メッセージ

エレミヤ31章15~22節「あなたの将来には望みがある」

 2024年04月20日(土)

エズラ記1章

 2024年04月16日(火)

エレミヤ31章7~14節「主の恵みに満ち足りる」

 2024年04月06日(土)

Ⅱ列王記25章

 2024年04月02日(火)

2024イースターメッセージ ヨハネ11章25~26章「死んでも生きる」

 2024年03月28日(木)

Ⅱ列王記24章

 2024年03月05日(火)

エレミヤ31章1~6節「永遠の愛をもってあなたを愛した」

 2024年03月02日(土)

Ⅱ列王記23章

 2024年02月20日(火)

エレミヤ30章12~24節「あなたの傷を癒される主」

 2024年02月17日(土)

エレミヤ31章15~22節「あなたの将来には望みがある」

エレミヤ書31章から学んでいます。29書から31章はエレミヤ書の中心部、まさに心臓部分です。今日はこの31章15~22節までから「あなたの将来には望みがある」というタイトルでお話します。今日のタイトルは17節から取りました。イスラエルは主に背き自分勝手な道に歩んだため、主はバビロンという国を用いて彼らを懲らしめます。バビロン捕囚という出来事です。でも彼らはそれで終わりではありませんでした。その70年後には祖国に帰ることになります。彼らの将来には望みがあったのです。

Ⅰ.あなたの労苦には報いがある(15-17)

まず、15~17節をご覧ください。「15 【主】はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──【主】のことば──彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」

15節には「ラマ」という地名と「ラケル」という人名が出て来ています。「ラマ」はエルサレムの北方8㎞にある町です。「ラケル」はヤコブの最愛の妻でした。このラケルにはヤコブとの間に二人の息子が生まれました。一人はヨセフで、もう一人はベニヤミンです。このベニヤミンが生まれた時にラケルが死にました。ラケルは息子を産むと同時に死んでしまったのです。そのラケルが葬られた所が「ラマ」でした。それはあまりにも悲しいことでした。命をかけてせっかく産んだのに、産んだとたんに死んでしまったのです。息子の顔を見ることもなく。彼女はただ「生まれました。男の子です」という声を聞いて死んでしまったのです。せっかく男の子を産んだのにその子の顔をほとんど見ることなく、育てることもなく死んでしまった。それほど悲しいことはありません。その悲しみがここで表現されているのです。そのような悲しみがバビロン捕囚の時にも起こるというのです。バビロン捕囚の際にユダの民が一旦このラマに集められて、そこからバビロンに連れて行かれました。その悲しみを、ラケルが息子を産んだ直後に死んでしまい、息子の顔を見ることができなかった悲しみになぞらえているのです。これほど悲しいことはありません。

興味深いことに、この箇所がマタイ2章17~18節に引用されています。「17そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」」
  このエレミヤを通して語られたことというのが、この31章15節のことばです。このマタイの前後の文脈を読むとわかりますが、これはメシヤについての預言が成就したということを表しています。ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子が、ヘロデ大王によって虐殺されました。ヘロデ大王はユダヤの王として来られたイエスを殺し損ねたので、イエスと同年代の男の子を手あたり次第に殺したのです。非常におぞましい殺戮劇です。その時に泣き叫んだ母親たちの嘆きが、ここに成就したということです。ですから、これは一読しただけですとバビロン捕囚の嘆き悲しみが語られているかのようですが、実はメシヤ預言について語られている深いことばなのです。つまり、このおぞましい殺戮劇の向こうにメシヤが生まれるという希望が隠されているということです。確かに悲しみは避けられません。でもその悲しみの向こうに希望があるということです。確かにバビロン捕囚は悲しい出来事ですが、その70年後に彼らは祖国に帰ることができる。それは私たちがこの世というバビロンから救われて、天国に帰ることを指し示しています。罪から救われて罪のない世界、天国に移されるのです。これほどすばらしい知らせはありません。これは本当に喜ばしい良い知らせです。それがメシヤであるイエスを信じる者にもたらされるということです。

16節と17節をご覧ください。「16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。─【主】のことば─彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。─【主】のことば─あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」
  どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、あなたの将来には望みがあります。敵の地から帰って来るようになるからです。あなたの子らは自分の土地に帰って来るのです。確かに彼らは罪を犯したことでその蒔いた種を刈り取らなければなりません。それはバビロン捕囚のことです。それはここで「労苦」と呼ばれていますが、その労苦には報いがあります。将来には希望があるのです。

この希望については、既に29章11節で語られました。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  神はあなたのために計画を立てておられます。あなたもそれなりにいろいろと計画を立てていると思います。向こう3年、5年どうするか、老後はどうするかと、いろいろシュミレーションして、収入を計算して、保険や書類とかを引っ張り出しては調べて、人生設計を立てるわけですが、でも、神はあなたに対して計画を持っておられます。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものです。この「将来」ということばは「終わり」という意味の言葉であると説明しました。終わりは希望です。人生いろいろなことがありますが、最後は希望なのです。それが、神が私たちのために立てている計画です。だから、たとえそれが自分の罪の結果招いてしまった労苦であったとしても、どんなに時間がかかろうとも、最後には希望があるのです。

だから、16節のところで、主はこう言われるのです。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。」
  あなたの目の涙を止めなければなりません。嘆き悲しむことを止めなければならないのです。何であんなこと、何でこんなことをしてしまったんだろう、そんな気持ちになれば泣きたくなります。でも泣いたからと言って状況が変わるわけではありません。むしろ神の恵みに目を留めて、粛々と神の御取り扱いを受けるべきなのです。もしあなたが悔い改めるなら、神はあなたの罪を赦してくださるのですから、あとは自分がやるべきことをすればいいのです。蒔いた種を刈り取るということを粛々とやっていけばいい。泣いている暇があったらその刈り取り作業を進めていくべきです。そうすれば、もっと早く刈り取り作業が終わるかもしれません。将来に希望があればこそ、そのように前向きに進むことができるのです。希望がなければ、なぜこんなふうになってしまったのかと、いつまでも嘆いていることになります。そうなれば、せっかくの「労苦」が無駄になってしまいます。でも、あなたの労苦には報いがあります。あなたの将来には希望があるのだから、あなたの目の涙を止め、神の約束に立ち、ただ神が示されることを行えばいいのです。

Ⅱ.エフライムは、わたしの大切な子(18-20)

いったいなぜ神はあなたの将来にこのような希望を与えてくださるのでしょうか。それは、あなたをこよなく愛しておられるからです。18~20節をご覧ください。「18 わたしは、エフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。【主】よ、あなたは私の神だからです。19 私は立ち去った後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。20 エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば─」

ここには、主はエフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた、とあります。エフライムとは北イスラエルのこと、イスラエルのことです。主はイスラエルが嘆き悲しむのを聞きました。これは彼らの自己憐憫の嘆きでありません。自己憐憫とは、自分を哀れみかわいそうだと思い込むことです。そういう悲しみではありません。そうではなく、自分たちの罪を悔い改めて悲しみ嘆いているのです。ちょうど放蕩息子が父のところに行って、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:18-19)と悔い改めように、エフライムもまた自分の罪を嘆き悔い改めているのです。主はその悔い改めの嘆きを確かに聞いてくださいます。主が、このような嘆きを聞き逃すことは絶対にありません。ただ自分を可哀そうに思う嘆き、自己憐憫の嘆きは聞かれませんが、ひとたび悔い改めて嘆くなら、確かに聞いてくださるのです。

18節には「私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。」とあります。これは、私たちは自分の力では帰れないことを表しています。自分の力では悔い改めることはできないのです。悔い改めは神賜物であり、神の御業なのです。私たちは自分の意志で悔い改めますが、それさえも悔い改めるようにと神が促してくださったので出来ただけのことであって、自分の力ではできることではないのです。あなたの中には悔い改める気持ちなんて微塵もないからです。それが私たち人間なのです。
  エレミヤ17章9節に、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」とありましたね。人の心は何よりも陰険で、それは直りません。私たちの心は何よりも陰険なのです。そこには善いものはありません。パウロはローマ7章で、私たちの心には善は住んでいないと言っています。自分には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、したいと願う善を行わないでしたくない悪を行ってしまいます。これは正直な告白ではないでしょうか。私たちの内には善が住んでいないのです。だから、悔い改める気持ちなんてさらさらないわけです。それほどねじ曲がっているのです。それほど堕落しきっています。もうどうしようもない、救いようがありません。でも神は、そんな私たちに悔い改めの心を起こしてくださいます。これは実に神の御業でしかないのです。

悔い改めが神の賜物であるということは、使徒5章31節でも言われています。「神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。」 神はイスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、イエスを導き手、また救い主としてご自分の右に挙げられたのです。悔い改めは、神からのギフトなのです。私たちはそれをただ受け取るだけでいいのです。そして神はこの悔い改めのギフトを、今日もあなたに与えてくださいます。それを受け取るか、受け取らないかはあなた次第です。救いも、罪の赦しも、みな神からの賜物であるということを覚えていただきたいと思うのです。

いったいなぜ私たちは悔い改めて神に帰ることができるのでしょうか。18節の後半にこうあります。「主よ、あなたは私の神だからです。」ここに「私の神」ということばが使われています。これは神と個人的な関係がなければ口に出せないことばです。神は私の神だから、私を帰らせてください。そうすれば、私はあなたのもとに帰ります。神は「私の神」です。あなたの神は誰ですか?あなたは聖書の神を「私の神」と、はっきり宣言することができるでしょうか?それほど親しい交わりをもっていらっしゃるでしょうか。聖書の神、イスラエルの神が私の神ですと、胸を張ってそう言えるかどうかが問われているのです。

19節をご覧ください。患難を通って彼らが救われるというのは、残りの民が救われるというのは、この悔い改めを通してです。ここに「ももを打ちました」とありますが、これは原語では性器の部分を打ったことを表しています。これは創世記32章にあるヤボクの渡しでの出来事でも使われています。ヤコブが伯父のラバンの下から帰るとき、兄エサウとの対面を前に非常な不安を抱え神と夜通し格闘したという出来事です。それは祈りの格闘をしたということです。ヤコブは言いました。「私を祝福してください。祝福してくださるまではあなたを去らせません。」それは執拗なまでの祈りでした。神に対してヤコブはそのような執拗な祈りをささげました。そして最終的に彼は神に勝利し神の祝福を受けましたが、その代償にももを打たれたのです。それで彼は自分の力では歩けない状態になってしまいました。それは人を出し抜いて、人を騙して生きるような性質が打ち砕かれたことを表していました。彼は自分の知恵や力では生きていくことはできない。神様に寄りすがって、神の支えがなければ一歩も進めないということを知ったのです。それで彼の名は神によって勝利する者、「イスラエル」となったのです。ももを打たれるとはそういうことです。

それはとても痛いことです。それは男性の性器を打たれるような痛みです。男性が急所を打たれたらどうなるか、女性の皆さんにはわからないかもしれませんが、非常に痛いんです。聞いたところによると、それは陣痛よりも痛いそうです。「ちょっとためしてみますか」なんて言わないでください。陣痛よりも痛いとされているので、もしあなたのご主人が陣痛の痛みがわからないというなら、ちょっとやってみたらよいかもしれません。一瞬でわかると思います。もう気絶するかもしれません。そういう一撃を受けたということです。そういう痛い思いをしたのです。確かにそれは痛いことですが、その痛みによって自分の罪の悲しみ、嘆きを知りました。まさに「悲しむ者は幸いです」と主が言われた通りです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

20節をご覧ください。ここには「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。─【主】のことば─」とあります。
  これもすばらしいことばです。これまでエレミヤは一貫として神の怒りと裁きを語って来ましたが、ここに来て急に神のあわれみとか、神の愛、神の回復、神の癒しということを強調して語るようになりました。ここでも、「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか」と言われています。主はイスラエルを責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになりました。「責めるたびに」とは、「裁きを宣言するたびに」という意味です。主は彼らにさばきを宣言するたびに、ますます彼らのことを思い起こすようになりました。ここには、神様が彼らに裁きを宣告するたびに彼らのことをどう思っておられたかが明かされています。神様はそのたびにますます彼らのことを思い起こすようになっておられたのです。裁きを宣言するたびに知らんふりをしていたのではありません。もうお前なんてどうでもいい。勝手にしたらいい。どこにでも行ったらいいんじゃないか。もう二度とこの家の敷居をまたぐなよ。顔も見たくない。という気持ちではなく、ますます彼らのことを思い起こしておられたのです。もう頭の中、心の中は、彼らのことで一杯だったのです。

「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」これが、私たちの信じている神様です。これが私の神、あなたの神です。厳しいことを宣告されるかもしれませんが、その都度、神はあなたのことを思っておられるのです。ますます思い起こしてくださる。常に思っていてくださいます。それは「はらわたがわななくほど」だとあります。はらわたが煮えかえるのではありません。はらわたがわななくのです。はらわたがわななくとは、文字通り「断腸の思い」ということです。腸が引きちぎれるような思いです。ルターはこれをこのように訳しました。「彼のゆえに、私の心臓は破れる。」まさに胸が張り裂けるような思いということです。これは東洋の人とヨーロッパの人の違いです。東洋の人は、感情の座ははらわたにあるという感覚を持っていますが、ヨーロッパの人はそういう感覚がないので、心臓が張り裂けるような思いという表現をするのです。はらわたがわななくような思いにせよ、心臓が張り裂けるような思いにせよ、言っていることは同じです。これが、神が私たちに感じておられる思いなのです。神が厳しいさばきを宣告する時、神はあなたのことを思って、もうはらわたがわななくような思い、引きちぎれるような思いになっておられるのです。もう死んでしまいたいと思うほど痛い思いをしているのです。もうあわれまずにはいられません。想像もつかないほどあなたのことを思っておられるのです。これが神の愛です。神に感謝します。私の神はそれほどまであわれんでくださるのですから。それゆえ、主よ、私はあなたの下に帰ります。帰らせてください。そうすれば、帰ります。あなたは私の神だからです。

Ⅲ.一つの新しいことを創造される(21-22)

最後に、21~22節を見て終わります。「21 あなたは自分のために標識を立てて道しるべを置き、あなたが歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ、帰れ。これらの、あなたの町に帰れ。22 背信の娘よ、いつまで迷い歩くのか。【主】はこの地に、一つの新しいことを創造される。女の優しさが一人の勇士を包む。」」

ここには「標識」とか「道しるべ」を置くようにと言われています。なぜかというと、その道のりは長いからです。その道のりとは、バビロン捕囚からの帰還の道のりです。その道のりは長いので、どこから来たのかを覚えるために標識や道しるべを置かなければならないのです。その道のりを忘れてはいけません。彼らは必ず敵の地から帰ってくるようになるのだから。だから、イスラエルよ、帰れ、と呼び掛けられています。いつまで彷徨っているのか。これらのあなたの町に帰らなければなりません。

彼らが帰るとき、どんなことが起こるのでしょうか。22節には、「主はこの地に、一つの新しいことを創造される。」とあります。主はその地に一つの新しいことを創造されます。この「創造する」ということばはヘブル語で「バーラー」と言いますが、これは、何もないところから何かを創造する時に使われることばです。たとえば、聖書の一番初め、創世記1章1節に「はじめに、神が天と地を創造された。」とありますが、この「創造された」ということばが「バーラー」です。神は何もないところに天と地を創造されました。そういう意味です。既にあるものに何かを使って作り直すということではありません。それは「アーサー」という別のヘブル語が使われます。でも、ここでは「アーサー」ではなく「バーラー」です。つまり、以前には全くなかったものを新しく創造するということです。それは何でしょうか。

22節の最後のことばを見てください。ここには「女の優しさが一人の勇士を包む」とあります。どういうことでしょうか。これは難解です。
新改訳第3版では、「ひとりの女がひとりの男を抱こう」と訳しています。
口語訳では「女が男を保護することである」と訳しています。新共同訳も同じです。「女が男を保護するであろう」です。
英語の訳もほとんど同じです。NIVは、「a woman will surround a man」、
NKJVは「A woman shall encompass a man.」、
TEVは「a woman protecting a man.」です。
Surroundとか、encompass、protectというのは、守るとか、囲むとか、保護するということですから、口語訳とか新共同訳の方の訳が近いです。でも、ひとりの女がひとりの男を守る、とはどういうことなのでしょうか。ハーベストタイムの中川健一先生は「姦淫の民イスラエル」を「おとめイスラエル」と呼んで、彼らと再婚することだと解釈しています(クレイ聖書解釈コレクション「エレミヤ書」P208)が、ここでは男が女を抱くのではなく、女が男を抱くとあるので、逆です。
そこで、新聖書注解書では、これは女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くようになることだと説明しています。女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くとはどういうことなのでしょうか。そこで古い注解者たちの中には、これは処女マリヤがその胎内に男の子を抱くということを意味していると考える学者もいますが、それは少し読み込みすぎだと思います。

この箇所を最も適切に訳しているのは創造主訳聖書ではないかと思います。創造主訳聖書ではこれを、「イスラエルがわたしを求めるようになる」と訳しています。それは新しいことです。これまで反逆に反逆を重ねてきたイスラエルが、まことの神を愛し、まことの神を求めるようになるのは、彼らが新しく創造されるからです。人の心は何よりも陰険だと申し上げましたが、神はそんなイスラエルを新しく造り変えてくださるとしたら、それこそ新しい創造です。

ダビデは詩篇51篇10節で「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。」と言っていますが、まさにそのことです。それは人にはできないことです。でも神にはどんなことでもできるのです。神は何もないところから全く新しいものを造り出すことができる方であり、あなたの心を新しくすることがおできになるのです。神はあなたにきよい心を与え、揺るがない霊を、あなたのうちに新しくすることがおできになるのです。バカは死んでも直らないということわざがありますが、死ななくても直すことができます。神があなたを新しく造り変えることによって。あなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたも新しく造り変えていただくことができます。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

私たちは、キリスト・イエスにあって新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるということを経験することができるのです。女の優しさが一人の勇士を包む、すなわち、私たちが神を愛し、神を慕い求める者、神によって勝利する者、イスラエルとして、神とともに歩むようになるのです。いや、私は無理です。これは親から引き継いだ性格だからしょうがない。変わりようがありませんと言われるかもしれませんが、神はそんなあなたの心を新しく造り変えることができるのです。主はこの地に、一つの新しいことを創造されるのです。

だから、この神を信じてください。神はあなたも新しく創造してくださいますから。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたが想像することができないことをしてくださるのです。全く新しいことをしてくださいます。あなたが願っている以上のことをしてくださるのです。そのことを信じて、今、神のもとに帰らせていただきましょう。あなたの将来には望みがあるのです。

エズラ記1章

 

 

 今日からエズラ記の学びに入ります。今日はエズラ記1章です。

 Ⅰ.主によって霊を奮い立たせられたキュロス(1)

まず、1節をご覧ください。「1 ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就するために、【主】はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。」

エズラ記は、イスラエルの民がバビロン捕囚を終えてエルサレムに帰って来た時の記録です。前538年、ペルシャの王キュロスはバビロン帝国を征服しました。彼の最初の事業は、バビロンで捕虜となっていたイスラエルの民を解放することでした。それはキュロス王の第一年のことでした。エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせました。エレミヤによって告げられた主のことばとは、バビロンに捕えられていたユダの民が、七十年後にそこから解放されてエルサレムに帰還するという約束です。エレミヤ29章10節にこうあります。「まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」

エレミヤは、バビロン捕囚は70年で終わることを預言していました。この1節だけを見ると、まるでキュロス王がイスラエルの神を信じていたかのような印象を受けますが、そうではありません。彼はバビロンのマルドゥーク神を中心に多神教の神を信じていました。そんな彼がイスラエルの民の帰還と神殿の再建を許したのは、政治的目的のためでした。つまり、ペルシャ帝国の周りに強力な国を配置し、防衛力を高めようとしたのです。しかし、結果的にそれがこのエレミヤによって語られた主のことばが成就することになりました。これは、主の力によるものだったのです。

それにしても、主は異国の王の霊を奮い立たせ、ご自身のみことばが成就するために用いられたというのはすごいことです。どうしてこのようなことがおこったのでしょうか。その背後には、預言者ダニエルなど信仰の勇者たちがいたことがわかります。ダニエルは第一次バビロン捕囚の時(前605年)にバビロンに連れて行かれましたが、バビロンからペルシャの時代に変わると、このキュロス王の治世に栄え(ダニエル6:28)、用いられていました。彼は、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の帰還が満ちるまでの年数が七十年であるみことばを、文書によって知っていました(ダニエル9:2)。また、勿論、彼は旧約聖書に精通していましたから、エレミヤからさらに100年前に活躍していた預言者イザヤのことばも知っていたでしょう。そこには、エルサレムの神殿再建のためにキュロスという人物を用いるということが名指して預言されていたことも知っていました。イザヤ44章24~28節です。「24 あなたを贖い、あなたを母の胎内で形造った方、【主】はこう言われる。「わたしは万物を造った【主】である。わたしはひとりで天を延べ広げ、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。25 わたしは易者のしるしを打ち壊し、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。26 主のしもべのことばを成就させ、使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムについては『人が住むようになる』と言い、ユダの町々については『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。27 淵については『干上がれ。わたしはおまえの豊かな流れを涸らす』と言う。28 キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。」

すごいですね、キュロスの時代から遡ること150年も前に、主はイザヤを通してこのように語っておられたのです。

それは同じイザヤ書45章1~8節にも記されてあります。「1 【主】は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。2 わたしはあなたの前を進み、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。3 わたしは秘められている財宝と、ひそかなところに隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが【主】であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。4 わたしのしもべヤコブのため、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたを、あなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える。5 わたしが【主】である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。6 それは、日の昇る方からも西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが【主】である。ほかにはいない。7 わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは【主】、これらすべてを行う者。8 天よ、上から滴らせよ。雲よ、義を降らせよ。地よ、開け。天地が救いを実らせるように。正義をともに芽生えさせよ。わたしは【主】。わたしがこれを創造した。」

ここには、キュロスのことが「油注がれた者」と言われています。主はバビロンを滅ぼしイスラエルをその束縛から解放するために、彼が誕生するはるか前から彼を選び、ご自身の計画を実行する使命を与えておられたのです。

ダニエルは、こうした主の預言を知っていて、それをキュロスに知らせていたのだと思われます。主は歴史の中でこのような器を用意し、ご自身の目的を遂行するために用いておられたのです。それは私たちも同じです。エペソ1章4節には、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」とあるように、私たちも世界の基の置かれる前から、救いに選ばれていたのです。それは、この歴史の中で、神から与えられている使命を成し遂げるためです。

いずれにせよ、神は人の心を奮い立たせたり、変えたりすることがおできになられる方です。ですから、今どのような状況に置かれていていたとしても、それに動揺したり失望したりする必要はありません。神は歴史さえも支配しておられるお方だからです。そして、その歴史をご自身の目的に向かって導いておられるのです。ですから、この歴史さえも支配しておられる神を認め、神に信頼して生きることです。神は約束されたことを忘れずに必ず実行してくださる誠実なお方であり、エレミヤによって語られた預言が成就するように時代を動かされたお方であるとしっかり受け止めなければなりません。バビロンに捕虜となっていた人たちの中でいったいだれがこのようなことを考えていた人がいたでしょうか。国を再興するという神の約束を聞かされてはいても、それが現実になるとはだれも考えられなかったでしょう。しかし、神はキュロスの霊を奮い立たせ、キュロスに必要なものを支援するようにと働きかけ、そのようにしてイスラエルの民に希望を与えられました。ですから、私たちはこの誠実な主に信頼し、この方を見上げて、平安を得たいと思うのです。

Ⅱ.キュロスの布告の内容(2-4)

では、このキュロスの布告とはどのような内容でしょうか。2~4節をご覧ください。「2 「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。3 あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。4 あとに残る者たちはみな、その者を支援するようにせよ。その者がどこに寄留しているにしても、その場所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んで献げるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。』」」

ここでキュロスは、イスラエルの神を「天の神」と呼んでいます。それは彼がこの神を信じていたからではありません。先に申し上げたように、彼は多神教の神々を受け入れていました。そんな彼がここでイスラエルの神を「天の神」と呼んだのは、イザヤやエレミヤが預言した主のことばを聞いた時、少なからず彼の中に、イスラエルの神に対する畏敬の念が生じたからでしょう。イスラエルの神こそ天地を創造した方であり、その神によって自らがバビロンを滅ぼし、バビロンに捕囚となっている主の民をエルサレムに帰還させる使命が与えられているという意識が芽生えていたのです。それでも彼の中には、このイスラエルの神はエルサレムにおられる神であるという意識から離れることはできませんでした。それで彼は、このイスラエルの神、主のために宮を建てること、神殿再建の事業を進めたのです。それは、神殿がイスラエルの民にとって宗教的要であり、主を礼拝することがすべての働きの土台になることだったからです。

 その働きに参与したのは、「主の民に属する者」でした。主の民に属する者には、神がともにいてくださり、神殿再建の業を進めていくようにというのです。あとに残る者たちはどうでしょうか。「あとに残る者たち」はみな、その者たちを支援しなければなりませんでした。すなわち、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者たちを支えなければならなかったのです。彼らはなぜあとに残ったのでしょうか。なぜエルサレムに帰還することを選ばなかったのか。それぞれいろいろな事情があったのでしょう。帰りたくても帰れないとか、ずっと住み慣れた地にいる方が安定した生活をすることができると判断したのかもしれません。むしろ、住み慣れたバビロンの地から帰ることを選択する方が困難だったと思います。バビロンに連れて行かれた時は10歳くらいの年齢だった人はもう80~90歳になっていました。「帰れ」と言われても無理です。そこに定住した方がよっぽど楽なのです。それで、彼らはそこに残り、ささげものをもって支えなければならなかったのです。

このようにあとに残ってささげ物をしたことは素晴らしいことですが、彼らがバビロンに留まったのは必ずしもほめられたことではありません。彼らはバビロンでの生活に慣れ、物質的にも裕福になっていたので、冒険をしたくなかったのでしょうが、その後、彼らがエステル記にあるような危機的な状況を迎えることになったことを思う時、神の御心から離れた生活は非常に危険なものとなるということがわかります。神の御心の内を歩むことこそ、もっとも安全な道なのです。

Ⅲ.イスラエルの民の応答(5-11)

こうしたキュロス王の布告に対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。5~11節をご覧ください。「5 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちは立ち上がった。エルサレムにある【主】の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである。6 彼らの周りの人々はみな、銀の器、金、財貨、家畜、選りすぐりの品々、そのほか進んで献げるあらゆる物をもって彼らを力づけた。7 キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた【主】の宮の器を運び出させた。8 ペルシアの王キュロスは財務官ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を確かめさせ、ユダの首長シェシュバツァルに渡した。9 その数は次のとおりであった。金の皿三十、銀の皿一千、香炉二十九、10 金の鉢三十、予備の銀の鉢四百十、その他の器一千。11 金や銀の用具は全部で五千四百あった。捕囚の民がバビロンからエルサレムに上ることを許されたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみな一緒に携えて上った。」

それに対して、まず立ち上がったのはユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちでした。これらの人たちは、宗教的指導者たちでした。宗教的な指導者たちが立ち上がったということです。さらに、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、すなわち長老たちです。ユダとベニヤミン族は、バビロンによって捕囚に連れて行かれた部族です。かつて神殿があったエルサレムを中心に生きていた人たちです。そのかしらたちが立ち上がったのです。

いったいどうして彼らは立ち上がったのでしょうか。ここにも、「エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼らを全員の霊を奮い立たせたのである。」とあります。エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたからです。それを神の御心と受け止めた人たちということです。彼らはその霊を奮い立たせられて、実際にその働きに携わっていったのです。主の御業は、このようにその霊を奮い立たせられた人たちによって成し遂げられていくのです。財貨があったらからではありません。信仰があったからです。

さらに彼らの周りにいた人々もみな、銀の器、金、財貨、家畜、選りすぐりの品々、そのほか進んで献げるあらゆる物をもって彼らを力づけました。これは、自分自身は行かないけれども、捧げものをもって協力した人々です。こうして彼らは各々にふさわしい役割を担って、一致してことに当たって行ったということです。

その結果、どんなことが起こったでしょうか。その時、キュロス王もまた、自分の神が身の宮に置いていた主の宮の器を運び出させ、それをもって彼らを援助しました。これは、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して自分の神が身の宮に置いていたものですが、それを取り出して彼らに与え、彼らの必要に応えたのです。

キュロスが財務官ミテレダテに命じてその数を調べさせたところ、金や銀の用具は全部で5,400もありました。莫大な金額です。彼らの信仰に神がキュロスの心に働きかけ、それだけの援助がなされたのです。私はかつて福島で開拓伝道をしたとき、会堂建設に取り組んだことがありました。本当にわずかなメンバーでどうやって会堂を建設することができるのか想像もつきませんでしたが、主によってその霊を奮い立たせられた人たちが自分の手にあるものを進んでささげたとき、素晴らしい主の御業を拝することができました。立派な会堂が与えられたのです。私は思いました。教会堂はお金があればできるのではない。信仰によって建て上げられるのだと。

彼らはそれをユダの首長シェシュバツァルに渡しました。シェシュバツァルという人物については、バビロンに連れて行かれたユダの王エホヤキンの息子ではないかとか、ペルシャの役人の一人だという説、また、その後に登場する総督ゼルバベルではないかという説などがありますが、個人的にはゼルバベルと同一人物ではないかと考えています。いずれにせよ、捕囚の民がバビロンからエルサレムに上ることを許されたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみな一緒に携え上りました。 このように、ユダの民がバビロンからエルサレムに帰還し、そこで神殿を再建するという主の御業は、主によってその霊を奮い立たせた足せられた人たちによって成し遂げられて行きました。そのために主は、異邦人の王さえも用いられたのです。それは今も同じです。私たちが主の御業を成し遂げていくために必要なのは、主によってその霊を奮い立たせていただくことです。その時、私たちが想像もできなかったような大いなる主の御業を見ることができるようになります。主がそこに働かれるからです。私たちもこの置かれた時代、この場所で、主の御業を成し遂げていくために、主によってその霊を奮い立たせていただきましょう。そして、そのためにダニエルのようにみことばの約束をしっかりと握り締め、祈り続ける者でありたいと思います。

エレミヤ31章7~14節「主の恵みに満ち足りる」

エレミヤ書31章から学んでいます。エレミヤ書30章、31章は、エレミヤ書の中心部、まさに心臓部にあたる箇所です。前回は、この31章1~6節のみことばから、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」というテーマで学びました。今回は、その後の7~14節から、「主の恵みに満ち足りる」というテーマでお話します。13~14節にこうあります。「そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。─【主】のことば。」」
  「そのとき」とは、バビロンに捕えられていたイスラエルの民が解放されるときのことです。そのとき、主は彼らを喜びと楽しみで満ち足らせてくださいます。これは二重の預言でもあります。近い未来に起こることとしてはバビロン捕囚からの解放のときですが、遠い未来における預言としては、世の終わりの7年間にわたる患難時代をイスラエルの民が生き残ったときのことです。そのとき、主は彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませてくださり、主の恵みに満ち足らせてくださいます。

これは同時に、私たちクリスチャンに対する神の約束でもあります。バビロンはこの世を象徴していますが、クリスチャンはこの世というバビロンから解放され天の御国に行くとき、すべての苦しみから解き放たれ、悲しみを喜びに、憂いを慰め、楽しみに変えられ、主の恵みで満ち足りるようになるのです。

Ⅰ.エフライムはわたしの長子(7-9)

まず、7~9節をご覧ください。「7 まことに、【主】はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらに向かって叫べ。告げ知らせよ、賛美して言え。『【主】よ、あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も、ともにいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。9 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに、つまずくことのない平らな道に導く。まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」」

ヤコブ、イスラエルに対する二重の預言が続いています。7節の「イスラエルの残りの者」とは、バビロンから帰還した残りの民のことです。また、遠い未来のことで言うなら、世の終わりの患難時代を生き抜いたイスラエルの民のことです。言い換えると、神に対して最後まで忠実であり続けた人たち、真の信仰者たちのことです。

8節には、主は彼らを北の国から連れ出し、地の果てから集めるとあります。北の国とはアッシリヤのことであり、バビロンのことです。また、新約聖書の時代で言うならローマのことです。あるいは、その後に起こる強大な諸国のことです。主はそこから彼らを集められるのです。それは今この時代にも起こっています。1800年代後半からシオニズムという運動が起こり、世界中に離散していたユダヤ人がイスラエルの地に集められています。1948年には正式にイスラエル共和国が建国されました。ここでは特にバビロンから集められることが言われています。

その中にはあらゆる人たちがいます。8節には「その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も」とありますが、これは盲人や足の不自由な人、妊婦や産婦のことですが、そういう移動が困難な人まで含まれています。そういう人たちも皆、何の差別もなく手厚い保護を受けて確実に帰って来るようになるのです。

9節には、「彼らは泣きながらやって来る」とあります。これは勿論、悲しみま涙ではありません。喜びの涙です。祖国に帰れることがうれしくて、うれしくて、喜びの涙を流さずにはいられないのです。主の慰めと、手厚い保護を受けながら。いったいどうして彼らはそのように祖国に帰還することができるのでしょうか。その理由が、9節にあります。「まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」

どういうことでしょうか?1節には「わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」とありますが、ここではさらに一歩進んで、神と民の関係から父と子の関係として描かれています。つまり、彼らは神と特別な関係にあるということです。父と子という親密なレベルまで引き寄せられるのです。神は彼らの父であり、彼らは神の子どもです。そういう個人的な関係を持ってくださるのです。それは、エフライムが主の長子であるからです。どういうことですか?
  「エフライム」とは、ヨセフの二人の子どもマナセとエフライムの内、弟のエフライムのことですが、このエフライムが後に北イスラエルを表すことばとなり、さらにイスラエル全体を指すようになりました。ですから、これはイスラエル主の長子であるという意味です。
  でも、先程申し上げたように、マナセとエフライムではマナセが長子でエフライムは次男です。それなのに、不思議なことに次男のエフライムが長子の扱いを受けました。これはどういうことかというと、どちらが先に生まれたかということではなく、どちらが長子の権利を受けたのかということです。つまり、誰が相続権を得たのかということです。おもしろいことに、このような記述は聖書の他の箇所にも見られます。たとえば、このエフライムのお祖父ちゃんにあたるヤコブがそうでした。ヤコブはイスラエルの始祖となる人物ですが、元々彼は次男でした。長男はエサウです。でも次男のヤコブが長子の権利を得ました。同じようなことが、孫のエフライムにも起こったのです。長男のマナセではなく、次男のエフライムが長子の権利を持つ者となりました。これはエフライムがマナセよりも先に生まれたということではなく、マナセが受けるはずの長子の権利を持つ者となったということです。その権利とは相続権のことです。ですから、聖書で言う「長子」というのは、単に先に生まれということでなく、相続権を持つ者であるという意味なのです。

これが聖書全体を貫いている真理です。それはイエス様についても言われていることです。聖書にはイエス様は長子と呼ばれていますがどういう意味で長子と呼ばれているのかというと、この神の相続権を持つ者であるという意味です。エホバの証人はイエス様が一番最初に生まれた者であるという意味で長子と呼ばれていると解釈したため、イエス様を被造物の一つ、すなわち、エホバによって最初に造られた者と主張するようになりました。でもそれは聖書で言っているこの「長子」ということの意味をよく理解していないために生じた誤解です。聖書で言う「長子」というのは必ずしも先に生まれたものということではなく、「相続権を持つ者」です。つまりイエス様は父なる神の相続権を持つ者、すなわち、神の相続者であり、神ご自身であられる方なのです。ですから、そんなことを言われても驚かないでください。
「そうなんですか!」「やっぱりそうなんですね。おかしいなあと思っていたんですよ」なんて。
「そうですか、でも聖書ではそういう使われ方をしてないんですよ。エフライムを見てください。エフライムは長子であるとあるじゃないですか。これは先に生まれたということじゃなく、神の相続権を持つ者であるという意味なんですよ」と。
  「エフライムはわたしの長子である。」。つまり、イスラエルは神の長子なので、神の所有のものを相続することができるようになったのです。

これは私たちクリスチャンのことも言えることです。私たちはイエス・キリストを信じたことで神の子どもとしての特権をいただきました。ヨハネ1章12節にこうあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」
  イエス様を信じることによって神の子どもとされました。神の子どもであるということは、神のものを相続する立場に置かれているということです。それは特権なのです。

使徒パウロは、そのことをローマ8章14~18節で次のように語っています。「14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
  神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。その人は、人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって私たちは神を「アバ、父」と呼べるようになったのです。すごいですね。ヨブ記には、神の至高性の前に人は虫けらのようだ、うじ虫にすぎないとありますが(25:4~6)、まさに虫けらのような存在にすぎない者が、キリストによって神の子とされ、キリストとともに共同相続人とされるとしたら、それは神の恵み以外の何ものでもありません。罪人である私たちは神の光に照らされるなら、うじ虫のようなものにすぎませんが、このような者を神の子としてくださり、キリストと肩を並べられるような立場に置いてくださるのです。ここに神の恵みの豊かさがあります。そしてやがて天の御国へと帰らせてくださる。私たちはそこへ帰るのです。泣きながら。当然でしょう。嬉しいですから。

であれば、たとえ今、さまざまな試練の中にあっても問題ではありません。なぜなら、私たちはやがてものすごい栄光の中に入れられるということを知っているからです。それは、やがて私たちにもたらされる栄光に比べれば、取るに足りないものです。私たちが神の子どもとされたということがどういうことなのか、それがどんなにすばらしい栄光なのかを思い巡らして、神の約束にしっかりと目を留めようではありませんか。

Ⅱ.遠くの島々に告げ知らせよ(10-11)

次に、10~11節をご覧ください。「10 諸国の民よ、【主】のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。「イスラエルを散らした方がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られる」と。11 【主】はヤコブを贖い出し、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。」

これは主が成されることです。主はイスラエルを散らされましたが再び集め、牧者が群れを飼うように、これを守られます。すなわち、ヤコブ、イスラエルを約束の地に戻されます。主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されるからです。「ヤコブより強い者」とは、具体的にはアッシリヤでありバビロンのことです。また、ローマや世の終わりの患難時代においてイスラエルを滅ぼそうとする反キリストのことを指しています。主はそこからイスラエルの民を買い戻されるのです。

これは私たちクリスチャンにも言えることです。クリスチャンはこの世の神、この世の支配者であるサタンによって罪の奴隷とされていましたが、神はそんな私たちを罪の奴隷から買い戻すために、御子イエスを十字架にかけていのちの代価を支払い贖ってくださいました。約束の地、天の御国へ私たちを導くために。何という恵みでしょうか。それは自分たちの力ではどうすることもできないことでした。どんなにもがいても、このサタンの力、罪の支配から解放されることはできませんでした。でも、主がそれを成してくださったのです。

だから、10節にはこう呼び掛けられているのです。「諸国の民よ、主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。」。皆さん、どうでしょう。ここには、遠くの島々に告げ知らせよと呼び掛けられていますが、そんなことを言われなくてもこの罪の支配から解放されたら自然にそうなるのではないでしょうか。黙ってなどいられません。

マルコの福音書1章40~45節には、ツァラアトに冒されていた人が癒された出来事が記録されていますが、イエス様はツァラアトが癒された男に「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」(マルコ1:44)と厳しく命じられたにも関わらず、彼は出て行って、この出来事を言い広めてしまいました。なぜですか?嬉しかったからです。ツァラアトに冒され社会から隔離されて生きなければならなかった彼は、イエス様の深いあわれみによって癒していただいた時、嬉しくて、嬉しくて、黙っていることなどできませんでした。同じです。自分を罪に縛り付けていたサタンの力から解放されたなら、黙っていることなどできません。

実際、イスラエルから遠く離れた島々であるこの日本にまでその知らせが伝わってきました。それを伝えてくれたのは他ならぬキリストの十字架を目の当たりにした人々、そしてそれが我ためであったと信じて救われたキリストの弟子たちでした。彼らが全世界に出て行って自分たちが体験したことを告げ知らせてくれたので、この日本にまで良い知らせが伝わって来たのです。

私たちもこの極東の島において、イエス様が成されたことを体験的に知ったものとして、黙っているわけにはいきません。私たちも出て行って造られたすべてのものに福音を伝えなければなりません。ただそれをするのは、あくまでもこの救いを体験した者です。あなたが本当に救いを体験したなら、黙ってなどいられないはずです。想像してみてください。バビロンという国に捕らえられ70年間もその支配を受けていた人がそこから解放されたのです。祖国に帰ることができる。それはもう大きな喜びであったはずです。これほどの喜びはありません。この喜びの知らせが「福音」と呼ばれるようになりました。「福音」(ギリシャ語でユーアンゲリオン)とはバビロン捕囚から解放されたという良い知らせです。私たちもバビロンというこの世で罪の奴隷として生きてきましたが、そこから解放されました。それは本当に感激で、これを黙っていろという方が難しいでしょう。告げ知らせよという命令に従う方がよっぽど楽です。私たちはこの素晴らしい知らせを、遠くの島々に、まだ聞いたことがないような人たちに告げ知らせなければなりません。力強い主の救いの御業を宣べ伝えなければならないのです。

Ⅲ.主の恵みに満ち足りる(12-14)

第三に、そのように神の恵みによって強い者の手から救われた人たちはどうなるでしょうか。12~14節をご覧ください。主の恵みに満ち足りるようになります。ここには、帰還した彼らを待っていた祝福がどのようなものであったかが書かれてあります。「12 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、【主】が与える良きものに、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、羊の子、牛の子に喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。13 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。14 祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。─【主】のことば。」」

帰還した彼らを待っているのは、物質的祝福と霊的祝福の両面における祝福でした。シオン、エルサレムには神殿が再建され、たくさんのいけにえがささげられるようになります。そこはささげもので溢れるようになるのです。14節には「祭司のたましいを髄で潤す」とありますが、これはどういうことかというと、「髄」とは、骨の中心にある柔らかい組織のこと、すなわち、物事の中心であり、奥深い大事なところを指しています。ですから、髄で潤すとは、祭司のたましい、祭司の心を満たすということです。口語訳では「祭司の心を飽かせ」と訳しています。それは祭司のたましい、祭司の心を満たすほどであるということです。どういうことかというと、祭司は神にささげられたいけにえを屠ったり、神にささげたりという働きをしますが、その働きの報酬としてその一部を分け前として受けますが、それがあまりにもたくさんであったため、彼らのたましいが、彼らの心が潤されるほどであったということです。それは自分たちの受ける分が多くなったからではありません。そうやって心から神にいけにえをささげる民の姿に励まされたからです。それほどたくさんのささげものがささげられるのです。教会で言うなら、みんな喜んで主にささげものをして献金が満ち溢れている状態です。あるいは、奉仕者がたくさん与えられて、何をしていただくのかを探さなければならないような状態です。もう当番制ではありません。どうか私にさせてくださいという人で満ち溢れるからです。それほど、主の恵みに満ち足りるのです。

なぜでしょうか?みんな喜んで捧げるようになるからです。強制されてではありません。解放された喜びのゆえに、自ら進んでささげるようになるのです。そういう時がやって来ます。かつてバビロンから解放されたイスラエルの民が喜んで主にささげたように、主の教会が主の恵みで満ち溢れるようになる時がやって来るのです。それは世の終わりの時まで待たなければならないということではありません。主の十字架の贖いの御業を体験した人は、このように変えられるはずです。そうでないとしたら、救いに関して何かがおかしいと言えるかもしれません。

パウロはマケドニアの諸教会に与えられた神の恵みについて、コリントの教会にこのように書き送っています。「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。」(Ⅱコリント8:2-5)いったいなぜ彼らはこの「恵みのわざ」にあふれるようになったのでしょうか。それはキリストの恵みを知ったからでした。体験したからです。すなわち、主は富んでおられたのに、彼らのために貧しくなられたということです。それは、彼らがキリストの貧しさによって富む者となるためです。そのキリストの恵みを知ったからです。

先日、英語の礼拝で普段ワーシップをリードしている兄弟が所要で礼拝を休まれるということで、代わりにジャマイカから来日している姉妹がリードしてくださいました。それが本当にすばらしいリードだったので「今日のワーシップのリードありがとう。本当に感謝しています。」と言うと、その姉妹がこう言いました。「私は自分にできることをしただけです。私にできることなら何でもしたいです。だから、必要があったら教えてください。この前、礼拝堂にあるポットの水を交換したら、日本語の礼拝の方がそれを捨ててくれましたが、私は毎週その水を交換しているので捨てないでくださいと伝えてください。そのくらいのことしかできないですが、喜んでしたいのです。」と。
  私はそれを聞いてとても感動しました。彼女は自分に出来ることとして、自ら進んでやってくれたからです。なぜ?神の恵みを知ったからです。体験したからです。

皆さん、教会はそういうところではないでしょうか。神によって罪が赦された者が喜んで教会に集い、心から主を賛美し、いけにえをささげ、奉仕をささげるのです。自ら進んで。主の恵みを知ったからです。奉仕しろと言われて、ささげろと言われて、伝道しろと言われたのでするというのではなく、何も言われなくても、黙っていても、一人一人が聖霊によって喜び、神の恵みに応答してささげるので、ささげものが満ち溢れるのです。それが主の教会です。そこでは若い女が喜び踊り、若い男も年寄りも、ともに主を喜び楽しみます。主が彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませてくださるからです。そこは主の喜びで満ち足り、主の楽しみで満ち溢れるのです。それは完全な神の国、天の御国ではないかもしれませんが、その前味を味わうことができるのです。私たちはそれこそ主が喜ばれる教会であることを知り、それを目指して歩まなければなりません。

先月、さいたまの教会で礼拝のご奉仕をさせていただきました。その教会は私が共立基督教研究所で学んでいた時に一緒に学んだ牧師が35年前にゼロから開拓した教会です。どれほどのご苦労があったことかと思いますが、35年たった今、それが見事に実を結びました。30代の多くの若い青年たちが結婚に導かれ、教会の役員をはじめ、礼拝の全体をリードしていました。霊的によく訓練されたすばらしいリードでした。いったいどうやってそのようになったのか、いろいろお話を聞いているうちにわかりました。35年前に救われた数人の婦人たちが子どもたちにしっかりと信仰の訓練をして信仰を継承させ、その子供たちが結婚して家庭を築き、教会の中心的な役割を担うようになったからです。そのためには時間がかかります。30年の時間がかかりました。しかし、やがてそのような教会になると決断して取り組んだ結果、そのようになったのです。

教会は建物とか、人数ではありません。主に罪贖われた一人一人が喜びと感謝をもって主に仕えているかどうかです。そのためには時間もかかるでしょう。でもどんなに時間がかかっても、それが主が望んでおられることであり、私たちが目指しているものであると受け止めて、一人一人が十字架の贖いに感謝し、神の子とされた喜びをもって自ら進んでささげるなら、必ずそのようになるはずです。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる、と言われるようになります。私たちもそのような教会とさせていただきましょう。神の恵みがあなたの霊と心と体を満ち溢れさせてくださいますように。

Ⅱ列王記25章

 

 Ⅱ列王記25章から学びます。

 Ⅰ.バビロンに捕え移されたユダ(1-21)

まず、1~21節をご覧ください。「1 ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。2 こうして都はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていた。3 第四の月の九日、都の中で食糧難がひどくなり、民衆に食物がなくなった。4 そのとき、都は破られ、戦士たちはみな夜のうちに、王の園に近い二重の城壁の間にある、門の道から出て行った。カルデア人が都を包囲していたので、王はアラバへの道を進んだ。5 カルデアの軍勢は王の後を追い、エリコの草原で彼に追いついた。すると、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。6 カルデアの軍勢は王を捕らえ、リブラにいるバビロンの王のところに彼を連れ上り、彼に宣告を下した。

7 彼らはゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺した。王はゼデキヤの目をつぶし、青銅の足かせをはめて、バビロンへ連れて行った。8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、9 【主】の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。10 親衛隊の長と一緒にいたカルデアの全軍勢は、エルサレムを取り巻く城壁を打ち壊した。11 親衛隊の長ネブザルアダンは、都に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した投降者たちと、残りの群衆を捕らえ移した。12 しかし、親衛隊の長はその地の貧しい民の一部を残し、ぶどうを作る者と農夫にした。

13 カルデア人は、【主】の宮の青銅の柱と、車輪付きの台と、【主】の宮にある青銅の「海」を砕いて、その青銅をバビロンへ運んだ。14 また、灰壺、十能、芯取りばさみ、平皿、奉仕に用いるすべての青銅の器具を奪った。15 また親衛隊の長は、火皿、鉢など、純金や純銀のものを奪った。16 ソロモンが【主】の宮のために作った二本の柱、一つの「海」、車輪付きの台、これらすべての物の青銅の重さは、量りきれなかった。17 一本の柱の高さは十八キュビト、その上の柱頭は青銅、その柱頭の高さは三キュビトであった。柱頭の周りに格子細工とざくろがあって、すべて青銅であった。もう一つの柱も、格子細工もこれと同様であった。

18 親衛隊の長は、祭司のかしらセラヤと次席祭司ゼパニヤと三人の入り口を守る者を捕らえ、19 戦士たちの指揮官であった一人の宦官、都にいた王の五人の側近、民衆を徴兵する軍の長の書記、そして都にいた民衆六十人を、都から連れ去った。20 親衛隊の長ネブザルアダンは彼らを捕らえ、リブラにいるバビロンの王のところへ連れて行った。21 バビロンの王はハマテの地のリブラで、彼らを打ち殺した。こうして、ユダはその国から捕らえ移された。

エルサレムが陥落、ユダ南王国終焉の記録です。南ユダ最後の王ゼデキヤの治世の第九年とは、前588年になります。その年の第十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍勢を率いてエルサレムを攻めて来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築きました。実際には、この時エルサレムを攻めて来たのはネブカドネツァルではなく、彼の親衛隊長のネブザルアダンでした。というのは、ネブカドネツァルはこの戦いに参戦しようとしていたエジプトとの戦いに備えてリブナにいたからです。こうしてエルサレムはゼデキヤ王の第十一年(前586年)まで包囲されてしまいました。ネブザルアダンの戦法はエルサレムを兵糧攻めにして、確実に落とす方法でした。その結果、都の中で食糧難がひどくなり、民衆に食物がなくなりました。

そのときです。バビロン軍が城壁を破って町に侵入しました。ゼデキヤの治世の第十一年第四の月の九日(前586年7月9日)のことです。この攻撃は2年に渡って続けられました。町にいた戦士たちは、二重になっていた城壁の間にある門の道から出て行きました。一方、ゼデキヤ王もアラバへの道を進みましたが、すぐにカルデアの軍勢に捕らえられると、王の軍隊はみな王から離れ散ってしまいました。

そこでカルデア人は王を捕らえ、リブナにいたバビロンの王のところに彼を連れて行くと、ネブカドネツァル王はゼテキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ゼデキヤの目をつぶし、青銅の足かせをはめて、バビロンへ連れて行きました。バビロンの王はなぜこんなにもひどいことをしたのでしょうか。それは、こうすることで将来反乱を起こす危険性を少なくするためです。またゼデキヤの目がつぶされたのは、こうすることで、反乱の意欲を完全に摘み取るためです。このようにしてゼデキヤはバビロンに連れて行かれ、そこで死ぬことになります。

ところで、このことを預言した預言者がいます。それはエゼキエルです。エレミヤは最後の最後までエルサレムに残った預言者でしたが、エゼキエルは第二次バビロン捕囚の時に、エホヤキンと共に捕え移された祭司の一人でした。その捕囚の民に対して、彼らがまだかたくなで、偽預言者のことばに惑わされエルサレムがバビロンから解放されるという期待を持っていたので、神の預言を告げるのですが、それがエゼキエル12章9~13節のことばです。

「人の子よ。反逆の家、イスラエルの家は、あなたに『何をしているのか』と尋ねなかったか。10 彼らに言え。『【神】である主はこう言われる。この宣告は、エルサレムの君主、およびそこにいるイスラエルの全家に関わるものである。』11 また言え。『私は、あなたがたへのしるしである。私がしたようなことが彼らにもなされる。彼らは捕囚となって引いて行かれる。12 彼らのうちにいる君主は、暗いうちに荷物を背負って出て行く。出て行けるように壁に穴が開けられる。彼は顔をおおう。自分の目でその地を見ることはもうないからである。』13 わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしの罠にかかる。わたしは彼をカルデア人の地、バビロンへ連れて行く。しかし、彼はその地を見ずに、そこで死ぬ。」

エルサレムの君主とはユダの王ゼデキヤのことです。彼はこっそり荷物をまとめて出ていくことになります。彼は自分の目でその地を見ることはありません。彼はバビロンへ連れて行かれることになりますが、その地を見ることなく、そこで死ぬことになるのです。これはまさにゼデキヤが目を抉り取られてバビロンに連れて行かれて死ぬということの預言だったのです。その預言の通り、彼は目をつぶされてバビロンへ連れて行かれ、そこで死ぬことになります。主が語られた通りです。主の語られたことは、その通り実現するのです。しかし、彼らには悔い改める時がありました。バビロン捕囚は3回にわたって行われましたが、それは神の憐れみと忍耐を表していました。神は彼らが悔い改めることを待っておられたのです。それは私たちに対しても同じです。神は私たちが悔い改めて神に立ち返ることを願っておられます。ゼテキヤのように目を抉り取られてバビロンに連れて行かれることがないように、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。

次に、8~23節をご覧ください。エルサレムに侵入してから4週間後、すなわち、第五の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは親衛隊の長であったネブザルアダンをエルサレムに派遣し、主の宮と王宮をはじめ、エルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物を火で焼きました。さらに、エルサレムを取り囲む城壁も打ち壊しました。また、都に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した投降者たちと、残りの群衆を捕らえ移しましたが、その地の貧しい民の一部は残し、ぶどうを作る者と農夫にしました。征服した町を廃墟としないためです。さらに、神殿の宝物や器具類をすべてバビロンに運びました。エルサレム陥落です。エルサレムはことごとく取られ、焼け打ちにされ、色あせた世界になってしまいました。

こうした一連の出来事は、エレミヤによって預言されていたことでした。エレミヤはゼデキヤはじめユダの民に対して、バビロンに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。バビロンのくびきを拒むなら、滅び以外に道はないと警告していたにもかかわらず、ゼデキヤはそのことばを無視してネブカドネツァルに反逆しました。つまり、ゼデキヤはエレミヤを通して語られた主のことばに従わず、その結果、主に逆らってしまったのです。しかし、それはゼデキヤの周りにいたにせ預言者たちの偽りも大きい影響を与えました。彼にとってエルサレムの没落を告げるにせ預言者ハナヌヤのことばは、エレミヤのメッセージよりも受け入れやすいものでした。彼自身の願望を後押しするものであったからです。しかし、そのような弱さを持つのはゼデキヤばかりではありません。人は常に自分の思いを支えることばを探し求めています。カウンセリングと称しつつ、本当のところは自分の思いを後押しするだけのカウンセラーを求めるということがあるのです。でも信仰は願望を遂げる道具ではありません。エレミヤの預言の通り、エルサレムは滅亡しました。こうして、ユダはその国から捕え移されることになったのです。

Ⅱ.総督ゲダルヤ(22-26)

しかし、こうした絶望的な終焉を迎えた後で、列王記の著者は二つのエピソードを書き加えています。その一つが。総督ゲダルヤの、バビロンの王に仕えて幸せになるようにというメッセージです。22~26節をご覧ください。「22 バビロンの王ネブカドネツァルは、彼が残したユダの地の残りの民の上に、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを総督として任命した。23 軍の高官たちとその部下たちはみな、バビロンの王がゲダルヤを総督としたことを聞いて、ミツパにいるゲダルヤのもとに来た。それは、ネタンヤの子イシュマエル、カレアハの子ヨハナン、ネトファ人タンフメテの子セラヤ、マアカ人の子ヤアザンヤ、彼らとその部下たちであった。24 ゲダルヤは彼らとその部下たちに誓って、彼らに言った。「カルデア人の家来たちを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」25 ところが第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルは、十人の部下とともに来て、ゲダルヤを打ち殺し、ミツパで彼と一緒にいたユダの人たちとカルデア人たちを打ち殺した。」

ゲダルヤは、ヨシヤが宗教改革をしたときの書記シャファンの孫です。さらに、ゲダルヤはエレミヤの友人であったようです(エレミヤ39:14)。エレミヤは、ユダが生き残る道はバビロンに降伏しバビロンの王に仕えることであると預言していました(エレミヤ21:8-9)が、ゲダルヤはそのことばを受け入れてそのように民を説得しました。ところが、それを受け入れない人々がいたのです。それは、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルです。彼は十人の部下とともに来て、ゲダルヤを打ち殺し、ミツパで彼と一緒にいたユダの人たちとカルデア人たちを打ち殺しました。イシュマエルは王族の一人で、総督になりたがっていた人物です。その彼が陰謀によってゲダルヤを暗殺したのです。そこでバビロンの報復を恐れた民はみな、身分の下の者から上の者まで、軍の高官たちとともに、エジプトに逃れました。この時、エレミヤは彼らにエジプトに下らないでバビロンにとどまるようにという主のことばを語りましたが、彼らはそのことばを聞かず強制的にエレミヤをもエジプトに連れて行きました(エレミヤ43:6~7)。

神はユダの民にバビロン捕囚という平安を与える計画、将来と希望を与える計画を用意しておられたのに、彼らはそれを受け入れることができませんでした。危機の時に神の計画を受け入れられないなら、そこにはもはや希望は残されていません。

Ⅲ.祝福を受けるエホヤキン(27-30)

もう一つのエピソードは、ユダの王エホヤキンの釈放と立場の変更です。27~30節をご覧ください。「27 ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十七日、バビロンの王エビル・メロダクは、王となったその年のうちにユダの王エホヤキンを牢獄から呼び戻し、28 優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。29 彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。30 彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。」

ユダの王エホヤキンは、第二次バビロン捕囚の時に降伏しバビロンに捕え移されました。そのエホヤキンが捕え移されて37年目の12月27日、すなわち、バビロンの王がネブカドネツァルからエビル・メロダククに代わったその年のうちに、彼はエホヤキンを牢獄から呼び出し、彼に優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くしました。それまでは、征服された国の王たちは囚人としての扱いを受けていましたが、新しく王となったバビロンの王エビル・メロダクはその政策を変更し、王は王として取り扱うことにしたのです。ユダの王エホヤキンは、他の国々の王たちよりもさらに丁寧な扱いを受けました。そればかりか、彼は、その一生の間、いつも王の前で食事をするという祝福にあずかることができました。しかも、彼の生活費はすべて、一生の間、いつも王から支給されていたのです。なぜでしょうか。

ユダの王エホヤキンは、「子を残さず、一生栄えない男」と記録せよ。」(エレミヤ22:30)と言われた人物です。彼のせいで、彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄、再びユダを治める者はいなくなりました。そのエホヤキンが、これほどの祝福にあずかることができるようになったのです。それは、彼は神のみことばに聞き従わない悪王であったにもかかわらず、この一点において従ったからです。それは、バビロンに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ、という点です。そこにはバビロンの王エビル・メロダクの政策転換によるものでしたが、彼の中に主のみことばに従うという柔和さがあったのも確かです。

これらのことから言えることは何かというと、神は厳しい裁き主だけではないということです。神はあわれみ深い裁き主でもあるのです。神はいつまでも怒っているのではありません。神はイスラエル再生の道を示されました。実際イスラエルはやがて故郷に連れ戻され、やがてそこに神殿を再建していきます。たとえ神のさばきを受け、隷属する身になろうとも、その身に甘んじることが主への従順であり主のご計画にあずかることなのです。神の前にへりくだり、神のことばに心を開き、忠実な歩みをしていくことが祝福の道なのです。

そのことは、このⅡ列王記の最後のことばを見てもわかります。これは、エレミヤ書の最後と同じ言葉です(エレミヤ52:31~34)。ここには神の恵みが啓示されています。ダビデの家系が継続するという希望です。これは、ダビデ契約に基づく希望です(Ⅱサムエル7:16)。そしてそれがクロス王によるエルサレム帰還の勅令へとつながっていくのです。つまり、神はどんなことがあってもご自身の民を決してお見捨てにはならないということです。どんなに神に背き、反逆し続ける民であっても、主は真実な方であられ、その約束を最後まで果たされるのです。私たちもこの真実な神に信頼して、主の御顔を見るまで、この地上での生涯を走り続けていきたいと思います。

2024イースターメッセージ ヨハネ11章25~26章「死んでも生きる」

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皆さん、イースターおめでとうございます。キリストの復活を心からお祝いいたします。今日は、このキリストが復活された日を記念するイースターに、聖書のみことばから「死んでも生きる」というメッセージを皆さんにお届けしたいと思います。

皆さん、私たち人間にとって、どうやっても太刀打ちできない問題に「死」があります。この「死」への不安を克服することができたら、どれほど力強く生きていけるでしょうか!クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「毎日が感動です!」と言いました。その理由は、「私の不可能を、キリストが可能にしてくださった」からです。「私の不可能」とは、病気と死に対する解決です。彼女は1922年(大正11年)に北海道旭川(あさひかわ)市に生まれ、1939年(昭和14年)旭川市立高等女学校を卒業すると、17歳から7年間小学校教員を勤めました。しかし、間もなく肺結核と脊椎カリエスを併発して13年間の闘病生活を余儀なくされることになりました。この苦しみの中、病床でキリスト教信仰へと導かれるのです。彼女は自らを〝病気のデパート〟と呼ぶくらい、肺結核と脊椎カリエスの他、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病等、度重なる病魔に襲われました。それでも常に人生を前向きにとらえ、クリスチャンとしての信仰に根ざした作家活動を積極的に続けることができたのは、このキリストの十字架と復活の信仰があったからです。キリストの十字架と復活は、三浦綾子さんが抱えていた罪と死の不安を解決し、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくれました。それで彼女は、「毎日が感動です!」と言ったのです。

それは私たちも同じです。人間は逆境に陥るとどうしても気持ちが落ち込んでしまいます。特に彼女のように次々と重い病気にかかると、生きる意欲もなくしてしまいがちです。でもこの「死」の問題を克服することができるなら、私の不可能を可能にしてくださるキリストの復活と永遠のいのちに与ることができるなら、三浦綾子さんのように「毎日が感動です!」と言うことができるのではないでしょうか。いったいどうしたらこの「死」の問題を解決することができるのでしょうか。

きょうの聖書の箇所でイエスは、死後4日も経過した親友ラザロを前に、その姉妹のマルタにこう言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)
  どうやっても解決できなかった「死」への完全な勝利がここにあります。それは、イエス・キリストです。イエスはその死からよみがえられました。そしてそのイエスを信じる者はイエスと同じように死んでも生きるようになります。また、生きていてイエスを信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。すばらしいで約束ですね。あなたがこのことを信じるなら、あなたも死に対する解決が与えられ、力強く生きていくことができるようになるのです。

きょうは、この復活の希望について、ヨハネの福音書11章にあるラザロの復活から見ていきたいと思います。

Ⅰ.死に対して無力な人間(1-19)

まず、1~19節をご覧ください。「1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
  17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。19 マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。」

エルサレムの東3㎞にあるオリーブ山の南東に広がる斜面にベタニアという小さな村がありました。そこには3人の兄弟マルタとマリアとラザロが住んでいました。イエス様はエルサレムに来られたとき度々彼らの家を宿とし、そこで教えを説いておられました。この兄弟は早くに両親を亡くしていたようで、年長と思われるマルタが何かにつけて母親の役割を果たしていました。そして、ラザロは末っ子であったと一般的に考えられていますが、それだけに3人は強い兄弟愛で結ばれ、仲も良かったと思われます。ところが、この平和な家庭に悲劇が起きました。ラザロが重い病気にかかってしまったんです。マルタとマリアはイエス様のもとに使いを送り、助けを求めました。姉妹はイエス様がすぐにでも飛んで来てラザロを癒してくださるものと思っていました。イエス様がラザロを深く愛しておられたことをよく知っていたからです。

しかし、イエス様はラザロの許に直行されませんでした。6節にあるように、イエス様はそのときにいた場所になお二日とどまられたのです。その行動は、ラザロを愛しておられたという5節のことばと矛盾しているように見えますが、どうしてイエス様はなおもそこに二日間とどまられたのでしょうか。一つの理由は4節にあります。ここには「これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」とあります。それは、ラザロを生き返らせることによって、神の栄光がより顕著に現れるためでした。つまり、人々がイエス様の内に働く神の力を見、イエス様を神の子と信じ、イエス様が与えてくださるいのちに与るようになる、ということです。ラザロの奇跡は、イエス様には病気を癒す力だけではなく、死人にいのちを与える権限もあるということを明らかにしたのです。

もう一つの理由は、弟子たちの霊的訓練、または教育のためです。14節と15節をご覧ください。ここには「そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」」とあります。イエス様は弟子たちがご自分を死の征服者として信じるようになることを望んでおられたのです。あとわずかしか残されていない地上での生涯において、イエス様は彼らにこの真理を深く学ばせようとしておられたのです。私たちも問題に突き当たる時、主がすぐに飛んで来て問題を解決してくださることを期待することがあっても、現実的にはそうならなくて落ち込むことがあります。イエス様に愛されていることがわかっているので、そのように期待するのはある意味当然のことですが、そのような時に私たちが考えなければならないことは、すぐに助けてほしいという私たちの思いの他に、様々なことが絡んでいる可能性があるということです。そのことを忘れてはなりません。私たちの立場から見れば、とにかく問題が少しでも早く解決されればそれでいいという話になりますが、神様の大きなご計画の中に神様がなさろうとしておられることがたくさんあるんです。私たちにはそのことを全く知らされていませんが、主の助けを期待しつつすべてを主の御手にゆだねなければなりません。主が最善を成してくださることを堅く信じて御業を待ち望まなければならないのです。祈りの答えが遅れているとしたら、そこには必ずそれなりの理由があるということです。

7節をご覧ください。二日が過ぎてからイエス様はようやく弟子たちに「もう一度ユダヤへ行こう」と告げられました。しかし、たった今、石打にしようとする者たちから逃れて来たばかりだというのに、その渦中に自ら飛び込むのは止めた方がいいと、弟子たちは考えました(8)。ベタニアはエルサレムと目と鼻の先にあった所なので、確かにそこへ行くことは命の危険を意味していました。でも、自分の身を案じてくれる弟子たちに向かってイエス様は、自分には父が定められた時があると言われました。それが9節と10節のことばです。「イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」」
  どういうことでしょうか?昼間歩くとは、聖霊の光によって照らされた道を歩むということです。言い換えると、神様のみこころに従うということです。神様に従っていればどんな敵が眼前に待ち受けていても、それは恐れるに足りません。昼間歩く人は決してつまずくことなどないからです。でも、夜歩けばつまずきます。なぜなら、そこには霊的な光がないからです。神様に逆らい、自分勝手な方向に進もうとすれば、間違いなくつまずくことになります。

イエス様の確固とした決意を知らされた弟子たちは、自分たちには一つの道しか残されていないと考えたようです。何でしょうか?それはイエス様に同行して一緒に死ぬということです。トマスの悲そうなことばが、弟子たちの気持ちをよく表しています。16節です。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」ある意味、英雄的ともいえる感動的な決意です。彼は本当にイエス様と一緒に死ぬつもりでいたのだと思います。

イエス様がベタニアに行ってみるとどうだったでしょうか。ラザロは死んで墓に葬られて、すでに四日たっていました。兄弟を亡くし悲嘆に暮れているマルタとマリアを慰めるために、そこには大勢のユダヤ人が来ていました。ちなみにユダヤの葬式は七日間続きます。最初の三日間は泣き暮れる日です。イエス様がベタニアに着かれたのは、その泣く日が終わった時でした。死という現実を前にして、人は泣くこと以外には何もできないものです。しかし、イエス様は違います。ベタニアに出発するにあたり、その死んだラザロを眠りから起こしに行くと言われたのです。普通、弔問客は死んだ人に用があって来るのではありません。死んだ人の家族を慰めるため来ます。ここでも一般の弔問客はマルタとマリアのところに来たのであって、死んだラザロに用があったわけではありません。でもイエス様は死んだラザロのところに来られたのです。イエス様のベタニア訪問の理由は、一般の弔問客のそれとは根本的に異なっていました。すなわち、イエス様は死者のもとに命の主として来られたのです。

人間にとって死は、死以外の何ものでもありません。それは滅びです。「主よ、もう臭くなっておりましょう」とマルタが39節で言っているように、死後すぐにからだの腐敗が始まります。私たち人間はだれ一人この死を回避することはできません。死に向かって歩む以外の何ものでもないのです。そういうふうに言えるでしょう。だからトマスは、イエス様と一緒に死のうと言ったのです。人間にできるのは死に向かって英雄的に進んで行く決意をすることくらいです。避けられない死を美化して華々しく死ぬことによってしか死に対処できない人間というのは、何と小さくはかない存在なのでしょうか。しかもこの悲そうな英断も、死はあくまでも死であり、滅びであるという現実を少しも変えることはできないのです。

Ⅱ.死からよみがえられたイエス(20-27)

でも、この死に対して完全に勝利された方がおられます。それは死からよみがえられたイエス様です。20~27節をご覧ください。「20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」」

イエスの到着の知らせを聞いて、マルタは村の入口まで迎えに出て来ました。この21節のことばには、なぜもっと早く来てくださらなかったのですかという、恨み節が込められているように思われます。しかしそれとは裏腹に、イエス様がおられたら兄弟は必ず助かったはずだという、イエス様に対する信頼もみられます。また22節の告白もそうです。この「今でも」ということばに注目してください。絶望的な状況の中にあっても、なお期待して「今でも」と言える信仰はすばらしいものです。

イエス様はそのようなマルタに対して、重大な宣言をされました。それは23節のことばです。「あなたの兄弟はよみがえります。」これが、イエスがベタニアに来て最初に言われた言葉です。マルタはイエス様を全能の神としてよりも、一人の祈りの勇者として信じていたようです。だから22節で彼女は「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、わたしは知っています。」と言っているのです。でもイエス様は単なる祈りの勇士ではなく、全能の神ご自身であられます。そんな彼女の信仰を正すためにイエス様は、「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。いつ、どのようにして生き返らせるのかといったことには一切触れず、ただラザロはよみがえる、ラザロは生き返ると言われたのです。このことばには、イエス様の力強い意志を感じます。勿論、わたしが求めることなら神は何でもお与えくださいますが、それだけでない。わたし自身がラザロにいのちを与えてよみがえらせることができる。あなたの兄弟ラザロはよみがえるのですと。

それに対してマルタは何と言いましたか。25節です。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」どういうことですか?「終わりの日」とは世の終わりの日のことで、キリストが再臨される日のことです。その日にクリスチャンがよみがえるということは知っています。でも、それは今自分たちが直面している問題に対しては何の解決も与えてくれないということです。彼女はイエス様を信じていながらも死を前にしては何も成す術もありませんでした。もしイエス様を信じていても、それが単なる心の気休め程度で、現実の生活には何の役にも立たないとしたら、それは本当に空しいものです。イエス様が望んでおられたのはそのような信仰ではなく、実際の生活の中で生かされる信仰です。それは死に勝利する信仰と言えるでしょう。ですから、イエス様は彼女に力強いことばを宣言しました。25節と26節の言葉です。ご一緒に読みましょう。

「イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」」

イエスは、「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われました。これは、イエス様ご自身がよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。ヨハネの福音書を見ると、イエス様はこれまで「わたしは・・・です」と4回語られたことが記録されてあります。
①「わたしはいのちのパンです」(6:35)
②「わたしは世の光です」(8:12)
③「わたしは羊たちの門です」(10:7)
④「わたしは良い牧者です」(10:11)
  これらはすべてイエス様がどのようなお方なのかを比喩として語られたものですが、今回は違います。今回は単なる比喩としてではなく、イエス様がどのようなお方なのかをズバリ語られたのです。つまり、イエス様はよみがえりであり、いのちであられるということです。これはどういうことかと言うと、イエスはよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。そのような者であるということではなく、そのものズバリです。

ここに死に対する解決の道、勝利の道があります。死に対して勝利する道は、「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われたイエス様の内にあります。神様は御子を信じる者に賜物として永遠のいのちを与えてくださいます。私たちはこのイエスを信じた瞬間、このいのちを持つことができるのです。このいのちは肉体的な死さえも奪い取ることができないいのちです。私たちはこれまで死に支配されて生きてきました。死んだら終わりという世界です。死の勢力は私たちを恐れさせ、虚しくし、悲しくし、運命の奴隷としてきました。死は人からすべての生命、希望、喜びを奪って行きます。しかし、いのちの世界に移されると状況は全く変わります。そこでは、死が支配することができません。代わりにいのちが支配するようになります。いのちの世界は光の世界であり、喜びと希望の世界です。いのちの世界に生きている人はもはや虚しさにさいなまれることはありません。もう運命に支配されることはないのです。

パウロは、これを「死は勝利に呑みこまれた」と言っています。Ⅰコリント15章50~58節をお読みします。「50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

皆さん、私たちは、死に対する完全な勝利を得ています。人類にとって最も大きな問題が解決されているんです。だからこそ今、力強く生きていくことができるのです。たとえ今、困難な状況にあってもなお気落ちせずにチャレンジし続けることができる。あなたの主にある労苦は決して無駄ではありません。わたしはよみがえりです。いのちです。とおっしゃる方のための労苦だからです。わたしはよみがえりです。いのちです。とおっしゃる方と共に頑張って来た働きだからです。私たちの恐れの最後の砦である「死」に打ち破り、勝利を与えてくださった主に、心からの感謝しようではありませんか。そして、それは私たちが死んでからだけのことばかりではなく、生きていて、イエスを信じる者は決して死ぬことがないということ、ある人たちはこれを携挙のことを指していると理解していますが、そのようにも理解できないことはないですが、これは携挙のことではなく、生きている時にもたらされる永遠の命のこと、神との交わり、神の臨在のことです。この地上にあってさながら天国を生きることができるという意味です。つまり、この永遠のいのちが肉体の死も含めた人間のすべての問題に勝利することができるということです。私たちはここに  慰めと希望を持ちたいと思うのです。

Ⅲ.あなたは、このことを信じますか(26-27)

最後に、26節のことばを見て終わりたいと思います。イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。」と言われると、マルタに「あなたは、このことを信じますか。」と問われました。
  このイエス様の問いかけは、そのまま私たちへの問いかけでもあります。私たちは昨日よりも今日、今日よりも明日と、確実に死に向かって歩んでいます。そんな世界にあって、死が死に終わらず、滅びに至らない、死に対する勝利の道を、神様はイエス様において備えてくださいました。しかし、私たちはそのことを信じなければなりません。

2018年12月29日のことです。ある著名な若手俳優が、神奈川県のある教会を訪れて、約1時間半にわたってその教会の牧師と聖書について話し合いました。具体的に言うと、このヨハネの福音書11章にあるラザロに関する質問を、牧師にぶつけたのです。彼が出演することになっていた「罪と罰」という舞台の役作りのためです。「罪と罰」はドストエフスキーの代表作で、貧困にあえぐ元大学生ロスコーリニコフが主人公ですが、その主人公が独自の理屈で罪を犯します。世の中のためになるのであれば罪を犯してもいいのではないかという考えの下に、強欲で狡猾な金貸しの老婆を殺して金を奪い、その金を社会のために役立つために使おうとします。しかし、老婆だけでなく殺害の現場に偶然に居合わせたその妹までも殺してしまうのです。目的は果たしたものの思いがけないさらなる殺人に罪の意識が沸き上がり、ロスコーリニコフは自らの犯罪を肯定する思いと罪の意識の狭間で苦しむことになります。結局、知り合いの女性に説得されて自主することになるのですが、罪と罰の台本にヨハネの福音書11章の話が出てくるんです。その若手俳優はこの箇所を丸暗記していたそうですが、牧師に対していのちと死と復活について真剣なまなざしで質問をぶつけました。するとその若手俳優は納得した様子で帰って行かれたということですが、その後彼は自殺しました。それが俳優の三浦春馬さんです。
  三浦さんは聖書の教えを理解しようと思って教会の門を叩きました。わたしはよみがえりです。いのちです。というイエス様のみことばに関する牧師の解説を聞いて感動しました。しかし、彼は信じませんでした。牧師はイエス様のように「あなたは、このことを信じますか」と信仰の決心を迫るまでには至らなかったのです。続いて何度か教会に来てもらえれば徐々に信仰に導けると考えたようです。しかし、そのチャンスは二度と訪れませんでした。三浦さんの自殺の報道を聞いた時牧師はショックのあまりしばらく眠ることができなかったそうです。またかなり自責の念にかられたということですが、その後1冊の著書を書かれました。それは「永遠と復活」という本ですが、その中で先生は、人は生きている間に別にイエス・キリストを信じなくてもハデスで悔い改めるチャンスが与えられていると述べています。そこで悔い改めれば救われると。三浦さんはきっとそこで悔い改めて救われると信じていると語っておられますが、それは聖書が教えていることではありません。死んでからでもハデスで悔い改めれば救われるという、いわゆるセカンドチャンス論は聖書に反する教えです。「このことを信じますか」という主の問いかけに対して、私たちは今生きている間に応答しなければなりません。死んだ後では遅いんです。生きている間に、イエス様を信じる者は死んでも生きる。生きていてイエス様を信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがないということを信じなければなりません。

イエス様がよみがえりです。いのちです。イエス様はご自身の身をもってそのことを証明してくださいました。イエス様は私たちの罪を贖い十字架で死なれただけでなく、三日目によみがえられました。死に勝利されたのです。だから、このイエスを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてイエスを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。キリストのこの復活のいのちが与えられるからです。あなたは、このことを信じますか。あなたもよみがえられたイエス様を信じて永遠のいのちをいただき、このいのちに満ち溢れた勝利ある人生を共に歩もうではありませんか。

Ⅱ列王記24章

 Ⅱ列王記24章から学びます。

 Ⅰ.第一次バビロン捕囚(1-7)

まず、1~7節をご覧ください。「1 エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。2 そこで【主】は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。【主】がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。3 実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという【主】の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、4 また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため【主】は赦そうとはされなかったのである。5 エホヤキムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。6 エホヤキムは先祖とともに眠りにつき、その子エホヤキンが代わって王となった。7 エジプトの王は自分の国から再び出て来ることがなかった。バビロンの王が、エジプト川から大河ユーフラテスに至るまで、かつてエジプトの王に属していた全領土を占領したからである。」

1節に「エホヤキムの時代に」とあります。エホヤキムについては23章36節と37節から記録されてあります。前章で学んだヨシヤ王の後を継いだのは、ヨシヤ王の次男であったエホアハズでした。彼については23章31~35節まで記されてありますが、彼は23歳で王となり、3か月間、王でした。彼は、すべてその先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行いました。彼は父ヨシヤがあれほどいのちがけで宗教改革を行ったにもかかわらず、何の影響も受けなかったというのは不思議なことです。

結局、彼はリブナに宿営していたエジプトの王にファラオ・ネコに呼び寄せられ、幽閉されます。そればかりか、エジプトの属国となり銀100タラントと金1タラントという多額の科料を課せられることになるのです。その後エホアハズはエジプトに連行され、そこで死ぬことになります。それはエレミヤが預言していた通りでした(エレミヤ22:11~12)。彼の統治が短命に終わったのも、当然のことと言えるでしょう。

エジプトの王ファラオ・ネコは、そのエホアハズに変えて彼の兄のエルヤキムをユダの王に据えました。彼は25歳で王となり、エルサレムで11年間、王でした。彼も、すべてその先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行いました。そのエホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来ました。それまでユダはエジプトの王ファラオ・ネコの支配下にありましたが、その頃バビロンの勢力が強まり、バビロンはB.C.605年にネブカドネツァルが王になると、あの有名なカルケミシュの戦いでエジプトを打ち破り、ユダに攻め上って来たのです。そしてこの年(B.C.605)にダニエルを初めとする数人(王族や貴族)をバビロンに捕囚として引いて行きました。これが第一次バビロン捕囚です(ダニエル1:1~3)。エホヤキムは3年間バビロンのしもべとなりましたが、その後再び反逆します。

そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められました。ユダを攻めて滅ぼすことは主から出たことであり、主のみこころだったのです。それはマナセが犯したすべての罪のゆえであり、また、マナセが流した咎のない者の血のためでした。主はそれを赦そうとはなさらなかったのです。それはヨシヤ王の二人の子どもを見てもわかります。ヨシヤ王がどんなに宗教改革を行い、心からへりくだり、心を尽くして主に従っても、その子エホアハズとエホヤキムは、主の目に悪であることを行いました。それはすでにマナセが行なったその罪によって人々の心は主に立ち返ることができないほどになっていたということです。

エホヤキムが死ぬと、その子エホヤキンが代わって王となりました。エジプトの王は自分の国から再び出てくることはありませんでした。バビロンが、エジプト川から大河ユーフラテスに至るまで、かつてエジプトの王に属していたすべての領土を占領していたからです。

Ⅱ.第二次バビロン捕囚(8-16)

次に、8~16節をご覧ください。「8 エホヤキンは十八歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。彼の母の名はネフシュタといい、エルサレム出身のエルナタンの娘であった。9 彼は、すべて先祖たちがしたように、【主】の目に悪であることを行った。10 そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの家来たちがエルサレムに攻め上り、都は包囲された。11 バビロンの王ネブカドネツァルが都にやって来たとき、彼の家来たちは都を包囲していた。12 ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。13 バビロンの王は、【主】の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、【主】の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。【主】が告げられたとおりであった。14 彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。15 彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。16 バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。」

エホヤキムの後にユダの王となったのは、その子エホヤキンです。父がエホヤキムでその子がエホヤキンです。「ム」と「ン」の違いです。彼は18歳で王となると、エルサレムで3か月間、王でした。彼は、すべて先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行いました。

そのころ、のことです。バビロンの王ネブカドネツァルの家来たちがエルサレムにやって来ると、これを完全に包囲しました。そして、ネブカドネツァルがエルサレムにやって来ると、エホヤキンは王母や家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、彼らはバビロンに連行されました。これはB.C.597年の出来事です。ネブカドネツァルの治世の第8年のことです。これが第二回目のバビロン捕囚です。

13~16節をご覧ください。バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂きました。これは、イザヤを通して主がヒゼキヤに告げられたとおりです(Ⅱ列王20:16~20)。あの時は小国にしかすぎなかったバビロンでユダとの同盟国だったのですが、今や自分たちのすべてのものを取り上げる強奪者になったのです。

そればかりではありません。彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者だけで1万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚としてバビロンに捕え移しました。ユダの地に残されたのは、貧しい民衆だけでした。エレミヤ書には、その合計は4千600人とあります(エレミヤ52:30)。おそらく、その違いはエレミヤがこの時に捕え移された人数を上げているのに対して、Ⅱ列王記の著者は、それまでの捕囚の民をすべて足した数を上げているからではないかと思われます。この時、預言者エゼキエルも捕囚の民として連れて行かれました(エゼキエル1:1~3)。彼の預言者としての活動は、この時から始まっています(4)。バビロンの王は、さらにすべての勇士たち7千人と職人、鍛冶職人千人を捕囚としてバビロンに連れて行きました。

このように、不信仰な者が土地から追い出されるということは、モーセの時代から預言されていたことです。それが今ここに起こったということです。確かに神はその中からも回復させてくださいますが、大切なのは、神の警告を受けたならこの約束を思い起こして主に立ち返ることです。

Ⅲ.第三次バビロン捕囚(17-20)

最後に、17~20節を見て終わります。「17 バビロンの王は、エホヤキンのおじマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。18 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナ出身のエレミヤの娘であった。19 彼は、すべてエホヤキムがしたように、【主】の目に悪であることを行った。20 実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、【主】の怒りによることであったのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。」

バビロンの王ネブカドネツァルは、エホヤキンのおじのマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせました。エホヤキンは別名エコンヤですが、彼のことについてはエレミヤ22章で学びました。彼については、「子を残さず、一生栄えない男」と記録されるようになるとありました。それは、彼にはや人の息子がいましたが、だれ一人ダビデの王座について、再びユダを治める者はいないからです(エレミヤ22:30)。つまり、彼の子孫からは誰もユダを治める王が出ないということです。事実、彼(エホヤキン)の後に王となったのは、彼の子ではなく彼の父(エホヤキム)の弟のマタンヤでした。つまり、エホヤキンから見るとおじに当たる人物です。

バビロンの王ネブカドネツァルは、このマタンヤを王としますが、名前を「ゼデキヤ」に改名します。意味は「主は正義」です。どうしてこのような名前に改名したのかはわかりません。もしかすると、エレミヤ22:30のみことばの通り、エホヤキンの息子ではなくそのおじのエコンヤが王になるという主のことばが成就したからでしょうか。はっきりしたことはわかりません。

ゼデキヤは21歳で王になると、エルサレムで11年間、王でした。彼は南ユダ王国最後の王でしたが、民は彼を王と認めていませんでした。前の王であったエホヤキンが捕囚の地でまだ生きていたからです。さらに、ゼデキヤはバビロンの王ネブカドネツァルによって任命されていたからです。

彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目に悪であることを行いました。ここで「エホヤキンがしたように」ではなく「エホヤキムがしたように」とあるのは、エホヤキンの治世が3か月という短い期間であったこと、それとエホヤキムが実兄であり、彼がその兄のエホヤキムの悪政を見習っていたということを強調しようとしたからではないかと思われます。それでエルサレムとユダは完全に主の前から投げ捨てられることになります。完全に投げ捨てられるとは、エルサレムの町と神殿が破壊され、その土地から追い出されるという意味です。これがB.C.586年に起こる第三次バビロン捕囚のことです。

そのような中でもゼデキヤはバビロンの王に反逆します。数年間はバビロンに服従するのですが、国内の国粋主義者の圧力に屈し、バビロンに反逆するのです。その時に頼ったのがまたしてもエジプトでした(エゼキエル17:11~21)。彼は捕囚という悲劇を目撃しながら、悔い改めに至りませんでした。偽預言者たちの声に惑わされ、エレミヤたちの預言を受け入れず、むしろそうした預言者たちを迫害したのです。この時の様子はエレミヤ書で見た通りです。ユダはバビロンから解放される、救い出されるという偽預言者たちの語る耳障りの良いことばに、すっかり騙されていたのです。

苦難は人を謙遜にするか、より頑なにするかのいずれかです。バビロンに服せよ、というメッセージは聞くことは過酷なことですが、その苦難によって砕かれるなら幸いです。バビロン捕囚は3回に渡って行われましたが、最終的にエルサレムが滅ぼされたのは3回目の時でした。もしその前にバビロンに降伏していたら破壊は免れていたかもしれません。大切なことは神のみこころは何かをよく悟ことです。この時のみこころはバビロンに反逆することではなく、バビロンに服することでした。私たちも思い込みをしないように、注意しなければなりません。何が神のみこころなのかを知り、それに従うこと、それが私たちにとって求められていることなのです。

エレミヤ31章1~6節「永遠の愛をもってあなたを愛した」

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今日は、エレミヤ書31章前半から、「永遠の愛をもってあなたを愛した」というテーマでお話します。前回もお話したように、この30章と31章はエレミヤ書全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所です。30章には、ヤコブには苦難の時がやって来ますが、彼らはそこから救われるということが語られました。彼らの受けた傷は癒されがたい傷ですが、主はそんな彼らの傷を治し、打ち傷を癒されます(30:17)。主は彼らを引き裂きましたが、また、いやし、彼らを討ちましたが、また、包んでくださるのです。神の怒りの目的は、彼らをさばくことではなく、彼らの霊的な回復にあったからです。今日の箇所はその続きです。

Ⅰ.出て行って休みを得よ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「1 「そのとき──【主】のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」2 【主】はこう言われる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを見出す。イスラエルよ、出て行って休みを得よ。」」

1節の「そのとき──【主】のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」というのは、30章22節でも語られたことです。神との正しい関係が修復されて、回復するということです。これがキリスト教です。キリスト教はまさに神との関係です。「そのとき」とは、二重の預言を表しています。それは近い将来においては、バビロンに捕らえられたユダの民がその捕囚から回復するということであり、遠い未来においては、バビロン捕囚のような出来事、つまり想像を絶するような世の終わりの患難時代を通過したイスラエルの民が悔い改めて神に立ち返り、神との関係を回復するということです。世の終わりに、キリストが再臨される時、イスラエルの民は自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆くようになります。ゼカリヤ12章10節にある通りです。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)彼らは自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は自分たちの先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったという事実に出会い、この再臨のメシヤを通して、神に立ち返ることになるのです。「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)こうして「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束が実現するのです。すばらしいですね。彼らは神との関係を破棄しても、神は彼らを見捨てるようなことはなさいません。「そのとき」悔い改めて神に立ち返ることができるようにしてくださるのです。

2節の「剣を免れて生き残った民」とは、その患難時代を通過したイスラエルの民のことを指しています。これも二重の預言になっています。バビロン捕囚によって滅びずに生き残った人たちと、世の終わりの大患難、ヤコブの苦難から生き残った人たちのことです。ゼカリヤ3章8~9節によると、それはイスラエル全体の三分の一に相当する人たちです。彼らは荒野で恵みを見出すようになります。この「荒野」とは、黙示録12:6によると、1260日の間、すなわち患難時代の後半の3年半の間、恵みを得るように神によって養われる場所のことです。それはイザヤ63章1節によると、エドム周辺の荒野、ボツラ周辺の荒野、今のヨルダンのペトラ周辺の荒野であることがわかります。というのは、そこにこうあるからです。「エドムから来る方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を来て来る方は。」イスラエルの民は、患難を避けてこの荒野に逃れて来て、そこで恵みを見出すのです。そこで彼らは休みを得るようになります。この休みとは、たましいの救いから来る安息のことです。

それはクリスチャンも同じです。主イエスはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
  イエスのもとに行くなら、たましいの救い、たましいのやすらぎを得ることができます。イエスこそわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神です。わが盾、わが救いの角、わがやぐらです。この方に身を避けるなら、私たちは剣を免れて生き残ることかでできます。荒野で恵みを見出し、出て行って休みを得ることができるのです。

あなたはどこに身を避けていらっしゃいますか。あなたが身を避けるべきところ、それは高き方の隠れ場、全能者の陰、あなたのたましいの救い主イエス・キリストです。この方のもとに身を避けるなら、あなたも恵みを見出すことができます。休みを得ることができるのです。

Ⅱ.永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した(3)

次に、3節をご覧ください。いったい神はどうしてイスラエルをそこまでして守られるのでしょうか。ここにその理由が述べられています。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

イスラエルが守られる理由は、永遠の愛をもって、神が彼らを愛されたからです。主はこう言われます。「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」主は永遠の愛をもってあなたを愛されたので、あなたを滅ぼし尽くすことはなさらないのです。この愛は、私たちの状況によってコロコロと変わるようなものではないからです。これは「永遠の愛」なのです。永遠の愛とは、いつまでもというのは勿論のことですが、常時、継続的にという意味でもあります。継続的に愛し続けるという愛です。神の愛とはこういうものなのです。つまり、私たちがどんなに堕落しようとも、私たちが取り返しのつかないような罪を犯しても、私たちの状態とは関係なく、ずっと愛してくださるという愛です。神の愛は永遠に変わることなくあなたに注がれているのです。

一方、人間の愛はどうでしょうか。人間にはこのような愛はありません。まず人間自身が永遠の存在ではありませんから。人間は有限な存在にすぎません。口では永遠の愛を誓いますが、それは不可能です。夫婦の愛ですら永遠ではありません。天国に行ったら嫁ぐこともめとることもないと、聖書は教えています。(マタイ22:30)それはあくまでもこの地上での限られた期間においてのことであって、永遠においてではないのです。それはすべて一時的なものであり、移り変わり、やがて絶えてしまうものです。

しかし、神の愛は違います。神の愛はいつまでも続きます。ここに有名な聖書のことばがあります。結婚式では必ずといってよいほど読まれる箇所です。それはⅠコリント13章13節のみことばです。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
  皆さん、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。この愛こそ神の愛、アガペーの愛、永遠の愛です。それは人間にはない愛です。そこには初めも終わりもありません。そもそも永遠には時間がありませんから、始まりとか終わりはないのです。神はこの永遠の愛をもってあなたを愛しました。神があなたを愛さなかった瞬間は、これまで一度もなかったのです。これまでもそうですし、これからもずっと、神はあなたを愛しておられるのです。

ローマ5章8節を開いてください。ここには、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」とあります。ここには、「私たちがまだ罪人であったとき」とあります。私たちがまだ罪人であったときでさえ、神はあなたを愛しておられました。ただあなたが知らなかっただけです。神はあなたがまだ罪人であったときでさえあなたを愛し、あなたのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。そのことによって、あなたに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのです。これ以上の愛はありません。この愛は考えられない愛です。これは私たちの考えをはるかに超えた愛なのです。

エペソ1章3~5節を開いてください。「3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
  ここにも、神がどれほどあなたを愛しておられるかが書かれてあります。それは何と世界の基の置かれる前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたほどです。天地創造の前から、あなたは神に愛されていたのです。神に見出されていました。それは人知をはるかに超えた愛です。そしてパウロは、この人知をはるかに超えたこのキリストの愛を知ることかできるようにと祈りました(エペソ3:19)。これは矛盾していることです。人知をはるかに超えた愛を知ることなんてできません。それは知りようもないほどの愛なんですから。でも知ることかできます。どうやって?祈りによってです。人には理解できないこのキリストの愛を、祈りによって知ることができます。だからパウロはこう祈っているのです。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:14-19)
  それは人知をはるかに超えた愛です。でも、祈りによって神が聖霊を注いでくださり、その聖霊の力によって内なる人が強められ、キリストの愛に根差し、愛に基礎を置くなら、その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるようになります。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようになるのです。

この愛は、ヘブル語では「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。それが1節のことばです。30章22節にもあります。それは「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」です。これは神がアブラハム、イサク、ヤコブと個人的に結ばれた契約ですが、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救い出され、シナイ山までやって来たとき、そこでイスラエルの民と契約を結ばれました。そこで主はこのように言われました。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:4-6)
  ここで主は、もし彼らが主の声に聞き従い、主との契約を守るなら、主は彼らをあらゆる民族の中にあって、ご自身の宝の民とされると言われました。これは、神にとって大切な財産、特別な宝、神と特別な関係と価値を有するものとなるという意味です。そればかりではありません。「祭司の王国、聖なる国民となる」と言われました。「祭司の王国」とは、イスラエルの民が神と他の民族との間の仲介者となり、全世界にいる他の民族を神に導くためのとりなしの祈り手とされるということです。また、「聖なる国民」とされるというのは、神のために特別にきよめ分たれた国民にされることを意味しています。つまり、神の民となるということです。

その結果、どうなったでしょうか。ご存知のように、イスラエルの民は神に背き、自分勝手な道に歩み、簡単に神との契約を破棄してしまいました。でも神は違います。神はどこまでも誠実な方であって、どんなことがあっても、一度約束したことを破棄することはなさらないのです。それが「ヘッセド」ということばの意味です。私たちがどんな人間であろうと、過去に何をしようと、何者であろうと全く関係なく、無条件で愛してくださるのです。それは今に始まったことはでありません。世界の基の置かれる前からです。それは愛する対象の変化によってコロコロ変わるものではありません。昔はこの人も優しかったのに、今とは全然違う。こんなはずじゃなかった。もうこんな人と一緒にいるのは嫌!私たちはそうなりますが、神様は違います。神様は対象の変化と関係なく、どこまでも愛してくださるのです。
  箴言19章22節「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とありますが、私たちが求めているのはこの愛です。変わらない愛、色あせない愛、永遠の愛です。私たちはこのような愛を求めています。でも残念なことに、このような愛を人間に求めることはできません。人間の中にはこの愛はないからです。これは神にしかない愛です。でもこの神の愛、ヘッセドの愛、アガペーの愛が、あなたに注がれていることがわかるとき、あなたはこの愛に行かされるようになるのです。

あなたはこの愛で愛されているのです。それはあなたが他の人よりも頭がいいから、良い人だからではありません。優れているからでもないのです。それはただ神があなたを愛されたからです。申命記7章7~8節にこうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」
  主があなたを慕い、あなたを愛されたのは、あなたがどの民よりも数が多かったからではありません。優れていたからでもない。主があなたを慕われたのは、主があなたがたを愛されたからです。またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。それは一方的な愛なのです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。

この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることかできます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができる。回復することができるのです。イスラエルも壊滅的な状況でしたが、でもこの愛によってもう一度建て直されます。もう一度神に立ち返り、やり直すことができるのです。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。

この永遠の愛をもって愛したというのは、神に対して忠実に信仰生活を送っている人にだけ語られていることばではありません。逆です。もうどうしようもない人、反逆に反逆を重ね、自ら墓穴を掘っているような人にも語られています。バビロン捕囚になったような、まさに惨めな人たちに語られているのです。そんな彼らに対して、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と言われているのです。ですから、今、私はバビロン捕囚の憂き目にあっていますという人にも希望があることを知っていただきたいのです。勿論、罪を犯さないで生きることができるならそれに越したことはありません。極力、蒔いた種を刈り取るというようなことはしない方がいいのは当然のことです。でも、たとえ失敗したとしても、神の永遠の愛が変わらずに注がれていることを知ってほしいのです。この愛によってあなたはやり直すことができるのです。

Ⅲ.あなたは建て直される(4-6)

ですから、第三のことは、あなたは建て直されるということです。4~6節をご覧ください。「4 おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。5 再びあなたはサマリアの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植え、その初物を味わう。6 エフライムの山で、見張る者たちが『さあ、シオンに、私たちの神、【主】のもとに行こう』と呼びかける日が来るからだ。」」

イスラエルの民がバビロン捕囚の時もそうですが、世の終わりの患難時代の剣を逃れて生き残り、荒野で恵みを見出すことができるのは、出て行って休みを得ることかできるのは、一方的な神の愛のゆえであるということが語られました。永遠の愛をもって神が彼らを愛したので、真実の愛を尽くしつづけたので、彼らは守られることができたのです。その結果どうなったでしょうか。ここには、イスラエルに与えられる数々の祝福が列挙されてあります。

第一に、4節にあるように、彼らは「おとめイスラエルよ」と呼ばれるようになります。これはどういうことかというと、霊的姦淫を犯した淫婦ではなく、おとめ、処女とよばれるようになるということです。それは、イスラエルの罪がメシヤによって完全にきよめられるからです。第二に、4節後半にあるように、彼らは再び建て直されることになります。第三に、彼らは喜びをもって戻ってくるようになります。4節の「タンバリンで身を飾り」とは、その様子を表しています。第四に、再び彼らは安心してぶどう畑を作り、それを収穫するようになります。5節にありますね。第五に、シオン、これはエルサレムのことですが、そこが霊的に復興します。6節にあるとおりです。ここに「エフライムの山」とありますが、これは北イスラエルのことです。ここはかつてエルサレムに対抗して偶像礼拝の宮が立てられました。金の子牛です。北イスラエルの民がわざわざ南ユダ、エルサレムに上って礼拝しなくても良いように、北はダンに、南はベテルに金の子牛の偶像を造り、これがイスラエルの神だと言って拝ませたのです。北イスラエルの最初の王であったヤロブアムⅠ世の時代です。それ以来北イスラエルではずっとダンとベテルで金の子牛を拝んでいました。しかし、世の終わりに剣を免れて生き残った民は、もうその必要は全くなくなります。彼らは真の神である主イエスに立ち返り、霊とまことをもって礼拝するようになるからです。エフライムの山で見張っていた者たちが、「さあ、シオンに、私たちの神、主のもとに行こう」と呼びかけるようになるからです。」これはいわば霊的復興のことです。リバイバルです。神の愛によって大患難時代を生き残った民は、神の民として再び建て直されるのです。

これは私たちにも言えることです。永遠の愛をもって愛されている私たちも、再び建て直されます。人生をやり直すなんて無理ですと思っておられる方もいらっしゃるかもしれません。確かに過去が戻って来ることはありません。失ったものを取り戻すことはできません。でもあなたはやり直すことができるんです。神があなたを立て直してくださるからです。永遠の愛をもって、神はあなたを愛してくださいました。それはあなたも例外ではありません。この愛はあなたにも注がれているのです。神は決してあなたを見捨てることはありません。なぜなら、この永遠の愛をもってあなたを愛しておられるからです。神が結ばれた契約はどんなことがあっても破られることはありません。神は最後の最後まで、永遠にあなたを愛しておられます。だから、あなたは安心してやり直すことができるのです。神に立ち返ってください。神は再びあなたを立て直し、あなたは建て直されます。この神の永遠の愛に応答することができるように。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるように。その愛が今もあなたに注がれていることを知ることかできますように。

Ⅱ列王記23章

 Ⅱ列王記23章から学びます。

 Ⅰ.ヨシヤ王の宗教改革(1-27)

まず、1~3節をご覧ください。「1 王は使者を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老たちを彼のところに集めた。2 王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、および下の者から上の者まで、すべての民とともに【主】の宮に上り、【主】の宮で見つかった契約の書のことばをすべて彼らに読み聞かせた。3 それから王は柱のわきに立ち、【主】の前に契約を結び、【主】に従って歩み、心を尽くし、いのちを尽くして主の命令と証しと掟を守り、この書物に記されているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみなこの契約に加わった。」

ヨシヤの宗教改革が続きます。彼は使者を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老たちを集めました。そして、ユダのすべての人々とともに主の宮に上り、主の宮で見つかった契約の書のことばをすべて彼らに読み聞かせました。ここで重要なことは、彼はユダの長老たちだけでなく、ユダのすべての人々に契約の書のことばを聞かせたことです。彼はユダのすべての民がみことばを聞く必要があると強く感じたのです。牧師、役員、リーダーだけでなく、教会のすべての人がみことばを聞かなければなりません。教会の中心は神のみことばなのです。それなのに、教会は神のみことばを聞くよりも、どうしたら居心地の良い教会でいられるかを求める傾向があります。教会が教会であるために必要なことは、ただ神のみことばを聞き、それに従うことなのです。

ヨシュアはユダのすべての民に契約の書を読み聞かせるだけで終わりませんでした。彼は、主の宮の柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、いのちを尽くして主の命令と証と掟を守り行うことを誓いました。すると民もみなこの契約に加わりました。

次に、4~14節をご覧ください。「4 王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入り口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた祭具をことごとく【主】の神殿から運び出し、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれらを焼き、その灰をベテルへ持って行った。5 彼はまた、偶像に仕える祭司たちを取り除いた。ユダの王たちが任命して、ユダの町々やエルサレム周辺の高き所で犠牲を供えていた祭司たちである。バアルや太陽や月や星座や天の万象に犠牲を供える者たちも取り除いた。6 彼はまた、アシェラ像を【主】の宮からエルサレム郊外のキデロンの谷に運び出し、それをキデロンの谷で焼いた。それを粉々に砕いて灰にし、その灰を共同墓地にまき散らした。7 さらに、【主】の宮の中にあった神殿男娼の家を打ち壊した。そこでは、女たちがアシェラ像のために覆いを織っていた。8 彼はユダの町々から祭司たちをみな連れて来て、祭司たちが犠牲を供えていたゲバからベエル・シェバに至るまでの高き所を汚し、門にあった高き所を打ち壊した。それは町の長ヨシュアの門の入り口にあり、町の門に入る人の左側にあった。9 高き所の祭司たちは、エルサレムの【主】の祭壇に上ることはなかったが、その兄弟たちの間で種なしパンを食べていた。10 彼はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれも、自分の息子や娘に火の中を通らせてモレクに献げることのないようにした。11 それから、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、【主】の宮の入り口、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそばから取り除き、太陽の車を火で焼いた。12 王は、ユダの王たちがアハズの屋上の部屋の上に造った祭壇と、マナセが【主】の宮の二つの庭に造った祭壇を、そこから外して打ち壊し、砕いた。そうして、その灰をキデロンの谷に投げ捨てた。13 王は、エルサレムの東、破壊の山の南にあった高き所を汚れたものとした。これは、イスラエルの王ソロモンが、シドン人の忌むべき女神アシュタロテ、モアブの忌むべき神ケモシュ、アンモン人の忌み嫌うべき神ミルコムのために築いたものであった。14 また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たした。」

それから、ヨシヤ王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく主の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルへ持って行かせました(4節)。彼はまた、偶像に仕える祭司たちも取り除きました(5節)。さらに、アシェラ像を主の宮からエルサレム郊外のキデロンの谷に運び出し、それらをキデロンの谷で焼きました(6節)。それを粉々に砕いては灰にし、その灰を共同墓地にまき散らしました。灰を共同墓地にまき散らすという行為は、その偶像を完全に使い物にさせなくするということです。さらに、主の宮の中にあった神殿男娼の家を打ち壊しました(7節)。さらに彼は、ユダの町々にあった高き所を打ち砕きました(8節)。ゲバからベエル・シェバに至るまでとは、ゲバというのはユダの北端にある町であり、ベエル・シェバは南端の町ですから、ユダ全体を行き巡って、ということです。そこにある高き所を打ち壊したのです。また、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し(10節)、だれも、自分の息子や娘に火の中を通らせてモレクに献げることのないようにしました。それから、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、主の宮の入り口、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそばから取り除き、太陽の車を火で焼きました(11節)。

彼は歴代の王たち(アハズ、マナセ、ソロモン、ヤロブアム)が作った異教の祭壇(12節)、エルサレムの東、破壊の山の南にあった高き所を汚れたものとしました(13節)。これは、イスラエルの王ソロモンが、シドン人の忌むべき女神アシュタロテ、モアブの忌むべき神ケモシュ、アンモン人の忌み嫌うべき神ミルコムのために築いたものでした。彼は偶像礼拝を初めに導入させたソロモン王の時の偶像にまでさかのぼって、改革をしようとしたのです。また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たしました(14)。人の骨で満たしたとは、もう礼拝物として使用できないようにしたということです。

ヨシヤ王の宗教改革は徹底していました。こうしたことを行うにはかなり勇気が要ったことと思います。長年の伝統や遺物になっていたものを徹底的に破壊したのですから。それは彼が主のみことば通りに実行しようとしたからです。確かにヨシヤの目的は崇高なものでした。でもそれを実現する手段が必ずしも知恵あるものだったとは言えません。というのは、彼は説得や崇高な人格がもたらす影響力によってではなく、暴力的な方法によって偶像礼拝を一掃しようとしたからです。外からの強制では、内面を変えることはできません。心の一新のためには、神のあわれみと、聖霊の働きが必要なのです。

ヨシヤ王の宗教改革は北王国のサマリアにまでも及びました15~20節をご覧ください。「15 さらに彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムが造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所も打ち壊し、さらに高き所を焼いて粉々に砕いて灰にし、アシェラ像も焼いた。16 ヨシヤが振り向くと、山の中に墓があるのが見えた。そこで彼は人を遣わしてその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとした。かつて、神の人がこのことを預言して叫んだ【主】のことばのとおりであった。17 ヨシヤは言った。「あそこに見える石碑は何か。」すると、町の人々は彼に答えた。「ユダから出て来て、あなたがベテルの祭壇に対してされたこれらのことを預言した神の人の墓です。」18 王は言った。「そのままにしておけ。だれも彼の骨を移してはならない。」そこで人々は彼の骨を、サマリアから出て来たあの預言者の骨と一緒にそのままにしておいた。19 ヨシヤはまた、イスラエルの王たちが造って主の怒りを引き起こした、サマリアの町々の高き所の宮もすべて取り除き、彼がベテルでしたのと全く同じことを、それらに対しても行った。20 彼は、そこにいた高き所の祭司たちをみな、祭壇の上で屠り、その祭壇の上で人の骨を焼いた。こうして、彼はエルサレムに帰った。」

北イスラエルと言えば、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムが造った金の子牛礼拝が有名ですが、彼はその祭壇も高き所も打ち壊し、粉々に砕いて灰にし、アシェラ像も焼きました。

16節には、ヨシヤが振り向くと、山の中に墓があるのが見えたとあります。そこで彼は人を遣わしてその墓から骨を取り出し、それを祭壇の上で焼き、祭壇を汚れたものとしました。これは約350年前、ヤロブアムに対して神の人が預言した言葉の成就でした。ユダから来た神の人は、ヨシヤという実名まで挙げて、この祭壇が汚されることを宣言したのです(1列王13:2)。その神のことばが、その通りに成就しました。

17節と18節をご覧ください。ここにもⅠ列王記13章の預言の成就が見られます。あの神の人がユダに帰るときに、主から、どこも寄り道をしてはいけないと命じられていましたが、ベテルに住む老預言者が彼をだまして、自分の家に連れて来ました。けれども、この不従順によって神の人は獅子に殺されましたが、その老預言者は彼の死を悲しみ、同じところに自分も埋葬されることを望みました。その神の人の墓です。その預言の通りに、彼の骨はサマリアから出てきたあの老預言者と一緒にそのままそこに置かれます(Ⅰ列王13:31-32)。

19,20節には、「ヨシヤはまた、イスラエルの王たちが造って主の怒りを引き起こした、サマリアの町々の高き所の宮もすべて取り除き、彼がベテルでしたのと全く同じことを、それらに対しても行った。彼は、そこにいた高き所の祭司たちをみな、祭壇の上で屠り、その祭壇の上で人の骨を焼いた。」とあります。高き所で偶像礼拝を導いていた祭司たちをみな祭壇の上で屠り、その祭壇の上で人の骨を焼いた。すなわち、死刑にしました。

ヨシヤの宗教改革は実に徹底していました。しかし、ここで少し疑問に残るのは、彼はなぜユダの宗教改革にとどまらず北イスラエルの宗教改革まで行ったのかということです。また、当時北イスラエルはアッシリヤの支配にあったのに、どうして彼はこれを行うことができたのかということです。これについては、モーセの律法には、北イスラエルも南ユダの区別はなく一つのイスラエルとして語られているのですから、みことばの通りにしようとすれば北イスラエルの改革を行おうとするのも当然のことだったのでしょう。

それにしても、アッシリヤの支配下の中で彼はどのようにしてこのような改革を実行することができたのでしょうか。それは、歴史はすでに、アッシリヤからバビロンに移っていたからです。バビロンが大きくなり、アッシリヤが小さくなっていきます。実に、ヨシヤの存命中に、アッシリヤはバビロンとの戦いに敗れ、紀元前612年その首都ニネベが滅びます。ですから、この地域におけるアッシリヤの支配がかなり弱められていたのです。

21~23節をご覧ください。ヨシヤ王の宗教改革のクライマックスは、過ぎ越しの祭りの復活でした。「21 王は民全体に次のように命じた。「この契約の書に記されているとおり、あなたがたの神、【主】に、過越のいけにえを献げよ。」22 実に、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代以来、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえが献げられたことはなかった。23 ただ、ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越のいけにえが【主】に献げられただけであった。」

ヨシヤは、イスラエルの国民的な霊的生活の要であった、過越の祭りを復活させました。「さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代」とは、士師の時代のことです。それ以来、過越の祭りが全く行われなかったということではなく、確かにそれからも行われてはいましたが、その重要な祭りが軽視されていたということです。ヨシヤは士師記に登場したどの王たちよりも厳密に、モーセの律法の命令に従って過越しの祭りを守ろうとしたのです。

どうして彼はこれほどの宗教改革を行うことができたのでしょうか。24節と25節に、その理由が述べられています。「24 さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。こうして、彼は祭司ヒルキヤが【主】の宮で見つけた書物に記されている律法のことばを実行した。25 ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって【主】に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。

聖書の記者は、「ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって【主】に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。」と彼を評価しています。それはヨシヤが神との契約の書と出会ったからです。彼が王になってから18年間、契約の書に出会うまで、宮の偶像は放置されたままでした。しかし、契約の書を読むことで、それが罪であることを悟らされたのです。主のことばに心を開く時に聖霊が働くからです。心から悔い改め、主の御心に応じようとするところに、新しいいのちのわざが生じます。悔い改めの連続が、私たちの新しい信仰生活を形作ることになるのです。

Ⅱ.それにもかかわらず(26-27)

次に、26~27節をご覧ください。「26 それにもかかわらず、マナセが引き起こした主のすべての怒りのゆえに、【主】はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとはされなかった。27 【主】は言われた。「わたしがイスラエルを除いたのと同じように、ユダもわたしの前から除く。わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの宮も、わたしは退ける。」

ヨシヤ王の徹底した宗教改革にも関わらず、主はなぜユダに向けて燃やされた激しい怒りを収めようとされなかったのでしょうか(26節)。それは、マナセが引き起こした罪があまりにも大きかったからです。それに対する主のすべての怒りのゆえに、主はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとしませんでした。どういうことですか? マナセが引き起こした罪があまりにも大きかったので、民はもはや悔い改めることさえできなない状態まで来ていたということです。ヨシヤは最善を尽くしましたが、もはや一人の王のリバイバルによって回復できるような状態ではなかったのです。それで主はイスラエルを除いたのと同じように、ユダもご自身の前から取り除くと宣言されたのです。これは具体的にはバビロンに滅ぼされるということです。バビロン捕囚という出来事です。

これは丁度今礼拝の説教でエレミヤ書を学んでいるのでわかりますが、それさえも神の計画の中にあることでした。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるものだったのです。なぜなら、そのことによって彼らは真に悔い改め、その先にある回復を見るようになるからです。それは終末に起こることの預言でもあります。「こうしてイスラエルはみな救われる」(ローマ11:26)とありますが、どのようにしてイスラエルはみな救われるのでしょうか。「こうして」です。彼らが悔い改めないで主を拒絶し続けることで、世の終わりに7年間の大患難が襲うことになります。その苦難の中で彼らは再臨のメシヤこそ、自分たちの先祖たちが突き刺して殺したナザレのイエスであることを知り、胸をたたいて悔い改めるようになります。こうして、イスラエルはみな救われるのです。そして、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたの神となる。」(エレミヤ30:22)という神との約束が実現することになるのです。誰がそのようなことを考えることができるでしょうか。そのようなことは誰も考えることなどできないことです。しかし、神はできるのです。神は私たち人間と約束されたことは必ず守られる方だからです。

もともと人間が良いことをしたからといって、神は罪の結果を帳消しにすることはありません。人間が良いことをすれば神は喜び、悪いことをすれば悲しまれる、ということはあるでしょう。でも神は人間の態度に一々左右されながら歴史を導かれるお方ではありません。むしろご自身の最終計画を進められる中で、人間のありようをご覧になり、介入し、あわれみを注がれる方なのです。神が終末の裁きの計画を変えることはありません。しかし滅びに向かう人類の歩みの中で、個々の悔い改めがなされる時に、そこにあわれみを注ぎ、祝福を注いでくださるのです。だからといって、私たちは何もしなくても良い、ということではありません。ヨシヤのように心からへりくだり、心を尽くして主に仕えることができます。その中で、もう修復不能と思われるような中で、神は回復の希望をもたらしてくださるのです。あなたはもう一度建て上げられるのです。

Ⅲ.主のことばに対する柔軟さ(28-30)

最後に、28~30節を見て終わります。ここには、ヨシヤのもう一つの特筆すべき出来事が記されてあります。それは、彼が神のことばに逆らって自らの命を落としたという出来事です。

「28 ヨシヤについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。29 彼の時代に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王のもとに行こうと、ユーフラテス川を目指して上って来た。そこで、ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに行ったが、ファラオ・ネコはメギドで彼に出会った際、彼を殺した。30 ヨシヤの家来たちは、彼の遺体を戦車に載せ、メギドからエルサレムに運んで、彼の墓に葬った。その国の民は、ヨシヤの子エホアハズを選んで油を注ぎ、彼の父に代えて王とした。」

ヨシヤの時代に、エジプトの王ファラオ・ネコが、アッシリアの王のもとに行こうと、ユーフラテス川を目指して上って来時のことです。彼はファラオ・ネコを迎え撃ちに出て行くと、メギドで彼に出会ったファラオ・ネコは、彼を殺したのです。なぜ彼はそのような終わり方をしたのでしょうか。

この戦いは、BC609年頃、エジプトの王ファラオ・ネコが、カルケミシュでバビロンの王ナボポラッサルとの戦いのために出て来た時のことです。ヨシヤは、バビロン軍に挑戦しようとその途上にあったネコの軍隊を迎撃しようとした。Ⅱ歴代誌を読むと、エジプトの王ネコは目標はユダではなくバビロンなのだから、この戦いから手を引くようにとヨシヤに警告をしていました(35:21)。それなのにどうして彼はそこから手を引かなかったのか?神のみこころを第一とするヨシヤが、どうして「神の御口から出たネコのことばに聞こうとしなかった」(Ⅱ歴代35:22)のでしょうか?

二つの理由が考えられます。第一のことは、これは主のあわれみによるということです。覚えておられますか、主の宮で律法の書が見つかった時、彼は心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて、主の前で泣いたのを。その時主もまた彼の願いを聞き入れると言って、次のように言われました。22章20節です。

「それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。』」彼らはそれを王に報告した。」

ユダの罪があまりにも大きいので、もはや主は彼らに対する激しい怒りを収めようとはされませんでした。それがバビロン捕囚です。主はヨシヤに対して、彼が主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて、主の前で泣いたので、主がこの場所、エルサレムにもたらすすべてのわざわいを見ることがないようにしてくださったのです。ヨシヤがエジプトの王ファラオ・猫との戦いで死んだのはB.C.609年のことでしたが、ユダがバビロンによって捕囚とされた出来事は、その後大きく分けて3回にわたって行われました。B.C.605年、B.C.597年、B.C.586年です。ですから、ヨシヤはこのみことばの約束のとおり、自分の目でエルサレムにもたらされるすべてのわざわいを見ることなく死ぬことができました。これは主のあわれみによるのです。

もう一つの理由は、神のことばに対する受け止め方の問題です。確かに彼は徹底的に神のことばに従いました。しかし、神のことば、聖書通りにいきさえすればよいというのではありません。聖書を読み、主が語られることを聞くことが大切なのです。いうなら、彼の問題は聖書信仰という立場よりも、主の御言葉に対する柔軟さが欠落していたということです。聖書どおりに生きさえすればよいというのではありません。大切なのは、聖書を読み主が語っておられることを聞き、そのことばに応答して生きることなのです。

エレミヤ30章12~24節「あなたの傷を癒される主」

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今日は、エレミヤ書30章後半から、「あなたの傷を癒される主」というタイトルでお話します。イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいます。それは近い将来においてはバビロン捕囚という出来事のことであり、遠い未来においてはヤコブの苦難と呼ばれる世の終わりに起こる7年間の患難時代のことを指しています。しかし、神はそんなヤコブ、イスラエルを見捨てることなく、赦し、救い出してくださるとおっしゃられました(30:7)。神は懲らしめを与えますが、彼らを滅ぼし尽くされることはありません。罪ゆえに大きな痛みや傷、苦しみを与えられますが、その後には赦しと救いを用意してくださるのです。いったい神はどのようにしてそれを行われるのでしょうか。

今日の箇所には、その方法が明確に記されています。それは、彼らの中から出る権力者、その支配者によってです。21節には、「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあります。いのちをかけて神に近づく者はだれでしょうか。そうです、それは神の御子イエス・キリストです。エレミヤはここで命をかけて神に近づき、民の受けるべき罰を担ってくださる方を預言しているのです。イエス・キリストによって私たちのすべての罪咎は赦され、赦しと救いを受けることができるのです。今日は、私たちのすべての傷を癒してくださる主イエス・キリストの救いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.癒されがたい傷(12-17)

まず、12~17節をご覧ください。「12 まことに【主】はこう言われる。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。13 あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。14 あなたの恋人たちはみな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。15 なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは癒やされがたい。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために、わたしはこれらのことを、あなたにしたのだ。」

この「あなた」とは、ヤコブ、イスラエルのことです。主は彼らにこう言われました。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。」彼らの痛みは、癒されがたいものでした。14節の「あなたの恋人たち」とは、イスラエルと同盟関係を結んでいた周辺諸国のことです。そうした同盟国もヤコブを救うことはできませんでした。彼らはヤコブを忘れ、尋ねようともしません。彼らの傷をいやすことができないのです。なぜなら、それは普通の傷ではないからです。14節後半に「わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。」とあるように、それは主が与えたものだからです。彼らの咎が大きく、彼らの罪が重いからです。つまり、それは罪から来る傷、罪から来る病であったのです。ローマ6:23に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とある通りです。それは、罪から来る報酬なのです。罪から来る傷はだれも癒すことができません。それは死をもたらすだけです。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」しかし、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられます。この永遠のいのちは、あなたの恋人が癒すことができない傷や病すら癒すことができるのです。
  それが17節で言われていることです。「まことに、わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」

主は「わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。」と言われます。主があなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒されます。あなたの傷を癒すことができる人は誰もいません。精神科医でも無理です。そこで処方される薬も癒すことはできません。勿論、肉体的な病気であれば神は薬を用いて癒すこともできますが、ここで言われている傷はそういう傷ではなく罪から来ているものなので、人には癒すことができないのです。それは神にしかできないことです。罪を赦すことができるのは神にしかできないからです。

マルコの福音書2章に、中風の人の癒しについて書かれてあります。友人たちが彼をイエスの下に連れて来たときイエスはこの人に何と言われましたか?「子よ、あなたの罪は赦された」と言われたんです(マルコ2:5)。彼は罪の赦しを求めて来たのではありません。彼は中風を癒してもらうために来ました。それなのにイエス様は「あなたの罪は赦された」と言われたのです。なぜでしょうか?罪を赦すことができるのは神しかいないからです。神以外にだれも罪赦すことはできません。罪を赦すことができる方は神であり、中風を癒すことなど何でもないことだからです。だからイエスは、彼らに罪が赦される信仰があるのを見て、そのように言われたのです。あなたを罪から救うことができるのは、あなたを永遠の滅びから救うことができるのは、イスラエルの救い主、私たちの主イエス・キリスト以外にはいないのです。

ですから、使徒4章12節にはこうあるのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
  「この方」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。この方以外には、イスラエルの同盟国であろうと、イスラエルが慕った偶像であろうと、この世のあらゆる国家権力であろうと、いかなる富であろうと、あなたを救うことはできないのです。私たちが救われるべき名としては、人間には与えられていなからです。イエス・キリストだけが救われるべき唯一の道であり、真理であり、いのちです。イエス・キリストを通してでなければ、だれ一人、父のみもとに行くことはできません。

いったいなぜ主はヤコブ、イスラエルを癒してくださるのでしょうか。17節後半をご覧ください。ここに「─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」とあります。それは彼らが「捨てられた女」、「尋ねる者のないシオン」と呼ばれたからです。どういうことですか?これは、彼らの絶望的な状況を見た者たちあざけって言ったことばです。確かに、主はヤコブの罪のゆえに懲らしめを与えられますが、滅ぼし尽くすことはなさいません。だから、異邦人たちが神の選びの民を見下しているのを見て、決して黙っておられることはないのです。彼らの傷を治し、打ち傷を癒され、立ち上がらせてくださるのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分の罪とか咎のゆえに神から懲らしめを受けることがあるかもしれません。それは癒されがたく、時として絶望を感じることもあるでしょう。でも私たちの神はヤコブを見捨てることなく彼らの傷を治し、打ち傷を癒されたように、あなたの罪を赦し、あなたの傷を癒してくださいます。あなたを救ってくださるのです。Ⅱコリント4章8~9節にこうある通りです。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
  私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。ボクシングの試合では相手のパンチを食らってノックダウンすることがありますが、でも試合はそれで終わりません。ノックアウトされるまで続きます。まさに、私たちの信仰はそうです。ノックダウンすることはあってもノックアウトすることはありません。これがイエス・キリストを信じる者に与えられている約束です。神が私たちに立てておられる計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。29:11にありますね。この「あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」ということばは、最後は希望だという意味です。皆さん、イエス・キリストを信じる者に与えられている最後は希望なのです。その約束をしっかり握りしめていなければなりません。これが私たちに求められている信仰です。絶望と思える中にあっても、真心から主に信頼し、パウロが持っていた確信を持ち続けていただきたいと思うのです。

Ⅱ.ヤコブの回復(18-22)

次に、18~22節をご覧ください。「18 ─【主】はこう言われる─見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。19 彼らから、感謝の歌と、喜び笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。20 その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。21 その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。──【主】のことば──22 あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」」

ここにも、近い将来における預言と遠い未来における預言が二重の預言になって語られています。「見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に立て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。」とは、近い将来においてはバビロン捕囚からの解放のことであり、遠い未来においては、寄留者となって全世界に散らされているイスラエルの民が、約束の地に帰還するようになることを預言しています。

「ヤコブの天幕」とは、一時的な住まいのことを指しています。バビロンでの彼らの生活は、まさに天幕生活でした。それはキャンピングをしているようなものです。キャンピングと聞くと、いいなぁ、のんびりできて、と思うかもしれませんが、それが毎日続くとしたらどうでしょう。たまったもんじゃありません。不自由ですよ。ゆったりとお風呂にはいっていることさえできません。でも、祖国に帰って自宅に住むと、やっぱり我が家はいいなあ、落ち着くなあということになるわけです。彼らは祖国に帰り、廃墟となった場所に都を建て直し、宮殿はその定められていた場所に建つようになります。人の数も増え、大いに繁栄するようになります。

これは遠い未来のことで言うなら、全世界に散らされていたユダヤ人がイスラエルに帰還することを預言しています。そして、私たちが生きているこの時代にこの預言が実現します。そうです、世界中に散らされていたユダヤ人が1800年代後半からイスラエルに帰還するようになり、ついに1948年5月14日にイスラエルという国として国連で承認されることになったんですね。そのこともこの預言の中に含まれています。

しかし、それはこれから後のこと、世の終わりに起こることの預言でもあります。それは、私たちがこの肉体という地上の幕屋を脱ぎ捨て、天から与えられる幕屋を着ることです。パウロはⅡコリント5章1~2節でこのように言っています。「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。」

この「地上の住まいである幕屋」とは、私たちの肉体のことです。私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされますとあるように、外なる人は日々衰えていきます。また、自分がしたいことではなく、したくない悪を行ってしまうという不自由さ、生きづらさというものがあります。でもそれがいつまでも続くのではありません。私たちはやがてこの地上の幕屋を脱ぎ捨て天から与えられる住まいを着るのです。それは人手によらない永遠の住まいです。決して衰えることはありません。病気になることもなく、障害を負うこともなく、老いることもなく、罪を犯すこともない完全なからだをいただくのです。そこは永遠の住まいで、感謝の歌と、喜び笑う声が沸き上がります。それが「天国」です。そこへいつか私たちは帰ることになるのです。その預言です。

  そのような祝福へと導いてくださるのはだれでしょうか。21節をご覧ください。「その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。─主のことば─」
  これは、メシヤ預言です。イスラエルの民に約束された祝福は、メシヤを通して与えられます。「その支配者はその中からでる」とあるように、メシヤはイスラエルの中から出ると言われています。これは近未来の預言では、バビロン捕囚からの解放された後に現れる権力者であり、支配者のことで、具体的にはダビデ王家の「ゼルバベル」という総督と、彼をサポートする「大祭司ヨシュア」のことです。彼らのことについては、エズラ記やゼカリヤ書に記録されてあるので、後で読んで確認しておいてください。

でも遠い未来のことで言うと、これはダビデの子イエス・キリストのことを指しています。それはここに「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあることからもわかります。神に近づくことができるのは祭司と呼ばれる人たちだけでが、イエス・キリストはその祭司としてご自身のいのちをかけて神に近づいてくださいました。へブル4章15~16節をご覧ください。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
  「私たちの大祭司」とは、イエス・キリストのことです。キリストは私たちに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みを受けられました。それは私たちの弱さを知っておられるということです。ですから、私たちの最も身近な存在として、どんな時でも寄り添ってくださることができるのです。あなたの気持ちを誰よりも理解してくださる方、あなたよりももっと深い闇の中にまで下りて行ってくださったお方です。ですから、あなた以上に苦しまれた方、あなた以上に理不尽な扱いをされました。人から裏切られ、友からも裏切られました。全世界が彼の敵となりました。そして最後は十字架にかけられ死なれたのです。何一つ罪を犯さなかったのに。文字通り、イエスはいのちをかけてくださったのです。この方が私たちの大祭司としてとりなしてくださるので、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。ですから、神の裁きや懲らしめにおびえることなく、主によって救われた喜びと平安の中で生きることができるのです。

このメシヤ、イエス・キリストを通して彼らは悔い改めて神に立ち返り、神の救いを受けようになるのです。それが22節にあることです。「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
  これは神と神の民との契約です。神を信じる者は、神の民となります。そして、神が私たちの個人的な神となってくださいます。これが神との関係です。これがキリスト教です。キリスト教は宗教ではありません。キリスト教は神との関係なんです。この契約を結んだ者がクリスチャンです。この契約を結んだ者がイスラエルの民でした。これは個人的には神がアブラハムと結ばれたものです。しかし、イスラエルがエジプトを出てシナイ山までやって来たとき、神はイスラエルの民と結ばれました。しかし、この契約は彼らの罪によって一方的に破棄されてしまいました。その結果、契約に違反して自らの身に呪いを招いてしまったのです。でも、神は彼らを見捨てられませんでした。神様は最初からわかっていたのです。どんなに契約を結んでも裏切られるということを。でも神様は絶対に約束を破ることはなさいません。最後まで誠実に守られるのです。そしてその壊れた関係を修復するために、私たちに出来ないことをしてくださいました。それがイエス・キリストです。神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に送り、その契約違反の罪をこの方に負わせて、十字架につけてくださったのです。未だかつてだれも見たこともない、聞いたこともない驚くべき方法によって、神は人類に救いの道を与えてくださったのです。私たちはそのことによって救われたのです。

それが世の終わりに実現することになります。キリストが再臨される時、イスラエルの民は、自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆き、主に立ち返るようになるのです。そのことがゼカリヤ12章10節と黙示録1章7節にこう預言されてあります。
  「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12章10節)
  「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。」(黙示録1章7節)
  キリストが再臨される時、全世界の人々がこの方を仰ぎ見るようになりますが、ユダヤ人にとっては、それは特に驚愕の出来事になります。それは、自分たちのために戦ってくださっている、自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったということを知るようになるからです。そして、彼らは胸をたたいて悲しみ、悔い改めて神に立ち返るようになります。イスラエルのすべての人たちがイエスを救い主として信じ受け入れるようになるのです。こうして、神の約束が成就することになります。その約束とは、「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)という約束です。それがこの「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束です。いったいだれがこのようなことを考えることができるでしょう。こうしてイスラエルはみな救われるのです。彼らと約束された契約が実現することになるのです。

Ⅲ.神に立ち返れ(23-24)

ですから、第三のことは、神に立ち返れ、ということです。23~24節をご覧ください。「23 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。渦巻く暴風が悪者の頭上に荒れ狂う。24 【主】の燃える怒りは、去ることはない。主が心の思うところを行って、成し遂げるまでは。終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」

24節に「終わりの日に」とあるので、ここでも世の終わりの患難時代のことが語られていることがわかります。それは、キリストを拒絶する者に対する神の怒りが注がれる時です。ヤコブの苦難と呼ばれているものです。それがここでは「主のつむじ風」とか、「渦巻く暴風」ということばで表現されています。これらは、終末にイスラエルの民を襲う患難の激しさを描写しています。主の燃える怒りは、去ることはありません。主が心の思うことを行って、成し遂げるまでは。つまり、その暴風は途中で止むことなく、主が命じたことを最後まで成し遂げるということです。患難時代がいかに困難なものであるかがわかります。しかし、神の怒りの目的は、イスラエルを滅ぼすことではなく、イスラエルを悔い改めに導くことでした。それが、「終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」とあることです。そして、31章1節の、「そのとき、主のことば、わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」ということです。これは22節でも語られたことですが、ここでもう一度語られています。実はこの31章1節のことばは30章に含まれます。つまり、そのとき、イスラエルは神の懲らしめの意味を悟り、主に立ち返るようになるということです。つまり、神の怒りの目的が、イスラエルの霊的な回復であったことが明らかになるのです。それは預言者ホセアが預言していることでもあります。「1 さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。3 私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:1-3)

このことから言えることは、私たちの人生において遭遇する患難、苦難は、危機であると同時に主に立ち返るチャンスの時でもあるということです。ですから、今もし苦難に会っているなら、それを通して神が何を語っておられるのかを聞かなければなりません。その苦難がチャンスに変えられるように祈らなければなりません。あなたが神に立ち返り神との関係の回復を望むなら、神はいくらでもやり直しの機会を与えてくださいます。回復を与えてくださるのです。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
  この脱出の道こそ、悔い改めて、神に立ち返ることです。そうするなら、神はあなたとの関係を修復してくださり、燃える神の怒りから、あなたも救われるのです。今がそのとき、今が恵みの時、今が救いの日です。そのとき、あなたは神の怒りではなく、神の赦しと救いをいただき、あなたの傷も完全に癒されることになるのです。