マタイ6章25~34節「まず神の国と神の義を求めなさい」

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主の2024年、明けましておめでとうございます。皆さんは、どのような思いで新年を迎えられたでしょうか。こうしてこの新しい年も主への賛美と礼拝をもって始めることができることを感謝します。
  毎年1年の始まりの時に、今年神様は教会にどんなことを願っておられるのかと祈り求めますが、しばらく前から私の中に与えられていたみことばが、マタイ6章33節のみことばでした。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
  今年は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めなさい、というテーマで歩みたいと願っています。でも、神の国と神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。このみことばはクリスチャンであれば1度は聞いたことがある有名なみことばですが、その意味を知っているかどうかは別です。今日は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めるということについて3つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神の国を第一に求めるとは(33)

まず、神の国を第一に求めるとはどういうことかについて考えてみたいと思います。皆さん、神の国を求めるとはどういうことですか?「神の国」とは「天国」とか、「御国」とも言われますが、昨年の賛美フェスタのテーマもこれでしたね。「御国がこの地に」でした。神の御国がこの地に来ますようにというテーマでした。それは何を意味しているかというと、「神の支配」のことです。神の支配がこの地にありますように、ということです。すなわち、神の国とは「神が支配するところ」のことです。ですから、もし私たちが心から神を信じ、神に従いたいと願い、そのように生きるなら、そこが神の国となるわけです。神を信じ、神に従う人の心に神の国が宿るのです。それは目には見えませんが、目に見える形となって実際に現れます。

イエスは神の国はパン種のようだと言われました。パン粉にパン種を入れるとどうなりますか?それはパンパンに大きく膨らみます。それと同じように、神の国も目には見えないほど小さなものですが、それが私たちの心に入ると大きく膨らんで行くのです。
  また、イエスは神の国はからし種のようだとも言われました。皆さんは、からし種を見たことがありますか?私はイスラエル旅行に行った方が現地で購入したというからし種を見せてもらったことがありますが、本当に小さな種です。胡椒のように小さい種ですが、それが生長すると3~4メートルもの大きな木になるのです。

このように神の国は目に見えない小さなものですが、これが私たちの中に宿すと大きな力をもって広がっていきます。それはイエスがこの地上でなされた御業を見ればわかります。イエスは目の見えない人の目を開かれ、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにし、足の萎えた人を癒されました。ヨハネの福音書5章には、38年間も病気で伏せていた人を癒されたことが記されてありますが、それはどういうことかというと、神の国が地上に来ているということを表していました。イエスが来られたことによって神の国がやって来たのです。ですから、イエスはこう言われたのです。「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」(マタイ4:17)
  「天の御国が近づいた」。どのようにして近づいたのでしょうか?イエスが来られたことによってです。イエスは神の国をもたらすためにこの地上に来てくださったのです。それは目に見えないほど小さなものですが、神の力となって現れました。それは、死んでから入るところだけでなく、生きている今、この地上で体験することができるもの、神が支配しているところなのです。

では、この神の国を第一に求めるとはどういうことでしょうか?これは自分の力でたぐり寄せるということではありません。神の国は人間の力でたぐり寄せることができるようなものではないからです。その必要もありません。神の国はそれ自体、力をもって私たちのところにすでに押し寄せてきているからです。この神の国を謙虚に受け入れることです。そして、神がこの世のすべて治め、生きて働いておられると信じて、神に賭けるというか、へりくだって神を求め、神に祈り、神に信頼して生きることです。

この正月にディボーションでエズラ記を読みました。ペルシャの王キュロスの命令によってバビロンからエルサレムに帰ったユダの民は、さまざまな妨害に遭いながらもついに神殿建設を完成しました。そして神はアルタクセルクセス王の心を動かし、神の律法を行わせるためにエズラをリーダーとする一団をエルサレムに遣わします。その数男だけで1500人、女、子供も合わせると3,000人に達しました。バビロンからエルサレムまでは約1,450キロと、かなりの長旅です。しかも彼らは現在の価値で約10億円もの金や銀を持っていました。どこで敵に襲われるかわかりません。しかし、エズラは道中の敵から自分たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めませんでした。それは、神は、神を尋ね求めるすべての者を守ってくださると信じていたからです。それで彼はこのことのために断食して祈り、へりくだって、道中の無事を神に願い求めました。すると、神は彼らの願いを聞き入れてくださいました。神の恵みの御手が彼らとともにあったので、その道中、敵の手、待ち伏せしている者の手から救い出していただくことができたのです。このように、へりくだって神を求め、神に祈り、神に賭ける信仰、それこそ、神の国を第一に求めるということなのです。

よく「神さまとか、信仰とか言っても、それは余裕のある人がすることであって、現実はもっと厳しいですよ」と言うことを聞くことがあります。確かに現実は厳しいものです。だからこそその厳しい現実の中で、さらに確かな神の国の現実に目を留めるために、私たちはこうして教会の礼拝に来たり、互いに交わりを持って励まし合っているのではないでしょうか。どんな苦しみの中でも神が生きて働き、この世を支配しておられるということを信じるためです。自分自身との格闘の中で、人生を導いてくださる神に自分を明け渡していく。それが「神の国を求める」ということなのです。それを第一に求めなければなりません。

Ⅱ.神の義を第一に求めるとは(33)

では、神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。イエスは、まず神の国を求めなさいと言われただけでなく、神の義を求めなさいとも言われました。「神の義」とは何でしょうか。それは、神の前での正しさのことです。ローマ14章17節に、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」とあります。神の国は「聖霊による義と平和と喜び」です。ですから、正しくない人は、神の国に入ることが出来ません。では、人はどうしたら神の前に正しい者、義と認めていただくことができるのでしょうか。

ここで注目したいのは、マタイ5章20節のみことばです。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」
  イエスは、あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、決して天の御国に入れない、と言われました。どういうことでしょうか?律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書の律法を守ることによって神の前に義と認められると考えていました。それで彼らは一つの掟にいくつもの細則を付け加え、膨大な規則集を作りあげました。その数なんと六百以上もあったと伝えられています。そして、彼らはそれを守っていると自負していました。だから、自分たちは正しい者であって、神の国にふさわしい者だとうぬぼれていたのです。でも、彼らは最も大切な戒めを忘れていました。最も大切な戒めとは何ですか。そうです、申命記6章5節のことばですね。「シェマー」、「聞きなさい」ということばで有名なみことばですね。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」です。また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という戒めも、これと同じように大切です。すなわち、神と隣人を愛するということです。これが律法の中心であり、戒めの中で最も大切なものなのに、これを忘れていたのです。つまり、彼らは自分では聖書の戒めを守っていると思っていましたが、それは形式的なものにすぎなかったということです。それでイエスは「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国にはいることはできない」と言われたのです。それは律法学者やパリサイ人たちのようにうわべだけを取り繕ったもの、つじつま合わせをしただけのものではなく、神の目にどうなのか、神の目に正しい者、神に義と認められる者でなければならないということです。

でも、どうでしょうか。神に義と認められるということは簡単なことではありません。たとえば、その後のところでイエスは、「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:20-21)と言っておられますが、この観点から見たら、私たちは皆お手上げではないでしょうか。確かに私たちは人を殺すようなことなどしません。でも、兄弟に対してはよく「ばか者」とか「愚か者」と言っていないでしょうか。私などはしょっちゅうですよ。嫌なことや変なことがあると、つい心の中で「ばかだなぁ」と思ってしまいます。だから、私は最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれてしまいます。私だけではありません。皆さんだってそうです。兄弟に対して腹を立てない人がいますか?兄弟にひどいことを言われ放題言われたら、「いい加減にして」と腹を立てるじゃないですか。「バカ野郎」とか「マヌケ」と言うんじゃないですか。ですから、皆さんもアウトです。最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。だから聖書は「義人はいない。一人もいない。」ローマ3:10)と言っているのです。
  しかし、律法学者やパリサイ人たちは、そのことに気付いていませんでした。そして自分は正しい者であって、神の国にふさわしい者だと錯覚していたのです。そういう律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、私たちも決して天国に入ることはできません。では、どうしたらそのような義を持つことができるのでしょうか。

神が与えてくださる義を求めなければなりません。神の目から見れば正しい人など一人もいません。しかも、だれも自分でその不義をきよめることはできないのです。今、旧約聖書のエレミヤを学んでいますが、エレミヤ書には、それは豹がその斑点を変えることが出来ないのと同じだと言われているとおりです(エレミヤ13:23)。しかしそのような私たちのために神はイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。キリストが私たちの罪を負い、十字架で死なれたことによって、罪人の私たちが義と認めていただくためです。神はご自分のひとり子を罪人として死なせることによって、御子イエスを信じる者にイエスの持っておられた義を与えてくださるのです。私たちの罪がキリストのところに行き、キリストの義がわたしたちのところに来るためです。神はイエス・キリストを信じる者が罪を赦され、神の前に正しい者として立つことができるようにしてくださったのです。私たちが求めるべき「神の義」とは、この義、神が与えてくださる「イエス・キリストの義」なのです。

この「神の義」をまず求めなければなりません。神の国が信仰によって受け取るものであるように、神の義も信仰によって受け取るものです。イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と言われました。罪ある私たちは神の国から遠く離れていました。しかし、神の国が罪の赦しと神の義を伴って、罪ある私たちのところ来てくださいました。ですから私たちは自分の不義を認め、告白し、悔い改め、へりくだった心でこれを受け取らなければなりません。そして、その義に生きることを求めなければなりません。

イギリスに一人の尊敬されている軍曹がおりました。とても立派なのである人が「どうしてそのように人から好かれるようになったのですか」と尋ねると、「つい最近まではそうではなかったのです」と答えると、それがどうしてそうなったのかを話してくれました。彼の部隊に一人だけクリスチャンがいたそうです。そのクリスチャンは他の人からの嫌がらせを受けていましたが、じっと耐えていました。ところがある時、この軍曹の隣に寝ることになりました。彼はいつも寝る前に祈りの時間を持っていました。軍曹は軍隊の重い靴で彼の頭を叩いたそうです。でも彼は何もいいませんでした。そればかりか次の朝起きて見ると自分の靴が綺麗に磨かれておいてあったのです。それを見た時この軍曹は、自分は負けたと思いました。軍曹は即座にイエス様を信じ、その時から変わったのです。

イエスはこう言われました。「43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)

これが神の義を求めるということです。それは私たちにはできないことです。しかし、神の義であられるイエス・キリストによって与えられた義によって、私たちはこの義に生きることができるのです。

Ⅲ.まず神の国と神の義を第一に求める(33)  

第三のことは、まず神の国と神の義を求めなさい、ということです。イエスは、この神の国と神の義をまず、第一に求めなさい、と言われました。どういうことでしょうか?これを最優先にしなさいということです。この優先順位がとても重要です。私たちは、自分の中にある優先順位に従って生きています。私たちの人生には、大切なものがたくさんあります。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかといったこともそうですし、それに加えて経済的な問題や対人関係の悩み、健康上の問題、仕事ことそうです。そんな時そうした目の前の問題で頭がいっぱいになり、神様のことがどこかに吹っ飛んでしまうことがあります。優先すべき順序が逆になり、生活する上で必要な様々なものを第一に求めてしまうのです。そのために走り回り、あたふたし、不安に呑み込まれ、不安が不安を呼び、思い煩いでどうにもならなくなってしまうことがあります。でも聖書はこう言っています。「まず神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

それは、他のことは何もしなくても良いということではありません。学生なら勉強に専念しなければなりませんし、仕事を持っている人ならしっかり働かなければなりません。英語に “bring home the bacon” ということわざがあります。しっかり働いて家族を支えるという意味です。イエスが「まず、第一に」と言われたのは、第二、第三にも、果たすべき義務があることを示しています。ある修道院の記録映画を観ましたが、山奥でくらす修道士たちでさえ、祈りの生活の他に労働の時間があって、それで日々の糧を得ていました。また、スポーツや趣味を楽しむ時間も持っていました。神の国と神の義を求めるということは、神がお与えくださったこの世での義務や、私たちのこころやからだに必要なものを無視するということではないのです。それは、神の民として生き、神に仕えることを第一にする、神の義という、私たちにとって一番必要なものをまず第一にすることです。そして、神のことを第一にするとき、その後に続くさまざまな義務は、感謝と喜びをもって果たすことができるようになります。その他の必要もおのずと満たされていくのです。

その他の必要とは、たとえば何を食べるかとか、何を飲むか、何を着るかといったことです。神の国とその義とを第一に求めるなら、神はそれに加えて、これらのものをすべて与えてくださいます。なぜなら、天の父である神様は、これらのものが私たちに必要であることを知っておられるからです。空の鳥を見てください。種まきもせず、刈り入れもしません。倉に納めることもしない。でも、天の父はこれを養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があります。野の花を見てください。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、どうしてあなたがたのためには、もっと良くしてくださらないことがあるでしょうか。神は、ご自身の国とその義を第一にする者を、守ってくださるのです。

クリスチャンの実業家で五十嵐健治さんと言う方がおられました。彼はクリーニング業界最大手の「白洋舎」の創業者です。それまで三越に勤めていた彼がなぜ洗濯屋を家業としたのか。その転身した一番大きな理由は、「日曜礼拝や伝道に妨げにならないもの」でした。さらに、キリスト教倫理観として「嘘や駆け引きのいらぬもの」「人の利益となって害にならぬもの」でした。彼はその創業にあたり、次のように言っています。「汚れた罪を一身に引き受けて、十字架の苦しみと恥辱を受け給うキリストを思ったとき、自分のごとき人間が人様の垢を洗うことが何で恥ずかしいことがあろう。洗濯業は神から与えられた職業である。」と。そして、汚れたもの清潔にし、破れたるものを繕い、以て衛生に資し、家庭経済を助けるものと考えて、1906年に日本橋呉服町に開業したのです。
  彼は自分のお店を持つとき、教会の近くがいい、そうしたら、祈り会などに参加できるからと考え、教会の近く、川の土手沿いの物件を手に入れました。そこは町から遠く、「そんなところで店を開いても、お客さんは来ないよ」と回りの人から言われたそうです。ところが、しばらくたって、川の土手が整備されて、自転車や歩行者のための道路になりました。大勢の人がその道を利用して、通勤、通学をするようになりました。それで、彼の店に立ち寄るお客さんが増えました。彼の丁寧な仕事が評判になり、さらに多くの固定客を得るようになりました。この人の、もっと神に近づきたい、神のことを第一にしたいという思いが報われ、目に見える形でも祝福が与えられたのです。神の国と神の義を第一にする人には、この世においても大きな祝福が与えられるのです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」第一のことが第一になるなら、第二、第三のことは、かならず備えられていきます。それはほんとうのことです。イエスは私たちを、この祝福の人生へと招いていてくださっています。この一年、この神の国と神の義を第一に求めていきましょう。主のみことばに従い、神の国の義と平和と聖霊による喜びで満たされた一年となるように祈り求めていきたいと思います。

マタイの福音書1章18~25節「ヨセフのクリスマス」

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メリークリスマス!イエス・キリストの御降誕に感謝し、主の救いの御業をほめたたえます。前回は、マタイの福音書1章前半のイエス・キリストの系図からキリスト誕生にまつわる神の子イエス・キリストの奥義を学びましたが、きょうは、マタイの福音書1章後半から、ヨセフに啓示されたキリスト誕生の知らせから、共にクリスマスの恵みを分かち合いと思います。

キリスト誕生の出来事のストーリーにおいて、主要な役割を担う人物でありながら一言も発しない人がいます。誰でしょうか?そうです、イエスの父ヨセフです。父と言っても、実際にはイエスの父は神様ですから、養父ということになります。育ての父ですね。だからなのかどうかはわかりませんが、ヨセフは、マリアにくらべてあまり目立たないというか、注目されず、なんとなく影が薄いような気がします。現代の男性や父親のようですね。マリアのことは聖書に数多く出てきますが、ヨセフのことは少ししか出てきません。いや、彼は聖書の中で一言も発していないのです。
 子どもたちが演じる降誕劇などでは、よく「マリア、大丈夫かい」と、気遣ったり、「一晩泊めてください。子どもが生まれそうなのです」と、宿屋の主人と交渉するいくつかのセリフを発したりしますが、実際には、聖書の中にはそういうことばはありません。黙ったままです。いったいなぜ彼は沈黙していたのでしょうか。今朝は、イエスの誕生の時に果たしたヨセフの役割と彼の信仰について学びたいと思います。

 Ⅰ.正しい人であり、憐れみ深い人であるヨセフ(18-19)

まず18節と19節をご覧ください。「18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

ここには、キリストがどのようにして生まれてきたのかが、淡々と語られていますが、原文のギリシャ語には18節と19節の冒頭に、それぞれ「デ」(δε)という接続詞があることがわかります。これは「しかし」とか、「ところで」と訳される語です。すなわち、1節から17節で語られて来たことを受けて「しかし」ということです。1節から17節にはキリストの系図が記されてありました。そこには、誰々と誰々の間に誰々が生まれたという系図が記されてありましたが、それに対してイエス・キリストの誕生はどうであったのかということです。つまり、1節から17節までの系図にある誕生というのはごく自然な誕生であったのに対して、イエス・キリストの誕生はそうではなかったということです。イエス・キリストの誕生はそうした通常の方法とは違う、超自然的な方法であったのです。それはどのような方法だったのでしょうか。

ここには、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」とあります。いきなりわけの分からないことが出てきます。それは二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもったということです。二人がまだ一緒にならなくても身ごもることはあります。いわゆる「できちゃった婚」ですね。できちゃったから結婚するというのはよくあることですが、ここではそのようにできちゃったから結婚したというのではなく、まだ一緒にならないうちに聖霊によって身ごもったと言われているのです。うそでしょ!と思うかもしれません。

当時の結婚の定めからすると、二人はすでに婚姻関係にあると認められていました。でもまだ一緒に生活するまでには至っていなかったのです。というのは、ユダヤにおいては結婚までに三つの段階があったからです。

第一の段階は、「許婚」(いいなづけ)の段階です。多くは幼少期に本人たちの意志と関係なく双方の親の合意で結婚が決められていました。

第二の段階は、当人同士がその結婚を了承して婚約するという段階です。これによって正式に結婚が成立しますが、私たちが考える婚姻関係とはちょっと違い、法的には夫婦とみなされても、まだ一緒に住むことは許されていなかったのです。つまり、夫婦として性的な関係を持つことはできませんでした。通常、この期間は1年~1年半くらいでした。その間、お互いは離れたところで暮らし、夫は父親の下にいて花嫁と過ごすための準備をしたのです。

第三の段階は、花婿が花嫁と過ごすための準備を整え花嫁を迎えに行き、正式に結婚式を挙げる段階です。この段階になって二人ははじめて一緒に暮らすことができました。

ですから、ここに「マリアはヨセフと婚約していたが」とありますので、これは、この第二段階にあったことを示しています。法的には婚姻関係が成立していましたが、両者はまだ一緒に住むことができなかった状態、住んでいなかった状態であったということです。ですから、夫婦としての性的な営みもまだ持っていませんでした。

そのような時、マリアが身ごもってしまいました。マリアが身ごもったと聞いてピンとくるのは、彼女が不貞を働いたのではないかということです。あるいは暴力的な仕方で妊娠させられたのかもしれないということです。でもマタイはそうではないと告げています。ここには「聖霊によって身ごもった」とあります。にわかには信じられない話です。恐らく、この時彼女は14~16歳くらいだったのではないかと考えられていますが、たとえば、皆さんのティーンエージャーの娘さんが「妊娠しちゃった」と言って来たらどうでしょう。「どうして?何があったの?」と問い詰めるのではないかと思いますが、その時に「実は、聖霊によって・・」と答えたとしたらどうでしょう。「バカなことを言うな」と、頭ごなしに否定するのではないでしょうか。それはヨセフにとっても同じことです。とても信じられないことでした。勿論、マリアにとってもあり得ないことでした。そんなことをいいなづけのヨセフに伝えたらどうなるかを考えたら、とてもじゃないですが、言えなかったでしょう。周りの人たちにも大きな迷惑をかけてしまうことになります。ですから、彼女は相当悩んだはずです。でも、彼女はこのことをヨセフに伝えたのです。

それを聞いたヨセフはどうしたでしょうか。19節には「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらけ者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とあります。

普通だった怒りとか失望落胆、いや、嫌悪感さえ抱くでしょう。決して許すことなどできません。事実、旧約の規定によると、もし妻が不貞を働いたらさらし者にされ、石打ちの刑で殺されなければなりませんでした。町の広場で引き連れられ、町中の人から一斉に石を投げつけられたのです。しかし、ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思いました。内密に結婚関係を解消しようとしたわけです。マリアの命と人格と名誉を守る仕方で、自分から身を引く道を選び取ろうとしたのです。なぜでしょうか。ここには「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので」とあります。

この「正しい人」ということばは原語のギリシャ語では「ディカイオス」(δικαιος)という言葉です。これは律法を忠実に守る人という意味です。彼は神の律法を曲げるような人ではありませんでした。自分の場合を特別であるとか例外であると考えて、神のことばを割り引いて自分に適用する人ではなかったのです。律法にしっかりと照らし合わせ、律法に書いてある通りに生きよう思っていました。でも彼女をさらし者にはしたくなかった。

当然のことながら、彼は相当悩んだことでしょう。もしかすると、性格的にも私のように口数の少ない人だったかもしれない。寡黙なタイプですね。だからこそ、そこには人知れぬ深い悩みの日々があったのではないかと思うのです。20節に「彼がこのことを思い巡らしていると」とあるように、どうしたら良いものかと思い悩んでいたのです。マリアに対する愛情が深く、その愛が真実であればあるほど、裏切られたような思いにも駆られることもあったでしょう。マリアに対するさまざまな疑問も湧き上がったに違いありません。真相を問いただしたいという衝動にも駆られたでしょう。何よりも、自分が思い描いていた幸せな結婚生活をあきらめて彼女との関わりを断ち切らなければならないという、そんな絶望的な思いにさえなったことでしょう。それは彼が正しい人で、マリアをさらし者にはしたくなかったからです。

ここがヨセフのすばらしいところです。もし彼が律法ではこうだからと、その適用ばかりに窮々としていたら、あのパリサイ人のように何の悩みもせずに彼女を見せしめにしたでしょう。またもし彼が単なる人情家で神のことばを心から尊ぶ人間でなかったら、やはり何の悩みもせずにマリアを不問に付したことでしょう。そして善人ぶって、自分は何と善い人間なんだろうと酔いしれていたかもしれません。しかし彼は同時に憐れみ深い人でした。彼は律法の正しさの前に自分の配偶者となるべく人の罪を考え、しかもそれを他人事とせず自分の事として受け止め、その呵責に悩みながら、彼女をさらしものにはしたくはなかったのです。

なんと美しい心を持った人でしょうか。結婚するならこういう人と結婚したいですね。イエス様は「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ7:3)と言われましたが、自分がいかに疑い深く、他人のことに関してはすぐに目くじらを立てるような者であるにも関わらず、自分の中には大きな梁があることにはなかなか気付かない者であるということを認める者であれば、このヨセフの態度がいかにすごいかがわかるのではないかと思います。そういう意味で彼は突出した人物でした。これこそ、救い主の父親となるべく神が選ばれた人物であり、それは彼の生来の性格によると言うよりは、聖霊の奇しい御業が彼のうちに働いていたという何よりの証拠だと思います。正しい人であるというだけでなく憐れみ深い人。神のことばに忠実に生きる者でありながら、神の憐れみを兼ね備えていた人、それがヨセフだったのです。私たちもそういう人になりたいですね。

Ⅱ.思い巡らしていたヨセフ(20-23)

次に、20~23節をご覧ください。「20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20-21)

ヨセフがこのことで思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。順序が逆のような気がします。マリアの時のように、先に御使いが現れて告げてくれていたら、ヨセフもそんなに悩む必要はなかったのではないかと思います。どうして神様は先にこのことを教えてくれなかったのでしょうか。それは、ヨセフにとって思い巡らす時が必要だったからです。そうした思い巡らす時、沈黙の時があったからこそ、その後神様から「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と言われその理由が示されたとき、彼はすぐに主に従うことができたのです。

ドイツのルター派の牧師で、20世紀を代表するキリスト教神学者の一人にボンヘッファーという人がいましたが、彼は「共に生きる生活」(新教出版社)という本の中で、次のように言っています。
 「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。」
 含蓄のあることばだと思います。ボンヘッファーは、信仰者がしばしばひとりでいることができず、交わりに依存し、あるいは交わりに過剰な期待を抱き、そこに責任を転嫁して、ついにはその交わりにつまずいて、相手を非難して終わっていく私たちの弱さなり、危険性を、このように鋭く突いたのです。

もちろん私たちは交わりを必要としています。誰かの励まし、慰め、共感を必要としているのです。けれども究極のところで、人は神の代わりには成り得ることはできないのです。ですから、神の前に静まることなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはできません。ボンヘッファーはそれを言いたかったのはそういうことだったのです。彼はこうも言っています。

「神があなたを呼ばれた時、あなたはただひとり神の前に立った。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかった。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することであり、そうすればあなたは、召された者たちの交わりとは何の関わりをも持つことはできない。」

大変厳しいことばです。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、キリストの召しを否定することになるし、そうすれば、召された者たちの交わりとは何の関わりを持つことはできません。まあ、バランスが必要だということですが、そのバランスの中でも、ひとり神の前に立つこと、神様と1対1となって思い巡らす時が必要であり、そのとき、神のみこころが明らかにしてくださるのです。そういう意味でみことばと祈りの時、ディボーション、静思の時を持つことがいかに重要であるかがわかります。

ヨセフも、そうした葛藤の中でひとり思い巡らし、神の前に立ったとき、神のみこころが明らかにされました。20~21節です。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

神が明らかにされたことはどんなことでしたか。それは、マリアの胎に宿っている子は聖霊によるものであるということでした。そればかりか、それは男の子で、その名前を「イエス」とつけるようにと、具体的に告げてくださったのです。「イエス」という名前の意味は、「主は救い」です。この方はご自分の民を罪から救ってくださるお方なのです。あなたを救ってくださる。なぜメシヤ、救い主、イエス・キリストは、このように処女から生まれなければならなかったのでしょうか。それはご自分の民をその罪から救ってくださるためです。この罪こそ、私たちすべての問題の根源にあるものです。

今年はロシヤのウクライナ侵攻とういう暴挙がありましたが、それももとはと言えば、この罪が原因です。台湾の問題もあります。私たちは、いつ第三次世界大戦が勃発してもおかしくない時代に生きています。それは戦争ばかりでなく、私たちの社会、私たちの人生に襲い掛かる様々な問題においても言えることです。どんなに法律を作っても、この世から悪が一掃されることはないでしょう。それは私たち人間に罪があるからです。この罪がすべての問題を引き起こすのであって、真の平和を実現するためには、この罪を取り除かなければなりません。その罪から救ってくださるお方、それが神の御子イエス・キリストなのです。その方は罪のない方でなければなりませんでした。だから、聖霊によって身ごもらなければならなかったのです。

処女が身ごもるなんて前代未聞です。非科学的です。「だからキリスト教は信じられないんだ!」という方もおられるでしょう。多くの人は、この処女降誕ということだけでキリスト教は信じられない、信じるに値しないと結論付けますが、それは愚かなことです。なぜなら、神はこの天地万物を創造された方であって、私たち人間にいのちを与えてくださった方だからです。人にいのちを与えることができる方であるならば、人間を処女から生まれさせることなど何でもないことなのです。むしろ、そうでなければおかしい。普通に生まれたのであれば罪を持ったまま生まれて来たということになりますから。もしそうであれば、私たちを罪から救う資格はありません。私たちを罪から救うことができる方は、それは全く罪のない方であり、人として生まれた神の子でしかないのです。神はそれを処女降誕という出来事を通して成し遂げてくださったのです。これはすごいことです。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。

それは22節に「そのすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」とあることからもわかります。それは、主が預言者を通して予め語っておられたことでした。それが今成就しようとしていたのです。その預言とは、23節にあります。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」  

これはイザヤ書7章14節からの引用です。これは、キリストが生まれる700年以上も前に現れたイザヤという預言者によって語られた内容ですが、不思議ですね。イザヤは、キリストが生まれる700年も前に、来るべきメシヤは処女から生まれるということを預言していました。それがいま、実現しようとしていたのです。これは「インマヌエル預言」と呼ばれているものですが、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味です。

この「インマヌエル」ということばは、マタイの福音書28章20節にも出てきます。これは主の大宣教命令と呼ばれている箇所ですが、主はその中でこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

ここには「インマヌエル」ということばはありませんが、同じ意味です。「神があなたとともにいます」。これはインマヌエルの宣言なのです。このようにマタイの福音書はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わるので、「インマヌエルの書」と呼ばれています。実は初めと終わりだけでなく、真ん中にもあります。マタイの福音書18章20節の御言葉です。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

二人か三人が主イエスの名によって集まるところに、主もまたそこにいるという約束です。まさに、私たちの主はインマヌエルの主なのです。あなたとともにおられる神なのです。

ヨセフが、沈黙の中でひとりこのことを思い巡らしていたとき、神はそのことを明らかにしてくださいました。主はこのようなかすかな細い声の中に、ご自身を現わしてくださったのです。婚約していた妻マリアが身ごもるという、前代未聞というか、ヨセフにとっては考えられないこと、最悪な出来事が起こりましたが、いざ蓋を開けてみたら、何と自分は救い主の育ての親になることが示され、明らかにされたのです。約束のメシヤの義理の父親になるのです。それは選ばれた人間であるということを表していました。そういう驚くべき事実が明らかにされたというか、心が震えるような体験をしたのです。

詩篇62篇1節に、「私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」という御言葉がありますが、私はこの御言葉が好きです。主の前に静まり、黙って主を待ち望むのです。「黙って」と言っても、何もしないで、ただカウチに座って、神が何かしてくれるまで、何もしないでいるということではありません。「黙って」というのは、主の導きをしっかりと受け取るために、一度立ち止まりなさいという意味です。もしかしたら、あなたの前には今、大きなトラブルがあるかもしれません。緊急事態かもしれない。今すぐ何かをしなければならないといろいろな対応策が頭に浮かぶかもしれません。しかし、聖書は「私たましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」というのです。あれやこれやと自分で考え、慌ただしく動き回るのではなく、主の前に静まり、神を待ち望むのです。そして、主からの助けを、解決策を、しっかりと受け取りなさいというのです。ヨセフは主の御前で黙って神を待ち望み、思い巡らす中で、神が明らかにしてくださったのです。

ですから、神の御前にひとり静まること、沈黙することを恐れてはなりません。神の御前に沈黙することなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはありません。でも神の御前に静まって、そのことを思い巡らすなら、神が解決を与えてくださいます。たとえ疑い深い者でも、神はいつも、親切な助けを与えてくださるのです。

Ⅲ.神のみこころに従ったヨセフ(24-25)

第三に、その結果です。24~25節をご覧ください。「24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、彼女を自分の妻として迎え入れました。彼はすぐに主の命令に従いました。そして、マリアが子どもを産むまで、彼女を知ることはありませんでした。マリアと結婚しても、あえて性的な関係を持たなかったということです。それは、イエスが自分の子どもではないことを世間に知らしめるためでした。もしマリアと関係があれば、それはヨセフの子どもであるとだれもが思うからです。でも、これは自分の子どもではなく神の子であり、神がご自分の民をその罪から救うために与えてくださった救い主であることを、証しようとしたのです。

彼は、妻マリアを疑うことなく、詮索することもやめ、身重になったマリアに向けられた周囲からのさまざまな疑いや噂の前に立ちはだかり、神の約束、インマヌエルの神に信頼しました。彼は、神の救いにすべてをかけて生きたのです。

私たちの人生においても、ひとり静かに黙さなければならないときがあります。そこでは誰も手を貸すことができない、助け船を出すことができない、安易な慰めや励ましも含めて余計な口をさしはさむことができない、沈黙という形をとった神との真剣な対話の時があります。しかし、そういう時を私たちは、主にある兄弟姉妹との交わりの中に身を置きながら持つのです。その時、その静けさの中で、インマヌエルの主が語ってくださいます。ですから、沈黙とはただことばを発しないということではなく、神のことばを聞くこと、神が語られることばに傾聴することなのです。

今年のクリスマス、私たちもまたヨセフのように饒舌の中に身を置くところから、主の御前で静まり、主のみことばを聞く所へと導かれていきたいものです。そこで神が語ってくださる約束の御言葉、「わたしはあなたとともにいる」ということばと出会い、そのことばによって慰められ、励まされ、生かされていく。そのようなクリスマスを送らせていただきたいと思うのです。

マタイの福音書1章1~17節「イエス・キリストの系図」

アドベントの第二週を迎えました。御言葉からキリストの御降誕を待ち望みたいと思います。今日は、マタイの福音書1章前半にある「イエス・キリストの系図」からお話ししたいと思います。

多くの人が初めて手にする聖書は新約聖書ではないかと思いますが、その最初のページをめくって抱く印象は、「戸惑い」ではないでしょうか。私も、高校3年生の時、当時はわかりませんでしたが国際ギデオン協会の方々が校門の前で配っていた赤いカバーの聖書を手にして、「いったい何が書いてあるんだろう」と興味津々、帰宅して読み始めたのが、このマタイの福音書1章でした。そこには読み慣れない名前の羅列と、無味乾燥に見える系図が書かれてあって、「何だ、これは?」とすぐに読むので止めてしまいました。でも捨てるに捨てられず、他にバスケットボールの本しかなかった本箱に飾っていたら、その後、後に妻になる1人の宣教師と出会い教会へと導かれました。そして、そこでイエス・キリストに出会うことができたのです。でも私のようなケースは稀で、ほとんどの人はこの箇所を見て読むのを断念するのではないかと思います。

かつてある人がこんなことを言いました。「新約聖書はマタイの福音書よりもマルコの福音書の方が最初にあったほうがいい。多くの人はせっかく手にしてもマタイの福音書1章の系図につまずいて、それ以上先に読み進めなくなってしまう。」

確かに、いきなり系図から始まっては、読み手は面食らってしまうかもしれません。それよりも一切の前置きを省略して、真っ直ぐイエス・キリストの物語に進むマルコの福音書のほうが、人々が福音に触れるにはよいのではないかと思います。実際に書かれた年代からすれば、マタイの福音書よりもマルコの福音書の方が先に書かれました。それなのになぜマルコの福音書ではなく、マタイの福音書が最初に置かれたのでしょうか。しかも、なぜその冒頭が系図だったのか。そこには深い神様の意図があったと思うのです。
 

Ⅰ.アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図(1)

まず1節の冒頭のことばから見ていきましょう。ここには、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。

これを書いたマタイは、これから書き連ねていく福音書の主人公イエス・キリストがどのような方なのかを紹介するにあたり、アブラハムから始まる系図を示して、イエス・キリストとは誰なのかを紹介しています。なぜ系図から書いたのでしょうか。それはこの福音書の著者であるマタイが、ユダヤ人ないしユダヤ社会の価値観に生きていた人々に向けてこれを書いたからです。

このような系図が出てくると、私たち日本人にはなかなか理解しにくいものですが、当時のユダヤ人にとってはむしろピンと来たのではないかと思います。というのは、彼らが一人一人の名前を読むとき、その人物とその時代の歴史的背景を次々に思い出すことができたからです。しかも、アブラハムからイエス・キリストの出現までの、約二千年間の物語です。これほど壮大なドラマは、そんじょそこらに見出せるものではありません。ユダヤ人は旧約聖書の知識が常識のようになっていたので、こうした系図も容易に理解することができたのです。

その系図の書き出しが「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」でした。マタイはまず、イエス・キリストがアブラハムの子であり、ダビデの子であると述べています。「子」とは「子孫」であるということです。これはある意味この系図の要約であり、またこの福音書全体の主題であるとも言えます。

アブラハムは、皆さんもご存知のように、聖書の中の最も重要な人物の一人です。なぜ重要かといいますと、神がアブラハムという個人に、ユダヤ人をはじめとして全世界を祝福すると約束をされたからです。創世記12章1~3節にこうあります。「1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

このように神様はアブラハムとその子孫によって、すべての民族を祝福すると約束されました。その子孫こそ、イエス・キリストです。ですから、たとえ日本人であろうと、アメリカ人、フランス人、韓国人であろうと、私たちはこの子孫によって祝福される、つまり救われるのです。マタイは、イエスが「アブラハムの子」であると言うことによって、イエスこそ神がアブラハムに対して約束されたことを成就するために来られた方であるということを、読者に伝えたかったのです。

また、マタイはイエスが「ダビデの子」であるとも言っています。ダビデはユダヤ人の歴史の中で最大の王でした。ユダヤ人は今日でもその国旗にダビデの紋章を用いていることからもわかります。ダビデは、イエスの誕生とアブラハムが生きていたときのちょうど真ん中にあたる、紀元前1000年頃に生きていました。彼は、アブラハムの直接の子孫であるイスラエル民族を統治した王でした。このダビデにも、神は世界を揺さぶるような約束を与えられています。それは、Ⅱサムエル7:12~13にある「ダビデ契約」と呼ばれているものです。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

この「世継ぎの子」とは直接的にはソロモンのことですが、これはダビデの子孫から出るメシヤのことです。それはここに「とこしえまでも堅く立てる」と言われていることからもわかります。そのメシヤは王となり、イスラエルと世界を支配されるというのです。その王こそ、ダビデの子として生まれるイエスなのです。

それで、国を滅ぼされたユダヤ人は、このダビデの子孫の中から自分たちを救ってくれるメシヤの現われを待ち望むようになりました。そして、メシヤを待望する信仰が生まれたのです。そのメシヤとはだれか。マタイはここに「ダビデの子」と記すことによって、その子孫から生まれるイエスこそダビデ契約の成就者であり、全人類に救いをもたらすメシヤであるということを伝えたかったのです。

Ⅱ.イスラエルの歴史(2-16)

では、アブラハムからダビデ、そしてイエス・キリストへとつながる系図とはどのようなものだったのでしょうか。2~16節にその長い系図が出てきます。2~6節までは、アブラハムからダビデまでの、いわゆる族長時代、士師の時代の歴史です。そして7~11節には、ダビデからバビロン捕囚までのイスラエルの王朝の系図、そして12~16節には、バビロン捕囚からイエス誕生までの歴史が記されてあります。

まず2~6節をご覧ください。「2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、」

司会者泣かせの箇所です。でも、ここまでは比較的ポピュラーな人たちの名前なのでそれほど大変でもありませんが、この後16節までずっと読み進めていくと、舌を噛みそうになります。

この6節までに出てくる人たちの名前の中で特徴的なことは、ここに4人の女性たちの名前が記されてあることです。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。この系図全体にはもう一人の女性の名前が出てきます。それは16節に出てくるイエスの母マリアです。それと合わせると全部で5人の女性の名前が記録されてありますが、そのうちの4人は6節までに出てきます。

圧倒的な男性優位の社会の中にあって、このように女性の名前が記録されていることは非常に珍しいことでした。マタイはなぜここにこれら4人の女性の名前を記したのでしょうか。マタイがこの特定の女性を選んでわざわざ記したのには、それなりの深い意図があったのではないかと思います。

系図の中で最初に登場する女性は、タマルです。3節をご覧ください。タマルに関しては、創世記38章に詳しく書かれてありますので、後でゆっくりご覧いただきたいと思いますが、タマルはユダの長男(エル)の嫁でした。けれども、彼は死んでしまい、後継ぎのために次男(オナン)がタマルを妻としましたが、次男も死んでしまいました。そこで父のユダは「三男(シェラ)が大きくなってから、おまえに与えよう。」と言いましたが、三男まで殺されるのがいやだったので、タマルに与えるつもりはありませんでした。

そこでタマルは、ベールをかぶって売春婦の格好をして通りに座りました。ユダと関係をもって子どもを設けようと考えたのです。ユダはタマルと関係を持ち、ほうびのしるしとして、印形とひもと杖を彼女に与えました。その後、ユダはタマルが妊娠していることを聞くと「あの女を引き出して、焼き殺せ。」と言いましたが、タマルは「私はこれらの品々の持ち主によって身ごもったのです」と言うと、ユダは「あの女は私よりも正しい」と認めました。そのタマルが、イエスの先祖として加えられているのです。いったいなぜタマルの名前が記されたのでしょうか。それは、どんなに罪深い人でも許されることを示すためでした。

思いつめたタマルは、義父を誘うという不道徳な行動を取ってしまいましたが、神はタマルを赦して子どもを与え、その子ペレツをイエス・キリストの祖先の一人としてくださいました。私たちもまた、タマルのようにしばしば間違った行動を取ってしまうことがありますが、神はそんな間違いやすく罪深い私たちが、神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から聖めてくださいるのです。

次に登場する女性は、ラハブです。5節をご覧ください。ラハブについては、旧約聖書のヨシュア記2章に書かれてあります。ラハブもエリコに住む売春婦、遊女でした。タマルは売春婦に変装しましたが、ラハブは正真正銘の売春婦でした。しかもユダヤ人ではなくカナン人でした。カナン人とはカナンの先住民族のことで、占いとか、呪術、霊媒などを行っていた民族です。そればかりか、自分たちの息子や娘をいけにえとして火で焼いたりしていました。つまり、神に忌み嫌われていたことを平気で行っていた民族だったのです。そんなラハブの名がここに記されてあるのです。なぜでしょうか。それは彼女がエリコという異教社会にあって、限られた知識しかないにもかかわらず、リスクを顧みずに、敵であったイスラエルの神こそまことの生ける神であると信じ、告白したからです。

彼女はヨシュアによってエリコ偵察のために遣わされた二人のスパイを家の屋上にかくまうと、エリコの警備兵には嘘をついて、二人を助けました。ラハブは屋上に上ると、亜麻の間に隠れているイスラエル人に、なぜ自分が二人をかくまったのかを語りました。それは、「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」(ヨシュア2:9-11)

何とラハブの口から出たのは、イスラエルの神に対する信仰告白でした。二人の斥候は驚きました。彼女は旅人たちからイスラエル人のうわさを聞き、そこに働いている神の力を知ったとき、それこそ真の神であると信じるようになっていたからです。

それからラハブは、二人の斥候に、「私はあなた方を助けました。どうか、今度は、あなた方が私と私の家族を救ってください。」と要求すると、二人は、窓に赤いひもを結び付けておくようにと言いました。やがてイスラエルがこの地に攻め入るとき、その赤いひもが目印となって、彼らを救うためです。そのようにして、ラハブとその家族が救われました。これは、イエス・キリストの十字架の血の象徴でした。キリストの十字架の血を受け入れる者は誰でも救われるのです。

たとえ遊女のように汚れた者であっても、たとえ神から遠く離れた異邦人であっても関係ありません。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ローマ10:13)のです。遊女ラハブの名がここに記されてあるのは、そのことを示すためだったのです。

キリストの系図に出てくる三人目の女性はルツです。ルツのことは旧約聖書の「ルツ記」に書かれてあります。ルツも信仰深い女性でしたが、モアブ人でした。モアブ人は、異邦人の中でも最も嫌われていた民族でした。というのは、かつてモアブの娘たちがイスラエルの民を惑わして不道徳と偶像崇拝に導いたからです。その出来事は民数記25章1~3節にありますので、後でご覧いただけたらと思います。それで、モアブ人は「主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して主の集会に加わることはできない。」(申命記23:3)と厳しく命じられていました。そのモアブ人ルツの名前がここに記されてあるのです。どうしてでしょうか。それはルツが素敵なお嫁さんだったからではありません。それは彼女の信仰のゆえでした。

二人の息子を亡くした姑のナオミが、「あなたがたは、それぞれ自分の家へ帰りなさい。そして、いい人を見つけて再婚しなさい。神があなたがたに恵みを賜りますように。」と言ったのに、ルツは、「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)と言って、ナオミについてベツレヘムまでやって来ました。つまり、彼女はモアブ人でありながら、ナオミの信じていたイスラエルの神、主を信じのです。

それだけでありません。ルツの名前がここに記されてあるのは、彼女の信仰がすばらしかったというだけでなく、彼女がベツレヘムで誠実で、忠実な信仰の人ボアズと出会い、結婚したからです。ベツレヘムに戻ったナオミは、苦しい生活の中にあって、ルツが落ち穂ひろいをして生計を立てていました。その麦畑の主人がボアズでした。彼はルツをあわれみ、買い戻しの権利という権利を使って、やもめとなっていた彼女を自らの妻として迎え入れました。実は、このボアズはイエス・キリストのひな型でした。ですから、これはキリストとその花嫁である教会がどのようなものなのかを示しているのです。つまり、そこにはユダヤ人とか異邦人といった区別は全くなく、キリストにあって一つであるということを表していたのです。

村の人々はみな、ルツとボアズを祝福し、こう言いました。「どうか、主がこの娘を通してあなたに授かる子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」(ルツ4:12)

タマルがユダに産んだペレツの家とは、先ほど見てきたとおりです。ルツとボアズの家がその家のようになりますようにというのは、その系統を引き継いでいるということです。そのペレツの子孫であるボアズからオベデが生まれます。このオベデは、ダビデのお祖父ちゃんに当たります。そこからキリストは生まれてくるのです。神様の不思議な救いの計画が、ここにも脈々と流れているということです。そのために用いられたのがルツであり、ボアズでした。神様は本当に不思議なことをなさいます。

キリストの系図に出てくる4人目の女性は「ウリヤの妻」です。これはバテ・シェバのことです。でもマタイは「バテ・シェバ」と書かないで「ウリヤの妻」と書きました。どうしてでしょうか。それは彼女が他人の妻であったからです。ダビデはその他人の妻と関係を持って妊娠させてしまいました。そればかりか夫のウリヤを戦場に送り、計略によって戦死させ、その事実をもみ消そうとしました。その出来事はⅡサムエル記11章にありますので、後でご覧ください。ダビデは姦淫をし、何と殺人までも犯してしまったのです。名君と言われ、ユダヤ人が誇りに思っていたダビデが、このような大きな罪を犯したのです。これはユダヤ人にとっては耳痛いことでした。触れられたくない事実でした。でもあえて神はマタイを通してそのユダヤ人たちの誇りを打ち砕くかのように、ウリヤの妻という形でここにその事件のことを記したのです。

こうやって見ると、自分たちが誇りとしていたユダヤ民族の血の中にも、明らかに異邦人の血が混じっていたり、決して純粋ではなく、そのうえ数々のスキャンダルや罪の汚点があったことがわかります。イエスは、そうした人間の罪の中から生まれてくださいました。それは、罪深い人間をあわれまれ、罪人を救うためです。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助を受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15-16)

マタイはこれらの4人の女性の名前をあげることで、そうした事実を思い起こさせているのです。

それは、この4人の異邦人の女性だけでなく、7節以降の南ユダ王国の王たちの歴史や、12節以降に出てくる人物を見てもわかります。私たちは今ちょうど礼拝でエレミヤ書を、祈祷会で列王記第一を学んでいますが、そこに出てくる王たちの歴史は、わずかな例外を除いてほとんどが偶像礼拝にふけり、主の律法に背いた悪しき王たちです。その結果として王国の滅亡とバビロン捕囚がもたらされるわけです。

12節以降は、バビロン捕囚後の系図ですが、ここに出てくる人物は、旧約聖書の中に名前も出てこない人たちです。文字通り名もなき人々の系図が記されてあるのです。そしてついにはイエスの父ヨセフが生まれますが、ヨセフはかつてのダビデ王家の血筋も今は昔で、ナザレでひっそりと大工業を営む家となっていました。

ですから、マタイの福音書がこの系図の冒頭に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記していても、事柄はそう単純ではなく、旧約聖書に預言された救い主メシヤの訪れはまさに主の救いのご計画と人間たちの歴史、苦難と栄光、光と影の織りなす歴史であったことがわかります。その中からイエス・キリストは生まれてきたのです。私たちは、この方を私たちは救い主としてお迎えするのです。マタイが伝えたかったのはそのことだったのです。

Ⅲ.神の完全な救いのご計画(17)

最後に17節を見て終わりたいと思います。17節にはこうあります。「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」

マタイは系図の締めくくりとして、17節にこれまでのユダヤ人の歴史を三つに大きく区分しています。それは、アブラハムからダビデまでの全部で十四代の期間と、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、そして、バビロン捕囚からキリストまでの十四代です。

しかしよく見ると、この系図はマタイの福音書がある意図をもって「十四代」ごとにまとめ上げたものであることがわかります。たとえば、これはもともとこの部分は旧約聖書の中の歴代誌第一3章にある系図を基に書かれてありますが、それと読み比べてみると、マタイ1章8節には「ヨラムがウジヤを生み」となっていますが、実際にはヨラムとウジヤの間にいるアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの3人の王が抜けていることがわかります。また、11節にはヨシヤがエコンヤを生みとありますが、実際にはその間にエホヤキムがいて、彼の名が省略されています。さらに12節には、シェアルティエルがゼルバベルを生みとありますが、その間のペダヤが省略されています。これはどういうことかというと、マタイはそういう操作をしてまで、「14」という数字にこだわったということです。

旧約聖書においては「7」という数は完全数と呼ばれ、完全さの表れを意味しています。「14」はその倍です。さらなる完全さを象徴していたのです。完全の完全です。マタイはこのことを踏まえつつ、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚、バビロン捕囚からイエス・キリストの誕生までの時が一つの完全な時であったことを示すことで、神の救いのご計画が完全な神の御業であったことを示しているのです。また、マタイはこのように系図をたどることによって、アブラハムに約束された神の救いが、いよいよ実現しようとしていることを思い起こさせているのです。そういう意味でこの系図は旧約聖書と新約聖書を結び付ける上できわめて重要なものであると言えます。マタイの福音書が新約聖書の冒頭に置かれたのは、単なる偶然ではなく、神の完全なご計画であったのです。

このような完全な神のご計画の前に、私たちに求められていることは、私たちも神の救いの約束の確かさ、完全さを信じて、アブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを救い主として受け入れることなのです。

「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:2-4)

あなたはどうですか。聖書に、このようにあらかじめ約束されていた御子イエス・キリストを信じ、この方に従っているでしょうか。主の御名を呼び求める者は、みな救われます。あなたもアブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを信じてください。