レビ記27章

いよいよレビ記の最後の学びとなりました。きょうは27章から学びたいと思います。まず1節から8までをお読みします。

1.自分を聖別しようと誓願を立てる場合(1-8)

「1 ついではモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがってに特別な誓願を立てる場合には、3 その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。4 女なら、その評価は三十シェケル。5 五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。6 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。
7 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。8 もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。」

ここには、ある人がその人の人身評価にしたがって、主に特別な誓願を立てる場合にはどうしたらよいかが教えられています。「誓願」とは、神や仏に誓いを立て、物事が成就するように願うことです。それを人身評価に従って行うわけです。どういうことかというと、創世記28章20節を見るとわかります。ここでヤコブは誓願を立てて、「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと切る着物を賜り、無地に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」と祈っています。これはヤコブが兄エサウから逃れて母の兄ラバンのもとへと向かう途上でのことです。いったいこの先どうなってしまうのかという不安と恐れの中で、彼は一つの夢を見ます。それは地に向けられて天からはしごが立てられているというものでした。その頂は天に届き、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていました。そのとき彼は、主が彼のかたわらに立っておられ、「決してあなたを捨てない」という御声を聞くのです。その時彼は眠りから覚め、そこに主がともにおられることに気が付くのです。そして、その場を「ベテル」神の家と呼びました。そして、その誓いを立てたのです。もし神がこの旅路を守ってくださり、無事に父の家に帰るようにしてくださるなら、主は私の神となられると・・・。ヤコブはもしそのようにしてくださるなら、自分を神にささげると誓ったのです。これを何というかというと、聖別すると言います。その代価がこの評価額なのです。

また、民数記3章44~47節には、イスラエルのうちのすべての初子は主のものですが、その初子の代わりに神のものとしたのがレビ人です。レビ人は主のものでなければなりませんでした。そのレビ人の数よりも初子の報が多かった場合は、それをシェケルで贖わなければなりませんでした。その場合の価格は、ひとりあたり5シェケルであると言われています。ですから、レビ記27章で言われている人身評価に従って主に特別な誓願を立てる場合というのは、彼らが主に誓願を立てるとき、その誓願がかなえられる時には自分を神にささげますという誓願を立てた場合に、その代価となる金額のことなのです。

それは年齢また性別によって異なりました。最も高いのは20歳から60歳までの男性で、銀50シェケルです。女の人なら30シェケル、5歳から20歳までなら、男なら20シェケル、女なら10シェケルです。生まれて1か月から5歳までなら、男なら銀5シェケル、女なら3シェケルです。60歳以上なら、男なら15シェケル、女なら10シェケルです。これを見て、「ああ、私は10シェケルしか価値がないんだ」とがっかりしないでください。これはあくまでも主に特別な誓願を立てる場合の、その代価の評価なのですから。なぜこのように年齢や性別によって評価が異なっていたかというと、労力に差があったからです。女より男のほうが、力があります。また老人より壮年や青年のほうが、力があります。興味深いのは、一歳から五歳までも評価があることです。もしその者が貧しくて、その評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司がその人の評価をしました。祭司は誓願する人の能力に応じて評価ししたのです。

いったいなぜこのようなことが教えられているのでしょうか。それは軽々しく誓願を立てないためです。箴言20章25節には、こう書いてあります。「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。」イエスさまが、誓ってはいけない、と言われたのは、このことを指しています。つまり、よく考えもしないで軽々しく、「私はこれこれをします。」と言ったりしますが、そのように言っておきながらもしそれをしないということがあったら、それは神の御名を汚すことになります(レビ19:12)。主に特別な誓願を立てる時には、それはきちんと果たされなければならないということです。

おもしろいことに、この誓いというのは決して強制的がなく、完全に自発的であるところに特徴があります。ささげることを全く行なわなくても、だれにも咎められたり、責められたりすることはありません。けれども、主が自分に成してくださったことを思うとき、感謝の思いからぜひささげてみたい、と願うようになります。だれに言われなくても、これは行ないたいという強い願いが与えられるのです。それに基づいてささげるのが、この誓願なのです。これはすばらしいことであり、奨励されるべきことであります。けれども、この誓願がいとも簡単に破られることがあるとしたら、それは主の御名が軽んじられ、汚されることになってしまいます。そういうことがあってはなりません。軽々しく誓ってはならないのです。誓いを立てる時には、それに伴う責任と自己犠牲というものをよく考えなければならないのです。

2.家畜をささげる場合(9~14)

次に9~14節をご覧ください。ここには、主へのささげ物として家畜をささげ場合どうなるかについて教えられています。その家畜がきよい動物であれば、それは礼拝に使ういけにえとなります。ですから、それらは「聖なるもの」、神のものになるわけです。後で自分が使いますので別の家畜にします、ということができません。もし他の家畜に替えようとするなら、元の家畜と代用の家畜のどちらも聖なるものとなり、主にささげられなければなりません。それは、「こっちの家畜のほうが価値が低いから取り換えよう」という欲を出さないようにするためです。

また、汚れた家畜、つまりひずめが分かれていなかったり、反芻をしない動物については、いけにえとしては捧げることはできませんが、買い戻すことができました。その場合、その家畜を祭司の前に立たせて評価し、その評価に五分の一を加えた金額で買い戻さなければなりませんでした。それはこうすることによって、「ああ、やっぱり自分でこの動物を使おう」と思わないようにするためです。

3.自分の家をささげる場合

次に14~25節までをご覧ください。

「14 人がもし、自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。15 もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。16人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。17 もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。18 しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。19 もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。20 もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。21 その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。22 また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを主に聖別する場合、23 祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を主の聖なるものとしてささげなければならない。24 ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。25 評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。」

自分の家も主に聖なるものとしてささげることができます。そのときには祭司がその家を評価します。祭司が評価したとおりになりました。この場合祭司は不動産鑑定士みたいですね。家まで評価値するわけですから・・・。もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、家畜と同じように、評価額に五分の一を加えなければなりませんでした。それは、家であっても何であっても、主にささげるというときにはよく考えてささげなければならないということです。

土地も捧げることができました。けれども、土地の場合はヨベルの年に所有地に変換されることを覚えておかなければなりませんでした。その土地の評価は以前も学びましたが、ヨベルの年までの収穫量によって、その評価が決まりました。聖別したものを買い戻す時には、評価額の五分の一を加えて返さなければなりませんでした。もしその畑が他の人に売られていれば、それはもはや買い戻すことができませんでした。ヨベル年に渡されるとき、それは祭司の所有地となったのです。

4.義務的なささげもの(26~34)

 

最後に、26節から34節までのところを見て終わりたいと思います。25節までのところには進んでささげるささげもの、つまり、ささげてもよいし、ささげなくてもよい、自発的なささげものについて教えられていましたが、ここからはささげなければならないささげものについて語られています。

 

まず26~27節をご覧ください。

「26 しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。27:27 もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。」

家畜の初子は、主におささげすることができません。なぜなら、すでにそれは主のものであるからです。主のものであるものを、主におささげすることはできません。覚えていますか、エジプトからイスラエルが出て行く時に、主がイスラエルの初子(長男)を救い出されました。ですから、初子は主のものなのです。主のものは、主にささげなければいけません。しかし、その家畜が汚れたものであれば、いけにえとしてささげることはできないので、その家畜の評価額に五分の一を加えた額を支払って買い戻すことができました。

次に聖絶のものについて語られています。28節と29節です。「28 しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。29 人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。」

聖絶すべきものとは、主によって完全に滅ぼされるべきものです。あるいは、聖所にささげられるべきものです。ですから、自分のものとしてはいけません。この戒めを犯したのが、ヨシュア記に出てくるアカンです。主は、エリコの町のものは聖絶されたものだ。それを分捕物としてはならない、と命じられていたにも関わらず、彼は高価な品を盗み出してしまいました。それで彼は死刑になりました。

最後に十分の一のささげものです。30~34節をご覧ください。「31人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。32 牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。33 その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」

地の十分の一は、それが産物であっても、木の実であっても、必ずささげなければなりませんでした。なぜなら、それは主のものであるからです。主の聖なるものなのです。具体的にはそれはレビ人に与えられました。そして、そのレビ人の中から十分の一を祭司にささけられました。それを取り戻したかったら、これまでの誓願のささげものと同じように五分の一を加えて支払わなければなりませんでした。

おもしろいことに、牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなりました。良い羊だとか悪い羊だとか選り分けできませんでした。羊飼いの杖の下を十番目に通るものが、主の聖なるものとなったのです。羊飼いの杖を横にして、それを囲いの門のところで持ちます。その下を一匹ずつ羊を通らせるのですが、無条件で十番目の羊あるいは牛がささげられたのです。

十分の一のささげものという概念は、聖書全体に出てきます。アブラハムがメルキデゼクにささげ物をしましたが、それは十分の一でした。そして旧約聖書の最後のマラキ書には、こういう約束があります。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3:10)」これは、行うなら祝福があります。なぜなら、それは主のものだからです。本来であれば、私たちのすべては主のものなのです。主のものを主のものとしてお返しするのは当然ですが、そのすべてをお返しすることはできないので、その信仰の表明として十分の一をささげたのです。

私たちが献金をするとき、主から与えられたもののささげるとき、その収入の十分の一をささげるという根拠はここにあります。これは、イエス様もおろそかにしないよう戒められていることです。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」(マタイ23:23)律法学者たちの問題は、十分の一をささげていればそれで神に従っていると錯覚していたことです。大切なのはその意味を理解して、心から神を愛し、神に従うことです。彼らにはそれがありませんでした。イエス様はそのことを叱責しておられます。しかし、他のほうもおろそかにしてはいけません。それは主のものであり、主に従うことなのです。私たちは小さなことにおいても神に喜ばれる道を歩みたいと思います。それが聖とさせていただいた者としての歩みなのです。

レビ記26章

いよいよレビ記26章に入ります。25章においては安息年、ヨベルの年、そして買戻しの権利について学びました。きょうのところには、神に聞き従う者への祝福と、そうでない者へのさばきが語られています。

Ⅰ.神の命令(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。ここには、「26:1 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。」とあります。

主はこれまでも、イスラエルの民に数々の戒めを与えられましたが、ここでは極めて単純に、神の命令を与えられています。それは、「自分のために偶像を造ってはならない」こと、また、「それを拝んではならない」、「安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない」ということです。なぜなら、「わたしがあなたがたの神、主だから」です。これは十戒にも定められている戒めです。なぜここにきて、このようなことか戒められているのでしょうか。それは、これがすべての戒めの中心的なポイントだからです。神の戒めというとあれをしてはならない、これもしてはならない、といったいろいろな戒めを思い出しますが、神に対してしなければならないことはそれほど多くはありません。いや一つだけです。それは何かというと、主だけを愛し、主に従いなさい、ということです。

ルカの福音書10章41-42節には、イエス様をもてなすために気が落ち着かずイライラしていたマルタが、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私を手伝うように妹におっしゃってください。」と言ったことに対するイエスのことばが記録されています。そのときイエスはこういわれました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。(ルカ10:41-42)」それと同じです。どうしても必要なことはそんなに多くはありません。いや一つだけです。それは主を第一にして、主の御言葉を聞いて生きるということです。このような単純な生活の中に、神のみわざを経験することができるのです。

これは教会も同じです。教会にとって必要なことはそんなに多くはありません。いや一つだけなのです。それは何でしょうか。神のみ言葉を聞き、それに生きるということです。神を愛し、神を第一にして生きることです。あれもしなければならない、これもしなければならい、ということではありません。何かをすることで忙しくなってしまい、肝心のみ言葉を聞くことが後回しになってしまうと、神の祝福が見えなくなってしまいます。

Ⅱ.神の命令に従う者への祝福(3-13)

次に3節から13節までをご覧ください。ここには、神のおきてに従って歩む者への祝福が語られています。

それは第一に、豊かな収穫です。4-5節をご覧ください。

「26:4 わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。」

普通大麦の収穫は四月ごろに、小麦の収穫が五月ごろに行われますが、それがぶどうの取り入れ時まで続きます。ぶどうの取り入れ時とは八月なので、それまで続くということです。そして、ぶどうの取り入れ時は、種まきの時まで続きます。種を蒔くのは十月以降、つまりぶどうの収穫が種蒔きの時である十月まで続くということです。それだけ豊かな収穫をもたらされるということです。ヨハネ1章16節には、「私たちはみな、この方(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」とありますが、その祝福は無尽蔵の豊かさです。恵みが与えられたかと思いきや、さらに大きな恵みがその上に押し寄せる豊かさです。

第二に、安全が約束されています。6節をご覧ください。

「26:6 わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。」

これは敵や獣の襲撃がなく安心していることができる、というものです。この豊かな日本に住んでいると、こうした安全は当たり前に思ってしまいますが、イスラエルではそうではありません。いつ何時、敵に襲われるかわかりません。ですから、当時の町は城壁に囲まれていたのです。しかし主は、そんな彼らに平和と安全を与えてくださいます。

 

第三に、勝利の約束です。7-8節をご覧ください。

「26:7 あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。26:8 あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」

これは、戦いにおける勝利の約束です。どのようにして勝利するのでしょうか。五人が百人を追いかけ、百人が万人を追いかけるのです。どのようにしてこんなことが可能になるのでしょうか。主が戦っていてくださることによってです。イスラエル人の戦いは、その多くがごく少数によって行われていました。代表的なのはギデオン率いる三百人によって、十三万五千人のミデヤン人に勝利した出来事です(士師7:7)。

 

第四に、出産の祝福です。9節です。

「26:9 わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。」

聖書には、子どもは神からの賜物であり、神の祝福の象徴として語られています。神がアブラハムに与えられた祝福の約束も、彼の子孫を星の数のように、海辺の砂のようにふやす、というものでした。

第五の祝福は、豊かな収穫の約束です。10節をご覧ください。

「26:10 あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。」それは倉庫に保管されている作物の古い穀物を取り出さなければいけない程です。それほどの豊かな収穫がもたらされるということです。

そして六つ目の祝福は、主の臨在の約束です。11-13節をご覧ください。

「26:11 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。26:12 わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。26:13 わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。」

これはもろもろの祝福の中でももっとも優れた祝福です。「わたしの住まいを建てよう」とは、主の臨在を表しています。天の天も、主をお入れすることなどできないのに、その主が住まわれる家を建ててくださいます。それは物質的な家ではなく霊的なに家、つまり、聖霊の宮である私たちのからだのことを指しています。その私たちの間を、主は歩んでくださるということは、何と大きな恵みでしょうか。また、主は決して彼らを忌み嫌うことはありません。好意をもって見つめていてくださいます。言い換えると、数ある目に見える祝福は、目に見えない祝福、霊的祝福の証し、あるいはしるしであったということです。

また12節には、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」とあります。これは神との個人的で、人格的な結びつきのことです。黙示録21章3節、4節には、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」とあります。これこそ、私たちにとっての究極の祝福です。その祝福へと導いてくれるのです。

Ⅲ.神の命令に従わない者へのさばき(14-39)

次に、神の命令に従わない者、つまり神のおきてを拒み神の命令を破る者には対するさばきが語られます。

まず第一に不安と恐れ、病です。敵からの攻撃です。16節と17節をご覧ください。

「26:16 わたしもまた、あなたがたに次のことを行なおう。すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。26:17 わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。」

ここでは先ほど語られた「安心」「安全」の代わりに恐怖がもたされるということが語られています。そればかりではありません。肺病や熱病によって目が衰えます。また、心をすり減らさせる、心

の病のことでしょう。また、せっかく種を蒔いてもその収穫は敵に奪われるようになるのでむだになります。敵が襲いかかり、打ち負かされ、踏みつけられます。だれも追いかけて来ないのに、ただおどおどと逃げ惑うばかりです。

第二のことは、飢饉。18節から20節をご覧ださい。

「26:18 もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。26:19 わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。26:20 あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。」

19節には「あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き」とありますが、これは神により頼まず、おのが力で成し遂げたと言って誇っている者を指しています。自分に今与えられているものがあたかも自分の力で成し遂げたかのように思い込んでは誇り、神に感謝もせずも神に栄光を帰することをしないなら、神はその高慢を打ち砕くのです。どのようにでしょうか。あなたがたの地を青銅のようにし、あなたがたの天を鉄のようにしてです。これはその地が産物を出さず、地の木々も実を結ばないで、すなわち、飢饉によってということです。

ところで、18節には「さらに、七倍重く懲らしめる」とありますが、これはどういうことかというと、その程度が極めて強くなることを意味しています。「七」という数字は完全数ですが、神がこれを完璧に行なわれるということです。

第三に、獣による襲撃です。21節、,22節をご覧ください。

「26:21 また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。26:22 わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。」

神が獣を野に放つので、その獣がこどもを奪い、家畜が絶やし、人口が減少するのです。そして、道は荒れ果ててしまうことになります。そしてここにも「七倍も激しく」とあります。神の怒りの激しさが現されています。

第四のさばきは、敵の襲来です。23節から26節までをご覧ください。ここには、敵によって町が包囲されることが語られています。主は彼らの上につるぎを臨ませ、契約の復讐を果たさせるのです。また、主は彼らの中に疫病を送り込まれるので、彼らは敵の手に落ちることになります。26節には、パンがないので、満ち足りないと言われています。それぞれの家で窯を使う燃料がないので、十人が一度に同じ窯を使うからです。普通なら一つの家庭で一つの窯が必要だったのに、十人が使っても十分な位、非常に少量のパンだったのです。そして、何十グラムとかいう単位で、残り少ないパンを計ることで、食いつないだ様子がここに書かれています。もちろん、空腹で体が弱まっている時には、免疫力がなくなっているので疫病も蔓延します。

そして第五のさばきは、もっとおそろしいことが起こります。それは親が自分の息子、娘たちの肉を食べるようになるという警告です。27節から33節をご覧ください。

「26:27 これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、26:28 わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。26:29 あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。26:30 わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。26:31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。26:32 わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。26:33 わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。」

ここにも「七倍も重く」懲らしめるとあります。これは本当に凄惨です。親が自分の息子や娘の肉を食べるという事態が起こるのです。それがバビロンに包囲されたユダに起こりました(Ⅱ列王6:28-29)。また、「高き所に死体が積み上げられる」とありますが、これは外国が、自分が征服した民を侮辱するため、彼らが拝んでいる神の祭壇に彼らの死体を置くことで、その祭壇を汚しているのです。これも、バビロンはユダの国に対して行いました。そして町々は廃墟となり、聖所は荒れ果てます。ユダがバビロンによって滅ぼされたとき、これが実現しました。これは紀元前1400年頃、モーセがシナイ山において神から与えられた言葉なのです。バビロン捕囚は紀元前586年ですが、858年前にこのことが前もって預言されていたのです。神の言葉はこれだけ確かなものなのです。

そして第六番目のさばきは、滅びです。あるいは、敵の国で捕えられるということです。34節から39節までのところです。

「26:34 その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。26:35 地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。26:36 あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。26:37 追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。26:38 あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。26:39 あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。」

これはユダヤ人が捕囚の民となって、七十年間、バビロンに捕え移されることによって成就します。彼らがバビロンによって滅ぼされ捕囚となって連行されたのは、神に背いたからなのです。ここには安息年のことが指摘されていますが、彼らが引き抜かれたのは彼らが七年ごとに訪れる安息年を守らなかったからです。そして、彼らはバビロンへと連行されて行きました。バビロン捕囚です。彼らは敵の国にいる間、ここに書かれている通りになりました。敵国において脅かしと恐れの生活を歩みました。そればかりではありません。紀元70年には今度はローマによって世界中に散らされ、敵の国にいる間、迫害と虐殺の連続でした。そして、先ほど出てきた荒れ果てた地というのも、ユダヤ人が十九世紀にイスラエルの地に帰還を始める前までは、沼地と荒地しかなかったと言われています。実に、イスラエルは、祝福のみならず、裁きにおいても神の存在を世界に知らしめる証人となっていたのです。

そして私たちが知らなければならないのは、この離散の状態になることこそ神が最もイスラエルに経験してほしくなかったことなのです。主が何度も何度も、「わたしは、あなたがたをエジプトから連れ出した神である」と宣言されました。それは、彼らが奴隷状態になっていることを神ご自身が最も望んでいなかったからです。それで、彼らにイスラエルにカナンの地を与えられたのです。ところが、その初めの状態に戻ってしまいました。これは悲惨なことです。

けれども、これはキリスト者にとっても大きな警告となっています。ペテロが第二の手紙でこう言っています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2:20)」初めから知らずに罪に溺れていることのほうが、知ってから溺れるよりはましだ、とペテロは言っています。このことを避けるために、主はイスラエルに対して、また私たちに対して、何とかして振り返ってほしいと願い、懲らしめを与えられるのです。

Ⅳ.神の慰め(40-46)

しかし、神の警告はこれだけで終わっていません。そこから悔い改めて神に立ち返る者への回復と慰めを語っています。最後に40節から46節までを見て終わりたいと思います。まず40-41節をご覧ください。

「26:40 彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。」

いよいよイスラエルは自分たちの過ちに気が付きます。自分たちが不実なことを行い、神に反抗して歩んだ自分たちの罪と先祖たちの罪、咎を告白します。彼らは敵国へと送り込まれたことによって、自分たちの過ちにやって気づくわけです。これが、主がイスラエルに望まれていたことでした。ここに「無割礼の心」とありますが、これは男性の性器が包皮で覆われていることによって感覚が鈍るのと同じように、心が神の声に対して鈍くなっていたことを示しています。けれども、今彼らはそれを悔い改めて、神に立ち返ります。これこそが神の懲らしめの目的であり、懲らしめによってその罪の愚かさに気づき、自らその罪を楠改め、神に立ち返るのです。するとどういうことが起こるでしょうか。42-46節です。

「26:42 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。26:43 その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。26:44 それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。26:45 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。26:46 以上は、主がシナイ山でモーセを通して御自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。」

ここにすばらしい神の慰めの約束があります。彼らが離散の民になったことによって、もうこれで終わりと考えてもおかしくありません。けれども、アブラハム、イサク、ヤコブに神が与えられた約束はそれでも有効だったのです。主はイスラエルをお見捨てになりません。今も見捨てておられないし、今後も見捨てることはありません。異邦人の救いが完成したら、今度は彼らを救ってくださるのです。アブラハムとの契約を思い出すというのです。

このように、神の選びというのは確かなのです。私たちがイスラエルに対して、私たちの勝手な思いで「イスラエルは見捨てられた」と考えるならば、私たちが罪に陥って、とことんまでどん底に落ちたら、主は私たちをお見捨てになる、と言っているのと等しいのです。これでも、主は予め知っておられる者たちを、決して見捨てたりなさらないのです。もちろん、土地から引き抜かれるという痛みを味わいました。こんなひどいところを通らずして、主とともに歩むことができれば最高です。だから、通らないで従順でいることのほうが大事なのです。けれども、たとえ失敗しても、主は再び立ち上がる機会を与えてくださるのです。

レビ記25章23~55節

きょうは、レビ記25章の後半部分から学びたいと思います。まず23節から28節までをご覧ください。

1.買戻しの権利(23-28)

「23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに寄留している異国人である。24 あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。26 その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、27 売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。28 もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。」

ここには買戻しの権利について語られています。買戻しの権利とは25節にあるように、もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買戻しの権利のある親類が来て、兄弟が売ったものを買い戻すというものです。その者に買戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたら、売ってからの年数を計算し、なお残りの分を買主に支払って、自分の所有地に帰りました。もしその者に返す余裕ができなかったら、ヨベルの年まで待たなければなりませんでした。ヨベルの年になれば、前回学んだように、すべての者が、自分の所有地に戻ることができました。

それにしても、なぜ神はこうも一度割り当てられた所有地に対して、こだわりを持っておられるのでしょうか?それは23節にあるように、「地はわたしものであるから」です。確かに、イスラエル人がそれを所有していますが、元々それは神に属しているものであり、神の所有地です。彼らはただそれを一時的にゆだねられているにすぎません。

私たちは全てのことについて、この姿勢を持っていなければいけません。前回は安息年について学びましたが、なぜ、七年ごとに安息を得なければならなかったのか?それは安息することによって、自分の手からその土地が離れるからです。そして元々、その土地を与えられた神を認めることができるようになります。土地についてもそれはもともと自分のものではなく主ご自身のものであり、自分はあくまでも主にこの務めを割り当てられているにしか過ぎないのだ、ということを知ることは、とても大切なことです。

25節には、貧しくなってその地を売らなければならなくなった時に、近親の者がそれを買い戻してあげなければならないということが記されてあります。ヘブル語ではこれを「ゴエル」と言います。「ゴエル」とは、買い戻す者という意味ですが、ルツ記に出てくるボアズが、ルツが嫁いだエリメレク家にとってのゴエルでした。彼は、今は亡きエリメレクの土地を、ナオミとルツのために買い戻してくれたのです。それはやがい来られるイエス・キリストの型でもありました。

また、例えば自分のしている商売がうまくいって暮らし向きが良くなれば、自分自身で買い戻すことができました。ヨベルの年までの土地の収穫によってかつて売っていたわけですが、自分の手から離れた年数を差し引いて、その土地を買い戻します。けれども、たとえ買い戻すことができなくても、ヨベルの年になれば自分のものに戻ってきたのです。

次に29~34節をご覧ください。

「29 人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。30 もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。31 その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。32 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。33 レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。34 しかし、かれらの町々の放牧用の畑は売ってはならない。それは彼らの永遠の所有地だからである。」

人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がありましたが、満一年の間に買い戻されなかったら、城壁のある町のその家は買戻しの権利の喪失ということで、代々に渡って、買い取った人のものとなりました。それがたとえヨベルの年であっても、その買い取った人の手から離れることはありませんでした。

これはどういうことでしょうか。ここでのポイントは、それが城壁のある町に囲まれた住宅であるということです。作物を育てる土地とは異なり、城壁に囲まれた町にある住居は買い戻しの権利は一年しかありませんでした。その期間が過ぎれば、たとえヨベルの年になっても買い戻すことはできませんでした。なぜでしょうか。城壁の中に住むことは、自分たちを敵から守ることだからです。もしそこに住んでいる人から買い戻されるようなことがあれば、そこに住んでいた人はその町から出て行かなければならなくなります。つまり、自分たちの安全と保護がなくなり、敵の手に渡される危険性があったのです。ですから、そうした事態にならないように、城壁の中にある住宅が売られることがないようにされたのです。もしそうしたことになれば買戻しの権利を喪失するという例外まで定め、何とかしてそのような事態にならないようにしたのです。しかし31節にあるように、城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができたばかりか、ヨベルの年にはその手を離れたのです。

レビ人には、土地の割り当てが与えられていませんでした。なぜなら、主ご自身が彼らの相続地であったからです。彼らは神の幕屋に関する奉仕に従事する人々であり、主にお仕えするということそのものが財産だったのです。ですから、そのレビ人から買い戻していたものは、ヨベルの年には手放され、再びそのレビ人のものとなりました。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にあるかれらの所有地だったからです。ですから、レビ人の場合は、城壁の中の住居とは異なり、いつでも買い戻すことができました。しかし、彼らの町々の放牧用の畑は売ってはなりませんでした。それは彼らの永遠の所有地だからです。売ること自体が論外だったのです。

2.兄弟が貧しくなり、身売りしたらどうするか(35-46)

次に35~46節までを見ていきましょう。まず38節までをお読みします。

「35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。36 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。37 あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。38 わたしはあなたがたの神、である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」

ここには、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、どうしたらよいかということが教えられています。25節には、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、その地の買戻しの権利を認めなければならないということが語られていましたが、ここでは所有地どこではありません。その貧しさがもっとひどくなり、生活そのものは成り立っていかなくなった場合、日々の生活さえままならない状態に陥った場合どうしたらいいかが教えられているのです。そして、もしあなたの兄弟がそのような状態に陥ったなら、彼を在留異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなければなりません。在留異国人として扱うなんてひどいじゃないかと思われるかもしれませんが、逆に、身売りしなければならなくなった人をこのように扱うということは、そのこと自体が神のあわれみのしるしです。というのは、ここでは異邦人ではなく在留異国人と言われているからです。それは土地を持たない寄留者のこと、あるいは、旅人のことを表しているからです。財産を失って、もう身売りしなければならなくなった人を奴隷としてではなく旅人のように、寄留者のように扱うというのは、何と大きなあわれみでしょうか。なぜそのように扱うのでしょうか。

38節にその理由が書かれてあります。それは、主がエジプトからイスラエル人を連れ出してくださったからです。それなのに、再び奴隷になるようなことがあるとしたら、それが全く無意味なものとなってしまいます。それで主は、同胞のイスラエル人がその貧しい人を扶養するように命じておられるのです。そして、その状況を利用してその人から利息を取るようなことがないように、つまり、従属関係に陥ることのないように戒めておられるのです。「あなたの神を恐れなさい」(43)と。

それにしても、なにゆえに神はそこまで貧しくなった人たちを憐れんでおられるのでしょうか。おそれは神の家族の中では全ての人が平等であって、そこには何の差別もあってはならないからです。全ての人が罪人であり、全ての人がキリストへの信仰によって義と認められるという差別なき救いのゆえなのです。ゆえに、そこに上下関係や階層制度が入ってはならないのです。すべてのクリスチャンは兄弟であり、姉妹なのです。

39~46節までをご覧ください。

「39 もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。40 あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。41 そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。
42 彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。43 あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神をおそれなさい。
44 あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。45 または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。46 あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。」

39節以降の場合は、実際に身売りしてしまった場合のことです。たとえ身売りしたような場合でも、彼を奴隷として仕えさせてはなりませんでした。その時には住み込みの雇人としておらせ、ヨベルの年までその人のもとで仕えるようにさせなければなりませんでした。奴隷として扱ってはならなかったのです。それはイスラエル人の間で主人と奴隷の関係を持たせることを、神は望んでおられなかったからです。労働にふさわしい賃金を支払わなければなりませんでした。「彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。」(42)だからです。ただ異邦人は奴隷とすることができました。44~45節にあるように、彼らの周囲の国々から奴隷を買い取ることができましたが、彼らの中からはだれも奴隷にすることは赦されていませんでした。

それは神の教会においても同じです。キリスト者は、後に王となり祭司となることが約束されています(黙示1:6)。キリストと共に神の国を統治することが約束されているのです。したがって今の時代にも、教会の外では雇用関係や商売や政治活動など、この世の制度の中で主の命令に違反しない限りのことを行うことはできますが、それを教会の中に持ち込むことはできません。私たちはあくまでもキリストが頭であられ、互いに神の家族の兄弟姉妹であるからです。

3.在留異国人の奴隷となってしまったらどうしたらいいか(47-55)

最後に47節から55節までを見て終わりたいと思います。

「47 もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きがよくなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。50 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。51 もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。52 もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。54 たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。55 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、である。」

ここには、あなたがたの兄弟、すなわちイスラエル人が貧しくなり、在留異国人に身を売ってしまったらどうしたらよいかが教えられています。これは最悪な状況です。主はイスラエル人の奴隷になることも避けるように戒めておられたのに、ここでは異邦人の奴隷になってしまった状況が想定されています。いったいこんなことがあるのでしょうか。イスラエルの歴史を見ると侵略の歴史です。その昔はエジプトに捕えられて奴隷になったことがありますし、この後にはバビロンによって滅ぼされ、奴隷としてとらえられ、奴隷として過ごすときがやってきます。このようにイスラエル人だからといって必ずしも平穏に過ごすことができるかというとそうではありません。こうした外国からの侵略によらなくても、生活が貧しくなり、身を売ってしまうという状況に陥る場合があるのです。そのような時はいったいどうしたらいいのでしょうか。

その時は、先ほど土地においての買い戻しの権利を奴隷を解放する身代金を支払うことで行使することができます。つまり、彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権威があるのです。彼の兄弟のひとりか、あるいは彼のおじとか、おじの息子とかが買い戻すことができます。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができます。あるいは、もし彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分を買い戻すこともできます。そのときは、どのようにして買い戻せばいいのでしょうか。

50節以降にこうあります。 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決めます。それは雇い人の場合の期間と同じです。もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければなりません。もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければなりませんでした。彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければなりません。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはなりません。たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができました。

それは土地を売買するときの計算と同じですね。ヨベルの年まで何年残っているかによって身代金が変わりました。たとえば後十年残っていれば、十年分の労働賃金を売り手に支払います。そして、奴隷のように酷使してはならないと強く戒めておられます。これらの戒めの根拠が55節にあります。

「わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。」

イスラエル人は主のみに属する僕だからです。神の僕である者は、他のあらゆるものから自由にされている存在ですから、他に負債があったり、ましてや身売りされている状態は何としてでも回復させ、解放させなければならないのです。

これはどんことを表していたのかというと、イエス・キリストの身代金です。イエス様は、ご自分が来たのは、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)と言われました。その贖いの代価とは、人質に身代金を与える身代金の意味を持っています。また奴隷を解放する時の身代金です。貧しくなって土地を売り渡し、また自分の身をも売り渡さなければいけない状態から解放するために、主はご自分の命をもって買い戻しの権利を行使されたのです。

やがてヨエルの年が来ます。究極的に主が全てのものを回復される時が来ます。その時に私たちは栄光の姿に変えられます。そして、主と共に地上に降りてきて御国を相続するようになるのです。しかし、だからといって私たちは罪の中にいていいのでしょうか。罪の中にいることは、まさに身売りしているような状態と同じです。罪を犯せば、罪の支配を受けるようになるからです。その結果、自分の持っているものまでが奪い取られることになってしまいます。神との慕わしい交わりはもちろんのこと、教会の兄弟姉妹との信頼関係も失われ、夫婦の関係や親子関係にも傷が生じます。そして罪を犯し続けると、さらには世においても惨めな姿になります。ちょうど異邦人の奴隷になってしまうのと同じです。

主は、そのようなことのないように、何とかしてご自分が与えられた贖いの代価によって、私たちが自分に与えられている神の自由を、その分け前を取り戻すべく働きかけておられます。ご聖霊が、私たちが確かに罪の支配を受けないように、そこから自由になり、神の霊的祝福を楽しむことができるように導びいてくださいます。そして、兄弟たちが代わりに買い戻すように、教会では兄弟たちが罪を犯している仲間を、重荷をもって助け、柔和な心で正していくのです。パウロはガラテヤ5章13節で、「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」と言っています。私たちは自由を持っているのですから、罪を犯してその特権を売り渡してはなりません。むしろ、その自由を保ちつつ、他の兄弟姉妹に対して愛をもって仕えていかなければならないのです。

レビ記25章1~22節

きょうは、レビ記25章前半の部分から学びたいと思います。まず1節から7節までをご覧ください。

1.安息年(1-7)

「25:1 ついで主はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。3 六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。5 あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。6 地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、7 また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。」

ここには安息年に関することが教えられています。2節には、「わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。」とあります。「六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。4 七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。」

安息日については十戒めで教えられていました。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト20:8-10)ここでは安息日ではなく安息年です。つまり、六年間畑に種を蒔き、収穫しなければなりませんが、七年目は、地の全き休みの安息として、種を蒔いたり、ぶどうの枝をおろしたり、刈り入れをしてはならないというのです。いったいなぜ主はこのようなことを命じられたのでしょうか。

それがその土地のためになるからです。6節を見ると、「あなたの食糧のためになる」とあります。私は農業の経験はありませんが、これは一般的にも通用する原則だそうです。連作をするとその土地が痩せると言われています。ですから、他の作物を植えたりして連作を避けるそうですが、イスラエルの場合は一切の耕作を休みます。それはさらに豊かになるための神の知恵なのです。収穫を得るために休むのです。

私たちはどうして、こんなにひっきりなしに働くのでしょうか?それは不安だからです。働かないでいられません。働かなかったらと収入が減るのではないか、他の人たちに追い越されてしまうのではないかと心配するので、その心配が私たちを労働へと駆り立てるのです。もう一つの理由は、私たちにある貪欲さです。もっとお金がほしい、もっと成績を伸ばしたい、といった欲望が休むことを止めさせます。けれども、そこにあるのは神が働かれる余地を除外することに他なりません。神が実を結ばせてくださり、神がすべての営みの源であるということを忘れて、自分たちの手で、自分たちの力で何とかしようという思いが働くのです。

しかし、神は、私たちの助けがなくても働くことがおできになります。すべての良いものは神から来ていることを知るには、そこに立ち止まらなければなりません。すべての手のわざをやめて、神の教えに耳を傾け、それに聞き従わなければならないのです。

それにしてもなぜこんなにも主が休むことを強調しているのかと言いますと、それはイスラエルがエジプトで奴隷だったことと関係があります。イスラエルはかつてエジプトで430年間奴隷として過ごしていたわけですが、奴隷は休むことができません。休むということは、奴隷状態から解放されて自由人になったことを表しています。ですから、彼らがこうして休むというのは、彼らが神によって贖われて神の民となり、自由になったことを意味していたのです。

また、もっと元をたどれば、働くことは最初の人アダムとエバが罪を犯したことによってもたらされた神ののろいでした。アダムとエバは神の命令に背き、食べてはならないと命じられていた木から取って食べたので、その結果、額に汗して働かなければならなくなったのです。それまで彼らは神が与えてくださったエデンの園で自由に生きることができました。しかし、罪を犯した結果、奴隷のように働かなければならなくなってしまったのです。神を認めないで、自分の知恵で生きることを選んだ者は、自分で働かなければならないという結果が生じてしまいました。

けれども、そんな罪の重荷から神は私たちを解き放ってくださいました。神はその子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、罪にとらえられていた私たちを解放してくださいました。ですから、この安息年の示していたことは、こうした罪の重荷から解放して私たちの心に全き安息をもたらしてくださったイエス・キリストであったのです。まさにキリストは安息日の主であられましたが、この安息年の主でもあられるのです。

ところで、イスラエルはこの戒めをずっと守りませんでした。守らなかった結果どのようになってしまったでしょうか。バビロンに捕え移されるという悲惨な結果を招くことになってしまったのです。Ⅱ歴代誌36章21節をお開きください。ここにはこうあります。

「これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」(Ⅱ歴代誌36:21)」

「これは」とは、イスラエルがバビロンに捕え移されたのは、ということです。それは彼らが、彼らに与えられたこの主の戒めを守らなかったからなのです。彼らが守らなかったので、主はこの安息を取り戻すため、バビロンを通してこの地を休ませたのです。その期間は70年でした。主は強制的にその土地を休ませるために、バビロンを用いて彼らを取り除いたのです。

私たちは神の命令を重荷であると思って、それを退けることができると思っても、実は退けられるのは神の命令ではなく、私たちの方であることをここで知らなければなりません。そして、それが自分たちにとってどうであるかということを自分たちで判断しないで、ただ神の仰せられたことに聞き従わなければならないのです。

2.ヨベルの年(8-17)

「8 あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。9 あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。11 この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。12 これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。13 このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。14 もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。15 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。16 年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。17 あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。」

次に8節から17節までを見ていきましょう。ここには「ヨベルの年」について記されてあります。安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数えた年が「ヨベルの年」です。この日は角笛を吹き鳴らさなければなりません。「ヨベル」とは、「雄羊の角笛」という意味です。安息年と同じように、完全に土地を休ませます。したがってヨベルの年の目的の一つは安息年と似ており、「疲れたものを休ませ、回復させ、新たな始まりを与える」ことにあります。10節には、「国中のすべての住民に解放を宣言する」とあります。しかし、安息年とは違う特徴がこのヨベルの年にはあります。それは、このヨベルの年には、それぞれが自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰ることができたということです。

これはどういうことかというと、主の恵みの完全な回復です。創世記12章には神がアブラハムにカナンの地を与えると約束してくださいました。そしてヨシュアの時代にイスラエルはこのカナンを占領し、それぞれの部族ごとに割り当てました。こうしてイスラエルの各部族に自分たちの所有する土地が与えられたのです。

ところが、時間の経過とともに経済的事情が生じ、ある人は貧しくなって自分の土地を手放さなければならないという状況に陥ってしまうこともありました。ところが五十年目には、それら全ての土地の譲渡がリセットされて原状回復されるのです。必ず、元の所有者の所に戻されるのです。このようにして神は、代々、初めに定められた相続地を誰かに売り渡されることのないようにしてくださったのです。これはまさに主の恵みの大解放です。

そこで土地の売買のやり方を見ると、それは次のヨベルの年までにどれだけ収穫することができるかでその評価額が決まりました。たとえば40年先にヨベルの年があるのであれば40回の収穫があるということですから40回の収穫に応じた価値があるとされ、10年後にヨベルの年があるならば10回の収穫数に応じた価値があるということで土地の評価額が決まりました。今読んだところは、それを無視して土地の売買をするとのないようにという戒めです。「神を恐れなさい」とあります。人の思惑によって神が初めに与えられた土地の約束が次第に損なわれていきますが、それによって神が定めた計画が損なわれることがないように、神は七年の七周期という時を定めて、新たな始まりの時を設けてくださっているのです。

ところで、神は、このヨベルの年の原則をこの人類の救済の歴史において大体的に行なわれました。そうです、主イエス・キリストにおける大解放です。私たちはキリストにあって、罪から解放されて自由になりました。キリストにあってその人生をリセットすることができるのです。ルカ4章18節と19節には、このことが記録されてあります。ここに「主の恵みの年を告げ知らせるために」とあります。この主の恵みの年こそ、このヨベルの年のことだったのです。主イエスはこの恵みの年を告げ知らせるために来てくださったのです。それまで罪に囚われ、虐げられていた人が、イエス・キリストによって罪から解放され、全く自由にされるのです。ですから、このヨベルの年は、キリストによる罪からの解放のひな型であったわけです。

しかしそれだけではありません。それは単に罪からの解放というだけでなく、やがてキリストが再臨されることによってもたらされる主の千年王国の預言でもありました。24章ではユダヤ教の例祭について学びましたが、「ラッパの吹き鳴らす会合」とか「贖罪の日、「仮庵の祭り」という秋に行われる収穫祭、後半の三つの祭りは終末に起こることの預言でもあるとお話しました。ラッパが吹き鳴らされるのは、主が再臨される時の合図だったのです。

使徒の働き3章19-21節を見ると、ペテロは、ここでこのヨベルの年のことを思いながら、こう説教しました。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」

ここに「回復の時」とありますが、これが主イエス・キリストの再臨される時のことです。その時キリストは万物を回復させてくださいます。主の千年王国をこの地に樹立してくださるのです。それはかつて主が人類を創造された時のエデンの園の回復です。神はこの地上を滅ぼされる前に、あのエデンの園をもう一度回復し、そこに私たちを住まわせることを計画されました。万物が改まって輝けるエデンの園が回復されます。その御国を受け継ぐことができるようにしてくださるのです。それは主の恵みの年の大解放、ヨベルの年の完全な実現です。

ですから、このヨベルの年はかつてのイスラエルの時代における恵みの回復でしたが、それが救い主イエス・キリストによる罪からの大解放を示していたのであり、そしてそれは同時に世の終わりの万物が改まる時にもたらされる主の千年王国の預言でもあったのです。

3.3年間の収穫(18-22)

「18 あなたがたは、わたしのおきてを行ない、わたしの定めを守らなければならない。それを行ないなさい。安らかにその地に住みなさい。19 その地が実を結ぶなら、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。20 あなたがたが、『もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか。』と言うなら、25:21 わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。九年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる。」

最後に18節から22節までを見て終わりたいと思います。ここではどんなことが教えられているのかというと、安息年またヨベルの年に土地を休ませるなら自分たちの生活はどうなるかということです。一年間まるごと土地を休ませ耕作しなかったら、食べる物がありません。そして安息年の翌年に種を植えることができても、収穫は次の年になります。したがって三年分の収穫が、安息年の前の年に必要なのです。そこで主は、9年目に3年間の収穫を生じされるというのです。そのことを約束してくださっているのです。

かつてイスラエルが荒野を放浪していたとき、主は安息日にマナを集めてはならないと命じられました。では安息日の食糧はどうすればいいのか。何とその前の日に二日分のマナを与えると約束されたのです。それでも安息日に集めに行った人がいましたが、七日目に集めに出た人は、何も見つかりませんでした(出エジプト16:27)。それじゃ、無くならないようにといっぱい集め、翌日まで取っておいた人はどうなったかというと、それに虫がわき、悪臭を放ったため、食べることができませんでした(出エジプト16:20)。人間って、どこまでも貪欲なんですね。明日のことを心配ばかりしています。明日食べるものをどうしようか・・・と。しかし、神は心配するなと言われます。それが神の命令ならば、必ず神が祝福してくださいます。彼らがちゃんと食べることができるように三年間の収穫を生じさせるというのです。

マタイの福音書6章25節から34節までをお開きください。ここには「25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」とあります。

イエス様は、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」(マタイ6:25)と言われました。それは異邦人が切に求めているものです。神に贖われた神の民が求めなければならないのは、神の国とその義です。それを第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。たとえば、空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもしませんが、天の父がちゃんと養っていてくださいます。あるいは。野のゆりを見てください。働きもせず、紡ぎもしないのに、きれいに着飾っています。天の父が養っていてくださるからです。あなたがたは鳥よりも、のの花よりももっとすぐれたものではありませんか。あなたがたは神に贖われた神の民なのです。だから、神がちゃんと養ってくださいます。あなたにとって必要なことは心配することではなく、神に信頼することなのです。神の国とその義とを第一にしなければなりません。そうすれば、神が祝福してくださいます。

ですから、安息日を守ること、そして七年ごとの安息年を守ること、また、ヨベルの年を守ることは、神が養ってくださることを信じることに他なりません。言い換えれば、食べ物も飲み物も、着る物も財産も、そのすべてが神からの恵みであることを認め、この神に信頼しなければ何一つ持つことができないものであるということを認めることでもあるのです。すべて自分が行なっているのだ、という思いは養い、備えてくださる神を無視した、傲慢な態度に他ならないのです。

レビ記24章

きょうはレビ記24章全体から学びたいと思います。まず1~4節までをお読みします。

1.日ごとに、週ごとに(1-9)

「1 ついではモーセに告げて仰せられた。2 「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。3 アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝までの前に絶えず、そのともしびを整えておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。4 彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えずの前に整えておかなければならない。」

これは既に出エジプト記27章20-21節において、主がモーセに語られた内容と同じです。主はモーセにイスラエル人たちに命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させ、祭司アロンはそれを会見の天幕の中の、あかしの箱の垂れ幕の外側、つまり聖所でそれをともしておかなければなりませんでした。夕方から朝まで。

ご存知のように、この油は聖霊を象徴しています。聖所のともしびを絶えずともしておくために油を用意しておかなければならなかったように、私たちはいつも聖霊に満たされていなければならないということです。

次に5節から9節までをご覧ください。

「5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く、一つの輪型のパンは十分のニエパである。6 それをの前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、ニ並びに置く。7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。8 彼は安息日ごとに、絶えずこれをの前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」

これも既に出エジプト記で語られたことです(出エジプト25:30)。聖所に入ると右側にこの備えのパンがありました。机はアカシヤという材木によって作られていましたが、すべて純金でおおわれていました。その上に12個のパンが2列に6個ずつ置かれていました。この12個のパンはイスラエルの12部族を表しています。それは安息日ごとに、絶えず主の前に、整えておかなければなりませんでした。このパンは何を表していたのかというとキリストのいのちです。神のみことばです。それを週ごとに絶えず、整えておかなければならなかったのです。乳香を添えて・・。乳香は祈りを表していましたね。すなわち、このパンと乳香は、祈りとみことばによって神との交わりを絶やしてはいけないということを教えていたのです。これらはいわば私たちの日常的な奉仕と言えるでしょう。ともしびの油といい、このパン、乳香といい、前にも語ったことをなぜここでもう一度語られているのでしようか。

それはレビ記全体を見るとわかります。この前の23章では主の例祭について教えられていました。それは過越の祭りから始まり、種なしパンの祝い、初穂の祭り、そして五旬節があります。これらは春の祭りです。そして秋には、ラッパを吹き鳴らす会合、贖罪の日、そして仮庵の祭りでクライマックスを迎えます。イスラエル人は今、シナイの荒野にいますが、約束の地に入ったとき、彼らは農作業によって食物を得ます。収穫の時期に沿って、このような盛大な祭りをして、主を礼拝するのわけです。そして私たちはこれら一つ一つの祭りには意味があって、それはキリストの十字架と復活、聖霊の降臨、そして携挙、再臨、千年王国という主イエス・キリストのみわざを表しているということを知りました。この例祭について教えられているそのあとで、、このともしびやパン、乳香について語られているのは、しかも、これらは以前、主がモーセにすでに教えられたことなのに、ここで繰り返して教えられているのは、そうしたイスラエル全体の祭りの中にあって、日々の小さな務めをないがしろにしてはならないということなのです。日ごとの、あるいは週ごとの、そうした小さな務めを忘れてはならないし、むしろ、そうした小さな務めの中に、そうした全体的なことがある、あるいは、そうした全体的なことの中にこうした小さな積み重ねがあるということを教えたかったのではないでしょうか。これらのことは日ごとに、あるいは週ごとに、絶えず主の前に行われなければならないことなのです。

私は昨日まで同盟の働きで仙台と岩手の北上に行ってきました。今はそういう時期なのかなあと思って、自分なりに与えられた務めを忠実に果たしていこうと思っていますが、こうしたことに取り組んでいて思うことは、こうしたことで振り回されて日々の働きをおろそかになってしまうというか、見失ってしまう危険性があるということです。あっちに行って、こっちに行って、あれをやって、これ をやってといううちに、日々の小さな務め、絶えず主の前に備えていかなければならない奉仕が忘れられてしまうということです。

それは僕だけに限らず、私たちクリスチャンのすべてにいえることではないでしょうか。あっちで聖会があり、こっちで聖会がありと走り回るのは構いませんが、それによって毎日の、あるいは週ごとの務めが忘れられてしまう。神がご自身の血をもって買い取ってくださった神の教会こそが私たちの信仰生活の土台であるはずなのに、その土台をしっかりと築かないで全体的なことで走り回ってしまう。そういうことがあるのではないでしょうか。やはり私たちは日ごとの糧を、日ごとに神の前に出て祈ること、つまり祈りとみことばによって祭壇を築き、いつも聖霊に満たされることを求めていかなければなりません。

2.律法が適用される範囲(10-14)

次に10節から14節までをご覧ください。

「10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。12 人々はの命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。13 そこで、はモーセに告げて仰せられた。14 「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。」

ここでポイントとなるのは、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちから出るようになったが、その息子が御名を冒涜したことについて、どのような処罰が下されたかということです。

十戒の中には、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。(出エジプト20:7)」とあります。そして具体的に、「神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。(同22:28)」という定めもあります。この律法が果たしてイスラエル以外の外国人にも適用になるのかということです。

ここには、「イスラエルの女を母としても、エジプト人を父とする者」とあります。イスラエル人のうちにこういう人たちが出ていました。出エジプト12章38節を見ると、イスラエルがエジプトを出てきた時に、多くの外国人も出て来たとあります。こうした外国人がイスラエル人と結婚することによって、このような人たちが大勢いたのです。

聖書では、父がイスラエル人であれば母が異邦人でも子供はイスラエル人ですが、その反対はイスラエル人にはなりません。それでイスラエル人ではない者に、イスラエルに対して与えられた神の律法が適用されるのかどうかが分からなかったので、人々は主の命令を待ちました。それで主からの答えはどういうものであったかというと、「石で打ち殺しなさい」というものでした。つまり、イスラエルの宿営にいる限り、異国人であってもイスラエルの律法が適用されるということです。

それはこの旧約聖書の律法が、そのままイスラエル以外の全人類に適用されるということなのでしょうか。そうです、それはイスラエルに限らず私たち全人類に対する神のみこころが示されたものです。しかし、その解釈は必ずしも文字通りではないということです。たとえば、律法では姦淫の罪を犯す者は石打ちに定められていました。しかし、イエス様は姦淫の現場で捕えられた女の罪を赦されました。イエス様は、「あなたがたの中で罪のない人からこの人に石を投げなさい」と言うたので、「わたしもあなたを罪に定めなさい」と言われ、彼女を赦されたのです。それは、義人はいない、一人もいないからです。聖書はすべての人が罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない、とあります。姦淫についても実際に姦淫を犯したかどうかではなく、だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯していると言われました(マタイ5:27)。兄弟に向かって「能なし」とか「ばか者」7というような者は人を殺していると言われました(同5:22)。そのような者は燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。そういう意味ではだれも正しい人などいません。私たちに求められているのはただ悔い改め、神のみこころに歩もうとすることです。ですから、旧約の律法はすべての人に適用されますが、その意味、もしくは解釈は慎重になされなければならないということです。もしもし通りそれを解釈するならば、本来の神のみこころとはき全く違った方向に行ってしまうのです。ですから重要なことは肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって産まれることです。ヨハネ1章13節を開いてください。ここには、

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

とあります。もっぱら神によって生まれたのでない限り、血筋によっても、自分の人間的な頑張りによっても、また他の人が認知するにしても、決して神の子供になれません。

けれども、神の御霊によって生まれた経験を持たずして、あたかも神の家族の中に属しているように振舞ったらどうなるのでしょうか?普段は、それらしく振舞うことができても、いざその人の根幹に関わる事項で確執が起こった時に、その人はこれまで表向き信じていたという化けの皮が剥がれてしまいます。その時に、主ご自身を呪う言葉、あるいは言葉に表さなくても明らかに呪っている行動に出てくるのです。それがこのイスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする息子の根本的な問題だったのです。

真に御霊による新生を体験している人は、どんなことをしても神を呪うことはできません。呪ったとしても、悔い改めに導かれるだけでしょう。イスラエルの宿営の中にいたそのエジプト人は、そのように表向きイスラエル人のように生きていただけであって、神によって生まれ変わってはいなかったのです。

私たちは、神はえこひいきをされる方ではないことを知っています。「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:9-11)」エジプト人だからと言って、異なる律法ではなく一つの定めしかなかったように、聖書や教会から遠く離れている人々に対して、神はご自分の聖さを引き下げることはなさいません。やはり罪人として裁かれます。したがって私たちは、全ての人に対してその人が罪から救われるように祈っていかなければならないのです。

3.目には目。歯には歯(15-23)

最後に15節から23節までをご覧ください。

「15 あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。16 の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。17 かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。
18 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。19 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。20 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。21 動物を打ち殺す者の償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。22 あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、である。」23 モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、がモーセに命じられたとおりに行った。」

ここには、神を呪うものは、だれであっても、その罪の罰を受けなければならない、とあります。。たとえ、それが異国人であってもです。主の御名を冒涜する者は殺されなければなりません。そこにはイスラエル人と異国人の間に差別はありません。

りそめにも人を打ち殺す者があれば、その人は必ず殺されなければなりません。動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければなりません。もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければなりません。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならないのです。動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。自分がした行ないにしたがって、それと同じ報いを受けるように主は定めておられます。人のいのちを取るのならば、自分のいのちが取られます。目には目、歯には歯、傷には傷です。それが聖書の原則です。

神は、罪を犯した者に対して、そのさばきを曲げるようなことはなさいません。これは新約聖書でも同じです、ユダヤ人でもギリシヤ人でも、すべての人が罪を犯し、すべての人が神の前で有罪とされている、とパウロは言っています。しかし、イエスはこれとは違うことを教えられました。マタイの福音書5章38-48節です。

「38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

これはいったいどういうことでしょうか。イエス様はここで、この旧約聖書の真意がどういうことなのかを教えてくださったのです。すなわち、それは敵を愛するということです。もし私たちが人を憎いと思ったら、『殺してはならない』という律法を実際に犯してしまうことになります。また、情欲を持って女性を見たならば、それは実際に姦淫を犯したのと同じです。その同じ文脈の中でイエス様はこう言われたのです。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」

これはなかなかできることではありません。というか、できないでしょう。どうですか。私の知っているアーサー・ホーランドという伝道者は、『右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさ いなんて、俺にはできない。俺は殴られたら何倍にもして返して、ボコボコにしてから、神よ彼を哀れみたまえって祈る』と言っています。でも、それが本音ではないでしょうか。だって、普通に考えても、右の頬を打たれたら、反射的に殴り返そうとするのが普通です。皆さんも小さい頃によくけんかをしたことがあるかと思いますが、ケンカをして泣きながら家に帰ると親は何と言いましたか。「いいから、殴り返してらっしゃい !」って言われませんでしょうか? また、すごく強い復讐心を持っている方もまれにいますよね。「自分がこんな風になったのは例えば、親のせいだ!」と思って、いつか復讐してやると心に誓って生きている人って少なくありません。やられたらやり返す。二倍にして。そう、倍返しです。それが現実の私たちの姿だと思います。

実は神様もそういう方です。そういうと皆さんびっくりするかもしれませんが、神様の原則のひとつに『刈り取りの原則』があります。種を蒔けばその実を刈り取るという原則です。 

「人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、」(ガラテヤ6:7b‐8a)

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23a)

しかしこれら二つのことばはここで終わってはいません。続きはなんと言っているかというと、こうです。

「人は種を捲けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、 肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」ガラテヤ6:7b‐8

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は私たちの主キリスト・イェスに ある永遠のいのちです。」ローマ6:23a 

これら二つの聖書のことばは何を言っているのでしょうか? それは、わたしたちは自分の罪の刈り取り、神からの復讐を受けなくてはならない存在なのに、 神はイエス・キリストの十字架での死によって、私たちが受けなければならない刑罰のすべてを身代わりに受けてくださり、私たちの代わりとしてくださったということです。ただそのことを信じるだけで、永遠のいのちを与えられるようになったということです。神はそのひとり子であるイエスを犠牲にしてまで私たちを愛し、救いを用意してくださったのです。神の愛はそこまで深く、完全なのです。

だから、あえて神はわたしたちに自分で復讐をするなといっているのです。復習は神に任せなさい・・・と。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません 。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 (ローマ12:19)

神は復讐されるべきあなたを自分の御子を犠牲にするほどの愛で愛してくださっているのだから、復讐はしなくてもいいだろう?とわたしたちの語っているのです 。別の箇所で次のように言っています。

神が復讐よりも私たちに求めておられることは愛することなのです。神と同じ完全な愛で他人を愛することだったのです。自分を愛する者を愛することは誰にでもできます。そんなのは神を信じていない異邦人でもできます。しかし、神が完全であるように私たちも完全でなければなりません。つまり、自分に敵対する者を愛し、迫害する者のために祈ってこそ天の父の子どもだと言えるのです。

ですから、旧約の律法で「目には目を・・」とありますが、神が私たちに求めておられることは、天の父と同じように完全であることです。復讐は神に任せて、自分の敵を愛すること、迫害する者のために祈ること、それが神の求めておられることなのです。確かに、私たちは自分のした行為に応じて報いを受けなければならない者です。しかし、そんな者を神は赦してくださいました。神は御子イエス・キリストによって、私たちにいのちを与えてくださいました。ですから、私たちは目には目をという原則を聞いていますが、それよりもはるかにまさる神の愛に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。

レビ記23章23~44節

きょうはレビ記23章後半部分からお話します。23章には、イスラエルが守るべき主の例祭について教えられています。全部で七つあります。それは、過ぎ越しの祭り、種を入れないパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭り(ペンテコステ)、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。前回はこのうち最初の四つの祭りについて学びました。これらはいったい何を表していたのでしょうか。過ぎ越しはキリストの十字架の贖いを表していました。また、種なしパンの祭りは罪なきキリストご自身、あるいは、キリストによって罪が取り除かれたことの感謝を、初穂の祭りは復活の初穂としてのキリストです。そして七週の祭り、五旬節は聖霊降臨でした。それらはすべて春の収穫を祝う祭りですが、キリストがこの歴史に現れたことによってすでに成就した出来事です。

コロサイ2章16~17節には、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」とありますが、これらの祭りはすべてイエス・キリストを指し示すものであって、次に来るものの影だったのです。

そしてきょうは残りの三つの祭りについて学びます。すなわち、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。先の四つの祭りは春の収穫を祝う祭りであったのに対して、残りの三つの祭りは秋の収穫を祝う祭り、秋の祭りです。それは「第七の月」つまり九月から十月にかけて行われる祭りなのです。そして、春の祭りがキリストが初めに来られた時に成就した出来事を示していたのに対して、この秋の祭りはキリストが再び来られる時に成就する出来事を示しています。ですから、私たちは今、ちょうどその中間地点にいるわけです。その間主は農夫と同じように、秋の収穫のために実が結ぶのをじっと待っておられます。そして、実が結ぶようにと、細心の注意を払って作物を育てておられるのです。私たちは、キリストが戻って来られる日に備えて、自分の生活において実を結んでいるかどうかを吟味し、主がいつ戻って来られてもいいようによく備えておかなければなりません。

1.ラッパを吹き鳴らす日(23-25)

それでは23節から25節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物をにささげなさい。」

秋の祭りは、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合から始まります。このラッパを吹き鳴らす日とはいつのことを指しているのでしょうか。ラッパは、大抵、雄羊の角で作られていましたが、それはイスラエルの民が一箇所に集まったり、荒野の旅において出発したり、あるいは戦争を始めたりした時に吹き鳴らされました。しかし、ここで最も重要なことは、これが世の終わりに吹き鳴らされるラッパであるということです。ヨエル2章1~3節をご覧ください。

「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。」(ヨエル2章1節-3節)

これは世の終わりを預言したヨエルの預言です。それは「主の日」という言葉で表されています。その日が近い・・・と。それはやみと、暗黒の日、雲と、暗やみの日です。これから後にこのようなことは起こりません。これからのがれるものは何一つないのです。それは世の終わりの神のさばきの日だからです。その日が来る時、角笛を吹き鳴らさなければならないのです。

これは明らかにテサロニケ人への手紙にある「最後のラッパ」とつながりがあります。Ⅰテサロニケ4章16-17には、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。つまり、これはキリストの『空中再臨』(携挙)という出来事において成就することなのです。

また、Ⅰコリント15章51-52節には、「復活(終わり)のラッパ」について語られています。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」終わりのラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

また、これは、エリコ陥落の際に吹かれた角笛と同じです。ヨシュア6章3~4節には、「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」とあります。

この時吹かれた角笛(ラッパ)は、後に起こることの『影』でした。本体は、黙示録11:15にあります。「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

「そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。」(ヨシュア6:20)

民がラッパを吹き鳴らしたとき、城壁が崩れ落ちたように、神の御使いがラッパを吹き鳴らすと、空中の権威を持つ支配者(エペソ2:1)、暗やみの世界の支配者たち(エペソ6:12)の陥落し、この世の国はキリストのものとなるのです。

ですから、このラッパは、キリストが花婿として花嫁(教会)を迎えに来る時(空中再臨)に、「いってらっしゃい。/今、迎えに出ましたよ。」の合図として、花婿の父(御父)が吹くラッパなのです。Ⅰテサロニケ4:16のラッパは、まだ『携挙』は起きてないのでまだ吹かれていませんが、その日が刻一刻と近づいています。私たちはみな、いつこの角笛が、ラッパが鳴ってもいいように、準備していなければなりません。

2.贖罪の日(26-32)

次に、贖罪の日についてみていきたいと思います。26節から32節をご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。 「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物をにささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。」

第七の月の十日は大祭司が年に一度、至聖所に入って務めを果たす特別な日です。それは「贖罪の日」(ヨム・キプール)と呼ばれています。この贖罪の日については、すでに16章で学びました。最初に大祭司が自分の罪のためのいけにえとして雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをします。次にアロンは二頭の山羊を取り、一頭は主のため、もう一頭はアザゼルのためとし、主のためのやぎはほふられて、雄牛と同じようにその血を至聖所に携えて行き、イスラエルの罪の贖いとして贖いのふたに注がれました。大祭司はいけにえの雄牛とやぎを順番に殺し、それぞれの血を持って神殿の一番奥の至聖所に入り、モーゼの十戒が納められていた聖なる箱の上の「贖いのふた」の上に七回ずつ振りかけます。最後に大祭司は身代わりのやぎの頭に手を置いて全ユダヤ人の罪を告白します。身代わりのやぎは荒野へ放されます。これが「スケープゴート」の語源です。

いったいこれは何を表していたのでしょうか。これは私たちの罪が天の御座において永遠に赦されていることを示すものです。この箇所では、「身を戒める」ことが強調されています。これは断食のことです。主から罪の赦しと清めをいただくために、彼らは自分の罪を深く悔い改めることが求められました。それを断食という形で表したのです。また、この日にはいっさいの仕事をしてはいけませんでした。これは、キリストの救いの完成を表しているからです。救われるために私たちが行なうべきことは何一つありません。それを全き安息によって表しているのです。

それにしても、なぜ雄牛の血と山羊の血が流されなければならなかったのでしょうか?出エジプト記12章の過ぎ越しにおいて用いられたものは一歳の雄の羊でした。しかも全く傷のない・・。しかし、ここでは羊ではなく雄牛であり、雄やぎです。なぜ羊ではなかったのでしょうか。へブル9章7節を見てみましょう。ここには、『第二の幕屋 [至聖所] には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪(burut)のためにささげるものです。』とあります。キリストの血は私たちのすべての罪を洗い流します。自分で知っている罪も知らないで犯した罪もです。

調べてみると、ヘブライ語では罪を表す単語が三つあります。一つは“ペシャ(pesha)”で、もう一つは“ケット(chet)”、そして三番目は“ブルット(burut)”です。ペシャは、ギリシア語でこれに相当する言葉は“ハマルティア(hamartema)”です。意味は的外れです。それに対し“ケットは、“行き過ぎる”という意味です。つまり、罪の行為を表しています。それに対して“ブルット(burut)”は、知らずに犯した罪”を表しています。そしてこのへブル9章7節の「民が知らずに犯した罪」ということばは、このブルット(burut)が使われているのです。つまり、大祭司が年に一度だけ至聖所に入り罪の贖いをしたのは、知っていながら犯した罪と、知らずに犯してしまった罪のすべてのためであったということです。もちろん、子羊の血が流されたことによって、その血を受け、それをかもいと門柱に塗られているということの前提(救われる前の罪が赦されたということ)があってのことですが・・・。ですから、子羊の血、雄牛の血、雄山の血はそれぞれ、私たちの罪のすべてが神の前に洗い聖められたことを表しているのです。イエスの血はその両方の罪をも私たちを神から遠ざけ、てくださいました。イエスの血はすべてのものに有効なのです。このために子羊の血と山羊の血がささげられなければならなかったのです。こうして贖罪の日には、キリストの血が私たちのすべての罪を清めてくれたことを表しているのです。ちなみに、雄牛の血がささげられたのは、強いものが弱いもののために死ぬことを表していました。

そしてこれはイスラエルの救いだけでなく、キリストの再臨と大きく関係があります。救われていない人たちに子羊の血について知らせる必要があるのは事実です。しかし山羊の血についても同様に知らせなければなりません。私たちはみな山羊の血も必要としています。イエスの血は犯したすべての罪だけでなく、知らずに犯したすべての罪からも私たちをきよめてくださるのです。イエスの再臨に備えるために、ただ未信者が悔い改める必要があるというだけでなく、私たちも悔い改める必要があるのです。

3.仮庵の祭り(33-44)

最後に仮庵の祭りを見ていきたいと思います。

「ついではモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたるの仮庵の祭りが始まる。最初の日は聖なる会合であって、あなたがたは、労働の仕事はいっさいしてはならない。七日間、あなたがたは火によるささげ物をにささげなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは火によるささげ物をにささげる。これはきよめの集会で、労働の仕事はいっさいしてはならない。以上がの例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、火によるささげ物、すなわち全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、注ぎのささげ物を、それぞれ定められた日に、にささげなければならない。このほか、の安息日、また、あなたがたがにささげる献上物、あらゆる誓願のささげ物、進んでささげるあらゆるささげ物がある。特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたるの祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、の前で喜ぶ。年に七日間、の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、である。」こうしてモーセはイスラエル人にの例祭について告げた。について次に9-14節をご覧ください。ここには、初穂の祭りについて記されてあります。」

仮庵の祭りは、43節にあるように、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出しました。それは同時に、人は肉体という「仮庵」に70~90年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える時でもあります。

また、仮庵の祭りは、主イエスが地上に来られた事を象徴する祭りでもあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネによる福音書1章14節)

この「住まわれた」は、「仮庵となられた」ということを意味します。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事により、神と人との和解をもたらされました。ですから、仮庵の祭りは、和解の祭りでもあります。神と人、ユダヤ人と異邦人の和解を祈り願うことも大切です。

そればかりではなく、仮庵の祭りは、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもあります。救いの完成の型でもあるのです。ヨハネの黙示録21章3節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、…」 とあります。

この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難時代の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々が仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに代表を送るとあります。(ゼカリヤ書14章16節)つまり、仮庵の祭りとは、再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。

神様は旧約の時代から、繰り返し、繰り返し、様々な方法で終わりの時代の事を示してくださっています。エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことから始まり、この地で歩まれたキリスト、そして千年王国の到来の喜び。すべてがつながっています。そのすべての喜びを、この祭りによって祝うのです。それが40節にある内容です。この仮庵の祭りが、春の過越の祭りから始まる一連の主の例祭の締めくくりとなるのです。

ところで、イエス様は、この仮庵の祭りの最終日に、有名な言葉を言われました。ヨハネ7章37節~39節です。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(37-39節)

この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りの終わりの多いなる日にというのは、この祭りの終わりの日の最高潮に達する日、祭りが最も盛大な時に、イエス様はこういわれたのです。この祭りの終わりの日にはどんなことが行われたのでしょうか。この日には「水取りの儀式」というのがあったようです。イスラエルの民が荒野で40年間放浪の旅をしたとき、神がにがい水を甘い水に変えてくださったことや、モーセをとおして岩から水を出してくださった出来事を思い出しながら、かつて神が神の民の渇きをいやしてくださったことを思い起こし、そのことに感謝しながら、神の救いの完成を待ち望みながら、大祭司がきれいな祭服を着て金の柄杓をもってシロアムの池から汲んだ水を神殿に向かって運びました。行列になって・・・。イエスはそれを群集とご覧になりながら、「聖書のことばにあるように」とあるように、旧約聖書のある歌を引用してこう言ったのです。そのことばとは、イザヤ書イザヤ12章3節のみことばです。そこには、こう歌われています。「あなたがたは喜びながら、救いの泉(井戸の水)から水を汲む。その日あなたがたは言う。主に感謝せよ。・・」有名な「マイム・マイム」の歌です。キリストはこの「水を捧げる祭り」と、「生ける水の川」とを重ね合わせながら、真の生ける水は、後に与えられる聖霊であると証されたのです。 この水を捧げる祭りについては、大変な歓喜が伴ったようで、ユダヤ教の口伝律法の一つであるミシュナーにも「水を汲み出すこの祭りを見ていない者は、人生の喜びを知らない者である。」と述べているほどです。この仮庵の祭りの中で行われる行事は別名「シムハット・ベイト・ハ・ショエイヴァー」(水を汲み出す場所での喜び)とも言われています。(Wikipedia “Simchat Beit HaShoeivah”より引用)

これは千年王国の時に、御霊がこの地上に豊かに注がれることを預言しています。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ44:3)」御霊が注がれると、荒地が潤いを取り戻すという約束ですが、イエス様はこの約束を御霊の初穂である、私たち信じる者に対して与えておられます。

終わりの日には主がこの地に御霊を注がれ、この地を回復されますが、その前に私たちの心の奥底に、生ける水の川として、その潤いをほとばしる形で与えてくださると約束しておられるのです。私たちが心の中に与えておられる祝福を、私たちは後の世では全世界的に見ることができるようになるのです。私たちはその日がやってくることを信じ、それを待ち望む者でありたいと思います。

レビ記23章1~22節

きょうはレビ記23章後半部分からお話します。23章には、イスラエルが守るべき主の例祭について教えられています。全部で七つあります。それは、過ぎ越しの祭り、種を入れないパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭り(ペンテコステ)、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。前回はこのうち最初の四つの祭りについて学びました。これらはいったい何を表していたのでしょうか。

過ぎ越しはキリストの十字架の贖いを表していました。また、種なしパンの祭りは罪なきキリストご自身、あるいは、キリストによって罪が取り除かれたことの感謝を、初穂の祭りは復活の初穂としてのキリストです。そして七週の祭り、五旬節は聖霊降臨でした。それらはすべて春の収穫を祝う祭りですが、キリストがこの歴史に現れたことによってすでに成就した出来事です。

コロサイ2章16~17節には、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」とありますが、これらの祭りはすべてイエス・キリストを指し示すものであって、次に来るものの影だったのです。

そしてきょうは残りの三つの祭りについて学びます。すなわち、ラッパを吹き鳴らす聖なる会合、贖罪の日、仮庵の祭りです。先の四つの祭りは春の収穫を祝う祭りであったのに対して、残りの三つの祭りは秋の収穫を祝う祭り、秋の祭りです。それは「第七の月」つまり九月から十月にかけて行われる祭りなのです。そして、春の祭りがキリストが初めに来られた時に成就した出来事を示していたのに対して、この秋の祭りはキリストが再び来られる時に成就する出来事を示しています。ですから、私たちは今、ちょうどその中間地点にいるわけです。その間主は農夫と同じように、秋の収穫のために実が結ぶのをじっと待っておられます。そして、実が結ぶようにと、細心の注意を払って作物を育てておられるのです。私たちは、キリストが戻って来られる日に備えて、自分の生活において実を結んでいるかどうかを吟味し、主がいつ戻って来られてもいいようによく備えておかなければなりません。

1.ラッパを吹き鳴らす日(23-25)

それでは23節から25節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物をにささげなさい。」

秋の祭りは、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合から始まります。このラッパを吹き鳴らす日とはいつのことを指しているのでしょうか。ラッパは、大抵、雄羊の角で作られていましたが、それはイスラエルの民が一箇所に集まったり、荒野の旅において出発したり、あるいは戦争を始めたりした時に吹き鳴らされました。しかし、ここで最も重要なことは、これが世の終わりに吹き鳴らされるラッパであるということです。ヨエル2章1~3節をご覧ください。

「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。」(ヨエル2章1節-3節)

これは世の終わりを預言したヨエルの預言です。それは「主の日」という言葉で表されています。その日が近い・・・と。それはやみと、暗黒の日、雲と、暗やみの日です。これから後にこのようなことは起こりません。これからのがれるものは何一つないのです。それは世の終わりの神のさばきの日だからです。その日が来る時、角笛を吹き鳴らさなければならないのです。

これは明らかにテサロニケ人への手紙にある「最後のラッパ」とつながりがあります。Ⅰテサロニケ4章16-17には、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。つまり、これはキリストの『空中再臨』(携挙)という出来事において成就することなのです。

また、Ⅰコリント15章51-52節には、「復活(終わり)のラッパ」について語られています。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」終わりのラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

また、これは、エリコ陥落の際に吹かれた角笛と同じです。ヨシュア6章3~4節には、「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」とあります。

この時吹かれた角笛(ラッパ)は、後に起こることの『影』でした。本体は、黙示録11:15にあります。「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

「そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。」(ヨシュア6:20)

民がラッパを吹き鳴らしたとき、城壁が崩れ落ちたように、神の御使いがラッパを吹き鳴らすと、空中の権威を持つ支配者(エペソ2:1)、暗やみの世界の支配者たち(エペソ6:12)の陥落し、この世の国はキリストのものとなるのです。

ですから、このラッパは、キリストが花婿として花嫁(教会)を迎えに来る時(空中再臨)に、「いってらっしゃい。/今、迎えに出ましたよ。」の合図として、花婿の父(御父)が吹くラッパなのです。Ⅰテサロニケ4:16のラッパは、まだ『携挙』は起きてないのでまだ吹かれていませんが、その日が刻一刻と近づいています。私たちはみな、いつこの角笛が、ラッパが鳴ってもいいように、準備していなければなりません。

2.贖罪の日(26-32)

次に、贖罪の日についてみていきたいと思います。26節から32節をご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。 「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物をにささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。」

第七の月の十日は大祭司が年に一度、至聖所に入って務めを果たす特別な日です。それは「贖罪の日」(ヨム・キプール)と呼ばれています。この贖罪の日については、すでに16章で学びました。最初に大祭司が自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをします。次に二頭の山羊についてくじ引きをして一頭を神へのいけにえとし、もう一頭は身代わりの役目にします。次に大祭司はいけにえの雄牛とやぎを順番に殺し、それぞれの血を持って神殿の一番奥の至聖所に入り、モーゼの十戒が納められていた聖なる箱の上の「贖いのふた」の上に七回ずつ振りかけます。最後に大祭司は身代わりのやぎの頭に手を置いて全ユダヤ人の罪を告白します。身代わりのやぎは荒野へ放されます。これが「スケープゴート」の語源です。

これは、天の御座において私たちの罪が永遠に赦されていることを示すものです。この箇所では、「身を戒める」ことが強調されています。これは断食のことです。主から罪の赦しと清めをいただくために、彼らは自分の罪を深く悔い改めることが求められました。それを断食という形で表したのです。また、この日にはいっさいの仕事をしてはいけませんでした。これは、キリストの救いの完成を表しているからです。救われるために私たちが行なうべきことは何一つありません。それを全き安息によって表しているのです。それにしても、なぜ山羊の血が流されなければならなかったのでしょうか?レビ的ないけにえの制度のすべてはイエスの流された血に象徴的な意味があり、主のいけにえの異なった側面を表しています。たとえば、小鳥(鳩)がささげられるときには、流れる水の中でほふられなければなりませんでしたが、それは血によって洗われることを象徴していましたし、また、雄牛の血がささげられたのは、強いものが弱いもののために死ぬことを表していました。汚れのない子羊は、罪やしみや傷の名に一つない神の子羊を表していました。では山羊にはどんな意味があったのでしょうか。

調べてみると、ヘブライ語では罪を表す単語が二つあります。一つは“ペシャ(pesha)”で、もう一つは“ケット(chet)”です。ペシャは、ギリシア語でこれに相当する言葉は“ハマルティア(hamartema)”です。意味は的をはずれです。それに対し“ケットは、“行き過ぎる”という意味です。3番目のヘブライ語の単語は“ブルット(burut)”といい、“知らずに犯した罪”という意味です。へブル9章7節を見てみましょう。ここには、『第二の幕屋 [至聖所] には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪(burut)のためにささげるものです。』とあります。キリストの血は私たちのすべての罪を洗い流します。子羊の血はすべきではないことを犯した罪、山羊の血はすべきことをしなかった罪に関係があります。子羊の血はどちらかというと主に救われる前にしたことと関係があり、山羊の血は救われた後――より正確に言うなら、知らずに犯した罪と関係があります。そのどちらの罪も私たちを神から遠ざけ、イエスが死ななければならなかった罪なのです。すべてがイエスの血についてですが、イエスの血はすべてのものに有効です。このために子羊の血と山羊の血がささげられなければならなかったのです。こうして贖罪の日には、キリストの血が私たちのすべての罪を清めてくれたことを表しているのです。

この贖罪はイスラエルの救いだけでなく、キリストの再臨と大きく関係があります。救われていない人たちに子羊の血について知らせる必要があるのは事実です。しかし山羊の血についても同様に知らせなければなりません。私たちはみな山羊の血も必要としています。イエスの血は犯したすべての罪だけでなく、知らずに犯したすべての罪からも私たちをきよめてくださるのです。イエスの再臨に備えるために、ただ未信者が悔い改める必要があるというだけでなく、私たちも悔い改める必要があるのです。

3.仮庵の祭り(33-44)

最後に仮庵の祭りを見ていきたいと思います。

「ついではモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたるの仮庵の祭りが始まる。最初の日は聖なる会合であって、あなたがたは、労働の仕事はいっさいしてはならない。七日間、あなたがたは火によるささげ物をにささげなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは火によるささげ物をにささげる。これはきよめの集会で、労働の仕事はいっさいしてはならない。以上がの例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、火によるささげ物、すなわち全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、注ぎのささげ物を、それぞれ定められた日に、にささげなければならない。このほか、の安息日、また、あなたがたがにささげる献上物、あらゆる誓願のささげ物、進んでささげるあらゆるささげ物がある。特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたるの祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、の前で喜ぶ。年に七日間、の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、である。」こうしてモーセはイスラエル人にの例祭について告げた。について次に9-14節をご覧ください。ここには、初穂の祭りについて記されてあります。」

仮庵の祭りは、43節にあるように、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出しました。それは同時に、人は肉体という「仮庵」に70~90年間住むだけの存在であり、主の恵みなしには生きていくことはできないということを覚える時でもあります。 また、仮庵の祭りは、主イエスが地上に来られた事を象徴する祭りでもあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネによる福音書1章14節)この「住まわれた」は、「仮庵となられた」ということを意味します。神はメシアであるイエスを地上に送って下さる事により、神と人との和解をもたらされました。ですから、仮庵の祭りは、和解の祭りでもあります。神と人、ユダヤ人と異邦人の和解を祈り願うことも大切です。

そればかりではなく、仮庵の祭りは、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもあります。救いの完成の型でもあるのです。ヨハネの黙示録21章3節には 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、…」 とあります。

この「神の幕屋」とは仮庵のことです。終わりの時、艱難の期間の後にキリストが統治される千年王国が来ますが、その時、全世界の人々が仮庵の祭りを祝うために、エルサレムに代表を送るとあります。(ゼカリヤ書14章16節)つまり、仮庵の祭りとは、再臨を指し示す重要な鍵となっているのです。

神様は旧約の時代から、繰り返し、繰り返し、様々な方法で終わりの時代の事を示してくださっています。エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことから始まり、この地で歩まれたキリスト、そして千年王国の到来の喜び。すべてがつながっています。そのすべての喜びを、この祭りによって祝うのです。それが40節にある内容です。この仮庵の祭りが、春の過越の祭りから始まる一連の主の例祭の締めくくりとなるのです。

ところで、イエス様は、この仮庵の祭りの最終日に、有名な言葉を言われました。ヨハネ7章37節~39節です。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(37-39節)

この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りの終わりの多いなる日にというのは、この祭りの終わりの日の最高潮に達する日、祭りが最も盛大な時に、イエス様はこういわれたのです。この祭りの終わりの日にはどんなことが行われたのでしょうか。この日には「水取りの儀式」というのがあったようです。イスラエルの民が荒野で40年間放浪の旅をしたとき、神がにがい水を甘い水に変えてくださったことや、モーセをとおして岩から水を出してくださった出来事を思い出しながら、かつて神が神の民の渇きをいやしてくださったことを思い起こし、そのことに感謝しながら、神の救いの完成を待ち望みながら、大祭司がきれいな祭服を着て金の柄杓をもってシロアムの池から汲んだ水を神殿に向かって運びました。行列になって・・・。イエスはそれを群集とご覧になりながら、「聖書のことばにあるように」とあるように、旧約聖書のある歌を引用してこう言ったのです。そのことばとは、イザヤ書イザヤ12章3節のみことばです。そこには、こう歌われています。「あなたがたは喜びながら、救いの泉(井戸の水)から水を汲む。その日あなたがたは言う。主に感謝せよ。・・」有名な「マイム・マイム」の歌です。キリストはこの「水を捧げる祭り」と、「生ける水の川」とを重ね合わせながら、真の生ける水は、後に与えられる聖霊であると証されたのです。

この水を捧げる祭りについては、大変な歓喜が伴ったようで、ユダヤ教の口伝律法の一つであるミシュナーにも「水を汲み出すこの祭りを見ていない者は、人生の喜びを知らない者である。」と述べているほどです。この仮庵の祭りの中で行われる行事は別名「シムハット・ベイト・ハ・ショエイヴァー」(水を汲み出す場所での喜び)とも言われています。(Wikipedia “Simchat Beit HaShoeivah”より引用)

これは千年王国の時に、御霊がこの地上に豊かに注がれることを預言しています。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ44:3)」御霊が注がれると、荒地が潤いを取り戻すという約束ですが、イエス様はこの約束を御霊の初穂である、私たち信じる者に対して与えておられます。

終わりの日には主がこの地に御霊を注がれ、この地を回復されますが、その前に私たちの心の奥底に、生ける水の川として、その潤いをほとばしる形で与えてくださると約束しておられるのです。私たちが心の中に与えておられる祝福を、私たちは後の世では全世界的に見ることができるようになるのです。私たちはその日がやってくることを信じ、それを待ち望む者でありたいと思います。

レビ記22章

レビ記22章

きょうはレビ記22章から学びます。21章では神に祭司に対して汚れから遠ざかるようにと教えられていましたが、きょうのところはその続きです。ここには祭司が汚れたままでささげ物に近づいてはならないことが教えられています。まず1~9節までを読みましょう。

1..聖なるささげ物(1-9)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるもとのすべきものである。わたしはである。彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人がのために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしはである。アロンの子孫のうち、ツァラアトの者、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしはである。彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別するである。」

21章に続きアロンとその子ら、すなわち祭司たちに語られています。先週もお話したように、この祭司というのは私たちクリスチャンのことでもあります(Ⅰペテロ2:9)。その祭司に対してどんなことが言われているでしょうか。2節には、「イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。」とあります。どういうことですか?祭司が汚れたままでささげ物に近づいてはならないというのです。具体的には3節の内容です。汚れたままで聖なるものに近づいてはならないということです。「聖なるもの」とは、主にささげられた聖なるささげもののことです。そのささげものに汚れたまま近づいてはいれないということです。その汚れとは具体的にどのようなものなのかが4節~8節にあります。すなわち、ツァラートの者、漏出のある者、死体によって汚された者に触れる者、精を漏らす者、人を汚す、群生するものに触れる者、どのようなものでも、人を汚れさせる人にふれる者です。覚えていますか、ツァラートや漏出のある者は隔離され、宿営の中に入ることができませんでした。祭司がツァラートにかかったり、漏出を持ったりすることがあります。そのとき、彼は汚れているので、ささげ物の分け前をもらうことができませんでした。そのようなものに触れる者は、夕方まで汚れるとされていたからです。そのような者は、からだに水をあびなければなりませんでした。水をあびてきめられた後で食べることができたのです。

しかし、日が沈めば、彼はきよくなり、聖なるものを食べることができました。つまり、次の日には食べることができたということです。どういうことでしょうか。私たちは、この祭司たちと同じように、日々きよめられる必要があるということです。日常生活を歩んでいくなかで、汚れたものにふれてしまうことがあります。というか、そういうことは日常茶飯事です。世の汚れにふれてしまうことがよくあるのです。すなわち、汚れた思い、陰口、うわさ話、嘘、偽り、無神経な態度等、そういうことは日常茶飯事に行なわれていて、それに振り回されたり、影響されてしまう場合があるのです。そういうものが私たちの中にこと頭の中に入ってくるのです。そのような汚れを、その日のうちにきよめていただかなければなりません。次の日にまで持ち越してはならないのです。神は一日という単位を大切にしておられます。その日の汚れをその日のうちにきよめていただき、次の日には新しい一日を始めなければなりません。

エペソ4:26には、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけまん。」とあります。どういう意味でしょうか。怒りという感情は神が人間に与えてくださったものですからある意味で自然なものですが、それをいつまでも正当化していると悪魔に機会を与えてしまうことになるということです。人の怒りは神の義を全うするものではありません(ヤコブ1:20)。ですから、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなければなりません。そうした汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばをすなおに受け入れるようにしなければならないのです。だから、日が暮れるまで行き取っていてはならないのです。憤ることもありますが、それをその日のうちに解決しなければなりません。怒りは神の義を全うしないからです。

怒りは火山のマグマのようなものです。それは意識しなくても表に現わさなくても心の内の深いところに燃えたぎっています。機会があれば大爆発しますが普段からふつふつと火の玉となって不平不満となって周りに当たり散らしています。ですからいつも心の内を神様に探って頂きマグマを取り除かないと、いつか、突然にして大爆発してしまうことがあるのです。ついつい不平不満を周りに愚痴っていたり、当たり散らしたりして、トラブルメーカーのような人もいますが、あなたが気に入らないそのような人も、あなたが苦手な人も神様の造られた愛する人達なのです。互いに赦し合わなければなりません。マグマを取り除いて隣人を愛する事は自分の力や努力では出来ませんが、それができるようにと、キリストが十字架にかかって死んでくださいました。キリストが十字架につけられたのは、敵意を廃棄して、平和をもたらすためです。

「実にキリストは私達の平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意と言う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」エペ2:14。

ですから、私たちはこの方にあって自分が赦され、他の人も赦すことができます。その日のうちに怒りや憤りといったあらゆる悪を捨て去ることができるのです

そのような汚れを、次の日にまで持ち越すことはよくありません。一日の終わりに、神のみことばを読み、罪を告白してきよめていただき、次の日を出発させなければなりません。そうしなければ、ここで書かれているとおり、神のパンを食べることができない、つまりイエスさまとの交わりを持つことができなくなってしまいます。もちろん、私たちは、罪に定められることはありません。神の前に、キリストにあってきよく、傷のない者とされました。けれども、主との交わりがでできなくなってしまう、そのことによってもたらされる喜びを持つことができなくなってしまうのです。ですから、日々きよめていただく必要があるのです。

そうすれば、罪を負って死ぬことはありません。逆に罪の中で生き続けるなら、死ぬ可能性があります。これはクリスチャンへの警告でしょう。罪の中で生き続けるようなことがあれば、死んでしまうこともあるのです。クリスチャンであるということは、日々のきよめがある人であり、ないのであれば、その人はもはやクリスチャンとは呼ばれなくなってしまうこともあるのです。キリスト教信仰の本質は、この悔い改めにあるというのはそういうことです。どんなに罪深い者でもその罪を悔い改めるなら主は赦してくださいますが、自分がきよめられたと過信して悔い改めることをしないなら、死んでしまうこともあるのです。

2.一般の者は食べてはならない(10-16)

次に、10~16節までをご覧ください。

「一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。祭司の娘が一般の人と結婚したなら、彼女は聖なる奉納物を食べてはならない。祭司の娘がやもめ、あるいは離縁された者となり、子どももなく、娘のときのように再びその父の家に戻っていれば、その父の食物を食べることができる。しかし、一般の者はだれも、それを食べてはならない。だれかが、あやまって聖なるものを食べるなら、それにその五分の一を足して、その聖なるものを祭司に渡す。イスラエル人に、そのに奉納する聖なるものを汚し、聖なるものを食べて、その罪過の咎を負うようにさせてはならない。わたしは彼らを聖別するだからである。」

これはどういうことでしょうか。祭司に分けられたささげものの肉やパン、穀物といったものを、一般の者はだれも食べてはいけませんでした。祭司と同居している雇い人もです。しかし、祭司に金で買われた者、つまり奴隷は食べることができました。また、その家で生まれたしもべも、食べることができました。

これは、キリストにある神の祭司にならないかぎり、ささげものを食することはできないということです。それは神との交わりを表していますので、キリストを信じて祭司にならなければ、神との交わりを楽しむことはできない、ということです。クリスチャンらしく、ふるまうことはできるでしょう。けれども、同居しているだけでは食べることができないのです。しかし、金で買われた人(奴隷)は食べることができました。彼は贖われたからです。私たちは買い取られることによって、主との交わりにあずかることができるのです。自分がどんなにみじめで、神の祝福にあずかるには到底できないような存在であっても、主イエス・キリストが流された血の代価を受け入れるならば、その交わりにあずかることができるのです。それは私たちが一生懸命にきよい生き方をしてもかなわないことですが、キリストの血潮によって買い取られた、と信じるなら食べることができるのです。そして、自分はもはや神のものであり、自分自身のものではない、と信じることによって、神の祝福のすべてを受け取ることができるのです。

祭司の娘でも、一般の人と結婚したら、聖なる物は食べることはできません。これはどういうことかというと、祭司以外の人との結婚、すなわち、異邦人と結婚することを指しています。それは神が忌み嫌われることです。神の祭司に求められていることは聖であること、すなわち、この世と分離することですから、それがなされなければ神の祭司ではなくなってしまうのです。その結果、神との交わり、キリストのいのちにあずかることができなくなってしまうのです。しかし、離婚されて、子どもがいなければ、父の家に戻ることができます。一般の人との交わりから解かれるからです。それは汚れからの解放を意味していました。

しかし、一般の人はだれも、それを食べてはいけませんでした。もしだれかが、あやまって食べてしまったらどうなるでしょうか。それに五分の一をプラスして祭司に渡さなければなりませんでした。あやまってだれかに害を与えてしまったとき、それに等しい償いをすればよいというのではなく、それに五分一をプラスしなければなりません。それは物理的な被害以上に、大きな損傷を与えてしまったからです。その償いとして、害を与えた額よりも、さらに五分の一を加えられた額で償わなければならなかったのです。

3.主へのささげもの(17~25)

次に17~25節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえをにささげるなら、あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れないからである。また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえをにささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。盲目のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものをにささげてはならない。また、これらのものをへの火によるささげ物として祭壇の上にささげてはならない。牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕かれたもの、裂かれたもの、切り取られたものをにささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。」

ここで再び祭司からすべてのイスラエル人に対して語られます。イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人が主にささげものをささげる時に、主が受け入れられるためにはどうしなければならないかについてです。そして、それが全焼のいけにえの場合、牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければなりませんでした。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならなかったのです。それは、ささげ物も、神ご自身を現わしていたからです。あるいは、神への供え物であるイエス・キリストを表していたからです。完全な方には、完全ないけにえが要求されるのです。それは和解のいけにえも同じです(21)。

私たちは、神に受け入れられるためにあらゆる努力をします。しかし、それらがみな不完全であることは百も承知です。私たちは、完全な方には、完全ないけにえをささげなければなりません。つまり、イエス・キリストにつながれた自分を見ること以外に、神に受け入れられることはできないのです。キリストに結びつけられた自分を主の御前にささげるときに、初めて主は、私たちを受け入れてくださるのです。主の御前に、ありのままの自分で出てきてください。これが、本当の献身です。

2 5節には、何かこのようなものを受けて、神のパンとしてささげてはならない、「何かこのようなものを受けて」とは、欠陥のあるものを受けてということです。外国人は、イスラエル人に与えられた律法など知りませんから、平気で欠陥のある動物をささげてしまう危険性がありました。相手は善意でしてくれること、与えてくれるものがありますが、私たちは、それをそのまま受け入れることはできないのです。

4.主への感謝のいけにえ(26~33)

最後に26~33節までをご覧ください。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておく。八日目以後、それはへの火によるささげ物として受け入れられる。しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしはである。あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行え。わたしはである。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別したである。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、で ある。」

ここには、牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておかなければならない、とあります。八日目以後、それらは主への火によるささげ物として受け入れました。なぜでしょうか?それは、この赤ん坊が乳離れをするためです。母親から赤ん坊を奪い取るようなことはしていけません。神は、動物にさえ、あわれみを示しておられるのです。私たちの生きている世界は、合理化、効率化が進んで、このように弱いものに対する配慮を無視して、突き進んでいます。この前の学びでもそうですが、貧しい者たちをしいたげる者は、格別のさばきを受けます。今の日本は、そのような社会ではないでしょうか。

28節には、「しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。」とあります。ここにも、神の動物にたいするあわれみがあります。母親と同じ日にほふってはいけません。そんなことをしたら母親がどんなに悲しむことでしょう。

29節には、主に感謝のいけにえをささげるときは、どのようにささげなければならないかが語られています。それは「あなたがたが受け入れられるように」です。これは「自ら進んで」と訳すことができます。つまり、感謝のいけにえをささげるときには、自ら進んでささげなければならないということです。そうでなければ感謝になりません。

パウロも献金の教えの中で、「いやいやながらでなく、人から強いられてでもなく、自分で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)と言いました。だれから強いられたり、いやいやながらするのではなく、心で決めたとおりに、喜んでささげる。そのようないけにえこそ主に喜ばれるいけにえなのです。

「その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは主である。」

朝まで残すのは、次の日に食べ物がなくなるのでは、と思い煩うからです。けれども、こういうものはみな、異邦人が求めているものです。けれども、私たちの天の父は、それが私たちに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とを第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。私たちは、その日その日に与えられるマナで養われなければなりません。焦って明日の分も集める必要はありません。必要であれば神が二倍の祝福を与えてくださいます。そうでないと、せっかく集めたものも腐ってしまいます。心配や思い煩いも私たちの心を汚しますね。私たちは日々、主に拠り頼み、主から新しい力、恵み、あわれみを受けなければならないのです。

そして31節から33節にこうあります。

「あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行え。わたしはである。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別したである。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、である。」

ここには、私たちがなぜ、聖なる歩みをしなければならないのかの理由が記されてあります。それは主が私たちを聖別してくださったからです。主は私たちを罪のエジプトから連れ出してくださいました。ですから、私たちは私たちを罪から救い出してくださった方にならって聖でなければならないのです。私たちは贖われた者、自分が神のものである、という意識を持っていることが、こうした聖なる歩みを行う原動力となるのです。

レビ記21章

レビ記21章

きょうはレビ記21章から学びます。まず1~9節を見ていきたいと思います。

1.祭司の歩み(1-9)

「ついではモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。 姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷をつけてはならない。彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する、わたしが聖であるから。祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。」

レビ記の後半部分は17章から始まりますが、そこには神の民として聖められた者の歩みとはどのようなものなのかが教えられていますが、ここにはアロンの子である祭司に対して語られています。聖書で「祭司」というとき、それは民に代わって神にとりなしをする人のことです。また、神の恵みと祝福を人々に分かち合う仲介者でもあります。ですから、祭司とは神に仕える特権が与えられていた人たちです。

そして、聖書を見ると、私たちは神の祭司であると言われています。Iペテロ2:9に、そのように記されてあります。ですから、これは私たちクリスチャン一人一人に対して語られている教えであると言えるのです。その祭司に対して言われていることはどういうことでしょうか。1節には、「縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。」とあります。どういうことでしょうか。

新共同訳には、「親族の遺体に触れて身を汚してはならない。」とあります。このことはすでに11章でも語られていました。そこには、死体に触れる者は七日間汚れました(11:24)。そして再び聖くなるためには、聖めの儀式を経なければなりませんでした。なぜ祭司は死体に触れてはいけなかったのでしょうか。それは、「死」というのは罪によってもたらされたものだからです。罪によって死が入り込んだので、死んだ者にふれることは、罪にふれることを象徴していたからです。ですから、ここで祭司が死体にふれてはいけない、というのは、私たちキリスト者が、罪と関わってはいけない、罪から遠ざかりなさい、ということを教えているのです。それが外見の行ないだけではなく、内側の思いの中で、心の中でも、罪を犯してはいけない、そのような罪にふれてはいけません、と言うことです。

しかし、近親の者の死体には触れてもよいとされています。それは、神さまは、死者のために嘆き悲しむことを許されているからです。したがって、クリスチャンも、聖書的に、神さまのみこころにかなって、身内の死んだ人たちのために喪に服することはできるのです。しかし、そこに異教の影響が入ってはいけません。とかく喪に服するときに、異教はいろいろな儀式を持って来ることができるのです。

ですから、5節のところに、次のような戒めがあるのです。

「彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷をつけてはならない。」

どういうことでしょうか。これは死体を弔う異教的な慣習、ならわしでした。そうした風習にならってはいけないということです。日本でも、葬式は、「死者の霊への弔い」と考えられています。神を礼拝するのではなく、死んだ人を拝み、語りかけ、花をささげます。ですから、花であっても、それは神にささげられるものではなく、その死人に捧げるものとして考えられているのです。ここに、日本における葬式の難しさがあります。そういう異教的な風習を排除して、神を礼拝し、残された家族の慰めを祈るという本来の目的をどのように伝えるかは重要なことかと思います。

けれども、私たちが死んだ人のことを悲しむことは、何一つ悪いことではありません。もちろん、主イエスを信じて天国に入ったことは喜びではありますが、この地上での別れを悲しむということは当然のことであって、悪いことではないのです。死んだその人について思い出し、神がその人を通して行なってくださったことを思い出して、神を礼拝することは、感謝なことなのです。

祭司は、クリスチャンは、神に対して聖でなければなりません。死体に触れることによって身を汚したりして、自分の神の御名を汚してはならないのです。なぜでしょうか。その理由が6節に書かれてあります。それは、彼らは主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからです。

これはどういうことでしょうか。これは主との交わりのことです。この「神のパン」とは、穀物のパンも含めた神へのささげものことで、神がこれらのささげものを食されるわけです。それによって神との交わりを保つことができます。祭司が神にいけにえをささげることによって、聖なる神と一つになることを表しているのです。なのに、そこに罪が入ってきたとしたらどうでしょうか。神との交わりを保つことができなくなってしまいます。ですから、主との交わりを保ち、いつも主にある喜びと平安に満ち溢れた歩みをするためには、こうした汚れから離れていなければならないのです。

それは結婚についても同じです。7節には、「彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。」とあります。結婚とは、その相手と交わり、一つとなることです。したがって、汚れた相手と結婚すれば、自分も汚れてしまうことになります。ですから、そのような人と結婚してはいけない、と言われているのです。ここには「淫行で汚れた女」とか、「離婚された女」とありますが、これは神を恐れずに歩んでいる人のことです。そういう女をめとってはならない、そういう人と深い関わりを持ってはならないという意味です。

私たちは、結婚に限らず、深い関わりを持つ人たちを選ばなければいけません。すべての人と、深い交わりができるわけではないのです。

使徒パウロが言いました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(Ⅱコリント6:14-15)」

もちろん、私たちはすべての人に接して、愛していかなければいけません。私たちの主も、罪人たちと食事を取られ、またパリサイ人とも食事を取られました。けれども、主は、ご自分が選ばれた12人の弟子たちと特に深い関わりを持たれました。同じように、私たちも、深い関わりを、汚れていない人、神を恐れて歩んでいる人と持つべきなのです。

なぜでしょうか。同じ理由が7節後半と8節にこうあります。

「祭司は神に対して聖であるから。あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する、わたしが聖であるから。」

2.大祭司の歩み(10-15)

次に10~15節をご覧ください。

「兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならないどんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしはである。彼は処女である女をめとらなければならない。やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別するだからである。」

次に大祭司についての教えです。大祭司は民を代表して至聖所に入ることができた唯一の祭司です。祭司たちは、自分の近親の者であれば、そのために喪に服することができましたが、大祭司は父母のためにもその死体にふれることも許されませんでした。10節には、「その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。」とあります。髪を乱すとは髪をほどくことで、悲嘆の感情を表す行為ですが、大祭司にはこのような哀悼の表現も許されませんでした。また、家族の葬儀に参加するために、聖所から出ることも許されていなかったのです。

なぜでしょうか。12節にこうあります。「神の注ぎの油による記章を身につけているから」です。どういうことでしょうか。新共同訳では、「神の聖別の油を頭に注がれた者だからである。」と訳されています。つまり、大祭司には神の特別の油が注がれていたからです。一般の祭司と違い大祭司だけが至聖所の神の臨在に近づくことができました。大祭司こそ、神にもっとも近づいている者なのです。ゆえに、もっと聖くなければならなかったのです。

このことはどのようなことを意味しているのかというと、大きな特権に与る者には、大きな責任も伴うということです。大祭司は、神ご自身の栄光に近づき、神と交わるという特権にあずかっている分、自分の歩みもまた制限されるのです。
もちろん、この大祭司とはイエス・キリストのことを指し示しています。イエス様は私たちの大祭司です。その大祭司であるイエス様の歩みはどうだったでしょうか。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられました。これが私たちの模範としての姿です。イエス様のように罪や汚れから遠ざかり、神に喜ばれる歩みを求めていかなければなりません。私たちは、クリスチャンとしてすばらしい特権にあずかっているからです。それゆえ、私たちの歩みも、してはいけないことが増えてくるのです。これは否定的に考えるべきではありません。主との交わりを深めれば深めるほど、その関係は緊密になり、自分が何をしなければいけないかが、はっきりと見えてくると言ったらよいでしょう。例えば、独身のときには自由にふるまっていました。けれども、結婚することによって、自分が行なわなければいけない責任範囲がはっきりとして、そのガイドラインにのっとって歩むことに大きな喜びを持つことができます。何をすればよいかわからない、ではないのです。制限されることにある喜び、といいましょうか、律法的ではなく、賞を得るような競争選手のように、目的がはっきりした生き方であります。

それは結婚においても言えることです。大祭司は淫行で汚れている女や、離婚された女だけでなく、やもめをめとってもなりませんでした。ただ処女である女をめとらなければなりませんでした。それはなぜか?その子孫を汚すことがないためです。

3.身に欠陥のある祭司(16-24)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。目の見えない者、足のなえた者、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、あるいは足や手の折れた者、くる病、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別するだからである。」モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた。」

ここには、からだに欠陥がある祭司は奉仕をすることができない、とあります。どういうことでしょうか。これは障害者に対する差別では決してありません。ですから、22節には、「しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。」とあるのです。身に欠陥のある人でも、神のパンは、最も聖なるものでも食べることができました。これは神との交わりを表しているということを言いました。つまり、身に欠陥がある人でも神との親しい交わりを保つことができたのです。決して身体障害者の人が差別されているわけではないのです。そのような人たちも奉仕している人たちと同じように聖められていました。

 ではここで言われていることはどういうことなのでしょうか。これは死んだ者にふれるとか、淫行で汚れた者と結婚するというような、汚れを意味していました。ここでも同じです。神は完全な方であり、何一つ欠けたところのない方なので、この神と交わりを持つためにはそこに欠陥というものを持っていってはいけないということなのです。ですからそれは身障者が汚れているということではなく神がどのような方であり、その神に仕える者はどうあるべきなのかが教えられているのです。ですから、23節に、「ただし、垂れ幕のところに言ってはならない。」とあるように、そのように身体に障害を持っている祭司でも、他の祭司を補助し、日ごとの献げものの灰を取り除くなどの仕事をすることができたのです。

 神に仕える祭司には、神との交わりという大きな特権が与えられているがゆえに、そこにはこうした行動における制限も伴いますが、それは私たちの行動を規制するためではなく、私たちが主との交わりを深めその関係がもっと緊密になるために、何が神のみこころなのかを示しているガイドラインです。そのガイドラインにのっとって歩むことによって神との交わりをもっと深く保つことができることを覚え、神に喜ばれる歩みを求めていきたいと思います。

レビ記20章

1.  モレクに自分の子どもを与えるなら(1-5)

レビ記20章を学びます。まず1~5節までをお読みします。

「ついではモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。人がモレクにその子どもを与えるとき、もしこの国の人々が、ことさらに目をつぶり、彼を殺さなかったなら、わたし自身は、その人とその家族から顔をそむけ、彼と、彼にならモレクを慕って、淫行を行うみだらな者をすべて、その民の間から断つ。」

ここには、もしイスラエルがモレクに自分の子どもを与えるようなことをした場合どうなるかが教えられています。モレクとはアモン人とモアブ人の信じていた神々、偶像のことです。その特徴は自分の子どもをいけにえとしてささげるということでした。望まずに出来た子どもをどのように処理したらいいか。彼らはそれをモレクの偶像にささげたのです。それは当時の堕胎処理の方法であったわけです。そのように自分の子どもをモレクに与えるものはどうなるか?だれでも必ず殺されなければなりませんでした。石で打たれなければならなかったのです。それは異教的な習慣であり、神が忌み嫌われることだったからです。それは神の聖なる御名を汚すことでもありました。ですから、そのようなことをする者は、殺されなければならなかったのです。もし殺さなかったらどうなるでしょうか。神はその人その家族から顔をそむけ、彼にならいモレクを慕って淫行を行うみだらな者すべてを、その民の間から断たれました。

2.  霊媒や口寄せ(6-8)

次に6~8節をご覧ください。

「霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行う者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、であるからだ。あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行うであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする。である。」

霊媒と口寄せについては19章で学びました。「霊媒」とは、あたかも死者の声を取り次ぐように話すこと、「口寄せ」とは、未来のことを知ろうとすることです。つまり、神とか、キリストを介することなく霊の世界と交わることです。おがみやとか、占いやオカルト、超能力といった類のものです。これらはみな悪霊によるものであり、汚れたものです。もしそのようなところにおもむき、彼らを慕って淫行を行うようなことがあるとしたら、神はその者から顔を背け、その者をその民の間から断たれます。そのようにして自分の身を聖別しなければなりませんでした。

3.  両親への反抗(9)

9節にはこうあります。「だれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。」

つまり、両親への執拗な反抗は、死刑に値するということです。なぜなら、両親は神の代理者であったからです。自分の父と母を敬うことは、神の第一の戒めなのです(エペソ6:2)。

4.姦通(10-21)

次に、10~21節までをご覧ください。

「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。かれも彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。人がもし動物と寝れば、その者は必ず殺されなければならない。あなたがたはその動物も殺さなければならない。女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺さなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼らは断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、これを犯すなら、男は女の泉をあばき、女はその血の泉を現したのである。ふたりはその民の間から断たれる。母の姉妹や父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親を犯したのである。彼らは咎を負わなければならない。人がもし、自分のおばと寝るなら、おじをはずかしめることになる。彼らはその罪を負わなければならない。彼らは子を残さずに死ななければならない。人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた。彼らは子のない者となる。」

ここに記されてあることは、既に19章に出てきたことです。一言で言えば、性的な汚れです。10節には、「他人の妻と姦通するなら」どうなるか、11節には「父の妻と寝るなら」どうなるか、これは必ずしも自分の母親ということではなくその背後に一夫多妻制の背景があることは前に説明したとおりです。12節、息子の嫁と関係を持った場合、13節には、同性同士の関係について語られています。14節には女を母といっしょにめとることについて、15節と16節では動物と関係を持つこと、17節では姉妹の裸を見ることについて、18節では生理中の女性との性行為する場合、19節、20節では叔父、叔母と関係を持ったらどうなるか、そして、21節では自分の兄弟の妻をめとるようなことをしたらどうなるかについてです。そして、このようなことを行う者はすべて殺される、あるいは、イスラエルの共同体から断ち切られるとあります。問題は、こうした処罰が現代の私たちにも適用されるかということです。それはありません。

の福音書8章1~11節までを開いてください。ここには、姦淫の現場で捕らえられた女がイエス様のところに連れて来られたことが書かれてあります。律法では、このような女は石打にするようにと命じていました。そこで彼らは彼女をイエスのもとに連れて来て、イエスがどのように言うかをためそうとしたのです。もし石打にすべきであると言えば、何とあわれみのない者かと言われるでしょうし、かといって石打にする必要はないと言えば、律法に背くことを言ったと言って捕らえることができたからです。それでイエス様はどうされたかというと、しばらくの間身をかがめて、地面に何やら書いておられました。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、身を起こしてこう言われたのです。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そう言うと、もう一度身をかがめて、地面に書かれたのです。そして、だれも彼女に石を投げる人がいないのを見ると、女に言いました。「あの人たちはどこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めない。」

皆さん、イエス様は私たちを罪に定められません。なぜでしょうか。イエス様がその罪に対する刑罰を受けてくださったからです。この律法の要求は、イエス様が十字架に架かって死なれることによって実現したからです。律法の要求がどうでもいいということではないのです。律法は律法として、ちゃんと実行されなければなりません。そして、その律法によれば私たちは死刑なのです。しかし、キリストが代わりにその刑罰を受けてくださったので、私たちは受ける必要がなくなったのです。

ということは、私たちは何をしてもいいということなのでしょうか。そうではありません。その国、その国において定められた法律があります。神は不信者であってもそのような支配権を行使されることをお許しになられました。その法によってさばかれることはあるのです。

しかし、仮に法律に違反していないことであっても、神の恵みを侮り、あくまでも罪を犯し続けているようなことがあれば、神はご自身の民から断ち切られることがあるのです。(Ⅰコリント6:9-10,ガラテヤ5:19-21,エペソ5:3-6)ですから、もし私たちがこのような神のみこころにかなわず、神の定めに反するようなことをしているとしたら、その罪を悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じなければなりません。そうすれば、私たちのすべての罪は赦されるのです。イエス様が代わりに受けてくださったからです。また、イエス様を信じて罪を犯すようなことがあれば、というか、私たちは罪を犯さずには生きていけないような罪深い者ですから、その罪をいつも悔い改めなければなりません。あの律法学者やパリサイ人たちのように、イエス様から、「あなたがたの中で罪のない者から石を投げなさい」と言われたときに、石を置いて、一人また一人立ち去って行ったように、自分の罪深い心を見て、悔い改めなければならないのです。

5.えり分けられた民(22-27)

最後に22節から27節までを見て終わりたいと思います。

「あなたがたが、わたしのすべてのおきてと、すべての定めとを守り、これを行うなら、わたしがあなたがたを住まわせようと導き入れるその地は、あなたがたを吐き出さない。あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらすべてのことを行ったので、わたしは彼らをはなはだしくきらった。それゆえ、あなたがたに言った。『あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地を、あなたがたに与えて、所有させよう。わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、である。あなたがたは、きよい動物と汚れた動物、また、汚れた鳥ときよい鳥を区別するようになる。わたしがあなたがたのために汚れているとして区別した動物や鳥や地をはうすべてのものによって、あなたがた自身を忌むべきものとしてはならない。あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」

この時イスラエルはまだシナイ山にいたのでまだカナンの土地に定住していませんでしたが、これから入って行こうとしていたカナンの土地の風習に従って歩んではならないと命じられます。それはなぜでしょうか。それは、彼らがえり分けられた民だからです(24,26)。神は彼らを国々の民からえり分けられました。ですから、彼らはその土地の風習やならわしをまねるのではなく、彼らを贖ってくださった神である主の戒めを守り行わなければならなかったのです。

その最初は食物の規定でした(25)。きよい動物と汚れた動物を区別しなければなりませんでした。それはいったい何のためだったのかというと、イスラエルが他の民族と区別されていることを示すためでした。26節にあるように、それは彼らが聖なるものとなるためでした。彼らはもはや自分自身のものではなく、神のものとなりました。代価を払って買い取られました。ですから、神のものとなるために、自らを聖別しなければならなかったのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。Iコリント6:19-20には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価をもって買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」とあります。私たちは神のものとして、まず区別することが求められているのです。神の栄光のために、神が望んでおられることを行い、神のものとして生きることが求められているのです。