今日からネヘミヤ記の学びに入ります。
Ⅰ.エルサレムの状況(1-3)
まず、1~3をご覧ください。「1:1 ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がスサの城にいたときのことであった。1:2 私の兄弟の一人ハナニが、ユダから来た数人の者と一緒にやって来た。私は、捕囚されずに残された逃れの者であるユダヤ人たちについて、またエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。1:3 彼らは私に答えた。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」」
ハカルヤの子ネヘミヤのことばです。ハカルヤとは誰なのかはよくわかっていません。「第二十年」とは、アルタクセルクセス王の治世の第二十年ということです。これは紀元前445年か ら444年にかけてとなります。私たちはこれまでエズラ記を学んできましたが、ペルシャの王キュロスの勅令によって総督ゼルバベルのもと第一回目のエルサレム帰還が行われ、神殿を再建したのが紀元前515年でした。そして祭司であり学者でもあったエズラの下第二回目の帰還を果たしたのがその57年後の紀元前458年でした。ですから、これはその時からまだ13年しか経っていませんでした。事実、ネヘミヤ記の後半部分には、エズラが民衆の前で律法を読み上げる場面が出てきますが、エズラとネヘミヤはほぼ同時期の人なのです。
「キスレウ」の月は今の11月下旬から12月上旬にかけ時期です。ですから、これは紀元前445年の12月頃のことではないかと思われます。この時ネヘミヤはスサの城にいました。「スサ」とは、ペルシャの首都で、宮殿があった場所です。ということは、彼はペルシャの高官として仕えていたということです。1章11節には「私は王の献酌官であった」とありますが、この時ネヘミヤは王の献酌官として仕えていたのです。献酌官とはぶどう酒と料理の毒見をする人ですが、それは王から相当の信頼がないとなれませんでした。つまり、彼は王にとって右腕のような存在だったのです。
そんな彼のもとに、兄弟の一人ハナニが、ユダから来た数人の者と一緒にやって来ました。この「私の兄弟の一人」ですが、実際の兄弟なのか、広い意味での兄弟なのかははっきりわかりません。新改訳聖書第3版では「私の親類の一人」と訳していますが、新共同訳聖書では「兄弟の一人ハナニ」と訳しています。英語の訳はすべて「one of my brothers」です。おそらくこれは、広い意味での「兄弟」のことではないかと思います。というのは、ネヘミヤは後に彼を高い地位に就かせているからです(7:2)。いずれにせよ、兄弟ハナニがユダから来た数人の者と一緒にスサの城にいたネヘミヤのところにやって来たとき、ネヘミヤは彼らにエルサレムの状況と、そこにいるユダヤ人たちについて尋ねたのです。
本物のユダヤ人は、決してエルサレムのことを忘れることはないと言われています。ネヘミヤは本物のユダヤ人でした。ただユダヤ人であるというだけでなく、いつも同胞のことを思い、彼らがどのように過ごしているかを知りたいと思ったのです。
これは本物のクリスチャンにも言えることです。本物のクリスチャンはいつも神と教会のことを思い、愛する兄弟姉妹のために祈ります。自分だけの信仰ではありません。そこにはいつも神の都を慕い求める思いと、神の家族である教会のための祈りがあるのです。
すると彼らはネヘミヤにこう答えました。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」
どういうことでしょうか。エルサレムは今、大きな困難の中にあるということです。「大きな困難」と訳されたことばは、「悲惨」と意味のことばです。また「恥辱」と訳されたことばは「鋭い」、「身を切るような」、「突き通す」、「刺し貫く」という意味のことばです。つまり、エルサレムは敵の攻撃によって突き刺されるような状態であったということです。そのうえエルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままになっていました。城壁は、当時の社会において非常に重要な位置を占めていました。というのは、生きることは敵からの攻撃から自分たちを守ることを意味していたからです。その城壁が焼き払われていたのです。エルサレムは本当に悲惨な状態にあったのです。
Ⅱ.ネヘミヤの応答(4)
それを聞いたネヘミヤはどうしましたか。4節をご覧ください。「このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。」
これを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、数日間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈りました。この反応はエズラが示した反応とよく似ています。エズラはエルサレムの民が異国人の女を妻にしているということを聞いたとき、神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈り告白しました(エズラ9:3)。ネヘミヤも同じです。彼もエルサレムの窮状を聞いたとき、その場に座り込んで泣き、断食して祈りました。
ネヘミヤの優れていた点は、彼はこのような時にまず天の神を見上げ、その問題を神の下に持って行ったという点です。もし私たちがネヘミヤの立場だったらどうでしょうか。「いったいどうしてこんなことになったのか」「どうすればいいんだろう」と悶々として右往左往するのではないでしょうか。しかしネヘミヤは違います。彼はそれをまず神の下に持って行きました。
しかもここには「断食して」とあります。断食は、心に痛みと悲しみがある時にそれを表現するものです。断食がユダヤ人の一般的な習慣になったのは、バビロン捕囚の時であった言われています。彼らは、エルサレムの崩壊、神殿の焼失、ゲダルヤの暗殺(エレミヤ41:2)を記念して、断食をするようになりました。それはユダヤ人たちが自らの献身を示すための習慣となったのです。ネヘミヤは自分が苦難を体験したわけではありませんでしたが、彼は帰還民たちの苦難を自分のものとして受け止め、祈ったのです。それは宮廷での心地良い生活を拒否して、自らを帰還民の立場に置いたということです。それこそ、とりなしの祈り手に必要な心構えです。そのような祈りを、天の神が聞いてくださらないわけがありません。
Ⅲ.ネヘミヤの祈り(4-11)
では、ネヘミヤはどのように祈ったでしょうか。5~11節に彼の祈りのことばが記されてあります。「1:5 「ああ、天の神、【主】よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。1:6 どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。1:7 私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった、命令も掟も定めも守りませんでした。1:8 どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』1:10 これらの者たちこそ、あなたがその偉大な力と力強い御手をもって贖い出された、あなたのしもべ、あなたの民です。1:11 ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。」
彼はまず、「ああ、天の神、主よ。」(5)という呼びかけで始まっています。彼は祈るときただ「神様」と呼びかけたのではなく、「天の神よ」と祈りました。これは、彼が信じていた神はただの神ではなくこの天と地を創られた創造主であり、そのすべてを支配しておられる万軍の主であると告白しているのです。そうです、彼はその神にとって不可能なことは一つもないと告白しているのです。自分の力では帰還民とエルサレムの状況を変えることはできません。しかし、神にはどんなことでもおできになります。なぜなら、神は天の神であられるからです。この方はこの天と地を創られた方、全能者です。その方にとっておできにならないことは何一つありません。自分はその神に祈っているのだと。エレミヤもこれと同じ祈りをしています。エレミヤはこう祈りました。「『ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。」(エレミヤ32:17)。ネヘミヤは、この神が「天の神、主」であって、主はご自身を愛し、ご自身の命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方であると、神の真実に訴えたのです。 すばらしいですね。
私たちがこのような問題を聞いたらどう思うでしょう。「これはどうしようもない」とか「どんなに頑張っても無理だ」と思うのではないでしょうか。ある夫婦が問題を抱えて相談に来られました。ご主人がゲームで課金をするので家計が火の車だと。もうやらないといくら誓ってもすぐに約束を破ってしまうので、これ以上一緒にやって行くのは無理です!そうです、人間的には無理です。どんなに止めようと思っても止めることはできないでしょう。それがギャンブル依存症なのかどうかわかりませんが、ギャンブル依存症でなくても、人間には限界があります。しかし、神にとって不可能なことは一つもありません。天の神、私たちの主は全能者であられ、どんな問題をも解決することがおできになるのです。
次にネヘミヤは、イスラエルの罪を告白しています。6~7節です。「6どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。7 私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった、命令も掟も定めも守りませんでした。」
ここでネヘミヤは、イスラエルの罪を告白しています。しかし、彼は単にイスラエルの罪を告白しただけではなく、それを自分のこととして受け止めて告白しました。ネヘミヤは、「私も、私の父の家も罪を犯しました」と言っています。このように自分も含めて罪を告白するのは、エズラも同じでした(エズラ9:6-15)。しかも彼は、「昼も夜も御前に祈り」と言っています。その祈りは1回ポッキリの祈りではありませんでした。昼も夜も祈り続ける継続した祈りだったのです。ねばり強い祈りでした。
さらに彼は8~9節ではこのように祈っています。「1:8 どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』」
どういうことですか。ネヘミヤは主に、「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。」と祈りました。「思い起こしてください」とは、忘れていたことを思い出してくださいということではありません。約束どおりに行動を起こしてくださいという嘆願です。つまり彼は神の約束の成就を求めて祈ったのです。というのは、主はモーセを通してこのように約束してくださったからです。すなわち、もしイスラエル民が不信の罪を犯すなら、彼らは捕囚の地に連れ去られる(レビ26:27-33,申命記28:64)が、もし悔い改めて主に立ち返るなら、エルサレムに帰還することができる(申命記30:1-5)ということです。
そしてネヘミヤは、この民こそ主がモーセを通して語られた約束の民であると訴えるのです。10節です。「これらの者たちこそ、あなたがその偉大な力と力強い御手をもって贖い出された、あなたのしもべ、あなたの民です。」なぜなら、イスラエルの民は、主が大いなる力をもって贖われた主のしもべ、主の民だからです。
その上でネヘミヤは、自分の願いを神の前にさらけ出します。11節です。「ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」
ネヘミヤは、エルサレムにいる帰還民のために具体的な行動を起こしたいと思っていました。でもそのためには、彼が仕えているペルシャの王の許可が必要です。「この人の前で」とは、王の前で」という意味です。そのとき彼は王の献酌官をしていました。それはとても重要な任務だったので、簡単にそのための許可が得られることは考えられませんでした。ですから彼はそのための許可を王から得ることができるようにと祈ったのです。それが「この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように」という祈りです。
これは利己的な祈りではありません。神の御業が前進していくためのものです。神のみこころにかなう祈りをするなら、神は聞いてくださるということ、それこそ神に対する私たちの確信です。私たちもそれが神のみこころにかなった祈りかどうかを吟味し、そうであるなら、大胆に願い求めるべきです。
それにしてもネヘミヤはエルサレムの惨状を聞いたとき、すぐに行動に移しませんでした。先ほども申し上げたように、彼はそれをまず神の御前に持っていきました。ここにリーダーとはどのようにあるべきかを教えられます。私たちはどちらかというとすぐに行動を起こしたいという衝動にかられますが、そのためにはまず祈らなければなりません。
チャールズ・スウィンドルが書いた「今求められる教会のリーダーシップ」という著書の中で、リーダーはなぜ祈りを最優先にしなければならないのか4つの理由が記されてあります。
第一に、祈りは待つことを教えます。祈りと仕事を同時に手がけることはできません。祈り終わるまで行動を控えざるを得ません。祈りは私に事態を神に任せることを強要し、結果として私を待たせることになります。
第二に、祈りは私の視野をはっきりさせます。南カリフォルニアは海岸であるため、朝方には視野が悪くなることがよくあります。しかし、そのうち太陽が朝の霧を消散させるのです。祈りも同じです。あなたがある事態に直面した時、最初は霧を通して見るように、ぼんやりと見ているでしょう。祈りはその霧を消散させるのです。そのため視野ははっきりしてきて、あなたは神の目を通して見ることができるようになります。
第三に、祈りは私の心を平静にします。思い煩うことと祈ることを同時にすることなどできません。それは気づかいを取り除き、代わりに静かな霊を私のうちに入れます。私たちがひざまずいて祈る時、そのひざでけり上げるようなことは不可能です。
第四に、祈りは私の信仰を活性化します。祈った後は、神を信頼することがいっそう用意になります。それにひきかえ、祈らない時は何と狭量で消極的、しかも批判的でしょう。祈りは信仰の火つけ役になるのです。(p45-46)
私たちはとかく祈りよりも先に、何かしなければならないという衝動にかられますが、まず神の前に祈ることによって、私たちの視野がはっきりと見えるようになり、心に深い平安と確信が与えられ、より神に信頼できるようになります。私たちに求められているのは祈ることなのです。祈りは不可能を可能にします。なぜなら、そこに全能の神の御手が動くからです。私たちが祈るとき、神は私たちができないことを成し遂げてくださいます。問題に直面したとき、ネヘミヤは神にすぐさま助けを求めました。問題と対峙した時にネヘミヤがとった対応は、ひざまずいて祈るという姿勢だったのです。