きょうは使徒の働きの一番最後のところから、「聖霊によって、大胆に」というタイトルでお話したいと思います。30節、31節には、
「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」
とあります。教会の誕生から始まって初代教会がどのようにユダヤとサマリヤ、および地の果てまだ福音を宣べ伝えてきたのかを描いてきたルカは、実に淡々とした調子で終わっています。これがあまりにもあっけないので、おそらくルカはこれに続く書簡を書こうとしていたが何らかの事情があって書けなかったのだとか、いや実際は書いたのだけれども、それがどこかに紛失したにちがいないという人たちもいます。
しかし、それがあまりにも淡々としているからといって、その理由をいろいろと詮索したり、それに何かをつけたそうとする必要はありません。むしろあるがままに読んでいかなければなりません。事実、この箇所をよく見てみると、この中にルカが本当に伝えたかったことが十分に表されているのではないかと思います。それは何かというと、「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」ということです。つまり、ペテロやパウロをはじめ、この使徒の働きに登場してきた人たちが宣べ伝えてきたものは何だったのか、誰がその主人公だったのかということです。それは「神の国」であり、「主イエス・キリスト」であったということです。ここにはそのことがよくまとめられていると思うのです。ですから私たちはこの使徒の働きの最後のところから、パウロがどのように神の国の福音を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えたのかについて、みことばそのものから学んでいきたいと思うのです。
それは次の三つにまとめることができると思います。第一のことは、「こうして」です。「こうして」とはどうしてでしょうか。それは聖霊によってということです。第二のことは、たずねて来る人たちをみな迎えてです。第三のことは、大胆に、少しも妨げられることなくです。こうしてパウロはローマでの満二年の間、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えたのです。
Ⅰ.こうして(30)
まず第一のことは、「こうして」です。「こうして」とはどうしてでしょうか。 使徒の働きの中には、「こうして」ということばが随所に記されてきました。そして、このことばが記されている所ではいつも、初代教会がどのようにして生まれ、どのようにして形成され、またどのように発展していったのか、さらにはその教会を通して、どのように世界宣教のわざが進められていったのかということが明らかにされていました。そして、この使徒の働きの最後にもまた「こうして」ということばで締めくくられているのです。ですから、このところの「こうして」とは、単に前に起こった出来事を受けての「こうして」ではなく、この使徒の働き1章の最初のところから記されてきたすべての内容を受けての「こうして」なのです。では、どうしてなのでしょうか。どのようにして福音が世界の中心であるローマまで伝えられたのでしょうか。それは聖霊の力によって、キリストの証人たちを通して実現したということです。1章8節をご覧ください。ここには、
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
とあります。この箇所は、使徒の働き全体の鍵になることばです。このみことばを中心に、どのように福音がエルサレムからユダヤサマリヤ、および地の果てまで宣べ伝えられていったのかを、使徒の働きは描いているのです。そして、このところによるとそれは、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき」であると教えられています。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまでキリストの証人となることができるのです。決して人間の努力や力によるのではありません。ただ聖霊なる神の力によってのみそれができるのです。福音を宣べ伝える人間には限界がありますが、その働きの主なる聖霊には限界はありません。聖霊は無限なる方なのです。この聖霊の働きによって福音はエルサレム、ユダヤとガリラヤ、および地の果てまで伝えられてきたのだということを、ルカは私たちに伝えたかったのです。ルカは、その前の書にあたるルカの福音書で、「イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き」ましたが、それに続くこの後の書では、その天に挙げられたイエスが聖霊を通し、教会を通して成された御業について記したのです。ですからこの書の主題はパウロではなく、主イエス・キリストであり、使徒の働きではなく、聖霊の働きだったのです。
実に、教会は聖霊によって建て上げられていくのであって、福音宣教のわざも聖霊によって行われていくのです。アメリカにサドルバックという有名な教会がありますが、その教会の牧師であるリック・ウォーレンは、「Purpose Driven Church」という本の中で、牧会をするということが、教会を建て上げるということがどういうことなのかについて次のように言っています。
「牧会というのは海でサーフィンをする人のようだ。彼は自分で波をつくることはできないけれども、向かってくる波に乗ることはできる。このように、聖霊様の波をよく見極めて、その波に乗ることが成功する牧会だ。」
リック・ウォーレンは、教会は聖霊様のみわざによって成長していくものであって、私たちはその聖霊様の風を起こすことはできませんが、聖霊様が起こすその風を注意深く見極め、待ち望み、そして、それを見た時にそれにうまく乗ることが肝心だと言ったのです。教会を成長させるのは聖霊様ご自身だからです。
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、キリストの証人になることができるのです。そういう意味では、この使徒の働きはまだ終わっていません。「地の果て」がまだ残されているからです。それは現在も続いている、現在進行形なのです。2007年の統計によると、日本でさえ教会のない市町村が全国に1,500以上もあるると言われています。この日本には福音が伝わっていない「地の果て」がまだまだたくさん残されているのです。そういう人たちにいったい私たちはどうやってこの神の国と主イエス・キリストを宣べ伝えいくことができるのでしょうか。「こうして」です。すなわち、聖霊の力によってです。であれば私たちは、この聖霊様に満たされることと、この聖霊様が働かれることの妨げとならないように注意しなければなりません。決して人間的にならないで、神の聖霊が自由に働かれるように、その道を整えていくことを心がけなければなりません。
イエス様は「風はその思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)と言われました。文語訳では「風は己が好む所に吹く」と訳されています。「風」とは聖霊のことです。聖霊には人格(ペルソナ)があって、好みがあります。その好むところに吹くというのです。聖霊のいないクリスチャンはいませんが、それは必ずしも聖霊が喜んでいるという意味ではありません。ですからパウロはエペソ人への手紙の中で、「聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30)と書き送っているのです。聖霊が悲しまれることがある。そのような時、聖霊に満たされることはできないのです。
大川従道という有名な牧師先生がいらっしゃいますが、「万物の終わりが近づけり」という説教の中で、赤裸々なお証を語っておられます。大川先生は日曜日に何回説教されるのでしょうか、朝から晩まで説教されるともう夜には疲れきり、コカ・コーラとするめを買ってきて、奥様を相手に信徒さんの悪口を言うのが楽しみだったそうです。
「あの人はしゃべることしゃべること。ありゃ、口から生まれてきたんだね。」「今の若者はしつけがなってないね。親の顔が見たい」
そんなことを言いながら、コカ・コーラを飲むと美味しいというのです。ほら「スカッとさわやかコカ・コーカ」ってあるでしょ。一日中説教して一生懸命頑張ったんだから、せめて日曜の夜くらいは悪口でも言わせてもらわなければ・・・と、それを正当化していたそうです。
ところがある日、そのことを聖霊様によって示されました。そういう人でも神様の愛してやまない人であるということ、その人もまた必要な人としてこの教会においてくださったいるということを。それで大川先生はそのことを悔い改めました。聖霊様は人格をもっておられ、人を裁くことがお嫌いであることに気づかされたのです。それはいけないことだから、もうどんなことがあっても、人をさばかない牧師になりますと祈られたのです。そしたら教会がものすごく祝福されたそうです。大川先生はその中で次のように言っておられます。
「祝福の原点は何でしょうか。「裁き合わない」ということです。神様がくださった人生を裁き合わないことです。牧師は信徒を裁かない。信徒は牧師を裁かない。信徒同士は裁き合わない。教会同士も裁き合わない。教派同士も裁き合ってはいけません。聖霊は、私たちが裁き合うことを忌み嫌われます。あなたが生涯さばき合わないと決心したら、あなたの人生は必ず祝福されます。神様は知恵のある方で、永遠をすべて見通しておられます。まず神様を裁いてはいけません。「神様、何を言ってるんですか」とあなたが裁いてどうするんですか。中には自分を裁いている人がいます。「私ってなんてダメなんだろう」といつも考えています。これはまじめな人に多いのです。私もそうでした。自分をいつも裁いていました。もっと自分を正しく愛さなければなりません。そして、自分を愛するように隣人を愛しましょう。人を受け入れるのです。「風は己が好む所に吹く。」日本の教会になぜリバイバルが起こらないのか。それは裁き合っているからです。赦し合い、愛し合うことをしないからです。もし、それができたなら、聖霊はそこに働かれると信じます。裁き合わずに赦し合い、愛し合おうではありません。」(「風は己が好む所に吹く」P147-148」)
昨年の末に、この県北の牧師たちの食事会がありましたが、そこで宣教師訓練センターの奥山先生がメッセージをしてくださいました。その中で先生がこれまでご自分の信仰生活を通して教えられた二つのことを語ってくださいました。一つは「決して思い煩わない」ということ、そしてもう一つのことは、「決して人を恨まない」ということです。なるほど、奥山先生ほどの立場であられると、いろいろな非難もまた多いことかと思いますが、それでも思い煩わない、人を恨まないということはとても大切なことであり、この聖霊によって生きる道の一つであるということを思わされました。
皆さん、「風はその思いのままに吹く」のです。ですから、その流れを妨げることがないように、いつも聖霊を求め、聖霊が喜ばれる歩みを心がけていきたいものです。こうして神の国を宣べ伝え、主イエスのことを教えることができるからです。
Ⅱ.たずねて来る人たちをみな迎えて(30)
第二のことは、たずねて来る人たちをみな迎えてです。これはどういうことでしょうか。ここには「パウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて」とあります。「満二年の間」というのは、釈放の手続きも含めた拘留期間を指しています。当時のローマの法律によると、告訴した人が十八ヶ月以内に法定に出頭しなければ被告を釈放することになっていました。ですから、ここにパウロが満二年の間、自費で借りた家に住んでいたというのは、あれほど躍起になってパウロを訴えたあのエルサレムのユダヤ教の当局者たちが、自分たちの形成が不利だと見たのか、ローマまでやって来てパウロを告訴することをしなかったということなのです。パウロは無罪を勝ち取った。福音が勝利したということなのです。
しかし、裁判において勝利したものの、この二年の歳月というのは彼にとってとても貴重な時間であったにちがいありません。その歳月はもう戻ってはきません。その時間をこのような形で過ごさなければならないというのは本当に辛いことだったのではないかと思います。先日もアメリカのでえん罪で30年も刑務所に収監されていた人が釈放されたというニュースが流れました。保証金は2億円だそうです。でもどんなにお金をもらっても、30年という人生は戻ってこないのです。それは本当に悲しいことです。
しかし、聖書はそのようには伝えてはいません。ここには、「たずねて来る人たちをみな迎えて」、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えたとあります。「たずねて来た人たちを迎えて」伝道するという態度は、ことばのうえだけを見ると大変消極的なように見えますが、裏を返すと、それはあらゆる機会を用いて福音を伝えたということなのです。確かにこの時のパウロは、鎖につながれた囚人であったために、ユダヤ教の会堂や広場に出て行って伝道することができなかったかもしれません。しかし、そのように出て行けないからといって、腕をこまねいてはいたわけではありませんでした。このような状態でも自分にできることをしていたのです。たとえば、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、あるいはピレモンへの手紙といった彼の手紙のいくつかは、この時に書かれたであろうと考えられていますが、そのような軟禁状態にありながらも、彼は自分にできる証を積極的に行っていたのです。そればかりではありません。ピリピ人への手紙1章12~14節には、次のように記されてあります。
「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。」
何とそのように捕らわれの身になったことが、かえって福音を前進させることになったというのです。どのように?二年間、番兵が交代で「親衛隊」から派遣され、パウロの身辺の監視に当たりましたが、その番兵が兵営に帰るたびに、パウロから聞いたキリストの話をしたので、やがて親衛隊全員にキリストのことが知れ渡ったばかりか、兄弟たちの大多数が主にあって確信が与えられ、ますます大胆に神のことばを証するようになったのです。アメージングです。ですから「たずねて来た人たちをみな迎えて」というのは、許されたあらゆるチャンスをつかんで働いたということの一つの言い方に過ぎません。パウロはどんなことが起こっても、それを伝道のチャンスととらえて証したのです。
皆さん、ここにはパウロは自費で借りた家に住んで、たずねて来る人たちをみな迎えて、とあります。それは自分の家ではありませんでした。彼はまだ捕らわれの身で、番兵もついていました。ですから、彼には自由があっても自由がないように見えました。でもその借家にはいつも神の祝福がありました。人はみな土地のある家に住みたいという願いがありますが、生涯借家であっても、神の国の祝福がある家はすばらしいのです。どんなに立派な家でも、神の国の祝福がなければ、それは寂しいのです。借家でも、ボロ家でも、入口にはいつも番人がいて、自由がきかなくても、そこにはたずねて来る人が大勢いて、そういう人たちにいつも神の国の福音が宣べ伝えられというのは、大きな祝福なのです。それが借家であろうと持ち家であろうと、たずねて来た人たちをみな迎えて、神の国の福音を伝えることはすばらしい特権なのです。
かつて帝国議会の議長までも務めたクリスチャンの政治家に片岡建吉(1843-1903年)という人がおられましたが、この人はどんなに多忙でも日曜日の礼拝を厳守したことで有名な人です。ただ厳守しただけではありません。好んでは教会の玄関番を買って出て、ためらう新来者たちを優しく、温かく迎えました。後に「私は高知教会の玄関で救われました」という人が、何人もいたそうです。こういう人こそたずねて来る人たちをみな迎えるあかし人なのです。
Ⅲ.少しも妨げられることなく(31)
最後に、パウロは大胆に、少しも妨げられることなく宣べ伝えたというところに注目してみましょう。これはどういうことでしょうか。少しも妨げられることなく伝道できたということは、パウロにとっては奇跡としか言いようのないことでした。これまでの彼の伝道を振り返ってみると、ユダヤでの伝道にしてもアジヤおよびヨーロッパでの伝道にしても、妨害のなかったことはなく、まさに妨害と迫害の連続でした。それが今は、世界にその文化と政治と軍事力を誇るこのローマ帝国の真ん中で、しかも囚人の身でありながら自由に伝道ができていたというのです。それは、福音の勝利を表すことばとして、ふさわしいことばだったのではないでしょうか。原文では、このところは、「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストを教えた。少しも妨げられることなく。」と、これが一番最後の結びのことばになっているのです。それはどういうことかというと、これを書いたルカが、福音のことばは決してつながれることのないことを示そうとしたのです。つまり、みことばの力と勝利を表したかったのです。それは単に外からの圧力があるかないかということと関係なくです。パウロはそのことを若き伝道者テモテに、次のように書き送りました。
「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。」(Ⅱテモテ2:9)
皆さん、神のことばはつながれることはありません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。どんなに政治的な圧力や束縛があっても、どんなに鎖で縛られ火で焼かれるような状態に置かれても、みことばはつながれることはないのです。ゆえにこの力ある神のみことばを持っている人は、いつ、いかなる時でも、「少しも妨げられることなく」大胆に語ることができるのです。
カール・バルトという神学者は、このみことばの力を「入り込んで打ち壊すもの(inbreakink)」と描写しました。いかに堅固な鉄板や岩があったとしても、神様のみことばは電気ドリルのように、すべてのものを砕いて入り込むことができるのです。福音は偉大な力なのです。何でも砕ける強力な力です。それゆえに人々を回心させ、悪魔の要塞を打ち砕くみわざは、このいのちのみことばにより頼まずには起こりえないのです。神様はこの強力な福音を証するために、私たちを呼んでくださいました。
使徒の働きはここで終わります。しかし、それはまだ終わってはいないのです。それは今日まで続いています。やがて主イエスが再びこの地上に来られるまで続きます。そういう意味では、私たちがこの28章を書き続けていかなければなりません。初代教会が、使徒たちが、そしてパウロが聖霊によって、大胆に神の国と主イエス・キリストを宣べ伝えていったように、私たちもまた聖霊によって大胆に、少しも妨げられることなく、みことばを宣べ伝えていかなければならないのです。私たちは本当に弱く、小さなものですが、このみことばに励まされ、私たちの内に住んでおられる聖霊の力によって、このゆだねられた使命を果たしていく者でありたいと思います。聖霊こそ人を滅びの中から救い出し、罪の奴隷から神の子どもにすることができる方であり、まことのいのちを与えることができる方だからです。