メッセージ

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Ⅰペテロ5章1~4節 「神の羊の群れを牧しなさい」

 ペテロの手紙第一5章に入ります。きょうのテーマは、「神の羊の群れを、牧しなさい」です。2節に、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」とあります。「牧する」という言葉は一般ではあまり聞かない言葉ですが、辞書を見ると、家畜を飼ってふやすとか、人民をやしないおさめること、とあります。キリスト教用語辞典では、「牧会をする。聖書で神を羊の牧者、民を羊にたとえているところから来た表現。」とあります。ですから、これは羊飼いが羊を飼うように神の民であるクリスチャンを導くことです。

 私は時々、「神父さん」と呼ばれることがありますが、私は神父ではなく牧師です。皆さんは、神父と牧師がどのように違うかをご存知でしょうか?神父はカトリックと東方教会の聖職者のことで、牧師はプロテスタントにおける教職者のことです。どうしてこのような違いがあるのかというと、たとえばカトリックではローマ教皇をトップに司教、司祭、助祭といった序列があるのに対して、プロテスタントではそうした序列はなく、羊を飼うという働き以外は他の信徒と同じ立場にあるという考え方を持っているからです。

ペテロはここで、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」と言っています。いったいなぜ彼はこのように勧めているのでしょうか。これまでペテロは迫害で苦しみ小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンたちに、そのような迫害の中にあっても励まされ、堅く信仰に立ち、神の恵みの中にしっかりととどまっているように励ましてきました。そして、これから一段と厳しい迫害が迫っているという中で、そのような試練の中にあっても彼らが堅く信仰に立ち続けるためには、教会の長老をはじめとしたリーダーたちが、自分たちに与えられた役割をしっかりと果たすことで教会が強められることが必要だったからです。教会はリーダーで決まると言っても過言ではありません。その牧師なり、長老がどのような考えで、どのように群れを導くのかによって、教会がしっかりと立ち続けもし、倒れたりもする。ですから、教会の牧師、長老の責任はとても重大であることがわかります。私も牧師のひとりとして、身が引き締まるような思いです。

しかし、これは教会だけのことではありません。国のリーダーや学校の教師、会社のリーダー、家庭の親に至るまで、すべての領域で言えることです。すべてはリーダーで決まるのです。勿論、良い牧師は良い信徒によって育てられ、良い教師は良い生徒によって育てられるという側面もありますから、互いがその役割と責任をしっかり果たすことが大切ですが、いかなる組織においても指導者の役割と責任はとても大きいことは確かです。
ですから、ここでは教会の牧師、長老に対して勧められていますが、それぞれ自分の置かれている立場に置き換えて考えていただけたらと思います。

 Ⅰ.神の羊の群れを牧しなさい(1-2a)

 まず牧者の務めについて見ていきたいと思います。1節と2節の前半をご覧ください。
 「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」

 ペテロの勧めの対象は、「あなたがたのうちにいる長老たち」です。ペテロの時代は、今で言うところの牧師とか、長老、監督といった制度ははっきりしていませんでした。同じ人がある時は牧師、ある時は長老、ある時は監督というように使い分けられていたようです。ここで「長老」と言われているのはユダヤ教の名残が強いかと思われます。ユダヤ教では民の指導者を「長老」と呼ばれていました。モーセは姑のイテロの助言を受けてイスラエルの民の上に五十人の長、百人の長、千人の長を立てた時、それは、「神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々」出エジプト18:21)でした。それは民をさばくことができる判断力のある人で、群れを治めることができる能力のある人のことです。今でいえば牧師、役員のような立場の人でしょう。パウロは、第一次伝道旅行で小アジヤの各地で伝道した時、教会を開拓すると、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりととどまるように勧め、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、彼らをその信じていた主にゆだねた(使徒14:22~23)とありますから、その小アジヤの諸教会ごとに長老が立てられていたものと思われます。

ペテロはここで自分のことを、「同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者」と言っています。彼は自分を、他の人よりも上にいる者だとか、偉い者であるかのようには考えていませんでした。自分は他の長老たちと同じ立場にあり、そのひとりであると受け止めていたのです。それは彼の中に、これから語る勧めは、彼らだけでなく自分自身にも当てはまることだという思いがあったからでしょう。

また彼は、苦難の証人、やがて現われる栄光にあずかる者とも言っています。それは、彼がキリストの十字架の苦難の目撃者であるということと、キリストが再び来られることによって現われる世で、その栄光にあずかる者であるという確信があったからです。

そのペテロから長老たちに勧められていることはどんなことでしょうか。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」(2節)ということです。
先ほども申し上げましたが、牧するとは、羊飼いが羊の世話をするときに用いる言葉です。ダビデは詩篇23篇でこう言いました。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:1~6)

つまり、牧するとは羊を守り、導き、養うことです。まず羊が健康でいられるようにちゃんと食べ、ちゃんと飲むことができるように、神の御言葉をもって養います。また、羊が病気になれば介抱するように、病めるたましいを慰め、癒されるように祈ります。そして、狼やライオンといった猛獣から守るように、絶えず教会の中に入り込んでくる異端的な教えや偽りの教えかどうか、またその行動はどうか見張り、そういったものから守ります。そのようにして、神の羊のたましいのケアをするのです。それは必ずしも楽な仕事ではありませんでした。はっきり言って、辛いなぁと思うことの連続でしょう。その神の羊を牧しなさいというのです。

その背景には、かつてペテロがイエス様を否定した出来事があったものと思われます。どんなことがあっても、私はあなたについて行きますと豪語したペテロでしたが、彼のそんな決意は脆くも崩れてしまい、イエス様が預言したように鶏が鳴く前に三度も否定したのです。
そんなペテロに対して、復活されたイエス様は特別に目をかけ、彼を回復されました。ガリラヤ湖畔で三度目に弟子たちにご自分を表されたイエス様は、ペテロにこのように言われました。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15)
すると、すかさず彼が、「はい。主よ。私があなたを愛することを、あなたはご存知です。」(ヨハネ21:15)と言うと、主はこう言われました。
「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)
このことを三度も繰り返して言われました。繰り返して言われました。なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。それは、この羊を飼うということは、イエス様の愛への応答であるからです。ペテロはイエス様にこのように応えながら、自分の頭の中ではイエス様にそのようにと言われた時、自分の罪が赦されたということ、そしてそのようにして愛してくださったイエス様を、今度は自分が愛するのだということ、それは主の羊を飼うということによって表していくことなのだということをはっきりと理解したのです。つまり、キリストを愛するその延長にキリストの羊を飼うことがあったのです。
私たちは自分の力で人を愛するなんてできません。しかし、キリストが私を愛してくださったので、私も愛することができるのです。ですから、ここでペテロが神の羊の群れを牧しなさいと言ったのは、自分の罪深さを感じ、そんな自分を愛してくださった主イエスの愛の応答として、主にゆだねられた神の羊を飼うようにということだったのです。
それはここに、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」と言っていることからもわかります。それは、神の羊の群れであり、神があなたに送ってくださった群れなのです。それは、神様のものであり、イエス様のものなのです。もう少し丁寧に言うと、私たち一人ひとりは、イエス様が愛しておられるイエス様の羊であるということです。

イエス様は、「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(ルカ15:4)と言われました。また、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われました。   

ここに私たちの存在感があります。私たちはほんとうに弱く、欠けだらけなものですが、そのような私たちを、主は「わたしの羊」と言って見つけるまで捜し出してくださる、いや、いのちさえも投げ出してくださるのです。私たち一人ひとりはそれほどまでに愛されているのです。大切にされているのです。その人に何ができるかとか、どれだけ奉仕しているかとか、どれだけ献金したかといったことと全く関係なく、私たちの存在そのものを大切にしておられるのです。そんな大切な一人ひとりの羊を牧するということはあまりにも大きな責任であり、あまりにも大きな労苦です。しかし、主は「わたしの羊を、牧しなさい」と言われました。それはイエス様の羊、神の羊なのです。そういう意味では、私たちはほんとうに無力な者ですが、イエス様が私の罪を赦してくださった、その愛の大きさに応えて、神から託されている神の羊の群れを、牧していきたいと思うのです。

Ⅱ.群れの模範となりなさい(2b-3)

ではいったいどのように牧したらいいのでしょうか。第二のことは、牧者の心構えです。2節の後半から3節をご覧ください。
「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」

ここでペテロは、神の羊の群れを牧する羊飼いとしての心構えを三つ上げています。第一に、義務感からでなく、自発的にしなさいということです。2節に、「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし」とあります。強制されて牧会するということがあるのでしょうか。人と接する仕事をしている人であればだれもが感じたことだと思いますが、人を動かすことは簡単なことではありません。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われています。人はそれぞれ自分の考えをもっていて、どちらかというとそうでない考え方をなかなか受け入れられない傾向にあるので、そういう人を導くということは並大抵のことではありません。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神がその人のうちに働いて、その人の中に神の思いが与えられてくださり、そのような人さえも変えてくださるのです。しかし、そこには相当の忍耐と労苦が求められます。時には、「なんで自分がこんなことをしていなければならないのか」とか、「できるならやりたくない」という思いが沸いてくることもあります。

私はある時、あまりにも辛くてある老姉妹にぽつりと愚痴ったことがあります。
「なんで私が牧師になったかわからないんですよ。もっと違う道もあったんじゃないかと思うこともあります。」
すると、その老姉妹がこう言われたんです。
「あら、先生、牧師さんってすばらしいじゃないですか。人のお仕事じゃなくて神様のお仕事をしているんですから。」
それを聞いてはっとさせられたというか、私はそれまで何を考えていたんだろうと恥ずかしくなりました。別に牧師じゃなくても辛いことはたくさんあるのに、ついつい不平や不満を言っていた自分を情けなく感じたのでした。むしろ、神の羊を牧するというのは光栄なことであり、ほんとうにすばらしいことを求めることなのです。なぜなら、それは人に仕えるのではなく、神に仕えることですから。それは神がお許しにならなければできないことです。また、私には妻や家族の支えがあり、このようにすばらしい教会員の方々の祈りがあり、何よりも私のためにご自分のいのちを捨てられたイエス様の大きな愛があるのですから、これほどすばらしい務めはありません。

それなのに、そのように思うことがあるとしたら、それは自分自身が傲慢であること以外の何ものでもありません。それは牧会に限らずすべての奉仕に言えることです。コリント第二の手紙9章7節で、パウロはこのように言っています。
「ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)
主は、強いられてするものを喜ばれません。ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を、義務感からでなく、自発的に、自らささげる人を、仕える人を愛してくださいます。それこそ、神が私たちのために喜んでひとり子さえも与えてくださった大きな愛への応答なのです。

第二のことは、その後に記されてありますが、卑しい利得を求める心からでなく、心を込めてそれをしなさいということです。
牧師や長老が、その働きにふさわしい報酬を得ることは当然ですが、しかし、牧師が報酬を目的として働くとしたら、牧師でなくなってしまいます。まして、不当な方法で利得を追求するようなことがあるとしたらとんでもないことです。昔、預言者エゼキエルはそのような指導者を糾弾しました。エゼキエル書34章2~6節を開いてください。
「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」(エゼキエル34:2~6)
これはイスラエルの牧者だけでなく、私たちにも言えることです。このような牧者になることのないように自戒し、心を込めてこれをするように努めていきたいと思います。

第三のことは、群れの模範者になるということです。3節に、「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」とあります。
先ほど説明したとおり、私たちが牧しているのは、あくまでも「その割り当てられている人たち」です。神の恵みによって、自分に割り当てられている人たちがいるのであって、恣意的に人々を自分の下に集めるのではありません。もしそのようなことがあるとしたら、そこに自分の言いなりにさせるという支配が入り込んでくることになります。神のみこころではなく、自分の目的を達成するための手段として群れを利用することになってしまいます。ですから、そういうことがないように、ペテロはここで、その人たちを支配するのではなく、群れの模範者となりなさいと勧めているのです。

イエス様は、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られると、世にいるご自分の者たちを、最後まで愛されました。夕食の間のことですが、夕食の席から立ち上がられると、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました。それから、たらいを水に入れ、弟子たちの足を洗われたのです。
「何をなさるんですか」とペテロが言うと、
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになる。」と言われると、ペテロは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着かれました。いったいなぜイエス様はこんなことをしたのでしょうか。イエス様はこのように言われました。
「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:13-15)
そうです、イエス様は模範を示されたのです。彼らに、互いに足を洗うべきですと説教したのではなく、自らの彼らの足を洗うことで、その模範を示されたのです。ある人は、これを読んで、「イエス様が弟子たちの足を洗われたのは、弟子たちの中にものすごく足の臭い奴がいて、イエス様もさすがに食事をする気にならなかったんだよ。だから、しょうがなく足を洗い始めたのさ。でも一人だけ洗ったらその人を傷つけてしまうから、みんなの足を洗ったんじゃないか」と言う人がいますが、そういうことではありません。イエス様は模範を示されたのです。

パウロは若き伝道者テモテに、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(Ⅰテモテ4:12)と言っていますが、それは外側の行動ではなく、内側の心の在り方です。あまりにも模範を意識しすぎると、くたびれてきますし、偽善的にもなりかねません。ですから、真実にキリストを見習う生活をコツコツと続けるだけでいいのです。

Ⅲ.しぼむことのない栄光の冠を受ける(4)

 最後に、神の羊の群れを牧する者にもたらされる結果を見て終わりたいと思います。4節をご覧ください。ここには、「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」とあります。

「そうすれば」というのは、そのように神の羊の群れを牧するならば、ということです。そうすれば、どのような結果がもたらされるのでしょうか。大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄冠を受けることになります。「大牧者」とは、勿論、イエス様のことです。私たちはこの大牧者の下にある小牧者にすぎません。ほんとうの牧者は、私たちの主イエス・キリストです。この大牧者であられるイエス様が戻ってこられるときに、私たちはしぼむことのない栄光の冠を受けるのです。この「栄光の冠」とは何でしょうか?聖書には、義の冠とか、いのちの冠といった冠が出てきますが、それらは救いとの関係で受ける冠のことです。しかし、この「栄光の冠」というのは、キリストのさばきの御座において受ける冠、報いのことです。イエス・キリストを信じる者にはみないのちの冠が与えられます。しかし、クリスチャンのそれぞれの業に応じて報いを受けます。それが栄光の冠です。いのちの冠が与えられるだけでものすごい栄光なのに、さらにその働きに応じて「栄光の冠」が与えられるとすれば、それは二重の栄光です。

この大牧者であられるキリストが戻って来られます。そのとき、あなたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。ですから、私たちは自分たちに与えられた役割をしっかりと果たしていきましょう。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。あなたに託されている神の羊の群れとはだれですか。それは神の教会の中の羊の群れかもしれないし、家庭や職場など、教会の外にいる群れかもしれません。しかし、それはあなたが牧するように、神があなたに送っておられる神の羊の群れなのです。その羊の群れを牧しなさい。卑しい利得を求める心からでなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、心を込めてそれをしなさい。その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。

ヨシュア記13章

きょうはヨシュア記13章から学びたいと思います。

 Ⅰ.まだ占領すべき地がたくさん残っている(1-7)

 まず1節から7節までをご覧ください。
「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。その残っている地は次のとおりである。ペリシテ人の全地域、ゲシュル人の全土、エジプトの東のシホルから、北方のカナン人のものとみなされているエクロンの国境まで、ペリシテ人の五人の領主、ガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地、それに南のアビム人の地、カナン人の全土、シドン人のメアラからエモリ人の国境のアフェクまでの地。また、ヘルモン山のふもとのバアル・ガドから、レボ・ハマテまでのゲバル人の地、およびレバノンの東側全部。レバノンからミスレフォテ・マイムまでの山地のすべての住民、すなわちシドン人の全部。わたしは彼らをイスラエル人の前から追い払おう。わたしが命じたとおりに、ただあなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ。今、あなたはこの地を、九つの部族と、マナセの半部族とに、相続地として割り当てよ。」

ヨシュアは、モーセの後継者としてカナン征服という神の使命のために走り抜いてきましたが、そのヨシュアも、年を重ねて老人になりました。モーセの従者として40年、そしてモーセの後継者としてイスラエルの民を導いて20年、エジプトを出た時は30歳くらいの若者だったヨシュアも、すでに90歳を越える老人になっていました。それほど主に仕えてきたのですからもう十分でしょう。ゆっくり休ませてあげるのかと思いきや、主はこの老人ヨシュアにこう仰せられました。
「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」
まだまだ占領すべき地がたくさん残っているので、もっと戦い続けなければならない。休んではならない。もっと働き続けなければならないと言われたのです。

その残っている地は2節から7節までにあるように、南は海岸地域のペリシテ人が住んでいるガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地等、北はヘルモン山のふもとのバアル・ガドから、レボ・ハマテまでのゲバル人の地、およびレバノンの東側全部。レバノンからミスレフォテ・マイムまでの山地のすべての住民、すなわちシドン人の全部です。こうやってみると、まだかなりの地が残っていることがわかります。その地を占領し、主が彼らに命じたとおりに、その地を九つの部族と、マナセの半部族とに、相続地として割り当てるようにと言われたのです。

人間的に考えるならば、何とも酷なように感じるかもしれませんが、実は、年を重ねても、神の使命のために働き続けるようにという神の言葉の中にこそ、神の深い愛が溢れているのです。一体、人間にとって、また老人にとって、幸福とは何でしょうか?至れり尽くせりの世話をし、働かないで休息のみを与えることが果たして幸せと言えるのでしょうか。そうではない。老年期は素晴らしい可能性に満ちた時代でもあります。

上智大学のアルフォンス・デーケンという教授が「第三の人生」という本を書いておられますが、デーケン教授はその本の中でこのように言っています。それは人間が一生涯で発揮する力は、その持っている力のたかだか10%程度にすぎず、残りの90%は眠ったままで使われずにほとんどの人がその一生を終えていきますが、この老年期こそその90%の部分に手がつけられ、大いなる可能性が開花する時です。というのは、若い時にはどうしても自分の意識的な働き、自我が全面的に出てしまうためこの力を発揮することができにくいが、老人になると、体力が失われ、自分の限界に気づくようになるので、そうした無意識の部分が開発されやすくなるのです。しかも若い時には、どうしても自分の願望や欲望に振り回されて、ほんとうに大切な事柄に集中できない傾向がありますが、老年期においては、大切な事柄に集中して取り組むことができるゆとりが生まれるのです。更に、若い時にはどうしても自分の力により頼みがちになるために、ほんとうの意味で神に信頼することができにくいが、しかし、自分の力の限界をわきまえるようになる老年期には、真実な神への信頼や、ゆだねることが可能になるのです。かくして老年期に近づくほど、残された90%へのチャレンジの道が開かれてくるのです。

聖書を見ると、確かに神はご自身の御心を遂行するにあたり、度々老人を召し出されていることがわかります。たとえば、モーセはイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地へ彼らを導くように召されたのは80歳の時でした。また、アブラハムは75歳の時に、約束の地へ出で行くようにとの召しを受けました。聖書においては、神は老人に大きな使命を与え、そのために用いておられるのです。そして、その召しを受けた老人たちは驚くべき力を発揮して、その使命を遂行してきました。

このように、老年期は大きな可能性を秘めた時期でもあるのです。ですから、年を重ねて老人になったと悲観的に捉えるのではなく、年を重ねて老人になった今こそ、今までできなかったことができる大きな可能性を秘めた輝ける季節が到来したと信じて、その使命に向かって前進していかなければなりません。

私たちが神から約束されているものはたくさんあります。私たちは、御霊に導かれ、信仰によって、まだ肉の思いや行ないが支配している部分を殺し、支配するように召されています。神が約束してくださっているものを、実際に自分のものにするには、信仰によって踏み出さなければなりません。神が約束されているものを、信仰によって相続していかなければならないのです。ヨシュアは年を重ねて老人になりましたが、彼には占領すべき地がたくさん残されていました。私たちも占領すべき地がまだまだ残されています。何歳になっても、その神が約束された残された地を、信仰によって相続していきましょう。

 Ⅱ.モーセが与えた相続地(8-14)

次に8節から14節までをご覧ください。8節には、「マナセの他の半部族とともにルベン人とガド人とは、ヨルダン川の向こう側、東のほうで、モーセが彼らに与えた相続地を取っていた。主のしもべモーセが彼らに与えたとおりである。」とあるように、ここには、ヨルダン川の向こう側、東のほうで、モーセがマナセの半部族とともにルベン人とガド人に与えた相続地について記されてあります。モーセは、ヨルダン川の向こう側にいたエモリ人の王シホンと、またゴラン高原であるバシャンのオグの王国を打ち、彼らを追い払い、そこを彼らの28相続地として与えました。しかし、13節をご覧いただくとわかりますが、ゲシュル人とマアカ人とを追い払いませんでした。それでどうなったかというと、彼らはイスラエルの中に住むようになったのです。

Ⅱサムエル13章37~38節をお開きください。そこには、ダビデの息子アブシャロムが王の怒りを買った時、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げたことが記されてあります。なぜゲシュルに逃げたのか?ダビデの妻の一人がゲシュル人だったからです。また、Ⅱサムエル20章14~15節には、ダビデに謀反を起こしたシェバも、マアカ人の住むところに逃げていたことがわかります。
このように、イスラエルにとって、この時彼らを追い払わなかったことが、後で悩みの種になっていることがわかります。イスラエルは相続地が与えられたのに、主の命令に従ってすべての敵を追い払うことをせず、一部の住民をそこに住むことを許したことで、自らに悩みを招くことをしたのです。

それは、自分の肉を追い払わないで、そのままにしておくことで、信仰に死を招くことの型でもあります。聖書には、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24,25)とあります。また、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりがそのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3章8節)ともあります。自分の肉は改善してよくなるものではないので、殺してしまいなさい、と命令されています。ぼろ雑巾はいくら洗濯しても、真っ白にはならないので捨てるほかないように、神は私たちの肉という「ぼろ雑巾」を洗って下さるのではなく、キリストの十字架によってきっぱりと捨て去らせ、まったく新しい心、新しい霊を与えて下さるのです。この肉が対処されていないと、ある時は喜んで「ハレルヤ」と叫び、舞い上がっていても、翌日になると、些細なことで苛立ったり、気がくじかれたりして、喜べなくなってしまうことがあります。エルサレムに入城したイエス様を迎えた群衆も、始めは「ホサナ。ホサナ。」と叫んでイエス様を大歓迎しましたが、数日後には、一変して「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫んでしまいました。これがみじめな人間の肉の姿なのです。キリストはこのような「肉」を殺し、「新しいいのち」に生かすために十字架にかかって死んで下さいました。ですから、私たちは信仰によって肉を捨て去り、キリストのいちの、聖霊の恵みに生かされていかなければなりません。信仰に妥協は禁物です。多少残しておいても、さほど問題ではないという思いが、後で大きな問題へと発展していくのです。

ところで、14節には、「ただレビの部族だけには、相続地が与えられなかった。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であった。」とあります。このことは、33節にも言及があります。このレビ人の相続地については21章に詳しく記されてありますが、彼らには相続地はなく、住むべき町々と、家畜のために放牧地とが与えられました。なぜでしょうか。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であったからです。つまり、彼らは他のイスラエル人が携えてくるいけにえの分け前を受け取ることによって、生活が支えられていたということです。33節には、「主が彼らの相続地」であったとあります。つまり、神そのものが彼らの受け継ぐべき相続地であったというのです。どういうことでしょうか。レビ人は他のイスラエル人のように見える形での相続地よりも、神ご自身によってもたらされる圧倒的な主の臨在、主の栄光を受けるということです。それは、主への礼拝の奉仕に専念できるということです。この世の仕事ではなく、主の仕事に直接携わり、主に集中して生きることかできる。しかも、この世の生活もちゃんと保証されているのです。これほどすばらしい相続はありません。レビ族はそのすばらしい相続を受けるのです。

一体、レビ族とはどういう部族なのでしょうか。出エジプト記32章を開いてください。あの40年の荒野の時代に、イスラエルの民はしばしば不信仰に陥りました。真実な神をないがしろにし、偶像崇拝に陥る時もありました。この主エジプト記32章には、その時の出来事が記されてあります。モーセが神に祈るためにシナイ山に上って行ったとき、イスラエルの民はモーセがなかなか戻って来ないのに嫌気がさし、先だって行く神を造ってくれと、金の子牛を造って拝んだのです。それを見たモーセは怒りを燃やし、宿営の入口に立って、こう言いました。「だれでも、主につく者は、私のところに」、するとこのレビ族がみな、彼のところに集まったのです。そして、宿営の中を行き巡り、偶像崇拝をしている者を殺したのです。レビ族は、モーセのことばどおりに行いました。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れたのです(出エジプト記32:26~28)。つまり、この時レビ族だけは主に対する忠実さを失わず、モーセの教えを守り、その指導に従って、堕落していった人々を粛正していったのです。これがレビ族です。そしてこの時、モーセはこれを非常に喜び、彼らは以後神の祝福を得、祭司を始めとする聖務に関わる務めにあずかる群れとして、引き上げていったのです。イスラエル12部族の中で、このレビ族はその信仰のゆえに、神に直接仕えるという仕事を専門にするようになったのです。

ゆえにこのレビ族は「聖なる部族」なのです。彼らは神に直接仕える仕事に与ったため、他の部族のように生産活動というものをしませんでした。それに対して、残りの十一の部族は生産活動を行い、それによって得た農産物、あるいは家畜の十分の一を神に献げました。そしてその十一部族の献げ物によってレビ族は養われていったのです。とすると、単純な計算によって考えると、レビ族は他の部族よりも豊かであったということになります。他の部族は一割を神に献げ、残りの九割で生活しました。しかし、レビ族は一の十一部族分、すなわち十一分が与えられていたことになります。しかし、その領地の分配ということにおいては、彼らは何の割り当て地も受けませんでした。

いったいなぜレビ族には相続地が与えられなかったのか。それは主が彼らの相続地であったからです。つまり、神がすべてを与え、満たしてくださるからです。この世の物によって養われるのではなく、主なる神の御手によってのみ養われなければならないという意味です。ですから、神の業に直接携わる者は、神からのみ養われるという姿勢が求められるのであって、この世の仕事に心を動かされたり、手を染めるようなことがあってはならないのです。ただ神様を仰ぎ求め、神様からその糧を得ていくべきなのです。確かに、パウロは生活の糧が得られなかった時にテントメーカーとして働きましたが、それは必ずしも正しいことであったというよりも、そのような必要があったからです。パウロがそのようにしたのは、あくまでも献金について理解していなかった人をつまずかせることがないようにという配慮からだったのです。働き人がその報酬を得るのは当然のことなのです(Ⅰコリント9:10)。神の業に携わる人に求められるのは、レビ人がその務めに専念したように、もっぱら神の働きに集中することです。

であれば、イスラエルの残りの十一の部族の心構えも大切です。レビ族以外の部族は収穫の十分の一を捧げて、レビ族の生活を豊かに支えました。従って同じように信徒は喜んで十分の一を捧げ、聖職にある人々を支えていかなければなりません。このルベン、マナセなどの十一部族が十分の一を献げてレビ族を養ったように、真剣に主に献げていかなければなりません。なぜなら、その献げるということは、単にお金や物を献げるというだけでなく、自分自身を主に献げるという行為だからです。つまり、自分自身を主に差し出す「献身」ということなのです。だとしたら、私たちは喜んで精一杯の献げ物、できれば十分の一の献げ物を持って主に御前に出て行きたいものです。そして喜んで主の前に献身しようではありませんか。

Ⅲ.ルベンの半部族、ガド族、マナセの半部族に与えられた相続地(15-33)

次に、15節から23節までをご覧ください。ここには、モーセがルベンの半部族に与えた相続地について言及されています。彼らは、ちょうど死海の東側、モーセが最後に上ったネボ山があるところに割り当てられました。

ところで、22節には、「イスラエル人は、これらを殺したほか、ベオルの子、占い師のバラムをも剣で殺した。」とあります。ここでわざわざ、ベオルの子、占い師のバラムのことについて言及されています。この占い師バラムとは何者かというと、民数記22章に登場しますが、イスラエルを呪うためにモアブの王であったバラクから雇われた人物です。しかし、彼はイスラエルを呪うどころかイスラエルを祝福してしまいました。そこまではよかったのですが、ついつい金に目がくらみ、モアブの王バラクに助言して、イスラエルの宿営にモアブの娘を起こり込ませてしまいました。その結果、イスラエルの民はモアブの娘たちとみだらなことをし、娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、彼らを招いたので、イスラエルの民は娘たちの神々バアル・ペオルを慕い、それを拝んでしまいました(民数記25:1-2)。それで主の燃える怒りが彼らに臨み、そのバアル・ペオルを拝んだイスラエルの民の2万4千人が神罰で死んだのです。ほんとうに恐ろしい事件でした。その事件を招いたのがこのバラムだったのです。彼は、金によって盲目になってしまいました。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)とパウロは言いましたが、こうした貪りは、神の厳しいさばきを招くことになるのです。

23節には、「ルベン人の地域は、ヨルダン川とその地域であった。これはルベン族の諸氏族の相続地であり、その町々と村々であった。」とあります。ご存知のように、ルベンはヤコブの最初の子どもです。長子は二倍の分け前を受け取ることになっていすが、彼はヤコブのそばめビルハと寝たために、その祝福を失ってしまいました。創世記49章4節には、父ヤコブが死ぬ前に子どもたちを祝福した際、ヤコブはルベンに対して、「あなたは他をしのぐことはない。」(創世49:4)と預言しましたが、そのとおりに、ルベン族ではなく、ヨセフ族がマナセとエフライムの二部族によって、二倍の分け前を受けました。

次に、24節から28節までをご覧ください。ここには、ガド族に与えられた相続地について記されてあります。彼らに与えられた地域は、ヤゼルとギルアデのすべての町々、アモン人の地の半分で、ラバに面するアロエルまでの地、ヘシュボンからラマテ・ハツミバドとベトニムデまで、マナハイムからデビルの国境まで。谷の中ではベテ・ハラムと、ベテ・ニムラと、スコテと、ツァフォン。ヘシュボンの王の王国の残りの地、ヨルダン川とその地域でヨルダン川の向こう側、東のほうで、キネレテ湖の端まででした。巻末の地図「12部族に分割されたカナン」を見ていただくと一目瞭然です。

次に、29節から33節までをご覧ください。ここには、マナセの半部族に与えられた相続地について記されてあります。マナセの半部族は、ガド族のさらに北の地域、バシャンの土地を得ました

最後に、32節と33節をご覧ください。ここには、モーセがヨルダンの向こう側、東のほうのモアブの草原で、彼らに与えた相続地の総括が述べられています。

このように、ヨシュアが割り当てをする前に、すでにモーセによってルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族に、割り当て地が与えられていました。なぜ彼らにだけ与えられていたのでしょうか。思い出してください。そこは肥沃な地で、家畜を放牧するのに適していたので、彼らはぜひともそこが欲しいとモーセに要求したからです。すなわち、それは主によって命じられたからではなく、彼らの欲望から出た一方的な要求だったのです。
そのような人間の思いから出たことは、結局、その身に滅びを招くことになります。これらの地域はモアブ人やアモン人、アラム人などの外敵に常にさらされることになり、ついにはアッシリヤによって最も先に滅ぼされてしまうことになります。そして完全に異邦人化されてしまうのです。どんなに人間の目で見た目には良くても、神の判断を待たないと、破滅にもっとも近いところになってしまうということでしょう。アブラハムの甥のロトもそうでした。彼が選択した地は人の目にとても潤っていたかのように見えたソドムとゴモラの近くでしたが、そこはやがて神によって滅ぼされてしまいました。

私たちはこのことから教訓を学びます。それが人の目でどんなに肥沃で潤っているような地でも、神が導いてくださるところでなければ、それは空しいということです。
「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」(詩篇16:6)
この信仰によって、ますます主に拠り頼み、主が与えてくださる地を、心から待ち望むものでありたいと思います。

Ⅰペテロ4章12~19節 「火のような試練が来るとき」

 きょうは、第一ペテロ4章後半の箇所から、「火のような試練が来るとき」というテーマでお話します。聖書には、たびたび試練を「火」と表現されています。たとえば、この第一ペテロ1章7節には、「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く」とあります。信仰の試練を火で精錬されると表現しています。きょうの箇所にも、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」とあります。そんな火のような試練が来たら、だれも喜べるものではありません。辛く、悲しく、苦しいでしょう。そんな火のような試練が来るとき、私たちはどのように対処したらいいのでしょうか。

きょうは、このことについてみことばからご一緒に考えたいと思います。キーとなることばは、「喜んでいなさい」(13)「神をあがめなさい」(16)、「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」(19)という三つの言葉です。

 Ⅰ.喜んでいなさい(12-14)

 まず、12節から13節の前半までをご覧ください。
 「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。」

 ペテロは、10節で賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と語り、11節で「アーメン」と言って一区切りをつけると、ここから再びキリスト者の苦難をテーマに取り上げて語り出します。ペテロはこれまでずっと迫害で苦しんでいたクリスチャンを励ますために語ってきましたが、ここから一層力を入れてそれを語ります。というのは、彼らにそれまで以上の迫害が迫っていたからです。彼らにはこれまでもローマ帝国やユダヤ人からの迫害がありましたが、それに加えて、時のローマ皇帝ネロがクリスチャンをターゲットに激しい迫害を始めたというニュースを聞いたからです。それはこれまでのものとは比較にならないほどの激しいものでした。ここではそれを「燃えさかる火の試練」と表現しています。そのような燃えさかる火の試練が来たときどうしたら良いのでしょうか?ペテロはこう言っています。そのような「燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、喜んでいなさい。」と言っています。それを何か特別なケースとして考えるのではなく、むしろそれは想定内のこととして受け止めて、気持ちを落ち着かせるようにというのです。なぜでしょうか。なぜなら、キリストの苦しみにあずかれるのだからです。

ペテロは、試練や苦しみを経験する恵みの一つは、それを通してキリストが受けられた苦しみの何分の一かを経験する事ができることだと言います。主の思い、主の心は私たち人間には、なかなか分かりにくいものです。しかし、私たちが苦しみを経験することによってキリストの心を体験的に理解できるようになるとしたら、それはすばらしいことではないでしょうか。

そればかりではありません。ここには、「それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」とあります。キリストの栄光が現われる時とはいつでしょうか。そうです、キリストが再び来られるときです。そのとき、主は、これまでの全てのことを正しくさばかれ、報いをもたらされます。この地上において不正があり、曲がったことが行われ、義が踏みにじられることがあっても、キリストの栄光が現われる時、キリストはそれらの全て正しくさばかれ、それに正しく報いてくださいます。ですからそれはクリスチャンにとっては喜びの時なのです。改訂版では、「キリスとの栄光が現われるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」と訳されています。イエス様も、「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:12)と言われました。

ですから、別にやせ我慢しているのではありません。クリスチャンにとって試練や苦しみにあずかることはキリストを体験的に知ることができるばかりか、キリストの栄光の現われのときに、大きな報いがもたらされるのですから、むしろそれは喜びなのです。だから、もし私たちに燃えさかる火の試練が襲って来るようなことがあっても、それを何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんだり、こうやっていつも貧乏くじばかり引くんだよなと悲しんだりしないで、それは想定内ですと、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるので感謝ですと受け止め、喜びおどる者でありたいと思います。

 次に14節をご覧ください。ペテロはここでクリスチャンが苦難に会うことが喜びであるもう一つの理由を述べています。それは、そのようにクリスチャンがキリストの名のために非難を受けるようなことがあるとしたら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるということです。どういうことでしょうか。

 元々、キリストを信じる者には栄光の御霊、神の御霊が宿っておられます。しかし、クリスチャンがキリストの名のために、すなわち信仰のゆえに非難を受けるようなことがあるとしたら、それこそ、神の御霊、栄光の御霊が特別に働いてくださる時だというのです。これはほんとうに慰めではないでしょうか。というのは、試練の中にいる人というのは孤独になりがちだからです。そのような時、決して私はひとりじゃない、神様が共におられるということを確信することができるとしたら、どれほど大きな励ましが与えられることでしょう。

 マーガレット・F・パワーズというアメリカ人女性が書いた「あしあと」という詩は、そのことを私たちに思い起こさせてくれます。
「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
(「あしあと」マーガレット・F・パワーズ)

 自分が辛く、苦しい時、神にも見捨てられたのではないかと感じることがありますが、そうではありません。むしろ逆です。そのような苦しみの中にある時こそ、栄光の御霊、神の御霊が、私たちの上にとどまってくださるのです。

 Mary Ann Birdという女性が、〝The Whisper Test〞という本を書きました。彼女は普通の子どもとは違い、口蓋裂という、生まれながらに唇が裂けている病気で生まれてきました。今は手術方法が確立されていますが、当時はまだ上手に手術ができない時代でした。それで彼女が学校に行き始めると、その裂けた唇と、食い込んだ、変形した歯で、上手に話ができませんでした。すると「君はどうしたの?」と友だちから聞かれるのです。生まれつきの病気だと説明するよりも、事故でそうなってしまったと答えた方が簡単だったので、「思わず転んだ時に下にガラスがあって、唇を切ってしまった」と答えていました。それはとても辛い経験でした。
ところが彼女が2年生の時に、レオナルドという女性の先生が担任になるのです。その先生は背が低くとっても陽気な先生でした。その先生がある時クラスの子どもたちに「聞き取りテスト」をしました。それは生徒が一人ずつ教室のドアのところに行って片方の耳を塞ぎ、先生がもう片方の耳元でささやいたことを言い当てるのです。「ささやく」ことを英語でWhisperというので、Whisper Testというのです。
彼女の番がやってきました。彼女は、聞き耳を立てて聞いていました。すると、その先生はこうささやきました。“I wish you were my little girl”意味は、あなたが先生の娘だったらよかったのに、という意味です。先生のこのささやいた言葉が彼女の人生を変えるんです。それは彼女が小学校2年生の時でしたが、彼女の人生にとって忘れられない言葉となりました。
そして彼女はそのことばを振り返ってこう言うのです。「それは、神さまがこの先生を通して私におっしゃったことばだ」と。神さまがこの先生を通して私におっしゃったことばが、「あなたはわたしの愛する子だ」。ということだったのです。
孤独と悲しみの中に打ちひしがれていた彼女にとって、そのことばはどれほど大きな励ましと希望を与えてくれたことでしょう。

私たちも同じです。キリストを信じる信仰のゆえに非難を受けたり、苦難に会うとき、何とも言いようのない孤独を感じることがありますが、しかし、そのような時こそ、神の御霊があなたにこうささやくのです。「あなたはわたしの愛する子です」と。それはほんとうに大きな慰めではないでしょうか。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の神、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

Ⅱ.神をあがめなさい(15-18)

第二のことは、そのようにキリスト者として苦しみを受けるなら、恥じることはない、かえって、この名のゆえに神をあがめなさい、ということです。15節から18節までをご覧ください。
「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」

人殺しや泥棒、その他、悪を行う者、他人に干渉する者が、苦しみを受けることは、当然のことなので、そのようなことがあってはなりません。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、それは幸いなことなのです。それを恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなければなりません。なぜでしょうか?17節にはこうあります。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」どういうことでしょうか。

このことばは、少し唐突な感じがしないわけでもありません。というのは、ここでペテロは、あくまでも、神の御心に従って正しいことを行い、それによって苦しみを受けるようなことがあるなら、そのことのゆえに神をあがめなさいと勧めているのに、その理由が、「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」とあるからです。その前の文章につながっていないように感じます。しかし、よくみるとこれは不自然ではありません。というのは、ここでは、キリストを信じる群れである神の教会と、福音に従わない者たちの終わりがどうなのかを比較されているからです。それを際立たせているのです。まず神の家である教会です。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうと言って、18節の結論に結び付けているのです。

この17節を、新改訳の改訂版はわかりやすく訳しています。改訂版ではここを、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。」と訳しています。第三版では、どちらかというと神のさばきが教会から始まるということに強調点が置かれているのに対して、改訂版では、福音に従わない者たちの終わりがどうなるのかということに強調点が置かれています。ここで言わんとしていることは、後者のことです。

そして、ペテロはその結論を18節でこう言っています。
「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」
これは箴言11章31節からの引用です。「もし正しい人者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」どうにもなりません。正しい者、すなわち、神の恵みにより、キリスト・イエスを信じて義と認められた者がかろうじて救われるとしたら、そうでない者が救われるはずがないというのです。

これまで私たちは3章19節の「キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」とか、4章6節の「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、」というみことばからの解釈をめぐり、福音を信じないで死んだ人も救われるチャンスがあるのかという、いわゆるセカンドチャンス論について見てきましたが、この箇所をみると、そうした考え方が一掃されます。なぜなら、福音を信じた、いわゆる正しい人でさえかろうじて救われるのであれば、そうでない人たちが救われるということがあるでしょうか。ありません。それは一方的な神の恵みであり、神の奇蹟的なみわざなのです。私たちはみな、地獄に行ってしかるべきなのに、そんな私たちを神はあわれんでくださいました。神はそんな私たちを救うために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。私たちはかろうじて救われたのです。

私の父は74歳の時に亡くなりました。その少し前にすでにクリスチャンになっていた母とどうやったら父がイエス様を信じるだろうかと話し合っていましたが、母は、「だめだぞい」というのです。「とうちゃんは何言ってもわがんねがら」と。でも私は何とか父にも信じてほしいと思い、ある日、テープレコーダーとカセットテープを持って家に行き、父に聞いてもらいました。それは本田弘慈先生の「マルコの福音書」からのメッセージテープでした。息子の話はあまり聞きたくないだろうから、他の牧師の話だったら聞いてくれるかもしれないと思って、持って行ったのです。その日、父はいつものようにこたつに座っていました。「いいがい、よく聞いてね。」とテープを流すと、あまりにもいい話なのかすぐに深い眠りに落ちました。一応、一つの話を全部聞いてから父に、「どうだった。とうちゃんもイエス様信じる?」と聞くと、父が突然目を開けて、「うん、信じる」と言ったのです。ずっと寝ていたのにあり得ないと思い、「うそでしょ」と言うと、「ん、ホントだ」と言うのです。じゃ、いっしょに祈ろうと言ったら、素直にイエス様を信じますと祈ったのです。もしかすると、母に何か言われていたのかもしれません。末息子の私の言うことだから、聞いてやろうと思ったのかもしれない。どうして信じると告白したのかわかりません。しかし、それまで何度言っても信じなかった父が、その日に限って信じると信仰を告白したのです。
その週のことです。母から、父が動けないから来てほしいと電話があったので家に行き、父をおんぶして車に乗せて病院に行くと、そのまま入院することになりました。そして、その二日後に父は息を引き取ったのです。そのとき私はわかりました。なぜ父が信じると言ったのか。それはもうすぐ死ぬことを悟っていたからかもしれません。イエス様のことをそんなに知らなかったのに、ただイエス様を信じただけで救われたのです。これがキリスト教の救いです。信じるだけで救われる。何か特別なことをしたわけでもなく、真剣に学んだわけでもない。半分いつも寝ているような人だったのに、罪から救われたのです。これが聖書の言う救いです。これはどんなに知識があっても、どんなに立派なことをしても得られるものではありません。ただ幼子のように救い主イエス・キリストを信じなければなりません。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9-10)
だから、今でもよく思います。父はかろうじて救われたと。今ごろ天国にぶら下がっているんじゃないかと思います。しかし、それは父だけのことではありません。私たちもそうです。私たちもかろうじて救われたのです。私たちは救われるに値するような者ではなかったのに、神のあわれみによってかろうじて救っていただきました。であれば、神の福音に従わない人たちの終わりはどうなることでしょう。神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなることでしょう。どうにもなりません。

だとしたら、私たちはこのように神の救いを受けた者として、キリスト者として苦しみを受けることがあるとしても、それを恥じたりすることなく、かえって、この名のゆえに神をあがめなければならないのです。

Ⅲ.真実な創造者に自分のたましいをお任せしなさい(19)

ですから、結論は何かというと、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさいということです。19節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。
「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」

これが、ペテロがここで言いたかったことです。神のみこころを行ってなお苦しみに会う時、私たちがすべきことは、自分のたましいを、創造者である神にお任せすることです。ここでペテロが、「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」と言っているのは興味深いです。ここではさばきのことが言及されているのですから、「公平にさばかれる方」(1:17)とか、あるいは、「正しくさばかれる方」(2:23)と表現した方が自然なのに、「真実であられる創造者」と呼んだのはどうしてなのでしょうか。それは、創造者であられる神が、創造されたすべてのものに対して真実を尽くされる方であるということに、私たちの目を留めさせるためです。つまり、神は救い主イエス・キリストを信じ、彼により頼む者のために、その真実をもって、守り、保ってくださるということです。この方に自分のたましいをお任せする以外に、ほんとうの平安は生まれません。この創造主なる神を信じ、ゆだねきるなら、たましいに深い平安がもたらされるのです。

私たちの主イエスも、あらゆる苦しみと辱めの中で、「正しくさばかれる方にお任せになりました。」(2:23)ご自身が最後の息を引き取られるときには、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。(ルカ23:46)」と言われました。私たちのたましいの平安は、この真実であられる創造者に、自分のたましいをお任せすることができるかどうかにかかっているのです。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたはいま、どんな試練に会っておられますか。それがどのような試練であっても、真実な神は、あなたがたを、耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。そのことを信じましょう。そして、たとえあなたの前に燃えさかる火の試練が襲ってきても、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむのではなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、いっそう喜び、この名のゆえに、かえって、神をあがめ、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしましょう。かろうじてであれ、何であれ、私たちは救われたのです。この救い主に自分のたましいをお任せすること、そこに真の平安があるのです。これこそ、火のような試練が来ても、それを乗り越える道なのです。

Ⅰペテロ4章7~11節 「万物の終わりに備えて」

 きょうは、「万物の終わりに備えて」というタイトルでお話ししたいと思います。7節には、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」とあります。

万物の終わりとはすべての物の終わりのこと、つまり、この世の終わりのことです。そんなことあるはずないじゃないかと言う方もおられるかもしれませんが、聖書は万物には始まりがあったことともに、その終わりもあることを教えています。たとえば、イエス様は弟子たちがエルサレムの神殿をさし示したとき、「まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石が崩されずに、積まれたままで残ることはありません。」(マタイ24:2)と言われました。それは、ローマ帝国によって神殿が破壊されるということとを預言して言われたことですが、それと同時にこの世の終わりに起こることを指して語られたことでした。そして、この世の終わりにはどんなことが起こるのかというその兆候を語りながら、「だから、目を覚ましていなさい。」(マタイ24:42)と言われたのです。

また、ペテロもⅡペテロ3章10節で、「主の日は、盗人のようにやって来ます。」と語り、その時どんなことが起こるのかを預言してこう言っています。
「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:10-13)

ですから、万物の終わりは必ずやって来るのです。問題は、その万物の終わりにどのように備えたらよいかということです。ペテロはここで、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」と言っています。万物の終わりが近づいている今、私たちがすべきことはどこかに逃げたり、避難することではなく、祈りのために、心を整え、身を慎むことです。祈りのために心を整え、身を慎むとはどういうことでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.互いに熱く愛し合う(8)

 それはまず互いに愛し合うことです。8節をご覧ください。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

ここでペテロは、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」と言っています。「何よりもまず」とあるのは、何よりも優先して、ということです。万物の終わりが近づいているいま、クリスチャンが他の何よりも優先してしなければならないことは互いに愛し合うことです。ただ愛し合うというのではありません。ここには「熱心に」とあります。「熱心に」とは、「心を込めて」とか「深く」という意味です。なぜクリスチャンでは、何よりもまず、互いに深く愛し合わなければならないのでしょうか?なぜなら、愛は多くの罪をおおうからです。これはどういうことでしょうか。この言葉を一番よく表現しているのはヨハネの福音書8章に見られるイエス様の態度ではないかと思います。

ここには、皆さんもよくご存じの姦淫の現場で捕らえられたひとりの女性のことが記されてあります。律法学者やパリサイ人たちは、律法によれば、こういう御名は石打ちにすべきだとあるが、イエスよ、あなたはどうされるか?と問うと、イエスは、彼らが問い続けてやめなかったので、何やら地面に書いておられれましたが身を起こしてこう言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
すると、年長者たちから始めて、ひとりひとりその場を去って行きました。さすがに彼らも良心の呵責を感じたからです。
そしてイエス様は、その卑しめられた女性に言われました。「あなたを罪に定める者はなかったのですか。」(ヨハネ8:10)
女が「いません。」と言うと、イエス様は言われました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めなさい」と言われました。律法学者やパリサイ人たちはこの女の罪を暴き出そうとしました。けれども、イエス様は彼女の罪を暴き出そうとしたのではなくおおいました。それは決して彼女の罪などどうでもいいとか、それを許容したということではありません。罪を悔い改めた彼女に対して、神の深いあわれみを示したのです。いったいこの女が悔い改めたかどうかを、どうやって知ることができるでしょうか?それは、この女性が律法学者やパリサイ人たちがその場を立ち去っても、ずっとそのままそこにいたことからわかります。自分を訴えた者たちがみんなその場を立ち去ったのであれば、彼女もそっと立ち去ることができたはずです。それなのに彼女はずっとそこにとどまっていました。なぜでしょうか?逃げたからと言って、彼女の本当の問題、黒い雲に覆われたような罪の問題の解決にはならないと思ったからです。それよりも、殺されても仕方ないような自分の人生に解決を与えることができる主に、自分の罪の問題を解決していただきたいと思ったのです。その点で律法学者やパリサイたちとこの女性との間には大きな違いがありました。律法学者とパリサイ人たちは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたとき良心の呵責を感じたかもしれませんが、その罪の解決のためにイエス様のもとに来ようとはしませんでした。一方、この女性は自分の罪を嫌と言うほど自覚していただけでなく、その問題の解決のためにイエス様のもとに来ました。もうさばかれても致し方ないような者をさばくのではなく赦してくださるイエス様の前に、自分の罪を悔い改めたのです。ですからイエス様は、「わたしもあなたを罪に定めなさい。」と言われたのです。イエス様は彼女の罪をいい加減に扱ったのではなく、彼女が自分の罪を悔い改めその解決を真剣に求めていたので、罪の赦しを宣言されたのです。

このことは、私たちがいかに罪を赦すという心が必要であるかを教えています。時に、罪に対しては厳しい態度で臨まなければならないこともあります。ほんの小さなパン種がパン全体をふくらませるように、ほんの小さな罪が神の教会全体に影響を及ぼすことがあるからです。けれども、罪を悔い改めた人に対しては罪を赦すこと、おおうことが必要なのです。なぜなら、罪を責める目的はその人が立ち直ることにあるからです。しばしば、「不正を暴かなければいけない」という正義感に燃えて、その罪を暴き出したがる人がいますが、愛は多くの罪をおおうのです。これが神の愛、イエス様の愛です。神は、罪深い私たちを赦すためにそのひとり子をこの世に送ってくださいました。そして、私たちの罪の身代わりとして十字架につけてくださったのです。私たちをさばいたのではなくおおってくださいました。これはすばらしい知らせではないでしょうか。これが福音です。ヨハネはこのように言いました。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)
  
神が罪人である私たちをあるがままに愛してくださったということ、そして、そのためにご自身の御子をこの世に送ってくださったという事実は、私たちにどれほど大きな喜びと力を与えてくれることでしょうか。だから、ヨハネはこう言うのです。
「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのだから、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:11)
 
万物の終わりが近づいている今、私たちに求められている第一のことは、何よりもまず、互いに熱心に愛し合うことです。愛は多くの罪をおおうからです。

Ⅱ.互いに親切にもてなし合う(9)

第二のことは、互いに親切にもてなし合うことです。9節をご覧ください。
「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」

もてなすこと、接待することが、万物の終わりに近づいているいま、祈りのために心を慎み、身を慎むことの具体的なこととして勧められていることに、意外な感じを持たれる方もおられるかと思います。しかし、当時は今のようにホテルや旅館といった宿泊施設が整っていたわけではなかったので、旅人をもてなすことがなければ、巡回して福音を宣べ伝える伝道の働きをすることは困難でした。また、教会もはじめの約二百年の間は建物らしきものを持っていなかったので、礼拝やその他の集会のためには自分の家を開放してくれる人が必要でした。ですから、聖書には旅人をもてなすこと、互いに親切にもてなし合うことを繰り返して語られているのです。パウロは、Ⅰテモテ3章2節で、「監督はこういう人でなければなりません。」と教会のリーダーたちが、このよくもてなす人でなければならないと語っています。それはクリスチャンにとってとても大切な愛のわざであったのです。

しかし、旅人をもてなすことはそんなに楽なことではありません。我が家には国内外を問わず実に多くの来客があります。また、教会の二階に住んでいるので、教会の集会で下がいっぱいの時は二階のダイニングキッチンで集会が持たれます。それは私たちにとってほんとうに感謝なことですが、かなりの負担が強いられるのも事実です。まずそのために家中を掃除しなければなりません。またお食事でもてなすために買い物をしたり、お料理を作ったりと、多くの労苦が伴うのです。すると、ついつい「ああ、もっと広い会堂があったら良かったのに」とか、「もうこんなにまでしてやる必要があるのだろうか」といったつぶやきが出てくるものです。ペテロは、そうした思いを知ってか知らずかわかりませんが、ここで、「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」と言っているのです。

私は、昨年の夏に中国の家の教会を訪問しました。上海空港に着くなり家の教会のリーダーが、「今晩、田舎の家の教会の集会があるので、これからまっすぐ行ってみましょう」と私たちを連れて行ってくれました。そこはK市の郊外にある農村地帯でした。行ってみると1階がガレージのような造りの家でしたが、そこに食卓を囲んで座れるようになっており、テーブルにはたくさんのお料理が作って置かれていました。「さあ、どうぞ食べてください」と、そこに私たち夫婦とその家のご主人夫婦、それに家の教会のリーダーたちが座り、その他の方々はみな外で自由に食べていました。その日の夕食は、その家の持ち主を中心として、いえの教会の人たちがみんなで準備されたとのことでした。お手洗いに行くといくつかのパイプを継ぎ合わせてあり、見るからに貧しい家であることがわかれましたが、私たちのために盛大なおもてなしをしてくれたのには、とても心が熱くなりました。
夕食の後で集会をするというので、ここでするのかなぁと思っていたら、歩いて2~3分離れたところでするというのでそちらへ移動すると、そこは古い農家の納屋のようなところでした。100人くらい入るスペースに椅子が並べてあり、私たちは一番前に案内されて座ると、集会は2時間くらい続きました。その間、その家の持ち主であるというおばあちゃんが、私たちのために何度も何度もお茶を注いでくれるのです。せっかくいれていただいたものを飲まないと申し訳ないと思い少しずつ飲んでいると、まだグラスには4分の3くらい残っているのに、またやって来て注いでくれるのです。ニコニコしながら・・。
 あとで同行したOさんに、どうしてこんなに親切にしてくれるのかと尋ねると、Oさんが言われました。「それは当たり前ですよ。中国人は兄弟姉妹には親切にするのです。兄弟姉妹は家族であり、仲間ですから。そういう人たちには親切にするのです。」まさにここで言われていることを文字通り実践しているかのようでした。

万物の終わりが近づいているいま、私たちに求められているのは、このおもてなしです。それは来客に対してのおもてなしということだけでなく、私たちの生き様そのものでもあります。教会に来られる方々を温かく迎えたり、親切にもてなしたりということも含むのです。互いに親切にもてなし合うこと、それは互いに熱心に愛し合うということの具体的な一つの表れでもあるのです。

Ⅲ.互いに仕え合う(10-11)

第三のことは、互いに仕え合うことです。10節と11節をご覧ください。
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」

互いに愛し合うこと、互いにもてなし合うことに続いて、ペテロは、互いに賜物を用いて仕え合いなさい、と勧めています。「賜物」とは、神の恵みによって与えられたものです。何らかの価値があってとか、何らかの報酬としてということでもなく、何の価値もなく、何かの報いとしてでもなく、ただで与えられたものです。ここには、「それぞれが賜物を受けているのですから」とあるように、それは、クリスチャンのすべての人に与えられているものです。クリスチャンであるなら例外なく皆、何らかの賜物を与えられているのです。賜物が与えられていないという人はいません。みんな与えられています。その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい、というのです。それは自分の賜物のすばらしさを自慢するためではなく、他の人の益のため、そして、キリストのからだである教会を建て上げるためです。ちょうど家を建てるのに、ハンマーやのこぎりや釘といった違った道具が必要なように、それぞれの違う賜物が用いられ、神の教会が建て上げられていくのです。

そのためには、さまざまな恵みのよい管理者として、その賜物をもって互いに仕え合うことが必要です。ここには、「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」とあります。これは二つの賜物が取り上げられているというよりも、教会の二つの重要な働き、すなわち宣教と実際的な奉仕について述べられていると言えるでしょう。「語る人があれば、神のことばとしてふさわしく語り」というのは、神のことばを語る人は、神のことばを語る人らしく神の権威をもって、しかも自分の意見や考えを述べるのではなく、神のみこころのみを伝えるという決意をもって語るべきであるということです。また、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさいというのは、自分の力によってではなく、神から与えられている力によってしなければならないということです。それは自分の力によってではなく、神から与えられたものとしての自覚をもって、惜しむことなく、また、へりくだって仕えることなのです。

具体的な賜物の種類については、Ⅰコリント12章、エペソ4章、ローマ12章に書かれてありますが、その内容は千差万別です。この三つの箇所を照らし合わせてみると、少なくとも18種類以上の賜物があることがわかります。それはまた別の機会に学びたいと思いますが、ここでは特にその最終的な目的は何かということをみたいと思うのです。11節の後半のところをご覧ください。ここには、「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」とあります。

これが最終的な目的です。神がそれぞれに賜物を与えてくださったのは、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合うためですが、それはどうしてなのかというと、そのことによって、イエス・キリストを通して神があがめられるためなのです。説教は説教者の力を見せるためではなく、人々を神の御前に連れて行くためになされるものです。奉仕はそれを与える人に感謝や尊敬をもたらすためではなく、人々の心を神に向けさせるためになされるべきなのです。

有名な音楽家、ヨハン・セバスチャン・バッハが、宗教改革者マルチン・ルターに書き送った手紙が残っています。その中でバッハは、「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と書いています。少なくともバッハはそう思ったのです。彼は自分の音楽を作る目的は「神の栄光を現すことだ」と言ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後の所に、いつも彼は「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。それは「SOLI DEO GLORIA」、つまり「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は、新しい曲を作る毎に、この曲が神の栄光を現すものであるように、そしてこの曲を聞く人の魂が新たにされるように、という願いを込めて、曲を作っていったのです。

あなたはどうでしょうか?神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合っているでしょうか。その賜物にふさわしく奉仕していますか。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。私には賜物が一つもありませんという人はいません。それぞれが賜物を受けているのですから、その賜物を用いて、互いに仕え合わなければなりません。私たちすべてのクリスチャンが自分自身のために生きることを止め、神のために生きるようになるなら、新しい神の恵みと栄光が教会をおおうことでしょう。すべてのことが神の栄光のために用いられるように、私の小さな奉仕を心から主に捧げたいと思います。そして、このように賛美しましょう。「栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」これが万物の終わりが近づいているいま、私たちに求められていることなのです。

ヨシュア記12章

きょうはヨシュア記12章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ヨルダン川の向こう側の占領(1-6)

 まず1節から6節までをご覧ください。
「イスラエル人は、ヨルダン川の向こう側、日の上る方で、アルノン川からヘルモン山まで、それと東アラバの全部を打ち、それを占領したが、その地の王たちは次のとおりである。エモリ人の王シホン。彼はヘシュボンに住み、アルノン川の縁にあるアロエル、川の中部とギルアデの半分、アモン人の国境のヤボク川までを支配していた。またアラバを、東のキネレテ湖までと、東のアラバの海、すなわち塩の海、ベテ・ハエシモテの道まで、南はピスガの傾斜地のふもとまで支配していた。また、レファイムの生き残りのひとりであったバシャンの王オグの領土。彼は、アシュタロテとエデレイに住み、ヘルモン山、サルカ、ゲシュル人とマアカ人の国境に至るバシャンの全土、およびギルアデの半分、ヘシュボンの王シホンの国境までを支配していた。主のしもべモーセとイスラエル人とは彼らを打った。主のしもべモーセは、ルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、これらを所有地として与えた。」

ここにはイスラエルの民がカナンを征服し、神の約束のごとく、その地がイスラエルのものとなるに至った征服の記録が要約されています。そしてこの1節から6節まではヨルダン川の向こう側、すなわち東側において、モーセの指導の下に占領された地でのことが記されています。そこではエモリ人の王シホンと、バシャンの王オグの二人の王を打ち破り、それをルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、相続地として与えました。

Ⅱ.ヨルダン川のこちら側の占領(7-24)

次に7節から24節までをご覧ください。
「ヨシュアとイスラエル人とがヨルダン川のこちら側、西のほうで、レバノンの谷にあるバアル・ガドから、セイルへ上って行くハラク山までの地で打った王たちは、次のとおりである。――ヨシュアはこの地をイスラエルの部族に、所有地、その割り当ての地として与えた。――
これらは、山地、低地、アラバ、傾斜地、荒野、およびネゲブにおり、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人であった。
エリコの王ひとり。ベテルのそばのアイの王ひとり。エルサレムの王ひとり。ヘブロンの王ひとり。ヤルムテの王ひとり。ラキシュの王ひとり。エグロンの王ひとり。ゲゼルの王ひとり。デビルの王ひとり。ゲデルの王ひとり。ホルマの王ひとり。アラデの王ひとり。リブナの王ひとり。アドラムの王ひとり。マケダの王ひとり。ベテルの王ひとり。タプアハの王ひとり。ヘフェルの王ひとり。アフェクの王ひとり。シャロンの王タナクの王ひとり。メギドの王ひとり。ひとり。マドンの王ひとり。ハツォルの王ひとり。シムロン・メロンの王ひとり。アクシャフの王ひとり。ケデシュの王ひとり。カルメルのヨクネアムの王ひとり。ドルの高地にいるドルの王ひとり。ギルガルのゴイムの王ひとり。ティルツァの王ひとり。合計三十一人の王である。」

これは、ヨシュアとイスラエル人とがヨルダン川のこちら側、すなわち西側において打ち破った王たちの名前です。何と彼らは31人の王を打ち破り、その地を占領しました。こうやって見ると、彼らは、今のイスラエルの南方の国々、そして北方の国々を重点として、その中部のいくつかの国々をも占領し、これらを所有地としてイスラエルの部族に割り当て地として与えたことがわかります。これが主のしもべモーセとヨシュアが、主にあって成し遂げたことでした。このことは、私たちにどのような教訓を与えてくれるでしょうか。

ヨシュア記は13章を境にして前半と後半に分かれます。前半を総括する12章の終わりに記されていることは、ヨシュアたちがヨルダン川の西側の31人の王たちを打ち破ったということでした。これらの征服した王たちの記録は、ヨシュアたちの霊的な歩みの継続的な戦いの結果と言えます。一回一回の真剣な戦いの積み重ねの記録であり、決して一朝一夕にしてなされたものではありません。そのことを心に刻む必要があります。そして13章1節には、「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」とあります。主はヨシュアに、あなたは年を重ねて老人になったが、まだ占領すべき地がたくさんの残っていると言われました。ヨシュアは110歳(24:29)まで生きましたが、おそらくこの時100歳くらいになっていたと思われます。そのヨシュアに対して、「あなたには、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」と言われた。神が備えられたカナンの地はまだまだ占領されていない地があり、それを自分の所有地とするようにヨシュアにチャレンジされたのです。これは「あなたは年を取ったが、その人生において私が与えようとしている祝福は無限にある」という意味です。ですから、その地の占領に向けて継続的に戦っていかなければなりません。

これをパウロのことばで言うなら、内なる人が日々新たにされるという継続的な積み重ねが求められるということでしょう。Ⅱコリント4章16節には、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあります。内なる人が日々新たにされ続けるなら、その延長線上に円熟した輝き、熟年の輝きがもたらされるのです。それは、一回一回の真剣な霊的戦いの継続的な積み重ねの結果なのです。

それはまた、私たちにゆだねられている福音宣教の使命においても言えることです。主は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われました。まだ占領すべき地がたくさん残っているのです。イエス様のからだである教会を建て上げ、その教会を通してすべての造られた者に福音を宣べ伝えていくために、私たちはこのすばらしい働きを止めてはいけないのです。前進し続けなければなりません。私もあと何年できるかわかりませんが、110歳までにはまだまだあります。救い主イエス様のみこころに従い、生涯、主イエス様の弟子として、福音の宣教のために、神の国の到来のために「主よ、私を使ってください」と、仕え続ける生涯を全うしたいと願います。

Ⅲ.ヨルダン川を渡る

ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。ここで、1節から6節までと、7節から24節までを比較してみたいと思います。これまで見てきたように、1節から6節までにはヨルダン川の東側においてモーセの指導のもとに二つの王国を征服したことが記されてありました。一方、7節から24節までには、ヨルダン川のこちら側、すなわち西側においてヨシュアの指導のもとに31の王国が打ち破られてきたことが記録されてありました。モーセの下ではアモン人の王シホンとバシャンの王オグの二人の王を打ち破られたのに対して、ヨシュアの下では31の王国が打ち破られたのです。いったいこの差は何なのでしょうか。これは指導者の優秀さの差ではありません。というのは、指導性という点ではモーセの方がヨシュアよりもずっと優れていたからです。申命記34章10節には、「モーセのような指導者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」とあります。それは、モーセはイスラエルにおいて最高の指導者でした。彼は主と顔と顔とを合わせて選び出されました。彼は旧約聖書において最高の指導者だったのです。ですから、この結果は指導性の優劣によるものではないことは明らかです。では、この差はどこから出たのでしょうか。それは、ヨルダン川を渡ったか渡らなかったかの違いです。それは物理的な意味ではなく霊的な意味においてです。

ご存知のように、イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷とされていました。しかし、神はモーセを選び出し、その中から贖い出してくださいました。彼らはエジプトの捕らわれの身から解放されて紅海を渡り、栄光の脱出を成し遂げたのです。これが出エジプトです。このイスラエルの民がエジプトから解放されたという出来事は、私たちが罪に捕らわれていた状態からイエス・キリストによって救い出されたことを表わしています。イエス・キリストの十字架と復活によって、罪と死の支配から解放されたのです。バプテスマはそのことを表しています。私たちはイエス・キリストを信じバプテスマを受けることで罪から救われ、永遠のいのちを受けることができました。

しかし、罪から救われた私たちはそこに留まっているだけでなく、神が与えてくださった約束の地に入るために前進していかなければなりません。乳と密の流れる地に入るためには、さらにもう一つの川を渡らなければならないのです。それがヨルダン川です。いったいこのヨルダン川を渡るというのはどういうことでしょうか。それは、聖霊を受けるということです。もちろん、イエス様を信じた人はみな聖霊を受けています。聖霊によらなければだれもイエスを主と告白することはできません。(Ⅰコリント12:3)また、コリント人への手紙第一12章13節には、「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの聖霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの聖霊を飲むものとされたからです。」とあります。だれでもイエスを主と告白するなら、聖霊を受けているのです。しかし、この聖霊のことがわからない人がいます。聖霊を受けているのに、受けていない人であるかのように歩んでいることがあるのです。

使徒19章1~3節をご覧ください。ここには、パウロが第三回伝道旅行でエペソにやって来たとき、幾人かの弟子たちに出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたことが記されてあります。どうしてパウロはこんなことを質問したのでしょうか。明らかに彼らの言動がキリストを信じる信仰とは相いれないものを感じたからでしょう。どうもおかしかったのです。それでパウロはこのように質問したのです。
これに対する彼らの答えは「いいえ」でした。「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」彼らは、聖霊が与えられることについて曖昧な理解しか持っていませんでした。クリスチャンなら、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストが身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられたことを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちが与えられる。つまり、神の聖霊が与えられたことを知っているはずなのに、彼らはそのことを知らなかったし、聞きもしなかったのです。つまり、彼らはイエス様を信じていましたが、その信仰は福音の正しい理解を欠いたものだったのです。
では、彼らはどんなバプテスマを受けたのでしょうか。3節を見ると、彼らは、「ヨハネのバプテスマです」と答えています。「ヨハネのバプテスマ」とは何でしょうか。マタイの福音書3章11節には、「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」とあります。つまり、ヨハネのバプテスマとは救い主イエス・キリストを受け入れるための備えとしての、悔い改めのバプテスマのことです。彼らはこのバプテスマは受けていましたが、イエス・キリストによって与えられる聖霊のバプテスマを受けてはいませんでした。聖霊のバプテスマについてはそのことさえわからなかったのです。彼らは、聖霊によってもたらされる救いの恵みと喜びを知らなかったのです。
そこで、パウロはこの聖霊のバプテスマについて話し、主イエスの御名によってバプテスマを授けると、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしたのです。
ですから、ここでは、よくペンテコステ派の人たち強調しているような、救われた後に受ける第二の恵みとしての聖霊のバプテスマや、そのしるしとしての異言について教えているのではないのです。彼らは、主イエスを信じていても、聖霊について知らなかった。聖霊の喜びや力、平安を知らなかったのです。

このようなことは、私たちにもよくあるのではないでしょうか。イエス・キリストを救い主と信じるならだれでも天国に行けると聞き、信仰によってイエスを主と信じ、受け入れても、このように信じる人たちにもたらされる聖霊の恵みと力がどれほどすばらしいものであるのかを知らないで歩んでいるということがあるのです。イエス様を信じて罪というエジプトから脱出できても、乳と密の流れる豊かな地に入るためにヨルダン川を渡っていないということがあるのです。

イエス様はこのように言われました。
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)
この「生ける水の川」とは聖霊のことです。だれでもイエス様のもとに来て、飲むなら、すなわち、イエス様を信じるなら、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。この「心の奥底から」というのは、「腹の底から」という意味です。イエス様を信じるなら、表面的な喜び、表面的な平安ではない、腹の底からの、ほんとうの喜び、ほんとうの平安が与えられるのです。

彼らが、主イエスの御名によってバプテスマを受けると、聖霊が彼らに臨まれ、異言を語ったり、預言をしたりしました。この異言とか預言とは聖霊の賜物ですが、この二つの賜物は、ともに初代教会特有の聖霊の賜物でした。この二つの違いについてパウロは、コリントに書き送った手紙の中で次のように言いました。

「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」(Iコリント14:2,3)

すなわち、これら12人の弟子たちは、この時から、これまでの堅い殻に閉じこもった禁欲的な生活を捨てて、神に向かって喜びをもって祈りと賛美をし、人に向かっては熱心にみことばの勧めとあかしをするクリスチャンへと変えられたということです。孤立的分派主義が、積極的な礼拝と交わり、伝道の生活へと変わったのです。陰気な禁欲主義は、喜びに満ちた賛美の生活へと変わりました。そうして、それこそが、パウロの福音の結果だったのです。人は聖霊によって新しく生まれ変わるとき、ここで彼らが経験したような、生活へと変えられるのです。

私が言うところのヨルダン川を渡るというのはこういうことです。あなたは聖霊を受けていますか。受けているなら、あなたの人生は、すばらしく豊かな人生となります。31の王国を占領するようになるのです。しかし、受けていながらも、その信仰生活に大きな変化がないとしたら、もしかすると、聖霊に従順であるかどうかをもう一度点検する必要があります。常に御言葉に聞き従い、聖霊に導かれ、満たされて歩むなら、それまでとは比較にならないほどの大きな恵みと祝福に満たされていくのです。

あなたはヨルダン川のどちら側にいますか。こちら側ですか、それとも向こう側でしょうか。ヨルダン川を渡ってください。そして、聖霊に満たされ、導かれて歩もうではありませんか。そうすれば、聖霊の豊かな実を結ぶようになります。また、すでにヨルダン川を渡った人は、そのことで高慢になることなく、むしろ謙遜に日々聖霊に満たされ、主が求めておられることは何かを御言葉に聞き従い、さらに豊かな実を結ぶ者とさせていただきたいと願います。

Ⅰペテロ4章1~6節 「自分自身を武装しなさい」

 きょうは、「自分自身を武装しなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。1節に、「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」とあります。この「武装する」という言葉は軍事用語で、兵士が戦いに出かけていく時の様を表しています。兵士はどのような格好で戦いに出て行くのでしょうか。まさかマラソンのような短パンとランニングシャツで出て行くというようなことはありません。兵士が戦いに出かけていくときは重装備で出かけて行きます。腰には帯を締め、胸には胸当てを着け、足にはすね当てを着け、頭には兜をかぶります。また、敵の放つ火矢を消すために大盾を持ち、敵を倒すために鋭い剣を持って出かけるのです。

ペテロはここでなぜ自分自身を武装しなさいと言っているのでしょうか?それは、私たちの信仰生活はまさに戦いだからです。私たちの信仰生活にはいろいろな問題や葛藤が起こりますが、それは表面的なことであって、本当の戦いはその背後にある悪魔との戦いなのです。

パウロは、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊との戦いであると語り、その戦いに対抗できるように神のすべての武具をとるようにと言っています。エペソ6:10~18をご覧ください。
「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」

皆さん、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものなのです。この戦いに対処するためには、神のすべての武具を取り、それで自分自身を武装しなければなりません。「私は大丈夫です。私は悪魔になんて絶対にやられません。悪魔がやって来たら私のパワーでやっつけてやますから・・・。」だめです。これは霊の戦いですから、私たちがどんなに肉体を鍛え、強靭な身体を持っていても、この悪魔の前には太刀打ちできないのです。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、罪を犯します。また、悪魔はさまざまな問題を利用して、私たちを何とかして神から引き離そうと躍起になっています。私たちの思いの中にいろいろな否定的な思いを植えつけては、私たちを神から引き離そうとするのです。何で信仰を持ったのにこんなに苦しまなければならないのか、神がおられるならなぜこのようなことが起こるのか、神は私を愛しておられないんじゃないか、そもそも神なんていないに決まっている、信じたって、信じなくたってちっとも変わらない、いや、もっと苦しくなるだけだ、いったい神を信じることにどんな意味があるというのか・・。悪魔は私たちの中にこのような思いを吹き込んでくるのです。ほとんど毎日のように、です。
あのC.S.ルイスの「悪魔の手紙」にあるように、この世の現実を見せることによって、神を信じることがいかに愚かなことであるのかを訴えてくるのです。これがとても厄介な問題です。というのは、だれもそれが悪魔の誘惑だなんて思わないからです。そして、いかにもそれが正しいことであるかのように思い込んでしまうのです。それが敵である悪魔の常套手段でもあります。悪魔は私たちが気づかないうちにそのような思いを与えて神に対する疑いを引き起こし、不信仰に陥れるのです。

このペテロ自身がその一番良い例です。なぜなら、彼はこの霊的な武装にことごとく失敗してしまった過去があるからです。彼はイエス様のように目を覚まして祈っていなかったので、主を三度も知らないという罪を犯したのです。彼は、「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言ったほどです。けれども、その数時間後には「イエスなんて知らない」と否定してしまいました。なぜでしょうか。この霊の戦いのことを本気にしていなかったからです。イエス様と同じ心構えで、自分自身を武装していなかったからです。

しかし、イエス様が復活した後、その主とお会いして、彼は、イエス様が言われたことがほんへんとうであったということに気付かされました。そして、自分と同じ失敗をすることがないように、ここで「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と勧めているのです。きょうはこの自分自身を武装することについて三つのことについてお話ししたいと思います。

 Ⅰ.キリストと同じ心構えで(1)

 まず1節をご覧ください。
「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」

「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから」というのは、3章18節から22節までの内容を受けてのことです。特に18節を念頭に語られていると思われます。キリストは、私たちの罪のために苦しみを受け、十字架で死なれました。キリストは正しい方であられたのに、悪い人々の身代わりとなって死なれたのです。それは、肉において、死に渡され、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。すなわち、私たちを罪から救うためでした。私たちはこのキリストを信じて罪から救われました。私たちが救われたのは、キリストが私たちの罪を負って死んでくださったからです。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです。」(2:24)
それなのに、罪を楽しむことができるでしょうか。もしキリストが私たちの罪のために死んでくださったのであれば、その罪から救われた私たちは、そこから離れようとするはずです。なぜなら、キリストはそのために苦しみを受けてくださったからです。ですから、ペテロはここで「あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」と言っているのです。「同じ心構えで」とは、イエスさまと同じ心構えでということです。

キリストはどのような心構えだったのでしょうか。それは、ここに、キリストは正しい方が悪い人々の身代わりとなられた、とあるように、人のためには自分のいのちを捨てるという覚悟、心構えです。これはものすごい覚悟です。そして、ものすごく大きな愛です。使徒ヨハネはこのように言っています。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)
これよりも大きな愛はだれも持っていません。これがキリストの心構えでした。あなたがたもこれと同じ心構えで自分自身を武装しなさい、というのです。

この心構えについて、パウロはピリピ2:5~9で次のように言っています。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
キリストは神であられるのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿を取られ、実に十字架の死にまでも従われました。これは、ほんとうにへりくだっていなければできないことです。自分を無にするって難しいことですよね。これができなくてみんな悩んでいるのです。みんな自分の思うように生きていきたいのです。けれども、キリストは自分を無にして、仕える者の姿をとり、神の御旨に従って死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。この心構えです。

また、イエス様はこう言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)
これがキリストに従う者の心構えです。だれでもキリストについて行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてキリストについて行かなければなりません。自分を捨て、自分の十字架を負うとはどういうことでしょうか?それは別に毎日十字架のネックレスを着けるということではありません。十字架の意味は一つだけです。それは死ぬということです。ですから、十字架を負いなさいとは、死になさいということです。何に対して死ぬのでしょうか。自分に対してです。以前は罪の奴隷として生きていましたが、今はそうではありません。今は自分に死んで、神のみこころに生きるべきなのです。

最近、牧師の娘ですという方のお話しを聞く機会がありました。牧師である父親はこどもの伝道にも熱心で、彼女が小学校の頃にはマウンテンバイクで彼女の通う小学校の校門のところにやって来て子どもの集会のチラシを配っているのを見て、心の中で「止めて!」と叫んだそうです。父親が、一生懸命子ども伝道をすればするほど、「自分は愛されていない」と思いました。お父さんが愛しているのは他の子どもたちだ・・・。それから両親にも、イエス様にも反抗して、ずっと信仰から離れていたのです。
しかし、ある時父親が「ごめんなさい」と謝ってくれたことで彼女の心が開け、父親の語るメッセージがすんなり心にしみるようになりました。そして、約10年間の放浪生活を経て、イエス様のもとに戻ることができました。
イエス様のもとに戻った彼女は、最初はクリスチャンであればそれでいいと、礼拝には行ける時に行けばいいと思っていましたが、聖書を読んでいるうちに、いや、それではだめだと、少しずつ教会の奉仕にも携わるようになりました。そうしているうちに、キリストにあって励ましをいただき、愛の慰めと、御霊の交わりを受けて、自分のすべてを主に捧げたいと思うようになったと言うのです。

クリスチャンはみな、最初から自分に死んで、神のみこころに生きることはできませんが、キリストにある神の恵みを知れば知るほど、その愛の高さ、広さ、深さを知れば知るほど、このように変えられていきます。だれでもキリストについて行きたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい、ではなく、あなたについていきたい!という思いになるのです。

ペテロはここで、「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」と言っています。どういうことでしょうか?肉体において苦しみを受けた人とは、死んだ人のことを指しています。イエス様が十字架にかかって死なれたように、罪に対して死にました。罪に対して死んだ人は、もう罪とのかかわりを断ったのです。いま私たちがこの世に生きているのは、私たちを愛し、私たちのためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。これがバプテスマの意味です。バプテスマの時に水の中に沈められるのは、私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたことを、また、水から上がることは、キリストとともに生きる新しいいのちを象徴しています。

死んでしまった人は何の反応もないはずです。死んだ人が「ヨイシュ、ドッコイショ」と突然起き上がったかと思ったら、「私はあれがしたい」「これがしたい」とか言いますか?言いません。死んでいるからです。死んだ人はもう罪から解放されているのです。罪から自由にされました。もはや罪に支配されることはありません。以前は罪の奴隷でしたが、今は義の奴隷となりました。キリストが死からよみがえったとき、私たちもキリストともに新しく生きるものにとされたのです。このように、肉において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ったのです。

Ⅱ.神のみこころのために生きる(2-5)

次に、2節から5節までをご覧ください。2節をご一緒に読みましょう。そのように、罪とのかかわりを断った人はどのようになるのでしょうか。
「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」
このように罪とのかかわりを断った人は、この地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために生きるようになります。皆さん、これが神の知恵です。いったい私たちは、地上の残された時を、何のために生きるのでしょうか。どのように過ごしたらいいのでしょうか。それはここにあるように、自分の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすのです。

ですから、モーセはこう祈りました。詩篇90篇10、12節です。
「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び散るのです。・・・それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」
知恵ある生き方とは、いのちがどれだけあるかを数えて、いまを生きることです。地上の残された時はそう長くありません。それは早く過ぎ去ります。人生はほんとうに短いですね。あっという間に過ぎて行きます。ちょっと前まではあんなにピチピチしていたのに、今はもう首もよく回りません。身体をひねることさえ困難になりました。あっちこっちに弱さを覚えるようになりました。あの元気はどこへ行ってしまったのでしょう。私もあと何年生きられるかわかりません。その残された人生をどのように過ごすのか、ということです。何のために生きるのでしょうか。人生はどれだけ長く生きるかということではありません。神によって与えられたこの期間をどのように過ごすかということです。ペテロはここで、その残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごそうではないかと言っています。モーセは、それこそが知恵の心であり、知恵ある生き方だと勧めているのです。あなたはどうですか。残されたこの地上の時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごそうではありませんか。

3節をご覧ください。ここでペテロは、「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」と言っています。
私たちは過ぎ去った過去がどういうものであったのかを、覚えておく必要があります。以前は異邦人たち、すなわち、神を知らない人たちがしたいと思っていることにふけっていました。それは好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝といった類のものです。しかし、それは過ぎ去った時で、もう十分です。もう二度と以前のような生活に後戻りすべきではありません。それはもう過ぎ去ったのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
古いものは過ぎ去りました。すべてが新しくなりました。その新しい時代にふさわしい生き方とは、これまでのような自分の欲望のために生きるのではなく、神のみこころのために生きることなのです。

ところで、そのように私たちが神のみこころに生きようとすると、思わぬところに波紋が広がります。それはこれまで仲間だったはずの人たちからの攻撃です。彼らから思わぬ嫌がらせを受けることがあります。ペテロはそのことを4節で次のように言っています。
「彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないのを不思議に思い、また悪口を言います。」

「彼ら」とは、これまでいっしょに罪にふけっていた仲間たちのことです。彼らは、あなたがこれまでのように酒を飲んでドンチャン騒ぎをしたり、下ネタに耳を貸さないのを見て、あれっ、どうしたんだろうと不思議に思い、馬鹿にしたりします。それはそうです。それまでは神さまのことなんてさっぱりわからなかったのに、聖書を学んでいくうちに、自分の愚かさや罪深さがわかり、こんな罪深い自分を救ってくださった神の恵みがわかるようになると、それに応答して生きていきたいと思うようになるからです。罪の赦しと救いの喜びを体験すると、もはや以前のような罪の生活に戻りたいとは思わなくなります。今まで楽しいと思っていたことが虚しく感じられるようになるからです。しかし、私たちの生活が変わったことは、友人たちには全く意味がわかりません。何で毎週日曜日に教会に行くのかと不思議に思います。最近付き合いが悪くなったなと言ったりもします。以前はいっしょに飲みに行き、ドンチャン騒ぎをし、何でもやりたい放題だったのに、度を過ぎた放蕩にも走らないので不思議に思うのです。何度誘っても応じないとだんだん腹を立てて、「あつはああなんだ、こうなんだ」と他の人に悪口を言ったりします。こうした仲間からのプレッシャーを受けるのです。

これは日本の社会によくあることだと思います。会社の仲間に見られるプレッシャーです。「仲間との和」を重んじる家族的な環境では、「仲間に迷惑をかけられない」といった心理が働きます。そのことが仲間との関係をより密接にし、大きな成果に結びつく一方で、こうした傾向が行き過ぎると、互いが監視し合う居心地の悪い環境が生まれてきます。すなわち、仲間と同じ行動をとらないと仲間はずれにされるといった息苦しい人間関係になってしまうのです。まさにペテロがこの手紙を書き送ったクリスチャンたちは、その直前まで圧倒的多数の異教社会の中にどっぷりと浸かり、彼らと同じような行動やふるまいをしていました。それがクリスチャンになったことで、聖い生き方を送ろうとしたときに、こうした仲間からのプレッシャーを受けて苦しんでいたのです。
しかし、神の恵みをほんとうに知った人は、人から何を言われようと、再び罪の生活に戻りたいとは決して思いません。なぜなら、罪の生活の結末がどのようなものであるかを知っているからです。

5節には、「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。」とあります。
申し開きをするとは、英語では〝give account〞という言葉が使われています。この〝give account〞という言葉は「会計報告をする」というニュアンスがあります。会計報告をする際は、お金の出し入れについて一切の曖昧さが許されません。お金の出し入れについて、帳尻があっていなければならないのです。すなわち、完全な透明性が求められるのです。ここでペテロは、彼らはこの神の前に完全な申し開きをしなければならないと言っているのです。そこでは一切の曖昧さも許されません。彼らがこの地上でどのように歩んだのかをすべて透明にして、その行いに応じてさばかれることになるのです。

それは彼らだけのことではありません。生きている人も死んだ人々も、正しくさばかれる神の前に申し開きをしなければなりません。ヘブル9:27にこう書かれてあります。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」
私たちはみなこの地上に生まれてきました。生まれてきた者はだれでも必ず一度死にます。死んだ後どうなるのでしょうか?聖書は、死後にさばきがあると教えています。死後にみな神の前に立たされるというのです。そのさばきの場で、これまで生きてきたことの報告をしなければなりません。

ヘブル4:13には、「造られたもので、神の前で隠せるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」とあります。人の前には隠せても、神の前には何一つ隠せるものはありません。私たちはこの神の前に弁明をするのです。あなたはどのように自分を弁明されますか?

それは、私たちのこの地上の残された時を、どのように過ごすのかにかかっています。キリストの十字架と復活によって新しく造られた者として、この地上の残された時を、自分の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごそうではありませんか。そこには仲間からのプレッシャーを受けることもあるかもしれませんが、そうした仲間の顔色を見て恐れるのではなく、生きている人も死んだ人も正しくさばかれる方を覚え、この方から受ける報いのすばらしさに目を留めて、この道を進んでいきたいと思います。

Ⅲ.霊において生きる(6)

最後に6節を見て終わりたいと思います。
「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられたのですが、それはその人々が肉体において人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」

どういうことでしょうか。この箇所は前回の箇所でも説明しました。キリストが捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを語ったとの関連で、キリストは死んだ人たちのとこに行って福音を語った、すなわち、死後にも福音を聞いて救われるチャンスがあるということではありません。死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたとは、福音を聞いて死んだ人々のことです。最近新しく出された新改訳聖書の改訂版では、「このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。」と訳されています。つまり、この手紙の読者たちも福音を聞いて信じましたが、今は死んでしまったということです。ここでペテロが言っているのは、その人たちのことです。彼らは生きている時に福音を聞きました。そして、イエス・キリストを信じて救われたのです。そのことで、悪口雑言を言われたり、仲間はずれにされたりすることもありましたが、このさばきがあることを信じていたので、どんなに仲間はずれにされても、福音を聞いて信じたのです。彼らは肉においてはさばかれることもありました。不思議に思われ、悪口も言われました。不当な苦しみにも会いました。そのことでいのちを失う人たちもいました。しかし、そのように肉体において苦しみを受けても、霊においては生きました。それはちょうど、イエス・キリストが肉においては殺されたけれども、霊は生かされたということと同じことです。3章18節にあるとおりです。キリストは肉においては死に渡されましたが、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導いてくださいました。キリストを信じた者は、同じように肉体は死んだとしても、その霊は永遠のいのちが与えられているので、永遠に神とともに生きるのです。

ですから、どんな不当な苦しみを受けても、迫害する者たちがいたとしても、恐れることはありません。たとえそのために命を落とすことがあったとしても、それは栄光の御国の入口であり、永遠に神とともに生きることになるのです。
イエス様は、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われました。私たちが恐れなければならないのは、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる神だけなのです。そんな雀の一羽でも、ちゃんと覚えられています。
「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイ10:29)
二羽の雀が一アサリオンというのは、一羽では値段が付けられないくらいの雀のこと、いわばおまけのようなものです。そんな雀の一羽でも、神の御許しがなければ地に落ちることはないのです。

私たちはそんな一羽の雀のようなものですが、神に覚えられ守られていることを覚え、ただこの方だけを恐れて歩んでいきたいと思います。たとえあなたが仲間から馬鹿にされたり、辱められるようなことがあっても、何も恐れる必要はないのです。キリストによって新しく造られた者として、キリストと同じ心構えで自分自身を武装し、この残された地上での生涯を、罪とのかかわりを断って、ただ神のみこころのために過ごしていきましょう。

ヨシュア記11章

きょうはヨシュア記11章から学びたいと思います。

 Ⅰ.馬の足の筋を切り、戦車を焼かなければならない(1-15)

 まず1節から15節までをご覧ください。1節から5節までをお読みします。
「ハツォルの王ヤビンは、このことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、また北方の山地、キネレテの南のアラバ、低地、西方のドルの高地にいる王たち、すなわち、東西のカナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、山地のエブス人、ミツパの地にあるヘルモンのふもとのヒビ人に使いをやった。それで彼らは、その全陣営を率いて出て来た。その人数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かった。これらの王たちはみな、相集まり、進んで来て、イスラエルと戦うために、メロムの水のあたりに一つになって陣を敷いた。」

これまで、イスラエルに対峙してきた王たちはカナンの南部の地域の王たちですが、ここに登場する王たちはカナンの北部の王たちです。聖書の巻末の地図「12部族に分割されたカナン」を見ていただくとわかりますが、ハツォルはガリラヤ湖の北に約15㎞に位置しています。マドンはガリラヤ湖の西側、シムロンはガリラヤ湖の西40㎞のところにあります。また、アクシャフはシムロンの北に30㎞のところにあります。こうした北パレスチナの連合軍が戦いを挑んできたのです。その数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多くありました。おそらく何十万という軍勢だったのでしょう。これらの王たちがみな、相集まり、進んで来て、イスラエルと戦うために、メロムの水のあたりに一つになって陣を敷いたのです。こうした状況の中でヨシュアにはどれほど大きな不安と恐れがあったことかと思います。この大軍にいかに対応していったらよいものか。彼は必死に神に祈ったに違いありません。その時です。主はヨシュアに仰せられました。6節です。

「主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするからだ。あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。」

主はヨシュアに仰せられました。「彼らを恐れてはならない」と。なぜなら、「あすの今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするから」です。主が戦ってくださるのでイスラエルは必ず勝利するのです。しかし、そのために主はイスラエルに一つの命令を下されました。それは、「彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない」ということでした。馬の足の筋を切り、戦車を火で焼くとは、戦うために必要な武器を廃棄するということです。これは人間的に考えれば非常に理解に苦しみます。というのは、その後の戦いで敗北を招くことになるかもしれないからです。むしろ、そうした武器を少しでも多く奪い取りそれを有効に用いた方が次の戦いには有利です。それなのに、主はそれらをすべて廃棄せよと言われました。なぜでしょうか。それは彼らが自分の力で戦うのではなく、主の力によって戦うためです。詩篇20篇7節には、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」とあります。神の力に賭け、自分の力を捨てるためです。本気で神に賭けているかどうかは、自分の力を捨て、捨て身で生きているかどうかでわかります。私たちは全能の神を信じていると言いながら、一方で自分の思いで成し遂げようとしていることがあります。全面的に神に信頼するのではなく、自分自身で計算しそれに従って動こうとするのです。それは言うならば「二足のわらじ」的な信仰です。しかし、聖書が言っている信仰はそのようなものではなく、この神に全面的に信頼する信仰です。背水の陣ということばがありますが、まさに背水の陣で臨む信仰、そこに考えられないほどの大いなる主の御業が起こされていくのです。

歴史学者のトインビーは、次のように言っています。「イスラエルのパレスチナ制覇は、歴史学的常識では到底考えられない出来事である。しかし、イスラエルには、他の国になかったものが一つだけあった。それはヤハウェなる神への信仰であった。」(「歴史の研究」第一巻)それはそうです。当時パレスチナにはペリシテといった強力な敵がおり、またフェニキアのような経済的に豊かな国もありました。そんな大国に何もなかったイスラエルが勝てるはずがありません。それなのにどうして勝利を収めることができたのか?それはイスラエルには全能の神への信仰があったからです。主が彼らとともにおられたので、彼らは勝利することができたのです。そのためには馬や戦車を破棄しなければなりませんでした。そんなものがあると容易くそれに頼ってしまうのが人間だからです。だから主はそれらを破棄して、ただ神に信頼するようにと仰せられたのです。7節から9節までをご覧ください。

「そこで、ヨシュアは戦う民をみな率いて、メロムの水のあたりで、彼らを急襲し、彼らに襲いかかった。主が彼らをイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは、彼らを打ち、大シドン、およびミスレフォテ・マイムまで追い、さらに東のほうでは、ミツパの谷まで彼らを追い、ひとりも生き残る者がないまでに彼らを打った。ヨシュアは、主が命じたとおりに彼らにして、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いた。」

そこで、ヨシュアは民を率いて、メロムの水のあたりで彼らに襲いかかり、ひとりも生き残る者がないまでに彼らを打ちました。主が彼らをイスラエルの手に渡されたからです。そしてヨシュアは、主が命じられたとおりに、彼らの馬の筋を切り、彼らの戦車を火で焼きました。そうです、もし全能の神が共におられるならば、ペリシテに勝り、フェニキアに勝利することができるのです。私たちは弱くとも、主は強いのです。私たちは他の何ものよりも大きな力を持っているのです。このことを信じ、感謝しようではありませんか。私たちの人生に立ちはだかる様々な問題や試練をも乗り越えて、勝利ある人生を歩むことができるのです。

Ⅱ.主が命じられたとおりに(10-15)

次に10節から15節までをご覧ください。

「そのとき、ヨシュアは引き返して、ハツォルを攻め取り、その王を剣で打ち殺した。ハツォルは以前、これらすべての王国の首都だったからである。彼らは、その中のすべての者を剣の刃で打ち、彼らを聖絶した。息のあるものは、何も残さなかった。彼はハツォルを火で焼いた。ヨシュアは、それらの王たちのすべての町々、および、そのすべての王たちを捕え、彼らを剣の刃で打ち殺し、聖絶した。主のしもべモーセが命じたとおりであった。ただしイスラエルは、丘の上に立っている町々は焼かなかった。ヨシュアが焼いたハツォルだけは例外である。これらの町々のすべての分捕り物と家畜とは、イスラエル人の戦利品として自分たちのものとした。ただし人間はみな、剣の刃で打ち殺し、彼らを一掃して、息のあるものはひとりも残さなかった。主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行ない、主がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった。」

ヨシュアは北パレスチナの連合軍を打ち滅ぼすと引き返して来て、ハツォルを攻め取り、その王を剣で打ち殺しました。それは、ハツォルが以前、これらすべての王国の首都だったからです。カナンの住民は、中央主権ではなく、各町を治めていた王たちがいただけだったようです。そのような中にあってハツォルだけは別格で、それらすべての王国の首都として存在していたので、ヨシュアはこの町を聖絶し、火で焼きました。ハツォルだけではありません。ヨシュアは、それらの王たちのすべての町々、および、そのすべての王たちを捕らえ、彼らを剣の刃で打ち殺し、聖絶しました。何とも惨いことです。なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。それは前回も学んだように、イスラエルが聖となるためです。その地の住人の異教的な習慣と分離して、神の民としての聖さを保ち、神に喜ばれる歩みをするためです。そして、それは主のしもべモーセによって命じられていたことでもありました。15節にあるように、ヨシュアは主のしもべモーセが命じたすべてのことばを行ったのです。ヨシュアはそのことばを一言も取り除きませんでした。一部だけを守って、他は無視するというのではなく、すべてを守ったのです。これが大切です。時として私たちは主のことばに従っていると言っていいながら、その一部しか従っていない場合があります。一部だけを守って他は無視するというのは、すべてを守っていないのと同じです。あのサウル王がそうでした。主はサウル王に、「行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子ども乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。」(Ⅰサムエル15:3)と命じられたのに、彼は上等な羊と牛を殺さずに残しておきました。彼は、それは主にささげるためだと言い訳をしましたが、主はサムエルを通してこのように言われました。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)
私たちはサウル王のように失敗する者にならないで、ヨシュアのようにすべての点で主に聞き従う者でありたいと思います。

Ⅲ.彼らの心をかたくなにしたのは・・(16-23)

最後に16節から23節までを見て終わりたいと思います。
「こうして、ヨシュアはこの地のすべて、すなわち山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、低地、アラバ、およびイスラエルの山地と低地を取り、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアル・ガドまでを取った。また、それらの王をことごとく捕えて、彼らを打って、殺した。ヨシュアは、これらすべての王たちと長い間戦った。ギブオンの住民ヒビ人を除いては、イスラエル人と和を講じた町は一つもなかった。彼らは戦って、すべてのものを取った。彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、主がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった。そのとき、ヨシュアは行って、アナク人を、山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断ち、彼らをその町々とともに聖絶した。それでイスラエル人の地には、アナク人がいなくなった。ただガザ、ガテ、アシュドデにわずかの者が残っていた。こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。」

ヨシュアはパレスチナの北部連合軍に勝利したものの、それで戦いが終わったわけではありませんでした。カナンのすべてを征服するために、その後も引き続いて戦いを継続しなければなりませんでした。ヨシュアは、そのすべての王たちと長い間戦いました。彼らはギブオンの住民ヒビ人を除いては、その地のすべての住民と戦い、すべてのものを取ることができました。いったいなぜそれほどまでに戦わなければならなかったのでしょうか?その理由が20節にあります。
「彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、主がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった。」

「彼らの心をかたくなにし」という言葉は、モーセがエジプトのパロと対峙したときにも出てきた言葉です。出エジプト記14:8には、「主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。」とあります。その結果、パロは破滅の一途を辿っていき、ついには力強い主の御業に屈服することになります。ここでも同じように、主が彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたことで、カナンの住民は滅びていくことになりました。これはどういうことなのでしょうか。

これは一見悲劇的なように思えますが、実はそうではありません。主がそのようにかたくなにされたことで、彼らを容赦なく聖絶することができ、イスラエルの民をして、偶像の悪影響から守ることができたからです。確かに、彼らが滅びていったことは悲劇でしたが、神はそれを悲劇のまま終わらせることをせず、それを祝福へと変えられました。その中で彼らを一掃するというご自身のみこころを実現されたのです。

神は、このようにしてもご自身のみ旨を実現されることがあります。その最たるものは、主イエスの十字架です。主なる神がある人々の心をかたくなにし、主イエスを憎ませ、彼を十字架につけて殺しました。しかし、神はそれを悲劇のまま終わらせることをせず、そのことを通して全人類を救うという神の救いの御業を実現されました。神の永遠の救いのご計画がこの悲劇を通してこの地上に実現し、彼を信じるすべての者がこの大きな喜びの中に入れられることになったのです。このことを思うとき、確かに神はある人の心をかたくなにし、神に敵対させ、滅ぼすようなことをされますが、それは神の民のためであり、神のご計画が実現するためなのです。

ヨシュアの時代も、そのことでイスラエルは多くの敵と戦わなければなりませんでしたが、そのことによって彼らは容赦なく彼らを聖絶し、一掃することができました。23節にあるように、こうしてヨシュアは、その地をことごとく取ることができたのです。このことを思うと、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)というみことばは真実であることがわかります。主はその全知全能の御手をもって、今に至るまで働いておられると信じ、この方にすべてをゆだねして、主がお命じになられることをことごとく行っていく者でありたいと思います。

Ⅰペテロ3章13~22節 「キリストを主としてあがめなさい」

  きょうは、「キリストを主としてあがめなさい」という題でお話ししたいと思います。前回のところでペテロは、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(8節)と勧めました。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るなんてできるわけがありません。そこで彼はダビデの詩篇を引用し、「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」(12節)と語り、すべてを主にゆだねるようにと語りました。きょうの箇所はその続きです。つまり、悪をもって向かってくる相手にどのように対処したらよいのかとです。

Ⅰ.義ための苦しみ(13-14)

まず13節と14節をご覧ください。
「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」

この手紙は、ペテロからローマの迫害によって、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビデニヤに散らされ、寄留していたクリスチャンに宛てて書き送られたものです。彼らは圧倒的多数の異邦人社会の中で、また、数は少ないながらもキリスト教に反感を持っていた保守的ユダヤ教徒に囲まれながら、見える形、見えない形のさまざまな圧迫を受けて苦しんでいました。そうした彼らを励ますためにペテロは、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです、と勧めました。そして、ここでは「もしあなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなた方に害を加えるでしょう。」と言っています。どういうことでしょうか。

普通、たとえ人種が違っても、宗教が違っても、良いことをする人は回りの人から認められ、尊敬されます。たとえば、近所の貧しい人々を一生懸命に励ましたり、助けたりしている人は社会からも認められ、尊敬されるでしょう。それはどんな宗教を持っているかということとは関係ないのです。そのような人は、たとい回りの人が攻撃しようとしてもその口実さえも与えないでしょう。たとえ義のために苦しむことがあっても、それは回りの人たちがただ誤解しているだけであって、そのようなことがあるとしたら、それはまさに天において受ける報いが大きいということの保証でもあるわけですから、それは幸いなことなのです。

イエス様は山上の垂訓の中でこのように言われました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」(マタイ5:10-12)

確かにクリスチャンであるということは、多かれ少なかれこうした迫害を受けるということです。IIテモテ3:12には「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。また、ピリピ1:29には、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」ともあります。それがどのような苦しみなのかはわかりませんが、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、多かれ少なかれこうした圧迫を受けるのです。それは、クリスチャンはこの世のものではなく神のものだからです。ですから、そこに何らかの摩擦が生じるのはむしろ当然のことなのです。しかし、そのような迫害にあっても善に熱心であるなら、だれもあなたに危害を加えるようなことはないどころか、むしろあなたを尊敬するようにさえなるのです。ですから、彼らの脅かしを恐れてはいけません。それによって心を動揺させたりしてはいけないのです。あなたが成すべきことは、この世において善に熱心であることです。

皆さんは、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩をご存知だと思います。この詩はある一人のクリスチャンがモデルになっていると言われています。そのクリスチャンとは斎藤宗次郎という人で、岩手県花巻市で最初にクリスチャンになった人です。彼は1877年、岩手県花巻で、禅宗の寺の三男として生まれた。15歳の時、母の甥にあたる人の養子となり、斉藤家の人となります。彼は小学校の先生となり、一時、国粋主義に傾きましたが、やがてふとしたきっかけで内村鑑三の著書に出会い、聖書を読むようになりました。そして1900年に信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになるのです。
彼がクリスチャンになったのは、キリスト教が「耶蘇教(やそ)」とか、「国賊(こくぞく)」などと呼ばれていた時代のことです。クリスチャンとして生きていくことがどれほど苦しい時代であったかわかりません。洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強くなりました。親からは勘当され、以後、生家には一歩たりとも入ることを禁じられてしまいます。町を歩いていると「ヤソ、ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられました。近所で火事が起きた時には、全然関係ないのに家の窓ガラスを割られたこともありました。いわれなき中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めさせられてしまうのです。
迫害は彼だけにとどまらず、家族にまでも及んでいきました。長女の愛子ちゃんはある日、国粋主義思想が高まる中、ヤソの子供と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こし、何日か後に、9歳という若さで主の御元に召されました。その葬儀の席上、賛美歌が歌われ、天国の希望のなかに平安に彼女を見送りましたが、愛する子を、このようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の内なる心情はどのようなものであったか、察するに余りあります。
彼はその後、新聞配達と牛乳配達をして生計を立てました。雪の日には、朝の仕事が終わる頃、小学校への通路の雪かきをして道を作りました。小さい子どもを見ると、抱っこして校門まで走ったと言われています。雨の日も、風の日も、雪の日も休むことな
く、地域の人々のために働き続けました。病気の人がいると聞きつけると、新聞配達の帰りに、病人を見舞い、励まし、慰めました。彼は、「でくのぼう」と言われながらも最後まで愛を貫き通したのです。
その宗次郎が、内村鑑三の勧めで上京することになりました。1926年、住み慣れた故郷を離れ、東京に移る日、‘誰も見送りに来てくれないだろう’と思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、またたくさんの生徒たちが見送りに来ていました。中には神社の神主や僧侶もいました。さらに一般の人たちも来ていて、駅は身動きができないほどでした。それで駅長は停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたほどです。その群衆の中に、実は若き日の宮沢賢治がいたのです。「雨ニモマケズ」の詩は、この時の感動に基づいて、彼の生きざまを書かれたものだと言われているのです。

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも 夏の暑さにも負けず
丈夫な体をもち
慾はなく 決して怒らず
いつも 静かに笑っている
一日に 玄米四合と 味噌と
少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく 見聞きし 分かり
そして 忘れず
野原の 松の林の 陰の
小さな 萱ぶきの 小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って 看病してやり
西に疲れた母あれば
行って その稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って 怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、
つまらないから やめろと言い
日照りの時は 涙を流し
寒さの夏は おろおろ歩き
みんなに 木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい
(宮沢賢治、「雨ニモマケズ」)

この詩の締め括り「そういう者に私はなりたい」とは、宮沢賢治のその思いが込められています。斎藤宗次郎がそれだけ多くの人々に愛されていたのは、彼が普段からしていたことを、周囲の人たちが見ていたからなのです。彼は、人にほめられたいなど、人を基準にして生きていたのではなく、ただ、神を、主イエス・キリストを基準に物事を考え、キリストと同じ思いを感じることができるように変えられていたのです。人々は斎藤宗次郎の内側から醸し出されていたキリストの香りを感じ、彼を通して表されたキリストを見ていたのです。

ですから、彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させてはなりません。もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれもあなたがたに害を加えることはできないからです。

Ⅱ.キリストを主としてあがめなさい(15-17)

第二のことは、キリストを主としてあがめなさい、ということです。15節から17節までをご覧ください。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」

人から脅かしを受けているときに、何も言えないときがあります。ただ我慢するしかないと思う時、ただそのように防御的になるだけでなく、もっと積極的にすべきことがあります。それは、心の中でキリストを主としてあがめることです。キリストを主としてあがめるとはどういうことでしょうか。この「あがめる」という言葉は、原語で「ハギアゾー」という言葉が使われていて、これき「きよめる」ということを意味しています。ですから、直訳としては、「むしろ、心の中でキリストを主としてきよめなさい」となります。キリストをきよめなさいと言っても、キリストはもともときよい方ですから、きよめる必要などありません。では、キリストをきよめなさいとはどういうことなのでしょうか?それはキリストをきよい方として尊びなさいとか、敬いなさいということです。たとえ義のために苦しむことがあっても、彼らの脅かしを恐れたり、心を動揺するのではなく、キリストがすべてを支配しておられることを認めて、信頼しなさいということです。

そればかりではありません。ここには、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。「あなたがたのうちにある希望」とは、1:3にある「生ける望み」のことです。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持つようにしてくださいました。それは朽ちて行くようなものではなく、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともないものです。それは天にたくわえられている資産なのです。私たちは、この資産、永遠のいのちを受け継ぐようになりました。それは私たちにとって最もすばらしい望みではないでしょうか。これこそ本当の希望です。この希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなければなりません。

ペテロはここで、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明しなさい」ではなく、「弁明できる用意をしていなさい」と言っているのは意味深です。私たちは、誰かに悪口を言われた時などそれにすぐに反応して言い返してしまうということがあります。その結果どうなるかというと、争いがおさまるどころかますますエスカレートすることも少なくありません。しかし、悪口を言われてもじっと我慢して、すぐに言い返すのではなく一呼吸おいて静かになると、相手が心を開いてくることがあります。「そんな風に言われてもあなたが穏やかにしていられるのはどうしてなの?」その時、「それはね、イエス様のおかげなの。ほんとうに私はだめな人間で、あなたのように全然立派な人じゃないから、どうしてこうなのかといつも落ち込んでばかりいるのよ。でも、教会に行ってイエス様の話を聞いているうちに少しずつ変えられて、こんな私でも愛されているということがわかると、他の人に何と言われても我慢できるようになったのよ。」と伝えることができます。

いま、さくらで看護学校に通うある青年と聖書を学んでいますが、この方がどうして聖書を学ぶようになったのかというと、実は同じクラスにクリスチャンの友人がいて、その方に自分の悩みを相談したのがきっかけでした。クラスには48人の生徒が学んでいますが、48人もいるといろいろな人がいて、中には「この人どうかな?」と思う人もいるらしいのです。ところが、ある時そのクリスチャンの友人とお話ししていたら、よく話を聞いてくれるので、「どうしてあなたはそんなに優しいの?」と尋ねたら、「別に優しいわけじゃないけど、私、クリスチャンで教会に行っているの。」と答えたのです。「へぇ、それじゃ私も行ってみたい」と、聖書を学ぶようになったのです。

伝道ってこういうことではないかと思います。こちらから一方的に聖書のことを説明するのではなく、むしろ相手の話をよく聞いて、「どうしてなの?」とか「どうしたらそのようにできるの?」と聞いてきた時にさりげなくお話しするのです。それが弁明するということです。そのためには、ここにあるように、いつでも、だれにでも、弁明できる用意をしておかなければなりません。その用意とはよく聖書を学ぶというのは勿論ですが、それを自分の生活にあてはめ、そのみことばに生きるということが大切です。なぜなら、そのようなみことばの実践が大きな裏付けとなるからです。

 そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。それは2:12にあるように、「何かのことで悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになる」ということです。すばらしいことではないですか。

Ⅲ.栄光の主を見上げて(17-22)

第三に、栄光の主を見上げることです。17~22節をご覧ください。17節と18節をお読みします。
「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」

「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです」というテーマは、すでに2章20節でも語られてきました。私たちが召されたのは実にそのためだと、ペテロはそこでキリストの十字架の模範を取り上げ、そのキリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのですと語ったのです。すべての解決はここにあります。私たちの人生のさまざまな苦しみや悩みの解決は十字架にあるのです。ですから、ペテロはイザヤ書53章から引用して、キリストの打ち傷のゆえにあなたがたはいやされたのです、と語ったのです。

そして、彼はここで再びキリストの模範を取り上げています。しかし、ここでは単に、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいということの模範としてではなく、キリストが悪い人々、すなわち私たちのために身代わりとなったのはどうしてなのかという、その目的なり、理由を語っているのです。それは、「肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」どういうことでしょうか?誰に近づくよりも神に近づくことは困難なことです。罪に汚れた人間が、聖なる神の前に出ようものなら、たちまちその場で倒れてしまいます。罪深い人間がこの聖なる神に近づくことなどできないのです。しかし、神の子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことで、その不可能なことを可能にしてくださいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」というインマヌエルの預言が成就したのです。これ以上の喜びはありません。キリストはご自身の苦しみによってその喜びをもたらしてくださいました。それは私たちの模範であり、慰めです。私たちも、神のみこころを行って苦しみを受けることがあるかもしれませんが、そのことがわかったら力が与えられます。悪を行って苦しみを受けるよりも善を行って苦しみを受ける方がよいのです。ペテロはこの決定的で完全な救いという事実こそが、信仰者の人生に起こる様々な不条理に対する解毒剤であり、解決であると言っているのです。

いったいなぜそのような苦しみ起こるのかわかりません。そこでペテロはこれをノアの箱舟の事実によって説明を加えています。19節から21節です。「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」

ここは非常に難解な箇所です。いったいなぜこんなことが書かれてあるのかわかりません。ここではイエス・キリストの苦難がクリスチャンに対する模範であり、慰めであり、究極的な解決であるということが語られているのに、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたとか、ノアの箱舟があらかじめバプテスマを示した型であるといったことが語られているからです。ですから、多くの学者は、この箇所は、後代の人が付け加えたのではないかと考えているほどです。つまり、前後の文脈との関係で書かれてあるのではなく、そうしたこととは全く関係なくここにポッと挿入されたと考えた方がよい、というのです。どうですか?しかし、ペテロがここでこのことを取り上げているのは、やはりそれなりに意味があったからです。それは何かというと、このことを記すことによって読者たちを励まそうとしていたということです。いったいこれがどういう点で励ましになるというのでしょうか。

それは、彼らがあのノアの箱舟によって救われたわずか8人の者たちと同じであるという点においてです。圧倒的多数の異教的社会の中にあって、本当に一握りの者たちでした。でも恐れることはありません。イエス様もおっしゃられました。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32)まさにここで言いたかったことはこのことだったと思うのです。どんな小さな者でも、神は守ってくださいます。それは、昔、箱舟の中で救われたノアの家族のように、です。彼らは大洪水の中を通りながらも救われ、守られました。わずか8人の人々が、箱舟の中にあって水の中を通って救われたのです。ペテロはそれを、この不条理な人生における唯一の支えだと言いたかったのでしょう。

この「水を通る時も救われる」というのは、イザヤ43:2にも出てきます。
「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」
私たちは、「水の中を通らない」とか「火の中を歩かない」というのではありません。水の中をとおった、火の中を歩くような時もあります。しかし、そのような時にも「神はあなたと共にあり」「あなたは押し流されない」「炎はあなたに燃えつかない」のです。これこそが、不条理とも思える苦難の中にあって最大の支えとなり、慰めとなるのです。それほどキリストの救いは完全であり、圧倒的に大きいのです。

ところで、この話はこれで終わっていません。19節と20節の前半のところに、「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」とあるのです。その霊とは、「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。」とある。これはいったいどういうことなのでしょうか。

この箇所は、大きく分けると三つの解釈があります。一つは、これは受肉前のキリストが聖霊によってノアの時代に神を信じなかった人たちに宣教したという考えです。この解釈によると、キリストが捕らわれの霊たちのところへ行ってみことばを語ったのはノアの時代のことであり、十字架で死なれた後、よみへ行かれた時ではないと考えます。

もう一つの考えは、これはキリストが十字架につけられて死んだ後、復活する前に、霊において生かされて、よみへ下り、捕らわれている人たちにみことばを語ったとするものです。この説によると、キリストがよみ下ったことを受け入れます。そして、捕らわれの霊たちにみことばを語られましたが、問題はそのみことばとはどのようなみことばであったのかということです。ある人たちはそれを4:6のみことばとの関連で福音のことばと解釈し、ノアの時代に悔い改めなかった人々、すなわち、捕らわれた霊たちのところに行って、福音を宣べ伝えた、と言います。ということは、死んだ後でも救われるチャンスがあるということになります。死んだ後でも福音を聞くチャンスがあるわけですから。こういうのをセカンドチャンス論と言います。死んでからでも救われるチャンスがあるという考えです。しかし、死後に救いのチャンスがあるという考えは聖書全体の教えから見ても困難です。たとえば、イエス様はラザロと金持ちの話をされましたが、生きている間に神を信じなかった金持ちは、死んで後悔い改める機会がなかったばかりか、彼の兄弟がそのような辛い思いをすることがないようにラザロを私の父の家に送ってくださいと言ったとき、アブラハムは何と言いましたか?アブラハムはこう言いました。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」(ルカ16:28)
彼らにはモーセと預言者、つまり聖書があります。その言うことを聞くべきです。それを聞かないなら、どんなことがあっても信じることはありません。
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)なのです。したがって死んでから救われるということはありません。

ではこれはどういうことでしょうか。そこである人たちはこのように解釈します。つまり、キリストが十字架で死なれ、よみに下られ、キリストの福音を信じなかった人たち、すなわち、捕われの霊たちのところへ行ってみことばを語りましたが、そのみことばは救いのことばではなく、さばきのことばであったというものです。キリストは彼らのところに下って行き、救いの勝利を宣言されたというのです。というのは、喜びの訪れを伝える場合、ギリシャ語では「ユーアンゲリゾウ」という言葉を用いますが、ここでは単にみことばを告げ知らせるという意味の「ケリグマ」が使われているからです。そしてその後のところにキリストが復活され、天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座に着かれたとあるのも、このことを証明していると言えます。

ですから、これはキリストの勝利の宣言なのです。キリストは私たちの罪の身代わりとなって死に渡されましたが、三日目によみがえり、天に昇られ、神の右の座に着座されました。キリストは圧倒的な勝利者なのです。この栄光の主が、私たちとともにおられるなら、たとえ不条理と思えるような状況に置かれていたとしても、私たちはキリストが死から復活して神の栄光の座に着いたように、やがて神の栄光を受け継ぐ者となるのです。

であれば、それでもう十分ではないでしょうか。私たちに求められているのは、私たちがどのような状況に置かれていても、私たちの心の中でこのキリストを主としてあがめることなのです。義のために苦しむとき、あなたは何を見ておられますか。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させてはなりません。あなたが見つめなければならないもの、それはあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、神の右の座に着かれた栄光の主イエス・キリストです。この主を見上げるとき、どんな苦しみにあってもあなたは勝利することができるのです。ですから、信仰の勝利者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。この主を見上げること、それがあなたの勝利の力なのです。

Ⅰペテロ3章8~12節 「祝福を受け継ぐ者」

 きょうは、「祝福を受け継ぐ者」というタイトルでお話ししたいと思います。ペテロは、異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさいという勧めを、それぞれの立場の人たちに具体的に勧めてきました。きょうのところには、こうした具体的な勧めのまとめとして、どうすれば祝福を受け継ぐことができるのかを教えられています。

Ⅰ.心を一つにし(8)

 まず8節をご覧ください。
「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」

「最後に申します」の「最後に」とは、2章11節以降語られてきたことを受けてのことです。ペテロは、神の民とされたクリスチャンはこの地上でどのように生きていくべきかというテーマに対して、この地上にあっては旅人であり寄留者であるのだから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけ、異邦人の中にあっても、りっぱにふるまいなさい、と勧めました。そして、その具体的な内容が「従いなさい」ということだったのです。人の立てたすべての制度に、主のゆえに従うように。また、主人に対しては、尊敬の心を込めて服従するように。それは善良でやさしい主人に対してだけではありません。横暴な主人に対してもそうです。同じように、妻たちも、夫たちも、互いに服従しなければなりません。それはすべての人に言えることなのです。ですから2章17節には、「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」とあるのです。こうした内容を受けて、ペテロが最後に勧めていることが、これなのです。

ペテロはまず、「あなたがたはみな、心を一つにし」と言っています。心を一つにするとは、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにすることです。教会が主を愛し主に仕えるとき、それと同じ方向を向くことなのです。いったいどうしたら同じ方向を向くことができるでしょうか。ここには、そのために四つのことが挙げられています。それは同情し合うこと、兄弟愛を示すこと、あわれみ深くあること、そして謙遜であることです。自然に一つになることはありません。私たちはみなそれぞれに思いがあり、考えがありますから、その思いや考えに従っていたらいつまでたっても一つになることはできません。私たちが一つになるためには互いに同情し合い、互いに兄弟愛を示し、互いにあわれみ深く、互いに謙遜にならなければなりません。ここで「互いに」と言ったのは、私たちは一人では神の神のみこころを行うことはできないということです。一人で静かに神との交わりを持つことは大切です。しかし、神のみこころは、私たちが互いに愛し合うことなのです。そのためには他の兄弟姉妹との交わりは欠かせません。だから教会があるのです。神のみことばを実践する場として、神は教会を与えてくださいました。私たちは互いを必要としているのです。私たちは教会を通して共に主を礼拝し、共に祈り、共に交わり、共に仕えるのです。そこにはいろいろな性格の人やいろいろな考えの人がいますから、必ずしも自分の思うようにはいかずしばしば苦悩することもありますが、神はこの教会を通してご自分のみこころを成し遂げようとしておられるのです。そして、そのような問題を乗り越える力も与えておられます。それが御霊の一致です。

ピリピ人への手紙2章1~3節をご覧ください。
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされているように、あなたがたは同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」
これは使徒パウロの言葉ですが、パウロはどうしたら心を合わせ、志を一つにすることができると言っているでしょうか?キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、です。これは自分の意志によってできることではありません。キリストにある励ましとキリストにある慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみがあるなら、です。だからパウロはここで、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者となりなさい。」と言っているのです。自分の考えに固執していたら、いつまでたっても一つになることはできません。ですから、私たちの一致は人間的なものではなく、キリストに従い、キリストの愛と慰めによってもたらされる御霊の一致なのです。そのとき初めて同じ方向を向くことができる。それがへりくだるということなのです。

ペテロはここで同じことを言っています。心を一つにするということは全体が一つにまとまるように体裁を整えるということではありません。それは互いに同情し合い、互いに愛し合い、互いに共感し合い、互いに尊敬し合うという御霊の一致によってもたらされるものなのです。相手に同情するとき、その人と心を一つにすることができます。兄弟姉妹として愛するときも同じです。人はだれでも完全ではありませんので、時として嫌だなぁと思うこともあれば、受け入れられないこともありますが、それでも神のみこころに従って同情し、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜であるなら、その人と一つになることができるのです。

「そんなことできません。私は嫌です。私にはできません。私は自分の信念に従って決めるのであって、決して人の言いなりにはなりません。」皆さん、どうですか?このような人の問題は、いつも自分が中心であることです。神のみこころがどうであっても自分の思いや考えに従っているかぎり、何の解決も生まれてきません。このような態度ではいつまでも心を一つにすることはできないばかりか、神からの祝福も失ってしまうことになります。それは、自分がどのような者であるのかという根本的な理解が欠如していることに起因しています。ですからペテロは2章9節と10節のところでこのように言っているのです。皆さんで読んでみましょう。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

ペテロがこのように語るのは、この御言葉に基づいているからなのです。すなわち、私たちはどのような者なのか、そうです、私たちは神の所有とされた民です。私たちの古い性質はキリストとともに十字架につけられました。もはや私たちが生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きているのです。いま私たちがこの世に生きているのは、私たちを愛し私たちのために命を捨ててくださった神の御子を信じる信仰によっているのです。これは、私たちは神の所有とされた民であるということです。神の民、神のしもべ、それがクリスチャンです。しもべは主人に従います。ですから、神のしもべであるクリスチャンは神に従うのです。それをしたくないと言うなら、それは園人の信仰の理解に問題があるのか、そもそも罪から救われるということがどういうことなのかを理解していないからなのです。私たちが神の所有とされた民であるのなら神に従うのが当然であって、私たちがどのように思うかとか、どのように考えているかは関係ないのです。私たちが神の御言葉に従って互いに同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜であるなら、心を一つにすることができる。それが神からの祝福を受け継ぐ者なのです。

Ⅱ.かえって祝福を与えなさい(9)

次に9節をご覧ください。ここには、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えるということは、パウロも言っています。ローマ人への手紙12章17節には、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」とあります。また、それはイエス様ご自身の教えでもありました。少し長いですが、マタイの福音書5章38~45節をお開きください。
「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、2ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」とか、「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」といったことは、なかなかできることではありません。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、というのは頭ではわかってもいざ実行に移そうとしたら簡単なことではありません。

アメリカにラインホルト・二―バーという神学者がいますが、彼はこれを現実の世界で実践することには無理があると言っています。そんなことをしたら家族は守れないし、国は滅びてしまいます。神の国が完成していない今の世界にあっては、これは理想論にすぎず現実的には不可能なことなのだから、その理想をそのまま現実の社会の中で実践することはできない、というのです。どうでしょうか?

それに対して、ハワード・ヨーダーという神学者は、聖書の教えは、私たちがそれをどのように受け入れるかということ以上に、イエス様と弟子たち、そして初代教会の人たちが、それをどのように受け止めていたのかをまず第一に考えるべきだ、と言いました。つまり、イエス様やペテロが、「悪に対して悪に報いず、侮辱に対して侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」と言われたとき、それをどのように受け止めていたのかを考え、それを実際に受け止めるということです。それは理想論ではなくて、現実的なリアリティーをもったテーマとして、当時の初代教会の人たちがきちんと受け取っていたように受け止めるということです。確かにこの世の現実という問題はありますが、あくまでも私たちの現実に聖書を合わせるのではなく、聖書の教えに私たちの現実を合わせていかなければならない、というのです。

それを実践した人がいます。私の手元に「闇に輝くともしびを継いで」(Take the torch shining in the Dark)という本がありますが、これを読んでとても感動しました。これはスティーブン・メティカフ(Stephen A. Metcalf)というイギリス人宣教師が書いた本です。彼は1952年にOMFの宣教師としてイギリスから来日し38年間日本で宣教活動を続けられました。そして、1990年に母国に帰国されました。彼は青森を中心に5つ6つの教会を開拓されました。私も開拓伝道者のはしくれとして、開拓伝道の厳しさを知っている者ですが、東北地方の端のような所で教会を建て上げることは並大抵のことではなく、相当のご苦労があったかと思いますが、メティカフ先生は、それを実践されました。いったいどこからそんな宣教のスピリットを得ておられたのでしょうか。
それは、あの映画「炎のランナー」のモデルとなったエリック・リデルとの出会いによるのです。エリック・リデルは、1924年に行われたパリオリンピックで男子100メートル走の代表に選ばれていながら、その予選がどうしても日曜日の午前中にあたる、自分はどうしても神様を礼拝したいということで、代表を辞退しました。そして代わりに400メートルリレーのアンカーを走り、イギリスに金メダルをもたらすのです。彼は最下位でバトンを受け取って、なんとトップに躍り出て優勝したのです。これは実話です。
一躍ヒーローとなった彼は、すべての陸上競技を捨てて、ハドソン・テーラーとともに、中国の奥地に福音を伝えるために、宣教師となって生涯をささげるのです。しかし、太平洋戦争がはじまり、妊娠中の妻と二人の娘を母国に戻し、残務処理をするために一人残っていたところを日本軍につかまり、上海の日本軍の強制収容所に入れられました。しかし、エリック・リデルはその収容所でも聖書のクラスを開いていました。そこにいたのが当時14歳だったメティカフ少年だったのです。宣教師の子どもたちが学んでいた学校の生徒であったメティカフ少年も同じ収容所に入れられ、共に暮らすようになり、エリック・リデルが教えるその聖書のクラスで学んでいたのです。
そして「山上の垂訓」を学んでいたときに、少年たちから質問が出されました。「『汝の敵を愛せよ』とキリストは言っているが、そんなことは実際にできっこない。これは単なる理想なのではないか?」彼らにしてみたら、その時の敵とは自分たちを散々いじめていた日本兵でした。するとリデルは微笑みながらこのように言いました。「ぼくもそう思うところだったんだ。だけど、この言葉には続きがあることに気が付いたんだよ。『迫害する者のために祈りなさい。』ってね。・・イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だから君たちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、君たちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りは君たちの姿勢を変えるんだ。」そういうリデル自身、毎朝早く起きて日本と日本人のために祈っていました。リデルは脳腫瘍で間もなく収容所で亡くなりますが、しかし、メティカフは、その墓前で、リデル先生が残した仕事をするために「宣教師になって日本へ行く」という決意をするのです。そしてハドソン・テーラー宣教団体に入り、やがてOMFの宣教師として来日、1953年から38年間、日本人のために伝道し、神様の愛を伝えたのです。彼の人生を変えた言葉、それは「祈るとき、君は神中心の人間になる。祈りは君の姿勢を変える」という言葉だったのです。

だから、不可能ではないのです。聖書の教えに自分の現実を合わせていくことができるのです。祈るなら神中心の人になることができる。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。私たちが神の言葉である聖書に自分を合わせていくのなら、私たちも神の人に変えられるのです。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えることができる。

いったいなぜクリスチャンは悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなければならないのか、ペテロはその理由を次のように言っています。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」どういうことでしょうか。これは三つの意味に捉えることができると思います。

一つは、私たちは祝福を受け継ぐように召されているということです。だから、どんなことがあっても祝福されるということです。たとえ敵が私たちに悪意をもって向かって来ようとも、たとえ敵が私たちを侮辱するようなことがあっても、神が私たちを守り、助けてくださいます。私たちは祝福を受け継ぐために召されているのだからです。私たちがすべきことは悪をもって悪に報いることではなく、侮辱をもって侮辱に報いることでもなく、かえって祝福を与えることです。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなのです。

第二のことは、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えることによって、その祝福が倍になって返ってくるという解釈です。悪に対する報復は何も生み出しません。生み出すものがあるとしたら、それは悪意の増幅です。しかし、祝福を祈るとき、その祝福は悪を行う者に注がれ、それが自分自身への祝福となって跳ね返ってくるというのです。

しばらく前に「倍返し」という言葉が流行になりました。「やられたらやり返す。倍返しだ!」これはドラマ「半沢直樹」の名言というか、決めセリフで、2013年の流行語大賞になりました。なぜこのセリフが人気あったのかというと、スカッとするからでしょ。やられたらやり返す、いや、倍返しにしたら、どれほどスカッとすることか・・。しかし、実際にはできないのです。やられたらやられっぱなしです。ですから、あのドラマのように倍返ししている人を見ると、気持ちがスカッとするわけです。みんなそうなんだと思いますよ。でもそんなことをしたらどうなるのかもわかっている。だからできないわけです。だからいつも心がムズムズするのです。そして赦せないという気持ちでいっぱいになり、だんだん暗くなっていく。だからそこには何の解決もありません。悪に対して報復しても何も良いものは生まれてこないのです。ではどうしたらいいのでしょうか。かえって祝福を与えるのです。なぜなら、あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。そのように祝福を与えることによって、その祝福が倍になって返ってくる。祝福の倍返しです。

第三に、私たちには祝福するという使命が与えられているということです。召命という言葉を聞くとき、私たちは自分にはどのような召しが与えられているのかと悩むことがありますが、そのような思いはとかく、自己実現のような、自分自身の可能性を求めるものになりがちです。けれども、聖書は、何のために私たちを召してくださったのかを、はっきりと書いています。それは「祝福を受け継ぐため」、「祝福を与えるため」です。皆さん、私たちは何のために召されたのでしょうか。祝福を与えるためです。皆さんはどのように祝福を与えているでしょうか?神様から呼びかけられているのは、「ほら、あそこにいる人を、祝福しなさい」「ここにいる人を、祝福しなさい」ということであって、呪うことではありません。

それはアブラハムの生涯を見るとわかります。創世記12章1~3節には、「主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」とあります。
いったいアブラハムは何のために召されたのでしょうか。それは祝福の基となるためです。地上のすべての民族は、彼によって祝福されるのです。そのために召されたのです。同じように、私たちもそのために召されました。地上のすべての民族はあなたを通して祝福されるように、あなたは召されたのです。それは正確に言うと、あなたの信じた救い主イエス・キリストを信じることによってという意味です。あなたは祝福するために召されたのであって、のろうためではありません。どうしたら悪をもって向かってくる相手を祝福することができるのでしょうか。たとえ相手が悪をもって向かってくるような人であっても、尊敬の心をもって従い、その人の上に神が働いてやがておとずれの日に神をほめたたえるように祈ることによって、祝福を与えることができるのです。私たちはそのために召されているのです。そのことを信じ、従う者でありたいと思います。

Ⅲ.すべてを神にゆだねて(10-12)

第三のことは、すべてを神にゆだねましょう、ということです。10節から12節までをご覧ください。ペテロは、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐだめに召されたのだからです。」ということを説明するために、旧約聖書の言葉を引用して、次のように言っています。
「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

これは詩篇34篇からの引用です。ここで、その詩篇34篇を開いてみたいと思います。ペテロが引用しているのは詩篇34篇12~16節の部分です。冒頭に表題がありまして、そこには、「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が狂ったかのようにふるまい、彼に追われて去ったとき」とあります。ダビデはサウル王の嫉妬と悪意によって殺されかけ王宮を追われ、国外での逃亡生活を余儀なくされました。その逃亡生活の中で、ダビデがペリシテ人の王アビメレクのもとに逃げ込むと、彼がサウル王のもとから逃げて来たことが分かり、アビメレクはダビデを殺そうとしました。そのときダビデはどうしたかというと、気が狂ったふりをしたのです。口からよだれを垂らして泡を吹き、気がくるっているかのように振る舞いました。(Ⅰサムエル21:13)サウル王に王宮を追われたことも屈辱であれば、追われた先で再びいのちを狙われ、その難を逃れるために気が狂ったふりをしなければならないことはもっと惨めです。しかし、そのような苦しみの中から助け出されたとき、彼はこのように主を賛美しました。6~10節です。
「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」
ダビデは自分のことを「悩む者」と呼んでいます。その悩む者が呼ばわったとき、主は聞いてくださいました。こうして主はすべての苦しみから彼を救ってくださった。彼は、主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出されるということを確信し、この主のすばらしさを味わい、これを見つめよ、と歌ったのです。若い獅子も乏しくなって飢えるが、主を尋ね求める者には、良いものに何一つ欠けることはない、と神を賛美したのです。つまり、どんなに周囲から非難されても、悪意を向けられても、呪われても、批判されても、神様は私を愛し、私を守ってくださるがゆえに、この主に身を避けると賛美したのです。

私たちの人生においても、ものすごい失望と屈辱を味わうような時があります。しかし、それでも、悪に悪をもって報いたり、侮辱に侮辱をもって報いたり、人間的な方法で打って出ないのは、神様が私を守ってくだるという確信があるからです。私たちはそのように召されているからです。どんなことがあっても神は私を助け、私を祝福してくださるということがわかっていれば、そうした失望や屈辱を味わうようなことがあっても、それを乗り越えることができる。いや、そうした相手さえもかえって祝福することができるのです。

ダビデは、この経験に基づいて、悪をなす者に対して悪をもって報いず、神にすべてをゆだねることを学びます。それが13~16節の言葉です。
「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」

私たちは時に、悪口を言う者に対して、実際、直接に言い返した方が効果的のある場合もあります。しかし、多くの場合、それを行うとき、私たちの中にある怒りや苦々しさといった感情が入ってしまい、冷静に言えないものです。そしてかえって人間関係を悪くするのが落ちです。ですからダビデは、「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。」と言っているのです。言葉を慎むことを学び、「主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。」と言って、そのさばきを神にゆだねるようにと語るのです。ペテロがダビデを引用した狙いはここにあったのです。

私たちはその人生の中で、色々な人とぶつかります。すべての人が自分のことをよく思ってくれるのであれば良いのですが、そういう人はめったにいません。私たちのことをよく思っていない人がいれば、直接悪意をもって向かってくる人もいます。しかし、私たちはそんな人に対しても、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えることができます。なぜなら、私たちは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対することができるでしょうか。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)
私たちは神に深く愛されているのです。どんなことがあっても神はあなたを助け、あなたを守ってくださいます。なぜなら、あなたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。それゆえ、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねましょう。神があなたがたのことを心配してくださいます。あの人が祝福されるなんて許せない、などといったケチをつけずに、かえってその人の祝福を祈りましょう。それが、あなたが祝福を受ける道なのです。

ヨシュア記10章

きょうはヨシュア記10章から学びたいと思います。

 Ⅰ.日よ、ギブオンの上で動くな(1-15)

 少し長いですが、まず1節から15節までを読みましょう。
「さて、エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを聖絶し、先にエリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らの中にいることを聞き、大いに恐れた。それは、ギブオンが大きな町であって、王国の都の一つのようであり、またアイよりも大きくて、そこの人々はみな勇士たちであったからである。それで、エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヘブロンの王ホハム、ヤルムテの王ピルアム、ラキシュの王ヤフィア、エグロンの王デビルに使いをやって言った。「私のところに上って来て、私を助けてください。私たちはギブオンを打ちましょう。ギブオンがヨシュア、イスラエル人と和を講じたから。」それで、エモリ人の五人の王たち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王とその全陣営は、相集まり、上って行って、ギブオンに向かって陣を敷き、それを攻めて戦った。ギブオンの人々は、ギルガルの陣営のヨシュアのところに使いをやって言った。「あなたのしもべどもからあなたの手を引かないで、早く、私たちのところに上って来て私たちを救い、助けてください。山地に住むエモリ人の王たちがみな集まって、私たちに向かっているからです。」そこでヨシュアは、すべての戦う民と、すべての勇士たちとを率いて、ギルガルから上って行った。主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」それで、ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。主が彼らをイスラエルの前でかき乱したので、イスラエルはギブオンで彼らを激しく打ち殺し、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダまで行って彼らを打った。彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。ヨシュアは、全イスラエルを率いてギルガルの陣営に引き揚げた。」

前回は、ヨルダン川のこちら側の王たち、すなわち、カナンの王たちが連合してイスラエルと戦おうとした時、ギブオンの住民たちは賢くも策略を巡らして、イスラエルと平和条約を締結し、イスラエルに滅ぼされることを免れたことを見ました。きょうの箇所には、その一方で、これを面白くないと思ったカナンの王たちが、そのギブオンを攻撃することが記されてあります。1節と2節には、「さて、エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを聖絶し、先にエリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らの中にいることを聞き、大いに恐れた。それは、ギブオンが大きな町であって、王国の都の一つのようであり、またアイよりも大きくて、そこの人々はみな勇士たちであったからである。」とあります。

エルサレムは、ギブオンから南東に15キロメートルほどのところにあります。このエルサレムの王は「アドニ・ツェデク」という名で、意味は、「義なる主」という意味です。このアドニ・ツェデクは、創世記14章に登場したメルキゼデクの子孫であると言われています。そこには「シャレムの王メルキゼデク」(創世記14:18)とありますが、「シャレム」とは「エルサレム」のことです。メルキゼデクはそのエルサレムの王であり、祭司でもありましたが、カナンの連合軍と戦って勝利したアブラハムを祝福しました。アブラハムはそのことに大いに感激して、大祭司であったこのメルキゼデクにすべてのものの十分の一をささげました(創世記14:19-20)。このメルキゼデクは、ヘブル人への手紙においては真の大祭司であるイエス・キリストのひな型であったと記されてあります(7章)。おそらく、彼はアブラハムの信じる神を真の神として認め、彼自身も同じ神を信じていたので、カナンの連合軍には加わらず、むしろアブラハムの勝利を祝ったのであろうと思われます。それなのに、ここではその子孫であるアドニ・ツェデクが、他の王たちとともにイスラエルに対して戦いを挑んできたのです。いったいなぜでしょうか。ある人は、「昨日の友は今日の敵だ」ということを言いたかったのではないかと考えます。人間ほど信じられない存在はないのだという教訓を私たちに示そうとしているのだというのです。またある人は、信仰は極めて個人的なものであって、たとえ先祖にどんなに立派な信仰者がいても、その子孫が必ずしもその信仰を受け継ぐものではないということを教えているのではないかと言います。

1節と2節を見ると、その鍵となる言葉があることがわかります。それは「聞き」という言葉と、「大いに恐れた」という言葉です。彼はヨシュアがアイを攻め取って、それを聖絶し、先にエリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らの中にいることを聞き、大いに恐れたのです。それは、ギブオンが大きな町であって、王国の都の一つのようであり、またアイよりも大きくて、そこの人々はみな勇士たちであったからです。そのギブオンがイスラエルと和を講じたことを聞いて、恐れたのです。

このようなことは私たちにもあるのではないでしょうか。そうした噂を聞いて恐れてしまい、正しい判断が出来なくなってしまうということが・・。いったいなぜイスラエルがエリコとアイを攻略することができたのか、なぜキブオンがイスラエルと和を講じたのかということを考えるなら、自ずと自分たちの成すべきことが見えてくるのではないでしょうか。すなわち、イスラエルの陰には全能の神がともにおられるのであって、ギブオンの住民がイスラエルと和を講じたのは戦っても勝つ見込みがないと判断したからであって、彼らにできる唯一のことはこのイスラエルの神を神とすることであるということです。それ以外に救われる道はありません。この神に敵対すること自体間違っているのです。彼らはその判断を誤ってしまったのです。

私たちも噂を聞いて、恐れてしまい、判断を誤ってしまうことがあります。神が求めておられることよりも、目の前の状況に振り回されてしまい、目先の解決を求めてしまうことがあるのです。そういうことがないように、私たちは常に祈らなければなりません。判断を焦ってはならないのです。うわさを聞いて、恐れてはなりません。むしろ、神のみこころは何か、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。これが解決の道です。それなのに、アドニ・ツェデクはその判断を誤ってしまいました。そして、カナンの他王たちと、ギブオンを攻撃しようとしたのです。

それに対して、ギブオンの人々はどうしたでしょうか。当然、イスラエルに援軍を要請します。6節には、「ブオンの人々は、ギルガルの陣営のヨシュアのところに使いをやって言った。「あなたのしもべどもからあなたの手を引かないで、早く、私たちのところに上って来て私たちを救い、助けてください。山地に住むエモリ人の王たちがみな集まって、私たちに向かっているからです。」とあります。そこでヨシュアは、すべての戦う民と、すべての勇士たちとを率いて、ギルガルから上って行きました。

その時、主はヨシュアにこう仰せられました。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」たとえ神がともにおられると信じていても、それほど多くの敵と戦わなければならないとしたら、だれでも恐れを抱くでしょう。それはヨシュアも同じでした。そんなヨシュアに、主は開口一番「恐れてはならない」と言われました。なぜなら、主が彼らをヨシュアの手に渡されたからです。この「渡したからだ」というのは完了形になっています。これから先のことでも、主の側ではすでに完了していることです。主はすでに彼の手に、彼らを渡しておられるのです。私たちに必要なことは、その主のことばを信じて前進することです。

それに対してヨシュアはどのように応えたでしょうか。9節をご覧ください。「それで、ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。」
それでヨシュアは急襲をしかけます。夜通しギルガルから上って行き、突然彼らを襲いました。それが神のみこころだと確信した彼は、すぐに行動に移します。もたもたしませんでした。「ちょっと待ってください。もう少し祈ってみますから」と言わず、夜のうちに出発し、攻撃したのです。私たちは時々待ち過ぎるときがあります。もちろん、祈ることは大切なことですが、私たちが祈るのは主のみこころを知るためです。主が、「これをしなさい」と言われたのに、「いや、もうちょっと待ちます」というのは、信仰でありません。信仰とは、主が語られたことにすぐに応答することです。
アブラハムは、ひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、そこで全焼のいけにえとしてイサクをささげなさい、と主から命じられたとき、「翌朝早く」イサクといっしょに神が示された場所へ出かけて行きました。それが信仰です。私たちは、神が与えられたチャンスを逃すことがないように、ヨシュアのように主のことばに従う者でありたいと思います。

さて、主のことばにしたがってヨシュアが出て行った結果、どうなったでしょうか。10節と11節をご覧ください。
「主が彼らをイスラエルの前でかき乱したので、イスラエルはギブオンで彼らを激しく打ち殺し、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダまで行って彼らを打った。彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。」
主が彼らをイスラエルの前でかき乱したので、イスラエルはギブオンで彼らを激しく打ち殺しました。そして、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダまで行って彼らを打ちました。彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死にました。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かったのです。最近、よく雹が降ったとニュースで聞きますが、雹は大きいと野球ボールぐらいのもありますから、容易に彼らを殺すほどの威力を持っていたのでしょう。その雹で死んだ人のほうが、剣で殺した人たちよりも多かったのです。どういうことですか?主が戦ってくださったということです。主が彼らをヨシュアの手に渡されたのです。それで主は激しく敵を打つことができました。

12節から15節をご覧ください。ここにはヨシュアの祈りが記されてあります。「主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。ヨシュアは、全イスラエルを率いてギルガルの陣営に引き揚げた。」
これは、どういうことですか?日が沈んでしまうと、彼らを追跡することができなくなるので、ヨシュアは日が沈まないようにと主に祈ったのです。太陽がギブオンの上にあり、月がアヤロンの谷にありました。このままでは、あと数時間後には日が沈んでしまいます。ですから、少しでも日がとどまり、明るいうちに敵を全滅させるために、もう少し時間をください。太陽よ、止まれ!と命じたのです。するとどうでしょう、民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまりました。主がこのような祈りを聞かれたことは、先にもあとにもありません。それはそうです、太陽がまる一日沈むことなく、天にとどまっているということなど考えられないからです。ある人たちはこのような箇所を見ると、そんなことあり得ない、ヨシュアはただそのように感じただけにすぎない、と言います。同じ時間でも長く感じたり短く感じたりすることがあるように、この日もそれだけ長く感じられただけのことだというのです。そうではありません。人間の頭では考えられないことを、主はなさるのです。これは、聖書の全歴史においても特に際立つ不思議な主のみわざの記録です。それは主がイスラエルのために戦われたからです。私たちもヨシュアのように主のことばに従い、前進するなら、私たちの頭では想像もできないようなことを、主がしてくださるのです。

Ⅱ.勝利の主(16-27)

次に16節から27節までをご覧ください。
「これらの五人の王たちは逃げて、マケダのほら穴に隠れた。その後、マケダのほら穴に隠れている五人の王たちが見つかったという知らせがヨシュアにはいった。そこでヨシュアは言った。「ほら穴の口に大きな石をころがし、そのそばに人を置いて、彼らを見張りなさい。しかしあなたがたはそこにとどまってはならない。敵のあとを追い、彼らのしんがりを攻撃しなさい。彼らの町にはいらせてはならない。あなたがたの神、主が彼らをあなたがたの手に渡されたからだ。」ヨシュアとイスラエル人は、非常に激しく打って、彼らを絶ち滅ぼし、ついに全滅させた。彼らのうちの生き残った者たちは、城壁のある町々に逃げ込んだ。そこで民はみな無事にマケダの陣営のヨシュアのもとに引き揚げたが、イスラエル人に向かってののしる者はだれもなかった。その後、ヨシュアは言った。「ほら穴の口を開いて、ほら穴からあの五人の王たちを私のもとに引き出して来なさい。」彼らはそのとおりにして、ほら穴からあの五人の王たち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王を彼のもとに引き出して来た。彼らがその王たちをヨシュアのもとに引き出して来たとき、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、自分といっしょに行った戦士たちを率いた人たちに言った。「近寄って、この王たちの首に足をかけなさい。」そこで彼らは近寄り、その王たちの首に足をかけた。ヨシュアは彼らに言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵は、主がこのようにされる。」このようにして後、ヨシュアは彼らを打って死なせ、彼らを五本の木にかけ、夕方まで木にかけておいた。日の入るころになって、ヨシュアは彼らを木から降ろすように命じ、彼らが隠れていたほら穴の中に投げ込み、ほら穴の口に大きな石を置かせた。今日もそうである。」

5人の王たちの軍隊を完全に打ち負かした後、ヨシュアはギルガルの陣営に引き上げましたが、そのちょっと前に、イスラエルの前から逃れた5人の王がマケダのほら穴に隠れた話が記録されています。この5人の王たちはほら穴に隠れたとき、ヨシュアは彼らをそのままにしておいて、敵のあとを追うように命令します。そして、敵を絶滅させた後でこの5人の王たちを引き出し、彼らの首に足をかけさせました。そればかりではありません。ヨシュアは彼らを打って死なせ、彼らを5本の木にかけ、夕方まで木にかけておきました。このように首に足をかけるとか、死体を木にかけるというのは、イスラエルがこの5人の王たちに勝利したことの見せしめです。
「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたがたの戦うすべての敵は、主がこのようにされる。」
これが一目瞭然です。主がどれほど力ある方であるかは、それをみればわかります。だから私たちも恐れてはなりません。おののいてはなりません。私たちの主は全能の神であって、私たちが真に恐れなければならないのは、この神だけなのです。

Ⅲ.聖絶しなさい(28-43)

最後に28節から43節までを見て終わりたいと思います。
「その日、ヨシュアはマケダを攻め取り、剣の刃で、この地とその王とを打った。彼は、この地とその中にいたすべての者を聖絶し、ひとりも生き残る者がないようにした。彼はエリコの王にしたように、マケダの王にもした。ヨシュアは全イスラエルを率いて、マケダからリブナに進み、リブナと戦った。主が、その地も、その王も、イスラエルの手に渡されたので、彼は、この地とその中のすべての者を、剣の刃で打ち、その中にひとりも生き残る者がないようにした。彼はエリコの王にしたように、その王にもした。ヨシュアはまた、全イスラエルを率いて、リブナからラキシュに進み、それに向かって陣を敷き、それと戦った。主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、彼は二日目にそれを取り、それと、その中のすべての者を、剣の刃で打った。すべてリブナにしたとおりであった。そのとき、ゲゼルの王ホラムが、ラキシュを助けるために上って来たので、ヨシュアは、彼とその民を打ち、ひとりも生き残る者のないまでにした。ヨシュアはまた、全イスラエルを率いて、ラキシュからエグロンに進み、それに向かって陣を敷き、それと戦った。彼らはその日それを取り、剣の刃でそれを打ち、その日、その中のすべての者を聖絶した。すべてラキシュにしたとおりであった。ヨシュアはまた、全イスラエルを率いて、エグロンからヘブロンに上り、彼らはそれと戦った。彼らは、それを取り、それとその王、およびそのすべての町々とその中のすべての者を、剣の刃で打ち、ひとりも生き残る者がないようにした。すべてエグロンにしたとおりであった。彼は、それとその中のすべての者を聖絶した。ヨシュアは全イスラエルを率いて、デビルに引き返し、これと戦った。そして彼は、その地とその王、およびその中のすべての町々を取り、剣の刃でこれらを打ち、その中のすべての者を聖絶し、ひとりも生き残る者がないようにした。彼がデビルとその王にしたことは、ヘブロンにしたとおりであり、またリブナとその王にしたとおりであった。こうして、ヨシュアはその全土、すなわち山地、ネゲブ、低地、傾斜地、そのすべての王たちを打ち、ひとりも生き残る者がないようにし、息のあるものはみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。ヨシュアは、また、カデシュ・バルネアからガザまで、およびゴシェンの全土をギブオンに至るまで打った。ヨシュアはこれらすべての王たちとその地とをいちどきに攻め取った。イスラエルの神、主が、イスラエルのために戦われたからである。」

マケダでヨシュアに歯向かった5人の王たちを殺した後、ヨシュアは、それを皮切りに、リブナ、ラキシュ、ゲゼル、エグロン、ヘブロン、デビルの町々を攻め、これらの町々を陥落させます。しかし、それだけではありません。ヨシュアは容赦なくこれらの町々のすべての住民を聖絶しました。40節には、「こうして、ヨシュアはその全土、すなわち山地、ネゲブ、低地、傾斜地、そのすべての王たちを打ち、ひとりも生き残る者がないようにし、息のあるものはみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。」とあります。いったいこれはどういうことでしょうか。あまりにも残酷な行為です。戦いで敵を破るというのはわかりますが、一人も残さずにことごとく滅ぼすというのは、あまりにも非道に感じます。ヨシュアはそれほど冷酷無比な人間だったということでしょうか。

そうではありません。今読んだ40節にあるように、あるいは、25節にもあったように、それはヨシュアから出たことではなく、神の命令であり、神がそのようにせよと命じられたので、ヨシュアはそのようにしたのです。すなわち、主の命令どおりに彼は聖絶したのです。それではいったいなぜ神はそのような命令を出されたのでしょうか。それは単なる大量虐殺として行われたのではありません。それはここに「聖絶」とあるように、イスラエルが聖さを守り、神の祝福の基として彼らを置くためにそのようにさせたのです。これは「聖絶」あるいは「分離」のためだったのです。彼らがカナンの異教的な習慣から守られ、神の民としての聖さを保つためだったのです。

私たちはこの世で、神の民として祝福の基としての使命を果たしていくためには、どうしてもこの世と分離しなければなりません。この世の力はとても強いものがあります。その背後には悪魔の力が働いており、罪に陥れる罠がたえずあります。だからこそ私たちは意識的にこの世から分離して、信仰の主体性というものを確立しなければなりません。そうでないと、私たちは容易にこの世の力にのみ込まれてしまうことになるからです。

それゆえに、パウロはⅡコリント6章17~18節でこう言ったのです。「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
これは、この世と交わってはならないということではありません。私たちはこの世に遣わされている者として、絶えずこの世との関わりの中で生かされているからです。ここでパウロが言う「彼らと分離せよ」とは、霊的に交わることがないようにという意味です。私たちは確かにこの世に生きていますがこの世のものではなく神のものとして、神に従って生きていかなければなりません。この世と妥協してはならないのです。分離しなければなりません。そして、時には実際に分離する必要があります。

私は、1993年に韓国の光琳教会というメソジスト派では世界で一番大きな教会に行ったことがあります。韓国の教会の成長の要因はどこにあるのかを学びに行きましたが、その要因の一つはこの分離にあることがわかりました。この教会だけでなく韓国の多くの教会では祈祷院を持っています。この光琳教会の祈祷院はとても立派なもので、毎月信徒が集まって断食の祈りをするのです。断食聖会です。それはこの世との全くの分離の時です。家を離れ、仕事を離れ、食事からも離れて、ただ神との交わり、祈りとみことばの時を過ごすのです。その中で彼らは聖霊に満たされ、信仰に満たされ、そしてまたこの世に出て行くのです。韓国にはこのような祈祷院がたくさんあるのです。そこで一月に一度とか、二月に一度、三月に一度、あるいは一年に一度、聖別して祈るのです。必ずしも祈祷院に行かなければならないということではありません。祈祷院に行く目的は、聖別することですから、この聖別することを私たちが求め、この世と分離して、主体的な信仰を持つことができるのであればいいわけですが、なかなかそれを実現していくことは容易なことではありません。その点でこうした祈祷院で祈ることは大きな助けになるのは間違いありません。

では、私たちの教会のように祈祷院のない教会の信徒たちは、どのようにして聖別することができるのでしょうか。聖書には何と書いてあるでしょうか。出エジプト記20章8節には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とあります。これは十戒の第四の戒めです。「聖なる日とせよ」ということばは「カーデシュ」というヘブル語で、「分離する」という意味があります。つまり、日曜日は他の曜日とは違って分離された特別な日であることを覚えて、これを聖なる日とせよということです。他の曜日の延長に日曜日があるのではありません。もちろん、主にあっては日曜日だけが主の日でなく、毎日が主の日です。しかし、それはこの日が他の日と同じであるということではありません。これは「聖なる日」なのです。他の日とは区別された日なのです。毎週日曜日ごとに造り主なる主の前に出て、この世とのいっさいの関わりを断ち、ただ主との交わりを通して信仰を強められ、月曜日からもう一度この世に遣わされていくのです。ですから、日曜日が週の初めにあるのです。六日間働いて休む日なのではなく、一週の初めに神を礼拝し、自分が神のものであることを確信し、神から力をいただいて強められ、月曜日からまた新たにこの世での生活を営んでいくのです。それゆえに私たちは日曜日を「聖なる日」としなければなりません。これを軽んじてはならないのです。ここから聖別が始まっていくからです。

今から百年以上前に、アメリカにジョン・ワナメイカーという人物がいました。彼は「百貨店王」と呼ばれるほど優れた実業家として有名な人です。しかし彼は貧しい家で育ち、14歳で働きに出なければなりませんでした。彼は幼い頃教会学校において、日曜日は神様を礼拝する日であり、神様を礼拝することなくて他のことをすることは空しいと教えられていました。しかし、その後彼が14歳で書店に勤めると、そこでは日曜日に休むことができませんでした。彼は教会学校での教えを思い出し、若かった彼は「教会に行かせてください」と正直にその書店に主人に申し出ましたが、主人はそれを許しませんでした。そこで仕方なく彼はその書店を辞めました。そして日曜日に休むことができる仕事はないかと必死に探し始め、間もなくある一つの仕事を見つけました。それは衣料品のセールスマンの仕事でした。セールスマンなら自由に働くことができると、日曜日に仕事を休むために、月曜日から土曜日まで一生懸命に働いたのです。すると、だんだんと彼の才能が認められるようになりました。やがて彼は一つの衣料店を任せられるようになり、そしてそれがどんどん大きな業績につながってくと、ついに百貨店の経営者に上り詰めたのです。そして1889年から1893年の期間、当時のアメリカ大統領ハリソンの下で郵政大臣をも務めるほどの人物になったのです。しかし、大臣という多忙な執務の中にあっても、彼は一日たりとも聖日礼拝を休むことはありませんでした。

私たちはこのジョン・ワナメイカーに学びたいものです。このワナメイカーのように日曜の礼拝を厳守し、この世と分離することによって、自分が主のものであることを確信し、そこから恵みと力をいただいて強められていく信仰を持ちたいと思います。それが聖別するということであって、そのような信仰者を主は必ず祝福してくださるのです。

Ⅰペテロ3章1~7節 「妻たちよ、夫たちよ」

 きょうは、「妻たちよ、夫たちよ」というタイトルでお話ししたいと思います。ペテロは、異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさいと勧めましたが、その具体的な一つのことは、人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい、ということでした。それが主権者である王であっても、また、王から遣わされた総督であっても、です。

それはまた、当時の奴隷制度においても同じでした。18節には、「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。」とありましたね。それが「善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても」そうです。

また、それは結婚関係においても同じです。3章1節には、「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」とありますし、7節には、「同じように、夫たちよ。」とあります。この「同じように」というのは、これまで語られてきたことと同じようにということです。クリスチャンが異邦人の社会において王や主権者に従うように、また、しもべたちが、自分の主人に従うように、夫婦関係においてもそれぞれ自分の夫に、自分の妻に従いなさい、というのです。

Ⅰ.妻たちよ(1-2)

 まず、妻に対して勧められていることから見ていきましょう。1節と2節をご覧ください。1節には、「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」とあります。

ここでペテロは妻たちに、「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」と言っています。市民が主権者である王や総督に従うように、あるいは、しもべが主人に従うように、妻は夫に従いなさいというのです。冗談じゃない!!夫が自分に従うというのならわかるけど、自分が夫に従わなければならないなんて、何とも古めかしくて聞いていられない、という方もおられるかもしれません。エペソ人への手紙5章22~24節を見ると、パウロも同じように勧めていることがわかります。
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」

ここでは、夫が妻のかしらであると言われています。キリストが教会のかしらであって、教会はどんなことでもキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきである、というのです。ですから、これはペテロだけが言っていることではなく、パウロも言っていることであり、聖書全体が教えていることなのです。ウーマンリブ運動が盛んになって以来、このような教えはあまり魅力がないというか、受け入れられなくなってしまいました。男女は平等であって、女が男に従わなければならないとか、妻が夫に従わなければならないというのはおかしい!と言うのです。だからでしょうか、リビングバイブルでは、もっと柔らかい口調で訳されています。「妻は夫に歩調を合わせなさい」となっています。また、J.B.フィッリプス訳では「夫に順応しなさい」と訳しています。しかし、これは「歩調を合わせる」とか、「順応する」ということではないのです。もしそのように訳するのであれば、この2章13節以降の内容もすべてそのように訳さなければなりません。「人の立てたすべての制度に、主のゆえに歩調を合わせなさい。」どうですか、変でしょう。しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に順応しなさい。」変です。これは「従いなさい」と訳さなければならない言葉です。「歩調を合わせなさい」とか、「順応しなさい」というのは、いかにも聞き触りのいい言葉ですが、それがどんなに聞き触りのいい言葉であっても、それは「従いなさい」ということであって、聖書が一貫して教えていることなのです。

では、夫に従うとはどういうことなのでしょうか。ある奥さんがご主人に聞きました。「あなた、従うってどういうこと?」すると夫は答えました。「ひとかけらの抵抗もないことだ。」これが従うということです。「従えばいいんでしょう、従えば!」と大声を上げながらすることではありません。

それはこの「同じように」という言葉からもわかります。「同じように」とは、これまで勧められてきたことと同じように、という意味です。市民はどのように王や主権者に従うようにと言われていたでしょうか。人の立てたすべての制度に、主ゆえに従いなさい、ということです。これには従うけれど、これには従わないということではなく、すべての制度に従うのです。勿論、それが神のみこころに反することであるなら、その限りではありませんが・・。ですから、「あなたがたは自由人として行動しなさい。」と言われていたのです。しかし、このようなことは稀にしかないことです。つまり、私たちは主が敵をも愛したように、この世の主権者に対してすべてにおいて従わなければならないのです。

また、2章18節にはしもべに対して、このように勧められていました。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」と。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばしいことです。イエス様もそのようにされました。イエス様はその模範を残されたのです。「同じように」です。ですから、ここでも、「たとい、みことばに従わない夫であっても」と言われているのです。そのように従わなければなりません。

柿谷正期先生が、「しあわせな夫婦になるために」という本を書いておられますが、その中で先生は、夫に従うということがどういうことなのかを、次のように言っておられます。
「夫に従うというのは、「主に従うように」と記されているように、キリストに従うような従い方が要求されているのです。仮にキリストが「花子。仕事を辞めなさい」と言われたら、クリスチャン女性はそれに従うことでしょう。たとえもう少し仕事を続けていたいという気持ちがあったとしても、です。同じように夫が、「花子。仕事をやめてほしい」と言った時、「はい」とそれに従うことが求められているのです。何も話し合ってはいけないということではありません。しかしやめることが夫の最終的意志だとわかったら、それに従うことです。このような従い方ができたら夫婦関係に変化が起こること間違いなしです。
「夫は妻のかしらである」とはどういうことでしょうか。夫が王様ぶって妻を使用人のように扱うことではありません。民主主義のルールで説明すれば次のようになります。夫にも妻にも一票ずつの投票権があるが、夫がかしらということは、夫にはさらに議長権があるということです。仮に台所の壁紙を何色にするかということで夫と妻が話し合っているとします。妻は落ち着いたグリーンがいいと言います。夫はピンクがいいと言っています。ここで賢明な夫ならこう考えます。「台所仕事するのは僕じゃない、彼女だ。だったら壁紙も妻の言う通りグリーンにしよう。」ここでグリーンが決まるわけです。
しかし賢明でない夫も時にいるものです。賢明でない夫はどうしても「ピンク」を主張し、議長権を行使して2対1でピンクが決定します。すると従うことが求められている妻は、ピンクをまるで自分が選んだ色かのように受け入れることです。台所に立ちながら、「このピンク野郎!」などと思わないことです。
しばらくすると、ピンクに飽きた夫が言うかもしれません。「台所の壁紙、何か別の色にしようか。」この時、待ってましたとばかりに、「だからあなた、言ったでしょう!」と言ってはいけないのです。自分がピンクを選んだかのように応答することです。」

わかりやすい例だと思います。夫に従うというのは、それがたとい自分の意志ではなくても、主のみこころに反しない限り、それを自分の意志であるかのように受け入れることなのです。

いったいなぜ妻は夫に従わなければならないのでしょうか。1節の後半から2節にかけて、その理由が書かれています。「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるからです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」

みことばに従わない夫であっても、というのは、未信者の夫であってもという意味です。当時の教会も、今日の日本の教会のように、女性が先に信仰を持つというケースが多かったようです。するとクリスチャンになった妻が取りやすい行動は、未信者の夫を何とかして救いに導こうと、必死に伝道することです。部屋の至るところにみことばを貼ったり、車の助手席で永遠に夫に証をしたりします。面白いことを聞いたことがあります。実際にクリスチャンになった奥さんが、車を運転している旦那さんに証をしていたら、その旦那さんは顔を横に向けながら、目だけが前方を向いて運転していたそうです。夫は聞きたくないのです。クリスチャンになると真理がわかってくるので、だんだん夫が無能に見えてくることがあります。するといつしか夫を見下げた態度を取りやすいのです。そのような態度ではいくら「教会に行きましょう!」と誘っても決して来てくれることはありません。なぜなら、夫はそんな妻に負けたくないからです。しかし、みことばにあるように、夫を敬い、夫に従い、夫に仕えるなら、逆に夫の方からこう言ってくることでしょう。「妻をこんなに変えた教会が、どんなところか一度行ってみたい」と。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

善良でやさしい夫に従うことは何の抵抗もないでしょう。鼻歌でも歌いながら喜んで従うことができます。しかし、みことばに従わない夫に従うことは、時に涙することもあります。それでも聖書は「従いなさい」と言うのです。「こんな横暴な夫に従っていたら家庭がめちゃくちゃになる」と心配される方もおられるかもしれません。しかしそのような夫であっても従うなら、そのようなあなたの、神を恐れかしこむ清い生き方を見て、あなたの夫も神のものとされるようになるのです。

それは、「夫が何かを盗んでこいと」言うことに従うことではありません。夫の要求することが聖書の要求することと対立する時は、あくまでも人に従うよりも神に従うべきですという原則が適用されます。しかし、このような極限の状況は、そうめったに起こるものではありません。

Ⅱ.サラの子となるのです(3-6)

 次に3節から6節までをご覧ください。3節と4節をお読みします。
「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」

ここでペテロは、「神を恐れかしこむ清い生き方」とはどのようなものなのかを説明しています。それは神を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにすることです。

「柔和で穏やかな霊」とはどのような霊のことでしょうか。英語のN.I.V.では「gentle and quiet spirit」(優しく静かな霊)と訳しています。また、K.J.V.では「meek and quiet spirit」(謙遜で静かな霊)と訳しています。つまり、ヒステリックでなく、怒りっぽくなくということです。たまに、ひとこと言うと、10倍くらいにして言い返してくる方もいます。箴言21章9節には、「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。」とあります。怒ったり、争ったりするのではなく、柔和に穏やかに接するのです。生まれつき穏やかで控え目な方もいます。しかし、これは御霊が与える人格的な実です。なぜなら、ガラテヤ5章22、23節に、「御霊の実は、愛、喜び、平安,寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあるからです。神を知れば知るほど、神に従えば従うほど、このような御霊の実を結ぶようになるはずですし、そのようになりたいものです。実際長年主に従ってきた婦人たちの多くは、どこか品があるというか、やっぱりこの世の女性とは違うなぁと感じます。それは、本当に価値あるものは何かを求めて歩んでこられた結果と言えるでしょう。

5節と6節をご覧ください。ここには、そのように生きた一つの例として、アブラハムの妻であったサラについて取り上げています。
「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。」

いったいなぜペテロはここでサラのことを取り上げているのでしょうか。文語訳ではここを、「神に望みを置きたる清き女たち」と訳しています。その代表としてサラのことが取り上げられているのは、やっぱり彼女が忍耐をもって夫に従った妻の模範であったからだと思います。

 サラは夫に対してずっと忍耐してきました。アブラハムが、神から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。」と召しを受けたとき、彼女は、夫に従ってカルデヤのウルからカナンに向かって引っ越しました。この時アブラハムは75歳、サラは65歳でした。当時、ウルと言えば大都会です。それがわけのわからない田舎に引っ越すと言われたらどうでしょう。「あなた、何歳だと思っているんですか。勝手にしてください。私は行きませんからね。」と言うでしょう。しかし、彼女はそんなことを言わないで、黙ってアブラハムについて行きました。アブラハムは「あなたの生まれ故郷とあなたの家を捨てて、わたしが示す地に行きなさい」と神様に言われた時彼に問われたのは信仰だったかと思いますが、サラに問われたのは、もしかしたら忍耐だったのかもしれません。

 そして、約束されている子どもがなかなか与えられなかった時、彼女は諦めていました。そして、自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与え、彼女との間に子どもをもうけました。イシュマエルです。それはサラにとっては、きっとものすごく屈辱的で苦しい出来事だったに違いありません。しかも生まれたイシュマエルが後に生まれた自分の息子イサクをいじめるのを見ていると、苦しくて、苦しくてたまらなかったでしょう。実にサラの人生は複雑でした。それでも、彼女は忍耐しました。神に望みを置いて生きたのです。時にはその苦しみを夫にぶつけることもありました。すると夫もまた忍耐して彼女をなだめたりしました。実に、夫婦生活というのはこんな感じですね。気持ちにズレを感じながらも、互いにフーフー言いながらじっと忍耐する。それが夫婦なんです。

 35年間仲の良い夫婦がいました。妻は結婚して以来毎朝毎朝、夫が好物だと思っていたグレープフルーツを出していました。ところが35年目のある朝、グレープフルーツが冷蔵庫の中に入っていないのに気づきました。買ってくるのを忘れてしまったのです。これだけは忘れまいと、35年間頑張ってきた妻は主人に謝りました。
「あなた、ごめんね。グレープフルーツを出せなくて」
するとご主人は素っ気なく言いました。「いいんだよ。気にしなくてもいい。僕は、そもそもグレープフルーツはあまり好きじゃない」
 夫婦ってこんな感じじゃないですか。悪いと思ってなかなか自分の気持ちをストレートに言えないこともあります。35年間じっと忍耐してグレープフルーツを食べ続けているということがあるのです。これが夫婦の何とも言えない複雑さで、二つの人格がすれ違うというか、ま、人生の悲哀と言えばいいのか、時にはおかしくなるほど、私たちはやっぱりどこかですれ違っているんですよね。

 ペテロはそんなどこにでもあるサラの人生を振り返りながら、心に留めたことは、それでも神に望みを置いて、忍耐して生きた敬虔な妻としての姿だったと思うのです。確かにアブラハムは信仰の人でしたが、彼女にとってはついていくのが一苦労で、「もうこれ以上は無理です」と弱音を吐いてもおかしくなかったのに、「あなたはなんて人の気持ちがわからない人なんでしょうか」と思うようなことがあっても、アブラハムを「主」と呼んで彼に従ったのです。「主」とは「主人」という意味です。

皆さんは自分のご主人を何と呼んでいるでしょうか。名前で呼ぶこともあれば、「うちの旦那」と呼ぶこともあるでしょう。ひどいのになると「うちのあれ」とか「うちのこれ」とか言うのを聞くことがあります。でもサラは違います。サラはアブラハムがそんな夫であったにもかかわらず、「主人」と呼んだのです。「ご主人」なんて呼んだら、何だか自分が奴隷みたいで嫌だと言う方もおられるかもしれませんが、ま、そのように呼ぶかどうかはともかく、そのような気持ちで敬っていたということです。ペテロはサラのそのような態度を評価したのです。彼女にもずいぶん人間的な面もありましたが、しかし、そのような中にあっても、神に望みを置き、忍耐して生きました。自分の内側を飾って、夫に従いました。それこそ妻の鏡です。そして、あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。

「どんなことでも恐れないで善を行えば」というのは、このように生きることには恐れが生じることもあるということです。どんな恐れがあるでしょうか。回りの人たちからあまり理解されずに苦しむことがあるかもしれません。このように柔和で穏やかに振る舞っていると嫌味を言われたり、いじわるされたり、脅かされたりすることもあります。あるいは、こんなに頑張っているのに、それがなかなか夫に届かないというもどかしさもあるかもしれません。それでも恐れないで、忍耐しつつ、善を行うなら、あなたもサラの子となるのです。サラのように心の中の隠れた人柄を飾りとする敬虔な人となるのです。

Ⅲ.夫たちよ(7)

最後に、夫たちに勧められていることを見ていきたいと思います。7節をご覧ください。
「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

夫に勧められていることは非常に少ないです。妻に対しては6節も使って勧められているのに、夫に対してはたった1節だけです。不公平ではないですか。もっと言ってください、夫はこうあるべきだとか、こくこくと説得してください・・、というのが妻の本音ではないかと思いますが、夫にはこれだけでいいのです。なぜなら、夫は単純だからです。どういう意味で単純なのかというと、まず脳の仕組みが違います。女性は左脳と右脳を結ぶ、海馬というのが男性よりも太いそうです。この海馬が太いとどうなるかというと、海馬というのは情報を伝達する役割を果たすのですが、それだけたくさんの情報を右脳から左脳に、左脳から右脳に伝達することができるということなのです。ピッ、ピッ、ピッと絶えず伝達しているから忙しいのです。ですから、女性は一度にいろいろなことが考えられるし、同時にいろいろなことができるのです。テレビを見ながら洗濯物をたたみ、こどもと会話ができます。これはすごい能力です。歯を磨きながら洗濯をし、食洗機の食器を片付けることができます。すごい能力です。男性にはできません。男性はこの海馬が細いので、一回に一つのことしかできないのです。男性は一度に複数のことを行うのは苦手なのです。魚を焼いて、味噌汁の鍋をかける。そしてフライパンで何かを揚げていると、フライパンと味噌汁に集中するので、魚が焦げてしまうのです。「あっ、魚焼いていたんだ」と気付く頃には真っ黒くなっています。しかし、男性は、一つのことに集中できるという長所があります。一度にたくさんの情報が飛び交うということがないので、パニックになりにくいのです。しかし、女性は一度にいろいろなことができますが、あまりにもたくさんの情報が飛び交うので、パニックになりやすいという欠点があるのです。ま、いい意味で気が付くのですが、悪い意味では混乱しやすいということです。でも男は単純だからそんなにたくさんいらないのです。夫に対して勧められていることはこれです。

「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」

ここで重要なのは、妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい、ということです。ここに、「自分よりも弱い器だということをわきまえて」とあります。「えっ、本当に弱いの?」と疑問に思う方もおられるかもしれません。女性は子供を産むときにあれだけの痛みに耐えられるのだから、肉体的にも強いのではないかと思うかもしれませんが、そうではないのです。最近では女性の社会進出も大きく取り上げられ、男性を頼らなくても生きていける時代です。職場においても男女平等が叫ばれているので、女性が弱いとは思えません。女性の方も「男になんて負けていられない」と思って、それをエネルギーに頑張っています。しかし、神の言葉である聖書は何と言っているかというと、「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し」と言っているのです。

この「弱い器である」というのは長生きするかどうかという意味ではありません。女性は男性に比べて肉体的に弱いということです。たとえば、ペットボトルのキャップを開ける時はどうでしょうか。家内はいつも私のところに来て、ペットボトルのふたを開けてちょうだい、と頼みます。「こんなの開けられないの?」と思いながら「どれどれ」と開いてやると「ありがとう」と言って喜びます。簡単なことです。ペットボトルのふたを開けてやるだけでそんなに喜んでくれるなら、何回でも開けてやります。でもそれは妻にとって大変なことなのです。力がありません。高い所に上って作業するのはどうでしょうか?「あの換気扇のカバーを取ってください。掃除しますから。」そんなの自分でやったらいいと思いますが、「いいよ」と言って椅子に上がり、ちょ、ちょい、のちょい、と取りますと、「ありがとう」と言って喜びます。どうですか、もし家の中にゴキブリが出たら?ある日家に帰ったら床にカップが置いてあったので、「これ、何?」と尋ねると、中にゴキブリがいる、というのです。どれどれとカップを取ってみると、それはゴキブリではないのです。本当に小さな蚊みたいな虫です。そんなの箒を持ってきてパーンと叩いてテッシュでごみ箱にポーンと捨てれば何でもないことです。でも家内にとっては怖いことなのです。あんなに大きな体をしているのに爪の垢ほどの小さな虫でも怖い。それは、ここにあるように女性は弱い器だからです。

それは肉体だけのことではありません。実は感情的にも脆さがあるのです。こみあげてくる感情を抑えることができません。それがまた女性の美しいところでもありますが、そういう面での弱さもあるのです。男性はあまりにも単純なため、むしろ逆に自分を責め立てる妻の姿を見て自分よりも弱いのだということを忘れて、敵対心を抱くことさえありますが、そうではなくて、妻が女性であるということ、そして、自分よりも弱い器だということをわきまえて、妻とともに生活しなければなりません。

そしてここには、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい」とも言われています。「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」とはどういうことでしょうか。それは、主にある姉妹として、ともに永遠のいのちを受け継ぐ者であるということです。つまり、この世にあっては共に住み、来るべき世にあっては、永遠のいのちをともに受け継ぐ者としてということです。この世における関係だけかと思ったら、来るべき世においてもまだ関係が続くのですか?と言われる方がおられますが、そういうことではありません。結婚関係はこの世に限ってのことであって、来るべき世にまで続くものではありません。なぜなら、神の国はとついだり、とつがれたりすることはないからです。私たちはみなキリストの花嫁として、キリストとの婚宴に入るのですから。しかし、たとえそれがこの世だけの関係であっても、ともに永遠のいのちを受け継ぐ者として、互いにいたわり合い、尊敬し合うということが求められているのです。

韓国のある牧師の証です。この牧師の奥様は音楽家で大変プライドの高い人でした。それで夫であるこの牧師は、奥様の些細な欠点を攻撃しました。「どかん」とではなく、針で刺すように、あっち、こっちと、ちくちくと刺したのです。すると、この奥様はどうなったでしょうか。すっかり自信をなくしてしまいました。それで家庭生活にも影響を及ぼすようになりました。それでこの牧師は悔い改めて、奥様のことを尊敬し、小さなことでもほめるようにしました。食卓の椅子をそろえただけでも、「ありがとう」と感謝し、奥様が奏でる音楽には「すばらしい」とほめました。すると奥様はだんだんと自信を取り戻し、お元気になられたそうです。

ダムが決壊するのは、蟻の穴のような小さなところからだそうですが、私たちはその小さなことを意外と無視していることが多いのかもしれません。それが日本の文化の一つだと言えばそれまでですが、そうした文化の中にあっても、神の言葉に従うことを求めていかなければなりません。いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなければならないのです。

最後に、その理由が記されてあります。それは、あなたの祈りが妨げられないためです。これはどういうことかというと、このように妻をいたわり、妻を尊敬していないと、それがあなたの祈りに影響を及ぼすことになる、祈りが妨げられてしまうことになるということです。妻と喧嘩をすると祈れなくなります。妻をいたわり、大切にしていないと、あなたの霊的生活にも大きな問題が生じることになる、ということです。なぜなら、夫が妻をいたわり、いのちの恵みをともに受ける者として尊敬するのは、神のみこころだからです。もしそれがなされなければ、神との関係にも影響をきたすことは当然のことであって、祈りが妨げられてしまうことになるのです。ですから、夫たちは、妻が女性であって、自分よりも弱い器であるということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなければならないのです。

これが結婚関係における、妻に対して、また夫に対して、神が私たちに求めておられることです。これは今日の社会とはかなりかけ離れた教えのようですが、神のことばである聖書が教えていることなのです。この神のことばにしたがって、妻は自分の夫に従い、夫は自分の妻をいたわり、尊敬する。その関係に生きることを求めていきたいと思います。

ヨシュア記9章

きょうはヨシュア記9章から学びたいと思います。

 Ⅰ.敵の策略(1-6)

 まず1節から6節までをご覧ください。
「さて、ヨルダン川のこちら側の山地、低地、およびレバノンの前の大海の全沿岸のヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞き、相集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。」(1-2)

ヨルダン川のこちら側の山地、低地とは、ヨルダン川西岸の地域、すなわち、カナンの地域を指します。このカナンの王たちはみな、これを聞き、相集まり、一つとなってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとしました。「これを聞き」とは、ヨシュア率いるイスラエルがエリコとアイを打ち破ったことを指すのか、それとも、その前のヨシュアがエバル山でモーセの律法を宣言したことを指しているのかは、はっきりわかりません。しかし、いずれにせよ、ヨシュアとイスラエル軍が破竹の勢いで進撃してきたことを指していることは間違いありません。これを聞いたパレスチナの王たちはおののき、何とかイスラエル軍の進撃を阻止しなければならないと、連合して立ち向かおうとしたのです。しかし、ギブオン人だけは別行動を取りました。3~6節をご覧ください。

「しかし、ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行なったことを聞いて、彼らもまた計略をめぐらし、変装を企てた。彼らは古びた袋と古びて破れたのに継ぎを当てたぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古いはきものを足にはき、古びた着物を身に着けた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、ぼろぼろになっていた。こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。」

ギブオンは、イスラエルが攻め取ったエリコとアイの少し南に位置する町です。このギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞いて、イスラエルと和解の条約を結ぼうとしました。彼らはわざわざ自分たちが遠くから来たかのように見せかけるため、古びた袋と古びて破れたのに継ぎを当てたぶどう酒の革袋とを、ろばに負わせ、繕った古いはきものを足にはき、古びた着物を身につけて、ヨシュアのところにやって来ました。また、かわいて、ぼろぼろになったパンを持っていました。なぜ彼らはこのような計略を企てたのでしょうか。彼らはそのことを聞いて、ヨシュアとその民に対して勝つことはできないと判断したからです。それにしても、わざわざ変装したり、偽ってまで同盟を結ぶ必要があったのでしょうか。おそらく彼らは戦いに勝てないというだけでなく、この戦いがどのような戦いであるのかをよく理解していたのでしょう。すなわち、これは聖なる戦いであり、カナン人を聖絶するものであるということです。それゆえ、彼らがその地の住人であることがわかったら聖絶されるのは落であって、そのことだけは避けなければなせないと思ったのでしょう。孫子の兵法には、戦いに絶対に勝つ秘訣は負ける相手とは戦わないとありますが、まさに彼らは最初から負ける戦いとは戦わない道を選択したのです。それはとても賢い判断でした。一方、イスラエルにとっては判断を誤り、後々までも尾を引く結果となっていくことになります。私たちの敵である悪魔はこのように巧妙に襲いかかってきます。悪魔は偽りの父であり、このように計略をめぐらし、変装を企て、知らず知らずのうちに私たちの内側に忍び込み、私たちを信仰から引き離そうとするのです。だれの目にも明らかな方法によってではなく、だれも気付かないような罠を仕掛けてくるのです。

ペテロは、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5:8)と言っています。
ペテロはだれよりもこのことを体験させられたことでしょう。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言った次の瞬間、イエスが捕らえられ大祭司のところで尋問を受けると、彼はそこでイエスを知らないと三度も言いました。人間の力なんてそんなものですよ。私たちがどんなに「私はこうだ」と豪語しても、自分の決意などというものは脆くも崩れてしまうのです。いったいなぜこんなことになってしまったのか・・と嘆いてみても後の祭りです。私たちの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜しながら、歩きまわっていることを覚えておかなければなりません。

Ⅱ.主の指示をあおがなかったイスラエル(7-15)

「イスラエルの人々は、そのヒビ人たちに言った。『たぶんあなたがたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結ぶことができようか。』すると、彼らはヨシュアに言った。『私たちはあなたのしもべです。』しかしヨシュアは彼らに言った。『あなたがたはだれだ。どこから来たのか。』彼らは言った。『しもべどもは、あなたの神、主の名を聞いて、非常に遠い国からまいりました。私たちは主のうわさ、および主がエジプトで行なわれたすべての事、主がヨルダン川の向こう側のエモリ人のふたりの王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさったすべての事を聞いたからです。それで、私たちの長老たちや、私たちの国の住民はみな、私たちに言いました。『あなたがたは、旅のための食料を手に持って、彼らに会いに出かけよ。そして彼らに、私たちはあなたがたのしもべです。それで、今、私たちと盟約を結んでくださいと言え。』この私たちのパンは、私たちがあなたがたのところに来ようとして出た日に、それぞれの家から、まだあたたかなのを、食料として準備したのですが、今はもう、ご覧のとおり、かわいて、ぼろぼろになってしまいました。また、ぶどう酒を満たしたこれらの皮袋も、新しかったのですが、ご覧のとおり、破れてしまいました。私たちのこの着物も、はきものも、非常に長い旅のために、古びてしまいました。』そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。ヨシュアが彼らと和を講じ、彼らを生かしてやるとの盟約を結んだとき、会衆の上に立つ族長たちは、彼らに誓った。」

さて、それに対してイスラエルはどのように対応したでしょうか。ここでギブオン人がヒビ人と言われているのは、ギブオン人がヒビ人のグループの一つだったからです。イスラエルの人々はそのことを見抜いてこう言いました。「たぶんあなたがたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結ぶことができようか。」それは、かつてモーセによって次のように命じられていたからです。
「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」(申命記7:1~6)

すると、彼らは偽って、彼らが非常に遠い国から来たということ、そこで主がエジプトで行なわれたこと、またヨルダン川の東でエモリ人の王と、ヘシュボンの王、またバシャンの王になさったすべてのことを聞いたと、イスラエルの過去の出来事に言及しています。つい先ごろ起こったエリコとアイをイスラエルが攻め取ったことについては言及していません。なぜなら、彼らは遠くの国に住んでいるため、そのようなことは聞いていないふりをしているからです。悪魔は実に巧妙に襲いかかってきます。そして、彼らは古くなった着物、古くなったぶどう酒の皮袋、また古くなったパンを見せて、それを遠い国から来た証拠として差し出すのです。その結果、ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしてやると同盟を結ぶことができました。

主はモーセを通してあれほどカナンの民と契約を結んではならないと命じられたのに、どうしてヨシュアは彼らと契約を結んでしまったのでしょうか。14節にその原因が書かれてあります。それは、「主の指示をあおがなかった」からです。私たちは前回、アイとの最初の戦いにおいて敗北した原因を見てきました。それはイスラエルが不信の罪を犯したからです(7:1)。アカンが聖絶のものをいくらか取ったために、主の怒りがイスラエル人全体に燃え上がったのです。それなのに彼らは偵察を送り、二、三千人の兵を上らせれば十分だと判断しました。自分が見るところに頼って、主の指示を仰がなかったのです。ここでも同じ失敗を繰り返しています。彼らは自分たちで判断し、主の指示をあおぎませんでした。

このことはイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。自分たちで判断して、主の指示を仰ごうとしない傾向があります。イスラエルが同じ失敗を繰り返したのは、それだけ人間にはその傾向が強いということを示しているのです。

私たちは、今週の日曜日の礼拝後臨時総会を開き、三原神学生の招聘について話し合いました。私は、この総会に臨むにあたり、二か月前からこのことを皆さんと分かち合い、このために祈ってほしい旨を伝えました。他の人と話すのではなく、ただ神が示してくださることを求めて祈ってほしかったのです。二週間前にはこの臨時総会に臨むにあたって示されたことを具体的に書いてほしいとお願いしました。実際、何人かの方々が出してくださいました。出せなかった方々もそれぞれに祈って臨んでくださいました。
結果はどうだったでしょうか。結果は、三原神学生を招聘するかどうかということではなく、私たちがどのようにこの教会を建て上げていくのかということが問われているのであって、そのためにみんなで取り組んでいくことが求められているのではないかということが示され、一同涙ながらに祈ることができました。
私は本当にすばらしい祈りの時だったと思います。後で何人かの方がメールをくださり、「出席されていた皆さんが、その課題を認識し、何とかしなければいけない、そしてその一歩は「私」からなのだ、そのために「キリストのからだの一員として」全員の参与が必要なのだと気づいたことはとても良かったと思います。何よりも、皆さんが大田原教会を愛し、その成長・発展を願っているということが分かったことは、私にとっても大きな励まし、かつ主からの恵みであったと思います。」とか、「シモン君に関する議題でしたが、教会員のみんなが、それぞれの役割と賜物を考えさせる、我々の目的を遥かに超えた交わりでした。神に感謝しています。」と言ってくださいました。それは私たちが自分の思いや考えによる判断ではなく、主の判断を求めた結果だと思います。

箴言には、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)とあります。また、「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)ともあります。私たちは自分の判断に頼るのではなく、主を恐れ、主の知恵を求め、主の判断を求めていかなければなりません。

Ⅲ.約束に忠実な神(16-27)

さて、そのようにギブオンの住民と契約を結んだイスラエルはどうなったでしょうか。16節から27節までをご覧ください。
「彼らと盟約を結んで後三日たったとき、人々は、彼らが近くの者たちで、自分たちの中に住んでいるということを聞いた。それから、イスラエル人は旅立って、三日目に彼らの町々に着いた。彼らの町々とは、ギブオン、ケフィラ、ベエロテ、およびキルヤテ・エアリムであった。会衆の上に立つ族長たちがすでにイスラエルの神、主にかけて彼らに誓っていたので、イスラエル人は彼らを打たなかった。しかし、全会衆は族長たちに向かって不平を鳴らした。そこで族長たちはみな、全会衆に言った。「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。私たちは彼らにこうしよう。彼らを生かしておこう。そうすれば、私たちが彼らに誓った誓いのために、御怒りが私たちの上に下らないだろう。」族長たちが全会衆に、「彼らを生かしておこう。」と言ったので、彼らは全会衆のために、たきぎを割る者、水を汲む者となった。族長たちが彼らに言ったとおりである。ヨシュアは彼らを呼び寄せて、彼らに次のように言った。「あなたがたは、私たちの中に住んでいながら、なぜ、『私たちはあなたがたから非常に遠い所にいる。』と言って、私たちを欺いたのか。今、あなたがたはのろわれ、あなたがたはいつまでも奴隷となり、私の神の家のために、たきぎを割る者、水を汲む者となる。」すると、彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この全土をあなたがたに与え、その地の住民のすべてをあなたがたの前から滅ぼしてしまうようにと、お命じになったことを、このあなたのしもべどもは、はっきり知らされたのです。ですから、あなたがたの前で私たちのいのちが失われるのを、非常に恐れたので、このようなことをしたのです。ご覧ください。私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」ヨシュアは彼らにそのようにし、彼らをイスラエル人の手から救って、殺さなかった。こうしてヨシュアは、その日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれた場所で、たきぎを割る者、水を汲む者とした。今日もそうである。」

彼らと同盟を結んで三日後、人々は、彼らが近くの者たちで、自分たちの中に住んでいるということを聞きました。イスラエルは騙されたことに気付きます。三日後に彼らがパレスチナ人であることが判明したのです。そのことが判明したとき、ヨシュアはどうしたでしょうか。イスラエルの全会衆は族長たちに不平を言いましたが、ヨシュアは彼らを滅ぼしませんでした。なぜでしょうか?18節にはその理由が、「全会衆の上に立つ族長たちがすでにイスラエルの神、主にかけて誓っていたので」とあります。

ヨシュアはなぜギブオン人たちにこれほどまでに義理を立てなければならなかったのでしょうか。なぜこの契約を無効にしなかったのか。ギブオン人たちはヨシュアを騙したのです。騙した契約は無効なはずです。民法でも騙された契約は、それが騙されたものであることが証明されると無効にされます。その上、主はヨシュアにカナンの地の異邦の民をみな聖絶するようにと命じておられました。であれば、その契約を無効にし、彼らを滅ぼしても良かったはずです。それなのに、どうして彼らを助ける必要があったのでしょうか。それはヨシュアと族長たちが、イスラエルの神、主にかけて誓ったからです。ヨシュアは一度契約したことに対して、どこまでも忠実に果たそうとしたのです。なぜなら、主なる神ご自身がそのような方であられるからです。イスラエルの神は人間との契約、約束に対してどこまでも忠実に守られる方なのです。それは私たちがどのような者であるかとか、私たちがこれまでどれほどひどいことをしてきたかということと関係なく、主の語られた約束に同意したことによって、それを最後まで果たしてくださるのです。なぜなら、主は真実な方だからです。主は真実な方なので、どこまでもそれを貫いてくださるのです。

私たちがこのような神のご性質を覚えておくということは、極めて重要なことです。なぜなら、神が私たちといったん約束されたなら、そのことは必ず成就するからです。神は契約を遵守される方なのです。それゆえに私たちは神の約束を求め、その約束を受け取るまで、忍耐して祈らなければなりません。なぜなら、ヘブル人への手紙10章35~36節には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」とあるからです。

それならばなぜ神はすぐに約束を成就されないのでしょうか。それは、私たちのためです。私たちがあえて忍耐することによって、私たちが主の御前にへりくだるためなのです。もし約束されたことがすぐに成就するとしたらどうなるでしょうか。いつの間にかそれを自分の手によって成し遂げたかのように思い込み、高ぶってしまうことになるでしょう。自分自身の努力や熱心さによって達成したかのように思い、神の栄光を奪ってしまうことになってしまいます。ですから、神は忍耐することを通して、待つことを通して、それが自分の力ではなく神の力によって成し遂げられたことを深く刻みつけようとされるのです。

もう一つの理由は、そのように忍耐することによって、私たちの信仰や人格を磨き上げようとしておられるからです。ローマ5章3~5節には、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。」とあります。こうした忍耐を通してこそ練られた品性と希望が生み出されていくということを覚えるとき、むしろ困難を静かに耐えることが神のみこころであり、そのとき私たちの人格が成長させられていくのです。

それゆえ、神が約束されたことが成就しないと嘆いたり、疑ったりしてはなりません。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。その忍耐を働かせることによって、練られた品性が生み出され、希望が生み出されると信じて、この神の約束の御言葉に信頼して歩みましょう。主は必ずご自身の約束を成就してくださいますから。

Ⅰペテロ2章18~25節 「主人に従う」

 きょうのテーマは「主人に従う」です。「主人」と言ってもその「主人」とは主イエスのことのことではなく、この世の主人ことです。これを現代風に当てはめるなら、会社の社長や職場の上司に従いなさい、ということになるでしょう。しかも善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさいというのです。冗談じゃない!やさしい上司になら従うことができるかもしれませんが、ガミガミ言うような横暴な上司に従うことなんてできません。しかし、ここではそのような主人にも尊敬の心を込めて従いなさい、というのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

Ⅰ.不当な苦しみに耐える(18-21)

 まず18節から21節までをご覧ください。18節をご一緒にお読みしましょう。
「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」

ペテロは、ローマ皇帝の迫害によって小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンを励ますために、この手紙を書きました。その中で最も重要なことは、彼らはどのような者であるか、ということです。そこでペテロは2章9節、10節で、このように言いました。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

この事実に基づいてペテロは、具体的な勧めを語るのです。それは12節にあるように、この「異邦人の中にあっても、りっぱにふるまいなさい」(12)ということです。「そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、そのりっぱな行いを見て、やがておとずれの日に神をほめたたえるようになります。」そうか、それじゃ頑張ろうと、この異教社会の中にあっても、主の証になるようにりっぱにふるまおうと思った次の瞬間、「えっ」と思うようなことばが続くのです。13節です。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行うように王から遣わされた総督であっても、」
とても無理です。当時はローマ帝国が支配していましたから、当時の主権者といったらローマの皇帝です。しかし、そもそも彼らが各地に散らされ肩身の狭い思いで生きなければならないのは、そのローマのせいです。そんな人たちに従うなんてできるはずがありません。しかし、そのように善を行って、愚かな人々の口を封じることは、神のみこころなのです。もちろん、それが神のみこころと違うことを命じるのであればあくまでも神に従うことが優先されますが、そうでない限り、人の立てたすべての制度に従わなければなりません。そのようにしてすべての人を敬い、兄弟たちを愛し、主権者を敬うことが神のみこころなのです。

その流れの中で今回の言葉が続くのです。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」と。

今から約2千年前のローマの社会では、奴隷制が敷かれていました。もともとギリシャもローマも戦勝国でしたから、植民地から大量の奴隷を連れて来たのです。借金で我が身を売った者たちもいました。中には生まれながらに奴隷という境遇の人もいました。いろいろな事情で奴隷として生きなければならない人たちが相当数いたのです。歴史の記述を見ると、当時ローマ帝国全体には6千万人の奴隷がいたと言われています。奴隷というと、鎖で数珠つなぎにされ、鞭でたたかれ、集団できつい労働に酷使されているようなイメージがありますが、実際は少し違っていたようです。中には家の管理を任せられたり、家庭教師や医者である奴隷もいました。当時、こうした労働や実業といったことは奴隷が担い、主人は政治に携わるか、もっぱら趣味や娯楽に興じていたのです。ですから、ここにある「しもべ」というのは、どちらかというと「その家に属する者」というニュアンスがありました。けれども、奴隷であることには変わりはありません。奴隷は主人の所有物であり、もし主人に従わなければ殺されることもありました。奴隷の人権などというものは全く認められていなかったのです。そうしたしもべたちに対してペテロは、奴隷の状態から解放されるように祈りなさいとは言わないで、むしろ、「尊敬の心を込めて主人に服従しなさい」と勧めたのです。それは善良でやさしい主人に対してだけでありません。横暴な主人に対してもそうしなさいというのです。

冗談じゃない!と私たちなら思うかもしれません。否、当時のしもべたちも、そのように思ったことでしょう。奴隷だから、制度だから従うのは仕方がないけれども、尊敬の心を込めて従うなんてできない。善良でやさしい主人になら従ってもいいけど、横暴な主人に従うなんてとんでもないと思ったとしても不思議ではありません。いったいなぜそのように主人に従わなければならないのでしょうか。ペテロはその理由を次のように語っています。19節と20節をご覧ください。
「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」

どういうことでしょうか?ペテロはここで善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従わなければならないのは、それが神に喜ばれることだからであると言っています。しもべがもし罪を犯したために打ちたたかれそれを耐え忍んだからといっても何の誉れにもなりませんが、もし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることだというのです。しもべが罪を犯すというのは、たとえば、主人の言いつけを守らなかったとか、言われたのにやりたくなかったからやらなかった、ということでしょうか。つまり、しもべとしての務めを果たさなかったとか、その務めに怠慢であった、明らかに違反していたということでしょう。そうしたことで主人に打ちたたかれたとしてもそれはある意味当然のことであって、それを耐え忍んだからといっても、何の誉めるべきことではありません。しかし、正しいことを行って打ちたたかれるようなことがあるとしたら、しかもその苦しみを耐えるとしたら、それは神に喜ばれることなのです。

なぜでしょうか?21節をご覧ください。ここには、「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」とあります。「そのため」とは何のためでしょうか?不当な苦しみに耐えることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。なぜなら、私たちの主イエスも、私たちのために苦しみを受けられ、その足跡に従うようにと、私たちに模範を残されたからです。

この「模範」という言葉は、習字の時に先生が書いた筆に沿って書くような様を表しています。つまり、キリストが不当な苦しみを受けられたのは、私たちが同じように不当な苦しみを受けても、その足跡に従うための模範となるためであったということです。私たちはそのために召されたのです。

キリストが担われた十字架の苦しみは、まさに不当な苦しみであり、全く理不尽なことでした。それは当時のユダヤ教の宗教指導者のねたみのゆえに引き起こされたことであり、ローマの極刑という厳しい刑罰、恥と苦しみに耐えるというものでした。それはご自身の罪のためではなく、私たちの身代わりのためでした。けれども、キリストはその不当な十字架の苦しみによって、私たちの罪のさばきを負ってくださったのです。それゆえ神は、キリストを高くあげられ、神の右の座に着座させました。そのキリストに、あなたがたも召されているというのです。

この召されていることに気付くことは、私たちの生涯において極めて重要なことではだと思います。私はよく「牧師にとって一番重要なことは何ですか」と尋ねられることがありますが、その時には迷わずこう答えます。「それは神に召されているという確信です」。神に召されているという確信がなければ続けていくことはできないし、逆に召されているという確信があれば、どんな困難でも乗り越えることができると思います。ですから召されているということを知ること、気付くことはとても重要なことなのです。

それは牧師に限らずすべてのことに言えるのではないでしょうか。クリスチャン生活においてもそうです。神様が私を呼んでおられることに気付いた時に、私たちのクリスチャン生活が始まります。イエス・キリストに召していただいた、イエス・キリストが私に目を留め、私の名を呼び、私を召してくださったので、この方についていくのです。それがわからなかったらついて行くなんてできません。嫌なこと、苦しいことがあったらすぐにポイッと投げ捨ててしまうことでしょう。私たちは私たちの人生の様々な局面で「わたしに従ってきなさい」という主の御声を聞くことによって、「そうだ、私は主に召されているんだ。だから主に従っていこう」ということになるのです。

ここでペテロは、「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。」と言っています。しもべとしての歩みの中で、どこかで不当な扱いを受け、どこかで人のいいようにされていると感じる時に、謙虚にへりくだった姿勢で、私たちを召してくださった方のことを考えてみなさい、というのです。

キリストは、最後まで苦しみを忍ばれただけでなく、自分を十字架につけた人々さえも赦してくださいました。自分を不当に扱う人間を、その不当な扱いに耐えるのみならず、赦されたのです。だから私たちも、不当な苦しみを与える人に対してそれに耐えるだけでなく、その人を愛し赦さなければなりません。なぜなら、キリストはその足跡に従うようにと、私たちに模範を残されたからです。私たちはそのように召されているからです。ですから、しもべとして主人に従うことができるかどうかという、ただ表面的に従うというのではなく、尊敬の心を込めて従うことができるかどうか、しかも、善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従うことができるかどうかは、私たちがこの方に召されているということにどれだけ気付いているかにかかっているのです。あなたがたが召されたのは、実にそのためなのです。そのことにあなたは気付いておられるでしょうか。そのことをどのように受け止めているでしょうか。

Ⅱ.キリストの模範(22~24)

第二のことは、そのキリストの模範とはどのようなものであったのかということです。
22節から24節までをご覧ください。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

ここに記されてあるほとんどのことは、イザヤ書53章からの引用です。イザヤ書53章は、旧約聖書の中で最も有名な箇所の一つで、キリストの受難を預言しています。ペテロはここでそれをそのまま引用しているのです。
22節の「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」というのは、イザヤ書53章9節の「彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが」という言葉の引用です。
 23節の「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」というのは、イザヤ書53章7節の「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、彼は口を開かない」からの引用です。
 それから24節の「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」というのは、イザヤ書53章12節からの引用です。そこには、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」とあります。
そして24節の最後の「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」というのは、イザヤ書では53章5節の「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」という言葉の引用です。
 また、先ほどはお読みしませんでしたが、25節の「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが」というのは、イザヤ書53章6節の「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」の引用です。
 このようにペテロは、キリストの模範をイザヤ書53章のみことばから、そっくりそのまま引用しているのです。どうして彼はそのように旧約聖書から引用したのでしょうか。ペテロは主イエスと3年半もの間一緒に過ごし、そのお姿をつぶさに見、その語られる言葉を聞くことによって、旧約聖書以上にイエスのことを知っていたはずですから、そのイエスについて語るのに、わざわざ旧約聖書をから引用しなくてもよかったはずです。それなのに、イエスの苦しみを語るのに、彼はあえて神の言葉である聖書の言葉を引用したのです。

それは、そのように聖書の言葉を引用することが、自分が語る言葉よりもはるかに意味があると思ったからです。ペテロはキリストを自分の目でじっと見、自分の耳でじっと聞いてきました。しかし、いざキリストの十字架の苦しみとその忍耐を説明しようとした時に、そうだ、神の言葉を引用しよう、と思ったのです。所詮、自分が経験したどんなことも神の言葉にはかなわない、ということを悟ったのです。自分書くどんな言葉よりも、一つの神の言葉の方が真理を語ると思ったのです。それほどに、神の言葉には力があるのです。

ところで、そのようにしてペテロが見出したキリストの姿とはどのようなものだったのでしょうか。第一に、キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されなかったということです。22節をご覧ください。「見出されなかった」とは、どんな風にあら探しをしても見つからなかった、という意味です。普通の人間ならば、「叩けば埃が出る」ものです。しかし、キリストはどこを叩いても、埃が出ませんでした。

第二に、彼はののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。23節です。十字架のそば近くにいたペテロは、真に主イエスの苦しみを目撃したものとして、毛を刈られる羊のように、黙って苦難を忍ばれる姿を印象的に覚えていました。兵士たちに拳でたたかれ、むち打たれ、いばらの冠をかぶせられるという痛みと苦しみの中にあっても、その苦しみに黙々と耐えられました。ユダヤ教の裁判では、全く事実無根の罪名を着せられ、祭司たちからあざけられ、あらゆる屈辱を受けました。それでもキリストは黙って、それを静かに受けられました。イザヤ書53章7節にあるように、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、彼は口を開かな」かったのです。それは、すべてを知り、正しくさばかれる神にすべてをゆだね切っていたからです。これこそ、私たちが習うべき模範ではないでしょうか。

第三に、キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。24節です。なぜでしようか。それは、私たちが罪から離れ、義のために生きるためです。そのキリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ペテロはここで「あなたがたは、いやされたのです」と言っています。打ち傷によっていやされたというのは不思議な表現ですが、それはある意味で、キリストの傷は私の傷との交換であったということです。それは心に受けた傷もあるでしょうし、あるいは身体に受けた傷もあるでしょう。もしかすると人生そのものに刻んでしまった傷というのもあるかもしれない。しかし主は、それらの傷のすべてを十字架の上で、私に代わって負ってくださったのです。

ところで、ペテロのそもそもの話は何だったかというと、しもべたちに対して、尊敬の心を込めて主人に従いなさいということでした。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさいということでした。それなのに、いつの間にか、そういう話ではなく、イエス様の十字架の打ち傷によって私たちの罪は赦され、その傷はいやされて、平安をいただいたという話にポイントが移っていることがわかります。いったいなぜポイントがズレてきてるのでしょうか。それは、これこそ最も重要なポイントであるからです。このことがわかれば全ての問題が解決するからです。十字架がわかるということが、私たちの人生におけるすべての不条理なことや苦しみの解決なのです。

私たちの人生ってそんなものですよ。私たちの人生にはいろいろなことがあるわけですが、結局のところ、最後は一番重要なところに行きつくわけです。それが十字架なのです。イエス様の十字架によって罪が赦され、天の御国に召されていくということです。これが本当の平安です。このことがわかったら、私たちの生活のすべての領域において解決が与えられるのです。

私たちは自分の人生の中でいろいろなことを経験します。時に苦々しいことや、悲しいこと、辛いこと、信じられないこと、そうしたすべてのことが神の御手の中で練られながら、最終的にはやっぱりここに行きつくのです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。私たちのすべての傷は、キリストの十字架の贖いでいやされたのです。もうこれ以上、何が必要でしょうか。もう何もいりません。キリストの打ち傷によってすべての傷がいやされたのですから、私たちはキリストの示された模範にならって、不当な苦しみをも、耐え忍ぶことができるのです。

かつてイギリスにヘレン・ローズベリーと女性宣教師がいました。彼女はケンブリッジ大学で外科医になり、アフリカのコンゴ共和国の宣教師になって遣わされました。少し前に亡くなりましたが、この方は、宣教師の中でもヘレン・ローズベリーの右に出る人はいないと言われるほど壮絶な生涯を送られた方です。
 彼女は、病院が少ないコンゴに医療宣教師として遣わされ、そこで小さなクリニックを始め、やがて病院を建てるのですが、コンゴの革命に巻き込まれる中で虐待され、レイプされ、投獄されるのです。彼女はその中でイエス様との体験を深めていくのです。
彼女の証しには、その壮絶な体験が書かれてあります。その壮絶な体験の中で、ヘレン・ローズベリーはイエス様の声を聞くのです。「ヘレン、この壮絶な経験をあなたにゆだねたことで、あなたはわたしに感謝できるか?たとえ、その理由をわたしがあなたに話さないとしても、感謝できるか?」
 その中で彼女は、答えるのです。「主よ。私はどんなことがあってもあなたに感謝します。なぜなら、私はあなたへの信頼を絶対に捨てませんから。」

このとき彼女が体験したのは、より深いキリストとの一体感でした。そうした不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは神に喜ばれることだからです。キリストもそうされました。私たちが召されたのは、実にそのためです。私たちが不当な苦しみを受けながらも、それに耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることであり、キリストとの一体感をより深く体験するという恵みがあるのです。

Ⅲ.牧者のもとに帰る(25)

第三のことは、その結果です。25節をご覧ください。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

これがキリストの十字架の贖いの結果です。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」これもイザヤ書53章6節の言葉のからの引用です。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」

「あなたがたは羊のようにさまよっていた」という言葉は、ある日、道に迷ったというような軽いものではありません。ずっと前から、そして継続的に、神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいたという意味です。私たちは迷える小羊なのです。羊は目の前のことしか見えないので、いつしかどこかに迷い込んでしまうわけです。私たちはその迷える羊なのです。そんな者が、キリストの十字架の贖いによって、キリストが身代わりとなって私たちの罪を負ってくださったので、心おきなく、神のみとに帰ることができました。

ここには、主なる神の姿が二つの言葉で表されています。一つは「たましいの牧者」であり、もう一つは「たましいの監督者」です。たましいの牧者とは、羊飼いが羊をケアするように、私たちの人生そのものをケアしてくださり、正しい道に導き、守ってくださる方であるということです。100匹の羊のうち1匹が失われたとき、羊飼いは山や谷を巡って、見つかるまで捜し続けます。そして見つかったとき、「大喜びでその羊をかついで、こういうのです。「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」(ルカ15:5)「たった1匹でしょ、しょうがない。羊は落ち着きがないからすぐにどこかに行っちゃうのよね。こういうことはよくあるの」なんて言ったりはしないのです。見つかるまで、どこまでも捜しし続けます。

それからもう一つのイメージは、「監督者」です。「監督者」とは、「見張るもの」とか、「見守るもの」という意味です。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)とあるように、主は私たちをしっかり守ってくださいます。キリストの十字架の贖いによって、私たちはこのたましいの牧者であり監督者のもとに帰ることができたのです。

けさ私たちは、このたましいの牧者であり監督者である主のもとに帰りましょう。そこでたましいの安らぎと喜びを味わいたいと思います。私たちのたましいがこの方のもとに帰るとき、私たちは真の安らぎを得ることができるからです。

初代キリスト教最大の神学者と言われたアウグスチヌスは、母モニカの心配をよそに放蕩生活を続けていましたが、「涙の子は決して滅びることはない」という司教アンブロシウスの言葉のとおり、母モニカが召される1年前に、遂に主のもとに立ち返りました。そのたましいの遍歴をアウグスチヌスはその著「告白」の中でこう述べています。
「あなたは人を目覚めさせて、あなたを賛美することを人の喜びとされました。というのもあなたは、私たちをあなたに向かうようにお造りになったからです。私たちの心はあなたの内で安らぎを得るまで揺れ動いています。」

この主の懐に憩いましょう。そして、不当な苦しみを受けることがあっても、それを耐え忍ぶ者でありたいと思います。あなたがたが召されたのは、実にそのためなのです。

ヨシュア記8章

きょうはヨシュア記8章から学びたいと思います。

 Ⅰ.アイの攻略(1-9)

 まず1節から3節までをご覧ください。
「主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」

前回は7章からイスラエルがアイとの戦いに敗れた原因を学びました。それは、イスラエルの子らが、聖絶のもののことで不信の罪を犯したからです。ユダ部族のカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取ったため、主の怒りがイスラエル人に向かって燃え上がったのです。そこでヨシュアは失意の中で主に解決を求めると、その者を一掃するようにと命じられました。そこでヨシュアはその言葉のとおり、それがアカンによる犯行であることが明らかになると、彼とその家族のすべてと、彼の所有するすべてをアコルの谷に連れて行き、それらに石を投げつけ、火で焼き払いました。

あまりにも残酷な結果に、いったいなぜ神はそんなことをされるのかと不思議に思うところでしたが、それは神の残酷さを表していたのではなく罪の恐ろしさとともに、私たちも皆アカンのような罪深い者であるにもかかわらず、神はひとり子イエス・キリストの十字架の死によってその刑罰を取り除いてくださったがゆえに、そうしたすべての罪から赦されている者であり、神にさばかれることは絶対にないという確信を与えるためでありました。それゆえ、神を信じる信仰者にとって最も重要なのは自分には罪がないと言うのではなく、その罪を言い表して、悔い改めるということです。悔い改めこそが信仰生活の生命線なのです。

今回の箇所では、聖絶のものを一掃しイスラエルに対する燃える怒りをやめられた主が、再びヨシュアに語られます。主は、ヨシュアに対してまず「恐れてはならない。おののいてはならない。」と語られました。「戦う民全部を連れてアイに攻め上」らなければなりません。ヨシュアは前回の敗北の経験を通してどれほどのトラウマがあったかわかりません。相当の恐れがあったものと思いますが、恐れてはならないのです。おののいてはなりません。なぜなら、主が彼らとともにおられるからです。彼らの罪は取り除かれ、かつてヨルダン川を渡ったときのように、またエリコの町を攻略したときのように、彼らを勝利に導いてくださるからです。その勝利はここに「見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。」とあるように、もう既に彼らに与えられているのです。ですから、彼らはかつてエリコとその王にしたように、アイとその王にもしなければなりませんでした。しかし、ここにはエリコの時とは三つの点で異なっていることがわかります。第一に、「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」ということ、第二に、「分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。」ということと、そして第三に、「町のうしろに伏兵を置け。」ということです。どういうことでしょうか。

まず「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」ということについてですが、前回の攻略で攻め上ったのは3千人でしたが、今回は「全部の民」です。恐らくイスラエルの軍隊は20万人ほどであったと考えられます。その20万人すべてが戦いに参加するようにというのです。それは神が助けを必要とされるからではなく、すべての神の民が神の戦いに参加するためです。できることはひとりひとり皆違います。できないこともあるでしょう。しかし、神の戦いは全員で戦うものなのです。

先日サッカーのワールドカップアジヤ最終予選で、日本はオーストラリアと戦いました。これに負けると日本は本大会に出場することができません。勝てば本体行きの切符を手にすることが出来るという大一番でした。その大一番で活躍したのは若干21歳の井手口選手と22歳の浅野選手の二人の若い力でした。しかし、この戦いで目立ったのはこの二人だけではなかったのです。他のフィールドに立つ選手も、ベンチにいる選手も、さらには日本中のサポーターたちも一つになりました。みんなで戦った勝利でした。その結果、これまで最終予選では一度も勝ったことがないオーストラリアに勝利して本大会行きを決めることができたのです。

それは、神の戦いも同じです。戦う民全員が出て行かなければなりません。自分ひとりくらいいなくても大丈夫だろうなどというかんが考えを抱いてはならないのです。全員で戦うという覚悟が求められているのです。

次に、「その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい」ということですが、エリコとの戦いにおいては、金、銀、銅、鉄以外のすべてを聖絶しなければなりませんでした(6:18-19)。しかし、アイとの戦いにおいては、その分捕り物と家畜だけは、彼らの戦利品とすることが認められたました。すなわち、普通の聖絶の原則が適用されたのです(申命記2:34-35,3:6-7)。重要なことは、原則の適用が人によって判断されるのではなく、神のみことばによってなされなければならないということです。自分が欲しいから取るのではなく、主が与えてくださるのを待たなければならないのです。主は、ご自分が良いと思われるときに、必要なものをちゃんと与えてくださるからです。

そして町のうしろに伏兵を置くことですが、エリコの戦いのときとは、戦術にかなりの違いが見られます。エリコの戦いでは、伏兵というものを全く用いず、ほとんど戦わずして勝利することができました。彼らは神の指示されたとおり6日間町の周りを回り、そして7日目には7回ひたすら回り、ラッパの音とともに時の声を上げると、エリコの城壁が崩れ落ち、そこに上って行くことができました。しかし、アイとの戦いにおいてはそうではありません。町のうしろに伏兵を置くようにと言われたのです。これはどういうことでしょうか。神は必ずしも超自然的な方法のみによって敵を打ち破られるわけではないということです。むしろ、ご自分の民が正々堂々と戦い、また、ある場合には、策略をも用いることによっても、敵を打ち破られることもあるのです。神はそのとき、そのときに応じて最善に導いてくださるのであり、神が成されることを一定の法則の中に当てはめることはできないのです。よく「前の教会ではこうだったのに・・」という不満を耳にすることがあります。確かにそれまでの経験が生かされる時もありますが、神の働きにおいてはその時、その時みな違うのです。事実、私たちは大田原と那須とさくらで同時に教会の形成を担っていますが、この三つの場所での働きを考えてもそこに集っておられる方々や置かれている状況が違うため、やり方は全く違うことがわかります。ですから、大切なことは主が言われることを行なうことであり、御霊に導かれて進むことなのです。

次に、3節から9節までをご覧ください。
「そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。「聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ。』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。あなたがたの神、主が、それをあなたがたの手に渡される。その町を取ったら、その町に火をかけなければならない。主の言いつけどおりに行なわなければならない。見よ。私はあなたがたに命じた。」こうして、ヨシュアは彼らを派遣した。彼らは待ち伏せの場所へ行き、アイの西方、ベテルとアイの間にとどまった。ヨシュアはその夜、民の中で夜を過ごした。」

ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をしました。そしてその中から勇士たち3万人を選ぶと、主が命じられたとおり、伏兵として夜のうちに彼らを派遣し町のうしろに配置しました。ヨシュアは前回と同じように、アイの町を北のほうから攻めますが、それはおとりです。アイの人々を町からおびき出すのです。アイから人々が出て来たら、ヨシュアたちは彼らの前で、逃げるふりをします。そしてアイの町に戦う人たちがいなくなったところに、伏兵として待機していたイスラエルの勇士たちが入って行って占領するという戦略です。それはヨシュアの考えに基づいてのことではなく、主に命じられた命令に基づいてのことでした。ヨシュアは、主が言いつけられたとおりに行ったのです。

Ⅱ.勝利の投げ槍(10-29)

さて、その結果どうなったでしょうか。まず10節から23節までをご覧ください。
「ヨシュアは翌朝早く民を召集し、イスラエルの長老たちといっしょに、民の先頭に立って、アイに上って行った。彼とともにいた戦う民はみな、上って行って、町の前に近づき、アイの北側に陣を敷いた。彼とアイとの間には、一つの谷があった。彼が約五千人を取り、町の西側、ベテルとアイの間に伏兵として配置してから、民は町の北に全陣営を置き、後陣を町の西に置いた。ヨシュアは、その夜、谷の中で夜を過ごした。アイの王が気づくとすぐ、町の人々は、急いで、朝早くイスラエルを迎えて戦うために、出て来た。王とその民全部はアラバの前の定められた所に出て来た。しかし王は、町のうしろに、伏兵がいることを知らなかった。ヨシュアと全イスラエルは、彼らに打たれて、荒野への道を逃げた。アイにいた民はみな、彼らのあとを追えと叫び、ヨシュアのあとを追って、町からおびき出された。イスラエルのあとを追って出なかった者は、アイとベテルにひとりもないまでになった。彼らは町を明け放しのまま捨てておいて、イスラエルのあとを追った。
そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。伏兵はすぐにその場所から立ち上がり、彼の手が伸びたとき、すぐに走って町にはいり、それを攻め取り、急いで町に火をつけた。アイの人々がうしろを振り返ったとき、彼らは気づいた。見よ、町の煙が天に立ち上っていた。彼らには、こちらへも、あちらへも逃げる手だてがなかった。荒野へ逃げていた民は、追って来た者たちのほうに向き直った。ヨシュアと全イスラエルは、伏兵が町を攻め取り、町の煙が立ち上るのを見て、引き返して来て、アイの者どもを打った。ある者は町から出て来て、彼らに立ち向かったが、両方の側から、イスラエルのはさみ打ちに会った。彼らはこの者どもを打ち、生き残った者も、のがれた者も、ひとりもいないまでにした。しかし、アイの王は生けどりにして、ヨシュアのもとに連れて来た。」

ヨシュアは先の3万人に加えて5千人を伏兵として町の西側に回らせました。そして民を町の北側に置くと、ヨシュアは,その夜、谷の中で夜を過ごしました。アイの王が気付くと、翌朝早く急いで、イスラエルを迎えて戦うために、出てきました。ヨシュアと全イスラエルが打たれたふりをして、荒野への道に逃げたとき、アイの民はみな、彼らのあとを追って出て来ると、ヨシュアの合図とともに伏兵が走って町に入り、それを攻め取り、急いで町に火をつけたのです。荒野に逃げていた民も、追って来た者たちのほうに向き直ると、ちょうどアイの民をはさみ打ちにするような形となり、アイの者たちを打ちました。イスラエルはアイの民を打つと、生き残った者も、のがれた者も、ひとりもいないまでにしました。しかし、アイの王は生けどりにして、ヨシュアのもとに連れてきました。イスラエルは、主が言われるとおりにしたことで、完全な勝利を収めることができたのです。

ところで18節には、アイがイスラエルの戦略にはまり、町を明けっ放しのままにしてイスラエルのあとを追ったとき、主はヨシュアに「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し出せ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」と言われました。いったいこの「投げ槍」とは何だったのでしょうか。その手が伸びたとき、陰に隠れていた伏兵が立ち上がり、町に入り、それを攻め取り、急いで町に火をつけました。それはかつてイスラエルがアマレクと戦ったとき、モーセが神の杖を手に持って、戦いの間中手を上げていた姿を思い起こさせます(出17:8-16)。ヨシュアはそれを記録するようにと命じられましたが、ここでは投げ槍が差し伸ばされたことが勝利の合図となり、敵を聖絶する力となりました。まさにそれは祈りの手だったのです。ヨシュアは主に命じられたとおりに投げ槍をアイの方に差し伸ばし、主が戦ってくださるのを祈ったのです。

これは私たちにも求められていることです。祈りの手を差し伸ばさなければなりません。それを止めてはならないのです。主がよしと言われるまで差し伸ばし、主が働いてくださることを待ち望まなければならないのです。

そして24節から29節までをご覧ください。
「イスラエルが、彼らを追って来たアイの住民をことごとく荒野の戦場で殺し、剣の刃で彼らをひとりも残さず倒して後、イスラエルの全員はアイに引き返し、その町を剣の刃で打った。その日、打ち倒された男や女は合わせて一万二千人で、アイのすべての人々であった。ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。ただし、イスラエルは、その町の家畜と分捕り物を、主がヨシュアに命じたことばのとおり、自分たちの戦利品として取った。こうして、ヨシュアはアイを焼いて、永久に荒れ果てた丘とした。今日もそのままである。ヨシュアはアイの王を、夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から降ろし、町の門の入口に投げ、その上に大きな、石くれの山を積み上げさせた。今日もそのままである。」

こうしてアイの軍隊を打ち破ると、イスラエルはアイの町に入って住民を皆殺しにしました。女子供を含めた全住民を殺すことはヒューマニズムに反するようであるが、聖絶するためという明白な理由のためにそのようにしたのです。聖絶とは何ですか?聖絶とは、神のものを神のものとして分離することです。そうでないものを徹底的に取り除くのです。イスラエルにとってこれは聖戦だったのです。彼らがその地に入って行っても、神の民として、神の聖さを失うことがないように、主はそうでないものを聖絶するようにと命じられたのです。

それは、神の民である私たちも同じです。私たちは常に肉との戦いがあります。そうした戦いの中で、それと分離しなければなりません。(Ⅱコリント6:14~18)それによって主は私たちの中に住み、共に歩んでくださるからです。それなのに、私たちはどれほどそのことを真剣に求めているでしょうか。この世と妥協していることが多くあります。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(Ⅰペテロ2:15)と書かれてあるように、あらゆる行いにおいて聖なるものとされることを求めていきたいと思います。

Ⅲ.エバル山の祭壇(30-35)

終わりに30節から35節までを見ていきたいと思います。
「それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。」

それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築きました。ヨルダン川を渡ることも、エリコとアイの攻略も、信仰生活の一部であり、祭儀の執行であったにもかかわらず、また、ギルガルでは40年ぶりに割礼を施し、過越しのいけにえをささげました(5:2-12)。それにもかかわらず、なぜアイの攻略後に再び祭壇を築いたのでしょうか。

「エバル山」は「はだか山」という意味で、アイの北方50キロにある山です。標高は940メートル、谷からは367メートルもそびえている山です。アイからそこへ向かうには最低でも2日はかかります。それゆえ、戦いを終えたばかりのヨシュアがこのような遠路を旅することができるはずがなく、これは後代の挿入ではないかと主張する人たちもいるのです。

しかし、それは申命記27章で、モーセによって命じられていたことでした。すなわち、イスラエルがヨルダン川を渡ったならば、エバル山に主のための祭壇、石の祭壇を築き、そこで全焼のいけにえと和解のいけにえをささげなさい、ということです。ヨシュアはそのとおりに行ったのです。それにしても、なぜこの時だったのでしょうか。エリコ及びアイとの戦い、アカンの事件を経験し、これからさらに多くの敵と戦わなければならないイスラエルにとって、エバル山での祝福と呪いの律法の確認は、まことにふさわしいものであったからです。

石の上に律法が写されると、イスラエルの民はゲリジム山とエバル山の二つに分かれて立ち、律法の書に記されているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばをことごとく読み上げました。ヨシュアはモーセが命じたとおりにし、読み上げられなかったことばは一つもありませんでした。それは、イスラエルの中心は神のことばであり、その神のことばによってこそ彼らは強くなり、勝利することができるからです。それは、私たちも同じです。私たちも神のみことばによって強められ、神のことばに徹底的に従い、信仰によって神の約束を自分のものにしていく者でありたいと思います。

Ⅰペテロ2章13~17節 「人の立てたすべての制度に従いなさい」

 きょうは、「人の立てたすべての制度に従いなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。聖書の中には、「これはいい言葉だ」と、赤い線を引いたり、一生懸命暗唱して覚えたりしようする言葉があれば、なんでこんな言葉があるのだろうと、戸惑いを覚える言葉もあります。きょう、私たちに与えられている聖書の言葉も、そのような戸惑いを覚える言葉の一つかもしれません。それは、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」という言葉です。主に従いなさい、というのならわかりますが、ここには、人の立てたすべての制度に従いなさい、と命じられています。それがどのようなものなのかというと、13節と14節には「主権者である王であっても」、また、「悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても」と言っています。また、18節には、しもべたちに対して、主人に従いなさい、とあります。この「しもべたち」とは、家の中で働く奴隷たちのことです。そのしもべたちに対して、尊敬の心を込めて主人に服従しなさい、というのです。善良で優しい主人だけではなく、横暴な主人に対しても従いなさい、と言うのです。さらに3章には、妻たちに対して、「自分の夫に従いなさい」と続きます。ペテロは、政治や奴隷制度、そして結婚制度に至るすべてにおいて、「主のゆえに従いなさい」と命じているのです。

この聖書の箇所は、教会の歴史の中で、様々な問題を起こしてきた箇所でもあります。ある人々は、この聖句を読んで、「聖書にこう書いてあるのだから、あなたがたは、この制度に従わなければならない」と国家権力に従うことを強要したり、侵略戦争を正当化する根拠にまでしました。事実、日本の教会は、第二次世界大戦の時に軍事政権に飲み込まれていったという苦い歴史があります。

逆にある人々は、「人の立てた制度に従いなさい」とか、「上に立つ権威に従うべきです」ということを聞くだけで拒絶反応を起こす人もいます。君主制度や奴隷制度、あるいは封建的な結婚制度において人に従うなんてとんでもない、というのです。ペテロがここで語っているのは、その時代だけの特殊な状況の中での勧めであって、今の私には関係がないし、適用することはできない、というのです。

しかし、果たしてそのような読み方が、正しい聖書の読み方なのでしょうか。人の立てたすべての制度に従うとはどういうことなのでしょうか。きょうはこのことについてご一緒に考えていきたいと思います。

Ⅰ.人の立てたすべての制度に従いなさい(13-14)

まず13節と14節をご覧ください。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」

ペテロは12節で、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と勧めました。ここからそれが具体的な勧められていくわけですが、その一つが「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」ということです。それがローマ皇帝のような主権者であっても、あるいは、王から遣わされた総督であっても、です。

ペテロは、当時のクリスチャンたちが、どういう状況のもとに置かれていたかを良く知っていたはずです。ローマ皇帝は、その支配力を強めるために、支配しているすべての民に対して、自分を神として礼拝することを命じました。それは唯一の神だけを礼拝するクリスチャンにはできないことです。そのためクリスチャンは激しく迫害されることにもなったのです。事実、この手紙の受取人たちは、そのローマ皇帝の迫害によって散らされていた人たちです。そのような人たちに対して、たとえそのような支配者であっても「人の立てたすべて制度に従いなさい」と言っているのです。

確かに、私たちはイエス・キリストを信じたことで神の民とされました。この世のものではなく、神のもの、天に市民権を持つものとされました。しかし、それはこの世の制度に従わなくてもいいということではありません。この世に生きている者として、この世の制度にも従わなければならないのです。「人の立てたすべての制度に」従わなければならないのです。それが異邦人の中にあって、りっぱにふるまうということなのです。

それはイエス様の教えでもありました。マタイの福音書22章21節をお開きください。ここには、「イエスは言われた。『それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』」とあります。
これは、パリサイ人たちがイエス様をことばのわなにかけようとして、税金をカイザルに納めることは律法にかなっていることなのか、そうでないのか、という質問に対してイエス様がお答えになられたことです。イエス様はデナリ硬貨を手に取り、そこにカイザルの肖像が描かれているのを見せて、カイザルのものはカイザルに、そして神のものは神に返すようにと言われました。すなわち、たとえローマという異教社会であっても、その制度に従うことは神の御心であり、その責任を果たすことは正しいことであると言われたのです。

ローマ人への手紙13章1節、2節には、そのことがもっと強く勧められています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」
ここには、人の立てたすべての制度は神によって立てられたものであると言われています。それゆえ、その権威に従わないとしたらそれは神の定めに背いていることになるというのです。そして、そういう人は自分の身にさばきを招くことになると言われているのです。たとえそれが異邦人の社会であっても、人はみな、上に立つ権威に従うべきなのです。

それゆえにパウロは、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、感謝がささげられるようにしなさい。」(Ⅰテモテ2:1)と勧めているのです。なぜなら、そのことによって私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすようになるからです。神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。

それにしても、いったいなぜ人の立てた制度に従わなければなせないのでしょうか。ここにその一つの理由が記されてあります。それは、「主のゆえに」です。この主のゆえにという言葉は、その制度に従う根拠とか、理由ととることができます。どうして人の立てた制度に従わなければならないのでしょうか。それは、主のゆえであるということです。それは、敵をも愛されたキリストの愛のゆえに、なのです。それゆえに従うのです。

新共同訳聖書ではこれを「主のために」と訳されています。「主のために」と訳しますと、どちらかいえば、その目的となります。すなわち、私たちが、「人の立てたすべての制度に従う」のは、私たちを愛してくださった主のため、主の栄光のためであるということです。

いずれにせよ、私たちは自分たちを迫害する者を愛することなどできません。それは当然のことなのです。ですから、ペテロは人の立てたすべての制度に一生懸命頑張って従うようにしなさいとか、従える時には従いなさいと言っているのではなく、「主のゆえに」、「主のために」従いなさいと言っているのです。それが主のみこころだからです。それは人間の思いや力ではできないことですが、神にはどんなことでもできます。その神が敵をも愛されたキリストの愛のゆえに、また、キリストの栄光のために、どんな制度であっても、それが神のみこころに反しないものである限り、すべての制度に従うことが求められているのであり、そのことによって、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすことができるのです。

このように、私たちは異教社会の中で、神が無視されているような社会の中にあっても、人の立てた制度に従うということが求められているのです。もし異教徒が立てた制度だから従わないということがあるとしたら、それはりっぱなふるまいとは言えず、神の御心ではありません。私たちは天に国籍を持つ者ですが、同時にこの世に遣わされている者として、人の立てたすべての制度に従わなければならないのです。

Ⅱ.善を行って愚かな人々の無知の口を封じる(15)

いったいなぜクリスチャンは人の立てたすべての制度に従わなければならないのでしょうか。ペテロはここで別の理由をあげてそのことを勧めています。15節をご覧ください。それは、「というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」これはどういうことでしょうか。ここで言われている「善」とか、「愚かな人々」とはだれのことを指しているのでしょうか。

この文脈では、「善」とは人の立てた制度に従うことであり、「愚かな人々」とは、12節のクリスチャンたちを悪人呼ばわりしている人たちのことでしょう。つまり、そのようにクリスチャンがこの世の制度に従うことによって、クリスチャンたちに対して誤解と偏見を持ち彼らを悪人呼ばわりしている人たちでさえ、口が封じられる、すなわち、神のものとされるようになるというのです。

それは3章1節の、「みことばに従わない夫」も同じです。彼らはあなたがクリスチャンだということで悪人呼ばわりまではしないかもしれませんが、あまり快く思っていないかもしれません。しかし、たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるのです。あなたが黙って夫に従う態度を見て、神に従うということがどれほどすばらしいことであるかを、はっきりと知るようになるのです。「従えばいいんでしょ、従えば・・」というのは、ここで言われていることではありません。神に従うことは自分の夫に従うことであると受け止め、心から夫に従うのです。そうした妻の無言のふるまいによって、神をも恐れない横暴な夫であっでも、やがて神のものとされるようになるのです。

事実、初代教会のクリスチャンたちがこうした使徒たちの教えに従って、ローマ皇帝が定めた制度に従った結果、どのようなことになったでしょうか。彼らはローマの神々には仕えなかったし、皇帝を主と呼ぶこともしませんでした。また、不道徳とされるものにも参加しなかったので、激しい迫害を受けることになりました。これまで住んでいた所から追い出され、小アジヤの地方に散らされて寄留することを余儀なくされました。けれども、自分たちの信教の自由を守るべく、反ローマの政治活動に参加したりはせず、主の愛をもって従ったのです。そうした異教社会の中にあっても人の立てた制度に従い、異邦人の中にあって、忍耐をもってりっぱにふるまいました。その結果、ついにはローマ皇帝コンスタンチヌスがキリスト教に回心するまでの影響力を持つことができたのです。それは紀元312年のことです。つまり、主権者に対して服従したことによって、かえって主権者をキリストの主権の中にいれる支配力を持つことができたのです。

先週礼拝後にAさんの誕生日をお祝いました。その席で私が「Aさんはどのようにクリスチャンになられたのですか。」と尋ねると、彼女は「姉が先にクリスチャンになったので、その姉について教会に行くうちにクリスチャンになりました。でもつい最近までは母について来ているような感じでした。」と言われたので、「そうでしたか、ところで、お母さんはかつてキリスト教には大反対だったと聞いていましたが、その時どんなお気持ちだったんですか」とお聞きすると、同席しておられたお母さんがこう言われました。
「そうなんです、私は当時佛所護念を熱心に信じていたので、何とかやめさせようと必死でした。特に娘が結婚するときTさんもキリスト教を信じると言うものですから、何とか止めさせようと思ってTさんの家へ行きお願いしたのです。するとTさんのおじいちゃんは、かつて内村鑑三の教えに感動しキリスト教に入信しようと思うも家が農家だということであきらめなければならなかったので、その自分が果たせなかったことを孫がするということはこれほどいいことはないと、逆に丸め込まれてしまったんです。それなら私も行ってみなくちゃいけないと、教会に行くようになったのですが、本当に良かったです。」と言われました。
あれほど反対していたお母さんが逆に信仰に導かれたばかりでなく、今では毎朝3時半には起きてスクワットをし、その後欠かさず1時間はデボーションをせずにはいられないほどイエス様にとらえられるようになったのは、まさに神様の御業というよりほかにありまん。

善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころなのです。異邦人の中にあっても、りっぱにふるまうなら、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになるのです。

Ⅲ.自由人として行動しなさい(16-17)

第三のことは、自由人として行動しなさい、ということです。16節と17節をご覧ください。「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」

ここまで、「人の立てたすべての制度に従いなさい」ということをお話してきましたが、ここで一つの疑問が残ります。それは、この世の制度や秩序がいつも正しいとは限らないということです。人の上に立つ権威がもし神のみこころに反することを強いたとしたら、または、悪を行なうような場合にはどうしたらいいのでしょうか。そのことに光を与えてくれる御言葉が、この「自由人として行動しなさい」(16)という御言葉です。

たとえば、ローマ皇帝は自分を「人の姿をとった神」と主張し、自分を礼拝するようにと強要しました。しかし、クリスチャンはそのような力に屈しないのです。クリスチャンは、そのようなものからは解放されて自由なのです。たとえ絶頂を極めたローマ帝国であっても、やがてはしおれていく草にすぎません。私たちは、主なる神によって本質的に自由な存在として創造されているのです。

しかし、ふつう自由に生きなさいというとき、多くの場合それを自分の好き勝手にすることだと解釈したり、自分中心に生きることだと思いがちです。そこでペテロは、16節後半で次のように釘を刺すのです。「その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」原文では「行動しなさい」という言葉はなく、ただ「自由人として、神の奴隷として」とあるだけです。自由人として、神の奴隷として、というのはどういうことなのか、そのことばがどこにつながるのかについてはいろいろな解釈があります。その中で最も多いのは、自由人として、神の奴隷として、13節の、従いなさい、につなげるというものです。つまり、キリスト者が人の立てた制度に従うというのは自由人として、神の奴隷として従うということなのです。

では、自由人として、神の奴隷として従うとはどういうことでしょうか。クリスチャンは、すべての人に対して自由であり、キリストの福音によって罪から解放された者です。そういう意味では本当の自由をいただいている者なのです。しかし同時に、キリストに贖われた者であり、キリストに属する者として、神の奴隷、神の僕です。そのような者として行動するようにということです。

宗教改革者マルチン・ルターは、これをこのように表現しました。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であり、すべてのものに奉仕する僕である」
キリスト者の自由は、神さまからの賜物であり、神と隣人に仕えるという服従の生活において全うされるのです。ですから、ペテロは信者と国家の問題を、単にそれだけ切り離して考えるようなことをせず、神さまとの関係において考えているのです。そして、この個所のまとめとしてこういうのです。「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」(17節)

神様が私たちクリスチャンに願っておられることは、この世のすべての人を心から敬うというりっぱな態度です。皇帝や国の指導者たちは、その一例として引き合いに出されているに過ぎません。「すべての人を敬う」のです。ですから、神さまを信じている人はもちろんのことですが、神さまを信じていない人も、自分の好きな人もそうでない人も、すべての人を敬うのです。教会の仲間だけを愛し、この世の人々を軽蔑するようなことがあってはなりません。信仰を同じくする兄弟姉妹が互いに愛し合うのはもちろんですが、神さまの愛は、神さまに造られたすべての人へと広げられているのです。私たちの信仰を理解しようとしない人々や、国の指導者たちにまで広げられているのです。

それは、私たちがキリストの十字架によって自由にされたからです。「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)もう私たちを縛るものは何もありません。私たちはただ神の愛にとらえられているのです。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスの愛から、私たちを引き離すことはできません。そして、王であろうが、主人であろうが、夫であろうが、すべてのものがみな神さまの愛の中にあるのです。主イエスは、敵をも愛してくださいました。その主イエスの愛が、私を愛してくださり、また、同じように、人々を愛していてくださることを認めているので、その愛のゆえに、私たちは神のしもべとして、「人の立てたすべての制度に従う」のです。

しかし、その制度が神さまの領域にまで踏み込んできた時、私たちは、神の自由を与えられた者として、ペテロのように「人に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く宣言しなければなりません。これこそがキリスト者としての「りっぱなふるまい」なのです。

かつて日本を代表するクリスチャンの一人に矢内原忠雄という人がいました。彼は1937年、昭和12年、当時、東大の教授でしたが、その座を退くために大学に辞表を提出しました。
提出した前の年の2月26日に、いわゆる二・二六事件が起こるんですね。政府を軍部が指導し、日本の中国侵略はますます激しさを増して行きます。彼は、東大で植民地政策を教える専門家でしたが、熱心なクリスチャンであったため、この頃から平和のために戦うべきだと強く意識するようになるのです。そして、1937年の夏に、山陰、山陽、四国へと、自分の信仰の友を伴って、講演旅行に出かけるのです。それは、当時の軍国主義の中で決死の大伝道旅行でした。20日間をかけて、毎日、各地で福音を語り、平和を祈り、戦争を批判します。そして夏が終わった9月、中央公論に「国家の理想」と出した論文を発表するのです。
 「国家が目標とすべき理想は正義である。それは聖書の語る『義』『公義』である。正義とは、弱い者の権利を強い者の侵害から守ることだ。そして、国家が正義に反した時は、国民の中からそれに対する批判がなされなければならない。しかし今の日本は、概して誰一人それを批判する者がいない。」
この論文が、東大の経済学部の教授会で問題にされます。当時すでに、軍部、警察、司法、文部省は、全部連携を取っていました。そして、国と大学を挙げて、矢内原追放運動が展開されるのです。そのような中で彼は辞表を提出するのです。辞表を出した時の彼のことばは、こうでした。  
「私は広い野に出ました。たといそこが荒野であっても、吹く風は実に自由です。」
 たといそこが荒野であっても、吹く風は自由です。それは彼が周りのプレッシャーをはねのけてでも、自分のゆくべき道を見定め、信仰の良心の自由を守り通したがゆえに、心の中に与えられた自由でした。その自由は、たといそれが荒野であっても、神を信じてそれを成したのであれば、神さまは必ず守ってくださるという自由です。

自由というのは時に、勇気と犠牲を払います。戦後彼は東大の総長として返り咲きますが、中には、同じようなことをしていのちを落とす人も出ました。でもどんなにいのちを落としたとしても、生きて幸せになる以上に、自分の信仰の良心を貫くことの方が尊いと、多くの人は考え、それらの人の流された血によって、私たちは今自由を獲得しているのです。

獲得した自由をもし守るとしたら、やがて私たちも勇気と犠牲を払うべき時が来るかもしれない。そんなに大きなことは考えなくていいのかもしれない。でも覚えておきたいことは、小さな人間関係でも、学校の問題でも、会社の問題でも、周囲のプレッシャーをはねのけて、神の御心を生きるために、胸を張って主張し、それがゆえに追い出されるようなことがあったとしたら、この矢内原忠雄のことばを覚えておくべきだということです。「私は広い野に出ました。たといそこが荒野であっても、吹く風は実に自由です。」
 ある方が今月末に腎臓の摘出手術をすることになりました。ところが、最近の検査で脳に3ミリ程度の腫瘍が見つかりました。担当医の話では、腎臓の手術の前に脳の腫瘍の摘出をしなければならないが、腫瘍の大きさが3ミリということで、手術して摘出した方がいいかどうかギリギリのところにあるということです。「それは大変ですね」と言うと、その方がこう言われました。「ええ、でもそれほど悲観していないんです。すべてを主にゆだねていますから。」

これがキリスト者の自由です。たとえ問題があってもその問題に縛られるのではなく、その問題のすべてを主にゆだねることができるのです。あなたを縛っているものは何でしょうか?将来に対する不安でしょうか?人に対する憤りでしょうか?健康に対する不安ですか?様々なものに縛られながらも、すべてを主にゆだねて自由に生きていく者でありたいと思うのです。そして、その置かれた所で人の立てたすべての制度に従うことを通して、クリスチャンとしてりっぱにふるまう者でありたいと思います。

ヨシュア記7章

きょうはヨシュア記7章から学びたいと思います。

 Ⅰ.アカンの罪(1-9)

 まず1節から5節までをご覧ください。
「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。」

イスラエルは神の不思議な方法によってエリコで勝利を収めると、さらに西へと向かい、次の攻撃目標であるアイへと進みました。アイは、エリコから15キロぐらい離れたところにあり、さらに7~8キロぐらい西に進むとベテルがあります。それはエリコよりも千メートルほど高いところにあり、そこへ行くには上り道でありました。しかし、そこは難攻不落と言われていたエリコに比べ以前から廃墟となっているような町で、難なく攻略できるかのように思われました。実際、事前にヨシュアによって派遣された偵察隊によると、その地にいるのはわずかなので、民全部を行かせる必要はないと判断したほどです。当時アイの人口は一万二千人、戦闘可能な兵士は約三千人でした。そのような町であれば難なく攻略できるだろうと思い、民のうち、およそ三千人が上って行きましたが、思いがけない攻勢を受けて敗退する結果となりました。イスラエルは、36人の戦死者を出し、敗北感に打ちのめされ、水のようになってしまいました。いったい何が問題だったのでしょうか。6節から9節までをご覧ください。

「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」

ヨシュアは着物を引き裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶりました。そして、いったいどうしてこのようなことになってしまったのかと、嘆きました。ヨシュアの信仰はどこへ行ってしまったのでしょうか。ヨルダン川渡河を導き、エリコの攻略を成功させた指導者のことばとは思えないことばです。けれども、これが人間の現実ではないでしょうか。神の前に正しい人であったヨブも、試練の中で、信仰の弱さを露呈しました。それは私たちも同じです。どんなに奇しい主の御業を体験しても、ちょっとでも嫌なこと、苦しいこと、辛いことがあると、次の瞬間にはもうだめだと思ってしまいます。ヨルダン川の向こう側にいた方が良かった、というようなことを言って不信仰に陥ってしまうのです。ただヨシュアはそれだけで終わらないで、そのような悲しみの中にあっても、その敗北の原因は何だったのかを主に尋ねます。敗北を味わうことは人生の中で多々あることでしょう。しかし大切なのは、そこで失敗の原因をつきとめ、除去するように努めることです。

Ⅱ.身をきよめなさい(10-15)

主は、へりくだって祈るヨシュアに、その敗北の原因が明かされました。10節から15節までをご覧ください。
「主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。「イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。あしたの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。主がくじで取り分ける部族は、氏族ごとに進みいで、主が取り分ける氏族は、家族ごとに進みいで、主が取り分ける家族は、男ひとりひとり進み出なければならない。その聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければならない。彼が主の契約を破り、イスラエルの中で恥辱になることをしたからである。」

いったいイスラエルはなぜ戦いに敗れたのでしょうか、心のゆるみですか。戦術の不備ですか。いいえ、もっと本質的な原因がありました。それはアカンという人物が神のものを盗んだことです。アカンは神の命令に背き、聖絶のものの中から取り、それを自分たちのものの中に入れたのです。エリコは、カナン攻略の最初の町として、全く神のものとしてささげられた町であり、神だけのものでした。アカンは、その神のものを盗み、自分のものにしたのです。ですから、1節が鍵となります。

「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。」

これは7章全体の鍵になる御言葉です。イスラエルに起こった出来事が語られる前に、1節で問題点がすでに指摘されているのです。大勝利の陰に、次の敗北の芽が生えていたということです。聖絶すべきものをアカンが隠し持ったので、イスラエル全体が聖絶の危険に陥ったのです。ここではアカンの罪がアカン一人の罪ではなく、イスラエル全体の責任として問われています。イスラエルは神のいのちで結ばれた有機体であることを考えると、それはアカン一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題なのです。それは伝染病を囲い込んだ群れと同じなのです。

いったいどうしたらいいのでしょうか。13節で、主はその解決策を語られます。「立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。「イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。」

その解決のために主がイスラエルに求められたことは、民をきよめるということでした。彼らのうちから聖絶のものを除き去るということです。それまで主は彼らとともにはおらず、敵の前に立つことはできない、と言われたのです。

主は人の目に隠れた小さな罪でも見逃すことはなさいません。私たちに罪があるなら、主がともに働かれるということはないのです。イザヤ書59章1-2節に、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのでもないのです。私たちの咎が、私たちと神との間の仕切りとなり、私たちの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。もしかしたら。私たちに起きている問題の原因はどこか別のところにあるのではなく、私たち自身にあるのかもしれません。失敗のきっかけになった原因を「あの人」「あの事」にばかりに目を奪われずに、もう少し深いところを見つめなければなりません。その根本的な問題が、神との関係にあるのかもしれないのです。その神との関係のために、罪が取り除かれなければならないのです。

そして、主が示された方法は、彼らが部族ごとに進み出て、その中から主がくじで取り分ける部族、氏族、家族は、男ひとりひとり進み出なければならないというものでした。そして、聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければならないというものでした。

アカンを特定する方法について、くじによって違反者を見出すというのは、冤罪を生み出す懸念もありますが、これは神がこの問題に限って定めた方法であり、アカンの自白によって、適切な方法であったと見るべきでしょう。

Ⅲ.悪を取り除く(16-26)

16節から26節までをご覧ください。まず21節までをお読みします。
「そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。ユダの氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取られた。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取られた。ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、ユダの部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが取られた。そこで、ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」

そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させると、ユダの部族がくじで取り分けられ、さらにユダの氏族ごとに進み出させると、ゼラフ人の氏族がとりわけられ、ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取り分けられ、ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、アカンが取り分けられました。原因はこのアカンでした。そのアカンに対して、ヨシュアは「わが子よ」と言って、優しく語りかけています。わが子よ、あなたが何をしたのかを私に告げなさい・・と。するとアカンは、自分が聖絶のものを盗んだことを告白します。するとヨシュアは使いを遣わして、アカンが言ったことが本当であることを確かめると、アカンと彼の息子、娘、家畜、それに彼の所有物のすべてをアコルの谷に連れて行き、彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけました。そこで、主はイスラエルに対する燃える怒りをやめられたのです。

この大変な罪のためにアカンとその全家族が滅ぼされました。(25,26)それにしても、あまりにも残酷ではないでしょうか。アカンだけならまだしも、ここではその家族全員も打ち殺されています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

それは、神は罪を赦すお方でありますが、罪を見過ごしたり、大目に見たりする方ではない、ということです。必ずけじめをつけられます。これは神の無慈悲を表しているのではなく、罪の悲惨さを表しているのです。そして、その罪のもたらす影響がどれほど大きいものであるのかを示しているのです。パウロはこのことについてコリント人への手紙の中でこう述べています。コリント人への手紙第一5章6-7節です。
「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。」
ここには古いパン種を取り除くように、と言われています。この古いパン種とは、神の目にかなわない罪、咎のことです。なぜなら、そのようなものがあると、それが粉全体をふくらませることになるからです。つまり、全体に影響を及ぼしてしまうことになります。だから、古いパン種を取り除かなければならないのです。それは粉全体、教会全体を守るためです。それはちょうど体を蝕む癌のようなものです。それを取り除かなければ体全体に転移し、やがては死に至ることになってしまいます。そのための最善の処置は、癌細胞のすべてを取り除くことです。それと同じように、教会の中に悪があれば、その細胞のすべて取り除かなければなりません。それはひどい話ではなく、そうしなければ全体も滅んでしまうになるのです。それゆえ、私たちは私たちの内にある罪を処理しなければならなりません。

しかし、今日において、私たちがアカンのように神に滅ぼし尽くされることはありません。なぜなら、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架で滅ぼされたからです。私たちの罪は既に赦されているのです。主は、ご自身の御子イエス・キリストの贖いによって、私たちに対する燃える怒りをやめられたのです。(26節)。ヨハネ第一の手紙1章6~9節を開いてください。
「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

ですから、この箇所を人々の心の中に隠されている罪の糾弾と、それに対する神の裁きとしてだけ語られてはなりません。私たちはみな神の前に罪人であり、神のさばきを受けなければならない者ですが、そのような者も赦してくださる神の恵み、あわれみが語られなければならないのです。
私たちに求められているのは、悔い改めであり、主の赦しのもとに新しい一歩を踏み出すことなのです。

Ⅰペテロ2章11~12節 「異邦人の中でりっぱにふるまう」

 きょうは、「異邦人の中でりっぱにふるまう」というタイトルでお話したいと思います。この手紙はペテロから迫害によってポント、ガラテヤ、カパドニヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していたクリスチャンたちに書き送られた手紙です。ペテロは迫害で散らされた先々で肩身の狭いような生活を余儀なくされていた彼らを励ますためにこの手紙を書きました。どのようにして励ましたのかというと、彼らにもたらされた恵みがどれほど栄光に富んだものであるかを思い起こさせることによってです。そこでペテロは前の箇所で、彼らは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民であると言いました。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。その事実に基づいてそのような身分を受けた彼らが、その置かれた状況の中でどのように生きるべきかを、具体的に勧めるのです。それは、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまう」ということです。たとえクリスチャンが少ない異邦人ばかりの社会の中にあっても、立派に生活するようにと勧めるのです。りっぱにふるまうとはどういうことでしょうか。なぜそのように生きることが必要なのでしょうか。

Ⅰ.たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい(11)

まず11節をご覧ください。ペテロはここで、「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」と言っています。

ペテロはまず異教社会に住むクリスチャンが、その中でりっぱにふるまうために、消極的な面から勧めています。それは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけるということです。

肉の欲を遠ざけるとは、禁欲主義でありなさい、ということではありません。私たちが生来持っている食欲や睡眠欲といった基本的な欲求をはじめ、楽をしたいとか、快楽を味わいたい、認められたいといった欲を禁じているわけではないのです。そうではなく、そうした欲に支配されることがないようにということなのです。この世にどっぷりと浸かり、欲に支配されると、それがたましいに戦いを挑むことがあるからです。

創世記にロトという人物が出てきます。ロトはアブラハムのおいで、アブラハムと共に、故郷を出て神様の示す地へ行きました。ところが、このアブラハムの家族とロトの家族との間に争いが起こります。彼らが持っていた持ち物が多すぎたので、いっしょに住むことができなかったのです。そこで、アブラハムがロトに言いました。
「どうか私とあなたとの間に、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるのだから、私から分かれてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(創世記13:8-9)
そこで、ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見回すと、そこは主の園のように潤っていたので、ロトはその地を選び取って、そこに天幕を張ることにしました。しかし、そこはソドムとゴモラという悪に満ちた町のそばにあって、とても危険に満ちたところでした。けれどもロトはそんなことはおかまいなしに、さっさと移動して行きました。

その後、ロトとその家族について、聖書にはしばらく何も語られていません。次にロトについて記されてあるのは創世記19章ですが、そこには、なんとロトの家族がソドムの町のど真ん中に住んでいるのです。二人の娘は、ソドムの男性と結婚していました。それはまさに、神様がソドムの町を滅ぼされる直前のことでした。最初はソドムとゴモラの近くに住んでも大丈夫だろうと思っているうちに、いつの間にか、その真ん中に住んでいるということがあるのです。

20世紀のイギリスに、キリスト教を世俗から守った第一人者にC・S・ルイスという人がいます。彼は映画「ナルニア国物語」の著者でもありますので、キリスト教を知らない人でも、彼の名前は知っていると思います。C・S・ルイスは、オックスフォード大学で中世の文学を教えていましたが、徹底した無神論者でした。その彼がキリスト教に回心して、キリスト教を現在の様々な出来事から守る第一人者となりました。ものすごく多くの本を書いていますが、その中に、「悪魔からの手紙」というのがあります。「悪魔からの手紙」というのは、悪魔の親分が悪魔の子分に、どのように仕事をしたら良いかをいろいろ指導している内容が記されてあります。その一節を、そのまま読んでみたいと思います。
 「どだい物質主義が真理かどうかなどと人間に考えさせてはいけない。ただ、「物質主義は、力強くて、ハッキリしていて、これからの世を背負う生き方」とでも考えさせておきなさい。
覚えておくがよい、人間とは我々みたいに完全に霊的な存在ではないのだ。人間は眠くもなり、腹も空く。人間は洋服も着、様々なアクセサリーを身に付ける。おそらくおまえには想像もつかないだろうが、奴らはいつも日常の出来事に奴隷のように振り回されている。それが人間だぞ。それを十分に利用しなさい。おまえの作戦はこうだ。人間がこの世の先の出来事だとか、人生の意義だとか、永遠者の存在だとか、そんなことを考え始めたとき、すぐさま、そいつの注意を、そんな目に見えないものから、物質的な現実的な、目の前にあるものへと移してしまうのだ。
 人間は、着るもの、食べもの、そうした手で掴めるものに弱い。そうだ、この世界を彼らに向けて「現実世界」と呼ばせようではないか。「現実世界」という響きは、いかにもしっかりとしている。どうせ彼らは、「現実とは何なのか」、そんなことを尋ねて来るわけがない。人間は現実世界に弱い。
 俺の管轄にあった一人の男の例を挙げておこう。そいつはロンドンの大英博物館でよく研究していた無神論者だった。ある日、そいつの考えが間違った方向へと進んで行くではないか。なんと、そいつは死、生命、神、そんなことを考え始めていた。覗いてみると、なんと敵の(キリストの)手先が彼のそばでささやいているのだ。俺の20年に亘る労苦が水の泡になるところだった。そのとき、もしも彼を理論で説得しようとしていたなら、俺の負けであった。しかし、俺様もそんな「愚か者」じゃない。すぐさま、彼の中のもっとも俺様が支配しているところを捉えて、そしてこう言ってやった。「そろそろ、ランチの時間だよ」
 勿論、敵もさることながら、すぐさま「この問題はランチよりも大事だ」とささやいたが、ここがベテランの俺様の腕のみせどころだ。すかさず「大事であることはごもっとも。事実、この問題は、ランチの前の疲れた頭で考えるには、大事すぎる」とそう付け加えておいた。
 そして、「こんな大事な問題、ランチの後でじっくりと考えた方がいいんじゃないか」と付け加える頃には、彼はもう出口の方に足を踏み出していた。
 一旦、外へ出たら、この戦いは俺様のもんだった。道行く人の雑然とした働きぶりをとっくりと見させ、73番のバスが彼のそばを通り抜け、5分としないうちに彼を確信に導くことができた。
 俺はこのとき学んだよ。たとえ人が一人になっても、本をめくって考え事をしていたとしても、そんなときにどんなおかしな考えが人間の頭をかすめようとも、町に転がっている「現実生活」というものの臭いをたっぷりとかがせてやれば、たちまち霊的考えの雲は吹き飛んでしまう。」

 こういう内容です。悪魔は私たちの弱みを見事につかんでいます。自分の霊的なきよさ、この世にあって旅人として遣わされていることの大切さ、自分が神の国の市民であること、自分がいただいた罪の赦し、神の子どもとされた喜び、そんなものは、現実生活というものによって一瞬にして吹き飛んでしまうのです。勉強したの?と言われれば、あ、勉強の方が大事だと思ってしまいますし、夏休みの宿題終わったの?と言えば、宿題の事で頭がいっぱいになるでしょう。テレビの宣伝じゃないですけれども、借金のことを考え始めたら全部借金になってしまいます。現実生活というのは、それだけ力があるのです。そうしたたましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなければなりません。

それは、キリスト教が禁欲主義を推奨しているということではありません。あれはだめ、これもだめ、だぶんだめ、きっとだめ、と何でも禁じているわけではないのです。もっと積極的に、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにするのです。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)
ただ神の栄光を現すためにしているはずのことが、いつの間にかそこからズレてその欲に支配されてしまい、そこにどっぷりと浸かってしまうこともあるので、注意が必要なのです。

たとえば、仕事はどうでしょうか。仕事は大切なものであり、私たちが生きていく上で必要不可欠なものです。しかし、良かれ思って始めた仕事が、やがてその仕事の虜になり、日曜日も礼拝に行けなくなり、だんだん教会から遠ざかって行くことがあるとしたら、それは「たましいに戦いをいどむ肉の欲」となるのです。

ここでは、その「肉の欲を遠ざけなさい」と言われています。「遠ざけなさい」とは「遠ざけ続けなさい」という意味があります。クリスチャンは肉の欲に支配されるのではなく、肉の欲を遠ざけなければなりません。悪習慣や肉の欲といった内面的な戦いにおいては、これくらいなら大丈夫だという態度が多くの場合みじめな結果となってしまいます。一番確実な勝利の道はそれらのものを「避ける」ことだと、経験豊かなべテロは勧めているのです。

いったいなぜ肉の欲を遠ざけなければならないのでしょうか。ここには、「旅人であり寄留者であるあなたがたは」とあります。ペテロがここで「旅人であり寄留者であるあなたがたは」と語っていることには深い意味があります。人生は旅であり、この世は仮の住まいなのだ、という考え方は、一生涯をテントで生活したアブラハムの信仰からきています。

ヘブル人の手紙には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。・・・・これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:8~10,13)とあります。

アブラハムは、約束された地に他国人のように住み、天幕生活をしました。なぜでしょうか。なぜなら、彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。ですから、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎えていました。そして、この地上では旅人であり寄留者であることを告白し、そのように生活したのです。旅人や寄留者ですから、この地上のものに固執する必要がなかったのです。

それは私たちの模範でもあります。私たちはイエス・キリストを信じたことで天国の市民となりました。私たちの国籍は天にあるのです。この地上の住まいは仮の宿にすぎません。それなのにこれが終の棲家であるかのように、そこに執着して生きるとしたら、どんなに空しいことでしょうか。物欲に囚われない、名誉欲にも駆られない、世の煩いに縛られないという生き方こそ信仰者のあるべき姿です。もちろん、ペテロは、私たちに対して世捨て人のような、あるいは仙人のような生き方を勧めているわけではありません。しかし、自分たちが天国の市民であるという自覚は、肉欲を遠ざける大きな動機になるはずです。私たちはもう一度どのような者とされたのかを深く考え、神の所有とされた民として、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなければならないのです。

Ⅱ.異邦人の中にあって、りっぱにふるまう(12)

次に12節の前半をご覧ください。ここには、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」とあります。

「異邦人の中にあって」という言葉は、ユダヤ人と対比した異邦人という意味ではなく、クリスチャンではない、という意味の「異邦人」のことです。いわゆる、神を知らない人々、不信者のことです。この頃のクリスチャンは圧倒的に少数派でしたので、社会生活においては、こうした人たちに取り囲まれて生きていました。ですから、生活の全てが異教的な習慣に従ってなされていたのです。商売もいわゆるごまかしが横行し、酒の付き合いも今の日本と変わらないくらい一般的でした。そんな中で、「聖い生活」を保つこと、貫くことはなかなか容易なことではありませんでした。

それは現代のこの国に生きる私たちも同じです。クリスチャン人口が全体の0.4%と圧倒的に少ない社会の中で生きることは、容易なことではありません。どこか隠れるようにして信仰を保とうとしたり、できるだけこの世との関わりを断ち、この世に触れないように生きようとすることがあるのではないでしょうか。あるいは逆に、この世にどっぷりと浸かり、この世に流されながら生きた方がどんなに楽かと思うこともあるかもしれません。しかし、ペテロはそうした社会の中にあってそこから逃れるのではなく、あるいは逆にその中に取り込まれてしまうのでもなく、その真っただ中にあってりっぱにふるまいなさいというのです。

この「りっぱに」と訳された言葉は「他の人の目にとまる魅力的な美しさ」を意味しています。内的な美しさが外的にもあらわれる行為は、異教社会に住む者にとって必要なことであり、大切なことであったのです。そうすれば、彼らは、何かのことで彼らを悪人呼ばわりしていても、彼らのそのりっぱな行いを見て、神をほめたたえるようになるのです。

今年1月召された前ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書いてベストセラーになりました。三十代半ばで、思いがけず岡山に派遣され、翌年、大学の学長に任ぜられ、心乱れることも多かった彼女に、一人の宣教師が短い英語の詩を手渡してくれました。その中には、「Bloom where God has planted you.」(神が植えたところで咲きなさい)と書かれてありました。「咲くということは、仕方がないとあきらめるのではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」と続いたその詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と告げるものでした。
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいというのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、下へ下へと根を降ろすのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

この本を読んで思うことは、私たちの幸せは置かれた状況とは全く関係がないということです。どんな境遇でも、その置かれたところで花を咲かせることができるのです。ここでペテロは異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい、と言っていますが、確かに異邦人の中に置かれるということは楽なことではないかもしれません。誤解や偏見、無理解といったこともあるでしょう。肩身の狭いような思いをすることもあるかもしれない。しかし、そのような中にあってもりっぱにふるまうことができる。その場所で花を咲かせることができるのです。神様が私たちをそこへ置いてくださったと信じるなら、必ずそこでりっぱにふるまうことができるのです。

下村湖人(しもむらこじん)の名作に「次郎物語」があります。戦争中に、次郎と兄さんが、おじさんの徹太郎という、学校の先生をしているその家に疎開をするんです。ある日、3人が山に登って山の中腹で腰を下ろして、おにぎりを食べていますと、目の前に大きな岩が二つ、真ん中に松の木が、その岩の裂け目から根を張って生きているのを見ます。よく見ると、明らかに松の木が大きな岩を二つに割ったように生えているのです。
 おじさんの徹太郎は、その松の木を見て、いのちの力に感動してこう言うんですね。「強い。松の木は強い。でも強いのは松の木ばかりじゃないんだよ。いのちのあるものは、みんな強いんだよ」
そう言うと、徹太郎は次郎に向かって、「でもな」と話しを続けます。「でもな、卑怯ないのちは役に立たんぞ。卑怯ないのちというのは、自分の境遇を喜ぶことができない。」「たとえば、あの松の木だ。何百年かの昔、一粒の種が風に吹かれてあの岩の小さな裂け目に落ち込んだとする。種には何の責任もない。種はそういう境遇に巡り合わされたとする。一日で岩を割ることはできない。でもそこにじっと我慢して、その境遇を嘆くのではなく、恨むのでもなく、そこで気持ちよく努力すれば、やがていのちの種は大きな岩を二つに割ることもできる。」
その話を聞いて、次郎はハッとさせられるんですね。それまで次郎は疎開先で「僕はなんでこんなところに住んでいるんだろう。この土地の人々、この土地の子どもたちとは馴染むことができない」といつも不平不満を言っていたからです。しかし、そうした境遇を嘆くのではなく、あるいは恨むのでもなく、そこに神様が置いてくださったのだと受け止めて、その置かれたところで精一杯努力したら、きっとあの松の木のように岩を二つに割ることもできるのです。神さまはそのようにして旅人であり、寄留者であるあなたを導いてくださるのです。

あなたの置かれているところはどんなところですか。あなたはそれをどのように受け止めておられますか。だれも自分の境遇を選ぶことはできませんが、生き方を選ぶことはできます。異邦人の中にあって、りっぱにふるまうことができるのです。それはあなたが置かれたその所が、神によって運ばれた所だと、信仰によってしっかりと受け止めることから始まるのです。

Ⅲ.神をほめたたえるようになる(12b)

第三のことは、その結果です。異邦人の中にあって、りっぱにふるまった結果、どのようなことになるのでしょうか。12節の後半をご覧ください。ここには、「そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」とあります。

この手紙が書かれた当時、キリスト者を「悪人呼ばわり」する者がいました。 聖餐式のことを聞きかじって、キリスト者を「人の肉を食い、人の血を飲む者たちだ」と言ったり、教会は神の家族であり、信者は互いに兄弟姉妹だというと、「道徳的に乱れた人々」だと罵(ののし)る者たちがいたのです。このような中傷にもかかわらず、ペテロは「りっぱにふるまいなさい」と勧めるのです。それは今の時代でも同じです。キリスト教に対する無理解から、宗教はどの宗教も同じだと、宗教を持つことを極端に毛嫌いする世の中です。ただでさえ悪人呼ばわりされるのがクリスチャンですから、場の雰囲気に合わなければその場にいる人たちから煙たがられたり、みんなと調子を合わせないということで、仲間はずれされることもあるでしょう。しかし、クリスチャンのりっぱなふるまいを見ることによって、長い目で見ると、やっぱり信用できるのはクリスチャンだということがわかり、やがておとずれの日に神をほめたたえるようになるのです。

この「おとずれの日」というのは、キリストの再臨の時、世の終わりの裁きの日のことだと考えられます。しかし、この個所の場合は、「神に逆らっていた者が恵みの中に入れられる日」と理解するのがよいと思われます。それまで神に敵対していた人に神がおとずれてくださり、神を信じ、神をほめたたえるようになる、そういう日が来る、というのです。これは慰めであり、励ましではないでしょうか。今はわからなくとも、やがいおとずれの日に、そのような人たちも神を信じ、ハレルヤ!と言って神をほめたたえるようになるとしたら、それほど大きな喜びはありません。なぜなら、私たちはそのために召されているのですから。

この「見て」と訳された言葉ですが、これは、「じっと見つめる」という意味です。ちょっとした目には、変わったやつだ、と爪はじきにされるかもしれません。しかし、私たちの行いをじっと見つめる人は、その中に神の恵みと力を感じるようになるのです。
イエス様を十字架につけたローマの百人隊長は、その一人です。十字架に付けられたイエス様の姿を見て、「この方はまことに神の子であった」(マタイ27:54)と言いました。また、インドで牧師を監視するために担当させられた秘密警察官が長い「監視」の末に、この男の信じているイエス様は本物だと言ってバプテスマを受けた話を聞いたことがあります。彼らはたとえ今クリスチャンを悪者呼ばわりしていても、おとずれの日に、クリスチャンのりっぱな行いを見て、神をほめたたえるようになるのです。

ですから、皆さん、今の現実だけを見て落ち込んでいてはなりません。やがてその日が来ることを覚え、この現実の世界の問題で頭をいっぱいにするのではなく、現実の世界から離れて、週に一度神の前に出て、神の前にひれ伏し、伏し拝みながら、自分がどのような者であり、自分が今どこにいるのかを確認しながら、やがておとずれの日にもたらされるすばらしい栄光を仰ぎ見ながら、人生の最終目標である天国を目指して進んでいかなければならないのです。

確かにこの道は楽な道ではないかもしれません。険しい坂道を何度も上り下りするような道かもしれない。しかし、あなたは神から恵みを受けたのです。以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。そのような者として、この人生の旅を神とともに歩んでいこうではありませんか。

Ⅰペテロ2章9~10節 「神の所有とされた民」

きょうの箇所でペテロは、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、神の所有とされた民です。」と言っています。皆さんは、「あなたは誰ですか」と問われたら、何とお答えになるでしょうか。「はい、私は大橋富男という名前で、男性です。福島県の伊達町の出身です。時々中国人ですかと言われることもありますが、日本人です。今は栃木県の大田原市に住んでいて牧師です。」と言うと、私のことが少しわかってもらえるかもしれません。しかし、私がどういう人で、どんなことをしてきたのか、どんな価値観をもって生きているのかまではわからないと思います。しかし、本当に重要なのはその部分です。その部分が確立しているかどうかで、この世での生き方が大きく変わってくるからです。

たとえば、この手紙はイエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していたクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。彼らはローマの迫害によって散らされ、肩身の狭い思いで生きることを余儀なくされていましたが、そんな彼らにとって、自分たちがどのような存在なのか、自分たちは神の民であるということを知っていること、そのアイデンティティーをしっかりと確立していることは、たとえそのような状況の中にあっても決して流されることなく、堅く信仰に留まるために重要なことでした。

きょうのところでペテロは、私たちクリスチャンがどのようなものであるのかについて、次のように言っています。

Ⅰ.神の所有とされた民(9a)

9節の前半をご覧ください。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」どういうことでしょうか。

「しかし、あなたがたは」とは、先ほども申し上げたように、この手紙の受取人であり、小アジヤ地方、現在のトルコの各地に散らされていたクリスチャンたちのことです。ペテロはそんな彼らに向かって、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」と言っています。

「選ばれた種族」とは、私たちが神の民となったのは、私たちの考えや決断によるのではなく、神様の深いご計画の中で、私たちが救いに選ばれたということです。しかもその救いは今に始まったことではなく、永遠の昔から、この世界の基が置かれる前から、愛をもってあらかじめ定められていたことであるということです。「選ばれた」ということは、この世の人々とは違う生き方が求められているということでもあります。人は何のために生きているのでしょうか。人はあまりそのことを考えませんし、考えようともしません。しかし、私たちが生きる目的ははっきりしています。それは、神の栄光を現すことです。

きょうはこの後で悠人兄と奈々姉の婚約式が行われますが、私は結婚式のたびごとに、結婚というのはつくづく不思議なものだなぁと思います。結婚するふたりは、互いに知り合うまで、電車で隣り合わせても、街ですれ違っても、全く知らない者同士だったのに、それが結婚によって、親子よりも、兄弟よりも、親密な関係になっていくのです。また、世界中には、何十億の男性と、何十億の女性がいて、その中からたった一人の男性とたった一人の女性が結び合わされるのです。それはものすごい確率でしょう。それはまさにそのように選ばれたのであり、その背後には神の特別な配慮と不思議な導きがあったとしか言いようがありません。

私は、かつて奈々さんに「どんな人と結婚したいの」と聞いたことがあります。すると、奈々さんは、「えっ、謙遜な人がいいです」と答えられました。「謙遜な人か・・・、じゃ私のような人だなぁ」と思ったら、その後で、「私は、あまり外見は気にしないんです。本当に謙遜な人であればそれで十分なんです。」と言われたので、それはちょっと私ではないなと思いました。そこに颯爽と現われたのが悠人兄でした。お二人は以前からKGKでお知り合いであったようですが、それがまさかここでつながるとは誰が想像することができたでしょう。それはまさに神の深いご計画と導きによって結び合わせてくださったものであり、神の選びによるのです。

ということは、このようにして結び合わされたお二人は、他の人たちとは違った目的があるということです。お二人はこの婚約の期間になぜ自分たちは結婚するのか、それは自分たちを通して神の栄光を現すためであるという確信を深め、どのようにしてそれを実現することができるのかを、祈りながら求めていってほしいと思います。

イスラエルの民が失敗したのは、実にこの目的を見失ったことにありました。民族としてのイスラエルが神に選ばれたのはこの神を証するためだったのに、彼らは自分たちが選ばれたことに酔いしれて、その目的を忘れてしまったのです。私たちは神に選ばれた者であるということをしっかりと覚え、その目的に従って生きることが求められているのです。

また、ここには「王である祭司」であるとも言われています。「王である祭司」とは、王である神の御国に仕える祭司であるという意味です。旧約時代、祭司の働きは、罪人の罪を引き受けて、神の前に出ていけにえをささげて、祈ることでした。クリスチャンは「王である祭司」として人々の救いのためにとりなしをする働きがゆだねられているということです。それは牧師にだけ与えられた特権ではありません。救われて神の民とされたすべてのクリスチャンに与えられた特権なのです。

第三に、クリスチャンは「聖なる国民」です。聖なると訳された「ハギオス」というギリシャ語は、分離することを意味しています。汚れから分離して、神に属するもの、神のものとなったという意味です。

それと同じことが、次のところにも出てきます。それは、「神の所有とされた民」です。クリスチャンは神の所有とされた民、神の民とされました。それまではただの人であったわけです。何か特別なことができる訳でもないし、何か特別な身分であったわけでもありません。ただの人です。しかし、神はそんな私たちを選び、神の民としてくださいました。ロイヤルファミリーですよ。ロイヤルファミリーというのは、神の国のロイヤルファミリーのことです。すごいでしょう。

先日、東京都議会議員選挙がありました。都議会議員でも国会議員でもひとたび選挙に当選するや否や、それまで無名で平凡な人もさまざまな特権を持ち、生活も一変します。私たちも私たちの罪のために十字架で死んでくださり、三日目によみがえられたイエス様を信じたときから、私たちの身分も大きく変えられ、神の所有の民、神のロイヤルファミリーの一員とさせていただくことができたのです。

それなのに、私たちは、こうした自分の立場を忘れてしまうことがよくあります。周りの人から言われることばに流されて、自分の本来の立場を見失ってしまうことがあるのです。「お前は変わり者だな」と親戚の人から言われることがあれば、「ほう、お前はクリスチャンなのか」と驚かれることもあります。それでも多くのクリスチャンが積み上げてきた立派な証があるので、クリスチャンは割と評判がいいのですが、それが災いしてか、逆にクリスチャンらしからぬふるまいをすると、「お前はそれでもクリスチャンか」と言われて、落ち込んだりすることもあります。

ジョン・バニヤンが「天路歴程」という本を書きました。ある人が、自分たちの都市が滅ぼされることを知って、天国を目指して巡礼の旅に出かけます。ところで、途中で間違って落胆という沼に落ちたり、いろいろな人の言葉に騙されて、道をそれたり、元の道に戻ったりするのです。それでも、伝道者に教えられて狭い門を入って行き、十字架の前に立ったとき、ようやく無条件の赦しを体験することができました。私たちも、クリスチャンとしての素晴らしい身分を見出すまで、このような旅をしているのかもしれません。

そのような私たちに対して主は、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」と、同じような言葉を重ねながら語ってくださるのです。なぜでしょうか。それは同じような表現を何回重ねて言い換えたとしても、強調しすぎることがないほど、あなたがそのような身分とされていることを知ってほしいからであり、それほど、神の目にあなたは尊い存在なのだということを覚えてほしいからなのです。

実は、これは出エジプト記19章4~6節からの引用で、神がモーセに語られたことを、ここでペテロが引用しているのです。

「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたがわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

その中心にあることばは何かというと、あなたがたはわたしの宝であるということです。皆さんは、宝物を持っておられますか。皆さんの宝物は何でしょうか。「私の宝物はあなただ!」なんて言われたら、どんなに感動するかと思いますが、神様はそのように私たちに言っておられるのです。そして、その宝物のためにご自分のいのちを投げ出してくださいました。十字架の上で・・・。私たちはそのことがなかなか実感として沸いてきません。もし分かっていたら、どんなことがあってもそれを大事にするというか、それに応答していきたいと思うでしょう。それなのに、それがないとしたら、実際にはそのことが分かっていないということなのです。

ピーター・グリーブというハンセン病について、様々な記録を書いているイギリス人がいます。彼は長い間インドに住んでいましたが、そのインドでハンセン病に罹り、視力を失い、そして身体が麻痺した状態でイギリスに戻りました。その時、英国国教会のシスターが運営する施設でしばらく暮らすのですが、働くことができませんでした。すると社会から煙たがれるようになり、こんなことなら生きている意味などないと、自殺しようと考えました。自殺しようと、施設を去ろうとした日の朝早く起きて庭をブラブラしていると、何やらぶつぶつと唱える声が聞こえてきました。いったい何だろうと近づいて行くと、そこは礼拝堂でした。そこでシスターたちが、礼拝堂の壁に書かれていた患者一人ひとりの名前を挙げて祈っていたのです。ピーター・グリーフは、その名前の中に自分の名前があるのを見つけました。その途端、彼の心に電撃のような神の愛が走ったのです。自分はもう生きている意味がない。これから先どんな仕事に就けるのか、いや、仕事など就けない。家族を持つ希望もない。でも自分の名前は礼拝堂の壁に書かれていて、毎朝シスターが自分の名前をあげて祈っているのを見たとき、彼は思ったのです。自分は嫌われているのではない。自分は生きることを望まれている。自分はのろわれているのではない。自分は恵みを受けるためにいま生きているのだ。そう思った瞬間、彼はやみの中から、驚くべき光の中に招かれていたことに気付いたのです。

皆さん、私たちも、私たちがどんなにすばらしい身分とされたのか、神の所有とされた民、神の宝の民とされたことがわからないために、依然としてやみの中を歩んでしまうことがあります。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民なのです。このことを忘れないでください。あなたはのろわれているのではありません。愛されているのです。あなたはどうでもいい存在なのではない、神の目には高価で尊い存在なのです。信仰によってこの神のことばを自分への言葉として受け取り、神の民としての自分のアイデンティティーをしっかりと確立したいものです。

Ⅱ.今は神の民(10)

次に10節をご覧ください。いったいクリスチャンはどのようにしてこのような身分に変えられたのでしょうか。ここには、「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、いまはあわれみを受けた者です。」とあります。

クリスチャンは神によって選ばれたというだけでなく、そこにキリストによって変えられたという恵みがあります。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民です。以前はあわれみを受けなかった者なのに、今はあわれみを受けた者なのです。ダイエットや家の増改築だけでなく、クリスチャンにもbeforeとafterがあります。以前は神の民ではなかった。以前はあわれみを受けるものでもありませんでした。それなのに、今は神の民です。今はあわれみを受ける者となりました。その転換点には何があったのでしょうか。神のあわれみです。神のあわれみによってやみから光へ、のろいから祝福へ、絶望から希望へと、立場が移されたのです。それは私たちが自分の知恵や力や、また自分の信仰の力によって獲得したものではなく、一方的な神のあわれみによるのです。

この言葉の背景にはホセア書2章22、23節があります。そこには預言者ホセアの妻でありながら浮気を繰り返していたゴメルから生まれた3人の子供の名前を、主が祝福の名前に逆転させてくださるという約束が記されてあります。

1人目は「イズレエル」です。意味は、「神は蒔かれる」とか、「神は蒔いてくださる」です。かつて神の裁きの象徴として付けられたこの名前を、神は豊かな実りの地に変えてくださいました。また、2人目の子供は「愛されない者」という意味の「ロ・ルハマ」という名前でしたが、愛される者という意味の「ルハマ」に変えてくださいました。また3人目は「わたしの民ではない」という意味の「ロ・アミ」でしたが、「わたしの民」という意味の「アミ」に変えられました。

このように、ゴメルの三人の子供の名前には神の怒りとさばきが込められていましたが、神はイスラエルの民が心から悔い改め、ご自分に立ち返るのを忍耐して待ち望まれ、その名を祝福に変えてくださいました。このホセアの三人の子供の名を祝福の名に変えられたということは、私たち一人ひとりも先祖伝来の悪習慣から解放されて、自由にされ、新しい神の祝福の中に入れられることを象徴していると言えます。

私たちは誰も、親を選ぶことはできません。浮気妻ゴメルの子供たちは、生まれながらのろわれた名前が付けられていましたが、神はご自身の一方的なあわれみによって、それを祝福に変えてくださいました。私たちもかつては自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私をキリストとともに生かしてくださいました。その罪ののろいを祝福へと変えてくださったのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民とされ、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受ける者となりました。イエス・キリストの福音は、やみの中から、ご自分の驚くべき光という神の御子のご支配の中に移すことができるのです。

だから、たとえあなたが今やみの中にいるとしても、イエス・キリストにあるなら、光の中へ移されるのです。たとえあなたが今絶望的な状況にあっても、神のあわれみによって希望へと移されるのです。神はあなたをそのように招いておられます。問題はあなたがその神の招きにどのように応答するかです。神のあわれみによるbeforeとafterを、あなたも体験してください。

Ⅲ.神のすばらしいみわざを宣べ伝えるため(9b)

最後に、クリスチャンがそのような祝福、神のあわれみを受けたのは何のためか、その目的を見て終わりたいと思います。9節後半をご覧ください。

「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。」

先々週、さくらで82歳の宗川姉がバプテスマ(洗礼)を受けられました。ご主人が亡くなられて三か月後の昨年9月に、教会に行きたいとご自分から電話して来られました。あれから10か月間、礼拝と聖書の学びを続けて来る中で、すっかりと教会の方々とも打ち解けるようになり、バプテスマの恵みに与かることができました。不思議なことに、さくらの教会には比較的ご年配の方々がたくさん集っておられます。教会を始める前に想像していたことは、小さなお子さんを持つ若いお母さん方が多く来られるのではないかと思っていましたが、いざふたを開けてみると、ご高齢の方々が多いのです。そして、一般的には教会も高齢化して・・・と、高齢化に対して少しネガティブなイメージがありますが、さくらに集っておられる方々は少し違うのです。本当に慰めと力を受けます。

ちょっと前に開いた聖書の学びの時です。ヨハネの福音書9章の、生まれつきの盲人がイエス様によって目を開けていただいた箇所から学びました。この盲人はイエス様によって目を開けてもらうと、自分が経験したことを、ありのままに伝えました。すると、彼は会堂から追い出されてしまいましたが、そんな彼をイエス様が見つけ出され、信仰告白へと導かれました。「あなたは人の子を信じますか。」と尋ねると、彼は、「主よ。私は信じます。」と告白し、イエスを拝したのです。すると、学びに参加していたひとりの姉妹が、昨年、その姉妹のお宅の隣にある畑に立てさせていただいた看板のことでお話しされました。

「先生、あそこに看板立てたでしょ。あれは私にできる信仰の告白なんです。近所の人が、『あなたも教会に行っているの?』と聞いて来たら、『そう、私、この教会に行っているんです』と言うつもりで立ててもらったんです。」「まだ誰も聞いて来ないんですけれども・・。」

私はそれを聞いてとても感動しました。私としては、比較的通りに面したところにあるので、そこを通る人が「あっ、この近くに教会があるのかな」と潜在的な意識を持ってもらうことができればという思いで立てさせてもらいましたが、まさか、ご自分の信仰の告白のつもりで立ててもらおうと考えていたなんて思ってもいなかったので、それがその姉妹にできる宣教の一つの取り組みなんだなぁと思うと、心がとても篤くなりました。考えてみると、昨年6月に集うようになってから礼拝や聖書の学びに一度も休まず出席している中で、神の驚くべき恵みが心に溢れていたのでしょう。

まさに私たちが神に選ばれ、神の所有の民とさせていただいたのはそのためです。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。

私たちは、選ばれた種族、神の民であるという宣言を受け入れ、以前はあわれみを受けないものであったのに、今はあわれみを受けるようになったという自分の変化を喜びながら、そのような驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるという与えられた使命を実現していくために、神の民として力強く歩んでいきましょう。

Ⅰペテロ2章4~8節 「霊の家に築き上げられなさい」

きょうは、「霊の家に築き上げられなさい」というタイトルでお話しします。前回の箇所でペテロは、神の恵みによって救われたクリスチャンは、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めなさい、と勧めました。それによって成長し、救いを得るためです。今回のところでペテロは、そのように霊の乳であるみことばによって救われて、成長したクリスチャンはどうあるべきなのかを語っています。それは、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげなさいということです。

 

霊の家とは何でしょうか。それは神の教会のことです。パウロはコリント人への手紙第一3章16節で、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と言っています。神の御霊が宿っている私たちのからだが神の神殿であり、そのような人たちが集められ、築き上げられているのが教会です。教会は建物のことではなくキリストのからだであり、このキリストのからだである教会に築き上げられ、霊のいけにえをささげることが求められているのです。

 

Ⅰ.生ける石(4)

 

まず4節をご覧ください。

「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」

 

「主のもとに来なさい。」という勧めは、何か唐突な感じがします。新共同訳では、4節の冒頭に「この」ということばがついていて、「この主のもとに来なさい。」となっています。これは3節で言われていた「主がいつくしみ深い方であることを味わっているので」、この主のもとに来なさいということになります。しかし、英語の聖書には、霊の家に築き上げられるために、生ける石である主のもとに来なさい、とあります。つまり、真理のみことばによって新しく生まれたクリスチャンは、みことばの乳を慕い求めることによって成長し、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるために主のもとに来なさいということなのです。

 

旧約時代は、だれもが主のもとに来ることはできませんでした。そのためには祭司の仲介が必要だったのです。しかし、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じることによって、この救いを受け入れる人はだれでも主のもとに来ることができるようになりました。

 

なぜでしょうか。なぜなら、主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。どういうことでしょうか。キリストは人々を罪から救うためにこの世に来られましたが、人々はこの方を自分たちが期待していたメシヤ像とは違うと、十字架につけて死なせてしまいました。しかし、神はこの捨てられた石を礎の石として霊の家を築き上げられたのです。7節にあるように、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のです。

 

この「礎の石」とは、建物全体を支えるかなめの石のことです。パレスチナの家は石造りになっていて石を積み上げる方法で建築されていましたが、そのアーチ型の天井のてっぺんに入れる最後の石はとても重要な石で、その石がピッタリとはまるかどうかで、建物全体が強さが決まったのです。この石こそ建物全体のかなめとなったのです。英語の聖書には「Capstone」と訳されています。

 

それに対して6節の「礎石」は、「礎の石」という点では同じですが、これは建物全体を支える土台の四隅に据えられたかしら石のことです。英語では「Cornerstone」と訳されています。このコーナーストーンの上に建物の柱と壁が結び付けられて建物全体を支えていたので、これがどのような石なのかによって建物全体の強さが決まったのです。そういう意味では7節の「礎の石」と6節の「礎石」はどちらも建物全体を支えるかなめの石であったという点では同じです。それなのに、この石は、人には捨てられたのです。なぜでしょうか。それを見抜けなかった建築家の見立てが間違っていたからです。判断を誤ったのです。

 

イエスさまはそのことをぶどう園と農夫のたとえで説明されました。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して、旅に出かけました。収穫の季節になったので、ぶどう園の主人は収穫の分け前を受け取ろうと、農夫たちのところへしもべを遣わしましたが、彼らはそのしもべをつかまえて袋たたきにすると、何も持たせないで送り帰しました。それで主人は、私の愛する息子ならきっと敬ってくれるだろう、と最後にその息子を遣わしましたが、農夫たちは、「あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)と言って、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまいました。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。いったいなぜ彼らはそんなことをしたのでしょうか。イエスはその話の中でこう言われました。

「では、家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」と書いてあるのは、何のことでしょう。」(ルカ20:17)

まさにこれは農夫たちの見立て違いだったのです。彼らはしもべたちを侮辱し、跡取り息子を殺せば相続財産であるぶどう園を自分のものにすることができると思いました。しかし、それは完全な見立て違い、判断ミスだったのです。

 

時として、私たちもこのような間違いを犯してしまうことがあります。この石こそ私たちの人生の土台であり、キリストの教会の礎石、かなめの石なのに、そうでないものを土台に据えてしまうことがあります。イエス・キリストこそ教会の礎石であり、また、私たちの人生のコーナーストーンなのです。どんなに立派なものを建て上げようとしても、イエス・キリストという土台の上に立っていなければ、それは確かな人生とは言えないし、何らかの災害などがあった時にはもろくも崩れてしまうことになります。イエス・キリストがコーナーストーンです。この方を礎石として、この方の上に人生を築き上げるなら、どんなことがあってもびくともすることはありません。「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。」のです。あなたの人生はどんな石の上に建てられていますか。

 

使徒パウロもエペソ人への手紙2章20~22節のところで、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にあって聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」と言っています。キリスト・イエスが礎石です。霊の建物である教会は、この方にあって組み合わされ、結び合わされて、成長していくのです。

 

ですから、何を教会の土台に据えるのか、何を私たちの人生の土台に据えるのはとても重要なことなのです。使徒パウロはこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように立てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。」(Ⅰコリント3:10-11)

 

私たちは皆、人生という家を築いています。それをどのように築き上げて行くはとても重要なことです。しかし、もっとも重要なことは、何の上にそれを築き上げていくのかということです。パウロが賢い建築家のように土台を据えたと言っているように、私たちも賢い建築家のように、人生の土台を据えたいと思います。

 

いったいなぜこのキリストの上に築き上げられなければならないのでしょうか。それは、主は人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。ペテロはこの手紙の中で「生ける」ということばを好んで用いています。1章3節では「生ける望み」と言い、1章23節では「生けるみことば」と言っています。そしてここでは、「生ける石」と言っているのです。いったいペテロはここで何を言いたかったのでしょうか。それは、この石がいのちを与える石であるということです。死んでいる石ではない、いのちを与える石なのです。それはイエス・キリストが死からよみがえられ、今も生きておられる方であるからです。ですから、この方に信頼する者は失望させられることはありません。私たちは弱くても、彼は強い方であり、今も生きて私たちにいのちと力を注ぎ続けておられる方だからです。

 

この「生ける石」は英語で「リビングストーン」と言いますが、そこから家名を取ったスコットランドの宣教師で、探検家でもあったリビングストーンは、アフリカで60年の生涯を終えました。しかし、彼が召された1873年以降も、彼が与えた影響は今に至るまでアフリカの大地に生き続けています。ザンビアの南部には、彼の名にちなんで「リビングストーン」という名前の都市があるほどです。このように、キリストは生ける石として今も生きておられ、私たちの人生に大きく働いているのです。

 

「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」これが私たちの人生の、私たちの教会のかなめの石です。あなたはどのような土台の上に人生を築いておられますか。この生ける石の上に私たちの人生も築き上げていきましょう。

 

Ⅱ.霊の家に築き上げられる(5a)

 

第二のことは、キリストが生ける石であるというだけでなく、私たちも生ける石として、霊の家に築き上げられなければならないということです。5節をご覧ください。ここに、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」とあります。これはどういうことでしょうか。

 

「あなたがた」というのは、すべてのクリスチャンのことを指しています。これはローマ皇帝の迫害によって小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ペテロはそうした彼らに対して、「あなたがたも」と言っているのです。私だけでなく、あなたがたも、この石の上に築き上げられなさい・・と。

 

ペテロが石となってキリストの上に築き上げられることについては、マタイの福音書16章に語られていました。一行がピリポ・カイザリヤにいたとき、イエスが弟子たちに「人々はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねると、今度は弟子たちに、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われると、ペテロは弟子たちを代表してこう言いました。「あなたは、生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)

すると、イエスは彼にこう言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:17-18)

 

ペテロというのは「岩」とか、「石」という意味です。「あなたは岩です、石です。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます」と言われたのです。「この岩」とはペテロのことではなくイエスさまご自身のことです。その岩であられるイエスさまの上に、石であるペテロを用いてご自身の教会を建てるというのです。

イエスさまがなぜ彼をペテロと呼ばれたのかはわかりません。しかし、彼はその名前で呼ばれることをどれほど光栄に思ったことでしょう。どんなに小さな石でも、キリストという大きな岩の上に建てられた霊の家を築き上げていくために用いられていることを誇りと思ったに違いありません。

 

それはペテロだけでなく他の弟子たちも同じです。彼らは初代教会で重要な役割を果たしました。彼らは、イエス・キリストというコーナーストーンに直接つながっている土台の一部とされました。しかし、教会は使徒たちや他の指導的な人々だけで立て上げられているのではありません。石造りの建物には、大きな石ばかりではなく、小さな石も必要です。大きさばかりでなく、形も、色も、堅さも、様々なものが必要なのです。ですから、ペテロはここで、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」と言っているのです。私もイエスによって教会の土台石にされたように、あなたがたも、主の招きに応じて、生ける石として、霊の家に築き上げられなさい、と呼びかけているのです。

 

これは明治の文豪、徳冨蘆花(とくとみ ろか)という小説家の「昼寝の夢」という小説に出てくる一節です。ある日旅人が天国へ行った夢を見ました。天国の中央に新しき都エルサレムがあって、その石垣には昔から歴史上人類に貢献してきた有名な作家の名前がずらりと刻まれていました。ダンテ、ミルトン、シェークスピア、テニスン、トルストイ、ドストエフスキー等の栄光の石でした。彼は驚きながらも自分の石はどこにあるのかと一生懸命探しました。大きい石から小さな石まで探して行くうちに、ほんの小指の先ほどの小さな石に「徳冨蘆花」と刻んであるのを発見しました。彼は怒りました。怒りのあまり、大石と大石との間にはさまれた、その小さな自分の石を取り出そうとすると、突然、大音響と共にその壮大な天国の都が崩れかけました。その瞬間、彼は恐ろしさのために目が覚めた」というのです。つまり、天国全体にとっては無くてならない存在だということを悟らされたのです。私たちはそれぞれ小さな石であるかもしれませんが、霊の家を築き上げていくための大切な材料の一つであることを覚え、共に霊の家を築いていくものでありたいと思うのです。

 

ところで、いったいどのようにして築いていったらいいのでしょうか。幸いなことに、ここには、霊の家を築き上げなさいとは言われていないで、霊の家に築き上げられなさいと受け身で言われています。どういうことでしょうか。それは、建て上げてくださるのはイエス様であるということです。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長し、愛のうちに立てられるのです。」(エペソ4:16)

どんな建物でもそうですが、どんなに立派な柱があっても、断熱性の高いペアガラスにしても、無垢のフローリングにしても、それだけでは意味がありません。それが組み合わされて、結び合わされて、すばらしい建物となるのです。それを建て上げてくださるのがイエス様なのです。だから、私たちはそんなに頑張らなくてもいいのです。私たちは生ける石として自分を主に差し出すだけでいいのです。そうすれば、主が建て上げてくださるのです。

 

今回もアメリカから4名のチームが来日してくださり、明日からのさくらでのサマー・イングリッシュ・デイ・キャンプで奉仕してくれることになりました。どうなるかわかりません。わかりませんが、大きな梁や無垢材のフローリング、ペアガラスどころかトリプルガラスのサッシも用意されました。こうした一つ一つの材料を主に差し出すとき、主が建て上げてくださると信じましょう。

 

Ⅲ.聖なる祭司として(5b)

 

第三のことは、私たちが、霊の家に築き上げられるのは何のためか、その目的です。それは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるためであるということです。つまり、聖なる祭司として神と人に仕えることです。5節の後半をご覧ください。ここには、「そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とあります。

 

祭司というのは、神に仕える仕事です。もう少し正確に言うと、神の御前に人々の罪を担ってとりなす者です。ですから、イエス・キリストは私たちの大祭司であると言われているのです。そして、ここには私たちは聖なる祭司であると言われています。マルチン・ルターは、ここから「万人祭司説」を唱えました。クリスチャンはみな祭司であるという教理です。彼が宗教改革を行ったのは1517年ごろですが、それまでは聖職者と平信徒という区別がありました。罪の赦しを祈ることも、聖書の説き明かしをすることも、それはもっぱら聖職者の仕事であって、平信徒にはできないと考えられていたのです。しかし、マルチン・ルターはその区別を取っ払いました。信仰者はみな祭司であると主張したのです。それは、信仰者は互いに対して小さなキリストになることができるということを意味しています。

 

ですから、私たちは互いの罪を負い合い、互いのために祈り合い、とりなし合うことができます。互いのために聖書を説き明かし、互いに励まし合うことができるのです。私たちは互いに聖なる祭司、小さなキリストなのです。その私たちに求められているのは何でしょうか。聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるということです。

 

ユダヤ教の神殿では、目に見えるいけにえがささげられました。しかし、霊の家である教会では、目に見えない霊のいけにえをささげます。では、イエス・キリストを通してささげる霊のいけにえとはどのようなどのようないけにえでしょうか。

詩篇50篇14節には、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」とあります。ここには、「感謝のいけにえ」とあります。神に感謝をささげること、それが一つの例のいけにえなのです。

また、詩篇51篇17節には、「神へのいけにえは、砕かれたましい。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた悔いた心です。神はそれをさげすまれません。

また、詩篇141篇2節には、「私の祈りが、御前への香として。私が手を上げることが、夕べのささげものとして立ち上りますように。」とあります。これは祈りのことです。神への祈りが神への喜ばれる霊のいけにえであると言われているのです。

さらに、ヘブル人への手紙13章15、16節には、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」善を行うことと、持ち物を人に分け与えることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」とあります。賛美のいけにえ、さらには、善を行うことや持ち物を人に分け与えることも、神に喜ばれるいけにえです。

さらに、ローマ人への手紙15章16節を見ると、ここには、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは、異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」とあります。パウロがここで言っている祭司としての務めというのは、言うまでもなく伝道のことです。自分は伝道をもって、祭司の務めを果たして、キリストの福音を証し、人々に宣べ伝えること、それが神へのいけにえであると言っているのです。

 

こうやってみると、神に喜ばれるいけにえとは、私たちの生活のすべてであると言うことができます。ですから、パウロは、ローマ人への手紙の中でこのように言っているのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「あなたがたのからだを」というのは、あなたがたの存在とか、あなたがたのすべてということです。それをささげなさいというのです。それこそ、神が喜ばれる霊のいけにえ、霊的な礼拝なのです。

 

生ける石であるキリストのもとに来て、生ける石として、霊の家に築き上げられた私たちは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなければなりません。あなたのベクトルはどこを向いていますか。あなたは、聖なる祭司として、神に喜ばれる霊のいけにえをささげていますか。あなたのからだを、あなたの存在のすべてを神に受け入れられる、生きた供え物としてささげましょう。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝なのです。私たちはいったい何のために救われたのか、その目的を知っているかどうかは、私たちの信仰の歩みに大きな影響を及ぼします。私たちが救われたのは霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるためであるということをはっきりと知っている人は、この地上での生涯を神と人のために喜んでささげることができるようになるのです。

 

最後に一つのお話しをして終わりたいと思います。何人もの男たちが大きな石にロープをつけて丘の上に引き上げていました。石を滑りやすくするために、石の下に丸太を並べ、少し動かしてはまたそれを並べるというようにして、長い坂道を上っていきました。そこにとおりかかった旅人が、「そんな大きな石を運んで、どうするのかね。」と聞きました。すると一人の男が、苦しそうな顔をして、こう言いました。「そんなこと知るもんか。俺は日雇いで働いているだけさ。しかし、こんなにきつい仕事じゃ割にあわないぜ。」ところが、一緒に働いていた別の男が、汗だらけの顔でしたが、白い歯をみせてこう言いました。「だんな、ご存知じゃないんですか。この丘の上にはね、この町一番の立派な教会が建つんですよ。これはその石なんです。さあ、もうひとがんばりだ。」

 

皆さん、どちらの男がその日の仕事に満足できたと思いますか。自分がしていることの目的を知っていた人です。私たちも、神が私たちを贖って、霊の家に築き上げられたていることの目的を知り、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれ霊のいけにえをささげる者でありたいと思います。

ヨシュア記6章

きょうはヨシュア記6章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.城壁がくずれるために(1-11)

 

まず1節から11節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」

 

主の奇跡的なみわざによってヨルダン川を渡ったイスラエルはまず割礼を施し、過越しのいけにえをささげました。そして、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、抜き身の剣を手にしたひとりの人がいて、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」と命じられ、ヨシュアはそのようにしました。すなわち、彼は主の御前に自らを明け渡し、主の命じられることに従っていく準備をしました。そして、いよいよ約束の地カナンの占領が始まっていきます。

 

その最初の取り組みは、エリコを攻略することでした。エリコの町はパレスチナ最古の町と言われており、この町はパレスチナの主要都市であっただけでなく、パレスチナにおける交通の要所であり、軍事的にも重要な拠点でした。ですからこのエリコの町を攻略することができるかどうかは、その後のヨシュアの戦いにとって極めて重要なことでした。

 

しかし、1節を見ると、「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。」とあります。この町の周囲には高い城壁が巡らされており、だれひとり出入りすることができない難攻不落の町でした。この難攻不落の要塞を前にして、おそらくヨシュアは不安と恐れの中でしばしたたずんでいたのではないかと思います。

 

そのような時に、主がヨシュアに語られました。2節です。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」ここで注目したいのは、主がヨシュアに、エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡したと、完了形で言われていることです。すなわち、いまだ起こっていない未来のことが、もう既に彼の手に渡っているということです。このことは私たちの信仰生活において極めて重要なことを示しています。それは、たとえそれが未だ起こっていないことであっても、神の約束の言葉があれば必ず成就するということです。すなわち、たとえそれが未来のことであっても完了形となるのです。ですから、私たちは何かを始めていくとき、まず主の前に祈り、主から約束の言葉をいただいてから始めていくことが重要なのです。

 

今週の日曜日の礼拝後に、三原神学生を招聘することについての祈りの分かち合いをさせていただきました。教会の将来のことを考えるとどうしても若い働き人が必要なことは明らかですが、経済的状況をみるとそれはとても不可能なことと考えていました。しかし、みことばを読めば読むほど神のみここはどこにあるのだろうかと祈らされるようになりました。その一つがこのヨシュア記3章に記されてあるヨルダン川渡河の内容です。イスラエルの民はどのようにしてヨルダン川を渡ることができたのかというと、ヨルダン川の水がせき止められたので渡ったのではなく、契約の箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいに溢れるのですが、上から流れ下る水はつっ立って、水は完全にせきとめられたので、彼らはその乾いたところを渡ることができたのです。状況を見ればそれは完全に不可能なことでしたが、神のみこころは状況を見ることではなく、神のみことばに聞き従うことだったのです。そのとき、主のみわざがなされました。ですから、私たちはまず神の御心は何かを知り、それに従うことが求められていると思いました。主がどのように導いてくださるのかわかりませんが、この二カ月の間祈り、それを求めていきたいと思ったのです。

 

ところで、主はどのようにしてエリコの町を彼らの手に渡したのでしょうか。3節から5節までをご覧ください。「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」

 

ここで主は大変不思議なことをヨシュアに言われました。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ、というのです。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、町の周囲を一度回り、六日間、そのようにし、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならないというのです。そして、祭司たちが吹くその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。そうすれば、城壁が崩れ落ちるので、崩れ落ちたら、民はおのおのまっすぐに上っていかなければならない、というのです。これは全く軍事的な行動ではありません。宗教的行為です。こんなことをして一体どうなるでしょうか。途中で敵がそれに気づいて襲ってくるかもしれないし、襲って来なくても、その行動を見てあざ笑うことでしょう。いったいなぜ主なる神はこのような命令を出されたのでしょうか。それは、彼らが自分たちの考えではなく神のみこころに徹底的に従うなら、神が勝利してくださるということを示すためでした。

 

イザヤ55章8,9節には、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。─主の御告げ─天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。私たちの思いと神の思いとは決定的に異なります。私たちがどんなに愚かな知恵をしぼって、ああでもない、こうでもないと思い悩んでも、複雑な迷路に落ち込み、果てには不信仰の中に落ち込んでいくだけですが、しかし、人間の知恵をはるかに超えた神の知恵に自分自身をゆだね、あるいはその問題をゆだねるなら、そこに不思議な神のみわざが現されるのです。

 

今年の3月、家内はこれまで13年間働いてきたさくらの小学校を突然解雇されました。次年度からは担任の先生が英語を教えることができるようにしたいという教育委員会の方針が変わったためだと説明を受けました。それにしても長年働き、来年もお願いしたいと言われていたのにどうして急に話が変わったのかなかなか受け止められないでいました。しかし、あわれみ豊かな神はそのような状況の中でも大田原教育委員会で働く道を開いてくださいました。

あれから三か月、教会でこの夏サマー・イングリッシュ・デイ・キャンプを行うことになり、このチラシをどのように配布するかを話し合ったとき小学校で配ることはできないかということになりました。それで家内がそのことを以前働いていた小学校の教頭先生にお願いしたのです。すると教頭先生は「どうぞ配ってください」と快く了承してくれただけでなく、「たくさん集まるといいですね。」と後でお電話までくださいました。するとその翌日から申し込みが相次ぎ、結局66人の参加申込があったのです。

そのとき、私たちは「はっ」とさせられました。家内が学校を解雇されたのはこのためだったのだということを確信したのです。もしそこに留まっていれば家内の写真が載った教会の案内を配ることはできなかったでしょう。しかし、そこを完全に辞め、しかもよく知っている先生方がおられたので、大胆にチラシを配布することができたのです。まさに私たちの思いと神の思いとは異なり、神の道は完全であるということを実感させられました。

 

ですから、たとえそれが私たちには理解できないことであっても、あるいは、敵にあざけられるようなことであっても、主が命じておられるのであれば、そのみことばに従わなければなりません。特にここには「七」という数字が強調されていることに注目してください。エリコの町を七日間回ること、七日目には七度回ること、七人の祭司、七つの雄羊の角笛と「七」が強調されているのは、これが完全な神のみわざとしてなされるということです。

 

それに対してヨシュアはどうしたでしょうか。6節と7節をご覧ください。「そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」

ヨシュアは信仰によってそれを主の御声として受け止め、その御声に従いました。また、イスラエルの民も、そのヨシュアの声に従いました。それは世界の戦闘の歴史の中でも最も異様な光景でしたが、彼らは主の御声に聞き従ったのです。

 

8節から11節までをご覧ください。

「ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。」

10節に注目してください。ここには、「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。」とあります。口からことばを出してはいけません。黙っていなければなりません。なぜでしょうか。主の戦いに人間の声は必要ないからです。人間が口から出すことばによって、主の働きを妨げてしまうことがあるからです。しかし、黙っているということはなかなかできることではありません。特に女性にとっては大変なことでしょう。ある若い婦人は、「私は夫が聞いていても、いなくても、とにかく話します」と言っておられました。話さないではいられないのです。しかし、主の戦いにおいては黙っていなければなりません。

 

また、主の戦いにおいてもう一つ注意しなければならないことは、焦らないということです。11節を見ると、ヨシュアは1日に一度だけ町の回りを回らせたとあります。これはなかなか忍耐のいることです。どうせなら一日に七度回ってその日のうちに終わらせた方が効率的ではないかと思うのですが、ヨシュアはこの点でも主の御声に従いました。主は、私たちの思いと異なる思いを持っておられ、私たちの道と異なる道を持っておられます。ですから、私たちは力を尽くして主に拠り頼み、自分の悟りに頼らないことが大切です。

 

Ⅱ.くずれた城壁(12-21)

 

次に、12節から21節までをご覧ください。

「翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。」

 

イスラエルの民はその次の日も、町を一度回って宿営に帰り、六日間、同じようにしました。いったい彼らはどんな気持ちだったでしょうか。最初のうちに希望と期待に喜び勇んで行進していたかもしれません。しかし、それが二日、三日とむだに見えるような行進が続く中で、次第に疲れていったのではないでしょうか。しかし、彼らが疲労困憊し、夢や希望が潰えてしまったような時に、神は勝利の合図を送られました。角笛の音を聞いて、大声で時の声をあげると、城壁はくずれ落ちました。これが神の時なのです。私たちも時として「主よ、いつまでですか」と叫ばずにはいられないような時がありますが、そのような時にこそ神は御声を発せられるのです。

モーセの死後、あのヨルダン渡河の奇跡と、このエリコの城壁が崩れたという奇跡によって、出エジプトの神はその大能の御手をもってヨシュアとその民と共におられるということが、ここで完全に立証されたのです。そして、民はまっすぐに町へ上って行き、その町を攻め取りました。

 

ところで、ヨシュアはこのエリコの町を占領するにあたり、この町のすべてのものを、主のために聖絶しなさい、と命じました。その町にあるもの、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて聖絶しなければなりませんでした。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものなので、主の宝物倉に持ち込まなければなりませんでした。

 

「聖絶」するとはどういうことでしょうか。「聖絶する」という言葉はヘブル語の「ハーラム」(חָרַם)で、旧約聖書に51回使われていますが、このヨシュア記には14回も使われています。それは神がすでに「与えた」と言われる約束の地カナンにおいて、そこを征服し、占領していくその戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されていたからです。

この「ハーラム」(חָרַם)は英語訳では、「totally destroyed」とか「completely destroyed」と訳されています。つまり、徹底的に破壊すること、完全に破壊することです。すべてのものを打ち殺すという意味です。すなわち、神のものを神のものとするために、そうでないものを完全に破壊するということなのです。このことばの意味だけを考えるなら、「なんと残酷な」と思うかもしれませんが、しかしイスラエルが神の民として神の聖さを失い、他のすべての国々のようにならないようにするためにはどうしても必要なことだったのです。つまり、「聖絶」とは、神の「聖」を民に守らせる戦いだったのです。

 

それは神の民であるクリスチャンにも求められていることです。パウロは、コリント人への第二の手紙6章17、18節で、「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」と言っています。神の民として贖われたクリスチャンも、この世から出て行き、彼らと分離しなければなりません。勿論それはこの世と何の関係も持ってはならないということではありません。私たちはこの世に生きているので、この世と関わりを持たないで生きていくことはできません。ここでパウロが言っているのは、この世に生きていながらもこの世から分離して、神のものとして生きなければならないということです。そのためには、常に世俗性と戦う必要性があるのです。世俗性とは何でしょうか。それを定義することは難しいことですが、あえて定義するとすれば、それは「神への信頼を妨げる一切のもの」と言えます。私たちがこの世に生きる限りこうした世俗的なものが絶えず襲い掛かって来ては神への信頼を脅かしますが、神の民として生きるために、いつもこの世と分離しなければなりません。私たちにもこの「聖絶」(聖別)することが求められているのです。

 

Ⅲ.神のあわれみ(22-27)

 

最後に、22節から終わりまでをみたいと思います。

「ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。「あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。」斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた。しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。」

 

エリコの町とその町の中にあるすべてのものは、主のために聖絶されましたが、遊女ラハブと、その家に共にいた者たちは、助け出されました。それは以前ラハブが偵察したふたりの者をかくまったからです。あの時遊女ラハブに誓ったとおり、ふたりの斥候は彼女の家に行き、彼女と彼女に属するすべての者を連れ出し、イスラエルの宿営の外にとどめておきました。すぐに彼らを宿営の中に入れなかったのは、おそらく彼らが異邦人だったので、その前に信仰告白と割礼を受ける必要があったからでしょう。しかし、そんな異邦人であった彼らもやがて神の民の中に加えられました。そればかりか、ラハブは遊女でありながらも救い主の系図に名を連ねるという栄光に浴することができたのです(マタイ1:5)。

 

こうして、旧約においても、神は、この世における最も卑しい者に対しても救いと恵みを与えてくださる方であることを示してくださいました。それは限りない神の恵みとあわれみの表れです。たとえ私たちが、「こんなにひどい罪を犯したのだから、決して赦されることはないだろう」と思っても、神の恵みとあわれみは尽きることがありません。神はその罪よりもさらに上回り、私たちを満たしてくださるのです。

 

26節と27節には、このエリコの町の聖絶が徹底的なものであったことが記されてあります。いや徹底的であっただけでなく、それはヨシュアの世代を超えた未来にまで及ぶまでの徹底さでした。Ⅰ列王記16章34節には、「ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」とありますが、エリコの町を再建させようとするヒエルがエリコの町の礎を据えたとき、長子アビラムが死に、門を建てたとき末の子セクブが死んだことで、この言葉が文字通り成就しました。ここにはイスラエルをかくまったラハブと、イスラエルに敵対したエリコとの姿とが対比されています。

 

私たちも遊女ラハブのように救われるべき素性や行ないなどないような者でしたが、一本の赤いひもが彼女とその家族を救ったように、イエス・キリストの血に信頼することによって、神の怒りから救い出されました。そのように救い出された者として、神の民、神のものとして、神の深いご計画の中で、神に喜ばれる歩みをさせていただきたいと思います。

Ⅰペテロ2章1~3節 「乳飲み子のように」

きょうは、ペテロ第一の手紙2章1節3節までのみことばから、「乳飲み子のように」というタイトルでお話しします。

 

乳飲み子は不思議なもので、誰からも教えられていなくても必死になってお母さんのおっぱいを求めます。特にお腹が空いている時などは大泣きをしながら訴えます。そして、おっぱいを口にあててもらうと、一心不乱に飲み始めるのです。その吸う力には驚かされます。ひとたび口にくわえたら、どんなことがあっても離しません。娘がまだ乳飲み子だったころ、それがどのくらい強いかをみようとそのほっぺに人差し指を当てて引き離してみたことがありますが、それは相当の力でした。ちょっとやそっとでは口から離すことはありませんでした。ここには、そんな乳飲み子のように、霊の乳飲み子である私たちも、神のことばである聖書を一生懸命に慕い求めるようにと教えられています。

 

Ⅰ.捨てるべきもの(1)

 

まず1節をご覧ください。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」

 

ここには、「ですから」という言葉で始まっています。それは、前の箇所とのつながりで語られているということです。前回のところでペテロはどんなことを語ってきたのでしょうか。22節には、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」と勧めました。そして、そのようなたましいの救いはどのようにしてもたらされたのですか。23節にはこうありましたね。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わるこのない、神のことばによるのです。」この世の種はみな朽ち果ててしまいますが、私たちが新しく生まれたのは朽ちない種、生ける、いつまでも変わらない神のことばによるのです。「ですから・・」です。

 

この事実に基づいてペテロは、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」と言っているのです。ここには神の言葉によって新しく生まれた者はどうあるべきなのかの前に、そのような者が捨てるべきものは何かを述べています。それは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口です。この「捨てて」と訳された言葉は、「脱ぎ捨てて」という意味の言葉です。真理のことば、神のことばによって新しく生まれた者は、泥まみれの汚い衣服を脱ぐように、ふさわしくない古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

それはまず「すべての悪意」です。ペテロはここで、すべての悪意を捨てるようにと言っています。悪意とは何でしょうか。悪意とは、他人に害を加えようとする悪い心のことです。そのことが恨みやねたみ、敵意や不平不満など、あらゆる悪へと広がっていきます。イエス様はマルコの福音書7章20節で、「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」と言われました。「内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:21~23)内側にあるものが外側に表れます。その内側にある悪の根こそ悪意であり、そこからすべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口といったものが出てくるのです。

 

このような悪意があるとどうなるでしょうか。当然、互いに愛し合うことができなくなってしまいます。ですから、悪意というのは教会の交わりを損なわせる原因となのです。ですから、ペテロはここで互いに愛し合うためにはまず、すべての悪意を捨てなければならないと勧めているのです。

 

真理のことばによって新しく生まれたクリスチャンが捨てなければならない二番目のものは、「すべてのごまかし」です。ごまかしと訳された言葉は、釣り針にえさをつけるという言葉から来ています。釣り人はどうやって魚を釣るのでしょうか。釣り針にえさをつけて、「これはおいしいですよ。どうぞパクリと食べてください」とだまして釣ります。そのように他人をだますこと、それがごまかしです。最初の人アダムとエバが罪に陥ったのも、悪魔の巧妙なごまかしによりました。「神さまは、ほんとうに食べてはならないと言われたのですか。」と疑いを起こさせると、「あなたが食べても死にませんよ」と神のことばを否定し、「あなたが食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言ってだましたのです。そのようにもっともらしく見せかけて人をだますこと、それがごまかしです。こうしたごまかしは自分の信用を失うばかりか、人との信頼関係をも壊します。ですから、このようなごまかしを捨てなければなりません。

 

次に、いろいろな偽善を捨てなさいとあります。「偽善」とは役者を演じることです。役者は自分でない自分を演じます。本当の自分を隠して他人を演じるのです。よくテレビのドラマなどを見ていると、よくできるなぁと感心させられます。最近見たドラマに「小さな巨人」という番組がありましたが、その役者さんはものすごい迫力でしたね。ちょっとやりすぎじゃないかと思うくらいの演技力でした。役者は自分の心とはかけ離れた顔で、真の感情とは全く異なった言葉でその人になりきるのです。テレビのドラマは一つの作品なのでいいのですが、そうした偽善が私たちの日常生活で行われると相手に対して壁を作ってしまい、親しい交わりができなくしてしまいます。ですからここでは「いろいろな」とあるのです。そのいろいろな偽善を捨てなければなりません。

 

クリスチャンが捨てなければならないもう一つのものは、ねたみです。ねたみとは、相手が成功したり祝福されているのを見てうらやんだり、苦い思いを持つことです。ねたみはクリスチャンになってもなかなか抜けない性質の一つです。キリストの弟子たちですら、だれが一番偉いかと最後まで議論していたほどです。しかし、こうした性質は互いに愛し合うことを妨げ、良い人間関係を築き上げていくことを破壊してしまいます。

 

最後にクリスチャンが捨てるべきものとしてペテロが挙げているのは、すべての悪口です。悪口とはだれかのことを引き下げて話すこと、その人を非難中傷することです。そういう人はたいてい人と話すとき、「あの人はすごいよね」という会話になったとき、「まあ、確かにそうだけど、でもね、本当はね、こうなんだよ、ああなんだよ」と、その人をどうにか引き下げようとする思いが働きます。それは、大抵の場合、心の中のねたみが原因となっています。こうした悪口やうわさ話はだれもがあとになって悔やみ、悪いということを認めているものの、同時にほとんどすべての人が楽しむものでもあるのです。しかし、まず陰口や悪口ほど問題を引き起こし、相手の心を痛めさせ、兄弟愛やクリスチャンの一致を破壊するものはありません。それゆえに、ペテロはここで悪口を捨て去るようにと勧めているのです。

 

そしてこれらの言葉に「すべて」とか「いろいろな」いう言葉が付けられていることに着目してください。つまり、どんな種類のものでもいけないということです。生ける、いつまでも変わることのない神のことばによって新しく生まれたクリスチャンはまず、こうした古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

Ⅱ.みことばの乳を慕い求めなさい(2)

 

では、霊的に新しく生まれたクリスチャンが積極的に求めていかなければならないものは何でしょうか。2節をご覧ください。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

 

ここから教えられることは、私たちはまだ最終的な救いに達していないということです。確かに神の恵みにより、イエス・キリストを信じたことでたましいの救いをいただくことができましたが、それは救いが完成したということではなく、私たちの中に救いが始められ、その救いの中に置かれているということなのです。ですから、パウロはピリピ人への手紙の中で、「自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と勧めているのです。私たちは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス様を信じたことで完全に救われました。しかし、一方では、その救いというのは私たちの一生をかけて完成されていくものでもあるのです。神が真理のみことばによって始めてくださった救いの業を、私たちが聖霊の恵みに信頼することによって達成していくという面があるのです。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださいます。神は私たちに働いて救われたいという思いを与え、その救いの種を植え付けてくださいました。しかし、それはまだほんの始まりにすぎません。その救いの芽を大きく育てていかなければならないのです。いったいどうしたら成長していくことができるのでしょうか。

 

ペテロはここで、そのためには「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」と言っています。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

なぜなら、それは何の混じりけのない「純粋な」神のことばだからです。私たちが日ごろ食べている食物にはいろいろな添加物が混じり込んでいて、何が本物なのかわかりにくくなっています。そのため混ぜ物をした方がおいしく感じてしまうことがあります。今はそういう時代です。純粋なみことばに、いろいろな物を混ぜた方がおいしいと感じてしまうのです。いつの時代でも、福音宣教においては、こうした人の口に合うように何らかの混ぜ物をしようとする試みがなされてきました。しかし、神のことばは純粋で、ピュアなものです。この純粋なみことばの乳によってこそ、私たちの信仰は養われていくのです。

 

私たちの教会では聖書通読を重んじています。毎週の礼拝と個人の礼拝、デボーションを大切にしていきたいと願っています。それは、この神のみことばが私たちを救い、成長させてくれると信じているからです。毎日、少しずつでもこのみことばの乳を飲んでください。そうすれば、この純粋なみことばの乳によって私たちの考え方や、生活が変えられていくのです。このみことばの乳を慕い求め、毎日飲む習慣を身に着けていただきたいものです。ではどのようにこれを求めたらいいのでしょうか。

 

ここには、「生まれたばかりの乳飲み子のように」とあります。皆さんも、生まれたばかりの乳飲み子がお母さんのおっぱいを吸うのを見たことがありますか。それは必死というか、ものすごい勢いで飲みます。まだ目が見えない時から、お母さんのおっぱいを探し当て、すごい勢いで飲むのです。まだ他のことは何もできないのに、あの小さな体のどこに、そんな力があるのかと不思議に思うほどです。まるでそのことに生死がかかっているかのようです。周りで見ている者にとっては、そんなにあわてなくても大丈夫よ、と声をかけてあげたくなるほどです。しかもそれを2~3時間ごとに繰り返します。おっぱいを飲んでやっと寝たかと思うと、またすぐにおっぱいが欲しいと泣き叫びます。すると、またしても変わらぬ勢いでゴクゴクと飲み始めるのですから驚いてしまいます。それは元気な証拠ですから、親にとっては嬉しいことですが、そのあまりの頻繁さに、夜中に何度も起こされて「もう勘弁してよ!まだ飲むの?」と思ったことがある母親も多いのではないでしょうか。

 

このたとえによってペテロはどんなことを言いたかったのでしょうか。それはこの乳飲み子のように、生まれたばかりのクリスチャンもみことばの乳を慕い求めるようにということです。乳飲み子は母乳が与えるのをじっと待ってはいません。母親がそれを口に流し込んでくれたら飲みますよ、という態度ではなく、ミルクが欲しいという思いを体全体で表し、かつありったけの声を出して、必死に求めます。そしてそれが与えられると一生懸命に、ただそのことだけに集中して飲み続けるのです。私たちのみことばに対する態度はどうでしょうか。赤ちゃんがこのようにお乳を飲まなかったら、それはその体のどこかがおかしいということです。どのようにお乳を飲むかによって、健康なのか、あるいは不健康なのかがわかるのです。であれば、私たちのみことばに対する姿勢によって、私たちの霊的健康の度合いも知ることができます。私たちは、純粋な、みことばの乳によって、与えられたいのちが養われ、それを成長させ、救いのゴールに向かって力強く前進して行くことができるのです。

 

詩篇42篇1節には、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」とあります。鹿が谷川の流れを慕い喘ぐという表現はどこかのどかで、美しい情景が思い浮かべますが、実際はそのようなイメージとはほど遠く、飲み水を求めて谷川の水を激しく慕い求める鹿の姿が描かれているのです。パレスチナには雨季と乾季があって、乾季にはまったくと言ってよいほど雨が降らないため、多くの川は干上がってしまいます。そのような中で鹿にとっての唯一の水源は、谷川を流れる水溜りのような水だったのです。その水を求めて鹿は、もはや川とは呼べないような谷川の水を、激しくむさぼり飲んだのです。

 

生まれたばかりの乳飲み子が乳を慕い求める姿と、鹿が谷川の流れを慕い求める姿に共通していることはどんことでしょうか。どちらも必死であるということです。そのようにクリスチャンも、純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

今から200年ほど前、イギリスの田舎の小さな家に、メリー・ジョーンズという10歳の女の子がいました。日曜の朝になると、メリーは両親と一緒に4キロほど離れた村の小さな教会へ出かけます。教会では聖書のお話を熱心に聴きました。学校で読み書きを習い、聖書が読めるまでになりましたが、教会に行かないと聖書を読むことができません。その頃、聖書はとても高価で貴重なものだったのです。「もっと聖書を読みたい」メリーは、自分の聖書が欲しいと思うようになりました。メリーの家はとても貧しく、靴も買えないような暮くらしぶりでしたが、メリーは聖書を買うために一生懸命、お金を貯ためました。

6年が過ぎ、ようやく聖書が買えるほどのお金を貯めることができました。でもどこで聖書が買えるのでしょう?聖書を探すメリーは、バラという町に聖書を数冊持っている人がいると教えられました。欲しかった聖書が手に入ると聞き、彼女は40キロも離れたバラの町まで歩いて行くことを決心をしました。果てしなく思えるような長い道のりを、メリーは裸足で進んで行きました。多くの小道を抜け、谷や小川を渡り、丘を越えて、ようやく町に到着しました。 そして、人々に道をたずねて、とうとう教会に着きました。

「聖書が欲しいんです。」玄関のドアが開くと、メリーはチャールズ牧師に頼みました。ところが、チャールズ牧師は困った顔をして言いました。「聖書は全部売れてしまったんだ。残っている3冊も友だちにやると約束したものなんだよ。」これを聞いたメリーは全身の力がぬけて泣き出しました。チャールズ牧師はそれを見みてしばらく考えこんでいましたが、やがて隣の部屋から聖書を手に戻ってきました。「メリー、きみの聖書だよ。」チャールズ牧師はなんと3冊ともメリーに手渡したのです。「きみの町に住む人たちにも分けてあげるといい。」チャールズ牧師は1冊分のお金しか受け取りませんでした。メリーは真新しい聖書を手にすると、飛び上がって喜び、心から感謝をしました。「チャールズさん、イエス様、ありがとう!」

メリーは喜んで家に帰っていきましたが、聖書を求めて裸足で旅してきたこの少女のことがチャールズ牧師の頭から離れませんでした。「もっと大勢の人々が聖書を手にできるようにしなければならない。」チャールズ牧師は、多くの有名人にメリーとの出来事を訴えました。それから4年、メリーの話に感動した人々の協力によって、世界最初の聖書協会がイギリスに設立されました。「誰もが買える価格で聖書が読めること」、「人々が普段使っている言語で聖書を読めるようにすること」、これが聖書協会の働きの出発点となりました。

 

聖書を手に入れることにこんな苦労をしていた時代と比べて、私たちはなんと恵まれていることでしょうか。かりそめにも、聖書を読むことが義務感からということの無いようにしたいものです。聖書は、神様が私たちに与えて下さったラブレターです。本当に愛し合っている男女がラブレターを放って置くはずがありません。どんなことが書かれているのか、期待と興奮をもって読むはずです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めましょう。

 

Ⅲ.主のいつくしみを味わっている(3)

 

第三のことは、なぜそのようにみことばを慕い求めるのか、その理由です。3節をご覧ください。ペテロはその理由をこのように言っています。「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」

 

どういうことでしょうか。ペテロはここで、「あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知っているのだから、このようにすべきである。」と言っているのです。このようにというのは、みことばの乳を慕い求めることです。私たちがみことばを求めるのはどうしてなのかというと、みことばによって、主の恵み深い方であることを、すでに味わい知っているからなのです。

 

私たちはみことばによって何を味わったのでしょうか。私たちが味わったのはまず救いの恵みです。パウロが言っているように、私たちの救いは、自分の力ではどうすることもできませんでした。変わりたいけれど変われない、止めたいけど止められない、したいけどできない、ほんとうにみじめな人間でした。しかし、自分にはできないことを神はしてくださいました。神はキリストを遣わし、私たちの罪のために十字架で死んでくださることによって、この罪を処罰してくださいました。ですから、私たちはこのキリスト・イエスにあるいのちと御霊の原理によって、罪と死の原理から解放されたのです。私たちはこの救いの恵みを味わいました。罪が赦されるというほど大きな喜びはありません。私たちは、この罪の赦し、永遠のいのち、救いの喜びを味わったのです。

 

しかし、私たちが味わったのは救いの喜びだけではありません。私たちが日々この地上で生きていく上でも、多くの恵みを受けています。神の恵みは尽きることがありません。それは朝毎に新しいのです。

哀歌3章22~23節には、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝毎に新しい。あなたの真実は力強い。」とあります。

イスラエルが荒野を旅した時も、神は天からのパンをもって日々彼らを養ってくださいました。何日も前のパンではなく、その日、その日に必要なだけのフレッシュなパンです。それは朝毎に新しい恵みなのです。同じように、神は天からのマナをもって、私たちの糧を与えてくださいました。私たちには霊的な必要や物質的な必要ばかりでなく、肉体的や精神的なものも含めいろいろな必要がありますが、神はそうしたすべての必要も満たしてくださいました。祈りがかなえられるということもそうです。これまで何度も自分の力ではどうすることもできないということがありましが、不思議に神が助けてくださり、その道を開いてくださいました。治るはずじゃない病気が治ったり、受かるはずじゃなかった大学に受かったり、通るはずじゃなかった試験に通ったりといったことがたくさんありました。それはたまたまそうなったのではなく、そこに神が働いてそのようにしてくださったのです。すべては神の恵みなんです。私たちはそうした神の恵みを味わったのです。危険から守られるのもそうです。皆さんもこれまで何度かヒヤッとした経験をされたことがあるのではないでしょうか。あと1秒遅かったら、もしあの電車に乗っていたら、ということがありました。しかし、神はそうした危険からも守ってくださいました。いろいろな祝福もありました。入学や就職、結婚や出産、家族が守られたこと、住まい、健康など、私たちは当たり前だと思っていますが、実はそうではなく、これらすべて神の恵み、神の祝福なのです。私たちが受けるに値するから受けたのではなく、神の恵みによって与えられたのです。私たちはすでに、その主の恵みを味わっているのです。主がそれほどいつくしみ深い方であることを味わっているのですから、私たちは悪いものを捨て、私たちにとって良いもの、私たちのたましいを救い、成長させてくれるもの、神のみことばを慕い求めなければならないのです。

 

詩篇34篇8節には、「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」とあります。主のすばらしさを味わい、これを見つめる人はなぜ幸いなのでしょうか。なぜなら、その人は主に身を避けるようになるからです。

 

あなたはこの恵みを味わっているのです。そして、その恵みは尽きることがありません。ですから、さらにこの恵みを味わいましょう。それは純粋な、みことばの乳によってもたらされます。生まれたばかりの乳飲み子のように、このみことばの乳を慕い求めようではありませんか。それによってあなたは成長し、救いを得ることができるのです。

Ⅰペテロ1章22~25節 「互いに熱く愛し合う」

きょうは、互いに熱く愛し合うというテーマでお話します。たましいの救いのすばらしさ、偉大さについて語ってきたペテロは、13節のところから、そのようなすばらしい救いをいただいた者はどのように歩まなければならないのかについて三つのことを勧めました。第一に、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさいということ、第二に、15節にあるように、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさいということ、そして第三に、17節にあるように、この地上にとどまっているしばらくの間の時を、神を恐れかしこんで過ごしなさいというのです。では、そのためにはどうすればいいのでしょうか。

そのためには前回お話ししたように、そのためにどれほど尊い代価が支払われたのか、どれほど神に愛されているのかを知らなければなりません。それを知れば知るほど、神の恵みの大きさ、すばらしさがわかり、心から神を恐れて生きることができるようになるからです。

それでは、他の人に対してはどうあるべきでしょうか。ペテロはここであらゆる行いに対して聖なるものとされなさいと命じた後で、人との関わりにおいてどうあるべきなのかを教えています。それは、互いに心から熱く愛し合うということです。

Ⅰ.互いに熱く愛し合いなさい(22)

まず22節をご覧ください。

「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」

互いに愛し合うことは聖書の中心的な教えであって、イエス様ご自身も命じておられることです。たとえば、ヨハネの福音書13章34節には、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とあります。これはイエス様の命令であり、新しい戒めです。それは、イエス様が私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合わなければならないということでした。

また、マタイの福音書22章37~40節には、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」という律法の専門家の質問に対して、イエス様は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これが題意の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37~40)と答えられました。つまり、神を愛し、隣人を愛することが、聖書の中のたいせつな戒めであり、聖書全体が命じている中心的なことであると言われたのです。

しかし、ここには単に兄弟を愛しなさいというのではなく、互いに心から熱く愛し合いなさい、と言われています。どういうことなのでしょうか。「心から」と訳された言葉は、下の欄外の説明にもあるように、「きよい心から」という意味の言葉です。おそらくその前にある「偽りのない兄弟愛」という言葉と対照しての「きよい心からの兄弟愛」ということなのでしょう。偽りのない兄弟愛とは、偽善的でないとか、見せかけでない、うわべのものでない、真実の愛という意味です。

使徒ヨハネは、この愛についてこう言っています。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(Ⅰヨハネ3:18)それは、ことばや口先だけではない、行いと真実をもった愛です。ヤコブは、国外に散っていたクリスチャンに宛てて、次のように書き送りました。

「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:15-17)

この行いと真実をもった愛について教えてくれる実際にあった一つの話を紹介したいと思います。それは、ジョー&メイ・レムケというご夫妻に起こった驚くべき愛の物語です。

1952年、奥さんのメイはレスリーという六ヶ月の男の赤ん坊の世話を頼まれました。このときメイは52歳で、体力的には少し衰えを感じていが、レスリーは生まれつき脳に異常があり、言語障害と記憶障害を抱えており、その上早産のため網膜に問題があり、生後1ヶ月で眼球を摘出したことで、産みの母親は彼を育てることを放棄したため、「障害を持ったこの子を、助けたい」と引き取ることにしました。 メイはレスリーをわが子のように深い愛情で育てました。医者たちは、この赤坊は長くは生きられないと診断しましたが、メイは「この子を絶対に死なせない」と決心し、レスリーに大きな愛を注いだのです。そして、彼を普通の赤ん坊のように育て始めました。彼の頬の近くで大きな吸引音を出して、哺乳瓶から普通にミルクを飲めるように教えました。すぐに彼女はこの子の世話をするために仕事を止めました。彼女の友人たちは「あなたは自分の人生を無駄にしようとしている」と忠告してくれましたが、彼女はレスリーを育てることを止めませんでした。 生後、なんらかの成長がみられるまで、7年もの歳月がかかりました。その間、レスリーは言葉や動作、感情もありませんでした。事態は絶望的に見えました。しかし、メイは確信していました。「子どもは優しさと愛情があれば必ず治る。ずっと愛していく覚悟があれば大丈夫。私が信じている神様が、必ず助けて下さる。」 すると、12歳になってようやく立ち始め、15歳で歩くことができるようになりました。メイはレスリーのために祈り続けました。「愛する主よ、聖書には、神はすべての人間に才能を与えられた、と書かれています。どうか、この何もできなくて、ほとんど毎日横たわっているだけのこの男の子をあわれんでくださり、この子に与えられている才能を見出すことができますように助け下さい。」 メイはレスリーが、音楽に少し反応しているのを見逃しませんでした。そこで彼女は、夫のジョーと相談し、ピアノを購入し、ラジオやレコードを使ってあらゆる種類の音楽を聴かせました。レスリーは大きな関心を示している様子で何時間も音楽を聴いていました。

奇跡は、レスリーが16歳になったある日の朝早く起こりました。メイとジョーは突然鳴ったピアノの音で起こされました。すると、レスリーがピアノの前に座って、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を弾いていたのです。驚くことに、レスリーはそれまでにピアノのレッスンを受けたことはありませんでした。レスリーは突然才能を開花させたのです。それから彼は、クラシックやポップス、ジャズなど、非常に多くの曲を覚え、弾き語りも出来るようになりました。科学者たちは、どうしてそのような事が起こるのかは説明できないと言います。しかしメイは言います。「私には説明できます。これは神の与えた愛の奇跡です。心からの真実の愛に触れる時、人には不可能の扉を開き、才能を開花させることが出来るのです。」と。彼女の行いと真実をもった愛に、神が応えてくださったのです。

また、ここには「心から愛し合いなさい」というだけでなく、「熱く愛し合いなさい」、ともあります。熱く愛するとはどういうことでしょうか。ペテロの手紙を見るかぎり、随所にこのような表現があることがわかります。たとえば、13節には、「ひたすら待ち望みなさい」とありますし、また15節にも、「あらゆる行いにおいて」とあります。ある特定の行いにおいてというだけではなく、「あらゆる行いにおいて」です。そして、ここには「熱く」とあります。ただ愛し合うのではなく、熱く愛し合うようにというのです。これはどういう意味なのでしょうか。

「熱く」と訳された言葉は、本来「手足を伸ばす」という意味を持っています。よく「ストレッチ」という言葉を聞きますが、ストレッチとは、体のある筋肉を良好な状態にするために、その筋肉を引っ張って伸ばすことです。その張って伸ばすことから熱心という意味を持つようになりました。私たちの主イエスは、ゲッセマネの園で祈られたとき、「いよいよ切に祈られました」(ルカ22:44)。とあります。また、牢に入れられていたペテロのために、教会は神に熱心に祈り続けていました。(使徒12:5)そのように切に、熱心に、深く、全力で、愛さなければなりません。それは、神が求めておられる度合いがそれほど高いものであることを表わしています。その求めに応じて生きる者は、兄弟愛においても徹底して愛することが求められているのです。

Ⅱ.偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから(22)

いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。無理です。自分を愛してくれる人、自分によくしてくれる人ならともかく、そうでない人を愛するなんてとてもできません。それなのに、どうやって心から愛し合うことができるでしょう。もう一度22節を見てください。ここには、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」とあります。これが鍵です。どういうことでしょうか。

それは、私たちの生まれながらの力ではできないということです。生まれながの人間にあるのは、「目には目を、歯には歯を」です。「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」です。しかし、真理に従うことによって、たましいが清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになると、愛する力が与えられるのです。たとえ相手が自分の嫌なタイプや性格の人であっても、たとえ相手が自分にひどいことをするような人であっても愛することができるのです。なぜ?私たちは新しく生まれ変わったからです。真理のことばに従うことによってたましいが清められ、神の子としての性質をいただきました。偽りのない兄弟愛を抱くようになりました。ですから、愛することができるのです。

ヨハネ第一の手紙5章1節を見てください。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」

イエスをキリストと信じる者はだれでも、神によって生まれた者です。そして、神によって新しく生まれたのであれば、生んでくださった神を愛します。そして、神を愛する者は、神が生んでくださった信仰の仲間である兄弟姉妹をも愛するようになるのです。これが神によって生まれた者の特徴なのです。

ですから、ペテロはここで「互いに熱く愛し合いなさい」と命じているのです。神は、私たちができないことは命じられません。できるからこそこのように命じているのです。どうしたらできるんですか。真理に従うことによって、たましいが清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから・・。

使徒ヨハネはこう言っています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:7-11)

この「愛」は、アガペーの愛です。アガペーの愛は与える愛であり、犠牲的な愛、無条件の愛です。それは、自分の感情や気分によって左右されるような愛ではありません。それは、神がそのひとり子をこの世に遣わし、この方を私たちの罪のために、十字架につけてくださることによって示してくださった愛です。こんなにいい加減で、どうしようもない私のために、キリストが十字架で死んでくださったのです。ここに神の愛が示されました。私たちが愛したからではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。神がこれほどまでに愛してくださったのなら、その神を信じて新しく生まれた私たちも互いに愛し合うべきです。自分が好きだとか嫌いだという感情は全く関係ありません。なぜなら、この愛は感情の愛ではなく、意志を持った愛だからです。好きでも、嫌いでも、愛することができます。それは愛するという意志の問題だからです。ペテロはここで、私たちの意志に訴えているのです。あなたの感情や気分がどうであれ、あなたが真理のことばに従うことによって、たましいを清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのなら、あなたは愛することを選び取って、それを実行することができるのです。

この手紙を書いたヨハネは兄弟ヤコブとともに「ボアネルゲ」という異名を持った人です。「ボアネルゲ」とは「雷の子」という意味です。彼の性格は雷のようでした。マルコの福音書9章38節を見ると、彼について、もう少し具体的に知ることができます。彼はイエス様の弟子であるという自負心が大変強い人でした。彼は弟子ではない人が、イエス様の名前で悪霊を追い出しているのを見ると、それをやめさせました。「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している人を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』」

すると、イエス様はこのようにおっしゃいました。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」(マルコ9:39-40)

ものすごい余裕を感じます。広い心で人をご覧になっていたイエス様とは対照的に、ヨハネの心は狭く、自分と同じ意見の人でなければ受け入れることができませんでした。自分だけが正しいのではないということを認め、他の人の主張も受け入れる心が、ヨハネには必要でした。

しかし、イエス様に出会った後、彼は変えられました。彼は多くの人を受け入れる「愛の人」となりました。イエス様に出会うなら、みんな変わります。その愛の広さ、深さ、大きさにふれるなら、私たちも愛の人に変えられるのです。

ある自由主義神学者が、ヨハネの福音書を書いたヨハネとヨハネの手紙を書いたヨハネは同じ人物ではない、と言いました。同じ人物であるはずがないというのです。文体や態度があまりにも違うからです。

しかし、同じ人物なのです。確かに、文体や態度は全く違うかもしれません。けれども一つ、その人たちが見逃していることがあります。それは、ヨハネがイエス・キリストによって全く変えられたという事実です。若いころのヨハネと、成熟した後のヨハネが同じ人物であるはずがありません。イエス様は人の心を、それほど変えられるお方なのです。私たちはこの点を忘れてはなりません。愛を受けた人だけが、人を愛することができるようになります。確かに、私たちもかつてはヨハネのようにいつもゴロゴロしているような者でしたが、イエス様に出会い、イエス様の愛にふれて、新しく生まれました。偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです。ですから、互いに心から愛し合うことができるのです。私たちの中に神の愛が入ってくるなら、人を愛することができるようになるのです。

Ⅲ.神のことばに根差して(23-25)

最後に、23節から25節までをご覧ください。ペテロは、私たちが互いに愛し合うことができるのは、私たちが真理に従うことによって、たましいを清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのであるからと述べました。では、いったいどのようにして新しく生まれたのでしょうか。23節には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とあります。

私たちはどのようにして新しく生まれたのでしょうか。私たちが新しく生まれたのは、朽ちる種からでなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

ヨハネ福音書3章には、ニコデモという人がイエス様のもとを訪ねたことが記されています。このニコデモにイエスは、人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと言われました。ところがニコデモには新しく生まれるということがどういうことなのか理解できませんでした。そこで、もう一度、お母さんのお腹の中に戻るなんて出来ないと答えました。するとイエス様は、このようにおつしゃいました。

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

それは、朽ちる種というおおよそ人間的なものに由来するのではなく、神のことばという朽ちない種によってもたらされるものであるという意味です。肉によって生まれた者は肉でしかありません。しかし、御霊によって生まれた者は霊なのです。人が新しく生まれるためには神のみことばを聞き、それを信じて、心に受け入れなければなりません。その時、神の御霊、聖霊が働いて、新しく生まれさせてくださるのです。

きょうは、万希子さんがバプテスマを受けられました。バプテスマは、罪に対して死しんでいた私たちが、キリストとともに新しい人として生きることを表わしていますが、罪に対して死んでいた者が、どうやって自分を救うことができるのでしょうか。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者ですから、自分で自分を救うことなどできません。しかし、神は、彼女が通っている大学にクリスチャンの先生を備えていてくださり、その方との出会いを通して神のみことばを与え、イエス・キリストの十字架の救いを信じるように導いてくださいました。その神のみことばを通して、彼女は新しく生まれたのです。

私はもう何年も牧師をしていますが、最もよく受ける質問はこうです。「どうして私は変わることができないのでしょうか。変わりたい、本当に変わりたいと思っています。でも、どうしたら変われるのか分からない。私には変わる力がないのです。」

そうです、私たちには変わる力がないのです。私たちはいろいろなセミナーやインターネットで、自分を変えてくれるような情報を得、それを試したりしますが、二週間もしないうち最初の決意はどこかへ消えてしまい、すべてが元の木阿弥となってしまいます。以前と全然変わらないのです。自己啓発の本も読んでみますが、問題は、それは何をすべきかを教えてくれても、それを実行する力を与えてくれないということです。いったいどこにその力があるのでしょうか。

ここに、その力があります。それは、いつまでも変わることのない神のことばです。ヘブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)とあります。この神のことばは、「生ける」とあるように、生きていることばなのです。生きているということは、そこに“いのち”があることを意味しています。“いのち”があるということは、人を生かす力があるということです。罪によって死んでいた人をよみがえらせ、新しいいのちを与える力を持っているということです。この力こそ、私たちを新しく生まれさせ、私たちの人生を変える力にほかなりません。

1787年イギリス政府が南洋諸島の一つである、タヒチにパンの木の栽培のために100人ほどの人を送ったことがあります。その船の名前は「バウンティ号」でした。その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはとても魅力的でした。すると彼らはしだいに堕落し始め、本国からの使命を忘れ、口やかましい船長に反抗し、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのでした。その後彼らは本国から逮捕されるのを恐れ、ピトアケンという島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶようになりました。そうなると、彼らの間にケンカが絶えなくなってしまいました。特に仲間の一人が熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのケンカはひどくなり、殺し合いが始まるようになりました。そして最後にたった一人だけが残りました。名前はジョン・アダムズと言います。その島には西洋人はいなくなりましたが、彼との間に生まれた混血の子どもたちが生まれ育ちました。

それから30年が過ぎ、近くを通りかかったアメリカの船がその島を発見し上陸してみると、そこに驚くべき光景を見ました。何とそこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。彼はその島の王様で、父のような存在でもありました。彼は、その島に何が起こったのかをこう説明してくれました。仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いをして死んでしまったある日、一人生き残ったジョンは、難破したバウンティ号に戻ってみると、そこで一冊の聖書を見つけたのです。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引き付けられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつしか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして、彼は悔い改めたのです。彼は新しく生まれ変わりました。神の人とされたのです。その後聖霊の導きによって、子どもたちを集めて字を教え、神のみことばである聖書を教えました。するとその島は、まことのパラダイスになったのです。

神のことばは生きていて、力があります。それは、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。この神のみことばを信じるなら、私たちは新しく生まれるだけでなく、神の人に、愛の人へと変えられていくのです。なぜなら、それは朽ちる種ではなく、朽ちない種からであり、いつまでも変わらない、神のことばであるからです。

ペテロはこの真理をイザヤ書のことばを引用してこう言っています。24節、25節です。

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

「変わることがない」と訳されている言葉は、「保つ」とか「残る」という意味の言葉です。人はみな草のようにしおれ、花のようにすぐに散っていきますが、神のことばは、とこしえに変わることがありません。ずっと残るのです。永遠に生き続けるのです。これこそ、真に信頼できるものではないでしょうか。私たちに宣べ伝えられている福音のことばがこれです。

私たちは人間の知恵やこの世の栄光、力を見ると、あたかもそれが大木のように見え、そこに根を張って生きることが安全であるかのように思いがちですが、それは草であり、花にすぎません。朝にはきれいに咲かせても、夕べには枯れて散っていくはかないものにすぎないのです。私たちが信頼すべきものはそのようなものではありません。私たちが信頼すべきものは、朽ちない種、生ける、いつまでも変わらない、神のことばなのです。この神のことばがあなたを新しく生まれさせ、あなたの人生を変えてくださいます。あなたも、神のみこころに従って、互いに心から熱く愛し合うことができるのです。

ヨシュア記5章

きょうはヨシュア記5章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.割礼をせよ(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。

「ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」

 

イスラエルの神、主が、ヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞くと、ヨルダン川のこちら側、すなわち西のほうにいたエモリ人のすべての王たちや、カナン人のすべての王たちの心はしなえ、もはや戦う勇気をなくしてしまいました。したがって、もしこの時イスラエルが一挙にカナンの地に攻め込んでいれば、たちまちの内にその地を占領することができたと思われます。しかし、主はすぐに攻め込むようにとは命じないで、ある一つのことを命じられました。それは、「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」(2)ということです。いったいなぜ主はこのように命じたのでしょうか。

 

割礼というのは古代からユダヤ人の間で行われていた儀式です。その由来はアブラハムの時代にまで遡ります。創世記17章10節には、アブラハムとその子孫が世々守るべきものとして神から与えられた契約で、男子の性器を包んでいる皮を切り捨てるというものでした。それは、彼らが主の民であるということのしるしでした。彼らは生まれて八日目に、この割礼を受けなければなりませんでした。それにしても、いったいなぜ神はこのような時にこの割礼を施すようにと命じられたのでしょうか。

 

4節以降にその理由が記されてあります。つまり、エジプトから出て来たイスラエルの民のうち、戦士たちはみな、エジプトを出て後、途中、荒野で死んでしまい、その出て来た民は、すべて割礼を受けていましたが、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからです。これからカナンの地を占領するにあたり彼らまずしなければならなかったことは、この割礼を受けることでした。なぜなら、それは神が命じておられたことであり、神の民として神への献身を表していたからです。そして、そのように神に献身し、全面的に神に信頼することによってこそカナンの地での戦いに勝利することができるからです。それはある意味でバプテスマの象徴であったとも言えます。バプテスマは自分に死んで、キリストのいのち、神のいのちに生きることです。信仰の戦いにおいて最も重要なことは、このことです。それは言い換えるなら、自らを神に明け渡し、神に献身するということです。そうすれば、神が戦って勝利してくださるのです。

 

また、あのギデオンが10万人にものぼるミデアン人との戦いに勝利を収めたのは、わずか三百人の勇士たちによるものでした。当初は3万2千人の戦士がいましたが、主は、あなたといっしょにいる民は多すぎるから、恐れ、おののく者はみな帰らせるようにと言うと、2万2千人が帰って行き、1万人が残りました。10万人に対して1万人ですから、絶対的に不利な状況です。それなのに主は、これでも多すぎるから、彼らを水の所へ連れて行き、そこで犬がなめるように、舌で水をなめる者、ひざをついて飲む者は去らせ、ただ口に手を当てて水をなめた者だけを残しておくようにと言うと、たったの三百人しかいなかったのです。10万人のミデアン人に対してたったの三百人です。人間的に見るならば、全く話にならない戦いです。勝利する確率など全く無いに等しい戦いでした。しかし、この最後に残った三百人は神に全く献身した人々、神に全く身をゆだねた人々でした。ゆえに、主はこの三百人を用いてイスラエルに働かれ、ミデアンの大軍に勝利することができたのです(士師記7章)。

 

このことからわかることは、私たちの信仰の戦いにおいて重要なことは数の多さではなく、そこに神に全く献身した人たちがどれだけいるかということです。主はヨシュアにカナンとの戦いを始めるにあたり、イスラエルの人々にまず割礼を行うように命じ、神に献身することを要求されました。同じように主は、私たちが神に全く献身することを要求しておられます。私たちは主のもの、主の牧場の羊であることを覚えながら、主に自らを明け渡し、その生涯を主にささげるなら、主が私たちの生涯にも偉大な御業を成してくださいます。

 

ところで、主の命令に従いヨシュアがイスラエルの民に割礼を施すと、主は何と言われたでしょうか。9節をご覧ください。

「すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」

 

「エジプトのそしり」とは何でしょうか。「そしり」とは、悪口とか陰口、非難、恥といった意味です。口語訳では「はずかしめ」と訳しています。ですから、ここでは「エジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた」とあるので、かつてイスラエルがエジプトにいた時の奴隷の状態、そのはずかしめを取り除いたということになります。コロサイ2章10-12には、神はキリストにあって、人手によらない割礼、心の割礼を受けたクリスチャンのすべての罪を赦し、私たちを責め立てている債務証書を取り除けられた、とあります。ですから、ここでもイスラエルの民が割礼を受けることによって、かつての罪の奴隷としてのそしりが取り除かれ、神のものとされたということが確認されたのです。彼らの立場がそのようにころがされたという意味です。ですから、その所の名は、「ギルガル」、意味は「ころがす」となったのです。

 

Ⅱ.過越のいけにえ(10-12)

 

次に、10節から12節までをご覧ください。

「イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。」

 

イスラエル人は、ギルガルに宿営していたとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえをささげました。荒野にいたときには一度も行なわれませんでしたが、今ここでその過越を祝っています。なぜ過越のいけにえをささげたのでしょうか。

 

過越のいけにえとは、かつてイスラエルの民がエジプトから脱出したことを記念して行うものです。エジプトからイスラエルをなかなか出て行かせなかったパロに対して、神は最後の災いとしてエジプト中の初子という初子をみな滅ぼされると言われました。ただ傷のない小羊をほふってその血を取り、それを家のかもいと二本の門柱に塗れば、神はそのさばきを過ぎ越すと言われたのです。そのようにしてイスラエルの民は、神の裁きから逃れることができたのです。

 

あれから四十年、彼らが荒野にいる間は、この過越のいけにえがささげられませんでした。しかし今、カナンの地を占領しに出て行くにあたり、この過越の祭りを行うようにと命じられたのです。それは、イスラエルにとって四十年の試練の旅が終わり、再び神との契約が確立されたことを表わしていました。つまり、エジプトを出た後の荒野での放浪の旅の期間が正式に終わり、エジプトのそしりが完全に取り除かれたことを意味していたのです。一つの時代が終わり、新しい時代が始まりました。荒野は終わり、約束の地が訪れたのです。

 

この小羊の血は、キリストの十字架の血を指し示していました。かつてイスラエルを神のさばきから救い出した小羊の血は、これから進む約束の地においても彼らの救いと力になります。今礼拝ではⅠペテロから学んでいますが、今週の聖書箇所にこの小羊の血による贖いについてこう記されてありました。

「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18-19)

この小羊の血による贖いこそ、キリストの再臨のときにもたらされる恵みをひたすら待ち望む力となり、あらゆる行いにおいて聖なるものとされる原動力となり、この地上にしばらくとどまっている間の時を、神を恐れかしこんで過ごす動機になるのです。この小羊の血こそ私たちをすべての罪から救い出す力であり、この先の歩みにおいても勝利をもたらす秘訣なのです。私たちを罪からきよめるのは、これまでだけでなくこれからも、ずっと、この小羊の血なのです。

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)

この救いのすばらしさを知り、その恵みに生きる人こそ、献身へと促されていくのではないでしょうか。

 

さて11節を見ると、その過越しのいけにえをささげた翌日、その地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた、とあります。すると、それを食べた翌日から、マナの降ることがやみ、イスラエル人には、もうマナはありませんでした。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べました。どういうことでしょうか。

 

マナは彼らがヨルダン川を渡る直前までずっと降っていました。これは神の奇蹟です。彼らは荒野で食べるものがありませんでしたが、神は彼らを養うために天からマナを降らし、彼らの必要を満たしてくださいました。けれども今、約束の地において収穫した物を食べることができるようになったので、マナは必要なくなったのです。これからは、彼らが主体的に自分の手で糧を得ていかなければなりませんでした。

 

これは神の恵みによって救われたクリスチャンの歩みにも言えることです。クリスチャンは、神の一方的な恵みによって救われました。その恵みは尽きることがありません。その恵みはとこしえまで続きます。しかし、そのような恵みを受けた者はおのずと行動に変化が現われるのです。これまでは愛されることしか考えられ中吸った者が愛する者へ、受けることしか考えられなかった者から与える者へと変えられていくのです。自分の必要が満たされることはうれしいことですが、それよりも、自分を用いて主が御業を成してくださることに喜びを見出していくようになるのです。

 

しかし、これはあくまでも約束の地に入れられた者がこれまでの神の恵みに溢れて成すことであって、そうせねばならないと、外側から強制されてすることではありません。見た目では同じでも、その動機がどこから来ているかによって、全く違う結果となってしまうことがあります。私たちの信仰生活も強いられてではなく、内側から感謝に溢れて、心から、神に向かってしたいものです。すべては神の恵みによるのです。

 

Ⅲ.足のはきものを脱げ(13-15)

 

最後に、13節から終わりまでをみたいと思います。

「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。」

 

ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていました。抜き身の剣とは、神の強い力や勢いを象徴する剣のことです。この抜き身の剣を持つ人が、ヨシュアの前方に立っていたのです。おそらくヨシュアはエリコの城壁を目の前にして、どのようにしてその堅固な城壁を落とすことができるだろうかと悩んでいたものと思います。その時、主が抜き身の剣を手に持ち、彼の前に現われたのです。

 

ヨシュアはその時、「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵ですか。」と言いました。するとその人はそれには一切答えないで、「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と答えました。つまり、主ご自身が戦ってくださるということであり、彼はその将軍であるというのです。

 

ヨシュアにとってはどれほど大きな励ましであったことかと思います。私たちも、このような高くそびえ立つ城壁を前にすると、そこにどんなに偉大な神の約束があってもすぐに怯えてしまうものですが、そのような時でも主が共にいて戦ってくださるのです。私たちの戦いは私たちの力によるのではなく、主が共にいて戦ってくださる主の戦いなのです。いや、主が先だって進んで行かれ、その戦いを進めてくださいます。それゆえに、私たちは弱り果ててはならないし、意気消沈してはなりません。主が戦ってくださるのであれば、必ず勝利してくださるのですから、その勝利を確信して進んでいかなければなりません。そのために必要なことは何でしょうか。

 

ヨシュアが、「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」と言うと、その主の軍の将はヨシュアにこう言いました。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにしました。これはどういう意味でしょうか。

 

これはかつて、あのホレブの山で、主がモーセに対して語られた言葉と同じ言葉です。足のくつを脱ぐということは、その当時、奴隷になることを意味していました。奴隷は主人の前ではくつを脱がなければなりませんでした。したがって、くつを脱げということは「奴隷になりなさい」ということであり、神のしもべでありなさいということを示していたのです。言い換えるならば、それは主のしもべとして完全に自分を明け渡して主に従いなさい、ということです。そうすれば、たとえ目の前にどんな困難が立ちはだかろうとも、主が勝利を与えてくださるのです。

 

私たちはイエス・キリストの十字架によって救われ、その血による贖いをいただいているにもかかわらず、いつも敗北感を味わっています。いったい何が問題なのでしょうか。足のくつをぬいでいないことです。主に従っていないのです。いつも自分が優先になり、自分の思いで突っ走っています。これではどんなに主が働きたくても働くことができません。主の前で足のくつを脱がなければなりません。自分の思いに従ってはなりません。私たちは足のくつを脱ぎましょう。主のしもべとなり、主にすべてを明け渡しましょう。そうすれば、主が必ず勝利してくださるのです。

Ⅰペテロ1章18~21節 「キリストの贖い」

きょうは「キリストの贖い」というテーマでお話します。これまでペテロは神の救いの偉大さ、すばらしさについて語ってきました。それは永遠の昔から神によって計画されていたことであり、最初の人アダムが罪を犯した時から、預言者たちを通して預言されていたことです。それが時至ってイエス・キリストによって実現しました。そして、聖霊によって福音を語った人々を通して当時の人々、そして、私たちにも告げ知らされました。それは御使いもはっきりと見たいと思うほどすばらしいものです。ですから、そのような救いを受けた者は、イエス・キリストの現われのときにもたらされる救いの完成をひたすら待ち望むことが求められます。いったいどうしたら神を恐れて生きることができるでしょうか。

そこでペテロはここで贖いについて語ります。そのためにどれだけ尊い犠牲が払われたかを知れば、神の恵みの大きさ、すばらしさがわかり、心から神を恐れて生きることができるようになります。

Ⅰ.キリストの血による贖い(18-19)

 

まず18節と19節をご覧ください。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

贖いとは何でしょうか。贖いとは、奴隷の状態にあった人を、お金を払って自由にすることです。あるいは、捕らえられていた人を、保釈金を払って解放することです。また、誘拐された人を、身代金を支払って取り戻すことを言います。聖書は、私たちは皆、罪の奴隷であったと教えています。そのような状態から解放するために神は代価を払ってくださいました。それが贖いです。

ある少年が、小さなおもちゃのボートを作りました。木材をカットし、型枠を作り、それを船底にボンドでくっつけました。帆柱を立て、マストを張って、やっとの思いで完成させて、それを湖に浮かべました。それはとてもいい出来で、大満足でした。ところが、突風が吹いてきて、湖に浮かんでいたボートが沖の方に流されてしまいました。せっかく作ったばかりだというのに、どこに行ってしまったのかわからなくなりました。しかし、数日後、この少年が街の中を歩いていると、おもちゃ屋の前をとおりかかったとき、そこに自分の作った船が置いてあることに気付きました。彼は急いで店の中に入ると店の人に、「これボクの船だよ、ボクが作ったんだ」というと、店の人は、「それは違う。これはね、ある人から買ったんだ。欲しければ売ってやるよ。そうすればキミのものさ。」それで少年は家に戻り貯金箱を割って、それまで貯めていたお金とありったけのお金を持って再び店に行きました。そしてお金を払って買い戻したのです。

これが贖いです。神は、ご自身から遠く離れて罪の奴隷となっていた私たちを買い戻すために代価を支払ってくださいました。どのような代価でしょうか。ここには、「あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷も汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。

当時、銀や金は最も価値あるものの一つでしたが、たとえそれがどんなに価値があっても、それらは朽ちるものであり、一時的なものでしかありません。永遠に続くものではないのです。ここでペテロは、あなたがたが贖い出されたのはそのような朽ちるものによってではないと言っているのです。では何によって贖いだされたのでしょうか。19節には、「傷もなく汚れることもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです。」とあります。キリストの、尊い血によったのです。

ペテロは出エジプトの出来事を思い起こしていたのではないかと思います。かつてイスラエルの民は四百年の間、エジプトの奴隷として過ごしていました。そんな過酷な状態の中で主に助けを求めると主はモーセを遣わし、彼らを救い出してくださいました。しかし、エジプトの王がなかなか彼らを行かせようとしなかったので、神はエジプトに十の災いを下されました。その最後のわざわいは、エジプト中の初子という初子を打つというものでした。ただ傷のない小羊をほふり、その血を取って、家のかもいと二本の門柱に塗れば、神はその血を見てさばきを通り越すと言われたのです。そのさばきから免れる唯一の道は小羊をほふり、その血を塗るということだったのです。

ここで問題なのは、その身代わりとなった小羊とはどのようなものであったかということです。ここには、「傷もなく汚れもない小羊」とあります。それは全く罪がなかったことを表わしています。しかし、罪のない人などひとりもいません。人間であるということは罪を持っているということなのですから、罪のない人間などいないのです。罪がないとしたらそれは神だけであって、その神が人となってくださる以外に方法はありません。そこで神はそのひとり子をこの世に遣わし、その血によって罪の贖いを成し遂げてくださったのです。それがイエス・キリストの十字架です。ですから、バプテスマのヨハネはこの方についてこう証言したのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)

イエス・キリストこそ、私たちの罪を取り除くことができるまことの神であり、私たちの罪を取り除く神の小羊だったのです。本来ならば、私たちは自分の罪のために神にさばかれて永遠に神から切り離されなければならなかったのに、神はそんな私たちをあわれんでくださいました。神は私たちをさばくことをしないで救う方法を考えてくださったのです。そのためには代価が支払われなければなりませんでした。それが神の子イエス・キリストの尊い血だったのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)

この血によって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちを受けました。ですから、いつこの肉体が滅んでも、いつ死んだとしても、神の国に、天国に入れていただけるのです。これはすばらしい特権ではないでしょうか。あなたは、この特権を受けているでしょうか。あなたの罪は赦されていますか。私たちはいつも過去を振り返って、なぜあんなことをしたんだろう、こんなことをしたと後悔しながら生きています。人生をもう一度リセットすることができるものならそうしたいと思っていてもできません。しかし、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪はすべて赦され、永遠のいのちが与えられるのです。しかも、ただです。そのために多くのお金を支払ったり、もっと教育を積まなければならないとか、そのために何か修行しなければならないということはありません。それはすべて神の恵みによるのです。よく教会で何かの催しをするとき、「入場無料です。お気軽にお越しください。」とチラシに書きますが、「無料です」というと、何だか安っぽいイメージがありますが、そういう意味ではありません。それはこの世の金銀のすべてを支払っても買うことができないほど価値があるもので、そのためには、神のひとり子のいのちが支払われたのです。それほど価値があるものなのですが、それをただで受けるのです。

それは言い換えると、あなたが神の前にどれほど価値があるかを意味しています。神はあなたを買い戻すために、ご自分のいのちを支払ってくださいました。それほどあなたは価値があるのです。イザヤ書43章4節で、神はこう言っておられます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

私たちは自分では価値ある者だなんて思えません。何か優れた能力を持っているわけではありませんし、すばらしい経歴を持っているわけでもありません。いったい何のために存在しているのかさえわからなくなる小さな者です。しかし、神はそんな者を、「あなたは高価で尊い」と言ってくださる。だれか他の人の目でそう見えるかからではなく、神の目で、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している、と言ってくださるのです。それは決して口先だけのことではありません。なぜなら、そのために最も高価な代価を支払ってくださったからです。神は私たちをそれほど価値あるものと見ておられるのです。私たちの罪を赦すのは、イエス・キリストの血以外にはありません。神の子の尊い血によって私たちは罪から贖われ、神のものとされたのです。

Ⅱ.世の始まる前から定められていた贖いの御業(20)

次に20節をご覧ください。それでは、このキリストの血による贖いは、いつ定められたのでしょうか。「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。」

「世が始まる前から」とは、この世界が創造される前からということです。神はこの救いの計画を最初の人アダムとエバが創られる以前から、この世界の基が置かれる前からあらかじめ定めておられたのです。どういうことでしょうか。これは罪の贖いですから、この世界に罪が入って来た時から計画されたことではないのですか?違うんです。私たちはしばしば、神が創造したこの世界が罪に汚れてしまったのでイエス・キリストによってこの世界を救い出すように考えることがありますが、そうではなく、世界が創造されるずっと前からあらかじめ定められていたことだったのです。神は創造者であられると同様、永遠の贖い主であられるのです。そのことが、エペソ1章3節から5節までにこうあります。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにゆって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

私たちがイエス・キリストにあって神の子としていただくことは、あらかじめ定められていた神のご計画であり、その計画は世界の基の置かれる前からのものだったことがわかります。ですから、最初の人アダムが罪を犯したとき、「こんなはずじゃなかった」と、神は驚かなかったのです。そのようなことがあることを始めから知っておられました。知っておられたうえであえて彼に選択権を与えられたのです。それは彼が自分の意志で神を愛し、神に従うようになるためです。自分の意志で自由に選ぶことができないとしたら、それは本物の愛ではありません。ロボットのように、「わ・た・し・は、この・人・が・好き・で・す」みたいになってしまいます。自分の意志で選んでこそ心から愛することができるわけで、神はそのようにされたのです。

しかし、そこには常に危険が伴うのも事実です。心から神を愛することもできますが、失敗して神の命令に背くこともありますから・・。でも神は人間に自由意志を与え自発的に愛することができるようにされました。そして、そのことをあらかじめ知っておられた神は、ずっと昔から救いの計画を持っておられたのです。そして、最初の人アダムが失敗したときすぐに、あらかじめ定めておられ救いの計画を実行されました。それは創世記3章15節にあるように、女の子孫から救い主を遣わすということでした。メシヤ、キリスト、救い主が来て、贖いの代価として自分のいのちを与えるということだったのです。

それが、「この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。」終わりの時とは、イエス・キリストの現われとともに始まりました。ユダヤ人はこの終わりの時をこの先の未来のことと考えていましたが、使徒たちはこの終わりの時はすでにキリストとともに始まったと考えていました。彼らは終わりの日に聖霊が注がれると理解していて、ペンテコステの時にそれが成就したと考えていたのです。永遠の初めからおられた方が、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。それが今から二千年前の受肉という出来事です。神が人となって生まれたクリスマスの出来事です。

ヨハネは、このことをこう言っています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。ひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)目に見えない神が、目に見える形で現われてくださいました。ことばが人となって来てくださいました。この方は栄光に満ちておられました。それはひとり子としての栄光です。私たちはこの栄光を見たのです。それはひとり子としての栄光であり、私たちの救い主イエス・キリストです。

いったいこの方は何のために来られたのでしょうか。ここに、「あなたがたのために」とあります。イエス様はあなたのために来られました。あなたを罪から救ってくださるために、あなたを罪から贖うために来てくださったのです。そのことが、ガラテヤ書4章4~5節では次のように言われています。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、この結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」このために来てくださったのです。神の律法によってはだれも義と認められることはありません。そのような者を贖うために、この方が律法の下にある者となって、私たちの刑罰を代わりに十字架で受けてくださいました。それゆえ私たちはその律法から解放され、子としての身分を受けることができたのです。

ですから、十字架の上でキリストはこのように叫ばれたのです。「完了した。」(ヨハネ19:30)あなたが罪のために支払わなければならない代価は完了しました。完済しました。住宅ローン等で苦労しておられる方も多いかと思いますが、結構厳しいですよね。精神的にズッシリきます。全部支払いが終わったらどんなに楽になるかと思います。イエス様は私たちの罪のために支払わなければならない債務を完済してくださいました。あなたの救いは完成したのです。この罪の贖いを信じるものは、だれでも罪が赦され、神の子とされるのです。

Ⅲ.キリストをよみがえらせた神(21)

第三のことは、この贖いの保証です。それは神がこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったということです。21節をご覧ください。「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」

ペテロはここで、キリストがよみがえられたことを強調しています。なぜでしょうか。キリストの贖いがどれほどすばらしいものであったのかを語ればそれで十分だったのではないでしょうか。いいえ、そうではありません。もし罪の贖いの代価がどれほどすばらしいものであったとしても、キリストがよみがえらなかったとしたら、その罪の贖いは不完全なものであったということになります。支払い不足ということになるのです。私が払っておきますと言っておきながら、お金が足りませんでしたということにもなりかねないのです。なぜなら、それで十分であったのかどうかを知ることができないからです。死んだだけであればすべてが終わりであって、本当にそれが完全な贖いであったかどうかを知ることなどできないからです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。そのことによって、この罪の贖いが完全であったことを証明してくださったのです。バークレーという注解者のことばで言うと、「キリストの勝利を論じないで、キリストの犠牲を語る人はほとんどいない。」(聖書注解シリーズ14、P246)のです。ペテロはこの復活の証人でした。キリストが復活したということは、この贖いが完全であったということの証明でもあったのです。ですから、ペテロは復活の主イエスと出会い、自分のいのちをかけて本気でキリストを伝えたのです。「本当です!キリストは私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。この十字架は私たちの罪を贖うための完全な代価であって、永遠の昔から神が定めておられたことだったんです。このイエスを救い主と信じるなら、あなたも救われます。なぜなら、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったからです。本当です、本当です。」と、本気になって伝えたのです。私たちの信仰と希望は、このキリストをよみがえらせてくださった神にかかっています。イエスの十字架での死によって、私たちは罪の奴隷と死の束縛から解き放たれました。そして、イエスがその死からよみがえられたことによって、イエスご自身と同じいのち、永遠のいのちにあずかるものとされたのです。

ペテロはここで、「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。」と言っています。「私は、神様を信じています」という人はたくさんいます。しかし、問題はその神がどのような神であるかということです。いわしの頭も信心からで、私たちは何でも神にしてしまう傾向があります。信じる者は救われる、何でもいいから信じることが大切だというのです。でも人が考えた宗教を信じても、そこに本当の救いはありません。そのような宗教は私たちの罪を贖うことはできないからです。私たちの罪を贖うことができるのは、人なって来られた神イエス・キリストだけです。キリストが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、三日目によみがえり、それが本当であるということを証明してくださいました。ですから、このイエスを信じるものは誰でも救われるのです。このキリストによらなければ罪の赦しはありませんし、神に近づくこともできません。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。ですから、私たちの信仰と希望は、このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった神にかかっているのです。そしてこの希望は、絶対に失望に終わることはありません。これは生ける望みなのです。この望みを知れば知るほど、私たちに今どんな困難にあっても、それを乗り越える力が与えられます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかるので、栄に満ちた喜びに踊ることができるからです。

皆さんはいかがですか。皆さんは、どこに望みを置いておられますか。このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった主こそ、私たちの希望です。この方はご自分のひとり子の血という代価を払って、私たちを罪の中から贖い出してくださいました。それほどまでに愛してくださいました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」のです。この贖いに感謝して、キリストをよみがえらせてくださった神に信頼して、イエス・キリストの現われのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みましょう。神を恐れて歩ませていただきましょう。

Ⅰペテロ1章13~17節 「救いの恵みに生かされて」

きょうは「救いの恵みに生かされて」というタイトルでお話しします。13節には、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」とあります。「ですから」とは、これまでペテロが語ってきたことを受けての勧めなり、結論です。これまでペテロは救い素晴らしさについて語ってきました。それはある日ふって沸いたような話ではなく永遠の昔から神によって定められていたものであり、最初の人アダムが罪に陥ってからは、多くの預言者によって預言されたいたことです。そして今や、それがキリストによって表されました。永遠の救いの御業がイエス・キリストによって成し遂げられたのです。そして、天から送られた聖霊によって福音を語った人々を通して、新約時代の人々ばかりか、今の私たちにも告げ知らされたのです。ですから、このような救いを受けている者はどのように歩むべきなのかが勧められているのです。 きょうは、このような救いを受けているクリスチャンの歩みについて、三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.救いの恵みをひたすら待ち望みなさい(13)

まず第一に、救いの恵みを受けた者は、この恵みをひたすら待ち望みなさい、ということです。13節をご覧ください。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

恵みとは何でしょうか。恵みとは、受けるに値しない者が受けることです。ここでは「たましいの救い」のことを言っています。この救いは、神の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによってもたらされました。それは私たちの行いによって勝ち得たものではなく、神に一方的な恵みによるものです。この恵みを、待ち望みなさいというのです。

ちょっと待ってください。私たちは既に神の恵みによって救われたのであればどうして再び待ち望まなければならないのでしょうか。確かに、私たちは神の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、その死の中からよみがえられたことによって新しく生まれ変わったことによって、生ける希望を持つようになりました。けれども、この救いはまだ完成していないのです。この救いが完成するのは、私たちのからだが贖われ、朽ちないからだ、栄光のからだに復活する時です。それはイエス・キリストが再び来られる時にもたらされるものです。ですからここに、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みとあるのです。キリストが再び来られるとき、私たちのからだもよみがえり、栄光のからだをいただき、いつまでも主とともに生きるようになるのです。これが、救いの完成の時です。そのときもたらされる恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。

皆さんは、いかがでしょうか。その救いが完成する時を待ち望んでいるでしょうか。「私は毎日忙しくて、そんなこと考えている暇などないの」と、目先のことに振り回されてはいないでしょうか。しかし、そのときもたらされる恵みのすばらしさを知ったら、それがいかに愚かな考えであったかがわかります。それは何にも変えがたい喜び、栄光の輝きです。私たちはそれを待ち望まなければなりません。

どのように待ち望めばいいのでしょうか。ここには三つのことが勧められています。第一に、「心を引き締めて」ということです。心を引き締めるとはどういうことでしょうか。口語訳では、「心の腰に帯を締め」と訳しています。「腰に帯を締める」とは面白い表現ですね。当時ユダヤ人が着ていた服は一枚の布をかぶったようなものだったので、そのままでは服が邪魔になって仕事になりませんでした。そこでいざという時にすぐに身動きできるように、着物の腰に帯を締め、裾をまくりあげて整えたのです。

かつてイスラエルがエジプトを出て行くにあたり、過越の祭りが制定されましたが、それを食べる時、腰の帯を引き締め、足に靴をはき、手に杖を持ち、急いで食べるようにと命じられました。なぜなら、時間がなかったからです。急いでエジプトを出なければなりませんでした。すぐに動けるように腰には帯を締め、足には靴を履き、手には杖を持たなければならなかったのです。そんな恰好で食べていたら、「あなたは落ち着きがないですね」と言われそうですが、いつでも旅立てるように準備してかなければなりませんでした。同じように、イエス様が来られ、神の怒りから私たちを救ってくださるのですから、しっかりと心を引き締め、イエス様がいつ来てもいいように備えていなければなりません。

パウロはエペソ人への手紙6章の中で、悪魔の策略に対して立ち向かうことができるため、神のすべての武具を身に着けるようにと言っていますが、その最初に出てくるのが帯を締めるということです。「ではしっかり立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け」(エペソ6:14)とあります。悪魔の策略に対して立ち向かうためには、まず真理の帯を締めることが必要なのです。これがないと動けません。

ヨハネの福音書8章32節には、「真理はあなたがたを自由にする」とあります。神の真理によって自由になりなさい、神の真理によって準備を整えておきなさいということです。人の考えやこの世の考えでは不自由になってしまいます。そうした考えに縛られて身動きできなくなってしまうのです。しかし、真理はあなたがたを自由にします。この真理の帯を締めなければなりません。

皆さんはどうでしょうか。どのような帯を締めていますか。この世の凝り固まった考えという帯をしていませんか。そうではなく、真理の帯を締めなければなりません。

第二に、身を慎まなければなりません。身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、待ち望まなければなりません。「身を慎む」とはどういうことでしょうか。この「身を慎む」と訳された言葉は、「しらふである」とか、「お酒に酔っていない」という意味です。お酒を飲むとどうなりますか。大抵の場合、酔っぱらって無感覚になり、判断力が鈍ります。その結果、自分を制御することができなくなってしまいます。よく酒を飲んで泥酔し、自分がやったことを全然覚えていないというニュースを聞きますが、何をしているのかがわからなくなってしまうのです。ですから、身を慎むとは、いつも冷静でありなさい、用心深く、慎重でありなさいということなのです。私たちは問題が起こるとすぐに心を騒がせ、慌てふためく者ですが、そのような時でも冷静であるように、また、この世の情報に振り回され惑わされるような時があっても、そうした情報に酔うことなく、用心深く、慎重でなければなりません。

ペテロはこの「身を慎み」という言葉を、この手紙の中で他に2回用いています。4章7節と5章8節です。4章7節には、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」とあります。また、5章8節では、「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。世の終わりが近くなると、いろいろな情報が錯綜し、何が真理なのかわからなくなって惑わされてしまうことがあります。そのような時こそ祈りのために、心を整え、身を慎まなければなりません。また、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。その悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩きまわっています。ですから、その悪魔に立ち向かうために、目を覚ましていなければなりません。今どんなことが起こっているのかを悟り、身を慎み、慎重に歩まなければならないのです。これをペテロが言っていることころがおもしろいですね。彼は以前、イエス様を三度も否定しました。

「あなたはあのナザレ人と一緒にいたでしょう。」

「知らない。全然知らない。何の話かな。」

と、何も考えないで反応しました。身を慎んでいませんでした。その結果、彼は失敗してしまいました。私たちも身を慎んでいないと、ペテロのように、悪魔の策略に陥ってしまいます。心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストの現われを待ち望まなければなりません。

第三に、ひたすら待ち望まなければなりません。ここに、「ひたすら待ち望みなさい」とあります。ひたすら待ち望むとはどういうことでしょうか。この「ひたすら」と訳された言葉は、「完全に」とか、「全面的に」という意味です。やがて再び来られる主を、少しも揺らぐことなく、待ち望みなさいということです。ここに希望を置きなさいということなのです。

皆さん、イエス・キリストが再び戻って来られるということよりも良い知らせはありません。それはお金が儲かることよりも、宝くじが当たることよりも、不治の病がいやされることよりも、事業に成功することよりも、商売が繁盛するよりも、何よりも良いことです。なぜなら、死んでも新しいからだをいただいて、永遠に主とともに生きるようになるからです。この世の人にはそれがありません。彼らはただ死を待っているだけです。この世でどんなに繁盛しても、死んだら灰となってすべてが終わってしまいます。ただ死んで朽ちていくだけなのです。それはあまりにも空しいではないでしょうか。

しかし、私たちは違います。この地上では何の報いも受けないような者でも、イエス・キリストを信じてたましいの救いをいただき、神の子とされたので、やがてイエス・キリストが迎えに来てくださいます。たとえ死んで灰になっても、やがて復活の新しいからだをいただき、イエス様と同じ姿となって、天において永遠に生きることができるのです。これほどの希望はほかにありません。この望みを捨ててはなりません。この望みは失望に終わることはありません。失望に終わることがない希望、それこそ本当の希望です。この希望をひたすら待ち望まなければならないのです。それが神の恵みによって、イエス・キリストを信じた者として、この世にあってあるべき姿なのです。

Ⅱ.聖なる者とされなさい(14-16)

第二のことは、聖なる者とされなさいということです。14節から16節までをご覧ください。

「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」

神の恵みによって救われた者にとって必要な第二のことは、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなさいということです。聖なる者とされるとは、神のために聖別されたとか、分離された、分けられたという意味です。イエス様はヨハネの福音書17章14節から17節のところで、弟子たちのためにこう祈られました。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪いものから守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」

私たちは真理のことば、福音を聞いてイエス・キリストを信じ、罪から救われました。それでこの世から分離されました。この世に生きていますが、もはや私たちはこの世に属しているのではなく、神に属する者とされたのです。そして、神に属する者とされた者は、キリストを信じる以前の行いと、その行いが変えられます。私たちが救われるためには行いは関係ありません。イエス様を信じる信仰だけで救われます。しかし、本当に信じたのなら、信じて救われたのなら、その行いが以前とは変えられるのです。皆さんどうでしょうか。キリストを信じる以前と今とではずいぶん変わったなぁと思いませんか。

私は18歳で信仰を持ちました。それ以前はごく普通の高校生というか、よく授業をさぼって、部室や近くの喫茶店で時間をつぶしていました。朝ごはんを食べてもすぐにおなかが空くので、授業をさぼってそういうところで弁当を食べていたのです。朝から晩までバスケットボールに明け暮れ、バスケットボールのために学校に行っているようなものでした。ですから、高校3年生になって部活動が終わったときは何もすることがなくなって、毎晩友達の家に行って遊びほうけていました。まあいい加減というとか、何か満足するものを求めていたんじゃないかなぁと思いますが、その満足がわからなくて、何をしても心の深いところではいつも虚しさを感じていました。しかし、知り合いに誘われて教会に行きイエス様を信じて変えられました。

「だれても、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

イエス様を信じたら、もっと聖書のことを知りたいと思うようになり、一生懸命聖書を読むようになりました。それまでは本を読むという習慣がほとんどなく、ギデオン協会からもらった聖書を大切に本棚にしまっておくだけでしたが、もっとイエス様のことを知りたいと思うようになってむさぼるように読むようになりました。そして、私の人生の中心にイエス様がいてくださるのがわかりイエス様中心の生活へと変えられていきました。よくBeforeとAfterと比較されることがあります。それ以前とそれ以後がどのように変わったのを比較するわけですが、私はイエス様を信じて全く変えられました。今でもこんなにひどい人間なのですから、以前どれほどひどかったかを想像することができるでしょう。神は、そんな者を全く変えてくださいました。イエス様を自分の罪からの救い主として信じた瞬間から、神の御霊がキリストに似た者に変えてくださったのです。

では、キリストを信じた者はどのように変えられるのでしょうか。その特徴は何でしょうか。ペテロはここで、「従順な子どもになり」と言っています。イエス・キリストを信じて神の子どもとなった者は、神に対して従順な子どもになります。これがクリスチャンの特徴の一つです。神のことばに聞き、そして神に、キリストに従います。しかし、信じていない人はどうでしょうか。信じていないわけですから、従いません。聞いても従いたくありません。いや、従えないのです。生まれながら人は神に対して不従順です。パウロはそのことをエペソ2章3節でこのように言っています。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

私たちもそうでした。以前は神に対して不従順でした。なぜですか。無知だったからです。ペテロはここで、「以前あなたがたが無知であったときのさまざま欲望に従わず」と言っています。何に対して無知だったのでしょうか。神について無知でした。まことの神がただおひとりであることを知りませんでした。いろいろな神々がいると思っていました。それは人が作ったものであることを知っていたのに、本気でそのようなものを拝んでいたのです。そして、まことの神が天地の創造主であり、自分たちをお造りになられた方であるということも知りませんでした。そして、その神が私を愛していることも知りませんでした。霊的に無知だったので、さまざまな欲望に従い、自分の好き勝手に歩み、もやりたい放題でした。これが以前の生活です。

しかし、今はどうですか。今は真理を知りました。イエス・キリストを信じて新しく生まれ変わりました。神の子どもとされました。神の子どもの特徴は何ですか。従順です。ですから、今は以前のような不従順な子どものようなさまざまな欲望に従って歩むのではなく、15節にあるように、聖なる方にならって、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなければなりません。私たちを救ってくださったのは聖なる方、神ご自身です。それは私たちが従順な子どもとなり、あらゆる行いにおいて聖なる者となるためです。どうしたらあらゆる行いにおいて聖なる者とされるのでしょうか。あなたがたを召してくださった聖なる方にならうことによってです。エペソ5章1節には、「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」とあります。神にならう者となりなさい。私たちの模範は、神ご自身です。私たちが神にならうなら、だれでも神のように変えられます。

いったいなぜ私たちはあらゆる行いにおいて聖なる者とされる必要があるのでしょうか。16節にはこうあります。「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

まだ子供たちが小さかったとき家族でアメリカに行きました。そのころは家内の両親も元気だったわけですが、おじいちゃんの姿を見て、「あっ」というのです。「どうしたの」と尋ねると、「マミー、グランパーそっくり」と言うのです。その歩く姿が父親そっくりだというのです。どれどれとよく見てみると本当に似ているのです。DNAというのは受け継ぐんだなぁと思いましたが、ただDNAを受け継いでいれば似るというわけではありません。一緒にいて関わりがないと、全然似てないということもあるのです。一緒にいて関わっていると、どんな人でも似てくるのです。

私は時々だれかから「奥様にそっくりですね」と言われることがあります。私は日本人で、家内はアメリカ人ですよ。私はうさぎで家内は亀のような性格ですから、似ても似つかわしいと思いますが、どうも似ているらしいのです。本当かなぁと思ってよく考えてみると、確かに考え方において似ているなぁと思いました。先日結婚34周年を迎えましたが、ずっと長い間一緒にいると、考え方が似てくるのです。だから、誰と一緒にいるか、だれと関わるのかということはとても重要なことなのです。子どもが親に似せられるのは親との関わりを持っているからであって、その親がどういう人であるかは子どもの将来にとってとても大きな影響を与えることになるのです。そして、私たちは神の子どもとされました。神の子どもとされたのであれば、当然神のようになるはずです。神はどのような方ですか。神は聖なる方です。ですから、私たちも聖なる者でなければならないのです。

ペテロは、それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」と言っています。聖書にそう書いてあるので、そうでなければならないと言っているのです。どこに書いてあるのでしょうか。レビ記です。レビ記は、奴隷から救われたイスラエルの民が約束の地においてどのように生きるべきかを教えています。以前彼らは奴隷でした。でも彼らはそこから救い出されました。ですから、彼らは新しい約束の地に行ったときどのように生きるべきかを知る必要がありました。その基準が書かれてあるのがレビ記です。神が約束してくださった地はとても潤った土地でした。ところがそこに住んでいる人たちは神を知らない邪悪な人たちでした。ですから神は彼らを追い払うように、そして、彼らの生き方をまねないように、以前の生き方をしないで、新しい生き方をするように勧める必要があったのです。それはあらゆる行いにおいて聖く生きるということでした。なぜなら、神は聖なる方ですから、神の民であるイスラエルもそうでなければならなかったからです。

同じように、私たちも以前は罪の奴隷として生きていましたが、神のあわれみによってイエス・キリストを信じてその罪から救われました。その救われた者にとって必要なことは従順な子どもとなり、以前無知であったときのあらゆる欲望に従って生きることではなく、私たちを召してくださった聖なる方にならって生きることです。その方は聖なる方なのですから、私たちも聖でなければならないのです。私たちがあらゆる行いにおいて聖くされること、それが神のみこころなのであって、イエス・キリストに似た者とされること、それが私たちのゴールなのです。

Ⅲ.神を恐れかしこんで(18)

第三のことは、神を恐れかしこんで生きるということです。18節をご覧ください。

「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」

キリストの恵みによって救われた人の人生は、神を畏れかしこんで生きる人生です。この「神を恐れかしこむ」というのは、神を恐れの対象としてブルブル震えながら生きるということではありません。神を恐れかしむというのは、神が常に自分の前におられると信じ、この神を意識して生きるということです。自分の前にいつも神がおられるので、そのことを意識して話し、行動し、その瞬間、瞬間を生きるのです。

なぜクリスチャンはそのようにして生きなければならないのでしょうか。それは、人をそれぞれのわざに従ってさばかれる方を父と呼んでいるからです。神はそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方です。昔から、地震、雷、火事、おやじと言われてきました。父親はそれほど威厳がある存在だったのです。しかし、今ではそれが薄れてきました。父親を父親として敬う子どもが少なくなってきました。その結果、家庭の中にいろいろな問題が起こるようになったのです。それは神に対しても同じで、神を恐れない人は悪に走るようになります。それはたとえキリストを信じていてもそうです。神を信じていると言っても健全に恐れていないと、未信者のような行動をとってしまうことになるのです。

いったい私たちの父はどのような方なのでしょうか。ここには、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方とあります。私たちの神は、私たちの行いに応じて公平にさばかれる方です。これは私たちの行いによって救われるということではありません。私たちはすでにイエス・キリストを信じたことで救われています。もう罪のさばきはありません。イエス・キリストを信じた者はみな永遠のいのちを受けます。しかし、信じた者がみな同じ報いを受けるのかというとそうではなく、その行いに応じて報いが違うのです。

ローマ人への手紙2章6,7節にはこうあります。「神は、ひとひとりに、その人の行いにしたがって報いをお与えになります。忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下さるのです。」

また、Ⅱコリント5章10節には、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。

私たちがこの地上で行ったことに応じて、神様は正しく評価してくださるのです。ですから、神を恐れかしこんで過ごさなければなりません。ペテロはここで、「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を」と言っています。私たちは、いつまでもこの地上に住んでいるのではありません。この地上の時はしばらくの間にすぎません。やがてこの地上でのいのちを終えて永遠の住まいへと帰って行きます。イエス・キリストを信じたのであれば神の国に入れられますが、そうでなければ神のいない所に入れられます。あなたはどこで永遠を過ごしたいですか。イエス・キリストを信じて神とともに永遠に過ごしたいと思いませんか。そして、そこで主イエスが戻ってこられることを待ち望むのです。その時、私たちが待ち望んでいたものが現実のものとなります。私たちのからだも復活し、朽ちないからだ、栄光のからだとなって、いつまでも主と共に過ごすようになるのです。ですから、私たちのこの地上にとどまっているしばらくの間の時を、神を恐れかしこんで過ごさなければなりません。

私たちは、神の恵みによって生ける望みを持つようになりました。ですから、私たちは心を引き締め、身を慎み、主が戻って来られるときにあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。従順な子どもとなり、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなければなりません。それは、神が聖であられるからです。ですから、私たちも聖でなければなりません。そして、主は正しくさばかれる方なのですから、その主を恐れかしこんで良い業に励みましょう。そして、やがて神から豊かな恵みを受けることを待ち望み、日々主に信頼して歩ませていただきましょう。

ヨシュア記4章

きょうはヨシュア記4章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.恵みの記念石(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。

「民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに告げて仰せられた。「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し、彼らに命じて言え。『ヨルダン川の真中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り、それを持って来て、あなたがたが今夜泊まる宿営地にそれを据えよ。』」そこで、ヨシュアはイスラエルの人々の中から、部族ごとにひとりずつ、あらかじめ用意しておいた十二人の者を召し出した。ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」

圧倒的な神の御業によってイスラエルの民がヨルダン川を渡り終えたとき、主はヨシュアに、民の中から12人、部族ごとにひとりずつを選び、ヨルダン川の真ん中で、祭司たちが立ったその場所から12の石を取り、彼らが泊まる宿営地に据えるようにと命じました。せっかくヨルダン川を渡りきったのに、なぜ再びヨルダン川に戻って石を取って来なければならなかったのでしょうか。また、なぜそれを宿営地に据えなければならなかったのでしょうか。

6節を見ると、その理由が記されてあります。つまり、それはしるしとなるためでした。後になって、彼らの子どもたちが、「これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか」と聞くとき、主がヨルダン川の水をせきとめられたということのしるしである、と答えなければなりませんでした。それは実にこのヨルダン川渡河の奇跡が、生きて働かれる主の御業によるものであることの証拠として、後世の人たちの信仰の励ましとなるためのしるしだったのです。言うならば、それはイスラエルの後世の人たちに対する教訓として立てられたものだったのです。

昔から、「ユダヤ人はどうして優秀な民族なのか」という問いがありますが、その一つの理由はここにあると思います。すなわち、ユダヤ人は、過去の体験から教訓をしっかりと受け継ぐ民族であるということです。ユダヤ人の生活の中にも他の民族と同じように多くの祭りがありますが、他の祭りと違うことは、ただ単に祭りによって浮かれ、はしゃぎ、興奮して、喜んでいるのではなく、その祭りに込められている歴史的教訓から学んでいることです。それは良いこと、勝利の体験ばかりでなく、悪いこと、失敗の体験からも、それらの事柄を通して得た教訓を、その祭りの中に託し儀式化しているのです。

たとえば、過越しの祭りはその一つです。その祭りの期間中は、どこに行っても「種なしパン」が出されます。それはこの種なしパンに大きな意味があるからです。それはイスラエル民族の屈辱と解放を記念しているものなのです。昔イスラエルがエジプトで奴隷であったとき、主は彼らの嘆きを聞かれモーセという人物を立ててそこから解放してくださいました。その脱出の際、時間がなかったので、パンを膨らませる余裕がなく、仕方なく種なしパンを食べたのです。そしてその後、過越しの祭りの際にはその時のことを忘れないために、何百年も何千年もそのことを繰り返して祝ってきたのです。彼らはその種なしパンを食べる度に、あの出エジプトにおいてイスラエルの民族が受けた屈辱と、そこから解放してくださった神の恵みを、ずっと思い起こしてきたのです。

この記念の石塚も同じです。主がヨルダン川をせきとめイスラエルの民を渡らせてくださったことをいつまでも覚え、そのすばらしい主の力を思い出し、その恵みにしっかりととどまっているために、主はわざわざヨルダン川に戻らせて12の石を取らせて、それを記念碑としたのです。

それは私たちにも必要なことではないでしょうか。私たちもこのような感謝の記念碑を立てなければなりません。主がなしてくださったその恵みの数々を思い起こし一つ一つを心に刻まなければならないのです。私たちはともすると神の恵みに対して、それが当たり前であるかのように、口では感謝といいながら、ぬくぬくとその中で生きていることがあるのではないでしょうか。かつてあの時に、あのようにすごい恵みと祝福を与えてくださったのに、そればかりか様々に起こる困難に対しても、その都度乗り越える力を与え、平安をあえてくださったのに、それらすべてを過去のもとしてしまい、何の感謝もせず、むしろブツブツと不平不満をもらし、あるいはそれらを自分自身の業績のように思って生きていることがあるのではないでしょうか。

詩篇103篇2節には、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。ほめたたえられるべき方がどのような方であるかを思い出すことが、その後の歩みの力となります。神がどのような方をあるかを知ればしるほど、神の恵みがどれほど大きいかを知れば知るほど、この神の恵みにとどまるようになるのです。

主イエスは、十字架にかかられる前夜、弟子たちと食事をした後、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯はわたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:23-25)それは、私たちのために救いを成し遂げてくださった主の恵みを覚え、その主と一つになるために主がするようにと命じられたことでした。これを行うことによって、主の成してくださったことを覚え、心に深く刻むことができます。それは聖餐だけではありません。私たちは主の恵みを具体的な形にして感謝を表すことによって主の恵みにとどまり、それが次に進ませる力となるのです。

Ⅱ.信仰によって(8-18)

次に、8節から18節までをご覧ください。

「イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。・・ ヨシュアはヨルダン川の真中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足の立っていた場所の下にあった十二の石を、立てたのである。それが今日までそこにある。・・箱をかつぐ祭司たちは、主がヨシュアに命じて民に告げさせたことがすべて終わるまで、ヨルダン川の真中に立っていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。民がすべて渡り終わったとき、主の箱が渡った。祭司たちは民の先頭に立ち、ルベン人と、ガド人と、マナセの半部族は、モーセが彼らに告げたように、イスラエルの人々の先頭を隊を組んで進んだ。いくさのために武装した約四万人が、エリコの草原で戦うために主の前を進んで行った。主がヨシュアに、「あかしの箱をかつぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させよ。」と仰せられたとき、ヨシュアは祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来なさい。」と命じた。主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。」

イスラエルの民は、ヨシュアが命じたとおりに、ヨルダン川の真ん中から12の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えました。ところで、9節を見ると、8節を補足する形での挿入のように、・・線で括られています。つまり、ヨルダン川の真ん中から取って宿営地に運び、そこに据えた石がどこから拾ってきたのかを説明しているかのようになっていますが、原文では・・     線がないばかりか、同じことの繰り返しではないのです。

口語訳や新共同訳では、川底から運び出して川岸に設置した12の石とは別に、川底にも12の石を立てた、と読むことができます。多くの訳がそのように訳しています。けれども、川の中に石を立てるというのは、川の水が増したときに見えなくなるため、記念としては意味がありません。新聖書注解によると、「川の水で流されないような大きな石が、ヨルダン川の中に据えられて、ヨシュアとその世代の記憶がまだ生々しい頃に、河岸からそれを見ることができたのである。真ん中でも、必ずしも川の流れが激しい場所と解釈する必要はない。」(新聖書注解、旧約2 P51)と注解しています。けれども、仮に一時的に川岸から見ることができたとしても長い年月のうちにはその石も崩れて見えなくなってしまうでしょう。そのような理由で、この記述は合理的でないため、書き違いであると考えられてきました。また、川の中に石を立てることは神の命令になかったことからも、そのようなことをヨシュアが命じるはずがないと考えられてきたのです。

けれども、このような合理的な理由からだけでヘブル語本文を解釈することは極めて危険であり、人間的に判断してしまう恐れがあります。もちろん、ヘブル語によくある表現で、「ヨシュアは据えた」という句を補う形で、「祭司たちが立っていた場所の下にあった十二の石を」と理解することも可能なので、原文をそのまま受け入れるとしても、そこには依然として、二つの可能性が残るのは事実です。したがって、ここではどちらが正しいのかという判断はそのまま残しながら、もし、口語訳のように、宿営地とヨルダン川の川底の二か所に石塚が建てられたとすると、それはどういうことなのかを考えて行きたいと思うのです。

すると、そこにとても興味深い意義が浮かびあがってきます。それは、確かに川の真ん中に作られた石塚は川が再び流れ出したあとでは、何の証拠にもならないかのように見えますが、たとえ形が見えなくても、確かにヨルダン川を渡り、そのしるしとして川底に石塚を立てたということを信じることができたということです。私は先日、近くにある前方後円墳の遺跡を見に行きました。遺跡というのは、古い時代に建てられた建物とか、お墓、歴史的事件があったなんらかの痕跡が残されている場所のことで、それを見ると過去の人々の営みが見えてきます。しかし、そのほとんどは、「えっ、こんなところにあるの」と思われるような人目につかない閑散な場所であります。私が見に行った遺跡もそうで、そこには説明が書かれた立て看板があるだけで、どこから上って行けばたどりつくのかさえもわからない場所でした。つまり、こうした遺跡は見えるとか、見えないというのはそれほど問題ではないのです。問題は、実際ここに数百年前に人々が住んでいて、誰なのかはわからないけれども葬られたという事実があるということなのです。ですから、そこにたたずんでいるだけで、昔の人のそうした思いや生活ぶりがよみがえってくるのです。

ヨシュアがヨルダン川の川底に記念の石塚を立てたのも同じではないでしょうか。それが見えるか、見えないかということではなく、実際にヨルダン川の川岸に立った時、かつてここでイスラエルの先祖たちが神の御業を体験し、そこを渡ることができたということを思い起こし、彼らに働いておられる神の大いなる力を信じることができたのです。見えるだけでなく、見えない所にも記念の石塚を立てるほどものすごい神の奇跡を体験したんだということを後世の人たちも感じることができるために、わざわざ川底にも石を据えてその記念としたのです。ですから、見えなくもいいのです。見えなくても、そのことが聖書に書き記されることによって、その思いがひしひしと伝わってくるのです。

それから、そこにはもう一つの重要な意義があります。それは、このヨルダン川の川底に立てられた石塚は、キリストとともに十字架につけられたことの象徴であったということです。パウロはコリント人への手紙第一10章1節と2節で、「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、」と言っています。つまり、かつてモーセが紅海を通ったのはモーセにつくバプテスマであったのならば、ヨシュアがヨルダン川を通ったのはヨシュアにつくバプテスマであったということです。ヨシュアとはだれのことでしょうか。「ヨシュア」とはギリシャ語で「イエス」です。ですから、これはイエスにつくバプテスマのひな型だったのです。

「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

このようにして見ると、ヨルダン川の川底に作られた石塚はキリストとともに十字架につけられた自分の姿の象徴であり、宿営地に作られた記念の石塚は、キリストとともに生きる新しいいのちの象徴だったと言えます。本来であれば、川の流れの中で滅ぼされていたかもしれない自分の代わりにキリストが死んでくださったというだけでなく、その身代わりによって新しいいのちに生かされるようになりました。この十字架と復活による救いの恵みを、この二つの石塚は表していたのです。

さて、民がすべて渡り終わった時、主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真ん中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地にあがったとき、ヨルダン川の水はもとのところに返って、以前のように、その岸いっぱいになりました。その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなるとされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れました。それはヨシュアが大いなる者とされ、次なる戦いにとって大きな出来事であったことがわかります。そのポイントはいったい何だったのでしょうか。信仰です。モーセが主によって与えられた約束を、ヨシュアが信仰によってその実現に向かっているのです。それがカナンの地の征服において現われていきます。信仰こそ、神の約束を実現してく手段であり、大いなる者とされる秘訣であることがわかります。

Ⅲ.信仰の継承(19-24)

最後に、19節から終わりまでをみたいと思います。

「民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。ヨシュアは、彼らがヨルダン川から取って来たあの十二の石をギルガルに立てて、イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。」

イスラエルはヨルダン川から上がると、エリコの東の境にあるギルガルに宿営しました。そこはカナン侵略の、いわば作戦軍事基地になっていった場所です。そこからイスラエルの民はカナン人との戦いを開始していきました。それほど重要な場所だったのです。戦いに勝つこともあれば、負けることもありました。しかし、とにかくギルガルに戻ってきた時には、この記念碑を見て、奮起したのです。父なる神はあのヨルダン川をせきとめて、その真ん中を渡らせてくださった全能者である。そのことを再確認し、思い起こして、勇気をいただいて、再び戦いへと出て行ったのです。ギルガルは、私たちが帰る場所なのです。そこに帰って静まり、神の偉大さを思い起こし、勇気と力をいただいて、再び戦いへと出て行く場所です。そうです、それが十字架のキリストなのです。私たちはいつも十字架のキリストのもとに帰り、そこから慰めと励まし、勇気と力をいただいて、再びこの世の中に出て行くことができるのです。私たちの中で絶えずギルガルに戻ることが必要なのです。

それは私たちだけではありません。子どもたちにも言えることです。後になって、あなたの子どもたちがその父たちに、「これらの石はどういうものなのですか」と聞くなら、「イスラエルはヨルダン川のかわいた土の上渡ったのだと言わなければなりません。それは、地のすべての民が、主の御手が力強いことを知り、彼らがいつも彼らの神、主を恐れるためです。

私たちの子どもたちは主を恐れているでしょうか。この世の流れにどっぷりと浸かり、神ではなく別のことを恐れながら生きています。それは子どもたちだけでなく、私たち自身もそうです。地のすべての民が、主の御手が力強いことを知り、この主を恐れるために、その偉大さを教えていかなければなりません。

パウロはテモテに、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)と言いましたが、そのためには、他にも教える力のある忠実な人が起こされるように祈らなければなりません。これが私たちに託された使命です。そのためには、まず私たちが信仰に生き、神の恵みの豊かさを体験する必要があります。この世はそれとは全く反対の方向に流れていても、「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)とヨシュアが告白したように、私たちもそのように告白しながら歩んでいきたいものです。

Ⅰペテロ1章10~12節 「この救いについて」

きょうは、「この救いについて」というタイトルでお話しします。この手紙は、キリストの弟子であったペテロから迫害によって国外に散って寄留していたクリスチャンを励ますために書かれました。彼らは激しい迫害の中にあっても大いに喜んでいました。なぜなら、救いの喜びがあったからです。神の大きなあわれみによってすべての罪が赦され、生ける望みが与えられました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにされました。また、今も、神の御力によって守られています。このことを思うと喜びがありました。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなとりませんが、やがて大きな栄光を受けることを思うと喜ぶことができました。彼らはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いまも見てはいなくても信じており、栄えに満ちた喜びに踊っていました。それは、信仰の結果である、たましいの救いを得ていたからです。このように、救いの喜びとはどんな状況にあっても左右されることがない喜びです。「どうして私の人生にはこんなことばかり起こるの」と思うような中にあっても、喜び踊ることができるのです。

 

きょうのところでペテロは、この救いのすばらしさ、救いの偉大さについて教えています。聖書のテーマは救いです。救いは、聖書全体を貫くテーマであり、神様の全歴史の中で実現される事実です。それは天においても地においても最大の関心ごとなのです。きょうはこの救いがどのようにもたらされたのかを三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.預言者たちを通して語られた救い(10-12a)

 

まず10節から12節前半までをご覧ください。

「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが自分ちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるの啓示を受けました。」

 

「この救いについては」とは、この前の段落でペテロが語ったイエス・キリストによる神の救いのことです。それは今、現に受けているものであり、終わりのときに完成するようにと用意されているものです。この救いについては、ここでペテロが突然語っているかのように見えますがそうではなく、ずっと昔から、旧約聖書の預言者たちにも啓示されていたことであり、彼らが熱心に尋ね、細かく調べていたものです。預言者たちは、この救いの奥義を注意深く調べました。父なる神があらかじめ立てられた救いのご計画が、いつ、どのような形で実現するのかを熱心に調べていたのです。聖書の言う救いとは、ある日突然だれかによって考えられた話ではなく、最初の人アダムとエバが罪に陥った瞬間から神によって計画され、定められていたものなのです。

 

よく本屋さんに行くと、「あなたの問題は解決する」とか、「あなた自身があなたを救う」といった類の本が置かれていますが、それらのものが本当にあなたを救うことができるでしょうか。それらのものは一時的ないやしを与えてくれるかもしれませんが、根本的な解決を与えてはくれません。なぜなら、私たちにとっての根本的な問題は罪ですからその罪を解決しない限り、そこにはほんとうの救いはないからです。どんなに良い人間になろうとしても、どんなに道徳、教育を積んでも、罪の問題が解決されない限り救いはないのです。エレミヤ17章9節には、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあります。人の心は何よりも陰険で、直りません。そんな人間が一生懸命努力したところで、自分を救うことはできないのです。一時的に直ったかのように見えても、次の瞬間にはまた元の状態に戻ってしまいます。いや、もっとひどい状態になってしまうことも少なくありません。人はだれもこの罪から救う力を持っていないし、自分で自分を救うことはできないのです。しかし、まことの神は私たちを罪から救うことができます。それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできるのです。いったい神はどのように救ってくださるのでしょうか。

 

10節を見ると、「あなたがたに対する恵みについて」とあります。これは神の恵みによるのです。それは私たちの行いによってではなく、一方的な神に恵みによるものなのです。どうしてこれが恵みだと言えるのでしょうか。最初の人であったアダムとエバが罪に陥った時のことを思い出してください。彼らは神が食べてはならないと命じておいた木から取って食べた時、神との交わりが断たれてしまいました。聖書はこれを死と言っています。その死が人類に入り、死が全人類を支配するようになりました。しかし、あわれみ豊かな神はアダムが罪を犯した瞬間に、そのすぐ後に、人類をその罪から救う約束を与えられました。

 

「わたしは、おまえと女の子孫との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3:15)

 

やがて女の子孫から救い主を遣わし、サタンの頭を踏み砕き、決定的な勝利をもたらされる、救いを成就してくださると約束してくださったのです。これは恵みではないでしょうか。一方的に自分たちの過ちによって罪に陥ったにもかかわらず、そのような人を救うために、神がその御業を行ってくださるというのですから・・・。

 

そのために選ばれたのがアブラハムでした。アブラハムは、神を信じて義と認められました(創世記15:6)。そして神はこのアブラハムの子孫から救い主を遣わし、地上のすべての民族は彼によって祝福されると約束してくださいました。このように神の救いのご計画は、最初は抽象的なものでしたが次第に具体的になっていきます。そして、さまざまな預言者たちを通して、これがどのようなものなのかを具体的に啓示されたのです。

 

モーセはその預言者のひとりでした。彼は神に代わってイスラエルの民に語りました。そして、彼らをエジプトの奴隷から救い出されました。それはやがて来られるメシヤ、救い主がどのような方であるかを示すためでした。それはモーセがイスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出したように、やがてメシヤが来て、私たちを罪から救ってくださるというものでした。これが神の初めからの救いのご計画だったのです。このことがモーセ五書から始まってマラキ書に至る旧約聖書の中に預言されています。

 

たとえば、メシヤはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫としてユダ族から生まれるということが創世記49章10節にあります。また、処女から生まれるということ(イザヤ7:14)、そして生まれる場所はベツレヘムであることも書かれてあります(ミカ5:2)。その働きは異邦人のガリラヤから始まります(イザヤ9:1)。そしてメシヤが来られると、盲人が見えるようになり、耳の聞こえない者は聞こえるようになります。足のなえた人は鹿のようにとびはね、口のきけない者は話すようになります(イザヤ35:5)。多くの病人がいやされ、貧しい者に良い知らせが伝えられます(イザヤ61:1)。しかし彼は友に裏切られ(詩篇49:7)、銀貨30枚で売られます(ゼカリヤ11:12)。そして、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれます。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされます(イザヤ53:5)。彼はそのようにして地から絶たれ、富む者たち、金持ちたちの墓に葬られるのです(イザヤ53:9)。けれども、彼はその死からよみがえられます(詩篇16:10)。神は彼のたましいをよみに捨ておくことはなさらないからです。

 

そして、それが文字通りイエス・キリストによって成就しました。キリストはユダヤのベツレヘムで生まれました。アブラハムの子孫としてユダ族から出ました。それはまだマリヤがヨセフと結婚する前のことでした。マリヤはまだ男の人を知らなかったのに、聖霊によってみごもりました。そしてキリストが30歳になられた時、異邦人のガリラヤに行き神の福音を宣べて言われました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

また、会堂に入り、預言者イザヤの書を手渡され、そこに書いてあることを朗読されると、このように言って話し始められました。

「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現しました。」(ルカ4:21)

そこには、「わたしの上に主の御霊がおられる。主が貧しい人々に福音を伝えるようにとわたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいだけられている人々を自由にし、主の恵みの敏を告げ知らせるために。」と書かれてありました。そのみことばが、きょう、あなたがたが聞いたとおりに実現した、と宣言したのです。

また、キリストはそのとおりに弟子のひとりイスカリオテ・ユダに裏切られ、銀貨30枚で売られ、十字架につけられて死なれました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。旧約聖書の預言はことごとく、このイエスによって成就したのです。それは、このイエスが、旧約聖書が預言していたあのメシヤ、救い主であられるからです。

 

このように神は、まずこの救いを預言者たちを通して語られました。彼らはその救いの恵みがどのように実現するのかを、預言したのです。そして、それがいつ、どのようにして起こるのかを熱心に調べました。それは彼らにとって最大の関心事だったのです。私たちも熱心に聖書を調べています。2004年に教会がスタートしてから13年になりますが、新約聖書のほとんどを学びました。残っているのはこのペテロの手紙、とハネの手紙、ユダの手紙、コリントの手紙だけとなりました。旧約聖書もイザヤ書を細かく調べました。そして今も祈祷会で1章ずつ学び続けています。このように旧約聖書と新約聖書の両方を学ぶことで、神の救いの恵みがどれほどすばらしいものであるかがわかるようになるのです。

 

ところで、11節を見ると、このように聖書を調べることを可能とし、その全行程を誤りなく導いたのが何であったかがわかります。それは「自分たちのうちにおられるキリストの御霊」でした。キリストの御霊とは神の御霊、聖霊のことです。旧約の預言者たちは自分の意志によって語ったのではなく、キリストの御霊、神の聖霊によって語り、それを巻物に書いたのです。Ⅱペテロ1:21には、「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とありますが、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、神の意志によって、聖霊によって動かされた人たちが、神からのことばを語った、神のことばなのです。

 

いったい彼らは何を預言したのでしょうか。ここには、「キリストの苦難とそれに続く栄光」とあります。彼らは、キリストの苦難とそれに続く栄光について預言しました。キリストの苦難とは十字架のことですね。また栄光とは復活と昇天のことです。彼らは来るべきメシヤは苦難を受けるということ、そして、その後で栄光を受けるということを前もって預言したのです。もっとも、彼らはそのように預言したもののそれがどういうことなのかはさっぱりわかりませんでした。彼らはただ神から示されたことを語り、そのまま書いただけで、それがどういう意味なのかまでは理解していなかったのです。だから、それはだれのことで、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。

 

それは私たちも同じではないでしょうか。私たちも聖書をよく調べないと神が語っておられることを間違って理解し、信仰の誤解を生むことがあります。

たとえば、あのバプテスマのヨハネはそうでした。彼は旧約最後の預言者であり、来るべきメシヤの先に遣わされた者として、主が通られる道をまっすぐにするために神によって遣わされた人物でした。しかし、ヘロデ・アンティパスに捕らえられると、自分の弟子をイエスのもとに遣わしてこう言いました。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」(ルカ7:19)

ヨハネはなぜこのように言ったのでしょうか。メシヤが来ているのであればこんなことが許されるはずがないと思っていたからです。その圧倒的な力によって自分たちを敵から救い出してくださるはずだ。それなのになぜこのようなことが許されるのか。おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか、そう言ったのです。

それに対するイエスの答えはこうでした。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラートに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(ルカ7:22-23)

私たちは、自分の思うようにいかないと、ヨハネのようにイエス様につまずいてしまいます。どちらかというと私たちは、自分の置かれた状況に流されやすいのです。どんなに信仰があってもちょっとした苦難に会うと、本当にあなたは救い主なんですか、と疑いを抱いてしまいます。それが長く続くようものなら、「信じても、信じなくても何も変わらないじゃないですか。だったら別に信じなくたって構わないじゃないですか」と投げやりになってしまうことも少なくありません。しかし、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」そのためには旧約と新約の両方から、神の救いについての預言と成就を熱心に、細かく調べることが求められます。そうでないと、ヨハネのようにイエス様につまずいてしまうことになるのです。

 

旧約の預言者たちはこの恵みについて熱心に尋ね、細かく調べました。それが彼らの最大の関心ごとでした。そして、彼らはある一つの結論を見出しました。それは12節前半に書かれてあります。つまり、「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるという啓示を受けました。」ということです。つまり、その預言は自分たちのためではなく、将来そのようなことが起こるという啓示を受けたということです。それは彼らが熱心に預言を調べていたからです。それがいつ、だれのことを指して言われているのかを調べている中ではっきりと示されたのです。

 

Ⅱ.使徒たちを通して語られた救い(12b)

 

第二に、この救いについては、12節の真ん中にあるように、「天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされ」た、ということです。どういうことでしょうか。この救いの恵みは、預言者たちを通して語られましたが、今や、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語って人々を通して、はっきりと告げ知られたということです。「天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々」とは、キリストの十字架と復活を宣教した人々のこと、使徒たちのことです。旧約の時代は聖霊によって動かされた人たちによって神のことばが語られましたが、しかし今や、十字架と復活を目の当たりにした使徒たちによって、来るべきメシヤがだれなのかが明らかにされました。そうです、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストこそ、旧約聖書で預言されていたあのメシヤ、救い主であるということです。もっともキリストの弟子たちでさえも、そのことをよく理解していませんでした。彼らはキリストの苦難とそれに続く栄光について目が覆われていたからです。他のユダヤ人たちと同じように、メシヤが来たら自分たちをローマの支配から救い出し、この地上に神の国を樹立してくれるものと思っていたのです。メシヤの栄光だけがクローズアップされていて、すぐに栄光に入るものと期待していたのです。ですから、イエスにつき従って行ったものの、イエスが捕らえられると散り散りになって逃げて行ってしまったのです。そしてイエス様が十字架に付けられると、完全に望みを失ってしまいました。そのことについては、イエス様があらかじめ彼らに繰り返し、繰り返して語っていたにもかかわらずです。

 

エマオの途上の弟子たちに主が現われてくださった出来事(ルカ24:13~35)は、聖書全体のキリストを理解し、このキリストを受け入れるにあたって、極めて重要なことを教えています。彼らは復活の主イエスがともに歩いておられたのに、それがイエスだということがわかりませんでした。

それはふたりの目がさえぎられていたからです。彼らは、ナザレ人イエスについて話し始めます。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある方でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡しても死刑に定め、十字架につけたのです。しかし、私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが朝早く墓に行ってみると、イエスのからだが見当たらないというのです。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちは、イエスは生きておられると告げたというのです。それで仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言うとおりで、イエスのからだはなかったというのです。

するとイエス様は何と言われたでしょうか「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてのを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けてから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24:25-26)

そして、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされたのです。しかし、解き明かされたからと言ってもすぐに、メシヤの受難とそれに続く栄光について分かったのではありません。その後、食事の席で、イエス様がパンを裂いて渡したとき、生ける主との出会いの中で、ふたりの目が開かれ、それがイエスだとわかったのです。もっとも、イエスが道々話しておられたときも、また聖書を説明してくださっていた時も、彼らの心は燃えていました。目がさえぎられていて、イエスだとわからなかった状態から、目が開け、イエスだと分かった状態へと変えたのは、復活のイエス様ご自身でした。イエス様は、聖書を開くと共に、弟子たちの心を開いて、聖書を理解できるようにしてくださるのです。

 

心に疑いを抱いた弟子たちに現われたイエスは、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」(同24:44)と言われ、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれました。エマオの途上の弟子たちを含め、弟子たちに決定的な復活の信仰を与えたのは、このキリストの御業、聖霊の御業だったのです。

 

私たちもこの弟子たちのように聖書を学んでいても目がさえぎられていてなかなか聖書に書いてあることを理解できない者ですが、それでも、聖書を開く時心を開いて悟らせてくださるご聖霊に信頼し、キリストの苦難とそれに続く栄光について、しっかりと受け止めたいと思います。

 

さて、そんな弟子たちではありましたが、目が開かれてキリストが復活したことを確信すると、キリストの証人として、あらゆる国の人々のところへ遣わされて行きます。そのためには、父が約束してくださったものを待ちなければなりませんでした。それは神の聖霊です。彼らは、いと高き所から力を帰せられるまでは、都にとどまっていなければなりませんでした。

そして、五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていたとき、突然、天から聖霊が降り、ひとりひとりの上にとどまりました。これがペンテコステです。きょうはペンテコステの日です。神が約束の聖霊を送ってくださったことを記念する日です。それはこのイエスが救い主であって、聖書に書いてあるとおりに救いの御業を成し遂げて、神の栄光に入られたことのしるしでもあるのです。するとペテロは大胆に福音を語りました。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

(使徒4:12)

すると、多くの人がキリストを信じ、その日、三千人ほどが弟子に加えられました。どうしてペテロはそんなに大胆になれたのでしょうか。それは、この恵みについて理解したからです。この救いの事実を知れば知るほど大胆になることができます。知れば知るほど確信を持つことができるのです。ペテロの大胆さは強い確信からくるものでした。そしてその確信は自分の確信というだけでなく、聖霊の力によるものだったのです。ペテロは十字架の苦難を見ました。そして、復活の目撃者でもありました。キリストの苦難とそれに続く栄光を見たのです。旧約の預言者たちは、メシヤの苦難とそれに続く栄光を預言しましたが、メシヤがだれであるかはわかりませんでした。しかし今や、それが明らかになりました。イエス・キリストこそあの約束のメシヤであることがわかったのです。どんなに大きな感動だったことでしょう。そして天から送られた聖霊によって大胆に福音を語った人々を通して、この救いが私たちにも告げ知らされたのです。

 

皆さん、福音はだれかの考えによって作られた話ではなく、神からのメッセージです。それは神が私たちを罪から救うために立てておられた恵みの計画なのです。それは苦難を受けてから栄光に入るという信じられない救いの御業です。そして、キリストは、その聖書が示すとおりに、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、また、葬られ、また、聖書が示すとおりに、三日目によみがえられました。そうです、このイエス・キリストこそ、旧約聖書で預言していた約束の救い主なのです。ですから、このイエス・キリストを信じる者はだれでも救われるのです。この「だれでも」というのがすごいですね。それがユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、男であっても、女であっても、お金があっても、なくても、失敗しても、しなくても、この福音は、救いを得させる神の力なのです。この福音、神がしてくださった事実を告げ知らせるとき、そこに聖霊が働いて救ってくださるのです。この福音に力があるからです。使徒たちもこれを忠実に伝えました。それで私たちにも届いたのです。私たちもこの福音を信じて救われました。その人は上手に説明できなかったかもしれません。たどたどしいことばで、何を言っているのかわからないような話だったかもしれません。でも聖霊が働いて、もっと聞きたいという思いが与えられて教会に行くようになりました。そして、イエスさまが救い主だとわかったので信じたのです。中には誘ってくれた友達がいつの間にか消えてしまうというケースもあります。あとの者が先になり、先の者があとになるということもあります。でもそのような中にも神の働きがあり、福音が理解できるようになるのです。あなたはどうでしょうか。この良い知らせを受け取られたでしょうか。どうぞ受け取ってください。そうすれば、あなたも今日救われるのです。

 

Ⅲ.御使いも見たいと願っていること(12c)

 

第三のことは、それは御使いも見たいと願っていることであるということです。12節の後半をご覧ください。ここには、「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることです。」とあります。どういうことでしょうか。その救いがどんなにすばらしいものであり、それがどのように実現していくのかを、御使いたちもはっきりと見たいと願っているということです。つまり、この救いは、御使いたちも見たいと思っているほど豊かなものであるということです。神は、この福音の宣教の業を天使たちに任すことをよしとされず、聖霊の注ぎを受けた人々にゆだねられたので、御使いたちはちょっと寂しく感じているのです。「ああ、自分たちも見たいなあ」「その業に関わりたいなぁ」と思っているのです。この救いはそれほどすばらしいものだということです。

 

ルカ15章10節には、「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」とあります。御使いには罪がないので、私たちのように救われて喜びに溢れることはありませんが、その救われた人を見ると、そこにも喜びが溢れるのです。人が救われるということは、それほど大きな喜びなのです。

 

私は20歳の時、家内と青年たちの聖書研究会を始めました。それは毎週金曜日の夜にやっていたので「フライデーナイト」と呼ばれていましたが、若い青年が7~8人集まっていました。聖書研究会が始まって1年くらいが経った頃、そこに参加していた一人の女性がイエス様を信じました。その方は市内のデパートに勤めていたので、毎週私の仕事が終わってから職場に迎えに行き、終わったら自宅まで送って行っていましたが、車から降りようとしたとき彼女がこう言われたのです。

「私、イエス様信じたいんですが、信じたらいろいろ束縛されるんじゃないかと思うと心配で決心できないんです。」

そこで、私は何というべきか心の中で祈りながら、「そうだよね、でも天の神様がちゃんと守ってくださるから大丈夫。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。とあるから、すべてを主にゆだねたら。信じよう。」と言うと、「そうですね、そうします。イエス様信じます」と言って、その場でイエス様を信じるお祈りをされたのです。本当にびっくりしました。信じるように聖書を学んでいるのに、ほんとうに信じたいという人がいることにびっくりしたのです。びっくりしたと同時に、うれしくて、うれしくて、たまりませんでした。今でもあの時の感情を覚えているほどです。人が救われるってほんとうにすごいことなんだなぁと思わされて、できるだけ多くの人にこの福音を伝えていきたいと思わされました。それは御使いたちもみたいと願っているほどの喜びなのです。

 

神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストをこの世に与えてくださいました。それは私たちの行いによってではなく、神の恵みによるのです。この恵みについては、旧約の預言者たちが語り、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らはそれを見たいと切に願いましたが見ることができませんでした。それは、自分たちのためではなく、やがてもたらされるための啓示だったのです。

しかし今や、それが明らかにされました。イエス・キリストによって、その恵みが実現したのです。それらのことは、天から送られた聖霊によって、あなたがたに福音を語った人々によって告げ知らされました。それは御使いたちにとっても最大の関心事でした。

 

あなたはこの救いを受けておられるでしょうか。あなたにとっての最大の関心ごとは何でしょうか。この救いについては旧約の預言者たちも、新約の使徒たちも、また、この福音をずっと告げ知らせて来た人たちにとって、いや天の御使いにとっても、最大の関心ごとでした。であれば、私たちにとっても最大の関心ごとではないでしょうか。この救いについて、私たちも熱心に調べ、この恵みの大きさ、豊かさに感動しながら、これを告げ知らせていく者でありたいと思います。福音は、私たちを救う神の力です。この福音があなたにも届けられました。今度はあなたがこれを届けていく番です。あなたがこの恵みを語るなら、そこに聖霊が働いて、すばらしい神の救いの御業が現われます。このすばらしい福音に生き、福音を告げ知らせて行く者とされましょう。

ヨシュア記3章

きょうはヨシュア記3章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.主の契約の箱のうしろを進め(1-6

 

 まず1節から4節までをご覧ください。

「ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」

 

エリコの町を偵察した斥候からの報告を受け、ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょにシティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、三日間そこに泊まりました。それは、彼らが約束の地へ進んで行くために、一つの困難に差しかかっていたからです。それはヨルダン川を渡るということでした。神からの約束が与えられたということは、それが棚ぼた式にもたらされるということではありません。その達成のためには、いくつかの困難を乗り越えて行かなければならないのです。神の約束があり、その約束の言葉にしたがって行動を起こし始めるや否や、このような大きな障害が立ちはだかるのです。こうした障害を乗り越えて行きながら、神の約束は実現していくのです。

 

彼らはどのようにこれを乗り越えて行ったのでしょうか。2節から4節までをご覧ください。ヨシュアはこのように民に命じていいました。

「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」

どういうことでしょうか。それは徹底的に主に信頼し、主に従うことによって乗り越えられるということです。イスラエルの民は、主の契約の箱を先頭にして、そのうしろを進まなければなりませんでした。普通、契約の箱はその隊列の中央に置かれていました。それは主がイスラエルの民の真ん中におられることを象徴していたからです。けれどもここでは契約の箱を先頭に立て、そのうしろを進まなければなりませんでした。それは主が彼らに行くべき道を示すためであり、その道を開かれるためでした。言い換えると、主ご自身が先頭に立って問題を解決してくださるということです。私たちの信じる神は、私たちに先だって行かれ、そこに生じるであろうあらゆる問題を解決してくださるのです。信仰生活の醍醐味は、まさにこの先だって行かれる主を体験するところにあります。感謝なことに、私たちが問題の渦中にあっても、既に主が先だって行かれ、その問題の解決に当たって下さっているのです。

 

ところで、4節を見ると、この契約の箱との間には、二千キュビトの距離を置かなければならないとあります。1キュビトは44.5センチですから、二千キュビトは約900メートルになります。いったいなぜこれほどの距離を置かなければならなかったのでしょうか。

ここで思い浮かべるのが、Ⅱサムエル記6章にある「ウザの事件」です。かつて、ダビデがエルサレムに契約の箱を運び入れようとした際、新しい車に乗せて進んでいましたが、車を引いていた牛がつまずいて契約の箱が落ちそうになりました。それで側にいたウザという人があわてて手で持ってそれを支えたところ、この行為が神の怒りに触れ、彼は神に打たれてその場で死んでしまったのです。私たちはこの箇所を読むたびに本当に不思議に思います。なぜウザが神に打たれなければならなかったのか、ウザはただ契約の箱が落ちないように支えただけでなかったのか、いったいどうしてそのことが神の怒りを招くことになったのか・・・。

それは、神がそれほど聖い方であって、たとえ善意によるものであってもそれに触れるようなことがあれば、死ななければならないことを示していました。神は人間が近づくことも、触れることもできないほど聖い方であって、この方の前にしゃしゃり出ることは許されないのです。私たちに求められているのはこの神の御前にへりくだり、絶対的に従うことなのです。

そして、この時の命令も同じことを意味していました。すなわち、肉なる者が前面に出てしまうと主が働きにくくなるのです。否、むしろ主の御業の妨げになってしまいます。それゆえに、二千キュビトの距離を置かなければならなかったのです。絶対に主の前に出て、主の働きを妨げてはならない、主が働いてくださることを信じて、そのはるか後方を進まなければならなかったのです。

 

ウオッチマン・二―は「神の前における二つの罪ということについて、次のように述べています。「第一に拒否の罪、すなわち、神様の命令に従わないで、それを拒否するという罪。そして、もう一つは出しゃばりの罪、すなわち神の命令がないのに、人間的な考えによって自分で進んで行こうとする罪である。この二つの罪が人間にはあるだけだ。」神様が命じているのにそれに従わないということがよくありますが、それだけでなく、命じていないのに自分から出しゃばって失敗するということもあります。私もどちらかというと、この点で失敗することが多いと感じます。神様の命令よりも自分の思いが優先してしまうのです。結局のところ、何もしなければよかったということがよくあるます。何もしなければいいということではありませんが、神が先を進んでおられると信じ、神が求めておられることは何か、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために自分自身を主にささげ、それが示されたなら大胆に進んで行く。そういう者でありたいと願わされます。

 

ところで、そのためにイスラエルの民はどのような備えが必要だったのでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。」

 

続いて、ヨシュアは民に言いました。「あなたがたの身をきよめなさい。」と。身をきよめるとはどういうことでしょうか。身をきよめるとは、神に全く献身するということです。なぜでしょうか?主が、あなたがたのうちで不思議を行われるからです。ここで「あなたがた」とはイスラエルの民のことを指しています。主が彼らのうちで不思議を行われるために彼らがしなければならなかったことは、彼らの身をきよめることでした。自分たちのものはすべて、自分たちのからだも心もすべて主のものであることを認め、そのすべてを主に捧げなければならなかったのです。すなわち、主の命令と指示に対しては、どんなことがあっても従っていくという覚悟です。

 

それは教会も同じではないでしょうか。主が御業を行ってくださるために、私たちも身をきよめなければなりません。自分の思いや、自分の考えがあるかもしれませんが、主のみこころを最優先にして、どんなことがあってもみこころに従っていくという覚悟が求められているのです。そのようなところに主が働いてくださらないわけがありません。そこには信じられない主の御業と栄光が現されるのです。

 

Ⅱ.ヨルダン渡河の目的(7-13

 

次に7節から13節までをご覧ください。

主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』ヨシュアはイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

 

ヨシュアは祭司たちに、「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」と命じました。そこで祭司たちは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行きました。いったいなぜこのようなことを命じたのでしょうか。続く7節にはその理由が記されてあります。それは、イスラエル全体の前で、主がヨシュアを大いなる者とするためでした。それは、主がモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいることを、イスラエルの民が知るためだったのです。実際、ヨシュアがこれから行なうことは、かつてモーセが行なったことと同じようなものでした。つまり、神が紅海を分けるためにモーセを用いられたように、ヨルダン川をせき止めるためにヨシュアを用いられたということです。そして、かつてモーセが祈り紅海を分けたとき、「イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(出エジプト14:31)」ように、今度はヨルダン川の水をせき止めるという神の奇跡をヨシュアが行うことによってヨシュアを大いなる者とし、イスラエルの民が彼に従うようにさせたのです。つまり、この出来事はカナンの地における次なる戦いのためにヨシュアのリーダーシップを確立させるためだったのです。おそらく、この時点ではまだ、十分なリーダーシップが発揮されていなかったのでしょう。イスラエルの初代指導者であったモーセがあまりにも偉大なリーダーであったがゆえに、その後継者であったヨシュアに対する民の尊敬は今一つだったのだと思います。ですから、この出来事を通して、モーセと同じ神が、その同じ霊をもってヨシュアにも働いていることを示し、ヨシュアを大いなる者にしようとしたのです。

 

しかし、イスラエルの民がヨルダン川を渡るという出来事には、もう一つの目的がありました。それは、彼らがカナンの地に入って行った後に直面するであろう次なる戦いのためであったということです。10節には、「ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。」とあります。そこにはカナン人をはじめとする七つの部族がすでに定住していました。したがって、彼らがその地を占領するためには、そうした部族と戦って勝利しなければならなかったのです。いったいどうしたら勝利することができるのでしょうか。そのためには、生ける神が彼らのうちにおられ、そうした部族を追い払われるという確信を持たなければなりませんでした。どうしたらその確信を持つことができるのでしょうか。この奇跡的な出来事を通してです。全地の契約の箱が、彼らの先頭に立ってヨルダン川を進んで行く時、その箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになるという出来事によって、生ける神が彼らのうちにおられ、彼らの前から敵を追い払ってくださるということを知ることができたのです。

 

これは私たちの信仰生活も同じです。私たちも主イエス・キリストの十字架の死による贖いと復活のいのちによって、約束の地に入れられました。しかし、それはすべてにおいて順風満帆で何の問題も起こらないかというとそうではなく、そこには新たなる戦いが起こってくるのです。しかし、その戦いのただ中に生ける主が共におられ、敵を必ず追い払ってくださいます。そうです、私たちの戦いは、すでに勝利が決定している戦いなのです。言うならば、クリスチャンの生涯とは、むしろこの戦いを心躍らせながら進んで行く生涯なのです。そこには圧倒的な勝利の主がともにいて戦ってくださるのです。そのことを知らなければなりません。まさにイスラエルのヨルダン渡河は、このことを知るためだったのです。

Ⅲ.せきとめられたヨルダン川(14-17

 

さて、その結果はどうなったでしょうか。14節から17節までをご覧ください。

「民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」

 

箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれますが、上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられたので、イスラエルの民はすべて、そのかわいた地を通り、ヨルダン川を渡り終えました。これは「刈り入れの期間中」の出来事だとありますが、今の暦に直すと三月下旬から四月上旬にかけての時期です。その時期は大麦の収穫の時期で、ヘルモン山からの雪解け水がガリラヤ湖に入ってきて、そしてヨルダン川に流れるので、水かさが最も増します。しかし、どんなに水かさが増しても、主の圧倒的な力によって完全にせきとめられたので、イスラエルの民はヨルダン川の真ん中のかわいた地を通って、渡ることができたのです。

 

ところで、15節を見ると、「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき」とあります。そのとき、ヨルダン川の水は、上から流れ下る水はつったって、せきをなして立ち、塩の海のほうに流れる水は完全にせきとめられました。すなわち、ヨルダン川の水がせきとめられたのは、祭司たちの足の裏がそのヨルダン川の水の中にとどまったときであったということです。祭司たちはヨルダン川の水がせきとめられてから足を踏み入れたのではなく、水の中に足を踏み入れた結果、せきとめられたのです。このとき祭司たちはどんな気持ちだったでしょうか。もし水が引かなかったらどうなってしまうかと不安だったことでしょう。しかし、彼らは神の約束に従って水の中に足を踏み入れたので、水がせきとめられたのです。

これが信仰です。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。目に見えるものを信じることは、信仰ではありません。信仰とは目に見えなくても、主が約束してくださったことを信じることです。そこに偉大な主の御業が現されるのです。私たちも信仰によって踏み出す者となりましょう。

Ⅰペテロ1章6~9節 「救いの喜び」

きょうは、ペテロの手紙第一1章6節から9節までのみことばから、「救いの喜び」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.救いの喜び(6)

 

まず6節をご覧ください。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、」

 

この手紙は、キリストの弟子であったペテロから迫害によって国外に散らされていたクリスチャンを励ますために書かれました。彼らは迫害の中にあって苦しんでいましたが、ここには、「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます」とあります。どういうわけで、彼らは大いに喜ぶことができたのでしょうか。「そういうわけで」です。それは、その前のところで語られたことを受けてのことです。ペテロは3節から5節までのところでこのように語りました。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

 

彼らはどうして喜ぶことができたのでしょうか。なぜなら、彼らは神の大きなあわれみによってすべての罪が赦され、永遠のいのちという、生ける望みを持つようにされたからです。また、朽ちることも汚れることもない資産を受け継ぐようにしてくださいました。それは天にたくわえられていて、やがて終わりのときに受けるように用意されているのです。そればかりではなく、今も神の御力によって守られています。私たちは日々いろいろな問題に悩まされていますが、そのような中にあっても平安でいられるのは、神の守りがあるからです。これを一言で言うならば、たましいの救いを得ているからです。「そういうわけで」です。そういうわけで、あなたがたは、大いに喜んでいるのです。

 

皆さん、救いの喜びとは、何か良いことがあったからうれしいとか、幸せだというのではありません。そのような感情的なものではないのです。良いことがあったから楽しいとかうれしいというのは自然な感情の表れですから悪くはありませんが、そのような喜びは一時的で、状況によって左右されるものです。ですから、一方で悪いことがあると逆に不幸に感じてしまうことがあるのです。それはちょうどジェットコースターに乗っているようで、上がったり、下がったりと、安定感がありません。

 

しかし、この救いの喜びは回りの状況に左右されない喜びです。良いことがあっても悪いことがあっても、決して奪われることがない喜びです。それは感情的なことではなく霊的なことなのです。イエス様を信じたことで私のすべての罪が赦されたということ、そして、やがて朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようになったということ、また、それまでの間ずっと神がともにいて守ってくださるということを知ることによってもたらされる喜びです。それが救いの喜びなのです。ですから、この生ける望みがどれほど大きいものであるかを理解すればするほど、大いに喜ぶことができるのです。

 

ですから、パウロはエペソ人への手紙の中でこう祈っているのです。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

 

神の召しによって与えられている望みがどのようなものであるか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、神の全能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのようなものであるかを、あなたがたが知ることができるように、それをしっかりと見ることができるように、そのために心の目がはっきり開かれるようにと祈っているのです。人は何を見るかによってその結果が決まります。このようにすぐれた神の栄光、希望、力を見るなら、どのような患難、苦難が襲ってきてもびくともすることはありません。そのために神がどれほどあなたをあわれんでくださったかを知るなら、むしろ感謝と喜びがあふれるのです。

 

それは、クリスチャンには悲しみがないということではありません。ここには、「いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないのですが、」とあります。クリスチャンにも悲しみはあります。苦しみもあります。たとえば、健康の問題があります。病気になったり、事故に遭ったりすることもあります。あるいは、人間関係の問題もあります。友人との関係、職場の人間関係、親子の関係、夫婦の関係でいろいろ悩むことがあります。人から誤解されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられることがあるのです。経済的な問題もあります。また、将来に対する不安もあるでしょう。すぐに解決する問題もあれば、ずっと引きずってしまう問題もあります。私たちにはいろいろな悩みや苦しみがあります。そうした試練の中で嘆き悲しみ、失望落胆し、心が折れそうになってしまうことがあるのです。しかし、その中でも神の恵みを味わうことができる。大いに喜ぶことができるのです。なぜ?なぜなら、私たちには終わりの時に現われるようにと用意されている救いをいただくことを知っているからです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないこともありますが、それはしばらくの間のことであって、いつまでも続くものではないのです。それは一時的なもの、しばらくの間のことでしかないのです。

 

パウロは福音のために誰よりも多くの苦難に会った人ですが、そのパウロは苦しみについて何と言っているかというと、「今の時の軽い患難」と言っています。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測りしれない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Ⅱコリント4:17)

パウロはなぜこのように言ったのでしょうか。それは、やがて与えられる栄光が、測りしれない、重い永遠の栄光をもたらすことを知っていたからです。それと比べたら、いまの患難は軽いもので、一時的なものすぎないと感じたのです。

 

ですから、いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなりませんが、後に来る栄光を思うと喜びがあります。終わりのときに用意されている救いをいただくことを思うと、どんな試練の中にあっても、大いに喜ぶことができるのです。

 

Ⅱ.信仰の試練(7)

 

では、いったい何のためにさまざまな試練があるのでしょうか。7節をご覧ください。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」

 

私たちに試練がある目的の一つは、私たちの信仰を聖くするためです。ここには、「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」とあります。当時、金は金属の中で最も堅く、高価で、尊いものでした。そして、その純度を高めるために用いられたのが火です。火で精錬し、不純物を取り除き、もっと尊いものにしたのです。しかし、どんなに火で精錬した金でもやがて朽ちて行きますが、信仰は精錬されればされるほど、やがてイエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になるのです。その信仰の純粋さを高つために用いられたのが試練です。私たちはイエス・キリストを信じたからといってすぐに完全にされるのではありません。まだまだ不完全な者であり、いろいろな欠点や弱さがあります。いろいろな不純物があるのです。それを取り除かなければなりません。どのようにしてそれを取り除くことができるのでしょうか。それが試練なのです。試練の中で痛みを感じたり、苦しみや悲しみを味わわなければなりませんが、その苦しみを通して自分の弱さを知るようになるのです。それは健康の時には気付かないことです。健康の時には何でも自分でできると思っていました。しかし、試練を通して、苦しみに会ってはじめて、自分が本当に弱い者であることを痛感させられるのです。これまで持っていたプライドが砕かれて、謙遜にさせられるのです。不純な思いがきよめられ、神に信頼することを学ばされるのです。

 

ですから、詩篇の作者はこう言っています。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(詩篇119篇67篇)

また、詩篇119篇71節にはこうあります。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

苦しみに会う前はそのことがわかりませんでした。苦しみにあって初めてそれがどういうことなのか、神のことばが本当だということを悟り、みことばに信頼するようになるのです。私たちは、苦しみを通して神のおきてを学ぶようになるのです。

 

2節には、「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」とあります。私たちが救われた目的、私たちが救いに選ばれた目的は何でしょうか。それは、イエス・キリストに従うようになることです。私たちは救われるだけでなく、キリストに従い、キリストに似た者となることを神は願っておられます。そのために用いられるのが試練なのです。ですから、試練は私たちを苦しめるのが目的なのではなく、私たちを訓練し、私たちがキリストのようになること、キリストに従うようになるために、神が私たちに与えた恵みなのです。スポーツのアスリートは激しいトレーニングを通して成長していきます。そこには痛みや苦しみが伴いますが、そうしたトレーニングを通して成長していくように、私たちも試練というトレーニングを通して大きく成長していくのです。

 

シンクロナイズドスイミングの井村雅代コーチは、限界を決めない練習を選手に科すことで有名です。それは半端なものではないくらい過酷な練習量で、朝早くから夜遅くまで続きます。なぜそんなに練習をさせるのかを、この前テレビで言っていましたが、それは、自分たちがこれだけ練習してきたんだというのが自信になり、本番で力をはっきりするためだ・・・と。これまで日本の先週は本番になると自分の力を出し切れなかったのは精神的な弱さから来ていたのであって、その弱さを克服するには練習以外にはないと、徹底的に練習をするのだそうです。まさに鬼の井村です。でもそれは選手たちか強くなるためであって、結果、この数年常にメダルを取り続けているのだそうです。

 

それは、私たちの信仰にも言えることで、そうした試練を通して、神は私たちをキリストのご性質へと変えてくださり、イエス・キリストの現われのときに、称賛と光栄と栄誉に至るのです。まさに、成長のための近道はないのです。

 

私たちに試練が与えられている第二の理由は、私たちの信仰をためすためです。この7節にある「試練」(ギドキミオン)という言葉は、6節の「試練」(ギペライモス)という言葉とは違う言葉が使われていて、「試験済みの」とか、「検証済みの」「最善のもの」という意味です。ですから、新改訳聖書では7節の「試練」に※印が付いていて、下の欄外の説明を見ると、別訳、「純粋さ」とあるのです。

口語訳ではここを、「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、」と訳しています。それはその信仰が火で精錬されても朽ちていく金よりも尊いものであることが明らかにされるためのテストであるという意味です。

また、新共同訳聖書でも、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが表れるときには、称賛と光栄と誉れをもたらすのです。」つまり、これは信仰のテストなのです。

 

物事が順調に進んでいるとき、何でも自分の思うとおりにいっているとき、人はだれでも簡単に、「はい、信じます」と言えますが、迫害や試練、苦しみに会った時はそうではありません。自分が本当に拠り所にしているものは何か、自分が頼っているものは何かが試され、明らかにされるのです。そして、本当に神の愛を知りイエス・キリストを信じている人は、どんな試練が来てもキリストから離れることはありません。離れることがあったとしても、必ず悔い改めて神の愛に立ち返ります。神の愛があまりにも大きいので、神が与えてくださった栄光があまりにもすばらしいので、そこから離れたくないからです。

 

この手紙の読者たちは激しい迫害によって小アジヤに散らされ、寄留していた人たちですが、それでも彼らは信仰に堅く立ちました。迫害や試練は彼らから信仰を奪うことはできませんでした。彼らから救いの喜びを奪うことはできなかったのです。彼らの財産を奪うことはできたかもしれません。彼らの肉体を傷つけ、心も傷つけられたかもしれない。でも、彼らから救いの喜びを、永遠のいのちの希望を、キリストにある神の愛を奪うことはできませんでした。なぜなら、彼らは本物の信仰を持っていたからです。その試練によって、彼らの信仰が本物であることが証明されたのです。

 

このように信仰の試練は、私たちが何に信頼しているのかを明らかにします。何に信頼しているのか、何を信じて生きているのかを明らかにするのです。明らかにしたうえで、信仰の純粋性を保ち、やがて称賛と光栄と栄誉をもたらすのです。皆さんはどうでしょうか。皆さんは何を拠り所にしているでしょうか。信仰の試練はそれを明らかにしてくれます。

ですから、私たちはこのさまざまな試練の中で、しばらく間、悲しまなければなりませんが、ただ悲しむというだけでなく、このことを自分自身の中で問いながら、本物の信仰を持っていると明らかにされるように、私たちの信仰がもっと純粋にされていくことを求めていこうではありませんか。

 

Ⅲ.キリストへの愛(8-9)

 

第三のことは、信仰の結果です。そのような信仰の結果、たましいの救いを得ているとどうなるのでしょうか。イエス様を愛するようになります。8節と9節をご覧ください。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

 

皆さんは、イエス・キリストを愛しているでしょうか。いまは見ていないけれども、やがて称賛と光栄と栄誉に至ると信じて、栄に満ちた喜びに踊っているでしょうか。「イエス様の時代に生きていた人はいいですよ、イエス様を実際に見て信じることができたでしょう、でも、いまはイエス様を見ることができないのだから、信じろと言われても無理ですよ、愛せよと言われても、難しいなぁ」と思ってはいませんか。しかし、イエス様を愛すること、イエス様を信じることは、イエス様を見たからとか、見ないからといったことと全く関係ありません。イエス様への愛と信仰、それに伴う大きな喜びは、キリストによって与えられた信仰、救いを受けることによって得られるものだからです。

 

それはペテロのことを考えてもわかります。彼はイエス様の一番弟子として、直接イエス様を見て、イエス様のことばを聞いて、イエス様に直に触れました。誰よりもイエス様を信じ、イエス様を愛していたはずなのです。しかし、実際はそうではありませんでした。彼はイエス様が言われたとおり、イエス様が捕らえられたとき、鶏が鳴く前に三度もイエス様を否定しました。「あんな人なんて知らない」と。見ても信じることができませんでした。それなのに、この手紙の受取人たちは、イエス様を一度も見たことがありませんでしたが、イエス様のことを聞いて信じ、心からイエス様を愛するようになりました。ですから、見たか、見ないかは関係ないのです。見なくても信じることができます。見なくても、愛することができるのです。イエス・キリストを信じて生ける望み、永遠のいのちを受けたことを知っている人は心から愛することができるのです。

 

わが国で最初のキリスト教 信仰を理由に処刑が行われたのは、1597年2月5日に長崎で行われた「二十六聖人の殉教者」です。豊臣秀吉は、当時のキリシタンたちは本気で主を愛し、主に従っていたのを見て恐れ、キリシタンを弾圧したのです。京都と大阪で捕らえられた24人に、道中加えられた2人の、合わせて26人が磔(はりつけ)にされました。その中にルドビコ茨木という12歳の少年がいましたが、歴史家のルイス・フロイスによると、彼は、1月3日、京都で左耳の一部を切り落とされ、見せしめのため、粗末な牛車に乗せられ、町中を引き廻されましたが、「天使のような顔で喜び溢れ、後手に縛られ、耳を剃がれた時も傷痕の痛みをこらえ、また、流れる血にも驚かず静かに純心に『天にまします、めでたし』とその他の祈りを唱えていた。」(「第8章」)とあります。

また、この少年が牢にいた時、身分のある一人が彼に近付き、もしキリシタンをやめれば釈放してやろうと勧めると、彼は『貴方こそキリシタンになるべきです。救いのためには道は他にはありません』と言ったというのです。

そして、刑場に到着すると、一行は、十字架を見て歓喜したと言います。ルドビコ少年は喜々朗々とし、自分の十字架がどこにあるのかと尋ねました。そこには子供の背丈に合わせて十字架が準備されていましたが、十字架を示されると情熱をもってそこに走り寄った、と言います(「第16章」)。

少年は「十字架につけられた時、意外な喜びを見せ、『パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言いながら、信者未信者を問わず人々を驚かせました。そのことで、彼の心には聖霊の恵みが宿っていることがよく表れていたのです(「第18章」)。

いったい彼はどうしてそんなに喜び踊っていたのでしょうか。それは、信仰の結果である、たましいの救いを得ていたからです。

 

昨年中国を訪問した時も、そのような方々がたくさんいました。K市から車で1時間ほど行ったN市にある家の教会の指導者R先生は、信仰のゆえに何度も公安に捕らえられた経験がありますが、どんなに捕らえられても祈りとみことばという二つの翼があれば、どこまでも高く飛んでいけますと、喜び踊っていました。

 

いったいどうして彼らはそこまでしてイエス様に従うことができるのでしょうか。それは、イエス様を愛しているからです。イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない栄に満ちた喜びに踊っているからです。

 

皆さんはどうですか。イエス様を愛していますか。イエス様を信じていますか。イエス様を信じて罪の赦しと永遠のいのち、生ける望みが与えられたこと、そして、やがて朽ちることのない資産を受け継ぐことを見て、喜んでおられるでしょうか。

 

主イエスは、復活後四十日間この地上にとどまりました。なぜとどまったのでしょうか。それは、ご自分がよみがえられたことを証するためであったことは確かですが、それだけでなく、そのことによって、弟子たちが生けるキリストを信じるようになるためでした。イエスが見えなくなっても、弟子たちとともにおられることを弟子たちに体験させる必要があったのです。見える信仰から見えない信仰です。見ずに信じるものは幸いです。私たちもイエスを見てはいなくても信じています。見てはいなくても、愛しています。そして、栄えに満ちた喜びに踊っています。それは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなりませんが、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることを信じて、心から主を愛し、主に従う者とさせていただきましょう。

 

Ⅰペテロ1章1~5節 「生ける望み」

きょうからペテロの手紙に入ります。この手紙は、イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していた、選ばれた人々、すなわちクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。なぜペテロはこの手紙を書いたのかというと、この頃はローマ皇帝ネロによる迫害が激しく多くのクリスチャンが小アジヤの各地に散らされていましたが、そうしたクリスチャンを励まし、そのような迫害の中にあっても堅く信仰に立ことができるようにするためです。いったいどうしたら試練の中にあっても信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。それは、神が与えてくださった生ける望みに目を留めることによってです。

 

Ⅰ.生ける望み(3)

 

まず、3節をご覧ください。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

 

1,2節のところであいさつを書き送ったペテロは、この手紙の本文の冒頭のところで、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」と神をほめたたえています。なぜでしょうか。その第一の理由は、神は私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださったからです。

 

私たちの人生において望みがいかに重要であるかは誰もが知っていること

です。望みがなかったら生きていくことができません。人は望みによって生き、望みによって力を得、望みによって働いています。しかし、望みにもいろいろあります。ある人にとってそれはお金であったり、あるいは財産であったり、権力であったり、家族であったりします。しかし、それが神によるものでなければ、結局のところ、失望してしまうことになります。なぜなら、1章24節に、「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る」とあるように、人の運命はこのようなものだからです。それはあってないようなもの、いつまでも続くものではありません。ほんの少しの間あるように見えても、すぐに消えて無くなってしまうものなのです。ですから、このようなものに望みを置くならば、失望に終わることになってしまうのです。それはちょうど目隠しをしながら淵に向かって歩いているようなものです。しかし、神が与えたもう望みは、そのようなものではありません。神が与えたもう望みは生ける望みです。それは死んだ望みではなく、私たちにいのちを与える望みなのです。神はこの望みを持つようにしてくださいました。

 

いったいどのようにして神はこの生ける望みを持つようにしてくださったのでしょうか。ここには、そのために神がしてくださった三つのことが記されてあります。第一に、神はご自分の大きなあわれみによって、罪人である私を救ってくださったということです。「あわれみ」と何でしょうか。「あわれみ」とは、滅ぼされても当然の者が滅びないですむことを言います。私たちは罪の中に死んでいて、神の裁きを受けるのは当然の身でありながら、神の大きなあわれみのゆえに、救っていただきました。エペソ人への手紙2章4~5節には、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・」とあります。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。

 

アメリカでも日本でも有名な、AAという団体があります。アルコール依存症の人を助けるために作られた団体です(Alcoholics Anonimous,1935年創立)。この頭文字を取ってAAと名付けられました。創設者の男性はビルという男性で、彼自身がアルコール依存症でした。  彼は、絶望の底を歩いて、どうしてもアルコール依存から抜け出せない。依存から抜け出せない自分に絶望します。苦しんで、悩み続けて疲れ果ててしまったある日、自分の持っていた時計が壊れてしまうんですね。それはスイス製の高級時計で、自動巻きでした。日付が付いていて、防水加工。当時のあらゆる機能を持った複雑な時計で、修理してもらうために、アメリカの時計屋さんへ持って行きました。

数日後、彼は、その時計を受け取りに出向いていきますと、時計屋の主人が時計を手渡してこう言いました。

「ビル。君のこの時計は、大変複雑で精巧な品物だ。残念ながら、この時計はうちで直すことはできない。アメリカのどの時計屋に持って行っても、これは直せないよ。これを直す唯一の方法があるとすれば、製造元へ送り返すことだな。つまり、造った人なら、どうやって直すか分かるだろう」  そこで彼はその直せなかった時計をポケットに入れて店を出ます。歩きながら、店の主人の言葉が、自分の人生そのものだということに気が付きました。 「残念ながらこの時計はうちでは直せない。直すとしたら、製造元に送り返す以外にはない」それはまさに自分の人生だと感じ取った彼は、教会の門を叩くのです。  アルコール依存症という問題を解決するためではなく、自分はそもそも神さまによって創造されたにもかかわらず、どこかで神さまから外れて生きている自分の果てに、こういう問題が存在するのだということに彼は気が付いて、キリストを信じ、洗礼を受けて神の子どもとされるのです。それによって、ビルは生まれ変わりました。  ペテロは、それを神さまの「大きなあわれみのゆえに」と、言っています。神さまの大きな憐れみのゆえに、その言葉は、本当にペテロだけでなく、私たちもよくわかります。神さまが私という人間に、どういう計画をもっておられたのかはわかりませんが、でも、私の中に小さな信仰の種を植え付け、育ててくださり、この人物はその小さな種に応じる素直な信仰があるに違いないと、神さまがご覧になって、私を選び、私を神さまによって生まれ変わらせてくださったのです。であるとすれば、それは自分の発想や自分の努力ではなくして、神さまの大きな憐れみ以外の何ものでもないのです。

 

第二に、神は、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。生ける望みは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによってもたらされたものです。どういうことでしょうか。確かにイエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったという御業は大きな恵みですが、もしキリストが死んだだけであったとしたらどうでしょう。私たちは悲しみの中に沈んでいなければならなかったでしょう。死んでしまえばすべてが終わってしまうわけですから・・。しかし、神はその全能の力をもって、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。ここに希望があります。もし、私たちのいのちが無くなってしまったらどうなりますか。本当に空しくなってしまいます。結局のところ、この死の前には何の成す術もないわけですから。人類のすべてが死に飲み込まれてしまうのです。そして、この死に対しては、誰ひとり勝利した人はいません。だから、人々は死を必然的なものとして受け入れるしかないのです。仏教では死とは、決して避けられないものであり、諦めるしかないものだと説きます。しかし、キリスト教ではそのようには教えていません。キリストは死に勝利して、よみがえられました。死は決して終わりではないのです。最後に復活があります。このような来世観を持つ者にとっては、失望とか絶望はありません。人生でどんなことがあっても、どんな死に方をしたとしても、最後は復活があるのです。「終わりよければ、すべて良し」です。

 

フジテレビのトップニュース・キャスターだった、山川千秋さんは、突然のように、のどのがんのため亡くなりました。録画中のことでした。突然、声が消えました。精密検査の結果は、のどのがんでした。医者は、奥さんを呼んで、がんであることを告げました。すると奥さんは、ガツンと頭を叩かれたような衝撃を受け、突然、目の前が真っ暗になり、全身の力も抜けて、体がこなごなに打ち砕かれたような感じでした。それでもクリスチャンであった奥様は、そのことを聖アンナ病院に入院していた夫に告げました。この時山川氏、55歳でした。子どもたちは中学生と小学生でした。面会の時間の終わりが告げられるまで、一言の会話もなく、二人は重い沈黙の中に座っていました。ただ涙だけが、とめどもなくあふれて、落ちました。

それから、山川さんは悩むだけ悩み、苦しむだけ苦しみ、奥さんが通う教会の牧師を訪ねました。

「先生、私は死の準備がありません。どうか、私を救ってください。」

そのようにして山川さんは、イエス・キリストの十字架による罪のゆるしと、復活による永遠のいのちの救いを信じ、病床で洗礼を受けました。そのあと、あっという間に召されていきました。奥さんにあてた遺書には次のように書かれてありました。

「きよ子よ。私の妻になってくれて十数年、地上では短かったと、すまなく思います。しかし、私はほんとうにしあわせでした。私はあなたによって、二度、生まれ変わりました。この世にも、ほんとうの夫婦愛があることを、あなたは教えてくれた。私は、あなたにめぐり会えたことで、あなたに感謝します。このように計画された神に感謝します。私に、主に対する信仰をうえつけてくれたことで、あなたに感謝します。このように計画された主に、感謝します。

・・・・・

私は愛の中に生き、今、愛の中に死にます。そして、今、主の愛の中に新しく生き、あなたを待ちましょう。

ありがとう。再び、心からありがとう。二人の息子を残されて、これからのあなたの人生は、決して平たんではないことを知って、つらい思いでいますが、道は必ず開けます。二人の息子を信じ、たくましく生きてください。あなたなら、かならず、やっていけます。何よりも、あなたがた三人には、主イエス・キリストの衣があるではありませんか。」

55歳にして、突然、死を突き付けられるとき、ふつうなら、神をのろい、人生をのろい、運命をのろって、絶望と恐れを叫んでもおかしくないのに、山川さんの遺書には、感謝と励ましと愛にあふれています。希望の輝きがあります。それは、死は終わりではない、永遠のいのちのはじまりであるという希望から生まれてくるのではないでしょうか。

 

それだけではありません。イエス・キリストの復活は初穂であり、キリストを信じる者も、やがて同じように復活するという希望があります。やがて私たちもキリストが復活したようによみがえるのです。これが、私たちにとっての究極的な希望なのです。

 

第三のことは、神さまは私たちを新しく生まれさせて、この生ける望みを持つようにしてくださいました。キリスト教では死んでから生まれ変わるのではありません。生きているうちに新しく生まれ変わります。ヨハネの福音書3章には、イエス様とニコデモとの問答が記されてあります。その中でイエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。老年になっていたニコデモはびっくりして、「人は老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と言うと、イエス様はこう言われました。

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

ニコデモは、新しく生まれるということがどういうことなのかよくわかりませんでした。しかし、やがてその会話を通して、それが神の御霊によって生まれることであることを知りました。人はお母さんのお腹から生まれることで肉体的な命を持ちますが、この命だけでは神の国を見ることはできません。神の国を見るためには、神の国で永遠に生きるためには、神のいのちを持たなければなりません。それは聖霊によって救い主イエス様を信じて心に受け入れ、新しく生まれることによって持つことができるのです。

 

あなたはこのいのちを持っておられるでしょうか。神はイエス・キリストを通して、私たちを新しく生まれさせ、この望み、生ける望みを持つようにしてくださいました。この望みこそ私たちに困難に耐える力を与え、どのような状況の中にあっても代わることのない希望です。パウロはこの希望について、ローマ人への手紙の中でこのように言っています。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

失望に終わることのない希望、これが本当の希望です。この希望は、泥水をかき回すと茶褐色の濁った水になってもやがてきれいな水を湧き上がらせる泉のように、どんな試練の中にあっても、生ける望みを湧き上がらせることができるのです。

 

Ⅱ.朽ちることも汚れることもない資産(4)

 

そればかりではありません。4節をご覧ください。ここには、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」とあります。

 

当時、財産を代表するものが三つありました。それは食べ物であり、着物であり、また金銀です。食べ物とは大麦とか小麦といった穀物のことですが、どんなにそれらを蓄えてもそれはやがて腐ってしまいます。またどんなに立派で高価な着物でも、虫に食われます。また金銀も泥棒に盗まれたり、錆が付いて使い物にならなくなってしまいます。ヤコブ書には、この錆びがあなたがたを訴えるとありましたね。この世のものはどんなに立派でも、やがて朽ちてしまい、消えて無くなってしまいます。この教会の建物も、建てたばかりの頃はピカピカに光っていましたが、あれから13年経った今では、あちこち補修が必要になってきました。形あるものはやがて消えて行くのです。そのようなものに望みを置いて生きることがどんなに空しいことかがわかると思います。

 

しかし、天にたくわえられてある資産は違います。天にたくわえられてある資産は、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産です。私たちはやがてそのような資産を受け継ぐのです。

 

これは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤといった小アジヤに散って寄留していた人たちに宛てて書かれました。彼らは、間違いなく迫害の中にありました。彼らは地上の家や財産が奪われ、生活にも事欠くような状態だったでしょう。そんな彼らに宛ててペテロは、この地上の財産は消えてなくなるけれども、あなたがたに与えられている財産は決してなくならないもので、天にたくわえられている財産であることを示して、このすばらしい資産に目を留めるようにと言って励ましたのです。

 

この世界には喜びが沢山あります。幸せなことも沢山あります。それはそれですばらしいものですが、でも、それと、天国にたくわえられている資産、私たちが最終的に受け継ぐ資産とでは全く比べものになりません。それは次元が全く違う、栄光に満ちた資産なのです。このような資産を受け継ぐ者とされたのです。

 

Ⅲ.神の守り(5)

 

そればかりではありません。5節には、終わりのときに用意されている救いをいただくことができるように、それまでの間神がずっと守っていてくださると約束しておられます。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

 

「終わりのとき」とはいつのことでしょうか?これが、Ⅰペテロの主題でもあります。「終わりのとき」とは、イエス様が再び来られる日のことです。これを神学的には、「再臨」と言います。クリスマスは「初臨」と言って、イエス様が人類を贖うために人となって来られました。その御姿があまりにも謙遜だったので、ほとんどの人がイエス様を神さまだとは認めませんでした。しかし、世の終わりに来られるイエス様は全く違います。ヨハネは黙示録の中で、「その頭と髪の毛は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示録1:14-16)と記しています。それは裁き主としてのイエス様のお姿です。ヨハネは幻の中でそのイエス様の姿を見て、足もとに倒れ、死人のようになりました。それだけ、権威があって恐ろしかったということです。そうです。再臨のイエス様はこの世を裁くために来られるのです。世の終わりは、患難の時代であり、星が天から落ち、月も太陽も光を失います。疫病とか迫害で、多くの人が苦しさのあまり死のうとしても、死の方が逃げていくという恐ろしい時代です。そして、そのような時代が近づいていることを感じます。北朝鮮との戦争が起これば核戦争に発展するかもしれません。地震や津波による災害、原発事故など、人類はこれまでにない危険な時代を迎えているのです。まさに一寸先は闇です。

 

けれども、神に信頼し、イエス・キリストによって救われた者にとってはそれでも望みがあります。なぜなら、「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られて」いるからです。

 

ここの「守られている」という言葉は、戦争において、町の中にある要塞で守られている、という意味があります。どんなに敵からの激しい砲撃があっても守られている、ということです。そして、それはまず、「信仰」によって守られています。信仰は、非常に重要な要素です。天における資産も、新たに生まれたことも、イエス・キリストの死者からの復活も、みな信仰によって、もたらされました。神のみことばへの信仰がなければ、すべてが崩壊してしまいます。けれども、それだけではありません。ここには、「神の御力」によって守られているともあります。自分の信心深さによって、天にある資産を守っているのではなく、神の御力によって、私たちの信仰が保たれ、健全でいることができるのです。

 

イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われました。私たちも、小アジヤの小さな教会に散って寄留して生きているような者ですが、そんな私たちにも同じように御声をかけてくださり、どんな試練や困難の中にあっても希望をもって歩んでいけるようにと励ましていてくださいます。この主の励ましの御声を聞いて、確かに私たちにも困難はありますが、そこにある大いなる救い、永遠のいのちの喜びと感謝、決して朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにされたということを信じ、希望をもって日々歩ませていただきたいと思います。

ヨシュア記2章

きょうはヨシュア記2章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.遊女ラハブ(1-14

 

 まず1節から7節までをご覧ください。

「ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家にはいり、そこに泊まった。エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、今夜この地を探るために、はいって来ました。」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家にはいった者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから。」ところが、この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」彼女はふたりを屋上に連れて行き、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していたのである。彼らはその人たちのあとを追って、ヨルダン川の道を渡し場へ向かった。彼らがあとを追って出て行くと、門はすぐ閉じられた。」

 

「「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの紙、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)との主のみことばに励まされてヨシュアは、主が彼らに与えて所有させようとしている地を占領するために出て行きます。ヨシュアはまずシティムという所からふたりの者を斥候として遣わしてエリコを偵察させました。すると、彼らはラハブという名の遊女の家に入りそこに泊まりました。いったいなぜ彼らはラハブの家に入ったのでしょうか。おそらく、彼らがエリコの町に入ったということが発覚したため追いかけられて必至に逃げた先がこのラハブの家だったのでしょう。あるいは、そこならば彼らが入って行っても怪しまれないと思ったのかもしれません。

 

2節と3節を見ると、エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、この地を探るために、入ってきました」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやってこう言わせました。「あなたのところに来て、あなたの家に入った者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてをさぐるために来たのだから。」

すると、ラハブはそのふたりの人をかくまって、こう言いました。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」ラハブはなぜこのような嘘までついて彼らをかくまったのでしょうか。それは彼女がイスラエルの民について聞いていたからです。8節から14節までをご覧ください。

「ふたりの人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところに上って来て、その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」

 

9節で彼女は、「私は知っています」、10節でも、「私たちは聞いているからです」と言っています。彼女が知っていたこと、聞いていたことはどんなことだったのでしょうか。それは、イスラエルの民がエジプトから出てきたとき、主が葦の海の水をからされるといった偉大な御業をなされたことや、エモリ人のふたりの王シホンとオグを打ち破ったことや、パレスチナの地を次々と制覇してきているということです。彼女はそれらのことを聞いたとき、このイスラエルの民の背後には偉大な神が共におられ、行く手を切り拓いておられるのだと直感したのです。そして、このイスラエルの民の信じる主(ヤハウェ)こそまことの神であり、この神に信頼するなら間違いないと信じたのです。9節から12節までのところには「主」という言葉が四回出ていますが、これはヘブル語で「ヤハウェ」となっています。すなわち、彼女はここで「ヤハウェ」という主の御名を呼ぶことによって、自分の信仰を告白しているのです。それゆえに彼女は、遊女という身分でありながらも、この信仰のゆえに救いを受けることができたのです。ここに大きな慰めを受けます。私たちが救われるのは、私たちが善人だからではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるのです。この「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

それは私たちも同じです。私たちもこのラハブと同じように汚れた者であり、不道徳な者であるにもかかわらず、主の御名を呼び求めることによって、主イエスを救い主と信じて受け入れたことによって価なしに義と認められたのです。

 

Ⅱ.赤いひも(15-20

 

次に、15節から20節までをご覧ください。

「そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。彼女は彼らに言った。「追っ手に出会わないように、あなたがたは山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこで身を隠していてください。それから帰って行かれたらよいでしょう。」その人たちは彼女に言った。「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。だが、もしあなたが私たちのこのことをしゃべるなら、あなたが私たちに誓わせたあなたの誓いから私たちは解かれる。」ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。」

 

ラハブが、「私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、誓ってください。そして、私に確かな証拠をください。」(12というと、彼らは、「私たちのことをしゃべらなければ、主が自分たちにこの地を与えてくださるとき、彼女に真実と誠実を尽くそう」(14と約束しました。そのしるしこそ赤いひもです。ラハブが彼らを綱でつり降ろした窓に赤いひもを結びつけておき、その家に彼女の父と母、兄弟、また、父の家族を全部、集めておかなければならないというのです。そうすれば、彼らがエリコを占領した時に、そのしるしを見て、その家だけは滅ぼさないというのです。

 

かつて、これに似たような出来事がありました。そうです、過越の祭りです。出エジプト記1213節には、イスラエルがエジプトから出て行くとき、神はエジプトの初子という初子をみな滅ぼすと言われました。ただ家の門柱とかもいに小羊の血が塗られた家は神のさばきが過ぎ越していき、災いから免れたのです。ですから、この赤いひもは、過越しの小羊の血を表していたのです。それはまたイエス・キリストの贖いの血潮の象徴でもありました。ラハブは遊女という職業でしたが、この小羊の血によって救われたのです。私たちを神のさばきから救うのは、この小羊の血を信じる信仰によるのです。私たちがどのようなものであるかは、問われません。ただキリストの血を信じ、その血が塗られているかどうかが問われるのです。

 

ヘブル人への手紙1131節に、このラハブの信仰について次のように記されてあります。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」

すなわち、ラハブは信仰によって生きたのです。それゆえに彼女は遊女でありながらも、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れることができました。神のさばきから免れる唯一の道は、赤いひもを結び付けること、すなわち、神の小羊であられキリストの贖いを信じることなのです。

 

ここに、クリスチャンとはどのような者をいうのか、その姿が描かれています。それは、高潔な人であるとか、立派な人、教養のある人、美徳に満ちた人のことではありません。クリスチャンというのは、ただ信仰によって神の恵みと救いを受けている人のことなのです。

 

でもちょっと待ってください。新約聖書にはこのラハブのことについてもう一か所に引用されていて、そこには彼女が行いによって救われたと言われています。ヤコブの手紙225節です。「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。」

ここでは特に、人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないということの例として取り上げられているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。これはちょうど今礼拝でヤコブの手紙を取り上げており、その中でもお話ししたように、彼女がその行いによって義と認められたということではなく、彼女は生きた、本当の信仰があったので、自分の命の危険を冒してもイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出すことができたのです。その信仰にこうした行いが伴っていたということなのです。本物の信仰にはこうした行いが伴うのです。

 

つまり、私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるのです。そこには、その人がどんな人であるかとか、どんな仕事をしていたかとか、どんな性格の人か、どんなことをした人なのかといったことは全く関係ありません。ただ神の恵みの賜物であるイエスを、救い主として信じて受け入れたかどうかということだけが問われるのです。もしイエス様を信じるなら、たとえ彼女のように「遊女」という不名誉な肩書であっても、たとえ異邦人として神から遠く離れていた人であっても、だれでも救われ、神の祝福を受け継ぐ者とさせていただくことができるのです。そして、そのように救い主につながった本物の信仰には、そうした行いが伴ってくるのであって、その逆ではないのです。

 

Ⅲ.ラハブの信仰(21-24

 

さて、二人の斥候からそのような提示をされたラハブは、どのように応答したでしょうか。21節から終わりまでをご覧ください。

「ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。彼らは去って山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこにとどまった。追っ手は彼らを道中くまなく捜したが、見つけることができなかった。ふたりの人は、帰途につき、山を下り、川を渡り、ヌンの子ヨシュアのところに来て、その身に起こったことを、ことごとく話した。それから、ヨシュアにこう言った。「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています。」

 

ラハブは、二人のことばに対して、「おことばどおりにいたしましょう。」と答えました。これは簡単なことのようですが難しいことです。皆さんがそのように言われたらラハブのように答えたでしょうか。そんなことしていったい何になるというのか、もっと他にすることはないのですか、たとえば、地下に隠れ家を作ってそこに隠れるとか、ありったけのお金を出して命拾いするとか、そういうことならわかりますが、つり降ろした窓に赤いひとを結ぶなんてそんな簡単なことではだめなのではありませんか、と言いたくなります。でも救いは単純です。救いはただ神が仰せになられたことに対して、「おことばどおりにします」と応答することです。よく聖書を学んでおられる方が、「私はまだバプテスマを受けられません」というような方がおられます。「どうしてですか」と聞くと、「まだ聖書を全部学んでいないからです、せめて新約聖書の半分くらいは読まないとだめでしょう」と言います。確かに聖書を学ぶことは大切ですが、全部学ばないと救われないということではありません。聖書が指し示しているイエス様が救い主であり、私たちのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたということを信じるなら救われるのです。

 

ラハブのように応答した人が、聖書の他の箇所にも見られます。イエスの母マリヤです。彼女も主の使いから、「あなたはみごもって男の子を産みます」と告げられたとき、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えますが、それが神の聖霊によるとわかると、「どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」と言って、神のみことばを受け入れました。神の救いは自分の頭では理解できないことでも、神が言われることをそのまま受け入れることから始まります。そのような人は神から大いなる祝福を受けるようになるのです。

 

それはマリヤもそうですが、このラハブもイエス・キリストの系図の中に記されていることからもわかります。マタイの1章を見ると名誉なことに、イエス・キリストの系図の中に、彼女の名が連ねられていることがわかります(5節)。異邦人でありながら、しかも遊女という肩書にもかかわらず、神の恵みに信仰をもって応答したことによって、彼女は救い主の系図の中に組み込まれるまでに祝福されたのです。私たちも神の恵みを受けるにはあまりにも汚れた者ですが、主の恵みに信頼して、神の救いイエス・キリストを信じて受け入れ、この方と深く結びつけられることによって、神の恵みを受ける者とさせていただきましょう。

ヤコブ5章13~20節 「祈りの力」

きょうは、ヤコブの手紙の最後の箇所から、「祈りの力」と題してメッセージを取り次ぎたいと思います。

ヤコブは、前回のところで、苦難と忍耐について語りました。クリスチャンは世にあっては患難がありますが、主が来られる日が近いということを覚えて、忍耐するようにと勧めました。

今回のところには、そのように苦しみを耐え忍んで主の来臨を待ち望むにあたり、クリスチャンがしなければならないことは何かを教えています。それは祈りです。ここには「祈りなさい」という言葉が何度も繰り返して強調されています。私たちは、祈りを通して神に、私たちの苦しみを知っていただくのです。その時、神はその苦しみから私たちを引き上げてくださいます。きょうはこの祈りについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.祈りなさい(13)

 

まず13節をご覧ください。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」

 

苦しんでいる人がいたら祈りなさい。喜んでいる人がいたら賛美しなさい。実にシンプルで分かりやすい勧めです。いったいなぜこのようなことを勧めているのでしょうか。頭ではわかっているようでも、実際には忘れているからです。私たちは苦しみに会うとパニックになり、泣いたり、騒いだり、落ち込んだり、つぶやいたりしますが、祈りません。また逆にうれしいことがあるとそのことを喜びますが、神に感謝したり、賛美したりしないのです。あたかもそれを自分の手で成し遂げたかのように思い込み、「オレもまんざらじゃないな」とうぬぼれてみたり、「こうしたからうまくいったんだ」と、むなしい誇りを抱いたりするのです。

ここでヤコブは、主の再臨を待ち望むクリスチャンは、逆境の中で苦しんでいる時も、順境の中で喜んでいる時にも、いつも神に祈るようにというのです。なぜなら、祈りは神に向かってなされるものだからです。「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:19)これが主の来臨を待ち望む者の姿なのです。

 

イエス様が祈っておられる姿を見て思わず引きつけられた弟子たちは、ある時イエス様に、「祈ることを教えてください」と言いました。このときイエスが教えてくださったのが、「主の祈り」です。その祈りは、「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9)という呼びかけで始まります。なぜでしょうか。祈りがこのように呼びかけから始まるということは、そこに神がおられることを前提にしているからです。私たちがどんな時でも祈らなければならない理由はそこにあります。それは神との会話であり、神への信仰そのものなのです。

 

皆さん、人はいったいなぜ祈るのでしょうか。太古の昔から、人はあれ狂う自然の驚異や疫病の猛威におびえ、ただひたすら祈り続けてきました。そして、科学や医学が発達し多くの不安を克服してきた今日でも、その祈りをやめようとしないのはどうしてなのでしょうか。それは人の心の奥底にこうした神への思いがあるからです。

 

ある教会の門のところに1通の手紙が届いたそうです。きちんとした鉛筆の字で、女の子らしい便箋に、こう書いてありました。「神様へ。わたしは受験生です。来週の日曜日から、高校入試がはじまります。いままで、わたしなりに高校に合格できるように勉強してきました。でも、合格できるか心配です。だから毎晩、『合格しますように』とお祈りしています。でも、わたしなんかの願いを神様が聞いてくださっているのかわからないので、教会にわたしの願いを持ってきました。」  そして、2つの高校の名前と受験日があって、最後に、「どの日も、わたしの持っている力をすべて出し切れますように」と書かれてありました。  それで、その教会では祈祷会でその手紙を紹介し、みんなで名前の知らないこの女の子のために祈りました。

私は、この女の子の手紙の中に、人間に共通する訴えのようなものを感じます。「わたしなりに勉強してきました・・・でも不安です」。私たちの「私なりに」が、人生の解決にはならないのです。最善を尽くしてもそこになおも不安は残り、なおも空しさが残り、もどうにもならない問題が山のようにあるのです。だから、人は祈るのです。

 

それからもう一つ、「果たして、私なんかの願いを、神さまが聞いてくださっているのかわからない・・」ということですが、おそらく人間は、いつもそう思ってきたのではないでしょうか。ですから、イエスさまが祈っておられる姿に、弟子たちは思わず引きつけられて、「主よ。祈ることを教えてください」と言ったのではないでしょうか。

 

幸い私たちは、聖書を通してこの神様がどのような方であるかを知りました。神様は天地を造られた創造主であり、罪によって神から離れた私たちのために救い主イエス・キリストを遣わしてくだった方であり、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、罪を贖ってくださいました。それゆえに、この救い主を信じる者を義と認めてくださり、ご自身の子としてくださると約束してくださいました。神様が父であるということは、私たちにとって何が最善であるのかを知っておられるということであり、私たちはこの神様に信頼して祈ることができるということなのです。それがこの「天にいます私たちの父よ」という呼びかけなのです。

 

私たちはもともと神に向かって祈る者であるはずなのに、どのように祈ったらいいかわからないと、いつしか祈ることを止めてしまいました。そうではなく、天にいます私たちの父よと、もっと単純に、もっと純粋に、天に神に向かって祈らなければなりません。こんなことを祈ったら変じゃないかな、これはご利益の祈りに違いない、こんな祈りを神さまが聞いてくださるはずがないという前に、これらすべてをひっくるめて神に向かわなければならないのです。それが祈りなのです。神様は、私たちがどのように祈るかということよりも、私たちにとって神様がどのような存在であるのかを知り、神様ご自身を求めることを願っておられるのです。ですから、私たちは「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しな」(エペソ5:19)ければなりません。苦しんでいる人がいれば、その人は祈ってください。喜んでいる人がいるなら、その人は賛美してください。私たちはいつでも、すべてのことについて、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する者でありたいと思います。

 

Ⅱ.祈りの力(14-18)

 

第二のことは、信仰による祈りには力があるということです。14節から18節までをご覧ください。

「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

 

ヤコブは祈りについて話を続けます。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。」

 

初代教会は、苦しみのために祈り、またあらゆる時に感謝する教会でしたが、それと共に病気のために祈る教会でした。ユダヤ人は、病気になると医者の所へ行くよりも、教会の指導者のもとへ行きました。すると指導者はオリーブ油を塗って祈ったのです。このように初代教会は病気の人のために祈り、神の力をあかししたのです。

 

現代の教会はどうでしょうか。だれかが病気になったら、どれだけの人が教会の指導者たちのところへ行って祈ってもらうでしょう。教会で祈ってもらうよりも、どの病院に行ったらいいかを調べ、あたかも医者が神様であるかのように思い込んでいるところがあります。しかし、どんなに時代が進歩しても、私たちはまず神様が病気を癒してくださるように求めて祈らなければなりません。それは、病院に行ってはならないということではなく、たとえ病院で治療するにしても、それさえも神の恵みと導きによるものと信じて、感謝しなければならないのです。

 

ここには、病気のために祈ってもらうことについて、四つのことが勧められています。

第一に、あなたがたのうちに病気の人がいたら、その人は、教会の長老たちを招き、とあるように、まず招かなければならないということです。どういうことでしょうか。イエス様が病気の人をいやされた時、その多くの場合、彼らがイエス様のところに来て、いやしを求めました。ベテスダの池で38年間も病気で伏せていた人のように、イエス様の方から近づかれたというケースもありますが、その場合でもイエス様は彼に、「よくなりたいか」と尋ねられ、その人から「よくなりたい」という気持ちを引き出されました。つまり、この病気の人のための祈りは、その人の中に神様にいやしていただきたいという強い願いがあって、初めて成り立つということです。イエス様は、「求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば、見つかります。たたきなさい。そうすれば、開かれます。」(マタイ7:7)と言われましたが、病気のいやしのために、神に求めなければなりません。

 

第二のことは、ここに「長老たちを招き」とあるように、いやしのために祈ってもらう時には複数の長老たちに祈ってもらう必要があるということです。なぜでしょうか。それはいやしてくださるのは神様であって、長老たちではないからです。とかく私たちはいやしてくださる方よりも、いやしのために祈る人をあがめてしまう傾向がありますが、そのようにして神の栄光を奪う罪を犯すことがないように注意すべきです。

 

第三のことは、主の御名によって祈ることです。ここに、「主の御名によって・・祈ってもらいなさい」とあります。主の御名によって祈るとは、主ご自身がいやしてくださることを信じて祈ることです。主の御名には力があります。それは、この天と地を造られた創造主の御名であり、罪の中から人々を救い出すことができる救い主の御名なのです。

 

第四のことは、オリーブ油を塗って祈ってもらうということです。オリーブ油を塗っていやしてもらうとはどういうことでしょうか。オリーブ油に何か特別な力があるというわけではありません。確かに、旧約時代にはオリーブ油が病の治療にも使われていました。しかし、それはオリーブ油に何か特別ないやしをもたらす成分が含まれているということではなく、このオリーブ油が、ある特別な意味を表していたからなのです。それは何かというと、神の臨在です。ゼカリヤ書4章には神殿の燭台についての幻が記されてありますが、その燭台の油とは神の御霊の象徴でした。したがって、オリーブ油を塗って祈るとは、神の御霊がいやしてくださると信じて祈ることを表わしています。このようにオリーブ油を塗って祈ることで、主ご自身がいやしてくださると信じて祈るところに、主の御力が現されるのです。

 

それは言い換えるなら、「信仰による祈り」と言えます。このような信仰による祈りは、病む人を回復させます。そして、主はその人を立たせてくださいます。ですから、あなたがたのうちに病気の人がいるなら、その人は教会の長老たちを招き、オリーブ油を塗って祈ってもらわなければなりません。信仰による祈りは、病む人を回復させるからです。

 

さらに、ここには、「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」とあります。病気のいやしの祈りのところで、どうして急に罪の話が挿入されているのでしょうか。それは、当時のユダヤ人は、病気は罪の結果であると考えていたからです。今日私たちは、必ずしも病気が罪の結果であるとは考えていません。しかし、病気と罪とが関わりを持っている場合があることは確かなことです。何らかの罪を犯しているために、それが肉体的な病となって現われるときがあるのです。たとえば、だれかが人を恨んだり憎んだりしているとそれが精神的な病となって現われ、さらに肉体的にも影響を及ぼすことがあります。そういう意味で、神との正しい関係は人間の存在と生活のあらゆる部分で健康を保つうえで重要な要素であることがわかります。

 

もちろんすべての病が罪に起因しているわけではありません。イエス様が、生まれつきの盲人をごらんになられて、彼がそうなったのはその人の罪のためでもなく、両親の罪でもなく、神の栄光が現われるためだ、と言われましたが、そのような病もあるのです。またアダムが罪を犯した結果、土地は呪われたものとなり、だれも病気から免れることはできないばかりか、最終的にはみな死ななければならなくなりました。そういう意味では、こうした病も含め、すべての不幸の原因は、この罪に由来していることがわかります。

 

それゆえ、私たちは、互いに罪を言い表し、互いのために祈らなければなりません。いやされるためです。ただ、ここにある「互いに罪を言い表す」というのは、互いに罪を告白し合うことではありません。罪を告白するのは、神に対してなされるものであって、人に対してなされるものではないからです。ですから、この「互いに罪を言い表す」というのは、自分の過ちを言い表して、と言い換えることができます。私たちはとかく、クリスチャン同士が集まると、自分の弱さを語りたがらないものです。今、こういった悩みがある、こういった苦しみがある、だから祈ってほしい、と言いにくいのです。いつもきちんとしていなければいけない、いつも模範的でなければいけないと思い込んで、気が張っているわけです。けれども、教会はそういうところではありません。何でも言っていいところだとは思いませんが、少なくても自分の弱さを分かち合い、互いのために祈り合い、主からのいやし受ける場なのです。肉体的な病も同じように、私たちは教会において祈ってもらい、そしていやしを受けます。あるいは自分の霊的な病についても祈ってもらったら、肉体の病もいやされる、という場合もあります。いずれにしても、互いに分かち合い、互いに祈り合い、互いにいたわり合って、主のいやしを受ける場なのです。なぜなら、義人の祈りは働くと大きな力があるからです。祈りは神の全能を人々にもたらす、神の無限の力なのです。その無限の神の力が、教会にあふれているのです。

 

ヤコブはここで、その祈りの模範としてエリヤという人物を例に取り上げています。エリヤについては、旧約聖書のⅠ列王記17,18章にあります。当時のイスラエルの王で邪悪な王であったアハブ王と王妃イゼベルが、イスラエルの民を真の神ではなく、偶像礼拝に導いたため、エリヤは雨が降らないように祈ると、神は刑罰として3年6カ月の間、地に雨が降らせませんでした。そして、今度は再び雨が降るようにと祈ると、神はエリヤの祈りに答えて雨を降らせ、地は再びその実を実らせたのです。

 

ここで重要なのは、エリヤは「私たちの同じような人でしたが」という点です。彼は超人ではありませんでした。私たちと同じような普通の人でした。私たちと同じように感情の面で弱さがあり、肉体的にも弱さも持っていた普通の人だったのです。実に彼はうつになり、落ち込んで、自殺願望まで抱いた人です。けれども、そんな彼でも祈ったら、雨が降らないようにすることができました。そして、降らないだけではなく、また降らせることもできました。なぜでしょうか。義人の祈りは働くと大きな力があるからです。この場合の「義人」とは、特別な人という意味での義人ではなく、キリストを信じて神の義とされた人、キリストという義にしっかりと拠り頼んでいる人、という意味です。自分自身に頼らず、キリストのみを自分の正しさとして、この方の知恵によって生きる人のことなのです。そういう人の祈りには力があるのです。

 

インディアンに伝道したデービット・ブレイナードは、そのような祈りの人でした。彼が祈りによって成し遂げたわざは、まことにすばらしいものでした。ブレイナードの伝記を書いたゴードン博士は次のように言っています。

「彼はインディアンのことばに通じていなかったが、ただひとり森の中へ奥深くはいって行き、終日そこで祈っていた。彼が祈っていたのはなぜか。彼はインディアンに接触することができなかったからである。すなわち、彼らのことばを理解できなかったのである。もし話そうとするなら、自分の思いを少しでも通訳してくれる人を捜さなければならなかった。そこで彼は、自分のこれからしようとすることがなんであっても、それを全く神の御力によってしなければならないことを知っていた。彼は、聖霊の力がまちがいなく彼の上に臨み、インディアンたちが彼の前に立つことができないまでになるようにと、終日を祈りに費やした。その結果どうだったか。あるとき彼は、立っていることさえ困難なひどい酔いどれを通訳にして説教した。それが彼のできる最善であった。しかし、その説教で、多くの者が回心したのである。彼の背後にある神の驚くべき力の表れであったという意外、私たちには説明しようがない。」

 

まさに、義人の祈りは働くと、大きな力があるということの現われではないでしょうか。そしてそれはエリヤやデービッド・ブレイナードに限ったことでなく、キリストを信じて、キリストに拠り頼んで生きるすべての人に同様に言えることなのです。私たちも平凡な、普通の人ですが、キリストに信頼して祈る者にさせていただこうではありませんか。

 

Ⅲ.忍耐の祈り(19-20)

 

第三のことは、祈りには忍耐が求められるということです。19節と20節をご覧ください。

「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」

 

ヤコブは最後に、真理から迷い出た者を連れ戻す働きについて語っています。そうした罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうことである、というのです。

 

「真理から迷い出た者」とは、もちろんイエス・キリストの真理から迷い出た者のことです。それは当然行いにも現われてきます。罪を犯し、罪の生活へとのめり込んでいくのです。このような人のために祈ることは、なかなか難しいことでもあります。まだ真理を知らない人のために祈り、そのために労することはそれほど苦になりませんが、ひとたびキリストを信じて真理に入れられたにもかかわらず、自分勝手な道に歩み、そこから迷い出た人がいれば、その人のために祈り、その人を連れ戻すという働きは並大抵のことではありません。それは身から出た錆であり、まさに自業自得なのです。そんな人のために自分の身を削るなどもってのほかです。

 

しかし、それは20節にあるように、罪人のたましいを死から救い出すことであり、多くの罪をおおうことなのです。Ⅰペテロ4章8節には、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とありますが、これが神の共同体である教会に求められていることなのです。これは罪を隠すことではありません。罪を犯した後で、それを悔い改めた人の、その罪を思い出さないということです。そのような愛の共同体があることは、何と幸いなことでしょうか。過去の罪が問われないのです。だれからも裁かれることなく、ただイエス様だけを愛して、キリストをあがめる生活に立ち戻れるということは、本当に大きな喜びです。教会は、キリストを知らない人々を救いに導くことも大切ですが、同様に、キリストを知って迷い出た人を回復させることも大切なことなのです。なぜなら、そのためにキリストは十字架につけられ、死んでよみがえられ、そして今も働き続けておられるからです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたは神の真理から迷い出てはいませんか。自分では正しいと思っていても、いつしか神の真理から迷い出ていることがあります。しかし、もしあなたが自分の罪を告白して、悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。

 

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

 

これが、神の約束です。どうか、主に立ち返ってください。イエス・キリストは、あなたを赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。あなたのたましいは死から救い出され、神のいのちに引き戻されるのです。そして、あなたと同じように、真理の道から迷い出た人がいるなら、私たちはそのために祈り、その人が迷いの道から引き戻されるように労していく者でありたいと願わされます。それが神の来臨を待ち望んでいる教会の姿なのです。互いに罪を言い表し、互いに真理に堅く立ち続けることができるように励まし合い、互いに罪をおおい、互いに祈り合いながら、神のみこころにかなった歩みを目指していきましょう。それが、ヤコブが私たちに強く言いたかったことだったのです。

ヤコブ5章7~12節 「苦難と忍耐について」

きょうは、「苦難と忍耐について」というタイトルでお話しします。7節には、「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。」とあります。「こういうわけですから」というのは、ヤコブがこれまで語って来たことを受けてのことです。ヤコブは5章前半で、富の惑わしについて語りました。1節には、「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」とあります。なぜなら、金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 

一方で、そうした金持ちたちに搾取され、苦しんでいる人たちがいました。神がおられるならどうしてこのようなことを許されるのか、という思いの中で忍耐を余儀なくされる人たちがいたのです。しかし、そのような状態がいつまでも続くわけではありません。やがて、終わりの日がやって来ます。その時には、神は正しくさばいてくださいます。いつまでも悪がはびこっているわけではありません。不正をして富を得、それをもってぜいたくに暮らし、快楽に身をゆだね、自分の心を太らせた貪欲な者たちに対しては、必ず神の正しいさばきが下されるのです。「こういうわけですから」、主が来られるまで耐え忍びなさい、と勧めているのです。

いったいどのようにして忍耐したらよいのでしようか。きょうはこのことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.農夫のように(7-8)

 

まず7節と8節をご覧ください。

「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」

 

耐え忍ぶことについてヤコブは、農夫のたとえを使って説明しています。どういうことかと言うと、農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待つように、あなたがたもそのように耐え忍びなさいということです。農夫は、種を蒔いて一夜明けたらすぐに刈り取るというわけにはいきません。収穫には時間がかかります。しかも、自分の力で天候を決めようとしてもできません。実に長い忍耐を強いられます。私のように忍耐のない者には農夫の仕事は務まりませんね。

 

「秋の雨」と「春の雨」は、イスラエルの二つの雨季のことです。「秋の雨」はだいたい十月下旬から十一月上旬に降る雨のことです。この雨がないと蒔かれた種は発芽しないと言われています。春の雨とは三月と四月に降る雨のことで、この雨が降らないと、穂は十分に生長しません。秋の雨と春の雨があって、四月からの大麦や小麦の収穫を迎えることができるのです。農夫は、それまでじっと待たなければなりません。同じようにクリスチャンも、キリストが再臨されるまでじっと耐え忍んで待たなければならないのです。

 

それは、4章13節にある人たちとは非常に対照的です。そこには、「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人の姿が描かれていました。彼らは、自分で考え、自分で計画を立て、自分の力で何でも成し遂げようとしますが、農夫は自分にできることをしたら、あとはただじっとその時を待つだけです。これが、主を待ち望む者の姿、クリスチャンの姿なのです。

 

ところで、8節を見ると、ここにはただ耐え忍びなさいとあるだけでなく、「心を強くしなさい」とあります。どういうことでしょうか。私たちが、耐え忍ぶときに陥りやすい弱さの一つは、意気消沈することです。この世はクリスチャンにとってますます住みにくいところになっています。この世の関心は自分のことだけなので、神に対しては全く無関心だからです。主イエスは、世の終わりの最も大きなしるしは、人々の愛が冷たくなることだと言われました(マタイ24:12)。それはクリスチャンにとって大きなプレッシャーです。そのプレッシャーに耐えるのがつらくて、苦しくて、がっかりしてしまうことがあるのです。ですから、ヤコブはここで、「心を強くしなさい」と言っているのです。

 

いったいどうしたら心を強くすることができるのでしょうか。ここには、「主が来られるのが近いからです」とあります。主の来臨が近いということを知るとき、私たちの心は強くなります。それはちょうどマラソン競争と同じで、42.195キロの長いマラソンコースを走り抜き、もうすぐゴールだということがわかると不思議な力が沸いてきます。これまで苦しいこと、辛いこともあったけど、それが報われる時がやって来る。その希望で心が強くされるのです。同じように、主の日が近いという希望があるなら、心に励ましを受けます。

 

パウロも、ペテロも、ヨハネもそうですが、彼らは皆、自分たちが生きている間に主が戻って来ることを期待していました。それは、この手紙を書いているヤコブも同じです。主が来られるのは近いのです。それは何千年も後の、いつになるかわからないずっと遠い先のことではなく、もうすぐ起こることなのです。今にも戻ってくるという希望です。そしてその希望こそが、私たちの心を強くしてくれるのです。ですから、主の来臨を待ち望むことはとても重要なことなのです。

 

第一コリント16章21節に、「マラナ・タ」という言葉がありますが、これは、「主よ、来てください」という祈りです。ある人は、この祈りこそ祈りの中の祈りであり、すべての祈りの源泉としての祈りである、と言いました。その祈りにすべての祈りが要約されるからです。なぜなら、この祈りの中にこそ、主を待ち望ませる力があるからです。それは信じる者たちに、望みを与えるのです。

 

私は最近、韓国のコ・ヒョンウォンという宣教師が作詞・作曲した賛美「マラナタ/主が来られる日まで」を聞いて、ものすごい感動を覚えました。

マラナタ 主イエスよ!早く来てください。

地の果ての全ての民 主を賛美させたまえ。

マラナタ 主イエスよ!早く来てください。

世の民が主に戻って 踊り崇めさせたもう。

 

わが主の来られる道を備えよう

十字架を持って、地の果てまで行こう

わが主の栄光、地をおおう時、

われ地の果てで主を迎えよう。

☆マラナタ、マラナタ

アーメン主イエスよ!来てください。(×2)

 

主が来られる日までこの道を歩む 険しい道 十字架を背負い この道の果てで 愛する主に会える 栄光のわが主 我を迎える 主の来られる日まで 立ち上がり 進み行く 主の栄光あふれる日 立ち上がり 賛美せよ ☆愛するわが主 救いの神 栄光のわが主 王なる主イエス
すばらしい賛美です。この賛美には、どんな困難があっても、この信仰の道を進ませる力があります。その力は栄光の主が来られることによってもたらされる希望です。この希望があるからこそ、私たちはこの信仰の道を進み行くことができるのです。この道の果てで愛する主に会える。その時、栄光の主が私たちを迎えてくださいます。それは私たちにとって躍り上がる喜びの時です。これは希望ではないでしょうか。この希望があるから、この希望が近づいているから、あなたがたも耐え忍びなさいというのです。

 

Ⅱ.互いにつぶやき合わない(9)

 

第二のことは、互いにつぶやき合わないということです。9節をご覧ください。「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」

 

これは主が来られるのをどのようにして待つべきなのか、そのあり方です。いったいどのようにして主の来臨を待ち望んだらいいのでしょうか。互いにつぶやき合わないということです。「つぶやく」とは、ぶつぶつということ、つまり不平不満を言うことです。例えば、現状などに満足できなくて不愉快に思い、その思いを述べることです。そのように不平を言ってはいけません。なぜなら、それは神のみこころにかなわいないことだからです。よってこのような態度を取り続けるならば、神にさばかれることになります。

 

パウロはこのことを第一コリント10章5節でこのように言っています。「にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」(1コリント10:5)

彼らとは、旧約聖書時代のイスラエルの民のことです。彼らは神に対して、また、神が立てた指導者モーセに対してつぶやきました。すると、彼らはどうなったでしょうか?「彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」(1コリント10:10)「滅ぼす者」とは神ご自身のことです。神が立てた指導者に対してつぶやくことは神に対してつぶやくことであり、それで彼らは神によって滅ぼされてしまいました。

そして、続けて、パウロはこう語っています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(1コリント10:11)  旧約時代のイスラエルの民に起こったことは、戒めであり、万物の終わりが近づいている時代に生きる、私たちへの教訓だったのです。だから、つぶやかないようにしよう。不平を言わないようにしましょう。それは、神のみこころにかなわないことなのです。

 

ヤコブはそのことを、ここでも主の来臨との関係で語っています。「見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」つまり、互いにつぶやかないということは、万物の終わりが近づいている今だからこそ、特に注意しなければならないことなのです。

 

そのことをパウロは、エペソ人への手紙の中で次のように言っています。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:15-16)

世の終わりが近づいている今は悪い時代だからこそ、よくよく注意しなければなりません。私たちの人生には思うようにいかないことや嫌なことがたびたび起こるためすぐにつぶやいたり、不平不満を言いたくなりますが、それは決して賢い人のようではありません。賢い人とはどのような人なのかというと、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いる人です。愚かにならないで、主のみこころは何であるかをよく悟り、御霊に満たされ、詩と賛美と霊の歌とにより、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美します。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝するのです。不平を言いたくなることについては、公平に、すべてを知り、最終的なさばきをなす事ができる方にゆだねなければなりません。さばきの主が戸口まで来ているからです。それを見なければなりません。そのさばきに先だって、勝手に不平不満を言うべきではなく、そのさばきを主にゆだね、忍耐して、主が来られるのを待たなければならないのです。

 

Ⅲ.預言者たちの模範(10-11)

 

第三ことは、預言者たちの模範です。10節と11節をご覧ください。

「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」

 

私たちがこれから経験しなければならないこと、あるいは今経験していることが、すでに他の人が経験済みであるということは、どんな場合でも大きな慰めとなります。ですから、ここでヤコブは、苦しみの中において耐え忍ぶことを学ぶために、預言者たちを模範にしなさいと言っているのです。預言者は、自分が生きている時代の人々に、神のことばを語るために立ち上がった人たちですが、その立場のゆえに、迫害に会い苦しみました。その預言者たちを模範にしなさい、というのです。

 

その中でも、苦難と忍耐についての最も典型的な模範はヨブです。このヨブの忍耐のことについては、当時の人々もよく聞いていました。ヨブは非常に忍耐強い人でした。

 

彼はウツの地で一番の大金持ちで、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。そんな彼が、ある日、彼の多くのしもべと家畜が一瞬にして殺され、また台風が襲い彼の10人の息子と娘までも失ってしまいました。そればかりか、彼の身体を足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物が打ったのです。彼は唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、彼の顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白しました。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。(ヨブ1:20-22, 2:10)。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです(ヨブ42:1-6)。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)と、偉大なる信仰の告白をしました。

その結果どうなったでしょうか。ヨブは最後まで信仰の聖さを守ったので、主はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

 

このようにヨブは、失敗してもみくちゃにされながらも、耐え忍びました。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方ですから、不完全な私たちをも、その忍耐のゆえに報いてくださいます。あわれみ深い主に期待して、忍耐するのです。

 

私たちは、ヨブのような迫害を受け、極度の貧しさの中にいる訳ではありませんが、この複雑な社会の中で、豊かで安定した社会の中で、信仰のゆえに、これまでにない形でストレスに悩まされることがあります。しかし、そのような中でも私たちは、主がもうすぐ近くまで来ているということを見なければなりません。その時主はヨブになさったように、私たちにも報いてくださいます。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。この希望のゆえに、私たちは試練と困難を耐え忍ぶことができるのです。ですから、私たちも主が来られる時まで耐え忍びましょう。多くの苦難と困難にあっても、心を強くして、ひたすら主を待ち望みたいと思います。

ヤコブ5章1~6節 「いま持っているもので満足しなさい」

ヤコブの手紙の最後の章に入ります。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(2:26)と、行いの伴った生きた信仰とはどのようなものなのかを具体的な例をあげて語ってきたヤコブは、この最後のところで富の問題を取り上げています。

 

1節には、「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」とあります。必ずしも、お金持ちが悪いというのではありません。聖書では、お金そのものは悪であるとか、裕福であることが罪であるとは教えていません。聖書で問題にしているのは金持ちになりたがること、つまり、お金に貪欲であることです。神よりもお金を愛すること、お金が神になってしまうことなのです。なぜなら、そこには多くの誘惑とわながあるからです。Ⅰテモテ6章9~10節にはこうあります。

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」

金を追い求めたために、信仰から迷い出ることがあります。ヤコブはこの欲についてはたびたび語ってきました。欲そのものは問題ではありませんが、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。その大きな誘惑の一つがお金なのです。お金に貪欲になると信仰から迷い出て、悲惨な結果を招くことになってしまいます。ですから、金銭を愛するのではなく、神を愛し、神によって与えられているもので満足しなければなりません。

 

どうしたら満足することができるのでしょうか。きょうはこの富に対してどうあるべきなのかを、聖書から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.天に宝をたくわえる(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」

 

「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちのことです。彼らの中には神を愛していると言いながら、実際にはそうでない人たちもいました。彼らが愛していたのは神ではなくお金でした。彼らは口先では神を信じていますと言っても、その行いはそれを否定するものでした。貪欲によってお金を愛することが、彼らの心を支配していたからです。そのように彼らに向かってヤコブは、「あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」と厳しく警告しています。

 

なぜ泣き叫ばなければならないのでしょうか。それは、彼らにどんなに富があっても、やがて神の前に立つとき、彼らが頼りとしていたその富が、神のさばきから彼らを救うことはできないからです。この地上の富は一時的なものであり、いつまでも続くものではありません。それなのに、神ではなく富を頼りとして生きるなら、やがて終わりの日に、そのような者に迫りくる悲惨な結果がどのようなものであるかを見たら、泣き叫ぶしかありません。

 

2節と3節をご覧ください。

「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀はさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。」

 

ここには、彼らが頼りとしていたものがどのようなものであったかが述べられています。当時、財産を代表するものが三つありました。それは食べ物、着物、そして金銀です。食べ物というのは大麦や小麦などの穀物のことですが、それらは収穫すると倉にたくわえられました。しかし、たとえ何年分もたくわえてもそれを使わなかったら、それはやがて腐ってしまいます。そうなればすべてが無駄になってしまいます。どんなに蓄えても神の前に富まないと腐ってしまうことになります。

 

着物はどうでしょうか。着物も、当時は大切な財産の一つでした。それは商売の取引としても使われました。また、親から子に相続される価値ある物でもありました。けれども、どんなに価値があるからといっても、それをただしまっておくだけなら意味がありません。やがて虫に食われて使い物にならなくなってしまうからです。何の値打ちもなくなってしまいます。

 

もう一つは金銀です。金銀は虫に食われることはありませんが、別の問題がありました。それはさびです。今のように純金であればさびることはありませんが、当時の金銀は混合物だったので使わずにおけばさびることがありました。

 

そればかりか、ここではそのさびが、あなたがたを責める証言となるとあります。どういうことでしょうか。証言というと、すぐに思い浮かべるのが裁判です。裁判で証人が立たせられると、その証人がいろいろと証言するわけですが、ここではそのさびが証言するというのです。どのように証言するのでしょうか?「私がさびです。私が、この人が愛した元金銀です。この人はずっと私を愛していました。でも、長年使わずにいたのでこんなにさびてしまったのです。この人が私を無駄にしました。今ではもう何の役にも立ちません。こんなにさびてしまいました。全部この人のせいです。」と言って、あなたを責めるのです。

 

そればかりではありません。ここには、そのさびが「あなたがたの肉を火のように食い尽くします。」とあります。火のように食い尽くすというのは、神のさばきを表しています。さびが火のようにあなたをさばくのです。そのように金銀を自分のためにたくわえることは、終わりの日のさばきのために財宝をたくわえることになるのです。

 

いったい何が問題なのでしょうか。前にも申し上げたように、金銀をたくわえることが問題なのではありません。金持ちであることが罪なのではないのです。問題は、あなたがそれをどこにたくわえているのか、何のためにたくわえたのかということです。というのは、そのことによってあなたの心がどこにあったのかがわかるからです。

 

イエス様は、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあると言われました。マタイの福音書6章19~21節です。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 

もしあなたが、自分の宝を地上にたくわえるのなら、あなたの心は地上にあります。しかし、もしあなたの宝を天にたくわえるなら、あなたの心は天にあります。あなたの心のあるところにあなたの宝もあるからです。それによって、あなたが何を頼りに生きているかが明らかにされます。天に宝をたくわえるなら、その人は神を第一にしていることが証明されるので永遠のいのちを受けますが、地上に宝をたくわえるなら、やがて虫とさびできず物となり、また盗人が穴をあけて盗みます。その最後はさびがあなたを食い尽くすことになるのです。だから、自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝は天にたくわえなさい、というのです。

 

あなたの宝はどこにありますか。何のために使っているでしょうか。どうか、この地上にではなく、天に宝をたくわえてください。

 

聖書を見ると、そのような人を何人か見ることができます。たとえば、アブラハムはそうでした。創世記14章を見ると、彼はソドムとゴモラが滅ぼされ、ロトとその財産、それにまた、女たちや人々も奪われると、自分のしもべ318人を招集して敵を追跡し、それを打ち破って奪い返したとあります。

するとシャレムの王メルキゼデクが、パンとぶどう酒を持って来て、彼を祝福しました。するとアブラハムはどうしたかというと、戦利品の十分の一を彼にささげたのです。アブラハムはなぜメルキデゼクに自分の戦利品の十分の一をささげたのでしょうか。それは彼が神に信頼していたからです。このメルキデゼクは受肉前のキリストでした。アブラハムは神に十分の一をささげることによって、自分が何により頼んでいるのかを明らかにしたのです。すなわち、彼はこの地上のものではなく、神に信頼して生きていたのです。その証拠に、この後すぐに、ソドムの王が彼に、「人々は私に帰し、財産はあなたが取ってください。」(創世記14:21)と言ったとき、アブラハムはこう言いました。「私は天と地とを造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何も取らない。それは、あなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」(同14:22-23)

アブラハムは、徹底的に神により頼みました。この地上のものにではなく天に、神により頼んで生きていたのです。天に宝をたくわえていたのです。それは彼が、神がどのような方であり、神の恵みを知っていたからです。

 

私たちもキリストによって神の恵みを受けました。自分の罪のために滅ぼされても致し方ないような者だったのに、神はあわれんでくださり、こんな者を救ってくださいました。このような者にとって、神の恵みに対するもっともふさわしい応答は、自分を神にささげることであり、神により頼んで生きること、自分の宝を天にたくわえることなのです。

 

Ⅱ.不正な金持ちたち(4-5)

 

第二に、4節と5節をご覧ください。ここには、「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とあります。

 

当時、穀物の収穫の時には、労働者を日雇いで雇いました。そうした労働者たちは、もし賃金が未払いにされるとその日の食べ物にありつくことができなかったので、生きていくことができませんでした。ですから、旧約聖書には、こうした賃金の未払いについて厳しく規定されていたのです。たとえば、申命記24章14節には、「貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。」とあります。また、レビ記19章13節にも、「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。」とあります。こうした律法の規定は、このような貧しい人たちへの配慮から命じられていたのです。

 

それなのに、そうした神の定めを無視し、支払うべきものを支払わず、貧しい者たちから搾取して、ぜいたくに暮らし、快楽にふけり、自分の心を太らせていた不正な金持ちたちがいました。前にも申し上げましたが、聖書は富そのものを非難していません。金持ちであることが問題なのではありません。問題は、その富を不正に手に入れていたことです。

 

まず4節には「未払い賃金」とあります。この金持ちたちは不正な方法によってお金を集めました。それから5節には、「ぜいたくに暮らし、快楽にふけり」とあります。全く利己的なお金の使い方です。そして6節の前半には、「正しい人を罪に定めて殺しました」とあります。彼らは貧しい人、弱い人、正しい人をしいたげることによって、キリストを再び十字架につけて殺すような罪を犯し、同じ神の民であるクリスチャンを傷つけるようなことをしていたのです。

 

ここには、そうした労働者への未払いの賃金が、叫び声をあげている、とあります。この叫び声は、あまりにも恐ろしい搾取に対する困窮者から出てきた叫び声です。それは万軍の主の耳に届いています。何を隠そう、それは万軍の主を敵に回すことなのです。万軍の主がそうした不正に対して戦われます。5節に、「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とありますが、それはちょうど、豚肉のために飼われている豚が、屠殺される日のためにたくさんのえさを食べているようなものなのです。

 

この不正な金持ちたちの問題点は何だったのでしょうか。勿論、それは彼らがそうした賃金を不正に手に入れ、自分たちの懐を肥やしていたことですが、その問題の根本には「自分のために」という利己的な思いがあったことです。イエス様はこのような金持ちは愚かな金持ちであると、たとえを話されました。ルカの福音書12章16~21節です。

「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして、言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

この金持ちの問題は、自分のことしか考えられなかったことです。彼の畑が豊作だったとき、彼は「どうしよう」と考え、「こうしよう」と決断しました。そこには神が入る余地がありませんでした。いつも「私」が中心なのです。「私はどうしよう」、「私はこうしよう」、「私は、あの倉を取りこわして、私は、私の穀物や私の財産をみなそこにしまっておこう。」と、「私が」とか「私の」という言葉がくり返されているのです。これが貪欲ということです。人が貪欲になっていくと、自分の思いや意志が優先して、神のことが入って来なくなるのです。本来であれば、「神さま感謝します。こんなに多くの穀物を与えてくださり、豊かになりました。神さま、これをどのように用いたらよいでしょうか。これらすべてはあなたのものです。あなたが与えてくださったものですから、あなたが良いと思うように用いてください。」と祈るところなのに、彼は「ああ、安心した。この先もう何年分もためられたから、さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しもう。」と言いました。彼は自分のためにたくわえましたが、神の前に富む者ではありませんでした。それゆえに神は、彼を「愚か者」と言われたのです。

 

しかし、それはこの愚かな金持ちだけのことでしょうか。それは私たちにも言えることです。私たちは、この金持ちのようにあからさまな快楽にふけるようなことはしないかもしれません。けれども、自分のことだけを考える利己的な思いがあるのは否めません。他者に対して、触りさわりのない言葉を話しますが、しかしそれ以上のことには関わりたくないという心の貧しさがあります。人に優しくしてふるまっているようでも、心の底では自分が満足すればそれでいいというような思いがあるのです。それゆえに、神が見えない、周りの人々が見えないということがあるのです。そういう状態に陥っていることがあるのです。マザーテレサが来日した時に、日本は精神的貧困状態に陥っていると言いましたが、それはまさに自分の心を太らせている私たちのことでもあるのです。

 

Ⅲ.だから、悔い改めて(6)

 

では、いったいどうしたらいいのでしょうか。6節をご覧ください。

「あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」

 

「正しい人」とは、貧しい人のことです。イエス・キリストを信じて罪が赦され、神の前に義と認められた人のことです。彼らは神を信じていない人たち、つまり、身勝手で、貪欲で、不正な方法によってお金を集めていた金持ちたちによって、ひどい仕打ちを受けていました。それなのに、彼らは金持ちたちに抵抗しませんでした。なぜでしょうか。それは、彼らがキリストを信じていたので、正しくさばかれる方にすべてをゆだねていたからです。

 

神は愛である方であると同時に、義なる方でもあられます。不正や不義をいつまでも放置されるような方ではありません。私たちは時々、「神さまがおられるなら、どうしてあんなことを許されるのか」と思うことがありますが、それは神さまがただ忍耐しておられるだけなのです。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それがいつまでも続くわけではありません。やがて、終わりの時がやって来ます。その時には、そのような悪を正しくさばいてくださいます。いつまでも悪がはびこっていることはありません。不正をして富を得て、それをもってぜいたくに暮らし、快楽に身をゆだね、自分の心を太らせた貪欲な者たちに対して、必ず神の正しいさばきが下されるのです。そのことを知っているので何の抵抗もしないのです。

 

しかし、神のみこころは一人も滅びないで、すべての人が救われて真理を知るようになることです。そのために、神はひとり子をこの世に遣わしてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神の御子を信じる者は、ひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。だれでもキリストを信じるなら救われて、神の子どもとされるのです。これが福音です。そして、このようにして神の子とされた者は、富についても正しく理解することができます。信仰がなかった時は、お金がすべてでした。お金があれば幸せになれると思っていました。そのために生きていたのです。けれども、イエス様を信じてからは、もっと大切なものがあることを知りました。それは何でしょうか。それは神です。永遠のいのちです。お金よりも大切なものがあると知ったとき、生きるのが本当に楽になりました。お金に支配された生き方から、お金を支配する生き方に、それを神の喜びと栄光のために用いることの喜びを知ったのです。

 

星野富広さんが、「いのちよりも大切なもの」という詩を書かれました。

いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが 嬉しかった

 

皆さん、いのちよりも大切なものとは何でしょうか。星野さんはそれを知るまでは生きるのが苦しかったと言っています。いのちよりも大切なものがあると知ったとき、生きているのが嬉しかったというのです。いのちよりも大切なものって何でしょうか。星野さんご本人は、この問いには答えないようにしているそうですが、それは答えなくてもわかります。それは永遠のいのちです。このいのちは、アッシジのフランチェスコが「平和の祈り」の中で、「自分のいのちをささげて死ぬことによって、永遠のいのちを得ることができるからです。」と言っているように、自分をささげることによってもたらされるものです。このいのちが与えられたら、もはやお金とか、富とか、財産とかに縛られることはなくなります。それよりも大切なものがあることを知っているからです。

 

ヘブル13章5節にはこうあります。

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

そのような人は、いま持っているもので満足することができます。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。この天地を創られた主が共におられる。私たちの必要のすべてをご存知であられ、それを満たすことのできる方が共におられる、もうそれだけで十分です。

 

皆さん、私たちが不幸だと感じるのは足りないと思うからです。物でも、愛情でも、これで十分だと思えるなら満足することができます。でも、どんなに高価なものを持っていても、どんなに多くのものを持っていても、十分だと思えなければ不幸だと感じます。それで満足することができなければ、少なくても満足している人の方が幸せなのではないでしょうか。だから、聖書は、「いま持っているもので満足しなさい。」と言うのです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているのですから。なぜなら、私たちにはすべてを満たすことができる神がともにおられるのですから。この神がともにおられるのなら、私たちは何も足りないものはありません。私たちはいのちよりも大切なものを持っているのですから。

 

あなたはどうでしょうか。このいのちを持っておられるでしょうか。そして、この地上のことばかり考えてはいませんか。あれが足りない、これが足りないと、足りないものを見て嘆いていないでしょうか。「いま持っているもので満足しなさい。」神はあなたに永遠のいのちを与えてくださいました。あなたにとって必要なものをすべて与えてくださいます。大切なのは、あなたがこのいのちを得ておられるかどうかです。どうか、あなたの貪欲を悔い改めて、神に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたをゆるしてくださいます。そしてあなたに、いのちよりも大切なもの、永遠のいのちを与えてくださいます。それがあれば、あなたは本当に満足することができます。

 

箴言30章7~9節でアグルという人が、次のように言いました。

「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不真実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

 

これは本当に生きる知恵ではないでしょうか。アグルが願った二つのこととは、不真実と偽りを遠ざけてほしいということと、貧しさも富も与えず、ただ、自分に与えられた分の食物で養ってほしいということでした。なぜなら、自分が食べ飽きて、神を否み、「主とはだれだ。」と言うことがないためです。また、自分が貧しくなって、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないためです。だから、貧しさも富も与えないでくださいと願ったのです。定められた分の食物で私を養ってください、と祈ったのです。

 

おもしろいですね。私たちにはそれぞれ、「定められた分の食物」があるのです。ですから、それで満足すべきです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているからです。私たちにとって最も大切なのは、この神のいのちに生きることです。いま、持っているもので満足しなさい。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(Ⅰテモテ6:6)なのです。

Ⅰコリント15章1~11節 「最もたいせつなこと」

イースターを迎えました。主の復活を喜び、心から主の御をほめたたえます。私たちは今朝、使徒パウロがコリントの教会に書き送った手紙の中から、「最もたいせつなもの」と題してお話ししたいと思います。

 

世の中には大切なものがたくさんあります。それは人それぞれ違うでしょう。ある人はお金だ、健康だ、仕事だという人がいれば、思いやりだとか、愛だ、いのちだという人もいます。あるいは人と人の絆だという人もいるでしょう。確かにこの世で生きていくためには、これらのものも大切です。しかし、きょうのところでパウロは、最もたいせつなことを私たちに伝えています。それは福音のことばです。きょうは、この「最もたいせつなこと」についてご一緒に考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.この福音によって救われる(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

 

12章から14章にかけて御霊の賜物について語ってきたパウロは、この15章に入ると、「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」と言って、「福音」について語り始めます。「福音」とは何でしょうか。

「福音」とは「良い知らせ」という意味です。福音を国語辞書で調べると「喜ばしい知らせ」「イエス・キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ」とあります。和英辞典を見てみると「Good News」とあります。この福音という言葉は聖書の最も大切なことを的確に表している言葉だと思います。私たちはテレビやラジオ、新聞で様々なニュースを見たり、聞いたりします。それは「どこで」「誰が」「何をしたか」という情報です。実は聖書で最も大切なこととして書かれているのは、「教え」ではなく、「情報」、ニュース、知らせなのです。

 

パウロはここで、「兄弟たち。私は今、この福音を知らせましょう。」と言っています。これは特に、荘厳な面持ちで大事なことを伝える時に伝える言葉です。なぜ大事なのかというと、2節にあるように、この福音のことばをしっかり保っていれば救われるからです。この福音のことばをあなたが素直に受け入れ、この福音のことばに立って生きるなら、あなたは救われるのです。この救いとは罪からの救いのことです。私たちはよく病気が癒されたとか、貧乏から解放された、問題が解決したことを指して「救われた」と言うことがありますが、聖書でいう救いは、そうしたさまざまな問題や困難からの救いだけでなく、それらの問題の根本的な原因である罪からの救いのことを意味しています。罪が赦されるとどうなりますか。罪が赦されると神に受け入れられ、神の御国、天国で永遠に神とともに生きることができるようになります。私たちの人生はこの世だけのものではありません。やがてこの世での生を終え、神の前に立たされる時がやってきます。その時、神が約束してくださったように神の国を相続するようになるのです。この世の中には大切なものがたくさんありますが、この福音はそうしたものの中でも最もたいせつなものであるのは、この世だけではなく永遠にかかわるものだからなのです。

 

ある時、「日本人百人に聞く」というアンケートがありました。その最初の質問は、「あなたは死後の世界はあると思いますか。ないと思いますか。」というものでした。すると、「ある」と答えた人と、「ない」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、ちょうど三分の一ずつでした。

そして、死後の世界が「ある」と答えた人にさらに、「あなたの考える死後の世界は、明るいですか。暗いですか。」と質問すると、その答えは、「明るい」と答えた人と、「暗い」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、やっぱり三分の一ずつでした。

もしみなさんに同じ質問をしたら何と答えるでしょうか。死後の世界はあると思いますかという質問には、全員が、「ある」とお答えになると思います。そして、「それは明るいですか、暗いですか」という問いには、「明るい」と答えるのではないでしょうか。なぜなら、この福音のことばをしっかりと保っているからです。どうかこの福音を受け入れ、このことばに立ってください。この福音によって救われるからです。

 

Ⅱ.最もたいせつなこと(3-5)

 

第二に、この福音とはどのようなものなのでしょうか。次に3節から5節までをご覧ください。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」

 

パウロは、この福音の内容を最も大切なこととして、次の四つのことにまとめています。

第一に、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」、第二に、「葬られたこと」、つまり、本当に死なれたということです。キリストは十字架につけられた時、単に気絶したということではなく、本当に死んで葬られたということです。第三に、「聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」、そして第四に、「ケパに現われ、それから十二弟子に現われたこと」です。これが、最も大切なこととして、パウロが伝えたかったことです。

 

これを見ると、最もたいせつなことは、イエス・キリストの教えやイエスがなされた奇跡の数々ではなく、イエス・キリストの十字架の死と、葬りと復活の事実であり、それを見た人たちがいるという証拠です。それが福音の中心です。

 

近代になって、ある人々は実に軽々しく主イエスの復活の事実を否定するようになりました。復活抜きのキリスト教を打ちたてようとしたのです。イエス様が復活したかどうかなんてどうでもいいじゃないか、第一、そんなこと確かめようがないし、仮に確かめることができたとしても、それがいったいどうなるというのか。大切なのは、そこから意味をくみ取ることだよ。イエスが復活したということが、自分にどんなことを教えているのかを見い出すことだ、というのです。しかしその結果残ったのは、もはやキリスト教とは言えない代物となってしまいました。主イエスの復活の事実に裏付けられない復活の教えには意味がないのです。そういうことがあったことにしておこう。そう仮定しておこう。そう信じておこう、ということではないのです。この事実の上に私たちの信仰も、希望もその確かさがあるのです。だからパウロは続けて6節から8節までのところでこう言っているのです。

「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(6-8)

 

どういうことでしょうか。これはキリストの復活が事実であったということです。まずケパに現われ、十二弟子に現われたというのは、彼らは生前のイエスをよく知っていた人たちですから、よみがえったイエスと出会った時、その二人は同一人物であるということを確認することができました。他の人がよみがえって、「私がイエス」だと言ったわけではなく、本当にあの方が死んでよみがえられたのだと確認することができたのです。

 

それから「五百人以上の兄弟たちに同時に現われた」とは、キリストがよみがえられたことは幻覚でも何でもない、はっきりとした事実ですよ、という意味です。もし一人や二人であったら、キリストがよみがえったと言っても、ただの思い込みじゃないのと言われても仕方ありません。でも五百人以上の人たちに同時に現われたということになれば話は別です。それは紛れもない事実であると言えるからです。

 

またヤコブに現われ、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださったというのは、まさに神の恵みであるということです。ご存知のように、このヤコブとはイエスの実の兄弟のヤコブのことですが、彼はイエスが十字架に付けられるまでイエスをメシヤとは信じていませんでした。しかし、この復活のキリストに出会うことによって、「ああ、本当にお兄さんのイエスはメシヤだったんだ」と信じることができました。またパウロが自分のことを「月足らずで生まれた者と同様な私」、「未熟児のような私」と言っているのは、彼が以前教会を迫害していた者だからです。そんな者にもキリストは現われてくださいました。ですから、それは紛れもない事実なのです。

 

しかもここで大切なのは、これらのことが他の誰でもない「私たちの罪のため」であったということです。いやもっと言うならば、ほかならぬこの私のためであったということです。キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、私たちのために葬られ、私たちのために三日目によみがえられ、私たちのために現われてくださいました。そう信じて受け入れるなら、あなたは救われるからです。その中でも最も中心的なことは、主イエス・キリストが死からよみがえられたということでした。なぜなら、キリストの復活は、私たちの人生にとって最大の問題である死に対して最終的な解決を与えるものだからです。ですから、キリストが復活したという事実は、私たちにとって大きな出来事なのです。

 

ハイデルベルク信仰問答書には次のようにあります。

〔問45〕キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。   第1に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。  第2に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。  第3に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。

 

これはどういうことかというと、キリストの復活は私たちに過去において、現在において、また未来において、益をもたらしてくれるということです。過去においてとは、主イエスが成し遂げられた十字架の死と復活という贖いの御業によって、すでに主イエスを信じる者たちが義と認められているということであり、現在においてとは、主イエスによって義と認められた私たちが今すでに主イエス・キリストにあって永遠のいのちの祝福の中に生かされているということ、そして未来においてとは、キリストの復活がやがて私たちも復活するという保証であり、初穂であるということです。

 

ここにおいて主イエスのよみがえりは私たちを明日へと生かしめる希望となり、力となるということがわかります。希望とは何か遠い先の事柄ではなく、むしろ確かな約束に基づいた、日々を生きる力、日常的で具体的な力なのです。その力に生きることができるところに、復活の最大の益があると言えるのです。

 

これが、教会が「最もたいせつなこととして」ずっと昔から受け継いできたことです。パウロは3節で、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって」と言っていますが、この「伝える」とか、「受ける」という言葉は、誰かの思いつきで、突然どこからか降ってきた教えというのでもなく、教会がずっと昔から繰り返して受け継いできた教えであるということです。それは最もたいせつなことであり、キリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたという事実なのです。

 

Ⅲ.神の恵みによって(8-11)

 

それにしても、これほどにパウロが主イエスの復活の事実にこだわるのはなぜなのでしょうか。そこにはパウロ自身の深い経験があったことが分かります。8節から11節までをご覧ください。

「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」。

 

パウロはここで復活の主イエスが「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました」と言っています。主イエスの十字架と復活の場面にはパウロは出てこないのに、これはどういうことなのでしょうか。そこで私たちが思い至るのは、使徒の働き9章にある、あのダマスコ途上での主イエスとの出会いの経験です。かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い詰めることを生きがいとしていたパウロに、主イエスは出会ってくださり、それによって彼の人生はまったく変えられ、キリストを宣べ伝える者へとされていったのです。ですからパウロにとってはキリストの復活は事実であるばかりでなく、まさに彼にとっての人生の原点でもあり、生きる目的でもあったのです。だからこそ彼にとっては復活の事実はないがしろにできないばかりか、それを伝えることこそが彼の生きがいとなっていったのです。

 

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い込んでいったパウロ、自分こそは律法を完璧に守り、その行いによって自分の救いを獲得していた者でしたが、彼をそのような人生に駆り立てていった一つの動機はやはり死への恐れだったのです。それを遠ざけ、振り払うかのように懸命になって生きていました。しかしその人生には本当の平安はなく、本当の確かさもなく、また本当の希望もありませんでした。しかし、そんな人生の途上で主イエス・キリストに出会い、その十字架と復活の福音を自らが聞き、受け入れたとき、彼の人生は全く新しくされ、そしてその福音に生きる者となりました。その時、彼は、死を乗り越えることができたのです。そしてそこで彼が言い得た言葉が、「私は神の恵みによって今の私になった」というこの言葉だったのです。

 

「恵み」とは、それを受けるに値しない者に、神が一方的に与えてくださる賜物です。それにふさわしいから与えられるものは、恵みではありません。それは「報酬」と言います。でもそれを受ける理由などどこにもないのに、神が与えてくださるもの、それが恵みです。パウロは、この神の恵みによって、今の私になりました。それまで彼は、クリスチャンを捕らえては迫害してきました。一撃のように神に打たれて死んでも、文句の言えないようなことをしてきたのです。そのような者に対して、いったい神は何をしてくださったのか。そんな自分を赦してくださいました。それだけでなく、自分を福音の宣教者として選んでくださった。これは、神の恵み以外の何ものでもない、と言ったのです。

 

私は自分の人生を振り返ってみると、そこには多くの罪があり、多くの失敗もあり、穴があったら入りたいくらいですが、それでもなお、神は私を信仰者として、建て上げてくださっていることを思うとき、それはまさに神の恵み以外の何ものでもありません。本当に私の人生を私の人生として生かすもの、私のいのちを私のいのちとして輝かせるもの、死の恐れを超えて、永遠のいのちの希望に生かすもの、それがこの神の恵みであり、神の恵みによってもたらされた復活の信仰なのです。

 

南北戦争で北軍の将軍にまで上り詰め、文学的にも秀でた才能を発揮したルー・ウォーレスとう人がいました。彼はよく知られた無神論者でした。彼は二年間に渡り、ヨーロッパやアメリカの主要な図書館で、キリスト教を破滅に追いやるための資料を求めて研究しました。ウォーレスは「キリスト教撲滅論」という本の第二章を書いている時、 突然ひざまずき「私の主、私の神よ」と言ってイエスに泣き叫んだのです。議論の余地のない明白な証拠によって、ウォーレスはイエス・キリストが神の子であることを否定できなくなりました。後に彼は『ベン・ハー』という小説を書き、この小説はやがて映画化され、アカデミー賞11部門を受賞しました。この記録は「ロード・オブ・ザ・リング」と並ぶ記録として映画史に輝いています。

 

またイギリスのオックスフォード大学教授であったC.S.ルイスは、宗教を否定する不可知論者でした。しかし彼も、イエスが神であるという反論しがたい証拠を研究した後、イエスを自分の神、救い主として受け入れました。 その後ルイスはキリストを証言する多くの本を書きました。最近映画化された「ナルニア国物語」もその中のひとつです。「ナルニア国物語」の主要登場人物の一人にアスランというライオンが登場しますが、このアスランは実はキリストを表しています。聖書の中にはキリストがライオンに例えられている箇所があり、ルイスはアスランをライオンに設定したといいます。

 

他にも数え切れないほど多くの人が、聖書が最も大切なこととして伝えているこの福音を信じて救われ、人生が変えられました。あなたはこの福音、良い知らせ、グッドニュースを聞いてどのようにお感じになりますか?このニュースがもし事実ではないなら、聖書もキリスト教も土台が無くなり、価値のないものとなります。しかしもしこれが事実であるなら、あなたの人生にも大きな影響を与えるものでしょう。

 

たとえあなたが、どんな過去を背負っていようとも、どんな傷を残していようとも、どんなに拭い切れない罪責を負っていようとも、主イエスはそのあなたのすべての罪を背負って死なれ、そして復活してくださいました。すべては主イエスの死とよみがえりによって解決されたのです。復活の主イエスのお体には釘の後、槍の後が残っていました。このことの意味深さを繰り返し思います。確かに今、私たちにも過去の傷は残っていても、しかしそれはもはや私を苦しめ、責めるものでなく、主イエスによるまったき赦しと慈しみと恵みの傷跡なのであって、それ故に私たちもまたパウロと共にこういうことができるのです。「神の恵みによって、私は今の私になりました」。この最も大切な福音を信じ、心を高く挙げて、復活の主イエスの御名を賛美いたしましょう。

マタイ27章45~56節 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

キリスト教では、イエス・キリストが最後にエルサレムに入城した日から復活の前日までの一週間を受難週と呼んでいます。そしてキリストが十字架につけられたのは金曜日で、その日の午後3時頃に息を引き取られました。罪も汚れも無い神の子キリストが、全人類の罪を負って十字架に付けられて死なれたのです。その直前、キリストは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫ばれました。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と言われました。そして、ローマ兵が酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプにつけて、それをイエスの口もとに差し出すと、イエスはその酸いぶどう酒を受けられ、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、最後に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られたのです。

これが、キリストが十字架に付けられた日の出来事です。イエスは十字架上で七つのことばを発せられましたが、その中で第四番目に発せられたのがこの言葉なのです。この言葉は永遠の神秘と言われ、理解するのが最も難しいと言われていいます。なぜなら、キリストが神の子、救い主であられるのなら、どうしてこのように叫ばなければならなかったのかがわからないからです。私はこれまで多くの求道者の方から尋ねられることがあります。それは、「キリストが神ならば、どうしてこのように叫ばなければならなかったのか。」ということです。そんなこと最初からわかっていたはずではないか、それなのにこのように叫んだということは、キリストがただの人間だったということ示しているのではないか、というのです。それなのに、このように叫ばなければならなかったというところに、この言葉の神秘があるのです。いったいキリストはどうしてこのように叫ばれたのでしょうか。きょうはこの言葉の意味をご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.罪を犯さなかったイエス

まず、第一に、主がこのように叫ばれたのは、ご自分の罪のためではなかったということです。46節を見ると、主がこのように叫ばれたのは、午後3時ごろであったとあります。それは十字架につけられてから6時間が経過した頃のことです。この時の肉体的な苦しみは相当のものだったでしょう。手足を引き伸ばされて釘で打ち付けられ、そこに全身の重みがかかっていたのですから、激しい苦痛が伴っていたことでしょう。特に釘が神経に当たっていたら、その痛みは耐えがたいものだったはずです。釘が入っていた回りの肉がはれて腐り始め、脳が充血して激しい頭痛を引き起こします。発熱のためにのども渇きます。それが直射日光の下にさらされていたのであればなおさらのことです。体力が奪われ、肉体の苦痛は極度に達していたにちがいありません。それにもまして苦しめていたのは、精神的・霊的苦しみです。人々から侮辱され、あざけられるというだけでなく、神にも見捨てられたという思いの中で、言葉には言い尽くせない苦痛を受けておられたのです。

ところで、このことばは詩篇22篇1節から引用です。詩篇22篇はダビデの賛歌とありますが、ダビデが自分の人生において、神に見捨てられたのではないかと思えるような状況の中で歌った詩なのです。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私を御救いにならないのですか。私のうめきのことばも。」(詩篇22:1)

ダビデは、自分の人生における困難の中で、そうした苦しみを体験していたのです。そのような苦しみの中で彼は、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばずにはいられなかったのです。それは神にも見捨てられたのではないかと思えるような激しい苦しみが伴う経験でした。しかし、ダビデがこのように歌ったのは自分の置かれた状況における困難や苦しみばかりでなく、同時にやがて来られるメシヤの姿を預言していたのです。

この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が、ヘブル語なのか、アラム語なのかは、意見が分かれているところですが、しかしそれがヘブル語であっても、アラム語であったとしても、イエスがこうした極限の苦しみの中から叫ばれたものであるのは事実です。

いったいなぜイエスはこのように叫ばれたのでしょうか。それはこの十字架の刑が人々から裏切られるということ以上に、神に見捨てられるという経験だったからです。それはまさに地獄の経験でした。よく私たちは「地獄を味わった」ということを耳にすることがありますが、この時イエスは本当に地獄を味わったのです。なぜなら、神に見捨てられ、神から話されることこそ地獄だからです。イエスはこれまで永遠の昔からずっと父なる神と一緒でした。ひと時も離れたことがなく、常に親しい交わりを保っておられました。その主が一時的であっても父なる神から離されること、それは地獄の苦しみだったのです。ですから、この叫びは地獄の叫びと言っても過言ではありません。いったいなぜこのように叫ばなければならなかったのか。

一つだけはっきりしていることは、それはイエスご自身の罪のためではなかったということです。主は全く罪のない方であり、ご自分の罪のために見捨てられることはないからです。それはイエスを十字架に引き渡したローマの総督ピラトの言葉からもわかります。ユダヤ教の祭司長がイエス様をローマの総督ピラトの下に連れて行ったとき、彼の判決はこうでした。

「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」(ヨハネ19:4)

またこうも言いました。

「この人は、死罪にあたることは、何一つしていません。」(ルカ23:15)また、ピラトは三度目に彼らにこう言いました。

「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死にあたる罪は、何も見つかりません。」(ルカ23:22)

そしてついにピラトは、「この人の血については、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」(マタイ27:24)とさじを投げ出してしまいました。

しかし、最終的に彼はイエスを十字架に付けたのは、群衆を恐れたからです。群衆が暴動でも起こしたら自分の立場が危うくなると、群衆の要求通りにイエスを十字架につけたのでした。濡れ衣を着せられたこの時のイエスは、どんなお気持ちだったでしょう。

またイエス様といっしょに十字架につけられた犯罪人の一人でさえも、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:41)とイエス様の無罪を主張しています。

さらにヘブル人への手紙4章15節には、主は罪を犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです、とあります。

ですから、キリストが神に見捨てられたのはご自分の罪のためではなかったことは明らかです。ではいったいなぜ主は十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

Ⅱ.私たちのために死なれたイエス

 

それは私たちの罪のためでした。全く罪のない方が、私たち人間のために、全人類のために死なれたのです。というのは、神は罪を処罰される方だからです。罪とは、的外れのことです。神によって造られた人間は、本来神を信じ、神のことばに従って生きるはずなのに、自分勝手に生きるようになりました。それが罪です。確かに悪い行いもそうですが、それはこの罪の結果なのです。神を神としないことから、さまざまな問題が生じるようになってしまいました。聖書はこう言っています。

「何が原因で、あなたがたに戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブ4:1-2)

つまり、自分の思うとおりにならないと我慢することができず、争ったり、戦ったりするのです。ですから、自己中心こそが罪の本質なのです。そしてそれを言い換えるなら、このように言えるのではないでしょうか。すなわち、罪とは、神を見捨てることであると・・・。神ではなく、自分が中心となることで、神を見捨てるようになってしまったのです。もしそうであれば、そのような人は、神に捨てられることになります。なぜなら、神は罪を放置されることはないからです。必ずその罪に対して報いをなさいます。その報いこそ、神から捨てられるということなのです。それこそ神によって造られた人間にとって最も不幸なことなのです。人の一生はこの地上のいのちだけではありません。やがて肉体が滅びる時、その人のたましいは神のみもとに行くようになります。その時神から捨てられた人は永遠の滅び、聖書ではこれを地獄と言っていますが、入らなければなりません。

するとどういうことになるでしょうか。すると、人間はみな神に見捨てられなければならないということになります。なぜなら、聖書には、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)とあるからです。そして、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるからです。私たちはだれ一人として完全な者はおらず、したがって、生まれながらのままであればだれ一人として神のみもとに行くことはできないからです。しかし、神は私たちが滅びることがないように救い主をこの世に送り、罪の処理をしてくださいました。それがキリストの十字架上での死だったのです。主が十字架に付けられたのはご自分の罪のためではなく、私たちの罪のためであり、私たちの罪を負い、私たちが受けるべき罪の代価を身代わりとなって受けるためだったのです。それは私たちが神に見捨てられることがないように、代わりに神に見捨てられるためだったのです。

かつて、ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が法廷に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄でした。裁判官も、自分の弟が犯人であることを知りました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しましたが、裁判官である兄は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令したのです。そして翌朝には、彼は死刑にされることになりました。一方、その犯人は獄中で、翌日の死のことを考えて悶々とした眠れぬ一夜を明かしました。ところが、夜中に急に裁判官が官服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを告げたのです。  「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を刑に処した。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救うためだ。急いで、お前の服と私の官服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、今後、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけない。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのです。二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ5:6-8)。

「神は、罪を知らない方を、私たちの身代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ1:4-5)

Ⅲ.絶対に見捨てられない私たち

ということは、どのようなことが言えるでしょうか。イエスがあなたの身代わりとなって神に見捨てられたので、あなたは絶対に見捨てられることはないということです。主が私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが罪の刑罰を受けないためであり、私たちが神から見捨てられないためでした。私たちが罪から解放されて、永遠の死から救われるためでした。ペテロはそのことを次のように言っています。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

したがって、主イエスを信じて救われている者は、もはや罪に定められることはありません。つまり、絶対に神に見捨てられることはないのです。パウロは、この真理を次のように宣言しています。少し長いですが引用したいと思います。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:31-39)

主はご自身を信じる者のいと近くにいて、いつも励まし、慰め、救ってくださいます。目に見えないということは、主がおられないということではありません。神がともにおられるかどうかということは、人間の感情に依存するものではないのです。主はいつもともにおられます。それは主があなたの代わりに、神に見捨てられたものとなってくださったからです。それゆえに、この方を信じる者は、決して神に見捨てられることはないのです。

私たちは人生において、「どうして」と叫ばずにはいられないことがあります。どうしてこのような苦しみに会わなければならないのか、どうしてこのような悲しみ、困難、患難を受けなければならないのかという時があります。神に見捨てられたのではないかと思うような時があるのです。しかし、主が私たちのために、すでにその「どうして」という問いを発してくださり、その解答を与えてくださいました。あらゆる「どうして」という解答が与えられているのです。それゆえに、どのようなことがあっても、神はあなたを見捨てることはありません。

 

旧約聖書に登場するヨブは、まさにこの「どうして」を経験した人でした。彼は東の人々の中で一番の富豪でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。家族も愛し自分の息子たちや娘たちのために祝宴を開き、彼らといっしょに飲み食いをするのを常にしていました。

しかし、そんな彼にある日悲劇が襲います。シェバ人が襲って来て彼の家畜を奪うと、若い者たちを剣の刃で打ち殺してしまいました。そればかりではありません。ヨブがこの知らせを受けている時別のしもべがやって来て、彼の息子や娘たちが一緒に食事をしていたとき荒野の方から大型の台風がやって来たかと思うと彼らがいた建物が崩壊し、全員が死んでしまったというのです。その知らせを聞いた彼は上着を引き裂いて、頭をそり、地に触れ費して主を礼拝しました。ヨブはそれでも罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。

けれども、ヨブに襲った試練はそれだけではありませんでした。何と彼のからだの全体に、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれたのです。唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白せざるを得ませんでした。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです。そして、彼はこう祈りました。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)その結果どうなったでしょうか。神はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。その脱出の道こそ、イエスの十字架でした。イエスがあなたに代わって死んでくださったので、あなたは救われたのです。あなたがこのイエスを救い主と信じるなら、あなたは神に見捨てられることはありません。人生の暗やみの中で、全く孤独を感じるときでも、あなたがいやされる唯一の道は、キリストのように叫ぶことです。その叫びは、暗黒を貫いて必ず神にまで届きます。暗黒はいつまでも続くものではありません。決して長く続くものではないのです。それは、栄光の光への入口であるということを覚えていただきたいと思います。キリストがその暗やみを取り除いてくださったからです。

最後に、アメリカの有名な大衆伝道者D.L.ムーディー(1837-1899)の実話をもってこの話を結びたいと思います。1849年にゴールドラッシュがカリフォルニアに起こり、ある人が東部のニュー・イングランドを旅立って、西へ西へと黄金に引かれて行きました。妻と息子を残して。そこで彼は、金を掘り当てたので、家族呼び寄せることにしました。妻は大いに喜んで、ニューヨークから息子を連れて、サンフランシスコ行きの客船に乗ったのです。沖に出て間もなく、「火事だ。火事だ」とだれかが叫ぶ声がしました。船には火薬庫があり、船長はもし火がそこについたらひとたまりもなく、沈んでしまうことを知っていました。救命ボートがおろされました。小さかったので、少人数しか乗れませんでした。すぐに一杯になりました。そして最後のボートがおろされました。この母親は是非乗せてほしいと、懇願しました。しかし、船長は「もうひとりも乗せられない。乗せたらボートが沈む」と言って、どうしても許しませんでした。それで母親はさらに熱心に頼みました。船員は、「それではひとりだけ乗せてもよい」と許しました。すると母親は息子を押し退けて、船に飛び乗ったでしょうか。そうではありませんでした。母親は息子を抱きしめて、ボートに乗せると、最後の別れのことばをかけました。

「おまえ、お父さんに会ったら、こう言っておくれ。私がおまえの代わりに死んだのよ」と。

主イエスは、私たちに代わって、神に見捨てられ、死んでくださいました。だから私たちは決して見捨てられることはないのです。罪なきお方が、私たちの代わりに罪とされたことによって、キリストは神に見捨てられましたが、そのことによって、私たちはもはや、どのようなことがあっても見捨てられることはなくなったのです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、というこのイエス様の叫びは、この事実を私たちに教えていたのです。あなたもこの主イエスの叫びにご自分の身を置いて、この永遠の約束を受け取っていただきたいと思います。

ヨシュア記1章

きょうからヨシュア記に入ります。きょうは、ヨシュア記1章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 Ⅰ.モーセの従者、ヌンの子ヨシュア(1-9

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 

私たちは、これまでモーセ五書から学んできました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記です。これらはみな、モーセによって書かれたものであり、イスラエル人の信仰生活の土台となる書物です。そのモーセが死に、今新しくイスラエルの指導者が立てられます。それがヨシュアです。ここには、「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」とあります。彼は偉大な先達者モーセの後継者であるということです。すぐれた人物の後に続く、いうならば「二番煎じ」です。ここには、「主のしもべモーセは死んだ」ということが繰り返して書かれてあります。どういうことでしょうか。先達者が偉大な人物であればあるほどその後を継ぐ者のプレッシャーは大きいものです。しかし、そのモーセは死にました。ヨシュアにはモーセとは違う、彼自身に与えられた使命を実現してくことが求められていたのです。

 

ではその使命とは何でしょうか。それはイスラエルの民を約束の地に導き入れることでした。モーセは偉大な指導者でしたが、彼らを約束の地に導き入れることはできませんでした。ヨシュアにはその使命が与えられていたのです。そしてそれはまた、律法ではなく福音によって約束を受けることの象徴でもありました。モーセは律法の代表者でしたが、そのモーセは死んだのです。モーセはイスラエルの民を約束の地に導くことができませんでした。約束の地に導くことができたのはヨシュアです。ヨシュアとはギリシャ語で「イエス」です。そうです、約束の地に導くのは律法ではなくイエスご自身であり、イエスを通してなされた神の御業を信じる信仰によってなのです。

 

そのヨシュアに対して主が語られたことは、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということでした。

 

ここで重要なことは、「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ということばです。また、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということばです。この「与えようとしている」とか「与えている」という言葉は、完了形になっています。つまり、これは確かに未来の事柄ではありますが、神にとっては確実に与えられているということです。もう既に完了しているのです。信仰の内に既にそのことが完了していることを表わすために、未来のことであっても完了形で書かれているのです。神の約束が与えられたなら、それはもう実現しているも同然のことなのです。

 

それと同時に、2節には、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り」とあります。これは、神の約束の実現の前には、ヨルダン川を渡らなければならないということが示されています。つまり、神の約束が与えられたからといって、何の苦労もなく自然に、いつの間にか成就されるということではないのです。むしろその約束の実現の前には困難と試練が横たわっており、それを乗り越える信仰が求められるのです。すなわち、このヨルダン川を渡った時に初めて約束のものを得ることができるということです。ヨルダン川を渡らずして、ヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、足の裏で踏むという信仰の決断を経てこそ、彼はカナンの地に入って行くことができたのです。これは霊的法則なのです。ですから、私たちはすばらしい主の約束の実現のために、ヨルダン川を渡ることを臆してはならないのです。私たちの前にふさがるそのヨルダン川を信仰と勇気をもって渡って行くならば、大きな神の祝福を受けることができるのです。

 

5節をご覧ください。ここには、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」とあります。ここには、神がともにいるという約束が語られています。信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしても、やはりそこには恐れが生じます。しかし、この戦いは信仰の戦いであって、自分の力で敵に立ち向かっていくものではありません。主はモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいると約束してくださいました。主がともにおられるなら、だれひとりとして彼の前に立ちはだかる者はいません。主の圧倒的な力で勝利することができるのです。

 

それゆえ、主はこう言われるのです。「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(6-9

 

ここで主はヨシュアに、「強くあれ。雄々しくあれ。」と同じことを三度繰り返しています。なぜでしょうか。ある聖書学者はこう分析しています。ヨシュアは年齢が若く、したがってモーセほどの実力を持っていなかったので、イスラエルの民が自分に従ってくれるかどうか非常に恐れていた。それで主はこれを三度も語って励ます必要があったのだ、と。もちろん、それも一理あると思います。しかし、ヨシュアのこれから先に起こることを考えると、主がそのように言われたのも納得できます。つまり、主は、これからのヨシュアの生涯が戦いの連続であるということをご存知でしたので、「強くあれ。雄々しくあれ。」と何度も繰り返して語る必要があったのです。確かに荒野においてヨシュアはモーセとともに戦いました。しかしそのモーセは死んだのです。モーセが死んだ今、自分一人で戦わなければならない時に、頼るべきものは主なる神だけです。神に聞き従いつつ、自分自身が先頭に立って様々な困難と闘っていかなければならないのです。そんなヨシュアにとって、「わたしはあなたとともにいる」という約束の言葉はどれほど力強かったことかと思います。確かにヨシュアの生涯は戦いの連続でした。しかし、共にいましたもう主の導きの中で、勝利を勝ち取ることができたのです。

 

これは私たちの信仰の生涯も同じです。それは戦いの連続であり、激しい戦いを通らなければならないことがあります。しかし、主はそのような時にも共にいて、勝利を取ってくださいます。それが私たちの信仰なのです。主イエスの十字架は、私たちの罪の赦しのためです。しかしそれ以上に、十字架は悪魔に対する勝利の力であり、悪魔の罠をも勝利に転換させる大いなる力なのです。この十字架の勝利の信仰のゆえに、どんな戦いにも勝利することができるのです。一時的には敗北と見えるようなことがあったとしても、私たちにはやがて必ず勝利するのです。なぜなら、十字架においてすでに主が勝利をとっておられるからであり、その勝利の陣営に私たちはいるからです。

 

私たちクリスチャンは信仰をいただいたからといって、戦いが全くなくなるというわけではありません。困難がなくなる訳ではないのです。この世に住む以上、常に戦いの連続であり、そのような人生を歩まざるを得ません。しかし感謝なことは、私たちは勝利が確実な戦いを戦っているということです。小手先の所ではもしかすると敗北しているように見えるかもしれません。小さな所では破れていることもあります。。しかし大局的には、最も重要な所では、もう既に私たちは勝利しているのです。

 

アラン・レッドパスという霊的指導者はこのように言いました。「クリスチャンは勝利に向かって努力するのではなく、勝利によって働き続ける者なのです。」

そうです。私たちは勝利のために、勝利に向かって懸命に戦う者ではなく、もう既に与えられている勝利をもって、勝利の中を戦い続けていくものなのです。それゆえに、その勝利の信仰をいただいて、大胆に信仰と勇気をもって人生を歩んでいきたいものです。

 

Ⅱ.全員で戦う(10-15

 

 次に10節から15節までをご覧ください。

「そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」

 

ヨシュアは民のつかさたちに、「糧食の準備をするように」と命じました。それはもう三日のうちに、ヨルダン川を渡って、神が所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしていたからです。

これは、ある意味で、それ以前彼らがイスラエルの荒野で天からのマナとうずらを食べたという出来事と対照的に語られています。以前は、一方的な神の恩寵によって、上から与えられる食べ物によって彼らは生きてきました。しかし、これからは自分の手によって食物を得るようにと命じられているのです。つまり、父なる神に対するある種の甘えや、依存心から脱却して、自分自身の手によって、食べ物を獲得していきないというのです。

 

いったいどのように糧食の準備をしたらいいのでしょうか。12節から15節までのところには、その一つについて語られています。すなわち、全員で戦うということです。ここでヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、戦いに参加するようにと命じています。覚えていますか、ヨルダン川の東岸、エモリ人が住んでいたところは、すでにモーセによって占領していました。そこに、ルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族が、ここを所有地にしたいと願い出ました。モーセは初め怒りましたが、彼らのうち成年男子が、イスラエルとともにヨルダン川を渡り、ともに戦うと申し出たので、モーセはそれを許し、彼らにその地を相続させたのです。それで今、彼らが約束したように、彼らに民の先頭に立って戦うようにと命じられているのです。

 

これらの諸部族は、すでにヨルダン川の東側を所有し定住していたので、わざわざヨルダン川を渡って戦う必要はありませんでした。確かにかつて東側を所有するにあたり勢い余ってそのように宣言をしたかもしれませんが、今では戦いに参加するという意欲は失われていたのでしょう。そんな彼らに対して、彼らも立ち上がって戦いに参加するようにと命じられているのです。なぜなら、一つでも欠けることがあれば戦いに勝つことができないからです。彼らが一つとなって戦うところに意味があります。そこに神の力が発揮されるからです。その中には、全面的に参加する者もいれば、部分的参加する者もいたでしょう。また最前線で戦う者もいれば、後方で支援する者もいたに違いありません。しかし、それがどのような形であっても、各々が皆同じように戦略的には尊い存在なのです。そうした仲間が一つとなって戦うことによって、神の力が溢れるのです。

 

Ⅲ.ただ強く、雄々しく(16-18

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。」あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」

 

ここでは、イスラエルの民がヨシュアにあることを求めています。それは、自分たちはモーセに従ったようにヨシュアにも従うので、ただ強く、雄々しくあってほしいということです。これは指導者に対する条件です。つまり、敵との戦いのために、指導者は強く、雄々しくなければならないということです。指導者にとって誠実であることは重要なことですが、それにもまさって強さ、雄々しさが必要なのです。やさしく親切で、思いやりがあることは大切ですが、それにもまさって強く、雄々しくあることが求められているのです。特に戦いにあっては、その指導者の強さが勝敗を決定するといっても過言ではありません。

 

いったいこのヨシュアの強さはどこから来たのでしょうか。第一にそれは、天性のものではなく天来のものであり、肉によるものではなく霊によるものでした。ヨシュアが強く雄々しかったのは、神の霊が彼に注がれ、神の霊が彼の内側に宿っていたからです。

 

ヨシュアが強かった第二の理由は、彼は明確な召命観を持っていたことです。私はよく牧師に必要なのは何ですかと尋ねられることがありますが、それに対して迷うことなく、「神からの召命です」と答えます。神が自分を選び、この務めに任じてくださった。自分の願いからではなく、神が目的をもって自分を用いようと召してくださったという召命があれば、どんな問題も乗り越えることができるからです。ヨシュアはこの召命を持っていたので、強く雄々しくあることができました。自分がこの務めに資格があるかないかとか、適任であるかどうかということは関係ありません。それよりも、自分がその目的のために召されているのかどうか、神がそのことを自分にせよと命じているのかどうかが重要なのです。それは牧師に限ったことではありません。どんな小さな働きのように見えるものであっても、主の働きに求められているのは、主からの召命意識なのです。たとえ自分に力がなくとも、弱さや欠点を持っていようとも、私たちは強くなることができるのです。

 

ヨシュアが強くあることができた第三の理由は、彼が神の約束の言葉に信頼していたからです。彼には神の約束の言葉が与えられていたので、いかなることがあっても失望しませんでした。主なる神は約束されたことを守られる方であると信じていたからです。それゆえに神はヨシュアに、7,8節で、律法を守り行うこと、これを離れて右にも左にもそれてはならないということ、この律法の書を口から離さず、昼も夜も口ずさまなければならない、と命じられたのです。そうです、ヨシュアの強さはこの神のことばに信頼することからくる確信だったのです。それは私たちも同じです。私たちも神のみことばに信頼し、主が約束してくださったことは必ず実現すると信じ切るなら、主の強さと確信がもたらされるのです。

 

私たちもヨシュアのように神の強さをいただくために、神の霊を宿し、神からの召命を確認しながら、神の約束に信頼するものでありたいと思います。そして、ヨシュアが主の力によってイスラエルを約束の地へと導いていったように、信仰によって前進していきたいと思います。

申命記34章

きょうは、申命記34章から学びます。

 

 Ⅰ.モーセの死(1-8

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。」

 

神はモーセに、「モアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登」らせ、約束の地全体を見ることができるようにされました。ネボ山の北方には、ギルガデからダンに至るまで、北西側にはナフタリの全土とマナセの地、西には西の海まで続くユダの全土、そして南はネゲブと低地、すなわちなつめやしの町エリコの谷をツォアルまで眺めることができるようにされました。この地は、かつて神がアブラハムとイサクとヤコブに、「あなたの子孫に与える」と約束された地です。モーセはそれを見ることができました。けれども、その地に入って行くことはできませんでした。

 

こうしてモーセは、モアブの地のその所で死にました。5節には、モーセが「神のしもべ」であったことが強調されています。これは、彼の死がその使命を完全に果たしたことを表わしています。主は彼をベテ・ペオル近くのモアブの地の谷に葬られましたが、その墓を知った者はいません。彼の生涯は人々に称賛されるためではなく、ただ神の栄光が現されるためのものであったことがわかります。彼の生涯は120歳でしたが、それは神のしもべとして、神に与えられた使命を全うする生涯だったのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちの一生は、神のしもべとして、誠実に使命を全うするものでしょうか。モーセのように、神がくださった使命を成し遂げるために最善を尽くしているでしょうか。救世軍の創始者ウイリアム・ブースの妻キャサリン・ブースは、自分の死を前にしてこう言ったと言われています。

「水が押し寄せて来て、私も押されて行く。しかし私は水面に浮かんでいる。死ぬというよりも、もっとよい生涯が始まろうとしている。ここで見ると、死というのはなんと美しく貴いものなのだろう!」

これは、本当に主のしもべとしてその使命に生きた人のことばではないかと思います。この地上にあっては、どれほどの困難があったかと思いますが、それでも自分に与えられた使命を全うした人にとって、死ほど美しいと思えるものはないのです。それとは逆に、この地上のものに執着し、イエス・キリストの永遠の王国とはあまりにも大きな隔たりのある人にとっては、悲惨なものでしかありません。皆さんの生涯はどちらですか。神のしもべとして、神に与えられた使命のために最後まで走り続けようではありませんか。

 

Ⅱ.ヨシュアへの継承(9-12

 

最後に、9節から12節までをご覧ください。

「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。燃える芝の中で、主がモーセに現われました。それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」

 

モーセは死ぬ前に、ヨシュアに按手をし、イスラエルの新しい指導者として立てました。神はヨシュアがその使命を全うできるように、知恵の霊で満たされました。神は彼に使命を与えられ、その任務を全うできるように知恵と能力を与えてくださったのです。その結果、イスラエルの民は、神がモーセを通して命じた通り、ヨシュアに聞き従ったのです。

 

このことは本当に大きな慰めです。私たちが自分自身を見るとき、どうやっても神の民を導いていく知恵や能力がないことに気付きますが、主はそのような者がその使命を担うことができるように知恵と能力を与えておられるのです。問題は、私たちがその現実を信じているかどうかであり、この主の恵みに自らをゆだねているかどうかです。自分を見るのではなく、自分に知恵と力を与えてくださる神を見ることです。

 

10節以降は、モーセを称賛する言葉で締めくくられています。

「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」

モーセは神が立てた預言者の中で、最も偉大な預言者であり、神と最も親密に交わった者です。「それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」

それは、彼がパロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるまうためでした。つまり、彼の偉大な働きの背後には、偉大な神との親密な交わりがあったのです。そのような神の力と助けによってこそ、彼は偉大な預言者として、その使命を全うすることができたのです。

 

私たちはどうでしょうか。自分には何の力もないと言って嘆いてはいないでしょうか。そうです、私たちには何の力もありません。けれども、私たちとともにおられる方は、この世にいるあの者よりも強いのです。大切なのは、自分にどれだけの力があるかということではなく、この力ある神とどれだけ親密に交わっているかということです。主との交わりを通して、私たちも神のしもべとして立ち上がり、神の働きに遣わされていきたいものです。

 

ところで、モーセはこの時約束の地に入ることはできませんでしたが、この時から約1,500年後に約束の地に入っていることがわかります。マルコの福音書92節から8節を見ると、イエス様がヘルモン山に登られた時、そこでお姿が変わったことが記録されてあります。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでした。その時です、モーセとエリヤが現われて、イエスと何やら語り合っていたのです。(マルコ9:4)それは、本来主がどのような方であるのかを示すためであり、その主がどのような道を歩まれるのかを確認するためでした。モーセは律法の代表であり、エリヤは預言者の代表です。すなわち、聖書が示すキリストの道は十字架であることを、この時確認され、その道へと進んでいかれたわけです。

 

しかし、それと同時に、それは世の終わりに起こる出来事の預言でもあったと言えます。つまり、モーセはその生涯において約束の地に入ることができませんでしたが、キリストがこの地上に来られたときよみがえって主のみもとに引き上げられました。エリヤは死を見ることなく天に上げられましたが、それはキリストが来られる時に死を見ることなく主のもとに引き上げられる人たちの型であったということです。この世の終わりにキリストが再臨されるそのとき、主にあって死んだ人がまずよみがえって主のもとに引き上げられ、次に生き残っている私たちが変えられて、空中に引き上げられ、そこで主と会うのです(Ⅰテサロニケ4:13-18)。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになります。

 

私たちもモーセのように約束のものを見ながら生きるとき、確かにこの地上ではそれを受けることはできなくとも、やがて主イエスが再臨されるとき空中に引き上げられ、いつまでもイエスとともにいるようになります。死んだ人も生きている人も・・・。ですから、モーセがネボ山から約束の地を見たように、私たちも信仰の目をもって、しっかりと約束の地を見ながら歩まなければなりません。私たちもやがて神が約束してくださった地、天の御国に入るようになるからです。

ヤコブ4章11~17節 「主のみこころなら」

きょうは、「主のみこころなら」というタイトルでお話したいと思います。ヤコブは2章で、あなたがたに信仰があると言っても行いがなかったら、そのような信仰が人を救うことができるでしょうか、とチャレンジしました。そして3章ではその具体的な適用としてことばの問題を取り上げました。そして前回のところでは、心の高ぶりについて警告しました。いったい何が無限印であなた方の中に戦いや争いがあるのでしょうか。それは、あなたがたの中に働く欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと人殺しをするのです。自分の思うようにならないと我慢することができません。つまり、神のみこころよりも、自分の思いのままに生きていきたいのです。そういう彼らにヤコブは、「神の御前にへりくださりなさい」と勧めたのであります。そして、その流れの中で、兄弟の悪口を言うことと、神のみこころに生きることが語られています。

 

Ⅰ.互いに悪口を言い合わない(11-12)

 

まず11節と12節をご覧ください。

「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

 

前回のところで「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(4:10)と勧めたヤコブは、ここで悪口の問題を取り上げています。いったいなぜ悪口を言ってはいけないのでしょうか。なぜなら、自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばくことになるからです。どういうことですか?この律法とは、イエスが言われた律法のことです。イエスは、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られます。」(マタイ7:1-2)と言われました。私たちが人をさばくその量り(ものさし)で、私たちも神からさばかれることになります。というのは、私たちは人をさばいた後で、自分も同じことをしてしまう愚かな者だからです。パウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」(2:1)

ですから、私たちは他人をさばくことはできません。にもかかわらず、人をさばき、他人の悪口を言うようなことがあるとしたら、それは律法をさばく者となり、その律法によってさばきを免れないのは当然のことです。私たちは律法を守るために召されたのであって、律法をさばくために召されたのではないのです。

 

それではだれがさばかれるのでしょうか。それは神ご自身であられます。「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。」

兄弟の悪口を言うことは、ある意味で正しいことかもしれません。なぜなら、兄弟の悪口を言うということはその兄弟に非があるからで、そのように言われても仕方ないからです。けれども、このような非に対して、私たちはさばく権利を持っていないのです。なぜなら、さばきを行うのは、神だけであって、私たちにはないからです。それは兄弟に対してだけでなく、自分に対しても同じです。パウロは、こう言っています。

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。」(Ⅰコリント4:3-4)

つまりパウロはここで、他人をも、自分をもさばかないと言っているのです。なぜなら、自分をさばかれるのは主ご自身であられるからです。たとえ自分には罪がないと言っても無罪とされることはありません。神の前に立たされるなら、だれが自分は正しい者だと主張することができるでしょうか。そのような者を、神は救ってくださいました。このような者が他人をさばくことができるでしょうか。さばかれるのは神だけであって、私たちは神に取って代わることはできません。もしそのようなことを平気で行っているとしたら、それは越権行為であり、そうした行為に対する神のさばきが下るのは当然のことなのです。つまり兄弟の悪口を言うことの本質的な問題は、知らず知らずのうちに自分が神になっていること、それほど自分がおごり高ぶっていることなのです。ヤコブはそのことをここでこう言っています。「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

 

ですから、兄弟をさばくことはやめましょう。互いに悪口を言い合ってはいけません。それは神のみこころではないからです。神のみこころは何でしょうか。神のみこころは互いに愛し合うことです。愛は多くの罪をおおうからです。(Ⅰペテロ4:7)もし兄弟の悪口を言うようなことがあるとしたら、それはその人の中にある誇りや高ぶりがあるからであって、自分の行いをよく調べてみれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りであって、ほかの人に対して誇れることではないことに気が付くことでしょう。「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」(ガラテヤ6:3)

 

Ⅱ.主のみこころならば(13-15)

 

第二のことは、主のみこころに生きるということです。13節から15節までをご覧ください。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」

 

さばきを神にゆだねず、自分でさばくという態度は、自分の計画を立てるときにも現われます。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。

ユダヤ人は古くから世界の大貿易商人でした。ここには、世界地図を広げながら、新しい商売の拡張を計画している姿が生き生きと描かれています。計画すること自体は問題ではありません。問題はその商売への自信だけでなく、自分の生き方や人生の決定まで自分でできると過信していることです。日本語には訳されていませんが、13節の主語は「私」です。きょうか、あす、私たちはこれこれの町に行き、これこれをしようと、全部自分で時を定め、場所を定め、期間を定め、やるべきことを定めています。自分でいろいろなことを計画して、自分で成し遂げようとします。もしかしたらそれができるかもしれません。しかし、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19:21)とあるように、主のみこころだけが成るのです。

 

ヤコブは、自分であれこれと計画を立て、自分でそれを達成しようとしている人たちに向かって、次のように言っています。14節です。

「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」

 

あなたがたは、あすことはわからないのです。人間は一寸先もどうなるかわからないちっぽけな存在にすぎません。きのうまであんなに元気だったのに急に病気になってしまったり、ちょっとしたことで思い悩み夜も眠れないこともあります。こんなはずじゃなかったのにと、自己憐憫に陥ってしまうこともあります。避けられない災害によって生活が一変してしまうこともあります。将来を保証されていた人が、ちょっとしたことで人生を棒に振ってしまったということもあります。人生は複雑で、不確実なのです。この先何が起こるのかはだれにもわかりません。ここではそれが霧にたとえられています。しばらくの間現われたかと思ったら、すぐに消えてしまいます。ヨブはそんな人間の姿をこう言いました。

「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。」(ヨブ14:1-2)

ヨブはここで人間の一生を花と影にたとえています。花のように咲いたかと思ったらすぐに切り取られ、影のようにできたかと思ったらすぐに消えてしまいます。それはほんとうにはかなく、むなしいものなのです。そんな人間が自分を誇ってみたところでいったい何になるというのでしょうか。

 

ですから、ヤコブはこう勧めるのです。15節です。ご一緒に読みましょう。

「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

 

私たちが何か計画をたてる時、決して見逃してはならないとは、「~ならば」ということです。「主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ということです。計画を立てることは決して傲慢なことではありません。傲慢なのは、明日起こる全てのことに関して主権を握っているのは自分であるかのように思い込むことです。私たちが皆知っているように、誰一人としてそのような主権を持っている者はいません。私たちは、あすのことはわからないのです。ですから、主のみこころならば生きていて、あのことをし、このことをしようというのが正しい生き方なのです。「主のみこころなら」というのは、「すべてのことに主を認める」ということです。主の許しがあってこそ事がなされ、成功もできるということを認め、神のみこころは何であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えることなのです。

 

パウロは、エペソで伝道していた時、エペソの人々が、もっと長くとどまるようにと頼みましたが、それを聞き入れないで、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってきます。」(使徒18:21)と言って別れを告げ、エペソから船出しました。

また、コリントの教会16章7節でも、「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。」(Ⅰコリント16:7)と言いました。

「主のみこころならば」、「主がお許しくださるならば」という態度は、私たちの立てる全ての計画において持つべきものです。私たちの立てる全ての計画は、主の御手にゆだねなければなりません。主もまた、私たちの人生に計画をお持ちなのです。エレミヤ書29章11節にはこう書かれています。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

また、イザヤ書55章8節と9節にはこうあります。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

 

あなたは、自分自身のことや将来についてどのように考えておられるでしょうか?実は、私たちよりも神の方がもっと完全な計画をもっておられるのです。私たちに対する神の計らいは計り知れません。自分の計画通りに事が進まず、「神様なぜですか?」と問い、いかに自分の立てた計画が完璧だったのかを思うとき、どうぞ覚えていてください。神の計画はあなたの計画よりもはるかに高いものだということを。神の私たちに対する計画はわざわいをもたらすものではなく、将来と希望を与えるものであるということを。もし主がその計画を祝福しておられないとしたら、それは主があなたを覚えていないからではなく、あるいは、あなたを愛しておられないからでもなく、それはあなたの人生における主の完全なご計画のうちにあるものではなかったということなのです。あなたの人生における主のみこころとご計画は実に完全なものなのです。

 

私たちが計画を立てることは決して間違ったことではありません。しかし、その計画の中に「もしみこころならば」を入れてください。「主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」と、みこころを求めて生きる人こそ、本当に神の御前でへりくだっている神