メッセージ

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Ⅰサムエル記2章

サムエル記第一2章から学びます。

 

Ⅰ.ハンナの賛美(1-11)

 

まず、1~11節までをご覧ください。

「ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。

主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。

おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。

勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。

満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。

主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。

主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。

主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。

主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです。

主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」

エルカナはラマにある自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。

 

これはハンナの祈り、あるいは賛歌です。サムエルが乳離れしたとき、ハンナは子牛3頭、小麦粉1エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてサムエルを伴い、シロにある主の家に上りました。サムエルを主にささげるためです。その時ハンナは主を賛美して祈りました。彼女は、まず、主にあって大いに喜びました。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。」と言いました。「角」とは、力の象徴です。ハンナは、主によって力が与えられていることを誇っているのです。「私の口は敵に向かって大きく開きます」とは、敵に対しの勝利の宣言です。なぜ彼女はそんなにも主の力を喜び、主の勝利をほめたたえたのでしょうか。それは彼女が主の救いを喜んでいたからです。この場合の救いとは、直接的には不妊から解放されたことを指しています。彼女は、不妊のゆえにずっと苦しんできました。それが今、主によって解放されたのです。つまり、ハンナは主によって力が与えられ、主によって問題から解放されたことを喜んでいるのです。ただ息子が与えられたことを誇っているのではなく、それを可能にしてくださった主ご自身を喜び、ほめたたえているのです。時として私たちは祈りが叶えられると、そのことを喜んでもそれを可能にしてくださった主を忘れてしまうことがあります。大切なのは、与えられた恵み以上に、それを与えてくださった方を喜び、ほめたたえることです。

 

次にハンナは、主がどれほど偉大な方なのかを述べています。2節、「主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。」(2)

それは、主のように聖なる方はいないということ、また、主に比べ得る神など他にはいないということ、そして、神のような「岩」はいないということです。この「岩」とは、力強い方という意味です。詩篇18:2-3には、「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。ほめたたえられる方。この主を呼び求めると 私は敵から救われる。」とあります。 この主を呼び求めると、私は敵から救われます。なぜなら、主は、わが岩、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩であられるお方だからです。圧倒的な力と栄光に満ちたお方だからです。あなたはどこに身を避けていますか。私たちが身を避けるべきお方は、この岩なる神なのです。

 

3節は、警告です。人はこの主の前で高ぶったり、横柄なことばを口にしてはなりません。なぜなら、主はすべてを知っておられる神だからです。「そのみわざは測りしれません」の意味が不明です。「その」という言葉は原文にはないからです。おそらくここでは、表面的にだまされることのない全地の神による「測り」つまり、神の審判が語られていると思われます。

口語訳ではここを、「あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、高ぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。」と訳しています。

最も原文に近い意味としては、新共同訳の訳ではないかと思われます。新共同訳では、「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。」と訳しています。つまり、主は正しくさばかれる方であるということです。だからおごり高ぶったり、横柄なことばを口にしてはならないのです。

 

4節と5節では、主がもたらす人生の逆転劇について語っています。勇士が弓を砕かれとは、弱い者とされることを意味しています。逆に、弱い者が力を帯びるようになります。パンに満ち足りていた者が雇われるようになり、逆に飢えていた者が満ち足りるようになるのです。不妊の女が七人の子を産むようになり、逆に、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。これはハンナとペニンナのことを指しているのでしょう。ハンナにはサムエルを含めて6人の子どもが与えられましたが、ここに「七人の子」とあります。それはそれが完全数であり、多くの子を意味する言葉として用いられているからです。また、子だくさんであったペニンナは、ハンナに子が与えられることによって打ち砕かれてしまいました。

 

6節には、生と死の逆転が見られます。また、7節と8節では、貧富の逆転について語られています。ここに出てくる「ちり」「あくた」は、貧しい乞食がたむろする場所でした。主はそのような者に、栄光の座を継がせます。

「まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。」とは、この世界が主によって保たれていることを表しています。これがこの世の常識と、歴史の通念を破るどんでん返しが起こされる根拠です。

 

9節と10節をご覧ください。聖徒たちに対する神の守りと、悪者に対する神のさばきが預言されています。主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。これはやがてキリストが再臨され、諸国の軍隊を打ち砕き、国々をさばかれるという預言です。「主に油注がれた者」とありますが、これが「メシヤ」ということばです。聖書の中でここに初めて出てきます。ハンナは、霊的暗黒の中にあるイスラエルを救い出すために立てられるサムエルのことを意識して語ったのでしょうが、それは究極的に世を救われる方の預言も語っていたのです。

 

Ⅱ.祭司エリの息子たち(12-21)

 

次に12節から17節までをご覧ください。

「 さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった。民に関わる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。そのうえ、脂肪が焼かれる前に祭司の子弟がやって来て、いけにえを献げる人に「祭司に焼くための肉を渡しなさい。祭司は煮た肉をあなたから受け取らない。生の肉だけだ」と言うので、人が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言うと、祭司の子弟は、「いや、今渡すのだ。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。」

 

祭司エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知りませんでした。 主を知らないとは、救われていないということで、主と個人的な交わりがなかったことを意味しています。そういう人が祭司の務めをしていました。これは悲劇です。それはちょうど新生していない人が、牧師や伝道者になるようなもので、大変不幸なことです。彼らの特徴は「よこしまな者」であったということです。よこしまな者とは、主の律法に従って祭司の務めをしていたのではなく、自分の思いや考えによって勝手にそれを行っていたということです。

 

13節から16節までのところに、彼らがいかによこしまであったかが描かれています。まず彼らは、和解のいけにえの中から、祭司の取り分けられていた胸肉ともも肉だけで満足せず、だれかがいけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間なのに、子弟に三又の肉刺しを手に持たせて遣わし、肉を奪っていたのです。そればかりではありません。脂肪は焼いて煙にすることが律法の求めていたことでしたが、その前に子弟を遣わして、生の肉さえもを要求したのです。煮た肉よりも生の肉を焼いて食べた方が美味しいからです。

 

こうして彼らは、主へのささげ物を侮りました。和解のいけにえは、本来、罪人が神との関係を回復するための恵みの手段として、神から与えられたものです。その手段を侮るなら、もうそこには罪が赦される道は残されていないことになります。これは、罪人を悔い改めに導く聖霊の働きを拒み、聖霊を冒涜する罪と同じです。それは、イエス様がマルコ3:28-29で言われたことと同じです。

「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒?することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒?する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」

彼らの問題は、主を知らなかったということ、つまり、霊的に生まれ変わっていなかったことです。私たちは今、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを信じることによって新しく生まれ変わった者であることを感謝しましょう。そして、さらに深く主を知ることができるように、主を知ることを切に追い求める者になりましょう。バプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになったということは感謝なことですが、そこに留まっているだけでなく、そこから一歩進みさらに主を知る者となるために、日々みことばを読み、祈り、主との交わりを持たせていただきましょう。私たちはどちらかというと、何かすることに関心が向きがちですが、主が求めておられることは、私たちが何かすることよりも、主ご自身を知ることであるということを覚えましょう。良いわざは、そこから生まれてくるからです。

 

一方、主にささげられたサムエルはどうだったでしょうか。18節から21節までをご覧ください。

「さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と言い、彼らは自分の住まいに帰るのであった。主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。」

 

祭司エリの息子たちとは対照的に、サムエルは、忠実に主に仕えていました。彼はまだ少年でしたが、自分にできる範囲で主の前に仕えていたのです。「亜麻布のエポデ」は、祭司が身にまとう衣服です。彼は、自分が主に仕えるしもべとしての自覚をしっかり持っていたのです。

彼の母ハンナは、夫とともに、毎年、年ごとのいけにえを献げるために宮に上って行きましたが、その度に息子サムエルのために小さな上着を作り持っていきました。サムエルも育ち盛りだったのでしょう。年ごとに大きく成長していったので、サイズも大きくなっていったのです。

 

主は、そんな忠実なエルカナとその妻ハンナを祝福し、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と祈りました。すると主はその祈りに答えてくださりハンナを顧みて、彼女に3人の息子と2人の娘を与えてくださいました。サムエル以外に、5人の子どもが与えられたということです。サムエルを主の働きのためにささげたハンナは、主からその5倍もの祝福を受けたことになります。主にささげられたサムエルは、主のみもとですくすくと成長していきました。

 

Ⅲ.警告とさばき(22-36)

 

最後に22節から36節まで見て終わりたいと思います。まず26節までをご覧ください。

「さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである。一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」

 

再び、エリの息子たちの悪い行いと、それに対するエリの叱責が記されます。エリはたいへん年をとっていましたが、息子たちがイスラエル全体で行っていることの一部始終を、そして彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ていることを聞きました。彼らは和解のいけにえに関して大きな罪を犯していましたが、そればかりか、不品行の罪も犯していたのです。

 

それに対して父親であるエリは叱責の言葉を語ります。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」

その言葉には力がなく、息子たちを悔い改めに導くことはできませんでした。人が人に対して罪を犯すなら神がその仲裁をしてくださいますが、主に対して罪を犯すなら、だれもその人のために仲裁に立つことができません。しかし、彼らは父親の言葉に耳を傾けようとはしませんでした。彼らを殺すことが主のみこころだったからです。

子供を育てるということは本当に難しいですね。親の考えがなかなか伝わりません。でもそのような中でも幼い時からしっかり育てていくなら、大きくなった時でもしっかりと立つことができます。大きくなってからでは遅いのです。幼い時ほど厳格に、そして成長とともにより緩やかにしていき、やがて自分で判断できるようにその範囲を広げていくことが望ましいのです。これは真実です。成人してから欠点を矯正しようとしても、それは困難なのです。鉄は熱いうちに打たなければなりません。エリの息子たちはもう手遅れだったのです。

 

一方、少年サムエルは、主にも人にも愛され、ますます成長していきました。この表現は、イエス様が成長していったに使われたものと同じです。ルカ2:52には、「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」とあります。これは霊的幼子である私たちにも言えることです。私たちもエリの子供たちのように頑なにならないで、サムエルのように、神と人に愛される人になるために、主にあって成長していきたいものです。

 

27節から36節までをご覧ください。

「神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう言われる。あなたの父の家がエジプトでファラオの家に属していたとき、わたしは彼らに自分を明らかに現したではないか。わたしは、イスラエルの全部族からその家を選んでわたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエルの子らの食物のささげ物をすべて、あなたの父の家に与えた。なぜあなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうちの、最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。それゆえ──イスラエルの神、主のことば──あなたの家と、あなたの父の家は、永遠にわたしの前に歩むとわたしは確かに言ったものの、今や──主のことば──それは絶対にあり得ない。わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはあなたの腕と、あなたの父の家の腕を切り落とす。あなたの家には年長者がいなくなる。イスラエルが幸せにされるどんなときにも、あなたはわたしの住まいの衰退を見るようになる。あなたの家には、いつまでも、年長者がいない。わたしは、あなたのために、わたしの祭壇から一人の人を断ち切らないでおく。そのことはあなたの目を衰えさせ、あなたのたましいをやつれさせる。あなたの家に生まれてくる者はみな、人の手によって死ぬ。あなたの二人の息子、ホフニとピネハスの身に降りかかることが、あなたへのしるしである。二人とも同じ日に死ぬ。わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。あなたの家の生き残った者はみな、銀貨一枚とパン一つを求めて彼のところに来てひれ伏し、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、パンを一切れ食べさせてください』と言う。」」

 

ここには、祭司エリの二人の息子たちに対するさばきが告げられています。神の人がエリのところに来て、そのさばきを告げます。28節の「その家」とは、エリの家系のことです。神は、イスラエル全部族の中からアロンの家系を選んで祭司としました。それは特別な祝福でした。他の11の部族は相続地が与えられましたが、彼らには与えられませんでした。なぜなら、主ご自身が彼らの相続地であったからです。それにも関わらず彼らは、その特別な祝福を台無しにしました。彼らは、主へのささげものを軽くあしらいました。また、エリは主ご自身よりも自分の息子たちを重んじて、それを見過ごしていました。そして、彼らは、イスラエルの民がささげるいけにえの最上の部分で、私服を肥やしたのです。

 

それゆえ、神のさばきが下ります。それは、エリの家系が大祭司として主に仕えることがなくなるということです。彼の氏族は衰退を見るようになります。そして、彼の二人の息子ホフニとピネハスは、同じ日に死ぬのです。これは、イスラエル軍がペリシテ軍に打ち負かされ、神の箱が奪われた時に成就します。その時、二人の息子は戦死します(Ⅰサムエル4:10-11)。また、神の箱が奪われたという知らせを受けたエリも、席から落ち、首を折って死にました(Ⅰサムエル4:12-18)。この時、エリは98歳でした。

 

アロンの家系が大祭司として仕えるというのが、神の約束でした。しかし、エリと二人の息子が神に従わなかったので、その一つの氏族が断ち切られることになったのです。結局、エリの家系が没落して後、大祭司職はエルアザル氏族に引き継がれます。アロンにはナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルという4人の息子がいましたが、ナダブとアビブは規定に反したことによって死に、今、イタマルの氏族であるアロンの家系も没落してしまいました。残されたのはエルアザル氏族だけです。この氏族もアロンの家系に属していたので、アロンの氏族が祭司になるという神の約束は、保たれました。

 

このように、エリの家系が滅ぼされたのは、彼らが主を軽んじたからです。主は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(30)と言われました。あなたはどうでしょうか。この原則は、昔も今も、また永遠に至るまで適用されるものです。家族を大切にすることは重要なことです。しかし、そのために主を軽んじることがあってはなりません。主に救われた者として私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことなのです。

ヨハネの福音書9章13~34節「わたしたちが知っていること」

きょうは、ヨハネの福音書9章13~34節からお話したいと思います。今日の箇所は、前回の続きとなっています。前回は、生まれつき目が見えなかった人がイエス様によって癒され、見えるようになったことが記されてありました。きょうはその続きです。きょうの箇所には「知っている」という言葉が何回も繰り返して出てきます。イエス様によって目が開かれた盲人が知っていたこととはどんなことだったのでしょうか。ご一緒に見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.あの方は預言者です(13-17)

 

まず13節から17節までをご覧ください

「人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」彼は「あの方は預言者です」と答えた。」

 

生まれつき目が見えなかった人が見えるようになると、それを見ていた人々は、彼をパリサイ人たちのところに連れて来ました。なぜ連れて来たのかはわかりません。ただ14節を見ると、「イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。」とあるので、彼らはそのことを問題にしたのかもしれません。こういうわけでパリサイ人たちのところに連れて来られると、彼らも、どのようにして見えるようになったのかと彼に尋ねました。すると彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えました。

すると、パリサイ人たちの間に分裂が生じました。彼らのうちのある者たちは、そんなことはあり得ない。その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者であるはずがないと言い、ほかの者たちは、いや、罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうかと言いました。

 

私たちも、往々にして、前者の人たちのように「そんなはずはない」と否定することがあるのではないでしょうか。それは、聖書を間違って解釈したり、その意味なり、目的なりを間違って理解していることに起因します。たとえば、ここでは安息日のことが問題なっていますが、そもそも安息日とは何でしょうか。何のために設けられたのでしょうか。モーセの十戒にはこうあります。

「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」(出エジプト記20:8-11)

安息日とは、主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休まれたことを記念し、これを他の日と区別し、聖なる日とするようにと定められた日です。教会では、日曜日を聖日と呼ぶことがありますが、それはこのためです。これは聖なる日です。「聖なる」とは、他と区別された日という意味です。神のために他と区別された日です。これは土曜日にあたりますが、教会では、この安息が、イエス様が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、イエス様を中心に考えるため、イエス様が復活された日曜日を安息日、聖日としているのです。ですから、この日に共に集まって主を礼拝し、互いに祈り、交わりの時を持っているのです。それはこの日が、仕事が休みだからというわけではありません。この日は主がよみがえられた日、主の日なので、私たちはこの日に集まって主を礼拝しているのです。

しかし、それはおかしいと、いう人たちがいます。安息日は土曜日なのだから、土曜日を安息日にしなければならないと。日曜日に礼拝をするのは間違っている、というのです。そればかりか、このパリサイ人たちのように、この日はいかなる仕事もしてはならないとあるのだから、何もしてはいけないのだ、というのです。

しかし、それはここにあるように必要なわざ、あわれみのわざを禁じているということではありません。ここでいうとそれは目が見えなかった人を癒すということですが、そういうことを禁じているわけではないのです。むしろ、生涯にわたってずっと苦痛にさいなまれ続けてきた人を癒すことこそ安息日にふさわしい行為だったのに、彼らにはそのことが理解できませんでした。私たちはこの安息日に関することだけでなく、私たちの信仰の歩みが神のみこころにかなったものであるために、いつもイエス様の目とイエス様の心を持って神のみことばを受け取らなければなりません。

 

ところで、彼らが再び、目の見えなかった人に「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」と尋ねると、彼はこう言いました。「あの方は預言者です。」これは、旧約聖書で預言されていた「あの預言者」のことで、来るべきメシヤのことを意味しています。彼はパリサイ人たちの脅すような口調や、理由もわからずに呼ばれた法廷での威圧的な雰囲気の中でも、自分を癒してくださったイエス様についてこのように証言したのです。あなたならどうしたでしょうか。

 

Ⅱ.キリストのためにいのちを捨てる者はそれを見出す(18-23)

 

次に18節から23節までをご覧ください。

「ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。」

 

イエス様によって目が開かれた人は、自分を癒してくださった方はメシヤであると大胆に告白しましたが、ユダヤ人たちはその証言をなかなか受け入れることができなかったので、今度は両親を呼び出して尋問します。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが行っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」(19)

そこで、両親は答えて言いました。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」(20-21)

両親は、どうしてこのように答えたのでしょうか。22節にその理由があります。それは、ユダヤ人たちを恐れたからです。それはすでにユダヤ人たちが、イエスをキリスト(メシヤ)であると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていたからです。いわゆる村八分です。今でも、ユダヤ人はイエスをメシヤであると告白する者がいれば村八分にされるそうです。ある人は家族関係が断ち切られ、ある人は仕事を失います。つまり生きるすべを失ってしまうのです。救いは神の恵みであり、キリスト・イエスの贖いのゆえに値なしに与えられますが、キリストの弟子として歩むということには、それなりの犠牲も伴います。しかし、それこそが喜びなのではないでしょうか。なぜなら、苦しみなくて栄光はないし、困難なくして祝福はないからです。本当の喜びや祝福というのは、そうした苦難や困難から生まれてくるものなのです。

 

来年アメリカの邦人宣教に遣わされる笹川雅弘先生が、大田原の祈祷会でメッセージをしてくださいました。その中でとても印象的だったのは、クリスチャンは何のために生きるのかということでした。それは今までとは全く違います。今までは私のために生きてきましたが、イエス様を信じ罪から救われてからは、主のために生きる者になりました。これが真の祝福です。イエス様を信じても自分が平安であればそれでいいと思っている人は不思議に平安が奪われてしまいますが、苦労があっても主のために、主のみこころに従って生きる時、そこに祝福がもたらされるのです。イエス様が言われたとおりです。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

本当に不思議ですが、自分を捨て、主のみこころに生きるなら、そのような中で主は必要な力を与えてくだるし、心の傷のいやされるのです。

笹川先生はその話の中で一人のクリスチャンの姉妹のことをお話ししてくださいました。この方は主の恵みによって信仰に導かれましたが、教会に来られている中でいろいろな方との軋轢が生じ心に傷を負ってしまい、それからというもの教会から遠のいてしまいました。しかし、ご主人の転勤で海外に行くようになり、慣れない環境や日本人同士の交わりへの渇望から再び教会に行くようになると、渇いたスポンジが水を吸収するように信仰が回復していきました。それからまた次の赴任地、次の赴任地と海外を転々とするうちに、どこへ行ってもそこが自分の遣わされた所と信じて、いろいろな葛藤や困難な環境の中でも心から主に仕えるようになると、そのような中でご主人も救われ、家族で主に仕えることができるようになりました。すると本当に不思議ですが、かつて負った心の傷がいつの間にか癒されていることに気付いたのです。まさに、自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、主のためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

 

あなたはそのいのちを見出しましたか。キリストのしもべとして十字架を負うことを恐れてはいないでしょうか。でもあなたが犠牲を恐れないで、自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うなら、あなたは真の祝福を受けるようになるのです。

 

Ⅲ.私たちが知っていること(24-34)

 

最後にその結果を見て終わりたいと思います。24節から34節までをご覧ください。

「そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」

 

そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言いました。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼らがこのように言ったのは、この人の目が開かれたということを否定できなかったので、たとえそれが事実であったとしても、イエスという男は安息日を破った男なのだから、そういう男のかたを持つのではなく、神に栄光を帰すべきだと言いたかったからです。

 

すると彼はこのように答えました。25節です。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼は、自分の目を開いてくれた方がどういう方であるかはわかりませんが、一つのことだけは知っていると言いました。その一つのこととは何でしょうか。それは、彼は盲目であったが、今は見えるようになったということです。彼はなぜこのように答えたのでしょうか。それは、彼がこのことを体験して知っていたからです。彼は、それがどのようにして起こったのかとか、それを行ったのがだれであるかということはわからなくとも、ただ自分の身に起こったことをそのまま伝えたのです。

 

すると、彼らはなおもしつこく問いただします。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼らがあまりにもしつこく聞くものですから、彼はあきれてこう言いました。27節です。

「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

すると彼らは彼をののしって言いました。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」

ここでは形成が逆転しています。この目を開かれたか弱い男の方が、ユダヤ人指導者たちに「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのか」と、尋ねたほどです。余裕を感じます。いったいこの余裕はどこから来たのでしょうか。それは、次の彼のことばをみるとわかります。30節から33節です。

「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」

 

いったいなぜ彼はこんなにも堂々としていることができたのでしょうか。それは彼が知っていたからです。彼が盲目であったのに、今は見えるということを。それは、この方が神から遣わされた方であるということのまぎれもない事実です。そうでなかったら、このようなみわざを行うことなどできなかったはずです。それができるということは、この方こそ、神から出たお方であるということなのです。

 

クリスチャンにとってこれほど確かなことはありません。彼の知識はわずかであったかもしれません。また、その信仰は弱々しかったかもしれない。教理もさほど知らなかったと思います。しかし、彼はキリストが御霊をもって、自分の心に恵みのわざを成してくださったということを知っていました。「私は暗かった。しかし今は光を持っている。私は神を恐れていた。でも今は神を愛している。私は罪が好きだった。でも今は罪を憎んでいます。私は盲目だったが今は見えます。」この体験です。確かに感情は惑わされやすいかもしれませんし、それがすべてではありませんが、私たちが内側にこのような確信がなかったら、どんなに聖書を知っていたとしても証の力が出てこないでしょう。それは健全な信仰とは言えません。空腹な人は、食べることによって力がついたと感じます。渇いた人は、飲むことによって元気になったと感じるでしょう。同じように神の恵みを内に持っている人は、「私は神の恵みの力を感じる」と言うことができるはずであり、その事実がその人に何をも恐れない大胆さをもたらすのです。

 

先週、那須で小島さん夫妻がバプテスマを受けられました。すばらしいバプテスマ式でした。何がすばらしいかって、奥様の美紀さんが自分の救いを感謝して「アメージング・グレース」の賛美をしてくれました。自分が救われたのはまさにアメージング・グレースだ・・と。がむしゃらに自分の力で頑張ってきた頃は、自分がどう考えるのか、どうしたいのかが大事だと思っていました。しかし、その結果は人に認められ、人にどう思われるのかに焦点が当てられてしまい、結局のところ、事あるごとに一喜一憂したり、他人の活動が気になってしまったりして、疲れ果てていました。しかし、隠れたところで見ていてくださる神様が報いてくださることがわかったとき、神様を信じ、神様にすべてをゆだね、神様に従っていこうと思うようになりました。そして、イエス様が自分のために十字架で死んでくださったことがはっきりとわかったとき、このイエス様の導きに従って歌い、多くの人たちの一助になりたいと思うようになったとき、その心は空気にように軽くなり、自由になり、どんなことも肯定的に受け止められるようになりました。もうどのように歌うかなど、全く気にならなくなりました。それよりも、自分のために苦しみ、死んでくださったイエス様のために、何ができるのかと考えられるようになったのです。

 

それはちょうど初代教会において、使徒ペテロとヨハネがユダヤ人議会に連れて行かれた時に、彼らが取った態度に似ています。ユダヤ人議会が彼らに、今後一切イエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命じると、彼らはこう言いました。「しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」(使徒4:19-20)

ペテロとヨハネはなぜそんなにも大胆になることができたのでしょうか。それは、彼らがそれを実際に見、実際に聞いたことだったからです。つまり、彼らはキリストの恵みを体験していたのです。だから、人が何と言おうと、自分が見たこと、聞いたこと、つまり自分が体験したことを語らずにはいられなかったのです。このように、自分の体験に裏付けられた信仰は、たとえ権威や力によって抑えつけられることがあっても決して恐れることはなく、それに屈することはありません。

 

結局のところ、この男もついに会堂から追い出されることになります。会堂から追い出されるとは、ユダヤ教から追い出されること、村八分にされることです。でも彼は、そんなことに少しもめげませんでした。事実の上に立った体験、これこそ神が私たちに与えてくださるものであって、このような体験によって、私たちも力強くキリストを証しすることができるようになるのです。

 

「アメリカでもっとも愛されたゴスペル歌手」と称されたジョージ・ビバリー・シェーは、ビリー・グラハムクルセイドの初期から、クリフ・バローズが指揮するマスクワイアーをバックに、ソリストとして数多くの讃美歌やゴスペルを歌ってきた人ですが、彼は2011年、102歳で、グラミー賞功労賞を最高齢で受賞しました。彼が作曲した最も有名な歌は、新聖歌428番の「キリストには代えられません」でしょう。

①キリストには代えられません 世の宝もまた富も

このお方が私に代わって 死んだゆえです

世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け

キリストには代えられません 世の何ものも ②キリストには代えられません 有名な人になることも

人のほめる言葉も この心をひきません 世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け

キリストには代えられません 世の何ものも ③キリストには代えられません いかに美しいものも

このおかたで心の満たされてある今は 世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け

キリストには代えられません 世の何ものも

ビバリー・シェーもまた、ただ一つのこと、キリストの恵みによって捕らえられて

いたのです。もっと突きつめて言えば、その恵みの体験を通して、キリストを証ししていたのです。キリストにはかえられませんと。

 

そしてそれは、私たちも同じです。私たちも、かつては盲目でしたが、今は見えるようになりました。聖書のことはそれほど知りませんが、この一つのことは知っています。それゆえに、私たちも大胆に証しすることができます。これがキリストによって目が見えるようになった人なのです。そのことを忘れないでいただきたいのです。その恵みを体験した者としてこの目が開かれた人のように、私たちは知っています。私たちは盲目であったが、今は見えるようになったということをと、大胆に、そして勇敢に、証しする人になりたいと思います。これがキリストの恵みによって救われた人の姿なのです。

ヨハネの福音書9章1~12節「神のわざが現れるために」

きょうは、ヨハネの福音書9:1~12から、「神のみわざが現れるために」というタイトルでお話したいと思います。

 

Ⅰ.この人に神のわざが現れるためです(1-5)

 

まず1節から5節までをご覧ください

「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

 

イエス様は、仮庵の祭りでエルサレムに上っておられましたが、道を歩いていると、そこに生まれた時から目の見えない人がいるのをご覧になられました。

私たちは、毎日、いろいろなものを選び取って生活していますが、自分ではどうしても選ぶことができないことがあります。それは、どのように生まれてくるかということです。裕福な家に生まれる人がれば、貧しい家に生まれる人もいます。健康で生まれる人がいれば、病弱で生まれる人もいます。どのように生まれるかは、自分では選び取ることができないのです。それは生まれた時から決まっています。この人は生まれた時から目が見えませんでした。自分で選んで盲目になったのではありません。生まれた時からそうだったのです。そのために、いろいろな苦労がありました。8節には彼が物乞いをしていたとありますが、そのために彼は、物乞いをするほか生きる道がありませんでした。

 

すると、弟子たちがイエス様に尋ねました。2節、「先生。この人が盲目に生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

これが一般の人たちの考え方です。一般に人は今負っている悩みや苦しみには必ず原因があると考え、すぐにその原因を探ろうとします。そして、このような不幸の原因はその人が何か悪いことをしたからであって、そのバチが当たっているのだと考えるのです。いわゆる「因果応報」です。つまり、その人の過去にその問題の原因なり、理由なりを求めてその説明をしたがるわけです。

 

しかし、イエス様はこのように答えられました。3節です。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」弟子たちが不幸の原因を尋ねたのに対して、イエス様はそのことには直接触れずに「神のわざが現れるためです」と、その意味なり、目的についてお答えになられたのです。

 

私たちも、何か辛いことや苦しいことがあると「何でだろう、何でだろう、何で、何でだろう」としばしば後ろを振り返っては、そこで立ち止まってしまうことがありますが、イエス様は、こうした苦難に遭うときに「何でだろう」と問うよりも、「何のために神様はこのような試練をお与えになったのか」を考えて、信仰をもって神の目的のために生きていくことが大切であることを教えてくださったのです。そして、それがどんなに大きな悩みや苦しみがあっても、神様がそのことを通して驚くべきみわざを成してくださるということが分かれば、私たちはもはやそうした悩みや苦しみの中に沈んでしまうのではなく、やがてそれを益に変えてくださる神に期待して生きることができるのではないでしょうか。

4節と5節をご覧ください。ここに不思議なことが書かれてあります。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」どういうことでしょうか。もちろん、私たちは人間ですから、神様のようなわざを行うことなどできません。では、「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければならない」とはどういうことなのでしょうか。

 

ヨハネの福音書6章29節をご覧ください。ここには、「神を遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」とあります。つまり、神のわざとは、神が遣わした方を信じることです。私たちが過去に捉われて出口のないあきらめとむなしさの中で生きるのではなく、現実の苦しみの中にあっても、イエス様を信じて、イエス様が約束してくださった聖書の御言葉を信じて、神様が最善のことを成してくださると信じて生きていくことなのです。それが神のわざを行うということなのです。

 

ローマ人への手紙8章28節には、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」とあります。

この「すべてのことがともに働いて」の「すべて」の中には、私たちにとってマイナスと思われるようなことも含めてすべてが含まれているのです。良いと思えることも、悪いと思えることも、すべてのことを含めて、神が働いてくださり益としてくださるのです。これを信じることが神のわざです。言い換えれば、すべてが恵みであると信じて受け止めることです。

 

また、コリント人への手紙第一10章13節には、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」とあります。皆さんの中で、今、試練の中にある人がおられますか。もしそのような方がおられるなら、この御言葉を信じなければなりません。神は、あなたが耐えられないような試練を与えるようなさいません。むしろ、絶えることができるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるということを。

 

また、エレミヤ書29章11節は、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。とかく私たちは自分にとって良くないと思うことが起こると、自分は神に呪われているのではないかと思うことさえありますが、しかし、神の御言葉である聖書は何と言っているのかというと、神が私たちに立てている計画は将来と希望であることです。今はそのようには受け止められないかもしれません。しかし、私を愛し、私のためにご自身の御子をさえも惜しみなく与えてくださった主は、私たちのために最高の計画を持っておられるのです。それは将来と希望です。このことを信じなければなりません。これが神のわざです。

 

私たちは、少し前まで祈祷会でルツ記を学んでいましたが、そのことはルツとナオミの生涯を見てもわかります。ナオミは夫のエリメレクと、二人の息子マフロンとキルヨンと一緒にモアブの地へ行き、そこに一時滞在しました。それまで住んでいたベツレヘムが飢饉のため食べ物が少なかったからです。

しかし、そこで夫エリメレクは死に、何と二人の息子までも死んでしまいました。何と不幸な人生でしょう。ナオミはモアブの地からベツレヘムに帰ることにしましたが、そこで町の人たちは「あら、ナオミじゃないですか」というと、彼女は、「私をナオミとは呼ばないでください。マラと呼んでください」と言いました。「ナオミ」という名前は「快い」という意味ですが、どう見ても彼女の人生は快いものではありませんでした。それで「苦しむ」という意味の「マラ」と呼んでくださいと言ったのです。

しかし、そんなナオミを、神様は決して忘れてはいませんでした。彼女には息子の嫁の一人でモアブ人のルツがいました。ある日、畑に出て落ち穂を拾い集めると、そこははからずもエリメレク一族に属するボアズの畑でした。ボアズは正当な手続きを経てエリメレクの畑を買い戻すと、その嫁であったルツも買い戻したので、ルツはボアズの妻となりました。そして生まれたのがオベデです。オベデはダビデの父であるエッサイの父、すなわち、ダビデの祖父にあたります。そして、このダビデからこの人類を罪から救ってくださる救い主が誕生するのです。このようなことをいったいだれが想像することができたでしょうか。これが神のなさることです。神は、このような驚くべきことをなさいます。神を愛する人々のために、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。このことを信じなければなりません。

 

先月、山形市のこひつじキリスト教会で献堂式が行われました。牧師の千葉先生は、同盟の伝道委員として3年間私たちの教会にも来てくださり、私が伝道委員だったとき会堂についていろいろお聞きしていましたので、ぜひ献堂式に出席したいと思っていました。

そこはちょうど蔵王めぐみ幼稚園という幼稚園の前にあるのですが、そこはかつてこのこひつじキリスト教会を開拓した蔵王キリスト教会が産声をあげた場所でもありました。この幼稚園はキリスト教系の幼稚園で、蔵王教会ではその一室を借りて日曜の礼拝が始まったのです。それから何年かして1996年に親教会ネットワークによってこひつじキリスト教会が誕生しました。あれから20年、教会は一軒家の借家で宣教の働きが進められてきました。2階に先生ご家族が住み、1階で集会が続けられてきましたが、こどもの伝道を中心に行っていたこともあって集会所のスペースは限界でした。それで先生は集会できるスペースを求めて祈っていたところ、とても良い物件が紹介されたのです。、それは国道13号線に面しているドライブインの跡地でした。土地と建物の広さも申し分なく、価格も格安でした。千葉先生は、それが神様の導きではないかと購入に向けて進もうとしたのですが、そこが山形市と上山市との境にあったこと、また、これまで行って来た子供たちの伝道には向いていないということで断念せざるを得なかったのです。千葉先生は本当にがっかりしました。やっといい物件が見つかったと思ったのに、話がまた振り出しに戻ったからです。

しかし、それからほどなくして示されたのがこの物件でした。それは車の整備工場の跡地でしたが、奇しくも、それが蔵王教会が産声をあげた幼稚園の前だったのです。場所的には最高の場所です。それをリフォームして献堂することができました。本当に神のなさることは不思議です。神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

 

それは、私たちも例外ではありません。神はこのような小さな者をもご自身の救いの計画の中にしっかりと組み込んでいてくださり、偉大な御業を成さろうとしておられるのです。そのことを信じなければなりません。すべてのことをつぶやかず、疑わずに行わなければならないのです。だれも働くことができない夜が来るからです。

 

Ⅱ.シロアムの池で洗いなさい(6-7)

 

では、神のわざが現れるためにどうしたらいいのでしょうか。それは、神のみことばに従うことです。6,7節をご覧ください。

「イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」

 

イエス様は、神のわざを、昼の間に行わなければならないと言うと、地面に唾をして、その唾で泥を作り、それを彼の目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われました。いったいなぜこのように言われたのでしょうか。イエス様は他の時にも何度か盲人の目を癒しておられますが、その時にはこのようには言いませんでした。ただ一言「エパタ」(開け)と言って癒されたり、盲人の目に直接触れることによって癒されました。このように唾で作った泥を目に塗って、池に行って洗うといった方法は採られませんでした。いったいなぜこのように言われたのでしょうか。別に唾で作ったこの泥に何らかの効用があったからとは思えません。ただはっきりわかることは、イエス様はどんな方法でも盲人の目を癒すことができるということです。お言葉一つでこの天地万物を創られたお方は、「エパタ」と言われるだけで癒すこともできましたし、直接触れることによっても、また、このように神秘的な方法によっても癒すことができたのです。ただそれがどのような方法であっても、イエス様の言われることに応答し、その御言葉に従うことが求められました。

 

いったいなぜこの盲人はイエス様の言葉に従ったのでしょうか。イエス様の言葉を聞いて「なるほど」と納得したからでしょうか。そうではありません。美容パックじゃあるまいし、こんなの目に塗っていったい何になるというのでしょう。私だったらそう思います。でも彼はイエス様が言われた言葉に従いました。このように、たとえそれが自分の思いや理解を超えていることであっても、主が仰せられたことに従うとき、神のみわざが現れるのです。

 

たとえば、あのシリヤの将軍ナアマンはそうでした。彼は重い皮膚病で苦しんでいましたが、その家にいたイスラエル人の召使いであった少女からイスラエルには驚くべき奇跡を行うエリシャという預言者がいるということを聞くと、早速出かけて行きました。その手にはたくさんの贈り物を持ち、しかも国王からの親書も持っていました。

ところがエリシャのところに行ってみると、エリシャは彼を出迎えることもせず、ただ召使いを送ってこう言わせただけでした。「ヨルダン川に行って、その水の中に七度身を浸しなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻りきれいになります」

これを聞いたナアマンは激怒しました。「なんということだ。私は預言者エリシャが出て来て、私の前に立ち、主である神様の名前を呼んで、この悪い所の上で手を動かして治してくれるものと思っていたのに。ダマスコの川の方が、イスラエルの川よりもよっぽど綺麗ではないか。こんなうす汚い川で洗ったところで、どうやって治るというのか。」

こうして彼はさっさと自分の国に引き上げようとしたのですが、部下の一人がやって来て、必至に説得しました。「将軍様、どうしてそんなにお怒りになられるのですか。あの預言者がもっと難しいことをせよと言われたら、それをしなければならなかったでしょう。それなのに彼は将軍様に「ヨルダン川で体を洗いなさい」と言われただけではありませんか。」

するとナアマン将軍はようやく思い直し、エリシャの言ったとおりにヨルダン川に行き、七度水に体を浸しました。すると彼の体は赤ん坊のように綺麗になったのです。

 

キリストの弟子たちがガリラヤ湖で漁をしていた時も同じです。その日はどういうわけか、夜通し網を降ろしても一匹の魚もとれませんでした。ペトロたちは疲れ切って岸で網を繕っていました。そこにイエス様が来られ、「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われたのです。おそらくペテロは、「いくらイエス様だって、漁のことについては俺たちの方がプロだ」と思ったことでしょう。しかし、それにも関わらず、彼はこう言ったのです。

「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下してみましょう。」(ルカ5:5)

これが信仰です。「でも、おことばですので、網を下してみましょう。」それが自分の思いや考えと違っても、でも、おことばですので、網を下ろすのです。そして、せっかく繕った網をもう一度舟に積み込んで、沖に出ていったのです。そして、イエス様が言われたとおりに網を降ろしてみますと、網がはち切れんばかりの魚がとれたのです。

 

皆さん、私たちも聖書に書いてある教えが非現実的であったり、非論理的に思えたり、あるいはまったく無意味なことのように思えたりすることがあるかもしれません。自分の経験や、知識や、良識などから判断すれば、どうしてそんなことをしなければならないのか、そんなことで本当に大丈夫なのかと、疑いや不安が募ることもあるでしょう。しかし、生まれつきの盲人が「シロアムの池に行って洗え」と言われた時も、ナアマン将軍が「ヨルダン川で身を浸せ」と言われたときも、ペテロが「もう一度沖に出て網をおろせ」と言われたときも、きっとそういう人間的な不安や疑問にかられたと思うのです。けれどもその時、彼らは自分の思いではなく、神の思いに従ったので、神のみわざを見ることができたのです。

 

これが信仰です。私たちはいつも人間的な見方をしては、「自分たちにできるだろうか」と思って否定的になってしまいますが、大切なのは私たちにできるかどうかではなく、それが神のみこころなのかどうかということです。神様が御言葉で何と言っておられるのか、そして、それがみこころならば、信じなければなりません。それが神のわざを行うということです。イエス様がいるうちは、イエス様が働いてくださいます。しかし、だれも働くことができない夜が来ます。その時では遅いのです。ですから、イエス様がいる間に、イエス様の御言葉を信じて、神のわざを行わなければなりません。それが自分の常識を超えていることであっても、主がこれをせよと仰せられるならそれに信仰によって従っていく。そこに偉大な神の御業が現れるのです。

 

Ⅲ.イエスという方が(8-11)

 

第三に、その結果です。そのようにして生まれつきの盲人の目が見えるようになり、帰って行くと、どのようになったでしょうか。8節から12節までをご覧ください。

「近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。『これは座って物乞いをしていた人ではないか。』ある者たちは、『そうだ』と言い、ほかの者たちは『違う。似ているだけだ』と言った。当人は、『私がその人です』と言った。そこで、彼らは言った。『では、おまえの目はどのようにして開いたのか。』」

彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」 彼らが『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と答えた。」

 

この見えるようになった人に対して、近所の人たちや彼のことを知っていた人たちが、「お前の目はどのようにして開いたのか。」と問うと、彼は自分が経験したことを、ありのままに語りました。それは、「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と言われたので、その通りにすると、見えるようになったということです。すなわち、イエスという方が自分に何をしてくれたのかということです。つまり、イエスはだれであるかということです。そして、イエスはメシヤ、キリスト、救い主であられるということです。

 

これがこの話の中でヨハネが本当に伝えたかったことなのです。ヨハネの福音書の中にはイエス様がメシヤであるということを証明する七つの「しるし」が記録されてありますが、これは6番目のしるしです。「しるし」とは証拠としての奇跡のことです。これは、イエス様がメシヤであるということの証拠としての奇跡だったのです。私たちはどうしても、生まれつき盲人だった人の目が見えるようになったことに焦点がいきがちですが、ヨハネが一番伝えたかったことはそこではなく、イエス様がメシヤであられるということだったのです。つまり、イエス様は私たちの心の目を開くことができるお方であるということです。

 

それは、7節の「シロアム」ということばの後の注釈を見るとわかります。ここにはわざわざ「訳すと、遣わされた者」とあります。神から遣わされた者とはだれでしょうか。そうです、イエス・キリストです。つまり、シロアムの池に行って洗うと目が開かれるというのは、イエス様の言葉を信じ、イエス様のもとに行って洗うなら、目が開かれる、という救いのメッセージだったのです。

 

イエス様はそれを十字架と復活を通して成し遂げてくださいました。イエス様が十字架で流された血は、私たちをすべての罪からきよめることができます。そして、三日目によみがえられたイエス様は、私たちに永遠のいのちを与えることができるのです。これが神の救いのご計画でした。それは常識では考えられないこと、アンビリバボーです。しかし、その神のみこころを信じて従うとき、私たちの心の目も開かれるようになるのです。常識や理性で理解できないことは絶対に信じないと思っている人は、決して心の目、霊的な目を開けていただくことはできません。主が「これをせよ」と言われることに対して、信仰をもって従う人だけが開かれるのです。

そして、このように私たちを罪から救うことができる方は、私たちをすべての問題から解放することができます。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

いろいろなことで疲れ果て、落ち込んでいる私たちを真に救うことができるのは、私たちを様々な不幸の原因である罪から救うことができるイエス様だけです。あなたもこの方を救い主として信じ、この方が命じられることに従う時、そこに大いなる救いのみわざが現れるのです。

 

あなたはどうでしょうか。シロアムの池に行って洗いましたか。イエス様はあなたを救うことができます。あなたの悩みや問題のすべてを解決することができる方です。「何でだろう」と過ぎ去った過去を見てくよくよして生きるのではなく、イエス様を信じて、イエス様が与えてくださる将来と希望を見つめて、前に向かって進んで行こうではありませんか。そこに神のわざが現されるのです。

出エジプト記12章

きょうは、出エジプト記12章から学びます。エジプトに、すでに9つのわざわいが下りました。そしてここに第10番目のわざわい、最後のわざわいが下ろうとしています。それは前の章において宣告されていましたが、エジプトの初子という初子はみな死ぬというものでした。しかし、イスラエル人は、そのわざわいを免れます。それを示したものが過越しの祭りと呼ばれるもので、旧約聖書にも、新約聖書にも、イスラエルの祭りの中ではこの祭りが一番多く出てきます。それだけ重要な祭りであるといえます。今回は、この過越しの祭りについて学んでいきましょう。

 

Ⅰ.過越の祭り(1-14)

 

まず1節から14節までを見ていきましょう。1節と2節をご覧ください。

「主はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」

この月がイスラエルの国にとって1年の最初の月になります。この月とは、ユダヤ暦の「アビブの月」のことです。バビロン捕囚以降は、この月は「ニサンの月」と呼ばれるようになります。「アビブの月」も「ニサンの月」も、同じ月のことです。現代の暦では、3月か4月になります。なぜこの月が年の最初の月となるのでしょうか。それは、この月がイスラエルの国の始まりとなるからです。彼らは長い間エジプトに捕らえられており、自分たちの国がありませんでした。しかし、主はそこからご自分の民を解放し、約束の地へと導かれます。その最初の月がこの月なのです。ですから、ここから始めなければなりません。

 

さらに主はこのように命じられました。3節から5節をご覧ください。

「この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。:5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。」

ニサンの月の10日に、家族ごとに羊を用意します。その家族の人数が羊1匹の分より少ない場合は、隣の家の人と分かち合わなければなりません。すなわち、一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければなりません。

 

その羊は、傷のない1歳の雄でなければなりません。それを子羊かやぎのうちから取らなければなりませんでした。つまり、完全なものでなければならなかったということです。神へのいけにえは、傷や欠陥があってはならないのです。それは、私たちの罪のためのいけにえであるからです。Ⅰペテロ1:18-19には、「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。私たちの主は罪のない完全ないけにえでした。だからこそ、神にささげることができたのです。

 

6節から11節までをご覧ください。

「あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。生のままで、または、水に入れて煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは燃やさなければならない。あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは主への過越のいけにえである。」

 

その羊をこの月の14日まで、すなわち、ニサンの月の14日まで、よく見守ります。なぜなら、その間に傷やしみがついてはいけなかったからです。それは、よく吟味することが必要でした。そしてイスラエルの民の全会衆は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の日本の門柱と鴨に塗らなければなりませんでした。

これは大体午後3時から日没までの間ということになります。日没になると、ユダヤの暦ではそこから一日が始まりますから、その前にほふったということになれます。ですからイエス様が十字架で死なれたのは、この14日のことだったのです。その日の夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の日本の門柱と鴨に塗らなければなりませんでした。

 

ここで重要なのは血を取ることと、それを家の門柱と鴨に塗ることでした。なぜなら、血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです(へブル9:22)。これが、永遠の昔から、神が人を救われる時に用いられる方法でした。覚えていらっしゃいますか。たとえば、アダムとエバが罪を犯した時に彼らはいちじくの葉を綴り合わせたもので腰の覆いを作りましたが、そんな彼らのために神は、皮の衣を作って着せられました(創世記3:21)。なぜ皮の衣だったのでしょうか。それは、神様は彼らの罪を覆うために血を要求されたからです。皮の衣を作るには動物をほふり、皮をはがさなければなりません。当然、そこに血が流れます。この血が要求されたのです。

 

アダムとエバの最初の子どもはカインとアベルでしたが、カインは神がアベルのささげたささげものを受け入れましたが自分のささげものを受け入れなかったことで怒り、弟アベルを殺してしまいました。人類最初の殺人事件です。いったいなぜ神はアベルのささげものを受け入れられたのにカインのささげものを受け入れなかったのでしょうか。それは、アベルは自分の羊の中から、しかも最良のものをささげたのに対して、カインはそうではなかったからです。彼は地の作物の中から神にささげました。しかし、神が求めておられたのは動物でした。なぜなら、そこに血が流されなければならなかったからです。そのことは後でレビ記17:11に出てきますが、いのちとして贖いのするのは血だからです。血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはありません。これが、永遠の昔から神が人の罪を贖うために計画しておられた方法だったのです。ですから、イエス様は十字架にかかって死んでくださったのです。それは、イエス様が動物の血ではなく、ご自分の血によって、私たちが神に受け入れられるようになるためです。その血を取り、それを二本の門柱と鴨居に塗ることによって、すなわち、イエス様が流された血を私たちの心に塗ること(信じること)によって、私たちに対する神のさばきが過ぎ越すためです。この命令どおり血を塗る徒、十字架が2本連なったような形になります。

 

そして、その夜、その肉を食べます。日没から、すなわち、翌日に入ってから過越の食事が始まります。食べ方も定められていました。まずその肉を食べました。その肉は火で焼かなければなりませんでした。生のままや、水で煮るという方法は許されません。その頭も足も内蔵も火で焼かなければなりません。これは、献身は全的なものでなければならないことを象徴しています。それを種なしパンと苦菜を添えて食べなければなりませんでした。パン種の入っていないパンを食べるのは、出エジプトの夜、急いでいたのでパンを発酵させる時間がなかったことを思い出すためです。また、苦菜を添えるのは、エジプトでの奴隷の状態での苦みと汗を思い出すためです。

もし残ったものがあれば、朝まで残しておいてはなりませんでした。それらをすべて火で焼かなければならなかったのです。なぜなら、翌日に同じものを食するようなことがあってはならなかったからです。これはイスラエルがエジプトからあがなわれたことを表す特別の食事だったのです。

 

過越しの食事の仕方にも決まりがありました。それは腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べるということでした。まるで立ち食いそば屋のような景色です。これは主が「旅立て」と言われたら、すぐに従えるように準備しておくためです。ちなみに、約束の地に入ったユダヤ人たちは、横になって過越しの食事をするようになります。それは、自分たちが自由の身になったことを表しているからです。

 

12節から14節までをご覧ください。

「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。 この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。」  イスラエル人たちが過越しの食事をしている時に、主はエジプトの地を巡り、さばきを下します。そのさばきとは、エジプトの地のすべての初子を打つ、というものでした。その中には、人の初子も家畜の初子も含まれていました。さらに主は、エジプト人のすべての神々にさばきをくだされます。しかし主は、イスラエル人の家々を通り越されます。なぜなら、その血がしるしとなるからです。「その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」(13)この聖句から「過越しの祭り」という言葉が生まれました。主は、血を見て過ぎ越されるのです。本来であれば、神のさばきは、エジプト全地に対するものでした。それゆえ、イスラエル人も本来ならエジプト人と同じように滅びなければならなかったのですが、彼らにはそのさばきが下りませんでした。それは彼らが何か良い民族だからではありません。ただ、血によってのみ、さばきが通り越したのです。これは、何回強調しても強調しすぎることのない、大切な真理です。私たちの中には、何一つ救われるべき理由はありません。さばかれる原因はすべて持っていますが、救われる理由は私たちの側には何一つありません。ただ、キリストの血によって救われたのです。
Ⅱ.種なしパンの祭り(15-20)

 

次に15節から20節までをご覧ください。 「七日間、種なしパンを食べなければならない。その最初の日に、あなたがたの家からパン種

を取り除かなければならない。最初の日から七日目までの間に、種入りのパンを食べる者は、みなイスラエルから断ち切られるからである。また最初の日に聖なる会合を開き、七日目にも聖なる会合を開く。この期間中は、いかなる仕事もしてはならない。ただし、皆が食べる必要のあるものだけは作ることができる。 あなたがたは種なしパンの祭りを守りなさい。それは、まさにこの日に、わたしがあなたがたの軍団をエジプトの地から導き出したからである。あなたがたは永遠の掟として代々にわたって、この日を守らなければならない。最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種なしパンを食べる。七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。すべてパン種の入ったものを食べる者は、寄留者でも、この国に生まれた者でも、イスラエルの会衆から断ち切られる。 あなたがたは、パン種の入ったものは、いっさい食べてはならない。どこでも、あなたがたが住む所では、種なしパンを食べなければならない。」

過越しの祭りに続いて、種なしパンの祭りに関する規定が続きます。過越しの祭りは1日だけで

すが、種なしパンの祭りは7日間続きます。小羊がほふられる14日の次の日、つまり過越の祭り

の次の日から、7日間祝われます。この二つの祭りは密接につながっているので、しばしば一つの

祭りとして祝われます。新約聖書の時代には、この8日間をまとめて「種なしパンの祝い」と呼ば

れていました。(ルカ22:1)なぜこれが種なしパンの祭りと呼ばれるのかというと、この祭りの期間は、

パン種を入れないパンを食べなければならないからです。それは、エジプトから出ることは緊急を

要していたので、パン種を発酵させる時間的余裕がなかったからです。もしこれを食べる者があれ

ば、イスラエルから断ち切られました。これはイスラエルの共同体から断ち切られることを、すなわ

ち死を意味していました。それだけ深い意味が、このパン種の中には含まれていたのです。

 

第一日目と第八日目に聖なる会合を開きました。この期間中は、いかなる仕事もしてはなりま

せんでした。ただし、料理だけは別です。なぜいかなる仕事もしてはいけなかったのでしょうか。それは、神が贖いのわざを成し遂げてくださったからです。天地創造において、神が天地創造のみわざを完成されたとき7日目を安息日として祝福したように、神の贖いの業を完成したその後の7日間を、主の安息の時としなければならなかったのです。そのことは17節にこう記されてあるとおりです。「あなたがたは種なしパンの祭りを守りなさい。それは、まさにこの日に、わたしがあなたがたの軍団をエジプトの地から導き出したからである。あなたがたは永遠の掟として代々にわたって、この日を守らなければならない。」 かくして、イスラエル人たちは過越しの祭り同様、主が彼らをエジプトから贖い出したことの記念として、これを永遠に守り行うようになりました。

 

いったいこのことは私たちにどんなことを教えているのでしょうか。パウロはコリント第一5:6-8で

こういっています。「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた

粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられる

ように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過

越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパ

ン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」

パン種は、罪や不正を表しています。パンを作るときに、イースト菌のはいったパンの一部を残

します。そしてそれを新しい粉のかたまりに混ぜると、粉全体をふくらませます。そしてそこからまた一部種ありパンを残しておくと、他の新しい粉と混ぜて、全体をふくらませることができます。したがって、わずかなパン種で、全体をふくまらせることができるのです。罪も、わずかな罪で死をもたらすことができるほど、広がるものです。ですから、パウロはコリントのクリスチャンに、パン種のない生活をすることを勧めているのです。なぜなら、すでに過越しの子羊がほふられたからです。これは、過越の小羊イエス・キリストが流された血によって、罪が取り除かれ、完全に清められた者とされたことを意味しています。ですから、パンに種があってはならないのです。この勧めは、過越しの祭りの後には種なしパンの祭りが来ることを前提に語られています。私たちは過越しのキリストを信じて罪が赦されたのですから、種なしパンの祭りを実践しなければならないのです。

Ⅲ.過越しの祭りの実行(21-28)

モーセは、主が語られた過越しの祭りを実行するためにそれをイスラエルの長老たちに告げます。21節から28節をご覧ください。

「それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」

 

イスラエルの民は、家族ごとに過越しのいけにえをほふり、ヒソプの束を一つ取って、それを鉢の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなければなりませんでした。後にヒソプは、罪をきよめる象徴となりました。ダビデがバテ・シェバと姦淫の罪を犯した時、「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。」(詩篇51:7)と言っています。私たちの罪を清めるのは、キリストの血なのです。  彼らは朝まで、自分の家の戸口から出てはなりませんでした。なぜなら、外では主がエジプトを打つために行き巡っておられるからです。主は敷居と二本の門柱にある血を見たら、その戸口を過ぎ越すので、滅ぼす者が彼らの家に入って彼らを打つことはありません。これは彼らとその子孫が永遠に守るべき祭りとなります。つまり、イスラエルの民が、約束の地に入った時、その祭りを世々限りなく行わなければならないということです。その時子どもたちが「この儀式には、どういう意味があるのですか」と尋ねるなら、「これは主の過越しのいけにえだ」と、その意味を彼らに教えなければなりません。

 

すると民はどうしたでしょうか。「すると民はひざまずいて礼拝した。こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」

すばらしいですね。彼らはひざまずいて礼拝しました。そして、神の命じられたとおりに行ないました。イスラエルの民は、神からの命令を信じ、そのとおりに行ったので、死から救われました。私たちも、神が命じたとおり、キリストの福音を信じたので、滅びから救われました。大切なのは、神が命じたことを信じ、そのとおり行うことです。  Ⅳ.出エジプト(29-36)

 

次に29節から36節までをご覧ください。

「真夜中になったとき、主はエジプトの地のすべての長子を、王座に着いているファラオの長子から、地下牢にいる捕虜の長子に至るまで、また家畜の初子までもみな打たれた。その夜、ファラオは彼の全家臣、またエジプト人すべてとともに起き上がった。そして、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こった。それは死者のいない家がなかったからである。彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って主に仕えよ。おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」エジプト人は民をせき立てて、その地から出て行くように迫った。人々が「われわれはみな死んでしまう」と言ったからである。」

 

いよいよ第十番目のわざわいが下されます。これが最後のわざわいです。それはエジプト中に深い衝撃と悲しみをもたらしました。真夜中になって、主は、エジプトの地のすべての初子を、王座に着いているファラオの長子から、地下牢にいる捕虜の長子に至るまで、また家畜の初子までみな打たれたのです。それでエジプトのすべての家が何らかの被害を受けました。その結果、エジプト中に激し嘆き叫びが起こりました。

 

それでファラオはついに降参しました。彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて、エジプトから出て行くように、行って主に仕えるようにと言いました。そればかりではありません。モーセとアロンが言うように、羊の群れも牛の群れも連れて行くように、そして、自分たちのために祈れと言いました。それはファラオだけではありませんでした。エジプトの民も同様でした。彼らもイスラエルの民をせき立てて、この地から出て行くようにと迫ったのです。このままでは自分たちは死んでしまうと思ったからです。

 

「それで民は、パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担いだ。イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。」(34-36)

それで、イスラエルの民は、パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担ぎました。これは、彼らが練り粉をパン種を入れないまま取り、こね鉢を衣服に包み、肩に担いだということです。それは時間がなかったからです。また、彼らはエジプトを出てから数日間、種なしパンを食べなければなりませんでした。そればかりではありません。彼らは、モーセのことばのとおりに、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めました。これはイスラエルが後に荒野で導かれそこで幕屋を建設する際の資材となりました。

 

エジプト人は、イスラエルの民の要求に快く応じました。これまでの両者の関係を考えると、これは驚くべきことです。なぜエジプト人は快く応じたのでしょうか。それは何よりも、その背後に主の働きがあったからです。また、イスラエル人がすみやかにエジプトを出ることを、エジプト人が願ったからです。主への恐れが彼らをこのような行動へと駆り立てたのです。しかし、この出来事の最も特筆すべきことは、これが、かつて神がアブラハムに語られたことの成就であったということです。創世記15:14には、「しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。」とあります。その500年以上経ってから、その預言が成就しました。それは、神はご自分が語られたことは必ず成就させる真実な方であることを表しています。それゆえ、私たちが今どんなに辛い状況に置かれているとしても、主は、いつまでも私たちがそこにいることをお許しにはなりません。必ずそこから解放してくだいます。ですから、もし今自分が不当に扱われていると感じている人がいれば、このことを思い出しましょう。神はあなたのすべてをご覧になっておられ、あなたの行為に豊かに報いてくださいます。

 

Ⅴ.寝ずの番をされる主(37-42)

 

いよいよイスラエルの民はエジプトを出て行きます。37節から42節までをご覧ください。

「イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立った。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった。さらに、入り混じって来た多くの異国人と、羊や牛などおびただしい数の家畜も、彼らとともに上った。彼らはエジプトから携えて来た生地を焼いて、種なしのパン菓子を作った。それにはパン種が入っていなかった。彼らはエジプトを追い出されてぐずぐずしてはいられず、また自分たちの食糧の準備もできなかったからである。イスラエルの子らがエジプトに滞在していた期間は、四百三十年であった。四百三十年が終わった、ちょうどその日に、主の全軍団がエジプトの地を出た。それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。」

 

イスラエル人は、ラメセスから、スコテに向かって旅立ちました。人数は、幼子を除いて、徒歩の壮年の男子だけで約六十万人です。ものすごい人数です。女と子どもを加えたら、おそらく200万人は超えていたでしょう。ヤコブがエジプトに入ったときはわずか70人です。でも、そのときヤコブは神の約束を信じました。神の約束は確かに実現されましたが、ヤコブはその信仰のゆえに、大いなる報いを天において受けているのです。  エジプトを出たのは、イスラエル人だけではありませんでした。多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上りました。というのは、片親がイスラエル人の人、イスラエルと同じく奴隷になっていたセム系の民族であったと思われます。彼らはこの混乱に乗じてイスラエル人といっしょにエジプトを脱出しました。

この入り混じって来た外国人たちは、やがて問題を起こすようになります。民数記11:4-5には、彼らは激しい欲望にかられ、イスラエル人も彼らに釣られて、「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」と言いました。このため、神は激しい疫病で彼らを打たれました。彼らはイスラエル人たちと目的を共有しませんでした。価値観や使命感を共有できない人たちと共に進むことは危険なことです。最初はよくても、逆風が吹き始めると、彼らは不平不満を言うようになります。自分がどのような人たちと協力関係に入ろうとしているのかを、もう一度吟味する必要があります。彼らはエジプトから携えて来た練り粉を焼いて、パン種の入れていないパン菓子を作りました。それにはパン種が入っていませんでした。というのは、彼らは、エジプトで追い出されて、ぐずぐずしてはおられず、また自分たちの食料の準備も出来ていなかったからです。

 

イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は430年でした。430年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出ました。モーセがこのように書くことができたのは、エジプトに入った年月を、誰かが記録し、それを覚え、指折り数えていた人がいたからでしょう。イスラエルの民のほぼ全員が失望と不信仰の中にあっても、神の約束を信じ続けていた人々がいたのです。神のわざは、このように人たちによって前進するのです。神はご自身の約束を覚えておられます。まだ祈りが応えられなくとも、神は必ずご自身の約束を実現してくださると信じて、信仰によって歩みましょう。

 

それにしても、エジプトから出るのになぜこんなにも時間がかかったのでしょうか。わかりません。ただ、モーセというリーダーが登場するためにも、80年という年月を要しました。神の器ができるためには時間がかかるのです。でもそれは、神の約束が否であるということではありません。神の約束は必ず実現します。ですから、それがまだ起こっていなくても、神が約束したことは必ず実現すると信じて前進しましょう。そうすれば、驚くべき神のみわざを体験するようになるのです。

 

42節をご覧ください。

「それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。」

 

この夜、主は寝ずの番をされました。それは、そこに主の特別な守りがあったということです。それゆえ、イスラエル人は、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのです。つまり、子々孫々と過越しの祭りを守るということです。「主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」(詩篇121:3-4)主は、私たちのために寝ずの番をされます。それゆえ、たとえ今の状況が受け入れられない、喜ぶことができないようなものでも、そこに主の守りがあることを信じて、感謝しようではありませんか。

 

Ⅵ.過越しに関する追加規定(43-51)

 

最後に、43節から51節までをご覧ください。 「主はモーセとアロンに言われた。「過越に関する掟は次のとおりである。異国人はだれも、これ

にあずかってはならない。しかし、金で買われた奴隷はだれでも、あなたが割礼を施せば、これに

あずかることができる。居留者と雇い人は、これにあずかってはならない。これは一つの家の中で

食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、そ

の骨を折ってはならない。イスラエルの全会衆はこれを行わなければならない。もし、あなたのとこ

ろに寄留者が滞在していて、主に過越のいけにえを献げようとするなら、その人の家の男子はみ

な割礼を受けなければならない。そうすれば、その人は近づいてそれを献げることができる。彼は

この国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。このお

しえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの間に寄留している者にも同じである。」

イスラエルの子らはみな、そのように行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。 まさにこの日に、主はイスラエルの子らを、軍団ごとにエジプトの地から導き出された。」  過越しの規定に関する追加規定です。追加規定が書かれたのは、多くの外国人が入り混じって来たからでしょう。基本的に、外国人はだれも食べる事はできませんでした。けれども 奴隷は割礼を施せば食べることができました。居留者(短期滞在者)と雇い人は、これに与ることができませんでした。これは、神の民となった者だけが、あずかることができました。

 

また、過越しのいけにえは、一つ家で食べなければなりませんでした。肉の一切れでも家の外に持ち出してはなりません。その骨を折ってはなりませんでした。これは詩篇34:20でメシヤ預言として引用されています。すなわち、それはイエス・キリストの十字架を預言していました。そしてそれは、ヨハネ19:33の「イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。」によって成就しました。

 

もし、寄留者が滞在していて、主に過越しのいけにえをささげようとするなら、その家の男子はみな割礼を受けなければなりませんでした。そうすれば、その人は近づいてささげることができました。彼はこの国に生まれた者と同じとなるからです。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはなりませんでした。旧約の時代でも、信仰を持つなら異邦人でも招かれていたのです。すなわち、主はすべての人が救われることを願っておられたということです。

 

このように、イスラエル人が過越しの食事を行うのは、彼らが主の圧倒的なみわざによってエジプトから救い出されたことを記念するためでした。同じようにクリスチャンは、キリストが私たちを罪から贖ってくださるために十字架で死んでくださったことを記念するために聖餐式を行っています。それが主の定められた礼典でした。私たちは、そのことによって神の愛と恵みを思い出すことができます。神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っています。すなわち、心に割礼を受けることを望んでおられるのです。私たちの救いのために主イエスが成し遂げてくださった救いのみわざを覚えて感謝しましょう。

ヨハネの福音書8章47~59節 「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです」

今日は、58節のイエス様のことば、「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」から、ご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.死を見ることがない人たち(48-51)

 

まず48節から51節までをご覧ください。48節には、「ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」とあります。

 

このヨハネの福音書8章は、姦淫の現場で捕らえられた女に対して、律法学者とパリサイ人がイエス様に、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じていますが、あなたは何と言われますか」と質問したのに対して、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたことから、彼らとの長い論争が続きます。

12節のところでイエス様は、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。しかし、彼らは、そのイエス様のことばを受け入れることができませんでした。なぜなら、真実な証言には二人の人以上の証言が必要とされていたからです。

そんな彼らに対してイエス様は、「わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」(24)と言われました。なぜなら、イエス様を信じなければ、彼らの罪が残ることになるからです。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。しかし、真理はあなたがたを自由にします。イエス様こそその真理であり、そのみことばに従うことによって、私たちは本当の自由を得ることができるのです。

しかし、彼らはイエス様を受け入れることができませんでした。自分たちはアブラハムの子孫であって、何の奴隷でもない、と主張したのです。でも、もし彼らがアブラハムの子孫であるなら、アブラハムのわざを行うはずです。それなのに、彼らはイエス様を殺そうとしていました。それは、彼らがアブラハムの子孫ではなく、「悪魔から出た者」であり、悪魔の欲望を成し遂げたいと思っているからです。

 

するとそれを聞いていたユダヤ人たちは、「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」と言いました。どういうことでしょうか。これは、ひどい言葉です。おそらく、当時、考えられる限りの最悪の言葉だったでしょう。

「サマリア人」というのは本来サマリアに住んでいる人を指して使われる言葉でしたが、次第に、相手が誰であろうと関係なく軽蔑して言う時に使われるようになった言葉です。というのは、B.C.931年に、イスラエルは北王国イスラエルと南ユダ王国に分裂するのですが、B.C.722年にその北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされると、アッシリア帝国は多くの人々を捕虜して連れて行った代わりに他国の人々を連れて来て住まわせたため、彼らは混血族になってしまったからです。純血を重んじるユダヤ人にとって、それは考えられないことでした。それ以来、混血族になってしまったサマリア人を、神の祝福を受けられなくなってしまった人々として蔑視するようになったのです。それでユダヤ人はサマリア人を徹底的に嫌っていました。話もしなければ、その土地も通りませんでした。完全にシャットアウトしていたのです。そのサマリア人だと言ったのです。

 

また、悪魔というのは悪の霊のことです。それは神と正反対の存在で、神からもっとも遠く離れた存在です。神様がきよく正しい方であるならば、悪魔はもっとも汚れた不正な存在です。彼らはイエス様を、「お前はそのような悪魔に取りつかれたやからに違いない」と決めつけたのです。リビングバイブルでは、このところを次のように訳しています。「あんたはサマリア人だ!よそ者だ!悪魔だ!そうとも、やっぱり悪魔に取りつかれているんだ!」ユダヤ人の指導者たちはわめき立てました。」非常によく、その雰囲気を捉えているのではないでしょうか。神の子イエスを前にして、彼らは全く何も見えていなかったのです。何と驚くべきことでしょう。

 

それに対してイエス様はこのように答えられました。49節と50節です。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。」

そして、こう言われました。51節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」

イエス様はいつも重要なことを言われるとき、「まことに、まことに、あなたに告げます。」と前置きして言われますが、ここでもそうです。そしてその重要なことと

は何かというと、だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがないということでした。この「死」とは、もちろん「霊的死」のことです。霊的死とは、創造主なる神との関係が切れている状態を指します。人は神のかたちに造られ、神と関係を持って生きるように造られたので、それによって真の喜びと幸福を味わうことができるのに、それを永遠に味わうことができないとしたらどんなに不幸なことでしょう。その人の行き着く所は永遠の死です。これが聖書で言っている第二の死のことです(黙示録21:8)。しかし、イエス様を信じる者は、肉体的には死ななければならなくても、霊的に死ぬことはありません。その霊は永遠に生きるのです。イエス様は言われました「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:47)

 

アメリカフロリダ州にある大きな長老教会の牧師で、「爆発する伝道」という世界的に用いられている伝道教材を作ったジェームズ・ケネディ牧師は、2007年に天に召されましたが、彼はクリスチャンの死生観について次のような言葉を残しています。

「いつか、私にも人生の終わりというものが来ます。私は箱に入れられ、教会の前のちょうどそのあたりに安置されるでしょう。周りには人が集まって、泣いている人もいるかもしれません。ただ、これまで言ってきたように、そうしないでいただきたい。皆さんに泣いてほしくないのです。告別式は、頌栄(神に栄光を帰する賛美歌)で始めて、ハレルヤコーラスで締めくくってください。私はそこにはいないし、死んでなんていないのですから。私は、今まで生きてきたどの時よりも生き生きとしていて、かわいそうな皆さんを上から眺めています。死にゆく世界にとどまっている皆さんは、生ける世界にいる私のもとにはまだ来ることができません。そして私は、私自身も、だれも経験したことがないほどの健康と、活力と、喜びにあふれ、いついつまでも生き続けるのです。」

何と希望に満ちた言葉でしょうか。人は皆、死に対して恐れや不安を持っていますが、このような希望が約束されていることがわかれば、私たちの死は確実に安らかなものとなるのではないでしょうか。仏教では、悪い行いを一切しないように努力し、できる限りよい行いをして功徳を積んでいれば、安らかな死を迎えることができると説きますが、悪い行いを一切しないで生きることができる人がいるでしょうか。いません。ですから、私たちは行いによっては決して罪が消えることはなく、いつも死に対して不安を抱えて生きなければなりませんが、キリストを信じ、キリストのことばに生きる人は、いつまでも決して死を見ることはありません。

 

教会では今、マクペラの墓に墓地を求めることになりました。この礼拝堂くらいの広さがあります。できれば、その入口に教会の名前とみことばの入った墓石を置きたいなぁと思っていますが、もし置くとしたら、どんなみことばがいいだろうと勝手創造しています。そして、このみことばがいいんじゃないかなぁと思うんです。それは、ルカの福音書24:6「ここにはおられません。よみがえられたのです。」です。私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に なって、あの大きな空を 吹きわたっています、ではないですが、もうそんなところにはいない。今まで生きてきたどの時よりも生き生きとしていて、かわいそうな皆さんを上から眺めています、と言えるのは、本当にすばらしい希望です。

 

先週、さくらのNさんの義母様が召されました。もうダメだというとき、Nさんからメールをいただきました。これまでなかなか母に心を開くことができず、福音を語ることができなかったのですが、先週のメッセージで、赦すというのは感情の問題ではなく信仰の問題だとお聞きし、あれからイエス様に祈ってみたら、やって心を開くことができるようになりました。それで、明日の昼、ちょうど母と二人きりになる時間が与えられるので、母に福音を伝えたいのですがどのように伝えたらよいか端的に教えてください、ということでした。

それで私は、五つのポイントがあります。一つは、これまでお母さんに心を開けなかったことをお詫びし、二つ目に、お母さんにも天国に行ってほしいことを伝え、三つ目に、そのためにイエス様が十字架にかかって死んでくださったということ、そして、四つ目に、このイエスを信じるならすべての罪が赦されて永遠のいのちが与えられるということ、その約束のことば、ヨハネ6:47の「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持っています。」を伝えること、最後に、この福音を信じるようにお勧めすることです。信じるなら、「アーメン」と言って応答するなり、首を縦に振って示してほしいということを伝えて、祈ってください、と伝えました。

後でメールが来ました。言われたとおりに福音を伝えることができました。しかし、すぐに昏睡状態に陥ったため、どのように受け止めたかはわかりませんということでした。でも、その後も何度も祈り、賛美する時間が与えられました、ということでした。

お母さんは、その三日後に召されましたが、結果はすべて神におゆだねし、この救いのみことばをはっきりと伝えることができたことに感謝することができました。先週の月曜日に行われたお別れの会は、急遽「感謝会」となり、お母さんを心から見送ることができました。「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」私たちには、この救いのみことばがゆだねられているのです。

 

ところで、ここには「わたしのことばを守るなら」とあります。この「守る」という言葉は、宝物を保管して大事にするという意味があります。そのように主イエスのことばをいいかげんに扱うのではなく、それに心から従う態度で守るということです。つまり、信仰を持ってみことばを心から受け入れ、それを心にたくわえ、また自分自身の生活に適用し、そのみことばの意味しているところに従って生きるということです。ですから、守るということは、ほかの人が守っているかどうかを問題にすることではなく、自分がそのみことばに生きているということにほかなりません。このようにキリストのことばに生きる人は、いつまでも決して死を見ることがないのです。

 

Ⅱ.アブラハムよりも偉大なのか(52-56)

 

次に、52節から56節までをご覧ください。この主の言葉を聞いて、ユダヤ人は何のことを言っているのかさっぱりわからず、このように言いました。52節、53節です。

「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」

 

彼らには、肉体の死と、霊的死、永遠の死の区別がつきませんでした。イエス様が「わたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません」と言われると、「何を言うか、自分たちの父祖であるアブラハムも、昔の預言者たちも神のことばを守っていたのに死んでしまったではないか。それなのにあなたは、「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない」と言う。自分を何様だと思っているのか。父祖アブラハムよりも偉大な者であるとでも言うのか。」と反論しました。

 

するとイエス様はこう言われました。54節から56節です。

「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」

 

ここでイエス様が言っておられることは、父なる神と御子イエスとの親しい関係です。しかもその関係というのは、父なる神が、御子イエスに栄光を与えられるという関係です。これはどういうことかというと、父なる神がイエスをはっきり御子として認めておられるということです。ですから、この御子イエスをどのように見るかということで、私たちが父なる神にどのように評価されるかが決まるのです。それはユダヤ人たちが信仰の父と仰ぐアブラハムが、主イエスをどのように見ていたかをみればわかるでしょう。「アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」これはどういうことでしょうか。

 

これは大きく二つの解釈に分けられます。一つは、アブラハムは実際にメシヤを見たわけではなかったが、いつかその日が来るということを信仰によって見ていたということです。

もう一つは、創世記18章においてアブラハムのところに三人の御使いが現れたという出来事が記されてありますが、あの出来事のことを指していると考えています。あのマムレの樫の木のそばで三人の御使いがアブラハムに現れたあの出来事です。そのうちの一人は主ご自身でした。受肉前のキリストですね。アブラハムは、この時実際に主を見て喜んだというのです。

この中で最も適切だと思われる解釈は、先のものでしょう。というのは、主は、「アブラハムはわたしを見た」と言われたのではなく、「わたしの日を見た」と言っておられるからです。アブラハムにとっての喜びは、彼の子孫からメシヤ、救い主が出るという約束に対して、それを信仰によって遠くから見ることでした。アブラハムは、それを見て喜んでいたのです。

 

また、同じヨハネの福音書12章41節に、「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」とありますが、ここでの言い方とこの表現とが調和していることから考えても、これは、アブラハムがやがて来られるメシヤの日を喜び、それを信仰によって見て、喜んでいたと解釈するのが自然です。

 

また、ここでイエス様がこのように言われたのは、アブラハムがわたしを見たのだということを告げることにあったとは思えません。そうではなく、むしろ、わたしはあなたがたの父祖アブラハムに約束された「その末」なるメシヤである、と告げることが目的だったのではないかと思われます。ユダヤ人たちが、「あなたはアブラハムよりも偉大なのか」と尋ねた時、主は「そうである」ということの根拠をここに示そうとしておられたのです。つまり、「わたしはそうである。わたしは、アブラハムがメシヤの日のことを聞いて喜び、信仰によってそれを遠くに見たそのメシヤそのものなのである。もしあなたがたがアブラハムのようであったなら、あなたがたもわたしを見て喜んだであろう。」と言いたかったのです。

 

このようにして見ると、イエス様の偉大さが際立っています。ユダヤ人たちは、あなたは、私たちの父祖アブラハムよりも偉大なのかと言いましたが、主はアブラハムとは比較にならないほど偉大な方なのです。なぜなら、主はそのアブラハムが信仰によって見ていたメシヤそのものであられるからです。そのことはアブラハムだけでなく、すべてのクリスチャンにとっても同じです。イエス・キリストこそ、私たちにとっての生きがいであり、喜びであり、希望そのものなのです。

 

あなたはどこに希望を置いていらっしゃいますか。あなたの生きがい、喜びは何でしょうか。信仰の父アブラハムが喜びとしたイエス・キリストこそ真の喜びであり、生きがい、希望ではないでしょうか。

 

Ⅲ.アブラハムが生まれる前から「わたしはある」なのです(57-59)

 

最後に、57節から59節までをご覧ください。57節には、「そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」とあります。

 

ユダヤ人たちにはまだイエス様が言っておられることの意味が分かっていませんでした。彼らは、目に見える肉体の姿で地上におられるイエス様だけを見ていたので、「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか」と言いました。そんなことあり得ません。なぜなら、アブラハムは二千年も前に生きていた人物だからです。そのアブラハムを見るなんてできるはずがないだろう、と詰め寄ったのです。

 

するとイエス様はこのように言われました。58節です。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」これは驚くべきことです。イエス様はイエス様の時代よりも二千年も前に生きていたアブラハムが生まれる前からおられたというのですから。それだけでなく、この「わたしはある」という表現は、ユダヤ人ならば誰でも思い出す旧約聖書の表現でした。

旧約聖書の出エジプト記3章14節に、神はモーセに、「わたしは『わたしはある』という者である。」と言われたことが記されてあります。これは聖書の神が他の何ものにも依存しないでも存在することができる方であるということ、すなわち、すべての存在の根源であることを示しています。そうです、聖書の神は、すべてのものを創られた創造主であられるのです。

 

そして、イエス様が「わたしはある」と言われるとき、それはイエス様がこの「わたしはある」という者であることを示しています。これはギリシャ語では「エゴー・エイミー」という言葉であることは以前お話ししたとおりです。ヨハネの福音書には、この「エゴー・エイミー」という言葉を何かと組み合わせてイエス様がこの世の救い主であることを示している箇所が7回出てきます。

「わたしは命のパンです。」(6:35,41,48,51)

「わたしは世の光です。」(8:12)

「わたしは門です。」(10:7,9)

「わたしは良い羊飼いです。」(10:11,14)

「わたしはよみがえりです。いのちです」(11:25)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1,5)

つまり、イエス様が「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです」と言われたのは、ご自身が神であり、永遠の存在者であるという宣言だったのです。ですから、それを聞いたユダヤ人たちは、イエス様に石を投げつけようとしたのです。イエス様がご自分を神に等しい方とされたからです。もしイエス様が実際にそうでなかったとしたら、それは神を冒涜することになり、石打ちにされても仕方ないでしょうが、しかし、イエス様はまことの神であり、神と同等であらる方なので、神を冒涜する罪は犯しませんでした。イエス様はまことの神であられ、アブラハムが生まれる前からおられた永遠なる神なのです。

 

イエス様はこの天地を創造された時にも、アブラハムの時代にも、モーセやイザヤの時代にも、いつの時代も存在しておられた方であり、今、この時も存在して、あなたの傍らにおられます。そして、あなたを無力さや失望から救い出してくださいます。なぜなら、すべての存在の根源であられるキリストがあなたの人生に目的と意味を与えてくださるからです。

 

この方を信じるとき、あなたはあらゆる虚しさや絶望から解放され、本当の生きがいを見いだすことができます。あなたを創造しどんな時もあなたとともにおられるキリストこそ、あなたに真の喜びと希望、そして生きがいを与えることができる方なのです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

Ⅰサムエル記1章

きょうから、サムエル記第一を学んでいきたいと思います。きょうはその第1章です。

 

Ⅰ.ハンナの痛み(1-8)

 

まず、1~8節までをご覧ください。

「エフライムの山地ラマタイム出身のツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。この人はエロハムの子で、エロハムはエリフの子、エリフはトフの子、トフはエフライム人ツフの子であった。エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もう一人の名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。この人は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた。そこでは、エリの二人の息子、ホフニとピネハスが主の祭司をしていた。そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、 ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。また、彼女に敵対するペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた。そのようなことが毎年行われ、ハンナが主の家に上って行くたびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか。」

 

舞台は、エフライムの山地です。ラマタイム出身のツフ人の一人で、エルカナという人がいました。第三版には「エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。」とあります。こちらの方がわかりやすいですね。「ラマタイム・ツォフィム」とは「ラマ」のことです。ですから、エフライムのラマという町にエルカナという人がいたとなります。

彼には二人の妻がいました。一人は「ハンナ」といい、もう一人は「ペニンナ」といいました。「ハンナ」とは「恵み」という意味があります。また、「ペニンナ」という名には「真珠」という意味があります。なぜエルカナには二人の妻がいたのでしょうか。当時の習慣や律法の教えを考慮すると、ハンナに子が与えられていなかったので、さらにペニンナを妻として迎えたのではないかと考えられます。というのは、当時、不妊であるというのは、神ののろいが下ったものと考えられていたからです。申命記7章14節にこうあります。

「あなたはあらゆる民の中で最も祝福される。あなたのうちには、子のいない男、子のいない女はいなくなる。あなたの家畜も同様である。」

それはハンナの存在価値を失わせるようなことでした。それで夫のエルカナは、ハンナによって得られなかった子供をペニンナによって得ようとしたのではないかと思われます。それはハンナのことを思ってのことです。

 

しかし、すべての不妊がそうなのではありません。神の時が来るまで、一時的に不妊の状態に置かれた婦人たちもいました。ハンナはその良い例です。また、神によってあえてそのような状態に置かれる場合もあります。その場合、たとえば、子供がいてはできないような奉仕に導かれることがあります。ですから、すべての不妊が神ののろいによるのではありません。人間的に不幸と思えることの背後にも、神の深いご計画があることを覚えておかなければならないのです。

 

では、ハンナの場合はどうだったのでしょうか。神は彼女にどんなご計画を持っておられたのでしょうか。3節には、「この人は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた」とあります。

イスラエル人の男性は、年に3度、主の宮に上って、主を礼拝し、いけにえを捧げるように命じられていました。エルカナは神に対して非常に忠実な人であったので、毎年シロに上り、主を礼拝し、いけにえをささげていたのです。そして、そのいけにえの中から自分の受ける分を取り、家族とともに祝いの食事をしていました。ここには「受ける分」とあります。これは、和解のいけにえをささげる場合に行なわれときにささげる者が受ける分のことです。祭壇でいけにえを焼くとき、脂肪分は完全に焼き、それを主のものとしてささげると、胸と右肩の肉は祭司のものとなりました。そして残りがそのささげた人のものとなるわけですが、それがその「受ける分」です。これを共に食べることによって、神と交わりを持つことができるとされていました。

エルカナは、妻のペニンナとその息子たちと娘たち全員に、それぞれ受ける分を与えるようにしていましたが、ハンナには特別の受ける分を与えていました。この「特別の受ける分」とは、下の欄外の説明にあるように、直訳では「二つの鼻」のことです。これは2倍の量、あるいは最良の部分を意味します。それを与えていたのです。それは、彼女の胎が閉ざされていましたが、彼がハンナを愛していたからです。おそらく、不妊で苦しむ彼女を慰め、自分の愛を伝えたかったのでしょう。また、もう一人の妻ペニンナが、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせているのを見て、慰めようとしたのだと思います。

 

しかし、そのようなことが毎年行われるので、ハンナが主の宮に上って行くたびに、悲しみのあまり、主との交わりである特別の食事でさえ喉が通らなくなりました。そこで夫のエルカナは、ハンナを励ますためにこう言いました。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか。」つまり、あなたは私の愛を得ているのだから、それは10人の息子を得る以上のことではないか。だからがっかりしなくてもいい、と言っているのです。だったらなぜペニンナを妻にしたのか、と言いたくなるところですが、彼は自分にできる限りの愛をもって彼女を励まそうとしているのです。彼は自分の存在は彼女のためであり、そのすべてを得ていることが彼女の癒しになると考えていたのです。

彼の存在が10人の息子以上の者であるかどうかはわかりませんが、間違いなく言えることは、私たちの主イエスの存在は、息子10人以上の価値があるどころか、私たちの心の痛みを完全に癒すことができるということです。私たちの心の痛みや嘆きは、エルカナ以上のお方、私たちの主イエス・キリストによって完全に癒されるのです。パウロはピリピ人への手紙の中で、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてのことを損と思っています。」(ピリピ3:8)と言っています。キリストを知っているということは、すべてを得ていることなのです。ですから、私たちにもハンナのような痛みやイライラがあるかもしれませんが、息子10人にもまさる方、いや、すべてのすべてであられるイエス様が与えられていることを感謝し、この方を見上げながら前進しようではありませんか。

 

Ⅱ.ハンナの祈り(9-20)

 

次に9節から20節までをご覧ください。11節までを読みます。

「シロでの飲食が終わった後、ハンナは立ち上がった。ちょうどそのとき、祭司エリは主の神殿の門柱のそばで、椅子に座っていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」

 

さて、シロでいけにえをささげ、食事が終わると、ハンナが立ち上がりました。ただ立ち上がったということではありません。主の宮に行って祈るために立ち上がったのです。彼女の心は痛んでいました。それで彼女は主の宮で激しく泣き、心を注いで祈ったのです。祭司エリは、その様子を主の宮の門のそばで、椅子に座って見ていました。

ハンナは誓願を立てて言いました。「もし神がはしためを顧みてくださり、男の子を与えてくださるのなら、その子を一生涯、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりをあてません。」これはナジル人の誓願です。(民数記6:5)士師記に登場したサムソンも生まれながらのナジル人でした。この両者の違いは、サムエルは母の誓願によってナジル人になったのに対して、サムソンは神の命令によってナジル人になったという点です。聖書には、生まれながらのナジル人として登場する人が3人います。このサムエルとサムソン、そして、バプテスマのヨハネです。主はこのような祈りを通して、ご自身のみわざを現そうとしていたのです。

 

ヨハネ第一の手紙5章14節には、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」とあります。主が人の心に、ご自分の願いを起こされます。そして、神がその祈りを聞かれることによって、ご自分のわざをその祈った人を通して行なわれます。祈りは、私たちの願いではなく、神のみこころがこの地上で行なわれるための手段なのです。

 

詩篇50篇15節には、「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」とあります。ハンナの祈りに答えてくださった神に、私たちも祈る特権が与えられています。私たちも、私たちを苦難から助け出してくださる主に、心を注いで祈ろうではありませんか。

 

次に12節から18節までをご覧ください。

「ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」

 

ハンナは主の前で長く祈っていましたが、それは言葉に出さずに心の中で祈っていたので、唇だけが動いていただけで、声は聞こえませんでした。そこでそれを見ていた祭司エリは、彼女がぶどう酒を飲んで酔っているのだと思ってこう言いました。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

 

するとハンナは、自分が酔っているのではなく、心に悩みがあるので、主の前に心を注いで祈っていると説明しました。

 

それを聞いたエリは、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いがかなえてくださるように。」と言いました。これは祈りなのか、それとも預言なのか、あるいは単なるあいさつなのかわかりません。しかし、それがどのようなものであったとしても、彼女はそれを神からの約束の言葉として信じて受け取りました。このように信仰によって神の約束を受け取ることが重要です。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)とあるからです。

 

彼女はどれほどうれしかったでしょう。そのうれしさは、18節の次の言葉によく表されています。「それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」

彼女は、祭司エリを通して語られた主の言葉を信じて、帰路に着きました。すると、食事が喉を通り、その表情も以前のように悲しみに満ちたものではなくなりました。これが心を注ぎだす祈りをした結果です。彼女の顔は変わりました。祈りは周りの状況を変える前に、自分の内面を変えるのです。たましいの創造者に自分を任せることができるようになるからです。

 

19節、20節をご覧ください。主は彼女の内面を変えただけでなく、その実際的な必要にも応えてくださいました。「彼らは翌朝早く起きて、主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家に帰って来た。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。」

 

ここの「知った」というのは、もちろん夫婦関係を持った、ということです。そして主が彼女を心に留めておられたので、彼女は身ごもって男の子を産みました。それが「サムエル」です。「サムエル」とは、「神が聞いてくださった」という意味です。ハンナは、自分の祈りが聞かれたことをいつまでも覚えておくために、自分の息子に「サムエル」という名前を付けたのです。あなたは自分の人生の中で主が祈りをきかれ、あなたに良くしてくださったことを、どのように覚えておられますか。今もう一度、主の恵みを思い起こして、主の御名をほめたたえましょう。

 

Ⅲ.子どもを主にささげたハンナ(21-28)

 

最後に21節から28節まで見て終わりたいと思います。

「夫のエルカナは、年ごとのいけにえを主に献げ、自分の誓願を果たすために、家族そろって上って行こうとした。しかしハンナは、夫に「この子が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。 夫のエルカナは彼女に言った。「あなたが良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまでとどまりなさい。ただ、主がそのおことばを実現してくださるように。」こうしてハンナはとどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。その子が乳離れしたとき、彼女は子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行った。その子はまだ幼かった。彼らは子牛を屠り、その子をエリのところに連れて行った。ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。」

 

夫のエルカナは、毎年主の宮に上ることを習慣としていました。しかし、息子が誕生するとハンナは、上って行くことを拒みました。それは彼女が幼子を主にささげたくなかったからではなく、幼子が乳離れするまではその子を手元に置き、それから主の働きのためにささげようとしたからです。当時の習慣では、幼子が乳離れをするのは大体3歳くらいであったようです。夫のエルカナはその申し出を受け入れました。

ですから、サムエルは人生の基礎づくりとなる3年間を敬虔な母親の下で、母親の愛によって育てられることになるわけです。それはやがて信仰の偉人となるサムエルにとっては、欠かせないことでした。昔モーセも乳離れするまで実母の下で育てられたことを覚えていますか。それによって彼はへブル人としてのアイデンティティーをしっかりと持つことができました。同じように、サムエルも信仰と祈りに満ちた母ハンナに育てられることによって、将来主のために用いられる礎をしっかりと築くことができたのです。それにしても、敬虔な母親によって育てられた人は、何と幸いでしょうか。

 

古代キリスト教の偉大な神学者の一人アウグスティヌスも、敬虔な母モニカによって育てられました。16歳の時からカルタゴで修辞学を学んだアウグスティヌスは、19歳で母の同意もなく同棲し2人の子供をもうけます。常に襲い来る肉の誘惑と自分が描く理想の姿とのギャップに苦しむアウグスティヌスは、善悪二元論を唱えるマニ教に帰依して、ますます神様から離れていきます。心配した母モニカは、主教のアンブロシウスに相談しました。アンブロシウスは、「安心して帰りなさい。涙の子は決して滅びることはない。」と言って励ましました。モニカは、息子のために、涙を流して何年も熱心に祈り続けました。そして、天に召される1年前に、モニカの祈りは答えられたのです。すでに32歳になっていたアウグスティヌスが、アンブロシウスによってバプテスマを受けると、モニカは、「私がこの世に少しでも生き永らえたいと思った望みは、一つだけでした。それは死ぬ前に、クリスチャンになったあなたを見ることでした」といって喜んだということです。そしてアウグスティヌスは、やがて初期キリスト教会最大の思想家といわれるほどになったのです。

このことからも、幼児期の信仰の教育がどれほど重要であるかがわかります。それと、涙の祈りが・・。最近は、母親が毎日忙しく子どもとの時間がとりにくい時代になりました。しかし、三つ子の魂百までも、ということわざがあるように、3歳までの幼児教育は、その後のその子の人生にって大きな影響をもたらすということを考えると、まず自分自身がしっかりと主に向き合い、そして自分の子どもに向き合うことがいかに重要であるかを思い知らされます。

 

24節をご覧ください。いよいよその子が乳離れする時がやって来ます。ハンナは子牛3頭、小麦粉1エパ、ぶどう酒の革袋1つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行きました。

ハンナは祭司エリに、自分は息子を一生涯主に捧げるが、それは主に約束したとおりであると伝えます。26節から28節にある彼女の言葉に注目してください。ここで彼女は、自分がかつてエリのそばで祈った女であること、そして、その祈りのとおりに、主は彼女の願いをかなえてくださったということ、それゆえに彼女もまた、その子を主におゆだねする、と言っています。つまり、彼女がその子を主におゆだねするのは、主が彼女にその子を与えてくださったからです。私たちも何かを主にささげるのは、主から与えられているからです。主から与えられていないものをささげることなどありません。

 

こうしてサムエルは、生涯ナジル人として主に仕えることになります。そして彼はやがて、イスラエルを導く偉大な祭司、預言者、士師となるのです。ここに王制がスタートすることになります。彼はその王に油を注ぐ任務が与えられます。重大な使命を担う訓練が、ここに始まりました。すべてはこのハンナの祈りから始まりました。祈り深い母の影響力が、いかな大きいかということを痛感させられます。

ヨハネの福音書8章31~47節 「真理はあなたがたを自由にます」

今日は「真理はあなたがたを自由にします」というタイトルでお話しします。真理に従う時、私たちは自由になり、不思議な力が出てきます。では真理とは何でしょうか。今日は、その真理についてご一緒に学んでいきたいと思います。

 

Ⅰ.キリストの弟子とは(31)

 

まず31節をご覧ください。

「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」

 

「ご自分を信じたユダヤ人たち」とは、その前のところで、イエスを信じたユダヤ人たちのことです。彼らは、主が「わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」(24)と言われた言葉を聞いて、イエスを信じました。そのユダヤ人たちに対して主は、「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」と言われました。どうして主はこのように言われたのでしょうか。

 

その後のところを見ると、その理由がわかります。つまり、彼らの信仰が十分でなかったからです。確かに彼らはイエス様を信じましたが、その信仰というのはただ口先だけのものでした。というのは、33節を見るとわかりますが、イエスがこのように言うと、彼らはイエスの言葉に反発しています。「あなたがたは自由になる」とはどういうことか・・。自分たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともない。初めから自由人である自分たちに、「あなたがたは自由になる」と言うのはおかしいではないか。それははなはだ失礼なことである、そう言ったのです。彼らはイエス様のことばを受け止めることができませんでした。

 

また、44節を見ると、イエス様が彼らに向かって、「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」と言っています。「あなたがた」とはだれのことですか?ここでイエス様を信じたユダヤ人たちのことです。その彼らに向かって悪魔呼ばわりしているのです。そうです、確かに彼らはイエス様を信じましたが、その信仰というのはイエスに従う信仰ではなく、自分の思いを優先する信仰だったのです。自分の思いを優先する信仰、そういう信仰があるでしょうか。ありません。したがって、彼らの信仰は本当の信仰ではなかったのです。では本当の信仰とはどのようなものなのでしょうか。

 

イエス様はここでこう言っています。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」「わたしの弟子」とはキリストの弟子のこと、すなわち、クリスチャンのことです。本当のクリスチャンとは、本当にキリストを信じるとは、キリストのことばを聞いて信じ、そのみことばにとどまっている人のことです。そうでなければ、信仰生活を続けることはできないでしょう。信仰生活において大切なことはそれを「始める」ことだけでなく、それを「続ける」ことです。そして、最後まで走り抜くことです。それが本当に恵みのうちにいるかどうかの試金石となるからです。最初に猛然と走り出す人ではなく、自分のスピードを保ちながら最後まで走り続ける人です。そういう人こそ「賞を受けられるように走る」人なのです。出発するとともに進み続ける人が、本当にキリストの弟子です。そしてそのためには、キリストのことばにとどまっていなければなりません。

 

主は、そのことをマタイの福音書7章21節でこのように教えられました。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」どういうことですか?その日には多くの人が主に言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」でも、そのとき主は、彼らにはっきりとこう言われます。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(マタイ7:23)どういうことですか?

どんなにキリストの名を呼んでも、どんなにキリストの名によって奇跡を行っても、キリストの父のみこころを行うのでなければ、すなわち、キリストに従うというのでなければ、キリストの弟子ではないということです。

 

ですから、イエスのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、イエスのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。

岩の家に建てられた家と砂の家に建てられた家のたとえ話です。キリストのことばを聞くだけでは本当の弟子になることはできません。本当の弟子は、キリストのことばを聞いて信じ、そのことばにとどまる人です。そのことばに生きる人なのです。

 

Ⅱ.真理はあなたがたを自由にします(32-41)

 

なぜキリストのことばにとどまることが必要なのでしょうか。それは、32節にあるように、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」からです。

 

真理とは何でしょうか。真理とは、イエス・キリストであり、イエス・キリストのことばです。イエス・キリストはこのように言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

人類は長い間この真理を捜し求めてきました、未だになお到達していません。しかし主はここで、もし人がご自身のことばにとどまるなら、その人は真理を知り、その真理があなたがたを自由にすると言われました。すなわち、キリストご自身が真理であり、ご自身のことばが真理のことばなのです。

人類の長い歴史の中で多くの学者たちが追及してきたのに到達できなかった真理が今、キリストのことばにとどまることによって到達することができるのです。なぜなら、イエス・キリストこそ真理そのものだからです。この真理とは哲学的な真理とか、科学的な真理といったものではなく、真理そのもののことです。真理の中の真理です。そしてこの真理が、あなたがたを自由にします。どういうことでしょうか?

 

私たちは別にイエス様に自由にしてもらわなくても自由ですよ。いつ寝ても自由だし、いつ起きても自由です。別に働いても、働かなくても自由です。勉強しても、しなくても自由、信じても、信じなくても自由、何をしても自由です。確かに今の日本ほど自由な国はありません。でも、それで本当に私たちは自由でしょうか。外面的には自由かもしれませんが、でも内面的にはどうかというと、必ずしもそうではありません。案外と不自由なのではないでしょうか。たとえば、私たちは私たちを取り巻く環境や人のうわさの奴隷になっているということはないでしょうか。また世間体やメンツ、名誉といったものの奴隷になっていることはないでしょうか。あるいは、欲望やお金の奴隷になってはいないでしょうか。さらには習慣や性格の奴隷になっているということはないでしょうか。パウロはローマ人への手紙の中で、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と嘆いていますが、したいと思う善を行わないで、したくない悪を行ってしまうということはないでしょうか。そうした罪の奴隷となっていることがあります。

 

たとえば、人を赦すことはどうでしょうか。私たちはなかなか人を赦すことができなくて苦しむことがあります。モーパッサンの作品に「ひも」という短編があります。主人公の男オーシュコロンは、ある日道を歩いていてひもを見つけ、それを拾ってポケットに入れました。

やがてその同じ道で財布を落とした人があらわれました。するとひとりの人が、「おれはオーシュコロンおっさんがポケットに入れるのを見た。」と言いました。

それで彼は疑われ、取り調べを受けることになりました。ポケットからひもを取り出して「拾ったのはこのひもだ」と説明してもなかなか信じてもらえません。

そうこうしているうちに、なくなったはずの財布が見つかるのです。「よかった。よかった。」とみんな喜び、人々はその出来事をすっかり忘れてしまいましたが、どうしても忘れられない人が1人だけいました。そうです、このオーシュコロンのおっさんです。彼は自分が疑われたことを、あちこちに行っては話し、とうとう田畑を耕すのを忘れて、寂しく死んでいきました。人を赦すというのは本当に難しいことです。どうしたら赦すことができるのでしょうか。

 

それは真理に従うことです。真理とはイエス様であり、イエス様のことばのことですから、そのことばに従うことによって赦すことができるのです。イエス様は何と言われたでしょうか。

あるとき、弟子のひとりのペテロがやって来て、イエス様にこのように尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」(マタイ18:21)

すると、イエス様はこう言われました。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」(マタイ18:22)

七回を七十倍するまでとは49回までということではありません。まあ、一日に49回も赦すというのはすごいことですが、ここではそういうことではなく「どこまでも」ということです。どこまでも赦すこと、それが真理であられるイエス様のことばです。このことばに従うことです。

また、イエス様はこうも言われました。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:38-44)

「目には目を、歯には歯を。」それが人間の持っている自然の反応です。けれども、天の父である神の子どもは違います。右の頬を打つ者には左の頬も向ける。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせる。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行くのです。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。これが天の父である神の子に求められている姿です。これを実行するのです。

 

つまり、赦すというのは感情の問題ではなく、従順の問題なのです。たとえ赦すという感情がなくても赦せるのは、それがイエス様の命令であり、そのイエス様の命令に従うがゆえなのです。そして、このイエス様の命令、イエス様のことばに従うとき、初めて赦すことができるようになるのです。真理はあなたがたを自由にするからです。

 

しかし、当時のユダヤ人たちは、この真理のことばに従うことができませんでした。33節をご覧ください。彼らはイエスがそのように言うと、こう言いました。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

「アブラハムの子孫」というのは、彼らが持っていた確信とプライドを表現しています。つまり、彼らはだれの奴隷にもなったことがないということです。ですから、最初から自由人である自分たちに向かって、「真理はあなたがたを自由にする」というのはおかしいではないかと、と言ったのです。どこか私たち日本人に似ていると思いませんか?自分は何の奴隷にもなっていないし、すべてから解放されているのに、どうして自由にしてもらう必要などあるだろうか・・と。本当にそうでしょうか。

 

34節から36節までの箇所の中でイエス様は、彼らが本当に自由ではないことを次のように言って、次のように言って説明しています。

「イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」

主はここで、彼らをそこから救い出したいと願っておられる奴隷の状態というものがどういうものなのか、そして、その自由というものがどのような意味での自由なのかを教えています。それは「罪の奴隷」であって、その罪から解放されること、霊的に自由にされることです。罪の奴隷は、神の家に住むことができません。それゆえ、真理によって解放してもらわなければなりません。真理とは何ですか。真理とはイエス・キリストです。ですから、「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」とあるのです。子であられるイエス・キリストを信じ、そのことばにとどまるなら、その真理が彼らを罪から解放し、自由にすることができるのです。

 

しかし、彼らは真理に従っていませんでした。というのは、彼らは自分たちこそアブラハムの子孫であると確信していたからです。そして、イエスを殺そうとしていました。37節でイエス様は、「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていなかったからです。」と言われました。アブラハムの子であると主張していながら、アブラハムのわざを行っていないというのは自己矛盾です。アブラハムが義と認められたのは、主を信じたからです。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:6)とあるとおりです。「主」とはだれですか。イエス様でしょう。そのイエスを彼らは殺そうとしていたのです。神から聞いた真理を話していたイエスを殺そうとすることが、アブラハムのわざであるはずがありません。逆にイエスを信じることこそ、アブラハムのわざを行うことであり、そのような人こそアブラハムの子孫なのです。

 

つまり、彼らは真理のことばに従っていなかったのです。従っているようで、実のところ、そうではありませんでした。彼らはイエス様のことばに対して良いところは受け入れても、嫌なことは受け入れることができませんでした。結局のところ、イエス様のことばよりも自分の考えの方を優先していたのです。そのような心でどうやって真に自由になることができるでしょうか。なれません。なぜなら、真理があなたがたを自由にするのだからです。真理であられるイエス様が私たちを自由にし、その真理のことばにとどまることによってこそ、本当に自由になることができるのです。あなたはどうでしょうか。

 

アメリカの南北戦争の時、有名な将軍で小説家でもあったリュー・ウォレスは、「ベン・ハー」という小説を書きました。この小説は、もともと彼がキリスト教の神話を永遠になくすために書いた本でしたが、第二章の第1ページを書き始めたところで、イエス・キリストの復活の出来事の真実の前に、「あなたはわが主、わが神です」と信仰を告白したことで、キリストが真実であることを証しする本になりました。

この本の主人公であるベン・ハーは、自分の母親と妹をらい病へと追いやったローマの将軍メッサラを赦すことができず、彼と戦って勝利をおさめ、彼の命までも奪っても赦すことができませんでしたが、彼の妻がクリスチャンになったことで、キリストがどのように教えているのかを証しするのです。そんなの迷信の類だとなかなかキリストを受け入れることができなかったのですが、ゴルゴタの丘でキリストが十字架にかかられた時に、そこで発せられた言葉を聞くのです。それは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)ということばでした。敵のために祈られるキリストのことばを聞き、このキリストこそまことの救い主であると信じた彼は、そのことばに従い心から敵を赦すことができました。そのとき、らい病に冒されていた母親と妹がいやされたのです。

 

それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神はそのみわざをご自身の御子イエス・キリストによってあらわしてくださいました。ですから、子があなたを自由にするなら、あなたは本当に自由になるのです。あなたもイエス様を信じてください。そうすれば、あなたはあなたの心を縛っていた罪の縄目から解放していただくことができます。そして、あなたがこのイエスをあなたの人生の主としてあなたの心の王座に迎え、このイエスのことばに従って生きるなら、あなたは真の自由を経験することができるのです。真理があなたを自由にするからです。

 

Ⅲ.真理に従うために(42-47)

 

では、真理に従うにはどうしたらいいのでしょうか。42節から47節までをご覧ください。

「あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。『私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。』イエスは言われた。『神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。』」

 

このイエス様のことばを、彼らはなかなか理解することができませんでした。そして彼らはイエス様にこう言いました。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」どういうことですか。自分たちは愚かな偶像の民ではない、唯一のまことの神を信じている者であって、正しい者であるということです。彼らはイエスを信じたはずなのに、もうイエス様のことばに反抗しています。

 

そこでイエス様は彼らがなぜご自分に従うことができないのか、その理由を語られます。それは彼らが悪魔から出た者たちだからです。

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(44)

彼らがイエス様の教えに耳を傾けることができなかったのは、悪魔によって目が閉ざされていたからです。皆さんは、福音のメッセージを聞いても、それをなかなか理解しようとしない人を見て不思議に思ったことはありませんか。使徒パウロは、その理由を次のように述べています。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)つまり、悪魔が未信者の顔におおいをかけているということです。悪魔は、人殺しであり、偽り者です。最初の嘘は悪魔が作り出したものです。また悪魔は、人類に罪を犯させて、人類に死をもたらしました。これが、彼らがイエス様を信じることができなかった本当の理由です。

 

46節でイエス様は、「あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」とチャレンジしています。なぜ信じないのでしょうか?それは、彼らが悪魔から出ていたからです。神から出た者は、神のことばに聞き従います。それは神のわざなのです。聖書を理解するということは、知的なことであるだけでなく、霊的なことでもあります。使徒パウロは、顔の覆いを取り除くことができるのは、聖霊のわざであると言っています。それは私たちが頑張ってとか、一生懸命に努力してできることではありません。それは御霊なる神の働きによるのです。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)

私たちが真理を知り、真理に従うためには、御霊なる神、聖霊によってこの覆いを取り除いてもらわなければなりません。今、聖霊によって、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えていただけるように祈りましょう。また霊の目が閉ざされている人々の目が開かれてイエス様を信じることができるように、そしてイエス様が自由にしてくださるという意味を理解し、イエス様のみことばに従って生きることができるように祈りましょう。そのとき、私たちは悪魔の支配から解放されて神の支配に移されます。そして真理を知り、真理が私たちを自由にします。それは御霊なる主の働きなのです。今、聖霊によって、この働きを受け入れましょう。そして、キリストのことばに従って生きる者とさせていただきましょう。

出エジプト記11章

きょうは、出エジプト記11章から学びたいと思います。まず1節から3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.もう一つのわざわい(1-3)

 

「主はモーセに言われた。「わたしはファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す。その後で彼は、あなたがたをここから去らせる。彼があなたがたを去らせるときには、本当に一人残らず、あなたがたをここから追い出す。さあ、民に言って聞かせよ。男は隣の男に、女は隣の女に、銀の飾りや金の飾りを求めるように。」主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」

 

いよいよ第十番目のわざわいが下ろうとしています。きょうの箇所は、その挿入句の部分です。従って、10章29節と11章4節はつながっていると考えられます。10章29節には、「モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」とありますが、実際にはまだファラオの前を去っていないのです。そのファラオとのやり取りの中で、主がモーセに語られたことが1~3節にまとめられているのです。

 

主はモーセに「ファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す」と言われました。その後でファラオは、イスラエルをエジプトから去らせます。その時には、大人も、子どもも、男も、女も、家畜も、あらゆるもののすべてをエジプトから追い出します。

 

それだけではありません。2節をご覧ください。主は、イスラエルの民がエジプトから、金の飾りや銀の飾りを求めるようにと言われました。どうして主はこのようなことを要求されたのでしょうか。それは、イスラエルの民が後に荒野に導かれそこで幕屋を造るようになる時、それを造る材料が必要だったからです。奴隷であったイスラエル人には金銀がなかったので、エジプト人から受け取るようにしたのです。すごいですね。主はずっと先のことまでご存知で、その準備を進めておられたのです。しかし、それはエジプト人から奪い取るのではなく、エジプト人のほうから進んで差し出してくれるようになります。なぜなら、主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされるからです。5節には、「モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」とあります。こんなにもひどいさばきが自分たちに下っているのに、彼らはなぜモーセとイスラエルの民に好意を持つことができたのでしょうか。一言で言えば、それは主がそのようにされたからです。モーセを通して成された神の御業を見て、彼らはまことの神を認めるようになりました。それでエジプト人はモーセと神の民であるイスラエル人に対して好意を持つようになったのです。

 

使徒の働き5章12~14節にも同じようなことが記されてあります。使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議が人々の間で行われたとき、人々はクリスチャンを尊敬するようになりました。

「さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」

これはアナニヤとサッピラ夫婦が、聖霊を欺いて地所の代金の一部を自分のために取っておいたことで神の怒りが下り、彼らの息が絶えた出来事の後のことです。それを聞いた教会全体とすべての人たちに大きな恐れが生じましたが、主を信じる人たちはますます増え、男も女も大勢になりました。それは、民の中に彼らに対する尊敬があったからです。彼らは、その仲間に加わろうとはしませんでしたが、弟子たちをとても尊敬していたので、主を信じる者たちはますます増えて行ったのです。

 

ここでも同じです。エジプト人たちは、神のわざわいによって苦しんでいましたが、主の大いなる御業を見てモーセとイスラエルの民をたいへん尊敬するようになったのです。私たちも、聖霊によって主の御業を行うなら、周りの人たちから好意を持たれるようになるでしょう。

 

Ⅱ.エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる(4-8)

 

次に4~8節をご覧ください。

「モーセは言った。「主はこう言われます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。このようなことは、かつてなく、また二度とない。』しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、だれに対してもうなりはしません。こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになります。あなたのこの家臣たちはみな、私のところに下って来て、私にひれ伏し、「あなたもあなたに従う民もみな、出て行ってください」と言うでしょう。その後私は出て行きます。」こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。」

「モーセは言った」とは、ファラオに対して言ったということです。つまり、これは10章29節の続きであるということです。モーセはまだファラオの前にいて、ファラオに語ったのです。それは、どのような内容だったでしょうか。それは、主がエジプトの中に出て行き、エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ、ということでした。それで、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こるということでした。このようなことはかつてなかったし、また二度とありません。

 

聖書の中で、長子はとても重要な意味がありました。それは、初めに生まれてきた、というだけでなく、最優先されるべきもの、他と比べてとびぬけて優れているもの、一番良いいもの、という意味があります。民族の存続は長子を通して維持されます。その長子が死ぬということは、民族の存亡にかかわることであり、大きな痛手となります。また、ファラオの長子は、神の地位を継承する器でしたので、その器が死ぬということは、神の権威がはずかしめられることを表していました。それがエジプト全土で起こります。それはこれまで起こったことがないような大きな叫びです。

 

ところで、4節には、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く」とあります。何のためにエジプトに出て行くのでしょうか。わざわいをもたらすためです。これまではすべてモーセとアロンの手によって行われてきましが、これからは主ご自身によって行われます。それは今までのものが不十分であったからではありません。モーセとアロンによって行われたときも主の命令によって行われたわけですから、主がわざわいを下されたことと同じです。しかしここで「わたしはエジプトの中に出て行く」と言われたのは、これまでのものとは違い、主が直接さばきを行われることを表していたのです。これが、主がこれまでエジプトに下されたさばきの集大成であって、最後のさばきであるということです。それは単なるさばきではなく、キリストの十字架の贖いを指し示す出来事でもありました。それはかつてなかったようなさばきで、また、二度とないであろうさばきです。

 

しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、うなりません。なぜでしょうか。イスラエルが安全に出て行くためです。真夜中に物音がすると、犬はうなり声を上げます。その犬がだれに対してもうならないというのは、イスラエルの民は何の妨げも受けることもなく、エジプトを出て行くようになるということです。イスラエル人とエジプト人との間には区別がなされていて、イスラエル人は少しも災害を受けることがないからです。

 

すでに、この区別についての言及が何度かありました。8章23節には、第四のわざわいに関して、「わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。」とあります。アブに刺されないように、アブの群れがいないようにゴシェンの地を特別に扱ってくださったのです。また9章6節でも、第五のわざわいに関して、すべての家畜に重い疫病が起こることがないように、イスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別してくださいました。さらに9章26節でも、第七のわざわいに関して、イスラエルの子が住むゴシェンの地には、雹が降らないようにしてくださいました。そして10章23節でも第九のわざわいに関して、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があるようにされました。ここでも同じです。主はイスラエルをエジプトと区別して、彼らの上にはわざわいがないようにしてくだいました。

 

それは新約の時代に生きる私たちに対する約束でもあります。主はキリストを信じる私たちがわざわいを受けることがないように、この世と区別しておられるのです。パウロはこう言っています。

「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。」(Ⅰテサロニケ5:4-5)

私たちはみな、光の子ども、昼の子どもです。夜の者、闇の者ではありません。なるほど、ここで主が4節のところで、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く」と言われたことの意味が分かるような気がします。なぜ「真夜中」に出て行かれるでしょうか。それは、彼らは夜の者、闇の者だからです。そのような者たちにわざわいが下るもっともふさわしい時が「真夜中」だったのでしょう。しかし、私たちは光の子ども、昼の子どもです。ですから、主のわざわいを受けることはありません。主がそのように区別してくださったからです。

 

8節をご覧ください。第十のわざわいが下ると、ファラオの家臣たちはみな、モーセのところに下って来て、ひれ伏して、エジプトを出て行ってくれと懇願するようになります。この時点で、ファラオの威光は完全に地に落ちることになります。モーセが優位になるのです。その後、イスラエル人は堂々とエジプトを出て行くようになります。そのように言うとモーセは、怒りに燃えてファラオのところから出て行きました。これが決定的な断絶です。どうしてモーセはここで怒りに燃えたのでしょうか。それは、モーセがこれまで9回にわたって神のことばを告げたにもかかわらず、ファラオが受け入れなかったからです。もはや神のあわれみの時が終わりました。

 

哀歌3章23-24節に、「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」」とあります。私たちが滅びうせないのは、主のあわれみによるのです。主のあわれみは尽きないからです。しかし、それがいつまでも続くわけではありません。それが閉ざされる時がやって来ます。それゆえ、私たちはこの主のあわれみをないがしろにしないで、主に信頼して歩む者でなければなりません。モーセは、神のことばを頑なに拒んだファラオに対して、今や神のあわれみが閉ざされたことを知り、神の怒りを燃やしたのです。

 

Ⅲ.神の奇跡をすべて行ったモーセとアロン(9-10)

 

最後に9節と10節を見て終わりたいと思います。

「主はモーセに言われた。「ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。わたしの奇跡がエジプトの地で大いなるものとなるためである。」モーセとアロンは、ファラオの前でこれらの奇跡をすべて行った。主はファラオの心を頑なにされ、ファラオはイスラエルの子らを自分の国から去らせなかった。」

 

ファラオは、最後の警告をも無視します。彼は、最後までイスラエルの子らを行かせませんでした。それは主が彼の心を頑なにされたからです。それによって、主の御業がエジプトの地で大いなるものとなるためです。モーセとアロンは、ファラオの前で主が仰せられたすべての奇跡を行いましたが、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを自分の国から去らせなかたのです。それで今十番目のわざわい、最後のわざわいが下ろうとしているのです。私たちはこのことから何を学ぶことができるでしょうか。神に従うことには忍耐と犠牲が伴うということです。ファラオのあまりもの頑なさに、モーセとアロンは途中で任務を投げ出しそうになることもありましたが、彼らは最後まで全うしました。それは、彼らはファラオとの戦いの中でそのことを学んでいったからです。

 

それは私たちも同じです。事態が思うように進まない時、私たちは途中で捨ててしまいたいと思うことがありますが、大切なのは、最後まで忍耐して神のみわざを行うということです。へブル人への手紙10章35-36には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」とあります。私たちが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。自分の目の前の状況が思うようにいかなくても、忍耐をもって最後まで神のみこころを行うなら、必ず約束のものを手に入れることができます。もし、モーセとアロンが最初から事態が順調に進んでいたとしたら、彼らは傲慢になっていたでしょう。しかし、なかなか思うように進まない中で神の教訓を学び、最後まで忍耐することができたのです。

 

パウロは、「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)と言っていますが、この「走るべき道のりを走り尽くす」ということです。今、教会で墓地の購入を検討していますが、私は自分の墓石にこのみことばを入れられたらなぁと思っています。自分の人生を振り返ったとき、そこには何も輝かしいものはなかったかもしれないが、主から与えられた道のり、行程を、走り尽くした生涯だったと言える、そんな人生を全うしたいと思っています。

 

 

11節には、ファラオの心を頑なにされたのは主ご自身であったとあります。主がそのようにされたのです。私たちの人生には本当に不可解なことが起こりますが、神の許しなしに起こることは一つもありません。ですから、それがどんなことであっても、そこに主の主権があることを認め、主にすべてをゆだね、主が成してくださることを待ち望みたいと思います。主は、私たちの人生において最善をなされるお方なのです。

ヨハネの福音書8章21~30節「あなたはだれですか」

きょうは「あなたはだれですか」というタイトルでお話ししたいと思います。これはユダヤ人たちとの論争の中で、彼らがイエスに投げかけた質問です。25節に「そこで、彼らはイエスに言った。『あなたはだれなのですか』」とあります。

同じ一つの言葉でも、そこに込められているニュアンスが異なる場合があります。そのような大それたことを語るとは、あなたは一体何様だと思っているのか、という反発から出た言葉のようにも聞こえますし、このように大いなることを語られるとは、あなたは一体どなたなのですか、という素直な質問のようにも聞こえます。いずれにせよ、この質問はとても重要な質問です。それによって永遠のいのちが決まるからです。「あなたはだれなのですか」。きょうは、この質問に対する答えを、ご一緒に聖書から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.どのようにイエスを捜していますか(21)

 

まず21節をご覧ください。

「イエスは再び彼らに言われた。『わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。』」

 

イエスは姦淫の現場で捕らえられた女に、「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11)と言われると、再び人々に語られました。12節です。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

するとパリサイ人はイエスに言いました。「あなたの証しは真実ではない」と。それでイエスは、ご自分の証が真実であることを証明するために、ご自分がどこから来られたのかを話されました。

 

きょうの箇所では、イエスがどこへ行くのかということに論点が移っていきます。ここでイエスは再び彼らに言われました。彼らとはユダヤ人たち、パリサイ人たちのことです。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」どういう意味でしょうか?

 

「わたしは去って行きます」というのは、主が間もなくこの世を去って行こうとしているということです。主に与えられた使命は終わりに近づいていました。主が私たちの罪のために犠牲となって死なれるときが近づいていたのです。イエスがこのように語られたのは、ユダヤ人の心のうちをかきたてて、ご自身がどのような者であるのかを真剣に考えさせるためでした。それは、その後で語られたことばを見るとわかります。主はこのように言われました。

「あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

これは少しわかりづらいことばです。「あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます」。自分の罪の中に死ぬというのは霊的死のことです。永遠に神から切り離されてしまうことを指しています。したがって、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできない」とは、天の御国に来ることはできないということです。それは永遠に続く住まいであって、世に来られる前に御子が御父とともにおられたところです。ここには罪がある者は来ることはできません。罪を悔い改めて赦された人だけが行くことができるのです。

 

でもちょっと待ってください。ここには「あなたがたはわたしを捜しますが」とあります。彼らがイエスを捜すのは救いを求めていたからでしょう。つまり、旧約聖書に約束されているメシヤに飢え渇いていたからです。それでイエスを捜していたのです。それなのに自分の罪の中に死ぬとはどういうことでしょうか。それは、彼らの求め方が正しくなかったということです。間違った動機で求めていたり、なかなか信じようとしないためイエスを見出すことはできないので、罪が残ることになります。それが「罪の中で死にます」ということです。結果、イエスが行かれる天の御国に行くことはできません。

 

先日、NHKの「逆転人生」という番組で、元ヤクザから牧師へと壮絶な転身を遂げた鈴木啓之(すずき ひろゆき)先生のドキュメンタリーが放映されました。人生につまずいた人の再出発を支える鈴木先生が主人公です。かつては暴力団員で名うての博打うち。多額の借金を背負い、死の淵まで追い詰められました。しかし裏切り続けた妻に救われ、生き方を180度変えることができました。今度は自分が拠り所のない人の支えになりたいと元受刑者などを受け入れ、再出発を応援するものの、再犯者が出るなど厳しい現実に直面しますが、それでも「人生は必ずやり直せる」という鈴木先生の人生を紹介したのでした。

私も鈴木先生とお会いしお話しを伺ったことがありますが、本当に先生をそのように変えてくださった主はすばらしい方です。でも、その番組では、NHKということもあったのでしょうが、イエス様の「イ」の字も出てきませんでした。人はどのようにしたらやり直すことができるのでしょうか。それはイエス様でしょ。イエス様が私たちを新しく造り変えてくださるのです。イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。だから、この方を信じるすべての人の罪が赦され、新しい者に変えていただけるのです。それがなかったら、どんなに人生をやり直すことができたとしても本当の解決にはなりません。自分の罪の中で死んで行くことになるからです。本当のやり直しとは、これまで神を神ともせず自分勝手に生きて来た者が、それを罪と言いますが、その罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じ、この方を中心に生きることによって可能になるのであって、そうでないとやり直すことはできません。どんなに求めても真の救いに至ることはできないのです。

 

同じように、私たちも様々なきっかけで主を捜し求めることがありますが、それがイエス・キリストにつながるものでなければ、何の意味もありません。私たちはよく、病気とか、突然の不幸、あるいは仕事や家族の問題、人間関係のこじれ、将来への不安、死への恐怖などに直面することがありますが、それが魂の渇きとなって主を求めるのでなければ、真に満たされることはできないのです。主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(7:37)と言われました。渇いているなら、キリストのもとに行って飲まなければなりません。そうすれば、その人の心の奥底に生ける水の川が流れ出るようになります。そうでなければ、どんなにキリストを捜しても、自分の罪の中で死ぬことになるのです。

 

そればかりではありません。キリストに対する根深い抵抗というのもあります。どんなにキリストを求めても最後まで抵抗し続け、気付いた時には遅かったということがあるのです。よく伝道しているとこういうことを言われる方がおられます。「キリストがいいのはわかっているけど、今はいらない。死ぬちょっと前でいい。その時はお願いします。」

 

私たちが福島で開拓伝道を始めたのは1983年のことでした。初めは6帖2間と4畳半の小さな借家で始めました。私は翌年から仙台の神学校で学ぶようになったため、自宅で英会話スクールを始めることにしましたが、そこに近くの卸業を営んでおられた会社の社長さんが来られました。当時65歳くらいだったかと思います。よく私たちの小さな学校で学んでくださったと感謝しておりましたら、この方の先妻の方がクリスチャンだったんですね。それで、教会は信用できるからと、教会の英語教室で学ぶようになったのです。私はクラスの後に交わりの時を持ち、そこでお茶を飲みながらイエス様のお話しをするのですが、随分関心がおありのようなので、「どうですか、イエス様を信じませんか」というと、決まってこう言いました。「いや、キリスト教は一番いいのはわかっている。でも、私はまだ清くないから、もうちょっと後にします。死ぬちょっと前がいいですね。その時にはよろしくお願いします。」

「死ぬちょっと前と言ったって、人間いつ死ぬかわからないじゃないですか。石川さん、今がその時ですよ。」

「いや、もう少し後でいいです。その時は信じますから。」

そんなことが随分続きました。そして20年の月日が流れました。それで私たちは大田原に移ることになったのですが、その時にもお勧めしました。「石川さん、私たちは大田原に行くのでこれでお別れになります。これまで本当にお世話になりました。どうですか。その前にイエス様を信じると決心なさいませんか。」

でも、答えはノーでした。もう85歳くらいになっていましたが、それでも、死ぬ前にお願いします、というのです。仕方なく、私たちは大田原に引っ越してきましたが、それから間もなくのことです。奥様からお葉書をいただき、ご主人が亡くなられたことを知りました。死ぬ前に・・・とおっしゃっていたのに、残念ながら、その死ぬ前に信仰を告白することができませんでした。少なくとも私たちの前では・・。

 

どんなにイエスを捜し求めていても、それが遅すぎることがあります。真実の悔い改めであるならば決して遅すぎるということはありませんが、ことさらにキリストを拒絶し、キリストを求めることを止めてしまうならば、キリストを捜し求めても自分の罪の中に死んでしまうということになるのです。

 

ですから、そういうことがないように、キリストを見出すことができるうちに真実な心をもって主を尋ね求め、誠実な心をもって主のもとに行かなければなりません。イエス様はこう言われました。

「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)

私たちが大胆に確信できるのは、光があるうちに光を信じるなら、闇が襲うことはないということです。そのように尋ね求めるならば決してそれが徒労に終わることはありません。そのように尋ね求めた者が「罪の中に死んだ」とは、決して記録されることはないのです。本当にキリストのもとに来るなら、決して捨てられることはありません。

 

Ⅱ.「わたしはある」という方(22-24)

 

次に22節から24節までをご覧ください。

「そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」」

 

イエス様が、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言うと、ユダヤ人の指導者たちは、「まさか自殺するつもりではないだろう」と言いました。彼らは、イエス様が語った言葉の意味を全く理解することができませんでした。イエス様が死んであの世に行くと言っておられるに違いないと思ったのですが、どのようにしてあの世に行こうとしているのか、さっぱりわかりませんでした。それで、「まさか、自殺するつもりではあるまい」と言ったのです。しかし、それは彼らの全くの誤解でした。当時、ユダヤ人たちは、自殺を人殺しと同様、モーセの十戒を破るものと考えていました。イエス様がそんなことをするはずがないじゃないですか。彼らには、イエス様の心がさっぱりわからなかったのです。

 

そこでイエスは、そのことを説明して言われました。23節、「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」

「上から」というのは「天から」ということであり、「下から」というのは「この世から」という意味です。それは神がおられる聖なる天と、罪に満ちたこの世のことを意味しています。ですから、「上から来た」とは神を意味し、「下から来た」とは「この世の者」、つまり人間を意味しています。人間は最初の人アダムが罪を犯して以来、罪を持った存在ですから、自分の罪の中に死ななければなりませんが、イエス様はそうではありません。イエスは天から来られた方です。この天と地を造られた創造主なる神なのです。

 

このことをもっともよく表されていることばが、24節の「わたしはある」という言葉です。これはすでに6章20節のところで、イエス様が「わたしだ」と言われた時に説明したように、原語のギリシャ語では「エゴー・エイミー」(εγω ειμι)という語で、出エジプトの時、モーセが神にその名を尋ねたところ、神が「わたしは、「わたしはある」という者である」(出エジプト3:14)と仰せになられた言葉と同じ(へブル語で「エーイェー」)言葉です。それは存在の根源であられる方であることを意味しています。聖書の神は、他の何ものにも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。つまり、全能者であられます。私たち人間は違いますね。私たちは生きていくためには何かに依存しなければ生きていくことができません。空気とか、水とか、食べ物とか、飲み物など、何かに依存しなければ生きていくことはできません。しかし、創造主なる神は、そうした他の何物にも依存することなく、神ご自身だけで存在することができる自存者であられます。なぜなら、神は創造者であられるからです。この空も、海も、山も、水も、その他この地球にあるすべてのもの、いやこの宇宙も含めたすべてのものは、神によって造られました。神は創造主なる方であって、神だけで存在することができるのです。それが「わたしはある」という意味です。そして、イエス様はそのような方なのです。イエス様は「わたしはある」という方なのです。イエス様はこの世界のすべてをお創りになられました。イエス様はすべての存在の根源者であられます。つまりイエス様は神ご自身であられるのです。そのことを信じなければなりません。そのことを信じなければ、救いを受けることはできないのです。

 

ここでイエス様が言っておられることは分かりにくいことでしょうか。決してそうではありません。それなのに、多くの人々がこの単純なメッセージを信じないのはなぜでしょうか。それはイエス様が言っておられることが難しくて理解できないからではなく、信じたくないからです。それを信じるためには、自分の罪を認めなければならないからです。人はだれも自分の罪を認めたくありません。誰にも束縛されたくないのです。自分の思うように生きていきたいと思っています。

 

私もそうでした。小さい頃は早く大きくなって、自分の好きなように生きていきたい。勉強なんてしたくないし、お金持ちになって、自由に生きていきたいと思っていました。そして、高校生活も終わりに近づいたころ、神様は私を捕らえてくださいました。せっかく自由に生きていきたいと思っていたのに、神様に従わなければならないなんて嫌だ!と始めは抵抗しましたが、「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)ということばになぜか納得し、「これが本当の自由なんだ」とわかってイエス様を信じました。これがわかるまでは、信仰ほど窮屈なものはないと思っていました。何にも束縛されないで、自由に生きていきたい。それが罪の本質です。神を信じたくないのはそのためです。もしかすると、自分のメンツが傷つけられると思っているからかもしれません。また、罪を告白し、そこから離れた生活をすると、今までの楽しい生活をすることができなくなってしまうのではないかと恐れているのかもしれません。あるいは、自分だけが信じて天国へ行っても、自分の愛する家族が別の所に行ってしまうのでは、あまりにも申し訳ないと思っているのかもしれません。

 

いずれにせよ、イエス様は、「わたしが、「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」と言われました。イエス様が「わたしはある」という方です。イエス様が救い主であられるのです。救いはこのイエス様にあります。どうぞこのイエスを信じてください。そうでないと、あなたは自分の罪の中で死ぬことになるからです。

 

Ⅲ.イエスは神の子です(25-30)

 

第三のことは、だからイエス様を信じましょう、ということです。25節から30節までをご覧ください。

「そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。

そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」

 

そこで、彼らはイエス様に言いました。「あなたはだれなのですか。」だれなのですかって、それこそ、初めからイエス様が彼らに話していたことです。それなのに、彼らは全く聞こうとはしませんでした。彼らが知るようになるのはいつですか?28節をご覧ください。ここに、「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが「わたしはある」であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたは知るようになります。」とあります。これは、イエス様が十字架に付けられる時のことを指しています。その時ユダヤ人たちは主こそメシヤであられ、父なる神によって遣わされた方であるということを知るようになります。イエス様が十字架に付けられた時、イエス様を十字架に付けたローマの百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言いました。「この方は本当に神の子であった。」(マタイ27:54)ここでイエス様が言われたとおりです。でも、その時では遅いのです。その前に、イエスは「わたしはある」であることを信じなければなりません。また、イエスは自分からは何もせず、すべてはイエスを遣わされた父なる神がいわれたとおりに言っておられるということを信じなければならないのです。つまり、イエスと父とは一つであるということを信じなければならないのです。それが29節にあることです。

「わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」

イエス様は、イエス様を遣わされた方とともにおられ、この方が喜ばれることを行われます。この方が喜ばれることとは何でしょうか。それは、私たちが救われることです。私たちが救われてこの方の許に行くことです。そのために神はそのひとり子をこの世に送ってくださいました。あなたに与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

あなたは、この方を信じましたか。信じて永遠のいのちを持っていますか。神は、あなたが滅びることがないように、ひとり子なるキリストを遣わしてくださいました。もしあなたがキリストを信じなければ、自分の罪の中で死ぬことになります。でも、もしあなたがこの方を信じるなら、決して滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。あなたもぜひこのイエスを信じてください。信じて、永遠のいのちを持っていただきたいのです。

 

さあ、これを聞いた人たちはどのように応答したでしょうか。30節です。「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」感謝ですね。だれも信じないかと思ったら、やっぱりちゃんといました。信じる人が・・。こうした論争の場にいると、何が真理なのかを考える以前に、もうそういうしたことには関わりたくないと思うものですが、そうした中にあっても彼らが信じることができたのはどうしてでしょうか。彼らが素直な人たちだったからでしょうか。人が良くて、物わかりの良い人たちだったからですか。そうではありません。どんなに素直でも、それだけではイエス様を信じることはできません。どんなに人が良くて、物わかりがよくても、イエスを信じることができないのです。ではどうしてこの人たちはイエスを信じることができたのでしょうか。

このことに関して、使徒パウロはこう言っています。 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたが

たから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:8) 私たちがイエス様を信じることができるのは、この恵みのゆえに、です。私たちの

側に何か原因があったからではなく、神の側から注がれた恵みによって救われたので

す。私たちの救いは、私たちが素直であるとか、物わかりが良いとかによってではな

く、神様からの賜物なのです。この恵みはあなたにも注がれています。あなたが心を

開いて救いを求めるなら、あなたにも神の愛と恵みが豊かに注がれるのです。

 

先日、黒澤さんが山形のご実家に戻られた際、地元の教会に行かれたそうですが、

そこで国際ギデオン協会のメンバーの方が証をしてくださったそうです。この方は米沢で「相良堂」(さがらどう)という和菓子屋さんを営んでおられる方ですが、少しでもイエス様を証しできればと10年くらいでしょうか、長年、「和菓子作りと語らいの時」を持ってきました。しかし、信仰に導かれる人が少なく、洗礼に導かれたのはたった1人でしたが、それでも召される方の多くが、病床で、「私もイエス様のところに行きたい」とか、「私も救われたいです」。「イエス様のみそばにおいてください」「私の罪を告白します。イエス様を信じます。」と言われる方々がたくさん起こされたそうです。

イエス様を信じる方が少ないかと思っていましたが、そのようにして救いを求めていた方がおられたことに、慰められたとのことでした。

 

あなたはどうでしょうか。あなたもイエス様を捜しておられますか。どのように捜しておられますか。どうぞ光があるうちにイエス様を信じてください。遅かったということがないように。神の恵みは、そのように求めるあなたの上に豊かに注がれています。その恵みを無駄にすることがありませんように。また、既にイエス様を信じた私たちも、どのように信じたのかを点検させていただきながら、この神の恵みに感謝し、その恵みの中にしっかりととどまり続ける者でありたいと思います。イエス様こそ「わたしはある」という方なのです。

出エジプト記10章

出エジプト記10章から学びます。まず、1節から11節までをご覧ください。まず6節までをお読みします。

 

Ⅰ.息子や孫に語って聞かせるため(1-6)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、主はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが、わたしの民を去らせることを拒むなら、見よ、わたしは明日、いなごをあなたの領土に送る。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れてあなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くし、 あなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。これは、あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである。』」こうして彼は身を翻してファラオのもとから出て行った。」

 

第8の災いです。それはいなごをエジプトに送るというものです。1匹や2匹のいなごではありません。それは地の面をおおい、地が見えなくなるほどの量のいなごです。先の雹の害を免れた植物も、このいなごの大群によって食い尽くされます。それは野に生えている草木だけでなく、ファラオの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちるようになります。それは、エジプトがこれまで見たことがないようなものです。

 

この災いが下る警告が与えられる前に、主はモーセにこの災いがもたらされる目的を語ります。1節と2節です。「それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る」ためです。これまでは、イスラエルの神、主のような方が地のどこにもいないことを、エジプト人が知るようになるためでしたが、ここには新たな目的が加えられています。それは、主がエジプトに対して行われたことをイスラエル人が息子や娘に語って聞かせるためです。

 

これはとても大切なことです。イスラエルがエジプトから出て行って、約束の地へ導かれ、そこに住んで何十年、何百年経った後も彼らの霊的指導者たちは、この出来事を語って聞かせました。彼らの神がどれほど偉大な方であるのかは、かつてエジプトに430年もの間囚えられていた彼らの先祖たちをそこから解放してくださった方であるということによって示してきたのです。いわばそれは、イスラエル人たちのアイデンティティーであったのです。つまり、奴隷の状態から解放してくださりご自分の所有とされた主が自分たちの神である、ということです。何百年も後になっても、このことを思い出してもらうために、主は、パロたちの心のかたくなにし、災いを起こされたのです。

 

それは私たちも同じです。主は私たちが神の民であることを思い起こさせるために、一つのことを行うようにと命じられました。何でしょうか。それは聖餐式です。それは主が私たちを罪の奴隷から解放するために十字架で死んでくださったことを覚えるためです。パウロはこう言っています。

「すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:23-25)

私たちがどんなことをしても自分の力では成し得なかったことを主が成し遂げてくださいました。主は私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、血を流し、肉を割かれることによって、救いの御業を成し遂げてくださいました。このことを思い起こすために聖餐式を行うのです。私たちは主が私たちの罪を赦すために成し遂げられたこの十字架の御業を、私たちの息子や娘、孫たちに語って聞かせなければなりません。

 

モーセを通して語られた主の警告に対して、ファラオはどのように応答したでしょうか。7節から11節をご覧ください。

「家臣たちはファラオに言った。「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」モーセは答えた。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」ファラオは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの妻子を行かせるようなときには、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。だが、見ろ。悪意がおまえたちの顔に表れている。 そうはさせない。さあ、壮年の男子だけが行って、主に仕えよ。それが、おまえたちが求めていることではないか。」こうして彼らはファラオの前から追い出された。」

 

モーセを通して語られた主のことばに対して、決してファラオに反対することのない家臣たちが、必死になってファラオに訴えています。

「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。」

家臣たちは、これまでの教訓から学んでいました。このままではエジプトが滅んでしまうという危機感を抱いていたのです。

 

それでファラオはどうしたかというと、モーセとアロンを連れ戻して言いました。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」(8)ファラオもこのままではだめだと思い少しずつ譲歩し始めます。ここでは、行くのはいいが、だれが行くのか、と言っています。もちろん全員です。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」(9)

 

するとファラオは、何と言いましたか。「悪いがおまえたちの顔に表れている。」と言って、子どもや祭司たちが行くことを許しませんでした。ただ壮年の男子だけが行って、主に仕えるようにと言ったのです。これはどういうことでしょうか。主の影響力が妻子たちまで及ぶことがないように、必死になって抵抗しているのです。このようなことがよくあります。未信者の親から、「あなたは子供まで教会に連れて行って、洗脳させちゃだめよ。」といった圧力をかけられたりすることがあります。けれども、自分だけでなく自分の息子や娘たちも主に従うことがみこころなのです。

 

Ⅱ.いなごの大群(12-20)
それで第8番目の災いが下ります。12節から15節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の害を免れたすべてのものを食い尽くすようにせよ。」モーセはエジプトの地の上に杖を伸ばした。主は終日終夜、その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。これは、かつてなく、この後もないほどおびただしいいなごの大群だった。それらが全地の表面をおおったので、地は暗くなり、いなごは地の草と、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くした。エジプト全土で、木や野の草に少しの緑も残らなかった。」

 

それで主はモーセに、「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲うようにせよ」と言われました。

すると、主は終日終夜、その上に東風を吹かせたので、朝になると東風がいなごの大群を運んで来ました。そして、エジプト全土を襲い、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、エジプト全土で、木や野の草に少しも緑が残りませんでした。

 

するとファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言いました。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」(16)

これはどういうことですか?ここでも、これまでのパターンが繰り返されています。このような災害を見たファラオは悔い改めているように見えます。ここでは、「もう一度だけ私の罪を見逃してくれ」と言っていますが、これまで何度見逃してきたでしょうか。9:27にも「今度は私が間違っていた」と言いながら、小麦と裸麦が打ち倒されていないのを見ると、また心を頑なにしました。ここでも彼は同じことを繰り返しています。

 

するとモーセはファラオのところから出て、主に祈ります。すると主は風向きを変え、今度は非常に強い、海からの風、すなわち西からの風に変えていなごを吹き上げさせ、エジプト全土に一匹のいなごも残らないようにされました。しかし、主はファラオの心を再び頑なにされたので、彼はイスラエルの子らを去らせませんでした。いったいなぜここまで頑なになるのでしょうか。それは主がなされたことです。主がファラオの心を頑なにされたので、彼はイスラエルを行かせなかったのです。それはイスラエルの神、主の力を彼らに示すためでした。主の力がエジプト人だけでなく、イスラエルの民に対して、そして全世界に対し示されるためだったのです

 

Ⅲ.闇(21-29)

 

それで主はどのようにされたでしょうか。それで主は次の災いを下されます。それは闇の災いです。21節から29節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。ファラオはモーセを呼んで言った。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」モーセは言った。「あなた自身が、いけにえと全焼のささげ物を直接私たちに下さって、私たちが、自分たちの神、主にいけにえを献げられるようにしなければなりません。私たちの家畜も私たちと一緒に行きます。ひづめ一つ残すことはできません。私たちの神、主に仕えるために、家畜の中から選ばなければならないからです。しかも、あちらに着くまでは、どれをもって主に仕えるべきか分からないのです。」しかし、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった。ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」」

 

第9番目の災いです。今度は何の警告もなく、一方的にさばきを宣言されました。それは、「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」というものでした。それでモーセが手を天に向けて伸ばすと、エジプト全土が三日間、真っ暗になりました。光は神が創造されたものの中で一番初めに造られたものです。その光がないというのは、人間の生存に関わる問題です。人は真っ暗闇の中におかれると、数時間で精神的におかしくなってしまうと言われています。あの3.11の後でしばらく計画停電がありました。夜でも電気が使えないのです。それで電池式のランタンとか蝋燭で対応しなければなりませんでしたが、でんきが使えないとパニックになってしまいます。その苦しみをエジプト人はそれを三日間、味わいました。しかし、イスラエルの子らのいたところには光がありました。

 

するとファラオはどうしたでしょうか。彼はモーセを呼んでこう言いました。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」(24)

今度は、妻子は連れて行ってもよいが羊と牛は残しておくようにと言いました。ここに新たな妥協案が示されました。ファラオがこのように言ったのは、自分たちの羊や牛が、すでに死んでしまったからです。ですから、イスラエルが牛や羊までも連れて行ったら、エジプトには何も残らないことになってしまいます。それはできないと、ファラオは頑なに牛と羊だけは残しておくようにと言ったのです。

 

するとモーセはその申し出を拒否しました。なぜなら、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えるべきかわからないからです。あちらとは荒野のことです。そこで神から律法が与えられることで、どの家畜を主にささげたら良いかが示されます。それまではわかりません。だから、全部連れて行くと言ったのです。

 

それを聞いたファラオの心は再び頑なになりました。それでファラオは彼らを去らせようとはしませんでした。交渉が決裂したのです。そして、お互いに顔を合わせないようにしました。これ以降、両者が顔を合わせることは二度とありません。それでファラオは暗闇の中を歩むことになります。もっと恐ろしいさばきが彼を襲うことになります。これだけでも気が狂いそうになるのに、もっと恐ろしいさばきが彼らを襲うことになります。

 

このように神に背を向けるなら、暗闇の中を歩むようになります。しかし、神に従うなら、いかなる闇の中にあっても、光の中を歩むようになります。それは主の栄光の輝きです。イザヤ書60:1-3には、「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」とあります。それは主イエス・キリストに従う者にもたらされる光です。主イエスはこう宣言されました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)

主イエスは世の光です。イエス様に従う者は、決して闇の中を歩むことがありません。いのちの光を持つのです。あなたは闇の中を歩んでいませんか。世の光であられるイエス様を信じて、光の中を歩む者となりましょう。

ルツ記4章

きょうは、ルツ記4章から学びます。まず1節から6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ボアズの提案(1-6)

 

「一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこに座った。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類が通りかかった。ボアズは彼に言った。「どうぞこちらに来て、ここにお座りください。」彼はそこに来て座った。ボアズは町の長老十人を招いて、「ここにお座りください」と言ったので、彼らも座った。ボアズは、その買い戻しの権利のある親類に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここに座っている人たちと私の民の長老たちの前で、それを買ってくださいと言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。けれども、もし、それを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたを差し置いてそれを買い戻す人はいません。私はあなたの次です。」彼は言った。「私が買い戻しましょう。」ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買い受けるときには、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブの女ルツも引き受けなければなりません。」するとその買い戻しの権利のある親類は言った。「私には、その土地を自分のために買い戻すことはできません。自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから。私に代わって、あなたが買い戻してください。私は買い戻すことができません。」」

 

いよいよルツ記の最終章となりました。ルツはナオミが言うことに従い、主の約束のことばを握り締めてボアズにプロポーズしまたが、ボアズは自分の感情に流されることなく、主の定めに従って事を進めていきました。すなわち、彼よりももっと近い買戻しの権利のある親類と話し、もしその人がその役割を果たすというのであればそれでよし、しかし、もし果たすことを望まないというのであれば自分が彼女を買い戻すことにしたのです。

 

かといって、ボアズはいつまでもぐずぐずしているような人ではありませんでした。彼女のためにすぐに行動を起こします。ルツと話したその翌日に、門のところへ上って行って、そこに座りました。あの買戻しの権利のある親類と話すためです。町の門は、防衛上必要であっただけでなく、会議の場となったり、裁判所となったり、市場になったりもしました。ボアズはここで公に話し合おうと思ったのです。それは、どのような結論が出ようとも、事実に反する風評が立たないようにするためです。

 

すると、そこにその人が通りかかったので、ボアズは彼に言いました。「どうぞこちらに来て、ここにお座りください。」そればかりではなく彼は、町の長老たち10人を招いて、「ここにお座りください。」と言って、彼らにも座ってもらいました。法的に重要な決定を下すためには、10人という人数が必要だったからです。

このようにボアズは、この件を自分に都合がいいように小細工をしたり、隠れて事を行うようなことをせず、誰の目にも公明正大に行いました。私たちが取るべき道として最も安全なのは、正攻法で行くことです。まさに箴言に「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(箴言29:26)とあるとおりです。合法的、かつ正当なやり取りは、その人の信用を高め、将来の祝福を約束することになるのです。

 

ボアズは、その買戻しの権利のある親類に、モアブの野から帰って来たナオミが、自分たちの身内のエリメレクの畑を売ろうとしていることを告げ、もしその親類がそれを買い戻したいのであればそれでよし。でも買い戻さないというなら、自分が買い戻すと言いました。するとその親類が「買戻しましょう」と言ったので、もし買い戻すというのであれば、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブ人の女ルツも引き受けなればならないと言うと、だったら買い戻すことはできないと、断りました。自分自身の相続地を損なうことになると思ったからです。どういうことでしょうか。ルツを引き受けことが、どうして自分自身の相続地を損なうことになるのでしょうか。恐らく、ルツが産む子に財産を持っていかれるのではないかと思ったのでしょう。そんなことになったら大変です。また、彼にはルツがモアブ人であるという偏見があったようです。このような経済的な損得勘定や偏見で、人はどれほど多くの祝福を損なっているでしょうか。これはキリスト教に対しても同じで、多くの人は損得勘定や偏見によって見ることによって、キリストのすばらしい祝福を受け損なっているのは残念なことです。神のみこころは何なのか、何が良いことで神に受け入れられるのかをわきまえ知るために祈りましょう。

 

Ⅱ.あなたがたは証人です(7-12)

 

次に7節から12節までをご覧ください。

「昔イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける認証の方法であった。それで、この買い戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分の履き物を脱いだ。ボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、今日、私がナオミの手から、エリメレクのものすべて、キルヨンとマフロンのものすべてを買い取ったことの証人です。また、死んだ人の名を相続地に存続させるために、私は、マフロンの妻であったモアブの女ルツも買って、私の妻としました。死んだ人の名を、その身内の者たちの間から、またその町の門から絶えさせないためです。今日、あなたがたはその証人です。」門にいたすべての民と長老たちは言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。また、あなたがエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」」

 

その買戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい。」と言って、自分の履き物を脱いで渡しました。それは、昔イスラエルでは、買戻しの権利を譲渡する場合、すべての取引を有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡すという習慣があったからです。これがイスラエルにおける認証の方法だったのです。

 

そして、ボアズは、長老たちとすべての民に、自分がエリメレクのものすべて、またマフロンとキルヨンのものすべてを買い取ったことを宣言しました。もちろん、その中にはマフロンの妻であったモアブ人の女ルツも含まれています。ボアズは正当な方法でルツを自分の妻としました。

 

ボアズが、自分がルツを買い戻したと宣言すると、そこにいたすべての民と長老たちが、「私たちは証人です」と言い、彼に神の祝福を祈りました。それは、「どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのようにされますように。」という祈りでした。これはどういう意味でしょうか。ユダヤ人たちは、アブラハムの妻サラと、ヤコブの二人の妻ラケルとレアは、「民族の母」として特別な存在として考えていました。ここにはその「ラケルとレアの二人のようにされますように」とあります。ラケルとレアは、ヤコブの二人の妻です。この妻と女奴隷から12人の息子が生まれ、イスラエル12部族が出ました。特にラケルは、このベツレヘムの町で最年少の子ベニヤミンを産み、そして死にました。ですから、これはこのレアとラケルのように、子孫が祝福を受けますようにという祈りだったのです。

 

また、「エフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。」というのは、このベツレヘムで有力な人となるようにという祈りです。エフラテとベツレヘムは同じ意味です。やがてこのベツレヘムから救い主が生まれることで、ボアズは名をあげることになります。

 

また、長老たちは、「どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」と祈りました。ボアズの先祖はペレツです。そのペレツは、タマルという女とヤコブの12人の息子のひとりユダの間に生まれました。ユダはカナン人を妻としてめとり、その妻から三人の息子が生まれましたが、その息子にタマルという妻を迎えたのですが、兄息子が死に、そこで次男のオナンをタマルと結婚させました。まだ律法は与えられていませんでしたが、兄弟の名を残さなければいけないという習慣がすでにあったからです。オナンは兄の名のためにタマルとの間に子を持つことを嫌がり精子を地上に流していたため、神に打たれて死んでしまいました。そしてシェラという三男がいましたが、シェラも殺されるのではないかと思い、ユダはタマルに彼を与えなかったのです。これは神のみこころにそぐわないことでした。それでタマルはどうしたかというと、売春婦の姿に変装して、通りかかったユダを巧みに誘惑し、彼と関係を持ちました。ユダはあとでタマルが妊娠したのを知って、「あの女を引き出して、火で焼け。」と言いましたが、タマルがあのときの売春婦であると知ったとき、自分の過ちを認めました。自分が息子シェラをタマルに与えなかったために、このようなことになったのだと知りました。そこで生まれて来たのがペレツです。ペレツは、そうした人間の罪がドロドロと錯綜するような中で生まれたのです。しかし神はそんなペレツを祝福し、救い主の系図の中に入れてくださいました。ですから、タマルがユダに産んだペレツの家のようにとは、そのようにしてもたらされたペレツの家が神の祝福の中に加えられたように、ルツがボアズに産んだ子が、神の祝福の中に加えられるようにという祈りだったのです。加えられるどころか、救い主の系図の中にバッチリと収められています。私たちは、ここでの祈りがやがて救い主イエス・キリストがベツレヘムで誕生することによって成就するのを見ます。

 

Ⅲ.ナオミに男の子が生まれた(13-22)

 

最後に13節から22節までをご覧ください。

ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。女たちはナオミに言った。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」

ナオミはその子を取り、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。

これはペレツの系図である。ペレツはヘツロンを生み、ヘツロンはラムを生み、ラムはアミナダブを生み、アミナダブはナフションを生み、ナフションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生み、エッサイはダビデを生んだ。」

 

とうとうボアズはルツを妻に迎えることができました。そして、主はルツを身ごもらせたので、彼女は男の子を産みました。やがてその子の子孫としてメシアが誕生することになります。だれがそんなことを考えることができたでしょう。これが神のなさることです。しかも、ルツはモアブ人です。神の民から遠く離れた異邦人です。にもかかわらず、神は異邦人のルツを通して全人類に祝福をもたらされました。これは、神が異邦人のことも決して忘れていないことを示しています。ユダヤ人とか、異邦人といったことではなく、神はご自身の御旨とご計画によって、ご自身の救いの御業を進めておられたのです。

 

その日、町の女たちがナオミに言いました。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」

ルツの子どもは、ナオミにとっての子どもでもあります。なぜなら、ナオミは死んだ長男マフロンに代えてこの子を得たのですから。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名前をつけました。「オベデ」という名です。意味は、「神を礼拝する者」とか、「神に仕える者」です。ナオミは、ベツレヘムに来たとき、すべてを失って、悲しみの中にいました。自分を「ナオミ」と呼ばないでください、「マラ」と呼んでほしいと言いましたが、その悲しみが今、喜びに変えら名付けられたのでしょう。

 

そして、このオベデは、ダビデの父であるエッサイの父です。そのことがわかるように、18節から終わりまでのところにペレツの系図が記されてありますが、これはこのペレツからダビデが生まれたことを示しています。それは、私たちの救い主がここから生まれたことを示しています。神の計画は、人間の想像をはるかに超えています。それがこの系図によく表われているのではないかと思います。この系図はペレツの系図となっていますが、ペレツという人物も前述したとおり、あのユダとタマルとの間に生まれた子どもでしょ。そこから出たペレツの子孫にボアズが生まれ、そのボアズがルツと結婚することでダビデの祖父にあたるオベデが生まれ、そのオベデからダビデが生まれ、そのダビデの子孫から救い主イエス・キリストが生まれてくるのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。それは、神はすべてを支配しておられ、ご自身のご計画に従って、すべてのことを導いておられるからです。

 

それは、あなたも例外ではありません。私たちは本当に小さな者にすぎませんが、神はこのような小さな者をご自身の救いの計画の中にしっかりと組み込んでいてくださり、偉大な御業を行わっておられるのです。ルツはモアブの女にすぎませんでしたが、彼女を通して主は救いの御業を成し遂げられました。まさにそれは主の計らいなのです。私たちは本当にちっぽけな者にすぎませんが、神はこのような者にも驚くような計画をもっていてくださることを信じ、すべてのことをつぶやかず、疑わずに行う者でありたいと願わされます。その時、主がこんな私たちを通しても偉大な御業を行ってくださるのです。

ヨハネの福音書8章12~20節「わたしは世の光です」

きょうは「わたしは世の光です」と言われたイエスの言葉から学びたいと思います。皆さんは、「もしも、光がなかったら」と考えたことがありますか。そうなったら、何も見えず、私たちはこの世界で、何が起こっているかを知ることができません。同様に、私たちの人生に霊的な光がなければ、私たちは、自分の人生の目的やその意味を知ることができず、闇の中を生きることになってしまいます。

 

見ることも、聞くことも、話すこもできなかったヘレン・ケラーは、その三重苦を乗り越え、多くの人々の「希望の光」となりました。彼女はこう言っています。「目に太陽が見えるか見えないかは問題ではありません。大切なのは、心に光をもつことです。」私たちは、心に光をもっているでしょうか。その光は、どこから来るのでしょうか。それはどんな光なのでしょうか。きょうはこの光であるキリストについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.世の光であられるキリスト(12)

 

まず、イエスは世の光であられるということについてです。12節をご覧ください。

「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

 

「イエスは再び人々に語られた」という言葉遣いは、その前の話とぴったり調和しています。イエスは、2節で宮に入られた時、集まって来た人々に教え始めました。その時、姦淫の現場で捕らえられた女が主イエスの前に連れて来られたために、話を一時的に中断しなければなりませんでしたが、事件の決着もつき、告訴人も告訴された者も立ち去った後で、主イエスは教えを再開されました。ですから、その前の姦淫の現場で捕らえられた女の人がイエス様のもとに連れて来られたという話は、実際にあった話なのです。

 

イエスが再び語られたこととはどんなことでしょうか。ここには、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とあります。ヨハネの福音書には、「わたしは・・です」という宣言が7回出てきますが、この「わたしは世の光です」というのは、その2回目です。1回目は6章35節、あるいは6章48節に出てきました。「わたしはいのちのパンです」という宣言です。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ここでは「わたしは世の光です。」と言われました。「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」これはイエス様ご自身が約束のメシヤであるという宣言です。すなわち、イエスが救い主であられるということです。

 

イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。ある註解者によると、7章で仮庵の祭りについての言及がありましたが、その祭りの大いなる日に、イエスは立ってこう言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになります。」(7:37-38)

それは、この祭りのクライマックスとも言うべき祭りの最終日のことでした。その終わりの大いなる日に、シロアムの池から運ばれた水を、祭司が祭壇に注ぐという儀式がありましたが、それともう一つの儀式がありました。それは、神殿の中をいっぱいに埋めた祭司や民が、手に持った燭台のろうそくに一斉に火を灯したのです。それはまさに真昼のように、エルサレムの隅々を照らしました。ユダヤ教のラビたちはそれを「神の栄光の光」と呼びました。こうした儀式を背景に、イエスはご自分こそまことの神の栄光の光であると宣言されたのだ、というのです。

 

皆さん、この世は真っ暗闇です。この「闇」というのは、神について全く知らないという意味です。どこに行っても神を知ることができません。私たちの周りにはスマホをはじめとした文明の機器がたくさんありますが、どこを探しても光を見ることができません。どんなにテレビやネットの情報を見ても、それらのものが私たちの人生を照らしてくれるでしょうか。いいえ、そうしたものはとても便利なものですが、むしろ私たちを暗闇の中へと放り投げてしまいます。どこを探しても、私たちの人生を照らす光を見つけることができません。

 

しかし、イエスはここで、「私は世の光です」と言われました。私たちは、この光であるイエスによって照らされるまで真理を見ることができません。それはこの前に記された内容を見てもわかります。律法学者やパリサイ人たちは、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、律法では、こういう女を石打ちにするようにと命じていますが、あなたは何と言われますかと、イエスに詰め寄りました。するとイエス様は何と言われたでしょうか。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。

すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、その女とイエス様だけが残されました。イエス様の光に照らされた時、彼らは自分も罪人であり、死ななければならない存在であることが示されたのです。同じように、私たちもイエス様によって照らしてただかなければ、神の真理を知ることはできないのです。イエスは世の光です。イエスに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

しかもその光はただの光ではありません。ここには「いのちの光」とあります。この「いのちの光」とは、私たち人間が人間として生きていく上で必要な光であるということです。それは霊的光のことであって、いのちを与える光です。どんな人でもイエス・キリストを信じるまでは霊的に死んでいますが、イエス・キリストのもとに来て、キリストを信じる時、このいのちが与えられます。こうして、神が私たちのために用意しておられる本当の人生を歩むことができるのです。

 

以前、NHKテレビで、「無縁社会~新たなつながりを求めて~」という番組を放映していました。かつては、人と人とが何らかの絆によって結ばれていたのに、現代ではそれが失われて来ています。家庭において、職場において、その他の人間関係において、人と人の結びつきが薄れてきている。人間関係のストレスから、部屋に閉じこもって、インターネットのつながりだけで生きている人々、人生に行き詰って自殺へと追い詰められた人々が増えています。そのような無縁社会と向き合って、辿り着いたところがここでした、と紹介されたのが、和歌山県白浜にある教会でした。この教会の近くにある三段壁という自殺の名所があって、一年中自殺者が絶えません。そこでこの教会ではそこに看板を立て、自殺する前にまず教会に連絡するようにと呼びかけました。その結果、この20年間に905人の自殺志願者を止まらせました。

それでNHKが今のこの無縁社会の問題の解決を捜し求めるうちに辿り着いたのが、この白浜に立っている十字架を掲げた教会だったというのです。このことは、この社会と私たちの人生の真実を深く物語っている象徴的な出来事ではないかと思います。つまり、暗闇の中で苦悩する私たちは、光であられるキリストのもとに引き寄せ去られて初めて安らぎが与えられ、人間らしい交わりを取り戻すことができるということです。キリストこそこの世の光です。この方に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

もし光がなかったらどうなるでしょうか。先月、北海道で、猛烈な砂嵐が発生し、高速道路ではバスやトラックなどが絡む多重事故が相次ぎ、計14人以上がけがをしました。原因は何かというと、その砂嵐のため視界が不良であったことです。視界ゼで周りが全く見えませんでした。そうなりますと、車のライトも役に立ちません。前方にも後方にも全く光が届かず、砂嵐の暗闇に閉じ込められてしまったのです。かろうじて、車の左側に白いペンキで引かれた道路の端の境界線がかすかに見えました。そのわずかに見える境界線をたどりながら、恐る恐る前進していくのですが、前進していくことができません。後ろから車が来たら、追突されてしまうかもしれませんから。早くサービスエリヤに逃げ込むしかないのです。

 

それは私たちの人生も同じで、もし光がなかったら、どこを、どのように進んで行ったら良いかがわからないため倒れてしまうことになります。その光がイエス・キリストです。キリストに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

私はイエス様を信じて40年になりますが、もし、イエス様と出会っていなかったらどうなっていただろうと思うことがあります。おそらく、とんでもない人生を送っていたのではないかと思います。しかし、そんな者がキリストと出会い、キリストの光が与えられたことで、キリストに支えられながら、光の中を歩むことができたのは、本当に感謝なことです。

 

Ⅱ.キリストの証言の確かさ(13-18)

 

しかし、どうしてキリストが光だと言えるのでしょうか。第二に、キリストの証言の確かさです。すると、イエスの言葉を聞いたパリサイ人たちがイエスのもとにやって来てこう言いました。13節、「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」

 

どういうことでしょうか。「自分で自分のことを証ししています」とは、「自分で自分の証言をしている」ということです。そんな証言を誰が信用することができでしょうか。そのようなものを信用するのは難しいでしょう、というのです。旧約聖書にも、「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分の唇でではなく、よその人によって。」(箴言27:2)とあります。また、モーセの律法にも、「二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。」(申命記17:6)と、証言が真実であると認められるためには2人ないし3人の証言が必要とされていました。ですから、自分で自分のことを証言することはできないと言ったのです。

 

それに対してイエスは、それが真実であることを証明するためこう言いました。14節です。

「イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。」

この「自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのか」というのは、その人の本質を表しています。つまり、イエスはここでご自分が父なる神から来られた神ご自身であると言っているのです。イエス様が彼らのところに来られ、彼らの前に立っておられるのは、一般の預言者やありふれた証人としてではなく、神から遣わされたメシヤとしてここにいるのだ・・・・と。それゆえ、ご自分の証言が信頼できるものであると言えるのです。彼らにはそのことがわかりませんでした。彼らはイエスが神であり、神から遣わされた方であるということを信じることもできなかったからです。

 

そればかりではありません。15節から18節までにはこうあります。

「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」」

 

「あなたがたは肉によってさばきますが」の「肉」とは、下の欄外の説明にもあるように「人間的判断」のことです。つまり、彼らは人間的判断にしたがって、外見や、この世の基準で判断していました。ですから、正しく判断することができなくなっていたのです。彼らは、自分たちの目に見えるところによってキリストを判断していたために、イエスのうちにある神としてのご性質を見ることができませんでした。だって、ただの大工の息子ですから・・・。そんな者をだれがメシヤだなんて認めることができるでしょうか。でもそれは人間的な判断でしかありませんでした。彼らの思いは肉的で、偏見に満ちていました。だから、イエスを正しい目で見ることができなかったのです。

 

しかし、イエス様の本質はそうではありませんでした。主はだれをもさばきません。これはどういうことかというと、だれもさばかないということです。たとえ最悪の罪人であっても、罪に定めるようなことはなさいません。それは、やがて終わりの日にそのような時があるでしょうが、今はそうではありません。今はさばいたり、罪に定めるようなことはしないのです。なぜなら、イエスは人々を罪に定めるために来たのではなく、罪人を救うために来たからです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(ルカ2:17)

 

しかし、たとえイエス様がさばくとしても、そのさばきは正しいのです。なぜなら、イエス様は一人でさばかくのではなく、イエスを遣わされた父がさばかれるからです。これは、主が今は審判者としての務めを果たされなくても、それはそのような資格がないからではなく、むしろその反対で、もし主が誰かの行為や意見をさばくとしたら、それは完全に正確で信頼できるものであるということです。なぜなら、主はひとりではないからです。主と、主を遣わされた父なる神との間には、分かつことのできない結びつきがあるので、そのさばきは確かなものなのです。

 

17節を見てください。それは、先ほども申し上げたとおり万人が認めるモーセの律法の中でも言われていることです。このように二人の証言が信頼に値するものであることを認めるなら、イエスの証言は真実であると言えます。18節、なぜなら、イエスご自身が神から来られた神であり、その遣わされた父なる神の二人の証人がいるからです。これ以上、どんな証言が必要だと言うのでしょう。これで十分なはずです。

 

ですから、イエスを認めることは父なる神を認めることであり、イエスを認めないことは、父なる神をも認めないことです。イエス様こそこの世の光であり、私たちを闇の中から救うことができるいのちの光なのです。あなたはこのことを認めますか。

 

Ⅲ.キリストを通して神を知る(19-20)

 

第三のことは、だから私たちは、このキリストを通して神を知ることができるということです。19節をご覧ください。

「彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」」

すると彼らはイエスに言いました。「あなたの父はどこにいるのですか。」おそらく、この質問は本当に神を知りたいという願いからというよりも、イエスに対してあざけりを込めた皮肉な質問だったのではないかと思います。

 

それに対してイエスはこう言われました。19節、「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」

結局のところ、彼らは神について全く知りませんでした。彼らは聖書から神について教える立場にありながら、その神のことを全く理解していなかったのです。なぜでしょうか。キリストを知らなかったからです。もし、キリストを知っていたなら、父なる神のことも知っていたでしょう。しかし、彼らはキリストを受け入れることができませんでした。それで、神のことを知らなかったのです。

 

どうしたら神を知ることができるのでしょうか。それは、「キリストを通して」です。キリストについて無知でありながら、神について何事かを正しく知っていると思っている人は、全くの思い違いをしています。その人が知っているのは聖書の神ではなく、自分自身が考えている神であり、想像の産物なる神にすぎません。私たちが神を知るために必要なのは、このキリストを通してなのです。キリストは、神を説き明かすために来られたひとり子の神であり、この神のみもとに私たちを導くために、その御業を成し遂げてくださった方です。キリストはこう言われました。

「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

キリストが道であり、真理であり、いのちです。だれも、キリストを通してでなければ父のみもとに行くことはできないし、父を知ることもできないのです。

 

このことはとても重要なことです。ある人たちは、「神を信じることは簡単にできるけれども、イエス・キリストが出てくると分からなくなる」と言います。でも、神を信じたいと思うなら、このキリストから始めなければなりません。キリストを自分の罪からの救い主であると知るなら、その人は神を知ることができるからです。でもキリストを退けるなら、ここに出てくるパリサイ人のように、どんなに知識があっても、神について全く無知であり、結局のところ、闇の中を歩むことになるでしょう。しかし、最も貧しく、最も卑しい人であっても、キリストを信じる人は、神を知ることができるようになるのです。なぜなら、キリストこそこの世の光だからです。この的を逃さないようにしましょう。最近は、人間が考え出した心理学や哲学といった学問によってキリスト教信仰を持とうとする人が少なくないわけではありません。確かにその方がわかりやすいかもしれませんが、そうしたものはあくまでも人間が考え出したものにすぎず、人を滅びに導くものでしかありません。私たちが神を知るためには、聖書が示しているイエス・キリストを通してのみなのです。なぜなら、キリストこそこの世の光であられるからです。

 

皆さんは、おたまじゃくしがカエルになるのを観察したことがありますか。おたまじゃくしは、数珠つながりになった受精卵から50日してカエルになりますが、おたまじゃくしからカエルになる時に光を受けないと、おたまじゃくしはずっとおたまじゃくしのままで、やがて十分な呼吸ができなくなってしまい死んでいくのだそうです。

それは私たちにも言えることです。私たちも、イエス様からいのちの光を受けなければ、おたまじゃくしと同じように、罪の泥沼の中に沈んでしまうことになります。聖書は、私たちが罪の暗やみの中に沈んでいる状態を「彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4:18)と言っています。しかし、私たちもイエスの光を受けるなら、暗やみから光に変わり、光の子になることができるのです。エペソ5:8ではこう言っています。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」あなたもイエスの光を受けているでしょうか。その光の中を歩いているでしょうか。

 

ルイ十四世といえば、「朕は国家なり」と言ってフランスに君臨した王でした。彼が死んだ時、遺言にしたがって彼のからだは、もっとも豪華な衣にまとわれ、黄金に輝く棺におさめられ大聖堂のまん中に安置されました。聖堂内のすべてのともし火は消され、ただ一本の大きなろうそくだけが棺の上にともされて、黄金の棺を照らしていました。それは、フランスの王だけが、栄光に輝く王であることを象徴するためでした。やがて、ヨーロッパ全土から集まった王侯貴族が参列して、厳かに葬儀がはじめられましたが、その司式にあたった司教は、葬儀のなかばで、突然、棺の上に一本だけともされていた、そのともし火をかき消しました。司教は、真っ暗になった会堂にひびきわたる声で言いました。「ただ神のみ偉大なるかな。」この司教は、この世の権力を誇り、神を見失っていた王侯貴族たちに、神のみが栄光に輝く王であり、世界の光であること示したのです。「世の光」であるイエス・キリストを見失った社会は暗やみです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスの招きのことばに、今こそ従いましょう。

出エジプト記9章

出エジプト記9章から学びます。まず、1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.第5番目の災い:重い疫病(1-7)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。

しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」

また、主は時を定めて言われた。「明日、主がこの地でこのことを行う。」主は翌日そのようにされた。エジプトの家畜はことごとく死んだが、イスラエルの子らの家畜は一頭も死ななかった。ファラオは使いを送った。すると見よ、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもファラオの心は硬く、民を去らせなかった。」

 

これまでエジプトに対する四つの災いを見てきましたが、きょうは第5、第6、第7番目の災いを見ていきたいと思います。いまお読みしたところには、5番目の災いについて記されてあります。それはエジプトにいる家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に、重い疫病が起こるということです。3節には、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上にとありますが、エジプトでは、馬、牛、雄牛などは神聖な動物とされ、礼拝の対象になっていました。こうした家畜の上に疫病が起こるというのです。しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない、と言われました。また、主は「時」を定めておられました。それは「明日」です。「明日、この地でこのことを行う」と。

 

その結果はどうだったでしょうか。主が言われたとおり、主は翌日そのようにされました。エジプトの家畜はことごとく死にましたが、イスラエルの家畜は一頭も死にませんでした。主がそのように区別してくださったからです。それは、テサロニケ第一5章9節にあるとおりです。

「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

この「御怒り」とは神のさばきのことです。このさばきは、いのちの書に名が書き記されていない人が火の池に投げ込まれる最後のさばきのことではなく、キリストが再び来られる時にこの地上に下る大患難によるさばきのことです。これはその文脈で語られていることからわかります。神のさばきは突如として人々に襲いかかりますが、クリスチャンを襲うことはありません。なぜなら、クリスチャンは光であられるイエスを信じたことによって、光の子ども、昼の子どもとされたからです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

ですから、クリスチャンがさばきに会うことはありません。主がそのように区別してくださったからです。私たちがイエス様を救い主と信じたことで、神はゴシェンにいる神の民イスラエルのように区別してくださったのです。それゆえ、私たちの上に神のさばきが下るということはありません。

 

エジプトの王ファラオは、イスラエルの民がどうなったのかが気になったようで、使いを送って調査させました。すると、イスラエルの家畜は一頭も死んでいませんでした。であれば、怖くなってイスラエルの民を行かせたかというとそうではなく、逆に、彼の心は硬くなって、民を行かせませんでした。

 

Ⅱ.第6の災い:うみの出る腫物の害(8-12)

 

それで主はどうされたでしょうか。それで主は第6の災いを下します。それはうみの出る腫物の害です。8節から12節までをご覧ください。

「主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」それで彼らは、かまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなった。呪法師たちは、腫れもののためにモーセの前に立てなかった。腫れものが呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。しかし、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりであった。」

 

第6の災いです。この第6の災いの特徴は、第3の災いと同様に警告がないことです。主がファラオに対して何の警告なしに、わざわいが下ることを宣言します。それはうみの出る腫物の害です。

主はモーセとアロンに仰せられました。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」それで彼らがそのとおりにすると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫物となりました。エジプトの呪法師たちは、その腫物のためにモーセの前に立つことができませんでした。これは、エジプトで癒しの神として信じられていた偶像に対するさばきです。エジプトには、疫病を支配する神「セクメット」、癒しの神として信じられていた「セラピス」、そして、薬の神として信じられていた「イムホテプ」といった偶像がありましたが、これらの偶像の神々は、エジプト人をうみの出る腫物から守ることができませんでした。

それでも、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れませんでした。

今回の災いのもう一つの特徴は、かまどのすすがうみの出る腫物となったという点です。この「かまど」とは、レンガを焼くかまどのことです。それはエジプトにいたイスラエル人たちがレンガを焼く作業をするために使っていたものでした。それはイスラエル人にとって苦難の象徴でもありました。エジプトは、そのイスラエル人を苦しめたかまどのすすによって災いを受けたのです。それはまさに、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)とあるとおりです。アブラハムを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。あなたにとってのアブラハムとはだれでしょうか。それは神によって選ばれ、神によって立てられた神の器ではないでしょうか。その神の器をのろうのではなく祝福する。それはあなたの祝福となってかえってくるのです。

 

Ⅲ.第7の災い: 雹の害(20-32)
次に第7の災いを見ていきましょう。13節から35節までですが、まず26節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。あなたはなお、わたしの民に向かっておごり高ぶり、彼らを去らせようとしない。見よ。明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。さあ今、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させよ。野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死ぬ。』」

ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。そこで主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人にも家畜にも、またエジプトの地のすべての野の草の上にも、雹が降る。」モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主は雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。こうして主はエジプトの地に雹を降らせた。雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡った。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものであった。雹はエジプト全土にわたって、人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打った。またその雹は、あらゆる野の草も打った。野の木もことごとく打ち砕いた。ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。

 

第7の災いは雹の害によるさばきです。まずこの災いの前に、モーセを通して警告が与えられています。「主はモーセに言われた。『明日の朝早く、ファラオの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。』」

この災いの目的は何でしょうか。それは、「わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるため」です。災いのは内容は何ですか。「明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。」ということです。エジプトは最古の歴史を持つ国ですから、国が始まってから今に至るまでなかったようなというのは、人類の歴史上これまでなかったようなということです。だから、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させるように・・と。

 

それに対して、エジプト人はどのように応答したでしょうか。20-21節をご覧ください。「ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。」

不思議なことに、ファラオの家臣たちの中に主のことばを恐れた者とそうでなかったもの、つまり、主のことばに心を留めなかった者という2種類の人たちがいました。主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に非難させましたが、主のことばを心に留めなかったものは、しもべや家畜たちをそのまま野に残しておきました。

 

その結果どうなったでしょうか。モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主が雷と雹を送ったので、火が地に向かって走り、エジプトの地に雹が降りました。雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡りました。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものでした。それで、エジプトの人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打ちました。しかし、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降りませんでした。主がイスラエルの民とエジプト人を区別されたからです。

 

ここで注目したいことは、エジプト人の中にも主のことばを恐れた人々がいたということです。彼らは主のことばに従ったので、災害から守られました。主のみことばを聞いてどのように応答するかが重要です。主は、種まきのたとえでこのように教えてくださいました。

ある人が種を蒔いたら四種類の土地に落ちました。それは道ばた、岩地、いばら、良い地です。それはその人の心を表していました。その人が実を結ぶかどうかは、その人が主のことばをどのように受け止めるのかによって決まります。良い地に落ちた種だけが多くの実を結ばせます。あなたはどのような心で主のことばを受け止めていますか。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)とあります。私たちも主を恐れ、主のことばに従う者となりましょう。

 

さて、雹の災いを受けてファラオはどうしたでしょうか。27節と28節をご覧ください。

「ファラオは人を遣わしてモーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを去らせよう。おまえたちはもう、とどまっていてはならない。」」

よっぽどひどい災害だったのでしょう。ファラオは、「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。」と言っています。そして、「主に祈ってくれ。私はおまえたちを去らせよう。」と言いました。これはファラオが悔い改めたということではありません。ただ苦しみから解き放たれたいというだけです。苦しみから解き放たれたいという思いだけでは、救いを得ることはできません。

 

それに対するモーセの回答は、「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を差し伸べましょう。そうすれば、雷はやみ、雹はもう降らなくなります。」というものでした。しかし、それでもファラオとファラオの家臣たちはまだ、神である主を恐れていないと言いました。それはどうしてでしょうか。31節と32節をご覧ください。

「亜麻と大麦は打ち倒されていた。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。しかし、小麦と裸麦は打ち倒されていなかった。これらは実るのが遅いからである。」

どういうことでしょうか。大麦が穂を出し、亜麻がつぼみをつけるのは、大体1月から2月にかけてのことです。また、小麦と裸麦が実をつけるのは、4月から5月にかけてのことです。つまり、この雹の災害は2月から3月にかけて起こったと考えられます。大麦と亜麻は雹で打ち倒されましたが、小麦と裸麦は打ち倒されていませんでした。そのことを知ったファラオと彼の家臣たちは心を頑なにし、イスラエルの子らを行かせませんでした。

 

神は、人をへりくだらせるために、その人の力を弱くされることがあります。ある人は病気になったり、ある人は事業が失敗したりと、自分だけでは生きることができない状況に陥ることがありますが、それは私たちが主の御前にへりくだるために、主が与えてくださるものです。しかし、そうした弱さの中にあっても小麦と裸麦が残されていることがわかると、自分の中にまだやっていける力や可能性が少しでもあると思い、この時のファラオのように頑なになってしまうことがあるのです。主がエジプトのすべてを打たなかったのはエジプトに対するあわれみであったのに、それを自分たちはまだやっていけると思う判断材料にしてしまったのです。

 

しかし、それは主がモーセを通して言われたとおりでした。つまり、これほど激しい災いがあってもファラオが頑なになったのは、イスラエルの神、主のような方がどこにもいないことを、彼が知るようになるためでした。モーセが手を伸ばせば、今すぐにでも彼と彼の民を疫病で打って、この地から消し去ることなど実に簡単なことなのにそのようにされなかったのは、「わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に示すため」(16)だったのです。つまり、エジプトに主とはどのような方であるかを示すため、いや、エジプト人に限らず全地に主の名を知らしめるためだったのです。このことによって、現代に生きる私たちも、主がどれほど偉大なお方であり、主のように大いなる方はほかにはいないということを確信することができます。ファラオの頑な心は、そのために用いられたのでした。私たちは、このようにして示された主の御業を通して、主がどれほど偉大な方であるのかを知り、この方に信頼する者とさせていただきましょう。

ヨハネの福音書8章1~11節「わたしもあなたを罪に定めない」

きょうからヨハネの福音書8章に入ります。きょうのテーマは、罪に定めないイエスです。「わたしもあなたを罪に定めない」というテーマでお話しします。11節に、「わたしもあなたにさばきを下さない。」とあります。新改訳改訂第3版ではこのところを、「わたしもあなたを罪に定めない。」と訳しています。きょうのタイトルは、この第3版の訳から取りました。このところから、罪に定めないイエスについてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.姦淫の場で捕らえられた女(1-6)

 

まず、1節から6節までをご覧ください。

「イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

 

きょうの箇所は7章の続きになっていますが、7章53節から8章11節までは括弧で閉じられています。それは下の欄外にあるように、古い写本のほとんどがこの部分を欠いているからです。それで古くからこの箇所の信憑性について議論されてきましたが、これが主イエス・キリストの出来事として本当にあったということについては議論の余地がありません。

 

さて、この箇所は7章の続きであると言いましたが、7章には主イエスが仮庵の祭りにエルサレムに行かれ、そこで人々と議論され、力強い御言葉を語られたことが記されてあります。その日一日が終わると、人々はそれぞれ自分の家へと帰って行きました。その翌日のことです。イエス様は朝早く再びエルサレムに来られ、エルサレムの神殿に入られました。そこは神殿の庭であったようです。すると、人々がみもとに近寄って来たので、腰を下ろして、彼らに教え始められました。

するとそこに、律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえたというひとりの女性を連れて来て、彼らの真中に立たせ、イエスにこう言いました。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

彼らはなぜこのように言ったのでしょうか。そんなことくらいは聞かなくてもわかることだったでしょう。なぜなら、彼らは律法の専門家なのですから。律法には何とありますか。律法の中心である十戒の中にはこうあります。

「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)

そのような罪を犯した場合にどうなるのかについては、次のように定められていま

した。 「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、

二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。」(申命記22:22)

つまり、姦淫の罪に対する刑罰は、死刑だったのです。これが律法で定められていたことでした。であれば、そのようにすればよかったのではないですか。それなのに、なぜわざわざイエスに質問したのでしょうか。それは、彼らの魂胆が別のところにあったからです。6節にあります。

「彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。」

彼らの魂胆は、イエスを告発することでした。もしもイエスがモーセの律法のとおりにこの女性を死刑にするようにと言ったなら、二つの点で問題がありました。一つはローマ帝国で定めていた法律を無視するということでした。ですから、ローマへの反逆罪で訴えられることになります。当時、ユダヤ人には死刑に対する決定権が与えられていませんでした。それはローマ帝国にありました。ですからその権利を無視して勝手に行使したということになれば、ローマに反逆したとみなされても仕方ありません。もう一つのことは、イエス日ごろから罪人たちの友であると言っておられました。なのに、もしこの女性を死刑にするようにと言えば、自分が行っておられたことに矛盾することになります。イエスは、取税人や売春婦に救いの手を差し伸べるために来たと自分で言っておられたのですから。

逆に、もしもイエスが「赦すべきだ」と言うものなら、モーセによって定められた律法を破る者として訴えられることになります。ですから、どちらに転んでも分が悪かったのです。これは彼らにとってイエスを訴えるための格好の材料であったわけです。彼らは初めからこの女性のことなどどうでも良かったのです。もし本当にこのことで知りたかったのであれば、この女性だけでなく男性も連れてきたことでしょう。なぜなら、律法には男も女も、ふたりとも死ななければならないとあるのですから。女だけを連れて来て、「さあ、どうする?」と言うこと自体が間違っていました。

 

それに対してイエス様はどうされたでしょうか。6節後半にはこうあります。

「だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

イエス様は、そんな彼らの問いかけには一言も答えられず、ただ身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。何を書いておられたのでしょうか。わかりません。そのことについて聖書は何も言っていませんから。大切なことは、何を書いていたかということではなく、彼らの質問には何も答えなかったということです。なぜでしょうか。答える必要がなかったからです。ただ本文を見ると、「指で」という言葉が強調されています。神がその指で書かれたものとは何でしょうか。十戒です。出エジプト記31章18節にこうあります。

「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」

十戒は、神がその指で書き記したものです。その十戒には何と書かれてありますか。その中にはこの「姦淫してはならない」という言葉が含まれていました。つまり、イエス様はその内容をよくご存知であられたということです。律法学者やパリサイ人たちは、その十戒をさらに細分化して613もの規定を作りましたが、それは人間が作り出したものにすぎず、人を闇の中へと突き落とすものでした。しかし、イエス様は律法を定められた方であって、その律法を意味することがどんなことであるのかを完全にご存知であられました。ですから、私たちに必要なのは律法に何と書かれてあるかということではなく、この律法を定められた方であるイエス様に従うことなのです。それなしに律法に従おうとすると、ここで律法学者やパリサイ人たちが陥った過ちに陥ることになってしまいます。

 

Ⅱ.あなたがたの中で罪のない者が(7-9)

 

するとどうなったでしょうか。7節から9節までをご覧ください。

「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

 

しかし、彼らが問い続けて止めなかったので、イエスは身を起こして言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

このイエス様の言葉は、ちょうど静かな湖面に石を投げたときの波紋のように広がっていきました。大声を張り上げていた人々が次第に黙り始めたのです。それは思いがけないことばでした。彼らは、姦淫の女にひたすら注目していました。こいつは悪い女だ。とんでもないことをした。姦淫の罪は十戒でも禁じられている罪で、極刑に値する。それなのに、イエスは人々の心の流れをまったく思いがけないところへと導かました。この女に石を投げつけるがよい。しかし、一つだけ条件がある。それは、あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさいということです。人をさばくことができる人は、自らも罪のない者でなければなりません。自分の心にやましさがあるのにほかの人をさばくことなどできるでしょうか。できません。多くの場合自分が罪を持っているにもかかわらずそれを隠し、良心の呵責をごまかして平気で人をさばこうとしますが、実際にはそんなことができる人などだれもいないのです。だれにでも罪があるからです。つまり、イエス様は、その非難や怒りの流れを、自分自身に向き会うようにとされたのです。姦淫の女を見つめることから、自分自身を見つめることへと方向転換を迫られたのです。

 

これはとても大切なことです。人はほかの人の罪はよく見えても、自分の罪は見えないものです。それでこの時の律法学者はパリサイ人たちのように、この女はとんでもないことをした!と責め立てますが、自分の胸に手を置いてよく考えると、自分もこの人と同じ罪人にすぎず、五十歩百歩だということに気付かされるでしょう。

主イエスは言われました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(マタイ7:15)

梁とは裁縫で使う針のことではありません。家の柱と柱を結ぶ梁のことです。私たちは自分の中にそんな大きな梁があるのにもかかわらず、兄弟の目の中にある小さなちりを取り除こうとします。しかし、まず自分の中にある大きな梁を取り除かなければなりません。そうすればよく見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

 

すると、どのようになったでしょうか。9節をご覧ください。「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

年長者から始まりというのは、年を重ねて自分の姿がよくわかるようになっていたということでしょうか。彼らは、イエス様のひとことで、自分を振り返り、良心の呵責を感じたのでしょう。みな、その場から立ち去ってしまいました。まさに、聖書に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(へブル4:12)とあるとおりです。

 

しかし、それは何も年長者だけの問題ではありません。ここには、「年長者から始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」とあります。結局のところ、老人も若者も、男性も女性も、強い者も弱い者も、地位の高い者も低い者も、一人残らず、自分にはこの女性を罰する資格がないと思い知らされ、その場から去って行ったのです。

 

私たちが人生でキリストに出会うということは、こういうことなのではないでしょうか。思ってもみなかったような視点で物事を見ることを教えられるということです。神殿に集まった人々は、キリストに教えられなければ、あのような視点を持つことはできませんでした。今、ここにいる私たちも同じです。この視点がなければ、私たちもついつい高慢になって、自らを滅ぼし、人をも滅ぼしかねません。ですから、こうして日曜日に教会に集い、主の御言葉を通してキリストに出会うということは大切なことなのです。いつも、キリストに教えられていなければ、私たちは、物事を正しく見ることができないばかりか、そのことにさえ気付かないことが多いからです。自分では見えていると思っていてもそれはただ自分でそう思っているだけにすぎず、実際はそうでないというのがほとんどなのです。それは、9章41 節で、主が「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」とおっしゃっていることからもわかります。

私たちが見えるようになるためにはまず、キリストのもとに来ることです。そうすれば、見えるようになります。キリストに出会うことによって初めて、私にも罪があるということがわかるようになるからです。

 

Ⅲ.わたしもあなたを罪に定めない(10-11)

 

その結果どのようになったでしょうか。10節と11節をご覧ください。

「イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

 

この女をさばくことができる人はだれもいませんでした。すると主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。」と言われました。ここにいた人々の中で、人々を罪に定める権威を持っていたのはイエス様だけでしたが、そのイエス様が、彼女に罪の赦しを宣言されたのです。人の罪をさばく権威のない者が人をさばこうとし、人をさばく権威を持っておられた方はさばこうとされませんでした。ここに一つのコントラストが見られます。律法学者やパリサイ人たちは、誰からも一番よく見えるところにこの女性をひきずり出してその罪をさらしましたが、イエス様は、女性に背を向けて、彼女の罪を見ないようにされたのです。

 

どうしてでしょうか。それは、イエス様が彼女の罪を軽く扱っておられたからではありません。それは主がここで「これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われたことからもわかります。主が彼女を罪に定めなかったのは彼女の罪を背負われ、彼女が受けなければならない刑罰を代わりに受けることによって彼女を赦してくださるからです。これが、イエス様が私たちに対して取ってくださることです。

 

彼女を訴える者がひとりもいなくなった時、彼女がその場から立ち去って行かなかったのはそのためです。もう誰もいなくなったのですから、彼女もその場から立ち去って良かったのにそうしませんでした。そこから一歩も動こうとしなかった。それは動けなかったからです。すべてをご存知であられる主が、こんなに罪深い者を赦してくださる。その主の愛に釘づけにされてしまったのです。主は、自分の罪を正直に認める者に対してこのように愛をもって接しくださいます。いや、主の御前に立つ時、私たちは自分の罪を正直に認めないわけにはいきません。でもその時主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言ってくださるのです。

 

これが私たちの人生においてどうしても必要なものです。私たちが本当に生かされるために必要なのは、このイエス様の赦しの宣告なのです。聖書には、「罪から来る報酬は死である」と書かれています。人は皆、罪のために裁かれ罰せられなければならない存在ですが、イエス様は、私たちひとりひとりの罪を背負って、私たちの代わりに十字架に架かって、いっさいの罰を受けてくださいました。だからこそ、イエス様は、私たちに赦しを宣言することができるのです。私たちを罪に定めることのできる唯一の方が、私たちの罪を背負って自らを罪に定め、十字架についてくださったのです。イエス様の赦しは、ご自分のいのちと引き替えにもたらされるものなのです。

 

その赦しを、イエス様は、この女性にも宣言なさいました。そして、続けてこう言われました。「今からは決して罪を犯してはなりません。」それは、「元の虚しい生活に戻ることのないように注意して歩んで生きなさい」ということです。罪赦された者の生き方は、もはや、過去に縛られて生きる生き方ではありません。罪を赦してくださったイエス様とともに前に向かって歩んでいくものです。もちろんそこには困難があり、葛藤があり、罪の誘惑があり、いろいろなことが襲ってきます。でも、こんな私たちを愛し、赦してくださり、いつもともにいてくださるというイエス様の赦しの宣言が、私たちを生かしてくれるのです。

 

全米でベストセラーとなった本に、「アーミッシュの赦し」(亜紀書房)という本があります。2006年10月、ペンシルベニア州のアーミッシュの学校で、男が押し入り、女生徒5人を射殺し、さらに5人が重傷を負わせますが、犯人のチャールズ・カール・ロバーツは犯行後自殺しました。アーミッシュのコミュニティでこのような事件が起こったということに全米が大きな衝撃を受けましたが、その後に起こったことは、世間にもっと大きな衝撃をもたらしました。

何と被害者のアーミッシュの家族が、犯人の家族を赦したのです。事件が発生したその日に、アーミッシュの人々がすぐさま犯人の家族を訪ねて「あなたたちには何も悪い感情を持っていませんから」「私たちはあなたを赦します」と伝えたのです。

彼らはこう考えました。犯人の遺族(妻エイミーと子供たち)は自分たち以上に事件の犠牲者である。つまり、夫(父)を失った上に、プライバシーも暴かれて自分の家族が凶行を行なったという世間の非難の中を生きて行かなければならないということは、どんなに辛いことかと思ったのです。

事件の二日後に、被害者の遺族がいきなりレポーターからマイクを突きつけられて「犯人の家族に怒りの気持ちはありますか」と訊ねられた際に、「いいえ」とこたえました。

「もう赦しているのですか?」 「ええ、心のなかでは」 「どうしたら赦せるんですか?」 「神のお導きです」 「あの人たち(ロバーツの未亡人と子供たち)がこの土地にとどまってくれるといいんですが。友達は大勢いるし、支援もいっぱい得られる。」

殺された何人かの子の親たちは、ロバーツ家の人たちを娘の葬儀に招待しました。さらに人々を驚かせたのは、土曜日にジョージタウンメソジスト教会で行なわれたロバーツの埋葬に75人の参列者がありましたが、その半分以上がアーミッシュの人たちだったことです。

犯人のロバーツの葬儀の前日か前々日、我が子を埋葬したばかりのアーミッシュの親たちも何人かが墓地へ出向いて、エイミー(犯人の妻)にお悔やみを言い、抱擁しました。葬儀屋は、その感動的な瞬間をこう回想しています。

「殺されたアーミッシュの家族が墓地に来て、エイミー・ロバーツにお悔やみを言い、赦しを与えているところを見たんですが、あの瞬間は決して忘れられないですね。奇跡を見ているんじゃないかと思いましたよ。」

この「奇跡」をまぢかで見た犯人のロバーツの家族の一人は、こう言っています。 「35人から40人ぐらいのアーミッシュが来て、私たちの手を握りしめ、涙を流しました。それからエイミーと子供たちを抱きしめ、恨みも憎しみもないと言って、赦してくれました。どうしたらあんなふうになれるんでしょう。」(80~81pp)

 

どうしたらあんなふうになれるんでしょうか。なれません。これは奇跡なんです。アーミッシュの奇跡です。その奇跡を、主は私たちにももたらしてくださいました。私たちは神に背を向けながら自分勝手に生きているような者ですが、そんな罪深い私たちに、「私もあなたを罪に定めない」と宣言しておられるのです。人は赦されなければ生きていくことができません。この赦しの宣言を受け取りましょう。そして、この赦しの恵みに生かしていただきましょう。その恵みに溢れながら、前に向かって、イエス様とともに歩んでいく者でありたいと思います。

ルツ記3章

きょうは、ルツ記3章から学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ルツの従順(1-5)

 

「姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。あなたが一緒にいた若い女たちの主人ボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがすべきことを教えてくれるでしょう。」ルツは姑に言った。「おっしゃることは、みないたします。」

 

ルツの大きな決断によって、ナオミはルツと一緒にベツレヘムに帰って来ました。すると彼女はナオミに「畑に行かせてください」と言って、落ち穂拾いに出かけて行くと、はからずも、そこはエリメレク一族に属するボアズの畑でした。ボアズは、ルツが大きな決断をしてベツレヘムまでやって来たこと、そこで大きな犠牲を払って落ち穂拾いをしていることに同情して彼女に慰めのことばをかけ、彼女に落ち穂をたくさん与えるように取り計らってくれました。こうしてナオミとルツは、なんとか食いつなぐことができたのです。

 

そんなある日、姑のナオミはルツに言いました。からだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行くように・・と。それはボアズのところでした。そこでボアズが寝るとき、その場所を見届け、後で入って行って一緒に寝るためです。当時、麦打ち場は戸外にあったため、収穫された麦が盗まれないように、主人か雇人が寝泊まりして番をしていました。ナオミは、そのことを知っていたのです。

 

それにしてもナオミは、どうしてこのようなことを言ったのでしょうか。1節には、「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」とあります。ナオミは、ルツとボアズが結婚できるように取り計らっているのです。ナオミは、ルツが自分について来たとき、彼女が再婚する見込みはないと思っていましたが、彼女がボアズの畑に導かれたことを聞いて、しかもボアズは買戻しの権利のある親戚の一人であることがわかると、ボアズと結婚することができると思ったのです。

 

このナオミの助言に対して、ルツはどのように応答したでしょうか。彼女は、「おっしゃることは、みないたします。」とナオミの助言を受け入れ、従順に従いました。彼女のこの従順が、後に大きな祝福を生むことになります。やがて彼女はボアズと結婚することで、オベデという子どもが生まれ、そのオベデからエッサイが生まれ、エッサイからあのダビデが生まれます。ダビデは、イスラエルの王になる人物で、イエス・キリストの先祖となる人物です。このルツとボアズから、やがて全世界の救い主イエス・キリストが誕生するのです。そういう意味で、この時のルツの従順がどれほど大きなものであったかが分かります。

 

そして、このルツの従順は、後にイエスが生まれる時に天使から受胎告知を受けた時のマリヤを思い出させます。マリヤは御使いガブリエルから、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:31)と告げられた時、まだ男の人を知らない身、処女であったにもかかわらず、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(同1:38)と言いました。その結果、全く罪のない神の子キリストがこの世に誕生することになったのです。

 

このように従順は大きな祝福をもちらします。あなたはどうですか。神の言葉に対して従順でしょうか。そして、主に用いられる器になっているでしょうか。あなたも、みこころがこの身になりますようにと、祈りましょう。

 

Ⅱ.御翼の陰に(6-13)

 

こうして、彼女が打ち場に下って行くと、どういうことになったでしょうか。6節から13節までをご覧ください。

「こうして、彼女は打ち場に下って行き、姑が命じたことをすべて行った。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてある麦の傍らに行って寝た。彼女はこっそりと行って、ボアズの足もとをまくり、そこに寝た。夜中になって、その人は驚いて起き直った。見ると、一人の女の人が自分の足もとに寝ていた。彼は言った。「あなたはだれだ。」彼女は言った。「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」

ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。娘さん、もう恐れる必要はありません。あなたが言うことはすべてしてあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っています。ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類ですが、私よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類がいます。今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、それでよいでしょう。その人に親類の役目を果たしてもらいましょう。もし、その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられます。さあ、朝までお休みなさい。」

 

彼女は、打ち場に下って行くと、姑が命じたことをすべて行いました。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてあった麦の傍らに行って寝ると、一人の女が自分の足もとにいるのを見てびっくり!彼は驚いて起き直り、「あなたはだれだ」と言うと、「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。」という声が聞こえました。「覆い」と訳されている言葉は、衣の「裾」のことで、直訳すると「翼」です。かつてボアズはルツに、「主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(2:12)と言いましたが、ルツは彼こそ主から与えられた避けどころであると信じて、その大きな翼の下に身を寄せようとしたのです。

 

今日でも、ユダヤ教の結婚式では、このような習慣があります。新郎はタリートと呼ばれる裾で花嫁の頭を覆います。これは新郎が花嫁を受け入れ、生涯彼女を守るという決意を示す象徴的行為です。ですからこれは、ボアズを性的に誘惑したのではなく、結婚のプロポースのしきたりでもあったのです。

 

ルツは、ボアズの買い戻しの権利に訴えました。これは2章にもありましたが、申命記25章5~10節にある律法の定めです。それは、人が子を残さずに死んだ場合は、買戻しの権利のある者がその妻をめとり、死んだ者の名を残すようにと定められたものです。ルツの夫マフロンは、子を残さないまま死にました。つまり、ルツにはボアズに買戻しを要求する権利があったのです。彼女は、自分がボアズと結婚するようなことなどとてもできないと思っていました。そんな値打ちなどないことは十分分かっていたのです。しかし、ルツは神のことばをしっかりと握っていました。神が、買い戻しの権利があると言われたのですから、自分はそれを求めることができると信じたのです。

 

それに対して、ボアズはどのように応えたでしょうか。ボアズは、「主があなたを祝福されるように」と答えています。それは、ルツが尽くした誠実さが、先の誠実さにまさっているからです。どういうことでしょうか。これは、ルツがナオミに対して尽くした誠実にまさって、今また結婚について誠実を尽くしているということです。ボアズはルツを「娘さん」と呼んでいますから、父と娘ぐらいの年が離れていたのではないかと考えられています。けれども、ルツは若い男たちの後を追いかけたりせず、神の律法を重んじて、買い戻しの権利があるボアズにプロポーズしたのです。

 

ボアズという名前には、「彼には力が宿る」という意味があります。その名のとおり、彼はは裕福な資産家であり、気力、体力ともに充実した人でした。しかし、彼が人格者として数えられた最大の理由は、彼が律法に精通していた人物であったということでしょう。それは、2章1節で「有力な」という言葉を説明したとおりです。とはいえ、彼がどんなに人格者であったとは言っても、40歳の若い女性が80歳のお爺ちゃんと結婚したいと思うでしょうか。遺産でも目当てでなければ考えられないことです。しかしルツはそんなボアズにプロポーズしました。それはそうしたボアズの人柄と立場というものを理解した上で、ルツが誠実を尽くしたいと思ったからです。

 

とはいえ、ボアズは感情で走る男性ではありませんでした。すべてが公明正大に行われるようにと計画を練ります。もし買戻しの権利のある人で優先権のある親類がいて、その人が買い戻したいというのであればそれでよし、でもその人が親類の義務を果たしたくないというのであれば、自分が彼女を買い戻すと申し出たのです。つまり、彼はすべてを主の御手にゆだねたのです。なかなかできることではありません。自分の気に入った女性がいて、その人から求婚されたのであれば、もう天にも昇るような気分なって、「O.Kそうしましょう!」と即答したいところですが、彼はそのように自分の感情に流されることはありませんでした。ここに、信仰者としてのボアズの誠実な姿が表れています。ボアズはルツに優しい言葉をかけ、朝まで彼女をそこで休ませました。

 

あなたがボアズだったらどうしますか。どのような行動を取ったでしょうか。あなたは主に信頼して待つことができますか。それとも、できずに自分から動いてしまうでしょうか。待つことは、信仰の重要な要素です。主の言葉に信頼し、忍耐して待つ者となりましょう。

 

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(14-18)

 

その結果、どうなったでしょうか。14節から18節までをご覧ください。

「ルツは朝まで彼の足もとで寝て、だれかれの見分けがつかないうちに起きた。彼は「打ち場に彼女が来たことが知られてはならない」と思い、 「あなたが着ている上着を持って、それをしっかりつかんでいなさい」と言った。彼女がそれをしっかりつかむと、彼は大麦六杯を量り、それを彼女に背負わせた。それから、彼は町へ行った。彼女が姑のところに行くと、姑は尋ねた。「娘よ、どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしてくれたことをすべて姑に告げて、こう言った。「あなたの姑のところに手ぶらで帰ってはならないと言って、あの方はこの大麦六杯を下さいました。」姑は言った。「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」

 

ボアズは本当に誠実な人です。妙なうわさが立つことを恐れた彼は、夜明け前の早いうちに起きて、ルツを自分の家に送り返します。そればかりでなく彼は、大麦6杯を量り、それを彼女に背負わせたのです。

 

彼女が姑のところに着くと、早速、姑から尋ねられました。「どうでしたか」そこでルツは、ボアズがしてくれたことをすべて姑に告げました。すると姑は、「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」(16)と助言しました。ボアズは、「朝になって」(13)、また、「あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから」とあるように、ルツと彼女の土地を買い戻すために、すぐに行動を起こします。実にボアズはルツにとって愛すべき、信頼に足る人でした。

 

そして、このボアズの姿はイエス・キリストの姿を表していました。ボアズがルツを買い戻すために行動を起こしたように、イエス様は私たちを買い戻すために、十字架の上で贖いとなってくださいました。

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」(Ⅰテモテ2:6)

キリストこそ私たちの愛すべき方、信頼に足るお方であり、私たちを買い戻すためにすぐに実行に移される方、いや、すでに実行に移してくださいました。

 

私たちは自分の努力や頑張りではどうしようもないことがあります。でも、このことを覚えておいてください。主は、あなたのために働いてくださる方であるということを。自分の成すべきことをしたなら、あとは主にすべてをゆだねましょう。待つことは決して簡単なことではありませんが、神の御業を待たなければなりません。ルツのように、座って待つという信仰がるなら、私たちの魂は平安で満たされるだけでなく、次の展開に向けて大きく動き出すことでしょう。

ヨハネの福音書7章40~53節「キリストに出会って」

ヨハネの福音書から学んでいます。きょうは、7章の最後の部分から「キリストに出会って」というタイトルでお話ししたいと思います。あなたは、キリストに出会ってどのように応答しますか、ということです。

 

Ⅰ.群衆たちの反応(40-44)

 

まず、40~44節をご覧ください。

「このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。」

 

「このことばを聞いて」とは、その前でイエスが語られたことばを聞いてということです。イエスは仮庵の祭りを祝うために、ガリラヤからエルサレムに上られました。その祭りは一週間ほど続きました。その祭りの終わりの大いなる日に、イエスは人々に向かって、こう叫ばれました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37-38)  すると、群衆の中に、さまざまな反応が起こりました。ある人たちは、「この方は、確かにあの預言者だ」と言い、別の人たちは、「この方はキリストだ」と言いました。また、このように言う人たちもいました。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」

 

まず、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいました。「あの預言者」とは、申命記18章15節に預言されていたモーセのような預言者のことで、来るべきメシヤのことを指しています。つまり、救い主を意味していました。それはモーセがイスラエルの民をエジプトから救い出したように、罪の奴隷として捕らえられている人たちを救い出す方であるという意味です。ですから申命記の中には、「あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」とあるのです。その方こそメシヤ、救い主であられるからです。

 

また、別の人たちは「この方はキリストだ」と言いました。「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味で、メシヤのことを指しています。ですから、「この方はキリストです」というのは、「確かにあの預言者だ」と言うのと、本質的には同じです。彼らはイエスのことばを聞いた時、イエスについてのうわさであるとか、だれか他の人から聞いたことばとかによって判断したのではなく、イエスが語られたことばそのものによってそのように受け止めたのです。

 

しかし、群衆の別の者たちはそうではありませんでした。彼らは「キリストはガリラヤから出るだろうか」と言いました。なぜなら、キリスト(メシヤ)はダビデの子孫であって、ダビデの町ベツレヘムから出ると、聖書にあるからです。彼らが言っていることはある意味で正しいです。旧約聖書のミカ書5章2節にはそのように預言されてありますから。でも彼らはイエスがダビデの町ベツレヘムで生まれたという事実を知りませんでした。

 

こうして、イエスのことで群衆たちの間に分裂が生じました。昔も今も、イエスは誰かということについて、人々の意見は分かれます。イエス・キリストの福音は、人々に一致をもたらすのではなく、このように分裂をもたらすのです。真理とは、そのような性質を持っています。いったい何が問題なのでしょうか。真理が問題なのではありません。その真理をどのように受け止めるのかという受け止め方に問題があるのです。彼らは偏見を持っていました。その偏見によって、真理がゆがめられていたために、正しく判断することができないのです。

 

ある註解者は、こうした群衆たちの中にメシヤに対する考え方の違いがあったことを指摘しています。つまり、やがて来るべきメシヤはダビデの王位を継ぐ政治的解放者として、イスラエルをローマの支配の支配から救い出し、イスラエル民族を中心とした世界を統一する王として期待していましたが、イエスはそのような王としてではなく、彼らの罪を赦し、悪魔とその支配から救い出すたましいの救い主として来られました。そうした違いがあったのです。そして、こうした誤解が真実を見る目というものを曇らせていたのです。

 

これは、私たちにもよくあることではないでしょうか。よくキリスト教についてこのように言う人たちがいます。「キリスト教は西洋の宗教じゃないか。日本には日本の宗教があるんだから、それを信じていればいいんだ。」どう思いますか?キリスト教は西洋の宗教であるという先入観です。でも私たちがキリストを信じるのは、それが西洋の宗教だからとか、日本の宗教だからということではなく、それが真理だからです。それは私たちが学校で数学や物理を学ぶのと同じで、私たちが数学や物理を学ぶのはそれが西洋から来たものだからではなく、真理そのものだからです。それに日本には日本の宗教があると言う人の多くが信じている仏教は、もともと外来の宗教であって、日本古来のものではありません。ですから、こうした誤解なり偏見なりといったものが取り去られない限り、本当のものを知ることはできないのです。

Ⅱ.役人たちと祭司長やパリサイ人たち(45-49)

 

このような偏見を持っていたのは、一般の群衆だけではありませんでした。もっとひどかったのは、祭司長やパリサイ人たちでした。45節から49節までをご覧ください。

「さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」」

 

祭司長やパリサイ人たちは、役人たちが戻って来た時、彼らが「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」とありのままを告げると、「おまえたちまで惑わされているのか」と言いました。律法を知らない愚かな者だけが、イエスのことばに惑われている・・・と。その証拠に、議員やパリサイ人たちの中で、イエスを信じた者が誰かいるか。だれもいないだろう。それだけお前たちは惑わされているのだ。そう言ったのです。つまり、彼らはこの世の権力を笠に着て、役人たちを威圧したのです。いったいこの違いはどこから来たのでしょうか。キリストに対する受け止め方が、役人たちと祭司長やパリサイ人たちとでは大きく異なっていました。一方は肯定的であり、他方は否定的です。同じキリストとその語られた言葉に対して、このように人によって違いが生じたのです。

 

役人たちは、キリストに対してあまり偏見を持っていませんでした。祭司長やパリサイ人たちは、キリストを捕らえて殺そうというたくらみをもっていたので、「なぜあの人を連れて来なかったのか。」と問い詰めましたが、役人たちはそのような意図を持ってはいなかったので、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」とありのままに答えることができたのです。イエスの言葉を聞くなら、これが自然の反応でしょう。

 

私は最近車を運転する時「聴く聖書」というCDを聞いています。新約聖書を朗読したCDです。マタイの福音書からずっと聴いていると、イエス様の言葉はすごいなぁと、改めて感じます。だれかこんなふうに話すことができる人がいるだろうか。どんなに考えても、人間には考え付かない言葉です。ですから、役人たちが、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」と答えたのはもっともなことでしょう。彼らはほかの人がどう言うかということよりも、イエスが実際に語る言葉を聞いて、率直にそう思ったのです。この役人たちがイエスを信じたかどうかはわかりませんが、彼らは、自分の前にいる人物を間違いなく正しく見ることができる可能性を持っていました。それは、イエスに対する祭司長やパリサイ人のような偏見やたくらみがなかったからだです。それゆえに、イエスという存在を曇りのない目で見ることができたのです。

 

一方の祭司長やパリサイ人たちは、全く異なっていました。彼らはキリストをありのままに見ることができませんでした。それは彼らの中にねたみがあったからです。マルコの福音書15章10節を見ると、このように記されています。 「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。」

もしねたみをもってイエスを見るならば、イエスがどんなに素晴らしい方であっても、そのように受け止めることができなくなってしまいます。いいえ、素晴らしければ素晴らしいほど、かえってその思いは膨らんでいくでしょう。まさに、こうしたねたみが、イエスと向きあった時に、彼らの目を曇らせていたのです。

 

あなたはどうでしょうか。役人たちのように全く曇りのない目で、イエスを見ているでしょうか。それとも、祭司長やパリサイたちのように、ねたみや偏見に囚われて見ているということはないでしょうか。人と人との関係、そして神と人との関係は、いつでもそのことが問われていると思います。ねたみや偏見といった曇りのない目でイエスを見る者でありたいと思います。

 

Ⅲ.ニコデモの信仰(50-53)

 

最後に、そのような中にあっても勇気をもってイエスを告白したニコデモという人の姿を見たいと思います。50節から53節までをご覧ください。

「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」〔人々はそれぞれ家に帰って行った。〕

 

「彼らのうちで」とは、ユダヤ教の議員やパリサイ人たちのうちで、ということです。彼らは、いわばユダヤ人の社会におけるエリートたちでした。その中の一人で、以前イエスのもとに来たことのあるニコデモが、こう言いました。

「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」

 

ニコデモは、ここで主イエスを弁護しています。覚えていらっしゃいますか。彼は、以前イエスのもとに夜こっそりとやって来た人物です。なぜ夜こっそりとイエスのもとにやって来たんですか?人から見られたくなかったからです。そのような立場にある自分がイエスのもとに行ったということが知られたら、大変なことになるでしょう。でも、どうしても知りたかったのです。人はどうしたら神の国を見ることができるのか、どうしたら神の国に入ることができるのか。

すると、イエスから「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と言われました。社会的な地位や名誉、立場が邪魔をしていたのか、ニコデモは霊的なことがあまりよくわかりませんでした。それほど鋭い人ではなかったのです。それでも真理を求め、自分の悩みをごまかすことをせず、イエスのもとにやって来ました。そして、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われ、神の救いについて、真理について、もっと深く求めるようになり、信仰が芽生えました。

しかし、48節の「議員やパリサイ人たちの中で、だれかイエスを信じた者がいたか。」という言葉から考えると、この時点ではまだ公に信仰を告白するまでには至っていなかったようです。しかし、彼のイエスに対する信仰は、確実に成長していました。彼は、「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」と問題提起をしたのです。

 

「私たちの律法」とは、ユダヤ教の律法のこと、つまり、モーセ五書のことです。その律法には、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか、なのに、何も聞かないで、何も知らないのに、イエスを殺そうというのはおかしいのではないか、と声を上げたのです。これはとても勇気のいることだったと思います。

 

それに対して、祭司長やパリサイ人たちはニコデモに言いました。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」「ガリラヤの出」とは、「愚か者」という意味があります。あなたもガリラヤの出なのか、ガリラヤの出身なのか、そう言ってニコデモを軽蔑したのです。

 

信仰を告白するとか、公に表明することが得策ではないと思われる時、あなたはどのような態度を取るでしょうか。それでもニコデモのように勇気をもって、信仰の一歩を踏み出しますか。それとも、長い物に巻かれて黙り込んでしまうでしょうか。最初の一歩を踏み出すことには恐れも伴うでしょう。しかし、そうした一歩を踏み出すと、次の一歩がより易しくなります。この一歩が彼の信仰を大きく飛躍させました。彼はやがてイエスが十字架に付けられて、私たちの罪の贖いのために死なれた時、イエスの12弟子のほとんどが逃げて行ったにもかかわらず、アリマタヤのヨセフと一緒にイエスの遺体の下げ渡しを願い出ました。ヨハネの福音書19章38~41節にはこうあります。

「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」

彼は、目覚ましい信仰生活ではなかったかもしれませんが、最終的にそこに辿り着いたのです。

 

このニコデモの姿に、私たちは自分の信仰を見ます。六日間、神に背を向けた社会で過ごし、時には周囲のさまざまな圧迫に耐えながら、かろうじて信仰を保っているような者ですが、そして、そんな姿に情けない思いを抱きながら、毎週の礼拝に集ってくることが少なくありません。けれども、そんな私たちもニコデモのような信仰に辿り着くことができるのです。それは、主が私たちの信仰の戦いと苦悩をご存知であられ、受け入れておられるからです。この箇所を見る限り、聖書はニコデモの信仰の不徹底さを責めることを一切せず、むしろ受け入れていることがわかります。それは主がそこに信仰の芽をご覧になっておられたからです。私たちも今はか細い信仰かもしれませんが、勇気をもってその一歩を踏み出すとき、やがて大きな信仰の飛躍を遂げていくことになるのです。

 

アメリカの名門プリンストン大学の大学院に入学したコートニー・エリスというクリスチャンの証です。

彼は教会の中や友人たちの間では、自分がクリスチャンであることを大胆に証ししていましたが、大学では、沈黙を保ちました。なぜなら、大学院では、院生たちがイエスの御名をあざけるのを何度も聞いていたので、自分の評判が落ちるのではないかと恐れていたからです。大学院生のほとんどが、イエスについて無知であったり、中には、今まで一度もクリスチャンに出会ったことがないという人たちもいて、クリスチャンは教養のない、批判的な人たちだと思っていたのです。

時が経つにつれて、彼は罪責感を感じるようになりました。こんなに基本的な点で主に忠実でないとしたら、他の点でどのように神に仕えることができるだろうかと思うと、自分の信仰にはがゆさを感じていたのです。神は彼に、証の機会を与えてくれても、彼は恐れのために行動に移すことができなかったのです。

ある日、ひとりの院生がクラスの中で、「あなたはクリスチャンか」と尋ねてきました。彼は、どのように答えたらいいか決めなければなりませんでした。

そして、深呼吸をして、神の助けによって、震える声で言いました。

「そうだ」

質問をした院生は不思議そうな顔をしながら彼の顔を見つめて言いました。

「驚いたわ。クリスチャンというと、サーカスに出てくるような変人ばかりかと思っていたのに、あなたの場合そうじゃないわね。頭もいいし。」

それは彼にとって小さなステップでありましたが、大きな進歩でもありました。彼はこう思いました。神は自分たちに、自分の評価はどうなるかを気にするなと語っておられると。真理に立つ者は、必ず勝利できるからです。

 

最後に53 節をご覧ください。「人々はそれぞれ家に帰って行った。」

キリストに出会った人々は、それぞれ家に帰ってどうしたのでしょうか。聖書には何も記されていませんが、私なりに想像そうぞうするに、たとえば、役人は家に帰りその日にあったことを奥さんや家族の誰かに話したかもしれません。しかし、次の日からは忙しさや雑事に追われ、キリストとの出会いを忘れてしまったかもしれませんね。

祭司長やパリサイ人はどうでしょう。彼らは家に帰り、キリストに対するねたみがエスカレートしていったかもしれません。今のようにラインといったものはありませんでしたが仲間と連絡を取り合って、さらにキリストを追い詰めていく策を相談したかもしれません。

では、ニコデモはどうだったでしょうか。彼はひとり思い悩んでいたかもしれません。どうしたら良いだろうか・・と。しかし、行きつ戻りつしながらも、彼の心はキリストへと引き寄せられていったのではないでしょうか

 

あなたはどうでしょうか。それぞれがいろいろな反応を示しました。あなたはどのように応答しますか。これから私たちもそれぞれ自分の家に帰って行きます。帰って行ってどうなるでしょうか。キリストと出会いその言葉に感動しても、家に帰って瞬間に冷めていくでしょうか。あるいは、いくらキリストと出会っても自分の思い通りにならないということで嫌になり、キリストと縁を切ろうとするでしょうか。それとも、その出会いを大切にして、キリストへの愛がますます深めていくのでしょうか。

 

このニコデモのように、勇気をもって信仰の一歩を踏み出しましょう。それは小さな一歩かもしれませんが、やがて大きな結果へとつながっていくのです。

ルツ記2章

きょうは、ルツ記2章から学びます。まず1節から3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.はからずも(1-3)

 

「さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。」

 

モアブの野から戻って来たナオミとルツはどうなったでしょうか。ルツはベツレヘムに着くと、ナオミに言いました。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいたのです。その人の名はボアズです。彼女は、その人の畑に行かせて、落ち穂を拾い集めさせてほしいと言いました。落ち穂拾いとは、収穫が終わった畑に落ちている麦の穂を集めることです。律法には、貧しい人や在留異国人が落ち穂を拾うことができるように、すべてを刈り取ってはいけない、というおきてがあります。レビ記19章9-10節です。

「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

ルツは、神のおきてをよく知っていて、それに従ってナオミと自分の生計を立てようと考えたのです。彼女は、ナオミにそうするようにと言われたから出かけて行ったのではなく、自分の方からそのように申し出ました。

 

ナオミが、「娘よ、行っておいで」と言うと、ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めましたが、何とそれは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑でした。「はからずも」という言葉は、それが偶然のことではなく、そこに神の御手が働いていたことを表しています。ルツが行った畑はボアズという人の畑でした。彼は、エリメレクの一族に属する人、つまり、ナオミの夫の親戚にあたる人で有力者でした。「有力者」であったというのは単に資産家であったというだけでなく、神に従い、人格的にも優れた人物であったということを意味しています。このボアズの畑に導かれたのです。

 

私たちの人生にも、神の御手が働いています。私たちが、日々、主の御声を聞き従いながら歩んでいると、主は次の進むべき道を開いてくださいます。多くの人は、自分に対する神のご計画がよくわからないと言いますが、ルツのように今神から示されていることに忠実に従っていくなら、神は、ご自身の御業を表してくださるでしょう。

 

Ⅱ.主の慰め(4-16)

 

するとどのようなことが起こったでしょうか。4節から16節までをご覧ください。12節までをお読みします。

「ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」

 

「ちょうどそのとき」、ボアズがベツレヘムからやって来て、ルツたちが働いていた畑にやって来ました。すると彼は刈る人たちに、「主があなたがたとともにおられますように。」とねぎらいの言葉をかけました。すると、刈る人たちは「主があなたを祝福されますように。」と答えています。実に麗しい関係ですね。ボアズは心から神を慕い求め、神の言葉に生きていました。そんな彼を、しもべたちも尊敬していたのです。

 

するとボアズはルツに目を留め、刈る人たちの世話をしている若い者に、「あれはだれの娘か」と聞きました。勤勉に働いている姿に目が留まったのか、見た瞬間に美しい人だと思ったのかはわかりません。その若い者がルツについて知らせると、ボアズはその献身的な姿に感動し、ルツに、自分のところの若い女たちのそばを離れず、彼女たちの後について行くように、と言いました。そればかりではありません。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲むように、と言いました。ルツを労り、外国人であるがゆえの嫌がらせを受けないように取り計らってくれたのです。

 

ルツは顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言いました。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」すると、ボアズは答えて言いました。

「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(11-12)

ボアズは、この一連のルツの行動が、単にナオミに対する愛情だけではなく、イスラエルの神、主に対する信仰から出たものであると受け止め、主がその行為に報いてくださるようにと祈っています。つまり、ルツがその翼の下に身を避けようとしてやって来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように、と祈ったのです。

 

この言葉には本当に慰められます。私たちは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)私たちもイエス・キリストを通してイスラエルの神の翼の下に避け所を見出した者です。つまり、このボアズの姿は、イエス・キリストの姿を表していたのです。キリストこそ私たちの避け所です。その主に身を避ける者は幸いです。その人は、主から豊かな報いを受けることができるからです。

 

それに対して、ルツはこう答えています。13節です。

「彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」

ルツは、自分が、このような取り計らいを受けるに値しない者であることを知っていました。ボアズが雇っているわけでもない娘です。それにモアブ人でした。本来なら追い出されても仕方ない者であるにもかかわらず、ボアズの特別な計らいと好意にあずかることができました。このように、受けるに値しない者が受けることを「恵み」と言います。私たちも、神の民となるには全く値しない者であったにもかかわらず、神の民となりました。それは私たちに何かそれだけの価値があったからではなく、そうでないにもかかわらず、イエス・キリストの十字架の贖いを信じたことによって、そのようにさせていただけたのです。そうです、私たちが救われたのは、一方的な神の恵みによるのです。

 

14節から16節までをご覧ください。

「食事の時、ボアズはルツに言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る人たちのそばに座ったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若い者たちに命じた。「彼女には束の間でも落ち穂を拾い集めさせなさい。彼女にみじめな思いをさせてはならない。それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。彼女を叱ってはいけない。」

 

ボアズはルツに、パン切れを酢に浸して食べるように勧めています。また、炒り麦を取って、彼女に与えています。そして、ルツが知らないところでも、ボアズは、ルツに良くしています。彼は若い者たちに、たくさん穂が落ちる束の間から拾い集めさせ、彼女にみじめな思いをさせてはならない、と言いました。それだけでなく、彼女のためにわざと束から穂を抜き落としておくようにさせました。

このように、ルツは、ボアズをとおして、主から大きな慰めを受けました。これが、私たちが主からうける慰めです。私たちが主イエス・キリストに従うと決心したことで、確かに今まで慣れ親しんできた習慣から離れ、これまでの仲間から離れることで寂しい思いをすることがあるかもしれませんが、そのことによって私たちは主との深い交わりの中に入れていたたき、主の深い配慮にあずかるようになったのです。確かにルツは、自分の家族を失ったかもしれません。頼りにすることはできない、モアブ人の神々を頼りにすることもできません。けれども、主ご自身との個人的な関係、愛し合う関係を得たのです。これが、主にお従いする者にもたらされる報いです。

 

Ⅲ.帰宅して(17-23)

 

最後に17節から23節までをご覧ください。

「こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。集めたものを打つと、大麦一エパほどであった。彼女はそれを背負って町に行き、集めたものを姑に見せた。また、先に十分に食べたうえで残しておいたものを取り出して、姑に渡した。姑は彼女に言った。「今日、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女は姑に、だれのところで働いてきたかを告げた。「今日、私はボアズという名の人のところで働きました。」ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主、その方を祝福されますように。」ナオミは、また言った。「その方は私たちの近親の者で、しかも、買い戻しの権利のある親類の一人です。」モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、うちの若い者たちのそばについていなさい』と言われました。」

ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ、それは良かった。あの方のところの若い女たちと一緒に畑に出られるのですから。ほかの畑でいじめられなくてすみます。」それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女は姑と暮らした。

 

こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めました。集めたものを打つと、大麦一エパほどでした。大麦一エパとは23リットルです。ボアズの配慮があったとはいえ、これは大変な量です。彼女はそれを家に持って帰り、姑のナオミに見せました。また、それとは別に、十分に食べから残しておいた炒り麦を、ナオミに渡しました。驚いたナオミはルツに、どこで落ち穂を拾い集めたのかを聞くと、ルツが、ボアズという人のところですと答えたので、ナオミはさらに驚きました。ボアズはナオミの近親者で、買戻しの権利のある親戚のひとりだったからです。

 

買戻しの権利とは、だれかが所有していた土地が売られてしまい。それを再び自分のものにするとき、代価を払って買い戻すことを言います。レビ記25章25節には、「もしあなたの兄弟が落ちぶれて、その所有地を売ったときは、買い戻しの権利のある近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」とあります。この権利については3章でもう少し詳しく学びたいと思いますが、ボアズは、その買戻しの権利のある親戚のひとりだったのです。

 

ルツは、その方がこれからも自分の畑に来るように、と言ったことを伝えると、ナオミは「それは良かった」と答えました。ほかの畑でいじめられなくてすむからです。それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めました。こうして、彼女は姑と暮らしたのです。

 

ナオミとルツがモアブの野からベツレヘムに戻って来た時には、これから先どうなるか全くわかりませんでした。ナオミは自分を「ナオミ」と呼ばないで、「マラ」と呼んでください、と言いました。全能者である神が大きな苦しみにあわせたのですから。でも、その全能者であられる神が、ルツを通して彼女に報いてくださいました。はからずも、ルツはボアズの畑へと導かれたのです。誰がそのようになることを想像することができたでしょうか。しかし、話はそれで終わりません。それよりももっとすごいことになっていきます。人類の救済の歴史へと発展していくのです。これが神の世界です。人間の目では八方塞がりのような状況でも、そこに神の御手があるなら、私たちの知らない大いなることがそこに広がっていくのです。大切なのは、ルツが神の導きに忠実に従っていったように、今自分の目に広がっていることを自分に与えられた神の計画として受け止め、それに従っていくことです。私たちの信仰の道は必ずしも自分が思い描いたようには進んでいないかのように見えるかもしれませんが、主はあなたの信仰に報いてくださいます。雌鳥がその翼の下に身を避けるように、あなたの人生をかくまってくださるのです。これが主を信じて歩む私たちに与えられている約束なのです。

ヨハネの福音書7章37~39節「生ける水の川」

きょうは、「生ける水の川」というタイトルでお話しします。「生ける水の川」とは、39節にあるように、イエスを信じる者が受けることになる御霊のことです。イエスを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、この生ける水の川が流れ出るようになるのです。これが、私たちのいのちです。創世記を見ると、そもそも人は神のかたちに創造されました(創世記1:27)。この「神のかたち」とは、「霊」のことを意味しています。神は霊ですから、その神と交わりを持つことができるように、人は霊を持つものとして造られたのです。これが人のいのちです。ですから、私たちは神に祈り、神を礼拝するとき、「ああ、生きている」という感じることができるのです。これがないと、私たちはいったい何のために生きているのかもわからず、ただ目先のものに振り回されながら生きることになります。それは本当に空しいことです。人は神の御霊を受けることで生きることができ、それは生ける水の川のように、その人の心の底から流れ出るようになるのです。

どうしたらその生ける水を受けることができるのでしょうか。きょうはこのことについて、聖書のみことばから学びたいと思います。

 

Ⅰ.だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい(37)

 

まず37節をご覧ください。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

 

この祭りとは「仮庵の祭り」です。イエス様は、兄弟たちがこの祭りに上って行った後で、ご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれました(10)。そして、祭りも半ばになったころ、宮に上って教え始められました(14)。それから36節まで、ずっとユダヤ人たちとの間に議論が続きました。そして、この祭りの大いなる日に、イエスは立ちあがり、大きな声で言われたのです。この「祭りの大いなる日」とは、仮庵の祭りの最終日、つまり7日目のことです。この日は、祭りのクライマックスの日でした。それまでの6日間、祭司たちは行列を作ってシロアムの池まで出かけて行き、そこで黄金の器に水を汲んで神殿に戻ってくると、祭壇の周りを1度だけ回って水を注ぎました。しかし、祭りの最終日の7日目は、昔エリコの城壁の周りを7回回ったように、祭壇の周りを7回周り「ホザナ」と歌いながら祭壇に水を注ぎました。それは、主が雨を降らせ、豊かな収穫を与えてくださったことに感謝すると同時に、翌年の豊かな雨を祈願するためでした。その祭りが最高潮に達した時に、イエスは立ち上がって、大きな声でこう言われたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

前回の時にも申し上げたように、主が大声で語られるというのは非常に珍しいことです。これはそれだけ重要なことであることを表しています。それが「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」ということでした。これはどういうことでしょうか。

 

こ意味は一つしかありません。それはだれでも魂が渇いている人がいるなら、その渇きを癒すためにキリストのもとに来て飲みなさいということです。主がこのように言われたのは、この仮庵の祭りの時、シロアムの池から水が汲まれ、それが神殿に運ばれ祭壇に注がれるというタイミングでのことでした。主はかつてサマリヤの女に「決して渇くことにない永遠のいのちへの水」について語られましたが、その時井戸の水から話を進めて行ったように、この時もシロアムの池から汲まれてくる水を見て、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。もちろん、イエス様がここで言及しておられるのは飲み水のことではなく、「霊的な水」のことです。ですから、ここで「渇いているなら」というのは、のどが渇いていることではなく心が渇いているなら、という意味です。人々の関心は、水と収穫、すなわち物質的なものに向けられていましたが、イエス様の関心は、霊的な水、霊的な渇きを満たすことだったのです。

 

では、心が渇くとはどういうことでしょうか。私たちはみな欲望を持っています。欲望それ時代は悪いものではありません。しかし、欲望が満たされればそれで幸福になれるかというとそうではありません。お金にしても、物にしても、地位にしても、名誉にしても、そうしたものを手に入れることで、一時的な満足は得られるかもしれませんが、それで本当の満足は得られないのです。

 

映画「風と共に去りぬ」の主演男優であったクラーク・ゲーブルは、ある朝、むなしく疲れ果て、自分のベッドで自殺死体として見つかりました。彼はオスカー賞を何度も取りました。幸せを求めて5回も結婚しました。彼にはお金もあり、恋もあり、名誉もあり、人気もありました。私たちから見れば、彼は自分が求めたこの世のすべての物を手にしたかのように見えましたが、そんな彼が、なぜ自殺しなければならなかったのでしょうか。飢え渇いたその魂を、この世のもので満たすことはできなかったのです。

 

私たち人間は、神のかたちにかたどって造られていますから、神のみもとに帰るまでは、決して満ち足りることはないのです。神のみもとから離れ罪の中にある人間は、自分の魂が満足するどころか、不安と苦悩でおののいています。罪の中にある人間は、その罪の赦しを経験することなしに魂の渇きが癒されることはないのです。

 

ですから、イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。ここで注目したいことは、主が招いておられる人はどのような人であるかということです。それは「だれでも渇いている人」です。つまり、魂が渇いている人です。それは自分の罪を自覚し、その罪の赦しを求め、魂の平安を切望している人のことです。渇いていなければだれも飲みたいと思いません。空腹でなければ食べたいとも思いません。自分が罪人であると自覚し、その罪から救われたいと本気願う人だけが、そのためにどうしたら良いのか求めるようになるのです。

 

もうすぐペンテコステですが、あのペンテコステの日にペテロの説教を聞いた人々はどうだったでしょうか。彼らは心を刺され、ペテロとほかの使徒たちにこう言いました。

「兄弟たち、私たちはどうしたら良いでしょうか。」(使徒2:37)

これが渇いている人のことばです。また、パウロとシラスがピリピの牢獄に入れられた時、真夜中に、神を賛美していたとき、突然大きな地震が起こり牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、囚人たちの鎖が外れてしまいました。目を覚ました看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした時、パウロは大声でこう叫びました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」すると看守は、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏してこう言いました。

「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使徒16:30)

これが渇いた人のことばです。それでパウロとシラスが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)と言うと、彼と彼の家族の者全員が、その言葉を受け入れてバプテスマを受けました。

このような渇きが、彼らをそこからの解放、すなわち、魂の救いへと向かわせたのです。「渇く」ということがなければ、満たされることはありません。

 

私たちが救われるために必要な第一のことは、私たちが渇くということです。私たちは罪を犯した、価値のない、貧しい罪人であるということを知ることです。私たちは失われた者であることを知るまでは、救いへの道を歩み出すことはしないからです。天国への第一歩は、私たちは地獄に行っても当然であるということを、はっきりと自覚することにほかなりません。罪の意識は、時として自分が救いようもない人間であるという思いを抱かせますが、実は、これが尊いことなのです。なぜなら、それこそ救いに向かう第一歩となるからです。私たちに律法が与えられたのはそのためでした。神の完全な律法が与えられそれと照らし合わせてみてはじめて、自分がどんなに罪深い人間であるかを知り、救いを求めるようになるでしょう。

イエス様は山上の説教の中でこう言われました。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(マタイ5:6)どういう人が満ち足りるようになるのでしょうか。義に飢え渇く者です。そういう人は満ち足りるようになるのです。

 

あなたは、義に飢え渇いていますか。もし飢え渇いているなら、イエスのもとに来てください。そして、イエスが与えてくださる水を飲んでください。キリストのもとに来て飲むとは、単純にキリストを信じるということです。キリストがあなたの罪を赦す力をもっておられ、あなたの魂の渇きを完全に癒すことができる方であると信じて、キリストにあなたのすべてをゆだねることなのです。これを「信仰」と言います。キリストに「来る」とは、キリストを信じることであり、キリストを「信じる」とは、キリストのもとに「来る」ことにほかなりません。これは実に単純なことです。あまりにも単純すぎるので本当でないかのように思えるかもしれませんが、これが本当のことです。これ以外に救いはありません。クリスチャンは、いつの時代でも、この信仰によってキリストのもとに来て、キリストの泉から飲み、罪から解放された人たちです。心から罪の意識を感じ、その罪から赦されること、つまり義に飢え渇いて、キリストのもとに行くことは、天国に至る大切なステップなのです。しかし、あまりにも多くの人が、このステップを踏もうとしません。このことを考える人が少ないのです。そして信じる人はもっと少ないというのは、本当に悲しいことです。

 

Ⅱ.生ける水の川が流れ出るようになる(38)

 

次に、38節をご覧ください。ここには、キリストのもとに来て飲むとどうなるのか、その結果が記されてあります。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 

キリストのもとに来て飲むとは、キリストを信じることだと申し上げましたが、ここでははっきりとそのように言われています。「わたしを信じる者は・・・」と。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

これは、もちろん比喩的な意味で用いられていますが、二つの意味があります。一つは、キリストを信じる者は、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるということ、つまり、魂の必要が豊かに満たされるということです。そしてもう一つは、そのように自分の魂の必要が満たされるというだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となるということです。

 

まず、キリストを信じる者は、自分の魂の必要が豊かに満たされるということですが、これはキリストを信じて生きている多くのクリスチャンが実感していることではないでしょうか。キリストを信じるまでは、それがどのようなものなのかを想像することすらできませんでした。しかしキリストを信じたことで、魂の平安と喜び、希望や慰めを知りました。

 

既に召されましたがクリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸がんの手術を受ける前日、心臓病もあるので、ひょっとすると手術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことにしました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。

 

第二次世界大戦時、ナチスの強制収容所には、定員の三倍近くの囚人が詰め込まれていました。しかも最上階のベッドは天上にくっつきそうだったので、そこに座ることさえできませんでした。そのような環境の中であらゆる自由を奪われた若い婦人たちが、腹這いになり、神の導きについて話し合っていました。すると、その中の一人の姉妹が、このように言ったそうです。

「神様が私をここに導かれたのは、決して間違いであったとは思わない。私はここで初めて、本当に祈ることを学びました。ここでの精神的、肉体的な苦痛は私に、その人がすべてをイエスさまに明け渡さない限り事態は解決されないことを教えました。これまで私は、うわべでは敬虔そうな信仰生活を送ってきましたが、私の生活の中にイエス様を締め出していた部分があったのです。でもイエス様は今、私の生活のあらゆる部分で王となっておられます。私ははじめて、神の平安と愛で満たされる喜びを知ったのです。」

こうした試練に会うと神を呪ってもおかしくないのに、むしろ、そうした中ではじめて神の平安を知ったと言える、これは人間の思いをはるかに超えた思いではないでしょうか。

 

主イエスを知って、主イエスを信じたことによって、こうした魂の平安と慰めが与えられ、生きる希望が与えられるのです。時として私たちは、自分自身に失望することがありますが、キリストに失望することはありません。キリストを信じたことで与えられた神との平安、喜び、希望、慰めは、この世の何物とも取り変えることはできないからです。それは聖書の御言葉を読み、そこにある神の恵みの確かさを理解すればするほどそうなります。皆さんはどうでしょうか。まさかあのエサウのように、パンとレンズ豆の煮物と交換するような愚かなことはしたいとは思わないでしょう。

 

長い間世界的な伝道者ビリー・グラハムの伝道集会で特別賛美を歌ってきたBEVERLY SHEAは、その体験をこう歌いました。

「キリストには代えられません 世の宝も また富も

この御方がわたしに代わって死んだゆえです。

世の楽しみよされ、世の誉れよ行け

キリストには代えられません 世の何物も」

(新聖歌428「キリスト」には代えられません)

 

これがクリスチャンの実感でしょう。キリストを知れば知るほど、その思いは深くなっていきます。キリストを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになるのです。

 

しかし、そればかりではありません。キリストを信じる者は、自分の魂の必要が満たされるだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となります。たとえば、パウロは、コロサイ人への手紙の中でこのように告白しています。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

クリスチャンをキリストにある成人として立たせることはどんなにか労苦の伴う働きだったことでしょう。しかし、彼は、自分のうちに働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しました。その結果、こうした彼の奮闘は決して無駄にはならず、その恵みは多くのクリスチャンに伝わり、やがて世界中へと広がって行きました。それは彼の心の奥底だけでなく、彼の周りの人たちに、そして全世界に溢れ出たのです。

 

先ほども申し上げたクリスチャンの作家に三浦綾子さんは、信仰をテーマとした小説をたくさん残されましたが、それは今も世界中で伝えられ、「三浦綾子読書会」となって広がっています。三浦綾子さんの心の奥底に流れた生ける水の川は、溢れ出て、多くの人の魂を満たす水となっているのです。

 

あなたもキリストのもとに行き、その水を飲むなら、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

 

Ⅲ.イエスを信じる者が受ける御霊(39)

 

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。ヨハネは39節で、そのことを説明して次のように言っています。

「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」

 

これは、ヨハネの福音書によく出てくる説明的論評と世バルものです。それがどういうことなのかを説明しているのです。そして、ここには、イエスを信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである、とあります。しかし、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのです。つまり、この生ける水の川とは、この御霊のことを指して言われていたのです。御霊とは神の御霊、聖霊のことです。当時の人々は、旧約聖書における聖霊の働きしか知りませんでした。それはある一部の人に、しかも必要な期間しか与えられませんでしたが、イエスが約束された聖霊は、イエスの十字架と復活、そして昇天の出来事以降、イエスを信じるすべての人に注がるというものでした。それがペンテコステの出来事です。イエス・キリストを信じる者には、だれにでもこの御霊が注がれ、その人の心の奥底に生ける水の川となって流れ出るようになったのです。

 

それがどれほどすごいものなのかを、旧約の預言者エゼキエルはこのように預言しました。

「彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。」(エゼキエル47:8-10)

 

「この川が入るところでは、すべてのものが生きる」。これはエゼキエルという預言者が語った言葉です。エゼキエルは、非常に困難な時代を生きた預言者でした。彼はユダヤからバビロンに捕囚として連れて行かれた人々の中にいた人物です。そして彼が捕囚の地において、預言者として活動していた期間中に、彼の故郷であるエルサレムが最終的に破壊されてしまうという、悲惨な出来事が起こるのです。  なぜ、生ける真の神に仕えている神の民イスラエルがこのような苦しみに遭わなければならないのか。神からの答えは、イスラエルが神から離れて罪を犯したからだ、ということでした。人々は真の神に頼って生きることをせず、偶像礼拝に陥っていたのです。そのために、神の臨在がエルサレムから去ってしまいました。

 

神が去った後のエルサレムは悲惨でした。異邦人によって滅ぼされ、なすがままにされ、ついに神殿さえも破壊されてしまうことになります。けれども、エゼキエルの見た幻は、そこで終わりませんでした。どん底に落ちたイスラエルに、再び希望が語られるのです。廃墟になったエルサレムの街が再建され、神殿が再び建設されていくのです。

そして、彼は思いもかけない光景を目にすることになります。なんと、神殿の中から、しかもその中心部分である聖所から、水が流れ出ているのです。しかも、その流れが川となり、その川は遠くへ行けば行くほど水かさが増して、最後には渡ることのできないほどの大河になります。この川は、普通の川ではありません。超自然的な川です。なぜなら、聖所から流れ出ているからです。聖所というのは、神様がおられる場所です。つまり、このエゼキエルが見た川というのは、神様ご自身から流れ出ていた川でした。

そして、この川が流れ出るところはどのようになるでしょうか。これが先ほど読んだ御言葉です。神殿から流れ出た川は、そこから東向きに流れて行って、やがてアラバに下り、海に入ります。この「海」というのは、エルサレムから東に向かって行くとある海、そうです、「死海」のことを指しています。「死海」とは「死の海」と書くように、魚が生きることができません。死海の水は、普通の海の水の六倍もの塩分の濃度を持っているために、普通、海に住んでいるような魚でさえも生きることができないのです。けれども、この神殿から流れて来た水がこの死海に注ぎ込むとその水が一変して、この死んだ海が生き物で満ちるようになり、そこに多くの魚がいるようになります。なんとすばらしい驚くべき光景でしょうか。

 

いったいこのエゼキエルが見た幻は、何を意味していたのでしょうか。それは、神の神殿から流れ出るいのちの水です。この水が流れ出ると、死んだようなこの世が生きるものとなるということです。それは、聖霊のことです。聖霊が流れ出ると、死んでいるようなあなたが生きるようになります。実に、教会とはこのいのちの水が溢れている所です。なぜなら、神の聖霊を受けたクリスチャンが集まっている所だからです。その教会からいのちの川の水が流れ出て、この世のすべてのものを生かすようになっていくのです。何とすばらしい約束でしょうか。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

あなたは、心に渇きを覚えてキリストのみもとに来て、キリストが与える水を飲みましたか。キリストを信じるなら、あなたの心にも聖霊という生ける水の川が流れ出るようになります。それはあなたの周りの人々をも潤していく力となるのです。

 

キリストを信じたのに、心の奥底から、生ける水が流れているという実感がないという方がいますか。そのような方は、もしかしたら神とのパイプラインが詰まっているのかもしれません。そのような時には、詰まりを取り除かなければなりません。それを悔い改めると言います。障害物があれば、真摯に神に対して悔い改めなければなりません。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義きよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

そして、渇いた心をもって主のもとに来て飲んでください。あなたのすべてを主に明け渡し、主の御言葉に従った信仰の歩みを始めてください。主に従うことが生ける水の川が流れ出るようになる秘訣です。

あなたの信仰のパイプラインは大丈夫ですか。神と直結しているでしょうか。接触が不十分であったり、詰まったり、曲がったり、細かったりしていませんか。十分に点検して聖霊に満たされた者とさせて頂きましょう。そうすれば、あなたの心の奥底からも、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

出エジプト記8章

出エジプト記8章から学びます。まず1節から15節までをご覧ください。4節までをお読みします。

 

Ⅰ.第二の災い:蛙の害(1-15)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの全領土を蛙によって打つ。ナイル川には蛙が群がり、這い上がって来て、あなたの家に、寝室に入って、寝台に上り、またあなたの家臣の家に、あなたの民の中に、さらに、あなたのかまど、こね鉢に入り込む。こうして蛙が、あなたと、あなたの民とすべての家臣の上に這い上がる。』」(1-4)

イスラエルをエジプトから去らせるようにとの主のことばを拒んだファラオに、主はすべてのナイ

ル川の水を血に変えるという災いを下しました。それによってナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなりました。それでもファラオの心は頑なになり、モーセとアロンの言うことを聞き入れませんでした。それは、初めからわかっていたことです。ファラオはどんなに偉大な主の力を見ても、イスラエルの子らをその地から去らせようとしません。それは主がファラオの心を頑なにし、主がエジプトの地でしるしと不思議を行うことによって、主こそ神であることをファラオが知るようになるためです。

 

そこで主は第二の災いをもたらします。それは蛙の害です。この蛙の災いが、ナイル川が血になる災いと異なるのは、この災いがファラオの家の中にまで入り込むということです。寝室にも、かまどにも入り込むので、ベッドで寝るときもぐちゃ、こね鉢でこねる時も蛙を一緒にぐちゃぐちゃにすりつぶしてしまうのです。1匹2匹だったらかわいいものですが、至る所が蛙ですから気持ち悪いですね。特にエジプでは蛙は礼拝の対象でしたから、その蛙に打たれるということは屈辱的なことでした。

 

5節から7節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『杖を持って、あなたの手を川の上、水路の上、池の上に伸ばせ。そして蛙をエジプトの地に這い上がらせよ』と。」アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行った。彼らは蛙をエジプトの地の上に這い上がらせた。」

 

アロンが持っていた杖を川の上や水路の上、池の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおいました。するとエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行いました。しかし、彼らは蛙を増やすことはできても、それを取り除くことはできませんでした。

 

するとファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言いました。8節です。「私と私の民のところから蛙を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」

ファラオは、何とかしてこの苦しみから解放されることを願いました。それで、自分たちのところから蛙を取り除くように、主に祈れ、とモーセとアロンに言いました。そうすれば、イスラエルの民を去らせる・・・と。それでモーセはファラオに迫ります。10節です。「いつが良いですか」

「蛙があなたとあなたの家から断たれ、ナイル川だけに残るようにするため、私が、あなたと、あなたの家臣と民のために祈るので、いつがよいかを指示してください。」(9)  するとファラオは「明日」と言いました。なぜ「今」ではなかったのでしょうか。そんなに苦しいのであれば「今すぐに取り除いてほしい」と願うのが普通かと思いますが、ファラオは「明日」と言いました。もしかしたら明日になれば事態が解消されていると思ったのかもしれません。あるいは、このような儀式を行うためには、それくらいの時間がかかるものと思ったのかもしれません。

 

それでモーセは、「あなたのことばどおりになりますように」と言いました。「それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。」(10)これがこの災いの目的です。それはファラオが、イスラエルの神、主のような方はほかにいないということを知るためです。ファラオは、あの手この手を尽くしてイスラエルを行かせることを拒みますが、それはそのことによって主が力強い御業を行い、主こそ神であるということをファラオが知るためだったのです。

 

するとモーセが主に叫んだので、蛙はエジプト中の家と畑から死に絶えました。モーセがファラオに約束したとおりです。主はモーセを通して約束されたように、モーセの祈りに答えてこの問題解決してくださいました。

ところが、ファラオは一息つけると思うと、手のひらをひるがえして、彼らの言うことを聞き入れませんでした。主が言われたとおりです。何という頑なさでしょうか。ファラオにはこうしたずる賢さがありました。いつがよいかというと「明日」と言い、祈りが応えられて一息すると心を頑なにするという不従順が見られます。

 

しかし、それは何もこのファラオだけのことではなく、私たちにも同じではないでしょうか。「今日」ではなく「明日」と言ってみたり、一息つくと元の状態に戻ってしまうということがあります。

「「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。」(へブル3:15)

今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはなりません。心を頑なにしないで、従順に主の御声に聞き従う者でありたいと思います。主のような神は、ほかにはいないからです。

 

Ⅱ.第三のわざわい:ブヨの害(16-19)

 

次に16節から19節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」彼らはそのように行った。アロンは杖を持って手を伸ばし、地のちりを打った。すると、ブヨが人や家畜に付いた。地のちりはみな、エジプト全土でブヨとなった。呪法師たちも、ブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ブヨは人や家畜に付いた。 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」

 

それで主はモーセ言われました。16節です。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」」

それでモーセとアロンがそのようにすると、エジプト全土でブヨが人や家畜に付きました。「ブヨ」という言葉は、へブル語では「種々の害虫」のことです。何か特定の昆虫というよりも、雑多な害虫が現れたのでしょう。

 

この時もエジプトの呪法師たちがブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしましたが、できませんでした。それで彼らは何と言ったかと言うと、「これは神の指です」と言いました。つまり、自分たちの能力をはるかに超えているということです。このように叫ぶことによって、それが神によって行われたわざであることを暴露したのです。しかし、それでもファラオは、彼らの言うことを聞き入れませんでした。

 

Ⅲ.第四のわざわい: あぶの群れ(20-32)
それで主は第四のわざわいをエジプトに下します。それは「あぶの群れ」です。20節から24節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に出よ。見よ、彼は水辺に出て来る。彼にこう言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」主はそのようにされた。おびただしいアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入って来た。エジプトの全土にわたり、地はアブの群れによって荒れ果てた。」

「アブ」というのは、「サシバエ」という蝿の一種だと考えられています。この「サシバエ」が家畜や人の体を刺すと、とにかく痛いんだそうです。動物たちは始終頭を振り、尻尾を振り、刺される痛みのためか時に身をブルッと震わせます。これは彼らが強いストレスを感じているサインです。ですから、こんなのに刺されたらたまったもんじゃありません。これがエジプト全土に満ちるというのです。

 

しかし、今回はこれまでと違う点が一つだけありました。それは、イスラエルの民がとどまっていたゴシェンの地にはいないようにするということです。つまり、主はイスラエルの民とエジプトの民を区別して、贖いをする、ということです。そのようにして主は、ご自身の民であるイスラエルを特別に扱われるのです。それはファラオが、その地のただ中にあって主こそ神であるということを知るためです。

 

この区別して、贖いを置くというのは、区別して、救いを置くという意味です。この表現は、あのノアの方舟のことを思い起させます。あの箱舟の扉が閉ざされた瞬間に、舟の中の人々と外の人々とが区別されました。その扉を通って箱舟に入るかどうかが、中の人と外の人とを区別したのです。その扉こそイエス・キリストです。キリストはこう言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)

つまり、イエス・キリストこそ神の民とそうでない民とを区別して、ご自身の民を贖われる方であるということです。その中間はありません。救い主イエス・キリストを信じるのか、信じないのかが、主の贖いに与るかどうかの区別となるのです。

 

そうでないと、神のさばきを受けることになります。24節をご覧ください。おびただしいうアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入ったので、エジプト全土がアブの群れによって荒れ果ててしまいました。

 

それで、ファラオはどうしたでしょうか。25節をご覧ください。ファラオはモーセを呼び出してこう言いました。「さあ、この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」

どういうことでしょうか?主の命令は、イスラエルの民をエジプトから去らせということでしたが、ファラオは、「この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」と言っています。これはファラオの妥協案です。彼らがいけにえを献げるのはいいだろう。でもこの国から出て行ってはいけない。この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げればいいじゃないか、と言ったのです。

 

それに対してモーセは、「それはふさわしいことではない」(26)と断ります。なぜなら、イスラエル人はエジプト人の忌み嫌うものをいけにえとして献げることになるからです。それは何ですか?羊です。エジプト人は羊を忌み嫌っていました。その羊を献げたらどうなるでしょう。それを見たエジプト人たちに石で打ち殺されてしまうでしょう。だから、イスラエルの民は主が言われたとおり、荒野に三日の道のりを行って、主にいけにえを献げなければなりません。

 

するとファラオはどうしましたか?28節をご覧ください。「ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」」

どういうことでしょうか?「ただ、決して遠くへ行ってはならない」とは。ここでファラオはさらなる譲歩案を提示しているのです。それは、イスラエルが荒野に出て行って、主にいけにえを献げてもよいが、決して遠くへは行くな!ということです。そして、自分のために祈ってくれ!というものでした。つまり、エジプトの支配が届かない所には行ってはならないという意味です。あくまでも自分たちの手の届くところに置いておきたいのです。これが悪魔の常套手段です。

 

悪魔は私たちが信仰を持つことを許しても、あまり遠くに行かないようにと働きかけてきます。仮に神を信じたとしても、自分たちの手の中にあれば、いずれ戻ってくることになるからです。だからあまり遠くに行ってほしくありません。これまでのようにできるだけこの世にどっぷりと浸かっていてほしい。教会に行って、洗礼を受けてもいいけれども、できるだけ今のままでいるようにと圧迫してくるのです。つまり、自由にさせているようで自由ではないのです。私たちがイエス様を信じて罪から解放され、全く自由にされたはずなのにそうではないように感じるのは、このような悪魔の働きがあるからなのです。

 

また28節を見ると、「私のためにも祈ってくれ」と、いかにも敬虔であるかのように装っています。これがこの世が取る姿です。彼らはいいことなら何でもやってもらいたいのです。たとえ自分たちが信じていない神でも、自分に都合のいいように祈ってもらいたいのです。ピリピ3:19に、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。」とあるように、あくまでも彼らの神は彼らの欲望なのです。

 

それでモーセは言いました。「今、私はあなたのもとから出て行き、主に祈ります。明日、アブが、ファラオとその家臣と民から離れます。ただ、ファラオは、民が主にいけにえを献げるために去ることを阻んで、再び欺くことなどありませんように。」

モーセはファラオの言うことを受け入れ、明日、アブがファラオとその家臣から離れるように祈ることを約束します。だから、ファラオはイスラエルの民がいけにえをささげることを阻んで、再び欺くことがないようにと釘を指しました。そして、ファラオのもとから出ていくと、モーセはファラオに約束したとおり、主に祈りました。本来であれば、エジプトがアブによってもっと苦しめばいいのに・・と思うところでしょうが、彼はそうした自分の感情に流されることなく、エジプト人のためにとりなしの祈りをしたのです。

 

すると主はモーセの祈りを聞かれ、モーセが祈ったとおり、翌日には、アブが一匹も残らないようにされました。しかし、ファラオはまたも心を頑なにし、民を去らせませんでした。何という優柔不断さでしょうか。主に祈ってくれ!と言ったかと思えば、やっぱり行かせない!と、いつも気持ちがコロコロと変わっています。こういうのを「二心」と言います。こういう人はその歩むすべてにおいて安定を欠いた人です。ヤコブはこう言っています。

「 ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」(ヤコブ1:6-8)

 

皆さんはどうでしょうか。少しも疑わないで、信じて祈っているでしょうか。それとも、信じていても疑うようなことをして、安定感のない信仰生活を送ってはいないでしょうか。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはありません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)いつも信仰に歩めるように、神の助けを求めましょう。

ルツ記1章

今回からルツ記の学びに入ります。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ナオミと二人の嫁(1-5)

 

「さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。」

 

これは、さばきつかさたちが治めていたころのことです。つまり、士師記の時代です。士師の時代がどのような時代であったかは、士師記の一番最後を見るとよくわかります。すなわち、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(士師21:25)時代でした。それは霊的混乱ばかりでなく、物質的混乱をももたらしました。ここには、「この地に飢饉が起こった」とあります。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野に行き、そこに滞在することにしました。その人の名前は「エリメレク」と言います。妻の名前は「ナオミ」です。二人には二人の息子がいました。「マフロンとキルヨン」です。

 

するとそこで思わぬでき出来事が起こりました。ナオミの夫のエリメレクが死んでしまったのです。なぜ死んでしまったのかはわかりません。しかし、そのことでナオミと二人の息子が残されてしまいました。そこで、二人の息子はモアブの女を妻に迎えました。一人の名は「オルパ」で、もう一人の名は「ルツ」です。残された家族で助け合って生きていこうと思ったのでしょう。ところが、その10年後に、その二人の息子のマフロンとキルヨンも死んでしまいました。何ということでしょう。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。

 

わかりません。それがどうしてなのかわかりませんが、私たちの人生にはそれがどうしてなのかわからないことが起こることがあるのです。しかし、それがどんなことであっても、今週の礼拝のみことばにあったように、主の御許しがなければ何も起こりません。すべては主の御手の中にあります。そしてこのことにも主の深いご計画と導きがあったがわかります。この時点ではそれがどうしたなのかはわからる術もなく受け入れられることではなかったでしょう・・・が。

 

ただこの地に飢饉が起こったとき、彼らがモアブの地へ行ったことが、果たして本当に良いことであったのかどうかはわかりません。というのは、カナンの地は、イスラエルの民に与えられた約束の地です。その地から離れることは決して神のみこころであったとは思えないからです。エリメレクが家族を守ろうとしたことは理解できますが、そのために約束の地を離れたことは評価できません。かつてアブラハムも約束の地カナンに入って後で、その地に飢饉が起こったとき、エジプトにしばらく滞在するために下って行きましたが、それは神のみこころではありませんでした(創世記12:10)。彼はそこで自分の妻を妹だと偽ったので、彼女は宮廷に召し入れられてしまいました。主はそのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれたので、彼らは所有するすべてのものと一緒にそこを出ることができましたが、明らかにそれは神のみこころではありませんでした。

 

ここでも同じことが言えます。モアブの地とは、ヨルダン川東岸にある、アルノン川とゼレデ川の間の高原地帯を指します。そこは肥沃な農業地帯でした。産物としては、小麦、大麦、ぶどうなどがあり、羊ややぎの牧畜も盛んでした。

モアブ人の祖先は、アブラハムの甥のロトです。ロトには二人の娘がいましたが、姉が父ロトによって産んだ子がモアブです(創世記19:30-38)。ちなみに、妹が父ロトによって産んだのがアンモン人の祖先ベン・アミです。ですから、モアブ人はイスラエル人と血縁関係にありましたが、そのように近親相姦によって生まれたアンモン人を、イスラエルは罪に汚れた民族と見ていたのです。

 

また、歴史的にもイスラエルがエジプトを出て約束の地を目指して北上したとき、イスラエル人を恐れたモアブの王バラクは、占い師のバラムを雇ってイスラエル人を呪わせましたが、これは失敗に終わりました(民数記22-24章)。そこでモアブの娘たちはイスラエル人を誘惑し、バアル・ペオル礼拝に陥らせました。主はその危機から救い出すためにピネハスを用いて2万4千人のイスラエル人を討たれました(民数記25:1-9)。それ以降、モアブ人は主の集会から除外されるようになったのです。ですから、たとえ飢饉が起こったからと言って、約束の地を離れてこのモアブに行ったことは、主のみこころであっとは言えません。むしろ彼はそれがどんな困難があってもその地にとどまっているべきだったのです。

 

これは、私たちにも言えることです。私たちの人生にも、避けて通ることのできない困難があります。しかし、それがいかに苦しくても、永遠に価値あるものを手に入れるためにそこから離れるのではなく、忍耐をもってそこにとどまっていなければなりません。神の導きがないままで場所や状況を変えても、根本的な問題の解決にはならないからです。

 

Ⅱ.ルツの信仰(6-18)

 

それでナオミたちはどうしたでしょうか。次に6節から18節までご覧ください。まず14節までお読みします。

「ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした。主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。彼女は二人の嫁と一緒に、今まで住んでいた場所を出て、ユダの地に戻るため帰途についた。ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。二人はナオミに言った。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」 ナオミは言った。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」 彼女たちはまた声をあげて泣いた。オルパは姑に別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついた。

 

夫とふたりの息子を失ったナオミは、主がご自分の民を顧みて、カナンの地を祝福し、彼らに豊かな収穫を与えてくださったということを聞き、ふたりの嫁といっしょに、モアブの野から故郷のベツレヘムに帰ることにしました。

しかし、その途中でナオミは、このふたりの嫁を実家に帰すことにしました。ふたりの嫁にとって一番幸せなのは、再婚相手を探してモアブに住むことだと考えたからです。ナオミはふたりの嫁にこう言いました。

「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」

このナオミの言葉には、愛が溢れています。この二人が亡くなった自分の夫と姑である自分にしてくれたことをねぎらい、主がその労に報いてくださるようにと祈っています。また、彼女たちが実家に戻って、モアブの地で新しい夫が与えられ、その家で安らかな暮らしができるようにと祈りました。そして、ふたりに分かれの口づけをすると、彼女たちは声をあげて泣きました。そして、ナオミにこう言いました。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」彼女たちにとっては異国の地です。自分の夫を失って、それでも姑について行きたいというのは、そこによほどのものがなければ言えないことです。ナオミとこのふたりの嫁たちの間には、深い愛と信頼関係がありました。

 

このような二人にナオミはこう言って説得します。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」

 

どういうことでしょうか。これは、申命記25章5-6節にある「レビラート婚」という聖書の律法に基づいたものです。「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」

これはユダヤ人の特殊な婚姻法で、死んだ者の兄弟が、そのやもめと結婚して、死んだ者の名を残し、イスラエルから消し去られることがないようにするための定めです。この場合、彼女たちの夫であるマフロンとキルヨンが死にました。ですから、彼らの弟がオルパとルツと結婚する必要がありますが、弟はいませんでした。そこでナオミがこれから子を宿して、その子が、彼女たちと結婚しなければならないことになります。けれども、そんなことは無理です。ですからナオミは、夫を持って息子たちを産んだとしても、彼らが成人になるまで待とうというのですか、と言っているのです。

 

それで彼女たちはまた声をあげて泣きました。結局、オルパは姑に口づけをして別れを告げましたが、ルツはナオミにすがりつきました。ここでふたりの嫁オルパとルツの決断が別れました。弟嫁のオルパは、自分の民とその神々のところに帰って行きました。そのこと自体は何の問題もありません。それはナオミが勧めたことですし、ナオミも彼女を責めてはいません。ある意味、それは常識的な判断だったと言えるでしょう。

 

しかし、兄嫁のルツはそうではありませんでした。ルツはこう言っています。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(16-17)

ルツがナオミに着いて行ったら、不安なことだらけです。夫はいないし、全く新しい土地で、外国人として暮らさなければなりません。それでもルツがナオミに着いて行こうとしたのは、姑ナオミに対する愛はもちろんのこと、ナオミの民であるイスラエルの民への愛、そして、イスラエルの神への愛から出たものでした。ルツはここで、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と言いました。どうして彼女は、このように言ったのでしょうか。

 

彼女の決断は大きなものでした。今まで住み慣れたモアブの地、モアブの民、そしてモアブの神と別れを告げ、ナオミの民、ナオミの神を自分の神とするのですから・・。彼女は、マフロンの妻になってから、イスラエルの神こそ天地を創造されたまことの神であるということを知りました。そして、この神がいかに、エジプトからイスラエルを救い出され、約束の地に導かれていたことも聞いていたでしょう。イスラエル人の家族の中にいて、生けるまことの神がどのような方であるかを知り、この方を自分の神としたのです。自分の支えである夫がいなくなり、かつて自分が暮らしていたモアブ人たちの中に戻ることはいくらでもできましたが、彼女は、自ら進んで、イスラエルの神を自分の神とする決心をしたのです。ナオミの信じているイスラエルの神の恵みの中で生き、そして死んで行きたいと思いました。モアブ(異邦人)の女である彼女は、このように信仰を告白することによって、イスラエルの民が受ける祝福に与ることができたのです。

 

それは私たちも同じです。私たちも肉においては異邦人でした。いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあっては望みもなく、神もない者でした。しかし、かつては遠く離れていた私たちも、イエス・キリストにあって、キリストの血によって近い者とされたのです。ルツのように異邦人であった私たちもナオミのような存在の人と出会いを通して、まことの神を知り、その中に加えていただくことができたのです。私たちもまた神から遠く離れていた者ですが、神の恵みによって、「あなたの民は私の神、あなた神は私の神です。」と信仰を告白することができ、神の民に加えていただくことができたのです。

 

Ⅲ.ベツレヘムに着いたナオミとルツ(19-22)

 

最後に19節から22節までをご覧ください。そのようにしてベツレヘムに帰ったナオミとルツはどうなったでしょうか。

「二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。 私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。」

 

ふたりは旅をして、ベツレヘムに着きました。ふたりがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出しました。そして、女たちは、「まあ、ナオミではありませんか。」と言うと、ナオミは、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。」と言いました。「ナオミ」とは「快い」という意味で、「マラ」は、「苦しむ」という意味です。全能者が私に大きな苦しみにあわせたのですから、満ち足りてかえって来たどころか素手で帰ってきたのですから、とても「ナオミ」ではない、「マラ」です、そう言ったのです。ここでナオミは自分の身に起こったことを、偶然の結果としてではなく、全能者のわざであるとみています。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。全能者が私を辛い目にあわせたのですから。どういうことでしょうか。

 

それが全能者のわざであると受け止めることができるなら、そこに希望があります。なぜなら、一時的な苦しみは必ず祝福へと変えられるからです。どのような試練の中にも、そこに神がおられ、神が導いておられると信じることができるなら、その試練にも何らかの意味があることを悟ることかできるからです。先日、亡くなられたマラソンの小出監督は、バルセロナオリンピックで銀メダルを取った有森裕子選手に、「人生に意味のないことはない。試練や苦しみがあったら、それを「せっかく」だと思え。」と言って指導したそうです。人生に意味のないことなどありません。なぜなら、神はご自身のご計画に従って、私たちの人生を導いておられるからです。たとえ今、試練の中にあってもそこに神の御手があると受け止められる人は、そこに神の希望の光を持つことができるのです。ナオミの場合、どこに希望を見出すことかできたのでしょうか。

 

22節をご覧ください。ここには「モアブの野から戻った嫁、モアブ人の女ルツが一緒であった」とあります。また、「ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった」とあります。人間の目では何でもないことですが、神の目を通してみるなら、そこに大きな希望がありました。この二つのことが、その後の話の展開に有利に働くからです。だれがこんなことを考えることができたでしょうか。

 

神はナオミとルツを見捨ててはいませんでした。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたにもルツが残されています。あなたの置かれている時は、大麦が始まったころではないですか。あなたが置かれている状況をよく見てください。神はそこに脱出の道を備えていてくださいます。現状を見て悲観するのではなく、そこに全能者の御手があると信じ、信仰の目をもって、神の働きに期待して祈りましょう。

ヨハネの福音書7章25~36節「今が恵みの時、今が救いの日」

きょうは、ヨハネ7章25節から36節までの箇所から「今が恵みの時、今は救いの日」というタイトルでお話しします。伝道者の書3章1節には、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」とありますが、その時を見逃すことがないようにということです。

 

Ⅰ.キリストはどこから来たのか(25-29)

 

まず25節から29節までをご覧ください。27節までをお読みします。

「さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」

 

仮庵の祭りもすでに半ばになったころ、主イエスが宮に上って教えておられると、ユダヤ人たちは驚いて言いました。

「この人は正規に学んだこともないのに、どうして学問があるのか、どうして聖書のことをそんなに知っているのか。」

するとイエス様は、ご自分が神から出たので、神のことばを語るのだと言いました。でも、彼らはそれを受け入れることができませんでした。24節にあるように、うわべで人をさばいていたからです。

 

すると、エルサレムのある人たちは、「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。」と言いました。

「彼ら」とはユダヤ人の指導者たちのことです。イエス様があまりにも毅然とした態度で語っていたので、ユダヤ人の指導者たちは、この人がメシヤであると認めたのではないかと思ったのです。

 

しかし、彼らはそれを打ち消すかのように言いました。27節です。「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」

彼らも主が語られた言葉を聞いて、もしかしたらこの人がキリスト(メシヤ)ではないかと思いましたが、すぐにそれを否定したのです。なぜなら、彼らはイエスがどこから来たのかを知っていたからです。イエス様はどこから来ましたか?彼らが知っていたのは、イエスがガリラヤのナザレから来たということでした。イエスはそこで大工の仕事をしていました。彼らはそのことを知っていたのです。でもキリスト(メシヤ)はナザレから出るのではありません。ユダヤのベツレヘムです。聖書の預言にそう書かれてあるからです。ですから、イエスがメシヤであるはずがないと思ったのです。

確かに彼らはメシヤがどこから来るのかを知っていました。けれども、イエスがどこから来たのかを正確には知りませんでした。ただガリラヤのナザレで、大工をしていたということは知っていましたが、ユダヤのベツレヘムで生まれたことを知らなかったのです。また、イエス様の母マリヤも父ヨセフもダビデの家系であったことすら知りませんでした。ユダヤ人は系図や家系、血筋を大事にする民族ですから、よく調べさえすればそんなことくらいすぐにわかったことなのに、それさえもしませんでした。なぜでしょうか。彼らは最初から偏見でこり固まっていたからです。ガリラヤのナザレの出身であるイエスが、メシヤであるはずがないと最初から決めつけていたのです。

 

これは今日も同じです。一般に人々は、イエス様を偏見の目で見ています。イエスは偉大な人であったかもしれないが神様であるはずがないとか、釈迦や孔子と同じだと決めつけているのです。しかし釈迦や孔子とは明らかに違う点があります。釈迦や孔子は自分たちが神であるとか、神から遣わされて来たとは一言も言っていないのに、イエス様はそのように明言されたことです。何よりも、宗教はアヘンだと思っています。

 

28節と29節をご覧ください。

「イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」

 

ここにはイエス様が「大きな声で言われた」とあります。何ですか、大きな声で言われたとは・・?「大きな声で言われた」というのは、それがとても重要であったことを意味しています。確かに彼らは人間的な意味でイエス様がどこから来たかを知っていたかもしれませんが、霊的な意味では全く知りませんでした。つまり、イエスが父なる神から遣わされたメシヤであるということには目が閉ざされていて、理解していなかったのです。

 

人間はどこまでも頑なで、盲目です。ちょっとでも調べれさえすればすぐにわかるものをそれさえもしないので、ただナザレに住んでいたというだけで、大工のせがれだというだけで、ただの人だと決めつけていたのです。メシヤはユダヤのベツレヘムで生まれるということを知っていましたが、その預言を思い出すことさえしなかったのです。人間の記憶というのは本当に曖昧ですね。時として自分の思いに左右されて忘れてしまうことがあります。「そんなはずがない」と思っていると、記憶がどこかへ飛んで行ってしまうのです。そして意図的に盲目になっている人も少なくありません。聖書の中に明らかに示されている事実や教えすら見ようとしません。ですから、信じるようにと促されていてもそれを受け入れることができないのです。意図的に知ろうとしないからです。信じたくないことは信じません。したがって、真理を求めて聖書を読もうとしたり、話を聞こうとさえもしません。まして、そのことを真剣に考えたり、捜し求めようともしません。これは、ひどい霊の病です。この社会に最も広く蔓延している病の一つであります。見ようとしなければわからないのは当たり前ではないでしょうか。見ようとしない人ほど盲目な人はいません。ここに出てくる人たちは、こうした病に侵されていたのです。彼らの偏見は、こうした思いから生まれていたのです。

 

Ⅱ.イエスの時はまだ来ていない(30-31)

 

次に、30節と31節をご覧ください。ここには、「そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」とあります。

 

イエスが、ご自分が天の父から出た者であり、その方によって遣わされたと言うと、人々はイエスを捕らえようとしましたが、だれもイエスに手をかける者はいませんでした。イエスの時がまだ来ていなかったからです。この「イエスの時」については、7章6節でも説明しましたが、それはイエスが十字架につけられる時のことです。十字架につけられ、永遠の贖いの死を遂げられる時のことです。その時がまだ来ていなかったので、だれもイエスに手をかけることができなかったのです。それは、このように言うこともできるでしょう。そこにすべてを支配している神の御手があったので、彼らは手を出すことができなかったのである・・・と。

 

そうです、神のお許しがなければ、何一つ起こりません。主はこう言われました。

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」(マタイ10:29-30)

1アサリオンというのは、1デナリの16分の1に相当する金額です。1デナリとは1日分の給料に相当しますから、仮に1日の給料が5,000円だとすれば、1アサリオンというのは大体300円くらいになります。二羽で300円ですから一羽だと150円です。それはあまり価値がないことを意味しています。そんな雀の一羽でさえも、父の許しがなければ地に落ちることはありません。いいですね、そんな雀の一羽でも、地に落ちることはない。天の神様がちゃんと見守っていてくださいますから、天の父のお許しがなければ決して地に落ちることはありません。

 

また、髪の毛一本一本に至るまですべて数えられています。あなたは、自分の髪の毛の数を数えたことがありますか。数えられません、あまりにも多くて。でも、天の父は、私たちの髪の毛さえも、すべて数えておられます。そこまであなたのことを気に留めておられるのです。ですから、私たちの人生のすべては、この天の神様の御手の中にあり、この方の許しがなければ何一つ起こりません。つまり、私たちの人生に起こるすべての出来事には、深い意味があるということです。

 

先日、あのマラソンの有森裕子選手や高橋尚子選手を育てた小出義雄監督が召されましたが、小出監督は常々、有森選手にこう話していたそうです。「なんで故障したんだろうと思うな。物事には意味のないものはない。どんなことが起きても「せっかく」と思え。どれだけ故障しても、それだけ意味がある」と。物事には意味のないものはありません。どんなことが起きても「せっかく」と思う。どれだけ故障しても、それだけ意味がある。すばらしい言葉です。なぜそう思うのか。私はこの小出監督の言葉にこう付け加えたい。「そこに神の許しと計画があるのだから。」

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 

私たちの人生には「どうして・・・」と思うことが度々起こりますが、これらどれ一つとっても、神がよしとされない限り決して起こりません。もしこれらのことが起こるとしたら、それは神が深い計画を持って許しておられるからなのです。そういう意味ではどんなことが起きても「せっかく」と思うというのは大切なことです。どれだけ困難があっても、そこにはちゃんと意味があるのですから。

 

それは主が十字架で死なれたことにおいても言えることです。主が十字架で死なれた表面的にはユダヤ人たちのねたみによるものでしたが、本当の理由は、神が深いご計画をもってそのように導いておられたからです。それは、私たちの罪の身代わりとなられるためでした。ただ、まだその時が来ていませんでした。ですから、主が十字架につけられたのはそれを避けることができなかったからではなく、それこそが神のみこころであったからです。神の許しがなければ誰も主に手をかけることはできませんでした。彼らがしたことはすべて父なる神が許されたことで、神の永遠のご計画によって定められていたことだったのです。

 

このことを思う時、私たちの人生に起こるすべてのことも、深い神のご計画によるものであることがわかります。あなたが今ここに置かれているのも、今のパートナーと結婚したのも決して偶然ではなく、そこに神の御手があったからです。私はよく聞かれることがあります。「あなたはどうしてパットさんと結婚されたんですか」わかりません。なんで結婚したのか。地球上に女性も男性も約37億人もいるのに、その中からたった一人の相手ですよ。これはすごい確率でしょう。奇跡です。たまたま出会ったというのであればすごいことです。決して偶然ではありません。そこには、すべてを支配しておられる方の御手があったのです。そこに神の御手があると信じて、すべてをこの神にゆだねることができるかどうかです。

 

詩篇31篇15節には、「私の時は御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から、追い迫る者の手から。」とあります。皆さん、私の時は御手の中にあります。今この時も、この境遇にあるのも、このように導かれていることも、すべて神の導きによるものであると信じて、この方にすべてをおゆだねしようではありませんか。

 

Ⅲ.その時を逃さないように(32-36)

 

第三のことは、その時を逃さないようにということです。32節から36節までをご覧ください。

「パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

 

それでも、群衆のうちにはイエスを信じる人たちが多くいて、彼らが、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言っているのを耳にした祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わしました。すると主は、こう言われました。33節と34節です。

「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」

 

どういうことでしょうか?それを聞いたユダヤ人たちは、首をかしげました。「あなたがたはわたしを捜すが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」とはどういうことか、「まさか、ギリシア人たちの中に離散している人たちのところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。」

彼らには、主が言われたことがどういうことかわかりませんでした。主がここで言われたことは、ご自身が十字架で死なれ、三日目によみがえられてから天に行かれることを預言していたのですが、彼らにはそのことがわからなかったのです。彼らがこのことに気付いたのは、ずっと後になってからのことでした。それは主が復活して天に昇って行かれてからのことです。その時になってやって思い出すことができました。でも、その時にはもう遅いのです。

 

このように、真理を見出した時にはもう遅いということがあります。私たちは、自分がやって来たことが間違いであったとか、愚かなことであったと気づかされることがありますが、その時にはもう遅いということがあります。それでもまだ人生の扉が開かれている内はやり直すこともできますが、その扉が閉ざされてからではどうすることもできないということがあるのです。

 

たとえば、創世記にノアの方舟の話があります。主はノアに仰せられました。「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。」(創世記7:1)あと七日たつと、主は地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、主が造られたすべての生けるものを大地から消し去るからです。それでノアは、彼の妻と彼の息子たち、息子たちの三人の妻とともに、箱舟に入りました。また、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつノアのいる箱舟の中に入りました。すると、「主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(7:16)それで、箱舟に入らなかったすべての息のあるもので、乾いた地の上にいたものは、みな死んでしまいました。ただノアと、彼とともに箱舟にいたものたちだけが生き残ったのです。うしろの戸が閉ざされてからでは遅いのです。その前に箱舟に入らなければなりません。

 

これは、ちょうどともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘のようです。

「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』(マタイ25:1~12)

 

その時になって求めても、時すでに遅しということがあります。五人の愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油は持っていませんでした。それで、「花婿だ」と声かしたので迎えに出ようと思ったら、何と夜中だったので迎えに出ることができませんでした。それで賢い娘たちに油を分けてもらおうとしましたが、分けてやるだけの分はありませんと断られ、仕方なく店に買いに行くと、その間に花婿が来てしまいました。油の用意ができていた花嫁たちは花婿と一緒に婚礼の祝宴に入ることができましたが、用意ができていなかった娘たちは、婚礼の祝宴の中に入れてもらうことができなかったのです。

 

「備えあれば憂いなし」ということわざがあります。日頃からしっかりと準備を整えておくと、万が一のことが起こっても慌てなくてすみます。あなたはどうですか。油の用意はできていますか。「いや、まだだべ」と用意するのを怠っていると、やがてその時が来たとき、その中に入ることができなくなってしまいます。それがいつなのかは誰にもわかりません。ですから、それがいつやって来てもよいようにしっかりと備えておかなければなりません。箴言にはこうあります。

「そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。」(箴言1:28)

 

私たちは、このユダヤ人たちのように主イエスを救い主として求めた時にはすでに手遅れだったということがないように注意しなければなりません。

「見よ。今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

今が恵みの時、今が救いの日です。この恵みの時である今、イエス・キリストを私たちの罪からの救い主として信じて、永遠の御国に備える者でありたいと思います。

 

またこれはイエス様を信じるということだけに限らず、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。日々の忙しさにかまけて、本当にしなければならないことが後回しになっているということはないでしょうか。イエス様はマルタにこう言われました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)

どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。あなたは、その必要な一つのことを大切にしているでしょうか。

 

あるいは、イエス様を第一にしていると思っていても、いつの間にか違ったことに心が奪われていることも少なくありません。そのことにさえ気づいていないこともあります。そのような時には悔い改めて、主に立ち帰らなければなりません。そのためにもいつも主に向かい、主のみこころが何であるのか、何が良いことで完全であるのかをわきまえしるために、心の一新によって自分を変えなければなりません。遅すぎた!ということがないうちに。

 

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

あなたが主を求めるなら、必ず与えられます。探すなら、見つかります。たたくなら、開かれます。ただ遅すぎることがないように。そのとき、主を呼んでも、主は答えてくれません。主を捜し求めても、見出すことはできません。それは今でしょ。今が恵みの時、今が救いの日なのです。

出エジプト記7章

出エジプト記7章から学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.バロの心をかたくなにされた主(1-7)
「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。しかし、ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。そこで、わたしはエジプトに手を下し、大いなるさばきによって、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの子らをエジプトの地から導き出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりに行った。 彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」

モーセの前には多くの障害が立ちはだかっていました。彼は民を説得することに失敗し、全く自身を失っていました。それでも主はモーセを見放しませんでした。何度も躊躇するモーセに対して、忍耐深く語りかけられます。1節をご覧ください。

「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」

モーセを神の代理人とするということです。そしてアロンは、モーセの言ったことを伝えるモーセの代弁者です。モーセがは神が命じることを、ことごとくファラオに告げなければなりませんでした。それは、イスラエルの子らをその地から去らせるようにということです。

 

けれども、主はファラオの心を頑なにされるので、ファラオは彼のことばを受け入れません。これは不思議なことです。イスラエルをエジプトから連れ出そうとしているのに、ファラオの心を頑なにするというのはどういうことでしょうか。それは、主がファラオの心を頑なにするというよりも、いくら説得しても頑なであり続けるファラオの心を知っておられた主が、その頑な心を用いて、エジプトの地でしるしと不思議を行い、イスラエル人をエジプトから連れ出されるということです。それは、「エジプトは、わたしが主であることを知る」ようになるためです。つまり、エジプトの奴隷であったイスラエルの神の方が、彼らの神々よりも強いということを示そうとしておられたのです。

 

それに対してモーセとアロンはどうしたでしょうか。6節です。「そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりに行った。」

これまでは、なかなか主に従うことができませんでした。「そんなこと言ったって・・」といつも否定的にしか応答することができなかったのに、ここでは素直に従っています。どうしてでしょうか。それは彼らが主の計画をはっきりと知ったからです。

これは、私たちクリスチャンも同じです。もし私たちが信仰の落ち込みから解放されたいと願うなら、自分自身に焦点を合わせるのではなく、神のことばに焦点を合わせなければなりません。そして、神が命じられるとおりに行なわなければならないのです。わかったら行動するのではなく、行動すればわかるようになるのです。私たちは自分が納得するまで行動しないと、自分の思いや考えを優先させることがありますが、そのような姿勢ではいつまでも神に従うことはできません。神のことばに従わないなら、神の力や恵みを体験することはできないのです。神のことばを信じて従うこと、それが私たちに求められています。

 

「彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」彼らの年齢をどのように考えたらよいでしょうか。これからのしるしと不思議は、何と80歳と83歳の二人の老人に与えられました。これはどういうことかというと、このイスラエルの出エジプトの出来事は人間の力ではなく、神の力によって成されるということです。

アメリカの大衆伝道者D・L・ムーディーは、モーセの人生の最初の40年間は、ファラオの宮殿で自分がそれ相応の人間であることを学び、次の40年間は、ミディアンの荒野で自分が何者でもないことを学んだ。そして最後の40年間は、神が無力な者を用いてみわざを行う方であることを学んだ、と言っています。つまり、モーセにとって80歳というのは、自分の知識と経験が最高潮に達した時であったということです。神にとって用いやすい状態になりました。これまでの80年は、そのための準備の時でした。皆さんは今、人生のどのあたりを歩んでいるでしょうか。どの段階にあっても、神のご計画の中を歩むことが重要ですね。

 

Ⅱ.杖が蛇に(8-13)

 

次に、8節から13節までをご覧ください。

「また主はモーセとアロンに言われた。「ファラオがあなたがたに『おまえたちの不思議を行え』と言ったら、あなたはアロンに『その杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言え。それは蛇になる。」モーセとアロンはファラオのところに行き、主が命じられたとおりに行った。アロンは自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げた。すると、それは蛇になった。そこで、ファラオも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらエジプトの呪法師たちもまた、彼らの秘術を使って同じことをした。彼らがそれぞれ自分の杖を投げると、それは蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖を?み込んだ。それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」

モーセとアロンはファラオのところに行き、主が命じられたとおりに行いました。それはファラオとその家臣たちの前に自分たちが持っていた杖を投げるということです。すると、それは蛇になりました。それで、ファラオもエジプトの知恵のある者と呪術者を呼び寄せて同じことをさせると、彼らもまた、杖を蛇に変えることができました。彼らは蛇使いであって、催眠術や奇術によって、蛇やワニなどを一時的に硬直状態にすることができたのでしょう。それは、単なる「マジック」というよりは、悪魔的なものだと考えられます。悪魔もそのような奇跡を行って人々を驚かし、人々の心を捉えることができるのです。しかし、アロンの杖が彼らの杖を呑み込んでしまいました。それは、神の力がサタンの力よりも勝っていたことを表しています。同じようなことができても、神の力は圧倒的な力があるのです。  「それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」(13)

この出来事を目撃しても、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れませんでした。けれども、そのことでモーセとアロンは動揺したり、落ち込んだりしていませんでした。なぜでしょうか。彼らの目が主に向けられていたからです。彼らは、主が言われたとおりに行いました。私たちも、自分に向けられている目と心を自分ではなく主と主のことばに向けるべきです。そうすれば、目の前にどんな障害があっても、それを乗り越えることができるのです。

 

Ⅲ.ナイル川を血に(14-25)

 

それでモーセはどうしたてしょうか。14節から18節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「ファラオの心は硬く、民を去らせることを拒んでいる。あなたは朝、ファラオのところへ行け。見よ、彼は水辺に出て来る。あなたはナイル川の岸に立って、彼を迎えよ。そして、蛇に変わったその杖を手に取り、 彼に言え。『ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして言われました。わたしの民を去らせ、彼らが荒野でわたしに仕えるようにせよ、と。しかし、ご覧ください。あなたは今までお聞きになりませんでした。主はこう言われます。あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知る、と。ご覧ください。私は手に持っている杖でナイル川の水を打ちます。すると、水は血に変わり、

7:18 ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなります。それで、エジプト人はナイル川の水を飲むのに耐えられなくなります。』」

 

それで、彼らはどうしたでしょうか。15節をご覧ください。「見よ、彼は水辺に出て来る」というのは、彼が礼拝のために出て来るということです。ナイル川を拝みに出て来るのです。エジプトでは、肥沃な土地をもたらしこの国に潤いをもたらしているナイル川を、神として拝んでいました。そのナイル川の岸に立ってファラオを迎え、蛇に変わったその杖を手に取って、「ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして言われました。わたしの民を去らせ、彼らが荒野でわたしに仕えるようにせよ」と言え、と言うのです。そのことによって、主がエジプトにさばきを下すからです。それによって彼らが、主こそ神であるということを知るため(17)です。

 

その災いは、ナイル川の水が血に変わるという災いでした。するとナイル川の水は地に変わり、ナイル川の魚は死に、臭くなります。それで、エジプト人はナイル川の水を飲むことができなくなります。彼らが神として拝んでいたナイル川がこのようになることは、エジプトの神々の敗北を表していました。そうして彼らは、イスラエルの神、主がとのように偉大な神であるのかを知るようになるのです。これがこれから始まる10の災いの最初の災いでした。

 

次に、19節から21節までをご覧ください。 「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、

その川、水路、池、すべての貯水池の上に伸ばしなさい。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになる。』」モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。エジプト全土にわたって血があった。」

 

ここで主は、その杖をナイル川だけでなく、エジプト中の水という水に伸ばすようにと命じられました。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになります。すると、ナイル川の水はすべて血に変わりました。こんなことがあるのでしょうか。このナイルの水が血に変わるなんて考えられません。それである人たちは、これは実際に血に変わったのではなく、血のように赤くなったのにちがいないと考えます。赤潮ですね。ヨエル2章31節に「月は血に変わる」という表現があるので、ここでもナイル川が地のように赤くなったということだ、と言うのです。しかし、水が血に変わったというのは、成分が透明な水とは違ったものになったことは確かです。なぜなら、すべての魚が死んだし、川が臭くなりました。そして、水も飲めなくなりました。これらのことは、明らかにただ水が赤くなったというのではなく、血地になったということです。それは神の超自然的なしるしであったのです。

 

その結果、どうなったでしょうか。22節から25節です。

「しかし、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。ファラオは身を翻して自分の家に入り、このことにも心を向けなかった。全エジプトは飲み水を求めて、ナイル川の周辺を掘った。ナイル川の水が飲めなかったからである。主がナイル川を打たれてから七日が満ちた。」  ところが、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをしました。それでファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れようとしませんでした。けれども、なぜエジプトの呪法師たちはこれを水に変えられなかったのでしょうか。水を赤くすることができるなら、透明にすることもできたはずです。それなのに彼らにはできませんでした。それでエジプト全土は飲み水を求めて、ナイル川周辺に井戸を求めて掘らなければならなかったのです。

 

すると、ファラオはどうしたでしょうか。彼は身を翻して自分の家に入り、このことに心を向けませんでした。これは、国家の指導者としては、あまりにも無責任な態度です。彼は一般庶民のように水に困ることはなかったでしょうが、一般のエジプト人は、生きていくために水が必要だったので必死でした。彼らは井戸を掘らなければなりませんでした。それが7日間も続いたのです。それでエジプト人たちは苦しみました。それなのに彼はそのことに全く心を向けなかったのです。何とひどい王でしょう。

 

でも、私たちの神は、そのような方ではありません。私たちの神は、私たちが苦しみの中から主に呼び求めると、答えてくださる方です。詩篇55:16,17には、「私が神を呼ぶと主は私を救ってくださる。夕べに朝にまた真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。」とあります。

また、エレミヤ書33章3節には、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」とあります。

私たちの神は、私たちの叫びを聞き、助けの手を差し伸べてくださいます。このような神は、ほかにはいません。主こそ神であり、私たちをすべての苦しみから救ってくださる方なのです。ですから、私たちは、この方に信頼し、この方に助けを求めて叫ぼうでありませんか。主はあなたに心を向けてくださっておられるからです。

ヨハネの福音書7章14~24節「正しい判断を下すために」

ヨハネの福音書7章から学んでおります。きょうは、正しい判断を下すにはどうしたら良いかというテーマでお話ししたいと思います。私たちは、いつも「どうしたら良いか」で悩みます。自分では正しい判断を下したつもりでも、必ずしもそれが正しくなかったという場合がたくさんあります。むしろ、そうでない場合の方が多いかもしれません。正しく判断することは、それほど難しいことです。いったいどうしたら正しい判断を下すことができるのでしょうか。きょうは、このことについて主の言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.神のみこころを行おうと願うこと(14-17)

 

まず、14節から17節までをご覧ください。

「祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

 

この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りがすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められました。すると、ユダヤ人たちは驚いて言いました。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか」。一般的に牧師が神学校で聖書を学ぶようにユダヤ教の指導者たちはラビの学校で学びますが、イエスはそこで正規に学んだことがないのに聖書をよく知っているのに驚いて、彼らは不思議に思ったのです。

 

それに対してイエスは、こう言われました。16節です。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

イエス様の教えは、当時のラビたちの教えとは全く違うものでした。ラビたちの教えというのは、自分たちの教えを裏付けるために、有名なラビたちの言葉を引用するというものでしたが、イエス様の教えはそのような権威に裏付けられたものではなく、いわばオリジナルのものというか全く新しいものでした。しかもそれは、イエスを遣わされた方である神のみこころに適った教えでした。つまりそれは伝統に縛られた権威主義的なものではなく、また、自分の独自の考えに基づいたものでもなく、神のみこころに基づいたものであったということです。ユダヤ人の指導者たちは、そのことが理解できませんでした。ですから、自分たちの教えとは違う、全く新しい教えを聞いた時、「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」と驚いたのです。

 

いったいどうしたら、それが神から出たものであるかがわかるのでしょうか。17節にこうあります。「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

そうです、だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人は、それが神から出た教えなのか、そうではないかがはっきりわかるのです。私たちが何かの教えを聞いた時、それが神からのものであるのかそうでないのかを判断するためには、それを聞いた私たちが神のみこころを行おうとしているかどうかで決まります。確かに、何が真理なのかを見分けることは難しいことですが、いつも神のみこころを行いたいと願っているなら、必ず見分けることができるのです。私たちがなかなか正しい判断を下すことができないのは、正しい情報を持っていないということもありますが、それよりも私たちの中に自分に都合のよいものは受け入れ、そうでないものは排除しようという働きがあるからです。でも、そうでなく、いつも神のみこころを行いたいと願っているなら、たとえそれが自分にとって都合が悪いことでも受け入れ、正しく判別することができるのです。

 

またここには、「神のみこころを行おうとするなら」とあるように、ただ神のみこころを知ろうとするだけでなく、それを行おうとすることが大切です。つまり、神のみこころを単に知識としてではなく、自分の生活の中に適用し実践していこうとする姿勢が求められるということです。

 

今年7月にさくらチャーチにアメリカカリフォルニア州フレズノ市からサマーチームが来会します。今回は7名のチームなので、それだけの人数が宿泊できる場所をどうやって確保しようかと祈っていたところ、ある方を通して車で35分くらいのところにかつて古民家で民宿を営んでおられたクリスチャンがいるということを知り、現場に行ってお会いしました。この方はまだ30歳代の若い青年で、父親が水道工事の会社を経営していることから、それを引き継いて水道の工事をしておられます。「若いのにすごいですね。どうやって覚えたんですか。」と尋ねると、こう言いました。「いや、自分は小学校の時から父親の跡をついて行って一緒にやっていましたから、実際この仕事を始めるようになってからは7~8年ですけれど、小学校の時からやっているので、結構できちゃうんですよ。」

なるほど、水道工事の知識も必要ですが、実際に小さい時から工事に携わってくる中で見えてきたことが大きいんですね。つまり、「行動」が「知識」をもたらすということは、ある意味で本当なのです。

 

「納得しなければ実行しない」という人がいますが、そういう態度ではいつまでも実行に移すことはできないでしょう。なぜなら、納得するかしないかはあなた次第だからです。大切なのは、あなたが納得できるかどうかではなく、納得できなくとも神のみこころは何かを知り、それを行おうとすることです。そうすれば、そのうちに納得できるようになります。

 

ホセア書6章3節に、「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」とありますが、どうやったら知ることができるのでしょうか。主を知ることを切に追い求めることによってです。そうすれば、主のみこころが何かがはっきりと見えるようになります。

 

あなたは、主を知ることを切に追い求めておられるでしょうか。確かに、神のみこころを知ることは簡単なことではありませんが、もうすでにはっきり示されていることもたくさんありますから、まずそれを行いさらに深い真理を求めていくなら、神はじきに多くのものを判別する知恵を与えてくださることでしょう。

 

Ⅱ.神の栄誉を求める(18)

 

第二のことは、自分の栄誉ではなく、神の栄誉を求めるということです。18節をご覧ください。ここには「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」とあります。

 

誰でもよく考えればすぐに、このことばが教えていることがどういうことかわかると思います。自分から語る人は自分の栄誉を求めますが、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。つまり、その人が何を求めているかによって、その人がどういう人であるかがわかるということです。自分の栄誉を求めている人は、自分のことを語りますが、神の栄誉を求めている人は、神のことを語るからです。つまり、実を見て、木を知れ、というのです。イエス様は、どのようにして「偽預言者」を見分けたら良いかを、この木と実のたとえでお話ししてくださいました。

「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:15-20)

偽預言者と本物の預言者とを見分けるのは難しいです。彼らは羊の衣を着てやって来ますが、内側は貪欲な狼です。「羊の衣を着て」というのは、見たところ無害で、ソフトな姿で近づいてくるということです。ですから、出会う人は警戒心を緩めて、かえって好感を抱いてしまうのです。

しかし、彼らの正体は見た目とは反対の「貪欲な狼」です。このような凶暴性を持った偽預言者たちによってもたらされる被害は大きく、神様との関係や兄弟姉妹との関係を取り返しがつかないほどに破壊してしまいます。こうした偽預言者に注意しなければなりません。どうしたら見分けることができるのでしょうか。何よりも見分けるポイントが大切です。つまり、実によって見分けるということです。茨からぶどうは採れないし、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結びます。ですから、実によって判別するようにと教えられたのです。

 

ここでも同じことが言われています。自分から語る人は自分の栄誉を求めますが、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。まさに、イエス様はそのような方でした。ピリピ人への手紙2章6~11節にはこうあります。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:6-11)

キリストは、自分の栄誉ではなく、神の栄誉を求めました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになられたのです。

 

今の時代にあって誰が神の人であるのかを、どうやって見分けることができるでしょうか。それは、その人が言っている言葉を聞けばわかります。もしその人が「私を見てください、私はこれだけのことをやりました」と言うなら、そこには真理はありません。自分の栄誉を求めているからです。でも、もし「この人を見よ」と十字架のキリストを指し示すなら、その人は正しい人です。その人こそ神によって立てられた人だと言えるでしょう。十字架の陰に自らを隠そうとする人こそ、まことの牧者です。その人は、ただ神の栄誉を求めています。このような人こそ真実で、不正がありません。

 

先日、「1番だけが知っている」というテレビの番組で、ハンセン病国家賠償訴訟について報じていました。これは「らい予防法」という法律によって強制的に隔離された人たちが、その法律が間違っていたことを国が認め、国に賠償と謝罪を求めるというものでした。しかし、法律が間違っていたと国が認めることはあり得ないことで、その裁判は困難を着褒めましたが、徳田弁護士を中心とした137人の弁護団によって戦い、裁判から2年半後の1998年に「らい予防法」し違憲との判断が下され、国が控訴を断念したことから裁判が結審しました。それはアリが巨大な像を倒した瞬間でした。当時の首相であった小泉首相の会見後、原告団の記者会見が行われましたが、この晴れ舞台に弁護士の姿はありませんでした。主役は原告団であって、自分たちは脇役にすぎないと、表に出ることを避けたのです。弁護士であれば自分の手柄を誇りたいところでしょう。それなのに、自分たちの栄誉を求めようとしなかったこの弁護士は、本物だなぁと思いました。

 

私たちも、このような者になることを求めましょう。自分の栄誉ではなく、キリストを遣わされた方の栄誉を、神の栄光が現されることを求めましょう。そうすれば、見えるようになり、神のみこころが何なのかを正しく判断することができるようになるのです。

 

Ⅲ.うわべで人をさばかない(19-24)

 

第三のことは、うわべで人をさばかないということです。19節から24節までをご覧ください。19節には、「モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」とあります。

「あなたがた」とは「ユダヤ人たち」のことです。ここでイエス様はモーセの律法を取り上げ、彼らが神を敬っていないことを指摘しています。なぜなら、彼らはモーセの律法を一生懸命に守っていると言いながら、イエスを殺そうとしていたからです。律法には何と書いてありますか?律法には「殺してはならない」とあります。それなのに彼らはイエスを殺そうとしていました。どういうことですか。律法を守っていないということです。彼らは律法を守っているどころか守っていなかったのです。

 

すると、群衆が答えました。20節です。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」どういうことですか。群衆は、まさかユダヤ教の指導者たちがイエスを殺そうとしていることなど全く知らなかったので、「あなたがたは、なぜ私を殺そうとするのですか。」と言われたイエス様の言葉を聞いて、気が狂っていると思ったのです。「あなたは悪霊につかれている」と言いました。

 

するとイエス様は、それが間違った判断であることを示すために、21節でもう一つの律法を取り上げて説明しています。それは「安息日」の律法です。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。」というのは、5章で見たあのベテスダの池での出来事です。38年もの間病気で伏していた人が、「床を取り上げて歩きなさい。」と言われたイエスの言葉に従ってそのとおりにすると、その人はすぐに治って、床を取り上げて歩き出しました(5:1-9)。ところが、その日は安息日でした。つまり、安息日に病人をいやしたことが問題となったのです。ユダヤ人たちとの論争はそこから始まりました。ユダヤ人たちは、イエスが簡単に安息日の規定を破ったのを見て、驚いたのです。もっとも、イエス様は安息日の規定を破ったのではなく、あくまでも彼らがそのように思っていただけでした。彼らは、安息日律法そのものを間違って理解していたのです。

 

そのことを説明するために、今度は「割礼」のことを取り上げています。22節です。「モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。」

どういうことですか?「割礼」とは、モーセから始まったものではなく、父祖たちから始まったことでした。父祖たちとはモーセたちの時代よりも500年も古い時代です。つまり、律法が与えられる前からあったということです。それはアブラハムの時代のことでした。神はアブラハムに、彼らが神の民であるというしるしに、「割礼」を受けるように命じられたのです(創世記17:9)。それはその子が生まれて八日目に施すようになっていたため、それが安息日に当たっていたとしても、それをしなければなりませんでした。それは彼らが神の民のしるしですから、とても重要なことだったのです。であれば、イエスが安息日に病気で伏していた人を癒すことがどうして問題になるのでしょうか。おかしなじゃないですか。23節には、「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。」とあります。だったら安息日には、何もしてはいけなかったはずです。それなのに、割礼は大丈夫だけれども、人の病気を癒すことは悪いというのは変な話です。論理に一貫性がありません。いったい何が問題だったのでしょうか。

 

24節をご覧ください。これが彼らの問題でした。ご一緒に読みましょう。「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」

群衆は、安息日の規定と割礼の規定とは矛盾しないものであることを知っていました。それなのに、イエス様が安息日に行ったいやしを認めることができなかったのは、指導者たちの言葉に影響されて、正しい目でイエスを見ることができなかったからです。いわゆる偏見です。彼らは最初から、正しい判断を下すことを放棄していたのです。

 

それは何も当時のユダヤ人たちだけのことではありません。私たちも、何かの判断を下さなければならないとき、こうした偏見によって判断に狂いが生じ、正しい判断を下すことができない時がありますが、うわべで人をさばいていることがあるのです。「うわべ」とは、「見かけ」のことです。「見かけ」で人をさばいてはいけません。なぜなら、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)からです。

 

これはとても有名な話です。主が最初のイスラエルの王であったサウルを退けた時、ベツレヘムにいるエッサイという人の息子の中から次の王を選ぶようにと言いました。サムエルは主が告げられたとおりにベツレヘムのエッサイのところにやって来ると、そのことを彼に告げました。そして、エッサイとその息子たちを祝宴に招くと、背が高くて、なかなかハンサムな息子がやって来ました。名前はエリヤブと言います。サムエルは彼を見たとき「彼だ!」と思いました。しかし、主はサムエルに言いました。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)と言われました。

そこでエッサイはアビナダブという別の息子を呼んで、サムエルの前に進ませましたが、サムエルは、「この者も主は選んでおられない。」と言いました。じゃ次の息子の「シャンマ」かなぁと彼を進ませましたが、サムエルの答えは「No」でした。エッサイは7人の息子をサムエルの前に進ませましたが、サムエルは「この者たちではない」と言いました。「子どもたちはこれで全部ですか。」と言うと、エッサイが、「いや、まだ末の息子がいますが、今、羊の番をしているような息子ですよ。」と言うと、「その子を連れて来なさい。」と言われたので、エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させました。その子は血色が良く、目が美しく、姿も立派でした。その時、主は言われました。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」と。それでサムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油を注いだのです。それがイスラエルの二番目の王で、イスラエルの絶頂期を気付いたダビデ王です。彼は兄弟たちの中では一番小さな者でしたが、神が選んでおられたのは、何とその小さな息子のダビデだったのです。

 

私たちは時として、こうした「うわべ」で人を判断してしまうことがあります。でも表面的に立派であれば必ずしも立派であるかというとそうとは限りません。英語のことわざに、All that glitters is not gold.ということわざがあります。訳すと、「光るものすべて金ならず」です。光っているものがすべて金であるとは限りません。外面に気をとられて内面を見誤ってはなりません。この英語の「glitters」というのは、家内の説明では、子供たちがクラフトでよく使う金色のピカピカに光る粉のことだそうです。あれは後始末が大変で、どんなにコロコロを使って取ろうとしてもなかなか取れません。それが「glitters」です。それはただピカピカに見せているだけですが、それが必ずしも金であるわけではないのです。その人の人となりは、その人の隠れた行いなり、人の目にはふれない性格などに見られるのであって、うわべで判断してはいけないのです。

 

それとは反対に、どんなに表面的に光っていないような人でも、すべてが悪だと性急に決めつけてはなりません。見た目ではパッとしないような人でも、神のことばによっていのちが芽生え、聖霊の圧倒的な力によって変えられて、神に大きく用いられることもあります。私はそう信じています。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた人です。古いものは過ぎ去って,見よ、すべてが新しくなりました。キリストによって、だれでも、新しく変えられます。

 

4年半前に、教会のO兄が天に召されました。それは突然のことでした。水曜日の祈祷会が終わって家に戻り、その晩に頭が痛いと救急車で病院に運ばれると、その日のうちに亡くなられました。翌々日の金曜日に奥様から電話があり、事情を聞いてびっくりしました。あんなに元気だったのに突然召されるなど考えられませんでした。その翌日の土曜日に宇都宮の駒生で行われた葬儀で司式をしましたが、私たちの教会にO兄を送ってくださった主に、心から感謝しました。

O兄は、なかなか周りに理解されにくいタイプの人でした。かつては大手の企業のチェーン店の店長を勤め、定年になるとそれを奥様に任せて自分は掘っ立て小屋みたいなところに住み、仙人のような生活をしていました。お酒が好きで小屋にはたくさんの酒瓶がありました。Oさんが教会に来たのも、コンビニにお酒を買いに来た時、目の前に私たちの教会があったのがきっかけでした。何日も風呂に入っていなかったのか、近くによるとかなりにおいがしました。「何だろう、この人は・・」と不思議に思いましたが、彼の聖書を見るとどこも赤線がびっしり引かれてありました。本当に不思議な人でした。何よりも聖書の話をじっと聞いていました。最後の祈祷会の話は、イスラエルが荒野を行軍した時の形でした。それは上空から見ると十字架の形でした。十字架こそ荒野を旅するイスラエルにとって勝利の秘訣だった。それはイエス・キリストご自身を指し示していたんですと話すと、興奮して「先生、それが一番強いんだよね。」と言われました。「何でこんなことを知っているのかなぁ」と思いましたが、その学びが最後でした。

しかし、O兄が教会に来て洗礼を受けてから、本当に変わったと思います。変わった人が変えられてもっと変わったのではなく、すばらしい人に変えられました。匂いは相変わらずでしたが、神に向かう姿勢が見事でした。毎週の礼拝と祈祷会には欠かさず出席しました。雨の日も雪の日も、自転車を引っ張って来ました。ある時は、大雪で来られないだろうと思っていたら、「いや、大変だった。自転車を引っ張って来たら1時間半もかかったよ。」と、自転車を引っ張って歩いて来られたのです。

それは私にとって大きな慰めでした。神の言葉を求めて、自転車を引っ張っても教会に来るというのは考えられないことだったからです。そんなことを葬式でお話しすると、O兄のお母さんが棺に手をかけて、「政行、聞いたよ。牧師さんから聞いた。随分、頑張ったんだね。」と言われました。O兄は、ご長男でしたが、家族の中でも変わり者で、ご両親やご兄弟からも相手にされないところがあったんですね。だから、お母さんがその話を聞いて、「そうだったんだ」と驚いておられたのです。

でも、これは本当です。イエス様を信じて、イエス様によって新しく生まれ変わりました。本当に新しい人に変えられました。何よりもうれしいことは、そのような彼を私たちの教会が受け入れ、愛をもって接してくれたことです。

 

うわべで人をさばかないで、正しいさばきをしなければなりません。常に神のみこころを求め、神の栄誉を求め、神の目をもって、正しい判断ができるように神の助けを仰ごうではありませんか。

ヨハネの福音書7章1~13節「わたしの時は来ていません」

ヨハネの福音書から学んでおりますが、きょうから7章に入ります。きょうは「わたしの時は来ていません」(6)とイエス様が言われた言葉から、「キリストに従う」というテーマでお話ししたいと思います。

Ⅰ.イエスを信じていなかった兄弟たち(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。

「その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」

「その後」とは、6章の出来事があって後のことです。6章には、イエス様が、5つのパンと2匹の魚で男の人だけで五千人の人たちの空腹を満たされたという奇跡が記されてあります。それは6章4節に「ユダヤ人の祭りである過越しが近づいていた」とあるように、過越しの祭りが近づいていた頃のことでした。時期的には3月の終わり頃から4月の上旬にかけての頃です。その後、イエス様はガリラヤ地方を巡り続けておられました。なぜなら、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたからです。もしユダヤ(地方)に行けば、ユダヤ人に捕らえられ、殺されてしまいます。イエス様は、ユダヤ人に殺されることを恐れていたのではありませんが、まだその時が来ていなかったので、ユダヤには行かずガリラヤを巡り続けておられたのです。

それからしばらくして、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていました。これは秋の祭りです。ですから、6章の出来事から半年くらい後の事になります。イエスの兄弟たちがイエスにこう言いました。

「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」(3-4)

なぜイエスの兄弟たちはこのようなことを言ったのでしょうか。ある意味で、彼らが言っていることはもっともであるかのように見えます。もし自分を世に現したいとと願っているのであれば、隠れて事を行う必要はないからです。しかし、彼らは本当にイエス様のことを思ってそう言ったのではありませんでした。彼らがなぜこのように言ったのかを理解するためには、ユダヤ人にとって「仮庵の祭り」が何を意味していたのかを知る必要があります。

先ほども申し上げたように、仮庵の祭りは、過越しの祭り、五旬節、すなわち七週の祭りに並ぶユダヤの三大祭りの一つでした。それは、彼らの先祖がエジプトを出た時、仮の庵、仮庵に住んだことを覚えるために、七日間、仮小屋か木の枝を張って造った天幕に住み、主の前で喜ぶように定められていたものです(レビ3:39-43)。また、この祭りの最終日は聖なる贖いの日と呼ばれていて、この日は、アザゼルとして荒野に山羊が放たれ、年に一度大祭司が至聖所に入って特別な儀式を行いました。そして、何と言ってもこの祭りは、来るべきメシヤの再臨を示すものでした。ゼカリヤ書14章16~21節にこう書いてあるからです。

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」(ゼカリヤ14:16)

すなわち、これはメシヤがエルサレムから全世界を支配するようになる時、異邦人たちはメシヤを礼拝するために、この祭りに上って来るということです。イエスの兄弟たちが、仮庵の祭りの期間にエルサレムに上り、自分をメシヤとして世に示すようにと言ったのは、こうした背景があったからです。

そういう意味では、彼らが言ったことは決して間違いではありませんでした。むしろ、日ごろからイエスが語っておられることを耳にしていた彼らにとって、この仮庵の祭りにイエスがエルサレムに行き、そこで驚くべき奇跡を行うなら、自分がメシヤであることを示す絶好の機会になるのではないかと考えるのは、むしろ当然と言えるでしょう。しかし、それは彼らがイエスをメシヤだと信じていたからではありませんでした。5節には、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」とあります。彼らもイエス様を信じていませんでした。だから、イエスがメシヤであるというしるしを行えば、みんな信じるでしょう、そうしたらいいんじゃないかと、挑発したのです。それは神のみこころから遠く離れていたものでした。というのは、十字架抜きの救いというのは、結局のところ、人々を本当の救いを与えることはできないからです。その時はまだ来ていませんでした。悪魔は、いつも身近にいる人を通して、主のみこころとは違った、安易な道へと私たちを誘惑してきます。ですから、私たちは主のみこころは何なのか、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、いつも神の言葉を求めなければなりません。

それにしても、このことがイエス様の一番近くにいた兄弟たちから出たということは驚きです。家族であればいつも一緒にいてその言葉なり、行動というものをつぶさに見ています。ですから、彼らはイエス様のことを見て、よく知っていたはずなのに信じていなかったのです。普通であれば、一緒にいればポロも見えるはず。いいことばかりでなく、悪いことも、いろいろな欠点も見えてきますから信じられないというのは最もですが、イエス様の場合は完全で、しみも汚れも全くなかったわけですから信じても不思議ではなかったというか、信じるのが当然かと思いますが、そうではなかったのです。これはひどい話です。ご自身の民であったユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしていたというのもひどい話ですが、イエス様の兄弟たちがイエス様を信じていなかったというのもそれと同じくらい、いやそれ以上にひどいことです。

このことを思う時、改めて6章44節でイエス様が言われた言葉を思い出します。それは、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」という言葉です。神の恵みと導きがなければ、人はだれも主のもとに来ることはできません。どんなにイエス様の近くにいる人でも、神が引き寄せてくださらない限りだれもイエス様のもとに来ることはできないのです。

私たちはこのことをしっかりと覚えておかなければなりません。私たちはとかく、私たちの家族が信仰を持たないでいたりすると、つい自分を責めてしまうことがあります。自分の態度が悪いからだ、クリスチャンとしてふさわしい態度でないから、夫が、妻が、息子が、娘が、父が、母が信じてくれないのだと思いがちなのですが、必ずしもそうではないのです。何の落ち度もないイエス様が一緒にいても、その兄弟たちが信仰を持たなかったのだとしたら、どんなに私たちが信仰に熱心だからと言っても、必ずしも私たちの家族の者が信仰を持つとは限らないのです。むしろ、イエス様はこのことを経験された方として、そのように祈ってもなかなか信じてくれない家族のことで悩み、落ち込んでしまう私たちの心を知って、深く憐れんでくださるのです。ですから、私たちは何よりもこのことを覚えてこの主のあわれみによりすがり、主が私たちの家族をご自身のもとへ引き寄せてくれるようにと、あきらめないで祈り続けていかなければなりません。

Ⅱ.わたしの時はまだ来ていません(6-9)

第二のことは、多くの人がクリスチャンを憎む本当の理由は何であるかということです。6節から9節までをご覧ください。

「そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」

「自分を世に示しなさい」という兄弟たちの言葉に対して、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」と言われました。どういうことでしょうか?

イエス様が福音書の中で「わたしの時」と言われる時、それはご自身が十字架に付けられ、永遠の贖いを成し遂げられる時のことを指しています。その時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ています。これはどういうことかというと、新改訳2017で訳されているように、「用意ができている」ということです。どのように用意ができているのかというと、7節にあるように、「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、イエス様はこの世と同じ生き方をせず、この世の悪い行いを指摘するのでこの世から憎まれますが、イエスの兄弟たちは、この世と調子を合わせ、いつもこの世の流れに流された生き方をしていたので憎まれることはないということです。彼らはいつもこの世にどっぷりと浸かっていました。彼らの時はいつでも来ていたのです。

しかし、それは何もイエスの兄弟たちだけのことではありません。私たちもイエ様を信じて、イエス様に従って生きていこうとすれば、そこに多くの戦いが生じます。もし私たちがこの世から全く憎まれることがないとしたら、それこそこの世にどっぷりと浸かっている証拠であり、この世の人々と何ら変わりがないということを示しているのです。なぜなら、世はイエス様のことを憎んでいるからです。

現代では、特別な時がありません。昔なら、野菜や果物にしても、旬のものがありました。しかし、今は野菜や果物がビニール・ハウスで栽培されるので、いつでも同じ野菜や果物を食べることができるようになりました。季節感というものがなくなってきたのです。いつでも用意ができるようになりました。これは食べ物のことだけでなく、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。つまり、この世のペースに巻き込まれて、クリスチャンとしての生き方を失い、この世に流されてしまう傾向があるということです。それが、イエス様が言われた「あなたがたの時はいつでも来ている」ということです。

しかし、イエス様の時は来ていません。イエス様がこの世から憎まれるのは、「世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、この世の人々の罪を指摘したからです。罪を指摘すれば、当然憎まれます。これが、イエス様がユダヤ人指導者たちから憎まれた本当の理由です。それはイエス様がご自分をメシヤとして受け入れるようにと主張したからではなく、あるいは、イエス様が崇高な教えを説いたからでもなく、当時の人々の間にはびこっていた罪や過ちを指摘したからなのです。こういう人はいつの時代でも人々から煙たがれ、憎まれ、迫害されます。

もうすぐ「平成」が終わって「令和」になります。202年ぶりに生前退位が行われ、新しい天皇になるのです。天皇が生きている間に、その地位を譲るというのは考えられないことです。なぜなら、日本国憲法に定められている「皇室典範」の第1章に、皇位の継承は現天皇が崩御(死亡)する時と定められているからです。それ以外に重篤な病気がない限り譲位することは認められていません。そのことで政府はいろいろと議論を重ねましたが、結局、一時的な法律を作って生前退位することを認めました。なぜ、天皇が生前に退位することがそれほど問題なのかというと、明治政府以降、日本の政府は、天皇を神格化「現人神」(あらひとがみ)して、国民をまとめる国家戦略を持っているからです。しかし私たちは、唯一まことの神であるイエス・キリスト以外の存在を神としません。確かに、今の天皇は人格的に立派で、個人的には尊敬し、お慕い申し上げておりますが、しかし、神として敬うことは別です。戦後、天皇は国民の象徴としての天皇とは何かを模索してきました。そしてそれを見事に全うされましたが、それはあくまで象徴としての天皇であって、神としてではありません。私たちは、天皇が神格化されることによってあらゆる批判が封じられ、人権が抑圧され、天皇の名によって侵略戦争が正当化された過去を忘れてはいけません。しかし、そのように主張すれば、当然そこにこの世とのひずみが生じ、妨害が起こってくるのは必死です。

最近、LGTB、性的マイノリティーの方々をどのように受け入れるかが問題になっています。世界的には同性婚が受け入れられるようになりました。何と28の国々で認められています。そこまで認めていなくとも、パートナーシップ法のある国が19もあります。その権利を保証する国が5つあります。その中には日本も、何とイスラエルも含まれているのです。旧約聖書をみると、同性婚について厳しく戒められているにもかかわらず、そのイスラエルでも容認する傾向にあるのです。アメリカではこれが法律で定められていて同性婚を禁止したり認めないと、牧師が訴えられるというケースが数多く起こっています。そのような中で、もし我々が同性婚に反対しようものなら、この社会からたちまち非難されることになるでしょう。

ですから、クリスチャンがこの世から憎まれることがあってもちっとも不思議ではありません。それはあなたが間違っているからでも、あなたが悪い人だからでもなく、その生き方が聖いからなのです。そしてその生き方がこの世に対して常に証をしているので、世は不愉快になって受け入れることができないのです。それで世はクリスチャンを憎むのです。間違っても、この世が自分を憎むのは、自分がこの世と同じことをしないからだとか、もっとこの世に染まれば受け入れられるに違いないと、この世と調子を合わせようとしないでください。それこそ、悪魔の思うつぼですから。

イエス様はこう言われました。「人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。」(ルカ6:26) みんなから良く言われるのはその人がよい人だからである、というのがこの世の常ですが、これは大きな誤りです。それは、当時イエス様がこの世からどう思われていたかを見ればわかります。イエス様はみんなから愛されていたのではなく、逆に憎まれたのです。ですから、みんなから好かれているというほめ言葉が、必ずしも良いわけではありません。

私たちもこの世から好かれるかどうかではなく、この世から憎まれることがあっても、イエス様同様、この世に流されることなく、神の御心に従い、塩味のきいたピリッとした生き方を求めていかなければなりません。

Ⅲ.イエスを誰だと言いますか(10-13)

では、どうしたらいいのでしょうか。第三に、10節から13節までをご覧ください。

「しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

兄弟たちが祭りに上って行った後で、主イエスご自身も、上って行かれました。なぜイエス様は兄弟たちと一緒に上って行かなかったのでしょうか。それは、ここに「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた」とあるように、兄弟たちと一緒に行くことによって目立つのを避けようとしたからです。兄弟たちは、人々の注目を主に向けさせることで、いかにも自分たちがその弟たちであることを誇ろうとしたのかもしれませんが、このような機会を与えないために、主は彼らと一緒に行かなかったのです。5つのパンと2匹の魚の奇跡を行った時も、人々は主を自分たちの王にするために連れて行こうとしましたが、主はそれを知って、ただ一人山に退かれました(6:15)。主はそのような人たちを避けたいと思っていたのです。

主イエスが祭りに上って行かれると、ユダヤ人たちはどのようにイエス様を迎えたでしょうか。11節には、「ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを探していた。」とあります。何のために探していたのかわかりません。しかし、1節を見ると「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」とありますから、殺そうとして探していたのかもしれません。彼らは、当然イエスも敬虔なすべてのユダヤ人同様、祭りのためにエルサレムに上ってくるだろうと考えていたので、その隙を狙っていたのでしょう。

一方、群衆はどうだったかというと、12節をご覧ください。群衆の間では、イエス様に対する評価が真っ二つに分かれました。「群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言いました。イエス様のことを「良い人だ」と言ったのは、自分たちの考えをはっきり持っていた、純粋で素直なユダヤ人たちでした。彼らの中には、主のお働きを一部始終見聞きしていたガリラヤの人たちも含まれていたことでしょう。一方、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言った人たちは、真理について全く考えようともせず、ただユダヤ教の指導者たちを恐れ、その言いなりになっていた肉的な人たちでした。

しかし、このことからわかることは、キリストに対しての受け止め方は、驚くほど多くあるということです。人生いろいろ。キリストに対する受け取る方もいろいろです。

イエス様が生まれた時、年老いたシメオンが幼子イエスを腕に抱いて語ったことを覚えていますか。彼はイエスの母マリヤにこのように言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(ルカ2:34-35)彼の語ったことが、ここに成就したのを見ます。イエス様は、多くの人々が倒れたり立ちあがったりするために定められたのです。それは、多くの人の心の思いがあらわになるためです。

イエス様ご自身、どこに行っても、常に対立を引き起こす原因となりました。それは今もそうです。ある人にとってキリストは「いのち」に至らせる香りですが、ある人にとっては「死」に至らせる香りです(Ⅱコリント2:16)。キリストは、私たちの心の思いをあらわにされます。人々はキリストを好むか、好まないか、のどちらかです。福音が人々の心に入るとき、そこには当然意見の衝突や争いが起こります。それは福音に問題があるからではなく、人々の心にこうしたいろいろな思いがあるからです。太陽が湿地を照らすと毒の成分である毒気を発生しますが、それは太陽が悪いからではなく、地が悪いからです。同じ光が麦畑を肥沃にし、豊かな刈り入れをもたらします。

ですから、キリストを信じ、聞き従い、人々の前に信仰を告白する人が少ないからといって、これが正しくないとか、恥だとかと思わないでください。むしろ、これが真理だからこそこのような反応が起こるのです。大切なことは、そのような中で、あなたはイエスを誰だと言うかです。あなたは、他人の意見や圧力に影響を受けないで、自分の意見を堂々と述べることができますか、ということです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

世に勝利されたイエス様が、あなたとともにおられます。私たちも、信仰のゆえに、世に憎まれることがあるますが、世に勝利されたイエス様に信頼して、他人の意見や圧力に屈することなく、イエス様に従う者とさせていただきましょう。

出エジプト記6章

神の命令に従いファラオのもとに行って神のことばを伝えたモーセでしたが、そこで激しい抵抗に会い、イスラエルの立場は以前よりももっとひどいものになってしまいました。イスラエルの民のリーダーたちからそれを告げられた時、モーセは神に祈って言いました。「主よ。なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。」(5:22)

きょうの箇所には、そのことに対する主の励ましが語られています。

Ⅰ.わたしは主である(1-8)

 

まず、1節から8節までをご覧ください。4節までをお読みします。

「主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。」

 

1節には、「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」とあります。ここで主は、「わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」と言われました。今はまだわからないが、今に分かるようになります。つまり、モーセに欠けていたのは、今しばしの忍耐でした。それまで彼は、もう少し忍耐しなければならなかったのです。なぜなら、「彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出す」からです。いったいどのようにしてそれが起こるのでしょうか。

 

2節以降には、そのことについて語られています。2節には、「わたしは主である。」とあります。これは、3章14節のところで、主が「わたしは、『わたしはある』という者である。」と言われたことと関係があります。それは、他の何にも依存せず、それだけで存在することができる方、自存の神であるという意味です。つまり、すべての存在の根源者であられるということであり、いかなる限界もない全能の神であることを表しています。加えてこの「主」(ヤハウェ)は、神が契約を守る方であり、いつまでも変わることのない方、常に信頼できる方であることを表しています。神はモーセに、ご自身がそのような方であると啓示してくださったのです。

 

それは、アブラハム、イサク、ヤコブに現われてくださった時とは違います。アブラハム、イサクヤコブに現われてくださった時には「全能の神」として現れてくださいました。それは「エル・シャダイ」という御名でした。神がすべての必要を満たす神であるという意味です。しかし今は「主」と言う名前で現れてくださいました。名は体を表わします。イスラエルの民はこの主の御名の意味を体験的に知っていたわけではありませんでしたが、出エジプトの体験を通して、その意味を深く知るようになります。主は、イスラエルの民に、カナンの地を与えると約束されました。その契約に基づいて、彼らをエジプトから解放されるのです。

 

5節には、「今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。」とあります。この「思い起こした」とは、今まで忘れていたイスラエル人との契約を思い出したということではありません。いよいよ行動を起こす時が来たという意味です。

このことは、モーセにとって大きな励ましとなりました。というのは、それまで彼はこの神の偉大さを知らなかったからです。ですから、自分の身に何か困難なことがあるとすぐに、「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。」と嘆いていたのです。しかし、大切なのは「なぜ」ではなく、「だれ」です。イスラエルの神はどのような方であるかということです。イスラエルの神は「主」であるということです。主は契約を守る方であり、いつまでも変わることのない方です。常に信頼できる方であることです。彼は、この偉大な方に目を留めるべきでした。「自分」ではなく、「神」に、神の偉大さに焦点を合わせるべきだったのです。私たちはいかに「自分」が中心となっているでしょうか。自分を中心に見たり、考えたりしています。しかし、それではすぐに落ち込んだり、がっかりすることになってしまいます。主を見なければなりません。主は必ず契約を守られる方であることを心に刻みたいと思います。私たちの信仰の視点が自分から神に向けられるとき、私たちは体験的に神を知るようになるのです。そして、神を体験的に知れば知るほど、そこにどのような問題があっても神に信頼し、神をほめたたえることができるようになるのです。

 

それゆえ、モーセはイスラエルの子らにこう言わなければなりませんでした。6節から8節です。

「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。」 (6-8)

 

モーセがイスラエルの子らに告げなければならなかったことは、次の三つのことでした。第一に、主はイスラエルをエジプトの苦役から救い出し、大いなるさばきによって贖われ

るということです。(6)「大いなるさばき」とは、エジプトに下されようとしていた10の

災いのことを指しています。エジプトの奴隷となっていたイスラエルを救うために、神はそ

の腕を伸ばし、大いなるさばきをもって彼らを贖われるというのです。

 

第二のことは、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(7)ということです。イスラエル人は、主の圧倒的な御業によってエジプトから贖い出され、シナイ山のふもとで、主と契約を交わすことによって、主の民となり、主は彼らの神となられます。「わたしはあなたがたの神である」というのは、何という祝福でしょうか。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Ⅰペテロ2:9)とあります。私たちも異邦人の中から召し出され、神の所有とされた民です。神の民とされたことを感謝しましょう。

 

三つ目のことは、「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。」という約束です。神は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地、すなわち、カナンの地に彼らを導き、その地を彼らに与えると約束されました。なぜなら、それは彼らの父祖たちに与えると誓われた地であるからです。この約束は、後にヨシュアの時代に実現します。

 

これら三つのことは必ず実現します。なぜなら、「わたしは主である。」からです。これら

3つの約束が、この「わたしは主である」という宣言で始まり、「わたしは主である」という宣言で結ばれています。すなわち、これらの約束は必ず実現するということです。なぜなら、「わたしは主である」からです。主は契約を守られる方です。ですから、これは必ず実現することなのです。このように、主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は、何と幸いでしょうか。私たちも現状を見たらとても信じられないようなことでも、主を見て、主が語られたことは必ず実現すると信じて、その実現を待ち望みましょう。

 

Ⅱ.失意に陥る時(9-13)

 

それに対してイスラエルの民はどのように応答したでしょうか。9節をご覧ください。

「モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。」

 

モーセはそのようにイスラエルの民に語りましたが、イスラエルの民は、モーセの言うことを聞くことができませんでした。なぜでしょうか、ここには、「失意と激しい労働のために」とあります。彼らはモーセのことばに一度は希望を持ちましたが裏切られる結果となり、失望落胆したのです。また、激しい労働のために、考える暇さえありませんでした。

 

すると、そんなモーセに主がこう告げられました。「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」これは、失意の中にいるイスラエルの民はそのままにしておいて、あなたは、エジプトの王ファラオに所へ行き、イスラエルの民をエジプトから去らせるように告げよ、ということです。

 

すると、モーセは主の前に訴えました。11節、「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」

これはモーセがシナイ山のふもとで召命を受けた時と同じです(3:1~4:13)。そういう状態に戻ってしまったのです。私たちも信仰が逆戻りすることがあります。せっかく信仰が順調に成長しているかのようでも、このように落ち込み、逆戻りすることがあります。そういう時は決まって主を見ているのではなく、その状況を見ています。また、人間的に自分を見て、無力感にとらわれています。つまり、神様から心が離れているのです。ここでモーセは「私は口べたなのです。」と言っています。だからこそ、神様は彼にアロンを備えてくだったのではないでしょうか。それなのに彼は、アロンが彼の代弁者であることさえも忘れていました。主はそんなモーセとアロンに、イスラエルの子らをエジプトの地から導き出すよう、イスラエルの子らとエジプトの王ファラオについて彼らに命じられました。

 

主の前には多くの障害が立ちはだかっていました。民は、救いようもないほど落胆し、不信仰に陥っていましたし、モーセとアロンは、民を説得することに失敗し、全く自身を失っていました。そして、エジプトの王ファラオは、イスラエルに対して以前にも増して敵意を抱くようになっていました。

しかし、神はブルドーザーのようにあらゆる障害物を取り除き、目的を達成するために前進されます。私たちが信じている神は、すべてを可能にされるお方です。自分が置かれている環境や直面している問題から目を離し、この全能の神を見上げましょう。

 

Ⅲ.モーセの系図(14-30)

 

「彼らの一族のかしらたちは次のとおりである。イスラエルの長子ルベンの子はハノク、パル、ヘツロン、カルミで、これらがルベン族である。シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、およびカナンの女から生まれたシャウルで、これらがシメオン族である。家系にしたがって記すと、レビの子の名は次のとおり。ゲルション、ケハテ、メラリ。レビが生きた年月は百三十七年であった。ゲルションの子は、氏族ごとに言うと、リブニとシムイである。ケハテの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハテが生きた年月は百三十三年であった。メラリの子はマフリとムシである。これらが、彼らの家系によるレビ人の諸氏族である。アムラムは自分の叔母ヨケベデを妻にした。彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムが生きた年月は百三十七年であった。イツハルの子はコラ、ネフェグ、ジクリである。ウジエルの子はミシャエル、エルツァファン、シテリである。アロンは、アミナダブの娘でナフションの妹であるエリシェバを妻にし、彼女はアロンにナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを産んだ。コラの子はアシル、エルカナ、アビアサフで、これらがコラ人の諸氏族である。アロンの子エルアザルは、プティエルの娘の一人を妻とし、彼女はピネハスを産んだ。これらがレビ人の諸氏族の、一族のかしらたちである。このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。」

 

ここには、突然モーセの系図が出てきます。なぜ系図が出てくるのでしょうか。それは、26節と27節に導くためです。「このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。」つまり、このモーセとアロンがどこから出た者たちなのかを紹介するために、ここに系図を挿入しているのです。ですから、この系図は全てを記していません。ヤコブの12人の息子たちの記述も、ルベン、シメオン、レビまでで終わっています。それは、モーセとアロンがイスラエルの系図のどこに位置しているのを示せば十分だったからです。そして、モーセとアロンはヤコブの息子のうちレビから始まっています。そのレビには三人の息子がいました。ゲルション、ケハテ、メラリです。そして、その中のケハテ族の中からモーセとアロンは出ました。

 

ということは、どういうことかというと、彼らはアブラハム契約の中から出てきたということです。アブラハム契約の中からというのは、神の啓示を受け取った民の中からということです。それと全く関係ないところから出てくることはありません。それはメシヤの誕生にしても同じです。メシヤは旧約聖書の預言と全く関係のないところから出て来たのではなく、旧約聖書に預言されてあるとおり、アブラハムの子孫として生まれ、その契約を成就する形として来られました。つまり、こうした系図は過去と現在を結ぶ連結器のような役割を果たしているのです。どんなにすばらしい聖句でも、歴史的な流れなり、聖書全体のテキストを無視して取り出されたものは、本来の意図からはほど遠いものとなります。神様は歴史を通してご自身を啓示されました。ですから私たちは、こうした歴史的文脈をしっかりと押さえながら聖書のことばを読んでいなかければなりません。

 

28節から30節までをご覧ください。「主がエジプトの地でモーセに語られたときに、主はモーセに告げられた。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをみな、エジプトの王ファラオに告げよ。」しかし、モーセは主の前で言った。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。」

 

この箇所は、モーセとアロンの系図が挿入される前の文脈に戻っています。すなわち、12節に戻っています。モーセは主のことばをイスラエルの民に告げましたが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができませんでした。それでモーセは意気消沈し、かつてホレブの山で召命を受けた当時の否定的な状態に戻ってしまったのです。つまり、モーセが期待していたことと現実との間に大きなギャップがありました。それが、モーセが信仰の危機に陥った最大の要因でした。何が問題だったのでしょうか。モーセが期待していたことと神の計画には大きな隔たりがあったということです。私たちも同じようなことを経験することがあります。自分が祈っているように事が進まないと、神のみこころが分からなくなってしまい、すぐに不平や不満を抱くようになってしまうことがあります。しかし、神の思いは、天が地よりも高いように高いのです。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

大切なことは、このことを認め、すべてを神にゆだねることです。自分自身に神のみこころを合わせるのではなく、神のみこころに自分自身を合わせ、神の計画に従った信仰生活を送れるように、祈りましょう。

士師記21章

士師記の最後の学びとなりました。きょうは21章からを学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.愚かな誓い(1-7)

 

「イスラエルの人々はミツパで、「私たちはだれも、娘をベニヤミンに妻として与えない」と誓っていた。民はベテルに来て、そこで夕方まで神の前に座り、声をあげて激しく泣いた。彼らは言った。「イスラエルの神、主よ。なぜ、イスラエルにこのようなことが起こって、今日イスラエルから一つの部族が欠けるようになったのですか。」翌日になって、民は朝早く、そこに一つの祭壇を築いて、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。イスラエルの子らは、「イスラエルの全部族のうち、だれが、集団の一員として主のもとに上って来なかったのか」と言った。これは彼らが、ミツパの主のもとに上って来なかった者について、「その者は必ず殺されなければならない」と堅く誓いを立てていたからである。イスラエルの子らは、その同胞ベニヤミンのことで悔やんで言った。「今日、イスラエルから一つの部族が切り捨てられた。あの残った者たちに妻を迎えるには、どうすればよいだろうか。私たちは主によって、自分たちの娘を彼らに妻として与えないと誓ってしまったのだ。」

 

イスラエルがエジプトの地から上って来た日以来、見たことも、聞いたこともないような事件が起こりました。ベニヤミン領のギブアの町に宿泊していたレビ人の側目が、ギブアのよこしまな者たちに犯され、殺されてしまったのです。彼女の肢体を12の部分に切り分け、それをイスラエル全土に送ると、イスラエルの子らは、ミツパの主のもとに集まり、ベニヤミン族と戦うことを決めました。初めは、ギブアにいるよこしまな者たちを引き渡すようにというだけの要求でしたが、ベニヤミンがそれを拒絶したので、イスラエル人40万の兵士とベニヤミン族2万6千人の兵士との間に戦いが勃発しました。

主がイスラエルの前でベニヤミンを討たれたので、イスラエルの子らは、ベニヤミンの兵士2万5千人を討ち、無傷のままだった町も家畜も、すべて剣の刃で討ち、また見つかったすべての町に火を放ちました。

 

1節から4節までをご覧ください。このベニヤミンとの戦いの前に、イスラエルの人々はミツパで、一つの誓いを立てていました。それは、「私たちはだれも、娘をベニヤミンに妻として与えない。」というものです。イスラエル人はベニヤミン族との戦いには勝利しましたが、このことで、ベニヤミン族が消滅しかねない現実に悲しくなり、ベテルに来て、そこで神の前に座り、声をあげて激しく泣きました。ベニヤミン族は、女性も子どもも殺されてしまい、残っていたのは男子600人だけでした。しかし、その600人に自分たちの娘たちを妻として与えることはできません。そう誓っていたからです。

 

これはあのエフタの時の過ちと同じです。エフタは、アンモン人との戦いにおいて、「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」(士師11:30-31)と誓いを立てました。その誓いのとおりに、エフタがアンモン人を打ち破り家に帰ると、自分の家から出て来たのは、なんと自分のひとり娘でした。それで彼は、その誓った誓願のとおりに彼女に行いました。同じです。あの時、彼はなぜそのような誓願を立ててしまったのでしょうか。

おそらく、自分が家に帰ったとき、自分の家の戸口から迎えに出てくるのは自分のしもべたちの内のだれかだと思ったのでしょう。まさか娘が出てくるとは思わなかったのです。それに、アンモン人との戦いは激しさを増し、何としても勝利を得たいという気持ちが、性急な誓いという形となって表れたのでしょう。

 

ここでも同じです。ベニヤミン族との激しい戦いによって、イスラエル軍は二度の敗北を喫していました。そのような中で何としても勝利したいという思いが、こうした誓いとなって表れたのです。けれども、こうした神の前での誓いは、一旦誓ったら取り消すことができませんでした。こうした性急な誓いは後悔をもたらします。神へ誓いは、神に何かをしていただくためではなく、すでに受けている恵みに対する応答としてなされるべきですが、エフタにしても、この時のイスラエルにしても、自分たちの中にある不安が、こうした誓いとなって表れたのです。

 

このように軽々しく誓うことが私たちにもあります。自分の力ではどうすることもできないと思うような困難に直面したとき、「神様助けてください。もし神様がこの状況を打開してくださるのなら、私の・・・をささげます」とか、「自分の娘たちを嫁がせません」というようなことを言ってしまうことがあるのです。イエス様は「誓ってはいけません。」と言われました。誓ったのなら、それを最後まで果たさなければなりません。果たすことができないのに誓うということは、神との契約を破ることであり、神の呪いを招くことになります。イスラエルのこうした誓いは、結局、彼らに後悔をもたらすことになってしまったのです。

 

Ⅱ.ヤベシュ・ギルアデの娘たち(8-15)

 

それで彼らはどうしたでしょうか。8-15節までをご覧ください。

「そこで、彼らは「イスラエルの部族のうちで、どの部族がミツパに、主のもとに上って来なかったのか」と言った。見ると、ヤベシュ・ギルアデから陣営に来て、集団に加わっている者は一人もいなかった。民が点呼したところ、ヤベシュ・ギルアデの住民が一人もそこにいなかった。会衆は、一万二千人の勇士をそこに送って命じた。「行って、ヤベシュ・ギルアデの住民を剣の刃で討て。女も子どもも。これは、あなたがたが行うべきことである。すべての男、そして男と寝たことのある女は、すべて聖絶しなければならない。」こうして、彼らはヤベシュ・ギルアデの住民の中から、男と寝たことがなく、男を知らない若い処女四百人を見つけ出した。彼らは、この女たちをカナンの地にあるシロの陣営に連れて来た。そこで全会衆は、リンモンの岩にいるベニヤミン族に人を遣わして、彼らに和解を呼びかけた。そのとき、ベニヤミンが戻って来たので、ヤベシュ・ギルアデの女のうちから生かしておいた女たちを彼らに与えたが、彼らには足りなかった。民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。」

 

そこで、イスラエルの子らは、イスラエルの全部族のうち、だれが、集団の一員として主のもとに上って来なかったのかを尋ねます。というのは、彼らは、もう一つの誓いを立てていたからです。それは、ミツパの主のもとに上って来なかったものについて、その者は必ず殺されなければならないというものでした。それで彼らは、ベニヤミンの残りの者たちに妻を迎えるために、その部族の者たちの中から妻として彼らに与えようと考えました。

 

すると「ヤベシュ・ギルアデ」(ヨルダン川の東岸の町)の者が参戦していなかっことがわかりました。それで彼らは、1万2千人の勇士をそこに送り、その町の住民を剣の刃で聖絶し、その中から男と寝たことがなく、男を知らない若い処女400人を見つけ出し、シロの陣営に連れて帰り、ベニヤミン族に与えました。しかし、ベニヤミンの残りの者は600人でした。連れて来られた娘たちは400人です。200人足りなかったのです。彼らは、自分たちの過ちを何とか埋めようと考えましたが、そうした人間的な方策で埋められるものではないことに気付きませんでした。

 

Ⅲ.シロの娘たち(16-25)

 

それで、イスラエルはどうしたでしょうか。最後に16節から25節までをご覧ください。

「会衆の長老たちは言った。「あの残った者たちに妻を迎えるには、どうすればよいか。ベニヤミンのうちから女が根絶やしにされたのだ。」また言った。「ベニヤミンの逃れた者たちに、跡継ぎがいなければならない。イスラエルから部族の一つが消し去られてはならない。しかし、自分たちの娘を彼らに妻として与えることはできない。イスラエルの子らは『ベニヤミンに妻を与える者はのろわれる』と誓っているからだ。」そこで、彼らは言った。「そうだ。毎年、シロで主の祭りがある。」──この町はベテルの北にあって、ベテルからシェケムに上る大路の日の昇る方、レボナの南にある──彼らはベニヤミン族に命じた。「行って、ぶどう畑で待ち伏せして、見ていなさい。もしシロの娘たちが輪になって踊りに出て来たら、あなたがたはぶどう畑から出て、シロの娘たちの中から、それぞれ自分のために妻を捕らえ、ベニヤミンの地に行きなさい。もし、女たちの父か兄弟が私たちに苦情を言いに来たら、私たちはこう言います。『私たちゆえに、彼らをあわれんでやってください。戦争のときに、私たちは彼ら一人ひとりに妻を取らせなかったし、あなたがたも娘を彼らに与えませんでした。もし与えていたなら、今ごろ、あなたがたは責めある者とされていたでしょう』と。」ベニヤミン族はそのようにした。彼らは女たちを自分たちの数にしたがって連れて来た。彼女たちは、彼らが略奪した踊り手たちであった。それから彼らは出かけて、自分たちの相続地に帰り、町々を再建して、そこに住んだ。イスラエルの子らは、そのとき、そこからそれぞれ自分の部族と氏族のもとに戻り、そこからそれぞれ自分の相続地に出て行った。そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

 

会衆の長老たちは互いに話し合います。ベニヤミンの残りの者たちに妻を迎えるには、どうすれば良いか。このままでは、ベニヤミン族が、イスラエルから消し去られてしまうことになる。でも、自分たちの娘を彼に与えることはできない。この戦いに上って来なかったヤベシュ・ギルアデから連れて来た若い女たちだけでは足りない。

そこで彼らは、毎年、シロで行われる主の祭りに出てくるシロの娘たちの中から、彼らに妻として与えることにしました。ベニヤミン族の男たちがぶどう畑で待ち伏せして、シロの娘たちが輪になって踊りに出て来たら、彼女たちを襲い、ベニヤミンの地に連れて行くようにと命じたのです。この祭りは、おそらく過越しの祭りでしょう。モーセの姉ミリヤムは、出エジプトの際に踊りましたが、それを覚えて踊っていたものと思われます。このように、彼らは娘たちを略奪して、自らの部族の再建に取りかかったのです。

 

果たしてこれが、この問題の解決にとって最善だったのでしょうか。彼らの性急な誓いが間違っていたことを認めて、罪過のためのいけにえをささげ、神に赦しを乞うことが必要だったのではないでしょう。しかし、彼らは自分たちの誤りを認めて、神の前に悔い改めるよりも、自分たちの手で解決しようと躍起になっていました。すべてが後手に回っています。いったい何が問題だったのでしょうか。

「イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

これがすべての問題の原因です。イスラエルには王がいなかったので、それぞれが自分たちの目に良いと見えることを行っていました。神様の目に良いことではなく、自分たちの目に良いと思われることを行っていたのです。

 

これは何もイスラエルに限ったことではありません。私たちもイエス・キリストを王としていないと、このようなことが起こってきます。そして、すべてが後手に回ってしまうことになります。私たちが求めなければならないのはこうしたことではなく、神の目に正しいことは何かということです。神の目に正しいことは何か、何が良いことで神に受け入れられるのかということです。そのためには、いつも私たちの心にイエス・キリストを王として迎え、この方の御心に従って生きることです。この士師記全体を通して教えられることは、主をおのれの喜びとせよ、ということです。

「主に信頼し善を行え。地に住み誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:3-5)

主をおのれの喜びとすること、主を第一とし、主に従って生きることが、暗黒の中にあっても光の中をまっすぐに生きる秘訣なのです。

現代はまさに暗黒です。だからこそ、自分の思いや考えではなく、主を王として、おのれの喜びとすることが求められているのではないでしょうか。

出エジプト記5章

きょうは出エジプト記5章から学びたいと思います。モーセは、ホレブの山でアロンに会うと、エジプトにいるイスラエル人のところにやって来ました。そして、アロンが、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の前でしるしを行うと、民は信じました。そこで、モーセとアロンは、主に命じられたとおりエジプトの王ファラオのところに行き、イスラエルをエジプトから出て行かせるように言います。

1.もっと不利な状況に(1-9)

まず、1節から9節までをご覧ください。                                                                                                            「その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。」

いよいよモーセとアロンが、ファラオのところに行きます。彼らはファラオのところに行き、「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」と言いました。これはファラオに対する最低限の要求です。荒野で祭りを行えるように行かせてくれなければ、イスラエルをエジプトから去らせることは絶対にしません。神がイスラエルの民を救い出す理由は、礼拝する民を作るためでした。「祭り」とは「礼拝」のことです。「礼拝」は「祭り」でもあります。私たちの礼拝は、祭りとなっているでしょうか。

それに対してパロは何と言ったでしょうか。「主とはいったい何者か」、「私は主を知らない」と言いました。そして、イスラエルを行かせないと言いました。パロは生けるまことの神に対しても恐れを持っていませんでした。自分がどの神よりも偉大で、力があると思っていたのです。だから、「主とは何者か」とか、「なぜ自分がその神の命令に従わないのか」という傲慢な態度を取ったのです。それは、神を信じようしない現代人の姿ではないでしょうか。詩篇10篇4節にはこうあります。「 悪しき者は高慢を顔に表し神を求めません。「神はいない。」これが彼らの思いのすべてです。」神の存在と、その権威を認めない心、これが現代人の姿です。

するとモーセとアロンは言いました。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」

これは不思議な内容です。イスラエルを行かせなければ主がエジプトを打たれるのではなく、イスラエルを打たれるというのですから。それは、イスラエルが打たれれば、ファラオの奴隷であり、財産が失われてしまうという警告でした。

それに対するファラオの反応は、「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」(5)というものでした。ファラオは、イスラエルの民が仕事を止めているという報告を受けていたようです。でも、ファラオは彼らの言うことに全く聞く耳を立てませんでした。むしろ、苦役に戻るようにと命じました。そればかりではありません。6~9節を見ると、ファラオは、イスラエル人の労役を重くしたことがわかります。すなわち、イスラエルの民の監督たちとかしらたちに命じて、れんがを作るための藁を自分で集めに行くようにさせ、その量はこれまでと同じにしたのです。もっと過酷な労働を課したということです。それまではエジプト人が集めた藁を使ってれんがを作っていましたが、その藁も自分で集め、作る量はこれまでと同じというのですから。ファラオは、彼らに重労働を課せば、偽りの言葉に関心を持たなくなるだろうと思ったのでしょう。 

ここには、神の国と神の敵が対決する時に、神の民が苦しむという原則が見られます。主の働きが始まるとき、その働きとは反対の動きが起こるのです。神の働きに対して、敵である悪魔が反対するからです。それは主の勝利が決まるまで続きます。それによって、主の民が苦しむことがあるのです。

このようなことが、私たちクリスチャンにも起こります。私たちは、暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移された(コロサイ1:13)ので、神の敵から苦しめられることがあるのです。自分の問題が解決するのを期待して信仰を持つ人が多くいます。しかし、信じた瞬間に、光と闇との戦いの中に入れられるのでなかなか期待したような状況にならないばかりか、かえって苦しい状況になるため、多くの人たちが失望し、信仰から離れて行きます。クリスチャンの経験するジレンマは、神様の約束は与えられていてもそれが成就しない時に感じるものです。戦いはあります。でも、信じ続けましょう。神の約束は必ず実現するからです。

2.神の民の対応(10-21)

それでイスラエルの民はどのような態度を取ったでしょうか。10節から21節までをご覧ください。「そこで、この民の監督たちとかしらたちは出て行って、民に告げた。「ファラオはこう言われる。『もうおまえたちに藁は与えない。おまえたちはどこへでも行って、見つけられるところから自分で藁を取って来い。労役は少しも減らすことはしない。』」そこで民はエジプト全土に散って、藁の代わりに刈り株を集めた。監督たちは彼らをせき立てた。「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」ファラオの監督たちがこの民の上に立てた、イスラエルの子らのかしらたちは、打ちたたかれてこう言われた。「なぜ、おまえたちは決められた量のれんがを、昨日も今日も、今までどおりに仕上げないのか。」そこで、イスラエルの子らのかしらたちは、ファラオのところに行って、叫んだ。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。彼らは、ファラオのところから出て来たとき、迎えに来ていたモーセとアロンに会った。彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」」

「民を使う監督と人夫がしらたち」とは、エジプト人の監督たちのことです。彼らは出て言き、ファラオが言ったことを、民に伝えました。するとイスラエルの子ら(イスラエルの民のかしらたち)は、ファラオに訴えました。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」彼らは、れんがの生産量が落ちているのは、エジプト人の監督たちの責任であると訴えたのです。

それに対するファラオの回答は、予想外のものでした。17,18節、「ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」それで、イスラエルの子らは気付きました。このような命令を出していたのはエジプト人の監督や人夫がしらたちではなく、ファラオ自身によるものであったことを・・。彼らは、「これは悪いことになった」と思いました。

すると、彼らはどうしたでしょうか。20節と21節をご覧ください。彼らがファラオのところから出て来たとき、彼らを出迎えるために来ていたモーセとアロンにこう言いました。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」つまり、パロがこのような過酷な労働をイスラエル人に強いるのは、モーセとアロンが余計なことを言ってくれたためだと、彼らを責めたのです。モーセとアロンが「解放の約束」を語り始めたばかりに、状況はますます悪くなってしまった。これなら、以前のままの方が良かった、というのです。

ここにイスラエルの民のかしらたちと、モーセやアロンとの考え方に根本的な違いがあったことがわかります。それは、彼らを真に幸福にするものは何であるかという理解の違いです。民のかしらたちは、できるだけ苦しまないことが幸せであると考えていたのに対して、モーセとアロンは、この状態から解放されない限り真の幸福はない、と考えていました。そのことによってイスラエルの民がもっと苛酷な労働が強いられることになりましたが、そのことなしに真の救いはないと考えていたのです。

一般的に人は、今が楽しければよれで良いと考えます。しかし、一時的に苦しむことがあっても根本的な原因を解決しないかぎり、真の救いも幸福もありません。それは、病気の治療と同じです。おできができたとき、いつでも軟膏をはっておくことが最善の治療ではありません。時には痛くても手術をして、悪いうみを出し尽くしてしまわなければなりません。そのような根本的な解決のためには一時的に痛みが伴うことがあります。そして、そのような痛みをもたらす存在を、時として人は恨み、歓迎しない傾向にあるのです。モーセとアロンもそうでした。彼らは根本的な解決を願ってそれを実行に移そうとした瞬間、そうした同胞たちの誤解と、激しい反対に直面したのです。

3.モーセの祈り(22-23)

そこでモーセはどうしたでしょうか。22節と23節です。「それでモーセは主のもとに戻り、そして言った。「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」」

これはどういうことでしょうか。「主のもとに戻り」というのはシナイ山に戻りということではなく、祈りの中において主に戻ったということです。彼は自分の窮状を主に訴えました。このモーセの祈りには、彼の落胆ぶりが見られます。

これは、私たちクリスチャンもよく味わうものです。なぜこのような苦痛を味わうことになるのでしょうか。その理由は、神がどのように働かれるのを人間の側で決めてしまうからです。イスラエル人たちの人夫かしらたちが落ち込んだのは、神を自分の思い通りに動かそうとしたからです。むしろ彼らは、新たな苦難の中で神がどのように働かれるのを待ち望むべきでした。私たちもまた、神を自分の思い通りに動かそうとしていることはないでしょうか。神はご自身の計画に従って働いておられます。私たちはそれを待ち望まなければならないのです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

神のご計画に従って召してくださった私たちのために、神が働いて最善を成してくださると信じましょう。それが私たちの思いと遠く離れたものであっても、神は完全な計画を持っておられますから、すべてを神にゆだねて、その計画が成されることを待ち望みたいと思います。

ヨハネの福音書6章60~71節「あなたがたも離れて行きたいのですか」

ヨハネの福音書6章から学んでおります。きょうは、60節から71節までの箇所から「あなたがたも離れて行きたいのですか」というタイトルでお話しします。ドキッとするタイトルですね。これは

12人の弟子たちに言われたことばです。イエス様から離れて行くということがあるのでしょうか。あるんです。実際にそういうことがありました。ですから、イエス様は12人の弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われたのです。これは何も当時の弟子たちだけのことではありません。初代教会以来いつの時代でも、ずっと起こって来た現象です。いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に御言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.離れて行った弟子たち(60-63)

 

まず60節から65節までをご覧ください。

「これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」

 

「これを聞いて」とは、主イエスがその前で語られたことを聞いて、ということです。主は、どんなことを語られたのでしょうか。53節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」もちろんイエス様は比喩的に語られたわけですが、このことばを聞いた時、弟子たちのうちの多くの者が、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろう。」と言って、イエス様の許を去って行きました。このように言ったのは一般の群衆たちではありません。「弟子たち」と呼ばれていた人々です。この「弟子たち」とは、イエス様の12弟子のことではありません。イエス様には、12弟子の外側に「70人の弟子たち」と呼ばれる人たちがいました。また、さらにその外側に、さらに多くのイエス様に付き従う人たちがいました。そういう人たちもキリストの弟子と呼ばれていたのです。この時イエス様のもとを去って行ったのは、12弟子以外の者たちです。彼らはイエス様が語られたことを理解することができませんでした。

 

それは何もこれらの弟子たちだけのことではありません。今日でも、イエス様が語られたことばを理解することができず、イエス様から離れ去ってしまう人がいます。耳障りのよい話をしている間は、喜んで聞いていても、一旦、罪とか、裁きとかについて話し始めると、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と言って、離れ去ってしまいます。一般的に当たり障りのない話をしているうちはいいですが、あなたは罪人ですとか、そのあなたの罪のためにキリストは十字架にかかって死んでくださいましたと言うと、そっぽを向いてしまうのです。多くの人は楽しいことを求めます。それ自体は何も問題ではありませんが、私たちが本当に幸福になるためには、ただ楽しいだけでなく、自分の罪を認め、その罪を悔い改めて、神の赦しをいただかなければなりません。それを嫌がるのです。あなたはどうでしょうか。

 

それに対して、イエス様はこう言われました。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。」

「わたしの話」とは、この前のところでイエス様が語られた話のことです。イエス様は、ご自分の肉を食べ、血を飲まなければ、いのちはないと言われました。その話が彼らをつまずかせるというのであれば、キリストが十字架で死なれた後、三日目によみがえり、天に昇って行かれるのを見たなら、いったいどうなるというのでしょう。もっとつまずくことになるのではないでしょうか。

 

なぜなら、いのちを与えるのは御霊だからです。肉は何の益ももたらしません。イエス様が彼らに話されたのは霊であり、またいのちです。これは霊的なことなのです。いくら人の肉を食べ、血を飲んだからと言っても、そんなものは人にいのちを与えることはできません。人にいのちを与えるのは、神の御霊です。ですから、イエス様が肉を食べるとか、血を飲むと言われたのは、比喩的な言い方で、霊的なことを表していましたが、彼らはそのことが理解できませんでした。

 

私たちもそのようなことがあるのではないでしょうか。イエス様が語られたことを理解できず、つまずいてしまうということ・・・が。イエス様が霊的なことを語っておられるのにそれを間違って理解して、そんな話など聞いていられないと、イエス様が語られた言葉を受け入れられないということがあるのではないでしょうか。

 

Ⅱ.信じない者たち(64-65)

 

次に、64節と65節をご覧ください。

「けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」」

 

「けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」これはどういうことかというと、確かに彼らは主のもとに来て、主の弟子であると自称していますが、本当は、イエスをメシヤとして信じていないということです。主を本当に信じていないので、主が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、いのちはありません」と言われた言葉につまずいたのです。つまり、彼らがつぶやいた本当の理由は、彼らに信仰がなかったからです。表面上は信じているようでも、実際はそうではなかったのです。

 

ドキッとしますね。信じているようで、実際はそうではないということがあるというのは。自分が本当に信じているかどうかをどうやって知ることができるでしょうか。みんなイエス様を信じたので洗礼を受けたんじゃないのですか?確かに、イエス様を信じたので洗礼を受けました。しかし、どのように信じたのかが問題です。イエス様がただ私たちのすばらしい模範者であるとか、その教えに感動して信じたということがあります。しかし、それは救いに至る信仰ではありません。私たちが救われて神の御霊によって新しく生まれるためには、私たちの罪のためにイエス様が十字架の上で死んでくださり、私たちの罪を贖ってくださったと信じなければなりません。そうでないと、永遠のいのちは与えられないのです。それが新しく生まれるということです。その時、神のいのち、聖霊が私たちの心に住まわれ、支配するようになります。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きるのです。私がどう思うかは関係ありません。キリストが何を言っておられるか、その御心は何かということです。イエス・キリストを救い主として信じて新しく生まれ変わった人はキリストがその心を支配するようになるので、キリストの言葉をもっと知りたいと思うようになるはずです。また、心から従いたいと思うようになります。それが、キリストの十字架の贖いを信じ、罪赦された人に見られる特徴です。私たちが救われているかどうかは、私たちがバプテスマ(洗礼)を受けているかとか、どれだけ教会に来ているかといったことと関係ないのです。この十字架のイエス・キリストを信じなければなりません。そうでないと、いのちはありません。

 

彼らはイエス様を信じていると思っていましたが、本当の意味で信じていませんでした。だから、イエス様の話を聞いたときつぶやいたのです。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と。それは、イエス様の話に問題があったからではなく、彼らが理解できなかったからです。もっと言うなら、彼らが本当の意味で救われていなかったからです。それを求めようともしませんでした。理解できなければ、「主よ、それはどういう意味ですか。あなたは真理のことばを持っておられます。私は何とか理解したいと願っていますので、どうか悟らせてください。あなたの真理を教えてください。」と祈ることができたはずです。それなのに、「だれがこんな話を聞いていられるか」と言うのは、初めから信仰がなかったからです。それが根本的な原因なのです。

 

しかも、その後を見ると、「信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。」とあります。どういうことでしょうか。これは、主が、すべての人の心の思いを知っておられたということです。つまり、イエス様が神であられるということを示しいます。イエス様は、私たちのように、群衆や見せかけの人気に惑わされることは決してありませんでした。「初めから」というのは、恐らく、「主の公生涯の初めから」という意味でしょう。つまり、多くの不信仰な人々が、自分は主の弟子であると最初に言った時からということです。もちろん、イエス様は神として、世の初めからすべてのことを知っておられました。しかし、ここでは必ずしもそういう意味で言われたのではないと思います。

 

それにしても、イエス様は多くの人々が信じないし、信じようともしていなかったのに、すべての人を例外なく愛し、忍耐をもって神の国の福音を教えられたということには教えられます。もしこの人は信じないということを最初から知っていたのなら、「どうせ話しても無駄だから」とか、「もっと必要としている人のために時間を使おう」と考えてもおかしくないのに、そうでない人のためにも、同じように仕えられたのですから、本当に忍耐と謙遜がありました。私もそういう牧師になりたいと願わされます。

 

そして、もっとすごいのは、その次にあることです。ここには何と「ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである」とあります。これは、イスカリオテのユダのことを指しています。イエス様は、彼が裏切ろうとしていることを知っていながら、ご自分の近くにいることを許しておられたのです。いや、ご自分の近くにいるどころか、ご自分の弟子たちの中でもその中核を成していた12弟子であることを許しておられました。これは、考えられないことです。自分の最も近くにいる人たちは、自分の心を許している人たちです。だからこそ、本当に信用できない人を置くことはしないはずです。それなのに主は、その人を最初から知っていながらも、自分の最も近くにいることを許されたのです。

 

このことから私たちにどんなことが言えるでしょうか。もしイエス様が、ユダがご自分の近くにいることを許されたのではあれば、私たちは私たちの家族や兄弟姉妹たちに対して、どれほど忍耐と寛容を示さなければならないかということです。私たちは、「もうここまで!」と自分で限界を定めてしまうことがよくあります。しかし、主がそのことでどれほどの苦しみと悲しみに耐えられたのかを思う時、私たちに耐えられないことはありません。「堪忍袋の緒が切れそうになる」という言葉がありますが、主の苦しみを思う時、私たちはまだまだ耐え抜かなければならないことを教えられるのではないでしょうか。

 

65節をご覧ください。「そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」」

これは、44節のところでイエス様が言われたことの繰り返しです。これは、この前の節でイエス様が言われた言葉の結びでもあります。「あなたがたの中には信じない人がいます。ですから、わたしはあなたがたに言ったのです。「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と」。すなわち、彼らが信じないのは、父なる神が彼らに恵みをお与えになっていないからです。彼らを御許に引き寄せておられないからなのです。

 

ここでもう一度、私たちが信仰を持つことができるのは、天の父なる神様が引き寄せてくださったからであることがわかります。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選びあなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15:16)とあるとおりです。

ここに、私たちの信仰と救いの確かさがあります。私たちは自分で好きで信じたかのように思っているかもしれませんが、実はそうではなく、神が私たちを救いに選んでくださったのです。自分で好きで信じたのであれば、嫌になったら止めることもできるわけで、私たちに感情がある以上、そうした不安はいつもつきまといます。けれども、そうした中にあってどんなことがあっても、この方に信頼することができるのは私たちの中にそれだけの確信があるからではなく、神がそのように選んでくださったからです。神様はその確かさを次のように言って、私たちに約束しておられます。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません」(ヨハネ10:28-29)

なんと力強い約束でしょう。私たちは永遠に、決して滅びることはありません。私たちは神に愛されている者であり、神の御手の中にあるからです。だれも私たちを、父なる神の手から奪い去ることはできないのです。

 

今日でも十字架の言葉は、人々から歓迎されません。この歴史上最も偉大な人であったキリストの生き方を学び隣人愛を実践しなさいとか、この世の貧しい者たち、小さな者たちを大切にするようにといった教えは、何の抵抗もなく受け入れられるでしょう。でも、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったキリストを受け入れることはなかなかできません。この霊的真理を悟るためには、だれでも神の御霊に従順でなければなりません。霊的真理に目が開かれるように、御霊の神に助けを求めなければならないのです。そうすれば、父なる神は私たちをキリストのもとへて導いてくださいます。

 

Ⅲ.ペテロの信仰告白(66-71)

 

これに対して、12弟子たちはどのように応答したでしょうか。第三に、66節から71までをご覧ください。

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。」

 

試練により、あるいは誘惑によって、教会から離れて行く人がどんなに多いことでしょうか。非常に残念なことです。しかし、試練や誘惑が必ずしも人を神から遠ざけるわけではありません。むしろ、そのような時こそ、本物の信仰があるかどうかが試される時でもあります。12弟子の中の

11人の弟子たちにとっては、この危機が、信仰と献身を再確認する時となりました。「あなたがたも離れて行きたいのですか」という主の言葉に対して、ペテロは、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」と答えました。

 

彼はまず、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか」と答えています。皆さん、私たちはイエス様以外に、だれのところに行けるでしょう。この方以外にだれを信頼することができるでしょうか。この方によって罪から救い出されたということが本当に分かったのなら、この方から離れて行くことなど決してできません。私たちを罪から救うことのできる方が、他にいるでしょうか。私たちの罪を背負ってその罪の刑罰を代わりに受け、罪を贖ってくれる方は他にはいません。キリストの十字架の意味が分かったなら、あっちに行ったり、こっちに行ったりしてふらついたり、信仰が分からなくなったと離れていくことなどできないのです。確かに、そこには試練と迫害が伴うでしょう。しかし、もしキリストを捨てるとしたら、私たちはいったいだれのところに行けると言うのでしょうか。不信仰になればいいんですか。日本の昔からの伝統的な宗教を信じればいいのでしょうか。それとも、そうした宗教的なことは一切捨て、この世的なことを求めればいいのでしょうか。そうしたものが何かよりよいものを与えてくれるのでしょうか。いいえ、これらのものは決して与えることはできません。私たちに本当のいのちを与えくれるのは、私たちのために十字架にかかって死なれたイエス・キリストだけなのです。

 

次に、ペテロは、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」と言いました。つまり、キリストこそ、私たちに永遠のいのちを与える御言葉を持っておられるということです。イエス様は言われました。「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ6:35)イエス様がいのちのパンです。いのちのパンであられるイエス様は、信じる者にいのちを与え、霊的満足を与えてくださいます。私たちを生かすいのちを与えるお方はイエス様以外にはいないのです。

 

そして、ペテロは最後にこのように言いました。「私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」

「神の聖者」とは、「神の御子」という意味です。ですからここは、「あなたは生ける神の御子キリストであると信じています」と訳しても良かったのです。英語ではそのように訳しています。

“Also we have come to believe and know that You are the Christ, the Son of the living God.”(NKJV)

これは、マタイの福音書16章16節で、ペテロが告白した内容と全く同じです。この時がどういう時であったのか、また、ユダヤ教の指導者たちのほとんどすべてに見られる不信仰を考えると、本当にすばらしい信仰告白であったと言えます。

 

ペテロはそのように信じていました。また、知っていました。普通はそのように知っているので、信じるのですが、ここでは逆です。信じているので、知っています。これが信仰です。信仰は知った上で信じるのではなく、信じることが先で、そうすると分かるようになります。頭で理解してから信じるというのであれば、理解できることしか信じられないでしょう。もちろん、ある程度キリストについて知る必要はあります。何も知らないで信じるというのであれば、それは鰯の頭も信心からで、妄想の類です。しかし、この方が信頼できると分かったら信じることです。そうすれば、この方がどういう方であるのかが分かるようになります。よく「まだこの聖書を全部読んでいないので信じられません。」という方がおられます。しかし、聖書を全部を読んだから信じられるというものではありません。読むことは大切なことですが、読んだから分かるというものでもないのです。でも、信じれば分かるようになります。ですから、ペテロのように、この方が私の罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださったことで私の罪が贖われたということを知ったのなら、それが神の救いであると信じて受け入れることです。そうすれば、分かるようになります。

 

イエス様は最後のところで弟子たちにこう言われました。70節、71節です。「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。」

イエス様はなぜわざわざこんなことを言われたのでしょうか。それは、彼らに自分を吟味してほしかったからです。信仰の自己吟味です。こんなことを言われたら、それ以後の12弟子のたちのグループは疑心暗鬼になって、お互いへの不信感が募らせても不思議ではありませんが、そうならなかったところに、主の弟子たち一人一人に対する愛と配慮があったことが分かります。また、もしもよくない思いを抱くような者があっても、悔い改めるようにと促す主の愛の訴えであったことが分かります。

 

それは、私たちに対する主の訴えでもあります。「あなたがたも離れて行きたいのですか。」私たちは別にバックスライドしたくてするわけではありませんが、時として困難や試練があるとイエス様から離れてしまうことがないわけではありません。そんな時に私たちが覚えておかなければならないことは、あの人がどう言っているか、この人がどういっているかではなく、ペテロのように、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白することです。あなたを愛し、あなたの罪の身代わりのために十字架で死んでくださったお方は、神の御子イエス・キリストだけです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

私たちはこの方から離れないで、いつまでもつながり、いのちを得る者とさせていただきましょう。

士師記20章

士師記20章からを学びます。まず1節から16章までをご覧ください。

 

Ⅰ.ミツパでの会合(1-16)

 

「そこで、イスラエルの子らはみな出て来た。ダンからベエル・シェバ、およびギルアデの地に及ぶその会衆は、一斉にミツパの主のもとに集まった。民全体、イスラエルの全部族のかしらたちが、神の民の集会に参加した。剣を使う歩兵も四十万人いた。ベニヤミン族は、イスラエルの子らがミツパに上って来たことを聞いた。イスラエルの子らは、「このような悪いことがどうして起こったのか、話してください」と言った。殺された女の夫であるレビ人は答えた。「私は側女と一緒に、ベニヤミンに属するギブアに行き、一夜を明かそうとしました。すると、ギブアの者たちが私を襲い、夜中に私のいる家を取り囲み、私を殺そうと図りましたが、彼らは私の側女に暴行を加えました。それで彼女は死にました。そこで私は側女をつかみ、彼女を切り分け、それをイスラエルの全相続地に送りました。これは、彼らがイスラエルの中で淫らな恥辱となることを行ったからです。さあ、あなたがたすべてのイスラエルの子らよ。今ここで、意見を述べて、相談してください。」そこで、民はみな一斉に立ち上がって言った。「私たちは、だれも自分の天幕に帰らない。だれも自分の家に戻らない。今、私たちがギブアに対してしようとすることはこうだ。くじを引いて、向かって行こう。 私たちは、イスラエルの全部族について、百人につき十人、千人につき百人、一万人につき千人を選んで、兵たちのための食糧を持たせよう。そしてベニヤミンのギブアに行かせ、ベニヤミンがイスラエルで犯したこのすべての恥ずべき行いに対して、報復させよう。」こうして、イスラエルの人々はみな団結し、一斉にその町に集まった。 イスラエルの人々は、ベニヤミンを除き、剣を使う者四十万人を召集した。彼らはみな戦士であった。」

 

「そこで」とは、19章で起こった出来事を受けてのことです。イスラエルに、これまで見たことも、聞いたこともないような事件が起こりました。ベニヤミン族のギブアの人たちが、そこに泊まったレビ人のそばめを犯し、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を解放したのです。それでそばめは死んでしまいました。そのレビ人は自分の家に着くと、死んだそばめの体を12の部分に分け、それをイスラエル全土に送りました。それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ。」と言いました。「それで」です。

 

それで、イスラエルの子らはみな、一斉にミツパの主のもとに集まり、問題解決のために話し合いました。「ミツパ」は、ベニヤミン族の領地のエフライムとの北境にある町です。そこにイスラエルの全部族から、剣を使う兵士40万人が集まったのです。

イスラエルの子らが、そばめを殺されたレビ人に、「どうしてこのような悪ことが起こったのか」と聞くと、そばめを殺されたレビ人は、ギブアに滞在した日の夜に起こった出来事について説明しました。そして、「さあ、あなたがたすべてのイスラエルの子らよ。今ここで、意見を述べて、相談してください。」と言いました。非は確かにギブアの住民にありました。しかし、この会話をよく見ると、彼は自分のそばめを外に放り出したことについてはいっさい触れていません。自分に都合の悪いことは伏せておきたいというのが人間の本性なのでしょう。

 

それに対してイスラエルの民はみな一斉に立ちあがり、一致団結してギブアに立ち向かい、彼らを報復させることを決定しました。彼らは、ベニヤミン族に対して、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡すように要請します。イスラエルは、悪い行いをした者だけ除き去ろうとしたのです。しかし、ベニヤミン族は、自分たちの同胞イスラエルの子らの言うことを聞こうとしませんでした。それどころか、イスラエルの子らと戦おうとして町々から出てきたのです。その数は剣を使う者26,000人と、そのほかに、ギブアの住民から700人の精鋭が招集されました。ここにイスラエル40万人と、ベニヤミン族26,700人との戦いが勃発したのです。

 

これは予想外の展開でした。イスラエルとしては戦いを避けるためにギブアにいるあのよこしまな者たちを渡すようにと要請しましたが、まさかベニヤミン族との戦いに発展するとは思っていなかったのです。これは最悪の事態でした。この事態を避ける道はなかったのでしょうか。もしイスラエル人たちがもう少し時間をかけて話し合ったなら、別な展開になっていたかもしれません。けれども、イスラエルの人たちは、明らかに相手が悪いという思いがありました。ですから、ギブアに向かって立ち向かい、報復させようという思いがあったのです。自分を義として性急にことを運ぶのは危険です。伝道者の書7章16節にはこうあります。

「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」

私たちも自分には何の非もなく悪いのは相手であると思うと、このような態度になりがちです。そうではなく、自分も罪赦された罪人であることを自覚して、同じ目線で話し合いに臨む必要があります。

 

Ⅱ.主の戦い(18-35)

 

次に、18節から35節までをご覧ください。

「イスラエルの子らは立ち上がって、ベテルに上り、神に伺った。「私たちのうち、だれが最初に上って行って、ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」主は言われた。「ユダが最初だ。」朝になると、イスラエルの子らは立ち上がり、ギブアに対して陣を敷いた。イスラエルの人々はベニヤミンとの戦いに出て行き、彼らと戦うためにギブアに対して陣備えをした。ベニヤミン族はギブアから出て来て、その日、イスラエルのうち二万二千人を滅ぼした。しかし、イスラエルの人々の軍勢は奮い立って、最初の日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをした。イスラエルの子らは上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺った。「再び、同胞ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。」そこで、イスラエルの子らは次の日、ベニヤミン族に向かって行ったが、ベニヤミンも次の日、ギブアから出て来て彼らを迎え撃ち、再びイスラエルの子らのうち一万八千人をその場で殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。イスラエルの子らはみな、こぞってベテルに上って行って泣き、そこで主の前に座り、その日は夕方まで断食をし、全焼のささげ物と交わりのいけにえを主の前に献げた。イスラエルの子らは主に伺った──当時、神の契約の箱はそこにあり、また当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた──イスラエルの子らは言った。「私はまた出て行って、私の同胞ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたがたの手に渡す。」そこで、イスラエルはギブアの周りに伏兵を置いた。三日目にイスラエルの子らは、ベニヤミン族のところに攻め上り、先のようにギブアに対して陣備えをした。ベニヤミン族は、この兵たちを迎え撃つために出て、町からおびき出された。彼らは、一方はベテルに、もう一方はギブアに至る大路で、この前のようにこの兵たちを討ち始め、イスラエルのうちの約三十人が野で剣に倒れた。ベニヤミン族は「彼らは最初の時と同じように、われわれの前に打ち負かされる」と考えた。しかし、イスラエルの子らは「さあ、逃げよう。そして彼らを町から大路におびき出そう」と言った。イスラエルの人々はみな、持ち場から立ち上がって、バアル・タマルで陣備えをした。一方、イスラエルの伏兵たちは、自分たちの持ち場、マアレ・ゲバから躍り出た。こうして、全イスラエルの精鋭一万人がギブアに向かって進んだ。戦いは激しかった。ベニヤミン族は、わざわいが自分たちに迫っているのに気づかなかった。主がイスラエルの前でベニヤミンを打たれたので、イスラエルの子らは、その日、ベニヤミンの二万五千百人を殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。」

 

するとイスラエルの子らは立ちあがって、ベテルに上って行き、そこで神に伺いました。「私たちのうち、だれが最初に上って行って、ベニヤミンと戦うべきでしょうか。」すると主は言われました。「ユダが最初だ。」ユダ族にはかつてカレブという勇者がいました。また、最初の士師として立てられたオテニエルもそうです。このユダ族の出身でした。ですから、信仰の勇士であったユダ族こそ最初に上っていく部族としてふさわしかったのでしょう。しかし、最初の日、イスラエルのうち22,000人が戦死してしまいました。

 

翌日、イスラエルの軍勢は奮い立って、最初の日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをします。彼らは上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺いを立てて言いました。「再び、同族ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。」彼らは同胞を相手に戦わなければならないことに不安を感じていたのでしょう。できれば避けて通りたいところです。けれども、主の答えは、「攻め上れ。」でした。そこで彼らは次の日、ベニヤミン族に向かって行きましたが、ベニヤミン族もギブアから出て来て彼らを迎え撃ったので、再びイスラエルの子らのうちに18,000人の犠牲者が出ました。これらはみな、剣を使う戦士たちでした。

 

そこでイスラエルの民はどうしたでしょうか。彼らはみな、こぞってベテルに上って行って泣き、そこで主の前に座って、夕方まで断食をし、全焼のいけにえと交わりのいけにえを主の前に献げました。今度はミツパではなく、場所がベテルに移っています。ベテルはミツパの北東約5㎞のベニヤミンの領地にある町です。ここは、かつてヤコブがエサウから逃れて叔父のラバンの所に行く途中石を枕にして一夜を過ごしたところです。どうしてベテルに上って行ったのかというと、神の契約の箱がそこにあったからです。シロから移っていたのでしょう。また当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていました。ここに神の幕屋があったということです。ですから、彼らは主のもとに行って礼拝をささげ、断食して祈りながら、主のみこころを求めたのです。泣きながら。

 

このような祈りを、主はないがしろにされることはありません。ユダの王ヒゼキヤは、病気にかかって死にかけていたとき、「あなたは死ぬ。直らない。」(イザヤ38:1)と死の宣告を受けましたが、彼は主のもとに行き泣きながら祈ると、その祈りが聞かれ、彼の寿命に15年が加えられました。さらに、ユダをアッシリヤの手から救い出し、エルサレムの町を守るという約束まで与えられました。私たちも困難な時に主の前に行き、心を注ぎ出して祈るなら、主はその祈りに答えてくださいます。

 

最近、このイザヤ書のメッセージを見た方からメールがありました。

「ディボーションがイザヤ書で難しかったのでネットで検索したところ、こちらのページのメッセージを読みました。凄い恵まれました。ヒゼキヤの祈りです。壁に当たった時に神のあわれみで救われた時のことを思い出しました。好きになった女性は、既に他の人と結婚が決まっていました。ただただ毎日、誰もいない教会で神と自分とひたすら向き合いました。自分の思いを神の御前に正直に打ち明けました。何日か経ったクリスマスの日に、彼女と偶然出会わせ、彼女に自分の思いを伝えました。今では、子どもも3人産まれ、毎週家族5人で日曜日に教会へ通っております。今の妻が当時の彼女です。」

 

この方は、人生の壁にぶつかった時、神のあわれみを求めて祈った結果、神の奇跡的な御業を体験したのです。このイスラエルの民も一度ならず二度までも戦いに敗れ、神の導きがどこにあるのかわからなかったとき、主の前に出て、心を注いで祈りました。「私はまた出て行って、私の同胞ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。」

すると、主はこう言われました。「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたがたの手に渡す。」それで、イスラエルはギブアの周りに伏兵を置きました。

三日目のことです。イスラエルの子らは、ベニヤミン族のところに攻め上り、先のようにギブアに対して陣備えをしました。今度は、敵をおびき出す作戦を取り、ついにベニヤミン族の兵士25,000人が剣に倒れました。

 

35節には、「主がイスラエルの前でベニヤミンを打たれたので、イスラエルの子らは、その日、ベニヤミンの二万五千百人を殺した。」とあります。これは、主の戦いでした。主がベニヤミンをさばくための戦いであったということです。神の民であっても、自分の罪を悔い改めなければ、このベニヤミン族のように滅ぼされてしまうことになります。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)なぜなら、その罪に対する神の怒りは、御子イエスの上に向けられたからです。大切なのは、私たちがどこまでも頑なになるのではなく、主の御声を聞いて悔い改めることです。へブル4章7節に、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」とあるとおりです。まだ安息は残されています。その安息に入るために、今日、もし御声を聞くなら、心を頑なにせず、従順になって、主に聞き従う者になろうではありませんか。

 

Ⅲ.救われるため(36-48)

 

最後に、36節から48節を見て終わります。

「ベニヤミン族は、自分たちが打ち負かされたのを見た。イスラエルの人々はベニヤミンに陣地を明け渡した。それは、ギブアに向けて備えていた伏兵を信頼したからであった。伏兵は急いでギブアを襲った。伏兵はその勢いに乗って、町中を剣の刃で討った。イスラエルの人々と伏兵の間には合図が決められていて、町からのろしが上がったら、イスラエルの人々が引き返して戦うことになっていた。ベニヤミンが攻撃を始めて、剣に倒れる者が約三十人、イスラエルの人々の中に出たとき、彼らは「きっと前の戦いの時と同じように、彼らはわれわれに打ち負かされるに違いない」と考えた。のろしが煙の柱となって町から上り始めた。ベニヤミンがうしろを振り向くと、見よ、町全体が煙となって天に上っていた。そこへイスラエルの人々が引き返して来たので、ベニヤミンの人々はわざわいが自分たちに迫っているのを見て、うろたえた。彼らはイスラエルの人々の前から逃れて荒野の方へ向かったが、戦いは彼らに追い迫り、町々から出て来た者も合流して彼らを殺した。イスラエルの人々はベニヤミンを包囲して追いつめ、メヌハから、東の方の、ギブアの向こう側まで踏みにじった。こうして、ベニヤミンの一万八千人が倒れた。これらはみな、力ある者たちであった。またほかの者は荒野の方に向かってリンモンの岩まで逃げたが、イスラエルの人々は、大路でそのうちの五千人を討ち取り、なお残りをギデオムまで追いかけて、二千人を打ち倒した。 その日、ベニヤミンの中で倒れた者は剣を使う者たち合わせて二万五千人で、彼らはみな、力ある者たちであった。しかし、六百人の者は荒野の方に向かってリンモンの岩に逃げ、四か月の間、リンモンの岩にとどまった。イスラエルの人々は、ベニヤミン族のところへ引き返し、無傷のままだった町も家畜も、見つかったものをすべて剣の刃で討ち、また見つかったすべての町に火を放った。」

 

ベニヤミン族は、自分たちが打ち負かされたのを見ました。ギブアの町にイスラエル軍の伏兵が入って、そこにいる者を打ちまくり、のろしを上げたのです。ベニヤミン族はイスラエルの人々の前から逃れて荒野の方へ向かいましたが、戦いは彼らに追い迫り、町々から出て来た者も合流して彼らを殺しました。こうして、ベニヤミンの18,000人が倒れました。これらはみな、力ある者たちでした。またほかの者は荒野の方に向かってリンモンの岩まで逃げましたが、イスラエルの人々は、大路でそのうちの5,000人を討ち取り、なお残りをギデオンまで追いかけて、二千人を打ち倒しました。結局、その日、ベニヤミンの中で倒れた者は剣を使う者たち合わせて25,000人で、彼らはみな、力ある者たちでした。しかし、600人の者は荒野の方に向かってリンモンの岩に逃げ、四か月の間、リンモンの岩にとどまったので、イスラエルの人々は、ベニヤミン族のところへ引き返し、無傷のままだった町も家畜も、見つかったものをすべて剣の刃で討ち、また見つかったすべての町に火を放ちました。

 

これは、ヨシュアがエリコに対して行ったのと同じです。「聖絶」です。かつてはカナン人に対して行われた「聖絶」が、今度は12部族の一つであるベニヤミン族に対して行われたのです。なぜそこまでする必要があったのでしょうか。このように行うことが本当に正しかったのでしょうか。21章15節には、「民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである」とあります。そうです、これは主から出たことでした。たとえ神の民であったとしても、神に背いて罪を犯すなら、このような神のさばきがあることを覚えておかなければなりません。

 

しかし、それは世が神様によって裁かれるのとは大きな違いがあります。パウロは、信者が裁かれることについてこう言っています。「私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。」(Ⅰコリント11:32)」つまり、確かに懲らしめはあるけれども、それは罪に定めるためではなく、むしろ世と共に罪に定められることのないようにするためです。つまり、懲らしめによって罪から離れて救われるためなのです。

 

パウロは、コリントの教会で、父の妻を妻にしている者に対してどうすべきなのかについて次のように述べています。「現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。 それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(Ⅰコリント5:1-5)

パウロは、一般の人々よりひどい不品行を犯していたコリントの人たちをサタンに引き渡しました。問題は、それは何のためであったかということです。ここには、「それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」とあります。その証拠に、コリント人への第二の手紙で、悲しみで押しつぶされそうになっているこの兄弟を、教会が赦し、受け入れるように勧めています(Ⅱコリント2:3-11)。これが、兄弟が罪を犯した時に教会が取るべき態度です。確かにそれは悲しいことですが、教会が考えなければならないことはその人をさばくことではなく、どうしたら救われるのかということです。そのためには時には懲らしめも必要となりますが、それは、それによって彼の霊が主の日に救われるためであるということを十分理解して行わなければなりません。

 

いずれにせよ、こうした問題が神の民の中に起こるのは悲しいことです。いったいどこに問題があったのでしょうか。この士師記の最後の所にはこうあります。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」これが問題です。イスラエルに王がいないということです。だから、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていました。これが問題です。私たちはこのようなことがないように、まず主イエス様を私たちの心にお迎えし、この方を王としなければなりません。そして、自分の目に正しいことではなく、主の目に正しいことを求めなければなりません。いつも主のみこころにかなった歩みができるように、日々、主ご自身を求めましょう。

ヨハネの福音書6章41~59節「まことの食べ物、まことの飲み物」

きょうは、ヨハネの福音書6章41~59節までの箇所から「まことの食べ物、まことの飲み物」というタイトルでお話しします。

ヨハネは6章前半のところで、イエス様が5つのパンと2匹の魚をもって男だけで五千人の人々の空腹を満たされた奇跡を記しました。その後、長いスペースを割いて群衆や弟子たちに対してイエス様が語られた言葉を記録しています。前回は40節までのところでしたが、そこにはガリラヤ湖のほとりで群衆に対して語られた教えが記録されてありました。そして、きょうのところは、会堂でユダヤ人たちに対して語られた説教です。59節に「これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」とあります。この中でイエス様は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」(53)と言われました。これはいったいどういう意味でしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.引き寄せてくださる神の恵み(41-46)

 

まず41節から46節までをご覧ください。

「ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。」

 

ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしは天から下って来たパンです」と言われたのを聞くと、イエス様について小声で文句を言い始めました。なぜ彼らは文句を言ったのでしょうか。42節には、「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」とあります。つまり、彼らがつぶやいたのは、イエス様をヨセフとマリヤの息子だと考えていたからです。彼らが知っていたのは、イエス様の家柄や職業、あるいは社会的地位といった外見的なものでした。彼らはそうした偏見にとらわれていて、その本質を見ることができなかったのです。そして、神の御子に対して文句を言っていたのです。

 

主はそんな彼らにこう言われました。43節です。「自分たちの間で、小声で文句を言うのはやめなさい。」「文句」や「つぶやき」は、神に喜ばれるものではありません。このような「つぶやき」こそ、大きな罪を育てる種のようなものです。神への反抗は、こうしたつぶやきから始まるのです。つぶやきの種を植え付けておくと、どんな人でも神から離れていってしまうことになります。皆さんはどうでしょうか。文句やつぶやきといった種は蒔かれていないでしょうか。もし蒔かれているなら、聖霊によって取り除いていただくように求めなければなりません。

 

それに続いて主は、さらにこう言われました。44節、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」どういうことでしょうか。この前の節とのつながりがよくわかりません。主はユダヤ人たちに対して、「自分たちの間で、小声で文句を言うのはやめなさい」と言われました。その後で、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」と言われたのです。文と文が繫がっていないように感じます。

 

J・C・ライルという註解者が、ヨハネの福音書の注解書を書いていますが、彼はその中でこの節を補うことばとして次のように説明しています。

「あなたがたがお互いの間でつぶやいているのは、わたしが天から下って来たと言ったからです。あなたがたはわたしの外見上の生まれが低いものであることを、わたしを信じないことの理由としています。けれども、問題はわたしの言ったことにあるのではなく、あなたがたに恵みが欠けていて、あなたがたが不信仰であることにあるのです。それよりも深くて、重大な真理がありますが、あなたがたはそれについて全くわかっていないようです。それは、人がわたしを信じるようになるためには、神の恵みが必要である、ということです。あなたがたが自分自身の堕落を認めて、あなたがたの魂をわたしへ引き寄せてくださる恵みを求めるようにならない限り、決して信じることはありません。誰でも、わたしを信じるようになるためには、議論や推論以上のものが必要であるということを、わたしは知っているのです。あなたがたの不信仰やつぶやきに驚いたり、失望したりはしません。あなたがた、あるいは他の誰かが、わたしの父に引き寄せられることがなくても信じることがあるとは、思ってもいません。」

このように補うことばがあるとわかりやすいですね。おそらく、そうだと思います。すなわち、主を信じるということは、彼らが思っているほど簡単なことではないということです。そのためには神の恵みが必要なのです。自分自身の罪を認め、主の御前にへりくだり、罪の赦しを求めなければ赦されることはありません。彼らが文句を言っていたのはそれがなかったからです。イエス様は何とかそのことを悟ってほしいと、もう遅すぎるということがないように、このように彼らに語られたのです。

 

この「引き寄せる」と訳されている言葉ですが、これは「何か重い物を引きずるようにして引っ張ってくる」という意味があります。なかなか信じようとしない人たちを、神様が引きずるようにして引き寄せてくださるというのです。道徳的な忠告や説得だけでは、主のもとに来ることはできません。神様が働いてくださらなければ、神様が働いてその人の心が動かされ、神様の許に来ようという思いが与えられなければ、神の許に来ることはできないのです。

 

パウロは、コリント人への手紙第一12章3節で、「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」と言っています。「イエスは主です」と言うこと、それは要するにイエス・キリストを信じる信仰を公に言い表すことです。そのようにして、私たちはバプテスマ(洗礼)を受け、クリスチャンとなり、教会のメンバーとなります。つまりパウロはここで、私たちがクリスチャンになるのは聖霊の働きによるものであり、聖霊の賜物だと言っているのです。このことは、聖書の教える信仰とはどのようなものかを知るうえでとても大事なことです。信仰は、私たちが自分で獲得するものではないのです。勉強して、あるいは何らかの修行を積んである境地を得ることではないのです。信仰は、与えられるものです。それを与えてくれるのが聖霊なのです。クリスチャンとなるために私たちにできることは、この聖霊の働きを祈り求めることです。神様、私はあなたを信じる者になりたいのです。だから、「聖霊の働きを与えて下さい、聖霊によらなければ誰も語ることができない、「イエスは主です」という告白を私にも与えて下さい」と神様に祈るのです。そのような祈りに、神様は必ず応えて下さいます。聖霊を働かせて、聖霊の賜物である信仰を与えて下さるのです。ですから、バプテスマ(洗礼)を受けたクリスチャンは一人残らず、聖霊の賜物、霊的な賜物をいただいていると言えるのです。

 

けれども、このように「引き寄せられないかぎり」と言うとき、それは囚人を牢獄に引いて行ったり、牛を屠殺場に引いて行くように、力づくで引っ張って行くことではありません。つまり、その人の意志に反して引き寄せるということではないのです。神様は、無理矢理信じさせるようなことはなさいません。そうではなく、反抗し続けていた私たちの心に働いてくださり、その心を変え、心から喜んで信じることができるようにしてくださるのです。これは恵みではないでしょうか。そして、主はあなたをそのようにして引き寄せてくださいました。

 

ですから、主は預言者たちの書にある、「彼らはみな、神によって教えられる」という御言葉を引用してこう言われたのです。「父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。」

だれがイエス様のもとに来るのでしょうか。父から聞いて学んだ者です。そういう人はみな、イエスのもとに来ます。これは、一人一人が神様から直接教えられなければならないということです。どんなに説得してもイエス様のもとに来ることはできません。その人がイエス様のもとに来るためには、神様から直接聞かなければならないのです。これが、この世の人々がキリストを信じることができない大きな理由の一つです。神様から聞かないで人の意見ばかりを気にしています。人が書いたもの、人の意見をいくら聞いても、そこには何の解決もありません。それらがキリストの許へ導くことはできないからです。

 

よくテレビで、池上彰さんがニュースを分かりやすく解説している番組があります。ある時、アメリカのケンタッキー州にあるノアの方舟の実物大テーマパーク「アーク・エンカウンター(Ark Encounter)」について解説していました。「キリスト教の人たちは、特に福音派と言われる人たちは、聖書に書いてあることは本当にあったことだと本気で信じているようです。」。すると、パックンが、「そうなんですよね。福音派の人たちはそう信じています。自分もそうでしたが、でも科学的ではないので止めました。」

それが科学的であるか、そうでないかとか、この世の有名な人が何と言っているかではなく、聖書は何と言っているかが重要です。神から聞き、神から学ぶ人は、主のもとに来ることができます。そこに神が働いてくださり、引き寄せてくださるからです。

 

皆さんは、何に聞いていますか。神様から聞いて学んでいるでしょうか。それは聖書を学び、神の御声を聞くということです。そうすれば、あなたも神様のもとに来ることができます。神が引き寄せてくださいますから。そんな神様の特別な恵みを無駄にすることがありませんように。あなたも神の御声を聞き、神のもとに来てください。

 

Ⅱ.わたしはいのちのパンです(47-51)

 

次に、47節から51節までをご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」」

 

ここで主は、40節までのところで語って来た「いのちのパン」について再び語られます。しかし、ここではこれまで語ってきたよりももっとはっきりと、またわかりやすく語っておられます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」

自分の罪を赦していただき、自分の魂を救っていただきたいと願う人は、キリストのもとに来なければなりません。私たちが罪から救われる唯一の条件は、ただ信じるということです。自分が罪人であると信じ、その罪を贖ってくださるためにキリストが身代わりになって十字架で死んでくださったこと、その神の救いの御業を信じて、神の聖霊が私の魂に入ってくださるとように願うだけでいいのです。そうすれば、永遠のいのちを持ちます。信じる者は永遠のいのちを持っています。

新聖歌182番に「ただ信ぜよ」という賛美があります。

「十字架にかかりたる 救い主を見よや こは汝が犯したる 罪のため

ただ信ぜよ ただ信ぜよ 信ずる者は誰も 皆救われん」

すばらしい賛美ですね。何がすばらしいかって、とても単純な点です。ただ信じるだけです。あれをしなければならないとか、これをしなければならないといったことは一切ありません。ただ信じるだけです。私たちが罪から救われるためには、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった主イエスを信じるだけです。信じる者は、永遠のいのちを持つのです。

 

ここで注目していただきたいことは、「信じる者は永遠のいのちを持っています」という言葉です。これは現在形で書かれてあります。いつ持つんですか?今でしょ、というわけです。いつか持つでしょうとか、終わりの日に持つでしょうということではなく、信じたその瞬間に持つのです。永遠のいのちは、今この時、この世界で、持っているのです。

 

多くの人々は、このことを誤解しています。罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのは、死んでからのことだと考えているのです。確かに死んだら天国に行きますが、それはこの地上に生きている時から始まります。この地上に生きている時にイエス様を信じたその瞬間から、永遠のいのちが始まるのです。なぜなら、永遠のいのちとは神様との関係だからです。神様が共にいるという体験です。人類最初の人間アダムとエバは、神の命令に背き罪を犯したことで、神との関係が断絶してしまいました。その結果、人類は神様がいない孤独な一生を自分の力で生きなければならなくなりました。その行く着くところは死です。何の希望も、喜びも、目的もない、一生を生きなければならなかったのです。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。それがイエス・キリストです。私たちがキリストを信じることによって、その関係が回復するようにしてくださったのです。つまり、死んでいた状態が生き返った状態に変えられるのです。それが永遠のいのちです。信じたその瞬間にこのいのちを持つことができるのです。そして、その関係は永遠に終わることがありません。たとえ肉体が滅んでも、この神との関係はずっと続きます。もう罪に定められることはありません。あなたがどんなに自覚していなくても、あなたの名前はいのちの書という書物に書き記されているのです。神との平和を持っています。死も、いのちも、御使いも、その他どんな被造物も、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。

 

主はこう言われました。「わたしはいのちのパンです。」イエス様がそのいのちのパンです。イエス様はこのように宣言されました。それはユダヤ人の先祖たちが昔、荒野で食べたものとは違います。彼らは荒野で40年間マナというコエンドロのようなパンを食べました。その結果、荒野でも生きることができましたが、結局は死んでしまいました。しかし、このパンを食べる者は決して死ぬことがありません。このパンは天から下って来た生けるパンだからです。このパンを食べるなら、永遠に生きるのです。このパンを食べるとは、イエス様を信じるということです。イエス様を信じる者は、永遠に生きるのです。

 

そして、キリストが与えるパンは、世のいのちのための、キリストの肉です。どういうことでしょうか。これは十字架の死を預言した比喩的なことばです。これを理解できない人には、「えっ」と思うような言葉のように聞こえるかもしれません。しかし、これを理解できる人にとっては大きな恵みです。というのは、イエス様は私たちの罪のためにご自分の肉を割かれ、血を流してくださったからです。ここに愛があります。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

 

あなたはこの愛を受け取りましたか。これが、神が私たちのためにしてくださった救いの御業です。神は、そのひとり子を世に遣わし、その方によっていのちを得させてくださいました。神は、私たちの罪のために、宥めのためのささげ物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。本来であれば、罪のために、私たちが受けなければならない神の怒りを、神の御子が代わりに受けてくださったのです。ここに愛があるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。あなたの罪の身代わりとなって十字架にかかり、肉を割かれ、血を流してくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。このパンを食べるなら、あなたも永遠に生きるのです。

 

Ⅲ.人の子の肉を食べ、その血を飲みなさい(52-59)

 

ですから、第三のことは、このパンを食べ、血を飲もうということです。52~59節までをご覧ください。52節をお読みします。

「それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。」

 

イエス様が「わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」と言うと、それを聞いていたユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って、互いに激しい議論を始めました。どういうことなのかわからなかったのです。議論が噛み合いませんでした。彼らは、イエスという人の肉を食べ、血を飲むことだと思ったからです。しかし、旧約聖書の律法には、人の血はおろか、動物の血であっても、血を飲むことは堅く禁じられていました。ですから、それを聞いたユダヤ人たちはびっくりしたのです。それで53節から56節までのところで、イエス様はそのことをもう少し詳しく説明されます。

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」

 

イエス様がここで、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」と言われたのは、明らかに十字架で私たちの罪の贖いとして死なれたキリストを信じなければいのちはないということです。この「食べる」という言葉ですが、これは原語のギリシャ語では「ファゲーテ」(φαγητε)と言う言葉で、1回限りの出来事を表す時制(不定過去形)が使われています。私たちが、私たちのうちにいのちを持つためには、私たちの罪を贖うために十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じなければなりません。信じなければいのちはありません。これがいのちの源であり、救いのベースです。どれだけ教会に来ているかとか、洗礼を受けたかどうかということは全く関係ありません。十字架で死んでくださったキリストを信じて、新しく生まれ変えられたかということです。これがすべてです。もし新しく生まれ変わったという経験のない人がいれば、キリストの肉を食べ、その血を飲んでください。キリストの十字架の死は私のためであったと信じ、この神の聖霊が私の内に入ってくださるように祈っていただきたいと思います。

 

しかし、54、56、57、58節にある「食べる」という言葉は、53節の言葉とは違う言葉が使われています。それは「トゥローゴーン」(τλωγων)というギリシャ語です。これは53節の「ファゲーテ」とは違い、食欲旺盛な動物が餌をバリバリ食べる時に使われる言葉です。つまり、キリストの十字架の贖いを信じて新しく生まれ変わった者が、日々の生活において、キリストの血と肉をバリバリ食べるということです。それは具体的に次の二つのことを意味していると思われます。一つは、キリストの御言葉を積極的に食べることです。そしてもう一つは、主の晩餐に与ることです。聖餐式ですね。聖餐式とは何でしょうか。それは、主の肉を食べ、血を飲むこと、つまり、キリストと一つになることです。マタイの福音書26章26~28節にはこうあります。

「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

これは多くの人のために、罪の赦しのために流されるキリストの血と、割かれたキリストの肉を象徴しています。これを受けなければなりません。ただ聖餐式という儀式を受ければいいというのではなく、それが意味しているもの、つまり、キリストと一つになることを求めなければならないということです。キリストとともに死に、キリストともに生きるということです。今、私が生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった主を信じる信仰によるのです。そのように生きることです。私はキリストと共に死んだのに、まだ私が・・というのではキリストと一つになっていません。私ではなくキリストが、これがキリストと一つになることです。これが聖餐式の意味です。

 

キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むことで、キリストの肉と血が、私たちの一部となるというのはとても神秘的なことです。しかし、その仕組みを知らなくても、私たちはパンを食べことで力を得ることを知っています。同じように、とても神秘的で、頭では理解できませんが、キリストの肉を食べ、血を飲むことによって、キリストのいのちを得ることができるのです。大切なのは理解できるかどうかではなく、理解できなくても、信仰によってキリストのいのちを受け取ることです。

 

熊本の第五高等学校の佐藤定吉工学博士は、クリスチャンだったので、ある時学生たちに信仰の話をしました。すると学生の一人が先生にこう質問しました。

「先生、人生に信仰が必要だということは分かりました。でも、私は理系の学生です。天地万物の創造者だという神様を私に見せてください。実験しないことには、信じてはいかんぞと先生に教えられてきたんですから。」

すると先生は、「よしわかった。じゃ見せてやるが、その前に私も見たいものがある。「君」を見せてくれないか。」

「どういうことですか。先生、ぼくをみせろというのですか。これがぼくですが・・」と学生は人差し指で鼻を指しました。

「それは君の鼻じゃないか。そうじゃなくて、「君」というものを見たいんだ。」

そこで学生は、今度は自分の胸をたたいて、「これです」と言いました。

「それは君の胸じゃないか。私は君というものを見たいんだ。」

するとその学生はこう言いました。

「先生、あるんですけど、見せられないのです。」

すると博士は、うなずいて言いました。

「そうだ、それを霊と言う。霊は、人間の肉眼や肉体では見ることができないが、実在している。神様も同じだよ。神様は霊なんだよ。」

同じですね。イエスの肉を食べ、血を飲む者、すなわち、イエスを信じるなら、それが私たちの血となり、肉となる。それによっていのちを持ちます。イエスの肉を食べ、血を飲まなければ、いのちはありません。

 

あなたはどうですか。キリストのいのちを持っていますか。また、そのいのちに溢れているでしょうか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」と言えるそのようないのちに溢れたクリスチャンとなるためには、まずキリストの肉を食べ、キリストの血を飲まなければなりません。そして、日ごとにキリストの肉を食べ、血を飲み続けなければならないのです。イエス・キリストの肉はまことの食べ物、まことの血の飲み物だからです。

ヨハネの福音書6章22~40節「天から下って来たパン」

ヨハネの福音書から学んでおります。きょうは6章22節から40節までの箇所から、「天から下って来たパン」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい(22-27)

 

まず22節から27節までをご覧ください。

「その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

 

22節の「その翌日」とは、イエス様が5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人の人々の空腹を満たされた奇跡を行った翌日のことです。群衆は、イエス様の動きを観察していました。不思議なのは、弟子たちだけが舟に乗り込んで向こう岸に向かったはずなのに、そこにイエス様の姿がなかったことです。するとそこに、ティベリアから数隻の小舟がやって来たので、これ幸いとばかり、人々はその舟に乗り込み、イエスを探しにカペナウムに向かいました。

そして、湖の反対側でイエス様を見つけると、彼らはイエス様に言いました。「先生。いつここにおいでになったのですか。」

すると、イエス様は彼らに答えられました。26節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」

どういうことでしょうか。イエス様が「まことに、まことにあなたがたに告げます。」と言われる時は、極めて重要なことを語られる時です。イエス様は、人々の質問に対して「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言いました。 彼らはガリラヤ湖を渡ってわざわざイエス様を捜しに来たのは、イエス様がなさった奇跡を見て、イエス様を信じたので来たのではなく、パンを食べて満腹したからです。イエス様がなされた奇跡を見て信じることは本物の信仰とは言えませんが、それでも信仰の入口に導かれたという意味では評価できます。しかし、これらの群衆はまだそこまでにも達していませんでした。彼らがイエス様を捜していたのはイエス様がなさった奇跡を見て信じたからではなく、ただパンを食べて満足したからだったのです。つまり、彼らは救いを求めてイエスのもとに行ったのではなく、ただ自分の欲求が満たされるために行ったのです。何のためにイエスの許に行くのかとはとても重要なことです。私たちは何のために教会に来ているのでしょうか。何のために礼拝しているのでしょう。パンを食べて満足したからですか。ただ自分の心が満たされるためでしょうか。そのことを吟味しなければなりません。そして、永遠のいのちを求めてキリストの許に行く者でありたいと思います。

 

それに対してイエス様は何と言われましたか。27節です。とても有名なみことばですので、ご一緒に読んでみたいと思います。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

「なくなってしまう食べ物」とは、この地上の食べ物のことです。イエス様は、そうしたなくなってしまう食べ物ではなく、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われました。「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」とは何でしょうか。それは永遠のいのちです。この永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい、というのです。

 

皆さん、私たちは何のために働いているのでしょうか。私たちが勉強するのも、良い仕事に就くのも、またそこで一生懸命に働くのも、結局のところ、少しでも良い生活をするためというのがほとんどではないでしょうか。しかしイエス様を信じたことで永遠のいのちが与えられました。その永遠のいのちが養われ、成長するために、働かなければなりません。一生懸命に働くこと自体は大切なことです。私たちは働くために造られました。働くことによって、むしろ、生きがいを感じることさえできます。しかし、問題は何のために働くのかということです。私たちがどんなに一生懸命に働いても、また、そのことによって良い生活を送ることができたとしても、それらのものはやがて過ぎ去ってしまいます。そうした過ぎ行くものがあたかも究極的な事柄であるかのように思っているとしたら、それこそが問題なのです。確かに生きていくためには働かなければなりませんが、それが唯一の目的ではありません。私たちが働くのはただこの世で生きていくためではなく、霊的いのち、永遠のいのちに至るためなのです。イエス様を信じることで与えられた永遠のいのちを持ち、そのいのちを保ち、養うために働きなさいということだったのです。それは、この「働きなさい」という言葉からもわかります。この「働きなさい」という言葉は、「あることのために働く」とか、「努力する」という意味があります。つまり、永遠のいのちのために働きなさい、努力しなさい、ということです。私たちはこの世の朽ちて行くことのためには多くの時間とエネルギーを費やしても、霊的いのちのためにはそれほどでもないのではないでしょうか。その時間がほとんど残っていません。

 

先週、国連の関連団体が、「世界幸福度ランキング2019」を発表しましたが、それによると日本は昨年から4つ順位を下げて58位でした(156か国中)。これは意外でしたね。日本人の多くは、自分は幸せだと感じている人が多いのに、こんなに順位が低いとは思いませんでした。GDP、平均余命、寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に幸福度を計るものです。確かに日本は平均寿命が長く、1人あたりのGDPも24位、政治やビジネスの腐敗のなさも39位と高いのですが、社会的支援が50位、社会の自由度が64位、他者への寛大さが92位と低迷しているのです。これはどんなことを表しているのかというと、仕事と経済が中心になっている国であるということです。心に余裕がありません。ほんとうに忙しく走り回っています。霊的いのちのために求める時間がないのです。

 

でも2,000年前に、ガリラヤ湖畔で語られたイエス様の言葉を見てください。2,000年の歳月を越えて、今もなお私たちの心に響いてきます。先週、大リーグマリナーズのイチロー選手が引退し、その会見で語った言葉には深いものがありました。これまで自分が打ち立てて来た記録をどう思いますか?記録自体は、それほど特別だとは思いません。それよりも、その時にファンの方であったり、球場に来られた方が喜んでくれることが特別だと思いますとか、4,000本という数字があるとしたら、その陰には8,000回の失敗があったということで、自分誇れるとしたらそれを乗り越えることができたというです、など、それを通った人ではないとわからない重みがありました。しかし、イエス様の言葉は、その比ではありません。時代と民族を越えて、すべての時代の、すべての人の心に響く言葉です。私たちが求めなければならないのは、この主イエスの言葉です。

霊的いのちは、放っておいて養われることはありません。毎朝晩聖書を読み、祈るには、大きな犠牲と戦いがあります。学校や職場に遅刻しないように努力するのに、永遠のいのちのためにはほとんど努力しないとしたら、どうやってこのいのちを養っていくことができるでしょうか。

 

先日、天に召されたY姉妹は、60歳で信仰に導かれ、85歳で天国に召されるまで、ひたすら聖書に向かいました。「聖書を読むだけではね」と先輩のクリスチャンから言われましたが、確かに聖書を読むだけでは変わらないかもしれません。しかし、聖書を通読することで聖書全体の流れを掴むことができただけでなく、もっと知りたいという意欲もでてきて、読み続けることができました。このいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働いたのです。

 

それは、主が与えてくださる食べ物です。与えられた永遠のいのちが養われ、生ける神といつも生き生きとした関係を保つためには、その栄養分が必要です。「それは、人の子が与える食べ物です。」。ですから、私たちはいつもイエス様にとどまり、イエス様からその栄養分を求めていかなければなりません。なくなる食べ物ではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。

 

Ⅱ.天からのまことのパン(28-33)

 

次に、28節から33節までをご覧ください。

「すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」」

 

イエス様が、「なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」と言われると、それを聞いていた人々は、「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」とイエスに聞きました。イエス様が言われた「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言うことばを、何かをすることによって得られるものと思ったのです。これが一般の人が考えることです。何か善いことをすれば天国に行けると思っているのです。しかし、どんなに善いことをしても、決して天国に行くことはできません。善いことをすることは悪いことではありません。むしろすばらしいことです。しかし、どんなに善いことをしても、それで神に受け入れられるとはないのです。なぜなら、自分でも気付かないうちにそこに不純な動機が入り込んだりして、善行が善行でなくなってしまうからです。私たちの本性は罪のために腐っているので、こうした善行が神に受け入れられることはないのです。では、どうしたらいいのでしょうか。

 

29節にこうあります。「イエス様はこう言われました。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。』」ここで人々が、「神のわざ」と言っているのは、旧約聖書にある律法のことです。それに対してイエス様は、神のわざとは律法を守ることではなく、神が遣わされた者を信じることであると言われました。これは信仰による救いを教えています。私たちが救われる道は、私たちが何か善いことをすることによってではなく、神が遣わされた御子イエスを救い主として信じる以外にはありません。もっと言うなら、私たちが救われるためには、私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、救いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じるだけでいいのです。それを信じることこそ、神のわざなのです。ここでヨハネが言っていることは、神から遣わされた御子イエス・キリストを、生涯信じ続けるということです。それが神のわざです。考えてみると、そのように生涯を通してキリストを信じ続けるということは、自分の意思や力によってできることではありません。善い行いであれば、時間なり、体力なり、資金があればできるかもしれませんが、生涯にわたってイエス様を信じ続けることは、自分の力でできません。私たちは弱い者ですから、たとえば、大きな試練に直面したりすると、「イエス様を信じているのになんでこうなるの」と、信仰から離れてしまうことさえあります。そのような中でも信じ続けることができるとしたら、それは神の恵み以外の何ものでもありません。ですから、これこそ神のわざであり、神が喜んでくださるわざなのです。

 

すると彼らは、自分たちがイエスを信じるために、何をしてくれますかと言いました。どんなしるしを与えてくれるのかというのです。というのは、31節にあるように、彼らの先祖は、荒野でマナを食べたという経験をしたからです。「神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた」と書いてあるとおりです。」これは、出エジプト記にあることです。モーセの時代、彼らの先祖は荒野でマナを食べました。それは天からのパンとして、神が先祖たちに与えてくださったものです。それは彼らにとってのしるしでした。であれば、イエスは自分たちにどのようなしるしを見せてくれるのか、というのです。どのようなしるしを見せてくれるのかと言っても、彼らはたった今、五千人の給食の奇跡を見たばかりじゃないですか。それなのに、どんなしるしを見せてくれるのですかと言うのは変な話です。しるしとは、証拠としての奇跡です。それが本当に神からのものであるということを示す証拠ですね。それを求めたのです。

 

これは、いつの時代も同じです。人々はしるしを見ないと信じられません。だから、多くの人々は新興宗教に走って行くのです。しかしこの人々は、モーセが与えたパン以上のもっと大きなしるしを見たではありませんか。それは天からのまことのパンでした。それはモーセの時代に荒野で食べたマナではありません。天から下って来て、世にいのちを与えるものです。32節と33節にこうあります。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

ここでイエス様は、モーセの時代のマナと、今、父なる神によって与えられようとしているパン、すなわち、天からのまことのパンを対比しているのです。モーセの時代のマナは、確かに肉体の食べ物にはなりましたが、いのちを与えることはできませんでした。しかし、父なる神が与えてくださるパンは、天からのまことのパンであり、人々にいのちを与えてものです。これこそ最高のしるしではないでしょうか。なぜなら、このパンは信じる者のうちに働いて、驚くべき神の御業をなされるからです。このパンが私たちに与えられると御霊によっていのちが与えられ、全く新しい者に造り変えられます。

 

あのニコデモのことを思い出してください。ニコデモはそれまでユダヤ人を恐れ、ほっかぶりをして、ある夜、イエスの許にやって来ました。しかし、御霊によって新しく生まれると、全く別人のようになりました。彼はイエス様が十字架に付けられて息を引き取ったとき、それは午後3時頃のことでしたが、公然と十字架のイエスのもとに歩み寄りました。そして、遺体を引き取ると、没薬と香料を混ぜ合わせたものを30㎏ほどイエスに塗って、まだだれも葬られたことのない墓に葬りました。あれほどユダヤ人を恐れていた人が全く恐れずにイエスの許に歩み寄ることができたのです。それは、イエス様を信じて新しい人に造り変えられたからです。

 

サマリヤの女はどうですか。サマリヤの女は、5回も結婚し、今一緒にいるのも本当の夫ではありませんでした。彼女は男性こそ自分の心を満たしてくれると思っていましたが、どの男もみな同じ。だれも彼女の心を満たすことはできませんでした。そんな時、スカルという町の井戸に水を汲みに来たとき、イエス様と出会いました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して変わることがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:14)

彼女はイエスに言いました。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(4:15)

するとイエス様は彼女に言いました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(4:16)彼女は、自分のことを言い当てることができたこの方こそキリストであると信じました。すると彼女は、水を汲みに来たのに水がめをそこに置いて街に行き、「みなさ~ん、来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と言いました。もはや、人と会いたくないとは思いませんでした。自分の心を神のいのちの水で満たしてくれたイエス様を、多くの人に伝えたいと思うようになったのです。

 

先日、仙台で行われたT&Mセミナーに参加しました。その中に15秒で証しするという時間がありました。自分が救われた喜びを15秒で証しするのです。イエス様を信じる前の私はこうでした。でもイエス様を信じてこうなりました。あなたもこうなりたいと思いませんか。15秒です。30秒は長いです。3分だったらだれも聞きません。最初に人と会って証しする時はインパクトが必要です。インパクトのある証しはコンパクトでなければなりません。だから15秒でまとめなければなりません。

私のロールプレイの相手は、かつて大学の教授をしていて、その後牧師になられたM先生でした。この先生はかつて教授だけあって話が長いのです。しかし、先生の証しはインパクトがありました。15秒でした。「私は、29歳まで荒野のような人生でした。ボロボロでした。しかし、イエス様を信じた時人生が全く変わりました。荒野に泉が湧いたのです。あなたもそうなりたいと思いませんか。」この経験が先生の信仰生活を支えているのです。それはまさに御霊なる神の働きです。これこそ、大きなしるしではないでしょうか。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。

 

Ⅲ.わたしがいのちのパンです(34-40)

 

では、そのパンとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。34節から40節までをご覧ください。34節と35節をご覧ください。

「そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 

イエス様が、「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と言うと、それを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」と言いました。この段階でも、彼らはイエス様が与えるパンは信仰によって与えられる霊的なパンであることを理解していませんでした。

それに対して、主はこのように言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

ヨハネの福音書の中には、「わたしは・・・です」という言い方が7回出てきます。その一つが、この「わたしはいのちのパンです。」です。そのほかに、

「わたしは世の光です。」(8:12)

「わたしは羊たちの門です。」(10:7)

「わたしは良い牧者です。」(10:11)

「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1)

とあります。これは、6章20節で、主が「わたしだ」と言われたところを学んだ時にも申し上げましたが、イエス様が存在の根源であられるということです。つまり、イエス様は神ご自身であられることです。ヨハネはこのように表現することで、主がどのような方であるかを表そうとしたのです。そして、ここで主は、「わたしはいのちのパンです。」と言われました。「わたしはいのちのパンを与える」と言われたのではなく、いのちのパンそのものであると言われたのです。これはとても重要なことです。イエス様がいのちに至る食べ物を与えてくだいますが、そのいのちに至る食べ物とは、イエス・キリストが持っておられるものであるというのではなく、イエス・キリストそのものがそれであるということです。ですから、その後のことばにあるように、「わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時でも、決して渇くことが」ないのです。キリストのもとに行くなら決して飢えることはありません。渇くことがないのです。なぜなら、キリストこそいのちのパンであられるからです。キリストこそ、私たちにいのちを与え、本当の生きがいを与え、私たちの人生を生き生きとしたものにしてくださるのです。あのM牧師の証しにあるよう・・・に。

 

ところが、ユダヤ人たちは、その主の許に行こうとしませんでした。彼らはキリストを見たのに信じなかったのです。見ているのに信じなかったのです。これは、今日キリスト教のいろいろなものに触れながらも、信じようとしない人たちと同じです。見てはいますが信じません。ある人はクリスチャンホームに生まれ育ち、それを見ていても信じようとしません。またある人は、ミッション・スクールに行ったり、キリスト教の集会に行ったり、クリスチャンの友達から聖書の話を聞いたり、いろいろな本に触れたりと、何らかの形でキリスト教に触れていても、信じようとしません。これらの人たちは、自分の霊の飢え渇きすら感じていないのかもしれません。肉体的には十分に栄養を補給して肥えていても、霊的には貧弱で、今にも倒れそうになっていることに気付いていないのです。

 

しかし、「父がわたしに与えてくださっている者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来るものを、わたしは決して人に追い出したりはしません。」これは驚くべき宣言です。父なる神が御子に与えてくれるものでなければ、御子のもとに来ることはありません。つまり、信仰を持つことさえできないというのです。私たちがキリストを信じることができるようになったのは、神が私たちを救いに選んでいてくださり、キリストを信じるように働いていてくださったからなのです。

 

自分のことを考えてみてもそう思います。小さい時にキリスト教の保育園に預けられ、青年時代に妻と出会いました。自分は何のために生きているのかわからなかった時、教会に行ってイエス様を信じることができました。なんでそうなるの?わかりません。どんなに脚本を書こうとしてもそうはならなかったでしょう。しかし、神は私が生まれる前から、いや、この世界の基が置かれる前から、そのように選んでいてくださいました。聖書にそう書いてあります。私たちが救われたのは、一方的な神の恵みによるのです。だから、この救いは確かなのです。私が好きで信じたものであるなら、嫌いなったら離れてしまうということもあるでしょう。しかし、神がそのように選んでくださったので離れてしまうということはありません。神が掴んで離さないからです。「わたしのもとに来るものを、わたしは決して捨てません。」(現代訳)とあるとおりです。

 

それは39節と40節でも言われていることです。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」」これは何のことかというと、復活のいのちのことです。イエス様は27節で「永遠のいのち」について語られました。また、33節では「天からのパン」について語られました。ここでは、最後の時に天の御国に入れてくださる復活のいのちについて語っています。つまり、神が御子をこの世に遣わされたのは、私たちが御子にあって永遠のいのちを持ち、そのいのちに与ったすべての人を一人も失うことがないようにし、最後の時に天国に入れてくださるためだったのです。

 

私たちの人生は、肉体の死で終わるものではありません。その先には「復活のいのち」が用意されています。そのいのちに与ることができるように、イエス様は確実に導いてくださいます。それが神のみこころなのです。この世にあっては、悪魔の執拗な攻撃に、時に失敗したり、意気消沈したり、不安になったり、動揺したりすることがありますが、しかし、このキリストの御手から落ちることは決してありません。終わりの日に必ずよみがえらせていただけるのです。

 

それなのに、どうして私たちは、自分のような者はダメだと言って、落ち込んでいるのでしょうか。それはまさに悪魔の思うつぼです。たとえ神様でも自分のような者は救うことはできないだろうと思わせるからです。でも、キリストはあなたを救うことができないのでしょうか。たとえあなたが自分はダメな人間だと思っていても、キリストはあなたを救うことがおできになります。なぜなら、キリストはいのちのパンであられ、すべての存在の根源であられる神だからです。キリストの使命は、父なる神のみこころを行うことであり、父なる神のみこころは、御子に与えてくださった人を、ひとりも失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。神の御子であられるイエスは、その御心を確実に実行されます。ですから、私たちはこの方に信頼しなければなりません。キリストに信頼する者をキリストは決して捨てることはありません。みんな御国に入れてくださいます。この方にゆるぎない信頼を置く人は幸いです。私たちも自分を見て落ち込むのではなく、主イエスの約束に信頼し、そこから慰めと励ましをいただき、与えられた信仰の生涯を全うさせていただきましょう。

士師記19章

士師記19章からを学びます。まず1節から14章までをご覧ください。

 

Ⅰ.側目の取り戻し(1-15)

 

「イスラエルに王がいなかった時代のこと、一人のレビ人が、エフライムの山地の奥に寄留していた。この人は、側女として、ユダのベツレヘムから一人の女を迎えた。ところが、その側女は彼を裏切って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムにある自分の父の家に行って、そこに四か月間いた。夫は、若い者と一くびきのろばを連れて、彼女の後を追って出かけた。彼女の心に訴えて連れ戻すためであった。彼女が夫を自分の父の家に入れたとき、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。 娘の父であるしゅうとが引き止めたので、彼はしゅうとのもとに三日間とどまった。こうして、彼らは食べて飲んで夜を過ごした。四日目になって、彼が朝早く、立ち上がって出発しようとすると、娘の父は婿に言った。「パンを一切れ食べて元気をつけ、その後で出発しなさい。」そこで、二人は座って、ともに食べて飲んだ。娘の父はその人に言った。「ぜひ、もう一晩泊まることにして、楽しみなさい。」その人が立ち上がって出発しようとすると、しゅうとが彼にしきりに勧めたので、彼はまたそこに泊まって一夜を明かした。五日目の朝早く、彼が出発しようとすると、娘の父は言った。「ぜひ、元気をつけて、日が傾くまでゆっくりしていきなさい。」そこで、二人は食事をした。その人が、自分の側女と若い者を連れて出発しようとすると、娘の父であるしゅうとは彼に言った。「ご覧なさい。もう日が暮れかかっています。どうか、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まって楽しみ、明日の朝早く旅立って、あなたの天幕に帰ればよいでしょう。」その人は泊まりたくなかったので、立ち上がって出発し、エブスすなわちエルサレムの向かい側までやって来た。鞍をつけた一くびきのろばと、側女が一緒であった。彼らがエブスの近くに来たとき、日はすっかり傾いていた。そこで、若い者は主人に言った。「道を外れてあのエブス人の町に向かい、そこで一夜を明かすことにしたらいかがでしょう。」彼の主人は言った。「私たちは、イスラエル人ではない異国人の町には立ち寄らない。さあ、ギブアまで進もう。」彼はまた若い者に言った。「さあ、ギブアかラマのどちらかの地に着いて、そこで一夜を明かそう。」彼らは進んで行ったが、ベニヤミンに属するギブアの近くまで来たとき、日が沈んだ。彼らはギブアに行って泊まろうとして、そこに立ち寄り、町に入って広場に座った。彼らを迎えて家に泊めてくれる者は、だれもいなかった。」

 

1節に再び、「イスラエルに王がいなかった時代のこと」とあります。私たちは、既に17章と18章においてミカの家とダン族に起こった出来事を通して、当時のイスラエルがどれほど混乱していたかを学びました。イスラエルは、神の目にかなったことではなく自分の目に正しいと思うことを行った結果、そこには不法がはびこりました。ここには、イスラエルに王がいなかった時代、イスラエルがどれほど混戦していたのかを、もう一つの不道徳な事件を取り上げて紹介しています。

 

 

この時代がいつの時代なのかははっきりわかりませんが、20章28節には、「また当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた」とありますから、時代的にはヨシュアの死後間もなくのこと、つまり士師記の時代の初期に起こった出来事です。前にも述べたように、17章からは士師記の付録部分で、時間的な順序にはなっておりません。士師記の時代がどういう時代だったのかを示すために、その特徴的な出来事をピックアップして記録しているのです。

 

一人のレビ人が、エフライムの山地に寄留していました。彼は定められた場所に住まないで、放浪者、寄留者となっていたということです。彼は側目として、ユダのベツレヘムから一人の女を迎えましたが、その側目は彼を裏切って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムにある自分の父の家に帰ってしましいました。新改訳第三版では、「彼をきらって」とあります。彼はきらわれたのです。なぜ嫌われていたのかはわかりません。彼の性格に問題があったのか、あるいは、彼が正妻を大切にし、彼女を卑しめるような態度をしたのか、はっきりわかりません。ただわかることは、こうした側目の存在は、いろいろな問題を引き起こすということです。ただここには、「側目は彼を裏切って」とありますので、単に男女関係のもつれというよりは、一方的にこのそばめに問題があったのかもしれません。いずれにせよ、彼女は彼をきらって実家に帰ってしまいました。そして、そこに四カ月間いました。

 

そこで、夫のレビ人は、若い者と一くびきのろばを連れて、彼女の後を追って出かけて行きました。彼女の心に訴えて連れ戻すためです。ここに、夫の並々ならぬ執念がうかがえます。和解は思ったよりもスムーズに進み、娘の父親は、彼を見ると喜んで迎え入れました。そして、何日もの間祝宴が開いたのです。娘の父であるしゅうとが引き止めるので、彼はそこに三日間もとどまることになりました。中東では客をもてなすという習慣があったので、しかもそれが自分の娘の夫でしたから、いつまでもいっしょにいたいと思ったのでしょう。四日目も行こうとしましたが、「ぜひ、もう一晩泊まることにして、楽しみなさい。」と、しきりに勧められたので、仕方なくそこに泊まって一夜を明かした。

 

そして、五日目の朝に彼が出発しようとすると、例のごとく娘の父親が、「ぜひ、元気をつけて、日が傾くまでゆっくりしていきなさい。」と言うので、二人は食事するのですが、そうこうしているうちに夕方になってしまいました。そこでしゅうとは、「ご覧なさい。もう日が暮れかかっています。どうか、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まって楽しみ、明日の朝早く旅立って、あなたの天幕に帰ればよいでしょう。」(9)と言うのですが、さすがにこれ以上は泊まりたくないと、立ち上がって、出発しました。もう既に夕方になっていましたが・・・。

 

彼はベツレヘムからエフライムへと向かう途中、エブスすなわちエルサレムの向かい側までやって来ましたが、異国人の町には泊まりたくなかったので、ギブアかラマのどちらかまで進み、そこで一夜を明かそうと考えました。ベツレヘムからエルサレムまでは7㎞です。2時間ほどの道のりですから、体力的にもきつくなってくる頃でしたし、日もすっかり傾いていましたから、できればそこに泊まればと思いましたが異国人の町には泊まりたくなかったので、ギブアまで進んで行くことにしました。エルサレムが異国人の町であるというのは不思議な感じがするかもしれませんが、ベニヤミン族が彼らを追い出せなかったので、当時そこにはエブス人が住んでいたのです(士師1:21)。そこで彼はさらに6キロほど北に行ったギブアに泊まることにしました。

 

ところが、彼らがギブアに泊まろうとして、そこに立ち寄り、広場に座っていても、彼らを迎えて家に泊めてくれる人はいませんでした。これは当時の習慣からすると異常なことでした。とういうのは、旅人をもてなすことは当時の人たちにとってはとても大切なことであったからです。どうして彼らは受け入れなかったのでしょうか。1節に、「イスラエルに王がいなかった時代」とあります。人々は、それぞれめいめいが自分の目に正しいと思うことを行っていたからです。神のことばが何と言っているかということよりも、自分がどう考えるかを優先していました。その結果、旅人をもてなすという大切なことがおろそかにされていたのです。

 

Ⅱ.ギブアの人たちの邪悪な行い(16-26)

 

それは旅人をもてなすということだけではありません。人々が神のみこころではなく、自分の目に正しいと思うことを行った結果、もっとひどいことが起こりました。それが次の16節から21節までにあります。

「そこへ、夕暮れになって畑仕事から帰る一人の老人がやって来た。この人はエフライムの山地の人で、ギブアに寄留していた。この土地の人々はベニヤミン族であった。目を上げて、町の広場にいる旅人を見たとき、この老人は「どちらへ行かれますか。どこから来られたのですか」と尋ねた。 その人は彼に言った。「私たちはユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥まで旅を続けていのです。私はその奥地の者で、ユダのベツレヘムまで行って来ました。今、主の家へ帰る途中ですが、だれも私を家に迎えてくれる人がいません。ろばのためには、藁も飼葉もあり、また、私とこの女、しもべどもと一緒にいる若い者のためには、パンも酒もあります。足りない物は何もありません。」老人は言った。「安心なさい。足りない物はすべて私に任せなさい。ただ、広場で夜を過ごしてはいけません。」こうして老人は彼を自分の家に連れて行き、ろばに飼葉をやった。彼らは足を洗って、食べて飲んだ。

彼らが楽しんでいると、なんと、町の男たちで、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで戸をたたき続け、家の主人である老人に言った。「おまえの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」そこで、家の主人であるその人は、彼らのところに出て行って言った。「それはいけない、兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。ここに処女の私の娘と、あの人の側女がいる。今、二人を連れ出すから、彼らを辱めて、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしあの人には、そのような恥ずべきことをしないでくれ。」しかし、男たちは彼に聞こうとしなかった。そこで、その旅人は自分の側女をつかんで、外にいる彼らのところへ出した。彼らは彼女を犯して、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を放した。夜明け前に、その女は自分の主人がいるその人の家の戸口に来て、明るくなるまで倒れていた。」

 

そこへ、夕暮れになって畑仕事から帰る一人の老人がやって来ました。この人はエフライムの山地の人で、ギブアに寄留していましたが、この土地の人々はベニヤミン族でした。つまり、彼はこのギブアに一時的に寄留していたのです。この老人は、町の広場にいた旅人を見つけると声をかけ、彼らの事情を聞くと、「安心しなさい。」と言って、自分の家に連れて行き彼らをもてなします。広場で夜を過ごしてはほしくなかったからです。そこには、よこしまな者たちがいたからです。

 

案の定、彼らがこの老人の家で楽しんでいると、その町の男たちで、よこしまな者たちがやって来て、その家を取り囲み、戸をたたきつけてこう言いました。

「おまえの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」

「知りたい」というのは、性的な関係を持つことを意味します。つまり、この町のよこしまな者たちは、老人の家の客となったレビ人との性的な関係を求め迫ったということです。彼らは男色の罪に陥っていました。これは、創世記19章に出てくるあのソドムの事件によく似ています。ソドムで行われていたことが、当時の神の民イスラエルの中でも行われていたのです。

 

そこで、この老人はどうしたでしょうか。23節をご覧ください。その家の主人であるその人は、彼らのところに出て行き、「それはいけない、兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。」と言いました。そして、客を出す代わりに自分の処女の娘と、その客であるレビ人の側目を差し出すから、あの客には、そのようなことはしないでほしいと懇願しました。どうしてそんなことを言ったのでしょうか?それは、自分の家の客となった者はどんな犠牲を払ってでも守るという当時の習慣があったからです。けれども、この老人がしたことは、聖書が認めていた限界をはるかに超えることでした。

 

しかし、男たちは彼に聞こうとしませんでした。そこでレビ人は、まるで子犬でも掴むように自分の側目をつかんで外にいる彼らのところに差し出しました。人間の尊厳など全くありません。すると、彼らはその側目を犯して、朝まで夜通し暴行を加えました。「暴行を加える」とは、「ひどい目に会わせる」とか、「なぶり者にする」という意味です。旧約聖書にはこの箇所以外に6回用いられていますが、性的行為と関係して用いられているのはここだけです。この女にとってはまさに生き地獄でした。このようなことが、神の民イスラエル(ベニヤミン)で行われていたのです。

 

Ⅲ.これまで見たこともない悪事(27-30)

 

27節から30節までをご覧ください。

「彼女の主人は、朝起きて家の戸を開け、出発しようとして外に出た。見ると、そこに自分の側女である女が、手を敷居にかけて家の入り口で倒れていた。彼は女に「立ちなさい。さあ行こう」と言ったが、何の返事もなかった。そこで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分のところへ向かって行った。彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分の側女をつかんで、その肢体を十二の部分に切り分け、イスラエルの全土に送った。それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ」と言った。」

 

暴行の嵐の夜が過ぎ、朝になるのを待って、レビ人が恐る恐る戸を開けて見ると、そこに側目か死んでいました。彼は、彼女が死んだとは思っていなかったのか、「立ちなさい。さあ行こう」と言いましたが、何の返事もなかったので、彼女をろばに乗せ、自分のところへ帰って行きました。

 

彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分の側目の死体を12の部分に切り分け、イスラエルの各部族へ送りました。死体を12に切り分けたということは、その一部がベニヤミン族にも送られたということです。このレビ人は、ベニヤミン族にも怒りを共有してほしいと思ったのでしょう。

 

このレビ人の行為は、全イスラエルに大きな反響を巻き起こしました。それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ」(30)と言いました。これは、イスラエルがエジプトの地から上って来た日から今日まで、見たことがないような邪悪な事件でした。想像するだけでもゾッとします。それほど凄惨な事件でした。このようなことが神の民イスラエルの中で起こっていたのです。

 

けれども、それはイスラエルだけではなく、私たちにも起こり得ることです。王がいない時代とは、神の教えを忘れた時代のことです。神の教えではなく、自分の思いで生きている時代のことです。現代はまさにそのような時代ではないでしょうか。そのような時代の中でクリスチャンも翻弄され、神から離れてしまうことさえあります。神の教えよりも自分の思いが優先されると、神から離れてしまうだけでなく、堕落の一途をたどることになるのです。このベニヤミン族のような邪悪な行いに発展しないとも限りません。

 

ですから、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いを信じて新しく生まれた者として、いつも神の教えにとどまっていなければなりません。問題は、あなたが何を信じているかということです。イエス様を信じていると言っても、単にイエス様は奇跡を行う偉大な方であるとか、その教えがすばらしいとか、人格的な模範であると信じるのではなく、そのイエスが私のために十字架にかかって死なれ、私たちの罪を贖ってくださったと信じなければなりません。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。神が私たちの内に住んでくださいます。そうすれば、自ずと変えられていくはずです。神の御心に喜んで従いたいと思うようになります。これが信仰のすべてです。これがなかったら、どんなに洗礼を受けていても、どれだけ長い間教会に来ているとは言っても、いつ主から離れて行くようなことになってもおかしくありません。このベニヤミン族のように主の御心とは全くかけ離れた状態になることも起こり得るのです。ですから、私たちはまずイエスとの関係を再確認しなければなりません。そして、主の御心からズレることがないように、絶えず主と一つになることを求めていかなければならないのです。

イエス様は言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」キリストにとどまり、キリストのいのちをいただいて、いつもキリストに従って歩ませていただきましょう。

出エジプト記4章

きょうは、出エジプト記4章から学びます。まず1~17節までをご覧ください。9節までをお読みします。

 

Ⅰ.今、行け(1-17)

 

「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」 彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」主はまた、彼に言われた。「手を懐に入れよ。」彼は手を懐に入れた。そして出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。また主は言われた。「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」そこで彼はもう一度、手を懐に入れた。そして懐から出した。なんと、それは再び自分の肉のようになっていた。 「たとえ彼らがあなたを信じず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。もしも彼らがこの二つのしるしを両方とも信じず、あなたの声に聞き従わないなら、ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。あなたがナイル川から汲んだその水は、乾いた地面の上で血となる。」

 

神は、エジプトにいるイスラエルの民を救うためにモーセを遣わそうと召されました。しかし、モーセはいろいろと言い訳をしてそれを断ろうとします。その一つは、「私は、いったい何者なのでしょう。」(3:11)ということでした。自分にはそんな資格はないということでした。エジプトの王子の立場だったらいざ知らず、一介の羊飼いにすぎない自分にはそんな資格などないというものでした。

二つ目の言い訳は、3章13節にありますが、仮にエジプトにいるイスラエルの民のところへ行っても、彼らは自分を認めてくれないだろうというものでした。

「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言えば、彼らは、「その名は何か」と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょう。」(3:13)

つまり、自分には信頼がないということです。しかし、主は、その時は「わたしはある」という者が私をあなたがたのところへ遣わされたと言え、と言われましたが、モーセはその重い腰を上げることができませんでした。

そして、ここに来て彼は、三つ目の言い訳をしています。それは、自分には力がないということです。1節には、「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」とあります。なぜモーセはここまで否定的になっているのでしょうか。それは40年前の失敗の記憶から解放されていなかったからです。過去の失敗の記憶に支配されていると、なかなか新しいことに取り組むことができなくなります。モーセが経験していた束縛は、神のことばを否定してしまうほど強いものでした。神は、「彼らはあなたの声に聞き従う。」(3:18)と約束されましたが、その約束さえ信じられないほどだったのです。

 

そのような疑い深いモーセに、神は三つのしるしを与えます。一つは、杖が蛇になるというものでした。主は、「あなたの手に持っているものは何か」と言われました。モーセが「杖です。」と答えると、「それを地に投げよ。」と命じられました。すると、それが蛇になりました。それでモーセは、それから身を引きました。身をひいたというのは、それが本当に蛇になったということです。すると主はモーセに、「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と言われた。それで彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは彼の手の中で杖になりました。このことは何を表しているのかというと、主はご自分の意のままに何でもできる方であるということです。特に、この蛇はコブラのことですが、これはエジプトの王パロの権威を象徴していました。すなわち、主はパロの権威よりもはるかに偉大であるということを示していたのです。

 

次に、主はモーセに、「手を懐に入れよ。」と言われました。それで彼が手を懐に入れると、なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになってしました。そして再び主が「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」と言われたのでそのようにすると、彼の手は元どおりになりました。当時、「ツァラート」は不治の病とされていました。その病をいやすことができる神は、偉大な方です。たとえ彼らが最初のしるしを信じることができなくても、このしるしは信じるでしょう。

 

しかし、彼らがたとえこの二つのしるしの両方とも信じず、モーセの声に聞き従わないなら、もう一つのしるしを行うようにと言われました。それは、「ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。」(9)というものです。その水は、乾いた地面で血となるというのです。エジプト人にとって、ナイルはいのちの守り神です。そのナイル川の水を血に変えるというのは、モーセの神がエジプトの神よりも偉大であるということを示していました。

 

これだけのしるしが与えられたのであれば、モーセにとってもどれほど心強かったことかと思います。しかし、それでも彼はまだ言い訳を続けます。それは口が重いということでした。10~17節をご覧ください。

「モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」」

 

「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」これはどういうことでしょうか。これはモーセの最後の言い訳です。でも、こんなのは言い訳になりません。なぜなら、人に口をつけたのは主であられるからです。主が人に口をつけたのであれば、主はその口を用いてくださいます。主がモーセの口とともにあっ、語るべきことを教えると言いましたが、それでも彼の答えはノーでした。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」と言いました。彼はどこまでも否定的でした。こういう人と話していると本当に疲れます。だれにでも、ある程度の恐れや不安はあります。でも何を言っても従おうとしないというのは、最初からやる気がなかったのです。

 

すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がりました。そして、彼の兄アロンを用いると言われました。すなわち、主がモーセに語ったことをアロンに伝え、その語られたことばをモーセに代わってアロンが民に語るというのです。「わたしは彼が雄弁であることをよく知っている」。新改訳第三版では「わたしは彼がよく話すことを知っている」と訳されています。モーセの兄アロンはよく話人でした。口から先に生まれて来たような人でした。彼が口を開くと説得力があるのです。でも神が選ばれたのは弟のモーセでした。ですから神はモーセを通して語られますが、それを民に伝えるのはアロンです。モーセは神のことばをアロンに伝え、アロンはモーセに代わって民に語るのです。アロンがモーセにとって口となり、モーセは彼にとって神の代わりとなるというのです。

 

それでモーセは、ようやく重い腰をあげ神に与えられた使命のために立ちあがります。しかし、その後の出エジプト記の展開をみると、モーセが「私は口が重く、下が重いのです」というのは最初だけで、後になると、彼が直接イスラエルの民に語っているのがわかります。しかも大胆に・・。彼は口べたどころか、饒舌なのです。彼が「私は口べたです」と言ったのは、単に彼がエジプトに行きたくなかったからなのか、自分の弱点を誇張していたのかわかりませんが、そのようなことが私たちもあるのではないでしょうか。私たちも自分に与えられている賜物を過小評価するあまり、いろいろな理由をつけて主に従おうとしないということがあります。できない理由を考えるのではなく、できる理由を考え、いろいろと経験をする中で、どのように主に用いていただけるのかを祈り求めていきたいものです。

 

Ⅱ.エジプトの地へ(18-22)

 

いろいろと言い訳をし、神の召しを断ろうとしたモーセでしたが、ついに神の御声に促されエジプトに向かう決心をします。18節から20節までをご覧ください。

「そこでモーセは行って、しゅうとイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる同胞のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか、見させてください。」イテロはモーセに言った。「安心して行きなさい。」主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行った。モーセは神の杖を手に取った。」

 

そこでモーセはしゅうとイテロのもとに行き、「どうか私をエジプトにいる同胞のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか、見させてください。」と言いました。ここでモーセは、主の計画の全貌を語っていません。主がエジプトにいる同胞を救うために自分を召されたということにも触れていません。どうしてでしょうか。おそらく、そのことを説明してもイテロには理解ができなかったからでしょう。主が燃える柴の中に現れたとか、杖を投げたら蛇になったとか、手を懐に入れたらツァラートになったと言って説明しても、なかなか分かってもらえるものではありません。そこで彼はエジプトにいる同胞がまだ生きているかどうか、見させてください、と言ったのです。イテロはそれを承諾しました。そして、「安心して行きなさい」と言って、モーセを送り出しました。

 

すると主は、モーセがまだミディアンにいる時に彼に仰せられました。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」これは、今がその時だということです。なぜモーセのいのちを取ろうとしていた者たちがみな死んだ時が「その時」なのでしょうか。それは、モーセの心から恐れが取り除かれる時だからです。主はそのようにして彼を励ましてくださったのです。そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行きました。手には神の杖を持っていました。この杖は、かつては単なる羊飼いの杖でしたが、今は神の杖となりました。モーセは、この杖で数々のしるしを行うことになります。

 

あなたは神の杖を持っていますか。私たちにとっての神の杖は神のことばである聖書であり、キリストの福音です。信仰を持った瞬間から、聖書は単なる本から「神の本」になるのです。私たちは何も持っていないようでも、すべてを持っています。自分の手にあるものは何かを再確認しなければなりません。

 

21節から23節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせない。そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」」

 

モーセがエジプトに帰ることを決心すると、主はモーセに言われました。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。」これは、これから先にエジプトで起こる事柄です。神に従うと決断してその一歩を踏み出すと、その次が見えてきます。いったいその先に何があるのでしょうか。

まず、モーセは神から与えられた不思議をエジプトの王ファラオの前で行わなければなりません。しかし、主は彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせません。その時モーセはファラオにこう言わなければなりません。

「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。」

主はここで、イスラエルを「わたしの子、わたしの長子である」と言われました。イスラエルは神の子であり、神の長子です。これは神とイスラエルの特別な関係を表しています。その関係とは、アブラハム契約に基づく親子関係です。神はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、その子孫であるイスラエルの民を特別に扱われるのです。神はイスラエルを通して全人類を救うというご計画を持っておられました。神の長子、神の初子を苦しめる者は、自らの初子が苦しめることになります。イスラエルを苦しめたエジプトは、やがてその初子という初子は人から家畜に至るまで、すべて殺されることになります。

 

そして、それは神の民であるイスラエルだけではなく、私たちクリスチャンにも言えることです。神は私たちクリスチャンを「神の子」としてくださいました。ヨハネ1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。だれでもキリストを信じ、キリストを受け入れる者は神の子どもです。神との特別な関係に入れていただけるのです。ファラオは心を頑なにするのでなかなかイスラエルの民を行かせようとしませんが、しかし、それはファラオをさらに苦しめるための神のご計画でもありました。同じように、敵である悪魔は、私たちを罪の束縛からなかなか行かせようとしませんが、それは悪魔がさらに苦しむためであって、私たちを苦しめるためではありません。私たちは神の子として神に特別に愛されている者であることをしっかりと覚え、神の時を忍耐して待ち望みましょう。

 

Ⅲ.血の花婿(24-31)

 

最後に24節から31節までを見て終わりたいと思います。24節から26節をご覧ください。

「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた。そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。」

 

ここに不思議な出来事が記されてあります。モーセがエジプトに向かう途中、ある場所で一夜を明かすことになりましたが、その時主がモーセ会い、彼を殺そうとしたのです。どういうことでしょうか。モーセが致命的な病にかかり、死にそうになるのです。しかも、それは主から出たことでした。それを見た妻のツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて、「まことに、あなたは私には血の花嫁です。」と言うと、主はモーセを解放されました。いったいなぜ神はモーセを殺そうとしたのでしょうか。また、そのことと割礼を施していないことに、どういう関係があったのでしょうか。

 

この出来事が意味していることは明白です。それは、神は割礼を重んじておられるということです。「割礼」とは、神の民のしるしです。神がアブラハムと契約を結ばれた時、イスラエルのすべての男子は、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。(創世記17:12)しかしモーセは、2番目の息子に割礼を施していませんでした。なぜなのか、その理由はわかりません。もしかすると、妻のツィポラが嫌ったのかもしれません。この時ツィポラが「まことに、あなたは私には血の花婿です。」と言ったのは、そういう背景があったからと思われます。ですから、もしモーセがアブラハム契約に違反したままでエジプトに下るなら、彼には出エジプトとしてのリーダーとしての資格がないということになります。それで、ツィポラがすかさず息子の包皮を切り取って、モーセの両足につけたのです。するとモーセはその瀕死の状態から解放されました。この後、妻のツィポラと2人の息子はミディアンに送り返されたようです。次にツィポラが登場には18章2節になってからです。割礼を嫌ったツィポラは、神がエジプトで行われる大いなる奇跡の目撃者になれなかったのです。

 

このことからわかることは、人は、神が用意された方法によらなければ救われないということです。それがどんなに自分にとって受け入れられないような事柄であっても、また、自分がどのように思おうと、神が命じられたことを行わなければなりません。そうでないと、神の救いに与れないばかりか、神の祝福に与ることもできないのです。その神の用意された方法とは、イエス・キリストの十字架でした。イエス・キリストは、アブラハム契約の成就としてこの世に来られ、十字架で自らのいのちをささげることによって救いの道を開いてくださいました。十字架以外に人が救われる道はないのです。このイエスを信じることはが、神と新しい契約を結ぶことです。その時、私たちの心に聖霊による割礼が施されます。新約の時代には肉の割礼が重要なのではなく、この心の割礼が重要です。心に割礼を受けているかどうかが問われているのです。

 

パウロはこの真理をガラテヤ6章14~16節でこのように言っています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

あなたはどのような基準にしたがって進んでいますか。この基準にしたがって進む人々こそ神のイスラエルです。そのような人々の上にこそ、平安とあわれみがあるのです。

 

最後に27節から31節を見て終わります。

「さて、主はアロンに言われた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。モーセは、自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、彼に命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。それからモーセとアロンは行って、イスラエルの子らの長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」

 

一方、主はアロンに現われて言われました。「荒野に行って、モーセに会え。」すると彼は行って、神の山ホレブでモーセに会いました。実に40年ぶりの再会です。モーセはこれまでの経緯をすべてアロンに告げまた。そして、二人が行ってイスラエルの長老たちをみな集めると、主がモーセに語られたことばをみなアロンが民に語り、民の前でしるしを行いました。すると、民は主が言われたとおり信じました。イスラエルの民はモーセが主から遣わされた人として認めたのです。主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて主を礼拝しました。主は決して彼らをお見捨てになりませんでした。400年という長い間苦しんできましたが、主が顧みてくださる時が来たのです。主は、あなたのことも忘れてはおられません。必ず顧みてくださいます。そして、その解決のために手を差し伸べてくださいます。それを待ち望みましょう。

ヨハネの福音書6章16~21節「わたしだ。恐れることはない」

ヨハネの福音書6章から学んでおります。きょうは、16節から21節までの箇所から、「わたしだ。恐れることはない」というタイトルでお話ししたいと思います。私たちは、日々いろいろなことで恐れながら生きています。先週の水曜日の朝、私が仙台に向かっていた新幹線の中でM姉からお電話がありました。ご主人が脳梗塞のため今救急車で病院に運ばれて行きました。祈ってください、というものでした。その声には、どうしたら良いのかわからないというM妹の不安が見えました。ご自分も車椅子での生活のため、ご主人のために何もして差し上げられないという状況の中で、どれほど不安だったかと思うのです。私は仙台にいる間ずっとご主人と奥様のために祈っておりましたが、帰宅した翌日に病院のご主人の許を伺った時ご主人の左手、左足は動き、言葉も以前のように話すことができたので、主が支えてくださったと信じて感謝しました。ご主人とお話しして帰る際、私が、「いや、言葉をしゃべることができて良かったですよ。感謝です。」と言ったら、「口は災いのもとだがんね。」と冗談まで言うのです。「だから配慮が必要なんだね」と。

 

このようなことは突然起こります。そのような時、私たちは本当に無力な存在であることを思い知らされます。いったいどのようにしてそのような不安や恐れに打ち勝つことができるのでしょうか。きょうは、このことについてみことばから学びたいと思います。

 

Ⅰ.湖の上を歩かれたイエス(16-19)

 

まず16節から19節までをご覧ください。

「夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。強風が吹いて湖は荒れ始めた。そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。」

 

「夕方になって」とは、その日の夕方になってということです。その日何があったのでしょうか。その日、イエス様は5つのパンと2匹の魚をもって、男だけで五千人の人々の空腹を満たされました。その日の夕方のことです。イエス様が五千人の給食の奇跡を行われたのも夕食の出来事でしたから、時刻は6時か、7時頃になっていたのではないかと思います。

 

夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行きました。そして、舟に乗り込むと、カペナウムの方へと渡って行ったのです。マタイの福音書とマルコの福音書の並行箇所には、主は弟子たちを、「強いて」舟に乗り込ませた、とあります。強制的にそのようにしたのです。なぜでしょうか?それは弟子たちがまだ霊的には無知だったので、彼らの信仰を試そうとされたからです。あの5つのパンと2匹の魚の話もそうでしたね。6節には、イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであった、とあります。イエス様ご自身は、何をしようとしているのかを、ちゃんと知っておられましたが、弟子たちの霊的な目はまだ開かれていなかったので、これから起こる出来事を通して彼らに霊的真理を教えようとされたのです。それはどのようなものだったのでしょうか。

 

弟子たちが舟に乗り、カペナウムの方へと湖を渡って行くと、すでにあたりは暗くなっていました。弟子たちの心中いかばかりであったでしょうか。暗闇の中で湖の上を漂っていたのです。イエス様もいませんでした。どんなに不安であったかと思います。しかし、それに追い打ちをかけるかのように、不安はピークに達します。強風が吹いて湖は荒れ始めたのです。ガリラヤ湖は内陸にある湖ですが、このように湖が突然荒れるということがありました。というのは、ガリラヤ湖は海面の高さよりも200メートルも低い所にあって、しかも周囲が山で囲まれてすり鉢のようになっているため、時々こうした突風が吹いて来ることがあるのです。そうなると、プロの漁師でさえお手上げでした。弟子たちの中にはかつてこのガリラヤ湖で漁師をしていた人が4人もいましたが、それでもどうすることもできませんでした。19節を見ると、「25ないし30スタディオンほど漕ぎ出したころ」とありますが、これは距離にして約4~5キロメートルほどです。マルコの福音書には、「夜明けが近づいたころ」(6:48)とあります。これは今の時間でいうと午前3時~6時の間のことですから、彼らは既に9時間近くも湖の上で葛藤していたことになります。弟子たちは、自分たちがどれほど無力であるのかを痛感させられたことでしょう。

 

これはちょうど孤独な人生の戦いをしている私たちのようです。どんなに漕いでも前に進まず、先が見えないということがあります。自分一人で戦っているのではないかと思えるような孤独にさいなまれることがあるのです。そんな時自分の弱さというものを痛感させられます。どんなに強がってみたところで、所詮、人間は弱いのです。どうしたら良いかわからなくて悩む時があるのです。

 

その時です。イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。ところが、それを見た弟子たちは、恐れました。なぜ恐れたのでしょうか。幽霊だと思ったからです。マルコ6章49節にそのように記されてあります。彼らは、幽霊だと思って、叫び声を上げました。それもそのはずです。マルコの福音書には、イエス様は湖の上を歩いて彼らのところへ行かれましたが、そばを通り過ぎるおつもりであった、とあるからです。フェイントです。皆さん、想像してみてください。そんな真夜中に、白い服を来た人が湖の上を歩いて来たかと思ったら、スッーと通り過ぎようとしたんですよ。イエス様もイエス様ですよね。弟子たちの乗った舟にバァッと近づいて来て、「大丈夫か・・」と呼びかけてくれたのなら、「主よ。あなただったんですね。大丈夫です。ちょっとはビビったけど・・。」とか言えたと思いますが、スーでしょ。弟子たちが幽霊だと思って、叫び声を上げるのも無理もありません。しかし何と言ってもこの時彼らが恐れたのは、イエス様が水の上を歩いて来られたからです。人間が水の上を歩くなんて考えられません。それは自然の法則を超えています。人はみな何か超自然的でこの世のものではないようなものに突然出くわしたら、誰でも恐怖を感じるものです。特にそれが夜であれば、なおさらのことです。ですから、決してこの時の弟子たちを責めることはできません。

 

しかし、彼らが理解していなかったことが一つだけありました。それは、イエス様は単なる人間ではなかったということです。イエス様は人間以上の方でした。確かに普通の人間なら水の上を歩くことはできないでしょう。しかし、イエス様はただの人間ではありませんでした。人間の姿をとってこの世に来られた神でした。ですから、この方にとってできないことは一つもないのです。最初に水を創造された方にとってその上を歩くことは、それを創造なさるのと同じくらい簡単なことだったのです。むしろ、それができないという方がおかしいのです。

 

ある人たちは、いや、イエス様は実際には水の上を歩いたのではないと言います。ただ弟子たちが勘違いしただけだと言うのです。イエスは、舟に近い岸を歩いていただけだったのに弟子たちの恐怖心から来た迷信によって、そのように思い込んでしまったというのです。でも、そうではありません。イエス様は本当に水の上を歩かれました。それは、マタイの福音書にあるもう一つの事実を見るとわかります。マタイの福音書には、この時幽霊だと思った弟子たちに、主が「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われると、ペテロが、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」(14:28)と言ったことが記されてあります。それで、イエス様が「来なさい」と言うと、ペテロは舟から出て、湖の上を歩いてイエスの方に行きましたが、強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びました。(マタイ14:30)つまり、もしこれが本当に水の上でなかったら、ペテロが沈みかけるということはなかったということです。これは本当に水の上での出来事だったのです。また、もしイエス様が岸から4~5キロメートルも離れたところにいたのであれば、どうやって岸辺を歩いていたイエス様の姿を見ることができたでしょうか。できません。どんなに弟子たちが若かったとしても、4~5キロメートル先までは見えなかったでしょう。視力が8.0、10.0と言われているアフリカのマサイ族でさえ、そんなに遠くまでは見えません。ですから、イエス様が水の上を歩かれたというのは、本当に起こった出来事であり、主の力ある御業だったのです。

 

けれども、弟子たちは、それを見た時幽霊だと思いました。まさか人が水の上を歩くことができるとは思わなかったからです。彼らは、不安と恐れの中で信仰を働かせることができませんでした。彼らはほんの数時間前に驚くべき奇跡を体験していたにもかかわらずです。彼らは、5つのパンと2匹の魚で、男だけで五千人の人たちの空腹が満たされるという主の驚くべき奇跡を体験しました。しかもそれを主のみそば近くではっきりと見ました。その手で配りました。そして、残ったものを数えると12のかご一杯であったことも頭の中に焼き付けていました。それなのに、あたかも主のことを知らず、体験もしていない者と同じような反応をしたのです。せっかく間近で体験させていただいた奇跡が、彼らの信仰の中にちっとも生きていなかったのです。信仰はただ単に頭の中に記憶することでなく、キリストの言葉を実際の生活に適用することが大切なのです。

 

あなたはどうでしょうか。不安や恐れにさいなまれるような状況に置かれた時、どのように対応するでしょうか。目の前の状況に目が行ってしまい、イエス様から目を離してしまうということはないでしょうか。恐れに支配されているということはありませんか。しかし、大切なのは、イエス様を見ることです。そして、そこにすべてを支配しておられる主がおられることを認め、「主よ、助けてください。」と叫ぶことなのです。そうすれば、主が助けてくださいます。

 

Ⅱ.わたしだ。恐れることはない(20)

 

主はどのように助けてくださるのでしょうか。次に、そんな弟子たちに対するイエス様の対応を見たいと思います。20節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。

「しかし、イエスは彼らに言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」

イエス様は、幽霊だと思って恐れていた弟子たちに、「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。イエス様は、弟子たちが恐れているのをご覧になると、まず彼らの心を静めようとされました。どのようにして静めようとされたのでしょうか。主は弟子たちに対して、「わたしだ。恐れることはない。」と言われ、彼らが見ているものは霊や幽霊ではなく、あるいは、敵や恐怖の対象でもなく、彼ら自身が愛してやまないイエス様ご自身であることを示されたのです。弟子たちは、すぐにそれがイエス様であることがわかりました。なぜなら、彼らはいつもイエス様の声を聞いていたからです。声って不思議ですね。見なくてもわかります。最近は「オレオレ詐欺」が流行っているようですが、自分の息子の声でも間違えることがあるんですね。もう息子だと思い込んで聞いていますから、そのように聞こえるのでしょう。それは注意しなければなりません。しかし、イエス様の声は間違えません。どんな声だったかわかりませんが、その声は、彼らの心を静めるのに十分でした。

 

皆さん、私たちも人の声を聞くと恐れてしまいます。あの人はこう言った、この人はこう言ったと、人の声に振り回されると恐れと不安に陥ってしまうのです。でも主の声を聞くなら、私たちを恐れさせる一切のものは消え去るでしょう。イエス様はこのように言われました。

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。」(マタイ10:28-31)

主は、あなたは髪の毛の数さえすべて知っておられます。あなたの髪は何本ありますか?わからないでしょう。あなたでもわからないことでも、イエス様はすべて知っておられます。この主の言葉を常に聞き、すべてのことにおいて主を認めるなら、私たちを恐れさせるものは何もないのです。最も厚い雲と暗闇を貫いて、また、最もうるさい風や嵐を越えて、「わたしだ。恐れることはない。」という主の御声を聞くことができる人は何と幸いでしょうか。

 

ところで、この「わたしだ」という言葉ですが、これは原文のギリシャ語では「エゴー・エイミー」という言葉が使われています。これは、ユダヤ人によく知られていた神の御名です。昔、神がイスラエルをエジプトから救う時、そのためにモーセを遣わされましたが、モーセは一介の羊飼いにすぎない自分に何ができようかと断りました。その理由の一つは、自分がエジプトにいるイスラエル人たちのところへ行き、「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言っても、彼らは「その名は何か」と聞くでしょう。その時何と答えたら良いのか、というものでした。その時、神はモーセにこう仰せられました。

「わたしは『わたしはある』という者である。・・あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」(出エジプト記3:14)

これが永遠にわたる神の名です。それにしても不思議な名前です。どうして不思議に感じるのかというと、これは英語では、「I AM WHO I AM.」となっています。普通、I amの後には何らかの単語が来ますよ。たとえば、I am a student.(私は生徒です)とか、I am a doctor.(私は医師です)というように。 それなのに、ただ I am だけです。日本語に訳せば、「私は~である」です。この「~」がないのです。これはどういうことかというと、神様はほかの何にも依存しない方であるという意味です。自分自身で存在することができる方であられるということです。すべての存在の根源であられます。私たち人間はそうではありません。私たちは何かに依存しなければ生きていくことはできません。たとえば、私たちが生きていくためには水や空気がなければ生きることはできません。また、食べ物も必要です。小さな時は両親の手によって助けられ、自立してからもいつも周りの人に助けられながら生きてきました。年を取ると家族のお世話にならければなりません。人はみなだれかに助けられ、だれかに依存しながらでなければ生きていくことができないのです。けれども神はそうではありません。神は「わたしはある」という方です。ほかの何にも依存しない方、すべての存在の根源であられる方なのです。

 

そして、このヘブル語をギリシャ語に訳した時、そこで使われた言葉が「エゴー・エイミー」なのです。イエス様がここで言われた「わたしだ。恐れることはない」の「わたしだ」です。「It is I」です。イエス様こそ、すべての存在の根源であられる方であるということです。イエス様はこのことをご自分ではっきりと宣言されました。このヨハネの福音書8章58節です。

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から「わたしはある」なのです。』」

イエス様は、「わたしはある」という方なのです。すべての存在の根源であられます。すべて存在の根源であり、すべてを創造された方が、私たちとともにおられるのです。であれば、私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。何も恐れる必要はありません。この方がともにおられますから、何も恐れることはないのです。私たちにとって必要なのは、目の前の問題を見て恐れることではなく、「わたしだ」と言われる主の御声を聞いて、この方を舟の中に迎え入れることです。

 

先日、天国に召されたY姉妹の愛唱聖句は、イザヤ書41章9~10節でした。

「わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

何と力強いみことばでしょうか。葬式でもお話ししましたが、Y姉は、本当に平安のうちに天国に召されました。死を前にして恐れない人がいるでしょうか。どんなに強がって見ても、やはり死ぬことには恐れがあります。ご病気になられてからY姉を訪ねてご自宅を伺ったとき、Y姉はこう言われました。「先生、やはり死ぬことは怖いです。でも、信仰ってすばらしいですね。平安が与えられるんですから。イエス様のもとに行くということがわかっているから、平安があるんです。ただできるだけ苦しまないで行きたいですね。」その言葉通り、最後はあまり強い薬を服用することなく、静かに、眠るようにして、平安のうちに、イエス様の許へ旅立って行かれました。

 

皆さん、信仰ってすばらしいですね。このイエス様の御声をいつも聞いて歩めるのですから。聖書には「恐れるな」という言葉が365回書かれていると言われています。すなわち、一日に一回「恐れるな」と言っていることになります。しかし、もっと大切なことは、その前のイザヤ書41章9節の御言葉です。

「わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。

ここには、なぜ恐れないのか、その理由が書かれてあります。それは、イエス様が私を地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出し、「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった。」と言われたからです。つまり、イエス様が私たちを罪から贖い、ご自身の民としてくださったからです。本当に罪に汚れた小さな者を、神は選んで、退けませんでした。愛してくださったのです。だから、恐れないのです。神が私ともにいますから。たじろぎません。神は私の神だから。神は私を強くし、私を助け、その義の右の手で、私を守ってくださるからです。

 

詩篇56篇11節には、「神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。」とあります。この詩篇の作者は、神様の力を知って、理解していたので、何が起こったとしても神様に信頼すると告白することができたのです。恐れに打ち勝つための鍵は、神様であられるイエス様に完全に信頼する事にあります。つまり、イエス様に信頼する事は恐れに支配される事を拒否する事であるとも言えるのです。神様に信頼するとは、つらくて、つらくてたまらない時にも神様を見上げ、神様が事を解決してくださると信じる事です。このような信頼は神様を知り、神様があなたを罪から贖ってくださった救い主であると信じる事から始まります。聖書に書かれている数々の艱難の中でも特筆されるほどに人生のどん底にいたヨブは、神が私を殺しても、私は神を待ち望む(ヨブ13章15節)と言いました。
神様に信頼する事を学んだなら、私たちを襲ってくる数々の事柄におびえる事はなくなるでしょう。詩篇5篇11節には、「どうかあなたに身を避ける者がみな喜びとこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。」とあります。私たちも主に身を避けるなら、どんなに恐れにさいなまれることがあっても、とこしえまでも喜び歌うようになれるのです。それは、主に身を避けることを知っている者にだけ与えられた、豊かな主の恵みなのです。

 

Ⅲ.すると、舟はすぐに目的地に着いた(21)

 

では、その結果、弟子たちはどうなったでしょうか。21節をご覧ください。

「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。」

 

イエス様の御声を聞いた弟子たちは、喜んでイエスを舟の中に迎え入れました。すると、舟はほどなく目的地に着きました。イエス様抜きではどんなに努力しても徒労に終わってしまう者でも、イエス様を主として心の中に迎え入れる時、私たちはすぐに目的地に到達することができるということです。多くの人々は、イエス様なしでも十分やっていけると思っています。すべてが順調にいっている時は、それでもいいでしょう。しかし、いつもそうであるとは限りません。夫婦関係や親子関係、あるいは他の人との人間関係において、あるいは、職場や学校や家庭の台所で直面する様々な場面において、私たちは常に嵐に遭遇します。そのような時、人間の力というものがいかに弱く、もろいものであるかということを、私たちはこれまでの人生において幾度となく経験してきました。しかし、この方を心の舟に迎え入れ、この方とともに人生の舟を進めていくなら、必ず目的地に到着することができるのです。

 

イエス様は、水や風、嵐や暴風の主であり、最も深い暗闇に包まれた時に、湖の上を歩いて私たちのもとに来てくださる方です。私たちの人生にはガリラヤ湖の波よりも、はるかに大きな問題があります。最もきよいクリスチャンの信仰を試す、暗闇の日々があります。しかし、すべての存在の根源であられるイエス様が私たちを贖ってくださり、私の神となってくださったのなら、決して絶望してはなりません。この方を私たちの人生の主として迎え、この方に信頼して歩むなら、たとい小舟のような小さな者であっても、また、どんなに大きな人生の嵐に遭遇することがあったとしても、なんなくそれを乗り越えて、目的地に到達することができるからです。主は思いもよらない時に、また私たちが予期していなかった方法で、私たちを助けるために来てくださいます。そしてキリストが来られたなら、そこからすべてが始まるのです。あなたも喜んでイエス様を舟に迎えてください。そして、この人生の航路をイエス様とともに進んで行こうではありませんか。

ヨハネの福音書6章1~15節「5つのパンと2匹の魚」

ヨハネの福音書6章に入ります。きょうは、「5つのパンと2匹の魚」というタイトルでお話しします。イエス様が、五つのパンと二匹の魚をもって男の人だけで五千人の人々の空腹を満たされたという奇跡です。この奇跡は、四つの福音書すべてに記録されています。キリストの十字架の死と復活の出来事以外に、四つの福音書すべてに記録されているのはこの奇跡だけです。ですから、これはそれだけ重要な奇跡であったと言えます。これは、ヨハネが記す七つのしるしの第四番目のしるしです。最初のしるしは、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えるという奇跡でした。二番目は、王室の役人の息子の病気を癒すという奇跡でした。そして三番目しるしは、38年も病気で横になっていた人を癒されるという奇跡でした。そして、これが四番目の奇跡です。

 

Ⅰ.信仰のテスト(1-6)

 

まず1節から6節までをご覧ください。

「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」

 

「その後」とは、5章の出来事の後でということです。先ほども申し上げましたが、5章には過越しの祭りでエルサレムに行かれたイエスが、ベテスダと呼ばれる池で38年も病気だった人をいやされたことが記されてあります。そして、そのことがきっかけとなって、イエスはご自分がメシヤであるということを証明なさいました。「その後」です。その後、イエスはガリラヤ湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれました。舞台がエルサレムからガリラヤへと移っています。しかも、4節を見ると、「ユダヤ人の祭りである過越しの祭りが近づいていた」とありますから、5章の出来事から1年近くが経っていたということになります。ヨハネは、この1年間に起こったほとんどすべての出来事を省略し、このガリラヤ湖、すなわちティベリア湖の向こう岸で起こった出来事を記しているのです。

 

ここに、「ガリラヤ湖、すなわち、ティベリア湖」とあるのは、ヨハネがこれを書いた当時、ガリラヤ湖という名称よりもティベリア湖という名称の方が人々によく知られていたからです。これが当時ガリラヤに住んでいた人たちにとってなじみのある呼び名だったのです。

 

イエス様は、なぜティベリアの湖の向こう岸へ行かれたのでしょうか。マルコ6章31節を見ると、イエスが弟子たちに、「あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」とあります。出入りする人が多くて、食事をする暇さえなかったのです。それで弟子たちは舟で向こう岸に行ったのです。ところが、行ってみると、そこには大勢の群衆がイエスについて来ました。群衆は、湖の周りを回って、徒歩で駆け付けていたのでしょう。なぜそんなにも多くの人々がイエスについて来たのでしょうか。それは2節にあるように、「イエスが病人たちになさっていたしるしを見た」からです。何か特別な理由があったからではありません。イエス様のご人格やその教えに驚嘆したからでもないのです。しるしを見て驚いたからです。しるしとは、証拠としての奇跡のことです。イエス様は、ご自身がメシヤであることを示すために多くの奇跡を行いました。それで大勢の群衆がイエスについて来たのです。

これが、この世のほとんどの人が集まって来る理由です。一般に人は無力ですから、自分の人生に何か悩みや問題があるとどうしたらよいか分からなくなり、自分の力を越えた力にひきつけられていくのです。10節には、それは男だけで五千人であったとありますから、女の人や子供たちを合わせるとゆうに一万人は超えていたでしょう。それだけ大勢の人がついて行きました。

 

イエス様は、その大勢の群衆がご自分の方に来るのを見ると、ピリポにこう言われました。5節です。「どこからかパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」なぜこのように言われたのでしょうか。6節にその理由があります。「イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。」

イエス様がこのように言われたのは、ピリポを試すためでした。それはピリポがほかの弟子たちと違って、根性が曲がっているから直して上げようと思ったからではありません。このように言うことでピリポの霊的感覚を呼び覚まし、彼の信仰を訓練しようとされたのです。イエス様は、これから何をなさろうとしていたかを知っておられました。それなのに、あえてピリポにこのように言われたのは、彼を試すためだったのです。イエス様は霊的、精神的必要だけでなく、それに伴う実際的生活のすべての必要を満たされると方であるという信仰を持ってほしかったのです。

 

私たちもどこか、霊的、精神的な必要は信仰で、でも実際の生活は自分で何とかしなければならないと思っているところがあるのではないでしょうか。そのため、実際の生活で問題が起こると、それを信仰と切り離して考えようとするのです。そしてにっちもさっちも行かなくなると絶望して、落ち込んでしまうのです。そうではなく、主は私たちの魂の必要だけでなく、肉体の必要も、またそれに伴う実際的な必要もすべて満たしてくださる方であると信じて、天を仰ぎ、主が成してくださるみわざに期待しなければならないのです。

 

Ⅱ.ピリポとアンデレの対応(7-8)

 

それに対して、弟子たちはどのように答えたでしょうか。まずピリポです。7節をご覧ください。

「ピリポはイエスに答えた。『一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。』」

1デナリは、1日分の労働者の賃金に相当します。ですから、200デナリとは、労働者の賃金200日分に相当する金額です。仮に1日1万円の賃金だとすると200万円となります。ピリポは、めいめいが少しずつ取るにしても、200万円分のパンがあっても足りません、と答えました。ピリポはとても理性的、現実的な人でした。男だけで5千人、女の人や子供を合わせるとゆうに1万人は超えるので、このような数字を提示したのでしょう。彼の頭には計算機があって、ピッ、ポッ、パッとはじき出し、「だから無理です、不可能です。」と結論づけたのです。

 

常識的にはそうだったかもしれません。しかし、それが彼の欠点でもありました。彼は、現実的にしか物事を見ることができませんでした。しかし、イエス様が求めた答えはそのように人間の頭で計算して「だからだめだ」と結論付けるのではなく、そうした考えを超えて、神を求める者に、神はすべての必要を満たしてくださるという信仰を持つことでした。もしそこに信仰の目があれば可能な面を見ることができたはずです。主がおられるなら、主が何らかの解決を与えてくださると信じて祈り求めたことでしょう。でも彼は現実的にしか考えることができませんでした。それで「二百デナリのパンでは足りません」と答えたのです。私たちも、ピリポのように、自分の頭で考えて、「だからだめだ」と結論付けることがあるのではないでしょうか。

 

次に、シモン・ペテロの兄弟アンデレです。アンデレはイエス様にこう言いました。9節です。

「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」

アンデレの対応はピリポとは少し違いました。彼は、大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年をイエス様のもとに連れて来ました。もしかすると何とかなるかもしれないと思ったのかもしれません。しかし、結局のところ彼も、「でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」と結論付けています。彼も信仰を働かせることができませんでした。これっぽっちでは何の役にも立たないと勝手に決め込んで、あきらめていたのです。私たちもアンデレのような態度をすることがあります。「たったこれだけでいったい何になるというのか、無理だ、だめだ、できない」と、最後は否定的な言葉を口にしてしまうのです。

 

Ⅲ.余りは12かご(10-15)

 

それのような弟子たちに対して、イエス様はどのようにされたでしょうか。10節から15節までをご覧ください。

10節には、「イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。」とあります。

イエス様はまず人々を座らせました。どうして座らせたのでしょうか。落ち着かせるためです。ルカの福音書には、50人ずつ組みにして座らせたとあります(9:15)。大勢の人々が集まる時はとても大切な配慮です。このようにすることで混乱を防ぎ、秩序を維持することができるからです。

そうして、イエス様はパンを取ると、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられました。(11)。 魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられました。イエス様は、父なる神への感謝を忘れませんでした。そして、弟子たちを用いて配られたのです。

 

するとどうなったでしょうか。12節と13節をご覧ください。

「彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。」

「彼らが十分食べたとき」というのは、彼らが満腹したという意味です。これはこの奇跡が現実のものであったことをよく示しています。実際には食べてもいないのに食べたかのように思い込んだというのではなく、実際に食べて満腹したのです。どういうことでしょうか。この出来事を合理的に説明しようとする人たちは、実は大人たちも自分の弁当を持っていたのに、出さないでいたところ、子どもが自分の弁当を出したので、恥ずかしく思い、自分の弁当を出したので、みんな満腹したのだ、と考えます。しかし、これはそういうことではありません。これは奇跡なのです。本当にあったことなのです。その証拠に、余ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになりました。5つのパンと2匹の魚だけでは、一つのかごもいっぱいにはならないでしょう。それなのに、食事の後に余ったパン切れが12のかごいっぱいになるほどであったというのは、明らかに、それが配られている間に奇跡的にパンが増えたことを物語っています。この余ったパン切れだけでも、食事をする前にあった5つのパンの、おそらく50倍もの量であったでしょう。マルコは、パン切れだけでなく、かごに入れられた魚の残りもあったと述べています。したがって、パンとともに魚も奇跡的に増し加えられたのです。

 

いったいこれはどういうことでしょうか。14節をご覧ください。ここに、その結論がこう記されてあります。

「人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。」

「人々」とは、この奇跡を目の当たりにした人々のことです。その人々は、イエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました。「世に来られるはずの預言者」とは、申命記18章15節に約束されている、「モーセのような預言者」のことです。それは、来るべきメシヤ、救い主のことを指し示していました。

 

つまりこの奇跡は、イエスこそ旧約聖書が預言していたメシヤであるということを示す証拠だったのです。特にこの奇跡においては、イエス様が単に壊れたものを治したり、崩れたものを建て直したり、病んでいる人をいやしたり、弱い者を強めたりすることができるということだけでなく、それまで何も無かったところから新しい何かを造り出すことができる創造者であられるということが強調されています。主は、私たちの必要を十分に満たすことができる方なのです。余ったパン切れが12かごであったというのは、「12」という数字が「7」という数字と同じように完全数であることから、これが十分であるということ、完全であるということを表しています。皆さん、信じますか。主はあなたの必要を十分に満たすことができる方なのです。

 

先日の教会総会でビジョン2025について話し合いました。それは2025年までに新しい教会を生み出すというものです。現状を見るなら無理だと感じた方もおられたでしょう。私の中にも、「大丈夫だろうか、どうやってそれができるんだろう」という思いがあります。しかし、大切なのは私たちがどのような者であるかとか、どのような状況にあるのかということではなく、何を第一にしているかということです。神の国とその義とを第一にするなら、神はそれに加えてすべてのものを与えてくださいます。イエス様はこのように言われました

「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:25-34)

罪深いこの世界においては、目に見えるものがすべてです。食べ物、飲み物、着物、お金、そうしたものに縛られながら生きています。しかし、これらのものが私たちの罪を赦し、心を満たし、良心をきよめ、平安を与えることはできるでしょうか。できません。私たちの心も体も満たすことができるのは十字架につけられたイエス・キリストと、その死によって成し遂げられた贖いを信じる信仰だけです。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられるのです。

 

よく信仰は日常生活が心配のない、安定した人々がする趣味か娯楽のようなものだと考えている方おられますが、決してそうではありません。むしろ、そうした心配が尽きないこの世の現実の中にあって、神の国と神の義を第一に求めていくことで、神がこれらのすべてを与えてくださるという生ける神を体験することなのです。

 

パウロは、こう言っています。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)十字架のことば、キリストの福音は、すべての人の、すべての必要を満たすのに十分なのです。

 

であれば、私たちは、私たちにあるものを主に差し出そうではありませんか。それがたとい5つのパンと2匹の魚のようなわずかな者であっても、それを主が握られるとき、主はそれを何倍にも祝福してくださいます。このわずかな食べ物をイエス様のもとに持って来たのはアンデレでしたが、それは一人の子供のひとり分の弁当にすぎない本当に小さなものでした。しかし、それが主の御手に握られると、男だけで五千人の空腹を満たすことができました。私たちも何の力のない、本当に取るに足りない小さなものですが、それがイエス様の手に握られるなら、子供ひとり分の弁当のような存在でも、主は大きく用いてくださいます。大切なのは、私たちがどのような者であるかということではなく、誰に握られているかということです。

昔、モーセがエジプトに捕らえられていたイスラエルを救い出すために召されたとき、彼は「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト記3:11)

「彼らは自分の言うことを信じず、自分の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、「主はあなたに現われなかった。」と言うでしょう。」(出エジプト記4:1)その時、自分はどうしたらいいんですか?

すると主は言われました。「あなたの手にあるものは何か」(出エジプト記4:2)

「杖です。」

主は、「それを地に投げよ。」と言われました。するとそれは蛇になりました。自分は何も持っていないと思っていたモーセでしたが、彼には神の杖があったのです。

私たちも自分には何もないと思っています。こんなわずかなものが何になるだろうと思っているかもしれません。でも、それがどんなにわずかなものでも、信仰をもって主に差し出すなら、主はそれを用いて大いなる御業を成してくださるのです。

私たちの手にあるものは何でしょうか。信仰によってそれを主に差し出しましょう。主は満たしてくださると信じて、主の御業を待ち望みましょう。イエス様が第四のしるしとしてこの奇跡を行ったのは、あなたがこの信仰に生きるためだったのです。

 

ヨハネの福音書5章30~47節「キリストを証しするもの」

ヨハネの福音書5章から学んでおります。イエス様はベテスダの池で38年間も病気で横になっていた人をいやされると、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」と言われました。するとユダヤ人たちは、ますますイエス様を殺そうとしました。それはイエス様がご自分を神と等しくされたからです。

 

そこでイエス様は、確かにご自身が神の子であると証言されました。しかし、モーセの律法によると、あることを証明するためには二人または三人の証言が必要とされていたので(申命記17:6)、イエス様は、きょうの箇所で四つの証言を取り上げ、ご自身が神の子メシヤであることを証明されるのです。

 

Ⅰ.四つの証言(30-39)

 

まず、30節から35節までをご覧ください。

「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。」

 

まず、イエス様はバプテスマのヨハネの証言を取り上げます。彼の証しについては、既に1章19節からのところで見てきました。彼は、当時、キリストではないかと人々から思われていたほど偉大な人物でした。しかし、その彼が、「私はキリストではありません」(1:20)とはっきりと否定し、「私その私の方は私の後から来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と証ししました(1:27)。イエス様はここで再びそのヨハネの証しを取り上げているのです

33節には、「あなたがたはヨハネのところに人を遣わしました。そして彼は真理について証ししました。」とあります。また35節には、「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました」とあります。ここでヨハネのことが過去形で書かれてあるのは、おそらくイエス様がこのことを語られた時、すでに彼はヘロデ王に殺されていたからではないかと考えられます。しかしこの殉教者ヨハネの忠実な証しを、イエス様は決してお忘れにはなりませんでした。その証しを高く評価されたのです。私たちはこのことに心を留めたいと思います。私たちも、この世では何の評価も受けることのない小さな者に過ぎませんが、主はこのような者の証しを高く評価して用いてくださいます。いったいそれはどうしてでしょうか。

 

その理由が34節にあります。「わたしは人からの証しを受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。」新改訳第三版には、34節の冒頭に「といっても」という言葉があります。「といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。」確かにヨハネの証しは高く評価されるものですが、だからといって、イエスが神であるということを立証するために人からの証を必要としているわけではないということです。イエス様がここでヨハネの証言を取り上げ、これらのことを言ったのは、「あなたがたが救われるため」、すなわち、ユダヤ人たちが救われるためでした。彼らが救われるためにヨハネの証言が必要だったのです。彼らがバプテスマのヨハネが証ししていたことを思い出し、「ああ、そう言えば、あのバプテスマのヨハネも言っていた」と思い出し、救われるためです。つまり、私たちの証しは本当に小さなものですが、主はこのような小さな者の証しさえ人々の救いのために用いてくださるということです。

 

一昨日、さくらチャーチのY姉が天に召されました。昨年6月に末期の膵臓癌であることが判明してから8か月、神様に守られて実に安らかな日々を過ごされまた。ご主人の死をきっかけに教会に導かれキリストの信仰に導かれたのは60歳の時でした。数々の試練がありましたが、それでも毎朝早く起きて聖書に向かい、聖書通読に励みました。そのためか礼拝の中で祈っていただくと語られた聖書のことばを的確にとらえることができただけでなく、それをご自分の生活に適用することができました。先輩のクリスチャンからは「聖書を読むだけではね・・・」と言われましたが、確かに聖書を読むだけでは変わらないかもしれません。しかし、聖書全体の流れを掴むことができ、聖書が語っているイエス・キリストの恵みに生きることができました。回りの方が「悩んでいると「大丈夫だから、イエス様にゆだねればイエス様が解決してくれるから」と言って励まし、そのことばをご自分でも生きられました。そのため、病の中にあっても実に平安でした。それは死をも乗り越えていました。Y姉が書かれた証の最後には、このヨブ記のみことばが記されてありました。

「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

T姉の信仰は目立たない小さな証であるかのようでしたが、その証に多くの人々が励まされ、中には信仰に導かれた方もおられます。私たちもそのような者でありたいと思います。私たちも本当に小さな者にすぎませんが、主はこのような忠実な証を用いてくださるのです。

 

次にイエス様が取り上げておられる証言は、ご自身が行っているわざそのものです。36節をご覧ください。

「しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。」

この「わざ」とは、具体的には奇跡のことです。これまでにイエス様は、水をぶどう酒に変えたり、王室の役人の息子をいやしたり、ベテスダの池で、38年間も病気で横になっていた人をいやされました。6章に入ると、 5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人の人たちの空腹を満たされる奇跡を行われます。また、10章には死んだラザロを生き返らせる奇跡も行われます。いったいこれらの奇跡は何のために行われたのかというと、イエスが神の子、メシヤであることを証明するためでした。

 

当時のユダヤ人たちは、そのようなイエス様が行われたわざを否定することはしませんでしたが、それを見た人たちがイエス様を信じないようにその意味を変えました。つまり、イエスが行われた業は悪霊によって行われたと言って、ごまかそうとしたのです。

今日でも聖書の中に出てくる奇跡を受け入れることができない人がたくさんいます。そんなことは自然の法則では考えられないし、そんなものを受け入れたら自然法則そのものが破壊されてしまうと言うのです。しかし、奇跡を認めることは決して自然法則を無視することとではありません。なぜなら、奇跡というのは自然に反するものではなく、自然を超えていることだからです。神様は元々この天地万物を創造されましたが、それをどのように保っておられたのかというと自然の法則によってです。ですから、自然の法則そのものは与えられたものなのです。しかし、神は万物の主として、時として危機的な状況に思われる時や、特別にご自身のご介入が必要だと思わた時には、超自然的な御業行われたのです。ですから、奇跡は自然に反しているのではなく、自然を超えているのです。

 

ですから、それはむやみやたらと起こることではありません。確かにどの時代でも神の奇跡的なみわざが見られますが、聖書を見ると、奇跡が集中的に起こった時代が4回あったことがわかります。一つは、出エジプトの時です。それは紀元前1,400年頃のことですが、モーセを通してイスラエルがエジプトから救い出される時、神は様々な奇跡を通して圧倒的な力を見せられました。モーセが手を上げて祈ると紅海が二つに分かれ、目の前に乾いた所が現れてそこを通って救われました。彼らが荒野に導かれると食べ物や飲み物がなくて苦しん見ましたが、神は天からマナを降らせて養ってくださいました。パンだけでは足りない、肉も食べたいと言うと、今度はうずらも降らせました。水が無くて苦しい時は、岩から水がほとばしり出るようにされました。どうしてこのような奇跡が起こったのでしょうか。これはイスラエルの歴史において極めて重要な時だったからです。神のご計画はイスラエルを救い出し、約束の地へ導くことだったのです。それはやがて来られるキリストが、私たちを罪から救ってくたさることを示していたからです。

 

次にエリヤとエリシャどの預言者の時代です。紀元前900年頃です。その時代の特筆すべき出来事は、エリヤがバアルの預言者450人と戦ったことです。本当の神は火をもって答えてくださる神です。主こそ神であるということを示すために、主は火をもって答えてくださり、祭壇の上に用意した雄羊も、その上に注がれた水もすべてなめ尽くすように焼いてしまいました。これは当時のイスラエルが、バアル礼拝による本当の神礼拝の危機に直面していたからです。それで神は奇跡をもってご介入くださったのです。

 

第三は、イスラエルの民がバビロンに捕らえられていた時代です。紀元前580年頃のことです。ネブカデネザルの金の像を拝まなかったダニエルの三人の友だちシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは燃える炉の中に投げ込まれました。しかし、神は彼らをその炉の中から助け出してくださいました。それでネブカデネザル王は、ダニエルの神こそまことの神であることを知りました。この時代は生きておられるまことの神への信仰が、異教の地で危機に直面していたので、神は奇跡的なみわざをもってご介入くださったのです。

 

そして第四は、イエス様が生きておられた時代です。それは神が人となって来られた時です。神が人となって来られたことを証明するために、キリストは神としてのみわざを成されました。それが証拠としての奇跡です。

 

このように見てくると、奇跡がこうした四つの時代に集中したのは、神の奇跡的なご介入を必要としていたからであったことがわかります。それは、今日は奇跡が起こらないということではありません。いつの時代においても、神のご介入が必要な時には起こります。しかし、この奇跡の目的がイエスは神の子キリストであることを証明するためであったということを思うとき、むしろ聖書に記されてあるキリストのみわざを受け入れて信じることが重要であると言えます。

 

三つ目の証は何でしょうか。37節をご覧ください。ここには、「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。」とあります。

三つ目の証しは、父なる神の証しです。父なる神ご自身が、キリストについて証しをしてくださいました。イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けると、天から声がありました。「そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)これが、父なる神の証言です。

 

キリストを証しする第四のものは、聖書そのものです。聖書そのものがイエスについて証言しています。39節をご覧ください。ここに、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」とあります。ここでいう聖書とは、旧約聖書のことです。ユダヤ人たちは聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べていましたが、その聖書は、実はイエス様のことを証ししていました。それなのに彼らは、その中心であるイエスに出会っていなかったというのは、なんという悲劇でしょうか。

 

私たちも、聖書を読むときに注意しなければなりません。もし聖書がただの人生訓として読んだ理、自分の教養を増やすためのものとして読むとしたら、聖書の本質をとらえることができなくなってしまいます。でも、イエス様は、「その聖書は、わたしについて証ししているのです」と言われました。聖書は、イエスについて証言しているのです。イエスこそ、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださる救い主である・・と。これは、決して動かしてはいけない聖書の軸です。このイエスの救いのみわざを通して読むときに、本当の意味で聖書を理解することができるようになるのです。

 

Ⅱ.キリストの証を受け入れない理由(40-44)

 

では、なぜ彼ら(ユダヤ人)はキリストの証しを受け入れることができなかったのでしょうか。40節から44節までをご覧ください。ここには、彼らがキリストの証しを受け入れることができなかった3つの理由が挙げられています。

 

第一に、彼らはキリストのもとに来ようとしませんでした。40節にこうあります。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

彼らは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って聖書を調べていましたが、肝心のキリストのところに来ようとしませんでした。ここに、多くの人々がキリストを信じようとしない理由があります。それはキリストのもとに行こうとする意志がないということです。キリストのもとに行こうという気持ちもなければ、行きたいとも思っていません。本当に救われたいという思いがあるならば、その人は自ずとキリストのみもとに来るはずです。つまり、人が救われない本当の原因は、聖書が難しいからでも、毎日忙しくて時間がないからでもありません。また、聖書がある特定の一部の人たちだけのものだからでもありません。神から無条件に差し出されている救いの招きに対して、それを受け入れる意思がないからなのです。

 

先日、ある未信者のご婦人から電話の相談がありました。数年前に自分のへそくりで株を初めかなり儲けましたが、昨年大きな損失を出してしまい、寝ても覚めても株のことで頭が一杯になっているがどうしたら良いかということでした。当然、家族のことを顧みる余裕もありません。夫とはほとんど会話もなく、近くに住んでいる孫が来ても株のことが気になって、正直来てほしくないという気持ちになるのです。

「株をやることが問題ではありませんが、株に縛られているのが問題ですよ。もっと大切なものを求めた方がいいんじゃないです。」と言うと、「もっと大切なものって何ですか」と言われたので、「私は牧師なのではっきり言いますが、それはイエス・キリストです。永遠のいのちです。このまま株をやり続けたら破滅に至ります。でもイエス・キリストを信じるならいのちに至ります。」と言うと、「それってキリスト教になるということですか」と言われるので、どうしようかな、いろいろ説明しても混乱すると思ったので、「はい、そういうことです。しかし、キリスト教になるとかならないということではなく、それを求めることが必要です。どうぞ近くの教会に行ってみてください。」と勧めました。すると意外にも、「はい、わかりました。」と言って教会に行かれたのです。歩いても生けるところに福音的な教会があって、その教会では水曜日に水曜礼拝が行われていたので、それに行きました。

翌日、メールが来まして、こう書かれてありました。

「お金より大事なものって、結局何なのでしょうか・・・?大きなお金を失ってまで気づく大事な事はあるのでしょうか。今朝目をつけていて、でも買わなかった株が、今日一日で10万円以上上がっていて、買っておけばよかったと、まだ思ってしまい、、、。昨年の失敗をいい教訓に、これから慎重に銘柄を選んだり頑張れば少し取り戻すことはできるのではないかと、少し思いますが、時間はとられます。今、損をしたままやめてしまっても、このあとの人生、そういうものが見つかると思っていいのでしょうか?もし、分かりやすい言葉で、それが何か教えていただけるのであれば、教えていただきたいと思いまして、大変厚かましいのですが、メールをさせていただきました。」

そこで私は、星野富弘さんが書いた詩で「いのちよりも大切なもの」を紹介し、それがイエス・キリストであることと、それはお金を失ったとしても真に満足と平安を与えてくれるものです」と伝えると、「よく分かりました。頑張って、教会に通ってみたいと思います。星野さんがイエス・キリストに出会われていたことも知りませんでした。詩集も読んでみます。本当にありがとうございました。また、何かありましたら、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。」と書いてありました。

私はそのメールを見てとてもうれしかったです。何のために生きているのかがわからなかった方が、イエス様を求めて教会に行くようになったのです。これってすごいことだと思うのです。どうして彼女は教会に行こうと思ったのでしょうか。それは彼女が求めていたからです。このままではいけない、何とかしなければならない、どうしたらいいのか、そこでイエス様のことを聞き、行きたいと思うようになったのです。私の知っている限り、その後日曜日に続いて行っておられます。どんなにお話ししても、その人の中に行きたいという思いがなければ行くことはできません。難しいからではありません。理解できないからでもないのです。行こうという意志があるかどうかです。もし行こうという意志があれば、もっと知りたいという思いがあれば、必ずわかるようになります。

 

ちなみに、彼女に送った星野富弘さんの「いのちよりも大切なもの」という詩は、このような詩です。

「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。 いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった」

この「いのち」とは肉体のいのちのことです。また、お金や名誉や財産といったこの世のものを指しています。それが一番大切だと思っていたころは生きるのが苦しかった。でもいのちよりも大切なもの、これはイエス・キリストのことです。永遠のいのちのことです。それがあると知った日生きるのが嬉しくなりました。

あなたもこのいのちよりも大切なものを求めてみませんか。そうすれば、生きるのが嬉しくなりますから。

 

第二の理由は、神からの栄誉を求めないで、人からの栄誉を求めていることです。41節をご覧ください。ここには「わたしは人からの栄誉は受け入れません。」とあります。だれからの栄誉を受け入れるのですか。44節です。「唯一の神からの栄誉」です。イエス様は、人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めました。しかし、ユダヤ人はというと、反対に神からの栄誉を求めないで、人からの栄誉を求めていました。そういう人が、どうして信じることができるでしょうか。確かに神の栄誉よりも人の栄誉を求めている間は、本当の信仰を持つことはできないでしょう。そうした名声や評判が障害になって、イエス様のもとに来るのを妨げてしまうからです。

 

第三の理由は、42節と43節にあります。「しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」

つまり、神への愛がないということです。彼らの関心は自分のことだけでした。ですから、キリストがほかの人の名で来たのであれば、受け入れたでしょう。たとえば、家内安全、商売繁盛の神だったら喜んで受け入れたでしょう。家内安全、商売繁盛を願うことが問題なのではありません。しかし、そのようなことを願うだけで真の神を求めていないとしたら問題です。それは神ではなく自分を愛しているだけです。彼らの関心はこの地上のことだけです。

 

パウロは、ピリピ2章21節でこう言っています。「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」こうした傾向は世の終わりが近づけば近づくほど顕著になっていくでしょう。なぜなら、世の終わりの最大のしるしは、「多くの人の愛が冷える」ことだからです。イエス様はマタイの福音書24章で、世の終わりが近くなると偽預言者が現れて、多くの人を惑わし、不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えて行くと言われました。だれもイエス・キリストのことを求めないで、自分が良ければいいという時代に入って行きます。いや、もうそのような時代に入っています。このような心で、どうして信じることができるでしょうか。

 

皆さんはどうですか?聖書からイエス・キリストについて学んでも、なかなか信じることができないという方がおられるでしょう。それは聖書が難しいからでも、神様のことがわからないからでもありません。それはあなたの心に問題があるからです。つまり、キリストのもとに行こうという気持ちがないこと、また、神からの栄誉ではなく人からの栄誉を求めていること、そして、神を愛しているのではなく自分を愛していることです。そのような状態でどうして信じることができるでしょうか。信仰とは、聖書が教えているキリストを虚心坦懐に受け入れ、この方に対して純粋な思いを持つことから始まります。自我が砕かれ、イエス様を救い主として受け入れることができるように求めましょう。

 

Ⅲ.聖書を信じる(45-47)

 

ですから結論は何かというと、聖書を信じましょう、ということです。45節から47節までをご覧ください。

「わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」

 

ここに「モーセ」が出てきます。「モーセ」とは何でしょうか。モーセとはモーセが書いた書、つまりモーセ五書のことです。広い意味では旧約聖書全体のことを指しています。当時のユダヤ人はモーセの書を信じていました。であれば、キリストをも信じたはずです。なぜなら、モーセが書いたのはキリストのことであったからです。聖書を学べば学ぶほど、聖書を知れば知るほど、キリストのもとに来るようになるはずなのです。それなのに、そうでないとしたら、どこかおかしいのです。つまり、彼らは本当の意味で聖書を知らなかったということです。聖書読みの聖書知らずということが起こっていました。どうしてでしょうか。悪魔によって覆いが掛けられているからです。このことについてパウロはこう言っています。

「しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14~18)

どんなにモーセの書が読まれても、そこにキリストを見ない限り、その覆いが取り除かれることはありません。しかし、人が主に向くなら、その覆いは取り除かれます。今日、聖書に対する破壊的な批評や攻撃がなされるのは、この覆いが取り除かれないようにする、まぎれもない悪魔の攻撃があるからです。聖書の権威を否定し、聖書を人間の著作と少しも変わるところのないものとする考えが、幅を利かせているのです。それは、人々からこの覆いが取り除かれないようにしている悪魔の巧妙な策略です。ですから、私たちは聖書は神のことばであると信じ、もう一度聖書に立ち返り、キリストのみもとに来なければなりません。そうすれば、私たちの心から覆いが取り除かれ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。キリストに対する純粋な思いがあれば、キリストについての証を受け入れ、必ずや純粋な信仰を持つことができるようになるのです。

 

あなたもキリストを証しするこれらの証を受け入れてください。受け入れてキリストのもとに来てください。そして、永遠のいのちを受けてください。もう既にキリストを信じている人でもキリストから離れていることがあります。そういう人がいたら、キリストについてのこれらの証を受け入れ、ここにいのちがあるという確信を持ち、キリストに深く信頼して歩みましょう。

士師記18章

士師記18章からを学びます。1節から10章までをご覧ください。まず6節までをお読みします。

 

Ⅰ.ダン部族の偵察隊(1-10)

 

「そのころ、イスラエルには王がいなかった。ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった。そこでダン族は、彼らの諸氏族全体の中から五人の者を、ツォルアとエシュタオルから勇士たちを派遣し、土地を偵察して調べることにした。彼らは五人に言った。「行って、あの地を調べなさい。」五人はエフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこで一夜を明かした。ミカの家のそばに来たとき、彼らはあのレビ人の若者の声に気づいた。そこで、彼らはそこに立ち寄り、彼に言った。「だれがあなたをここに連れて来たのですか。ここで何をしているのですか。ここに何の用事があるのですか。」彼は、ミカがこれこれのことをして雇ってくれたので、ミカの祭司になったのだ、と言った。彼らは言った。「どうか神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」

 

1節に再び、「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」とあります。17章において、王がいな

かった時代、イスラエルがどのような状態であったかを見ました。それは「混乱」でした。何をしているのかわからないと状態でした。彼らはそれぞれが自分の目に正しいと見えることを行っていました。自分では正しいと思うことであっても、実際には神のみこころから外れたことを平気で行っていたのです。前回はそれをミカという人物から見ましたが、今回はダン族の堕落から見えます。

 

1節には、「ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった。」とあります。ヨシュア記を見ると、ダン部族にはすでに相続地が割り当てられていたことがわかります。(ヨシュア19:40-48)それなのにここに、ダン部族には相続地が割り当てられていなかったとはどういうことなのでしょうか。それは、彼らに与えられた相続地はペリシテ人が住む地中海沿岸の地域だったので、その地を征服することができないでいたということです。相続地はあくまでも神からの約束であって、実際には自分たちでその地を征服しなければなりませんでした。しかし、彼らにはそれができないでいました。それで彼らは別の場所に相続地を得るために、5人の偵察隊を派遣して候補地を探らせたのです。すると彼らは、エフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこに泊まりました。

 

彼らがミカの家のそばに来たとき、あのレビ人の若者の声に気づきました。以前どこかで会い面識があったのでしょうか、すぐにあのレビ人の声だと気付きました。彼らは、この若者がミカの家の祭司になっていることを知ると、自分たちの旅が成功するかどうか、神に伺ってほしいと頼みます。神の幕屋が設置されたシロが近くにあったにもかかわらず、彼らは大祭司を通してお伺いを立てることを無視し、このレビ人に尋ねたのです。

 

するとミカの祭司は彼らに言いました。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」これも、いい加減な答えでした。なぜなら、主は彼らがしているこの旅を認めていなかったからです。主が願っておられたのはその地の住人を追い払うことであり、他に土地を求めることではありませんでした。彼はアロンの直系ではありませんでしたから、元々祭司の資格がなかったというのが問題ですが、祭司であったとしても、その務めは人々のしていることを神の名によって認めることではありません。ここにも一つの混乱が見られます。神の名によって人々の願望を宗教的に認めようとする肉の性質が現れています。

 

次に7節から10節までをご覧ください。

「五人の者たちは進んで行ってライシュに着き、そこの住民が安らかに住んでいて、シドン人の慣わしにしたがい、平穏で安心しきっているのを見た。この地には足りないものは何もなく、彼らを抑えつける者もいなかった。彼らはシドン人から遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかった。五人の者たちが、ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、身内の者たちは彼らに、どうだったか、と尋ねた。彼らは言った。「さあ、彼らに向かって攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実にすばらしい。あなたがたはためらっているが、ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。あなたがたが行くときは、安心しきった民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡してくださった。その場所には、地にあるもので欠けているものは何もない。」」

 

その5人の者たちは北に進んで行きライシュに着きました。ライシュはヘルモン山の南側の麓付近にあります。そこの住民は安らかに住んでいて、どことも軍事同盟を結んでいる様子もなく、戦う用意もなかったので、征服するには最適であるように見えました。そこで彼らは、ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、「あの地を占領しよう」と報告しました。それは彼らが安心しきっているというだけの理由ではありませんでした。その地は実にすばらしく、広々としており、何と言っても、神がそれをあなたがたの手に渡してくださったというのがその理由でした。

 

しかし、ここにも誤解がありました。神がその地を与えてくださったというのは勝手な思い込みにすぎず、神から出た信仰の戦いはヨシュアによって割り当てられた地を占領することだったからです。ですから、このダン部族の戦いは、彼らの不信仰によってもたらされた勝手な戦いにすぎませんでした。状況が良いからといってそれが必ずしも神の御心であるとは限りません。信仰の土台がしっかりしていなければ、結局のところ、それは信仰の誤解で終わってしまうことになるのです。

 

Ⅱ.混乱(11-20)

 

次に11節から20節までをご覧ください。

「そこで、ダンの氏族の者六百人は、武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営した。それゆえ、その場所は今日に至るまで、マハネ・ダンと呼ばれている。それはキルヤテ・エアリムの西部にある。彼らはそこからさらにエフライムの山地へと進み、ミカの家に着いた。ライシュの地を偵察に行っていた五人は、身内の者たちに告げた。「これらの建物の中にエポデやテラフィム、彫像や鋳像があるのを知っているか。今、あなたたちは何をすべきか分かっているはずだ。」そこで、彼らはそこに行き、あのレビ人の若者の家、ミカの家に来て、彼の安否を尋ねた。武具を着けた六百人のダンの人々は、門の入り口に立っていた。 あの地を偵察に行った五人の者たちは上って行き、そこに入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は、武具を着けた六百人の者と、門の入り口に立っていた。これら五人がミカの家に入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取ったとき、祭司は彼らに言った。「何をしているのですか。」彼らは祭司に言った。「黙っていなさい。手を口に当てて、私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭司となりなさい。あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか。」祭司の心は躍った。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行った。」

 

そこで、ダン族の者600人は、武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営しました。彼らは、部族の先鋒として群れの先頭に立っていたのでしょう。そして、そこからさらにエフライムの山地にあるミカの家に到着しました。そして、先にライシュを偵察に行った5人の者が、ミカの家にエポデやテラフィム、彫像や鋳造があることを告げると、全員でそこに上って行き、それらを略奪しました。これらの物は、元々ミカが母親から盗んだ銀によって作られたものですが、今度はそれが他の人の手によって盗まれてしまったのです。何とも皮肉な結果です。それにしてもダン族もイスラエル部族の一つです。その部族がこんな偶像を略奪していったい何になるというのでしょうか。彼らは、ミカの家にあった偶像に心を魅かれていたのです。これが自分たちのお守りになると思っていました。まことの神を信じている者にとっては考えられないことですが、こういうことが起こるのです。

 

そればかりではありません。彼らは祭司をもミカから奪いました。祭司も祭司です。「あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか」と尋ねられると、「祭司の心は踊った」とあります。ミカの家にいるときはお金に引き寄せられましたが、今度は栄誉に引き寄せられました。部族や氏族の祭司になることができる、という言葉に魅かれたのです。それでこの祭司は、主人を裏切り、エポデとテラフィムと彫像を盗み、彼らの中に入って行きました。

 

何が起こっているのかさっぱり理解できません。すべてが混乱しています。人の手で作った偶像が、自分たちを守ってくれるはずがありません。それなのに、ダン族の者たちはこれらの偶像に心がひかれていましたし、祭司も祭司で、地位や名誉に心がひかれ、主人ミカを裏切ったばかりか、そこにあった偶像を盗みました。この祭司は、所詮雇われた祭司にすぎません。彼は裏切り者で、盗人でした。すべてが混乱しています。異常事態です。いったい何が問題だったのでしょうか。それは、「イスラエルには王がいなかった」ことです。それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたことです。彼らはイスラエルの神を捨てていたのではありません。自分たちでは信じていたつもりでした。しかし、神の御言葉に聞かなかった結果、カナンの神々を礼拝するという混合宗教に陥っていたのです。しかし、これは何もイスラエルの民だけのことではありません。私たちにも言えることです。私たちも神の御言葉に聞き従うのではなければ、自分の目に良いと見えることを行うようになり、同じような過ちに陥ってしまうことになります。

 

Ⅲ.ダン族がもたらした不幸(21-31)

 

最後に、21節から31節までを見て終わりたいと思います。まず21節から26節までをご覧ください。

「彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行った。彼らがミカの家からかなり離れたころ、ミカは近所の家の者たちを集めて、ダン族に追いついた。彼らがダン族に呼びかけると、ダンの人々は振り向いて、ミカに言った。「あなたはどうしたのだ。人を集めたりして。」ミカは言った。「あなたがたは、私が造った神々と、それに祭司を奪って行きました。私のところには何が残っているでしょうか。私に向かって『どうしたのだ』と言うとは、いったい何事です。」ダン族はミカに言った。「あなたの声が私たちの中で聞こえないようにしなさい。そうしないと、気の荒い連中があなたがたに討ちかかり、あなたは、自分のいのちも、家族のいのちも失うだろう。」こうして、ダン族は去って行った。ミカは、彼らが自分よりも強いのを見てとり、向きを変えて自分の家に帰った。」

 

「彼ら」とはダン族のことです。彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行きました。するとミカは、近所の家の者たちを集めて、ダン族のあとを追います。彼らはダン族に呼びかけますが、多勢に無勢です。逆に脅しをかけられ、そのまま引き下がるしかありませんでした。これはミカの罪に対する神のさばきです。ミカが所有していた偶像は、そもそも彼が母親から盗んだ銀によって造られた物でした。その偶像が、今度は他人に盗まれてしまったのです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。神を恐れない人の人生は、結局のとこ、このような結果を招くことになるのです。

 

彼は、この事件からどんなことを学んだでしょうか。もし彼がこれをきっかけに真の神に立ち帰ったなら、この出来事は彼にとっては幸いであったと言えるでしょうが、もし何も学ぶことがなかったとしたら、それこそ悲劇です。誰でも失敗は付きものです。大切なのは、そこから何を学ぶかということです。その失敗から学び、真の神に立ち帰りましょう。

 

最後に、27節から31節までをご覧ください。

「彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪い、ライシュに行って、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼いた。だれも救い出す者はいなかった。その町はシドンから遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかったからである。その町はベテ・レホブの近くの平地にあった。彼らは町を建てて、そこに住んだ。彼らは、イスラエルに生まれた自分たちの先祖ダンの名にちなんで、その町にダンという名をつけた。しかし、その町の名は、もともとライシュであった。さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、その地の捕囚のときまで、ダン部族の祭司であった。こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた。」

 

彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪うと、ライシュに行って、その民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼きました。その町はシドンから遠く離れていたため、誰も助けてくれなかったので、簡単に征服することができました。それで彼らは町を建て、そこに住みました。彼らは、その町の名を自分たちの先祖ダンの名にちなんで「ダン」という名をつけました。これがイスラエル12部族の北限の所有地となります。この時以来、全イスラエルを指すときに「ダンからベエル・シェバまで」という表現が使われるようになりました。

 

彼らはそこに自分たちのために彫像を立てました。恐らく神の宮も建て、そこに彫像を安置したことでしょう。31節には、「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた。」とあります。神の宮はシロに設置されるはずでしたが、この時以来、このダンにも設置されました。そして、後にイスラエルが南北に分裂すると、北王国イスラエルの王ヤロブアムは、このダンとベテルに金の子牛を置くようになります。ヤロブアムは、ダン部族が彫像を立てた場所に金の子牛を置いたのです。それは、北王国がB.C.722年にアッシリア帝国によって滅ぼされるまで続きます。彼らは、ミカの家にあった偶像を手に入れたことは神の祝福だと思っていましたが実はそうではなく、逆にそれが彼らを束縛するもとになりました。このようなことが私たちにも起こります。祝福だと思っていたことが、災いの原因になることがあります。そういうことがないように、常に御言葉に聞き従い、神のみこころを求めて歩みましょう。

ヨハネの福音書5章19~29節「神と等しい方」

ヨハネの福音書5章から学んでおります。きょうは、イエスは神と等しい方であるということをお話しします。前回のところには、ベテスダと呼ばれる池の回りで38年も病気で横になっていた人を、イエスがいやされたことを学びました。しかし、その日が安息日であったことから、ユダヤ人たちは、「床を取り上げて歩け」と言ったのは誰かを問題にしました。そして、それがイエスであるとわかると、彼らはイエスを迫害し始めるようになりました。

すると、イエスは彼らに言われました。17節です。「私の父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(4:17) 彼らはこの言葉を聞くとますます怒り、イエスを殺そうとするようになりました。なぜなら、イエスが安息日を破っただけでなく、ご自分を神と等しくされたからです。

このことは、とても重要なことです。つまり、イエスはどのような方であるかということです。そして、ここにははっきりと、イエスは神と等しい方であるということが記されてあります。きょうはその理由を、イエス様ご自身の言葉から三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.父なる神がなさることを同様に行われた方(19-23)

 

まず、19節から23節までをご覧ください。

「イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」

 

なぜイエスは神と等しい方であると言えるのでしょうか。その第一の理由は、イエスは父なる神がなさることと同様のことを行われる方であられるからです。19節、ここでイエス様は、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」と言っておられます。これはどういうことかというと、ご自分が神と等しい者であるということです。

 

ここで注目したいことは、イエス様がご自分のことを「子」であると言っておられることです。「子」であれば当然「父」がいるわけで、その「父」とはだれかというと「神」です。イエス様はご自分と神との関係を、父と子との関係で語られたのです。これは極めて重要なことです。なぜなら、イエスが父なる神と親密な関係であることを示しているからです。ただ親密であるというだけではありません。イエスは子なる神として、父なる神がなさる通りのことを行われるということです。それは、ちょうど子どもが親のまねをするようなものです。子どもが親のまねをして親が行うことを何でもしようとするように、子なる神も父なる神がなされるのを見て、それと同じ様になさるのです。いや、それ以外のことは、何もなさいません。すべて父がなさることを、同様に行うのです。ただ人間の子どもと違う点は、人間の子どもであれば親のまねをしようとしてもできないこともありますが、子なる神は、父なる神がなさることと、同様に行うことができるという点です。

 

なぜイエスは、父なる神が行われることだけを行われるのでしょうか。その理由が20節にあります。「それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。」どういうことでしょうか?この「父が子を愛し」の「愛」ですが、これは神の愛ですから当然「アガペー」の愛が使われているかと思いきや、そうではなく、「フィレオー」という言葉が使われています。これは、これは心情的な愛を表しています。「好き」とか、「いとしい」、「かわいい」などの気持ちが伴う愛です。自分にとって大切なものを愛し、いとおしむ愛のことです。これは、親子の間や、夫婦の愛、兄弟愛、師弟愛、恋愛、友情などに見られるような心情的な愛です。しかし、神の愛は好き嫌いの感情をも超えた愛です。相手が好きであろうと、嫌いであろうと、その人を愛します。その人に対して最善となるものは何であるかを考え、相手が誰であろうと善を行なうのです。この愛は、敵をも愛する愛です。これが「アガペー」の愛です。この愛が使われるのが自然だと思うのですが、そうではなく「フィレオー」の愛が使われているのです。いったいどうしなのか?

 

それは、親子の間に親密な関係が成り立つためには、この愛が必要であるということです。相手を愛おしむような温かさがなければ互いに親密になることはできません。それは親子の関係だけでなく、すべての関係において言えることです。「ラポール」という言葉があります。「心が通い合っている」「どんなことでも打明けられる」「言ったことが十分に理解される」と感じられる関係のことです。そこに信頼関係が築かれて行く。このような関係が必要であるということです。父なる神と子なる神との間にはこうした関係がありました。ですから、ご自分がすることをすべて、子にお示しになることができたのです。

 

そればかりではありません。ここには、「これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。」とあります。「これよりも大きなわざ」とは何でしょうか。それは21節にある内容です。すなわち、「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」ということです。これはどういうことかというと、22節にあるように、すべての人をさばく権威をキリストにゆだねられたということです。いのちを与えることとさばくことは、何よりも神のみわざです。旧約聖書には、神が最終的な裁き主であるとされています。そのさばきが、ここではキリストにゆだねられているのです。つまり、キリストこそ裁き主であり、神ご自身であられるということです。

 

これは驚くべきことではないでしょうか。イエス様はこの世界の創造主であられるというだけでなく、私たちのいのちを支配しておられる方であり、私たちを正しくさばかれる方です。いのちを与えたい者には与え、そうでない者には取られる権威を持っておられる。それは単にこの肉体のいのちだけでなく、霊のいのち、永遠のいのちにおいても言えることです。

 

このことからどんなことが言えるでしょうか。23節をご覧ください。ここには、「それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。」とあります。イエス様こそ神として敬われるべき方であるということです。ただ偉大な人間として敬われるというだけでなく、神として認められ、敬われるべきお方なのです。

 

この点で、ユダヤ人たちは大きな過ちを犯していました。彼らは、イエス様がご自分を神と等しくされたと殺そうとしましたが、それこそ大きな過ちでした。イエス様は神と等しい方であり、神として敬われるべき方です。それを人間のレベルまで引き下げることがあるとしたら、それこそ神を冒涜することになからです。

 

あなたはどうでしょうか。このユダヤ人たちのように、イエス様を偉大な人物の一人ぐらいにしか考えていないということはないでしょうか。神を恐れかしこむのと同じ心で、イエス様を恐れかしこんでいるでしょうか。イエス様がこのようにはっきりとご自分を父なる神と等しい方であることを語られたのは、私たちが驚くためであり、また、すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためです。このことばを受け入れ、イエス様を神として受け入れ、敬う者となりましょう。

 

Ⅱ.永遠のいのちを与えることができる方(24)

 

イエスはどうして神と等しい方であると言えるのでしょうか。その第二の理由は、イエス様は、永遠のいのちを与えることができる方であられるからです。24節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

ここにも、「まことに、まことに」とあります。これは「本当にその通りです」という意味です。これが

真実であるということを強調しているのです。では、何が真実なのでしょうか。キリストのことばを聞いて、キリストを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持つということです。これはすばらしい約束です。皆さんで声に出してもう一度読んでみましょう。

 

まことに、イエス様は永遠のいのちを与えることができる方なのです。この世界を造られ、この世界を支配しておられる方は、同時にこの世界をさばく権威を持っておられます。この方を、この世に救い主としてお遣わしになられた方を信じる人は、だれでも永遠のいのちが与えられ、さばきに会うことがなく、死からいのちに移されるのです。ここでは、「死からいのちに移っています」と現在形で書かれています。今、現に移っているのです。いつか移ります、きっとそうです、たぶんそうです、ではなく、移っているのです。「死からいのちに移っているのです」

 

この「死」とは、霊的死のことを指しています。霊的に死んでいるとはどういうことでしょうか。パウロは、このことをエペソ2章1~3節で、次のように言っています。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

ここでパウロは、あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた者であった、と言っています。罪とは何でしょうか。罪とは、原語のギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、「的はずれ」を意味しています。的を外している状態のことです。人は本来、神によって造られ、神の栄光と神の喜びのために造られたわけですから、この神を信じて生きるはずなのに、その的から外れてしまいました。それが罪です。罪とは何か悪いことをすることではなく、それも罪ですが、神から離れている状態のことを指しています。その結果、人は悪いことをするのです。つまり、罪とは神を信じないことです。その結果、人はどのようになってしまったのでしょうか。

 

パウロはここで、「あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた」と言っています。そして、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。その特徴は何かというと、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らであったということです。どういうことかというと、自分でやっていることがわからないということです。自分がしたい善を行わないで、したくない悪を行ってしまうからです。

 

実は、これが私たちにとって一番大きな悩みです。善いことをしたいと思っているのに、したくない悪を行ってしまいます。その弱さのために悩むのです。中には、そんなことを悩んでも悩むだけ無駄なんだから悩むのをやめよう、と思っている人もいるでしょう。しかし、いくら打ち消そうとしてみたところで、私たちの良心の呵責を完全に否定することはできません。

 

しかし、ここに希望があります。イエス様はこう言われました。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。」この方を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ちます。そして、さばきに会うことがなく、その瞬間から、死からいのちに移されるのです。なぜなら、キリストは私たちを罪から完全に救うことができるからです。そうです、キリストは救い主であられるのです。

 

この「救い主」というのは、へブル語で「メシヤ」と言いますが、これは神ご自身を表すことばでした。ですから、あのサマリヤの女が、「私は、キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」(4:25)と言った時、イエス様が「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(4:26)と言われた言葉は、ものすごいことなのです。なぜなら、それはイエス様がご自分を神であると宣言されたということだからです。これまでに歴史上には多くの偉人と言われる人が現れては消えて行きましたが、「わたしがそれです」と言うことができた人は一人もいませんでした。もしそのように言う人がいたとしたら、その人は全くのペテン師か、頭がおかしい人だと言えるでしょう。そのように言うことができる人などいないからです。しかし、イエス様はそのように言うことができました。なぜなら、イエス様は本当に救い主、メシヤであられたからです。

 

あなたは、この方をメシヤ、救い主として信じ、受け入れておられるでしょうか。この方を通してこの方を遣わされた方を信じておられるでしょうか。この方のことばを聞いて、この方を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移るのです。

 

Ⅲ.死人をよみがえらせることができる方(25-29)

 

なぜイエスは神と等しい方だと言えるのでしょうか。その第三の理由は、イエス様は死者をよみがえらせることができる方だからです。25節から29節までをご覧ください。25節と26節をお読みします。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」

 

ここにも、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」という言葉があります。「本当にその通りです」、「これは真実です」。何が真実なのでしょうか。それは、「死人が神の子の声を聞く時が来る」ということです。この「死人」とは、「霊的に死んだ人たち」のことです。具体的には「罪人」のことを指しています。霊的に死んでいる人たちがキリストのことばを聞く時が来ます。それを聞く者は生きるのです。霊的に死んだ状態からただちに救い出され、永遠のいのちが与えられるのです。そして、真に生きる者とされます。それはいつですか?今でしょ。今がその時です。なぜなら、その神の子であられるキリストが来られたからです。

 

私たちに必要なのは、この神の子の声を聞くことです。私たちは日々、いろいろなことで悩み、苦しみ、まさに死んだ人のようになっていますが、この神の御声を聞く時、たましいが生き返り、力強く歩み始めることができるようになります。

 

詩篇19篇7~8節には、「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。」とあります。

主のみことばは 私たちを生かし、私たちを導き 私たちを照らします。主のみことばは力があります。私たちを励まし、私たちを満たすのです。それは、私たちが日々聖書のみことばを読む時、また礼拝や祈祷会での聖書のメッセージを聞く時、キリストが聖霊を通して神の声を私たちの心に語ってくださるからです。その神の子の声を信仰を持って聞く者は生きるのです。

 

それは、26節にあるように、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、いのちを持つようにしてくださったからです。私たちには自分のうちにはいのちがありません。いのちを持っていないのです。ではどこにいのちがあるのですか?ここにあります。神の御子のうちにあるのです。ですから、この御子から離れては、私たちにいのちはありません。それはちょうどぶどうの木のたとえにあるとおりです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

イエス様は根を張った一本の木のように、いのちを持っておられます。私たちはその枝にすぎません。ですから、キリストに結びついていない限り、いのちを持つことはできないのです。イエス様の御声を聞き、イエス様を信じるなら、イエス様に結びつけられ、いのちを持つことができるのです。

 

27~30節をご覧ください。ここには、「また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」とあります。

 

この「さばき」とは最後のさばきのことです。そのさばきを行う権威を子に与えてくださいました。イエス様はさばき主であられます。どのようにさばかれるのでしょうか。28節、「このことに驚いてはいけません。墓の中にいる者がみな、キリストの声を聞く時が来るのです。」

これは、キリストの再臨のことです。キリストが再臨される時、墓の中にいる者がみな、子の声、キリストの声を聞きます。「そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。」これはどういうことかというと、そのとき、二種類の「よみがえり」が起こるということです。第一のよみがえりは、善を行った者のよみがえりです。善を行った者とは何か一生懸命にボランティアをしたとか、慈善事業をした人のことでなく、神の御子を信じた人のことです。その人はよみがえって永遠のいのちを受けるために出てきます。この「よみがえって」とは御霊のからだによみがえってという意味です。

 

人は死んだら終わりなのではありません。人は死ぬと、肉体から霊が離れ、肉体は地の塵に帰りますが、霊はそのまま存在し続けます。そして、キリストを信じた者の霊は、パラダイスに行き、そこでキリストと共にいて、体が復活するのを待つのです。そしてキリストが再臨する時、霊のからだが与えられ、霊のからだに復活し、永遠に天国で神の祝福のうちに生きるようになるのです。これが私たちの希望です。何が私たちの希望かって、これです。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

このように、私たちは死んで終わりではありません。死んでも生きるのです。

 

しかしここに、もう一つのよみがえりがあることが書かれてあります。それは、悪を行った者のよみがえりです。悪を行った者というのも何か悪いことをした人ということではなく、神の御子を信じなかった人ということです。その人たちはどのようになるのかというと、驚くなかれ、何とそのような人たちもよみがえるのです。しかし、何のためによみがえるのかが問題です。ここには、「悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。」とあります。このさばきとはどのようなものなのでしょうか。

 

ルカの福音書16章に「ラザロと金持ち」の話がありますが、それを見ると、キリストを信じなかった金持ちは、「炎の中で苦しくてたまりません。」と言っています。そこは「ハデス」と呼ばれているところです。彼はそこに落とされました。でもそこは地獄ではありません。地獄に行くまでにさばきを待っているところです。それはちょうど刑務所に入るために待っている留置場のようなところです。どちらも過酷な状態を強いられますが、最後のさばきは、ハデスの比どころではありません。それは永遠に燃え続ける火の池なのですから。それが地獄と呼ばれているところです。キリストが再臨されるとき、キリストを信じなかった人はハデスに行き、そこで最後のさばきを待つようになるのです。そしてキリストが再臨する時、その人たちもよみがえりますが、最終的に火の池に投げ入れられ、そこで永遠の祝福の基である神から完全に切り離されて、永遠に苦しみを味わい続けなければならないのです。これが第二の死と呼ばれているものです。

 

あなたはどちらのよみがえりのために生きていますか。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」これは、今すぐに体験できる約束です。あなたがイエス様を信じた瞬間に、あなたもこの永遠のいのちを体験するのです。あなたは死んだ人のような毎日を過ごしていませんか。神の子の声を聞く者は生きます。そして、その行きつくところは永遠のいのちです。あなたも、イエス様の声を聞き、生きる力をいただいてください。イエス様は、あなたにいのちを与えることができる救い主であられるからです。

士師記17章

士師記17章からを学びます。この17章から21章までの箇所は、この士師記のあとがきです。私たちはこれまで士師の時代にどんなことが行われてきたかを学んできましたが、その間に起こった典型的な出来事を取り上げてまとめられています。その特徴は何かというと、6節にあるように、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」ということです。その時代がどのような時代であったのかを見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.自分の息子の一人を祭司にしたミカ(1-6)

 

「エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。彼は母に言った。「銀千百枚が盗まれたとき、あなたはのろいの誓いをされ、私の耳にもそのことを言われました。実は、その銀は私が持っています。私がそれを盗んだのです。」すると母は言った。「主が私の息子を祝福されますように。」彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私は自分の手でその銀を聖別して、主に献げていました。自分の子のために、それで彫像と鋳像を造ろうとしていたのです。今は、それをあなたに返します。」彼が母にその銀を戻したので、母は銀二百枚を取って銀細工人に与えた。銀細工人はそれで彫像と鋳像を造った。こうして、それはミカの家にあった。このミカという人には神の宮があった。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を任命して、自分の祭司としていた。そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

 

まず、1節から6節までをご覧ください。エフライムの山地の出身で、ミカという名の人がいまし

た。ミカというのは、「誰が主のようであろうか」という意味ですが、彼はその名とは裏腹に主に反した行動を取ります。彼は母から銀1,100枚を盗みました。しかし、その母ののろいの言葉を聞いて恐ろしくなったのか、「実は、その銀は私が持っています」と告白し、それを母に返しました。こうしたのろいの誓いは、呪われた人の上に留まるとされていたからです。

 

すると彼の母が、このように言いました。「主が私の息子を祝福されますように。」どういうことで

すか。自分の銀を盗んだ息子を祝福してくれるようにと祈るとは・・。ここに一つの混乱が見られます。自分の息子がお金を盗んだのであれば、たとえ息子がそれを告白したとしても、「なんでこんなことをしたのか。このようなことはしてはならない」と叱るが親でしょう。それなのに彼女は、「主が私の息子を祝福してください」と言ったのです。普通ではありません。

 

そればかりではありません。息子が母親にその銀1,100枚を返すと、母はその銀を主に献げ、その中から銀200枚を取り、自分の息子のために彫像と鋳像を作るのです。「彫像」とは、へブル語で「ペセル」という言葉から派生した言葉ですが、それは「彫る」とか「刻む」という意味です。おそらく、木や石や青銅などを彫って作った偶像のことでしょう。「鋳像」とは、へブル語で「マッセーカー」という言葉から派生した言葉で、「地金を注ぐ」という意味があります。つまり、鉄や青銅、錫(すず)、鉛、アルミニウムなどの金属を溶かし、鋳型に流し込んで作られた偶像のことです。出エジプト記34章17節には、「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」と、禁じられています。それは明らかに十戒で禁じられていた「偶像を作ってはならない」に違反することでした。

 

さら5節には、「このミカという人には神の宮があった。」とあります。これも律法に違反しています。というのは、神の宮は、主が命じられた場所に置かなければならなかったからです。この当時は、それはシロという場所にありました。

 

それだけではありません。彼はまた、エポデとテラフィムを作り、その息子の一人を祭司に任命していました。エポデとは祭司用の服のことです。またテラフィムとは家の守護神のことです。これも律法に違反しています。祭司は、アロンの家系から選ばれなければならず、だれもが勝手になれるというものではありませんでした。

 

これらのことからどういうことが言えるでしょうか。6節です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」確かに彼らは自分の目で良いと思えることを行っていましたが、それが必ずしも正しいことであるとは限りませんでした。それが神のみこころに反していることもありました。というか、かなり外れていたことがわかります。彼らは決してイスラエルの神、主を捨てたわけではありませんでした。しかし、彼らの信仰はいつしかカナンの習慣に迎合し、神の民としてのあり方から大きくズレてしまっていたのです。その原因はどこにあったのでしょうか。

 

ここには、「そのころ、イスラエルには王がなく」とあります。民を導く指導者がいなかったからです。それで彼らは、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。神の指導者がいない民は、実に悲惨であることがわかります。常に聖書から神のみこころを語り、民を導く羊飼いがいないということは混乱を招くことになります。日本にも無牧の教会がたくさんありますが、無牧であるというだけでなく、たとえ牧師がいたとしても、その牧師が正しく神のみことばを語り、群れを導くことができるように祈らなければなりません。

 

Ⅱ.祭司を雇ったミカ(7-13)

 

次に7節から13節までをご覧ください。

「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する一人の若者がいた。彼はレビ人で、そこに寄留していた。その人はユダの町ベツレヘムを出て、寄留する所を求めて旅を続け、エフライムの山地にあるミカの家まで来たのだった。ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は寄留する所を求めて、旅をしているのです。」そこでミカは言った。「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服一そろいと、食糧を差し上げます。」するとこのレビ人は同意した。 このレビ人は心を決めてミカと一緒に住むことにした。この若者はミカの息子の一人のようになった。ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。そこで、ミカは言った。「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」」

 

7節は、少しわかりずらいかと思います。ここに「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する一人の若者」とありますが、彼はユダ族の人ではありません。というのは、その後に、「彼はレビ人で、そこに寄留していた」とあるからです。レビ人は、イスラエルに相続地を持っていませんでした。神ご自身が彼らの相続地であったからです。彼らに与えられていたのは住む町と放牧地だけでした。ですから、この「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する」というのは、ユダのベツレヘムに居住していたレビ族出身の人という意味です。彼は滞在する所を求めて、ユダの町であるベツレヘムを出て、旅を続けていました。そして、エフライムの山地にあるミカの家までやって来たのです。

 

するとミカは、彼がベツレヘムから来たレビ人であることを知ると、「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。」と懇願しました。この「父」というのは、その家の主人ということではなく、霊的導き手という意味です。そして、その対価として提示したのは、毎年、銀10枚と、衣服一そろいと、それに食料を差し上げるということでした。つまり、生活費が支給されるということです。

 

すると、このレビ人はミカの申し出に同意し、彼の家で一緒に住むようになりました。そして、ミカの息子の一人のようになりました。するとミカは何と言っていますか。13節です。彼はこう言いました。「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」これはどういうことでしょうか?

 

これまでは、ミカの息子の一人が祭司を務めていましたが、今や本物の祭司がミカの個人的な祭司になったということです。それで喜んでいるのです。しかも、それは主からの祝福であると勝手に思い込みました。しかし、これは大きな誤解でした。レビ人だからというだけで、祭司になれるわけではないからです。祭司になることができるのは、レビ族の中でもアロンの家系から出る者だけでした。

 

レビ族とは、ヤコブの第三番目に生まれた息子レビから始まっている一族です。レビ族は神にとって特別な存在でした。つまり、彼らは神のために聖別された部族であったのです。そのため、神はレビ族の各氏族(ゲルション族、ケハテ族、メラリ族)に聖所の務めを果たすという重要な務めを与えられました。そして、それぞれの氏族に専門の任務を与えたのです。すなわち、ゲルション族には、聖所の幕に関する部分(天幕のおおい、会見と入口の垂れ幕、幕と幕をつなぐひもなど)の管理と運搬、ケハテ族には、聖所にある器具の一切(契約の箱、机、燭台、祭壇、それらに関する用具など)の管理と運搬、メラリ族には、聖所を支える部分(板、横木、柱、台座、釘など)です。各氏族に与えられた任務はそれぞれ独立したものであり、他の部族の任務を兼用したり、替ったりすることは許されませんでした。それぞれが専門職として割り当てられたのです。

 

祭司とレビ人はもともと同じ族長レビから派生していますが、祭司とその職は、レビの二番目の息子であるケハテから生まれた最初の子であるアロンの家系から出た者たちで、いわば、特別職でした。祭司たちはすべてアロンの家系で世襲制でした。祭司たちは会見の天幕における礼拝を実際に取り仕切っていく者たちでした。

 

この祭司と聖所に仕えるレビ人との関係は、レビ人が祭司に仕える立場でした。つまりレビ人は祭司の指導の管理下にあったのです。礼拝を取り仕切る祭司のもとで仕える存在、それがレビ人たちでした。民数記3章5~7節で神はモーセに次のように告げています。

「主はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。」

 

レビ人は神に仕え、祭司に仕え、そしてイスラエルの人々に仕える者たち(奉仕者)だったのです。また、彼らが祭司職にかかわることは一切許されませんでした。3章10節には「あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」とあります。それほどに祭司職は特別な職であったのです。

 

それなのにミカは、自分勝手に神の宮を設置し、そこに偶像を安置して、さらに資格のないレビ人を祭司に任命しました。こうしたことは、主の目には忌むべきことでしたが、ミカはそれを主からの祝福だと勘違いしたのです。

 

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。続く18章1節をご覧ください。ここにも

出てきます。「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」それで、彼らは自分の目で良いと見えることを行っていたからです。このことは6節でも言われていたことです。このことが何度も繰り返して記されています。この士師記の著者は、このミカの行為が、士師時代の無法状態を表す良い例としてあげているのです。イスラエル人の信仰は、祭司制度の混乱にまで及んでいたのです。

 

しかし、これは何も当時のイスラエル人だけの問題ではありません。現代の私たちクリスチャンにも問われていることです。自分の目に良いと見えることを行っている人は、すなわち、勝手な信仰生活をしている人は、偶然にも良いことがあると、それを神からの祝福を受けている証拠だと受け止めて喜びますが、それはただの勘違いであり、聖書信仰とは相入れないものなのです。そのような信仰は、遅かれ早かれ、神のさばきをその身に招くようになり、結局、信仰からも離れてしまうことになります。こんなはずではなかったのに・・・と。

次の18章を見るとわかりますが、やがてミカもそのさばきを受けることになります。自分が雇った祭司に裏切られ、彼が所有していた偶像が奪われてしまうことになるのです。彼が母親から盗んだ銀によって作られた偶像が、今度は他の人の手によって盗まれるというのは、何とも皮肉な話です。私たちはそういうことがないように、自分の目に良いと見えることではなく、神の目に良いと見えることを求めましょう。主のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。そのためにはよく聖書のことばを学び、主のみこころを求めましょう。自分の中にミカのように都合の良い信仰はないかどうか、吟味しましょう。

ヨハネの福音書5章1~18節「ベテスダと呼ばれる池で」

ヨハネの福音書から学んでおりますが、きょうから5章に入ります。きょうは、イエス様がベテスダと呼ばれる池で38年間も病気で横になっていた人をいやされた出来事から学びたいと思います。

 

Ⅰ.良くなりたいか(1-9a)

 

まず1節から9節前半までをご覧ください。

「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。」

 

1節には、「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」とあります。この「ユダヤ人の祭り」が何の祭りであったのかはわかりません。しかし、ユダヤ人が「祭り」という場合、それは過越しの祭りを意味していたので、おそらく過越しの祭りであったと考えられます。もしそうであったとすれば、イエス様が公生涯に入られてエルサレム上られたにのは、これが2回目となります。4章54節に、「イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。」とありますが、最初にエルサレムからガリラヤに来られ、第二のしるしとして王室の役人の息子を癒されました。その後、イエスは再びこのユダヤ人の祭りがあって、エルサレムに上られたのです。

 

エルサレムには、羊の門の近くに、へブル語でベテスダと呼ばれる池がありました。「ベテスダ」とは「あわれみの家」という意味です。その池には五つの回廊がついていました。回廊とは、建物や中庭を囲むように巡らされた屋根付き廊下のことです。このベテスダの池にはその回廊が五つついていました。そしてそこに病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだが麻痺している人たちが大勢、横になっていました。なぜなら、その池の水が時々動き、その時に、真っ先にこの池に入った人は、どのような病気でもいやされる、という言い伝えがあったからです。

 

きょうの聖書の箇所を見ると、4節が抜けているのに気付いた方おられるかと思いますが、下の脚注を見ると、異本に3節後半と4節として、次の一部または全部を加えるものもあるとして、そのことが説明されてあります。つまり、「彼らは水が動くのを待っていた。4 それは、主の使いが時々この池に降りて来てみずを動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。」ということです。この箇所は、多くの有力な写本には載っていないので、本文には含まれていませんが、当時、このような噂が広がっていたのでしょう。「溺れる者わらをもつかむ」ということわざがありますが、大勢の病人が一縷(いちる)の望みを置いて、そこにやって来ていたのです。

 

そこに、38年も病気にかかっている人がいました。彼の病気がどのような病気だったのかはわかりませんが、7節で、彼が、「水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と言っているのを見ると、からだの機能が麻痺する病気だったのではないかと思います。それにしても38年ですよ。38年といったら本当に長い年月です。それは人生の半分、否、人生のほとんどと言っても過言ではないでしょう。彼はその期間を病気のために費やしてきたのです。そして今、神のあわれみを求めてここにいたのです。

 

そこにイエス様が来られると、イエス様は彼が横になっているのを見て、すでにそれが長い間そうしていることを知って、何と言われたでしょうか。イエス様は、「良くなりたいか」と言われました。「良くなりたいか」って、良くなりたいからここにいるのではないですか。病人ならだれでも良くなりたいと思うのは当然のことです。そんなことを言うとはちょっと失礼ではないかとさえ感じます。ではなぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。それは、その後の彼の答えを見るとわかります。

 

7節を見ると、彼は「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答えています。この病人はイエス様から「良くなりたいか」と言われたとき、「はい、良くなりたいです。」と答えませんでした。彼は良くなりたいと答えたのではなく、どうして良くなれないのかの理由を述べただけでした。すなわち、水がかき回されたとき、池の中に自分を入れてくれる人がいないということ、そして、行きかけると、もうほかの人が先に下りて行くということでした。つまり、彼は最初からあきらめていたのです。病気がいやされることなどありえないし、そんなことは無理だ、と思っていました。ですから、イエス様はこの病人に「良くなりたいのか」と言われたのです。それは、本当に良くなりたいと思っているのか、そのことを本気で願っているのかということです。彼がイエス様から「良くなりたいか」と言われたとき、「もちろん、そうです」とすぐに答えることができなかったのは、そのような思いが、とっくの昔に失せていたからなのです。たとえそのような気持ちがあったとしても、「このままでいた方が楽だ」という思いが彼のどこかにあったかもしれません。このまま病気でいた方が人々から施しを受けながら生きていくことができるけれども、もし治ってしまったら、今度は自分の力で生きていかなければならない。病気以外の様々な問題に直面することもあるだろう。ですから、病気が治ることで生活が変わることに少なからず不安があったのです。それで、無意識のうちに「自分には無理だ」、「誰も助けてくれないから」ということを口実に、そのままの状態にとどまっていようとしたのです。

 

しかし、それはこの病人だけではありません。それは、私たちにも言えることです。たとえば、今の生活を変えたいと思っていても本当に変えたいのかというとそうではなく、「どうせ無理ですよ」「解決することなんてできるはずがない」と半ばあきらめていることということがあるのではないでしょうか。あるいは、良くはなりたいけれども、「このままでいた方が楽だ」という思いが、良くなりたいという思いにブレーキをかけていることがあるのです。

 

武庫之荘福音自由教会の大橋秀夫先生は、これをサーカスの象にたとえました。ある動物園の象の鎖が解けたというニュースを聞きました。幼稚園の園児が動物園に遠足に行って、その象さんを見たときに、重い鎖でつながれていました。しかも、その鎖は1.5mぐらいしかありませんでした。それで幼稚園の子どもたちが帰ってから、園長先生に、「象さんかわいそう」という手紙を書いたのです。動物園の方ではそれで数千万円の予算を割いて園舎を改造し、象の鎖を解いてあげたというわけです。

そのニュースを聞いた大橋秀夫先生は、一つのことを思い出しました。それはサーカスの象のことです。サーカスの象も鎖につながれているのですが、動物園の象と違って、コンクリートで固められた杭につながれていません。なぜならば、サーカスの象は、旅から旅へと移動するので、たいがいは、象の力ならば簡単に抜けてしまうような木の杭とか、鉄の杭につながれているだけなのです。それなのに、サーカスの象は、なぜ逃げないのでしょうか。その答えはこうです。子どもの時に、子どもの時の象なので、小象の時ですね。その小象の時から絶対に抜けないような鎖につながれているんです。そうすると、大きくなっても、この鎖を結んだ杭は抜けない、と思ってあきらめてしまうのだそうです。これが象の飼育係のコツなのでしょうか。一回でも抜くことに成功すると、これは抜けると思ってしまうんだそうです。ですから、小象の時に絶対に抜けない杭につないでおくのです。(「成長する人、しない人」P31~32)

 

私たちも、この象と同じように、自分の中に「できない」という思いが働いて、最初からあきらめていることがでるのではないでしょうか。イエス様はそんな私たちに「良くなりたいか」と問うておられます。私たちは、もっと良くなりたいと思っています。しかし、そこに「でも」という言葉が続くのです。「でも、私は受験に失敗した」「でも私にはそんな能力なんてない」「結婚生活もうまくいかなかった」と、自分で自分に鎖をかけてしまうことがあるのです。あのサーカスの象のように。

 

しかし、イエス様はこの鎖を解き放つことができます。大切なのは、私たちが本気で良くなりたいと願うかどうかです。イエス様は、私たちが求めていないのに無理矢理何かをすることはなさいません。イエス様は、まず私たちが自分の状態を知り、そこから解放されることを本当に求めているかどうかに気づかせることによって、生き生きした人生を歩ませようにされるのです。

 

この病人の場合はどうだったでしょうか。8節と9節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」

 

「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答えた病人に対して、イエス様は、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命じられました。すると、その人はどうなったでしょうか。その人はすぐに治って、床を取り上げて歩き出すことができました。象の鎖が引きちぎれた瞬間です。彼は38年間も自分を縛っていた問題から解放されたのです。

 

しかし、このところをよく見ると、彼がいやされるために、彼がイエス様を信じたということは一言も書かれていません。確かに、彼はイエス様のことばに応答して自分の足に力を入れて歩き出すことができたのでしょうが、そのためにイエス様を信じたといったことは全く書かれていないのです。それがイエス様であることすらわかりませんでした。それがイエス様であると分かったのは、後で彼が宮に行って、再びイエス様と出会った時です。それまではわかりませんでした。これはどういうことでしょうか。

 

これは、ヨハネが記す7つのしるしの第三番目のしるしです。「しるし」とは証拠としての奇跡のことです。イエス様がメシヤであることをユダヤ人たちに証明するためのものです。この「しるし」においては、その人に信仰があるかどうかは問われないということです。むしろ治してくださった方がどのような方であるのかが重要です。ですから、ここには彼がどれだけイエス様を信じたかということよりも、イエス様が彼をどのようにいやされたのかに力点が置かれているのです。すなわち、このいやしにおいては、徹頭徹尾、イエス様が主導権を握っておられたということです。イエス様の方からベテスダと呼ばれる池に行かれ、イエス様の方から38年も病気にかかっておられる人をご覧になら、イエス様の方から近づいて行かれました。そして、イエス様の方から「良くなりたいか」と言われたのです。彼は自分にはできない理由をいろいろ並べましたが、それでもイエス様はあわれみをもって「床を取り上げて歩きなさい」と言って彼をいやされました。そうです、すべてはイエス様の一方的なあわれみによるのです。この池が「ベテスダ」という名前であったのもそのためです。「ベテスタ」とは「あわれみの家」という意味です。イエス様はあわれみ深い方です。イエス様は、その深いあわれみをもって私たちをいやすことができる救い主なのです。

 

Ⅱ.もう罪を犯してはなりません(9b-14)

 

次に9節後半から15節までを見ていきたいと思います。

「ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

 

38年間病気だった人は治って、宮にいました。これは、ユダヤ教の神殿のことです。おそらく彼は、自分の床を家に運び、すぐに神殿に上って行って、神に感謝をささげようとしたのでしょう。しかし、そこで一つの問題が起こりました。それは、その日が安息日であったということです。10節には、「そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、『今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない』と言った。」とあります。

なぜこれが問題だったのかというと、彼らは安息日に床を取り上げてはならないと思っていたからです。どういうことかというと、確かにモーセの十戒には安息日に関する規定がありますが、それは、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト20:8)というものでした。六日間働いて、すべての仕事をしなければなりませんでした。しかし、七日目は、主の安息の日です。この日にはいかなる仕事もしてはなりません。問題はこの「いかなる仕事」とは何かということです。彼らはそれを厳しく守るために安息日にしてはならない39項目からなる労働のリスト挙げていました。そして、その中に「どんなものでも運搬してはならない」という決まりがあったのです。ここでユダヤ人が問題にしたのはそれです。つまり、安息日に人をいやしたことが問題だったのではなく、安息日に床を取り上げて運んだことが問題だったのです。全くナンセンスです。彼らは安息日律法の文言に捉われ、その安息日律法が本来目指していた精神を見失っていました。

 

そこで彼は答えました。11節、「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」すると今度は、そんなことを言ったのは誰かと、問い正しました。しかし、いやされた人は、それがだれであるかを知らなかったので、答えることができませんでした。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去っておられたからです。

 

しかし、後になって、イエスは宮の中で彼を見つけると、こう言われました。14節です。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

どういうことでしょうか。これを読むと、罪を犯すと、病気が再発してもっと悪くなるよと脅しているかのように感じるかもしれませんが、これはそういうことではありません。確かに、飲み過ぎで肝臓が悪くなったら、お医者さんはその人に、「これからは飲み過ぎに注意してください。そうでないともっと悪くなりますよ」と言うかもしれません。それに、当時は、病気の原因は罪を犯したからだと考えられていたので、そのように思うのも無理もなかったかもしれません。しかし、イエス様がここで言われたのはそういう意味ではなく、神との関係における罪のことでした。つまり、「もう罪を犯してはなりません」というのは、どんな罪も、どんな悪いことも一切してはならないということではなく、故意に神に背を向け、神との関係を自ら拒絶することがないようにということだったのです。私たちは罪を犯さずには生きて行けません。罪を犯さないように努力することは大切なことですが、もっと大切なことは、自分が罪を犯すような弱い者であることを認め、神の前に日々悔い改めて生きることです。つまり、神の恵みとあわれみに生きることなのです。

 

そうでないと、もっと悪いことが起こるかもしれないからです。この「もっと悪いこと」とは何でしょうか。これをこの罪との関係で考えるなら、これは肉体的な面だけでなく霊的な面も含めてのことであるのがわかります。つまり、もしあわれんでくださった神様に背を向けて生きるようなことがあるならば、今までの38年間の不自由な生活以上に、もっと悪いこと、すなわち、彼の人生から平安や安息が失われてしまうことになるかもしれないということです。ローマ6章32節に、「罪からくる報酬は死です。」とあるように、永遠に神との交わりから断たれてしまうことにもなりかねません。もしそのようなことがあるとしたら、からだは良くなったとしても、それ以上に不自由な者、最悪な結果になってしまいます。そうならないように、いつも神様に信頼し、感謝して生きるように、と言われたのです。

 

Ⅲ.ベテスダの池、イエス・キリスト(15-18)

 

最後に16から18節を見て終わりたいと思います。

「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」

 

ベテスダの池でいやされた人は、自分が誰によっていやされたのかを知ると、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えました。それを聞いたユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めます。それは、イエスが安息日の律法を破ったからです。そればかりではありません。イエスを殺そうとするようになりました。それは、イエス様が「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」と言って、ご自分を神と等しくされたからです。

 

この神をご自分の父と呼んだということですが、それは、イエス様がご自分を父なる神と等しい位置に置かれたということです。少なくとも、当時のユダヤ人たちはそのように理解していました。つまり、イエス様はご自分がメシヤであり、神と等しい者であると宣言されたのです。それでユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになったのです。

 

ヨハネが、第三のしるしとしてこの奇跡を取り上げた理由はここにあります。つまり、この38年も病気で横になっていた人をいやすことによって、イエスこそメシヤであられるということ、イエスこそ救い主であられるということを示そうとされたのです。これがわからなければ、どんなに律法を守っているようであっても全く意味がありません。なぜなら、律法が指し示していたのはこのイエス・キリストであったからです。律法は良いものですが限界があります。それは私たちに罪を示し、救いが必要であることを悟らせるものです。パウロはガラテヤ書の中で、律法はキリストのものに導く養育係だと言っているのはそのためです。しかし、ここに律法が指し示していた、しかも律法の要求を完全に満たした救いが現れました。それがイエス・キリストです。神の救いは自分の努力や力によってもたらされるのではなく、ただイエス・キリストによってもたらされます。このベテスダの池での出来事は、そのことを示していたのです。

 

このベテスダの池には五つの回廊がついていましたが、ある人たちは、この五つの回廊は、モーセ五書と呼ばれる律法を表していたと考えています。モーセ五書とは、創世記から申命記までの五つの書です。モーセが書いたのでモーセ五書と呼ばれています。その回廊にベテスダの池がありました。それは、この場所が神のあわれみを受けるためには、五つの回廊に象徴される律法の戒めをきちんと守らなければならない」ということを示していたというのです。それはこの律法と恵みとの関係から考えるとあながち間違いであるとは言えません。その回廊にいた人の中で、自分の力で救われた人がいたでしょうか。だれも律法を完全に守ることができる人などいないのです。

しかし、ここに律法とは別の、しかも律法によって証しされた救いがあります。それがイエス・キリストです。キリストはメシヤとしてこの世に来てくださり、神のあわれみを表してくださいました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われ、罪の中に伏せていた人をいやしてくださいました。私たちを罪から救うことができるのは、ただ神の恵み、神の子イエス・キリストの他にはいないのです。

 

ですから、この38年間も病気だった人がいやされた出来事は、私たちが律法の世界に留まるのではなく、自分の努力や力に頼るのではなく、キリストの言葉に信頼し、その言葉に従って新しい歩みを始めなさい、という招きだったのです。なぜなら、キリスト様こそあわれみの家、ベテスダの池そのものであられるからです。

 

イエス様は、あなたの罪と汚れをきよめる泉であり、あなたをあわれみ、あなたをいやす泉、ベテスダの池そのものです。この池で、あなたも罪の赦しときよめを受けませんか。心とからだのいやしを受けてください。そのために必要なのは、「掟、床を取り上げて歩きなさい」と言われる主イエスのことばを信じて、それに従うことです。キリストのあわれみは、尽きることがないからです。

出エジプト記3章

きょうは、出エジプト記3章から学びます。まず1~6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.燃える柴(1-6)

 

「モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。」

 

モーセがミディアンの荒野に導かれて40年が経っていました。モーセは、ファラオの娘の子としてエジプトの宮廷で育ちましたが、イスラエル人を救おうと思いエジプト人を殺したことによって、エジプトから逃げミディアン人の地に来ました。その時、ここに書かれているイテロに出会い、その娘の一人チッポラと結婚したことで、イテロの羊を飼う仕事をしながら40年を過ごしていたのです。エジプトから逃げてきたのが40歳ですから、既に80歳になっていました。イスラエル人たちをエジプトから救い出すための計画は、完全に頓挫したかのように見えていました。しかし、神の側ではそうではなく、彼らを救い出すための計画は着々と進められていました。その最大の準備は、指導者であるモーセを訓練し、そのために彼を召し出すことでした。

 

1節をご覧ください。ここに、「モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。」とあります。しゅうとの「イテロ」は、2章では「レウエル」という名前で登場していました(2:18)。意味は「神の友」です。「イテロ」というのはタイトルで、「レウエル」が固有名詞です。モーセは、彼のしゅうとイテロの羊を飼っていました。この「飼っていた」というのは「常に飼っていた」ということで、彼がこれを仕事としていたことです。このような荒野での羊飼いとしての経験が、後に二百万人とも言われるイスラエルの民をエジプトから救い出し、40年にもわたる荒野での生活を送る際に生かされることになります。本当に神の成さることに無駄なことはありません。ミディアンの荒野で羊を飼いながら神について思い巡らし、エジプトにいる同胞イスラエル人のことを考えたりしながら、その時を待っていたのです。

 

ある日のことです。彼は羊の群れを追って、神の山ホレブにやって来ました。「ホレブ」とは山脈で、シナイ山はその山脈にある一つの山です。しかし、聖書の中に「ホレブ」とある時、それは「シナイ山」のことを指していると考えて差し支えありません。彼はそこで後に十戒を受けることになります。そこには豊かな緑があったのでしょう。シナイ半島は乾燥した地域ですが、家畜を飼う程度の草木は育ちます。あちこちに生えていた柴は、羊ややぎの餌になりました。その柴の茂みが燃えているのを見ました。空気が乾燥しているので、柴が自然に燃えるというのは決して珍しいことではありませんでした。しかし、彼が見たのは火で燃えているのに燃え尽きない柴でした。それは、エジプトで苦しめられていたイスラエルの民がその圧迫の中にあっても、滅びてしまうことがないことを表していました。それは今日に至るまでのイスラエルの姿でもあります。また、それはクリスチャンの姿でもあります。キリストの教会も、燃える柴の性質が与えられています。どんなに迫害されても滅びることはありません。むしろ、その中で成長し続けてきました。

 

その燃える柴の中に主の使いが現れました。旧約聖書で「主の使い」という言葉が出てくる時は、受肉前のキリストを指しています。ですから、この主の使いは4節で「主」(ヤハウェ)とあり、また「神」(エロヒム)と呼ばれています。ですから、主の使いが燃える柴の中に現れたというのは、主の臨在を象徴していました。

モーセは、柴が燃えているのに、その柴が燃え尽きていなかったのを見て、なぜ燃え尽きないのだろうと、近寄って、その大いなる光景を見ようと思いました。すると主は、モーセが横切って見に来るのをご覧になり、柴の中から彼の名を呼ばれました。彼が「はい、ここにおります。」と答えると、神は仰せられました。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」  どういうことでしょうか。この「聖なる」という言葉の本来の意味は、分離されているということです。それはこの世と分離されているということです。神はこの世とは全く分離しており、決して交わることのない方です。それが「聖」であるということなのです。ですから、汚れたままで近づくことはできませんでした。履き物を脱がなければならなかったのです。神に近づく者は聖でなければならないということです。なぜなら、神は聖なる方だからです。このことは聖書の中に何回も繰り返して言われています。たとえば、レビ記11章45節にこうあります。

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」」

ここには、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない、とあります。同様の教えがⅠペテロ1章13~16節にもあります。また、Ⅱコリント6章14~18節にも、「それゆえ、彼らから出て生き、彼らから離れよ。主は言われる。汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、あなたがたの父となり、あなたがはわたしの息子、娘となる。」とあります。

ですから、「あなたの履き物を脱げ」というのは、この世の汚れから離れ、神に全く献身することを表していました。聖なる神の前に自分自身を完全に明け渡すようにという意味です。このように神に近づくためには、まず自分自身を神に明け渡さなければなりません。

 

また、ここには「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とあります。これはどういうことかというと、神は契約の神であるということです。そして、モーセの先祖と交わされた契約を決して忘れず、それを忠実に行われる方であるという意味です。神はかつてアブラハム、イサク、ヤコブと契約したとおりに、彼らを約束の地に導かれると言われました。それは人間的には不可能なことです。しかし、神にはどんなことでもできます。神は契約の神であり、約束されたことを必ず実現される方なのです。そして、その契約を果たすために、神は今モーセに現われてくださったのです。

 

それに対して、モーセはどうしたでしょうか。モーセは顔を隠しました。神を仰ぎ見ることを恐れたからです。なぜでしょうか。以前の彼であれば堂々と立ちあがったことでしょう。しかし、彼はミディアンに逃れ、その荒野での長きにわたる生活の中で、そうした自信を全く失っていました。

Ⅱ.モーセの召命(7-12)

 

次に7節から12節までをご覧ください。

「主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」」

 

主は、エジプトにいるイスラエルの民ことを決して忘れておられませんでした。むしろ、その悩みを見、彼らの叫びを聞き、痛みを知っておられました。そして彼らの叫びが主に届いたとき、主は彼らを救うためにその御業を始められました。モーセを彼らの所へ遣わし、彼らをエジプトから連れ出すようにと命じられたのです。

それに対してモーセは何と言ったでしょうか。11節をご覧ください。

「モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」  これはどういうことでしょうか。モーセはここで、神の召命に対して断っています。それはなぜかというと、ここに、「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」とあります。つまり、自分にはその資格がないということでした。エジプトの王子であった時はいざ知らず、今は無名の羊飼いです。ファラオは最高の権威を持って、軍隊を率いています。杖1本しか持っていない自分に、いったい何にができるというのでしょう。たとえエジプトに行ったとしても、イスラエル人が私を受け入れてくれるはずがありません。40年前でさえ自分を拒否した人がいるのです。行っても無駄なことです。そのような思いが、モーセの頭の中を巡ったのです。

 

それに対する神の回答はどんなものだったでしょうか。12節をご覧ください。「神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」

ミディアンの荒野における40年間の生活は、確かにモーセのプライドが砕かれ、自分にできること

は何もないということを知るために大切な時でした。しかし、彼はまだ学んでいないことがありました。それは、神がともにいるなら、自分にその資格があるかどうかは関係ないということです。「これが、あなたがたのためのしるしである。」とは、神がともにいるというしるしのことです。そのしるしは何でしょうか。それは、「あなたがこの民をエジプトから導きだすとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない」ということです。つまり、神の山ホレブで神を礼拝するようになるということです。神の山ホレブは、エジプトからカナンの地への途上にはありません。しかし、イスラエルの民はこのシナイ山で神を礼拝するようになるというのです。

 

あれっ?しるしとは、証拠としての奇跡のことです。ここでは「神がともにいる」ということの証拠としての奇跡であるはずなのですが、そのしるしは、イスラエルがエジプトを出てカナンに向かう時に与えられるというのは不思議です。神がともにいるというしるしがあってこそ信仰によって行動ができるのですから、このように後で示されるのではしるしになりません。

実は、これは「歴史的しるし」と呼ばれるものです。目の前に起こるいやしや不思議だけがしるしなのではありません。神の存在を証明する最大のしるしは、歴史そのものです。特に、イスラエルの歴史を学ぶなら、そこにある確かな神のしるしを見て、まだ起こっていないことも、必ず起こると確信できるようになります。ですから、モーセはまだしるしを見てはいませんでしたが、歴史の中でこのしるしが与えられた時に、もっと深く神の臨在を確信するようになったでしょう。

 

Ⅲ.わたしはあるというものである(13-22)

 

それに対してモーセは何と答えたでしょうか。案の定、13節を見ると、彼はまた自分にはできないという言い訳を並べます。

「モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」」

 

モーセの次の言い訳は何でしょうか。それは、たとえ自分がイスラエルの民のところへ行っても、イスラエルの民は受け入れてくれないだろう、というものでした。「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのものに私を遣わされた」と言えば、彼らは、「その名は何か」と聞くでしょう。そのとき、自分は彼らに何と答えたらいいのか、というのです。

おそらく彼の中には、かつての出来事がトラウマになっていたのではないかと思います。同胞へブル人が言い争っていたときその仲裁に入った彼は、仲間の一人から「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」(2:14)と言われました。だから、またエジプトに行って彼らを連れ出すと言ったら、彼らから何と言われるかわからないというのです。その時に問題になるのが、「その名は何か」ということです。イスラエルの民は、いつも神に叫んでいたので、神のことを知っていました。彼らは、神は働きの段階に応じて新しい御名を啓示されると思っていました。ですから、イスラエルをエジプトから救い出してくれる神の名は何かと聞かれたら何と答えたらいのかと尋ねているのです。

 

14節をご覧ください。「神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」」

何ですか、「わたしはある」という者である・・とは。これは神の本質を啓示する御名です。これは、神は存在の根源であり、他の何ものにも依存せず存在している自存の神であるということ、よって、いかなる限界もない神であるということです。その方があなたを遣わすというのです。

モーセがこの神のご性質について本当によく知るのならば、もはや何も恐れるものはないはずです。なぜなら、この方は創造主であり、すべてのものの存在の根源であられるからです。ローマ8章31節には「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とありますが、だれも敵対することなどできません。

 

この「わたしはある」という名前ですが、これはイエス・キリストに対して用いられたことばでもあります。イエス様は「わたしはある」という主の御名を、いろいろな形で示されました。「わたしはいのちである。」「わたしは光である。」「わたしは救いである。」「わたしは道である。」というようにです。そして、ユダヤ人には、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」と答えられました(ヨハネ8:58)。永遠に存在されている方としての主(ヤハウェ)の御名を、ユダヤ人の前でお使いになられたのです。そして、これが永遠にわたる主なる神の御名です。「わたしはある」という主なる神が、モーセを遣わされるのです。

 

次に、主はモーセがエジプトに行ってどのような手順でそれを行ったら良いかを、事細かに説明されました。16~18節をご覧ください。

「行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。だからわたしは、あなたがたをエジプトでの苦しみから解放して、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地へ、乳と蜜の流れる地へ導き上ると言ったのである」と。』彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』」

モーセはまず、エジプトにいるイスラエルの長老たちの所へ行き、主がこれから何をなさろうとしているのかを告げなければなりませんでした。彼らは、モーセの声に聞き従うでしょう。そしたら、今度は彼らと一緒にエジプトの王ファラオのもとに行き、「ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。」と言わなければなりませんでした。これは最低限の要求です。もしこれに応じないなら、何を提案しても無駄です。

 

さて、それに対してエジプトの王はどうするでしょう。主なる神はそのことも事前に知ってモーセに告げます。そして、それに対してどのように対処したら良いかを知らせるのです。19~22節です。

「しかし、エジプトの王は強いられなければあなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。その後で、彼はあなたがたを去らせる。わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたが出て行くとき、何も持たずに出て行くことはない。女はみな、近所の女、および自分の家に身を寄せている女に、銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなさい。こうしてあなたがたは、エジプト人からはぎ取りなさい。」

事はそう簡単には進みません。モーセがイスラエルの民の長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行き、自分たちを行かせよと要求しても、エジプトの王はそう易々と行かせるようなことはしません。そこで神はご自分の手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打ちます。その後で、彼はイスラエルを行かせるようにするのです。そればかりではありません。彼らがエジプトを出て行く時には、何も持たずに出て行ってはならないと命じました。すなわち、近所の女や身を寄せている女から銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなければなりませんでした。どうしてこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。それは、そのようにしてはぎ取った財産で、後に幕屋を建設するためです。そのために必要になります。神は、その後のこともすべてご存知であられ、そのための備えをしておられたのです。

私たちの神は大いなる神です。「わたしはある」というお方です。その神を見上げて、この方からいつも新しい力をいただきましょう。

ヨハネの福音書4章43~54節「見ないで信じる者に」

ヨハネの福音書4章から3回にわたってお話ししてきました。第一回目は救いと悔い改めについて、第二回目は礼拝について、そして第三回目は伝道についてです。今日は、この4章の終わりの箇所から、信仰の成長についてお話ししたいと思います。タイトルは、「見ないで信じる者に」です。

 

Ⅰ.見ないかぎり信じない(43-48)

 

まず、43節から48節までをご覧ください。45節までをお読みします。

「さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」

 

「さて、二日後に」とは、イエス様がサマリヤに滞在されて二日後に、ということです(4:40)。イエス様はそこを去ってガリラヤへ行かれました。ガリラヤに行くことは、当初からの計画でした。しかし、イエス様は一人の魂に飢え渇いた女性を救うためにサマリヤを通過し、その途中スカルというサマリヤの町に滞在されたのです。それは、いわば寄り道でした。しかし、その寄り道は何とすばらしい結果をもたらしたことでしょう。イエス様はその町に二日間滞在し、さらに多くの人々が、イエス様を信じたのです。

 

その二日後に、イエス様はそこを去ってガリラヤに行かれました。なぜなら、イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていたからです。自分の故郷では尊ばれないとわかっていたのに、どうしてわざわざガリラヤへ行かれたのでしょうか。そこである人たちは、この44節のことばは、イエスがガリラヤへ行かれた理由を説明しているのではないと考えます。そうでないとさっぱり意味が通じなくなるからです。この新改訳2017ではそのように訳しています。しかし、この44節の冒頭には日本語では訳されていませんが、「そういうわけで」とか「なぜなら」という理由を説明するギリシャ語の接続詞「ガル」ということばがあって、これは明らかにイエスがガリラヤへ行かれた理由を表しているのです。ですから、新改訳聖書第三版では、ここをちゃんと、「イエスご自身が、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言しておられたからである。」と訳しています。訳としては、こちらの方が正確です。問題は、であればイエス様はなぜガリラヤへ行かれたのかということです。自分が尊ばれない所には、だれも行きたいとは思わないはずです。それなのに、イエス様はあえてガリラヤへ行かれたのです。そこには二つの理由があったと考えられます。

 

一つは、このガリラヤというのはガリラヤ地方のことであって、ナザレのことではなかったからです。イエス様が言われた「自分の故郷」とはナザレのことであって、ガリラヤ地方全体のことを指していたのではなかったということです。確かにナザレもガリラヤ地方の町の一つではありますが、ナザレの町と他の町とではイエス様に対する感情に明らかに違いがありました。一般的にガリラヤの町々では尊ばれていましたが、ナザレではそうではなかったのです。そこには自分の家族も住んでおり、その家族にとってイエス様は単なる家族の一員にすぎず、神の預言者として尊ばれることはありませんでした。たとえば、ヤコブの手紙を書いたヤコブはイエス様の実の兄弟ですが、彼がイエス様をメシヤとして信じたのはイエス様が復活してからのことでした。それまではただの家族の一員、親切なお兄ちゃんくらいにしか受け止めていなかったのです。

ですから、イエス様がガリラヤに帰っても、ナザレを訪問することはありませんでした。その結果、遠くにいたサマリヤの人たちやガリラヤの他の町々村々の人たちが祝福を受け、近くにいたナザレの人たちが祝福を逃すことになってしまいました。これは何という皮肉なことでしょうか。私たちの祝福は、イエス様とどれだけ近くにいるかということによってではなく、イエス様をどのような目で見、どのように歓迎するかによって決まるのです。イエス様を私たちの人生に歓迎する人になりましょう。

 

では、そのガリラヤの人たちはどのようにイエス様を歓迎したでしょうか。45節をご覧ください。彼らはイエスがガリラヤに入られたとき、イエスを歓迎しました。すばらしいですね。でもどうして彼らはイエス様を歓迎したのでしょうか。その後のところに理由が述べられています。

「それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」

なるほど、彼らがイエスを歓迎したのは、過越しの祭りを祝うためにエルサレムに上ったとき、そこでイエスが行われたしるしを見たからです。彼らはガリラヤに帰るなり、エルサレムで起こった不思議な出来事を隣人たちに報告していたのです。ですから、イエス様がガリラヤに到着すると、熱狂的にイエス様を歓迎したのです。

 

でも、これは本物の信仰とは言えません。それは2章23~24節に出てくるエルサレムの人々と何ら変わりありません。そこにはこうあります。

「過越しの祭りの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」

イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスを信じましたが、それはどうしてかというと、イエスが行われたしるしを見たからです。ですから、たとえ彼らがイエス様を信じても、イエス様は彼らに自分を任せることはなさいませんでした。つまり、彼らを信頼しなかったのです。イエス様が行われたしるしを見て信じるだけなら、それは本物の信仰とは言えないからです。イエスのなされる御業を見て信じること自体が悪いのではありません。しかし、それは信仰の入口にすぎず、あくまでも神のみことばが真実であるということの証拠としての奇跡であって、そこから本物の信仰へと進んで行かなければならないのです。つまり、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださったメシヤ、救い主であるということをしっかりと告白し、新しく生まれ変わるという経験が必要なのです。それが信仰の第一ステップです。それがなければ、どんなに不思議なしるしや奇跡を見ても何の意味もありません。

 

ヨハネは、そのことを示すために、次に王室の役人の息子の話を取り上げています。46節から48節までをご覧ください。

「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。』」

 

イエス様は再びガリラヤのカナへ行かれました。そこはかつてイエスが水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたところです。そこにカペナウムという町から、ある王室の役人が来ていました。この王室とはヘロデ・アンティパスに仕える役人のことで、今で言うと、政府の高官のことです。彼は息子が病気で死にかかっていたので、息子を癒してもらうためにカペナウムからわざわざやって来たのです。カペナウムからカナまでの距離は約30㎞、標高差は約600mあります。その距離を一気に上って来たのですから、彼がどれほど切羽詰まっていたかがわかります。

 

イエス様はいったいなぜガリラヤに行かれたのか、そのもう一つの理由がここにあります。それは、この役人を救いに導くためでした。イエス様は以前サマリヤの女を救いに導くためにわざわざスカルというサマリヤの町に行かれたように、この王室の役人を救うためにわざわざガリラヤへ行かれたのです。「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていたのに・・です。この役人はどのように救いに導かれて行ったのでしょうか。