エズラ記3章

 エズラ記3章から学びます。

 Ⅰ.祭壇の建設(1-6)

まず、1~6節をご覧ください。「1 イスラエルの子らは自分たちの町々にいたが、第七の月が来たとき、民は一斉にエルサレムに集まって来た。2 そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおりに全焼のささげ物を献げるため、イスラエルの神の祭壇を築いた。3 彼らは、周りの国々の民を恐れていたので、祭壇を所定の場所に設けた。彼らはその上で【主】に全焼のささげ物、すなわち、朝ごと夕ごとの全焼のささげ物を献げた。4 彼らは、書かれているとおりに仮庵の祭りを祝い、毎日の分として定められた数にしたがって、日々の全焼のささげ物を献げた。5 それから、常供の全焼のささげ物、新月の祭りやすべての聖別された【主】の例祭のためのささげ物、そして一人ひとりが進んで献げるものを、喜んで【主】に献げた。6 彼らは第七の月の一日から全焼のささげ物を【主】に献げ始めたが、【主】の神殿の礎はまだ据えられていなかった」

エルサレムに帰還後、イスラエルの民は自分たちの町々にいましたが、第七の月が来たとき、民は一斉にエルサレムに集まって来ました。彼らはなぜ第七の月にエルサレムに集まったのでしょうか。それは、秋の祭りのためです。第七の月は現在の9月~10月にあたりますが、その時にいくつかの祭りがあるのです。まず1日にはラッパの祭り(レビ23:23~25)が、10日には贖罪の日(レビ23:26~32)があります。そして15~21日には、イスラエルにおいて三大祭の一つとされている仮庵の祭り(レビ23:33~36)があります。それで彼らはこのモーセの律法を守るために一斉に集まって来たのです。

そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおりに全焼のささげ物を献げるため、イスラエルの神の祭壇を築きました。

エルサレムへの帰還において、神によって立てられた指導者が2人います。一人は大祭司ヨシュアであり、もう一人が総督ゼルバベルです。ヨシュアはアロンの家系ですが、宗教的指導者として立てられました。一方、ゼルバベルはダビデの末裔(Ⅰ歴代誌3:19)、ダビデの家系として政治的指導者として立てられました。彼らはその兄弟たちと力を合わせ、モーセの律法が命じているとおりに全焼のささげ物を献げるために、神の祭壇を築いたのです。彼らは、モーセの律法に従うことを重視しました。なぜなら、彼らの先祖たちがバビロンの捕囚となったのは、モーセの律法に違反したからです。それゆえ、同じ過ちを犯さないように、そのとおりに全焼のいけにえをささげようとしたのです。すなわち、彼らは神のことばに立ち返ったということです。これは私たちにとっても大切なことです。神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。すなわち、人生を導く指針となるものは自分の考えや思いではなく、神のことばであるということを肝に銘じなければなりません。私たちは私たちの判断と行動を決める基準は、神のみことばでなければならないのです。

3節をご覧ください。ここには「彼らは、周りの国々の民を恐れていたので、祭壇を所定の場所に設けた。」とあります。どういうことでしょうか。「周りの国々の民」とは、アッシリヤ捕囚の時に外国から連れて来られた異邦人たちのことです。彼らは帰還民を襲ったり、神殿建設を妨害する可能性がありました。ですから、確かに彼らは周りの国々の民を恐れていたことでしょう。だから祭壇を所定の場所に設けたというのはどういうことなのかわかりません。ここは「確かに彼らは周りの国々の民を恐れていたが」とか、「確かに彼らは周りの国々の民を恐れていたにもかかわらず」と訳すべきでしょう。彼らは周りの国々の民を恐れていたにもかかわらず、祭壇を所定の場所、かつて神殿があったところに設けたのです。つまり、恐れを乗り越えて祭壇を建設したということです。そしてその上で、主に全焼のいけにえをささげたのです。

彼らは、モーセの律法に書かれてあるとおりに仮庵の祭りを祝い、毎日の分として定められている数にしたがって、日々の全焼のささげ物を献げました。これはB.C.586年に神殿が破壊されてから初めてささげられた全焼のいけにえでした。彼らは、その他のささげものも規定に従って喜んで主に献げました。彼らは第七の月の一日から全焼のささげものを献げ始めましたが、まだ主の神殿の礎は据えられていませんでした。神殿の礎は据えられていなくても、その準備が着々と進められていたのです。

ここに、帰還民の喜びと信仰が表れているのがわかります。そしてその全焼のいけにえこそ、イエス・キリストの贖いを表しています。そういう意味では、私たちもイエス・キリストの贖いに与っている者として、喜びと真心をもって祭壇を築くことが求められています。この世というバビロンから解放され神の国の一員として加えられた今、私たちも日々祈りとみことばという祭壇を築いて、主に自分自身を献げていきたいものです。

Ⅱ.神殿建設(7-13)

次に、7~13節をご覧ください。「7 彼らは石切り工や大工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えた。それはペルシアの王キュロスが与えた許可によって、レバノンから海路、ヤッファに杉材を運んでもらうためであった。8 彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いて二年目の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、そのほかの同僚の祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々は、【主】の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて、工事を始めた。9 こうして、ヨシュアと、その息子たち、その兄弟たち、カデミエルとその息子たち、ユダの息子たちは一致して立ち、神の宮の工事に当たる者たちを指揮した。ヘナダデの息子たちと孫たち、そのレビ人の兄弟たちもそうした。10 建築する者たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって【主】を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。11 そして彼らは【主】を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。12 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。13 そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。」

7節をご覧ください。この時点ではまだ神殿建設は始まっていませんでしたが、その準備は進められていました。彼らは、ソロモンによる第一神殿建設の時と同じように、まず石材と木材を確保しようとしました。そのため、彼らは石切り工や大工には金を与えました。また木材を手に入れるために、シドンとツロの人々には食べ物と飲み物と油を与えました。それはレバノンから海路、ヤッファに杉材を運んでもらうためです。ヤッファからエルサレムまでは陸路です。神殿を再建することは、その資材の購入と搬入だけでも大仕事だったのです。

彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いて二年目の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、そのほかの同僚の祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々は、主の宮の工事を指揮するために二十歳以上のすべてのレビ人を立てて、工事を始めました。ゼルバベルは、レビ人たちを工事の監督に任命しました。それはかつて彼らが神殿建設に携わったことがあったからです(出エジプト38:21)。それは祭壇が築かれてから七か月が経過した時のことでした。この年は最初に捕囚の民がバビロンに連れて行かれてから(B.C.605)ちょうど70年目でした。

「こうして、ヨシュアと、その息子たち、その兄弟たち、カデミエルとその息子たち、ユダの息子たちは一致して立ち、神の宮の工事に当たる者たちを指揮した。ヘナダデの息子たちと孫たち、そのレビ人の兄弟たちもそうした。」(9)

3組のレビ人の家族が工事を監督したということです。それはヨシュアとその息子たち、兄弟たち、カデミエルとその息子たち、ユダの息子たち、です。彼らは一致して立ち、神の宮の工事に当たる者たちを指揮しました。

彼らは町の城壁を再建する前に神殿の建設に着手しました。なぜでしょうか。もし城壁を建設しなければ周りの敵に攻撃されてしまいます。それなのに、防衛のための城壁よりも神殿そのものの建設に着手したのです。それは、神がともにおられるならば、いかなる敵の攻撃からも守られると信じていたからです。これは私たちの信仰においても言えることです。神がともにおられるなら、いかなる困難にも立ち向かうことができます。私たちにとって最も重要なことは、その神の臨在を求めることであり、最優先にすべきことです。神殿建設は、まさに彼らの真ん中に神の臨在を招き入れるためのものだったのです。

「建築する者たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって【主】を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。そして彼らは【主】を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。」(10-11)

彼らがあらゆる困難を乗り越えて神殿の礎を据えたとき、祭司とレビ人たちは、ダビデの規定によって主を賛美しました。ダビデの規定によってとは、ダビデが契約の箱をエルサレムに携え上った時に主を賛美したようということです(Ⅰ歴代誌16:5~6)。そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌いました。これはⅡ歴代誌5章13節、また、詩篇136篇1節と同じ内容です。「恵み」とは、契約に基づく神の愛を指しています。彼らは神殿での礼拝が回復したとき、契約に対する神の忠実さ、真実さを再確認して、心から主に感謝し、賛美をささげたのです。

一方、そうでない人たちもいました。12節をご覧ください。「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。」

彼らのうち、以前、宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前で神殿の礎が据えられたとき、大声をあげて泣きました。なぜでしょうか。彼らは最初の神殿を見たことのある祭司、レビ人、一族のかしらたちでした。その最初の神殿、これはソロモンによって建てられた神殿ですが、それと比べるといかにも貧弱だったからです。ソロモンの神殿についてはすでに学んだとおりですが、それは用いている材料といい、サイズといい、芸術的な細工といい、絢爛豪華でした。まさに息をのむほどの豪華さでした。それに比べたら今、目の前に据えられた神殿は、無きに等しいほど貧弱なものだったのです。そのため、彼らは大声を上げて泣きました。

私たちにもこのようなことがあるのではないでしょうか。過去の記憶に縛られていることが多くあります。しかし、私たちに過去を変えることはできません。変えることができるのは、それがもたらした神の恵みです。その記憶をどのように心の内で処理するかということです。過去は私たちの歩みを導く舵になることもあれば、私たちの歩を妨げる足かせにもなりうるからです。

過去がもたらした現状に立ちつつも、信仰をもって未来を展望する歩みがあります。信仰がなければ、過去は望みを奪う鎖となって私たちを縛り付けますが、しかし、たとえどんな過去を生きようとも信仰をもって未来を展望するなら、そこに私たちは神の御業を期待することができるのです。たとえ貧弱な未来を予測することがあっても、神の祝福は私たちの思いをはるかに超えたものであり、その可能性は計り知れないのです。だから、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえからとこしえまで。」と主を賛美して大声で叫ぶ者でありたいと思います。

エレミヤ31章1~34節「新しい契約」

きょうは、エレミヤ書全体の中心部である31章の中の、さらに中心テーマの一つである「新しい契約」についてお話します。31節をご覧ください。ここには、「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。」とあります。「その時代」という語は、未来のこと、特に世の終わりのことを預言している時に用いられている語です。エレミヤ書の中では、この語が用いられるのはこれで8回目ですが、ここでも終末の預言が語られているわけです。それはどんなことでしょうか。それは、そのとき、主はイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶということです。どういうことでしょうか。きょうは、この新しい契約についてお話したいと思います。

Ⅰ.古い契約(31-32)

まず第一に、それは古い契約とは違うということです。32節をご覧ください。「32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。」

ここには、主がイスラエルの民と結ばれる新しい契約がどのようなものなのかが説明されています。それは、主が彼らの先祖たちの手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではありません。それは古い契約のことです。古い契約とは、広い意味では旧約聖書全体を指しますが、狭い意味では、主がイスラエルをエジプトの地から導いた日に、モーセを通して、モーセを仲介者として、主が彼ら結ばれた契約のことです。これはシナイ山で結ばれたので「シナイ契約」とも呼ばれています。それはこのようなものでした。出エジプト19章5節を開いてください。「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
  これがシナイ契約の中心です。つまり、もしイスラエルが神の声に聞き従い、神との契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって、主の宝の民とされるということ、つまり、彼らは祝福されるということです。しかし、そうでなければ、その反対に呪いがもたらされるというものです。実際どうなったでしょうか。ご存知の通り、彼らは神様との契約を破ってしまいました。もしかしたら最初は守れたのかもしれませんが、いつの間にか守れなくなってしまい、ついには守っていないにもかかわらず、自分たちは守っていると錯覚するようになってしまいました。なぜそのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らの心に原因がありました。心がついていかなかったからです。頭ではわかっていても、心では守りたくなかったのです。つまり、彼らにはそれを実行する力が備えられていなかったのです。これが古い契約の弱点だったのです。でも、それでは困るわけです。なぜなら、もし彼らが契約を破り彼らに呪いがもたらされたら、神様の計画が頓挫してしまうことになるからです。神様の計画とは、イスラエルを通して全世界を救うことでした。それなのにイスラエルが滅びてしったら、その計画が成し遂げられなくなってしまいます。

ここに神のジレンマがありました。契約は守らなければなりません。もし守られなければ、神様ご自身が不真実な者となってしまうからです。でも神は真実であられます。イスラエルが不真実であっても、神は常に真実であられるからです。神はご自身を偽ることはできません。ではどうしたら彼らを救うことができるのでしょうか。それが新しい契約です。神様はご自身との契約を破ったイスラエルに対して、古い契約ではなく新しい契約を結ぶという仰天プランを立てられたのです。

.新しい契約(33)

それはどのようなものでしょうか。33節をご覧ください。「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

新しい契約の最も大きな特徴は、主はご自身の律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記すということです。モーセによって結ばれた古い契約はそうではありませんでした。それは2枚の石の板に書き記されたわけですが、新しい契約は彼らの心に書き記されるのです。どういうことでしょうか。それは強制的に神との契約を守らなければならないというのではなく、自ら進んで守りたいという思いを授けてくださるということです。神様に従わなければならないというのではなく、従わずにはいられなくなるのです。それが新しい契約の中身です。これが新約聖書の内容です。

ちなみに、私たちが持っている聖書は旧約聖書と新約聖書の両方を含んでいますが、この違いは何かというと、これなんです。「旧約聖書」ということばを聞くと、中にはどうしてこんな面倒くさいことが書いてあるんだろうと思われる方もいらっしゃると思いますが、旧約聖書が破棄されたわけではないのです。取り払われたわけではありません。神の律法がどこに書かれたのか、それが石の板なのか、心の中なのかの違いです。石の板に書かれたものは強制的に守らなければなりませんが、心に書き記されると守らずにはいられなくなるのです。いやむしろ、古い契約、旧約聖書があるからこそ自分の弱さ、自分の罪深さ、自分の愚かさに気付かされ、そこからの救いをより求めるようになるのです。そういう意味では、パウロも言っているように、「律法は私たちをキリストへ導くための養育係」であると言えます。パウロはガラテヤ3章24節でこう言っています。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)神様はこの古い契約を生かしつつ、その教えを行うことができるように、神のみこころにかなった行動ができるようにしてくださったのです。それが救い主イエス・キリストです。ですから、旧約聖書と新約聖書は切り離すことはできないのです。神はモーセを通してイスラエルとの古い契約を石の板に書き記されましたが、新しい契約はその古い契約(旧約聖書)が預言しているメシア(救い主)、キリストを通して、彼らの心に書き記されるのです。

これは具体的にどういうことかというと、救い主イエスを通して私たちの心の中に聖霊を与えてくださるということです。聖霊についてはヨハネ14章16節に「もうひとりの助け主」とあるように、イエスのように私たちを助けてくださるお方です。全く自分勝手な者がもっと神様を愛したい、もっと神のために生きる者でありたい、もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、そう思うのは、この聖霊のお働きによるのです。イエスは、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、と言われましたが、普通なら無理な話です。でも聖霊が与えられるとそのようにしたいと思うようになるのです。なぜなら、この方が来ると、すべての真理に導いてくださるからです。神様のみことばに従うことができるように、神様のみこころに歩めるように導いてくださるのです。それが心に書き記されるということです。であれば、問題は、どうすればこの神の聖霊を受けることができるのかということです。どうしたら聖霊が私たちの心の中に住んでくださるのかということです。

残念ながら、聖霊はその名のごとく全くきよいお方なので、人間のように汚れた心に住むことはできません。聖霊は汚れと同居することができないからです。聖霊が私たちの心の中に住まわれるためには、私たちの心が完全にきよくなければならないのです。とは言っても、私たちが人間である以上完全にきよくなることなどできません。エレミヤ書17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている。」とあるように、人の心は何よりも陰険なのです。また、ローマ書には、「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)とあります。であれば、私たちはみんなアウトです。こんな汚れた者の心に聖霊が住んでくださることなどできないのです。

しかし、私たちにできないことを神はしてくださいました。神はそのひとり子(イエス)をこの世に与え、私たちが負わなければならない罪の代価を彼に負わせ、私たちの罪を贖ってくださいました。それが十字架での死です。死がなければ命を贖うことができないからです。レビ記17章11節にこうあります。「いのちとして宥めを行うのは血である。」。いのちとして宥めを行うのは血です。血が流されることがなければ罪の赦しはありません。ですから、神はひとり子をこの世に送り、古い契約違反の責めを私たちにではなくキリストに負わせることによって、私たちを律法の呪いから解放してくださったのです。ですから、だれでもキリストを自分の罪からの救い主として信じるならその人の心は完全にきよめられ、聖霊が住んでくださるのです。この聖霊の助けによって、私たちは喜んで神のみこころに歩みたい、神に喜ばれる人生を歩みたいと思うようになるのです。つまり、この新しい契約はイエス・キリストの十字架と復活という一方的な神の恵みによってもたらされる契約なのです。

そのためにあなたがしなければならないことは何一つありません。あなたが罪から救われ、聖霊があなたの心に住んでくださるための唯一の条件は、あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエスを、あなたの罪からの救い主と信じるだけなのです。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:10)

その時、あなたはもはや自分でこうしなければならないとか、ああしなければならないという律法に捉われることから解放され、聖霊が導いてくださる通りに、聖霊が教えてくださる通りに、聖霊の助けによって喜んで神に従うことができるようになります。これがクリスチャンです。これが新訳聖書の中身なのです。クリスチャンとは、もはやああしなければならないとか、こうしなければならないという律法から解放されて、聖霊によって喜んで神の律法に従いたいと思う人たちなのです。聖書の原則から言えばそうです。それが本当に救われている人たちです。もしそうでないという人がいるとしたら、その人は新しい契約とはどのようなものなのかをまだよく理解していないか、それとも古い契約に縛られて神の恵みの豊かさを享受していないかのいずれかです。

それはまたエレミヤ31章3節のみことばに対する応答でもあります。ご一緒に読んでみましょう。「【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」」
 神は永遠の愛をもってあなたを愛してくださいました。これだけの愛で愛されているのであれば、ひとり子を与えるほどの愛で愛されているのであれば、もう感動で、ただただ感謝しかないはずです。そして喜んでその愛に応答したいと思うようになるでしょう。教会に行かなければならないとか、聖書を読まなければならない、祈らなければならない、献金しなければならない、奉仕もしなければ、ディボーションもしなければといった律法的、義務的なことはもうどうでもよくなるはずです。喜んでその愛に応答したいと思うようになるからです。教会に行きたくて、行きたくて、しょうがない。もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、もっと自分にできることがあれば喜んで奉仕したい。十分の一とは言わず、自分のすべてを献げたいと思うようになるからです。

かつて私が福島で牧会していた時、同じ福島県の浜通りで牧会しておられ佐藤彰先生からお聞きした話ですが、その教会に70歳を過ぎた信仰に熱心な婦人の方がおられました。確か半谷さんというお名前だったかと思いますが、半谷さんはある日娘さんを仙台の病院に連れて行くため電車に乗ったとき、たまたま向かい側に一人の宣教師が座っていて、その会話の中で「あなたは神を信じますか」と尋ねられたそうです。神を信じていますかって、信じていないわけじゃないし、信じているとも言えないし、何と答えたらいいか返答に迷いました。そんな悶々とした思いを抱えていた時、その町にある教会で3日間の伝道集会があるという看板を見ました。思い切って教会に行ってみると、そこでお話をされていたのがあの宣教師、ホレチョク先生でした。驚いた半谷さんは最初の夜だけでなく二日目、三日目も集会に行く中でイエス様を自分の罪からの救い主と信じることができました。
  ところが、当時は耶蘇教と揶揄されていた時代です。しかも自分が嫁いだ先はお寺の総代を務めているような由緒ある家で、お姑さんから教会に行ってはいけないと言われ、仕方なく聖書は厠(トイレ)にはいって読んでいたそうです。でもそんな半谷さんの献身的な姿に心を打たれたご主人がやがてイエス様を信じて天国へ召されると、彼女は自分の生涯を主にささげ、ありとあらゆることをされました。礼拝では奏楽のご奉仕をし、週報を作成したり牧師の説教をまとめたりと、自分にできるだけのことをしました。そのために70歳を過ぎてからワープロを習い始めたそうです。その半谷さんに癌があることが判明し、牧師からあまり無理しないでくださいと言われたとき、牧師にこう言いました。「先生、私から奉仕を取り上げないでください。私は自分にできるだけのことをしたいのです」。これは、神の恵みを経験した人でないと言えないことばです。奉仕をしなければならないのでなく、させていただきたいのですと心から言えるとしたら、それは本物でしょう。彼女の心に働いておられる神の霊、聖霊の御業なのです。

その半谷さんがまだお元気なうち、彼女は教会から少し離れた小高町という町に広い土地を持っていたのですが、それを教会に献げたいと言われたそうです。息子さんたちはどう思われるか、家族で話し合いをもったところ、「母がそういうのなら、それが一番いいことだと思います」と息子さんたちも同意し、その土地を献げられました。そればかりか、そこに会堂を建てるために必要な資金のほとんどを献げたのです。そこには今ノアの箱舟の形をした会堂が立てられ、福音宣教の働きが続けられています。それは永遠の神の愛に感動し心を動かされた人が心からした奉仕だったのです。

実に神の働きは、こうした神の愛と恵みに触れた人たちがその愛に感動し、聖霊の働きに促されて勧められていくのです。神にすべてを献げたい。いくらでも献げられるだけ献げたい。それで自分の生活の質が落ちたとしても構わない。あなたの愛を受けているので、私は献げたいのです。人が何と言おうと関係ありません。私はそうしたいからするのです。それが教会というところです。聖霊が私たちの心に住むことをイエス様が実現してくださいました。私たちはただただこの新しい契約の仲介者であられるイエス様に目を向けて、イエス様の愛に心から応答する者でありたいと思うのです。

Ⅲ.神を知るようになる(34)

第三に、このように主がイスラエルと新しい契約を結んでくださることによって、どういうことが起こるのでしょうか。34節をご覧ください。「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」。」

ここには、主がイスラエルと新しい契約を結ぶことによって二つのことが起こるとあります。第一のことは、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはありません。なぜなら、彼らはみな聖霊によって、身分の低い者から高い者まで、主を知るようになるからです。どういうことですか。老若男女、すべて神を個人的に人格的に知るようになるということです。それまではそうではありませんでした。石の板に書かれたものであれば、絶えず「主を知れ」と言って互いに教えなければなりません。私たちの外側にある規則によって半強制的に押し付けられなければ行動に移すことができなかったのです。たとえ行動に移したとしても、それはあくまでも表面的なものにすぎませんでした。でも聖霊が与えられ、聖霊が心に住まわれるようになるとそうではありません。喜んで主のことばに従いたいと思うようになるのです。旧約では人々は律法を守ることに集中しましたが、新約ではそうではありません。新約ではその律法を与えてくださった方、またそれを完全に成し遂げることができるお方、すなわち神を知ること、神と交わることに集中するのです。皆さん、これがクリスチャンにとってもっとも大切なことです。神を知るなら、それが自然と行動に表れるようになるからです。

第二のことは、主は彼らの不義を赦し、もはや罪を思い起こすことはなさいません。完全な赦しを与えるということです。完全な赦しを与えるということは、不完全な赦しもあるということです。不完全な赦しとは忘れない赦しです。赦すけど忘れません。私たちにはそういうことがあるのではないでしょうか。私はあなたを赦すけど忘れないからね!でも神の赦しは違います。神は彼らの罪を赦し、もはや彼らの罪を二度と思い起こすことはありません。あなたが過去においてどんな罪を犯したとしても、その罪を思い起こすことはないのです。すべて忘れてくださいます。認知症だからではありません。イエス・キリストの血潮によって流されて、父の記憶からすべて完全に消し去ってくださるのです。イザヤ43章25節にある通りです。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

ですから、もしあなたがイエスの血にすがって罪を認めて悔い改めるなら、神はあなたの不義を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。もはやあなたの罪を思い起こすことはありません。その記憶から完全に消し去ってくださってくださるのです。もし悔い改めた翌日に同じ罪を犯してしまったらどうでしょう。その時にあなたが「ごめんなさい。またやってしまいました。赦してください。」と祈ったら、神は赦してくださいます。「またやったのか、とんでもないヤツだ。人生そんなに甘いもんじゃないよ。昨日は赦してやったけど、今日はだめだ。二度あることは三度あるからな」などとは言いません。もはやあなたの罪を思い起こすことはないからです。

カール・ヒルティーは、こう言っています。「赦すとは忘れることである。赦しはするが忘れないというのは、赦していないということなのである。」は赦すとは忘れることなのです。これが神の赦しです。神はこのような赦しを与えてくださるのです。

日本の有名な牧師の一人で、「ちいろば」の著者でもある榎本保朗先生はこう言っておられます。「自分が赦された存在であるということを忘れるところから、人を赦さないという行為が出てくるのである。」これを忘れてはいけません。忘れてもいいことは、人があなたに何をしたか、何を言ったかということです。でも忘れてはならないことは、自分が赦された存在であるということです。これだけは忘れてはいけません。これを忘れると私たちの中に赦さないとか、赦せないという気持ちが出てくるからです。でも、自分も赦された存在であるということがわかったら、人を赦すことができるようになります。

こうした赦しはキリストの十字架によってもたらされます。つまり、この新しい契約は、イエスが十字架で死なれ三日目によみがえられたという御業に基づく一方的な神の恵みの契約であるということです。私たちの罪が赦されるのは私たちのうちに神に認められる何かがあるからではありません。私たちが何かささげものをしたからとか、一生懸命に奉仕したからではなく、一方的な神の恵み、神のあわれみによるのです。すべては十字架のイエスに対して神様が約束されたことを実行してくださるのです。これが、神がイスラエルと約束された新しい契約です。これが、神があなたと約束してくださったことです。私たちもイエスの十字架において与えられたこの新しい契約に生きる者とさせていただきましょう。そして聖霊によって神がどれほど恵み深くあわれみ深い方なのかを知り、その恵みに生きる者でありたいと思います。

エレミヤ31章23~30節「あなたのたましいを満たす神」

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エレミヤ書31章から学んでいますが、きょうは、この31章23~30節から、「あなたのたましいを満たす神」というテーマでお話します。25節に「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」とあります。前回の箇所で、主はご自身のもとに立ち返るイスラエルの民に一つの新しいことを創造されると約束されました。それは何ですか。それは22節にあるように、「女の優しさが一人の勇士を包む」ようになるということです。これは女であるイスラエルが、一人の勇士である主を求めるようになるということでした。それまではまったく自分のことしか考えられなかった者が、神を求めるようになるのですから。そんなイスラエルを神は祝福してくださいます。主が疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あなたのたましいはいかがですか。疲れていませんか。しぼんでいませんか。主はそんなあなたのたましいを満ち足らせてくださるのです。

Ⅰ.わたしが彼らを元どおりにする(23-26)

まず、23~26節をご覧ください。「23 イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき、彼らは再び次のことばを、ユダの地とその町々で語る。『義の住まい、聖なる山よ、【主】があなたを祝福されるように。』24 ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む。25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」26 ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」

ここからユダ、イスラエルに対する回復のメッセージが語られます。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とは、バビロンによって破壊されたユダの町々を元通りにする、ということです。そのとき、ユダの町々は主によって回復し、復興し、再び繁栄を取り戻すことになります。そのとき彼らはユダの地とその町々で、次のように語ることになります。「義の住まい、聖なる山よ、主があなたを祝福されるように。」。
  「義の住まい」とは、具体的にはエルサレムの神殿のことです。また、「聖なる山」とは、シオンの山のこと、つまり、エルサレムのことです。ですから、この「義の住まい」と「聖なる山」という語は同義語で使われているわけです。かつてエルサレムには神殿が建っていましたが、バビロンの王ネブカドネツァルによって前586年に完全に破壊されてしまいました。それが元どおりになるというのです。具体的には、70年の捕囚の期間を経て南ユダは祖国を取り戻し、復興するということです。神殿も再建されます。それは預言者エレミヤによって預言されていたことでした。つまり、神の預言は必ず成就するということです。

24節をご覧ください。「ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む」。エルサレムに帰還し元通りの生活を営むようになるということです。いったいどうしてそのようなことになるのでしょうか。

25節にこうあります。「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」それは帰還民が頑張ったからではありません。ここにはひらがなで「わたしが」とありますが、聖書にひらがなで「わたし」とある時は、主なる神のことを指して言われています。つまり、主が彼らの疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あくまでも、主語は「わたし」なのです。この主語が大切です。誰が回復を与えてくださるのかというと、「わたし」であるということ、「主」であるということです。これは23節でも言われていることです。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき・・」。イスラエルの神、万軍の主が彼らを元通りにしてくださいます。勿論、ユダの民も頑張ったでしょう。あの3.11の後で「ガンバレ!東北」を合言葉に震災復興に取り組んだように、「ガンバレ!イスラエル」を合言葉に、必死に復興に取り組んだことでしょう。でも、彼らの頑張りだけではどうすることもできませんでした。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とあるように、そこに主が働いてくださったから、主がそれを成し遂げてくださったので出来たのです。私たちの働きではなく、徹頭徹尾、主の働きによるのです。自分の罪の結果、自分の人生、自分の家庭、自分の持ち物、自分の何もかもすべて失ってしまった、台無しにしてしまったという人がいるなら、ここから慰めを受けてほしいと思います。自分でその失ったものを取り戻そうものなら、自分でその壊れたものを修復しようものならとても無理だと諦めるしかないでしょう。でも、神があなたを元どおりにしてくださいます。神があなたの繁栄を取り戻してくださるのです。ここに希望があります。彼らの回復は神主導であったということです。そのことを忘れないでください。あなた主導ではありません。わたし主導でもない。神主導なのです。神主導ならば、神が成し遂げてくださいます。私たちはただ神に任せればいいのです。神にはおできにならないことは一つもありません。無から有を創造された方は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。

ヨブはまさにそうでした。彼はすべてのものを失いました。自分の家族、財産、健康、何もかも。それは彼の罪によってではなく、神から与えられた試練によってでしたが、後に彼はその目で神を見たとき、ちりと灰の中で悔い改めました。すると主はヨブを元どおりにされました。主はヨブの財産をすべて、二倍にされたのです。その時、ヨブはこのように祈りました。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)
  そうです、神にはどんなことでもおできになります。どのような計画も不可能ではありません。だから神は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。

特に25節には、「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせる」とあります。神だけが、あなたのたましいを潤すことができます。神だけが、あなたのしぼんだたましいを満たすことができるのです。この世の何であろうと、また誰であろうと、あなたのたましいを完全に潤すことができるものはありません。ただ神だけが満たすことができるのです。

ヨハネ4章13~14節にこうあります。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」これはイエスのことばです。イエスはある日サマリヤのスカルという所で、たましいに飢え渇いた、一人の女の人に出会いました。その女の人はかつて人生の幸せを求め5回も結婚しましたが、その心は満足を得ることはできませんでした。しかし、泉のほとりでイエスに出会い、イエスと話し合い、イエスを信じたとき、飢え渇いたたましいを、いのちの水で満たしていただくことができました。イエス・キリストはたましいを満たすことができるお方なのです。イエス・キリストだけが、あなたの疲れたたましいを潤し、疲弊しきったしぼんだたましいを満ち足らせることができるのです。だからイエスは、このように言われたのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

皆さん、遠慮する必要はありません。あなたのたましいを完全に満たすことができるイエスが、あなたを招いておられるのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」と。「わたしがあなたを休ませてあげます」と。いや、私のような者はとても無理です。あなたの前には出られるような者ではありません。だって私はこんな者ですから・・・。過去にこんなことをやったんですよ。そんな者が赦されるはずがないじゃないですか・・。でも、あなたが疲れていると自覚しているなら、あなたが病んでいると自覚しているなら、イエスのもとに行ってください。イエスがあなたを休ませてくださいますから。なぜなら、イエスはまさにそのような人のために来られたのですから。イエスはこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)
 丈夫な者に医者はいりません。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく罪人です。イエスは、その罪人のために来られたのです。もしあなたが罪人であると自覚しているなら、もしあなたが自分は病んでいると自覚しているなら、もしあなたが疲れていると自覚しているなら、イエスのもとに来てください。イエスがあなたを休ませてあげます。イエスがあなたのたましいを潤し、あなたのしぼんだたましいを満ち足らせてくださいます。あなたのたましいを潤すことができるのは、あなたのたましいの救い主、イエス・キリストだけなのです。

ユダの民は、バビロン捕囚によってすべてを失ってしまいました。親も、子も、孫も、財産も、国も、すべてです。でも一つだけ失わないものがありました。何ですか?そうです、神です。彼らは神だけは失いませんでした。神を失うと希望はありません。でも、すべてを失っても神を失わなければ希望があります。そしてあなたが神を信じるなら、あなたは神を失うことは決してありません。どんなことがあっても、神はあなたを見捨てることはないからです。いつまでもあなたと共にいてくださいます。それが、聖書が約束していることです。だからあなたには希望があるのです。あなたが本当に神を信じているなら、あなたがイエス・キリストを信じて救われているなら、あなたがクリスチャンなら、神はいつまでもあなたとともにいてくださいます。これが私たちの希望です。

26節をご覧ください。「ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」「私」とはエレミヤのことです。ここでエレミヤは目を覚ましました。彼は夢の中で神から啓示を受けていたのです。それは心地よかったとあります。なぜそんなに心地よかったのでしょうか?ぐっすり眠ることができたということもあるでしょうが、それよりも、今回の啓示は祝福のメッセージだったからです。これまではずっとイスラエルに対してさばきのメッセージばかりだったのに、今回は祝福のメッセージでした。さばきのメッセージを語ることはタフなことですが、祝福のメッセージを語ることは心地よいことです。エレミヤはユダの民イスラエルに対して、主が彼らを元どおりにするという祝福のメッセージを語ったのです。

Ⅱ.今度は、彼らを立て直し、また植える(27-28)

次に、27~28節をご覧ください。「27 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。28 かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──【主】のことば──。」

  ここからは、エレミヤが目を覚ましてから語った預言です。「見よ、その時代が来る」。これは世の終わりに起こることを示す特徴的なことばです。それは、イエス・キリストが王の王、主の主、さばき主として再びこの世に来られる時のことです。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に何をなさいますか。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔かれます。どういうことでしょうか?

28節には、「かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る」とあります。「かつて」とは、以前にとか、過去においてという意味です。かつて主はイスラエルの民を引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいをくだそうと見張っておられましたが、今度は違います。今度は彼らを立て直し、また植えるために見張られます。それはアッシリアとバビロン捕囚によって成就しましたが、今度は、そんな彼らを立て直し、また植えるために見張られるのです。覚えていますか、エレミヤが召命を受けた時、主は、「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、建て、また植えるために」(1:10)と言われましたが、主がイスラエルに計画しておられたことは引き抜き、引き倒し、滅ぼすことだけでなく、立て直し、再び植えることであったのです。つまり、彼らが引き抜かれたのは、これは具体的にはバビロンに捕囚のことですが、バビロンによって彼らを滅ぼすためではなく、そこから彼らを解放してエルサレムに帰還させるため、すなわち、新たに植えるためであったのです。それと同じようなことが世の終わりにも起こります。キリストが再び来られる時、彼らは建て直されることになるのです。

それは遠い未来のことではありません。というのは、もう既に1948年5月14日にイスラエルが国家として認められたからです。1900年もの間流浪の民として世界中に散らされていたユダヤ人が祖国に帰還し、建国を果たしたのです。それは全く考えられない出来事でしたが、その考えられないことが実際に起こったのです。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それはここにそうなると預言されていたからです。イスラエルの家とユダの家は、建て直され、また植えられると。

でも、この預言はイスラエルが国として建て直されるということだけでなく、さらにその後に起こることも示しています。すなわち、キリストが再臨する時、彼らの先祖がやりで突き刺したキリストを自分たちがメシヤとして認め、悔い改めて信じるようになるということです。こうしてイスラエルはみな救われるという聖書の預言が実現することになります。それがローマ人への手紙11章で言われていることです(11:26)。近い将来、その日が必ずやって来ます。

であれば、私たちはそれに備えていなければなりません。それに備えるとはどういうことかというと、ここに「今度は、彼らを立て直し、また植えるために見張る」とあるように、たとえ今あなたの人生が引き抜かれ、打ち倒され、打ち壊されているようであっても、神は再び建て直し、また植えてくださると信じて、ただ神のみこころを求めて歩まなければならないということです。

Ⅲ.だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く(29)

最後に29~30節をご覧ください。その日には、イスラエルの家が建て直され、植えられるだけではありません。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く、と言うようになります。「29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」

ここにも「その日には」とあります。これも未来的預言です。その日にはどんなことが起こるのでしょうか。「その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。」どういうことでしょうか?これは当時よく使われていた格言、ことわざです。エゼキエル書18章2~4節にもありますが、父が(親が)犯した罪のために、子どもが苦しむ、という意味のことわざです。日本のことわざにも「親の因果が子に報い」ということばがありますが、これと同じです。たとえば、自分が何らかのわざわいを受けるとき、自分は何も悪いことをしていないのにどうしてこういうことになるのかと原因を究明して、それを親のせいにするのです。親が悪いからこんなことになったんだと。これは実際、捕囚の民として連れて行かれたユダの民が使っていました。彼らは自分たちが捕囚になったのは先祖たちのせいだと嘆いていまたのです。自分たちが悪いんじゃない。悪いのは親たちで、親のせいでこんな目に遭っているんだと。確かにそういう面もありますが、でも子どもたち自身も罪を犯しているというのも事実でした。

でもその日には、「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」とは言わないで、こう言うようになります。「人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」と。これは申命記24章16節で言われていることです。「父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。」父が子のために殺されたり、子が父のために殺されたりということがあってはなりません。人が殺されるのは自分の罪のためであって、父親や子供の犯した罪のためではないからです。
  これは世代間における罪の報いは存在しないということを示しています。日本人ではこのような考えが根強くあります。先祖代々いろいろな汚れを背負って来ているからたたりがあるんだからと、何かお清めをしないといけない。御祈祷もしてもらわないと。お祓いをしなければならない。そう考えるのです。これが人間の作った宗教です。そのような人間のことわざや考えに付け込んで、人間がそれをビジネスにするのです。それが宗教です。それがほとんどの日本の古来の宗教や新興宗教に見られるものです。ここでは親と子の連帯責任が問われていますが、親子間において連帯責任はありません。ですから、クリスチャンはこのことをちゃんと理解しておく必要があります。確かに親の悪い影響を子どもが受けることはありますが、でも必ずしもそれによって子どもの歯が浮くわけではありません。子どもが不幸になるということはないのです。子どもには子どもの人格なり意志というものがあるので、悪い影響を受け入れるかどうかは、子ども自身が決めなければならないことなのです。ですから、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮くことはありません。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬのです。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのです。

それはイエス様が言われたことでもあります。イエス様が通りすがりに生まれたときから目の見えない人をご覧になったとき、弟子たちはイエス様に尋ねました。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それともこの人の両親ですか。するとイエス様はこう言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:3)そして地面に唾をして、その唾で泥を作られその泥を彼の目に塗って、「シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。すると彼見えるようになりました。

であれば、問題は、その自分の咎をどのように清めるのかということです。というのは、だれも完全な人などいないわけで、人はみな自分の咎を負って生きているからです。だれでも、酸いぶどうを食べるので、歯が浮くことになります。歯が浮くというのは入れ歯だからじゃないのです。罪を犯すからなのです。人はそれぞれその咎のため死ななければなりません。どんなに自分で清めようとしてもできません。どうしたらいいのでしょうか。

ここに救いがあります。神はそんな私たちの咎を負うために、御子をこの世に送ってくださいました。それがイエス・キリストです。キリストはあなたが担い切れない罪、払いきれない贖いの代価として、十字架で死んでくださいました。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ヨハネ3章16~18節にこうあります。「16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネ3:16~18)

ですから、あなたが御子イエスを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されるのです。イザヤ書43章25節に「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」とありますが、あなたの罪はもう二度と思い出されることはありません。これが良い知らせ、これが福音です。その日には、彼らはもはや、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯は浮くとは言いません。人はそれぞれ自分の咎のために死にます。でも、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪を贖うために十字架で死なれたキリストを見上げるなら、あなたは死ぬことはありません。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためだからです。

イギリスに、チャールズ・H・スポルジョンという牧師、伝道者がいました。彼は1834年生まれですから、今から190年も前の人です。200年近く昔の人なのに今も生きて語りかける偉大なキリスト教の伝道者です。
 彼は15歳の時に信仰に入り、20歳の時にはロンドンでも有数な教会、ニューパーク・ストリート教会の牧師になり、40年近く牧会して1万3千人の大教会となりました。毎年平均438人が新しくクリスチャンとなったと言われています。そして今でも彼の著した著書によって数千、数万、何百万という人々が救われているという人です。彼が救われたということは世界的に大きなことでした。
 彼は吹雪きの日、家の近くの10人か15人ぐらいが集まっている小さな教会に行きました。痩せ型の牧師が立ち上がって説教しました。スポルジョン一人に呼び掛けるように、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)「Look! Look! Look! 」と叫びました。スポルジョンは彼に向かってストレートに呼び掛けるこの声を活ける神の声として受け止め、パチッと目を開けて十字架上のイエス・キリストに心の目を開けたのです。その日彼は救われました。そして彼を通して数限りのない人々が救いに導かれるようになったのです。

あなたも十字架のキリストに心の目を開いてください。イエス・キリストは、あなたを罪から救うことができるお方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」イエス・キリストを仰ぎ見てください。イエス・キリストは、あなたをすべての罪から救ってくださいます。「その日には」とありますが、今がその時なのです。

エズラ記2章

 

 エズラ記2章から学びます。

 Ⅰ.エルサレムに帰還した人々(1-58)

まず、1~58節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルがバビロンに引いて行った捕囚の民で、その捕囚の身から解かれてエルサレムとユダに上り、それぞれ自分の町に帰ったこの州の人々は次のとおりである。2 彼らは、ゼルバベル、ヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナと一緒に帰って来た。イスラエルの民の人数は次のとおりである。3 パルオシュ族、二千百七十二人。4 シェファテヤ族、三百七十二人。5 アラフ族、七百七十五人。6 ヨシュアとヨアブの二族からなるパハテ・モアブ族、二千八百十二人。7 エラム族、一千二百五十四人。8 ザト族、九百四十五人。9 ザカイ族、七百六十人。10 バニ族、六百四十二人。11 ベバイ族、六百二十三人。12 アズガデ族、一千二百二十二人。13 アドニカム族、六百六十六人。14 ビグワイ族、二千五十六人。15 アディン族、四百五十四人。16 ヒゼキヤ族、すなわちアテル族、九十八人。17 ベツァイ族、三百二十三人。18 ヨラ族、百十二人。19 ハシュム族、二百二十三人。20 ギバル族、九十五人。21 ベツレヘム人、百二十三人。22 ネトファの人々、五十六人。23 アナトテの人々、百二十八人。24 アズマウェテ人、四十二人。25 キルヤテ・アリム人とケフィラ人とベエロテ人、七百四十三人。26 ラマ人とゲバ人、六百二十一人。27 ミクマスの人々、百二十二人。28 ベテルとアイの人々、二百二十三人。29 ネボ人、五十二人。30 マグビシュ族、百五十六人。31 別のエラム族、一千二百五十四人。32 ハリム族、三百二十人。33 ロデ人とハディデ人とオノ人、七百二十五人。34 エリコ人、三百四十五人。35 セナア人、三千六百三十人。36 祭司は、ヨシュアの家系のエダヤ族、九百七十三人。37 イメル族、一千五十二人。38 パシュフル族、一千二百四十七人。39 ハリム族、一千十七人。40 レビ人は、ホダウヤ族のヨシュアとカデミエルの二族、七十四人。41 歌い手は、アサフ族、百二十八人。42 門衛の人々は、シャルム族、アテル族、タルモン族、アクブ族、ハティタ族、ショバイ族、合計百三十九人。43 宮のしもべたちは、ツィハ族、ハスファ族、タバオテ族、44 ケロス族、シアハ族、パドン族、45 レバナ族、ハガバ族、アクブ族、46 ハガブ族、シャルマイ族、ハナン族、47 ギデル族、ガハル族、レアヤ族、48 レツィン族、ネコダ族、ガザム族、49 ウザ族、パセアハ族、ベサイ族、50 アスナ族、メウニム族、ネフシム族、51 バクブク族、ハクファ族、ハルフル族、52 バツルテ族、メヒダ族、ハルシャ族、53 バルコス族、シセラ族、テマフ族、54 ネツィアハ族、ハティファ族。55 ソロモンのしもべたちの子孫は、ソタイ族、ソフェレテ族、ペルダ族、56 ヤアラ族、ダルコン族、ギデル族、57 シェファテヤ族、ハティル族、ポケレテ・ハ・ツェバイム族、アミ族。58 宮のしもべたちと、ソロモンのしもべたちの子孫は、合計三百九十二人。」

ここには、バビロンからエルサレムに帰還した人々の名簿が記されてあります。1章1節には、「ペルシャの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせた。」とありますが、そのように主の働きかけによってエルサレムへの帰還が実現しました。神はまさにみこころを成し遂げられる方なのです。1節に「この州の人々」とありますが、これはこの捕らえられていたユダの人々のことです。ユダはペルシャの行政区である州のひとつでした。エズラは、この帰還民たちをいくつかのグループに分けて書き記しています。

まず、11名の宗教的・政治的リーダーたちです。「彼らは、ゼルバベル、ヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナと一緒に帰って来た。」(2節)

ネヘミヤ記7章7節には、12名の名前が上げられていますが、エズラ記には、そのうち「ナハマニ」の名前が抜けています。おそらく、写本の段階で抜けてしまったのでしょう。極めて珍しいケースです。ですから、本来は12名であったと思われます。

「ゼルバベル」は、政治的指導者で、行政の長として働きました。この総督ゼルバベルについては、ゼカリヤも、6章11節にも記されてあります。「ヨシュア」は、当時の大祭司です。総督ゼルバベルとともに神殿再建の指導者として立てられました。「ネヘミヤ」は、ネヘミヤ記を書いたネヘミヤとは別の人物です。というのは、ネヘミヤがエルサレムに帰還するのは、この時から90年後のことだからです。「モルデカイ」も、エステル記のモルデカイとは別の人物です。エステル記の物語は、エズラ記から60年後の出来事ですから。

3~20節には、氏族ごとの人数が記されてあります。それは18の氏族、合計15,604名です。21~35節には、町や村ごとの人数が記されてあります。ユダとベニヤミン族の中にある町です。その合計は、8,540名です。36~39節は、祭司の人数です。合計で、4,289名。40~42節には、レビ人の人数、その数は、341名です。43~58節には、宮に仕える歌うたいや門衛などの氏族の人数が記されており、その数は、392名です。

Ⅱ.系図のない人々(59-63)

しかし、次の人々は、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを証明できませんでした。59~63節をご覧ください。「59 次の人々はテル・メラフ、テル・ハルシャ、ケルブ、アダン、イメルから引き揚げて来たが、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを証明できなかった。60 デラヤ族、トビヤ族、ネコダ族、六百五十二人。61 祭司の子孫の中では、ホバヤ族、ハ・コツ族、バルジライ族。このバルジライは、ギルアデ人バルジライの娘の一人を妻にしたので、その名で呼ばれていた。62 これらの人々は自分たちの系図書きを捜してみたが、見つからなかったので、彼らは祭司職を果たす資格がない者とされた。63 そのため総督は彼らに、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは、最も聖なるものを食べてはならないと命じた。」

ここには、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であるかどうか証明できなかった者たちについて記されてあります。すなわち、デラヤ族、トビヤ族、ネコダ族の合計652人です。

祭司の子孫のうちにも、系図がなかったため祭司職を証明できない者たちがいました。すなわち、ホバヤ族、ハ・コツ族、バルジライ族です。このバルジライは、ギルアデ人バルジライの娘の一人を妻にしたので、その名で呼ばれていました。彼らは、自分たちの系図書きを捜してみましたが見つからなかったので、祭司職を果たす資格がない者とみされたのです。それで総督は、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは最も聖なるものを食べてはならないと命じました。「最も聖なるもの」とは、ささげものの中から祭司が受け取る分」のことです。また、ウリムとトンミムとは大祭司の胸に付ける二つの石のことで、神のみこころを判断するために用いられました。それによって彼らが本当の祭司であるかどうかを神に伺いを立て判別したのです。

Ⅲ.自発的なささげ物(64-70)

「64 全会衆の合計は四万二千三百六十人であった。65 このほかに、彼らの男女の奴隷が七千三百三十七人いた。また、彼らには男女の歌い手が二百人いた。66 彼らの馬は七百三十六頭。らばは二百四十五頭。67 らくだは四百三十五頭。ろばは六千七百二十頭であった。
  68 一族のかしらの中のある者たちは、エルサレムにある【主】の宮に着いたとき、神の宮を元の場所に建てるために、自分から進んでささげ物をした。69 彼らは自分たちの財力に応じて、工事資金として金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着を献げた。70 こうして、祭司、レビ人、民のある者たち、歌い手、門衛、宮のしもべたち、すなわち、全イスラエルは自分の元の町々に住んだ。」

全集団の合計は、42,360名でした。でも、このエズラ記2章に記されている人数を合計すると、29818名になります。この違いから、このエズラ記の記述は虚構だと主張する学者もいますが、そういうことではありません。この違いは、統計の取り方の違いです。おそらく全集団の合計には、婦人や子供たちが含まれていたのでしょう。また、北の10部族の中から帰還した人たちもいたものと思われます。あるいは、系図のない祭司たちの数もここに含まれていたのかもしれません。こういう人たちを全部含めると、42,360名であったということです。

ここで大切なのは、これらの人たちはエルサレムで神殿を再建するためにバビロンで慣れ親しんだ地を捨てた人々であったということです。それは、当時バビロンに住んでいたユダヤ人の総数からすれば少数派でした。多くのイスラエルの人々は捕虜であったとはいえ、50年以上も定住し、ある意味で自分たちの生活が出来上がったバビロンにとどまりました。彼らは、安全と富を保障してくれる現状の生活に満足し、神が与えてくださった約束の地を捨てたのです。そのような人たちの中にあって、神が約束してくださったことを信じ、それに応答した人たちがいたのです。新しい環境に飛び込むことは勇気を要したことでしょう。でもこの人たちはその思い越しを上げて、あえてはるか数千キロも離れた地に出て行ったのです。そういう冒険的な旅をした人たちの記録なのです。

確かに、そのような人たちがいなければ、物事が進まないことがあります。誰かが道を拓かなければなりません。私はこれまで何回か開拓伝道に取り組んだことがありますが、まさに開拓伝道はその一つでしょう。だれかが始めなければ道が開かないことがあります。一歩先を進んで行かなければならないことがあるのです。彼らはその一歩先を進んで行ったのです。

そればかりではありません。68節には「一族のかしらの中のある者たちは、エルサレムにある【主】の宮に着いたとき、神の宮を元の場所に建てるために、自分から進んでささげ物をした。」とあります。一族のかしらの中のある者たちは、進んでささげものをしました。その金額は、工事資金として金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着でした。これは金256キロ、銀3トンです。それに祭司の長服100着ですから、莫大な金額でした。これでけのものをささげたのです。ある意味手弁当で工夫し、自分たちにできることから始めていったのです。そんな人たちが物事のきっかけを作っていったのです。そして神はそうした一歩を祝福されたのです。

それにしても、ここに自分の出身地、名前が記されているのを見た読者たちは、どれほど感動したことでしょうか。私たちの名はどこに記されてあるでしょうか。主イエスは「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)と言われました。私たちの名は天に書き記されています。神の恵みに応答し、天に名が記されてあることを喜びましょう。

エレミヤ31章15~22節「あなたの将来には望みがある」

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エレミヤ書31章から学んでいます。29書から31章にかけてはエレミヤ書の中心部です。31章1節には「そのとき」とありますが、これは近い未来に起こることとしてはバビロン捕囚から解放される時のこと、遠い未来においては、世の終わりの患難時代を通り抜けたイスラエルの民が、再臨のキリストを見て悔い改め彼こそ自分たちのメシヤ、救い主であると信じる時のことです。そのとき何が起こるのでしょうか。「そのときー主のことばーわたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」という神の約束が実現することになります。その約束が実現するのです。

Ⅰ.あなたの目の涙を止めよ(15-17)

まず、15~17節をご覧ください。「15 【主】はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──【主】のことば──彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」

15節には「ラマ」という地名と、「ラケル」という人名があります。「ラマ」はエルサレムの北方8㎞にある町です。「ラケル」は、ヤコブの最愛の妻でした。このラケルにはヤコブとの間に二人の息子がいました。ヨセフとベニヤミンです。しかし、下の弟ベニヤミンが生まれた時、ラケルは死んでしまいました。息子を産むと同時に死んでしまったのです。そのラケルが葬られた所が「ラマ」でした。それはあまりにも悲しいことでした。せっかく命をかけて産んだのに、産んだとたんに死んでしまったのですから。ここにはその悲しみが表現されているのです。そのような悲しみがバビロン捕囚の時にも起こるということです。

興味深いことに、この箇所はマタイ2章17~18節に引用されています。「17そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」」
  このエレミヤを通して語られたことというのが、この31章15節のことばです。このマタイの福音書の前後の文脈を読んでいただくとわかりますが、これはメシヤについての預言が成就したことを表しています。キリストが生まれた時、それがユダヤの王として来られたと聞いたヘロデ大王はキリストを殺し損ねたので、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしました。バビロン捕囚の時に嘆き悲しんだ母親たちの嘆きが、ヘロデ大王によって皆殺しにされた母親たちの悲しみによって成就したということです。ですから、これは一読しただけですとバビロン捕囚の嘆き悲しみが語られているかのようですが、実はメシヤ預言について語られている深い箇所なのです。それは何を示しているのかというと、こうした悲しい出来事の先にキリストが生まれたということです。悲しみの先に希望があるということです。確かに悲しみは避け通れません。でもその悲しみの向こうに希望があるということがわかっていたらどうでしょうか。その悲しみを乗り越えることが出来ます。確かにバビロン捕囚は悲しい出来事ですが、その70年後に彼らは祖国に帰ることができるのです。それはイスラエルの民にとって大きな希望だったのです。それはイスラエルの民だけのことではありません。私たちクリスチャンにとっても同じです。私たちはイエス・キリストを信じたことで、この世というバビロンから解放されて天の御国に帰るのです。それこそ真の希望です。これほどすばらしい希望はありません。であれば私たちは、この世では悲しい出来事があっても、その先にある希望に目を留めることによって、喜びと感謝をもってこの地上の旅路を全うすることができるのです。

だから主はこう言われるのです。16節と17節をご覧ください。「あなたの目の涙を止めよ」と。「16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。─【主】のことば─彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。─【主】のことば─あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」
  あなたの目の涙を止めなければなりません。どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、あなたの将来には望みがあるからです。敵の地から帰って来るようになります。あなたの子らは自分の土地に帰って来るのです。確かに彼らは罪を犯したことでその刈り取りをしなければなりませんが、その労苦は報われることになります。その「労苦」とはバビロン捕囚のことを指しています。それは報われることになるのです。あなたの将来には希望があるのです。

この希望については、既に29章11節で語られました。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  神はあなたのために計画を立てておられます。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。この「将来と希望」ということばは、最後は希望だということだと説明しました。最後は希望なんです。私たちの人生にはいろいろなことがあるでしょうが、最後は希望なのです。終わり良ければすべて良し!です。それが、神が私たちのために立てている計画です。ですから、たとえ今どんなに辛くても、どんなに苦しくても、どんなに時間がかかっても、最後は希望なんだという神様の約束を信じて、あなたの目の涙を止めなければならないのです。

Ⅱ.エフライムは、わたしの大切な子(18-20)

いったいなぜ神はあなたの将来にこのような希望を与えてくださるのでしょうか。それは、あなたをこよなく愛しておられるからです。18~20節をご覧ください。「18 わたしは、エフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。【主】よ、あなたは私の神だからです。19 私は立ち去った後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。20 エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば─」

ここには、主はエフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた、とあります。エフライムとは北イスラエルのこと、総じてイスラエル全体のことを指すようになりました。主はイスラエルが嘆き悲しむのを聞きました。これは自己憐憫の嘆きでありません。悔い改めの嘆きです。ルカの福音書に放蕩息子の話がありますが、彼が父のところに行って「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:18-19)と悔い改めように、イスラエルもまた自分の罪を嘆き悔い改めているのです。主はそのような悔い改めの嘆きを聞き逃すことはありません。必ず聞いてくださいます。あなたがひとたび悔い改めて嘆き悲しむなら、神様は確かに聞いてくださるのです。

18節をご覧ください。ここには「私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。」とあります。これはどういうことかというと、私たちは自分の力では神のもとに帰れないということです。自分の力では悔い改めることはできないのです。悔い改めは神の賜物であり、神の御業です。私たちは自分の意志で悔い改めますが、それさえも実は悔い改めるようにと神が促してくださるから出来ただけのことであって、自分の力ですることはできません。私たちの中には悔い改める気持ちなんてサラサラないからです。それが私たち人間です。エレミヤ17章9節のことばを覚えていらっしゃいますか。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」皆さん、人の心は何よりも陰険なのです。それは直りません。パウロはローマ人への手紙7章で、私たちの心には善は住んでいないと言っています。自分では良いことをしたいという願いがあるのに、したいと願う善を行わないでしたくない悪を行ってしまうからです。これは正直な告白ではないでしょうか。私たちの内には善が住んでいないのです。だから、悔い改める気持ちなんて微塵もないのです。それほどねじ曲がっています。もうどうしようもない、救いようがありません。でも神は、そんな私たちに悔い改めの心を起こしてくださいます。これは実に神の御業でしかないのです。

いったい私たちはなぜ悔い改めて神に立ち帰ることができるのでしょうか。18節の後半にこうあります。「主よ、あなたは私の神だからです。」ここに「私の神」ということばが使われています。これは神様と個人的な関係がなければ言えないことばです。神は私の神だから、私を帰らせてください。そうすれば、私はあなたのもとに帰ります。神は「私の神」です。あなたの神は誰ですか?聖書の神を「私の神」と、はっきり宣言することができるでしょうか?それほど親しい交わりをもっていらっしゃるでしょうか。聖書の神、イスラエルの神が私の神ですと、胸を張ってそう言えるかどうかが問われているのです。

19節をご覧ください。ここはすばらしい箇所です。神は私たちが悔い改めることができるように、「もも」を打たれます。ここに「私は立ち去った後で悔い、悟った後でももを打ちました」とあります。これは原語では、男性の性器を打ったという意味です。同じことばが創世記32章に出てきます。叔父ラバンの下で20年間仕えたヤコブは、自分の家、自分故郷に帰ることになりました。しかし、兄のエサウとの対面を前にして非常な不安と恐れに苛まれました。そこで彼はヤボクの渡しの所まで来たとき、そこで神と一晩中格闘しました。それは祈りの格闘をしたということです。ヤコブは言いました。「私を祝福してください。祝福してくださるまではあなたを去らせません。」それは執拗なまでの祈りでした。その結果彼は神に勝利して神の祝福を受けましたが、その代償にもものつがいを打たれ、足をひきずって歩くことを余儀なくされました。自分の力では歩けない状態になってしまったのです。それは人を出し抜いて、人を騙して生きるような性質が打ち砕かれたことを表していました。彼は自分の知恵や力では生きていくことはできない。神様に寄りすがって、神の支えがなければ一歩も進めないということを知ったのです。それで彼の名は「イスラエル」となりました。「イスラエル」とは神によって勝利する者、神の力、神の支えによって生きる者という意味です。ももを打たれるとはそういうことです。

しかし、これはとても痛いことです。それは男性の性器を打たれるような痛みです。男性が急所を打たれたらどうなるか、女性の皆さんにはわからないかもしれませんが、非常に痛いんです。聞いたところによると、それは陣痛よりも痛いそうです。「ちょっとためしてみますか」なんて言わないでください。悶絶すると思いますから。私は先週の日曜日にこれと似た経験をしました。痛いです。尿管結石は。何とか礼拝でのご奉仕をしてからと我慢していたのですが、あまりにも痛くて我慢することができませんでした。その痛みにのたうちまわりました。大橋富男は救急車とは無縁の男だと思っていらっしゃる方が多いかと思いますが、これは痛い。死ぬかと思うほどの痛みでした。まあ、私もももを打たれたわけですね。そういう一撃を受けました。そういう痛い思いをしたのです。でも確かにそれは痛いことですが、その痛みによって彼は自分の罪の悲しみ、嘆きを知ったのです。イエス様は山上の説教の中で「悲しむ者は幸いです」と言われましたが、まさに罪に悲しむ人は幸いです。その人は慰められるからです。

20節をご覧ください。ここには「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。─【主】のことば─」とあります。
  これもすばらしいことばです。これまでエレミヤは一貫として神の怒りと裁きを語って来ましたが、その時主はどのような思いでいらっしゃったのかが描かれています。主はイスラエルの罪を責めるたびに、ますます彼らのことを思い起こしたおられました。主は彼らを責めるたびに知らんぷりしていたのではありません。お前なんてもうどうなったっていい、勝ってにしやがれ!なんていう気持ちではありませんでした。ますます彼らのことを思い起こしておられたのです。神様の頭の中、心の中は、もう彼らのことで一杯だったのです。

「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」これが、私たちの信じている神様です。これが私の神、これがあなたの神です。神は厳しい裁きを宣告されるかもしれませんが、その都度、神はあなたのことを思っておられるのです。ますます思い起こしてくださる。常に思っていてくださいます。それは「はらわたがわななくほど」だとあります。はらわたが煮えくりかえるのではありません。はらわたがわななくほどです。「断腸の思い」という言葉がありますが、まさに腸が引きちぎれるような思いをしておられるのです。ルターはこれを「彼のゆえに、私の心臓は破れる。」と訳しました。胸が張り裂けるような思いです。西欧では感情の座はお腹ではなく胸にあるという感覚を持っているので、心臓が張り裂けるような思いと訳したのです。でもはらわたがわななくような思いにせよ、心臓が張り裂けるような思いにせよ、言っていることは同じです。これが、神が私たちに感じておられる思いなのです。神が厳しいさばきを宣告する時、神はあなたのことを思って、もうはらわたがわななくような思い、引きちぎれるような思いになっておられるのです。もう死んでしまいたいと思うほど痛い思いをしているのです。もうあわれまずにはいられません。想像もつかないほどあなたのことを思っていらっしゃるのです。これが神の愛です。神はそれほどまでにあなたをあわれんでおられるのです。ですから、私たちはこの神のもとへ帰るべきです。「帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。」そう宣言して、神のもとに帰らせていただきましょう。

Ⅲ.一つの新しいことを創造される(21-22)

最後に、21~22節を見て終わります。「21 あなたは自分のために標識を立てて道しるべを置き、あなたが歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ、帰れ。これらの、あなたの町に帰れ。22 背信の娘よ、いつまで迷い歩くのか。【主】はこの地に、一つの新しいことを創造される。女の優しさが一人の勇士を包む。」」

ここには「標識」とか「道しるべ」を置くようにと言われています。なぜでしょうか?なぜなら、その道のりは長いからです。その道のりとは、バビロン捕囚からの帰還の道のりです。その道のりは長いので、どこから来たのかを忘れないために標識や道しるべを置かなければならないのです。その道のりを忘れてはいけません。彼らは必ず敵の地から帰ってくるようになるからです。だから、イスラエルよ、帰れ、と呼び掛けられています。いつまで彷徨っているんですか。あなたは自分の町に帰ることになるのです。

彼らが帰るとき、どんなことが起こるのでしょうか。22節をご覧ください。ここには、「主はこの地に、一つの新しいことを創造される。」とあります。主はその地に一つの新しいことを創造されます。この「創造する」ということばはヘブル語で「バーラー」と言いますが、これは、何もないところから何かを創造する時に使われることばです。たとえば、創世記1章1節には「はじめに、神が天と地を創造された。」とありますが、この「創造された」ということばが「バーラー」です。神は何もないところに天と地を創造されました。既にあるものに何かを使って作り直すということではありません。それは「アーサー」という別のヘブル語が使われます。でも、ここでは「アーサー」ではなく「バーラー」です。つまり、以前には全くなかったものを新しく創造するということです。それは何でしょうか。

22節の最後のことばを見てください。ここには「女の優しさが一人の勇士を包む」とあります。どういうことでしょうか。これは難解な箇所です。新改訳第3版では、「ひとりの女がひとりの男を抱こう」と訳しています。口語訳も「女が男を保護することである」と訳しています。新共同訳も同じです。「女が男を保護するであろう」です。
英語の訳もほとんど同じです。NIVは、「a woman will surround a man」、NKJVは「A woman shall encompass a man.」、TEVは「a woman protecting a man.」です。
英語でも守るとか、囲むとか、保護するという意味にとらえています。でも、ひとりの女がひとりの男を守る、とはどういうことなのか。
 新聖書注解書では、これは女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くようになることだと説明しています。女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くとはどういうことなのでしょうか。そこで古い注解者たちの中には、これは処女マリヤがその胎内に男の子を抱くということを意味していると考える学者もいますが、それは少し読み込みすぎだと思います。

この箇所を最も適切に訳していると思われるのは創造主訳聖書です。創造主訳聖書ではここを「イスラエルがわたしを求めるようになる」と訳しています。これは新しいことです。なぜなら、これまで反逆に反逆を重ねてきたイスラエルがまことの神を愛し、まことの神を求めるようになるのですから。それは彼らが新しく創造されなければできないことです。人の心は何よりも陰険だと申し上げましたが、神はそんなイスラエルを新しく造り変えてくださるとしたら、それこそ新しい創造です。主はこの地にそのようなすばらしい御業を成してくださるのです。

ダビデは詩篇51篇10節で「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。」と言っていますが、まさにそのことです。それは人にはできないことです。でも神にはどんなことでもできます。神は何もないところから全く新しいものを造り出すことができる方であり、あなたの心を新しくすることがおできになるのです。神はあなたにきよい心を与え、揺るがない霊を、あなたのうちに新しくすることがおできになるのです。バカは死んでも直らないということわざがありますが、死ななくても直すことができます。神があなたを新しく造り変えることによって。あなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたも新しく造り変えていただくことができるのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

私たちは、キリスト・イエスにあって新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。女の優しさが一人の勇士を包む、すなわち、私たちが神を愛し、神を慕い求める者、神によって勝利する者、イスラエルとして、神とともに歩むようになるのです。いや、無理です。これは親から引き継いだ性格だからどうしようもないんです。変わりようがありません。あなたはそう言われるかもしれませんが、神はそんなあなたの心さえも新しく造り変えることができるのです。主は創造主、この地に、一つの新しいことを創造することができるお方なのです。

ですから、この神を信じてください。神はあなたも新しく創造してくださいます。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたが想像することもできないようなことをしてくださるのです。全く新しい人に作り変えてくださいます。神はあなたが願っている以上のことをしてくださるのです。そのことを信じて、今、神のもとに帰らせていただきましょう。あなたの将来には望みがあるからです。

エズラ記1章

 

 

 今日からエズラ記の学びに入ります。今日はエズラ記1章です。

 Ⅰ.主によって霊を奮い立たせられたキュロス(1)

まず、1節をご覧ください。「1 ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就するために、【主】はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。」

エズラ記は、イスラエルの民がバビロン捕囚を終えてエルサレムに帰って来た時の記録です。前538年、ペルシャの王キュロスはバビロン帝国を征服しました。彼の最初の事業は、バビロンで捕虜となっていたイスラエルの民を解放することでした。それはキュロス王の第一年のことでした。エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせました。エレミヤによって告げられた主のことばとは、バビロンに捕えられていたユダの民が、七十年後にそこから解放されてエルサレムに帰還するという約束です。エレミヤ29章10節にこうあります。「まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」

エレミヤは、バビロン捕囚は70年で終わることを預言していました。この1節だけを見ると、まるでキュロス王がイスラエルの神を信じていたかのような印象を受けますが、そうではありません。彼はバビロンのマルドゥーク神を中心に多神教の神を信じていました。そんな彼がイスラエルの民の帰還と神殿の再建を許したのは、政治的目的のためでした。つまり、ペルシャ帝国の周りに強力な国を配置し、防衛力を高めようとしたのです。しかし、結果的にそれがこのエレミヤによって語られた主のことばが成就することになりました。これは、主の力によるものだったのです。

それにしても、主は異国の王の霊を奮い立たせ、ご自身のみことばが成就するために用いられたというのはすごいことです。どうしてこのようなことがおこったのでしょうか。その背後には、預言者ダニエルなど信仰の勇者たちがいたことがわかります。ダニエルは第一次バビロン捕囚の時(前605年)にバビロンに連れて行かれましたが、バビロンからペルシャの時代に変わると、このキュロス王の治世に栄え(ダニエル6:28)、用いられていました。彼は、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の帰還が満ちるまでの年数が七十年であるみことばを、文書によって知っていました(ダニエル9:2)。また、勿論、彼は旧約聖書に精通していましたから、エレミヤからさらに100年前に活躍していた預言者イザヤのことばも知っていたでしょう。そこには、エルサレムの神殿再建のためにキュロスという人物を用いるということが名指して預言されていたことも知っていました。イザヤ44章24~28節です。「24 あなたを贖い、あなたを母の胎内で形造った方、【主】はこう言われる。「わたしは万物を造った【主】である。わたしはひとりで天を延べ広げ、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。25 わたしは易者のしるしを打ち壊し、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。26 主のしもべのことばを成就させ、使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムについては『人が住むようになる』と言い、ユダの町々については『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。27 淵については『干上がれ。わたしはおまえの豊かな流れを涸らす』と言う。28 キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。」

すごいですね、キュロスの時代から遡ること150年も前に、主はイザヤを通してこのように語っておられたのです。

それは同じイザヤ書45章1~8節にも記されてあります。「1 【主】は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。2 わたしはあなたの前を進み、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。3 わたしは秘められている財宝と、ひそかなところに隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが【主】であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。4 わたしのしもべヤコブのため、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたを、あなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える。5 わたしが【主】である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。6 それは、日の昇る方からも西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが【主】である。ほかにはいない。7 わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは【主】、これらすべてを行う者。8 天よ、上から滴らせよ。雲よ、義を降らせよ。地よ、開け。天地が救いを実らせるように。正義をともに芽生えさせよ。わたしは【主】。わたしがこれを創造した。」

ここには、キュロスのことが「油注がれた者」と言われています。主はバビロンを滅ぼしイスラエルをその束縛から解放するために、彼が誕生するはるか前から彼を選び、ご自身の計画を実行する使命を与えておられたのです。

ダニエルは、こうした主の預言を知っていて、それをキュロスに知らせていたのだと思われます。主は歴史の中でこのような器を用意し、ご自身の目的を遂行するために用いておられたのです。それは私たちも同じです。エペソ1章4節には、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」とあるように、私たちも世界の基の置かれる前から、救いに選ばれていたのです。それは、この歴史の中で、神から与えられている使命を成し遂げるためです。

いずれにせよ、神は人の心を奮い立たせたり、変えたりすることがおできになられる方です。ですから、今どのような状況に置かれていていたとしても、それに動揺したり失望したりする必要はありません。神は歴史さえも支配しておられるお方だからです。そして、その歴史をご自身の目的に向かって導いておられるのです。ですから、この歴史さえも支配しておられる神を認め、神に信頼して生きることです。神は約束されたことを忘れずに必ず実行してくださる誠実なお方であり、エレミヤによって語られた預言が成就するように時代を動かされたお方であるとしっかり受け止めなければなりません。バビロンに捕虜となっていた人たちの中でいったいだれがこのようなことを考えていた人がいたでしょうか。国を再興するという神の約束を聞かされてはいても、それが現実になるとはだれも考えられなかったでしょう。しかし、神はキュロスの霊を奮い立たせ、キュロスに必要なものを支援するようにと働きかけ、そのようにしてイスラエルの民に希望を与えられました。ですから、私たちはこの誠実な主に信頼し、この方を見上げて、平安を得たいと思うのです。

Ⅱ.キュロスの布告の内容(2-4)

では、このキュロスの布告とはどのような内容でしょうか。2~4節をご覧ください。「2 「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。3 あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。4 あとに残る者たちはみな、その者を支援するようにせよ。その者がどこに寄留しているにしても、その場所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んで献げるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。』」」

ここでキュロスは、イスラエルの神を「天の神」と呼んでいます。それは彼がこの神を信じていたからではありません。先に申し上げたように、彼は多神教の神々を受け入れていました。そんな彼がここでイスラエルの神を「天の神」と呼んだのは、イザヤやエレミヤが預言した主のことばを聞いた時、少なからず彼の中に、イスラエルの神に対する畏敬の念が生じたからでしょう。イスラエルの神こそ天地を創造した方であり、その神によって自らがバビロンを滅ぼし、バビロンに捕囚となっている主の民をエルサレムに帰還させる使命が与えられているという意識が芽生えていたのです。それでも彼の中には、このイスラエルの神はエルサレムにおられる神であるという意識から離れることはできませんでした。それで彼は、このイスラエルの神、主のために宮を建てること、神殿再建の事業を進めたのです。それは、神殿がイスラエルの民にとって宗教的要であり、主を礼拝することがすべての働きの土台になることだったからです。

 その働きに参与したのは、「主の民に属する者」でした。主の民に属する者には、神がともにいてくださり、神殿再建の業を進めていくようにというのです。あとに残る者たちはどうでしょうか。「あとに残る者たち」はみな、その者たちを支援しなければなりませんでした。すなわち、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者たちを支えなければならなかったのです。彼らはなぜあとに残ったのでしょうか。なぜエルサレムに帰還することを選ばなかったのか。それぞれいろいろな事情があったのでしょう。帰りたくても帰れないとか、ずっと住み慣れた地にいる方が安定した生活をすることができると判断したのかもしれません。むしろ、住み慣れたバビロンの地から帰ることを選択する方が困難だったと思います。バビロンに連れて行かれた時は10歳くらいの年齢だった人はもう80~90歳になっていました。「帰れ」と言われても無理です。そこに定住した方がよっぽど楽なのです。それで、彼らはそこに残り、ささげものをもって支えなければならなかったのです。

このようにあとに残ってささげ物をしたことは素晴らしいことですが、彼らがバビロンに留まったのは必ずしもほめられたことではありません。彼らはバビロンでの生活に慣れ、物質的にも裕福になっていたので、冒険をしたくなかったのでしょうが、その後、彼らがエステル記にあるような危機的な状況を迎えることになったことを思う時、神の御心から離れた生活は非常に危険なものとなるということがわかります。神の御心の内を歩むことこそ、もっとも安全な道なのです。

Ⅲ.イスラエルの民の応答(5-11)

こうしたキュロス王の布告に対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。5~11節をご覧ください。「5 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちは立ち上がった。エルサレムにある【主】の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである。6 彼らの周りの人々はみな、銀の器、金、財貨、家畜、選りすぐりの品々、そのほか進んで献げるあらゆる物をもって彼らを力づけた。7 キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた【主】の宮の器を運び出させた。8 ペルシアの王キュロスは財務官ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を確かめさせ、ユダの首長シェシュバツァルに渡した。9 その数は次のとおりであった。金の皿三十、銀の皿一千、香炉二十九、10 金の鉢三十、予備の銀の鉢四百十、その他の器一千。11 金や銀の用具は全部で五千四百あった。捕囚の民がバビロンからエルサレムに上ることを許されたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみな一緒に携えて上った。」

それに対して、まず立ち上がったのはユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちでした。これらの人たちは、宗教的指導者たちでした。宗教的な指導者たちが立ち上がったということです。さらに、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、すなわち長老たちです。ユダとベニヤミン族は、バビロンによって捕囚に連れて行かれた部族です。かつて神殿があったエルサレムを中心に生きていた人たちです。そのかしらたちが立ち上がったのです。

いったいどうして彼らは立ち上がったのでしょうか。ここにも、「エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼らを全員の霊を奮い立たせたのである。」とあります。エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたからです。それを神の御心と受け止めた人たちということです。彼らはその霊を奮い立たせられて、実際にその働きに携わっていったのです。主の御業は、このようにその霊を奮い立たせられた人たちによって成し遂げられていくのです。財貨があったらからではありません。信仰があったからです。

さらに彼らの周りにいた人々もみな、銀の器、金、財貨、家畜、選りすぐりの品々、そのほか進んで献げるあらゆる物をもって彼らを力づけました。これは、自分自身は行かないけれども、捧げものをもって協力した人々です。こうして彼らは各々にふさわしい役割を担って、一致してことに当たって行ったということです。

その結果、どんなことが起こったでしょうか。その時、キュロス王もまた、自分の神が身の宮に置いていた主の宮の器を運び出させ、それをもって彼らを援助しました。これは、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して自分の神が身の宮に置いていたものですが、それを取り出して彼らに与え、彼らの必要に応えたのです。

キュロスが財務官ミテレダテに命じてその数を調べさせたところ、金や銀の用具は全部で5,400もありました。莫大な金額です。彼らの信仰に神がキュロスの心に働きかけ、それだけの援助がなされたのです。私はかつて福島で開拓伝道をしたとき、会堂建設に取り組んだことがありました。本当にわずかなメンバーでどうやって会堂を建設することができるのか想像もつきませんでしたが、主によってその霊を奮い立たせられた人たちが自分の手にあるものを進んでささげたとき、素晴らしい主の御業を拝することができました。立派な会堂が与えられたのです。私は思いました。教会堂はお金があればできるのではない。信仰によって建て上げられるのだと。

彼らはそれをユダの首長シェシュバツァルに渡しました。シェシュバツァルという人物については、バビロンに連れて行かれたユダの王エホヤキンの息子ではないかとか、ペルシャの役人の一人だという説、また、その後に登場する総督ゼルバベルではないかという説などがありますが、個人的にはゼルバベルと同一人物ではないかと考えています。いずれにせよ、捕囚の民がバビロンからエルサレムに上ることを許されたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみな一緒に携え上りました。 このように、ユダの民がバビロンからエルサレムに帰還し、そこで神殿を再建するという主の御業は、主によってその霊を奮い立たせた足せられた人たちによって成し遂げられて行きました。そのために主は、異邦人の王さえも用いられたのです。それは今も同じです。私たちが主の御業を成し遂げていくために必要なのは、主によってその霊を奮い立たせていただくことです。その時、私たちが想像もできなかったような大いなる主の御業を見ることができるようになります。主がそこに働かれるからです。私たちもこの置かれた時代、この場所で、主の御業を成し遂げていくために、主によってその霊を奮い立たせていただきましょう。そして、そのためにダニエルのようにみことばの約束をしっかりと握り締め、祈り続ける者でありたいと思います。

エレミヤ31章7~14節「主の恵みに満ち足りる」

エレミヤ書31章から学んでいます。エレミヤ書30章、31章は、エレミヤ書の中心部、まさに心臓部にあたる箇所です。前回は、この31章1~6節のみことばから、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」というテーマで学びました。今回は、その後の7~14節から、「主の恵みに満ち足りる」というテーマでお話します。13~14節にこうあります。「そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。─【主】のことば。」」
  「そのとき」とは、バビロンに捕えられていたイスラエルの民が解放されるときのことです。そのとき、主は彼らを喜びと楽しみで満ち足らせてくださいます。これは二重の預言でもあります。近い未来に起こることとしてはバビロン捕囚からの解放のときですが、遠い未来における預言としては、世の終わりの7年間にわたる患難時代をイスラエルの民が生き残ったときのことです。そのとき、主は彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませてくださり、主の恵みに満ち足らせてくださいます。

これは同時に、私たちクリスチャンに対する神の約束でもあります。バビロンはこの世を象徴していますが、クリスチャンはこの世というバビロンから解放され天の御国に行くとき、すべての苦しみから解き放たれ、悲しみを喜びに、憂いを慰め、楽しみに変えられ、主の恵みで満ち足りるようになるのです。

Ⅰ.エフライムはわたしの長子(7-9)

まず、7~9節をご覧ください。「7 まことに、【主】はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらに向かって叫べ。告げ知らせよ、賛美して言え。『【主】よ、あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も、ともにいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。9 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに、つまずくことのない平らな道に導く。まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」」

ヤコブ、イスラエルに対する二重の預言が続いています。7節の「イスラエルの残りの者」とは、バビロンから帰還した残りの民のことです。また、遠い未来のことで言うなら、世の終わりの患難時代を生き抜いたイスラエルの民のことです。言い換えると、神に対して最後まで忠実であり続けた人たち、真の信仰者たちのことです。

8節には、主は彼らを北の国から連れ出し、地の果てから集めるとあります。北の国とはアッシリヤのことであり、バビロンのことです。また、新約聖書の時代で言うならローマのことです。あるいは、その後に起こる強大な諸国のことです。主はそこから彼らを集められるのです。それは今この時代にも起こっています。1800年代後半からシオニズムという運動が起こり、世界中に離散していたユダヤ人がイスラエルの地に集められています。1948年には正式にイスラエル共和国が建国されました。ここでは特にバビロンから集められることが言われています。

その中にはあらゆる人たちがいます。8節には「その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も」とありますが、これは盲人や足の不自由な人、妊婦や産婦のことですが、そういう移動が困難な人まで含まれています。そういう人たちも皆、何の差別もなく手厚い保護を受けて確実に帰って来るようになるのです。

9節には、「彼らは泣きながらやって来る」とあります。これは勿論、悲しみま涙ではありません。喜びの涙です。祖国に帰れることがうれしくて、うれしくて、喜びの涙を流さずにはいられないのです。主の慰めと、手厚い保護を受けながら。いったいどうして彼らはそのように祖国に帰還することができるのでしょうか。その理由が、9節にあります。「まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」

どういうことでしょうか?1節には「わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」とありますが、ここではさらに一歩進んで、神と民の関係から父と子の関係として描かれています。つまり、彼らは神と特別な関係にあるということです。父と子という親密なレベルまで引き寄せられるのです。神は彼らの父であり、彼らは神の子どもです。そういう個人的な関係を持ってくださるのです。それは、エフライムが主の長子であるからです。どういうことですか?
  「エフライム」とは、ヨセフの二人の子どもマナセとエフライムの内、弟のエフライムのことですが、このエフライムが後に北イスラエルを表すことばとなり、さらにイスラエル全体を指すようになりました。ですから、これはイスラエル主の長子であるという意味です。
  でも、先程申し上げたように、マナセとエフライムではマナセが長子でエフライムは次男です。それなのに、不思議なことに次男のエフライムが長子の扱いを受けました。これはどういうことかというと、どちらが先に生まれたかということではなく、どちらが長子の権利を受けたのかということです。つまり、誰が相続権を得たのかということです。おもしろいことに、このような記述は聖書の他の箇所にも見られます。たとえば、このエフライムのお祖父ちゃんにあたるヤコブがそうでした。ヤコブはイスラエルの始祖となる人物ですが、元々彼は次男でした。長男はエサウです。でも次男のヤコブが長子の権利を得ました。同じようなことが、孫のエフライムにも起こったのです。長男のマナセではなく、次男のエフライムが長子の権利を持つ者となりました。これはエフライムがマナセよりも先に生まれたということではなく、マナセが受けるはずの長子の権利を持つ者となったということです。その権利とは相続権のことです。ですから、聖書で言う「長子」というのは、単に先に生まれということでなく、相続権を持つ者であるという意味なのです。

これが聖書全体を貫いている真理です。それはイエス様についても言われていることです。聖書にはイエス様は長子と呼ばれていますがどういう意味で長子と呼ばれているのかというと、この神の相続権を持つ者であるという意味です。エホバの証人はイエス様が一番最初に生まれた者であるという意味で長子と呼ばれていると解釈したため、イエス様を被造物の一つ、すなわち、エホバによって最初に造られた者と主張するようになりました。でもそれは聖書で言っているこの「長子」ということの意味をよく理解していないために生じた誤解です。聖書で言う「長子」というのは必ずしも先に生まれたものということではなく、「相続権を持つ者」です。つまりイエス様は父なる神の相続権を持つ者、すなわち、神の相続者であり、神ご自身であられる方なのです。ですから、そんなことを言われても驚かないでください。
「そうなんですか!」「やっぱりそうなんですね。おかしいなあと思っていたんですよ」なんて。
「そうですか、でも聖書ではそういう使われ方をしてないんですよ。エフライムを見てください。エフライムは長子であるとあるじゃないですか。これは先に生まれたということじゃなく、神の相続権を持つ者であるという意味なんですよ」と。
  「エフライムはわたしの長子である。」。つまり、イスラエルは神の長子なので、神の所有のものを相続することができるようになったのです。

これは私たちクリスチャンのことも言えることです。私たちはイエス・キリストを信じたことで神の子どもとしての特権をいただきました。ヨハネ1章12節にこうあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」
  イエス様を信じることによって神の子どもとされました。神の子どもであるということは、神のものを相続する立場に置かれているということです。それは特権なのです。

使徒パウロは、そのことをローマ8章14~18節で次のように語っています。「14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
  神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。その人は、人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって私たちは神を「アバ、父」と呼べるようになったのです。すごいですね。ヨブ記には、神の至高性の前に人は虫けらのようだ、うじ虫にすぎないとありますが(25:4~6)、まさに虫けらのような存在にすぎない者が、キリストによって神の子とされ、キリストとともに共同相続人とされるとしたら、それは神の恵み以外の何ものでもありません。罪人である私たちは神の光に照らされるなら、うじ虫のようなものにすぎませんが、このような者を神の子としてくださり、キリストと肩を並べられるような立場に置いてくださるのです。ここに神の恵みの豊かさがあります。そしてやがて天の御国へと帰らせてくださる。私たちはそこへ帰るのです。泣きながら。当然でしょう。嬉しいですから。

であれば、たとえ今、さまざまな試練の中にあっても問題ではありません。なぜなら、私たちはやがてものすごい栄光の中に入れられるということを知っているからです。それは、やがて私たちにもたらされる栄光に比べれば、取るに足りないものです。私たちが神の子どもとされたということがどういうことなのか、それがどんなにすばらしい栄光なのかを思い巡らして、神の約束にしっかりと目を留めようではありませんか。

Ⅱ.遠くの島々に告げ知らせよ(10-11)

次に、10~11節をご覧ください。「10 諸国の民よ、【主】のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。「イスラエルを散らした方がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られる」と。11 【主】はヤコブを贖い出し、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。」

これは主が成されることです。主はイスラエルを散らされましたが再び集め、牧者が群れを飼うように、これを守られます。すなわち、ヤコブ、イスラエルを約束の地に戻されます。主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されるからです。「ヤコブより強い者」とは、具体的にはアッシリヤでありバビロンのことです。また、ローマや世の終わりの患難時代においてイスラエルを滅ぼそうとする反キリストのことを指しています。主はそこからイスラエルの民を買い戻されるのです。

これは私たちクリスチャンにも言えることです。クリスチャンはこの世の神、この世の支配者であるサタンによって罪の奴隷とされていましたが、神はそんな私たちを罪の奴隷から買い戻すために、御子イエスを十字架にかけていのちの代価を支払い贖ってくださいました。約束の地、天の御国へ私たちを導くために。何という恵みでしょうか。それは自分たちの力ではどうすることもできないことでした。どんなにもがいても、このサタンの力、罪の支配から解放されることはできませんでした。でも、主がそれを成してくださったのです。

だから、10節にはこう呼び掛けられているのです。「諸国の民よ、主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。」。皆さん、どうでしょう。ここには、遠くの島々に告げ知らせよと呼び掛けられていますが、そんなことを言われなくてもこの罪の支配から解放されたら自然にそうなるのではないでしょうか。黙ってなどいられません。

マルコの福音書1章40~45節には、ツァラアトに冒されていた人が癒された出来事が記録されていますが、イエス様はツァラアトが癒された男に「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」(マルコ1:44)と厳しく命じられたにも関わらず、彼は出て行って、この出来事を言い広めてしまいました。なぜですか?嬉しかったからです。ツァラアトに冒され社会から隔離されて生きなければならなかった彼は、イエス様の深いあわれみによって癒していただいた時、嬉しくて、嬉しくて、黙っていることなどできませんでした。同じです。自分を罪に縛り付けていたサタンの力から解放されたなら、黙っていることなどできません。

実際、イスラエルから遠く離れた島々であるこの日本にまでその知らせが伝わってきました。それを伝えてくれたのは他ならぬキリストの十字架を目の当たりにした人々、そしてそれが我ためであったと信じて救われたキリストの弟子たちでした。彼らが全世界に出て行って自分たちが体験したことを告げ知らせてくれたので、この日本にまで良い知らせが伝わって来たのです。

私たちもこの極東の島において、イエス様が成されたことを体験的に知ったものとして、黙っているわけにはいきません。私たちも出て行って造られたすべてのものに福音を伝えなければなりません。ただそれをするのは、あくまでもこの救いを体験した者です。あなたが本当に救いを体験したなら、黙ってなどいられないはずです。想像してみてください。バビロンという国に捕らえられ70年間もその支配を受けていた人がそこから解放されたのです。祖国に帰ることができる。それはもう大きな喜びであったはずです。これほどの喜びはありません。この喜びの知らせが「福音」と呼ばれるようになりました。「福音」(ギリシャ語でユーアンゲリオン)とはバビロン捕囚から解放されたという良い知らせです。私たちもバビロンというこの世で罪の奴隷として生きてきましたが、そこから解放されました。それは本当に感激で、これを黙っていろという方が難しいでしょう。告げ知らせよという命令に従う方がよっぽど楽です。私たちはこの素晴らしい知らせを、遠くの島々に、まだ聞いたことがないような人たちに告げ知らせなければなりません。力強い主の救いの御業を宣べ伝えなければならないのです。

Ⅲ.主の恵みに満ち足りる(12-14)

第三に、そのように神の恵みによって強い者の手から救われた人たちはどうなるでしょうか。12~14節をご覧ください。主の恵みに満ち足りるようになります。ここには、帰還した彼らを待っていた祝福がどのようなものであったかが書かれてあります。「12 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、【主】が与える良きものに、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、羊の子、牛の子に喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。13 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。14 祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。─【主】のことば。」」

帰還した彼らを待っているのは、物質的祝福と霊的祝福の両面における祝福でした。シオン、エルサレムには神殿が再建され、たくさんのいけにえがささげられるようになります。そこはささげもので溢れるようになるのです。14節には「祭司のたましいを髄で潤す」とありますが、これはどういうことかというと、「髄」とは、骨の中心にある柔らかい組織のこと、すなわち、物事の中心であり、奥深い大事なところを指しています。ですから、髄で潤すとは、祭司のたましい、祭司の心を満たすということです。口語訳では「祭司の心を飽かせ」と訳しています。それは祭司のたましい、祭司の心を満たすほどであるということです。どういうことかというと、祭司は神にささげられたいけにえを屠ったり、神にささげたりという働きをしますが、その働きの報酬としてその一部を分け前として受けますが、それがあまりにもたくさんであったため、彼らのたましいが、彼らの心が潤されるほどであったということです。それは自分たちの受ける分が多くなったからではありません。そうやって心から神にいけにえをささげる民の姿に励まされたからです。それほどたくさんのささげものがささげられるのです。教会で言うなら、みんな喜んで主にささげものをして献金が満ち溢れている状態です。あるいは、奉仕者がたくさん与えられて、何をしていただくのかを探さなければならないような状態です。もう当番制ではありません。どうか私にさせてくださいという人で満ち溢れるからです。それほど、主の恵みに満ち足りるのです。

なぜでしょうか?みんな喜んで捧げるようになるからです。強制されてではありません。解放された喜びのゆえに、自ら進んでささげるようになるのです。そういう時がやって来ます。かつてバビロンから解放されたイスラエルの民が喜んで主にささげたように、主の教会が主の恵みで満ち溢れるようになる時がやって来るのです。それは世の終わりの時まで待たなければならないということではありません。主の十字架の贖いの御業を体験した人は、このように変えられるはずです。そうでないとしたら、救いに関して何かがおかしいと言えるかもしれません。

パウロはマケドニアの諸教会に与えられた神の恵みについて、コリントの教会にこのように書き送っています。「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。」(Ⅱコリント8:2-5)いったいなぜ彼らはこの「恵みのわざ」にあふれるようになったのでしょうか。それはキリストの恵みを知ったからでした。体験したからです。すなわち、主は富んでおられたのに、彼らのために貧しくなられたということです。それは、彼らがキリストの貧しさによって富む者となるためです。そのキリストの恵みを知ったからです。

先日、英語の礼拝で普段ワーシップをリードしている兄弟が所要で礼拝を休まれるということで、代わりにジャマイカから来日している姉妹がリードしてくださいました。それが本当にすばらしいリードだったので「今日のワーシップのリードありがとう。本当に感謝しています。」と言うと、その姉妹がこう言いました。「私は自分にできることをしただけです。私にできることなら何でもしたいです。だから、必要があったら教えてください。この前、礼拝堂にあるポットの水を交換したら、日本語の礼拝の方がそれを捨ててくれましたが、私は毎週その水を交換しているので捨てないでくださいと伝えてください。そのくらいのことしかできないですが、喜んでしたいのです。」と。
  私はそれを聞いてとても感動しました。彼女は自分に出来ることとして、自ら進んでやってくれたからです。なぜ?神の恵みを知ったからです。体験したからです。

皆さん、教会はそういうところではないでしょうか。神によって罪が赦された者が喜んで教会に集い、心から主を賛美し、いけにえをささげ、奉仕をささげるのです。自ら進んで。主の恵みを知ったからです。奉仕しろと言われて、ささげろと言われて、伝道しろと言われたのでするというのではなく、何も言われなくても、黙っていても、一人一人が聖霊によって喜び、神の恵みに応答してささげるので、ささげものが満ち溢れるのです。それが主の教会です。そこでは若い女が喜び踊り、若い男も年寄りも、ともに主を喜び楽しみます。主が彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませてくださるからです。そこは主の喜びで満ち足り、主の楽しみで満ち溢れるのです。それは完全な神の国、天の御国ではないかもしれませんが、その前味を味わうことができるのです。私たちはそれこそ主が喜ばれる教会であることを知り、それを目指して歩まなければなりません。

先月、さいたまの教会で礼拝のご奉仕をさせていただきました。その教会は私が共立基督教研究所で学んでいた時に一緒に学んだ牧師が35年前にゼロから開拓した教会です。どれほどのご苦労があったことかと思いますが、35年たった今、それが見事に実を結びました。30代の多くの若い青年たちが結婚に導かれ、教会の役員をはじめ、礼拝の全体をリードしていました。霊的によく訓練されたすばらしいリードでした。いったいどうやってそのようになったのか、いろいろお話を聞いているうちにわかりました。35年前に救われた数人の婦人たちが子どもたちにしっかりと信仰の訓練をして信仰を継承させ、その子供たちが結婚して家庭を築き、教会の中心的な役割を担うようになったからです。そのためには時間がかかります。30年の時間がかかりました。しかし、やがてそのような教会になると決断して取り組んだ結果、そのようになったのです。

教会は建物とか、人数ではありません。主に罪贖われた一人一人が喜びと感謝をもって主に仕えているかどうかです。そのためには時間もかかるでしょう。でもどんなに時間がかかっても、それが主が望んでおられることであり、私たちが目指しているものであると受け止めて、一人一人が十字架の贖いに感謝し、神の子とされた喜びをもって自ら進んでささげるなら、必ずそのようになるはずです。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる、と言われるようになります。私たちもそのような教会とさせていただきましょう。神の恵みがあなたの霊と心と体を満ち溢れさせてくださいますように。

Ⅱ列王記25章

 

 Ⅱ列王記25章から学びます。

 Ⅰ.バビロンに捕え移されたユダ(1-21)

まず、1~21節をご覧ください。「1 ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。2 こうして都はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていた。3 第四の月の九日、都の中で食糧難がひどくなり、民衆に食物がなくなった。4 そのとき、都は破られ、戦士たちはみな夜のうちに、王の園に近い二重の城壁の間にある、門の道から出て行った。カルデア人が都を包囲していたので、王はアラバへの道を進んだ。5 カルデアの軍勢は王の後を追い、エリコの草原で彼に追いついた。すると、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。6 カルデアの軍勢は王を捕らえ、リブラにいるバビロンの王のところに彼を連れ上り、彼に宣告を下した。

7 彼らはゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺した。王はゼデキヤの目をつぶし、青銅の足かせをはめて、バビロンへ連れて行った。8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、9 【主】の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。10 親衛隊の長と一緒にいたカルデアの全軍勢は、エルサレムを取り巻く城壁を打ち壊した。11 親衛隊の長ネブザルアダンは、都に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した投降者たちと、残りの群衆を捕らえ移した。12 しかし、親衛隊の長はその地の貧しい民の一部を残し、ぶどうを作る者と農夫にした。

13 カルデア人は、【主】の宮の青銅の柱と、車輪付きの台と、【主】の宮にある青銅の「海」を砕いて、その青銅をバビロンへ運んだ。14 また、灰壺、十能、芯取りばさみ、平皿、奉仕に用いるすべての青銅の器具を奪った。15 また親衛隊の長は、火皿、鉢など、純金や純銀のものを奪った。16 ソロモンが【主】の宮のために作った二本の柱、一つの「海」、車輪付きの台、これらすべての物の青銅の重さは、量りきれなかった。17 一本の柱の高さは十八キュビト、その上の柱頭は青銅、その柱頭の高さは三キュビトであった。柱頭の周りに格子細工とざくろがあって、すべて青銅であった。もう一つの柱も、格子細工もこれと同様であった。

18 親衛隊の長は、祭司のかしらセラヤと次席祭司ゼパニヤと三人の入り口を守る者を捕らえ、19 戦士たちの指揮官であった一人の宦官、都にいた王の五人の側近、民衆を徴兵する軍の長の書記、そして都にいた民衆六十人を、都から連れ去った。20 親衛隊の長ネブザルアダンは彼らを捕らえ、リブラにいるバビロンの王のところへ連れて行った。21 バビロンの王はハマテの地のリブラで、彼らを打ち殺した。こうして、ユダはその国から捕らえ移された。

エルサレムが陥落、ユダ南王国終焉の記録です。南ユダ最後の王ゼデキヤの治世の第九年とは、前588年になります。その年の第十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍勢を率いてエルサレムを攻めて来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築きました。実際には、この時エルサレムを攻めて来たのはネブカドネツァルではなく、彼の親衛隊長のネブザルアダンでした。というのは、ネブカドネツァルはこの戦いに参戦しようとしていたエジプトとの戦いに備えてリブナにいたからです。こうしてエルサレムはゼデキヤ王の第十一年(前586年)まで包囲されてしまいました。ネブザルアダンの戦法はエルサレムを兵糧攻めにして、確実に落とす方法でした。その結果、都の中で食糧難がひどくなり、民衆に食物がなくなりました。

そのときです。バビロン軍が城壁を破って町に侵入しました。ゼデキヤの治世の第十一年第四の月の九日(前586年7月9日)のことです。この攻撃は2年に渡って続けられました。町にいた戦士たちは、二重になっていた城壁の間にある門の道から出て行きました。一方、ゼデキヤ王もアラバへの道を進みましたが、すぐにカルデアの軍勢に捕らえられると、王の軍隊はみな王から離れ散ってしまいました。

そこでカルデア人は王を捕らえ、リブナにいたバビロンの王のところに彼を連れて行くと、ネブカドネツァル王はゼテキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ゼデキヤの目をつぶし、青銅の足かせをはめて、バビロンへ連れて行きました。バビロンの王はなぜこんなにもひどいことをしたのでしょうか。それは、こうすることで将来反乱を起こす危険性を少なくするためです。またゼデキヤの目がつぶされたのは、こうすることで、反乱の意欲を完全に摘み取るためです。このようにしてゼデキヤはバビロンに連れて行かれ、そこで死ぬことになります。

ところで、このことを預言した預言者がいます。それはエゼキエルです。エレミヤは最後の最後までエルサレムに残った預言者でしたが、エゼキエルは第二次バビロン捕囚の時に、エホヤキンと共に捕え移された祭司の一人でした。その捕囚の民に対して、彼らがまだかたくなで、偽預言者のことばに惑わされエルサレムがバビロンから解放されるという期待を持っていたので、神の預言を告げるのですが、それがエゼキエル12章9~13節のことばです。

「人の子よ。反逆の家、イスラエルの家は、あなたに『何をしているのか』と尋ねなかったか。10 彼らに言え。『【神】である主はこう言われる。この宣告は、エルサレムの君主、およびそこにいるイスラエルの全家に関わるものである。』11 また言え。『私は、あなたがたへのしるしである。私がしたようなことが彼らにもなされる。彼らは捕囚となって引いて行かれる。12 彼らのうちにいる君主は、暗いうちに荷物を背負って出て行く。出て行けるように壁に穴が開けられる。彼は顔をおおう。自分の目でその地を見ることはもうないからである。』13 わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしの罠にかかる。わたしは彼をカルデア人の地、バビロンへ連れて行く。しかし、彼はその地を見ずに、そこで死ぬ。」

エルサレムの君主とはユダの王ゼデキヤのことです。彼はこっそり荷物をまとめて出ていくことになります。彼は自分の目でその地を見ることはありません。彼はバビロンへ連れて行かれることになりますが、その地を見ることなく、そこで死ぬことになるのです。これはまさにゼデキヤが目を抉り取られてバビロンに連れて行かれて死ぬということの預言だったのです。その預言の通り、彼は目をつぶされてバビロンへ連れて行かれ、そこで死ぬことになります。主が語られた通りです。主の語られたことは、その通り実現するのです。しかし、彼らには悔い改める時がありました。バビロン捕囚は3回にわたって行われましたが、それは神の憐れみと忍耐を表していました。神は彼らが悔い改めることを待っておられたのです。それは私たちに対しても同じです。神は私たちが悔い改めて神に立ち返ることを願っておられます。ゼテキヤのように目を抉り取られてバビロンに連れて行かれることがないように、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。

次に、8~23節をご覧ください。エルサレムに侵入してから4週間後、すなわち、第五の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは親衛隊の長であったネブザルアダンをエルサレムに派遣し、主の宮と王宮をはじめ、エルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物を火で焼きました。さらに、エルサレムを取り囲む城壁も打ち壊しました。また、都に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した投降者たちと、残りの群衆を捕らえ移しましたが、その地の貧しい民の一部は残し、ぶどうを作る者と農夫にしました。征服した町を廃墟としないためです。さらに、神殿の宝物や器具類をすべてバビロンに運びました。エルサレム陥落です。エルサレムはことごとく取られ、焼け打ちにされ、色あせた世界になってしまいました。

こうした一連の出来事は、エレミヤによって預言されていたことでした。エレミヤはゼデキヤはじめユダの民に対して、バビロンに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。バビロンのくびきを拒むなら、滅び以外に道はないと警告していたにもかかわらず、ゼデキヤはそのことばを無視してネブカドネツァルに反逆しました。つまり、ゼデキヤはエレミヤを通して語られた主のことばに従わず、その結果、主に逆らってしまったのです。しかし、それはゼデキヤの周りにいたにせ預言者たちの偽りも大きい影響を与えました。彼にとってエルサレムの没落を告げるにせ預言者ハナヌヤのことばは、エレミヤのメッセージよりも受け入れやすいものでした。彼自身の願望を後押しするものであったからです。しかし、そのような弱さを持つのはゼデキヤばかりではありません。人は常に自分の思いを支えることばを探し求めています。カウンセリングと称しつつ、本当のところは自分の思いを後押しするだけのカウンセラーを求めるということがあるのです。でも信仰は願望を遂げる道具ではありません。エレミヤの預言の通り、エルサレムは滅亡しました。こうして、ユダはその国から捕え移されることになったのです。

Ⅱ.総督ゲダルヤ(22-26)

しかし、こうした絶望的な終焉を迎えた後で、列王記の著者は二つのエピソードを書き加えています。その一つが。総督ゲダルヤの、バビロンの王に仕えて幸せになるようにというメッセージです。22~26節をご覧ください。「22 バビロンの王ネブカドネツァルは、彼が残したユダの地の残りの民の上に、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを総督として任命した。23 軍の高官たちとその部下たちはみな、バビロンの王がゲダルヤを総督としたことを聞いて、ミツパにいるゲダルヤのもとに来た。それは、ネタンヤの子イシュマエル、カレアハの子ヨハナン、ネトファ人タンフメテの子セラヤ、マアカ人の子ヤアザンヤ、彼らとその部下たちであった。24 ゲダルヤは彼らとその部下たちに誓って、彼らに言った。「カルデア人の家来たちを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」25 ところが第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルは、十人の部下とともに来て、ゲダルヤを打ち殺し、ミツパで彼と一緒にいたユダの人たちとカルデア人たちを打ち殺した。」

ゲダルヤは、ヨシヤが宗教改革をしたときの書記シャファンの孫です。さらに、ゲダルヤはエレミヤの友人であったようです(エレミヤ39:14)。エレミヤは、ユダが生き残る道はバビロンに降伏しバビロンの王に仕えることであると預言していました(エレミヤ21:8-9)が、ゲダルヤはそのことばを受け入れてそのように民を説得しました。ところが、それを受け入れない人々がいたのです。それは、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルです。彼は十人の部下とともに来て、ゲダルヤを打ち殺し、ミツパで彼と一緒にいたユダの人たちとカルデア人たちを打ち殺しました。イシュマエルは王族の一人で、総督になりたがっていた人物です。その彼が陰謀によってゲダルヤを暗殺したのです。そこでバビロンの報復を恐れた民はみな、身分の下の者から上の者まで、軍の高官たちとともに、エジプトに逃れました。この時、エレミヤは彼らにエジプトに下らないでバビロンにとどまるようにという主のことばを語りましたが、彼らはそのことばを聞かず強制的にエレミヤをもエジプトに連れて行きました(エレミヤ43:6~7)。

神はユダの民にバビロン捕囚という平安を与える計画、将来と希望を与える計画を用意しておられたのに、彼らはそれを受け入れることができませんでした。危機の時に神の計画を受け入れられないなら、そこにはもはや希望は残されていません。

Ⅲ.祝福を受けるエホヤキン(27-30)

もう一つのエピソードは、ユダの王エホヤキンの釈放と立場の変更です。27~30節をご覧ください。「27 ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十七日、バビロンの王エビル・メロダクは、王となったその年のうちにユダの王エホヤキンを牢獄から呼び戻し、28 優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。29 彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。30 彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。」

ユダの王エホヤキンは、第二次バビロン捕囚の時に降伏しバビロンに捕え移されました。そのエホヤキンが捕え移されて37年目の12月27日、すなわち、バビロンの王がネブカドネツァルからエビル・メロダククに代わったその年のうちに、彼はエホヤキンを牢獄から呼び出し、彼に優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くしました。それまでは、征服された国の王たちは囚人としての扱いを受けていましたが、新しく王となったバビロンの王エビル・メロダクはその政策を変更し、王は王として取り扱うことにしたのです。ユダの王エホヤキンは、他の国々の王たちよりもさらに丁寧な扱いを受けました。そればかりか、彼は、その一生の間、いつも王の前で食事をするという祝福にあずかることができました。しかも、彼の生活費はすべて、一生の間、いつも王から支給されていたのです。なぜでしょうか。

ユダの王エホヤキンは、「子を残さず、一生栄えない男」と記録せよ。」(エレミヤ22:30)と言われた人物です。彼のせいで、彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄、再びユダを治める者はいなくなりました。そのエホヤキンが、これほどの祝福にあずかることができるようになったのです。それは、彼は神のみことばに聞き従わない悪王であったにもかかわらず、この一点において従ったからです。それは、バビロンに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ、という点です。そこにはバビロンの王エビル・メロダクの政策転換によるものでしたが、彼の中に主のみことばに従うという柔和さがあったのも確かです。

これらのことから言えることは何かというと、神は厳しい裁き主だけではないということです。神はあわれみ深い裁き主でもあるのです。神はいつまでも怒っているのではありません。神はイスラエル再生の道を示されました。実際イスラエルはやがて故郷に連れ戻され、やがてそこに神殿を再建していきます。たとえ神のさばきを受け、隷属する身になろうとも、その身に甘んじることが主への従順であり主のご計画にあずかることなのです。神の前にへりくだり、神のことばに心を開き、忠実な歩みをしていくことが祝福の道なのです。

そのことは、このⅡ列王記の最後のことばを見てもわかります。これは、エレミヤ書の最後と同じ言葉です(エレミヤ52:31~34)。ここには神の恵みが啓示されています。ダビデの家系が継続するという希望です。これは、ダビデ契約に基づく希望です(Ⅱサムエル7:16)。そしてそれがクロス王によるエルサレム帰還の勅令へとつながっていくのです。つまり、神はどんなことがあってもご自身の民を決してお見捨てにはならないということです。どんなに神に背き、反逆し続ける民であっても、主は真実な方であられ、その約束を最後まで果たされるのです。私たちもこの真実な神に信頼して、主の御顔を見るまで、この地上での生涯を走り続けていきたいと思います。

2024イースターメッセージ ヨハネ11章25~26章「死んでも生きる」

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皆さん、イースターおめでとうございます。キリストの復活を心からお祝いいたします。今日は、このキリストが復活された日を記念するイースターに、聖書のみことばから「死んでも生きる」というメッセージを皆さんにお届けしたいと思います。

皆さん、私たち人間にとって、どうやっても太刀打ちできない問題に「死」があります。この「死」への不安を克服することができたら、どれほど力強く生きていけるでしょうか!クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「毎日が感動です!」と言いました。その理由は、「私の不可能を、キリストが可能にしてくださった」からです。「私の不可能」とは、病気と死に対する解決です。彼女は1922年(大正11年)に北海道旭川(あさひかわ)市に生まれ、1939年(昭和14年)旭川市立高等女学校を卒業すると、17歳から7年間小学校教員を勤めました。しかし、間もなく肺結核と脊椎カリエスを併発して13年間の闘病生活を余儀なくされることになりました。この苦しみの中、病床でキリスト教信仰へと導かれるのです。彼女は自らを〝病気のデパート〟と呼ぶくらい、肺結核と脊椎カリエスの他、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病等、度重なる病魔に襲われました。それでも常に人生を前向きにとらえ、クリスチャンとしての信仰に根ざした作家活動を積極的に続けることができたのは、このキリストの十字架と復活の信仰があったからです。キリストの十字架と復活は、三浦綾子さんが抱えていた罪と死の不安を解決し、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくれました。それで彼女は、「毎日が感動です!」と言ったのです。

それは私たちも同じです。人間は逆境に陥るとどうしても気持ちが落ち込んでしまいます。特に彼女のように次々と重い病気にかかると、生きる意欲もなくしてしまいがちです。でもこの「死」の問題を克服することができるなら、私の不可能を可能にしてくださるキリストの復活と永遠のいのちに与ることができるなら、三浦綾子さんのように「毎日が感動です!」と言うことができるのではないでしょうか。いったいどうしたらこの「死」の問題を解決することができるのでしょうか。

きょうの聖書の箇所でイエスは、死後4日も経過した親友ラザロを前に、その姉妹のマルタにこう言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)
  どうやっても解決できなかった「死」への完全な勝利がここにあります。それは、イエス・キリストです。イエスはその死からよみがえられました。そしてそのイエスを信じる者はイエスと同じように死んでも生きるようになります。また、生きていてイエスを信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。すばらしいで約束ですね。あなたがこのことを信じるなら、あなたも死に対する解決が与えられ、力強く生きていくことができるようになるのです。

きょうは、この復活の希望について、ヨハネの福音書11章にあるラザロの復活から見ていきたいと思います。

Ⅰ.死に対して無力な人間(1-19)

まず、1~19節をご覧ください。「1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
  17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。19 マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。」

エルサレムの東3㎞にあるオリーブ山の南東に広がる斜面にベタニアという小さな村がありました。そこには3人の兄弟マルタとマリアとラザロが住んでいました。イエス様はエルサレムに来られたとき度々彼らの家を宿とし、そこで教えを説いておられました。この兄弟は早くに両親を亡くしていたようで、年長と思われるマルタが何かにつけて母親の役割を果たしていました。そして、ラザロは末っ子であったと一般的に考えられていますが、それだけに3人は強い兄弟愛で結ばれ、仲も良かったと思われます。ところが、この平和な家庭に悲劇が起きました。ラザロが重い病気にかかってしまったんです。マルタとマリアはイエス様のもとに使いを送り、助けを求めました。姉妹はイエス様がすぐにでも飛んで来てラザロを癒してくださるものと思っていました。イエス様がラザロを深く愛しておられたことをよく知っていたからです。

しかし、イエス様はラザロの許に直行されませんでした。6節にあるように、イエス様はそのときにいた場所になお二日とどまられたのです。その行動は、ラザロを愛しておられたという5節のことばと矛盾しているように見えますが、どうしてイエス様はなおもそこに二日間とどまられたのでしょうか。一つの理由は4節にあります。ここには「これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」とあります。それは、ラザロを生き返らせることによって、神の栄光がより顕著に現れるためでした。つまり、人々がイエス様の内に働く神の力を見、イエス様を神の子と信じ、イエス様が与えてくださるいのちに与るようになる、ということです。ラザロの奇跡は、イエス様には病気を癒す力だけではなく、死人にいのちを与える権限もあるということを明らかにしたのです。

もう一つの理由は、弟子たちの霊的訓練、または教育のためです。14節と15節をご覧ください。ここには「そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」」とあります。イエス様は弟子たちがご自分を死の征服者として信じるようになることを望んでおられたのです。あとわずかしか残されていない地上での生涯において、イエス様は彼らにこの真理を深く学ばせようとしておられたのです。私たちも問題に突き当たる時、主がすぐに飛んで来て問題を解決してくださることを期待することがあっても、現実的にはそうならなくて落ち込むことがあります。イエス様に愛されていることがわかっているので、そのように期待するのはある意味当然のことですが、そのような時に私たちが考えなければならないことは、すぐに助けてほしいという私たちの思いの他に、様々なことが絡んでいる可能性があるということです。そのことを忘れてはなりません。私たちの立場から見れば、とにかく問題が少しでも早く解決されればそれでいいという話になりますが、神様の大きなご計画の中に神様がなさろうとしておられることがたくさんあるんです。私たちにはそのことを全く知らされていませんが、主の助けを期待しつつすべてを主の御手にゆだねなければなりません。主が最善を成してくださることを堅く信じて御業を待ち望まなければならないのです。祈りの答えが遅れているとしたら、そこには必ずそれなりの理由があるということです。

7節をご覧ください。二日が過ぎてからイエス様はようやく弟子たちに「もう一度ユダヤへ行こう」と告げられました。しかし、たった今、石打にしようとする者たちから逃れて来たばかりだというのに、その渦中に自ら飛び込むのは止めた方がいいと、弟子たちは考えました(8)。ベタニアはエルサレムと目と鼻の先にあった所なので、確かにそこへ行くことは命の危険を意味していました。でも、自分の身を案じてくれる弟子たちに向かってイエス様は、自分には父が定められた時があると言われました。それが9節と10節のことばです。「イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」」
  どういうことでしょうか?昼間歩くとは、聖霊の光によって照らされた道を歩むということです。言い換えると、神様のみこころに従うということです。神様に従っていればどんな敵が眼前に待ち受けていても、それは恐れるに足りません。昼間歩く人は決してつまずくことなどないからです。でも、夜歩けばつまずきます。なぜなら、そこには霊的な光がないからです。神様に逆らい、自分勝手な方向に進もうとすれば、間違いなくつまずくことになります。

イエス様の確固とした決意を知らされた弟子たちは、自分たちには一つの道しか残されていないと考えたようです。何でしょうか?それはイエス様に同行して一緒に死ぬということです。トマスの悲そうなことばが、弟子たちの気持ちをよく表しています。16節です。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」ある意味、英雄的ともいえる感動的な決意です。彼は本当にイエス様と一緒に死ぬつもりでいたのだと思います。

イエス様がベタニアに行ってみるとどうだったでしょうか。ラザロは死んで墓に葬られて、すでに四日たっていました。兄弟を亡くし悲嘆に暮れているマルタとマリアを慰めるために、そこには大勢のユダヤ人が来ていました。ちなみにユダヤの葬式は七日間続きます。最初の三日間は泣き暮れる日です。イエス様がベタニアに着かれたのは、その泣く日が終わった時でした。死という現実を前にして、人は泣くこと以外には何もできないものです。しかし、イエス様は違います。ベタニアに出発するにあたり、その死んだラザロを眠りから起こしに行くと言われたのです。普通、弔問客は死んだ人に用があって来るのではありません。死んだ人の家族を慰めるため来ます。ここでも一般の弔問客はマルタとマリアのところに来たのであって、死んだラザロに用があったわけではありません。でもイエス様は死んだラザロのところに来られたのです。イエス様のベタニア訪問の理由は、一般の弔問客のそれとは根本的に異なっていました。すなわち、イエス様は死者のもとに命の主として来られたのです。

人間にとって死は、死以外の何ものでもありません。それは滅びです。「主よ、もう臭くなっておりましょう」とマルタが39節で言っているように、死後すぐにからだの腐敗が始まります。私たち人間はだれ一人この死を回避することはできません。死に向かって歩む以外の何ものでもないのです。そういうふうに言えるでしょう。だからトマスは、イエス様と一緒に死のうと言ったのです。人間にできるのは死に向かって英雄的に進んで行く決意をすることくらいです。避けられない死を美化して華々しく死ぬことによってしか死に対処できない人間というのは、何と小さくはかない存在なのでしょうか。しかもこの悲そうな英断も、死はあくまでも死であり、滅びであるという現実を少しも変えることはできないのです。

Ⅱ.死からよみがえられたイエス(20-27)

でも、この死に対して完全に勝利された方がおられます。それは死からよみがえられたイエス様です。20~27節をご覧ください。「20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」」

イエスの到着の知らせを聞いて、マルタは村の入口まで迎えに出て来ました。この21節のことばには、なぜもっと早く来てくださらなかったのですかという、恨み節が込められているように思われます。しかしそれとは裏腹に、イエス様がおられたら兄弟は必ず助かったはずだという、イエス様に対する信頼もみられます。また22節の告白もそうです。この「今でも」ということばに注目してください。絶望的な状況の中にあっても、なお期待して「今でも」と言える信仰はすばらしいものです。

イエス様はそのようなマルタに対して、重大な宣言をされました。それは23節のことばです。「あなたの兄弟はよみがえります。」これが、イエスがベタニアに来て最初に言われた言葉です。マルタはイエス様を全能の神としてよりも、一人の祈りの勇者として信じていたようです。だから22節で彼女は「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、わたしは知っています。」と言っているのです。でもイエス様は単なる祈りの勇士ではなく、全能の神ご自身であられます。そんな彼女の信仰を正すためにイエス様は、「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。いつ、どのようにして生き返らせるのかといったことには一切触れず、ただラザロはよみがえる、ラザロは生き返ると言われたのです。このことばには、イエス様の力強い意志を感じます。勿論、わたしが求めることなら神は何でもお与えくださいますが、それだけでない。わたし自身がラザロにいのちを与えてよみがえらせることができる。あなたの兄弟ラザロはよみがえるのですと。

それに対してマルタは何と言いましたか。25節です。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」どういうことですか?「終わりの日」とは世の終わりの日のことで、キリストが再臨される日のことです。その日にクリスチャンがよみがえるということは知っています。でも、それは今自分たちが直面している問題に対しては何の解決も与えてくれないということです。彼女はイエス様を信じていながらも死を前にしては何も成す術もありませんでした。もしイエス様を信じていても、それが単なる心の気休め程度で、現実の生活には何の役にも立たないとしたら、それは本当に空しいものです。イエス様が望んでおられたのはそのような信仰ではなく、実際の生活の中で生かされる信仰です。それは死に勝利する信仰と言えるでしょう。ですから、イエス様は彼女に力強いことばを宣言しました。25節と26節の言葉です。ご一緒に読みましょう。

「イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」」

イエスは、「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われました。これは、イエス様ご自身がよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。ヨハネの福音書を見ると、イエス様はこれまで「わたしは・・・です」と4回語られたことが記録されてあります。
①「わたしはいのちのパンです」(6:35)
②「わたしは世の光です」(8:12)
③「わたしは羊たちの門です」(10:7)
④「わたしは良い牧者です」(10:11)
  これらはすべてイエス様がどのようなお方なのかを比喩として語られたものですが、今回は違います。今回は単なる比喩としてではなく、イエス様がどのようなお方なのかをズバリ語られたのです。つまり、イエス様はよみがえりであり、いのちであられるということです。これはどういうことかと言うと、イエスはよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。そのような者であるということではなく、そのものズバリです。

ここに死に対する解決の道、勝利の道があります。死に対して勝利する道は、「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われたイエス様の内にあります。神様は御子を信じる者に賜物として永遠のいのちを与えてくださいます。私たちはこのイエスを信じた瞬間、このいのちを持つことができるのです。このいのちは肉体的な死さえも奪い取ることができないいのちです。私たちはこれまで死に支配されて生きてきました。死んだら終わりという世界です。死の勢力は私たちを恐れさせ、虚しくし、悲しくし、運命の奴隷としてきました。死は人からすべての生命、希望、喜びを奪って行きます。しかし、いのちの世界に移されると状況は全く変わります。そこでは、死が支配することができません。代わりにいのちが支配するようになります。いのちの世界は光の世界であり、喜びと希望の世界です。いのちの世界に生きている人はもはや虚しさにさいなまれることはありません。もう運命に支配されることはないのです。

パウロは、これを「死は勝利に呑みこまれた」と言っています。Ⅰコリント15章50~58節をお読みします。「50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

皆さん、私たちは、死に対する完全な勝利を得ています。人類にとって最も大きな問題が解決されているんです。だからこそ今、力強く生きていくことができるのです。たとえ今、困難な状況にあってもなお気落ちせずにチャレンジし続けることができる。あなたの主にある労苦は決して無駄ではありません。わたしはよみがえりです。いのちです。とおっしゃる方のための労苦だからです。わたしはよみがえりです。いのちです。とおっしゃる方と共に頑張って来た働きだからです。私たちの恐れの最後の砦である「死」に打ち破り、勝利を与えてくださった主に、心からの感謝しようではありませんか。そして、それは私たちが死んでからだけのことばかりではなく、生きていて、イエスを信じる者は決して死ぬことがないということ、ある人たちはこれを携挙のことを指していると理解していますが、そのようにも理解できないことはないですが、これは携挙のことではなく、生きている時にもたらされる永遠の命のこと、神との交わり、神の臨在のことです。この地上にあってさながら天国を生きることができるという意味です。つまり、この永遠のいのちが肉体の死も含めた人間のすべての問題に勝利することができるということです。私たちはここに  慰めと希望を持ちたいと思うのです。

Ⅲ.あなたは、このことを信じますか(26-27)

最後に、26節のことばを見て終わりたいと思います。イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。」と言われると、マルタに「あなたは、このことを信じますか。」と問われました。
  このイエス様の問いかけは、そのまま私たちへの問いかけでもあります。私たちは昨日よりも今日、今日よりも明日と、確実に死に向かって歩んでいます。そんな世界にあって、死が死に終わらず、滅びに至らない、死に対する勝利の道を、神様はイエス様において備えてくださいました。しかし、私たちはそのことを信じなければなりません。

2018年12月29日のことです。ある著名な若手俳優が、神奈川県のある教会を訪れて、約1時間半にわたってその教会の牧師と聖書について話し合いました。具体的に言うと、このヨハネの福音書11章にあるラザロに関する質問を、牧師にぶつけたのです。彼が出演することになっていた「罪と罰」という舞台の役作りのためです。「罪と罰」はドストエフスキーの代表作で、貧困にあえぐ元大学生ロスコーリニコフが主人公ですが、その主人公が独自の理屈で罪を犯します。世の中のためになるのであれば罪を犯してもいいのではないかという考えの下に、強欲で狡猾な金貸しの老婆を殺して金を奪い、その金を社会のために役立つために使おうとします。しかし、老婆だけでなく殺害の現場に偶然に居合わせたその妹までも殺してしまうのです。目的は果たしたものの思いがけないさらなる殺人に罪の意識が沸き上がり、ロスコーリニコフは自らの犯罪を肯定する思いと罪の意識の狭間で苦しむことになります。結局、知り合いの女性に説得されて自主することになるのですが、罪と罰の台本にヨハネの福音書11章の話が出てくるんです。その若手俳優はこの箇所を丸暗記していたそうですが、牧師に対していのちと死と復活について真剣なまなざしで質問をぶつけました。するとその若手俳優は納得した様子で帰って行かれたということですが、その後彼は自殺しました。それが俳優の三浦春馬さんです。
  三浦さんは聖書の教えを理解しようと思って教会の門を叩きました。わたしはよみがえりです。いのちです。というイエス様のみことばに関する牧師の解説を聞いて感動しました。しかし、彼は信じませんでした。牧師はイエス様のように「あなたは、このことを信じますか」と信仰の決心を迫るまでには至らなかったのです。続いて何度か教会に来てもらえれば徐々に信仰に導けると考えたようです。しかし、そのチャンスは二度と訪れませんでした。三浦さんの自殺の報道を聞いた時牧師はショックのあまりしばらく眠ることができなかったそうです。またかなり自責の念にかられたということですが、その後1冊の著書を書かれました。それは「永遠と復活」という本ですが、その中で先生は、人は生きている間に別にイエス・キリストを信じなくてもハデスで悔い改めるチャンスが与えられていると述べています。そこで悔い改めれば救われると。三浦さんはきっとそこで悔い改めて救われると信じていると語っておられますが、それは聖書が教えていることではありません。死んでからでもハデスで悔い改めれば救われるという、いわゆるセカンドチャンス論は聖書に反する教えです。「このことを信じますか」という主の問いかけに対して、私たちは今生きている間に応答しなければなりません。死んだ後では遅いんです。生きている間に、イエス様を信じる者は死んでも生きる。生きていてイエス様を信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがないということを信じなければなりません。

イエス様がよみがえりです。いのちです。イエス様はご自身の身をもってそのことを証明してくださいました。イエス様は私たちの罪を贖い十字架で死なれただけでなく、三日目によみがえられました。死に勝利されたのです。だから、このイエスを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてイエスを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。キリストのこの復活のいのちが与えられるからです。あなたは、このことを信じますか。あなたもよみがえられたイエス様を信じて永遠のいのちをいただき、このいのちに満ち溢れた勝利ある人生を共に歩もうではありませんか。

Ⅱ列王記24章

 Ⅱ列王記24章から学びます。

 Ⅰ.第一次バビロン捕囚(1-7)

まず、1~7節をご覧ください。「1 エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。2 そこで【主】は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。【主】がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。3 実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという【主】の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、4 また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため【主】は赦そうとはされなかったのである。5 エホヤキムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。6 エホヤキムは先祖とともに眠りにつき、その子エホヤキンが代わって王となった。7 エジプトの王は自分の国から再び出て来ることがなかった。バビロンの王が、エジプト川から大河ユーフラテスに至るまで、かつてエジプトの王に属していた全領土を占領したからである。」

1節に「エホヤキムの時代に」とあります。エホヤキムについては23章36節と37節から記録されてあります。前章で学んだヨシヤ王の後を継いだのは、ヨシヤ王の次男であったエホアハズでした。彼については23章31~35節まで記されてありますが、彼は23歳で王となり、3か月間、王でした。彼は、すべてその先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行いました。彼は父ヨシヤがあれほどいのちがけで宗教改革を行ったにもかかわらず、何の影響も受けなかったというのは不思議なことです。

結局、彼はリブナに宿営していたエジプトの王にファラオ・ネコに呼び寄せられ、幽閉されます。そればかりか、エジプトの属国となり銀100タラントと金1タラントという多額の科料を課せられることになるのです。その後エホアハズはエジプトに連行され、そこで死ぬことになります。それはエレミヤが預言していた通りでした(エレミヤ22:11~12)。彼の統治が短命に終わったのも、当然のことと言えるでしょう。

エジプトの王ファラオ・ネコは、そのエホアハズに変えて彼の兄のエルヤキムをユダの王に据えました。彼は25歳で王となり、エルサレムで11年間、王でした。彼も、すべてその先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行いました。そのエホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来ました。それまでユダはエジプトの王ファラオ・ネコの支配下にありましたが、その頃バビロンの勢力が強まり、バビロンはB.C.605年にネブカドネツァルが王になると、あの有名なカルケミシュの戦いでエジプトを打ち破り、ユダに攻め上って来たのです。そしてこの年(B.C.605)にダニエルを初めとする数人(王族や貴族)をバビロンに捕囚として引いて行きました。これが第一次バビロン捕囚です(ダニエル1:1~3)。エホヤキムは3年間バビロンのしもべとなりましたが、その後再び反逆します。

そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められました。ユダを攻めて滅ぼすことは主から出たことであり、主のみこころだったのです。それはマナセが犯したすべての罪のゆえであり、また、マナセが流した咎のない者の血のためでした。主はそれを赦そうとはなさらなかったのです。それはヨシヤ王の二人の子どもを見てもわかります。ヨシヤ王がどんなに宗教改革を行い、心からへりくだり、心を尽くして主に従っても、その子エホアハズとエホヤキムは、主の目に悪であることを行いました。それはすでにマナセが行なったその罪によって人々の心は主に立ち返ることができないほどになっていたということです。

エホヤキムが死ぬと、その子エホヤキンが代わって王となりました。エジプトの王は自分の国から再び出てくることはありませんでした。バビロンが、エジプト川から大河ユーフラテスに至るまで、かつてエジプトの王に属していたすべての領土を占領していたからです。

Ⅱ.第二次バビロン捕囚(8-16)

次に、8~16節をご覧ください。「8 エホヤキンは十八歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。彼の母の名はネフシュタといい、エルサレム出身のエルナタンの娘であった。9 彼は、すべて先祖たちがしたように、【主】の目に悪であることを行った。10 そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの家来たちがエルサレムに攻め上り、都は包囲された。11 バビロンの王ネブカドネツァルが都にやって来たとき、彼の家来たちは都を包囲していた。12 ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。13 バビロンの王は、【主】の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、【主】の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。【主】が告げられたとおりであった。14 彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。15 彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。16 バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。」

エホヤキムの後にユダの王となったのは、その子エホヤキンです。父がエホヤキムでその子がエホヤキンです。「ム」と「ン」の違いです。彼は18歳で王となると、エルサレムで3か月間、王でした。彼は、すべて先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行いました。

そのころ、のことです。バビロンの王ネブカドネツァルの家来たちがエルサレムにやって来ると、これを完全に包囲しました。そして、ネブカドネツァルがエルサレムにやって来ると、エホヤキンは王母や家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、彼らはバビロンに連行されました。これはB.C.597年の出来事です。ネブカドネツァルの治世の第8年のことです。これが第二回目のバビロン捕囚です。

13~16節をご覧ください。バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂きました。これは、イザヤを通して主がヒゼキヤに告げられたとおりです(Ⅱ列王20:16~20)。あの時は小国にしかすぎなかったバビロンでユダとの同盟国だったのですが、今や自分たちのすべてのものを取り上げる強奪者になったのです。

そればかりではありません。彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者だけで1万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚としてバビロンに捕え移しました。ユダの地に残されたのは、貧しい民衆だけでした。エレミヤ書には、その合計は4千600人とあります(エレミヤ52:30)。おそらく、その違いはエレミヤがこの時に捕え移された人数を上げているのに対して、Ⅱ列王記の著者は、それまでの捕囚の民をすべて足した数を上げているからではないかと思われます。この時、預言者エゼキエルも捕囚の民として連れて行かれました(エゼキエル1:1~3)。彼の預言者としての活動は、この時から始まっています(4)。バビロンの王は、さらにすべての勇士たち7千人と職人、鍛冶職人千人を捕囚としてバビロンに連れて行きました。

このように、不信仰な者が土地から追い出されるということは、モーセの時代から預言されていたことです。それが今ここに起こったということです。確かに神はその中からも回復させてくださいますが、大切なのは、神の警告を受けたならこの約束を思い起こして主に立ち返ることです。

Ⅲ.第三次バビロン捕囚(17-20)

最後に、17~20節を見て終わります。「17 バビロンの王は、エホヤキンのおじマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。18 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナ出身のエレミヤの娘であった。19 彼は、すべてエホヤキムがしたように、【主】の目に悪であることを行った。20 実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、【主】の怒りによることであったのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。」

バビロンの王ネブカドネツァルは、エホヤキンのおじのマタンヤをエホヤキンの代わりに王とし、その名をゼデキヤと改めさせました。エホヤキンは別名エコンヤですが、彼のことについてはエレミヤ22章で学びました。彼については、「子を残さず、一生栄えない男」と記録されるようになるとありました。それは、彼にはや人の息子がいましたが、だれ一人ダビデの王座について、再びユダを治める者はいないからです(エレミヤ22:30)。つまり、彼の子孫からは誰もユダを治める王が出ないということです。事実、彼(エホヤキン)の後に王となったのは、彼の子ではなく彼の父(エホヤキム)の弟のマタンヤでした。つまり、エホヤキンから見るとおじに当たる人物です。

バビロンの王ネブカドネツァルは、このマタンヤを王としますが、名前を「ゼデキヤ」に改名します。意味は「主は正義」です。どうしてこのような名前に改名したのかはわかりません。もしかすると、エレミヤ22:30のみことばの通り、エホヤキンの息子ではなくそのおじのエコンヤが王になるという主のことばが成就したからでしょうか。はっきりしたことはわかりません。

ゼデキヤは21歳で王になると、エルサレムで11年間、王でした。彼は南ユダ王国最後の王でしたが、民は彼を王と認めていませんでした。前の王であったエホヤキンが捕囚の地でまだ生きていたからです。さらに、ゼデキヤはバビロンの王ネブカドネツァルによって任命されていたからです。

彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目に悪であることを行いました。ここで「エホヤキンがしたように」ではなく「エホヤキムがしたように」とあるのは、エホヤキンの治世が3か月という短い期間であったこと、それとエホヤキムが実兄であり、彼がその兄のエホヤキムの悪政を見習っていたということを強調しようとしたからではないかと思われます。それでエルサレムとユダは完全に主の前から投げ捨てられることになります。完全に投げ捨てられるとは、エルサレムの町と神殿が破壊され、その土地から追い出されるという意味です。これがB.C.586年に起こる第三次バビロン捕囚のことです。

そのような中でもゼデキヤはバビロンの王に反逆します。数年間はバビロンに服従するのですが、国内の国粋主義者の圧力に屈し、バビロンに反逆するのです。その時に頼ったのがまたしてもエジプトでした(エゼキエル17:11~21)。彼は捕囚という悲劇を目撃しながら、悔い改めに至りませんでした。偽預言者たちの声に惑わされ、エレミヤたちの預言を受け入れず、むしろそうした預言者たちを迫害したのです。この時の様子はエレミヤ書で見た通りです。ユダはバビロンから解放される、救い出されるという偽預言者たちの語る耳障りの良いことばに、すっかり騙されていたのです。

苦難は人を謙遜にするか、より頑なにするかのいずれかです。バビロンに服せよ、というメッセージは聞くことは過酷なことですが、その苦難によって砕かれるなら幸いです。バビロン捕囚は3回に渡って行われましたが、最終的にエルサレムが滅ぼされたのは3回目の時でした。もしその前にバビロンに降伏していたら破壊は免れていたかもしれません。大切なことは神のみこころは何かをよく悟ことです。この時のみこころはバビロンに反逆することではなく、バビロンに服することでした。私たちも思い込みをしないように、注意しなければなりません。何が神のみこころなのかを知り、それに従うこと、それが私たちにとって求められていることなのです。