝をささげることができたのです。

クリスチャンの交わりはこの希望で支えられているのです。たとえ離れていても、たとえ顔と顔とを合わせることができなくても、祈りによって交わることができるだけでなく、やがて主が再臨されるとき、文字通り顔と顔を合わせて交わることができる。その希望のゆえに、いつも心から主を待ち望むことができたのです。

私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。私たちもそう言われるように、キリストにある神の諸教会にならう者となりたいと思います。それは神のことばを神のことばとして受け入れるところから始まります。この神のことばは、信じている私たちのうちに働いているからです。

Ⅰテサロニケ2章1~12節 「福音をゆだねられた者」

きょうはⅠテサロニケ2章のみことばから、「福音をゆだねられた者」というタイトルでお話したいと思います。1章には、このテサロニケの教会の人たちがいかに信仰に歩んだかが語らました。彼らは、絶えず、神の御前に、信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐をもって歩みました。そのような彼らの姿は、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となりました。いや、それはマケドニヤとアカヤにとどまらず、あらゆる所に響き渡ったほどです。

しかし、そんなすばらしい教会でしたが、問題が全くなかったかというとそうではなく、多少なりの問題がありました。パウロの働きに対する非難と誤解です。パウロが愛をもって教会を訪問しようとすると、自分たちを支配しに来るのではないかと思われたり、諸教会から献金を集めれば、献金をだまし取っていると中傷する人たちがいたのです。当時各地を回って偽りの教えを説いていた偽教師たちとパウロたちの働きを同一視し、パウロを悪しざまに非難する人たちがいたのです。

神に立たされた者がこのような非難を受けることはイエス様でさえ受けたことであって驚くべきことではありませんが、そのようなことよって教会の中が動揺することがあるとしたら避けなければなりません。なぜなら、そうしたことによって神の働きがそしられたり、福音が誤って伝えられてしまう恐れがあるからです。特に、誕生して間もないテサロニケの教会にとって、そうした悪いうわさはどんな悪影響を及ぼすか分かりませんでした。そこでパウロは、主の恵みのうちに成長しているテサロニケの教会が決してそのような愚かなことで動揺してほしくないという思いから、これが純粋な神の働きであることを弁明しているのです。

Ⅰ.神によって、大胆に(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。

「1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。」

どういうことでしょうか。1節でパウロは、彼らのところに行ったことはむだではなかったと言っています。なぜでしょうか。彼らのところに行って福音を伝えた結果として教会が誕生したからです。それは並大抵のことではありませんでした。そこには激しい苦闘があったのです。しかし、そうした激しい苦闘の中にあっても、彼らは大胆に神の福音を彼らに語ることができました。どうしてでしょうか。ここに「私たちの神によって」とありますが、そうです、そこに神の助けがあったからです。それがなかったらどうやって宣教活動を続けることができたでしょう。パウロたちの働きは全く不可能なことでした。それを可能にしたのは、ただ神の助けと守りがあったからなのです。神が彼らをテサロニケに遣わしてくださり、その働きを成し遂げてくださったのです。それは神の働きによるものだったのです。

ここには、パウロたちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたとあります。一人のマケドニヤ人の叫びを聞いてマケドニヤに渡って行ったその最初の宣教地がピリピでした。そこでは占いの霊につかれた若い女奴隷から悪霊を追い出したということで、もうける望みを失った彼女の主人から訴えられ、何度もむち打ちにされたあげく、牢屋の中にぶち込まれました(使徒16:12-40)。もしパウロたちがいい加減な伝達者であったなら、こうした度重なる迫害に直面したときさっさと退散し、伝道することなど止めていたことでしょう。ところが、それでも彼らは勇気を失わず、次の宣教地であるテサロニケに向かい、そこでも福音を語り続けることができました。それは、神がともにおられたからです。神がともにいて助けってくださったのです。パウロの働きは一貫して神によるものだったのです。

ここには、「激しい苦闘の中でも大胆に神の福音を語った」とあります。この「大胆に」というのは「雄弁に」という意味ではなく、「ありののままに」とか「自由に」という意味です。パウロは、神の福音をそのまま、ありのままに語ったのです。

私たちは、自分たちが福音を伝えるとき、それに対して反対者が起こったり非難されたりすると、できるだけ語らようにしようと思います。そしてできるだけ相手に合わせて、相手に受け入れられるようなことだけを語ろうとするのです。しかし、パウロたちはそうではありませんでした。彼らはたとえ迫害されても、たとえむちで打たれても、たとえ牢屋の中にぶち込まれてとも、大胆に神の福音を語りました。それは彼らの中に自分たちの働きが神によるものであるという確信があったからです。人を全く新しく創り変えることができるのはただ神のみことばだけであるという確信があったからなのです。みことばをそのまま伝えるとき、必ずそこに神のみわざが現されると信じていました。事実、彼らがテサロニケに行ったことは、決してむだではありませんでした。そこに神の教会が誕生したからです。

私たちも苦しみに会うと伝道するのはもうやめようとか、宗教の話はできるだけしない方がいいという誘惑にかられることがありますが、しかし、そうした激しい苦闘の中でも神の福音を福音として大胆に語るなら、神が働いてくださいます。そして、すばらしいみわざを現してくださるのです。その労苦は決してむだになることはありません。私たちは、この働きが神によって成されているという確信を持たなければなりません。そして、神によって、大胆に福音を語らなければならないのです。

Ⅱ.純粋な心で(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。ここにはパウロがどのような心で福音を語っていたのか、その動機が語られています。

「3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実をもうけたりしたことはありません。神がそのことの証人です。6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

3節でパウロは、「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません」と言っています。「迷い」とは、聖書の真理からさまよって、自分の意見を語ることです。また「不純な心」とは、純粋な心でないこと、つまり純粋な動機から出たものではないことです。そして、「だましごと」とは、人をだますような話しのことです。真実はそうではないのに、別のことを話してだますのです。昔も今も、こうしただましごとは絶えません。見かけではもっともらしいようでも、その中身はだましごとで満ちています。だから多くの人たちは宗教には関わりを持ちたくないと思うのです。宗教は怖い・・・と。しかし、パウロたちの勧めはそういうものではありませんでした。パウロたちの勧めは4節にあるように、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとするものでした。なぜなら、神は自分たちの心をお調べになることがおできになられる方だからです。Ⅰサムエル16章7節に、「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。人を外見だけで判断するのは危険です。故事に「外面如菩薩内心如夜叉(げめん にょぼさつ ないしん  にょやしゃ、Fair without, foul within.Fair face, foul heart)ということばがあります。顔は仏のように優しく美しいが、心は夜叉(残忍な鬼神)のように邪悪で恐ろしいという意味のことばです。人はそのように惑わされやすいのです。けれども、神は違います。神は外見ではなく、私たちの心までも見抜くことがおできになられる方だからです。神は人の心の内側のすべてを見抜き、心をお調べになられる方なのです。私たちは人をごまかすことはできても、神をごまかすことはできません。ですから、パウロは人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語ったのです。これがパウロの福音宣教の動機だったのです。これは、宣教における動機ばかりでなく、私たちの生活のあらゆる行動において求められている原則でもあります。Ⅰコリント10章31節には、

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。

神の喜びと栄光のために行動する、それがクリスチャンに求めてられている生き方です。私たちは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなければなりません。「いったい自分は何のためにこれをしているのか」「だれを喜ばせようとして今このことをしようとしているのか」ということを、いつも吟味しなければならないのです。

しかし、それは人に喜んでもらうことや自分自身の満足はどうでもいいということではありません。そのように極端に考える必要はないのです。神を喜ばせることを第一にするなら、その結果として、必ず人にも、自分にも正当で十分な喜びと満足が与えられるはずだからです。ただ、ここで言いたいのは、喜ばせるという動機がどこから出ているのかということです。もしそれが人を喜ばせようとするだけのものであれば、どうしてもそこには人におもねる心やへつらいの態度といったものが現れます。ですから、そこには何一つ良いものは生まれてこないのです。神様との正しい関係があってこそ、人との正しいあり方が生まれてくるからです。

パウロは、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。こんなこと言ったら相手が不快に思うのではないか、もしかすると嫌われるのではないかという心配もあったでしょうが、神の福音をゆだねられた者として、それにふさわしくはっきりと語ったのです。「あなたには罪があります。罪があれば決して幸せになることはできません。すべての問題の原因はこの罪です。あなたは自分の力ではどうすることもできません。この罪から救われることはできないのです。神を信じてください。神はあなたのためにイエス様を遣わしてくださいました。イエス様があなたの罪のために十字架で死んでくださって、あなたの罪を解決してくださいました。あなたがイエス様を信じるなら、すべての罪が赦されて天国に行くことができます。あなたはこの罪から救われるのです。」とはっきり言わなければなりません。

このようなことを言うと、ある人はこう言うかもしれません。「何だって、この私が罪人だって。とんでもない。私をだれだと思っているのか。罪人呼ばわりして、けしからん。私は無力で何もできない?とんでもない。私はこれまで必死で頑張ってきたんだ。そして、それなりに成功してきた。そんなこと言うなんて失礼だ。そんな宗教だれが信じるか。だからキリスト教は嫌いなんだ。だからだれも信じないじゃないか。たまにはもっといいことを言ったらどうなんだ。心に響くようなことを・・。」

人々が求めているのはその人の自我を満足させてくれるようなことばであって真理ではありません。伝道者にとって最大の誘惑の一つは、聞く人の気の入ることを語ろうとすることです。厳しいさばきのことばや罪について語るのを避け、奇跡をそのまま述べることをためらい、当たり障りのない、相手に合わせた福音を、まぁ、こういうのは福音とは言いませんけれども、そうした教えを語ろうという誘惑があるのです。しかし、パウロはこの誘惑に負けませんでした。5節にあるように、彼は、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。もしパウロが町の人たちに取り入ろうとして伝道していたら、迫害や反発は起こらなかったでしょう。けれども、その代わりに困難な中でも明確に救われて、偶像から立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになる人も起こされなかったでしょう。

6節を見ると、ここには、「また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」とあります。

パウロは使徒としての権威を主張することもできました。この「使徒としての権威」とは、使徒として人々の尊敬を受けるということもそうですが、ここではそれよりも経済的な支援を受ける権利のことを指しているものと思われます。Ⅰコリント9:13-15には、「13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。」とあります。

使徒、伝道者、牧師が福音の働きから生活の支えを得ることは間違いではありません。神はそのように定めておられます。ですから、それは伝道者の権利でもあるのです。しかし、パウロはその権利を主張しませんでした。なぜでしょうか?誤解されないためです。それを受けることによって他の人たちからの誤解を招き、神の働きがそしられないようにしたのです。そのために彼は自分の権威、名誉を放棄したのです。そして9節にあるように、彼らに負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、福音を宣べ伝えました。それは彼が神の前に純粋な動機をもって歩んでいたからです。

皆さんは、どのような心で歩んでおられるでしょうか。それが迷いや不純な心から出ていたり、だましごとであったりはしていないでしょうか。人を喜ばせようとするあまり、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしてはいないでしょうか。人はうわべを見るが、主は心を見られます。この主の前に純粋な心を持って歩み、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語ろうではありませんか。それが神に認められて福音をゆだねられた者なのです。

Ⅲ.母のように、父のように(7-12)

第三のことは、そのふるまい方です。7節から12節までのところをご覧ください。ここには、「それどこか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」とあります。人は子供が生まれて親になると、喜びとともに子供を育てる責任を感じます。テサロニケで多くの霊の子供たちの誕生をみたパウロも、その後の彼らの養育に全力を注ぎました。彼は母がその子供を養い育てるように、優しくふるまいました。母のように優しくふるまうとは、無条件に子供を包み込む母親の本質的なふるいまです。

旧約聖書に描かれているイスラエルの神にも、このような側面が表現されています。たとえば、イザヤ書66章13節には「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とありますし、詩篇131篇2節にも、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。」とあります。

まことに神は、母親のように慰め、無条件の愛で包み込んでくださる方です。その神の愛でパウロは優しくふるまったのです。それは8節にあるように、彼らのことを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったほどです。これはまさに母親の姿でしょう。自分と子供を同一化しているのです。自分のいのちまでも与えたいと思うほど愛していました。

そうかと思えば、11節、12節にあるように、父親がその子供に対して接するように、接しました。つまり、「勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じ」たのです。その父親の愛は、威厳を持って子供たちを正しい道に導くために訓戒する愛です。このような父親の愛は「あなたがたひとりひとりに」とあるように、ひとりひとりを重んじ、ねんごろに教え諭すという愛だったのです。決して十把一からげにまとめて訓戒するというものではありませんでした。ひとりひとりに、丁寧に、時間をかけて、細かな点にまで配慮して成されたのです。これのようなことには相当の時間と労力も必要だったのではないかと思います。パウロは後でエペソの長老たちに説教したとき、このように言いました。「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:31)それはまさに涙とともになされた祈りの訓戒だったのです

このようにパウロのテサロニケでの働きには母親のような優しさと、父親のような厳かさがありました。この両面があってこそ、テサロニケの教会は大きく成長することができたのです。それは今日の教会にも言えることです。今日の教会もこの両面が相伴わなければ、健全な成長は望めません。ともすれば、優しすぎたり、厳しすぎたりのどちらか一方に走ってしまい、そのバランスを欠いてしまいがちになりますが、厳しさの中にも優しさがあったり、優しさの中にも厳しさもあるといった主のバランスが求められているのです。

人間が成長するということは決まった材料を与えれば同じ結果が出てくるというようなものでは無いのが難しい所ですが、確かに子供が正しく成長していくためには、できるだけ良い環境に置くことが重要のようです。特に家庭環境が重要であることはだれもが思うことでしょう。今日、子供の非行の問題が大きな社会問題になっていますが、その大きな原因の一つは、父親と母親の役割が欠如しているところにあると言われています。少し前は厳しい父親がいて、父親が一言・・・だというと、皆それに従いましたが、今は違います。父親が言ってもだれも聞きません。それを知ってか、父親もできるだけ何も言わないようにしているのです。それがやさしさだと思っています。では母親はどうかというと、言いすぎるのです。言わなくてもいいことまで言ってしまいます。ガミガミ文句ばっかり言すのでうるさいのです。子供とどのように接するかは本当に難しい問題で、だれも完璧にできる人などいませんが、その基本は母親のやさしさと父親の厳しさというバランスにあると言えます。そうした環境で育てられて始めてこどもが健全に成長するように、教会もやさしさと厳しさのバランスがあって健全に成長していくのです。パウロはこの母親のように優しくふるまい、父親のように、ご自身の御国に召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。それに加えて彼は、先ほども申し上げたように、昼も夜も働きながら、神の福音を宣べ伝えました。それは、彼らのだれにも負担をかけまいとしたからです。そこにはなみなみならぬ労苦と苦闘があったでしょう。それはまさに涙の伝道でした。

ですから、パウロの伝道はまやかしやだましごとでも、何でもなかったのです。彼は純粋な心で、ただ神を喜ばせようとして語りました。たとえそこにどんな労苦と苦闘があっても、敬虔に、正しく、まただれからも責められるところがないようにふるまったのです。

それは、私たちの模範でもあります。福音宣教の働きには必ずこのような非難や中傷、誤解はありますが、そのような中にあっても私たちは常に純粋な心で、人を喜ばせようとしてではなく、ただ神の喜びのために語るという姿勢を忘れないようにしたいものです。それが神に認められて福音をゆだねられた者なのです。

Ⅰテサロニケ1章4~10節 「すべての信者の模範となった教会」

きょうは、テサロニケ人への第一の手紙1章4節から1章の終わりまでのところから学びたいと思います。1章3節でパウロは、彼らの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしていると言いました。そして、4節から3章の終わりまで、その彼らの信仰の働きがどのようなものであったかが語られます。それは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となるような信仰でした。きょうはその信仰から学びたいと思います。

Ⅰ.聖霊によって伝えられた福音(4-5)

まず4節と5節をご覧ください。4節でパウロは、「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」と言っています。

彼らは、「神に愛されている兄弟たち」でした。それは彼らが神を愛したからではありません。神がまず彼らを愛し、彼らのためになだめの供え物としての御子を遣わしてくださったからです(Ⅰヨハネ4:10)。彼らは神に愛される資格など全くありませんでした。平気で罪を犯し、平気でキリストを十字架につけて殺すような者だったのです。にもかかわらず神は、彼らを愛してくださいました。なぜでしょうか。それは「あなたがたが神に選ばれた者」だからです。

彼らは神に愛されるように選ばれた者なのです。それは彼らだけではありません。私たちもそうです。イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンは皆、神に選ばれた者なのです。私たちはどこか自分で教会に来て、自分でイエス様を信じたかのような思いがありますが、実はそうではありません。神があなたを選んでくださったので、あなたは救われ、こうして教会に来ることができるのです。有名なヨハネの福音書15章16節には、次のようにあります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」

また、エペソ人への手紙1章4節5節を見ると、このように書かれてあります。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。にしようとされました。」皆さん、私たちは生まれる前から、いや、世界の基の置かれる前から、救われるようにと定められていたのです。

このようなことを申し上げると、「じゃ、神は救われない人は、あらかじめそのように定められていたのか」とか、「信じていない人は救われないように定められているということなのか」「そんなの不公平じゃないか」という人たちがいます。しかし、決してそういうことではありません。Ⅰテモテ2章4節を開いてください。ここには、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあります。皆さん、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。それなのに信じようとしないのはそれはその人の側の問題であって、神の問題ではないのです。差し出された救いを自ら拒んでいるだけなのです。神の救いはすべての人に差し出されています。神は、すべての人が救われることを望んでおられるのです。ですから、もしあなたがその差し出された救いを受け入れるならば、あなたも神に選ばれた人になるのです。テサロニケの兄弟たちは、差し出された神の救いを素直に受け入れました。それは彼らが神に選ばれた人たちだったからです。

5節をご覧ください。「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」

ここには、テサロニケの人たちが神に愛され、神に選ばれた人たちであると言える理由が語られています。それは、パウロたちによって彼らに伝えられた福音は、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。

どういうことでしょうか?Ⅰコリント人の手紙1章18節でパウロはこのように言っています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

また、同じⅠコリント2章4節のところでも、こう言っています。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」(Ⅰコリント2:4)

パウロによって伝えられた福音はただのことばだけではなく、そこに御霊の力があったということです。それはここに、「私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」とあることからもわかります。これはおそらくしるしや奇跡、いやしといった不思議なみわざもあったでしょうが、それ以上に、彼らの生活を通して、神の福音が力強く証されていたということでしょう。というのは、ここでパウロは福音のことを「私たちの福音」と言っているからです。「私たちの福音」とは何でしょうか。これは、私たちの所有となっている福音、私たちのものになっている福音という意味です。ただ私たちが信じた福音というだけでなく、その福音がすっかり板についていたということです。すなわち、彼らはこの福音に生き、福音に立って歩んでいたのです。そこにはものすごい聖霊の力が現れたことでしょう。その福音がテサロニケの人たちに伝えられたのです。

皆さんはどうでしょうか。「私の福音」になっているでしょうか。確かに福音によって救われたけれど、それは救われた時だけでした・・というようなことはないでしょうか。この福音が「私の福音」と言えるくらいになるまで、この福音にとどまり、福音に生き、福音によって成長していく人になりたいものです。そこに主の聖霊が力強く、豊かに働かれるからです。福音とは良い知らせ、グッド・ニュースです。神はあなたを愛しておられるという知らせです。どのように愛しておられるのでしょうか。神はあなたの罪を赦すために、ひとり子イエスを十字架につけてくださいました。それはあなたが滅びないで、永遠のいのちを持つためです。それは、あなたがどのようになっても変わらない永遠の約束なのです。たとえあなたが罪を犯しても、たとえあなたが道を踏み外したとしても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。あなたの代わりにイエスさまが死んでくださったからです。だから、どんなことがあっても、あなたが救いを失うことは絶対にありません。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦してくださいます。その約束はどんなことがあっても変わりません。それは永遠の契約なのです。すばらしい約束ではないでしょうか。この神の愛にとどまり、福音に生き続けるなら、神はあなたにも御力を表してくださるのです。

Ⅱ.聖霊による喜びをもって受け入れられた福音(6)

次に6節をご覧ください。ここには、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とあります。

福音は、力と聖霊と強い確信とによってテサロニケの人たちにもたらされましたが、一方、テサロニケの人たちはそれをどのように受け止めたでしょうか。彼らもまた多くの苦難の中にあって、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れました。パウロたちのうちに働いた聖霊のみわざは、伝道の対象であったテサロニケの人たちにも同様に力強く働いたのです。テサロニケの人々は、当然迫害が予想される中でも、聖霊による喜びを持ってみことばを受け入れることができたのです。

皆さん、クリスチャンの歩みは、決して良いことずくめではありません。良いことがあれば悪いこともあります。クリスチャンになったら何もかもがバラ色になるというわけではないのです。イエスさまがいばらの冠を被らせられたように、クリスチャンの生涯にもいばらがあるのです。バラもあれば、いばらもあります。パウロは若き伝道者テモテにこのように書き送りました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

また、イエスさまは弟子たちにこう言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

しかし、そうしたいばらの中にあっても、クリスチャンは喜ぶことができるのです。なぜでしょうか。それは聖霊が与えてくれるからです。聖霊によって喜ぶことができます。たとえ外側からは多くの苦難があっても、聖霊によって内側から喜びが溢れます。

聖書が語っている喜びは、一般的に語られている喜びとは違います。聖書が語っている喜びはまわりの状況がどうであれ、決して奪い取られることがない喜びです。一般的には、健康の時には喜ぶことができても、いざ病気になったら、その喜びはすぐに吹っ飛んでしまいます。お金があれば喜べますが、無くなった途端に不安になります。友達がいれば喜べますが、友達に裏切られたり、見捨てられたりすると落ち込んでしまいます。それまで抱いていた喜びがいっぺんに吹っ飛んでしまうのです。しかし、聖書が与える喜びは、どのような状況にあっても奪い去られることはありません。それは聖霊による喜びなのです。テサロニケの人たちは、この聖霊による喜びをもっていたのです。

皆さんは、この聖霊による喜びを持っているでしょうか?いったいどうしたらこの喜びを持つことができるのでしょうか。それは信仰によります。クリスチャンは信仰によって、目に見える世界だけでなく、目に見えない世界も見ているのです。だから、たとえ現実の生活が苦しくても、喜ぶことができるのです。

使徒ペテロは、迫害によって散らされていたクリスチャンたちに対してこう書き送りました。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:6-9)

「そういうわけで」というのは、イエスによって罪赦されて、永遠のいのちが与えられたので、ということです。そういうわけで、私たちは大いに喜んでいるのです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。私たちはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。アーメン。

これは信仰の結果なのです。たましいの救いを得ているからなのです。それは人間の目で見ることはできません。それはただ信仰によって、聖霊がその真理を明らかに示してくださることによって見えるのです。それは信仰の結果なのです。だから、たとえ苦難にあっても喜ぶことができます。そして、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどることができるのです。

ですから、これが見えるか、見えないかは大きな違いです。信仰によってそれがはっきりと見えるなら、どのような苦難をもろともせずに、聖霊によって喜ぶことができますが、そうでないとまわりの状況に一喜一憂して悲しみに打ちひしがれてしまうことになります。ですから、この差は大きいのです。私たちはいつも聖霊による喜び、聖霊による力、聖霊の臨在にあふれるために、いつもこの信仰によって、自分たちに与えられている霊的祝福がどのように偉大なものなのかを見ていかなければなりません。

Ⅲ.聖霊によって広がり続けた教会(7-10)

第三に、その結果です。聖霊によって伝えられ、聖霊の喜びをもって受け入れられた福音は、いったいどのようになったでしょうか。7,8節をご覧ください。

「こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

すばらしいほめ言葉です。激しい迫害の中、わずか3週間しかテサロニケに滞在することができませんでしたが、テサロニケのクリスチャンたちは、そうした多くの苦難の中にあっても、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主とパウロたちにならうものになっていたのです。それを聞いたときパウロは、どれほど喜んだことでしょう。もう天にも上るような気持ちになったのではないでしょうか。この8節には、そんなパウロの喜びが表現されているように見えます。「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなた方の信仰はあらゆるところに伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

この「響き渡った」ということばは、ラッパの響きが広がっていくのに似ています。彼らの信仰はマケドニヤとアカヤ地方だけでなく、すべての信者の励ましになって響き渡りました。この「響き渡った」ということばは実は完了形で書かれています。完了形というのは継続を表しています。つまり、響き渡り続けたということです。一時的に響いただけでなく、ずっと響き続け、広がり続けていったのです。

私たちの教会もそのような教会になりたいですね。私たちの主への信仰が、この大田原、那須ばかりでなく栃木県の全域に、いや日本全土に、そして全世界に響き渡り、多くのクリスチャンを励ましていくような、そんな教会になれたらと思うのです。絶対にそうなります。私たちは弱くても神は強い方だからです。聖霊には人を新しく作り替える力があります。この聖霊により頼むなら、かつてテサロニケでおこったことが、この大田原でも起こると信じます。かつての中国の教会がそうであったように、この日本の教会も多くの苦難の中で聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主にならう者となるだけでなく、今度はここから出て行って、あらゆる所に響き渡るようにな、そんな教会になるように祈ろうではありませんか。

いったいそのためにはどうしたらいいのでしょうか。まず9節をご覧ください。「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」

パウロの宣教のことばが、神のことばとして彼らに受け入れられると、彼らは偶像から神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになりました。回心にはこの二つのことが必要です。つまり、離れることと、向かうことです。彼らは偶像から離れ、神に向かいました。このテサロニケにはどれほど多くの偶像があったことでしょう。テサロニケの町からはギリシャの神々オリンポスの山を眺めることができたと言われています。たくさんのギリシャ神話の神々を信奉している人たちがいました。それはパウロがギリシャ文化の中心地アテネを訪れた時、そこにあったおびただしい数の偶像を見て怒りを感じたことからもわかります。同じギリシャの地方都市であったこのテサロニケにも相当の偶像があり、それに支配されていたものと思われます。しかし、彼らはパウロを通して語られた神のことばを受け入れたとき、そうした偶像から離れ、生けるまことの神に仕えるようになったのです。この「偶像から」の「から」は、偶像からの明確な分離を示しています。それは中途半端な決別ではありません。明確な、歴然とした方向転換だったのです。

日本人の中には、白黒をはっきりさせない曖昧さをよしとする傾向があります。お正月は神社に行き、お盆なるとお寺に行く。そしてクリスマスになると教会に行ってお祝いするということが平気でできるのです。そうした傾向はクリスチャンになっても引きずっている場合が少なくありません。そして、クリスチャンになってもなかなか偶像から立ち返ることができないでいるということがあるのです。

この偶像というのは単に木や石できたものばかりではなく、私たちの中で作り上げているものもそうです。神以外のものを神よりも大切にするものがあるとしたら、それはその人にとって偶像なのです。クリスチャンもこうした偶像礼拝に陥っていることがあるのです。それがなければ生きていけないとか、絶対に失いたくないと、縛られているとしたら、それはその人にとっての偶像なのです。それが何であったとしても、テサロニケのクリスチャンたちが偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったように、私たちもそうした偶像と明確に分離し、生けるまことの神に仕える者とならなければなりません。

それから、もうひとつのことが10節に書かれてあります。「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことはたの人々が言い広めているのです。」

これはどういうことかというと、テサロニケのクリスチャンたちは、キリストの再臨を待ち望んでいたということです。この「待ち望む」ということばは、赤ちゃんが生まれる時、両親がわくわくしながらそれを待望する姿に似ています。赤ちゃんが生まれてくるのがわかっているのでその備えます。いつ生まれてきてもいいように部屋の模様替えをしたり、ベビーベッドを用意したり、その脇にはオムツを交換する台を置いたり、暑ければエアコンを、寒ければ赤ちゃんの健康にいいヒーターを用意します。産着も、ベビー服も、おもちゃも、ミルクも、ちゃんと用意して待ちます。それと同じように、テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまがいつ再臨してもいいように待ち望んでいました。いつ来られてもいいように、その備えをしていたのです。

皆さんはどうでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、備えておられるでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、イエスさまを信じて、その思いがイエスさまに向かっているでしょうか。偶像に仕える過去の生活から生けるまことの神に仕える現在の生活に一変させられ、そして将来はキリストの再臨の祝福にあずかる希望へと導かれるクリスチャンライフは、何と幸いなものでしょうか。テサロニケのクリスチャンたちはこのように歩みました。それはすべての信者の模範となるほど輝いていたのです。その信仰はあらゆる所に響き渡るものでした。それは私たちの模範でもあります。私たちも聖霊によって伝えられた福音を受け入れ、その喜びの中に入れられました。しかし、それだけで終わりではありません。福音は私たちの生活を一変させます。偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようにしてくれます。そこには明確な変化が伴います。そして、それはキリストの再臨の希望へとつながっていくのです。私たちもこのテサロニケのクリスチャンたちにならい、生けるまことの神に仕え、キリストの再臨を心から待ち望む者でありたいと思います。これが福音のもたらす大きな変化であり、祝福なのです。