Ⅰ列王記10章

 今日は、列王記第一10章から学びます。

 Ⅰ.シェバの女王(1-13)

まず、1節から5節までをご覧ください。「1 ときに、シェバの女王は、主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやって来た。2 彼女は非常に大勢の従者を率い、バルサム油と非常に多くの金および宝石をらくだに載せて、エルサレムにやって来た。彼女はソロモンのところに来ると、心にあることをすべて彼に問いかけた。3 ソロモンは、彼女のすべての問いに答えた。王が分からなくて、彼女に答えられなかったことは何一つなかった。4 シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、5 その食卓の料理、列席の家来たち、給仕たちの態度とその服装、献酌官たち、そして彼が主の宮で献げた全焼のささげ物を見て、息も止まるばかりであった。」

「シェバ」とは、アラビア半島にあるイエメン辺りのことです。イエメンは豊富な香料を産出する国でした。先日の礼拝説教はエレミヤ書6章からでしたが、20節に「いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。」とありました。それは、このシェバが豊富な香料を産出する国であったからです。そのシェバの女王がソロモンの名声を聞き、彼のもとにやって来たわけです。何のためでしょうか。彼を試すためです。彼がどれほどの知恵を持っているのかを試すために、難問をもって彼のもとにやって来ました。

シェバの女王は、大勢の従者を率いて、また、バルサム油や多くの金、および宝石を携えてエルサレムにやって来ました。彼女はソロモンに会うと、ありとあらゆる質問をソロモンに投げかけました。するとソロモンは、そのすべての問いに答えました。彼が分からなくて答えられなかった問いは何一つありませんでした。

シェバの女王は非常に驚きました。それはソロモンの知恵と、彼が立てた宮殿、その食卓の料理、列席の家来たち、給仕たち、給仕たちの態度、その服装、献酌官たち、そして彼が主の宮で献げた全焼のいけにえが、彼女が想像していたものよりもはるかに優れていたからです。神の知恵は、こうした一人一人の態度や振る舞い等、見える形で表れるのです。それは神様によって与えられたものだったのです。神の知恵によって生かされている人は何と幸いでしょうか。主を恐れることが知恵の初めです。私たちも主を恐れ、主に従い、主から知恵をいただいて、与えられた人生を歩みましょう。

次に、6~10節をご覧ください。「6 彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵について聞き及んでいたことは、本当でした。7 私は自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、なんと、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさより、はるかにまさっています。8 なんと幸せなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる、このあなたの家来たちは。9 あなたの神、主がほめたたえられますように。主はあなたを喜び、イスラエルの王座にあなたを就かせられました。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義を行わせるのです。」10 彼女は百二十タラントの金と、非常に多くのバルサム油と宝石を王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くのバルサム油は、二度と入って来なかった。」

シェバの女王はソロモンに言いました。それはこういうことです。彼女が実際にソロモンに会うまでは懐疑的でしたが、実際に来てみて、それが本当であったことがわかったということ。いや、その半分も知らされていませんでした。ソロモンの知恵と繁栄は、自分が聞いていたうわさなどよりも、はるかにまさっていました。彼女はソロモンのそばで仕え、いつもその知恵を聞くことのできる人たちをうらやましく思い、「なんと幸せなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる、あなたの家来たちは。」(8)と感嘆の声をあげました。

そして、このように言って主をほめたたえました。9節です。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主はあなたを喜び、イスラエルの王座にあなたを就かせられました。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義を行わせるのです。」これはシェバの女王のことばです。なんと彼女はイスラエルの神、主をほめたたえました。異邦人の女王が、イスラエルの神、主をほめたたえたのです。5:7には、異邦人のツロの王ヒラムもイスラエルの神をほめたたえました。それはイスラエルの神、主によって与えらされたものであると認めたのです。また、それは主の御計画によるものであることを認めました。さらに、それは主がイスラエルをとこしえに愛しておられる証拠であると語っています、また、主がソロモンをイスラエルの王としてお立てになったのは、公正と正義を行わせるためであるという目的にも触れています。すごい洞察力ですね。それほどソロモンの知恵が際立っていたということでしょう。それで彼女はソロモンに百二十タラントの金と、非常に多くのバルサム油と宝石を贈りました。これほど多くのバルサム油は、二度と入ってきませんでした。相当の量のバルサム油を贈ったのです。ソロモンが神によって立てられた王であると認めたということです。

11~13節をご覧ください。「11 また、オフィルから金を積んで来たヒラムの船団は、非常に多くの白檀の木材と宝石を、オフィルから運んで来た。12 王はこの白檀の木材で、主の宮と王宮のための柱を作り、歌い手たちのための竪琴と琴を作った。今日まで、このような白檀の木材が入って来たことはなく、見られたこともなかった。13 ソロモン王は、シェバの女王が求めたものは何でもその望みのままに与えた。さらに、ソロモン王の豊かさにふさわしいものも彼女に与えた。彼女は家来たちを連れて、自分の国へ帰って行った。」

「ヒラムの船団」とは、ソロモンとツロの王ヒラムが協力して運営していた船団のことです。「オフィル」とはアラビアのことを指しています。つまり、ヒラムの船団が、オフィルから非常に多くの金と白檀の木材と宝石を運んで来たということです。これらがソロモンの資金源でもありました。ソロモンはこのヒラムの船団が運んで来た白檀の木材で主の宮と王宮の柱を作り、歌い手たちのための竪琴や琴を作りました。白檀は表面が黒く、中は赤褐色の非常に堅い木材なので、建築の柱やこうした楽器などを作るのに適していました。それが今日まで見たことがないほどの量が運ばれて来たのです。ソロモンはシェバの女王に、彼女が求めるものは何でもその望みのままに与えました。それでシェバの女王はすべての面で満足して、自分の国へ帰って行きました。

このシェバの女王について、新約聖書にも言及されています。マタイ12:42でイエス様はこのように言っておられます。「南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。」(マタイ12:42)

シェバの女王は、ソロモンの知恵を聞くために、約2,000キロの距離を旅したのです。しかし、ここにソロモンよりももって優れた方がおられます。私たちの主イエス・キリストです。であれば、2,000キロはおろか、それ以上の関心を示すのは当然のことではないでしょう。しかし、イスラエルの耳は閉ざされていました。あなたはどうでしょうか。イエス様の知恵を聞くために、あらゆる犠牲を払っているでしょうか。イエス様はあなたのすべての犠牲を払ってもあなたの必要を満たすだけの価値があるお方なのです。この方に聞き従いましょう。

Ⅱ.ソロモンの富(14-22)

次に、10~14節をご覧ください。「10 ソロモンが主の宮と王宮との二つの家を二十年かけて建て終えたとき、11 ツロの王ヒラムが、ソロモンの要請に応じて、杉の木材、もみの木材、および金を用立てたので、ソロモン王はガリラヤ地方の二十の町をヒラムに与えた。12 ヒラムはツロからやって来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たが、彼はそれらが気に入らなかった。13 彼は、「兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか」と言った。そのため、これらの町々はカブルの地と呼ばれ、今日に至っている。14 ヒラムは王に金百二十タラントを贈っていた。」

一年間にソロモンのところに入って来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントでした。1タラントは33キログラムです。仮に1グラムが4,500円だとすると、とてつもない数字になります。1キログラムで450万円となります。であれば1タラントはその33倍ですから、1億4850万円となります。その666倍ですから、現代の価値で989億100万円となります。約1,000億円です。 それだけの量の金が、毎年ソロモンのところにはいって来たのです。

ところで、この666という数字ですが、ご存知のように聖書では「7」が完全数で、「6」はその手前であって不完全を意味しています。黙示録13章に世界を牛耳り、自分を神として拝ませようとする反キリストが出てきますが、その獣の数字が666です。それは「人間を表す数字である」(黙示録13:18)とあるので、これはソロモンに代表される世界の富と栄華を神としている人間の姿を表しているのではないかと考えられます。ソロモンのところにはこうした金のほかに隊商から得たもの、貿易商人の商いから得たもの、アラビアのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがあったので、相当の富と財宝がありました。こうした富を、主を愛するために用いるなら神の栄光を現わすことになりますが、もし金銭そのものを愛するならば、反キリストと少しも変わらなくなってしまいます。

ここでソロモンはそれらの金を何のために用いたかというと、大盾や盾に使いました。大盾1つに六百シェケルです。1シェケルは11.4グラムですから、6,840グラムとなります。ですから、約3千万円の金を使用したという計算になります。それが200個ですから、大盾だけで6億円です。盾は1つにつき3ミナ(1ミナは570グラム)ですから、1個につき約770万円です。それを300個作りましたから、約23億円となります。ソロモンはそれらをレバノンの森の宮殿に置きました。全くの無駄遣いです。意味がありません。

さらに彼は大きな象牙の王座を作り、これにも純金をかぶせました。それは王の威光を示すためでした。王座の背もたれの上部は丸くなっており、ひじ掛けの脇には二頭の雄獅子が立っていました。さらに王座に上る6段の階段の両側には、合計12頭の雄獅子が立っていました。これほど豪華な王座は、それまで誰も見たことがありませんでした。

また、ソロモンが飲み物に用いる器はすべて金です。銀のものはありませんでした。ソロモンの時代には銀は価値あるものとはみなされていなかったからです。すべて純金製です。ソロモンはヒラムの船団のほかにタルシシュの船団も持っていて、こうした船団が金、銀、象牙、猿、孔雀などを運んで来たのです。

このことからも、ソロモンの神への信頼は失われていったことがわかります。なぜなら、モーセの律法には、富の蓄積を禁じているからです。申命記17:17には「また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。」とあります。王は多くの妻を持って、心がそれることがあってはならなかったし、自分のために銀や金を過剰に持ってはならなかったのですが、ソロモンはこの両方をいとも簡単に破っていました。ここに、私たちへの警告があります。過剰な金や銀を持つことで、私たちの心が神から離れてしまうことになります。そうした富を持つことで神に信頼することを忘れてしまうからです。イエス様は、「あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)と言われました。私たちは神にも仕え、富にも仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。ソロモンと同じ失敗を犯さないために、私たちも自らの心を見張らなければなりません。

Ⅲ.ソロモンの栄華(23-29)

最後に、23~29節をご覧ください。「23 ソロモン王は、富と知恵において、地上のどの王よりもまさっていた。24 全世界は、神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとして、彼に謁見を求めた。25 彼らはそれぞれ贈り物として、銀の器、金の器、衣服、武器、バルサム油、馬、ろばなどを、毎年携えて来た。26 ソロモンは戦車と騎兵を集め、戦車千四百台と騎兵一万二千人を所有した。彼はこれらを戦車の町々、およびエルサレムの王のもとに配置した。27 王はエルサレムで銀を石のように用い、杉の木をシェフェラのいちじく桑の木のように大量に用いた。28 ソロモンが所有していた馬は、エジプトとクエから輸入されたもので、王の商人たちが、代価を払ってクエから手に入れたものであった。29 戦車はエジプトから銀六百、馬は銀百五十で買い上げられて、輸入された。同様に、ヒッタイト人のすべての王やアラムの王たちにも、王の商人たちの仲買で輸出された。」

ソロモン王は、富と知恵において、地上のどの王よりもまさっていました。それは、ソロモンに対する 神の約束が成就したということです。その結果、非常に多くの支配者たちがソロモンに謁見を求めました。彼らはそれぞれ贈り物として、銀の器、金の器、衣服、武器、バルサム油、馬、ろばなどを、携えて来たので、ソロモンはとても富める者になりました。

ソロモンは戦車と騎兵を集め、エルサレムの彼のもとに配置しました。当時、戦車は最強の武器でした。ソロモンは軍事力を高めるために、戦車千四百台と騎兵1万2千人を所有したのです。また、銀を石のように、杉の木をいちじく桑のように大量に用いました。銀も杉の木も大変高価なものでしたが、ソロモンはそれを大量に用いることができました。

しかし、彼はさらに馬をエジプトとクエから輸入しています。戦車は銀六百、馬は銀で百五十です。それは大変高価な買い物でした。いったい何のために彼はこれらのものを輸入したのでしょうか。ヒッタイト人のすべての王たちや、王の証人たちの仲買で輸出するためです。すなわち、仲買人として利益を得るためです。

しかし、戦車や馬を大量に保持することは、モーセの律法に反していました。申命記17:16には、「ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。」とあります。その理由は、目に見えるものに信頼を置き、神に信頼しなくなってしまうからです。誤った信頼感は、私たちを危険に方向へと向かわせることになります。いったい私たちの助けはどこからくるのでしょうか。私たちの助けは主から来ます(詩篇121:2)。そのことを覚え、ただ主にだけ信頼しましょう。

このように、ソロモンの富と栄華の背後で、主への愛と献身が徐々に失われていたのを見ることができます。主を愛しているけれども、多くの富を持ち、その富によって知らないうちに心が主から離れていったのです。ヘブル2:1に「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」とあります。自分は大丈夫と思っているうちに、舟は沖へ押し流され、気づいたときは取り返しもつかない状況になっていることがあります。私たちも押し流されないように、主から聞いたことをしっかり心に留めておきたいと思います。

エレミヤ6章16~30節「幸いな道はどれか」

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きょうは、エレミヤ書6章の後半の箇所から「幸いな人はどれか」というタイトルでお話します。この6章は、預言者として神のことばを語ったエレミヤの最初の預言のまとめとなる箇所です。神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、神に立ち返るようにと語りますが、民は全く聞こうとしませんでした。それに対して神は滅びを宣告されました。北からのわざわい、バビロン軍がやって来て彼らをことごとく破壊すると。それでも彼らは聞こうとしなかったのです。彼らは頑なで、どんなに悪を取り除こうとしても取り除くことができませんでした。それで神は彼らを捨て去ることになります。きょうの聖書箇所の30節には「彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」とあります。彼らに必要だったことは、へりくだって、悔い改めることでした。幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいの安らぎを見出すことだったのです。

Ⅰ.「私たちは歩まない」(16-20)

まず16~20節までをご覧ください。「16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。19 この国よ、聞け。見よ、わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らの企みの実。彼らがわたしのことばに注意を払わず、わたしの律法を退けたからだ。20 いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」

「道の分かれ目に立って」とは、新改訳聖書第三版では「四つ(つじ)に立って」と訳しています。「四つ辻」とは、十字路のことです。東西南北に視界が開けた場所のことを指しています。四方とも開けているので、どの方角にも進むことができるわけですが、そこに立って見渡すようにというのです。幸いな道はどれであるかを。しかし往々にして私たちは、自分がどちらの道を進んで行ったらよいのか迷います。それで主はこう言われます。「いにしえからの通り道、幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」

「いにしえからの道」とは、昔からの道という意味で、これは神の律法のことを指しています。この道はすでにイスラエルの歴史を通して、そこに歩めば幸いな人生を送ることができると実証されていた道でした。にもかかわらず、彼らは何と言いましたか。彼らは「私たちは歩まない」と言いました。こういうのを何というんですかね。こういうのを反抗的と言いますね。彼らは実に反抗的だったのです。

「律法」と聞くと、私たちの中にも否定的なイメージを抱く人がおられるのではないでしょうか。でも「律法」そのものは良いものです。それは、人間が正しく歩ために神が与えてくださった道しるべです。それは、私たちを幸いな道へと導いてくれるものなのです。しかし残念なことに、この律法の要求を完全に満たすことができる人はだれもいません。ですから、律法によって義と認められることはできません。もしそのように求めるなら、律法が本来目指しているものからずれてしまうことになります。いわゆる律法主義となってしまうのです。律法主義は、律法を行うことによって救いを得ようとすることであって福音ではありません。でも律法そのものは救い主イエス・キリストへと導いてくれる養育係です。イエス・キリストこそ、律法本来が指し示していた方であり、私たちが救われる唯一の道なのです。そのイエスに導くもの、それが律法です。律法によって私たちは自分の罪深さを知ることで、そこからの救いを求めるようになるのです。ですから、律法は良いものであり、幸いな道なのに、彼らは、「私たちは歩まない。」と頑なに拒んだのです。

17節に「見張り人」とありますが、これは預言者のことです。神は預言者を立て、迫り来る神のさばきからのがれるようにと警告したのに、彼らは何と言いましたか。彼らは「注意しない」と言いました。また出ましたよ。「こうしなさい」というと、必ずそれと反対のことを言う。こういうのを何というかというと、「あまのじゃく」と言います。人の言うことやすることにわざと逆らう人のことです。ひねくれ者です。「角笛に注意しなさい」というと「「注意しない」と言いました。反抗期のこともが親に逆らうように逆らったのです。

18節と19節をご覧ください。それゆえ、諸国の民は聞かなければなりませんでした。何を?彼らに対する神のさばきの宣告を、です。それは彼らの企みの実、たくらみの結果でした。身から出た錆であったということです。彼らが主のことばに注意を払わず、それを退けたからです。

20節のことばは、少し唐突な感じがしますね。18節と19節で言われていることと、どんな関係があるのかわかりません。「いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」どういうことでしょうか。

「シェバ」とは、今のサウジアラビアの南部、イエメンの辺りにある国です。聖書には「シェバの女王」として有名です。そこから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がささげられます。そうです、「乳香」とか「菖蒲」とは、礼拝のために用いられた香りだったのです。いったい何のためにこれらをささげるのかと、神は問うておられるのです。こうした香りのささげものや彼らの全焼のささげものは受け入れられず、彼らのいけにえは、主にとっては心地よくないものだからです。それは主に喜ばれるものではありませんでした。つまり彼らが当たり前にしていることが的を外していたのです。彼らが当たり前にしていた礼拝が、神に受け入れられるものではなかったということです。それはただ形だけの、形式的なものにすぎませんでした。彼らは形では神を礼拝していましたが、その心は遠く離れていたのです。なぜでしょうか?神のみことばから離れていたからです。神のことばを聞こうとしていなかったからです。ですから、神が何を求めておられるのかがわからなかったのです。

皆さん、これは大切なことです。信仰生活においてこの一番大切なことを忘れると、その中心からズレると、このように周りのことというか、それに不随するものに心が向いてしまうことになります。皆さん、教会にとって最も大切なことは何でしょうか。それは祈りとみことばです。つまり神のみことばを聞いてそれに従うことです。それが祈りです。教会の中心は美しく立派な会堂でもなければ、どれだけの人が集まっているかということではありません。どれだけ地域社会に奉仕しているかとか、どれだけすばらしい賛美がささげられているかということでもないのです。教会の中心は、信仰生活の中心は、神のみことばを聞いてそれに従うことです。そのみことばに生きるということなのです。

イスラエルの最初の王様はサウルという人物でしたが、彼はこの中心からズレてしまいました。彼は神様からアマレク人を聖絶するようにと命じられたのにしませんでした。聖絶というのは、完全に破壊するという意味です。どんなに価値があるように見える目ものでも、神が聖絶せよと言われるなら聖絶しなければならないのにしなかったのです。彼は肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶しました。それゆえ、サウルは王としての立場から退けられることになってしまったのです。その時、主が言われたことはこうでした。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

いったいサウルは何を間違えたのでしょうか。何を履き違えたのでしょうか。礼拝とは何であるかということです。その本質が何であるかということをはき違えたのです。サウルは、立派なものをささげることで神が喜んでくださると思い込んでいましたが、神が喜ばれることはそういうものではありませんでした。神が喜ばれることは、ご自身の御声に聞き従うことだったのです。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさるのです。

この時のイスラエルの民もそうでした。彼らは、外国からの高価な香りや多くの立派なささげ物を神が喜んでくださると思っていましたが、それは全くの彼らの勘違いでした。神が喜んでくださるのは、神のみことばに聞き従うことなのに、それがないのに、どんなに高価なささげものをしても全く意味がないのです。神のことばを拒むことによって彼らの礼拝がダメになってしまった、崩れてしまいました。つまり、人生の中心部分が壊れてしまったわけです。その結果、いにしえからの通り道、幸いな道を見失うことになってしまいました。

皆さん、私たちも注意しなければなりません。人生の中心部分を見間違うと大変なことになってしまいます。私たちの人生の中心とは何ですか。それは何度もお話しているように、神を喜び、神の栄光を現わすことです。ウエストミンスター小教理問答書にはこうあります。

「人の主な目的は、何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

皆さん、これが私たちの人生の中心です。神は人をそのように造られました。ですから、この人生の中心部分が壊れると、幸いな道を失ってしまうことになります。

英国の有名な神学者C・S・ルイスは、50年前に幸福を次のように定義しました。「車はガソリンで走るようにできているのであって、それ以外のものでは走れない。神は人間という機械が神によって走るように設計された。私たちは、神ご自身が燃料となり、食する糧となるように設計された。私たちには、他に頼るものはない。だから、宗教を度外視し、私たちのやり方で幸せにしてくださいと神に願うのは正しくない。神が、ご自分と無関係に幸せや平和を私たちに下さるなどということはあり得ない。そのようなものは、存在しないのだから。」

まあ、現代はガソリンに代わる新しい燃料が研究されていますが、今から50年前はガソリンしか考えられなかったわけで、その燃料こそ神ご自身だと言ったのです。それ以外のものを燃料としようものなら、走ることはできません。神との関係こそ、私たちが走ることができる燃料なのであって、その中心を外してはならないのです。その中心は、神のことばに聞くことなのです。

Ⅱ.恐怖が取り囲んでいる(21-26

第二のことは、その結果です。21~26節をご覧ください。「21 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」22 主はこう言われる。「見よ、一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。23 彼らは弓と投げ槍を固く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。娘シオンよ。彼らは馬にまたがり、あなたに向かい、一団となって陣を敷いている。」24 私たちは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみが私たちをとらえた。産婦のような激痛が。25 畑に出るな。道を歩くな。敵の剣がそこにあり、恐怖が取り囲んでいるからだ。26 娘である私の民よ。粗布を身にまとい、灰の中を転げ回れ。ひとり子を失ったように喪に服し、苦しみ嘆け。荒らす者が突然、私たちに襲いかかるからだ。」

その結果、彼らはどうなったでしょうか。21節には「それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」」とあります。その結果、主は彼らにつまずきを与えます。「つまずき」とは、22節にある北から攻めて来る大きな国がやって来るということです。これはバビロンのことです。彼らは残忍で、あわれみがありません。情け容赦なく攻め寄せてきます。彼らは馬にまたがり、一致団結して攻め寄せてくるのです。

そのようなうわさを聞いたユダの民はどうなったでしょうか。24節、彼らは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみ悶えました。産婦のような激痛が走ったのです。それは、恐怖が彼らを取り囲んだからです。これがエレミヤ書のキーワードの一つです。このことばは他に、20章3節、10節、46章5節、49章29節にも出てきます。繰り返して語られています。たとえば、20章3節には、「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」。と」(エレミヤ20:3)とあります。これはエレミヤが偽預言者のパシュフルに語ったことばです。「パシュフル」という名前には「自由」という意味がありますが、偽りのことばを語るパシュフルは自由ではなく不自由だ、「恐怖が取り囲んでいる」と言ったのです。それはパシュフルだけではありません。神に背を向けたすべての人に言えることです。神に背を向けたすべての人にあるのは「恐怖」です。恐怖が彼らを取り囲むようになるのです。

まさに預言者イザヤが言ったとおりです。イザヤ書57章20~21節にはこうあります。「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

皆さん、悪者どもには平安がありません。「悪者ども」とは悪いことをしている人たちというよりも、神を信じない人たちのことです。神の救いであるイエスを信じない人たちです。そのような人たちは自分を信じ、自分の思う道を進もうとしています。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、心に不安を抱えているのです。水が海草と泥を吐き出すように、彼らの口から出るのは泥なのです。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけています。それが悪者の特徴です。心に平安がないからです。平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。仕事で成功しても、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされていても平安がありません。心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。常に恐怖が取り囲んでいるのです。それは荒れ狂う海のようで、静まることがありません。泥を吐き出すしかありません。

26節には、それはひとり子を失ったようだと言われています。これは最悪の悲しみを表しています。なぜなら、自分の名を残せなくなるからです。自分たちの将来が無くなってしまいます。このように神から離れ、神のみことばを聞かなくなった結果、彼らは恐ろしい神のさばきを受けるようになったのです。

Ⅲ.心を頑なにしてはいけない(27-30)

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、心をかたくなにしてはいけないということです。27~30節をご覧ください。「27 「わたしはあなたを、わたしの民の中で、試す者とし、城壁のある町とした。彼らの行いを知り、これを試せ。」28 彼らはみな、頑なな反逆者、中傷して歩き回る者。青銅や鉄。彼らはみな、堕落した者たちだ。29 吹子で激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。溶けたが、無駄だった。悪いものは除かれなかった。30 彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」

これが、エレミヤが1~6章まで語ってきた内容の結論です。27節の「試す者」とはエレミヤのことを指しています。主はエレミヤを試す者として立てられました。それで彼は神のことばを語っていろいろと試してみたわけです。たとえば、5章ではエルサレムの通りを行き巡り、そこに正しい人、真実な人がいるかどうかを探し回りました。でも結果はどうでしたか?そういう人は一人もいませんでした。「義人はいない、一人もいない」です。

次にエレミヤは、別の方法で彼らを試しました。それは彼らを懲らしめて悔い改めるかどうかということです。しかし、彼らはみな頑なな反逆者でした。そうした彼らが、ここでは青銅や鉄、また銀にたとえられているわけです。銀を精錬するように、神の民を懲らしめてみたらどうなるでしょうか。当時、鉱石から銀を取り除くためには炉の中に鉱石を入れ、吹子で吹いて、鉛を溶かしたそうです。そのように彼らを精錬して悪を取り除こうとしましたが、残念ながら無駄でした。鉛は溶けましたが、悪いものは取り除けなかったのです。いくら精錬しても、不純物、銀かすが残ったのです。それゆえに彼らは、「捨てられた銀」と呼ばれ、廃棄物として取り扱われることになってしまいました。

皆さん、神は愛する者を精錬されます。へブル人への手紙にはこうあります。「6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」(へブル12:6-7)

主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられます。ですから、訓練と思って耐え忍ばなければなりません。そして、イスラエルの民のように、心を頑なにしないで、神のことばに聞き従わなければなりません。聖書にこうあるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(へブル3:7-8)

あなたはどうでしょうか。あなたはどのような御声を聞いておられますか。もし、今日御声を聞くなら、心を頑なにしてはいけません。その御声に聞き従ってください。なぜなら、主ご自身があなたのために先ず十字架で死んでくださったからです。主が懲らしめを受けてくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを受けるためです。この方があなたの救い主です。その方がこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)これが真理の道、いのちの道、幸いの道なのです。

イザヤ書30章21節にはこうあります。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」

あなたが人生を歩むとき、右に行ったらいいのか、それとも左に行ったらいいのか悩む時があるでしょう。しかし、これが道です。これがいのちの道、幸いな道なのです。主は聖霊を通して、「これが道だ。こけに歩め」と言っておられます。どうか道を間違えないでください。永遠に変わることがない神のみことばこそ、真理の道なのです。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることはない。どうかこの道を歩み、たましいにやすらぎを見出してください。特に若い方々には自分がやりたいと思うことがたくさんあるでしょう。でもそのすべてが正しいとは限りません。どうか道を踏み外さないでください。もし踏み外したと思ったら、すぐに主に立ち返り、主が示される道を歩んでください。あなたがへりくだって主のみことばに従い、幸いな人生を送ることができるように祈ってやみません。

Ⅰ列王記9章

 今日は、列王記第一9章から学びます。

 Ⅰ.ソロモンに対する主の約束(1-9)

まず、1節から9節までをご覧ください。「1 ソロモンが、主の宮と王宮、および、ソロモンが造りたいと望んでいたすべてのものを完成させたとき、2 主は、かつてギブオンで現れたときのように、ソロモンに再び現れた。3 主は彼に言われた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目と心は、いつもそこにある。4 もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、5 わたしが、あなたの父ダビデに『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』と約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう。6 もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、7 わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。イスラエルは、すべての民の間で物笑いの種となり、嘲りの的となる。8 この宮は廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな驚き恐れてささやき、『何のために、主はこの地とこの宮に、このような仕打ちをされたのだろう』と言う。9 人々は、『彼らは、エジプトの地から自分たちの先祖を導き出した彼らの神、主を捨ててほかの神々に頼り、それを拝み、それに仕えた。そのため主はこのすべてのわざわいを彼らに下されたのだ』と言う。」」

ソロモンが主の宮と王宮を完成させたとき、主は、かつてギブオンで現れたように(Ⅰ列王3:4~5)、ソロモンに再び現れて言われました。それは、ソロモンが主の前で願った祈りと願いを主は聞かれたということです。主はソロモンが主の名をとこしえに置くために建てた神殿を聖別し、そこにご自身の目と心をいつも置いてくださると言われたのです。これは、神の守りがいつもそこにあるということです。私たちの心が神に向かっているなら、神の目はいつも私たちに注がれているのです。

次に主は、祝福と警告のことばを語ります。まず祝福のことばです。それは、4~5節にあるように、ソロモンが、父ダビデが歩んだように全き心と正直さをもって主の前を歩み、主が命じたことを守り行うなら、彼の王国の王座はイスラエルの上にとこしえに立つということです。

しかし、彼とその子孫が、主に背を向け、主が命じた命令と戒めを守らずに、行ってほかの神々を拝むなら、主が彼らに与えた地の面から断ち切り、主の御名を置くために建てた宮を投げ捨てるということでした。その宮は廃墟となり、そのそばを通る者はみなそれを見て驚き、「いったい主は何のためにこの地とこの宮に、このような仕打ちをされるのだろうか」と言うようになります。私たちは毎週日曜日の礼拝でエレミヤ書から主のメッセージを聞いていますが、この時から約370年後にこのことばが実現することになります。Ⅱサムエル7:11~13にあるダビデ契約は、最終的にはメシヤであるイエスによって成就します。その神の約束を妨害するのは、神の心が変わったからではなく、イスラエルが神に背いたからです。神は常に変わることなく、私たちを見守っておられます。

Ⅱ.ツロの王ヒラムへの贈り物(10-14)

次に、10~14節をご覧ください。「10 ソロモンが主の宮と王宮との二つの家を二十年かけて建て終えたとき、11 ツロの王ヒラムが、ソロモンの要請に応じて、杉の木材、もみの木材、および金を用立てたので、ソロモン王はガリラヤ地方の二十の町をヒラムに与えた。12 ヒラムはツロからやって来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たが、彼はそれらが気に入らなかった。13 彼は、「兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか」と言った。そのため、これらの町々はカブルの地と呼ばれ、今日に至っている。14 ヒラムは王に金百二十タラントを贈っていた。」

ソロモンが主の宮と王宮との二つの家を二十年かけて建て終えたとき、ソロモンはツロの王ヒラムに、ガリラヤ地方の二十の町を与えました。それはヒラムがこの神殿と王宮の建設のために、ソロモンの要請に応じて、杉の木材、もみの木材、および金を用立てたからです。

ところが、ヒラムはこれらの町々を気に入りませんでした。これらの町々は「カブルの地」と呼ばれ、ないのと同じ、ほとんど価値がない地だったからです。ヒラムはソロモンに120タラントの金を贈っていました。これは膨大な量の金です。ソロモンが与えた町々は、その行為には全く不釣り合いのものだったのです。やがてイエスがこれらの町々に現われ、福音を語られるというのは、興味深いことです。

とはいえ、モーセの律法に照らし合わせるなら、ソロモンがこれらの約束の地を異邦人のヒラムに与えるというのは主のみこころではないことは明らかなことでした。結果的にヒラムがそれを拒否したためそれは実現しませんでしたが、ソロモンは早くも主の掟と定めを破ろうとしていたことがわかります。どんなにすばらしい事業を完成しても、主のことばから離れてしまうなら何の意味もありません。ソロモンの問題は、自分では主に従っていると思っていながらも、このように少しずつすれていることに気付かなかったことです。それは私たちにも言えます。私たちもイエス様に従っていると思っていても、実際のところそうでないことがあります。注意深く主のことばを学び、それに従うことの大切さを教えられます。

Ⅲ.ソロモンの業績(15-28)

最後に、15~28節をご覧ください。ここには、ソロモンの業績がまとめられています。まず15~19節です。「15 ソロモン王は役務者を徴用して次のような事業をした。彼は主の宮と自分の宮殿、ミロとエルサレムの城壁、ハツォルとメギドとゲゼルを築き直した。16 かつてエジプトの王ファラオは、上って来てゲゼルを攻め取り、これを火で焼き、この町に住んでいたカナン人を殺して、ソロモンの妻である自分の娘に結婚の贈り物としてこの町を与えた。17 ソロモンはこのゲゼルを築き直したのである。また、下ベテ・ホロン、18 バアラテ、この地の荒野にあるタデモル、19 ソロモンの所有するすべての倉庫の町々、戦車のための町々、騎兵のための町々、またソロモンがエルサレム、レバノン、および彼の全領地に建てたいと切に願っていたものを建てた。」

まず、ソロモンの建築事業です。彼は役務長官を徴用して、主の宮と自分の宮殿、ミロとエルサレムの城壁、ハツォルとメギドとゲゼルを築き直しました。ミロとは、シオンの山の端に建てられた塔のことではないかと考えられています。また、エルサレムの城壁は、ダビデが急きょ建設してから50年が経過していたので、修復が必要な状態になっていました。

ソロモンはそれらを修復しただけでなく、ハツォルとメギドとゲゼルを築き直しました。この3つの町は、イスラエルを防衛するうえで極めて重要な要塞の町でした。ハツォルはガリラヤ湖の北方の要で、北からの侵略を塞ぎました。メギドはイズレエル平原の西端に位置し、海沿いの道行を支配しました。ゲゼルは、イスラエルの南西に位置し、南からの敵の侵入を防ぎました。このゲゼルは、エジプトの王ファラオが支配していましたが、ファラオの娘がソロモンと結婚したことで、この町をソロモンに贈り物として与えていました。ソロモンはこのゲゼルを築き直したのです。

その他にもソロモンは多くの町々を建設しました。下ベテ・ホロン、バアラテ、タデモル、ソロモンが所有するすべての倉庫の町々、戦車のための町々、騎兵のための町々等です。彼は建てたいと思っていたすべてのものを建設しました。まさにソロモンが栄光に輝いていた時代です。

しかし、ソロモンが本当に主から命じられたことをことごとく行なったのかと言うと、そうではありません。20~24節をご覧ください。「20 イスラエル人ではない、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残りの民すべて、21 すなわち、この地に残されていた人々、イスラエル人が聖絶できなかった人々の子孫を、ソロモンは強制労働に徴用した。今日に至るまで、そうである。22 しかし、ソロモンはイスラエル人を奴隷にはしなかった。彼らは戦士であり、彼の家来であり、隊長であり、補佐官であり、戦車隊や騎兵隊の長だったからである。23 ソロモンには工事の監督をする長が五百五十人いて、工事に携わる民を指揮していた。24 ファラオの娘が、ダビデの町から、ソロモンが彼女のために建てた家に上って来たとき、ソロモンはミロを建てた。」

ソロモンは、イスラエル人ではない、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残りの民すべて、すなわち、この地に残されていた人々、イスラエル人が聖絶できなかった人々の子孫を、ソロモンは強制労働に徴用しました。これは、モーセを通して与えられた主の命令から外れています。主の命令は、カナン人などの先住民を聖絶しなければいけないということでしたが、ソロモンはそれらの人々を苦役に課しただけでした。

そればかりではありません。何といっても、彼はエジプトの王ファラオの娘を妻としました。彼女は異邦人ですから、そのような人を妻とすることは主によってかたく禁じられていたのに、彼はそれをも破っていました。破っていたというよりも、深く考えなかったのでしょう。この時点では、異教の妻の悪影響はまだ表面化していませんでしたが、やがてそれが顕著になって現われることになります。11章に入るとソロモンの政略結婚が失敗であったことが明らかになります。ソロモンの栄光の陰には、こうした崩壊の足音が忍び寄っていたのです。

このことは私たちにも言えることです。私たちも自らの信仰を過信し、主の命令に背くことがあると、それが大きなほころびとなってしまいます。小さな失敗、小さな判断のミスが、重大な結果をもたらすことになるのです。ですから、主のみこころから外れたと思ったら、すぐに悔い改めて軌道修正しなければなりません。

最後に、25~28節をご覧ください。「25 ソロモンは、主のために築いた祭壇の上に、一年に三度、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ、それらとともに主の前で香をたいた。彼は神殿を完成させた。26 また、ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にあるエイラトに近いエツヨン・ゲベルに船団を設けた。27 ヒラムはこの船団に、自分のしもべで海に詳しい水夫たちを、ソロモンのしもべたちと一緒に送り込んだ。28 彼らはオフィルへ行き、そこから四百二十タラントの金を取って、ソロモン王のもとに運んだ。」

ソロモンは、主のために築いた祭壇の上に、一年に三度、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ、それらとともに主の前で香をたきました。年に三度、というのは、おそらく過越の祭り、五旬節、そして仮庵の祭りのイスラエル三大祭りのことでしょう。その時に祭壇でいけにえを、香壇で香をたいたのです。勿論彼自身ささげたのではなく、祭司の手にゆだねてのことです。そういう点でソロモンは、純粋な信仰を持ち、主を愛し、主に従おうとしいたことがわかります。

また、ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にあるエイラトに近いエツヨン・ゲベルに船団を設けました。「エツヨン・ゲベル」は、アカバ湾の北に設けられた港町です。この港町は、イスラエルが海上に出て行くための唯一の門戸でした。ソロモンはここに船団を設けたのです。この船団はツロの王ヒラムの協力によって成り立っていました。彼らはオフィルへ行き、そこから420タラントの金を取って、ソロモンのもとに運びました。これらの金が、ソロモンの事業の資金となったのです。しかし、こうした金が必ずしも祝福をもたらすものではありません。ソロモンのこうした思いは民への重税策にもつながり、それもまた大きな汚点となっていきます。どのような人生が成功をもたらすのかを、ソロモンの成功と失敗を振り返りながら、学びたいと思います。そして、主を恐れることこそ知恵の初めであり祝福の要であることを覚え、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさみながら歩みましょう。

エレミヤ6章1~15節「偽りの平安」

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エレミヤ書6章に入ります。今日のタイトルは「偽りの平安」です。14節に「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」とあります。「彼ら」とはエレミヤの時代の預言者たちのことです。彼らはみな偽りを言っていて、本当は平安じゃないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。いわゆる「偽りの平安」です。世の終わりが近づくとこうした偽りの預言者が現れ、平安がないのに「平安だ、平安だ」と言いますが、そうしたことばに騙されないで、聖書が言っていることはどういうことかをよく聞いて、主が与えてくださる本物の平安をいただきながら歩みたいと思います。

三つのことをお話します。第一に、平安ではなかった神の民、エルサレムの姿です。彼らは悪に満ちていたので、神は彼らに大いなる破壊を宣言されました。その悪は何と井戸水が湧き出るようにコンコンと湧き出ていました。

第二のことは、その原因です。それは、彼らの耳が閉じたままになっていたからです。ですから、主のことばを聞くことができませんでした。聞き従うためには耳が開かれていなければなりません。耳に割礼を受けなければならないということです。

第三のことは、そのためにどうしたらよいかということです。そのためにはイエス・キリストに聞かなければなりません。真の平安は、平和の君であられるイエス・キリストによってもたらされるからです。

Ⅰ.湧き出る悪(1-8)

まず、1~8節までをご覧ください。5節までをお読みします。「1 ベニヤミンの子らよ、エルサレムの中から逃れ出よ。テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。わざわいが北から見下ろしているからだ。大いなる破壊が。2 娘シオンよ、おまえは麗しい牧場にたとえられるではないか。3 そこに羊飼いたちは自分の群れを連れて行き、その周りに天幕を張り、群れの羊は、それぞれ自分の草を食べる。4 「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」5 「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」

エレミヤは預言者としての召命を受けると、2章から神のことばを語ります。それは神に立ち返れという内容でした。彼らは妻が夫を裏切るように、主に背いて自分勝手な道に走って行きました。そんなエルサレム、ユダに対して主は、北からわざわいを起こすと宣告されました。バビロンによる破壊です。きょうの箇所にはそのわざわいがどれほど破壊的なものなのかが、具体的な描写をもって語られています。この6章は、2章から語られてきたエレミヤの最初の預言のまとめとなる部分です。

1節には「ベミヤミンの子らよ」とあります。「ベミヤミン」とは、エルサレムに住んでいた人々のことを指しています。というのは、エルサレムはもともとベニヤミン部族の領土にあったからです。それがユダ部族のダビデによってイスラエル統一王国の首都となったので、いつしかユダ部族の領土であるかのように思われていますが、もともとベニヤミンの領土にありました。ですから、これはエルサレムの住民のことを指しているわけです。そのベニヤミンの子らに、エルサレムの中から逃れ出よ、と言われています。

また「テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。」とあります。「テコア」とは、エルサレムの南約20㎞に位置している町です。また「ベテ・ハ・ケレム」は、はっきりとした位置はわかりませんが、エルサレムとそのテコアの間にあった町ではないかと考えられています。そのテコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしをあげよというのです。なぜでしょうか。北からわざわいが見下ろしているからです。大いなる破壊が迫っていることを知らせなければならなかったのです。「のろし」は10~20Km先からも見えたと言われています。この「のろし」を上げて、北からわざわいが迫って来ているよと知らせ、それに備えるようにと言われたのです。いわば緊急地震速報のようなものです。地震が起きると、その数秒前に「地震です。地震です。」とスマホが知らせます。それが夜中だったりするとびっくりして起き上が、何があったのかとすぐにテレビをつけて確かめますが、それと同じように、北からわざわいが、大いなる破滅が迫って来ていることを、角笛を吹いて、のろしを上げて警告するようにというのです。

2節をご覧ください。「娘シオンよ」とあります。「シオン」とは、「エルサレム」の別の呼び方です。ですからこれは、1節の「ベニヤミン」とも同義語でもあるわけですが、そのシオンが、ここでは「麗しい牧場」にたとえられています。そこに暮らす民は美しい羊たちでした。本来であれば、羊飼いたちは自分の群れの羊たちを連れて行き、その周りに天幕を張り、そこで草を食べるよことができるようにするわけですが、今回はそうではありません。そのシオンに向かって聖戦を布告せよ、と言われているのです。4節と5節です。「「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」どういうことでしょうか。

聖書では、「羊飼い」というとイスラエルの王や預言者といった霊的リーダーたちのことを指していますが、ここでは別の人のことを指して言われています。それはバビロンの王ネブカデネザルのことです。彼は羊たちを緑の牧場にふさせ、いこいのみぎわに伴うどころか、その麗しい牧場、神の民に対して聖戦を布告するのです。そのように命じているのは誰かというと、イスラエルの神、主です。主がバビロンの王ネブカデネザルに対して、イスラエルに向かって聖戦を布告するように、と言われたのです。ですからここに「聖戦」とあるのです。「聖戦」とは神の戦いのことです。一般的には神の民が外国の民に対して行うものですが、ここでは逆です。バビロンが神の民に対して戦う戦いを聖戦と呼んでいます。なぜなら、それは聖なる神によって命じられたものだからです。そうです、これは神が主導された神の戦いなのです。神の民であるイスラエルを懲らしめるために、神が外国のバビロンを用いられるのです。それはどのような戦いでしょうか。

4節には「われわれは真昼に上ろう」とあります。そして5節には「われわれは夜の間に上って」とあります。通常、戦闘は夜明けとともに始まり夕暮れには終わりましたが、日中はかなり暑くなるので少し休んだりするわけですが、この敵はそうではありません。ここに「真昼に上ろう」とあるように、真昼の暑い中でも休まずに攻撃してくるのです。それは通常ではあり得ないことです。そんなあり得ない力を持っているということを表しているのです。また「夜の間に上って」とは、昔は懐中電灯のようなものがなかったので夜の間に戦うことはできませんでしたが、この敵は違います。夜の間も上って来ます。ものすごいパワーです。そんな敵が攻め寄せて来たら、たまったものではありません。

6節をご覧ください。ここで万軍の主がこう言われます。「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。これは罰せられる都。その中には虐げだけがある。」

これは誰に対して語られているのでしょうか。そのバビロンに対してです。バビロンに対して「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。」というのです。「塁」とは、英語で「mounds」(マウンド)です。盛土とか、土手、土塁のことですね。野球のピッチャーが投げるところをマウンドと言いますが、それは盛土された所だからです。ここでは土ではなく木でそれを築くようにと命じられています。木を切って、エルサレムに向かって塁を築くようにと。エルサレムは城塞都市でしたから、たやすく攻めることができませんでした。それで木を切って、それで城壁よりも高い物見やぐらのようなものを作り、そこから侵入を試みるのです。いわゆる「塁」を築くわけです。これを命じておられるのは万軍の主です。万軍の主である神様が、ご自分の民であるエルサレムを攻撃するために、その戦術をバビロンに命じているのです。4節に「聖戦を布告せよ」とありましたが、これは皮肉でも何でもなく、エルサレム、ユダの民に対する神の戦い、聖なる戦争だったのです。主はそのためにバビロンを用いました。主は外国の敵を用いて神の民を罰しようとされたのです。なぜなら、彼らは罪と悪によって腐敗していたからです。

その悪がどのようなものであったかが7節に記されてあります。「井戸が水を湧き出させるように、エルサレムは自分の悪を湧き出させた。暴虐と暴行がその中に聞こえる。病と打ち傷がいつもわたしの前にある。」

井戸の水が湧き出るように、エルサレムは自分の悪を湧き出させていました。神が彼らをさばかれるのは、彼らの中に井戸水のように悪がコンコンと湧き出ていたからです。表面的にではなく、根っこの部分が腐っていたわけです。彼らの内側は暴虐と暴行で満ちていました。それが病と打ち傷となって、こんこんと外側に溢れ出ていたのです。悪は外側からではなく内側から出るものです。イエス様は、マルコ7章14~23節でこのように言われました。「14イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」」

皆さん、人を汚すのは外から入ってくるものではありません。人の内側から出るものです。人の内側から出るものが人を汚すのです。悪いことをするから罪人なのではなく、罪人なので悪いことをするのです。それは心から、内側から溢れ出てきます。見た目にはいくらでもよく見せることができますが、神は心を見られます。心は人の努力ではきよめることはできません。心をきよめることができるのは、イエス・キリストだけです。イエス・キリストによってその心をきよめていただかなければならないのです。

私たちの心は、悪が井戸水のようにこんこんと湧き出てくるようなものですが、神はこんな私たちをあきらめることはなさいません。そんな者でも癒してくださると約束しておられるのです。イザヤ書1章5~6節にこうあります。「あなたがたは、反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている。足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」しかし、主はこう仰せられます。「さあ、来たれ。論じ合おう。─主は言われる─たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。足の裏から頭のてっぺんまで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷が絶えず、絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえないような者でも、主はそんなあなたを招いておられるのです。そして、その罪を雪のように白くしてくださいます。羊の毛のようにしてくださるのです。その声を聞いて、神に立ち返る人は何と幸いでしょうか。

8節をご覧ください。「エルサレムよ、懲らしめを受けよ。そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も住まない荒れ果てた地とする。」

これは神の懲らしめ、Disciplineです。ここには親が子どもをしつけるというニュアンスがあります。愛する子がダメにならないように叱る親のように、神様はご自分の子に懲らしめを与えられるのです。子どもに向かって親が「きちんとしなさい」と言うように、神はご自分の民に言われるのです。「そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も少ない荒れ果てた地とする。」からです。原文では「そうでないと」ということばが2回使われています。「そうでないと、わたしの心はお前から離れ、そうでないと、おまえを、人もすまない荒れ果てた地とする。」ここまで来てもなお、あきらめない神の御思いが表れています。神様はギリギリまで待っていてくださるのです。

ここで注目していただきたいことばは「離れ」ということばです。これは脱臼するという意味の語で、聖書には、ここともう1箇所にしか出てこない珍しい言葉です。神と民がどれほど深く結びついているかが表されているのです。それほどまでに、神が民をさばくということは辛いことなのです。不本意ながらも離さなければならないという、神様の悲痛な思いが伝わってきます。なぜなら、彼らが汚れたままであることを選ぶからです。自分の悪を悔い改めことを拒むからです。

神様はきよい方であられます。罪や汚れと交わることはできません。ですから、私たちの罪がきよめられなければならないのです。そうすれば、神から離れることはありません。脱臼することはないのです。強く結びついたままでいることができます。あなたはどうですか。脱臼していませんか。この神の思いを受け止めて、神に立ち返り、罪を赦していただいて、神と深く交わる者でありたいと思います。

Ⅱ.閉じたままの耳(9-10

第二のことは、彼らがこのように悪に満ちるようになった原因です。いったいどうして彼らは神から離れてしまったのでしょうか。それは、彼らの耳が閉じられていたからです。9~10節をご覧ください。「9 万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。ぶどうを収穫する者のように、あなたの手をもう一度、その枝に伸ばせ。」10 私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。」とは、ぶどうを収穫する際に隅々まで摘むように、イスラエルの民をすっかり摘み取れということです。ユダの民はバビロンの攻撃によって完全に滅ぼされ、その住民はバビロンへと連れて行かれることになります。この「イスラエルの残りの者」とは、4章7節や5章18節に出てきた「残りの者」、「レムナント」のことではありません。ここで言われていることは、バビロンの破壊は徹底的であるということです。エルサレムはもう完全にバビロンの手に落ちるのです。

10節をご覧ください。それを聞いたエレミヤはこう言っています。「私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

エレミヤは彼らに主のことばを語りましたが、だれも聞こうとしませんでした。聞く耳を持たなかったのです。完全に耳を塞いでいました。そんな人たちにエレミヤは40年以上も語り続けるのです。どれほど大変だったことかと思います。39年前の今日、私は福島で最初の礼拝をスタートしました。1年半ほど前から開いていたフライデーナイトという聖書を学ぶ小さなグループのメンバーと教会をスタートすることを決め、その最初の礼拝が39年前の今日だったわけです。若干22歳の若造が何を語ったのかさっぱり覚えていませんが、それから半年後の11月23日に最初の受洗者が与えられて教会を設立しました。あれから40年は経ちませんが、39年間いろいろなことがありましたが、神様のあわれみと助によってとにかく語り続けてきたわけですが、エレミヤは40年以上です。どんなに大変だったことかと思います。10節にあるように、主のことばは彼らにとってそしりの的となっていたわけですから。彼らはそれを喜ぶどころか、馬鹿にして、嘲笑っていたのです。

ここで注目していただきたいのは、「耳は閉じたままで」ということばです。これは下の欄外の説明にあるように、直訳では「耳に割礼がなく」という意味です。無割礼なのです。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている包皮を切り取ることです。ユダヤ人の男子はみな、自分たちが神の民であるというしるしに、生まれて8日目にこの儀式を行いました。その耳に割礼がないというのです。実は4章4節にも、この割礼のことが語られていました。「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」大切なのは肉体の割礼ではなく心に割礼を受けるということです。いくら肉体に割礼を受けていても心が肉で覆われていたら、神のことばが心に響かないからです。何を言っているのかさっぱりわかりません。理解できない。ここでも同じことが言われています。耳が肉で覆われていると何を言っているのかわかりません。聞こえないのです。音声としては聞こえますが、それがどういうことかがわからないということです。聞く耳を持っていなかったからです。聞こうとしていませんでした。それが「耳に割礼がない」ということです。「耳が閉じられたまま」の状態のことです。まさに耳は、従順さとか服従さが表れる場所なのです。聞いたら従うのです。聞いても従っていないというのは、それは聞いていないということです。聞こえていないのです。

あなたの耳はどうでしょうか。だんだん耳が遠くなってきたと感じることがありますか。でもそれは年のせいではありません。心が神から遠く離れているということです。「前はもっとはっきり聞こえたけど、今は耳が遠くなって何を言っているのかわかりません」「以前は聖書を読むとピンときたのに、今はどこを読んでも無味乾燥です。全然響かないんです」というのは、実は耳が肉で覆われているからなのです。耳かすがたまっているからではありません。耳が肉で覆われているからなのです。ですから、耳に割礼を受けなければなりません。そうすれば、よく聞こえるようになります。

イエス様は種まきのたとえの中でこう言われました。「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)ここに「みことばを聞くが、みことばをふさぐため、実を結ばない」とあります。ふさぐものは何ですか。ここでは、この世の思い煩いとか、富の惑わしとあります。そうしたものがみことばをふさぐため、聞いても実を結ばないのです。

私たちにはいろいろな思い煩いがあります。仕事のことや家庭のこと、自分の健康のことや人間関係の問題、あるいは最近は特にコロナや戦争のことで不安を抱えているという人もおられると思います。でもそうしたものに捉われていると、みことばが聞こえなくなってしまいます。それらのものがみことばをふさいでしまうからです。だから聖書はこう言っているのです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)

神があなたがたのことを心配してくださいます。ですから、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねてください。そうすれば、神のことばが聞こえてきます。私たち人間には、どうすることもできないことがたくさんあります。それらのことを心配するのではなく、神に信頼しなければなりません。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、神の御声が聞こえてくるのです。

Ⅲ.平和の君イエス・キリスト(11-18)

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、イエス・キリストに聞きなさいということです。11~18節をご覧ください。「11 主の憤りで私は満たされ、これを収めておくのに耐えられない。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。夫はその妻とともに、年寄りも齢の満ちた者も、ともに捕らえられる。12 彼らの家は、畑や妻もろとも、他人の手に渡る。わたしがこの地の住民に手を伸ばすからだ。─主のことば─13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。14 彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。15 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。─主は言われる。」16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。」

みことばを聞こうとしないユダの民に対して、エレミヤの心は主の憤りで満たされました。もうそれを自分の心に収めておくことができなくなりました。だれも聞いてくれないのです。完全にバーン・アウトしたわけです。疲れ果ててしまいました。皆さんもよくあるでしょう。疲れ果てた・・・・ということが。

するとエレミヤに主のことばがありました。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。」と。「それ」とは主の憤りのことです。それを道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎだすようにというのです。幼子や若い男たちだけではありません。夫も妻も、年寄りも、非常に齢の満ちた者、これはかなりのご老人にもということですね。彼らも捕えられることになります。さらに彼らの家と畑は、妻もろとも奪われ、他人の手に渡ることになります。

どうしてでしょうか。13節にその理由が述べられています。「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」

身分の高い人とか低い人までみんな自己中心になっていたからです。そしてその腐敗が宗教的なリーダーたちにまで及んでいました。彼らはみな偽りを行っていました。たとえば、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていました。これはある種のマインドコントロールです。主はそのように言っていないのに、そのように言っているかのように装うからです。私たちも注意しなければなりません。彼らは神の民の傷をいいかげんに癒していました。民は元気じゃなかったのに表面的に治療して「大丈夫、元気、元気!」と言い聞かせ、思い込ませていました。いわゆるやぶ医者と一緒です。ちゃんと治療しないのです。ここでは医者というよりも祭司とか預言者のことですから、やぶ牧師です。神様が言っていないのに「大丈夫だよ。神様はあなたのありのままを愛しているから」とか、いいかげんに語るのです。その方が相手も心地よいからです。それはやぶ医者と同じです。神の民の傷をいいかげんに癒しているにすぎません。しかし、真の牧者は民の傷をいいかげんに扱うことはしません。神のことばが言わんとしていることはどういうことなのかをしっかりと受け止め、みことばと祈りによって癒すのです。たとえそれがどんなに聞こえが良くないことでも、神のことばにしっかりと立つことが真の解決につながると信じているからです。

ところで、この「平安」ということばですが、これはヘブル語では「シャローム」と言います。「シャローム」とは、単に戦争がないとか、心が平安であるというだけでなく、その本質は「何の欠けもない理想的な状態」のことを意味しています。ですから、争いがなければ平和となるし、病気がなければ健康となるわけです。問題が解決すれば勝利となり、祝福に満たされていれば繁栄となります。欠けがあれば完全ではありません。でもこの「シャローム」は何の欠けもない完全な状態を意味しています。

あなたはどうでしょうか。あなたには何か欠けがありますか。その欠けが「シャローム」によって満たされるのです。他のもので満たされることはありません。お酒やギャンブル、仕事、お金、趣味などであなたの心が満たされることはありません。あなたの心を満たすのは、シャロームなる方、平和の君イエス・キリストだけです。イザヤ書9章6節にこうあります。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」ひとりのみどりごとはイエス・キリストのことです。キリストは生まれる700年も前から、私たちを救う救い主として来られることが預言されていました。その名は何でしょうか。その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。イエス・キリストはその名の通り、私たちの罪を赦すために十字架にかかられ、三日目によみがえられたことで、この平和をもたらしてくださいました。

また、エペソ2章14~19節にもこうあります。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」

ですから、イエス・キリストだけがシャローム、真の平和をもたらすことができます。イエス・キリストだけが救いをもたらすことができます。勝利を、繁栄を、満たしをもたらすことができるのです。それ以外に平和を得る方法はありません。だから、キリストはこう言われたのです。「28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイ11:28-29)

皆さんの中に、疲れている人がいますか。重荷を負っている人がいますか。そういう人はイエス様のもとに来てください。イエス様があなたを休ませてあげます。なぜなら、イエス様は柔和でへりくだっておられる方だからです。イエス様はあなたのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。それはあなたがいのちを得るためです。ここに「そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。「安らぎ」「平安」それはイエス・キリストにあるからです。

偽預言者は平安がないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。彼らは表面的で安易な平安を約束しましたが、そこには本当の平安はありませんでした。悪者には平安がないからです(イザヤ48:22)。真の平安を得るためには、その罪、汚れをきよめていただかなければなりません。そのために神は救い主を送ってくださいました。その救い主の贖いの業によって罪の赦しが実現したのです。平和がもたらされました。ですから、あなたが真の平安を得たいと思うなら、キリストのもとに来て罪をきよめていただかなければなりません。これが真のシャロームです。この方に聞くべきです。

世の終わりが近くなると、こうした偽預言者たちが安易な平安を約束しますが、そのようなことばに騙されてはいけません。平安がないのに、「平安だ、平安だ」ということばに聞いてはならないのです。真の平和はイエス・キリストにあります。この平和の君なるイエス・キリストに聞き従いましょう。それが神のさばきから免れ、神の平安をいただき、幸いな人生を送るキーなのです。

Ⅰ列王記8章

今日は、列王記第一8章から学びます。前回と前々回は、ソロモンの神殿と宮殿の建設について学びました。今日の箇所は神殿が完成してそれを神に献げる奉献式に関する記事です。

 Ⅰ.主の契約の箱を運び入れる(1-11)

まず、1節から11節までをご覧ください。「1 それからソロモンは、イスラエルの長老たち、および、イスラエルの部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町シオンから主の契約の箱を運び上げるためであった。2 イスラエルのすべての人々は、エタニムの月、すなわち第七の新月の祭りにソロモン王のもとに集まった。3 イスラエルの長老全員が到着すると、祭司たちは箱を担ぎ、4 主の箱と、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖なる用具を運び上げた。これらの物を祭司たちとレビ人たちが運び上げた。5 ソロモン王と、王のところに集まったイスラエルの全会衆は、ともに箱の前に行き、羊や牛をいけにえとして献げた。その数はあまりにも多く、数えることも調べることもできなかった。6 祭司たちは、主の契約の箱を、定められた場所、すなわち神殿の内殿である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れた。7 ケルビムは、箱の一定の場所の上に翼を広げるのである。こうしてケルビムは箱とその担ぎ棒を上からおおった。8 その担ぎ棒は長かったので、棒の先が内殿の前の聖所からは見えていたが、外からは見えなかった。それは今日までそこにある。9 箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエルの子らがエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれた際に、モーセがホレブでそこに納めたものである。10 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。11 祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」

神殿完成のためのメイン・イベントは、契約の箱を移動させることでした。ソロモンは、イスラエルの長老たち、部族のかしらたち、一族の長たちをすべて、エルサレムの自分のもとに召集しました。ダビデの町シオンに置かれていた契約の箱を、すぐ北に位置する神殿の丘まで運ぶためです。それはエタニムの月、すなわち第七の新月の祭りに行われました。この祭りは仮庵の祭りです。神殿は、前年の第八の月(ブルの月)に完成していました(6:38)。ですから、それから約11か月が経過していたことになります。なぜ奉献式をこんなに遅らせたのでしょうか。たぶん、この仮庵の祭りに合わせて行おうとしたからではないかと思います。そうすれば、より多くの民が集うことができるからです。

イスラエルの長老たち全員が到着すると、祭司たちは契約の箱を担ぎ、会見の天幕と、天幕にあったすべての聖具を運び上げました。5節をご覧ください。ソロモン王と、王のところに集まった全会衆は、ともに箱の前に行き、羊や牛をいけにえとして献げましたが、その数はあまりにも多く、数えることも調べることもできませんでした。覚えていますか。ダビデが、オベデ・エドムの家から契約の箱を運び出した時のことを。牛がよろめいたのでウザが神の箱に手を伸ばしそれをつかんだ時、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はその場で打たれてしまいました。それでダビデは、箱をかつぐ者たちが六歩進む度に、肥えた牛をいけにえとしてささげました(Ⅱサムエル6:1-15)。ここでソロモンも同じようなことをしています。しかし、ダビデのときよりもはるかにいけにえの数が多かったようです。それはあまりにも多くて、数えることも調べることもできませんでした。

そのようにして祭司たちが主の契約の箱を運ぶと、定められた場所、すなわち神殿の内部である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れました。契約の箱には長いかつぎ棒がついていましたが、ケルビムは箱とその担ぎ棒を植えからおおいました。箱の中には、モーセの律法を記した2枚の石の板のほかには何も入っていませんでした。以前は他に二つの物が入っていました。マナのつぼと、アロンの杖です(出エジプト16:33)。マナは、イスラエルが荒野の旅をしているとき、主が毎朝イスラエルのために与えられた食物ですが、このことを記念するために、つぼに取っておきなさいと主が命じたものです。またアロンの杖は、レビ人コラがアロンとモーセに逆らい滅ぼされた後、イスラエルの民がアロンとモーセに与えられた権威を認めていなかったので、主が12部族のかしらを集めて、だれが主に選ばれた祭司であるのかを示すために入れたものに行われたものです。契約の箱の前に置かれた12本の杖の中で、アロンの杖だけにアーモンドの実が結ばれ、花が咲きました。この二つがなかったのは、契約の箱がペリシテ人の地にあったとき、それを取り除いたからではないかと考えられます。あるいは、それはイスラエルが約束の地に行くまでに必要な、一時的な神の証しだったのかもしれません。いずれにしても、契約の箱において大事なのは、この2枚の石の板です。つまり、神のことばです。

祭司たちが聖所から出て来たとき、すなわち主の契約の箱を至聖所に収めた時、雲が主の宮に満ちました(10)。これは主の栄光と臨在を現しています。これは、神がソロモンの建てた神殿を受け入れ、そこに臨在することをよしとされたということです。モーセが幕屋を完成された時も同じでした(出エジプト40:34-35)。それは神殿が完成したからということよりも、ソロモンをはじめイスラエルの民が主を心から慕い求め、主のことばに歩もうとする信仰を、主が喜ばれたということです。それが信仰から出たことであれば、主はそれを喜ばれ、ご自身の栄光と臨在を現してくださるのです。

Ⅱ.ソロモンの祈り(12-53)

12~13節をご覧ください。「12 そのとき、ソロモンは言った。「主は、黒雲の中に住む、と言われました。13 私は、あなたの御住まいである家を、確かに建てました。御座がとこしえに据えられる場所を。」」

「主は黒雲の中に住む」とはどういうことでしょうか。新改訳第三版は「暗やみの中に住む」と訳しています。これは、主は濃い雲の中にご自身の臨在を現わされるということです。そして同時にこれは、主が暗やみの中に住んでいる人間のところに来て住まわれるということを示しています。ヨハネ1章14節には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられる。」とあります。主は、罪と不法の中に生きている人々の中に、暗やみの中に住んでいる私たちのところに住まわれ、ご自身の栄光を現わされる方なのです。ですからソロモンは、主が臨在してくださることを目的に、主が住まわれる家を建てたのです。

14~21節をご覧ください。「14 それから王は振り向いて、イスラエルの全会衆を祝福した。イスラエルの全会衆は起立していた。15 彼は言った。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて、こう言われた。16 『わたしの民イスラエルをエジプトから導き出した日からこのかた、わたしは、わたしの名を置く家を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町も選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。』17 それで私の父ダビデの心にはいつも、イスラエルの神、主の御名のために家を建てたいという思いがあった。18 ところが【主】は、私の父ダビデにこう言われた。『あなたの心にはいつも、わたしの名のために家を建てたいという思いがあった。その思いがあなたの心にあったことは、良いことである。19 しかし、あなたはその家を建ててはならない。あなたの腰から生まれ出るあなたの子が、わたしの名のために家を建てるのだ。』20 主はお告げになった約束を果たされたので、私は主の約束どおりに父ダビデに代わって立ち、イスラエルの王座に就いた。そしてイスラエルの神、主の御名のためにこの家を建て、21 主の契約が納められている箱のために、そこに場所を設けた。その契約は、主が私たちの先祖をエジプトの地から導き出されたときに、彼らと結ばれたものである。」」

これまで神殿に向かって、栄光の主を拝していたソロモンは、神殿の庭にいるイスラエルの民の方を振り向いて彼らを祝福します。ここで彼が語っていることは、神殿建設の経緯についてです。それは主が語られたとおりになされたことであるということです。ここには「主は、・・・と言われた」ということばが繰り返して出てきます。それは主がダビデに命じられたことでした。それゆえ、ダビデはいつも、主の御名のために家を建てたいという思いがありましたが、それは彼のすることではなく、彼の腰から生まれる彼の子がすることであると言われました。それでソロモンは父ダビデに代わりその約束通りに主のために家を建て、主の契約の箱を置くためにその場所を設けたのです。それは、主が彼らの先祖をエジプトから導き出されたときに、彼らと結ばれたものです。つまり、この神殿建設は、シナイ契約の延長線上に実現したことなのです。

この神殿建設をもって、主が約束された土地を獲得するという戦いは実質的に終了しました。そして、ダビデに約束された契約も成就しました。また、そのことによって主の臨在の約束が確認されたのです。つまり、この神殿建設は、神のイスラエルに対して約束してくださったことが実現したことを示しているのです。神の約束は永遠に変わることがありません。このみことばの約束に立って歩む人は何と幸いなことでしょう。主はその人の人生に、ご自身の御業を現わしてくださるのです。

22~53節は、ソロモンの奉献の祈りが記されています。まず22~24節をご覧ください。「22 ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、天に向かって両手を伸べ広げて、23 こう言った。「イスラエルの神、主よ。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。24 あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに約束したことを、ダビデのために守ってくださいました。あなたは御口をもって語り、また、今日のように御手をもってこれを成し遂げられました。」

ソロモンはイスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、天に向かって両手を伸べ広げて祈りました。私たちは、祈るとき、目を閉じて、こうべを垂れて、手を組んで祈りますが、聖書の中では、両手を差し伸べて、立って祈るのを見かけます。両手を上に差し伸べるのは、天におられる神に対して、自分が服従し、主が言われることを心を開いて受け入れることを意味しています。

ソロモンはまず、神への賛美と信頼を告白しています。ここには「契約と恵みを守られる方です。」とあります。具体的には、父ダビデに約束してくださったことを、大いなる御手をもって成し遂げてくださったことへの感謝と賛美です。

そして、彼の願いが続きます。25~30節です。「25 そこで今、イスラエルの神、主よ。あなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたことを、ダビデのために守ってください。『あなたがわたしの前に歩んだように、あなたの子孫がその道を守り、わたしの前に歩みさえするなら、あなたには、イスラエルの王座に就く者がわたしの前から断たれることはない』と言われたことを。26 今、イスラエルの神よ。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたおことばが堅く立てられますように。27 それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。28 あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。29 そして、この宮、すなわち『わたしの名をそこに置く』とあなたが言われたこの場所に、夜も昼も御目を開き、あなたのしもべがこの場所に向かってささげる祈りを聞いてください。30 あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この場所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたの御住まいの場所、天においてこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。」

ここでソロモンはどんなことを願っているでしょうか。ここでソロモンが願っていのは、神の民の祈りを聞いてほしいということです。27節は有名なみことばの一つです。天地を創造された方が、人間が建てた宮などに住むことなどできません。しかし、主はそこに「わたしの名をそこに置く」と約束されました。つまり、主の宮の中にご自身の臨在を現わしてくださると約束されました。それゆえ、神のしもべがこの宮に向かって祈りをささげるとき、それを聞いてほしいというのです。

31~32節をご覧ください。「31 ある人が隣人に罪を犯して、のろいの誓いを立てるよう求められ、この宮の中にある、あなたの祭壇の前に来て誓うなら、32 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪い者にはその生き方への報いとしてその頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義をもって報いてください。」

ここにはソロモンの第2の願いが記されてあります。それは「ある人が隣人に罪を犯して、のろいの誓いを立てるよう求められ、この宮の中にある、あなたの祭壇の前に来て誓うなら、あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪い者にはその生き方への報いとしてその頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義をもって報いてください。」ということです。どういうことでしょうか。これは隣人との争いごとに関することです。だれかが他者に罪を犯して問題になり、お互いに譲らないときは、神殿の祭壇の前で自らが有罪か無罪かを証言しなければなりませんでした。それが「のろいの誓いを立てる」ということです。しかし私たち人間には、究極的には公正な判断を下すことはできません。けれども、主はすべてを知っておられます。そこで、主が公正なさばきを下してくださいと祈っているのです。

第3の願いは33~34節にあります。「33 あなたの民イスラエルが、あなたの前に罪ある者となって敵に打ち負かされたとき、彼らがあなたに立ち返り、御名をほめたたえ、この宮であなたに祈り願うなら、34 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らの先祖にお与えになった地に、彼らを帰らせてください。」

これは、敗戦の原因となった罪が赦されるようにとい祈りです。ソロモンは、罪を犯すことと敵に打ち負かされることを、直接的に関連付けています。事実、イスラエルの民は主の前で悪を行なっているときに、周囲の住民や国々に打ち負かされました。たとえば、アイの戦いで敗北したのは、アカンが神の命令に背いて聖絶の一部を取っておいたからでした(ヨシュア7:1-11)。また、ペリシテ人との戦いに敗れたのも、祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスが、主の前に罪を犯したからです(Ⅰサムエル:1-11)。そのようなとき、イスラエルの民がすべきことは、神に立ち返り、悔い改めて祈りをささげることです。ソロモンは、この主の宮、神殿でそのような悔い改めの祈りをするとき、その祈りが聞かれるようにと願っているのです。

第4の願いは、35~36節にあります。「35 彼らがあなたの前に罪ある者となって、天が閉ざされ雨が降らなくなったとき、彼らがこの場所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたが苦しませたことによって彼らがその罪から立ち返るなら、36 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦してください。彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。」

これは干ばつの原因となった罪が赦されるようにという祈りです。もし天が閉ざされて雨が降らなくなったとき、その原因はどこにあるのかというと、それは罪です。そのために主が天を閉ざしておられるのです。今週の礼拝でエレミヤ書5章後半からお話しましたが、まさにこのことです。エレミヤ5章25節にこうあります。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」ですから雨が降らなくなったときは、単に雨が降らないので降らせてくださいと祈るのではなく、まず自分たちが主の前に自分の罪を認め、その罪から立ち返って、雨を降らせてくださいと祈らなければなりません。ここでも大事なのは、状況が良くなることではなく、状況をとおして主との関係を保つことにあります。

第5番目の願いは何でしょうか。災害の原因となった罪が赦されるようにという祈りです。37~40節です。「37 この地に飢饉が起こり、疫病や立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫が発生したときでも、敵がこの地の町々を攻め囲んだときでも、どのようなわざわい、どのような病気であっても、38 だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、39 あなたご自身が、御座が据えられた場所である天で聞いて、赦し、また、かなえてください。一人ひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心をご存じです。あなただけが、すべての人の子の心をご存じだからです。40 そうして、あなたが私たちの先祖にお与えになった大地の上で彼らが生き続ける間、いつもあなたを恐れるようにしてください。」

ここでは想定される災害が列挙されています。たとえば、飢饉とか、疫病、立ち枯れや黒穂病、いなごやその若虫の発生、敵からの攻撃、さまざまなわざわい、病気などです。それらの背後には、やはり罪の問題があります。このような場合には、悔い改めの祈りが必要です。それがどのようなわざわい、どのような病気であっても、神の民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、その祈りを聞いてほしいというのです。それは彼らがいつも主を恐れるためです。主は、私たちが主を恐れるために、こうしたわざわいをもたらすことがあります。わざわいは、神が私たちを見捨てたしるしではなく、神を恐れるための手段の一つであることを覚え、へりくだって主の御前に歩みたいと思います。

第6番目の祈りは、神を恐れる異邦人が祝福されるようにという祈りです。41~43節をご覧ください。「41 同様に、あなたの民イスラエルの者でない異国人についても、その人があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て、42 彼らが、あなたの大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕について聞き、やって来てこの宮に向かって祈るなら、43 あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所である天でこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことをすべて、かなえてください。そうすれば、地上のあらゆる民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり、私が建てたこの宮で御名が呼び求められなければならないことを知るでしょう。」

ソロモンは、神を恐れる異邦人のためにも祈っています。これは驚くべき内容です。というのは、神殿奉献は、イスラエルにとって国家的行事です。その最中に、異邦人のことも忘れずに、彼らの上に祝福が注がれるようにと祈っているからです。旧約聖書を注意深く見ると、神の祝福と契約にあずかっているのはイスラエル人だけでなく、異邦人もそうであることがわかります。主がアブラハムに約束されたのは、彼の子孫が大いなる国民になることだけでなく、彼によってすべての民族が祝福を受けることでした(創世記12:3)。ですから、ソロモンは異邦人の祈りも聞いてください、とお願いしているのです。

7番目の祈りは、戦に勝利するようにという祈りです。44~45節です。「44 あなたの民が敵との戦いのために出て行くとき、遣わされる道で、あなたがお選びになった都、私が御名のために建てた宮に向かって主に祈るなら、45 天で彼らの祈りと願いを聞いて、彼らの言い分を聞き入れてやってください。」

イスラエルの民が敵との戦いにおいて勝利することができるのは、彼らが主の宮に向かって祈る民だからです。しかし、それは何でもかんでもということではなく、「遣わされる道で」とあるように、主のみこころにかなった戦いに限定されています。約束の地カナンでの戦いは、まさにその良い例です。それは主が遣わされた戦いでした。

8番目の祈りは、46~50節です。「46 罪に陥らない人は一人もいません。ですから、彼らがあなたの前に罪ある者となったために、あなたが怒って彼らを敵に渡し、彼らが、遠くであれ近くであれ敵国に捕虜として捕らわれて行き、47 捕らわれて行った地で我に返り、その捕囚の地であなたに立ち返ってあわれみを乞い、『私たちは罪ある者です。不義をなし、悪を行いました』と言い、48 捕らわれて行った敵国で、心のすべて、たましいのすべてをもって、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮に向かって、あなたに祈るなら、49 あなたの御座が据えられた場所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、50 あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦し、あなたに背いた、彼らのすべての背きを赦し、彼らを捕らえて行った者たちの前で彼らをあわれみ、その者たちがあなたの民をあわれむようにしてください。」

これは、捕らわれの地から帰還できるようにという祈りです。ソロモンは、イスラエルが捕虜として敵国に捕らわれて行った時のことを想定しています。彼はこのような状況を想像することができました。なぜなら、レビ記や申命記で、モーセがすでにこのような最も屈辱的で、悲惨なイスラエルの境遇を預言していたからです。

ソロモンはここで、「罪に陥らない人は一人もいません」と言っています。彼は人間の罪の性質についてよく知っていました。義人はいない、一人もいない。罪に陥らない人など一人もいません。パウロは、「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ローマ3:23)と言っていますが、その言葉がソロモンの口からも発せられています。私たちは、自分が何でこんなに罪深い者なのだろうか、なんでこんなに自分で憎むようなことを行なってしまったのか、と悔いるときがありますが、主は初めからそのことをご存知で、それでこのような汚れた者に近づいてくださり、あわれみと回復のみわざを行なってくださるのです。

さて、捕虜として敵国に連れて行かれた時、私たちはどうするべきでしょうか。そのときには真心から悔い改め、エルサレムの神殿の方を向いて祈る必要があります。それが約束の地に帰還する唯一の方法です。そうするなら、神はその祈りを聞き、民を約束の地に帰還させてくださいます。このソロモンの祈りをそのまま実行していた人がいます。ダニエルです。イスラエルの民は、事実、バビロンによって捕囚の民となりました。その中の一人がダニエルですが、彼は一日に三度、窓を開けて、エルサレムのほうを向いて、祈っていました(ダニエル6:10)。彼は、「私たちが罪を犯しました。あなたは正しい方で、正しいことを行なったのです。」と祈りました。その祈りのとおり、イスラエルは約束の地に帰還することになります。

捕囚の民として連れて行かれるということが起こると、私たちは神が自分たちを見捨ててしまわれたのかと思いがちですが、神はいかなる時にも、私たちを見捨てることなく、私たちの帰りを待っておられます。私たちに求められているのは、真心から悔い改めて、神に祈ることです。そうすれば主は私たちの祈りを聞いてご自身のもとに帰してくださるのです。

最後の願いは、51~53節にあります。「51 彼らはあなたの民であり、あなたがエジプトから、鉄の炉の中から導き出された、ご自分のゆずりの民だからです。52 どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに御目を開き、彼らがあなたを呼び求めるとき、いつもその願いを聞き入れてください。53 あなたが彼らを地上のあらゆる民から選り分けて、ご自分のものとされたのですから。神、主よ。あなたが私たちの先祖をエジプトから導き出されたとき、あなたのしもべモーセを通してお告げになったとおりです。」

ソロモンは最後に、「どうか、あなたのしもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに御目を開き、彼らがあなたを呼び求めるとき、いつもその願いを聞き入れてください。」と祈っています。なぜなら、彼らはあなたの民だからです。イスラエルの行ないは、そのさばきを受けるにふさわしい行ないですが、あなたが彼らを選ばれたのですから、お願いします、と言っているのです。イスラエルの民は、地上の諸国の民から区別され、神の計画を推進するための器として選ばれました。出エジプトの出来事も、モーセの律法も、神による選びの証拠です。その選びのゆえに、その民のどんな祈りにも耳を傾けてくださいというのです。

ソロモンはイスラエルの歴史を振り返り、主がいかにご自身の契約に忠実な方であるかを確認しました。そして、その信頼の目をもって未来を見つめ、主の恵みと守りがこれからも続くとの確信を持ったのです。この視点は、私たちにとっても大切です。使徒パウロはこう教えています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(ローマ8:32)

主イエスの十字架の愛を思う時、私たちは将来への希望を持つことができるようになります。神の変わらない愛を信じて、主にすべてをゆだねましょう。

Ⅲ.民を祝福するソロモン(54-66)

最後に、54~66節を見て終わります。「54 こうしてソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終えた。彼は、それまでひざまずいて、天に向かって両手を伸べ広げていた主の祭壇の前から立ち上がり、55 まっすぐに立って、イスラエルの全会衆を大声で祝福して言った。56 「主がほめたたえられますように。主は約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地を与えてくださいました。しもべモーセを通してお告げになった良い約束はみな、一つも、地に落ちることはありませんでした。57 私たちの神、主が、私たちの先祖とともにいてくださったように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちをお見捨てになることがありませんように。58 私たちの心を主に傾けさせ、私たちが主のすべての道に歩み、私たちの先祖にお命じになった命令と掟と定めを守らせてくださいますように。59 私が主の御前で願ったこれらのことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの訴えや、御民イスラエルの訴えを正しくかなえてくださいますように。60 こうして、ついに地上のあらゆる民が、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知るに至りますように。61 あなたがたは、今日のように、私たちの神、【主】と心を一つにし、主の掟に歩み、主の命令を守らなければならないのです。」62 それから、王と、一緒にいたすべてのイスラエル人は、主の前にいけにえを献げた。63 ソロモンは主へのいけにえとして、牛二万二千頭と羊十二万匹の交わりのいけにえを献げた。こうして、王とすべてのイスラエルの人々は主の宮を奉献した。64 その日、王は主の宮の前庭の中央部を聖別し、そこで全焼のささげ物と、穀物のささげ物と、交わりのいけにえの脂肪を献げた。主の前にあった青銅の祭壇は、全焼のささげ物と、穀物のささげ物と、交わりのいけにえの脂肪を受け入れるには小さすぎたからである。65 ソロモンはこのとき、ともにいた全イスラエル、すなわち、レボ・ハマテからエジプト川に至るまでの大会衆と一緒に、七日と七日の十四日間、私たちの神、主の前で祭りを行った。66 八日目に王は民を帰らせた。民は王に祝福のことばを述べ、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルに下さったすべての恵みを喜び、心満たされて、彼らの天幕に帰って行った。」

ソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終えると、まっすぐに立って、イスラエルの全会衆を大声で祝福して言いました。56節です。彼は、主が約束どおり、イスラエルの民に安住の地を与えてくださったことをほめたたえています。主がモーセを通して語られた約束は、一つも地に落ちることはありませんでした。みな成就しました。それは私たちに言えることです。聖書に書かれている主の約束は、一つも地に落ちることはありません。みな実現します。

そのことを前提に、ソロモンはここで3つのことを願っています。一つ目は主がともにいて、彼らを見離さず、見捨てることがないように(57)ということです。二つ目のことは、58節にあるように、彼らの心を主に向けさせ、彼らがすべてのことにおいて主の道に歩、主が命じられた命令と掟と定めとを守らせてくださるようにということです。そして三つ目のことは、主が祈りと願いを聞いてくださるようにということです(59)。それは何のためでしょうか。それは、地上のすべての民族が、主だけが唯一の神であることを知るようになるためです。イスラエルは自らの祝福だけでなく、地上のすべての民族に祝福をもたらすために存在しているからです。

これは、私たちにとっても重要なことです。私たちは何のために存在しているのでしょうか。それは私たちの祝福だけでなく、地上のすべての人たちの祝福のためでもあります。そういう意味では、私たちがそのような存在となれるように祈らなければなりません。

それから、ソロモンと、一緒にいたイスラエル人は、主の前にいけにえを献げました。それは牛2万2千頭、羊12万頭の交わりのいけにえでした。これは「和解のいけにえ」です。血と脂肪と内臓は焼いて煙にし、肉を礼拝者が一緒に食します。この交わりのいけにえの目的は、「交わり」にありました。神と民が交わり、民と民が交わります。相当の数の牛と羊がいけにえとして献げられました。この主へのいけにえは、イエス・キリストを象徴していました。キリストは私たちの罪の贖いとして死んでくださったことによって、彼を信じるすべての人が神と和解させられました。「すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。」(Ⅱコリント5:19)神との和解こそ、福音がもたらす祝福です。神との交わりを喜んでいる人は幸いです。私たちもこの和解をもたらす者となりましょう。

エレミヤ5章20~31節「あなたはどうするつもりなのか」

きょうは、エレミヤ書5章の後半からお話します。タイトルは「あなたはどうするつもりなのか」です。前回は5章の前半のところから、義人はいない、一人もいない、ということをお話しました。1節には「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。」とあります。そこでエレミヤはエルサレムに行って必死に探し回るわけですが、そういう人は一人もいませんでした。それで主はさばきを宣告されました。それは15節にあるように、遠くの地から一つの国を来させて、彼らを食らうということです。それはバビロン軍のことです。バビロン軍がやって来て、いなごが穀物を食い尽くすように、エルサレムのすべてのものを食い尽くすと言われたのです。このような神のさばきの宣告に対して、結局、あなたがたはどうするつもりなのか、と問い掛けられているのです。

三つのことをお話します。第一のことは、どこまでも主を恐れないユダの民の姿です。彼らには強情で逆らう心がありました。それで彼らは神から離れて行きました。

第二のことは、その結果です。彼らの悪事は社会全体に及んでいきました。それは彼らの咎と罪のゆえです。社会の悪の根本的な原因はここにあります。

そして第三のことは、このようなことに対する神のさばきです。神は黙ってはおられません。必ずその悪を罰します。それに対して、あなたはどうするつもりなのかを、真剣に考えなければなりません。

Ⅰ.神を恐れない民(20-25)

まず、20~25節までをご覧ください。「20 ヤコブの家にこれを告げ、ユダに言い聞かせよ。21 さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。22 あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。23 しかしこの民には、強情で逆らう心があった。それで彼らは離れて行った。24 彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。25 あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

21節では、ユダの民を「愚かで思慮のない民よ」と呼び掛けられています。なぜこのように呼び掛けられているのでしょうか。22節にあるように、神を恐れていなかったからです。神の民である共同体が神を恐れない。本当の神がいらっしゃるのに恐れないのです。聖書には、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)とありますが、その一番大切な神を捨ててしまったわけです。それで「愚かで思慮のない民」になってしまいました。新共同訳では「心ない民」と訳されています。「愚かで、心ない民よ」。心に神様の導きを求めないということです。心は神様と結ばれる所です。エレミヤは4章4節で「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と言いました。大切なのは肉体の割礼ではなく、心の割礼です。心が神様と結ばれるということなのに、その心が神と結ぶれることなくだめになっていたのです。23節のことばでいうなら、ここに「強情で逆らう心があった」とありますが、強情になってしまったわけです。出エジプト記にはよく「うなじのこわい民」ということばが出てきますが、それはこの強情であるということです。神に逆らい、神を無視して生きるようになってしまったのです。

その結果、どうなりましたか。21節には「彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。」とあります。詩篇135篇15~18節にはこうあります。「15 異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。16 口があっても語れず目があっても見えない。17 耳があっても聞こえずまたその口には息がない。18 これを造る者もこれに信頼する者もみなこれと同じ。」偶像を拝むことで偶像のようになってしまいます。目があっても見えず、耳があっても聞こえません。偶像に頼る者はみなこれと同じです。本当の神様のことばがわからなくなってしまいます。皆さんはどうでしょうか。そういうことはないでしょうか。

彼らがどれほど強情であっかが22節にあります。「あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。」どういうことでしょうか。創造主訳聖書には「わたしは海と陸を分け、それぞれの地域を定めた」とあります。神が天と地を創造されました。神はそこに海と陸の境界を設けられたわけです。被造物全体は、その神が定められた境界を越えることはできません。すべては神が定めた秩序と法則によって保たれているのです。どんなに波が荒れ狂っても勝てず、鳴りとどろいても越えることはできないのです。しかし、このユダの民はそうではありませんでした。彼らは簡単に超えていました。神が定めた教えに従うどころかそれを越えて、自分勝手な道に歩んでいたのです。
  

ヨハネ1章10~11節には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあります。「この方」と誰でしょうか。そうです、イエス・キリストのことです。イエス様はもとからこの世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この世はすべてイエス様によって造られたのですから、当然イエス様を受け入れるはずなのにそうではなかったのです。神に逆らい、創造主であるイエス様を受け入れませんでした。別のことばで言うと、境界を越えてしまったのです。それはユダの民だけではありません。私たちも同じです。

そればかりではありません。24節と25節をご覧ください。「彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

「初めの雨」と「後の雨」とは、下の欄外の説明にあるように「秋の雨」と「春の雨」のことです。「秋の雨」が「初めの雨」、「春の雨」が「後の雨」です。このようにイスラエルには年に2回雨季があります。この雨がイスラエルを潤し、豊かな収穫をもたらしてくれるわけですが、彼らには、神に対する恐れも感謝もありませんでした。その結果25節にあるように、この恵みの雨がとどめられてしまったのです。「これを追いやり」とか「良いものを拒んだ」とは、このことです。水道もない時代ですから干ばつになると食料も十分に用意することができませんでした。ですからそれはいのちの危険を意味していたのです。いったいどうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。


  25節にその理由が記されてあります。それは「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」からです。神があなたに良いものを拒んでいるのではありません。あなたの咎がこれを追いやり、あなたの罪がこの良いものを拒んだのです。罪によって雨が降らなくなったということです。私たちは天気予報を見て「台風がもうすぐ来るぞ」とか、「今年の夏は暑くなりそうだ」と知りそれに備えるわけですが、でも、今年の夏は罪によって酷暑になるでしょうと聞くことは絶対にないと思います。でもここではそのように言われているわけです。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」と。

エレミヤの時代、天気がどうなるかは私たちよりも深刻でした。それで彼らは自分たちに豊穣をもたらすと信じられていた偶像に走ってしまいました。何ですか?「バアル」です。私たちは「バアル」と聞くとどこか遠い宗教のように感じますが、それは私たちにとっても身近なものなのです。というのは、バアル宗教が求めていたのは「豊かさ」であったからです。私たちも同じではないでしょうか。手段は違いますが、もしあなたが豊かさを求めて真の神よりも科学技術とか他のものを絶対的なものとして頼っているとしたら、それはバアルを信じている人たちと同じなのです。イスラエルは真の神を捨て、雨を降らせると信じられていたバアルを信じました。その結果、雨が降ったのではなく干ばつがやって来ました。雨の神、豊穣の神を信じていたのに干ばつがやって来たというのは何とも皮肉な話です。つまり、バアルには本当の力がないということです。世界を創られた方はただ一人、聖書の神様です。この神様がいのちの源であられます。いのちの源から反れて行くということは神から切り離されるということであって、結果的に民は飢えと渇きに襲われることになってしまいました。近年、毎年のように異常気象が起きるようになって異常が通常のようになっていますがその原因はどこにあるのかというと、聖書はここにあると言っています。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」と。人間の罪によってこの気象が壊れていると言っても過言ではないのです。

詩篇34篇9~10節にこうあります。「主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなり飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。」

主を恐れる者には何一つ欠けることはありません。もし良いものに欠けることがあるとしたら、それは私たちの罪がその良いものを拒んでいるからなのです。神は良い方ですから、良いものを与えてくださるのは当然なのです。天のお父さんは、私たちを祝福したいと願っておられます。でも、その祝福を私たちが自分の罪によって拒んでいることがあります。折角、お父さんとお母さんが子どもに良いものを与えたいと思っているのに、子どもの方で拒んでいるとしたら悲しい限りです。こんなに子どもを愛しているのに、こんなに子どもに与えたいのに、子どもの方で「いらない」と拒むのですから。「欲しくない」と言う。残念です。

Ⅱ.根本的な原因(26-28)

次に、26~28節をご覧ください。ここにユダの民の罪が列挙されています。「26 それは、わが民のうちに悪しき者たちがいるからだ。彼らは野鳥を捕る者のように待ち伏せし、罠を仕掛けて人々を捕らえる。27 鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きで満ちている。だから、彼らは大いなる者となり、富む者となる。28 彼らは肥えてつややかになり、悪事において限りがない。孤児のために正しいさばきをして幸いを見させることをせず、貧しい人々の権利を擁護しない。」

ここにはユダの社会全体に悪が溢れている状態が描かれています。彼らの中には悪しき者たちがいて、鳥を捕まえるようにわなをかけて人を捕まえるような人たちがいました。つまり、社会的弱者を食い物にしていたわけです。彼らは弱者を食い物にして自分たちは太っていました。不正な手段で富を築き私腹を肥やしていたのです。単に霊的姦淫を犯して偶像礼拝に走っていたというだけでなく、それが社会全体にも大きな影響をもたらしていました。エレミヤはこのような状態を見てこう言っています。30節、「恐怖とおぞましいことがこの国に起こっている。」

いったいどうしてこのようなおぞましい社会になってしまったのでしょうか。それは南ユダだけでなく、今日の社会にも言えることです。おぞましい社会、おぞましい世界になってしまいました。いったいどうしてこのようになってしまったのでしょうか。それは社会ということよりも一人一人の罪に起因しているのです。その罪の最たるものが、神を神として崇めないということです。神を認めないし、感謝もささげません。そして神以外のものを神としているのです。神を恐れていません。ここに根本的な原因があります。これがこの社会におけるすべての悪の根本原因です。ここにスポットを当てずにいくら社会改革をしようとしてもできません。政治の力、経済の力、福祉の力、慈善活動によってそれをしようとしても限界があるし、究極的な解決にはなりません。見てください。どんなに政権が交代しても社会は変わりません。だからみんな失望するわけです。だれがやっても同じだとあきらめているのです。政党のアンケート調査がありますが、たとえば自民党がいいと回答した理由の第一は「他の政党よりよさそう」です。ただそれだけの理由です。みんな知っています。政治は社会を変えることができないということを。それは政治の問題ではなく、一人一人が抱えている罪の問題だからです。それは政治だけのことではありません。私たちが抱えるすべての問題にも言えることなのです。その根本的な原因が処理されなければ何の解決にもなりません。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのです。

Ⅲ.あなたはどうするつもりか(29-31)

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて神に立ち返れということです。29~31節をご覧ください。「29 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。30 荒廃とおぞましいことが、この地に起こっている。31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」

こうした状況に対して主はどうされるでしょうか。29節には、主は必ず罰せられるとあります。神様はこの状況を把握していないのではありません。見て見ぬふりをしているのではないのです。神様はこのような状況を十分知っておられ、それに対して必ずさばきをなさいます。黙認するということは絶対にありません。水に流すとか、帳消しにするといったことはなさらないのです。なぜなら神は正義の神だからです。聖なる方です。罪を放置するなどできません。必ず罰せられるのです。

30節と31節は、神様の驚きを表しています。荒廃とおぞましいことがこの国に起こっています。預言者たちは偽りの預言をし、神に仕えるはずの祭司は自分勝手に治めているばかりか、神の民であるユダはそれを喜んでいるのです。このことに神は驚かれ、嘆いておられるのです。こうした彼らの罪、咎には、必ず神の審判がくだることになります。結局、あなたはどうするつもりなのか、と神はチャレンジしておられるのです。

でも、どうぞこのことを覚えておいてください。神様がこのようにチャレンジをされるということは、その前に悔い改めのチャンスがあるということです。そのチャンスを与えておられるのです。今ならまだ間に合います。今ならまだやり直せます。あなたにも神のあわれみが注がれているのです。あなたもやり直すことができる。あなたには罪の赦しが提供されているのです。罪の滅びから免れる道が用意してあるのです。その道とは何でしょうか。そうです、イエス・キリストです。イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

イエスのことばを聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、さばきに会うことはありません。永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っているのです。信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。

「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。

『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」皆さん、これが、クリスチャンが抱く希望です。

あなたはどうでしょうか。このような希望があるでしょうか。どんなに恐ろしい神の審判があっても、私は神のさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているという確信があるでしょうか。イエス・キリストを信じるなら、だれも、また何も、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。「結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」それは神の民ユダの人たちだけでなく、あなたにも問いかけられていることなのです。神のさばきに会うことがないように、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストに立ち返ってください。そういう人はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。また、そのような人の人生を神が祝福し、初めの雨と後の雨をもって潤し、豊かな収穫をもたらしてくださると、聖書は約束しているのです。

あなたの過去には取り返しがつかないこともあるでしょう。人から絶対に許さないと言われたこともあるかもしれない。自分でも自分を赦せないと思うこともあるでしょう。でも、全然関係ありません。神には赦せない罪など一つもないからです。もう罪悪感や罪責感に(さいな)まれることもありません。人を責める必要もなければ、人に責められる必要もありません。イエス・キリストがあなたの代わりに罰を負って十字架で死んでくださったからです。罰せられるべきあなたの代わりに罰せられたので、あなたには罪の赦しが提供されているのです。

教会では、通信でも聖書を学ぶことができるように、「聖書通信講座」を行っています。羽鳥順二先生が書かれた「初めて聖書を開く人のための12のステップ」という本をテキストに、自分で読んで回答用紙に記入して送ってもらうと、こちらで添削して送り返すというシステムになっています。

最近、M刑務所に入所している一人の男性から問い合わせがあり、学びが始まりました。その中に少しですけれど、ご自分のことを教えてくださいました。「私は、今現在、M刑務所に服役して17年目になります。刑期は無期懲役で、年齢は今年57歳になります。聖書を学ぶきっかけは、同囚の方の勧めもあり、刑務所を訪問された牧師さんに紹介されたのが始まりです。私自身はもともと、聖書に興味を持っておりましたが、社会で生活している時は学ぶ時間がなく、今の受刑生活の中で学んでいる次第です。少しでも聖書、神様、イエス様を理解し、知ることが出来るようになればいいと思っておりますし、神様の教えに導かれるように歩めればと思います。」

私はこの方が何をされたのかは知りません。しかし、無期懲役として服役して17年目になられるということで、どれほどの悲しみを背負っておられるかと思います。しかし、その中にあっても救いがあります。主イエスを信じるなら、あなたもあなたの家族も救われます。それが本当の救いではないでしょうか。そういう意味でこの方は無期懲役の刑を受けておられますが、主イエスにあって神のさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。ハレルヤ!

神のさばきは確実に及んできます。でもそれは神の本意ではありません。神の本意は、あなたが罪を悔い改めて神に立ち返り、神のさばきから免れることです。今は恵みの時、今は救いの日です。あなたには神のあわれみが注がれています。その神の慈愛が、あなたを悔い改めに導くのです。

あなたはどうするつもりなのか。この神のチャレンジに、今のうちに応答してください。神の赦しと神の救いを受け取ってください。そうすれば、あなたは神のさばきに会うことはありません。必ずバビロンがどこからかやって来ます。想像もつかないような破壊と喪失がもたらされます。でもイエス様を信じる者は救われます。それを決断するのはいつですか。今でしょ。今がその時なのです。

Ⅰ列王記7章

 今日は、列王記第一7章から学びます。

 Ⅰ.ソロモンの宮殿(1-12)

まず、1節から12節までをご覧ください。「1 また、ソロモンは十三年をかけて自分の宮殿を建て、その宮殿のすべてを完成させた。2 彼は「レバノンの森の宮殿」を建てた。その長さは百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトで、それは四列の杉材の柱の上にあり、その柱の上には杉材の梁があった。3 また、四十五本の柱の上にある階段式脇間の屋根は、杉材で葺かれていた。柱は一列に十五本ずつあった。4 戸口は三列あり、三段になって向かい合っていた。5 戸口の扉と戸口の柱はすべて四角形で、三段になって向かい合っていた。6 また彼は、柱の広間を造った。その長さは五十キュビト、その幅は三十キュビトであった。その前に玄関があり、その前に柱とひさしがあった。7 また、さばきをするための王座の広間、すなわち、さばきの広間を造り、床の隅々から天井まで杉材を張り詰めた。8 彼の住む家はその広間のうしろの庭にあり、同じ造りであった。ソロモンは、彼が妻としたファラオの娘のためにも、この広間と同じような家を建てた。9 これらはすべて内側も外側も、のこぎりで寸法どおりに切りそろえられた、高価な石で造られていた。礎から軒に至るまで、さらに外庭から大庭に至るまで、そうであった。10 礎は高価な石、大きな石で、八キュビトも十キュビトもあった。11 その上には、寸法どおりに切りそろえられた高価な石と杉材が使われた。12 大庭の周囲には、三段の切り石と一段の杉の角材が使われ、主の宮の内庭や、神殿の玄関広間と同じであった。」

ソロモンは神殿を建設した後で、自分の宮殿を建てました。しかし、ここには何とそのために13年をかけて完成したとあります。主の家、神殿を建てるのに7年かかりました(6:38)。それなのに、自分の宮殿には、完成するまで13年もかかったのです。神殿建設の2倍の年月を要したということです。それは規模においても、金額においても、神殿をはるかに超えるものでした。どうして彼はそのように造ったのでしょうか。その前にこの宮殿全体についてみていきましょう。

logos-ministries.orgより転載

ソロモンの宮殿は5つの部分からできていました。まず2節にあるように「レバノンの森の宮殿」です。これはレバノンの森にあった宮殿ということではなく、レバノンの杉で造られた宮殿という意味です。ここは金による武器を所蔵する場所として用いられました(10:17)。金による武器など、どうやって実用に使えるでしょうか。使えたとしても、それを神殿のすぐ側に置くとは考えられないことです。感覚的にずれています。このレバノンの森の宮殿は、長さ百キュビト(44m)、幅五十キュビト(22m)、高さ三十キュビト(13.5m)でした。

6節を見ると「また彼は、柱の広間を造った」とあります。その長さは五十キュビト(22メートル)、その幅は三十キュビト(13.5m)でした。その前に玄関があり、その前に柱とひさしがありました。

彼はまた、さばきをするための王座の広間、すなわち、さばきの広間を造りました。そして、床の隅々から天井まで杉材を張り詰めました(7節)。ここでソロモン王は民の間の事件を裁き、神のおきてと教えを教えました。そして彼は、自分自身が住む家を造りました。それはさばきの広間のうしろにあり、同じ造りでした。また、彼が妻としたファラオの娘のためにも、この広間と同じような家を建てました。

これらはすべて内側も外側も、のこぎりで寸法とおりにそろえられた、高価な石で造られていました。礎から軒に至るまですべてです。礎は高価な石で、8キュビト(3メートル50)も10キュビト(4メートル50)もありました。大庭の周囲もそうです。それは主の庭の内庭や、神殿の玄関広間と同じでした。どうして彼はこのような宮殿を造ったのでしょうか。

これを神の祝福ととらえるべきなのか、それとも、単なる贅沢ととらえるべきなのか、聖書は何も告げていません。しかし自らの宮殿を神の家である神殿よりも豪華に造ったところに、彼の気持ちの表れを見ることができます。それは神よりも自分のことを重視しているという思いです。主を愛していると言いながら、主よりも自分を高くしていたのです。かつてモーセは神の律法としてこう述べました。「また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。」(申命記17:17)彼は自分のために銀や金を過剰に持っていました。それが彼を狂わせたのです。知恵よりもこの世の富と名声を愛する気持ちが表れています。ここにソロモン王国崩壊の兆しを見ることができます。

それは私たちにも言えることです。崩壊は突然訪れるのではありません。それは徐々に忍び寄ってきます。そこに至るまでのいくつかの段階があるのです。早い段階で気付いて、神に向かって修正していく人は幸いです。

Ⅱ.青銅の細工人ヒラムの働き(13-47)

次に、13~47節をご覧ください。まず、13~14節です。「13 ソロモンは人を遣わして、ツロからヒラムを呼んで来た。14 彼はナフタリ部族のやもめの子であった。彼の父はツロの人で、青銅の細工師であった。ヒラムは青銅の細工物全般について、知恵と英知と知識に満ちていた。彼はソロモン王のもとに来て、その一切の細工を行った。」

話は神殿建設に戻ります。ソロモンは人を遣わして、ツロからヒラムを呼んできました。ヒラムの母親はナフタリ部族、つまりイスラエル人でしたが、父親はツロの人でした。その父親がすでに亡くなっていて、やもめの子となっていました。彼の父は青銅の細工人だったようで、それを引き継いで彼も青銅全般の細工人になっていました。彼は出エジプト記31章に登場するベファルエルとオホリアブのように、知恵と英知と知識に満ちていました。彼はソロモンのもとに来て、その一切の細工を請け負ったのです。

15~47節には、彼が作った4種類の青銅の作品が紹介されています。最初に出てくるのは、2本の青銅の柱です。15~22節です。「15 彼は青銅で二本の柱を鋳造した。片方の柱の高さは十八キュビト。もう片方の柱の周囲は、ひもで測って十二キュビトであった。16 彼は青銅で鋳造した二つの柱頭を作って、柱の頂に載せた。片方の柱頭の高さは五キュビト、もう片方の柱頭の高さも五キュビトであった。17 柱の頂の柱頭に取り付ける、鎖で編んで房になった格子細工の網を、片方の柱頭に七つ、もう片方の柱頭に七つ作った。18 こうして彼は柱を作り、柱の頂にある柱頭をおおうため、青銅のざくろが格子網の上を二段に取り巻くようにし、もう片方の柱頭にも同じようにした。19 この玄関広間にある柱の頂にある柱頭は、ゆりの花の細工で、それは四キュビトであった。20 二本の柱の上にある柱頭の格子網のあたりで、丸い突出部の周りには、二百個のざくろが、両方の柱頭に段をなして並んでいた。21 この柱を本殿の玄関広間の前に立てた。彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた。22 この柱の頂の上には、ゆりの花の細工があった。こうして、柱の造作は完成した。」

柱の高さは18キュビト(約8メートル)、周囲は12キュビト(約5メートル)ありました(15)。その上に青銅で鋳造した2つの柱頭を作って、載せました(16)。柱頭の大きさは5キュビト(約2メートル)でした。さらにその柱頭をおおうために、青銅のざくろが格子網の上を二段に取り巻くようにしました(18)。それはゆりの花の細工がなされていました(19)。下の図をご覧ください。

http://img-cdn.jg.jugem.jp/b56/3863594/20180702_1459771.jpgより転載

ソロモンは、この2本の柱を神殿の玄関広間の前に立てました。右側に建てた柱には「ヤキン」という名をつけ、左側に建てた柱には「ボアズ」という名をつけました。「ヤキン」とは「彼は設立する」という意味で、もう一方はボアズという名で、「力をもって」という意味です。神殿に入る時にいつも、神が力をもって堅く立たせてくださることを思い出すためだったのでしょう。

私たちの生活が堅く立つのは、主の恵みであることを覚えなければなりません。主は力をもって守ってくださいます。あなたがたのうちに良い働きを始めた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださるのです(ピリピ1:6)。

次の作品は、23~26節に出てきます。それは鋳物の海です。「23 それから、彼は鋳物の「海」を作った。縁から縁まで十キュビト。円形で、高さは五キュビト。周囲は測り縄で巻いて三十キュビトであった。24 その縁の下に沿って、瓢?模様が周りを取り巻いていた。一キュビトにつき十ずつの割合でその「海」の周りを取り巻いていた。この瓢箪模様は二段になっていて、「海」を鋳たときに鋳込んだものである。25 「海」は十二頭の牛の上に据えられていた。三頭は北を向き、三頭は西を向き、三頭は南を向き、三頭は東を向いていた。「海」はこれらの牛の上に載せられていて、牛の後部はすべて内側を向いていた。26 「海」の厚さは一手幅あり、その縁は杯の縁のように、ゆりの花の形をしていた。その容量は二千バテであった。」

それは縁から縁まで10キュビト(約4.5メートル)の円形でした。高さは5キュビト(約2.2メートル)、周囲は30キュビト(13.2メートル)でした。巨大な水盤です。これは、祭司たちが身をきよめるためのものでした。幕屋にも祭壇と聖所の間に洗盤があり、祭司たちが幕屋に入る前には、そこで身をきよめましたが、それと同じです。しかし、ここには「海」と呼ばれる巨大な水の洗いがあり、祭司がそこに入り、身を清めました(2歴代4:6)。

「海」は12頭の牛の上に据えられていました。3頭ずつ東西南北を向き、牛の後部はすべて内側を向いていました。これはイスラエルの12部族を象徴していたのではないかと考えられています。民数記2章には、約束の地を目指して荒野を進むイスラエル12部族が、幕屋を中心にして3部族ずつが東西南北に宿営していたことが描かれていますが、これも同じでしょう。しかし、行先が違います。行先は約束の地ではなく、バビロンです。バビロンの王ネブカデネザルによってバビロンに連れ去られることを象徴していたのです。

https://www.ancient-origins.net/sites/default/files/field/image/King-Solomons-Temple.jpgより転載

この鋳物の海は、祭司にはきよめの洗いが必要であることを示しています。神に近づくためには、身を洗ってきよめなければならなかったのです。同じように、私たちも神に近づくためには、身をきよめなければなりません。私たちがきよめられるのはイエスの血によってです。「そういうわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:22)そうです、主イエスこそ私たちにとっての「鋳物の海」なのです。

次は、「10個の台と洗盤」です。27~39節をご覧ください。「27 彼は青銅で十個の台を作った。それぞれの台は長さ四キュビト、幅四キュビト、高さ三キュビトであった。28 この台の構造は次のとおり。台には鏡板があり、鏡板は枠にはめられていた。29 枠にはめられている鏡板の上には、雄獅子と牛とケルビムがあり、雄獅子と牛の上下にある枠の表面には花模様が施されていた。30 台には、それぞれ、青銅の車輪が四つと、青銅の軸が付いていて、台の四隅には洗盤の支えがあり、その支えは洗盤の下にあって、それぞれの表面に花模様が鋳込まれていた。31 洗盤の口は冠の内側にあって、一キュビト上に出ていた。その口は丸く、花模様の細工が施され、一キュビト半あった。またその口の上にも彫刻がしてあり、枠の鏡板は四角で、丸くなかった。32 四つの車輪は鏡板の下にあり、車軸は台に取り付けられ、一つの車輪の高さは一キュビト半であった。33 その車輪の作りは戦車の車輪の作りと同じで、車軸も輪縁も輻も轂も、みな鋳物であった。34 それぞれの台の四隅には、四本の支えがあり、支えと台は一体となっていた。35 台の上部には高さ半キュビトの丸い部分が取り巻いていて、その台の上の支えと鏡板は一体となっていた。36 その支えの表面と鏡板には、それぞれの場所に、ケルビムと雄獅子となつめ椰子の木を刻み、その周囲には花模様を刻んだ。37 彼は以上のように十個の台を作った。それらはすべて同じように鋳造され、同じ寸法、同じ形であった。38 それから、彼は青銅で十個の洗盤を作った。洗盤の容量はそれぞれ四十バテ、大きさはそれぞれ四キュビトであった。洗盤はそれぞれの台に一個ずつ、十個の台の上にあった。39 彼はその台の五個を神殿の右側に、五個を神殿の左側に置き、「海」を神殿の右側、東南の方角に置いた。」

彼は青銅で10個の台を作りました。これは10個の洗盤を載せるためのものです。洗盤の大きさは、直径4キュビト(約1.8メートル)、容量は40バテ(約1,000リットル)ありました。かなり大きな洗盤です。これらの水は、数々のきよめの儀式のために用いられました。10個の台は、これらの洗盤を載せるためのものでした。その特徴は、車輪が取り付けてあったことです。車輪がついていたので、どんなに重くても移動することができました。つまり、神殿の中で必要とされる場所に移動させることができたということです。これらの10個の洗盤は、神殿の右と左にそれぞれ5個ずつ置かれました。

https://pbs.twimg.com/media/EtjBHfCVgAEwZSy?format=jpg&name=largeより転載

さらにヒラムは灰壺と十能と鉢を作りました。灰壺は、灰を取るつぼのことで、宿営の外に持ち出すためのものでした。十能は、いけにえを焼き尽くための器具でした。鉢は、いけにえの血をその中に入れて持ち運ぶためのものです。幕屋で作られた器具と同じです。

こうしてヒラムは、自らの役割をすべてやり終えました。「こうして、ヒラムは、ソロモン王のために主の宮でなすべきすべての仕事を完了した。」(40)とあるとおりです。すなわち、彼は2本の柱とその頂にある丸い柱頭、および、柱頭をおおう2つの格子網、10個の台と、その上の10個の洗盤、巨大な海、その海の下の12頭の牛、灰つぼと十能と鉢です。これらの用具は、すべて磨きをかけた青銅で作りました。

ヒラムは異邦人でありながら与えられた役割を、全身全霊をもって忠実に果たしました。彼は自分に与えられた賜物を、主の栄光のためにささげたのです。私たちは一人一人与えられた賜物は違いますが、それを用いて主の栄光を現わすことができます。

Ⅲ.神殿の完成(48-51)

最後に、48~51節を見て終わります。「48 また、ソロモンは主の宮にあるあらゆる物を作った。金の祭壇と、臨在のパンを載せる金の机、49 内殿の前、右側に五つ、左側に五つ置かれる純金の燭台、金の飾り花、ともしび皿、芯切りばさみを作った。50 また純金の皿と、芯取りばさみ、鉢、平皿、火皿を純金で作った。至聖所に通じる神殿内部の扉のちょうつがい、神殿の本殿に通じる扉のちょうつがいも金で作った。51 こうして、ソロモン王が主の宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、主の宮の宝物倉に納めた。」

http://meigata-bokushin.secret.jp/から転載

「こうして、ソロモン王が主の宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、主の宮の宝物倉に納めた。」(51)

これは非常に重要な聖句です。ソロモンは、父ダビデに与えられた神からのビジョン、神殿建設を完成させたからです。ダビデは自分は神殿を建てませんでしたが、その用意をしていました。ダビデのその思いは、その子ソロモンに受け継がれていったのです。信仰の継承というテーマは、私たちにとっても重要であることがわかります。

エレミヤ5章1~19節「義人はいない、一人もいない」

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エレミヤ書5章に入ります。きょうは、エレミヤ5章1~19節のみことばから、「義人はいない、一人もいない」というタイトルでお話します。これは有名な聖書のみことばの一つです。使徒パウロもローマ書の中で詩篇14篇、並びに53篇を引用し、「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)と述べています。この世には何十億という人がいますが、神の目にかなう正しい人は一人もいません。それゆえ、私たちは自分もまたその罪人の一人であることを自覚して、イエス様によって与えられる神の義をまとい、イエス様の御声に聞き従う者でありたいと思います。

きょうはこのことについて、三つのことをお話します。第一に、義人はいない、一人もいないということです。第二のことは、神を求めない者に対する神の訴えです。そして第三に、そのような者に対する神のさばきの実行です。

Ⅰ.義人はいない、一人もいない(1-55)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。2 彼らが、主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」3 「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」4 私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」

1節、2節は、エレミヤに対する神のことばです。神はエレミヤに、エルサレムの通りを行き巡り、見て来るように、探して来るようにと言っています。何を見て来るのでしょうか。何を探して来るのでしょうか。そこに公正を行う、真実を求める人がいるかどうかを、です。「公正を行う、真実を求める人」とは、神の目にかなった人のことです。単にいい人であるとか、優しい人であるというのではなく、聖書の基準に従って生きている人、神の目にかなった正しい人のことです。

彼らは口先では「主は生きておられる」と言っていました。これは4章2節にも出てきましたが、そこには中身が伴っていませんでした。ただ口先だけの、偽りの誓いにすぎなかったのです。「偽り」ということばは「真実」の反対語で、「空っぽ」という意味です。つまり、彼らの誓いは空っぽだったのです。口では信じてはいると言っていましたが、行動が伴っていませんでした。主が求めておられたのはそのような空っぽの信仰ではなく、中身が伴った信仰です。そのような人が1人でもいれば、主はその人のゆえに、エルサレムのすべての人を赦そうと言われたのです

この話で思い出すのは、創世記18章のところで、神がアブラハムに告げられたことばです。ソドムとゴモラの罪は非常に大きいので、それを見た主は彼らを滅ぼすと仰せになられました。それでアブラハムは、必死にとりなします。そこに甥のロトが住んでいたからです。それでアブラハムはこう言うのです。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。もしかすると、その町の中に正しい人が50人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる50人の正しい者のために、その町をお許しにならないのですか。」(創世記18:23-24)

すると主は、「もしソドムで、わたしが正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」(創世記18:26)と言われました。

じゃ45人だったらどうですか、30人だったら、20人だったら、10人だったら・・・と、その数を少なくしていきます。値切るように神様と交渉するわけです。おそらく、ロトの家族だけでも10人位はいたので、10人位にしておけば大丈夫だろうと思ったのでしょう。すると主は言われました。もし10人でも、そこに正しい者がいけば、滅ぼさない、と。

しかし、結局、ソドムとゴモラは滅ぼされてしまいました。10人もいなかったのです。でもきょうのところには10人どころじゃありません。1人です。もしもそこに公正と真実を求める正しい人が1人でもいたら、その人のゆえにエルサレムを赦そうと言われたのです。つまり、神様はどこまでも愛の神様であるということです。たった1人でもそこに正しい人がいれば赦してくださる。そしてその1人を最後まであきらめずに捜してくださるのです。本当に小さな可能性まで見出そうとされるのです。

そうしてエレミヤは町に行きました。その結果どうだったでしょうか?3節をご覧ください。「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」

顔を岩よりも硬くしてというのはおもしろい表現でするね。日本語にもありますね、堅い表情ということばが。表情は私たちの意志とか思いが表れる場所です。別のことばで言うと、信仰が顔に出ていたということです。神様との関係が顔に出ていました。頑なな顔です。カチカチで、堅い顔になっていました。神様から悔い改めるようにと懲らしめを受けても、受け入れませんでした。堅い甲羅で覆われたアルマジロのように、顔を硬くして、立ち返ることを拒んだのです。人が深刻な病気をして、命からがら助かった人が、その病気の前と後で生活が激変したという人は、だいたい10人に1人くらいしかいないそうです。ここでも、イスラエルは神様から深刻なさばきを受けても全然変わらず、跳ね返してしまうだけでした。神様のさばきが悔い改めの機会とならなかったのです。

いったいどうしてでしょうか。エレミヤは考えました。4~5節をご覧ください。「4私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」

エレミヤは、自分がいくら探しても正しい人を見つけることができなかったのは、卑しい者たちの中から探していたからだと思いました。もっと身分の高い人たちのところへ行って探せば、きっと見つかるはずだと。なぜなら、彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているはずだからです。この「主の道」とか「神のさばき」とはいうのは類似語で、神のことばのことを意味しています。貧しい者たちは、仕事とか食べることで忙しくて、神のことばを学んでいる暇がないのだから、主の道を知らないのも無理もないでしょう。でも身分の高い人たちならお金に余裕があるのでそんなに働かなくてもいいし、その分聖書を学ぶことができます。だから神様のこと、神様の道を知っているに違いない。そう思ったのです。実際、エルサレムには神のことばを学ぶ学校があったそうです。そういうところでは祭司とか、預言者とか、レビ人たちが学んでいました。そういう人たちならきっと知っているに違いないと考えたのです。

結果はどうだったでしたか?5節の後半をご覧ください。ここには「ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」とあります。「くびき」とか「かせ」というのは、神の教えとか、律法、聖書のことです。それは、神の民が成長していくうえで欠かすことができないものでした。イエス様も「わたしのくびを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)と言われました。この「くびき」のことです。しかしユダの民はこのくびきを砕き、かせを断ち切ってしまいました。ないがしろにしたのです。

このようにユダの民は、神の民であるにもかかわらず、意識的に、また無意識的に神の教えを無視して、神に逆らっていました。そこには公正と真実を求める人は一人もいなかったのです。それはユダの民、イスラエルだけのことではありません。私たちも同じです。公正と真実を求める人は一人もいません。神の目にかなう正しい人はだれもいないのです。先ほども申し上げましたが、このことを使徒パウロは詩篇のことばを引用してこう言いました。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)

ノーマン・ビンセント・ピール牧師が書いた「聞かれない祈り」という本の中で、こんな逸話が紹介されています。

ピール牧師がまだ少年だったころ、彼は1本の大きくて真黒なシガレットを拾いました。彼は、面白半分に、路地裏に隠れてそのシガレットに火をつけました。味は悪かったのですが、なんとなく大人になったような気がしました。

ところが、近づいてくる父親の姿が目に入りました。彼は急いでシガレットをうしろに隠し、平静を装いました。

父親の感心を他のことに向けるために、彼はサーカスの宣伝が載った大きな広告板を指さしました。

「お父さん、行っていい?この町にサーカスが来たら、行こうよ。」

父親の答えは、ピール少年にとって、一生忘れられない教訓となりました。

父親は静かな声で、しかし、威厳を込めてこう言いました。

「息子よ。不従順の煙がくすぶっている間は、決して願い事をしてはいけないよ。」

皆さん、おわかりでしょうか。私たちは、この少年のように不従順の煙がくすぶらせているのに、「主は生きておられる」と平気で誓いますが、そのような偽りの誓いのゆえに、神のさばきを受けることになります。「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはでき」(ローマ3:23)とあるように、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのです。それはあなたも例外ではありません。義人はいない。一人もいないのです。それが私たちの姿です。

Ⅱ.神の告訴状(6-13)

それゆえ、彼らに神のさばきが宣告されます。6~13節をご覧ください。6節には「そのため、森の獅子が彼らを殺し、荒れた地の狼が彼らを荒らす。豹が彼らの町々をうかがい、町から出る者をみなかみ裂く。彼らは背くことが多く、その背信がすさまじいからだ。」とあります。

「森の獅子」とか「荒れ地の狼」、「豹」とは、バビロン軍のことを指しています。意識的であろうが、無意識的であろうが、神に背いたイスラエルの民に対して、神はバビロン軍を送り、侵略させるというのです。

このような神のさばきに対して、中には、「えっ、神様はそんなに厳しい方なんですか、「神は愛です」と聖書に書いてあるじゃないですか。それは嘘なんですか」と言う方がいるかもしれません。しかし、そうじゃないんです。神様は赦したいのです。しかし、神の民であるユダがそれを拒んだのです。それが7~13節で語られていることです。いわばこれは神様の告訴状です。

「7 「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。わたしが彼らを満ち足らせると、彼らは姦通し、遊女の家で身を傷つけた。8 彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。9 これらについて、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。10 ぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせ。ただ、根絶やしにしてはならない。そのつるを除け。それらは主のものではないからだ。11 実に、イスラエルの家とユダの家は、ことごとくわたしを裏切った。──主のことば──12 彼らは主を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』と。13 預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」」

「これでは」というのは、神が警告を与えたにもかかわらず、それでもかたくなって拒み、なおも罪を犯し続けるというのでは、ということです。甚だしいにも程があると。これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。できません。これは、裏を返せば赦したいということの表れでもあります。神様は赦したいのです。助けたいのです。でも彼らの側でそれを受け入れようとしません。むしろ、悪に悪を重ねるようなことをしたのです。

7節から、その悪が具体的に挙げられています。まず、彼らは神を捨て、神ではないものによって誓っていました。これは偶像礼拝のことです。このようにまず、神を礼拝するということが破壊されました。それでも恵みをもって彼らを満ち足らせると、今度は姦淫を犯し、遊女の家で身体を傷つけました。これは文字通り姦通したということと、霊的に姦通した、すなわち偶像礼拝を行ったということの両方を含んでいます。というのは、こうした偶像礼拝には、肉体的姦淫が伴っていたからです。

さらに8節をご覧ください。ここには「肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。」とあります。「いななく」とは、馬が声高く鳴くことです。「ヒヒ~ン」。それは発情した状態を指しています。理性を失って、完全に情欲と欲望に支配された状態のことです。もうどうにもとまりません。これは十戒の中にある「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」(出エジプト20:17)を破る罪です。このように、神様との縦の関係が壊れると、人間同士の横の関係が壊れることになります。ですから、9節で主はこう言われるのです。「これらについて、わたしは罰しないだろうか」。このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」どうして罰しないでおられるだろうか。復讐しないでおられるだろうか。それはできない、というのです。どこまでもかたくなになって神に背き、罪を犯し続けるならば、神様は罰せずにはおられないのです。罰したくなくても、罰するしかないわけです。それは神様からしたら不本意なことです。なぜなら、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。Ⅰテモテ2章4節にこうあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」でも、神の慈愛を無視し、悔い改めずに罪を犯し続けるなら、そうせずにはいられないという、神様の悲痛な思いが伝わってきます。

続く10節にはぶどう畑のたとえが出てきます。この「ぶどう畑」とは、イスラエルのことを指しています。このぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせ、というのです。これを命じておられるのは神様です。神様はぶどう畑であるイスラエルの石垣に上り、それをつぶすようにと、バビロンに命じておられるのです。その理由が11節にあります。イスラエルの家とユダの家が、ことごとく主を裏切ったからです。イスラエルの家とは北イスラエル王国のことであり、ユダの家とは、南ユダ王国のことです。北王国イスラエルは既に滅ぼされていました。B.C.722年のことです。アッシリヤ帝国によって滅ぼされました。そして、それが今南ユダ王国にも語られているのです。この後B.C586年に、彼らもバビロンに滅ぼされてしまうことになります。それは、彼らがことごとく神様を裏切ったからです。神様は真剣に彼らに向き合っておられたのに、彼らは自分たちのしていることを深刻に受け止めませんでした。

それは12節を見るとわかります。彼らは主を否定してこう言いました。「主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない。」

どういうことでしょうか。どんなに主が警告を与えても、それをまともに受け止めようとしなかったということです。そんなことはない、主は何もしないと、高を括って(たかをくくって)いたのです。

そればかりではありません。13節には「預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」とあります。「風になり」とは実体がないということです。預言者たちの存在はあってないようなものだというのです。この12節と13節のことばは、エレミヤが預言者として何回も聞かされて来た、自分が体験してきたことばでした。彼が預言者として神のことばを語っても、民の方は「なに、預言者か、あいつらは風みたいなもんだ」と馬鹿にしていたのです。それはこのエレミヤが預言のことばを語った時代、それはヨシヤ王の時代ですが、政治的には強大なアッシリヤ帝国の力が弱まっていて、ユダは比較的に平穏だった時代でした。だから民はエレミヤのことばを真剣に受け止めなかったのです。風のように流していたわけです。しかし、神様は侮られるような方ではありません。神のことばが無に帰することは決してないのです。神のことばは必ず成し遂げられるのです。

アメリカの有名なリバイバリストであったD・L・ムーディーは、イエス様を信じて生まれ変わり、最初のうちは喜びに満たされていましたが、しばらくすると生まれ変わった喜びはなくなり、世の楽しみを求め始めるようになりました。そこで彼は山に登って一週間の断食祈祷をして、恵みに満たされて山から下りてきました。しかし、その恵みもしばらくすると消えてしまいました。彼はひどく落胆し、「主よ、私は捨てられた者です」と嘆きました。そんなある日、聖書を読んでいると「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)というみことばに目が留まりました。その瞬間、彼の心が熱くなりました。「私は聖書を読んでいなかった。だから信仰が育たず、成熟できなかったんだ。」その時から彼は聖書を一生懸命に読みました。すると、彼の生活が変わり変わり始めました。罪と世のことが消え去り、神を求めるようになり、心が聖霊に満たされていったのです。

信仰生活の基本は、神が生きておられると信じることです。そして、その神のことばに生きることなのです。神のみことばに満たされると、みことばが生きて働き、その人を変えていきます。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。そして、そのみことばに従うとき、私たちの生活が変えられていきます。イスラエルの問題はここにありました。みことばを聞きませんでした。主のことばを否定していたのです。つまり、みことばがなかったのです。自分の思いのままに、勝手気ままに生きていました。その結果、神のさばぎか彼らに臨んだのです。神が生きておられると信じるなら、神の御前で生きるようになり、罪を捨てる人生へと導かれていきます。そして、すべてのことにおいて神を認める信仰は、みことばを毎日黙想して従う生活に現れるのです。

Ⅲ.イスラエルを攻める遠くから来る一つの国(14-19)

最後に、14~19節をご覧ください。しかし、主は侮られる方ではありません。「主は何もしない」と言っている間に、民は自分の頭の上に神の怒りを積み上げていました。そして、ついに神の堪忍袋の緒が切れる時がやってきます。神様がみことばで語られた通り、民に対するさばきが実行に移されます。14節には「それゆえ、万軍の神、主はこう言われる。「あなたがたがこのようなことを言ったので、見よ、わたしはあなたの口にあるわたしのことばを火とする。この民は薪となり、火は彼らを焼き尽くす。」とあります。

ユダの民がそのようなことを言ったので、主はエレミヤの口から出ることばを火炎放射器のように、彼らに浴びせます。それは火となり、この民を(たきぎ)として彼らを焼き尽くすのです。それは神様による神の民への徹底したさばきです。具体的にはバビロンが襲ってくるわけです。それが15~17節にあります。「イスラエルの家よ。見よ。わたしはあなたがたを攻めるために、遠くの地から一つの国を来させる。──主のことば──それは古くからある国、昔からある国、その言語をあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国。その矢筒は開いた墓のよう。彼らはみな勇士たち。彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、あなたが拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。」

神様は神の民をさばくために、外国を道具として用いられるわけです。「古くからある国」とか「昔からある国」とはバビロン帝国のことです。この時は新バビロニア帝国でしたが、それは昔からありました。旧バビロニア帝国です。その起源は、創世記11章のあのバベルの塔にまで遡ります。「バベル」とは実は「バビロン」のことです。人類はここから地の全面に散らされていきました。ですから、歴史は古いのです。ユダの民はその言語を知りません。何を話しているのか聞き取れない国、それがバビロンです。主はイスラエルを攻めるために、この外国のバビロンを用いられるのです。

「その矢筒は開いた墓のよう」とあります。その放つ矢によって確実に死ぬということです。つまり、バビロン軍の破壊力を表しているわけです。それはスピーディーで、パワフルで、すべてを食い尽くすいなごのようです。17節には「食らい」ということばが4回も繰り返して用いられています。「彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、」まさにいなごが穀物を食い尽くすように彼らはすべてを食らい、エルサレムを廃墟とするのです。

まさにモーセが警告した通りです。モーセは約束の地に入るイスラエルの民に対して、もし彼らが主の御声に聞き従わず、モーセが彼らに命じた、主のすべての命令と掟を守り行わなければ、すべてのわざわいが彼らに臨み、彼らをとらえると言いましたが(申命記28:15)、その通りになったのです。

18~19節をご覧ください。ここには、「18 しかし、その日にも──主のことば──わたしはあなたがたを滅ぼし尽くすことはない。」とあります。19『われわれの神、武捨は、何の報いとして、これらすべてのことを私たちにしたのか』と尋ねられたら、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨て、自分の地で異国の神々に仕えたように、あなたがたは自分の地ではない地で、他国の人に仕えるようになる。』」とあります。

「主は、何の報いとして、こんなことを私たちにしたのか」それは、彼らの神、主を捨てて、異国の神々に仕えたからです。それは神様の問題ではなく、身から出た錆なのです。 自業自得ということです。

18節のことばは、10節にもありましたが、滅ぼし尽くすこときしないという約束です。そのような徹底した神のさばきの中にも、神は残りの民を残してくださるという約束です。ここに希望があります。絶望的に見えますが、ここにかすかな希望が残されているのです。神は、ユダが絶滅することを赦されたのではありません。敵の攻撃に、一定の制限を設けられました。それはすでに4章27節でも語られていました。「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」。5章10節もそうです。ここでも同じことを語っておられます。神様は、アブラハムの約束のゆえに、イスラエルのすべてを滅ぼし尽くすことはなさいません。そこに残りの者、レムナントを残してくださるのです。神様は真実な方です。約束したことを最後まで守ってくださいます。みことばに「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)とある通りです。

きょうのところをまとめると、エルサレムには主を求める正しい人が一人もいませんでした。義人はいない、一人もいなかったのです。その結果、神は遠くの地から一つの国を越させ、彼らに破壊と混乱をもたらしました。それは今日の私たちの社会にも言えることではないでしょうか。表面的には平静を装っていても、いつ崩壊してもおかしくない状態にあります。第三次世界大戦も起こるのではないかという不安も現実的になっています。いったいどこに問題があるのでしょうか。その根本的な原因は、神を恐れないことです。神を認めない、神を求めないことです。きょうの聖書のことばでいうなら、公正と真実を求めないということです。表面的に神様を信じているというだけでなく、心から神を恐れ、神のことばに従っていないことが問題なのです。その結果、このような悲惨を招いているのです。今私たちに求められているのは、自分が罪人であるということを認めて神に立ち返り、神の義と神の真実に生きることです。「23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)とある通りです。

「大草原の小さな家」という番組があります。皆さんの中にも好きてよく観ていたという方も多いのではないでしょうか。その中にこんな話がありました。舞台は19世紀のアメリカ西部の開拓された小さな田舎町です。そこに小さな教会がありました。人口も少ない小さな町なので、ウイークデイは子どもたちの学校にもなっていました。

ある日曜日の礼拝が終わった時、牧師が一つの提案をしました。それは教会の入り口に鐘を付けたらどうかということでした。教会に集まっている人たちは喜んで提案を受け入れました。すると、その教会に雑貨屋を営んでいる婦人がいるのですが、ご婦人が、「じゃ、私が全額寄付します。」と言ったのです。隣町に負けないような立派な鐘を付けましょうと言うのです。その代わり、私が寄付をしたというプレートを下に付けてください」言いました。こういうことがよくあります。皆さんだったらどうしますか。しかし、その発言で教会真っ二つに割れてしまいました。せっかく寄付してくれるというんだから助かるじゃないかという人と、いや、教会にそんな寄付した人の名前を刻むなんて滅相もないという人の意見で、喧々諤々となってしまったのです。その結果、教会が半分くらいになってしまいました。牧師はその責任を感じて辞任することになってしまいました。

果たして、その教会にジョーンズさんという話すことができない障害を持っている方がいましたが、彼はその話を聞くと村中の子どもたちを集め、家の中にある鉄製のものを持ってくるようにと言いました。もちろん、話すことができないので黒板に書いて指示したわけですが。彼の仕事は鋳物師で、鉄を溶かしてやかんとか鍋とかを作る仕事でした。すると、子どもたちは自分の家にある物をジョーンズさんのところに持ってきました。それでジョーンズさんは鐘を作ったのです。

牧師が辞任のあいさつをする日です。どこからか鐘の音が聞こえてきました。それは小さな町全体に響き渡る音でした。大人たちはびっくりして音のする方向に走って行くと、教会の上に鐘が付いていてジョーンズさんが紐を引いて鐘を鳴らしていたのです。大人たちは何となく気付いていたんですが、自分たちの家から鉄の物が無くなった理由がやっとわかりました。そして子供たちが喜ぶ姿を見て、自分たちの過ちを認めたのです。

私はこの話を見て、それは私たちにも言えることではないかと思いました。こうした問題の根底にあるのは、自分の姿が見えないことにあります。自分は正しいと思い込んでいるのです。でも、きょうのみことばで言うなら、義人はいない、一人もいないのです。神様の前に正しい人など誰もいません。しかし、聖書が言うのは、ただ一人の正しい人がおられるということです。それがイエス・キリストです。イエス様だけが公正と真実を求めて、ひたすらそこに生き抜いてくださいました。この方が勝ち取ってくださった正しさを、私たちは身にまとうことが許されています。会堂の入り口に高く掲げられたこのジョーンズさんの鐘が、和解の調べを告げたように、十字架につけられたイエス様から私たちは、和解のことばを聞くことができるのです。イエス様は十字架の上からこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないからです。」(ルカ23:34)

私たちは、自分でも知らないうちに、また知りながら、罪を重ねて生きています。しかしそれを全部知った上で赦してくださった方がおられます。罪で死に、罪で滅ぼし尽くしかねなかった私たちを救ってくださったイエス様、このイエス様の御声を私たちは聞き、これを信じ従っていきたいと思うのです。そのような人こそ、神の目には正しい人、真実な人なのです。

Ⅰ列王記6章

 今日は、列王記第一6章から学びます。

 Ⅰ.神殿の構造(1-10)

まず1節から10節までをご覧ください。「1 イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建築に取りかかった。2 ソロモン王が主のために建てた神殿は、長さ六十キュビト、幅二十キュビト、高さ三十キュビトであった。3 神殿の本殿の前に付く玄関は、長さが神殿の幅と同じ二十キュビト、幅が神殿の前で十キュビトであった。4 神殿には格子を取り付けた窓を作った。5 さらに、神殿の壁に、すなわち神殿の壁の周り、本殿と内殿の周りに、脇屋を建て巡らした。こうして階段式の脇間を周りに作った。6 脇屋の一階は幅五キュビト、二階は幅六キュビト、三階は幅七キュビトであった。それは、神殿の外周りの壁に段を作り、神殿の壁を梁で支えずにすむようにするためであった。7 神殿が建てられたとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や斧や、いかなる鉄の道具の音も、いっさい神殿の中では聞こえなかった。8 二階の脇間に通じる入り口は神殿の右側にあり、螺旋階段で二階に、また二階から三階に上るようになっていた。9 ソロモンは神殿を建て、これを完成させるにあたって、神殿の屋根を杉材でできた雨水溝の列でおおった。10 神殿の側面に脇屋を建て巡らし、その各階の高さは五キュビトにして、これを杉材で神殿に固定させた。」

前回は、ソロモンがツロの王ヒラムに神殿のための杉材を調達してくれるように頼み、両国の間に契約を結んだということを学びました。ここから、いよいよ神殿の建設が始まります。まず、その神殿の構造です。ソロモンが主の家の建築に取りかかったのはソロモンがイスラエルで王となってから4年目のジフの月、すなわち第二の月のことでした。それはイスラエルがエジプトを出てから480年目のことでした。ということは、ソロモンの治世は紀元前971年から931年までであることがわかっているので、この神殿の建設は紀元前966年頃であったということになります。ソロモンは王になってから比較的に短期間の内にこの神殿建設に取りかかったことになります。ちなみに、その480年前にイスラエルがエジプトを出たとあるので、出エジプトの出来事は紀元前1445年頃であったということがわかります。

2節には神殿のサイズが記されてあります。それは長さ60キュビト、幅20キュビト、高さ30キュビトです。1キュビトは約44センチなので、長さ26.4メートル、幅8.8メートル、高さ12メートルです。面積は232平米(70.4坪)ですから、それほど大きな建物ではありません。教会の建物が1階と2階を合わせて約65坪ですから、2階の部分を下に持って来た大きさとほぼ同じ大きさとなります。神殿はかつての幕屋と同じ形をしていますが、寸法はちょうど2倍になっています。

http://www.geocities.jp/gaironweb/picmatop.htmlより転載)

3節から5節までをご覧ください。ここにはその構造が記されてあります。 本殿の前には玄関が付けられました。長さは神殿の幅と同じ20キュビト(8.8メートル)、幅は神殿の前方に10キュビト(4.4メートル)です。また、神殿には格子を取り付けた窓を作りました。なぜ窓が取り付けられたのかというと、幕屋の場合は通気性が良かったので必要ありませんでしたが、神殿はそうでなかったので換気が必要だったからです。神殿の周りには3階建ての脇屋を建て巡らしました。これは祭司たちの部屋のために、また礼拝に必要な物を保管するための倉庫として使用されました。興味深いのは6節にあるように、神殿の壁を梁で支えずにすむような構造になっていたことです。梁で支えなかったら構造上の強度が弱くなってしまいます。それなのに梁で支えなくてもよいようにしたのは、それぞれのパーツがしっかりと組み合わされていたからです。エペソ人への手紙4章16節に「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」とありますが、まさに神の家、神殿はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされて建てられていったのです。

7節には、「神殿が建てられたとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や斧や、いかなる鉄の道具の音も、いっさい神殿の中では聞こえなかった。」とあります。神殿の骨格の材料となる石が、建築現場で仕上げられることなく、すでに石切り場で完全に仕上げられていたということです。どうしてでしょうか。日本の住宅会社でもよく、家を建てるときに、すでにそれぞれの部分が組み立てられていて、それを現場でただ組み合わせるという建築方法を取り入れる会社がありますが、まさにそれと同じです。神殿で使われる石も、寸法通り、正確に、すでに石切り場で仕上げられており、現場ではただ組み立てられるだけになっていたのです。そうすることによって神殿の内部では工事の音が一切聞こえませんでした。神が臨在され、神がみことばを語られる場所として、そこは静かに保たれなければならなかったのです。主イエスが朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた(マルコ1:35)のも同じです。イエス様は静かな場所を求めておられました。勿論、物理的にそうでない所にも主はおられますが、もし主と深い交わりを持ちたいと願うなら、物理的にも、内面的にも静かさが求められるのです。

7節をご覧ください。ソロモンは神殿を建て、これを完成させるにあたって、神殿の屋根を杉材でできた雨水溝の列でおおいました。また脇屋も杉材で固定しました。杉材がふんだんに使われたのです。それは、幕屋(移動式の天幕)が暫定的な礼拝の場として与えられていたのに対して、神殿が恒久的な礼拝の場として与えられていたからです。それは、神が恒久的に彼らと共におられることの保証となりました。それは私たちにも言えることです。新約の時代に生きている私たちは、神の聖霊が与えられています。それは、救いの保証でもあります。聖霊は、私たちが御国を受けていることの保証(エペソ1:14)であり、恒久的に神が私たちと共におられることの保証なのです。

Ⅱ.神からの警告と励まし(11-13)

そのような神殿建設の真只中にあって、主はソロモンにこのように次のように言われました。11~13節です。「11 そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。12 「あなたが建てているこの神殿のことであるが、もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。13 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」」

どういうことでしょうか?神殿建設は確かに大事業ですが、もし本来の神の意図を見失ってしまうことがあるとしたら、何の意味もなくなるということです。とかく私たちは立派な神殿を建築すれば、神の臨在と栄光が現わされると思いがちですが、そうではないと、神は釘を刺しておられるのです。

ソロモンは、イスラエルの繁栄は、神との契約関係の上に成り立っていることを知らなければなりませんでした。つまり彼は主の掟に歩み、主の定めを行い、主のすべての命令を守り、これに歩まなければならなかったのです。もしそうであれば、主はダビデに約束したことを成就してくださいます。ダビデに約束したこととは、あのⅡサムエル記7章13節にあることばです。それは「彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」ということです。「わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。」という約束です。この約束の成就は、ソロモンがいかに神との契約関係に忠実に歩むかどうかにかかっていたのです。残念ながら、ソロモンは晩年多くの妻によって偶像礼拝に走り、この命令を守りませんでした。その結果、王国は息子レハムアムの時代に南北に分裂するようになります。

私たちはここから大切な教訓を学びます。それは、こうした祝福と繁栄の陰には落とし穴があるということです。傲慢という落とし穴です。神殿建設という祝福の真只中で主がソロモンにこれを語られたのは、そうした落とし穴に注意するようにとの警告だったのです。はたして自分は神のことばに留まっているかどうか、神の掟に歩み、神の定めを行い、神のすべての命令を守り、神のうちに留まっているかどうかを、吟味しなければならないのです。自分ではそう思っていても、神のみこころからかなり離れているということも少なくないからです。

Ⅲ.神が喜ばれる神殿(14-38)

次に、神殿の内装を見ましょう。14~22節をご覧ください。「14 こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成させた。15 彼は神殿の内側の壁を杉の板でおおい、神殿の床から天井の壁に至るまで、内側を板でおおった。なお神殿の床は、もみの板でおおった。16 それから、彼は神殿の奥の部分二十キュビトを、床から天井の壁に至るまで杉の板でおおった。このようにして、彼は神殿に内殿、すなわち至聖所を設けた。17 神殿の手前側の本殿は四十キュビトであった。18 神殿内部の杉の板には、瓢?模様と花模様が浮き彫りにされていて、すべては杉の板で、石は見えなかった。19 内殿は神殿内部の奥に、主の契約の箱を置くために設けた。20 内殿の内部は、長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビトで、純金でこれをおおった。さらに杉材の祭壇も純金でおおった。21 ソロモンは神殿の内側を純金でおおい、内殿の前に金の鎖を渡し、これに金をかぶせた。22 神殿全体を隅々まで金でおおい、内殿に関わる祭壇も全体を金でおおった。」

(http://meigata-bokushin.secret.jp/)より転載

こうして、ソロモンは神殿を建て、これを完成させました。彼は神殿の内側の壁を杉の板でおおい、神殿の床から天井の壁に至るまで、内側をすべて板でおおいました。神殿の床には、もみの板が使われました。石材が隠れるようにしたのです。その杉の板には、ひょうたんの模様と花の模様が浮き彫りにされていました。その上に金をかぶせました。神殿全体を隅々まで金でおおったのです。

19節には、さらに神殿内部の奥に、主の契約の箱を置くために内殿(至聖所)を設けました。サイズは長さ20キュビト、幅20キュビト、高さ20キュビトの立方体で、そこにも杉の板が張られ、その上に純金がかぶせられました。そこは、主の栄光が現わされる所だからです。

23~28節をご覧ください。「23 内殿の中にオリーブ材で二つのケルビムを作った。その高さは十キュビトであった。24 ケルビムの一方の翼は五キュビト、もう一方の翼も五キュビト。翼の端から翼の端までは十キュビトであった。25 もう片方のケルビムも十キュビトあり、両方のケルビムは全く同じ寸法、同じ形であった。26 片方のケルビムの高さは十キュビト、もう片方のケルビムも同じであった。27 ケルビムは神殿内部に置かれた。ケルビムは翼を広げていて、片方のケルビムの翼は一方の壁に届き、もう片方のケルビムの翼はもう一方の壁に届き、また両者の翼は神殿の真ん中に届いて、翼と翼が触れ合っていた。28 ソロモンはこのケルビムに金をかぶせた。」

内殿の中にオリーブ材で二つのケルビムを作りました。ケルビムは、神の栄光のそばで仕える天使です。彼らは契約の箱を守る役割を果たしていました。ケルビムの単数形はケルブですが、一つのケルブは高さが10キュビト、翼の端から翼の端までも10キュビトでした。その2つのケルビムが並んで翼を広げると、片方のケルビムの翼は一方の壁に届き、もう片方のケルビムの翼はもう一方の壁に届きました。また両者の翼は神殿の真ん中に届いて、翼と翼が触れ合っていました。ソロモンはこのケルビムにも金をかぶせた。

どうしてソロモンはケルビムを作ったのでしょうか。それは神の命令だったからです。神は幕屋の建設にあたり、二つの金のケルビムを作るようにと命じられていました(出エジプト25:18)。それは、そこが最も重要な場所であったからです。そこには十戒が書かれた2枚の2枚の石の板が収められた契約の箱がありました。そしてその上に「宥めの蓋」がありました。そこは神の宥めがなされるところ、贖いの血が注がれるところでした。そこに年に一度だけ大祭司が入り民の罪の贖いをしました。雄牛ややぎをほふり、その血を取って、それをこの宥めの蓋の上に注いだのです。主はそこでモーセと会見し、ご自身のことばを語ると仰せになられました(出25:20-22))。すなわち、そこは神が臨在される場所だったのです。

私たちも、神が命じられた方法によって準備するなら、神はそこにご自身の栄光を現わしてくださいます。新約の時代に生きる私たちの場合は、それはイエス・キリストのことです。私たちはイエス・キリストを通して神に近づき、神と会見することができるのです。

「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」(へブル10:19)

次に、29~38節をご覧ください。「29 神殿の四方のすべての壁には、奥の間も外の間も、ケルビムとなつめ椰子の木と花模様の浮き彫りを彫った。30 神殿の床は、奥の間も外の間も金でおおった。31 ソロモンは内殿の入り口を、オリーブ材の扉と五角形の戸口の柱で作った。32 その二つのオリーブ材の扉に、ケルビムとなつめ椰子の木と花模様の浮き彫りを彫り、金でおおった。ケルビムとなつめ椰子の木の上に金を張り付けたのである。33 同じように、本殿の入り口にも四角形のオリーブ材で戸口の柱を作った。34 また、もみの木で二つの扉を作った。片方の扉の二枚の戸は折り畳み戸、もう片方の扉の二枚の戸も折り畳み戸であった。35 ケルビムとなつめ椰子の木と花模様を彫り付け、その彫り物の上に、ぴったりと金を張り付けた。36 それからソロモンは、切り石三段と杉の角材一段の仕切りで内庭を造った。37 第四年のジブの月に、主の宮の礎を据え、38 第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が設計どおりに完成した。七年かけて建てたのである。」

神殿の「奥の間と外の間」とは、至聖所と聖所のことです。その壁には、ケルビムの彫刻となつめ椰子の木と花模様の彫刻が施されました。さらに、神殿の床は、金でおおわれました。非常に豪華で華麗な意匠です。ソロモンがいかにこの神殿の建設に心血を注いだかがわかります。

聖所と至聖所を区切る扉は、オリーブ材で作られました。幕屋の時は、垂れ幕と幕によって仕切られていましたが、ここでは柱と扉です。その扉にもケルビムとなつめ椰子の木と花模様の彫刻が施され、金でおおいました。また、戸口には五角形の柱が作られました。同じように、本殿の入り口にも四角形のオリーブ材で戸口の柱を作り、もみの木で2つの扉を作りました。それから、神殿の周りに内庭を作りました。外庭よりも切り石三段分、高く作っています。

このようにして、ソロモンは主の家を完成させました。それが37~38節にあることです。「第四年のジブの月に、主の宮の礎を据え、第十一年のブルの月、すなわち第八の月に、神殿のすべての部分が設計どおりに完成した。七年かけて建てたのである。」

神殿が完成するのに7年かかりました。厳密には7年半です。この神殿はこれ以降、バビロンによって破壊されるまで(B.C.586年)四百年間立ち続けることになります。バビロン捕囚以降、ソロモンの建造物で再建されるのは、神殿だけです。その本質は、神が住まわれる、神が臨在それる場所、神を礼拝する場所です。礼拝の中心は、それまでの粗末な幕屋から豪華な神殿に代わりました。これは大きな祝福ですが、その本質を失うと信仰が形骸化する危険があります。神殿がそこにあるというだけに安住するようになるのです。

しかし新約時代では、神はキリストを信じる者の心に住まわれると聖書は教えています。私たちは神の宮(Ⅰコリント3:16)、聖霊の宮(Ⅰコリント6:19)なのです。聖霊の宮である私たちは、神の栄光を現すことが求められているのです。それはキリストとの生ける関係から生まれるものです。Ⅰペテロ2章2節には次のように勧められています。「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」とあります。
私たちも聖なる石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げましょう。これこそ、神が喜ばれ、神がご自身の栄光を現わしてくださる真の神の家、神殿なのです。

ヨハネ21章1~14節「さあ、朝の食事をしなさい」

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主の御名を賛美します。本日はイースター礼拝です。復活の主を共に礼拝できることを感謝します。全世界はいま闇の中にありますが、このキリストの復活のメッセージが暗闇の中にある人たちの光となることを祈ります。今日は、ヨハネの福音書21章から「さあ、朝の食事をしなさい」という題でお話しします。

Ⅰ.私は漁に行く(1-3)

まず1~3節をご覧ください。「その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。」

イエス様は、ユダヤ人たちのねたみによって十字架に付けられて死なれ、墓に葬られました。しかし、キリストを墓の中に閉じ込めておくことはできませんでした。キリストは、聖書が示す通りに、三日目に死人の中からよみがえられました。復活によって、ご自身が神の御子、救い主であることを公に示されたのです。そして40日にわたり弟子たちにご自身を現わされ、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを示されました。

イエス様が最初にご自身を現わされたのは、マグダラのマリアに対してでした。20章1節には、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来たとあります。何のためでしょうか。イエスの遺体に香油を塗るためです。ところが墓へ行ってみると、墓から石が取りのけられてありました。よみがえられたのです。でもイエスのからだがありませんでした。マリアが途方に暮れて泣いていると、復活の主が彼女に現れ「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と言われました。彼女は、それを園の管理者だと思いましたが、やがて、それが愛する主イエスだということがわかりました。彼女はそのことを弟子たちに告げると、弟子たちにはたわごとのように思われました。しかし、その日の午後、エマオに向かっていた二人の弟子たちに現われると、その日の夕方には、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた弟子たちのところに現われてくださいました。イエス様が手と脇腹を彼らに示されると、「弟子たちは主を見て喜んだ。」(20:20)とあります。

しかしそこに、12弟子の1人でデドモと呼ばれるトマスがいませんでした。彼は疑い深い人で、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、「私は決して信じません。その手に釘の跡を見て、そこに指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」(20:25)と言いました。本当に疑い深い人ですね。私たちの回りにもそういう人たちが結構いるのではないでしょうか。いや、私たちもかつてはそうでした。見ないと信じない。

しかし、その1週間後のことですが、弟子たちが集まっていたところに、再び主が現れてくださいました。今度はトマスも一緒でした。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」(20:27)と言われました。するとトマスは、「私の主、私の神よ。」と言ってひれ伏し、主を礼拝しました。主はそんな彼にこう言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる者は幸いです。」(20:29)見ないで信じる人は幸いです。

きょうの箇所はその後の出来事です。その後、イエスはティベリア湖畔で再び弟子たちにご自分を現われてくださいました。ティベリア湖とはガリラヤ湖のことです。ティベリア湖とは、ガリラヤ湖のローマ風の呼び方なのです。そこで主は再び弟子たちにご自分を現われてくださったのです。その現わされた次第はこうです。

舞台は、エルサレムからガリラヤに移っています。なぜ弟子たちはこの時ガリラヤ湖にいたのでしょうか。主がそのように言われたからです。「ガリラヤに行くように。そこであなたがたに会う」(マタイ28:10)と。

ガリラヤ湖は彼らの故郷でした。彼らは、このガリラヤ湖で漁をしながら生計を立てていました。そこは彼らが小さい頃から慣れ親しんだ場所だったのです。しかし3年半ほど前に、イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)と言われ、すべてを捨ててイエス様に従って行きました。ところが、イエス様は十字架に付けられて死んでしまいました。それで彼らは完全に望みを失ってしまったのです。これまで主として、先生として仰いできたイエス様が死んでしまったのですから。しかし、イエス様は三日目によみがえられました。その復活された主イエスが彼らに現われ、ガリラヤに行くようにと言われたのです。

2節をご覧ください。そこにいたのは、シモン・ペテロとデドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナの出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子がいました。おそらく一人はペテロの兄弟アンデレでしょう。そしてもう一人はナタナエルを誘ったピリポではないかと思います。とにかく全部で7人です。彼らはかつて漁をしていたガリラヤ湖畔にいたのです。

すると、シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言いました。なぜ彼はこのように言ったのでしょうか。わかりません。ある学者は、このときペテロは伝道者としての生活をやめ、元の仕事に戻ろうとしていたのではないかと言っています。また他の人は、いや、その日の食料を求めて漁に行っただけだという人もいます。はっきりしたことはわかりません。しかし彼がそのように言うと、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く」と言いました。一つだけ確かなことは、このとき彼らは無力で、みじめな状態であったということです。なぜなら、自分の仕事まで捨てて従って行ったイエスが十字架につけられて死んでしまったのですから。いったい今までのことは何だったのか、そういう思いに駆られていたのではないかと思います。そして、自分たちの最も得意な領域で自分たちの存在というものを確かめたのではないでしょうか。それが「私は漁に行く」という言葉に現れたのだと思います。彼らはもともと漁師でしたから、これが自分の本業だと思ったのでしょう。ちょうど牧師が以前の仕事のことを思い出して懐かしむ姿に似ているかもしれません。それがうまくいなかいと元の仕事に戻りたいと、牧師なら一度や二度思うことがあります。「人間をとる漁師にしよう」と言われてイエス様について行ったのは良かったけれども、その結果がこれです。「これこそ自分のライフワークだ」と、以前の状態に引き戻されたのだと思います。

結果はどうでしたか?3節後半をご覧ください。「彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。」収穫ゼロです。漁をするには一番いい時間であったはずです。彼らは漁のプロでしたから、そんなことくらい百も承知でした。それなのに何も捕れなかったのです。なぜでしょうか?漁から離れていた3年半の間にすっかり腕が鈍ってしまったからではありません。それは彼らの本来の仕事ではなかったからです。彼らの本来の仕事は何ですか?人間をとる漁師です。それなのにそれを見ないかのようにして、自分の思いと自分の力で何とかしようとしたのです。その結果がこれだったのです。

ここからどんなことを学ぶことができるでしょうか?神のみこころから離れた努力は空しいということです。努力をすることは大切なことです。聖書にも「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ローマ12:11)とあります。箴言には、怠けないで、勤勉であるようにと勧められています。勤勉に働くことによって家族を養うことができます。世の光、地の塩としての役割を果たすことができます。しかしそれがどんなに良いことでも優先順位を間違えると、それは神に喜ばれません。ペテロは何も悪いことをしたわけではありません。漁に行くこと自体は良いことですし、熱心に働くことは悪いことではありません。しかし、彼に対する神の使命は、魚をとることはなく人間をとる漁師になるということでした。これが彼に対する神のみこころだったのです。それなのに彼は、神のみこころではなく自分の思い、肉の力を優先しました。その結果がこれだったのです。

私たちも神のみことばに従わないと、以前の生活に逆戻りしやすくなります。自分の力が、肉の力が働きやすくなるのです。だんだん祈らなくなります。神に信頼するよりも自分で頑張ろうとするのです。自分のやりたいことを、自分のやりたいときに、自分のやりたいようにやろうとするわけです。神のみこころを求めるのではなく、「私はやります」となるのです。ここでペテロは「私は漁に行く」と言いましたが、それと同じようになるのです。神様が何を願っておられるのかではなく、あくまでも「私」がしたいと思うこと、私の思いが強くなるのです。たから日曜日ごとに教会に来て主を礼拝することが重要なのです。そこで自分が拠って立っているもの、自分が信頼しているものが何であるのかを確認することができるからです。漁に行くこと自体は問題ではありません。でも彼に求められていたのは漁に行くことではなく、イエス様のことばに従って待つことだったのです。彼は主のことばに従わないで自分で判断して物事を決め、自分の力でやり遂げようとしました。主のことばに従わないと祈らなくなり、自分の判断で物事を決め、自分の力でやり遂げようとするようになります。

その結果、どうでしたか?夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。空振りに終わってしまいました。こんなに頑張っているのになぜ?優先順位が間違っていたのです。人生の優先順位を間違えると、実を結ぶことができません。イエス様が言われたことばを思い出します。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)イエス様を離れては何もすることはできません。その夜は何も捕れませんでした。それはこの時の弟子たちの心を象徴していたかのようです。イエス様を離れては実を結ぶことはできません。しかし、そんな暗い夜にも明るい朝がやって来ます。

Ⅱ.湖に飛び込んだペテロ(4-8)

4~8節をご覧ください。「4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。」

弟子たちは夜通し漁をしたのに何も捕れませんでした。その夜が明け始めていたころ、イエス様は岸辺に立っておられましたが、弟子たちにはそれがイエス様だとはわかりませんでした。見てはいましたが、わからなかったのです。なぜでしょうか?もしかすると弟子たちは湖の上にいたので、遠くてよく見えなかったのかもしれません。しかしそれは距離が遠かったからではありません。距離以上に彼らの心が遠く離れていたからです。だから主を見ていても、それが主だとわからなかったのです。

でも感謝ですね。そんな弟子たちにイエス様の方から声をかけてくださいました。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」それに対して弟子たちは答えました。「ありません。」ここで弟子たちは、自分の弱さというか、無力さを素直に認めています。しかし、そのように素直に認めたとき、彼らに新しい道が開かれました。どういう道でしょうか。それはイエス様の恵みに生きる道です。6節をご覧ください。イエス様は彼らにこう言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」これが主のことばです。「舟の右側に網を打ちなさい。」舟の右側に打てって、もうとっくりやりましたよ。夜通しやったんです。でも何も捕れませんでした。今さらやっても無駄です。捕れるはずがありません。と弟子たちは言いませんでした。彼らは一言も反論せず、ただ主が言われたとおりにしました。

するとどうでしょう。おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き揚げることができませんでした。ガリラヤ湖は魚の豊富な淡水湖です。魚が群れをなして湖面近くに現れるとき、水面は、遠くから見ると夕立にたたかれたように波立って見えたといいます。まさにそんな光景だったかもしれません。おびただしい数の魚のために、もはや彼らには引き上げることができませんでした。7人の侍ならぬ7人の漁師でも引き上げることができないほどの大漁だったのです。自分の力で頑張った時には100%力を出し切ってもだめだったのに、主のことばに従い、主が言われたとおりにしたとき、想像することもではないほどの大漁が与えられたのです。

イエス様はこう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:30)まず神の国とその義とを第一に求めることです。そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられます。聖書はそう約束しています。私たちは自分の必要を満たそうとあくせくしていますけれども、空回りしないように注意しなければなりません。第一のことを第一にしなければなりません。第一のことを第一にするなら、あとのことは主が満たしてくださいます。これが、聖書が約束している聖書の原則です。

それでイエスに愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言いました。イエスが愛されたあの弟子とは、これを書いているヨハネのことです。彼は自分のことをみるとき、主に愛されている者であるというイメージを持っていました。これは正しいセルフイメージではないでしょうか。他の人があなたをどのように見るかではなく、神があなたをどのように見ておられるかということです。ヨハネは自分のことを、イエスが愛された者とみていました。私たちも同じです。確かに罪だらけな者です。同じ失敗を繰り返すような愚かな者ですが、そんな者を主は愛してくださったのです。私は、あなたは、主に愛された者なのです。

そのヨハネが、「主だ」と言いました。どうして彼はそのように言ったのでしょうか?ここには「それで」とあります。「それで」とは、その様子を見て、ということです。おびただしい数の魚のためにもはや彼らには網を引き上げることができなかったのを見て、「主だ」と叫んだのです。なぜでしょうか。なぜなら、彼の中に決して忘れ得ぬ一つの記憶が一気によみがえってきたからです。それはルカの福音書5章にある出来事です。イエス様がペテロの舟に乗ると、「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われました。しかし、彼らは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですからと、網を下してみると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになったのです。あの出来事です。感受性の鋭いヨハネは、この二つの出来事の関連性というものを瞬時に分析し、結論を下したのです。「主だ」と。

それを聞いたペテロはどのように反応したでしょうか?彼は「主だ」と聞くと、すぐに湖に飛び込みました。おもしろいですね。ヨハネは、この二つの関連性を瞬時に分析してそのように結論づけましたが、ペテロは何も考えないで湖に飛び込みました。ペテロは理性よりも感性、感覚で生きるような人間でした。ですから「主だ」と聞いただけで、からだが反応したのです。本当に純粋で、行動的な人でした。すぐに反応しました。何だか自分の姿を見ているようです。どうして彼はすぐに飛び込んだのでしょうか。一刻も早く主のもとに行こうと思ったからです。舟は陸地から二百ペキスほどの距離でした。二百ペキスとは100m足らずです。下の欄外の説明には「約90メートル」とあります。そのくらいの距離だったらもう少し待っても良かったのに、彼は待てませんでした。なぜ?確かに彼は行動的な人間でしたが、それ以上に主を愛していたからです。90メートルほど舟が進むのを待つことができなかったのです。一刻も早く主のもとに行きたかった。そういう思いが、こうした行動となって現われたのです。しかし彼は裸だったので、上着をまとって飛び込みました。これもおもしろいですね。普通は反対です。泳ぐ時は上着を脱ぎます。でも彼は上着を着て飛び込みました。主にお会いするのに、せめて身なりだけでも整えようと思ったのでしょう。そばにあった上着まとうと、急いで湖に飛び込んだのです。

皆さん、これが愛です。愛とはこういうものなのです。距離など関係ありません。後先の計算もしません。とにかく飛び込むのです。とにかくそばに行きたい。とにかくそばにいたいのです。あれから40年・・・、皆さんも40年前はそのような経験をしたことがあるのではないでしょうか。主を愛する思いが、ペテロをこのような行動に駆り立てたのです。

あなたはどうですか?ペテロのような主への燃える愛があるでしょうか。冷静に分析することも必要でしょう。客観的に考えることも大切です。でも、分析だけで終わってしまうことがないように、客観的に考えるだけで終わることがないようにしたいですね。それが主だとわかったら、ペテロのようにとにかく飛び込むという情熱も必要です。主は、私たちがそのような愛を持つことを願っておられます。特に愛が冷えている現代においてはなおさらのことです。ペテロのように熱心に主を愛する者でありたいと思います。

Ⅲ.さあ、朝の食事をしなさい(9-14)

さあ、彼らが陸地に上がると、どんな光景が待っていたでしょうか。9~14節をご覧ください。「9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。」

弟子たちが岸に上がると、そこには炭火が起こされていました。そこで魚とパンが焼かれていたのです。それはイエス様が用意してくださったものでした。イエス様がバーベキューをして待っていてくださったのです。その魚とパンはどこから来たのでしょうか?それは弟子たちが捕ったものではありません。彼らが来る前に用意してあったのですから。それはイエス様が用意してくださったものです。イエス様ご自身がどこかで魚をとって来て、彼らのために用意してくださったのです。

すると、イエス様は彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われました。何のためでしょうか?イエス様があらかじめ用意してくださった魚に、彼らがとって来た魚を何匹か加えるためです。それでペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げました。すると、魚は網には何匹ありましたか?153匹です。網は153匹の大きな魚でいっぱいでした。おもしろいですね、ここには魚の数まで詳細に記録されています。なぜ153匹という数字が記録されているのでしょうか。ある人たちは、この153という数字が何かを象徴していたと考えています。たとえば、153という数字1から17までを足した数で、すべて3で割り切れる数の最終点であることから、これはイエスにつながる人々、すなわち、救われる人たちの数を暗示していたのではないかと考えています。すなわち、イエスによって救われる人々は全体の3分の1の数の人たちだというのです。でも、それは読み込み過ぎです。ここで言わんとしていることはそういうことではありません。これを書いたヨハネは、これを生涯忘れることができない数字として記録したのです。あのノアの箱舟の虹が人類への神の約束を思い起こさせるように、いくつかの具体的な数字をもって、確かに私は主にお会いしたという事実を、心に深く刻み付けようとしたのです。そういう意味では、8節の「二百ペキス」もそうです。わざわざ「二百ペキス」と書かなくても、比較的近くまで来たという表現でも良かったはずです。あまり離れていなかったとか。でもあえてこのように書き記したのは、確かに主はよみがえられて、自分たちに会ってくださったということを、その心に深く刻み込もうとしたからなのです。

Ⅰヨハネ1章1節でヨハネ自身が、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と言っているとおりです。これは、いのちのことばであられるイエス・キリストについて彼が自分で聞いたもの、自分の目で見た者、じっと見つめ、自分の手でさわったものなのです。確かに主はよみがえられたのです。14節に「イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自身を現わされたのは、これですでに三度目である。」とありますが、これはイエス様が死人の中からよみがえられて、三度目に弟子たちに現われてくださった出来事として、彼が自分で経験したことを、確信をもって伝えたかったのです。ですから、この「153匹の大きな魚でいっぱいであった」というのは、「ほら、見てください。そこには153匹の大きな魚があったんですよ。これは紛れもない事実です。」と言わんばかりです。そうしたヨハネの息づかいが聞こえて来そうです。

もう一つ重要なのは、それほどたくさんの魚でいっぱいだったのに、網は破れていなかったということです。どういうことでしょうか?それは、弟子たちが「私は漁に行く」「私たちも一緒に行く」と言って夜通し働きましたが何も捕れなかったことと対比されています。すなわち、彼らがイエスに従ったとき多くの収穫を見たということです。しかも、収穫したものは少しも漏れていませんでした。それはあのルカの福音書5章で経験したことと同じです。イエスが言われたとおりに網を下すと、おびただしい数の魚が入り、網は破れそうになれましたが、破れませんでした。そうです、イエス様のことばに従うとき、多くの収穫がもたらされるだけでなく、その網は破れないのです。主が支えておられるからです。これが主に従う者にもたらされる祝福です。

そればかりではありません。ヨハネはここに一つの重要な出来事を記録しています。それは、復活したイエスが、弟子たちを食事に招いてくださったという事です。12節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。『さあ、朝の食事をしなさい。』」

一緒に食事をするということは、それが親しい関係であることを表しています。弟子たちは、主のことばに従いませんでした。以前の生活に戻ろうとしていました。彼らが求めていたのは食べること、自分の生活を守ることでした。それで自分の力で頑張って漁に出ましたが、結果は惨憺(さんたん)たるものでした。何も捕れなかったのです。けれども主が約束されたとおりに彼らに現れてくださり、彼らが主のことばに従ったとき、豊かな収穫を見させてくださいました。そればかりでなく、彼らのために朝食まで用意してくださったのです。そして「さあ、朝の食事をしなさい。」と招いてくださいました。ここではイエス様がウエイターのようになって弟子たちに給仕してくださっています。パンと魚を焼いて、自らがそれを取り、彼らに与えられたのです。

これが私たちの主イエスです。このことによって主は、彼らを受け入れておられるということをはっきり示してくださいました。そのことは彼らもよく理解したことでしょう。イエス様との親しい交わりが回復したのです。

あなたはどうですか?イエス様との交わりを回復しているでしょうか。イエス様と共に食事をしていますか。親しく交わっているでしょうか。敵対関係があると親しく交わることができません。でも主は本当に優しい方です。愛のお方です。なかなか主に従えない、そんな私たちのために自ら歩み寄ってくださり、朝食を用意して待っていてくださいます。そして「さあ、朝の食事を食べよう」と招いてくださるのです。そのために主は自ら十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださいました。私たちを神から引き離す罪を赦し、神との平和、永遠のいのちを与えるためです。親しい交わりを回復するためには神との平和を持たなければなりません。すなわち、自分の罪を赦してもらわなければなりません。「御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:7)。このことを覚えてください。そして、もしあなたが今神から離れているならば、御子イエスのもとに来てください。主は喜んであなたを赦してくださいます。赦されることによって、神と親しい交わりを回復することができるのです。

昨日、S姉の家を訪問しました。86歳になるお父さんが月曜日に特別老人ホームに入所することになったので、その前にもう一度イエス様のことをお話してもらいたいということでした。もう一度ということは以前にも何度か訪問してお話させていただいたことがあるということです。しかしその時は薬が効いていたためか、私を無視していたのかわかりませんが、話しかけてもすぐに眠ってしまう状態でしたので、よくお話することができませんでした。仕方がなかったので、その時にはイエス様のお話をして帰りましたが、姉妹として入所するにあたりきちんとイエス様のお話を聞いてほしかったのです。

約束の時間に伺いましたがお父さんはデイサービスに行っていて留守でした。もう少しで帰宅するというので、姉妹とお話をしながら「お父さんに天国のお話をしてもいいですか」と確認したら、「ええ、是非。最近「死ぬ、死ぬ」と叫んでいるので、地獄に行くと思っているんだと思います。だから、イエス様を信じるようにお話していただけだと思います。イエス様を信じて、同じお墓に入るということを確認したいのです。」と言われました。「お墓のことならその後でもいいんじゃないですか」と言うと、「いや、きちんと父親の確認を取ってきたいのです。」というので、「わかりました」と私も覚悟を決めました。

するとお父さんがデイサービスから帰って来られました。「きょうはお父さんにキリストのお話をしてくれると、私が行っている教会の牧師さんが来てくれたから、お話聞いてない」と言うと、車いすに乗ってキッチンに連れて来られました。するとテーブルをそばに置いて、私のためにお父さんの左側に椅子を置いてくれました。左の耳が聞こえるので、あえてそのように配置してくれたのです。

私は心の中で主に祈りながら、「お父さん、デイサービスはどうでしたか。気持ちよかったでしょ。きょうは暖かかったし、お風呂に入れたから。お顔がキュキュッとしてますよ。」と言うと、わかったんでしょうね、にこっとして「ニコっときょうはあったかかったから」と言われました。「ところで、お父さん、お父さんはこれから先のことで不安なことはないですか。私はS妹が行っているキリスト教会の牧師なんですが、お父さんにもぜひ天国に行ってほしいと思ってるんです。どうしたら行けるかわかりますか。天国に行くにはイエス様を信じなければなりません。イエス様は神様なのに今から二千年前に私たちと同じような姿でこの世に生まれてくださり、何も悪いことをしなかったのに十字架で死んでくださいました。それはお父さんの悪い心、罪の身代わりのためです。でも三日目によみがえってくださいました。だから、このイエス様を信じるとお父さんのすべての罪が赦されて、天国に行くことができるんです。お父さんもイエス様を信じて天国に行きましょう。」と言うと、じっと私の顔を見て、ウンともツンともしませんでした。するとS姉妹がお父さんの耳元で、「お父さん、わかった?お父さんはいつも地獄に行くと言ってるでしょ。でもキリストを信じると、キリストが十字架にかかってお父さんの罪をかぶってくれたから、地獄に行かなくてもいいの。天国の行くの。そして私と同じお墓に入るんだよ。信じようね。わかった?」と言うと、「わかった!」とはっきり言われました。ハレルヤ!それで私は、「まことに、まことにあなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:47)と宣言して祈りました。祈り終えるとS姉の目は真っ赤になっていました。認知がひどく何もわからないと思ったお父さんが、はっきりと信じて救われたからです。主の深いあわれみに心から感謝します。

そして主は、毎朝、あなたも朝の食事に招いておられます。その招きに応答して、主とともに心の朝食をとりましょう。これは、イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現わされた三度目の出来事でした。確かに主はよみがえられたのです。主は今も生きておられます。すべては主の御手にあります。私たちのために復活してくださり、親しい交わりを回復してくださった主に心から感謝します。