メッセージ

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Ⅰサムエル6章

サムエル記第一6章から学びます。

 

Ⅰ.祭司たちと占い師たちの進言(1-9)

 

まず、1~9節までをご覧ください。

「主の箱は七か月間ペリシテ人の地にあった。ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「主の箱をどうしたらよいでしょうか。どのようにして、それを元の場所に送り返せるか、教えてください。」彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。神に対して償いをしなければなりません。そうすれば、あなたがたは癒やされるでしょう。また、なぜ、神の手があなたがたから去らないかが分かるでしょう。」人々は言った。「私たちが送るべき償いのものは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数に合わせて、五つの金の腫物、つまり五つの金のねずみです。彼ら全員、つまりあなたがたの領主たちに、同じわざわいが下ったのですから。あなたがたの腫物の像、つまり、この地を破滅させようとしているねずみの像を造り、それらをイスラエルの神に貢ぎとして献げなさい。もしかしたら神は、あなたがたと、あなたがたの神々、そしてあなたがたの地の上にのしかかっている、その手を軽くされるかもしれません。なぜ、あなたがたは、エジプト人とファラオが心を硬くしたように、心を硬くするのですか。神が彼らに対して力を働かせたときに、彼らはイスラエルを去らせ、イスラエルは出て行ったではありませんか。今、一台の新しい車を用意し、くびきを付けたことのない、乳を飲ませている雌牛を二頭取り、雌牛を車につなぎ、その子牛は引き離して小屋に戻しなさい。また、主の箱を取って車に載せなさい。償いとして返す金の品物を鞍袋に入れて、そのそばに置きなさい。そして、それが行くがままに、去らせなければなりません。注意して見ていなさい。その箱がその国境への道をベテ・シェメシュに上って行くなら、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのはあの神です。もし行かないなら、神の手が私たちを打ったのではなく、私たちに偶然起こったことだと分かります。」

 

神の箱がペリシテの五つの町のいくつかの町々、アシュドデ、ガテ、エクロンに運ばれると、主の手がその町々の住民に重くのしかかり、非常に大きな恐慌を引き起こし、彼らを腫物で打ちました。5:12には、「助けを求める町の叫び声は天にまで上った。」とあります。主の箱は七カ月間ペリシテの領地にありました。それでペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び集め、この主の箱をどのようにしたらよいかを協議します。どのようにして、それを元の場所に送り返せるかを、尋ねたのです。

 

すると彼らは、イスラエルの神を送り返すのなら、何もつけないで返してはならないと言いました。神に対して償いをしなければなりません。そうすれば彼らは癒され、なぜ神の手が彼から去らないのかがわかるだろうと言いました。「償い」は、新改訳第三版では「罪過のためのいけにえ」と訳しています。要するに、彼らは自分たちが罪を犯したことを認めているのです。イスラエルの物を奪ってしまったという罪です。何を盗んだんですか?神です。彼らは何とイスラエルの神を盗んでしまったのです。それを送り返すには、何もつけないでというわけにはいきません。その償いをしなければならない。ペリシテ人がしなければならない償いとはどんなものでしょうか。

 

4節には彼らが送るべき償いとはどんなものかが記されてあります。すなわち、ペリシテ人の領主の数に合わせて、五つの金の腫物、つまり五つの金のねずみです。ここに彼らが苦しんだ腫物がどのようなものであったかがわかります。すなわちそれは、ねずみが感染源となって引き起こされる腫物であったということです。それがリンパ腺の腫物であれば、最終的には卵くらいの大きさになったでしょう。彼らが償いとして五つの金のねずみを送ったのはそのためでした。それらをイスラエルの神に貢ぎとして送れば、もしかしたら、イスラエルの神は、彼らと彼らの神々、そして彼らの地にのしかかっている、神の手を軽くしてくれるのではないかと考えたのです。

 

なぜ彼らはそのように考えたのでしょうか。6節をご覧ください。ここには、「なぜ、あなたがたは、エジプト人とファラオが心を硬くしたように、心を硬くするのですか。神が彼らに対して力を働かせたときに、彼らはイスラエルを去らせ、イスラエルは出て行ったではありませんか。」とあります。ここで彼らは400年以上も前の出来事を取り上げています。すなわち、イスラエルの民がエジブトから出た出来事です。400年以上も前のあの出来事が、彼らの心に鮮明に記録されていたのです。彼らはその歴史に言及して、だから心をかたくなにしてはならないと進言したのです。

 

では、具体的にどうしたらいいのでしょうか。7節を見てください。彼らの提案は、神の箱を新しい車に乗せ、まだ乳離れしていない子牛を持つ2頭の雌牛に引かせるというものでした。勿論、償いとして返す金の品物を添えてです。そしてその牛を行くがまま、去らせるのです。もしその箱が国境を越えてベテ・シェメシュに上って行くのなら、自分たちにこの大きなわざわいをもたららしたのはイスラエルの神であるということがはっきりとわかります。もし行かないのなら、それは神の手が打ったのではなく、偶然に起こったことだと分かります。どういうことかというと、雌牛は本来子牛のところに行きたいという本能がありますから、もしその本能に逆らってイスラエルの地に向かうとしたら、そのわざわいはイスラエルの神によってもたらされたものであることがわかるということです。ベテ・シェメシュという町はイスラエルの町ですがこの町はレビ人たちの町ですから、神の箱がそこに行けば、彼らはどうしたら良いかがわかるでしょう。

 

これらのことからどのようなことが言えるでしょうか。苦難の中から神の声が聞こえてきたら、ただちに悔い改めるべきであるということです。ペリシテ人たちは、自分たちに神の手が重くのしかかっていても、七カ月間もそれを放置しておきました。その原因がイスラエルの神の箱にあるということがわかっていても、です。その結果、ペリシテ人の町中に助けを求める叫び声が絶えませんでした。苦難の中から神の声が聞こえてきたなら、ただちに悔い改めるべきです。そうすれば、主は赦してくださいます。罪の悔い改めこそ、神との和解を土台とした希望と喜びに満ちた人生の出発点となります。へブル3:15には、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」とあります。あなたは、主の御声を聞くとき心を頑なにしていませんか。主の御前にへりくだり、ただちに悔い改めましょう。

 

Ⅱ.ベテ・シェメシュに運ばれた神の箱(10-18)

 

次に、10-18節をご覧ください。

「人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている雌牛を二頭取り、それを車につないだ。子牛は小屋に閉じ込めた。そして主の箱を車に載せ、また金のねずみ、すなわち腫物の像を入れた鞍袋を載せた。雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一本の大路をまっすぐに進んだ。鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、その後について行った。ベテ・シェメシュの人たちは、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げると、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑に来て、そこにとどまった。そこには大きな石があった。人々は、車の木を割り、雌牛を全焼のささげ物として主に献げた。レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物の入っている鞍袋を降ろし、その大きな石の上に置いた。その日、ベテ・シェメシュの人たちは全焼のささげ物を献げ、いけにえを主に献げた。ペリシテ人の五人の領主は、これを見て、その日エクロンに帰った。ペリシテ人が償いとして主に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。すなわち、金のねずみは、五人の領主に属するペリシテ人の町の総数によっていた。それは、砦の町と城壁のない村の両方を含んでいる。彼らが主の箱を置いたアベルの大きな台は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。」

 

ペリシテ人たちは、祭司たちや占い師たちの助言を受け、新しい車に神の箱と金のねずみを乗せ、2頭の雌牛につないで引かせました。雌牛は、子牛恋しさに泣きながら進み続け、右にも左にもそれることなく、ベテ・シャメシュの方へまっすぐに進んで行きました。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、その後をついて行きました。神の箱が国境を越えベテ・シェメシュに行った時、彼らは、イスラエルの神がこの雌牛を導いていることがはっきりとわかりました。

 

ベテ・シェメシュは、エクロンから南東に10㎞、ガテからは北東に10㎞にある国境の町です。ベテ・シェメシュの人たちは、谷間で小麦の刈り取りをしていました。しかし、目を上げると、神の箱が見えるではありませんか。彼らはそれを見て大いに喜びました。彼らは小麦の刈り入れ以上に、神の箱が戻って来たことを喜んだのです。

 

車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑に来て、そこにとどまりました。そこに大きな石があったからです。それで人々は、車の木を割り、その雌牛を全焼のいけにえとしてささげました。全焼のいけにえは血の犠牲が必要であることを知っていたからです。彼らにとってどれほどうれしかったでしょう。ペリシテ人に奪われていた契約の箱が戻って来たのですから。しかし、その喜びとは裏腹に、この町もまた神のさばきを受けることになります。

 

Ⅲ.神に打たれたベテ・シェメシュの人たち(19-21)

 

19-21節をご覧ください。

「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。私たちのところから、だれのところに上って行くのだろうか。」彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を遣わして言った。「ペリシテ人が主の箱を返してよこしました。下って来て、あなたがたのところに運び上げてください。」」

 

19節には、「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。」とあります。どうして主はベテ・シェメシュの人たちを打たれたのでしょうか。ここには、その理由として「主の箱の中を見たからである。」と述べられています。しかし、ベテ・シェメシュの人たちが打たれたのは、ペリシテの人たちに下った神のさばきとは違います。彼らは主の箱を見たので打たれたのです。これは明らかにモーセの律法に違反することでした。民数記4:17-20を開いてください。ここには、「主はモーセとアロンにこう告げられた。「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。あなたがたは彼らに次のようにして、彼らが最も聖なるものに近づくときに、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが入って行き、彼らにそれぞれの奉仕と、運ぶ物を指定しなければならない。彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死ぬことのないようにするためである。」」とあります。モーセの律法によると、主の箱を取り扱うことができたのはレビ人だけでした。そのレビ人の中でも神の箱をかつぐことができたのはケハテ族だけでした。しかも、それを手で触れてはならなかったので、かつぐ時には所定の棒を用いなければならなかったのです。ゲルション族とメラリ族は、神殿の用具を運ぶことさえ許されていませんでした。そのケハテ族でさえ、その中を見ることは許されていませんでした。それに触れるなら、一目でもそれを見るなら死んでしまうからです。神は、人間が見ることも触れることもできないほど聖いお方なのです。ベテ・シェメシュの人たちは、この神の箱の中を見てしまいました。彼らは、神の前に不敬虔な態度を取ったので、神のさばきが彼らの上に下ったのです。その日打たれた人数は70人です。それは1,000人に5人ですから、ベテ・シェメシュの人口は14,000人であったことがわかります。

 

それでベテ・シェメシュの人たちはどうしたでしょうか。彼らは、「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。私たちのところから、だれのところに上って行くのだろうか。」(20)と言って、キルヤテ・エアリムの住民に使いを送り、彼らのところに下って来て、この主の箱を運び上げてほしいと言いました。だから違うというのに、わかっていません。問題は、この神の箱がベテ・シェメシュに来たことではなく、彼らが神の命令に背いて、神の箱の中を見てしまったことです。神の箱が問題だったのではありません。むしろ、神の箱は神の臨在の象徴であって、神が共におられることのしるしでしたから、すばらしい祝福なのです。彼らはこのすばらしい祝福を自ら放棄してしまうことになってしまいました。なぜでしょうか。自分たちの過ちには目をつぶり、ただ神の箱がもたらす恐ろしいさばきだけを見ていたからです。もし彼らが敬虔な態度で神の箱を守っていたら、彼らの町は大いに祝福されたのです。彼らが成すべきことは神の箱を追放することではなく、悔い改めることだったのです。

 

でも、私たちもこのような過ちを犯していることがあるのではないでしょうか。問題は自分の中にあるのにそれを見ないというか、それに蓋をして見えないようにし、原因を他の何かになすりつけようとするのです。神のことばによって罪が指摘されたのにそれを悔い改めるのではなく、神のことばそのものを通さげようとします。このような態度ではいつまでも祝福されることはありません。原因は自分の中にあることをしっかりと受け止め、それを悔い改め、神のことばに従って歩もうではありませんか。

ヨハネの福音書11章17~27節 「わたしはよみがえりです いのちです」

きょうは、「わたしはよみがえりです いのちです」というタイトルでお話します。ヨハネの福音書には「わたしは・・である」という宣言が7回出てきますが、これはその中の5番目のものです。また、ヨハネの福音書にはイエスが神から遣わされたメシアであることを示すしるしがやはり7回出てきますが、このラザロを生き返らせるという奇跡は、その7番目のものであり、最大のものです。というのは、それはただラザロを生き返らせるというだけでなく、このことを通して主はご自身がよみがえりであり、いのちであることを示してくださったからです。ラザロは生き返りましたが、また死にました。しかし、キリストは再び死ぬことのないからだ、霊のからだによみがえられました。それはこの方を信じる者がみな、イエスのように死んでも霊のからだによみがえり、永遠のいのちが与えられるという聖書の約束が真実であることを示すためだったのです。よみがえりであり、いのちであるイエス・キリストを信じる者は、死んでも生きます。また、生きていてこの方を信じる人は、永遠に決して死ぬことはありません。私たちにはこのことを信じなければなりません。

 

私たちの人生には、ある日突然、予想だにしなかったことが起こります。先週の台風19号はそうでしょう。まさかあんなに大きな災害をもたらすなんて思いませんでした。それは災害だけでなく病気もそうですし、事件、事故などもそうです。中にはそうしたことで死ぬことさえあります。そんなことが起こるとき、私たちは「どうしてこんなことが起こるの?」と思ってしまいます。しかし、それがどんなことであっても、私たちはそれを乗り越えることができます。なぜなら、イエスはよみがえりであり、いのちであり、そのイエスが私たちともにいてそうした問題を乗り越える力を与えてくださるからです。

 

きょうは、このイエス様の御言葉から三つのことをお話しします。第一のことは、私たちの信じているイエスがどのような方であるのかを正しく理解しましょう、ということです。第二のことは、イエス様はよみがえりです。いのちです。イエス様を信じる者は死んでも生きる、ということです。そして第三のことは、あなたは、このことを信じますか、ということです。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。

 

Ⅰ.もしここにいてくださったなら(17-22)

 

まず、17~22節をご覧ください

「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」

 

イエスは、ラザロが病んでいるということを聞いてからも、そのときいた場所になお二日とどまられました(6)。「そのときいた場所」とは、ヨルダン川の川向うのことです。そこはかつてバプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた所です。イエスは彼を殺そうとしていたユダヤ人たちの手から逃れるために、そこに退いておられたのです。それからラザロがいたベタニアにやって来ましたが、それはラザロが死んで墓に葬られてすでに四日もたっていた時でした。ベタニアはエルサレムに近く、3キロメートルほど離れた所にありました。大勢の人々がマルタとマリアを慰めるために来ていました。マルタはイエスが来られたと聞いてすぐに迎えに行きましたが、マリアは家で座っていました。兄弟ラザロが死んだことがあまりも悲しくて、そこから動けなかったのかもしれません。

 

マルタは、イエス様に会うなりこう言いました。21節です。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」どういうことでしょうか。32節を見ると、実はマリアも同じように言っていたことがわかります。ここに、彼女たちが、どれほどイエスが来られるのを待っていたのかがわかります。あるいは、待ってはいてもなかなか来てくれないイエス様のことを残念に思っていたのでしょう。これまで一生懸命に尽くしてきたのだから、何を差し置いてもすぐに飛んで来てくれると思ったのにそうではない。イエス様がエルサレムに上られた時は、彼らの家に宿泊することが多かったようですが、その時にはいつも決まった時間に来てくれたではないですかるそれなのにこんな大事な時に来てくださらないとはどういうことか、彼女の中に不満というか、失望があったかもしれません。彼女たちは、ラザロが死ぬと頼るべき対象を失い絶望していたのです。ラザロの死は、彼女たちに大きな悲しみと虚しさを与え、生きる意欲と希望を奪って行きました。このように死は、死んだ人ではなく生きている人を支配するのです。

 

そんな中でもマルタは、かすかな期待を持っていました。そして、こう言いました。22節です。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」どういうことでしょうか。この言葉には、イエスに対する不十分な理解というものが見られます。彼女は、それまでイエスが行われた数々の奇跡というものを忘れていました。それはイエスが力ある神だからというよりも、イエスのとりなしの祈りに効果があるのであって、イエスが神に求めることは何でも神は聞いてくださると考えていたからです。マルタはイエスを全能の神としてよりも、一人の祈りの勇者として信じていたのです。21節で彼女が「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と言ったのも、同様の理由からです。イエスがここにいてくだされば何とかなったかもしれませんが、いてくれなかったので兄弟ラザロは死んでしまったのだ、と言っています。でも、イエスはそこにいなければ何もできないのでしょうか?そうではありません。あのカペナウムの王室の役人の息子が癒された時もそうでした。彼がイエスの所に来て、「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」(4:49)と懇願したとき、イエスは、「行きなさい。あなたの息子は治ります。」(4:50)と言っただけで癒すことができました。イエスがその場に行かなくても、ただ言葉を発しただけで癒すことができたのです。イエスは全能の神です。そこにいなくても御言葉を発するだけで癒すことができる方なのです。彼女はそのことを忘れていました。

 

しかし、それはマルタだけではありません。私たちもイエスは死人をも生き返らせることができる全能者であるということを頭ではわかっていても、いざその現実に直面すると信仰がどこかに吹っ飛んで行くというか、すぐに慌てふためくのではないでしょうか。

 

今、さくらの祈祷会では出エジプト記を学んでいますが、エジプトを出たイスラエルが荒野に導かれた時、行き場を失う場面が出てきます。目の前には紅海が広がっています。後ろからはエジプト軍が追いかけて来る。絶対絶命です。その時、イスラエルの民はモーセに向かってつぶやきました。「エジプトには墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。」(出エジプト記14:11)そんなことをしたらエジプト軍が追いかけて来て自分たちを捕らえてしまうでしょう。もっとひどいことになる。モーセよ、あなたは、エジプトには墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのかと言って、叫んだのです。これは信仰の叫びではなく不信仰の叫びです。皆さん、叫びには二種類の叫びがあります。それは信仰の叫びと不信仰の叫びです。彼らの叫びは不信仰の叫びでした。確かに彼らはエジプトになされた主のみわざを見て主を信じましたが、こうした困難に直面すると、その信仰はどこかへ吹っ飛んで行ってしまったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちもイエス様を信じています。しかし、こうした困難に直面すると、マルタのように、またイスラエルの民のように、不信仰になってすぐに不平不満を漏らしてしまうのです。いったい何が問題なのでしょうか。それは、キリストに対する理解が欠如していることです。私たちの信じている主イエスがどのような方であるのかを正しく理解していないのです。確かに、マルタとマリアは紛れもなくイエスを信じていました。そういう意味では真のクリスチャンです。しかし、その信仰には欠けがありました。確かにイエスを見てはいましたが、そこには不信仰が入り混じっていました。それはちょうどすりガラスを通して観るようにぼんやりとしたものでした。知ってはいましたが部分的でした。信じていましたがキリストの力を自分の頭で制限していたのです。あなたはどうでしょうか。どのようにキリストを理解しているでしょうか。あなたの理解は、どれほど深く、広いものになっているでしょうか。また、その理解は日々深まっているでしょうか。私たちは聖書の御言葉を通して、キリストを正しく理解しなければなりません。

 

那須でバプテスマを受けられた小島兄夫妻と継続的に学びの時を持っていますが、先日のテーマは「三位一体」でした。私たちが信じている聖書の神は、三位一体の神です。三位一体とは何ですか。三位一体とは、神は実態において唯一の神であり、父と子と聖霊という三つの位格によって存在するということです。位格とは人格と置き換えることができます。つまり、神はただ一人、唯一ですが、三人いるということです。単純に考えると理解できません。複雑に考えても理解できません。だって一人だけれど3人なんですから。目がくるくる回りそうです。聖書には三位一体という言葉は出てきませんが、そういう神概念を啓示しています。すなわち、父なる神は神としての性質を持っているということ、子なる神も神としての性質を持っているということ、そして、聖霊なる神も神としての性質を持っているということです。だから、三位一体を頭で理解することはできないのですが、啓示された神の言葉を受け入れるなら、これを信じなければならないのです。これは理解できるかできないかということではなく、信じるかどうかの問題です。

 

ところで、エホバの証人の方は、キリストは神の子であっても神ではないと主張します。神に近い人間だけれども神ではないと。皆さん、どう思いますか。そうだね、なんて言わないでください。聖書そのものをみると、イエス・キリストが神であるということは至るところに出てくるのですから。たとえば、ヨハネ1:1~3には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」とあります。もうこれだけでもキリストが神であるのは明らかです。ここには、キリストは「ことば」として表されていますが、それは神を啓示された方という意味です。そのことばは「初め」から存在していました。この「初め」とは永遠の初めのことです。何も存在していなかった永遠の昔からキリストは存在していたのです。それは、ヨハネ8:58で、「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」とあることからもわかります。イエスはアブラハムが生まれる前から存在しておられました。アブラハムが生まれたのはいつですか。B.C.2000年です。イエスはそれよりも先におられたというのは、イエスは霊において永遠の昔から存在しておられたということです。それが時至って今から2,000年前に人間の姿を取ってこの地上に来てくださいました。キリスト永遠なるお方なのです。これだけでもキリストは神であるということがはっきりしています。でも、そればかりではありません。ここには、「ことば神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。ここにはっきりと、「ことばは神であった」とあります。キリストは神ご自身であられるのです。それは、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」と言う言葉からもわかります。この方は、創造主なる神なのです。

 

これだけ見ても、キリストが全能の神であられるということがわかります。しかし、そればかりでないのです。たとえば、私たちはこれまでずっとヨハネの福音書を学んできましたが、その中でこの方が成されたわざを見れば、どれほど偉大な方であるかがわかります。キリストは王室の役人の息子の病気を癒したり、ベテスダの池の周りで38年間も伏せていた人を癒されました。そして、生まれつき盲人の目を開けて見えるようにしました。これだけでもすごいのに、それだけではありません。何とガリラヤ湖を舟で渡っていた弟子たちが嵐のため漕ぎあぐねているのを見ると、水の上を歩いて近づかれました。近づいて「どうした」と言われるのかと思ったら、そのまま通り過ぎるおつもりであったなんて、おもしろいですね。そして、そんな嵐に向かって、「嵐よ、静まれ」と言われると、波はなぎになりました。自然界をも支配されたのです。先の台風19号が襲来したとき、だれがその自然の猛威を静めることができたでしょうか。だれもいませんでした。台風が来るのでいのちを守ってくださいと言うことはできても、その嵐に向かって「静まれ」ということができる人など一人もいませんでした。しかし、キリストはその自然界さえも治めることができました。

そしてここでは死んだラザロを生き返らせます。だれがそんなことができるでしょうか。だれもできません。しかし、キリストはおできになるのです。なぜなら、キリストは神だからです。キリストは神であられ、どんなことでもおできになる全能者なのです。あなたはそのことを本当に信じていますか。

 

20世紀の偉大な聖書学者、J・B・フィリップスの著書に、「あなたの神は小さすぎる」という本があります。あなたは、自分の小さな箱の中に、偉大な神様を、閉じ込めている、というのです。あなたはどうでしょうか。この偉大な神であられるイエス・キリストを、限界のある、人間の脳みその中に、押し込んでいる、ということはないでしょうか。私たちの主イエス・キリストは全能の神であることを信じ、いざというときに、その信仰を働かさなければなりません。

 

Ⅱ.わたしはよみがえりです。いのちです(23-26a)

 

第二のことは、イエスはよみがえりであり、いのちであるということです。23節から26節前半までご覧ください。

「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」

 

そこでイエスは、マルタに「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われました。これが、イエスがベタニアに来て最初に言われた言葉です。マルタのあいまいなキリスト観というものを正そうと導こうとして発せられた最初の御言葉です。いつ、どのように生き返らせるのかといったことには一切触れず、ただラザロが生き返ると言われたのです。

 

それに対してマルタは何と言いました。25節です。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」どういうことですか?「終わりの日」とは世の終わりの日のことで、キリストが再臨される時のことです。その日にクリスチャンがよみがえるというのは聖書の約束であり、それを信じる信仰は確かにすばらしいものです。しかし、その信仰が今の彼女が当面している問題に対して何の解決も与えてくれないとしたら、それは生きた信仰とは言えません。彼女はイエスを信じていながらも現実的には悲しみ、絶望していました。今の彼女にとっては何の力にもならなかったのです。しかし、主が望んでおられたことは、その信仰が現実の生活の中に生かされることでした。死からよみがえるという復活の信仰に生きることだったのです。信仰と現実が一致することです。信仰は心の平安のために、でも実際の生活は自分の力でというのではありません。信仰が実際の生活の中で生かされることなのです。ですから、イエスは彼女に対して力強い約束と宣言のことばを語られました。25節と26節の言葉です。ご一緒に読みましょう。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」

 

イエスはこれまで何回も「わたしは・・です」と宣言されました。たとえば、「わたしはいのちのパンです」と言われました。6:35です。また、8:12では「わたしは世の光です」とも言われました。そして、10:7では「わたしは羊たちの門です」と言われました。また、そのすぐ後の10:11では「わたしは良い牧者です」とも言われました。イエスはこれまで4回も「わたしは・・です」語られましたが、これらはみな比喩として語られました。ところが、今回は単なる比喩としてではなく、そのものズバ語られたのです。つまり、イエスはよみがえりであり、いのちであられるということです。これはどういうことかと言うと、イエスはよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。そのような者であるということではなく、そのものズバリであられるということです。よみがえりであり、いのちであられるのです。

 

そして、これが現在形で書かれていることからもわかるように、よみがえりであり、いのちであられるキリストは、私たちが今、現在抱えている様々な問題のただ中にそのような方として存在しておられるのです。信仰とは過去や未来ではなく現在です。私たちは現在においてイエスを信じなければなりません。過去において信じていましたとか、いつか信じるでしょうというのではなく、今、信じなければならないのです。それは線のようにずっと継続していくものなのです。ですから、この終わりの日だけでなく、今イエスを自分のよみがえり、いのちと信じるなら、イエスは当面している今の問題を、その復活の力によって解決してくださるのです。よみがえりであり、いのちであられる主は、死んだ人にいのちを与えてことができます。しかし、それは死んでからのことだけでなく、生きている今、この瞬間にも、もたらされるのです。イエスはヨハネ5:24でこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」

イエスの言葉を聞いてイエスを信じる者は、その瞬間に永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。将来において移るでしょう、たぶん移るはずです、きっと移りますと言うのではなく、今、この瞬間に移っているのです。イエスを信じたら、その瞬間に天国です。天国とは神の支配です。神が共におられるところです。そういう意味では、信仰は本当に神秘的です。私たちがイエスをいのちの主として信じ受け入れる時、その瞬間にそこに驚くべきことが起こるからです。死からいのちに移ります。私たちはこれまで死の勢力が支配されて生きてきました。死んだら終わりという世界です。死の勢力は私たちを恐れさせ、虚しくし、悲しくし、運命の奴隷としてきました。死は人からすべての生命、希望、喜びを奪って行きます。しかし、いのちの世界に移されると状況は全く変わります。その時、それ以上死が支配することができないのです。代わりにいのちが私たちを支配するようになります。いのちの世界は光の世界であり、喜びと希望の世界です。いのちの世界に生きている人はもはや虚しさにさいなまれることはありません。もう運命に支配されることはないのです。使徒パウロは復活されたイエスに出会い、人生が全く変えられました。彼は次のように言いました。

「「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:55-58)

 

すごいでしょ。以前、NHKで死の医学というものを提唱した精神科医の西川喜作さんのドキュメント番組を放映しました。これは作家の柳田邦夫さんも「死の医学」という本に書いています。

西川さんは精神科医として、まさに働き盛りの頃、その仕事に生き甲斐をもって全力を打ち込んでいました。ところがある日、血尿が出たため検査を受けたところガンの兆候であることがわかりました。それからというもの、検査、検査の毎日が続き、からだはその検査のためにクタクタになり、自分の生き甲斐である仕事も思うようにできなくなっていきました。やがて、彼は自分がガンであることを悟ります。担当医は、症状が少しでも進まないように、仕事から離れて静養することを勧めるのですが、彼にとっては仕事が何よりの生き甲斐でしたから、ドクター・ストップを振り切って、これまでどおりに手がけてきた仕事に全力を傾けていきました。

そうした中で、彼は医者として、現代の医療のあり方に対して非常に強い疑問を抱くようになるのです。確かに科学が進歩し、医療技術も進歩して、1日も長く寿命を延ばすことができるようになったけれども、ただそれだけのことではないか。自分が今抱えている死に対する不安や焦り、恐れ、そうした心の苦痛に対して、現代の医療は何も解決を与えてくれない、ということを痛感したのです。そして、「死の医学」を提唱し始めたのです。

症状が着実に進んでいきました。ガンは全身に転移し、力尽きてベッドに寝たままとなってしまいました。弱々しい姿に変わり果てながらも、訪問してくれる同僚や先輩の医者たちに対して、死についての真剣な対話を求めます。「死の向こうに何かあると思いますか。あなたは来世を信じていますか。」・・など。しかし、同僚や先輩たちは何も答えてくれませんでした。誰も真の意味で慰めてはくれない。死の恐れから彼を慰めるものは何もなかった、誰もいなかったのです。

私はそのドキュメントを見ながらとても痛々しかったのを覚えています。絶望感、虚無感、なぜ、どうしてという虚無感に襲われながらも何一つつかまるところのないその姿はとてもかわいそうでした。

私たちもいずれ例外なく、自分の死に直面します。これだけはみな平等です。その確立は100%です。しかし、この死の恐れ、死の不安に対して、本当の慰め、本当の勝利を持っている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。人生の終わりに自分がどこへいくのかわからない、そんな人生はとても悲惨です。その人が人生で成してきたことが、死に対してなんの力にもならないのです。私たちがどこへいくのかはっきりと知ってこそ、どうなるのかを知ってこそ、はじめて死の恐れから解放されて生きることができるのです。

 

イエスはこう言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」私たちの恐れの最後の砦である「死」に打ち破り、勝利を与えてくださった主に、心からの感謝しようではありませんか。そして、それは私たちが死んでからだけのことばかりではなく、生きていて、イエスを信じる者は決して死ぬことがなく、永遠の命を持つということ、つまり、キリストが今この復活の力を持って、この方を信じるすべての人の問題をも解決することができるということを信じて、ここに慰めと希望を持ちたいと思うのです。

 

Ⅲ.あなたは、このことを信じますか(26b-29)

 

ですから、第三のことは、このことを信じましょう、ということです。26節後半から29節までをご覧ください。

「あなたは、このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。」

 

イエスは、ご自分がいのちであり、真理であられるということ、そして、このことを信じる者は死んでも生きるというだけでなく、生きていてこのことを信じる者は、決して死ぬことはない、と言われると、マルタに向かって「あなたにとって少し慰めになりましたか」とか、「ちょっと楽になりましたか」などとは言いませんでした。、「あなたは、このことを信じますか」と言われました。「このこと」とは何ですか。それは、死んでも生きるというだけでなく、生きていて信じる者は、決して死ぬことがないということ、つまり、その復活のいのちをもって、今、当面している問題をも解決することができるということです。このことを信じますか、と問われたのです。

 

すると彼女は、このようにイエスに言いました。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」どういうことですか。これは彼女がイエスの意図しておられるような意味で信仰を持ってはいなかったということを表しています。というのは、確かに彼女はイエスが世に来られる救い主であると信じていましたが、それ以上のお方としては信じていなかったからです。それ以上の方とは、この方が、今、現在、当面している問題をも解決することができる方であるという信仰です。この場合で言うなら、ラザロが生き返るということです。マルタのこの信仰告白は間違いではありませんでしたが、それは、漠然とした一般的な告白にすぎなかったのです。

 

クリソストムという神学者は、ヨハネの福音書の註解の中で次のように述べています。「マルタはキリストの語られた内容を理解していないように思われる。その重大性には気付いていたが、意味を十分に把握していなかった。そのため、的外れの返答をしたのである。」(J.C.ライル「ヨハネの福音書註解ⅢP64」)

また、トレトスという神学者はこう述べています。「マルタはキリストが、約束された真のメシアであると信じ、キリストが語られた一切の事柄を信じていると考えた。確かに彼女は信じてはいたが、その信仰は完全ではなく、漠然としていた。あたかも、よく把握していない信仰の教義について訪ねられた際、よく考えもせず、「私は公同の教会を信じます」と答える人に似ている。ここでのマルタも同様であり、「主よ、私は、あなたが真のキリストであること、また語られた事柄すべてが真実であることを信じますと述べてはいるが、その内容を十分に悟っていなかった。」(J.C.ライル「ヨハネの福音書註解ⅢP64」)

つまり、彼女は確かにイエスを神の子キリストであると信じていましたが、また、そういう意味では神の子とされ、永遠のいのちを受けていましたが、同時にそれがこの世でのさまざまな問題においても実際に解決をもたらす力がある方としては理解していなかったのです。いわばそれは私たちの信仰と同じであったということです。私たちもイエスを信じれば天国に行くことができると素朴に信じています。しかし、それがこの世の現実の生活においてはどうなのかと言われると、どこか首をかしげることがあるのではないでしょうか。なかなかそこまで信じることができません。

 

マルコの福音書に、口をきけなくする霊につかれた息子が連れて来られた時、イエスがその息子を癒される出来事が記録されています。人々がその子をイエスのもとに連れて来ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回りました。イエスはその子の父親に、「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか」と尋ねると、父親は、こう答えました。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでください。」(マルコ9:21-22)するとイエスは何と言われたでしょうか。イエスは、こう言われました。「できるものなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(9:23)

 

皆さん、私たちもこの父親のように言うのではないでしょうか。「もしおできになるなら・・・」。確かにイエスは全能者であると信じていますが、まさか目の前にある問題は解決できないでしょう。だから、「もし、おできになるなら」と言ってしまうのです。そこに「もし」が付くのです。もしできるなら、お願いします。しかし、信仰には「もし」はないのです。信じる者にはどんなことでもできるのです。その父親は自分の不信仰を悔改めてこう言いました。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

 

私たちも、目の前の問題が大きければ大きいほどイエス様に限界を設け、「もしできるなら」と言ってしいますが、信じる者にはどんなことでもできるのです。問題はイエス様に限界があるのではなく、私たちの側に限界があるのです。イエスはよみがえりです。いのちです。イエスを信じる者は死んでも生きます。また、生きていて、イエスを信じる者は、決して死ぬことはありません。私たちはこのイエス様の言葉を信じなければなりません。もし私たちの中にあの父親のような不信仰が少しでもあるなら、今悔い改めましょう。そして、彼が「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言ったように、聖霊によってイエスを主として、全能の主として信じることができるように祈ろうではありませんか。

 

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

そして、この主の問いかけに対して、私たちも「はい、信じます」と告白することができますように。私たちは信じないで滅びる者ではなく、信じていのちを得る者とさせていただきましょう。

 

出エジプト記16章

きょうは、出エジプト記16章から学びたいと思います。エジプトを出たイスラエルの民は、紅海を渡りシュルの荒野に導かれました。しかし、三日間荒野を歩いても、飲み水が見つかりませんでした。マラに来たときやっとの思いで飲み水を見つけたと思いきや、その水は苦くて飲むことができませんでした。それで彼らはモーセに向かって不平を言いました。三日前には主を賛美した彼らが、今度は不平を言ったのです。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示されたので、それを水の中に投げ入れました。するとその水は甘くなりました。その後、彼らはようやくエリムに到着しました。そこには12の水の泉と70本のなつめ椰子の木がありました。まさに砂漠の中のオアシスです。人生にはマラのような体験もあれば、エリムのような体験もあります。マラを通ってエリムに到着することができます。それは信仰の訓練でした。主は、苦い水を甘い水に変えられたようにいやしを与えてくださる方ですが、それは主が命じられたことに聞き従い、その命令を守り行い、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守ることによってもたらされる恵みです。棚ぼた式に与えられるのではなく、積極的に主のみことばに取り組む中での祝福なのです。今回はこのこと、つまり、神のみことばによって生きることについて学びます。  Ⅰ.主の試み(1-12)

 

まず1~12節をご覧ください。1節には、「イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。」とあります。イスラエルがエジプトを出たのは第一の月の15日ですから、ちょうど一か月が経過したことになります。彼らがエジプトを出た時に持って来た種なしパンも、そろそろ尽きてきた頃です。彼らはエリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入りました。  そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言いました(2)。 なぜでしょうか。3節には、彼らの不平の原因が次ようにあります。「イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」

彼らは、現状への不満を口にしました。食べ物がないということです。それにしても「飢え死にさせようとしている」というのはひどいです。彼らにはエジプトから連れて来た大量の家畜がいたはずです。パンはなくなったかもしれませんが、その肉を食べようと思えば食べられたはずなのです。また、エジプトで肉のなべを食べ、パンを満ち足りるまで食べていたとき、私たちは主の手にかかって死んでいた方がよかったのに・・・」と言っていますが、それは事実ではありません。彼らがエジプトにいたときは奴隷生活があまりにも酷かったので、日々叫び、うめいていました。彼らは、過去をあまりにも美化しすぎています。私たちも試練がおとずれると、このように過去を美化する傾向があります。あの時は良かった・・・と。しかしそれはただ、古い生活がいかにひどかったかということを忘れているだけのことです。それに、「私は主の手にかかって死んでいたらよかったのに」と言っていますが、これはあまりにもひどいいい方です。エジプトに下った10の災いがどれほど激しいものであったかを思えばそこから救い出されたことを感謝すべきなのに、厳しい現状の前に、彼らはここまで否定的になっていました。

 

信仰とは、今に感謝し将来に希望を持つことです。彼らは、エジプトに下った10のわざわいから守られました。なぜそれに感謝しないのでしょうか。彼らは、紅海を渡ることかできました。甘くなった水も飲むこともできました。さらに、エリムに導かれました。なぜこれらのことに感謝しないのでしょうか。もし主が彼らを殺すつもりなら、とっくの昔に滅びていたはずです。それなのに滅びないでいたのは、ただ神のあわれみ以外の何ものでもないことを肝に銘じるべきでした。

けれども、それはこの時のイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。私たちもイスラエルと同じように、主がこれほど良くしてくださったのにそのことを忘れ、現状の不満を口にすることが多いからです。詩篇103篇には、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(103:2) とありますが、主が良くしてくださったことに感謝して、信仰をもって歩ませていただきましょう。

 

次に、4~12節をご覧ください。イスラエルの民のつぶやきに対して、主からの答えがありました。4,5節です。

「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」」

ここに「見よ」とあります。何か驚くべき主のみわざが起ころうとしているのです。それは、パンが天から降ってくるということでした。この約束には命令が伴っていて、それは、毎日、その日の分を集めなければならない、ということでした。しかし、六日目には、日ごとに集める分の二倍を集めることができるということでした。なぜ六日目には二倍の量を集めるのでしょうかそれは後で出てきますが、安息日には集めないようにするためです。いったいなぜ主はこのような命令を与えたのでしょうか。4節にその理由が記されてあります。

「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」

イスラエルが祝福されること、物質的な必要が満たされることは、実は二義的なことだったのです。主が彼らに求めていたのは、彼らが主に信頼して歩むかどうかということです。彼らが神のみことばにとどまり、それによって、彼らが神の中に生きる、神の民になることが、この奇跡の目的だったのです。  人間の願望は、一時的に大量のものを集め蓄えを増やすということでしょう。蓄えが増えると安心感が与えられますが、同時に神から離れた生活、自立した生活につながる恐れがあります。主イエスは、金持ちが天国に入ることがいかに困難なことであるかを語られました(マタイ19:23~24)。金持ちは誤った安心感を抱くようになるので、神に信頼することが難しくなるのです。私たちはどうでしょうか。そのような思いがないかどうかを、聖霊によって点検していただきましょう。自分でそう思っていなくても、いつしか熱くもなく、冷たくもない、生ぬるい信仰に陥っていることがあります。生活の安定を求めることは決して悪いことではありませんが、そのことで主に信頼することが失われていることがないように注意したいものです。

 

6~12節をご覧ください。

「それでモーセとアロンは、すべてのイスラエルの子らに言った。「あなたがたは、夕方には、エジプトの地からあなたがたを導き出したのが主であったことを知り、朝には主の栄光を見る。主に対するあなたがたの不平を主が聞かれたからだ。私たちが何だというので、私たちに不平を言うのか。」モーセはまた言った。「主は夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。それはあなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。いったい私たちが何だというのか。あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」モーセはアロンに言った。「イスラエルの全会衆に言いなさい。『主の前に近づきなさい。主があなたがたの不平を聞かれたから』と。」アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、彼らが荒野の方を振り向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。主はモーセに告げられた。「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」

イスラエルの民は、モーセとアロンが自分たちをエジプトから導き出したと言って、モーセとアロ

ンに対してつぶやきましたが、彼らをエジプトから導き出されたのはモーセとアロンではなく主ご自身でした。そのことを証明するために、主は夕方には彼らに肉を与え、朝には主の栄光を見るようになると言いました。それは主が彼らの不平を聞かれたからです。具体的には、夕方には肉を食べ、朝には満ち足りるほどのパンを食べるようになるということです。そして、このことをモーセがアロンに告げ、アロンがイスラエルの全会衆に告げたとき、主の栄光が雲の中に現れました。その雲の中から、主はモーセにこう告げられました。

「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」(12)

主は、イスラエル人のつぶやきをお聞きになられました。そのつぶやきに対する主の答えは、彼にが夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるということでした。その目的は何ですか。それは、彼らが、主こそ彼らの神、主であることを知るようになるためです。これは、主が契約の神、恵み深い神、必要なものはすべて与えてくださる神であるということを知るようになるという意味です。

私たちの神は、私たちの必要をすべて知っておられます。この方にきょうも信頼を置いて歩もうではありませんか。

「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:31-34)

 

Ⅱ.イスラエル失敗(13-30)

 

次に、13~21節をご覧ください。

「すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない。」しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。」  すると、その日の夕方に、うずらが飛んで来て宿営をおおいました。また、朝になると、宿営の周り一面に露が下りました。その露が消えると、一面には薄く細かいもの、地に落ちた霜のような細かいものがありました。「これは何だろう」と言い合っていると、モーセが彼らに言いました。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンだ。」と。それを自分の食べる分に応じて、一人当たり1オメルずつ、集めなければなりませんでした。1オメルとは約2.3リットルです。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取るのです。そこで、イスラエルの子らがそのとおりにすると、ある者はたくさん集め、ある者は少しだけ集めましたが、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはありませんでした。

 

これはとても大切なことです。つまり、神は、私たちに必要以上のものを持つべきではないと教えているのです。そして、必要以上のものが与えられたら、それを必要が満たされていない人に分け与えなければなりません。パウロが、この箇所を引用して、献金のことを話しました。Ⅱコリント8:13~15です。

「私は、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、むしろ平等になるように図っています。今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。」

 

また、この天からのパンは、朝まで残しておいてはいけませんでした。それは、主が日々の糧を供給してくださることを学ばせるためです。ところが、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておきました。恐らく、それを蓄えておこうとしたのでしょう。自分の欲から出た思いですね。要するに、不信仰だったのです。彼らは、翌日もマナが供給されることを信じていなかったのです。しかし、残ったマナには虫がわき、臭くなりました。これはマナが腐りやすいということではありません。これは、彼らの不信仰に対する神のさばきです。モーセは、民が神の命令に従わなかったのを見て、怒りました。それで民は朝毎に、各自が食べる分を集め、日が高くなると、それは溶けました。このマナは、主イエスを象徴しています。主イエスは、ご自身のことを「天から下って来たパンです。」と言われました(ヨハネ6:58)。それは日ごとに集めなければならないのです。つまり、日々主イエスと交わりを持たなければならないということです。日々主イエスと交わり、いのちのパンをいただいている人は何と幸いでしょうか。

 

22~30節をご覧ください。 「六日目に、彼らは二倍のパンを、一人当たり二オメルずつを集めた。会衆の上に立つ者た

ちがみなモーセのところに来て、告げると、モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうだ。

『明日は全き休みの日、主の聖なる安息である。焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残っ

たものはすべて取っておき、朝まで保存せよ。』」モーセの命じたとおりに、彼らはそれを朝まで

取っておいた。しかし、それは臭くもならず、そこにうじ虫もわかなかった。モーセは言った。「今

日は、それを食べなさい。今日は主の安息だから。今日は、それを野で見つけることはできない。

六日の間、それを集めなさい。しかし七日目の安息には、それはそこにはない。」七日目になっ

て、民の中のある者たちが集めに出て行った。しかし、何も見つからなかった。主はモーセに言

われた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか。心せよ。主が

あなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えてい

る。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。だれも自分のところから出てはならない。」

それで民は七日目に休んだ。」

 

六日目には二倍のパンを集めるようにというのが、主の命令でした(5)。ここにその理由が記

されてあります。それは、七日目が主の聖なる安息日だからです。ですから、六日目のマナは

保存しておくことができました。彼らがそれを朝まで取っておいても、それは臭くもならず、そこに

はうじ虫もわきませんでした。ですから、七日目にはマナは降りません。集めに行っても無駄です。その日は主を礼拝するために仕事をしなくても良いように、主がちゃんと備えてくださるからです。それなのに、民の中のある者たちは、この七日目も集めに出て行きました。その人たちは食べ物が足りなくて出て行ったのではありません。モーセが語った言葉が本当かどうかを確かめるために出て行ったのです。結局、何も見つけることができませんでした。それをご覧になられた主は、彼らが戒めを守らないことを叱責し7日目に休むようにと命じられました。

このように、主は安息日を非常に尊ばれました。イスラエルの民が自分の働きをやめることと、主を礼拝することをとても大切にされたのです。それで、彼らが休んだときに得られない分のパンの必要も満たしてくださったのです。  ここから私たちは、自分の日々の働きをやめ主に礼拝をささげるとき、主は必ず必要を満たしてくださることを知ることができます。勉学にしろ、仕事にしろ、私たちは礼拝を守る日にもそれを続けたくなる誘惑がありますが、主の日を守るなら、私たちの日々の必要は奇蹟的に満たされるようになるのです。また、彼らは前日に2日分パンを集めなければなりませんでしたが、同じように、私たちも礼拝を守るために、前もって準備する必要があります。考えられる用事を前もって行ない、主の日の礼拝のために備えなければならないのです。  Ⅲ.マナ(31-36)

 

最後に、31~36節までをご覧ください。 「イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜

を入れた薄焼きパンのようであった。モーセは言った。「主が命じられたことはこうだ。『それを一オメル分、あなたがたの子孫のために保存しなさい。わたしがあなたがたをエジプトの地から導き出したときに、荒野であなたがたに食べさせたパンを、彼らが見ることができるようにするためである。』」モーセはアロンに言った。「壺を一つ持って来て、マナを一オメル分その中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」主がモーセに命じられたとおり、アロンはそれを保存するために、さとしの板の前に置いた。イスラエルの子らは、人が住んでいる土地に来るまで、四十年の間マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまでマナを食べた。一オメルは一エパの十分の一である。」

イスラエルの家は、それを「マナ」と名付けました。「マナ」という名称は、「これは何だろう」という意味の「マン・フー」から来ています。特徴は、コエンドロの種のようで、白く、その味は密を入れた薄焼きパンのようであるということです。コエンドロというのは、その実を香辛料や薬用に用いるそうです。その種は白色です。

 

主はそのマナを一オメル分を壺に入れ、それを主の箱の前に置いて保存するようにと命じられました。今度は、二日分腐らずに保存できるようにしてくださるどころか、イスラエルが約束の地に住んでからも腐らずに残るようにされたのです。それは何のためでしょうか。それは、イスラエルの子孫がそれを見ることができるようにするためです。それは彼らが荒野を旅する40年間続きます。イスラエルの民が約束の地に入った時点で、マナの供給は止みます(ヨシュア5:10~12)。彼らは、そこでの産物を食べるようになるからです。

 

それにしても、イスラエルをエジプトから導き出された神は、最後まで彼らをお守りになりました。私たちが信じている神は、ご自身の約束に忠実な方であり、私たちがこの人生の旅路を送るに当たり足りないものは何一つないように備えてくださる方なのです。確かにイスラエルの民は毎日、同じマナを食べて飽きることもあったかもしれません。また、荒野の旅には苦しみがあり、飢えと渇きもありました。しかし、過去を振り返ってみると、何一つ乏しいことはなく、すべての必要が見事に満たされたことを見ることができます。神は必要を備えてくださる真実な方なのです。

ヨハネの福音書11章1~16節「神の栄光のために」

きょうは、「神の栄光のために」というタイトルでお話しします。皆さんはいったい何のために生きておられるでしょうか。これがわからないと、私たちの人生は無味乾燥なものになり、生きてはいても死んだようなものになってしまいます。逆に、このことがわかるとたとえ苦難があってもそれを乗り越えることができ、むしろそのことを通しても神の栄光が現されるようになるのではないでしょうか。

きょうは、このことについて三つのことをお話しします。第一のことは、私たちが苦しみに会うとき、主は最善を成してくださると信じ、すべてを主にゆだねなければならないということです。

第二のことは、その苦しみは何のためにあるのでしょうか。それは神の栄光のためです。すべてのことが神の栄光のためであると信じなければなりません。

そして、第三のことは、それはあなたの信仰の成長のためです。神はあなたの信仰の成長のためにそうした苦難を用いられるのです。

 

Ⅰ.神のみこころにかなった願い(1-3)

 

まず、1~3節をご覧ください

「さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

 

ある人が病気にかかっていました。ベタニアという村に住んでいたラザロという人です。この人はマリアとその姉妹マルタの兄弟でした。このマリアは、「主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアとあるように、主を深く愛していた人でした。そのマリアの兄弟ラザロが病んでいたのです。

 

その時、マルタとマリア姉妹は、このことを伝えるために主イエスのところに使いを送りました。というのは、その時イエスはユダヤ人たちの手を逃れ、ヨルダンの川向こう、かつてバプテスマのヨハネがバプテスマを授けておられた場所に滞在しておられたからです。ベタニアからはその所までは、徒歩で約1日かかりました。マルタとマリアは、そのイエスのところに使いを送ってこう言いました。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(3)

 

どういうことでしょうか。何と麗しい信仰でしょうか。このような時普通なら何と言うでしょう。「主よ、あなたが愛しておられるラザロが病気です。お願いですから早く来て、癒してください。私たちはあなたをこよなく愛し、あなたのためならば何でもしました。それはあなたが誰よりもご存知なはずです。今こそあなたが応えてくださる番です。お願いです。助けてください。」そう言うのではないでしょうか。つまり、自分の願うようにイエスに動いてもらおうと、必死になってイエスを納得させようとするのです。それが信仰だと思っているわけです。でも彼女たちは自分の思いや願いを押し付けたり、自分たちの信仰の正当性を訴えてイエスに動いてもらおうとしたのではなく、ただ事実だけを申し上げたのです。なぜでしょうか。それは神のみこころが成ることが最善であると信じていたからです。これが信仰です。信仰とは自分の思いが成ることではなく、神のみこころがなること、神のみこころに焦点を合わせることです。もちろん、自分の願いを申し上げることが間違っているのではありません。イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ7:9)と言われました。「だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(ルカ7:10)熱心に求めることは大切なことです。しかし、それは私たちの思い通りになるということではなく、あくまでも私たちが良いものを求めるなら、ということです。良いものとは何でしょうか。それは神のみこころです。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)

これが、私たちの神に対する確信です。であれば、私たちは自分の思いや考えを主に押し付けるのではなく、神のみこころが何であるかを求め、それが成るように祈らなければなりません。そのためには聖書を通して神のみこころを悟ることが大切で、そうでないと、自分の常識や正義感、あるいは人間の尺度で、これが神のみこころだと勝手に決めつけてしまうことになるからです。

 

ここでマルタとマリアはイエスのところに使いを送り、「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と言いました。それだから、どうしてくださいとか、どうするのが当然ですといった押し付けがましいことは一切言いませんでした。ただ事実だけを伝えたのです。もちろん、一刻も早く来てほしいという思いはあったでしょう。しかし、いつ、どのようにして癒してくださるのかは主の御手の中にあるのであって、主が成してくださることが最善であるという信仰があったのです。

 

ルカ10:38~42には、イエスが彼らの家に来られたとき、彼らがイエスをもてなした時の様子が記されてあります。妹のマリアは、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていましたが、姉のマルタはどうだったかというと、そんな妹の姿にイライラして、イエス様のところに来てこう言いました。「主よ。妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」

するとイエス様は何と言われたでしょうか。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)

 

あなたは、いろいろなことを思い煩って、心を乱していませんか。しかし、どうしても必要なのはわずかです。いや一つだけです。それは何でしょうか。それは、主のみことばを聞くことです。こうした信仰は、みことばに聞き入ることから生まれてくるのです。

 

私たちの人生にも、愛する者が病気になることがあります。自分でもどうしたらよいのかわからない問題に直面することがあります。そのような時どうしたら良いのでしょうか。私たちはどうしても自分の思いが先走り、「主よ、こうしてください」とか、「ああしてください」と言うようなことがありますが、大切なのは、主が成されることが最善であると信じてすべてを主にゆだねることなのです。

 

Ⅱ.神の栄光のために(4-6)

 

第二のことは、苦難の目的です。いったい私たちの人生に、どうしてさまざまな苦難が起こるのでしょうか。それは、神の栄光のためです。4~6節をご覧ください。

「これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」

 

ラザロが病気であると聞いたイエスは、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」と言われました。彼女たちが「あなたが愛しておられる者が病気です」と伝えたのは、すぐに助けに来てほしいという思いがあったのは明らかです。でもイエスは彼女たちが願ったとおりには行動されませんでした。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」と言われたのです。イエスがそのように言われたのは、マルタとマリアを、そしてラザロを愛しておられたからです。しかし、イエス様は、そのことを聞いてもすぐに出発しなかったばかりか、そこになお2日もとどまられました。愛しておられたのに、なぜそこになお2日もとどまられたのでしょうか。愛しておられたのであれば直ぐにでも駆け付けて癒してやろうとするのが普通です。それなのになぜなおもそこに2日もとどまられたのか。それはラザロが死ぬのを待つためです。新改訳聖書第3版には、この「しかし」を「そのようなわけで」と訳しています。「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」これを常識的に読むと、イエス様は彼らを愛しておられたので、ラザロが死ぬまで何も行動を起こさなかったとなります。どういうことでしょうか。

それを解く鍵は、4節のイエス様のことばにあります。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」すなわち、イエス様は、行動を起こすべき神の時を待っておられたのです。

 

私たちの人生には、私たちが願ったとおりにならないことがたくさんあります。そのような時でも、神は最善以外のことをなさらないという確信を持っていなければなりません。すべてのことが神の栄光のために動いているからです。

 

同じ保守バプテスト同盟の婦人伝道師で、かつて山形で伝道された陶山節子先生のお話を聞いたことがあります。陶山先生は、1941年のある日、東京のある橋の上に立っていました。死のうと思っていたのですが、出来ませんでした。陶山先生は波乱万丈の人生を送っていました。夫は神奈川県の重要な政治家でしたが、結核でなくなりました。30代にして、未亡人となったのです。6年間の結婚生活は、意地悪な姑に悩まされる日々でした。たとえば、姑が風呂に入るときは、着物の中で一番良いものを着て姑の背中を流すように強要されました。それは、戦況が暗さを増していく頃のことでした。

陶山先生は横浜で育ち、恵まれた環境の中、大学にも進み、英語も流暢に話せ、将来有望な人でしたが、その時は何もかもが失われたかのように見えました。

しかし、何とかその暗い年月を乗り越え、やがて戦後、多くの宣教師たちが希望を携えて日本に押し寄せてきました。陶山先生はあちらこちらで、彼らの説教の通訳や翻訳で忙しくなりました。そんなある日、ある説教者の祈りを通訳し、自分が涙で出来た水たまりの中に立っていると気が付いたのです。そこで彼女はイエス様に出会ったのでした。

英語が話せたおかげで、いくらでも仕事の機会はやってきました。マッカーサー元帥のGHQ総司令部から雇用の話がきたことさえありました。しかしその時、彼女はジョセフ・ミーコという宣教師夫妻に出会います。彼らは山形県の奥地にある、まるで世の中の流れに取り残されたようなへんぴな場所に引っ越そうとしているところでした。そこは東京とはずいぶん違った場所でした。

陶山先生は、神様の導きを感じていました。しかし、それは大きな変化を意味していました。それでも、彼女は一歩踏み出すために大変な選択をします。生活の安定と数々のビジネスチャンスを捨てて、何の保証もないまま、おそらく霊的には日本で最も暗い東北で、ミーコ宣教師夫妻の開拓伝道を助けることを申し出たのです。

山形での努力は、国内では最も実を結んだ教会開拓の歩みとなりました。10年間で、12にも及ぶ教会が次々に生まれました。またその他にも、幼稚園が数件、女性の聖書研究会が28グループ、数えきれないほどの子供の聖書クラブ、しかもある日の日曜学校には、450人以上の子供たちが参加したのです。

陶山先生は、様々な地域で多くの人々の救いに関わったと同時に、山形の教会の霊的祖母として知られています。1993年には、その傑出した奉仕と、日本の伝道における歴史的影響力の故に、日本福音功労者賞を授与されました。2000年に行われた陶山先生の葬儀は、勝利に満ちたものとなり、メサイヤのハレルヤコーラスの合唱で最高潮に達したと言われています。

このような栄光はどのようにしてもたらされたのでしょうか。それは、夫を結核で失い、30代にして未亡人となるという苦しみの中から生まれたのです。陶山先生は、ご主人の癒しのためにどれほど祈られたことでしょう。まだその時にはイエス様と出会っていませんでしたが、その死によって宣教師の通訳の仕事へと導かれ、その中からミーコ先生との出会いが与えられました。そして、信仰によって一歩踏み出したとき、神様はそこに大いなるみわざをなされたのです。

 

苦しみは、できれば避けて通りたいとものですが、神様はその苦しみを通してご自身の栄光を現そうとしておられるのです。そうです、その病気は死で終わるものではなく、神の栄光が現されるためのものなのです。ですから、主が私たちの祈りにすぐに答えてくださらないということがあっても、あるいは、私たちが願ったとおりに応えてくださらないことがあっても、それはイエス様があなたを愛しておられないからではなく、むしろ愛しておられるからであって、また、主は、ご自身の栄光のために、私たちが考えている以上に、もっとすばらしい方法で解決を与えてくださるからであると、信仰によって受け止めなければなりません。主は愛する者の信仰の成長を願い、時にはそこに障害物を置かれることがあるからです。

 

Ⅲ.あなたがたが信じるため(7-16)

 

第三のことは、それはあなたがたが信じるためであるということです。7~16節をご覧ください。7節と8節にはこうあります。

「それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」

それから、どうなったでしょうか。それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われました。「それから」とは、そのときいた場所になお二日とどまられてからです。すると、弟子たちは驚いて、イエス様に言いました。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」「ついこの間」というのは、あの宮きよめの祭りの時のことを指しています。その時、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしました。なぜなら、イエス様が「わたしと父とは一つです」(10:30)と言って神を冒涜したと考えたからです。それでイエスは彼らの手を逃れ、ヨルダン川の向こう側にやって来ていたのですが、そのユダヤにもう一度行こうと言われたので、弟子たちは驚いたのです。

 

それに対してイエス様は何と言われたでしょうか。9節と10節をご覧ください。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」どういうことですか。ユダヤ人は、1日12時間を昼の時間と考えていました。この時間は太陽が照らしているので、倒れたり、躓いたりすることはありません。しかし、夜になると働くことができません。光がないからです。この「夜」とは、イエスが十字架につけられる時のことを指しています。つまり、イエスはご自分が死ぬ時はまだ来ていないので、ユダヤに行っても殺されることはないと言われたのです。

 

イエスがこのように話されると、ラザロについてこのように言われました。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」(11)聖書では、しばしば人が死んだ時「眠った」と表現することがあります。しかし、弟子たちにはその意味が理解できませんでした。それで彼らはイエスに言いました。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」彼らはイエスの語られたことばの意味を理解できませんでした。

それでイエスは彼らにこう言われました。14節と15節です。「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(14-15)

ここでイエスはラザロが病気になったとき、ご自分がベタニアのラザロのところに居合わせなかったことを喜んでいると言いました。なぜなら、もしそこにいたなら、すぐにでも飛んで行くことができたので彼は癒されたことでしょうが、こんなに遠く離れているわけですからそのようにすることができません。結果、ラザロは死んでしまいました。しかし、ラザロが死んだので彼にいのちを与え、彼を生き返らせることで、もっと大きな主のみわざを行うことができるからです。それはラザロが癒されるよりももっとすごいことでした。主はそのような計画を持っておられたのです。ですから、そこに居合わせなかったことを喜んでいると言ったのです。

 

しかし、この箇所を注意してよく見てみると、イエスはここで「わたしはラザロが死んだことを喜んでいる」とは言っていません。イエスが言われたのは、「わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます」ということでした。しかもそれはマルタとマリアとラザロためにではなく、「あなたがたのため、あなたがたが信じるため」です。どういうことかというと、イエスは、ひとりひとりが苦しんだり、悲しんだり、死んだりするのをご覧になって喜んでおられるのではないということです。そうではなく、ある人々の苦しみを通して、多くの人が信仰の益を受け、祝福されるのを望んでおられるということです。ここでは「あなたがたが信じるためには」とはそのことです。あなたがたとはだれのことですか。そうです、弟子たちのことであり、私たち一人一人のことです。弟子たちが信じるためには、本当に多くの時間がかかりました。その弟子たちの信仰の教育のためには、このことが必要だったのです。だから、イエスはその場に居合わせなかったことを喜んでいると言われたのです。

 

案の定、デドモと呼ばれるトマスは、そんなイエスの思いを全く理解することができませんでした。そして仲間の弟子たちに、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」と言いました。だから、違うというのに・・・。なかなか理解できませんでした。しかし、それはトマスだけではなく、他の弟子たちも同じでした。他の弟子たちも、やがて主が逮捕された時には、主を捨てて逃げ去ってしまいます。

 

でも、私たちはそんな彼らを決して笑うことはできません。というのは、私たちもこのトマスが言ったようなことを、大まじめに言うようなことがあるからです。主のみこころとはかなり違ったことを言ってしまうことがあります。ですから、私たちは、まだまだイエス様の心を心とするには遠い者ですが、私たちが主のみこころに歩めるようになるために、主は私たちに試練を与えておられるということを覚え、謙虚な心で、主のみこころに従っていきたいと思うのです。

 

ニューヨークのリハビリテーションセンターの壁に掲げられている一患者の詩です。これは「病者の祈り」という題名がつけられている有名な詩です。この詩を読むと、この詩人が神のみこころをしっかりと受け止めていたことがわかります。

 

大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに よりよきことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに 神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに あらゆるものを喜べるようにと 生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた

神の意にそぐわぬ者であるにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人々の中で 最も豊かに祝福されたのだ

 

私たちもなぜこのようなことが・・と思うようなことがありますが、私たちの人生に起こる一つ一つのことが神の栄光のために用いられていることを知り、すべてを主にゆだね、ますます主のみこころに歩ませていただきたいと思います。

Ⅰサムエル5章

サムエル記第一5章から学びます。

 

Ⅰ.アシュドデに運ばれた神の箱(1-8)

 

まず、1~5節までをご覧ください。

「ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。それで今日に至るまで、ダゴンの祭司たちやダゴンの神殿に入る者はみな、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。」

 

イスラエルがペリシテ人との戦いのときに、自分たちの形勢が不利になったとき、契約の箱を自分たちの陣営に運び入れました。彼らは神の箱が来たことで大歓声を挙げ、それは地がどよめくほどでしたが無惨にも戦いに敗れ、神の箱はペリシテ人に奪われてしました。ペリシテ人は神の箱を奪うと、エベン・エゼルからアシュドデに移しました。エベン・エゼルはイスラエルがいた陣営です。そこからアシュドデに移したのです。アシュドデは、ペリシテ人の五大都市のうちの一つです。「力強い」という意味があります。

 

それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び、ダゴンの傍らに置きました。ダゴンとはペリシテ人が拝んでいた神です。アシュドデという所にこのダゴンの神殿がありました。ダゴンというのは「魚」という意味で、上半身は人の姿をしており下半身は魚で半魚のような格好をしていました。ペリシテ人たちはもともと地中海の暮れた島から来た民ですから、海と関わりのある神ということでこのような偶像を神としていたのです。

 

しかし、「ダゴン」にはもう一つ「穀物」という意味もありました。それは穀物をもたらす神、すなわち、豊穣の神ということにもなります。魚と穀物では全く相いれないものであるように感じますが、もともと彼らは海から来た民族でしたし、カナンの地に定着したこともあるので、その両面を備えてくれるものとして称えていたのでしょう。すなわち、自分たちの願望をかなえてくれる神、それがダゴンでした。

 

3節をご覧ください。「アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。」

驚くべきことが起こりました。ダゴンは主の箱の前にうつぶせになって倒れていたのです。これはまさにひれ伏している格好です。ダゴンというペリシテ人の神が、イスラエルの神の前でひれ伏していたのです。それで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻しました。ダゴンは自分で起き上がれないのでペリシテ人たちの助けがなければ動けなかったのです。起こして欲しいのはこちら側なのにこちら側で起こしてあげなければならないというのは滑稽です。彼らは、倒れてしまったら自分で起き上がれない神を信じていたのです。人間に起こしてもらわなければ起き上がれないような情けない、ふがいない神を信じていました。それが偶像礼拝の実態です。偶像は全く無力です。人間が助けてあげないと何もできません。それは本物の神ではありません。全く頼りになりません。にもかかわらず人々は、それでも偶像を慕います。それでも偶像礼拝を止めようとしないのは不思議ですね。

 

4節をご覧ください。次の日、朝早く起きて見ると、やはりダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていました。しかも今度は頭と両手が切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残されていました。胴体だけがそこに残っていたというのは、魚が半身になって残されていた状態です。想像してみてください。彼らが信じていた偶像がいかに空しいものであるかがわかります。

 

詩篇115:4-8には次のようにあります。「彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず目があっても見えない。耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。」

これが偶像の実態です。こんなものに信頼してどうなるのでしょう。どうにもなりません。ただ空しいだけです。ダゴンはまさに人間が作った偶像にすぎません。倒れても自分の力では起き上ができません。首も両腕も切り取られても元に戻すことはできません。彼らはこうした神を本気になって信じていたのです。いったいどうして彼らはこのような偶像を神として信じていたのでしょうか。二つの理由があります。

 

一つは、それでも彼らには神への恐れがあったからです。5節には、「それで今日に至るまで、ダゴンの祭司たちやダゴンの神殿に入る者はみな、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。」とあります。ダゴンの頭と両手が切り離されて敷居のところにあったのでそこを神聖な場所とし、敷居をまたがないようにしたのです。私たちも「敷居をまたがない」ということを聞くことがあります。それは、敷居が昔から人の頭を表しているからです。その敷居を踏むということはその家の主人の頭を踏みつけるということ、すなわち、主人の顔に泥を塗るということなので、敷居は踏まないのです。しかし、ここでは少し意味が違います。そこに頭と両手が転がっていたので、そこを神聖な場所としたので踏まないようにしたのです。いわゆる神への恐れがあったからです。普通ならこんな無力な神を信じるなんて全くナンセンスなことですが、それでも彼らは神の祟りを恐れて、逆にそこを神聖な所としました。

 

もう一つとして考えられるのは、このダゴンが豊穣をもたらす神であったということです。すなわち、自分たちの願望を叶えてくれる存在であったということです。それゆえ人々は、どんなことがあっても残しておきたかったのです。すなわち、自分たちに都合の良いものから離れることができないのです。これが人間の性です。そのような意味では、私たちも同じではないでしょうか。コロサイ3:5には、「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。何が偶像礼拝ですか?こうした貪欲が偶像礼拝です。むさぼりが偶像礼拝なのです。であれば、私たちにもこうしたむさぼりがあります。あれが欲しい、これが欲しいと、神よりもそれを一番大事にしたいのです。そこから離れることができなくて苦しむのです。その首が取れ、腕が取れても、そこからなかなか離れられないのはそのためです。そこから離れると都合が悪いのです。自分にご利益をもたらしてくれるものを神としたいと思うのは昔も今も変わりません。

 

でも、こした偶像には力がありません。倒れてもだれも起こしてくれません。自身があったらだれかに助け手もらわなければなりません。情けないです。そんな偶像を神とすることがないようにしましょう。もし私たちの中に貪欲があるなら、それを取り除きましょう。

 

6節に戻ってください。主の箱がアシュドデにある間、アシュドデの人たちは大きな災難に見舞われます。6節から8節までをご覧ください。

「主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。アシュドデの人たちは、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから。」それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか」と言った。領主たちは「イスラエルの神の箱は、ガテに移るようにせよ」と言った。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。」

 

主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかりとは、それが神のさばきであったことを表しています。本当の神ではないものを神とする者には、神のさばきがくだります。それはどんな災いだったでしょうか。アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かしたのです。この腫物がどのような病気であったのかはわかりません。へブル語では「オーフェル」という語で、「盛り上がっているもの」を意味しています。人間の体にできる盛り上がるものといったら腫物なので、腫物と訳されているのです。英語のキングジェームズ訳ではこれを「hemorrhoid」と訳しています。「hemorrhoid」とは「痔」のことです。なぜ「盛り上がるもの」が「痔」となるのかわかりません。まあ「痔」にもいろいろあって盛り上がるものもあります。でも実際にこれが何であるかはわかりません。何が盛り上がったのか、皮膚が盛り上がったのか、お尻の穴が盛り上がったのかわかりませんが、いずれにせよ、それは神のさばきでした。それでも彼らは真の神に立ち帰ろうとはしませんでした。偶像の神になど何の力もないということがわかっていても、そこから離れられなかったのです。

 

そこでアシュドデの人々はどうしたでしょうか。アシュドデの人々はこの有様を見て、こう言いました。「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから。」

彼らは神の箱を別の町に移そうと計画しました。それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員そこに集め、イスラエルの神の箱をどうしたらよいか話し合った結果ガテに移すように決め、そのようにしました。ガテもペリシテ人の五大都市の町ですが、その中でも最大の都市です。そこに移せば大丈夫だろうと思ったのです。

 

Ⅱ.ガテに運ばれた神の箱(9)

 

それで神の箱がガテに移されるとどうなったでしょうか。9節をご覧ください。

「それがガテに移された後、主の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。」

 

神の箱がガテに移されると、主の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らも腫物ができました。ガテの領主には、ペリシテ人最大の都市としての自負心があったのでしょう。あるいは、アシュドデの人々のふがいなさを見下して、主の箱など怖くないという傲慢な思いがあったのかもしれません。けれども、ふたを開けてみるとアシュドデに起こったのと同じことが起こりました。この町に恐慌が引き起こされ、彼らはみな腫物で打たれました。それで彼らはどうしたかというと、今度はそれをエクロンに送りました。

 

Ⅲ.エクロンにやって来た神の箱(10-12)

 

10-12節をご覧ください。

「ガテの人たちは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンにやって来たとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民を殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者は腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は天にまで上った。」

 

ガテの人たちが神の箱をエクロンに送ったとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言いました。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」今度はペリシテの領主たちの会合によって決まったのではなく、ガテの住民たちの一方的な決定によって送り込まれたようです。エクロンもまたペリシテ人の姉妹都市で、五大都市の一つです。エクロンの町でも死の恐慌がありました。死ななかった者も腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は、天にまで上りました。それでエクロンの人たちは人を遣わして、ペリシテの領主たちを集め、イスラエルの神の箱を、元の場所に戻すようにと言いました。

 

これが偶像を拝み、偶像に仕える者たちの結果です。偶像は何も彼らを助けることができませんでした。そこにあったのは神のさばぎでした。神の箱が運び入れられたどの町でも主の手が重くのしかかり、その地域の人たちを腫物で打ちました。そこには死の恐怖が迫りました。こんなにひどい目に合うのならまことの神を信じたらいいのに、それもしませんでした。むしろ、本物の神に背を向け、自分たちから遠ざけようとしました。ダゴンの神がただの偶像であることがわかっていても、真の神に背を向け、それを遠ざけてしまったのです。なぜでしょうか。なぜなら、神よりも自分を愛していたからです。それが罪の本質です。罪とは神中心ではなく、自分中心であることです。だから自分の欲望を満足させようとしてこうした偶像を作るのです。ダゴンの神がただ偶像であるということがわかっていても、そこからなかなか抜けきれないのはそのためです。人はみな自分を愛しているからです。

 

それは何もダゴンの神を信じていた人たちだけのことではありません。私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも真の神を信じているはずなのに自分に都合が悪いと神に背を向け、神を遠ざけようとすることがあります。わかっているのに教会に行かなかったり、わかっているのに聖書を読もうとしません。わかっているのに神の家族の交わりよりも自分の好むことを優先することがあります。わかっているのに快楽を求めてしまいます。私たちも残念ながら同じような過ちを犯してしまう弱さを持っているのです。わかっているのにやめられない、わかっているのに認めたくない、そしてわざわざ本物の神に背を向け、神を遠ざけようとしているのです。悔い改めることをしません。この神の前にへりくだることをしません。そして自我を通そうとします。それは悲劇だということはこの箇所からもわかることです。でも神に立ち帰ろうとしないのです。

 

いったいどうしたらいいのでしょうか。神の箱をあなたの心に運び入れることです。神の箱がダゴンの神殿に運び入れられた時どうなったでしょうか。ダゴンはだんごのように倒れてしまいました。同じように、あなたの心に神の箱を運び入れるなら、あなたのダゴンも倒れます。たとえば、ギャンブルがやめられない、お酒がやめられないという方がおられますか。それはあなたのダゴンです。でもそんなダゴンも神の箱が運び入れられたら、倒れてしまいます。この神には力があるのです。この神の箱をあなたの心に運び入れられるなら、そのとたんにダゴンは倒れて主の前にひれ伏すようになります。あなたはなかなか離れられないで苦しんでいたさまざまなむさぼりから解放されるのです。神の聖霊にあなたの心を支配していただきましょう。そうすれば、あなたもダゴンから解放され、神の絶対的な力に満たされるようになるのです。そして、真の神だけを拝み、真の神に仕えましょう。

 

ヨハネの福音書10章31~42節 「わたしのわざを信じなさい」 

きょうは「わたしのわざを信じなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。エルサレムで宮きよめの祭りがあった時、イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いていると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言いました。「あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」(24)はっきりと言ってくださいと言っても、もう何回もはっきりと言ってきました。それなのに、彼らが信じなかったのは、彼らがイエスの羊の群れに属していないからです。イエスの羊の群れに属しているなら、イエスの声を聞き分けイエスについて行きますが、そうでないと言うことは、彼らがイエスの羊の群れに属していないという証拠です。

 

不思議なことですが、世の中にはイエスの声を聞くとすべての羊がそれについて行くかというとそうではなく、ついて行く羊とそうではない二種類の羊がいます。彼らはどうしてイエスを信じなかったのでしょうか、あるいは、信じたのでしょうか。きょうは、そのことについて共に学びたいと思います。そして、信じない者ではなく、信じる者になりましょう。

 

Ⅰ.イエスを石打ちにしようとした人たち(31-36)

 

まず、31~36節をご覧ください。ここにはイエスを信じなかったというよりも、イエスを石打にして殺そうとした人たちの姿が描かれています。

「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒?のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。」

 

先ほども申し上げたように、22節からは場面が、宮きよめの祭りでイエスが宮にいた時のことです。イエスはご自分について来る者に永遠のいのちを与えると約束されました。そればかりか、彼らは永遠に、決して滅びるとこがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしませんと言われました。どうしてそのように言うことができるのでしょうか。それは、イエスが彼らの手をしっかりと掴んでいてくださるからです。31節には「わたしと父とは一つです」とありますが、イエスは全能の神です。その方が掴んでいてくださるなら、どんなことがあっても決して離れることはありません。

 

そのように言うと、ユダヤ人たちが、イエスを石打ちにしようとしました。どうしてかというと、イエスが神を冒涜したと思ったからです。イエスが「わたしと父とは一つです」と宣言しました。人間でありながら、自分を神と等しい者とするとは何事かと烈火のごとく怒り、イエスを殺そうとしたのです。

 

イスラエルにはモーセによって与えられた十戒がありました。その戒めの第一戒にはこうあります。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)

人間を神とする、自らを神とすることは神を冒涜することであり、この戒めに背くことになります。ですから、彼らはイエスがこの戒めを破り自分を神としたことで、神を冒涜したと考えたのです。もしイエスがただの人間であったのなら、彼らの主張も正しかったでしょう。でもイエスはただの人間ではありませんでした。イエスはもともと神であられる方なのに、人間の姿を取ってこの世に来てくださったのです。ですから、イエスが言っていることは正しいのです。そのイエスのことばを受け入れることができず、そのお方をさばき、石を投げつけるとしたら、その人の方がはるかに神を冒涜していると言えます。

 

イエスはそのことを証明するために、ここで二つの理由を挙げておられます。その一つが34~36節にあります。ここには、「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒している』と言うのですか。」」とあります。どういうことでしょうか?

 

主イエスがここで引用した言葉は、詩篇82篇6節の御言葉です。詩篇82篇6節にはこうあります。「わたしは言った。「おまえたちは神々だ。みないと高き者の子らだ。」(詩篇82:6)

この「おまえたち」とは、この世の裁判官や権力者たちのことのことです。ここで彼らは「神々だ」と呼ばれているのです。どうしてそのように呼ばれていたのかというと、人を裁く役目を担っていたからです。ある面でそれは神と同じ働きをしていたわけです。それで彼らは「神々だ」と呼ばれていたわけですが、であれば、神から遣わされ、人々を正しく裁く権威を持っておられる方を神と呼んだからと言ってどうしてそれが神を冒涜したと言えるのかというのです。

 

実は、旧約聖書においては、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、その人々を神々と呼ばれています。たとえば、出エジプト記4:16には、「彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる」とあります。「彼」とはモーセの兄アロンのことですが、神は口下手なモーセに代わってアロンをモーセの口としました。そして、モーセは「彼」すなわちアロンにとって神の代わりとなるのです。モーセが神の代わりとなるといったら大変なことになります。それこそモーセを神の地位まで高めたということで神を冒涜したと言われても不思議ではないでしょう。でも、ここではそういう反発はありません。また同じ出エジプト記7:1には、神はモーセに、「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」と言われました。ここでも、モーセがエジプトの王ファラオにとって神とすると言われています。つまり、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、「神々」と呼ばれていたのですが、であれば、父から遣わされた神の御子自身を神と呼ぶのは当然であって、決して神を冒涜していることには当たらないでしょ、というのです。

 

誤解しないでください。ここでイエスが言っておられることは、本当はご自身は神ではないけれども神から遣わされている人々を「神々」と呼んだのだから、自分もそのように呼ばれても構わないのではないかということではなく、イエスは本当に神であって、父なる神と一つであられる方ですが、彼らがなかなか信じようとしなかったので、彼らが信じていた旧約聖書を引用して、神と呼ばれていたのは自分だけではないということを取り上げることで、ご自身が「わたしは神である」と言ったことが決して神への冒涜ではないということを示そうとされたのです。そうです、イエスはまことの神であり、父なる神と等しい方なのです。あなたはイエスをどのような方であると受け止めていますか。イエスを神の子、キリストとして信じましょう。

 

Ⅱ.わたしのわざを信じなさい(37-39)

 

第二のことは、イエスが行われたわざです。もしイエスが神のわざを行っているとしたら、それこそイエスが神ご自身であられ、父なる神と一つであるということの証拠となります。37~39節をご覧ください。ここには、「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。」とあります。

 

イエスは、たとえわたしを信じられなくても、わたしのわざを信じなさい、と言われました。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば信じることができます。イエスはまさに、神の子としてふさわしいわざを行われました。ガリラヤのカナでは、結婚式に水をぶどう酒に変えて、式が損なわれることがないようにされました。カペナウムでは、病気で死にかかっていた王室の役人の息子を癒されました。エルサレムでは、38年間も病気で伏せっていた男を癒されました。また、ガリラヤ湖畔では、イエスの説教を聞いていた5000人の人たちの空腹を、5つのパンと2匹の魚をもって養われました。そして9章では、生まれつき目の見えない人の目を見えるようにされました。

 

これを書いたヨハネは、この福音書の最後でこのように述べています。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(21:25)

イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあります。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められません。イエスはそれほど多くのわざを行われたのです。それは、イエスが行われたわざを見ることによって、イエスが神の子、メシアであることを、あなたがたが信じるためであり、イエスの名によっていのちを得るためです。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば、この方が神のもとから来られた方であることを自ずと知ることができるのです。私たちも人が言っていることについて、本当にそのとおりであるかどうかを確かめるためには、その人が行なっていることを見るのではないでしょうか。それと同じように、イエスは、ご自分が神の子であると言っていることにふさわしいわざを行なわれたのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちのうちにイエスのわざが行なわれているでしょうか。目が開けられた人は、単にイエスの言葉を聞いてイエスを信じたのではありません。イエスのわざが自分のうちに行なわれたことを体験して、イエスを信じたのです。彼はこう言っています。「あの方が罪人であるどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)

 

つまり、イエスの言葉には実質が伴っていたということです。聖書は、イエスを信じると言うことは、そこに実質が伴うことであると教えています。たとえば、Ⅰヨハネ2:29には、「あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」とあります。神が正しい方であると信じているなら、その神から生まれた者もみな正しいこと、義を行うはずなのです。また、3:6には、「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」とあります。ここも同じです。さらに4:7には、「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」とあります。神を愛する者はみな、兄弟をも愛します。なぜなら、愛は神から出ているからです。つまり、その行いを見れば、何を信じているのかがわかるわけです。イエスを本当に神の子として信じているなら、神の子としてのわざが私たちのうちに起こってくるのです。ですから、もし私たちの言葉を信じることができなくても、私たちのわざ、行いを見れば、イエス様が本当に救い主であることがわかるはずなのです。

 

中国人の任さんと聖書を学んでいますが、先週、信仰告白に導かれました。本当はもう少し学んでから「どうですか、イエスさまを信じますか」と尋ねるのですが、「もう信じている」と言うので、まだ3回目ですが、信仰の告白に導いた方がいいと思いました。なぜなら、ローマ10:9-10に、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるからです。それで、このみことばを示しながら、「任さん、任さんは心の中でイエスさまを信じています。だから今、それを告白しましょう。なぜならここに、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。」書いてあるからです。今、私の後に続いて祈ってください。これは、新生の祈りと言って、信仰告白の祈りです。任さんが声を出してこの祈りをすることによって、任さんは新しく生まれます。今までのすべての罪が赦されて、神の子どもとなります。いいですか、それじゃ祈りましょう」と言って、一緒に祈りました。祈り終わった後でキョトンとしているので、「任さん、任さんはクリスチャンになりました。すべての罪が赦されて神のこどもになりました。いつ死んでも天国です。今も神がともにいてくださいます。良かったですね。」と言うと、「ん、良かった。罪全部赦されたね。良かった。今まで悪いことたくさんしてきた。ただ警察に捕まらなかっただけよ。でもその罪全部赦さんだね。感謝します。」と言いました。おもしろいです。中国人がみんなそうだとは思いませんが、自分でも、中国人は強いから・・と言われるのです。はっきりしています。悪いこともたくさんする。でも、本当に素直なんです。いろいろな人と接する機会がありますが、実におもしろいというか、とても爽やかです。

 

そもそも任さんが聖書を学びたいと思うようになったのは、中国に住む娘さんから、「お母さんもイエスさまを信じてください」と言われたからです。普通なら、娘にそう言われても「はい、そうします」という親は多くないと思います。「キリスト教なんて信じたって何も得しない。私は自分の思うように生きていきたい」と言うでしょう。でも、任さんは違いました。娘さんがそう言うので、自分もイエスさまを信じたいと思いました。娘さんを非常に尊敬しているんです。娘は普通の人じゃない、本当にすばらしいのです。何がそんなにすばらしいのかとお聞きすると、こう言いました。

娘さんは、大学生の頃にクリスチャンになりました。それから結婚しましたが、旦那はクリスチャンじゃなかったので、娘さんをひどく迫害しました。娘さんが熱心に祈っていると「気ちがい!気ちがい!」と言い、娘さんが教会に行くと言うと、娘さんを叩いたり、髪の毛をむしり取りました。「教会になんて言っているヤツは愚かなヤツばかりだ」と言うと、娘さんは「確かに、愚かかもしれません。でも実際に来てみてください。本当に謙遜で、立派な人たちばかりです。」と言いました。

ある日この旦那が教会にやって来ました。すると、最初のうちは聖書のことはわかりませんでしたが、そこにいる人たちが皆、優しいのです。今まで抱いていたイメージと全く違いました。しかも、社会的に地位のある人や人格的に優れた人たちがたくさんいました。それで続いて教会に来るようなると、旦那もイエス様を信じたのです。ただ信じたのではありません。熱心にイエスさまに仕えるようになり、今では伝道者になって世界中を飛び回り、貧しい人たちや困っている人たちを助けるような人になったというのです。すごいじゃないですか。何が奇跡かって、人が変えられることほど大きな奇跡はありません。イエス様は、私たちを変えてくださいます。そのみわざがどれほど大きいものであるかがわかります。

 

しかし、それだけだったら任さんもそこまで聖書を学びたいと思わなかったでしょう。しかし、この娘さんはイエスさまの教えに徹底して歩んでいるんですね。こんなことがありました。実は任さんにはもう一人の息子がおられるのですが、この息子さんから、こんなことを言われたそうです。「お母さん、お母さんはマンションを2つ持っているよね。それはお母さんが死んだら遺産として自分たちに相続されるんだから、だったら死ぬ前にその1つを自分の名義にしてください。嫁がそう言うようにとうるさいんだよ。」

それで、任さんは娘さんに相談しました。「弟がそのように言っているんだけど、どうしたらいい。」すると娘さんがこのように答えました。

「お母さん、私はマンションなんていりません。私には天国があるのでそれで十分です。天国は朽ちることも、消えて行くこともありません。この世のものはすべて一時的なもので、すぐに消えて行きます。天国に持って行くこともできません。でも、天国は永遠です。永遠にイエスさまと一緒に過ごせるんです。それがあれば十分です。何もいりません。お母さんのマンションは二つとも弟にあげてください。私は何もいりませんからでも、お母さん、お母さんには感謝しています。私を生んでくれたこと、そして、ここまで大切に育ててくれたこと、本当に感謝しています。こうして健康でいられるのも、お母さんのお陰です。ありがとう!お母さん。」

 

こんなことばを聞いて感動しない親はいないでしょう。任さんも娘の言葉を聞いたときびっくりしました。普通ならマンションちょうだい、お金もちょうだい、自分にはもらう権利があると主張するところでしょうが、娘さんは全然違いました。それで、「これは本物だ」と思いました。自分は悪いことばっかりやってきましたが、イエスさまを信じて天国に行きたいと思ったのです。

 

キリスト教が本物であるかどうかは、聖書の教えを聞いただけではわからないことがあります。でもそこに実質が伴っているならそれが本物であることを知り、信じることができます。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

 

イエスさまのわざとは、何も病気が癒されたとか、悪霊が追い出されたとか、不思議なわざが起こったりすることだけではありません。イエスさまの最大のみわざは、私たちがイエスを信じることです。イエスさまを信じて永遠のいのちを受け、そのいのちが溢れることです。それより大きな奇跡はありません。あなたがイエスさまを信じて救われたこと、救われて大きく変えられたこと、それよりも大きなみわざはないのです。聖書にあるイエスのわざを見たり、初代教会のクリスチャンたちの生活や行いを見ても、一つだけ言える確かなことは、イエスは神の子であり、信じる者はその名によっていのちを持つということなのです。

 

Ⅲ.イエスを信じた人々(40-42)

 

第三のことは、その結果です。40~42節をご覧ください。

「そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。」

 

イエスの愛に満ちたメッセージにも関わらず、パリサイ人たちのかたくなな心が砕かれることはありませんでした。彼らはイエスを捕らえようとしましたが、イエスは彼らの手から逃れられました。それはまだイエスの時が来ていなかったからです。

 

そして、ヨルダン川の向こうに行かれ、そこに滞在されました。そこはバプテスマのヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所です。すると、多くの人々がイエスのところに来てイエスを信じました。なぜこの人々はイエスを信じることができたのでしょうか。ここに「彼らは「ヨハネは何もしるしを行なわなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。」(41)とあります。「この方についてヨハネが話したこと」とは何でしょうか。私たちはすでに1章のところで、ヨハネの証を見てきました。1:26,27には、「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」とあります。バプテスマのヨハネは人々からキリストではないか、光ではないかと思われていましたが、自分はそのような者ではなく、その方の履き物のひもを解く値打ちもないと言いました。そしてその翌日、イエスが自分の方に来られるのを見ると、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)と言いました。つまり、イエスが彼らのところに来たとき、彼らはかつてバプテスマのヨハネが語った言葉を思い出し、それがこの方のことであったことに気付きイエスを信じたのです。

 

いったい死ぬために生まれてきた人がいるでしょうか。いません。もちろん、どんな人でも最後には死にます。しかし、死ぬことを目的として生まれ、死ぬことを目的として生きているわけではありません。しかし、イエス・キリストは死ぬために生まれ、死ぬために生きられました。バプテスマのヨハネが言ったように、この方は世の罪を取り除く神の子羊として来られたのです。人間は、生まれながら罪人です。その罪を取り除いたり、赦したりできるのは、神以外にはおられません。イエスはその神の子羊として来られました。彼らはそのことがわかったのです。それで、その地で多くの人々がイエスを信じることができたのです。

 

私はここに深い慰めを感じます。すなわち、彼らが信じることができたのは、そこに彼らが信じることができるようにバプテスマのヨハネという人物の道備えがあり、主がその証を用いて信じることができるように助けてくださったからなのです。もし私がその場にいたら、どうだったであろうかと想像します。ガリラヤのナザレ出身の大工の息子が自分は神の子であると主張しているのです。果たして、そのような人物をどこまで素直に信じることができたでしょう。もしかしたら、受け入れられなかったかもしれません。そもそもそんなことどうでも良いと思ったかもしれない。それでも彼らは信じることができました。それは一方的な神の恵みによるのです。

 

それはあの使徒パウロも同じでした。「パウロ 愛と赦しの物語」という映画を観ました。パウロも、最初はイエスを救い主として信じることはできませんでした。むしろイエスを信じる者たちを激しく迫害していました。そのようなパウロが180度変わったのは、復活されたキリストが彼に近寄ってくださったからです。彼がクリスチャンを迫害しようとダマスコに向かっていた時、復活の主イエスが彼に現れて言いました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)

「あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(9:5)

どういうことか、パウロはわけもわからず、ただイエスが言われたように、ダマスコに行ってみると、そこにアナニアという兄弟がいて、彼を通して目が見えるようになりました。それは肉眼だけでなく、彼の心の目も開かれました。それは、一方的な神の恵みのみわざであることがわかったのです。

 

イエスさまはご自分が良い羊飼いであると言われました。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。羊が守られるのは、羊飼いに従うことにもよりますが、それ以上に、そこに羊飼いたちのいのちをかけた愛があるからです。同じように、私たちはイエスさまを信じていますが、それは私たちの努力によるものというよりも、神の力、神の恵みわざによるのです。主がそのことに気付かせてくださいます。これまでの様々な人たちとの出会いや、ある時に聞いた救いの証し、聖書のメッセージ、これまで経験した一つ一つのことが、ヨルダンの川向うの人たちが、「ヨハネが話したことはすべて真実であった」と気付いてイエスを信じたように、必ずや、そのような時が来て、イエスを信じることができるように導いてくださるのです。そのことが見えるとき、私たちはそこに深い慰めと平安が与えられます。私たちは神の恵みによってこそ信じることができ、今あることを覚え、神に感謝したいと思います。そして、ますます信仰に堅く立って、動かされることがないように、いつも主のわざに励みたいと思います。

出エジプト記15章

出エジプト記15章から学びます。

Ⅰ.モーセの歌(1-18)

まず1~18節までをご覧ください。1~3節をお読みします。

「 そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」

「そのとき」とは、主がイスラエルをエジプト人の手から救われたときです。主は圧倒的な御業で、

イスラエルをエジプト人の手から救われました。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。そのときです。

 

モーセとイスラエルの子らは、主に向かって歌いました。まずモーセは、「主に向かって歌おう」と、民に呼びかけています。それは、「主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた」からです。まことに、「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」と。

モーセはここで、神がどのような方なのかを歌いました。主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神、いくさびと、その名は「主」です。「主」とは、「わたしは、あるというものである」という意味でしたね。他の何ものにも依存しなくても存在することができる方、自存の神です。ここで重要なのは、この主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神であると言っていることです。つまり彼らは、神を体験したのです。その結果、父祖の神として認識していた方を、「わが神」として認識するようになりました。

 

この「神を知る」ということが重要です。単に、神がどのような方であるのかを頭で知るということ以上に、この方を自分の救い主として体験することです。パウロは、エペソ1:17~19で、こう祈っています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

あなたは、神を知っているでしょうか。私たち神を信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができるように祈りましょう。

 

次に4-10節までをご覧ください。

「主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦

の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。主よ、あなたの右の手は力に輝き、主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなるご威光によって、向かい立つ者たちを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それが彼らを刈り株のように焼き尽くす。あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。」

主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれました。彼らが葦の海に沈んだのはどう

してでしょうか。それは、主が右の手で敵を打ち砕かれたからです。8節には、「あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。」とあります。「鼻の息」とは、強い東風のことです。東風は自然現象ですが、それによって、「水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった」というのは、超自然現象です。主がその風を吹かせると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈みました。

 

次に11-18節をご覧ください。

「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ。あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。主はとこしえまでも統べ治められる。」」  主なる神と他の神々とを比較して、主なる神がはるかに優っていることを歌っています。海が分けられて、その乾いた地を何百万人もの人が通り過ぎたなどというのは、どんな科学技術をもってしてもできません。そうです、主は全能者なのです。であれば、私たちはいったい何を怖がる必要があるでしょうか。神が、このように偉大な方であることを知るならば、何も怖がることなどありません。

 

そして、神はただ力ある方であるというだけでなく、13節には、この方は恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われました。この「恵み」という語は、ヘブル語では「ヘセッド」という語ですが、これは非常に重要な概念を含んでいる語です。これはただ「恵み」というだけでなく、神の契約に基づく「恵み」のことです。神は、アブラハム契約をいつまでも覚えておられ、その約束を忠実に守ってくださるお方であるということです。モーセはここで、この「ヘセッド」を思い起こし、将来において大きな希望を見いだしているのです。そして、17節にあるように、主は彼らを導き、彼らをゆずりの山に植えられます。「ゆずりの山」とは「相続の山」のことで、約束の地のことを指しています。つまり、主は彼らを約束の地に導かれるということです。そして、そこで主は、とこしえまでも統べ治められるのです。

 

これはすべて主の恵みによるのです。そして、この恵みは、私たちにも注がれています。ローマ10:12には、「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。」とあるからです。この主を呼び求めましょう。そして、この主に感謝しましょう。主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまでです(詩篇107:1)。

 

Ⅱ.ミリアムの歌(19-21)

 

次に、19-21節までをご覧ください。ここにはモーセの姉ミリアムの歌が記されてあります。  「ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」

出エジプトにおいて重要な役割を果たしたのはモーセとアロンですが、ミカ6:4を見ると、彼らだ

けでなく、彼らの姉ミリアムもまた指導的な役割を果たしていたことがわかります。彼女もまた、主がファラオの馬や戦車、騎兵を海の中に沈めたとき、そして、イスラエルが海の真ん中で乾いた地面を歩いて行ったとき、この歌を歌いました。彼女はただ歌ったのではなく、踊りながら賛美しました。ここには、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た、とあります。ミリアムは、このとき90歳を越えたおばあさんになっていましたが、イスラエルの女たち全員を導いて、タンバリンを使って主をほめたたえたのです。

21節のことばは、1節と同じ内容です。おそらくコーラスになっていたのでしょう。古代世界では、儀式的な踊りや歌は、男女別々に行いました。モーセは男たちの賛美の先頭に立ち、ミリアムは女たちの賛美の先頭に立ったのです。

 

ここでミリアムは、「アロンの姉、女預言者ミリアム」とあります。なぜ「モーセの姉」ではなく、「アロンの姉」と書かれているのでしょうか。恐らく、モーセは幼い頃から家を出てエジプトの王宮にいたために、ミリアムはアロンの姉としてイスラエルの民の間に知られていたのでしょう。「女預言者」という言葉は、ここで初めて出てきます。彼女は、そのような指導的な役割が与えられていたということです。。

 

いずれにせよ、モーセも、アロンも、ミリアムも、イスラエルの民を指導する立場にありましたが、彼らは主をほめたたえ、主を心から賛美しました。指導者にとって、特に、主をほめたたえることが重要です。主が自分の人生においてなしてくださった恵みのみわざを思い起こし、また、今、様々な困難な中にあっても、主が勝利を与えてくださることを信じて、主をほめたたえましょう。

 

Ⅲ.マラでの体験とエリムでの体験(22-27)

 

さて、このようにイスラエルの民は主の大いなる恵みによって葦の海から旅たちました。しかし、それはバラ色の世界ではなく、すぐに困難が彼らを襲いました。22-27をご覧ください。

「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」

 

イスラエルの民は、主の奇跡的なご介入によって、紅海を渡ることができました。そして、そのように勝利を与えてくださった主に賛美の歌を歌いました。さあ、いよいよ荒野の旅が始まります。彼らはシュルの荒野に出て行き、そこに3日間、彷徨いました。しかし、その後彼らはすぐにつぶやくことになります。彼らには水が見つかりませんでした。3日間水を飲めないのは辛いということを越えて、命の危険が伴います。3日間という言葉は、生死にかかわる時によく使われる言葉でもあります。その3日間歩いても、水が見つからなかったのです。そして、「マラ」に来た時に水がありましたが、そこの水は苦くて飲めませんでした。その時、イスラエルの民はどうしたでしょうか。24節には、「民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。」とあります。3日前に喜び踊った民が、モーセに対してつぶやいたのです。彼らは、紅海の奇跡から教訓を学んだはずなのに、全然身についていませんでした。しかし、それはイスラエルの民だけではありません。それは私たちも同じです。調子がいい時は喜べますが、そうでないとすぐに不平をもらしてしまいます。それが習慣化しています。すぐに不平が出るのです。このような習慣的なつぶやきは、祝福を失い、神のさばきを招くことになります。私たちは、このイスラエルの民の失敗から教訓を学ぶ必要があります。

 

さて、その民のつぶやきに対して、モーセはどうしたでしょうか。モーセは、すぐに主に祈りました。すると主は一本の木を示されたので、モーセがそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなりました。その木に癒しの力があったというよりも、モーセの信仰が、超自然的な神の力を引き出したということです。このようなことが、これ以降のイスラエルの荒野の旅において何回も繰り返されることになります。それは、彼らがそのことによって、主が自分たちの必要を満たしてくださる方であるという教訓を学ぶためでした。しかし、のど元過ぎれば熱さ忘れるで、自分たちの必要が満たされるとすぐにその教訓を忘れてしまうということの繰り返しでした。

 

しかし、それはイスラエルの民だけのことではありません。私たちも同じです。私たちも人生の荒野においてイスラエルの民のように苦しくなるとすぐにつぶやいてしまいます。その中で主が私たちの必要を満たしてくださるのに、すぐにその恵みを忘れ、つぶやきを繰り返してしまうのです。私たちは、この人生の荒野の中で、信仰の教訓を学びましょう。26節、「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」

どんなに苦しくても、主の御声に聞き従いましょう。そのとき、主はエジプトで下したような病気は何一つ下しません。主は、私たちの癒し主であると信じて、この方に信頼し、その声に聞き従いたいと思います。

 

「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。」(27)    こうして彼らはエリムに着きました。「エリム」とは、「なつめやし」という意味です。なつめやしのあるところに、水の泉があります。そこは砂漠のオアシス、完璧なやすらぎの場所です。そこには12の泉と70本のなつめやしの木がありました。12も70も完全数です。イスラエルは、その水のほとりに宿営することができたのです。これまでの荒野の旅の後に行き継いだオアシスですから、どれほど癒されたことかわかりません。苦しみのあとの潤いです。困難の後の祝福です。彼らはマラで苦い思いをしましたが、エリムまで来て恵みがありました。これが神のくださる恵みであり、私たちの信仰の歩みです。マラがありますが、その後でエリムがあります。ですから、マラでとどまるのではなく、エリムに向かって進んでいかなければなりません。そのとき、私たちも完全な癒しを体験することができるのです。

Ⅰサムエル4章

サムエル記第一4章から学びます。

 

Ⅰ.ホフニとピネハスの死(1-11)

 

まず、1~11節までをご覧ください。

「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人に対する戦いのために出て行き、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。一方、ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣備えをした。戦いが広がると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の戦場で打ち殺された。兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」兵たちはシロに人を送り、そこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱を担いで来させた。そこに、神の契約の箱とともに、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいた。主の契約の箱が陣営に来たとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。ペリシテ人はその歓声を聞いて、「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう」と言った。そして主の箱が陣営に来たと知ったとき、ペリシテ人は恐れて、「神が陣営に来た」と言った。そして言った。「ああ、困ったことだ。今までに、こんなことはなかった。ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれるだろうか。これは、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ。さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。そうでないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」

こうしてペリシテ人は戦った。イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕に逃げ、非常に大きな打撃となった。イスラエルの歩兵三万人が倒れた。神の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。」

 

サムエルが主の預言者として全イスラエルに知れ渡っていたころ、イスラエルにとっての最大の敵はペリシテ人でした。ペリシテ人は、地中海沿岸地域に住む海洋民族であり、ヨーロッパや北アフリカの地中海沿岸地域にもいた民族です。彼らは当時、イスラエルが持っていなかった、鉄で出来た武器を持っており、非常に強い民でした。イスラエルは、このペリシテとの戦いに出て行きます。彼らはエベン・エゼルあたりに陣を敷き、ペリシテ人は、シロの西方30㎞あたりにあったアフェクに陣を敷きました。戦いが広がると、イスラエル人はペリシテ人に打ち負かされ、約4,000人が戦場で打ち殺されました。

 

兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは、どうしてペリシテに打たれたのかを考え、その原因が主の契約の箱が無かったからではないかと結論付けました。それで彼らは、シロから主の契約の箱を自分たちの陣営に持って来ることにしました。そうすれば、その箱が、自分たちを敵の手から救ってくれると思ったのです。ここには大きな誤解がありました。主の契約の箱を持ってくれば、自動的に勝利がもたらされるということはないからです。主はそのような箱に縛られるお方ではありません。主はどこにでもいることができる方であって、そのようなものにとらわれるお方ではありません。それなのに彼らは、その箱さえ運び込めば主が助けてくれると勘違いしました。もともと契約の箱は、神の臨在を象徴するものです。イスラエルの民が神に忠実であったら、契約の箱があるなしにかかわらず、主は彼らを勝利に導いてくださったはずです。それなのに、それがなかったら、たとえ契約の箱を運び込んだからと言って勝利が与えられるはずかありません。それは彼らの大きな誤解でした。

 

4節をご覧ください。イスラエルの兵たちはシロに人を送り、そこからケルビムに座しておられる万軍の主の箱を担いで来させます。そこには、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいました。主の契約の箱がイスラエルの陣営に運ばれて来ると、全イスラエルは大歓声をあげました。それは地がどよめくほどのものでした。これは、実にむなしいことです。大歓声をあげ、どんなに地がどよめいても、そこに神の息吹はなければむなしいのです。熱心さや勢いはあっても、主の御霊がおられなければ何の意味もないからです。宗教的に熱心であることは良いことですが、それが必ずしも主の臨在を保証するものではありません。

 

ペリシテ人はその歓声を聞いて動揺しました。そして、神の箱が陣営に来たことを知ると、ペリシテ人たちは恐れて、「神が陣営に来た」と言いました。ペリシテ人たちはなぜそれほど恐れたのでしょうか。それは、かつてイスラエルの神がありとあらゆる災害をもってエジプトを打ったことをうわさで聞いて知っていたからです。これはすごいですね。なぜなら、その出来事は300年以上も前の出来事だからです。彼らはそれを記憶していたのです。彼らは、イスラエルの神が力ある神であることを知っていて、恐れたのです。それでペリシテ人のリーダーたちはどうしたかというと、「男らしくふるまえ」と叱咤激励しました。

 

その結果どうなったでしょうか。こうしてペリシテ人が戦うと、イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕へ帰って行きました。その日倒れたイスラエルの兵は30,000人で、それはイスラエルにとって大きな打撃となりました。そればかりでなく、神の箱も奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスも死にました。これは2:23で預言されたとおりのことです。それがここで成就したのです。主が語られたことばは一つも地に落ちることがありません。すべてが成就します。

 

しかし、神の箱が奪われたからと言って、イスラエルの神が捕虜になったわけではありません。主はすべての神々にまさって大いなる方であり、大いに賛美されるべきお方です。この方は、人間によって支配されるようなことは全くありません。ペリシテ人がイスラエル人よりも優位に立つのはサウル王の時代までで、その後ダビデの時代には完全に制圧されることになります。神の箱が奪われたからといって神が死んでしまったわけではありません。やがて時が来れば、それが明らかになるでしょう。私たちはそのことを覚えて、たとえ今、神が見えなくなっているような時でも、この神の臨在と力を覚えて、ひれ伏し、伏し拝む者でありたいと思います。

 

Ⅱ.エリの死(12-18)

 

次に12節から18節までをご覧ください。

「一人のベニヤミン人が戦場から走って来て、その日シロに着いた。衣は裂け、頭には土をかぶっていた。彼が着いたとき、エリはちょうど、道のそばの椅子に座って見張っていた。神の箱のことを気遣っていたからであった。この男が町に入って来て報告すると、町中こぞって泣き叫んだ。 エリがこの泣き叫ぶ声を聞いて、「この騒々しい声は何だ」と言うと、男は大急ぎでやって来てエリに知らせた。エリは九十八歳で、その目はこわばり、何も見えなくなっていた。男はエリに言った。「私は戦場から来た者です。私は、今日、戦場から逃げて来ました。」するとエリは「わが子よ、状況はどうなっているのか」と言った。知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、兵のうちに打ち殺された者が多く出ました。それに、あなたの二人のご子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその椅子から門のそばにあおむけに倒れ、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。エリは四十年間、イスラエルをさばいた。」

 

ひとりのベニヤミン人が戦場から走って来てシロに着きます。戦場となっていたアフェクからシロまでは30㎞の上り坂です。その距離を一気に走って来たわけですから、それがいかに緊急のものであったかがわかります。その使者は、衣が裂け、頭には土をかぶっていました。これは、ユダヤ人たちが嘆き悲しんでいたことを表しています。

 

彼がシロに着いたとき、エリはちょうど、道のそばにいすに座って見張っていました。つまり、戦況の報告が届くのを待っていたのです。神の箱のことを気遣っていたからです。そして、この男が町に入って報告すると、町中こぞって泣き叫びました。イスラエル軍はペリシテ軍の前から逃げ、多くの戦死者が出たからです。そればかりではなく、エリのふたりの息子も死に、神の箱も奪われてしまいました。

 

それを聞いた時、エリはその椅子からあお向けになって倒れ、首を折って死んでしまいました。年寄りで、からだが重かったからです。しかし、何といっても、神の箱が奪われてしまったのがその大きな理由です。エリは、イスラエルが敗北することと、ふたりの息子が死ぬことはある程度予期していましたが、まさか神の箱が奪われるとは思っていませんでした。彼はそのことのショックで椅子から倒れ落ち、死んでしまったのです。98歳でした。

 

彼は40年にわたってイスラエルをさばきましたが、その最後はあまりにも悲惨なものでした。それは彼が息子たちへの訓戒を怠ったための悲劇でした。しかし、こうした悲劇的な死の中にも希望があります。サムエルという後継者を育てたことです。また、彼は二人の息子たちよりも、神の箱が奪われたことに深い関心を持っていました。つまり、確かに彼は死にましたが、彼は霊的な人物であり、霊的救いに与っていた人であったということです。エリの死は確かに悲惨で突然のものでしたが、それでも、霊的救いに与っているなら、永遠のいのちの希望があるのです。

 

私たちもいつ来るかわからない死に備えて、自らの救いを確認しておく必要があります。教会では今、墓地の取得に向けて動いていますが、自分の死のことについてはなかなかピンと来ないかもしれません。でも、それは確実にやって来ます。しかもある日突然やって来るのです。それがいつのことであっても、救い主イエス・キリストを信じることによって永遠のいのちが与えられたという確信を持って、主に最後まで従う者でありたいと願わされます。

 

Ⅲ.「イ・カボテ」栄光はイスラエルから去った(19-22)

 

最後に19節から22節まで見て終わりたいと思います。

「彼の嫁、ピネハスの妻は身ごもっていて出産間近であったが、神の箱が奪われて、しゅうとと夫が死んだという知らせを聞いたとき、陣痛が起こり、身をかがめて子を産んだ。彼女は死にかけていて、彼女の世話をしていた女たちが「恐れることはありません。男の子が生まれましたから」と言ったが、彼女は答えもせず、気にも留めなかった。彼女は、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは、神の箱が奪われたこと、また、しゅうとと夫のことを指したのであった。彼女は言った。「栄光はイスラエルから去った。神の箱が奪われたから。」」

 

神の箱が奪われたという知らせを受けてエリはショックを受け、倒れて死んでしまいましたが、その悲劇は、臨月を迎えていたピネハスの妻にまで及びました。ピネハスの妻は身ごもっていて出産間近でしたが、神の箱が奪われ、しゅうとと夫が死んだと聞いたとき、陣痛が起こり身をかがめて子どもを産みました。出産後彼女は死にかけていて、彼女の世話をしていた女たちが「恐れることはありません。男の子が生まれましたよ」と励ましましたが、それは彼女にとって何の慰めにもなりませんでした。彼女は何も答えず、気にも留めず、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子を「イ・カボテ」と名付けました。それは栄光がないという意味です。それは神の箱がイスラエルから奪われたからです。

 

エリの死同様に、ピネハスの死も悲惨なものでした。しかし、このような中にも希望が見られます。それは、彼女も自分の夫やしゅうとの死よりも、神の箱が奪われたことに衝撃を受けていたことです。つまり、彼女は夫のピネハスよりも霊的な人物であったのです。エリ同様、彼女もまた霊的救いを体験していました。彼女は、「栄光はイスラエルから去った」と二度叫んでいますが、それはある意味で正しいことですが、ある意味では間違っています。なぜなら、確かに神の箱はペリシテ人によって奪われましたが、それがペリシテの領土にとどまるのは一時的なことだからです。神ご自身が働きを始め、ペリシテ人をさばかれるとき、それはイスラエルの地に戻るようにされるのです。

 

自分の思いや感情の中に、主の大きさを制限することがないようにしましょう。また、一時的にそうなったからと言って、それですべてが終わってしまったわけではありません。神は私たちの知性や感情の中に閉じ込めておけるような方ではありません。今、栄光の御座に座しておられる主は、この天地の造り主であられ、すべてを支配しておられる方であることを認め、やがて必ずみわざをなしてくださると信じて、すべてをおゆだねしようではありませんか。

ヨハネの福音書10章22~30節 「わたしの羊たち」

きょう私たちに与えられているみことばは、ヨハネ10:22~30です。きょうは、この箇所から「わたしの羊たち」というタイトルでお話します。「わたしの」とは、イエスさまのことです。イエスさまはご自分に従う者を「わたしの羊たち」と呼んでくださいます。イエスさまの羊たちとはどのような羊でしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。第一のことは、キリストの羊たちはキリストについて行くということです。そして第二のことは、そのようにキリストについて行く者に、キリストは永遠のいのちを与えてくださいます。そして、第三のことは、そのように永遠のいのちが与えられた者は、どんなことがあっても決して滅びることはないということです。

 

Ⅰ.キリストの羊はキリストについて行く(22-27)

 

まず、22~26節をご覧ください

「そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」

 

ここから場面が変わります。これまでは生まれながら目が見えなかった人が、イエスさまによっていやされたことから、ユダヤ人の指導者たち、パリサイ人たちとの間に起こった論争が描かれていましたが、ここからはエルサレムで宮きよめがあった時の出来事に変わります。「宮きよめの祭り」とは、ここにしか言及されていない祭りです。これは紀元前164年のことですが、当時ユダヤはシリアという国に支配されていましたが、そのシリアの王でアンティオコス・エピファネスという人が自分こそ神であると宣言しエルサレムの神殿の祭壇にギリシャの偶像を立て、律法で禁じられていた豚をささげて神殿を汚した時、ハスモン家の祭司でユダ・マカバイという人が立ちあがり、彼が中心となってユダヤ民族の独立のために戦い、エルサレム神殿を奪回し、祭壇から一切の憎むべき偶像を取り除くことに成功したことを記念して行われるようになった祭りです。今の暦で毎年12月に一週間、宮きよめの祭りとして祝われるようになりました。「時は冬であった」とあるのはそのためです。旧約聖書にこの祭りについての言及がないのは、これが旧約聖書の最後の書であるマラキ書が書かれたてから、新約時代が始まるまでの400年の間、これを沈黙の時代とか、中間時代と呼ばれていますが、その期間に起こった出来事だからです。

 

この宮きよめの祭り時に、イエス様が宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられると、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を取り囲んでこう言いました。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」

これは、19節から21節までのところをご覧なっていただくと分かりますが、当時ユダヤ人たちの間に分裂があったからです。ある人たちは、イエスは悪霊につかれて頭がおかしくなっていると言い、他の人たちは、イエスのことばを聞く限り悪霊につかれているとは考えられないと言いました。そんなスッキリしない中で、ユダヤ人たちはイライラしていたのでしょう。彼らはそうしたいらついた気持ちをイエスにぶつけたのです。

 

それに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。25~27節です。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(25~27)

 

イエス様はすでにご自分がメシアであることを何度も語ってきましたが、彼らは信じませんでした。「わたしの羊の群れに属していないからです。」イエス様の羊であればイエス様の声を聞き分け、イエス様について行きますが、そうでないということは、イエス様の羊ではないということです。誤解しないでください。これは彼らがイエスの群れに属していないので信じないというのではなく、彼らが信じないということがイエスの群れ属していない証拠であるということです。だから今イエス様を信じていないのは自分がイエス様の羊ではないからだと諦めないでください。イエス様の声を聞いて彼に従うなら、あなたもイエスの群れに属することができるのです。それにしても、彼らはなぜキリストを信じることができなかったのでしょうか。

 

そこには、この宮きよめが関係しているのではないかと思われます。すなわち、この宮きよめは、あの荒らす忌むべき者アンティオコス・エピファネスからユダ・マカバイという人が中心となって、宮をきよめたことを記念する祭りですが、彼らが期待していたメシアとは、そのように政治的、軍事的に自分たちを救ってくれる人だと思っていたからです。しかし、イエス様が語られるメシアとは羊のためにご自分のいのちを捨てる人のことでした。いわゆる霊的メシアです。その受け止め方にギャップがありました。それゆえに彼らはイエス様をメシアとして信じることができなかったのです。

 

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。聖書のことばが自分の思いや考えとちょっとでも違うと納得するまでは信じないということがあります。あるいは信じていても、自分に都合が良いことは受け入れられても、そうでないことは割り引いてしまうということがあります。でも、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。」「彼らはわたしについて来ます。」とあるように、キリストの羊は、キリストの声を聞き分け、キリストについて行きます。それ以外のものにはついて行きません。羊飼いの声を知っているからです。

 

今聖書をマナでおられる任さんは、中国にいる娘さんから「お母さんもイエス様を信じてください。教会に行ってください。」と言われ、自分もイエス様を信じたいと思いましたが、どこに行ったら良いのかわかりませんでした。そんな時エホバの証人の方がご自宅を訪ねてこられました。そして、「自分たちが信じているのはイエス様よりも偉い方で、イエス様のお父さんですよ」と言われたとき、「あれっ、ちょっとおかしいなぁ。」と思いました。「イエス様は神様じゃないの?イエス様よりも偉い人なんているの?ちょっとおかしい」そうこうしているうちに、この方のご主人が創価学会の方にわずかばかり寄付をしたことで、「じゃ、創価学会の会館に来てください」と言われたので行ってみると、「おめでとうございます、あなたは今日から創価学会の会員です」と1枚の紙を手渡されました。会員証ですね。いや、自分はただ寄付をしただけで、別に会員になるつもりはありませんと言うと、何度もやって来ては「会員になりました、会員になりました」と言うのです。そのしつこさは異常で、これは絶対に違うなと思いました。そんな時教会の前を通ったら看板に十字架があるのを見つけました。小さな十字架でした。キリスト教会は控えめですね。もっと大きな十字架を掲げればいいのに、小さな十字架でした。でも、ここはキリスト教の教会ではないかと思って思いきって訪ねて来られたのです。そして、娘さんが通っておられる中国の教会の動画を見せてくれました。それが「歌いつつあゆまん」だったのです。私がこの賛美を知っているとそれに合わせて歌ったら、「これホンモノね」と聖書を学ぶようになりました。

 

キリストの羊はキリストの声を知っています。それでキリストについて行くのです。そうでない羊はその違いが分かりません。あなたはどうでしょうか。あなたはキリストの声を知っていますか。キリストの心を知っていますか。どうぞイエス・キリストを信じてください。キリストは良い牧者です。あなたのためにいのちを捨ててくださいました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。ですから、その声を聞き分け、この方を救い主と信じ、この方に従ってついて行ってください。そのような人こそキリストの羊なのです。

 

Ⅱ.キリストは彼らに永遠のいのちを与えます(28a)

 

第二のことは、そのようにイエス様について行く者に、イエス様は永遠のいのちを与えてくださるということです。28節の前半をご覧ください。ここには、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」とあります。これは、羊飼いであられるイエス様に従う者の特権です。それは何でしょうか。それは永遠のいのちです。イエス様はご自分について来る者に永遠のいのちを与えられます。それは罪の赦しと、来るべき世における栄光のいのちです。

 

18世紀のイギリスにおける伝道者で、メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジャン・ウエスレーは、臨終を前にして最後の言葉を伝えるために家族を集めました。彼は最後の60秒間、起き上がってこう言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そして再び横になり、両手を高く上げて、最後の力を振り絞ってもう一度言いました。

「一番良いことは、神様が私たちとともにおられることです。」

そう言って彼は、息を引き取りました。

 

一番良いことは、神が私たちとともにおられることです。神がともにおられることと神がそばにおられることでは次元が違います。神は聖なる方ですから、罪ある者と共にいることはできません。神がともにいてくださるには、その罪が赦され神の子どもにされなければなりません。神はそのためにひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。それは、この方を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。これが、私たちの罪が赦されるための神の永遠のご計画だったのです。それが時至って、今から二千年前に、キリストは旧約聖書にある預言のとおりに来られ、十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、この方を信じる者はみな永遠のいのちを受けるのです。永遠に神が共にいてくださいます。ここでイエス様は、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」と言っておられます。これは現在形で書かれています。それはやがて私たちの肉体が滅んだ後に受ける栄光のいのちだけでなく、イエス様を信じるすべての人がその瞬間から持つことができる神との交わりであり、神がともにおられることです。ウエスレーは、この永遠のいのち、神様が私たちとともにおられることが一番良いことです、と言ったのです。あなたは、この永遠のいのちを受けておられるでしょうか。

 

昨日、スーパーキッズが行われ、2階でお母さんたちの聖書の学びを持ちました。少し遅れて参加した一人の方が、2年前から仕事をしているのだが、最近なんだか空しく感じることがあるというのです。何のために働いているのかがわからない。別に働かなければならないというわけではないが、今のうちに働いていないと後で年をとってから働けなくなるのではないかと思って、ちょっとしたこずかい稼ぎのために働いているんだけど、これでいいのかなぁと思うようになったのです。いったい何のために生きているのかがわからない。「何のために生きているんですか。生きる目的はありますか」と聞かれるのです。「あります。イエス・キリストです」というとポーとしたお顔で聞いておられるので、話を続けたのです。私たちは肉体だけのいのちではなく、精神的、霊的な存在です。だから、霊が満たされなければどんなに肉体的に、物質的に満たされても幸せになれないんです。逆に、霊が満たされていれば、肉体的に辛いことがあっても、物質的に足りないことがあっても、乗り越えることができます。イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受けることが、私たちの生きる目的なのです。神がともにおられること、それが私たちにとって一番良いことなのです。

 

Ⅲ.キリストの羊は永遠に滅びることがない(28b-30)

 

第三のことは、彼らは永遠に滅びることがないということです。28節から30節までをご覧ください。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

 

これはものすごい約束です。イエス様は、ご自身を信じ、ご自身に従う者に永遠のいのちが与えると約束されましたが、そればかりではなく、だれも彼らをご自身の手から奪い去ることはできないと言われました。これはどういうことでしょうか?これは、どんなことがあっても救いから落ちることはないということです。たとえあなたが罪を犯すことがあっても、あなたがキリストの羊の群れに属しているなら、その救いから漏れることは絶対にないということです。問題は、この羊の群れに属しているかどうかです。イエス様を信じて永遠のいのちを受けているかどうかです。いったいどうやってそれを知ることができるのでしょうか。イエス様を信じて、バプテスマをうけたのであれば、永遠のいのちが与えられているのではないでしょうか。

 

でも、この箇所にはそのようには記されてありません。ここには、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分ける」とあります。また「わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」とあります。これがキリストの羊の群れに属している羊たちです。すなわち、キリストの羊たちは、キリストの声を聞いて、キリストに従うということです。これは、全く罪を犯さないということではありません。羊は愚かで、弱く、無力です。すぐに道に迷ってしまう動物です。イエス様について行ってるようでも、すぐに道を踏み外してしまいます。おっちょこちょいなんですね。落ち着きがありません。でもそういうことは全く関係ないのです。大切なのは、キリストの声を聞いて、キリストについて行くかどうかです。自分が道に反れてしまったと思ったなら、キリストの声を聞いて悔い改めればいいのです。それを聞かないで、自分は立派な者だと思っているとしたら、それこそキリストの声に従ってしない証拠と言えます。ですから、表面的には見分けがつきません。ただ一つ言えることは、キリストの羊はキリストの声を聞き分けて、キリストについて行くということです。もしそうであるなら、あなたはキリストの羊です。その人は永遠のいのちを受けるだけでなく、だれもキリストの手から奪い去られることはありません。

 

パウロは、この真理を次のように述べています。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35~39)

だれも、また何も、どんなものも、キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。なぜなら、キリストは父なる神と一つになって、私たちの手をしっかりと握り締めていてくださるからです。救いについてこれほど確かな保証はありません。

 

私たちはしばしば信仰というものを私たちが神の御手をつかんでいることだと考えていますが、それは大きな間違いです。もしも信仰というものがそのようなものであれば、疲れたり、躓いたりしたら、手を離してしまう危険があります。よく「私は意志が弱いので、信じても長続きしないのではないかと思います」と言われる人がいますが、そのような人は、信仰というものを自分の意思で続けていくものだと思っているのです。でも、信仰とはそのようなものではありません。信仰は私たちが神様の御手をつかんでいるのではなく、神様が私たちの手をつかんでいてくださることです。

たとえば、小さな子供が親の手をつかんで歩いているのを想像してみてください。もしもその時子供が何かに躓いたら、子供は手を離して転んでしまうでしょう。しかし、もしも親が子供の手をつかんでいたら、たとい子供が躓いても親がしっかりと子供の手をつかんでいるので転ぶことはありません。それと同じで、私たちの救いというのは、私たちが神の御手をつかんでいるのではなく、神が私たちの手をつかんでいてくださることなのです。そうであれば、たとい私たちが何かにつまずくことがあっても、決して倒れてしまうことはありません。

 

私たちの周りには、キリストの羊を、キリストから奪い去り、罪の中に引き戻そうとするものがたくさんあります。絶えず何かが私たちを「奪おう」とし「引き抜こう」としています。でも、もしあなたがキリストの羊であるなら、あなたはキリストの手の中で守られており、決して滅びることはありません。なぜなら、キリストがあなたの手をつかんで離さないでいてくださるからです。

 

最後に30節を見ておわりたいと思います。ここには、その手がどれほど確かなものであるかが記されてあります。それは「わたしと父とは一つです」という言葉です。これは、イエス様と永遠の父とは全く一つであるということです。その本質と力において、また意志において全く一つなのです。つまり、イエス様は父なる神と同等の力を持った神であるという意味です。この箇所を見ても、イエス様よりもお父さんの方が偉いというエホバの証人の主張が間違っていることがわかります。イエス様と父なる神は全く一つであって、その神があなたの手をつかんでいてくださるのです。であれば、だれがあなたを奪い去ることができるでしょうか。あなたはキリストの手の中で完全に守られており、神が約束してくださった永遠のいのちを受け、永遠に神がともにいてくださることを体験することができるのです。

 

ですから、あなたにとって最も大切なことは、あなたはキリストの羊の群れに属しているかどうかということです。キリストの羊は、キリストの声を聞いて、その声に従います。あなたもキリストの声を聞いて、キリストを信じ、キリストの羊の囲いに属してください。そうすれば、何も、だれも、どんなことも、あなたをキリストから奪い去ることはできないのです。この不透明な時代、何があるかわかりません。一寸先は闇です。しかし、目の前がどんなに暗くても、キリストがあなたの手を握っていてくださいます。つかんで離さないようにしています。これほど確かな平安はありません。今週も何が起こるかわかりませんが、何が起こっても、キリストの声を聞いて、その声に従いましょう。あなたはイエス・キリストの囲いに属している羊なのですから。

出エジプト記14章

出エジプト記14章から学びます。

 

  1. パロの追跡(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」

 

いよいよ出エジプトのクライマックスを迎えます。主の力強い御手によってイスラエルの民はエジプトを出て、約束の地に向かって行きます。イスラエルの民は、スコテを旅立って、エタムに宿営しました(13:20)。エタムは荒野の端にあります。つまり、その先は荒野(シナイ半島)であるということです。そこから荒野の旅が始まります。その荒野は、「シュルの荒野」と呼ばれていますが、「エタム」はそのシュルの荒野の一部です。その「エタム」に宿営していた時、主がモーセに告げられました。「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。」と。

何ということでしょう。折角、エジプトから出て来て、「さあ、これからだ」と言う時に、「引き返して」というのですから。そして、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンに宿営せよと命じられたのです。いったいなぜ主はそのように命じられたのでしょうか。3節、4節をご覧ください。それは、エジプトの王ファラオをおびき出すためでした。

「ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。」

そこは、海と山に囲まれたような所でした。つまり、迷路のように間違ったところに入ってしまったか

のように思えるような場所だったのです。ですから、ファラオは、イスラエル人が道に迷ったと思い、あとを追って来るでしょう。その結果、神の民を苦しめたエジプトに最終的なさばきが下されることになるのです。このエジプト軍のさばきこそ、出エジプトの一連の出来事のクライマックスです。この出来事を通して、神はご自身の性質と力を示され、ご自身の栄光を現されるのです。その結果、エジプトは、主こそ神であるということを知るようになります。また、イスラエルの民も、主が自分たちのために戦われるということを知るようになるのです。イスラエルの民は、主が仰せられるとおりに、引き返しました。皆さんはどうでしょうか。それが自分の思いと違っても、主の言葉に従うでしょうか。

 

5節から9節までをご覧ください。

「民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちは民に対する考えを変えて言った。「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」そこでファラオは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの全戦車を、それぞれに補佐官をつけて率いて行った。主がエジプトの王ファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを追跡した。一方、イスラエルの子らは臆することなく出て行った。エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。」

 

イスラエルの民が去ったことがエジプトの王に告げられると、ファラオとその家臣たちはイスラエルの民に対する考え方を変えてこう言いました。

「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは。」

そこで、ファラオは、戦車を整え、自分でその軍勢を率いてイスラエルの民を追跡しました。そして、ファラオの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツァフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたイスラエルの民に追いつきました。これはイスラエルにとっては予想外の展開でした。海辺に宿営していたので、逃げ場がなかったのです。また、主の導きによってその地に宿営するようになったのに、窮地に追い込まれてしまったのです。

 

物事がうまく行っている時はだれでも喜べますが、問題は、そうでない時はどうかということです。なかなか受け入れられないのが現実です。しかし、試練の中に置かれた時は神のお許しなしには何一つ起こらないことを思い起こし、忍耐することを学びましょう。時が来れば、神のみわざが現されるようになるからです。

 

  1. 絶体絶命のピンチの中で(10-18)

 

そのような状況の中で、イスラエルの民はどのような態度を取ったでしょうか。10-12節をご覧ください。

「ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

 

ファラオは間近に迫っているのを見たイスラエルの民は、大いに恐れて主に向かって叫びました。

この叫びは主に助けを求めての叫びではなく、主につぶやくための叫びでした。いわゆる不信仰の叫びです。叫びには二種類の叫びがあります。一つは信仰の叫びであり、もう一つは不信仰の叫びです。彼らの叫びは信仰によるものではなく不信仰によるものでした。それはその後のところで、彼らがモーセに対して非難していることからもわかります。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(12)

 

彼らは、どのようにモーセを非難しましたか。イスラエル人は多いためエジプトではどれだけ墓があっても足りないので荒野に連れてきたのか、ということでした。これは皮肉です。荒野で死ねば、埋葬の心配はいりません。要するに、信仰の冒険よりも奴隷としての安全が欲しかったのです。いわば奴隷根性ですね。奴隷根性が彼らの心を支配していました。今まで奴隷として酷使されてきたので、自分たちが解放されることよりも、むしろ奴隷として生きることのほうが楽だという思いです。

 

これは、罪の奴隷から解放された私たちも抱きがちな思いです。物事が順調に進んでいる時は良いのですが、ちょっとでも困難に直面すると、こんなことならいっその事、信じなければ良かった・・・というようなことを口走ってしまうことがあります。信仰によって前進しないと、こうした罪の奴隷になってしまいます。

 

確かに、彼らのこれからの荒野での生活は過酷です。灼熱と、喉の渇きがあります。けれども、彼

らには主がともにおられ必要を備えてくださり、敵から守ってくださいます。自分たちが主によって生き

ていることを、荒野の旅を通して知ることができるのです。イエス・キリストを信じた人は、同じように荒

野の旅をするようになります。けれどもそれは、主だけがすべての源であり、主との関係があらゆる祝

福にまさることを知るためなのだということを覚えていなければなりません。

 

13節、14節をご覧ください。

「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

 

動揺するイスラエルの民に向かって、モーセは何と言ったでしょうか?モーセはまず、「恐れてはならない」と言いました。つまり、ファラオとその軍勢を恐れてはならないということで、恐れるべき方を畏れよ、ということです。恐れは信仰と相容れない感情です。信仰の反対が恐れです。イエス様は、何度も「恐れてはならない」と言われました。

 

次に、しなければならないことは、しっかりと立つことです。つまり、逃げ出そうとするなということです。「しっかり立って」とあります。私たちはこうした状況に直面すると、すぐにそこから逃げだそうとします。しかし、主が私たちに命じておられることは逃げることではなく、しっかりと立つことです。ペテロは、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(1ペテロ5:9)。と言いました。

 

そして次に、「今日あなたがたのために行われる主の救いを見な」ければなりません。つまり、主からの解決を待ち望まなければならないということです。それは「今日」もたらされます。明日ではなく「今日」です。それはすみやかにもたらされるのです。主の救いは近いのです。

 

その結果はどうなりますか?「あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」つまり、今見ているエジプト人はいなくなるという意味です。モーセは、それがどのようにしてもたらさるのかわからなかったでしょう。しかし、彼は自分たちの目の前からエジプト人が消え去るということを確信していたのです。

 

主があなたがたのために戦われます。戦うのは自分ではありません。主があなたがたのために戦ってくださいます。主は、海と風を軍勢して戦ってくださいます。ですから、自分たちに戦闘の経験がなくても心配する必要はありません。

 

ですから、私たちに必要なことは何でしょうか。私たちに必要なことは、「ただ黙っていなさい」ということです。つまり、何かに脅えて叫んだり、自分の感情で動いたりするのではなく、主がなされることを待ち望まなければなりません。霊的な戦いにおいて自分で何とか解決しようとすると、必ずサタンの餌食になります。たとえば、根も歯もない自分についてのうわさが教会の中に蔓延していると、だれがそんなうわさを流したのかと捜し回りたくなるでしょうが、それこそが敵の策略なのです。そうなると大変なことになります。「主よ。すべてをあなたにゆだねます。あなたが戦ってください。」と祈るなら、勝利がもたらされるのです。

 

15節から18節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」」  モーセは、主に叫んでいました。それはイスラエルの民のように不信仰の叫びではなく、信仰の叫びでした。モーセは叫ぶようにして祈っていたのです。そんなモーセに対する主の言葉は、「イスラエルの子らに、前進するように言え」ということでした。前進すると言っても、それは大変なことです。背後から敵が迫っていたのですから。前進するためには海に向かって進まなければなりません。イスラエルの民は、海がまだ分かれていない状態で前進しなければなりませんでした。それが信仰です。海が分かれてから前進するのは信仰とは言いません。それは確認と言います。でも、海がまだ分かれていないのに前進するなら、それは信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないことを確信させるものだからです。彼らに求められていたのは、主の言葉を信じて前進することでした。

 

いったいどうやって前進して行ったらいいのでしょうか。主はモーセに、「あなたの手を挙げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい」と言われました。そうすれば、イスラエルの子らは海の中の乾いた地面を行くことができます。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか?ここに「エジプトは、わたしが主であることを知る。」とあります。主とは、「わたしは、あるというものである」です。他の何ものにも依存することなく存在することができるという意味です。すなわち、全能者であられます。この天と地と海と、その中のすべてのものを造られた主は、海を分けることなど簡単におできになるのです。問題は、この主のことばに対して、どのように応答するかです。もし信じて従うなら、主の栄光を見るでしょう。エジプトは主こそ神であるということを知るようになるのです。

 

私たちが信じている神がいかに偉大なお方であるかを思い巡らしましょう。そして、この神にすべてをゆだね、そのおことばに信仰をもって応答したいと思うのです。

 

Ⅲ.紅海を渡る(19-31)  最後に、19節から31節までをみて終わりたいと思います。

「イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。「主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」

 

イスラエルを導いていたのは、雲の柱だけでなく神の使いもそうでした。この「神の使い」は、雲の柱の中にいる受肉前のキリストのことです。イスラエルの陣営の前を進んでいた雲の柱は、民のうしろに移動し、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に立つ分離壁となりました。それは真っ暗な雲でした。エジプトの陣営は、この真っ暗な雲の中に迷い込ませられたので、イスラエルの陣営に近づくことができませんでした。

 

次に、モーセが手を海の上に伸ばすと、強い東風が吹いて来て、紅海の水が右と左に分かれて、そこに乾いた地ができました。それでイスラエルの民は、その海の真中の乾いたところを進んで行きました。世界中のだれが、このような奇蹟を体験したことがあるでしょうか。ないでしょう。考えられません。一時的に、浅い海が強風になって陸となることはありえても、深い海が壁となる奇蹟は、地球の歴史の中でこれ一回限りです。神は、ご自分がどのような方であるかを、イスラエル人と全世界の民に知らせるために、この奇蹟を行なわれました。神は全能者であられるのです。  それから主は、モーセに「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車と、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」(26)と言われました。モーセがそのようにすると、朝明けに海が元の通りに戻りました。水が元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおったので、彼らはみな海に沈んでしまいました。残った者は一人もいませんでした。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われたのです。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見ました。彼らは今こそ真の意味で、エジプトの奴隷の状態から救い出されたことを確信しました。自分たちを支配していた者は海辺に死にました。古い時代の象徴であったエジプトは、すでに海のかなたに葬られたのです。そして、目の前には自分たちが進んで行く新しい世界が広がっていました。それはまさに罪の奴隷であった古い人に死に、新しいいのちに生まれ変わったことを象徴しています。私たちは、キリスト・イエスにつくバプテスマによって、罪の奴隷から解放されたのです。

彼らは見ました。エジプト人が確かにひとりも残らず死んだのを。もう自分たちを襲ってくるものは何

一つありません。完全な勝利です。私たちも古い自分はもう死んでしまったということを、信仰をもって見なければいけません。罪に支配された古い人は、もう死んだのです。それがあなたを支配することは決してありません。私たちは今、それを信仰にもって受け止めなければならないのです。もう罪は葬り去られたのです。罪はもはや私たちを支配することはありません。詩篇103:12に、「東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」とあります。また、ミカ7:19には、「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。」とあります。

 

31節をご覧ください。

「イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」

イスラエルの民は、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。それまでは信じていなかったのでしょうか。それまでも信じていましたが、半信半疑でした。しかし、今、この大いなる御力を見て確信したのです。これは、私たちにとっても言えることです。イスラエルが、主の大きな御力を見て信じたように、私たちはキリストの十字架と復活を信じて信じました。このことがはっきりしていることが大切です。自分がキリストとともに十字架で死に、キリストにあってよみがえったという事実にしっかりと立っているなら、たとえ自分が罪から解放されていないように感じることがあっても、実際には、キリストとともによみがえったという事実を見て、いのちに歩み続けることができるからです。この確信に基づいて生きるとき、神は確かに約束の御霊を注いでくださり、私たちに豊かないのちを与えてくださるのです。

ヨハネの福音書10章~18節 「わたしは良い牧者です」

きょうは、「わたしは良い牧者です」というタイトルでお話しします。すでにお話ししてきたように、ヨハネの福音書には、「わたしは・・・です」という表現が七回出てきます。まず、6章35、41節でしたね、「わたしはいのちのパンです」とありました。それから、8章12節には、「わたしは世の光です」とありました。そして前回見た10章7,9節には、「わたしは門です」とありました。きょうの箇所に出てくる「わたしは良い牧者です」とは、四回目となります。

 

イエス様はここで、ご自分を良い羊飼いにたとえでいらっしゃいます。私たちの周りには羊がいないので、羊飼いとはどのようなものなのかについてあまりよくわかりませんが、当時のパレスチナではよく羊が飼われていたので、イエス様がこのたとえを話された時、これを聞いていた人々はピンときたのではないかと思います。いったい良い羊飼いとはどのようなものなのでしょうか。イエス様はここで良い牧者について三つの特徴を取り上げておられます。

 

Ⅰ.良い牧者は羊のためにいのちを捨てる(11-13)

 

第一に、良い牧者は羊のためにいのちを捨てるということです。11~13節をご覧ください

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」

 

この箇所の直前に「わたしは羊たちの門です」とたとえで話されたイエス様は、今度はご自身が羊たちの牧者であると言われました。ただの牧者ではありません。良い牧者です。良い牧者とはどのような者でしょうか。良い牧者は、羊たちのためにいのちを捨てます。牧者ではない雇い人はどうかというと、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりするのです。しかし、良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 

旧約聖書に登場するダビデは、元々羊飼いでした。その羊飼いであった時に、実際に熊や獅子と戦って羊を守りました。羊飼いは、羊が奪われたとき、ただ羊を食われましたと言うだけではだめでした。その際に実際に野獣と戦った証拠として、その足取り返してきたとか、耳を取り返してきたというのを見せなければなりませんでした。確かにこの人は戦ったけれども仕方なく食われてしまったとか、そこまでいかないと、羊飼いとしての使命を果たしたことにならなかったのです。それで、結構多くの羊飼いが命を落とすことがあったのです。実際にそういうことを見たという方もいます。その様な経験を通してダビデはこう言いました。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」(詩篇23:1-4)

主はこのような羊飼いでした。ダビデは実際に羊飼いだったのでそのことをよく知っていました。それにしても、良い羊飼いはどうして羊のためにいのちを捨てるのでしょうか。それは雇い人ではないからです。雇い人ではないので自分の利益や報酬のために生きているのではなく、羊のために仕えていたからです。それで狼などがやって来ると、羊たちを危険から守るためにいのちがけで戦ったのです。また、羊を養うために牧草地へ導いて行ったり、いこいの水のほとりに連れて行きました。その時にも危険が伴いますが、いのちがけで羊を守ったのです。

 

しかし、雇い人はそうではありません。雇い人はそこまでしません。羊よりも自分の方が大切なので、そうした危険に直面するとすぐに逃げ出してしまうのです。そこまでして守りたいとは思いません。彼らはただ雇われているだけなので、羊たちのことなど全然心にかけていないのです。このような牧者に養われている羊たちは可哀想そうですね。何かあったらすぐにどこかにいなくなってしまうのですから。いたとしても羊たちのことなど心にかけていません。そこまでして犠牲を払いたいとは思わないのです。本当に羊のことを心にかけていれば、羊が何百匹いても、その1匹1匹を心にかけるはずです。それが出来るのが良い羊飼いです。

 

エゼキエル書34章に次のようにあります。

「次のような主のことばが私にあった。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『神である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。わたしは生きている──神である主のことば──。わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないために、あらゆる野の獣の餌食となってきた。それなのに、わたしの牧者たちはわたしの羊を捜し求めず、かえって自分自身を養って、わたしの羊を養ってこなかった。それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。神である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」まことに、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。」(エゼキエル34:1-11)

 

これはエゼキエルを通して語られた主のことばです。イスラエルの牧者たちは何のために牧会しているのか、羊を養うためなのか、それとも自分を養うためなのか?羊たちのことを顧みず、自分を養っている牧者たちに対して、羊を飼うのをやめさせると言われたのです。これは言い換えると、羊飼いになろうとしているのか、雇い人になろうとしているのかということです。非常にきつい言葉です。あなたは羊飼いになろうしているでしょうか、それとも、ただの雇い人でしょうか?

 

私は牧師として、いつもこのことを問われることがあります。一生懸命に養っているようでも、それがただの見せ掛けのような時があるからです。自分の本質を見ると、自分もこのイスラエルの牧者とちっとも変わらない者ではないかと思わされます。真の意味でこのような牧者であり得るのはイエス様だけです。なぜなら、イエス様は羊のためにいのちを捨てられるからです。そうです、これはイエス様の十字架の死の預言だったのです。イエス様は、私たちのために自分のいのちを捨ててくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。自分のためにいのちを捨てる方がいることを知るなら、私たちの生き方も少しずつ変えられていくのではないでしょうか。

 

先日、知り合いの牧師が、その話の中で教会に集っている一人の姉妹のことをお話ししてくれました。その姉妹は、自分を受け入れてくれる人には心を開きますがそうでない人には貝のように心を閉ざされるので、自分には心を開いていろいろ打ち明けてくれるのでいいのですが、他の方々には全く心を開かないので困っているとのことでした。それで他の姉妹たちと不協和音が生じ、姉妹たちの中にはそれが原因で教会から出て行こうとする人までいるとのことでした。姉妹たちからすれば、牧師がその姉妹のことで振り回されてしまい、教会全体を見られなくなっているという不満がうっ積していました。とは言っても、他の人が関わってくれるのではあればいいですが、そういう人がだれもいないという状況で、もし自分がやらなければいったいこの姉妹はどうなってしまうのかと思うと放っておくこともできず、結局、牧師自身が追い詰められていたのでした。

その話を聞いていてすごいなぁと思ったのは、この牧師はたとえ自分がどんなに辛くても、その人を決して置き去りにしたり投げ出したりしないで、いつも心にかけ、一つ一つ丁寧に対処しようとしていたことです。また、確かにそのことで教会の中に不協和音が生じても、むしろ、そのことを通してキリストの愛を学ぼうとしていたことでした。ある姉妹がそのことで我慢できなくなり、「わかりました。それじゃ、私はもう教会から出て行きますから」と言ってドアを開けた時、「ちょっと待ってください。このような時こそイエス様の愛を学ぶ時ではないですか。イエス様が互いに愛し合いなさいと言われたように、私たちも互いに愛し合いましょう。」と言うと、その姉妹は、「わかりました」と言ってそのことばを受け止められました。牧師も牧師ですが、姉妹も姉妹ですね。自分の感情に従うのではなくイエス様のみことばに従って行こうという姿勢がすばらしいと思ったのです。

 

そうです、大切なのは、イエス様ならどうされるのかということです。イエス様は私たちのためにいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。私たちの愛は、このイエス様のいのちがけの愛から生まれているのです。イエス様は良い牧者です。であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。

 

Ⅱ.良い牧者は羊のことを知っている(14-15)

 

第二に、良い牧者は羊のことを知っているということです。14節と15節をご覧ください。

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」

 

イエス様は、私たち一人一人を心にかけてくださっているだけでなく、私たち一人一人のことをよく知っておられます。私たちの名前はもちろんのこと、私たちの生い立ちも、私たちの性格も、私たちの個性も、私たちが置かれている環境も、私たちの長所も弱さもすべて知っておられます。すべてを知った上で、愛してくださっているのです。愛している方にすべて知られているなら安心ですね。でも、知らないこともあるでしょう。おそらく、人間の社会において一番よく知っているのは夫婦ではないかと思いますが、夫婦はお互いのことを一番よく知っているようで、意外に知りません。「もう何年も一緒にいるのに、うちの旦那は私のことをちっともわからないの・・・」とか、「お父さんは、何年も一緒にいるのにお母さんの好きな料理もわかんないんだから」と言うのを聞くことがあります。分かっているようでわかっていません。

 

しかし、イエス様は私たちのことを完全に知っておられます。どのくらい知っておられるのかというと、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じようにです。父である神は御子であられるイエス様をどれほど知っておられるでしょうか。また、御子なるイエス様は、父なる神をどれほど知っておられるでしょう。父なる神も子なる神も完全であられますから、完全に知っておられるわけです。しかもただ単に知的に知っているということ以上に、そこには親密な交わりがあります。深い関心と愛情をもっておられるということです。イザヤ書の中にこのようなみことばがあります。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ49:15)

人があなたのことを忘れても、母親が乳飲み子を忘れても、わたしはあなたを忘れません。あなたに深い愛情を持っておられるのです。これはまさに目からうろこではないでしょうか。

 

しかし、ここには単に牧者であられるイエス様が、羊である私たちのことを知っているというだけでなく、羊である私たちも、牧者であられるイエス様のことを知っているとあります。皆さんは、自分の牧者であるイエス様のことを、どれだけ知っているでしょうか。3、4節には、牧者が自分の羊たちを連れ出し、その先頭に立って行くと、羊たちはそれについて行くとあります。彼の声を知っているからです。今、世の中にはいろいろな声があふれています。けれども私たちは、イエス様の声を聞き分けなければなりません。どうしたらイエス様の声を聞き分けることができるでしょうか。それはいつも本物にふれていることです。何が本物ですか。

 

先月から、中国人の任さんと聖書を学んでいます。中国の娘さんから教会に行ってほしい、イエス様を信じてほしいと言われ、教会を探しているんだけれども、教会にもいろいろあるでしょう、危ない。だから、間違いのない教会を探しているんですと、ある日、教会を訪ねて来られました。すると、この教会は本物かと聞くのです。本物かって、自分たちは本物だと思って聖書を学んでいますが、どの団体も自分たちが本物だと信じているわけですから、何を根拠に自分たちが本物であるかを説明するのは難しいです。

すると、娘さんは中国の教会で、聖歌隊で歌っているのですが、そのユーチューブの動画を見せてくれました。それは「歌いつつあゆまん」という賛美でした。私がそれに合わせて歌ったら、「それ、ホンモノね」と言って、一緒に学ぶことになりました。別に「歌いつつ歩まん」を賛美しているから本物だというわけではないでしょうが、少なくても、イエス様を救い主として信じている教会というのは間違いないということで、信じていただけたのでしょう。でも、本当は聖書を見なければなりません。聖書にあるイエス様とはどのような方なのかを知り、イエス様を信じ、イエス様と共に歩み、イエス様に信頼して生きていくことが大切なのです。そのようにして、私たちがイエス様を深く知る時に、イエス様の心が見えてきます。皆さんもそうではないですか。人と親しく交わっていく時に、その人の気持ちや思いが言わなくても分かってきます。そのような関係が出来てくるのです。私たちはそこまでイエス様のことを深く知っていきたいと思うのです。

 

韓国のアン・リスクさんという人が書いた「たとえそうでなくても」という本があります。著者のアン・リスクさんは日本が韓国で神社参拝を強制した時に、それを拒否し信仰を貫いたために、日本の牢獄に入れられました。その牢獄の中に日本語を話せない満州人の女性がいました。ご主人殺しで捕まったようですが、後ろ手に縛られて食べるのも犬食い。下の物も垂れ流しです。アン・リスクさん自身も本当に辛い苦しいところを通っているのは事実です。しかし彼女の部屋は天国の出張所とも言われていました。というのは彼女の部屋に来る人が皆変わってしまうからです。アン・リスクさんの影響で、怖い顔が穏やかな表情に変わっていくのです。

そんな中でアン・リスクさんはイエス様がここに来られたらだれの所にいくであろうと考えました。当然自分は一番神様を愛しているし、神様に従っているから自分の所に来るかなと思いましたが、直ぐにそうじゃないと気づかされました。それじゃどうされるかと言えばと、あの満州の女性の所に行くのではないかと気づかされたのです。この人こそが一番可哀想な人。イエス様は必ずその人の所に行くと思った時に、自分が今成すべきことは、この人に愛を与えることだと気づかされました。看守達もアン・リスクさんの人格に感動していましたから、かなり彼女の言うことを聞いてくれるようになっていました。それで彼女は看取にあの人を自分の部屋に連れて来て下さいと頼みました。それで連れて来てもらいましたが、その途端から目が痛くて仕方がないのです。アンモニア臭がすごかったからです。彼女はその時から満州語で「私はあなたを愛しています。」と言い続けました。それも本音を言うとそんなには愛していなかったのだけれども、内に来てくれている聖霊様は愛してくれているはずだからと、そのことを言っていたのですが、その内に「あなたを愛しています。」と言う度毎にアン・リスクさんの目から涙が落ちます。そして彼女のことを本当に想い始めて遂にはその人のために、1日1食しか出てこない食事を断食してその人に与えました。3日、4日経っても「ありがとう」も何もない。当たり前のように食べている。しかし5日目、6日目になってきて始めて何故この人が自分にこんなことをするのだろうかと、変わり始めて彼女もまた捉えられていきました。

本当にイエス様の心を知るからこそ、アン・リスクさんはそのように出来たのです。私たちも本当にイエス様の心を知っていくなら、喜んで犠牲を払ったり、人に仕えたりしていくことが出来るのではないでしょうか。これが信仰生活の鍵です。どれほどイエス様を知っておられるかということです。あなたはどうでしょう。どれほど知っておられるでしょうか。私たちもそのように主を知っていく者となっていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.良い牧者は一つの群れ、一人の牧者となる(16-18)

 

第三のことは、良い牧者は、一つの群れ、一人の牧者となるということです。16節から18節までをご覧ください。

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」」

 

「この囲いに属さないほかの羊たち」とは、神の選民であるユダヤ人とは区別された異邦人クリスチャンのことです。イエス様は、それらも導かなければなりません、と言われました。それらも導いて、一つの群れ、一人の牧者となるのです。どういうことでしょうか。イエス様はユダヤ人だけでなく、異邦人をも救いに導き、一つの群れ、一つの牧者となられるというのです。それが、イエス・キリストを頭とするキリストのからだ、教会のことです。どのようにして一つの群れとするのでしょうか。それはイエス様が十字架にかかって死なれることによってです。イエス様はただ単に選民であるユダヤ人を救うためにこの世に来られたのではなく、「この囲いに属さないほかの人たち」、すなわち、異邦人をも救うために来られたのです。そして、それらの人々を一つの群れにするためでした。教会とはまさに、イスラエル人の信者と異邦人の信者が、キリストをかしらとする「新しい一人の人」とされたものなのです。

 

このことについてパウロは、エペソ2章14~16節で次のように言っています。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、

ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)

 

イエス様がここで「一つの群れ、一人の牧者となる」と言われたのは、このことだったのです。ユダヤ人信者と異邦人の信者によって造り上げられる新しい一人の人です。それがキリストの教会です。それは、キリストの十字架によって成し遂げられました。十字架こそ敵意を打ち砕き、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄し、二つのものを一つにすることを実現してくださるものでした。この十字架によって、私たちは一つになることができるのです。そして一つになることが主のみこころだということがわかると、私たちもまた様々な偏見や憎しみを捨てて、お互いに愛し合い、一つとなるために務め励むことができるのではないでしょうか。

 

教会では先月からイングリッシュ、ワーシップが行われていますが、これはすばらしいことだと思います。なぜなら、様々な国の人たちが一つの所に集まり、言葉の違い、文化の違い、習慣の違いを乗り越えて、イエス・キリストにあって一つになろうとすることだからです。そのために、イエス様が十字架で死んでくださいました。キリストの十字架によってすべての敵意が廃棄されました。キリストの十字架によって私たちは一つとされ、互いに愛し合い、互いに仕え合うことができるようになったのです。ハレルヤ!これがイエス様のみこころです。今、韓国との関係が最悪だと言われています。中国との関係も微妙です。アメリカとの関係も貿易の問題があります。でも、私たちはキリストにあって一つになることができるのです。すばらしいですね。ここに本当の平和があります。本当の平和は政治的にはもたらされるものではありません。経済によっても無理です。ただイエス・キリストによってのみもたらされます。イエス様が十字架にかかって流されたその血によって、すべての敵意が取り除かれたので、私たちは一つになることができるのです。これが本当の平和です。イエス様はそのために来てくださいました。それは、決して教理を無視し、ただ一つになれば良いということではありません。イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、聖書に啓示されてあるキリストのみこころに従って一つになるということです。聖書の御言葉に堅く立ち、御霊による一致を求めることです。そうした御言葉に立っている人たちと一致協力し、世界宣教に励まなければなりません。

 

あなたは、イエス・キリストの十字架によって神と和解しましたか。そして、兄弟姉妹との間に、またあらゆる人との間に平和がもたらされたでしょうか。どうかイエス様を信じてください。イエス様は良い牧者です。良い牧者は私たち羊のためにいのちを捨ててくださいました。また、良い牧者は、羊である私たちのことをよく知っておられます。そして、良い牧者は、さまざまな破れ口に立って、その関係を修復してくださいます。良い牧者であられるイエス様は、いつもあなたを緑の牧場へと導き、いこいの水のほとりに伴ってくださいます。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れることはありません。主がともにおられますから。」この方によって導かれる人生はどんなに幸いでしょう。この方を信じ、この方にすべてをゆだね、この方に全く信頼しましょう。イエス様は必ずあなたを救ってくださいますから。なぜなら、イエス様は良い牧者であられるからです。

Ⅰサムエル3章

サムエル記第一3章から学びます。

 

Ⅰ.イスラエルの霊的状態(1-3)

 

まず、1~3節までをご覧ください。

「さて、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていた。」

 

少年サムエルはエリのもとで主に仕えていました。これはエリの二人の息子との対比として描かれています。2章で見たように、エリの二人の息子ホフニとピネハスはよこしまな者たちで、主を知りませんでした。そのために彼らは、人々が主に和解のいけにえをささげるためにやって来ると、まだ煮ていない肉を奪ったり、会見の天幕の入口で仕えていた女たちと寝るというようなことをしていたのです。そんな彼らに神のさばきが語られました。神の人がエリのところに来て、彼の家の者たちが祭司職から除かれ、長生きすることができなくなると預言しました。そのしるしは何か、それは、彼の息子ホフニとピネハスが死ぬということです。この後、それが実際に成就します。

 

一方、サムエルはというと、まだ幼い少年でしたが、主の前に仕えていました。その特徴は何でしょうか。3節にあるように、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていたということです。3:18には、彼は亜麻布のエポデを身にまとっていたとあります。彼は自分が祭司であるという自覚をしっかりと持っていたのです。そのような主のしもべサムエルに、主はご自身の言葉を語り、イスラエルの民の間に眠っていた霊的眼を開かせようとします。

 

「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」これが当時のイスラエルの霊的状態でした。主が語られるということがほとんどありませんでした。なぜでしょうか。この時代は、モーセとヨシュアの時代が終わり、イスラエルがカナンの地に入ってからしばらく経っていました。人々はそれぞれ自分の目に良いと思われることを行い、主を求めることがありませんでした。それが士師記の時代です。その結果、敵に侵略されては主を求め、そのたびに主はさばきつかさ(士師)たちを遣わすのですが、それで少しでも状態が良くなるとまた自分の目に正しいことを行うということを繰り返していたのです。ですから、主のことばはまれにしかなく、幻も示されていませんでした。

 

エリを見てください。大祭司エリの目もかすんできて、見えなくなっていました。これは彼の肉眼が見えなくなっていたというだけでなく、霊的な眼がかすんでいたことも表しています。彼は霊的洞察力をなくし、自分の息子たちの暴走も止めることができなくなっていました。イスラエルの霊的状態は、「神のともしびが消される前」、つまり、風前のともしびのような状態でした。「神のともしびが消される前」とは、神の宮にあった燭台の火がかろうじて燃え続けていたことを表しています。イスラエルには、それでもまだ真の信仰者が残されていました。その一人がサムエルです。サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていました。これはサムエルが主のしもべとして主に仕えていたこと、そして、彼が預言者の時代を招き入れ、イスラエルに霊的なともしびを燃え立たせる器であるということを表しています。

 

これは現代の日本の霊的状態にも言えることです。それがどんなに暗くあろうとも、絶望する必要はありません。神はサムエルのような信仰者を起こし、神のみことばを通して、霊的ともしびが燃え立たせる日が必ずやってくるからです。私たちの使命は、それがどんなに小さなともしびであろうとも、その日が来るまで、それを灯し続けることなのです。

 

Ⅱ.主に召されたサムエル(4-14)

 

次に4節から7節までをご覧ください。

「主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。」

 

サムエルは、まだ主を知らなかったので、主のことばを聞き分けることができませんでした。彼は、主の宮で祭司エリの内弟子として仕えていました。その彼に、主からの呼びかけがありましたが主の声なのか、人間の声なのか聞き分けることができなかったのです。サムエルはエリのために忠実に働き、主の幕屋に仕えていましたが、それが同時に、彼が主のことを知っていたということではなかったのです。主と個人的な関係は、主の呼びかけを自分が聞き取ることから始まります。ただ神について聞くというだけでなく、神からの語りかけを自分に対する語りかけとして受け止め、それに応答することによって、そこに神との生きた、人格的で、個人的な関係を持つことができます。それが主を知るということです。それがなければ、子どもであっても、大人であっても、どんなに教会生活を送っていたとしても、主を知ることはできません。ですから、サムエルはまだ主を知らなかったのですが、その素地が整っていました。それは祭司エリの言うことにきちんと従っていたことです。神によって立てられた権威に従うことによって、幼子は神を知ることができるようになります。特に子にとっては、両親の言うことに聞き従うことが、とても重要です。

 

8節から14節までをご覧ください。

「主は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。主はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」」

 

主が三度サムエルを呼ばれると、彼は前と同じようにエリのところへ行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言うと、エリは、これはどうもおかしいぞ、これは、主が彼を呼んでおられるに違いないと思いました。それでエリはサムエルに言いました。「行って寝なさい。そして、今度主がおまえを呼ばれたら、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と言うように、と言いました。

 

すると、主が再び彼のもとに来られ、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれたので、サムエルは、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と言いました。これは、「あなたが言われることは、何でも聞きます」という姿勢に他なりません。つまり、自分が聞きたいことと、聞きたくないことを選り分けるというのではなく、主が言われることならば何でも聞いて従います、ということです。これが、サムエルが召された時の応答でした。これは小さな応答でしたが、サムエルという信仰の偉人も、この小さな応答から主のしもべとしての生涯を歩み始めたのです。あなたはどうですか。主があなたの名を呼ばれるとき、どのように応答されるでしょうか。サムエルのように、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という応答して、小さな一歩を歩み始めようではありませんか。

 

すると主はご自身のみこころをサムエルに伝えました。それは11節から14節にあるように、息子たちの罪と、親としてそれを放置した罪のために、エリの家は必ず裁かれ、その咎を償うことはできない、ということでした。11節の、「だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る」というのは、これがあまりにも衝撃的で、耳にこだまして残る、という意味です。それが非常に厳しい内容であったことを示しています。主はあわれみ深く、忍耐深い方ですが、その忍耐を軽んじてはなりません。時が来れば確実に裁かれることになります。ですから、その前に悔い改めて、神に立ち帰らなければなりません。

 

Ⅲ.預言者サムエル(15-21)

 

最後に15節から21節まで見て終わりたいと思います。

「サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。主は再びシロで現れた。主はシロで主のことばによって、サムエルにご自分を現されたのである。」

 

翌朝、少年サムエルは何もなかったような顔をして、いつものように主の宮の扉を開けていました。彼は、主から受けた預言のことばをエリに知らせるのを恐れていたのです。しかし、エリは何としてもそのことばを聞きたいと思ってこう言いました。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」(17)すごいですね、彼は神罰にかけてすべてを話すようにと迫ったのです。それでサムエルは、主から聞いたことを何も隠さずにすべて、エリに伝えました。

 

するとエリはどのように反応したでしょうか。エリはこう言いました。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」彼は、それを信仰によって受け止めました。彼はまず、「その方は主だ」と、主の権威を認めています。そして「主が御目にかなうことをなさるように。」と、その知らせをそのまま受け入れ、すべてを主の御手にゆだねたのです。

 

一方、サムエルは成長しました。主が彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはありませんでした。これは、サムエルが主にあって、肉体的にも霊的にも成長したということです。主がともにおられること、これが信仰者にとって最も重要なポイントです。そして、彼が語ることばは一つも地に落ちることがなかったというのは、彼の預言がすべて成就したということです。これは彼が真の預言者であったということのしるしです。申命記18:22には、真の預言者のしるしは、その語った預言が成就したということでした。主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは偽預言者です。

 

やがて全イスラエルが、彼が主の預言者として立てられたということを知るようになります。ダンからベエル・シェバに至るまでとは、イスラエルの北の端から南の端まで、すなわちイスラエル全体がという意味です。

 

主は再びシロでサムエルに現れました。主はシロでご自身のことばによってサムエルに現れたのです。そのころは、主のことばはまれにしかなく、幻も示されていませんでしたが、ここに、その回復が見られます。主はサムエルというひとりの預言者を立て、彼を通してご自身のことばを語り、ご自身を現してくださったのです。本格的な預言者の時代の到来です。サムエルは幼い頃から主の声を聞くことを学んでいましたが、主の声は聞けば聞くほどより鮮明に聞こえてきます。ですから、幼子たちの霊的訓練を怠ってはなりません。それは大人であっても同様です。大人であっても、救いに導かれた霊的幼子たちに対して、みことばによる訓練を怠ってはなりません。そして、主の声を聞く訓練というものを自らに課すことによって、霊的成熟を求めていく者でありたいと思います。

ヨハネの福音書10章1~10節 「わたしは門です」

きょうから10章に入ります。きょうは「わたしは門です」というタイトルでお話ししたいと思います。イエス様は、ご自身のことを「わたしは門です」と言われました。これはどういうことでしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.わたしは門です(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。イエス様がその門です。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。」

 

きょうの箇所は9章からの続きです。9章には、生まれながら目の見えなかった人が、イエス様によって見えるようになったことが記されてあります。しかし、それが安息日であったことからパリサイ人と論争になりました。41節には、「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える。」と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」』とあります。パリサイ人たちは、イエス様のことばを正しく受けとめることが出来ませんでした。きょうの箇所は、そのパリサイ人たちの教えや考え方に注意するために、イエス様が語られたことです。

 

イエス様はここで、「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。」と言われました。

イエス様が「まことに、まことに」と言われる時は、重要な真理を語られる時です。「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者」とは、先ほども申し上げたように、これは9章の続きですから、パリサイ人たちのことを指していることは明らかです。

 

パレスチナでは、羊たちの囲いがありました。それは石などを積み上げた高い塀で囲まれており、夜になると羊飼いは羊たちをその囲いの中に入れました。野獣などから守るためです。その囲いには門があって、そこでは門番が門の戸の開け閉めをしました。しかし、彼らはこの門から入らないでほかのところを乗り越えて入り込み、羊たちを奪っていく者たちがいました。具体的にそれがどういうことかというと、7節に「わたしは羊たちの門です」とあるように、また、9節にも「わたしは門です」とあるように、イエス様を通らないでこの囲いの中に入ろうとする者たちのことです。これは、9章でイエス様に食ってかかったパリサイ人たちのことを指しています。彼らはイエス様を受け入れることができませんでした。安息日に盲人の目を癒すような者が、どうして神から遣わされた者だと言えるのか、そんなはずがないと言って、目が開かれた人を会堂から追い出してしまいました。彼らは門から入って来たのではなく、ほかのところを乗り越えて入って来たのです。彼らはイエス様を信じることができませんでした。イエス様こそ、旧約聖書の預言の通りに来られた方であり、恵みとまことによって羊たちを導かれる方なのに、そのイエス様を受け入れることができなかったのです。彼らはモーセの律法ではなく、先祖たちの言い伝えがまとめられた別の律法(ミシュナー)を振りかざしては、神の民である羊たちの囲いの中に入り込んでいました。それは門ではないほかのところから乗り越える行為でした。イエス様はそんな彼らのことを、「盗人であり強盗です」と言われたのです。

 

ちょうどこのメッセージを書いている時、同盟からメールが届き、クオンパという韓国系の異端が日本で活動しているので、警戒してくださいという連絡がありました。「クオンパ」という団体がどういう団体なのか詳しくはわかりませんが、「クオンパ」というのは日本語で「救援」という意味だそうですが、この救援(クオンパ)派のパク・オクス(朴玉洙)という人が主導している団体で、クリスチャン・リーダーズ・フォーラムという集会の案内(国立オリンピックセンターでの開催)を各教会に送っているとのことでした。韓国の主要教団ではすでに異端であると決議された団体です。日本ではグッドニュース宣教会・東京恩恵教会という団体になりましているそうですが、ちょっと聞いただけではキリスト教会と同じ団体のように思ってしまいます。しかし、これらは羊のなりをした狼であって、巧妙な手口で羊たちの囲いの中に入り、羊たちを奪っていくのです。その最大の特徴は何かというと、羊たちの囲いに、門から入らないで、ほかのところを乗り越えて来ることです。キリストという門から入らないのです。

 

イエス様は、世の終わりには、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:5)と言われましたが、まさに世の終わりが近づいているということの兆候なのでしょう。その特徴は何かというと、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすことです。彼らはそのように言うものの羊の囲いの門から入るのではなく、ほかのところから乗り越えて入ってきます。しかし、門から入るのが羊たちの牧者です。私たちはそうした者に惑わされることがないように、その人がどこから入って来たのかをよく見極めなければなりません。

 

Ⅱ.羊たちはその声を聞き分ける(3-5)

 

では、どのようにしてそれを見分けることができるのでしょうか。それは「声」です。3節から5節までをご覧ください。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

 

ここには、羊たちがどのようにして自分たちの牧者を見極めることができるのかが教えられています。それはその声です。門番が牧舎のために門を開くと、羊たちはその声を聞き分けます。羊たちはその声を知っているので、牧者のあとについて行きますが、ほかの人にはついて行きません。かえって逃げ出してしまいます。なぜなら、ほかの人たちの声は知らないからです。つまり、その声によって聞き分けるのです。

 

私は羊を飼ったことがありませんが、犬を飼ったことがあります。犬を飼っていたとき本当に不思議だなぁと思ったのは、犬は飼い主に忠実であることと、飼い主の声をよく知っていることです。真っ暗な闇の中でだれかが家の玄関に近づこうものなら「ワン、ワン」と激しく鳴きますが、私が近づくとすぐに泣き止みます。そして、私の姿を見ただけで尻尾を振って喜ぶのです。

ある時、声だけで私のことがわかるかどうか実験したことがあります。近くで物音を立てますが、姿を見せないで声だけ出すのです。やっぱりわかるのです。私の声がいい声だからではありません。かすれたような声でも私の声をすぐに聞き分けることができました。羊も同じです。たとえ姿が見えなくても、声を聞けばわかります。彼らは聞き分けることができるのです。

 

これは神の民であるクリスチャンにも言えることです。世の人々には不思議に思われるかもしれませんが、クリスチャンは霊的な直観力を持っているのです。それによって真の教えか偽りの教えかを識別することができます。彼らは健全でない教えを聞くと「これは間違っている」という内なる声を聞き、真理が語られる時には「これは正しい」という声を聞くのです。この世の人たちは、それぞれの牧師の説教にどのような違いがあるのかなんてさっぱりわかりませんが、クリスチャンにはその違いがわかるのです。何が違うのか、どのように違うのかを説明することができなくても、「あっ、ちょっと違う」と感じるのです。なぜそのように感じるのでしょうか。それは、クリスチャンには聖霊なる神が住んでおられるからです。

 

Ⅰヨハネ2章20節を開いてください。ここには、「あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。」とあります。「聖なる方からの注ぎの油」とは、聖霊のことです。クリスチャンにはこの聖霊の内住があるので、だれでも判別することができます。どんなに愚かな羊のようであっても、クリスチャンであるならこの聖なる油が注がれているのでわかるのです。ですから、偽りの牧者の影響から守られるように祈らなければなりません。苦みと甘みの区別ができなくなっているとしたら、それは健康を損なっていることの一つの兆候だと言えます。それと同様に、それが律法なのか、それとも福音なのか、それが真理なのか、それとも偽りなのか、それがキリストの教えなのか、それとも人の教えなのかを識別できないとしたら、それは霊的な健康を損なっているしるしであって、救いについて真剣に吟味する必要があります。もし救われているなら、その人には聖なる方からのそそぎの油があるので、それを聞き分けることができるはずだからです。

 

ところで、3節には、牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出すとあります。羊にはそれぞれ名前があるんです。太郎とか、花子とか、一郎とか、洋子とか・・。そして、羊飼いはその一匹、一匹の羊の名前を覚えているのです。忘れてしまったとか、思い出せないということはありません。一匹、一匹の名前を覚えていて、その名前を呼んで外に連れ出すのです。名前を呼ぶというのは、単に名前を呼ぶということだけでなく、その羊のことをよく知っているということでもあります。そうでしょ、「ええと、あなたの名前は何でしたっけ。思い出せない」というのは、その人のことをあまりよく知らないということです。だれも自分の夫の名前、妻の名前を忘れません。奥さんに向かって、「あなたの名前は何でしたっけ」というなら、特別な事情がない限り、そこには何の関係もないことがわかります。ということは、名前を呼ぶというのは、その人の性格や、長所や短所、喜びや悲しみといったことも含めて、よく知っているということなのです。

 

イザヤ書43:1には、「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とあります。主はあなたの名前を呼ばれるのです。

私が数えたわけではありませんが、名、名前という単語は新約聖書に151回、旧約聖書には428回も出てくるそうです。聖書の世界において名前がとても重要なものであることがわかります。それは、名前というのは、その人の存在、個性、人格などと結び付いているからです。適当にほかの名に変えることはできません。

 

ですから、牧者がそれぞれの羊たちの名前を呼ばれるというのは、かけがえのない存在として呼びかけられるということなのです。名を呼んで、誰でもよいから返事をしろというのではなく、ほかの誰でもない、あなたを呼んでいるということなのです。イエス様はその羊の性質、長所、弱点といったすべてをご存知であられます。人には言えないようなことでも、イエス様はすべてをご存知なのです。その上で、決して私たちを見捨てることなく、祝福の野に連れ出されます。イエス様はあなたの名も呼んでおられます。ですから、その方の声を聞きイエス様ついて行ってほしいと思います。

 

ザアカイは、自分の名を呼ばれてイエス様について行きました。彼は当時の社会で嫌われていました。というのは、神の民であるユダヤ人から税金を取り立てて異邦人であるローマに納める取税人であったからです。そんなザアカイのいるエリコの町にある日イエス様がやって来られるというので彼は見に行きますが、群衆が彼をさえぎったためイエスの姿を見ることができませんでした。そこで彼はいちじく桑の木によじ登ります。すると、そこを通りかかったイエス様は、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)

いったいどうしてイエス様はザアカイの名前を知っていたのかわかりません。もしかしたら、ザアカイのことを誰かから聞いていたのかもしれません。でもこのことはザアカイにとって予想外の大きな出来事でした。彼はイエス様を自分の家に招くと、悔い改め、自分の財産の半分を貧しい人に施し、だれかからおどし取った物があれば、四倍にして返すと言いました。するとイエス様はこう言われました。

「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を探して救うために来たのです。」(ルカ19:9-10)

イエス様はザアカイだけではありません。あなたも探しておられます。あなたを探して救おうとしておられます。イエス様はあなたの名も呼んでおられるのです。

あなたはこの方の声を知っていますか。あなたの名前を呼んでくださる主イエス様の声を聞いて、この方について行ってください。

 

Ⅲ.わたしを通って入るなら救われます(6-10)

 

第三のことは、その結果です。この門から入るならいのちを得、それを豊かに持ちます。6節から10節までをご覧ください。

「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

 

イエス様はご自分が羊たちの牧者であり、自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出すと言われましたが、パリサイ人たちは、イエス様が何のことを言っているのかさっぱり分からなかったので、イエス様は再び彼らに言われました。それは、イエス様が羊の門であり、だれでも、イエス様を通って入るなら、救われるということです。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。けれども、盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。イエス様が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。つまり、イエス・キリストが救いに至る門であるということです。それ以外に道はありません。

 

イエス様はそのことを山上の説教でこう言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

またこの福音書の少し後でも、このように教えておられます。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

つまり、イエス・キリスト以外に救われる道はないということです。特にここでは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」と、それ以外の所からは救いに入ることのできないことを明言されました。

 

このようなことを聞くと、排他性を嫌う日本人は、そんなことはないと、宗教についても、一休さんが作ったとされる次の歌を引き合いに、協調性、受容することの大切さを主張します。

「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」

これは、真理は一つであっても、そこに至る道はいろいろあってよい。どの道から入ったとしても、それはその人の自由であって、要は究極の真理に到達することである、という意味です。

 

以前、福島にいた時、立正佼成会という仏教系の新興宗教の団体から招かれてお話ししたことがありました。その団体では、毎月1の付く日は他宗教から学ぼうということで、キリスト教からも学びたいのでぜひ来てお話ししていただけないかとお招きを受けたのです。畳敷きの広いスペースに300人くらいの方々が座っていました。みんな優しそうなお顔で、にニコニコして聞いてくださいました。当時私も33歳と若かったので、「自分の息子みたいな年の牧師さんが来てくれた」と喜んでいるようでした。私は何をお話ししようか悩みましたが、折角キリスト教の話を聞きたいというのだから、キリスト以外に救いはないという話をしたのです。そして、お話しの終わりに聖霊によって「祈りなさい」と促されたので、祈ることにしました。「皆さん、どうでしたか。キリスト教のことが少しでもわかってもらえたらうれしいですが、皆さんの祝福をお祈りさせていただいてもよろしいでしょうか」と言うと、皆さん「うん、うん」と首を縦に振るのです。「じゃ祈ります」と祈りました。そして、お祈りの中で、「どうでしょうか、皆さんの中できょうのお話しを聞いて、イエス様もいいな、イエス様を信じたいという方がおられますか、おられるなら、手をあげて教えてもらえますか」と言うと、3人くらいの方が手を上げたのです。それじゃ、その方のためにお祈りします」と祈ったとたん、そこの堂会長と言われる方がすかさず私のところに来て、皆さんにこう言われたのです。

「皆さん、とってもいい話でしたね。それぞれがそれぞれの宗教に従って歩むとは大事なことですよ。でもね、結局、みんな同じところに行くんですよ。ほら、こういう歌があるでしょ」と、この歌を歌われたのです。

その後で別室に招かれまして、この堂会長さんと昼食をいただきましたが、まさに日本の社会、精神風土は、排他性というものを極端に避ける文化なんだなぁということを痛感させられました。

 

しかし、ここでイエス様が言っておられることはそういうことではありません。イエス様は「わたしは羊の門です」とはっきり宣言されました。これはヨハネの福音書の中に7回出てくる「わたしは・・です」(エゴー・エイミー)というイエスの神性宣言の一つです。何が羊の門ですか?わたし様が羊の門です。それ以外に門はありません。イエス様が羊の門であって、イエス様を通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけることができます。これはどういうことかというと、この門から入るならたましいの救いが与えられるというだけでなく、そのたましいが満たされることを経験するということです。これが、イエス様がこの世に来られた目的です。つまり、イエス様が来られたのは、羊たちがいのちを得て、それを豊かに持つためです。ですから、私たちがこの門から入るなら、私たちはキリストの救いの中に入れていただくことができるだけでなく、真の意味で生き生きとした人生を送ることができるのです。すでにいのちを持っている人には、さらに豊かにいのちを与えていただけるのです。これは、キリスト抜きでは絶対に考えられないことです。

 

イエス様は私たちの人生に最高の生き方を与えてくださいます。それが、聖書が教えている救いであり、豊かないのちを持つことです。そのためには、キリストという門から入らなければなりません。門はいくつかあるかもしれません。また道もたくさんあるように見えるでしょう。しかし天国への門は一つしかありません。それは私たちのために天から下って来られ、いのちを捨ててくださったイエス・キリストだけです。この門を間違えてはなりません。

 

キリストという門を通ることなしに、本当のいのちはありません。キリストこそ、私たちが通らなければならない門です。あなたはこの門を通りましたか。まだ外側からただ眺めているだけということはないでしょうか。あるいは、キリスト以外のものに心が向いているということはないでしょうか。「豊かないのち」とは、単に物質的な豊かさを指しているのではなく、霊的な喜びも含めた全人的な祝福のことです。その祝福を実感しているでしょうか。もしそうでないとしたら、もしかしたら、この世のほかのものに魅力を感じているということがあるのかもしれません。キリストが門です。キリスト以外の門を通って出入りしてはいないかを点検し、キリストのことばがいつも私たちの心を支配するようにしましょう。そして、イエス様がくださる豊かないのちを体験させていただきたいと思います。

出エジプト記13章

きょうは、出エジプト記13章から学びます。

 

Ⅰ.わたしのために聖別せよ(1-10)

 

まず1節から10節までを見ていきましょう。イスラエルをエジプトの地から導き出された時、主は

モーセにこのように告げられました。2節、「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、

人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」(2)つまり、初子と

いう初子は、人であれ家畜であれ、主に聖別するようにということです。聖別するとは、主のため

にささげるという意味です。それは世俗的な目的のためではなく、ただ神のためだけに用いられま

す。なぜなら、それは神のものだからです。出エジプトの夜、神がイスラエルの初子を死から救い

出されました。彼らは、鴨居と二本の門柱に塗られた子羊の血によって贖い出されたのです。です

から、それは神のものであって、神のために聖別されなければならないのです。

 

それは、私たちも同じです。パウロは、コリント第一6:19-20で、こう言っています。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」私たちは、小羊の血によって買い取られました。それゆえに、私たちは神のものであり、神のために自分をささげなければならないのです。

 

3節から10節までをご覧ください。「モーセは民に言った。「奴隷の家、エジプトから出て来た、この日を覚えていなさい。力強い御手で、主があなたがたをそこから導き出されたからである。種入りのパンを食べてはならない。アビブの月のこの日、あなたがたは出発する。主は、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の地、主があなたに与えると父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地にあなたを連れて行かれる。そのときあなたは、この月に、この儀式を執り行いなさい。

13:6 七日間、あなたは種なしパンを食べる。七日目は主への祭りである。七日間、種なしパンを食べなさい。あなたのところに、種入りのパンがあってはならない。あなたの土地のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』これをあなたの手の上のしるしとし、あなたの額の上の記念として、主のおしえがあなたの口にあるようにしなさい。力強い御手で、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、この掟を毎年その定められた時に守らなければならない。」

 

モーセは、イスラエルが約束の地に入った後で守らなければならないことを命じています。それは、過越しの祭りと種なしパンの祭りです。「この日」とは、イスラエルがエジプトを出た日のことです。この日、主が力強い御手で、彼らをエジプトから導き出されました。このことを覚えるために、過越しの祭りと種なしパンの祭りを行わなければならないのです。七日間種なしパンを食べなければなりません。この祭りの期間中は、パン種があってはなりませんでした。そして、この祭りの意味を、子供たちに教えなければなりませんでした。さらに、これを手の上のしるし、額の上のしるしとしなければなりません。それは、主の教えが彼らの口にあるためであり、主が力強い御手で、彼らをエジプトから導き出されたからです。ユダヤ人はこれを文字通り解釈し、皮ひもに小箱がついたものを腕と頭に巻きつけました。腕につけるものは「テフィリーン・シェル・ヤード」と言い、箱の中には羊皮紙の巻物が一つ入っていました。もう一つのものは「テフィリーン・シェル・ローシュ」は額につけました。その箱の中は四つに仕切られ、仕切られたそれぞれの中には四つの聖書のことばが記された羊皮紙が入っていました。ちなみに、その箇所は出エジプト記13:1-10,11-16,申命記6:4-9,11:13-21です。ユダヤ人たちは、週日の朝の祈祷の時にこれをつけて祈りました。安息日や祭礼にはつけませんでした。それは安息日や祭礼そのものが、彼らにとって神とイスラエルの契約の「しるし」だったからです。

しかし、このようなことは現代の教会で行っている洗足式と同様に形骸化しやすいものです。事実、イエス様の時代、彼らはそれを人々に見せびらかすために行っていたので、イエス様はそれを見て、「経札の幅を広くしたりする」と指摘されました(マタイ23:5)。大切なことはその精神であって、このような形式にとらわれる必要はありません。最初は良いものでも、いつしか見せかけのものになってしまうことがあります。私たちは、神がこの私のために何をしてくださったのか、こんなにも大きな救いを与えてくださったことを絶えず心に留めることが大切なのです。

 

Ⅱ.初子の聖別(11-16)

 

次に11節から13節までをご覧ください。 「主が、あなたとあなたの父祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあ

なたに与えられるとき、最初に胎を開くものはみな、主のものとして献げなければならない。家畜から生まれ、あなたのものとなるすべての初子のうち、雄は主のものである。ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、首を折らなければならない。また、あなたの子どもたちのうち、男子の初子はみな、贖わなければならない。」

 

イスラエル人が約束の地、カナン人の地に導かれた時、最初に胎を開くものはみな、それが人

であれ、あるいは家畜であれ、主のものとして献げなければなりません。なぜなら、それは主のも

のだからです。主のものとしてささげるというのは、それをほふるということです。家畜の場合はそ

れができますが、ある特定の動物や人の場合はそれができません。そのような時はどうすれば良

いのでしょうか。

ここにはそのことが教えられています。13節を見ると、まずろばの初子はみな、羊で贖わければ

なりませんでした。なぜなら、ろばは汚れた動物とされていたからです。汚れた動物の初子はほふ

ることができません。それは羊で贖われなければなければならなかったのです。もし贖わない場合

は、その首を折らなければなりませんでした。ここにはろばのことしか書かれていませんが、それ

はろばが汚れた動物の代表として書かれているからです。おそらく、頭数が最も多かったのでしょ

う。その他に、馬、らくだなどもいました。

人の場合は、男子の初子はみな、贖われなければなりませんでした。贖いの代価は、民数記

18:6によると、5シェケルでした。1シェケルは3日分の賃金に相当すると言われていますから、5

シェケルは15日分の賃金に相当することになります。仮に1日5千円だとすると、現代の値で7

万5千円くらいになるかと思います。それを代価としてささげなければならなかったのです。

 

いったいなぜこのようなことをしなければならないのでしょうか。その目的が14節から16節まで

にあります。すなわち、「後になって、あなたの息子があなたに『これは、どういうことですか』と尋

ねるときは、こう言いなさい。『主が力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから導き出

された。ファラオが頑なになって、私たちを解放しなかったとき、主はエジプトの地の長子をみな、

人の長子から家畜の初子に至るまで殺された。それゆえ私は、最初に胎を開く雄をみな、いけに

えとして主に献げ、私の子どもたちの長子をみな贖うのだ。』このことは手の上のしるしとなり、あ

なたの額の上の記章となる。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから導き出された

からである。」

つまり、子孫に出エジプトの出来事を伝えるためでした。その内容は、出エジプトの際に、主は

エジプトの初子という初子を人から家畜に至るまで打たれたということ、それゆえに、イスラエル人はみな初子を贖うのだということです。このことは、手の上のしるし、額の上の記章となります。

 

このことからわかることは、新約の時代に生きる私たちクリスチャンも、主の圧倒的な力によっ

て罪の中から贖い出された者であるということ、そして、そのために神の子羊であられるイエス・キリストの血が流されたということです。それゆえに、私たちは主のものであり、自分のからだをもって主の栄光を現さなければなりません(Ⅰコリント6:20)。自分のからだはすでに買い取られたと認めるなら、私たちの生き方はどのように変わるでしょうか。それを、次の世代にも伝えていかなければなりません。

 

Ⅲ.荒野の道に(17-22)

 

最後に17節から22節までをご覧ください。17節と18節には、「さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。」とあります。

 

こうして、主は彼らをファラオのちころから去らせ、約束の地へと導かれるとき、彼らを近道であっても、ペリシテ人の地には導かれませんでした。なぜでしょうか?なぜなら、民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけないと考えられたからです。カナンの地に至る最短のコースは、ペリシテ人の地を北上することでした。そこを通れば、10日もあればカナンの地に到着することができます。しかし、その途中にはペリシテ人の都市国家が点在していました。エジプトから出たばかりのイスラエルにとって強大なペリシテ人に立ち向かうことは「死」を意味していました。それで主はどうされたかというと、最短コースではなく、より安全な道に導かれたのです。それは葦の海に向かう荒野の道を回るルートでした。それはただ単に強大なペリシテ人との戦いを避けるためだけではなく、その荒野の中で主が先頭に立って戦ってくださること、主が彼らを導いてくださるということを、彼らが学ぶためでもありました。

 

19節から22節を見てください。

「モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。彼らはスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営した。主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」

 

モーセは、ヨセフの遺骸を携えていました。これは、創世記50:24~25にあるヨセフとの約束を実行するためでした。ヨセフはエジプトで死にましたが、ミイラになった自分の遺骸がエジプトに残っているのをよしとしませんでした。彼は、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。」と確信したのです。それが今、現実のものとなりました。

 

彼らはスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営しました。昼は、雲の柱が、夜は、火の柱が、彼らの荒野の生活を導きました。これは、主の臨在、つまり、主が彼らとともにおられることを示しています。雲の柱は、彼らが進むべき道の案内役となり、砂漠の中で彼らを灼熱の太陽から守りました。また、夜は民を照らす火の柱となりました。ですから、昼も夜も主が彼らとともにおられたので、彼らが荒野の中にいても迷うことなく、進んでいくことができたのです。

 

クリスチャンの生活は、この荒野の生活から始まります。罪の世界から救い出され、自分のすべてを神にささげる決断をしたわけですが、神が約束されたものを手に入れるまで、荒野の中を進んでいかなければなりません。けれども、主が昼は雲の柱で、また夜は火の柱によってイスラエルを導かれたように、私たちを聖霊によって導いてくださり、また主ご自身のみことばによって導いてくだるので、私たちは何も恐れる必要がありません。22節には、「昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」とあります。主は、いつも私たちの前から離れることはないのです。イエス様は、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。私たちの人生にも、荒野を通る時があります。しかし、そこにも主がともにおられ、私たちを守り、導いてくださると信じて、主により頼みながら、この信仰の旅路を進んでいく者でありたいと思うのです。

ヨハネの福音書9章35~41節「見える人と見えない人」

きょうは9章の最後の箇所から、「見える人と見えない人」というタイトルでお話したいと思います。自分は見えると思っている人は見えない。見えない人と思っていた人が見えるようになるということです。皆さんの目は見えているでしょうか。

 

Ⅰ.探し出してくださる主イエス(35)

 

まず35節をご覧ください

「イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

 

生まれつき目の見えなかった人が、イエス様によって癒され、見えるようになった話が続いています。目が見えるようになった人は、「あの方が私の目を開けてくださったのです。あの方こそ、神が遣わされた方です」と言うと、ユダヤ人たちは彼を、会堂の外に追い出してしまいました。会堂から追い出されたとは、ユダヤ教から破門されたということです。それはユダヤ教の共同体からも追放されたことを意味していました。この世の中、本当に冷たいものだなぁと感じることがあります。人と人の心が通いません。みんなてんでばらばらです。ユダヤ人たちは威圧的であり、彼の言っていることが自分たちの意に添わないと、彼を社会から追放してしまいました。親も親で、そんなユダヤ人たちの顔色を伺っては逃げ腰になり、20,21節にあるように、「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えるようになったのかは知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」と言いました。知らない訳がないでしょう。自分の子供ですよ。生まれながら目が見えなかった息子のことで、これまで両親はどれほど悩み苦しんで来たことでしょう。その息子の目が見えるようになったのであれば、普通だったら手放しで喜ぶはずです。それなのに彼らは、「私は知りません。あれに聞いてください」と他人事のように言いました。本当にこの世の中薄情というか、冷たいですね。最終的にみんな自分がかわいいのです。自分に不利なことは言いたくありません。そんな中でも彼は、人が何と言っても最後まで真実を貫いた結果、そこから追い出されてしまったのです。彼はまさに孤立無援状態となり、窮地に陥りました。

 

しかし、そのような時です。彼がユダヤ人たちから追い出されたと聞くと、イエス様は、彼を見つけ出してこう言われました。「あなたは人の子を信じますか」。

 

 

どちらの方から近寄られたのでしょうか。イエス様の方からです。イエス様の方から彼に近づいてくださいました。イエス様は、「わたしは良い牧者です」(10:11)と言われましたが、まさに良い牧者のように、失われた小羊を探してくださる方なのです。私たちは助けを求めて神を呼び求めることがありますが、実に神は、ご自分の方から苦しんでいる私たちに近づいてくださるのです。

 

Ⅱ.主よ、信じます(36-38)

 

そんなイエス様のことばに彼はどのように応答したでしょうか。36~38節をご覧ください。36節には、「その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」」とあります。

「人の子」とはメシヤ、救い主のことです。人々が待ち望んできたメシヤ、救い主のことです。ですからそれは、「あなたはわたしを信じますか」と言うことと同じですが、イエス様は「わたし」と言わないで「人の子」と言われたので、彼は「その人はどなたですか」と答えたのです。

 

この問答を見ていると、まだるっこい感じがしないわけでもありません。というのは、イエス様がそこにいるのに、「その人はどなたですか」とか、「その人を信じることができるように教えてください」と言っているからです。でも、彼は今まで目が見えませんでした。声は聞いていたかもしれません。でも実際に見てはいませんでした。だから今、目の前にいる人がだれなのか分かりませんでした。自分の目を開いた人はイエスだということは知っていましたが、そのイエスがだれなのかは分からなかったのです。それで彼は「その人はどなたですか」と聞いたのです。

 

するとイエス様は彼に言われました。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(37)まさに「おったまげ」です。あなたの目の前にいて、あなたと話しているこのわたしが、その人だと言うのですから。

 

すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝しました。これはどういうことかというと、彼の心の目が開かれたということです。ユダヤ人が人間を礼拝することなど考えられないことです。しかし、彼は心の目が開かれたので、イエス様がどのような方なのかがはっきりわかりました。「あなたはその方を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」と聞いた時、それをそのまま受け入れることができたのです。これが信仰です。皆さんは信じるということを複雑に考えてはいないでしょうか。信じるというのは実に単純明快です。イエス様を信じるということは、イエス様が言われたことをそのまま受け入れることです。イエス様が、「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です」と言われたその言葉をそのまま受けること、これが信仰です。その時、あなたの目も開かれ、心からイエス様を礼拝することができるようになるのです。

 

ところで、彼の心の目が開かれるようになるまでのプロセスを見ると、それなりに時間がかかったことがわかります。すぐに信じることができたわけではありません。最初は、イエス様の一行が道を歩いていた時に、声をかけられました。そして、唾で作られた泥を塗られたかと思ったら、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われたのでそのとおりにすると、見えるようになりました。すると彼は、そのことについて、ユダヤ人の指導者やパリサイ人たちからそのことについて問いただされます。彼の両親までも引っ張り出されて、その議論に巻き込まれました。彼の両親は我が身に害が及ぶことを恐れてその問題から身をひいてしまいましたが、この男性はイエスというお方が自分を癒してくれたという事実を曲げませんでした。そして、そのような自らの思いを、勇気を持って告白したのです。25節です。

「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

17節では、パリサイ人たちの質問に対し、「あの方は預言者です」と答えましたが、次第に「神から出ておられる」方だと言うようになり(33)、そしてついて「主よ、信じます」と信仰の告白に至り、主を礼拝するようになりました。

 

それは私たちも同じです。私たちもまたイエス様を信じ、イエス様を礼拝するようになるまでにはそれなりに時間がかかったり、多くのプロセスを通ったりします。しかし、どんなに時間がかかっても、どんなプロセスを通ろうとも、この目が開かれた人のように「主よ、信じます」と告白し、イエス様を礼拝する者になりたいと思うのです。どうしたらそのようになることができるのでしょうか。

 

この人の場合、会堂から追い出されたことが大きかったと思います。そして、そんな孤立無援となった彼に主が近づかれ、親しく語りかけてくださったことで、主の愛と慰めに触れることができました。それは私たちも同じです。この世にどっぷりと浸かっているうちは、救いの必要性を感じません。ピンとこないのです。家庭における暖かさ、職場での自分の能力が思う存分発揮できているような時、また学校でも成績がよく、みんなからチヤホヤされているような時、それ自体はとてもうれしく感謝なことですが、その中にどっぷりと浸かっていたりすると、なかなかそこから出て来ようという思いが出て来ないのです。そうした環境が悪いというではありません。なかなか気づきにくいということです。そうした人間関係の暖かさや生きていく上での快適さが、本当のものを求めるのを邪魔することがあるのです。しかし、何かのはずみでそうしたところからはみ出てしまったとか、苦難をなめる経験をする時、初めて本当の慰めと救いを求めるようになるのです。

 

先日、ケンさんご夫妻がバプテスマを受けられました。ケンさんは子供さんの健康のことから那須に移住することを決め、数年前に東京から引っ越して来られました。東京に住んでいた時はIT関係の仕事に携わり、仕事はいくらでもあり、それなりに稼ぐことができましたが、那須に来てからは環境が全く変わりました。IT関係の仕事は少なく、給料は激減しました。そうした状況に置かれたとき、初めて自分が高慢であったことに気付かされました。それまでは別に高慢だとは思っていませんでした。しかし、こうした状況に置かれて初めて気が付いたのです。快適な状況に浸かっていた時には全く気付きませんでした。それで教会に来るようになり、そこで聖書のみことばに触れました。すると、初めて自分が高慢だったことに気付かされたのです。これと同じです。ですから、この人もそうですが、そこから追い出されるという経験は辛く、悲しいことですが、そのようになって初めて気付かされるという世界があるのです。そして、それが契機となってイエス様に引き寄せられていくということを思うとき、それはある面で幸いなことでもあるのです。

 

まさにイエス様が山上の垂訓、山上の説教で言われとおりです。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからで

す。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を

浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですか

ら。」(マタイ5:3-12)

 

あなたは、どうですか。心が貧しくされる経験をしておられるでしょうか。悲しんでおられますか。偽のために迫害されることがありますか。もしそのような中にあるなら幸いです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。その人は慰められます。そして、天において大きな報いを受けるようになるのです。イエス様はあなたがどのような中に置かれているのかをすべて知っておられます。そして、そんなあなたに近づいて、その心を真に慰めることがおできになるのです。人々があなたを見捨てるような時こそ、あなたが孤立無援の状態に置かれるときこそ、主が、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)と言ってくださる時でもあります。ですから、私たちが弱いと感じるとき、苦しみの中にもがきあえぐような中に置かれているとき、感謝しようではありませんか。なぜなら、私たちが弱い時にこそ、私たちは強いからです。

 

Ⅲ.見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる(39-41)

 

ですから、第三のことは、見える者が見えなくなり、見えない者が見えるようになるということです。39節から41節までをご覧ください。

「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」」

 

目が見えるようになった人が信仰を告白し、主を礼拝すると、イエス様はこう言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」どういうことでしょうか?

ここでイエス様は、「わたしはさばきのためにこの世に来ました。」と言っています。でも、3:17では「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言われました。一方には世を救うために来られとあり、もう一方にはさばくために来られたとあるのは矛盾しているのではないでしょうか。そうではありません。確かに、イエス様がこの世に来られたのは世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです。しかし、イエス様がこの世に来られた結果として、人々の間にふるいにかけられるようになるのです。それをここでは「世をさばく」と言っているのです。それが「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」ということです。

 

これはもちろん心の目、霊的目のことです。霊的に盲目であった人が開かれ、霊的な事柄がよく見えるようになるということであり、また、この世で何でも見えていると思っている人が、実は霊的事柄については何も見えないということがあるのです。まさに逆説的な真理です。痛烈な皮肉でもあります。というのは、40節にはパリサイ人の中のある人たちが、「私たちも盲目なのですか」と言うと、イエス様はこのように言われたからです。

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」

もしあなた方が盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったが、今「私たちは見える」と言っています。だから、あなたがたの罪は残るのです。つまり、彼らが自分たちは盲目であると自覚していたら、まだ罪は軽かったというのです。しかし、自分たちは見えると思っているのですから、罪が残るのです。なぜなら、そう思っている限り、悔い改めることがないからです。ほらっ、自分は見えるのですから、自分には罪などないと言っているのですから・・。

 

それは私たちにも言えることです。自分の罪深い姿というものを本当に分かっている人は、その罪からの救い主であられるイエス・キリスト以外に頼るべきお方はないということがよくわかりますが、自分はよく見えると思っている人は、自分の罪深さが分からないので、この世の中で自分が少しでも認められたり、立身出世をしたりすると、自分は偉い人間だと思い上がり、イエス・キリストを求めようとするよりも、自分で何でもできると思い込んでしまうのです。それが、イエス様があの山上の説教の中で語っておられたことだったのです。ここに逆説的な真理があります。自分が見えると思う人は見えないのであり、自分は見えないと思っている人は見えるようになるのです。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。私たちが見えるようになるためにはどうしたらいいのでしょうか。黙示録3:17~20を開いてください。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 

これは、ラオデキヤの教会に宛てて書き送られた手紙です。彼らは、自分たちは富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと思っていました。つまり、自分たちは見えると思っていたのです。その結果、彼らは冷たくもなく、熱くもありませんでした。生ぬるい信仰でした。それで主は、むしろ冷たいか熱いかであってほしい、と忠告したのです。そのためにどうしたらいいのか。自分の本当の姿が見えるように、つまり、自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であるということを知るために、目に目薬を塗らなければなりません。そうすれば、自分の姿がはっきり見えて、悔い改めるようになります。私もよく目がかすみます。それで目薬をさすのですが、そうするとよく見えるようになります。あなたがよく見えているかどうかは、イエス様の招きにどのように応答するかでわかります。有名な主のみことばです。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

主はあなたの心のドアを叩いておられます。あなたはこの主の招きにどう応答されますか。あなたが悔い改めてイエス様をあなたの心に迎え入れるなら、あなたはイエス様と食事をともにするようになります。主との麗しい交わりの中に、真の喜びの中に入れていただくことができるのです。

 

アメイジンググレースは、最も知られた讃美歌の一つです。1年間に1千万回演奏されると言われています。この讃美歌の歌詞は1779年、イギリス人のジョン・ニュートンによって書かれました。その歌詞を直訳すると、次のようになります。

「驚くべき恵み 何と愛らしい響きよ こんな悲惨な者が救われ

かつて迷い出ていたが、今は見出され かつて盲目であったが、今は見える

恵みにより畏れることを教えられ、恵みにより恐れから解放され

なんとすばらしいことだろう 私が最初に信じた時に 表されたその恵みは」

 

彼は船乗りで、言葉の汚いことで有名でした。特にその口汚さは船乗りたちの中でも並外れていたそうです。彼のニックネームは「偉大な冒涜者」というものでした。

ある時、彼は海で暴風に巻き込まれた際、神に憐みを祈り求めました。こうしてこの歌を生み出すほどに生き方を大きく転向させました。

人生の終盤に彼は友人たちにこう話しています。「私の記憶力はほとんど死んでしまったが、二つのことは覚えている。私が大罪人あるということと、イエス様はそんな大罪人をも救う大いなる救い主であるということだ。」

 

この歌は私たちが迷い出ている者であり、盲目であるということ、そしてその状況を恐るべきであるのに、それに気付いていないことを思い起こさせてくれます。しかし神様の恵みは私たちを見つけ、心の目を見えるようにし、神様を畏れさせ、最後には全てのことを正しくさせます。だから何も恐れる必要がないのです。

 

恵みは本来私たちが受ける資格のないほどの、良いものです。しかしながら神様は私たちをその良いもので溢れさせてくださいます。それは宝の山のようなもので、義と認めてくださるというものです。それゆえ、私たちもジョン・ニュートンのように告白しようではありません。「私の記憶力はほとんど死んでしまったが、二つのことは覚えている。私が大罪人あるということと、イエス様はそんな大罪人をも救う大いなる救い主であるということだ。」そのとき、あなたの目も見えるようになり、あなたは、この大いなる恵みの中で生きるようになるのです。

Ⅰサムエル記2章

サムエル記第一2章から学びます。

 

Ⅰ.ハンナの賛美(1-11)

 

まず、1~11節までをご覧ください。

「ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。

主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。

おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。

勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。

満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。

主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。

主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。

主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。

主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです。

主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」

エルカナはラマにある自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。

 

これはハンナの祈り、あるいは賛歌です。サムエルが乳離れしたとき、ハンナは子牛3頭、小麦粉1エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてサムエルを伴い、シロにある主の家に上りました。サムエルを主にささげるためです。その時ハンナは主を賛美して祈りました。彼女は、まず、主にあって大いに喜びました。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。」と言いました。「角」とは、力の象徴です。ハンナは、主によって力が与えられていることを誇っているのです。「私の口は敵に向かって大きく開きます」とは、敵に対しの勝利の宣言です。なぜ彼女はそんなにも主の力を喜び、主の勝利をほめたたえたのでしょうか。それは彼女が主の救いを喜んでいたからです。この場合の救いとは、直接的には不妊から解放されたことを指しています。彼女は、不妊のゆえにずっと苦しんできました。それが今、主によって解放されたのです。つまり、ハンナは主によって力が与えられ、主によって問題から解放されたことを喜んでいるのです。ただ息子が与えられたことを誇っているのではなく、それを可能にしてくださった主ご自身を喜び、ほめたたえているのです。時として私たちは祈りが叶えられると、そのことを喜んでもそれを可能にしてくださった主を忘れてしまうことがあります。大切なのは、与えられた恵み以上に、それを与えてくださった方を喜び、ほめたたえることです。

 

次にハンナは、主がどれほど偉大な方なのかを述べています。2節、「主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。」(2)

それは、主のように聖なる方はいないということ、また、主に比べ得る神など他にはいないということ、そして、神のような「岩」はいないということです。この「岩」とは、力強い方という意味です。詩篇18:2-3には、「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。ほめたたえられる方。この主を呼び求めると 私は敵から救われる。」とあります。 この主を呼び求めると、私は敵から救われます。なぜなら、主は、わが岩、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩であられるお方だからです。圧倒的な力と栄光に満ちたお方だからです。あなたはどこに身を避けていますか。私たちが身を避けるべきお方は、この岩なる神なのです。

 

3節は、警告です。人はこの主の前で高ぶったり、横柄なことばを口にしてはなりません。なぜなら、主はすべてを知っておられる神だからです。「そのみわざは測りしれません」の意味が不明です。「その」という言葉は原文にはないからです。おそらくここでは、表面的にだまされることのない全地の神による「測り」つまり、神の審判が語られていると思われます。

口語訳ではここを、「あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、高ぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。」と訳しています。

最も原文に近い意味としては、新共同訳の訳ではないかと思われます。新共同訳では、「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。」と訳しています。つまり、主は正しくさばかれる方であるということです。だからおごり高ぶったり、横柄なことばを口にしてはならないのです。

 

4節と5節では、主がもたらす人生の逆転劇について語っています。勇士が弓を砕かれとは、弱い者とされることを意味しています。逆に、弱い者が力を帯びるようになります。パンに満ち足りていた者が雇われるようになり、逆に飢えていた者が満ち足りるようになるのです。不妊の女が七人の子を産むようになり、逆に、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。これはハンナとペニンナのことを指しているのでしょう。ハンナにはサムエルを含めて6人の子どもが与えられましたが、ここに「七人の子」とあります。それはそれが完全数であり、多くの子を意味する言葉として用いられているからです。また、子だくさんであったペニンナは、ハンナに子が与えられることによって打ち砕かれてしまいました。

 

6節には、生と死の逆転が見られます。また、7節と8節では、貧富の逆転について語られています。ここに出てくる「ちり」「あくた」は、貧しい乞食がたむろする場所でした。主はそのような者に、栄光の座を継がせます。

「まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。」とは、この世界が主によって保たれていることを表しています。これがこの世の常識と、歴史の通念を破るどんでん返しが起こされる根拠です。

 

9節と10節をご覧ください。聖徒たちに対する神の守りと、悪者に対する神のさばきが預言されています。主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。これはやがてキリストが再臨され、諸国の軍隊を打ち砕き、国々をさばかれるという預言です。「主に油注がれた者」とありますが、これが「メシヤ」ということばです。聖書の中でここに初めて出てきます。ハンナは、霊的暗黒の中にあるイスラエルを救い出すために立てられるサムエルのことを意識して語ったのでしょうが、それは究極的に世を救われる方の預言も語っていたのです。

 

Ⅱ.祭司エリの息子たち(12-21)

 

次に12節から17節までをご覧ください。

「 さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった。民に関わる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。そのうえ、脂肪が焼かれる前に祭司の子弟がやって来て、いけにえを献げる人に「祭司に焼くための肉を渡しなさい。祭司は煮た肉をあなたから受け取らない。生の肉だけだ」と言うので、人が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言うと、祭司の子弟は、「いや、今渡すのだ。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。」

 

祭司エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知りませんでした。 主を知らないとは、救われていないということで、主と個人的な交わりがなかったことを意味しています。そういう人が祭司の務めをしていました。これは悲劇です。それはちょうど新生していない人が、牧師や伝道者になるようなもので、大変不幸なことです。彼らの特徴は「よこしまな者」であったということです。よこしまな者とは、主の律法に従って祭司の務めをしていたのではなく、自分の思いや考えによって勝手にそれを行っていたということです。

 

13節から16節までのところに、彼らがいかによこしまであったかが描かれています。まず彼らは、和解のいけにえの中から、祭司の取り分けられていた胸肉ともも肉だけで満足せず、だれかがいけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間なのに、子弟に三又の肉刺しを手に持たせて遣わし、肉を奪っていたのです。そればかりではありません。脂肪は焼いて煙にすることが律法の求めていたことでしたが、その前に子弟を遣わして、生の肉さえもを要求したのです。煮た肉よりも生の肉を焼いて食べた方が美味しいからです。

 

こうして彼らは、主へのささげ物を侮りました。和解のいけにえは、本来、罪人が神との関係を回復するための恵みの手段として、神から与えられたものです。その手段を侮るなら、もうそこには罪が赦される道は残されていないことになります。これは、罪人を悔い改めに導く聖霊の働きを拒み、聖霊を冒涜する罪と同じです。それは、イエス様がマルコ3:28-29で言われたことと同じです。

「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒?することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒?する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」

彼らの問題は、主を知らなかったということ、つまり、霊的に生まれ変わっていなかったことです。私たちは今、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを信じることによって新しく生まれ変わった者であることを感謝しましょう。そして、さらに深く主を知ることができるように、主を知ることを切に追い求める者になりましょう。バプテスマ(洗礼)を受けてクリスチャンになったということは感謝なことですが、そこに留まっているだけでなく、そこから一歩進みさらに主を知る者となるために、日々みことばを読み、祈り、主との交わりを持たせていただきましょう。私たちはどちらかというと、何かすることに関心が向きがちですが、主が求めておられることは、私たちが何かすることよりも、主ご自身を知ることであるということを覚えましょう。良いわざは、そこから生まれてくるからです。

 

一方、主にささげられたサムエルはどうだったでしょうか。18節から21節までをご覧ください。

「さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と言い、彼らは自分の住まいに帰るのであった。主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。」

 

祭司エリの息子たちとは対照的に、サムエルは、忠実に主に仕えていました。彼はまだ少年でしたが、自分にできる範囲で主の前に仕えていたのです。「亜麻布のエポデ」は、祭司が身にまとう衣服です。彼は、自分が主に仕えるしもべとしての自覚をしっかり持っていたのです。

彼の母ハンナは、夫とともに、毎年、年ごとのいけにえを献げるために宮に上って行きましたが、その度に息子サムエルのために小さな上着を作り持っていきました。サムエルも育ち盛りだったのでしょう。年ごとに大きく成長していったので、サイズも大きくなっていったのです。

 

主は、そんな忠実なエルカナとその妻ハンナを祝福し、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と祈りました。すると主はその祈りに答えてくださりハンナを顧みて、彼女に3人の息子と2人の娘を与えてくださいました。サムエル以外に、5人の子どもが与えられたということです。サムエルを主の働きのためにささげたハンナは、主からその5倍もの祝福を受けたことになります。主にささげられたサムエルは、主のみもとですくすくと成長していきました。

 

Ⅲ.警告とさばき(22-36)

 

最後に22節から36節まで見て終わりたいと思います。まず26節までをご覧ください。

「さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである。一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」

 

再び、エリの息子たちの悪い行いと、それに対するエリの叱責が記されます。エリはたいへん年をとっていましたが、息子たちがイスラエル全体で行っていることの一部始終を、そして彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ていることを聞きました。彼らは和解のいけにえに関して大きな罪を犯していましたが、そればかりか、不品行の罪も犯していたのです。

 

それに対して父親であるエリは叱責の言葉を語ります。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」

その言葉には力がなく、息子たちを悔い改めに導くことはできませんでした。人が人に対して罪を犯すなら神がその仲裁をしてくださいますが、主に対して罪を犯すなら、だれもその人のために仲裁に立つことができません。しかし、彼らは父親の言葉に耳を傾けようとはしませんでした。彼らを殺すことが主のみこころだったからです。

子供を育てるということは本当に難しいですね。親の考えがなかなか伝わりません。でもそのような中でも幼い時からしっかり育てていくなら、大きくなった時でもしっかりと立つことができます。大きくなってからでは遅いのです。幼い時ほど厳格に、そして成長とともにより緩やかにしていき、やがて自分で判断できるようにその範囲を広げていくことが望ましいのです。これは真実です。成人してから欠点を矯正しようとしても、それは困難なのです。鉄は熱いうちに打たなければなりません。エリの息子たちはもう手遅れだったのです。

 

一方、少年サムエルは、主にも人にも愛され、ますます成長していきました。この表現は、イエス様が成長していったに使われたものと同じです。ルカ2:52には、「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」とあります。これは霊的幼子である私たちにも言えることです。私たちもエリの子供たちのように頑なにならないで、サムエルのように、神と人に愛される人になるために、主にあって成長していきたいものです。

 

27節から36節までをご覧ください。

「神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう言われる。あなたの父の家がエジプトでファラオの家に属していたとき、わたしは彼らに自分を明らかに現したではないか。わたしは、イスラエルの全部族からその家を選んでわたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエルの子らの食物のささげ物をすべて、あなたの父の家に与えた。なぜあなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうちの、最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。それゆえ──イスラエルの神、主のことば──あなたの家と、あなたの父の家は、永遠にわたしの前に歩むとわたしは確かに言ったものの、今や──主のことば──それは絶対にあり得ない。わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはあなたの腕と、あなたの父の家の腕を切り落とす。あなたの家には年長者がいなくなる。イスラエルが幸せにされるどんなときにも、あなたはわたしの住まいの衰退を見るようになる。あなたの家には、いつまでも、年長者がいない。わたしは、あなたのために、わたしの祭壇から一人の人を断ち切らないでおく。そのことはあなたの目を衰えさせ、あなたのたましいをやつれさせる。あなたの家に生まれてくる者はみな、人の手によって死ぬ。あなたの二人の息子、ホフニとピネハスの身に降りかかることが、あなたへのしるしである。二人とも同じ日に死ぬ。わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。あなたの家の生き残った者はみな、銀貨一枚とパン一つを求めて彼のところに来てひれ伏し、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、パンを一切れ食べさせてください』と言う。」」

 

ここには、祭司エリの二人の息子たちに対するさばきが告げられています。神の人がエリのところに来て、そのさばきを告げます。28節の「その家」とは、エリの家系のことです。神は、イスラエル全部族の中からアロンの家系を選んで祭司としました。それは特別な祝福でした。他の11の部族は相続地が与えられましたが、彼らには与えられませんでした。なぜなら、主ご自身が彼らの相続地であったからです。それにも関わらず彼らは、その特別な祝福を台無しにしました。彼らは、主へのささげものを軽くあしらいました。また、エリは主ご自身よりも自分の息子たちを重んじて、それを見過ごしていました。そして、彼らは、イスラエルの民がささげるいけにえの最上の部分で、私服を肥やしたのです。

 

それゆえ、神のさばきが下ります。それは、エリの家系が大祭司として主に仕えることがなくなるということです。彼の氏族は衰退を見るようになります。そして、彼の二人の息子ホフニとピネハスは、同じ日に死ぬのです。これは、イスラエル軍がペリシテ軍に打ち負かされ、神の箱が奪われた時に成就します。その時、二人の息子は戦死します(Ⅰサムエル4:10-11)。また、神の箱が奪われたという知らせを受けたエリも、席から落ち、首を折って死にました(Ⅰサムエル4:12-18)。この時、エリは98歳でした。

 

アロンの家系が大祭司として仕えるというのが、神の約束でした。しかし、エリと二人の息子が神に従わなかったので、その一つの氏族が断ち切られることになったのです。結局、エリの家系が没落して後、大祭司職はエルアザル氏族に引き継がれます。アロンにはナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルという4人の息子がいましたが、ナダブとアビブは規定に反したことによって死に、今、イタマルの氏族であるアロンの家系も没落してしまいました。残されたのはエルアザル氏族だけです。この氏族もアロンの家系に属していたので、アロンの氏族が祭司になるという神の約束は、保たれました。

 

このように、エリの家系が滅ぼされたのは、彼らが主を軽んじたからです。主は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(30)と言われました。あなたはどうでしょうか。この原則は、昔も今も、また永遠に至るまで適用されるものです。家族を大切にすることは重要なことです。しかし、そのために主を軽んじることがあってはなりません。主に救われた者として私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことなのです。

ヨハネの福音書9章13~34節「わたしたちが知っていること」

きょうは、ヨハネの福音書9章13~34節からお話したいと思います。今日の箇所は、前回の続きとなっています。前回は、生まれつき目が見えなかった人がイエス様によって癒され、見えるようになったことが記されてありました。きょうはその続きです。きょうの箇所には「知っている」という言葉が何回も繰り返して出てきます。イエス様によって目が開かれた盲人が知っていたこととはどんなことだったのでしょうか。ご一緒に見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.あの方は預言者です(13-17)

 

まず13節から17節までをご覧ください

「人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」彼は「あの方は預言者です」と答えた。」

 

生まれつき目が見えなかった人が見えるようになると、それを見ていた人々は、彼をパリサイ人たちのところに連れて来ました。なぜ連れて来たのかはわかりません。ただ14節を見ると、「イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。」とあるので、彼らはそのことを問題にしたのかもしれません。こういうわけでパリサイ人たちのところに連れて来られると、彼らも、どのようにして見えるようになったのかと彼に尋ねました。すると彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えました。

すると、パリサイ人たちの間に分裂が生じました。彼らのうちのある者たちは、そんなことはあり得ない。その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者であるはずがないと言い、ほかの者たちは、いや、罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうかと言いました。

 

私たちも、往々にして、前者の人たちのように「そんなはずはない」と否定することがあるのではないでしょうか。それは、聖書を間違って解釈したり、その意味なり、目的なりを間違って理解していることに起因します。たとえば、ここでは安息日のことが問題なっていますが、そもそも安息日とは何でしょうか。何のために設けられたのでしょうか。モーセの十戒にはこうあります。

「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」(出エジプト記20:8-11)

安息日とは、主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休まれたことを記念し、これを他の日と区別し、聖なる日とするようにと定められた日です。教会では、日曜日を聖日と呼ぶことがありますが、それはこのためです。これは聖なる日です。「聖なる」とは、他と区別された日という意味です。神のために他と区別された日です。これは土曜日にあたりますが、教会では、この安息が、イエス様が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、イエス様を中心に考えるため、イエス様が復活された日曜日を安息日、聖日としているのです。ですから、この日に共に集まって主を礼拝し、互いに祈り、交わりの時を持っているのです。それはこの日が、仕事が休みだからというわけではありません。この日は主がよみがえられた日、主の日なので、私たちはこの日に集まって主を礼拝しているのです。

しかし、それはおかしいと、いう人たちがいます。安息日は土曜日なのだから、土曜日を安息日にしなければならないと。日曜日に礼拝をするのは間違っている、というのです。そればかりか、このパリサイ人たちのように、この日はいかなる仕事もしてはならないとあるのだから、何もしてはいけないのだ、というのです。

しかし、それはここにあるように必要なわざ、あわれみのわざを禁じているということではありません。ここでいうとそれは目が見えなかった人を癒すということですが、そういうことを禁じているわけではないのです。むしろ、生涯にわたってずっと苦痛にさいなまれ続けてきた人を癒すことこそ安息日にふさわしい行為だったのに、彼らにはそのことが理解できませんでした。私たちはこの安息日に関することだけでなく、私たちの信仰の歩みが神のみこころにかなったものであるために、いつもイエス様の目とイエス様の心を持って神のみことばを受け取らなければなりません。

 

ところで、彼らが再び、目の見えなかった人に「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」と尋ねると、彼はこう言いました。「あの方は預言者です。」これは、旧約聖書で預言されていた「あの預言者」のことで、来るべきメシヤのことを意味しています。彼はパリサイ人たちの脅すような口調や、理由もわからずに呼ばれた法廷での威圧的な雰囲気の中でも、自分を癒してくださったイエス様についてこのように証言したのです。あなたならどうしたでしょうか。

 

Ⅱ.キリストのためにいのちを捨てる者はそれを見出す(18-23)

 

次に18節から23節までをご覧ください。

「ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。」

 

イエス様によって目が開かれた人は、自分を癒してくださった方はメシヤであると大胆に告白しましたが、ユダヤ人たちはその証言をなかなか受け入れることができなかったので、今度は両親を呼び出して尋問します。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが行っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」(19)

そこで、両親は答えて言いました。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」(20-21)

両親は、どうしてこのように答えたのでしょうか。22節にその理由があります。それは、ユダヤ人たちを恐れたからです。それはすでにユダヤ人たちが、イエスをキリスト(メシヤ)であると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていたからです。いわゆる村八分です。今でも、ユダヤ人はイエスをメシヤであると告白する者がいれば村八分にされるそうです。ある人は家族関係が断ち切られ、ある人は仕事を失います。つまり生きるすべを失ってしまうのです。救いは神の恵みであり、キリスト・イエスの贖いのゆえに値なしに与えられますが、キリストの弟子として歩むということには、それなりの犠牲も伴います。しかし、それこそが喜びなのではないでしょうか。なぜなら、苦しみなくて栄光はないし、困難なくして祝福はないからです。本当の喜びや祝福というのは、そうした苦難や困難から生まれてくるものなのです。

 

来年アメリカの邦人宣教に遣わされる笹川雅弘先生が、大田原の祈祷会でメッセージをしてくださいました。その中でとても印象的だったのは、クリスチャンは何のために生きるのかということでした。それは今までとは全く違います。今までは私のために生きてきましたが、イエス様を信じ罪から救われてからは、主のために生きる者になりました。これが真の祝福です。イエス様を信じても自分が平安であればそれでいいと思っている人は不思議に平安が奪われてしまいますが、苦労があっても主のために、主のみこころに従って生きる時、そこに祝福がもたらされるのです。イエス様が言われたとおりです。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

本当に不思議ですが、自分を捨て、主のみこころに生きるなら、そのような中で主は必要な力を与えてくだるし、心の傷のいやされるのです。

笹川先生はその話の中で一人のクリスチャンの姉妹のことをお話ししてくださいました。この方は主の恵みによって信仰に導かれましたが、教会に来られている中でいろいろな方との軋轢が生じ心に傷を負ってしまい、それからというもの教会から遠のいてしまいました。しかし、ご主人の転勤で海外に行くようになり、慣れない環境や日本人同士の交わりへの渇望から再び教会に行くようになると、渇いたスポンジが水を吸収するように信仰が回復していきました。それからまた次の赴任地、次の赴任地と海外を転々とするうちに、どこへ行ってもそこが自分の遣わされた所と信じて、いろいろな葛藤や困難な環境の中でも心から主に仕えるようになると、そのような中でご主人も救われ、家族で主に仕えることができるようになりました。すると本当に不思議ですが、かつて負った心の傷がいつの間にか癒されていることに気付いたのです。まさに、自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、主のためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

 

あなたはそのいのちを見出しましたか。キリストのしもべとして十字架を負うことを恐れてはいないでしょうか。でもあなたが犠牲を恐れないで、自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うなら、あなたは真の祝福を受けるようになるのです。

 

Ⅲ.私たちが知っていること(24-34)

 

最後にその結果を見て終わりたいと思います。24節から34節までをご覧ください。

「そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」

 

そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言いました。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」彼らがこのように言ったのは、この人の目が開かれたということを否定できなかったので、たとえそれが事実であったとしても、イエスという男は安息日を破った男なのだから、そういう男のかたを持つのではなく、神に栄光を帰すべきだと言いたかったからです。

 

すると彼はこのように答えました。25節です。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」彼は、自分の目を開いてくれた方がどういう方であるかはわかりませんが、一つのことだけは知っていると言いました。その一つのこととは何でしょうか。それは、彼は盲目であったが、今は見えるようになったということです。彼はなぜこのように答えたのでしょうか。それは、彼がこのことを体験して知っていたからです。彼は、それがどのようにして起こったのかとか、それを行ったのがだれであるかということはわからなくとも、ただ自分の身に起こったことをそのまま伝えたのです。

 

すると、彼らはなおもしつこく問いただします。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」彼らがあまりにもしつこく聞くものですから、彼はあきれてこう言いました。27節です。

「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

すると彼らは彼をののしって言いました。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」

ここでは形成が逆転しています。この目を開かれたか弱い男の方が、ユダヤ人指導者たちに「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのか」と、尋ねたほどです。余裕を感じます。いったいこの余裕はどこから来たのでしょうか。それは、次の彼のことばをみるとわかります。30節から33節です。

「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」

 

いったいなぜ彼はこんなにも堂々としていることができたのでしょうか。それは彼が知っていたからです。彼が盲目であったのに、今は見えるということを。それは、この方が神から遣わされた方であるということのまぎれもない事実です。そうでなかったら、このようなみわざを行うことなどできなかったはずです。それができるということは、この方こそ、神から出たお方であるということなのです。

 

クリスチャンにとってこれほど確かなことはありません。彼の知識はわずかであったかもしれません。また、その信仰は弱々しかったかもしれない。教理もさほど知らなかったと思います。しかし、彼はキリストが御霊をもって、自分の心に恵みのわざを成してくださったということを知っていました。「私は暗かった。しかし今は光を持っている。私は神を恐れていた。でも今は神を愛している。私は罪が好きだった。でも今は罪を憎んでいます。私は盲目だったが今は見えます。」この体験です。確かに感情は惑わされやすいかもしれませんし、それがすべてではありませんが、私たちが内側にこのような確信がなかったら、どんなに聖書を知っていたとしても証の力が出てこないでしょう。それは健全な信仰とは言えません。空腹な人は、食べることによって力がついたと感じます。渇いた人は、飲むことによって元気になったと感じるでしょう。同じように神の恵みを内に持っている人は、「私は神の恵みの力を感じる」と言うことができるはずであり、その事実がその人に何をも恐れない大胆さをもたらすのです。

 

先週、那須で小島さん夫妻がバプテスマを受けられました。すばらしいバプテスマ式でした。何がすばらしいかって、奥様の美紀さんが自分の救いを感謝して「アメージング・グレース」の賛美をしてくれました。自分が救われたのはまさにアメージング・グレースだ・・と。がむしゃらに自分の力で頑張ってきた頃は、自分がどう考えるのか、どうしたいのかが大事だと思っていました。しかし、その結果は人に認められ、人にどう思われるのかに焦点が当てられてしまい、結局のところ、事あるごとに一喜一憂したり、他人の活動が気になってしまったりして、疲れ果てていました。しかし、隠れたところで見ていてくださる神様が報いてくださることがわかったとき、神様を信じ、神様にすべてをゆだね、神様に従っていこうと思うようになりました。そして、イエス様が自分のために十字架で死んでくださったことがはっきりとわかったとき、このイエス様の導きに従って歌い、多くの人たちの一助になりたいと思うようになったとき、その心は空気にように軽くなり、自由になり、どんなことも肯定的に受け止められるようになりました。もうどのように歌うかなど、全く気にならなくなりました。それよりも、自分のために苦しみ、死んでくださったイエス様のために、何ができるのかと考えられるようになったのです。

 

それはちょうど初代教会において、使徒ペテロとヨハネがユダヤ人議会に連れて行かれた時に、彼らが取った態度に似ています。ユダヤ人議会が彼らに、今後一切イエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと命じると、彼らはこう言いました。「しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」(使徒4:19-20)

ペテロとヨハネはなぜそんなにも大胆になることができたのでしょうか。それは、彼らがそれを実際に見、実際に聞いたことだったからです。つまり、彼らはキリストの恵みを体験していたのです。だから、人が何と言おうと、自分が見たこと、聞いたこと、つまり自分が体験したことを語らずにはいられなかったのです。このように、自分の体験に裏付けられた信仰は、たとえ権威や力によって抑えつけられることがあっても決して恐れることはなく、それに屈することはありません。

 

結局のところ、この男もついに会堂から追い出されることになります。会堂から追い出されるとは、ユダヤ教から追い出されること、村八分にされることです。でも彼は、そんなことに少しもめげませんでした。事実の上に立った体験、これこそ神が私たちに与えてくださるものであって、このような体験によって、私たちも力強くキリストを証しすることができるようになるのです。

 

「アメリカでもっとも愛されたゴスペル歌手」と称されたジョージ・ビバリー・シェーは、ビリー・グラハムクルセイドの初期から、クリフ・バローズが指揮するマスクワイアーをバックに、ソリストとして数多くの讃美歌やゴスペルを歌ってきた人ですが、彼は2011年、102歳で、グラミー賞功労賞を最高齢で受賞しました。彼が作曲した最も有名な歌は、新聖歌428番の「キリストには代えられません」でしょう。

①キリストには代えられません 世の宝もまた富も

このお方が私に代わって 死んだゆえです

世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け

キリストには代えられません 世の何ものも ②キリストには代えられません 有名な人になることも

人のほめる言葉も この心をひきません 世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け

キリストには代えられません 世の何ものも ③キリストには代えられません いかに美しいものも

このおかたで心の満たされてある今は 世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け

キリストには代えられません 世の何ものも

ビバリー・シェーもまた、ただ一つのこと、キリストの恵みによって捕らえられて

いたのです。もっと突きつめて言えば、その恵みの体験を通して、キリストを証ししていたのです。キリストにはかえられませんと。

 

そしてそれは、私たちも同じです。私たちも、かつては盲目でしたが、今は見えるようになりました。聖書のことはそれほど知りませんが、この一つのことは知っています。それゆえに、私たちも大胆に証しすることができます。これがキリストによって目が見えるようになった人なのです。そのことを忘れないでいただきたいのです。その恵みを体験した者としてこの目が開かれた人のように、私たちは知っています。私たちは盲目であったが、今は見えるようになったということをと、大胆に、そして勇敢に、証しする人になりたいと思います。これがキリストの恵みによって救われた人の姿なのです。

ヨハネの福音書9章1~12節「神のわざが現れるために」

きょうは、ヨハネの福音書9:1~12から、「神のみわざが現れるために」というタイトルでお話したいと思います。

 

Ⅰ.この人に神のわざが現れるためです(1-5)

 

まず1節から5節までをご覧ください

「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

 

イエス様は、仮庵の祭りでエルサレムに上っておられましたが、道を歩いていると、そこに生まれた時から目の見えない人がいるのをご覧になられました。

私たちは、毎日、いろいろなものを選び取って生活していますが、自分ではどうしても選ぶことができないことがあります。それは、どのように生まれてくるかということです。裕福な家に生まれる人がれば、貧しい家に生まれる人もいます。健康で生まれる人がいれば、病弱で生まれる人もいます。どのように生まれるかは、自分では選び取ることができないのです。それは生まれた時から決まっています。この人は生まれた時から目が見えませんでした。自分で選んで盲目になったのではありません。生まれた時からそうだったのです。そのために、いろいろな苦労がありました。8節には彼が物乞いをしていたとありますが、そのために彼は、物乞いをするほか生きる道がありませんでした。

 

すると、弟子たちがイエス様に尋ねました。2節、「先生。この人が盲目に生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

これが一般の人たちの考え方です。一般に人は今負っている悩みや苦しみには必ず原因があると考え、すぐにその原因を探ろうとします。そして、このような不幸の原因はその人が何か悪いことをしたからであって、そのバチが当たっているのだと考えるのです。いわゆる「因果応報」です。つまり、その人の過去にその問題の原因なり、理由なりを求めてその説明をしたがるわけです。

 

しかし、イエス様はこのように答えられました。3節です。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」弟子たちが不幸の原因を尋ねたのに対して、イエス様はそのことには直接触れずに「神のわざが現れるためです」と、その意味なり、目的についてお答えになられたのです。

 

私たちも、何か辛いことや苦しいことがあると「何でだろう、何でだろう、何で、何でだろう」としばしば後ろを振り返っては、そこで立ち止まってしまうことがありますが、イエス様は、こうした苦難に遭うときに「何でだろう」と問うよりも、「何のために神様はこのような試練をお与えになったのか」を考えて、信仰をもって神の目的のために生きていくことが大切であることを教えてくださったのです。そして、それがどんなに大きな悩みや苦しみがあっても、神様がそのことを通して驚くべきみわざを成してくださるということが分かれば、私たちはもはやそうした悩みや苦しみの中に沈んでしまうのではなく、やがてそれを益に変えてくださる神に期待して生きることができるのではないでしょうか。

4節と5節をご覧ください。ここに不思議なことが書かれてあります。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」どういうことでしょうか。もちろん、私たちは人間ですから、神様のようなわざを行うことなどできません。では、「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければならない」とはどういうことなのでしょうか。

 

ヨハネの福音書6章29節をご覧ください。ここには、「神を遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」とあります。つまり、神のわざとは、神が遣わした方を信じることです。私たちが過去に捉われて出口のないあきらめとむなしさの中で生きるのではなく、現実の苦しみの中にあっても、イエス様を信じて、イエス様が約束してくださった聖書の御言葉を信じて、神様が最善のことを成してくださると信じて生きていくことなのです。それが神のわざを行うということなのです。

 

ローマ人への手紙8章28節には、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」とあります。

この「すべてのことがともに働いて」の「すべて」の中には、私たちにとってマイナスと思われるようなことも含めてすべてが含まれているのです。良いと思えることも、悪いと思えることも、すべてのことを含めて、神が働いてくださり益としてくださるのです。これを信じることが神のわざです。言い換えれば、すべてが恵みであると信じて受け止めることです。

 

また、コリント人への手紙第一10章13節には、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」とあります。皆さんの中で、今、試練の中にある人がおられますか。もしそのような方がおられるなら、この御言葉を信じなければなりません。神は、あなたが耐えられないような試練を与えるようなさいません。むしろ、絶えることができるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるということを。

 

また、エレミヤ書29章11節は、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。とかく私たちは自分にとって良くないと思うことが起こると、自分は神に呪われているのではないかと思うことさえありますが、しかし、神の御言葉である聖書は何と言っているのかというと、神が私たちに立てている計画は将来と希望であることです。今はそのようには受け止められないかもしれません。しかし、私を愛し、私のためにご自身の御子をさえも惜しみなく与えてくださった主は、私たちのために最高の計画を持っておられるのです。それは将来と希望です。このことを信じなければなりません。これが神のわざです。

 

私たちは、少し前まで祈祷会でルツ記を学んでいましたが、そのことはルツとナオミの生涯を見てもわかります。ナオミは夫のエリメレクと、二人の息子マフロンとキルヨンと一緒にモアブの地へ行き、そこに一時滞在しました。それまで住んでいたベツレヘムが飢饉のため食べ物が少なかったからです。

しかし、そこで夫エリメレクは死に、何と二人の息子までも死んでしまいました。何と不幸な人生でしょう。ナオミはモアブの地からベツレヘムに帰ることにしましたが、そこで町の人たちは「あら、ナオミじゃないですか」というと、彼女は、「私をナオミとは呼ばないでください。マラと呼んでください」と言いました。「ナオミ」という名前は「快い」という意味ですが、どう見ても彼女の人生は快いものではありませんでした。それで「苦しむ」という意味の「マラ」と呼んでくださいと言ったのです。

しかし、そんなナオミを、神様は決して忘れてはいませんでした。彼女には息子の嫁の一人でモアブ人のルツがいました。ある日、畑に出て落ち穂を拾い集めると、そこははからずもエリメレク一族に属するボアズの畑でした。ボアズは正当な手続きを経てエリメレクの畑を買い戻すと、その嫁であったルツも買い戻したので、ルツはボアズの妻となりました。そして生まれたのがオベデです。オベデはダビデの父であるエッサイの父、すなわち、ダビデの祖父にあたります。そして、このダビデからこの人類を罪から救ってくださる救い主が誕生するのです。このようなことをいったいだれが想像することができたでしょうか。これが神のなさることです。神は、このような驚くべきことをなさいます。神を愛する人々のために、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。このことを信じなければなりません。

 

先月、山形市のこひつじキリスト教会で献堂式が行われました。牧師の千葉先生は、同盟の伝道委員として3年間私たちの教会にも来てくださり、私が伝道委員だったとき会堂についていろいろお聞きしていましたので、ぜひ献堂式に出席したいと思っていました。

そこはちょうど蔵王めぐみ幼稚園という幼稚園の前にあるのですが、そこはかつてこのこひつじキリスト教会を開拓した蔵王キリスト教会が産声をあげた場所でもありました。この幼稚園はキリスト教系の幼稚園で、蔵王教会ではその一室を借りて日曜の礼拝が始まったのです。それから何年かして1996年に親教会ネットワークによってこひつじキリスト教会が誕生しました。あれから20年、教会は一軒家の借家で宣教の働きが進められてきました。2階に先生ご家族が住み、1階で集会が続けられてきましたが、こどもの伝道を中心に行っていたこともあって集会所のスペースは限界でした。それで先生は集会できるスペースを求めて祈っていたところ、とても良い物件が紹介されたのです。、それは国道13号線に面しているドライブインの跡地でした。土地と建物の広さも申し分なく、価格も格安でした。千葉先生は、それが神様の導きではないかと購入に向けて進もうとしたのですが、そこが山形市と上山市との境にあったこと、また、これまで行って来た子供たちの伝道には向いていないということで断念せざるを得なかったのです。千葉先生は本当にがっかりしました。やっといい物件が見つかったと思ったのに、話がまた振り出しに戻ったからです。

しかし、それからほどなくして示されたのがこの物件でした。それは車の整備工場の跡地でしたが、奇しくも、それが蔵王教会が産声をあげた幼稚園の前だったのです。場所的には最高の場所です。それをリフォームして献堂することができました。本当に神のなさることは不思議です。神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

 

それは、私たちも例外ではありません。神はこのような小さな者をもご自身の救いの計画の中にしっかりと組み込んでいてくださり、偉大な御業を成さろうとしておられるのです。そのことを信じなければなりません。すべてのことをつぶやかず、疑わずに行わなければならないのです。だれも働くことができない夜が来るからです。

 

Ⅱ.シロアムの池で洗いなさい(6-7)

 

では、神のわざが現れるためにどうしたらいいのでしょうか。それは、神のみことばに従うことです。6,7節をご覧ください。

「イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」

 

イエス様は、神のわざを、昼の間に行わなければならないと言うと、地面に唾をして、その唾で泥を作り、それを彼の目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われました。いったいなぜこのように言われたのでしょうか。イエス様は他の時にも何度か盲人の目を癒しておられますが、その時にはこのようには言いませんでした。ただ一言「エパタ」(開け)と言って癒されたり、盲人の目に直接触れることによって癒されました。このように唾で作った泥を目に塗って、池に行って洗うといった方法は採られませんでした。いったいなぜこのように言われたのでしょうか。別に唾で作ったこの泥に何らかの効用があったからとは思えません。ただはっきりわかることは、イエス様はどんな方法でも盲人の目を癒すことができるということです。お言葉一つでこの天地万物を創られたお方は、「エパタ」と言われるだけで癒すこともできましたし、直接触れることによっても、また、このように神秘的な方法によっても癒すことができたのです。ただそれがどのような方法であっても、イエス様の言われることに応答し、その御言葉に従うことが求められました。

 

いったいなぜこの盲人はイエス様の言葉に従ったのでしょうか。イエス様の言葉を聞いて「なるほど」と納得したからでしょうか。そうではありません。美容パックじゃあるまいし、こんなの目に塗っていったい何になるというのでしょう。私だったらそう思います。でも彼はイエス様が言われた言葉に従いました。このように、たとえそれが自分の思いや理解を超えていることであっても、主が仰せられたことに従うとき、神のみわざが現れるのです。

 

たとえば、あのシリヤの将軍ナアマンはそうでした。彼は重い皮膚病で苦しんでいましたが、その家にいたイスラエル人の召使いであった少女からイスラエルには驚くべき奇跡を行うエリシャという預言者がいるということを聞くと、早速出かけて行きました。その手にはたくさんの贈り物を持ち、しかも国王からの親書も持っていました。

ところがエリシャのところに行ってみると、エリシャは彼を出迎えることもせず、ただ召使いを送ってこう言わせただけでした。「ヨルダン川に行って、その水の中に七度身を浸しなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻りきれいになります」

これを聞いたナアマンは激怒しました。「なんということだ。私は預言者エリシャが出て来て、私の前に立ち、主である神様の名前を呼んで、この悪い所の上で手を動かして治してくれるものと思っていたのに。ダマスコの川の方が、イスラエルの川よりもよっぽど綺麗ではないか。こんなうす汚い川で洗ったところで、どうやって治るというのか。」

こうして彼はさっさと自分の国に引き上げようとしたのですが、部下の一人がやって来て、必至に説得しました。「将軍様、どうしてそんなにお怒りになられるのですか。あの預言者がもっと難しいことをせよと言われたら、それをしなければならなかったでしょう。それなのに彼は将軍様に「ヨルダン川で体を洗いなさい」と言われただけではありませんか。」

するとナアマン将軍はようやく思い直し、エリシャの言ったとおりにヨルダン川に行き、七度水に体を浸しました。すると彼の体は赤ん坊のように綺麗になったのです。

 

キリストの弟子たちがガリラヤ湖で漁をしていた時も同じです。その日はどういうわけか、夜通し網を降ろしても一匹の魚もとれませんでした。ペトロたちは疲れ切って岸で網を繕っていました。そこにイエス様が来られ、「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われたのです。おそらくペテロは、「いくらイエス様だって、漁のことについては俺たちの方がプロだ」と思ったことでしょう。しかし、それにも関わらず、彼はこう言ったのです。

「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下してみましょう。」(ルカ5:5)

これが信仰です。「でも、おことばですので、網を下してみましょう。」それが自分の思いや考えと違っても、でも、おことばですので、網を下ろすのです。そして、せっかく繕った網をもう一度舟に積み込んで、沖に出ていったのです。そして、イエス様が言われたとおりに網を降ろしてみますと、網がはち切れんばかりの魚がとれたのです。

 

皆さん、私たちも聖書に書いてある教えが非現実的であったり、非論理的に思えたり、あるいはまったく無意味なことのように思えたりすることがあるかもしれません。自分の経験や、知識や、良識などから判断すれば、どうしてそんなことをしなければならないのか、そんなことで本当に大丈夫なのかと、疑いや不安が募ることもあるでしょう。しかし、生まれつきの盲人が「シロアムの池に行って洗え」と言われた時も、ナアマン将軍が「ヨルダン川で身を浸せ」と言われたときも、ペテロが「もう一度沖に出て網をおろせ」と言われたときも、きっとそういう人間的な不安や疑問にかられたと思うのです。けれどもその時、彼らは自分の思いではなく、神の思いに従ったので、神のみわざを見ることができたのです。

 

これが信仰です。私たちはいつも人間的な見方をしては、「自分たちにできるだろうか」と思って否定的になってしまいますが、大切なのは私たちにできるかどうかではなく、それが神のみこころなのかどうかということです。神様が御言葉で何と言っておられるのか、そして、それがみこころならば、信じなければなりません。それが神のわざを行うということです。イエス様がいるうちは、イエス様が働いてくださいます。しかし、だれも働くことができない夜が来ます。その時では遅いのです。ですから、イエス様がいる間に、イエス様の御言葉を信じて、神のわざを行わなければなりません。それが自分の常識を超えていることであっても、主がこれをせよと仰せられるならそれに信仰によって従っていく。そこに偉大な神の御業が現れるのです。

 

Ⅲ.イエスという方が(8-11)

 

第三に、その結果です。そのようにして生まれつきの盲人の目が見えるようになり、帰って行くと、どのようになったでしょうか。8節から12節までをご覧ください。

「近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。『これは座って物乞いをしていた人ではないか。』ある者たちは、『そうだ』と言い、ほかの者たちは『違う。似ているだけだ』と言った。当人は、『私がその人です』と言った。そこで、彼らは言った。『では、おまえの目はどのようにして開いたのか。』」

彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」 彼らが『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と答えた。」

 

この見えるようになった人に対して、近所の人たちや彼のことを知っていた人たちが、「お前の目はどのようにして開いたのか。」と問うと、彼は自分が経験したことを、ありのままに語りました。それは、「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と言われたので、その通りにすると、見えるようになったということです。すなわち、イエスという方が自分に何をしてくれたのかということです。つまり、イエスはだれであるかということです。そして、イエスはメシヤ、キリスト、救い主であられるということです。

 

これがこの話の中でヨハネが本当に伝えたかったことなのです。ヨハネの福音書の中にはイエス様がメシヤであるということを証明する七つの「しるし」が記録されてありますが、これは6番目のしるしです。「しるし」とは証拠としての奇跡のことです。これは、イエス様がメシヤであるということの証拠としての奇跡だったのです。私たちはどうしても、生まれつき盲人だった人の目が見えるようになったことに焦点がいきがちですが、ヨハネが一番伝えたかったことはそこではなく、イエス様がメシヤであられるということだったのです。つまり、イエス様は私たちの心の目を開くことができるお方であるということです。

 

それは、7節の「シロアム」ということばの後の注釈を見るとわかります。ここにはわざわざ「訳すと、遣わされた者」とあります。神から遣わされた者とはだれでしょうか。そうです、イエス・キリストです。つまり、シロアムの池に行って洗うと目が開かれるというのは、イエス様の言葉を信じ、イエス様のもとに行って洗うなら、目が開かれる、という救いのメッセージだったのです。

 

イエス様はそれを十字架と復活を通して成し遂げてくださいました。イエス様が十字架で流された血は、私たちをすべての罪からきよめることができます。そして、三日目によみがえられたイエス様は、私たちに永遠のいのちを与えることができるのです。これが神の救いのご計画でした。それは常識では考えられないこと、アンビリバボーです。しかし、その神のみこころを信じて従うとき、私たちの心の目も開かれるようになるのです。常識や理性で理解できないことは絶対に信じないと思っている人は、決して心の目、霊的な目を開けていただくことはできません。主が「これをせよ」と言われることに対して、信仰をもって従う人だけが開かれるのです。

そして、このように私たちを罪から救うことができる方は、私たちをすべての問題から解放することができます。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

いろいろなことで疲れ果て、落ち込んでいる私たちを真に救うことができるのは、私たちを様々な不幸の原因である罪から救うことができるイエス様だけです。あなたもこの方を救い主として信じ、この方が命じられることに従う時、そこに大いなる救いのみわざが現れるのです。

 

あなたはどうでしょうか。シロアムの池に行って洗いましたか。イエス様はあなたを救うことができます。あなたの悩みや問題のすべてを解決することができる方です。「何でだろう」と過ぎ去った過去を見てくよくよして生きるのではなく、イエス様を信じて、イエス様が与えてくださる将来と希望を見つめて、前に向かって進んで行こうではありませんか。そこに神のわざが現されるのです。

出エジプト記12章

きょうは、出エジプト記12章から学びます。エジプトに、すでに9つのわざわいが下りました。そしてここに第10番目のわざわい、最後のわざわいが下ろうとしています。それは前の章において宣告されていましたが、エジプトの初子という初子はみな死ぬというものでした。しかし、イスラエル人は、そのわざわいを免れます。それを示したものが過越しの祭りと呼ばれるもので、旧約聖書にも、新約聖書にも、イスラエルの祭りの中ではこの祭りが一番多く出てきます。それだけ重要な祭りであるといえます。今回は、この過越しの祭りについて学んでいきましょう。

 

Ⅰ.過越の祭り(1-14)

 

まず1節から14節までを見ていきましょう。1節と2節をご覧ください。

「主はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」

この月がイスラエルの国にとって1年の最初の月になります。この月とは、ユダヤ暦の「アビブの月」のことです。バビロン捕囚以降は、この月は「ニサンの月」と呼ばれるようになります。「アビブの月」も「ニサンの月」も、同じ月のことです。現代の暦では、3月か4月になります。なぜこの月が年の最初の月となるのでしょうか。それは、この月がイスラエルの国の始まりとなるからです。彼らは長い間エジプトに捕らえられており、自分たちの国がありませんでした。しかし、主はそこからご自分の民を解放し、約束の地へと導かれます。その最初の月がこの月なのです。ですから、ここから始めなければなりません。

 

さらに主はこのように命じられました。3節から5節をご覧ください。

「この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。:5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。」

ニサンの月の10日に、家族ごとに羊を用意します。その家族の人数が羊1匹の分より少ない場合は、隣の家の人と分かち合わなければなりません。すなわち、一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければなりません。

 

その羊は、傷のない1歳の雄でなければなりません。それを子羊かやぎのうちから取らなければなりませんでした。つまり、完全なものでなければならなかったということです。神へのいけにえは、傷や欠陥があってはならないのです。それは、私たちの罪のためのいけにえであるからです。Ⅰペテロ1:18-19には、「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。私たちの主は罪のない完全ないけにえでした。だからこそ、神にささげることができたのです。

 

6節から11節までをご覧ください。

「あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。生のままで、または、水に入れて煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは燃やさなければならない。あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは主への過越のいけにえである。」

 

その羊をこの月の14日まで、すなわち、ニサンの月の14日まで、よく見守ります。なぜなら、その間に傷やしみがついてはいけなかったからです。それは、よく吟味することが必要でした。そしてイスラエルの民の全会衆は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の日本の門柱と鴨に塗らなければなりませんでした。

これは大体午後3時から日没までの間ということになります。日没になると、ユダヤの暦ではそこから一日が始まりますから、その前にほふったということになれます。ですからイエス様が十字架で死なれたのは、この14日のことだったのです。その日の夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の日本の門柱と鴨に塗らなければなりませんでした。

 

ここで重要なのは血を取ることと、それを家の門柱と鴨に塗ることでした。なぜなら、血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです(へブル9:22)。これが、永遠の昔から、神が人を救われる時に用いられる方法でした。覚えていらっしゃいますか。たとえば、アダムとエバが罪を犯した時に彼らはいちじくの葉を綴り合わせたもので腰の覆いを作りましたが、そんな彼らのために神は、皮の衣を作って着せられました(創世記3:21)。なぜ皮の衣だったのでしょうか。それは、神様は彼らの罪を覆うために血を要求されたからです。皮の衣を作るには動物をほふり、皮をはがさなければなりません。当然、そこに血が流れます。この血が要求されたのです。

 

アダムとエバの最初の子どもはカインとアベルでしたが、カインは神がアベルのささげたささげものを受け入れましたが自分のささげものを受け入れなかったことで怒り、弟アベルを殺してしまいました。人類最初の殺人事件です。いったいなぜ神はアベルのささげものを受け入れられたのにカインのささげものを受け入れなかったのでしょうか。それは、アベルは自分の羊の中から、しかも最良のものをささげたのに対して、カインはそうではなかったからです。彼は地の作物の中から神にささげました。しかし、神が求めておられたのは動物でした。なぜなら、そこに血が流されなければならなかったからです。そのことは後でレビ記17:11に出てきますが、いのちとして贖いのするのは血だからです。血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはありません。これが、永遠の昔から神が人の罪を贖うために計画しておられた方法だったのです。ですから、イエス様は十字架にかかって死んでくださったのです。それは、イエス様が動物の血ではなく、ご自分の血によって、私たちが神に受け入れられるようになるためです。その血を取り、それを二本の門柱と鴨居に塗ることによって、すなわち、イエス様が流された血を私たちの心に塗ること(信じること)によって、私たちに対する神のさばきが過ぎ越すためです。この命令どおり血を塗る徒、十字架が2本連なったような形になります。

 

そして、その夜、その肉を食べます。日没から、すなわち、翌日に入ってから過越の食事が始まります。食べ方も定められていました。まずその肉を食べました。その肉は火で焼かなければなりませんでした。生のままや、水で煮るという方法は許されません。その頭も足も内蔵も火で焼かなければなりません。これは、献身は全的なものでなければならないことを象徴しています。それを種なしパンと苦菜を添えて食べなければなりませんでした。パン種の入っていないパンを食べるのは、出エジプトの夜、急いでいたのでパンを発酵させる時間がなかったことを思い出すためです。また、苦菜を添えるのは、エジプトでの奴隷の状態での苦みと汗を思い出すためです。

もし残ったものがあれば、朝まで残しておいてはなりませんでした。それらをすべて火で焼かなければならなかったのです。なぜなら、翌日に同じものを食するようなことがあってはならなかったからです。これはイスラエルがエジプトからあがなわれたことを表す特別の食事だったのです。

 

過越しの食事の仕方にも決まりがありました。それは腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べるということでした。まるで立ち食いそば屋のような景色です。これは主が「旅立て」と言われたら、すぐに従えるように準備しておくためです。ちなみに、約束の地に入ったユダヤ人たちは、横になって過越しの食事をするようになります。それは、自分たちが自由の身になったことを表しているからです。

 

12節から14節までをご覧ください。

「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。 この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。」  イスラエル人たちが過越しの食事をしている時に、主はエジプトの地を巡り、さばきを下します。そのさばきとは、エジプトの地のすべての初子を打つ、というものでした。その中には、人の初子も家畜の初子も含まれていました。さらに主は、エジプト人のすべての神々にさばきをくだされます。しかし主は、イスラエル人の家々を通り越されます。なぜなら、その血がしるしとなるからです。「その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」(13)この聖句から「過越しの祭り」という言葉が生まれました。主は、血を見て過ぎ越されるのです。本来であれば、神のさばきは、エジプト全地に対するものでした。それゆえ、イスラエル人も本来ならエジプト人と同じように滅びなければならなかったのですが、彼らにはそのさばきが下りませんでした。それは彼らが何か良い民族だからではありません。ただ、血によってのみ、さばきが通り越したのです。これは、何回強調しても強調しすぎることのない、大切な真理です。私たちの中には、何一つ救われるべき理由はありません。さばかれる原因はすべて持っていますが、救われる理由は私たちの側には何一つありません。ただ、キリストの血によって救われたのです。
Ⅱ.種なしパンの祭り(15-20)

 

次に15節から20節までをご覧ください。 「七日間、種なしパンを食べなければならない。その最初の日に、あなたがたの家からパン種

を取り除かなければならない。最初の日から七日目までの間に、種入りのパンを食べる者は、みなイスラエルから断ち切られるからである。また最初の日に聖なる会合を開き、七日目にも聖なる会合を開く。この期間中は、いかなる仕事もしてはならない。ただし、皆が食べる必要のあるものだけは作ることができる。 あなたがたは種なしパンの祭りを守りなさい。それは、まさにこの日に、わたしがあなたがたの軍団をエジプトの地から導き出したからである。あなたがたは永遠の掟として代々にわたって、この日を守らなければならない。最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種なしパンを食べる。七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。すべてパン種の入ったものを食べる者は、寄留者でも、この国に生まれた者でも、イスラエルの会衆から断ち切られる。 あなたがたは、パン種の入ったものは、いっさい食べてはならない。どこでも、あなたがたが住む所では、種なしパンを食べなければならない。」

過越しの祭りに続いて、種なしパンの祭りに関する規定が続きます。過越しの祭りは1日だけで

すが、種なしパンの祭りは7日間続きます。小羊がほふられる14日の次の日、つまり過越の祭り

の次の日から、7日間祝われます。この二つの祭りは密接につながっているので、しばしば一つの

祭りとして祝われます。新約聖書の時代には、この8日間をまとめて「種なしパンの祝い」と呼ば

れていました。(ルカ22:1)なぜこれが種なしパンの祭りと呼ばれるのかというと、この祭りの期間は、

パン種を入れないパンを食べなければならないからです。それは、エジプトから出ることは緊急を

要していたので、パン種を発酵させる時間的余裕がなかったからです。もしこれを食べる者があれ

ば、イスラエルから断ち切られました。これはイスラエルの共同体から断ち切られることを、すなわ

ち死を意味していました。それだけ深い意味が、このパン種の中には含まれていたのです。

 

第一日目と第八日目に聖なる会合を開きました。この期間中は、いかなる仕事もしてはなりま

せんでした。ただし、料理だけは別です。なぜいかなる仕事もしてはいけなかったのでしょうか。それは、神が贖いのわざを成し遂げてくださったからです。天地創造において、神が天地創造のみわざを完成されたとき7日目を安息日として祝福したように、神の贖いの業を完成したその後の7日間を、主の安息の時としなければならなかったのです。そのことは17節にこう記されてあるとおりです。「あなたがたは種なしパンの祭りを守りなさい。それは、まさにこの日に、わたしがあなたがたの軍団をエジプトの地から導き出したからである。あなたがたは永遠の掟として代々にわたって、この日を守らなければならない。」 かくして、イスラエル人たちは過越しの祭り同様、主が彼らをエジプトから贖い出したことの記念として、これを永遠に守り行うようになりました。

 

いったいこのことは私たちにどんなことを教えているのでしょうか。パウロはコリント第一5:6-8で

こういっています。「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた

粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられる

ように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過

越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパ

ン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」

パン種は、罪や不正を表しています。パンを作るときに、イースト菌のはいったパンの一部を残

します。そしてそれを新しい粉のかたまりに混ぜると、粉全体をふくらませます。そしてそこからまた一部種ありパンを残しておくと、他の新しい粉と混ぜて、全体をふくらませることができます。したがって、わずかなパン種で、全体をふくまらせることができるのです。罪も、わずかな罪で死をもたらすことができるほど、広がるものです。ですから、パウロはコリントのクリスチャンに、パン種のない生活をすることを勧めているのです。なぜなら、すでに過越しの子羊がほふられたからです。これは、過越の小羊イエス・キリストが流された血によって、罪が取り除かれ、完全に清められた者とされたことを意味しています。ですから、パンに種があってはならないのです。この勧めは、過越しの祭りの後には種なしパンの祭りが来ることを前提に語られています。私たちは過越しのキリストを信じて罪が赦されたのですから、種なしパンの祭りを実践しなければならないのです。

Ⅲ.過越しの祭りの実行(21-28)

モーセは、主が語られた過越しの祭りを実行するためにそれをイスラエルの長老たちに告げます。21節から28節をご覧ください。

「それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて礼拝した。こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」

 

イスラエルの民は、家族ごとに過越しのいけにえをほふり、ヒソプの束を一つ取って、それを鉢の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなければなりませんでした。後にヒソプは、罪をきよめる象徴となりました。ダビデがバテ・シェバと姦淫の罪を犯した時、「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。」(詩篇51:7)と言っています。私たちの罪を清めるのは、キリストの血なのです。  彼らは朝まで、自分の家の戸口から出てはなりませんでした。なぜなら、外では主がエジプトを打つために行き巡っておられるからです。主は敷居と二本の門柱にある血を見たら、その戸口を過ぎ越すので、滅ぼす者が彼らの家に入って彼らを打つことはありません。これは彼らとその子孫が永遠に守るべき祭りとなります。つまり、イスラエルの民が、約束の地に入った時、その祭りを世々限りなく行わなければならないということです。その時子どもたちが「この儀式には、どういう意味があるのですか」と尋ねるなら、「これは主の過越しのいけにえだ」と、その意味を彼らに教えなければなりません。

 

すると民はどうしたでしょうか。「すると民はひざまずいて礼拝した。こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」

すばらしいですね。彼らはひざまずいて礼拝しました。そして、神の命じられたとおりに行ないました。イスラエルの民は、神からの命令を信じ、そのとおりに行ったので、死から救われました。私たちも、神が命じたとおり、キリストの福音を信じたので、滅びから救われました。大切なのは、神が命じたことを信じ、そのとおり行うことです。  Ⅳ.出エジプト(29-36)

 

次に29節から36節までをご覧ください。

「真夜中になったとき、主はエジプトの地のすべての長子を、王座に着いているファラオの長子から、地下牢にいる捕虜の長子に至るまで、また家畜の初子までもみな打たれた。その夜、ファラオは彼の全家臣、またエジプト人すべてとともに起き上がった。そして、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こった。それは死者のいない家がなかったからである。彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って主に仕えよ。おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」エジプト人は民をせき立てて、その地から出て行くように迫った。人々が「われわれはみな死んでしまう」と言ったからである。」

 

いよいよ第十番目のわざわいが下されます。これが最後のわざわいです。それはエジプト中に深い衝撃と悲しみをもたらしました。真夜中になって、主は、エジプトの地のすべての初子を、王座に着いているファラオの長子から、地下牢にいる捕虜の長子に至るまで、また家畜の初子までみな打たれたのです。それでエジプトのすべての家が何らかの被害を受けました。その結果、エジプト中に激し嘆き叫びが起こりました。

 

それでファラオはついに降参しました。彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて、エジプトから出て行くように、行って主に仕えるようにと言いました。そればかりではありません。モーセとアロンが言うように、羊の群れも牛の群れも連れて行くように、そして、自分たちのために祈れと言いました。それはファラオだけではありませんでした。エジプトの民も同様でした。彼らもイスラエルの民をせき立てて、この地から出て行くようにと迫ったのです。このままでは自分たちは死んでしまうと思ったからです。

 

「それで民は、パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担いだ。イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。」(34-36)

それで、イスラエルの民は、パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担ぎました。これは、彼らが練り粉をパン種を入れないまま取り、こね鉢を衣服に包み、肩に担いだということです。それは時間がなかったからです。また、彼らはエジプトを出てから数日間、種なしパンを食べなければなりませんでした。そればかりではありません。彼らは、モーセのことばのとおりに、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めました。これはイスラエルが後に荒野で導かれそこで幕屋を建設する際の資材となりました。

 

エジプト人は、イスラエルの民の要求に快く応じました。これまでの両者の関係を考えると、これは驚くべきことです。なぜエジプト人は快く応じたのでしょうか。それは何よりも、その背後に主の働きがあったからです。また、イスラエル人がすみやかにエジプトを出ることを、エジプト人が願ったからです。主への恐れが彼らをこのような行動へと駆り立てたのです。しかし、この出来事の最も特筆すべきことは、これが、かつて神がアブラハムに語られたことの成就であったということです。創世記15:14には、「しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。」とあります。その500年以上経ってから、その預言が成就しました。それは、神はご自分が語られたことは必ず成就させる真実な方であることを表しています。それゆえ、私たちが今どんなに辛い状況に置かれているとしても、主は、いつまでも私たちがそこにいることをお許しにはなりません。必ずそこから解放してくだいます。ですから、もし今自分が不当に扱われていると感じている人がいれば、このことを思い出しましょう。神はあなたのすべてをご覧になっておられ、あなたの行為に豊かに報いてくださいます。

 

Ⅴ.寝ずの番をされる主(37-42)

 

いよいよイスラエルの民はエジプトを出て行きます。37節から42節までをご覧ください。

「イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立った。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった。さらに、入り混じって来た多くの異国人と、羊や牛などおびただしい数の家畜も、彼らとともに上った。彼らはエジプトから携えて来た生地を焼いて、種なしのパン菓子を作った。それにはパン種が入っていなかった。彼らはエジプトを追い出されてぐずぐずしてはいられず、また自分たちの食糧の準備もできなかったからである。イスラエルの子らがエジプトに滞在していた期間は、四百三十年であった。四百三十年が終わった、ちょうどその日に、主の全軍団がエジプトの地を出た。それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。」

 

イスラエル人は、ラメセスから、スコテに向かって旅立ちました。人数は、幼子を除いて、徒歩の壮年の男子だけで約六十万人です。ものすごい人数です。女と子どもを加えたら、おそらく200万人は超えていたでしょう。ヤコブがエジプトに入ったときはわずか70人です。でも、そのときヤコブは神の約束を信じました。神の約束は確かに実現されましたが、ヤコブはその信仰のゆえに、大いなる報いを天において受けているのです。  エジプトを出たのは、イスラエル人だけではありませんでした。多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上りました。というのは、片親がイスラエル人の人、イスラエルと同じく奴隷になっていたセム系の民族であったと思われます。彼らはこの混乱に乗じてイスラエル人といっしょにエジプトを脱出しました。

この入り混じって来た外国人たちは、やがて問題を起こすようになります。民数記11:4-5には、彼らは激しい欲望にかられ、イスラエル人も彼らに釣られて、「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。」と言いました。このため、神は激しい疫病で彼らを打たれました。彼らはイスラエル人たちと目的を共有しませんでした。価値観や使命感を共有できない人たちと共に進むことは危険なことです。最初はよくても、逆風が吹き始めると、彼らは不平不満を言うようになります。自分がどのような人たちと協力関係に入ろうとしているのかを、もう一度吟味する必要があります。彼らはエジプトから携えて来た練り粉を焼いて、パン種の入れていないパン菓子を作りました。それにはパン種が入っていませんでした。というのは、彼らは、エジプトで追い出されて、ぐずぐずしてはおられず、また自分たちの食料の準備も出来ていなかったからです。

 

イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は430年でした。430年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出ました。モーセがこのように書くことができたのは、エジプトに入った年月を、誰かが記録し、それを覚え、指折り数えていた人がいたからでしょう。イスラエルの民のほぼ全員が失望と不信仰の中にあっても、神の約束を信じ続けていた人々がいたのです。神のわざは、このように人たちによって前進するのです。神はご自身の約束を覚えておられます。まだ祈りが応えられなくとも、神は必ずご自身の約束を実現してくださると信じて、信仰によって歩みましょう。

 

それにしても、エジプトから出るのになぜこんなにも時間がかかったのでしょうか。わかりません。ただ、モーセというリーダーが登場するためにも、80年という年月を要しました。神の器ができるためには時間がかかるのです。でもそれは、神の約束が否であるということではありません。神の約束は必ず実現します。ですから、それがまだ起こっていなくても、神が約束したことは必ず実現すると信じて前進しましょう。そうすれば、驚くべき神のみわざを体験するようになるのです。

 

42節をご覧ください。

「それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。」

 

この夜、主は寝ずの番をされました。それは、そこに主の特別な守りがあったということです。それゆえ、イスラエル人は、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのです。つまり、子々孫々と過越しの祭りを守るということです。「主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」(詩篇121:3-4)主は、私たちのために寝ずの番をされます。それゆえ、たとえ今の状況が受け入れられない、喜ぶことができないようなものでも、そこに主の守りがあることを信じて、感謝しようではありませんか。

 

Ⅵ.過越しに関する追加規定(43-51)

 

最後に、43節から51節までをご覧ください。 「主はモーセとアロンに言われた。「過越に関する掟は次のとおりである。異国人はだれも、これ

にあずかってはならない。しかし、金で買われた奴隷はだれでも、あなたが割礼を施せば、これに

あずかることができる。居留者と雇い人は、これにあずかってはならない。これは一つの家の中で

食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、そ

の骨を折ってはならない。イスラエルの全会衆はこれを行わなければならない。もし、あなたのとこ

ろに寄留者が滞在していて、主に過越のいけにえを献げようとするなら、その人の家の男子はみ

な割礼を受けなければならない。そうすれば、その人は近づいてそれを献げることができる。彼は

この国に生まれた者と同じになる。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはならない。このお

しえは、この国に生まれた者にも、あなたがたの間に寄留している者にも同じである。」

イスラエルの子らはみな、そのように行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。 まさにこの日に、主はイスラエルの子らを、軍団ごとにエジプトの地から導き出された。」  過越しの規定に関する追加規定です。追加規定が書かれたのは、多くの外国人が入り混じって来たからでしょう。基本的に、外国人はだれも食べる事はできませんでした。けれども 奴隷は割礼を施せば食べることができました。居留者(短期滞在者)と雇い人は、これに与ることができませんでした。これは、神の民となった者だけが、あずかることができました。

 

また、過越しのいけにえは、一つ家で食べなければなりませんでした。肉の一切れでも家の外に持ち出してはなりません。その骨を折ってはなりませんでした。これは詩篇34:20でメシヤ預言として引用されています。すなわち、それはイエス・キリストの十字架を預言していました。そしてそれは、ヨハネ19:33の「イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。」によって成就しました。

 

もし、寄留者が滞在していて、主に過越しのいけにえをささげようとするなら、その家の男子はみな割礼を受けなければなりませんでした。そうすれば、その人は近づいてささげることができました。彼はこの国に生まれた者と同じとなるからです。しかし無割礼の者は、だれもそれを食べてはなりませんでした。旧約の時代でも、信仰を持つなら異邦人でも招かれていたのです。すなわち、主はすべての人が救われることを願っておられたということです。

 

このように、イスラエル人が過越しの食事を行うのは、彼らが主の圧倒的なみわざによってエジプトから救い出されたことを記念するためでした。同じようにクリスチャンは、キリストが私たちを罪から贖ってくださるために十字架で死んでくださったことを記念するために聖餐式を行っています。それが主の定められた礼典でした。私たちは、そのことによって神の愛と恵みを思い出すことができます。神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っています。すなわち、心に割礼を受けることを望んでおられるのです。私たちの救いのために主イエスが成し遂げてくださった救いのみわざを覚えて感謝しましょう。

ヨハネの福音書8章47~59節 「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです」

今日は、58節のイエス様のことば、「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」から、ご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.死を見ることがない人たち(48-51)

 

まず48節から51節までをご覧ください。48節には、「ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」とあります。

 

このヨハネの福音書8章は、姦淫の現場で捕らえられた女に対して、律法学者とパリサイ人がイエス様に、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じていますが、あなたは何と言われますか」と質問したのに対して、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたことから、彼らとの長い論争が続きます。

12節のところでイエス様は、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。しかし、彼らは、そのイエス様のことばを受け入れることができませんでした。なぜなら、真実な証言には二人の人以上の証言が必要とされていたからです。

そんな彼らに対してイエス様は、「わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」(24)と言われました。なぜなら、イエス様を信じなければ、彼らの罪が残ることになるからです。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。しかし、真理はあなたがたを自由にします。イエス様こそその真理であり、そのみことばに従うことによって、私たちは本当の自由を得ることができるのです。

しかし、彼らはイエス様を受け入れることができませんでした。自分たちはアブラハムの子孫であって、何の奴隷でもない、と主張したのです。でも、もし彼らがアブラハムの子孫であるなら、アブラハムのわざを行うはずです。それなのに、彼らはイエス様を殺そうとしていました。それは、彼らがアブラハムの子孫ではなく、「悪魔から出た者」であり、悪魔の欲望を成し遂げたいと思っているからです。

 

するとそれを聞いていたユダヤ人たちは、「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」と言いました。どういうことでしょうか。これは、ひどい言葉です。おそらく、当時、考えられる限りの最悪の言葉だったでしょう。

「サマリア人」というのは本来サマリアに住んでいる人を指して使われる言葉でしたが、次第に、相手が誰であろうと関係なく軽蔑して言う時に使われるようになった言葉です。というのは、B.C.931年に、イスラエルは北王国イスラエルと南ユダ王国に分裂するのですが、B.C.722年にその北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされると、アッシリア帝国は多くの人々を捕虜して連れて行った代わりに他国の人々を連れて来て住まわせたため、彼らは混血族になってしまったからです。純血を重んじるユダヤ人にとって、それは考えられないことでした。それ以来、混血族になってしまったサマリア人を、神の祝福を受けられなくなってしまった人々として蔑視するようになったのです。それでユダヤ人はサマリア人を徹底的に嫌っていました。話もしなければ、その土地も通りませんでした。完全にシャットアウトしていたのです。そのサマリア人だと言ったのです。

 

また、悪魔というのは悪の霊のことです。それは神と正反対の存在で、神からもっとも遠く離れた存在です。神様がきよく正しい方であるならば、悪魔はもっとも汚れた不正な存在です。彼らはイエス様を、「お前はそのような悪魔に取りつかれたやからに違いない」と決めつけたのです。リビングバイブルでは、このところを次のように訳しています。「あんたはサマリア人だ!よそ者だ!悪魔だ!そうとも、やっぱり悪魔に取りつかれているんだ!」ユダヤ人の指導者たちはわめき立てました。」非常によく、その雰囲気を捉えているのではないでしょうか。神の子イエスを前にして、彼らは全く何も見えていなかったのです。何と驚くべきことでしょう。

 

それに対してイエス様はこのように答えられました。49節と50節です。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。」

そして、こう言われました。51節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」

イエス様はいつも重要なことを言われるとき、「まことに、まことに、あなたに告げます。」と前置きして言われますが、ここでもそうです。そしてその重要なことと

は何かというと、だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがないということでした。この「死」とは、もちろん「霊的死」のことです。霊的死とは、創造主なる神との関係が切れている状態を指します。人は神のかたちに造られ、神と関係を持って生きるように造られたので、それによって真の喜びと幸福を味わうことができるのに、それを永遠に味わうことができないとしたらどんなに不幸なことでしょう。その人の行き着く所は永遠の死です。これが聖書で言っている第二の死のことです(黙示録21:8)。しかし、イエス様を信じる者は、肉体的には死ななければならなくても、霊的に死ぬことはありません。その霊は永遠に生きるのです。イエス様は言われました「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:47)

 

アメリカフロリダ州にある大きな長老教会の牧師で、「爆発する伝道」という世界的に用いられている伝道教材を作ったジェームズ・ケネディ牧師は、2007年に天に召されましたが、彼はクリスチャンの死生観について次のような言葉を残しています。

「いつか、私にも人生の終わりというものが来ます。私は箱に入れられ、教会の前のちょうどそのあたりに安置されるでしょう。周りには人が集まって、泣いている人もいるかもしれません。ただ、これまで言ってきたように、そうしないでいただきたい。皆さんに泣いてほしくないのです。告別式は、頌栄(神に栄光を帰する賛美歌)で始めて、ハレルヤコーラスで締めくくってください。私はそこにはいないし、死んでなんていないのですから。私は、今まで生きてきたどの時よりも生き生きとしていて、かわいそうな皆さんを上から眺めています。死にゆく世界にとどまっている皆さんは、生ける世界にいる私のもとにはまだ来ることができません。そして私は、私自身も、だれも経験したことがないほどの健康と、活力と、喜びにあふれ、いついつまでも生き続けるのです。」

何と希望に満ちた言葉でしょうか。人は皆、死に対して恐れや不安を持っていますが、このような希望が約束されていることがわかれば、私たちの死は確実に安らかなものとなるのではないでしょうか。仏教では、悪い行いを一切しないように努力し、できる限りよい行いをして功徳を積んでいれば、安らかな死を迎えることができると説きますが、悪い行いを一切しないで生きることができる人がいるでしょうか。いません。ですから、私たちは行いによっては決して罪が消えることはなく、いつも死に対して不安を抱えて生きなければなりませんが、キリストを信じ、キリストのことばに生きる人は、いつまでも決して死を見ることはありません。

 

教会では今、マクペラの墓に墓地を求めることになりました。この礼拝堂くらいの広さがあります。できれば、その入口に教会の名前とみことばの入った墓石を置きたいなぁと思っていますが、もし置くとしたら、どんなみことばがいいだろうと勝手創造しています。そして、このみことばがいいんじゃないかなぁと思うんです。それは、ルカの福音書24:6「ここにはおられません。よみがえられたのです。」です。私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に なって、あの大きな空を 吹きわたっています、ではないですが、もうそんなところにはいない。今まで生きてきたどの時よりも生き生きとしていて、かわいそうな皆さんを上から眺めています、と言えるのは、本当にすばらしい希望です。

 

先週、さくらのNさんの義母様が召されました。もうダメだというとき、Nさんからメールをいただきました。これまでなかなか母に心を開くことができず、福音を語ることができなかったのですが、先週のメッセージで、赦すというのは感情の問題ではなく信仰の問題だとお聞きし、あれからイエス様に祈ってみたら、やって心を開くことができるようになりました。それで、明日の昼、ちょうど母と二人きりになる時間が与えられるので、母に福音を伝えたいのですがどのように伝えたらよいか端的に教えてください、ということでした。

それで私は、五つのポイントがあります。一つは、これまでお母さんに心を開けなかったことをお詫びし、二つ目に、お母さんにも天国に行ってほしいことを伝え、三つ目に、そのためにイエス様が十字架にかかって死んでくださったということ、そして、四つ目に、このイエスを信じるならすべての罪が赦されて永遠のいのちが与えられるということ、その約束のことば、ヨハネ6:47の「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持っています。」を伝えること、最後に、この福音を信じるようにお勧めすることです。信じるなら、「アーメン」と言って応答するなり、首を縦に振って示してほしいということを伝えて、祈ってください、と伝えました。

後でメールが来ました。言われたとおりに福音を伝えることができました。しかし、すぐに昏睡状態に陥ったため、どのように受け止めたかはわかりませんということでした。でも、その後も何度も祈り、賛美する時間が与えられました、ということでした。

お母さんは、その三日後に召されましたが、結果はすべて神におゆだねし、この救いのみことばをはっきりと伝えることができたことに感謝することができました。先週の月曜日に行われたお別れの会は、急遽「感謝会」となり、お母さんを心から見送ることができました。「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」私たちには、この救いのみことばがゆだねられているのです。

 

ところで、ここには「わたしのことばを守るなら」とあります。この「守る」という言葉は、宝物を保管して大事にするという意味があります。そのように主イエスのことばをいいかげんに扱うのではなく、それに心から従う態度で守るということです。つまり、信仰を持ってみことばを心から受け入れ、それを心にたくわえ、また自分自身の生活に適用し、そのみことばの意味しているところに従って生きるということです。ですから、守るということは、ほかの人が守っているかどうかを問題にすることではなく、自分がそのみことばに生きているということにほかなりません。このようにキリストのことばに生きる人は、いつまでも決して死を見ることがないのです。

 

Ⅱ.アブラハムよりも偉大なのか(52-56)

 

次に、52節から56節までをご覧ください。この主の言葉を聞いて、ユダヤ人は何のことを言っているのかさっぱりわからず、このように言いました。52節、53節です。

「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」

 

彼らには、肉体の死と、霊的死、永遠の死の区別がつきませんでした。イエス様が「わたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません」と言われると、「何を言うか、自分たちの父祖であるアブラハムも、昔の預言者たちも神のことばを守っていたのに死んでしまったではないか。それなのにあなたは、「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない」と言う。自分を何様だと思っているのか。父祖アブラハムよりも偉大な者であるとでも言うのか。」と反論しました。

 

するとイエス様はこう言われました。54節から56節です。

「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」

 

ここでイエス様が言っておられることは、父なる神と御子イエスとの親しい関係です。しかもその関係というのは、父なる神が、御子イエスに栄光を与えられるという関係です。これはどういうことかというと、父なる神がイエスをはっきり御子として認めておられるということです。ですから、この御子イエスをどのように見るかということで、私たちが父なる神にどのように評価されるかが決まるのです。それはユダヤ人たちが信仰の父と仰ぐアブラハムが、主イエスをどのように見ていたかをみればわかるでしょう。「アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」これはどういうことでしょうか。

 

これは大きく二つの解釈に分けられます。一つは、アブラハムは実際にメシヤを見たわけではなかったが、いつかその日が来るということを信仰によって見ていたということです。

もう一つは、創世記18章においてアブラハムのところに三人の御使いが現れたという出来事が記されてありますが、あの出来事のことを指していると考えています。あのマムレの樫の木のそばで三人の御使いがアブラハムに現れたあの出来事です。そのうちの一人は主ご自身でした。受肉前のキリストですね。アブラハムは、この時実際に主を見て喜んだというのです。

この中で最も適切だと思われる解釈は、先のものでしょう。というのは、主は、「アブラハムはわたしを見た」と言われたのではなく、「わたしの日を見た」と言っておられるからです。アブラハムにとっての喜びは、彼の子孫からメシヤ、救い主が出るという約束に対して、それを信仰によって遠くから見ることでした。アブラハムは、それを見て喜んでいたのです。

 

また、同じヨハネの福音書12章41節に、「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。」とありますが、ここでの言い方とこの表現とが調和していることから考えても、これは、アブラハムがやがて来られるメシヤの日を喜び、それを信仰によって見て、喜んでいたと解釈するのが自然です。

 

また、ここでイエス様がこのように言われたのは、アブラハムがわたしを見たのだということを告げることにあったとは思えません。そうではなく、むしろ、わたしはあなたがたの父祖アブラハムに約束された「その末」なるメシヤである、と告げることが目的だったのではないかと思われます。ユダヤ人たちが、「あなたはアブラハムよりも偉大なのか」と尋ねた時、主は「そうである」ということの根拠をここに示そうとしておられたのです。つまり、「わたしはそうである。わたしは、アブラハムがメシヤの日のことを聞いて喜び、信仰によってそれを遠くに見たそのメシヤそのものなのである。もしあなたがたがアブラハムのようであったなら、あなたがたもわたしを見て喜んだであろう。」と言いたかったのです。

 

このようにして見ると、イエス様の偉大さが際立っています。ユダヤ人たちは、あなたは、私たちの父祖アブラハムよりも偉大なのかと言いましたが、主はアブラハムとは比較にならないほど偉大な方なのです。なぜなら、主はそのアブラハムが信仰によって見ていたメシヤそのものであられるからです。そのことはアブラハムだけでなく、すべてのクリスチャンにとっても同じです。イエス・キリストこそ、私たちにとっての生きがいであり、喜びであり、希望そのものなのです。

 

あなたはどこに希望を置いていらっしゃいますか。あなたの生きがい、喜びは何でしょうか。信仰の父アブラハムが喜びとしたイエス・キリストこそ真の喜びであり、生きがい、希望ではないでしょうか。

 

Ⅲ.アブラハムが生まれる前から「わたしはある」なのです(57-59)

 

最後に、57節から59節までをご覧ください。57節には、「そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」とあります。

 

ユダヤ人たちにはまだイエス様が言っておられることの意味が分かっていませんでした。彼らは、目に見える肉体の姿で地上におられるイエス様だけを見ていたので、「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか」と言いました。そんなことあり得ません。なぜなら、アブラハムは二千年も前に生きていた人物だからです。そのアブラハムを見るなんてできるはずがないだろう、と詰め寄ったのです。

 

するとイエス様はこのように言われました。58節です。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」これは驚くべきことです。イエス様はイエス様の時代よりも二千年も前に生きていたアブラハムが生まれる前からおられたというのですから。それだけでなく、この「わたしはある」という表現は、ユダヤ人ならば誰でも思い出す旧約聖書の表現でした。

旧約聖書の出エジプト記3章14節に、神はモーセに、「わたしは『わたしはある』という者である。」と言われたことが記されてあります。これは聖書の神が他の何ものにも依存しないでも存在することができる方であるということ、すなわち、すべての存在の根源であることを示しています。そうです、聖書の神は、すべてのものを創られた創造主であられるのです。

 

そして、イエス様が「わたしはある」と言われるとき、それはイエス様がこの「わたしはある」という者であることを示しています。これはギリシャ語では「エゴー・エイミー」という言葉であることは以前お話ししたとおりです。ヨハネの福音書には、この「エゴー・エイミー」という言葉を何かと組み合わせてイエス様がこの世の救い主であることを示している箇所が7回出てきます。

「わたしは命のパンです。」(6:35,41,48,51)

「わたしは世の光です。」(8:12)

「わたしは門です。」(10:7,9)

「わたしは良い羊飼いです。」(10:11,14)

「わたしはよみがえりです。いのちです」(11:25)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1,5)

つまり、イエス様が「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』なのです」と言われたのは、ご自身が神であり、永遠の存在者であるという宣言だったのです。ですから、それを聞いたユダヤ人たちは、イエス様に石を投げつけようとしたのです。イエス様がご自分を神に等しい方とされたからです。もしイエス様が実際にそうでなかったとしたら、それは神を冒涜することになり、石打ちにされても仕方ないでしょうが、しかし、イエス様はまことの神であり、神と同等であらる方なので、神を冒涜する罪は犯しませんでした。イエス様はまことの神であられ、アブラハムが生まれる前からおられた永遠なる神なのです。

 

イエス様はこの天地を創造された時にも、アブラハムの時代にも、モーセやイザヤの時代にも、いつの時代も存在しておられた方であり、今、この時も存在して、あなたの傍らにおられます。そして、あなたを無力さや失望から救い出してくださいます。なぜなら、すべての存在の根源であられるキリストがあなたの人生に目的と意味を与えてくださるからです。

 

この方を信じるとき、あなたはあらゆる虚しさや絶望から解放され、本当の生きがいを見いだすことができます。あなたを創造しどんな時もあなたとともにおられるキリストこそ、あなたに真の喜びと希望、そして生きがいを与えることができる方なのです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

Ⅰサムエル記1章

きょうから、サムエル記第一を学んでいきたいと思います。きょうはその第1章です。

 

Ⅰ.ハンナの痛み(1-8)

 

まず、1~8節までをご覧ください。

「エフライムの山地ラマタイム出身のツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。この人はエロハムの子で、エロハムはエリフの子、エリフはトフの子、トフはエフライム人ツフの子であった。エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もう一人の名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。この人は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた。そこでは、エリの二人の息子、ホフニとピネハスが主の祭司をしていた。そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、 ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。また、彼女に敵対するペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた。そのようなことが毎年行われ、ハンナが主の家に上って行くたびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか。」

 

舞台は、エフライムの山地です。ラマタイム出身のツフ人の一人で、エルカナという人がいました。第三版には「エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。」とあります。こちらの方がわかりやすいですね。「ラマタイム・ツォフィム」とは「ラマ」のことです。ですから、エフライムのラマという町にエルカナという人がいたとなります。

彼には二人の妻がいました。一人は「ハンナ」といい、もう一人は「ペニンナ」といいました。「ハンナ」とは「恵み」という意味があります。また、「ペニンナ」という名には「真珠」という意味があります。なぜエルカナには二人の妻がいたのでしょうか。当時の習慣や律法の教えを考慮すると、ハンナに子が与えられていなかったので、さらにペニンナを妻として迎えたのではないかと考えられます。というのは、当時、不妊であるというのは、神ののろいが下ったものと考えられていたからです。申命記7章14節にこうあります。

「あなたはあらゆる民の中で最も祝福される。あなたのうちには、子のいない男、子のいない女はいなくなる。あなたの家畜も同様である。」

それはハンナの存在価値を失わせるようなことでした。それで夫のエルカナは、ハンナによって得られなかった子供をペニンナによって得ようとしたのではないかと思われます。それはハンナのことを思ってのことです。

 

しかし、すべての不妊がそうなのではありません。神の時が来るまで、一時的に不妊の状態に置かれた婦人たちもいました。ハンナはその良い例です。また、神によってあえてそのような状態に置かれる場合もあります。その場合、たとえば、子供がいてはできないような奉仕に導かれることがあります。ですから、すべての不妊が神ののろいによるのではありません。人間的に不幸と思えることの背後にも、神の深いご計画があることを覚えておかなければならないのです。

 

では、ハンナの場合はどうだったのでしょうか。神は彼女にどんなご計画を持っておられたのでしょうか。3節には、「この人は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた」とあります。

イスラエル人の男性は、年に3度、主の宮に上って、主を礼拝し、いけにえを捧げるように命じられていました。エルカナは神に対して非常に忠実な人であったので、毎年シロに上り、主を礼拝し、いけにえをささげていたのです。そして、そのいけにえの中から自分の受ける分を取り、家族とともに祝いの食事をしていました。ここには「受ける分」とあります。これは、和解のいけにえをささげる場合に行なわれときにささげる者が受ける分のことです。祭壇でいけにえを焼くとき、脂肪分は完全に焼き、それを主のものとしてささげると、胸と右肩の肉は祭司のものとなりました。そして残りがそのささげた人のものとなるわけですが、それがその「受ける分」です。これを共に食べることによって、神と交わりを持つことができるとされていました。

エルカナは、妻のペニンナとその息子たちと娘たち全員に、それぞれ受ける分を与えるようにしていましたが、ハンナには特別の受ける分を与えていました。この「特別の受ける分」とは、下の欄外の説明にあるように、直訳では「二つの鼻」のことです。これは2倍の量、あるいは最良の部分を意味します。それを与えていたのです。それは、彼女の胎が閉ざされていましたが、彼がハンナを愛していたからです。おそらく、不妊で苦しむ彼女を慰め、自分の愛を伝えたかったのでしょう。また、もう一人の妻ペニンナが、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせているのを見て、慰めようとしたのだと思います。

 

しかし、そのようなことが毎年行われるので、ハンナが主の宮に上って行くたびに、悲しみのあまり、主との交わりである特別の食事でさえ喉が通らなくなりました。そこで夫のエルカナは、ハンナを励ますためにこう言いました。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか。」つまり、あなたは私の愛を得ているのだから、それは10人の息子を得る以上のことではないか。だからがっかりしなくてもいい、と言っているのです。だったらなぜペニンナを妻にしたのか、と言いたくなるところですが、彼は自分にできる限りの愛をもって彼女を励まそうとしているのです。彼は自分の存在は彼女のためであり、そのすべてを得ていることが彼女の癒しになると考えていたのです。

彼の存在が10人の息子以上の者であるかどうかはわかりませんが、間違いなく言えることは、私たちの主イエスの存在は、息子10人以上の価値があるどころか、私たちの心の痛みを完全に癒すことができるということです。私たちの心の痛みや嘆きは、エルカナ以上のお方、私たちの主イエス・キリストによって完全に癒されるのです。パウロはピリピ人への手紙の中で、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてのことを損と思っています。」(ピリピ3:8)と言っています。キリストを知っているということは、すべてを得ていることなのです。ですから、私たちにもハンナのような痛みやイライラがあるかもしれませんが、息子10人にもまさる方、いや、すべてのすべてであられるイエス様が与えられていることを感謝し、この方を見上げながら前進しようではありませんか。

 

Ⅱ.ハンナの祈り(9-20)

 

次に9節から20節までをご覧ください。11節までを読みます。

「シロでの飲食が終わった後、ハンナは立ち上がった。ちょうどそのとき、祭司エリは主の神殿の門柱のそばで、椅子に座っていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」

 

さて、シロでいけにえをささげ、食事が終わると、ハンナが立ち上がりました。ただ立ち上がったということではありません。主の宮に行って祈るために立ち上がったのです。彼女の心は痛んでいました。それで彼女は主の宮で激しく泣き、心を注いで祈ったのです。祭司エリは、その様子を主の宮の門のそばで、椅子に座って見ていました。

ハンナは誓願を立てて言いました。「もし神がはしためを顧みてくださり、男の子を与えてくださるのなら、その子を一生涯、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりをあてません。」これはナジル人の誓願です。(民数記6:5)士師記に登場したサムソンも生まれながらのナジル人でした。この両者の違いは、サムエルは母の誓願によってナジル人になったのに対して、サムソンは神の命令によってナジル人になったという点です。聖書には、生まれながらのナジル人として登場する人が3人います。このサムエルとサムソン、そして、バプテスマのヨハネです。主はこのような祈りを通して、ご自身のみわざを現そうとしていたのです。

 

ヨハネ第一の手紙5章14節には、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」とあります。主が人の心に、ご自分の願いを起こされます。そして、神がその祈りを聞かれることによって、ご自分のわざをその祈った人を通して行なわれます。祈りは、私たちの願いではなく、神のみこころがこの地上で行なわれるための手段なのです。

 

詩篇50篇15節には、「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」とあります。ハンナの祈りに答えてくださった神に、私たちも祈る特権が与えられています。私たちも、私たちを苦難から助け出してくださる主に、心を注いで祈ろうではありませんか。

 

次に12節から18節までをご覧ください。

「ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」

 

ハンナは主の前で長く祈っていましたが、それは言葉に出さずに心の中で祈っていたので、唇だけが動いていただけで、声は聞こえませんでした。そこでそれを見ていた祭司エリは、彼女がぶどう酒を飲んで酔っているのだと思ってこう言いました。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

 

するとハンナは、自分が酔っているのではなく、心に悩みがあるので、主の前に心を注いで祈っていると説明しました。

 

それを聞いたエリは、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いがかなえてくださるように。」と言いました。これは祈りなのか、それとも預言なのか、あるいは単なるあいさつなのかわかりません。しかし、それがどのようなものであったとしても、彼女はそれを神からの約束の言葉として信じて受け取りました。このように信仰によって神の約束を受け取ることが重要です。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)とあるからです。

 

彼女はどれほどうれしかったでしょう。そのうれしさは、18節の次の言葉によく表されています。「それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」

彼女は、祭司エリを通して語られた主の言葉を信じて、帰路に着きました。すると、食事が喉を通り、その表情も以前のように悲しみに満ちたものではなくなりました。これが心を注ぎだす祈りをした結果です。彼女の顔は変わりました。祈りは周りの状況を変える前に、自分の内面を変えるのです。たましいの創造者に自分を任せることができるようになるからです。

 

19節、20節をご覧ください。主は彼女の内面を変えただけでなく、その実際的な必要にも応えてくださいました。「彼らは翌朝早く起きて、主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家に帰って来た。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。」

 

ここの「知った」というのは、もちろん夫婦関係を持った、ということです。そして主が彼女を心に留めておられたので、彼女は身ごもって男の子を産みました。それが「サムエル」です。「サムエル」とは、「神が聞いてくださった」という意味です。ハンナは、自分の祈りが聞かれたことをいつまでも覚えておくために、自分の息子に「サムエル」という名前を付けたのです。あなたは自分の人生の中で主が祈りをきかれ、あなたに良くしてくださったことを、どのように覚えておられますか。今もう一度、主の恵みを思い起こして、主の御名をほめたたえましょう。

 

Ⅲ.子どもを主にささげたハンナ(21-28)

 

最後に21節から28節まで見て終わりたいと思います。

「夫のエルカナは、年ごとのいけにえを主に献げ、自分の誓願を果たすために、家族そろって上って行こうとした。しかしハンナは、夫に「この子が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。 夫のエルカナは彼女に言った。「あなたが良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまでとどまりなさい。ただ、主がそのおことばを実現してくださるように。」こうしてハンナはとどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。その子が乳離れしたとき、彼女は子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行った。その子はまだ幼かった。彼らは子牛を屠り、その子をエリのところに連れて行った。ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。」

 

夫のエルカナは、毎年主の宮に上ることを習慣としていました。しかし、息子が誕生するとハンナは、上って行くことを拒みました。それは彼女が幼子を主にささげたくなかったからではなく、幼子が乳離れするまではその子を手元に置き、それから主の働きのためにささげようとしたからです。当時の習慣では、幼子が乳離れをするのは大体3歳くらいであったようです。夫のエルカナはその申し出を受け入れました。

ですから、サムエルは人生の基礎づくりとなる3年間を敬虔な母親の下で、母親の愛によって育てられることになるわけです。それはやがて信仰の偉人となるサムエルにとっては、欠かせないことでした。昔モーセも乳離れするまで実母の下で育てられたことを覚えていますか。それによって彼はへブル人としてのアイデンティティーをしっかりと持つことができました。同じように、サムエルも信仰と祈りに満ちた母ハンナに育てられることによって、将来主のために用いられる礎をしっかりと築くことができたのです。それにしても、敬虔な母親によって育てられた人は、何と幸いでしょうか。

 

古代キリスト教の偉大な神学者の一人アウグスティヌスも、敬虔な母モニカによって育てられました。16歳の時からカルタゴで修辞学を学んだアウグスティヌスは、19歳で母の同意もなく同棲し2人の子供をもうけます。常に襲い来る肉の誘惑と自分が描く理想の姿とのギャップに苦しむアウグスティヌスは、善悪二元論を唱えるマニ教に帰依して、ますます神様から離れていきます。心配した母モニカは、主教のアンブロシウスに相談しました。アンブロシウスは、「安心して帰りなさい。涙の子は決して滅びることはない。」と言って励ましました。モニカは、息子のために、涙を流して何年も熱心に祈り続けました。そして、天に召される1年前に、モニカの祈りは答えられたのです。すでに32歳になっていたアウグスティヌスが、アンブロシウスによってバプテスマを受けると、モニカは、「私がこの世に少しでも生き永らえたいと思った望みは、一つだけでした。それは死ぬ前に、クリスチャンになったあなたを見ることでした」といって喜んだということです。そしてアウグスティヌスは、やがて初期キリスト教会最大の思想家といわれるほどになったのです。

このことからも、幼児期の信仰の教育がどれほど重要であるかがわかります。それと、涙の祈りが・・。最近は、母親が毎日忙しく子どもとの時間がとりにくい時代になりました。しかし、三つ子の魂百までも、ということわざがあるように、3歳までの幼児教育は、その後のその子の人生にって大きな影響をもたらすということを考えると、まず自分自身がしっかりと主に向き合い、そして自分の子どもに向き合うことがいかに重要であるかを思い知らされます。

 

24節をご覧ください。いよいよその子が乳離れする時がやって来ます。ハンナは子牛3頭、小麦粉1エパ、ぶどう酒の革袋1つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行きました。

ハンナは祭司エリに、自分は息子を一生涯主に捧げるが、それは主に約束したとおりであると伝えます。26節から28節にある彼女の言葉に注目してください。ここで彼女は、自分がかつてエリのそばで祈った女であること、そして、その祈りのとおりに、主は彼女の願いをかなえてくださったということ、それゆえに彼女もまた、その子を主におゆだねする、と言っています。つまり、彼女がその子を主におゆだねするのは、主が彼女にその子を与えてくださったからです。私たちも何かを主にささげるのは、主から与えられているからです。主から与えられていないものをささげることなどありません。

 

こうしてサムエルは、生涯ナジル人として主に仕えることになります。そして彼はやがて、イスラエルを導く偉大な祭司、預言者、士師となるのです。ここに王制がスタートすることになります。彼はその王に油を注ぐ任務が与えられます。重大な使命を担う訓練が、ここに始まりました。すべてはこのハンナの祈りから始まりました。祈り深い母の影響力が、いかな大きいかということを痛感させられます。

ヨハネの福音書8章31~47節 「真理はあなたがたを自由にます」

今日は「真理はあなたがたを自由にします」というタイトルでお話しします。真理に従う時、私たちは自由になり、不思議な力が出てきます。では真理とは何でしょうか。今日は、その真理についてご一緒に学んでいきたいと思います。

 

Ⅰ.キリストの弟子とは(31)

 

まず31節をご覧ください。

「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」

 

「ご自分を信じたユダヤ人たち」とは、その前のところで、イエスを信じたユダヤ人たちのことです。彼らは、主が「わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」(24)と言われた言葉を聞いて、イエスを信じました。そのユダヤ人たちに対して主は、「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」と言われました。どうして主はこのように言われたのでしょうか。

 

その後のところを見ると、その理由がわかります。つまり、彼らの信仰が十分でなかったからです。確かに彼らはイエス様を信じましたが、その信仰というのはただ口先だけのものでした。というのは、33節を見るとわかりますが、イエスがこのように言うと、彼らはイエスの言葉に反発しています。「あなたがたは自由になる」とはどういうことか・・。自分たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともない。初めから自由人である自分たちに、「あなたがたは自由になる」と言うのはおかしいではないか。それははなはだ失礼なことである、そう言ったのです。彼らはイエス様のことばを受け止めることができませんでした。

 

また、44節を見ると、イエス様が彼らに向かって、「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」と言っています。「あなたがた」とはだれのことですか?ここでイエス様を信じたユダヤ人たちのことです。その彼らに向かって悪魔呼ばわりしているのです。そうです、確かに彼らはイエス様を信じましたが、その信仰というのはイエスに従う信仰ではなく、自分の思いを優先する信仰だったのです。自分の思いを優先する信仰、そういう信仰があるでしょうか。ありません。したがって、彼らの信仰は本当の信仰ではなかったのです。では本当の信仰とはどのようなものなのでしょうか。

 

イエス様はここでこう言っています。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」「わたしの弟子」とはキリストの弟子のこと、すなわち、クリスチャンのことです。本当のクリスチャンとは、本当にキリストを信じるとは、キリストのことばを聞いて信じ、そのみことばにとどまっている人のことです。そうでなければ、信仰生活を続けることはできないでしょう。信仰生活において大切なことはそれを「始める」ことだけでなく、それを「続ける」ことです。そして、最後まで走り抜くことです。それが本当に恵みのうちにいるかどうかの試金石となるからです。最初に猛然と走り出す人ではなく、自分のスピードを保ちながら最後まで走り続ける人です。そういう人こそ「賞を受けられるように走る」人なのです。出発するとともに進み続ける人が、本当にキリストの弟子です。そしてそのためには、キリストのことばにとどまっていなければなりません。

 

主は、そのことをマタイの福音書7章21節でこのように教えられました。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」どういうことですか?その日には多くの人が主に言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」でも、そのとき主は、彼らにはっきりとこう言われます。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(マタイ7:23)どういうことですか?

どんなにキリストの名を呼んでも、どんなにキリストの名によって奇跡を行っても、キリストの父のみこころを行うのでなければ、すなわち、キリストに従うというのでなければ、キリストの弟子ではないということです。

 

ですから、イエスのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、イエスのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。

岩の家に建てられた家と砂の家に建てられた家のたとえ話です。キリストのことばを聞くだけでは本当の弟子になることはできません。本当の弟子は、キリストのことばを聞いて信じ、そのことばにとどまる人です。そのことばに生きる人なのです。

 

Ⅱ.真理はあなたがたを自由にします(32-41)

 

なぜキリストのことばにとどまることが必要なのでしょうか。それは、32節にあるように、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」からです。

 

真理とは何でしょうか。真理とは、イエス・キリストであり、イエス・キリストのことばです。イエス・キリストはこのように言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

人類は長い間この真理を捜し求めてきました、未だになお到達していません。しかし主はここで、もし人がご自身のことばにとどまるなら、その人は真理を知り、その真理があなたがたを自由にすると言われました。すなわち、キリストご自身が真理であり、ご自身のことばが真理のことばなのです。

人類の長い歴史の中で多くの学者たちが追及してきたのに到達できなかった真理が今、キリストのことばにとどまることによって到達することができるのです。なぜなら、イエス・キリストこそ真理そのものだからです。この真理とは哲学的な真理とか、科学的な真理といったものではなく、真理そのもののことです。真理の中の真理です。そしてこの真理が、あなたがたを自由にします。どういうことでしょうか?

 

私たちは別にイエス様に自由にしてもらわなくても自由ですよ。いつ寝ても自由だし、いつ起きても自由です。別に働いても、働かなくても自由です。勉強しても、しなくても自由、信じても、信じなくても自由、何をしても自由です。確かに今の日本ほど自由な国はありません。でも、それで本当に私たちは自由でしょうか。外面的には自由かもしれませんが、でも内面的にはどうかというと、必ずしもそうではありません。案外と不自由なのではないでしょうか。たとえば、私たちは私たちを取り巻く環境や人のうわさの奴隷になっているということはないでしょうか。また世間体やメンツ、名誉といったものの奴隷になっていることはないでしょうか。あるいは、欲望やお金の奴隷になってはいないでしょうか。さらには習慣や性格の奴隷になっているということはないでしょうか。パウロはローマ人への手紙の中で、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と嘆いていますが、したいと思う善を行わないで、したくない悪を行ってしまうということはないでしょうか。そうした罪の奴隷となっていることがあります。

 

たとえば、人を赦すことはどうでしょうか。私たちはなかなか人を赦すことができなくて苦しむことがあります。モーパッサンの作品に「ひも」という短編があります。主人公の男オーシュコロンは、ある日道を歩いていてひもを見つけ、それを拾ってポケットに入れました。

やがてその同じ道で財布を落とした人があらわれました。するとひとりの人が、「おれはオーシュコロンおっさんがポケットに入れるのを見た。」と言いました。

それで彼は疑われ、取り調べを受けることになりました。ポケットからひもを取り出して「拾ったのはこのひもだ」と説明してもなかなか信じてもらえません。

そうこうしているうちに、なくなったはずの財布が見つかるのです。「よかった。よかった。」とみんな喜び、人々はその出来事をすっかり忘れてしまいましたが、どうしても忘れられない人が1人だけいました。そうです、このオーシュコロンのおっさんです。彼は自分が疑われたことを、あちこちに行っては話し、とうとう田畑を耕すのを忘れて、寂しく死んでいきました。人を赦すというのは本当に難しいことです。どうしたら赦すことができるのでしょうか。

 

それは真理に従うことです。真理とはイエス様であり、イエス様のことばのことですから、そのことばに従うことによって赦すことができるのです。イエス様は何と言われたでしょうか。

あるとき、弟子のひとりのペテロがやって来て、イエス様にこのように尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」(マタイ18:21)

すると、イエス様はこう言われました。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」(マタイ18:22)

七回を七十倍するまでとは49回までということではありません。まあ、一日に49回も赦すというのはすごいことですが、ここではそういうことではなく「どこまでも」ということです。どこまでも赦すこと、それが真理であられるイエス様のことばです。このことばに従うことです。

また、イエス様はこうも言われました。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:38-44)

「目には目を、歯には歯を。」それが人間の持っている自然の反応です。けれども、天の父である神の子どもは違います。右の頬を打つ者には左の頬も向ける。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせる。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行くのです。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。これが天の父である神の子に求められている姿です。これを実行するのです。

 

つまり、赦すというのは感情の問題ではなく、従順の問題なのです。たとえ赦すという感情がなくても赦せるのは、それがイエス様の命令であり、そのイエス様の命令に従うがゆえなのです。そして、このイエス様の命令、イエス様のことばに従うとき、初めて赦すことができるようになるのです。真理はあなたがたを自由にするからです。

 

しかし、当時のユダヤ人たちは、この真理のことばに従うことができませんでした。33節をご覧ください。彼らはイエスがそのように言うと、こう言いました。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

「アブラハムの子孫」というのは、彼らが持っていた確信とプライドを表現しています。つまり、彼らはだれの奴隷にもなったことがないということです。ですから、最初から自由人である自分たちに向かって、「真理はあなたがたを自由にする」というのはおかしいではないかと、と言ったのです。どこか私たち日本人に似ていると思いませんか?自分は何の奴隷にもなっていないし、すべてから解放されているのに、どうして自由にしてもらう必要などあるだろうか・・と。本当にそうでしょうか。

 

34節から36節までの箇所の中でイエス様は、彼らが本当に自由ではないことを次のように言って、次のように言って説明しています。

「イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」

主はここで、彼らをそこから救い出したいと願っておられる奴隷の状態というものがどういうものなのか、そして、その自由というものがどのような意味での自由なのかを教えています。それは「罪の奴隷」であって、その罪から解放されること、霊的に自由にされることです。罪の奴隷は、神の家に住むことができません。それゆえ、真理によって解放してもらわなければなりません。真理とは何ですか。真理とはイエス・キリストです。ですから、「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」とあるのです。子であられるイエス・キリストを信じ、そのことばにとどまるなら、その真理が彼らを罪から解放し、自由にすることができるのです。

 

しかし、彼らは真理に従っていませんでした。というのは、彼らは自分たちこそアブラハムの子孫であると確信していたからです。そして、イエスを殺そうとしていました。37節でイエス様は、「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていなかったからです。」と言われました。アブラハムの子であると主張していながら、アブラハムのわざを行っていないというのは自己矛盾です。アブラハムが義と認められたのは、主を信じたからです。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:6)とあるとおりです。「主」とはだれですか。イエス様でしょう。そのイエスを彼らは殺そうとしていたのです。神から聞いた真理を話していたイエスを殺そうとすることが、アブラハムのわざであるはずがありません。逆にイエスを信じることこそ、アブラハムのわざを行うことであり、そのような人こそアブラハムの子孫なのです。

 

つまり、彼らは真理のことばに従っていなかったのです。従っているようで、実のところ、そうではありませんでした。彼らはイエス様のことばに対して良いところは受け入れても、嫌なことは受け入れることができませんでした。結局のところ、イエス様のことばよりも自分の考えの方を優先していたのです。そのような心でどうやって真に自由になることができるでしょうか。なれません。なぜなら、真理があなたがたを自由にするのだからです。真理であられるイエス様が私たちを自由にし、その真理のことばにとどまることによってこそ、本当に自由になることができるのです。あなたはどうでしょうか。

 

アメリカの南北戦争の時、有名な将軍で小説家でもあったリュー・ウォレスは、「ベン・ハー」という小説を書きました。この小説は、もともと彼がキリスト教の神話を永遠になくすために書いた本でしたが、第二章の第1ページを書き始めたところで、イエス・キリストの復活の出来事の真実の前に、「あなたはわが主、わが神です」と信仰を告白したことで、キリストが真実であることを証しする本になりました。

この本の主人公であるベン・ハーは、自分の母親と妹をらい病へと追いやったローマの将軍メッサラを赦すことができず、彼と戦って勝利をおさめ、彼の命までも奪っても赦すことができませんでしたが、彼の妻がクリスチャンになったことで、キリストがどのように教えているのかを証しするのです。そんなの迷信の類だとなかなかキリストを受け入れることができなかったのですが、ゴルゴタの丘でキリストが十字架にかかられた時に、そこで発せられた言葉を聞くのです。それは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)ということばでした。敵のために祈られるキリストのことばを聞き、このキリストこそまことの救い主であると信じた彼は、そのことばに従い心から敵を赦すことができました。そのとき、らい病に冒されていた母親と妹がいやされたのです。

 

それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神はそのみわざをご自身の御子イエス・キリストによってあらわしてくださいました。ですから、子があなたを自由にするなら、あなたは本当に自由になるのです。あなたもイエス様を信じてください。そうすれば、あなたはあなたの心を縛っていた罪の縄目から解放していただくことができます。そして、あなたがこのイエスをあなたの人生の主としてあなたの心の王座に迎え、このイエスのことばに従って生きるなら、あなたは真の自由を経験することができるのです。真理があなたを自由にするからです。

 

Ⅲ.真理に従うために(42-47)

 

では、真理に従うにはどうしたらいいのでしょうか。42節から47節までをご覧ください。

「あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。『私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。』イエスは言われた。『神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。』」

 

このイエス様のことばを、彼らはなかなか理解することができませんでした。そして彼らはイエス様にこう言いました。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」どういうことですか。自分たちは愚かな偶像の民ではない、唯一のまことの神を信じている者であって、正しい者であるということです。彼らはイエスを信じたはずなのに、もうイエス様のことばに反抗しています。

 

そこでイエス様は彼らがなぜご自分に従うことができないのか、その理由を語られます。それは彼らが悪魔から出た者たちだからです。

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(44)

彼らがイエス様の教えに耳を傾けることができなかったのは、悪魔によって目が閉ざされていたからです。皆さんは、福音のメッセージを聞いても、それをなかなか理解しようとしない人を見て不思議に思ったことはありませんか。使徒パウロは、その理由を次のように述べています。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)つまり、悪魔が未信者の顔におおいをかけているということです。悪魔は、人殺しであり、偽り者です。最初の嘘は悪魔が作り出したものです。また悪魔は、人類に罪を犯させて、人類に死をもたらしました。これが、彼らがイエス様を信じることができなかった本当の理由です。

 

46節でイエス様は、「あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」とチャレンジしています。なぜ信じないのでしょうか?それは、彼らが悪魔から出ていたからです。神から出た者は、神のことばに聞き従います。それは神のわざなのです。聖書を理解するということは、知的なことであるだけでなく、霊的なことでもあります。使徒パウロは、顔の覆いを取り除くことができるのは、聖霊のわざであると言っています。それは私たちが頑張ってとか、一生懸命に努力してできることではありません。それは御霊なる神の働きによるのです。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)

私たちが真理を知り、真理に従うためには、御霊なる神、聖霊によってこの覆いを取り除いてもらわなければなりません。今、聖霊によって、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えていただけるように祈りましょう。また霊の目が閉ざされている人々の目が開かれてイエス様を信じることができるように、そしてイエス様が自由にしてくださるという意味を理解し、イエス様のみことばに従って生きることができるように祈りましょう。そのとき、私たちは悪魔の支配から解放されて神の支配に移されます。そして真理を知り、真理が私たちを自由にします。それは御霊なる主の働きなのです。今、聖霊によって、この働きを受け入れましょう。そして、キリストのことばに従って生きる者とさせていただきましょう。

出エジプト記11章

きょうは、出エジプト記11章から学びたいと思います。まず1節から3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.もう一つのわざわい(1-3)

 

「主はモーセに言われた。「わたしはファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す。その後で彼は、あなたがたをここから去らせる。彼があなたがたを去らせるときには、本当に一人残らず、あなたがたをここから追い出す。さあ、民に言って聞かせよ。男は隣の男に、女は隣の女に、銀の飾りや金の飾りを求めるように。」主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」

 

いよいよ第十番目のわざわいが下ろうとしています。きょうの箇所は、その挿入句の部分です。従って、10章29節と11章4節はつながっていると考えられます。10章29節には、「モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」とありますが、実際にはまだファラオの前を去っていないのです。そのファラオとのやり取りの中で、主がモーセに語られたことが1~3節にまとめられているのです。

 

主はモーセに「ファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す」と言われました。その後でファラオは、イスラエルをエジプトから去らせます。その時には、大人も、子どもも、男も、女も、家畜も、あらゆるもののすべてをエジプトから追い出します。

 

それだけではありません。2節をご覧ください。主は、イスラエルの民がエジプトから、金の飾りや銀の飾りを求めるようにと言われました。どうして主はこのようなことを要求されたのでしょうか。それは、イスラエルの民が後に荒野に導かれそこで幕屋を造るようになる時、それを造る材料が必要だったからです。奴隷であったイスラエル人には金銀がなかったので、エジプト人から受け取るようにしたのです。すごいですね。主はずっと先のことまでご存知で、その準備を進めておられたのです。しかし、それはエジプト人から奪い取るのではなく、エジプト人のほうから進んで差し出してくれるようになります。なぜなら、主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされるからです。5節には、「モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」とあります。こんなにもひどいさばきが自分たちに下っているのに、彼らはなぜモーセとイスラエルの民に好意を持つことができたのでしょうか。一言で言えば、それは主がそのようにされたからです。モーセを通して成された神の御業を見て、彼らはまことの神を認めるようになりました。それでエジプト人はモーセと神の民であるイスラエル人に対して好意を持つようになったのです。

 

使徒の働き5章12~14節にも同じようなことが記されてあります。使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議が人々の間で行われたとき、人々はクリスチャンを尊敬するようになりました。

「さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」

これはアナニヤとサッピラ夫婦が、聖霊を欺いて地所の代金の一部を自分のために取っておいたことで神の怒りが下り、彼らの息が絶えた出来事の後のことです。それを聞いた教会全体とすべての人たちに大きな恐れが生じましたが、主を信じる人たちはますます増え、男も女も大勢になりました。それは、民の中に彼らに対する尊敬があったからです。彼らは、その仲間に加わろうとはしませんでしたが、弟子たちをとても尊敬していたので、主を信じる者たちはますます増えて行ったのです。

 

ここでも同じです。エジプト人たちは、神のわざわいによって苦しんでいましたが、主の大いなる御業を見てモーセとイスラエルの民をたいへん尊敬するようになったのです。私たちも、聖霊によって主の御業を行うなら、周りの人たちから好意を持たれるようになるでしょう。

 

Ⅱ.エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる(4-8)

 

次に4~8節をご覧ください。

「モーセは言った。「主はこう言われます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。このようなことは、かつてなく、また二度とない。』しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、だれに対してもうなりはしません。こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになります。あなたのこの家臣たちはみな、私のところに下って来て、私にひれ伏し、「あなたもあなたに従う民もみな、出て行ってください」と言うでしょう。その後私は出て行きます。」こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。」

「モーセは言った」とは、ファラオに対して言ったということです。つまり、これは10章29節の続きであるということです。モーセはまだファラオの前にいて、ファラオに語ったのです。それは、どのような内容だったでしょうか。それは、主がエジプトの中に出て行き、エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ、ということでした。それで、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こるということでした。このようなことはかつてなかったし、また二度とありません。

 

聖書の中で、長子はとても重要な意味がありました。それは、初めに生まれてきた、というだけでなく、最優先されるべきもの、他と比べてとびぬけて優れているもの、一番良いいもの、という意味があります。民族の存続は長子を通して維持されます。その長子が死ぬということは、民族の存亡にかかわることであり、大きな痛手となります。また、ファラオの長子は、神の地位を継承する器でしたので、その器が死ぬということは、神の権威がはずかしめられることを表していました。それがエジプト全土で起こります。それはこれまで起こったことがないような大きな叫びです。

 

ところで、4節には、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く」とあります。何のためにエジプトに出て行くのでしょうか。わざわいをもたらすためです。これまではすべてモーセとアロンの手によって行われてきましが、これからは主ご自身によって行われます。それは今までのものが不十分であったからではありません。モーセとアロンによって行われたときも主の命令によって行われたわけですから、主がわざわいを下されたことと同じです。しかしここで「わたしはエジプトの中に出て行く」と言われたのは、これまでのものとは違い、主が直接さばきを行われることを表していたのです。これが、主がこれまでエジプトに下されたさばきの集大成であって、最後のさばきであるということです。それは単なるさばきではなく、キリストの十字架の贖いを指し示す出来事でもありました。それはかつてなかったようなさばきで、また、二度とないであろうさばきです。

 

しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、うなりません。なぜでしょうか。イスラエルが安全に出て行くためです。真夜中に物音がすると、犬はうなり声を上げます。その犬がだれに対してもうならないというのは、イスラエルの民は何の妨げも受けることもなく、エジプトを出て行くようになるということです。イスラエル人とエジプト人との間には区別がなされていて、イスラエル人は少しも災害を受けることがないからです。

 

すでに、この区別についての言及が何度かありました。8章23節には、第四のわざわいに関して、「わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。」とあります。アブに刺されないように、アブの群れがいないようにゴシェンの地を特別に扱ってくださったのです。また9章6節でも、第五のわざわいに関して、すべての家畜に重い疫病が起こることがないように、イスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別してくださいました。さらに9章26節でも、第七のわざわいに関して、イスラエルの子が住むゴシェンの地には、雹が降らないようにしてくださいました。そして10章23節でも第九のわざわいに関して、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があるようにされました。ここでも同じです。主はイスラエルをエジプトと区別して、彼らの上にはわざわいがないようにしてくだいました。

 

それは新約の時代に生きる私たちに対する約束でもあります。主はキリストを信じる私たちがわざわいを受けることがないように、この世と区別しておられるのです。パウロはこう言っています。

「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。」(Ⅰテサロニケ5:4-5)

私たちはみな、光の子ども、昼の子どもです。夜の者、闇の者ではありません。なるほど、ここで主が4節のところで、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く」と言われたことの意味が分かるような気がします。なぜ「真夜中」に出て行かれるでしょうか。それは、彼らは夜の者、闇の者だからです。そのような者たちにわざわいが下るもっともふさわしい時が「真夜中」だったのでしょう。しかし、私たちは光の子ども、昼の子どもです。ですから、主のわざわいを受けることはありません。主がそのように区別してくださったからです。

 

8節をご覧ください。第十のわざわいが下ると、ファラオの家臣たちはみな、モーセのところに下って来て、ひれ伏して、エジプトを出て行ってくれと懇願するようになります。この時点で、ファラオの威光は完全に地に落ちることになります。モーセが優位になるのです。その後、イスラエル人は堂々とエジプトを出て行くようになります。そのように言うとモーセは、怒りに燃えてファラオのところから出て行きました。これが決定的な断絶です。どうしてモーセはここで怒りに燃えたのでしょうか。それは、モーセがこれまで9回にわたって神のことばを告げたにもかかわらず、ファラオが受け入れなかったからです。もはや神のあわれみの時が終わりました。

 

哀歌3章23-24節に、「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」」とあります。私たちが滅びうせないのは、主のあわれみによるのです。主のあわれみは尽きないからです。しかし、それがいつまでも続くわけではありません。それが閉ざされる時がやって来ます。それゆえ、私たちはこの主のあわれみをないがしろにしないで、主に信頼して歩む者でなければなりません。モーセは、神のことばを頑なに拒んだファラオに対して、今や神のあわれみが閉ざされたことを知り、神の怒りを燃やしたのです。

 

Ⅲ.神の奇跡をすべて行ったモーセとアロン(9-10)

 

最後に9節と10節を見て終わりたいと思います。

「主はモーセに言われた。「ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。わたしの奇跡がエジプトの地で大いなるものとなるためである。」モーセとアロンは、ファラオの前でこれらの奇跡をすべて行った。主はファラオの心を頑なにされ、ファラオはイスラエルの子らを自分の国から去らせなかった。」

 

ファラオは、最後の警告をも無視します。彼は、最後までイスラエルの子らを行かせませんでした。それは主が彼の心を頑なにされたからです。それによって、主の御業がエジプトの地で大いなるものとなるためです。モーセとアロンは、ファラオの前で主が仰せられたすべての奇跡を行いましたが、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを自分の国から去らせなかたのです。それで今十番目のわざわい、最後のわざわいが下ろうとしているのです。私たちはこのことから何を学ぶことができるでしょうか。神に従うことには忍耐と犠牲が伴うということです。ファラオのあまりもの頑なさに、モーセとアロンは途中で任務を投げ出しそうになることもありましたが、彼らは最後まで全うしました。それは、彼らはファラオとの戦いの中でそのことを学んでいったからです。

 

それは私たちも同じです。事態が思うように進まない時、私たちは途中で捨ててしまいたいと思うことがありますが、大切なのは、最後まで忍耐して神のみわざを行うということです。へブル人への手紙10章35-36には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」とあります。私たちが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。自分の目の前の状況が思うようにいかなくても、忍耐をもって最後まで神のみこころを行うなら、必ず約束のものを手に入れることができます。もし、モーセとアロンが最初から事態が順調に進んでいたとしたら、彼らは傲慢になっていたでしょう。しかし、なかなか思うように進まない中で神の教訓を学び、最後まで忍耐することができたのです。

 

パウロは、「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)と言っていますが、この「走るべき道のりを走り尽くす」ということです。今、教会で墓地の購入を検討していますが、私は自分の墓石にこのみことばを入れられたらなぁと思っています。自分の人生を振り返ったとき、そこには何も輝かしいものはなかったかもしれないが、主から与えられた道のり、行程を、走り尽くした生涯だったと言える、そんな人生を全うしたいと思っています。

 

 

11節には、ファラオの心を頑なにされたのは主ご自身であったとあります。主がそのようにされたのです。私たちの人生には本当に不可解なことが起こりますが、神の許しなしに起こることは一つもありません。ですから、それがどんなことであっても、そこに主の主権があることを認め、主にすべてをゆだね、主が成してくださることを待ち望みたいと思います。主は、私たちの人生において最善をなされるお方なのです。

ヨハネの福音書8章21~30節「あなたはだれですか」

きょうは「あなたはだれですか」というタイトルでお話ししたいと思います。これはユダヤ人たちとの論争の中で、彼らがイエスに投げかけた質問です。25節に「そこで、彼らはイエスに言った。『あなたはだれなのですか』」とあります。

同じ一つの言葉でも、そこに込められているニュアンスが異なる場合があります。そのような大それたことを語るとは、あなたは一体何様だと思っているのか、という反発から出た言葉のようにも聞こえますし、このように大いなることを語られるとは、あなたは一体どなたなのですか、という素直な質問のようにも聞こえます。いずれにせよ、この質問はとても重要な質問です。それによって永遠のいのちが決まるからです。「あなたはだれなのですか」。きょうは、この質問に対する答えを、ご一緒に聖書から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.どのようにイエスを捜していますか(21)

 

まず21節をご覧ください。

「イエスは再び彼らに言われた。『わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。』」

 

イエスは姦淫の現場で捕らえられた女に、「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11)と言われると、再び人々に語られました。12節です。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

するとパリサイ人はイエスに言いました。「あなたの証しは真実ではない」と。それでイエスは、ご自分の証が真実であることを証明するために、ご自分がどこから来られたのかを話されました。

 

きょうの箇所では、イエスがどこへ行くのかということに論点が移っていきます。ここでイエスは再び彼らに言われました。彼らとはユダヤ人たち、パリサイ人たちのことです。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」どういう意味でしょうか?

 

「わたしは去って行きます」というのは、主が間もなくこの世を去って行こうとしているということです。主に与えられた使命は終わりに近づいていました。主が私たちの罪のために犠牲となって死なれるときが近づいていたのです。イエスがこのように語られたのは、ユダヤ人の心のうちをかきたてて、ご自身がどのような者であるのかを真剣に考えさせるためでした。それは、その後で語られたことばを見るとわかります。主はこのように言われました。

「あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

これは少しわかりづらいことばです。「あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます」。自分の罪の中に死ぬというのは霊的死のことです。永遠に神から切り離されてしまうことを指しています。したがって、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできない」とは、天の御国に来ることはできないということです。それは永遠に続く住まいであって、世に来られる前に御子が御父とともにおられたところです。ここには罪がある者は来ることはできません。罪を悔い改めて赦された人だけが行くことができるのです。

 

でもちょっと待ってください。ここには「あなたがたはわたしを捜しますが」とあります。彼らがイエスを捜すのは救いを求めていたからでしょう。つまり、旧約聖書に約束されているメシヤに飢え渇いていたからです。それでイエスを捜していたのです。それなのに自分の罪の中に死ぬとはどういうことでしょうか。それは、彼らの求め方が正しくなかったということです。間違った動機で求めていたり、なかなか信じようとしないためイエスを見出すことはできないので、罪が残ることになります。それが「罪の中で死にます」ということです。結果、イエスが行かれる天の御国に行くことはできません。

 

先日、NHKの「逆転人生」という番組で、元ヤクザから牧師へと壮絶な転身を遂げた鈴木啓之(すずき ひろゆき)先生のドキュメンタリーが放映されました。人生につまずいた人の再出発を支える鈴木先生が主人公です。かつては暴力団員で名うての博打うち。多額の借金を背負い、死の淵まで追い詰められました。しかし裏切り続けた妻に救われ、生き方を180度変えることができました。今度は自分が拠り所のない人の支えになりたいと元受刑者などを受け入れ、再出発を応援するものの、再犯者が出るなど厳しい現実に直面しますが、それでも「人生は必ずやり直せる」という鈴木先生の人生を紹介したのでした。

私も鈴木先生とお会いしお話しを伺ったことがありますが、本当に先生をそのように変えてくださった主はすばらしい方です。でも、その番組では、NHKということもあったのでしょうが、イエス様の「イ」の字も出てきませんでした。人はどのようにしたらやり直すことができるのでしょうか。それはイエス様でしょ。イエス様が私たちを新しく造り変えてくださるのです。イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。だから、この方を信じるすべての人の罪が赦され、新しい者に変えていただけるのです。それがなかったら、どんなに人生をやり直すことができたとしても本当の解決にはなりません。自分の罪の中で死んで行くことになるからです。本当のやり直しとは、これまで神を神ともせず自分勝手に生きて来た者が、それを罪と言いますが、その罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じ、この方を中心に生きることによって可能になるのであって、そうでないとやり直すことはできません。どんなに求めても真の救いに至ることはできないのです。

 

同じように、私たちも様々なきっかけで主を捜し求めることがありますが、それがイエス・キリストにつながるものでなければ、何の意味もありません。私たちはよく、病気とか、突然の不幸、あるいは仕事や家族の問題、人間関係のこじれ、将来への不安、死への恐怖などに直面することがありますが、それが魂の渇きとなって主を求めるのでなければ、真に満たされることはできないのです。主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(7:37)と言われました。渇いているなら、キリストのもとに行って飲まなければなりません。そうすれば、その人の心の奥底に生ける水の川が流れ出るようになります。そうでなければ、どんなにキリストを捜しても、自分の罪の中で死ぬことになるのです。

 

そればかりではありません。キリストに対する根深い抵抗というのもあります。どんなにキリストを求めても最後まで抵抗し続け、気付いた時には遅かったということがあるのです。よく伝道しているとこういうことを言われる方がおられます。「キリストがいいのはわかっているけど、今はいらない。死ぬちょっと前でいい。その時はお願いします。」

 

私たちが福島で開拓伝道を始めたのは1983年のことでした。初めは6帖2間と4畳半の小さな借家で始めました。私は翌年から仙台の神学校で学ぶようになったため、自宅で英会話スクールを始めることにしましたが、そこに近くの卸業を営んでおられた会社の社長さんが来られました。当時65歳くらいだったかと思います。よく私たちの小さな学校で学んでくださったと感謝しておりましたら、この方の先妻の方がクリスチャンだったんですね。それで、教会は信用できるからと、教会の英語教室で学ぶようになったのです。私はクラスの後に交わりの時を持ち、そこでお茶を飲みながらイエス様のお話しをするのですが、随分関心がおありのようなので、「どうですか、イエス様を信じませんか」というと、決まってこう言いました。「いや、キリスト教は一番いいのはわかっている。でも、私はまだ清くないから、もうちょっと後にします。死ぬちょっと前がいいですね。その時にはよろしくお願いします。」

「死ぬちょっと前と言ったって、人間いつ死ぬかわからないじゃないですか。石川さん、今がその時ですよ。」

「いや、もう少し後でいいです。その時は信じますから。」

そんなことが随分続きました。そして20年の月日が流れました。それで私たちは大田原に移ることになったのですが、その時にもお勧めしました。「石川さん、私たちは大田原に行くのでこれでお別れになります。これまで本当にお世話になりました。どうですか。その前にイエス様を信じると決心なさいませんか。」

でも、答えはノーでした。もう85歳くらいになっていましたが、それでも、死ぬ前にお願いします、というのです。仕方なく、私たちは大田原に引っ越してきましたが、それから間もなくのことです。奥様からお葉書をいただき、ご主人が亡くなられたことを知りました。死ぬ前に・・・とおっしゃっていたのに、残念ながら、その死ぬ前に信仰を告白することができませんでした。少なくとも私たちの前では・・。

 

どんなにイエスを捜し求めていても、それが遅すぎることがあります。真実の悔い改めであるならば決して遅すぎるということはありませんが、ことさらにキリストを拒絶し、キリストを求めることを止めてしまうならば、キリストを捜し求めても自分の罪の中に死んでしまうということになるのです。

 

ですから、そういうことがないように、キリストを見出すことができるうちに真実な心をもって主を尋ね求め、誠実な心をもって主のもとに行かなければなりません。イエス様はこう言われました。

「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)

私たちが大胆に確信できるのは、光があるうちに光を信じるなら、闇が襲うことはないということです。そのように尋ね求めるならば決してそれが徒労に終わることはありません。そのように尋ね求めた者が「罪の中に死んだ」とは、決して記録されることはないのです。本当にキリストのもとに来るなら、決して捨てられることはありません。

 

Ⅱ.「わたしはある」という方(22-24)

 

次に22節から24節までをご覧ください。

「そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」」

 

イエス様が、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言うと、ユダヤ人の指導者たちは、「まさか自殺するつもりではないだろう」と言いました。彼らは、イエス様が語った言葉の意味を全く理解することができませんでした。イエス様が死んであの世に行くと言っておられるに違いないと思ったのですが、どのようにしてあの世に行こうとしているのか、さっぱりわかりませんでした。それで、「まさか、自殺するつもりではあるまい」と言ったのです。しかし、それは彼らの全くの誤解でした。当時、ユダヤ人たちは、自殺を人殺しと同様、モーセの十戒を破るものと考えていました。イエス様がそんなことをするはずがないじゃないですか。彼らには、イエス様の心がさっぱりわからなかったのです。

 

そこでイエスは、そのことを説明して言われました。23節、「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」

「上から」というのは「天から」ということであり、「下から」というのは「この世から」という意味です。それは神がおられる聖なる天と、罪に満ちたこの世のことを意味しています。ですから、「上から来た」とは神を意味し、「下から来た」とは「この世の者」、つまり人間を意味しています。人間は最初の人アダムが罪を犯して以来、罪を持った存在ですから、自分の罪の中に死ななければなりませんが、イエス様はそうではありません。イエスは天から来られた方です。この天と地を造られた創造主なる神なのです。

 

このことをもっともよく表されていることばが、24節の「わたしはある」という言葉です。これはすでに6章20節のところで、イエス様が「わたしだ」と言われた時に説明したように、原語のギリシャ語では「エゴー・エイミー」(εγω ειμι)という語で、出エジプトの時、モーセが神にその名を尋ねたところ、神が「わたしは、「わたしはある」という者である」(出エジプト3:14)と仰せになられた言葉と同じ(へブル語で「エーイェー」)言葉です。それは存在の根源であられる方であることを意味しています。聖書の神は、他の何ものにも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。つまり、全能者であられます。私たち人間は違いますね。私たちは生きていくためには何かに依存しなければ生きていくことができません。空気とか、水とか、食べ物とか、飲み物など、何かに依存しなければ生きていくことはできません。しかし、創造主なる神は、そうした他の何物にも依存することなく、神ご自身だけで存在することができる自存者であられます。なぜなら、神は創造者であられるからです。この空も、海も、山も、水も、その他この地球にあるすべてのもの、いやこの宇宙も含めたすべてのものは、神によって造られました。神は創造主なる方であって、神だけで存在することができるのです。それが「わたしはある」という意味です。そして、イエス様はそのような方なのです。イエス様は「わたしはある」という方なのです。イエス様はこの世界のすべてをお創りになられました。イエス様はすべての存在の根源者であられます。つまりイエス様は神ご自身であられるのです。そのことを信じなければなりません。そのことを信じなければ、救いを受けることはできないのです。

 

ここでイエス様が言っておられることは分かりにくいことでしょうか。決してそうではありません。それなのに、多くの人々がこの単純なメッセージを信じないのはなぜでしょうか。それはイエス様が言っておられることが難しくて理解できないからではなく、信じたくないからです。それを信じるためには、自分の罪を認めなければならないからです。人はだれも自分の罪を認めたくありません。誰にも束縛されたくないのです。自分の思うように生きていきたいと思っています。

 

私もそうでした。小さい頃は早く大きくなって、自分の好きなように生きていきたい。勉強なんてしたくないし、お金持ちになって、自由に生きていきたいと思っていました。そして、高校生活も終わりに近づいたころ、神様は私を捕らえてくださいました。せっかく自由に生きていきたいと思っていたのに、神様に従わなければならないなんて嫌だ!と始めは抵抗しましたが、「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)ということばになぜか納得し、「これが本当の自由なんだ」とわかってイエス様を信じました。これがわかるまでは、信仰ほど窮屈なものはないと思っていました。何にも束縛されないで、自由に生きていきたい。それが罪の本質です。神を信じたくないのはそのためです。もしかすると、自分のメンツが傷つけられると思っているからかもしれません。また、罪を告白し、そこから離れた生活をすると、今までの楽しい生活をすることができなくなってしまうのではないかと恐れているのかもしれません。あるいは、自分だけが信じて天国へ行っても、自分の愛する家族が別の所に行ってしまうのでは、あまりにも申し訳ないと思っているのかもしれません。

 

いずれにせよ、イエス様は、「わたしが、「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」と言われました。イエス様が「わたしはある」という方です。イエス様が救い主であられるのです。救いはこのイエス様にあります。どうぞこのイエスを信じてください。そうでないと、あなたは自分の罪の中で死ぬことになるからです。

 

Ⅲ.イエスは神の子です(25-30)

 

第三のことは、だからイエス様を信じましょう、ということです。25節から30節までをご覧ください。

「そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。

そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」

 

そこで、彼らはイエス様に言いました。「あなたはだれなのですか。」だれなのですかって、それこそ、初めからイエス様が彼らに話していたことです。それなのに、彼らは全く聞こうとはしませんでした。彼らが知るようになるのはいつですか?28節をご覧ください。ここに、「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが「わたしはある」であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたは知るようになります。」とあります。これは、イエス様が十字架に付けられる時のことを指しています。その時ユダヤ人たちは主こそメシヤであられ、父なる神によって遣わされた方であるということを知るようになります。イエス様が十字架に付けられた時、イエス様を十字架に付けたローマの百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言いました。「この方は本当に神の子であった。」(マタイ27:54)ここでイエス様が言われたとおりです。でも、その時では遅いのです。その前に、イエスは「わたしはある」であることを信じなければなりません。また、イエスは自分からは何もせず、すべてはイエスを遣わされた父なる神がいわれたとおりに言っておられるということを信じなければならないのです。つまり、イエスと父とは一つであるということを信じなければならないのです。それが29節にあることです。

「わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」

イエス様は、イエス様を遣わされた方とともにおられ、この方が喜ばれることを行われます。この方が喜ばれることとは何でしょうか。それは、私たちが救われることです。私たちが救われてこの方の許に行くことです。そのために神はそのひとり子をこの世に送ってくださいました。あなたに与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

あなたは、この方を信じましたか。信じて永遠のいのちを持っていますか。神は、あなたが滅びることがないように、ひとり子なるキリストを遣わしてくださいました。もしあなたがキリストを信じなければ、自分の罪の中で死ぬことになります。でも、もしあなたがこの方を信じるなら、決して滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。あなたもぜひこのイエスを信じてください。信じて、永遠のいのちを持っていただきたいのです。

 

さあ、これを聞いた人たちはどのように応答したでしょうか。30節です。「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」感謝ですね。だれも信じないかと思ったら、やっぱりちゃんといました。信じる人が・・。こうした論争の場にいると、何が真理なのかを考える以前に、もうそういうしたことには関わりたくないと思うものですが、そうした中にあっても彼らが信じることができたのはどうしてでしょうか。彼らが素直な人たちだったからでしょうか。人が良くて、物わかりの良い人たちだったからですか。そうではありません。どんなに素直でも、それだけではイエス様を信じることはできません。どんなに人が良くて、物わかりがよくても、イエスを信じることができないのです。ではどうしてこの人たちはイエスを信じることができたのでしょうか。

このことに関して、使徒パウロはこう言っています。 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたが

たから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:8) 私たちがイエス様を信じることができるのは、この恵みのゆえに、です。私たちの

側に何か原因があったからではなく、神の側から注がれた恵みによって救われたので

す。私たちの救いは、私たちが素直であるとか、物わかりが良いとかによってではな

く、神様からの賜物なのです。この恵みはあなたにも注がれています。あなたが心を

開いて救いを求めるなら、あなたにも神の愛と恵みが豊かに注がれるのです。

 

先日、黒澤さんが山形のご実家に戻られた際、地元の教会に行かれたそうですが、

そこで国際ギデオン協会のメンバーの方が証をしてくださったそうです。この方は米沢で「相良堂」(さがらどう)という和菓子屋さんを営んでおられる方ですが、少しでもイエス様を証しできればと10年くらいでしょうか、長年、「和菓子作りと語らいの時」を持ってきました。しかし、信仰に導かれる人が少なく、洗礼に導かれたのはたった1人でしたが、それでも召される方の多くが、病床で、「私もイエス様のところに行きたい」とか、「私も救われたいです」。「イエス様のみそばにおいてください」「私の罪を告白します。イエス様を信じます。」と言われる方々がたくさん起こされたそうです。

イエス様を信じる方が少ないかと思っていましたが、そのようにして救いを求めていた方がおられたことに、慰められたとのことでした。

 

あなたはどうでしょうか。あなたもイエス様を捜しておられますか。どのように捜しておられますか。どうぞ光があるうちにイエス様を信じてください。遅かったということがないように。神の恵みは、そのように求めるあなたの上に豊かに注がれています。その恵みを無駄にすることがありませんように。また、既にイエス様を信じた私たちも、どのように信じたのかを点検させていただきながら、この神の恵みに感謝し、その恵みの中にしっかりととどまり続ける者でありたいと思います。イエス様こそ「わたしはある」という方なのです。

出エジプト記10章

出エジプト記10章から学びます。まず、1節から11節までをご覧ください。まず6節までをお読みします。

 

Ⅰ.息子や孫に語って聞かせるため(1-6)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、主はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが、わたしの民を去らせることを拒むなら、見よ、わたしは明日、いなごをあなたの領土に送る。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れてあなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くし、 あなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。これは、あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである。』」こうして彼は身を翻してファラオのもとから出て行った。」

 

第8の災いです。それはいなごをエジプトに送るというものです。1匹や2匹のいなごではありません。それは地の面をおおい、地が見えなくなるほどの量のいなごです。先の雹の害を免れた植物も、このいなごの大群によって食い尽くされます。それは野に生えている草木だけでなく、ファラオの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちるようになります。それは、エジプトがこれまで見たことがないようなものです。

 

この災いが下る警告が与えられる前に、主はモーセにこの災いがもたらされる目的を語ります。1節と2節です。「それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る」ためです。これまでは、イスラエルの神、主のような方が地のどこにもいないことを、エジプト人が知るようになるためでしたが、ここには新たな目的が加えられています。それは、主がエジプトに対して行われたことをイスラエル人が息子や娘に語って聞かせるためです。

 

これはとても大切なことです。イスラエルがエジプトから出て行って、約束の地へ導かれ、そこに住んで何十年、何百年経った後も彼らの霊的指導者たちは、この出来事を語って聞かせました。彼らの神がどれほど偉大な方であるのかは、かつてエジプトに430年もの間囚えられていた彼らの先祖たちをそこから解放してくださった方であるということによって示してきたのです。いわばそれは、イスラエル人たちのアイデンティティーであったのです。つまり、奴隷の状態から解放してくださりご自分の所有とされた主が自分たちの神である、ということです。何百年も後になっても、このことを思い出してもらうために、主は、パロたちの心のかたくなにし、災いを起こされたのです。

 

それは私たちも同じです。主は私たちが神の民であることを思い起こさせるために、一つのことを行うようにと命じられました。何でしょうか。それは聖餐式です。それは主が私たちを罪の奴隷から解放するために十字架で死んでくださったことを覚えるためです。パウロはこう言っています。

「すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:23-25)

私たちがどんなことをしても自分の力では成し得なかったことを主が成し遂げてくださいました。主は私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、血を流し、肉を割かれることによって、救いの御業を成し遂げてくださいました。このことを思い起こすために聖餐式を行うのです。私たちは主が私たちの罪を赦すために成し遂げられたこの十字架の御業を、私たちの息子や娘、孫たちに語って聞かせなければなりません。

 

モーセを通して語られた主の警告に対して、ファラオはどのように応答したでしょうか。7節から11節をご覧ください。

「家臣たちはファラオに言った。「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」モーセは答えた。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」ファラオは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの妻子を行かせるようなときには、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。だが、見ろ。悪意がおまえたちの顔に表れている。 そうはさせない。さあ、壮年の男子だけが行って、主に仕えよ。それが、おまえたちが求めていることではないか。」こうして彼らはファラオの前から追い出された。」

 

モーセを通して語られた主のことばに対して、決してファラオに反対することのない家臣たちが、必死になってファラオに訴えています。

「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。」

家臣たちは、これまでの教訓から学んでいました。このままではエジプトが滅んでしまうという危機感を抱いていたのです。

 

それでファラオはどうしたかというと、モーセとアロンを連れ戻して言いました。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」(8)ファラオもこのままではだめだと思い少しずつ譲歩し始めます。ここでは、行くのはいいが、だれが行くのか、と言っています。もちろん全員です。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」(9)

 

するとファラオは、何と言いましたか。「悪いがおまえたちの顔に表れている。」と言って、子どもや祭司たちが行くことを許しませんでした。ただ壮年の男子だけが行って、主に仕えるようにと言ったのです。これはどういうことでしょうか。主の影響力が妻子たちまで及ぶことがないように、必死になって抵抗しているのです。このようなことがよくあります。未信者の親から、「あなたは子供まで教会に連れて行って、洗脳させちゃだめよ。」といった圧力をかけられたりすることがあります。けれども、自分だけでなく自分の息子や娘たちも主に従うことがみこころなのです。

 

Ⅱ.いなごの大群(12-20)
それで第8番目の災いが下ります。12節から15節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の害を免れたすべてのものを食い尽くすようにせよ。」モーセはエジプトの地の上に杖を伸ばした。主は終日終夜、その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。これは、かつてなく、この後もないほどおびただしいいなごの大群だった。それらが全地の表面をおおったので、地は暗くなり、いなごは地の草と、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くした。エジプト全土で、木や野の草に少しの緑も残らなかった。」

 

それで主はモーセに、「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲うようにせよ」と言われました。

すると、主は終日終夜、その上に東風を吹かせたので、朝になると東風がいなごの大群を運んで来ました。そして、エジプト全土を襲い、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、エジプト全土で、木や野の草に少しも緑が残りませんでした。

 

するとファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言いました。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」(16)

これはどういうことですか?ここでも、これまでのパターンが繰り返されています。このような災害を見たファラオは悔い改めているように見えます。ここでは、「もう一度だけ私の罪を見逃してくれ」と言っていますが、これまで何度見逃してきたでしょうか。9:27にも「今度は私が間違っていた」と言いながら、小麦と裸麦が打ち倒されていないのを見ると、また心を頑なにしました。ここでも彼は同じことを繰り返しています。

 

するとモーセはファラオのところから出て、主に祈ります。すると主は風向きを変え、今度は非常に強い、海からの風、すなわち西からの風に変えていなごを吹き上げさせ、エジプト全土に一匹のいなごも残らないようにされました。しかし、主はファラオの心を再び頑なにされたので、彼はイスラエルの子らを去らせませんでした。いったいなぜここまで頑なになるのでしょうか。それは主がなされたことです。主がファラオの心を頑なにされたので、彼はイスラエルを行かせなかったのです。それはイスラエルの神、主の力を彼らに示すためでした。主の力がエジプト人だけでなく、イスラエルの民に対して、そして全世界に対し示されるためだったのです

 

Ⅲ.闇(21-29)

 

それで主はどのようにされたでしょうか。それで主は次の災いを下されます。それは闇の災いです。21節から29節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。ファラオはモーセを呼んで言った。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」モーセは言った。「あなた自身が、いけにえと全焼のささげ物を直接私たちに下さって、私たちが、自分たちの神、主にいけにえを献げられるようにしなければなりません。私たちの家畜も私たちと一緒に行きます。ひづめ一つ残すことはできません。私たちの神、主に仕えるために、家畜の中から選ばなければならないからです。しかも、あちらに着くまでは、どれをもって主に仕えるべきか分からないのです。」しかし、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった。ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」」

 

第9番目の災いです。今度は何の警告もなく、一方的にさばきを宣言されました。それは、「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」というものでした。それでモーセが手を天に向けて伸ばすと、エジプト全土が三日間、真っ暗になりました。光は神が創造されたものの中で一番初めに造られたものです。その光がないというのは、人間の生存に関わる問題です。人は真っ暗闇の中におかれると、数時間で精神的におかしくなってしまうと言われています。あの3.11の後でしばらく計画停電がありました。夜でも電気が使えないのです。それで電池式のランタンとか蝋燭で対応しなければなりませんでしたが、でんきが使えないとパニックになってしまいます。その苦しみをエジプト人はそれを三日間、味わいました。しかし、イスラエルの子らのいたところには光がありました。

 

するとファラオはどうしたでしょうか。彼はモーセを呼んでこう言いました。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」(24)

今度は、妻子は連れて行ってもよいが羊と牛は残しておくようにと言いました。ここに新たな妥協案が示されました。ファラオがこのように言ったのは、自分たちの羊や牛が、すでに死んでしまったからです。ですから、イスラエルが牛や羊までも連れて行ったら、エジプトには何も残らないことになってしまいます。それはできないと、ファラオは頑なに牛と羊だけは残しておくようにと言ったのです。

 

するとモーセはその申し出を拒否しました。なぜなら、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えるべきかわからないからです。あちらとは荒野のことです。そこで神から律法が与えられることで、どの家畜を主にささげたら良いかが示されます。それまではわかりません。だから、全部連れて行くと言ったのです。

 

それを聞いたファラオの心は再び頑なになりました。それでファラオは彼らを去らせようとはしませんでした。交渉が決裂したのです。そして、お互いに顔を合わせないようにしました。これ以降、両者が顔を合わせることは二度とありません。それでファラオは暗闇の中を歩むことになります。もっと恐ろしいさばきが彼を襲うことになります。これだけでも気が狂いそうになるのに、もっと恐ろしいさばきが彼らを襲うことになります。

 

このように神に背を向けるなら、暗闇の中を歩むようになります。しかし、神に従うなら、いかなる闇の中にあっても、光の中を歩むようになります。それは主の栄光の輝きです。イザヤ書60:1-3には、「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」とあります。それは主イエス・キリストに従う者にもたらされる光です。主イエスはこう宣言されました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)

主イエスは世の光です。イエス様に従う者は、決して闇の中を歩むことがありません。いのちの光を持つのです。あなたは闇の中を歩んでいませんか。世の光であられるイエス様を信じて、光の中を歩む者となりましょう。

ルツ記4章

きょうは、ルツ記4章から学びます。まず1節から6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ボアズの提案(1-6)

 

「一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこに座った。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類が通りかかった。ボアズは彼に言った。「どうぞこちらに来て、ここにお座りください。」彼はそこに来て座った。ボアズは町の長老十人を招いて、「ここにお座りください」と言ったので、彼らも座った。ボアズは、その買い戻しの権利のある親類に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここに座っている人たちと私の民の長老たちの前で、それを買ってくださいと言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。けれども、もし、それを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたを差し置いてそれを買い戻す人はいません。私はあなたの次です。」彼は言った。「私が買い戻しましょう。」ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買い受けるときには、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブの女ルツも引き受けなければなりません。」するとその買い戻しの権利のある親類は言った。「私には、その土地を自分のために買い戻すことはできません。自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから。私に代わって、あなたが買い戻してください。私は買い戻すことができません。」」

 

いよいよルツ記の最終章となりました。ルツはナオミが言うことに従い、主の約束のことばを握り締めてボアズにプロポーズしまたが、ボアズは自分の感情に流されることなく、主の定めに従って事を進めていきました。すなわち、彼よりももっと近い買戻しの権利のある親類と話し、もしその人がその役割を果たすというのであればそれでよし、しかし、もし果たすことを望まないというのであれば自分が彼女を買い戻すことにしたのです。

 

かといって、ボアズはいつまでもぐずぐずしているような人ではありませんでした。彼女のためにすぐに行動を起こします。ルツと話したその翌日に、門のところへ上って行って、そこに座りました。あの買戻しの権利のある親類と話すためです。町の門は、防衛上必要であっただけでなく、会議の場となったり、裁判所となったり、市場になったりもしました。ボアズはここで公に話し合おうと思ったのです。それは、どのような結論が出ようとも、事実に反する風評が立たないようにするためです。

 

すると、そこにその人が通りかかったので、ボアズは彼に言いました。「どうぞこちらに来て、ここにお座りください。」そればかりではなく彼は、町の長老たち10人を招いて、「ここにお座りください。」と言って、彼らにも座ってもらいました。法的に重要な決定を下すためには、10人という人数が必要だったからです。

このようにボアズは、この件を自分に都合がいいように小細工をしたり、隠れて事を行うようなことをせず、誰の目にも公明正大に行いました。私たちが取るべき道として最も安全なのは、正攻法で行くことです。まさに箴言に「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(箴言29:26)とあるとおりです。合法的、かつ正当なやり取りは、その人の信用を高め、将来の祝福を約束することになるのです。

 

ボアズは、その買戻しの権利のある親類に、モアブの野から帰って来たナオミが、自分たちの身内のエリメレクの畑を売ろうとしていることを告げ、もしその親類がそれを買い戻したいのであればそれでよし。でも買い戻さないというなら、自分が買い戻すと言いました。するとその親類が「買戻しましょう」と言ったので、もし買い戻すというのであれば、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブ人の女ルツも引き受けなればならないと言うと、だったら買い戻すことはできないと、断りました。自分自身の相続地を損なうことになると思ったからです。どういうことでしょうか。ルツを引き受けことが、どうして自分自身の相続地を損なうことになるのでしょうか。恐らく、ルツが産む子に財産を持っていかれるのではないかと思ったのでしょう。そんなことになったら大変です。また、彼にはルツがモアブ人であるという偏見があったようです。このような経済的な損得勘定や偏見で、人はどれほど多くの祝福を損なっているでしょうか。これはキリスト教に対しても同じで、多くの人は損得勘定や偏見によって見ることによって、キリストのすばらしい祝福を受け損なっているのは残念なことです。神のみこころは何なのか、何が良いことで神に受け入れられるのかをわきまえ知るために祈りましょう。

 

Ⅱ.あなたがたは証人です(7-12)

 

次に7節から12節までをご覧ください。

「昔イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける認証の方法であった。それで、この買い戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分の履き物を脱いだ。ボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、今日、私がナオミの手から、エリメレクのものすべて、キルヨンとマフロンのものすべてを買い取ったことの証人です。また、死んだ人の名を相続地に存続させるために、私は、マフロンの妻であったモアブの女ルツも買って、私の妻としました。死んだ人の名を、その身内の者たちの間から、またその町の門から絶えさせないためです。今日、あなたがたはその証人です。」門にいたすべての民と長老たちは言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。また、あなたがエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」」

 

その買戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい。」と言って、自分の履き物を脱いで渡しました。それは、昔イスラエルでは、買戻しの権利を譲渡する場合、すべての取引を有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡すという習慣があったからです。これがイスラエルにおける認証の方法だったのです。

 

そして、ボアズは、長老たちとすべての民に、自分がエリメレクのものすべて、またマフロンとキルヨンのものすべてを買い取ったことを宣言しました。もちろん、その中にはマフロンの妻であったモアブ人の女ルツも含まれています。ボアズは正当な方法でルツを自分の妻としました。

 

ボアズが、自分がルツを買い戻したと宣言すると、そこにいたすべての民と長老たちが、「私たちは証人です」と言い、彼に神の祝福を祈りました。それは、「どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのようにされますように。」という祈りでした。これはどういう意味でしょうか。ユダヤ人たちは、アブラハムの妻サラと、ヤコブの二人の妻ラケルとレアは、「民族の母」として特別な存在として考えていました。ここにはその「ラケルとレアの二人のようにされますように」とあります。ラケルとレアは、ヤコブの二人の妻です。この妻と女奴隷から12人の息子が生まれ、イスラエル12部族が出ました。特にラケルは、このベツレヘムの町で最年少の子ベニヤミンを産み、そして死にました。ですから、これはこのレアとラケルのように、子孫が祝福を受けますようにという祈りだったのです。

 

また、「エフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。」というのは、このベツレヘムで有力な人となるようにという祈りです。エフラテとベツレヘムは同じ意味です。やがてこのベツレヘムから救い主が生まれることで、ボアズは名をあげることになります。

 

また、長老たちは、「どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」と祈りました。ボアズの先祖はペレツです。そのペレツは、タマルという女とヤコブの12人の息子のひとりユダの間に生まれました。ユダはカナン人を妻としてめとり、その妻から三人の息子が生まれましたが、その息子にタマルという妻を迎えたのですが、兄息子が死に、そこで次男のオナンをタマルと結婚させました。まだ律法は与えられていませんでしたが、兄弟の名を残さなければいけないという習慣がすでにあったからです。オナンは兄の名のためにタマルとの間に子を持つことを嫌がり精子を地上に流していたため、神に打たれて死んでしまいました。そしてシェラという三男がいましたが、シェラも殺されるのではないかと思い、ユダはタマルに彼を与えなかったのです。これは神のみこころにそぐわないことでした。それでタマルはどうしたかというと、売春婦の姿に変装して、通りかかったユダを巧みに誘惑し、彼と関係を持ちました。ユダはあとでタマルが妊娠したのを知って、「あの女を引き出して、火で焼け。」と言いましたが、タマルがあのときの売春婦であると知ったとき、自分の過ちを認めました。自分が息子シェラをタマルに与えなかったために、このようなことになったのだと知りました。そこで生まれて来たのがペレツです。ペレツは、そうした人間の罪がドロドロと錯綜するような中で生まれたのです。しかし神はそんなペレツを祝福し、救い主の系図の中に入れてくださいました。ですから、タマルがユダに産んだペレツの家のようにとは、そのようにしてもたらされたペレツの家が神の祝福の中に加えられたように、ルツがボアズに産んだ子が、神の祝福の中に加えられるようにという祈りだったのです。加えられるどころか、救い主の系図の中にバッチリと収められています。私たちは、ここでの祈りがやがて救い主イエス・キリストがベツレヘムで誕生することによって成就するのを見ます。

 

Ⅲ.ナオミに男の子が生まれた(13-22)

 

最後に13節から22節までをご覧ください。

ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。女たちはナオミに言った。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」

ナオミはその子を取り、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。

これはペレツの系図である。ペレツはヘツロンを生み、ヘツロンはラムを生み、ラムはアミナダブを生み、アミナダブはナフションを生み、ナフションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生み、エッサイはダビデを生んだ。」

 

とうとうボアズはルツを妻に迎えることができました。そして、主はルツを身ごもらせたので、彼女は男の子を産みました。やがてその子の子孫としてメシアが誕生することになります。だれがそんなことを考えることができたでしょう。これが神のなさることです。しかも、ルツはモアブ人です。神の民から遠く離れた異邦人です。にもかかわらず、神は異邦人のルツを通して全人類に祝福をもたらされました。これは、神が異邦人のことも決して忘れていないことを示しています。ユダヤ人とか、異邦人といったことではなく、神はご自身の御旨とご計画によって、ご自身の救いの御業を進めておられたのです。

 

その日、町の女たちがナオミに言いました。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」

ルツの子どもは、ナオミにとっての子どもでもあります。なぜなら、ナオミは死んだ長男マフロンに代えてこの子を得たのですから。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名前をつけました。「オベデ」という名です。意味は、「神を礼拝する者」とか、「神に仕える者」です。ナオミは、ベツレヘムに来たとき、すべてを失って、悲しみの中にいました。自分を「ナオミ」と呼ばないでください、「マラ」と呼んでほしいと言いましたが、その悲しみが今、喜びに変えら名付けられたのでしょう。

 

そして、このオベデは、ダビデの父であるエッサイの父です。そのことがわかるように、18節から終わりまでのところにペレツの系図が記されてありますが、これはこのペレツからダビデが生まれたことを示しています。それは、私たちの救い主がここから生まれたことを示しています。神の計画は、人間の想像をはるかに超えています。それがこの系図によく表われているのではないかと思います。この系図はペレツの系図となっていますが、ペレツという人物も前述したとおり、あのユダとタマルとの間に生まれた子どもでしょ。そこから出たペレツの子孫にボアズが生まれ、そのボアズがルツと結婚することでダビデの祖父にあたるオベデが生まれ、そのオベデからダビデが生まれ、そのダビデの子孫から救い主イエス・キリストが生まれてくるのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。それは、神はすべてを支配しておられ、ご自身のご計画に従って、すべてのことを導いておられるからです。

 

それは、あなたも例外ではありません。私たちは本当に小さな者にすぎませんが、神はこのような小さな者をご自身の救いの計画の中にしっかりと組み込んでいてくださり、偉大な御業を行わっておられるのです。ルツはモアブの女にすぎませんでしたが、彼女を通して主は救いの御業を成し遂げられました。まさにそれは主の計らいなのです。私たちは本当にちっぽけな者にすぎませんが、神はこのような者にも驚くような計画をもっていてくださることを信じ、すべてのことをつぶやかず、疑わずに行う者でありたいと願わされます。その時、主がこんな私たちを通しても偉大な御業を行ってくださるのです。

ヨハネの福音書8章12~20節「わたしは世の光です」

きょうは「わたしは世の光です」と言われたイエスの言葉から学びたいと思います。皆さんは、「もしも、光がなかったら」と考えたことがありますか。そうなったら、何も見えず、私たちはこの世界で、何が起こっているかを知ることができません。同様に、私たちの人生に霊的な光がなければ、私たちは、自分の人生の目的やその意味を知ることができず、闇の中を生きることになってしまいます。

 

見ることも、聞くことも、話すこもできなかったヘレン・ケラーは、その三重苦を乗り越え、多くの人々の「希望の光」となりました。彼女はこう言っています。「目に太陽が見えるか見えないかは問題ではありません。大切なのは、心に光をもつことです。」私たちは、心に光をもっているでしょうか。その光は、どこから来るのでしょうか。それはどんな光なのでしょうか。きょうはこの光であるキリストについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.世の光であられるキリスト(12)

 

まず、イエスは世の光であられるということについてです。12節をご覧ください。

「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

 

「イエスは再び人々に語られた」という言葉遣いは、その前の話とぴったり調和しています。イエスは、2節で宮に入られた時、集まって来た人々に教え始めました。その時、姦淫の現場で捕らえられた女が主イエスの前に連れて来られたために、話を一時的に中断しなければなりませんでしたが、事件の決着もつき、告訴人も告訴された者も立ち去った後で、主イエスは教えを再開されました。ですから、その前の姦淫の現場で捕らえられた女の人がイエス様のもとに連れて来られたという話は、実際にあった話なのです。

 

イエスが再び語られたこととはどんなことでしょうか。ここには、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とあります。ヨハネの福音書には、「わたしは・・です」という宣言が7回出てきますが、この「わたしは世の光です」というのは、その2回目です。1回目は6章35節、あるいは6章48節に出てきました。「わたしはいのちのパンです」という宣言です。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ここでは「わたしは世の光です。」と言われました。「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」これはイエス様ご自身が約束のメシヤであるという宣言です。すなわち、イエスが救い主であられるということです。

 

イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。ある註解者によると、7章で仮庵の祭りについての言及がありましたが、その祭りの大いなる日に、イエスは立ってこう言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになります。」(7:37-38)

それは、この祭りのクライマックスとも言うべき祭りの最終日のことでした。その終わりの大いなる日に、シロアムの池から運ばれた水を、祭司が祭壇に注ぐという儀式がありましたが、それともう一つの儀式がありました。それは、神殿の中をいっぱいに埋めた祭司や民が、手に持った燭台のろうそくに一斉に火を灯したのです。それはまさに真昼のように、エルサレムの隅々を照らしました。ユダヤ教のラビたちはそれを「神の栄光の光」と呼びました。こうした儀式を背景に、イエスはご自分こそまことの神の栄光の光であると宣言されたのだ、というのです。

 

皆さん、この世は真っ暗闇です。この「闇」というのは、神について全く知らないという意味です。どこに行っても神を知ることができません。私たちの周りにはスマホをはじめとした文明の機器がたくさんありますが、どこを探しても光を見ることができません。どんなにテレビやネットの情報を見ても、それらのものが私たちの人生を照らしてくれるでしょうか。いいえ、そうしたものはとても便利なものですが、むしろ私たちを暗闇の中へと放り投げてしまいます。どこを探しても、私たちの人生を照らす光を見つけることができません。

 

しかし、イエスはここで、「私は世の光です」と言われました。私たちは、この光であるイエスによって照らされるまで真理を見ることができません。それはこの前に記された内容を見てもわかります。律法学者やパリサイ人たちは、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、律法では、こういう女を石打ちにするようにと命じていますが、あなたは何と言われますかと、イエスに詰め寄りました。するとイエス様は何と言われたでしょうか。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。

すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、その女とイエス様だけが残されました。イエス様の光に照らされた時、彼らは自分も罪人であり、死ななければならない存在であることが示されたのです。同じように、私たちもイエス様によって照らしてただかなければ、神の真理を知ることはできないのです。イエスは世の光です。イエスに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

しかもその光はただの光ではありません。ここには「いのちの光」とあります。この「いのちの光」とは、私たち人間が人間として生きていく上で必要な光であるということです。それは霊的光のことであって、いのちを与える光です。どんな人でもイエス・キリストを信じるまでは霊的に死んでいますが、イエス・キリストのもとに来て、キリストを信じる時、このいのちが与えられます。こうして、神が私たちのために用意しておられる本当の人生を歩むことができるのです。

 

以前、NHKテレビで、「無縁社会~新たなつながりを求めて~」という番組を放映していました。かつては、人と人とが何らかの絆によって結ばれていたのに、現代ではそれが失われて来ています。家庭において、職場において、その他の人間関係において、人と人の結びつきが薄れてきている。人間関係のストレスから、部屋に閉じこもって、インターネットのつながりだけで生きている人々、人生に行き詰って自殺へと追い詰められた人々が増えています。そのような無縁社会と向き合って、辿り着いたところがここでした、と紹介されたのが、和歌山県白浜にある教会でした。この教会の近くにある三段壁という自殺の名所があって、一年中自殺者が絶えません。そこでこの教会ではそこに看板を立て、自殺する前にまず教会に連絡するようにと呼びかけました。その結果、この20年間に905人の自殺志願者を止まらせました。

それでNHKが今のこの無縁社会の問題の解決を捜し求めるうちに辿り着いたのが、この白浜に立っている十字架を掲げた教会だったというのです。このことは、この社会と私たちの人生の真実を深く物語っている象徴的な出来事ではないかと思います。つまり、暗闇の中で苦悩する私たちは、光であられるキリストのもとに引き寄せ去られて初めて安らぎが与えられ、人間らしい交わりを取り戻すことができるということです。キリストこそこの世の光です。この方に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

もし光がなかったらどうなるでしょうか。先月、北海道で、猛烈な砂嵐が発生し、高速道路ではバスやトラックなどが絡む多重事故が相次ぎ、計14人以上がけがをしました。原因は何かというと、その砂嵐のため視界が不良であったことです。視界ゼで周りが全く見えませんでした。そうなりますと、車のライトも役に立ちません。前方にも後方にも全く光が届かず、砂嵐の暗闇に閉じ込められてしまったのです。かろうじて、車の左側に白いペンキで引かれた道路の端の境界線がかすかに見えました。そのわずかに見える境界線をたどりながら、恐る恐る前進していくのですが、前進していくことができません。後ろから車が来たら、追突されてしまうかもしれませんから。早くサービスエリヤに逃げ込むしかないのです。

 

それは私たちの人生も同じで、もし光がなかったら、どこを、どのように進んで行ったら良いかがわからないため倒れてしまうことになります。その光がイエス・キリストです。キリストに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

私はイエス様を信じて40年になりますが、もし、イエス様と出会っていなかったらどうなっていただろうと思うことがあります。おそらく、とんでもない人生を送っていたのではないかと思います。しかし、そんな者がキリストと出会い、キリストの光が与えられたことで、キリストに支えられながら、光の中を歩むことができたのは、本当に感謝なことです。

 

Ⅱ.キリストの証言の確かさ(13-18)

 

しかし、どうしてキリストが光だと言えるのでしょうか。第二に、キリストの証言の確かさです。すると、イエスの言葉を聞いたパリサイ人たちがイエスのもとにやって来てこう言いました。13節、「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」

 

どういうことでしょうか。「自分で自分のことを証ししています」とは、「自分で自分の証言をしている」ということです。そんな証言を誰が信用することができでしょうか。そのようなものを信用するのは難しいでしょう、というのです。旧約聖書にも、「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分の唇でではなく、よその人によって。」(箴言27:2)とあります。また、モーセの律法にも、「二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。」(申命記17:6)と、証言が真実であると認められるためには2人ないし3人の証言が必要とされていました。ですから、自分で自分のことを証言することはできないと言ったのです。

 

それに対してイエスは、それが真実であることを証明するためこう言いました。14節です。

「イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。」

この「自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのか」というのは、その人の本質を表しています。つまり、イエスはここでご自分が父なる神から来られた神ご自身であると言っているのです。イエス様が彼らのところに来られ、彼らの前に立っておられるのは、一般の預言者やありふれた証人としてではなく、神から遣わされたメシヤとしてここにいるのだ・・・・と。それゆえ、ご自分の証言が信頼できるものであると言えるのです。彼らにはそのことがわかりませんでした。彼らはイエスが神であり、神から遣わされた方であるということを信じることもできなかったからです。

 

そればかりではありません。15節から18節までにはこうあります。

「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」」

 

「あなたがたは肉によってさばきますが」の「肉」とは、下の欄外の説明にもあるように「人間的判断」のことです。つまり、彼らは人間的判断にしたがって、外見や、この世の基準で判断していました。ですから、正しく判断することができなくなっていたのです。彼らは、自分たちの目に見えるところによってキリストを判断していたために、イエスのうちにある神としてのご性質を見ることができませんでした。だって、ただの大工の息子ですから・・・。そんな者をだれがメシヤだなんて認めることができるでしょうか。でもそれは人間的な判断でしかありませんでした。彼らの思いは肉的で、偏見に満ちていました。だから、イエスを正しい目で見ることができなかったのです。

 

しかし、イエス様の本質はそうではありませんでした。主はだれをもさばきません。これはどういうことかというと、だれもさばかないということです。たとえ最悪の罪人であっても、罪に定めるようなことはなさいません。それは、やがて終わりの日にそのような時があるでしょうが、今はそうではありません。今はさばいたり、罪に定めるようなことはしないのです。なぜなら、イエスは人々を罪に定めるために来たのではなく、罪人を救うために来たからです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(ルカ2:17)

 

しかし、たとえイエス様がさばくとしても、そのさばきは正しいのです。なぜなら、イエス様は一人でさばかくのではなく、イエスを遣わされた父がさばかれるからです。これは、主が今は審判者としての務めを果たされなくても、それはそのような資格がないからではなく、むしろその反対で、もし主が誰かの行為や意見をさばくとしたら、それは完全に正確で信頼できるものであるということです。なぜなら、主はひとりではないからです。主と、主を遣わされた父なる神との間には、分かつことのできない結びつきがあるので、そのさばきは確かなものなのです。

 

17節を見てください。それは、先ほども申し上げたとおり万人が認めるモーセの律法の中でも言われていることです。このように二人の証言が信頼に値するものであることを認めるなら、イエスの証言は真実であると言えます。18節、なぜなら、イエスご自身が神から来られた神であり、その遣わされた父なる神の二人の証人がいるからです。これ以上、どんな証言が必要だと言うのでしょう。これで十分なはずです。

 

ですから、イエスを認めることは父なる神を認めることであり、イエスを認めないことは、父なる神をも認めないことです。イエス様こそこの世の光であり、私たちを闇の中から救うことができるいのちの光なのです。あなたはこのことを認めますか。

 

Ⅲ.キリストを通して神を知る(19-20)

 

第三のことは、だから私たちは、このキリストを通して神を知ることができるということです。19節をご覧ください。

「彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」」

すると彼らはイエスに言いました。「あなたの父はどこにいるのですか。」おそらく、この質問は本当に神を知りたいという願いからというよりも、イエスに対してあざけりを込めた皮肉な質問だったのではないかと思います。

 

それに対してイエスはこう言われました。19節、「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」

結局のところ、彼らは神について全く知りませんでした。彼らは聖書から神について教える立場にありながら、その神のことを全く理解していなかったのです。なぜでしょうか。キリストを知らなかったからです。もし、キリストを知っていたなら、父なる神のことも知っていたでしょう。しかし、彼らはキリストを受け入れることができませんでした。それで、神のことを知らなかったのです。

 

どうしたら神を知ることができるのでしょうか。それは、「キリストを通して」です。キリストについて無知でありながら、神について何事かを正しく知っていると思っている人は、全くの思い違いをしています。その人が知っているのは聖書の神ではなく、自分自身が考えている神であり、想像の産物なる神にすぎません。私たちが神を知るために必要なのは、このキリストを通してなのです。キリストは、神を説き明かすために来られたひとり子の神であり、この神のみもとに私たちを導くために、その御業を成し遂げてくださった方です。キリストはこう言われました。

「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

キリストが道であり、真理であり、いのちです。だれも、キリストを通してでなければ父のみもとに行くことはできないし、父を知ることもできないのです。

 

このことはとても重要なことです。ある人たちは、「神を信じることは簡単にできるけれども、イエス・キリストが出てくると分からなくなる」と言います。でも、神を信じたいと思うなら、このキリストから始めなければなりません。キリストを自分の罪からの救い主であると知るなら、その人は神を知ることができるからです。でもキリストを退けるなら、ここに出てくるパリサイ人のように、どんなに知識があっても、神について全く無知であり、結局のところ、闇の中を歩むことになるでしょう。しかし、最も貧しく、最も卑しい人であっても、キリストを信じる人は、神を知ることができるようになるのです。なぜなら、キリストこそこの世の光だからです。この的を逃さないようにしましょう。最近は、人間が考え出した心理学や哲学といった学問によってキリスト教信仰を持とうとする人が少なくないわけではありません。確かにその方がわかりやすいかもしれませんが、そうしたものはあくまでも人間が考え出したものにすぎず、人を滅びに導くものでしかありません。私たちが神を知るためには、聖書が示しているイエス・キリストを通してのみなのです。なぜなら、キリストこそこの世の光であられるからです。

 

皆さんは、おたまじゃくしがカエルになるのを観察したことがありますか。おたまじゃくしは、数珠つながりになった受精卵から50日してカエルになりますが、おたまじゃくしからカエルになる時に光を受けないと、おたまじゃくしはずっとおたまじゃくしのままで、やがて十分な呼吸ができなくなってしまい死んでいくのだそうです。

それは私たちにも言えることです。私たちも、イエス様からいのちの光を受けなければ、おたまじゃくしと同じように、罪の泥沼の中に沈んでしまうことになります。聖書は、私たちが罪の暗やみの中に沈んでいる状態を「彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4:18)と言っています。しかし、私たちもイエスの光を受けるなら、暗やみから光に変わり、光の子になることができるのです。エペソ5:8ではこう言っています。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」あなたもイエスの光を受けているでしょうか。その光の中を歩いているでしょうか。

 

ルイ十四世といえば、「朕は国家なり」と言ってフランスに君臨した王でした。彼が死んだ時、遺言にしたがって彼のからだは、もっとも豪華な衣にまとわれ、黄金に輝く棺におさめられ大聖堂のまん中に安置されました。聖堂内のすべてのともし火は消され、ただ一本の大きなろうそくだけが棺の上にともされて、黄金の棺を照らしていました。それは、フランスの王だけが、栄光に輝く王であることを象徴するためでした。やがて、ヨーロッパ全土から集まった王侯貴族が参列して、厳かに葬儀がはじめられましたが、その司式にあたった司教は、葬儀のなかばで、突然、棺の上に一本だけともされていた、そのともし火をかき消しました。司教は、真っ暗になった会堂にひびきわたる声で言いました。「ただ神のみ偉大なるかな。」この司教は、この世の権力を誇り、神を見失っていた王侯貴族たちに、神のみが栄光に輝く王であり、世界の光であること示したのです。「世の光」であるイエス・キリストを見失った社会は暗やみです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスの招きのことばに、今こそ従いましょう。

出エジプト記9章

出エジプト記9章から学びます。まず、1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.第5番目の災い:重い疫病(1-7)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。

しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」

また、主は時を定めて言われた。「明日、主がこの地でこのことを行う。」主は翌日そのようにされた。エジプトの家畜はことごとく死んだが、イスラエルの子らの家畜は一頭も死ななかった。ファラオは使いを送った。すると見よ、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもファラオの心は硬く、民を去らせなかった。」

 

これまでエジプトに対する四つの災いを見てきましたが、きょうは第5、第6、第7番目の災いを見ていきたいと思います。いまお読みしたところには、5番目の災いについて記されてあります。それはエジプトにいる家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に、重い疫病が起こるということです。3節には、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上にとありますが、エジプトでは、馬、牛、雄牛などは神聖な動物とされ、礼拝の対象になっていました。こうした家畜の上に疫病が起こるというのです。しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない、と言われました。また、主は「時」を定めておられました。それは「明日」です。「明日、この地でこのことを行う」と。

 

その結果はどうだったでしょうか。主が言われたとおり、主は翌日そのようにされました。エジプトの家畜はことごとく死にましたが、イスラエルの家畜は一頭も死にませんでした。主がそのように区別してくださったからです。それは、テサロニケ第一5章9節にあるとおりです。

「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

この「御怒り」とは神のさばきのことです。このさばきは、いのちの書に名が書き記されていない人が火の池に投げ込まれる最後のさばきのことではなく、キリストが再び来られる時にこの地上に下る大患難によるさばきのことです。これはその文脈で語られていることからわかります。神のさばきは突如として人々に襲いかかりますが、クリスチャンを襲うことはありません。なぜなら、クリスチャンは光であられるイエスを信じたことによって、光の子ども、昼の子どもとされたからです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

ですから、クリスチャンがさばきに会うことはありません。主がそのように区別してくださったからです。私たちがイエス様を救い主と信じたことで、神はゴシェンにいる神の民イスラエルのように区別してくださったのです。それゆえ、私たちの上に神のさばきが下るということはありません。

 

エジプトの王ファラオは、イスラエルの民がどうなったのかが気になったようで、使いを送って調査させました。すると、イスラエルの家畜は一頭も死んでいませんでした。であれば、怖くなってイスラエルの民を行かせたかというとそうではなく、逆に、彼の心は硬くなって、民を行かせませんでした。

 

Ⅱ.第6の災い:うみの出る腫物の害(8-12)

 

それで主はどうされたでしょうか。それで主は第6の災いを下します。それはうみの出る腫物の害です。8節から12節までをご覧ください。

「主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」それで彼らは、かまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなった。呪法師たちは、腫れもののためにモーセの前に立てなかった。腫れものが呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。しかし、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりであった。」

 

第6の災いです。この第6の災いの特徴は、第3の災いと同様に警告がないことです。主がファラオに対して何の警告なしに、わざわいが下ることを宣言します。それはうみの出る腫物の害です。

主はモーセとアロンに仰せられました。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」それで彼らがそのとおりにすると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫物となりました。エジプトの呪法師たちは、その腫物のためにモーセの前に立つことができませんでした。これは、エジプトで癒しの神として信じられていた偶像に対するさばきです。エジプトには、疫病を支配する神「セクメット」、癒しの神として信じられていた「セラピス」、そして、薬の神として信じられていた「イムホテプ」といった偶像がありましたが、これらの偶像の神々は、エジプト人をうみの出る腫物から守ることができませんでした。

それでも、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れませんでした。

今回の災いのもう一つの特徴は、かまどのすすがうみの出る腫物となったという点です。この「かまど」とは、レンガを焼くかまどのことです。それはエジプトにいたイスラエル人たちがレンガを焼く作業をするために使っていたものでした。それはイスラエル人にとって苦難の象徴でもありました。エジプトは、そのイスラエル人を苦しめたかまどのすすによって災いを受けたのです。それはまさに、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)とあるとおりです。アブラハムを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。あなたにとってのアブラハムとはだれでしょうか。それは神によって選ばれ、神によって立てられた神の器ではないでしょうか。その神の器をのろうのではなく祝福する。それはあなたの祝福となってかえってくるのです。

 

Ⅲ.第7の災い: 雹の害(20-32)
次に第7の災いを見ていきましょう。13節から35節までですが、まず26節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。あなたはなお、わたしの民に向かっておごり高ぶり、彼らを去らせようとしない。見よ。明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。さあ今、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させよ。野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死ぬ。』」

ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。そこで主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人にも家畜にも、またエジプトの地のすべての野の草の上にも、雹が降る。」モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主は雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。こうして主はエジプトの地に雹を降らせた。雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡った。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものであった。雹はエジプト全土にわたって、人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打った。またその雹は、あらゆる野の草も打った。野の木もことごとく打ち砕いた。ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。

 

第7の災いは雹の害によるさばきです。まずこの災いの前に、モーセを通して警告が与えられています。「主はモーセに言われた。『明日の朝早く、ファラオの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。』」

この災いの目的は何でしょうか。それは、「わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるため」です。災いのは内容は何ですか。「明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。」ということです。エジプトは最古の歴史を持つ国ですから、国が始まってから今に至るまでなかったようなというのは、人類の歴史上これまでなかったようなということです。だから、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させるように・・と。

 

それに対して、エジプト人はどのように応答したでしょうか。20-21節をご覧ください。「ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。」

不思議なことに、ファラオの家臣たちの中に主のことばを恐れた者とそうでなかったもの、つまり、主のことばに心を留めなかった者という2種類の人たちがいました。主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に非難させましたが、主のことばを心に留めなかったものは、しもべや家畜たちをそのまま野に残しておきました。

 

その結果どうなったでしょうか。モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主が雷と雹を送ったので、火が地に向かって走り、エジプトの地に雹が降りました。雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡りました。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものでした。それで、エジプトの人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打ちました。しかし、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降りませんでした。主がイスラエルの民とエジプト人を区別されたからです。

 

ここで注目したいことは、エジプト人の中にも主のことばを恐れた人々がいたということです。彼らは主のことばに従ったので、災害から守られました。主のみことばを聞いてどのように応答するかが重要です。主は、種まきのたとえでこのように教えてくださいました。

ある人が種を蒔いたら四種類の土地に落ちました。それは道ばた、岩地、いばら、良い地です。それはその人の心を表していました。その人が実を結ぶかどうかは、その人が主のことばをどのように受け止めるのかによって決まります。良い地に落ちた種だけが多くの実を結ばせます。あなたはどのような心で主のことばを受け止めていますか。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)とあります。私たちも主を恐れ、主のことばに従う者となりましょう。

 

さて、雹の災いを受けてファラオはどうしたでしょうか。27節と28節をご覧ください。

「ファラオは人を遣わしてモーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを去らせよう。おまえたちはもう、とどまっていてはならない。」」

よっぽどひどい災害だったのでしょう。ファラオは、「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。」と言っています。そして、「主に祈ってくれ。私はおまえたちを去らせよう。」と言いました。これはファラオが悔い改めたということではありません。ただ苦しみから解き放たれたいというだけです。苦しみから解き放たれたいという思いだけでは、救いを得ることはできません。

 

それに対するモーセの回答は、「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を差し伸べましょう。そうすれば、雷はやみ、雹はもう降らなくなります。」というものでした。しかし、それでもファラオとファラオの家臣たちはまだ、神である主を恐れていないと言いました。それはどうしてでしょうか。31節と32節をご覧ください。

「亜麻と大麦は打ち倒されていた。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。しかし、小麦と裸麦は打ち倒されていなかった。これらは実るのが遅いからである。」

どういうことでしょうか。大麦が穂を出し、亜麻がつぼみをつけるのは、大体1月から2月にかけてのことです。また、小麦と裸麦が実をつけるのは、4月から5月にかけてのことです。つまり、この雹の災害は2月から3月にかけて起こったと考えられます。大麦と亜麻は雹で打ち倒されましたが、小麦と裸麦は打ち倒されていませんでした。そのことを知ったファラオと彼の家臣たちは心を頑なにし、イスラエルの子らを行かせませんでした。

 

神は、人をへりくだらせるために、その人の力を弱くされることがあります。ある人は病気になったり、ある人は事業が失敗したりと、自分だけでは生きることができない状況に陥ることがありますが、それは私たちが主の御前にへりくだるために、主が与えてくださるものです。しかし、そうした弱さの中にあっても小麦と裸麦が残されていることがわかると、自分の中にまだやっていける力や可能性が少しでもあると思い、この時のファラオのように頑なになってしまうことがあるのです。主がエジプトのすべてを打たなかったのはエジプトに対するあわれみであったのに、それを自分たちはまだやっていけると思う判断材料にしてしまったのです。

 

しかし、それは主がモーセを通して言われたとおりでした。つまり、これほど激しい災いがあってもファラオが頑なになったのは、イスラエルの神、主のような方がどこにもいないことを、彼が知るようになるためでした。モーセが手を伸ばせば、今すぐにでも彼と彼の民を疫病で打って、この地から消し去ることなど実に簡単なことなのにそのようにされなかったのは、「わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に示すため」(16)だったのです。つまり、エジプトに主とはどのような方であるかを示すため、いや、エジプト人に限らず全地に主の名を知らしめるためだったのです。このことによって、現代に生きる私たちも、主がどれほど偉大なお方であり、主のように大いなる方はほかにはいないということを確信することができます。ファラオの頑な心は、そのために用いられたのでした。私たちは、このようにして示された主の御業を通して、主がどれほど偉大な方であるのかを知り、この方に信頼する者とさせていただきましょう。

ヨハネの福音書8章1~11節「わたしもあなたを罪に定めない」

きょうからヨハネの福音書8章に入ります。きょうのテーマは、罪に定めないイエスです。「わたしもあなたを罪に定めない」というテーマでお話しします。11節に、「わたしもあなたにさばきを下さない。」とあります。新改訳改訂第3版ではこのところを、「わたしもあなたを罪に定めない。」と訳しています。きょうのタイトルは、この第3版の訳から取りました。このところから、罪に定めないイエスについてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.姦淫の場で捕らえられた女(1-6)

 

まず、1節から6節までをご覧ください。

「イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

 

きょうの箇所は7章の続きになっていますが、7章53節から8章11節までは括弧で閉じられています。それは下の欄外にあるように、古い写本のほとんどがこの部分を欠いているからです。それで古くからこの箇所の信憑性について議論されてきましたが、これが主イエス・キリストの出来事として本当にあったということについては議論の余地がありません。

 

さて、この箇所は7章の続きであると言いましたが、7章には主イエスが仮庵の祭りにエルサレムに行かれ、そこで人々と議論され、力強い御言葉を語られたことが記されてあります。その日一日が終わると、人々はそれぞれ自分の家へと帰って行きました。その翌日のことです。イエス様は朝早く再びエルサレムに来られ、エルサレムの神殿に入られました。そこは神殿の庭であったようです。すると、人々がみもとに近寄って来たので、腰を下ろして、彼らに教え始められました。

するとそこに、律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえたというひとりの女性を連れて来て、彼らの真中に立たせ、イエスにこう言いました。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

彼らはなぜこのように言ったのでしょうか。そんなことくらいは聞かなくてもわかることだったでしょう。なぜなら、彼らは律法の専門家なのですから。律法には何とありますか。律法の中心である十戒の中にはこうあります。

「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)

そのような罪を犯した場合にどうなるのかについては、次のように定められていま

した。 「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、

二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。」(申命記22:22)

つまり、姦淫の罪に対する刑罰は、死刑だったのです。これが律法で定められていたことでした。であれば、そのようにすればよかったのではないですか。それなのに、なぜわざわざイエスに質問したのでしょうか。それは、彼らの魂胆が別のところにあったからです。6節にあります。

「彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。」

彼らの魂胆は、イエスを告発することでした。もしもイエスがモーセの律法のとおりにこの女性を死刑にするようにと言ったなら、二つの点で問題がありました。一つはローマ帝国で定めていた法律を無視するということでした。ですから、ローマへの反逆罪で訴えられることになります。当時、ユダヤ人には死刑に対する決定権が与えられていませんでした。それはローマ帝国にありました。ですからその権利を無視して勝手に行使したということになれば、ローマに反逆したとみなされても仕方ありません。もう一つのことは、イエス日ごろから罪人たちの友であると言っておられました。なのに、もしこの女性を死刑にするようにと言えば、自分が行っておられたことに矛盾することになります。イエスは、取税人や売春婦に救いの手を差し伸べるために来たと自分で言っておられたのですから。

逆に、もしもイエスが「赦すべきだ」と言うものなら、モーセによって定められた律法を破る者として訴えられることになります。ですから、どちらに転んでも分が悪かったのです。これは彼らにとってイエスを訴えるための格好の材料であったわけです。彼らは初めからこの女性のことなどどうでも良かったのです。もし本当にこのことで知りたかったのであれば、この女性だけでなく男性も連れてきたことでしょう。なぜなら、律法には男も女も、ふたりとも死ななければならないとあるのですから。女だけを連れて来て、「さあ、どうする?」と言うこと自体が間違っていました。

 

それに対してイエス様はどうされたでしょうか。6節後半にはこうあります。

「だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

イエス様は、そんな彼らの問いかけには一言も答えられず、ただ身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。何を書いておられたのでしょうか。わかりません。そのことについて聖書は何も言っていませんから。大切なことは、何を書いていたかということではなく、彼らの質問には何も答えなかったということです。なぜでしょうか。答える必要がなかったからです。ただ本文を見ると、「指で」という言葉が強調されています。神がその指で書かれたものとは何でしょうか。十戒です。出エジプト記31章18節にこうあります。

「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」

十戒は、神がその指で書き記したものです。その十戒には何と書かれてありますか。その中にはこの「姦淫してはならない」という言葉が含まれていました。つまり、イエス様はその内容をよくご存知であられたということです。律法学者やパリサイ人たちは、その十戒をさらに細分化して613もの規定を作りましたが、それは人間が作り出したものにすぎず、人を闇の中へと突き落とすものでした。しかし、イエス様は律法を定められた方であって、その律法を意味することがどんなことであるのかを完全にご存知であられました。ですから、私たちに必要なのは律法に何と書かれてあるかということではなく、この律法を定められた方であるイエス様に従うことなのです。それなしに律法に従おうとすると、ここで律法学者やパリサイ人たちが陥った過ちに陥ることになってしまいます。

 

Ⅱ.あなたがたの中で罪のない者が(7-9)

 

するとどうなったでしょうか。7節から9節までをご覧ください。

「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

 

しかし、彼らが問い続けて止めなかったので、イエスは身を起こして言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

このイエス様の言葉は、ちょうど静かな湖面に石を投げたときの波紋のように広がっていきました。大声を張り上げていた人々が次第に黙り始めたのです。それは思いがけないことばでした。彼らは、姦淫の女にひたすら注目していました。こいつは悪い女だ。とんでもないことをした。姦淫の罪は十戒でも禁じられている罪で、極刑に値する。それなのに、イエスは人々の心の流れをまったく思いがけないところへと導かました。この女に石を投げつけるがよい。しかし、一つだけ条件がある。それは、あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさいということです。人をさばくことができる人は、自らも罪のない者でなければなりません。自分の心にやましさがあるのにほかの人をさばくことなどできるでしょうか。できません。多くの場合自分が罪を持っているにもかかわらずそれを隠し、良心の呵責をごまかして平気で人をさばこうとしますが、実際にはそんなことができる人などだれもいないのです。だれにでも罪があるからです。つまり、イエス様は、その非難や怒りの流れを、自分自身に向き会うようにとされたのです。姦淫の女を見つめることから、自分自身を見つめることへと方向転換を迫られたのです。

 

これはとても大切なことです。人はほかの人の罪はよく見えても、自分の罪は見えないものです。それでこの時の律法学者はパリサイ人たちのように、この女はとんでもないことをした!と責め立てますが、自分の胸に手を置いてよく考えると、自分もこの人と同じ罪人にすぎず、五十歩百歩だということに気付かされるでしょう。

主イエスは言われました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(マタイ7:15)

梁とは裁縫で使う針のことではありません。家の柱と柱を結ぶ梁のことです。私たちは自分の中にそんな大きな梁があるのにもかかわらず、兄弟の目の中にある小さなちりを取り除こうとします。しかし、まず自分の中にある大きな梁を取り除かなければなりません。そうすればよく見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

 

すると、どのようになったでしょうか。9節をご覧ください。「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

年長者から始まりというのは、年を重ねて自分の姿がよくわかるようになっていたということでしょうか。彼らは、イエス様のひとことで、自分を振り返り、良心の呵責を感じたのでしょう。みな、その場から立ち去ってしまいました。まさに、聖書に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(へブル4:12)とあるとおりです。

 

しかし、それは何も年長者だけの問題ではありません。ここには、「年長者から始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」とあります。結局のところ、老人も若者も、男性も女性も、強い者も弱い者も、地位の高い者も低い者も、一人残らず、自分にはこの女性を罰する資格がないと思い知らされ、その場から去って行ったのです。

 

私たちが人生でキリストに出会うということは、こういうことなのではないでしょうか。思ってもみなかったような視点で物事を見ることを教えられるということです。神殿に集まった人々は、キリストに教えられなければ、あのような視点を持つことはできませんでした。今、ここにいる私たちも同じです。この視点がなければ、私たちもついつい高慢になって、自らを滅ぼし、人をも滅ぼしかねません。ですから、こうして日曜日に教会に集い、主の御言葉を通してキリストに出会うということは大切なことなのです。いつも、キリストに教えられていなければ、私たちは、物事を正しく見ることができないばかりか、そのことにさえ気付かないことが多いからです。自分では見えていると思っていてもそれはただ自分でそう思っているだけにすぎず、実際はそうでないというのがほとんどなのです。それは、9章41 節で、主が「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」とおっしゃっていることからもわかります。

私たちが見えるようになるためにはまず、キリストのもとに来ることです。そうすれば、見えるようになります。キリストに出会うことによって初めて、私にも罪があるということがわかるようになるからです。

 

Ⅲ.わたしもあなたを罪に定めない(10-11)

 

その結果どのようになったでしょうか。10節と11節をご覧ください。

「イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

 

この女をさばくことができる人はだれもいませんでした。すると主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。」と言われました。ここにいた人々の中で、人々を罪に定める権威を持っていたのはイエス様だけでしたが、そのイエス様が、彼女に罪の赦しを宣言されたのです。人の罪をさばく権威のない者が人をさばこうとし、人をさばく権威を持っておられた方はさばこうとされませんでした。ここに一つのコントラストが見られます。律法学者やパリサイ人たちは、誰からも一番よく見えるところにこの女性をひきずり出してその罪をさらしましたが、イエス様は、女性に背を向けて、彼女の罪を見ないようにされたのです。

 

どうしてでしょうか。それは、イエス様が彼女の罪を軽く扱っておられたからではありません。それは主がここで「これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われたことからもわかります。主が彼女を罪に定めなかったのは彼女の罪を背負われ、彼女が受けなければならない刑罰を代わりに受けることによって彼女を赦してくださるからです。これが、イエス様が私たちに対して取ってくださることです。

 

彼女を訴える者がひとりもいなくなった時、彼女がその場から立ち去って行かなかったのはそのためです。もう誰もいなくなったのですから、彼女もその場から立ち去って良かったのにそうしませんでした。そこから一歩も動こうとしなかった。それは動けなかったからです。すべてをご存知であられる主が、こんなに罪深い者を赦してくださる。その主の愛に釘づけにされてしまったのです。主は、自分の罪を正直に認める者に対してこのように愛をもって接しくださいます。いや、主の御前に立つ時、私たちは自分の罪を正直に認めないわけにはいきません。でもその時主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言ってくださるのです。

 

これが私たちの人生においてどうしても必要なものです。私たちが本当に生かされるために必要なのは、このイエス様の赦しの宣告なのです。聖書には、「罪から来る報酬は死である」と書かれています。人は皆、罪のために裁かれ罰せられなければならない存在ですが、イエス様は、私たちひとりひとりの罪を背負って、私たちの代わりに十字架に架かって、いっさいの罰を受けてくださいました。だからこそ、イエス様は、私たちに赦しを宣言することができるのです。私たちを罪に定めることのできる唯一の方が、私たちの罪を背負って自らを罪に定め、十字架についてくださったのです。イエス様の赦しは、ご自分のいのちと引き替えにもたらされるものなのです。

 

その赦しを、イエス様は、この女性にも宣言なさいました。そして、続けてこう言われました。「今からは決して罪を犯してはなりません。」それは、「元の虚しい生活に戻ることのないように注意して歩んで生きなさい」ということです。罪赦された者の生き方は、もはや、過去に縛られて生きる生き方ではありません。罪を赦してくださったイエス様とともに前に向かって歩んでいくものです。もちろんそこには困難があり、葛藤があり、罪の誘惑があり、いろいろなことが襲ってきます。でも、こんな私たちを愛し、赦してくださり、いつもともにいてくださるというイエス様の赦しの宣言が、私たちを生かしてくれるのです。

 

全米でベストセラーとなった本に、「アーミッシュの赦し」(亜紀書房)という本があります。2006年10月、ペンシルベニア州のアーミッシュの学校で、男が押し入り、女生徒5人を射殺し、さらに5人が重傷を負わせますが、犯人のチャールズ・カール・ロバーツは犯行後自殺しました。アーミッシュのコミュニティでこのような事件が起こったということに全米が大きな衝撃を受けましたが、その後に起こったことは、世間にもっと大きな衝撃をもたらしました。

何と被害者のアーミッシュの家族が、犯人の家族を赦したのです。事件が発生したその日に、アーミッシュの人々がすぐさま犯人の家族を訪ねて「あなたたちには何も悪い感情を持っていませんから」「私たちはあなたを赦します」と伝えたのです。

彼らはこう考えました。犯人の遺族(妻エイミーと子供たち)は自分たち以上に事件の犠牲者である。つまり、夫(父)を失った上に、プライバシーも暴かれて自分の家族が凶行を行なったという世間の非難の中を生きて行かなければならないということは、どんなに辛いことかと思ったのです。

事件の二日後に、被害者の遺族がいきなりレポーターからマイクを突きつけられて「犯人の家族に怒りの気持ちはありますか」と訊ねられた際に、「いいえ」とこたえました。

「もう赦しているのですか?」 「ええ、心のなかでは」 「どうしたら赦せるんですか?」 「神のお導きです」 「あの人たち(ロバーツの未亡人と子供たち)がこの土地にとどまってくれるといいんですが。友達は大勢いるし、支援もいっぱい得られる。」

殺された何人かの子の親たちは、ロバーツ家の人たちを娘の葬儀に招待しました。さらに人々を驚かせたのは、土曜日にジョージタウンメソジスト教会で行なわれたロバーツの埋葬に75人の参列者がありましたが、その半分以上がアーミッシュの人たちだったことです。

犯人のロバーツの葬儀の前日か前々日、我が子を埋葬したばかりのアーミッシュの親たちも何人かが墓地へ出向いて、エイミー(犯人の妻)にお悔やみを言い、抱擁しました。葬儀屋は、その感動的な瞬間をこう回想しています。

「殺されたアーミッシュの家族が墓地に来て、エイミー・ロバーツにお悔やみを言い、赦しを与えているところを見たんですが、あの瞬間は決して忘れられないですね。奇跡を見ているんじゃないかと思いましたよ。」

この「奇跡」をまぢかで見た犯人のロバーツの家族の一人は、こう言っています。 「35人から40人ぐらいのアーミッシュが来て、私たちの手を握りしめ、涙を流しました。それからエイミーと子供たちを抱きしめ、恨みも憎しみもないと言って、赦してくれました。どうしたらあんなふうになれるんでしょう。」(80~81pp)

 

どうしたらあんなふうになれるんでしょうか。なれません。これは奇跡なんです。アーミッシュの奇跡です。その奇跡を、主は私たちにももたらしてくださいました。私たちは神に背を向けながら自分勝手に生きているような者ですが、そんな罪深い私たちに、「私もあなたを罪に定めない」と宣言しておられるのです。人は赦されなければ生きていくことができません。この赦しの宣言を受け取りましょう。そして、この赦しの恵みに生かしていただきましょう。その恵みに溢れながら、前に向かって、イエス様とともに歩んでいく者でありたいと思います。

ルツ記3章

きょうは、ルツ記3章から学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ルツの従順(1-5)

 

「姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。あなたが一緒にいた若い女たちの主人ボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがすべきことを教えてくれるでしょう。」ルツは姑に言った。「おっしゃることは、みないたします。」

 

ルツの大きな決断によって、ナオミはルツと一緒にベツレヘムに帰って来ました。すると彼女はナオミに「畑に行かせてください」と言って、落ち穂拾いに出かけて行くと、はからずも、そこはエリメレク一族に属するボアズの畑でした。ボアズは、ルツが大きな決断をしてベツレヘムまでやって来たこと、そこで大きな犠牲を払って落ち穂拾いをしていることに同情して彼女に慰めのことばをかけ、彼女に落ち穂をたくさん与えるように取り計らってくれました。こうしてナオミとルツは、なんとか食いつなぐことができたのです。

 

そんなある日、姑のナオミはルツに言いました。からだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行くように・・と。それはボアズのところでした。そこでボアズが寝るとき、その場所を見届け、後で入って行って一緒に寝るためです。当時、麦打ち場は戸外にあったため、収穫された麦が盗まれないように、主人か雇人が寝泊まりして番をしていました。ナオミは、そのことを知っていたのです。

 

それにしてもナオミは、どうしてこのようなことを言ったのでしょうか。1節には、「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」とあります。ナオミは、ルツとボアズが結婚できるように取り計らっているのです。ナオミは、ルツが自分について来たとき、彼女が再婚する見込みはないと思っていましたが、彼女がボアズの畑に導かれたことを聞いて、しかもボアズは買戻しの権利のある親戚の一人であることがわかると、ボアズと結婚することができると思ったのです。

 

このナオミの助言に対して、ルツはどのように応答したでしょうか。彼女は、「おっしゃることは、みないたします。」とナオミの助言を受け入れ、従順に従いました。彼女のこの従順が、後に大きな祝福を生むことになります。やがて彼女はボアズと結婚することで、オベデという子どもが生まれ、そのオベデからエッサイが生まれ、エッサイからあのダビデが生まれます。ダビデは、イスラエルの王になる人物で、イエス・キリストの先祖となる人物です。このルツとボアズから、やがて全世界の救い主イエス・キリストが誕生するのです。そういう意味で、この時のルツの従順がどれほど大きなものであったかが分かります。

 

そして、このルツの従順は、後にイエスが生まれる時に天使から受胎告知を受けた時のマリヤを思い出させます。マリヤは御使いガブリエルから、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:31)と告げられた時、まだ男の人を知らない身、処女であったにもかかわらず、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(同1:38)と言いました。その結果、全く罪のない神の子キリストがこの世に誕生することになったのです。

 

このように従順は大きな祝福をもちらします。あなたはどうですか。神の言葉に対して従順でしょうか。そして、主に用いられる器になっているでしょうか。あなたも、みこころがこの身になりますようにと、祈りましょう。

 

Ⅱ.御翼の陰に(6-13)

 

こうして、彼女が打ち場に下って行くと、どういうことになったでしょうか。6節から13節までをご覧ください。

「こうして、彼女は打ち場に下って行き、姑が命じたことをすべて行った。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてある麦の傍らに行って寝た。彼女はこっそりと行って、ボアズの足もとをまくり、そこに寝た。夜中になって、その人は驚いて起き直った。見ると、一人の女の人が自分の足もとに寝ていた。彼は言った。「あなたはだれだ。」彼女は言った。「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」

ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。娘さん、もう恐れる必要はありません。あなたが言うことはすべてしてあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っています。ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類ですが、私よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類がいます。今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、それでよいでしょう。その人に親類の役目を果たしてもらいましょう。もし、その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられます。さあ、朝までお休みなさい。」

 

彼女は、打ち場に下って行くと、姑が命じたことをすべて行いました。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてあった麦の傍らに行って寝ると、一人の女が自分の足もとにいるのを見てびっくり!彼は驚いて起き直り、「あなたはだれだ」と言うと、「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。」という声が聞こえました。「覆い」と訳されている言葉は、衣の「裾」のことで、直訳すると「翼」です。かつてボアズはルツに、「主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(2:12)と言いましたが、ルツは彼こそ主から与えられた避けどころであると信じて、その大きな翼の下に身を寄せようとしたのです。

 

今日でも、ユダヤ教の結婚式では、このような習慣があります。新郎はタリートと呼ばれる裾で花嫁の頭を覆います。これは新郎が花嫁を受け入れ、生涯彼女を守るという決意を示す象徴的行為です。ですからこれは、ボアズを性的に誘惑したのではなく、結婚のプロポースのしきたりでもあったのです。

 

ルツは、ボアズの買い戻しの権利に訴えました。これは2章にもありましたが、申命記25章5~10節にある律法の定めです。それは、人が子を残さずに死んだ場合は、買戻しの権利のある者がその妻をめとり、死んだ者の名を残すようにと定められたものです。ルツの夫マフロンは、子を残さないまま死にました。つまり、ルツにはボアズに買戻しを要求する権利があったのです。彼女は、自分がボアズと結婚するようなことなどとてもできないと思っていました。そんな値打ちなどないことは十分分かっていたのです。しかし、ルツは神のことばをしっかりと握っていました。神が、買い戻しの権利があると言われたのですから、自分はそれを求めることができると信じたのです。

 

それに対して、ボアズはどのように応えたでしょうか。ボアズは、「主があなたを祝福されるように」と答えています。それは、ルツが尽くした誠実さが、先の誠実さにまさっているからです。どういうことでしょうか。これは、ルツがナオミに対して尽くした誠実にまさって、今また結婚について誠実を尽くしているということです。ボアズはルツを「娘さん」と呼んでいますから、父と娘ぐらいの年が離れていたのではないかと考えられています。けれども、ルツは若い男たちの後を追いかけたりせず、神の律法を重んじて、買い戻しの権利があるボアズにプロポーズしたのです。

 

ボアズという名前には、「彼には力が宿る」という意味があります。その名のとおり、彼はは裕福な資産家であり、気力、体力ともに充実した人でした。しかし、彼が人格者として数えられた最大の理由は、彼が律法に精通していた人物であったということでしょう。それは、2章1節で「有力な」という言葉を説明したとおりです。とはいえ、彼がどんなに人格者であったとは言っても、40歳の若い女性が80歳のお爺ちゃんと結婚したいと思うでしょうか。遺産でも目当てでなければ考えられないことです。しかしルツはそんなボアズにプロポーズしました。それはそうしたボアズの人柄と立場というものを理解した上で、ルツが誠実を尽くしたいと思ったからです。

 

とはいえ、ボアズは感情で走る男性ではありませんでした。すべてが公明正大に行われるようにと計画を練ります。もし買戻しの権利のある人で優先権のある親類がいて、その人が買い戻したいというのであればそれでよし、でもその人が親類の義務を果たしたくないというのであれば、自分が彼女を買い戻すと申し出たのです。つまり、彼はすべてを主の御手にゆだねたのです。なかなかできることではありません。自分の気に入った女性がいて、その人から求婚されたのであれば、もう天にも昇るような気分なって、「O.Kそうしましょう!」と即答したいところですが、彼はそのように自分の感情に流されることはありませんでした。ここに、信仰者としてのボアズの誠実な姿が表れています。ボアズはルツに優しい言葉をかけ、朝まで彼女をそこで休ませました。

 

あなたがボアズだったらどうしますか。どのような行動を取ったでしょうか。あなたは主に信頼して待つことができますか。それとも、できずに自分から動いてしまうでしょうか。待つことは、信仰の重要な要素です。主の言葉に信頼し、忍耐して待つ者となりましょう。

 

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(14-18)

 

その結果、どうなったでしょうか。14節から18節までをご覧ください。

「ルツは朝まで彼の足もとで寝て、だれかれの見分けがつかないうちに起きた。彼は「打ち場に彼女が来たことが知られてはならない」と思い、 「あなたが着ている上着を持って、それをしっかりつかんでいなさい」と言った。彼女がそれをしっかりつかむと、彼は大麦六杯を量り、それを彼女に背負わせた。それから、彼は町へ行った。彼女が姑のところに行くと、姑は尋ねた。「娘よ、どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしてくれたことをすべて姑に告げて、こう言った。「あなたの姑のところに手ぶらで帰ってはならないと言って、あの方はこの大麦六杯を下さいました。」姑は言った。「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」

 

ボアズは本当に誠実な人です。妙なうわさが立つことを恐れた彼は、夜明け前の早いうちに起きて、ルツを自分の家に送り返します。そればかりでなく彼は、大麦6杯を量り、それを彼女に背負わせたのです。

 

彼女が姑のところに着くと、早速、姑から尋ねられました。「どうでしたか」そこでルツは、ボアズがしてくれたことをすべて姑に告げました。すると姑は、「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」(16)と助言しました。ボアズは、「朝になって」(13)、また、「あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから」とあるように、ルツと彼女の土地を買い戻すために、すぐに行動を起こします。実にボアズはルツにとって愛すべき、信頼に足る人でした。

 

そして、このボアズの姿はイエス・キリストの姿を表していました。ボアズがルツを買い戻すために行動を起こしたように、イエス様は私たちを買い戻すために、十字架の上で贖いとなってくださいました。

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」(Ⅰテモテ2:6)

キリストこそ私たちの愛すべき方、信頼に足るお方であり、私たちを買い戻すためにすぐに実行に移される方、いや、すでに実行に移してくださいました。

 

私たちは自分の努力や頑張りではどうしようもないことがあります。でも、このことを覚えておいてください。主は、あなたのために働いてくださる方であるということを。自分の成すべきことをしたなら、あとは主にすべてをゆだねましょう。待つことは決して簡単なことではありませんが、神の御業を待たなければなりません。ルツのように、座って待つという信仰がるなら、私たちの魂は平安で満たされるだけでなく、次の展開に向けて大きく動き出すことでしょう。

ヨハネの福音書7章40~53節「キリストに出会って」

ヨハネの福音書から学んでいます。きょうは、7章の最後の部分から「キリストに出会って」というタイトルでお話ししたいと思います。あなたは、キリストに出会ってどのように応答しますか、ということです。

 

Ⅰ.群衆たちの反応(40-44)

 

まず、40~44節をご覧ください。

「このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。」

 

「このことばを聞いて」とは、その前でイエスが語られたことばを聞いてということです。イエスは仮庵の祭りを祝うために、ガリラヤからエルサレムに上られました。その祭りは一週間ほど続きました。その祭りの終わりの大いなる日に、イエスは人々に向かって、こう叫ばれました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37-38)  すると、群衆の中に、さまざまな反応が起こりました。ある人たちは、「この方は、確かにあの預言者だ」と言い、別の人たちは、「この方はキリストだ」と言いました。また、このように言う人たちもいました。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」

 

まず、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいました。「あの預言者」とは、申命記18章15節に預言されていたモーセのような預言者のことで、来るべきメシヤのことを指しています。つまり、救い主を意味していました。それはモーセがイスラエルの民をエジプトから救い出したように、罪の奴隷として捕らえられている人たちを救い出す方であるという意味です。ですから申命記の中には、「あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」とあるのです。その方こそメシヤ、救い主であられるからです。

 

また、別の人たちは「この方はキリストだ」と言いました。「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味で、メシヤのことを指しています。ですから、「この方はキリストです」というのは、「確かにあの預言者だ」と言うのと、本質的には同じです。彼らはイエスのことばを聞いた時、イエスについてのうわさであるとか、だれか他の人から聞いたことばとかによって判断したのではなく、イエスが語られたことばそのものによってそのように受け止めたのです。

 

しかし、群衆の別の者たちはそうではありませんでした。彼らは「キリストはガリラヤから出るだろうか」と言いました。なぜなら、キリスト(メシヤ)はダビデの子孫であって、ダビデの町ベツレヘムから出ると、聖書にあるからです。彼らが言っていることはある意味で正しいです。旧約聖書のミカ書5章2節にはそのように預言されてありますから。でも彼らはイエスがダビデの町ベツレヘムで生まれたという事実を知りませんでした。

 

こうして、イエスのことで群衆たちの間に分裂が生じました。昔も今も、イエスは誰かということについて、人々の意見は分かれます。イエス・キリストの福音は、人々に一致をもたらすのではなく、このように分裂をもたらすのです。真理とは、そのような性質を持っています。いったい何が問題なのでしょうか。真理が問題なのではありません。その真理をどのように受け止めるのかという受け止め方に問題があるのです。彼らは偏見を持っていました。その偏見によって、真理がゆがめられていたために、正しく判断することができないのです。

 

ある註解者は、こうした群衆たちの中にメシヤに対する考え方の違いがあったことを指摘しています。つまり、やがて来るべきメシヤはダビデの王位を継ぐ政治的解放者として、イスラエルをローマの支配の支配から救い出し、イスラエル民族を中心とした世界を統一する王として期待していましたが、イエスはそのような王としてではなく、彼らの罪を赦し、悪魔とその支配から救い出すたましいの救い主として来られました。そうした違いがあったのです。そして、こうした誤解が真実を見る目というものを曇らせていたのです。

 

これは、私たちにもよくあることではないでしょうか。よくキリスト教についてこのように言う人たちがいます。「キリスト教は西洋の宗教じゃないか。日本には日本の宗教があるんだから、それを信じていればいいんだ。」どう思いますか?キリスト教は西洋の宗教であるという先入観です。でも私たちがキリストを信じるのは、それが西洋の宗教だからとか、日本の宗教だからということではなく、それが真理だからです。それは私たちが学校で数学や物理を学ぶのと同じで、私たちが数学や物理を学ぶのはそれが西洋から来たものだからではなく、真理そのものだからです。それに日本には日本の宗教があると言う人の多くが信じている仏教は、もともと外来の宗教であって、日本古来のものではありません。ですから、こうした誤解なり偏見なりといったものが取り去られない限り、本当のものを知ることはできないのです。

Ⅱ.役人たちと祭司長やパリサイ人たち(45-49)

 

このような偏見を持っていたのは、一般の群衆だけではありませんでした。もっとひどかったのは、祭司長やパリサイ人たちでした。45節から49節までをご覧ください。

「さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」」

 

祭司長やパリサイ人たちは、役人たちが戻って来た時、彼らが「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」とありのままを告げると、「おまえたちまで惑わされているのか」と言いました。律法を知らない愚かな者だけが、イエスのことばに惑われている・・・と。その証拠に、議員やパリサイ人たちの中で、イエスを信じた者が誰かいるか。だれもいないだろう。それだけお前たちは惑わされているのだ。そう言ったのです。つまり、彼らはこの世の権力を笠に着て、役人たちを威圧したのです。いったいこの違いはどこから来たのでしょうか。キリストに対する受け止め方が、役人たちと祭司長やパリサイ人たちとでは大きく異なっていました。一方は肯定的であり、他方は否定的です。同じキリストとその語られた言葉に対して、このように人によって違いが生じたのです。

 

役人たちは、キリストに対してあまり偏見を持っていませんでした。祭司長やパリサイ人たちは、キリストを捕らえて殺そうというたくらみをもっていたので、「なぜあの人を連れて来なかったのか。」と問い詰めましたが、役人たちはそのような意図を持ってはいなかったので、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」とありのままに答えることができたのです。イエスの言葉を聞くなら、これが自然の反応でしょう。

 

私は最近車を運転する時「聴く聖書」というCDを聞いています。新約聖書を朗読したCDです。マタイの福音書からずっと聴いていると、イエス様の言葉はすごいなぁと、改めて感じます。だれかこんなふうに話すことができる人がいるだろうか。どんなに考えても、人間には考え付かない言葉です。ですから、役人たちが、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」と答えたのはもっともなことでしょう。彼らはほかの人がどう言うかということよりも、イエスが実際に語る言葉を聞いて、率直にそう思ったのです。この役人たちがイエスを信じたかどうかはわかりませんが、彼らは、自分の前にいる人物を間違いなく正しく見ることができる可能性を持っていました。それは、イエスに対する祭司長やパリサイ人のような偏見やたくらみがなかったからだです。それゆえに、イエスという存在を曇りのない目で見ることができたのです。

 

一方の祭司長やパリサイ人たちは、全く異なっていました。彼らはキリストをありのままに見ることができませんでした。それは彼らの中にねたみがあったからです。マルコの福音書15章10節を見ると、このように記されています。 「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。」

もしねたみをもってイエスを見るならば、イエスがどんなに素晴らしい方であっても、そのように受け止めることができなくなってしまいます。いいえ、素晴らしければ素晴らしいほど、かえってその思いは膨らんでいくでしょう。まさに、こうしたねたみが、イエスと向きあった時に、彼らの目を曇らせていたのです。

 

あなたはどうでしょうか。役人たちのように全く曇りのない目で、イエスを見ているでしょうか。それとも、祭司長やパリサイたちのように、ねたみや偏見に囚われて見ているということはないでしょうか。人と人との関係、そして神と人との関係は、いつでもそのことが問われていると思います。ねたみや偏見といった曇りのない目でイエスを見る者でありたいと思います。

 

Ⅲ.ニコデモの信仰(50-53)

 

最後に、そのような中にあっても勇気をもってイエスを告白したニコデモという人の姿を見たいと思います。50節から53節までをご覧ください。

「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」〔人々はそれぞれ家に帰って行った。〕

 

「彼らのうちで」とは、ユダヤ教の議員やパリサイ人たちのうちで、ということです。彼らは、いわばユダヤ人の社会におけるエリートたちでした。その中の一人で、以前イエスのもとに来たことのあるニコデモが、こう言いました。

「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」

 

ニコデモは、ここで主イエスを弁護しています。覚えていらっしゃいますか。彼は、以前イエスのもとに夜こっそりとやって来た人物です。なぜ夜こっそりとイエスのもとにやって来たんですか?人から見られたくなかったからです。そのような立場にある自分がイエスのもとに行ったということが知られたら、大変なことになるでしょう。でも、どうしても知りたかったのです。人はどうしたら神の国を見ることができるのか、どうしたら神の国に入ることができるのか。

すると、イエスから「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と言われました。社会的な地位や名誉、立場が邪魔をしていたのか、ニコデモは霊的なことがあまりよくわかりませんでした。それほど鋭い人ではなかったのです。それでも真理を求め、自分の悩みをごまかすことをせず、イエスのもとにやって来ました。そして、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われ、神の救いについて、真理について、もっと深く求めるようになり、信仰が芽生えました。

しかし、48節の「議員やパリサイ人たちの中で、だれかイエスを信じた者がいたか。」という言葉から考えると、この時点ではまだ公に信仰を告白するまでには至っていなかったようです。しかし、彼のイエスに対する信仰は、確実に成長していました。彼は、「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」と問題提起をしたのです。

 

「私たちの律法」とは、ユダヤ教の律法のこと、つまり、モーセ五書のことです。その律法には、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか、なのに、何も聞かないで、何も知らないのに、イエスを殺そうというのはおかしいのではないか、と声を上げたのです。これはとても勇気のいることだったと思います。

 

それに対して、祭司長やパリサイ人たちはニコデモに言いました。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」「ガリラヤの出」とは、「愚か者」という意味があります。あなたもガリラヤの出なのか、ガリラヤの出身なのか、そう言ってニコデモを軽蔑したのです。

 

信仰を告白するとか、公に表明することが得策ではないと思われる時、あなたはどのような態度を取るでしょうか。それでもニコデモのように勇気をもって、信仰の一歩を踏み出しますか。それとも、長い物に巻かれて黙り込んでしまうでしょうか。最初の一歩を踏み出すことには恐れも伴うでしょう。しかし、そうした一歩を踏み出すと、次の一歩がより易しくなります。この一歩が彼の信仰を大きく飛躍させました。彼はやがてイエスが十字架に付けられて、私たちの罪の贖いのために死なれた時、イエスの12弟子のほとんどが逃げて行ったにもかかわらず、アリマタヤのヨセフと一緒にイエスの遺体の下げ渡しを願い出ました。ヨハネの福音書19章38~41節にはこうあります。

「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」

彼は、目覚ましい信仰生活ではなかったかもしれませんが、最終的にそこに辿り着いたのです。

 

このニコデモの姿に、私たちは自分の信仰を見ます。六日間、神に背を向けた社会で過ごし、時には周囲のさまざまな圧迫に耐えながら、かろうじて信仰を保っているような者ですが、そして、そんな姿に情けない思いを抱きながら、毎週の礼拝に集ってくることが少なくありません。けれども、そんな私たちもニコデモのような信仰に辿り着くことができるのです。それは、主が私たちの信仰の戦いと苦悩をご存知であられ、受け入れておられるからです。この箇所を見る限り、聖書はニコデモの信仰の不徹底さを責めることを一切せず、むしろ受け入れていることがわかります。それは主がそこに信仰の芽をご覧になっておられたからです。私たちも今はか細い信仰かもしれませんが、勇気をもってその一歩を踏み出すとき、やがて大きな信仰の飛躍を遂げていくことになるのです。

 

アメリカの名門プリンストン大学の大学院に入学したコートニー・エリスというクリスチャンの証です。

彼は教会の中や友人たちの間では、自分がクリスチャンであることを大胆に証ししていましたが、大学では、沈黙を保ちました。なぜなら、大学院では、院生たちがイエスの御名をあざけるのを何度も聞いていたので、自分の評判が落ちるのではないかと恐れていたからです。大学院生のほとんどが、イエスについて無知であったり、中には、今まで一度もクリスチャンに出会ったことがないという人たちもいて、クリスチャンは教養のない、批判的な人たちだと思っていたのです。

時が経つにつれて、彼は罪責感を感じるようになりました。こんなに基本的な点で主に忠実でないとしたら、他の点でどのように神に仕えることができるだろうかと思うと、自分の信仰にはがゆさを感じていたのです。神は彼に、証の機会を与えてくれても、彼は恐れのために行動に移すことができなかったのです。

ある日、ひとりの院生がクラスの中で、「あなたはクリスチャンか」と尋ねてきました。彼は、どのように答えたらいいか決めなければなりませんでした。

そして、深呼吸をして、神の助けによって、震える声で言いました。

「そうだ」

質問をした院生は不思議そうな顔をしながら彼の顔を見つめて言いました。

「驚いたわ。クリスチャンというと、サーカスに出てくるような変人ばかりかと思っていたのに、あなたの場合そうじゃないわね。頭もいいし。」

それは彼にとって小さなステップでありましたが、大きな進歩でもありました。彼はこう思いました。神は自分たちに、自分の評価はどうなるかを気にするなと語っておられると。真理に立つ者は、必ず勝利できるからです。

 

最後に53 節をご覧ください。「人々はそれぞれ家に帰って行った。」

キリストに出会った人々は、それぞれ家に帰ってどうしたのでしょうか。聖書には何も記されていませんが、私なりに想像そうぞうするに、たとえば、役人は家に帰りその日にあったことを奥さんや家族の誰かに話したかもしれません。しかし、次の日からは忙しさや雑事に追われ、キリストとの出会いを忘れてしまったかもしれませんね。

祭司長やパリサイ人はどうでしょう。彼らは家に帰り、キリストに対するねたみがエスカレートしていったかもしれません。今のようにラインといったものはありませんでしたが仲間と連絡を取り合って、さらにキリストを追い詰めていく策を相談したかもしれません。

では、ニコデモはどうだったでしょうか。彼はひとり思い悩んでいたかもしれません。どうしたら良いだろうか・・と。しかし、行きつ戻りつしながらも、彼の心はキリストへと引き寄せられていったのではないでしょうか

 

あなたはどうでしょうか。それぞれがいろいろな反応を示しました。あなたはどのように応答しますか。これから私たちもそれぞれ自分の家に帰って行きます。帰って行ってどうなるでしょうか。キリストと出会いその言葉に感動しても、家に帰って瞬間に冷めていくでしょうか。あるいは、いくらキリストと出会っても自分の思い通りにならないということで嫌になり、キリストと縁を切ろうとするでしょうか。それとも、その出会いを大切にして、キリストへの愛がますます深めていくのでしょうか。

 

このニコデモのように、勇気をもって信仰の一歩を踏み出しましょう。それは小さな一歩かもしれませんが、やがて大きな結果へとつながっていくのです。

ルツ記2章

きょうは、ルツ記2章から学びます。まず1節から3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.はからずも(1-3)

 

「さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。」

 

モアブの野から戻って来たナオミとルツはどうなったでしょうか。ルツはベツレヘムに着くと、ナオミに言いました。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいたのです。その人の名はボアズです。彼女は、その人の畑に行かせて、落ち穂を拾い集めさせてほしいと言いました。落ち穂拾いとは、収穫が終わった畑に落ちている麦の穂を集めることです。律法には、貧しい人や在留異国人が落ち穂を拾うことができるように、すべてを刈り取ってはいけない、というおきてがあります。レビ記19章9-10節です。

「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

ルツは、神のおきてをよく知っていて、それに従ってナオミと自分の生計を立てようと考えたのです。彼女は、ナオミにそうするようにと言われたから出かけて行ったのではなく、自分の方からそのように申し出ました。

 

ナオミが、「娘よ、行っておいで」と言うと、ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めましたが、何とそれは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑でした。「はからずも」という言葉は、それが偶然のことではなく、そこに神の御手が働いていたことを表しています。ルツが行った畑はボアズという人の畑でした。彼は、エリメレクの一族に属する人、つまり、ナオミの夫の親戚にあたる人で有力者でした。「有力者」であったというのは単に資産家であったというだけでなく、神に従い、人格的にも優れた人物であったということを意味しています。このボアズの畑に導かれたのです。

 

私たちの人生にも、神の御手が働いています。私たちが、日々、主の御声を聞き従いながら歩んでいると、主は次の進むべき道を開いてくださいます。多くの人は、自分に対する神のご計画がよくわからないと言いますが、ルツのように今神から示されていることに忠実に従っていくなら、神は、ご自身の御業を表してくださるでしょう。

 

Ⅱ.主の慰め(4-16)

 

するとどのようなことが起こったでしょうか。4節から16節までをご覧ください。12節までをお読みします。

「ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」

 

「ちょうどそのとき」、ボアズがベツレヘムからやって来て、ルツたちが働いていた畑にやって来ました。すると彼は刈る人たちに、「主があなたがたとともにおられますように。」とねぎらいの言葉をかけました。すると、刈る人たちは「主があなたを祝福されますように。」と答えています。実に麗しい関係ですね。ボアズは心から神を慕い求め、神の言葉に生きていました。そんな彼を、しもべたちも尊敬していたのです。

 

するとボアズはルツに目を留め、刈る人たちの世話をしている若い者に、「あれはだれの娘か」と聞きました。勤勉に働いている姿に目が留まったのか、見た瞬間に美しい人だと思ったのかはわかりません。その若い者がルツについて知らせると、ボアズはその献身的な姿に感動し、ルツに、自分のところの若い女たちのそばを離れず、彼女たちの後について行くように、と言いました。そればかりではありません。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲むように、と言いました。ルツを労り、外国人であるがゆえの嫌がらせを受けないように取り計らってくれたのです。

 

ルツは顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言いました。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」すると、ボアズは答えて言いました。

「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(11-12)

ボアズは、この一連のルツの行動が、単にナオミに対する愛情だけではなく、イスラエルの神、主に対する信仰から出たものであると受け止め、主がその行為に報いてくださるようにと祈っています。つまり、ルツがその翼の下に身を避けようとしてやって来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように、と祈ったのです。

 

この言葉には本当に慰められます。私たちは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)私たちもイエス・キリストを通してイスラエルの神の翼の下に避け所を見出した者です。つまり、このボアズの姿は、イエス・キリストの姿を表していたのです。キリストこそ私たちの避け所です。その主に身を避ける者は幸いです。その人は、主から豊かな報いを受けることができるからです。

 

それに対して、ルツはこう答えています。13節です。

「彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」

ルツは、自分が、このような取り計らいを受けるに値しない者であることを知っていました。ボアズが雇っているわけでもない娘です。それにモアブ人でした。本来なら追い出されても仕方ない者であるにもかかわらず、ボアズの特別な計らいと好意にあずかることができました。このように、受けるに値しない者が受けることを「恵み」と言います。私たちも、神の民となるには全く値しない者であったにもかかわらず、神の民となりました。それは私たちに何かそれだけの価値があったからではなく、そうでないにもかかわらず、イエス・キリストの十字架の贖いを信じたことによって、そのようにさせていただけたのです。そうです、私たちが救われたのは、一方的な神の恵みによるのです。

 

14節から16節までをご覧ください。

「食事の時、ボアズはルツに言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る人たちのそばに座ったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若い者たちに命じた。「彼女には束の間でも落ち穂を拾い集めさせなさい。彼女にみじめな思いをさせてはならない。それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。彼女を叱ってはいけない。」

 

ボアズはルツに、パン切れを酢に浸して食べるように勧めています。また、炒り麦を取って、彼女に与えています。そして、ルツが知らないところでも、ボアズは、ルツに良くしています。彼は若い者たちに、たくさん穂が落ちる束の間から拾い集めさせ、彼女にみじめな思いをさせてはならない、と言いました。それだけでなく、彼女のためにわざと束から穂を抜き落としておくようにさせました。

このように、ルツは、ボアズをとおして、主から大きな慰めを受けました。これが、私たちが主からうける慰めです。私たちが主イエス・キリストに従うと決心したことで、確かに今まで慣れ親しんできた習慣から離れ、これまでの仲間から離れることで寂しい思いをすることがあるかもしれませんが、そのことによって私たちは主との深い交わりの中に入れていたたき、主の深い配慮にあずかるようになったのです。確かにルツは、自分の家族を失ったかもしれません。頼りにすることはできない、モアブ人の神々を頼りにすることもできません。けれども、主ご自身との個人的な関係、愛し合う関係を得たのです。これが、主にお従いする者にもたらされる報いです。

 

Ⅲ.帰宅して(17-23)

 

最後に17節から23節までをご覧ください。

「こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。集めたものを打つと、大麦一エパほどであった。彼女はそれを背負って町に行き、集めたものを姑に見せた。また、先に十分に食べたうえで残しておいたものを取り出して、姑に渡した。姑は彼女に言った。「今日、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女は姑に、だれのところで働いてきたかを告げた。「今日、私はボアズという名の人のところで働きました。」ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主、その方を祝福されますように。」ナオミは、また言った。「その方は私たちの近親の者で、しかも、買い戻しの権利のある親類の一人です。」モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、うちの若い者たちのそばについていなさい』と言われました。」

ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ、それは良かった。あの方のところの若い女たちと一緒に畑に出られるのですから。ほかの畑でいじめられなくてすみます。」それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女は姑と暮らした。

 

こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めました。集めたものを打つと、大麦一エパほどでした。大麦一エパとは23リットルです。ボアズの配慮があったとはいえ、これは大変な量です。彼女はそれを家に持って帰り、姑のナオミに見せました。また、それとは別に、十分に食べから残しておいた炒り麦を、ナオミに渡しました。驚いたナオミはルツに、どこで落ち穂を拾い集めたのかを聞くと、ルツが、ボアズという人のところですと答えたので、ナオミはさらに驚きました。ボアズはナオミの近親者で、買戻しの権利のある親戚のひとりだったからです。

 

買戻しの権利とは、だれかが所有していた土地が売られてしまい。それを再び自分のものにするとき、代価を払って買い戻すことを言います。レビ記25章25節には、「もしあなたの兄弟が落ちぶれて、その所有地を売ったときは、買い戻しの権利のある近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」とあります。この権利については3章でもう少し詳しく学びたいと思いますが、ボアズは、その買戻しの権利のある親戚のひとりだったのです。

 

ルツは、その方がこれからも自分の畑に来るように、と言ったことを伝えると、ナオミは「それは良かった」と答えました。ほかの畑でいじめられなくてすむからです。それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めました。こうして、彼女は姑と暮らしたのです。

 

ナオミとルツがモアブの野からベツレヘムに戻って来た時には、これから先どうなるか全くわかりませんでした。ナオミは自分を「ナオミ」と呼ばないで、「マラ」と呼んでください、と言いました。全能者である神が大きな苦しみにあわせたのですから。でも、その全能者であられる神が、ルツを通して彼女に報いてくださいました。はからずも、ルツはボアズの畑へと導かれたのです。誰がそのようになることを想像することができたでしょうか。しかし、話はそれで終わりません。それよりももっとすごいことになっていきます。人類の救済の歴史へと発展していくのです。これが神の世界です。人間の目では八方塞がりのような状況でも、そこに神の御手があるなら、私たちの知らない大いなることがそこに広がっていくのです。大切なのは、ルツが神の導きに忠実に従っていったように、今自分の目に広がっていることを自分に与えられた神の計画として受け止め、それに従っていくことです。私たちの信仰の道は必ずしも自分が思い描いたようには進んでいないかのように見えるかもしれませんが、主はあなたの信仰に報いてくださいます。雌鳥がその翼の下に身を避けるように、あなたの人生をかくまってくださるのです。これが主を信じて歩む私たちに与えられている約束なのです。

ヨハネの福音書7章37~39節「生ける水の川」

きょうは、「生ける水の川」というタイトルでお話しします。「生ける水の川」とは、39節にあるように、イエスを信じる者が受けることになる御霊のことです。イエスを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、この生ける水の川が流れ出るようになるのです。これが、私たちのいのちです。創世記を見ると、そもそも人は神のかたちに創造されました(創世記1:27)。この「神のかたち」とは、「霊」のことを意味しています。神は霊ですから、その神と交わりを持つことができるように、人は霊を持つものとして造られたのです。これが人のいのちです。ですから、私たちは神に祈り、神を礼拝するとき、「ああ、生きている」という感じることができるのです。これがないと、私たちはいったい何のために生きているのかもわからず、ただ目先のものに振り回されながら生きることになります。それは本当に空しいことです。人は神の御霊を受けることで生きることができ、それは生ける水の川のように、その人の心の底から流れ出るようになるのです。

どうしたらその生ける水を受けることができるのでしょうか。きょうはこのことについて、聖書のみことばから学びたいと思います。

 

Ⅰ.だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい(37)

 

まず37節をご覧ください。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

 

この祭りとは「仮庵の祭り」です。イエス様は、兄弟たちがこの祭りに上って行った後で、ご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれました(10)。そして、祭りも半ばになったころ、宮に上って教え始められました(14)。それから36節まで、ずっとユダヤ人たちとの間に議論が続きました。そして、この祭りの大いなる日に、イエスは立ちあがり、大きな声で言われたのです。この「祭りの大いなる日」とは、仮庵の祭りの最終日、つまり7日目のことです。この日は、祭りのクライマックスの日でした。それまでの6日間、祭司たちは行列を作ってシロアムの池まで出かけて行き、そこで黄金の器に水を汲んで神殿に戻ってくると、祭壇の周りを1度だけ回って水を注ぎました。しかし、祭りの最終日の7日目は、昔エリコの城壁の周りを7回回ったように、祭壇の周りを7回周り「ホザナ」と歌いながら祭壇に水を注ぎました。それは、主が雨を降らせ、豊かな収穫を与えてくださったことに感謝すると同時に、翌年の豊かな雨を祈願するためでした。その祭りが最高潮に達した時に、イエスは立ち上がって、大きな声でこう言われたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

前回の時にも申し上げたように、主が大声で語られるというのは非常に珍しいことです。これはそれだけ重要なことであることを表しています。それが「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」ということでした。これはどういうことでしょうか。

 

こ意味は一つしかありません。それはだれでも魂が渇いている人がいるなら、その渇きを癒すためにキリストのもとに来て飲みなさいということです。主がこのように言われたのは、この仮庵の祭りの時、シロアムの池から水が汲まれ、それが神殿に運ばれ祭壇に注がれるというタイミングでのことでした。主はかつてサマリヤの女に「決して渇くことにない永遠のいのちへの水」について語られましたが、その時井戸の水から話を進めて行ったように、この時もシロアムの池から汲まれてくる水を見て、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。もちろん、イエス様がここで言及しておられるのは飲み水のことではなく、「霊的な水」のことです。ですから、ここで「渇いているなら」というのは、のどが渇いていることではなく心が渇いているなら、という意味です。人々の関心は、水と収穫、すなわち物質的なものに向けられていましたが、イエス様の関心は、霊的な水、霊的な渇きを満たすことだったのです。

 

では、心が渇くとはどういうことでしょうか。私たちはみな欲望を持っています。欲望それ時代は悪いものではありません。しかし、欲望が満たされればそれで幸福になれるかというとそうではありません。お金にしても、物にしても、地位にしても、名誉にしても、そうしたものを手に入れることで、一時的な満足は得られるかもしれませんが、それで本当の満足は得られないのです。

 

映画「風と共に去りぬ」の主演男優であったクラーク・ゲーブルは、ある朝、むなしく疲れ果て、自分のベッドで自殺死体として見つかりました。彼はオスカー賞を何度も取りました。幸せを求めて5回も結婚しました。彼にはお金もあり、恋もあり、名誉もあり、人気もありました。私たちから見れば、彼は自分が求めたこの世のすべての物を手にしたかのように見えましたが、そんな彼が、なぜ自殺しなければならなかったのでしょうか。飢え渇いたその魂を、この世のもので満たすことはできなかったのです。

 

私たち人間は、神のかたちにかたどって造られていますから、神のみもとに帰るまでは、決して満ち足りることはないのです。神のみもとから離れ罪の中にある人間は、自分の魂が満足するどころか、不安と苦悩でおののいています。罪の中にある人間は、その罪の赦しを経験することなしに魂の渇きが癒されることはないのです。

 

ですから、イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。ここで注目したいことは、主が招いておられる人はどのような人であるかということです。それは「だれでも渇いている人」です。つまり、魂が渇いている人です。それは自分の罪を自覚し、その罪の赦しを求め、魂の平安を切望している人のことです。渇いていなければだれも飲みたいと思いません。空腹でなければ食べたいとも思いません。自分が罪人であると自覚し、その罪から救われたいと本気願う人だけが、そのためにどうしたら良いのか求めるようになるのです。

 

もうすぐペンテコステですが、あのペンテコステの日にペテロの説教を聞いた人々はどうだったでしょうか。彼らは心を刺され、ペテロとほかの使徒たちにこう言いました。

「兄弟たち、私たちはどうしたら良いでしょうか。」(使徒2:37)

これが渇いている人のことばです。また、パウロとシラスがピリピの牢獄に入れられた時、真夜中に、神を賛美していたとき、突然大きな地震が起こり牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、囚人たちの鎖が外れてしまいました。目を覚ました看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした時、パウロは大声でこう叫びました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」すると看守は、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏してこう言いました。

「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使徒16:30)

これが渇いた人のことばです。それでパウロとシラスが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)と言うと、彼と彼の家族の者全員が、その言葉を受け入れてバプテスマを受けました。

このような渇きが、彼らをそこからの解放、すなわち、魂の救いへと向かわせたのです。「渇く」ということがなければ、満たされることはありません。

 

私たちが救われるために必要な第一のことは、私たちが渇くということです。私たちは罪を犯した、価値のない、貧しい罪人であるということを知ることです。私たちは失われた者であることを知るまでは、救いへの道を歩み出すことはしないからです。天国への第一歩は、私たちは地獄に行っても当然であるということを、はっきりと自覚することにほかなりません。罪の意識は、時として自分が救いようもない人間であるという思いを抱かせますが、実は、これが尊いことなのです。なぜなら、それこそ救いに向かう第一歩となるからです。私たちに律法が与えられたのはそのためでした。神の完全な律法が与えられそれと照らし合わせてみてはじめて、自分がどんなに罪深い人間であるかを知り、救いを求めるようになるでしょう。

イエス様は山上の説教の中でこう言われました。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(マタイ5:6)どういう人が満ち足りるようになるのでしょうか。義に飢え渇く者です。そういう人は満ち足りるようになるのです。

 

あなたは、義に飢え渇いていますか。もし飢え渇いているなら、イエスのもとに来てください。そして、イエスが与えてくださる水を飲んでください。キリストのもとに来て飲むとは、単純にキリストを信じるということです。キリストがあなたの罪を赦す力をもっておられ、あなたの魂の渇きを完全に癒すことができる方であると信じて、キリストにあなたのすべてをゆだねることなのです。これを「信仰」と言います。キリストに「来る」とは、キリストを信じることであり、キリストを「信じる」とは、キリストのもとに「来る」ことにほかなりません。これは実に単純なことです。あまりにも単純すぎるので本当でないかのように思えるかもしれませんが、これが本当のことです。これ以外に救いはありません。クリスチャンは、いつの時代でも、この信仰によってキリストのもとに来て、キリストの泉から飲み、罪から解放された人たちです。心から罪の意識を感じ、その罪から赦されること、つまり義に飢え渇いて、キリストのもとに行くことは、天国に至る大切なステップなのです。しかし、あまりにも多くの人が、このステップを踏もうとしません。このことを考える人が少ないのです。そして信じる人はもっと少ないというのは、本当に悲しいことです。

 

Ⅱ.生ける水の川が流れ出るようになる(38)

 

次に、38節をご覧ください。ここには、キリストのもとに来て飲むとどうなるのか、その結果が記されてあります。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 

キリストのもとに来て飲むとは、キリストを信じることだと申し上げましたが、ここでははっきりとそのように言われています。「わたしを信じる者は・・・」と。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

これは、もちろん比喩的な意味で用いられていますが、二つの意味があります。一つは、キリストを信じる者は、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるということ、つまり、魂の必要が豊かに満たされるということです。そしてもう一つは、そのように自分の魂の必要が満たされるというだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となるということです。

 

まず、キリストを信じる者は、自分の魂の必要が豊かに満たされるということですが、これはキリストを信じて生きている多くのクリスチャンが実感していることではないでしょうか。キリストを信じるまでは、それがどのようなものなのかを想像することすらできませんでした。しかしキリストを信じたことで、魂の平安と喜び、希望や慰めを知りました。

 

既に召されましたがクリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸がんの手術を受ける前日、心臓病もあるので、ひょっとすると手術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことにしました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。

 

第二次世界大戦時、ナチスの強制収容所には、定員の三倍近くの囚人が詰め込まれていました。しかも最上階のベッドは天上にくっつきそうだったので、そこに座ることさえできませんでした。そのような環境の中であらゆる自由を奪われた若い婦人たちが、腹這いになり、神の導きについて話し合っていました。すると、その中の一人の姉妹が、このように言ったそうです。

「神様が私をここに導かれたのは、決して間違いであったとは思わない。私はここで初めて、本当に祈ることを学びました。ここでの精神的、肉体的な苦痛は私に、その人がすべてをイエスさまに明け渡さない限り事態は解決されないことを教えました。これまで私は、うわべでは敬虔そうな信仰生活を送ってきましたが、私の生活の中にイエス様を締め出していた部分があったのです。でもイエス様は今、私の生活のあらゆる部分で王となっておられます。私ははじめて、神の平安と愛で満たされる喜びを知ったのです。」

こうした試練に会うと神を呪ってもおかしくないのに、むしろ、そうした中ではじめて神の平安を知ったと言える、これは人間の思いをはるかに超えた思いではないでしょうか。

 

主イエスを知って、主イエスを信じたことによって、こうした魂の平安と慰めが与えられ、生きる希望が与えられるのです。時として私たちは、自分自身に失望することがありますが、キリストに失望することはありません。キリストを信じたことで与えられた神との平安、喜び、希望、慰めは、この世の何物とも取り変えることはできないからです。それは聖書の御言葉を読み、そこにある神の恵みの確かさを理解すればするほどそうなります。皆さんはどうでしょうか。まさかあのエサウのように、パンとレンズ豆の煮物と交換するような愚かなことはしたいとは思わないでしょう。

 

長い間世界的な伝道者ビリー・グラハムの伝道集会で特別賛美を歌ってきたBEVERLY SHEAは、その体験をこう歌いました。

「キリストには代えられません 世の宝も また富も

この御方がわたしに代わって死んだゆえです。

世の楽しみよされ、世の誉れよ行け

キリストには代えられません 世の何物も」

(新聖歌428「キリスト」には代えられません)

 

これがクリスチャンの実感でしょう。キリストを知れば知るほど、その思いは深くなっていきます。キリストを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになるのです。

 

しかし、そればかりではありません。キリストを信じる者は、自分の魂の必要が満たされるだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となります。たとえば、パウロは、コロサイ人への手紙の中でこのように告白しています。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

クリスチャンをキリストにある成人として立たせることはどんなにか労苦の伴う働きだったことでしょう。しかし、彼は、自分のうちに働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しました。その結果、こうした彼の奮闘は決して無駄にはならず、その恵みは多くのクリスチャンに伝わり、やがて世界中へと広がって行きました。それは彼の心の奥底だけでなく、彼の周りの人たちに、そして全世界に溢れ出たのです。

 

先ほども申し上げたクリスチャンの作家に三浦綾子さんは、信仰をテーマとした小説をたくさん残されましたが、それは今も世界中で伝えられ、「三浦綾子読書会」となって広がっています。三浦綾子さんの心の奥底に流れた生ける水の川は、溢れ出て、多くの人の魂を満たす水となっているのです。

 

あなたもキリストのもとに行き、その水を飲むなら、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

 

Ⅲ.イエスを信じる者が受ける御霊(39)

 

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。ヨハネは39節で、そのことを説明して次のように言っています。

「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」

 

これは、ヨハネの福音書によく出てくる説明的論評と世バルものです。それがどういうことなのかを説明しているのです。そして、ここには、イエスを信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである、とあります。しかし、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのです。つまり、この生ける水の川とは、この御霊のことを指して言われていたのです。御霊とは神の御霊、聖霊のことです。当時の人々は、旧約聖書における聖霊の働きしか知りませんでした。それはある一部の人に、しかも必要な期間しか与えられませんでしたが、イエスが約束された聖霊は、イエスの十字架と復活、そして昇天の出来事以降、イエスを信じるすべての人に注がるというものでした。それがペンテコステの出来事です。イエス・キリストを信じる者には、だれにでもこの御霊が注がれ、その人の心の奥底に生ける水の川となって流れ出るようになったのです。

 

それがどれほどすごいものなのかを、旧約の預言者エゼキエルはこのように預言しました。

「彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。」(エゼキエル47:8-10)

 

「この川が入るところでは、すべてのものが生きる」。これはエゼキエルという預言者が語った言葉です。エゼキエルは、非常に困難な時代を生きた預言者でした。彼はユダヤからバビロンに捕囚として連れて行かれた人々の中にいた人物です。そして彼が捕囚の地において、預言者として活動していた期間中に、彼の故郷であるエルサレムが最終的に破壊されてしまうという、悲惨な出来事が起こるのです。  なぜ、生ける真の神に仕えている神の民イスラエルがこのような苦しみに遭わなければならないのか。神からの答えは、イスラエルが神から離れて罪を犯したからだ、ということでした。人々は真の神に頼って生きることをせず、偶像礼拝に陥っていたのです。そのために、神の臨在がエルサレムから去ってしまいました。

 

神が去った後のエルサレムは悲惨でした。異邦人によって滅ぼされ、なすがままにされ、ついに神殿さえも破壊されてしまうことになります。けれども、エゼキエルの見た幻は、そこで終わりませんでした。どん底に落ちたイスラエルに、再び希望が語られるのです。廃墟になったエルサレムの街が再建され、神殿が再び建設されていくのです。

そして、彼は思いもかけない光景を目にすることになります。なんと、神殿の中から、しかもその中心部分である聖所から、水が流れ出ているのです。しかも、その流れが川となり、その川は遠くへ行けば行くほど水かさが増して、最後には渡ることのできないほどの大河になります。この川は、普通の川ではありません。超自然的な川です。なぜなら、聖所から流れ出ているからです。聖所というのは、神様がおられる場所です。つまり、このエゼキエルが見た川というのは、神様ご自身から流れ出ていた川でした。

そして、この川が流れ出るところはどのようになるでしょうか。これが先ほど読んだ御言葉です。神殿から流れ出た川は、そこから東向きに流れて行って、やがてアラバに下り、海に入ります。この「海」というのは、エルサレムから東に向かって行くとある海、そうです、「死海」のことを指しています。「死海」とは「死の海」と書くように、魚が生きることができません。死海の水は、普通の海の水の六倍もの塩分の濃度を持っているために、普通、海に住んでいるような魚でさえも生きることができないのです。けれども、この神殿から流れて来た水がこの死海に注ぎ込むとその水が一変して、この死んだ海が生き物で満ちるようになり、そこに多くの魚がいるようになります。なんとすばらしい驚くべき光景でしょうか。

 

いったいこのエゼキエルが見た幻は、何を意味していたのでしょうか。それは、神の神殿から流れ出るいのちの水です。この水が流れ出ると、死んだようなこの世が生きるものとなるということです。それは、聖霊のことです。聖霊が流れ出ると、死んでいるようなあなたが生きるようになります。実に、教会とはこのいのちの水が溢れている所です。なぜなら、神の聖霊を受けたクリスチャンが集まっている所だからです。その教会からいのちの川の水が流れ出て、この世のすべてのものを生かすようになっていくのです。何とすばらしい約束でしょうか。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

あなたは、心に渇きを覚えてキリストのみもとに来て、キリストが与える水を飲みましたか。キリストを信じるなら、あなたの心にも聖霊という生ける水の川が流れ出るようになります。それはあなたの周りの人々をも潤していく力となるのです。

 

キリストを信じたのに、心の奥底から、生ける水が流れているという実感がないという方がいますか。そのような方は、もしかしたら神とのパイプラインが詰まっているのかもしれません。そのような時には、詰まりを取り除かなければなりません。それを悔い改めると言います。障害物があれば、真摯に神に対して悔い改めなければなりません。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義きよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

そして、渇いた心をもって主のもとに来て飲んでください。あなたのすべてを主に明け渡し、主の御言葉に従った信仰の歩みを始めてください。主に従うことが生ける水の川が流れ出るようになる秘訣です。

あなたの信仰のパイプラインは大丈夫ですか。神と直結しているでしょうか。接触が不十分であったり、詰まったり、曲がったり、細かったりしていませんか。十分に点検して聖霊に満たされた者とさせて頂きましょう。そうすれば、あなたの心の奥底からも、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

出エジプト記8章

出エジプト記8章から学びます。まず1節から15節までをご覧ください。4節までをお読みします。

 

Ⅰ.第二の災い:蛙の害(1-15)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの全領土を蛙によって打つ。ナイル川には蛙が群がり、這い上がって来て、あなたの家に、寝室に入って、寝台に上り、またあなたの家臣の家に、あなたの民の中に、さらに、あなたのかまど、こね鉢に入り込む。こうして蛙が、あなたと、あなたの民とすべての家臣の上に這い上がる。』」(1-4)

イスラエルをエジプトから去らせるようにとの主のことばを拒んだファラオに、主はすべてのナイ

ル川の水を血に変えるという災いを下しました。それによってナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなりました。それでもファラオの心は頑なになり、モーセとアロンの言うことを聞き入れませんでした。それは、初めからわかっていたことです。ファラオはどんなに偉大な主の力を見ても、イスラエルの子らをその地から去らせようとしません。それは主がファラオの心を頑なにし、主がエジプトの地でしるしと不思議を行うことによって、主こそ神であることをファラオが知るようになるためです。

 

そこで主は第二の災いをもたらします。それは蛙の害です。この蛙の災いが、ナイル川が血になる災いと異なるのは、この災いがファラオの家の中にまで入り込むということです。寝室にも、かまどにも入り込むので、ベッドで寝るときもぐちゃ、こね鉢でこねる時も蛙を一緒にぐちゃぐちゃにすりつぶしてしまうのです。1匹2匹だったらかわいいものですが、至る所が蛙ですから気持ち悪いですね。特にエジプでは蛙は礼拝の対象でしたから、その蛙に打たれるということは屈辱的なことでした。

 

5節から7節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『杖を持って、あなたの手を川の上、水路の上、池の上に伸ばせ。そして蛙をエジプトの地に這い上がらせよ』と。」アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行った。彼らは蛙をエジプトの地の上に這い上がらせた。」

 

アロンが持っていた杖を川の上や水路の上、池の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおいました。するとエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行いました。しかし、彼らは蛙を増やすことはできても、それを取り除くことはできませんでした。

 

するとファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言いました。8節です。「私と私の民のところから蛙を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」

ファラオは、何とかしてこの苦しみから解放されることを願いました。それで、自分たちのところから蛙を取り除くように、主に祈れ、とモーセとアロンに言いました。そうすれば、イスラエルの民を去らせる・・・と。それでモーセはファラオに迫ります。10節です。「いつが良いですか」

「蛙があなたとあなたの家から断たれ、ナイル川だけに残るようにするため、私が、あなたと、あなたの家臣と民のために祈るので、いつがよいかを指示してください。」(9)  するとファラオは「明日」と言いました。なぜ「今」ではなかったのでしょうか。そんなに苦しいのであれば「今すぐに取り除いてほしい」と願うのが普通かと思いますが、ファラオは「明日」と言いました。もしかしたら明日になれば事態が解消されていると思ったのかもしれません。あるいは、このような儀式を行うためには、それくらいの時間がかかるものと思ったのかもしれません。

 

それでモーセは、「あなたのことばどおりになりますように」と言いました。「それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。」(10)これがこの災いの目的です。それはファラオが、イスラエルの神、主のような方はほかにいないということを知るためです。ファラオは、あの手この手を尽くしてイスラエルを行かせることを拒みますが、それはそのことによって主が力強い御業を行い、主こそ神であるということをファラオが知るためだったのです。

 

するとモーセが主に叫んだので、蛙はエジプト中の家と畑から死に絶えました。モーセがファラオに約束したとおりです。主はモーセを通して約束されたように、モーセの祈りに答えてこの問題解決してくださいました。

ところが、ファラオは一息つけると思うと、手のひらをひるがえして、彼らの言うことを聞き入れませんでした。主が言われたとおりです。何という頑なさでしょうか。ファラオにはこうしたずる賢さがありました。いつがよいかというと「明日」と言い、祈りが応えられて一息すると心を頑なにするという不従順が見られます。

 

しかし、それは何もこのファラオだけのことではなく、私たちにも同じではないでしょうか。「今日」ではなく「明日」と言ってみたり、一息つくと元の状態に戻ってしまうということがあります。

「「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。」(へブル3:15)

今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはなりません。心を頑なにしないで、従順に主の御声に聞き従う者でありたいと思います。主のような神は、ほかにはいないからです。

 

Ⅱ.第三のわざわい:ブヨの害(16-19)

 

次に16節から19節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」彼らはそのように行った。アロンは杖を持って手を伸ばし、地のちりを打った。すると、ブヨが人や家畜に付いた。地のちりはみな、エジプト全土でブヨとなった。呪法師たちも、ブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ブヨは人や家畜に付いた。 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」

 

それで主はモーセ言われました。16節です。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」」

それでモーセとアロンがそのようにすると、エジプト全土でブヨが人や家畜に付きました。「ブヨ」という言葉は、へブル語では「種々の害虫」のことです。何か特定の昆虫というよりも、雑多な害虫が現れたのでしょう。

 

この時もエジプトの呪法師たちがブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしましたが、できませんでした。それで彼らは何と言ったかと言うと、「これは神の指です」と言いました。つまり、自分たちの能力をはるかに超えているということです。このように叫ぶことによって、それが神によって行われたわざであることを暴露したのです。しかし、それでもファラオは、彼らの言うことを聞き入れませんでした。

 

Ⅲ.第四のわざわい: あぶの群れ(20-32)
それで主は第四のわざわいをエジプトに下します。それは「あぶの群れ」です。20節から24節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に出よ。見よ、彼は水辺に出て来る。彼にこう言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」主はそのようにされた。おびただしいアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入って来た。エジプトの全土にわたり、地はアブの群れによって荒れ果てた。」

「アブ」というのは、「サシバエ」という蝿の一種だと考えられています。この「サシバエ」が家畜や人の体を刺すと、とにかく痛いんだそうです。動物たちは始終頭を振り、尻尾を振り、刺される痛みのためか時に身をブルッと震わせます。これは彼らが強いストレスを感じているサインです。ですから、こんなのに刺されたらたまったもんじゃありません。これがエジプト全土に満ちるというのです。

 

しかし、今回はこれまでと違う点が一つだけありました。それは、イスラエルの民がとどまっていたゴシェンの地にはいないようにするということです。つまり、主はイスラエルの民とエジプトの民を区別して、贖いをする、ということです。そのようにして主は、ご自身の民であるイスラエルを特別に扱われるのです。それはファラオが、その地のただ中にあって主こそ神であるということを知るためです。

 

この区別して、贖いを置くというのは、区別して、救いを置くという意味です。この表現は、あのノアの方舟のことを思い起させます。あの箱舟の扉が閉ざされた瞬間に、舟の中の人々と外の人々とが区別されました。その扉を通って箱舟に入るかどうかが、中の人と外の人とを区別したのです。その扉こそイエス・キリストです。キリストはこう言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)

つまり、イエス・キリストこそ神の民とそうでない民とを区別して、ご自身の民を贖われる方であるということです。その中間はありません。救い主イエス・キリストを信じるのか、信じないのかが、主の贖いに与るかどうかの区別となるのです。

 

そうでないと、神のさばきを受けることになります。24節をご覧ください。おびただしいうアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入ったので、エジプト全土がアブの群れによって荒れ果ててしまいました。

 

それで、ファラオはどうしたでしょうか。25節をご覧ください。ファラオはモーセを呼び出してこう言いました。「さあ、この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」

どういうことでしょうか?主の命令は、イスラエルの民をエジプトから去らせということでしたが、ファラオは、「この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」と言っています。これはファラオの妥協案です。彼らがいけにえを献げるのはいいだろう。でもこの国から出て行ってはいけない。この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げればいいじゃないか、と言ったのです。

 

それに対してモーセは、「それはふさわしいことではない」(26)と断ります。なぜなら、イスラエル人はエジプト人の忌み嫌うものをいけにえとして献げることになるからです。それは何ですか?羊です。エジプト人は羊を忌み嫌っていました。その羊を献げたらどうなるでしょう。それを見たエジプト人たちに石で打ち殺されてしまうでしょう。だから、イスラエルの民は主が言われたとおり、荒野に三日の道のりを行って、主にいけにえを献げなければなりません。

 

するとファラオはどうしましたか?28節をご覧ください。「ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」」

どういうことでしょうか?「ただ、決して遠くへ行ってはならない」とは。ここでファラオはさらなる譲歩案を提示しているのです。それは、イスラエルが荒野に出て行って、主にいけにえを献げてもよいが、決して遠くへは行くな!ということです。そして、自分のために祈ってくれ!というものでした。つまり、エジプトの支配が届かない所には行ってはならないという意味です。あくまでも自分たちの手の届くところに置いておきたいのです。これが悪魔の常套手段です。

 

悪魔は私たちが信仰を持つことを許しても、あまり遠くに行かないようにと働きかけてきます。仮に神を信じたとしても、自分たちの手の中にあれば、いずれ戻ってくることになるからです。だからあまり遠くに行ってほしくありません。これまでのようにできるだけこの世にどっぷりと浸かっていてほしい。教会に行って、洗礼を受けてもいいけれども、できるだけ今のままでいるようにと圧迫してくるのです。つまり、自由にさせているようで自由ではないのです。私たちがイエス様を信じて罪から解放され、全く自由にされたはずなのにそうではないように感じるのは、このような悪魔の働きがあるからなのです。

 

また28節を見ると、「私のためにも祈ってくれ」と、いかにも敬虔であるかのように装っています。これがこの世が取る姿です。彼らはいいことなら何でもやってもらいたいのです。たとえ自分たちが信じていない神でも、自分に都合のいいように祈ってもらいたいのです。ピリピ3:19に、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。」とあるように、あくまでも彼らの神は彼らの欲望なのです。

 

それでモーセは言いました。「今、私はあなたのもとから出て行き、主に祈ります。明日、アブが、ファラオとその家臣と民から離れます。ただ、ファラオは、民が主にいけにえを献げるために去ることを阻んで、再び欺くことなどありませんように。」

モーセはファラオの言うことを受け入れ、明日、アブがファラオとその家臣から離れるように祈ることを約束します。だから、ファラオはイスラエルの民がいけにえをささげることを阻んで、再び欺くことがないようにと釘を指しました。そして、ファラオのもとから出ていくと、モーセはファラオに約束したとおり、主に祈りました。本来であれば、エジプトがアブによってもっと苦しめばいいのに・・と思うところでしょうが、彼はそうした自分の感情に流されることなく、エジプト人のためにとりなしの祈りをしたのです。

 

すると主はモーセの祈りを聞かれ、モーセが祈ったとおり、翌日には、アブが一匹も残らないようにされました。しかし、ファラオはまたも心を頑なにし、民を去らせませんでした。何という優柔不断さでしょうか。主に祈ってくれ!と言ったかと思えば、やっぱり行かせない!と、いつも気持ちがコロコロと変わっています。こういうのを「二心」と言います。こういう人はその歩むすべてにおいて安定を欠いた人です。ヤコブはこう言っています。

「 ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」(ヤコブ1:6-8)

 

皆さんはどうでしょうか。少しも疑わないで、信じて祈っているでしょうか。それとも、信じていても疑うようなことをして、安定感のない信仰生活を送ってはいないでしょうか。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはありません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)いつも信仰に歩めるように、神の助けを求めましょう。

ルツ記1章

今回からルツ記の学びに入ります。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ナオミと二人の嫁(1-5)

 

「さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。」

 

これは、さばきつかさたちが治めていたころのことです。つまり、士師記の時代です。士師の時代がどのような時代であったかは、士師記の一番最後を見るとよくわかります。すなわち、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(士師21:25)時代でした。それは霊的混乱ばかりでなく、物質的混乱をももたらしました。ここには、「この地に飢饉が起こった」とあります。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野に行き、そこに滞在することにしました。その人の名前は「エリメレク」と言います。妻の名前は「ナオミ」です。二人には二人の息子がいました。「マフロンとキルヨン」です。

 

するとそこで思わぬでき出来事が起こりました。ナオミの夫のエリメレクが死んでしまったのです。なぜ死んでしまったのかはわかりません。しかし、そのことでナオミと二人の息子が残されてしまいました。そこで、二人の息子はモアブの女を妻に迎えました。一人の名は「オルパ」で、もう一人の名は「ルツ」です。残された家族で助け合って生きていこうと思ったのでしょう。ところが、その10年後に、その二人の息子のマフロンとキルヨンも死んでしまいました。何ということでしょう。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。

 

わかりません。それがどうしてなのかわかりませんが、私たちの人生にはそれがどうしてなのかわからないことが起こることがあるのです。しかし、それがどんなことであっても、今週の礼拝のみことばにあったように、主の御許しがなければ何も起こりません。すべては主の御手の中にあります。そしてこのことにも主の深いご計画と導きがあったがわかります。この時点ではそれがどうしたなのかはわからる術もなく受け入れられることではなかったでしょう・・・が。

 

ただこの地に飢饉が起こったとき、彼らがモアブの地へ行ったことが、果たして本当に良いことであったのかどうかはわかりません。というのは、カナンの地は、イスラエルの民に与えられた約束の地です。その地から離れることは決して神のみこころであったとは思えないからです。エリメレクが家族を守ろうとしたことは理解できますが、そのために約束の地を離れたことは評価できません。かつてアブラハムも約束の地カナンに入って後で、その地に飢饉が起こったとき、エジプトにしばらく滞在するために下って行きましたが、それは神のみこころではありませんでした(創世記12:10)。彼はそこで自分の妻を妹だと偽ったので、彼女は宮廷に召し入れられてしまいました。主はそのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれたので、彼らは所有するすべてのものと一緒にそこを出ることができましたが、明らかにそれは神のみこころではありませんでした。

 

ここでも同じことが言えます。モアブの地とは、ヨルダン川東岸にある、アルノン川とゼレデ川の間の高原地帯を指します。そこは肥沃な農業地帯でした。産物としては、小麦、大麦、ぶどうなどがあり、羊ややぎの牧畜も盛んでした。

モアブ人の祖先は、アブラハムの甥のロトです。ロトには二人の娘がいましたが、姉が父ロトによって産んだ子がモアブです(創世記19:30-38)。ちなみに、妹が父ロトによって産んだのがアンモン人の祖先ベン・アミです。ですから、モアブ人はイスラエル人と血縁関係にありましたが、そのように近親相姦によって生まれたアンモン人を、イスラエルは罪に汚れた民族と見ていたのです。

 

また、歴史的にもイスラエルがエジプトを出て約束の地を目指して北上したとき、イスラエル人を恐れたモアブの王バラクは、占い師のバラムを雇ってイスラエル人を呪わせましたが、これは失敗に終わりました(民数記22-24章)。そこでモアブの娘たちはイスラエル人を誘惑し、バアル・ペオル礼拝に陥らせました。主はその危機から救い出すためにピネハスを用いて2万4千人のイスラエル人を討たれました(民数記25:1-9)。それ以降、モアブ人は主の集会から除外されるようになったのです。ですから、たとえ飢饉が起こったからと言って、約束の地を離れてこのモアブに行ったことは、主のみこころであっとは言えません。むしろ彼はそれがどんな困難があってもその地にとどまっているべきだったのです。

 

これは、私たちにも言えることです。私たちの人生にも、避けて通ることのできない困難があります。しかし、それがいかに苦しくても、永遠に価値あるものを手に入れるためにそこから離れるのではなく、忍耐をもってそこにとどまっていなければなりません。神の導きがないままで場所や状況を変えても、根本的な問題の解決にはならないからです。

 

Ⅱ.ルツの信仰(6-18)

 

それでナオミたちはどうしたでしょうか。次に6節から18節までご覧ください。まず14節までお読みします。

「ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした。主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。彼女は二人の嫁と一緒に、今まで住んでいた場所を出て、ユダの地に戻るため帰途についた。ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。二人はナオミに言った。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」 ナオミは言った。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」 彼女たちはまた声をあげて泣いた。オルパは姑に別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついた。

 

夫とふたりの息子を失ったナオミは、主がご自分の民を顧みて、カナンの地を祝福し、彼らに豊かな収穫を与えてくださったということを聞き、ふたりの嫁といっしょに、モアブの野から故郷のベツレヘムに帰ることにしました。

しかし、その途中でナオミは、このふたりの嫁を実家に帰すことにしました。ふたりの嫁にとって一番幸せなのは、再婚相手を探してモアブに住むことだと考えたからです。ナオミはふたりの嫁にこう言いました。

「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」

このナオミの言葉には、愛が溢れています。この二人が亡くなった自分の夫と姑である自分にしてくれたことをねぎらい、主がその労に報いてくださるようにと祈っています。また、彼女たちが実家に戻って、モアブの地で新しい夫が与えられ、その家で安らかな暮らしができるようにと祈りました。そして、ふたりに分かれの口づけをすると、彼女たちは声をあげて泣きました。そして、ナオミにこう言いました。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」彼女たちにとっては異国の地です。自分の夫を失って、それでも姑について行きたいというのは、そこによほどのものがなければ言えないことです。ナオミとこのふたりの嫁たちの間には、深い愛と信頼関係がありました。

 

このような二人にナオミはこう言って説得します。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」

 

どういうことでしょうか。これは、申命記25章5-6節にある「レビラート婚」という聖書の律法に基づいたものです。「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」

これはユダヤ人の特殊な婚姻法で、死んだ者の兄弟が、そのやもめと結婚して、死んだ者の名を残し、イスラエルから消し去られることがないようにするための定めです。この場合、彼女たちの夫であるマフロンとキルヨンが死にました。ですから、彼らの弟がオルパとルツと結婚する必要がありますが、弟はいませんでした。そこでナオミがこれから子を宿して、その子が、彼女たちと結婚しなければならないことになります。けれども、そんなことは無理です。ですからナオミは、夫を持って息子たちを産んだとしても、彼らが成人になるまで待とうというのですか、と言っているのです。

 

それで彼女たちはまた声をあげて泣きました。結局、オルパは姑に口づけをして別れを告げましたが、ルツはナオミにすがりつきました。ここでふたりの嫁オルパとルツの決断が別れました。弟嫁のオルパは、自分の民とその神々のところに帰って行きました。そのこと自体は何の問題もありません。それはナオミが勧めたことですし、ナオミも彼女を責めてはいません。ある意味、それは常識的な判断だったと言えるでしょう。

 

しかし、兄嫁のルツはそうではありませんでした。ルツはこう言っています。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(16-17)

ルツがナオミに着いて行ったら、不安なことだらけです。夫はいないし、全く新しい土地で、外国人として暮らさなければなりません。それでもルツがナオミに着いて行こうとしたのは、姑ナオミに対する愛はもちろんのこと、ナオミの民であるイスラエルの民への愛、そして、イスラエルの神への愛から出たものでした。ルツはここで、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と言いました。どうして彼女は、このように言ったのでしょうか。

 

彼女の決断は大きなものでした。今まで住み慣れたモアブの地、モアブの民、そしてモアブの神と別れを告げ、ナオミの民、ナオミの神を自分の神とするのですから・・。彼女は、マフロンの妻になってから、イスラエルの神こそ天地を創造されたまことの神であるということを知りました。そして、この神がいかに、エジプトからイスラエルを救い出され、約束の地に導かれていたことも聞いていたでしょう。イスラエル人の家族の中にいて、生けるまことの神がどのような方であるかを知り、この方を自分の神としたのです。自分の支えである夫がいなくなり、かつて自分が暮らしていたモアブ人たちの中に戻ることはいくらでもできましたが、彼女は、自ら進んで、イスラエルの神を自分の神とする決心をしたのです。ナオミの信じているイスラエルの神の恵みの中で生き、そして死んで行きたいと思いました。モアブ(異邦人)の女である彼女は、このように信仰を告白することによって、イスラエルの民が受ける祝福に与ることができたのです。

 

それは私たちも同じです。私たちも肉においては異邦人でした。いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあっては望みもなく、神もない者でした。しかし、かつては遠く離れていた私たちも、イエス・キリストにあって、キリストの血によって近い者とされたのです。ルツのように異邦人であった私たちもナオミのような存在の人と出会いを通して、まことの神を知り、その中に加えていただくことができたのです。私たちもまた神から遠く離れていた者ですが、神の恵みによって、「あなたの民は私の神、あなた神は私の神です。」と信仰を告白することができ、神の民に加えていただくことができたのです。

 

Ⅲ.ベツレヘムに着いたナオミとルツ(19-22)

 

最後に19節から22節までをご覧ください。そのようにしてベツレヘムに帰ったナオミとルツはどうなったでしょうか。

「二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。 私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。」

 

ふたりは旅をして、ベツレヘムに着きました。ふたりがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出しました。そして、女たちは、「まあ、ナオミではありませんか。」と言うと、ナオミは、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。」と言いました。「ナオミ」とは「快い」という意味で、「マラ」は、「苦しむ」という意味です。全能者が私に大きな苦しみにあわせたのですから、満ち足りてかえって来たどころか素手で帰ってきたのですから、とても「ナオミ」ではない、「マラ」です、そう言ったのです。ここでナオミは自分の身に起こったことを、偶然の結果としてではなく、全能者のわざであるとみています。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。全能者が私を辛い目にあわせたのですから。どういうことでしょうか。

 

それが全能者のわざであると受け止めることができるなら、そこに希望があります。なぜなら、一時的な苦しみは必ず祝福へと変えられるからです。どのような試練の中にも、そこに神がおられ、神が導いておられると信じることができるなら、その試練にも何らかの意味があることを悟ることかできるからです。先日、亡くなられたマラソンの小出監督は、バルセロナオリンピックで銀メダルを取った有森裕子選手に、「人生に意味のないことはない。試練や苦しみがあったら、それを「せっかく」だと思え。」と言って指導したそうです。人生に意味のないことなどありません。なぜなら、神はご自身のご計画に従って、私たちの人生を導いておられるからです。たとえ今、試練の中にあってもそこに神の御手があると受け止められる人は、そこに神の希望の光を持つことができるのです。ナオミの場合、どこに希望を見出すことかできたのでしょうか。

 

22節をご覧ください。ここには「モアブの野から戻った嫁、モアブ人の女ルツが一緒であった」とあります。また、「ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった」とあります。人間の目では何でもないことですが、神の目を通してみるなら、そこに大きな希望がありました。この二つのことが、その後の話の展開に有利に働くからです。だれがこんなことを考えることができたでしょうか。

 

神はナオミとルツを見捨ててはいませんでした。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたにもルツが残されています。あなたの置かれている時は、大麦が始まったころではないですか。あなたが置かれている状況をよく見てください。神はそこに脱出の道を備えていてくださいます。現状を見て悲観するのではなく、そこに全能者の御手があると信じ、信仰の目をもって、神の働きに期待して祈りましょう。

ヨハネの福音書7章25~36節「今が恵みの時、今が救いの日」

きょうは、ヨハネ7章25節から36節までの箇所から「今が恵みの時、今は救いの日」というタイトルでお話しします。伝道者の書3章1節には、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」とありますが、その時を見逃すことがないようにということです。

 

Ⅰ.キリストはどこから来たのか(25-29)

 

まず25節から29節までをご覧ください。27節までをお読みします。

「さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」

 

仮庵の祭りもすでに半ばになったころ、主イエスが宮に上って教えておられると、ユダヤ人たちは驚いて言いました。

「この人は正規に学んだこともないのに、どうして学問があるのか、どうして聖書のことをそんなに知っているのか。」

するとイエス様は、ご自分が神から出たので、神のことばを語るのだと言いました。でも、彼らはそれを受け入れることができませんでした。24節にあるように、うわべで人をさばいていたからです。

 

すると、エルサレムのある人たちは、「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。」と言いました。

「彼ら」とはユダヤ人の指導者たちのことです。イエス様があまりにも毅然とした態度で語っていたので、ユダヤ人の指導者たちは、この人がメシヤであると認めたのではないかと思ったのです。

 

しかし、彼らはそれを打ち消すかのように言いました。27節です。「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」

彼らも主が語られた言葉を聞いて、もしかしたらこの人がキリスト(メシヤ)ではないかと思いましたが、すぐにそれを否定したのです。なぜなら、彼らはイエスがどこから来たのかを知っていたからです。イエス様はどこから来ましたか?彼らが知っていたのは、イエスがガリラヤのナザレから来たということでした。イエスはそこで大工の仕事をしていました。彼らはそのことを知っていたのです。でもキリスト(メシヤ)はナザレから出るのではありません。ユダヤのベツレヘムです。聖書の預言にそう書かれてあるからです。ですから、イエスがメシヤであるはずがないと思ったのです。

確かに彼らはメシヤがどこから来るのかを知っていました。けれども、イエスがどこから来たのかを正確には知りませんでした。ただガリラヤのナザレで、大工をしていたということは知っていましたが、ユダヤのベツレヘムで生まれたことを知らなかったのです。また、イエス様の母マリヤも父ヨセフもダビデの家系であったことすら知りませんでした。ユダヤ人は系図や家系、血筋を大事にする民族ですから、よく調べさえすればそんなことくらいすぐにわかったことなのに、それさえもしませんでした。なぜでしょうか。彼らは最初から偏見でこり固まっていたからです。ガリラヤのナザレの出身であるイエスが、メシヤであるはずがないと最初から決めつけていたのです。

 

これは今日も同じです。一般に人々は、イエス様を偏見の目で見ています。イエスは偉大な人であったかもしれないが神様であるはずがないとか、釈迦や孔子と同じだと決めつけているのです。しかし釈迦や孔子とは明らかに違う点があります。釈迦や孔子は自分たちが神であるとか、神から遣わされて来たとは一言も言っていないのに、イエス様はそのように明言されたことです。何よりも、宗教はアヘンだと思っています。

 

28節と29節をご覧ください。

「イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」

 

ここにはイエス様が「大きな声で言われた」とあります。何ですか、大きな声で言われたとは・・?「大きな声で言われた」というのは、それがとても重要であったことを意味しています。確かに彼らは人間的な意味でイエス様がどこから来たかを知っていたかもしれませんが、霊的な意味では全く知りませんでした。つまり、イエスが父なる神から遣わされたメシヤであるということには目が閉ざされていて、理解していなかったのです。

 

人間はどこまでも頑なで、盲目です。ちょっとでも調べれさえすればすぐにわかるものをそれさえもしないので、ただナザレに住んでいたというだけで、大工のせがれだというだけで、ただの人だと決めつけていたのです。メシヤはユダヤのベツレヘムで生まれるということを知っていましたが、その預言を思い出すことさえしなかったのです。人間の記憶というのは本当に曖昧ですね。時として自分の思いに左右されて忘れてしまうことがあります。「そんなはずがない」と思っていると、記憶がどこかへ飛んで行ってしまうのです。そして意図的に盲目になっている人も少なくありません。聖書の中に明らかに示されている事実や教えすら見ようとしません。ですから、信じるようにと促されていてもそれを受け入れることができないのです。意図的に知ろうとしないからです。信じたくないことは信じません。したがって、真理を求めて聖書を読もうとしたり、話を聞こうとさえもしません。まして、そのことを真剣に考えたり、捜し求めようともしません。これは、ひどい霊の病です。この社会に最も広く蔓延している病の一つであります。見ようとしなければわからないのは当たり前ではないでしょうか。見ようとしない人ほど盲目な人はいません。ここに出てくる人たちは、こうした病に侵されていたのです。彼らの偏見は、こうした思いから生まれていたのです。

 

Ⅱ.イエスの時はまだ来ていない(30-31)

 

次に、30節と31節をご覧ください。ここには、「そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」とあります。

 

イエスが、ご自分が天の父から出た者であり、その方によって遣わされたと言うと、人々はイエスを捕らえようとしましたが、だれもイエスに手をかける者はいませんでした。イエスの時がまだ来ていなかったからです。この「イエスの時」については、7章6節でも説明しましたが、それはイエスが十字架につけられる時のことです。十字架につけられ、永遠の贖いの死を遂げられる時のことです。その時がまだ来ていなかったので、だれもイエスに手をかけることができなかったのです。それは、このように言うこともできるでしょう。そこにすべてを支配している神の御手があったので、彼らは手を出すことができなかったのである・・・と。

 

そうです、神のお許しがなければ、何一つ起こりません。主はこう言われました。

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」(マタイ10:29-30)

1アサリオンというのは、1デナリの16分の1に相当する金額です。1デナリとは1日分の給料に相当しますから、仮に1日の給料が5,000円だとすれば、1アサリオンというのは大体300円くらいになります。二羽で300円ですから一羽だと150円です。それはあまり価値がないことを意味しています。そんな雀の一羽でさえも、父の許しがなければ地に落ちることはありません。いいですね、そんな雀の一羽でも、地に落ちることはない。天の神様がちゃんと見守っていてくださいますから、天の父のお許しがなければ決して地に落ちることはありません。

 

また、髪の毛一本一本に至るまですべて数えられています。あなたは、自分の髪の毛の数を数えたことがありますか。数えられません、あまりにも多くて。でも、天の父は、私たちの髪の毛さえも、すべて数えておられます。そこまであなたのことを気に留めておられるのです。ですから、私たちの人生のすべては、この天の神様の御手の中にあり、この方の許しがなければ何一つ起こりません。つまり、私たちの人生に起こるすべての出来事には、深い意味があるということです。

 

先日、あのマラソンの有森裕子選手や高橋尚子選手を育てた小出義雄監督が召されましたが、小出監督は常々、有森選手にこう話していたそうです。「なんで故障したんだろうと思うな。物事には意味のないものはない。どんなことが起きても「せっかく」と思え。どれだけ故障しても、それだけ意味がある」と。物事には意味のないものはありません。どんなことが起きても「せっかく」と思う。どれだけ故障しても、それだけ意味がある。すばらしい言葉です。なぜそう思うのか。私はこの小出監督の言葉にこう付け加えたい。「そこに神の許しと計画があるのだから。」

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 

私たちの人生には「どうして・・・」と思うことが度々起こりますが、これらどれ一つとっても、神がよしとされない限り決して起こりません。もしこれらのことが起こるとしたら、それは神が深い計画を持って許しておられるからなのです。そういう意味ではどんなことが起きても「せっかく」と思うというのは大切なことです。どれだけ困難があっても、そこにはちゃんと意味があるのですから。

 

それは主が十字架で死なれたことにおいても言えることです。主が十字架で死なれた表面的にはユダヤ人たちのねたみによるものでしたが、本当の理由は、神が深いご計画をもってそのように導いておられたからです。それは、私たちの罪の身代わりとなられるためでした。ただ、まだその時が来ていませんでした。ですから、主が十字架につけられたのはそれを避けることができなかったからではなく、それこそが神のみこころであったからです。神の許しがなければ誰も主に手をかけることはできませんでした。彼らがしたことはすべて父なる神が許されたことで、神の永遠のご計画によって定められていたことだったのです。

 

このことを思う時、私たちの人生に起こるすべてのことも、深い神のご計画によるものであることがわかります。あなたが今ここに置かれているのも、今のパートナーと結婚したのも決して偶然ではなく、そこに神の御手があったからです。私はよく聞かれることがあります。「あなたはどうしてパットさんと結婚されたんですか」わかりません。なんで結婚したのか。地球上に女性も男性も約37億人もいるのに、その中からたった一人の相手ですよ。これはすごい確率でしょう。奇跡です。たまたま出会ったというのであればすごいことです。決して偶然ではありません。そこには、すべてを支配しておられる方の御手があったのです。そこに神の御手があると信じて、すべてをこの神にゆだねることができるかどうかです。

 

詩篇31篇15節には、「私の時は御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から、追い迫る者の手から。」とあります。皆さん、私の時は御手の中にあります。今この時も、この境遇にあるのも、このように導かれていることも、すべて神の導きによるものであると信じて、この方にすべてをおゆだねしようではありませんか。

 

Ⅲ.その時を逃さないように(32-36)

 

第三のことは、その時を逃さないようにということです。32節から36節までをご覧ください。

「パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

 

それでも、群衆のうちにはイエスを信じる人たちが多くいて、彼らが、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言っているのを耳にした祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わしました。すると主は、こう言われました。33節と34節です。

「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」

 

どういうことでしょうか?それを聞いたユダヤ人たちは、首をかしげました。「あなたがたはわたしを捜すが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」とはどういうことか、「まさか、ギリシア人たちの中に離散している人たちのところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。」

彼らには、主が言われたことがどういうことかわかりませんでした。主がここで言われたことは、ご自身が十字架で死なれ、三日目によみがえられてから天に行かれることを預言していたのですが、彼らにはそのことがわからなかったのです。彼らがこのことに気付いたのは、ずっと後になってからのことでした。それは主が復活して天に昇って行かれてからのことです。その時になってやって思い出すことができました。でも、その時にはもう遅いのです。

 

このように、真理を見出した時にはもう遅いということがあります。私たちは、自分がやって来たことが間違いであったとか、愚かなことであったと気づかされることがありますが、その時にはもう遅いということがあります。それでもまだ人生の扉が開かれている内はやり直すこともできますが、その扉が閉ざされてからではどうすることもできないということがあるのです。

 

たとえば、創世記にノアの方舟の話があります。主はノアに仰せられました。「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。」(創世記7:1)あと七日たつと、主は地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、主が造られたすべての生けるものを大地から消し去るからです。それでノアは、彼の妻と彼の息子たち、息子たちの三人の妻とともに、箱舟に入りました。また、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつノアのいる箱舟の中に入りました。すると、「主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(7:16)それで、箱舟に入らなかったすべての息のあるもので、乾いた地の上にいたものは、みな死んでしまいました。ただノアと、彼とともに箱舟にいたものたちだけが生き残ったのです。うしろの戸が閉ざされてからでは遅いのです。その前に箱舟に入らなければなりません。

 

これは、ちょうどともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘のようです。

「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』(マタイ25:1~12)

 

その時になって求めても、時すでに遅しということがあります。五人の愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油は持っていませんでした。それで、「花婿だ」と声かしたので迎えに出ようと思ったら、何と夜中だったので迎えに出ることができませんでした。それで賢い娘たちに油を分けてもらおうとしましたが、分けてやるだけの分はありませんと断られ、仕方なく店に買いに行くと、その間に花婿が来てしまいました。油の用意ができていた花嫁たちは花婿と一緒に婚礼の祝宴に入ることができましたが、用意ができていなかった娘たちは、婚礼の祝宴の中に入れてもらうことができなかったのです。

 

「備えあれば憂いなし」ということわざがあります。日頃からしっかりと準備を整えておくと、万が一のことが起こっても慌てなくてすみます。あなたはどうですか。油の用意はできていますか。「いや、まだだべ」と用意するのを怠っていると、やがてその時が来たとき、その中に入ることができなくなってしまいます。それがいつなのかは誰にもわかりません。ですから、それがいつやって来てもよいようにしっかりと備えておかなければなりません。箴言にはこうあります。

「そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。」(箴言1:28)

 

私たちは、このユダヤ人たちのように主イエスを救い主として求めた時にはすでに手遅れだったということがないように注意しなければなりません。

「見よ。今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

今が恵みの時、今が救いの日です。この恵みの時である今、イエス・キリストを私たちの罪からの救い主として信じて、永遠の御国に備える者でありたいと思います。

 

またこれはイエス様を信じるということだけに限らず、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。日々の忙しさにかまけて、本当にしなければならないことが後回しになっているということはないでしょうか。イエス様はマルタにこう言われました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)

どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。あなたは、その必要な一つのことを大切にしているでしょうか。

 

あるいは、イエス様を第一にしていると思っていても、いつの間にか違ったことに心が奪われていることも少なくありません。そのことにさえ気づいていないこともあります。そのような時には悔い改めて、主に立ち帰らなければなりません。そのためにもいつも主に向かい、主のみこころが何であるのか、何が良いことで完全であるのかをわきまえしるために、心の一新によって自分を変えなければなりません。遅すぎた!ということがないうちに。

 

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

あなたが主を求めるなら、必ず与えられます。探すなら、見つかります。たたくなら、開かれます。ただ遅すぎることがないように。そのとき、主を呼んでも、主は答えてくれません。主を捜し求めても、見出すことはできません。それは今でしょ。今が恵みの時、今が救いの日なのです。

出エジプト記7章

出エジプト記7章から学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.バロの心をかたくなにされた主(1-7)
「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。しかし、ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。そこで、わたしはエジプトに手を下し、大いなるさばきによって、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの子らをエジプトの地から導き出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりに行った。 彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」

モーセの前には多くの障害が立ちはだかっていました。彼は民を説得することに失敗し、全く自身を失っていました。それでも主はモーセを見放しませんでした。何度も躊躇するモーセに対して、忍耐深く語りかけられます。1節をご覧ください。

「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」

モーセを神の代理人とするということです。そしてアロンは、モーセの言ったことを伝えるモーセの代弁者です。モーセがは神が命じることを、ことごとくファラオに告げなければなりませんでした。それは、イスラエルの子らをその地から去らせるようにということです。

 

けれども、主はファラオの心を頑なにされるので、ファラオは彼のことばを受け入れません。これは不思議なことです。イスラエルをエジプトから連れ出そうとしているのに、ファラオの心を頑なにするというのはどういうことでしょうか。それは、主がファラオの心を頑なにするというよりも、いくら説得しても頑なであり続けるファラオの心を知っておられた主が、その頑な心を用いて、エジプトの地でしるしと不思議を行い、イスラエル人をエジプトから連れ出されるということです。それは、「エジプトは、わたしが主であることを知る」ようになるためです。つまり、エジプトの奴隷であったイスラエルの神の方が、彼らの神々よりも強いということを示そうとしておられたのです。

 

それに対してモーセとアロンはどうしたでしょうか。6節です。「そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりに行った。」

これまでは、なかなか主に従うことができませんでした。「そんなこと言ったって・・」といつも否定的にしか応答することができなかったのに、ここでは素直に従っています。どうしてでしょうか。それは彼らが主の計画をはっきりと知ったからです。

これは、私たちクリスチャンも同じです。もし私たちが信仰の落ち込みから解放されたいと願うなら、自分自身に焦点を合わせるのではなく、神のことばに焦点を合わせなければなりません。そして、神が命じられるとおりに行なわなければならないのです。わかったら行動するのではなく、行動すればわかるようになるのです。私たちは自分が納得するまで行動しないと、自分の思いや考えを優先させることがありますが、そのような姿勢ではいつまでも神に従うことはできません。神のことばに従わないなら、神の力や恵みを体験することはできないのです。神のことばを信じて従うこと、それが私たちに求められています。

 

「彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」彼らの年齢をどのように考えたらよいでしょうか。これからのしるしと不思議は、何と80歳と83歳の二人の老人に与えられました。これはどういうことかというと、このイスラエルの出エジプトの出来事は人間の力ではなく、神の力によって成されるということです。

アメリカの大衆伝道者D・L・ムーディーは、モーセの人生の最初の40年間は、ファラオの宮殿で自分がそれ相応の人間であることを学び、次の40年間は、ミディアンの荒野で自分が何者でもないことを学んだ。そして最後の40年間は、神が無力な者を用いてみわざを行う方であることを学んだ、と言っています。つまり、モーセにとって80歳というのは、自分の知識と経験が最高潮に達した時であったということです。神にとって用いやすい状態になりました。これまでの80年は、そのための準備の時でした。皆さんは今、人生のどのあたりを歩んでいるでしょうか。どの段階にあっても、神のご計画の中を歩むことが重要ですね。

 

Ⅱ.杖が蛇に(8-13)

 

次に、8節から13節までをご覧ください。

「また主はモーセとアロンに言われた。「ファラオがあなたがたに『おまえたちの不思議を行え』と言ったら、あなたはアロンに『その杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言え。それは蛇になる。」モーセとアロンはファラオのところに行き、主が命じられたとおりに行った。アロンは自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げた。すると、それは蛇になった。そこで、ファラオも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらエジプトの呪法師たちもまた、彼らの秘術を使って同じことをした。彼らがそれぞれ自分の杖を投げると、それは蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖を?み込んだ。それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」

モーセとアロンはファラオのところに行き、主が命じられたとおりに行いました。それはファラオとその家臣たちの前に自分たちが持っていた杖を投げるということです。すると、それは蛇になりました。それで、ファラオもエジプトの知恵のある者と呪術者を呼び寄せて同じことをさせると、彼らもまた、杖を蛇に変えることができました。彼らは蛇使いであって、催眠術や奇術によって、蛇やワニなどを一時的に硬直状態にすることができたのでしょう。それは、単なる「マジック」というよりは、悪魔的なものだと考えられます。悪魔もそのような奇跡を行って人々を驚かし、人々の心を捉えることができるのです。しかし、アロンの杖が彼らの杖を呑み込んでしまいました。それは、神の力がサタンの力よりも勝っていたことを表しています。同じようなことができても、神の力は圧倒的な力があるのです。  「それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」(13)

この出来事を目撃しても、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れませんでした。けれども、そのことでモーセとアロンは動揺したり、落ち込んだりしていませんでした。なぜでしょうか。彼らの目が主に向けられていたからです。彼らは、主が言われたとおりに行いました。私たちも、自分に向けられている目と心を自分ではなく主と主のことばに向けるべきです。そうすれば、目の前にどんな障害があっても、それを乗り越えることができるのです。

 

Ⅲ.ナイル川を血に(14-25)

 

それでモーセはどうしたてしょうか。14節から18節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「ファラオの心は硬く、民を去らせることを拒んでいる。あなたは朝、ファラオのところへ行け。見よ、彼は水辺に出て来る。あなたはナイル川の岸に立って、彼を迎えよ。そして、蛇に変わったその杖を手に取り、 彼に言え。『ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして言われました。わたしの民を去らせ、彼らが荒野でわたしに仕えるようにせよ、と。しかし、ご覧ください。あなたは今までお聞きになりませんでした。主はこう言われます。あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知る、と。ご覧ください。私は手に持っている杖でナイル川の水を打ちます。すると、水は血に変わり、

7:18 ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなります。それで、エジプト人はナイル川の水を飲むのに耐えられなくなります。』」

 

それで、彼らはどうしたでしょうか。15節をご覧ください。「見よ、彼は水辺に出て来る」というのは、彼が礼拝のために出て来るということです。ナイル川を拝みに出て来るのです。エジプトでは、肥沃な土地をもたらしこの国に潤いをもたらしているナイル川を、神として拝んでいました。そのナイル川の岸に立ってファラオを迎え、蛇に変わったその杖を手に取って、「ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして言われました。わたしの民を去らせ、彼らが荒野でわたしに仕えるようにせよ」と言え、と言うのです。そのことによって、主がエジプトにさばきを下すからです。それによって彼らが、主こそ神であるということを知るため(17)です。

 

その災いは、ナイル川の水が血に変わるという災いでした。するとナイル川の水は地に変わり、ナイル川の魚は死に、臭くなります。それで、エジプト人はナイル川の水を飲むことができなくなります。彼らが神として拝んでいたナイル川がこのようになることは、エジプトの神々の敗北を表していました。そうして彼らは、イスラエルの神、主がとのように偉大な神であるのかを知るようになるのです。これがこれから始まる10の災いの最初の災いでした。

 

次に、19節から21節までをご覧ください。 「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、

その川、水路、池、すべての貯水池の上に伸ばしなさい。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになる。』」モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。エジプト全土にわたって血があった。」

 

ここで主は、その杖をナイル川だけでなく、エジプト中の水という水に伸ばすようにと命じられました。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになります。すると、ナイル川の水はすべて血に変わりました。こんなことがあるのでしょうか。このナイルの水が血に変わるなんて考えられません。それである人たちは、これは実際に血に変わったのではなく、血のように赤くなったのにちがいないと考えます。赤潮ですね。ヨエル2章31節に「月は血に変わる」という表現があるので、ここでもナイル川が地のように赤くなったということだ、と言うのです。しかし、水が血に変わったというのは、成分が透明な水とは違ったものになったことは確かです。なぜなら、すべての魚が死んだし、川が臭くなりました。そして、水も飲めなくなりました。これらのことは、明らかにただ水が赤くなったというのではなく、血地になったということです。それは神の超自然的なしるしであったのです。

 

その結果、どうなったでしょうか。22節から25節です。

「しかし、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。ファラオは身を翻して自分の家に入り、このことにも心を向けなかった。全エジプトは飲み水を求めて、ナイル川の周辺を掘った。ナイル川の水が飲めなかったからである。主がナイル川を打たれてから七日が満ちた。」  ところが、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをしました。それでファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れようとしませんでした。けれども、なぜエジプトの呪法師たちはこれを水に変えられなかったのでしょうか。水を赤くすることができるなら、透明にすることもできたはずです。それなのに彼らにはできませんでした。それでエジプト全土は飲み水を求めて、ナイル川周辺に井戸を求めて掘らなければならなかったのです。

 

すると、ファラオはどうしたでしょうか。彼は身を翻して自分の家に入り、このことに心を向けませんでした。これは、国家の指導者としては、あまりにも無責任な態度です。彼は一般庶民のように水に困ることはなかったでしょうが、一般のエジプト人は、生きていくために水が必要だったので必死でした。彼らは井戸を掘らなければなりませんでした。それが7日間も続いたのです。それでエジプト人たちは苦しみました。それなのに彼はそのことに全く心を向けなかったのです。何とひどい王でしょう。

 

でも、私たちの神は、そのような方ではありません。私たちの神は、私たちが苦しみの中から主に呼び求めると、答えてくださる方です。詩篇55:16,17には、「私が神を呼ぶと主は私を救ってくださる。夕べに朝にまた真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。」とあります。

また、エレミヤ書33章3節には、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」とあります。

私たちの神は、私たちの叫びを聞き、助けの手を差し伸べてくださいます。このような神は、ほかにはいません。主こそ神であり、私たちをすべての苦しみから救ってくださる方なのです。ですから、私たちは、この方に信頼し、この方に助けを求めて叫ぼうでありませんか。主はあなたに心を向けてくださっておられるからです。

ヨハネの福音書7章14~24節「正しい判断を下すために」

ヨハネの福音書7章から学んでおります。きょうは、正しい判断を下すにはどうしたら良いかというテーマでお話ししたいと思います。私たちは、いつも「どうしたら良いか」で悩みます。自分では正しい判断を下したつもりでも、必ずしもそれが正しくなかったという場合がたくさんあります。むしろ、そうでない場合の方が多いかもしれません。正しく判断することは、それほど難しいことです。いったいどうしたら正しい判断を下すことができるのでしょうか。きょうは、このことについて主の言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.神のみこころを行おうと願うこと(14-17)

 

まず、14節から17節までをご覧ください。

「祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

 

この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りがすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められました。すると、ユダヤ人たちは驚いて言いました。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか」。一般的に牧師が神学校で聖書を学ぶようにユダヤ教の指導者たちはラビの学校で学びますが、イエスはそこで正規に学んだことがないのに聖書をよく知っているのに驚いて、彼らは不思議に思ったのです。

 

それに対してイエスは、こう言われました。16節です。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

イエス様の教えは、当時のラビたちの教えとは全く違うものでした。ラビたちの教えというのは、自分たちの教えを裏付けるために、有名なラビたちの言葉を引用するというものでしたが、イエス様の教えはそのような権威に裏付けられたものではなく、いわばオリジナルのものというか全く新しいものでした。しかもそれは、イエスを遣わされた方である神のみこころに適った教えでした。つまりそれは伝統に縛られた権威主義的なものではなく、また、自分の独自の考えに基づいたものでもなく、神のみこころに基づいたものであったということです。ユダヤ人の指導者たちは、そのことが理解できませんでした。ですから、自分たちの教えとは違う、全く新しい教えを聞いた時、「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」と驚いたのです。

 

いったいどうしたら、それが神から出たものであるかがわかるのでしょうか。17節にこうあります。「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

そうです、だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人は、それが神から出た教えなのか、そうではないかがはっきりわかるのです。私たちが何かの教えを聞いた時、それが神からのものであるのかそうでないのかを判断するためには、それを聞いた私たちが神のみこころを行おうとしているかどうかで決まります。確かに、何が真理なのかを見分けることは難しいことですが、いつも神のみこころを行いたいと願っているなら、必ず見分けることができるのです。私たちがなかなか正しい判断を下すことができないのは、正しい情報を持っていないということもありますが、それよりも私たちの中に自分に都合のよいものは受け入れ、そうでないものは排除しようという働きがあるからです。でも、そうでなく、いつも神のみこころを行いたいと願っているなら、たとえそれが自分にとって都合が悪いことでも受け入れ、正しく判別することができるのです。

 

またここには、「神のみこころを行おうとするなら」とあるように、ただ神のみこころを知ろうとするだけでなく、それを行おうとすることが大切です。つまり、神のみこころを単に知識としてではなく、自分の生活の中に適用し実践していこうとする姿勢が求められるということです。

 

今年7月にさくらチャーチにアメリカカリフォルニア州フレズノ市からサマーチームが来会します。今回は7名のチームなので、それだけの人数が宿泊できる場所をどうやって確保しようかと祈っていたところ、ある方を通して車で35分くらいのところにかつて古民家で民宿を営んでおられたクリスチャンがいるということを知り、現場に行ってお会いしました。この方はまだ30歳代の若い青年で、父親が水道工事の会社を経営していることから、それを引き継いて水道の工事をしておられます。「若いのにすごいですね。どうやって覚えたんですか。」と尋ねると、こう言いました。「いや、自分は小学校の時から父親の跡をついて行って一緒にやっていましたから、実際この仕事を始めるようになってからは7~8年ですけれど、小学校の時からやっているので、結構できちゃうんですよ。」

なるほど、水道工事の知識も必要ですが、実際に小さい時から工事に携わってくる中で見えてきたことが大きいんですね。つまり、「行動」が「知識」をもたらすということは、ある意味で本当なのです。

 

「納得しなければ実行しない」という人がいますが、そういう態度ではいつまでも実行に移すことはできないでしょう。なぜなら、納得するかしないかはあなた次第だからです。大切なのは、あなたが納得できるかどうかではなく、納得できなくとも神のみこころは何かを知り、それを行おうとすることです。そうすれば、そのうちに納得できるようになります。

 

ホセア書6章3節に、「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」とありますが、どうやったら知ることができるのでしょうか。主を知ることを切に追い求めることによってです。そうすれば、主のみこころが何かがはっきりと見えるようになります。

 

あなたは、主を知ることを切に追い求めておられるでしょうか。確かに、神のみこころを知ることは簡単なことではありませんが、もうすでにはっきり示されていることもたくさんありますから、まずそれを行いさらに深い真理を求めていくなら、神はじきに多くのものを判別する知恵を与えてくださることでしょう。

 

Ⅱ.神の栄誉を求める(18)

 

第二のことは、自分の栄誉ではなく、神の栄誉を求めるということです。18節をご覧ください。ここには「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」とあります。

 

誰でもよく考えればすぐに、このことばが教えていることがどういうことかわかると思います。自分から語る人は自分の栄誉を求めますが、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。つまり、その人が何を求めているかによって、その人がどういう人であるかがわかるということです。自分の栄誉を求めている人は、自分のことを語りますが、神の栄誉を求めている人は、神のことを語るからです。つまり、実を見て、木を知れ、というのです。イエス様は、どのようにして「偽預言者」を見分けたら良いかを、この木と実のたとえでお話ししてくださいました。

「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:15-20)

偽預言者と本物の預言者とを見分けるのは難しいです。彼らは羊の衣を着てやって来ますが、内側は貪欲な狼です。「羊の衣を着て」というのは、見たところ無害で、ソフトな姿で近づいてくるということです。ですから、出会う人は警戒心を緩めて、かえって好感を抱いてしまうのです。

しかし、彼らの正体は見た目とは反対の「貪欲な狼」です。このような凶暴性を持った偽預言者たちによってもたらされる被害は大きく、神様との関係や兄弟姉妹との関係を取り返しがつかないほどに破壊してしまいます。こうした偽預言者に注意しなければなりません。どうしたら見分けることができるのでしょうか。何よりも見分けるポイントが大切です。つまり、実によって見分けるということです。茨からぶどうは採れないし、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結びます。ですから、実によって判別するようにと教えられたのです。

 

ここでも同じことが言われています。自分から語る人は自分の栄誉を求めますが、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。まさに、イエス様はそのような方でした。ピリピ人への手紙2章6~11節にはこうあります。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:6-11)

キリストは、自分の栄誉ではなく、神の栄誉を求めました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになられたのです。

 

今の時代にあって誰が神の人であるのかを、どうやって見分けることができるでしょうか。それは、その人が言っている言葉を聞けばわかります。もしその人が「私を見てください、私はこれだけのことをやりました」と言うなら、そこには真理はありません。自分の栄誉を求めているからです。でも、もし「この人を見よ」と十字架のキリストを指し示すなら、その人は正しい人です。その人こそ神によって立てられた人だと言えるでしょう。十字架の陰に自らを隠そうとする人こそ、まことの牧者です。その人は、ただ神の栄誉を求めています。このような人こそ真実で、不正がありません。

 

先日、「1番だけが知っている」というテレビの番組で、ハンセン病国家賠償訴訟について報じていました。これは「らい予防法」という法律によって強制的に隔離された人たちが、その法律が間違っていたことを国が認め、国に賠償と謝罪を求めるというものでした。しかし、法律が間違っていたと国が認めることはあり得ないことで、その裁判は困難を着褒めましたが、徳田弁護士を中心とした137人の弁護団によって戦い、裁判から2年半後の1998年に「らい予防法」し違憲との判断が下され、国が控訴を断念したことから裁判が結審しました。それはアリが巨大な像を倒した瞬間でした。当時の首相であった小泉首相の会見後、原告団の記者会見が行われましたが、この晴れ舞台に弁護士の姿はありませんでした。主役は原告団であって、自分たちは脇役にすぎないと、表に出ることを避けたのです。弁護士であれば自分の手柄を誇りたいところでしょう。それなのに、自分たちの栄誉を求めようとしなかったこの弁護士は、本物だなぁと思いました。

 

私たちも、このような者になることを求めましょう。自分の栄誉ではなく、キリストを遣わされた方の栄誉を、神の栄光が現されることを求めましょう。そうすれば、見えるようになり、神のみこころが何なのかを正しく判断することができるようになるのです。

 

Ⅲ.うわべで人をさばかない(19-24)

 

第三のことは、うわべで人をさばかないということです。19節から24節までをご覧ください。19節には、「モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」とあります。

「あなたがた」とは「ユダヤ人たち」のことです。ここでイエス様はモーセの律法を取り上げ、彼らが神を敬っていないことを指摘しています。なぜなら、彼らはモーセの律法を一生懸命に守っていると言いながら、イエスを殺そうとしていたからです。律法には何と書いてありますか?律法には「殺してはならない」とあります。それなのに彼らはイエスを殺そうとしていました。どういうことですか。律法を守っていないということです。彼らは律法を守っているどころか守っていなかったのです。

 

すると、群衆が答えました。20節です。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」どういうことですか。群衆は、まさかユダヤ教の指導者たちがイエスを殺そうとしていることなど全く知らなかったので、「あなたがたは、なぜ私を殺そうとするのですか。」と言われたイエス様の言葉を聞いて、気が狂っていると思ったのです。「あなたは悪霊につかれている」と言いました。

 

するとイエス様は、それが間違った判断であることを示すために、21節でもう一つの律法を取り上げて説明しています。それは「安息日」の律法です。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。」というのは、5章で見たあのベテスダの池での出来事です。38年もの間病気で伏していた人が、「床を取り上げて歩きなさい。」と言われたイエスの言葉に従ってそのとおりにすると、その人はすぐに治って、床を取り上げて歩き出しました(5:1-9)。ところが、その日は安息日でした。つまり、安息日に病人をいやしたことが問題となったのです。ユダヤ人たちとの論争はそこから始まりました。ユダヤ人たちは、イエスが簡単に安息日の規定を破ったのを見て、驚いたのです。もっとも、イエス様は安息日の規定を破ったのではなく、あくまでも彼らがそのように思っていただけでした。彼らは、安息日律法そのものを間違って理解していたのです。

 

そのことを説明するために、今度は「割礼」のことを取り上げています。22節です。「モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。」

どういうことですか?「割礼」とは、モーセから始まったものではなく、父祖たちから始まったことでした。父祖たちとはモーセたちの時代よりも500年も古い時代です。つまり、律法が与えられる前からあったということです。それはアブラハムの時代のことでした。神はアブラハムに、彼らが神の民であるというしるしに、「割礼」を受けるように命じられたのです(創世記17:9)。それはその子が生まれて八日目に施すようになっていたため、それが安息日に当たっていたとしても、それをしなければなりませんでした。それは彼らが神の民のしるしですから、とても重要なことだったのです。であれば、イエスが安息日に病気で伏していた人を癒すことがどうして問題になるのでしょうか。おかしなじゃないですか。23節には、「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。」とあります。だったら安息日には、何もしてはいけなかったはずです。それなのに、割礼は大丈夫だけれども、人の病気を癒すことは悪いというのは変な話です。論理に一貫性がありません。いったい何が問題だったのでしょうか。

 

24節をご覧ください。これが彼らの問題でした。ご一緒に読みましょう。「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」

群衆は、安息日の規定と割礼の規定とは矛盾しないものであることを知っていました。それなのに、イエス様が安息日に行ったいやしを認めることができなかったのは、指導者たちの言葉に影響されて、正しい目でイエスを見ることができなかったからです。いわゆる偏見です。彼らは最初から、正しい判断を下すことを放棄していたのです。

 

それは何も当時のユダヤ人たちだけのことではありません。私たちも、何かの判断を下さなければならないとき、こうした偏見によって判断に狂いが生じ、正しい判断を下すことができない時がありますが、うわべで人をさばいていることがあるのです。「うわべ」とは、「見かけ」のことです。「見かけ」で人をさばいてはいけません。なぜなら、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)からです。

 

これはとても有名な話です。主が最初のイスラエルの王であったサウルを退けた時、ベツレヘムにいるエッサイという人の息子の中から次の王を選ぶようにと言いました。サムエルは主が告げられたとおりにベツレヘムのエッサイのところにやって来ると、そのことを彼に告げました。そして、エッサイとその息子たちを祝宴に招くと、背が高くて、なかなかハンサムな息子がやって来ました。名前はエリヤブと言います。サムエルは彼を見たとき「彼だ!」と思いました。しかし、主はサムエルに言いました。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)と言われました。

そこでエッサイはアビナダブという別の息子を呼んで、サムエルの前に進ませましたが、サムエルは、「この者も主は選んでおられない。」と言いました。じゃ次の息子の「シャンマ」かなぁと彼を進ませましたが、サムエルの答えは「No」でした。エッサイは7人の息子をサムエルの前に進ませましたが、サムエルは「この者たちではない」と言いました。「子どもたちはこれで全部ですか。」と言うと、エッサイが、「いや、まだ末の息子がいますが、今、羊の番をしているような息子ですよ。」と言うと、「その子を連れて来なさい。」と言われたので、エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させました。その子は血色が良く、目が美しく、姿も立派でした。その時、主は言われました。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」と。それでサムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油を注いだのです。それがイスラエルの二番目の王で、イスラエルの絶頂期を気付いたダビデ王です。彼は兄弟たちの中では一番小さな者でしたが、神が選んでおられたのは、何とその小さな息子のダビデだったのです。

 

私たちは時として、こうした「うわべ」で人を判断してしまうことがあります。でも表面的に立派であれば必ずしも立派であるかというとそうとは限りません。英語のことわざに、All that glitters is not gold.ということわざがあります。訳すと、「光るものすべて金ならず」です。光っているものがすべて金であるとは限りません。外面に気をとられて内面を見誤ってはなりません。この英語の「glitters」というのは、家内の説明では、子供たちがクラフトでよく使う金色のピカピカに光る粉のことだそうです。あれは後始末が大変で、どんなにコロコロを使って取ろうとしてもなかなか取れません。それが「glitters」です。それはただピカピカに見せているだけですが、それが必ずしも金であるわけではないのです。その人の人となりは、その人の隠れた行いなり、人の目にはふれない性格などに見られるのであって、うわべで判断してはいけないのです。

 

それとは反対に、どんなに表面的に光っていないような人でも、すべてが悪だと性急に決めつけてはなりません。見た目ではパッとしないような人でも、神のことばによっていのちが芽生え、聖霊の圧倒的な力によって変えられて、神に大きく用いられることもあります。私はそう信じています。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた人です。古いものは過ぎ去って,見よ、すべてが新しくなりました。キリストによって、だれでも、新しく変えられます。

 

4年半前に、教会のO兄が天に召されました。それは突然のことでした。水曜日の祈祷会が終わって家に戻り、その晩に頭が痛いと救急車で病院に運ばれると、その日のうちに亡くなられました。翌々日の金曜日に奥様から電話があり、事情を聞いてびっくりしました。あんなに元気だったのに突然召されるなど考えられませんでした。その翌日の土曜日に宇都宮の駒生で行われた葬儀で司式をしましたが、私たちの教会にO兄を送ってくださった主に、心から感謝しました。

O兄は、なかなか周りに理解されにくいタイプの人でした。かつては大手の企業のチェーン店の店長を勤め、定年になるとそれを奥様に任せて自分は掘っ立て小屋みたいなところに住み、仙人のような生活をしていました。お酒が好きで小屋にはたくさんの酒瓶がありました。Oさんが教会に来たのも、コンビニにお酒を買いに来た時、目の前に私たちの教会があったのがきっかけでした。何日も風呂に入っていなかったのか、近くによるとかなりにおいがしました。「何だろう、この人は・・」と不思議に思いましたが、彼の聖書を見るとどこも赤線がびっしり引かれてありました。本当に不思議な人でした。何よりも聖書の話をじっと聞いていました。最後の祈祷会の話は、イスラエルが荒野を行軍した時の形でした。それは上空から見ると十字架の形でした。十字架こそ荒野を旅するイスラエルにとって勝利の秘訣だった。それはイエス・キリストご自身を指し示していたんですと話すと、興奮して「先生、それが一番強いんだよね。」と言われました。「何でこんなことを知っているのかなぁ」と思いましたが、その学びが最後でした。

しかし、O兄が教会に来て洗礼を受けてから、本当に変わったと思います。変わった人が変えられてもっと変わったのではなく、すばらしい人に変えられました。匂いは相変わらずでしたが、神に向かう姿勢が見事でした。毎週の礼拝と祈祷会には欠かさず出席しました。雨の日も雪の日も、自転車を引っ張って来ました。ある時は、大雪で来られないだろうと思っていたら、「いや、大変だった。自転車を引っ張って来たら1時間半もかかったよ。」と、自転車を引っ張って歩いて来られたのです。

それは私にとって大きな慰めでした。神の言葉を求めて、自転車を引っ張っても教会に来るというのは考えられないことだったからです。そんなことを葬式でお話しすると、O兄のお母さんが棺に手をかけて、「政行、聞いたよ。牧師さんから聞いた。随分、頑張ったんだね。」と言われました。O兄は、ご長男でしたが、家族の中でも変わり者で、ご両親やご兄弟からも相手にされないところがあったんですね。だから、お母さんがその話を聞いて、「そうだったんだ」と驚いておられたのです。

でも、これは本当です。イエス様を信じて、イエス様によって新しく生まれ変わりました。本当に新しい人に変えられました。何よりもうれしいことは、そのような彼を私たちの教会が受け入れ、愛をもって接してくれたことです。

 

うわべで人をさばかないで、正しいさばきをしなければなりません。常に神のみこころを求め、神の栄誉を求め、神の目をもって、正しい判断ができるように神の助けを仰ごうではありませんか。

ヨハネの福音書7章1~13節「わたしの時は来ていません」

ヨハネの福音書から学んでおりますが、きょうから7章に入ります。きょうは「わたしの時は来ていません」(6)とイエス様が言われた言葉から、「キリストに従う」というテーマでお話ししたいと思います。

Ⅰ.イエスを信じていなかった兄弟たち(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。

「その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」

「その後」とは、6章の出来事があって後のことです。6章には、イエス様が、5つのパンと2匹の魚で男の人だけで五千人の人たちの空腹を満たされたという奇跡が記されてあります。それは6章4節に「ユダヤ人の祭りである過越しが近づいていた」とあるように、過越しの祭りが近づいていた頃のことでした。時期的には3月の終わり頃から4月の上旬にかけての頃です。その後、イエス様はガリラヤ地方を巡り続けておられました。なぜなら、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたからです。もしユダヤ(地方)に行けば、ユダヤ人に捕らえられ、殺されてしまいます。イエス様は、ユダヤ人に殺されることを恐れていたのではありませんが、まだその時が来ていなかったので、ユダヤには行かずガリラヤを巡り続けておられたのです。

それからしばらくして、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていました。これは秋の祭りです。ですから、6章の出来事から半年くらい後の事になります。イエスの兄弟たちがイエスにこう言いました。

「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」(3-4)

なぜイエスの兄弟たちはこのようなことを言ったのでしょうか。ある意味で、彼らが言っていることはもっともであるかのように見えます。もし自分を世に現したいとと願っているのであれば、隠れて事を行う必要はないからです。しかし、彼らは本当にイエス様のことを思ってそう言ったのではありませんでした。彼らがなぜこのように言ったのかを理解するためには、ユダヤ人にとって「仮庵の祭り」が何を意味していたのかを知る必要があります。

先ほども申し上げたように、仮庵の祭りは、過越しの祭り、五旬節、すなわち七週の祭りに並ぶユダヤの三大祭りの一つでした。それは、彼らの先祖がエジプトを出た時、仮の庵、仮庵に住んだことを覚えるために、七日間、仮小屋か木の枝を張って造った天幕に住み、主の前で喜ぶように定められていたものです(レビ3:39-43)。また、この祭りの最終日は聖なる贖いの日と呼ばれていて、この日は、アザゼルとして荒野に山羊が放たれ、年に一度大祭司が至聖所に入って特別な儀式を行いました。そして、何と言ってもこの祭りは、来るべきメシヤの再臨を示すものでした。ゼカリヤ書14章16~21節にこう書いてあるからです。

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」(ゼカリヤ14:16)

すなわち、これはメシヤがエルサレムから全世界を支配するようになる時、異邦人たちはメシヤを礼拝するために、この祭りに上って来るということです。イエスの兄弟たちが、仮庵の祭りの期間にエルサレムに上り、自分をメシヤとして世に示すようにと言ったのは、こうした背景があったからです。

そういう意味では、彼らが言ったことは決して間違いではありませんでした。むしろ、日ごろからイエスが語っておられることを耳にしていた彼らにとって、この仮庵の祭りにイエスがエルサレムに行き、そこで驚くべき奇跡を行うなら、自分がメシヤであることを示す絶好の機会になるのではないかと考えるのは、むしろ当然と言えるでしょう。しかし、それは彼らがイエスをメシヤだと信じていたからではありませんでした。5節には、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」とあります。彼らもイエス様を信じていませんでした。だから、イエスがメシヤであるというしるしを行えば、みんな信じるでしょう、そうしたらいいんじゃないかと、挑発したのです。それは神のみこころから遠く離れていたものでした。というのは、十字架抜きの救いというのは、結局のところ、人々を本当の救いを与えることはできないからです。その時はまだ来ていませんでした。悪魔は、いつも身近にいる人を通して、主のみこころとは違った、安易な道へと私たちを誘惑してきます。ですから、私たちは主のみこころは何なのか、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、いつも神の言葉を求めなければなりません。

それにしても、このことがイエス様の一番近くにいた兄弟たちから出たということは驚きです。家族であればいつも一緒にいてその言葉なり、行動というものをつぶさに見ています。ですから、彼らはイエス様のことを見て、よく知っていたはずなのに信じていなかったのです。普通であれば、一緒にいればポロも見えるはず。いいことばかりでなく、悪いことも、いろいろな欠点も見えてきますから信じられないというのは最もですが、イエス様の場合は完全で、しみも汚れも全くなかったわけですから信じても不思議ではなかったというか、信じるのが当然かと思いますが、そうではなかったのです。これはひどい話です。ご自身の民であったユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしていたというのもひどい話ですが、イエス様の兄弟たちがイエス様を信じていなかったというのもそれと同じくらい、いやそれ以上にひどいことです。

このことを思う時、改めて6章44節でイエス様が言われた言葉を思い出します。それは、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」という言葉です。神の恵みと導きがなければ、人はだれも主のもとに来ることはできません。どんなにイエス様の近くにいる人でも、神が引き寄せてくださらない限りだれもイエス様のもとに来ることはできないのです。

私たちはこのことをしっかりと覚えておかなければなりません。私たちはとかく、私たちの家族が信仰を持たないでいたりすると、つい自分を責めてしまうことがあります。自分の態度が悪いからだ、クリスチャンとしてふさわしい態度でないから、夫が、妻が、息子が、娘が、父が、母が信じてくれないのだと思いがちなのですが、必ずしもそうではないのです。何の落ち度もないイエス様が一緒にいても、その兄弟たちが信仰を持たなかったのだとしたら、どんなに私たちが信仰に熱心だからと言っても、必ずしも私たちの家族の者が信仰を持つとは限らないのです。むしろ、イエス様はこのことを経験された方として、そのように祈ってもなかなか信じてくれない家族のことで悩み、落ち込んでしまう私たちの心を知って、深く憐れんでくださるのです。ですから、私たちは何よりもこのことを覚えてこの主のあわれみによりすがり、主が私たちの家族をご自身のもとへ引き寄せてくれるようにと、あきらめないで祈り続けていかなければなりません。

Ⅱ.わたしの時はまだ来ていません(6-9)

第二のことは、多くの人がクリスチャンを憎む本当の理由は何であるかということです。6節から9節までをご覧ください。

「そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」

「自分を世に示しなさい」という兄弟たちの言葉に対して、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」と言われました。どういうことでしょうか?

イエス様が福音書の中で「わたしの時」と言われる時、それはご自身が十字架に付けられ、永遠の贖いを成し遂げられる時のことを指しています。その時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ています。これはどういうことかというと、新改訳2017で訳されているように、「用意ができている」ということです。どのように用意ができているのかというと、7節にあるように、「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、イエス様はこの世と同じ生き方をせず、この世の悪い行いを指摘するのでこの世から憎まれますが、イエスの兄弟たちは、この世と調子を合わせ、いつもこの世の流れに流された生き方をしていたので憎まれることはないということです。彼らはいつもこの世にどっぷりと浸かっていました。彼らの時はいつでも来ていたのです。

しかし、それは何もイエスの兄弟たちだけのことではありません。私たちもイエ様を信じて、イエス様に従って生きていこうとすれば、そこに多くの戦いが生じます。もし私たちがこの世から全く憎まれることがないとしたら、それこそこの世にどっぷりと浸かっている証拠であり、この世の人々と何ら変わりがないということを示しているのです。なぜなら、世はイエス様のことを憎んでいるからです。

現代では、特別な時がありません。昔なら、野菜や果物にしても、旬のものがありました。しかし、今は野菜や果物がビニール・ハウスで栽培されるので、いつでも同じ野菜や果物を食べることができるようになりました。季節感というものがなくなってきたのです。いつでも用意ができるようになりました。これは食べ物のことだけでなく、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。つまり、この世のペースに巻き込まれて、クリスチャンとしての生き方を失い、この世に流されてしまう傾向があるということです。それが、イエス様が言われた「あなたがたの時はいつでも来ている」ということです。

しかし、イエス様の時は来ていません。イエス様がこの世から憎まれるのは、「世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、この世の人々の罪を指摘したからです。罪を指摘すれば、当然憎まれます。これが、イエス様がユダヤ人指導者たちから憎まれた本当の理由です。それはイエス様がご自分をメシヤとして受け入れるようにと主張したからではなく、あるいは、イエス様が崇高な教えを説いたからでもなく、当時の人々の間にはびこっていた罪や過ちを指摘したからなのです。こういう人はいつの時代でも人々から煙たがれ、憎まれ、迫害されます。

もうすぐ「平成」が終わって「令和」になります。202年ぶりに生前退位が行われ、新しい天皇になるのです。天皇が生きている間に、その地位を譲るというのは考えられないことです。なぜなら、日本国憲法に定められている「皇室典範」の第1章に、皇位の継承は現天皇が崩御(死亡)する時と定められているからです。それ以外に重篤な病気がない限り譲位することは認められていません。そのことで政府はいろいろと議論を重ねましたが、結局、一時的な法律を作って生前退位することを認めました。なぜ、天皇が生前に退位することがそれほど問題なのかというと、明治政府以降、日本の政府は、天皇を神格化「現人神」(あらひとがみ)して、国民をまとめる国家戦略を持っているからです。しかし私たちは、唯一まことの神であるイエス・キリスト以外の存在を神としません。確かに、今の天皇は人格的に立派で、個人的には尊敬し、お慕い申し上げておりますが、しかし、神として敬うことは別です。戦後、天皇は国民の象徴としての天皇とは何かを模索してきました。そしてそれを見事に全うされましたが、それはあくまで象徴としての天皇であって、神としてではありません。私たちは、天皇が神格化されることによってあらゆる批判が封じられ、人権が抑圧され、天皇の名によって侵略戦争が正当化された過去を忘れてはいけません。しかし、そのように主張すれば、当然そこにこの世とのひずみが生じ、妨害が起こってくるのは必死です。

最近、LGTB、性的マイノリティーの方々をどのように受け入れるかが問題になっています。世界的には同性婚が受け入れられるようになりました。何と28の国々で認められています。そこまで認めていなくとも、パートナーシップ法のある国が19もあります。その権利を保証する国が5つあります。その中には日本も、何とイスラエルも含まれているのです。旧約聖書をみると、同性婚について厳しく戒められているにもかかわらず、そのイスラエルでも容認する傾向にあるのです。アメリカではこれが法律で定められていて同性婚を禁止したり認めないと、牧師が訴えられるというケースが数多く起こっています。そのような中で、もし我々が同性婚に反対しようものなら、この社会からたちまち非難されることになるでしょう。

ですから、クリスチャンがこの世から憎まれることがあってもちっとも不思議ではありません。それはあなたが間違っているからでも、あなたが悪い人だからでもなく、その生き方が聖いからなのです。そしてその生き方がこの世に対して常に証をしているので、世は不愉快になって受け入れることができないのです。それで世はクリスチャンを憎むのです。間違っても、この世が自分を憎むのは、自分がこの世と同じことをしないからだとか、もっとこの世に染まれば受け入れられるに違いないと、この世と調子を合わせようとしないでください。それこそ、悪魔の思うつぼですから。

イエス様はこう言われました。「人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。」(ルカ6:26) みんなから良く言われるのはその人がよい人だからである、というのがこの世の常ですが、これは大きな誤りです。それは、当時イエス様がこの世からどう思われていたかを見ればわかります。イエス様はみんなから愛されていたのではなく、逆に憎まれたのです。ですから、みんなから好かれているというほめ言葉が、必ずしも良いわけではありません。

私たちもこの世から好かれるかどうかではなく、この世から憎まれることがあっても、イエス様同様、この世に流されることなく、神の御心に従い、塩味のきいたピリッとした生き方を求めていかなければなりません。

Ⅲ.イエスを誰だと言いますか(10-13)

では、どうしたらいいのでしょうか。第三に、10節から13節までをご覧ください。

「しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

兄弟たちが祭りに上って行った後で、主イエスご自身も、上って行かれました。なぜイエス様は兄弟たちと一緒に上って行かなかったのでしょうか。それは、ここに「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた」とあるように、兄弟たちと一緒に行くことによって目立つのを避けようとしたからです。兄弟たちは、人々の注目を主に向けさせることで、いかにも自分たちがその弟たちであることを誇ろうとしたのかもしれませんが、このような機会を与えないために、主は彼らと一緒に行かなかったのです。5つのパンと2匹の魚の奇跡を行った時も、人々は主を自分たちの王にするために連れて行こうとしましたが、主はそれを知って、ただ一人山に退かれました(6:15)。主はそのような人たちを避けたいと思っていたのです。

主イエスが祭りに上って行かれると、ユダヤ人たちはどのようにイエス様を迎えたでしょうか。11節には、「ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを探していた。」とあります。何のために探していたのかわかりません。しかし、1節を見ると「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」とありますから、殺そうとして探していたのかもしれません。彼らは、当然イエスも敬虔なすべてのユダヤ人同様、祭りのためにエルサレムに上ってくるだろうと考えていたので、その隙を狙っていたのでしょう。

一方、群衆はどうだったかというと、12節をご覧ください。群衆の間では、イエス様に対する評価が真っ二つに分かれました。「群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言いました。イエス様のことを「良い人だ」と言ったのは、自分たちの考えをはっきり持っていた、純粋で素直なユダヤ人たちでした。彼らの中には、主のお働きを一部始終見聞きしていたガリラヤの人たちも含まれていたことでしょう。一方、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言った人たちは、真理について全く考えようともせず、ただユダヤ教の指導者たちを恐れ、その言いなりになっていた肉的な人たちでした。

しかし、このことからわかることは、キリストに対しての受け止め方は、驚くほど多くあるということです。人生いろいろ。キリストに対する受け取る方もいろいろです。

イエス様が生まれた時、年老いたシメオンが幼子イエスを腕に抱いて語ったことを覚えていますか。彼はイエスの母マリヤにこのように言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(ルカ2:34-35)彼の語ったことが、ここに成就したのを見ます。イエス様は、多くの人々が倒れたり立ちあがったりするために定められたのです。それは、多くの人の心の思いがあらわになるためです。

イエス様ご自身、どこに行っても、常に対立を引き起こす原因となりました。それは今もそうです。ある人にとってキリストは「いのち」に至らせる香りですが、ある人にとっては「死」に至らせる香りです(Ⅱコリント2:16)。キリストは、私たちの心の思いをあらわにされます。人々はキリストを好むか、好まないか、のどちらかです。福音が人々の心に入るとき、そこには当然意見の衝突や争いが起こります。それは福音に問題があるからではなく、人々の心にこうしたいろいろな思いがあるからです。太陽が湿地を照らすと毒の成分である毒気を発生しますが、それは太陽が悪いからではなく、地が悪いからです。同じ光が麦畑を肥沃にし、豊かな刈り入れをもたらします。

ですから、キリストを信じ、聞き従い、人々の前に信仰を告白する人が少ないからといって、これが正しくないとか、恥だとかと思わないでください。むしろ、これが真理だからこそこのような反応が起こるのです。大切なことは、そのような中で、あなたはイエスを誰だと言うかです。あなたは、他人の意見や圧力に影響を受けないで、自分の意見を堂々と述べることができますか、ということです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

世に勝利されたイエス様が、あなたとともにおられます。私たちも、信仰のゆえに、世に憎まれることがあるますが、世に勝利されたイエス様に信頼して、他人の意見や圧力に屈することなく、イエス様に従う者とさせていただきましょう。

出エジプト記6章

神の命令に従いファラオのもとに行って神のことばを伝えたモーセでしたが、そこで激しい抵抗に会い、イスラエルの立場は以前よりももっとひどいものになってしまいました。イスラエルの民のリーダーたちからそれを告げられた時、モーセは神に祈って言いました。「主よ。なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。」(5:22)

きょうの箇所には、そのことに対する主の励ましが語られています。

Ⅰ.わたしは主である(1-8)

 

まず、1節から8節までをご覧ください。4節までをお読みします。

「主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。」

 

1節には、「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」とあります。ここで主は、「わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」と言われました。今はまだわからないが、今に分かるようになります。つまり、モーセに欠けていたのは、今しばしの忍耐でした。それまで彼は、もう少し忍耐しなければならなかったのです。なぜなら、「彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出す」からです。いったいどのようにしてそれが起こるのでしょうか。

 

2節以降には、そのことについて語られています。2節には、「わたしは主である。」とあります。これは、3章14節のところで、主が「わたしは、『わたしはある』という者である。」と言われたことと関係があります。それは、他の何にも依存せず、それだけで存在することができる方、自存の神であるという意味です。つまり、すべての存在の根源者であられるということであり、いかなる限界もない全能の神であることを表しています。加えてこの「主」(ヤハウェ)は、神が契約を守る方であり、いつまでも変わることのない方、常に信頼できる方であることを表しています。神はモーセに、ご自身がそのような方であると啓示してくださったのです。

 

それは、アブラハム、イサク、ヤコブに現われてくださった時とは違います。アブラハム、イサクヤコブに現われてくださった時には「全能の神」として現れてくださいました。それは「エル・シャダイ」という御名でした。神がすべての必要を満たす神であるという意味です。しかし今は「主」と言う名前で現れてくださいました。名は体を表わします。イスラエルの民はこの主の御名の意味を体験的に知っていたわけではありませんでしたが、出エジプトの体験を通して、その意味を深く知るようになります。主は、イスラエルの民に、カナンの地を与えると約束されました。その契約に基づいて、彼らをエジプトから解放されるのです。

 

5節には、「今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。」とあります。この「思い起こした」とは、今まで忘れていたイスラエル人との契約を思い出したということではありません。いよいよ行動を起こす時が来たという意味です。

このことは、モーセにとって大きな励ましとなりました。というのは、それまで彼はこの神の偉大さを知らなかったからです。ですから、自分の身に何か困難なことがあるとすぐに、「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。」と嘆いていたのです。しかし、大切なのは「なぜ」ではなく、「だれ」です。イスラエルの神はどのような方であるかということです。イスラエルの神は「主」であるということです。主は契約を守る方であり、いつまでも変わることのない方です。常に信頼できる方であることです。彼は、この偉大な方に目を留めるべきでした。「自分」ではなく、「神」に、神の偉大さに焦点を合わせるべきだったのです。私たちはいかに「自分」が中心となっているでしょうか。自分を中心に見たり、考えたりしています。しかし、それではすぐに落ち込んだり、がっかりすることになってしまいます。主を見なければなりません。主は必ず契約を守られる方であることを心に刻みたいと思います。私たちの信仰の視点が自分から神に向けられるとき、私たちは体験的に神を知るようになるのです。そして、神を体験的に知れば知るほど、そこにどのような問題があっても神に信頼し、神をほめたたえることができるようになるのです。

 

それゆえ、モーセはイスラエルの子らにこう言わなければなりませんでした。6節から8節です。

「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。」 (6-8)

 

モーセがイスラエルの子らに告げなければならなかったことは、次の三つのことでした。第一に、主はイスラエルをエジプトの苦役から救い出し、大いなるさばきによって贖われ

るということです。(6)「大いなるさばき」とは、エジプトに下されようとしていた10の

災いのことを指しています。エジプトの奴隷となっていたイスラエルを救うために、神はそ

の腕を伸ばし、大いなるさばきをもって彼らを贖われるというのです。

 

第二のことは、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(7)ということです。イスラエル人は、主の圧倒的な御業によってエジプトから贖い出され、シナイ山のふもとで、主と契約を交わすことによって、主の民となり、主は彼らの神となられます。「わたしはあなたがたの神である」というのは、何という祝福でしょうか。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Ⅰペテロ2:9)とあります。私たちも異邦人の中から召し出され、神の所有とされた民です。神の民とされたことを感謝しましょう。

 

三つ目のことは、「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。」という約束です。神は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地、すなわち、カナンの地に彼らを導き、その地を彼らに与えると約束されました。なぜなら、それは彼らの父祖たちに与えると誓われた地であるからです。この約束は、後にヨシュアの時代に実現します。

 

これら三つのことは必ず実現します。なぜなら、「わたしは主である。」からです。これら

3つの約束が、この「わたしは主である」という宣言で始まり、「わたしは主である」という宣言で結ばれています。すなわち、これらの約束は必ず実現するということです。なぜなら、「わたしは主である」からです。主は契約を守られる方です。ですから、これは必ず実現することなのです。このように、主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は、何と幸いでしょうか。私たちも現状を見たらとても信じられないようなことでも、主を見て、主が語られたことは必ず実現すると信じて、その実現を待ち望みましょう。

 

Ⅱ.失意に陥る時(9-13)

 

それに対してイスラエルの民はどのように応答したでしょうか。9節をご覧ください。

「モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。」

 

モーセはそのようにイスラエルの民に語りましたが、イスラエルの民は、モーセの言うことを聞くことができませんでした。なぜでしょうか、ここには、「失意と激しい労働のために」とあります。彼らはモーセのことばに一度は希望を持ちましたが裏切られる結果となり、失望落胆したのです。また、激しい労働のために、考える暇さえありませんでした。

 

すると、そんなモーセに主がこう告げられました。「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」これは、失意の中にいるイスラエルの民はそのままにしておいて、あなたは、エジプトの王ファラオに所へ行き、イスラエルの民をエジプトから去らせるように告げよ、ということです。

 

すると、モーセは主の前に訴えました。11節、「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」

これはモーセがシナイ山のふもとで召命を受けた時と同じです(3:1~4:13)。そういう状態に戻ってしまったのです。私たちも信仰が逆戻りすることがあります。せっかく信仰が順調に成長しているかのようでも、このように落ち込み、逆戻りすることがあります。そういう時は決まって主を見ているのではなく、その状況を見ています。また、人間的に自分を見て、無力感にとらわれています。つまり、神様から心が離れているのです。ここでモーセは「私は口べたなのです。」と言っています。だからこそ、神様は彼にアロンを備えてくだったのではないでしょうか。それなのに彼は、アロンが彼の代弁者であることさえも忘れていました。主はそんなモーセとアロンに、イスラエルの子らをエジプトの地から導き出すよう、イスラエルの子らとエジプトの王ファラオについて彼らに命じられました。

 

主の前には多くの障害が立ちはだかっていました。民は、救いようもないほど落胆し、不信仰に陥っていましたし、モーセとアロンは、民を説得することに失敗し、全く自身を失っていました。そして、エジプトの王ファラオは、イスラエルに対して以前にも増して敵意を抱くようになっていました。

しかし、神はブルドーザーのようにあらゆる障害物を取り除き、目的を達成するために前進されます。私たちが信じている神は、すべてを可能にされるお方です。自分が置かれている環境や直面している問題から目を離し、この全能の神を見上げましょう。

 

Ⅲ.モーセの系図(14-30)

 

「彼らの一族のかしらたちは次のとおりである。イスラエルの長子ルベンの子はハノク、パル、ヘツロン、カルミで、これらがルベン族である。シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、およびカナンの女から生まれたシャウルで、これらがシメオン族である。家系にしたがって記すと、レビの子の名は次のとおり。ゲルション、ケハテ、メラリ。レビが生きた年月は百三十七年であった。ゲルションの子は、氏族ごとに言うと、リブニとシムイである。ケハテの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハテが生きた年月は百三十三年であった。メラリの子はマフリとムシである。これらが、彼らの家系によるレビ人の諸氏族である。アムラムは自分の叔母ヨケベデを妻にした。彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムが生きた年月は百三十七年であった。イツハルの子はコラ、ネフェグ、ジクリである。ウジエルの子はミシャエル、エルツァファン、シテリである。アロンは、アミナダブの娘でナフションの妹であるエリシェバを妻にし、彼女はアロンにナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを産んだ。コラの子はアシル、エルカナ、アビアサフで、これらがコラ人の諸氏族である。アロンの子エルアザルは、プティエルの娘の一人を妻とし、彼女はピネハスを産んだ。これらがレビ人の諸氏族の、一族のかしらたちである。このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。」

 

ここには、突然モーセの系図が出てきます。なぜ系図が出てくるのでしょうか。それは、26節と27節に導くためです。「このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。」つまり、このモーセとアロンがどこから出た者たちなのかを紹介するために、ここに系図を挿入しているのです。ですから、この系図は全てを記していません。ヤコブの12人の息子たちの記述も、ルベン、シメオン、レビまでで終わっています。それは、モーセとアロンがイスラエルの系図のどこに位置しているのを示せば十分だったからです。そして、モーセとアロンはヤコブの息子のうちレビから始まっています。そのレビには三人の息子がいました。ゲルション、ケハテ、メラリです。そして、その中のケハテ族の中からモーセとアロンは出ました。

 

ということは、どういうことかというと、彼らはアブラハム契約の中から出てきたということです。アブラハム契約の中からというのは、神の啓示を受け取った民の中からということです。それと全く関係ないところから出てくることはありません。それはメシヤの誕生にしても同じです。メシヤは旧約聖書の預言と全く関係のないところから出て来たのではなく、旧約聖書に預言されてあるとおり、アブラハムの子孫として生まれ、その契約を成就する形として来られました。つまり、こうした系図は過去と現在を結ぶ連結器のような役割を果たしているのです。どんなにすばらしい聖句でも、歴史的な流れなり、聖書全体のテキストを無視して取り出されたものは、本来の意図からはほど遠いものとなります。神様は歴史を通してご自身を啓示されました。ですから私たちは、こうした歴史的文脈をしっかりと押さえながら聖書のことばを読んでいなかければなりません。

 

28節から30節までをご覧ください。「主がエジプトの地でモーセに語られたときに、主はモーセに告げられた。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをみな、エジプトの王ファラオに告げよ。」しかし、モーセは主の前で言った。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。」

 

この箇所は、モーセとアロンの系図が挿入される前の文脈に戻っています。すなわち、12節に戻っています。モーセは主のことばをイスラエルの民に告げましたが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができませんでした。それでモーセは意気消沈し、かつてホレブの山で召命を受けた当時の否定的な状態に戻ってしまったのです。つまり、モーセが期待していたことと現実との間に大きなギャップがありました。それが、モーセが信仰の危機に陥った最大の要因でした。何が問題だったのでしょうか。モーセが期待していたことと神の計画には大きな隔たりがあったということです。私たちも同じようなことを経験することがあります。自分が祈っているように事が進まないと、神のみこころが分からなくなってしまい、すぐに不平や不満を抱くようになってしまうことがあります。しかし、神の思いは、天が地よりも高いように高いのです。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

大切なことは、このことを認め、すべてを神にゆだねることです。自分自身に神のみこころを合わせるのではなく、神のみこころに自分自身を合わせ、神の計画に従った信仰生活を送れるように、祈りましょう。

士師記21章

士師記の最後の学びとなりました。きょうは21章からを学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.愚かな誓い(1-7)

 

「イスラエルの人々はミツパで、「私たちはだれも、娘をベニヤミンに妻として与えない」と誓っていた。民はベテルに来て、そこで夕方まで神の前に座り、声をあげて激しく泣いた。彼らは言った。「イスラエルの神、主よ。なぜ、イスラエルにこのようなことが起こって、今日イスラエルから一つの部族が欠けるようになったのですか。」翌日になって、民は朝早く、そこに一つの祭壇を築いて、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。イスラエルの子らは、「イスラエルの全部族のうち、だれが、集団の一員として主のもとに上って来なかったのか」と言った。これは彼らが、ミツパの主のもとに上って来なかった者について、「その者は必ず殺されなければならない」と堅く誓いを立てていたからである。イスラエルの子らは、その同胞ベニヤミンのことで悔やんで言った。「今日、イスラエルから一つの部族が切り捨てられた。あの残った者たちに妻を迎えるには、どうすればよいだろうか。私たちは主によって、自分たちの娘を彼らに妻として与えないと誓ってしまったのだ。」

 

イスラエルがエジプトの地から上って来た日以来、見たことも、聞いたこともないような事件が起こりました。ベニヤミン領のギブアの町に宿泊していたレビ人の側目が、ギブアのよこしまな者たちに犯され、殺されてしまったのです。彼女の肢体を12の部分に切り分け、それをイスラエル全土に送ると、イスラエルの子らは、ミツパの主のもとに集まり、ベニヤミン族と戦うことを決めました。初めは、ギブアにいるよこしまな者たちを引き渡すようにというだけの要求でしたが、ベニヤミンがそれを拒絶したので、イスラエル人40万の兵士とベニヤミン族2万6千人の兵士との間に戦いが勃発しました。

主がイスラエルの前でベニヤミンを討たれたので、イスラエルの子らは、ベニヤミンの兵士2万5千人を討ち、無傷のままだった町も家畜も、すべて剣の刃で討ち、また見つかったすべての町に火を放ちました。

 

1節から4節までをご覧ください。このベニヤミンとの戦いの前に、イスラエルの人々はミツパで、一つの誓いを立てていました。それは、「私たちはだれも、娘をベニヤミンに妻として与えない。」というものです。イスラエル人はベニヤミン族との戦いには勝利しましたが、このことで、ベニヤミン族が消滅しかねない現実に悲しくなり、ベテルに来て、そこで神の前に座り、声をあげて激しく泣きました。ベニヤミン族は、女性も子どもも殺されてしまい、残っていたのは男子600人だけでした。しかし、その600人に自分たちの娘たちを妻として与えることはできません。そう誓っていたからです。

 

これはあのエフタの時の過ちと同じです。エフタは、アンモン人との戦いにおいて、「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」(士師11:30-31)と誓いを立てました。その誓いのとおりに、エフタがアンモン人を打ち破り家に帰ると、自分の家から出て来たのは、なんと自分のひとり娘でした。それで彼は、その誓った誓願のとおりに彼女に行いました。同じです。あの時、彼はなぜそのような誓願を立ててしまったのでしょうか。

おそらく、自分が家に帰ったとき、自分の家の戸口から迎えに出てくるのは自分のしもべたちの内のだれかだと思ったのでしょう。まさか娘が出てくるとは思わなかったのです。それに、アンモン人との戦いは激しさを増し、何としても勝利を得たいという気持ちが、性急な誓いという形となって表れたのでしょう。

 

ここでも同じです。ベニヤミン族との激しい戦いによって、イスラエル軍は二度の敗北を喫していました。そのような中で何としても勝利したいという思いが、こうした誓いとなって表れたのです。けれども、こうした神の前での誓いは、一旦誓ったら取り消すことができませんでした。こうした性急な誓いは後悔をもたらします。神へ誓いは、神に何かをしていただくためではなく、すでに受けている恵みに対する応答としてなされるべきですが、エフタにしても、この時のイスラエルにしても、自分たちの中にある不安が、こうした誓いとなって表れたのです。

 

このように軽々しく誓うことが私たちにもあります。自分の力ではどうすることもできないと思うような困難に直面したとき、「神様助けてください。もし神様がこの状況を打開してくださるのなら、私の・・・をささげます」とか、「自分の娘たちを嫁がせません」というようなことを言ってしまうことがあるのです。イエス様は「誓ってはいけません。」と言われました。誓ったのなら、それを最後まで果たさなければなりません。果たすことができないのに誓うということは、神との契約を破ることであり、神の呪いを招くことになります。イスラエルのこうした誓いは、結局、彼らに後悔をもたらすことになってしまったのです。

 

Ⅱ.ヤベシュ・ギルアデの娘たち(8-15)

 

それで彼らはどうしたでしょうか。8-15節までをご覧ください。

「そこで、彼らは「イスラエルの部族のうちで、どの部族がミツパに、主のもとに上って来なかったのか」と言った。見ると、ヤベシュ・ギルアデから陣営に来て、集団に加わっている者は一人もいなかった。民が点呼したところ、ヤベシュ・ギルアデの住民が一人もそこにいなかった。会衆は、一万二千人の勇士をそこに送って命じた。「行って、ヤベシュ・ギルアデの住民を剣の刃で討て。女も子どもも。これは、あなたがたが行うべきことである。すべての男、そして男と寝たことのある女は、すべて聖絶しなければならない。」こうして、彼らはヤベシュ・ギルアデの住民の中から、男と寝たことがなく、男を知らない若い処女四百人を見つけ出した。彼らは、この女たちをカナンの地にあるシロの陣営に連れて来た。そこで全会衆は、リンモンの岩にいるベニヤミン族に人を遣わして、彼らに和解を呼びかけた。そのとき、ベニヤミンが戻って来たので、ヤベシュ・ギルアデの女のうちから生かしておいた女たちを彼らに与えたが、彼らには足りなかった。民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。」

 

そこで、イスラエルの子らは、イスラエルの全部族のうち、だれが、集団の一員として主のもとに上って来なかったのかを尋ねます。というのは、彼らは、もう一つの誓いを立てていたからです。それは、ミツパの主のもとに上って来なかったものについて、その者は必ず殺されなければならないというものでした。それで彼らは、ベニヤミンの残りの者たちに妻を迎えるために、その部族の者たちの中から妻として彼らに与えようと考えました。

 

すると「ヤベシュ・ギルアデ」(ヨルダン川の東岸の町)の者が参戦していなかっことがわかりました。それで彼らは、1万2千人の勇士をそこに送り、その町の住民を剣の刃で聖絶し、その中から男と寝たことがなく、男を知らない若い処女400人を見つけ出し、シロの陣営に連れて帰り、ベニヤミン族に与えました。しかし、ベニヤミンの残りの者は600人でした。連れて来られた娘たちは400人です。200人足りなかったのです。彼らは、自分たちの過ちを何とか埋めようと考えましたが、そうした人間的な方策で埋められるものではないことに気付きませんでした。

 

Ⅲ.シロの娘たち(16-25)

 

それで、イスラエルはどうしたでしょうか。最後に16節から25節までをご覧ください。

「会衆の長老たちは言った。「あの残った者たちに妻を迎えるには、どうすればよいか。ベニヤミンのうちから女が根絶やしにされたのだ。」また言った。「ベニヤミンの逃れた者たちに、跡継ぎがいなければならない。イスラエルから部族の一つが消し去られてはならない。しかし、自分たちの娘を彼らに妻として与えることはできない。イスラエルの子らは『ベニヤミンに妻を与える者はのろわれる』と誓っているからだ。」そこで、彼らは言った。「そうだ。毎年、シロで主の祭りがある。」──この町はベテルの北にあって、ベテルからシェケムに上る大路の日の昇る方、レボナの南にある──彼らはベニヤミン族に命じた。「行って、ぶどう畑で待ち伏せして、見ていなさい。もしシロの娘たちが輪になって踊りに出て来たら、あなたがたはぶどう畑から出て、シロの娘たちの中から、それぞれ自分のために妻を捕らえ、ベニヤミンの地に行きなさい。もし、女たちの父か兄弟が私たちに苦情を言いに来たら、私たちはこう言います。『私たちゆえに、彼らをあわれんでやってください。戦争のときに、私たちは彼ら一人ひとりに妻を取らせなかったし、あなたがたも娘を彼らに与えませんでした。もし与えていたなら、今ごろ、あなたがたは責めある者とされていたでしょう』と。」ベニヤミン族はそのようにした。彼らは女たちを自分たちの数にしたがって連れて来た。彼女たちは、彼らが略奪した踊り手たちであった。それから彼らは出かけて、自分たちの相続地に帰り、町々を再建して、そこに住んだ。イスラエルの子らは、そのとき、そこからそれぞれ自分の部族と氏族のもとに戻り、そこからそれぞれ自分の相続地に出て行った。そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

 

会衆の長老たちは互いに話し合います。ベニヤミンの残りの者たちに妻を迎えるには、どうすれば良いか。このままでは、ベニヤミン族が、イスラエルから消し去られてしまうことになる。でも、自分たちの娘を彼に与えることはできない。この戦いに上って来なかったヤベシュ・ギルアデから連れて来た若い女たちだけでは足りない。

そこで彼らは、毎年、シロで行われる主の祭りに出てくるシロの娘たちの中から、彼らに妻として与えることにしました。ベニヤミン族の男たちがぶどう畑で待ち伏せして、シロの娘たちが輪になって踊りに出て来たら、彼女たちを襲い、ベニヤミンの地に連れて行くようにと命じたのです。この祭りは、おそらく過越しの祭りでしょう。モーセの姉ミリヤムは、出エジプトの際に踊りましたが、それを覚えて踊っていたものと思われます。このように、彼らは娘たちを略奪して、自らの部族の再建に取りかかったのです。

 

果たしてこれが、この問題の解決にとって最善だったのでしょうか。彼らの性急な誓いが間違っていたことを認めて、罪過のためのいけにえをささげ、神に赦しを乞うことが必要だったのではないでしょう。しかし、彼らは自分たちの誤りを認めて、神の前に悔い改めるよりも、自分たちの手で解決しようと躍起になっていました。すべてが後手に回っています。いったい何が問題だったのでしょうか。

「イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

これがすべての問題の原因です。イスラエルには王がいなかったので、それぞれが自分たちの目に良いと見えることを行っていました。神様の目に良いことではなく、自分たちの目に良いと思われることを行っていたのです。

 

これは何もイスラエルに限ったことではありません。私たちもイエス・キリストを王としていないと、このようなことが起こってきます。そして、すべてが後手に回ってしまうことになります。私たちが求めなければならないのはこうしたことではなく、神の目に正しいことは何かということです。神の目に正しいことは何か、何が良いことで神に受け入れられるのかということです。そのためには、いつも私たちの心にイエス・キリストを王として迎え、この方の御心に従って生きることです。この士師記全体を通して教えられることは、主をおのれの喜びとせよ、ということです。

「主に信頼し善を行え。地に住み誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:3-5)

主をおのれの喜びとすること、主を第一とし、主に従って生きることが、暗黒の中にあっても光の中をまっすぐに生きる秘訣なのです。

現代はまさに暗黒です。だからこそ、自分の思いや考えではなく、主を王として、おのれの喜びとすることが求められているのではないでしょうか。

出エジプト記5章

きょうは出エジプト記5章から学びたいと思います。モーセは、ホレブの山でアロンに会うと、エジプトにいるイスラエル人のところにやって来ました。そして、アロンが、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の前でしるしを行うと、民は信じました。そこで、モーセとアロンは、主に命じられたとおりエジプトの王ファラオのところに行き、イスラエルをエジプトから出て行かせるように言います。

1.もっと不利な状況に(1-9)

まず、1節から9節までをご覧ください。                                                                                                            「その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。」

いよいよモーセとアロンが、ファラオのところに行きます。彼らはファラオのところに行き、「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」と言いました。これはファラオに対する最低限の要求です。荒野で祭りを行えるように行かせてくれなければ、イスラエルをエジプトから去らせることは絶対にしません。神がイスラエルの民を救い出す理由は、礼拝する民を作るためでした。「祭り」とは「礼拝」のことです。「礼拝」は「祭り」でもあります。私たちの礼拝は、祭りとなっているでしょうか。

それに対してパロは何と言ったでしょうか。「主とはいったい何者か」、「私は主を知らない」と言いました。そして、イスラエルを行かせないと言いました。パロは生けるまことの神に対しても恐れを持っていませんでした。自分がどの神よりも偉大で、力があると思っていたのです。だから、「主とは何者か」とか、「なぜ自分がその神の命令に従わないのか」という傲慢な態度を取ったのです。それは、神を信じようしない現代人の姿ではないでしょうか。詩篇10篇4節にはこうあります。「 悪しき者は高慢を顔に表し神を求めません。「神はいない。」これが彼らの思いのすべてです。」神の存在と、その権威を認めない心、これが現代人の姿です。

するとモーセとアロンは言いました。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」

これは不思議な内容です。イスラエルを行かせなければ主がエジプトを打たれるのではなく、イスラエルを打たれるというのですから。それは、イスラエルが打たれれば、ファラオの奴隷であり、財産が失われてしまうという警告でした。

それに対するファラオの反応は、「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」(5)というものでした。ファラオは、イスラエルの民が仕事を止めているという報告を受けていたようです。でも、ファラオは彼らの言うことに全く聞く耳を立てませんでした。むしろ、苦役に戻るようにと命じました。そればかりではありません。6~9節を見ると、ファラオは、イスラエル人の労役を重くしたことがわかります。すなわち、イスラエルの民の監督たちとかしらたちに命じて、れんがを作るための藁を自分で集めに行くようにさせ、その量はこれまでと同じにしたのです。もっと過酷な労働を課したということです。それまではエジプト人が集めた藁を使ってれんがを作っていましたが、その藁も自分で集め、作る量はこれまでと同じというのですから。ファラオは、彼らに重労働を課せば、偽りの言葉に関心を持たなくなるだろうと思ったのでしょう。 

ここには、神の国と神の敵が対決する時に、神の民が苦しむという原則が見られます。主の働きが始まるとき、その働きとは反対の動きが起こるのです。神の働きに対して、敵である悪魔が反対するからです。それは主の勝利が決まるまで続きます。それによって、主の民が苦しむことがあるのです。

このようなことが、私たちクリスチャンにも起こります。私たちは、暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移された(コロサイ1:13)ので、神の敵から苦しめられることがあるのです。自分の問題が解決するのを期待して信仰を持つ人が多くいます。しかし、信じた瞬間に、光と闇との戦いの中に入れられるのでなかなか期待したような状況にならないばかりか、かえって苦しい状況になるため、多くの人たちが失望し、信仰から離れて行きます。クリスチャンの経験するジレンマは、神様の約束は与えられていてもそれが成就しない時に感じるものです。戦いはあります。でも、信じ続けましょう。神の約束は必ず実現するからです。

2.神の民の対応(10-21)

それでイスラエルの民はどのような態度を取ったでしょうか。10節から21節までをご覧ください。「そこで、この民の監督たちとかしらたちは出て行って、民に告げた。「ファラオはこう言われる。『もうおまえたちに藁は与えない。おまえたちはどこへでも行って、見つけられるところから自分で藁を取って来い。労役は少しも減らすことはしない。』」そこで民はエジプト全土に散って、藁の代わりに刈り株を集めた。監督たちは彼らをせき立てた。「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」ファラオの監督たちがこの民の上に立てた、イスラエルの子らのかしらたちは、打ちたたかれてこう言われた。「なぜ、おまえたちは決められた量のれんがを、昨日も今日も、今までどおりに仕上げないのか。」そこで、イスラエルの子らのかしらたちは、ファラオのところに行って、叫んだ。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。彼らは、ファラオのところから出て来たとき、迎えに来ていたモーセとアロンに会った。彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」」

「民を使う監督と人夫がしらたち」とは、エジプト人の監督たちのことです。彼らは出て言き、ファラオが言ったことを、民に伝えました。するとイスラエルの子ら(イスラエルの民のかしらたち)は、ファラオに訴えました。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」彼らは、れんがの生産量が落ちているのは、エジプト人の監督たちの責任であると訴えたのです。

それに対するファラオの回答は、予想外のものでした。17,18節、「ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」それで、イスラエルの子らは気付きました。このような命令を出していたのはエジプト人の監督や人夫がしらたちではなく、ファラオ自身によるものであったことを・・。彼らは、「これは悪いことになった」と思いました。

すると、彼らはどうしたでしょうか。20節と21節をご覧ください。彼らがファラオのところから出て来たとき、彼らを出迎えるために来ていたモーセとアロンにこう言いました。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」つまり、パロがこのような過酷な労働をイスラエル人に強いるのは、モーセとアロンが余計なことを言ってくれたためだと、彼らを責めたのです。モーセとアロンが「解放の約束」を語り始めたばかりに、状況はますます悪くなってしまった。これなら、以前のままの方が良かった、というのです。

ここにイスラエルの民のかしらたちと、モーセやアロンとの考え方に根本的な違いがあったことがわかります。それは、彼らを真に幸福にするものは何であるかという理解の違いです。民のかしらたちは、できるだけ苦しまないことが幸せであると考えていたのに対して、モーセとアロンは、この状態から解放されない限り真の幸福はない、と考えていました。そのことによってイスラエルの民がもっと苛酷な労働が強いられることになりましたが、そのことなしに真の救いはないと考えていたのです。

一般的に人は、今が楽しければよれで良いと考えます。しかし、一時的に苦しむことがあっても根本的な原因を解決しないかぎり、真の救いも幸福もありません。それは、病気の治療と同じです。おできができたとき、いつでも軟膏をはっておくことが最善の治療ではありません。時には痛くても手術をして、悪いうみを出し尽くしてしまわなければなりません。そのような根本的な解決のためには一時的に痛みが伴うことがあります。そして、そのような痛みをもたらす存在を、時として人は恨み、歓迎しない傾向にあるのです。モーセとアロンもそうでした。彼らは根本的な解決を願ってそれを実行に移そうとした瞬間、そうした同胞たちの誤解と、激しい反対に直面したのです。

3.モーセの祈り(22-23)

そこでモーセはどうしたでしょうか。22節と23節です。「それでモーセは主のもとに戻り、そして言った。「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」」

これはどういうことでしょうか。「主のもとに戻り」というのはシナイ山に戻りということではなく、祈りの中において主に戻ったということです。彼は自分の窮状を主に訴えました。このモーセの祈りには、彼の落胆ぶりが見られます。

これは、私たちクリスチャンもよく味わうものです。なぜこのような苦痛を味わうことになるのでしょうか。その理由は、神がどのように働かれるのを人間の側で決めてしまうからです。イスラエル人たちの人夫かしらたちが落ち込んだのは、神を自分の思い通りに動かそうとしたからです。むしろ彼らは、新たな苦難の中で神がどのように働かれるのを待ち望むべきでした。私たちもまた、神を自分の思い通りに動かそうとしていることはないでしょうか。神はご自身の計画に従って働いておられます。私たちはそれを待ち望まなければならないのです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

神のご計画に従って召してくださった私たちのために、神が働いて最善を成してくださると信じましょう。それが私たちの思いと遠く離れたものであっても、神は完全な計画を持っておられますから、すべてを神にゆだねて、その計画が成されることを待ち望みたいと思います。

ヨハネの福音書6章60~71節「あなたがたも離れて行きたいのですか」

ヨハネの福音書6章から学んでおります。きょうは、60節から71節までの箇所から「あなたがたも離れて行きたいのですか」というタイトルでお話しします。ドキッとするタイトルですね。これは

12人の弟子たちに言われたことばです。イエス様から離れて行くということがあるのでしょうか。あるんです。実際にそういうことがありました。ですから、イエス様は12人の弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われたのです。これは何も当時の弟子たちだけのことではありません。初代教会以来いつの時代でも、ずっと起こって来た現象です。いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に御言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.離れて行った弟子たち(60-63)

 

まず60節から65節までをご覧ください。

「これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」

 

「これを聞いて」とは、主イエスがその前で語られたことを聞いて、ということです。主は、どんなことを語られたのでしょうか。53節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」もちろんイエス様は比喩的に語られたわけですが、このことばを聞いた時、弟子たちのうちの多くの者が、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろう。」と言って、イエス様の許を去って行きました。このように言ったのは一般の群衆たちではありません。「弟子たち」と呼ばれていた人々です。この「弟子たち」とは、イエス様の12弟子のことではありません。イエス様には、12弟子の外側に「70人の弟子たち」と呼ばれる人たちがいました。また、さらにその外側に、さらに多くのイエス様に付き従う人たちがいました。そういう人たちもキリストの弟子と呼ばれていたのです。この時イエス様のもとを去って行ったのは、12弟子以外の者たちです。彼らはイエス様が語られたことを理解することができませんでした。

 

それは何もこれらの弟子たちだけのことではありません。今日でも、イエス様が語られたことばを理解することができず、イエス様から離れ去ってしまう人がいます。耳障りのよい話をしている間は、喜んで聞いていても、一旦、罪とか、裁きとかについて話し始めると、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と言って、離れ去ってしまいます。一般的に当たり障りのない話をしているうちはいいですが、あなたは罪人ですとか、そのあなたの罪のためにキリストは十字架にかかって死んでくださいましたと言うと、そっぽを向いてしまうのです。多くの人は楽しいことを求めます。それ自体は何も問題ではありませんが、私たちが本当に幸福になるためには、ただ楽しいだけでなく、自分の罪を認め、その罪を悔い改めて、神の赦しをいただかなければなりません。それを嫌がるのです。あなたはどうでしょうか。

 

それに対して、イエス様はこう言われました。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。」

「わたしの話」とは、この前のところでイエス様が語られた話のことです。イエス様は、ご自分の肉を食べ、血を飲まなければ、いのちはないと言われました。その話が彼らをつまずかせるというのであれば、キリストが十字架で死なれた後、三日目によみがえり、天に昇って行かれるのを見たなら、いったいどうなるというのでしょう。もっとつまずくことになるのではないでしょうか。

 

なぜなら、いのちを与えるのは御霊だからです。肉は何の益ももたらしません。イエス様が彼らに話されたのは霊であり、またいのちです。これは霊的なことなのです。いくら人の肉を食べ、血を飲んだからと言っても、そんなものは人にいのちを与えることはできません。人にいのちを与えるのは、神の御霊です。ですから、イエス様が肉を食べるとか、血を飲むと言われたのは、比喩的な言い方で、霊的なことを表していましたが、彼らはそのことが理解できませんでした。

 

私たちもそのようなことがあるのではないでしょうか。イエス様が語られたことを理解できず、つまずいてしまうということ・・・が。イエス様が霊的なことを語っておられるのにそれを間違って理解して、そんな話など聞いていられないと、イエス様が語られた言葉を受け入れられないということがあるのではないでしょうか。

 

Ⅱ.信じない者たち(64-65)

 

次に、64節と65節をご覧ください。

「けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」」

 

「けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」これはどういうことかというと、確かに彼らは主のもとに来て、主の弟子であると自称していますが、本当は、イエスをメシヤとして信じていないということです。主を本当に信じていないので、主が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、いのちはありません」と言われた言葉につまずいたのです。つまり、彼らがつぶやいた本当の理由は、彼らに信仰がなかったからです。表面上は信じているようでも、実際はそうではなかったのです。

 

ドキッとしますね。信じているようで、実際はそうではないということがあるというのは。自分が本当に信じているかどうかをどうやって知ることができるでしょうか。みんなイエス様を信じたので洗礼を受けたんじゃないのですか?確かに、イエス様を信じたので洗礼を受けました。しかし、どのように信じたのかが問題です。イエス様がただ私たちのすばらしい模範者であるとか、その教えに感動して信じたということがあります。しかし、それは救いに至る信仰ではありません。私たちが救われて神の御霊によって新しく生まれるためには、私たちの罪のためにイエス様が十字架の上で死んでくださり、私たちの罪を贖ってくださったと信じなければなりません。そうでないと、永遠のいのちは与えられないのです。それが新しく生まれるということです。その時、神のいのち、聖霊が私たちの心に住まわれ、支配するようになります。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きるのです。私がどう思うかは関係ありません。キリストが何を言っておられるか、その御心は何かということです。イエス・キリストを救い主として信じて新しく生まれ変わった人はキリストがその心を支配するようになるので、キリストの言葉をもっと知りたいと思うようになるはずです。また、心から従いたいと思うようになります。それが、キリストの十字架の贖いを信じ、罪赦された人に見られる特徴です。私たちが救われているかどうかは、私たちがバプテスマ(洗礼)を受けているかとか、どれだけ教会に来ているかといったことと関係ないのです。この十字架のイエス・キリストを信じなければなりません。そうでないと、いのちはありません。

 

彼らはイエス様を信じていると思っていましたが、本当の意味で信じていませんでした。だから、イエス様の話を聞いたときつぶやいたのです。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と。それは、イエス様の話に問題があったからではなく、彼らが理解できなかったからです。もっと言うなら、彼らが本当の意味で救われていなかったからです。それを求めようともしませんでした。理解できなければ、「主よ、それはどういう意味ですか。あなたは真理のことばを持っておられます。私は何とか理解したいと願っていますので、どうか悟らせてください。あなたの真理を教えてください。」と祈ることができたはずです。それなのに、「だれがこんな話を聞いていられるか」と言うのは、初めから信仰がなかったからです。それが根本的な原因なのです。

 

しかも、その後を見ると、「信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。」とあります。どういうことでしょうか。これは、主が、すべての人の心の思いを知っておられたということです。つまり、イエス様が神であられるということを示しいます。イエス様は、私たちのように、群衆や見せかけの人気に惑わされることは決してありませんでした。「初めから」というのは、恐らく、「主の公生涯の初めから」という意味でしょう。つまり、多くの不信仰な人々が、自分は主の弟子であると最初に言った時からということです。もちろん、イエス様は神として、世の初めからすべてのことを知っておられました。しかし、ここでは必ずしもそういう意味で言われたのではないと思います。

 

それにしても、イエス様は多くの人々が信じないし、信じようともしていなかったのに、すべての人を例外なく愛し、忍耐をもって神の国の福音を教えられたということには教えられます。もしこの人は信じないということを最初から知っていたのなら、「どうせ話しても無駄だから」とか、「もっと必要としている人のために時間を使おう」と考えてもおかしくないのに、そうでない人のためにも、同じように仕えられたのですから、本当に忍耐と謙遜がありました。私もそういう牧師になりたいと願わされます。

 

そして、もっとすごいのは、その次にあることです。ここには何と「ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである」とあります。これは、イスカリオテのユダのことを指しています。イエス様は、彼が裏切ろうとしていることを知っていながら、ご自分の近くにいることを許しておられたのです。いや、ご自分の近くにいるどころか、ご自分の弟子たちの中でもその中核を成していた12弟子であることを許しておられました。これは、考えられないことです。自分の最も近くにいる人たちは、自分の心を許している人たちです。だからこそ、本当に信用できない人を置くことはしないはずです。それなのに主は、その人を最初から知っていながらも、自分の最も近くにいることを許されたのです。

 

このことから私たちにどんなことが言えるでしょうか。もしイエス様が、ユダがご自分の近くにいることを許されたのではあれば、私たちは私たちの家族や兄弟姉妹たちに対して、どれほど忍耐と寛容を示さなければならないかということです。私たちは、「もうここまで!」と自分で限界を定めてしまうことがよくあります。しかし、主がそのことでどれほどの苦しみと悲しみに耐えられたのかを思う時、私たちに耐えられないことはありません。「堪忍袋の緒が切れそうになる」という言葉がありますが、主の苦しみを思う時、私たちはまだまだ耐え抜かなければならないことを教えられるのではないでしょうか。

 

65節をご覧ください。「そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」」

これは、44節のところでイエス様が言われたことの繰り返しです。これは、この前の節でイエス様が言われた言葉の結びでもあります。「あなたがたの中には信じない人がいます。ですから、わたしはあなたがたに言ったのです。「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と」。すなわち、彼らが信じないのは、父なる神が彼らに恵みをお与えになっていないからです。彼らを御許に引き寄せておられないからなのです。

 

ここでもう一度、私たちが信仰を持つことができるのは、天の父なる神様が引き寄せてくださったからであることがわかります。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選びあなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15:16)とあるとおりです。

ここに、私たちの信仰と救いの確かさがあります。私たちは自分で好きで信じたかのように思っているかもしれませんが、実はそうではなく、神が私たちを救いに選んでくださったのです。自分で好きで信じたのであれば、嫌になったら止めることもできるわけで、私たちに感情がある以上、そうした不安はいつもつきまといます。けれども、そうした中にあってどんなことがあっても、この方に信頼することができるのは私たちの中にそれだけの確信があるからではなく、神がそのように選んでくださったからです。神様はその確かさを次のように言って、私たちに約束しておられます。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません」(ヨハネ10:28-29)

なんと力強い約束でしょう。私たちは永遠に、決して滅びることはありません。私たちは神に愛されている者であり、神の御手の中にあるからです。だれも私たちを、父なる神の手から奪い去ることはできないのです。

 

今日でも十字架の言葉は、人々から歓迎されません。この歴史上最も偉大な人であったキリストの生き方を学び隣人愛を実践しなさいとか、この世の貧しい者たち、小さな者たちを大切にするようにといった教えは、何の抵抗もなく受け入れられるでしょう。でも、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったキリストを受け入れることはなかなかできません。この霊的真理を悟るためには、だれでも神の御霊に従順でなければなりません。霊的真理に目が開かれるように、御霊の神に助けを求めなければならないのです。そうすれば、父なる神は私たちをキリストのもとへて導いてくださいます。

 

Ⅲ.ペテロの信仰告白(66-71)

 

これに対して、12弟子たちはどのように応答したでしょうか。第三に、66節から71までをご覧ください。

「こういうわけで、弟子たちの