メッセージ

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ヨシュア記9章

きょうはヨシュア記9章から学びたいと思います。

 Ⅰ.敵の策略(1-6)

 まず1節から6節までをご覧ください。
「さて、ヨルダン川のこちら側の山地、低地、およびレバノンの前の大海の全沿岸のヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞き、相集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。」(1-2)

ヨルダン川のこちら側の山地、低地とは、ヨルダン川西岸の地域、すなわち、カナンの地域を指します。このカナンの王たちはみな、これを聞き、相集まり、一つとなってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとしました。「これを聞き」とは、ヨシュア率いるイスラエルがエリコとアイを打ち破ったことを指すのか、それとも、その前のヨシュアがエバル山でモーセの律法を宣言したことを指しているのかは、はっきりわかりません。しかし、いずれにせよ、ヨシュアとイスラエル軍が破竹の勢いで進撃してきたことを指していることは間違いありません。これを聞いたパレスチナの王たちはおののき、何とかイスラエル軍の進撃を阻止しなければならないと、連合して立ち向かおうとしたのです。しかし、ギブオン人だけは別行動を取りました。3~6節をご覧ください。

「しかし、ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行なったことを聞いて、彼らもまた計略をめぐらし、変装を企てた。彼らは古びた袋と古びて破れたのに継ぎを当てたぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古いはきものを足にはき、古びた着物を身に着けた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、ぼろぼろになっていた。こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。」

ギブオンは、イスラエルが攻め取ったエリコとアイの少し南に位置する町です。このギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞いて、イスラエルと和解の条約を結ぼうとしました。彼らはわざわざ自分たちが遠くから来たかのように見せかけるため、古びた袋と古びて破れたのに継ぎを当てたぶどう酒の革袋とを、ろばに負わせ、繕った古いはきものを足にはき、古びた着物を身につけて、ヨシュアのところにやって来ました。また、かわいて、ぼろぼろになったパンを持っていました。なぜ彼らはこのような計略を企てたのでしょうか。彼らはそのことを聞いて、ヨシュアとその民に対して勝つことはできないと判断したからです。それにしても、わざわざ変装したり、偽ってまで同盟を結ぶ必要があったのでしょうか。おそらく彼らは戦いに勝てないというだけでなく、この戦いがどのような戦いであるのかをよく理解していたのでしょう。すなわち、これは聖なる戦いであり、カナン人を聖絶するものであるということです。それゆえ、彼らがその地の住人であることがわかったら聖絶されるのは落であって、そのことだけは避けなければなせないと思ったのでしょう。孫子の兵法には、戦いに絶対に勝つ秘訣は負ける相手とは戦わないとありますが、まさに彼らは最初から負ける戦いとは戦わない道を選択したのです。それはとても賢い判断でした。一方、イスラエルにとっては判断を誤り、後々までも尾を引く結果となっていくことになります。私たちの敵である悪魔はこのように巧妙に襲いかかってきます。悪魔は偽りの父であり、このように計略をめぐらし、変装を企て、知らず知らずのうちに私たちの内側に忍び込み、私たちを信仰から引き離そうとするのです。だれの目にも明らかな方法によってではなく、だれも気付かないような罠を仕掛けてくるのです。

ペテロは、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5:8)と言っています。
ペテロはだれよりもこのことを体験させられたことでしょう。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言った次の瞬間、イエスが捕らえられ大祭司のところで尋問を受けると、彼はそこでイエスを知らないと三度も言いました。人間の力なんてそんなものですよ。私たちがどんなに「私はこうだ」と豪語しても、自分の決意などというものは脆くも崩れてしまうのです。いったいなぜこんなことになってしまったのか・・と嘆いてみても後の祭りです。私たちの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜しながら、歩きまわっていることを覚えておかなければなりません。

Ⅱ.主の指示をあおがなかったイスラエル(7-15)

「イスラエルの人々は、そのヒビ人たちに言った。『たぶんあなたがたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結ぶことができようか。』すると、彼らはヨシュアに言った。『私たちはあなたのしもべです。』しかしヨシュアは彼らに言った。『あなたがたはだれだ。どこから来たのか。』彼らは言った。『しもべどもは、あなたの神、主の名を聞いて、非常に遠い国からまいりました。私たちは主のうわさ、および主がエジプトで行なわれたすべての事、主がヨルダン川の向こう側のエモリ人のふたりの王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさったすべての事を聞いたからです。それで、私たちの長老たちや、私たちの国の住民はみな、私たちに言いました。『あなたがたは、旅のための食料を手に持って、彼らに会いに出かけよ。そして彼らに、私たちはあなたがたのしもべです。それで、今、私たちと盟約を結んでくださいと言え。』この私たちのパンは、私たちがあなたがたのところに来ようとして出た日に、それぞれの家から、まだあたたかなのを、食料として準備したのですが、今はもう、ご覧のとおり、かわいて、ぼろぼろになってしまいました。また、ぶどう酒を満たしたこれらの皮袋も、新しかったのですが、ご覧のとおり、破れてしまいました。私たちのこの着物も、はきものも、非常に長い旅のために、古びてしまいました。』そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。ヨシュアが彼らと和を講じ、彼らを生かしてやるとの盟約を結んだとき、会衆の上に立つ族長たちは、彼らに誓った。」

さて、それに対してイスラエルはどのように対応したでしょうか。ここでギブオン人がヒビ人と言われているのは、ギブオン人がヒビ人のグループの一つだったからです。イスラエルの人々はそのことを見抜いてこう言いました。「たぶんあなたがたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結ぶことができようか。」それは、かつてモーセによって次のように命じられていたからです。
「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」(申命記7:1~6)

すると、彼らは偽って、彼らが非常に遠い国から来たということ、そこで主がエジプトで行なわれたこと、またヨルダン川の東でエモリ人の王と、ヘシュボンの王、またバシャンの王になさったすべてのことを聞いたと、イスラエルの過去の出来事に言及しています。つい先ごろ起こったエリコとアイをイスラエルが攻め取ったことについては言及していません。なぜなら、彼らは遠くの国に住んでいるため、そのようなことは聞いていないふりをしているからです。悪魔は実に巧妙に襲いかかってきます。そして、彼らは古くなった着物、古くなったぶどう酒の皮袋、また古くなったパンを見せて、それを遠い国から来た証拠として差し出すのです。その結果、ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしてやると同盟を結ぶことができました。

主はモーセを通してあれほどカナンの民と契約を結んではならないと命じられたのに、どうしてヨシュアは彼らと契約を結んでしまったのでしょうか。14節にその原因が書かれてあります。それは、「主の指示をあおがなかった」からです。私たちは前回、アイとの最初の戦いにおいて敗北した原因を見てきました。それはイスラエルが不信の罪を犯したからです(7:1)。アカンが聖絶のものをいくらか取ったために、主の怒りがイスラエル人全体に燃え上がったのです。それなのに彼らは偵察を送り、二、三千人の兵を上らせれば十分だと判断しました。自分が見るところに頼って、主の指示を仰がなかったのです。ここでも同じ失敗を繰り返しています。彼らは自分たちで判断し、主の指示をあおぎませんでした。

このことはイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。自分たちで判断して、主の指示を仰ごうとしない傾向があります。イスラエルが同じ失敗を繰り返したのは、それだけ人間にはその傾向が強いということを示しているのです。

私たちは、今週の日曜日の礼拝後臨時総会を開き、三原神学生の招聘について話し合いました。私は、この総会に臨むにあたり、二か月前からこのことを皆さんと分かち合い、このために祈ってほしい旨を伝えました。他の人と話すのではなく、ただ神が示してくださることを求めて祈ってほしかったのです。二週間前にはこの臨時総会に臨むにあたって示されたことを具体的に書いてほしいとお願いしました。実際、何人かの方々が出してくださいました。出せなかった方々もそれぞれに祈って臨んでくださいました。
結果はどうだったでしょうか。結果は、三原神学生を招聘するかどうかということではなく、私たちがどのようにこの教会を建て上げていくのかということが問われているのであって、そのためにみんなで取り組んでいくことが求められているのではないかということが示され、一同涙ながらに祈ることができました。
私は本当にすばらしい祈りの時だったと思います。後で何人かの方がメールをくださり、「出席されていた皆さんが、その課題を認識し、何とかしなければいけない、そしてその一歩は「私」からなのだ、そのために「キリストのからだの一員として」全員の参与が必要なのだと気づいたことはとても良かったと思います。何よりも、皆さんが大田原教会を愛し、その成長・発展を願っているということが分かったことは、私にとっても大きな励まし、かつ主からの恵みであったと思います。」とか、「シモン君に関する議題でしたが、教会員のみんなが、それぞれの役割と賜物を考えさせる、我々の目的を遥かに超えた交わりでした。神に感謝しています。」と言ってくださいました。それは私たちが自分の思いや考えによる判断ではなく、主の判断を求めた結果だと思います。

箴言には、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)とあります。また、「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)ともあります。私たちは自分の判断に頼るのではなく、主を恐れ、主の知恵を求め、主の判断を求めていかなければなりません。

Ⅲ.約束に忠実な神(16-27)

さて、そのようにギブオンの住民と契約を結んだイスラエルはどうなったでしょうか。16節から27節までをご覧ください。
「彼らと盟約を結んで後三日たったとき、人々は、彼らが近くの者たちで、自分たちの中に住んでいるということを聞いた。それから、イスラエル人は旅立って、三日目に彼らの町々に着いた。彼らの町々とは、ギブオン、ケフィラ、ベエロテ、およびキルヤテ・エアリムであった。会衆の上に立つ族長たちがすでにイスラエルの神、主にかけて彼らに誓っていたので、イスラエル人は彼らを打たなかった。しかし、全会衆は族長たちに向かって不平を鳴らした。そこで族長たちはみな、全会衆に言った。「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。私たちは彼らにこうしよう。彼らを生かしておこう。そうすれば、私たちが彼らに誓った誓いのために、御怒りが私たちの上に下らないだろう。」族長たちが全会衆に、「彼らを生かしておこう。」と言ったので、彼らは全会衆のために、たきぎを割る者、水を汲む者となった。族長たちが彼らに言ったとおりである。ヨシュアは彼らを呼び寄せて、彼らに次のように言った。「あなたがたは、私たちの中に住んでいながら、なぜ、『私たちはあなたがたから非常に遠い所にいる。』と言って、私たちを欺いたのか。今、あなたがたはのろわれ、あなたがたはいつまでも奴隷となり、私の神の家のために、たきぎを割る者、水を汲む者となる。」すると、彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この全土をあなたがたに与え、その地の住民のすべてをあなたがたの前から滅ぼしてしまうようにと、お命じになったことを、このあなたのしもべどもは、はっきり知らされたのです。ですから、あなたがたの前で私たちのいのちが失われるのを、非常に恐れたので、このようなことをしたのです。ご覧ください。私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」ヨシュアは彼らにそのようにし、彼らをイスラエル人の手から救って、殺さなかった。こうしてヨシュアは、その日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれた場所で、たきぎを割る者、水を汲む者とした。今日もそうである。」

彼らと同盟を結んで三日後、人々は、彼らが近くの者たちで、自分たちの中に住んでいるということを聞きました。イスラエルは騙されたことに気付きます。三日後に彼らがパレスチナ人であることが判明したのです。そのことが判明したとき、ヨシュアはどうしたでしょうか。イスラエルの全会衆は族長たちに不平を言いましたが、ヨシュアは彼らを滅ぼしませんでした。なぜでしょうか?18節にはその理由が、「全会衆の上に立つ族長たちがすでにイスラエルの神、主にかけて誓っていたので」とあります。

ヨシュアはなぜギブオン人たちにこれほどまでに義理を立てなければならなかったのでしょうか。なぜこの契約を無効にしなかったのか。ギブオン人たちはヨシュアを騙したのです。騙した契約は無効なはずです。民法でも騙された契約は、それが騙されたものであることが証明されると無効にされます。その上、主はヨシュアにカナンの地の異邦の民をみな聖絶するようにと命じておられました。であれば、その契約を無効にし、彼らを滅ぼしても良かったはずです。それなのに、どうして彼らを助ける必要があったのでしょうか。それはヨシュアと族長たちが、イスラエルの神、主にかけて誓ったからです。ヨシュアは一度契約したことに対して、どこまでも忠実に果たそうとしたのです。なぜなら、主なる神ご自身がそのような方であられるからです。イスラエルの神は人間との契約、約束に対してどこまでも忠実に守られる方なのです。それは私たちがどのような者であるかとか、私たちがこれまでどれほどひどいことをしてきたかということと関係なく、主の語られた約束に同意したことによって、それを最後まで果たしてくださるのです。なぜなら、主は真実な方だからです。主は真実な方なので、どこまでもそれを貫いてくださるのです。

私たちがこのような神のご性質を覚えておくということは、極めて重要なことです。なぜなら、神が私たちといったん約束されたなら、そのことは必ず成就するからです。神は契約を遵守される方なのです。それゆえに私たちは神の約束を求め、その約束を受け取るまで、忍耐して祈らなければなりません。なぜなら、ヘブル人への手紙10章35~36節には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」とあるからです。

それならばなぜ神はすぐに約束を成就されないのでしょうか。それは、私たちのためです。私たちがあえて忍耐することによって、私たちが主の御前にへりくだるためなのです。もし約束されたことがすぐに成就するとしたらどうなるでしょうか。いつの間にかそれを自分の手によって成し遂げたかのように思い込み、高ぶってしまうことになるでしょう。自分自身の努力や熱心さによって達成したかのように思い、神の栄光を奪ってしまうことになってしまいます。ですから、神は忍耐することを通して、待つことを通して、それが自分の力ではなく神の力によって成し遂げられたことを深く刻みつけようとされるのです。

もう一つの理由は、そのように忍耐することによって、私たちの信仰や人格を磨き上げようとしておられるからです。ローマ5章3~5節には、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。」とあります。こうした忍耐を通してこそ練られた品性と希望が生み出されていくということを覚えるとき、むしろ困難を静かに耐えることが神のみこころであり、そのとき私たちの人格が成長させられていくのです。

それゆえ、神が約束されたことが成就しないと嘆いたり、疑ったりしてはなりません。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。その忍耐を働かせることによって、練られた品性が生み出され、希望が生み出されると信じて、この神の約束の御言葉に信頼して歩みましょう。主は必ずご自身の約束を成就してくださいますから。

Ⅰペテロ2章18~25節 「主人に従う」

 きょうのテーマは「主人に従う」です。「主人」と言ってもその「主人」とは主イエスのことのことではなく、この世の主人ことです。これを現代風に当てはめるなら、会社の社長や職場の上司に従いなさい、ということになるでしょう。しかも善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさいというのです。冗談じゃない!やさしい上司になら従うことができるかもしれませんが、ガミガミ言うような横暴な上司に従うことなんてできません。しかし、ここではそのような主人にも尊敬の心を込めて従いなさい、というのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

Ⅰ.不当な苦しみに耐える(18-21)

 まず18節から21節までをご覧ください。18節をご一緒にお読みしましょう。
「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」

ペテロは、ローマ皇帝の迫害によって小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンを励ますために、この手紙を書きました。その中で最も重要なことは、彼らはどのような者であるか、ということです。そこでペテロは2章9節、10節で、このように言いました。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

この事実に基づいてペテロは、具体的な勧めを語るのです。それは12節にあるように、この「異邦人の中にあっても、りっぱにふるまいなさい」(12)ということです。「そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、そのりっぱな行いを見て、やがておとずれの日に神をほめたたえるようになります。」そうか、それじゃ頑張ろうと、この異教社会の中にあっても、主の証になるようにりっぱにふるまおうと思った次の瞬間、「えっ」と思うようなことばが続くのです。13節です。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行うように王から遣わされた総督であっても、」
とても無理です。当時はローマ帝国が支配していましたから、当時の主権者といったらローマの皇帝です。しかし、そもそも彼らが各地に散らされ肩身の狭い思いで生きなければならないのは、そのローマのせいです。そんな人たちに従うなんてできるはずがありません。しかし、そのように善を行って、愚かな人々の口を封じることは、神のみこころなのです。もちろん、それが神のみこころと違うことを命じるのであればあくまでも神に従うことが優先されますが、そうでない限り、人の立てたすべての制度に従わなければなりません。そのようにしてすべての人を敬い、兄弟たちを愛し、主権者を敬うことが神のみこころなのです。

その流れの中で今回の言葉が続くのです。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」と。

今から約2千年前のローマの社会では、奴隷制が敷かれていました。もともとギリシャもローマも戦勝国でしたから、植民地から大量の奴隷を連れて来たのです。借金で我が身を売った者たちもいました。中には生まれながらに奴隷という境遇の人もいました。いろいろな事情で奴隷として生きなければならない人たちが相当数いたのです。歴史の記述を見ると、当時ローマ帝国全体には6千万人の奴隷がいたと言われています。奴隷というと、鎖で数珠つなぎにされ、鞭でたたかれ、集団できつい労働に酷使されているようなイメージがありますが、実際は少し違っていたようです。中には家の管理を任せられたり、家庭教師や医者である奴隷もいました。当時、こうした労働や実業といったことは奴隷が担い、主人は政治に携わるか、もっぱら趣味や娯楽に興じていたのです。ですから、ここにある「しもべ」というのは、どちらかというと「その家に属する者」というニュアンスがありました。けれども、奴隷であることには変わりはありません。奴隷は主人の所有物であり、もし主人に従わなければ殺されることもありました。奴隷の人権などというものは全く認められていなかったのです。そうしたしもべたちに対してペテロは、奴隷の状態から解放されるように祈りなさいとは言わないで、むしろ、「尊敬の心を込めて主人に服従しなさい」と勧めたのです。それは善良でやさしい主人に対してだけでありません。横暴な主人に対してもそうしなさいというのです。

冗談じゃない!と私たちなら思うかもしれません。否、当時のしもべたちも、そのように思ったことでしょう。奴隷だから、制度だから従うのは仕方がないけれども、尊敬の心を込めて従うなんてできない。善良でやさしい主人になら従ってもいいけど、横暴な主人に従うなんてとんでもないと思ったとしても不思議ではありません。いったいなぜそのように主人に従わなければならないのでしょうか。ペテロはその理由を次のように語っています。19節と20節をご覧ください。
「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」

どういうことでしょうか?ペテロはここで善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従わなければならないのは、それが神に喜ばれることだからであると言っています。しもべがもし罪を犯したために打ちたたかれそれを耐え忍んだからといっても何の誉れにもなりませんが、もし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることだというのです。しもべが罪を犯すというのは、たとえば、主人の言いつけを守らなかったとか、言われたのにやりたくなかったからやらなかった、ということでしょうか。つまり、しもべとしての務めを果たさなかったとか、その務めに怠慢であった、明らかに違反していたということでしょう。そうしたことで主人に打ちたたかれたとしてもそれはある意味当然のことであって、それを耐え忍んだからといっても、何の誉めるべきことではありません。しかし、正しいことを行って打ちたたかれるようなことがあるとしたら、しかもその苦しみを耐えるとしたら、それは神に喜ばれることなのです。

なぜでしょうか?21節をご覧ください。ここには、「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」とあります。「そのため」とは何のためでしょうか?不当な苦しみに耐えることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。なぜなら、私たちの主イエスも、私たちのために苦しみを受けられ、その足跡に従うようにと、私たちに模範を残されたからです。

この「模範」という言葉は、習字の時に先生が書いた筆に沿って書くような様を表しています。つまり、キリストが不当な苦しみを受けられたのは、私たちが同じように不当な苦しみを受けても、その足跡に従うための模範となるためであったということです。私たちはそのために召されたのです。

キリストが担われた十字架の苦しみは、まさに不当な苦しみであり、全く理不尽なことでした。それは当時のユダヤ教の宗教指導者のねたみのゆえに引き起こされたことであり、ローマの極刑という厳しい刑罰、恥と苦しみに耐えるというものでした。それはご自身の罪のためではなく、私たちの身代わりのためでした。けれども、キリストはその不当な十字架の苦しみによって、私たちの罪のさばきを負ってくださったのです。それゆえ神は、キリストを高くあげられ、神の右の座に着座させました。そのキリストに、あなたがたも召されているというのです。

この召されていることに気付くことは、私たちの生涯において極めて重要なことではだと思います。私はよく「牧師にとって一番重要なことは何ですか」と尋ねられることがありますが、その時には迷わずこう答えます。「それは神に召されているという確信です」。神に召されているという確信がなければ続けていくことはできないし、逆に召されているという確信があれば、どんな困難でも乗り越えることができると思います。ですから召されているということを知ること、気付くことはとても重要なことなのです。

それは牧師に限らずすべてのことに言えるのではないでしょうか。クリスチャン生活においてもそうです。神様が私を呼んでおられることに気付いた時に、私たちのクリスチャン生活が始まります。イエス・キリストに召していただいた、イエス・キリストが私に目を留め、私の名を呼び、私を召してくださったので、この方についていくのです。それがわからなかったらついて行くなんてできません。嫌なこと、苦しいことがあったらすぐにポイッと投げ捨ててしまうことでしょう。私たちは私たちの人生の様々な局面で「わたしに従ってきなさい」という主の御声を聞くことによって、「そうだ、私は主に召されているんだ。だから主に従っていこう」ということになるのです。

ここでペテロは、「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。」と言っています。しもべとしての歩みの中で、どこかで不当な扱いを受け、どこかで人のいいようにされていると感じる時に、謙虚にへりくだった姿勢で、私たちを召してくださった方のことを考えてみなさい、というのです。

キリストは、最後まで苦しみを忍ばれただけでなく、自分を十字架につけた人々さえも赦してくださいました。自分を不当に扱う人間を、その不当な扱いに耐えるのみならず、赦されたのです。だから私たちも、不当な苦しみを与える人に対してそれに耐えるだけでなく、その人を愛し赦さなければなりません。なぜなら、キリストはその足跡に従うようにと、私たちに模範を残されたからです。私たちはそのように召されているからです。ですから、しもべとして主人に従うことができるかどうかという、ただ表面的に従うというのではなく、尊敬の心を込めて従うことができるかどうか、しかも、善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従うことができるかどうかは、私たちがこの方に召されているということにどれだけ気付いているかにかかっているのです。あなたがたが召されたのは、実にそのためなのです。そのことにあなたは気付いておられるでしょうか。そのことをどのように受け止めているでしょうか。

Ⅱ.キリストの模範(22~24)

第二のことは、そのキリストの模範とはどのようなものであったのかということです。
22節から24節までをご覧ください。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

ここに記されてあるほとんどのことは、イザヤ書53章からの引用です。イザヤ書53章は、旧約聖書の中で最も有名な箇所の一つで、キリストの受難を預言しています。ペテロはここでそれをそのまま引用しているのです。
22節の「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」というのは、イザヤ書53章9節の「彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが」という言葉の引用です。
 23節の「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」というのは、イザヤ書53章7節の「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、彼は口を開かない」からの引用です。
 それから24節の「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」というのは、イザヤ書53章12節からの引用です。そこには、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」とあります。
そして24節の最後の「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」というのは、イザヤ書では53章5節の「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」という言葉の引用です。
 また、先ほどはお読みしませんでしたが、25節の「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが」というのは、イザヤ書53章6節の「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」の引用です。
 このようにペテロは、キリストの模範をイザヤ書53章のみことばから、そっくりそのまま引用しているのです。どうして彼はそのように旧約聖書から引用したのでしょうか。ペテロは主イエスと3年半もの間一緒に過ごし、そのお姿をつぶさに見、その語られる言葉を聞くことによって、旧約聖書以上にイエスのことを知っていたはずですから、そのイエスについて語るのに、わざわざ旧約聖書をから引用しなくてもよかったはずです。それなのに、イエスの苦しみを語るのに、彼はあえて神の言葉である聖書の言葉を引用したのです。

それは、そのように聖書の言葉を引用することが、自分が語る言葉よりもはるかに意味があると思ったからです。ペテロはキリストを自分の目でじっと見、自分の耳でじっと聞いてきました。しかし、いざキリストの十字架の苦しみとその忍耐を説明しようとした時に、そうだ、神の言葉を引用しよう、と思ったのです。所詮、自分が経験したどんなことも神の言葉にはかなわない、ということを悟ったのです。自分書くどんな言葉よりも、一つの神の言葉の方が真理を語ると思ったのです。それほどに、神の言葉には力があるのです。

ところで、そのようにしてペテロが見出したキリストの姿とはどのようなものだったのでしょうか。第一に、キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されなかったということです。22節をご覧ください。「見出されなかった」とは、どんな風にあら探しをしても見つからなかった、という意味です。普通の人間ならば、「叩けば埃が出る」ものです。しかし、キリストはどこを叩いても、埃が出ませんでした。

第二に、彼はののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。23節です。十字架のそば近くにいたペテロは、真に主イエスの苦しみを目撃したものとして、毛を刈られる羊のように、黙って苦難を忍ばれる姿を印象的に覚えていました。兵士たちに拳でたたかれ、むち打たれ、いばらの冠をかぶせられるという痛みと苦しみの中にあっても、その苦しみに黙々と耐えられました。ユダヤ教の裁判では、全く事実無根の罪名を着せられ、祭司たちからあざけられ、あらゆる屈辱を受けました。それでもキリストは黙って、それを静かに受けられました。イザヤ書53章7節にあるように、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、彼は口を開かな」かったのです。それは、すべてを知り、正しくさばかれる神にすべてをゆだね切っていたからです。これこそ、私たちが習うべき模範ではないでしょうか。

第三に、キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。24節です。なぜでしようか。それは、私たちが罪から離れ、義のために生きるためです。そのキリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ペテロはここで「あなたがたは、いやされたのです」と言っています。打ち傷によっていやされたというのは不思議な表現ですが、それはある意味で、キリストの傷は私の傷との交換であったということです。それは心に受けた傷もあるでしょうし、あるいは身体に受けた傷もあるでしょう。もしかすると人生そのものに刻んでしまった傷というのもあるかもしれない。しかし主は、それらの傷のすべてを十字架の上で、私に代わって負ってくださったのです。

ところで、ペテロのそもそもの話は何だったかというと、しもべたちに対して、尊敬の心を込めて主人に従いなさいということでした。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさいということでした。それなのに、いつの間にか、そういう話ではなく、イエス様の十字架の打ち傷によって私たちの罪は赦され、その傷はいやされて、平安をいただいたという話にポイントが移っていることがわかります。いったいなぜポイントがズレてきてるのでしょうか。それは、これこそ最も重要なポイントであるからです。このことがわかれば全ての問題が解決するからです。十字架がわかるということが、私たちの人生におけるすべての不条理なことや苦しみの解決なのです。

私たちの人生ってそんなものですよ。私たちの人生にはいろいろなことがあるわけですが、結局のところ、最後は一番重要なところに行きつくわけです。それが十字架なのです。イエス様の十字架によって罪が赦され、天の御国に召されていくということです。これが本当の平安です。このことがわかったら、私たちの生活のすべての領域において解決が与えられるのです。

私たちは自分の人生の中でいろいろなことを経験します。時に苦々しいことや、悲しいこと、辛いこと、信じられないこと、そうしたすべてのことが神の御手の中で練られながら、最終的にはやっぱりここに行きつくのです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。私たちのすべての傷は、キリストの十字架の贖いでいやされたのです。もうこれ以上、何が必要でしょうか。もう何もいりません。キリストの打ち傷によってすべての傷がいやされたのですから、私たちはキリストの示された模範にならって、不当な苦しみをも、耐え忍ぶことができるのです。

かつてイギリスにヘレン・ローズベリーと女性宣教師がいました。彼女はケンブリッジ大学で外科医になり、アフリカのコンゴ共和国の宣教師になって遣わされました。少し前に亡くなりましたが、この方は、宣教師の中でもヘレン・ローズベリーの右に出る人はいないと言われるほど壮絶な生涯を送られた方です。
 彼女は、病院が少ないコンゴに医療宣教師として遣わされ、そこで小さなクリニックを始め、やがて病院を建てるのですが、コンゴの革命に巻き込まれる中で虐待され、レイプされ、投獄されるのです。彼女はその中でイエス様との体験を深めていくのです。
彼女の証しには、その壮絶な体験が書かれてあります。その壮絶な体験の中で、ヘレン・ローズベリーはイエス様の声を聞くのです。「ヘレン、この壮絶な経験をあなたにゆだねたことで、あなたはわたしに感謝できるか?たとえ、その理由をわたしがあなたに話さないとしても、感謝できるか?」
 その中で彼女は、答えるのです。「主よ。私はどんなことがあってもあなたに感謝します。なぜなら、私はあなたへの信頼を絶対に捨てませんから。」

このとき彼女が体験したのは、より深いキリストとの一体感でした。そうした不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは神に喜ばれることだからです。キリストもそうされました。私たちが召されたのは、実にそのためです。私たちが不当な苦しみを受けながらも、それに耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることであり、キリストとの一体感をより深く体験するという恵みがあるのです。

Ⅲ.牧者のもとに帰る(25)

第三のことは、その結果です。25節をご覧ください。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

これがキリストの十字架の贖いの結果です。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」これもイザヤ書53章6節の言葉のからの引用です。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」

「あなたがたは羊のようにさまよっていた」という言葉は、ある日、道に迷ったというような軽いものではありません。ずっと前から、そして継続的に、神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいたという意味です。私たちは迷える小羊なのです。羊は目の前のことしか見えないので、いつしかどこかに迷い込んでしまうわけです。私たちはその迷える羊なのです。そんな者が、キリストの十字架の贖いによって、キリストが身代わりとなって私たちの罪を負ってくださったので、心おきなく、神のみとに帰ることができました。

ここには、主なる神の姿が二つの言葉で表されています。一つは「たましいの牧者」であり、もう一つは「たましいの監督者」です。たましいの牧者とは、羊飼いが羊をケアするように、私たちの人生そのものをケアしてくださり、正しい道に導き、守ってくださる方であるということです。100匹の羊のうち1匹が失われたとき、羊飼いは山や谷を巡って、見つかるまで捜し続けます。そして見つかったとき、「大喜びでその羊をかついで、こういうのです。「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」(ルカ15:5)「たった1匹でしょ、しょうがない。羊は落ち着きがないからすぐにどこかに行っちゃうのよね。こういうことはよくあるの」なんて言ったりはしないのです。見つかるまで、どこまでも捜しし続けます。

それからもう一つのイメージは、「監督者」です。「監督者」とは、「見張るもの」とか、「見守るもの」という意味です。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)とあるように、主は私たちをしっかり守ってくださいます。キリストの十字架の贖いによって、私たちはこのたましいの牧者であり監督者のもとに帰ることができたのです。

けさ私たちは、このたましいの牧者であり監督者である主のもとに帰りましょう。そこでたましいの安らぎと喜びを味わいたいと思います。私たちのたましいがこの方のもとに帰るとき、私たちは真の安らぎを得ることができるからです。

初代キリスト教最大の神学者と言われたアウグスチヌスは、母モニカの心配をよそに放蕩生活を続けていましたが、「涙の子は決して滅びることはない」という司教アンブロシウスの言葉のとおり、母モニカが召される1年前に、遂に主のもとに立ち返りました。そのたましいの遍歴をアウグスチヌスはその著「告白」の中でこう述べています。
「あなたは人を目覚めさせて、あなたを賛美することを人の喜びとされました。というのもあなたは、私たちをあなたに向かうようにお造りになったからです。私たちの心はあなたの内で安らぎを得るまで揺れ動いています。」

この主の懐に憩いましょう。そして、不当な苦しみを受けることがあっても、それを耐え忍ぶ者でありたいと思います。あなたがたが召されたのは、実にそのためなのです。

ヨシュア記8章

きょうはヨシュア記8章から学びたいと思います。

 Ⅰ.アイの攻略(1-9)

 まず1節から3節までをご覧ください。
「主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」

前回は7章からイスラエルがアイとの戦いに敗れた原因を学びました。それは、イスラエルの子らが、聖絶のもののことで不信の罪を犯したからです。ユダ部族のカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取ったため、主の怒りがイスラエル人に向かって燃え上がったのです。そこでヨシュアは失意の中で主に解決を求めると、その者を一掃するようにと命じられました。そこでヨシュアはその言葉のとおり、それがアカンによる犯行であることが明らかになると、彼とその家族のすべてと、彼の所有するすべてをアコルの谷に連れて行き、それらに石を投げつけ、火で焼き払いました。

あまりにも残酷な結果に、いったいなぜ神はそんなことをされるのかと不思議に思うところでしたが、それは神の残酷さを表していたのではなく罪の恐ろしさとともに、私たちも皆アカンのような罪深い者であるにもかかわらず、神はひとり子イエス・キリストの十字架の死によってその刑罰を取り除いてくださったがゆえに、そうしたすべての罪から赦されている者であり、神にさばかれることは絶対にないという確信を与えるためでありました。それゆえ、神を信じる信仰者にとって最も重要なのは自分には罪がないと言うのではなく、その罪を言い表して、悔い改めるということです。悔い改めこそが信仰生活の生命線なのです。

今回の箇所では、聖絶のものを一掃しイスラエルに対する燃える怒りをやめられた主が、再びヨシュアに語られます。主は、ヨシュアに対してまず「恐れてはならない。おののいてはならない。」と語られました。「戦う民全部を連れてアイに攻め上」らなければなりません。ヨシュアは前回の敗北の経験を通してどれほどのトラウマがあったかわかりません。相当の恐れがあったものと思いますが、恐れてはならないのです。おののいてはなりません。なぜなら、主が彼らとともにおられるからです。彼らの罪は取り除かれ、かつてヨルダン川を渡ったときのように、またエリコの町を攻略したときのように、彼らを勝利に導いてくださるからです。その勝利はここに「見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。」とあるように、もう既に彼らに与えられているのです。ですから、彼らはかつてエリコとその王にしたように、アイとその王にもしなければなりませんでした。しかし、ここにはエリコの時とは三つの点で異なっていることがわかります。第一に、「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」ということ、第二に、「分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。」ということと、そして第三に、「町のうしろに伏兵を置け。」ということです。どういうことでしょうか。

まず「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」ということについてですが、前回の攻略で攻め上ったのは3千人でしたが、今回は「全部の民」です。恐らくイスラエルの軍隊は20万人ほどであったと考えられます。その20万人すべてが戦いに参加するようにというのです。それは神が助けを必要とされるからではなく、すべての神の民が神の戦いに参加するためです。できることはひとりひとり皆違います。できないこともあるでしょう。しかし、神の戦いは全員で戦うものなのです。

先日サッカーのワールドカップアジヤ最終予選で、日本はオーストラリアと戦いました。これに負けると日本は本大会に出場することができません。勝てば本体行きの切符を手にすることが出来るという大一番でした。その大一番で活躍したのは若干21歳の井手口選手と22歳の浅野選手の二人の若い力でした。しかし、この戦いで目立ったのはこの二人だけではなかったのです。他のフィールドに立つ選手も、ベンチにいる選手も、さらには日本中のサポーターたちも一つになりました。みんなで戦った勝利でした。その結果、これまで最終予選では一度も勝ったことがないオーストラリアに勝利して本大会行きを決めることができたのです。

それは、神の戦いも同じです。戦う民全員が出て行かなければなりません。自分ひとりくらいいなくても大丈夫だろうなどというかんが考えを抱いてはならないのです。全員で戦うという覚悟が求められているのです。

次に、「その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい」ということですが、エリコとの戦いにおいては、金、銀、銅、鉄以外のすべてを聖絶しなければなりませんでした(6:18-19)。しかし、アイとの戦いにおいては、その分捕り物と家畜だけは、彼らの戦利品とすることが認められたました。すなわち、普通の聖絶の原則が適用されたのです(申命記2:34-35,3:6-7)。重要なことは、原則の適用が人によって判断されるのではなく、神のみことばによってなされなければならないということです。自分が欲しいから取るのではなく、主が与えてくださるのを待たなければならないのです。主は、ご自分が良いと思われるときに、必要なものをちゃんと与えてくださるからです。

そして町のうしろに伏兵を置くことですが、エリコの戦いのときとは、戦術にかなりの違いが見られます。エリコの戦いでは、伏兵というものを全く用いず、ほとんど戦わずして勝利することができました。彼らは神の指示されたとおり6日間町の周りを回り、そして7日目には7回ひたすら回り、ラッパの音とともに時の声を上げると、エリコの城壁が崩れ落ち、そこに上って行くことができました。しかし、アイとの戦いにおいてはそうではありません。町のうしろに伏兵を置くようにと言われたのです。これはどういうことでしょうか。神は必ずしも超自然的な方法のみによって敵を打ち破られるわけではないということです。むしろ、ご自分の民が正々堂々と戦い、また、ある場合には、策略をも用いることによっても、敵を打ち破られることもあるのです。神はそのとき、そのときに応じて最善に導いてくださるのであり、神が成されることを一定の法則の中に当てはめることはできないのです。よく「前の教会ではこうだったのに・・」という不満を耳にすることがあります。確かにそれまでの経験が生かされる時もありますが、神の働きにおいてはその時、その時みな違うのです。事実、私たちは大田原と那須とさくらで同時に教会の形成を担っていますが、この三つの場所での働きを考えてもそこに集っておられる方々や置かれている状況が違うため、やり方は全く違うことがわかります。ですから、大切なことは主が言われることを行なうことであり、御霊に導かれて進むことなのです。

次に、3節から9節までをご覧ください。
「そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。「聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ。』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。あなたがたの神、主が、それをあなたがたの手に渡される。その町を取ったら、その町に火をかけなければならない。主の言いつけどおりに行なわなければならない。見よ。私はあなたがたに命じた。」こうして、ヨシュアは彼らを派遣した。彼らは待ち伏せの場所へ行き、アイの西方、ベテルとアイの間にとどまった。ヨシュアはその夜、民の中で夜を過ごした。」

ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をしました。そしてその中から勇士たち3万人を選ぶと、主が命じられたとおり、伏兵として夜のうちに彼らを派遣し町のうしろに配置しました。ヨシュアは前回と同じように、アイの町を北のほうから攻めますが、それはおとりです。アイの人々を町からおびき出すのです。アイから人々が出て来たら、ヨシュアたちは彼らの前で、逃げるふりをします。そしてアイの町に戦う人たちがいなくなったところに、伏兵として待機していたイスラエルの勇士たちが入って行って占領するという戦略です。それはヨシュアの考えに基づいてのことではなく、主に命じられた命令に基づいてのことでした。ヨシュアは、主が言いつけられたとおりに行ったのです。

Ⅱ.勝利の投げ槍(10-29)

さて、その結果どうなったでしょうか。まず10節から23節までをご覧ください。
「ヨシュアは翌朝早く民を召集し、イスラエルの長老たちといっしょに、民の先頭に立って、アイに上って行った。彼とともにいた戦う民はみな、上って行って、町の前に近づき、アイの北側に陣を敷いた。彼とアイとの間には、一つの谷があった。彼が約五千人を取り、町の西側、ベテルとアイの間に伏兵として配置してから、民は町の北に全陣営を置き、後陣を町の西に置いた。ヨシュアは、その夜、谷の中で夜を過ごした。アイの王が気づくとすぐ、町の人々は、急いで、朝早くイスラエルを迎えて戦うために、出て来た。王とその民全部はアラバの前の定められた所に出て来た。しかし王は、町のうしろに、伏兵がいることを知らなかった。ヨシュアと全イスラエルは、彼らに打たれて、荒野への道を逃げた。アイにいた民はみな、彼らのあとを追えと叫び、ヨシュアのあとを追って、町からおびき出された。イスラエルのあとを追って出なかった者は、アイとベテルにひとりもないまでになった。彼らは町を明け放しのまま捨てておいて、イスラエルのあとを追った。
そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。伏兵はすぐにその場所から立ち上がり、彼の手が伸びたとき、すぐに走って町にはいり、それを攻め取り、急いで町に火をつけた。アイの人々がうしろを振り返ったとき、彼らは気づいた。見よ、町の煙が天に立ち上っていた。彼らには、こちらへも、あちらへも逃げる手だてがなかった。荒野へ逃げていた民は、追って来た者たちのほうに向き直った。ヨシュアと全イスラエルは、伏兵が町を攻め取り、町の煙が立ち上るのを見て、引き返して来て、アイの者どもを打った。ある者は町から出て来て、彼らに立ち向かったが、両方の側から、イスラエルのはさみ打ちに会った。彼らはこの者どもを打ち、生き残った者も、のがれた者も、ひとりもいないまでにした。しかし、アイの王は生けどりにして、ヨシュアのもとに連れて来た。」

ヨシュアは先の3万人に加えて5千人を伏兵として町の西側に回らせました。そして民を町の北側に置くと、ヨシュアは,その夜、谷の中で夜を過ごしました。アイの王が気付くと、翌朝早く急いで、イスラエルを迎えて戦うために、出てきました。ヨシュアと全イスラエルが打たれたふりをして、荒野への道に逃げたとき、アイの民はみな、彼らのあとを追って出て来ると、ヨシュアの合図とともに伏兵が走って町に入り、それを攻め取り、急いで町に火をつけたのです。荒野に逃げていた民も、追って来た者たちのほうに向き直ると、ちょうどアイの民をはさみ打ちにするような形となり、アイの者たちを打ちました。イスラエルはアイの民を打つと、生き残った者も、のがれた者も、ひとりもいないまでにしました。しかし、アイの王は生けどりにして、ヨシュアのもとに連れてきました。イスラエルは、主が言われるとおりにしたことで、完全な勝利を収めることができたのです。

ところで18節には、アイがイスラエルの戦略にはまり、町を明けっ放しのままにしてイスラエルのあとを追ったとき、主はヨシュアに「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し出せ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」と言われました。いったいこの「投げ槍」とは何だったのでしょうか。その手が伸びたとき、陰に隠れていた伏兵が立ち上がり、町に入り、それを攻め取り、急いで町に火をつけました。それはかつてイスラエルがアマレクと戦ったとき、モーセが神の杖を手に持って、戦いの間中手を上げていた姿を思い起こさせます(出17:8-16)。ヨシュアはそれを記録するようにと命じられましたが、ここでは投げ槍が差し伸ばされたことが勝利の合図となり、敵を聖絶する力となりました。まさにそれは祈りの手だったのです。ヨシュアは主に命じられたとおりに投げ槍をアイの方に差し伸ばし、主が戦ってくださるのを祈ったのです。

これは私たちにも求められていることです。祈りの手を差し伸ばさなければなりません。それを止めてはならないのです。主がよしと言われるまで差し伸ばし、主が働いてくださることを待ち望まなければならないのです。

そして24節から29節までをご覧ください。
「イスラエルが、彼らを追って来たアイの住民をことごとく荒野の戦場で殺し、剣の刃で彼らをひとりも残さず倒して後、イスラエルの全員はアイに引き返し、その町を剣の刃で打った。その日、打ち倒された男や女は合わせて一万二千人で、アイのすべての人々であった。ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。ただし、イスラエルは、その町の家畜と分捕り物を、主がヨシュアに命じたことばのとおり、自分たちの戦利品として取った。こうして、ヨシュアはアイを焼いて、永久に荒れ果てた丘とした。今日もそのままである。ヨシュアはアイの王を、夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から降ろし、町の門の入口に投げ、その上に大きな、石くれの山を積み上げさせた。今日もそのままである。」

こうしてアイの軍隊を打ち破ると、イスラエルはアイの町に入って住民を皆殺しにしました。女子供を含めた全住民を殺すことはヒューマニズムに反するようであるが、聖絶するためという明白な理由のためにそのようにしたのです。聖絶とは何ですか?聖絶とは、神のものを神のものとして分離することです。そうでないものを徹底的に取り除くのです。イスラエルにとってこれは聖戦だったのです。彼らがその地に入って行っても、神の民として、神の聖さを失うことがないように、主はそうでないものを聖絶するようにと命じられたのです。

それは、神の民である私たちも同じです。私たちは常に肉との戦いがあります。そうした戦いの中で、それと分離しなければなりません。(Ⅱコリント6:14~18)それによって主は私たちの中に住み、共に歩んでくださるからです。それなのに、私たちはどれほどそのことを真剣に求めているでしょうか。この世と妥協していることが多くあります。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(Ⅰペテロ2:15)と書かれてあるように、あらゆる行いにおいて聖なるものとされることを求めていきたいと思います。

Ⅲ.エバル山の祭壇(30-35)

終わりに30節から35節までを見ていきたいと思います。
「それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。」

それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築きました。ヨルダン川を渡ることも、エリコとアイの攻略も、信仰生活の一部であり、祭儀の執行であったにもかかわらず、また、ギルガルでは40年ぶりに割礼を施し、過越しのいけにえをささげました(5:2-12)。それにもかかわらず、なぜアイの攻略後に再び祭壇を築いたのでしょうか。

「エバル山」は「はだか山」という意味で、アイの北方50キロにある山です。標高は940メートル、谷からは367メートルもそびえている山です。アイからそこへ向かうには最低でも2日はかかります。それゆえ、戦いを終えたばかりのヨシュアがこのような遠路を旅することができるはずがなく、これは後代の挿入ではないかと主張する人たちもいるのです。

しかし、それは申命記27章で、モーセによって命じられていたことでした。すなわち、イスラエルがヨルダン川を渡ったならば、エバル山に主のための祭壇、石の祭壇を築き、そこで全焼のいけにえと和解のいけにえをささげなさい、ということです。ヨシュアはそのとおりに行ったのです。それにしても、なぜこの時だったのでしょうか。エリコ及びアイとの戦い、アカンの事件を経験し、これからさらに多くの敵と戦わなければならないイスラエルにとって、エバル山での祝福と呪いの律法の確認は、まことにふさわしいものであったからです。

石の上に律法が写されると、イスラエルの民はゲリジム山とエバル山の二つに分かれて立ち、律法の書に記されているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばをことごとく読み上げました。ヨシュアはモーセが命じたとおりにし、読み上げられなかったことばは一つもありませんでした。それは、イスラエルの中心は神のことばであり、その神のことばによってこそ彼らは強くなり、勝利することができるからです。それは、私たちも同じです。私たちも神のみことばによって強められ、神のことばに徹底的に従い、信仰によって神の約束を自分のものにしていく者でありたいと思います。

Ⅰペテロ2章13~17節 「人の立てたすべての制度に従いなさい」

 きょうは、「人の立てたすべての制度に従いなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。聖書の中には、「これはいい言葉だ」と、赤い線を引いたり、一生懸命暗唱して覚えたりしようする言葉があれば、なんでこんな言葉があるのだろうと、戸惑いを覚える言葉もあります。きょう、私たちに与えられている聖書の言葉も、そのような戸惑いを覚える言葉の一つかもしれません。それは、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」という言葉です。主に従いなさい、というのならわかりますが、ここには、人の立てたすべての制度に従いなさい、と命じられています。それがどのようなものなのかというと、13節と14節には「主権者である王であっても」、また、「悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても」と言っています。また、18節には、しもべたちに対して、主人に従いなさい、とあります。この「しもべたち」とは、家の中で働く奴隷たちのことです。そのしもべたちに対して、尊敬の心を込めて主人に服従しなさい、というのです。善良で優しい主人だけではなく、横暴な主人に対しても従いなさい、と言うのです。さらに3章には、妻たちに対して、「自分の夫に従いなさい」と続きます。ペテロは、政治や奴隷制度、そして結婚制度に至るすべてにおいて、「主のゆえに従いなさい」と命じているのです。

この聖書の箇所は、教会の歴史の中で、様々な問題を起こしてきた箇所でもあります。ある人々は、この聖句を読んで、「聖書にこう書いてあるのだから、あなたがたは、この制度に従わなければならない」と国家権力に従うことを強要したり、侵略戦争を正当化する根拠にまでしました。事実、日本の教会は、第二次世界大戦の時に軍事政権に飲み込まれていったという苦い歴史があります。

逆にある人々は、「人の立てた制度に従いなさい」とか、「上に立つ権威に従うべきです」ということを聞くだけで拒絶反応を起こす人もいます。君主制度や奴隷制度、あるいは封建的な結婚制度において人に従うなんてとんでもない、というのです。ペテロがここで語っているのは、その時代だけの特殊な状況の中での勧めであって、今の私には関係がないし、適用することはできない、というのです。

しかし、果たしてそのような読み方が、正しい聖書の読み方なのでしょうか。人の立てたすべての制度に従うとはどういうことなのでしょうか。きょうはこのことについてご一緒に考えていきたいと思います。

Ⅰ.人の立てたすべての制度に従いなさい(13-14)

まず13節と14節をご覧ください。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」

ペテロは12節で、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と勧めました。ここからそれが具体的な勧められていくわけですが、その一つが「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」ということです。それがローマ皇帝のような主権者であっても、あるいは、王から遣わされた総督であっても、です。

ペテロは、当時のクリスチャンたちが、どういう状況のもとに置かれていたかを良く知っていたはずです。ローマ皇帝は、その支配力を強めるために、支配しているすべての民に対して、自分を神として礼拝することを命じました。それは唯一の神だけを礼拝するクリスチャンにはできないことです。そのためクリスチャンは激しく迫害されることにもなったのです。事実、この手紙の受取人たちは、そのローマ皇帝の迫害によって散らされていた人たちです。そのような人たちに対して、たとえそのような支配者であっても「人の立てたすべて制度に従いなさい」と言っているのです。

確かに、私たちはイエス・キリストを信じたことで神の民とされました。この世のものではなく、神のもの、天に市民権を持つものとされました。しかし、それはこの世の制度に従わなくてもいいということではありません。この世に生きている者として、この世の制度にも従わなければならないのです。「人の立てたすべての制度に」従わなければならないのです。それが異邦人の中にあって、りっぱにふるまうということなのです。

それはイエス様の教えでもありました。マタイの福音書22章21節をお開きください。ここには、「イエスは言われた。『それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』」とあります。
これは、パリサイ人たちがイエス様をことばのわなにかけようとして、税金をカイザルに納めることは律法にかなっていることなのか、そうでないのか、という質問に対してイエス様がお答えになられたことです。イエス様はデナリ硬貨を手に取り、そこにカイザルの肖像が描かれているのを見せて、カイザルのものはカイザルに、そして神のものは神に返すようにと言われました。すなわち、たとえローマという異教社会であっても、その制度に従うことは神の御心であり、その責任を果たすことは正しいことであると言われたのです。

ローマ人への手紙13章1節、2節には、そのことがもっと強く勧められています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」
ここには、人の立てたすべての制度は神によって立てられたものであると言われています。それゆえ、その権威に従わないとしたらそれは神の定めに背いていることになるというのです。そして、そういう人は自分の身にさばきを招くことになると言われているのです。たとえそれが異邦人の社会であっても、人はみな、上に立つ権威に従うべきなのです。

それゆえにパウロは、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、感謝がささげられるようにしなさい。」(Ⅰテモテ2:1)と勧めているのです。なぜなら、そのことによって私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすようになるからです。神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。

それにしても、いったいなぜ人の立てた制度に従わなければなせないのでしょうか。ここにその一つの理由が記されてあります。それは、「主のゆえに」です。この主のゆえにという言葉は、その制度に従う根拠とか、理由ととることができます。どうして人の立てた制度に従わなければならないのでしょうか。それは、主のゆえであるということです。それは、敵をも愛されたキリストの愛のゆえに、なのです。それゆえに従うのです。

新共同訳聖書ではこれを「主のために」と訳されています。「主のために」と訳しますと、どちらかいえば、その目的となります。すなわち、私たちが、「人の立てたすべての制度に従う」のは、私たちを愛してくださった主のため、主の栄光のためであるということです。

いずれにせよ、私たちは自分たちを迫害する者を愛することなどできません。それは当然のことなのです。ですから、ペテロは人の立てたすべての制度に一生懸命頑張って従うようにしなさいとか、従える時には従いなさいと言っているのではなく、「主のゆえに」、「主のために」従いなさいと言っているのです。それが主のみこころだからです。それは人間の思いや力ではできないことですが、神にはどんなことでもできます。その神が敵をも愛されたキリストの愛のゆえに、また、キリストの栄光のために、どんな制度であっても、それが神のみこころに反しないものである限り、すべての制度に従うことが求められているのであり、そのことによって、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすことができるのです。

このように、私たちは異教社会の中で、神が無視されているような社会の中にあっても、人の立てた制度に従うということが求められているのです。もし異教徒が立てた制度だから従わないということがあるとしたら、それはりっぱなふるまいとは言えず、神の御心ではありません。私たちは天に国籍を持つ者ですが、同時にこの世に遣わされている者として、人の立てたすべての制度に従わなければならないのです。

Ⅱ.善を行って愚かな人々の無知の口を封じる(15)

いったいなぜクリスチャンは人の立てたすべての制度に従わなければならないのでしょうか。ペテロはここで別の理由をあげてそのことを勧めています。15節をご覧ください。それは、「というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」これはどういうことでしょうか。ここで言われている「善」とか、「愚かな人々」とはだれのことを指しているのでしょうか。

この文脈では、「善」とは人の立てた制度に従うことであり、「愚かな人々」とは、12節のクリスチャンたちを悪人呼ばわりしている人たちのことでしょう。つまり、そのようにクリスチャンがこの世の制度に従うことによって、クリスチャンたちに対して誤解と偏見を持ち彼らを悪人呼ばわりしている人たちでさえ、口が封じられる、すなわち、神のものとされるようになるというのです。

それは3章1節の、「みことばに従わない夫」も同じです。彼らはあなたがクリスチャンだということで悪人呼ばわりまではしないかもしれませんが、あまり快く思っていないかもしれません。しかし、たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるのです。あなたが黙って夫に従う態度を見て、神に従うということがどれほどすばらしいことであるかを、はっきりと知るようになるのです。「従えばいいんでしょ、従えば・・」というのは、ここで言われていることではありません。神に従うことは自分の夫に従うことであると受け止め、心から夫に従うのです。そうした妻の無言のふるまいによって、神をも恐れない横暴な夫であっでも、やがて神のものとされるようになるのです。

事実、初代教会のクリスチャンたちがこうした使徒たちの教えに従って、ローマ皇帝が定めた制度に従った結果、どのようなことになったでしょうか。彼らはローマの神々には仕えなかったし、皇帝を主と呼ぶこともしませんでした。また、不道徳とされるものにも参加しなかったので、激しい迫害を受けることになりました。これまで住んでいた所から追い出され、小アジヤの地方に散らされて寄留することを余儀なくされました。けれども、自分たちの信教の自由を守るべく、反ローマの政治活動に参加したりはせず、主の愛をもって従ったのです。そうした異教社会の中にあっても人の立てた制度に従い、異邦人の中にあって、忍耐をもってりっぱにふるまいました。その結果、ついにはローマ皇帝コンスタンチヌスがキリスト教に回心するまでの影響力を持つことができたのです。それは紀元312年のことです。つまり、主権者に対して服従したことによって、かえって主権者をキリストの主権の中にいれる支配力を持つことができたのです。

先週礼拝後にAさんの誕生日をお祝いました。その席で私が「Aさんはどのようにクリスチャンになられたのですか。」と尋ねると、彼女は「姉が先にクリスチャンになったので、その姉について教会に行くうちにクリスチャンになりました。でもつい最近までは母について来ているような感じでした。」と言われたので、「そうでしたか、ところで、お母さんはかつてキリスト教には大反対だったと聞いていましたが、その時どんなお気持ちだったんですか」とお聞きすると、同席しておられたお母さんがこう言われました。
「そうなんです、私は当時佛所護念を熱心に信じていたので、何とかやめさせようと必死でした。特に娘が結婚するときTさんもキリスト教を信じると言うものですから、何とか止めさせようと思ってTさんの家へ行きお願いしたのです。するとTさんのおじいちゃんは、かつて内村鑑三の教えに感動しキリスト教に入信しようと思うも家が農家だということであきらめなければならなかったので、その自分が果たせなかったことを孫がするということはこれほどいいことはないと、逆に丸め込まれてしまったんです。それなら私も行ってみなくちゃいけないと、教会に行くようになったのですが、本当に良かったです。」と言われました。
あれほど反対していたお母さんが逆に信仰に導かれたばかりでなく、今では毎朝3時半には起きてスクワットをし、その後欠かさず1時間はデボーションをせずにはいられないほどイエス様にとらえられるようになったのは、まさに神様の御業というよりほかにありまん。

善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころなのです。異邦人の中にあっても、りっぱにふるまうなら、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになるのです。

Ⅲ.自由人として行動しなさい(16-17)

第三のことは、自由人として行動しなさい、ということです。16節と17節をご覧ください。「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」

ここまで、「人の立てたすべての制度に従いなさい」ということをお話してきましたが、ここで一つの疑問が残ります。それは、この世の制度や秩序がいつも正しいとは限らないということです。人の上に立つ権威がもし神のみこころに反することを強いたとしたら、または、悪を行なうような場合にはどうしたらいいのでしょうか。そのことに光を与えてくれる御言葉が、この「自由人として行動しなさい」(16)という御言葉です。

たとえば、ローマ皇帝は自分を「人の姿をとった神」と主張し、自分を礼拝するようにと強要しました。しかし、クリスチャンはそのような力に屈しないのです。クリスチャンは、そのようなものからは解放されて自由なのです。たとえ絶頂を極めたローマ帝国であっても、やがてはしおれていく草にすぎません。私たちは、主なる神によって本質的に自由な存在として創造されているのです。

しかし、ふつう自由に生きなさいというとき、多くの場合それを自分の好き勝手にすることだと解釈したり、自分中心に生きることだと思いがちです。そこでペテロは、16節後半で次のように釘を刺すのです。「その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」原文では「行動しなさい」という言葉はなく、ただ「自由人として、神の奴隷として」とあるだけです。自由人として、神の奴隷として、というのはどういうことなのか、そのことばがどこにつながるのかについてはいろいろな解釈があります。その中で最も多いのは、自由人として、神の奴隷として、13節の、従いなさい、につなげるというものです。つまり、キリスト者が人の立てた制度に従うというのは自由人として、神の奴隷として従うということなのです。

では、自由人として、神の奴隷として従うとはどういうことでしょうか。クリスチャンは、すべての人に対して自由であり、キリストの福音によって罪から解放された者です。そういう意味では本当の自由をいただいている者なのです。しかし同時に、キリストに贖われた者であり、キリストに属する者として、神の奴隷、神の僕です。そのような者として行動するようにということです。

宗教改革者マルチン・ルターは、これをこのように表現しました。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であり、すべてのものに奉仕する僕である」
キリスト者の自由は、神さまからの賜物であり、神と隣人に仕えるという服従の生活において全うされるのです。ですから、ペテロは信者と国家の問題を、単にそれだけ切り離して考えるようなことをせず、神さまとの関係において考えているのです。そして、この個所のまとめとしてこういうのです。「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」(17節)

神様が私たちクリスチャンに願っておられることは、この世のすべての人を心から敬うというりっぱな態度です。皇帝や国の指導者たちは、その一例として引き合いに出されているに過ぎません。「すべての人を敬う」のです。ですから、神さまを信じている人はもちろんのことですが、神さまを信じていない人も、自分の好きな人もそうでない人も、すべての人を敬うのです。教会の仲間だけを愛し、この世の人々を軽蔑するようなことがあってはなりません。信仰を同じくする兄弟姉妹が互いに愛し合うのはもちろんですが、神さまの愛は、神さまに造られたすべての人へと広げられているのです。私たちの信仰を理解しようとしない人々や、国の指導者たちにまで広げられているのです。

それは、私たちがキリストの十字架によって自由にされたからです。「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)もう私たちを縛るものは何もありません。私たちはただ神の愛にとらえられているのです。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスの愛から、私たちを引き離すことはできません。そして、王であろうが、主人であろうが、夫であろうが、すべてのものがみな神さまの愛の中にあるのです。主イエスは、敵をも愛してくださいました。その主イエスの愛が、私を愛してくださり、また、同じように、人々を愛していてくださることを認めているので、その愛のゆえに、私たちは神のしもべとして、「人の立てたすべての制度に従う」のです。

しかし、その制度が神さまの領域にまで踏み込んできた時、私たちは、神の自由を与えられた者として、ペテロのように「人に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く宣言しなければなりません。これこそがキリスト者としての「りっぱなふるまい」なのです。

かつて日本を代表するクリスチャンの一人に矢内原忠雄という人がいました。彼は1937年、昭和12年、当時、東大の教授でしたが、その座を退くために大学に辞表を提出しました。
提出した前の年の2月26日に、いわゆる二・二六事件が起こるんですね。政府を軍部が指導し、日本の中国侵略はますます激しさを増して行きます。彼は、東大で植民地政策を教える専門家でしたが、熱心なクリスチャンであったため、この頃から平和のために戦うべきだと強く意識するようになるのです。そして、1937年の夏に、山陰、山陽、四国へと、自分の信仰の友を伴って、講演旅行に出かけるのです。それは、当時の軍国主義の中で決死の大伝道旅行でした。20日間をかけて、毎日、各地で福音を語り、平和を祈り、戦争を批判します。そして夏が終わった9月、中央公論に「国家の理想」と出した論文を発表するのです。
 「国家が目標とすべき理想は正義である。それは聖書の語る『義』『公義』である。正義とは、弱い者の権利を強い者の侵害から守ることだ。そして、国家が正義に反した時は、国民の中からそれに対する批判がなされなければならない。しかし今の日本は、概して誰一人それを批判する者がいない。」
この論文が、東大の経済学部の教授会で問題にされます。当時すでに、軍部、警察、司法、文部省は、全部連携を取っていました。そして、国と大学を挙げて、矢内原追放運動が展開されるのです。そのような中で彼は辞表を提出するのです。辞表を出した時の彼のことばは、こうでした。  
「私は広い野に出ました。たといそこが荒野であっても、吹く風は実に自由です。」
 たといそこが荒野であっても、吹く風は自由です。それは彼が周りのプレッシャーをはねのけてでも、自分のゆくべき道を見定め、信仰の良心の自由を守り通したがゆえに、心の中に与えられた自由でした。その自由は、たといそれが荒野であっても、神を信じてそれを成したのであれば、神さまは必ず守ってくださるという自由です。

自由というのは時に、勇気と犠牲を払います。戦後彼は東大の総長として返り咲きますが、中には、同じようなことをしていのちを落とす人も出ました。でもどんなにいのちを落としたとしても、生きて幸せになる以上に、自分の信仰の良心を貫くことの方が尊いと、多くの人は考え、それらの人の流された血によって、私たちは今自由を獲得しているのです。

獲得した自由をもし守るとしたら、やがて私たちも勇気と犠牲を払うべき時が来るかもしれない。そんなに大きなことは考えなくていいのかもしれない。でも覚えておきたいことは、小さな人間関係でも、学校の問題でも、会社の問題でも、周囲のプレッシャーをはねのけて、神の御心を生きるために、胸を張って主張し、それがゆえに追い出されるようなことがあったとしたら、この矢内原忠雄のことばを覚えておくべきだということです。「私は広い野に出ました。たといそこが荒野であっても、吹く風は実に自由です。」
 ある方が今月末に腎臓の摘出手術をすることになりました。ところが、最近の検査で脳に3ミリ程度の腫瘍が見つかりました。担当医の話では、腎臓の手術の前に脳の腫瘍の摘出をしなければならないが、腫瘍の大きさが3ミリということで、手術して摘出した方がいいかどうかギリギリのところにあるということです。「それは大変ですね」と言うと、その方がこう言われました。「ええ、でもそれほど悲観していないんです。すべてを主にゆだねていますから。」

これがキリスト者の自由です。たとえ問題があってもその問題に縛られるのではなく、その問題のすべてを主にゆだねることができるのです。あなたを縛っているものは何でしょうか?将来に対する不安でしょうか?人に対する憤りでしょうか?健康に対する不安ですか?様々なものに縛られながらも、すべてを主にゆだねて自由に生きていく者でありたいと思うのです。そして、その置かれた所で人の立てたすべての制度に従うことを通して、クリスチャンとしてりっぱにふるまう者でありたいと思います。

ヨシュア記7章

きょうはヨシュア記7章から学びたいと思います。

 Ⅰ.アカンの罪(1-9)

 まず1節から5節までをご覧ください。
「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。」

イスラエルは神の不思議な方法によってエリコで勝利を収めると、さらに西へと向かい、次の攻撃目標であるアイへと進みました。アイは、エリコから15キロぐらい離れたところにあり、さらに7~8キロぐらい西に進むとベテルがあります。それはエリコよりも千メートルほど高いところにあり、そこへ行くには上り道でありました。しかし、そこは難攻不落と言われていたエリコに比べ以前から廃墟となっているような町で、難なく攻略できるかのように思われました。実際、事前にヨシュアによって派遣された偵察隊によると、その地にいるのはわずかなので、民全部を行かせる必要はないと判断したほどです。当時アイの人口は一万二千人、戦闘可能な兵士は約三千人でした。そのような町であれば難なく攻略できるだろうと思い、民のうち、およそ三千人が上って行きましたが、思いがけない攻勢を受けて敗退する結果となりました。イスラエルは、36人の戦死者を出し、敗北感に打ちのめされ、水のようになってしまいました。いったい何が問題だったのでしょうか。6節から9節までをご覧ください。

「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」

ヨシュアは着物を引き裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶりました。そして、いったいどうしてこのようなことになってしまったのかと、嘆きました。ヨシュアの信仰はどこへ行ってしまったのでしょうか。ヨルダン川渡河を導き、エリコの攻略を成功させた指導者のことばとは思えないことばです。けれども、これが人間の現実ではないでしょうか。神の前に正しい人であったヨブも、試練の中で、信仰の弱さを露呈しました。それは私たちも同じです。どんなに奇しい主の御業を体験しても、ちょっとでも嫌なこと、苦しいこと、辛いことがあると、次の瞬間にはもうだめだと思ってしまいます。ヨルダン川の向こう側にいた方が良かった、というようなことを言って不信仰に陥ってしまうのです。ただヨシュアはそれだけで終わらないで、そのような悲しみの中にあっても、その敗北の原因は何だったのかを主に尋ねます。敗北を味わうことは人生の中で多々あることでしょう。しかし大切なのは、そこで失敗の原因をつきとめ、除去するように努めることです。

Ⅱ.身をきよめなさい(10-15)

主は、へりくだって祈るヨシュアに、その敗北の原因が明かされました。10節から15節までをご覧ください。
「主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。「イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。あしたの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。主がくじで取り分ける部族は、氏族ごとに進みいで、主が取り分ける氏族は、家族ごとに進みいで、主が取り分ける家族は、男ひとりひとり進み出なければならない。その聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければならない。彼が主の契約を破り、イスラエルの中で恥辱になることをしたからである。」

いったいイスラエルはなぜ戦いに敗れたのでしょうか、心のゆるみですか。戦術の不備ですか。いいえ、もっと本質的な原因がありました。それはアカンという人物が神のものを盗んだことです。アカンは神の命令に背き、聖絶のものの中から取り、それを自分たちのものの中に入れたのです。エリコは、カナン攻略の最初の町として、全く神のものとしてささげられた町であり、神だけのものでした。アカンは、その神のものを盗み、自分のものにしたのです。ですから、1節が鍵となります。

「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。」

これは7章全体の鍵になる御言葉です。イスラエルに起こった出来事が語られる前に、1節で問題点がすでに指摘されているのです。大勝利の陰に、次の敗北の芽が生えていたということです。聖絶すべきものをアカンが隠し持ったので、イスラエル全体が聖絶の危険に陥ったのです。ここではアカンの罪がアカン一人の罪ではなく、イスラエル全体の責任として問われています。イスラエルは神のいのちで結ばれた有機体であることを考えると、それはアカン一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題なのです。それは伝染病を囲い込んだ群れと同じなのです。

いったいどうしたらいいのでしょうか。13節で、主はその解決策を語られます。「立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。「イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。」

その解決のために主がイスラエルに求められたことは、民をきよめるということでした。彼らのうちから聖絶のものを除き去るということです。それまで主は彼らとともにはおらず、敵の前に立つことはできない、と言われたのです。

主は人の目に隠れた小さな罪でも見逃すことはなさいません。私たちに罪があるなら、主がともに働かれるということはないのです。イザヤ書59章1-2節に、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのでもないのです。私たちの咎が、私たちと神との間の仕切りとなり、私たちの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。もしかしたら。私たちに起きている問題の原因はどこか別のところにあるのではなく、私たち自身にあるのかもしれません。失敗のきっかけになった原因を「あの人」「あの事」にばかりに目を奪われずに、もう少し深いところを見つめなければなりません。その根本的な問題が、神との関係にあるのかもしれないのです。その神との関係のために、罪が取り除かれなければならないのです。

そして、主が示された方法は、彼らが部族ごとに進み出て、その中から主がくじで取り分ける部族、氏族、家族は、男ひとりひとり進み出なければならないというものでした。そして、聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければならないというものでした。

アカンを特定する方法について、くじによって違反者を見出すというのは、冤罪を生み出す懸念もありますが、これは神がこの問題に限って定めた方法であり、アカンの自白によって、適切な方法であったと見るべきでしょう。

Ⅲ.悪を取り除く(16-26)

16節から26節までをご覧ください。まず21節までをお読みします。
「そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。ユダの氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取られた。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取られた。ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、ユダの部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが取られた。そこで、ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」

そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させると、ユダの部族がくじで取り分けられ、さらにユダの氏族ごとに進み出させると、ゼラフ人の氏族がとりわけられ、ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取り分けられ、ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、アカンが取り分けられました。原因はこのアカンでした。そのアカンに対して、ヨシュアは「わが子よ」と言って、優しく語りかけています。わが子よ、あなたが何をしたのかを私に告げなさい・・と。するとアカンは、自分が聖絶のものを盗んだことを告白します。するとヨシュアは使いを遣わして、アカンが言ったことが本当であることを確かめると、アカンと彼の息子、娘、家畜、それに彼の所有物のすべてをアコルの谷に連れて行き、彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけました。そこで、主はイスラエルに対する燃える怒りをやめられたのです。

この大変な罪のためにアカンとその全家族が滅ぼされました。(25,26)それにしても、あまりにも残酷ではないでしょうか。アカンだけならまだしも、ここではその家族全員も打ち殺されています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

それは、神は罪を赦すお方でありますが、罪を見過ごしたり、大目に見たりする方ではない、ということです。必ずけじめをつけられます。これは神の無慈悲を表しているのではなく、罪の悲惨さを表しているのです。そして、その罪のもたらす影響がどれほど大きいものであるのかを示しているのです。パウロはこのことについてコリント人への手紙の中でこう述べています。コリント人への手紙第一5章6-7節です。
「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。」
ここには古いパン種を取り除くように、と言われています。この古いパン種とは、神の目にかなわない罪、咎のことです。なぜなら、そのようなものがあると、それが粉全体をふくらませることになるからです。つまり、全体に影響を及ぼしてしまうことになります。だから、古いパン種を取り除かなければならないのです。それは粉全体、教会全体を守るためです。それはちょうど体を蝕む癌のようなものです。それを取り除かなければ体全体に転移し、やがては死に至ることになってしまいます。そのための最善の処置は、癌細胞のすべてを取り除くことです。それと同じように、教会の中に悪があれば、その細胞のすべて取り除かなければなりません。それはひどい話ではなく、そうしなければ全体も滅んでしまうになるのです。それゆえ、私たちは私たちの内にある罪を処理しなければならなりません。

しかし、今日において、私たちがアカンのように神に滅ぼし尽くされることはありません。なぜなら、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架で滅ぼされたからです。私たちの罪は既に赦されているのです。主は、ご自身の御子イエス・キリストの贖いによって、私たちに対する燃える怒りをやめられたのです。(26節)。ヨハネ第一の手紙1章6~9節を開いてください。
「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

ですから、この箇所を人々の心の中に隠されている罪の糾弾と、それに対する神の裁きとしてだけ語られてはなりません。私たちはみな神の前に罪人であり、神のさばきを受けなければならない者ですが、そのような者も赦してくださる神の恵み、あわれみが語られなければならないのです。
私たちに求められているのは、悔い改めであり、主の赦しのもとに新しい一歩を踏み出すことなのです。

Ⅰペテロ2章11~12節 「異邦人の中でりっぱにふるまう」

 きょうは、「異邦人の中でりっぱにふるまう」というタイトルでお話したいと思います。この手紙はペテロから迫害によってポント、ガラテヤ、カパドニヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していたクリスチャンたちに書き送られた手紙です。ペテロは迫害で散らされた先々で肩身の狭いような生活を余儀なくされていた彼らを励ますためにこの手紙を書きました。どのようにして励ましたのかというと、彼らにもたらされた恵みがどれほど栄光に富んだものであるかを思い起こさせることによってです。そこでペテロは前の箇所で、彼らは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民であると言いました。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。その事実に基づいてそのような身分を受けた彼らが、その置かれた状況の中でどのように生きるべきかを、具体的に勧めるのです。それは、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまう」ということです。たとえクリスチャンが少ない異邦人ばかりの社会の中にあっても、立派に生活するようにと勧めるのです。りっぱにふるまうとはどういうことでしょうか。なぜそのように生きることが必要なのでしょうか。

Ⅰ.たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい(11)

まず11節をご覧ください。ペテロはここで、「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」と言っています。

ペテロはまず異教社会に住むクリスチャンが、その中でりっぱにふるまうために、消極的な面から勧めています。それは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけるということです。

肉の欲を遠ざけるとは、禁欲主義でありなさい、ということではありません。私たちが生来持っている食欲や睡眠欲といった基本的な欲求をはじめ、楽をしたいとか、快楽を味わいたい、認められたいといった欲を禁じているわけではないのです。そうではなく、そうした欲に支配されることがないようにということなのです。この世にどっぷりと浸かり、欲に支配されると、それがたましいに戦いを挑むことがあるからです。

創世記にロトという人物が出てきます。ロトはアブラハムのおいで、アブラハムと共に、故郷を出て神様の示す地へ行きました。ところが、このアブラハムの家族とロトの家族との間に争いが起こります。彼らが持っていた持ち物が多すぎたので、いっしょに住むことができなかったのです。そこで、アブラハムがロトに言いました。
「どうか私とあなたとの間に、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるのだから、私から分かれてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(創世記13:8-9)
そこで、ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見回すと、そこは主の園のように潤っていたので、ロトはその地を選び取って、そこに天幕を張ることにしました。しかし、そこはソドムとゴモラという悪に満ちた町のそばにあって、とても危険に満ちたところでした。けれどもロトはそんなことはおかまいなしに、さっさと移動して行きました。

その後、ロトとその家族について、聖書にはしばらく何も語られていません。次にロトについて記されてあるのは創世記19章ですが、そこには、なんとロトの家族がソドムの町のど真ん中に住んでいるのです。二人の娘は、ソドムの男性と結婚していました。それはまさに、神様がソドムの町を滅ぼされる直前のことでした。最初はソドムとゴモラの近くに住んでも大丈夫だろうと思っているうちに、いつの間にか、その真ん中に住んでいるということがあるのです。

20世紀のイギリスに、キリスト教を世俗から守った第一人者にC・S・ルイスという人がいます。彼は映画「ナルニア国物語」の著者でもありますので、キリスト教を知らない人でも、彼の名前は知っていると思います。C・S・ルイスは、オックスフォード大学で中世の文学を教えていましたが、徹底した無神論者でした。その彼がキリスト教に回心して、キリスト教を現在の様々な出来事から守る第一人者となりました。ものすごく多くの本を書いていますが、その中に、「悪魔からの手紙」というのがあります。「悪魔からの手紙」というのは、悪魔の親分が悪魔の子分に、どのように仕事をしたら良いかをいろいろ指導している内容が記されてあります。その一節を、そのまま読んでみたいと思います。
 「どだい物質主義が真理かどうかなどと人間に考えさせてはいけない。ただ、「物質主義は、力強くて、ハッキリしていて、これからの世を背負う生き方」とでも考えさせておきなさい。
覚えておくがよい、人間とは我々みたいに完全に霊的な存在ではないのだ。人間は眠くもなり、腹も空く。人間は洋服も着、様々なアクセサリーを身に付ける。おそらくおまえには想像もつかないだろうが、奴らはいつも日常の出来事に奴隷のように振り回されている。それが人間だぞ。それを十分に利用しなさい。おまえの作戦はこうだ。人間がこの世の先の出来事だとか、人生の意義だとか、永遠者の存在だとか、そんなことを考え始めたとき、すぐさま、そいつの注意を、そんな目に見えないものから、物質的な現実的な、目の前にあるものへと移してしまうのだ。
 人間は、着るもの、食べもの、そうした手で掴めるものに弱い。そうだ、この世界を彼らに向けて「現実世界」と呼ばせようではないか。「現実世界」という響きは、いかにもしっかりとしている。どうせ彼らは、「現実とは何なのか」、そんなことを尋ねて来るわけがない。人間は現実世界に弱い。
 俺の管轄にあった一人の男の例を挙げておこう。そいつはロンドンの大英博物館でよく研究していた無神論者だった。ある日、そいつの考えが間違った方向へと進んで行くではないか。なんと、そいつは死、生命、神、そんなことを考え始めていた。覗いてみると、なんと敵の(キリストの)手先が彼のそばでささやいているのだ。俺の20年に亘る労苦が水の泡になるところだった。そのとき、もしも彼を理論で説得しようとしていたなら、俺の負けであった。しかし、俺様もそんな「愚か者」じゃない。すぐさま、彼の中のもっとも俺様が支配しているところを捉えて、そしてこう言ってやった。「そろそろ、ランチの時間だよ」
 勿論、敵もさることながら、すぐさま「この問題はランチよりも大事だ」とささやいたが、ここがベテランの俺様の腕のみせどころだ。すかさず「大事であることはごもっとも。事実、この問題は、ランチの前の疲れた頭で考えるには、大事すぎる」とそう付け加えておいた。
 そして、「こんな大事な問題、ランチの後でじっくりと考えた方がいいんじゃないか」と付け加える頃には、彼はもう出口の方に足を踏み出していた。
 一旦、外へ出たら、この戦いは俺様のもんだった。道行く人の雑然とした働きぶりをとっくりと見させ、73番のバスが彼のそばを通り抜け、5分としないうちに彼を確信に導くことができた。
 俺はこのとき学んだよ。たとえ人が一人になっても、本をめくって考え事をしていたとしても、そんなときにどんなおかしな考えが人間の頭をかすめようとも、町に転がっている「現実生活」というものの臭いをたっぷりとかがせてやれば、たちまち霊的考えの雲は吹き飛んでしまう。」

 こういう内容です。悪魔は私たちの弱みを見事につかんでいます。自分の霊的なきよさ、この世にあって旅人として遣わされていることの大切さ、自分が神の国の市民であること、自分がいただいた罪の赦し、神の子どもとされた喜び、そんなものは、現実生活というものによって一瞬にして吹き飛んでしまうのです。勉強したの?と言われれば、あ、勉強の方が大事だと思ってしまいますし、夏休みの宿題終わったの?と言えば、宿題の事で頭がいっぱいになるでしょう。テレビの宣伝じゃないですけれども、借金のことを考え始めたら全部借金になってしまいます。現実生活というのは、それだけ力があるのです。そうしたたましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなければなりません。

それは、キリスト教が禁欲主義を推奨しているということではありません。あれはだめ、これもだめ、だぶんだめ、きっとだめ、と何でも禁じているわけではないのです。もっと積極的に、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにするのです。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)
ただ神の栄光を現すためにしているはずのことが、いつの間にかそこからズレてその欲に支配されてしまい、そこにどっぷりと浸かってしまうこともあるので、注意が必要なのです。

たとえば、仕事はどうでしょうか。仕事は大切なものであり、私たちが生きていく上で必要不可欠なものです。しかし、良かれ思って始めた仕事が、やがてその仕事の虜になり、日曜日も礼拝に行けなくなり、だんだん教会から遠ざかって行くことがあるとしたら、それは「たましいに戦いをいどむ肉の欲」となるのです。

ここでは、その「肉の欲を遠ざけなさい」と言われています。「遠ざけなさい」とは「遠ざけ続けなさい」という意味があります。クリスチャンは肉の欲に支配されるのではなく、肉の欲を遠ざけなければなりません。悪習慣や肉の欲といった内面的な戦いにおいては、これくらいなら大丈夫だという態度が多くの場合みじめな結果となってしまいます。一番確実な勝利の道はそれらのものを「避ける」ことだと、経験豊かなべテロは勧めているのです。

いったいなぜ肉の欲を遠ざけなければならないのでしょうか。ここには、「旅人であり寄留者であるあなたがたは」とあります。ペテロがここで「旅人であり寄留者であるあなたがたは」と語っていることには深い意味があります。人生は旅であり、この世は仮の住まいなのだ、という考え方は、一生涯をテントで生活したアブラハムの信仰からきています。

ヘブル人の手紙には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。・・・・これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:8~10,13)とあります。

アブラハムは、約束された地に他国人のように住み、天幕生活をしました。なぜでしょうか。なぜなら、彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。ですから、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎えていました。そして、この地上では旅人であり寄留者であることを告白し、そのように生活したのです。旅人や寄留者ですから、この地上のものに固執する必要がなかったのです。

それは私たちの模範でもあります。私たちはイエス・キリストを信じたことで天国の市民となりました。私たちの国籍は天にあるのです。この地上の住まいは仮の宿にすぎません。それなのにこれが終の棲家であるかのように、そこに執着して生きるとしたら、どんなに空しいことでしょうか。物欲に囚われない、名誉欲にも駆られない、世の煩いに縛られないという生き方こそ信仰者のあるべき姿です。もちろん、ペテロは、私たちに対して世捨て人のような、あるいは仙人のような生き方を勧めているわけではありません。しかし、自分たちが天国の市民であるという自覚は、肉欲を遠ざける大きな動機になるはずです。私たちはもう一度どのような者とされたのかを深く考え、神の所有とされた民として、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなければならないのです。

Ⅱ.異邦人の中にあって、りっぱにふるまう(12)

次に12節の前半をご覧ください。ここには、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」とあります。

「異邦人の中にあって」という言葉は、ユダヤ人と対比した異邦人という意味ではなく、クリスチャンではない、という意味の「異邦人」のことです。いわゆる、神を知らない人々、不信者のことです。この頃のクリスチャンは圧倒的に少数派でしたので、社会生活においては、こうした人たちに取り囲まれて生きていました。ですから、生活の全てが異教的な習慣に従ってなされていたのです。商売もいわゆるごまかしが横行し、酒の付き合いも今の日本と変わらないくらい一般的でした。そんな中で、「聖い生活」を保つこと、貫くことはなかなか容易なことではありませんでした。

それは現代のこの国に生きる私たちも同じです。クリスチャン人口が全体の0.4%と圧倒的に少ない社会の中で生きることは、容易なことではありません。どこか隠れるようにして信仰を保とうとしたり、できるだけこの世との関わりを断ち、この世に触れないように生きようとすることがあるのではないでしょうか。あるいは逆に、この世にどっぷりと浸かり、この世に流されながら生きた方がどんなに楽かと思うこともあるかもしれません。しかし、ペテロはそうした社会の中にあってそこから逃れるのではなく、あるいは逆にその中に取り込まれてしまうのでもなく、その真っただ中にあってりっぱにふるまいなさいというのです。

この「りっぱに」と訳された言葉は「他の人の目にとまる魅力的な美しさ」を意味しています。内的な美しさが外的にもあらわれる行為は、異教社会に住む者にとって必要なことであり、大切なことであったのです。そうすれば、彼らは、何かのことで彼らを悪人呼ばわりしていても、彼らのそのりっぱな行いを見て、神をほめたたえるようになるのです。

今年1月召された前ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書いてベストセラーになりました。三十代半ばで、思いがけず岡山に派遣され、翌年、大学の学長に任ぜられ、心乱れることも多かった彼女に、一人の宣教師が短い英語の詩を手渡してくれました。その中には、「Bloom where God has planted you.」(神が植えたところで咲きなさい)と書かれてありました。「咲くということは、仕方がないとあきらめるのではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」と続いたその詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と告げるものでした。
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいというのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、下へ下へと根を降ろすのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

この本を読んで思うことは、私たちの幸せは置かれた状況とは全く関係がないということです。どんな境遇でも、その置かれたところで花を咲かせることができるのです。ここでペテロは異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい、と言っていますが、確かに異邦人の中に置かれるということは楽なことではないかもしれません。誤解や偏見、無理解といったこともあるでしょう。肩身の狭いような思いをすることもあるかもしれない。しかし、そのような中にあってもりっぱにふるまうことができる。その場所で花を咲かせることができるのです。神様が私たちをそこへ置いてくださったと信じるなら、必ずそこでりっぱにふるまうことができるのです。

下村湖人(しもむらこじん)の名作に「次郎物語」があります。戦争中に、次郎と兄さんが、おじさんの徹太郎という、学校の先生をしているその家に疎開をするんです。ある日、3人が山に登って山の中腹で腰を下ろして、おにぎりを食べていますと、目の前に大きな岩が二つ、真ん中に松の木が、その岩の裂け目から根を張って生きているのを見ます。よく見ると、明らかに松の木が大きな岩を二つに割ったように生えているのです。
 おじさんの徹太郎は、その松の木を見て、いのちの力に感動してこう言うんですね。「強い。松の木は強い。でも強いのは松の木ばかりじゃないんだよ。いのちのあるものは、みんな強いんだよ」
そう言うと、徹太郎は次郎に向かって、「でもな」と話しを続けます。「でもな、卑怯ないのちは役に立たんぞ。卑怯ないのちというのは、自分の境遇を喜ぶことができない。」「たとえば、あの松の木だ。何百年かの昔、一粒の種が風に吹かれてあの岩の小さな裂け目に落ち込んだとする。種には何の責任もない。種はそういう境遇に巡り合わされたとする。一日で岩を割ることはできない。でもそこにじっと我慢して、その境遇を嘆くのではなく、恨むのでもなく、そこで気持ちよく努力すれば、やがていのちの種は大きな岩を二つに割ることもできる。」
その話を聞いて、次郎はハッとさせられるんですね。それまで次郎は疎開先で「僕はなんでこんなところに住んでいるんだろう。この土地の人々、この土地の子どもたちとは馴染むことができない」といつも不平不満を言っていたからです。しかし、そうした境遇を嘆くのではなく、あるいは恨むのでもなく、そこに神様が置いてくださったのだと受け止めて、その置かれたところで精一杯努力したら、きっとあの松の木のように岩を二つに割ることもできるのです。神さまはそのようにして旅人であり、寄留者であるあなたを導いてくださるのです。

あなたの置かれているところはどんなところですか。あなたはそれをどのように受け止めておられますか。だれも自分の境遇を選ぶことはできませんが、生き方を選ぶことはできます。異邦人の中にあって、りっぱにふるまうことができるのです。それはあなたが置かれたその所が、神によって運ばれた所だと、信仰によってしっかりと受け止めることから始まるのです。

Ⅲ.神をほめたたえるようになる(12b)

第三のことは、その結果です。異邦人の中にあって、りっぱにふるまった結果、どのようなことになるのでしょうか。12節の後半をご覧ください。ここには、「そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」とあります。

この手紙が書かれた当時、キリスト者を「悪人呼ばわり」する者がいました。 聖餐式のことを聞きかじって、キリスト者を「人の肉を食い、人の血を飲む者たちだ」と言ったり、教会は神の家族であり、信者は互いに兄弟姉妹だというと、「道徳的に乱れた人々」だと罵(ののし)る者たちがいたのです。このような中傷にもかかわらず、ペテロは「りっぱにふるまいなさい」と勧めるのです。それは今の時代でも同じです。キリスト教に対する無理解から、宗教はどの宗教も同じだと、宗教を持つことを極端に毛嫌いする世の中です。ただでさえ悪人呼ばわりされるのがクリスチャンですから、場の雰囲気に合わなければその場にいる人たちから煙たがられたり、みんなと調子を合わせないということで、仲間はずれされることもあるでしょう。しかし、クリスチャンのりっぱなふるまいを見ることによって、長い目で見ると、やっぱり信用できるのはクリスチャンだということがわかり、やがておとずれの日に神をほめたたえるようになるのです。

この「おとずれの日」というのは、キリストの再臨の時、世の終わりの裁きの日のことだと考えられます。しかし、この個所の場合は、「神に逆らっていた者が恵みの中に入れられる日」と理解するのがよいと思われます。それまで神に敵対していた人に神がおとずれてくださり、神を信じ、神をほめたたえるようになる、そういう日が来る、というのです。これは慰めであり、励ましではないでしょうか。今はわからなくとも、やがいおとずれの日に、そのような人たちも神を信じ、ハレルヤ!と言って神をほめたたえるようになるとしたら、それほど大きな喜びはありません。なぜなら、私たちはそのために召されているのですから。

この「見て」と訳された言葉ですが、これは、「じっと見つめる」という意味です。ちょっとした目には、変わったやつだ、と爪はじきにされるかもしれません。しかし、私たちの行いをじっと見つめる人は、その中に神の恵みと力を感じるようになるのです。
イエス様を十字架につけたローマの百人隊長は、その一人です。十字架に付けられたイエス様の姿を見て、「この方はまことに神の子であった」(マタイ27:54)と言いました。また、インドで牧師を監視するために担当させられた秘密警察官が長い「監視」の末に、この男の信じているイエス様は本物だと言ってバプテスマを受けた話を聞いたことがあります。彼らはたとえ今クリスチャンを悪者呼ばわりしていても、おとずれの日に、クリスチャンのりっぱな行いを見て、神をほめたたえるようになるのです。

ですから、皆さん、今の現実だけを見て落ち込んでいてはなりません。やがてその日が来ることを覚え、この現実の世界の問題で頭をいっぱいにするのではなく、現実の世界から離れて、週に一度神の前に出て、神の前にひれ伏し、伏し拝みながら、自分がどのような者であり、自分が今どこにいるのかを確認しながら、やがておとずれの日にもたらされるすばらしい栄光を仰ぎ見ながら、人生の最終目標である天国を目指して進んでいかなければならないのです。

確かにこの道は楽な道ではないかもしれません。険しい坂道を何度も上り下りするような道かもしれない。しかし、あなたは神から恵みを受けたのです。以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。そのような者として、この人生の旅を神とともに歩んでいこうではありませんか。

Ⅰペテロ2章9~10節 「神の所有とされた民」

きょうの箇所でペテロは、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、神の所有とされた民です。」と言っています。皆さんは、「あなたは誰ですか」と問われたら、何とお答えになるでしょうか。「はい、私は大橋富男という名前で、男性です。福島県の伊達町の出身です。時々中国人ですかと言われることもありますが、日本人です。今は栃木県の大田原市に住んでいて牧師です。」と言うと、私のことが少しわかってもらえるかもしれません。しかし、私がどういう人で、どんなことをしてきたのか、どんな価値観をもって生きているのかまではわからないと思います。しかし、本当に重要なのはその部分です。その部分が確立しているかどうかで、この世での生き方が大きく変わってくるからです。

たとえば、この手紙はイエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していたクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。彼らはローマの迫害によって散らされ、肩身の狭い思いで生きることを余儀なくされていましたが、そんな彼らにとって、自分たちがどのような存在なのか、自分たちは神の民であるということを知っていること、そのアイデンティティーをしっかりと確立していることは、たとえそのような状況の中にあっても決して流されることなく、堅く信仰に留まるために重要なことでした。

きょうのところでペテロは、私たちクリスチャンがどのようなものであるのかについて、次のように言っています。

Ⅰ.神の所有とされた民(9a)

9節の前半をご覧ください。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」どういうことでしょうか。

「しかし、あなたがたは」とは、先ほども申し上げたように、この手紙の受取人であり、小アジヤ地方、現在のトルコの各地に散らされていたクリスチャンたちのことです。ペテロはそんな彼らに向かって、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」と言っています。

「選ばれた種族」とは、私たちが神の民となったのは、私たちの考えや決断によるのではなく、神様の深いご計画の中で、私たちが救いに選ばれたということです。しかもその救いは今に始まったことではなく、永遠の昔から、この世界の基が置かれる前から、愛をもってあらかじめ定められていたことであるということです。「選ばれた」ということは、この世の人々とは違う生き方が求められているということでもあります。人は何のために生きているのでしょうか。人はあまりそのことを考えませんし、考えようともしません。しかし、私たちが生きる目的ははっきりしています。それは、神の栄光を現すことです。

きょうはこの後で悠人兄と奈々姉の婚約式が行われますが、私は結婚式のたびごとに、結婚というのはつくづく不思議なものだなぁと思います。結婚するふたりは、互いに知り合うまで、電車で隣り合わせても、街ですれ違っても、全く知らない者同士だったのに、それが結婚によって、親子よりも、兄弟よりも、親密な関係になっていくのです。また、世界中には、何十億の男性と、何十億の女性がいて、その中からたった一人の男性とたった一人の女性が結び合わされるのです。それはものすごい確率でしょう。それはまさにそのように選ばれたのであり、その背後には神の特別な配慮と不思議な導きがあったとしか言いようがありません。

私は、かつて奈々さんに「どんな人と結婚したいの」と聞いたことがあります。すると、奈々さんは、「えっ、謙遜な人がいいです」と答えられました。「謙遜な人か・・・、じゃ私のような人だなぁ」と思ったら、その後で、「私は、あまり外見は気にしないんです。本当に謙遜な人であればそれで十分なんです。」と言われたので、それはちょっと私ではないなと思いました。そこに颯爽と現われたのが悠人兄でした。お二人は以前からKGKでお知り合いであったようですが、それがまさかここでつながるとは誰が想像することができたでしょう。それはまさに神の深いご計画と導きによって結び合わせてくださったものであり、神の選びによるのです。

ということは、このようにして結び合わされたお二人は、他の人たちとは違った目的があるということです。お二人はこの婚約の期間になぜ自分たちは結婚するのか、それは自分たちを通して神の栄光を現すためであるという確信を深め、どのようにしてそれを実現することができるのかを、祈りながら求めていってほしいと思います。

イスラエルの民が失敗したのは、実にこの目的を見失ったことにありました。民族としてのイスラエルが神に選ばれたのはこの神を証するためだったのに、彼らは自分たちが選ばれたことに酔いしれて、その目的を忘れてしまったのです。私たちは神に選ばれた者であるということをしっかりと覚え、その目的に従って生きることが求められているのです。

また、ここには「王である祭司」であるとも言われています。「王である祭司」とは、王である神の御国に仕える祭司であるという意味です。旧約時代、祭司の働きは、罪人の罪を引き受けて、神の前に出ていけにえをささげて、祈ることでした。クリスチャンは「王である祭司」として人々の救いのためにとりなしをする働きがゆだねられているということです。それは牧師にだけ与えられた特権ではありません。救われて神の民とされたすべてのクリスチャンに与えられた特権なのです。

第三に、クリスチャンは「聖なる国民」です。聖なると訳された「ハギオス」というギリシャ語は、分離することを意味しています。汚れから分離して、神に属するもの、神のものとなったという意味です。

それと同じことが、次のところにも出てきます。それは、「神の所有とされた民」です。クリスチャンは神の所有とされた民、神の民とされました。それまではただの人であったわけです。何か特別なことができる訳でもないし、何か特別な身分であったわけでもありません。ただの人です。しかし、神はそんな私たちを選び、神の民としてくださいました。ロイヤルファミリーですよ。ロイヤルファミリーというのは、神の国のロイヤルファミリーのことです。すごいでしょう。

先日、東京都議会議員選挙がありました。都議会議員でも国会議員でもひとたび選挙に当選するや否や、それまで無名で平凡な人もさまざまな特権を持ち、生活も一変します。私たちも私たちの罪のために十字架で死んでくださり、三日目によみがえられたイエス様を信じたときから、私たちの身分も大きく変えられ、神の所有の民、神のロイヤルファミリーの一員とさせていただくことができたのです。

それなのに、私たちは、こうした自分の立場を忘れてしまうことがよくあります。周りの人から言われることばに流されて、自分の本来の立場を見失ってしまうことがあるのです。「お前は変わり者だな」と親戚の人から言われることがあれば、「ほう、お前はクリスチャンなのか」と驚かれることもあります。それでも多くのクリスチャンが積み上げてきた立派な証があるので、クリスチャンは割と評判がいいのですが、それが災いしてか、逆にクリスチャンらしからぬふるまいをすると、「お前はそれでもクリスチャンか」と言われて、落ち込んだりすることもあります。

ジョン・バニヤンが「天路歴程」という本を書きました。ある人が、自分たちの都市が滅ぼされることを知って、天国を目指して巡礼の旅に出かけます。ところで、途中で間違って落胆という沼に落ちたり、いろいろな人の言葉に騙されて、道をそれたり、元の道に戻ったりするのです。それでも、伝道者に教えられて狭い門を入って行き、十字架の前に立ったとき、ようやく無条件の赦しを体験することができました。私たちも、クリスチャンとしての素晴らしい身分を見出すまで、このような旅をしているのかもしれません。

そのような私たちに対して主は、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」と、同じような言葉を重ねながら語ってくださるのです。なぜでしょうか。それは同じような表現を何回重ねて言い換えたとしても、強調しすぎることがないほど、あなたがそのような身分とされていることを知ってほしいからであり、それほど、神の目にあなたは尊い存在なのだということを覚えてほしいからなのです。

実は、これは出エジプト記19章4~6節からの引用で、神がモーセに語られたことを、ここでペテロが引用しているのです。

「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたがわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

その中心にあることばは何かというと、あなたがたはわたしの宝であるということです。皆さんは、宝物を持っておられますか。皆さんの宝物は何でしょうか。「私の宝物はあなただ!」なんて言われたら、どんなに感動するかと思いますが、神様はそのように私たちに言っておられるのです。そして、その宝物のためにご自分のいのちを投げ出してくださいました。十字架の上で・・・。私たちはそのことがなかなか実感として沸いてきません。もし分かっていたら、どんなことがあってもそれを大事にするというか、それに応答していきたいと思うでしょう。それなのに、それがないとしたら、実際にはそのことが分かっていないということなのです。

ピーター・グリーブというハンセン病について、様々な記録を書いているイギリス人がいます。彼は長い間インドに住んでいましたが、そのインドでハンセン病に罹り、視力を失い、そして身体が麻痺した状態でイギリスに戻りました。その時、英国国教会のシスターが運営する施設でしばらく暮らすのですが、働くことができませんでした。すると社会から煙たがれるようになり、こんなことなら生きている意味などないと、自殺しようと考えました。自殺しようと、施設を去ろうとした日の朝早く起きて庭をブラブラしていると、何やらぶつぶつと唱える声が聞こえてきました。いったい何だろうと近づいて行くと、そこは礼拝堂でした。そこでシスターたちが、礼拝堂の壁に書かれていた患者一人ひとりの名前を挙げて祈っていたのです。ピーター・グリーフは、その名前の中に自分の名前があるのを見つけました。その途端、彼の心に電撃のような神の愛が走ったのです。自分はもう生きている意味がない。これから先どんな仕事に就けるのか、いや、仕事など就けない。家族を持つ希望もない。でも自分の名前は礼拝堂の壁に書かれていて、毎朝シスターが自分の名前をあげて祈っているのを見たとき、彼は思ったのです。自分は嫌われているのではない。自分は生きることを望まれている。自分はのろわれているのではない。自分は恵みを受けるためにいま生きているのだ。そう思った瞬間、彼はやみの中から、驚くべき光の中に招かれていたことに気付いたのです。

皆さん、私たちも、私たちがどんなにすばらしい身分とされたのか、神の所有とされた民、神の宝の民とされたことがわからないために、依然としてやみの中を歩んでしまうことがあります。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民なのです。このことを忘れないでください。あなたはのろわれているのではありません。愛されているのです。あなたはどうでもいい存在なのではない、神の目には高価で尊い存在なのです。信仰によってこの神のことばを自分への言葉として受け取り、神の民としての自分のアイデンティティーをしっかりと確立したいものです。

Ⅱ.今は神の民(10)

次に10節をご覧ください。いったいクリスチャンはどのようにしてこのような身分に変えられたのでしょうか。ここには、「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、いまはあわれみを受けた者です。」とあります。

クリスチャンは神によって選ばれたというだけでなく、そこにキリストによって変えられたという恵みがあります。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民です。以前はあわれみを受けなかった者なのに、今はあわれみを受けた者なのです。ダイエットや家の増改築だけでなく、クリスチャンにもbeforeとafterがあります。以前は神の民ではなかった。以前はあわれみを受けるものでもありませんでした。それなのに、今は神の民です。今はあわれみを受ける者となりました。その転換点には何があったのでしょうか。神のあわれみです。神のあわれみによってやみから光へ、のろいから祝福へ、絶望から希望へと、立場が移されたのです。それは私たちが自分の知恵や力や、また自分の信仰の力によって獲得したものではなく、一方的な神のあわれみによるのです。

この言葉の背景にはホセア書2章22、23節があります。そこには預言者ホセアの妻でありながら浮気を繰り返していたゴメルから生まれた3人の子供の名前を、主が祝福の名前に逆転させてくださるという約束が記されてあります。

1人目は「イズレエル」です。意味は、「神は蒔かれる」とか、「神は蒔いてくださる」です。かつて神の裁きの象徴として付けられたこの名前を、神は豊かな実りの地に変えてくださいました。また、2人目の子供は「愛されない者」という意味の「ロ・ルハマ」という名前でしたが、愛される者という意味の「ルハマ」に変えてくださいました。また3人目は「わたしの民ではない」という意味の「ロ・アミ」でしたが、「わたしの民」という意味の「アミ」に変えられました。

このように、ゴメルの三人の子供の名前には神の怒りとさばきが込められていましたが、神はイスラエルの民が心から悔い改め、ご自分に立ち返るのを忍耐して待ち望まれ、その名を祝福に変えてくださいました。このホセアの三人の子供の名を祝福の名に変えられたということは、私たち一人ひとりも先祖伝来の悪習慣から解放されて、自由にされ、新しい神の祝福の中に入れられることを象徴していると言えます。

私たちは誰も、親を選ぶことはできません。浮気妻ゴメルの子供たちは、生まれながらのろわれた名前が付けられていましたが、神はご自身の一方的なあわれみによって、それを祝福に変えてくださいました。私たちもかつては自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私をキリストとともに生かしてくださいました。その罪ののろいを祝福へと変えてくださったのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民とされ、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受ける者となりました。イエス・キリストの福音は、やみの中から、ご自分の驚くべき光という神の御子のご支配の中に移すことができるのです。

だから、たとえあなたが今やみの中にいるとしても、イエス・キリストにあるなら、光の中へ移されるのです。たとえあなたが今絶望的な状況にあっても、神のあわれみによって希望へと移されるのです。神はあなたをそのように招いておられます。問題はあなたがその神の招きにどのように応答するかです。神のあわれみによるbeforeとafterを、あなたも体験してください。

Ⅲ.神のすばらしいみわざを宣べ伝えるため(9b)

最後に、クリスチャンがそのような祝福、神のあわれみを受けたのは何のためか、その目的を見て終わりたいと思います。9節後半をご覧ください。

「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。」

先々週、さくらで82歳の宗川姉がバプテスマ(洗礼)を受けられました。ご主人が亡くなられて三か月後の昨年9月に、教会に行きたいとご自分から電話して来られました。あれから10か月間、礼拝と聖書の学びを続けて来る中で、すっかりと教会の方々とも打ち解けるようになり、バプテスマの恵みに与かることができました。不思議なことに、さくらの教会には比較的ご年配の方々がたくさん集っておられます。教会を始める前に想像していたことは、小さなお子さんを持つ若いお母さん方が多く来られるのではないかと思っていましたが、いざふたを開けてみると、ご高齢の方々が多いのです。そして、一般的には教会も高齢化して・・・と、高齢化に対して少しネガティブなイメージがありますが、さくらに集っておられる方々は少し違うのです。本当に慰めと力を受けます。

ちょっと前に開いた聖書の学びの時です。ヨハネの福音書9章の、生まれつきの盲人がイエス様によって目を開けていただいた箇所から学びました。この盲人はイエス様によって目を開けてもらうと、自分が経験したことを、ありのままに伝えました。すると、彼は会堂から追い出されてしまいましたが、そんな彼をイエス様が見つけ出され、信仰告白へと導かれました。「あなたは人の子を信じますか。」と尋ねると、彼は、「主よ。私は信じます。」と告白し、イエスを拝したのです。すると、学びに参加していたひとりの姉妹が、昨年、その姉妹のお宅の隣にある畑に立てさせていただいた看板のことでお話しされました。

「先生、あそこに看板立てたでしょ。あれは私にできる信仰の告白なんです。近所の人が、『あなたも教会に行っているの?』と聞いて来たら、『そう、私、この教会に行っているんです』と言うつもりで立ててもらったんです。」「まだ誰も聞いて来ないんですけれども・・。」

私はそれを聞いてとても感動しました。私としては、比較的通りに面したところにあるので、そこを通る人が「あっ、この近くに教会があるのかな」と潜在的な意識を持ってもらうことができればという思いで立てさせてもらいましたが、まさか、ご自分の信仰の告白のつもりで立ててもらおうと考えていたなんて思ってもいなかったので、それがその姉妹にできる宣教の一つの取り組みなんだなぁと思うと、心がとても篤くなりました。考えてみると、昨年6月に集うようになってから礼拝や聖書の学びに一度も休まず出席している中で、神の驚くべき恵みが心に溢れていたのでしょう。

まさに私たちが神に選ばれ、神の所有の民とさせていただいたのはそのためです。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。

私たちは、選ばれた種族、神の民であるという宣言を受け入れ、以前はあわれみを受けないものであったのに、今はあわれみを受けるようになったという自分の変化を喜びながら、そのような驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるという与えられた使命を実現していくために、神の民として力強く歩んでいきましょう。

Ⅰペテロ2章4~8節 「霊の家に築き上げられなさい」

きょうは、「霊の家に築き上げられなさい」というタイトルでお話しします。前回の箇所でペテロは、神の恵みによって救われたクリスチャンは、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めなさい、と勧めました。それによって成長し、救いを得るためです。今回のところでペテロは、そのように霊の乳であるみことばによって救われて、成長したクリスチャンはどうあるべきなのかを語っています。それは、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげなさいということです。

 

霊の家とは何でしょうか。それは神の教会のことです。パウロはコリント人への手紙第一3章16節で、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と言っています。神の御霊が宿っている私たちのからだが神の神殿であり、そのような人たちが集められ、築き上げられているのが教会です。教会は建物のことではなくキリストのからだであり、このキリストのからだである教会に築き上げられ、霊のいけにえをささげることが求められているのです。

 

Ⅰ.生ける石(4)

 

まず4節をご覧ください。

「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」

 

「主のもとに来なさい。」という勧めは、何か唐突な感じがします。新共同訳では、4節の冒頭に「この」ということばがついていて、「この主のもとに来なさい。」となっています。これは3節で言われていた「主がいつくしみ深い方であることを味わっているので」、この主のもとに来なさいということになります。しかし、英語の聖書には、霊の家に築き上げられるために、生ける石である主のもとに来なさい、とあります。つまり、真理のみことばによって新しく生まれたクリスチャンは、みことばの乳を慕い求めることによって成長し、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるために主のもとに来なさいということなのです。

 

旧約時代は、だれもが主のもとに来ることはできませんでした。そのためには祭司の仲介が必要だったのです。しかし、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じることによって、この救いを受け入れる人はだれでも主のもとに来ることができるようになりました。

 

なぜでしょうか。なぜなら、主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。どういうことでしょうか。キリストは人々を罪から救うためにこの世に来られましたが、人々はこの方を自分たちが期待していたメシヤ像とは違うと、十字架につけて死なせてしまいました。しかし、神はこの捨てられた石を礎の石として霊の家を築き上げられたのです。7節にあるように、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のです。

 

この「礎の石」とは、建物全体を支えるかなめの石のことです。パレスチナの家は石造りになっていて石を積み上げる方法で建築されていましたが、そのアーチ型の天井のてっぺんに入れる最後の石はとても重要な石で、その石がピッタリとはまるかどうかで、建物全体が強さが決まったのです。この石こそ建物全体のかなめとなったのです。英語の聖書には「Capstone」と訳されています。

 

それに対して6節の「礎石」は、「礎の石」という点では同じですが、これは建物全体を支える土台の四隅に据えられたかしら石のことです。英語では「Cornerstone」と訳されています。このコーナーストーンの上に建物の柱と壁が結び付けられて建物全体を支えていたので、これがどのような石なのかによって建物全体の強さが決まったのです。そういう意味では7節の「礎の石」と6節の「礎石」はどちらも建物全体を支えるかなめの石であったという点では同じです。それなのに、この石は、人には捨てられたのです。なぜでしょうか。それを見抜けなかった建築家の見立てが間違っていたからです。判断を誤ったのです。

 

イエスさまはそのことをぶどう園と農夫のたとえで説明されました。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して、旅に出かけました。収穫の季節になったので、ぶどう園の主人は収穫の分け前を受け取ろうと、農夫たちのところへしもべを遣わしましたが、彼らはそのしもべをつかまえて袋たたきにすると、何も持たせないで送り帰しました。それで主人は、私の愛する息子ならきっと敬ってくれるだろう、と最後にその息子を遣わしましたが、農夫たちは、「あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)と言って、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまいました。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。いったいなぜ彼らはそんなことをしたのでしょうか。イエスはその話の中でこう言われました。

「では、家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」と書いてあるのは、何のことでしょう。」(ルカ20:17)

まさにこれは農夫たちの見立て違いだったのです。彼らはしもべたちを侮辱し、跡取り息子を殺せば相続財産であるぶどう園を自分のものにすることができると思いました。しかし、それは完全な見立て違い、判断ミスだったのです。

 

時として、私たちもこのような間違いを犯してしまうことがあります。この石こそ私たちの人生の土台であり、キリストの教会の礎石、かなめの石なのに、そうでないものを土台に据えてしまうことがあります。イエス・キリストこそ教会の礎石であり、また、私たちの人生のコーナーストーンなのです。どんなに立派なものを建て上げようとしても、イエス・キリストという土台の上に立っていなければ、それは確かな人生とは言えないし、何らかの災害などがあった時にはもろくも崩れてしまうことになります。イエス・キリストがコーナーストーンです。この方を礎石として、この方の上に人生を築き上げるなら、どんなことがあってもびくともすることはありません。「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。」のです。あなたの人生はどんな石の上に建てられていますか。

 

使徒パウロもエペソ人への手紙2章20~22節のところで、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にあって聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」と言っています。キリスト・イエスが礎石です。霊の建物である教会は、この方にあって組み合わされ、結び合わされて、成長していくのです。

 

ですから、何を教会の土台に据えるのか、何を私たちの人生の土台に据えるのはとても重要なことなのです。使徒パウロはこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように立てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。」(Ⅰコリント3:10-11)

 

私たちは皆、人生という家を築いています。それをどのように築き上げて行くはとても重要なことです。しかし、もっとも重要なことは、何の上にそれを築き上げていくのかということです。パウロが賢い建築家のように土台を据えたと言っているように、私たちも賢い建築家のように、人生の土台を据えたいと思います。

 

いったいなぜこのキリストの上に築き上げられなければならないのでしょうか。それは、主は人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。ペテロはこの手紙の中で「生ける」ということばを好んで用いています。1章3節では「生ける望み」と言い、1章23節では「生けるみことば」と言っています。そしてここでは、「生ける石」と言っているのです。いったいペテロはここで何を言いたかったのでしょうか。それは、この石がいのちを与える石であるということです。死んでいる石ではない、いのちを与える石なのです。それはイエス・キリストが死からよみがえられ、今も生きておられる方であるからです。ですから、この方に信頼する者は失望させられることはありません。私たちは弱くても、彼は強い方であり、今も生きて私たちにいのちと力を注ぎ続けておられる方だからです。

 

この「生ける石」は英語で「リビングストーン」と言いますが、そこから家名を取ったスコットランドの宣教師で、探検家でもあったリビングストーンは、アフリカで60年の生涯を終えました。しかし、彼が召された1873年以降も、彼が与えた影響は今に至るまでアフリカの大地に生き続けています。ザンビアの南部には、彼の名にちなんで「リビングストーン」という名前の都市があるほどです。このように、キリストは生ける石として今も生きておられ、私たちの人生に大きく働いているのです。

 

「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」これが私たちの人生の、私たちの教会のかなめの石です。あなたはどのような土台の上に人生を築いておられますか。この生ける石の上に私たちの人生も築き上げていきましょう。

 

Ⅱ.霊の家に築き上げられる(5a)

 

第二のことは、キリストが生ける石であるというだけでなく、私たちも生ける石として、霊の家に築き上げられなければならないということです。5節をご覧ください。ここに、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」とあります。これはどういうことでしょうか。

 

「あなたがた」というのは、すべてのクリスチャンのことを指しています。これはローマ皇帝の迫害によって小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ペテロはそうした彼らに対して、「あなたがたも」と言っているのです。私だけでなく、あなたがたも、この石の上に築き上げられなさい・・と。

 

ペテロが石となってキリストの上に築き上げられることについては、マタイの福音書16章に語られていました。一行がピリポ・カイザリヤにいたとき、イエスが弟子たちに「人々はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねると、今度は弟子たちに、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われると、ペテロは弟子たちを代表してこう言いました。「あなたは、生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)

すると、イエスは彼にこう言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:17-18)

 

ペテロというのは「岩」とか、「石」という意味です。「あなたは岩です、石です。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます」と言われたのです。「この岩」とはペテロのことではなくイエスさまご自身のことです。その岩であられるイエスさまの上に、石であるペテロを用いてご自身の教会を建てるというのです。

イエスさまがなぜ彼をペテロと呼ばれたのかはわかりません。しかし、彼はその名前で呼ばれることをどれほど光栄に思ったことでしょう。どんなに小さな石でも、キリストという大きな岩の上に建てられた霊の家を築き上げていくために用いられていることを誇りと思ったに違いありません。

 

それはペテロだけでなく他の弟子たちも同じです。彼らは初代教会で重要な役割を果たしました。彼らは、イエス・キリストというコーナーストーンに直接つながっている土台の一部とされました。しかし、教会は使徒たちや他の指導的な人々だけで立て上げられているのではありません。石造りの建物には、大きな石ばかりではなく、小さな石も必要です。大きさばかりでなく、形も、色も、堅さも、様々なものが必要なのです。ですから、ペテロはここで、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」と言っているのです。私もイエスによって教会の土台石にされたように、あなたがたも、主の招きに応じて、生ける石として、霊の家に築き上げられなさい、と呼びかけているのです。

 

これは明治の文豪、徳冨蘆花(とくとみ ろか)という小説家の「昼寝の夢」という小説に出てくる一節です。ある日旅人が天国へ行った夢を見ました。天国の中央に新しき都エルサレムがあって、その石垣には昔から歴史上人類に貢献してきた有名な作家の名前がずらりと刻まれていました。ダンテ、ミルトン、シェークスピア、テニスン、トルストイ、ドストエフスキー等の栄光の石でした。彼は驚きながらも自分の石はどこにあるのかと一生懸命探しました。大きい石から小さな石まで探して行くうちに、ほんの小指の先ほどの小さな石に「徳冨蘆花」と刻んであるのを発見しました。彼は怒りました。怒りのあまり、大石と大石との間にはさまれた、その小さな自分の石を取り出そうとすると、突然、大音響と共にその壮大な天国の都が崩れかけました。その瞬間、彼は恐ろしさのために目が覚めた」というのです。つまり、天国全体にとっては無くてならない存在だということを悟らされたのです。私たちはそれぞれ小さな石であるかもしれませんが、霊の家を築き上げていくための大切な材料の一つであることを覚え、共に霊の家を築いていくものでありたいと思うのです。

 

ところで、いったいどのようにして築いていったらいいのでしょうか。幸いなことに、ここには、霊の家を築き上げなさいとは言われていないで、霊の家に築き上げられなさいと受け身で言われています。どういうことでしょうか。それは、建て上げてくださるのはイエス様であるということです。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長し、愛のうちに立てられるのです。」(エペソ4:16)

どんな建物でもそうですが、どんなに立派な柱があっても、断熱性の高いペアガラスにしても、無垢のフローリングにしても、それだけでは意味がありません。それが組み合わされて、結び合わされて、すばらしい建物となるのです。それを建て上げてくださるのがイエス様なのです。だから、私たちはそんなに頑張らなくてもいいのです。私たちは生ける石として自分を主に差し出すだけでいいのです。そうすれば、主が建て上げてくださるのです。

 

今回もアメリカから4名のチームが来日してくださり、明日からのさくらでのサマー・イングリッシュ・デイ・キャンプで奉仕してくれることになりました。どうなるかわかりません。わかりませんが、大きな梁や無垢材のフローリング、ペアガラスどころかトリプルガラスのサッシも用意されました。こうした一つ一つの材料を主に差し出すとき、主が建て上げてくださると信じましょう。

 

Ⅲ.聖なる祭司として(5b)

 

第三のことは、私たちが、霊の家に築き上げられるのは何のためか、その目的です。それは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるためであるということです。つまり、聖なる祭司として神と人に仕えることです。5節の後半をご覧ください。ここには、「そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とあります。

 

祭司というのは、神に仕える仕事です。もう少し正確に言うと、神の御前に人々の罪を担ってとりなす者です。ですから、イエス・キリストは私たちの大祭司であると言われているのです。そして、ここには私たちは聖なる祭司であると言われています。マルチン・ルターは、ここから「万人祭司説」を唱えました。クリスチャンはみな祭司であるという教理です。彼が宗教改革を行ったのは1517年ごろですが、それまでは聖職者と平信徒という区別がありました。罪の赦しを祈ることも、聖書の説き明かしをすることも、それはもっぱら聖職者の仕事であって、平信徒にはできないと考えられていたのです。しかし、マルチン・ルターはその区別を取っ払いました。信仰者はみな祭司であると主張したのです。それは、信仰者は互いに対して小さなキリストになることができるということを意味しています。

 

ですから、私たちは互いの罪を負い合い、互いのために祈り合い、とりなし合うことができます。互いのために聖書を説き明かし、互いに励まし合うことができるのです。私たちは互いに聖なる祭司、小さなキリストなのです。その私たちに求められているのは何でしょうか。聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるということです。

 

ユダヤ教の神殿では、目に見えるいけにえがささげられました。しかし、霊の家である教会では、目に見えない霊のいけにえをささげます。では、イエス・キリストを通してささげる霊のいけにえとはどのようなどのようないけにえでしょうか。

詩篇50篇14節には、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」とあります。ここには、「感謝のいけにえ」とあります。神に感謝をささげること、それが一つの例のいけにえなのです。

また、詩篇51篇17節には、「神へのいけにえは、砕かれたましい。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた悔いた心です。神はそれをさげすまれません。

また、詩篇141篇2節には、「私の祈りが、御前への香として。私が手を上げることが、夕べのささげものとして立ち上りますように。」とあります。これは祈りのことです。神への祈りが神への喜ばれる霊のいけにえであると言われているのです。

さらに、ヘブル人への手紙13章15、16節には、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」善を行うことと、持ち物を人に分け与えることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」とあります。賛美のいけにえ、さらには、善を行うことや持ち物を人に分け与えることも、神に喜ばれるいけにえです。

さらに、ローマ人への手紙15章16節を見ると、ここには、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは、異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」とあります。パウロがここで言っている祭司としての務めというのは、言うまでもなく伝道のことです。自分は伝道をもって、祭司の務めを果たして、キリストの福音を証し、人々に宣べ伝えること、それが神へのいけにえであると言っているのです。

 

こうやってみると、神に喜ばれるいけにえとは、私たちの生活のすべてであると言うことができます。ですから、パウロは、ローマ人への手紙の中でこのように言っているのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「あなたがたのからだを」というのは、あなたがたの存在とか、あなたがたのすべてということです。それをささげなさいというのです。それこそ、神が喜ばれる霊のいけにえ、霊的な礼拝なのです。

 

生ける石であるキリストのもとに来て、生ける石として、霊の家に築き上げられた私たちは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなければなりません。あなたのベクトルはどこを向いていますか。あなたは、聖なる祭司として、神に喜ばれる霊のいけにえをささげていますか。あなたのからだを、あなたの存在のすべてを神に受け入れられる、生きた供え物としてささげましょう。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝なのです。私たちはいったい何のために救われたのか、その目的を知っているかどうかは、私たちの信仰の歩みに大きな影響を及ぼします。私たちが救われたのは霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるためであるということをはっきりと知っている人は、この地上での生涯を神と人のために喜んでささげることができるようになるのです。

 

最後に一つのお話しをして終わりたいと思います。何人もの男たちが大きな石にロープをつけて丘の上に引き上げていました。石を滑りやすくするために、石の下に丸太を並べ、少し動かしてはまたそれを並べるというようにして、長い坂道を上っていきました。そこにとおりかかった旅人が、「そんな大きな石を運んで、どうするのかね。」と聞きました。すると一人の男が、苦しそうな顔をして、こう言いました。「そんなこと知るもんか。俺は日雇いで働いているだけさ。しかし、こんなにきつい仕事じゃ割にあわないぜ。」ところが、一緒に働いていた別の男が、汗だらけの顔でしたが、白い歯をみせてこう言いました。「だんな、ご存知じゃないんですか。この丘の上にはね、この町一番の立派な教会が建つんですよ。これはその石なんです。さあ、もうひとがんばりだ。」

 

皆さん、どちらの男がその日の仕事に満足できたと思いますか。自分がしていることの目的を知っていた人です。私たちも、神が私たちを贖って、霊の家に築き上げられたていることの目的を知り、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれ霊のいけにえをささげる者でありたいと思います。

ヨシュア記6章

きょうはヨシュア記6章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.城壁がくずれるために(1-11)

 

まず1節から11節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」

 

主の奇跡的なみわざによってヨルダン川を渡ったイスラエルはまず割礼を施し、過越しのいけにえをささげました。そして、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、抜き身の剣を手にしたひとりの人がいて、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」と命じられ、ヨシュアはそのようにしました。すなわち、彼は主の御前に自らを明け渡し、主の命じられることに従っていく準備をしました。そして、いよいよ約束の地カナンの占領が始まっていきます。

 

その最初の取り組みは、エリコを攻略することでした。エリコの町はパレスチナ最古の町と言われており、この町はパレスチナの主要都市であっただけでなく、パレスチナにおける交通の要所であり、軍事的にも重要な拠点でした。ですからこのエリコの町を攻略することができるかどうかは、その後のヨシュアの戦いにとって極めて重要なことでした。

 

しかし、1節を見ると、「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。」とあります。この町の周囲には高い城壁が巡らされており、だれひとり出入りすることができない難攻不落の町でした。この難攻不落の要塞を前にして、おそらくヨシュアは不安と恐れの中でしばしたたずんでいたのではないかと思います。

 

そのような時に、主がヨシュアに語られました。2節です。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」ここで注目したいのは、主がヨシュアに、エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡したと、完了形で言われていることです。すなわち、いまだ起こっていない未来のことが、もう既に彼の手に渡っているということです。このことは私たちの信仰生活において極めて重要なことを示しています。それは、たとえそれが未だ起こっていないことであっても、神の約束の言葉があれば必ず成就するということです。すなわち、たとえそれが未来のことであっても完了形となるのです。ですから、私たちは何かを始めていくとき、まず主の前に祈り、主から約束の言葉をいただいてから始めていくことが重要なのです。

 

今週の日曜日の礼拝後に、三原神学生を招聘することについての祈りの分かち合いをさせていただきました。教会の将来のことを考えるとどうしても若い働き人が必要なことは明らかですが、経済的状況をみるとそれはとても不可能なことと考えていました。しかし、みことばを読めば読むほど神のみここはどこにあるのだろうかと祈らされるようになりました。その一つがこのヨシュア記3章に記されてあるヨルダン川渡河の内容です。イスラエルの民はどのようにしてヨルダン川を渡ることができたのかというと、ヨルダン川の水がせき止められたので渡ったのではなく、契約の箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいに溢れるのですが、上から流れ下る水はつっ立って、水は完全にせきとめられたので、彼らはその乾いたところを渡ることができたのです。状況を見ればそれは完全に不可能なことでしたが、神のみこころは状況を見ることではなく、神のみことばに聞き従うことだったのです。そのとき、主のみわざがなされました。ですから、私たちはまず神の御心は何かを知り、それに従うことが求められていると思いました。主がどのように導いてくださるのかわかりませんが、この二カ月の間祈り、それを求めていきたいと思ったのです。

 

ところで、主はどのようにしてエリコの町を彼らの手に渡したのでしょうか。3節から5節までをご覧ください。「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」

 

ここで主は大変不思議なことをヨシュアに言われました。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ、というのです。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、町の周囲を一度回り、六日間、そのようにし、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならないというのです。そして、祭司たちが吹くその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。そうすれば、城壁が崩れ落ちるので、崩れ落ちたら、民はおのおのまっすぐに上っていかなければならない、というのです。これは全く軍事的な行動ではありません。宗教的行為です。こんなことをして一体どうなるでしょうか。途中で敵がそれに気づいて襲ってくるかもしれないし、襲って来なくても、その行動を見てあざ笑うことでしょう。いったいなぜ主なる神はこのような命令を出されたのでしょうか。それは、彼らが自分たちの考えではなく神のみこころに徹底的に従うなら、神が勝利してくださるということを示すためでした。

 

イザヤ55章8,9節には、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。─主の御告げ─天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。私たちの思いと神の思いとは決定的に異なります。私たちがどんなに愚かな知恵をしぼって、ああでもない、こうでもないと思い悩んでも、複雑な迷路に落ち込み、果てには不信仰の中に落ち込んでいくだけですが、しかし、人間の知恵をはるかに超えた神の知恵に自分自身をゆだね、あるいはその問題をゆだねるなら、そこに不思議な神のみわざが現されるのです。

 

今年の3月、家内はこれまで13年間働いてきたさくらの小学校を突然解雇されました。次年度からは担任の先生が英語を教えることができるようにしたいという教育委員会の方針が変わったためだと説明を受けました。それにしても長年働き、来年もお願いしたいと言われていたのにどうして急に話が変わったのかなかなか受け止められないでいました。しかし、あわれみ豊かな神はそのような状況の中でも大田原教育委員会で働く道を開いてくださいました。

あれから三か月、教会でこの夏サマー・イングリッシュ・デイ・キャンプを行うことになり、このチラシをどのように配布するかを話し合ったとき小学校で配ることはできないかということになりました。それで家内がそのことを以前働いていた小学校の教頭先生にお願いしたのです。すると教頭先生は「どうぞ配ってください」と快く了承してくれただけでなく、「たくさん集まるといいですね。」と後でお電話までくださいました。するとその翌日から申し込みが相次ぎ、結局66人の参加申込があったのです。

そのとき、私たちは「はっ」とさせられました。家内が学校を解雇されたのはこのためだったのだということを確信したのです。もしそこに留まっていれば家内の写真が載った教会の案内を配ることはできなかったでしょう。しかし、そこを完全に辞め、しかもよく知っている先生方がおられたので、大胆にチラシを配布することができたのです。まさに私たちの思いと神の思いとは異なり、神の道は完全であるということを実感させられました。

 

ですから、たとえそれが私たちには理解できないことであっても、あるいは、敵にあざけられるようなことであっても、主が命じておられるのであれば、そのみことばに従わなければなりません。特にここには「七」という数字が強調されていることに注目してください。エリコの町を七日間回ること、七日目には七度回ること、七人の祭司、七つの雄羊の角笛と「七」が強調されているのは、これが完全な神のみわざとしてなされるということです。

 

それに対してヨシュアはどうしたでしょうか。6節と7節をご覧ください。「そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」

ヨシュアは信仰によってそれを主の御声として受け止め、その御声に従いました。また、イスラエルの民も、そのヨシュアの声に従いました。それは世界の戦闘の歴史の中でも最も異様な光景でしたが、彼らは主の御声に聞き従ったのです。

 

8節から11節までをご覧ください。

「ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。」

10節に注目してください。ここには、「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。」とあります。口からことばを出してはいけません。黙っていなければなりません。なぜでしょうか。主の戦いに人間の声は必要ないからです。人間が口から出すことばによって、主の働きを妨げてしまうことがあるからです。しかし、黙っているということはなかなかできることではありません。特に女性にとっては大変なことでしょう。ある若い婦人は、「私は夫が聞いていても、いなくても、とにかく話します」と言っておられました。話さないではいられないのです。しかし、主の戦いにおいては黙っていなければなりません。

 

また、主の戦いにおいてもう一つ注意しなければならないことは、焦らないということです。11節を見ると、ヨシュアは1日に一度だけ町の回りを回らせたとあります。これはなかなか忍耐のいることです。どうせなら一日に七度回ってその日のうちに終わらせた方が効率的ではないかと思うのですが、ヨシュアはこの点でも主の御声に従いました。主は、私たちの思いと異なる思いを持っておられ、私たちの道と異なる道を持っておられます。ですから、私たちは力を尽くして主に拠り頼み、自分の悟りに頼らないことが大切です。

 

Ⅱ.くずれた城壁(12-21)

 

次に、12節から21節までをご覧ください。

「翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。」

 

イスラエルの民はその次の日も、町を一度回って宿営に帰り、六日間、同じようにしました。いったい彼らはどんな気持ちだったでしょうか。最初のうちに希望と期待に喜び勇んで行進していたかもしれません。しかし、それが二日、三日とむだに見えるような行進が続く中で、次第に疲れていったのではないでしょうか。しかし、彼らが疲労困憊し、夢や希望が潰えてしまったような時に、神は勝利の合図を送られました。角笛の音を聞いて、大声で時の声をあげると、城壁はくずれ落ちました。これが神の時なのです。私たちも時として「主よ、いつまでですか」と叫ばずにはいられないような時がありますが、そのような時にこそ神は御声を発せられるのです。

モーセの死後、あのヨルダン渡河の奇跡と、このエリコの城壁が崩れたという奇跡によって、出エジプトの神はその大能の御手をもってヨシュアとその民と共におられるということが、ここで完全に立証されたのです。そして、民はまっすぐに町へ上って行き、その町を攻め取りました。

 

ところで、ヨシュアはこのエリコの町を占領するにあたり、この町のすべてのものを、主のために聖絶しなさい、と命じました。その町にあるもの、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて聖絶しなければなりませんでした。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものなので、主の宝物倉に持ち込まなければなりませんでした。

 

「聖絶」するとはどういうことでしょうか。「聖絶する」という言葉はヘブル語の「ハーラム」(חָרַם)で、旧約聖書に51回使われていますが、このヨシュア記には14回も使われています。それは神がすでに「与えた」と言われる約束の地カナンにおいて、そこを征服し、占領していくその戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されていたからです。

この「ハーラム」(חָרַם)は英語訳では、「totally destroyed」とか「completely destroyed」と訳されています。つまり、徹底的に破壊すること、完全に破壊することです。すべてのものを打ち殺すという意味です。すなわち、神のものを神のものとするために、そうでないものを完全に破壊するということなのです。このことばの意味だけを考えるなら、「なんと残酷な」と思うかもしれませんが、しかしイスラエルが神の民として神の聖さを失い、他のすべての国々のようにならないようにするためにはどうしても必要なことだったのです。つまり、「聖絶」とは、神の「聖」を民に守らせる戦いだったのです。

 

それは神の民であるクリスチャンにも求められていることです。パウロは、コリント人への第二の手紙6章17、18節で、「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」と言っています。神の民として贖われたクリスチャンも、この世から出て行き、彼らと分離しなければなりません。勿論それはこの世と何の関係も持ってはならないということではありません。私たちはこの世に生きているので、この世と関わりを持たないで生きていくことはできません。ここでパウロが言っているのは、この世に生きていながらもこの世から分離して、神のものとして生きなければならないということです。そのためには、常に世俗性と戦う必要性があるのです。世俗性とは何でしょうか。それを定義することは難しいことですが、あえて定義するとすれば、それは「神への信頼を妨げる一切のもの」と言えます。私たちがこの世に生きる限りこうした世俗的なものが絶えず襲い掛かって来ては神への信頼を脅かしますが、神の民として生きるために、いつもこの世と分離しなければなりません。私たちにもこの「聖絶」(聖別)することが求められているのです。

 

Ⅲ.神のあわれみ(22-27)

 

最後に、22節から終わりまでをみたいと思います。

「ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。「あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。」斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた。しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。」

 

エリコの町とその町の中にあるすべてのものは、主のために聖絶されましたが、遊女ラハブと、その家に共にいた者たちは、助け出されました。それは以前ラハブが偵察したふたりの者をかくまったからです。あの時遊女ラハブに誓ったとおり、ふたりの斥候は彼女の家に行き、彼女と彼女に属するすべての者を連れ出し、イスラエルの宿営の外にとどめておきました。すぐに彼らを宿営の中に入れなかったのは、おそらく彼らが異邦人だったので、その前に信仰告白と割礼を受ける必要があったからでしょう。しかし、そんな異邦人であった彼らもやがて神の民の中に加えられました。そればかりか、ラハブは遊女でありながらも救い主の系図に名を連ねるという栄光に浴することができたのです(マタイ1:5)。

 

こうして、旧約においても、神は、この世における最も卑しい者に対しても救いと恵みを与えてくださる方であることを示してくださいました。それは限りない神の恵みとあわれみの表れです。たとえ私たちが、「こんなにひどい罪を犯したのだから、決して赦されることはないだろう」と思っても、神の恵みとあわれみは尽きることがありません。神はその罪よりもさらに上回り、私たちを満たしてくださるのです。

 

26節と27節には、このエリコの町の聖絶が徹底的なものであったことが記されてあります。いや徹底的であっただけでなく、それはヨシュアの世代を超えた未来にまで及ぶまでの徹底さでした。Ⅰ列王記16章34節には、「ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」とありますが、エリコの町を再建させようとするヒエルがエリコの町の礎を据えたとき、長子アビラムが死に、門を建てたとき末の子セクブが死んだことで、この言葉が文字通り成就しました。ここにはイスラエルをかくまったラハブと、イスラエルに敵対したエリコとの姿とが対比されています。

 

私たちも遊女ラハブのように救われるべき素性や行ないなどないような者でしたが、一本の赤いひもが彼女とその家族を救ったように、イエス・キリストの血に信頼することによって、神の怒りから救い出されました。そのように救い出された者として、神の民、神のものとして、神の深いご計画の中で、神に喜ばれる歩みをさせていただきたいと思います。

Ⅰペテロ2章1~3節 「乳飲み子のように」

きょうは、ペテロ第一の手紙2章1節3節までのみことばから、「乳飲み子のように」というタイトルでお話しします。

 

乳飲み子は不思議なもので、誰からも教えられていなくても必死になってお母さんのおっぱいを求めます。特にお腹が空いている時などは大泣きをしながら訴えます。そして、おっぱいを口にあててもらうと、一心不乱に飲み始めるのです。その吸う力には驚かされます。ひとたび口にくわえたら、どんなことがあっても離しません。娘がまだ乳飲み子だったころ、それがどのくらい強いかをみようとそのほっぺに人差し指を当てて引き離してみたことがありますが、それは相当の力でした。ちょっとやそっとでは口から離すことはありませんでした。ここには、そんな乳飲み子のように、霊の乳飲み子である私たちも、神のことばである聖書を一生懸命に慕い求めるようにと教えられています。

 

Ⅰ.捨てるべきもの(1)

 

まず1節をご覧ください。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」

 

ここには、「ですから」という言葉で始まっています。それは、前の箇所とのつながりで語られているということです。前回のところでペテロはどんなことを語ってきたのでしょうか。22節には、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」と勧めました。そして、そのようなたましいの救いはどのようにしてもたらされたのですか。23節にはこうありましたね。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わるこのない、神のことばによるのです。」この世の種はみな朽ち果ててしまいますが、私たちが新しく生まれたのは朽ちない種、生ける、いつまでも変わらない神のことばによるのです。「ですから・・」です。

 

この事実に基づいてペテロは、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」と言っているのです。ここには神の言葉によって新しく生まれた者はどうあるべきなのかの前に、そのような者が捨てるべきものは何かを述べています。それは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口です。この「捨てて」と訳された言葉は、「脱ぎ捨てて」という意味の言葉です。真理のことば、神のことばによって新しく生まれた者は、泥まみれの汚い衣服を脱ぐように、ふさわしくない古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

それはまず「すべての悪意」です。ペテロはここで、すべての悪意を捨てるようにと言っています。悪意とは何でしょうか。悪意とは、他人に害を加えようとする悪い心のことです。そのことが恨みやねたみ、敵意や不平不満など、あらゆる悪へと広がっていきます。イエス様はマルコの福音書7章20節で、「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」と言われました。「内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:21~23)内側にあるものが外側に表れます。その内側にある悪の根こそ悪意であり、そこからすべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口といったものが出てくるのです。

 

このような悪意があるとどうなるでしょうか。当然、互いに愛し合うことができなくなってしまいます。ですから、悪意というのは教会の交わりを損なわせる原因となのです。ですから、ペテロはここで互いに愛し合うためにはまず、すべての悪意を捨てなければならないと勧めているのです。

 

真理のことばによって新しく生まれたクリスチャンが捨てなければならない二番目のものは、「すべてのごまかし」です。ごまかしと訳された言葉は、釣り針にえさをつけるという言葉から来ています。釣り人はどうやって魚を釣るのでしょうか。釣り針にえさをつけて、「これはおいしいですよ。どうぞパクリと食べてください」とだまして釣ります。そのように他人をだますこと、それがごまかしです。最初の人アダムとエバが罪に陥ったのも、悪魔の巧妙なごまかしによりました。「神さまは、ほんとうに食べてはならないと言われたのですか。」と疑いを起こさせると、「あなたが食べても死にませんよ」と神のことばを否定し、「あなたが食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言ってだましたのです。そのようにもっともらしく見せかけて人をだますこと、それがごまかしです。こうしたごまかしは自分の信用を失うばかりか、人との信頼関係をも壊します。ですから、このようなごまかしを捨てなければなりません。

 

次に、いろいろな偽善を捨てなさいとあります。「偽善」とは役者を演じることです。役者は自分でない自分を演じます。本当の自分を隠して他人を演じるのです。よくテレビのドラマなどを見ていると、よくできるなぁと感心させられます。最近見たドラマに「小さな巨人」という番組がありましたが、その役者さんはものすごい迫力でしたね。ちょっとやりすぎじゃないかと思うくらいの演技力でした。役者は自分の心とはかけ離れた顔で、真の感情とは全く異なった言葉でその人になりきるのです。テレビのドラマは一つの作品なのでいいのですが、そうした偽善が私たちの日常生活で行われると相手に対して壁を作ってしまい、親しい交わりができなくしてしまいます。ですからここでは「いろいろな」とあるのです。そのいろいろな偽善を捨てなければなりません。

 

クリスチャンが捨てなければならないもう一つのものは、ねたみです。ねたみとは、相手が成功したり祝福されているのを見てうらやんだり、苦い思いを持つことです。ねたみはクリスチャンになってもなかなか抜けない性質の一つです。キリストの弟子たちですら、だれが一番偉いかと最後まで議論していたほどです。しかし、こうした性質は互いに愛し合うことを妨げ、良い人間関係を築き上げていくことを破壊してしまいます。

 

最後にクリスチャンが捨てるべきものとしてペテロが挙げているのは、すべての悪口です。悪口とはだれかのことを引き下げて話すこと、その人を非難中傷することです。そういう人はたいてい人と話すとき、「あの人はすごいよね」という会話になったとき、「まあ、確かにそうだけど、でもね、本当はね、こうなんだよ、ああなんだよ」と、その人をどうにか引き下げようとする思いが働きます。それは、大抵の場合、心の中のねたみが原因となっています。こうした悪口やうわさ話はだれもがあとになって悔やみ、悪いということを認めているものの、同時にほとんどすべての人が楽しむものでもあるのです。しかし、まず陰口や悪口ほど問題を引き起こし、相手の心を痛めさせ、兄弟愛やクリスチャンの一致を破壊するものはありません。それゆえに、ペテロはここで悪口を捨て去るようにと勧めているのです。

 

そしてこれらの言葉に「すべて」とか「いろいろな」いう言葉が付けられていることに着目してください。つまり、どんな種類のものでもいけないということです。生ける、いつまでも変わることのない神のことばによって新しく生まれたクリスチャンはまず、こうした古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

Ⅱ.みことばの乳を慕い求めなさい(2)

 

では、霊的に新しく生まれたクリスチャンが積極的に求めていかなければならないものは何でしょうか。2節をご覧ください。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

 

ここから教えられることは、私たちはまだ最終的な救いに達していないということです。確かに神の恵みにより、イエス・キリストを信じたことでたましいの救いをいただくことができましたが、それは救いが完成したということではなく、私たちの中に救いが始められ、その救いの中に置かれているということなのです。ですから、パウロはピリピ人への手紙の中で、「自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と勧めているのです。私たちは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス様を信じたことで完全に救われました。しかし、一方では、その救いというのは私たちの一生をかけて完成されていくものでもあるのです。神が真理のみことばによって始めてくださった救いの業を、私たちが聖霊の恵みに信頼することによって達成していくという面があるのです。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださいます。神は私たちに働いて救われたいという思いを与え、その救いの種を植え付けてくださいました。しかし、それはまだほんの始まりにすぎません。その救いの芽を大きく育てていかなければならないのです。いったいどうしたら成長していくことができるのでしょうか。

 

ペテロはここで、そのためには「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」と言っています。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

なぜなら、それは何の混じりけのない「純粋な」神のことばだからです。私たちが日ごろ食べている食物にはいろいろな添加物が混じり込んでいて、何が本物なのかわかりにくくなっています。そのため混ぜ物をした方がおいしく感じてしまうことがあります。今はそういう時代です。純粋なみことばに、いろいろな物を混ぜた方がおいしいと感じてしまうのです。いつの時代でも、福音宣教においては、こうした人の口に合うように何らかの混ぜ物をしようとする試みがなされてきました。しかし、神のことばは純粋で、ピュアなものです。この純粋なみことばの乳によってこそ、私たちの信仰は養われていくのです。

 

私たちの教会では聖書通読を重んじています。毎週の礼拝と個人の礼拝、デボーションを大切にしていきたいと願っています。それは、この神のみことばが私たちを救い、成長させてくれると信じているからです。毎日、少しずつでもこのみことばの乳を飲んでください。そうすれば、この純粋なみことばの乳によって私たちの考え方や、生活が変えられていくのです。このみことばの乳を慕い求め、毎日飲む習慣を身に着けていただきたいものです。ではどのようにこれを求めたらいいのでしょうか。

 

ここには、「生まれたばかりの乳飲み子のように」とあります。皆さんも、生まれたばかりの乳飲み子がお母さんのおっぱいを吸うのを見たことがありますか。それは必死というか、ものすごい勢いで飲みます。まだ目が見えない時から、お母さんのおっぱいを探し当て、すごい勢いで飲むのです。まだ他のことは何もできないのに、あの小さな体のどこに、そんな力があるのかと不思議に思うほどです。まるでそのことに生死がかかっているかのようです。周りで見ている者にとっては、そんなにあわてなくても大丈夫よ、と声をかけてあげたくなるほどです。しかもそれを2~3時間ごとに繰り返します。おっぱいを飲んでやっと寝たかと思うと、またすぐにおっぱいが欲しいと泣き叫びます。すると、またしても変わらぬ勢いでゴクゴクと飲み始めるのですから驚いてしまいます。それは元気な証拠ですから、親にとっては嬉しいことですが、そのあまりの頻繁さに、夜中に何度も起こされて「もう勘弁してよ!まだ飲むの?」と思ったことがある母親も多いのではないでしょうか。

 

このたとえによってペテロはどんなことを言いたかったのでしょうか。それはこの乳飲み子のように、生まれたばかりのクリスチャンもみことばの乳を慕い求めるようにということです。乳飲み子は母乳が与えるのをじっと待ってはいません。母親がそれを口に流し込んでくれたら飲みますよ、という態度ではなく、ミルクが欲しいという思いを体全体で表し、かつありったけの声を出して、必死に求めます。そしてそれが与えられると一生懸命に、ただそのことだけに集中して飲み続けるのです。私たちのみことばに対する態度はどうでしょうか。赤ちゃんがこのようにお乳を飲まなかったら、それはその体のどこかがおかしいということです。どのようにお乳を飲むかによって、健康なのか、あるいは不健康なのかがわかるのです。であれば、私たちのみことばに対する姿勢によって、私たちの霊的健康の度合いも知ることができます。私たちは、純粋な、みことばの乳によって、与えられたいのちが養われ、それを成長させ、救いのゴールに向かって力強く前進して行くことができるのです。

 

詩篇42篇1節には、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」とあります。鹿が谷川の流れを慕い喘ぐという表現はどこかのどかで、美しい情景が思い浮かべますが、実際はそのようなイメージとはほど遠く、飲み水を求めて谷川の水を激しく慕い求める鹿の姿が描かれているのです。パレスチナには雨季と乾季があって、乾季にはまったくと言ってよいほど雨が降らないため、多くの川は干上がってしまいます。そのような中で鹿にとっての唯一の水源は、谷川を流れる水溜りのような水だったのです。その水を求めて鹿は、もはや川とは呼べないような谷川の水を、激しくむさぼり飲んだのです。

 

生まれたばかりの乳飲み子が乳を慕い求める姿と、鹿が谷川の流れを慕い求める姿に共通していることはどんことでしょうか。どちらも必死であるということです。そのようにクリスチャンも、純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

今から200年ほど前、イギリスの田舎の小さな家に、メリー・ジョーンズという10歳の女の子がいました。日曜の朝になると、メリーは両親と一緒に4キロほど離れた村の小さな教会へ出かけます。教会では聖書のお話を熱心に聴きました。学校で読み書きを習い、聖書が読めるまでになりましたが、教会に行かないと聖書を読むことができません。その頃、聖書はとても高価で貴重なものだったのです。「もっと聖書を読みたい」メリーは、自分の聖書が欲しいと思うようになりました。メリーの家はとても貧しく、靴も買えないような暮くらしぶりでしたが、メリーは聖書を買うために一生懸命、お金を貯ためました。

6年が過ぎ、ようやく聖書が買えるほどのお金を貯めることができました。でもどこで聖書が買えるのでしょう?聖書を探すメリーは、バラという町に聖書を数冊持っている人がいると教えられました。欲しかった聖書が手に入ると聞き、彼女は40キロも離れたバラの町まで歩いて行くことを決心をしました。果てしなく思えるような長い道のりを、メリーは裸足で進んで行きました。多くの小道を抜け、谷や小川を渡り、丘を越えて、ようやく町に到着しました。 そして、人々に道をたずねて、とうとう教会に着きました。

「聖書が欲しいんです。」玄関のドアが開くと、メリーはチャールズ牧師に頼みました。ところが、チャールズ牧師は困った顔をして言いました。「聖書は全部売れてしまったんだ。残っている3冊も友だちにやると約束したものなんだよ。」これを聞いたメリーは全身の力がぬけて泣き出しました。チャールズ牧師はそれを見みてしばらく考えこんでいましたが、やがて隣の部屋から聖書を手に戻ってきました。「メリー、きみの聖書だよ。」チャールズ牧師はなんと3冊ともメリーに手渡したのです。「きみの町に住む人たちにも分けてあげるといい。」チャールズ牧師は1冊分のお金しか受け取りませんでした。メリーは真新しい聖書を手にすると、飛び上がって喜び、心から感謝をしました。「チャールズさん、イエス様、ありがとう!」

メリーは喜んで家に帰っていきましたが、聖書を求めて裸足で旅してきたこの少女のことがチャールズ牧師の頭から離れませんでした。「もっと大勢の人々が聖書を手にできるようにしなければならない。」チャールズ牧師は、多くの有名人にメリーとの出来事を訴えました。それから4年、メリーの話に感動した人々の協力によって、世界最初の聖書協会がイギリスに設立されました。「誰もが買える価格で聖書が読めること」、「人々が普段使っている言語で聖書を読めるようにすること」、これが聖書協会の働きの出発点となりました。

 

聖書を手に入れることにこんな苦労をしていた時代と比べて、私たちはなんと恵まれていることでしょうか。かりそめにも、聖書を読むことが義務感からということの無いようにしたいものです。聖書は、神様が私たちに与えて下さったラブレターです。本当に愛し合っている男女がラブレターを放って置くはずがありません。どんなことが書かれているのか、期待と興奮をもって読むはずです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めましょう。

 

Ⅲ.主のいつくしみを味わっている(3)

 

第三のことは、なぜそのようにみことばを慕い求めるのか、その理由です。3節をご覧ください。ペテロはその理由をこのように言っています。「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」

 

どういうことでしょうか。ペテロはここで、「あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知っているのだから、このようにすべきである。」と言っているのです。このようにというのは、みことばの乳を慕い求めることです。私たちがみことばを求めるのはどうしてなのかというと、みことばによって、主の恵み深い方であることを、すでに味わい知っているからなのです。

 

私たちはみことばによって何を味わったのでしょうか。私たちが味わったのはまず救いの恵みです。パウロが言っているように、私たちの救いは、自分の力ではどうすることもできませんでした。変わりたいけれど変われない、止めたいけど止められない、したいけどできない、ほんとうにみじめな人間でした。しかし、自分にはできないことを神はしてくださいました。神はキリストを遣わし、私たちの罪のために十字架で死んでくださることによって、この罪を処罰してくださいました。ですから、私たちはこのキリスト・イエスにあるいのちと御霊の原理によって、罪と死の原理から解放されたのです。私たちはこの救いの恵みを味わいました。罪が赦されるというほど大きな喜びはありません。私たちは、この罪の赦し、永遠のいのち、救いの喜びを味わったのです。

 

しかし、私たちが味わったのは救いの喜びだけではありません。私たちが日々この地上で生きていく上でも、多くの恵みを受けています。神の恵みは尽きることがありません。それは朝毎に新しいのです。

哀歌3章22~23節には、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝毎に新しい。あなたの真実は力強い。」とあります。

イスラエルが荒野を旅した時も、神は天からのパンをもって日々彼らを養ってくださいました。何日も前のパンではなく、その日、その日に必要なだけのフレッシュなパンです。それは朝毎に新しい恵みなのです。同じように、神は天からのマナをもって、私たちの糧を与えてくださいました。私たちには霊的な必要や物質的な必要ばかりでなく、肉体的や精神的なものも含めいろいろな必要がありますが、神はそうしたすべての必要も満たしてくださいました。祈りがかなえられるということもそうです。これまで何度も自分の力ではどうすることもできないということがありましが、不思議に神が助けてくださり、その道を開いてくださいました。治るはずじゃない病気が治ったり、受かるはずじゃなかった大学に受かったり、通るはずじゃなかった試験に通ったりといったことがたくさんありました。それはたまたまそうなったのではなく、そこに神が働いてそのようにしてくださったのです。すべては神の恵みなんです。私たちはそうした神の恵みを味わったのです。危険から守られるのもそうです。皆さんもこれまで何度かヒヤッとした経験をされたことがあるのではないでしょうか。あと1秒遅かったら、もしあの電車に乗っていたら、ということがありました。しかし、神はそうした危険からも守ってくださいました。いろいろな祝福もありました。入学や就職、結婚や出産、家族が守られたこと、住まい、健康など、私たちは当たり前だと思っていますが、実はそうではなく、これらすべて神の恵み、神の祝福なのです。私たちが受けるに値するから受けたのではなく、神の恵みによって与えられたのです。私たちはすでに、その主の恵みを味わっているのです。主がそれほどいつくしみ深い方であることを味わっているのですから、私たちは悪いものを捨て、私たちにとって良いもの、私たちのたましいを救い、成長させてくれるもの、神のみことばを慕い求めなければならないのです。

 

詩篇34篇8節には、「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」とあります。主のすばらしさを味わい、これを見つめる人はなぜ幸いなのでしょうか。なぜなら、その人は主に身を避けるようになるからです。

 

あなたはこの恵みを味わっているのです。そして、その恵みは尽きることがありません。ですから、さらにこの恵みを味わいましょう。それは純粋な、みことばの乳によってもたらされます。生まれたばかりの乳飲み子のように、このみことばの乳を慕い求めようではありませんか。それによってあなたは成長し、救いを得ることができるのです。

Ⅰペテロ1章22~25節 「互いに熱く愛し合う」

きょうは、互いに熱く愛し合うというテーマでお話します。たましいの救いのすばらしさ、偉大さについて語ってきたペテロは、13節のところから、そのようなすばらしい救いをいただいた者はどのように歩まなければならないのかについて三つのことを勧めました。第一に、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさいということ、第二に、15節にあるように、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさいということ、そして第三に、17節にあるように、この地上にとどまっているしばらくの間の時を、神を恐れかしこんで過ごしなさいというのです。では、そのためにはどうすればいいのでしょうか。

そのためには前回お話ししたように、そのためにどれほど尊い代価が支払われたのか、どれほど神に愛されているのかを知らなければなりません。それを知れば知るほど、神の恵みの大きさ、すばらしさがわかり、心から神を恐れて生きることができるようになるからです。

それでは、他の人に対してはどうあるべきでしょうか。ペテロはここであらゆる行いに対して聖なるものとされなさいと命じた後で、人との関わりにおいてどうあるべきなのかを教えています。それは、互いに心から熱く愛し合うということです。

Ⅰ.互いに熱く愛し合いなさい(22)

まず22節をご覧ください。

「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」

互いに愛し合うことは聖書の中心的な教えであって、イエス様ご自身も命じておられることです。たとえば、ヨハネの福音書13章34節には、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とあります。これはイエス様の命令であり、新しい戒めです。それは、イエス様が私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合わなければならないということでした。

また、マタイの福音書22章37~40節には、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」という律法の専門家の質問に対して、イエス様は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これが題意の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37~40)と答えられました。つまり、神を愛し、隣人を愛することが、聖書の中のたいせつな戒めであり、聖書全体が命じている中心的なことであると言われたのです。

しかし、ここには単に兄弟を愛しなさいというのではなく、互いに心から熱く愛し合いなさい、と言われています。どういうことなのでしょうか。「心から」と訳された言葉は、下の欄外の説明にもあるように、「きよい心から」という意味の言葉です。おそらくその前にある「偽りのない兄弟愛」という言葉と対照しての「きよい心からの兄弟愛」ということなのでしょう。偽りのない兄弟愛とは、偽善的でないとか、見せかけでない、うわべのものでない、真実の愛という意味です。

使徒ヨハネは、この愛についてこう言っています。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(Ⅰヨハネ3:18)それは、ことばや口先だけではない、行いと真実をもった愛です。ヤコブは、国外に散っていたクリスチャンに宛てて、次のように書き送りました。

「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:15-17)

この行いと真実をもった愛について教えてくれる実際にあった一つの話を紹介したいと思います。それは、ジョー&メイ・レムケというご夫妻に起こった驚くべき愛の物語です。

1952年、奥さんのメイはレスリーという六ヶ月の男の赤ん坊の世話を頼まれました。このときメイは52歳で、体力的には少し衰えを感じていが、レスリーは生まれつき脳に異常があり、言語障害と記憶障害を抱えており、その上早産のため網膜に問題があり、生後1ヶ月で眼球を摘出したことで、産みの母親は彼を育てることを放棄したため、「障害を持ったこの子を、助けたい」と引き取ることにしました。 メイはレスリーをわが子のように深い愛情で育てました。医者たちは、この赤坊は長くは生きられないと診断しましたが、メイは「この子を絶対に死なせない」と決心し、レスリーに大きな愛を注いだのです。そして、彼を普通の赤ん坊のように育て始めました。彼の頬の近くで大きな吸引音を出して、哺乳瓶から普通にミルクを飲めるように教えました。すぐに彼女はこの子の世話をするために仕事を止めました。彼女の友人たちは「あなたは自分の人生を無駄にしようとしている」と忠告してくれましたが、彼女はレスリーを育てることを止めませんでした。 生後、なんらかの成長がみられるまで、7年もの歳月がかかりました。その間、レスリーは言葉や動作、感情もありませんでした。事態は絶望的に見えました。しかし、メイは確信していました。「子どもは優しさと愛情があれば必ず治る。ずっと愛していく覚悟があれば大丈夫。私が信じている神様が、必ず助けて下さる。」 すると、12歳になってようやく立ち始め、15歳で歩くことができるようになりました。メイはレスリーのために祈り続けました。「愛する主よ、聖書には、神はすべての人間に才能を与えられた、と書かれています。どうか、この何もできなくて、ほとんど毎日横たわっているだけのこの男の子をあわれんでくださり、この子に与えられている才能を見出すことができますように助け下さい。」 メイはレスリーが、音楽に少し反応しているのを見逃しませんでした。そこで彼女は、夫のジョーと相談し、ピアノを購入し、ラジオやレコードを使ってあらゆる種類の音楽を聴かせました。レスリーは大きな関心を示している様子で何時間も音楽を聴いていました。

奇跡は、レスリーが16歳になったある日の朝早く起こりました。メイとジョーは突然鳴ったピアノの音で起こされました。すると、レスリーがピアノの前に座って、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を弾いていたのです。驚くことに、レスリーはそれまでにピアノのレッスンを受けたことはありませんでした。レスリーは突然才能を開花させたのです。それから彼は、クラシックやポップス、ジャズなど、非常に多くの曲を覚え、弾き語りも出来るようになりました。科学者たちは、どうしてそのような事が起こるのかは説明できないと言います。しかしメイは言います。「私には説明できます。これは神の与えた愛の奇跡です。心からの真実の愛に触れる時、人には不可能の扉を開き、才能を開花させることが出来るのです。」と。彼女の行いと真実をもった愛に、神が応えてくださったのです。

また、ここには「心から愛し合いなさい」というだけでなく、「熱く愛し合いなさい」、ともあります。熱く愛するとはどういうことでしょうか。ペテロの手紙を見るかぎり、随所にこのような表現があることがわかります。たとえば、13節には、「ひたすら待ち望みなさい」とありますし、また15節にも、「あらゆる行いにおいて」とあります。ある特定の行いにおいてというだけではなく、「あらゆる行いにおいて」です。そして、ここには「熱く」とあります。ただ愛し合うのではなく、熱く愛し合うようにというのです。これはどういう意味なのでしょうか。

「熱く」と訳された言葉は、本来「手足を伸ばす」という意味を持っています。よく「ストレッチ」という言葉を聞きますが、ストレッチとは、体のある筋肉を良好な状態にするために、その筋肉を引っ張って伸ばすことです。その張って伸ばすことから熱心という意味を持つようになりました。私たちの主イエスは、ゲッセマネの園で祈られたとき、「いよいよ切に祈られました」(ルカ22:44)。とあります。また、牢に入れられていたペテロのために、教会は神に熱心に祈り続けていました。(使徒12:5)そのように切に、熱心に、深く、全力で、愛さなければなりません。それは、神が求めておられる度合いがそれほど高いものであることを表わしています。その求めに応じて生きる者は、兄弟愛においても徹底して愛することが求められているのです。

Ⅱ.偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから(22)

いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。無理です。自分を愛してくれる人、自分によくしてくれる人ならともかく、そうでない人を愛するなんてとてもできません。それなのに、どうやって心から愛し合うことができるでしょう。もう一度22節を見てください。ここには、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」とあります。これが鍵です。どういうことでしょうか。

それは、私たちの生まれながらの力ではできないということです。生まれながの人間にあるのは、「目には目を、歯には歯を」です。「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」です。しかし、真理に従うことによって、たましいが清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになると、愛する力が与えられるのです。たとえ相手が自分の嫌なタイプや性格の人であっても、たとえ相手が自分にひどいことをするような人であっても愛することができるのです。なぜ?私たちは新しく生まれ変わったからです。真理のことばに従うことによってたましいが清められ、神の子としての性質をいただきました。偽りのない兄弟愛を抱くようになりました。ですから、愛することができるのです。

ヨハネ第一の手紙5章1節を見てください。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」

イエスをキリストと信じる者はだれでも、神によって生まれた者です。そして、神によって新しく生まれたのであれば、生んでくださった神を愛します。そして、神を愛する者は、神が生んでくださった信仰の仲間である兄弟姉妹をも愛するようになるのです。これが神によって生まれた者の特徴なのです。

ですから、ペテロはここで「互いに熱く愛し合いなさい」と命じているのです。神は、私たちができないことは命じられません。できるからこそこのように命じているのです。どうしたらできるんですか。真理に従うことによって、たましいが清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから・・。

使徒ヨハネはこう言っています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:7-11)

この「愛」は、アガペーの愛です。アガペーの愛は与える愛であり、犠牲的な愛、無条件の愛です。それは、自分の感情や気分によって左右されるような愛ではありません。それは、神がそのひとり子をこの世に遣わし、この方を私たちの罪のために、十字架につけてくださることによって示してくださった愛です。こんなにいい加減で、どうしようもない私のために、キリストが十字架で死んでくださったのです。ここに神の愛が示されました。私たちが愛したからではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。神がこれほどまでに愛してくださったのなら、その神を信じて新しく生まれた私たちも互いに愛し合うべきです。自分が好きだとか嫌いだという感情は全く関係ありません。なぜなら、この愛は感情の愛ではなく、意志を持った愛だからです。好きでも、嫌いでも、愛することができます。それは愛するという意志の問題だからです。ペテロはここで、私たちの意志に訴えているのです。あなたの感情や気分がどうであれ、あなたが真理のことばに従うことによって、たましいを清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのなら、あなたは愛することを選び取って、それを実行することができるのです。

この手紙を書いたヨハネは兄弟ヤコブとともに「ボアネルゲ」という異名を持った人です。「ボアネルゲ」とは「雷の子」という意味です。彼の性格は雷のようでした。マルコの福音書9章38節を見ると、彼について、もう少し具体的に知ることができます。彼はイエス様の弟子であるという自負心が大変強い人でした。彼は弟子ではない人が、イエス様の名前で悪霊を追い出しているのを見ると、それをやめさせました。「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している人を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』」

すると、イエス様はこのようにおっしゃいました。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」(マルコ9:39-40)

ものすごい余裕を感じます。広い心で人をご覧になっていたイエス様とは対照的に、ヨハネの心は狭く、自分と同じ意見の人でなければ受け入れることができませんでした。自分だけが正しいのではないということを認め、他の人の主張も受け入れる心が、ヨハネには必要でした。

しかし、イエス様に出会った後、彼は変えられました。彼は多くの人を受け入れる「愛の人」となりました。イエス様に出会うなら、みんな変わります。その愛の広さ、深さ、大きさにふれるなら、私たちも愛の人に変えられるのです。

ある自由主義神学者が、ヨハネの福音書を書いたヨハネとヨハネの手紙を書いたヨハネは同じ人物ではない、と言いました。同じ人物であるはずがないというのです。文体や態度があまりにも違うからです。

しかし、同じ人物なのです。確かに、文体や態度は全く違うかもしれません。けれども一つ、その人たちが見逃していることがあります。それは、ヨハネがイエス・キリストによって全く変えられたという事実です。若いころのヨハネと、成熟した後のヨハネが同じ人物であるはずがありません。イエス様は人の心を、それほど変えられるお方なのです。私たちはこの点を忘れてはなりません。愛を受けた人だけが、人を愛することができるようになります。確かに、私たちもかつてはヨハネのようにいつもゴロゴロしているような者でしたが、イエス様に出会い、イエス様の愛にふれて、新しく生まれました。偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです。ですから、互いに心から愛し合うことができるのです。私たちの中に神の愛が入ってくるなら、人を愛することができるようになるのです。

Ⅲ.神のことばに根差して(23-25)

最後に、23節から25節までをご覧ください。ペテロは、私たちが互いに愛し合うことができるのは、私たちが真理に従うことによって、たましいを清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのであるからと述べました。では、いったいどのようにして新しく生まれたのでしょうか。23節には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とあります。

私たちはどのようにして新しく生まれたのでしょうか。私たちが新しく生まれたのは、朽ちる種からでなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

ヨハネ福音書3章には、ニコデモという人がイエス様のもとを訪ねたことが記されています。このニコデモにイエスは、人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと言われました。ところがニコデモには新しく生まれるということがどういうことなのか理解できませんでした。そこで、もう一度、お母さんのお腹の中に戻るなんて出来ないと答えました。するとイエス様は、このようにおつしゃいました。

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

それは、朽ちる種というおおよそ人間的なものに由来するのではなく、神のことばという朽ちない種によってもたらされるものであるという意味です。肉によって生まれた者は肉でしかありません。しかし、御霊によって生まれた者は霊なのです。人が新しく生まれるためには神のみことばを聞き、それを信じて、心に受け入れなければなりません。その時、神の御霊、聖霊が働いて、新しく生まれさせてくださるのです。

きょうは、万希子さんがバプテスマを受けられました。バプテスマは、罪に対して死しんでいた私たちが、キリストとともに新しい人として生きることを表わしていますが、罪に対して死んでいた者が、どうやって自分を救うことができるのでしょうか。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者ですから、自分で自分を救うことなどできません。しかし、神は、彼女が通っている大学にクリスチャンの先生を備えていてくださり、その方との出会いを通して神のみことばを与え、イエス・キリストの十字架の救いを信じるように導いてくださいました。その神のみことばを通して、彼女は新しく生まれたのです。

私はもう何年も牧師をしていますが、最もよく受ける質問はこうです。「どうして私は変わることができないのでしょうか。変わりたい、本当に変わりたいと思っています。でも、どうしたら変われるのか分からない。私には変わる力がないのです。」

そうです、私たちには変わる力がないのです。私たちはいろいろなセミナーやインターネットで、自分を変えてくれるような情報を得、それを試したりしますが、二週間もしないうち最初の決意はどこかへ消えてしまい、すべてが元の木阿弥となってしまいます。以前と全然変わらないのです。自己啓発の本も読んでみますが、問題は、それは何をすべきかを教えてくれても、それを実行する力を与えてくれないということです。いったいどこにその力があるのでしょうか。

ここに、その力があります。それは、いつまでも変わることのない神のことばです。ヘブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)とあります。この神のことばは、「生ける」とあるように、生きていることばなのです。生きているということは、そこに“いのち”があることを意味しています。“いのち”があるということは、人を生かす力があるということです。罪によって死んでいた人をよみがえらせ、新しいいのちを与える力を持っているということです。この力こそ、私たちを新しく生まれさせ、私たちの人生を変える力にほかなりません。

1787年イギリス政府が南洋諸島の一つである、タヒチにパンの木の栽培のために100人ほどの人を送ったことがあります。その船の名前は「バウンティ号」でした。その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはとても魅力的でした。すると彼らはしだいに堕落し始め、本国からの使命を忘れ、口やかましい船長に反抗し、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのでした。その後彼らは本国から逮捕されるのを恐れ、ピトアケンという島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶようになりました。そうなると、彼らの間にケンカが絶えなくなってしまいました。特に仲間の一人が熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのケンカはひどくなり、殺し合いが始まるようになりました。そして最後にたった一人だけが残りました。名前はジョン・アダムズと言います。その島には西洋人はいなくなりましたが、彼との間に生まれた混血の子どもたちが生まれ育ちました。

それから30年が過ぎ、近くを通りかかったアメリカの船がその島を発見し上陸してみると、そこに驚くべき光景を見ました。何とそこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。彼はその島の王様で、父のような存在でもありました。彼は、その島に何が起こったのかをこう説明してくれました。仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いをして死んでしまったある日、一人生き残ったジョンは、難破したバウンティ号に戻ってみると、そこで一冊の聖書を見つけたのです。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引き付けられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつしか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして、彼は悔い改めたのです。彼は新しく生まれ変わりました。神の人とされたのです。その後聖霊の導きによって、子どもたちを集めて字を教え、神のみことばである聖書を教えました。するとその島は、まことのパラダイスになったのです。

神のことばは生きていて、力があります。それは、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。この神のみことばを信じるなら、私たちは新しく生まれるだけでなく、神の人に、愛の人へと変えられていくのです。なぜなら、それは朽ちる種ではなく、朽ちない種からであり、いつまでも変わらない、神のことばであるからです。

ペテロはこの真理をイザヤ書のことばを引用してこう言っています。24節、25節です。

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

「変わることがない」と訳されている言葉は、「保つ」とか「残る」という意味の言葉です。人はみな草のようにしおれ、花のようにすぐに散っていきますが、神のことばは、とこしえに変わることがありません。ずっと残るのです。永遠に生き続けるのです。これこそ、真に信頼できるものではないでしょうか。私たちに宣べ伝えられている福音のことばがこれです。

私たちは人間の知恵やこの世の栄光、力を見ると、あたかもそれが大木のように見え、そこに根を張って生きることが安全であるかのように思いがちですが、それは草であり、花にすぎません。朝にはきれいに咲かせても、夕べには枯れて散っていくはかないものにすぎないのです。私たちが信頼すべきものはそのようなものではありません。私たちが信頼すべきものは、朽ちない種、生ける、いつまでも変わらない、神のことばなのです。この神のことばがあなたを新しく生まれさせ、あなたの人生を変えてくださいます。あなたも、神のみこころに従って、互いに心から熱く愛し合うことができるのです。

ヨシュア記5章

きょうはヨシュア記5章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.割礼をせよ(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。

「ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」

 

イスラエルの神、主が、ヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞くと、ヨルダン川のこちら側、すなわち西のほうにいたエモリ人のすべての王たちや、カナン人のすべての王たちの心はしなえ、もはや戦う勇気をなくしてしまいました。したがって、もしこの時イスラエルが一挙にカナンの地に攻め込んでいれば、たちまちの内にその地を占領することができたと思われます。しかし、主はすぐに攻め込むようにとは命じないで、ある一つのことを命じられました。それは、「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」(2)ということです。いったいなぜ主はこのように命じたのでしょうか。

 

割礼というのは古代からユダヤ人の間で行われていた儀式です。その由来はアブラハムの時代にまで遡ります。創世記17章10節には、アブラハムとその子孫が世々守るべきものとして神から与えられた契約で、男子の性器を包んでいる皮を切り捨てるというものでした。それは、彼らが主の民であるということのしるしでした。彼らは生まれて八日目に、この割礼を受けなければなりませんでした。それにしても、いったいなぜ神はこのような時にこの割礼を施すようにと命じられたのでしょうか。

 

4節以降にその理由が記されてあります。つまり、エジプトから出て来たイスラエルの民のうち、戦士たちはみな、エジプトを出て後、途中、荒野で死んでしまい、その出て来た民は、すべて割礼を受けていましたが、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからです。これからカナンの地を占領するにあたり彼らまずしなければならなかったことは、この割礼を受けることでした。なぜなら、それは神が命じておられたことであり、神の民として神への献身を表していたからです。そして、そのように神に献身し、全面的に神に信頼することによってこそカナンの地での戦いに勝利することができるからです。それはある意味でバプテスマの象徴であったとも言えます。バプテスマは自分に死んで、キリストのいのち、神のいのちに生きることです。信仰の戦いにおいて最も重要なことは、このことです。それは言い換えるなら、自らを神に明け渡し、神に献身するということです。そうすれば、神が戦って勝利してくださるのです。

 

また、あのギデオンが10万人にものぼるミデアン人との戦いに勝利を収めたのは、わずか三百人の勇士たちによるものでした。当初は3万2千人の戦士がいましたが、主は、あなたといっしょにいる民は多すぎるから、恐れ、おののく者はみな帰らせるようにと言うと、2万2千人が帰って行き、1万人が残りました。10万人に対して1万人ですから、絶対的に不利な状況です。それなのに主は、これでも多すぎるから、彼らを水の所へ連れて行き、そこで犬がなめるように、舌で水をなめる者、ひざをついて飲む者は去らせ、ただ口に手を当てて水をなめた者だけを残しておくようにと言うと、たったの三百人しかいなかったのです。10万人のミデアン人に対してたったの三百人です。人間的に見るならば、全く話にならない戦いです。勝利する確率など全く無いに等しい戦いでした。しかし、この最後に残った三百人は神に全く献身した人々、神に全く身をゆだねた人々でした。ゆえに、主はこの三百人を用いてイスラエルに働かれ、ミデアンの大軍に勝利することができたのです(士師記7章)。

 

このことからわかることは、私たちの信仰の戦いにおいて重要なことは数の多さではなく、そこに神に全く献身した人たちがどれだけいるかということです。主はヨシュアにカナンとの戦いを始めるにあたり、イスラエルの人々にまず割礼を行うように命じ、神に献身することを要求されました。同じように主は、私たちが神に全く献身することを要求しておられます。私たちは主のもの、主の牧場の羊であることを覚えながら、主に自らを明け渡し、その生涯を主にささげるなら、主が私たちの生涯にも偉大な御業を成してくださいます。

 

ところで、主の命令に従いヨシュアがイスラエルの民に割礼を施すと、主は何と言われたでしょうか。9節をご覧ください。

「すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」

 

「エジプトのそしり」とは何でしょうか。「そしり」とは、悪口とか陰口、非難、恥といった意味です。口語訳では「はずかしめ」と訳しています。ですから、ここでは「エジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた」とあるので、かつてイスラエルがエジプトにいた時の奴隷の状態、そのはずかしめを取り除いたということになります。コロサイ2章10-12には、神はキリストにあって、人手によらない割礼、心の割礼を受けたクリスチャンのすべての罪を赦し、私たちを責め立てている債務証書を取り除けられた、とあります。ですから、ここでもイスラエルの民が割礼を受けることによって、かつての罪の奴隷としてのそしりが取り除かれ、神のものとされたということが確認されたのです。彼らの立場がそのようにころがされたという意味です。ですから、その所の名は、「ギルガル」、意味は「ころがす」となったのです。

 

Ⅱ.過越のいけにえ(10-12)

 

次に、10節から12節までをご覧ください。

「イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。」

 

イスラエル人は、ギルガルに宿営していたとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえをささげました。荒野にいたときには一度も行なわれませんでしたが、今ここでその過越を祝っています。なぜ過越のいけにえをささげたのでしょうか。

 

過越のいけにえとは、かつてイスラエルの民がエジプトから脱出したことを記念して行うものです。エジプトからイスラエルをなかなか出て行かせなかったパロに対して、神は最後の災いとしてエジプト中の初子という初子をみな滅ぼされると言われました。ただ傷のない小羊をほふってその血を取り、それを家のかもいと二本の門柱に塗れば、神はそのさばきを過ぎ越すと言われたのです。そのようにしてイスラエルの民は、神の裁きから逃れることができたのです。

 

あれから四十年、彼らが荒野にいる間は、この過越のいけにえがささげられませんでした。しかし今、カナンの地を占領しに出て行くにあたり、この過越の祭りを行うようにと命じられたのです。それは、イスラエルにとって四十年の試練の旅が終わり、再び神との契約が確立されたことを表わしていました。つまり、エジプトを出た後の荒野での放浪の旅の期間が正式に終わり、エジプトのそしりが完全に取り除かれたことを意味していたのです。一つの時代が終わり、新しい時代が始まりました。荒野は終わり、約束の地が訪れたのです。

 

この小羊の血は、キリストの十字架の血を指し示していました。かつてイスラエルを神のさばきから救い出した小羊の血は、これから進む約束の地においても彼らの救いと力になります。今礼拝ではⅠペテロから学んでいますが、今週の聖書箇所にこの小羊の血による贖いについてこう記されてありました。

「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18-19)

この小羊の血による贖いこそ、キリストの再臨のときにもたらされる恵みをひたすら待ち望む力となり、あらゆる行いにおいて聖なるものとされる原動力となり、この地上にしばらくとどまっている間の時を、神を恐れかしこんで過ごす動機になるのです。この小羊の血こそ私たちをすべての罪から救い出す力であり、この先の歩みにおいても勝利をもたらす秘訣なのです。私たちを罪からきよめるのは、これまでだけでなくこれからも、ずっと、この小羊の血なのです。

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)

この救いのすばらしさを知り、その恵みに生きる人こそ、献身へと促されていくのではないでしょうか。

 

さて11節を見ると、その過越しのいけにえをささげた翌日、その地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた、とあります。すると、それを食べた翌日から、マナの降ることがやみ、イスラエル人には、もうマナはありませんでした。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べました。どういうことでしょうか。

 

マナは彼らがヨルダン川を渡る直前までずっと降っていました。これは神の奇蹟です。彼らは荒野で食べるものがありませんでしたが、神は彼らを養うために天からマナを降らし、彼らの必要を満たしてくださいました。けれども今、約束の地において収穫した物を食べることができるようになったので、マナは必要なくなったのです。これからは、彼らが主体的に自分の手で糧を得ていかなければなりませんでした。

 

これは神の恵みによって救われたクリスチャンの歩みにも言えることです。クリスチャンは、神の一方的な恵みによって救われました。その恵みは尽きることがありません。その恵みはとこしえまで続きます。しかし、そのような恵みを受けた者はおのずと行動に変化が現われるのです。これまでは愛されることしか考えられ中吸った者が愛する者へ、受けることしか考えられなかった者から与える者へと変えられていくのです。自分の必要が満たされることはうれしいことですが、それよりも、自分を用いて主が御業を成してくださることに喜びを見出していくようになるのです。

 

しかし、これはあくまでも約束の地に入れられた者がこれまでの神の恵みに溢れて成すことであって、そうせねばならないと、外側から強制されてすることではありません。見た目では同じでも、その動機がどこから来ているかによって、全く違う結果となってしまうことがあります。私たちの信仰生活も強いられてではなく、内側から感謝に溢れて、心から、神に向かってしたいものです。すべては神の恵みによるのです。

 

Ⅲ.足のはきものを脱げ(13-15)

 

最後に、13節から終わりまでをみたいと思います。

「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。」

 

ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていました。抜き身の剣とは、神の強い力や勢いを象徴する剣のことです。この抜き身の剣を持つ人が、ヨシュアの前方に立っていたのです。おそらくヨシュアはエリコの城壁を目の前にして、どのようにしてその堅固な城壁を落とすことができるだろうかと悩んでいたものと思います。その時、主が抜き身の剣を手に持ち、彼の前に現われたのです。

 

ヨシュアはその時、「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵ですか。」と言いました。するとその人はそれには一切答えないで、「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と答えました。つまり、主ご自身が戦ってくださるということであり、彼はその将軍であるというのです。

 

ヨシュアにとってはどれほど大きな励ましであったことかと思います。私たちも、このような高くそびえ立つ城壁を前にすると、そこにどんなに偉大な神の約束があってもすぐに怯えてしまうものですが、そのような時でも主が共にいて戦ってくださるのです。私たちの戦いは私たちの力によるのではなく、主が共にいて戦ってくださる主の戦いなのです。いや、主が先だって進んで行かれ、その戦いを進めてくださいます。それゆえに、私たちは弱り果ててはならないし、意気消沈してはなりません。主が戦ってくださるのであれば、必ず勝利してくださるのですから、その勝利を確信して進んでいかなければなりません。そのために必要なことは何でしょうか。

 

ヨシュアが、「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」と言うと、その主の軍の将はヨシュアにこう言いました。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにしました。これはどういう意味でしょうか。

 

これはかつて、あのホレブの山で、主がモーセに対して語られた言葉と同じ言葉です。足のくつを脱ぐということは、その当時、奴隷になることを意味していました。奴隷は主人の前ではくつを脱がなければなりませんでした。したがって、くつを脱げということは「奴隷になりなさい」ということであり、神のしもべでありなさいということを示していたのです。言い換えるならば、それは主のしもべとして完全に自分を明け渡して主に従いなさい、ということです。そうすれば、たとえ目の前にどんな困難が立ちはだかろうとも、主が勝利を与えてくださるのです。

 

私たちはイエス・キリストの十字架によって救われ、その血による贖いをいただいているにもかかわらず、いつも敗北感を味わっています。いったい何が問題なのでしょうか。足のくつをぬいでいないことです。主に従っていないのです。いつも自分が優先になり、自分の思いで突っ走っています。これではどんなに主が働きたくても働くことができません。主の前で足のくつを脱がなければなりません。自分の思いに従ってはなりません。私たちは足のくつを脱ぎましょう。主のしもべとなり、主にすべてを明け渡しましょう。そうすれば、主が必ず勝利してくださるのです。

Ⅰペテロ1章18~21節 「キリストの贖い」

きょうは「キリストの贖い」というテーマでお話します。これまでペテロは神の救いの偉大さ、すばらしさについて語ってきました。それは永遠の昔から神によって計画されていたことであり、最初の人アダムが罪を犯した時から、預言者たちを通して預言されていたことです。それが時至ってイエス・キリストによって実現しました。そして、聖霊によって福音を語った人々を通して当時の人々、そして、私たちにも告げ知らされました。それは御使いもはっきりと見たいと思うほどすばらしいものです。ですから、そのような救いを受けた者は、イエス・キリストの現われのときにもたらされる救いの完成をひたすら待ち望むことが求められます。いったいどうしたら神を恐れて生きることができるでしょうか。

そこでペテロはここで贖いについて語ります。そのためにどれだけ尊い犠牲が払われたかを知れば、神の恵みの大きさ、すばらしさがわかり、心から神を恐れて生きることができるようになります。

Ⅰ.キリストの血による贖い(18-19)

 

まず18節と19節をご覧ください。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

贖いとは何でしょうか。贖いとは、奴隷の状態にあった人を、お金を払って自由にすることです。あるいは、捕らえられていた人を、保釈金を払って解放することです。また、誘拐された人を、身代金を支払って取り戻すことを言います。聖書は、私たちは皆、罪の奴隷であったと教えています。そのような状態から解放するために神は代価を払ってくださいました。それが贖いです。

ある少年が、小さなおもちゃのボートを作りました。木材をカットし、型枠を作り、それを船底にボンドでくっつけました。帆柱を立て、マストを張って、やっとの思いで完成させて、それを湖に浮かべました。それはとてもいい出来で、大満足でした。ところが、突風が吹いてきて、湖に浮かんでいたボートが沖の方に流されてしまいました。せっかく作ったばかりだというのに、どこに行ってしまったのかわからなくなりました。しかし、数日後、この少年が街の中を歩いていると、おもちゃ屋の前をとおりかかったとき、そこに自分の作った船が置いてあることに気付きました。彼は急いで店の中に入ると店の人に、「これボクの船だよ、ボクが作ったんだ」というと、店の人は、「それは違う。これはね、ある人から買ったんだ。欲しければ売ってやるよ。そうすればキミのものさ。」それで少年は家に戻り貯金箱を割って、それまで貯めていたお金とありったけのお金を持って再び店に行きました。そしてお金を払って買い戻したのです。

これが贖いです。神は、ご自身から遠く離れて罪の奴隷となっていた私たちを買い戻すために代価を支払ってくださいました。どのような代価でしょうか。ここには、「あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷も汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。

当時、銀や金は最も価値あるものの一つでしたが、たとえそれがどんなに価値があっても、それらは朽ちるものであり、一時的なものでしかありません。永遠に続くものではないのです。ここでペテロは、あなたがたが贖い出されたのはそのような朽ちるものによってではないと言っているのです。では何によって贖いだされたのでしょうか。19節には、「傷もなく汚れることもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです。」とあります。キリストの、尊い血によったのです。

ペテロは出エジプトの出来事を思い起こしていたのではないかと思います。かつてイスラエルの民は四百年の間、エジプトの奴隷として過ごしていました。そんな過酷な状態の中で主に助けを求めると主はモーセを遣わし、彼らを救い出してくださいました。しかし、エジプトの王がなかなか彼らを行かせようとしなかったので、神はエジプトに十の災いを下されました。その最後のわざわいは、エジプト中の初子という初子を打つというものでした。ただ傷のない小羊をほふり、その血を取って、家のかもいと二本の門柱に塗れば、神はその血を見てさばきを通り越すと言われたのです。そのさばきから免れる唯一の道は小羊をほふり、その血を塗るということだったのです。

ここで問題なのは、その身代わりとなった小羊とはどのようなものであったかということです。ここには、「傷もなく汚れもない小羊」とあります。それは全く罪がなかったことを表わしています。しかし、罪のない人などひとりもいません。人間であるということは罪を持っているということなのですから、罪のない人間などいないのです。罪がないとしたらそれは神だけであって、その神が人となってくださる以外に方法はありません。そこで神はそのひとり子をこの世に遣わし、その血によって罪の贖いを成し遂げてくださったのです。それがイエス・キリストの十字架です。ですから、バプテスマのヨハネはこの方についてこう証言したのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)

イエス・キリストこそ、私たちの罪を取り除くことができるまことの神であり、私たちの罪を取り除く神の小羊だったのです。本来ならば、私たちは自分の罪のために神にさばかれて永遠に神から切り離されなければならなかったのに、神はそんな私たちをあわれんでくださいました。神は私たちをさばくことをしないで救う方法を考えてくださったのです。そのためには代価が支払われなければなりませんでした。それが神の子イエス・キリストの尊い血だったのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)

この血によって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちを受けました。ですから、いつこの肉体が滅んでも、いつ死んだとしても、神の国に、天国に入れていただけるのです。これはすばらしい特権ではないでしょうか。あなたは、この特権を受けているでしょうか。あなたの罪は赦されていますか。私たちはいつも過去を振り返って、なぜあんなことをしたんだろう、こんなことをしたと後悔しながら生きています。人生をもう一度リセットすることができるものならそうしたいと思っていてもできません。しかし、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪はすべて赦され、永遠のいのちが与えられるのです。しかも、ただです。そのために多くのお金を支払ったり、もっと教育を積まなければならないとか、そのために何か修行しなければならないということはありません。それはすべて神の恵みによるのです。よく教会で何かの催しをするとき、「入場無料です。お気軽にお越しください。」とチラシに書きますが、「無料です」というと、何だか安っぽいイメージがありますが、そういう意味ではありません。それはこの世の金銀のすべてを支払っても買うことができないほど価値があるもので、そのためには、神のひとり子のいのちが支払われたのです。それほど価値があるものなのですが、それをただで受けるのです。

それは言い換えると、あなたが神の前にどれほど価値があるかを意味しています。神はあなたを買い戻すために、ご自分のいのちを支払ってくださいました。それほどあなたは価値があるのです。イザヤ書43章4節で、神はこう言っておられます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

私たちは自分では価値ある者だなんて思えません。何か優れた能力を持っているわけではありませんし、すばらしい経歴を持っているわけでもありません。いったい何のために存在しているのかさえわからなくなる小さな者です。しかし、神はそんな者を、「あなたは高価で尊い」と言ってくださる。だれか他の人の目でそう見えるかからではなく、神の目で、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している、と言ってくださるのです。それは決して口先だけのことではありません。なぜなら、そのために最も高価な代価を支払ってくださったからです。神は私たちをそれほど価値あるものと見ておられるのです。私たちの罪を赦すのは、イエス・キリストの血以外にはありません。神の子の尊い血によって私たちは罪から贖われ、神のものとされたのです。

Ⅱ.世の始まる前から定められていた贖いの御業(20)

次に20節をご覧ください。それでは、このキリストの血による贖いは、いつ定められたのでしょうか。「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。」

「世が始まる前から」とは、この世界が創造される前からということです。神はこの救いの計画を最初の人アダムとエバが創られる以前から、この世界の基が置かれる前からあらかじめ定めておられたのです。どういうことでしょうか。これは罪の贖いですから、この世界に罪が入って来た時から計画されたことではないのですか?違うんです。私たちはしばしば、神が創造したこの世界が罪に汚れてしまったのでイエス・キリストによってこの世界を救い出すように考えることがありますが、そうではなく、世界が創造されるずっと前からあらかじめ定められていたことだったのです。神は創造者であられると同様、永遠の贖い主であられるのです。そのことが、エペソ1章3節から5節までにこうあります。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにゆって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

私たちがイエス・キリストにあって神の子としていただくことは、あらかじめ定められていた神のご計画であり、その計画は世界の基の置かれる前からのものだったことがわかります。ですから、最初の人アダムが罪を犯したとき、「こんなはずじゃなかった」と、神は驚かなかったのです。そのようなことがあることを始めから知っておられました。知っておられたうえであえて彼に選択権を与えられたのです。それは彼が自分の意志で神を愛し、神に従うようになるためです。自分の意志で自由に選ぶことができないとしたら、それは本物の愛ではありません。ロボットのように、「わ・た・し・は、この・人・が・好き・で・す」みたいになってしまいます。自分の意志で選んでこそ心から愛することができるわけで、神はそのようにされたのです。

しかし、そこには常に危険が伴うのも事実です。心から神を愛することもできますが、失敗して神の命令に背くこともありますから・・。でも神は人間に自由意志を与え自発的に愛することができるようにされました。そして、そのことをあらかじめ知っておられた神は、ずっと昔から救いの計画を持っておられたのです。そして、最初の人アダムが失敗したときすぐに、あらかじめ定めておられ救いの計画を実行されました。それは創世記3章15節にあるように、女の子孫から救い主を遣わすということでした。メシヤ、キリスト、救い主が来て、贖いの代価として自分のいのちを与えるということだったのです。

それが、「この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。」終わりの時とは、イエス・キリストの現われとともに始まりました。ユダヤ人はこの終わりの時をこの先の未来のことと考えていましたが、使徒たちはこの終わりの時はすでにキリストとともに始まったと考えていました。彼らは終わりの日に聖霊が注がれると理解していて、ペンテコステの時にそれが成就したと考えていたのです。永遠の初めからおられた方が、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。それが今から二千年前の受肉という出来事です。神が人となって生まれたクリスマスの出来事です。

ヨハネは、このことをこう言っています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。ひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)目に見えない神が、目に見える形で現われてくださいました。ことばが人となって来てくださいました。この方は栄光に満ちておられました。それはひとり子としての栄光です。私たちはこの栄光を見たのです。それはひとり子としての栄光であり、私たちの救い主イエス・キリストです。

いったいこの方は何のために来られたのでしょうか。ここに、「あなたがたのために」とあります。イエス様はあなたのために来られました。あなたを罪から救ってくださるために、あなたを罪から贖うために来てくださったのです。そのことが、ガラテヤ書4章4~5節では次のように言われています。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、この結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」このために来てくださったのです。神の律法によってはだれも義と認められることはありません。そのような者を贖うために、この方が律法の下にある者となって、私たちの刑罰を代わりに十字架で受けてくださいました。それゆえ私たちはその律法から解放され、子としての身分を受けることができたのです。

ですから、十字架の上でキリストはこのように叫ばれたのです。「完了した。」(ヨハネ19:30)あなたが罪のために支払わなければならない代価は完了しました。完済しました。住宅ローン等で苦労しておられる方も多いかと思いますが、結構厳しいですよね。精神的にズッシリきます。全部支払いが終わったらどんなに楽になるかと思います。イエス様は私たちの罪のために支払わなければならない債務を完済してくださいました。あなたの救いは完成したのです。この罪の贖いを信じるものは、だれでも罪が赦され、神の子とされるのです。

Ⅲ.キリストをよみがえらせた神(21)

第三のことは、この贖いの保証です。それは神がこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったということです。21節をご覧ください。「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」

ペテロはここで、キリストがよみがえられたことを強調しています。なぜでしょうか。キリストの贖いがどれほどすばらしいものであったのかを語ればそれで十分だったのではないでしょうか。いいえ、そうではありません。もし罪の贖いの代価がどれほどすばらしいものであったとしても、キリストがよみがえらなかったとしたら、その罪の贖いは不完全なものであったということになります。支払い不足ということになるのです。私が払っておきますと言っておきながら、お金が足りませんでしたということにもなりかねないのです。なぜなら、それで十分であったのかどうかを知ることができないからです。死んだだけであればすべてが終わりであって、本当にそれが完全な贖いであったかどうかを知ることなどできないからです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。そのことによって、この罪の贖いが完全であったことを証明してくださったのです。バークレーという注解者のことばで言うと、「キリストの勝利を論じないで、キリストの犠牲を語る人はほとんどいない。」(聖書注解シリーズ14、P246)のです。ペテロはこの復活の証人でした。キリストが復活したということは、この贖いが完全であったということの証明でもあったのです。ですから、ペテロは復活の主イエスと出会い、自分のいのちをかけて本気でキリストを伝えたのです。「本当です!キリストは私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。この十字架は私たちの罪を贖うための完全な代価であって、永遠の昔から神が定めておられたことだったんです。このイエスを救い主と信じるなら、あなたも救われます。なぜなら、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったからです。本当です、本当です。」と、本気になって伝えたのです。私たちの信仰と希望は、このキリストをよみがえらせてくださった神にかかっています。イエスの十字架での死によって、私たちは罪の奴隷と死の束縛から解き放たれました。そして、イエスがその死からよみがえられたことによって、イエスご自身と同じいのち、永遠のいのちにあずかるものとされたのです。

ペテロはここで、「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。」と言っています。「私は、神様を信じています」という人はたくさんいます。しかし、問題はその神がどのような神であるかということです。いわしの頭も信心からで、私たちは何でも神にしてしまう傾向があります。信じる者は救われる、何でもいいから信じることが大切だというのです。でも人が考えた宗教を信じても、そこに本当の救いはありません。そのような宗教は私たちの罪を贖うことはできないからです。私たちの罪を贖うことができるのは、人なって来られた神イエス・キリストだけです。キリストが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、三日目によみがえり、それが本当であるということを証明してくださいました。ですから、このイエスを信じるものは誰でも救われるのです。このキリストによらなければ罪の赦しはありませんし、神に近づくこともできません。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。ですから、私たちの信仰と希望は、このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった神にかかっているのです。そしてこの希望は、絶対に失望に終わることはありません。これは生ける望みなのです。この望みを知れば知るほど、私たちに今どんな困難にあっても、それを乗り越える力が与えられます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかるので、栄に満ちた喜びに踊ることができるからです。

皆さんはいかがですか。皆さんは、どこに望みを置いておられますか。このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった主こそ、私たちの希望です。この方はご自分のひとり子の血という代価を払って、私たちを罪の中から贖い出してくださいました。それほどまでに愛してくださいました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」のです。この贖いに感謝して、キリストをよみがえらせてくださった神に信頼して、イエス・キリストの現われのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みましょう。神を恐れて歩ませていただきましょう。

Ⅰペテロ1章13~17節 「救いの恵みに生かされて」

きょうは「救いの恵みに生かされて」というタイトルでお話しします。13節には、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」とあります。「ですから」とは、これまでペテロが語ってきたことを受けての勧めなり、結論です。これまでペテロは救い素晴らしさについて語ってきました。それはある日ふって沸いたような話ではなく永遠の昔から神によって定められていたものであり、最初の人アダムが罪に陥ってからは、多くの預言者によって預言されたいたことです。そして今や、それがキリストによって表されました。永遠の救いの御業がイエス・キリストによって成し遂げられたのです。そして、天から送られた聖霊によって福音を語った人々を通して、新約時代の人々ばかりか、今の私たちにも告げ知らされたのです。ですから、このような救いを受けている者はどのように歩むべきなのかが勧められているのです。 きょうは、このような救いを受けているクリスチャンの歩みについて、三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.救いの恵みをひたすら待ち望みなさい(13)

まず第一に、救いの恵みを受けた者は、この恵みをひたすら待ち望みなさい、ということです。13節をご覧ください。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

恵みとは何でしょうか。恵みとは、受けるに値しない者が受けることです。ここでは「たましいの救い」のことを言っています。この救いは、神の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによってもたらされました。それは私たちの行いによって勝ち得たものではなく、神に一方的な恵みによるものです。この恵みを、待ち望みなさいというのです。

ちょっと待ってください。私たちは既に神の恵みによって救われたのであればどうして再び待ち望まなければならないのでしょうか。確かに、私たちは神の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、その死の中からよみがえられたことによって新しく生まれ変わったことによって、生ける希望を持つようになりました。けれども、この救いはまだ完成していないのです。この救いが完成するのは、私たちのからだが贖われ、朽ちないからだ、栄光のからだに復活する時です。それはイエス・キリストが再び来られる時にもたらされるものです。ですからここに、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みとあるのです。キリストが再び来られるとき、私たちのからだもよみがえり、栄光のからだをいただき、いつまでも主とともに生きるようになるのです。これが、救いの完成の時です。そのときもたらされる恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。

皆さんは、いかがでしょうか。その救いが完成する時を待ち望んでいるでしょうか。「私は毎日忙しくて、そんなこと考えている暇などないの」と、目先のことに振り回されてはいないでしょうか。しかし、そのときもたらされる恵みのすばらしさを知ったら、それがいかに愚かな考えであったかがわかります。それは何にも変えがたい喜び、栄光の輝きです。私たちはそれを待ち望まなければなりません。

どのように待ち望めばいいのでしょうか。ここには三つのことが勧められています。第一に、「心を引き締めて」ということです。心を引き締めるとはどういうことでしょうか。口語訳では、「心の腰に帯を締め」と訳しています。「腰に帯を締める」とは面白い表現ですね。当時ユダヤ人が着ていた服は一枚の布をかぶったようなものだったので、そのままでは服が邪魔になって仕事になりませんでした。そこでいざという時にすぐに身動きできるように、着物の腰に帯を締め、裾をまくりあげて整えたのです。

かつてイスラエルがエジプトを出て行くにあたり、過越の祭りが制定されましたが、それを食べる時、腰の帯を引き締め、足に靴をはき、手に杖を持ち、急いで食べるようにと命じられました。なぜなら、時間がなかったからです。急いでエジプトを出なければなりませんでした。すぐに動けるように腰には帯を締め、足には靴を履き、手には杖を持たなければならなかったのです。そんな恰好で食べていたら、「あなたは落ち着きがないですね」と言われそうですが、いつでも旅立てるように準備してかなければなりませんでした。同じように、イエス様が来られ、神の怒りから私たちを救ってくださるのですから、しっかりと心を引き締め、イエス様がいつ来てもいいように備えていなければなりません。

パウロはエペソ人への手紙6章の中で、悪魔の策略に対して立ち向かうことができるため、神のすべての武具を身に着けるようにと言っていますが、その最初に出てくるのが帯を締めるということです。「ではしっかり立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け」(エペソ6:14)とあります。悪魔の策略に対して立ち向かうためには、まず真理の帯を締めることが必要なのです。これがないと動けません。

ヨハネの福音書8章32節には、「真理はあなたがたを自由にする」とあります。神の真理によって自由になりなさい、神の真理によって準備を整えておきなさいということです。人の考えやこの世の考えでは不自由になってしまいます。そうした考えに縛られて身動きできなくなってしまうのです。しかし、真理はあなたがたを自由にします。この真理の帯を締めなければなりません。

皆さんはどうでしょうか。どのような帯を締めていますか。この世の凝り固まった考えという帯をしていませんか。そうではなく、真理の帯を締めなければなりません。

第二に、身を慎まなければなりません。身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、待ち望まなければなりません。「身を慎む」とはどういうことでしょうか。この「身を慎む」と訳された言葉は、「しらふである」とか、「お酒に酔っていない」という意味です。お酒を飲むとどうなりますか。大抵の場合、酔っぱらって無感覚になり、判断力が鈍ります。その結果、自分を制御することができなくなってしまいます。よく酒を飲んで泥酔し、自分がやったことを全然覚えていないというニュースを聞きますが、何をしているのかがわからなくなってしまうのです。ですから、身を慎むとは、いつも冷静でありなさい、用心深く、慎重でありなさいということなのです。私たちは問題が起こるとすぐに心を騒がせ、慌てふためく者ですが、そのような時でも冷静であるように、また、この世の情報に振り回され惑わされるような時があっても、そうした情報に酔うことなく、用心深く、慎重でなければなりません。

ペテロはこの「身を慎み」という言葉を、この手紙の中で他に2回用いています。4章7節と5章8節です。4章7節には、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」とあります。また、5章8節では、「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。世の終わりが近くなると、いろいろな情報が錯綜し、何が真理なのかわからなくなって惑わされてしまうことがあります。そのような時こそ祈りのために、心を整え、身を慎まなければなりません。また、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。その悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩きまわっています。ですから、その悪魔に立ち向かうために、目を覚ましていなければなりません。今どんなことが起こっているのかを悟り、身を慎み、慎重に歩まなければならないのです。これをペテロが言っていることころがおもしろいですね。彼は以前、イエス様を三度も否定しました。

「あなたはあのナザレ人と一緒にいたでしょう。」

「知らない。全然知らない。何の話かな。」

と、何も考えないで反応しました。身を慎んでいませんでした。その結果、彼は失敗してしまいました。私たちも身を慎んでいないと、ペテロのように、悪魔の策略に陥ってしまいます。心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストの現われを待ち望まなければなりません。

第三に、ひたすら待ち望まなければなりません。ここに、「ひたすら待ち望みなさい」とあります。ひたすら待ち望むとはどういうことでしょうか。この「ひたすら」と訳された言葉は、「完全に」とか、「全面的に」という意味です。やがて再び来られる主を、少しも揺らぐことなく、待ち望みなさいということです。ここに希望を置きなさいということなのです。

皆さん、イエス・キリストが再び戻って来られるということよりも良い知らせはありません。それはお金が儲かることよりも、宝くじが当たることよりも、不治の病がいやされることよりも、事業に成功することよりも、商売が繁盛するよりも、何よりも良いことです。なぜなら、死んでも新しいからだをいただいて、永遠に主とともに生きるようになるからです。この世の人にはそれがありません。彼らはただ死を待っているだけです。この世でどんなに繁盛しても、死んだら灰となってすべてが終わってしまいます。ただ死んで朽ちていくだけなのです。それはあまりにも空しいではないでしょうか。

しかし、私たちは違います。この地上では何の報いも受けないような者でも、イエス・キリストを信じてたましいの救いをいただき、神の子とされたので、やがてイエス・キリストが迎えに来てくださいます。たとえ死んで灰になっても、やがて復活の新しいからだをいただき、イエス様と同じ姿となって、天において永遠に生きることができるのです。これほどの希望はほかにありません。この望みを捨ててはなりません。この望みは失望に終わることはありません。失望に終わることがない希望、それこそ本当の希望です。この希望をひたすら待ち望まなければならないのです。それが神の恵みによって、イエス・キリストを信じた者として、この世にあってあるべき姿なのです。

Ⅱ.聖なる者とされなさい(14-16)

第二のことは、聖なる者とされなさいということです。14節から16節までをご覧ください。

「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」

神の恵みによって救われた者にとって必要な第二のことは、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなさいということです。聖なる者とされるとは、神のために聖別されたとか、分離された、分けられたという意味です。イエス様はヨハネの福音書17章14節から17節のところで、弟子たちのためにこう祈られました。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪いものから守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」

私たちは真理のことば、福音を聞いてイエス・キリストを信じ、罪から救われました。それでこの世から分離されました。この世に生きていますが、もはや私たちはこの世に属しているのではなく、神に属する者とされたのです。そして、神に属する者とされた者は、キリストを信じる以前の行いと、その行いが変えられます。私たちが救われるためには行いは関係ありません。イエス様を信じる信仰だけで救われます。しかし、本当に信じたのなら、信じて救われたのなら、その行いが以前とは変えられるのです。皆さんどうでしょうか。キリストを信じる以前と今とではずいぶん変わったなぁと思いませんか。

私は18歳で信仰を持ちました。それ以前はごく普通の高校生というか、よく授業をさぼって、部室や近くの喫茶店で時間をつぶしていました。朝ごはんを食べてもすぐにおなかが空くので、授業をさぼってそういうところで弁当を食べていたのです。朝から晩までバスケットボールに明け暮れ、バスケットボールのために学校に行っているようなものでした。ですから、高校3年生になって部活動が終わったときは何もすることがなくなって、毎晩友達の家に行って遊びほうけていました。まあいい加減というとか、何か満足するものを求めていたんじゃないかなぁと思いますが、その満足がわからなくて、何をしても心の深いところではいつも虚しさを感じていました。しかし、知り合いに誘われて教会に行きイエス様を信じて変えられました。

「だれても、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

イエス様を信じたら、もっと聖書のことを知りたいと思うようになり、一生懸命聖書を読むようになりました。それまでは本を読むという習慣がほとんどなく、ギデオン協会からもらった聖書を大切に本棚にしまっておくだけでしたが、もっとイエス様のことを知りたいと思うようになってむさぼるように読むようになりました。そして、私の人生の中心にイエス様がいてくださるのがわかりイエス様中心の生活へと変えられていきました。よくBeforeとAfterと比較されることがあります。それ以前とそれ以後がどのように変わったのを比較するわけですが、私はイエス様を信じて全く変えられました。今でもこんなにひどい人間なのですから、以前どれほどひどかったかを想像することができるでしょう。神は、そんな者を全く変えてくださいました。イエス様を自分の罪からの救い主として信じた瞬間から、神の御霊がキリストに似た者に変えてくださったのです。

では、キリストを信じた者はどのように変えられるのでしょうか。その特徴は何でしょうか。ペテロはここで、「従順な子どもになり」と言っています。イエス・キリストを信じて神の子どもとなった者は、神に対して従順な子どもになります。これがクリスチャンの特徴の一つです。神のことばに聞き、そして神に、キリストに従います。しかし、信じていない人はどうでしょうか。信じていないわけですから、従いません。聞いても従いたくありません。いや、従えないのです。生まれながら人は神に対して不従順です。パウロはそのことをエペソ2章3節でこのように言っています。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

私たちもそうでした。以前は神に対して不従順でした。なぜですか。無知だったからです。ペテロはここで、「以前あなたがたが無知であったときのさまざま欲望に従わず」と言っています。何に対して無知だったのでしょうか。神について無知でした。まことの神がただおひとりであることを知りませんでした。いろいろな神々がいると思っていました。それは人が作ったものであることを知っていたのに、本気でそのようなものを拝んでいたのです。そして、まことの神が天地の創造主であり、自分たちをお造りになられた方であるということも知りませんでした。そして、その神が私を愛していることも知りませんでした。霊的に無知だったので、さまざまな欲望に従い、自分の好き勝手に歩み、もやりたい放題でした。これが以前の生活です。

しかし、今はどうですか。今は真理を知りました。イエス・キリストを信じて新しく生まれ変わりました。神の子どもとされました。神の子どもの特徴は何ですか。従順です。ですから、今は以前のような不従順な子どものようなさまざまな欲望に従って歩むのではなく、15節にあるように、聖なる方にならって、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなければなりません。私たちを救ってくださったのは聖なる方、神ご自身です。それは私たちが従順な子どもとなり、あらゆる行いにおいて聖なる者となるためです。どうしたらあらゆる行いにおいて聖なる者とされるのでしょうか。あなたがたを召してくださった聖なる方にならうことによってです。エペソ5章1節には、「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」とあります。神にならう者となりなさい。私たちの模範は、神ご自身です。私たちが神にならうなら、だれでも神のように変えられます。

いったいなぜ私たちはあらゆる行いにおいて聖なる者とされる必要があるのでしょうか。16節にはこうあります。「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

まだ子供たちが小さかったとき家族でアメリカに行きました。そのころは家内の両親も元気だったわけですが、おじいちゃんの姿を見て、「あっ」というのです。「どうしたの」と尋ねると、「マミー、グランパーそっくり」と言うのです。その歩く姿が父親そっくりだというのです。どれどれとよく見てみると本当に似ているのです。DNAというのは受け継ぐんだなぁと思いましたが、ただDNAを受け継いでいれば似るというわけではありません。一緒にいて関わりがないと、全然似てないということもあるのです。一緒にいて関わっていると、どんな人でも似てくるのです。

私は時々だれかから「奥様にそっくりですね」と言われることがあります。私は日本人で、家内はアメリカ人ですよ。私はうさぎで家内は亀のような性格ですから、似ても似つかわしいと思いますが、どうも似ているらしいのです。本当かなぁと思ってよく考えてみると、確かに考え方において似ているなぁと思いました。先日結婚34周年を迎えましたが、ずっと長い間一緒にいると、考え方が似てくるのです。だから、誰と一緒にいるか、だれと関わるのかということはとても重要なことなのです。子どもが親に似せられるのは親との関わりを持っているからであって、その親がどういう人であるかは子どもの将来にとってとても大きな影響を与えることになるのです。そして、私たちは神の子どもとされました。神の子どもとされたのであれば、当然神のようになるはずです。神はどのような方ですか。神は聖なる方です。ですから、私たちも聖なる者でなければならないのです。

ペテロは、それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」と言っています。聖書にそう書いてあるので、そうでなければならないと言っているのです。どこに書いてあるのでしょうか。レビ記です。レビ記は、奴隷から救われたイスラエルの民が約束の地においてどのように生きるべきかを教えています。以前彼らは奴隷でした。でも彼らはそこから救い出されました。ですから、彼らは新しい約束の地に行ったときどのように生きるべきかを知る必要がありました。その基準が書かれてあるのがレビ記です。神が約束してくださった地はとても潤った土地でした。ところがそこに住んでいる人たちは神を知らない邪悪な人たちでした。ですから神は彼らを追い払うように、そして、彼らの生き方をまねないように、以前の生き方をしないで、新しい生き方をするように勧める必要があったのです。それはあらゆる行いにおいて聖く生きるということでした。なぜなら、神は聖なる方ですから、神の民であるイスラエルもそうでなければならなかったからです。

同じように、私たちも以前は罪の奴隷として生きていましたが、神のあわれみによってイエス・キリストを信じてその罪から救われました。その救われた者にとって必要なことは従順な子どもとなり、以前無知であったときのあらゆる欲望に従って生きることではなく、私たちを召してくださった聖なる方にならって生きることです。その方は聖なる方なのですから、私たちも聖でなければならないのです。私たちがあらゆる行いにおいて聖くされること、それが神のみこころなのであって、イエス・キリストに似た者とされること、それが私たちのゴールなのです。

Ⅲ.神を恐れかしこんで(18)

第三のことは、神を恐れかしこんで生きるということです。18節をご覧ください。

「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」

キリストの恵みによって救われた人の人生は、神を畏れかしこんで生きる人生です。この「神を恐れかしこむ」というのは、神を恐れの対象としてブルブル震えながら生きるということではありません。神を恐れかしむというのは、神が常に自分の前におられると信じ、この神を意識して生きるということです。自分の前にいつも神がおられるので、そのことを意識して話し、行動し、その瞬間、瞬間を生きるのです。

なぜクリスチャンはそのようにして生きなければならないのでしょうか。それは、人をそれぞれのわざに従ってさばかれる方を父と呼んでいるからです。神はそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方です。昔から、地震、雷、火事、おやじと言われてきました。父親はそれほど威厳がある存在だったのです。しかし、今ではそれが薄れてきました。父親を父親として敬う子どもが少なくなってきました。その結果、家庭の中にいろいろな問題が起こるようになったのです。それは神に対しても同じで、神を恐れない人は悪に走るようになります。それはたとえキリストを信じていてもそうです。神を信じていると言っても健全に恐れていないと、未信者のような行動をとってしまうことになるのです。

いったい私たちの父はどのような方なのでしょうか。ここには、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方とあります。私たちの神は、私たちの行いに応じて公平にさばかれる方です。これは私たちの行いによって救われるということではありません。私たちはすでにイエス・キリストを信じたことで救われています。もう罪のさばきはありません。イエス・キリストを信じた者はみな永遠のいのちを受けます。しかし、信じた者がみな同じ報いを受けるのかというとそうではなく、その行いに応じて報いが違うのです。

ローマ人への手紙2章6,7節にはこうあります。「神は、ひとひとりに、その人の行いにしたがって報いをお与えになります。忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下さるのです。」

また、Ⅱコリント5章10節には、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。

私たちがこの地上で行ったことに応じて、神様は正しく評価してくださるのです。ですから、神を恐れかしこんで過ごさなければなりません。ペテロはここで、「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を」と言っています。私たちは、いつまでもこの地上に住んでいるのではありません。この地上の時はしばらくの間にすぎません。やがてこの地上でのいのちを終えて永遠の住まいへと帰って行きます。イエス・キリストを信じたのであれば神の国に入れられますが、そうでなければ神のいない所に入れられます。あなたはどこで永遠を過ごしたいですか。イエス・キリストを信じて神とともに永遠に過ごしたいと思いませんか。そして、そこで主イエスが戻ってこられることを待ち望むのです。その時、私たちが待ち望んでいたものが現実のものとなります。私たちのからだも復活し、朽ちないからだ、栄光のからだとなって、いつまでも主と共に過ごすようになるのです。ですから、私たちのこの地上にとどまっているしばらくの間の時を、神を恐れかしこんで過ごさなければなりません。

私たちは、神の恵みによって生ける望みを持つようになりました。ですから、私たちは心を引き締め、身を慎み、主が戻って来られるときにあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。従順な子どもとなり、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなければなりません。それは、神が聖であられるからです。ですから、私たちも聖でなければなりません。そして、主は正しくさばかれる方なのですから、その主を恐れかしこんで良い業に励みましょう。そして、やがて神から豊かな恵みを受けることを待ち望み、日々主に信頼して歩ませていただきましょう。

ヨシュア記4章

きょうはヨシュア記4章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.恵みの記念石(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。

「民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに告げて仰せられた。「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し、彼らに命じて言え。『ヨルダン川の真中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り、それを持って来て、あなたがたが今夜泊まる宿営地にそれを据えよ。』」そこで、ヨシュアはイスラエルの人々の中から、部族ごとにひとりずつ、あらかじめ用意しておいた十二人の者を召し出した。ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」

圧倒的な神の御業によってイスラエルの民がヨルダン川を渡り終えたとき、主はヨシュアに、民の中から12人、部族ごとにひとりずつを選び、ヨルダン川の真ん中で、祭司たちが立ったその場所から12の石を取り、彼らが泊まる宿営地に据えるようにと命じました。せっかくヨルダン川を渡りきったのに、なぜ再びヨルダン川に戻って石を取って来なければならなかったのでしょうか。また、なぜそれを宿営地に据えなければならなかったのでしょうか。

6節を見ると、その理由が記されてあります。つまり、それはしるしとなるためでした。後になって、彼らの子どもたちが、「これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか」と聞くとき、主がヨルダン川の水をせきとめられたということのしるしである、と答えなければなりませんでした。それは実にこのヨルダン川渡河の奇跡が、生きて働かれる主の御業によるものであることの証拠として、後世の人たちの信仰の励ましとなるためのしるしだったのです。言うならば、それはイスラエルの後世の人たちに対する教訓として立てられたものだったのです。

昔から、「ユダヤ人はどうして優秀な民族なのか」という問いがありますが、その一つの理由はここにあると思います。すなわち、ユダヤ人は、過去の体験から教訓をしっかりと受け継ぐ民族であるということです。ユダヤ人の生活の中にも他の民族と同じように多くの祭りがありますが、他の祭りと違うことは、ただ単に祭りによって浮かれ、はしゃぎ、興奮して、喜んでいるのではなく、その祭りに込められている歴史的教訓から学んでいることです。それは良いこと、勝利の体験ばかりでなく、悪いこと、失敗の体験からも、それらの事柄を通して得た教訓を、その祭りの中に託し儀式化しているのです。

たとえば、過越しの祭りはその一つです。その祭りの期間中は、どこに行っても「種なしパン」が出されます。それはこの種なしパンに大きな意味があるからです。それはイスラエル民族の屈辱と解放を記念しているものなのです。昔イスラエルがエジプトで奴隷であったとき、主は彼らの嘆きを聞かれモーセという人物を立ててそこから解放してくださいました。その脱出の際、時間がなかったので、パンを膨らませる余裕がなく、仕方なく種なしパンを食べたのです。そしてその後、過越しの祭りの際にはその時のことを忘れないために、何百年も何千年もそのことを繰り返して祝ってきたのです。彼らはその種なしパンを食べる度に、あの出エジプトにおいてイスラエルの民族が受けた屈辱と、そこから解放してくださった神の恵みを、ずっと思い起こしてきたのです。

この記念の石塚も同じです。主がヨルダン川をせきとめイスラエルの民を渡らせてくださったことをいつまでも覚え、そのすばらしい主の力を思い出し、その恵みにしっかりととどまっているために、主はわざわざヨルダン川に戻らせて12の石を取らせて、それを記念碑としたのです。

それは私たちにも必要なことではないでしょうか。私たちもこのような感謝の記念碑を立てなければなりません。主がなしてくださったその恵みの数々を思い起こし一つ一つを心に刻まなければならないのです。私たちはともすると神の恵みに対して、それが当たり前であるかのように、口では感謝といいながら、ぬくぬくとその中で生きていることがあるのではないでしょうか。かつてあの時に、あのようにすごい恵みと祝福を与えてくださったのに、そればかりか様々に起こる困難に対しても、その都度乗り越える力を与え、平安をあえてくださったのに、それらすべてを過去のもとしてしまい、何の感謝もせず、むしろブツブツと不平不満をもらし、あるいはそれらを自分自身の業績のように思って生きていることがあるのではないでしょうか。

詩篇103篇2節には、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。ほめたたえられるべき方がどのような方であるかを思い出すことが、その後の歩みの力となります。神がどのような方をあるかを知ればしるほど、神の恵みがどれほど大きいかを知れば知るほど、この神の恵みにとどまるようになるのです。

主イエスは、十字架にかかられる前夜、弟子たちと食事をした後、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯はわたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:23-25)それは、私たちのために救いを成し遂げてくださった主の恵みを覚え、その主と一つになるために主がするようにと命じられたことでした。これを行うことによって、主の成してくださったことを覚え、心に深く刻むことができます。それは聖餐だけではありません。私たちは主の恵みを具体的な形にして感謝を表すことによって主の恵みにとどまり、それが次に進ませる力となるのです。

Ⅱ.信仰によって(8-18)

次に、8節から18節までをご覧ください。

「イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。・・ ヨシュアはヨルダン川の真中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足の立っていた場所の下にあった十二の石を、立てたのである。それが今日までそこにある。・・箱をかつぐ祭司たちは、主がヨシュアに命じて民に告げさせたことがすべて終わるまで、ヨルダン川の真中に立っていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。民がすべて渡り終わったとき、主の箱が渡った。祭司たちは民の先頭に立ち、ルベン人と、ガド人と、マナセの半部族は、モーセが彼らに告げたように、イスラエルの人々の先頭を隊を組んで進んだ。いくさのために武装した約四万人が、エリコの草原で戦うために主の前を進んで行った。主がヨシュアに、「あかしの箱をかつぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させよ。」と仰せられたとき、ヨシュアは祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来なさい。」と命じた。主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。」

イスラエルの民は、ヨシュアが命じたとおりに、ヨルダン川の真ん中から12の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えました。ところで、9節を見ると、8節を補足する形での挿入のように、・・線で括られています。つまり、ヨルダン川の真ん中から取って宿営地に運び、そこに据えた石がどこから拾ってきたのかを説明しているかのようになっていますが、原文では・・     線がないばかりか、同じことの繰り返しではないのです。

口語訳や新共同訳では、川底から運び出して川岸に設置した12の石とは別に、川底にも12の石を立てた、と読むことができます。多くの訳がそのように訳しています。けれども、川の中に石を立てるというのは、川の水が増したときに見えなくなるため、記念としては意味がありません。新聖書注解によると、「川の水で流されないような大きな石が、ヨルダン川の中に据えられて、ヨシュアとその世代の記憶がまだ生々しい頃に、河岸からそれを見ることができたのである。真ん中でも、必ずしも川の流れが激しい場所と解釈する必要はない。」(新聖書注解、旧約2 P51)と注解しています。けれども、仮に一時的に川岸から見ることができたとしても長い年月のうちにはその石も崩れて見えなくなってしまうでしょう。そのような理由で、この記述は合理的でないため、書き違いであると考えられてきました。また、川の中に石を立てることは神の命令になかったことからも、そのようなことをヨシュアが命じるはずがないと考えられてきたのです。

けれども、このような合理的な理由からだけでヘブル語本文を解釈することは極めて危険であり、人間的に判断してしまう恐れがあります。もちろん、ヘブル語によくある表現で、「ヨシュアは据えた」という句を補う形で、「祭司たちが立っていた場所の下にあった十二の石を」と理解することも可能なので、原文をそのまま受け入れるとしても、そこには依然として、二つの可能性が残るのは事実です。したがって、ここではどちらが正しいのかという判断はそのまま残しながら、もし、口語訳のように、宿営地とヨルダン川の川底の二か所に石塚が建てられたとすると、それはどういうことなのかを考えて行きたいと思うのです。

すると、そこにとても興味深い意義が浮かびあがってきます。それは、確かに川の真ん中に作られた石塚は川が再び流れ出したあとでは、何の証拠にもならないかのように見えますが、たとえ形が見えなくても、確かにヨルダン川を渡り、そのしるしとして川底に石塚を立てたということを信じることができたということです。私は先日、近くにある前方後円墳の遺跡を見に行きました。遺跡というのは、古い時代に建てられた建物とか、お墓、歴史的事件があったなんらかの痕跡が残されている場所のことで、それを見ると過去の人々の営みが見えてきます。しかし、そのほとんどは、「えっ、こんなところにあるの」と思われるような人目につかない閑散な場所であります。私が見に行った遺跡もそうで、そこには説明が書かれた立て看板があるだけで、どこから上って行けばたどりつくのかさえもわからない場所でした。つまり、こうした遺跡は見えるとか、見えないというのはそれほど問題ではないのです。問題は、実際ここに数百年前に人々が住んでいて、誰なのかはわからないけれども葬られたという事実があるということなのです。ですから、そこにたたずんでいるだけで、昔の人のそうした思いや生活ぶりがよみがえってくるのです。

ヨシュアがヨルダン川の川底に記念の石塚を立てたのも同じではないでしょうか。それが見えるか、見えないかということではなく、実際にヨルダン川の川岸に立った時、かつてここでイスラエルの先祖たちが神の御業を体験し、そこを渡ることができたということを思い起こし、彼らに働いておられる神の大いなる力を信じることができたのです。見えるだけでなく、見えない所にも記念の石塚を立てるほどものすごい神の奇跡を体験したんだということを後世の人たちも感じることができるために、わざわざ川底にも石を据えてその記念としたのです。ですから、見えなくもいいのです。見えなくても、そのことが聖書に書き記されることによって、その思いがひしひしと伝わってくるのです。

それから、そこにはもう一つの重要な意義があります。それは、このヨルダン川の川底に立てられた石塚は、キリストとともに十字架につけられたことの象徴であったということです。パウロはコリント人への手紙第一10章1節と2節で、「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、」と言っています。つまり、かつてモーセが紅海を通ったのはモーセにつくバプテスマであったのならば、ヨシュアがヨルダン川を通ったのはヨシュアにつくバプテスマであったということです。ヨシュアとはだれのことでしょうか。「ヨシュア」とはギリシャ語で「イエス」です。ですから、これはイエスにつくバプテスマのひな型だったのです。

「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

このようにして見ると、ヨルダン川の川底に作られた石塚はキリストとともに十字架につけられた自分の姿の象徴であり、宿営地に作られた記念の石塚は、キリストとともに生きる新しいいのちの象徴だったと言えます。本来であれば、川の流れの中で滅ぼされていたかもしれない自分の代わりにキリストが死んでくださったというだけでなく、その身代わりによって新しいいのちに生かされるようになりました。この十字架と復活による救いの恵みを、この二つの石塚は表していたのです。

さて、民がすべて渡り終わった時、主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真ん中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地にあがったとき、ヨルダン川の水はもとのところに返って、以前のように、その岸いっぱいになりました。その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなるとされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れました。それはヨシュアが大いなる者とされ、次なる戦いにとって大きな出来事であったことがわかります。そのポイントはいったい何だったのでしょうか。信仰です。モーセが主によって与えられた約束を、ヨシュアが信仰によってその実現に向かっているのです。それがカナンの地の征服において現われていきます。信仰こそ、神の約束を実現してく手段であり、大いなる者とされる秘訣であることがわかります。

Ⅲ.信仰の継承(19-24)

最後に、19節から終わりまでをみたいと思います。

「民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。ヨシュアは、彼らがヨルダン川から取って来たあの十二の石をギルガルに立てて、イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。」

イスラエルはヨルダン川から上がると、エリコの東の境にあるギルガルに宿営しました。そこはカナン侵略の、いわば作戦軍事基地になっていった場所です。そこからイスラエルの民はカナン人との戦いを開始していきました。それほど重要な場所だったのです。戦いに勝つこともあれば、負けることもありました。しかし、とにかくギルガルに戻ってきた時には、この記念碑を見て、奮起したのです。父なる神はあのヨルダン川をせきとめて、その真ん中を渡らせてくださった全能者である。そのことを再確認し、思い起こして、勇気をいただいて、再び戦いへと出て行ったのです。ギルガルは、私たちが帰る場所なのです。そこに帰って静まり、神の偉大さを思い起こし、勇気と力をいただいて、再び戦いへと出て行く場所です。そうです、それが十字架のキリストなのです。私たちはいつも十字架のキリストのもとに帰り、そこから慰めと励まし、勇気と力をいただいて、再びこの世の中に出て行くことができるのです。私たちの中で絶えずギルガルに戻ることが必要なのです。

それは私たちだけではありません。子どもたちにも言えることです。後になって、あなたの子どもたちがその父たちに、「これらの石はどういうものなのですか」と聞くなら、「イスラエルはヨルダン川のかわいた土の上渡ったのだと言わなければなりません。それは、地のすべての民が、主の御手が力強いことを知り、彼らがいつも彼らの神、主を恐れるためです。

私たちの子どもたちは主を恐れているでしょうか。この世の流れにどっぷりと浸かり、神ではなく別のことを恐れながら生きています。それは子どもたちだけでなく、私たち自身もそうです。地のすべての民が、主の御手が力強いことを知り、この主を恐れるために、その偉大さを教えていかなければなりません。

パウロはテモテに、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)と言いましたが、そのためには、他にも教える力のある忠実な人が起こされるように祈らなければなりません。これが私たちに託された使命です。そのためには、まず私たちが信仰に生き、神の恵みの豊かさを体験する必要があります。この世はそれとは全く反対の方向に流れていても、「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)とヨシュアが告白したように、私たちもそのように告白しながら歩んでいきたいものです。

Ⅰペテロ1章10~12節 「この救いについて」

きょうは、「この救いについて」というタイトルでお話しします。この手紙は、キリストの弟子であったペテロから迫害によって国外に散って寄留していたクリスチャンを励ますために書かれました。彼らは激しい迫害の中にあっても大いに喜んでいました。なぜなら、救いの喜びがあったからです。神の大きなあわれみによってすべての罪が赦され、生ける望みが与えられました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにされました。また、今も、神の御力によって守られています。このことを思うと喜びがありました。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなとりませんが、やがて大きな栄光を受けることを思うと喜ぶことができました。彼らはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いまも見てはいなくても信じており、栄えに満ちた喜びに踊っていました。それは、信仰の結果である、たましいの救いを得ていたからです。このように、救いの喜びとはどんな状況にあっても左右されることがない喜びです。「どうして私の人生にはこんなことばかり起こるの」と思うような中にあっても、喜び踊ることができるのです。

 

きょうのところでペテロは、この救いのすばらしさ、救いの偉大さについて教えています。聖書のテーマは救いです。救いは、聖書全体を貫くテーマであり、神様の全歴史の中で実現される事実です。それは天においても地においても最大の関心ごとなのです。きょうはこの救いがどのようにもたらされたのかを三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.預言者たちを通して語られた救い(10-12a)

 

まず10節から12節前半までをご覧ください。

「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが自分ちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるの啓示を受けました。」

 

「この救いについては」とは、この前の段落でペテロが語ったイエス・キリストによる神の救いのことです。それは今、現に受けているものであり、終わりのときに完成するようにと用意されているものです。この救いについては、ここでペテロが突然語っているかのように見えますがそうではなく、ずっと昔から、旧約聖書の預言者たちにも啓示されていたことであり、彼らが熱心に尋ね、細かく調べていたものです。預言者たちは、この救いの奥義を注意深く調べました。父なる神があらかじめ立てられた救いのご計画が、いつ、どのような形で実現するのかを熱心に調べていたのです。聖書の言う救いとは、ある日突然だれかによって考えられた話ではなく、最初の人アダムとエバが罪に陥った瞬間から神によって計画され、定められていたものなのです。

 

よく本屋さんに行くと、「あなたの問題は解決する」とか、「あなた自身があなたを救う」といった類の本が置かれていますが、それらのものが本当にあなたを救うことができるでしょうか。それらのものは一時的ないやしを与えてくれるかもしれませんが、根本的な解決を与えてはくれません。なぜなら、私たちにとっての根本的な問題は罪ですからその罪を解決しない限り、そこにはほんとうの救いはないからです。どんなに良い人間になろうとしても、どんなに道徳、教育を積んでも、罪の問題が解決されない限り救いはないのです。エレミヤ17章9節には、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあります。人の心は何よりも陰険で、直りません。そんな人間が一生懸命努力したところで、自分を救うことはできないのです。一時的に直ったかのように見えても、次の瞬間にはまた元の状態に戻ってしまいます。いや、もっとひどい状態になってしまうことも少なくありません。人はだれもこの罪から救う力を持っていないし、自分で自分を救うことはできないのです。しかし、まことの神は私たちを罪から救うことができます。それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできるのです。いったい神はどのように救ってくださるのでしょうか。

 

10節を見ると、「あなたがたに対する恵みについて」とあります。これは神の恵みによるのです。それは私たちの行いによってではなく、一方的な神に恵みによるものなのです。どうしてこれが恵みだと言えるのでしょうか。最初の人であったアダムとエバが罪に陥った時のことを思い出してください。彼らは神が食べてはならないと命じておいた木から取って食べた時、神との交わりが断たれてしまいました。聖書はこれを死と言っています。その死が人類に入り、死が全人類を支配するようになりました。しかし、あわれみ豊かな神はアダムが罪を犯した瞬間に、そのすぐ後に、人類をその罪から救う約束を与えられました。

 

「わたしは、おまえと女の子孫との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3:15)

 

やがて女の子孫から救い主を遣わし、サタンの頭を踏み砕き、決定的な勝利をもたらされる、救いを成就してくださると約束してくださったのです。これは恵みではないでしょうか。一方的に自分たちの過ちによって罪に陥ったにもかかわらず、そのような人を救うために、神がその御業を行ってくださるというのですから・・・。

 

そのために選ばれたのがアブラハムでした。アブラハムは、神を信じて義と認められました(創世記15:6)。そして神はこのアブラハムの子孫から救い主を遣わし、地上のすべての民族は彼によって祝福されると約束してくださいました。このように神の救いのご計画は、最初は抽象的なものでしたが次第に具体的になっていきます。そして、さまざまな預言者たちを通して、これがどのようなものなのかを具体的に啓示されたのです。

 

モーセはその預言者のひとりでした。彼は神に代わってイスラエルの民に語りました。そして、彼らをエジプトの奴隷から救い出されました。それはやがて来られるメシヤ、救い主がどのような方であるかを示すためでした。それはモーセがイスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出したように、やがてメシヤが来て、私たちを罪から救ってくださるというものでした。これが神の初めからの救いのご計画だったのです。このことがモーセ五書から始まってマラキ書に至る旧約聖書の中に預言されています。

 

たとえば、メシヤはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫としてユダ族から生まれるということが創世記49章10節にあります。また、処女から生まれるということ(イザヤ7:14)、そして生まれる場所はベツレヘムであることも書かれてあります(ミカ5:2)。その働きは異邦人のガリラヤから始まります(イザヤ9:1)。そしてメシヤが来られると、盲人が見えるようになり、耳の聞こえない者は聞こえるようになります。足のなえた人は鹿のようにとびはね、口のきけない者は話すようになります(イザヤ35:5)。多くの病人がいやされ、貧しい者に良い知らせが伝えられます(イザヤ61:1)。しかし彼は友に裏切られ(詩篇49:7)、銀貨30枚で売られます(ゼカリヤ11:12)。そして、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれます。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされます(イザヤ53:5)。彼はそのようにして地から絶たれ、富む者たち、金持ちたちの墓に葬られるのです(イザヤ53:9)。けれども、彼はその死からよみがえられます(詩篇16:10)。神は彼のたましいをよみに捨ておくことはなさらないからです。

 

そして、それが文字通りイエス・キリストによって成就しました。キリストはユダヤのベツレヘムで生まれました。アブラハムの子孫としてユダ族から出ました。それはまだマリヤがヨセフと結婚する前のことでした。マリヤはまだ男の人を知らなかったのに、聖霊によってみごもりました。そしてキリストが30歳になられた時、異邦人のガリラヤに行き神の福音を宣べて言われました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

また、会堂に入り、預言者イザヤの書を手渡され、そこに書いてあることを朗読されると、このように言って話し始められました。

「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現しました。」(ルカ4:21)

そこには、「わたしの上に主の御霊がおられる。主が貧しい人々に福音を伝えるようにとわたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいだけられている人々を自由にし、主の恵みの敏を告げ知らせるために。」と書かれてありました。そのみことばが、きょう、あなたがたが聞いたとおりに実現した、と宣言したのです。

また、キリストはそのとおりに弟子のひとりイスカリオテ・ユダに裏切られ、銀貨30枚で売られ、十字架につけられて死なれました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。旧約聖書の預言はことごとく、このイエスによって成就したのです。それは、このイエスが、旧約聖書が預言していたあのメシヤ、救い主であられるからです。

 

このように神は、まずこの救いを預言者たちを通して語られました。彼らはその救いの恵みがどのように実現するのかを、預言したのです。そして、それがいつ、どのようにして起こるのかを熱心に調べました。それは彼らにとって最大の関心事だったのです。私たちも熱心に聖書を調べています。2004年に教会がスタートしてから13年になりますが、新約聖書のほとんどを学びました。残っているのはこのペテロの手紙、とハネの手紙、ユダの手紙、コリントの手紙だけとなりました。旧約聖書もイザヤ書を細かく調べました。そして今も祈祷会で1章ずつ学び続けています。このように旧約聖書と新約聖書の両方を学ぶことで、神の救いの恵みがどれほどすばらしいものであるかがわかるようになるのです。

 

ところで、11節を見ると、このように聖書を調べることを可能とし、その全行程を誤りなく導いたのが何であったかがわかります。それは「自分たちのうちにおられるキリストの御霊」でした。キリストの御霊とは神の御霊、聖霊のことです。旧約の預言者たちは自分の意志によって語ったのではなく、キリストの御霊、神の聖霊によって語り、それを巻物に書いたのです。Ⅱペテロ1:21には、「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とありますが、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、神の意志によって、聖霊によって動かされた人たちが、神からのことばを語った、神のことばなのです。

 

いったい彼らは何を預言したのでしょうか。ここには、「キリストの苦難とそれに続く栄光」とあります。彼らは、キリストの苦難とそれに続く栄光について預言しました。キリストの苦難とは十字架のことですね。また栄光とは復活と昇天のことです。彼らは来るべきメシヤは苦難を受けるということ、そして、その後で栄光を受けるということを前もって預言したのです。もっとも、彼らはそのように預言したもののそれがどういうことなのかはさっぱりわかりませんでした。彼らはただ神から示されたことを語り、そのまま書いただけで、それがどういう意味なのかまでは理解していなかったのです。だから、それはだれのことで、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。

 

それは私たちも同じではないでしょうか。私たちも聖書をよく調べないと神が語っておられることを間違って理解し、信仰の誤解を生むことがあります。

たとえば、あのバプテスマのヨハネはそうでした。彼は旧約最後の預言者であり、来るべきメシヤの先に遣わされた者として、主が通られる道をまっすぐにするために神によって遣わされた人物でした。しかし、ヘロデ・アンティパスに捕らえられると、自分の弟子をイエスのもとに遣わしてこう言いました。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」(ルカ7:19)

ヨハネはなぜこのように言ったのでしょうか。メシヤが来ているのであればこんなことが許されるはずがないと思っていたからです。その圧倒的な力によって自分たちを敵から救い出してくださるはずだ。それなのになぜこのようなことが許されるのか。おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか、そう言ったのです。

それに対するイエスの答えはこうでした。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラートに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(ルカ7:22-23)

私たちは、自分の思うようにいかないと、ヨハネのようにイエス様につまずいてしまいます。どちらかというと私たちは、自分の置かれた状況に流されやすいのです。どんなに信仰があってもちょっとした苦難に会うと、本当にあなたは救い主なんですか、と疑いを抱いてしまいます。それが長く続くようものなら、「信じても、信じなくても何も変わらないじゃないですか。だったら別に信じなくたって構わないじゃないですか」と投げやりになってしまうことも少なくありません。しかし、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」そのためには旧約と新約の両方から、神の救いについての預言と成就を熱心に、細かく調べることが求められます。そうでないと、ヨハネのようにイエス様につまずいてしまうことになるのです。

 

旧約の預言者たちはこの恵みについて熱心に尋ね、細かく調べました。それが彼らの最大の関心ごとでした。そして、彼らはある一つの結論を見出しました。それは12節前半に書かれてあります。つまり、「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるという啓示を受けました。」ということです。つまり、その預言は自分たちのためではなく、将来そのようなことが起こるという啓示を受けたということです。それは彼らが熱心に預言を調べていたからです。それがいつ、だれのことを指して言われているのかを調べている中ではっきりと示されたのです。

 

Ⅱ.使徒たちを通して語られた救い(12b)

 

第二に、この救いについては、12節の真ん中にあるように、「天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされ」た、ということです。どういうことでしょうか。この救いの恵みは、預言者たちを通して語られましたが、今や、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語って人々を通して、はっきりと告げ知られたということです。「天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々」とは、キリストの十字架と復活を宣教した人々のこと、使徒たちのことです。旧約の時代は聖霊によって動かされた人たちによって神のことばが語られましたが、しかし今や、十字架と復活を目の当たりにした使徒たちによって、来るべきメシヤがだれなのかが明らかにされました。そうです、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストこそ、旧約聖書で預言されていたあのメシヤ、救い主であるということです。もっともキリストの弟子たちでさえも、そのことをよく理解していませんでした。彼らはキリストの苦難とそれに続く栄光について目が覆われていたからです。他のユダヤ人たちと同じように、メシヤが来たら自分たちをローマの支配から救い出し、この地上に神の国を樹立してくれるものと思っていたのです。メシヤの栄光だけがクローズアップされていて、すぐに栄光に入るものと期待していたのです。ですから、イエスにつき従って行ったものの、イエスが捕らえられると散り散りになって逃げて行ってしまったのです。そしてイエス様が十字架に付けられると、完全に望みを失ってしまいました。そのことについては、イエス様があらかじめ彼らに繰り返し、繰り返して語っていたにもかかわらずです。

 

エマオの途上の弟子たちに主が現われてくださった出来事(ルカ24:13~35)は、聖書全体のキリストを理解し、このキリストを受け入れるにあたって、極めて重要なことを教えています。彼らは復活の主イエスがともに歩いておられたのに、それがイエスだということがわかりませんでした。

それはふたりの目がさえぎられていたからです。彼らは、ナザレ人イエスについて話し始めます。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある方でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡しても死刑に定め、十字架につけたのです。しかし、私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが朝早く墓に行ってみると、イエスのからだが見当たらないというのです。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちは、イエスは生きておられると告げたというのです。それで仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言うとおりで、イエスのからだはなかったというのです。

するとイエス様は何と言われたでしょうか「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてのを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けてから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24:25-26)

そして、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされたのです。しかし、解き明かされたからと言ってもすぐに、メシヤの受難とそれに続く栄光について分かったのではありません。その後、食事の席で、イエス様がパンを裂いて渡したとき、生ける主との出会いの中で、ふたりの目が開かれ、それがイエスだとわかったのです。もっとも、イエスが道々話しておられたときも、また聖書を説明してくださっていた時も、彼らの心は燃えていました。目がさえぎられていて、イエスだとわからなかった状態から、目が開け、イエスだと分かった状態へと変えたのは、復活のイエス様ご自身でした。イエス様は、聖書を開くと共に、弟子たちの心を開いて、聖書を理解できるようにしてくださるのです。

 

心に疑いを抱いた弟子たちに現われたイエスは、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」(同24:44)と言われ、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれました。エマオの途上の弟子たちを含め、弟子たちに決定的な復活の信仰を与えたのは、このキリストの御業、聖霊の御業だったのです。

 

私たちもこの弟子たちのように聖書を学んでいても目がさえぎられていてなかなか聖書に書いてあることを理解できない者ですが、それでも、聖書を開く時心を開いて悟らせてくださるご聖霊に信頼し、キリストの苦難とそれに続く栄光について、しっかりと受け止めたいと思います。

 

さて、そんな弟子たちではありましたが、目が開かれてキリストが復活したことを確信すると、キリストの証人として、あらゆる国の人々のところへ遣わされて行きます。そのためには、父が約束してくださったものを待ちなければなりませんでした。それは神の聖霊です。彼らは、いと高き所から力を帰せられるまでは、都にとどまっていなければなりませんでした。

そして、五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていたとき、突然、天から聖霊が降り、ひとりひとりの上にとどまりました。これがペンテコステです。きょうはペンテコステの日です。神が約束の聖霊を送ってくださったことを記念する日です。それはこのイエスが救い主であって、聖書に書いてあるとおりに救いの御業を成し遂げて、神の栄光に入られたことのしるしでもあるのです。するとペテロは大胆に福音を語りました。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

(使徒4:12)

すると、多くの人がキリストを信じ、その日、三千人ほどが弟子に加えられました。どうしてペテロはそんなに大胆になれたのでしょうか。それは、この恵みについて理解したからです。この救いの事実を知れば知るほど大胆になることができます。知れば知るほど確信を持つことができるのです。ペテロの大胆さは強い確信からくるものでした。そしてその確信は自分の確信というだけでなく、聖霊の力によるものだったのです。ペテロは十字架の苦難を見ました。そして、復活の目撃者でもありました。キリストの苦難とそれに続く栄光を見たのです。旧約の預言者たちは、メシヤの苦難とそれに続く栄光を預言しましたが、メシヤがだれであるかはわかりませんでした。しかし今や、それが明らかになりました。イエス・キリストこそあの約束のメシヤであることがわかったのです。どんなに大きな感動だったことでしょう。そして天から送られた聖霊によって大胆に福音を語った人々を通して、この救いが私たちにも告げ知らされたのです。

 

皆さん、福音はだれかの考えによって作られた話ではなく、神からのメッセージです。それは神が私たちを罪から救うために立てておられた恵みの計画なのです。それは苦難を受けてから栄光に入るという信じられない救いの御業です。そして、キリストは、その聖書が示すとおりに、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、また、葬られ、また、聖書が示すとおりに、三日目によみがえられました。そうです、このイエス・キリストこそ、旧約聖書で預言していた約束の救い主なのです。ですから、このイエス・キリストを信じる者はだれでも救われるのです。この「だれでも」というのがすごいですね。それがユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、男であっても、女であっても、お金があっても、なくても、失敗しても、しなくても、この福音は、救いを得させる神の力なのです。この福音、神がしてくださった事実を告げ知らせるとき、そこに聖霊が働いて救ってくださるのです。この福音に力があるからです。使徒たちもこれを忠実に伝えました。それで私たちにも届いたのです。私たちもこの福音を信じて救われました。その人は上手に説明できなかったかもしれません。たどたどしいことばで、何を言っているのかわからないような話だったかもしれません。でも聖霊が働いて、もっと聞きたいという思いが与えられて教会に行くようになりました。そして、イエスさまが救い主だとわかったので信じたのです。中には誘ってくれた友達がいつの間にか消えてしまうというケースもあります。あとの者が先になり、先の者があとになるということもあります。でもそのような中にも神の働きがあり、福音が理解できるようになるのです。あなたはどうでしょうか。この良い知らせを受け取られたでしょうか。どうぞ受け取ってください。そうすれば、あなたも今日救われるのです。

 

Ⅲ.御使いも見たいと願っていること(12c)

 

第三のことは、それは御使いも見たいと願っていることであるということです。12節の後半をご覧ください。ここには、「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることです。」とあります。どういうことでしょうか。その救いがどんなにすばらしいものであり、それがどのように実現していくのかを、御使いたちもはっきりと見たいと願っているということです。つまり、この救いは、御使いたちも見たいと思っているほど豊かなものであるということです。神は、この福音の宣教の業を天使たちに任すことをよしとされず、聖霊の注ぎを受けた人々にゆだねられたので、御使いたちはちょっと寂しく感じているのです。「ああ、自分たちも見たいなあ」「その業に関わりたいなぁ」と思っているのです。この救いはそれほどすばらしいものだということです。

 

ルカ15章10節には、「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」とあります。御使いには罪がないので、私たちのように救われて喜びに溢れることはありませんが、その救われた人を見ると、そこにも喜びが溢れるのです。人が救われるということは、それほど大きな喜びなのです。

 

私は20歳の時、家内と青年たちの聖書研究会を始めました。それは毎週金曜日の夜にやっていたので「フライデーナイト」と呼ばれていましたが、若い青年が7~8人集まっていました。聖書研究会が始まって1年くらいが経った頃、そこに参加していた一人の女性がイエス様を信じました。その方は市内のデパートに勤めていたので、毎週私の仕事が終わってから職場に迎えに行き、終わったら自宅まで送って行っていましたが、車から降りようとしたとき彼女がこう言われたのです。

「私、イエス様信じたいんですが、信じたらいろいろ束縛されるんじゃないかと思うと心配で決心できないんです。」

そこで、私は何というべきか心の中で祈りながら、「そうだよね、でも天の神様がちゃんと守ってくださるから大丈夫。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。とあるから、すべてを主にゆだねたら。信じよう。」と言うと、「そうですね、そうします。イエス様信じます」と言って、その場でイエス様を信じるお祈りをされたのです。本当にびっくりしました。信じるように聖書を学んでいるのに、ほんとうに信じたいという人がいることにびっくりしたのです。びっくりしたと同時に、うれしくて、うれしくて、たまりませんでした。今でもあの時の感情を覚えているほどです。人が救われるってほんとうにすごいことなんだなぁと思わされて、できるだけ多くの人にこの福音を伝えていきたいと思わされました。それは御使いたちもみたいと願っているほどの喜びなのです。

 

神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストをこの世に与えてくださいました。それは私たちの行いによってではなく、神の恵みによるのです。この恵みについては、旧約の預言者たちが語り、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らはそれを見たいと切に願いましたが見ることができませんでした。それは、自分たちのためではなく、やがてもたらされるための啓示だったのです。

しかし今や、それが明らかにされました。イエス・キリストによって、その恵みが実現したのです。それらのことは、天から送られた聖霊によって、あなたがたに福音を語った人々によって告げ知らされました。それは御使いたちにとっても最大の関心事でした。

 

あなたはこの救いを受けておられるでしょうか。あなたにとっての最大の関心ごとは何でしょうか。この救いについては旧約の預言者たちも、新約の使徒たちも、また、この福音をずっと告げ知らせて来た人たちにとって、いや天の御使いにとっても、最大の関心ごとでした。であれば、私たちにとっても最大の関心ごとではないでしょうか。この救いについて、私たちも熱心に調べ、この恵みの大きさ、豊かさに感動しながら、これを告げ知らせていく者でありたいと思います。福音は、私たちを救う神の力です。この福音があなたにも届けられました。今度はあなたがこれを届けていく番です。あなたがこの恵みを語るなら、そこに聖霊が働いて、すばらしい神の救いの御業が現われます。このすばらしい福音に生き、福音を告げ知らせて行く者とされましょう。

ヨシュア記3章

きょうはヨシュア記3章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.主の契約の箱のうしろを進め(1-6

 

 まず1節から4節までをご覧ください。

「ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」

 

エリコの町を偵察した斥候からの報告を受け、ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょにシティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、三日間そこに泊まりました。それは、彼らが約束の地へ進んで行くために、一つの困難に差しかかっていたからです。それはヨルダン川を渡るということでした。神からの約束が与えられたということは、それが棚ぼた式にもたらされるということではありません。その達成のためには、いくつかの困難を乗り越えて行かなければならないのです。神の約束があり、その約束の言葉にしたがって行動を起こし始めるや否や、このような大きな障害が立ちはだかるのです。こうした障害を乗り越えて行きながら、神の約束は実現していくのです。

 

彼らはどのようにこれを乗り越えて行ったのでしょうか。2節から4節までをご覧ください。ヨシュアはこのように民に命じていいました。

「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」

どういうことでしょうか。それは徹底的に主に信頼し、主に従うことによって乗り越えられるということです。イスラエルの民は、主の契約の箱を先頭にして、そのうしろを進まなければなりませんでした。普通、契約の箱はその隊列の中央に置かれていました。それは主がイスラエルの民の真ん中におられることを象徴していたからです。けれどもここでは契約の箱を先頭に立て、そのうしろを進まなければなりませんでした。それは主が彼らに行くべき道を示すためであり、その道を開かれるためでした。言い換えると、主ご自身が先頭に立って問題を解決してくださるということです。私たちの信じる神は、私たちに先だって行かれ、そこに生じるであろうあらゆる問題を解決してくださるのです。信仰生活の醍醐味は、まさにこの先だって行かれる主を体験するところにあります。感謝なことに、私たちが問題の渦中にあっても、既に主が先だって行かれ、その問題の解決に当たって下さっているのです。

 

ところで、4節を見ると、この契約の箱との間には、二千キュビトの距離を置かなければならないとあります。1キュビトは44.5センチですから、二千キュビトは約900メートルになります。いったいなぜこれほどの距離を置かなければならなかったのでしょうか。

ここで思い浮かべるのが、Ⅱサムエル記6章にある「ウザの事件」です。かつて、ダビデがエルサレムに契約の箱を運び入れようとした際、新しい車に乗せて進んでいましたが、車を引いていた牛がつまずいて契約の箱が落ちそうになりました。それで側にいたウザという人があわてて手で持ってそれを支えたところ、この行為が神の怒りに触れ、彼は神に打たれてその場で死んでしまったのです。私たちはこの箇所を読むたびに本当に不思議に思います。なぜウザが神に打たれなければならなかったのか、ウザはただ契約の箱が落ちないように支えただけでなかったのか、いったいどうしてそのことが神の怒りを招くことになったのか・・・。

それは、神がそれほど聖い方であって、たとえ善意によるものであってもそれに触れるようなことがあれば、死ななければならないことを示していました。神は人間が近づくことも、触れることもできないほど聖い方であって、この方の前にしゃしゃり出ることは許されないのです。私たちに求められているのはこの神の御前にへりくだり、絶対的に従うことなのです。

そして、この時の命令も同じことを意味していました。すなわち、肉なる者が前面に出てしまうと主が働きにくくなるのです。否、むしろ主の御業の妨げになってしまいます。それゆえに、二千キュビトの距離を置かなければならなかったのです。絶対に主の前に出て、主の働きを妨げてはならない、主が働いてくださることを信じて、そのはるか後方を進まなければならなかったのです。

 

ウオッチマン・二―は「神の前における二つの罪ということについて、次のように述べています。「第一に拒否の罪、すなわち、神様の命令に従わないで、それを拒否するという罪。そして、もう一つは出しゃばりの罪、すなわち神の命令がないのに、人間的な考えによって自分で進んで行こうとする罪である。この二つの罪が人間にはあるだけだ。」神様が命じているのにそれに従わないということがよくありますが、それだけでなく、命じていないのに自分から出しゃばって失敗するということもあります。私もどちらかというと、この点で失敗することが多いと感じます。神様の命令よりも自分の思いが優先してしまうのです。結局のところ、何もしなければよかったということがよくあるます。何もしなければいいということではありませんが、神が先を進んでおられると信じ、神が求めておられることは何か、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために自分自身を主にささげ、それが示されたなら大胆に進んで行く。そういう者でありたいと願わされます。

 

ところで、そのためにイスラエルの民はどのような備えが必要だったのでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。」

 

続いて、ヨシュアは民に言いました。「あなたがたの身をきよめなさい。」と。身をきよめるとはどういうことでしょうか。身をきよめるとは、神に全く献身するということです。なぜでしょうか?主が、あなたがたのうちで不思議を行われるからです。ここで「あなたがた」とはイスラエルの民のことを指しています。主が彼らのうちで不思議を行われるために彼らがしなければならなかったことは、彼らの身をきよめることでした。自分たちのものはすべて、自分たちのからだも心もすべて主のものであることを認め、そのすべてを主に捧げなければならなかったのです。すなわち、主の命令と指示に対しては、どんなことがあっても従っていくという覚悟です。

 

それは教会も同じではないでしょうか。主が御業を行ってくださるために、私たちも身をきよめなければなりません。自分の思いや、自分の考えがあるかもしれませんが、主のみこころを最優先にして、どんなことがあってもみこころに従っていくという覚悟が求められているのです。そのようなところに主が働いてくださらないわけがありません。そこには信じられない主の御業と栄光が現されるのです。

 

Ⅱ.ヨルダン渡河の目的(7-13

 

次に7節から13節までをご覧ください。

主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』ヨシュアはイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

 

ヨシュアは祭司たちに、「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」と命じました。そこで祭司たちは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行きました。いったいなぜこのようなことを命じたのでしょうか。続く7節にはその理由が記されてあります。それは、イスラエル全体の前で、主がヨシュアを大いなる者とするためでした。それは、主がモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいることを、イスラエルの民が知るためだったのです。実際、ヨシュアがこれから行なうことは、かつてモーセが行なったことと同じようなものでした。つまり、神が紅海を分けるためにモーセを用いられたように、ヨルダン川をせき止めるためにヨシュアを用いられたということです。そして、かつてモーセが祈り紅海を分けたとき、「イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(出エジプト14:31)」ように、今度はヨルダン川の水をせき止めるという神の奇跡をヨシュアが行うことによってヨシュアを大いなる者とし、イスラエルの民が彼に従うようにさせたのです。つまり、この出来事はカナンの地における次なる戦いのためにヨシュアのリーダーシップを確立させるためだったのです。おそらく、この時点ではまだ、十分なリーダーシップが発揮されていなかったのでしょう。イスラエルの初代指導者であったモーセがあまりにも偉大なリーダーであったがゆえに、その後継者であったヨシュアに対する民の尊敬は今一つだったのだと思います。ですから、この出来事を通して、モーセと同じ神が、その同じ霊をもってヨシュアにも働いていることを示し、ヨシュアを大いなる者にしようとしたのです。

 

しかし、イスラエルの民がヨルダン川を渡るという出来事には、もう一つの目的がありました。それは、彼らがカナンの地に入って行った後に直面するであろう次なる戦いのためであったということです。10節には、「ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。」とあります。そこにはカナン人をはじめとする七つの部族がすでに定住していました。したがって、彼らがその地を占領するためには、そうした部族と戦って勝利しなければならなかったのです。いったいどうしたら勝利することができるのでしょうか。そのためには、生ける神が彼らのうちにおられ、そうした部族を追い払われるという確信を持たなければなりませんでした。どうしたらその確信を持つことができるのでしょうか。この奇跡的な出来事を通してです。全地の契約の箱が、彼らの先頭に立ってヨルダン川を進んで行く時、その箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになるという出来事によって、生ける神が彼らのうちにおられ、彼らの前から敵を追い払ってくださるということを知ることができたのです。

 

これは私たちの信仰生活も同じです。私たちも主イエス・キリストの十字架の死による贖いと復活のいのちによって、約束の地に入れられました。しかし、それはすべてにおいて順風満帆で何の問題も起こらないかというとそうではなく、そこには新たなる戦いが起こってくるのです。しかし、その戦いのただ中に生ける主が共におられ、敵を必ず追い払ってくださいます。そうです、私たちの戦いは、すでに勝利が決定している戦いなのです。言うならば、クリスチャンの生涯とは、むしろこの戦いを心躍らせながら進んで行く生涯なのです。そこには圧倒的な勝利の主がともにいて戦ってくださるのです。そのことを知らなければなりません。まさにイスラエルのヨルダン渡河は、このことを知るためだったのです。

Ⅲ.せきとめられたヨルダン川(14-17

 

さて、その結果はどうなったでしょうか。14節から17節までをご覧ください。

「民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」

 

箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれますが、上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられたので、イスラエルの民はすべて、そのかわいた地を通り、ヨルダン川を渡り終えました。これは「刈り入れの期間中」の出来事だとありますが、今の暦に直すと三月下旬から四月上旬にかけての時期です。その時期は大麦の収穫の時期で、ヘルモン山からの雪解け水がガリラヤ湖に入ってきて、そしてヨルダン川に流れるので、水かさが最も増します。しかし、どんなに水かさが増しても、主の圧倒的な力によって完全にせきとめられたので、イスラエルの民はヨルダン川の真ん中のかわいた地を通って、渡ることができたのです。

 

ところで、15節を見ると、「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき」とあります。そのとき、ヨルダン川の水は、上から流れ下る水はつったって、せきをなして立ち、塩の海のほうに流れる水は完全にせきとめられました。すなわち、ヨルダン川の水がせきとめられたのは、祭司たちの足の裏がそのヨルダン川の水の中にとどまったときであったということです。祭司たちはヨルダン川の水がせきとめられてから足を踏み入れたのではなく、水の中に足を踏み入れた結果、せきとめられたのです。このとき祭司たちはどんな気持ちだったでしょうか。もし水が引かなかったらどうなってしまうかと不安だったことでしょう。しかし、彼らは神の約束に従って水の中に足を踏み入れたので、水がせきとめられたのです。

これが信仰です。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。目に見えるものを信じることは、信仰ではありません。信仰とは目に見えなくても、主が約束してくださったことを信じることです。そこに偉大な主の御業が現されるのです。私たちも信仰によって踏み出す者となりましょう。

Ⅰペテロ1章6~9節 「救いの喜び」

きょうは、ペテロの手紙第一1章6節から9節までのみことばから、「救いの喜び」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.救いの喜び(6)

 

まず6節をご覧ください。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、」

 

この手紙は、キリストの弟子であったペテロから迫害によって国外に散らされていたクリスチャンを励ますために書かれました。彼らは迫害の中にあって苦しんでいましたが、ここには、「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます」とあります。どういうわけで、彼らは大いに喜ぶことができたのでしょうか。「そういうわけで」です。それは、その前のところで語られたことを受けてのことです。ペテロは3節から5節までのところでこのように語りました。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

 

彼らはどうして喜ぶことができたのでしょうか。なぜなら、彼らは神の大きなあわれみによってすべての罪が赦され、永遠のいのちという、生ける望みを持つようにされたからです。また、朽ちることも汚れることもない資産を受け継ぐようにしてくださいました。それは天にたくわえられていて、やがて終わりのときに受けるように用意されているのです。そればかりではなく、今も神の御力によって守られています。私たちは日々いろいろな問題に悩まされていますが、そのような中にあっても平安でいられるのは、神の守りがあるからです。これを一言で言うならば、たましいの救いを得ているからです。「そういうわけで」です。そういうわけで、あなたがたは、大いに喜んでいるのです。

 

皆さん、救いの喜びとは、何か良いことがあったからうれしいとか、幸せだというのではありません。そのような感情的なものではないのです。良いことがあったから楽しいとかうれしいというのは自然な感情の表れですから悪くはありませんが、そのような喜びは一時的で、状況によって左右されるものです。ですから、一方で悪いことがあると逆に不幸に感じてしまうことがあるのです。それはちょうどジェットコースターに乗っているようで、上がったり、下がったりと、安定感がありません。

 

しかし、この救いの喜びは回りの状況に左右されない喜びです。良いことがあっても悪いことがあっても、決して奪われることがない喜びです。それは感情的なことではなく霊的なことなのです。イエス様を信じたことで私のすべての罪が赦されたということ、そして、やがて朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようになったということ、また、それまでの間ずっと神がともにいて守ってくださるということを知ることによってもたらされる喜びです。それが救いの喜びなのです。ですから、この生ける望みがどれほど大きいものであるかを理解すればするほど、大いに喜ぶことができるのです。

 

ですから、パウロはエペソ人への手紙の中でこう祈っているのです。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

 

神の召しによって与えられている望みがどのようなものであるか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、神の全能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのようなものであるかを、あなたがたが知ることができるように、それをしっかりと見ることができるように、そのために心の目がはっきり開かれるようにと祈っているのです。人は何を見るかによってその結果が決まります。このようにすぐれた神の栄光、希望、力を見るなら、どのような患難、苦難が襲ってきてもびくともすることはありません。そのために神がどれほどあなたをあわれんでくださったかを知るなら、むしろ感謝と喜びがあふれるのです。

 

それは、クリスチャンには悲しみがないということではありません。ここには、「いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないのですが、」とあります。クリスチャンにも悲しみはあります。苦しみもあります。たとえば、健康の問題があります。病気になったり、事故に遭ったりすることもあります。あるいは、人間関係の問題もあります。友人との関係、職場の人間関係、親子の関係、夫婦の関係でいろいろ悩むことがあります。人から誤解されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられることがあるのです。経済的な問題もあります。また、将来に対する不安もあるでしょう。すぐに解決する問題もあれば、ずっと引きずってしまう問題もあります。私たちにはいろいろな悩みや苦しみがあります。そうした試練の中で嘆き悲しみ、失望落胆し、心が折れそうになってしまうことがあるのです。しかし、その中でも神の恵みを味わうことができる。大いに喜ぶことができるのです。なぜ?なぜなら、私たちには終わりの時に現われるようにと用意されている救いをいただくことを知っているからです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならないこともありますが、それはしばらくの間のことであって、いつまでも続くものではないのです。それは一時的なもの、しばらくの間のことでしかないのです。

 

パウロは福音のために誰よりも多くの苦難に会った人ですが、そのパウロは苦しみについて何と言っているかというと、「今の時の軽い患難」と言っています。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測りしれない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Ⅱコリント4:17)

パウロはなぜこのように言ったのでしょうか。それは、やがて与えられる栄光が、測りしれない、重い永遠の栄光をもたらすことを知っていたからです。それと比べたら、いまの患難は軽いもので、一時的なものすぎないと感じたのです。

 

ですから、いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなりませんが、後に来る栄光を思うと喜びがあります。終わりのときに用意されている救いをいただくことを思うと、どんな試練の中にあっても、大いに喜ぶことができるのです。

 

Ⅱ.信仰の試練(7)

 

では、いったい何のためにさまざまな試練があるのでしょうか。7節をご覧ください。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」

 

私たちに試練がある目的の一つは、私たちの信仰を聖くするためです。ここには、「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」とあります。当時、金は金属の中で最も堅く、高価で、尊いものでした。そして、その純度を高めるために用いられたのが火です。火で精錬し、不純物を取り除き、もっと尊いものにしたのです。しかし、どんなに火で精錬した金でもやがて朽ちて行きますが、信仰は精錬されればされるほど、やがてイエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になるのです。その信仰の純粋さを高つために用いられたのが試練です。私たちはイエス・キリストを信じたからといってすぐに完全にされるのではありません。まだまだ不完全な者であり、いろいろな欠点や弱さがあります。いろいろな不純物があるのです。それを取り除かなければなりません。どのようにしてそれを取り除くことができるのでしょうか。それが試練なのです。試練の中で痛みを感じたり、苦しみや悲しみを味わわなければなりませんが、その苦しみを通して自分の弱さを知るようになるのです。それは健康の時には気付かないことです。健康の時には何でも自分でできると思っていました。しかし、試練を通して、苦しみに会ってはじめて、自分が本当に弱い者であることを痛感させられるのです。これまで持っていたプライドが砕かれて、謙遜にさせられるのです。不純な思いがきよめられ、神に信頼することを学ばされるのです。

 

ですから、詩篇の作者はこう言っています。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(詩篇119篇67篇)

また、詩篇119篇71節にはこうあります。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

苦しみに会う前はそのことがわかりませんでした。苦しみにあって初めてそれがどういうことなのか、神のことばが本当だということを悟り、みことばに信頼するようになるのです。私たちは、苦しみを通して神のおきてを学ぶようになるのです。

 

2節には、「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」とあります。私たちが救われた目的、私たちが救いに選ばれた目的は何でしょうか。それは、イエス・キリストに従うようになることです。私たちは救われるだけでなく、キリストに従い、キリストに似た者となることを神は願っておられます。そのために用いられるのが試練なのです。ですから、試練は私たちを苦しめるのが目的なのではなく、私たちを訓練し、私たちがキリストのようになること、キリストに従うようになるために、神が私たちに与えた恵みなのです。スポーツのアスリートは激しいトレーニングを通して成長していきます。そこには痛みや苦しみが伴いますが、そうしたトレーニングを通して成長していくように、私たちも試練というトレーニングを通して大きく成長していくのです。

 

シンクロナイズドスイミングの井村雅代コーチは、限界を決めない練習を選手に科すことで有名です。それは半端なものではないくらい過酷な練習量で、朝早くから夜遅くまで続きます。なぜそんなに練習をさせるのかを、この前テレビで言っていましたが、それは、自分たちがこれだけ練習してきたんだというのが自信になり、本番で力をはっきりするためだ・・・と。これまで日本の先週は本番になると自分の力を出し切れなかったのは精神的な弱さから来ていたのであって、その弱さを克服するには練習以外にはないと、徹底的に練習をするのだそうです。まさに鬼の井村です。でもそれは選手たちか強くなるためであって、結果、この数年常にメダルを取り続けているのだそうです。

 

それは、私たちの信仰にも言えることで、そうした試練を通して、神は私たちをキリストのご性質へと変えてくださり、イエス・キリストの現われのときに、称賛と光栄と栄誉に至るのです。まさに、成長のための近道はないのです。

 

私たちに試練が与えられている第二の理由は、私たちの信仰をためすためです。この7節にある「試練」(ギドキミオン)という言葉は、6節の「試練」(ギペライモス)という言葉とは違う言葉が使われていて、「試験済みの」とか、「検証済みの」「最善のもの」という意味です。ですから、新改訳聖書では7節の「試練」に※印が付いていて、下の欄外の説明を見ると、別訳、「純粋さ」とあるのです。

口語訳ではここを、「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、」と訳しています。それはその信仰が火で精錬されても朽ちていく金よりも尊いものであることが明らかにされるためのテストであるという意味です。

また、新共同訳聖書でも、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、イエス・キリストが表れるときには、称賛と光栄と誉れをもたらすのです。」つまり、これは信仰のテストなのです。

 

物事が順調に進んでいるとき、何でも自分の思うとおりにいっているとき、人はだれでも簡単に、「はい、信じます」と言えますが、迫害や試練、苦しみに会った時はそうではありません。自分が本当に拠り所にしているものは何か、自分が頼っているものは何かが試され、明らかにされるのです。そして、本当に神の愛を知りイエス・キリストを信じている人は、どんな試練が来てもキリストから離れることはありません。離れることがあったとしても、必ず悔い改めて神の愛に立ち返ります。神の愛があまりにも大きいので、神が与えてくださった栄光があまりにもすばらしいので、そこから離れたくないからです。

 

この手紙の読者たちは激しい迫害によって小アジヤに散らされ、寄留していた人たちですが、それでも彼らは信仰に堅く立ちました。迫害や試練は彼らから信仰を奪うことはできませんでした。彼らから救いの喜びを奪うことはできなかったのです。彼らの財産を奪うことはできたかもしれません。彼らの肉体を傷つけ、心も傷つけられたかもしれない。でも、彼らから救いの喜びを、永遠のいのちの希望を、キリストにある神の愛を奪うことはできませんでした。なぜなら、彼らは本物の信仰を持っていたからです。その試練によって、彼らの信仰が本物であることが証明されたのです。

 

このように信仰の試練は、私たちが何に信頼しているのかを明らかにします。何に信頼しているのか、何を信じて生きているのかを明らかにするのです。明らかにしたうえで、信仰の純粋性を保ち、やがて称賛と光栄と栄誉をもたらすのです。皆さんはどうでしょうか。皆さんは何を拠り所にしているでしょうか。信仰の試練はそれを明らかにしてくれます。

ですから、私たちはこのさまざまな試練の中で、しばらく間、悲しまなければなりませんが、ただ悲しむというだけでなく、このことを自分自身の中で問いながら、本物の信仰を持っていると明らかにされるように、私たちの信仰がもっと純粋にされていくことを求めていこうではありませんか。

 

Ⅲ.キリストへの愛(8-9)

 

第三のことは、信仰の結果です。そのような信仰の結果、たましいの救いを得ているとどうなるのでしょうか。イエス様を愛するようになります。8節と9節をご覧ください。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

 

皆さんは、イエス・キリストを愛しているでしょうか。いまは見ていないけれども、やがて称賛と光栄と栄誉に至ると信じて、栄に満ちた喜びに踊っているでしょうか。「イエス様の時代に生きていた人はいいですよ、イエス様を実際に見て信じることができたでしょう、でも、いまはイエス様を見ることができないのだから、信じろと言われても無理ですよ、愛せよと言われても、難しいなぁ」と思ってはいませんか。しかし、イエス様を愛すること、イエス様を信じることは、イエス様を見たからとか、見ないからといったことと全く関係ありません。イエス様への愛と信仰、それに伴う大きな喜びは、キリストによって与えられた信仰、救いを受けることによって得られるものだからです。

 

それはペテロのことを考えてもわかります。彼はイエス様の一番弟子として、直接イエス様を見て、イエス様のことばを聞いて、イエス様に直に触れました。誰よりもイエス様を信じ、イエス様を愛していたはずなのです。しかし、実際はそうではありませんでした。彼はイエス様が言われたとおり、イエス様が捕らえられたとき、鶏が鳴く前に三度もイエス様を否定しました。「あんな人なんて知らない」と。見ても信じることができませんでした。それなのに、この手紙の受取人たちは、イエス様を一度も見たことがありませんでしたが、イエス様のことを聞いて信じ、心からイエス様を愛するようになりました。ですから、見たか、見ないかは関係ないのです。見なくても信じることができます。見なくても、愛することができるのです。イエス・キリストを信じて生ける望み、永遠のいのちを受けたことを知っている人は心から愛することができるのです。

 

わが国で最初のキリスト教 信仰を理由に処刑が行われたのは、1597年2月5日に長崎で行われた「二十六聖人の殉教者」です。豊臣秀吉は、当時のキリシタンたちは本気で主を愛し、主に従っていたのを見て恐れ、キリシタンを弾圧したのです。京都と大阪で捕らえられた24人に、道中加えられた2人の、合わせて26人が磔(はりつけ)にされました。その中にルドビコ茨木という12歳の少年がいましたが、歴史家のルイス・フロイスによると、彼は、1月3日、京都で左耳の一部を切り落とされ、見せしめのため、粗末な牛車に乗せられ、町中を引き廻されましたが、「天使のような顔で喜び溢れ、後手に縛られ、耳を剃がれた時も傷痕の痛みをこらえ、また、流れる血にも驚かず静かに純心に『天にまします、めでたし』とその他の祈りを唱えていた。」(「第8章」)とあります。

また、この少年が牢にいた時、身分のある一人が彼に近付き、もしキリシタンをやめれば釈放してやろうと勧めると、彼は『貴方こそキリシタンになるべきです。救いのためには道は他にはありません』と言ったというのです。

そして、刑場に到着すると、一行は、十字架を見て歓喜したと言います。ルドビコ少年は喜々朗々とし、自分の十字架がどこにあるのかと尋ねました。そこには子供の背丈に合わせて十字架が準備されていましたが、十字架を示されると情熱をもってそこに走り寄った、と言います(「第16章」)。

少年は「十字架につけられた時、意外な喜びを見せ、『パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言いながら、信者未信者を問わず人々を驚かせました。そのことで、彼の心には聖霊の恵みが宿っていることがよく表れていたのです(「第18章」)。

いったい彼はどうしてそんなに喜び踊っていたのでしょうか。それは、信仰の結果である、たましいの救いを得ていたからです。

 

昨年中国を訪問した時も、そのような方々がたくさんいました。K市から車で1時間ほど行ったN市にある家の教会の指導者R先生は、信仰のゆえに何度も公安に捕らえられた経験がありますが、どんなに捕らえられても祈りとみことばという二つの翼があれば、どこまでも高く飛んでいけますと、喜び踊っていました。

 

いったいどうして彼らはそこまでしてイエス様に従うことができるのでしょうか。それは、イエス様を愛しているからです。イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない栄に満ちた喜びに踊っているからです。

 

皆さんはどうですか。イエス様を愛していますか。イエス様を信じていますか。イエス様を信じて罪の赦しと永遠のいのち、生ける望みが与えられたこと、そして、やがて朽ちることのない資産を受け継ぐことを見て、喜んでおられるでしょうか。

 

主イエスは、復活後四十日間この地上にとどまりました。なぜとどまったのでしょうか。それは、ご自分がよみがえられたことを証するためであったことは確かですが、それだけでなく、そのことによって、弟子たちが生けるキリストを信じるようになるためでした。イエスが見えなくなっても、弟子たちとともにおられることを弟子たちに体験させる必要があったのです。見える信仰から見えない信仰です。見ずに信じるものは幸いです。私たちもイエスを見てはいなくても信じています。見てはいなくても、愛しています。そして、栄えに満ちた喜びに踊っています。それは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなりませんが、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることを信じて、心から主を愛し、主に従う者とさせていただきましょう。

 

Ⅰペテロ1章1~5節 「生ける望み」

きょうからペテロの手紙に入ります。この手紙は、イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していた、選ばれた人々、すなわちクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。なぜペテロはこの手紙を書いたのかというと、この頃はローマ皇帝ネロによる迫害が激しく多くのクリスチャンが小アジヤの各地に散らされていましたが、そうしたクリスチャンを励まし、そのような迫害の中にあっても堅く信仰に立ことができるようにするためです。いったいどうしたら試練の中にあっても信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。それは、神が与えてくださった生ける望みに目を留めることによってです。

 

Ⅰ.生ける望み(3)

 

まず、3節をご覧ください。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

 

1,2節のところであいさつを書き送ったペテロは、この手紙の本文の冒頭のところで、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」と神をほめたたえています。なぜでしょうか。その第一の理由は、神は私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださったからです。

 

私たちの人生において望みがいかに重要であるかは誰もが知っていること

です。望みがなかったら生きていくことができません。人は望みによって生き、望みによって力を得、望みによって働いています。しかし、望みにもいろいろあります。ある人にとってそれはお金であったり、あるいは財産であったり、権力であったり、家族であったりします。しかし、それが神によるものでなければ、結局のところ、失望してしまうことになります。なぜなら、1章24節に、「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る」とあるように、人の運命はこのようなものだからです。それはあってないようなもの、いつまでも続くものではありません。ほんの少しの間あるように見えても、すぐに消えて無くなってしまうものなのです。ですから、このようなものに望みを置くならば、失望に終わることになってしまうのです。それはちょうど目隠しをしながら淵に向かって歩いているようなものです。しかし、神が与えたもう望みは、そのようなものではありません。神が与えたもう望みは生ける望みです。それは死んだ望みではなく、私たちにいのちを与える望みなのです。神はこの望みを持つようにしてくださいました。

 

いったいどのようにして神はこの生ける望みを持つようにしてくださったのでしょうか。ここには、そのために神がしてくださった三つのことが記されてあります。第一に、神はご自分の大きなあわれみによって、罪人である私を救ってくださったということです。「あわれみ」と何でしょうか。「あわれみ」とは、滅ぼされても当然の者が滅びないですむことを言います。私たちは罪の中に死んでいて、神の裁きを受けるのは当然の身でありながら、神の大きなあわれみのゆえに、救っていただきました。エペソ人への手紙2章4~5節には、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・」とあります。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。

 

アメリカでも日本でも有名な、AAという団体があります。アルコール依存症の人を助けるために作られた団体です(Alcoholics Anonimous,1935年創立)。この頭文字を取ってAAと名付けられました。創設者の男性はビルという男性で、彼自身がアルコール依存症でした。  彼は、絶望の底を歩いて、どうしてもアルコール依存から抜け出せない。依存から抜け出せない自分に絶望します。苦しんで、悩み続けて疲れ果ててしまったある日、自分の持っていた時計が壊れてしまうんですね。それはスイス製の高級時計で、自動巻きでした。日付が付いていて、防水加工。当時のあらゆる機能を持った複雑な時計で、修理してもらうために、アメリカの時計屋さんへ持って行きました。

数日後、彼は、その時計を受け取りに出向いていきますと、時計屋の主人が時計を手渡してこう言いました。

「ビル。君のこの時計は、大変複雑で精巧な品物だ。残念ながら、この時計はうちで直すことはできない。アメリカのどの時計屋に持って行っても、これは直せないよ。これを直す唯一の方法があるとすれば、製造元へ送り返すことだな。つまり、造った人なら、どうやって直すか分かるだろう」  そこで彼はその直せなかった時計をポケットに入れて店を出ます。歩きながら、店の主人の言葉が、自分の人生そのものだということに気が付きました。 「残念ながらこの時計はうちでは直せない。直すとしたら、製造元に送り返す以外にはない」それはまさに自分の人生だと感じ取った彼は、教会の門を叩くのです。  アルコール依存症という問題を解決するためではなく、自分はそもそも神さまによって創造されたにもかかわらず、どこかで神さまから外れて生きている自分の果てに、こういう問題が存在するのだということに彼は気が付いて、キリストを信じ、洗礼を受けて神の子どもとされるのです。それによって、ビルは生まれ変わりました。  ペテロは、それを神さまの「大きなあわれみのゆえに」と、言っています。神さまの大きな憐れみのゆえに、その言葉は、本当にペテロだけでなく、私たちもよくわかります。神さまが私という人間に、どういう計画をもっておられたのかはわかりませんが、でも、私の中に小さな信仰の種を植え付け、育ててくださり、この人物はその小さな種に応じる素直な信仰があるに違いないと、神さまがご覧になって、私を選び、私を神さまによって生まれ変わらせてくださったのです。であるとすれば、それは自分の発想や自分の努力ではなくして、神さまの大きな憐れみ以外の何ものでもないのです。

 

第二に、神は、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。生ける望みは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによってもたらされたものです。どういうことでしょうか。確かにイエス様が私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったという御業は大きな恵みですが、もしキリストが死んだだけであったとしたらどうでしょう。私たちは悲しみの中に沈んでいなければならなかったでしょう。死んでしまえばすべてが終わってしまうわけですから・・。しかし、神はその全能の力をもって、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。ここに希望があります。もし、私たちのいのちが無くなってしまったらどうなりますか。本当に空しくなってしまいます。結局のところ、この死の前には何の成す術もないわけですから。人類のすべてが死に飲み込まれてしまうのです。そして、この死に対しては、誰ひとり勝利した人はいません。だから、人々は死を必然的なものとして受け入れるしかないのです。仏教では死とは、決して避けられないものであり、諦めるしかないものだと説きます。しかし、キリスト教ではそのようには教えていません。キリストは死に勝利して、よみがえられました。死は決して終わりではないのです。最後に復活があります。このような来世観を持つ者にとっては、失望とか絶望はありません。人生でどんなことがあっても、どんな死に方をしたとしても、最後は復活があるのです。「終わりよければ、すべて良し」です。

 

フジテレビのトップニュース・キャスターだった、山川千秋さんは、突然のように、のどのがんのため亡くなりました。録画中のことでした。突然、声が消えました。精密検査の結果は、のどのがんでした。医者は、奥さんを呼んで、がんであることを告げました。すると奥さんは、ガツンと頭を叩かれたような衝撃を受け、突然、目の前が真っ暗になり、全身の力も抜けて、体がこなごなに打ち砕かれたような感じでした。それでもクリスチャンであった奥様は、そのことを聖アンナ病院に入院していた夫に告げました。この時山川氏、55歳でした。子どもたちは中学生と小学生でした。面会の時間の終わりが告げられるまで、一言の会話もなく、二人は重い沈黙の中に座っていました。ただ涙だけが、とめどもなくあふれて、落ちました。

それから、山川さんは悩むだけ悩み、苦しむだけ苦しみ、奥さんが通う教会の牧師を訪ねました。

「先生、私は死の準備がありません。どうか、私を救ってください。」

そのようにして山川さんは、イエス・キリストの十字架による罪のゆるしと、復活による永遠のいのちの救いを信じ、病床で洗礼を受けました。そのあと、あっという間に召されていきました。奥さんにあてた遺書には次のように書かれてありました。

「きよ子よ。私の妻になってくれて十数年、地上では短かったと、すまなく思います。しかし、私はほんとうにしあわせでした。私はあなたによって、二度、生まれ変わりました。この世にも、ほんとうの夫婦愛があることを、あなたは教えてくれた。私は、あなたにめぐり会えたことで、あなたに感謝します。このように計画された神に感謝します。私に、主に対する信仰をうえつけてくれたことで、あなたに感謝します。このように計画された主に、感謝します。

・・・・・

私は愛の中に生き、今、愛の中に死にます。そして、今、主の愛の中に新しく生き、あなたを待ちましょう。

ありがとう。再び、心からありがとう。二人の息子を残されて、これからのあなたの人生は、決して平たんではないことを知って、つらい思いでいますが、道は必ず開けます。二人の息子を信じ、たくましく生きてください。あなたなら、かならず、やっていけます。何よりも、あなたがた三人には、主イエス・キリストの衣があるではありませんか。」

55歳にして、突然、死を突き付けられるとき、ふつうなら、神をのろい、人生をのろい、運命をのろって、絶望と恐れを叫んでもおかしくないのに、山川さんの遺書には、感謝と励ましと愛にあふれています。希望の輝きがあります。それは、死は終わりではない、永遠のいのちのはじまりであるという希望から生まれてくるのではないでしょうか。

 

それだけではありません。イエス・キリストの復活は初穂であり、キリストを信じる者も、やがて同じように復活するという希望があります。やがて私たちもキリストが復活したようによみがえるのです。これが、私たちにとっての究極的な希望なのです。

 

第三のことは、神さまは私たちを新しく生まれさせて、この生ける望みを持つようにしてくださいました。キリスト教では死んでから生まれ変わるのではありません。生きているうちに新しく生まれ変わります。ヨハネの福音書3章には、イエス様とニコデモとの問答が記されてあります。その中でイエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。老年になっていたニコデモはびっくりして、「人は老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と言うと、イエス様はこう言われました。

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

ニコデモは、新しく生まれるということがどういうことなのかよくわかりませんでした。しかし、やがてその会話を通して、それが神の御霊によって生まれることであることを知りました。人はお母さんのお腹から生まれることで肉体的な命を持ちますが、この命だけでは神の国を見ることはできません。神の国を見るためには、神の国で永遠に生きるためには、神のいのちを持たなければなりません。それは聖霊によって救い主イエス様を信じて心に受け入れ、新しく生まれることによって持つことができるのです。

 

あなたはこのいのちを持っておられるでしょうか。神はイエス・キリストを通して、私たちを新しく生まれさせ、この望み、生ける望みを持つようにしてくださいました。この望みこそ私たちに困難に耐える力を与え、どのような状況の中にあっても代わることのない希望です。パウロはこの希望について、ローマ人への手紙の中でこのように言っています。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)

失望に終わることのない希望、これが本当の希望です。この希望は、泥水をかき回すと茶褐色の濁った水になってもやがてきれいな水を湧き上がらせる泉のように、どんな試練の中にあっても、生ける望みを湧き上がらせることができるのです。

 

Ⅱ.朽ちることも汚れることもない資産(4)

 

そればかりではありません。4節をご覧ください。ここには、「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」とあります。

 

当時、財産を代表するものが三つありました。それは食べ物であり、着物であり、また金銀です。食べ物とは大麦とか小麦といった穀物のことですが、どんなにそれらを蓄えてもそれはやがて腐ってしまいます。またどんなに立派で高価な着物でも、虫に食われます。また金銀も泥棒に盗まれたり、錆が付いて使い物にならなくなってしまいます。ヤコブ書には、この錆びがあなたがたを訴えるとありましたね。この世のものはどんなに立派でも、やがて朽ちてしまい、消えて無くなってしまいます。この教会の建物も、建てたばかりの頃はピカピカに光っていましたが、あれから13年経った今では、あちこち補修が必要になってきました。形あるものはやがて消えて行くのです。そのようなものに望みを置いて生きることがどんなに空しいことかがわかると思います。

 

しかし、天にたくわえられてある資産は違います。天にたくわえられてある資産は、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産です。私たちはやがてそのような資産を受け継ぐのです。

 

これは、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤといった小アジヤに散って寄留していた人たちに宛てて書かれました。彼らは、間違いなく迫害の中にありました。彼らは地上の家や財産が奪われ、生活にも事欠くような状態だったでしょう。そんな彼らに宛ててペテロは、この地上の財産は消えてなくなるけれども、あなたがたに与えられている財産は決してなくならないもので、天にたくわえられている財産であることを示して、このすばらしい資産に目を留めるようにと言って励ましたのです。

 

この世界には喜びが沢山あります。幸せなことも沢山あります。それはそれですばらしいものですが、でも、それと、天国にたくわえられている資産、私たちが最終的に受け継ぐ資産とでは全く比べものになりません。それは次元が全く違う、栄光に満ちた資産なのです。このような資産を受け継ぐ者とされたのです。

 

Ⅲ.神の守り(5)

 

そればかりではありません。5節には、終わりのときに用意されている救いをいただくことができるように、それまでの間神がずっと守っていてくださると約束しておられます。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」

 

「終わりのとき」とはいつのことでしょうか?これが、Ⅰペテロの主題でもあります。「終わりのとき」とは、イエス様が再び来られる日のことです。これを神学的には、「再臨」と言います。クリスマスは「初臨」と言って、イエス様が人類を贖うために人となって来られました。その御姿があまりにも謙遜だったので、ほとんどの人がイエス様を神さまだとは認めませんでした。しかし、世の終わりに来られるイエス様は全く違います。ヨハネは黙示録の中で、「その頭と髪の毛は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示録1:14-16)と記しています。それは裁き主としてのイエス様のお姿です。ヨハネは幻の中でそのイエス様の姿を見て、足もとに倒れ、死人のようになりました。それだけ、権威があって恐ろしかったということです。そうです。再臨のイエス様はこの世を裁くために来られるのです。世の終わりは、患難の時代であり、星が天から落ち、月も太陽も光を失います。疫病とか迫害で、多くの人が苦しさのあまり死のうとしても、死の方が逃げていくという恐ろしい時代です。そして、そのような時代が近づいていることを感じます。北朝鮮との戦争が起これば核戦争に発展するかもしれません。地震や津波による災害、原発事故など、人類はこれまでにない危険な時代を迎えているのです。まさに一寸先は闇です。

 

けれども、神に信頼し、イエス・キリストによって救われた者にとってはそれでも望みがあります。なぜなら、「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られて」いるからです。

 

ここの「守られている」という言葉は、戦争において、町の中にある要塞で守られている、という意味があります。どんなに敵からの激しい砲撃があっても守られている、ということです。そして、それはまず、「信仰」によって守られています。信仰は、非常に重要な要素です。天における資産も、新たに生まれたことも、イエス・キリストの死者からの復活も、みな信仰によって、もたらされました。神のみことばへの信仰がなければ、すべてが崩壊してしまいます。けれども、それだけではありません。ここには、「神の御力」によって守られているともあります。自分の信心深さによって、天にある資産を守っているのではなく、神の御力によって、私たちの信仰が保たれ、健全でいることができるのです。

 

イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われました。私たちも、小アジヤの小さな教会に散って寄留して生きているような者ですが、そんな私たちにも同じように御声をかけてくださり、どんな試練や困難の中にあっても希望をもって歩んでいけるようにと励ましていてくださいます。この主の励ましの御声を聞いて、確かに私たちにも困難はありますが、そこにある大いなる救い、永遠のいのちの喜びと感謝、決して朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにされたということを信じ、希望をもって日々歩ませていただきたいと思います。

ヨシュア記2章

きょうはヨシュア記2章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.遊女ラハブ(1-14

 

 まず1節から7節までをご覧ください。

「ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家にはいり、そこに泊まった。エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、今夜この地を探るために、はいって来ました。」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家にはいった者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから。」ところが、この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」彼女はふたりを屋上に連れて行き、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していたのである。彼らはその人たちのあとを追って、ヨルダン川の道を渡し場へ向かった。彼らがあとを追って出て行くと、門はすぐ閉じられた。」

 

「「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの紙、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)との主のみことばに励まされてヨシュアは、主が彼らに与えて所有させようとしている地を占領するために出て行きます。ヨシュアはまずシティムという所からふたりの者を斥候として遣わしてエリコを偵察させました。すると、彼らはラハブという名の遊女の家に入りそこに泊まりました。いったいなぜ彼らはラハブの家に入ったのでしょうか。おそらく、彼らがエリコの町に入ったということが発覚したため追いかけられて必至に逃げた先がこのラハブの家だったのでしょう。あるいは、そこならば彼らが入って行っても怪しまれないと思ったのかもしれません。

 

2節と3節を見ると、エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、この地を探るために、入ってきました」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやってこう言わせました。「あなたのところに来て、あなたの家に入った者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてをさぐるために来たのだから。」

すると、ラハブはそのふたりの人をかくまって、こう言いました。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」ラハブはなぜこのような嘘までついて彼らをかくまったのでしょうか。それは彼女がイスラエルの民について聞いていたからです。8節から14節までをご覧ください。

「ふたりの人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところに上って来て、その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」

 

9節で彼女は、「私は知っています」、10節でも、「私たちは聞いているからです」と言っています。彼女が知っていたこと、聞いていたことはどんなことだったのでしょうか。それは、イスラエルの民がエジプトから出てきたとき、主が葦の海の水をからされるといった偉大な御業をなされたことや、エモリ人のふたりの王シホンとオグを打ち破ったことや、パレスチナの地を次々と制覇してきているということです。彼女はそれらのことを聞いたとき、このイスラエルの民の背後には偉大な神が共におられ、行く手を切り拓いておられるのだと直感したのです。そして、このイスラエルの民の信じる主(ヤハウェ)こそまことの神であり、この神に信頼するなら間違いないと信じたのです。9節から12節までのところには「主」という言葉が四回出ていますが、これはヘブル語で「ヤハウェ」となっています。すなわち、彼女はここで「ヤハウェ」という主の御名を呼ぶことによって、自分の信仰を告白しているのです。それゆえに彼女は、遊女という身分でありながらも、この信仰のゆえに救いを受けることができたのです。ここに大きな慰めを受けます。私たちが救われるのは、私たちが善人だからではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるのです。この「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

それは私たちも同じです。私たちもこのラハブと同じように汚れた者であり、不道徳な者であるにもかかわらず、主の御名を呼び求めることによって、主イエスを救い主と信じて受け入れたことによって価なしに義と認められたのです。

 

Ⅱ.赤いひも(15-20

 

次に、15節から20節までをご覧ください。

「そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。彼女は彼らに言った。「追っ手に出会わないように、あなたがたは山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこで身を隠していてください。それから帰って行かれたらよいでしょう。」その人たちは彼女に言った。「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。だが、もしあなたが私たちのこのことをしゃべるなら、あなたが私たちに誓わせたあなたの誓いから私たちは解かれる。」ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。」

 

ラハブが、「私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、誓ってください。そして、私に確かな証拠をください。」(12というと、彼らは、「私たちのことをしゃべらなければ、主が自分たちにこの地を与えてくださるとき、彼女に真実と誠実を尽くそう」(14と約束しました。そのしるしこそ赤いひもです。ラハブが彼らを綱でつり降ろした窓に赤いひもを結びつけておき、その家に彼女の父と母、兄弟、また、父の家族を全部、集めておかなければならないというのです。そうすれば、彼らがエリコを占領した時に、そのしるしを見て、その家だけは滅ぼさないというのです。

 

かつて、これに似たような出来事がありました。そうです、過越の祭りです。出エジプト記1213節には、イスラエルがエジプトから出て行くとき、神はエジプトの初子という初子をみな滅ぼすと言われました。ただ家の門柱とかもいに小羊の血が塗られた家は神のさばきが過ぎ越していき、災いから免れたのです。ですから、この赤いひもは、過越しの小羊の血を表していたのです。それはまたイエス・キリストの贖いの血潮の象徴でもありました。ラハブは遊女という職業でしたが、この小羊の血によって救われたのです。私たちを神のさばきから救うのは、この小羊の血を信じる信仰によるのです。私たちがどのようなものであるかは、問われません。ただキリストの血を信じ、その血が塗られているかどうかが問われるのです。

 

ヘブル人への手紙1131節に、このラハブの信仰について次のように記されてあります。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」

すなわち、ラハブは信仰によって生きたのです。それゆえに彼女は遊女でありながらも、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れることができました。神のさばきから免れる唯一の道は、赤いひもを結び付けること、すなわち、神の小羊であられキリストの贖いを信じることなのです。

 

ここに、クリスチャンとはどのような者をいうのか、その姿が描かれています。それは、高潔な人であるとか、立派な人、教養のある人、美徳に満ちた人のことではありません。クリスチャンというのは、ただ信仰によって神の恵みと救いを受けている人のことなのです。

 

でもちょっと待ってください。新約聖書にはこのラハブのことについてもう一か所に引用されていて、そこには彼女が行いによって救われたと言われています。ヤコブの手紙225節です。「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。」

ここでは特に、人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないということの例として取り上げられているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。これはちょうど今礼拝でヤコブの手紙を取り上げており、その中でもお話ししたように、彼女がその行いによって義と認められたということではなく、彼女は生きた、本当の信仰があったので、自分の命の危険を冒してもイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出すことができたのです。その信仰にこうした行いが伴っていたということなのです。本物の信仰にはこうした行いが伴うのです。

 

つまり、私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるのです。そこには、その人がどんな人であるかとか、どんな仕事をしていたかとか、どんな性格の人か、どんなことをした人なのかといったことは全く関係ありません。ただ神の恵みの賜物であるイエスを、救い主として信じて受け入れたかどうかということだけが問われるのです。もしイエス様を信じるなら、たとえ彼女のように「遊女」という不名誉な肩書であっても、たとえ異邦人として神から遠く離れていた人であっても、だれでも救われ、神の祝福を受け継ぐ者とさせていただくことができるのです。そして、そのように救い主につながった本物の信仰には、そうした行いが伴ってくるのであって、その逆ではないのです。

 

Ⅲ.ラハブの信仰(21-24

 

さて、二人の斥候からそのような提示をされたラハブは、どのように応答したでしょうか。21節から終わりまでをご覧ください。

「ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。彼らは去って山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこにとどまった。追っ手は彼らを道中くまなく捜したが、見つけることができなかった。ふたりの人は、帰途につき、山を下り、川を渡り、ヌンの子ヨシュアのところに来て、その身に起こったことを、ことごとく話した。それから、ヨシュアにこう言った。「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています。」

 

ラハブは、二人のことばに対して、「おことばどおりにいたしましょう。」と答えました。これは簡単なことのようですが難しいことです。皆さんがそのように言われたらラハブのように答えたでしょうか。そんなことしていったい何になるというのか、もっと他にすることはないのですか、たとえば、地下に隠れ家を作ってそこに隠れるとか、ありったけのお金を出して命拾いするとか、そういうことならわかりますが、つり降ろした窓に赤いひとを結ぶなんてそんな簡単なことではだめなのではありませんか、と言いたくなります。でも救いは単純です。救いはただ神が仰せになられたことに対して、「おことばどおりにします」と応答することです。よく聖書を学んでおられる方が、「私はまだバプテスマを受けられません」というような方がおられます。「どうしてですか」と聞くと、「まだ聖書を全部学んでいないからです、せめて新約聖書の半分くらいは読まないとだめでしょう」と言います。確かに聖書を学ぶことは大切ですが、全部学ばないと救われないということではありません。聖書が指し示しているイエス様が救い主であり、私たちのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたということを信じるなら救われるのです。

 

ラハブのように応答した人が、聖書の他の箇所にも見られます。イエスの母マリヤです。彼女も主の使いから、「あなたはみごもって男の子を産みます」と告げられたとき、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えますが、それが神の聖霊によるとわかると、「どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」と言って、神のみことばを受け入れました。神の救いは自分の頭では理解できないことでも、神が言われることをそのまま受け入れることから始まります。そのような人は神から大いなる祝福を受けるようになるのです。

 

それはマリヤもそうですが、このラハブもイエス・キリストの系図の中に記されていることからもわかります。マタイの1章を見ると名誉なことに、イエス・キリストの系図の中に、彼女の名が連ねられていることがわかります(5節)。異邦人でありながら、しかも遊女という肩書にもかかわらず、神の恵みに信仰をもって応答したことによって、彼女は救い主の系図の中に組み込まれるまでに祝福されたのです。私たちも神の恵みを受けるにはあまりにも汚れた者ですが、主の恵みに信頼して、神の救いイエス・キリストを信じて受け入れ、この方と深く結びつけられることによって、神の恵みを受ける者とさせていただきましょう。

ヤコブ5章13~20節 「祈りの力」

きょうは、ヤコブの手紙の最後の箇所から、「祈りの力」と題してメッセージを取り次ぎたいと思います。

ヤコブは、前回のところで、苦難と忍耐について語りました。クリスチャンは世にあっては患難がありますが、主が来られる日が近いということを覚えて、忍耐するようにと勧めました。

今回のところには、そのように苦しみを耐え忍んで主の来臨を待ち望むにあたり、クリスチャンがしなければならないことは何かを教えています。それは祈りです。ここには「祈りなさい」という言葉が何度も繰り返して強調されています。私たちは、祈りを通して神に、私たちの苦しみを知っていただくのです。その時、神はその苦しみから私たちを引き上げてくださいます。きょうはこの祈りについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.祈りなさい(13)

 

まず13節をご覧ください。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」

 

苦しんでいる人がいたら祈りなさい。喜んでいる人がいたら賛美しなさい。実にシンプルで分かりやすい勧めです。いったいなぜこのようなことを勧めているのでしょうか。頭ではわかっているようでも、実際には忘れているからです。私たちは苦しみに会うとパニックになり、泣いたり、騒いだり、落ち込んだり、つぶやいたりしますが、祈りません。また逆にうれしいことがあるとそのことを喜びますが、神に感謝したり、賛美したりしないのです。あたかもそれを自分の手で成し遂げたかのように思い込み、「オレもまんざらじゃないな」とうぬぼれてみたり、「こうしたからうまくいったんだ」と、むなしい誇りを抱いたりするのです。

ここでヤコブは、主の再臨を待ち望むクリスチャンは、逆境の中で苦しんでいる時も、順境の中で喜んでいる時にも、いつも神に祈るようにというのです。なぜなら、祈りは神に向かってなされるものだからです。「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:19)これが主の来臨を待ち望む者の姿なのです。

 

イエス様が祈っておられる姿を見て思わず引きつけられた弟子たちは、ある時イエス様に、「祈ることを教えてください」と言いました。このときイエスが教えてくださったのが、「主の祈り」です。その祈りは、「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9)という呼びかけで始まります。なぜでしょうか。祈りがこのように呼びかけから始まるということは、そこに神がおられることを前提にしているからです。私たちがどんな時でも祈らなければならない理由はそこにあります。それは神との会話であり、神への信仰そのものなのです。

 

皆さん、人はいったいなぜ祈るのでしょうか。太古の昔から、人はあれ狂う自然の驚異や疫病の猛威におびえ、ただひたすら祈り続けてきました。そして、科学や医学が発達し多くの不安を克服してきた今日でも、その祈りをやめようとしないのはどうしてなのでしょうか。それは人の心の奥底にこうした神への思いがあるからです。

 

ある教会の門のところに1通の手紙が届いたそうです。きちんとした鉛筆の字で、女の子らしい便箋に、こう書いてありました。「神様へ。わたしは受験生です。来週の日曜日から、高校入試がはじまります。いままで、わたしなりに高校に合格できるように勉強してきました。でも、合格できるか心配です。だから毎晩、『合格しますように』とお祈りしています。でも、わたしなんかの願いを神様が聞いてくださっているのかわからないので、教会にわたしの願いを持ってきました。」  そして、2つの高校の名前と受験日があって、最後に、「どの日も、わたしの持っている力をすべて出し切れますように」と書かれてありました。  それで、その教会では祈祷会でその手紙を紹介し、みんなで名前の知らないこの女の子のために祈りました。

私は、この女の子の手紙の中に、人間に共通する訴えのようなものを感じます。「わたしなりに勉強してきました・・・でも不安です」。私たちの「私なりに」が、人生の解決にはならないのです。最善を尽くしてもそこになおも不安は残り、なおも空しさが残り、もどうにもならない問題が山のようにあるのです。だから、人は祈るのです。

 

それからもう一つ、「果たして、私なんかの願いを、神さまが聞いてくださっているのかわからない・・」ということですが、おそらく人間は、いつもそう思ってきたのではないでしょうか。ですから、イエスさまが祈っておられる姿に、弟子たちは思わず引きつけられて、「主よ。祈ることを教えてください」と言ったのではないでしょうか。

 

幸い私たちは、聖書を通してこの神様がどのような方であるかを知りました。神様は天地を造られた創造主であり、罪によって神から離れた私たちのために救い主イエス・キリストを遣わしてくだった方であり、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、罪を贖ってくださいました。それゆえに、この救い主を信じる者を義と認めてくださり、ご自身の子としてくださると約束してくださいました。神様が父であるということは、私たちにとって何が最善であるのかを知っておられるということであり、私たちはこの神様に信頼して祈ることができるということなのです。それがこの「天にいます私たちの父よ」という呼びかけなのです。

 

私たちはもともと神に向かって祈る者であるはずなのに、どのように祈ったらいいかわからないと、いつしか祈ることを止めてしまいました。そうではなく、天にいます私たちの父よと、もっと単純に、もっと純粋に、天に神に向かって祈らなければなりません。こんなことを祈ったら変じゃないかな、これはご利益の祈りに違いない、こんな祈りを神さまが聞いてくださるはずがないという前に、これらすべてをひっくるめて神に向かわなければならないのです。それが祈りなのです。神様は、私たちがどのように祈るかということよりも、私たちにとって神様がどのような存在であるのかを知り、神様ご自身を求めることを願っておられるのです。ですから、私たちは「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しな」(エペソ5:19)ければなりません。苦しんでいる人がいれば、その人は祈ってください。喜んでいる人がいるなら、その人は賛美してください。私たちはいつでも、すべてのことについて、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する者でありたいと思います。

 

Ⅱ.祈りの力(14-18)

 

第二のことは、信仰による祈りには力があるということです。14節から18節までをご覧ください。

「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

 

ヤコブは祈りについて話を続けます。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。」

 

初代教会は、苦しみのために祈り、またあらゆる時に感謝する教会でしたが、それと共に病気のために祈る教会でした。ユダヤ人は、病気になると医者の所へ行くよりも、教会の指導者のもとへ行きました。すると指導者はオリーブ油を塗って祈ったのです。このように初代教会は病気の人のために祈り、神の力をあかししたのです。

 

現代の教会はどうでしょうか。だれかが病気になったら、どれだけの人が教会の指導者たちのところへ行って祈ってもらうでしょう。教会で祈ってもらうよりも、どの病院に行ったらいいかを調べ、あたかも医者が神様であるかのように思い込んでいるところがあります。しかし、どんなに時代が進歩しても、私たちはまず神様が病気を癒してくださるように求めて祈らなければなりません。それは、病院に行ってはならないということではなく、たとえ病院で治療するにしても、それさえも神の恵みと導きによるものと信じて、感謝しなければならないのです。

 

ここには、病気のために祈ってもらうことについて、四つのことが勧められています。

第一に、あなたがたのうちに病気の人がいたら、その人は、教会の長老たちを招き、とあるように、まず招かなければならないということです。どういうことでしょうか。イエス様が病気の人をいやされた時、その多くの場合、彼らがイエス様のところに来て、いやしを求めました。ベテスダの池で38年間も病気で伏せていた人のように、イエス様の方から近づかれたというケースもありますが、その場合でもイエス様は彼に、「よくなりたいか」と尋ねられ、その人から「よくなりたい」という気持ちを引き出されました。つまり、この病気の人のための祈りは、その人の中に神様にいやしていただきたいという強い願いがあって、初めて成り立つということです。イエス様は、「求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば、見つかります。たたきなさい。そうすれば、開かれます。」(マタイ7:7)と言われましたが、病気のいやしのために、神に求めなければなりません。

 

第二のことは、ここに「長老たちを招き」とあるように、いやしのために祈ってもらう時には複数の長老たちに祈ってもらう必要があるということです。なぜでしょうか。それはいやしてくださるのは神様であって、長老たちではないからです。とかく私たちはいやしてくださる方よりも、いやしのために祈る人をあがめてしまう傾向がありますが、そのようにして神の栄光を奪う罪を犯すことがないように注意すべきです。

 

第三のことは、主の御名によって祈ることです。ここに、「主の御名によって・・祈ってもらいなさい」とあります。主の御名によって祈るとは、主ご自身がいやしてくださることを信じて祈ることです。主の御名には力があります。それは、この天と地を造られた創造主の御名であり、罪の中から人々を救い出すことができる救い主の御名なのです。

 

第四のことは、オリーブ油を塗って祈ってもらうということです。オリーブ油を塗っていやしてもらうとはどういうことでしょうか。オリーブ油に何か特別な力があるというわけではありません。確かに、旧約時代にはオリーブ油が病の治療にも使われていました。しかし、それはオリーブ油に何か特別ないやしをもたらす成分が含まれているということではなく、このオリーブ油が、ある特別な意味を表していたからなのです。それは何かというと、神の臨在です。ゼカリヤ書4章には神殿の燭台についての幻が記されてありますが、その燭台の油とは神の御霊の象徴でした。したがって、オリーブ油を塗って祈るとは、神の御霊がいやしてくださると信じて祈ることを表わしています。このようにオリーブ油を塗って祈ることで、主ご自身がいやしてくださると信じて祈るところに、主の御力が現されるのです。

 

それは言い換えるなら、「信仰による祈り」と言えます。このような信仰による祈りは、病む人を回復させます。そして、主はその人を立たせてくださいます。ですから、あなたがたのうちに病気の人がいるなら、その人は教会の長老たちを招き、オリーブ油を塗って祈ってもらわなければなりません。信仰による祈りは、病む人を回復させるからです。

 

さらに、ここには、「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」とあります。病気のいやしの祈りのところで、どうして急に罪の話が挿入されているのでしょうか。それは、当時のユダヤ人は、病気は罪の結果であると考えていたからです。今日私たちは、必ずしも病気が罪の結果であるとは考えていません。しかし、病気と罪とが関わりを持っている場合があることは確かなことです。何らかの罪を犯しているために、それが肉体的な病となって現われるときがあるのです。たとえば、だれかが人を恨んだり憎んだりしているとそれが精神的な病となって現われ、さらに肉体的にも影響を及ぼすことがあります。そういう意味で、神との正しい関係は人間の存在と生活のあらゆる部分で健康を保つうえで重要な要素であることがわかります。

 

もちろんすべての病が罪に起因しているわけではありません。イエス様が、生まれつきの盲人をごらんになられて、彼がそうなったのはその人の罪のためでもなく、両親の罪でもなく、神の栄光が現われるためだ、と言われましたが、そのような病もあるのです。またアダムが罪を犯した結果、土地は呪われたものとなり、だれも病気から免れることはできないばかりか、最終的にはみな死ななければならなくなりました。そういう意味では、こうした病も含め、すべての不幸の原因は、この罪に由来していることがわかります。

 

それゆえ、私たちは、互いに罪を言い表し、互いのために祈らなければなりません。いやされるためです。ただ、ここにある「互いに罪を言い表す」というのは、互いに罪を告白し合うことではありません。罪を告白するのは、神に対してなされるものであって、人に対してなされるものではないからです。ですから、この「互いに罪を言い表す」というのは、自分の過ちを言い表して、と言い換えることができます。私たちはとかく、クリスチャン同士が集まると、自分の弱さを語りたがらないものです。今、こういった悩みがある、こういった苦しみがある、だから祈ってほしい、と言いにくいのです。いつもきちんとしていなければいけない、いつも模範的でなければいけないと思い込んで、気が張っているわけです。けれども、教会はそういうところではありません。何でも言っていいところだとは思いませんが、少なくても自分の弱さを分かち合い、互いのために祈り合い、主からのいやし受ける場なのです。肉体的な病も同じように、私たちは教会において祈ってもらい、そしていやしを受けます。あるいは自分の霊的な病についても祈ってもらったら、肉体の病もいやされる、という場合もあります。いずれにしても、互いに分かち合い、互いに祈り合い、互いにいたわり合って、主のいやしを受ける場なのです。なぜなら、義人の祈りは働くと大きな力があるからです。祈りは神の全能を人々にもたらす、神の無限の力なのです。その無限の神の力が、教会にあふれているのです。

 

ヤコブはここで、その祈りの模範としてエリヤという人物を例に取り上げています。エリヤについては、旧約聖書のⅠ列王記17,18章にあります。当時のイスラエルの王で邪悪な王であったアハブ王と王妃イゼベルが、イスラエルの民を真の神ではなく、偶像礼拝に導いたため、エリヤは雨が降らないように祈ると、神は刑罰として3年6カ月の間、地に雨が降らせませんでした。そして、今度は再び雨が降るようにと祈ると、神はエリヤの祈りに答えて雨を降らせ、地は再びその実を実らせたのです。

 

ここで重要なのは、エリヤは「私たちの同じような人でしたが」という点です。彼は超人ではありませんでした。私たちと同じような普通の人でした。私たちと同じように感情の面で弱さがあり、肉体的にも弱さも持っていた普通の人だったのです。実に彼はうつになり、落ち込んで、自殺願望まで抱いた人です。けれども、そんな彼でも祈ったら、雨が降らないようにすることができました。そして、降らないだけではなく、また降らせることもできました。なぜでしょうか。義人の祈りは働くと大きな力があるからです。この場合の「義人」とは、特別な人という意味での義人ではなく、キリストを信じて神の義とされた人、キリストという義にしっかりと拠り頼んでいる人、という意味です。自分自身に頼らず、キリストのみを自分の正しさとして、この方の知恵によって生きる人のことなのです。そういう人の祈りには力があるのです。

 

インディアンに伝道したデービット・ブレイナードは、そのような祈りの人でした。彼が祈りによって成し遂げたわざは、まことにすばらしいものでした。ブレイナードの伝記を書いたゴードン博士は次のように言っています。

「彼はインディアンのことばに通じていなかったが、ただひとり森の中へ奥深くはいって行き、終日そこで祈っていた。彼が祈っていたのはなぜか。彼はインディアンに接触することができなかったからである。すなわち、彼らのことばを理解できなかったのである。もし話そうとするなら、自分の思いを少しでも通訳してくれる人を捜さなければならなかった。そこで彼は、自分のこれからしようとすることがなんであっても、それを全く神の御力によってしなければならないことを知っていた。彼は、聖霊の力がまちがいなく彼の上に臨み、インディアンたちが彼の前に立つことができないまでになるようにと、終日を祈りに費やした。その結果どうだったか。あるとき彼は、立っていることさえ困難なひどい酔いどれを通訳にして説教した。それが彼のできる最善であった。しかし、その説教で、多くの者が回心したのである。彼の背後にある神の驚くべき力の表れであったという意外、私たちには説明しようがない。」

 

まさに、義人の祈りは働くと、大きな力があるということの現われではないでしょうか。そしてそれはエリヤやデービッド・ブレイナードに限ったことでなく、キリストを信じて、キリストに拠り頼んで生きるすべての人に同様に言えることなのです。私たちも平凡な、普通の人ですが、キリストに信頼して祈る者にさせていただこうではありませんか。

 

Ⅲ.忍耐の祈り(19-20)

 

第三のことは、祈りには忍耐が求められるということです。19節と20節をご覧ください。

「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」

 

ヤコブは最後に、真理から迷い出た者を連れ戻す働きについて語っています。そうした罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうことである、というのです。

 

「真理から迷い出た者」とは、もちろんイエス・キリストの真理から迷い出た者のことです。それは当然行いにも現われてきます。罪を犯し、罪の生活へとのめり込んでいくのです。このような人のために祈ることは、なかなか難しいことでもあります。まだ真理を知らない人のために祈り、そのために労することはそれほど苦になりませんが、ひとたびキリストを信じて真理に入れられたにもかかわらず、自分勝手な道に歩み、そこから迷い出た人がいれば、その人のために祈り、その人を連れ戻すという働きは並大抵のことではありません。それは身から出た錆であり、まさに自業自得なのです。そんな人のために自分の身を削るなどもってのほかです。

 

しかし、それは20節にあるように、罪人のたましいを死から救い出すことであり、多くの罪をおおうことなのです。Ⅰペテロ4章8節には、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とありますが、これが神の共同体である教会に求められていることなのです。これは罪を隠すことではありません。罪を犯した後で、それを悔い改めた人の、その罪を思い出さないということです。そのような愛の共同体があることは、何と幸いなことでしょうか。過去の罪が問われないのです。だれからも裁かれることなく、ただイエス様だけを愛して、キリストをあがめる生活に立ち戻れるということは、本当に大きな喜びです。教会は、キリストを知らない人々を救いに導くことも大切ですが、同様に、キリストを知って迷い出た人を回復させることも大切なことなのです。なぜなら、そのためにキリストは十字架につけられ、死んでよみがえられ、そして今も働き続けておられるからです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたは神の真理から迷い出てはいませんか。自分では正しいと思っていても、いつしか神の真理から迷い出ていることがあります。しかし、もしあなたが自分の罪を告白して、悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。

 

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

 

これが、神の約束です。どうか、主に立ち返ってください。イエス・キリストは、あなたを赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。あなたのたましいは死から救い出され、神のいのちに引き戻されるのです。そして、あなたと同じように、真理の道から迷い出た人がいるなら、私たちはそのために祈り、その人が迷いの道から引き戻されるように労していく者でありたいと願わされます。それが神の来臨を待ち望んでいる教会の姿なのです。互いに罪を言い表し、互いに真理に堅く立ち続けることができるように励まし合い、互いに罪をおおい、互いに祈り合いながら、神のみこころにかなった歩みを目指していきましょう。それが、ヤコブが私たちに強く言いたかったことだったのです。

ヤコブ5章7~12節 「苦難と忍耐について」

きょうは、「苦難と忍耐について」というタイトルでお話しします。7節には、「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。」とあります。「こういうわけですから」というのは、ヤコブがこれまで語って来たことを受けてのことです。ヤコブは5章前半で、富の惑わしについて語りました。1節には、「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」とあります。なぜなら、金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 

一方で、そうした金持ちたちに搾取され、苦しんでいる人たちがいました。神がおられるならどうしてこのようなことを許されるのか、という思いの中で忍耐を余儀なくされる人たちがいたのです。しかし、そのような状態がいつまでも続くわけではありません。やがて、終わりの日がやって来ます。その時には、神は正しくさばいてくださいます。いつまでも悪がはびこっているわけではありません。不正をして富を得、それをもってぜいたくに暮らし、快楽に身をゆだね、自分の心を太らせた貪欲な者たちに対しては、必ず神の正しいさばきが下されるのです。「こういうわけですから」、主が来られるまで耐え忍びなさい、と勧めているのです。

いったいどのようにして忍耐したらよいのでしようか。きょうはこのことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.農夫のように(7-8)

 

まず7節と8節をご覧ください。

「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」

 

耐え忍ぶことについてヤコブは、農夫のたとえを使って説明しています。どういうことかと言うと、農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待つように、あなたがたもそのように耐え忍びなさいということです。農夫は、種を蒔いて一夜明けたらすぐに刈り取るというわけにはいきません。収穫には時間がかかります。しかも、自分の力で天候を決めようとしてもできません。実に長い忍耐を強いられます。私のように忍耐のない者には農夫の仕事は務まりませんね。

 

「秋の雨」と「春の雨」は、イスラエルの二つの雨季のことです。「秋の雨」はだいたい十月下旬から十一月上旬に降る雨のことです。この雨がないと蒔かれた種は発芽しないと言われています。春の雨とは三月と四月に降る雨のことで、この雨が降らないと、穂は十分に生長しません。秋の雨と春の雨があって、四月からの大麦や小麦の収穫を迎えることができるのです。農夫は、それまでじっと待たなければなりません。同じようにクリスチャンも、キリストが再臨されるまでじっと耐え忍んで待たなければならないのです。

 

それは、4章13節にある人たちとは非常に対照的です。そこには、「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人の姿が描かれていました。彼らは、自分で考え、自分で計画を立て、自分の力で何でも成し遂げようとしますが、農夫は自分にできることをしたら、あとはただじっとその時を待つだけです。これが、主を待ち望む者の姿、クリスチャンの姿なのです。

 

ところで、8節を見ると、ここにはただ耐え忍びなさいとあるだけでなく、「心を強くしなさい」とあります。どういうことでしょうか。私たちが、耐え忍ぶときに陥りやすい弱さの一つは、意気消沈することです。この世はクリスチャンにとってますます住みにくいところになっています。この世の関心は自分のことだけなので、神に対しては全く無関心だからです。主イエスは、世の終わりの最も大きなしるしは、人々の愛が冷たくなることだと言われました(マタイ24:12)。それはクリスチャンにとって大きなプレッシャーです。そのプレッシャーに耐えるのがつらくて、苦しくて、がっかりしてしまうことがあるのです。ですから、ヤコブはここで、「心を強くしなさい」と言っているのです。

 

いったいどうしたら心を強くすることができるのでしょうか。ここには、「主が来られるのが近いからです」とあります。主の来臨が近いということを知るとき、私たちの心は強くなります。それはちょうどマラソン競争と同じで、42.195キロの長いマラソンコースを走り抜き、もうすぐゴールだということがわかると不思議な力が沸いてきます。これまで苦しいこと、辛いこともあったけど、それが報われる時がやって来る。その希望で心が強くされるのです。同じように、主の日が近いという希望があるなら、心に励ましを受けます。

 

パウロも、ペテロも、ヨハネもそうですが、彼らは皆、自分たちが生きている間に主が戻って来ることを期待していました。それは、この手紙を書いているヤコブも同じです。主が来られるのは近いのです。それは何千年も後の、いつになるかわからないずっと遠い先のことではなく、もうすぐ起こることなのです。今にも戻ってくるという希望です。そしてその希望こそが、私たちの心を強くしてくれるのです。ですから、主の来臨を待ち望むことはとても重要なことなのです。

 

第一コリント16章21節に、「マラナ・タ」という言葉がありますが、これは、「主よ、来てください」という祈りです。ある人は、この祈りこそ祈りの中の祈りであり、すべての祈りの源泉としての祈りである、と言いました。その祈りにすべての祈りが要約されるからです。なぜなら、この祈りの中にこそ、主を待ち望ませる力があるからです。それは信じる者たちに、望みを与えるのです。

 

私は最近、韓国のコ・ヒョンウォンという宣教師が作詞・作曲した賛美「マラナタ/主が来られる日まで」を聞いて、ものすごい感動を覚えました。

マラナタ 主イエスよ!早く来てください。

地の果ての全ての民 主を賛美させたまえ。

マラナタ 主イエスよ!早く来てください。

世の民が主に戻って 踊り崇めさせたもう。

 

わが主の来られる道を備えよう

十字架を持って、地の果てまで行こう

わが主の栄光、地をおおう時、

われ地の果てで主を迎えよう。

☆マラナタ、マラナタ

アーメン主イエスよ!来てください。(×2)

 

主が来られる日までこの道を歩む 険しい道 十字架を背負い この道の果てで 愛する主に会える 栄光のわが主 我を迎える 主の来られる日まで 立ち上がり 進み行く 主の栄光あふれる日 立ち上がり 賛美せよ ☆愛するわが主 救いの神 栄光のわが主 王なる主イエス
すばらしい賛美です。この賛美には、どんな困難があっても、この信仰の道を進ませる力があります。その力は栄光の主が来られることによってもたらされる希望です。この希望があるからこそ、私たちはこの信仰の道を進み行くことができるのです。この道の果てで愛する主に会える。その時、栄光の主が私たちを迎えてくださいます。それは私たちにとって躍り上がる喜びの時です。これは希望ではないでしょうか。この希望があるから、この希望が近づいているから、あなたがたも耐え忍びなさいというのです。

 

Ⅱ.互いにつぶやき合わない(9)

 

第二のことは、互いにつぶやき合わないということです。9節をご覧ください。「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」

 

これは主が来られるのをどのようにして待つべきなのか、そのあり方です。いったいどのようにして主の来臨を待ち望んだらいいのでしょうか。互いにつぶやき合わないということです。「つぶやく」とは、ぶつぶつということ、つまり不平不満を言うことです。例えば、現状などに満足できなくて不愉快に思い、その思いを述べることです。そのように不平を言ってはいけません。なぜなら、それは神のみこころにかなわいないことだからです。よってこのような態度を取り続けるならば、神にさばかれることになります。

 

パウロはこのことを第一コリント10章5節でこのように言っています。「にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」(1コリント10:5)

彼らとは、旧約聖書時代のイスラエルの民のことです。彼らは神に対して、また、神が立てた指導者モーセに対してつぶやきました。すると、彼らはどうなったでしょうか?「彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」(1コリント10:10)「滅ぼす者」とは神ご自身のことです。神が立てた指導者に対してつぶやくことは神に対してつぶやくことであり、それで彼らは神によって滅ぼされてしまいました。

そして、続けて、パウロはこう語っています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(1コリント10:11)  旧約時代のイスラエルの民に起こったことは、戒めであり、万物の終わりが近づいている時代に生きる、私たちへの教訓だったのです。だから、つぶやかないようにしよう。不平を言わないようにしましょう。それは、神のみこころにかなわないことなのです。

 

ヤコブはそのことを、ここでも主の来臨との関係で語っています。「見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」つまり、互いにつぶやかないということは、万物の終わりが近づいている今だからこそ、特に注意しなければならないことなのです。

 

そのことをパウロは、エペソ人への手紙の中で次のように言っています。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:15-16)

世の終わりが近づいている今は悪い時代だからこそ、よくよく注意しなければなりません。私たちの人生には思うようにいかないことや嫌なことがたびたび起こるためすぐにつぶやいたり、不平不満を言いたくなりますが、それは決して賢い人のようではありません。賢い人とはどのような人なのかというと、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いる人です。愚かにならないで、主のみこころは何であるかをよく悟り、御霊に満たされ、詩と賛美と霊の歌とにより、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美します。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝するのです。不平を言いたくなることについては、公平に、すべてを知り、最終的なさばきをなす事ができる方にゆだねなければなりません。さばきの主が戸口まで来ているからです。それを見なければなりません。そのさばきに先だって、勝手に不平不満を言うべきではなく、そのさばきを主にゆだね、忍耐して、主が来られるのを待たなければならないのです。

 

Ⅲ.預言者たちの模範(10-11)

 

第三ことは、預言者たちの模範です。10節と11節をご覧ください。

「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」

 

私たちがこれから経験しなければならないこと、あるいは今経験していることが、すでに他の人が経験済みであるということは、どんな場合でも大きな慰めとなります。ですから、ここでヤコブは、苦しみの中において耐え忍ぶことを学ぶために、預言者たちを模範にしなさいと言っているのです。預言者は、自分が生きている時代の人々に、神のことばを語るために立ち上がった人たちですが、その立場のゆえに、迫害に会い苦しみました。その預言者たちを模範にしなさい、というのです。

 

その中でも、苦難と忍耐についての最も典型的な模範はヨブです。このヨブの忍耐のことについては、当時の人々もよく聞いていました。ヨブは非常に忍耐強い人でした。

 

彼はウツの地で一番の大金持ちで、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。そんな彼が、ある日、彼の多くのしもべと家畜が一瞬にして殺され、また台風が襲い彼の10人の息子と娘までも失ってしまいました。そればかりか、彼の身体を足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物が打ったのです。彼は唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、彼の顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白しました。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。(ヨブ1:20-22, 2:10)。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです(ヨブ42:1-6)。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)と、偉大なる信仰の告白をしました。

その結果どうなったでしょうか。ヨブは最後まで信仰の聖さを守ったので、主はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

 

このようにヨブは、失敗してもみくちゃにされながらも、耐え忍びました。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方ですから、不完全な私たちをも、その忍耐のゆえに報いてくださいます。あわれみ深い主に期待して、忍耐するのです。

 

私たちは、ヨブのような迫害を受け、極度の貧しさの中にいる訳ではありませんが、この複雑な社会の中で、豊かで安定した社会の中で、信仰のゆえに、これまでにない形でストレスに悩まされることがあります。しかし、そのような中でも私たちは、主がもうすぐ近くまで来ているということを見なければなりません。その時主はヨブになさったように、私たちにも報いてくださいます。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。この希望のゆえに、私たちは試練と困難を耐え忍ぶことができるのです。ですから、私たちも主が来られる時まで耐え忍びましょう。多くの苦難と困難にあっても、心を強くして、ひたすら主を待ち望みたいと思います。

ヤコブ5章1~6節 「いま持っているもので満足しなさい」

ヤコブの手紙の最後の章に入ります。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(2:26)と、行いの伴った生きた信仰とはどのようなものなのかを具体的な例をあげて語ってきたヤコブは、この最後のところで富の問題を取り上げています。

 

1節には、「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」とあります。必ずしも、お金持ちが悪いというのではありません。聖書では、お金そのものは悪であるとか、裕福であることが罪であるとは教えていません。聖書で問題にしているのは金持ちになりたがること、つまり、お金に貪欲であることです。神よりもお金を愛すること、お金が神になってしまうことなのです。なぜなら、そこには多くの誘惑とわながあるからです。Ⅰテモテ6章9~10節にはこうあります。

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」

金を追い求めたために、信仰から迷い出ることがあります。ヤコブはこの欲についてはたびたび語ってきました。欲そのものは問題ではありませんが、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。その大きな誘惑の一つがお金なのです。お金に貪欲になると信仰から迷い出て、悲惨な結果を招くことになってしまいます。ですから、金銭を愛するのではなく、神を愛し、神によって与えられているもので満足しなければなりません。

 

どうしたら満足することができるのでしょうか。きょうはこの富に対してどうあるべきなのかを、聖書から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.天に宝をたくわえる(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」

 

「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちのことです。彼らの中には神を愛していると言いながら、実際にはそうでない人たちもいました。彼らが愛していたのは神ではなくお金でした。彼らは口先では神を信じていますと言っても、その行いはそれを否定するものでした。貪欲によってお金を愛することが、彼らの心を支配していたからです。そのように彼らに向かってヤコブは、「あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」と厳しく警告しています。

 

なぜ泣き叫ばなければならないのでしょうか。それは、彼らにどんなに富があっても、やがて神の前に立つとき、彼らが頼りとしていたその富が、神のさばきから彼らを救うことはできないからです。この地上の富は一時的なものであり、いつまでも続くものではありません。それなのに、神ではなく富を頼りとして生きるなら、やがて終わりの日に、そのような者に迫りくる悲惨な結果がどのようなものであるかを見たら、泣き叫ぶしかありません。

 

2節と3節をご覧ください。

「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀はさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。」

 

ここには、彼らが頼りとしていたものがどのようなものであったかが述べられています。当時、財産を代表するものが三つありました。それは食べ物、着物、そして金銀です。食べ物というのは大麦や小麦などの穀物のことですが、それらは収穫すると倉にたくわえられました。しかし、たとえ何年分もたくわえてもそれを使わなかったら、それはやがて腐ってしまいます。そうなればすべてが無駄になってしまいます。どんなに蓄えても神の前に富まないと腐ってしまうことになります。

 

着物はどうでしょうか。着物も、当時は大切な財産の一つでした。それは商売の取引としても使われました。また、親から子に相続される価値ある物でもありました。けれども、どんなに価値があるからといっても、それをただしまっておくだけなら意味がありません。やがて虫に食われて使い物にならなくなってしまうからです。何の値打ちもなくなってしまいます。

 

もう一つは金銀です。金銀は虫に食われることはありませんが、別の問題がありました。それはさびです。今のように純金であればさびることはありませんが、当時の金銀は混合物だったので使わずにおけばさびることがありました。

 

そればかりか、ここではそのさびが、あなたがたを責める証言となるとあります。どういうことでしょうか。証言というと、すぐに思い浮かべるのが裁判です。裁判で証人が立たせられると、その証人がいろいろと証言するわけですが、ここではそのさびが証言するというのです。どのように証言するのでしょうか?「私がさびです。私が、この人が愛した元金銀です。この人はずっと私を愛していました。でも、長年使わずにいたのでこんなにさびてしまったのです。この人が私を無駄にしました。今ではもう何の役にも立ちません。こんなにさびてしまいました。全部この人のせいです。」と言って、あなたを責めるのです。

 

そればかりではありません。ここには、そのさびが「あなたがたの肉を火のように食い尽くします。」とあります。火のように食い尽くすというのは、神のさばきを表しています。さびが火のようにあなたをさばくのです。そのように金銀を自分のためにたくわえることは、終わりの日のさばきのために財宝をたくわえることになるのです。

 

いったい何が問題なのでしょうか。前にも申し上げたように、金銀をたくわえることが問題なのではありません。金持ちであることが罪なのではないのです。問題は、あなたがそれをどこにたくわえているのか、何のためにたくわえたのかということです。というのは、そのことによってあなたの心がどこにあったのかがわかるからです。

 

イエス様は、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあると言われました。マタイの福音書6章19~21節です。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 

もしあなたが、自分の宝を地上にたくわえるのなら、あなたの心は地上にあります。しかし、もしあなたの宝を天にたくわえるなら、あなたの心は天にあります。あなたの心のあるところにあなたの宝もあるからです。それによって、あなたが何を頼りに生きているかが明らかにされます。天に宝をたくわえるなら、その人は神を第一にしていることが証明されるので永遠のいのちを受けますが、地上に宝をたくわえるなら、やがて虫とさびできず物となり、また盗人が穴をあけて盗みます。その最後はさびがあなたを食い尽くすことになるのです。だから、自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝は天にたくわえなさい、というのです。

 

あなたの宝はどこにありますか。何のために使っているでしょうか。どうか、この地上にではなく、天に宝をたくわえてください。

 

聖書を見ると、そのような人を何人か見ることができます。たとえば、アブラハムはそうでした。創世記14章を見ると、彼はソドムとゴモラが滅ぼされ、ロトとその財産、それにまた、女たちや人々も奪われると、自分のしもべ318人を招集して敵を追跡し、それを打ち破って奪い返したとあります。

するとシャレムの王メルキゼデクが、パンとぶどう酒を持って来て、彼を祝福しました。するとアブラハムはどうしたかというと、戦利品の十分の一を彼にささげたのです。アブラハムはなぜメルキデゼクに自分の戦利品の十分の一をささげたのでしょうか。それは彼が神に信頼していたからです。このメルキデゼクは受肉前のキリストでした。アブラハムは神に十分の一をささげることによって、自分が何により頼んでいるのかを明らかにしたのです。すなわち、彼はこの地上のものではなく、神に信頼して生きていたのです。その証拠に、この後すぐに、ソドムの王が彼に、「人々は私に帰し、財産はあなたが取ってください。」(創世記14:21)と言ったとき、アブラハムはこう言いました。「私は天と地とを造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何も取らない。それは、あなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」(同14:22-23)

アブラハムは、徹底的に神により頼みました。この地上のものにではなく天に、神により頼んで生きていたのです。天に宝をたくわえていたのです。それは彼が、神がどのような方であり、神の恵みを知っていたからです。

 

私たちもキリストによって神の恵みを受けました。自分の罪のために滅ぼされても致し方ないような者だったのに、神はあわれんでくださり、こんな者を救ってくださいました。このような者にとって、神の恵みに対するもっともふさわしい応答は、自分を神にささげることであり、神により頼んで生きること、自分の宝を天にたくわえることなのです。

 

Ⅱ.不正な金持ちたち(4-5)

 

第二に、4節と5節をご覧ください。ここには、「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とあります。

 

当時、穀物の収穫の時には、労働者を日雇いで雇いました。そうした労働者たちは、もし賃金が未払いにされるとその日の食べ物にありつくことができなかったので、生きていくことができませんでした。ですから、旧約聖書には、こうした賃金の未払いについて厳しく規定されていたのです。たとえば、申命記24章14節には、「貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。」とあります。また、レビ記19章13節にも、「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。」とあります。こうした律法の規定は、このような貧しい人たちへの配慮から命じられていたのです。

 

それなのに、そうした神の定めを無視し、支払うべきものを支払わず、貧しい者たちから搾取して、ぜいたくに暮らし、快楽にふけり、自分の心を太らせていた不正な金持ちたちがいました。前にも申し上げましたが、聖書は富そのものを非難していません。金持ちであることが問題なのではありません。問題は、その富を不正に手に入れていたことです。

 

まず4節には「未払い賃金」とあります。この金持ちたちは不正な方法によってお金を集めました。それから5節には、「ぜいたくに暮らし、快楽にふけり」とあります。全く利己的なお金の使い方です。そして6節の前半には、「正しい人を罪に定めて殺しました」とあります。彼らは貧しい人、弱い人、正しい人をしいたげることによって、キリストを再び十字架につけて殺すような罪を犯し、同じ神の民であるクリスチャンを傷つけるようなことをしていたのです。

 

ここには、そうした労働者への未払いの賃金が、叫び声をあげている、とあります。この叫び声は、あまりにも恐ろしい搾取に対する困窮者から出てきた叫び声です。それは万軍の主の耳に届いています。何を隠そう、それは万軍の主を敵に回すことなのです。万軍の主がそうした不正に対して戦われます。5節に、「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とありますが、それはちょうど、豚肉のために飼われている豚が、屠殺される日のためにたくさんのえさを食べているようなものなのです。

 

この不正な金持ちたちの問題点は何だったのでしょうか。勿論、それは彼らがそうした賃金を不正に手に入れ、自分たちの懐を肥やしていたことですが、その問題の根本には「自分のために」という利己的な思いがあったことです。イエス様はこのような金持ちは愚かな金持ちであると、たとえを話されました。ルカの福音書12章16~21節です。

「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして、言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

この金持ちの問題は、自分のことしか考えられなかったことです。彼の畑が豊作だったとき、彼は「どうしよう」と考え、「こうしよう」と決断しました。そこには神が入る余地がありませんでした。いつも「私」が中心なのです。「私はどうしよう」、「私はこうしよう」、「私は、あの倉を取りこわして、私は、私の穀物や私の財産をみなそこにしまっておこう。」と、「私が」とか「私の」という言葉がくり返されているのです。これが貪欲ということです。人が貪欲になっていくと、自分の思いや意志が優先して、神のことが入って来なくなるのです。本来であれば、「神さま感謝します。こんなに多くの穀物を与えてくださり、豊かになりました。神さま、これをどのように用いたらよいでしょうか。これらすべてはあなたのものです。あなたが与えてくださったものですから、あなたが良いと思うように用いてください。」と祈るところなのに、彼は「ああ、安心した。この先もう何年分もためられたから、さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しもう。」と言いました。彼は自分のためにたくわえましたが、神の前に富む者ではありませんでした。それゆえに神は、彼を「愚か者」と言われたのです。

 

しかし、それはこの愚かな金持ちだけのことでしょうか。それは私たちにも言えることです。私たちは、この金持ちのようにあからさまな快楽にふけるようなことはしないかもしれません。けれども、自分のことだけを考える利己的な思いがあるのは否めません。他者に対して、触りさわりのない言葉を話しますが、しかしそれ以上のことには関わりたくないという心の貧しさがあります。人に優しくしてふるまっているようでも、心の底では自分が満足すればそれでいいというような思いがあるのです。それゆえに、神が見えない、周りの人々が見えないということがあるのです。そういう状態に陥っていることがあるのです。マザーテレサが来日した時に、日本は精神的貧困状態に陥っていると言いましたが、それはまさに自分の心を太らせている私たちのことでもあるのです。

 

Ⅲ.だから、悔い改めて(6)

 

では、いったいどうしたらいいのでしょうか。6節をご覧ください。

「あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」

 

「正しい人」とは、貧しい人のことです。イエス・キリストを信じて罪が赦され、神の前に義と認められた人のことです。彼らは神を信じていない人たち、つまり、身勝手で、貪欲で、不正な方法によってお金を集めていた金持ちたちによって、ひどい仕打ちを受けていました。それなのに、彼らは金持ちたちに抵抗しませんでした。なぜでしょうか。それは、彼らがキリストを信じていたので、正しくさばかれる方にすべてをゆだねていたからです。

 

神は愛である方であると同時に、義なる方でもあられます。不正や不義をいつまでも放置されるような方ではありません。私たちは時々、「神さまがおられるなら、どうしてあんなことを許されるのか」と思うことがありますが、それは神さまがただ忍耐しておられるだけなのです。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それがいつまでも続くわけではありません。やがて、終わりの時がやって来ます。その時には、そのような悪を正しくさばいてくださいます。いつまでも悪がはびこっていることはありません。不正をして富を得て、それをもってぜいたくに暮らし、快楽に身をゆだね、自分の心を太らせた貪欲な者たちに対して、必ず神の正しいさばきが下されるのです。そのことを知っているので何の抵抗もしないのです。

 

しかし、神のみこころは一人も滅びないで、すべての人が救われて真理を知るようになることです。そのために、神はひとり子をこの世に遣わしてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神の御子を信じる者は、ひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。だれでもキリストを信じるなら救われて、神の子どもとされるのです。これが福音です。そして、このようにして神の子とされた者は、富についても正しく理解することができます。信仰がなかった時は、お金がすべてでした。お金があれば幸せになれると思っていました。そのために生きていたのです。けれども、イエス様を信じてからは、もっと大切なものがあることを知りました。それは何でしょうか。それは神です。永遠のいのちです。お金よりも大切なものがあると知ったとき、生きるのが本当に楽になりました。お金に支配された生き方から、お金を支配する生き方に、それを神の喜びと栄光のために用いることの喜びを知ったのです。

 

星野富広さんが、「いのちよりも大切なもの」という詩を書かれました。

いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが 嬉しかった

 

皆さん、いのちよりも大切なものとは何でしょうか。星野さんはそれを知るまでは生きるのが苦しかったと言っています。いのちよりも大切なものがあると知ったとき、生きているのが嬉しかったというのです。いのちよりも大切なものって何でしょうか。星野さんご本人は、この問いには答えないようにしているそうですが、それは答えなくてもわかります。それは永遠のいのちです。このいのちは、アッシジのフランチェスコが「平和の祈り」の中で、「自分のいのちをささげて死ぬことによって、永遠のいのちを得ることができるからです。」と言っているように、自分をささげることによってもたらされるものです。このいのちが与えられたら、もはやお金とか、富とか、財産とかに縛られることはなくなります。それよりも大切なものがあることを知っているからです。

 

ヘブル13章5節にはこうあります。

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

そのような人は、いま持っているもので満足することができます。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。この天地を創られた主が共におられる。私たちの必要のすべてをご存知であられ、それを満たすことのできる方が共におられる、もうそれだけで十分です。

 

皆さん、私たちが不幸だと感じるのは足りないと思うからです。物でも、愛情でも、これで十分だと思えるなら満足することができます。でも、どんなに高価なものを持っていても、どんなに多くのものを持っていても、十分だと思えなければ不幸だと感じます。それで満足することができなければ、少なくても満足している人の方が幸せなのではないでしょうか。だから、聖書は、「いま持っているもので満足しなさい。」と言うのです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているのですから。なぜなら、私たちにはすべてを満たすことができる神がともにおられるのですから。この神がともにおられるのなら、私たちは何も足りないものはありません。私たちはいのちよりも大切なものを持っているのですから。

 

あなたはどうでしょうか。このいのちを持っておられるでしょうか。そして、この地上のことばかり考えてはいませんか。あれが足りない、これが足りないと、足りないものを見て嘆いていないでしょうか。「いま持っているもので満足しなさい。」神はあなたに永遠のいのちを与えてくださいました。あなたにとって必要なものをすべて与えてくださいます。大切なのは、あなたがこのいのちを得ておられるかどうかです。どうか、あなたの貪欲を悔い改めて、神に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたをゆるしてくださいます。そしてあなたに、いのちよりも大切なもの、永遠のいのちを与えてくださいます。それがあれば、あなたは本当に満足することができます。

 

箴言30章7~9節でアグルという人が、次のように言いました。

「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不真実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

 

これは本当に生きる知恵ではないでしょうか。アグルが願った二つのこととは、不真実と偽りを遠ざけてほしいということと、貧しさも富も与えず、ただ、自分に与えられた分の食物で養ってほしいということでした。なぜなら、自分が食べ飽きて、神を否み、「主とはだれだ。」と言うことがないためです。また、自分が貧しくなって、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないためです。だから、貧しさも富も与えないでくださいと願ったのです。定められた分の食物で私を養ってください、と祈ったのです。

 

おもしろいですね。私たちにはそれぞれ、「定められた分の食物」があるのです。ですから、それで満足すべきです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているからです。私たちにとって最も大切なのは、この神のいのちに生きることです。いま、持っているもので満足しなさい。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(Ⅰテモテ6:6)なのです。

Ⅰコリント15章1~11節 「最もたいせつなこと」

イースターを迎えました。主の復活を喜び、心から主の御をほめたたえます。私たちは今朝、使徒パウロがコリントの教会に書き送った手紙の中から、「最もたいせつなもの」と題してお話ししたいと思います。

 

世の中には大切なものがたくさんあります。それは人それぞれ違うでしょう。ある人はお金だ、健康だ、仕事だという人がいれば、思いやりだとか、愛だ、いのちだという人もいます。あるいは人と人の絆だという人もいるでしょう。確かにこの世で生きていくためには、これらのものも大切です。しかし、きょうのところでパウロは、最もたいせつなことを私たちに伝えています。それは福音のことばです。きょうは、この「最もたいせつなこと」についてご一緒に考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.この福音によって救われる(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

 

12章から14章にかけて御霊の賜物について語ってきたパウロは、この15章に入ると、「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」と言って、「福音」について語り始めます。「福音」とは何でしょうか。

「福音」とは「良い知らせ」という意味です。福音を国語辞書で調べると「喜ばしい知らせ」「イエス・キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ」とあります。和英辞典を見てみると「Good News」とあります。この福音という言葉は聖書の最も大切なことを的確に表している言葉だと思います。私たちはテレビやラジオ、新聞で様々なニュースを見たり、聞いたりします。それは「どこで」「誰が」「何をしたか」という情報です。実は聖書で最も大切なこととして書かれているのは、「教え」ではなく、「情報」、ニュース、知らせなのです。

 

パウロはここで、「兄弟たち。私は今、この福音を知らせましょう。」と言っています。これは特に、荘厳な面持ちで大事なことを伝える時に伝える言葉です。なぜ大事なのかというと、2節にあるように、この福音のことばをしっかり保っていれば救われるからです。この福音のことばをあなたが素直に受け入れ、この福音のことばに立って生きるなら、あなたは救われるのです。この救いとは罪からの救いのことです。私たちはよく病気が癒されたとか、貧乏から解放された、問題が解決したことを指して「救われた」と言うことがありますが、聖書でいう救いは、そうしたさまざまな問題や困難からの救いだけでなく、それらの問題の根本的な原因である罪からの救いのことを意味しています。罪が赦されるとどうなりますか。罪が赦されると神に受け入れられ、神の御国、天国で永遠に神とともに生きることができるようになります。私たちの人生はこの世だけのものではありません。やがてこの世での生を終え、神の前に立たされる時がやってきます。その時、神が約束してくださったように神の国を相続するようになるのです。この世の中には大切なものがたくさんありますが、この福音はそうしたものの中でも最もたいせつなものであるのは、この世だけではなく永遠にかかわるものだからなのです。

 

ある時、「日本人百人に聞く」というアンケートがありました。その最初の質問は、「あなたは死後の世界はあると思いますか。ないと思いますか。」というものでした。すると、「ある」と答えた人と、「ない」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、ちょうど三分の一ずつでした。

そして、死後の世界が「ある」と答えた人にさらに、「あなたの考える死後の世界は、明るいですか。暗いですか。」と質問すると、その答えは、「明るい」と答えた人と、「暗い」と答えた人と、「よく分からない」と答えた人が、やっぱり三分の一ずつでした。

もしみなさんに同じ質問をしたら何と答えるでしょうか。死後の世界はあると思いますかという質問には、全員が、「ある」とお答えになると思います。そして、「それは明るいですか、暗いですか」という問いには、「明るい」と答えるのではないでしょうか。なぜなら、この福音のことばをしっかりと保っているからです。どうかこの福音を受け入れ、このことばに立ってください。この福音によって救われるからです。

 

Ⅱ.最もたいせつなこと(3-5)

 

第二に、この福音とはどのようなものなのでしょうか。次に3節から5節までをご覧ください。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」

 

パウロは、この福音の内容を最も大切なこととして、次の四つのことにまとめています。

第一に、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」、第二に、「葬られたこと」、つまり、本当に死なれたということです。キリストは十字架につけられた時、単に気絶したということではなく、本当に死んで葬られたということです。第三に、「聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」、そして第四に、「ケパに現われ、それから十二弟子に現われたこと」です。これが、最も大切なこととして、パウロが伝えたかったことです。

 

これを見ると、最もたいせつなことは、イエス・キリストの教えやイエスがなされた奇跡の数々ではなく、イエス・キリストの十字架の死と、葬りと復活の事実であり、それを見た人たちがいるという証拠です。それが福音の中心です。

 

近代になって、ある人々は実に軽々しく主イエスの復活の事実を否定するようになりました。復活抜きのキリスト教を打ちたてようとしたのです。イエス様が復活したかどうかなんてどうでもいいじゃないか、第一、そんなこと確かめようがないし、仮に確かめることができたとしても、それがいったいどうなるというのか。大切なのは、そこから意味をくみ取ることだよ。イエスが復活したということが、自分にどんなことを教えているのかを見い出すことだ、というのです。しかしその結果残ったのは、もはやキリスト教とは言えない代物となってしまいました。主イエスの復活の事実に裏付けられない復活の教えには意味がないのです。そういうことがあったことにしておこう。そう仮定しておこう。そう信じておこう、ということではないのです。この事実の上に私たちの信仰も、希望もその確かさがあるのです。だからパウロは続けて6節から8節までのところでこう言っているのです。

「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(6-8)

 

どういうことでしょうか。これはキリストの復活が事実であったということです。まずケパに現われ、十二弟子に現われたというのは、彼らは生前のイエスをよく知っていた人たちですから、よみがえったイエスと出会った時、その二人は同一人物であるということを確認することができました。他の人がよみがえって、「私がイエス」だと言ったわけではなく、本当にあの方が死んでよみがえられたのだと確認することができたのです。

 

それから「五百人以上の兄弟たちに同時に現われた」とは、キリストがよみがえられたことは幻覚でも何でもない、はっきりとした事実ですよ、という意味です。もし一人や二人であったら、キリストがよみがえったと言っても、ただの思い込みじゃないのと言われても仕方ありません。でも五百人以上の人たちに同時に現われたということになれば話は別です。それは紛れもない事実であると言えるからです。

 

またヤコブに現われ、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださったというのは、まさに神の恵みであるということです。ご存知のように、このヤコブとはイエスの実の兄弟のヤコブのことですが、彼はイエスが十字架に付けられるまでイエスをメシヤとは信じていませんでした。しかし、この復活のキリストに出会うことによって、「ああ、本当にお兄さんのイエスはメシヤだったんだ」と信じることができました。またパウロが自分のことを「月足らずで生まれた者と同様な私」、「未熟児のような私」と言っているのは、彼が以前教会を迫害していた者だからです。そんな者にもキリストは現われてくださいました。ですから、それは紛れもない事実なのです。

 

しかもここで大切なのは、これらのことが他の誰でもない「私たちの罪のため」であったということです。いやもっと言うならば、ほかならぬこの私のためであったということです。キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、私たちのために葬られ、私たちのために三日目によみがえられ、私たちのために現われてくださいました。そう信じて受け入れるなら、あなたは救われるからです。その中でも最も中心的なことは、主イエス・キリストが死からよみがえられたということでした。なぜなら、キリストの復活は、私たちの人生にとって最大の問題である死に対して最終的な解決を与えるものだからです。ですから、キリストが復活したという事実は、私たちにとって大きな出来事なのです。

 

ハイデルベルク信仰問答書には次のようにあります。

〔問45〕キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。   第1に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。  第2に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。  第3に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。

 

これはどういうことかというと、キリストの復活は私たちに過去において、現在において、また未来において、益をもたらしてくれるということです。過去においてとは、主イエスが成し遂げられた十字架の死と復活という贖いの御業によって、すでに主イエスを信じる者たちが義と認められているということであり、現在においてとは、主イエスによって義と認められた私たちが今すでに主イエス・キリストにあって永遠のいのちの祝福の中に生かされているということ、そして未来においてとは、キリストの復活がやがて私たちも復活するという保証であり、初穂であるということです。

 

ここにおいて主イエスのよみがえりは私たちを明日へと生かしめる希望となり、力となるということがわかります。希望とは何か遠い先の事柄ではなく、むしろ確かな約束に基づいた、日々を生きる力、日常的で具体的な力なのです。その力に生きることができるところに、復活の最大の益があると言えるのです。

 

これが、教会が「最もたいせつなこととして」ずっと昔から受け継いできたことです。パウロは3節で、「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって」と言っていますが、この「伝える」とか、「受ける」という言葉は、誰かの思いつきで、突然どこからか降ってきた教えというのでもなく、教会がずっと昔から繰り返して受け継いできた教えであるということです。それは最もたいせつなことであり、キリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたという事実なのです。

 

Ⅲ.神の恵みによって(8-11)

 

それにしても、これほどにパウロが主イエスの復活の事実にこだわるのはなぜなのでしょうか。そこにはパウロ自身の深い経験があったことが分かります。8節から11節までをご覧ください。

「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」。

 

パウロはここで復活の主イエスが「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました」と言っています。主イエスの十字架と復活の場面にはパウロは出てこないのに、これはどういうことなのでしょうか。そこで私たちが思い至るのは、使徒の働き9章にある、あのダマスコ途上での主イエスとの出会いの経験です。かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い詰めることを生きがいとしていたパウロに、主イエスは出会ってくださり、それによって彼の人生はまったく変えられ、キリストを宣べ伝える者へとされていったのです。ですからパウロにとってはキリストの復活は事実であるばかりでなく、まさに彼にとっての人生の原点でもあり、生きる目的でもあったのです。だからこそ彼にとっては復活の事実はないがしろにできないばかりか、それを伝えることこそが彼の生きがいとなっていったのです。

 

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」かつてクリスチャンを迫害し、死にまで追い込んでいったパウロ、自分こそは律法を完璧に守り、その行いによって自分の救いを獲得していた者でしたが、彼をそのような人生に駆り立てていった一つの動機はやはり死への恐れだったのです。それを遠ざけ、振り払うかのように懸命になって生きていました。しかしその人生には本当の平安はなく、本当の確かさもなく、また本当の希望もありませんでした。しかし、そんな人生の途上で主イエス・キリストに出会い、その十字架と復活の福音を自らが聞き、受け入れたとき、彼の人生は全く新しくされ、そしてその福音に生きる者となりました。その時、彼は、死を乗り越えることができたのです。そしてそこで彼が言い得た言葉が、「私は神の恵みによって今の私になった」というこの言葉だったのです。

 

「恵み」とは、それを受けるに値しない者に、神が一方的に与えてくださる賜物です。それにふさわしいから与えられるものは、恵みではありません。それは「報酬」と言います。でもそれを受ける理由などどこにもないのに、神が与えてくださるもの、それが恵みです。パウロは、この神の恵みによって、今の私になりました。それまで彼は、クリスチャンを捕らえては迫害してきました。一撃のように神に打たれて死んでも、文句の言えないようなことをしてきたのです。そのような者に対して、いったい神は何をしてくださったのか。そんな自分を赦してくださいました。それだけでなく、自分を福音の宣教者として選んでくださった。これは、神の恵み以外の何ものでもない、と言ったのです。

 

私は自分の人生を振り返ってみると、そこには多くの罪があり、多くの失敗もあり、穴があったら入りたいくらいですが、それでもなお、神は私を信仰者として、建て上げてくださっていることを思うとき、それはまさに神の恵み以外の何ものでもありません。本当に私の人生を私の人生として生かすもの、私のいのちを私のいのちとして輝かせるもの、死の恐れを超えて、永遠のいのちの希望に生かすもの、それがこの神の恵みであり、神の恵みによってもたらされた復活の信仰なのです。

 

南北戦争で北軍の将軍にまで上り詰め、文学的にも秀でた才能を発揮したルー・ウォーレスとう人がいました。彼はよく知られた無神論者でした。彼は二年間に渡り、ヨーロッパやアメリカの主要な図書館で、キリスト教を破滅に追いやるための資料を求めて研究しました。ウォーレスは「キリスト教撲滅論」という本の第二章を書いている時、 突然ひざまずき「私の主、私の神よ」と言ってイエスに泣き叫んだのです。議論の余地のない明白な証拠によって、ウォーレスはイエス・キリストが神の子であることを否定できなくなりました。後に彼は『ベン・ハー』という小説を書き、この小説はやがて映画化され、アカデミー賞11部門を受賞しました。この記録は「ロード・オブ・ザ・リング」と並ぶ記録として映画史に輝いています。

 

またイギリスのオックスフォード大学教授であったC.S.ルイスは、宗教を否定する不可知論者でした。しかし彼も、イエスが神であるという反論しがたい証拠を研究した後、イエスを自分の神、救い主として受け入れました。 その後ルイスはキリストを証言する多くの本を書きました。最近映画化された「ナルニア国物語」もその中のひとつです。「ナルニア国物語」の主要登場人物の一人にアスランというライオンが登場しますが、このアスランは実はキリストを表しています。聖書の中にはキリストがライオンに例えられている箇所があり、ルイスはアスランをライオンに設定したといいます。

 

他にも数え切れないほど多くの人が、聖書が最も大切なこととして伝えているこの福音を信じて救われ、人生が変えられました。あなたはこの福音、良い知らせ、グッドニュースを聞いてどのようにお感じになりますか?このニュースがもし事実ではないなら、聖書もキリスト教も土台が無くなり、価値のないものとなります。しかしもしこれが事実であるなら、あなたの人生にも大きな影響を与えるものでしょう。

 

たとえあなたが、どんな過去を背負っていようとも、どんな傷を残していようとも、どんなに拭い切れない罪責を負っていようとも、主イエスはそのあなたのすべての罪を背負って死なれ、そして復活してくださいました。すべては主イエスの死とよみがえりによって解決されたのです。復活の主イエスのお体には釘の後、槍の後が残っていました。このことの意味深さを繰り返し思います。確かに今、私たちにも過去の傷は残っていても、しかしそれはもはや私を苦しめ、責めるものでなく、主イエスによるまったき赦しと慈しみと恵みの傷跡なのであって、それ故に私たちもまたパウロと共にこういうことができるのです。「神の恵みによって、私は今の私になりました」。この最も大切な福音を信じ、心を高く挙げて、復活の主イエスの御名を賛美いたしましょう。

マタイ27章45~56節 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

キリスト教では、イエス・キリストが最後にエルサレムに入城した日から復活の前日までの一週間を受難週と呼んでいます。そしてキリストが十字架につけられたのは金曜日で、その日の午後3時頃に息を引き取られました。罪も汚れも無い神の子キリストが、全人類の罪を負って十字架に付けられて死なれたのです。その直前、キリストは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫ばれました。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と言われました。そして、ローマ兵が酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプにつけて、それをイエスの口もとに差し出すと、イエスはその酸いぶどう酒を受けられ、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、最後に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られたのです。

これが、キリストが十字架に付けられた日の出来事です。イエスは十字架上で七つのことばを発せられましたが、その中で第四番目に発せられたのがこの言葉なのです。この言葉は永遠の神秘と言われ、理解するのが最も難しいと言われていいます。なぜなら、キリストが神の子、救い主であられるのなら、どうしてこのように叫ばなければならなかったのかがわからないからです。私はこれまで多くの求道者の方から尋ねられることがあります。それは、「キリストが神ならば、どうしてこのように叫ばなければならなかったのか。」ということです。そんなこと最初からわかっていたはずではないか、それなのにこのように叫んだということは、キリストがただの人間だったということ示しているのではないか、というのです。それなのに、このように叫ばなければならなかったというところに、この言葉の神秘があるのです。いったいキリストはどうしてこのように叫ばれたのでしょうか。きょうはこの言葉の意味をご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.罪を犯さなかったイエス

まず、第一に、主がこのように叫ばれたのは、ご自分の罪のためではなかったということです。46節を見ると、主がこのように叫ばれたのは、午後3時ごろであったとあります。それは十字架につけられてから6時間が経過した頃のことです。この時の肉体的な苦しみは相当のものだったでしょう。手足を引き伸ばされて釘で打ち付けられ、そこに全身の重みがかかっていたのですから、激しい苦痛が伴っていたことでしょう。特に釘が神経に当たっていたら、その痛みは耐えがたいものだったはずです。釘が入っていた回りの肉がはれて腐り始め、脳が充血して激しい頭痛を引き起こします。発熱のためにのども渇きます。それが直射日光の下にさらされていたのであればなおさらのことです。体力が奪われ、肉体の苦痛は極度に達していたにちがいありません。それにもまして苦しめていたのは、精神的・霊的苦しみです。人々から侮辱され、あざけられるというだけでなく、神にも見捨てられたという思いの中で、言葉には言い尽くせない苦痛を受けておられたのです。

ところで、このことばは詩篇22篇1節から引用です。詩篇22篇はダビデの賛歌とありますが、ダビデが自分の人生において、神に見捨てられたのではないかと思えるような状況の中で歌った詩なのです。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私を御救いにならないのですか。私のうめきのことばも。」(詩篇22:1)

ダビデは、自分の人生における困難の中で、そうした苦しみを体験していたのです。そのような苦しみの中で彼は、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばずにはいられなかったのです。それは神にも見捨てられたのではないかと思えるような激しい苦しみが伴う経験でした。しかし、ダビデがこのように歌ったのは自分の置かれた状況における困難や苦しみばかりでなく、同時にやがて来られるメシヤの姿を預言していたのです。

この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が、ヘブル語なのか、アラム語なのかは、意見が分かれているところですが、しかしそれがヘブル語であっても、アラム語であったとしても、イエスがこうした極限の苦しみの中から叫ばれたものであるのは事実です。

いったいなぜイエスはこのように叫ばれたのでしょうか。それはこの十字架の刑が人々から裏切られるということ以上に、神に見捨てられるという経験だったからです。それはまさに地獄の経験でした。よく私たちは「地獄を味わった」ということを耳にすることがありますが、この時イエスは本当に地獄を味わったのです。なぜなら、神に見捨てられ、神から話されることこそ地獄だからです。イエスはこれまで永遠の昔からずっと父なる神と一緒でした。ひと時も離れたことがなく、常に親しい交わりを保っておられました。その主が一時的であっても父なる神から離されること、それは地獄の苦しみだったのです。ですから、この叫びは地獄の叫びと言っても過言ではありません。いったいなぜこのように叫ばなければならなかったのか。

一つだけはっきりしていることは、それはイエスご自身の罪のためではなかったということです。主は全く罪のない方であり、ご自分の罪のために見捨てられることはないからです。それはイエスを十字架に引き渡したローマの総督ピラトの言葉からもわかります。ユダヤ教の祭司長がイエス様をローマの総督ピラトの下に連れて行ったとき、彼の判決はこうでした。

「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」(ヨハネ19:4)

またこうも言いました。

「この人は、死罪にあたることは、何一つしていません。」(ルカ23:15)また、ピラトは三度目に彼らにこう言いました。

「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死にあたる罪は、何も見つかりません。」(ルカ23:22)

そしてついにピラトは、「この人の血については、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」(マタイ27:24)とさじを投げ出してしまいました。

しかし、最終的に彼はイエスを十字架に付けたのは、群衆を恐れたからです。群衆が暴動でも起こしたら自分の立場が危うくなると、群衆の要求通りにイエスを十字架につけたのでした。濡れ衣を着せられたこの時のイエスは、どんなお気持ちだったでしょう。

またイエス様といっしょに十字架につけられた犯罪人の一人でさえも、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:41)とイエス様の無罪を主張しています。

さらにヘブル人への手紙4章15節には、主は罪を犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです、とあります。

ですから、キリストが神に見捨てられたのはご自分の罪のためではなかったことは明らかです。ではいったいなぜ主は十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

Ⅱ.私たちのために死なれたイエス

 

それは私たちの罪のためでした。全く罪のない方が、私たち人間のために、全人類のために死なれたのです。というのは、神は罪を処罰される方だからです。罪とは、的外れのことです。神によって造られた人間は、本来神を信じ、神のことばに従って生きるはずなのに、自分勝手に生きるようになりました。それが罪です。確かに悪い行いもそうですが、それはこの罪の結果なのです。神を神としないことから、さまざまな問題が生じるようになってしまいました。聖書はこう言っています。

「何が原因で、あなたがたに戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブ4:1-2)

つまり、自分の思うとおりにならないと我慢することができず、争ったり、戦ったりするのです。ですから、自己中心こそが罪の本質なのです。そしてそれを言い換えるなら、このように言えるのではないでしょうか。すなわち、罪とは、神を見捨てることであると・・・。神ではなく、自分が中心となることで、神を見捨てるようになってしまったのです。もしそうであれば、そのような人は、神に捨てられることになります。なぜなら、神は罪を放置されることはないからです。必ずその罪に対して報いをなさいます。その報いこそ、神から捨てられるということなのです。それこそ神によって造られた人間にとって最も不幸なことなのです。人の一生はこの地上のいのちだけではありません。やがて肉体が滅びる時、その人のたましいは神のみもとに行くようになります。その時神から捨てられた人は永遠の滅び、聖書ではこれを地獄と言っていますが、入らなければなりません。

するとどういうことになるでしょうか。すると、人間はみな神に見捨てられなければならないということになります。なぜなら、聖書には、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)とあるからです。そして、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるからです。私たちはだれ一人として完全な者はおらず、したがって、生まれながらのままであればだれ一人として神のみもとに行くことはできないからです。しかし、神は私たちが滅びることがないように救い主をこの世に送り、罪の処理をしてくださいました。それがキリストの十字架上での死だったのです。主が十字架に付けられたのはご自分の罪のためではなく、私たちの罪のためであり、私たちの罪を負い、私たちが受けるべき罪の代価を身代わりとなって受けるためだったのです。それは私たちが神に見捨てられることがないように、代わりに神に見捨てられるためだったのです。

かつて、ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が法廷に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄でした。裁判官も、自分の弟が犯人であることを知りました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しましたが、裁判官である兄は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令したのです。そして翌朝には、彼は死刑にされることになりました。一方、その犯人は獄中で、翌日の死のことを考えて悶々とした眠れぬ一夜を明かしました。ところが、夜中に急に裁判官が官服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを告げたのです。  「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を刑に処した。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救うためだ。急いで、お前の服と私の官服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、今後、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけない。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのです。二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ5:6-8)。

「神は、罪を知らない方を、私たちの身代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ1:4-5)

Ⅲ.絶対に見捨てられない私たち

ということは、どのようなことが言えるでしょうか。イエスがあなたの身代わりとなって神に見捨てられたので、あなたは絶対に見捨てられることはないということです。主が私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが罪の刑罰を受けないためであり、私たちが神から見捨てられないためでした。私たちが罪から解放されて、永遠の死から救われるためでした。ペテロはそのことを次のように言っています。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

したがって、主イエスを信じて救われている者は、もはや罪に定められることはありません。つまり、絶対に神に見捨てられることはないのです。パウロは、この真理を次のように宣言しています。少し長いですが引用したいと思います。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:31-39)

主はご自身を信じる者のいと近くにいて、いつも励まし、慰め、救ってくださいます。目に見えないということは、主がおられないということではありません。神がともにおられるかどうかということは、人間の感情に依存するものではないのです。主はいつもともにおられます。それは主があなたの代わりに、神に見捨てられたものとなってくださったからです。それゆえに、この方を信じる者は、決して神に見捨てられることはないのです。

私たちは人生において、「どうして」と叫ばずにはいられないことがあります。どうしてこのような苦しみに会わなければならないのか、どうしてこのような悲しみ、困難、患難を受けなければならないのかという時があります。神に見捨てられたのではないかと思うような時があるのです。しかし、主が私たちのために、すでにその「どうして」という問いを発してくださり、その解答を与えてくださいました。あらゆる「どうして」という解答が与えられているのです。それゆえに、どのようなことがあっても、神はあなたを見捨てることはありません。

 

旧約聖書に登場するヨブは、まさにこの「どうして」を経験した人でした。彼は東の人々の中で一番の富豪でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。家族も愛し自分の息子たちや娘たちのために祝宴を開き、彼らといっしょに飲み食いをするのを常にしていました。

しかし、そんな彼にある日悲劇が襲います。シェバ人が襲って来て彼の家畜を奪うと、若い者たちを剣の刃で打ち殺してしまいました。そればかりではありません。ヨブがこの知らせを受けている時別のしもべがやって来て、彼の息子や娘たちが一緒に食事をしていたとき荒野の方から大型の台風がやって来たかと思うと彼らがいた建物が崩壊し、全員が死んでしまったというのです。その知らせを聞いた彼は上着を引き裂いて、頭をそり、地に触れ費して主を礼拝しました。ヨブはそれでも罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。

けれども、ヨブに襲った試練はそれだけではありませんでした。何と彼のからだの全体に、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれたのです。唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白せざるを得ませんでした。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです。そして、彼はこう祈りました。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)その結果どうなったでしょうか。神はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。その脱出の道こそ、イエスの十字架でした。イエスがあなたに代わって死んでくださったので、あなたは救われたのです。あなたがこのイエスを救い主と信じるなら、あなたは神に見捨てられることはありません。人生の暗やみの中で、全く孤独を感じるときでも、あなたがいやされる唯一の道は、キリストのように叫ぶことです。その叫びは、暗黒を貫いて必ず神にまで届きます。暗黒はいつまでも続くものではありません。決して長く続くものではないのです。それは、栄光の光への入口であるということを覚えていただきたいと思います。キリストがその暗やみを取り除いてくださったからです。

最後に、アメリカの有名な大衆伝道者D.L.ムーディー(1837-1899)の実話をもってこの話を結びたいと思います。1849年にゴールドラッシュがカリフォルニアに起こり、ある人が東部のニュー・イングランドを旅立って、西へ西へと黄金に引かれて行きました。妻と息子を残して。そこで彼は、金を掘り当てたので、家族呼び寄せることにしました。妻は大いに喜んで、ニューヨークから息子を連れて、サンフランシスコ行きの客船に乗ったのです。沖に出て間もなく、「火事だ。火事だ」とだれかが叫ぶ声がしました。船には火薬庫があり、船長はもし火がそこについたらひとたまりもなく、沈んでしまうことを知っていました。救命ボートがおろされました。小さかったので、少人数しか乗れませんでした。すぐに一杯になりました。そして最後のボートがおろされました。この母親は是非乗せてほしいと、懇願しました。しかし、船長は「もうひとりも乗せられない。乗せたらボートが沈む」と言って、どうしても許しませんでした。それで母親はさらに熱心に頼みました。船員は、「それではひとりだけ乗せてもよい」と許しました。すると母親は息子を押し退けて、船に飛び乗ったでしょうか。そうではありませんでした。母親は息子を抱きしめて、ボートに乗せると、最後の別れのことばをかけました。

「おまえ、お父さんに会ったら、こう言っておくれ。私がおまえの代わりに死んだのよ」と。

主イエスは、私たちに代わって、神に見捨てられ、死んでくださいました。だから私たちは決して見捨てられることはないのです。罪なきお方が、私たちの代わりに罪とされたことによって、キリストは神に見捨てられましたが、そのことによって、私たちはもはや、どのようなことがあっても見捨てられることはなくなったのです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、というこのイエス様の叫びは、この事実を私たちに教えていたのです。あなたもこの主イエスの叫びにご自分の身を置いて、この永遠の約束を受け取っていただきたいと思います。

ヨシュア記1章

きょうからヨシュア記に入ります。きょうは、ヨシュア記1章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 Ⅰ.モーセの従者、ヌンの子ヨシュア(1-9

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 

私たちは、これまでモーセ五書から学んできました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記です。これらはみな、モーセによって書かれたものであり、イスラエル人の信仰生活の土台となる書物です。そのモーセが死に、今新しくイスラエルの指導者が立てられます。それがヨシュアです。ここには、「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」とあります。彼は偉大な先達者モーセの後継者であるということです。すぐれた人物の後に続く、いうならば「二番煎じ」です。ここには、「主のしもべモーセは死んだ」ということが繰り返して書かれてあります。どういうことでしょうか。先達者が偉大な人物であればあるほどその後を継ぐ者のプレッシャーは大きいものです。しかし、そのモーセは死にました。ヨシュアにはモーセとは違う、彼自身に与えられた使命を実現してくことが求められていたのです。

 

ではその使命とは何でしょうか。それはイスラエルの民を約束の地に導き入れることでした。モーセは偉大な指導者でしたが、彼らを約束の地に導き入れることはできませんでした。ヨシュアにはその使命が与えられていたのです。そしてそれはまた、律法ではなく福音によって約束を受けることの象徴でもありました。モーセは律法の代表者でしたが、そのモーセは死んだのです。モーセはイスラエルの民を約束の地に導くことができませんでした。約束の地に導くことができたのはヨシュアです。ヨシュアとはギリシャ語で「イエス」です。そうです、約束の地に導くのは律法ではなくイエスご自身であり、イエスを通してなされた神の御業を信じる信仰によってなのです。

 

そのヨシュアに対して主が語られたことは、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということでした。

 

ここで重要なことは、「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ということばです。また、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということばです。この「与えようとしている」とか「与えている」という言葉は、完了形になっています。つまり、これは確かに未来の事柄ではありますが、神にとっては確実に与えられているということです。もう既に完了しているのです。信仰の内に既にそのことが完了していることを表わすために、未来のことであっても完了形で書かれているのです。神の約束が与えられたなら、それはもう実現しているも同然のことなのです。

 

それと同時に、2節には、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り」とあります。これは、神の約束の実現の前には、ヨルダン川を渡らなければならないということが示されています。つまり、神の約束が与えられたからといって、何の苦労もなく自然に、いつの間にか成就されるということではないのです。むしろその約束の実現の前には困難と試練が横たわっており、それを乗り越える信仰が求められるのです。すなわち、このヨルダン川を渡った時に初めて約束のものを得ることができるということです。ヨルダン川を渡らずして、ヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、足の裏で踏むという信仰の決断を経てこそ、彼はカナンの地に入って行くことができたのです。これは霊的法則なのです。ですから、私たちはすばらしい主の約束の実現のために、ヨルダン川を渡ることを臆してはならないのです。私たちの前にふさがるそのヨルダン川を信仰と勇気をもって渡って行くならば、大きな神の祝福を受けることができるのです。

 

5節をご覧ください。ここには、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」とあります。ここには、神がともにいるという約束が語られています。信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしても、やはりそこには恐れが生じます。しかし、この戦いは信仰の戦いであって、自分の力で敵に立ち向かっていくものではありません。主はモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいると約束してくださいました。主がともにおられるなら、だれひとりとして彼の前に立ちはだかる者はいません。主の圧倒的な力で勝利することができるのです。

 

それゆえ、主はこう言われるのです。「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(6-9

 

ここで主はヨシュアに、「強くあれ。雄々しくあれ。」と同じことを三度繰り返しています。なぜでしょうか。ある聖書学者はこう分析しています。ヨシュアは年齢が若く、したがってモーセほどの実力を持っていなかったので、イスラエルの民が自分に従ってくれるかどうか非常に恐れていた。それで主はこれを三度も語って励ます必要があったのだ、と。もちろん、それも一理あると思います。しかし、ヨシュアのこれから先に起こることを考えると、主がそのように言われたのも納得できます。つまり、主は、これからのヨシュアの生涯が戦いの連続であるということをご存知でしたので、「強くあれ。雄々しくあれ。」と何度も繰り返して語る必要があったのです。確かに荒野においてヨシュアはモーセとともに戦いました。しかしそのモーセは死んだのです。モーセが死んだ今、自分一人で戦わなければならない時に、頼るべきものは主なる神だけです。神に聞き従いつつ、自分自身が先頭に立って様々な困難と闘っていかなければならないのです。そんなヨシュアにとって、「わたしはあなたとともにいる」という約束の言葉はどれほど力強かったことかと思います。確かにヨシュアの生涯は戦いの連続でした。しかし、共にいましたもう主の導きの中で、勝利を勝ち取ることができたのです。

 

これは私たちの信仰の生涯も同じです。それは戦いの連続であり、激しい戦いを通らなければならないことがあります。しかし、主はそのような時にも共にいて、勝利を取ってくださいます。それが私たちの信仰なのです。主イエスの十字架は、私たちの罪の赦しのためです。しかしそれ以上に、十字架は悪魔に対する勝利の力であり、悪魔の罠をも勝利に転換させる大いなる力なのです。この十字架の勝利の信仰のゆえに、どんな戦いにも勝利することができるのです。一時的には敗北と見えるようなことがあったとしても、私たちにはやがて必ず勝利するのです。なぜなら、十字架においてすでに主が勝利をとっておられるからであり、その勝利の陣営に私たちはいるからです。

 

私たちクリスチャンは信仰をいただいたからといって、戦いが全くなくなるというわけではありません。困難がなくなる訳ではないのです。この世に住む以上、常に戦いの連続であり、そのような人生を歩まざるを得ません。しかし感謝なことは、私たちは勝利が確実な戦いを戦っているということです。小手先の所ではもしかすると敗北しているように見えるかもしれません。小さな所では破れていることもあります。。しかし大局的には、最も重要な所では、もう既に私たちは勝利しているのです。

 

アラン・レッドパスという霊的指導者はこのように言いました。「クリスチャンは勝利に向かって努力するのではなく、勝利によって働き続ける者なのです。」

そうです。私たちは勝利のために、勝利に向かって懸命に戦う者ではなく、もう既に与えられている勝利をもって、勝利の中を戦い続けていくものなのです。それゆえに、その勝利の信仰をいただいて、大胆に信仰と勇気をもって人生を歩んでいきたいものです。

 

Ⅱ.全員で戦う(10-15

 

 次に10節から15節までをご覧ください。

「そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」

 

ヨシュアは民のつかさたちに、「糧食の準備をするように」と命じました。それはもう三日のうちに、ヨルダン川を渡って、神が所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしていたからです。

これは、ある意味で、それ以前彼らがイスラエルの荒野で天からのマナとうずらを食べたという出来事と対照的に語られています。以前は、一方的な神の恩寵によって、上から与えられる食べ物によって彼らは生きてきました。しかし、これからは自分の手によって食物を得るようにと命じられているのです。つまり、父なる神に対するある種の甘えや、依存心から脱却して、自分自身の手によって、食べ物を獲得していきないというのです。

 

いったいどのように糧食の準備をしたらいいのでしょうか。12節から15節までのところには、その一つについて語られています。すなわち、全員で戦うということです。ここでヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、戦いに参加するようにと命じています。覚えていますか、ヨルダン川の東岸、エモリ人が住んでいたところは、すでにモーセによって占領していました。そこに、ルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族が、ここを所有地にしたいと願い出ました。モーセは初め怒りましたが、彼らのうち成年男子が、イスラエルとともにヨルダン川を渡り、ともに戦うと申し出たので、モーセはそれを許し、彼らにその地を相続させたのです。それで今、彼らが約束したように、彼らに民の先頭に立って戦うようにと命じられているのです。

 

これらの諸部族は、すでにヨルダン川の東側を所有し定住していたので、わざわざヨルダン川を渡って戦う必要はありませんでした。確かにかつて東側を所有するにあたり勢い余ってそのように宣言をしたかもしれませんが、今では戦いに参加するという意欲は失われていたのでしょう。そんな彼らに対して、彼らも立ち上がって戦いに参加するようにと命じられているのです。なぜなら、一つでも欠けることがあれば戦いに勝つことができないからです。彼らが一つとなって戦うところに意味があります。そこに神の力が発揮されるからです。その中には、全面的に参加する者もいれば、部分的参加する者もいたでしょう。また最前線で戦う者もいれば、後方で支援する者もいたに違いありません。しかし、それがどのような形であっても、各々が皆同じように戦略的には尊い存在なのです。そうした仲間が一つとなって戦うことによって、神の力が溢れるのです。

 

Ⅲ.ただ強く、雄々しく(16-18

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。」あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」

 

ここでは、イスラエルの民がヨシュアにあることを求めています。それは、自分たちはモーセに従ったようにヨシュアにも従うので、ただ強く、雄々しくあってほしいということです。これは指導者に対する条件です。つまり、敵との戦いのために、指導者は強く、雄々しくなければならないということです。指導者にとって誠実であることは重要なことですが、それにもまさって強さ、雄々しさが必要なのです。やさしく親切で、思いやりがあることは大切ですが、それにもまさって強く、雄々しくあることが求められているのです。特に戦いにあっては、その指導者の強さが勝敗を決定するといっても過言ではありません。

 

いったいこのヨシュアの強さはどこから来たのでしょうか。第一にそれは、天性のものではなく天来のものであり、肉によるものではなく霊によるものでした。ヨシュアが強く雄々しかったのは、神の霊が彼に注がれ、神の霊が彼の内側に宿っていたからです。

 

ヨシュアが強かった第二の理由は、彼は明確な召命観を持っていたことです。私はよく牧師に必要なのは何ですかと尋ねられることがありますが、それに対して迷うことなく、「神からの召命です」と答えます。神が自分を選び、この務めに任じてくださった。自分の願いからではなく、神が目的をもって自分を用いようと召してくださったという召命があれば、どんな問題も乗り越えることができるからです。ヨシュアはこの召命を持っていたので、強く雄々しくあることができました。自分がこの務めに資格があるかないかとか、適任であるかどうかということは関係ありません。それよりも、自分がその目的のために召されているのかどうか、神がそのことを自分にせよと命じているのかどうかが重要なのです。それは牧師に限ったことではありません。どんな小さな働きのように見えるものであっても、主の働きに求められているのは、主からの召命意識なのです。たとえ自分に力がなくとも、弱さや欠点を持っていようとも、私たちは強くなることができるのです。

 

ヨシュアが強くあることができた第三の理由は、彼が神の約束の言葉に信頼していたからです。彼には神の約束の言葉が与えられていたので、いかなることがあっても失望しませんでした。主なる神は約束されたことを守られる方であると信じていたからです。それゆえに神はヨシュアに、7,8節で、律法を守り行うこと、これを離れて右にも左にもそれてはならないということ、この律法の書を口から離さず、昼も夜も口ずさまなければならない、と命じられたのです。そうです、ヨシュアの強さはこの神のことばに信頼することからくる確信だったのです。それは私たちも同じです。私たちも神のみことばに信頼し、主が約束してくださったことは必ず実現すると信じ切るなら、主の強さと確信がもたらされるのです。

 

私たちもヨシュアのように神の強さをいただくために、神の霊を宿し、神からの召命を確認しながら、神の約束に信頼するものでありたいと思います。そして、ヨシュアが主の力によってイスラエルを約束の地へと導いていったように、信仰によって前進していきたいと思います。

申命記34章

きょうは、申命記34章から学びます。

 

 Ⅰ.モーセの死(1-8

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。」

 

神はモーセに、「モアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登」らせ、約束の地全体を見ることができるようにされました。ネボ山の北方には、ギルガデからダンに至るまで、北西側にはナフタリの全土とマナセの地、西には西の海まで続くユダの全土、そして南はネゲブと低地、すなわちなつめやしの町エリコの谷をツォアルまで眺めることができるようにされました。この地は、かつて神がアブラハムとイサクとヤコブに、「あなたの子孫に与える」と約束された地です。モーセはそれを見ることができました。けれども、その地に入って行くことはできませんでした。

 

こうしてモーセは、モアブの地のその所で死にました。5節には、モーセが「神のしもべ」であったことが強調されています。これは、彼の死がその使命を完全に果たしたことを表わしています。主は彼をベテ・ペオル近くのモアブの地の谷に葬られましたが、その墓を知った者はいません。彼の生涯は人々に称賛されるためではなく、ただ神の栄光が現されるためのものであったことがわかります。彼の生涯は120歳でしたが、それは神のしもべとして、神に与えられた使命を全うする生涯だったのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちの一生は、神のしもべとして、誠実に使命を全うするものでしょうか。モーセのように、神がくださった使命を成し遂げるために最善を尽くしているでしょうか。救世軍の創始者ウイリアム・ブースの妻キャサリン・ブースは、自分の死を前にしてこう言ったと言われています。

「水が押し寄せて来て、私も押されて行く。しかし私は水面に浮かんでいる。死ぬというよりも、もっとよい生涯が始まろうとしている。ここで見ると、死というのはなんと美しく貴いものなのだろう!」

これは、本当に主のしもべとしてその使命に生きた人のことばではないかと思います。この地上にあっては、どれほどの困難があったかと思いますが、それでも自分に与えられた使命を全うした人にとって、死ほど美しいと思えるものはないのです。それとは逆に、この地上のものに執着し、イエス・キリストの永遠の王国とはあまりにも大きな隔たりのある人にとっては、悲惨なものでしかありません。皆さんの生涯はどちらですか。神のしもべとして、神に与えられた使命のために最後まで走り続けようではありませんか。

 

Ⅱ.ヨシュアへの継承(9-12

 

最後に、9節から12節までをご覧ください。

「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。燃える芝の中で、主がモーセに現われました。それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」

 

モーセは死ぬ前に、ヨシュアに按手をし、イスラエルの新しい指導者として立てました。神はヨシュアがその使命を全うできるように、知恵の霊で満たされました。神は彼に使命を与えられ、その任務を全うできるように知恵と能力を与えてくださったのです。その結果、イスラエルの民は、神がモーセを通して命じた通り、ヨシュアに聞き従ったのです。

 

このことは本当に大きな慰めです。私たちが自分自身を見るとき、どうやっても神の民を導いていく知恵や能力がないことに気付きますが、主はそのような者がその使命を担うことができるように知恵と能力を与えておられるのです。問題は、私たちがその現実を信じているかどうかであり、この主の恵みに自らをゆだねているかどうかです。自分を見るのではなく、自分に知恵と力を与えてくださる神を見ることです。

 

10節以降は、モーセを称賛する言葉で締めくくられています。

「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」

モーセは神が立てた預言者の中で、最も偉大な預言者であり、神と最も親密に交わった者です。「それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」

それは、彼がパロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるまうためでした。つまり、彼の偉大な働きの背後には、偉大な神との親密な交わりがあったのです。そのような神の力と助けによってこそ、彼は偉大な預言者として、その使命を全うすることができたのです。

 

私たちはどうでしょうか。自分には何の力もないと言って嘆いてはいないでしょうか。そうです、私たちには何の力もありません。けれども、私たちとともにおられる方は、この世にいるあの者よりも強いのです。大切なのは、自分にどれだけの力があるかということではなく、この力ある神とどれだけ親密に交わっているかということです。主との交わりを通して、私たちも神のしもべとして立ち上がり、神の働きに遣わされていきたいものです。

 

ところで、モーセはこの時約束の地に入ることはできませんでしたが、この時から約1,500年後に約束の地に入っていることがわかります。マルコの福音書92節から8節を見ると、イエス様がヘルモン山に登られた時、そこでお姿が変わったことが記録されてあります。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでした。その時です、モーセとエリヤが現われて、イエスと何やら語り合っていたのです。(マルコ9:4)それは、本来主がどのような方であるのかを示すためであり、その主がどのような道を歩まれるのかを確認するためでした。モーセは律法の代表であり、エリヤは預言者の代表です。すなわち、聖書が示すキリストの道は十字架であることを、この時確認され、その道へと進んでいかれたわけです。

 

しかし、それと同時に、それは世の終わりに起こる出来事の預言でもあったと言えます。つまり、モーセはその生涯において約束の地に入ることができませんでしたが、キリストがこの地上に来られたときよみがえって主のみもとに引き上げられました。エリヤは死を見ることなく天に上げられましたが、それはキリストが来られる時に死を見ることなく主のもとに引き上げられる人たちの型であったということです。この世の終わりにキリストが再臨されるそのとき、主にあって死んだ人がまずよみがえって主のもとに引き上げられ、次に生き残っている私たちが変えられて、空中に引き上げられ、そこで主と会うのです(Ⅰテサロニケ4:13-18)。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになります。

 

私たちもモーセのように約束のものを見ながら生きるとき、確かにこの地上ではそれを受けることはできなくとも、やがて主イエスが再臨されるとき空中に引き上げられ、いつまでもイエスとともにいるようになります。死んだ人も生きている人も・・・。ですから、モーセがネボ山から約束の地を見たように、私たちも信仰の目をもって、しっかりと約束の地を見ながら歩まなければなりません。私たちもやがて神が約束してくださった地、天の御国に入るようになるからです。

ヤコブ4章11~17節 「主のみこころなら」

きょうは、「主のみこころなら」というタイトルでお話したいと思います。ヤコブは2章で、あなたがたに信仰があると言っても行いがなかったら、そのような信仰が人を救うことができるでしょうか、とチャレンジしました。そして3章ではその具体的な適用としてことばの問題を取り上げました。そして前回のところでは、心の高ぶりについて警告しました。いったい何が無限印であなた方の中に戦いや争いがあるのでしょうか。それは、あなたがたの中に働く欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと人殺しをするのです。自分の思うようにならないと我慢することができません。つまり、神のみこころよりも、自分の思いのままに生きていきたいのです。そういう彼らにヤコブは、「神の御前にへりくださりなさい」と勧めたのであります。そして、その流れの中で、兄弟の悪口を言うことと、神のみこころに生きることが語られています。

 

Ⅰ.互いに悪口を言い合わない(11-12)

 

まず11節と12節をご覧ください。

「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

 

前回のところで「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(4:10)と勧めたヤコブは、ここで悪口の問題を取り上げています。いったいなぜ悪口を言ってはいけないのでしょうか。なぜなら、自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばくことになるからです。どういうことですか?この律法とは、イエスが言われた律法のことです。イエスは、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られます。」(マタイ7:1-2)と言われました。私たちが人をさばくその量り(ものさし)で、私たちも神からさばかれることになります。というのは、私たちは人をさばいた後で、自分も同じことをしてしまう愚かな者だからです。パウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」(2:1)

ですから、私たちは他人をさばくことはできません。にもかかわらず、人をさばき、他人の悪口を言うようなことがあるとしたら、それは律法をさばく者となり、その律法によってさばきを免れないのは当然のことです。私たちは律法を守るために召されたのであって、律法をさばくために召されたのではないのです。

 

それではだれがさばかれるのでしょうか。それは神ご自身であられます。「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。」

兄弟の悪口を言うことは、ある意味で正しいことかもしれません。なぜなら、兄弟の悪口を言うということはその兄弟に非があるからで、そのように言われても仕方ないからです。けれども、このような非に対して、私たちはさばく権利を持っていないのです。なぜなら、さばきを行うのは、神だけであって、私たちにはないからです。それは兄弟に対してだけでなく、自分に対しても同じです。パウロは、こう言っています。

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。」(Ⅰコリント4:3-4)

つまりパウロはここで、他人をも、自分をもさばかないと言っているのです。なぜなら、自分をさばかれるのは主ご自身であられるからです。たとえ自分には罪がないと言っても無罪とされることはありません。神の前に立たされるなら、だれが自分は正しい者だと主張することができるでしょうか。そのような者を、神は救ってくださいました。このような者が他人をさばくことができるでしょうか。さばかれるのは神だけであって、私たちは神に取って代わることはできません。もしそのようなことを平気で行っているとしたら、それは越権行為であり、そうした行為に対する神のさばきが下るのは当然のことなのです。つまり兄弟の悪口を言うことの本質的な問題は、知らず知らずのうちに自分が神になっていること、それほど自分がおごり高ぶっていることなのです。ヤコブはそのことをここでこう言っています。「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

 

ですから、兄弟をさばくことはやめましょう。互いに悪口を言い合ってはいけません。それは神のみこころではないからです。神のみこころは何でしょうか。神のみこころは互いに愛し合うことです。愛は多くの罪をおおうからです。(Ⅰペテロ4:7)もし兄弟の悪口を言うようなことがあるとしたら、それはその人の中にある誇りや高ぶりがあるからであって、自分の行いをよく調べてみれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りであって、ほかの人に対して誇れることではないことに気が付くことでしょう。「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」(ガラテヤ6:3)

 

Ⅱ.主のみこころならば(13-15)

 

第二のことは、主のみこころに生きるということです。13節から15節までをご覧ください。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」

 

さばきを神にゆだねず、自分でさばくという態度は、自分の計画を立てるときにも現われます。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。

ユダヤ人は古くから世界の大貿易商人でした。ここには、世界地図を広げながら、新しい商売の拡張を計画している姿が生き生きと描かれています。計画すること自体は問題ではありません。問題はその商売への自信だけでなく、自分の生き方や人生の決定まで自分でできると過信していることです。日本語には訳されていませんが、13節の主語は「私」です。きょうか、あす、私たちはこれこれの町に行き、これこれをしようと、全部自分で時を定め、場所を定め、期間を定め、やるべきことを定めています。自分でいろいろなことを計画して、自分で成し遂げようとします。もしかしたらそれができるかもしれません。しかし、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19:21)とあるように、主のみこころだけが成るのです。

 

ヤコブは、自分であれこれと計画を立て、自分でそれを達成しようとしている人たちに向かって、次のように言っています。14節です。

「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」

 

あなたがたは、あすことはわからないのです。人間は一寸先もどうなるかわからないちっぽけな存在にすぎません。きのうまであんなに元気だったのに急に病気になってしまったり、ちょっとしたことで思い悩み夜も眠れないこともあります。こんなはずじゃなかったのにと、自己憐憫に陥ってしまうこともあります。避けられない災害によって生活が一変してしまうこともあります。将来を保証されていた人が、ちょっとしたことで人生を棒に振ってしまったということもあります。人生は複雑で、不確実なのです。この先何が起こるのかはだれにもわかりません。ここではそれが霧にたとえられています。しばらくの間現われたかと思ったら、すぐに消えてしまいます。ヨブはそんな人間の姿をこう言いました。

「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。」(ヨブ14:1-2)

ヨブはここで人間の一生を花と影にたとえています。花のように咲いたかと思ったらすぐに切り取られ、影のようにできたかと思ったらすぐに消えてしまいます。それはほんとうにはかなく、むなしいものなのです。そんな人間が自分を誇ってみたところでいったい何になるというのでしょうか。

 

ですから、ヤコブはこう勧めるのです。15節です。ご一緒に読みましょう。

「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

 

私たちが何か計画をたてる時、決して見逃してはならないとは、「~ならば」ということです。「主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ということです。計画を立てることは決して傲慢なことではありません。傲慢なのは、明日起こる全てのことに関して主権を握っているのは自分であるかのように思い込むことです。私たちが皆知っているように、誰一人としてそのような主権を持っている者はいません。私たちは、あすのことはわからないのです。ですから、主のみこころならば生きていて、あのことをし、このことをしようというのが正しい生き方なのです。「主のみこころなら」というのは、「すべてのことに主を認める」ということです。主の許しがあってこそ事がなされ、成功もできるということを認め、神のみこころは何であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えることなのです。

 

パウロは、エペソで伝道していた時、エペソの人々が、もっと長くとどまるようにと頼みましたが、それを聞き入れないで、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってきます。」(使徒18:21)と言って別れを告げ、エペソから船出しました。

また、コリントの教会16章7節でも、「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。」(Ⅰコリント16:7)と言いました。

「主のみこころならば」、「主がお許しくださるならば」という態度は、私たちの立てる全ての計画において持つべきものです。私たちの立てる全ての計画は、主の御手にゆだねなければなりません。主もまた、私たちの人生に計画をお持ちなのです。エレミヤ書29章11節にはこう書かれています。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

また、イザヤ書55章8節と9節にはこうあります。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

 

あなたは、自分自身のことや将来についてどのように考えておられるでしょうか?実は、私たちよりも神の方がもっと完全な計画をもっておられるのです。私たちに対する神の計らいは計り知れません。自分の計画通りに事が進まず、「神様なぜですか?」と問い、いかに自分の立てた計画が完璧だったのかを思うとき、どうぞ覚えていてください。神の計画はあなたの計画よりもはるかに高いものだということを。神の私たちに対する計画はわざわいをもたらすものではなく、将来と希望を与えるものであるということを。もし主がその計画を祝福しておられないとしたら、それは主があなたを覚えていないからではなく、あるいは、あなたを愛しておられないからでもなく、それはあなたの人生における主の完全なご計画のうちにあるものではなかったということなのです。あなたの人生における主のみこころとご計画は実に完全なものなのです。

 

私たちが計画を立てることは決して間違ったことではありません。しかし、その計画の中に「もしみこころならば」を入れてください。「主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」と、みこころを求めて生きる人こそ、本当に神の御前でへりくだっている神のしもべなのです。

 

Ⅲ.むなしい誇りを捨てて(16-17)

 

第三のことは、神のみこころに生きるために、むなしい誇りを捨てましょう、ということです。16節と17節をご覧ください。

「ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」

 

結局、自分であれこれと計画を立て、自分で事を成し遂げようとしたり、兄弟の悪口をいうことのすべては、高ぶっていることに原因があります。むなしい誇りをもって高ぶっているので、さばきを主に任せないで、自分でさばこうとするのです。また、自分の計画を神にゆだねないで、自分で行おうとするのです。そこに主のみこころがあるのにそれを無視して、自分で果たそうとすること、それが高ぶりです。「むなしい誇り」は、放浪性のあるやぶ医者という語源から派生したことばだそうです。直っていないのに直ったと言い、やりもしなかったことを誇るのです。

 

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。私たちは、「これはしなければならない」と思いながらも、行っていないことが何と多いことでしょう。それは罪です。罪とはしてはならないことをすることだけでなく、しなければならないことをしないこともそうなのです。そういう意味では、私たちは何と不完全なものであるかをまざまざと見せつけられます。それなのに、いかにも自分はやっているかのように錯覚したり、自分にはできるといったむなしい誇りを持つことがどんなに高ぶった愚かなことであるかわかるでしょう。私たちに必要なのはそんなむなしい誇りを捨てて、悔い改めて、神のみこころに生きることなのです。

 

数人の植物学者たちが、アルプスで標本にする花を探していました。すると絶壁のはるか下の谷底付近に、非常に珍しい花が見付かりました。花は、がけの途中に突き出した小さな岩の上に咲いていました。そこは命綱をしないと下って行けない所でした。どうしたものかと思案していたとき、ふと振り返ると、少し離れた所に羊飼いの少年がいることに気付きました。「そうだ、あの少年にお願いしてみよう。彼なら身軽だし、こういうことには慣れているだろう。」そして少年を呼び寄せると、ピカピカの新しい硬貨を何枚か取り出して、命綱を付けて下に下りて行き、あの花を取ってきてくれたなら、この硬貨をあげようと言いました。少年は深い谷底を見下ろし、差し出された硬貨を見つめて迷いました。硬貨は欲しいが、絶壁は恐ろしい。しかも命綱を握るのは、この見知らぬ人々なのだからなおさらのこと・・。しかし、突然何を思い付いたのか、少年は走り出して山の家に駆け込みました。そしてしばらくすると、大きくてがっしりとした体格の、見るからに親切そうな人といっしょに現われました。それはこの少年の父親でした。少年はがけの縁にいた学者たちのところに来て、こう言いました。「谷底に行って取って来てもいいよ。僕のお父さんが命綱を持っていてくれるから。」

 

主が命綱を握っていてくださるなら、いつでも、どこにでも下って行くことができます。主がともにおられるなら、何をしても大丈夫なのです。問題は何をするかではなく、だれとともにするか、だれが命綱を握っておられるかということです。主のみこころなら、それがどんなに困難なことでも、主が成し遂げてくださいます。主のみこころに生きることこそ、祝福に満ちた神の御手に握られた命綱なのです。

 

詩篇の作者はこう歌いました。「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。」(詩104:34)  私の心の思いが神のみこころにかなうために、この詩篇の記者は、「私自身は、主を喜びましょう。」と言いました。私の思いや計画に神を引っ張り込むのではなく、私たちの思いを神様のみこころに合わせるのです。そして、あらゆる恵み、幸いにも勝って神ご自身を喜ぶことが、神のみこころに生きる道なのです。私たちもまたそのような信仰に歩んでいこうではありませんか!

申命記33章

きょうは、申命記33章から学びます。

 

 Ⅰ.モーセの祝福(1-5

 

 まず1節から5節までをご覧ください。

「これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。彼は言った。「主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」

 

 モーセは、イスラエルの全会衆に聞こえるように、神のことばを歌によって語りました。その後、主は彼にネボ山に登るようにと命じられました。そこから約束の地カナンを見るためです。彼は約束の地を見ることはできましたが、そこに入ることはできませんでした。イスラエルの民をそこに導くのは彼の後継者ヨシュアでした。モーセではなくヨシュア、すなわち、律法ではなくキリストを信じる信仰によって入ることができるのです。それでモーセは、その死を前にして、イスラエル人を祝福しました。

 

1節には、「これは神の人モーセが」とありますが、これはモーセ五書において、初めて使われた用語です。詩篇90篇にも、「神の人モーセの祈り」とありますが、モーセ五書においては初めてです。それは、モーセが死ぬ前にイスラエルの子孫を祝福したというこの出来事が、彼の死後、モーセではない他の人によって書かれたであろうことを表しています。それは2節で「彼は言った。」という言葉からもわかります。

 

モーセの祝福の序論にあたる2節には、主なる神が、かつてシナイ山で現われたことから始まっています。その時主は、稲妻と角笛の音と黒雲とで、彼らに現れてくださいました。

3節には、イスラエルの民を愛し、その民に神のみことばを語られる主の姿が描かれています。彼らは主の足元に集められ、主が語られる御告げを聞きました。

5節には、主なる神がエシュルン、すなわち、イスラエルの王となられたとあります。これはイスラエルにとって最も大きな祝福です。主は王となって彼らを治めてくださいます。神が治めておられる国は完全な国であり、そこに住む民に平和と喜びがもたらされます。イスラエルはその国民となったのです。しかし、それは同時に、彼らがこの王に従順であることが求められます。あなたは、この王の支配を喜び、敬い、崇めておられるでしょうか。

16世紀のドミニカ修道会に所属していたブラザー・ローレンスはこう言いました。「食事をする時でも、心を神に向けなさい。少しずつでも神を覚えることが、神の前には十分美しいのですあなたは神に向かって叫ぶ必要はない。私たちが思っているよりも、神は近くにおられる。」

主イエスが言われたように、まさに、神の国はあなたがたのただ中にあるのです。私たちは神が支配しておられる国に存在し、生きているのです。

 

Ⅱ.12部族への祝福(6-25

 

次に6節から25節までをご覧ください。ここから、イスラエル12部族への祝福のことばが語れていきます。まず6節をご覧ください。

「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。」

まず長男ルベンに対する祝福のことばです。ルベン族は、死海の東側あたりに割り当て地を持ちますが、その人口が少なくなると言われています。それはかつてルベンが父のそばめビルハと関係を持ち、父の寝床を汚したことに起因していると思われます。(創世記35:22,49:4)それは、実際の歴史の中でも、そのとおりになりました。しかし、ここに生きて、死なないように、とあるように、なくなることはありませんでした。

 

次に、7節をご覧ください。ユダについてはこのように言われています。

「ユダについては、こう言った。「主よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。」

ユダに関する祝福は、神が戦いを勝利に導き、彼を連れ返してくださるということです。このユダ族からダビデ王が出ました。彼は戦って勝利したので、イスラエルは国として統一され、強い国となりました。

 

8節から11節までには、レビ族について語られています。

「レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない。』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」

トンミムとウリムとは、大祭司が胸当てのところに入れておく、主のみこころを知るための道具です。レビ人から祭司が出ました。そしてモーセ自身もレビ人です。モーセは、メリバにて、イスラエルのために岩を打って水を出しました。イスラエルが金の子牛をおがんで、乱れていたときに、彼らを殺したのは、レビ人でした。レビ人は、たとえ肉親であっても、主の怒りを静めるために、主に忠誠を尽くしたのです。レビ族の役割は、神との契約と神のみことばを守るように教えることで、神の栄光を現すことでした。その手のわざに恵みを施してくださいと、モーセは祈っています。

 

次に、ベニヤミンに対する祝福のことばです。12節をご覧ください。

「ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」

ベニヤミンに対する祝福は、「主に愛されている者」として、戦いの中にあっても安らかに主のそばに住まい、あたかも父が息子をかばうように、神の肩の間に、安全に住むことができるようにということでした。

 

次に、13節から17節までのところに、ヨセフに対する祝福のことばが続きます。

「ヨセフについて言った。「主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる」

ヨセフに対する祝福では、主の祝福が、彼の地にあるようにと、農耕の祝福が語られています。

このヨセフから、エフライムとマナセの二部族が出てきましたが、彼らは、ベニヤミン族の北部にその土地の割り当てが与えられました。その肥沃な土地のゆえに、モーセは主の祝福を「賜物」として描いています。それは「最上のもの」です。ここに7回も繰り返されています。モーセは、神が最も良い産物で、ヨセフを満たしてくださるようにと祈っているのです。また、ヨセフが、その兄弟たちから選び出された者として、頭の頂の上にあるようにと祈っています。

17節の、「牛の初子には威厳があり」とか、「その角は野牛の角」というのは、軍事的にも強いことを表わしています。彼らはこの威厳と角をもって国々の民をことごとく突き倒していきます。士師記に登場するのギデオンは、このマナセ部族の出身です。

 

次はゼブルン族とイッサカル族です。18節と19節をご覧ください。

「ゼブルンについて言った。「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。」

ゼブルンとイッサカルは、ヤコブとレアの間に生まれた息子たちです。ここには、このゼブルンとイッサカルへの祝福が一緒に出ています。なぜ、この二つの部族は、一つとして扱われているのでしょうか。それは、この二つの部族が内と外において、すなわち日常生活において、あらゆる面で楽しみを享受する部族であるからです。

19節の「山」とは、特定の山を指すのではなく、ささげものと礼拝をささげる場所のことを意味しています。ですから、「そこで義のいけにえをささげよう」というのは、儀式的な礼拝ではなく、霊とまことをもってささげる霊的な礼拝のことです。つまり、彼らは霊的な祝福された信仰生活を送るようになるという意味です。そのような部族には、物質的な祝福が伴います。彼らは「海の富と、砂に隠されている宝」、つまり、海を通してもたらされる貿易を通して、富がたくわえられるようになるのです。

 

次に20節と21節をご覧ください。

「ガドについて言った。「ガドを大きくする方は、ほむべきかな。ガドは雌獅子のように伏し、腕や頭の頂をかき裂く。彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、主の正義と主の公正をイスラエルのために行なった。」

「ガドは雌獅子のように」攻撃的で勇敢に戦う部族です。その特徴は、「腕や頭の頂をかき裂く。」というところにあります。彼らにはヨルダン川の東側の最も良い地を相続地として与えられました。モーセが初めて手にした土地の割り当てをもらったのです。(民数記32:1-5)しかし、自分たちに相続地が割り当てられても、神の義に徹し、他の部族たちに協力して、誠実にカナンの地の征服に参加しました。

 

22節をご覧ください。ダンにいては次のように祝福されています。

「ダンについて言った。「ダンは獅子の子、バシャンからおどり出る。」

ダン族は、えさに飛びつく獅子の子にたとえられています。これは将来、強い力を発揮する獅子のようになることを表わしています。ダン族には、ペリシテ人が住む今のガザ地域北部に割り当てが与えられましたが、そこだけでは不十分で、北部のほうにも行き、そこも自分たちの土地としました。「バシャン」というのは、そのことです。それは、現在のゴラン高原の地域にあたります。

 

23節をご覧ください。ナフタリについては次のように祝福されています。

「ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」

ナフタリ族はガリラヤ地方の一部とその西南部を所有しました。そこは肥沃な地で、農産物がたくさんとれるところです。まさにここにあるとおり、恵みに満ち足り、主の祝福に満たされています。

 

次は、アシュルに対する祝福です。24節と25節をご覧ください。

「アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」

「アシュル」という名前は、幸いなとか、祝福されたという意味です。この部族はイスラエルの中で、最も祝福された、最も幸福な部族になります。「その足を、油の中に浸すようになれ。」というのは、油を足に注ぐのではなく、油の中に足を浸すようになるということで、かなりのオリーブ油が産出されることを表わしています。また、「あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり」というのは、彼らの砦が堅固なものであることを表わしています。どんな敵も彼らを打ち破ることができません。

 

Ⅲ.しあわせなイスラエル(26-29

 

最後に、26節から29節までを見て終わりたいと思います。

「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、「根絶やしにせよ。」と命じた。こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」

 

先にも述べた通り、エシュルンとはイスラエルのことを指しています。モーセはここで、イスラエル全体を祝福しています。彼はイスラエルの神を賛美すると、神がどれほど偉大な方であるかを、「神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。」と言っています。これは、やがて主が雲に乗って再び来られ、ご自分の民を救ってくださることの預言です。このような神は他におられません。この方に並ぶ者はほかにはありません。

また、神は永遠なる方です。永遠の腕がいつも彼らの下にあります。どんなに自分がだめでも、この永遠の腕が下にあります。その永遠なる腕が彼らの下にあって彼らを敵から守ってくださるというのは、どんなに大きな慰めかと思います。

その結果イスラエルは安らかに住まい、その泉は、穀物と新しいぶどう酒の地を潤します。また天からの露も尽きることはありません。いつまでも豊かな収穫を享受することができるのです。

 

何という祝福でしょうか。そのような祝福を享受するイスラエルを、モーセは「しあわせなイスラエルよ」と言っています。だれが彼らのような祝福を受けることができるでしょう。神は彼らを助ける盾であり、助け手であられます。それは彼らが神との契約の中にあり、神の民とされているからです。そして、神の祝福の計画はイエス・キリストを通して明らかになりました。イエス・キリストを信じて神の子とされた者に、神はこのイスラエルに約束された祝福を注いでくださるのです。

 

私たちは神の子として、このしあわせを受けているということに、どれだけ深く気付いているでしょうか。私たちの下にある永遠の腕の中にすべてをゆだね、そこに深い安心感と満足をいただいて、いつも主をあがめる生活ができるように祈ります。

ヤコブ4章7~10節 「ですから、神に従いなさい」 

きょうはヤコブの手紙4章7節から10節までのみことばから、「ですから、神に従いなさい」というタイトルでお話します。

行いの伴った生きた信仰について語ったヤコブは、その具体的な例として舌を制御することについて述べました。舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。これを制御することはだれにもできませんが、それは心にあることを話すのですから、そのためには、いつも心が神の平和で満たされていなければなりません。

それでは、どうして私たちの間に戦いや争いがあるのでしょうか。それは外側の問題ではなく、内側の問題です。私たちのからだの中で戦う欲望が原因であって、私たちは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをしたり、うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。

ですから、私たちは私たちの心をしっかりと見張っていなければなりません。いつも神に従い、神の平和と神の知恵に満たされていなければならないのです。

きょうは、この神に従うことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神に従いなさい(7)

 

まず7節をご覧ください。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

 

「ですから」というのは、ヤコブがこれまで語ってきたことを受けてということです。これまでヤコブはどんなことを語ってきたのでしょうか。6節には、「しかし、神は」とあります。私たちはすぐに神ではなく世を愛してしまうような愚かな者であるにもかかわらず、しかし、神は、そのような者をも愛して恵みを注いでくださいます。「ですから」です。

 

ですから、そのように神の恵みによって救われたクリスチャンはどうしなければならないのでしようか。「ですから、神に従いなさい」なのです。この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙です。ユダヤ人クリスチャンとは、もともとユダヤ人であった彼らが、神の恵みを受けてクリスチャンになった人たちのことです。ユダヤ人というのは、旧約聖書を信じていますが、その中に書かれてある約束のメシアがイエス・キリストであるとなかなか受け入れることができない人たちです。しかし、そんな彼らでも、中にはイエスを信じて救われた人たちがいました。それがユダヤ人クリスチャンです。

 

そんなユダヤ人クリスチャンにとって、神に従うことは、すべての祝福の原点でした。彼らの先祖は昔エジプトで四百年の間、奴隷として捕らえられていいました。しかし、神はモーセという人物を立てて、彼らをエジプトの地から救い出してくださいました。

しかし、彼らがカデシュ・バルネアというところまで来たとき、約束の地まではほんの目と鼻の先というところまで来たのに、「上って行け」という神のことばに従わないでその地の住人を恐れ、上って行きませんでした。その結果、彼らは40年間も荒野をさまようことになってしまったのです。そして、多くの人たちが荒野で滅び、約束の地に入ることができませんでした。20歳以上の男子では、ただヨシュアとカレブの二人しか入ることができなかったのです。

 

いったい何が問題だったのでしょうか。神に従わなかったことです。ですから、約束の地に入ろうとしていたユダヤ人に、モーセが繰り返し、繰り返し語ったことは、神に従いなさい、神を愛しなさいということだったのです。神に従うことが、その地で彼らが幸せに生きるための絶対条件であり、神が約束してくださったすべての祝福を受ける道であったのです。

 

ヤコブはここで、イエスを信じて救われたクリスチャンに対して、神に従いなさい、と命じました。神に従うことが、神の恵みを受ける道であり、この世で彼らがすべての祝福にあずかる条件なのです。イエスは、こう言われました。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。

 

しかし、残念ながら、生まれながらの人間は、神に従うことができません。生まれながらの人間は肉の性質を持っているので、神に従いたくないからです。肉の性質というのは、自分中心という性質のことです。人はみな生まれながらに自己中心であって、いつも自分を中心に考え、自分の利益を求め、自分の欲望を満足させたいという傾向があるのです。ですから、神に従うよりも自分の思いを通したいのです。しかし、神に救われた者、神の恵みを受け者は、自分に死に、神のために生きるようになりました。自分ではなく、神のために、神を愛し、神の栄光のために生きるようになったのです。

 

それでは、神のために行春とはどういうことでしょうか。神を愛するとはどういうことなのでしょうか。それは、神に従うということです。Ⅰヨハネ5章3節には、このようにこうあります。

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

ここには、神を愛するとはどういうことなのかがはっきりと示されています。それは、神の命令を守ることです。神を愛している人は、神の命令を守ります。それは重荷とはなりません。神を愛していると言いながら、神の命令に従いたくないということはないのです。

 

また、ヨハネの福音書14章15節にはこうあります。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

これはイエスのことばです。イエスを愛する者はイエスの命令、イエスの戒めを守ります。では、その戒めとは何でしょうか。それは互いに愛し合うことです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:24)

これがイエス様の戒めです。それなのに戦いや争いがあるのはどうしてでしょうか。それは、神に従っているのではなく、自分の欲望に従っているからです。何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょうか。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、すぐに人殺しをするのです。自分の思うようにならないと、すぐに敵対心を持ち、憎んだり、争ったりするのです。あなたがたの肉が問題だと、ヤコブは行っているのです。

しかし、神を愛する者は、神に従います。自分の思うとおりにいかなくても、自分のほしいものが手に入らなくても卑屈になりません。神の命令に従って、人を愛し、人を赦し、人を受け入れます。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、人をした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます。

「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(箴言10:12)のです。

 

ところで、ここには神に従いなさいということだけでなく、悪魔に立ち向かいなさい。ともあります。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。どういうことでしょうか。神に従うことを悪魔が妨げているということです。ですから、神に従って、そして悪魔に立ち向かわなければなりません。

 

悪魔とは何者でしょうか。悪魔は元々神に仕える天使長でしたが、彼は高ぶって、自分も神のようになりたいと神に反逆し、天から落とされよみの穴の底に落とされました。(イザヤ14:12-15)そして最初の人アダムとエバはその悪魔にだまされ罪を犯したので、神から離れてしまいました。それ以来、人類はずっとこの罪の支配下に置かれるようになりました。ですから、すべての人は生まれながらに罪の性質を持っているのです。だれからも教えられなくても悪いことをします。それはそのような性質を持っているからです。ですから、人間は生まれながら罪の奴隷なのであって、いつでも罪に従うというか、悪魔に誘惑されて罪を犯してしまうのです。

 

しかし、神は、ひとり子イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪の代わりに十字架につけてくださり、その罪から救ってくださいました。罪の奴隷から解放してくださったのです。キリストを信じた人は悪魔の支配から神の支配に、暗やみから光へ移されたのです。ですから、クリスチャンは神に従うことができるようになったのです。

 

しかし、以前の主人であった悪魔は、クリスチャンが新しい主人である神に従うことを憎み、神に従わないようにあの手この手を尽くして誘惑し、以前の罪の生活に引き戻そうと躍起なっているのです。たとえば、悪魔は私たちのさまざまな欲に働きかけて誘惑します。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などはそうです。「もっといい生活がしたい。」「あれもほしい、これもほしい」と私たちの中にある欲に働きかけて誘惑してくるのです。誘惑そのものは罪ではありませんが、誘惑に負けると罪になります。

 

あるいは、悪魔は私たちの人生に起こるさまざまな試練を用いて誘惑することもあります。病気とか、事故とか、経済的な問題を通して不安を与え、人間関係の問題を通して脅してきたりするのです。「なぜ私ばかりこんなに苦しまなければならないの、神がおられるなら、こんなことが起こるはずがない・・・」と、神の愛に疑いを抱かせ、信仰を捨てるように誘惑するのです。

 

あるいは、悪魔はこうした問題ばかりでなく、逆に良いことを通しても

誘惑してくることがあります。たとえば、家族を愛することは大切なことです。一生懸命に働くことも、たまに趣味を楽しむことも良いことです。しかし、それがどんなに良いことであっても神よりも愛するなら、それが罠となって神から離れてしまう原因になってしまうことがあるのです。イスラエルの民が神から離れたのは、これが一番大きな要因でした。彼らはパンがないとか水がないことによっても神を疑い、神から離れることがありましたが、それよりも、彼らが豊かになった時かれらは高ぶって神を忘れ、神から離れてしまいました。

 

このように、悪魔は、私たちが神に従わないようにと、あの手この手をもって誘惑してきます。ですから、私たちはこの悪魔に立ち向かっていかなければなりません。そのためには、神に従うことが求められます。神に従って、そして、悪魔に立ち向かわなければならないのです。私たちの力では、悪魔に立ち向かうことができません。神に従い、神の力をいただき、そして悪魔に立ち向かわなければなりません。

 

神はそのために神の武具を与えてくださいました。それはエペソ6章にありますが、中でも悪魔に立ち向かっていくために、御霊の与えてくださる剣である神のことばを与えてくださいました。神のことばは、御霊の与える剣です。この剣を持って悪魔に立ち向かっていくなら、悪魔は逃げ去るのです。

 

あなたは、この武具を受け取っておられるでしょうか。私たちは強そうでも弱い者です。すぐに否定的になったり、躓いたりします。ですから、この神のみことばを心にたくわえ、みことばによって強められて、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。

 

Ⅱ.神に近づきなさい(8)

 

第二のことは、神に近づきなさいということです。8節をご覧ください。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」

 

神の恵みによって救われた者は、神に近づかなければなりません。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。どういうことでしょうか。それは、神との親しい交わり中に入れられるということです。悪魔はさまざまな方法で誘惑してくると申し上げましたが、その誘惑に負けて罪を犯すと、神から遠く離れてしまいます。神から離れるとこの世に妥協し、自分勝手な生き方に逆戻りしてしまいます。それは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、実は心はみじめで、空しくなるのです。

 

あの放蕩息子のことを思い出してください。彼は父親に財産を分けてもらうと、遠い国に旅立ち、そこで放蕩して湯水のように財産を使い果たしてしましました。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こると、彼は食べるにも困り果ててしまいました。それである人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでした。それは彼にとって屈辱的で、最悪な状態でした。豚の食べるいなご豆とは、豚の食べるえさのことです。そんな家畜のえさで腹を満たしたいというのですから、しかもユダヤ人にとって豚は汚れた動物とされていたので食べることはしませんでしたが、その豚の世話をして、そのえさを食べたいと思うほどであったというのは、彼がどれほど落ちぶれてしまったかをよく表しています。父親のところにいればそんなことはなかったのに、そんな父の下を離れ、自分勝手に生きようとした結果がこうでした。これは私たち人間の姿を表しています。神から離れた人間は、この放蕩息子のようにみじめでしかないのです。人間にとってもっとも幸せなのは、神とともにいることです。なぜなら、人間はそのように造られているからです。神は人をご自身のかたちに造られました。このかたちこそ霊魂のことであり、神に祈り、神と交わる部分です。ですから、神とともにあるとき、私たちは真の喜びと生きがいを感じるのです。

 

あの放蕩息子は、最悪の状態に落ちたとき、そのことを思い出しました。そのとき、彼はこう考えるのです。

「父のところには、パンの有り余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」そうだ、父のところに帰ろう。そしてこう言おう。

「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」(ルカ15:18)

これは彼にとって大きな方向転換でした。これまで自分に向かっていた方向を、父に向けました。これを悔い改めると言います。彼はへりくだり、悔い改めて、父のもとに向かいました。

するとどうでしょう。家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思って走り寄り、何度も口づけして、喜んで彼を迎え入れました。そして彼に一番良い着物を持って来て着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせ、肥えた子牛をひいてきてほふり、祝ったのです。

 

父親から離れ、自分勝手に生きていた彼には何の喜びも祝福もありませんでした。しかし、彼が向きを変えて父のもとに立ち返った時、父親は彼に近づいてくれました。神に近づくなら、神はあなたに近づいてくださるのです。神はあなたの罪を赦し、あなたを祝福してくださいます。ですから、まだイエス様を信じていない人がいたら、どうか悔い改めて、神に立ち返ってください。神の救い、イエス・キリストをあなたの救い主として信じてください。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。あなたのすべて罪は赦されるのです。だれでも、一つや二つ、過去のことで思い悩むことがあります。忘れようとしても忘れられないことがあります。しかし、それがどんなに暗い過去であっても、神は雪のように白くしてくださいます。あなたの罪の全部を赦してくださるのです。

 

また、もうイエス様を信じたのに罪を犯し、神から離れておられる方がおられるでしょうか。そういう方がおられましたら、どうか主のもとに立ち返ってください。神に近づいてください。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。神はあなたを責めるようなことはされません。あの放蕩息子の父親のように、両手を広げて受け入れてくださいます。あなたが返ってくるのを待っておられるのです。

 

ところで、ここには「手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」ともあります。どういうことでしょうか。旧約聖書によると、神に近づくことができたのは、神に仕えた祭司だけでした。彼らはきよめの儀式に従って手を洗い、動物のいけにえをささげてからでないと、神に近づくことができませんでした。なぜなら、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです。ですから、動物をささげて、動物の血を取り、その血によって身をきよめてから、神に近づいたのです。これは、やがてもたらされる完全ないけにえ、イエス・キリストの十字架の贖いのひな型でした。

 

しかし、ここでヤコブが「手を洗いなさい」と言っているのはそのことを言っているのではなく、イエスを信じた後に行っている罪の行いのことです。この手紙は、ユダヤ人だった彼らがイエス・キリスト、神の恵みを信じてクリスチャンになっていた人ユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らは悔い改めてキリストを信じていたのです。それなのに、彼らの行いは神のみこころにかなったものではありませんでした。行いが伴った信仰ではなかったのです。

 

私たちは、イエスを信じてからも罪を犯します。罪を犯さずには生きていけないと言ってもいいでしょう。ここでは、そうした罪を悔い改めるようにと言われているのです。その場合この「手」は、私たちの行いを表しています。キリストを信じて救われた者であるなら、そこには当然良い行いが伴うはずなのにそうでないなら、それを洗いきよめなければなりません。

 

また、ここには「心を清くしなさい」ともあります。心を清くするとは内側を清くするということです。私たちの思い、私たちの動機、私たちの考えといった内側をきよめなければなりません。すなわち、キリストを信じて罪がきよめられ、神に近づく者とされた私たちは、神のみこころにかなった心と行いを持つように、絶えずきよめられなければならないということです。それによって、神に近づくことができるからです。

 

Ⅲ.神の御前にへりくだりなさい(9-10)

 

第三のことは、神の御前にへりくだりなさいということです。9節と10節をご覧ください。

「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高くしてくださいます。」

 

これは、どういう意味でしょうか。Ⅰテサロニケの手紙には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)とあります。このみことばに照らし合わせてみると、ここでヤコブが言っていることは正反対のように感じます。なぜなら、ヤコブはいつも喜んでいなさいではなく、その喜びを憂いに変えなさいとか、笑いを悲しみに変えなさいと言っているからです。

 

前にも申し上げましたが、ヤコブの教えはイエスの教え、特に山上の説教がベースになっています。ここではそのイエスの教えが背景にあります。イエスは山上の説教で開口一番こう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ5:3-4)

 

イエス様はここで、心の貧しい者は幸いです、と言われました。心の貧しい人とはどういう人でしょうか。それは、神の前に心がへりくだった人です。自分はどうしようもない罪人であり、自分では自分を救うことができないと認めている人、つまり霊的破産状態にあると認めている人です。このような人は神に向かいます。「神さま、助けてください。」「このようなみじめな私を救ってください」と祈らずにはいられません。そのような人は幸いです。なぜなら、天の御国はそのような人たちのものだからです。そのような人こそ神から恵みを受けるのです。

 

イエスは、ルカの福音書18章で、祈るために宮に上ったふたりの人の話をされました。パリサイ人と律法学者です。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをしました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11-12)

それに対して、取税人はどのように祈ったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けてようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人をあわれんでください。」(ルカ18:13)

いったい、このふたりのうちどちらが、義と認められて家に帰って行ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 

心の貧しい人とは、このように自分の罪を悲しみ、嘆き、神の前にへりくだって、神に救いを求める人です。ですから、ヤコブはここでが、「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」と言っているのは、自分の罪を悲しみ、神の前に心が砕かれて、神に赦しと救いを求めるようにということだったのです。

 

ダビデは偉大な王でしたが、彼の最も偉大だったのはどういう点だったかというと、神の前にへりくだることができたという点です。彼はウリヤの妻バデ・シェバと姦淫を行ったとき、神の前に出てこう祈りました。

「幸いなことよ。そのそむきを許され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。私は黙っていたときは、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申し上げました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。すると、あなたは私のとがめを赦されました。」(詩篇32:1-5)

彼は偉大なイスラエルの王という立場にあっても、主の前にへりくだり、自分の罪を告白して、赦しを請いました。彼は自分の罪に苦しみ、悲しんで、泣いたのです。それゆえ、主は彼の咎を赦し、彼を本当の意味で偉大な王としました。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 

あなたはダビデのように主の前にへりくだっているでしょうか。「神さま、こんな罪深い私をあわれんでください。」と、胸をたたいて、打ちひしがれているでしょうか。主の御前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高くしてくださいます。

 

神に従いなさい。神に近づきなさい。神の前でへりくだりなさい。これが神の恵みを受けたクリスチャンの姿です。私たちはいつもこのことを忘れることなく、ただへりくだって神のみこころに歩ませていただきたいと願います。

ヤコブ4章1~6節 「なぜ戦いや争いがあるのか」

きょうは、ヤコブの手紙4章から「なぜ戦いや争いがあるのか」というテーマでお話します。

以前、こんな質問を受けたことがあります。それは、どうしてこの世の中から戦争がなくならないのか、という質問です。そして、その方が言うには、世の中にはいろいろな宗教があるから戦争も起こるのではないのかということでした。確かに宗教が原因で戦争が起こったこともあります。

しかし、宗教が原因となった戦争は、ある方々が主張しているほど多くはありません。「Encyclopedia of Wars」という戦争に関する百科事典によると、歴史上には1,763件の戦争が起こりましたが、そのうち宗教的なことが原因で起こった戦争は123件(6.98%)であったとされています。ですから、歴史上の大きな戦争は、宗教とは無関係に起こっているのです。ではいったいどうして戦いや争いがあるのでしょうか。

 

Ⅰ.争いの原因(1-2a)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」

 

「あなたがたの間に」の「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンのことを指しています。ですから、これは教会の外での争いのことではなく、教会の中での、クリスチャンの間にあった争いのことなのです。彼らはイエス・キリストを信じて救われていました。なのに、そうした彼らの間にも戦いや争いがあったのです。信仰を持ったら争いが無くなるのかというとそうではなく、人が集まるところにはどこででも争いが起こるのです。いったい何が原因でこうした戦いや争いが起こるのでしょうか。

 

ヤコブはここでその原因を次のように言っています。「あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」こうした戦いや争いの原因は私たちの外側にあるのではなく私たちの内側にあるのであって、私たちのからだの中で戦う欲望が原因であるというのです。どういうことでしょうか。

 

2節には、「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」とあります。私たちは他の人がいい生活をしているのを見ると、「ああ、いいなぁ。自分もあんな生活をしてみたいなぁ。」とうらやましく思ったり、自分もそういう生活をしてみたいと思ってもできないと、急にひがんでみたり、ねたんだりするようになります。すると不思議なことに、そういう人を見ると嫌な気持ちになったり、敵対心を抱くようになったりするのです。やがて太刀打ちできないということがわかるとその人がいないところで悪口を言ってみたり、うわさ話をして、その人の評判を落とそうとすることさえあります。つまり、そうした自分の中で戦う欲望が外側に表れて、それが争いや戦いになるのです。

 

私は今でこそあまりありませんが、ちょっと前までは、いい車に乗っている人を見ると、「どうしてあんなにいい車に乗れるのだろうか。」とか、「あの人どういう生活をしているんだろう」と思ったものです。別にいい車に乗りたいとは思わないけれども、そういう生活をしてみたいという思いが働くのでしょう。でも、そんな生活ができるわけがないので結局のところあきらめるわけですが、ただあきらめるだけならいいものを、言わなくてもいいようなことまで言ってしまいます。「意外とああいう車にに乗っている人は見栄を張っているだけで、実際は貧しい人たちだ」とか・・。その人がどんな生活をしようと自分とは関係ないのに、自分の中に戦う欲望が、いろいろな思いを引き起こし、それが戦いや争いとなって現われるのです。

 

でもちょっと待ってください。世の中の人々ならわかりますが、クリスチャンはそういうことはないでしょう。この世の中の人々は神を知っているわけではなく、イエス様を信じているわけでもありませんから、生まれながら肉なる者であり、そのような思いを抱くのは当然かもしれませんが、イエス様を信じて救われた人たちがそのような思いを抱くなんて考えられません。クリスチャンはイエス様を信じて新しく生まれ変わった者であり、キリストのために生きていきたいと願っている者たちであり、そうした欲にも勝利しているのではありませんか。

 

確かに、クリスチャンはイエス様を信じたとき、聖霊によって新しく生まれ変えられました。古い自分はキリストともに十字架につけられたのです。私がいまこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。しかし、その一方で、まだ肉の性質が残っているのです。肉というのは自分のことです。自分の思いのままに生きていきたい、自分が願うように、自分の満足のために、自分の喜びのために、自分の、自分のという思い、それが肉の思いです。そうした肉の性質が残っているため、欲に引かれて、おびき寄せられ、誘惑されるのです。

 

たとえば、夫婦のことを考えてみてください。まだ結婚していない方は友人との関係でもいいです。なぜ争いが起こるのでしょうか。自分はこうしたいと思っているのに、相手はそうではないからです。自分の思いや利益と相手の思いや利益が一致しないからです。一致していればこうした問題は起こりません。しかし、誰の利益ともぶつからない欲望などはあり得ないわけですから、自分は、自分はという自分の思いが強ければ強いほど、自分の中に戦いや葛藤が生じてくるのです。そしてそれが戦いや争いとなって外側に現れてくるのです。これはクリスチャンであってもノンクリスチャンであっても同じです。確かにクリスチャンであるなら、自分というのは十字架に付けられたので死んでいるはずですから、本当に死んでいれば自分ではなく御霊が支配しているのでその傾向は少ないはずですが、御霊によってではなく肉によって歩むならノンクリスチャンと全く変わらない生き方となってしまうのです。夫婦や友人関係でもそうなのですから、そういう人たちが何人も集まっている教会の中でこうした戦いや争いが起こることは避けられません。

 

ですから、重要なのは、どうしたらこうした戦いや争いを解決することができるかということです。というのは、キリストを信じて救われたクリスチャンが互いに争ったり、戦ったりするのは、神のみこころではないからです。神のみこころは、私たちが互いに愛し合うことです。ですから私たちは、私たちのからだの中で戦うこの欲望に対して、どうしたら対処することができるのかを学ばなければなりません。

 

Ⅱ.神に願い求める(2b-3)

 

いったいどうしたらこの問題を克服することができるのでしょうか。2節後半から3節までをご覧ください。ここには、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。

 

ヤコブはここで、あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからだと言っています。何かをほしいと思い、うらやむのは、その根底に自分があって、自分でそれを手に入れようという思いがあるからです。そこには、「神」は存在していません。したがって、祈ることもないわけです。けれども、神は惜しみなく与えてくださる方です。ですから何かを願うなら、それを神に願い求めなければなりません。神に願って、神に祈って、神により頼むなら、神が与えてくださいます。あなたがたのからだの中で戦う欲望の解決は、まずあなたが神に向かい、神に祈り、神にすべてをゆだねることから始まります。

 

イエス様はマタイの福音書7章7~11節のところで、こう言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ここでも同じです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。どうしてあの人ばかり与えられるのか。それに比べて私はちっとも与えられないと、ひがんではいませんか。求めてください。願ってください。祈ってください。そうすれば、主は豊かに与えてくださいます。

 

そんなこと言われても、それは他の人のことであって、私の祈りなどちっとも聞いてくださいません、という方はおられますか。そうではありません。神はあなたの祈りも聞いてくださいます。

 

何度かお話ししたことがあるかと思いますが、私が福島で会堂建設に携わった時、いろいろな先生方が来られて信仰のチャレンジをしてくださいました。どの先生も言うのは、会堂建設の時には神様が不思議なことをしてくださるので、神様に祈ってくださいということでした。でもそれは他の教会のことであって、私たちの教会では無理だと思っていました。私たちの教会には若い人たちばかりで経済的に余裕のある人など一人もいなかったからです。

しかし、奇跡的に土地が与えられいよいよ会堂本体の工事に入ろうとした時に、一つの問題が生じました。銀行から予定していた金額の借入れができないと言われたのです。そこで、翌週の礼拝後にみんなで話し合いました。そして、本体をもっと小さくして建築費を押さえようと決めかかった時、ちょうど札幌から引っ越してきたばかりの札幌から引っ越してきたばかりの一人の韓国の姉妹が、「はい」と手を上げたのです。すると彼女はこう言いました。「日本人は何でも小さく考えます。でも神様は全能です。それが本当に必要ならば与えてくださるのではないでしょうか。だから祈りましょう。神様が与えてくださると信じて祈りましょう。」一瞬、皆の顔が凍り付きました。もう十分捧げたので、これ以上は無理だと思っていたからです。私もそうでした。しかし、彼女が言われるように、それが本当に必要なら神様が与えてくださるはずです。ですから、信じて祈ることになりました。

すると本当に不思議なことが起こりました。そのことがあって数か月後に東北電力の方が来られ隣のタイヤの工場で電気を引きたいので教会の上空を通してほしいと言われ、その為電線の下の土地の価格の評価が下がるのでその保証として多額の保証金が与えられたり、いつもの年よりもたくさんの結婚式があったりして、予定していた1年後に必要が満たされたのです。問題は祈らないことです。神に祈り求めないことです。求めるなら、与えられるのです。

 

ヤコブはこのことをただ概念として勧めていたのではありません。それは彼自身の経験からにじみ出た確信でした。ヤコブは、「らくだの膝を持つ人」と言われていたそうですが、なぜそのように言われていたかというと、彼の膝がらくだのように堅くなっていたからです。歳をとって堅くなったのではありません。彼はいつも膝をついて祈っていたので堅くなったのです。彼は祈りの人でした。その祈りの中で神に願い求めたのです。そして、神は聞いてくださるという確信を持っていたのです。

 

中国の奥地伝道のパイオニア、ハドソン・テーラーはこのように言いました。「あなたがたは、膝をついて前進しなければならない。」膝をついて前進したらろくに進めないのではないかと思うかもしれませんが、でも膝をついて前進するというのは祈って前進しなければならないということです。祈りなしに神の前に出ることはできません。祈りなしに前進することはできません。祈りこそミニストリーの原動力であり、祈りによらなければ何も生まれないというのが、ハドソン・テーラーの確信だったのです。

 

それじゃ、どうしてあなたが祈っても与えられないのでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。動機が間違っていれば聞かれません。神の栄光のためにではなく自分のために、自分の快楽のために使おうとして悪い動機で願うなら、与えられないのです。神様は私たちの必要を満たしてくださいますが、私たちの欲しいものを与えるわけではありません。自動販売機のように欲しいものを押せば出てくるというものではないのです。もしあなたが祈りとはそのようなものだと思っているなら失望するでしょう。というのは、祈りとは自分の願いが叶うことではなく、神のみこころがなることだからです。みこころが天で行われているように、地でも行われるようにと祈ることです。もちろん、神はご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいますが(ピリピ4:19)、私たちは、私たちの願いではなく、あなたのみこころがなるようにと祈られたイエス様のように祈らなければなりません。これが祈りの神髄です。私たちの願いを祈ることも良いことです。「神さま、私はあれが必要なのです。どうか助けてください。」と祈るなら、神はその祈りを聞いてくださいます。神はあなたのささいなことにも関心を持っておられます。だから必要なことを祈るということは大切なことですが、もっと大切なことは、私の願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてくださいと祈ることなのです。神が望まれることは私たちのベストだからです。であるとしたら、神様はベスト以下の何ものも与えないはずです。ですから、神があなたに与えようとしておられるのは何かを知ることはもっといいことであり、すばらしいことなのです。あなたが祈っても与えられないとしたら、それが神のみこころであり、あなたにとってのベストであるかもしれないからです。であれば、もう悩む必要もありません。今まではあれもほしいこれもほしいと、与えられないことをひがんでみたり、ねたんだりしていたものを、祈っても与えられないことでこれが神からの答えだということがわかれば、私たちは平安を持つことができるからです。だから、神に祈ること、神に願うことは重要で、私たちのからだの中にある欲望に対処する大切なステップです。

 

詩篇34篇10節には、「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を訪ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」とあります。すばらしい約束ではないでしょうか。主を訪ね求める者には、良いものに何一つ欠けることはありません。そう信じて神に向かい、神に願うなら、神はあなたに良いもので満たしてくださるのです。

 

Ⅲ.神の御前にへりくだる(4-6)

 

第三のことは、神の御前にへりくだることです。4~6節までをご覧ください。4節には、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」とあります。

 

「貞操のない人たち」とは、直訳では、「姦淫を行う人たち」です。口語訳では「不貞のやからよ」と訳しています。すごいですね。「不貞のおからよ」「やから」とは、仲間のこと、あるいはよくない連中のことです。不貞を行う仲間よ、という意味です。ヤコブはこれまで祈りを込めて、「私の愛する兄弟たち」と呼んでいたのに、ここでは「不貞のやからよ」と呼んでいるのです。いったいなぜそのように呼んだのでしょうか。それは、世を愛することは神に敵対することだからです。それは霊的姦淫の罪を犯すことなのです。なぜなら、この世はキリストを拒絶する悪の世であってこの暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊が支配しているところだからです。神などいなくても自分たちには何でもできると思っています。人間中心の世界です。このような考えはこの世の芸術、文化、教育、スポーツ、科学、医学など、ありとあらゆる世界に入り込んでいます。神がいなくても自分たちは何でもできると思い込んでいます。神を無視する世界、神に敵対する世界なのです。ですから、こうしたこの世を愛することはひとえに神に敵対することであり、霊的に姦淫を犯すことになるのです。

 

いいえ、私はこの世を愛していますが神も愛しています、という方がおられるでしょうか。そういうことはできません。なぜならイエス様は、だれも、ふたりの主人に仕えることはできないと言われたからです。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじで他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

ですから、世の友となりたいのか、神の友となりたいのかの、どちらかしかありません。そして、ここでヤコブが言っているように世の友なりたいと思うなら、その人は自分を神の敵としているということを肝に銘じておかなければなりません。

 

5節をご覧ください。ここには、「それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに下っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」

この「」のことばはゼカリヤ書1章14節のみことばの引用です。ゼカリヤ書では、「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」とありますが、ここでは、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」になっています。どちらにも共通していることは、神はねたまれる方であるということです。神の民であるイスラエルが自分以外の偶像に走って行ったら、神はどのような思いを持たれるでしょうか。ねたみです。本当に愛しているからねたむのです。どうでもよければねたみは起こりません。神は私たちが救い主イエス・キリストを信じたとき、私たちにご自分の御霊を与えてくださいました。私たちは福音を聞きそれを信じたことで、新しく生まれ変わりました。神の子として、天の御国を受け継ぐ者とされたのです。その保証として神は、ご自身の御霊を与えてくださいました。それは、私たちがやがて天の御国を受け継ぐことの保証でもあります。それはちょうどマンションを借りる時と同じです。いいマンションが見つかってそこに住みたいと思うなら、不動産を通して契約書にサインし手付金を払います。そうすることで、やがて契約の日が来たらそこに住むことができます。御霊も同じで、それは私たちが天のマンションにやがて住むことができるという手付金なのです。それまでの間、神の御霊が私たちの中に住んでくださり、イエス様を信じるように導き、神を愛することができるように助けてくださいます。本当に罪に汚れた者を聖めてくださり、キリストのご性質にあずかる者としてくださり、この地上にあってキリストの栄光を現すことができるようにしてくださるのです。

それなのに、まことの神以外のものを愛するとしたら、神の敵であるこの世を愛するとしたら、神がどれほどねたまれるでしょう。神は昔エルサレムとシオンとをねたむほど激しく愛したように、今は私たちの中に住んでおられる神の御霊を、ねたむほど慕っておられるのです。

 

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、結論は6節にあります。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 

ここでは、「しかし、神は」が強調されています。たとえ私たちが、神が用意しておられるベストを受けそこなっても、世の友となって神の敵となってしまっても、それで終わりではありません。それでも、神の恵みは尽きることはありません。いや、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。これは福音なのです。グッド・ニュースです。本当に私たちは愚かな者です。自分では神に従っているようでもいつの間にかこの世の友となっていることがあります。しかし、神はそんな者さえも憐れんでくださり、さらに恵みを与えてくださいます。

 

ローマ5章20節には、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」とあります。それじゃ、もっと罪を行おうということではありません。私たちは罪を犯さずには生きていけないほど愚かな者なのです。わかっているようでわからない。どこまでも自分中心で、貪欲の塊(かたまり)でしかありません。にもかかわらず神は、そんな私たちを赦し恵みを注いでくださいます。

 

でから、こう言われるのです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」どうしたら恵みを受けることができるのでしょうか。へりくだることです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになります。イザヤ書66章2節にはこうあります。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

神が目を留められる者はどういう人でしょうか。へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。高ぶっている人は神に向かいません。神に頼らなくても、神に祈らなくてもやっていけると思っているからです。そのような人は神の恵みを受けることはできないのです。神の恵みを受ける人は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。

 

私たちも、私たちのからだの中にはまだ古い性質が残っていて神のみこころよりも自分の意志を通そうとして、それが原因で争いや戦いを引き起こすことがありますが、そのような者をも愛し、赦してくださる主の御前にへりくだり、主ご自身を求めましょう。主のことばにおののく者でありたいと思います。それこそ、私たちのからだの中で戦い欲望に打ち勝つ最大の力なのです。

申命記32章

きょうは、申命記32章から学びます。

 

 Ⅰ.ひとみのように守られる主(1-14

 

 まず1節から14節までをご覧ください。1節から4節までをお読みします。

「天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。私が主の御名を告げ知らせるのだから、栄光を私たちの神に帰せよ。主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」

 

 モーセは、イスラエルの全会衆に聞こえるように、神のことばを歌によって語りました。その内容がこの章に記されてあります。1節には、「天よ。耳を傾けよ。地よ。聞け。」とあります。30:19節や3128節にも、天と地が証人として立てられるとありました。天と地が神とイスラエルの間に結ばれた契約の証人です。それは、これからモーセが歌う内容がいかに重要であるかを示しているものです。

 

 2節には、モーセの教えは、雨のように、露のようにしたたり、若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように下る、とあります。これは、これからモーセが語ることが、雨のように、また露のように、さらには若草の上の小雨のように、また青草の上に下る夕立のように必ず下ることを表わしています。

 

 3節では、主の御名を宣言し、栄光を神に帰すように言っています。なぜ主に栄光を帰さなければならないのでしょうか。それは4節にあるように、主は岩のように堅く、変わることがなく、強いので、本当により頼むことができる方だからです。また、その道は正しく、真実であられるからです。

 

それに対して人間はどうでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。」

 

イスラエルは(人間は)神に向かって悪を行い、「主の子らではない」よこしまで曲がった世代です。また、彼らは愚かで知恵のない民です。なぜなら、彼らは主によって造られたのに、その主を見捨ててしまうからです。

 

ですから、そんなイスラエルに求められていたことは何かというと、昔のことを思い出すことです。そうすれば、主がどれほどあわれみ深い方であり、真実な方であるかがわかるからです。

 

7節には、「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。」とあります。「昔の日々」とは、イスラエルがエジプトから救い出された日のこと、また、その後40年間荒野を通ってここまでやって来たその全行程のことです。そのことを思い起こし、そのことを彼らの先祖に問うなら、彼らは次のようにあなたに話してくれるだろう、というのです。8節から14節までをご覧ください。

 

「いと高き方が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた。主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、牛の凝乳と、羊の乳とを、最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、小麦の最も良いものとともに、食べさせた。あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。」

 

ここには、主がいかにイスラエルを守って来られたのかがふんだんに語られています。まず、主は彼らとの契約に従って相続地とそれぞれの部族に割り当ての地が与えられます。それがもうすぐ起ころうとしているのです。ヨルダン川の東側の一部は既に分割されました。しかし、これからがその中心です。それも確実に行われようとしているのです。

 

そればかりか、イスラエルがここに来るまで、主はずっと彼らを守ってくださいました。主は獣のほえる荒野で彼らを見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られました。11節には、神の守りを、あたかも鷲が自分のひなを育てて、ひなが巣立ちすることができるように行なう飛行訓練にたとえています。親鷲は、巣をゆすって、ひなが巣から落ちるようにさせると、ひなは必死になって羽をばたつかせますが、それを追いかけて、ひなが地面に落ちる前に自分の翼を広げてこれを取り、守ります。そのように神は、イスラエルを守って来られたと言っているのです。これらすべてのことは、神がお一人でなされたことです。そして13節と14節では、将来カナンの地でイスラエルが、どのように豊かな神の供給を受けるかを預言しています。「岩からの油」というのは、岩地に生えているオリーブの木のことす。イスラエルでは今も、岩がごろごろしているところに、オリーブの木がたくさん生えています。主はこのようにしてイスラエルを守り、導いてこられたのです。まことに主は岩です。そのみわざは完全であり、主の道はことごとく正しいのです。

 

それなのに彼らはどうしたでしょうか。15節から18節をご覧ください。

「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。彼らは異なる神々で、主のねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」

 

「エシュルン」とは、古来のイスラエルの名称です。そのエシュルンが、約束の地における主からの祝福によって、おいしい食べ物を食べ、赤いぶどう主を飲んで肥え太ったとき、彼らは、これを与えてくださった神に感謝するどころか、神を捨て、自分の救いの岩を軽んじるようになります。そして偶像の神々に仕え、神のねたみを引き起こし、彼らを産んだ創造主なる神をおろそかにするのです。彼らは真実な神の前に出るより、この異邦の神、憎むべき偶像に仕えるのです。貧しさや苦しみの中にいる時よりも、豊かさの中にいる時の方が、神を忘れやすくなるのです。

 

それは私たちにも言えることではないでしょうか。人は豊かさの中で、神の恵みを忘れ、この世の偶像に走ってしまう傾向があります。自分の救いを軽んじてしまいやすいのです。そういうことがないように、いつも神のご性質を覚えておかなければなりません。そのためには、自分たちが昔どのような状態であったのか、そして、そこから神がどのようにして救い出してくださったのかを思い出さなければなりません。親鷲がそのひなを育てる時に胸に抱いて育てるように、私たちを大切に守り、育ててくださったことをいつも思い出し、主の恵みに留まっているなら、神を捨てることは起こらないのです。

 

Ⅱ.神の怒り(19-33


 そのようなイスラエルに対して、神はどのようにされるでしょうか。19節から33節までをご覧ください。まず25節までをご覧ください。

「主は見て、彼らを退けられた。主の息子と娘たちへの怒りのために。主は言われた。「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに。」

 

イスラエルが神を捨てたので、神も怒りに燃えてイスラエルを捨てられました。20節では、「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。」と言っておられます。神がこのように言われるのは、イスラエルがまことの神を裏切り、まことの神に対して誠実でなかったからです。また、彼らが神ではないもの、すなわち偶像の神に走ったので、神のねたみを引き起こし、主をそこなうむなしいことで、主の怒りを燃えさせたからです。その怒りの火はよみの底まで燃えて行き、地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払うことになります。その怒りによってイスラエルには飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきばといったものを、地を這う蛇の毒とともに彼らに送り、国の内外に殺戮と恐れが溢れるようになるのです。イスラエルの歴史の中で、このことが起こりました。B.C.586年にはバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民として連行されました。また、A.D.70年にはローマによって滅ぼされ、世界中に散らばる離散の民となりました。

 

捨てられるということは悲しいことです。私たちは、時々親に捨てられた子供たちの話を聞きます。幼い頃、家族から受けた傷のせいで一生を暗闇の中で過ごした人の話も聞きます。また、職場や学校で仲間はずれにされたという話も聞きます。聖書の話は捨てられた人たちの話です。家族から捨てられ、友達から捨てられ、人々や弟子たちからも捨てられた人たちの話がいっぱい書かれているのです。そして、イスラエルも自分たちの罪のために神に捨てられました。しかし、神はそんな彼らを捨てて終わりではありません。その回復の道をも用意してくださいました。それが救い主イエス・キリストです。イエス様は、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来たのです。」(マルコ2:17と言われましたが、イエス様の愛はいつも捨てられた者たちに向かって流れ、失われた人たちに向かって広がっています。イエス様の愛は家族に捨てられ、友達から疎外され、社会から隔離された人たちに向かっているのです。イエス様こそ私たちにとっての神の知恵であり、また、義と聖めと、贖いとなられたのです。(Ⅰコリント1:30

 

そんな神の愛は、神を捨て、自分勝手な道を歩んだイスラエルにも向けられています。26節から33節をご覧ください。

「わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。・・彼らの仇が誤解して、「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。」と言うといけない。まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。 ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。」

 

神はイスラエルを粉々にし、彼らを人々の記憶から消し去ってしまうことはありません。つまり、神は彼らを滅ぼし尽くされることはないのです。なぜなら、もしそんなことをしたら、敵が誤解してこういうようになるからです。「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。」27)ですから、イスラエルが正しいからではなく、ご自分の真実さのゆえに、イスラエルを滅ぼし尽くすことをせず、イスラエルに対する約束を実現されるのです。

 

28節の「彼ら」とは「イスラエルの民」のことです。「彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。」なぜなら、もしも彼らに知恵があったら、彼らは自分の終わりのことを悟ることができたであろうからです。しかし、できませんでした。知恵がなかったからです。

それは私たちも同じです。私たちも何度も同じ過ちを犯してしまうのは、知恵がないからです。いつも目先のことしか考えられません。自分が行なっていることの結果をよく考えていたのなら、偶像を拝むとか、神を捨てるといった愚かなことはしなかいでしょう。それなのに、すぐにそのことを忘れてしまうため、それが愚かなことだとわかっていても繰り返してしまうのです。

 

また、もし私たちが何かで成功したり、祝福されたりすると、すぐにそれを自分の手柄であるかのように思い込んでしまいます。しかし、それはその背後に主がおられ、主が勝利をおさめておられるからなのに、そのことも忘れてしまいます。30節には、「彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。」とあります。ギデオンが数万人のミデアン人に対して300人の兵士だけで勝つことができたのは、また、ヨナタンと道具持ちが、たった二人で、ペリシテ人の陣営に入り込むことができたのは、主がともにおられたからです。イスラエルが周囲の敵に勝利することができたのは、主が彼らを売らず、主が彼らを渡さなかったからなのです。そのことは敵も認めていることです。敵も、イスラエルの神のほうが、自分たちよりもずっと力強いということを知って、認めています。それなのに、イスラエルはそのことを忘れ、自らわざわいを招いてしまうのです。彼らの中に毒ぶどうがあったり、そのふさに苦みがあったり、そのぶどう酒が蛇の毒であったりするのはそのためです。

 

とても遠い道のりを歩いて来た人に新聞記者たちが、一番苦しかったことは何ですか、と尋ねました。

「一番苦しかったことは、暑い太陽の下で、水のない荒野を一人で歩くことでしたか。」

「いいえ、違います。」

「それでは、最も急で険しい道を苦労しながら上ったことですか。」

「いいえ、違います。」

「それでは寒い夜を過ごすことでしたか。」

「違います。」

するとその旅人はこう答えました。

「そんなことは全然苦になりませんでした。実際、私を一番苦しめたのは、私の靴の中に入っていた小さな砂でした。」

私たちを苦しめるのは何か大きな罪の行いよりも、私の中で解決されずに残っている小さなくずのようなものなのです。神を神とせず、自分の思いで突っ走って行こうする思いなのかもしれません。それが大きなわざわいをもたらすことになるのです。ですから、自分の中に主を認めようとしない思いはないかどうかを、時間を割いて点検しなければなりません。そして、それをきれいにすっかり洗い流してしなわなければなりません。

 

Ⅲ.神のあわれみ(34-52

 

しかし神は、そんなイスラエルをいつまでも捨ておかず、やがて回復してくださると約束されます。34節から52節までをご覧ください。34節から43節までをお読みします。

「「これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。まことに、わたしは誓って言う。「わたしは永遠に生きる。わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせよう。刺し殺された者や捕われた者の血を飲ませ、髪を乱している敵の頭を食わせよう。」諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。」

 

34節から35節までの「」のことばは、神ご自身が直接語っておられることばです。神はそんなイスラエルを懲らしめるために他の異邦の民族を用います。しかし、そんな彼らに対しても責任を問われ、復讐される時が来るのです。主は、「復讐と報いはわたしのもの」35)と言われ、「主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。」36)と言われます。彼らの力が失せ、これまで自分が頼みとしていたものがあてにならないということがわかり、本当にへりくだって、主に立ち返るとき、イスラエルの民はまことの神が主であるということを知るようになるのです。

 

「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。」(39

 

そして主は敵に復讐をし、ご自分の民の贖いをされるのです。神は怒りの中にあっても、ご自分の民を忘れるような方ではなく、あわれんでくださる方なのです。これはイスラエルの歴史の中で成就した預言ではありますが、最終的にはキリストの再臨によって成就します。その時キリストは敵に対してことごとく勝利され、この地上における千年間の間統治される神の王国をもたらされます。

 

Ⅳ.いのちのことば(44-52

 

44節から47節までをご覧ください。

「モーセはヌンの子ホセアといっしょに行って、この歌のすべてのことばを、民に聞こえるように唱えた。モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

 

モーセとヨシュアは、これらの歌をイスラエルの民に聞かせた後、イスラエルの民に、これらのことばを心に納めるように命じ、このみおしえのすべてのことばを守らせるように言っています。(46)なぜならこれは彼らにとってむなしいことばではなく、彼らにいのちを与えることばであるからです。まさにこれはいのちのことばなのです。

 

そして48節から52節までには、このすべてのことばを語り終えたモーセに対して、主が命じられたことが記されてあります。

「この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」

 

それは、ネボ山に登り、神がイスラエルに与えて所有させようとしているカナンの地を見るように、ということでした。彼はそこで死に、イスラエルの民に加えられます。彼はカナンの地を見ることができましたが、そこに入ることはできませんでした。それは、イスラエルがかつてエジプトを出てツィンの荒野をさまよっていたとき、メリバデ・カデシュの水のほとりで、主に対して不信の罪を犯し、主を聖なるものとしなかったからです。

 

この出来事についてはすでに何度も触れてきましたが、モーセが、主から、「岩に命じなさい」と言われた時、一度ならず二度も打ってしまったことです。それはモーセがイスラエルの民の不平不満に対して憤ったからであり、神の命令に背いて、罪を犯したからでした。

 

私たちの感覚からすれば、たった一度の間違いで、約束の地に入ることができなかったというのはあまりにも厳しいのではないかと思えますが、それが律法です。律法は一点でも違反すれば、律法全体を違反したことになります。(ヤコブ2:10)モーセはこの律法の代表者でした。ですから、このモーセがイスラエルにもたらしたものが何であるかがわかると、このことも理解できます。つまり、確かに神の律法は良いものですが、それは私たちを神の元へと導く養育係であって、この律法によって救われることはできないということです。ですからモーセは、約束の地にはいることができなかったのです。

 

では、誰が約束の地に導くのでしょうか。それは彼の後継者ヨシュアでした。ヨシュアはキリストの型です。ヨシュアをギリシヤ語にすると「イエス」になります。すなわち、約束の地に入るためには律法の行ないによってではなく、この救い主キリストを信じる信仰によってであり、それは神の一方的な恵みによるのです。

ヤコブ3章1~18節 「舌を制御する」

きょうは、ヤコブの手紙3章から学びます。ヤコブは2章で、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(17)と、行いが伴った信仰、生き方信仰について語りました。今回の箇所では、その行いの伴った信仰の一つとしてことばの問題を取り上げられています。

 

Ⅰ.ことばで失敗しない人がいたら(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」

 

ヤコブはここで、「私の兄弟たち。多くの者が教師となってはいけません。」と言っています。多くの注解者はこの「教師」を神の御言葉を語る教師のこと、つまり「牧師」のことだと解釈していますが、必ずしも牧師だけのことではありません。勿論、牧師は神の言葉である聖書を神の言葉として解釈し語るわけですから、非常に厳粛さが求められるのは確かです。しかし、それは必ずしも牧師や教師のことだけでなく、栄光の主イエス・キリストを信じたクリスチャンのすべてを指していると考えるのが自然です。というのは、ヤコブはこれまですべてのクリスチャンに対して行いの伴った信仰、生きた信仰とはどのようなものかを語ってきているからです。

 

こうした教師をはじめとするクリスチャンに求められていることは何でしょうか。舌を制御することです。2節には、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とあります。ヤコブがこのように多くの人が教師になってはならないと語るのは、日本語でも「口は災いの元」ということわざがあるように、人は口から発することばで失敗することが多いからです。ここには、「もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とありますから、ことばで失敗しない人はいないということでしょう。「それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちてい」(8)るのです。

 

誰しも、この舌を抑えられたなら失敗しなかったのに、ということがあるのではないでしょうか。これだけ言ったらおしまいだと思っているにもかかわらずついついポロッと口から出てしまったばかりに家族ばかりか親類までも巻き込む問題になったり、上司に言った一言が原因で会社を辞めるはめになってしまうことさえあります。舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。いったいどうしたらこの舌を制御することができるでしょうか。そのためにはまず自分の舌がどんな災いをもたらすかその影響の大きさをまずしっかり自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があります。

 

Ⅱ.舌のもたらす影響の大きさ(3-12)

 

そこで、次に4節から12節までをご覧ください。ここには、舌のもたらす影響がどれほど大きいのかを、いくつかのたとえを用いて説明されています。まず馬とくつわのたとえです。3節をご一緒にお読みましょう。

「馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。」

 

馬は大きくてものすごい力があります。それは力を表す単位として「馬力」が使われていることからもわかります。しかし、そんなに大きくて力のある馬でも、口にくつわをかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。私は実際、馬に乗ったことがありませんが、手綱を右の方に引っ張ると右の方に行き、左の方に引っ張ると左の方に行きます。そして両方引っ張ると止まります。くつわは本当に小さなものですが、そのくつわを口にかけるとどんなに大きくて力がある馬でも御することができるのです。

 

次のたとえは船とかじのたとえです。4節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。

「また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」

 

この船は風で動く大きな帆船です。帆船は風が吹いてきたら、風になびいて進みますが、そんな時でもかじを取る人によって思いとおりに持って行くことができます。それは船全体に比べたらとても小さなものですが、たとえそれがどんなに小さくても、船全体を風に逆らっても動かすことができるのです。

 

いったいここでヤコブは何を言いたいのでしょうか。そうです、くつわにしても、かじにしても、それらは小さなものですが、馬全体を、船全体を動かす力があるということです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。

 

次に5節と6節をご覧ください。ヤコブが次に用いている例は大きな森と小さな火です。

「ご覧なさい。あのように小さい火があのように大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」

不注意な人が何気なく捨てた小さなタバコの吸い殻が大きな森を燃やしたという話を聞くことがありますが、何気なく、不用意に語ったことばが、その人の人生全体を、人格全体をダメにしてしまうことがあります。日本ではよく、大臣が放った一言によって辞任に追い込まれたり、夫婦でも絶対言ってはいけないことを言ったために、離婚に発展するケースもあります。

 

皆さん、なぜ舌を侮ってはならないのでしょうか。それは自分や他の人々の人生にこんなにも大きく、破壊的な影響をもたらすからです。ある人たちは日本語で「言葉」を言の葉と書くように、言が葉っぱのようにぱらぱらと落ちるイメージがあることから、「ことばは単なる音の響きだ」ととらえている人がいたり、一方、「言霊」(ことだま)と言って、発した言葉どおりの結果を現す力があると考える人もいます。

 

では、聖書では何と言っているかというと、創世記には、神はことばによって世界を造られたとあります。神が、「光よ、あれ」と言うと光ができました。また、預言者が神の呪いを発するとそのようになりました。逆に祭司が祝福を祈るとそのようになりました。つまりユダヤ人にとってことばは単なる響きではなく、そこには実体があると考えられていたのです。ですから彼らが「シャローム」とあいさつすると、「平安がその人に来る」と理解していました。それは私たちも同じで、ことばには重みがあるのです。たった一つのことばが、その人の人生全体に大きな影響を与えてしまうことになります。ですから、ことばが正しく用いられないと、自分や他の人々の人生を破壊してしまうことになるのです。

 

その舌を制御することについて7節と8節ではこう言っています。

「どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」

それは少しもじっとしていない悪であり、死のとげに満ちています。人間は器用に、あらゆる動物を飼いならし、自由に動かすことができます。サーカスを観に行くと、あの巨大な象が、サーカスの人によって上手に飼いならされています。百獣の王であるライオンも、飼いならされています。それなのに、なんとこの小さな舌は制御することができません。それはじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。

 

今、東京都で豊洲移転の問題で大きく揺れています。地下水に溜まっている汚水から基準値の79倍のベンゼンという発がん性物質が検出されたことで、それが人体に与える影響を考慮すると果たして豊洲に移転すべきなのか、すべきでないのかの検討がずっと続けられているのです。工場排水に含まれる害毒には敏感でありながら、自分の口から出る毒に満ちたことばを垂れ流しにしたままでよいのでしょうか。私たちは、自分の舌がどんな災いをもたらすのか、その影響の大きさをまずしっかりと自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があるのではないでしょうか。

 

それは9節から12節に書かれてある泉と木のたとえも同じです。同じ泉から甘い水と苦い水がわきあがることがないように、いちじくの木がオリーブの実をならせることがないように、この唇は神を賛美するために造られたのであって、神をのろったり、神にかたどって造られた人をのろったりすべきではないのです。いったいどうしたらいつもきれいな水を出すことかできるのでしょうか。どうしたら舌を制御することができるのでしょうか。

 

Ⅲ.舌を制御する(13-18)

 

ですから13節から18節をご覧ください。13節と14節には、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。」とあります。

 

ヤコブはここで、「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはなりません。」と言っています。つまり、口から出てくることばの源になっている「心」が問題だと言っているのです。私たちの心にひそかにたまっていることが口から出て、人の心をぐさっと傷つけるのです。そこに目を向け解決されない限りは、ことばの問題、人間関係の問題は解決しません。もしあなたの心の中に、苦々しいねたみや敵対心や憎しみや恨みがあると、言ってはならないようなことを言ってしまったうことになるのです。それは話し方教室に通うだけではどうしようもない問題なのです。ねたみや敵対心があるとき、私たちは悪しき者の影響を受けてしまうのです。確かに、そういう思いで心が一杯になっているとき、自分のコントロールから外れてしまうと思わないでしょうか。普段だったら絶対に言わないようなことを言ってしまったり、やらないようなことをやってしまったりします。カーッとなって思わず手が出てしまったり、たまたま打ち所が悪ければ大変なことになってしまいます。

 

まさかあの人がと言われるような事件の数々は、決して他人事ではありません。またそのような時には、どうやって相手を苦しめようかという知恵もどんどん出てくるものです。「そのような知恵は、上から北ものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや邪悪な行いがあるからです。」そのようなものにしはいされてはなりません。そのために、私たちは上からの知恵、神の知恵に満たされなければなりません。なぜなら、17節にあるように、「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」だからです。私たちの心が整えられて平安であるとき初めて、私たちは自分の舌を制することができるようになり、良い人間関係を築いていくことができるようになるのです。

 

このことについて、イエス様は何と言っておられるかを見てみましょう。マタイの福音書12章34,35節をご覧ください。

「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが癒えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

また、マタイの福音書15章18,19節でも、「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるのからです。」と言われました。つまり、口と心はつながっていて、口は心で思っていることを語るということです。であれば、私たちは口やことばを直す前に、心が癒され、良い物で満たされる必要があります。では、そのためにはどうしたらいいのでしょうか。

 

二つのことが必要です。一つのことは、イエス・キリストを信じて、霊的に新しく生まれ変わることです。キリストを信じるなら、キリストの平和があなたの心を支配するようになるからです。良い物は良い倉から出てくるのです。キリストによって新しく生まれ変わり神の愛に満たされた良い心からは、だんだん良いことばを話すようになります。それは道徳とか倫理の問題ではありません。あなたの霊、あなたのたましいが罪から救われてきよめられているかどうか、そして、あなたの心が神の愛とキリストの平和で支配されているかどうかの問題なのです。

 

もう一つのことは、キリストの新しい性質を身に着けることです。自転車でも、水泳でもそうですが、どうしたら身に着けることができるでしょうか。実際にやってみることによってです。どんなに教室で自転車の乗り方や泳ぎ方を学んでも、それだけでは実際に乗ることはできません。そのためには何度も何度も失敗しながら、実際にやってみなければなりません。そして一旦からだで覚えたら、意識しなくてもできるようになります。それは舌を制御することも同じことで、そのためには、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないことを実践しなければなりません。

 

Ⅰペテロ310,11にはこうあります。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを言わず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」

もし、あなたが幸いな日々を過ごしたいと思うなら、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないようにしなければなりません。私たちは常日頃、たくさんの誘惑にさらされています。悪いことをされたり、ばかにされたり、自尊心を傷つけられたりします。そのようなとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。これまでは条件反射的に、悪いことばや攻撃することばを言い返していました。「目には目を。歯には歯を」です。口には口です。しかし、これからは違います。キリストの愛が私たちを取り囲んでいます。聖霊の助けによって舌を押さえて悪を言わないようにするのです。何度か失敗もするでしょうが、その度ごとに聖霊に信頼して何度も何度も実践するのです。そうすれば、それが習慣となり、やがて、舌を押さえることができるよううになるのです。

 

ヤコブは2節のところで、「もしことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と言っています。この「完全な人」というのは、「大人の人」とか、「成熟した人」という意味です。つまり、初めから舌を制御できる人のことではなく、そうした訓練によって習慣化し、それを身に着けることができるようになった人のことを言っているのです。

 

ケネス・ヘーゲンと言う人は、「愛、勝利に至る道」でこう述べています。生活をエンジョイして、幸いな日々を送り、長生きする秘訣は、『自分の舌に悪をやめさせること』です。愛は、悪を言うことをいつも慎みます。愛は人々に対して欺瞞や悪を語りません。また神のご性質の愛は、すべての人との平和を求めます。」他の人を批判することは簡単なことです。しかし、同じ環境のもとで、私たちはその人ほど立派に行うことができるでしょうか。ですから、その人を裁くのではなく、その人を愛さなければなりません。愛は多くの罪を覆うからです。愛こそ、勝利に至る道なのです。

 

ヤコブは舌のもたらす破壊力について語っていますが、同時に、舌が持つ力についても教えています。もし私たちが舌を正しく制御するなら、私たちの人生をも変えることができるはずです。私たちはことばが持つ力についてあまり意識していません。何かが起こるとすぐに、「ああ、最悪だ」と言ってしまうのです。でも本当に最悪なのでしようか。また、ある人たちは病気がなかなか治らないと、「このままだと死んでしまう」と言ってしまいます。また、ある人たちは「何をやってもうまくいかない。俺の人生はどうせこんなもんだ」と言います。もし私たちがこのような投げやりで破壊的なことばを自分に向かって発するなら、本当に最悪なことが起こり、体はますます悪くなり、失敗を重ねる人生になってしまいます。なぜなら、ことばには力があるからです。自分が発したとおりになってしまうのです。ですから、私たちに求められていることは、神様のみこころにかなったことばを語り、それを実践することです。そうすれば、そのとおりになります。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

舌を制御することはだれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。けれども、イエス・キリストを信じて、聖霊によって心を支配していただき、力の限り、私たちの心を見守るなら、そこからいのちの泉が湧き出るのです。私たちも神のみこころにかなった言葉を発することができるように、上からの知恵に満たされて、自分の唇を制御できるように求めていきましょう。

ヤコブ2章14~26節 「生きた信仰」

きょうは、ヤコブの手紙の後半の箇所から「生きた信仰」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて、みことばを実行する人になりなさい、と勧めました。そして、その具体的な実践の一つとして、人をえこひいきしてはいけないということを取り上げました。きょうのところでも、信仰が生きたものとなって全うされることを勧めています。ここには、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(24)とあることから、信仰による義を強調していた宗教改革者マルチン・ルターは、このを「藁の書」と言ったほどです。しかしここでは、信仰か行いか、どちらかということを述べているのではなく、本当のクリスチャンの信仰生活には、信仰も行いもあるはずだということが強調されているのです。きょうは、行いが伴った本当の信仰、生きた信仰についてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.死んだ信仰(14-17)

 

まず、14節から17節までをご覧ください。ここでヤコブは死んだ信仰について語っています。

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

 

私たちの間に、実質の伴わない、言葉だけの信仰話がしばしばなされることがあります。ヤコブはここで、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と言っています。ここで重要なのは、「自分には信仰があると言っても」の「言っても」です。「私は神を信じています」と言うことと、実際にその人に信仰があるかどうかは、別問題なのです。

 

このことについて、イエスさまは次のように警告されました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)また、ヨハネの福音書2章にも、「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」(ヨハネ2:23-24)とあります。ということは、イエスさまを信じても、イエスさまがご自身をお任せになれないような信じ方があったということを示唆しています。しかもここには「多くの人々が」とありますから、多くの人々がそのような信じ方をしているということなのでしょう。神との関係が確かなものであれば、それがその人の中に働いて、必ず悔い改めにふさわしい実を結びますが、そうでないと、それが実となって現われることはないのです。

 

ヤコブはその具体的な例として、15節から17節までのところで次のように言っています。

「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

ここでも、「と言っても」が問題となっています。「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えないなら、何の役にも立ちません。そのような信仰は死んでいる信仰なのです。すなわち、それは無きに等しい信仰であり、全く無意味なのです。

 

ちょっと待ってください。私たちは何かをしたから救われたのではなく、神の恵みのゆえに、信仰によって救われたのではないのですか。パウロはエペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と言っています。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。それなのに、そのような信仰は無意味だとか、死んでいるというのはおかしいのではないでしょうか。

 

確かにパウロは、私たちが救われるのは神の一方的な恵みによるのであり、行いによるのではないことを強調しています。私たちが神に受け入れられるのはキリストの義を土台にしているのであって、私たちの行いによるのではありません。それが聖書の真理です。しかし、そのようにして始められた救いの御業は必ず行いとなって現われるのであって、行いが伴っていないとすればその信仰は死んだものであるか、その信仰に何らかの問題があるかなのです。というのは、パウロはそのエペソ人への手紙の中で続いてこう言っているからです。

「私たちは神の作品であった、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:20)

パウロは、私たちは恵みのゆえに、信仰によって救われると述べた後ですぐに、それは良い行いをするためだと言いました。つまり、パウロもヤコブも同じ行いの伴う信仰について語っていたのです。勿論、身体的、精神的、その他の理由でしたくてもできない場合もあります。しかし、そうしたケースは別として、自分には信仰があると言っても、それが単なる口先だけの、言葉だけの信仰であるとしたら、そのような信仰は死んだものであり、全く意味がないものなのです。

 

Ⅱ.見せることができない信仰(18-19)

 

次に、18節と19節をご覧ください。

「さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 

ヤコブはここで、次の話題に入っています。それは、見せることができる信仰についてです。信仰そのものは、目に見えないものですが、信仰の行いは見ることができるのであって、もし見せることができないとしたら、その信仰は偽善的な信仰なのです。

 

多くの人が、信じているけれどもその信仰を見える形で示すことはできないと言いますが、それは正しくありません。というのは、その信仰は行いによって現わされるからです。たとえば、皆さんは今安心して椅子に座っていますが、なぜ安心して座っていることができるのでしょうか。そう信じているからです。この椅子は絶対に壊れないと疑うことなく信じているからこそ座っているのであって、もし壊れるかもしれないと思っていたら怖くて座ることができないでしょう。壊れないと信じているからこそ座るのです。つまり、座るというその動作の中に、その人の信仰が現われているのです。言い換えるならば、その人の行いを見れば、その人が何を信じているかがわかるということです。信仰には、行いをもたらす力があるからです。ですから、その人が何を信じるかということはとても重要なことなのです。

 

これはたとえ話ですが、世界的に有名な天才的な綱渡り師がいるとします。彼はこれまでどんな困難なところでも一度も失敗したことがなく渡ることができました。そして、今、目の前の崖から崖に一本の綱が張られていて、それをだれかをおんぶして渡るとします。彼は見ている人に聞きます。「向こう側に渡れると思う人?」すると全員が手を上げます。そこで彼は続いてこう尋ねます。「それでは自分におんぶしてもらってもいいと言う人?」すると誰も手を上げません。なぜなら、もし誤って落ちてしまったら自分のいのちはないからです。すなわち、信じているようでも、本当に信じていないのです。本当に信じるとは、実際に彼におんぶしてもらうという行為に現れます。本当に信じているなら、その信仰を見せることができるのです。

 

そして、見せることができない信仰とはどのようなものかを、ヤコブは19節でこう言っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」

 

「神はおひとりだと信じています。」これは申命記6章4節のみことばです。そこには、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)とあります。これはユダヤ人の信仰告白です。ユダヤ人は今でもこのみことばを安息日ごとに告白しています。これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙ですから、ヤコブはあえてこのみことばを取り上げたのでしょう。それは私たちで言うならば、イエスがキリストであり、救い主であると告白するようなものです。このように告白することはすばらしいことです。なぜなら、そのように心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。

 

しかし、驚くなかれ、悪霊どももそう信じているのです。悪霊どもは確かに神の存在を信じており、またキリストが神の子であることも信じています。マルコの福音書3章11節、12節には、「また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、あなたは神の子です、と叫ぶのであった。」とあります。そればかりか、「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」(ルカ8:31)とあります。つまり悪霊は、キリストがさばき主であり、最終的な刑罰の場所があることも信じているのです。そして悪霊どもはそう信じて、身震いしているのです(マルコ1:23-24)。

 

しかし、信じて身震いすることと、神の救いを受け入れて救われていることとは全然違います。本当の信仰とは、神の救いについての正しい知識を得て、それを受け入れることです。パウロはこのことを新しい創造と呼んでいます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)つまり、新しく生まれ変わる新生の体験なのです。

 

前回の申命記の学びで、「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)というみことばを学びました。いったいイスラエルはどうすれば心を尽くし、精神を尽くして、主を愛し、主に従うことができるのか。それは彼らの心を包む包皮を切り捨てることによってです。心を包む包皮とは、肉体の割礼に対する心の割礼のことです。イスラエルの民は、彼らが神の民であることのしるしとして、生まれて八日目に割礼を受けました。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。それはユダヤ人にとっては神の民であることのしるしとしてとても重要なものでした。それは、ユダヤ教に改宗する人たちにも求められていました。けれども、彼らがどんなに肉体の割礼を受けても意味がありません。なぜなら、それはただ形式的なことであって、それだけで心を尽くして神に従うことなどできないからです。彼らが神に従うためにはそうした肉体の割礼ではなく、心に割礼を受けなければなりませんでした。心を包む皮を切り捨てなければならなかったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちがバプテスマを受けても、それがただの形式的なものであるならば救われることはなく、私たちが救われるために必要なのはキリストを信じる信仰によって、私たちの心が神の御霊によって新たく生まれ変わることによってなのです。それが心の割礼であり、新しい創造なのです。そのような新しい創造を体験した者は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)とあるように、全人格的、全生涯的にキリストを受け入れて生きるようになるのです。

 

「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。」と言われても、死んだ信仰にはいのちがないのですから、見せようにも見られません。しかし、ヤコブはここで、「私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」と言っています。それは決して高慢になって行っているのではなく、そうした偽善的な信仰に対する彼のチャレンジであり、悔い改めと神への従順を求める神からのメッセージなのです。

 

Ⅲ.生きた信仰(20-26)

 

次に、20節から26節までをご覧ください。

「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

 

信仰と行いを分離して、一方がなくても他方があるからと反対する人たちに向かって、ヤコブは、信仰と行いとは不可分のものであることを旧約聖書の二人の人物を取り上げて、さらに説明を加えています。その二人とはアブラハムとラハブです。

 

ユダヤ人にとって、アブラハムは信仰の父でした。ヤコブによると、そのアブラハムが義と認められたのはいつのことであったかというと、彼がその子イサクを神にささげた時であったと言っています。彼はその行いによって義と認められたというのです。

 

しかし、創世記を見ると、アブラハムが義とみなされたのは創世記15章6節の時点であって、その時なはまだイシュマエルもイサクも生まれていませんでした。人間的に考えれば、アブラハムに子どもが生まれ、その子孫が天の星のようになるという神の約束が実現することが、全く考えられない時でした。それにもかかわらず、アブラハムは神の約束を信じたのです。主はそれを彼の義と認められました。ローマ4章3節やガラテヤ3章6節でパウロが言っている「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」ということばは、この時のことです。

 

しかし、ヤコブが「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」(21)と言っているのは、それから三十年も後の創世記22章の出来事なのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは、創世記15章6節で、その信仰が義と認められたということばが、22章のイサクをささげたという行いによって実証されたということです。ですから、行いによって義とされたということが救われるための条件としてではなく、義と認められる信仰は、行いによって証明されるということを意味しているのです。

 

22節を見ると、「彼の信仰は彼の行いとともに働いた」とありますが、それはこのことを表わしています。元々、アブラハムが生まれ故郷のウルの町を出た時も、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)という神の召しに応答してのことでした。アブラハムの信仰はただ神を信じるというものでしたが、それは生きた神との交わりを通して育まれ、行動となって現われていきました。彼はたくさん失敗もしましたが、それでも神が恵みをもって祝福してくださったので、神への信頼が増していきました。その結果として、神からあなたの愛するひとり子をささげなさいと命じられた時も、神はイサクをよみがえらせることができると信じて、その命令に従うことができたのです。

 

ここには、「彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」とありますが、これは、彼の信仰がその行いによって証明されたという意味です。アブラハムの信仰は、イサクをささげるという神への全き服従によって全うされたのです。このように全うされる信仰とは、神の約束のことばを土台として、そのみことばを受け入れ、そのみことばに生きることによって、捨て身になって神に信頼する信仰なのです。その時に、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼が神の友と呼ばれたように、私たちの中にも神の義が全うされるようになるのです。

 

そして、もうひとりの人は遊女ラハブです。彼女については次のように紹介されています。25節です。

「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。」

 

彼女については、ヨシュア記2章に記されていますが、彼女について特筆すべきことは、彼女がカナン人、つまり異邦人であったこと、しかも遊女であったということです。神の救いは決して、その人の素性や行いによって妨げられるものではないことがわかります。しかし、いったいなぜここでわざわざ遊女ラハブのことが取り上げられているのでしょうか。アブラハムならわかります。彼は信仰の父であり、神の友と呼ばれた人物です。しかし、彼女は異邦人であり、遊女でした。そんな彼女がわざわざ取り上げられているのには一つの理由があります。それは、彼女がアブラハム同様、行いによって義と認められた者であるということです。つまり、行いによって、その信仰が全うされた、証明されたということです。いったい彼女はどのようにその信仰を全うしたのでしょうか。

 

25節には、彼女は、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、とあります。彼女は自分の命の危険を冒してイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出しました。いったいなぜ彼女はそこまでしたのでしょうか。ヨシュア記によると、彼女はイスラエルにはまことの神がおられ、その神がカナン人を滅ぼされる計画を持っておられるということを知っていたからでした。つまり、彼女は、その方こそ救い主であると信じていたので、その使者たちをかくまい、自分と自分の家族を救ってほしいと頼んだのです。その信仰がそうした行いとなって現われていたのです。

 

結論として、ヤコブはこう言っています。26節をご覧ください。

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

死とは、からだからたましいが離れることです。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。

 

皆さんの信仰はどうでしょうか。たましいを離れたからだのようにはなっていないでしょうか。私たちは、神の一方的な恵みによって救われました。しかし、本当に神の恵みによって救われたのなら、そこには必ず行いが伴うはずです。もっと神を愛し、神に従い、神のみ旨にかなった歩みをしたいという思いが溢れてくるはずなのです。もしそうでないとしたら、もう一度自分の信仰を吟味し、本当に救いの信仰を持っているのかどうかをよく調べてみる必要があるのではないでしょうか。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(Ⅱコリント13:5)

そして、行いの伴った信仰、救いに至る信仰を全うしようではありませんか。

申命記31章

 きょうは、申命記31章から学びます。

 

 Ⅰ.新しい指導者ヨシュア(1-13

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。主は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行なわれたように、彼らにしようとしておられる。主は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行なおうとしている。強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 

モーセは、神がイスラエル人と結ばせた新しい契約のことばを宣言しました。それは、彼らの神、主を愛し、主の御声に従うならいのちと祝福をもたらし、もし、彼らが心をそむけて、主の御声に聞き従わず、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、死とのろいをもたらすというものでした。

 

それからモーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて言いました。2節です。

「私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、『あなたは、このヨルダンを渡ることができない』と言われた。」

「出入りができない」とは戦いができないという意味です。なぜでしょうか。神によって、このヨルダン川を渡ることができないと言われたからです。どうして主はモーセに、ヨルダン川を渡ることができないと言われたのでしょうか。それは彼が百二十歳という高齢になって体力がなくなったからではありません(34:7)。それは、過去において、あのメリバで水を求めたイスラエルの民に対して彼が怒りをあらわにし、神が岩を打ちなさい(一度)と命じたのにもかかわらず、二度も打ってしまい、神を聖なる者としなかったからです。(民数記20:1-13)彼は怒りのゆえに、神のみことばに正確に従わず、自分の思いのままに走ってしまいました。それで彼は約束の地に入れないと宣言されたのです。

このようなことが私たちにもよくあります。自分の感情に流され神のみことばからずれてしまうことが・・・。そういうことがないように注意しなければなりません。

 

しかし、たとえ、モーセがカナンの地に入って行くことができなくても、神が彼らの先に渡って行かれ、エモリ人の王シホンやオグになさったように、カナン人を滅ぼしてくださいます。それゆえ、彼らを恐れてはなりません。6節のみことばをご一緒に読みましょう。

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

本当に力強い言葉です。あなたが今、恐れていることはどんなことですか。不安に思っていることはどんなことでしょうか。それがどのようなことであっても恐れてはなりません。おののいてはなりません。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進んでくださるからです。

 

7節と8節をご覧ください。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の前で、同じように言って、彼を激励しています。モーセはいなくなりますが、神の計画はヨシュアという新しい指導者が立てられ、彼をとおして成し遂げられていくのです。

 

次に9節から13節までを見てください。

「モーセはこのみおしえを書きしるし、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである。これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」

 

モーセは、律法を記録して、それをレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちに授けました。ここで言うみおしえが、モーセ五書全部を指すのか、申命記の核心的な内容を意味しているのかは明らかではありません。しかし、一つだけ明らかなことは、この中には神との契約締結に必要な内容が全部含まれていることです。そしてモーセは、彼らがカナンの地に入って行ったら、七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、主を礼拝するためにやって来る時に、このみおしえの書を読んで聞かせなければなりませんでした。

 

仮庵の祭りは、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出すために行いました。そしてそれはまた、主イエスが地上に来てくださり、「仮庵となられた」ことを喜ぶものでした。それによって神と人との和解をもたらされたからです。

そしてそれはまた、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもありました。救いの完成のひな型でもあったのです。それはキリストの再臨によってもたらされる千年王国を指し示すものでもあったのです。

 

ですから、仮庵の祭りは、エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことの記念から始まり、この地上に住まわれ神との和解をもたらしてくださったキリストと、やがて千年王国が到来する喜び、そのすべてがつながっている喜びの祭りなのです。その祭りにおいて、このみおしえが読まれなければなりませんでした。それは、12節にあるように、男も女も、子どもも、彼らの町囲みの中にいる在留異国人もみな、このみおしえを読んで聞いて学び、彼らの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うためです。

 

私たちはどれほどこのみおしえを聞いて学んでいるでしょうか。このみおしえを喜び、これを守り行い、主を恐れているでしょうか。私たちは新年度も聖書通読に力を入れますが、それはまさにこのためであることを覚え、喜んで聞き従っていく者でありたいと思います。

 

Ⅱ.主のあかし(14-23


 次に、14節から18節までをご覧ください。

「それから、主はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」それで、モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。主は天幕で雲の柱のうちに現われた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。主はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、はいって行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。」

 

ヨシュアを新しい指導者として立てたモーセは、ヨシュアとともに会見の天幕に立ちました。すると主は会見の天幕の雲の柱のうちに現れて仰せられました。それはイスラエルの民が外国の神々を慕って淫行(偶像崇拝)をしようとしていること、そしてそのようにして神と結んだ契約を破るなら、神の怒りが燃え上がり、彼らを滅ぼし尽くすというものでした。これはイスラエルの民の偶像崇拝を未然に防止するための神の警告でした。その日、イスラエルの民は、「これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからだ。」と言うようになりますが、それは反対です。神がおられるから、そのようなことが起こるのです。時として私たちも同じようなことを言ってしまうことがありますが、注意したいものですね。それは神がいないからではなく、神がおられるから、神がおられるから、そのようなことが起こるのだということを。

 

19節から22節までをご覧ください。

「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。」

 

神は、イスラエルの民が、ご自分が言われたことを思い起こさせるのに、歌という方法を用いられました。それはイスラエル人に対する主のあかしです。彼らが約束の地に入り、そこで食べて満ち足り、肥え太り、ほかの神々のほうに向かい、神との契約を破り、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかるとき、それがこうした理由からだということを彼らが知るためです。

 

それにしても、モーセの死の直前の最後の仕事は歌を書き記すことでしたが、その歌はのろいがもたらされたことを思い起こさせるための歌でした。何とも悲しいことでしょう。しかし、私たちには、人にいのちを与えるところの務めが与えられていることを覚えて感謝したいと思います。

 

23節をご覧ください。

「ついで主は、ヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」

最後に神は、カナンの地に入るヨシュアに対して、もう一度「強く荒れ。雄々しくあれ」と言って、励ましています。

 

Ⅲ.あなた道を主にゆだねよ(24-30

 

最後に24節から30節までを見て終わりたいと思います。

「モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。」モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。」

 

モーセは、そのみおしえの書を書き終えると、契約の箱のそばに置くようにとレビ人たちに命じました。なぜでしょうか。それは、それが神との契約であったからです。そのようになさったのは、イスラエルの民がかたくなで、うなじのこわい民であることを神が知っておられたからです。神は、16節のところで既に、イスラエルの民が、モーセの死後に、神を捨てることを語られました。モーセもエジプトを出てからこのヨルダン川に至るまで、いやというほど、経験して、よく知っていました。ですから、モーセは最後に、彼らが堕落することと、道から反れて主を怒らせるようになることを預言しているのです。

 

これはイスラエルのことだけでなく、私たちにも言えることです。私たちもこれまでもそうでしたが、いつも主の道から反れて自分勝手に歩みやすいものです。いつも堕落して、神の道から離れてしまうのです。ひどいことに、そのことにすら気付かないことが多いのです。ですから、いつも自分の感情や思いではなく、主のみおしえに歩まなければなりません。

 

パイロットが飛行訓練学校で訓練を受けるとき、教官はつねにこう強調するそうです。「操縦席についたら、決して自分の感覚を信じるな。特に悪天候の中で飛行するときや高度が上昇するとき、それに空中で航路からそれてしまったときは、なおさらだ。そのときは計器を信じるんだ。」

あるパイロットが訓練を終えて実際の飛行をしていました。彼は飛行感覚については自信がありました。訓練によって飛行感覚を身に着けていたからです。ある日、飛行中に思わしくない天候にあい、前後の見境もつかないほどの深い霧の中に閉じ込められてしまいました。彼は自分の飛行知識のすべてをかき集めましたが、次第に五里霧中に陥ってしまいました。方向さえもわからなくなってしまったのです。そのとき、飛行学校で教官が言っていた言葉を思い出しました。

「計器を見ろ。計器を信じてそれに従え。」

自分の感覚と計器の表示はまるで違っていました。しかしこのパイロットは計器を見ながら方向と高度を把握し、落ち着いて操縦したので、すぐにその状況を抜け出すことができました。

私たちの人生にも、悪天候に見舞われることがあります。そんなとき、自分の知識と自分の感覚は問題解決の役には立ちません。かえってそのような慣れた経験が、その問題をさらに深みにはまり込ませてしまうことがあります。

私たちの人生の計器は私たちではありません。私たちの人生の正しい計器は、神のみことばなのです。今あなたが困難な悪天候に見舞われているなら、過去の経験を思い起こす前に、他の人たちの意見を聞く前に、奥まった部屋に入り、計器の数値を示してくださる神に祈り求めてください。そして、そのまま従ってください。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を 認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6

ヤコブの手紙2章1~13節 「人をえこひいきしてはいけません」

きょうは、「人をえこひいきしてはいけません」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っているユダヤ人クリスチャンに対して、さまざまな試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさいと勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。神はそのために真理のみことばによって、私たちを新しくお生みになりました。ですから、人間的には不可能であっても、神の御霊によって忍耐することができます。大切なのはその真理のみことばを聞くだけでなく、それを実行することです。そのみことばの実践の一つとして勧められていることが、人をえこひいきしてはいけないということです。

 

この「えこひいきする」ということばは、顔を持ち上げるという意味のことばから来ています。その人の社会的身分や財産、この世的な影響力を不当に重視することによって人を偏って見てしまうことです。聖書はこのような態度を一貫して非難しています。たとえば、レビ記19章15節には、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。」とあります。ここでは単に強い者にへつらうだけでなく、弱い者におもねることも戒められています。おもねるとは、気に入られるようにふるまうという意味ですが、強い者にペコペコするだけでなく、弱い者に気に入られるようにふるまうこともよくないというのです。たとえ相手が強い者であっても、弱い者であっても、正しく接するようにと教えているのです。それは神が公義であられるからです。ですから、その神を信じて歩む者にも公平さが求められているわけです。人を差別してはいけない、偏見を抱いたり、えこひいきしてはいけないということです。いったいなぜ人をえこひいきしてはいけないのでしょうか。ヤコブはきょうの箇所でその三つの理由を述べています。

 

Ⅰ.栄光の主イエスを信じる信仰を持っているのですから(1-4)

 

第一の理由は、私たちは栄光の主イエスを信じる信仰を持っているからです。1節から4節までをご覧ください。1節にはこうあります。

「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」

 

ここでヤコブは主イエス・キリストのことを「栄光の主イエス・キリスト」と言っています。神の栄光は昔、神の幕屋に宿り(出エジプト40:34-38)、イエスがこの地上に生まれた時、その栄光は主イエスに宿りました(ヨハネ1:14)。そして今日、彼を信じるすべての人に神の御霊が注がれたことによって、彼を信じるすべてのクリスチャンにこの神の栄光が宿るようになりました(Ⅰコリント6:19-20)。クリスチャンとはそのような者なのです。神は、こんなに罪に汚れた者を赦してくださり、「インマヌエル」すなわち「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださいました。私たちはこの主イエス・キリストを信じる信仰によって神の栄光を持つ者となったのです。であれば、もはや人の栄光とか、物質、あるいは富の栄光といったものは色あせてしまいます。もはやりっぱな服装であるとか、指輪の有無を含めてどんな指輪をしているか、お金持ちであるかどうかといったことはどうでもいいことであり、そういうことで人を差別してはいけないのです。

 

2節から4節までをご覧ください。

「あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」

 

ここでヤコブは、えこひいきとはどういうことなのかを具体的な例を取り上げて説明しています。「あなたがたの会堂に」とあるのは、当時のクリスチャンも一緒に集まって礼拝していたことを表わしています。そこにはいろいろな人々がやって来るわけですが、たとえばそこに二種類の人がやって来たとします。お金持ちと貧乏人です。お金持ちは金の指輪をはめ、立派な服装をしています。当時は、指輪をたくさんはめていることが、その人のステータスになっていたようです。そのためある人は、中指を除いた全部の指に指輪をはめ、それでもあきたらずに中には一本の指に二つも三つも指輪をはめていた人もいたそうです。彼らは自分たちが富んでいるという印象を与えるために並々ならぬ努力をしていたのです。そのため、中には指輪を借りてきてはめている人もいました。そのようにすることによって、自分を少しでもよく見せようとしていたのです。

 

一方で、貧しい人もやって来ます。貧しい人は他に着る着物とてないので、みすぼらしい身なりをし、宝石などで飾ることもできません。そのような二種類の人がやって来た時、果たしてあなたはどのような態度をするのかというのです。

 

もしあなたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。でなければ、私の足元にすわりなさい」と言うとすれば、あなたは人を差別しているのであって、悪い考えで人をさばく者になっているのです。

 

この描写は、決して誇張されたものではありませんでした。というのは、初期の礼拝式文書の中に次のような教訓があったからです。

「もしりっぱな着物をきた男か女が入って来たなら、その人がその地区の人であろうと他の地区からやって来た人であろうと、兄弟であり長老であるあなたは、その人にへつらってはならない。もしあなたが神のことばを語り、あるいは聞き、あるいは読んでいるなら、その人たちに座席を与えようとしてみことばの奉仕を中止してはならない。ただ静かにしているがよい。というのは、兄弟たちが多分接待してくれるからである。もし彼らに座席がないなら、兄弟姉妹の中の愛に富んだ人が立って、彼らに座席を提供するであろう。もし自分の地区か他の地区の貧しい男か女が入って来て座席がなければ、長老であるあなたは、たとえあなたが土間に座らなければならないとしても、心からその人のために座席を作ってやるべきだ。人の尊敬を得るためではなく、神から見られるためである。」

 

こういう教訓があったのです。そしてここでは礼拝指導者が、富んでいる人が入ってきた時に礼拝を中止して、特別席を設けるように指図することがないように注意するようにということが暗に示されています。

 

初代教会には、こうした社会的な問題があったことは否めません。主人が自分の奴隷の隣に座ったり、主人が礼拝に到着したら、その礼拝で自分の奴隷が礼拝の指導をしていたり、礼典の司式者であるということがあったからです。そういうことがあれば非常に具合が悪いということは、容易に想像することができたからです。単に生きている道具にすぎないと思われていた奴隷と主人とのギャップは、今では想像することができないほど大きかったに違いありません。さらに圧倒的に貧しく、賤しい人々で満ちていた当時の教会の中に富んだ人が回心者として加えられることは、大きな誘惑であったに違いありません。

 

けれども、たとえ現実的にそのような問題があったとしても、教会は一切の社会的差別が取り除かれたただ一つの場所でした。なぜなら、教会は栄光の主イエス・キリストが臨在しておられるところであり、この方の前には格付けや身分や名声といった一切の差別がないからです。この方を信じて生きる者にとって、そうしたものは一切色あせてしまうからです。自分の罪と汚れの大きさをみるならさばかれても致し方ないような者が救われたのでありますから、そこにあるのはただ神の恵みだけなのです。この神の卓越した栄光の前には、人の功績や価値の差別といったものは何もないのです。

 

にもかかわらず「自分たちの間で差別を設ける」ならば、その人は栄光の主イエス・キリストを信じているというよりも、この世の富に足を取られているのであり、二心のある人なのです。そういう人は、その歩む道のすべてに安定を欠いているのです。そのような人に求められていることは、栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持つことであり、このキリストの目とキリストの心を持つことです。私たちはいつでも、人を栄光の主イエス・キリストを通して見て、判断し、受け入れるべきなのです。

 

Ⅱ.神の選びからくる兄弟愛の実践(5-7)

 

第二のことは、この世の貧しい人たちを神が選んでくださったということです。5節から7節までをご覧ください。

「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」

 

なぜ貧しい人を軽蔑してはいけないのでしょうか。それは、神がこの世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を相続する者とされたからです。

 

イエス様がナザレで最初の説教をした時、それは次のようなものでした。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)

イエスが遣わされたのは、貧しい人々に福音を伝えるためでした。イエスは絶えず貧しい人々に特別な伝言をもたらしてきたのです。

 

また、イエスの山上の説教の第一番目の祝福は何だったかというと、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)というものでした。イエス様の目は絶えず貧しい人たちに注がれていたのです。それは、富んでいる人はどうでもいいということではなく、貧しければ貧しいほど、信仰による豊かさを求めるからです。しかし、富んでいれば神よりももっと富を求めるようになります。イエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です 。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)と言われましたが、それはそういう意味です。決して富んでいる人には救いが必要ないということではなく、富んでいる人が砕かれて、主の救いを求めることは難しいということです。

 

しかし一方で、それは神の計画であったともいえるのです。そのように神が弱い者たちや取るに足りない者たちを選んでくださることによって、有る者を無い者のようにしようされたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「兄弟たち、あなた方の召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有る者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:26-28)

 

これは本当に不思議なことです。神はこの世の知恵ある者や力ある者ではなく、普通の人、いや無に等しいような者を選ばれたのです。

 

アブラハム・リンカーンは、「神はこんなにたくさん普通の人を造られたのだから、普通の人を愛しているに違いない。」と言いましたが、本当にごく普通の人を、いや無に等しい者をあえて選んでくださいました。それは、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者にするためです。

 

それなのに、こうした貧しい人たちをないがしろにするようなことがあるとしたら、それは全く神のみこころにかなったことではないと言えます。むしろ、あなたがたをしいたげるのは、そのように富んだ人たちなのです。イエス様のたとえ話の中に、七を七十倍するまで赦しなさいという教えがありました。1万タラントの借金を免除してもらったしもべが、自分に百デナリの借りのある人に対して首を絞め、「借金を返せ」と言い、その借金を返すまで、彼を牢屋にぶち込みました。(マタイ18:23-35)。当時はそういうことが実際にありました。そして、そのようなことをするのはこうした富んだ人たちなのに、どうしてあなたはそのような人たちにへつらい、貧しい人たちを軽蔑するようなことをするのか、とヤコブは言うのです。

 

Ⅲ.最高の律法(8-13)

 

ですから、第三のことは、そのように人をえこひいきすることは神の律法にかなっていないということです。8節から13節までをご覧ください。まず8節と9節をお読みします。

「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは実を犯しており、律方によって違反者として責められます。」

 

どういうことでしょうか。ヤコブはここで、旧約聖書の中から一つの神の律法を引用して、さらに話を勧めています。その律法とは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という律法です。これはレビ記19章18節のみことばですが、イエス様はこれを最高の律法と言われました。なぜなら、律法のすべては、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という戒めの二つの戒めに要約することができるからです。神を愛することと、隣人を愛するという二つのことが、律法の中心なのです。これが最高の律法です。それなのに、もし人をえこひいきするということがあれば、この律法に違反することになります。そうであれば、罪を犯していることになり、律法の違反者として責められることになるのです。なぜなら、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、すべての戒めを破ったことになるからです。10節と11節をご覧ください。ここには、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」とあります。

 

私たちは、どちらかというと、不品行とか殺人、嘘、不正といった罪は大きな罪のように感じますが、人をえこひいきすることはそんなに悪いことではないかのように思っています。しかし、神様の目ではどれも同じ罪であり、特に、この人をえこひいきすることは律法の中でも最高の律法に違反することなので、当然、罪に定められることになるのです。

 

最後に12節と13節をご覧ください。「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

 

どういうことでしょうか。貧しい人をさばいて、軽蔑するような態度は、後に、同じようにあわれみがないさばきによって、さばかれるようになるということです。イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイ7:1)と言われました。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも図られるからです。」(マタイ7:2)それと同じように、もし私たちが人をあわれむなら、やがてあわれみを受けることになります。しかし、これほどのあわれみを受けていながらあわれみを示すことがなければ、その人に対するさばきは、あわれみのないさばきとなって自分に返ってくるのです。

 

タスカーという聖書注解者はこう言っています。「義とされた罪人によって地上に示されるあわれみこそ、彼にとって、いつの日か最後の審判のとげがすでに抜き去られていることを知る、その確信の確かな土台である。」

 

このように、神のあわれみを受けた者として、人をえこひいきするのではなく、だれに対しても優しく、親切にしなければなりません。イエスは、ご自身が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことを願っておられます(ヨハネ13:34)。神がえこひいきも偏愛もされないのなら、私たちも神と同じ高い水準の愛をもって人を愛するべきです。人を軽蔑することは、神のかたちに似せて造られた人を虐待し、神が愛されそのためにキリストが十字架で死なれた人を傷つけることになるのです。さまざまな形の人種差別や偏見は、何千年もの間、人類の疫病として存在してきましたが、このままではいけないのです。パウロは、ガラテヤ人への手紙3章28節で、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と言っていますが、私たちはキリスト・イエスにあって一つとされたのですから、そうした偏見や差別を捨て、一つとなることを求めていかなければなりません。

 

先週、アメリカのトランプ大統領がイスラム教国の七か国からの渡航者を一時的に入国禁止にする大統領令に署名して世界中が大混乱しましたが、皆さんはこれをどのように受け止められたでしょうか。これは、テロリストをアメリカ国内に入国させいないようにするための措置ですが、すべてのイスラム教徒が過激派なわけではありませんし、イスラム教徒をそのような目で見ることは間違っています。また、難民をはじめすべての人を受け入れるようにと命じている聖書の教えにも反しています。そうした偏見や差別を捨てて、キリストが私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに愛し合い、受け入れ合わなければならないのです。

 

しかし、それはトランプ大統領だけの問題ではありません。それは、私たちの問題でもあるのです。アメリカではこれまで多くの難民や移民を受け入れてきた結果こうした問題と取り組まなければならない事情がありますが、日本ではそもそもこうした難民を受け入れて来なかったという事実があるのです。昨年、日本に難民申請があったのは7,586件ですが、難民認定者として認められたのはわずか27人にすぎませんでした。一昨年はわずか11人、その前の年は6人です。あまりにも少なすぎます。このような状況で、どうやってトランプ大統領を批判することができるでしょうか。私たちももっと真剣に考えなければなりません。隣人を愛することや、こうした人たちへの偏見を捨てて、受け入れることを・・。

 

1月26日に放送された「奇跡体験!アンビリバボー」は、1968年のメキシコ五輪・男子200メートルで銀メダルを獲得したオーストラリア人・ピーター・ノーマンにスポットをあてた番組でした。  このメキシコ五輪が開催された1968年は、アメリカ黒人が公民権の適用と人種差別の解消を求める抗議運動が継続し、ベトナム戦争の反対運動が起こっていた時代でした。

男子200メートルでは、2人のアメリカ黒人選手が金と銅メダルを獲得。そしてオーストラリア白人選手のピーター・ノーマンが銀メダリストとして表彰台に上がりました。すると、金メダリストのトミー・スミスと銅メダリストのジョン・カーロスが、アメリカの国歌が流れ星条旗が掲揚される間、壇上で頭を下げ、黒手袋をはめた拳を突き上げたのです。これはブラックパワーサリュートといって、黒人差別に抗議する行為ですが、これが波紋を呼び、トミーとジョンは、長い間アメリカスポーツ界から追放。黒手袋をはめた拳を突き上げませんでしたが、ピーター・ノーマンも、抗議運動に同調したということで批判され、地元のオーストラリアからも除け者扱いされ、4年後の1972年に開催されるミュンヘン五輪にあたってピーターは、予選会で3位の好成績を残したにもかかわらず代表にも選ばれませんでした。その後彼は、競技生活を引退し、引退後は体育の教師や肉屋などの職を転々としました。

結局ピーターは2006年、心臓発作でこの世を去りましたが、最後まで国から受けるべき謝罪は何一つとして受けないまま亡くなってしまったのです。ピーターの葬儀ではアメリカからトミーとジョンがやって来て棺を担ぎました。オーストラリアでは無視された存在になっていても、彼らは決してピーターのことを忘れず、2人はピーターの棺に付添ったのでした。

そして、2012年、オーストラリア政府は、ピーターに対し、「何度も予選を勝っていたにもかかわらず、1972年のミュンヘンオリンピックに代表として送らなかった国の過ちと、ピーターの人種間の平等を推し進めた力強い役割への認識に時間がかかった」と謝罪したのです。ピーター・ノーマンは、たった1人の人間でもどれほど世の中を変えることができるかを示した手本になったのです。

 

現代ではブラックパワーサリュート事件は存在しないかもしれませんが、しかし、私たちの心の中にはまだ人をえこひいきする壁が残っているのではないでしょうか。私たちはついつい人を見てしまう弱さがありますが、どんな人でも神に愛され、イエス・キリストにあって一つにされた者として、人をえこひいきすることなく、だれに対しても親切にし、心の優しい人になることを求めていきたいと思います。

申命記30章

 

 きょうは、申命記30章から学びます。

 

 Ⅰ.あなたを再び集める(1-10

 

 まず1節から5節までをご覧ください。

「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」

 

前章でモーセは、イスラエルの民と新たな契約を結びました。それは、ホレブで結ばれた契約とは別のものです。それは、彼らが約束の地に入って行ってから神の民としてどうあるべきなのかが示された新しい契約であり、その契約に従う者には祝福を与え、従わない者にはのろいをもたらすというものでした。しかもそれは彼らの行いによるのではない、神の真実とあわれみによってもたらされる恵みの契約です。そして、その祝福とのろいが彼らに臨み、彼らがすべての国に散らされた時、それらのことを心に留め、彼らの神、主に立ち返る時、どのようなことが起こるのかがここで語られています。3節から5節までを覧ください。

 

「あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」

 

主は何とあわれみに富んでおられる方でしょうか。たとえ神のみことばに従わずに罪を犯し、神のさばきとのろいを受けることがあっても、それで終わりではありません。その罪を悔い改め、主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、主は彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれみ、すべての国々の民の中から、彼らを再び集めるというのです。そして、彼らが所有していた地に彼らを連れて行き、その地を所有させ、彼らを栄えさせ、その先祖たちよりもその数を多くさせるというのです。

 

私たちはまだこの預言の完全な成就を見てはいませんが、これまでのイスラエルの歴史の中でいくつかその成就を見ています。たとえば、イスラエルはB.C.587年にバビロンによって捕えられましたが、その70年後にカナンの地に帰還しています。また、A.D.70年にはローマによって滅ぼされ多くのユダヤ人が全世界に離散しましたが、1900年代になりシオニズム運動といって、全世界に散ら連れていたユダヤ人がイスラエルに帰還しました。そしてついに19485月に、イスラエル共和国が建国されたのです。1900年もの間国を失い流浪していた民族が再び国を興すといった話を聞いたことがありません。けれども、イスラエルはそれを成し遂げました。それはいにしえの昔、旧約聖書にこのように預言されていたからです。それが成就したのです。それはこの預言の成就の一部なのです。

 

それでは、ユダヤ人がみな主に立ち返ったのかと言えば、そうではありません。彼らはまだ、イエスを自分たちのメシヤであると信じておらず、神の救いを受け入れていないからです。しかし聖書を見ると、このイスラエルの民もやがてイエスをメシヤとして受け入れるようになるとあります。それはイエスが再臨される時であり、その時彼らは患難の中を通って、初めて自分たちが槍を突き刺した方がキリストであったことを知り、胸を打って悔い改めるのです。ですから、大患難の時には、イエスが言われたように、ユダヤ人がエルサレムやユダヤの地域に住んでいなければいけません。この時代に多くのユダヤ人がイスラエルに集まっていることはその預言に向かって大きく前進している証拠であるといえるのです。そして、彼らが悔い改めるとき、御霊が注がれて、彼らは新たに生まれることになります。このときに、まだ世界中に散らばっているユダヤ人たちが、いっせいにイスラエルへと帰還することになります。それが、ここ申命記30章に書かれてある預言の成就です。

 

6節から10節までをご覧ください。

「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」

 

「心を包む皮を切り捨てる」というのは、心の割礼のことです。イスラエル人にとって割礼は、彼らが神の民であることのしるしでした。しかし、どんなに肉体に割礼を受けていても、神のみ教えに歩まなければ何の意味もありません。彼らが割礼を受けたのは彼らが神の民であって、神の教えに歩むためだったのです。しかし、彼らはその神との契約を守ることができませんでした。ですから、大事なことは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)心に割礼を受けることです。イスラエルが神のみこころに歩めなかったのは心を包む皮を切り捨てられていなかったからです。そこで主は、その心を包む皮を切り捨てると言われたのです。その時彼らは、心を尽くし、精神を尽くして、彼らの神、主を愛し、それで彼らは生きるようになります。そして、イスラエルを迫害したイスラエルの敵にのろいを下されます。まさに、アブラハムを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。

 

一方、イスラエルはどうなるかというと、8節にあるように、再び、主の御声に聞き従い、主のすべての命令を行なうようになります。心に割礼を受けるからです。心に割礼を受けると、主の御声に聞き従うことができるようになるのです。大事なのは、自分の心が聖霊によって変えられているか、どうかなのです。

 「あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」

 

こうして、イスラエルは、神との契約を破り、神の命じられたことに従わなかったことで神ののろいを受けますが、主はそんな彼らを再び栄えさせます。それは彼らが心に割礼を受けて、神に立ち返り、心を尽くして、精神を尽くして、主の御声に従うようになるからです。

 

それは、私たちも同じです。私たちも主の御声に従わないで罪を犯し、主のさばきとのろいを受けるようなことがありますが、悔い改めて、主に立ち返り、心を尽くして、主により頼むなら、主は再び私たちを回復させ、その祝福の中へと入れてくださるのです。失敗してもそれで終わりではありません。そのためには私たちは心に割礼を受けること、神の聖霊によって、かたくなな心を砕いていただきたいと思います。

 

Ⅱ.みことばは、あなたのごく近くにある(11-14


 次に、11節から14節までをご覧ください。

「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

 

ここでモーセは、主の命令とおきてとを守ることについて、それは彼らにとって難しすぎることはないと断言しています。それは遠くかけ離れたものではないからです。それは天に上って取ってこなければ聞くことができないものではありません。また、海のかなたに渡って取って来なければ聞くことができないものでもないのです。それは、あなたのごく身近にあり、あなたの口に、あなたの心にあるのです。ですから、いつでも聞いて行うことができるのです。

 

パウロはローマ人への手紙106節から10節までのところでこの箇所を引用し、信仰による義について語っています。すなわち、私たちが救われるためには天に上らないといけないとか、海の中にはいらなければいけないとかということではなく、信仰のことばを受け入れるということ、すなわち、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、救われるのです。なぜなら、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。そのためにどこか遠く行くことも、天に上る必要もありません。神の救いのみことばはあなたのすぐ近くにあり、あなたの心にあるからです。

 

Ⅲ.あなたはいのちを選びなさい(15-20

 

最後に15節から20節までをご覧ください。

「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」

 

いのちか死か、幸いかわざわいか、どちらを選ぶのかという二者選択です。もし彼らが主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るなら祝福され、反対に、それに聞き従わず、ほかの神々を拝み、それに使えるなら、必ず滅びうせます。彼らが入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできません。だから、あなたはいのちを選びなさい、というのです。

 

どちらを選ぶのは大切なことです。それは、私たちの選択にゆだねられています。そして、私たちはいのちを選ばなければなりません。しかし、私たちはそれでものろいを選択してしまいます。いのちをえらばなければならないということをわかっていても、自分の欲に負けて誘惑されてしまうのです。ですから、私たちの肉の力ではこうした選択する力さえありません。私たちの心は罪に支配されているからです。しかし、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放してくれました。神はご自身の真理のみことばによって私たちを新しく産ませさせてくださいました。その御霊によって、肉に勝利することができます。そして、いのちを選ぶことができるのです。(ヤコブ1:18

 

ここでモーセは、「天と地とを、証人に立てる。」と言っています。確かにイスラエルが行なっていることを、天と地という二つの証人が見ている、ということです。私たちはいつも、見られています。神ご自身に、自分の心を見られています。この神の御前で、私たちは、「私と私の家とは、主に仕える」と宣言しましょう。その中で、神のみことばを行い、いのちを得る者でありたいと思います。

ヤコブの手紙1章13~18節 「誘惑に打ち勝つ」

きょうは、「誘惑に打ち勝つ」というタイトルでお話しします。この手紙は、主イエスの異父兄弟であるヤコブから、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ヤコブは彼らに、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさい。」と勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じるということを知っているからです。そして、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となるからです。ですから、試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて義と認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるのです。 きょうのところでヤコブは、こうした試練に打ち勝つことから、私たちの内側から起こる誘惑の問題を取り上げ、その誘惑にどのようにしたら打ち勝つことができるのかを語っています。

Ⅰ.どのように誘惑されるのかを知る(13-16)

第一のことは、どのように誘惑されるのかを理解することです。すなわち、人は自分の欲に引かれて誘惑されて、罪を犯すのだということを知ることです。13節から16節までをご覧ください。

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

ここでヤコブは、試練から誘惑の問題に話題を変えています。なぜでしょうか。それは、外側からの困難がしばしば、内側からの葛藤を引き起こすからです。苦しみがあると内なる人が弱まり、罪を犯しやすくなります。そして罪を犯すと、平安と喜びが失われ、さらに堕落していくことになります。同じ試練でも、試練に耐えるなら、その人は成長を遂げた完全な人になりますが、試練に負けて罪を犯すと、神の平安を失ってしまうことになります。ですから、人はどのように誘惑され、罪を犯すのかをきちんと理解しておくことはとても重要なことなのです。

ヤコブはここで、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言っています。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもないからです。確かに神は人が試練に会うことを許されますが、その試練を誘惑にしてしまうのは、ほかでも私たち自身なのです。たとえば、学生にとって試験はある意味で試練だと思います。卒業試験や国家試験、進学試験、就職試験などさまざまな試験があり、それに合格しないと前に進んでいくことができないわけです。たとえ結果がどうであっても、そのように取り組んだ経験は自分にとって大きな財産となるでしょう。しかし、そんなにすばらしい機会でも、カンニングをしたり、他の悪い方法で成し遂げようとすれば、折角の貴重な機会も台無しになってしまいます。神は試練を与えることを許されますが、それを誘惑にしてしまうのは自分自身なのです。

最初の人アダムとエバも、神から与えられた試練の機会を誘惑にしてしまいました。神はアダムをエデンの園に置かれ、園の中央の木の実についてはそれを食べてはならないし、それに触れてもならないと仰せられました。それにもかかわらずアダムとエバは、悪魔の誘惑に負けて罪を犯し、取ってはならないと命じられた木から取って食べてしまいました。すると神はアダムに呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」アダムは答えて言いました。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」何ということでしょう。人は本来神と交わり、神の栄光のために造られたのに、その神から隠れて、木と木の間に隠れてしまったのです。そこで神は言われました。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか。」 さあ、それに対してアダムは何と答えたでしょうか。彼はこのように言いました。

「あなたが私のそばにおいたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)

どうですか、皆さん、アダムは何と言っているんですか。アダムは、自分が園の中央にある木の実を取って食べたのは、あなたが私のそばに置いた女のせいだと、エバのせいにしたのです。エバを自分のそばに置いた神様、あなたが悪いんです、と言ったのです。それで神が、エバに「いったい何ということをしたのか」言うと、女は答えて言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:12)こういうのを何と言うんですか。責任転嫁、罪のなすり合いと言います。私たちもよく「どうしてあなたはこんなことをしたのですか」と責められると、無意識のうちに、「だってあの人がこんなことを言ったからです」とすぐに人のせいにするのは、今に始ったことじゃないのです。最初に人間が造られた時から、自分の罪を他人のせいにしようとする本能があったのです。

神は、アダムが自分の意志で神に従うことができるようにとエデンの園に善悪を知る木を置かれたのです。アダムがその置かれた目的をよく理解し、その試練を乗り越えたのであれば、彼は神と交わることができ、大きな喜びに浸ることができたはずです。しかし、彼はそれを自分の満足のために用いることによって罪を犯してしまいました。アダムが罪を犯したのは神のせいではなく、自分の問題でした。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれをも誘惑なさることもないからです。それゆえ私たちは神によって誘惑されたと言ってはならないのです。

それでは、人はどのように誘惑されるのでしょうか。14節と15節をご覧ください。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。そして、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。何ですか、「はらむ」とは?「はらむ」とは、胎内に子を宿すこと、妊娠することです。それを「子をはらむ」と言います。ここでヤコブは、人が罪を犯すまでのことを、母親が妊娠して赤ちゃんを産むことにたとえています。つまり、赤ちゃんがお母さんのお腹の中に宿り、胎内で成長してやがてオギャーと産声を上げるように、罪もある日突然パッとふって沸くかのように生まれるのではなく、まず欲望が心の中に宿り、それが妊娠することによって罪を生じるようになるというのです。その罪に生きることによって死を生み出すことになるのです。つまり、聖書で言うところの罪は、単に一つの行為として見るのではなく、誘惑の根源に「欲望」があり、その欲望を助長させることによって行動が生まれ、その結果出てくるのが「罪」であるというのです。ですから、罪は目に見える特定の行動となった時に始まるのではなく、欲望が心の中に宿ることによって、それがやがて罪という行為となって表れてくるというのです。ちょうど赤ちゃんが産まれる前にお腹に宿っているようにです。その赤ちゃんのいのちは、実際に生まれる約十カ月前に始まっているのです。

 

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21-22)

また、こうも言われました。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5-27-28)

人を殺すとか、姦淫するという行為は、実際にそのような行為となって表れるずっと前から、心の中で兄弟に向かって腹を立て、「ばか者」と言った瞬間に、情欲を抱いて女を見た瞬間に始まっているというのです。

ですから、人が罪を犯すのは、神のせいではなく、自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」とあります。それはちょうど魚釣りのようです。私はあまり釣りをしないのでわかりませんが、魚はそれぞれ好みが違うそうです。同じ餌を付けたらどんな魚でもかかるかというとそうではなく、この魚にはこの餌をと、それぞれ好みが違うのです。たとえば、まぐろはいかが好物のようで、今年のマグロ漁はその好物のいがが少なくてあまり取れなかったそうです。しかし、それぞれの好みに合わせて餌を付けてやりますと、それまで安全な岩陰に隠れていた魚がおびき寄せられることになるのです。それは人間も同じで、人それぞれ好みがあって欲が違いますが、それぞれの欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

本来、欲望そのものは神が与えてくださった良いものですが、本来良いものであるはずの欲望がゆがめられて乱用される時、いろいろな問題が起こってくるのです。たとえば、アブラハム・マズローという学者は、人間には五段階の欲望があると言っています。それは生きていく上で必要な基本的な欲望であり、危険やリスクから逃れたいという安全の欲求、仲間や味方が欲しいという帰属の欲求、さらには、人から認められたい、尊敬されたいという心理的欲求、そして、もっと自分の可能性や能力を発揮したいという自己実現の欲求などです。そして、これらのものは必ずしも悪いものではありません。たとえば、お腹が空いたら食べるとか、のどが渇いたら飲む、メッセージを聞いていると眠くなるといったことは、人が生きていく上で必要なものであり、基本的なものとして神が与えてくださったものです。しかし、このように必要なものでも、必要以上に求めすぎると、逆に健康を損なったり、怠惰になったりするという問題が生じます。また、だれかにつながっていたいという思いも悪くはありませんが、それを必要以上に求めますと、いろいろな問題が起こってくるのです。要するに、本来良いものであるはずの欲望が罪によってゆがめられ必要以上に求めることによって、誘惑されるのです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むのです。これが罪のメカニズムです。

 

いいえ、私は大丈夫です、私はあまり食欲がありませんから。しかし、必要以上にだれかにつながっていたという思いが強かったり、人から認められたいとか、尊敬されたいという思いが強い場合もあります。ここには、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されます。」とあります。人それぞれ欲望のタイプが違うのです。それぞれ欲求に違いがありますが、共通して言えることは、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるということです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むということです。すべての罪はその人の心の中の欲望から始まるのであって、神によって誘惑されることは絶対にありません。ですから、だまされないようにしなければなりません。自分が罪を犯してしまったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけないのです。

Ⅱ.神の賜物を見つめる(17)

次に17節をご覧ください。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」

13節のところでヤコブは、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言いました。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑されることもないからです。そしてここに、もう一つの理由が書かれてあります。それは、すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るからです。

神の賜物は、贈る動機において不純なものはなく、贈り物そのものも完全です。たとえそれが試練であっても、それはクリスチャンの成長のためであり、クリスチャンの益のためなのです。ですから、神は良い方であり、良い物を賜ってくださいます。その確信を投げ捨ててはなりません。その良い賜物の中でも特に最高の賜物は、ご自身の御子です。神は御子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。このような神が私たちを悪に誘惑するというようなことがありましょうか。ありません。神は私たちに最善のものを与えてくださる方なのです。このことを忘れると、私たちはいとも簡単に誘惑に負けてしまうことになるのです。

ダビデ王はそのことを忘れたために罪を犯してしまいました。ダビデがバテ・シェバと姦淫した後に、預言者ナタンが来てこう言いました。

「イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに私、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたのふところにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」(Ⅱサムエル12:7-9)

ここでナタンがダビデに言っていることは、主はあなたにほんとうに多くの良いものを与えてくださったではありませんか。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすんで罪を犯したのかということです。それはダビデが神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるのかを忘れていたからです。だから誘惑に負けてしまったのです。

私たちも、神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるかを見失ってしまうと、簡単に誘惑に負け罪を犯すことになってしまいます。そういうことがないように、神はどんなにすばらしい方であるか、神はあなたのために何をしてくださったのか、神があなたに与えられてくださった賜物がどんなに完全で、すばらしいものであるかを、しっかり見なければなりません。

ヘブル人の手紙の著者はこう言っています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)イエス様から目を離してしまうと、誘惑に陥ってしまいます。しかし、イエス様から目を離さないでいたら、どんな試練にあっても勝利することができます。

アブラハムはどうでしたか。彼は神の召命に従い、自分の生まれ故郷を出て神が示してくださった約束の地に出て行きました。75歳にもなった彼が新しい地に出て行くことは並大抵のことではなかったでしょう。けれども、アブラハムは神のことばを受けた時、すぐに従って出て行きました。それは、神によってもたらされる望みがどれほどすばらしいものであるかを見ていたからです。すなわち、天の故郷にあこがれていたからです。

しかし、彼らが約束の地に入ると、そこで一つの問題が起こりました。それはききんです。それで彼はどうしたかというと、神の約束よりも急に現実的になり、このままではだめだからエジプトに下って行くことにしました。エジプトに行けば何とかなるだろうと思ったからです。しかし、このままいけば自分は殺されるかもしれないと思った彼は、自分の妻を妹だと偽ってパロに差し出したのです。しかし、神が介入してくださり、それがアブラハムの妹ではなく妻であるということをパロに示してくださったので、アブラハムが罪を犯さないで済んだだけでなく、多くの所有物とともにエジプトを出ることができました。それにしても、そんなに信仰に熱心だったアブラハムが、どうして急にそんな愚かなことをしたのでしょうか。それは、神から目を離し、状況を見てしまったからです。

私たちもイエスから目を離した瞬間、私たちの中に迷いが生じ、自分の欲に引かれて、誘惑されてしまうことになります。そのようなことがないように、いつも神に目を留めておかなければなりません。神がどのような方であり、そのために神がどんなにすばらしい賜物を与えてくださったのかをよく考えることです。

「神は、あなたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。」(Ⅱコリント9:8)

あなたは、どうでしょうか。神の恵みに目を留めていらっしゃるでしょうか。神は移り変わりや、移り行く影がない方であり、あなたに最高の贈り物、完全な賜物を与えてくださったことを認めて、感謝しているでしょうか。

Ⅲ. 御霊によって歩む(18)

最後に18節をご覧ください。誘惑に勝利できると主張してきたヤコブは、そのために誘惑がどのようにしてもたらされるのかを見極め、神が与えてくださる賜物がどれほど完全なものであるのかを見つめるようにと勧めてきましたが、ここではもう一つのことを勧めています。それは、神の御霊によて歩むということです。

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば、被造物の初穂にするためです。」

神のみこころは、私たちが救われることです。神はそれを真理のみことばによって成し遂げてくださいました。真理のみことばによって私たちをお生みになりましたとはそのことです。私たちは、「血によってではなく、肉の欲求によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)それは、私たちを被造物の初穂とするためです。どういうことでしょうか。

初穂とは、穀物の収穫の初物のことです。古代社会では、それは神にささげられるものでした。それは神への感謝に満ちた供え物でした。それは神のものだからです。私たちが真理のことばによって新しく生まれたのであれば、私たちは神のものなのです。神のものであるということは、神に属している者であるということであって、神が働いてくださるということです。神が働いてくださるのであれば、どんな誘惑にあってもそれに打ち勝つことができます。私たちは生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、新しく生まれ変わるなら、それが可能になるのです。

スイスの避暑地に来ていた一人の婦人が、ある日散歩に出かけると、山腹に羊の囲いがあるのを見つけました。中をのぞいてみると、そこには羊飼いがいて、彼の周りには羊が群がっていました。しかし、たった一匹だけ離れた場所に横たわり、苦しんでいる羊がいました。よく見るとその羊は足が折れていたのです。婦人はこの羊をかわいそうに思い、羊飼いにどうしたのかと尋ねました。すると驚いたことに羊飼いの返事はこうでした。

「私がその足を折ったのですよ。」

それを聞いた婦人の顔には悲しみの色が浮かびました。「私の群れの羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんですよ。私の声に絶対に従いません。私が群れを導こうとしてもついて来ないのです。そして危ないがけや目がくらむような深いへりに迷い込むのです。そういうわけで私はこいつの足を折ることにしたのです。それは、こいつだけならまだしも、ほかの羊をも惑わすからです。でも大丈夫でしょう。こいつは完全な変化を遂げてほかの羊の模範になりますから。最初の日、私がえさを持っていくと、こいつは私にかみつきましたが、しばらく間引き離しておき、数日たって、またこいつのところへ行ってみると、今度はえさを食べるばかりでなく、私の手をなめ、服従のしぐさを見せました。折られた足ももうすぐすっかりよくなるでしょう。この羊が回復したら、どんな羊もこいつほど私になつく羊はいないでしょう。仲間を惑わす代わりに、こいつは言うことを聞かないやつの模範となり、案内役となって、他の羊を私が行こうとする道に従わせるでしょう。要するに、この始末に負えない羊の生活に、完全な変化がくるということです。

それは私たちも同じです。主は私たちの羊飼いです。私たちは主の民、その牧場の羊なのです。生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、真理のみことばによって新しく生まれ、完全な変化が与えられたので、この神の力によって誘惑に打ち勝つことができるようになったのです。生まれたままの姿、自分の肉によっては本当に無力で、肉の欲求に負けてしまうような愚かな者ですが、イエス・キリストにある、いのちの御霊によって、罪と死に追いやろうとする誘惑に勝利させていただこうではありませんか。

申命記29章

きょうは、申命記29章から学びます。モーセは28章で神の契約を守る者に与えられる祝福と、神の契約を破る者にもたらされる呪いがどのようなものなのかを語りました。しかも呪いに関する記述の方がずっと長いのです。祝福の6倍ものスペースを割いて語られました。聞いているだけで気が重くなりそうです。しかし、幸いなことは、神の呪いを受けても致し方ないような私たちのために、神の御子であるキリストが身代わりとなって呪いを受けてくださったということです。それゆえに、私たちはこの方にあって神の祝福の中に入れられました。ですから、私たちののろいを一身に受けてくださったイエス・キリストの贖いを受け入れ、へりくだって、神のみおしえに聞き従わなければなりません。 

 1.新たな契約(1-15 

「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、主である。」と、あなたがたが知るためであった。あなたがたが、この所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎えて戦ったが、私たちは彼らを打ち破った。私たちは、彼らの国を取り、これを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族とに、分け与えた。あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。」 

まず1節から8節までをご覧ください。モーセは今、ヨルダン川の東側にいます。そこでこれまでの過去を振り返りながら、イスラエルが約束の地に入って行った後にどうあるべきなのかをこくこくと語るのです。1節には、「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。」とあります。ここでモーセは、かつてホレブで彼らと結ばれた契約とは別に、新たな契約を結ばせようとしています。それはあのホレブでの契約とは別の新しい契約というよりも、あのホレブで結ばれた契約に追加しての契約といった方がよいでしょう。彼らが約束の地に入ってからどうあるべきなのかを語り、その神の命令に従うようにと結ばれる契約なのです。 

まずモーセは2節と3節で、以前イスラエルがエジプトにいた時のことを思い起こさせています。そこで神がどのような力ある御業を成してくださったのかを確認したうえで、それにもかかわらず神に従わなかったイスラエルの不信仰を取り上げているのです。いったい何が問題だったのでしょうか。4節にその原因が記されてあります。それは、「主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」ということです。彼らは見てはいても見えず、聞いてはいても聞こえなかったので、神の真理を悟ることができなかったのです。それは今日に至るまで、ずっと同じです。 

イエスはそのたとえの中で、「聞く耳のある者は、聞きなさい。」と言われました。それは聞いてはいても実際のところは聞いていないからです。聞き方が重要です。御霊によって聞き、御霊によってわきまえるのでなければ、神の真理のことばを本当に理解することはできません。

パウロはこう言いました。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2:14-15ですから、私たちは、自分たちのかたくなな心を、神さまによって砕いていただいて、へりくだり、神が教えられていることを知ることができるように祈らなければいけません。 

しかし、それにもかかわらず、神はそのような彼らを滅ぼすようなことはなさいませんでした。5節には、「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが着ていた着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」とあります。すなわち、ここで結ぶ契約は彼らの真実さのゆえに結ばれるものではなく、神の真実に基づいた恵みとあわれみによっ結ばれるものなのです。 

6節には、「あなたがたはパンを食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。」とあります。どういうことでしょうか。パンやぶどう酒は祝福の象徴ですが、そのようなものは彼らには必要なかったということです。なぜなら、神ご自身が彼らの祝福だからです。そのようなものは確かに神からの祝福であるのには違いありませんが、その祝福によって心が高ぶって、神などいらないということにもなりかねません。ですから、神は彼らにパンも強いぶどう酒も与えませんでしたが、そのことが返って、彼らが主を知ることにつながりました。その代わりにマナを与えられることによって、彼らは、人はパンによって生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きていることを確信することができました。私たちはとかく自分の目に悪いことが起こったり、何か欠けたものがあるときに主により頼みます。このことが、主を知っていくことの訓練になるのです。 

また、イスラエルの民がこのヨルダン川の東側にやって来たとき、そこにはヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグが出てきましたが、イスラエルの民は彼らを打ち破ることができました。そして彼らの国を取り、それを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、与えることができました。 

何という神の御業でしょう。彼らが神の契約を守り、行うなら、彼らは栄え、彼らが想像していた以上の祝福を受けることになるのです。そのことを前提に今、主はイスラエルと新しい契約を結ばれるのです。それは人の従順によってではなく、神の真実に基づいた契約です。 

それでは、その契約を見ていきましょう。9節から15節までをご覧ください。

「あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたが