詩篇133篇1~3節「一つになってともに生きる幸い」

主の2025年、明けましておめでとうございます。この新しい年も皆さんとご一緒に礼拝することを感謝します。皆さんはどのような思いで新年を迎えられたでしょうか。今年も主の栄光が現わされるように、主のみことばに聞き従い、みことばに歩んでまいりましょう。

この新年礼拝で私たちに与えられているみことばは、詩篇133篇のみことばです。1節には、「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは。」とあります。

皆さん、何が幸せなんでしょうか。何が楽しみなのでしょうか。それは、兄弟たちが一つになって、ともに生きることです。これが主のみこころです。これが今年私たちに求められていることです。私たちは今年、一つとなってともに生きることを求めていきたいと思います。そして、それによってもたらされる主の祝福がどれほど大きいかを味わいたと思うのです。

きょうは、この「一つとなってともに生きる幸い」について、三つのことをお話したいと思います。第一に、兄弟たちが一つとなってともに生きることは実に幸いなことであり、実に楽しいことであるということです。第二に、それはどれほどの幸いなのでしょうか。それは、頭に注がれた貴い油がアロンのひげに、いやその衣の端にまで流れ滴るほどです。また、ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようです。どうしてそれほどの祝福が注がれるのでしょうか。それは、主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからです。ですから第三のことは、私たちも一つになって、ともに生きること求めましょう、ということです。

Ⅰ.一つになってともに生きる幸い(1)

まず、兄弟たちが一つとなってともに生きる幸いから見ていきましょう。1節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。

「133:1見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。」

この詩篇の表題には、都上りの歌。ダビデによる、とあります。この詩篇の作者であるダビデは、「見よ」という呼びかけでこの詩を始めています。とても印象的な表現ではないでしょうか。「見よ。なんという幸せ、何という楽しさであろう。」それはこれを読む人たちに、このことを何としても伝えたい、何としても知ってほしい、という思いが込められているからです。

その思いとは何でしょうか。それは、兄弟たちが一つになって、ともに生きることの幸いです。それはなんという幸せ、何という楽しさであろうか、というのです。ここでダビデは、「なんという」ということばを繰り返すことによって、兄弟たちが一つになってともに生きることの幸いを強調したかったのです。

皆さん、どうでしょうか。兄弟たちが一つになって、ともに生きること、ともに礼拝することは、それほど幸いなこと、それほど楽しいことだと考えたことがあるでしょうか。いや、私はいいです。私はひとりで聖書を読んでいた方が幸せなんです。第一面倒くさいです。他の人に気を使わなければならないし。だったらひとりでいた方がどれほど楽なことか・・・。そういう思いはありませんか。でもここにはそのようには言われていません。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは、なんという幸せ、何という楽しさであろうか、と言われているのです。これは、「都上りの歌」です。都上りの歌とは「巡礼の歌」のことです。主の宮に集まって、主を礼拝すること。それはなんという幸せ、なんという楽しさであろうかというのです。

皆さん、兄弟姉妹が一つとなって主の宮に集まり、ともに主を礼拝することはそれほど楽しいこと、それほど幸せなことなのです。先々週のクリスマス礼拝では、私たちの主イエスは「インマヌエルの主」として生まれてくださったということをお話しました。意味は何でしたか。意味は、「神は私たちとともにおられる」です。私たちはひとりぼっちではありません。イエス様が私たちとともにいてくださいます。嵐の時も、穏やかな時も、いつもイエス様がともにいてくださるのです。それは本当に幸いなことではないでしょうか。けれども、私たちにはそれだけではないのです。それとともにすばらしい祝福が与えられているんです。それは同じ神を信じる兄弟姉妹たちがともにいるということです。

私たちには、ともに生きる神の家族が与えられているのです。不思議ですね、教会って。年齢も、性別も、出身地も、国籍も、みんな違いますが、イエス様を信じたことによって天の神を「アバ」、「お父ちゃん」と呼ぶことができるようになったことによって、お互いが兄弟姉妹とされたのです。どっちが兄で、どっちが弟なのかわからない時もありますが、みんな兄弟姉妹です。相手の名前がわからない時はいいですよ。「兄弟」とか「姉妹」と呼べばいいんですから。最近はなかなか名前が思い出せなくて・・という方は、ただ「兄弟」と呼べばいいので簡単です。特に私たちの教会には世界中からいろいろな人たちが集まっているので、名前を覚えるのは大変です。でも「Brother」とか「Sister」と呼べば失礼にならないので助かります。こうして主イエスを信じる世界中のすべての人と兄弟姉妹であるというのはほんとうに不思議なことです。英語礼拝を担当しているテモシー先生はガーナの出身ですよ。肌の色も違う。何歳かもわかりません。でも兄弟と呼べるというのはすごいことだと思うんです。このように自分と全く違う人たちがイエス・キリストによって一つとされ、ともに生きることは、ほんとうに幸せなこと、ほんとうに楽しいこと、これ以上の幸いは他にはないというのです。

この詩篇は歴史を通してユダヤ人たちにとても愛されてきた、大切にされてきた詩篇なんです。どうしてかというと、ユダヤ人たちは離散の民だったからです。かつてユダヤ人たちは神殿、神の宮ですね、神の宮に集まって主を礼拝していましたが、それが彼らにとって何よりも喜びだった。何よりも幸せだったのです。

ところが、その後ユダヤ人たちは国を失ってしまいました。みんなバラバラになってしまった。多くの人たちが捕囚の民として、外国に連れて行かれました。バビロン捕囚です。他の国に散らされて行った人たちもいます。その置かれた場所で咲きましょう、ではありませんが、彼らは旧約聖書の律法を大切なしながら、そこで信仰を育んでいったのです。

けれども彼らは、かつてのようにみんなで集まって礼拝することができなくなってしまいました。そんなユダヤの民にとってこの詩篇133篇は、かつて彼らが味わった幸せを懐かしく思い出す歌となったのです。そしていつの日か、今はまだその時ではないけれども、もう一度この幸せを味わうことができる日がくる、そんな希望を覚える歌として、大切にされてきたのです。

そのようにしてユダヤ人たちは、自らの過去と未来の両方を思いながらこの歌を味わい、この歌を歌いながら、また希望に思いを馳せながら、共に集まることの幸いを味わっていたのです。

ドイツの牧師で神学者のボンヘッファーは、この詩篇133篇から「ともに生きる生活」という本を書いていますが、その本の中で彼は兄弟姉妹が共に集まって生きることの幸い、そして教会の祝福についてこのように言っています。

「キリスト者の兄弟姉妹の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものであるということが、とかく忘れがちである。だからその時まで他のキリスト者とキリスト者としての交わりの生活を送ることを許された者は心の底から神の恵みをほめたたえ、跪いて神に感謝し、我々が今日なおキリスト者の兄弟との交わりの中で生きることが許されているのは恵みであり、恵み以外の何ものでもないことを知りなさい。」

皆さん、これは当たり前のことじゃないのです。兄弟姉妹が一つになってともに生きること、ともに主を礼拝できるというのは神の恵みなんです。恵みの賜物以外の何ものでもない。私たちはこうして毎週集まって礼拝をささげていますが、これはいつ奪い取られるかわからないことなのです。たとえば、新型コロナウイルスが発生した時、多くの教会では集まることができませんでした。そうした教会の中には、それ以降集まることが困難になって閉鎖した教会も少なくありません。当たり前じゃないのです。それは本当にかけがえない恵みであり、本当に幸いなことなんだと、ボンヘッファーは言ったのです。

皆さん、兄弟たちが一つになってともに生きることは、なんという幸せ、何という楽しさでしょうか。そうなんです。兄弟たちがバラバラに歩むのではなく一つになってともに生きることは、本当に幸いなことなのです。文化や習慣、考え方、性格など、それぞれの違いがありながら互いに調和を保っていくことは簡単なことではありませんが、しかしそうした違いを乗り越えて一つなってともに生きることは、本当に幸いなことであり、これ以上の祝福はありません。

Ⅱ.主が注がれるとこしえのいのちの祝福(2-3)

では次に、その祝福がどれほどのものなのかを見ていきましょう。この詩篇の著者はその祝福のすばらしさを、次のように語っています。2節と3節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。

「133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。
  133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

ここには、それは頭に注がれた貴い油のようだとあります。また、それはヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ、とあります。どういうことでしょうか。それほど麗しい豊かな祝福だという意味です。なぜなら、それはただの人間的な楽しさとは違うからです。そこには主のとこしえのいのちの祝福が流れているからです。

まずそれは、頭に注がれた貴い油のようだと言われています。それはひげに、アロンのひげに流れて、衣の端にまで流れ滴ると。どういうことでしょうか。それほど神様の祝福に潤される、満たされるということです。

頭に油を注ぐというのは、整髪料じゃあるまいし、私たち日本人にはあまりピンとこないかもしれませんが、ユダヤの地方には、そういう習慣がありました。福音書の中にも、イエス様の頭に油を注いだ人がいますね。誰ですか? そう、ベタニアのマリアです。彼女はイエス様にいたずらをしようと思ってやったわけではありません。イエス様を驚かせようとしたわけでもないのです。イエス様に対する愛と感謝を表すためにしたのです。その香油はあまりにも高価なものだったので、それを見ていた弟子の一人のイスカリオテのユダは、「どうして、そんな無駄なことをするのか。この香油なら300デナリ(300日相当の労働の対価)で売れるのだから、それを貧しい人に施せばいいじゃないか」、と言って憤慨したほどです(ヨハネ12:5)。香油というのはそれほど高価のものでした。それほど高価な香油を、彼女はイエス様の頭にガバッーと注いだのです。ですからイエス様はそのことをとても喜ばれ、彼女の行為を高く評価されたのです。

しかしここでは、それはただの香油ではないことがわかります。ここには「アロンのひげに流れて」とあります。アロンとはモーセのお兄さんのことですが、彼は大祭司として任職されました。その任職式の時に油が注がれたのです。それがこの貴い油です。その時の様子がレビ記8章12節にありますが、その量は中途半端なものではありませんでした。大量の油が注がれたのです。それがどれほどのものであったかを、ここでは何と表現されていますか。それはアロンのひげに流れて、とあります。さらにはアロンの着ていた衣の端にまで流れ滴る、とあります。アロンの胸には大祭司が身に着けるエポデという胸当てがありましたが、そこにはイスラエル12部族を表わしている12の宝石が埋め込まれてありました。アロンの頭に注がれたその貴い油はアロンのひげに流れると、そのエポデも全部覆って、やがてアロンが着ていた衣の端にまで流れ滴ったのです。それほど豊かな油であったというのです。ここでは「流れて」とか「流れ滴って」とことばが繰り返されてありますが、それは、上から下へと流れる、天の神様の祝福の豊かさを強調されているのです。そしてその祝福こそが教会に流れている幸せと祝福の源なのです。

さらにその祝福は、もう一つのたとえによっても描かれています。それはヘルモン山から下りる露です。3節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。

「133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。」

ヘルモン山というのは、ガリラヤ湖の北東約50キロにある山です。標高は海抜2,814メートルと言われていますから、相当高い山です。ですから、その山頂は万年雪となっていて夏でもスキーができるほどなんです。一方、シオンの山々とはというと、イスラエルの南、死海近辺にあるエルサレムの山々のことです。そこは草も生えないような乾燥地帯、山岳地帯となっています。そこがヘルモンの山頂にある雪解けの水が露となって滴り落ち、潤されるようだというのです。どういうことでしょうか。

実際にはヘルモン山から南のシオンの山々までは約200キロメートルも離れていますから、その山の露がシオンの山々にまで降りるということは考えられません。でも神様の祝福というのはそんな人間の理解とか想像も及ばないほど豊かで、まるでヘルモンの山からシオンの山々にまで降り注ぐ大量の露のようだというのです。兄弟たちが一つとなってともに生きることは、それほど私たちを豊かに潤してくださるということです。どんなにカラカラに乾いていても、神様の祝福というのは、そんな乾いた全地を潤すほどの祝福なのです。

ところで、この3節にある「降りる」という言葉ですが、これは2節に出て来た「流れる」という言葉と同じ言葉です。ですから、この詩篇の作者はこのことばを3回も繰り返すことによって、上から下へと注がれる神様の祝福がどれほど豊かであるかを表したかったのです。どうしてそんなに豊かなのか。それは、主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからです。その恵みの大きさを覚えて主に心から賛美を捧げようではありませんか。

兄弟たちが一つになって、ともに生きることは、それほどの幸せ、それほどの楽しさなのです。カラカラに渇いているあなたのたましいまでも満たしてくれる。そういうまさに天来の祝福、天来の幸せ、天来の喜びで溢れるのです。

Ⅲ.一つになってともに生きる(3)

であれば第三のことは、私たちも一つになって、ともに生きることを求めましょう、ということです。もう一度3節の最後のことばに注目してください。ここには、「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」とあります。

私たちが互いに愛し合う、その交わりの中に、主がとこしえのいのち、永遠のいのちの祝福を注いでくださいます。なぜなら、それは何よりも神様のみこころであり、そのために私たちは召されているからです。それなのに、私たちの側で心の眼が曇らされてしまって、互いにさばき合ったり、ねたみ合ったりして、こんなにも豊かな神様の祝福を閉ざしてしまうことがあるとしたら、何ともったいないことでしょう。ですから私たちはこの詩篇の作者が「見よ」と呼び掛けて、「なんという幸せ、なんという楽しさだろう」と、声を大にして伝えているこのこと、すなわち兄弟たちが一つになって、ともに生きるというこの歩みを、大切にしていきたいと思うのです。いつでもこの教会を、神様のとこしえのいのちの祝福が覆ってくださるように、そしてそれを私たちが豊かに感じながら、ただ神様に感謝と礼拝をささげていくことができるように、私たちは一つになってともに生き、その祝福の流れに乗り続けていきたいと思うのです。

いったいどうしたらそんな歩みができるのでしょうか。その鍵は「御霊によって一致」することです。パウロはエペソ4章1~3節の中でこのように勧めています。

「4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
 4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び
 4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」

ここでパウロは、エペソの兄弟たちに対して、召された者はその召しにふさわしく歩むようにと勧めています。召しとは救いへの召しのことです。かつては罪の奴隷であった者が、そこから解放されてキリストのしもべとして召されました。それがクリスチャンです。クリスチャンとは「キリストのしもべ」という意味です。私たちはイエス様を信じたことでクリスチャンとして召されたのです。ですから、その召しにふさわしく歩まなければならないのです。それはどのような歩みでしょうか。ここには、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、同じ神の霊、聖霊を受けている者として、御霊による一致を熱心に保ちなさい、とあります。私たちが頑張って一致するというのではありません。私たちはそのように召された者なのだから、キリストにある者とされたのだから、そり召しにふさわしくキリストにあって歩むのです。それが召しにふさわしい歩みです。それが、御霊による一致を保つということなのです。

それは、言い換えると「互いに愛し合う」ということです。主イエスはこう言われました。

 「13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34~35)。

イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合うこと、それが、主イエスが命じておられることです。ここには「新しい戒め」とありますね。これは新しい戒めなんです。古い戒め、すなわち旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならない、という戒めがありました。たとえば、レビ記19章18節には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずなのです。それなのにどうしてイエスはこれを新しい戒めと言われたのでしょうか。それはどのように愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。そのように愛しなさいというのです。

ではイエス様はどのようにあなたを愛してくださったのでしょうか。イエス様は弟子たちにその模範を示されました。それが弟子たちの足を洗うという行為でした。それはただ兄弟姉妹の足を洗い合えばいいのかというとそういうことではなく、そこに込められている意味を実践しなさいということです。それは何でしょうか。それはしもべとして生きるということです。イエス様はしもべとして死に至るまで相手に仕えられました。その究極が十字架だったのです。聖書は十字架を指してこう言っています。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)

皆さん、どこに愛があるのでしょうか。聖書は「ここに愛がある」と言っています。それは、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされたことの中にあると。神の愛はイエスの十字架によって完全に表されました。多くの人は、「愛」を表すのに、「ハート」の形を使いますが、聖書的にいうなら、愛の「形」は、「ハート」ではなく、「十字架」です。イエス様は、この十字架の愛に基いてこう言われたのです。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。これは言い換えると、一つになって共に生きるということです。私たちが一つになってともに生きるなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになるのです。

元旦の朝、私たち夫婦はいつものように二人で一緒に聖書を読んで祈りました。新年の最初の日ですから、神様はどんなみことばを与えてくださるかと期待して開いた聖書箇所は、エゼキエル書5章でした。そこにはバビロンに連れて行かれた預言者エゼキエルが、エルサレムに向かって神のさばきを語るという内容でした。新年から神のさばきかとちょっとがっかりしましたが、そこに神のみこころが記されてありました。それは、イスラエルの民が置かれている所はどこか、ということです。5章5節にこうありました。

「神である主はこう言われる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした。」」

彼らが置かれていたところはどこですか。これがエルサレムです。主は彼らを諸国のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした、とあります。何のためでしょうか。それは彼らが主のみこころに歩むことによって、そうした周りの国々も主を知り、主に立ち返るようになるためです。それなのに、自分たちが選ばれたことに優越感を持ちその使命を果たすことをしなかったら、主はどれほど悲しまれることでしょうか。事実、エルサレムは神の定めを行いませんでした。それどころか、彼らの周りの国々の定めさえも行わなかったのです。それゆえ、主は彼らをさばかれたのです。

これを読んだ時、それは私たちにも言えることではないかと思わされました。私たちがここに置かれているのは何のためでしょうか。それは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方のすばらしい栄誉を告げ知らせるためです。それなのに、その使命を忘れ、自分が好きなように、自分がしたいように生きるとしたら、それこそイスラエルと同じではないかと思ったのです。神によって救いに召された私たちに求められていることは、このすばらしい神の栄誉を告げ知らせることです。どうやって?互いに愛し合うことによってです。互いの間に愛があるなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。私たちは今年、そのような年になることを求めていきたいと思います。

昨年のクリスイヴのことですが、と言ってもつい2週間ほど前ですが、その日に2人の方からお電話をいただきました。「今晩は、クリスマス礼拝がありますか」と。一人は日本人の女性の方で、これまで一度も教会に行ったことがないという方でした。もう一人はインドの方で、クリスチャンの方でした。仕事で東京から来ているがクリスマス礼拝があれば行きたかったということでした。やはりクリスマスは人々の心が開かれる時なんだなぁと思いましたが、ふと、今年のクリスマスを私はどのように過ごしたらよいか、どのように過ごすことを神は願っておられるかという思いが与えられました。勿論、家族で過ごすのもすばらしいことです。でもそれだけでよいのか、教会に来たくても来れない方がいるならその方を訪問して一緒に礼拝することを、神は喜ばれるのではないかと示され、施設に入所している方々を訪問することにしたのです。それは私が目の手術で入院していた時、誰にも会うことができないという状況の中で、深い孤独と寂しさを経験したからです。

最初に下野姉が入所している施設を訪問しました。下野姉を訪問したのは2回目でしたが、本当に喜んでくれました。マタイの福音書から私たちの主はインマヌエルとして来てくださり、いつも下野さんとともにおられますから安心してくださいとお祈りすると、帰りに「先生、握手」と握手まで求められ、掴んだ手をずっと握り締めて離しませんでした。それほど不安だったんでしょう。それほど寂しかったんでしょう。最後に「先生、その時にはよろしくお願いします」と言われました。それはご自分が主のもとに行かれる時のことを言っておられるんだなぁと思い、「わかりました。大丈夫です。安心してください」と言ってお別れしました。

その足で和気姉が入所している施設に向かいました。和気姉もだいぶお身体が弱くなり、こちらから話しかけてもあまり応答できなくなりましたが、クリスマスなので一緒に賛美しましょうと「きよしこの夜」を歌うと、「きよし、このよる」と、自分のすべての力をふり絞るかのように大きな声で賛美されました。驚きました。じゃ、もう一曲賛美しましょうと、次に「雨には栄え」と賛美すると、これも大きな声で歌われたのです。何も覚えていないようでも賛美歌は覚えておられるんだ、と感動しました。私は時間のことを心配していましたが、もう時間のことも忘れてしまうくらいそこには神の臨在と祝福が満ち溢れ、さながら天国にいるかのような心地でした。まさに兄弟が一つとなってともに生きることは、なんという幸い、なんという楽しさでしょう。これ以上のない喜び、楽しさ、幸せはありません。

皆さん、私たちはこれまでもそうであったように、これからも互いに愛し合い、一致し、ともに生きる、ともに歩んで行く、そんな教会でありたいと思います。あり続けたいと思います。それはなんという幸せでしょうか。なんという楽しさでしょうか。それほど幸せなことはありません。それほど楽しいことはない。それほど麗しい交わりはありません。ともにそのような教会を目指してまいりましょう。それが今年私たちに求められていることなのです。