メッセージ

エレミヤ46章1~28節「エジプトについての預言」

 2025年05月16日(金)

エレミヤ書45章1~5節「自分のために大きなことを求めるな」

 2025年05月02日(金)

エレミヤ44章15~30節「エレミヤの最後の預言」

 2025年04月25日(金)

エズラ記6章

 2025年04月16日(水)

エレミヤ44章1~14節「それなのに、なぜ」

 2025年04月02日(水)

エレミヤ43章1~13節「エジプトではなく、神に」

 2025年03月15日(土)

エレミヤ42章1~22節「行くべきか、とどまるべきか」

 2025年02月28日(金)

エレミヤ41章1~18節「みこころを知り、みこころに従う」

 2025年02月15日(土)

エレミヤ40章1~16節「そうすれば、幸せになる」

 2025年02月01日(土)

エレミヤ46章1~28節「エジプトについての預言」

今日は、エレミヤ書46章全体から学びます。44章までにおいて、エレミヤ書におけるユダの民とエルサレムに対する預言は終わりました。そして前回の45章では、エレミヤの書記をしていたバラクに対する励ましのメッセージが語られました。ここからは、諸国に民に対する預言が語られます。エレミヤは預言者としての召命を受けたとき、ユダの民に対する預言だけでなく、国々への預言者としても召されていました。1章5節にはこうあります。 
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
  それが、ここから終わりまで続くわけです。その最初がエジプトに対する預言です。そしてそれはペリシテ、モアブ、アンモン、エドムと続き、最後にバビロンに対して語られます。それは人の目には偉大で力強く見えるこうした国々も、実は、主なる神様の主権と支配によって成り立っていることを示すためです。私たちはとかく、信仰や教会に関すること以外においては、神様はあまり関わっていないかのように思いますが、そうではなく、この世のすべての領域において神様は主権をもって働いておられるのです。その神様の働きをご一緒に見ていきたいと思います。

 Ⅰ.何ということか、この有様は(1-12)

まず、エジプトについての預言です。1~12節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「46:1  諸国の民について、預言者エレミヤにあった【主】のことば。46:2 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢について。ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカドネツァルがこれを打ち破った。」

ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とは、前回の45章にもありましたが、B.C.605年のことです。その年にバビロンの王ネブカドネツァルがエジプトの王ファラオの軍勢と戦ってこれを打ち破りました。これはユーフラテス河畔のカルケミシュという町で起こった戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれています。バビロンはアッシリアと戦ってその首都ニネベを打ち破ると、その後アッシリアの残党がこのカルケミシュに移ったので、それを追ってカルケミシュに向かいました。しかし、そのバビロンの台頭を恐れたエジプトがバビロンに戦いを挑んだのです。それがこのカルケミシュでの戦いです。結果はエジプトの惨敗でした。その時の様子が3節以降に描かれています。

「46:3 「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。46:4 騎兵たちよ、馬に鞍をつけて乗れ。かぶとを着けて配置につけ。槍を磨き、よろいをまとえ。46:5 何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。──【主】のことば──46:6 足の速い者も逃げられない。勇士たちも逃れられない。北の方、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れる。46:7 ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻くこの者はだれか。46:8 エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』46:9 馬よ、進め。戦車よ、走れ。勇士たちは出陣せよ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引くルデ人よ。46:10 その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日。剣は食らって満ち足り、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の【神】、主に、いけにえが献げられる。46:11 おとめである娘エジプトよ、ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を用いても無駄だ。おまえには癒やしがない。46:12 国々は、おまえの恥辱のことを聞く。おまえの哀れな叫び声は地に満ちる。勇士が勇士につまずき、ともに倒れるからだ。」

5節には、「何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。─【主】のことば─」とありますが、このことばにエジプトの悲惨な状況が映し出されています。彼らはおじ惑い、うしろに退きます。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去ることになるのです。恐怖が彼らを囲むからです。エジプトを代表するのはナイル川ですが、彼らはかつてナイル川のように湧き上がり、地をおおうほどの勢力があると言って誇っていましたが、バビロン軍に敗北し、哀れな叫び声が地に満ちることになります。有志が有志につまずき、ともに倒れるのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

10節をご覧ください。ここには「その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日」とあります。これは主が敵に復讐する日なのです。それは単にバビロン軍との戦いというのではなく、主が成された主との戦いなのです。主との戦いですから、エジプトがどんなに強くても勝てるはずがありません。その戦いの背後には、偉大な主の御手が働いているからです。

ところで、この「敵に復讐する日」とは何を指しているのでしょうか。何に対する復讐なのでしょうか。多くの学者は、これはこの戦いの4年前(B.C.609年)に、ユダの王のヨシヤがエジプトの王ファラオ・ネコに殺されるという事件があったのですが、それに対する復讐ではないかと考えています。しかしここではもっと広い意味での復習、エジプトが神に対して行った傲慢な態度に対する復讐であったと見た方が良いと思います。というのは、ここから諸国の民に対する預言が語られるわけですがそれをずっと見ていくと、どの国々に対しても共通している三つのことがあることがわかります。一つは、そうした国々は自分の財産や軍事力など、物質的な力に拠り頼んでいたという点です。二つ目のことは、彼らは天地の創造主ではない、偶像の神々を拝んでいたという点です。そして三つ目のことは、イスラエルやユダに対して敵対したということです。エジプトの場合は、ヨシヤ王を殺したということがその中に含まれますが、それだけでなくこうした国々は他の点でも神に敵対しました。そのことに対する復讐なのです。

7節には、エジプトの軍隊はナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻いていたとあります。皆さん、「奔流」ってわかりますか? ゴーゴーと音をたてて激しく流れる川のことです。それは恐ろしさを感じるほどです。それだけ勢いがあるということです。それは全地を覆うほどの勢いです。8節には、「エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』」とあります。それは全地をおおい、町も住民も滅ぼし尽くすほどの勢いなのです。

しかしいくら強力な軍事力を誇り、この世を支配するほどの勢力があっても、それらのすべては神様のご支配の中にあることを覚えておかなければなりません。神様がエジプトに病を下せば、どれほど効き目のある薬を使っても何の役にも立ちません。神様が低くすれば、国々の中では辱めを受けることになるのです。国や民族を栄えさせたり衰えさせたりするのは神様であられるからです。ですから、自分の人生がどれほど栄えているようなときでもへりくだり、逆にどれほど低い位置に置かれているようなときでも落胆せず、神に信頼しなければなりません。最近、アメリカの大統領が各国に相互関税を科し世界経済が不透明な中、自国民を守ることは大切なことですが、自分たちの力を誇り、世界中の国々を自分たちに従わせようとする言動は、厳に慎まれなければなりません。聖書に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18、新改訳第3版)とあるように、そのような国は、やがて滅びていくことになるからです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。

あなたはどうですか。すべてのことがうまくいっていると思うとき、へりくだって神の主権を認めているでしょうか。逆にうまくいかず辛い中にあるとき、落胆せずに神を信頼していますか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)あなたがどこにいても、すべての道で主を認めましょう。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。

また、それは同時に、神の御心に反してエジプトというこの世と同盟を結ぼうとしたユダの民に対する復讐でもあったと言えます。彼らは主なる神ではなくエジプトに頼り、エジプトに下って行きました。そのユダの不従順に対する報復でもあったのです。神様に頼らず、この世とその力に頼るとき、神様は彼らが頼るものを滅ぼされるのです。この世の力、この世の富、この世の権力に頼ることは、崩れる城壁の上に立っていることと同じことなのです。私たちが頼るべきお方はすべてを支配しておられる主だけです。ただ生を見上げ、主に拠り頼みましょう。

Ⅱ.その名を万軍の主という王のことば(13-26)

次に、13~26節までをご覧ください。エジプトに対するさばきことばが続きます。13節には「バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトの地を討つことについて、主が預言者エレミヤに語られたことば。」とあります。12節までには、B.C.605年のカルケミシュの戦いにおいてエジプトがバビロンに敗北する様子が預言されていましたが、ここには、エルサレムが陥落後、バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトを打つことについての預言が記されてあります。

14節には、「エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、メンフィスとタフパンヘスで聴かせて言え。」とありますが、それは、エジプトはもちろんのこと、ミグドル、メンフィス、タフパンヘスといったエジプトが支配していた都市にもバビロンの勢力が及びます。

15節には「なぜ、お前の押す牛は押し流されるのか。それは踏みとどまり得ない。主が彼を突き倒されたからだ。」とありますが、「おまえの雄牛」とは、偶像のことです。バビロンによって、エジプトが頼りとしていた雄牛の像が押し流されて立てなくなるという意味です。ここでは、偶像の空しさが露呈されているのです。

また19節には「メンフィスは荒れ果て、焼かれて住む者もいなくなるからだ。と、メンフィスがエジプトに住む娘にたとえられていますが、そうした美しい娘のようなメンフィスは荒れ果て廃墟となり、住む人が誰もいなくなるというのです。

20節の表現はおもしろいですね。「エジプトは、かわいらしい雌の子牛。しかし北からアブが襲って来る。」とあります。「かわいらしい雌の子牛」とはエジプトのことです。そして「北から襲って来るアブ」とはバビロンのことを指しています。アブであるバビロンが北からやって来て、雌の子牛であるエジプトを刺すのです。アブないです。これは、バビロンの軍勢がエジプトを襲い征服するという比喩的表現です。

22節もおもしろいです。「「彼女の声は逃げ去る蛇の音のようだ。敵が軍勢を率い、木こりのように、斧を持って入って来るからだ。」とあります。「彼女の声」とは敗走するエジプト軍が立てる音ですが、それが逃げ去る蛇の音のようだというのです。敵であるバビロン軍が木こりのように斧を手に持ち、森の木々を切り倒すように、エジプト人を切り倒すからです。そのようにエジプトはバビロンによって辱められ、彼らの手に渡されることになるのです。

問題は、なぜそのようなことになるのかということです。15節に戻ってください。3行目にこうあります。「主が彼を突き倒されたからだ」。また26節にもこうあります。「わたしは彼らを、そのいのちを狙う者たちの手に、バビロンの王ネブカドネツァルの手とその家来たちの手に渡す。」
  皆さん、お気づきになりましたか。これは主ご自身がなさることなのです。私たちは歴史の中で起こったことや今、この時起こっていることについて、なぜこんなことになったのかとその原因を分析したり考えたりしますが、実は、そうした出来事の背後には主の御手があるのです。そこにも主が働いておられるということです。このことは、私たちをより謙虚にさせてくれるのではないでしょうか。すべてのことは主の御心のままに導かれているのです。それが良いことであっても悪いことであっても。それは、そこにすべてのことを働かせて益としてくださるという主ご自身のご計画があるからです。それがどういうことなのか私たちにはわからなくても、そこに主が働いておられることを認め、その主にすべてをゆだねることが、私たちも想像もできないほどの神様の栄光が現わされていくことにつながっていくのです。

今週も聖書の学びとお祈り回がありますが、たとえばそれは、前回学んだエズラ記6章にも見られることでした。そこにはバビロン捕囚から帰還したユダの民が預言者ハガイとゼカリヤが語る神のことばに励まされて神殿再建を始めたわけですが、そぐに妨害が入りました。その地の総督タテナイやシェタル・ボゼナ、その同僚たちの妨害に遭って工事が難航するわけです。彼らはペルシャの王ダレイオスに書状を送って、キュロス王からの命令が下った事実を調べてほしいと訴えました。すると、ダレイオス王はエクバタナというところで一つの巻物を発見し、そこに確かにキュロス王によって命令が下されたことを確認したダレイオス王は、タテナイたちに、神の宮の工事をそのままやらせておくようにと命じただけでなく、何とその宮の完成のために、彼らが取り立てた税金の中からその費用を支払って、間違いなくそれが完成するようにせよ、と命じたのです。まさに災い転じて福となる、です。タテナイたちは立てなくなってしまいました。彼らのそうした妨害のお陰でユダの民はますます確信が与えられ、必要も満たされて、ダレイオス王の第6年についに神の宮を完成させることができたのです。いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖書はこう告げています。

「これは、主が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」(エズラ6:22)

それは主が成されたからです。その背後に主が働いておられたのです。すべては主のご計画によるのです。

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

であれば、私たちはそこに主の御手があることを認め、主が働かれ、事を行わせてくださることを信じなければなりません。

それがこの46章18節で言われていることです。ここには、「わたしは生きている。­その名を万軍の主という王のことば ­」とあります。どういうことですか。ここには3人の王の名前が出ています。バビロンの王と、エジプトの王、そしてこの万軍の主という王です。バビロンの王とはだれですか。ネブカドネツァルです。ではエジプトの王は誰でしょうか。ファラオ・ネコです。しかし、それだけではありません。ここにはもう一人の王がおられます。それは万軍の主という王です。それは、神の御座の右で全世界を治めておられる王の王であられる主イエス・キリストです。バビロンの王ネブカドネツァルは、神の道具となってエジプトを攻撃するために用いられました。エジプトの王ファラオの名声と権威は一時天に届く勢いでしたが、今や彼の時代は過ぎ去りました。しかし、万軍の主という王は、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、エジプトの王や将軍、兵士たちを退けました。この方こそ王の王、主の主であられる方なのです。この方が、これらすべてのことをなされるのです。私たちは、神の御座で全世界を納めておられる万軍の主という王であられるイエスを信じて、この方に拠り頼まなければなりません。

あなたの人生のまことの王は誰ですか。イエス様だけがあなたを救うことができます。イエス様だけがあなたに神の国をもたらすことができるまことの王なのです。

Ⅲ.ヤコブよ、恐れるな(27-28)

ですから第三のことは、恐れるな、ということです。27~28節をご覧ください。「46:27 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしがあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、だれにも脅かされずに平穏に安らかに生きる。46:28 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」

エジプトに対するさばきを語られた後で主は、イスラエルに回復のメッセージを語られます。それは27節にあるように、彼らの子孫を捕囚の地から救い出すという約束です。神様は全世界をさばいても、ご自身の選びの民を必ず救われます。神の救いの御業は、さばきと並行してなされるのです。それは1枚の紙の両面のような関係です。エジプトはさばかれますが、イスラエルは回復の恵みにあずかるということが、対照的に語られているのです。エジプトは滅ぼし尽くされても、イスラエルが滅ぼし尽くされることはありません。だから恐れるなと。エジプトに対する激しい神様のさばきの預言の中で、イスラエルに対する慰めのことばが語られているのはこのためです。この世はさばかれることはあっても、神の契約の民は必ず救い出されるのです。31章3節にこうあります。

「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

これが神様の愛です。神様の愛は永遠の愛なのです。永遠の愛とは、いつまでも、です。それは止まることがありません。神の愛はどんなことがあっても止まることがないのです。あなたがどんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、ずっと愛してくださいます。あなたの状態とは関係ありません。あなたがどんなに堕ちても、だれもあなたを受け入れない状況でも、神の愛は永遠にあなたに注がれているのです。それはあなたが優れているからではありません。あなたが良い人だからでもない。それはただ神があなたを愛されたからです。

この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることができます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができるのです。回復することができます。イスラエルもバビロン捕囚という憂き目に遭いましたが、この愛によってもう一度回復することができるのです。いい言葉ですね。「回復」。英語では「restoration」と言います。もう一度神に立ち返り、やり直すことができる。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。

このみことばを読んだ後で、もしあなたが神様のみことばは真理であると信じているなら、神様はイスラエルを見捨ててはおられないということ、あなたを見捨ててはおられなんいということを信じなければなりません。そして「恐れるな」、「おののくな」と言われる神様のことばに信頼しなければなりません。どんなにエジプトにさばきが下っても、あなたは恐れてはならないのです。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。

それが28節で約束されていることです。「わたしが、あなたとともにいるからだ」。この主があなたとともにおられます。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。それなのに恐れたり、心配しているとしたら、それはあなたがこの神のことばを信じていないということです。ただ頭だけで信じているだけです。救い主であり、全能者であられる主が私の人生にも働いておられるということを信じていないのです。主は私たちのたましいだけでなく、私たちの人生も救ってくださいます。病んだ心も肉体もいやしてくださいます。さまざまな生活の問題にも答えを与えてくだいます。それなのに、熱心に教会に通い、神様を信じていると言いながら、神様がいないかのような生き方をしているとしたら、それは観念的に信じているだけであって、実際の生活において神様が生きて働いておられることを信じられないのです。口では主は全能者であると言いながら、実際には「でも、さすがにこれは無理でしょ」とか思っているわけです。

主はイスラエルの歴史において働かれ、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトをさばかれ、イスラエルに懲らしめを与えただけでなく、その中から救い出してくださいました。そしてやがてそこから救い主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そして十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。その主がこのように約束してくださいました。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

主は今も生きておられます。今も生きてあなたとともにおられ、あなたの人生のただ中に働いておられるのです。あなたが成功しても失敗しても、健康な時も病気の時も、主はあなたとともにおられます。であれば、何を恐れる必要があるでしょう。その名を万軍の主という王がともにおられるなら、私たちは失望落胆する必要はないのです。

ただ、一つのことを覚えておかなければなりません。それは28節の最後にあるように、懲らしめはあるということです。「ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
 神様は、あなたとともにいて、あなたを救ってくださいますが、あなたが犯した罪については懲らしめを与えられます。それはあなたを滅ぼすためではなく、あなたを聖めるためです。懲らしめを喜ぶ人はいないでしょう。しかし、懲らしめがもたらす結果を喜ぶことはできます。その結果とは回復と聖めだからです。へブル12章11節にこうあります。

「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

すべての懲らしめや訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。回復と聖めがもたらされます。それによって、主は私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてくださるのです。それこそクリスチャンとしての本望です。ですからそこに希望を置き、たとえ現状が苦しくてもそこから逃げないで、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けたいと思うのです。

エレミヤ書45章1~5節「自分のために大きなことを求めるな」

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今日はエレミヤ書45章から、「自分のために大きなことを求めるな」というタイトルでお話します。これは、エレミヤの書記をしていたバルクに対してエレミヤが語った主のことばです。主が彼に言われたことは5節にあるように、「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」ということでした。バルクが求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。なぜそれを求めてはいけなかったのでしょうか。

 Ⅰ.バルクの嘆き(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。2 「バルクよ、イスラエルの神、【主】は、あなたについてこう言われる。3 『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」

まず、この預言が語られた背景ですが、1節には「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年」とあります。これは、西暦でいうと紀元前605年になります。前回学んだ44章はユダの民に対するエレミヤの最後の預言、最後のメッセージでしたが、その30年も前のことです。ですからこれは44章との連続性はなく、むしろ内容的には36章にまで遡ります。それがこの預言が語られた背景にあることです。その時何があったのでしょうか。ちょっと振り返ってみましょう。36章1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻物に書き記した。5 エレミヤはバルクに命じた。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。6 だから、あなたが行って、あなたが私の口述によって巻物に書き記した【主】のことばを、断食の日に【主】の宮で民の耳に読み聞かせよ。また、町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。7 そうすれば、【主】の前で彼らの嘆願が受け入れられ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからだ。」8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの書物を読んだ。」

45章1節の「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき」というのは、このときのことです。主からエレミヤに主のことばがあったので、エレミヤはバルクを呼んでそれをことごとく巻物に書き記しました。そのときエレミヤは閉じ込められていて主の宮に行くことができなかったので、代わりにこのバルクが行って、それを民に読み聞かせたわけです。するとそれが王の耳にも入ることになりました。

それを聞いたエホヤキム王はどうしたかというと、激怒してその巻物を3,4段読まれるごとに、あろうことかそれを小刀で切り裂き、暖炉の火の中に投げ入れすべてを燃やしてしまいました。それを書き留めるのにどれほどの時間と労力を要したことでしょう。エレミヤはヨシヤ王の時代、その治世の第13年から預言してきましたから、その間約20年です。その間に書き留められた神のことばがすべて燃やされてしまったのです。相当がっかりしたことと思います。私は大田原に来て21年経ちましたが、これまで語った説教は全部保存してあります。その前に福島で語った20年分の説教も全部取ってありますが、それが焼かれたらどんな気持ちになるでしょう。おそらく、自分の存在が消し去られたような気持ちになるのではないかと思います。まさにバルクはそのような経験をしたのです。そればかりか、エホヤキム王はバルクとエレミヤを捕らえて殺そうとしました。どうしてそんな目に遭わなければならないのか理解できなかったでしょう。幸いにも主が彼らを隠されたので彼らは難を逃れることができましたが、この時のバルクの失望はいかばかりだったかと思うのです。その時の彼の思いが、ここに記されてあります。45章に戻ってください。3節です。

「あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。」

ヨブのことばで言うなら、「生まれて来ない方が良かった」です。それほどヨブは辛い経験をしたわけですが、バルクも同じでした。バルクはヨブほどの苦難を味わったわけではありませんが、心境は同じでした。

「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」

バルクの痛みとは何だったのでしょうか。せっかく書き留めた神のことばをだれも聞き入れてくれないという悔しさなり、悲しみ、怒りといった思いでしょう。それどころか、エホヤキム王はそんな自分を殺そうとさえしました。信じられない暴挙です。それで彼は、主は私の痛みに悲しみも加えられたとつぶやいたのです。彼はそんな状況にホトホト疲れ果ててしまいました。何の憩いも見いだせませんでした。彼はエレミヤの秘書として、エレミヤと苦しみを共にしてきました。それはエレミヤの信仰に共感すればこそのことですが、いざ自分のお尻に火が付くと、改めて自分の置かれた現実に目が覚めて、信仰が揺るがされたのです。

それはバルクだけではないでしょう。私たちも同じです。イエス様を信じるなら永遠のいのちが与えられ、さばきにあうことがなく、死からいのちに移るとあるから信じたんじゃないですか。それなのに死からいのちに移るどころかいのちから死に移っているのではないかと思えるような状況に陥るとき、どうしてですかと叫ばずにいられなくなります。あるいは、主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人は、水路のそばに植わった木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄えるとあるから、信じたのです。それなのに現実は実を結ぶどころか枯れてしまいそうだと感じるとき、私たちもバルクのようにつぶやいてしまうのではないでしょうか。主は私の痛みに悲しみを加えられた、私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せないと。

先日、ある方からお電話をいただきました。全く面識のない方ですが、教会のホームページのメッセージを見て電話したということでした。この方はクリスチャンの姉妹ですが、開口一番「逃げるに逃げられない状況なんです」と言われました。これはただ事ではないなと話をお聞きしたところ、この姉妹は調整区域にある農地を所有していますがそれにかかる税金がかなり高いので売却しようとしたところ、そこが農地であるためできないことがわかりました。ならばと雑種地に地目変更して売却しようと妹さんの知り合いに相談したのですが、逃げるに逃げられない状況になってしまったというのです。どうしてそのようなことで私に電話をしてきたのか不思議に思っていたら、ディボーションをしている中で教会のホームページからサムエル記のメッセージを見つけ、その中のダビデの信仰に教えられて電話したということでした。何が神様のみこころがわかるのではないかと思って。

私は1時間半ずっとお話を聞きながら、詩篇16篇8節とローマ8章28節のみことばが示されたのでそれを伝えました。詩篇16篇8節には、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。大切なのは固定資産税をどうするかということではなく神様との関係であって、自分で動くことを止めて神様を目の前に置くこと、すなわち、神様に信頼して神様の導きを待つことですと伝えました。主がともにおられるなら決してゆるぐことはありません。
  もう一つのみことばはローマ8章28節のみことばです。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」すなわち、神様はすべてのことを働かせて益としてくださるとあるので、この問題さえも益としてくださるのではないでしょうか。
  でももう一つ必要なことがあります。それは覚悟です。逃げるに逃げられない状況になってしまったと言われましたが、相手を恐れないでください。人を恐れると罠にかかりますから。しかし、主に信頼する者は守られます。大丈夫、神様が守ってくださいますから、と伝えると、安心したかのように「わかりました。ありがとうございました」と電話を切られました。私がお話をさせていただいたのは、わずか10分間でしたが。

信仰生活を送る上でこうした問題に直面するとき、あなたからはどんなことばが口をついて出てくるでしょうか。「逃げるに逃げられない」ですか。それともバルクのように「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果てて、憩いを見出せない」でしょうか。その思いが神様とエレミヤの目に留まりました。それで主はエレミヤを通してバルクに対することばを語られたのです。ですから、これは今日のあなたに対する主の励ましのことばでもあるのです。

Ⅱ.自分のために大きなことを求めるな(4-5a)

そんなバルクに対して主は何と言われたでしょうか。それは、自分ために大きなことを求めるなということでした。4節と5節前半までをご覧ください。「4エレミヤよ、あなたは彼にこう言え。『【主】はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。5 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──【主】のことば──。」

主がエレミヤを通してバルクに語られたことは、自分のために大きなことを求めるな、ということでした。どういうことでしょうか。彼が自分のために求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。新聖書注解書の中で安田吉三郎先生は、このように解説しています。

「バルクは何を期待していたのであろうか。彼が預言者エレミヤに従った時、この預言者の働きによって国の運命は転換し、その結果彼は新しいイスラエルにおいて名声と高い地位と富が得られると考えたのであろうか。名門の出のバルクにとって、このような野心は無縁だとは言い切れない。エレミヤの預言を書に記し、これを神殿で人々に朗読した時、バルクは、人々の心の中に革命が起こると期待したかもしれない。さらに自分の巻物が首長たちに読まれ、その上王の前で朗読されると聞いた時、彼の心は恐れと期待におののいていたのではないだろうか。」

これは安田吉三郎先生の憶測ですが、的を得ていると思います。というのは、その前後の文脈からそのように解釈することができるからです。4節には、主はご自分が建てたものを自分で壊し、植えたものを自分で引き抜かれる方であると言われています。つまり、主は主権者であられるということです。そしてそのように言われた後で、5節に「見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ─主のことば──」と言われました。つまり、それはバルクが思い描いたようにはならないということです。

バルクは預言者エレミヤの口述筆記者という名誉ある役割が与えられていました。1節には、彼はネリヤの子とありますが、彼は名門の出身です。教養も豊かな人物でした。エレミヤ51章59節には、彼の兄セラヤはゼデキヤ王の時の高官だったことがわかります。恐らく彼は兄と同じような地位に就くことを願っていたのでしょう。もし預言者エレミヤについて行き、エレミヤの預言によって王や首長たちが悔い改めるなら、ユダ王国に新しい未来が開かれることになります。そうなったらエレミヤは国の中で重要な地位に就くことでしょう。それは、エレミヤの書記である自分の昇進をも意味していました。ちょうどイエス様の弟子でゼベダイのふたりの子ヤコブとヨハネがイエス様に、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(マルコ10:37)と願ったように、です。

しかし、彼の期待は見事に裏切られました。事態は彼が願ったようにはいかなかったのです。むしろ逆でした。エホヤキム王やユダの首長たちは悔い改めるどころか逆に怒り狂い、口述筆記した巻物は切り裂かれて、暖炉の火で燃やしてしまいました。それどころか、彼の身にも危害が加えられる恐れがありました。彼の夢は脆くも崩れ去ったのです。それはご自身に立ち返ろうとしない民に対して、主がわざわいを下そうとしておられたからです。バルクがどんなに高貴な家の出で、優秀な者であっても、彼は一つのことを理解しなければなりませんでした。それは、主は私たちが関わるすべての事柄の主権者であられるということです。4節の「わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。」ということばは、この真理を明らかにしています。それなのに彼は自分ために大きなことを求めていたのです。

何事でも「自分のために」という思いが強すぎると、実際に思うようにいかない時、バルクのように嘆き、失望し、疲れ果ててしまうことになります。大切なのは、主が私たちに関わるすべての事柄の主権者であられると認め、自分はそのための管にすぎないことを自覚することです。そうでないと、自分のしたことに一喜一憂することになるからです。イエス様は弟子たちにこう言われました。

「17:9 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)

これがイエス様のしもべである私たちに求められている姿勢です。もしあなたが主に命じられたことをすべて行ったら、こう言うべきです。「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。それはこの世の価値観とは全く違うでしょう。この世では自分のしたことに対して、その報いがあるかないかを尺度にして生きています。たとえば、それをやったらどれだけ認められるか、どれだけ報酬があるか、どれだけ昇進するかといったことです。けれども、そのような生活は失望や落胆、また有頂天になることの繰り返しで、疲れ果ててしまうことになります。自分のために大きなことを求めるのではなく、主のために大きなことを求めなければなりません。それは主に対して忠実であること、ただ主が言われていることを行っているということ、そして成果ではなく、主との関係、主との交わりを喜び、これを求めることです。そうすれば、目先の報いに左右されることはなくなります。

こんなコラムを読みました。ご主人が出張で数日間家を留守にする時、4歳の息子が母親に「パパはあと何個寝たら帰って来るの?パパは今どこにいるの?何をしているの?」と一日に何度も尋ねてきたそうです。公園で遊んでいても、美味しいおやつを食べていても、どんなに楽しいことをしていても、息子の頭の中にあるのは常に「パパは?」でした。そんな息子の姿を見ながら、自分は息子のように神様のことを求めているだろうか」と考えさせられたそうです。

聖書には、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)とあります。自分の願い、自分の計画、自分の必要ばかりに意識を向けていたら、気付かないうちに、この世と調子を合わせてしまうことになります。神様のみこころだけが、私たちを暗やみから光へと引き上げてくれます。だから、神のみこころに焦点を合わせなければなりません。忙しくて、お皿洗いながらしか祈れない時もあるでしょう。疲れ切って聖書を読んだり祈れない時もあります。しかしそのような時こそ、より深いところへ進んでいくための神からの招きの時なのです。神様と共にありたいという奥深い心の飢え渇きを満たしてくれる時なのです。3Dのイラストをじっと集中して一点を見続けていると絵が浮かび上がって立体的に見えてくるように、いったん手を止めて、全神経を集中させて神様を捜し求め、神様と交わる時が私たちに必要なのです。

Ⅲ.神の約束(5b)

しかし、そんなバルクに対して主は、一つの報いを与えると約束してくださいました。それは彼のいのちを守られるということです。5節の最後のところに注目してください。「しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」

神はバルクにこの世での成功は約束されませんでしたが、彼のいのちが守られることを保証されました。「あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」とは、そういう意味です。リビングバイブルでは「わたしはこの民に大きなわざわいを下すが、あなたには報いとして、あなたがどこへ行っても、あなたのいのちを守る」とあります。バルクが受ける報いは、ただ彼のいのちを保つということでしたが、これほど素晴らし約束があるでしょうか。神の使命を忠実に成し遂げた後の報いは、この世の富や名誉で測ることができるものではありません。それはいのちを保つということ、永遠のいのちに与るということです。

バルクは、エレミヤたちとともにエジプトに連れて行かれましたが、彼にとっては、どこに行くかは大きな問題ではありませんでした。どこにいても、いのちを守られる主がともにおられるということ、この真実に心を留めることが大切だったのです。

バルクはエルサレム陥落を目撃し、エレミヤに同行してエジプトに下り、そこでエレミヤの死を見届けました。その過程で彼は、自らの使命に目覚めたのです。それは自分のために大きなことを求めるのではなくこれらいっさいの出来事の証人となり、それを後世に伝えることです。そしてエレミヤの預言を「エレミヤ書」という形にまとめたのです。自分に対する預言をエレミヤ書のこの箇所に置いたのも彼です。明確ではありませんが、エレミヤはこのバルクへのことばを、晩年になって彼に伝えたのかもしれません。バルクは預言者エレミヤの死後も生きて、この記録を預言者エレミヤの生涯の記録のあとに、そっと補足として加えたのかもしれません。44章でエレミヤの生涯の預言を書き終えた後にどうしてこの記事がここに挿入されているのかは、そのような理由からでしょう。個人的に成功するかどうかは、主のみこころが成るかどうかに比べたら、取るに足りないことなのです。バルクは彼の生涯の中でこのことを学んだのです。

それは私たちも同じです。私たちにとって大切なのは自分のために大きなことを求めることではなく、自分の身を通して神の栄光が現わされることを求めることです。みこころが天で行われるように、地でも行われますようにと祈り求めることなのです。これが私たちの人生の目的であり喜びですと言える歩みを、共に目指してまいりましょう。

エレミヤ44章15~30節「エレミヤの最後の預言」

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前回から、エレミヤ書44章から学んでいます。これはエレミヤがユダの民に語った最後の預言、最後のメッセージです。最後のメッセージですから、それは重要なメッセージであるということです。そうでしょ、皆さんも最後に何かを語るとしたら本当に大切なことを語るのではないでしょうか。イエス様が最後に弟子たちに語ったことはマタイ28章18~20節にありますが、それは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」ということでした。ですから、これがキリストの弟子たちにとって重要なことであることがわかります。ではエレミヤを通して主が語られた最後のメッセージはどのようなものだったのでしょうか。

 Ⅰ.それって、本当ですか?(15-19)

まず、15~19節をご覧ください。「44:15 そのとき、自分たちの妻がほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えた。44:16 「あなたが【主】の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。44:18 だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」44:19 「私たち女が、天の女王に犠牲を供え、彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、夫をなおざりにしてのことだったでしょうか。」

「そのとき」とは、その前の14節までのことが語られていたときのことです。それはユダの町々とエルサレムが滅ぼされたのは、彼らの先祖たちが主に背いてほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えたからでした。彼らは心砕かれず、神を恐れず、神から与えられた律法と掟に歩みませんでした。それなのになぜ、あなたがたは同じことをするのか。それで主は、エジプトに下って行ったユダの民を絶ち滅ぼすと宣言されました。「そのとき」です。

そのとき、自分の妻たちがほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っていた女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民が、エレミヤにこう言いました。16節です。

「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」

エジプトに下って行ったユダの民は、改めてエレミヤによって語られた主のことばに従わないと言いました。この時従おうとしなかったのは、ユダの指導的な立場にあった人たちだけではありません。エジプトに移り住んだすべての民です。

エレミヤは、かつて「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」(17:9)と言いましたが、この時の彼らの態度は、まさにそれを証明していました。彼らはかつて、自分たちも父祖たちも、自分たちの王も首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲(いけにえ)をささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたいと言ったのです。なぜでしょうか?17節後半から18節をご覧ください。ここで彼らはこのように言っています。

「私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」

えっ、それって本当ですか?彼らも彼らの父祖たちも、エルサレムの通りで行っていたように、天の女王にいけにえを備え、注ぎのぶどう酒を注いでいたとき、パンに満ち足りて幸せだったんですか?それを止めたときから、万事に不足し、剣と飢饉によって滅ぼされたんですか?ウソです。それは事実ではありません。実際は逆です。彼らがその身にわざわいを招くようになったのは、彼らが彼らの神、主の警告を無視して天の女王に犠牲を供えて仕えたからです。

この「天の女王」については、すでに7章18節で見てきましたが、古代のさまざまな地域において女神の称号として使われていた神々のことです。たとえば、カナンではアシュタロテという神です。これは女神です。バビロンではイシュタル、ギリシャではアフロデテ、ローマではビーナスなどです。彼らはそうした偶像に仕えていたから自分たちはわざわいにあわなかったと言っていますが、実際には、彼らがわざわいにあわなかったのは、主が彼らをあわれんでおられたからです。彼らはそのことに全く気付いていませんでした。つまり、彼らの過去に対する認識とか歴史観というのは、目の前の一時的な現象だけを見て判断する、いわゆるこの世のご利益信仰と何ら変わらないものだったのです。物事がうまくいっているときはハレルヤと賛美しても、そうでないと、いとも簡単に神様を捨て去り、ほかの神々を求めたのです。このように自分の欲望を満たすことを基準にした信仰は、過去の事実さえも歪めてしまうことになるのです。

かつてエジプトから脱出したイスラエルの民もそうでしたね。彼らは、エジプトを出て荒野に導かれたとき、モーセとアロンに向かって不平を言いました。

「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)

それって、本当ですか?エジプトにいた時、彼らは本当に幸せだったのでしょうか。肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていましたか。違います。彼らは奴隷として酷い仕打ちを受けていました。それなのに彼らはそのことをすっかり忘れていたのです。なぜでしょうか?自分の欲望を満たすものを神だと思い込んでいたからです。

それは私たちにも問われていることです。私たちも信仰をそのように捉えていると、目の前にそうでないことが起こると、あたかも神様を信じていなかった時の方が良かったと錯覚してしまうことがあるのです。でも、それって本当ですか?違います。15、16、17と私の人生暗かった・・・。イエス様に出会う前は、皆さんも暗かったんじゃないですか。確かに自分が好きなように自由に生きていたかもしれません。でもその結果は、自分が何をしているのかもわからない空しい人生だったはずです。私は今でも覚えていますよ。私の人生の華は高校時代でしたから。自分が好きなように、それこそ自分の肉と欲と心の望むままに生きていました。でもその結果は、空しさでした。エペソ2章1節には、それは、自分の背きと罪との中に死んでいた者であり」と言われています。そうです、これぞ我が人生と思っていた人生は、死んでいたものだったのです。しかし、あわれみ豊かな神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きと罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。ハレルヤ!
  それなのに、神様を信じる前の方が良かった、この世の神、天の女王にささげものを捧げていた時の方が幸せだったと主張するのはナンセンスです。正しくありません。

私はチューリップというバンドが好きでよくCDを聴くのですが、その中に「夏の終わり」という歌があります。
  「夏は冬にあこがれて、冬は夏に帰りたい。
  あの頃のこと今では すてきにみえる。」
  まさに、ないものねだりの子守歌ですね。夏になると冬にあこがれ、冬になると夏がすてきに見える。でも実際には、夏は夏で厳しい暑さに苦しみ、冬は冬で凍てつくような寒さに苦しむのです。でも暑いと冬はいいなぁと感じ、寒いと夏がいいなあと思うのは、その現象だけを見て判断するからです。でも神によって救われた恵みを基準にして進む人は違います。そういう人は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができます。今、自分に降りかかっている災難と思えるようなことさえも、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じているからです。

ですから、自分の感情や気分といったものを当てにしないで信じることです。そういうものは体の調子や周囲の事情、さては天候によっても左右されるものだからです。しかし私たちの信仰はけっして人間の側の何かによってもたらされるものではなく、神様の言葉によって保証されるものです。ですから、真実な神の約束である聖書の御言葉を信じる時、そこに神が約束されていることを知ることによって、揺れ動くことのない確かな信仰の土台を築くことができるのです。

あなたは自分が置かれている状況を、どのように理解していますか。神様の言葉を基準にして、神様の視点で解釈しているでしょうか。自己中心的な解釈は神の語りかけを締め出し、祝福の機会を失うという結果をもたらすのです。

Ⅱ.神のさばきの宣言(20-28)

そんな考え方をしていた彼らに、エレミヤは何と言いましたか。20~28節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「44:20 そこでエレミヤは、そのすべての者、すなわち、男たちと女たち、また彼に口答えした者たち全員に言った。44:21 「ユダの町々やエルサレムの通りで、あなたがたや、あなたがたの先祖、王たち、首長たち、また民衆が犠牲を供えたことを、【主】が覚えず、心に上らせなかったことがあるだろうか。44:22 【主】は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌み嫌うべきことのために、もう耐えることができず、それであなたがたの地は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖のもと、ののしりの的となったのだ。44:23 あなたがたが犠牲を供えたため、また、【主】の前に罪ある者となって、【主】の御声に聞き従わず、主の律法と掟と証しに歩まなかったために、今日のように、あなたがたにこのわざわいが起こったのだ。」」

そのように主張するユダの民に対してエレミヤは、正しい認識を示します。つまり、ユダの町々やエルサレムにわざわいが下ったのは、彼らが天の女王を拝むことを止めなかったからです。そのことを主はちゃんと覚えておられ、もう耐えることができなくなられたからです。

そんなエレミヤのメッセージに耳を傾ける者など一人もいませんでした。それでもなお、エレミヤは、すべての民、すべての女たちに真実を語り続けます。それが24~28節の内容です。これがエレミヤの最後の預言、最後のメッセージとなります。それは次の4つのことでした。

まず25節をご覧ください。ここには、「『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束し、自分の手で果たしてきた。あなたがたは、天の女王に犠牲を供えて彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐという誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かなものとし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』」とあります。
 ここには、あなたがたが天の女王に誓った誓願を必ず果たせ、とあります。これは皮肉的な勧めです。その語調には、挑戦とも、あきらめともとれるようなニュアンスが見られます。

二つ目のことは、26節です。「それゆえ、エジプトの地に住むすべてのユダの人々よ、【主】のことばを聞け。『見よ、わたしはわたしの大いなる名によって誓う──【主】は言われる──。エジプトの全土において、「【神】である主は生きておられる」と、わたしの名がユダの人々の口に上ることはもうなくなる。」
  これは、彼らが主に立ち返って赦されることは二度とないということです。いわば決定的なさばきの宣告です。主はどんな罪でも赦してくださいます。しかし、悔い改めなければ、赦したくても赦すことはできません。

そして三つ目のことは27節です。「見よ、わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの地にいるすべてのユダの人々は、剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せる。」
  どういうことですか?エジプトにいるすべてのユダヤ人は、不信仰のゆえに剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せるということです。

しかし28節を見ると、もう一つのことが記されてあります。それは、「剣を逃れる少数の者だけが、エジプトの地からユダの地に帰る。こうして、エジプトの地に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。」ということです。この「剣を逃れる少数の者」とは、イスラエルの残りの者たちのことです。どの預言者も、ユダに対する神のさばきだけでなく、そこにさばきを逃れる少数の者たちがいることを預言しています。神にあっては、絶望的な状況の中にも希望があるということです。そこからやがて救い主が遣わされることになります。ですから、悔い改めができなくなるほどまで罪に染まってはならない、頑なになってはならないのです。主にあっては必ず希望があるからです。その希望を見上げて救いの道を歩ませていただこうではありませんか。

Ⅲ.神のことばは必ず成就する(29-30)

最後にエレミヤは、神からのしるしを彼らに伝えます。これがエレミヤの最後のメッセージの最後です。これが、主がエレミヤを通して伝えたかったことです。29~30節をご覧ください。「44:29 これが、あなたがたへのしるしである──【主】のことば──。わたしはこの場所であなたがたを罰する。あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばが必ず成就することを、あなたがたが知るためである。』44:30 【主】はこう言われる。『見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に、そのいのちを狙う者たちの手に渡す。ちょうどユダの王ゼデキヤを、そのいのちを狙っていた彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように。』」」

これが彼らに対するしるしです。すなわち、ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されたように、エジプトの王ファラオ・ホフラも彼のいのちをねらう敵の手に渡されるというのです。これがしるしです。何のしるしかというと、エジプトで主が彼らを罰すると語られたことばが必ず成就することのしるしです。この預言の通り、この時から18年後にバビロンがエジプトに侵入し、エジプトの王ファラオ・ホラフは将軍アマシスの謀反によって殺されることになります。B.C.565年のことです。主のことばは必ず成就するのです。だから神のことばに従うようにと、エレミヤは語るのです。これがエレミヤの最後の最後のメッセージでした。

エレミヤはすべての者たちから見捨てられてもなお、神のことばに絶対的な信頼を寄せていました。彼はおそらく自分に言い聞かせるような思いで、これがあなたがたへのしるしだと告げたのでしょう。イエス様はこう言われました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13:31) 

天地は滅び去ります。しかし、主のことばは決して滅び去ることはありません。たとえ天地が滅び去り、すべてが無くなったとしても、主のことばは決して滅びることはないのです。必ず成就します。これこそ、私たちにとって真の慰めではないでしょうか。

預言者イザヤはこう言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7-8)

すべての人は草のようです。その栄光は花のようです。それはすぐに枯れてしまい、しぼんでしまいます。朝に生え出たかと思ったら、夕べにはしおれてしまいます。人はそんなの草や花のようなのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って自分の顔を鏡でよく見てください。いつの間にか白髪が増えたなぁと気が付くでしょう。しみやしわが増えたことがわかります。あんなに若々しかったのに、いつの間にか老けてしまいました。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきました。あんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせてしぼんでしまいました。あの人は教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、その人生は70年か80年で終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。人生はあっという間に過ぎ去ります。ソロモンはこれを「空の空。すべては空」だと言いました。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。

祗園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)(かね)(こえ)、諸行無常(むじょう)の響きあり。
 ()()双樹(そうじゅ)の花の色、 盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)(ことわり)をあらは(わ)す。
 おごれる人も久しからず、(ただ)(はる)の夜の夢のごとし。
 たけき(もの)(つい)にはほろびぬ、(ひとえ)に風の前の(ちり)に同じ。(平家物語)

祇園精舎の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがあります。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるということを表しています。どんなにこの世で栄えても、その栄えはずっとは続きません。まさに春の夜の夢のようです。勢い盛んで激しい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じなのです。そう詠ったのです。実に空しい存在です。

こんなこと言われても全然慰めになりません。そうです、この世には、真の慰めはないのです。ですから、この現実をしっかりと見つめそれを額面通り受け止めるなら、それが慰めになります。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれません。決して受け入れたくないでしょう。でも、これが現実なのです。事実を事実として受け止められるなら慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだと。いつまでも咲き誇っているわけではない。いつかしぼんでいきます。やがて死んでいく。それは明日かもしれません。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれない。人生はそんなに長くないのです。草花のようにすぐにしぼんでいくものでしかありません。その事実を受け入れその先にある希望をしっかり見つめて生るなら慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、人は慰めを受けるのです。

詩篇102篇25~28節にはこうあります。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」

この地上のものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美しさも、失われる時がやってきます。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生をかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないからです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。この方に信頼すれば慰めを得られるのです。

主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
  これこそ慰めではないでしょうか。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなっても、神は約束を(たが)える方ではありません。そのおことばの通りにあなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはありません。

ですからパウロはこう言ったのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
  たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちは天の御国で永遠に生き続けるからです。しかも、先週はイースター礼拝でフレミング先生から私たちはやがて栄光のからだに復活するということが語られましたが、イエス・キリストが再び来られる時、永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえるのです。そうしていつまでも主とともにいるようになります。ここに希望があります。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられているのです。その御霊によって私たちはやがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができるのです。主はそのために初穂としてよみがえられました。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わることのない神のことば、聖書のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいと思うのです。これが真の慰めのメッセージです。これが、主がエレミヤを通してユダの民に伝えたかった最後のメッセージだったのです。

エズラ記6章

 エズラ記6章から学びます。

 Ⅰ.ダリヨス王からの回答(1-12)

まず、1~12節をご覧ください。「6:1 それでダレイオス王は命令を下し、重要文書を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、6:2 メディア州の城の中のエクバタナで一つの巻物が見つかった。その中に次のように書かれていた。「記録。6:3 キュロス王の第一年にキュロス王は命令を下した。エルサレムにある神の宮、いけにえが献げられる宮を建て、その礎を定めよ。宮の高さは六十キュビト、その幅も六十キュビト。6:4 大きな石の層は三段。木材の層は一段とする。その費用は王家から支払われる。6:5 また、ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から持ち出して、バビロンに運んで来た神の宮の金や銀の器は返し、エルサレムの神殿に運んで元の場所に戻す。こうして、それらを神の宮に納める。」6:6 王は次のように命じた。「それゆえ、今、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちでユーフラテス川西方の地にいる知事たちよ。そこから遠ざかれ。6:7 この神の宮の工事をそのままやらせておけ。ユダヤ人の総督とユダヤ人の長老たちに、この神の宮を元の場所に建てさせよ。6:8 私は、さらに、この神の宮を建てるために、あなたがたがこれらユダヤ人の長老たちにどうすべきか、命令を下す。王の収益としてのユーフラテス川西方の地の貢ぎ物の中から、その費用を間違いなくそれらの者たちに支払って、滞らぬようにせよ。6:9 また、その必要とする物、すなわち、天の神に献げる全焼のささげ物のための雄牛、雄羊、子羊、また小麦、塩、ぶどう酒、油を、エルサレムにいる祭司たちの求めに応じて、毎日怠りなく彼らに与えよ。6:10 こうして彼らが天の神に芳ばしい香りを献げ、王と王子たちの長寿を祈るようにせよ。6:11 私は命令を下す。だれであれ、この法令を犯す者があれば、その家から梁を引き抜き、その者をその上にはりつけにしなければならない。このことのゆえに、その家はごみの山としなければならない。6:12 エルサレムに御名を住まわせられた神が、この命令を変更してエルサレムにあるこの神の宮を破壊しようと手を下す王や民をみな、投げ倒されますように。私ダレイオスはここに命令を下す。間違いなくこれを守れ。」」

1節の「それで」とは、5章の内容を受けてのことです。エルサレムに帰還したユダの民は、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤという二人の預言者のことばによって励まされ、神殿の再建を始めました。B.C.536年のことです。しかし、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちがそれを妨害しようと、ペルシアの王ダレイオスに手紙を書き送りました。それはこの神殿再建工事がキュロス王の命令に従って行っているとユダヤ人たちが主張していたからです。それが本当かどうかを確かめようとしたのです。

その手紙を受け取ったダレイオス王は、宝物を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、メディア州の城の中のエクバタナで一つの巻物が見つかりました。「エクバタナ」はバビロンの北東約489キロにある、メディア州の首都です(巻末地図8)。キュロス王は、B.C.538年にその城で過ごしていたのでしょう。その巻物には、キュロス王の第一年にキュロス王がエルサレムにある神の宮、いけにえがささげられる宮を建て、その礎を定めるようにと命令を下したことが記されてありました。その神殿のサイズは、高さが60キュビト(1キュビトは約44センチ=2メートル64センチ)です。幅も60キュビト、大きな石の層は3段、木材の層は1段とすると書いてありました。しかも、その費用は王家から支払うと。また、バビロンのネブカドネツァル王がエルサレムの神殿から持ち出してバビロンに運んで来た金銀の器は、エルサレムの神殿に運んで元の場所に戻すとありました。それは、帰還したユダヤ人たちが主張していた通りでした。

それゆえ、ダレイオス王はタテナイたちにこう命じました。6節です。神の宮の工事をそのままやらせておくように。また、この神の宮を建てるために、タテナイたちが徴収している税の一部を、その費用として支払い、それが滞りなく完成するように援助するようにと。さらに、ユダヤ人が天の神に献げる全焼のささげもののために、雄牛や雄羊、小麦、塩、ぶどう酒、油など、エルサレムにいる祭司たちの求めに応じて、毎日怠りなく与えるようにと。何のためでしょうか。10節にあるように、王と王子たちの長寿を祈るためです。つまり、ダレイオス王はエルサレムの神殿に座す天の神の祝福を求めたのです。この命令を犯す者は、その家から梁を引き抜き、その梁の上にはりつけにされます。また、その者の家はごみの山とされなければなりません。最後に彼は、この宮を破壊しようとして手を出す者がいれば、その王や民がみな投げ倒されるようにと祈っています。

結局、タテナイたちはユダヤ人の神殿再建工事を妨害しようとしましたが、結果的には、自分が集めた税金の中から工事代を捻出することになりました。神の御心を行う者には、神の助けと守りがあるのです。一方、神の御心に反する者には、神の呪いとさばきがあるのです。このことを覚えて、いつも神の御心に歩ませていただきましょう。

Ⅱ.神殿完成(13-15)

次に、13~15節をご覧ください。「6:13 ダレイオス王がこう書き送ったので、ユーフラテス川西方の総督タテナイと、シェタル・ボゼナイと、その同僚たちは、間違いなくこれを行った。6:14 ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた。6:15 こうして、この宮はダレイオス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。」

ダレイオス王がこのように書き送ったので、タテナイたちはもう立てなくなりました。間違いなく、その通りに行うしかなかったのです。その結果、工事は迅速に進められ、ダレイオス王の治世の第6年(B.C.516年)に完成しました。かつて工事を妨害した者が、神の御業を実行する者に変えられたのです。

ところで14節に注目してください。ここには「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言を通し、建築を行って成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、またキュロスとダレイオスと、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、建築を終えた」とあります。これは預言者ハガイとイドの子のゼカリヤの預言を通し、建築した結果のことです。彼らは、イスラエルの神の命令により、またキュロス王とダレイオス王と、ペルシアの王アルタクセルクセスの命令によって、これを完成させることができたのです。そこには、預言者を通して語られた神のことばによる励ましがあったということです。神のことばがどれほどの励ましと力を与えてくれるでしょう。人間的には行き詰ってしまうようでも、神はご自身のみことばを通して聖霊の力を与えてくださるのです。

また、この工事にはキュロス王、ダレイオス王、アルタクセルクセス王という3人の王たちの貢献があったことも見逃せません。アルタクセルクセス王は実際には神殿の再建ではなくその維持に貢献しただけですが、ここではそれが包括的に語られています。つまり、天の神がこうした王たちも用いてご自身の御業を成し遂げてくださったということです。ですから、この神殿再建は神の恵みと神の力、そして神の約束と神のご計画によるものだったのです。

神殿が完成したのは、ダレイオス王の治世の第6年のことでした。これは、B.C.516のことです。着工から実に20年後のことでした。あのソロモンの神殿がバビロンによって破壊されたから(B.C.586年)、ちょうど70年後のことでした。それは神が預言者たちを通して語っておられたことです。神はご自身の約束の通りにしてくださったのです。人は多くの計画を持ちますが、主のはかりごとだけがなります。その神の計画の完成に向かって、神のことばに励まされ、様々な挫折を乗り越え、神の計画を完成に導く人は幸いです。それは神がなさることです。私たちに必要なことは、それが自分にできるかどうかということではなく、神の御心なら神が完成に導いてくださると信じ、その完成に向かって神とともに歩むことなのです。

Ⅲ.神殿の奉献式(16-22)

最後に、16~22節を見て終わります。「6:16 イスラエルの子ら、すなわち、祭司、レビ人、そのほかの捕囚から帰って来た人たちは、喜びをもってこの神の宮の奉献式を祝った。

6:17 彼らはこの神の宮の奉献式のために、雄牛百頭、雄羊二百匹、子羊四百匹を献げた。また、イスラエルの部族の数にしたがって、全イスラエルのために罪のきよめのささげ物として、雄やぎ十二匹を献げた。6:18 また彼らは、エルサレムでの神への奉仕のため、祭司をその区分にしたがって、レビ人をその組にしたがってそれぞれ任命した。モーセの書に記されているとおりである。

6:19 捕囚から帰って来た人々は、第一の月の十四日に過越を祝った。6:20 祭司とレビ人たちは一人残らず身をきよめて、みなきよくなっていたので、捕囚から帰って来たすべての人々のため、彼らの同胞の祭司たちのため、また彼ら自身のために、過越のいけにえを屠った。6:21 捕囚から戻って来たイスラエル人はこれを食べた。イスラエルの神、【主】を求めて、その地の異邦の民の汚れから離れて彼らに加わった者たちもみなそうした。6:22 そして彼らは七日間、喜びをもって種なしパンの祭りを守った。これは、【主】が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」

神殿再建工事を終えると、イスラエル人の祭司、レビ族の人々、その他バビロンから帰って来た人々は、喜びをもってこの主の宮の奉献式を祝いました。献げられたのは雄牛100頭、雄羊200匹、子羊400匹でした。また、イスラエルの部族の数に従って、イスラエル人全体の罪のためのいけにえとして、雄やぎ12匹が献げられました。これはソロモンの時と比べたら、圧倒的に少ないです。その時には牛2万2千頭、羊12万頭が献げられました(1列王8:63)。それは、帰還民が非常に貧しかったということを示しています。なるほど、過去の神殿の栄華を知っていた人が悲しみで泣いたのもわかります。

また彼らは、エルサレムでの神への奉仕のため、モーセの律法に記されてある通り、祭司とレビ人の人数を、それぞれの区分に従って任命しました。ここで重要なのは、それがモーセの律法に記されてある通りに行われたという点です。それは律法に背を向けるなら再び悲劇が訪れるという認識があったからです。

捕囚の地から帰って来た人々は、第一の月の14日に過越を祝いました。これは、ユダヤ人たちが70年ぶりに祝う過越の祭りです。祭司とレビ人たちは、一人残らず身をきよめ、バビロンから帰って来た人たちのために、過越の祭りを祝いました。そればかりでなく、イスラエルの神、主を求めて、その地の異邦の民の汚れから離れて彼らに加わった者たちもみな、ともにこの過越の祭りに加わりました。そして、彼らは7日間、種なしパンの祭りを守りました。この種なしパンの祭りとは、過越の祭りに続く7日間の祭りです。ですから、彼らは全部で8日間お祝いしたのです。これは捕囚の期間が終わり、ユダヤ人たちが約束の地に帰還したことを示しています。これは主が彼らを喜ばせ、また、アッシリヤの王の心を彼らに向かわせてイスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからです。ここにアッシリヤの王とあるのを見て「あれっ」と思う人もいるかもしれませんが、かつてのアッシリヤ帝国は今はペルシヤのものになっていますから、これは間違いではありません。神がペルシアの王キュロスの心を彼らに向けさせ、イスラエルの神である主の宮の工事にあたり、彼らを力づけ完成させてくださったのです。

つまりエズラは、これらすべての工事の成功と祭りの喜びは主から来たものであると言っているのです。主が事を始めてくださったのだから、主がそれを完成させてくださいます。ピリピ1章6節に「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」とある通りです。神が始めてくださったのなら、神は必ず完成させてくださいます。そのためには、彼らがハガイとゼカリヤの預言によって励まれたように、私たちも神のことばによって励ましをいただき、そこにどんな妨害があっても神が成し遂げてくださると信じなければなりません。私たちの人生の成功は、あなたがどう思うかではなくあなたが何を信じ、だれとともに歩むのかによって決まるのです。

エレミヤ44章1~14節「それなのに、なぜ」

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今日は、エレミヤ書44章1~14節から、「それなのに、なぜ」というタイトルでお話します。この44章は、エレミヤがユダの民に語った最後の預言です。確かに46章でもエジプトに関する言及がありますが、エレミヤの預言者としての生涯という観点では、この44章がエレミヤの最後の預言となります。晩年になり、エジプトの地に強制的に連れて来られ、その地でいのちある限り預言者として忠実に仕えたエレミヤの最後のメッセージは何だったのでしょうか。それは、「それなのに、なぜ」でした。過去の失敗から学ぶように。同じ過ちを繰り返すなということです。

 Ⅰ.神の目で過去の出来事を見る(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。

44:1 エジプトの地に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住む者たちに対する、エレミヤにあったことばは、次のとおりである。

43章では、バビロンによって滅ぼされたユダの残りの民が、神のことばに逆らってエジプトにやって来たことを見ました。今日の箇所には、それから数年が経ちエジプトに定住するようになった彼らに対して、エレミヤが語った主のことばが記されてあります。

彼らはミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住んでいました。ミグドル、タフパンヘスはエジプト北部にある国境の町です。メンフィスは、そこから南に150キロほど下ったナイル川流域のエジプト北部の中心都市です。これらの町々は下エジプトと呼ばれるエジプトの北部にある町々です。一方、パテロス地方というのは、ナイル川のはるか上流にあるテーベという都市の南にある地域で、上エジプトと呼ばれている地域です。すなわち、タフパンヘスまでやって来たユダの民は、そこからエジプト全域に分散して住むようになっていたということです。そのユダの民に対してエレミヤを通して主が語られたことばがこれです。2~6節をご覧ください。

「44:2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわいを見た。見よ。その町々は今日、廃墟となって、そこに住む者もいない。44:3 彼らが悪を行って、わたしの怒りを引き起こしたためだ。彼らは、自分自身も、あなたがたも、父祖たちも知らなかったほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えた。44:4 それで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、わたしの憎むこの忌み嫌うべきことを行わないように言ってきたが、44:5 彼らは聞かず、耳を傾けず、ほかの神々に犠牲を供えることをやめて悪から立ち返ることはなかった。44:6 そのため、わたしの憤りと怒りが、ユダの町々とエルサレムの通りに注がれて燃え上がり、それらは今日のように廃墟となって荒れ果てている。』」

「わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわい」とは、バビロンによってエルサレムが滅ぼされた出来事のことです。当時のユダの王はゼデキヤでしたが、ゼデキヤの2人の息子たちは虐殺され、彼自身も両目をつぶされ、足には青銅の足かせをはめられて、バビロンに連れて行かれました。エルサレムにあった王宮や民の家も火で焼かれ、城壁は打ち壊されて、都に残されていた残りの民は、バビロンへ捕え移されました。彼らは、そのすべてのわざわいを見たのです。その町々は今どうなっていますか?その町々は、廃墟となっています。そこに住む者は誰もいません。なぜですか。それは3節にあるように、彼らが悪を行って、主の怒りを引き起こしたからです。彼らは、自分たちの知らないほかの神々に犠牲を捧げて仕えました。偶像に仕えたということです。それは主が最も忌み嫌うことでした。主がモーセを通して彼らと結ばれた契約、十戒の第一の戒めは何でしたか。それは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)でした。自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んでも、それらに仕えてもならない。それなのに彼らはその戒めを破り、ほかの神々のところに行って仕えたのです。主はその忌み嫌うべきことを行わないようにと、早くからたびたび預言者たちを遣わして警告したにも関わらず、彼らはそれを聞こうとしませんでした。それで主の憤りと怒りとが、ユダの町々とエルサレムとに注がれたのです。これはどういうことでしょうか。

過去の歴史をよく見なさい、ということです。過去に何があったのかを見て、なぜそれが起こったのかを考えるようにということです。エレミヤはここで、過去に起こった出来事を振り返り、それがどういうことなのかを、神の視点で語っているのです。このように過去の歴史を振り返り、それがどういうことなのかを理解することは、極めて重要なことです。なぜなら、それによって未来が決まるからです。なぜ、エルサレムは滅んだのでしょうか。その理由なり、その解釈は、人によって違いますが、神の目では、それは彼らがほかの神々のところに行って仕えたことが原因でした。また、それを止めるようにとたびたび預言者たちを遣わしたのに、それを聞かないで悪から立ち返ることをしませんでした。それが原因でした。

皆さん、私たちも皆それぞれ過去がありますが、それをどのように見るか、どのように受け止めるか、どのように解釈するかはとても重要です。以前、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しましたが、彼らは人生をどのように見るかというと、現在から過去を見て未来を見ます。ちょうどボートに乗って向こう岸に行くのと同じです。未来は見えません。見えるのは過去だけです。まっすぐに進むために目印となるのはこれまで進んできた航跡(こうせき)なのです。それによって起動を修正しながら前に進んで行くのです。それは私たちも同じです。自分が歩んできた過去を見て、それがどういうことなのかを神の目で見るというか、霊的に解釈することによって前に進んで行くことができるのです。

先週、Y姉の告別式を行いました。私はY姉の92年の生涯を振り返り、Y姉の生涯はどのような生涯だったのかを思いめぐらしたとき、それは神によって運ばれ、神によって導かれ、神によって恵みと祝福に満ち溢れた生涯だったのではないかと思いました。まさに詩篇23篇6節にあるように、「いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう」とダビデが告白したように、いつくしみと恵みとが追ってくるような生涯でした。なぜなら、Y姉は自分で頑張って道を切り開きその道を歩んできたのではなく、神が用意してくださった道を、「それならあなたに従いますのでよろしくお願いします」と、ただ従って歩まれたからです。そういう生涯を神様が祝福してくださいました。それはまさにAbundantlyな生涯だったのです。だから、私たちもそのように神様によって運ばれ、神様によって導かれ、神様によって恵みに満ち溢れる生涯を歩ませていただきたいと、告別式でお話しさせていただいたのです。それはY姉の生涯を神様の目で、霊的な視点で見ることによって示されたことでした。

皆さんもご存知の三浦綾子さんは、小説を書くことを通して主の栄光を現わされました。おそらく、日本のキリスト教宣教において最も大きな影響を与えた人の一人ではないかと思いますが、それは三浦綾子さんがすべての出来事を神の目を通して捉えておられたからではないかと思います。三浦綾子読書会の代表の森下辰衛さんは、このように言っておられます。

70歳で難病のパーキンソン病を発症し症状が進んで来たころ、三浦綾子さんは「書きたいことはあるけれど、もうその体がわたしにはない。でも、わたしにはまだ死ぬという仕事がある」(三浦光世「死ぬという大切な仕事」より)と言いました。老いて不自由になり何もできなくなった、ではなくて、死ぬということも大切な仕事であり、使命だという緊張感があるのですと。
  中学教師だったAさんは、妻が40代で多発性脳梗塞になり全身麻痺、言葉も失い、寝たきりとなりました。以来、長年の介護で体はボロボロになりました。AさんがステージⅣの癌とも診断されました。気持ちが折れそうになり、介護殺人が心をよぎります。そんなある日、妻の容態が悪化し救急車で運ばれました。そのときAさんは「妻が死ぬ。これで介護地獄から解放される!」と思ったそうです。
  妻が入院中、一人で夕食をしながら、テレビをつけると三浦光世さんと綾子さんの老々介護の様子が紹介されていました。光世さんは虫眼鏡とピンセットで魚の骨を一本一本抜いて綾子さんに食べさせていたました。夜、多い日は7回もトイレに連れて行くのです。
  それでも光世さんは、「綾子、介護するよりも介護される方が辛いに決まってるんだから、もっとわがまま言っていいんだよ」と語りかけていました。そして「苦難にあわないのが良いことではなく、苦難は試練であり、与えられた使命です」と言っていました。こんな世界があったのかと、Aさんは泣きました。そして不思議に心が変わっていきました。やがて妻が退院し介護が再開しましたが、おしめを換えるのも辛くはありません。「すっきりしたか」と声を掛けると、話せない妻がニッコリと笑顔で返してくれるのが、心からいとしくなったそうです。
  三浦夫妻は、老々介護だけの日々になっても、こんなにも夫婦の愛を示して、小説を書いていた時とおなじくらい、多くの人を励ますという務めを果たしました。
  「死ぬという大切な仕事がある」と言えるのは、そこに死を超えた方の眼差しがあるからです。私を産まれさせ、生かし、老いるという仕事も死ぬという仕事も与えて下さり、見守ってくださり、全部用いてくださる方がおられる。そんな信頼があるからです。」(ともしび2025春号 三浦綾子読書会 相談役 森下辰衛)そして、死ぬということを、神様の目で、霊的視点で見ておられたからです。私たちも過去の出来事を、いや、今置かれている状況を神様の目で、霊的な視点で見るなら、「こんな世界があったのか」と思うような驚きと励ましをいただき、不思議に心が変えられ、考えが変えられ、行動が変えられていくのです。

あなたはどうですか。あなたは自分の過去の出来事をどのように受け止めていらっしゃいますか。そこから何を学んでおられるでしょうか。それは思い出すにはあまにも辛いことかもしれません。でも神様はその出来事を通してもあなたに語っておられるのです。ですから、それを神様の眼差しで見つめ直し、そこにこめられた神様の思いを受け止めて、神様があなたの人生を丸ごと抱きしめるように愛して責任をとってくださると信じて、すべてをおゆだねしたいと思うのです。それが、奪われることのない人生の祝福の基盤だからです。

Ⅱ.過去の失敗から学ぶ(7-14)

第二のことは、失敗から学ぶということです。エレミヤはこれまでのユダの失敗、ユダの過ちを踏まえて、何が神のみこころなのかを語ります。7~14節の内容です。まず7節と8節をご覧ください。

「44:7 今、イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる。なぜ、あなたがたは自分自身に大きなわざわいを招き、ユダの中から男も女も、幼子も乳飲み子も断って、残りの者を生かしておかないようにするのか。44:8 なぜ、あなたがたは、寄留しようとしてやって来たエジプトの地でも、ほかの神々に犠牲を供えて、自分の手のわざによってわたしの怒りを引き起こすのか。こうして、あなたがたは自分たち自身を絶ち滅ぼして、地のすべての国々の中で、ののしりとそしりの的になろうとしている。」

これほどの悲劇を体験しながらも、偶像礼拝を好むという民の性質は何も変わっていませんでした。彼らは寄留したエジプトの地でもほかの神々に香をたいて、神の怒りを引き起こしていました。そんな彼らに対して神が語られたことは、「それなのに、なぜ」ということでした。7節と8節には、「なぜ」ということばが強調されています。なぜエルサレムは滅んだのでしょうか。なぜユダの町々が廃墟となったのでしょうか。それは彼らが神の怒りを引き起こしたからです。それなのになぜ、あなたがたはエジプトの地でも同じ過ちを繰り返して、わたしの怒りを引き起こすのか、と訴えているのです。これはもはや神の悲痛な叫びと言えるでしょう。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼らが過去の失敗から学ばなかったことです。彼らは過去においてバビロン捕囚という神の審判を現実に体験しそれを見たのみならず、実際に自分たちも今、エジプトの地に離散させられているにもかかわらず、なおも先祖たちと同じようにほかの神々に仕え、神の怒りを引き起こしていました。彼らはわざわいの原因となった行動を断ち切らなかったのです。そうした彼らに対して主は、「それなのに、なぜ」と嘆いておられるのです。それは彼ら自身に大きなわざわいを招くことでした。それなのになぜ、彼らは神に立ち返らなかったのでしょう。

二つの理由がありました。一つは9節にあるように、彼らが、かつてユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪をすっかり忘れていたことです。9節にはこうあります。「あなたがたは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れたのか。」

彼らは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れていました。まさに、のど元過ぎれば熱さ忘れる、です。

このことについて、バイブルナビはこのように解説しています。「私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負う。ユダの民はこのことについて苦労していた。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことにつながる。失敗から学ばないと、未来にもまた失敗することが確実になる。あなたの過去は経験の学校である。あなたの過ちが、あなたを神の道へと導いてくれるようになるでしょう。」

皆さん、私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負うことになります。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことになるのです。「あなたの過去は、経験の学校である。」いいことばですね。「イエス・キリストを信じるなら、すべての問題は解決して、平坦な道を歩むことができる」ということばを聞くことがありますが、それはうそです。クリスチャンは成功と安逸な人生だけを約束されているのではなく、依然として失敗と苦しみも経験します。しかし違うのは、その失敗と苦しみを通して学び成長することができるということです。あなたの過去は経験の学校なのです。そこから学ぶことによって、あなたは確実に成長を遂げることができるのです。

聖書の中でよく失敗した人物といえばペテロでしょう。アメリカのニューヨーク州グレースチャペルの牧師レスリー・B・フリン(Leslie B. Flynm)はペテロを「ガリラヤ湖のような人だ」と表現しました。ガリラヤ湖は海かと思うほど大きな湖です。ある時は静かで穏やかですが、あっという間に荒れ狂います。いつ波が起こるかわからない、それがガリラヤ湖です。そのガリラヤ湖で魚を捕っていたせいか、ペテロの性格もまた、ガリラヤ湖のようでした。いつどうなるかわからない、落ち着きのない性格だったのです。「静かにしていなさい」と言うと騒ぎ出し、「目を覚ましていなさい」と言えば眠りこけ、「眠れ」と言えば起きて動き出しました。「勇気を持て」と言えば卑屈になって閉じこもり、「進み出ろ」と言うと走り込みました。イエス様も彼のことが、気が気ではなかったのではないかと思います。

でも、イエス様が「人々は人の子をだれだと言っているか」とお尋ねになられたとき、弟子たちは「エリヤだと言っています」とか「バプテスマのヨハネです」と答えたので、「では、あなたがたはわたしをだれだと言うか」と12弟子に尋ねられると、ペテロは待っていましたと言わんばかりに、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と正確に答えました。それを聞かれたイエス様は大いに感動されて、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明かしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(マタイ16:17)とペテロを祝福されました。

しかし、その後イエス様が、やがてご自分が十字架にかかって死なれることを語られると、ペテロは、今度はイエス様をわきにお連れして、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」(21節)と言って、イエス様をいさめたのです。これに大いに失望なされたイエス様は彼に、「下がれ。サタン」(23節)とおっしゃいました。このことは、数日の間に起こった出来事ではありません。同じ場所で、数分の間に起こったことなのです。人を感動させたかと思うとすぐに失望させる、そんなめまぐるしく浮き沈みをする人生がペテロの人生でした。

そんなペテロの生涯の中でも最も大きな失敗は、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と豪語したにもかかわらず、イエス様が捕らえられた時、人々が「あなたもイエスと一緒にいたではないか」と言うと、すべての人の前でそれを否んだことです。「そんな人など知らない」と。

しかしそんな問題だらけのペテロでしたが、やがて信仰に堅く立ち、不動の者とされていきました。どうしてでしょうか。それは復活のイエス様に出会ったからです。復活のイエス様と出会って、主が完全にしてくださるという事実を信じたからなのです。イエス様は完全なペテロに向かって「あなたはペテロ(岩)です」と言われたのではありません。彼はもともと「シモン」でした。「シモン」という名前は「葦」という意味があります。あの揺れ動く葦です。イエス様はそのシモンに「岩」という意味の「ペテロ」という名前をお付けになられたのです。ペテロがまだ弱かったとき、彼の性格を知り、彼の過去を知り、彼の未来を知っておられる主が、「あなたをペテロとする」と言って、彼を変えてくださったのです。
  変えられない人など、一人もいません。たとえあなたの気質がペテロのようで、ペテロのような弱さがあるとしても、イエス様に出会い、聖霊に満たされるなら、あなたも変えられるのです。それが、ペテロが学んだことです。変えられない人は一人もいないということです。彼は後に書いた手紙の中でこう言っています。

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)

 彼は、主が完全にしてくださるという事実を信じたのです。同じように、主はあなたを必ず変えてくださいます。この世に完全な人などいるでしょうか。いません。ペテロも不完全な者でしたが、主が長い時間をかけて整え、用いられました。私たちも自分の弱さに失望してはなりません。また、他の人を罪に定めることもしてはなりません。大切なのは失敗から学ぶことです。ペテロが「主が完全にしてくだる」と言ったように、たとえ今、不完全でも、やがて完全にされ、堅くされ、強くされると信じて、神様の約束にゆだねるなら、あなたも確かに変えられるのです。

 ユダの民が主に立ち返らなかったもう一つの理由は、彼らの心が頑なで、砕かれていなかったことです。10節にこうあります。

「彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがとあなたがたの先祖たちの前に与えたわたしの律法と掟に歩まなかった。」

人は環境が変わっても、心からの悔い改めない限り、本質的に変わることはありません。神のさばきによって、ある者たちはバビロンに引いて行かれ、ある者たちは神の警告を無視してエジプトに来たからと言って、彼らの心が変わることはありませんでした。彼らの心が変わるためには、過去の失敗から学び、心砕かれ、神を恐れなければなりませんでした。ダビデはそうでした。彼はバテ・シェバと姦淫し、その夫ウリヤを戦場の最前線に出させて死なせるという罪を犯しましたが、預言者ウリヤによってその罪が示されたとき、心から悔い改めました。彼は詩篇51篇17節で次のように言っています。

「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:17)

神へのいけにえは砕かれた霊。砕かれた、悔いた心です。神はそれを蔑まれません。ダビテは心砕かれて、神の御前に心から悔い改めましたので、神の赦しを受けたのです。

私たちもありのままの姿で主の御前に進み出なければなりません。弱さが多く、足りないことは、私たちにイエス様が必要であることを意味しているからです。長所のゆえにイエス様の前に進み出ることのできる人など、一人もいません。弱さのゆえに主のもとに進み出て、自分の弱さを告白するようになるのです。

イエス様が最も嫌われた人々はだれでしょうか。パリサイ人です。パリサイ人たちは外側を美しく飾ることに懸命になっていました。内側は腐っているのに、それに気付かないで、包装紙だけを小ぎれいにしていたのです。しかし主が願われるのは、そのような仮面を被った人ではなく、正直に、ありのままの姿で、主のもとに進み出る人です。
  「主よ!私は罪人です。主よ!私はお天気屋です。主よ!私は意志が弱いです。主よ!私は整えられていない者です。主よ!私は矛盾だらけな者です。」と、主の御前に自分のありのままの姿を告白できる人です。多くの人は、自分の弱点を自分で見ることができません。そういう人は回復に時間がかかります。自分の弱さを見て、主の御前にそれをさらけ出すことができる人こそ、主の取り扱いを受けて回復し、立ち上がることができるのです。

Ⅲ.絶望の中でも希望が残されている(11-14)

それなのにユダの民は過去の罪、過ちから何も学ぼうとしませんでした。同じ過ちを繰り返しただけでなく、それを悔い改めようともしませんでした。それゆえ、主はエジプトにいたユダの民にこう宣告されたのです。11~14節をご覧ください。

「44:11 それゆえ、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『見よ。わたしはあなたがたに顔を向け、わざわいを下し、ユダのすべての民を絶ち滅ぼす。44:12 わたしは、エジプトの地へ行ってそこに寄留しようと決意したユダの残りの者を取り分ける。彼らはみな、エジプトの地で、剣と飢饉に倒れて滅びる。身分の低い者も高い者もみな、剣と飢饉で死に、のろいと恐怖のもと、ののしりとそしりの的となる。44:13 わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。44:14 エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き残る者もいない。彼らはそこに帰って住みたいと心から望んでいるが、わずかな逃れる者以外は帰らない。』」」

エジプトでも相変わらず心が頑ななユダの民に対して主は、「わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。」と宣告されました。エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き帰る者もいません。彼らがそこに帰って住みたいと心から望んでも、それが叶うことはありません。ただわずかな者だけが帰ることができます。ほとんどの民は、かつてエルサレムの住民が味わった恐怖を体験することになります。なぜなら、彼らが主のことばに聞き従わなかったからです。彼らの先祖たちが犯した罪の結果を見ても、そこから何も学ぼうとせず、同じ過ちを犯してしまいました。

私たちはこのユダの失敗から学ぶべきです。もし聖霊によって示さる罪があるなら、心砕かれて、悔い改めなければなりません。へブル3章7~8節にこのようにあるとおりです。

「ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」

しかし、14節をよく見ると、ここに「わずかな者は逃れて帰るだろう」とあります。ほとんどすべての民が滅びることになりますが、本当に少数の者ですが逃れることができます。ここに神様のあわれみがあります。この「わずかな逃れる者」が、「イスラエルの残れる者」です。神はイスラエルに審判をくだされますが、滅ぼし尽くすことはありません。そこから人類に救いの道を備えておられたのです。つまり、神はどのような悲劇の中にでも、必ず恵みと希望を備えておられるということです。もう終わりだと思うような時でも、まだ希望が残されているのです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)

神があなたに立てておられる計画はわざわいではなく、将来と希望を与えるためのものです。悔い改めるに遅すぎることはありません。神の恵みと希望は残されているのです。たとえどんなに絶望的な状況の中にあっても、神を信じる者にとって絶望はありません。大切なのは、神に立ち返ることです。確かに今が恵みの時、今が救いの日です。過去の失敗から学びましょう。もし聖霊によって罪が示されたなら、頑なにならないで、砕かれた、悔いた心をもって主に立ち返ろうではありませんか。あなたがどんなに落ちても、救い主はあなたが立ち返るのをずっと待っておられるのです。

エレミヤ43章1~13節「エジプトではなく、神に」

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今日は、エレミヤ書43章から「エジプトではなく、神に」というタイトルでお話します。42章では、ユダの民がエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきかを、エレミヤを通して主に尋ねました。彼らは「それが良くても悪くても、主の御声に聞き従います」(42:6)と言ったにもかかわらず、いざ神の御心が示されるとそれに従いませんでした。ユダの地にとどまるようにという主の御声を退けて、「いや、エジプトに行こう」(42:14)と言ったのです。彼らは、最初から従うつもりなどありませんでした。ただ自分たちの計画に神が同意してくれた時のみ従おうとしていたのです。

かくして彼らはエジプトに下って行くことになりますが、その結果、どうなったでしょうか。主はバビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、ある者たちを殺し、ある者たちを捕虜とし、ある者たちを剣に渡すと語られました。さらにエジプトの神々の神殿を火で焼かれます。エジプトの力を過信して彼らに頼ったユダの民は、神のさばきを受けることになるのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。神よりもエジプトを頼ったことです。彼らは神の御声に聞き従わないで、自分の思いを優先しました。エジプトではなく、神に信頼しなければなりません。神は最後の最後まで、ご自身に立ち返ることを願っておられるのです。

 Ⅰ.主の御声に聞き従わなかった民(1-4)

まず、神の御声に聞き従わなかったユダの姿を見ましょう。1~4節をご覧ください。

43:1 エレミヤが民全体に、彼らの神、【主】のことばを語り終えたときのこと。彼らの神、【主】はこのすべてのことばをもって、エレミヤを彼らに遣わされたのであるが、43:2 ホシャヤの子アザルヤ、カレアハの子ヨハナン、および高ぶった人たちはみな、エレミヤにこう告げた。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、【主】は『エジプトに行ってそこに寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。43:3 ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデア人の手に渡して、私たちを死なせるか、あるいは、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」43:4 カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちと、民のすべては、「ユダの地にとどまれ」という【主】の御声に聞き従わなかった。」

エレミヤが民全体に、主のことばを語り終えると、彼らは全く受け入れるどころか、それを語ったエレミヤを非難しました。「あなたは偽りを語っている」と。エジプトに行ってそこに寄留してはならないというのは、エレミヤの預言を筆記していたバルクにそそのかされてそう言っているだけで、バルクは自分たちをバビロンに引いて行かせようとしているのだと、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかったのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。2節に「高ぶった人たち」とあります。それは彼らが高ぶっていたことです。高ぶっていると神のことばに従うことができません。自分を信頼するからです。謙遜な人は神に信頼しますが、高ぶっている人は自分を信頼します。謙遜な人は神に栄光を帰しますが、高ぶっている人は自分に栄光を帰そうとします。これが問題です。へりくだっているなら神に信頼し、神のことばに従おうとしますが、高ぶっていると神のことばに従うことができないのです。ですから、神の御心に従うためにはへりくだらなければなりません。しかし、このへりくだるということがなかなか難しいのです。

これは寓話ですが、ある若い牧師が、地域のキリスト教団体から、その年の最も謙遜な牧師として表彰されました。教会員もみんな感謝して表彰式に行きました。その式で彼は、最も謙遜な牧師として、謙遜がいかに大切であるかをスピーチしました。ところが次の週、教会員がその表彰状をその団体の本部に返しに来たというのです。その理由は、なんとその牧師はいただいた表彰状を額に入れ、それを教会のロビーに飾ろうとしたからでした。「先生、止めてください。これは返上した方がいいです」と、返しに来たというのです。
  この寓話は真理を突いていると思います。へりくだるというのは、それほど難しいことなのです。

18世紀にイギリスのリバイバル運動を指導したジョン・ウェスレー(1703~1791)は、「キリスト者の完全」という本の中でこう言っています。「もしあなたが完全に罪から解放されていると信じるなら、まず高ぶりの罪に警戒しなさい。この罪だけは、あらゆる欲から解放された心の人も捉えることができることを私は知っている。」

なぜ神のことばに従うことができないのでしょうか。なぜ長老たちに従うことができないのでしょう。なぜ互いに従うことができないのでしょうか。高ぶっているからです。これが罪の本質であって、これを克服できるなら、どのような問題も解決することができるでしょう。なぜなら、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになられるからです。ですから、聖書はこのように勧めています。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:6-7)

ここには、へりくだるとはどういうことなのかが教えられています。それは、あなたの思い煩いのいったい神にゆだねることです。つまり、へりくだるとは、何か特別な思いや取り組みではなく、私たちのありのままの姿を神の前で見つめ、その弱さ、足らなさ、いや罪深い姿を神の御前にさらけ出して、「神さま、どうかよろしくお願いします」と、神様にゆだねる心の営みなのです。

星野富広さんの詩の中に、「あけび」という詩があります。
「あけびを 見ろよ。
木の枝にぶら下がり、体を二つに割って
鳥がつつきにくるのを動きもしないで待っている
誰に教えられたのか あんなにも気持ちよく自分を投げ出せる
あけびを 見ろよ。」

そうです、「あけび」のようになることです。どのような困難が押し寄せようとも、私には全能の神様が付いているから大丈夫だと信じて、その力強い神の御手の下に自分を投げ出すのです。それがゆだねるということです。真に謙遜であるとはそういうことです。それが神のことばに従うために求められるのです。

Ⅱ.エジプトに下って行った民 (5-7)

次に、5~7節までをご覧ください。

「43:5 そして、カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、散らされていた国々からユダの地に住むために帰っていたユダの残りの者すべて、43:6 すなわち、親衛隊の長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、男、女、子ども、王の娘たち、さらに、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクを連れて、43:7 エジプトの地に行った。【主】の御声に聞き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパンヘスまで来た。」

こうして彼らは、エジプトの地に下って行きました。彼らは最初から神に従うつもなどなかったのです。ただ自分たちの計画に神が同意してくれる時のみ従おうと思っていただけでした。これは、申命記28章68節でモーセが預言していた通りでした。主はエジプトに下ることを禁じていたのに(出エジプト14:13, 申命記17:16)、彼らは主の御心に背いて下って行きました。

それは私たちにも警告されていることです。彼らが出エジプトという神の恵みにあずかりながら古いエジプトの生活に戻って行ったように、私たちも神の恵みによって罪から救われたにもかかわらず、再びこの世に戻って行ってしまうことがあります。私たちはかつて罪の奴隷として捕えられていましたが、イエス様が十字架でその罪の身代わりとして死んでくださったことによって、神はその罪から救ってくださいました。罪の奴隷から解放してくださったのです。罪の奴隷から神のしもべに、悪魔の支配から神の支配に、暗やみから光の世界へと移してくださったのです。にもかかわらず、かつての古い生活に戻ろうとすることがあるのです。それは、以前の主人であった悪魔が、クリスチャンが新しい主人である神に従うことを憎み、神に従わないようにと、あの手この手を尽くして誘惑し、以前の状態に引き戻そうとしているからです。

たとえば、悪魔は私たちの欲に働きかけて誘惑することがあります。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などです。「もっといい生活がしたい。」「あれもほしい、これもほしい」。そうした欲に働きかけるのです。ユダの民がエジプトに行こうとしたのもそうでした。そこは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病もないかのように見えました。本当に魅力的な場所に見えたのです。しかし、必ずしも人の目に魅力的に見える場所が祝福される場所であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病に満ちたわざわいの地になることもあるのです。大切なのは、神がともにおられるかどうかということです。神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられるからです。

あるいは、私たちの人生に起こるさまざまな試練を用いて誘惑することもあります。たとえば、病気とか事故、家庭の問題や人間関係の問題、経済的な問題などです。そうした問題を通して不安を与え、神から遠ざけようとするのです。「なぜ私ばかりこんなに苦しまなければならないのか」、「神がおられるならどうしてこのようなことが起こるのか・・・」と、神の愛に疑問を抱かせて、信仰を捨てるようにと誘惑するのです。

あるいは、試練や苦難ばかりでなく、逆に良いことを通しても誘惑することがあります。たとえば、一生懸命働くこともすばらしいことです。家族を愛することは大切です。休日に余暇を楽しむことも良いことです。しかしそれがどんなに良いことでも神より愛するなら、それが罠となって神から離れてしまうことがあります。イスラエルの民が神から離れたのは、これが一番大きな要因でした。彼らはパンがないとか水がないことによっても神を疑うことがありましたが、それよりも、豊かになった時の方が問題でした。高ぶって神を忘れてしまい、神から離れてしまったからです。

このように、悪魔は私たちが神に従わないようにと、あの手この手を使って誘惑してきますから、私たちはこの悪魔に立ち向かわなければなりません。どのようにして立ち向かったらいいのでしょうか。ヤコブ4章7節にはこうあります。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

ですから、神に従わなければなりません。私たちの力では、悪魔に立ち向かうことができないからです。神に従い、神の力をいただいて、悪魔に立ち向かうのです。

あなたをキリストの愛から引き離すものは何ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、剣ですか。しかし私たちは、これらすべての中にあっても、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となります。エジプトに行ってはいけません。どんなことがあってもキリストの愛と神の恵みにしっかりとどまっていなければなりません。自分の思いを明け渡して、神の御心をたずね求め、神に従いましょう。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。

Ⅲ.最後の最後まで(8-13)

最後に、8~13節をご覧ください。エジプトに行った民に対する預言のことばです。

「43:8 タフパンヘスで、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。43:9 「あなたは手に大きな石を取り、それらを、ユダヤ人たちの目の前で、タフパンヘスにあるファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰の中に隠して、43:10 彼らに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。見よ。わたしは人を遣わし、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える。彼はその石の上に本営を張る。43:11 彼は来てエジプトの地を討ち、死に定められた者を死に渡し、捕囚に定められた者を捕囚にし、剣に定められた者を剣に渡す。43:12 わたしがエジプトの神々の神殿に火をつけるので、彼はそれらを焼き、神々を奪い去る。彼は、羊飼いが自分の衣をまとうようにエジプトの地をまとい、ここから安らかに去って行く。43:13 また、エジプトの地にある太陽の神殿の石柱を砕き、エジプトの神々の神殿を火で焼く。』」」

ユダの残りの民は、タフパンヘスに到着します。そこはナイル川の東にあるエジプト国境にある町です。そこに来たとき、エレミヤに主のことばがありました。それは、大きな石を取り、それをファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰(しっくい)の中に隠して、彼にこう言えということでした。すなわち、主はバビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座をその敷石の上に据え、その石の上に彼が本営を張るというものです。すなわち、主はそこでネブカドネツァルを王座に据え、エジプトを打たれるというのです。これは一つのデモンストレーションでした。神はこの象徴的な行為によって、ご自分が行おうとしていることを預言者エレミヤに啓示し、その意味をタフペンヘスにいるユダの民に告げようとされたのです。

その結果、彼らはどうなりますか。死に定められた者たちを死に渡し、捕囚に定められた者を捕虜とし、剣に定められた者を剣に渡されます。また、エジプトの神々の神殿は火で焼かれるようになります。

これを行うのはバビロンの王ネブカドネツァルですが、主は彼のことを「わたしのしもべ」と呼んでいます。これはネブカドネツァルが神の信者であるということではなく、主の御業を実行する駒として用いられるという意味です。主が人を遣わして、ネブカドネツァルを連れて来させ、ご自身のご計画を成し遂げられるのです。どうして主はこのようなことをされるのでしょうか。それは彼らが真に拠り頼まなければならないのは主ご自身であることを示すためです。彼らは主よりもエジプトを頼りとしました。でも彼らが真に頼りとしなければならないのはエジプトではなく、主ご自身だったのです。

皆さん、どうでしょうか。私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。確かに神は力ある方、全能者、偉大な方であるということはわかっていてもいざ現実の生活の中で問題が起こると、目に見えるものに、エジプトに頼ろうとする傾向があるのではないでしょうか。しかし、そうしたものはあなたを救うことはできません。

イザヤ28章20節には、エジプトのことを指して「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」と言われています。エジプトの寝床は短すぎます。身を伸ばして寝ようとすると、足がベッドからはみ出てしまうのです。また、エジプトという毛布は小さすぎます。どんなに包まろうとしても小さすぎて背中が丸見えになります。そのようなベッドや毛布のように、エジプトはあなたを守ることはできないのです。あなたが拠り所としていたもの、ゆっくりと体を休め、体を温めることができると思っていたものが、いざというときに何の役にも立たないのです。私は生命保険に入っているから大丈夫です。銀行にこれだけ貯金があるから、こういう不動産があるから安心です。株があるから何とかなります。私には健康があるから大丈夫です。健康だけが取り柄です。私にはこの資格、あの資格があるから何とか食べていけますと、この世の毛布に身を包もうとしても、そうしたものは狭すぎるのです。寒いときには暖めてくれるだろうと思っていても、いざという時には何の役にも立たないのです。その究極が「死」です。あなたに死が襲い掛かる時、あなたが拠り所としているこれらのものが、あなたを本当に守ってくれるでしょうか。そうしたものはあなた助けにはなりますが、本当の意味で助けることはできません。あなたを守るには短すぎるのです。狭すぎます。人間的な計画はすべて、神のすぐれた御手の中で水の泡となるのです。ただ神だけが、私たちに真の安全をもたらすことができるのです。

かつて南ユダにヒゼキヤという王様がいましたが、このヒゼキヤの時代、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲したことがありました。その強大な敵の前に彼らは何のなす術もありませんでしたが、そのような中で彼らどうしたかというと主に祈りました。主に信頼して祈ったとき、主は彼らを助けてくださいました。何とその晩、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き18万5千人を打ち破られたのです。彼らが何かをしたからではありません。ただ彼らが神に拠りすがり、神に祈り求めた結果、神が働いてくださったのです。その結果、アッシリヤの王セナケリブは立ち去りました。主に信頼するなら、主が守ってくださいます。それは短かい寝床のようなものではありません。あるいは、狭くて暖められないような毛布のようなものではありません。あなたを完全に守り、包むことができます。

ですからエジプトではなく、神に頼まなければなりません。神に信頼する者は、決して失望させられることはありません。あなたにとってのエジプトは何ですか。あなたが拠り頼んでいるものは何でしょうか。

ところで主は、ご自身のみことばに従わないでエジプトに行ったユダに対して、なおも語られました。考えてみると、彼らはこれまでもずっと主のみことばに背いてきました。その結果、バビロン捕囚という憂き目に会ったわけですが、普通ならこれで終わりです。にもかかわらず神は、その後も何度も彼らに語られました。主は最後の最後まで語られたのです。一方、ユダの民はというと、最後の最後まで神のことばを拒みました。ここに民をこよなく愛しておられる神と、それを拒むユダの民の悲しい姿が対比されています。私たちはどこで立ち止まり、どこで神に立ち返るのでしょうか。神はあなたを愛しておられます。最後の最後まであなたに語られ、あなたが神に立ち返ることを願っておられるのです。立ち返れ。立ち返れ。立ち返って生きよ。それが神の心からの叫びなのです。

しばらくの間ずっと家内とエゼキエル書を読んで祈りましたが、18章に出てくる「立ち返って、生きよ」ということばが心にとまりました。18章にはこのことばが何度も繰り返して出てきます。最低でも6回出てきます。

「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか─神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18:23)

主が喜ばれるのは、私たちが立ち返って生きることです。神はあなたを救うことができます。完全に守ることがおできになるのです。この神に立ち返り、神に拠り頼みましょう。エジプトではなく神に、です。そして、神のことばに聞き従う者でありたいと思います。神に信頼する者は決して失望させられることはありません。このみことばを日々の生活の中で体験させていただきましょう。

エレミヤ42章1~22節「行くべきか、とどまるべきか」

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エレミヤ書42章に入ります。今日のタイトルは、「行くべきか、とどまるべきか」です。どこに行くべきなのでしょうか、どこにとどまるべきなのでしょうか。それはエジプトであり、ユダの地です。エジプトに行くべきか、ユダの地にとどまるべきか、ということです。

前回は41章から、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちが、ネタンヤの子イシュマエルから取り戻したすべての残りの民を連れて、エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムにとどまったことを学びました。なぜでしょうか?なぜなら、ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしたことで、バビロンの王に疑われ、殺されるのではないかと恐れたからです。そこで彼らはエジプトに行こうとしてやって来たわけですが、そこで悩みます。果たしてそれで良かったのか。このままエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきか。

私たちにもこういう時があります。どうしたら良いか、行くべきか、とどまるべきかと。私たちはいつもこうした選択に迫られながら生きています。そしてそのどちらを選択するかはとても重要です。なぜなら、それによって人生が決まるからです。いったいどうしたら正しい判断をすることができるのでしょうか。

 Ⅰ.それが良くても悪くても(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。

42:1 軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザンヤ、および身分の低い者も高い者もみな近づいて来て、42:2 預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを受け入れてください。私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、【主】に祈ってください。ご覧のとおり、多くの者の中からわずかに私たちだけが残ったのです。42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」42:4 そこで、預言者エレミヤは彼らに言った。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、【主】に祈り、【主】があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」42:5 彼らはエレミヤに言った。「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。42:6 それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」」

総督ゲダルヤが暗殺された後に、バビロンの報復を恐れたヨハナンをはじめとする高官たちは、キムハムの宿場まで行きながら、引き返してエレミヤのところにやって来ると、神のみこころを求めて「あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」(3)と言いました。やはりエジプトに行くことに、ある種のプレッシャーを感じていたのでしょう。エジプトに行くべきか、それともユダにとどまるべきか、彼らは真剣に求めたのです。1節には、軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザンヤ、および身分の高い者も低い者もみな、とあります。それは、日ごろは障壁となっている身分の差を超えて、一つにまとまった瞬間でした。彼らは一つの心で神の御心を知りたいと切に願ったのです。神の御心に耳を傾けることは、絶望を希望に変える始まりです。苦しい時、辛い時、あるいは先が見えなくて不安な時、あなたはどこに助けを求めているでしょうか。彼らのように、神の御心を求めて祈る人は幸いです。祈りとみことばの中で新たな力を得るために礼拝の場に出ることが、あなたが神の御心に従うための第一歩だからです。

それに対してエレミヤは、彼らの真実な求めに応じて、主に祈り、主からの答えがあったら、それを彼らに告げると約束しました。何事も隠さないと。預言者エレミヤにとっても真剣にならざるを得ませんでした。そのような求めに応じて、神のことばを取り次ぐことこそ預言者として召された自分に与えられた使命であると思ったからです。

すると彼らはエレミヤにこう言いました。5節と6節の「」のことばをご一緒に読みましょう。

「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。
  それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」

すばらしいですね。彼らは、何でも主の御声を聞いたならば、その通り行うと応答しました。それが良いことでも悪いことでもです。これこそ、神のみこころを尋ね求める者にとってふさわしい態度です。たとえ自分の目には悪いように見えても、主の御声を聞いたならば、それに従うことが幸せを得る秘訣です。しかし、これがなかなかできません。人はみな自分の思いがあって、そこから離れることができないからです。いつまでもそれに固執しようとするのです。

私はいろいろな方々から相談のメールや電話をいただきますが、その内容のほとんどはこれです。「どうしたら良いか」。そのような時、この方の問題がどこにあるのか教えてくださいと心の中で祈りながらじっと聞いていると、主は聖書のみことばを示してくださいます。ですから、十分お話を聞いた後でそれを伝えると、「そうですよね、ありがとうございました。」と喜んで電話を切る人と、自分の思いをトクトクト話し続ける人がいます。みことばが示されているのに、です。自分の思いに共感してほしいのです。その方は、結局、主の御心を尋ね求めているというよりも、自分の思いを聞いてほしいだけなのです。そこから離れることができません。あくまでも自分の思いを通そうとするわけです。でも大切なのは、それが自分にとって良くても悪くても、神の御心が示されたなら、それに従うことです。なぜなら、「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ、主の証は確かで、浅はかな者を賢くする。」(詩篇19:7)からです。

皆さん、電話を発明した人をご存知ですか。電話を発明したのはアレキサンダー・グラハム・ベルというスコットランド出身の科学者です。彼は1875年に、電話機の実験に成功しました。彼が電話機を発明した時に最初に発したことばは、「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」という秘書に対する呼びかけでした。
  1876年、彼は特許を取り、翌年にベル電話会社を設立しました。そのベルが次のように語っています。
  「一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。しかし、私たちは閉ざされた扉ばかりをいつも未練がましく見続けているので、開かれたもう一つの扉が見えずにいるのです。」

皆さん、たとえ一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。神がその扉を開いてくださいます。それはあなたの想像を遥かに超えたことかもしれません。それなのにいつまでも自分の思いに固執して閉ざされた扉ばかりを見ているとしたら、開かれているもう一つの扉を見ることはできません。大切なのは自分の思いに固執するのではなく、それを一旦脇に置いておき、すべてを神にゆだねることです。そして神がみことばを通して示してくださることに聞き従うのです。そうすれば、あなたは幸せを得ることができます。神があなたの人生に働いてくださり、最善に導いてくださるからです。あなたに求められていることは、神の最善を信じ、それが良いことでも悪いことでも、神が語られたことに喜んで従うことなのです。

Ⅱ.信仰によって判断する (7-19)

次に、7~19節までをご覧ください。17節までをお読みします。

「7 十日たって、【主】のことばがエレミヤにあった。42:8 エレミヤは、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいる軍のすべての高官たちと、身分の低い者や高い者をみな呼び寄せて、42:9 彼らに言った。「あなたがたは自分たちのために嘆願してもらおうと私を主に遣わしたが、そのイスラエルの神、【主】はこう言われる。42:10 『もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。42:11 あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるな──【主】のことば──。わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。42:12 わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼はあなたがたをあわれんで、あなたがたを自分たちの土地に帰らせる。』42:13 しかし、あなたがたが『私たちはこの地にとどまらない』と言って、あなたがたの神、【主】の御声に聞き従わず、42:14 『いや、エジプトの地に行こう。あそこでは戦いにあわず、角笛の音も聞かず、パンに飢えることもない。あそこに私たちは住もう』と言うのであれば、42:15 今、ユダの残りの者よ、【主】のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『もし、あなたがたがエジプトに行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、42:16 あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの地であなたがたを襲い、あなたがたの心配している飢饉が、あのエジプトであなたがたに追い迫り、あなたがたはそこで死ぬ。42:17 エジプトに行ってそこに寄留しようと決意した者たちはみな、そこで剣と飢饉と疫病で死ぬ。わたしが彼らに下すわざわいから、生き残る者も逃れる者もいない。』」

十日たって、主のことばがエレミヤにありました。エレミヤが主に祈ってからすぐに主の答えがあったわけではありません。そのためには10日間待たなければなりませんでした。それは、彼らが主から祈りの答えをいただくために心を準備する時間でした。祈りには、時間をかけて、主を待ち望むことが必要な時があります。彼らにはエジプトに下っていってバビロンから逃れようという焦りしかありませんでした。それでも、待たなければならない時には、待たなければなりません。

ある牧師がこう言いました。「祈りの95%は、主が示される祈りの答えを行うことができるようにするための準備である」と。私たちは気軽に、「主が言われることは何でも行います」と言いますが、本当にそうでしょうか。確かにそれは言うにやすしですが、実行することは難しいことです。私たちはもう一度本当にそうなのかどうか、自分の心を吟味しなければなりません。

さて十日たって、エレミヤに主のことばがありました。それは次の二つのことでした。一つは10~12節にあるように、もし彼らがこの地、すなわちユダの地にとどまるなら、主は彼らを建て直し、壊すことなく、彼らを植えて、引き抜くことはしないということでした。またバビロンの王を恐れなくてもよいということでした。なぜなら、主が彼らとともにいて、彼の手から彼らを救い、助け出してくださるからです。そればかりではありません。主が彼らにあわれみを施されるので、自分たちの土地に帰ることができるということでした。

一方、それに反して、「私たちはこの地にとどまらない」と言って、彼らの神、主の御声に聞き従わず、エジプトに下っていこうと言うのであれば、彼らが恐れている剣がエジプトの地で彼らに襲い、彼らが心配している飢饉が、彼らに追い迫り、そこで死ぬことになります。それは主が下すわざわいで、そこから逃れる者はだれもいません。だから、主はこう言われました。19節です。「ユダの残りの者よ、主はあなたがたに「エジプトへ行ってはならない」

これが主の御心でした。主はご自身のみこころを明白に示されました。それは、彼らにとって歓迎できることではありませんでした。むしろ、エジプトに行った方がどれほど明るい未来があると思ったことでしょう。なぜなら、14節にあるように、そこでは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病で死ぬこともないかのように見えたからです。しかし、人の目には魅力的に見える場所が、必ずしも祝福される地であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病が満ちたわざわいの地となることもあるのです。つまり、神のことばに従わなければ、そこにはわざわいがもたらされるということです。しかし、神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられます。最も安全で良い地は、神がともにおられる地です。神がともにおられるなら、砂漠も肥沃な地に変えられ、死の谷も天国に変わるのです。いのちと祝福の源は、神がともにおられるかどうかにかかっているのです。

このことからどういうことが言えるでしょうか。目に見えるところによって歩んではならないということです。たとえそこが魅力的に見えるところであっても、そうしたことによって判断するのではなく、神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれることなのかを基準として判断しなければなりません。つまり、信仰によって歩まなければならないということです。

皆さんは、ファニー・クロスビー(1820年~1915年)という賛美歌の作詞者をご存知だと思います。彼女は、その生涯に「十字架のかげに」、「罪、咎を赦され」、「恐れなく近寄れと」等、5000以上の賛美歌を作ったと言われています。
  実は、彼女は生涯のほとんどを、盲目の中で過ごしました。生後6週間で眼科医のミスにより失明してしまったのです。その後、すぐに彼女のお父さんが亡くなったので、彼女のお母さんは生計をたてるために、毎日朝早くから、夜遅くまで仕事に出かけなければなりませんでした。ですから、彼女の世話はおばあちゃんがしました。
  おばあちゃんはとても信仰に篤い人でした。毎日、自分の手元に彼女を置いて、一生懸命神様の話を聞かせました。そして、聖書の言葉を暗記するように指導しました。だから彼女は小さい時から、たくさんの聖書の言葉を暗記したのです。それが後に、彼女が美しい詩を作っていくための材料になりました。
  彼女が8歳の時に作った、こんな詩が残っています。
 「他の人なら見過ごしてしまう神の恵みを、私はどれほど多く感じ喜んでいるでしょう。盲目だからと言って泣いたり、ため息をついたりということはできないし、するつもりもありません。」

8歳の子供ですよ。すごいですね。彼女は、肉体の目が見えるということよりも心の目が見えることの方がはるかにすばらしい、という価値観を小さい時から身に付けていたのです。
  彼女は、95年の生涯を送っていますが、数え切れないほどの美しい賛美歌を作りました。大人になった彼女は、ある日こう言っています。
  「失明したことは、私の人生の中で起こった最高の出来事でした。もし、この目が見えていたならば、私はこんなにもたくさんの詩を作ることができなかったと思います。」
  彼女は38歳の時、同じ音楽家と結婚しますが、生まれてきた子供が、すぐになくなってしまいました。そういう悲しみの中でも、彼女はすばらしい詩を作り続けていきました。

彼女を気の毒に思った人もいました。ある宣教師がなぐさめるつもりで彼女に、「神があなたにこれほど多くの賜物を与えながら、視力をお与えにならなかったのは、とても残念です」と言うと、彼女はこれに、信じられないような返答をしました。

「もし生まれるときに願いごとができたなら、私は盲目で生まれさせてくださいと願うでしょう。なぜなら、天国に行って私が最初に目にするのは、私の救い主のお顔だからです。」

彼女が亡くなって100年以上経ちますが、今も世界中で彼女の詩は、歌い続けられています。彼女の詩はいつも、天国の希望に満ち溢れています。 「どんな苦難の中にあっても、神は私と共にあり、私を慰めてくださる。」
 これが彼女の信仰でした。彼女はいつも永遠の視点で人生を見ていたのです。私たちが抱える問題は、永遠の光の中では違って見えるのです。ですからパウロはこう言いました。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリ4:17-18)。

イエスとお会いする栄光の日が来ることを思うと、この世の試練はかすんで見えます。永遠をいかに見るかが、私たちの生き様に影響を与えるからです。だから、見えるものによってではなく、見えないものに目を留めましょう。どんな苦難の中にあっても、神は私と共におられるという信仰によって歩みたいと思うのです。

Ⅲ.私の願いではなく、主のみこころがなりますように(20-22)

ですから第三のことは、自分の思いではなく、主のこころを優先しましょうということです。20~22節をご覧ください。

「42:20 あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまったからだ。あなたがたは私をあなたがたの神、【主】のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、【主】に祈り、すべて私たちの神、【主】の言われるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。42:21 私は今日、あなたがたに告げたが、あなたがたは、自分たちの神、【主】の御声を、すなわち、主がそのために私をあなたがたに遣わされたすべてのことを聞こうとしなかった。42:22 だから今、確かに知らなければならない。あなたがたが、行って寄留したいと思っているその場所で、剣や飢饉や疫病で死ぬことを。」」

エレミヤを通して語られた主のことばに対して、彼らはどのように応答したでしょうか。彼らは「主が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。」(5)と言っていたにもかかわらず、エレミヤから告げられた主のことばを聞こうとしませんでした(21)。自分たちの判断を、主のことばよりも優先したのです。彼らは最初から聞く気などありませんでした。彼らはすでにエジプトに下って行くことを決めていて、その思いに神が同意してくれたときのみ、神のことばに従おうと思っていたのです。結局のところ、彼らの従順は中途半端なものであり、ただエレミヤを利用しようとしたにすぎなかったのです。その結果はあまりにも明白です。その結果は何ですか。戦いと飢饉と疫病による死でした。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ3:23)とある通りです。エレミヤは、そのような彼らの姿を見ていて、どれほど歯がゆかったことでしょうか。どれほど悔しかったでしょう。どれほど悲しかったでしょう。

ヘンリー・ブラッカビーが書いた「神の御声にこたえる人生」という本に、こんな話があります。
  「私が初めて執り行った葬式は3歳の女の子のものでした。その子が生まれた時のことを覚えています。その子は、あまり聞き分けの良い子ではありませんでした。その家庭を訪問した時、その子は親の言うことを当たり前に無視していました。来いと言えば去って行き、座れと言えば立ちました。親はそんな行動をただかわいらしいと考えていました。そんなある日、子どもが庭から道路へと走って行くのが見えました。そして同時に、向こうから自動車が猛スピードで近づいてきました。子どもは駐車していた2台の車の間をすり抜けて、道路へ向かって行きました。あわてた両親は「だめだよ、帰っておいで!」と叫びましたが、子どもはちょっと立ち止まって親の方をちらっと振り返ると、にこって笑って走ってくる自動車のほうへと走り出しました。そして、車はすごい勢いでその子とぶつかりました。すぐに病院に運ばれましたが、子どもは結局亡くなってしまいました。夫婦が一人娘の死を確認したその時、私も病室に一緒にいました。葬式で響き渡った嘆きの声は、断腸の悲しみでした。その葬式を、私は今でも忘れることができません。」

なぜこんな悲劇が起こってしまったのでしょうか。その子には親の声が聞こえなかったのでしょうか。そうではありません。聞こえていましたが、それに従う訓練がなされていなかったのです。神の御声に聞き従うことが、私たちが生きる道です。私たちに必要なものは、神の御心であるならそのとおりに行うという単純な心、忠実な心、一貫した心です。状況が困難だからと言い訳をしてそこから逃げないことが肝心です。イエス様がゲッセマネの園で祈られたように、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)と祈らなければなりません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神のことばを受けて良い実を結ぶ良い地ですか。神のことばが根を下ろさないように妨げているものがあるとしたら、それは何ですか。私たちが求めるものと主が望まれるものが違うときき、あなたはどうなさいますか。私たちの人生の主権者は誰なのかを思い起こし、その方のみこころ、ご計画に従う決断ができるように祈りましょう。

エレミヤ41章1~18節「みこころを知り、みこころに従う」

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きょうは、エレミヤ書41章からお話します。タイトルは、「みこころを知り、みこころに従う」です。この41章は、前回お話した40章からの続きとなっています。

前回は、エレミヤがバビロンの王の親衛隊長ネブザルアダンから、あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさいと言われまたが、エルサレムの貧しい民の間に住むことを選択したことを見ました。なぜなら、それが神から彼に与えられた使命、神のみこころだったからです。また、総督ゲダルヤは、ユダに残された民に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」と言いました。なぜなでしたか?それが神のみこころだったからです。

しかし、そんなゲダルヤでしたが、アンモン人の王によって遣わされたイシュマエルによる暗殺計画を見破ることができませんでした。彼は霊的、信仰的に優れていましたが実際的な面で弱いところがあったのです。ですから、神のみこころに従うためには、それを妨げようとする悪魔の策略に対してしっかりと対処するために、御霊の武具を身にまとい備えていなければなりません。

今回は、その続きです。神のみこころを知り、みこころに従うためにはどうしたら良いのでしょうか。

 Ⅰ.高慢は破滅に先立つ(1-10)

まず、1~10節をご覧ください。3節までをお読みします。

41:1 ところが第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルは、王の高官と十人の部下とともに、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに来て、ミツパで食事をともにした。41:2 ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた十人の部下は立ち上がって、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを剣で打ち殺した。イシュマエルは、バビロンの王がこの地の総督にした者を殺した。41:3 ミツパでゲダルヤと一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデア人の戦士たちを、イシュマエルは打ち殺した。」

1節の「ところが」とは、イシュマエルが総督ゲダルヤを暗殺しようとしているという知らせをカレアハの子がヨハナンがゲダルヤに伝えたにもかかわらず、ゲタルヤはそれを本気にするどころかヨハナンこそ偽りを語っていると言って受け入れなかったことを受けてのことです。ところが、第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルが、王の高官と10人の部下とともに、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ると、彼を剣で打ち殺してしまいました。これは、あらゆる面で忌むべきことでした。
  第一に、ここに「第七の月」とありますが、これは今の暦で言うと10月に当たります。この第七の月には、ユダヤでは仮庵の祭りをはじめ、さまざまな祭りが行われる月です。そういう最も聖なる月に暗殺が行われたのです。
  それだけではありません。ここには「ミツパで食事をともにした」とあります。それは食事の席で行われました。イシュマエルの一行はゲダルヤのもてなしを受けていたのです。中東では食事をともにするというのは、親しい交わりを持つことを意味していました。ですから、ゲダルヤはまさかイシュマエルがアンモン人の王に雇われて反乱を起こすなんて想像もできなかったでしょう。しかし、イシュマエルはその食事の席でゲダルヤを打ち殺したのです。これは本当に卑劣な行為です。
  殺されたのはゲダルヤだけでなく、彼とそこに一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデアの戦士たちも含まれていました。いったいなぜイシュマエルはこのような反乱を起こしたのでしょうか。

1節には、このイシュマエルについて「王族の一人」と紹介していますが、これは、彼がダビデの家系であったことを表しています。ダビデ王の家系ある自分こそユダを統治するにふさわしい人物であるのに、ゲダルヤがその立場に立っていることを受け入れられなかったのです。また、2節には「バビロンの王がこの地の総督にした者」とありますが、ゲダルヤのことをわざわざこのように紹介しているのは、彼がバビロンの王によって立てられた総督であることを強調するためです。すなわち、イシュマエルの中にバビロンに対する敵対心があったことを表しているのです。そうです、イシュマエルが総督ゲダルヤを殺したのは、バビロンの支配下で営まれる政治を正当なものとして受け入れることができなかったからです。彼はそれらを不当な統治であるとみなし、これを排除しようとしたのです。それは、その後に起こる第二の事件を見てもわかります。4~10節をご覧ください。

「41:4 ゲダルヤが殺された次の日、まだ、だれもそれを知らなかったとき、41:5 シェケム、シロ、サマリアから八十人の者がやって来た。彼らはみな、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけ、穀物のささげ物や乳香を手にして、【主】の宮に持って行こうとしていた。41:6 ネタンヤの子イシュマエルは、彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行った。そして、彼らに出会ったとき、「アヒカムの子ゲダルヤのところにおいでください」と言った。41:7 彼らが町の中に入ったとき、ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた部下たちは、彼らを殺して穴の中に投げ入れた。41:8 彼らのうちの十人がイシュマエルに、「私たちを殺さないでください。私たちには、小麦、大麦、油、蜜など、畑に隠されたものがありますから」と言ったので、彼は、彼らをその仲間とともに殺すのをやめた。41:9 イシュマエルが、ゲダルヤの指揮下にあった人々を打ち殺し、その死体すべてを投げ入れた穴は、アサ王がイスラエルの王バアシャに備えて作ったものであった。ネタンヤの子イシュマエルはそれを、殺された者で満たした。41:10 イシュマエルは、ミツパにいた民の残りの者たち、すなわち王の娘たち、および親衛隊の長ネブザルアダンがアヒカムの子ゲダルヤに委ねた、ミツパに残っていたすべての民を捕らわれの身とした。ネタンヤの子イシュマエルは彼らを捕囚にして、アンモン人のところに渡ろうとして出発した。」

次の日のことです。まだ、だれもそれを知らなかったとき、 シェケム、シロ、サマリアから80人の者が主の宮にささげ物をささげるために、やって来ました。「それ」とは、イシュマエルがゲダルヤを殺害したことです。シェケム、シロ、サマリアといった町々は、北王国イスラエルにある町です。そこはかつて偶像礼拝の中心地でしたが、B.C.722年にアッシリアによって滅ぼされると、そこにユダヤ人とアッシリア人の混血の民サマリア人が生まれ、独自の宗教が始まりました。それにもかかわらず、中には真の神、ヤハウェを信じるユダヤ人たちが残されていて、エルサレムの神殿に上って礼拝をささげていたのです。彼らはエルサレムが破壊されたことを知りながら、なおもそこで礼拝をささげようとしてやって来たのです。5節に、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけとあるのは、深い悲しみを表しています。神殿が焼失してからしばらく経っていましたが、彼らは秋に行われる祭りを、神に対する悔い改めの日にしようとしたのです。動物のいけにえを持っていなかったのは、それをささげる場所がなかったからです。北王国イスラエルに、このような真の神、ヤハウェを信じる神の民が残されていたことは驚きですね。おそらく南ユダ王国のヒゼキヤ王やヨシヤ王によって行われた宗教改革の影響が残っていたのでしょう。神を求める人はだれもいないと思えるような今日にあっても、私たちの知らないところで、神はこうした残りの民を備えておられるということを知ることは大きな励ましです。

さて、彼らが主の宮にやって来たということを聞いたイシュマエルはどうしたでしょうか。6節を見てください。彼は彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行ったとあります。それは彼らを騙すための演技でした。そして彼らに出会ったとき彼はゲダルヤの家に誘い込み、彼らを殺してしまいました。何と残虐な行為でしょうか。しかし、彼らのうちの10人が「殺さないでください」と懇願し、小麦、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼らを殺しませんでした。それでイシュマエルはミツパに残っていたすべての民を捕虜にして、アンモン人のところに渡そうとして出発したのです。彼はゲダルヤを殺害しただけでなく、主を礼拝するために北からやって来た人たちを虐殺したのです。いったいなぜ彼はこんな酷いことをしたのでしょうか。また、なぜ聖書はこの出来事を事細かにここに書き記しているのでしょうか。

多くの学者は、それはこのイシュマエルの残虐な人間性を示すためであったと考えていますが、そのことを示すためにわざわざこの出来事を記録したのでしょうか。それで他の学者は、これは彼の貪欲さを示すためであった考えています。それは8節に、彼らのうちの10人がイシュマエルに小麦とか、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼は殺すのを止めたとあるからです。確かにそのような理由もあったでしょうが、もっと深い理由があったのではないかと思います。というのは、ただやみくもに通りがかりの人を虐殺したとは考えにくいからです。であれば、その理由とは何でしょうか。

それは、政治的、宗教的な理由です。なぜゲダルヤがエルサレムを治めなければならないのか。エルサレム神殿が破壊されたのに、なぜエルサレムで礼拝をささげなければならないのかということです。エルサレムを治めるのはダビデの家系である自分ではないのか。それなのにバビロンの王はゲダルヤを総督として立てた。そんなの断じて許せないし、認めることなどできない。だからイシュマエルはアンモン人の王と結託してゲダルヤを暗殺したのです。だからイシュマエルはサマリアからやって来た巡礼者一行を虐殺したのです。彼は、自分の先祖ソロモンが建てた神殿以外で行われる礼拝を受け入れることができなかったのです。彼はただやみくもに通りがかりの人を殺したわけではありません。バビロンの支配下で営まれる政治や宗教はすべて偽りであるとみなし、これを排除しようとしたのです。

強いて言うならば、彼は神のみこころを受け入れることができなかったのです。これらのことは、それを拒絶しようという思いから出た行為だったのです。というのは、神のみこころは何でしたか?神のみこころは、彼らがこの地に住んでバビロンの王に仕えることだったからです。40章9節を振り返ってみましょう。ここには、「ガルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。どうすれば、幸せになりますか?この地に住んで、バビロンの王に仕えるなら、幸せになります。それが神のみこころだったのに、彼はそれを受け入れることができませんでした。「なぜ、バビロンに仕えなければならないのか」、「なぜ異邦人の言いなりにならなければならないのか」、「神は勝利を与えてくださるはずじゃないか。だから最後まで戦うべきではないか。それをしないのは不信仰だ。」と。ですからこれは彼が単に残虐な人間だからとか、貪欲な者であったということを示しているのではなく、神のみこころに従おうとしなかった頑なさが、このような事件を引き起こしたということを示しているのです。このように、イシュマエルの行動の動機というものを、神との関係、宗教的な点に求めてこそ、これらの出来事の本当の原因が見えてくるのです。

それはイシュマエルに限ったことではなく、私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも自分の中で受け入れられないことがあると、イシュマエルのような気持ちになることがあります。

先日、ある牧師から電話がありました。その牧師は臨床心理の専門家と協力して心が病んでいる方を助けてあげたいといろいろな情報を発信しているのですがなかなか思うように広がらないので、どうしたら良いかアドバイスしてほしい、ということでした。そんなに親しい方ではないのになぜ私に電話をしてきたのか不思議に思いましたが、ずっと話を聞いていると電波の関係であまりよく聞き取れないこともありましたが鉄砲のように話し続けて止まらないので、聞いていてホトホト疲れ果ててしまいました。一生懸命に説明しようとしているのはわかりますが、そもそも私は人の心を癒すのは神ご自身と神のことばによるのであって、人間の科学や哲学は癒すことはできないと考えているので、「ごめんない。私はすこし体調を崩していることもあって休養しているので、お手伝いしていることはできません。」と丁重にお断りすると、今度はそのことについて突いてくるのです。「先生、信仰はどうしたんですか。そういう時だからこそ信仰が問われているんですよ。信仰は頭だけでなくその実践が大切なんですから」と。
  私はそのことばを聞きながらこう思いました。「この牧師は一生懸命なのはわかるけれど一生懸命になりすぎて回りが見えなくなっているんだなぁ」と。だから、そうでない状況を受け入れることができないのです。

これがこの世に対してですと、顕著にみられます。どうして自己中心の塊みたいな夫に仕えなければならないのか、どうして未信者の上司の言うことを聞かなければならないのか、どうして不信者の政治家が作ったこの世の制度に従わなければならないのかと。皆さん、どうしてですか。どうして神を信じていないこの世の言うことを聞かなければならないのですか。それは、聖書にそう書かれてあるからです。ローマ13章1~2節にはこうあります。

「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。13:2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」

これが、聖書が教えていることです。たとえそれが未信者であっても、人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らっているのであって、そのような者は自分の身にさばきを招くことになるのです。

これがイシュマエルの問題でした。これが私たちの問題でもあります。その結果、イシュマエルのように人を殺すようなことはしなくとも、自分の考えに固執するあまり、いつまでも神のみこころに立つことができないでいることがあるわけです。神のみこころに従うというよりも、あくまでも自分の思いを通したいのです。あたかも自分が神になったかのような錯覚をしてしまうのです。これは本当に危険なことです。箴言16章18節に、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とある通りです。

この世は、上へ、上へと、人を追い越していくようにと駆り立てますが、聖書は、キリストが十字架にかかった後によみに下られたように、低いところに下ることの祝福を教えています。つまずき倒れたその先に、自分が知らなかった世界を見出すこともあるのです。水が高い所から低い所に注がれるように、神の恵みも高い所から低い所に注がれるのです。大切なことは神を認め、神のみこころに従うことです。それが謙遜であるということです。神の前になぜと問う前に、みこころが天で行われるように地でも行われますように、私の人生にも行われますようにと祈らなければなりません。

Ⅱ.主のはかりごとだけが成る(11-15)

次に、11~15節までをご覧ください。

「41:11 しかし、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいた軍のすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルが行ったすべての悪を聞くと、41:12 部下をみな連れて、ネタンヤの子イシュマエルと戦うために出て行き、ギブオンにある大池のほとりで彼を見つけた。41:13 イシュマエルとともにいたすべての民は、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいるすべての高官を見て喜んだ。41:14 こうして、イシュマエルがミツパから捕らえて来た民のすべては身を翻し、カレアハの子ヨハナンの側についた。41:15 ネタンヤの子イシュマエルは、八人の者とともにヨハナンの前から逃れ、アンモン人のところへ行った。」

イシュマエルの行為に対して、カレアハの子ヨハナンは黙っていませんでした。ヨハナンは、40章でイシュマエルによる暗殺計画を総督ゲダルヤに伝えた人物です。ゲダルヤの死後、ユダに残された将校たちのリーダーになっていた彼は、部下を連れてイシュマエルのあとを追い、ギブオンで彼に追いつくと、捕らわれていた人々は、この時とばかりにヨハナンの側についたので、イシュマエルは生き残っていた自分の部下8人とともにヨハナンの前から逃げ、アンモン人のところへ行きました。

イシュマエルは、ミツパにいたすべての民をとりこにしてアンモンに向かいながら、すべてがうまくいっていると感じたことでしょう。しかし、神は彼の悪い行いをカレアハの子ヨハナンと将校たちを用いて、討ち破られたのです。箴言19章21節に、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」とあります。どんなに人が計画を立てても、主のはかりごとだけが成ります。神のみこころにかなわない計画は絶対に成功しません。表面的には順調に進んでいるかのように見えても、神がともにおられないならば、成功することはないのです。しかし、それがどんなに苦しくても自分に対する神の計画ならば、こんなはずではなかったと思うような出来事や試練に遭遇することがあっても、それは必ず成し遂げられます。むしろ、そのような経験さえも神に出会ったり、大きな祝福に導かれるために用いてくださるのです。

私は18歳の時、ある宣教師と出会い、教会に導かれ、神様に出会いました。ある日曜日の朝、私が自転車で教会へ行こうとしたら、母が私に言いました。
「とみちゃん、どこに行くの?」
 どこに行くのって教会に行くので、「ん、教会だよ。」と言うと、
「あんまり深入りしらんなよ」
と言いました。でも、いつしか深入りしてしまいました。
  その4年後に、その宣教師と結婚すると教会開拓に導かれました。あれから40年余、いろいろなことがありましたが、振り返ってみると、これが神様の計画だったんだなぁと、つくづく感じます。確かに辛いことや苦しいこともありました。その方が多かったかもしれない。時には辞めたいなあと思うこともありました。でもそのような経験を通して、もっと深く神を知ることができました。「あんまり深入りしらんなよ」と言った母も救われ、65歳の時に洗礼を受けました。どれだけの方々が救われたでしょうか。こんな小さな者を用いて、神様はいくつかの教会も生み出してくださいました。多くの奇跡も体験させていただきました。何よりも神の子としての特権が与えられ、永遠に神とともに生きるいのちが与えられました。これほどすばらしい人生を歩めるのは本当に幸いだと思います。マルチン・ブーマーは、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、そのような出会いが与えられたことを感謝しています。それが、神の計画だったんです。もしそれに従わなかったら、今頃どうなっていたか想像することもできません。

私たちには多くの計画がありますが、しかし、主のはかりごとだけが成ります。ならば、私たちに求められていることは、主のはかりごと、主の計画に歩ませていただくことです。あなたに対する神様のご計画は何ですか。それがあなたの思いと違っても、こんなはずじゃなかったと思うようなこともあっても、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じて、あなたに対する神の計画を祈り求め、その道を歩ませていただこうではありませんか。それは人それぞれ違いますが、たとえそれが自分の思いと違っても、「これが道だ。これに歩め」と言われる主の御声を聞き従いたいと思うのです。

Ⅲ.恐れないで主に拠り頼む(16-18)

ですから第三のことは、何も思い煩わないで、神にすべてをゆだねましょうということです。16~18節をご覧ください。

「41:16 ネタンヤの子イシュマエルがアヒカムの子ゲダルヤを打ち殺した後、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルから取り返したすべての残りの民、すなわちギブオンから連れ帰った勇士たち、戦士たち、女たち、子どもたち、および宦官たちを連れて、ミツパから41:17 エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまった。41:18 バビロンの王がこの地の総督としたアヒカムの子ゲダルヤを、ネタンヤの子イシュマエルが打ち殺したため、カルデア人を恐れたからである。」

カレアハの子ヨハナンを中心に、残されたわずかな数の民は思案します。このままでは自分たちはバビロンに疑われ、再び攻撃を受けるのではないかと。なぜなら、バビロンによって総督として立てられたゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃してしまったのですから。そこで彼らが考えたことは、エジプトに一時避難することでした。そこで彼らはミツパからベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまりました。「ゲルテ」とは「宿場」という意味です。ですから、新共同訳では「ベツレヘムに近いキムハムの宿場にとどまった。」と訳しているのです。

でも、それは主のみこころではありませんでした。なぜなら、昔からイスラエルの民には、エジプトに下ることが禁じられていたからです。たとえば、出エジプト14章13節には、「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」とありますし、申命記17章16節には、「ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。【主】は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。」とあります。かつて奴隷として捕えられていたエジプトに帰ることは、出エジプトという神の恵みにあずかりながら、古いエジプトの生活に戻ることであり、神のみこころに反することだったのです。それなのになぜ、彼らはエジプトに行こうとしたのでしょうか。それは18節にあるように、カルデア人を恐れたからです。ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしてしまったことで自分たちが疑われ、再び攻撃されることを心配したのです。

皆さん、恐れや不安があると正しい判断や決定を下すことができません。不安は前をさえぎる黒い雲のようなものです。不安な心は神から与えられるものではなく、自分の思いから出てきます。神とともに歩む人は神が与えてくださる平安の中で、神のみこころに歩むことができるのです。

カレアハの子ヨハナンは有能な将校でした。政治的な判断に優れ、物事の動きを洞察する力がありました。しかし、そんな彼にも欠けているものがありました。それは信仰です。神のみこころはエレミヤが預言したように、この地に住んで、バビロンの王に仕えなさいということでしたが、彼はそれを受け止めることができませんでした。自分たちが疑われるのではないかと心配し、その仕打ちを受けることを恐れて、そこから逃れる道を考えたのです。

私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。困難に直面した時、まだ起こっていなことをあれこれと想像して不安になることがあります。そんな時私たちに求められていることは、自分たちの知恵でそれを解決しようとするのではなく、まず神の御前にひれ伏し、自分自身を点検し、悔い改めて、主のみこころを求めて祈ることです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたかたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

19世紀のアメリカの伝道者W・D・コールは、「平安、天から臨む平安、その愛の波が、とこしえにわがたましいを覆いますように。」と言いました。神から与えられる平安こそ、恐れや困難の中にあっても神のみこころを正しく知り、みこころに従うことができる原動力なのです。

あなたが恐れていることは何ですか。何を心配していますか。それを永遠の避け所である神のもとに持って行き、神に知っていただきましょう。神に拠り頼みましょう。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、あなたの理解をはるかに超えた神の平安で、あなたの心と思いを守ってくれます。そして主のみこころを悟り、みこころに従うことができるようになるのです。ですから、最後にまとめとして、ピリピ人への手紙4章6~7節を読んで終わりたいと思います。

「4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

混乱と恐れが襲ってくる時には、永遠の避け所である主のもとへ行き、神に拠り頼むことができますように。それがみこころを知り、みこころを行うために私たちにも求められていることなのです。

エレミヤ40章1~16節「そうすれば、幸せになる」

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エレミヤ書40章に入ります。今日のタイトルは、「そうすれば、幸せになる」です。どうすれば幸せになるのでしょうか。主のみこころに従うなら、です。9節に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。なぜなら、それが神様のみこころだからです。神のみこころに従うなら、あなたは幸せになるのです。

今日は、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、エレミヤの選択です。彼はバビロンに行くこともできましたが、エルサレムに留まり、貧しいユダの民の中に住むことを選びました。なぜでしょうか。それが神のみこころであると確信したからです。第二のことは、ユダの総督に任じられた総督ゲダルヤの誓いです。彼はエルサレムに住むユダの民に、バビロンの王に仕えるようにと勧めました。なぜなら、それが神のみこころだからです。そうすれば、幸せになると、彼は確信していたのです。第三のことは、主のみこころに従うためには状況をよく見極める必要があるということです。それを誤ると、とんでもない結果になってしまうことがあります。ですから、神のみこころに従うためにはそれを妨げる悪魔の策略に対処し、状況をしっかりと見極めなければなりません。

 Ⅰ.エレミヤの選択(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。

「40:1 【主】からエレミヤにあったことば。バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。

ここに、「主からエレミヤにあったことば」とありますが、本文を見るとどこにも主のことばは見当たりません。この後で主がエレミヤに語られるのは42章7節です。ですから、このエレミヤにあった主のことばとは、ここから始まるエレミヤ書にとって一つのまとまりとなる45章の終わりまでの表題と考えられます。この一つのまとまりには、エルサレムが陥落した後どのようなことが起こったのかが記録されてあります。それ全体の表題なのです。では、その時どんなことがあったのでしょうか。

この1節の残りの部分には、「バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。」とあります。
  ここには、捕囚の民として鎖につながれていたエレミヤを、バビロンの親衛隊の長ネブザルアダンが釈放した時のことが記されてあります。「ラマ」とは、エルサレムの北方8キロのところにあるベニヤミン領内にある町ですが、エレミヤはそこで釈放されました。エルサレムが陥落した後、バビロンに捕え移されるユダの人々はこのラマに集められたのですが、その中にエレミヤもいたのです。それを見たバビロンの親衛隊の長ネブザルアダンは、即座に彼を釈放しました。なぜでしょうか?その理由が2節から4節までにあります。

「40:2 親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。40:3 そして【主】はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。40:4 そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気に入らないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」

彼はバビロンの親衛隊の長でしたが、エルサレムが陥落した時バビロンの王ネブカドネツァルからこのように命じられていました。39章12節です。

「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ彼があなたに語るとおりに、彼を扱え。」

バビロンの王がなぜこのように言ったのかはわかりません。おそらく彼は、エレミヤが語っていたことを聞いていたのでしょう。つまり、バビロンに降伏することが主のみこころであり、ユダの民が生き残る道であるということを、です。そのように預言していたエレミヤを、ネブカドネツァルはよくしてあげようと思ったのです。それは親衛隊の長のネブザルアダンも同じでした。2節と3節にあるように、彼がエレミヤを連れ出して、彼に、「あなたの神、主は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。そして主はこれを下し、語ったとおりに行われた」と言っているように、彼は幾度となくエレミヤの語っていた預言を聞いていたのです。それがそのとおりになったのを見て、それはイスラエルの神、主がなされたことであると認め、その偉大な神の御業のゆえに、エレミヤを釈放しようと思ったのです。

本当に皮肉なことですが、契約の民であるイスラエル人が認めなかったことを、何と異邦人であったネブカドネツァルやネブザルアダンは認めていたのです。彼らの目には、それがイスラエルの神、主の御業であることが明らかだったのです。信者である人たちには見えていないことが、未信者の人たちに見えていることがあるわけです。それで親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤの手にある鎖を解いて釈放し、彼に二つの選択肢を与えました。一つは、彼と一緒にバビロンへ行くか、もう一つは、もし行きたくなければ、どこでも自分の好きなところへ行っても良いということでした。もし彼と一緒にバビロンに行くなら、エレミヤが生活するのに困ることが無いように彼の世話をするとまで約束しました。さあ、このネブザルアダンの提案を聞いて、エレミヤはどのように反応したでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「40:5 しかしエレミヤがまだ帰ろうとしないので、「では、バビロンの王がユダの町々を委ねた、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住みなさい。でなければ、あなたが行くのによいと思うところへ、どこへでも行きなさい。」こうして親衛隊の長は、食糧と品物を与えて、彼を去らせた。40:6 そこでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行って、彼とともに、その地に残された民の間に住んだ。」

エレミヤは、なかなか動こうとしませんでした。それはネブザルアダンに対する敬意のゆえでしょう。彼と一緒にバビロンへ行くなら私があなたの世話をしようとまで言ってくれたのに、それをむげに断るのは申し訳ないと思ったに違いありません。そんなエレミヤに対してネブザルアダンは、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住むようにと勧めました。エレミヤがずっと動かないでいるのを見たネブザルアダンは、それはエレミヤがバビロンに行きたくないという意志表示だと受け止めたのです。それでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行き、彼とともに、その地に残された民の間に住みました。エレミヤにとっては貧しいユダの民と一緒にエルサレムに残るよりは、安定した生活が保障されていたバビロンへ行った方がはるかに良かったはずです。それなのに彼は、ユダにいる残りの民と一緒にいることを選んだのです。なぜでしょうか。2つの理由が考えられます。

一つは、その地の総督に任じられたゲダルヤの存在です。5節には「シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤ」とありますが、彼の父親のアヒカムは、かつてエレミヤのいのちを救った人でした。26章24節には、「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」とあります。これはどういう背景で語られたかというと、当時のユダの王エホヤキムは、エレミヤのように預言していたシェマヤの子ウリヤをエジプトから連れて来させて剣で打ち殺しましたが、エレミヤはその難を逃れることができました。それはこのゲダルヤの父アヒカムの助けがあったからです。アヒカムはエレミヤをかばい、彼が民の手に渡されて殺されることがないように手配したのです。エレミヤはそのことを感謝して、若くして総督となった彼の息子のゲダルヤを支援するために、エルサレムにとどまろうと思ったのかもしれません。

しかし、エレミヤがエルサレムの住むことを選んだ最大の理由は、それが彼に与えられていた使命だったからです。42章2~3節をご覧ください。

「42:2 預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを受け入れてください。私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、【主】に祈ってください。ご覧のとおり、多くの者の中からわずかに私たちだけが残ったのです。42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」」

ここにはユダに残っていた人々がエレミヤのところに来て、神のみこころを求め、彼らのために祈ってくれるようにと懇願したとあります。バビロンに捕え移された人たちはそこである程度の生活が保障されていましたが、バビロンに連れて行かれずエルサレムに残された民はみな貧民で、日々の生活もままならず、大変混乱していました。エレミヤはそうした状況を見て、そこに残った貧しいユダの民に仕えることこそ神のみこころであり、自分に与えられている使命だと確信したのです。確かにバビロンへ行ってネブザルアダンの保護の下、平和に暮らすことも考えたでしょう。でも彼は自分にとって何が良いかということよりも、神に喜ばれることは何か、何が良い事で神に受け入れられ、完全であるのかを求めたのです。

へブル11章24~25には、「24 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」とあります。聖書ではエジプトとかバビロンはこの世の象徴として描かれていますが、信仰によって、モーセがエジプト王のファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったように、エレミヤも信仰によって、この世の楽しみにふけるよりも、神の民とともに苦しむことを選び取りました。それが神のみこころであると受け止めたからです。

皆さんがエレミヤの立場だったらどうしたでしょうか。あなたの好きなようにしても良いと言われたら、「ヤッター!」とこぶしを突き上げて喜びますか。こんな所にいるよりも、ネブザルアダンの保護の下、バビロンで平和に暮した方がよっぽどいい」と決断したでしょうか。それでも良かったんです。それは神が許されていたことでしたから。それでも彼がエルサレムにとどまったのは、自分に与えられている神様からの使命を確信していたからです。

このような時私たちは、自分の愛がどこにあるかが試されます。でもそれを判断する決め手というか、目安は何かというと、このエレミヤのように自分に与えられている使命は何なのか、役割は何かを考えて祈ることです。あなたに与えられている使命は何ですか。神があなたにしてほしいと願っておられることは何でしょうか。それを知ることは、あなたがより良く神のみこころを知り、みこころに従うために有益なことです。

私の友人の牧師に、仙台で牧会しておられる鈴木茂という牧師がおられますが、この年末年始にかけて何度かメッセンジャーでのやり取りをしました。その中で鈴木先生がこのようなことを言われました。

「私たちはここで31年目に入ります。本当に時の流れは速いです。ここでこんなにも長く留まるとは思いませんでした。100%はわかりませんが、でも気持ちの中ではここでよかった、と思っています。我武者羅の期間は、もう過去のことで、今は体が「No」と教えてくれます。これも恵みですね。今思うと、40代前半までは、朝から晩まで、とは言わないですが、水曜日の朝の祈り会の学びの後、個人的な学びや相談を聴いたり、そして夜の祈り会で再び学びを導いたり・・・。今思うと、不思議なことです。今はできません。よかったのかどうか???これも100%わかりません。今は、自分の心、人の心のケアーや形成を中心に歩んでいます。昔のようにはいきませんが、今の方がいいように感じます。ある意味これから、と思える部分もあります。妻も私も今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。と、言っても大したことはできていませんが。」

謙遜な先生らしいことばだなぁと思いますが、このメールを読ませていただいて私の心に留まったのは、「これで良かったのかどうか100%わかりません」という言葉と、「今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。」という言葉です。そうなんですよね、これで良かったのかどうか100%わかる人などいないと思うんです。でもその中で先生ご夫妻は心のケアー、情緒的なケアーを中心に働きをされておられる。それが自分たちに与えられた役割であると受け止めておられるからです。

そうなんです、私たちもこれで100%良かったと言える人なんていないと思うんです。またこれから先、これが道だ、これに歩めというご聖霊様の声を聞いても、100%確信できるかというとそうではないと思います。それが大きければ大きいことであるほど、私たちは悩みます。でもそのような中でもエレミヤのように、あるいは鈴木先生のように、神様から与えられている使命は何か、自分が果たすように神からゆだねられている役割は何かを知るなら、確信をもってその道を選択することができるのではないでしょうか。

いずれにせよ、大切なことは、エレミヤが自分の思いのままに選択したのではなく、神のみこころを求めて祈った結果そのようにしたということです。注意しなければならないことは、それが神のみこころではないのに、ただ自分の思い、自分の心が欲していることなのに、あたかもそれが神のみこころであるかのように思い込んでしまうことです。そういうのを勘違いと言います。そういうことがないように、私たちはいつも本物である神のことばを聞き、それを見分けることができるように祈らなければなりません。

Ⅱ.ゲダルヤの誓い(7-12)

次に、7~12節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「40:7 野にいた軍の高官たちとその部下たちはみな、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその地の総督にして、バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、その地の貧しい民たちを彼に委ねたことを聞いた。40:8 そして彼らはミツパにいるゲダルヤのもとに来た。ネタンヤの子イシュマエル、カレアハの子ヨハナンとヨナタン、タンフメテの子セラヤ、ネトファ人エファイの子ら、マアカ人の子エザンヤ、そして彼らの部下たちであった。」

エルサレムに残った貧しいユダの民の統治のため、バビロンの王ネブカドネツァルは、アヒカムの子ゲダルヤをその地の総督として任命しました。それで野にいた軍の高官たちやその部下たちはみな、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ました。「ミツパ」はエルサレムの北方10キロにあるベニヤミンの領内にある町ですが、ゲダルヤがミツパにいたのは、エルサレムが焼き払われていたのでそこに行政機関を置くことができなかったからです。それで彼らはみなミツパにいたゲダルヤの下にやって来たのです。

そのときゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓って言いました。9節10節です。

「40:9 シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓った。「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。40:10 この私は、見よ、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデア人の前に立とう。あなたがたは、ぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むがよい。」」

ゲダルヤは、エレミヤの預言をきちんと聞いていました。エレミヤは彼らに、バビロンに服しその中で生きるなら、あなたがたは幸せになると言っていましたが、その通りに伝えたのです。さすがアヒカムの子どもですね。アヒカムについては先ほど見たようにエホヤキム王の時代にエレミヤを救った人物ですが、彼にはそうした霊的な目と、神を恐れる思いがありました。そうした父親の後ろ姿を見て育った彼にも、そうした思いがあったのでしょう。それだけではありません。ゲダルヤの父親の父親、すなわち祖父のシャファンという人物はヨシヤ王の時代に書記を務めていた人です。エレミヤが預言者として召されたのはそのヨシヤ王の第13年でしたが(1:13)、ゲダルヤはこの祖父のシャファンを通してもエレミヤの預言をずっと聞いていて、神のみこころが何であるかをわきまえることができたのです。ですから彼はエレミヤが預言していたとおり、バビロンに服し、バビロンの王に仕えるなら、あなたがたは幸せになると明言することができたのです。

それだけではありません。彼はこのミツパに住んで、自分たちのところに来るカルデア人の前に立とうと言っています(10)。どういうことですか?自分が責任をもってカルデア人と交渉するという意味です。だからあなたがたはぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むようにと勧めたのです。そこには相当の覚悟があったことがわかります。イエス様は、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われましたが、エレミヤ同様彼も、自分のいのちを削っても、他の人にささげる覚悟がありました。なぜ?彼も神のみこころを求め、みこころに従いたいと願っていたからです。

そんな彼のもとに、さらに多くの人たちが集まって来ました。11節、12節には、「11 モアブや、アンモン人のところや、エドムや、あらゆる地方にいたユダヤ人もみな、バビロンの王がユダに人を残したこと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを彼らの総督に任命したことを聞いた。12 そこで、ユダヤ人はみな、散らされていたすべての場所からユダの地に帰って来て、ミツパのゲダルヤのもとに行き、非常に多くのぶどう酒と夏の果物を収穫した。」とあります。
  これらの人たちは、バビロンが攻めて来たことを知って周辺の諸国に逃亡していた人たちです。そんな彼らもゲダルヤが総督になったといううわさを聞いて、ミツパの彼のもとに集まって来たのです。彼らもまた夏の収穫を採り集め、安定した生活をすることができました。それはみこころに従ったゲダルヤのことばに従ったからです。もちろん、その背後にはエレミヤの助言があったのは間違いありません。主のみこころに従うなら、必ず祝福されるのです。

Ⅲ.ゲダルヤの失敗(13-16)

しかし残念ながら、その安定は長続きしませんでした。その理由は、ゲダルヤが神のみこころを見極めるのを失敗したからです。13~16節をご覧ください。

「40:13 さて、野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパのゲダルヤのもとに来て、40:14 彼に言った。「あなたは、アンモン人の王バアリスがネタンヤの子イシュマエルを送って、あなたを打ち殺そうとしているのをご存じですか。」しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、彼らの言うことを信じなかった。40:15 カレアハの子ヨハナンは、ミツパでひそかにゲダルヤに話して言った。「では、私が行って、ネタンヤの子イシュマエルを、だれにも分からないように打ち殺しましょう。どうして、彼があなたを打ち殺し、あなたのもとに集められた全ユダヤ人が散らされ、ユダの残りの者が滅びてよいでしょうか。」40:16 しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。」」

野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパにいたゲダルヤのもとに来て、アンモン人の王バリアスがネタンヤの子イシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしていることを密告します。なぜアンモン人の王がゲダルヤを打ち殺そうとしたのかはわかりません。おそらくゲダルヤがユダの総督になったとき、アンモンに逃れたユダの民がゲダルヤのところに帰って行くのを見て、快く思わなかったのでしょう。それで彼はネタンヤの子のイシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしたのです。しかし、ゲダルヤは彼らの言うことを信じませんでした。むしろイシュマエルの暗殺を逆に申し出たカレアハの子ヨハンナに対して、「そんなことをしてはいけない。あなたこそ、イシュャマエルについて偽りを語っているからだ。」と叱責しました。

カレアハの子ヨハンナは将校として有能で、物事に対処するのに長けた人物でした。ユダの人たちのために総督ゲダルヤを守らなければならない。そしてそのためにだれにもわからないように先制攻撃をした方がよいという助言は、政治的判断としては優れていました。けれども、ゲダルヤ本人はというと、こうした現実的な危機に対しては全く無頓着、極端なお人好しでした。こうした動きに対して先に打ち殺すまではしなくても、自分の周りにたとえば警備兵を置くとか、イシュマエルの動きをしっかり監視するなど、何らかの対策を取るべきだったのに、ヨハンナの助言を聞くどころか、逆に彼がイシュマエルを妬んで彼について悪く言いふらしていると思って叱責したのです。

確かに、このような時、リーダーはどのように対処したらよいか悩むところです。ある面でゲダルヤの対応は神を恐れる者として、陰口とか悪口とか、密告といったことを鵜呑みにせず、真実を確かめるまでは慎重に取り扱おうとしたという点では評価できます。しかし、総督として、また群れのリーダーとして、目の前に起こっている動きを見極めるという点では失敗しました。特に、このネタンヤの子イシュマエルですが、41章1節には「王族の一人」と紹介されていますが、彼の祖父エリシャマは、ダビデの息子の一人でした(Ⅱサムエル5:16)。あのソロモンの兄弟にあたります。ということは、イシュマエルはダビデのひ孫にあたる人物だったのです。ゲダルヤとしては、まさかダビデの家系に属する者が主のみこころに反して自分を暗殺するなどあり得ないと思ったのでしょうが、脇が甘かった。ダビデの家系に属する者だからこそ、そのような危険性があったのです。つまり、イシュマエルは自分がダビデの家系であることから、自分こそユダを統治する人物としてふさわしい者であるという思いから、ゲダルヤに敵対する恐れがあったのです。それを見極めることができませんでした。

リーダーシップの本を開くと、リーダーには未来を見通す目が必要だと異口同音に語られています。ではどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。人間には明日のことさえわからないのですから、そのような人間がどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。

私の尊敬する牧師の一人に、兵庫県で牧会しておられる大橋秀夫という先生がおられます。私の名前と一字しか違わないので、以前アメリカからロバート・ローガンという教会成長学者が来日した時、先生をBig Ohashiと呼び、私をLittle Ohashiと呼びました。私の方が背が高いのにLittle Ohashiとは失礼じゃないかと思いましたが、私などはこの先生の足元にも及ばないので、やはりLittle Ohashiだと納得したわけですが、このBig Ohashiが「聖書を読むとリーダーシップがわかる!」という本をお書きになり、昨年のクリスマスにわざわざ送ってくださいました。その本の最後のところに、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しておられます。
  「彼らは、「時間」すなわち人生を現在から過去を見て前に進むと考えている。ちょうどボートに乗って向こう岸に漕ぎ出すのと同じなのだ。未来は見えない。見えるのは過去だけ。まっすぐに進むために目印となるのは進んできた航跡(こうせき)だ。それによって起動を修正しながら進むと考えている。日記は、そんな自分の人生を進むうえでの航跡と言えるだろう。それをもって人生を紡ぎ、心の闇を克服することができると考える。」

未来を見通すために過去を見る。過去を見て起動を修正しながら進んで行くというユダヤ人の時間に対する見方は見事だなぁと思いました。その過去を見る上で勿論日記をつけるのも良いでしょう。それを見て過去を振り返ることは有益なことです。しかし、その中でも聖書を見て振り返ることはもっと有益なことです。なぜなら、そこには自分の過去だけでなく、この歴史を動かされた神の軌跡を見ることができるからです。
  残念ながら、ゲダルヤはそういう目を持っていませんでした。彼には霊的な目と神を恐れる思いがありましたが、過去の歴史から学ぶという実践的な面に欠けていたのです。

かくしてゲダルヤによる統治は、わずか2か月で終わってしまいました。これは、ユダヤ人にとっては衝撃的なことでした。ですから彼らはそれ以来、エルサレムの陥落を記念する断食と並行して、ゲダルヤの死を哀悼するための断食を行うようになりました。それが、第七の月の断食(ゼカリヤ7:5,8:19)です。

私たちは、このゲダルヤの暗殺から何を教訓として学ぶことができるでしょうか。神のみこころに従うためにはそれを妨げる様々な悪魔の策略があるということ、そしてその策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなければならないということです。エペソ6章14~18節には、その武具とはどのようなものかが記されてあります。すなわち、「6:14腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」ということです。それがみこころに生きるために求められているのです。

そうすれば、あなたはしっかりと神のみこころを見極めることができます。そうすれば、あなたは幸せになるのです。たとえそれがこの世の考えと違うことであっても、みことばと祈り、信仰によってみこころに堅く立ち続けるなら、あなたは幸せになるのです。そのような生涯を共に送らせていただきましょう。そのために神のみこころを知り、みこころに従うことを求めていきたいと思います。