エレミヤ15章1~14節「苦難の時に生きる道」

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きょうは、エレミヤ書15章1~14節から「苦難の時に生きる道」というタイトルでお話します。苦難の時、どこに生きる道を見出すことができるかということです。結論から申し上げますと、それは神様ご自身であるということです。11節をご覧ください。「主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
  主こそ、わざわいの時、苦難の時の生きる道です。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.さばきを思い直さない神(1-4)

 まず1~4節をご覧ください。1節には、「1 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。

いのちの水の泉である主を捨て壊れた水溜めを掘ったイスラエル、ユダの民に対して、主はさばきを宣告されました。14章1節では日照りのことについて、主はエレミヤに語られました。日照りの結果干ばつが起こり、飢饉が彼らを襲うことになります。それだけではありません。14章12節には「剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす」と言われました。
  それに対してエレミヤは必至にとりなしの祈りをささげます。彼は主の御名のために、主のご性質にかけて事をなしてくださいと3度も祈りました。きょうのところは、その主の答えです。1節には「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。」とあります。どういうことでしょうか。

モーセは律法の代表者です。また、サムエルは預言者の代表者です。この二人に共通していることは、彼らがとりなしの名手であったということです。彼らは幾度となくイスラエルのためにとりなして彼らを救ってきました。でも、そのモーセやサムエルがとりなしても、主はその祈りを聞かないというのです。たとえモーセやサムエルのような偉大な信仰者がとりなしても、主がさばきを思い直されることはないというのです。モーセとサムエルの時代もイスラエルの民は神に背いていましたが、まだかわいいところがありました。というのは、神に背いても素直にみことばを受け入れ悔い改めたからです。すぐにごめんなさいと言って、私のために祈ってくださいと懇願しました。しかしこのエレミヤの時代はそうではありませんでした。手がつけられないほど反抗的だったのです。エレミヤが神のことばを語っても受け入れるどころかあからさまに反抗しました。エレミヤは涙ながらに祈ったのにそんなエレミヤを目の上のたんこぶのように邪魔者扱いしました。そして、ついには彼を殺そうとまでしたのです。エレミヤの思いに共鳴することなど全くありませんでした。そんな彼らに対して主は、たとえモーセやサムエルがとりなしてもわざわいを思い直されることはないと言われたのです。

2~3節をご覧ください。「2 彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』3 わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。」

主は彼らを四種類のもので罰すると言われました。すなわち、「死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』 」
  主は、剣で死ぬか、飢饉で死ぬか、疫病で死ぬか、それでも生き残った者は捕囚として連れて行かれることになると言われました。しかも、死んでも丁重に葬られることはありません。死体が獣に食われることになるからです。

しかし、だからと言って彼らに希望がないわけではありません。これを見たらとても希望なんかないと思われるかもしれませんが、よく見ると、主は彼らを完全に滅ぼすことを望んでいないということがわかります。一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるのです。というのは、主が本当に彼らを滅ぼそうとしておられたのであれば、こんな回りくどいことはしないからです。あのソドムとゴモラを滅ぼした時のように、天から硫黄を降らせればいいわけですから。そうすれば、一瞬にして滅びてしまいます。わざわざ日照りにしなくてもいいのです。いろいろな種類の死を与える必要もありません。一つの種類で十分です。しかも一瞬でいいのです。しかし、主はあえてそういうことをなさらずに時間をかけながら痛みを与えて罰するのは、彼らを滅ぼすことが目的ではなく、彼らを救うことが目的だったからなのです。いわばこれらの罰は彼らが主に立ち返るための道具だったのです。主はこのような厳しい対処をしながらも、決して彼らを見捨てたり、見放したりはなさいません。私たちの神様はそういう方なのです。ですから、これは滅ぼすことが目的なのではなく、あくまでも救うことを目的とした試練だったのです。バビロンに捕え移されることも、彼らにとっては異教的な環境の中で相当の苦難とストレスに苛まれることになりますが、このことを通して彼らは、あの頃がどんなに神様の恵みに満ち溢れていたすばらしい時だったかを思い出し、主に立ち返るためだったのです。それがバビロン捕囚という70年間にわたる神の懲らしめの時だったのです。

それは1章10節のところで、すでに神様がエレミヤを通して語られていたことでした。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
  これがエレミヤに与えられていた使命でした。建て上げるために壊さなければなりません。植えるために引き抜くのです。バビロン捕囚の警告のメッセージは、まさに滅ぼすメッセージでしたが、実はそれは建て上げることが目的だったのです。建設的な目的でなされたのです。

4節をご覧ください。ここには「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。

主は彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにします。これは地のすべての民がユダの民が通った悲劇を見て、恐れおののくようになるためでした。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験をしなければならなかったのかと。バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったことと思います。
  しかし、ここで特に注目していただきたいことは、その原因が「マナセがエルサレムで行なったことのためである」と言われていることです。マナセはこのエレミヤの時代から遡ること100年前の人物です。彼のことについては歴代誌第二33章1~9節にありますが、南ユダ史上最悪の王でした。彼は主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて主の目に悪であることを行ったり、天の万象を拝んでこれに仕えたりしました。また、自分の子どもたちに火の中をくぐらせたり、卜占(ぼくせん)とかまじない、呪術、霊媒、口寄せ等をし、主の怒りを引き起こしていたのです。こうしたマナセの行いが、それから100年後のエレミヤの時代に大きな影響を及ぼしたのです。こうしてみると、マナセの行ったことがその後の子孫にどれほど大きな弊害をもたらしたかがわかります。私たちの今のあり方が、後に大きな影響を及ぼすことになるということです。

Ⅱ.エルサレム滅亡の預言(5-9)

次に5~9節をご覧ください。「5 エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。6 おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。7 わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」」

  エルサレム、ユダに対する神のさばきの宣告が続きます。5節の「いったい、だれがお前を深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。」とは、だれもあわれまないということです。完全に見捨てられることになります。

7節の「熊手」とは脱穀の時に用いられる道具ですが、この熊手でもみ殻を救い上げ空中に飛ばすと軽いもみ殻だけが飛んでいきますが、そのようにユダの民を追い散らすというのです。「彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす」の「彼ら」とは、そのバビロンのことを指しています。バビロンが侵入して来て、妻子たちを奪って行くことになります。

8節の「やもめの数を海の砂よりも多くする」とは、男たちが戦いで死ぬため、皆やもめとなってしまうという意味です。
  9節には、「七人の子を産んだ女は打ちしおれ」とあります。これは、息子を戦争に送り出した母親の嘆きです。「七」が完全数であることから、これほど恵まれた女性はいない、これほど幸せな女性はいないという意味です。しかし、そのような女性でも打ちしおれてしまうことになります。それほどの悲劇なのです。

彼らは自分たちに降りかかる悲劇の根本的な理由が、彼らの罪にあることを悟るべきでした。エルサレムが滅亡したのはバビロンが強かったからではなく、イスラエルが罪を犯したからでした。私たちは苦難の原因を他人や他の環境から探そうとするのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分と神との関係はどうなのかを吟味しなければならないのです。苦難の時に生きる唯一の道は、この神との関係を回復することです。なぜなら、神はそのような者をあわれんで慰めてくださるからです。これが苦難の時の唯一の道です。

Ⅲ.神の慰め(10-14)

ですから第三のことは、そこに神の慰めがあるということです。10~14節をご覧ください。10節だけをお読みします。 「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。」

この「私」とはエレミヤのことです。エレミヤは、母が自分を生んでくれたので悲しいと言っているのではありません。そうではなく、こんな時代に生まれてしまったことを悲しんで嘆いているのです。お母さんに産んでもらったのはありがたいことだけど、この時代が悪すぎる。こんな時代に生まれて、だれも幸せになんてなれない。あまりにも悲しい。いっそのこと生まれてこない方がよかった。生まれてこない方が幸せだったと嘆いているのです。

続いてエレミヤはこう言っています。「私は全地にとって争いの相手、またまた口論する者となっている。」新共同訳聖書では、「国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。」と訳しています。そういう意味です。エレミヤは国中の人たちから嫌われていました。なぜ?神のことばをストレートに語ったからです。彼らが聞きたいようなことではなく聞きたくないようなこと、耳障りのよいことではなく悪いことばっかり語ったので嫌われていたのです。誤解もされました。彼は本当の愛国者で、そのためには命を捨てても構わないというくらい同胞を愛していたのに、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか彼を憎み、彼を殺そうとまでしたのです。

「貸したことも、借りたこともないのに」とは、何の負債もないのに、という意味です。何の負債もないのですから、何の責任もないはずです。それなのに彼は、国中の人たちに嫌われ、憎まれ、のろわれ、迫害されていたのです。あまりにも理不尽です。

それでエレミヤは自分が生まれて来たことを悲しみました。だったら生まれてこなかった方がよかったと。時として私たちもこのような自己憐憫に陥ることがあります。全く回りが見えず、自分の受けた傷にどっぷりと浸り、他のことを切り捨ててしまうことがあるのです。それは、人生を浪費させてしまう麻薬のようなものです。あわれみは、人を愛の行動に駆り立てるアドレナリンのようなものですが、自己憐憫は、逆に自分からエネルギーを全部奪い取り、自分をだめにしてしまう麻薬のようなものなのです。いったいどうしたらこの状態から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらこの問題を真に解決することができるのでしょうか。その鍵は、その問題を神様のもとに持って行くことです。

11~14節をご覧ください。「11 主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。12 人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。14 わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」」

アーメン!主はこう言われました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」そうです、真の解決は主ご自身にあります。エレミヤは抜け出すことかできない長いトンネルの中で、自分の運命をのろいながら、生まれてこない方がよかったと嘆きましたが、そんな彼に対して主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」と言われました。神はエレミヤの嘆きを聞いてくださいました。神が知ってくださる。これで十分です。これ以上の慰めがあるでしょうか。
  アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルはアブラハムのために身ごもるとサラからいじめられたので、彼女のもとから逃げ去りました。主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけとる、「あなたはどこへ行くのか。」「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低くしなさい。」といいました。そうすれば、主は彼女の子孫を増し加えると。そして、生まれて来る子をイシュマエルと名付けるようにと言いました。
  そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見る神」です。主は私を見てくださる方です。私の苦しみを知っておられる方、「エル・ロイ」と呼んだのです。自分の弱さのために悩むことが多い私たちの人生において、私を知ってくださる方がおられるということは、どれほど大きな慰めでしょう。これ以上の慰めはありません。

そして神は、エレミヤに励ましのことばをかけてくださいました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と。あなたはそんなに落ち込んでいるようだけれども、わたしはあなたを見捨てることはしない。この民のためにとりなすあなたの労苦が報われる時が必ず来る。今あなたに敵対している敵が、わざわいの時、苦難の時に、あなたにとりなしを求めてやってくるようになる、とおっしゃられたのです。すごいですね、神様の励ましは。後になって、このことばが成就することになります。エレミヤ書21章1~2節、37章3節、42章1~6節にあります。彼らはバビロンが攻めて来たとき、エレミヤのところに来て、「私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください。」(42:2)とお願いしています。するとエレミヤも「あいよ!」と言って応えます。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主にいのり、主があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」(42:4)と言っています。

皆さん、これが解決です。12節の「北からの鉄や青銅」とはバビロン軍のことです。また14節の「あなたが知らない地」もバビロンのことです。神様はエレミヤに、彼が語っていることは必ず成就するから恐れるな、と励ましてくださいました。

エレミヤは、こんなことだったら生まれてこない方がよかったと、自分の運命をのろうほど疲れ果てていたというか、ほとんど鬱状態にまで陥っていましたが、そうやって神様はエレミヤを励まして、なおも彼が主に仕えることができるように助けを与えてくださったのです。私たちが自己憐憫に陥るような悲しみの中で、それでも励まされ、助けられ、立ち上がることができる力はここにあります。神様ご自身が私たちの慰めであり、励まし、助け、希望なのです。

あなたはどうでしょうか。あなたもエレミヤのように誤解されたり、迫害されたり、全く理不尽だと思うような扱いを受けて悲しんでいませんか。もう回りも見えなくなって、こんなことなら生まれてこない方がよかったと思うほど落ち込んでいませんか。でも恐れてはなりません。あなたが神様に目を留め、神様に信頼するなら、あなたの敵でさえも、あなたにとりなしを頼みに来るようになります。そう信じて、神様から勇気と力をいただこうではありませんか。

エレミヤ14章10~22節「神のジレンマ」

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エレミヤ書14章10~22節をご覧ください。きょうは、「神のジレンマ」というタイトルでお話します。「ジレンマ」とは、互いに反対の関係にある2つの事柄の間で板挟みになる状態のことを言います。神はそのような状態にありました。17節に「あなたは彼らに、このことばを言え。「私の目には、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒しがたい。ひどい打ち傷。」主は癒しがたいイスラエルの民の傷を見て、涙を流しておられたのです。ただ彼らをさばきたいのではなく救いたいからです。なのに救えない。そのジレンマです。

Ⅰ.神のさばきの宣言(10-12)

 まず10~12節をご覧ください。「10 この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」11 主は私に言われた。「この民のために幸いを祈ってはならない。12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」」

14章前半では、日照りのことについて主のことばがエレミヤにありました。そのことばに対してエレミヤは主に祈りました。主の御名にかけて神様に訴えたのです。それは7節にあります。「主よ、あなたの御名のために事を成してください。」(7)8節では「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」と呼びました。名は体を表します。主はイスラエルの望みの神です。苦難の時の救い主です。だから、自分たちを置き去りにしないでくださいと、必死に祈ったのです。それに対する答えがこれです。

何ということでしょうか。エレミヤが必死になって祈ったにもかかわらず、主の御名に訴えてとりなしたにもかかわらず、それに対する主の答えはまことに素っ気のないものでした。いや、ひどくがっかりさせるものでした。主はこう言われました。10節、「この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
  非常に厳しい言葉です。突き放されるような思いがします。11節では、極めつけのようなことばが語られます。それは「この民のために幸いを祈ってはならない。」という言葉です。耳を疑いたくなるような言葉です。本当に神様がこんなことをおっしゃったのかと。神様がこのように民のためにとりなしてはならないと言われたのはこれが3回目です(エレミヤ7:16,11:14)。しかし、ここではもっと踏み込んで言われています。単に彼らのために祈ってはならないと言うのではなく、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたのです。私たちの神は私たちに幸いをもたらしてくださる方ではないのですか。その神様が「幸いを祈ってはならない」というのはおかしいじゃないですか。何とも冷たく突き放されるような思いが致します。本当に神様はこんなことをおっしゃったのかと耳を疑いたくなってしまいます。

そればかりではありません。12節にはこうあります。「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」どういうことでしょうか。どんなに祈っても、どんなに献げても、すなわち、どんなに礼拝しても、神様はそれを受け入れないというのです。礼拝は形ではないからです。むしろ、剣と飢饉と疫病で彼らを絶ち滅ぼすことになります。それは彼らがいのちの水である主を捨てて、壊れた水溜めを慕い求めたからです。壊れた水溜めとは偶像のことです(2:13)。彼らはまことの神を捨てて偶像を慕い求めました。その結果、このような結果を招いてしまったのです。

皆さん、この世で最も恐ろしいこととは何でしょうか。それは神様に拒絶されることです。もし私たちがささげる祈りと賛美が神に受け入れられないとしたら、これほど悲しいことはありません。神様は私たちの究極的な希望であり救い主なのに、その神様に拒絶されるとしたらそこには何の希望もなくなってしまいます。それはまさに絶望であり、破滅と死を意味します。彼らは神に背いた結果、その破滅と死を招いてしまったのです。

ここには具体的にそれが三つの災害を通してもたらされると言われています。12節にあるように、一つは剣であり、もう一つは飢饉、そしてもう一つが疫病です。剣とは争いのこと、戦争のことです。飢饉とは食べ物が不足して飢えることです。14章の前半のところでは日照りについて語られましたが、その結果もたらされるものが飢饉です。あるいは、これは物質的なことばかりではなく霊的にも言えることです。霊的に満たされない状態のことでもあります。疫病とは伝染病のことです。新型コロナウイルスもこの一つです。これらのことは世の終わりの前兆として起こると、イエス様が言われたことでもあります。ルカ21章9~11節にこうあります。 「9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」
  皆さん、世の終わりにはこういうことが起こります。すなわち、戦争や暴動、飢饉や疫病です。それは世の終わりが来たということではなく、その兆候として起こることです。そういう意味では、この世は確実に終末に近づいていると言えます。ロシアがウクライナに侵攻して1年が経ちましたが、今後世界はどのようになっていくかわかりません。まさに一触即発の様相を呈しています。その結果、エネルギー価格が高騰しかつてないほどの深刻な食料危機が引き起こされています。また、新型コロナウイルスが発生してから3年が経過しましたが、まだ終息には至っておりません。いったい何が問題なのでしょうか。多くの人は戦争や異常気象が原因だと言っていますが、聖書はもっと本質的な問題を取り上げています。それは罪です。10節にこうあります。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」主を受け入れず、さまようことを愛しています。いのちの水である主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜めを自分たちのために掘ったのです。これが罪です。その結果、こうした剣や飢饉や疫病がもたらされました。私たちは、苦難の原因を他人や環境から探すのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神様との関係が正しいかどうかを考えてみなければならないのです。私たちと神との関係が壊れると同時に、これまで努力して積み重ねてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになるからです。ただ覚えておいていただきたいことは、たとえ壊れることがあったとしてもそれで終わりではないということです。そこに赦しと回復があります。悔い改めるなら主は赦してくださるのです。

毎年自ら命を絶つ人が後を絶ちません。ちなみに、昨年一年間に日本で自殺した人の数は21,584人でした。また、アルコール依存症(80万人)や神経症(400万人)を患っている人の数も増えています。これらのことから気付かされることは、私たちは成功するための訓練は受けていても、失敗した時の訓練は受けていないということです。失敗した時にどうすれば良いのかがわからなくて苦しんでいるのです。でも私たちの人生においては、成功するよりも失敗することの方がはるかに多いのです。また、豊かさよりも貧困の方が、目的を達成するよりも挫折する方がはるかに多いのです。そうした失敗に備えることがいかに重要であるかということがわかります。

その備えとは何でしょうか。その最大の備えは、悔い改めて神に立ち返ることです。そうすれば、主は赦してくださいます。そこからもう一度やり直すことができるのです。問題はあなたが何をしたかということではなく、何をしなかったのかということです。あなたが失敗したかどうかではなく、悔い改めたかどうかが問われているのです。もしあなたが失敗しても、悔い改めるなら神は赦してくださいます。もしあなたが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪からあなたをきよめてくださると聖書は約束しています。

私たちはいのちの水である主を捨て、すぐに壊れた水溜めを掘ってしまうような者ですが、それでもまだ希望があるということです。こうした神のさばきは世の終わりの前兆であって、まだ終わりではないからです。まだ希望があります。まだ間に合います。もしあなたが自分の罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦し、回復へと導いてくださるのです。

Ⅱ.偽りの預言者(13-18)

次に、13~18節をご覧ください。イスラエルの民に対して神がさばきを宣告されると、エレミヤはあきらめないで第二の祈りをささげます。13節です。「私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧ください。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、飢饉もあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」」

  ここでエレミヤは、偽預言者たちが民に偽りを語っていると訴えています。偽預言者たちは人々に、「大丈夫、あなたがたは剣なんか見ないし、飢饉もあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える」と言っていたのです。イエス様も世の終わりにはこうした偽預言者が大勢現れると言われました。彼らの特徴はどんなことでしょうか。それは人々にとって耳障りの良いこと、都合が良いこと、聞きやすいことを語ることです。否定的なことではなく肯定的なことを語ります。罪だとか、さばきだとか、滅びだとか、地獄だとか、悔い改めだとか、そういうことは一切言いません。聞く人にとって都合がよいことばかり、耳障りのよいことばかりを語るのです。ですから、彼らはエレミヤが語ることを全部否定しました。剣なんて見ることはないし、飢饉も起こらない。かえって、まことの平安が与えられると。エレミヤは相当困惑したことでしょう。自分が言っていることをすべて否定されるのですから。エレミヤだってそんなことは言いたくありませんでした。できれば平安を語りたい。災いが降りかかるなんて口が割けても言いたくないです。でも、主が言われるから、主が言われた通りに語ったわけですが、それとは全く反対のことを言う者たちがいたのです。偽預言者たちです。彼はここでそのことを訴えているのです。

  それに対する主の答えが14~18節の内容です。「14 主は私に言われた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、空しい占いと、自分の心の幻想を、あなたがたに預言しているのだ。15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』16 彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」」

どういうことでしょうか。彼らは主の名によって預言していましたが、主は彼らを遣わしたこともなく、命じたこともなく、語ったこともない、と言われました。彼らは偽りの幻と、空しい偽りと、自分の心の幻想を、語っていただけでした。彼らは勝手に神の御言葉を解釈し、自分たちに都合がいいように適用していました。私たちも神の御言葉を預かる者ですが、彼らのように自分に都合が良いように解釈することがないように注意しなければなりません。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)

15節と16節には、神はそのような預言者を罰し、またその偽りの預言者に従った者も罰するとあります。そのような預言者だけではないのです。その偽りの預言者に従った者も罰せられることになります。なぜなら、民には、真の預言者と偽預言者とを判別する責任があったからです。ではどうやってそれを判別することができるのでしょうか。イエス様はこう言われました。「16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:16-19)
  実によって見分けることができます。茨からぶどうが、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。イエス様は、木と実のたとえによって、人の内面と外面との密接な関係性を語られました。木の品質は必ず実に現れるということです。それは人間も同じで、聖霊によって内面が霊的に生れ変っている人とそうでない人とでは外側からは分らないかも知れませんが、結ぶ実が違います。イエス様が問題にされたのはその人間の内面です。クリスチャンであるとはその内面の中心に関ることであって、単に行いのある部分がキリスト教的であるということではありません。クリスチャンであるとは、そうでない生き方にキリスト教的要素が少し付け加えることではないのです。御霊によって生まれ変わったクリスチャンは内面が変えられていくのです。人格の中心である心そのものが、自分中心から神中心へと変わるので、自我に囚われていた自分が神の僕(しもべ)となり、神がキリストを通して下さる全く新しい価値観や人生観、喜び、使命に生きる者へ変えられていくのです。勿論、完全にそうなるということではありません。失敗することもあります。でもその失敗しても本質的にそこに向かっているということです。

エレミヤ書に戻ってください。その上で主はこう言われるのです。17~18節です。「17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」どういうことでしょうか。

この「私の目は」の「私」は漢字で書かれているので、これはエレミヤの目のことですが、実は神の目でもあります。それはその後に「おとめである娘、私の民」とあることからもわかります。この「私」とは、明らかに神様のことです。ですから、エレミヤの目は、昼も夜も涙を流して止まることがなかったように、神様の目もまた涙を流し止まることがなかったのです。神はイスラエルの民にさばきを宣告しましたが、その心は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられたからです。ここに神のジレンマがあります。神様はこの民のために祈ってはならないと冷たく突き放しているかのようですが、実際は、神のおとめである神の民が一人も滅びることがないようにと憐れんでおられるのです。それなのにおとめである娘たちは頑なにそれを拒んでいました。神様の憐れみを受けたければ、頑なであることを止めなければなりません。砕かれなければならないのです。でも彼らは頑なであり続けました。ですから神は憐れみたかったのにできなかったのです。さばきの宣告をせざるを得ませんでした。それがこの涙に表れているのです。

イエス様も同じです。ルカ19章41~42節にこうあります。「41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
  エルサレムに近づいて、都をご覧になられたイエス様は涙を流されました。それはエルサレムが滅んでほしくなかったからです。神の民が滅んでほしくなかった。だからこの都のために泣いて、十字架にまでかかって死んでくださったのです。それなのに彼らは神の愛を受け入れませんでした。だからさばきを免れないのです。まさに断腸の思いです。腸が引きちぎれそうになる思いで語られたのです。

エレミヤも同じです。断腸の思いでした。もう涙せずにはいられませんでした。可哀そうだ!あまりにも不憫でならない!憐れまずにはいられない!でも、彼らはその憐れみを受け取ろうとしませんでした。だからさばきを宣言しなければならなかったのですそれが辛かったのです。そう言わなければ自分も偽りの預言者になってしまいますから。神はご自身を否むことがない真実で正しい方とありますが、そうでなくなってしまいます。だからさばきを宣告しなければならなかったのです。でも滅んでほしくない、救われてほしい、その狭間でエレミヤは苦しんでいたのです。

それは私たちも同じです。私たちも一人も滅びないでほしいからこそ必死になって福音を伝えています。でもその反応というのは、必ずしもこちらが期待するものではありません。世の終わりが来るとか、神のさばきがあるとか、地獄があるとか、そんなのどうでもいいとか、聞く耳を持ってくれません。だから、同時にさばきも宣言もしなければならないのですが、でもこんな厳しいことばを言ったら嫌われてしまいます。その人が心を閉ざしてしまうのではないか。今までの良好な関係だったのにその関係が壊れてしまうのではないかと恐れるのです。口も効いてもらえなくなるかもしれない。そう思うと耳障りのいいことを言ってしまう誘惑にかられるのです。今はちょっと頑なだけれども、ちょっとしたら柔らかくなるのではないか、それこそ寝たきりになったらチャンスかもしれないとか。でもその時が来るとは限りません。だから私たちはエレミヤのように必死になってとりなし、必死になって福音を語ったうえで、それでも聞かなければ聖書が言っていることをそのまま語らなければならないのです。これが私たちのミニストリーなのです。きついですね。信じるも信じないもあなた次第です、ではないのです。それでは偽預言者になってしまいます。本物の預言者は信じても信じなくてもいいではなく、信じるか、信じないかです。天国か地獄か、いのちか滅びか、祝福かのろいか、その中間はありません。信じなくてもいいなんていう選択はないのです。それは耳障りのいい話であり、偽りの平安です。それでは偽預言者になってしまいます。

最近、Facebookでつながっているある方から1冊の本が贈られてきました。タイトルは「セカンドチャンスの福音」です。またかと思って1ページを開いた「はじめに」のところに次のように書かれてありました。
  クリスチャンは、「自分が死んだら天国へ行ける」と信じることができます。聖書にそう約束されているからです。では、私たちの身近な人や、家族や親族、友人などで、未信者の方が亡くなった場合はどうでしょうか。たとえばある親御さんが、こう打ち明けてきたら、あなたは何と答えますか。
  「先月、長男が交通事故で亡くなってしまったのです。突然のことでした。大学卒業を間近に控えた時でした。神様にも関心を持つことはありませんでした。あの子は今どこにいるのですか。どうか教えてください。」 そう涙ながらに懇願された場合、答えに窮する方は多いのではないかと思います。
  まず親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切でしょう。その上で適切な答えをしてあげることが大切です。けれどもこの時、慰めと平安を与えることのできる人が、どれほどいるでしょうか。
  このような時、間違っても「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言ってはいけません。地獄に行っていないからです。お子さんは陰府(よみ)に行っています。陰府と地獄は別です。
  一方、このとき明確な答えを避けて、「わかりません」「どこに行ったかは神様におまかせすることですよ」等と答える方もいるでしょう。しかしそのような答えでは、尋ねたかたは決して満足しないでしょう。その人は明確な答えを求めているからです。
  もし、このような場合、明確な答えができない、あるいは慰めと平安を与える答えができないのであれば、それはあなたがまだ聖書的な死後観を持っていないということなのです。
  もし聖書的な死後観を身につけるなら、このような場合にも明確で、慰めと平安の答えをすることができます。本書でこれから解説しようとするのは、そのような聖書的な死後観です。

皆さん、どう思いますか。聖書のことを知らなければ、「ああ、そうなのか、死んでからでも救われるチャンスがあるのか」と思ってしまうでしょう。これが聖書が言っている福音でしょうか。違います。聖書はそんなこと一言も言っていません。聖書が言っていることは、「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」ということです。イエス様はこう言われました。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)
  ここで「光があるうちに」と言われているのは、直接的には光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまうということです。これがイエス様が言われたこと、聖書が教えていることです。これが福音です。それなのに、どうしてこの福音の真理を曲解するのでしょうか。先ほどの言葉を聞いていて何かお気づきになられたことがありませんか。そうです、それを聞いた人が慰めと平安を与えられるかどうかということに重きを置いていることです。確かに親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切です。確かに「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言うことは控えるべきでしょう。でも聖書にはどこへ行ったのかを明確に示されているので、それと違うことを言うのは控えなければなりません。確かに人は死んだらすぐに地獄に行くのではなく陰府へ行きますが、そこはもう一度悔い改めるチャンスが与えられるところではないのです。そこは死刑を待つ犯罪人が留置されている場所のようなところで、その行先が地獄であることが決まっています。ただ、福音を聞く機会のなかった人が聞くチャンスはあるかもしれません。でもそれは現代においてはあり得ないことです。なぜなら、現代では世界中のいたるところに十字架が掲げられているからです。しかし亡くなったご家族にそれをその場で伝えることはふさわしくないので、「わかりません」「神様にゆだねましょう」と答えるのが最善だと思います。あたかも死んでからでも救われる機会があると伝えることは間違っています。福音ではありません。それでは、ここに出てくる偽預言者たちのようになってしまいます。

エレミヤは嫌われても、拒まれても、神が語れと言われたことを忠実に語りました。でもそれがあまりも厳しかったので回りから嫌われ、憎まれ、殺されそうになりました。それでもエレミヤはただ神のさばきを宣言するだけで終わりませんでした。涙を流して、祈って、必死にとりなして、そのさばきを主にゆだねたのです。それが私たちにゆだねられているミニストリーなのです。

Ⅲ.だから悔い改めて(19-22)

ですから、第三のことは、だから悔い改めてということです。19~22節をご覧ください。「19 「あなたはユダを全く退けられたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜ、あなたは私たちを打ち、癒やしてくださらないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません。20 主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。22 国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。私たちの神、主よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」」

エレミヤの祈りに対する神の答えを聞いて、エレミヤはここで再度とりなしの祈りをささげています。必死に食い下がっているのです。つい先ほど、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたにもかかわらずです。これがエレミヤの心でした。そしてこれが神の心でもあったのです。幸いを祈ってはならないと言いながらも、そういう厳しいことを言いながらも、彼らにさばかれないでほしい。彼らが神様に立ち返ってほしい。神様はそう願っておられたのです。神様はあわれみ深い方なのです。エレミヤは預言者でしたが、預言者というのは神のことばを取り次ぐ人のことです。ですから、彼は預言者として神のことばを取り次いでいましたが、それだけでなく彼は、神の心も取り次いでいたのです。これが神の御心でした。エレミヤの姿を見て私たちも痛ましいほどの主の愛に心が動かされるのではないでしょうか。そこまで主は愛してくださるんだと。そこまで思ってくださるんだと。
  エレミヤも民に憎まれ、迫害されて、そんな連中なんてもうどうなってもいい、滅んだほうがいいとすら思っても当然なのに、そんな民のために必死になってとりなしました。それこそが、神が私たちに抱いている思いです。

ここでエレミヤはどのように祈っているでしょうか。21節を見ると、エレミヤは三つの理由を挙げて祈っています。第一に、御名のために私たちを退けないでほしいということです。ここに「御名のために、私たちを退けないでください。」とあります。この御名のためにというのは前回お話したように主のご性質にかけてということです。主は憐れみ深く恵み深い方なのにイスラエルを滅ぼすようなことがあるなら、神の御名に傷がつくことになります。そんなことがあってはならない。あなたの御名のために、この民を退けないでください、そう祈ったのです。
  第二に、彼は栄光の御座を辱めないでくださいと祈りました。栄光の御座とは、神が臨在しておられる所です。神殿で言うなら、約の箱が置かれている至聖所のことです。そこは神の栄光で輝いていました。そこに主が臨在しておられたからです。その栄光の御座が辱められることがないために、自分たちを退けないでくださいと祈ったのです。
  第三に、彼は「私たちとあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」と祈りました。神がイスラエルの民との契約を破棄するなら、神のことばは信頼できないものになってしまいます。神が真実な方であるのは、その契約をどこまでも守られるからです。その契約を覚えていてくださいと訴えたのです。

八方塞がりになったとき、あなたはどこに希望を見出していますか。私たちが希望を見出すのはこのお方です。イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主、私たちの主イエス・キリストです。この方は決してあなたを決して見離したり、見捨てたりすることはありません。あなたの罪のために十字架でいのちを捨ててくださるほど愛してくださった主は、そして三日目によみがえられた主は、世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださいます。そして、あなたを絶望の中から救い出してくださいます。その恵みは尽きることはありません。私たちの主は真実な方だからです。神の激しいさばきの宣告の中にも、主の憐れみは尽きることがないことを覚え、悔い改めて今、主に立ち返ろうではありませんか。

Ⅱ列王記3章

 今回は、Ⅱ列王記3章から学びます。

 Ⅰ.イスラエルの王ヨラムとユダの王ヨシャファテの失敗(1-12)

まず、1~12節までをご覧ください。3節までをお読みします。「1 アハブの子ヨラムは、ユダの王ヨシャファテの第十八年に、サマリアでイスラエルの王となり、十二年間、王であった。2 彼は主の目に悪であることを行ったが、彼の父母ほどではなかった。彼は、父が作ったバアルの石の柱を取り除いた。3 しかし彼は、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪に執着し、それから離れることがなかった。」

ユダの王ヨシャファテの第18年に、北イスラエルの王アハブの子ヨラムが王になりました。ヨラムはアハブの2番目の息子です。1章に長男のアハズヤのことが記録されてありました。彼は屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥り、エクロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てましたが、結局エリヤの預言の通り死にました。その後を継いだのが弟のヨラムです。彼は北イスラエルを12年間治めました。そのヨラムについての言及がここに記されてあります。

2節によると、彼は主の目に悪であることを行ったが、彼の父母ほどではなかったとあります。彼の父母はアハブとイゼベルで、北イスラエル王国史上最悪の王でした。イスラエルにバアル礼拝を導入したからです。ヨラムはそれほど悪くはありませんでした。でも主の目に悪であることを行いました。彼は父アハブが導入したバアル信仰を排除しましたが、北イスラエル王国の初代の王であったヤロブアムの罪から離れなかったからです。つまり、バアル礼拝を排除しましたが、金の子牛を神とする信仰は捨てなかったということです。彼は父母の最期を見て、自分なりに考えるところがあったのでしょう。それで外面的にはバアル像を取り除き、体裁を整えましたが、自分の内側にある偶像を取り去りませんでした。でも大切なのは体裁を整えることではなく内側が変えられることです。なぜなら、神との関係は外側からではなく内側から築き上げられるものだからです。それは聖霊の働きによってのみ可能なことなのです。そして、イエス・キリストを信じる時、その変化が起こります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5:17)とある通りです。イエス・キリストを信じ、ご聖霊の働きによって、日々私たちの心を変えていただきましょう。

次に、4~8節までをご覧ください。「4 さて、モアブの王メシャは羊を飼っていて、子羊十万匹と、雄羊十万匹分の羊毛をイスラエルの王に貢ぎ物として納めていた。5 しかしアハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に背いた。6 そこで、ヨラム王はその日にサマリアを出発し、すべてのイスラエル人を動員した。7 そして、ユダの王ヨシャファテに人を遣わして言った。「モアブの王が私に背きました。私と一緒にモアブに戦いに行ってくれませんか。」ユダの王は言った。「行きましょう。私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」8 そして言った。「どの道を上って行きましょうか。」するとヨラムは、「エドムの荒野の道を」と答えた。」

アハブの子ヨラムの時代に、モアブの王がイスラエルに背きました。アハブ王の時代に北王国イスラエルの隷属国家となったモアブは、毎年、いやいやながら貢物を収めていましたが、アハブ王が死ぬと、ここぞとばかり、イスラエルに背いたのです。アハブの後継者となったアハズヤはモアブに対して何の手も打ちませんでしたが、その弟のヨラムは、モアブ制圧するために直ちにイスラエル軍を動員しました。

ヨラムはその際にユダの王ヨシャファテに人を遣わして、一緒にモアブとの戦いに行ってくれるように要請しました。するとヨシァファテは何と答えましたか。7節です。彼はこう言いました。「行きましょう。私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」(7)

彼は調子に乗るタイプの人間でした。頼まれると何も考えずに「あいよ」と受け入れてしまう人間だったのです。これが初めてではありません。これは2回目です。最初はⅠ列王記22章4節にありますが、彼はイスラエル王アハブに協力してアラムとの戦いに参戦した際、殺されかけたことがありました。ヨシャファテはここで再び同じ失敗を繰り返しているのです。人は一度失敗しても懲りないで、同じ失敗を繰り返してしまうということです。わかっちゃいるけどついつい調子に乗ってしまうのです。しかし神は、そんな彼の愚かな失敗を用いてさえ奇跡を行い、ご自身の栄光を現わされます。それがこの後で見るエリシャの奇跡です。神は人の失敗さえも用いてご自身の栄光を現わすことがおできになる方なのです。このようにして見ると、パウロがローマ11章33節で語ったことばが心に響いてきますね。

「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」

神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょうか。神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。私たちも失敗や過ちを繰り返すような愚かな者ですが、神の知恵と知識の富の深さに信頼し、神にすべてをゆだねたいと思います。

その神の御業がどのようなものだったかを見ていきましょう。ヨシァファテが「どの道を上って行きましょうか。」と言うと、ヨラムは「エドムの荒野の道を」と答えました。死海の北側からモアブに入ることもできますが、ヨラムは南側のルートであるエドムの荒野を通る道を選びました。

9~12節までをご覧ください。「9 こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、後について来る動物たちのための水がなくなった。10 イスラエルの王は、「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と言った。11 ヨシャファテは言った。「ここには、主のみこころを求めることができる主の預言者はいないのですか。」すると、イスラエルの王の家来の一人が答えた。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」12 ヨシャファテが、「主のことばは彼とともにあります」と言ったので、イスラエルの王と、ヨシャファテと、エドムの王は彼のところに下って行った。」

こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけて行きましたが、七日間も回り道をしたので、水がなくなってしまいました。乾燥地帯では、これは非常に危険なことです。するとイスラエルの王(ヨラム)は、主につぶやき嘆いて言いました。「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」

おもしろいですね、彼は自分の考えによって計画を立てて動いて来たはずなのに、困難に遭遇するとそれを神のせいにしています。それは不信者の特徴です。

そんなイスラエルの王ヨラムと違い、ユダの王ヨシァファテには信仰が残っていました。彼もまた主のみこころを求めることなく行軍を開始しましたが、それでも困難に遭遇した時に、主に助けを求めました。彼は「ここには、主のみこころを求めることができる預言者はいないのですか」(11)と言っています。

するとイスラエルの王の家来の一人が、シャファテの子でエリシャという人がいること、そして彼はあの預言者エリヤの手に水を注いだ人物だと言うと、「主のことばは彼とともにあります」と言って、イスラエルの王と、ヨシャファテと、エドムの王の3人はエリシャのところへ下って行きました。「エリヤの手に水を注いだ」というのは、エリヤに仕えた者という意味です。どうしてここにエリシャがいたのかはわかりません。当時は、預言者や占い師たちが軍隊に同行するのが一般的でしたので、それでエリシャも彼らに同行していたものと思われます。「主のことばは彼とともにある」とは、彼が真の預言者であるという意味です。通常は、預言者が王の前に出てくるものですが、ここでは王たちが彼のもとに下って行きました。それだけエリシャの権威が高く評価されていたということです。

ここに一つの対比が見られます。すなわち、主に拠り頼む者とそうでない者人です。ヨラムとヨシャファテは困難に遭遇した時右往左往しましたが、エリシャは全く動じませんでした。常に主のみこころを求めながら生きる人は、風に揺らぐ葦のようではなく、どんな強風でも動じない大木のように生きることができるのです。

Ⅱ.エリシャの預言(13-19)

次に13~19節をご覧ください。「13 エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか。あなたの父の預言者たちや、母の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ。」14 エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。15 しかし今、竪琴を弾く者をここに連れて来てください。」竪琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、16 彼は次のように言った。「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』17 主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』18 これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。19 あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」

すると、エリシャはイスラエルの王に言いました。「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか。あなたの父の預言者たちや、母の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」と。

あなたの父母の預言者たちとは、バアルの預言者たちのことです。つまり、私はあなたと何の関係もないのだから、何か尋ねたければバアルの預言者たちの所へ行って助けを求めればいい、という意味です。

するとイスラエルの王はとんでもないことを言います。自分たちをモアブの手に渡すために呼び集めたのは主であると。主がそんなひどいことをするはずがないじゃないですか。それは身から出た錆、全部自分たちの考えに従って行動した結果です。それなのに、こんなことになったのは主のせいだと責任をなすりつけるのはひどい話です。

それでエリシャは、イスラエルの王に関わることを避けたかったのですが、ヨシャファテ王の顔を立てるために、すなわち、ヨシァファテ王への敬意のゆえに、この問題に介入しようと言いました。どのように介入するのでしょうか。

彼は、琴を弾く者を連れて来るようにと言います。そしてその琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、主の手がエリシャに下り、こう言いました。「16主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』17 主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』18 これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。19 あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」」

どういうことでしょうか。涸れた谷に超自然的に水が溜まるということです。風を見なくても、大雨を見なくても、この涸れた谷には水が溢れるようになるので、兵士たちも家畜も、動物もこれを飲むようになります。新改訳第3版では、「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』」と訳しています。新共同訳聖書もそうです。英語のNKJVもそうです。谷が涸れているのですからみぞを掘る必要などありませんが、神の御業をより印象付けるためにその涸れた谷にみぞを掘るようにと言うのです。主がその涸れた谷を水で溢れさせてくださるからです。人には水を創り出すことはできませんが、神が与えてくださる水を受け取るためのみぞを掘ることはできます。同じように、私たちは主が私たちの器を水で溢れさせてくださるために整えなければなりません。

しかし、これが主のなさりたい最終的なゴールなのではありません。これは主の目には小さなことです。主の成さりたい最終ゴールは、モアブを彼らの手に渡されることです。それが本当に成されることを示すために、主はこの涸れた谷を水で満たされる奇跡を見せてくださったのです。20節を見ると、エリシャが言ったように、エドムの方から水が流れて来て、その地は水で満たされました。

Ⅲ.モアブの敗北 (20-27)

最後に、20~27節をご覧ください。「20 朝になって、ささげ物を献げるころ、なんと、水がエドムの方から流れて来て、この地は水で満たされた。21 モアブ人はみな、王たちが自分たちを攻めに上って来たことを聞いた。よろいを着けることができる者はすべて呼び集められ、国境の守備に就いた。22 翌朝早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていた。モアブ人は、向こう側の水が血のように赤いのを見て、23 こう言った。「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士討ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」24 彼らがイスラエルの陣営に攻め入ると、イスラエルは立ってモアブ人を討った。モアブ人はイスラエルの前から逃げた。イスラエルは攻め入って、モアブ人を討った。25 さらに、彼らは町々を破壊し、すべての良い畑にだれもが石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒した。ただキル・ハレセテにある石だけが残ったが、その町も石を投げる者たちが取り囲み、これを打ち破った。26 モアブの王は、戦いが自分に不利になっていくのを見て、剣を使う者七百人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしたが、果たせなかった。27 そこで、彼は自分に代わって王となる長男を取り、その子を城壁の上で全焼のささげ物として献げた。このことのゆえに、イスラエル人に対する激しい怒りが起こった。そこでイスラエル人は、そこから引き揚げて、自分の国へ帰って行った。」

朝になると、水がエドムの方から流れて来て、その地が水で満たされました。主の奇跡が起こったのです。モアブ人たちはみな、イスラエルの王、ユダの王、エドムの王たちが自分たちを攻めに上って来たことを聞くと、可能な限りの兵士を動員して、エドムとモアブの国境地帯に軍を配備しました。翌朝、彼らが早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていましたが、モアブ人たちは向こう側の水が血のように赤いのを見て、それはきっと王たちが切り合って、同士討ちをしたに違いないと思い、分捕りに行こうと言いました。すなわち、戦死した兵士たちから武器を略奪すべきだと判断して、戦いの準備のないまま敵陣に突入したのです。その結果、イスラエルは立ってモアブ人を討ったので、モアブ人はイスラエルの前から逃げ去りました。イスラエルは攻め入ってモアブを討ったので、イスラエルの大勝利に終わりました。さらにイスラエルは町々を破壊し、すべての良い畑にだれもが石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒しました。モアブの王は、戦いが自分たちに不利になっていくのを見て、兵士700人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしましたが、果たせませんでした。

それでモアブの王はどうしたたかというと、自分に代わって王となる長男を取り、その子を城壁の上で全焼のささげ物として献げました。全く忌まわしいことです。モアブの王は最後の抵抗を試みて精鋭部隊をエドムに送り込もうとしましたが、失敗しました。けれども、イスラエル人を撤退させるのに、結果的に効果的な方法を取りました。それは自分の息子を、モアブの神ケモシュにささげることです。そうすることで、イスラエルに対する激しい怒りが起こることになるからです。人間の生贄は、当時、異教の中ではごく普通に行なわれていましたが、それがイスラエルが原因であるとなると、そこには激しい怒りが引き起こされることになります。結局、イスラエル人は、そこから撤退し、自分の国へ帰って行くことになりました。その怒りがいわば抵抗勢力となったのです。また、それが城壁の上で行なわれたことで、イスラエル人がそれを見て嫌悪感を持ったこともその理由です。

しかし、そうした忌まわしい嫌悪感を抱くような偶像礼拝を見せられながら、イスラエルはその後、そうした偶像礼拝にどっぷりと浸かるようになります。このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。そうした状況に陥ることがないように、主のみこころは何か、何が良いことで正しいことなのかを知り、主のみこころに歩ませていだきましょう。

エレミヤ14章1~9節「苦難の時の救い主」

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エレミヤ書からお話しています。きょうは、エレミヤ書14章1~9節から「苦難の時の救い主」というタイトルでお話します。8節に「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」とあります。そうです、イスラエルの神、主は、苦難の時の救い主なのです。それこそ、苦しい時の神頼みです。それでいいんです。苦しい時に本当に頼りになるのはこの方しかいないのですから。私たちの神様は、苦しい時に救ってくださる方です。きょうはこのことについてお話したいと思います。

Ⅰ.日照りのことについて(1-6)

 まず1~6節をご覧ください。ここにはユダの民の苦しみについて描かれています。「1 日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。2 「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。3 高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」」

日照りのことについて、エレミヤに主のことばが下りました。「日照り」とは雨が降らない状態のことです。ここでは「日照り」ということばが複数形になっていますから、一度だけでなく何度も起こることを意味しています。その結果、ユダは悲惨な状態となります。それは自然災害ではなく、イスラエルの罪の結果もたらされるものでした。エレミヤ書2章13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」とありますが、彼らは二つの悪を行いました。一つは「いのちの水の泉」である主を捨てたということです。そしてもう一つの罪は、「多くの水溜を掘った」ということです。しかも水を溜めておくことができない壊れた水溜めです。これは偶像のことです。彼らは自分たちを救うことができない偶像に頼りました。彼らにとって主なる神だけがまことの生ける水であったのに、主だけが渇いた心を潤すことができたのに、その主を捨てて偶像に走ってしまったのです。その結果、日照りがもたらされることになりました。

イスラエルでは、水はとても貴重なものでした。オイルとか鉱石といったものよりもはるかに価値あるものだったのです。日本では水道の蛇口をひねればすぐに水が出てきますが、イスラエルではそうではありません。水はまさにいのちを繋ぐものでした。水が無ければ生きていくことができませんでした。それは彼らにとって最も大事なもの、いのちよりも大事なものであったのです。あなたにとって最も大事なもの、欠かすことができないものは何でしょうか?それが私たちの神でなければ、それは壊れた水溜めに水を溜めておくようなものです。水を溜めておくことができません。渇きを満たすことはできないのです。一時的に満たすことができるかもしれませんが、ずっと満たすことはできません。
 イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)
 神だけがあなたの心を満たすことができます。神だけがあなたにいのちの水を与えることができるのです。ですから、この生ける水を捨てたら日照りになってしまいます。干ばつがあなたを襲うことになるのです。

 それは、いにしえからの昔から警告されていたことでした。たとえば、申命記28章24節にはこうあります。「主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」聖書では、雨は祝福の象徴として描かれています。聖書が教えていることは、もし神の御声に聞き従うならば豊かに雨が降り、従わなければ日照りが来るということです。そのように警告されていたのです。ですからこれは初めてのことではありません。エレミヤの時代から遡ること千年も前からモーセの律法を通して何回も繰り返して語られていたことだったのです。それが今ここでもう一度語られているのです。千年前のいにしえの昔からの警告が、このエレミヤの時代に現実のものとなりました。

その日照りのことについて何と言われているでしょうか。2~3節をご覧ください。「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。」

ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地にひれ伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声を上げることになります。「門」とは権威のシンボルです。そこは権威と格式がある場所で、そこで町の役人たちが問題について討議したり、商人たちが取引を行ったりしていました。その門が打ちしおれることになります。一切の権威が失墜してしまうのです。

「高貴な人」とは、社会的に地位の高い人のことです。そうした高貴な人が召使いに水を汲みに行かせますが、彼らが水溜めのところに来ても水は見つからず、空の器のまま帰ることになります。「水溜め」とは「貯水槽」のことです。貯水槽が空っぽなので町が全く機能しないのです。政治、経済、宗教、その他すべての活動が停止状態になります。水がないと何もすることができないからです。同じように私たちも、いのちの水である神様がいなければ何もできません。イエス様はご自身をぶどうの木にたとえてこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)
 私たちもイエス・キリストなしでは何もすることができません。ただ渇くだけです。ここでは「彼らは恥を見、卑しめられて、頭をおおう。」とあります。「頭をおおう」とは、苦悶のしるしです。日本語で「頭を抱える」と言いますが、まさにそういった状態になるのです。

それはエルサレムだけではありません。4節をご覧ください。ここには、農村部までも深刻な影響を及ぼすと言われています。「4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。」

以前もお話しましたが、イスラエルには乾季と雨季の二つの季節しかありません。この雨季に雨が降らないと深刻な状態になります。その雨季は秋と春の二回です。秋の雨は収穫が終わった後の9~10月頃に降る雨で、「先の雨」と呼ばれています。この雨は、次の作物の種を蒔くために欠くことができない雨です。そうでないと地面が割れて種を蒔くことができないからです。一方、春の雨は3~4月頃に降る雨で、「後の雨」と呼ばれています。この雨が降らないと収穫を期待することができません。作物が実らないからです。ここでは「地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう」とありますから、9~10月頃に降る秋の雨、先の雨のことを言っています。この雨が降らないと地面が割れて、種を植えることができません。それで農夫たちは恥を見、頭をおおうことになるのです。

それだけではありまん。5~6節をご覧ください。「5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」どういうことでしょうか。この日照りによって野山にいる動物たちも大きな影響を受けることになるということです。つまり、エルサレムだけでなく、農村部だけでもなく、野山に至るまで国全体が打撃を受けることになるということです。国全体が疲弊してしまうことになります。しかも人間だけでなく動物に至るまでもです。野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てることになります。若草がないからです。自分が食べるのもやっとで、母乳をあげることもできません。子どもを捨てなければならないほど追いつめられるのです。雌鹿はイスラエルでは最も美しい動物のシンボルとなっています。その美しく優しい雌鹿ですら、そうならざるを得なくなるのです。

また、野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる、とあります。青草がないからです。聖書では、野ろばは最もたくましい強靭な動物のシンボルとして描かれていますが、その野ろばですら、ジャッカルのようにあえぐようになります。ジャッカルは、廃墟と化した町に住む獣として聖書に描かれていますが、そのようになってしまうのです。青草がないからです。

いったいどうしてこのようなことになるのでしょうか。それは先に申し上げたように、イスラエルの民が彼らの神、主を捨てたからです。13章22節には、「あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたがたの多くの咎のためだ。」とある通りです。現代は、自分の力で何でもできると考えがちです。しかし、私たちと神様との関係が正しくなければ、神が天から雨を閉ざされることもあるということを覚えておかなければなりません。私たちの物質的祝福は、すべて天からの恵みとして与えられているのです。それは、神との関係によってもたらされるのです。それなら、私たちは神との関係をより親密なものにするようにすべきではないでしょうか。
  新年の礼拝でホセア書6章3節からお話しました。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 今は後の雨の時代です。主が暁の光のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られ、私たちの心を聖霊の雨をもって潤してくださるように、主を知ることを切に追い求めましょう。

Ⅱ.主の御名のために(7)

次に7節をご覧ください。「7 「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。

このようなイスラエル、南ユダの状況を見せられて、エレミヤはいてもたってもいられなくなり、とりなしの祈りをささげます。7章16節には、「あなたは、この民のために祈ってはならない。」と言われていたにも関わらず、です。また、11章14節でも、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」と言われていたにも関わらず、です。エレミヤは2回も彼らのために祈ってはならないと言われていたにも関わらず、それを破ってまでもとりなしの祈りをささげたのです。ユダの惨状を見て、黙っていることなどできなかったからです。

エレミヤはどのように祈りましたか。彼はまず「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。」と祈りました。「彼らの咎が」ではなく「私たちの咎」です。「彼らの背信」ではなく「私たちの背信」です。「私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と祈りました。つまり、エレミヤはユダの民と一つになっているのです。その上で、正直に自分の罪を認めて告白しました。「まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と。エレミヤは罪の赦しを受けるために必要なことは何かを知っていました。それは罪を認め、主の御前に告白することです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあります。私たちは罪人です。あなたの前に罪を犯しましたと認めてそれを言い表すなら、神はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

もう一つのことは、エレミヤはここで「主よ、あなたの御名のために事をなしてください」と祈っていることです。私たちはこんなに苦しんでいるのですから、もうすべてを失ってしまったのですから、ですから私たちのために事をなしてくださいというのではなく、あなたの御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。どういうことでしょうか。
 「名は体を表す」と言いますが、名はその人自身、その人の性質を表しています。たとえば、私は「大橋富男」という名前ですが、この名前は私を表しているんです。つまり、私は富んでいる男なのです。物質的には富んでいませんが、霊的には富んでいます。イエス様を信じたことで神の子とされ、神のすべての資産を受け継ぐ者とされました。ですから、富んでいる男なんです。いい名前ですね。お母さん、ありがとうです。それまではあまりいい名前だと思いませんでした。なんでこんな名前にしたんだろうと、ちょっとコンプレックスがありました。響きがよくない。どうせだったら、「翔平」が良かった。大橋翔平。どうしてこんな名前にしたのかとある時母に聞いたことがあります。そしたら母が教えてくれました。それは兄のクラスにとても頭のいい子がいて、その名前にすれば頭がよくなるんじゃないかと思ったと。何と単純な理由なんだろうとがっかりしましたが、クリスチャンになってから考えてみたら、いや、なかなかいい名前じゃないかと思うようになりました。私は神と人々の大きな架け橋となってイエス様の愛をもたらしていくという意味で富んでいる男だと。Big Bridge Rich Manです。このように、名は体を表しているのです。
  エレミヤがここで「あなたの御名のために事をなしてください」と祈ったのは、この神のご性質に訴えたからです。自分たちの行いによるなら今受けている災いは当然の結果です。私たちが罪を犯したのですから、すべてを失って当たり前です。でもあなたはあわれみ深い方ですから、そのあわれみによって赦してくださいと祈っているのです。

出エジプト記34章6~7節にこうあります。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」主は咎と背きの罪を赦される方です。主よ、あなたの御名のために事を成してください。あなたはこういう方ではありませんか。あわれみ深い方、情け深い方、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられる方。ですから、主よ、あなたのその御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。先ほど引用したⅠヨハネ1章9節もそうですね。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」ここには「神は真実な方」とあります。真実とは何ですか。約束を守られる方という意味です。ですから、私たちは罪を言い表すことができるのです。神は真実な方ですから。神はあわれみ深く、情け深い方ですから、怒るのに遅く、恵み深い方ですから、咎と背きの罪を赦してくださる方ですから、この御名によって祈ることができるのです。

Ⅲ.苦難の時の救い主(8-9)

第三に、エレミヤが訴えたもう一つの主の御名、主のご性質を見て終わりたいと思います。8~9節をご覧ください。「8 イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。9 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。主よ。あなたは私たちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。私たちを置き去りにしないでください。」」

エレミヤの祈りが続きます。ここでエレミヤは、「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ」と言っています。これも主のご性質です。主はイスラエルの希望である方、私たちの希望なる方です。エレミヤは今、エルサレムを見ても、農村を見ても、野山を見ても、どこにも希望を見出すことができませんでした。どこを見ても、あるのは絶望だけでした。今はそういう時代じゃないですか。どこに希望があるでしょうか。若い方々に聞いてみてください。希望がありますか?町に希望がありますか?田舎に希望がありますか?野山に希望がありますか?ありません。これから経済はどうなっていくんだろう。老後は大丈夫だろうか。年金を払ってももらえそうもないし。いくら政党が代わっても政治は変わらない。世界情勢はどうでしょう。最近発表された終末時計によると、世界に残された時間は90秒だそうです。ロシアがいつ核を使用するかわかりません。核戦争になったらどうなるかなんて誰でもわかっていることです。自然環境はどうでしょう。地球温暖化で、世界中のあちらこちらで大洪水が発生しています。このままでは地球がどうなってしまうのかわかりません。明らかに20年前、30年前と時代が変わりました。どこにも希望が見出だせない、末恐ろしい時代となっています。

しかし、私たちには希望があります。それは主イエス・キリストです。この方こそ私たちの希望です。エレミヤの時代は、イスラエル、南ユダは、神ではなく外国との同盟関係に頼っていました。いわゆる外交とか軍事力、経済力といったものに頼っていたのです。でも、それらは本当の意味で望みとはなりませんでした。壊れた水溜めと同じで、一時的な気休めでしかなかったのです。むしろ、それらがもたらしたのは絶望でしかありませんでした。

でも、イスラエルの望みである方、私たちの神は、決して私たちを裏切りません。がっかりさせません。エペソ2章11~13節にこうあります。「11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」 
  かつて私たちは、肉においては神から遠く離れ、この世にあって望みもなく、神もない者でしたが、そのように遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって神に近い者とされました。神様がおられることが希望なんです。何も持っていなくても、神様さえ持っていれば希望があります。すべてを失っても神様だけは決して失うことはありません。だから神様が希望なんです。他のものは失われ頼りにしていたものも変わりますが、神様はいつまでも変わることがありません。イスラエルの神は望みの神なのです。あなたはこの希望を持っておられますか。

またエレミヤはここで、イスラエルの望みの方を、苦難の時の救い主と呼んでいます。皆さん、私たちの主は苦難の時の救い主です。よく「苦しい時の神頼み」と言いますが、それでいいんです。私たちの主は苦しい時に救ってくださる神だからです。ピンチの時に頼りになるのはこの方だけです。日光東照宮に行ってもだめです。それはあなたを救ってはくれません。そこには3匹の猿がいますが、それらは「見ざる、言わざる、聞かざる」です。何も見えません。何も言わないし、何も聞こえません。田んぼの中のかかしのようなものです。何の頼りにもなりません。銀行に行っても無駄です。お金を貸してくれるかもしれませんが、あなたを窮地から救い出すことはできないからです。弁護士はどうでしょうか。確かにある程度はアドバイスしてくれるかもしれませんが、相当の弁護料が求められます。苦難の時にあなたを救うことができるのはたった一人だけです。それは私たちの主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠るここともありません。この方に頼むべきです。

家族のことで悩み苦しんでおられる方からメールをいただきました。自分のことなら我慢することができるけど、子ども、孫のこととなるとどうすることもできないのを痛切に感じます(涙)。神様は私、子ども、孫を通して何を伝えたいのでしょう。孫はもう終わりです。子どもは立ち上がることができません。それが何よりも悲しくて言葉になりません。
 このメールを見て私は思いました。このことを通して神様は何を伝えたいのでしょうか。それは、神様は苦難の時の救い主であるということです。「わたしに頼れ」とおっしゃっておられる。この方に信頼し、この方にすべてをゆだねるべきです。そうすれば、この方があなたを救ってくださいます。

詩篇50篇15節に、すばらしい約束があります。ご一緒に読んでみましょう。「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」苦難の日に主を呼び求めるなら、主があなたを助け出してくださいます。
  また、詩篇91篇15節はこうあります。「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」
 あなたが苦しい時に主を呼び求めるなら、主はあなたに答えてくださいます。主は苦難の時の救い主なのです。そんなの虫のいい話じゃないかと思うかもしれません。私のような者の叫びは聞いてくださらないと思うかもしれません。しかし、それはあなたが、主がどのよう方かを知らないからです。主がどのような方なのかを知れば、それがわかります。この方は苦難の時の救い主であるということを。私たちは真実でなくても、この方は常に真実な方です。ご自身を否むことかできないからです。ですから、苦難の時の救い主であられる主は、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。どんなに虫のいい話だと言われても、主は真実な方ですから、状況がどうであれ、私たちがどうであれ、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。

8節後半から9節までをご覧ください。ここでエレミヤは「どうして」「なぜ」ということばを連発して、主に必死に訴えかけています。「どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。」

言い換えると、これは、あなたの御名に反することではないですかということです。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。そんなことないでしょ。あなたはこのような方なのですからと、必死になって訴えでいるのです。私たちもこのように祈りたいですね。必死になって主の御名にかけてた祈るべきです。

アメリカン・フットボールのインディアナポリス・コルツチームの監督だったトニー・ダンジーさんは、息子が無くなったとき深い悲しみに打ちひしがれました。しかし、彼は葬儀場に慰めに来た人々にこう言いました。「皆さんにお伝えしたい重要なことがあります。私はここで涙を見せていますが、これは悲劇の中でなされるお祭りだということです。なぜなら、私たちの人生の目的と意味は、ただイエス・キリストにあるのですから。今、この瞬間にも主は私と皆さんの中に、その愛を現わしてくださいます。なぜ私にこのようなことが起こったのかも、なぜ息子が死んだのかも私にはわかりません。しかし、神がその答えを持っておられるということと、変わらずに私を愛しておられること、そして私のためのご自身のご計画があることを知っています。私は「なぜ」の代わりに、「何を」と質問するようになりました。「私がこれを通して何を学べるのか」「私がこれを通して神の栄光のために何をすることができ、ほかの人を助けるために何をすることができるのか」と問いながら歩んでいきます。」(ファン・ヒョンテク、「いつでも希望は残っている」)
 すばらしいですね。本当に主がどういうお方なのか、どのようなご性質なのかをよく知っていないと言えないことばだと思うのです。それを知れば「なぜ」の代わりに「何を」と質問することができるようになるはずです。このように主の御名を知って、主に従うなら、その人の人生にさらに多くの恵みが増し加えられるのは間違いありません。

エレミヤは、主の御名にかけて祈ったとき、一つの真実に到達しました。それは「主よ。あなたはわたしたちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。」ということです。主は私たちの真ん中にいてくださいます。ど真ん中にいてくださる。ここにもいてくださいます。その真理に目が開かれたのです。であれば、それで十分ではないでしょうか。

主は同じことを私たちに求めておられます。あなたは日照りで渇き切っていないでしょうか。どこを見ても希望はないと、嘆いておられないでしょうか。しかし、イスラエルの望みである方は、苦難の時の救い主であられます。この方に信頼してください。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)とある通りです。あなたが素直になって自分の罪を認め、告白するなら、神様はあなたをきよめてくださいます。神様は苦難の時の救い主なのです。この方は、あなたのただ中にいてくださいます。この方に信頼して、歩んでいきましょう。

Ⅱ列王記2章

 Ⅱ列王記2章から学びます。

 Ⅰ.エリヤの昇天(1-14)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのこと、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。2 エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言った。しかしエリシャは言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。3 すると、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。4 エリヤは彼に「エリシャ、ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコにやって来た。5 するとエリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。」

主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのことです。エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行きました。ギルガルという地名については、エリコの北東5㎞に位置しているギルガルなのか、それともベテルから北西に15㎞にあるギルガルなのかはっきりわかりません。しかし、2節でエリヤが「主が私をベテルに遣わされたから」と言っていることを考えると、ベテルから北西に15㎞に位置しているギルガルのことではないかと思われます。エリヤはエリシャを連れて、そのギルガルから出て行きました。

するとエリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言いました。「ここ」とは「ギルガル」のことです。エリヤがエリシャをギルガルに残そうとしたのは、彼が着いて来るかどうかを試すためだったのでしょう。するとエリシャは、「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」と答えました。それで彼らは二人でベテルに下って行きました。エリシャがエリヤから離れたくなかったのは、エリヤが天に召される前に祝福を受けたかったからです。

 すると、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのところにやって来て、彼にこう言いました。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」

彼らは預言者学校の仲間たちでした。当時イスラエルには、各地に預言者の学校がありました。そこで多くの若者たちが、預言者としての職業に就くための訓練を受けていたのです。彼らは、エリヤとかエリシャのような大預言者のもとに集まり、預言者になるための学びをしていました。彼らはそうした所での訓練を通して、神が語る預言のことばをキャッチできるようになっていたのです。その仲間たちがエリヤがその日に召されることを知っていて、それをエリシャに伝えたのです。

するとエリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください。」と答えました。どうしてでしょうか。エリシャは、その話題に触れたくなかったからです。彼は、エリヤが天に召される前に祝福を受けたかったので、彼から一時も離れたくなかったのです。

するとエリヤは、今度は主が私をエリコに遣わされたと言い、エリシャには、ここにとどまっていなさいと言いました。エリシャをベテルに残して、自分はエリコに向かうとしたのです。するとエリシャは、「いやです、私は付いて行きます。決してあなたから離れません。」と言ってエリコにやって来ました。しかし、そこでもベテルの預言者たちが言ったように、エリコの預言者たちも同じことをエリシャに言いました。するとエリシャは再び答えました。「私も知っていますが、黙っていてください。」彼は何としてもエリヤから祝福を受けたかったのです。

何としても神から祝福を受けようとするエリシャの態度は、私たちクリスチャンの模範でもあります。イエス様は、「7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われました。私たちの主は求める者には与えてくださる方です。主は私たちがエリシャのように必死になって主に祈り求めることを願っておられるのです。

次に、6~14節をご覧ください。「6 エリヤは彼に「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、二人は進んで行った。7 一方、預言者の仲間たちのうち五十人は、行って遠く離れて立った。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。9 渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。10 エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。」

次にエリヤはヨルダン川に向かいます。以前と同じように「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから。」と言うと、エリシャも同じように「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」答えました。これが三度目です。エリヤは、エリシャが自分にとって楽な道を選ぶのか、それともエリヤから祝福を受けるために苦労の多い道を選ぶのかの選択を迫ったのです。もちろんエリシャはエリヤについて行く道を選びます。それで二人は一緒にヨルダンに行きました。

しかし、今回はこれまでとは違います。預言者の仲間たちのうち50人が、行って遠く離れて立ちました。この50人は、エリコから着いて来た若い預言者たちです。彼らはエリヤの最期を見届けようとしてやってきたのです。

するとどうでしょう。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打ちました。するとヨルダン川の水が両側に分かれたので、二人はその乾いた土の上を渡りました。あの紅海の水が湧かれた時と同じです(出エジプト14:21-22)。また、ヨシュアがヨルダン川の水をせき止めた時と同じです(ヨシュア3:14-16)。ということは、ここでエリヤとエリシャはモーセとヨシュアの型として捉えることができます。この出来事を目撃した50人の預言者たちは、イスラエルをエジプトから導き出した主が今も生きていて、イスラエルにおられることを確信したことでしょう。それは今日も同じです。この神は今も生きておられます。この神に信頼する人は幸いです。今も偉大な神の力を目の当たりにできるからです。

ヨルダン川を渡り終えると、エリヤがエリシャに言いました。「あなたのために何をしようか」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください。」と言いました。どういうことでしょうか。

エリシャが、ここまで食らいついてエリヤを離れなかった理由が、ここで明らかにされました。それはエリヤの霊のうちから二倍の分を自分のものにしてほしかったからです。これはエリヤの霊の力の二倍の力という意味ではありません。これは、神の御霊がエリヤを通して働かれていたように、いやそれ以上に自分にも働いてくださるように、という願いです。つまり、預言者たちの中で自分がエリヤの後継者になれるようにということです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。10節です。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」なぜこれが難しい注文なのでしょうか。なぜなら、だれが後継者になるかは主が決められることだからです。しかしエリヤは、自分が天に上げられるのを見ることができるなら、そうなるだろうと答えました。つまり、エリシャがそれを見たら、それが、彼が後継者に選ばれたしるしであるというのです。

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行きました。この「火の戦車」は単数形ですから1台の戦車です。それに対して「火の馬」は複数形ですから数匹の馬ということになります。この火の戦車と火の馬が現れて、エリヤとエリシャの間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行きました。

聖書の中で死を経ないで天に上げられたのは、エノクとこのエリヤだけです。これは何を意味しているのかというと、携挙に与る新約時代のクリスチャンの姿です。Ⅰテサロニケ4章13~18節には、このようにあります。「13 眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。18 ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」

クリスチャンは死んで終わりではありません。イエス様が再臨される時に復活し、一気に天に引き上げられることになります。生きている人は死ぬことがなく天に携え挙げられるのです。エリヤが死ぬことなく天に上げられたのはこの型を示していたのです。そうです、クリスチャンは死んで終わりではありません。死んでも生きる永遠のいのちが与えられているのです。そういう意味では、クリスチャンのこの地上での生涯は、天国への旅の備えであると言えるのです。

エリシャはこれを見ると、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けましたが、エリヤはもう見えませんでした。すると彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂きました。エリシャが「わが父、わが父」と叫んだのは、エリヤが彼の霊的な父であったからです。それはまた、エリヤが預言者たちのリーダーであったことも示しています。その父を失った悲しみが「わが父、わが父」ということばに表れているのです。

「イスラエルの戦車と騎兵たち」とは、当時、戦車と馬が最強の武器であったことを考えると、エリヤは主に用いられた最強の器であったということです。確かに彼は、バアルとの戦いにおいて勝利した最強の預言者でした。

エリヤが自分の着物を二つに引き裂いたのは、それが悲しみを表現していたからです。また、新たにエリヤの身から落ちた外套を身にまとう準備ともなりました。彼はその外套を拾い上げると引き返してヨルダン川の岸辺に立ち、水を打ちました。そして「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言って水を打つと、水が両側に分かれました。すなわち、エリヤの神はここにいるということです。エリシャがエリヤの後継者として選ばれたのです。エリシャがエリヤの預言者としての働きを完全に継承したということです。

人は去って行きますが、主の働きは継承します。先日、M牧師の葬儀に参列しました。M牧師は救われて67年、牧会生活63年の生涯を終えて天に変えられました。1月29日(日)の礼拝で説教され、その日の役員会で後任の牧師を決めると、翌日、膵炎胆石症で倒れられ、その翌日に天に凱旋されました。まさかその翌々日に召されると誰が想像することができたでしょう。しかし、M師が去ってもその働きは継続していきます。私たちの人生は一時的なものですが、永遠に価値あることのために労することができるなら、真に幸いではないでしょうか。

Ⅱ.エリヤの霊がエリシャにとどまっている(15-18)

次に15~18節をご覧ください。「15 エリコの預言者の仲間たちは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言って、彼を迎えに行き、地にひれ伏して礼をした。16 彼らはエリシャに言った。「しもべたちのところに五十人の力ある者がいます。どうか彼らにあなたのご主人を捜しに行かせてください。主の霊がエリヤを運んで、どこかの山か谷に投げたかもしれません。」するとエリシャは、「行かせてはいけません」と言った。17 しかし、彼らがしつこく彼に願ったので、ついにエリシャは、「行かせなさい」と言った。そこで、彼らは五十人を送り出した。彼らは三日間捜したが、エリヤを見つけることができなかった。18 彼らは、エリコにとどまっていたエリシャのところへ帰って来た。エリシャは彼らに言った。「行かないようにと、あなたがたに言ったではありませんか。」」

エリコの預言者の仲間たちは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言って、彼を迎えに行き、地にひれ伏して礼をしました。彼らはヨルダン川西岸、遠くから一部始終を見ていました。彼らは、エリシャがエリヤの外套でヨルダン川の水を打ったとき、川の水が両側に分かれるのを見て、エリシャがエリヤの後継者であることを理解しました。それで.エリシャのところに向かえを行き、地にひれ伏して礼をしたのです。エリシャに敬意を表すためです。

彼らはエリシャに、自分たちのところに力のある50人の者がいるので、エリヤを捜しに行かせてほしいとエリシャに言いました。エリヤが主の霊によってどこかに運ばれたと思ったからです。エリシャは、エリヤが主によって天に上げられたことを知っていたので、「行かせてはなりません」と言いましたが、彼らがしつこく願うので、しょうがなくエリシャは折れて、彼らに「行かせなさい」と言いました。

ここは面白いところです。彼らはエリシャをエリヤの後継者であると認めながらも、エリシャのことばを聞き入れず自分たちの考えを優先させています。私たちも主こそ神であると認めながらも、主のことばを聞き入れず自分の考えを優先させていることがあるのではないでしょうか。それはこのエリコの預言者の仲間たちと同じです。

結局、三日間捜してもエリヤは見つかりませんでした。それで彼らはエリコにとどまっていたエリシャのところに帰ってきました。彼らがエリシャのことばに耳を傾けなかった結果です。

この出来事を通して、エリコの預言者たちは、自分たちがいかに未熟で傲慢であったかを学んだことでしょう。これ以降彼らは、エリヤの後継者としてのエリシャの権威を認め、さらに信頼を置くことになります。自らの未熟さと傲慢さに気付き、教えられやすい心を育てる人は幸いです。

Ⅲ.エリコの水の癒しと熊にかき裂かれたベテルの青年たち(19-25)

最後に19~25節をご覧ください。「19 さて、この町の人々はエリシャに言った。「あなた様もご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産を引き起こします。」20 するとエリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。21 エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」22 こうして水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。23 エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、その町から小さい子どもたちが出て来て彼をからかい、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭」と言ったので、24 彼は向き直って彼らをにらみつけ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、子どもたちのうち四十二人をかき裂いた。25 こうして彼は、そこからカルメル山に行き、そこからさらに、サマリアに帰った。」

この町とは「エリコ」の町のことです。彼らはエリシャのところに来て、「この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産を引き起こします。」と言いました。エリシャの噂が町中に知れ渡っていたからです。そこで町の人たちがエリシャのところにやって来て相談しました。

この「流産」という言葉ですが、新共同訳聖書では「土地は不毛です」と訳しています。水質が悪かったので、作物が育たない不毛の地になっていたのです。もしこれが「流産」であるとすれば、主に家畜の流産であったと考えられます。

するとエリシャは、「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」と言って持って来させると、水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言いました。「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」すると水は良くなり、エリヤが言ったとおり、死も流産も無くなりました。

塩を盛るのは、もちろん塩に効用があるからではありません。このようなデモンストレーションを通して、主が奇蹟を行なわれることを人々に示したのです。イエス様が生まれつきの盲人の目を癒された時もそうです。つばきを地面にかけそれで粘土をつくると、それを盲人の目に塗られました。それと同じです。主はその方法を採らなくても癒すことができましたが、あえてこのようにして癒されました。そのようにして水を癒されたのです。

エリコの水が生活に不毛をもたらしていたことと、バアル礼拝が霊的不毛をもたらしていることの間には相関関係があります。癒されたエリコの水は、主が憐れみ深い方であり、バアルよりも力あるお方であることを示していました。私たちの人生を支えておられるのはだれでしょう。この力ある神です。私たちはバアルのような目に見える偶像ではなく、ただ力ある神に信頼しようではありませんか。

エリシャはそこからベテルへと上って行きましたが、彼が道を上って行くと、その町から小さい子どもたちが出て来て、エリシャをからかい、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言いました。するとエリシャは彼らをにらみつけ、主の名によって彼らをのろうと、森の中から二匹の雌熊が出て来て、子どもたちのうち42人をかき裂いてしまいました。

この箇所を読んでいて戸惑うのは、小さな子どもから「はげ頭」とからかわれたくらいで殺してしまうというのは、ちょっと行き過ぎではないかということです。

この「小さい子ども」と訳されたことばは必ずしも小学生低学年のような小さな子どものことではなく、幼児から青年までを指す幅広い言葉です。英語のKJVでは「some youths」と訳しています。10代の子どもたちです。おそらく彼らはバアルの預言者たちの卵たちだったのでしょう。ベテルは金の子牛礼拝の中心地であったからです。大人数であったことから組織的にエリシャをからかったことがわかります。

また、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」は、新共同訳聖書では「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と訳しています。「上って来い」と「上って行け」では大きな違いがあります。「上って行け」となると、あのエリヤのように天に上って行くことを指していることになります。ですからこれは、「もしお前が本当に主の預言者であるなら、エリヤがしたように天に上ってみよ、はげ頭よ。」ということなのです。彼らは単に人をからかったのではなく、主の預言者を侮ったのです。これは主に対する侮りなのです。その結果、熊にかき裂かれてしまうことになりました。それは神の裁きでした。神への冒涜に対する神の裁きだったのです。つまり、神を敬い、神に従う者は神から祝福を受け、神に逆らい、神に敵対する者は、神からのろいを受けるということです。エリコの人々はエリシャを敬ったので神から祝福を受けましたが、ベテルの青年たちはエリシャをからかったので、神からのろいを受けることになってしまいました。異なった態度が、異なった結果をもたらすということです。ここではその対比して描かれていたのです。ですから、私たちは神を侮るのではなく神を敬う者に、神に逆らうのではなく神に従う者にならなければならないのです。

エレミヤ13章12~27節「酒壺に満たされた酒」

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きょうは、エレミヤ書13章12~27節のみことばから「酒壺に満たされた酒」というタイトルでお話します。前回は、ぼろぼろになった帯についてお話しました。それはユダとエルサレムの大きな誇りを表していました。主はその帯をぼろぼろにすると言われたのです。それは彼らが主のことばを聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に歩み、それに仕えたからです。彼らは主に結び付けられて主と一つとなり、主のために生きるように造られたのにそうではなかったからです。すごいですね、このように主はエレミヤの行動を通して、ご自身のみことばを示されたのです。ことばによる預言も力がありますが、行動を通しての預言はもっと力を感じます。

きょうのところでは、一つのたとえを通して語られます。それは酒壺に満たされた酒のたとえです。イエス様も多くのたとえを用いて話されましたが、たとえ話や例話を巧みに用いて語られるとピンとくるというか、わかりやすく感じます。このたとえを通して主は何を語ろうとされたのでしょうか。結論から申し上げると、神の民はいつまでも変わらないということです。いつまでも神に立ち返らないので、主は彼らの酒壺を怒りの酒で満たされるのです。

Ⅰ.酒壺に満たされた酒(12-14)

 まず12~14節をご覧ください。「12 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。』彼らがあなたに『酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか』と言ったなら、13 あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、14 彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。』」

主はエレミヤに言われました。彼らにこのことばを伝えよと。「彼ら」とはイスラエルの民、南ユダの民のことです。彼らに伝えるべきことばとは、「酒壺に酒が満たされる」ということでした。酒壺とは、イスラエルの民のことを指しています。その中に満たされる酒、ぶどう酒とは、神の怒りのことです。ここでは、ぶどう酒が神の怒りとして用いられています。この酒壺は、ぶどう酒を約40リットルも入れることができる大きな容器でした。その酒壺が神の怒りで満たされるのです。

それに対して、イスラエルの民が「酒壺に酒が満たされることなど当たり前ではないか、そのくらい、分かりきっていることだ」と言ったら、彼らにこう告げるようにと言われました。13~14節です。「見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。」どういうことでしょうか。

これは、神様が徹底的に彼らをさばかれるということです。具体的にはバビロン捕囚の出来事を指しています。彼らはそれがどういうことなのかわかりませんでした。それで、酒壺にぶどう酒が満たされるのは当然ではないかとのん気なことを言っていたのです。しかし、そんなのん気なことを言っている場合ではありません。そこには全く容赦のない神の怒りのぶどう酒が注がれるようになるからです。主はその地の全住民を、王から一般庶民に至るまで酔いで満たし、互いにぶつけて砕き、滅ぼされるのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。15~17節をご覧ください。ここにその理由が述べられています。「15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。16 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」

それは彼らが高ぶっていたからです。彼らは主が語られることばを聞こうとしませんでした。主の御声に聞き従おうという気持ちはこれっぽっちもありませんでした。たとえば、主が「酒壺には酒が満たされる」と言っても、「そんなの当たり前じゃないか、酒壺はそのためにあるんだから」と言って、そのことばに秘められた神の思いを素直に受け取ろうとしませんでした。主はそんな彼らに、その高ぶりを捨てて、主に栄光を帰するようにと言われたのです。

ぶどう酒は、神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴でもあります。たとえば、イエス様はカナの婚礼において水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。また、最後の晩餐において御子イエスの血潮の象徴となったのはぶどう酒でした。ですから、ぶどう酒は神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴ともなり得るのです。神の器であるあなたという壺の中に注がれているのは怒りのワインでしょうか。それとも、祝福のワインですか。神の怒りを祝福に変える唯一の方法は、高ぶりを捨てて、神に栄光を帰することです。神のためにと思ってやっていることが自分のためにしていることもあります。聖霊様によって、心を吟味していただきましょう。

ところで16節には、「まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。」とあります。やがて闇に包まれる時がやって来ます。夕暮れとなって何も見えなくなる時がやって来るのです。その時では遅いのです。
  恵泉キリスト教会会津チャペル牧師で、山形大学名誉教授の三留謙一先生から、新年のご挨拶にとご自身が書かれたトラクトを送ってくださいました。そのトラクトのタイトルがなかなかなのです。「天の故郷への帰還・・・まだ可能です」先生は昨年心臓冠動脈のバイパス手術を受けられましたが、それはまさに、一度死んで復活した「死からの擬似体験」のようだったと言います。もしかするとそのまま死ぬかもしれないという不安の中で、これまで何回もクリスチャンは必ず天の故郷に帰れますというメッセージを聞き、また自分も牧師として語ってきましたが、自分が死に臨むことは、全くの未知の領域でした。ですから手術前の一週間、「今週が人生最後かも」という思いが消えず、眠れない夜を過ごしました。
 しかし、手術室に向かう車椅子の上で、突然、天から平安が降ってきて、不安が消えていきました。これが、イエス様が、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われた平安なのかと、手術室に入っていきました。そして、手術は無事終わり翌朝目を目ましたとき、永遠のいのちの恵みのすばらしさ、凄さを改めて感じたと言います。それは、天の故郷の朝のようだったと言います。新聖歌151番「永遠(とわ)の安き来たりて」の歌詞にある通りです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
  あなたもこの天の故郷への帰還が可能です。「イエス様、どうぞ私の心に来て、救ってください。」と祈るなら、あなたも天の故郷に帰ることができます。そして一度イエス・キリストを信じた者に対する神の約束は、何があっても変わることはありません。三留先生は、最後に次のように語って証を閉じています。
 「一度限りの人生、永遠のいのちほど価値あるものはありません。私も82歳になりましたが、80歳でも、天の故郷への帰還は、まだ可能です。輝かしいイエス様を見上げて、一緒に行きましょう。天国までの道を。」
 アーメンですね!天の故郷への帰還は、まだ可能なのです。しかし、それが閉じられる時がやって来ます。主が闇を送り、あなたがたの足が夕暮れの山でつまずくようになる時がやって来るのです。つまり、手遅れになる前に自分の罪を悔い改めてイエス様を信じなければなりません。今はまだやり直すチャンスが与えられています。でもそのチャンスが無くなる時がやって来る。それは肉体の死を迎える時であり、また、イエス様が再臨する時です。それが終わりの時です。その後でどんなに歯ぎしりしてもその時は残されていません。その時が来たらもう遅いのです。大丈夫、セカンドチャンスがあるから・・・。ありません。皆さん、このような教えに惑わされないでください。ありませんから。そんなことは聖書のどこにも書いてありません。聖書が言っていることは、私たちが悔い改めるチャンスとして与えられているのは、私たちがこの地上に生きている間だけであるということです。どんなに有名な牧師が言ったとしても惑わされないでください。私たちが悔い改めるチャンスは、この地上に生きている時だけなのです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)ですから、その前に高ぶりを捨て、主に栄光を帰せなければなりません。悔い改めて、神に立ち返らなければならないのです。

16節の後半にあるとおりです。「あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。」どういうことですか。あなたがたが光を待ち望んでも、それはもう遅いということです。主はそれを死の陰に変え、暗黒とされるからです。イエス様はこう言われました。「9 昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」(ヨハネ11:9~10)
 イエス様は世の光として来てくださいました。この光がある間にご自身のところに来なければなりません。昼間歩けば、つまずくことはないからです。でも、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。
  クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「光のあるうちに」という本を書かいておられますが、いつまでも光があるわけではありません。人それぞれ光のところに来る時が与えられているのです。それに応答しなければ、闇があるだけです。

もしこれに聞かなければどうなるでしょうか。17節にこうあります。ご一緒に読みましょう。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
 もし、主のことばに聞かなければ、主の群れが捕らわれて行くことになります。具体的には、バビロン捕囚のことです。そのことを聞いたエレミヤは嘆き、涙にくれました。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、ここでもその姿を見てとれます。何度語っても聞いてくれない、心を頑なにして神のことばを拒んだ結果、彼らは捕らえられてバビロンに連れて行かれることになってしまう。エレミヤはそのことを聞いて涙が止まりませんでした。私だったらムカついていたかもしれません。これだけ言っているのになぜわからないのかと。でもエレミヤは涙にくれました。目に涙があふれました。彼は自分の故郷アナトテの人たちから憎まれ、殺されかけていたんですよ。自分を殺そうとする人のために語ることばなどありません。そんな人なんてどうなっても構わないと思うのが普通でしょ。なのにエレミヤはそのアナトテの人々をはじめ、ユダの人たちが捕らわれて行くのを見て嘆き、涙にくれたのです。エレミヤはまさに涙の預言者でした。

これが私たちの主の涙でもあります。主の心なのです。エレミヤの姿は、私たちの主イエスの姿を表していたのです。そういえば、イエス様も自分を十字架につけた人たち、自分を殺そうとした人たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
 これがイエス様の心です。ですから、エレミヤの涙はイエス様の涙、父なる神の涙だったのです。神の預言者として、神の思い、神の心を表していたのです。すなわち、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるということです。どんなに頑な人でも、どんなにキリスト教は嫌いだという人でも、どんなに神なんて信じないと言う人でも、すべての人が悔い改めて、真理を知るようになることを望んでおられるのです。イエス様はそのために十字架にかかって死んでくださったのです。

ですから、私たちは高ぶりを捨てて、主に、栄光を帰せなければなりません。主があなたに闇を送らないうちに、まだあなたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。酒壺にぶどう酒が満たされないように、神の御前にへりくだり、神の御言葉に聞き従う者になりたいと思うのです。

Ⅱ.なぜこんなことが私の身に起こったのか(18-22)

次に、18~22節をご覧ください。「18 「王と王母に告げよ。『低い座に着け。あなたがたの頭から、輝かしい冠が落ちたから。』19 ネゲブの町々は閉ざされて、だれも開ける者はいない。ユダはことごとく捕らえ移される。一人残らず捕らえ移される。20 あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。あなたに対して与えられた群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか。21 最も親しい友としてあなたが教えてきた者たちが、あなたの上に、かしらとして立てられるとき、あなたは何と言うのか。激しい痛みがあなたをとらえないだろうか。子を産む女のように。22 あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたの多くの咎のためだ。それで、あなたの裾はまくられて、あなたのかかとは傷を負うのだ。」

高ぶって、主の御声に聞き従わなかったユダの民は、捕らえ移されることになります。その神のさばきがここに宣言されています。18節の「王」とは、南ユダの最後から二番目のエホヤキン王のことです。「王母」とは、その母親のネフシャタのことです。その前にエホヤキムという王様がいましたが、彼はバビロンの王ネブカデネザルに反逆したので、バビロンに捕え移されてしまいました。これが第一次バビロン捕囚です(B.C.597)。この時にダニエルも捕え移されました。その後を継いだのが、このエホヤキンです。この時彼はまだ18歳だったので、実質的には彼の母のネフシャタが後見人となって実験を握り、国を治めました。このことはⅡ列王記24章8節に記されてありますので、後でご確認ください。そこには彼女の名前も出ています。その治世はわずか三か月でした。その後、ゼデキヤという王が立てられますが、このゼデキヤの時にエルサレムは完全に陥落することになります(B.C.586)。これが第二次バビロン捕囚です。

そのエホヤキン王と母親のネフシャタに告げられたことばがこれです。「低い座に着け、あなたがたの頭から輝かしい冠が落ちたから」どういうことでしょうか。彼らが王の位から引きずり降ろされるということです。彼は王となってわずか三か月でしたが、この預言のとおり、王位から引きずり降ろされることになります。彼だけでなくユダの民のすべてがことごとく捕え移されることになるのです。19節には「ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいない。」とありますが、ネゲブとは、南ユダの南端にある町です。ですから、ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいないというのは、南端に至るまですべてバビロンの支配下に置かれるということです。一部だけではありません。すべてです。南ユダ全体がバビロンの支配におさまることになるのです。

20節の「北から来る者たち」とは、そのバビロンのことです。イスラエルは神の羊にたとえられていますが、その美しい羊の群れがどこかに散らされてしまうことになるのです。羊は羊飼いがいなければ生きていけない存在です。羊飼いがいればどんなに敵が襲ってきても全く恐れる必要はありません。たとえ死の陰の谷を歩くことがあってもです。主がともにおられますから。主がともにおられるので何も恐れる必要はないのです。でも彼らは真の羊飼いではなく他のものに頼りました。周辺諸国とかと同盟関係を結んで目の前の問題を解決しようとしたのです。神との関係よりもこの世との関係を重視しました。その結果、散らされてしまうことになったのです。それは私たちも言えることです。神との関係を無視し、この世に解決を求めるなら同じような結果を招いてしまうことになります。

それは21節にも見られます。「最も親しい友」とはバビロンのことです。南ユダは当初、台頭してきたアッシリヤという国に対抗するために神様ではなくバビロンと手を結ぼうとしました。同盟関係を結んで共通の敵であるアッシリヤに対抗しようとしたのです。しかし、そのバビロンが彼らのかしらとして立てられ、彼らに激しい痛みを与えることになってしまいました。人間関係ってこんなものですよね。この人に頼ればと思ったのに裏切られ、ひどい目にあってしまうということがよくあります。ここでもそうです。バビロンに信頼したら、そのバビロンによって滅ぼされることになってしまいました。

その時、彼らは「なぜ、こんなことが私の身に起こったのか」と言うようになるでしょう。23節です。皆さん、なぜ、こんなことが自分の身に起こったのでしょう。その理由は明らかです。それは、多くの咎のためです。その咎のためにあなたの裾はまくられ、あなたのかかとは傷を負うことになるのです。あらゆる不幸の原因がここにあります。すなわち、神を神としないことです。

交通事故を起こした人が、「このままでは、いつか事故を起こすかもしれないと予想していた」という話を聞いたことがあります。それと同じように罪に対するさばきも、何の前触れもなくやって来るのではありません。神はさまざまな方法を通して、私たちに語りかけておられます。私たちはその語りかけを聞いたら、その時点で悔い改め神に立ち返らなければならないのです。

Ⅲ.あなたの心を神に明け渡して(23-27)

では、どうしたら良いのでしょうか。ですから第三のことは、あなたの心を神に明け渡してくださいということです。23~27節をご覧ください。「23 クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。25 これが、あなたへの割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。─主のことば─あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。26 わたしも、あなたの裾を顔の上までまくるので、あなたの恥ずべきところが現れる。27 あなたの姦淫、あなたの興奮のいななき、あなたの淫行のわざ──数々の忌まわしいものを、わたしは丘の上や野原で見た。ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないままなのか。」

「クシュ人」とは、今のエチオピア人、スーダンの人たちのことです。いわゆるアフリカの黒人の人たちのことです。黒人の人がその皮膚を、変えることができるでしょうか。できません。やろうとした人がいました。マイケル・ジャクソン。でもできません。表面的にはできるかもしれませんが、完全に変えることはできません。豹がその斑点を、変えることができるでしょうか。できません。それと同じように、悪人を善人に変えることはできません。つまり、神の民の心を変えることはできなということです。しかし、人にはできないことでも、神にはどんなことでもできます。神は人の心さえも変えることができるのです。

使徒パウロはこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
  だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。この「新しい」ということばは、根こそぎ新しくされるという意味です。それは「心を入れ替える」というレベルではありません。よく言うでしょう。「きょうから心を入れ替えて」と。そういうレベルではないのです。これは新しい創造です。全く新しい人として造り変えていただくことができるのです。どんなに猫や猿を訓練し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間の子どもになることはできません。猫や猿が人間の子どもになるためには人間のいのちを持たなければなりません。それと同じように、新しい人として生まれ変わるためにはイエス・キリストにあって神のいのち、聖霊を持たなければならないのです。一般に良い人間になろうとすることは人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、キリストによって新しく生まれるとは、キリストを信じることによって神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊に心の内に住んでいただくことを意味します。つまり、イエス・キリストを信じることによって、神の聖霊をいただき、私たちの魂に宿っていただくことによって、神の子どもとして新しい人として生まれ変わることができるのです。ハレルヤ!

それは人にはできません。ただ神だけができることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。もう過去に捉われたり、縛られたりする必要はありません。過去に受けた傷をもう一度思い起こす必要もありません。どうしてそうなったのかと精神分析を始める必要もないのです。すべての罪が赦されたからです。キリストにあって、あなたの過去はすべて過ぎ去ったのです。イエス様は水をぶどう酒に変えられたように、罪人を聖人に変えることができるのです。一瞬にして。私たちはこういうでしょう。それは無理だと。持って生まれた性格を変えるなんて不可能だと。もし変えられるとしても、10年、20年、30年、いや100年かかると。100年も待っていられません。しかし、安心してください。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られます。一瞬にして、です。どうやってそんなことが可能なのでしょうか。「キリストにあって」です。神がキリストにあって新しくしてくださいます。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」キリストを信じ、キリストの御霊、神の聖霊を受け入れ、内に住んでいただくことによって、あなたも新しくなることができるのです。

使徒パウロは、ローマ人への手紙7章24節でこう叫んでいます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。しかし次の瞬間、彼はこう言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25)どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。主イエス・キリストを通してです。
 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」(ローマ8:2-4)

それは人にはできないことです。でも、神にはどんなことでもできるのです。神は肉によって弱くなった私たちのために、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰してくださいました。キリストの十字架の血は、私たちのすべての罪を完全にきよめることができるのです。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られるからです。神は真黒な罪人をまっ白にしてくださいます。雪よりも白く、羊の毛よりも白くしてくださるのです。聖書にそう約束されています。私たちはクシュ人の肌の色どころじゃない、墨よりも黒い、真黒な心を持っています。しかし、キリストはそうした心さえも変えてくださいます。外見はちっとも変ってないかのように見えるかもしれませんが、いや以前よりもシミが増えてきたなぁと思う人もいるかもしれませんが、中身は全く新しい人です。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく変えられるからです。

27節の最後のことばをご覧ください。ここには「ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないのか。」とあります。この言葉を心に刻みつけたいと思います。これは神の心の痛み、心の叫びです。あなたはいつまで、きよめられないのか。マタイの福音書23章37節でイエス様は、神の招きを好まず拒んでいるイスラエルの民を嘆き、涙してこう言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」何度も何度も悔い改めるチャンスを与えらたのにその招きに応じず、自ら滅びに向かって突き進んで行ったご自身の民を嘆かれたのです。

この神の思いを感じていただきたいと思います。神様はたださばきを宣告しているのではありません。そうした厳しい現実の中にも神のあわれみは尽きることはありません。神は一人も滅びないで、すべての人が救われることを願っておられるのです。その思いをしっかりと受け止めていただきたいのです。そしてへりくだって、神の御声に聞き従いましょう。あなたの神、主に、栄光を帰してください。イエス様は「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われましたが、闇が来る前に、夕暮れが迫る前に、光であられる主イエスを信じましょう。そして、あなたの心を神に明け渡し、聖霊によってきよめていただこうではありませんか。

Ⅱ列王記1章

 

 

 

 列王記第二の学びに入ります。今日は1章から学びます。

 Ⅰ.アハズヤの病気(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。「1 アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた。2 アハズヤは、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じた。3 そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。4 それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そこでエリヤは出て行った。」

前回、Ⅰ列王記の最後の章を学びましたが、その中で北イスラエルの王アハブが死んだことを学びました。それは、主が語られたことばのとおりでした。そのアハブの死後、北イスラエルを治めたのはアハブの子のアハズヤでした。アハズヤについては、Ⅰ列王記22章51節から53節までに記録されてあるので、本来であればそれに続けた方が良かったのですが、ここでプッリツと切れた形になっています。それは、もともと列王記第一と第二は、ヘブル語聖書では一つの書でしたが、それが15世紀になってギリシャ語聖書ややラテン語聖書の影響を受けてここで分割してしまったからです。でも元々は一つになっています。ではなぜここで分割してしまったのか。おそらく同じ大きさの巻物に均一に治めるためだったのでしょう。もしⅠ列王記22章50節かⅠ列王記1章18節で分割されていたら、アハズヤの治世をその途中で二つに分けるという不自然さはなかったかと思われます。

ですから、1節に「アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた」とありますが、この記述も唐突に感じるのです。本来ならⅠ列王記22章53節とⅡ列王記1章1節はつながっているからです。

かつてモアブはイスラエルを支配していましたが、ダビデによって征服されました。その後一時的に独立した期間もありましたが、オムリとアハブの時代に再び制圧されていました。その結果、モアブはイスラエルに多額の税を納めるようになっていましたが、アハブが死んでアハズヤの時代になったとき、モアブはイスラエルに背いたのです。それは彼らが、アハブよりもアハズヤが弱い王であると判断したからでしょう。もしかすると、アハズヤが欄干から落ちて重体に陥ったことも関係していたかもしれません。このように考えるとつながりが見えてきます。

彼は、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体になりました。「欄干」とは、バルコニーの手すりのことです。おそらく彼は、屋上に設置してあったバルコニーから落ちて地面にたたきつけられたのでしょう。彼は相当の傷を負ったものと思われます。それで彼はどうしたかというと、使者たちを遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに、この病が治るかどうか伺いを立てました。エクロンとは、サマリアから南西に65㎞ほど離れたペリシテ人の町です。なぜアハズヤはイスラエルの神ではなく「バアル・ゼブブ」に癒しを求めたのでしょうか。

このエクロンの神「バアル・ゼブブ」の、本当の名前は「バアル・ゼブル」です。意味は「命の主」です。しかし、ユダヤ人たちはその名を揶揄して「バアル・ゼブブ」と呼びました。その意味は「(はえ)の主」です。イエス様の時代には、この偶像神がサタンの象徴となっていました。それが「ベルゼブル」です。それはサタンを指していました。ここでアハズヤはこのエクロンの神「バアル・ゼブル」に癒しと助けを求めたのです。

それは、前回学んだⅠ列王記22章52~53節に、彼の生涯について「52 彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。53 彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行ったのと全く同じように行って、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」とあったように、彼は父アハブの影響を受け、バアル礼拝に深くかかわっていたからです。ですから、いざという時に彼が求めたのはイスラエルの神、主ではなく、このバアル・ゼブルだったのです。また、それまでに主の預言者たちが偶像礼拝の罪を糾弾していたことも、主に伺いを立てることを躊躇させていたのかもしれません。いずれにせよ、彼はイスラエルの神、主ではなく、エクロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てました。

そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに現れて、こう告げました。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」

かつて、アハブがナボテのぶどう畑を奪い取りに行こうとしたとき、エリヤに主のことばがあったように(Ⅰ列王記21:17)、アハズヤの悪に対しても、主がエリヤに告げられたのです。それは、アハズヤの偶像礼拝に対する裁きは死であるということでした。彼はその寝台から起き上がることはできません。必ず死ぬことになります。これが主の使いがエリヤに告げたことでした。それでエリヤは出て行きました。

それにしても、「アハズヤ」という名前は「主が支えてくださるもの」という意味です。しかし、彼は「主」ではなく「バアル・ゼブブ」を求めました。バアル・ゼブブをはじめ、偶像には私たちを救う力はありません。それは田んぼの中のかかしにすぎません。そんなものに頼るのは愚かなことです。私たちの救いは主から来ます。詩篇121篇3~8節には、次のようにあります。
「3 主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。4 見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。5主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。6 昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。7 主はすべてのわざわいからあなたを守りあなたのたましいを守られる。8 主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。」

私たちの救い、私たちの助け、私たちの癒しは主から来ます。主が私たちを支えてくださると信じ、主にのみ信頼しましょう。

Ⅱ.天から下って来た火(5-10)

次に5~10節をご覧ください。「5 使者たちがアハズヤのもとに戻って来たので、彼は「なぜおまえたちは帰って来たのか」と彼らに尋ねた。6 彼らは答えた。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」7 アハズヤは彼らに尋ねた。「おまえたちに会いに上って来て、そんなことを告げたのはどんな男か。」8 彼らが「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。9 そこでアハズヤは、五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂に座っていた。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」10 エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。」

アハズヤは、使者たちが予定よりも早く帰ってきたので驚き、その理由を尋ねます。「なぜおまえたちは帰って来たのか。」すると使者たちは答えました。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」(6)

それを聞いたアハズヤは、その男はどんな人だったかと尋ねると、彼らは、「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えました。それを聞いたアハズヤはすぐにピンときました。「それはティシュベ人エリヤだ」と。毛皮を来て、腰に皮の帯を締めていたのは、イスラエルに悔い改めを説いた預言者の姿でした。エリヤはアハズヤの父と母であるアハブとイゼベルに悔い改めを説いてきた主の預言者でした。

そこでアハズヤはエリヤを捉えようと、50人隊の長を、その部下50人とともにエリヤのところに遣わしました。するとエリヤは山の頂に座っていましたが、隊長は彼に何と言いましたか?「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」と言いました。何とも優しい言葉ですね。日本語では優しく訳していますが、実際は違います。実際には命令調でした。「王の命令だ。すぐに降りて来い」といったニュアンスです。

するとエリヤは彼に答えてこう言いました。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」するとそのようになりました。天から火が下って来て、彼とその部下50人を焼き尽くしたのです。

興味深いのは、50人隊の長が、「王の命令だ、下りて来い」と言った「下りてこい」と、「天から火が下りてきた」の「下りてきた」が同じ言葉であることです。英語はどちらもcome downという言葉です。王の全権を携えている使者が、神の全権を携えている預言者によって、さばかれているのです。天から火が下ったのは、カルメル山で天から火が下って来たのと同じ奇跡が起こったということです(Ⅰ列王18:20-40)。

つまり、アハズヤが従うべきお方はバアル・ゼブブではなく、イスラエルの神、主であるということです。それは私たちにも言えることです。私たちが従うべきお方は、イエス・キリストの父なる神のみです。自分が今何に頼っているかをもう一度吟味しましょう。

Ⅲ.アハズヤの死(11-18)

最後に11~18節をご覧ください。「11 王はまた、もう一人の五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王がこう言われます。急いで下りて来てください。」12 エリヤは彼らに答えた。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。 13 王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。14 ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」15主の使いがエリヤに「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼と一緒に王のところに下って行き、16 王に言った。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」17 王は、エリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャファテの子ヨラムの第二年のことであった。アハズヤには息子がいなかったからである。18 アハズヤが行ったその他の事柄、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。」

アハズヤは再びエリヤのもとに部隊を遣わします。もう一人の50人隊の長を、その部下50人とともにエリヤのところに遣わしたのです。ただ前回と違うことは、今回はさらに「急いで下りて来てください」と言っている点です。前回よりももっと強く言っています。でも結果は同じでした。50人隊の長とその部下50人は、天から下って来た神の火によって焼き尽くされてしまいました。

それでアハズヤはまた50人隊長と、その部下50人を遣わしました。これで3回目です。しかし、この3人目の50人隊の長はそれまでの長と違い、エリヤの前にひざまずくと、懇願してこう言いました。13節です。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」

彼はエリヤが神の人であることを認め、恵みが与えられるように懇願したのです。それゆえ、彼と50人の部下のいのちが助かりました。これは私たちにも言えることです。私たちのいのちが助けられるのは、私たちがただ謙遜になって、主の前にひれ伏し、「私のいのちを助けてください」と懇願することによってのみなのです。

この時、主の使いがエリヤに「彼といっしょに降りていけ。彼を恐れてはならない。」と言われたので、エリヤは立って、彼と一緒にアハズヤのところに下って行き、臆することなく、主のことばを伝えました。16節です。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」

すごいですね。アハズヤ王を目の前にして、彼の不信仰を責め、死のさばきを宣告したのですから。すると、エリヤが告げた主のことばのとおりに、アハズヤは死にました。主が語られたことは必ず成就します。カルメル山の戦いの後、エリヤの信仰は揺らいでいましたが、ここでは完全に立ち直っています。エリヤの信仰を支えた主は、私たちの信仰も支えてくださいます。

アハズヤの死後、ヨラムが代わって王となりました。アハズヤには息子がいなかったからです。アハズヤに対する神の裁きは、息子がいなかったことにも表れています。その治世も2年間と短いものでした。それは彼が主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだからです。そして、イスラエルの神、主ではなく、エクロンの神バアル・ゼブブに、仕え、それを拝み、イスラエルの神、主の怒りを引き起こしたからです。つまり、「アハズヤ」(主が支えてくださるもの)ではなかったからです。この教訓から学びましょう。私たちは偶像ではなく主にのみ仕え、主にささえていただくものとなりたいと思います。

エレミヤ13章1~11節「ぼろぼろになった帯」

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きょうは、エレミヤ書13章1~11節から「ぼろぼろになった帯」というタイトルでお話します。ここからまたエレミヤを通して新しいメッセージが語られます。それはことばを用いてのメッセージではなく、エレミヤの行動を通してのメッセージです。それは「行動預言」と呼ばれるものです。普通に語ったのでは耳を傾けないイスラエルの民に対して、主はエレミヤの行動を通して語られたのです。それがこの「ぼろぼろになった帯」です。

Ⅰ.ぼろぼろになった帯(1-7)

まず1~7節をご覧ください。「1 主は私にこう言われた。「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水の中に入れてはならない。」2 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。3 再び次のような主のことばが私にあった。4 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」5 そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。6 多くの日を経て、主は私に言われた。「さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」7 私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。」

主はエレミヤに、亜麻布の帯を買って、それを腰に締めるようにと言われました。日本人は着物を着る習慣があるので、帯というと着物の帯を想像するかもしれませんが、これは祭司の服装に用いられた帯で、腰に巻く短いスカートのようなものです。エレミヤは祭司の家系で生まれたので「亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」と言われたとき、すぐにピンときたと思います。しかし、それを「水の中に入れてはならない」ということには少し抵抗があったかもしれません。なぜなら、「水の中に浸してはならない」とは水で洗ってはならないという意味で、洗濯してはならないことを意味していたからです。洗濯しなければ臭くなってしまいます。神に仕える祭司なのに何週間も洗わないものを身に着けるのは不衛生です。たとえば、私が同じシャツを何週間も着ていたらどうでしょう。汚い!と思うでしょう。まあ、そこまで見ている人はいないと思いますが・・。しかし、エレミヤは主が言われたとおり、帯を買って、それを腰に締めました。
  ここで重要なのは、エレミヤが「主のことばのとおり」にしたということです。エレミヤは自分には理解できないことであっても、主が言われたとおりにしました。心の中では「どうしてこんなことをしなければならないのか」と思ったかもしれませんが、主が言われるとおりにしたのです。
  ここがエレミヤのすばらしい点です。彼はそれがどういうことなのかがわからなくても、ただ主のことばのとおりにしました。これは私たちが模範です。私たちも聖書を読んでいると時々、どうして主はこんなことを言われるのだろうかとかと思うことがありますが、それでもエレミヤのように主のことばのとおりにすることが大切です。

創世記に出てくるノアもそうでした。創世記6章22節には、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。神様は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になられた時、人を造ったことを悔やみ、すべての人を地の面から消し去ろうとしました。しかし、ノアは主の心にかなっていたので、主はノアとその家族を救おうと、ノアに箱舟を作るようにと命じました。ノアの箱舟です。しかしそれはかなり大きいもので、長さはアメリカンフットボールのコートの1つ半、高さは4階建てのビルに匹敵するほどの高さでした。どれだけ時間がかかったでしょうか。一説によると70~100年くらいかかったのではないかと言われています。70~100年ですよ。気の遠くなるような話です。皆さんだったら作りますか?しかしノアは神から命じられると、そのとおりにししました。たとえ何年かかろうとも、たとえそれがどういうことなのかわからなくても、主が言われたとおりにしたのです。

時々私たちは、まさか主がそんなことを言われるはずはないと勝手に考えて、あるいは、それはあくまでもたとえであってそのとおりにする必要はないと従おうとしないことがありますが、考えてしまうことがありますが、勿論、それが明らかにたとえである場合は別として、そうでない時には基本的にそれに従うことが大切です。エレミヤは主が言われるとおりにしました。それがどういうことかよくわからなくても、主のことばのとおり、帯を買って、それを腰に締めたのです。

すると、どうなったでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「再び次のような主のことばがあった」とあります。これは彼が最初にあった主のことばに従ったからです。つまり、再びエレミヤに主のことばがあったのは最初に主のことばがあったとき、彼がそれに従ったからです。従わなかったら次のことばはありませんでした。私たちはよく「聖書が言っていることがよくわかりません」とか「みことばが入って来ないんです」と言うことがありますが、もしかするとそれは最初に語られた主のことばにあなたが従っていなことに原因があるのかもしれません。主のことばに従わないと次の命令が来ないからです。最初のステップを踏まないと次のステップに進めないということです。

エレミヤはどうして主がそのように言われるのかわかりませんでしたが、主の言われるとおりにすると、再び彼に主のことばがありました。4節です。「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」どういうことでしょうか。全く意味不明です。亜麻布を買って、それを腰に締めよというのはわかりますが、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せというのは考えられないことです。なぜなら、この時エレミヤはエルサレムにいましたが、ユーフラテス川まではかなりの距離があったからです。地図をご覧ください。エルサレムからバビロンまでのルートを記しておきました。ユーフラテス川はその途中にありました。それは直線距離で約800㎞です。800㎞もありました。800㎞といったら、ここから広島辺りまでの距離に相当します。しかも当時は新幹線も高速道路もありませんでした。野を越え、山を越え、谷を越え、また広大な砂漠を通って行かなければなりませんでした。エズラ記によると、ユーフラテス川の先にあるバビロンからエルサレムまで帰還するのに四か月かかったと記されてあります(エズラ7:9)。ですから、ユーフラテス川まで行くには相当の日数を要したのは間違いありません。それで学者によってはユーフラテス川というのは間違いで、これはエレミヤの故郷アナトテの町の北東5kmにある「ワディ・ファーラ―」という町のことではないかと考える人もいます。ヘブル語で発音すると「ワディ・ファーラ―」と「ユーフラテス」の発音が似ているからです。あるいは、これはエレミヤが見た単なる「夢」ではないかという人もいます。違います。これは実際にエレミヤが神様から与えられた命令です。そのように受け止めた方がこの後で主がこの一連の行動の意味を説明される時、その深い意図が明らかとなるからです。

その命令に対してエレミヤはどのように応答したでしょうか。5節です。「そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。」
 エレミヤは主が命じられたとおりにしました。ユーフラテス川まで行き、それを岩の割れ目に隠したのです。すごいですね、エレミヤは常識では考えられないことでも、主が言われたとおりにしたのです。なぜなら、主は常識を超えておられる方だからです。常識だから従うというのは信仰ではありません。信仰とは、常識を超えたことでも主が語られたので従うことです。これが信仰です。

ヘブル11章1節には「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないことを確信させるものなのです。「望んでいる事がら」とは、自分が望んでいることではなく、神によってもたらされる天における報いことです。それは目には見えませんが、必ず与えられると信じています。なぜなら、主がそのように約束してくださったからです。創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現ですね。私たちの希望として持っている天の御国は目に見えませんが、将来に起こる確かなものとしてつかむのです。それをしっかりとつかむ手、それが信仰なのです。それは常識をはるかに超えたものですが、主が言われたことは必ずそうなるからです。これは盲従とは違います。盲従といっても「猛獣」のことではありません。盲目的に従うことを「盲従」と言いますが、それとは違います。盲従とは何も考えないで従いますが、信仰とは主が語ってくださることに応答することです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、主がみことばによって命じられたので従うのです。それが信仰です。
 エレミヤは主が命じられるとおりにユーフラテス川まで行き、そこに帯を隠しました。どうしてそんなことをしなければならないのかわかりませんでしたが、主がそう言われたのでそのとおりにしたのです。

するとどうでしょう。するとエレミヤに三度目の主のことばがありました。6節です。「多くの日を経て、主は私に言われた。『さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』」
 「えっ!」ですよね。ユーフラテス川まで行ってそれを隠せというからそうしたのに、今度はそのユーフラテス川にもう一度行って、あの帯を取り出すようにというのです。だったら、最初からしなければよかったじゃないですか。800㎞ですよ。その距離をまた往復しなければならないのです。それはあんまりです。しかしエレミヤは神の人でした。主が言われるとおりもう一度ユーフラテス川に行って堀り、隠しておいた場所から帯を取り出しました。もしかすると彼は何かを期待していたかもしれません。その帯にキャビアがついているとか・・。皆さん、知っていますか?聞いたこともないでしょ。これは世界三大珍味の一つで高級食材として有名です。インターネットで調べてみたらチョウザメの卵らしいです。ちなみに世界三大珍味とは、他にフォアグラとトリュフだそうです。まぁ、どうでもいいことですが。もしかしたら、そういうものが付いていると思ったのかもしれません。とにかく彼はもう一度ユーフラテス川へ行き、隠した場所から帯を取り出しました。

するとどうでしょう。その帯はぼろぼろになっていました。ぼろぼろに腐って、何の役にも立たなくなっていたのです。エレミヤは「何だ、これ?」と思ったかもしれません。いったい何のためにここまで来なければならなかったのか、こんな腐った帯を掘り出すためにわざわざ命をかけて来たのか・・と。しかし重要なことは、主がせよと言われたことをしたことです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、たとえそれが常識を超えたことであっても、主が命じられたとおりにすることが重要です。なぜなら、そうすることで、その次につながるからです。なぜ神様がそのように言われたのか、それがどういう意味なのかが明らかになるからです。

Ⅱ.エルサレムの大きな誇り(8-10)

いったいそれはどういうことだったのでしょうか。次に、その意味について考えたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 すると、私に次のような主のことばがあった。9 主はこう言われた。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。10 わたしのことばに聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むこの悪しき民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」

すると、エレミヤに次のようなことばがありました。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。」と。この帯は、イスラエルの民の大きな誇りを表していました。主はその誇りをこの帯のようにぼろぼろにするというのです。それは具体的にはバビロン捕囚のことを表していました。バビロンに捕え移すということです。バビロンという国はユーフラテス川の対岸にありますが、そこまで連れて行かれるということです。なるほど、だからユーフラテス川だったんですね。わざわざユーフラテス川まで行って帯を隠すようにと言われたのは、このことを表していたのです。しかもエレミヤは、ユーフラテス川まで2回も行かなければなりませんでした。実は、バビロン捕囚の出来事は2回にわたって行われました。第一回目は、ユダの王エホヤキムの時(B.C.597)です。これが第一次バビロン捕囚と呼ばれている出来事です。そしてもう一回が、南ユダの最後の王ゼデキヤの時(B.C.586)です。これが第二次バビロン捕囚で、この時エルサレムが完全に陥落することになります。ですから、エレミヤが2回もユーフラテス川まで行かなければならなかったのは、これら一連の出来事を預言していたのです。これらの出来事のすべてが、エレミヤが行った行動預言の中に含まれていたのです。すごいですね。神様のなさることは。エレミヤも何が何だかわからず、ただ神がせよと言われるからそのようにしただけでしたが、そういう意味があったと知って、後で驚いたのではないでしょうか。

いったいイスラエルの民はどういう点で誇っていたのでしょうか。10節には彼らの三つの誇りが取り上げられています。第一に、彼らは主のことを聞くことを拒みました。ここに、「わたしのことばを聞くことを拒み」とあります。皆さん、誇りと何でしょうか。誇りとは、神のことばを聞こうとしないことです。神の判断を仰がないで自分で判断し自分の考えで進もうとすること、これが誇っているということ、高慢であるということです。そこには神様が入り込む余地がありません。逆にへりくだっている、謙遜であるとは、神のことばに聞き従うことです。20世紀のプロテスタントに大きな影響を与えたマルチン・ロイドジョンズは、自身が書いた「山上の垂訓」の中で、心が貧しいということを「Empty」と表現しました。空っぽであるということです。古いぶどう酒を全部吐き出さないと新しいぶどう酒を入れることができないように、自分の思いを全部吐き出してEmptyにしないと、神のことばに満たされることはできません。その空になっ+た心を神のことばで満たしそのことばに生きること、それがへりくだっていると言うことなのです。もし神様の判断を仰ごうとせず自分の考えで動こうとしているなら、それはへりくだっているようでも誇っています。謙遜であるかのようでも高慢なのです。皆さんはいかがですか。神様はそのような誇りを腐らせるのです。

第二に、彼らは頑なな心のままに歩もうとしました。これも高慢な人の特徴的な性質です。心が堅いのです。いくら言ってもわかりません。わかろうとしないのです。もう自分の中で決めていますから。だから主のことばが入って行かないのです。心に響きません。それは神のことばを語る側にも問題があるかもしれませんが、最大の問題はここにあります。主のことばを聞こうとしないのです。もう自分で決めていますから。聖書のことばは参考までに聞きますという程度です。この道を行くと自分で決めているので、どんなに主が「これが道だ。これに歩め。」と言っても、聞く耳を持とうとしないのです。「そういう道もあるでしょうね。でも私には私の考えがありますから」となるのです。それが頑なな心のままに歩むということです。イスラエルの民の心は、実に頑なでした。

第三に、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むということです。これも大きな誇りです。勿論、イスラエルの民は主なる神、ヤーウェーも信じていました。でも、主だけを信じていませんでした。ほかの神々にも信頼していたのです。主を礼拝しながらバアルも、アシュタロテも、マモンも、その他いろいろな神々を信じ、それらに仕えていました。盆も正月もクリスマスもお祝いするみたいな感じです。これは日本人の宗教観に近いものがあります。それが寛容な心だと思っているわけです。全部拝めばそれだけご利益もあるしと。でもそれは大きな誇りです。主なる神を信じていると言いながらほかの神々に歩み、それらに仕えているとしたら、それは誇りでしかありません。主はそうした大きな誇りをぼろぼろにすると言われたのです。

あなたはどうですか。イスラエルの民のような誇り、プライドはないでしょうか。神のことばを聞こうとせずその心をかたくなにして、「私は私の道を行く」と自分の考えに固執していることはないでしょうか。そしてほかの神々にも従って歩み、それらに仕えているということはないでしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)と言われました。主はご自身の前で心を低くし全面的に主に拠り頼む人を、御国の民としてくださるのです。

Ⅲ.主に結び付いて(11)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、第三のことは主に結び付いてということです。11節をご覧ください。「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた─主のことば─。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」

ここで主はものすごいことを言われます。それは「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた。」ということばです。第三版では「結びつけた」と訳しています。「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。」意味としてはこちらの方が近いです。イスラエルは神に結びつけられたのです。一つとなるように。帯が人の腰に結び付けるように、主はイスラエルの全家をご自身に結びつけてくださったのです。これは神様にとってイスラエルの民がそこまで近い存在であるということ、一体であることを表しています。その神と私たちを結び付ける帯がぼろぼろだったらどうでしょうか。使い物になりません。仕事にならなければ戦いにもなりません。そして、これは祭司の帯だと申し上げましたが、祭司とは礼拝を司る者ですから、礼拝にもならないということです。でも主は私たちをご自身と一つに結び付けてくださいました。そこまで私たちと一つになりたいのです。これが神の願いなのです。

これはイエス様の祈りを見てもわかります。イエス様は十字架に付けられる直前に、ゲッセマネの園で最後の祈りをされました。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの壮絶な祈りでしたが、その祈りの中で主はこう祈られました。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)
 イエス様の祈りは、すべての人を一つにしてくださいというものでした。イエス様が父なる神と一つであるように、イエスを信じるすべての人が、互いに一つとなるようにと祈られたのです。それはイエスが父によって遣わされたことを、この世が信じるようになるためです。その一つに結び合わせるものが帯です。「愛」という帯なのです。「愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)その神の愛という帯によって一つになり、互いに結び合うようにと祈られたのです。

それは何のためでしょうか。11節後半をご覧ください。ここにその理由が書いてあります。「それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。」
 これがイスラエルの民が神に結び付けられた目的です。これがイスラエルの民が存在している目的でもあり、これが私たちクリスチャンが存在している目的でもあります。あなたは何のために存在していますか。それはあなたが神の民となり、神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなるためです。神様はあなたをそのようにしたいと願っておられるのです。あなたはそのために主に結びつけられたのです。決して離れることがないように、愛の絆でしっかりと結び付けられたのです。それなのに、イスラエルの民は神の御声に聞き従いませんでした。神と彼らを結び付けていた帯はぼろぼろに腐ってしまい、何の役にも立たなくなってしまったのです。私たちはそういうことがないように気をつけたいと思います。そして、神と私たちを結び付けている帯がぼろぼろにならないように、しっかりと主と一つになることを求めていきたいと思うのです。

 あなたが誇りとしているものは何ですか。私たちが誇りとすべきもの、それは主との関係です。主を知っているということを誇るべきです。私たちは誰か有名な人を知っていると、「私はあの人を知っている」と自慢します。でも私たちが自慢すべきなのは、私たちが主を知っていることです。誤解しないでください。主を知っているということは聖書の知識がどれだけあるかということではありません。また、主のためにどれほど熱心に活動しているかということでもありません。クリスチャンとしてこの社会でどれだけ立派に生きているかということでもありません。主を知っているとは、主との関係を意味しています。この結びの帯で主と一つに結ばれているかどうかということです。

パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)と言っています。このことです。生きるにしても、死ぬにしても、その身によってキリストが現わされることを切に願うことです。長谷川先生が金太郎飴のお話をされました。どこを切っても金太郎が出てくるように、私たちのどこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方です。そのためにはキリストと一つに結ばれていなければなりません。キリストの苦難にもあずかり、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいと願う。そんな信仰の歩みです。私たちはそのために造られたのですから。どうか、私たちの身を通して神の御名が崇められますように。その存在が神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなりますように。そのような者とさせていただきましょう。そのためにぼろぼろの帯ではなく、キリストの愛という帯によって神様と一つに結びつけていただきたいと思います。

Ⅰ列王記22章

 今日は、列王記第一22章から学びます。列王記第一の最後の章となります。

 Ⅰ.預言者ミカヤ(1-23)

まず、1~23節までをご覧ください。5節までをお読みします。「1 アラムとイスラエルの間に戦いがないまま、三年が過ぎた。2 しかし、三年目になって、ユダの王ヨシャファテがイスラエルの王のところに下って来ると、3 イスラエルの王は自分の家来たちに言った。「おまえたちは、ラモテ・ギルアデがわれわれのものであることをよく知っているではないか。それなのに、われわれはためらっていて、それをアラムの王の手から奪い返していない。」4 そして、彼はヨシャファテに言った。「私とともにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。」ヨシャファテはイスラエルの王に言った。「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」5 ヨシャファテはイスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってください。」

アラムとイスラエルの間に戦いがないまま、三年が過ぎました。思い出してください。20章で見たとおり、アラムすなわちシリヤの王ベン・ハダドが、イスラエルに戦いをしかけて敗北しました。それでイスラエルの王アハブは彼を聖絶しなければならなかったのに、やすやすと逃してしまいました。あれから三年が経過しました。この間、アラムとイスラエルの間には戦いがありませんでした。

その頃、南ユダの王ヨシャファテがイスラエルの王のところにやってきました。南ユダ王国に関する記述は、Ⅰ列王記15章24節のアサ王の死後ありませんでした。アサ王は15章11節に「父祖ダビテのように、主の目にかなうことを行った」とあるように善い王だったので、41年間南ユダを統治することができましたが、ヨシャファテはその息子です。あれからずっと南ユダ王国に関しての記述がなかったのは、北イスラエルの王アハブに関する出来事を伝えたかったからです。しかし、この22章40節でアハブに関する記述が終わるので、41節から再び南王国ユダに関する戻ります。

そのユダの王ヨシャファテがアハブところにやって来ました。これまでイスラエルとユダの関係は敵対関係にありましたが、アラムという共通の敵を前にして、友好関係を築いていたのでしょう。ですから、このヨシャファテの訪問は、いわゆる表敬訪問だったということです。

しかし、ヨシャファテがアハブのところに下って来たとき、自分の家来たちに言いました。「おまえたちは、ラモテ・ギルアデがわれわれのものであることをよく知っているではないか。それなのに、われわれはためらっていて、それをアラムの王の手から奪い返していない。」どういうことでしょうか。アラムの王ベン・ハダドは、アハブとの戦いに敗れ恩赦を受けた時、そのお礼としてかつて彼の父がアハブの父親から奪い取った町々を返却すると約束しました(Ⅰ列王記20:34)が、ラモテ・ギルアデという町が返却されていなかったので、それを奪い返そうとしたのです。巻末の地図4「イスラエルの各部族への土地の割り当て」をご覧ください。ラモテ・ギルアデの位置を確認しましょう。そこは、ヨルダン川の東にあるガド族の領地にある町です。この町は、軍事的に戦略的に重要な町でした。その町をアラムの王の手から奪い返すのに、ヨシャファテの力を借りようと思ったのです。それで南ユダ王国のヨシャパテが来たとき、一緒に戦いに行ってくれるように頼んだのです。

それに対して、ヨシャファテはどのように応答したでしょうか。彼は一つ返事で快諾しました。4節です。「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」しかし、彼はまず「主のことばを伺ってください。」とアハブに言いました。さすがヨシァファテですね。南王国ユダの善王の一人です。しかし、順序が逆でした。彼はアハブから協力を依頼されたとき「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」とすぐに返事をするのではなく、その前に主に伺いを立てるべきでした。まず主のみこころを確かめてから答えるべきだったのです。これはヨシャパテばかりでなく、私たちもよく犯すものです。私もよく失敗します。その時の自分の思いで即答してしまうのです。しかし、後になって冷静に考えてみると、必ずしもそれが良い判断ではないことに気付いて撤回しようとすると、後に引けなくなってしまうことがあります。まず、主に伺いを立て、まず、主の導きを祈り求めること、それが私たちの確かな信仰生活につながる鍵なのです。

次に、6~18節をご覧ください。「6 イスラエルの王は約四百人の預言者を集めて、彼らに尋ねた。「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、やめるべきか。」彼らは答えた。「あなたは攻め上ってください。主は王様の手にこれを渡されます。」7 ヨシャファテは、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と言った。8 イスラエルの王はヨシャファテに答えた。「ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。」ヨシャファテは言った。「王よ、そういうふうには言わないでください。」9 イスラエルの王は一人の宦官を呼び、「急いでイムラの子ミカヤを連れて来い」と命じた。10 イスラエルの王とユダの王ヨシャファテは、それぞれ王服をまとって、サマリアの門の入り口にある打ち場の王の座に着いていた。預言者はみな、彼らの前で預言していた。11 ケナアナの子ゼデキヤは、王のために鉄の角を作って言った。「主はこう言われます。『これらの角で、あなたはアラムを突いて、絶ち滅ぼさなければならない。』」12 預言者たちはみな、同じように預言した。「あなたはラモテ・ギルアデに攻め上って勝利を得てください。主は王の手にこれを渡されます。」

13 ミカヤを呼びに行った使者はミカヤに告げた。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に対して良いことを述べています。どうか、あなたも彼らと同じように語り、良いことを述べてください。」14 ミカヤは答えた。「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。」15 彼が王のもとに着くと、王は彼に言った。「ミカヤ、われわれはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、やめるべきか。」彼は王に答えた。「あなたは攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」16 王は彼に言った。「私が何度おまえに誓わせたら、おまえは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか。」17 彼は答えた。「私は全イスラエルが山々に散らされているのを見た。まるで、羊飼いのいない羊の群れのように。そのとき主はこう言われた。『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ。』」18 イスラエルの王はヨシャファテに言った。「あなたに言ったではありませんか。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言すると。」

イスラエルの王アハブは約四百人の預言者を集めて、ラモテ・ギルアデに上って行くべきか、それとも、やめるべきか尋ねます。彼らはバアルの預言者ではありません。そんなことをしたらヨシャファテを大いに侮辱することになるでしょう。彼らは主の預言者でした。しかし、真の預言者ではなくただ王が喜ぶことだけを告げる偽預言者でした。彼らは「攻め上ってください。主は王様にこれを渡されます。」と答えました。これはまさに、アハブ王が聞きたいと思っていた言葉です。聞きたいと思っていることを告げるのが良い預言者ではありません。真の預言者とは民が聞きたいことではなく、神が語れと言われることを語る預言者です。

ヨシャファテはそれを聞いて、「ここには、われわれのみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのか」(7)と言いました。おそらくヨシャファテは、彼らが告げることばを聞いて違和感を覚えたのでしょう。四百人が四百人同じように答えたからです。ヨシャファテには霊的洞察力が備わっていました。私たちも預言者である牧師が語る主のことばを聞いて、それが本当に主から来たものなのかを見分ける霊的洞察力が求められます。

イスラエルの王アハブはヨシャファテに答えました。8節です。「ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。」

いるにはいるけど、自分はあまり好きではない。なぜなら、彼は自分について良いことは預言せず、悪いことばかり預言するからです。その人は、イムラの子ミカヤです。ミカヤはエリヤと同時代の預言者で主のことばを忠実に伝えていました。ですから、彼の告げることばは必ずしもアハブにとって都合が良いことばかりではありませんでした。都合が悪いことでも語る、いや、悪いことばかり語るのではないかとアハブには思われていました。ヨシャパテはピンとくるものがあったのでしょう。アハブに「そういうふうにいわないでください」と言って、ミカヤを連れて来させました。

イスラエルの王アハブと南ユダの王ヨシャファテは、それぞれ王服をまとって、サマリアの門の入り口にあるうちばの王の座に着いていました。「打ち場」とは麦打ち場のことです。そこは他の場所より一段高くなっていました。ですから、王たちが座り預言者たちのことばを聞くのに適していた場所でした。

まず登場したのは、ケナアテの子ゼデキヤでした。彼は、鉄の角を作ると、それを振りかざしながら、「これらの角でアラムを突いて、絶ち滅ぼさなければならない」と言いました。他の預言者たちもみな、同じように預言しました。

次に、ミカヤが連れて来られました。彼は連れて来られ前に使いの者から、「いいですか」と、彼らと同じように良いことを語るようにと忠告を受けていました。彼は王たちの前に連れて来られると、主が告げられたとおりのことを語りました。それは15節にあるように、「あなたは攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」と言いました。

これを聞いたアハブ王はハレルヤ!と喜ぶかと思ったら、彼にこのように怒って言いました。「私が何度おまえに誓わせたら、おまえは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか」どういうことでしょうか。これこそ彼が聞きたかったことばじゃないですか。他の預言者たちが告げた内容と同じです。それなのにアハブ王はそれを聞いて怒りました。なぜでしょうか。それはこれが他の預言者が語った内容と同じでも、皮肉って語ったからです。「行ったらいいんじゃないですか。主はあなたの手にこれを渡されますよ。きっと・・・」といった感じです。それを聞いたアハブはすぐにわかりました。皮肉っていると。そういう語り口調だったのでしょう。それは、その後の彼のことばを見ればわかります。ミカヤはその後ですぐ真実な預言を語り始めます。それが17節にある内容です。「彼は答えた。「私は全イスラエルが山々に散らされているのを見た。まるで、羊飼いのいない羊の群れのように。そのとき主はこう言われた。『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ。』」

「全イスラエルが山々に散らされる」とは、アラムとの戦いに敗れて散り散りになるということです。それはまるで羊飼いのいない羊のようになるということです。戦いに敗れて主人がいなくなってしまうからです。それは、アハブ王が死ぬことを意味していました。

それを聞いたアハブはヨシァファテに告げます。「あなたに言ったではありませんか。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言すると。」(18)アハブは、ミカヤの預言は信じるに値しないもので、信ずべきものは四百人の預言者たちの一致した預言であると強調したのです。つまり、自分と同盟関係を結んで、一緒にアラムと戦ってほしいと懇願しているのです。

自分の計画に固執していると、神の声が聞こえなくなってしまうことがあります。そして、やがて神の声を無視するという行為が習慣となり、滅びを招くことになるのです。

するとミカヤは、主のことばに耳を貸そうしないアハブに対して、別の角度から神のことばを告げます。それはミカヤが見た幻を通してです。それが19~23節にある内容です。「19 ミカヤは言った。「それゆえ、主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。20 そして、主は言われました。『アハブを惑わして攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせるのはだれか。』すると、ある者はああしよう、別の者はこうしようと言いました。21 ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言うと、主は彼に『どのようにやるのか』とお尋ねになりました。22 彼は答えました。『私が出て行って、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』主は『きっとあなたは惑わすことができる。出て行って、そのとおりにせよ』と言われました。23 今ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に、偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」

ミカヤは、主が御座に着き、天の万軍がその左右に立っているのを見ました。そこで主が、「アハブを惑わして攻め上がらせ、ラモテ・ギルアデで彼を倒れさせるのはだれか」と言うと、ある御使いはこうしようといい、また別の御使いはああしようと提案しますが、その時ひとりの天使が御前に進みで、「この私が彼を惑わします。」と告げるのです。「どうやって惑わすのか」と尋ねると、彼は答えました。『私が出て行って、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』

すると主は、「きっとあなたは惑わすことができる。出て行って、そのとおりにせよ」と言われました。その偽りを言う霊こそ、ここにいるすべての預言者たちであるというのです。そして、それはアハブに下るわざわいのことばだというのです。

ここで注目すべきことは、主はご自身のみこころを実行するために、悪霊さえも用いられるということです。しかし、それは神が悪霊を遣わしたということではありません。ただ悪霊が惑わすことを許可されたということです。同じようなことがヨブ記にも見られます。サタンはヨブに害を加えようと神の前に出ています。そうすればどんなに正しい人でも、神をのろうようになると。それで神はサタンにこう言われました。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな。」(ヨブ2:6)主は、サタンがヨブに害を加える事を許されたのです。サタンは神に反抗する霊ですが、そのようなものさえも神が用いられることがあるのです。しかし、それさえも神の御手の中にあります。それを超えてサタンが働くことはできません。ここでも、主に背くアハブ王を倒すために悪霊が用いられ、偽りを言う預言者たちの口を通して、アハブにわざわいを下されるのです。

Ⅱ.アハブ王の死(24-40)

次に、24~40節をご覧ください。28節をお読みします。「24 ケナアナの子ゼデキヤが近寄って来て、ミカヤの頬を殴りつけて言った。「どのようにして、主の霊が私を離れ、おまえに語ったというのか。」25 ミカヤは答えた。「あなたが奥の間に入って身を隠すその日に、あなたは思い知ることになる。」26 イスラエルの王は言った。「ミカヤを捕らえよ。町の長アモンと王の子ヨアシュのもとに連れて行き、27 王がこう命じたと言え。『この男を獄屋に入れ、私が無事に帰るまで、わずかなパンと、わずかな水だけ与えておけ。』」28 ミカヤは言った。「もしも、あなたが無事に戻って来ることがあるなら、主は私によって語られなかったということです。」そして、「すべての民よ、聞きなさい」と言った。」

するとゼデキヤがミカヤに近寄り、彼の頬を殴りつけて言いました。「どのようにして、主の霊が私を離れ、おまえに語ったというのか。」ひどいですね。ミカヤの頬を殴りつけるなんて。おそらくゼデキヤは自分が神の霊によって語ったと思い込んでいたのでしょう。それを「偽りを言う霊」、悪霊によって語ったと言われたので頭にきたのではないかと思います。

ミカヤはその質問には一切答えず、ただ「あなたが奥の間に入って身を隠すその日に、あなたは思いしることになる。」と言いました。これは、アハブ王が死ぬときゼデキヤは奥の間に隠れるようになるが、その時、彼は自分が語ったことが偽りの預言であったことを知るようになるということです。時がすべてを証明するということです。だから青筋を立てて怒る必要はないのです。

するとアハブ王はミカヤを捕え、監獄に入れ、自分が無事に帰るまで、わずかなパンと、わずかな水だけを与えて養っておけ、と命じました。

するとミカヤは「もしも、あなたが無事に戻って来ることがあるなら、主は私によって語られなかったということです。」と言い、「すべての民よ、聞きなさい」と言いました。これは、すべての民がこのことの証人であるということです。

ここでアハブは悔い改めの機会が与えられたにもかかわらず、その頑なな心を変えようとしませんでした。彼は21章27節ではエリヤのことばを聞いて悔い改めましたが、ここではそうしませんでした。残念ですね。一度悔い改めたから大丈夫だということはありません。私たちはすぐに高ぶり、神の前に罪を犯す者ですが、大切なのはその都度悔い改めることです。そうでなければ、悲惨な最後を迎えることになるからです。

次に、29~40節までをご覧ください。「29 イスラエルの王とユダの王ヨシャファテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。30 イスラエルの王はヨシャファテに言った。「私は変装して戦いに行きます。しかし、あなたは自分の王服を着ていてください。」イスラエルの王は変装して戦いに行った。31 アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たち三十二人に次のように命じた。「兵とも将軍とも戦うな。ただイスラエルの王だけを狙って戦え。」32 戦車隊長たちはヨシャファテを見つけたとき、「きっと、あれがイスラエルの王に違いない」と思ったので、彼の方に向きを変え、戦おうとした。ヨシャファテは助けを叫び求めた。33 戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知り、彼を追うことをやめて引き返した。34 そのとき、ある一人の兵士が何気なく弓を引くと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。王は自分の戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を陣営から出させてくれ。傷を負ってしまったから。」35 その日、戦いは激しくなった。王はアラムに向かって、戦車の中で立っていたが、夕方になって死んだ。傷から出た血が戦車のくぼみに流れた。36 日没のころ、陣営の中に「それぞれ自分の町、自分の国へ帰れ」という叫び声が伝わった。

37 王は死んでサマリアに運ばれた。人々はサマリアで王を葬った。38 それから戦車をサマリアの池で洗った。犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。主が語られたことばのとおりであった。39 アハブについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼が建てた象牙の家、彼が建てたすべての町、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。40 アハブは先祖とともに眠りにつき、その子アハズヤが代わって王となった。」

イスラエルの王アハブとユダの王ヨシャファテは、ラモテ・ギルアデに攻め上りました。しかし、イスラエルの王アハブは変装して行きました。たぶん、ミカヤの預言を恐れたからでしょう。変装して行けば、攻撃される可能性は低くなると考えたのです。しかし彼はヨシャファテには、自分の王服を着るようにと言います。自分は着たくないのに、ヨシャファテには着せようとしました。どうしてでしょうか。何かあった時にはヨシャファテの命が狙われても自分の命は助かると思ったからです。アハブはどこまでも身勝手な人間でした。

しかし、結果的に、王服を来たヨシャファテは助かり、変装したアハブが死ぬことになります。アラムの王が狙っていたのはイスラエルの王アハブの命だけでした。アラムの戦車隊長はヨシャファテを見つけたときそれがイスラエルの王アハブだと思って戦おうとしましたが、ヨシャァファテが助けを叫び求めたので、それがイスラエルの王ではないことを知り、彼を追うことをやめて引き返しました。

そのとき、ある一人の兵士が何気なく弾いた弓が、イスラエルの王アハブの胸当てと草摺りの間を射抜きました。胸当てと草摺の間とは、鎧の隙間のことを指しています。ある兵士が偶然放った矢が、何とアハブの鎧の間を射抜いたのです。これは偶然のように見えますが、38節を見ると、そうではないことがわかります。これは、主が語られたことばが成就するためであったことがわかります。それがこのような経緯で実現したのです。そのことを記したかったのです。彼はその兵士が放った矢によって負傷したので自分の陣地に戻りましたが、その日、戦いは激しさを増し、結局、アハブはその日の夕方に死んでしまいました。彼が戦車の中で立っていたのは指揮官としての自分の姿を見せることで、自陣の兵士たちを鼓舞するためです。

日没のころ、自営の中に「それぞれ自分の街、自分の国へ帰れ」という叫び声が伝わったのでアハブ王もサマリアに運ばれましたが、彼はそこで死んで、葬られました。血のついた戦車はサマリアの池で表れ、流れた血を犬たちがなめました。また遊女たちがその身を洗いました。これは、エリヤが語った預言のとおりです(Ⅰ列王21:19)。主が語られたことばのとおりになりました。アハブが先祖たちとともに眠りにつくと、その子アハズヤが代わって王となりました。

アハズヤについては、51~53節に記録されてあります。「51 アハブの子アハズヤは、ユダの王ヨシャファテの第十七年にサマリアでイスラエルの王となり、二年間イスラエルの王であった。52 彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。53 彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行ったのと全く同じように行って、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」

彼の治世は、わずか2年間でした。それは彼が主の目に悪であることを行い、彼の父の道と母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの道に歩んだからです。彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行ったのと全く同じように行って、イスラエルの神、主の怒りを引き起こしたからです。

主が語られたことは必ず成就します。主を恐れることが、知恵のはじまりです。主を恐れ、主に従いしましょう。それが確かな人生の鍵なのです。

Ⅲ.ヨシャファテの治世(41-50)

最後に、41~50節をご覧ください。「41 アサの子ヨシャファテがユダの王となったのは、イスラエルの王アハブの第四年であった。42 ヨシャファテは三十五歳で王となり、エルサレムで二十五年間、王であった。その母の名はアズバといい、シルヒの娘であった。43 彼はその父アサのすべての道に歩み、そこから外れることなく、主の目にかなうことを行った。しかし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。44 ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた。

45 ヨシャファテについてのその他の事柄、彼が立てた功績とその戦績、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。46 彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。

47 そのころ、エドムには王がなく、守護が王であった。48 ヨシャファテはタルシシュの船団をつくり、金を得るためにオフィルに行こうとしたが、行けなかった。船団がエツヨン・ゲベルで難破したからである。49 そのとき、アハブの子アハズヤはヨシャファテに、「私の家来をあなたの家来と一緒に船で行かせましょう」と言ったが、ヨシャファテは同意しなかった。50 ヨシャファテは先祖とともに眠りにつき、先祖とともに父ダビデの町に葬られた。その子ヨラムが代わって王となった。」

ここから、南王国ユダの王ヨシャファテの記録に移ります。彼については、アハブ王との関係の中で、その活動の一部が紹介されていましたが、ここに彼の一生の記録がまとめられています。

彼は35歳で王となり、エルサレムで25年間王として南ユダを統治しました。彼は父アサのすべての道に歩み、そこから外れることなく、主の目にかなうことを行いました。彼は南ユダ王国に登場する8人の善王の一人です。彼は父アサにならい宗教改革に尽力しましたが、完全に偶像を取り除くことができませんでした。一度は取り除いたのでしょうが、高き所、偶像礼拝の場所を再建したのです。ヨシャファテはイスラエルの王アハブと敵対することを止め、同盟関係を結びました。その結果、ヨシャファテの息子ヨラムとアハブの娘のアタルヤが結婚することになります。アタルヤはイゼベルの娘でもありますが、このことによって南ユダにも偶像礼拝をもたらすことになります。ヨシャファテは父アサのように偶像礼拝の撲滅に熱心でしたが、その働き中途半端で終わりました。父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼を除き去ることをしませんでした。

ヨシャファテは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られました。そして、その子ヨラムが代わって王となりました。ヨシャファテは時には愚かな選択をしたこともありましたが、その中心は主に向かっていました。その結果、彼は8人の善王の中に数えられるようになりました。私たちも失敗することがありますが、いつも主に立ち返り、主に信頼して歩みましょう。その心がどこに向かっているのかが問われているのです。

エレミヤ12章7~17節「絶望の中にある神の希望」

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クリスマス礼拝、新年礼拝とありましたので、前回のエレミヤ書の説教から大分時間が経ちましたが、再びエレミヤ書の講解説教に戻ります。前回は、12章前半の箇所から、「どうして、どうして、どうして」というタイトルでお話しました。エレミヤは、なぜ、悪者が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかわかりませんでした。そんなエレミヤに対して主はずっと沈黙されたままでしたが、その口を開かれるとこう言われました。5節です。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか」徒歩の者と競争して疲れているとは現在の状況のことを表しています。そして、馬と走り競うとは将来のことです。つまり、現在のことでそんなに疲れ果てているならこれから先どうするのかということです。これから先もっと大きな困難が待ち受けているのだから、今の状況に一喜一憂するのではなく、すべてをご存知であられる主に信頼して前進するようにということでした。

今日の説教のタイトルは、「絶望の中にある希望」です。ユダの民、イスラエルの民は主を捨てて自分勝手な道に進んで行きました。その結果主のさばきを受けることになりますが、その中でも主は彼らを憐れんでくださり、再び回復してくださるという希望を語られます。

Ⅰ.神の悲しみの歌(7-11)

まず7~11節をご覧ください。ここには、最愛の者から裏切られた神の悲しみが、エレミヤに伝えられます。「7 わたしは、わたしの家を捨て、わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。8 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、林の中の獅子のようだ。それはわたしに向かって、うなり声をあげる。それゆえ、わたしはこの地を憎む。9 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、一羽の斑の猛禽なのか。それを猛禽どもが取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。それらを連れて来て、食べさせよ。10 多くの牧者が、わがぶどう畑を荒らし、わたしの地所を踏みつけて、わたしの慕う地所を恐怖の荒野にした。11 それは恐怖と化し、荒れ果てて、わたしに向かって嘆き悲しんでいる。全地は荒らされて、まことに、だれも心に留める者はいない。」

ここには、「わたし」ということばが強調されています。これは神様のことです。新改訳聖書ではひらがなの「わたし」と漢字の「私」を区別して記していますが、このようにひらがなで「わたし」とあるのは神様のことを指しています。この「わたし」という言葉が何回も使われているのは、ここに神様の思いというか気持ちがよくあらわれているということです。その神様の気持ちとはどういうものでしょうか。

7節には「わたしの家」とか「わたしのゆずりの地」という言葉がありますが、これはイスラエルの民のことを指しています。「わたしが心から愛するもの」もそうです。そのイスラエルの家を捨て、相続地を見離し、主が心から愛するものを、敵の手に渡されました。これは、敵であるバビロンの手に渡したということです。バビロン捕囚の出来事です。バビロンによって捕えられ、捕囚の民として連れて行かれることになるのです。なぜでしょうか?8節に、その理由が書かれてあります。それは彼らが神にとって林の中の獅子のようだったからです。林の中の獅子とは、神に対して敵対するライオンのことです。彼らは主に向かってうなり声をあげました。「うなり声をあげる」とは敵対するという意味です。林の中のライオンが「ウォー、ウォー」とうなり声を上げるように、神に対して敵対したのです。それゆえ、主はこの彼らを憎まれたのです。

また9節を見ると、彼らは主にとって、「一羽の斑の猛禽」のようだとあります。「猛禽(もうきん)」とは、肉食の鳥のことです。ここではただの猛禽ではなく「(まだら)の猛禽」とあります。この斑の猛禽とはイスラエルの民のことを指しています。斑の猛禽には一つの習性があり、それは、仲間以外のものを攻撃するということです。つまり、彼らにとってイスラエルの神は自分たちの仲間ではなかったのです。それで神に敵対して激しく襲い掛かかりました。

そんな一羽の斑の猛禽を、猛禽どもが取り巻いていました。この猛禽どもとはバビロンのことです。一羽の斑の猛禽が主に対して襲い掛かったので、主は他の猛禽どもに命じて、すべての野の獣を集めて、斑の猛禽を連れて来て、食べさせるようにと命じているのです。神様の目から見たらバビロンも猛禽どもにすぎません。旧約聖書には、猛禽は食べてはならない汚れた動物とされています。また、いけにえとして神にささげることもできませんでした。神に受け入れてもらえない動物だったのです。ですから、ここでは一羽の斑の猛禽が猛禽どもに取り巻かれているとありますので、汚れた民であるバビロンによって、神の民が取り巻かれ、滅ぼされることになると預言されているのです。何とも悲惨な話です。それは彼らが神である主に敵対し、主に向かって襲いかかったからです。

10節をご覧ください。「わがぶどう畑」とか「わたしの地所」もイスラエルの民のことです。それを踏みつけて、「恐怖の荒野」にしたのは、「多くの牧者たち」、つまり、イスラエルの指導者たちでした。指導者たちの誤った判断が、民を滅びに導いたのです。

結局、イスラエルの民は、神から捨てられることになってしまいました。でも誤解しないでください。神様はただ厳しく断罪しているのではありません。むしろ、愛をもってそのように為さるのです。本当はそんなことしたくないのです。だから7節には「わたしの家」とか、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」と呼ばれているのです。10節の「わたしの慕う地所を」とも言われています。「どうしようもない、罪深い、虫けら同様の連中を、敵の手に渡した」などと言われていません。「わたしが心から愛する者を」と言われました。たましいから愛する者を敵の手に渡したと言っているのです。

ここには「わたし」ということばがたくさん使われていると申し上げました。それはそのことばに託されたイスラエルに対する神の御思いが表現されているからです。この表現から、神の心の痛み、心痛を感じていただきたいと思います。それは不本意だと。本当はそんなことをしたくないのです。本当なら彼らを助けてあげたい。救ってあげたい。でも、彼らがそれを拒みました。そして、林の中のライオンのように、一羽の斑の猛禽のように、神に襲い掛かってきたのです。それでしょうがなくて神はそのようにされるのです。彼らが悔い改めさえすれば、そのさばきを免れることができたのです。バビロンに捕囚の民として連れて行かれる必要はありませんでした。神はこれまで散々愛のことばをかけて表現してきたのに、彼らは受け入れませんでした。たとえば、出エジプト記19章4~6節にはこうあります。「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

これは、すごい愛の言葉だと思うんですね。なぜなら、ここで主は彼らを「わたしの宝」と呼んでいるからです。「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」。神様は彼らを宝物だとおっしゃってくださったのです。あなたが夫から「あなたはわたしの宝だ」なんて言われたらどうでしょうか。うれしいですよね。もう天に昇ったような気持ちになるのではないでしょうか。「あなたはわたしの誇りだ」と言われたらどうでしょうか。誇りと言ってもダスト(埃)のことじゃないですよ。プラウドです。アメリカに住んだことのある人やアメリカ人の友達がいれば一度は聞いたことのあるフレーズに‟I’m proud of you”という言葉があります。直訳すると「私はあなたを誇りに思う」でしょうか。妻が子どもに言うのをよく聞いたことがあります。‟I’m proud of you”、‟You are my treasure”と言われたら、子どもは本当に胸がいっぱいになります。うれしくて、うれして、言葉にできない♫。そういうことを神は惜しげもなくご自身の民におっしゃってくださったのです。イザヤ書にもありますね。イザヤ書43章4節です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

ですから、その愛するものが敵の手に渡されるなんて考えられないことなのです。その土地が荒れ果てるなんて考えられません。そこは神が大好きな土地であり、大好きな人たちがいます。その民がバビロンに滅ぼされて踏みにじられるのです。平気でいられるはずがありません。本当にそれを神が「よし」と思われるでしょうか。絶対にそんなことはありません。絶対に神はそんなことを望んでおられません。

ですから、これはただの冷酷なさばきの宣言ではないのです。神はご自分の民が罪を犯すと契約で定められたのろいを下されますが、しかし、さばかれる神の心は決して容易ではありません。苦しくて、苦しくて、胸が痛んでおられるのです。神はさばきながらも、彼らを「わたしの家」、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」、「わたしの慕う地所」と呼んでくださいました。このような表現には、さばきを受けて大きな苦しみの中にいるときでさえも、イスラエルの民が神に立ち返ることを切に願っておられる神の思いが込められているということを知っていただきたいと思うのです。

Ⅱ.自ら招いた恥(12-13) 

次に、12~13節をご覧ください。その結果、イスラエル、南ユダ王国はどうなるでしょうか。「12 荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての肉なる者には平安がない。13 小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見る。主の燃える怒りによって。」

「荒らす者」とは、バビロンのことです。エルサレム、南ユダ王国は、バビロンの侵略によって滅びてしまいます。ここには「主の剣」とあることからもわかるように、バビロンが神のさばきの道具として用いられるのです。その主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで、食い尽くすようになります。地の果てから地の果てまでとは、残されているところはもうどこにもないということです。完全に征服されてしまうことになります。

それゆえ、すべての肉なる者には平安がありません。そればかりか、小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になります。すべてが徒労に終ってしまうのです。期待しても期待外れ、希望は絶望に終わります。それは彼らが偶像礼拝にふけったために、自らの上にさばきを招いてしまったからです。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見るとあるとおりです。

愛する者をさばかざるを得ない神の悲しみがどれほどのものか、あなたに届いているでしょうか。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待っていたように、父なる神は、あなたが神に立ち返ることを待っておられるのです。それなのに、神を裏切り、神の預言者を(さげす)み、神のみことばに背くなら、その身に恥を招くことになります。

アメリカの中西部に、キリスト教が嫌いなひとりの農夫がいました。日曜日になると、周りの人たちは教会に行きましたが、それを見ながら彼は、こぶしを振り上げ、自分だけは畑を耕し続けました。
10月になって、彼は人生で最高の収穫を得ました。彼の収穫量は、州で一番でした。収穫が終わると、彼は、クリスチャンの信仰をあざ笑うかのように、地元の地方紙に意見広告を掲載しました。その広告の最後は、次のように締めくくられていました。
「私のような者がこんなに栄えるとするなら、神に対する信仰も大した意味がないということになる。」その地域のクリスチャンたちは、静かに、礼儀正しく応答しました。翌日の地方紙に小さな広告が載りました。そこには、こう書いてありました。

「神が、すべての清算を10月になさるとは限らない。」

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取りをすることになります。」(ガラテヤ6:6-9)

あなたはどのような種を蒔いていらっしゃいますか。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。ですから、御霊に蒔いて、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続け、やがて時が来る時に、豊かな収穫を刈り取らせていただきたいと思うのです。

Ⅲ.絶望の中にある神の希望(14-17)

第三のことは、そうしたさばきの中にも神のあわれみがあること、絶望の中にも希望があるということです。14~17節をご覧ください。「14 主はこう言われる。「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地に侵入する、悪い隣国の民について。見よ。わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く。15 しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。16 彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こそぎ滅ぼす─主のことば。」」

ここで主は引き続き語られます。それは「わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く」ということです。彼らとは「悪い隣国の民」のことです。イスラエルの民がバビロンによって捕囚に連れて行かれて以降、カナンの地に侵入する隣国の民がいました。その一つがアモン人であり、またエドム人であり、モアブ人であり、ペリシテ人などです。こうした隣国の民は、バビロン捕囚以降カナンの地に侵入してきました。彼らは「悪い隣国の民」です。なぜなら、それは「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地」、相続地だからです。その地に侵入してくることは悪いことなのです。そこで主は、そうした隣国の悪い民について、彼らをその土地から引き抜くと言われました。彼らを植えてくださった主は、引き抜く権威も持っておられます。神はバアルを崇拝したユダの民だけでなく、彼らにバアル崇拝を教えた周辺諸国も引き抜かれるのです。神の関心はユダの民だけでなく、周辺諸国にまで及んでいました。

しかし、神にとって「引き抜く」ことだけが最終目標ではありませんでした。15節を見ると、「しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。」とあります。主はユダの民を引き抜いた後に、再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、自分の土地に帰らせると約束してくださったのです。これは、バビロン捕囚から帰還できるということです。その期間は70年です。25章11~12節、29章10~11節にそのように預言してあります。25章11~12節にはこうあります。「11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を─主のことば─またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」
ここに、「これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」とあります。七十年の終わりに、主はバビロンの王とその民を罰し、これを永遠に荒れ果てた地とするのです。それは七十年間限定の捕囚だったのです。

また、29章10~11節にはこうあります。「10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─主のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」ここにも「七十年」という期間が記されてあります。バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダを顧みて、彼らにいつくしみの約束を果たして、この場所エルサレムに帰らせてくださるのです。これが神の計画です。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、彼らに将来と希望を与えるためのものでした。すばらしいですね。

ちなみに、キリスト教国際NGO「ワールド・ビジョン」の英国支部が行ったデジタル調査(英語)によると、世界で最も人気のある聖書の一節(最も検索された節、210万回)はヨハネの福音書3章16節ですが、それに次いで2位だったのがこの聖句でした。エレミヤ書29章11節(8万千回)と、ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」でした。これが聖書の中で二番目に人気のある個所です。それはここに将来と希望が約束されているからです。その将来と希望とは何でしょうか。それは彼ら引き抜かれるが、主は再び彼らをあわれみ、彼らを自分の土地に帰らせるということです。バビロン捕囚から七十年後に、また祖国に戻れるという希望を与えてくださいました。主は決して民を見捨てることをなさらない、あわれみ深いお方です。時折示す厳しさは、愛情の表れでもあるのです。

これはイスラエルの民、ユダの民に特別に与えられたものですが、16節を見ると、その枠を超えてもし周辺諸国でも、異教徒であっても、イスラエルの神、主を信じて、主に立ち返るなら、神の民の一人として、約束の地に帰還することができると約束されています。つまり、私たち日本人にも約束されていることなのです。「彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。」

すばらしいですね。エペソ人への手紙2章によれば、私たちはかつて、肉によれば異邦人で、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつて遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされた、とあります。そうです、私たちも、イエス・キリストを信じる信仰によって、同じ神の民とされたのです。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

アーメン。何とすばらしい約束でしょうか。何とすばらしい希望、何とすばらしい救いのご計画でしょうか。これはすべて神の約束に基づいたものです。その約束とは、創世記12章1~3節で、神がアブラハムに約束されたものです。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

ここには「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。「あなた」とはアブラハムのことですが、ここではアブラハムの子孫から出るメシヤ、ダビデの子イエス・キリストのことです。神のメシヤ、イエス・キリストを自らの救い主として信じ受け入れる者は祝福される、すなわち、この神の国の民の一員に加えていただけるということです。その祝福に与れるということです。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。救い主イエス・キリストを信じる同じ国民であり、神の家族なのです。神の聖なる国民として、あの神の宝の民の一員としていただけるのです。

ですから、最後は二つに一つの選択となります。このアブラハム契約に従ってイスラエルを祝福するか、それとものろうか。それによって私たちの運命が決まるのです。それによってこの国の運命が決まります。それは歴史が証明しています。イスラエルを祝福するかどうかです。そして、イスラエルの神、主イエス・キリストをどのように扱うかによって、その人の運命が決まるのです。ヨハネの福音書3章36節にあるとおりです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ですから私たちは、主の約束に従って、創造主の御前に悔い改めて「主は生きておられる」と告白しようではありませんか。主の名によって「主は生きておられる」と誓うなら、あなたも神の民のうちに建てられるのです。そのように約束してくださる主に感謝し、主のみこころに歩みたいと思います。