エレミヤ30章1~11節「だが、ヤコブはそこから救われる」

今日は、エレミヤ書30章からお話します。今日のメッセージのタイトルは、「だが、ヤコブはそこから救われる」です。7節から取りました。ここには「だが、彼はそこから救われる」とあります。「そこから」とは、その前に「それはヤコブには苦難の時」とあるように、苦難から救われるということです。ヤコブ、イスラエルは、その日大いなる苦難を受けますが、彼らはそこから救われるのです。それは私たちクリスチャンへの約束でもあります。私たちも患難を受けますが、そこから救われるのです。何という慰めに満ちた約束でしょうか。

前回もお話したように、エレミヤ書は29章から33章までが全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所となります。29章10節には、バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダの民、イスラエルを顧みて、いつくしみを施し、彼らを祖国に帰らせるとありましたが、この30章には、それが具体的にどのようになされるのかが語られます。

Ⅰ.その時代が来る(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 イスラエルの神、【主】はこう言われる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。3 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」」

主はエレミヤに、「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。」と言われました。書き記す内容は、主がエレミヤに語ったすべてのことばです。それはエレミヤ書全体を指しますが、特に30章と31章の内容となります。そして、その中心的な内容がこの3節のことばです。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」

ここでは、「見よ、その時代が来る」とか「そのとき」ということばが強調されています。新改訳第3版では、どちらも「その日」と訳しています。このように、聖書に「その時代」とか「その日」という表現がある時は、未来のことを預言する時に使われています。つまり、ここでは山が何重にも重なって見えるように、バビロン捕囚からの回復と同時に世の終わりに起こることが二重の預言として語られているのです。神はエレミヤに近い将来に起こることだけでなく、遠い未来に起こることも見せてくださいました。近い将来に起こることとは、70年間のバビロン捕囚からの解放のことです。彼らはバビロン捕囚から解放され、神がその父祖に与えた地に帰ることができるようになります。そればかりか、遠い未来においては、全世界に離散したイスラエルの民が祖国に帰還し、そこを所有するようになるというのです。

ここには「イスラエルとユダ」とあります。当時イスラエルは統一国家ではなく、北と南に分かれていました。北王国イスラエルと南王国ユダです。この時、北王国イスラエルは既にアッシリヤ帝国によって滅ぼされていました。B.C.722年のことです。それで北王国イスラエルの民はアッシリヤの捕囚となったり、周辺の国々に避難して行きました。いわゆる離散の民となったのです。これを何というかというと「ディアスポラ」と言います。「離散の民」です。その後、バビロンという新興国が起こりアッシリヤ帝国を呑み込むと、今度はそのバビロンが南王国ユダを滅ぼしました。しかし、ユダの人たちはバビロン捕囚となっても70年後には必ず祖国に帰れると預言されていて、それがB.C.539年に実現します。しかし、北イスラエルの民はアッシリヤによって滅ぼされて以来、世界中に散らされたままになっていますが、その北イスラエルの民も祖国に帰るようになるというのです。

果たして、それが実現することになります。いつですか?ここには「その日」とあります。それは驚くことなかれ、今私たちが生きているこの時代に起こったのです。1948年5月14日に、イスラエルは国連によって独立国家として認められたのです。それは1900年ぶりの奇跡でした。A.D.70年にローマ帝国の属国となっていたイスラエルは、ローマの激しい迫害によって国を失うと、世界中に散らされて行きました。それで北イスラエルだけでなく南ユダも離散の民となるのです。しかし、1800年代後半頃から世界中に離散していたイスラエルの民が急速に戻り始めると、これをシオニズム運動と言いますが、第一次世界大戦でトルコが負けイギリスの統治下に置かれ、第二次世界大戦を経て奇跡的に国として再興を果たすのです。信じられないことが起こりました。1900年の時空を超えて、神は再びイスラエルとユダを祖国に帰らせたのです。それは世界中の誰もが目を疑うような出来事でした。1900年もの間世界中に散らされていた民族が、再び祖国を取り戻したというような話など聞いたことがありません。でもそれが実際に起こったのです。それはどういうことかというと、今は世の終わりの時でもあるということです。

マタイ24章には、世の終わりにはどのようなことが起こるのかその前兆となることを、イエスが弟子たちに話されましたが、世の終わりになると、戦争や戦争のうわさを聞くようになると言われました。飢饉と地震が起こります。偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。もうこれだけでも、現代が世の終わりに限りなく近いことがわかります。でも、イエスは、このようなことが起こってもうろたえないようにしなさいと言われました。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではないからです。世の終わりの前には世界中に散らされた選びの民が再び集められるようになるからです。

ですから、イエスはこう言われたのです。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」(マタイ24:31)
  「選びの民」とはイスラエルの民のことです。世の終わりになると、神は選びの民であるイスラエルを集められます。これはエレミヤ書29章と30章で預言されていることです。そのことがここで預言されているのです。ですから、32節にこう言われているのです。「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出てくると、夏が近いことがわかります。」(マタイ24:32)
  いちじくの木は、イスラエルのシンボルです。そのいちじくの木の枝がやわらかくなって葉が出てくるということは、イスラエルが復興するということです。そのようになると夏が近いことがわかります。夏とは、いちじくの実を収穫する時、すなわち、イエスが再び来られる時のことです。その前にイスラエルの民が再び集められるのです。これらのことをすべて見たら、人の子が戸口まで近いことを知りなさいと、言われたのです。それが起こったのです。1948年に。ということは、もうイエスの再臨、世の終わりがすぐそこまで来ているということです。世の終わりのカウントダウンが始まったのです。私たちはそういう時代に生きているのです。

でも、まだイエスは再臨していないじゃないですか。あれからもう70年が経っていますよ。それなのにそれが実現してないのは、聖書には誤りがあるということですか?あるいは、聖書は信頼に値しない書物であるということですか?そうではありません。本来であれば、もういつ来てもいいのです。ただ、そうされなかったというだけです。それは一重に神が忍耐しておられるからです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。もしその時にイエスが再臨されすべての悪を一掃されたとしたらどうでしょう。ここにいる多くの人たちは救われなかったでしょう。でも神はひとりも滅びることを望んでおられないので、未だに時を延ばしておられるのです。しかし、それはいつまでも続くものではありません。それはもうギリギリのところまで来ています。それがまだ来ていないというだけのことです。もうすぐ起こります。神のことばはすべて必ず実現するからです。神の民イスラエルとユダは回復し、父祖たちに与えた地に帰り、それを所有するようになるのです。今はどんなに荒れ果てていても、必ず回復するのです。

これは慰めではないでしょうか。それが私たちにも与えられている約束です。神が私たちに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。最後は希望なのです。必ず回復の時が来ます。この約束を信じて、神とそのことばに希望を置く者でありたいと思います。

Ⅱ.ヤコブには苦難の時(4-7a)

次に、4~7a節をご覧ください。「4 【主】がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。5 まことに【主】はこう言われる。「恐れてわななく声を、われわれは聞いた。『恐怖だ。平安がない』と。6 さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。7 わざわいだ。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。」

ここには、その時どんなことが起こるかが書かれてあります。それが「ヤコブの苦難」です。ここも二重の預言になっています。「その日」とか「大いなる日」とあるからです。聖書においてこのことばが使われる時は、例外なしに終末時代を指しています。これは近い将来においてはバビロン捕囚によって成就しますが、遠い未来においては世の終わりの患難時代に起こることを指しています。

その日には大いなる患難が襲ってきます。5節には「恐れてわななく声」とか「恐怖だ。平安がない声」とありますが、それはまさにそのことを表現しています。男に子が産めるはずがないのに「男に子が産めるか、尋ねてみよ」とあるのは、男が産婦のように産みの苦しみをするようになるということです。私は痛風の痛みしか経験したことがありませんが、人間にとって最も激しい痛みは子どもを出産する時の痛み、産みの苦しみだそうです。その日には、男も激痛で腰に手を当て、顔が青ざめるようになります。実にその日は大いなる日で、他に比べようもない日なのです。前代未聞の日です。それはバビロン捕囚の比どころではありません。もっと恐ろしい、もっと激しい苦難が襲うようになるのです。それが世の終わりに起こる患難時代です。それがここでは「ヤコブには苦難の時」と言われています。ヤコブとはイスラエルのことです。イスラエルは世の終わりに激しい患難時代を通るようになるということです。それはバビロン捕囚のように苦痛が伴うものですが、それとも比較できないほどの苦痛、まさに陣痛のように激しい痛みが伴うのです。ゼカリヤ書によると、「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」(ゼカリヤ13:8)と言われています。これは反キリストの迫害によって世界中のユダヤ人の三分の二が死に絶えるということです。第二次世界大戦時に、あのヒトラーによって約600万人のユダヤ人が虐殺されましたが、それは全世界のユダヤ人の三分の一でした。ですから、それ以上の患難が襲うということです。私たちはあのホロコーストの悲劇を知っています。あれほど恐ろしいことがあるかと思うほど恐ろしいことですが、世の終わりにもたらされる患難はそれ以上のもの、もっと恐ろしい患難です。それがユダヤ人を襲うことになるのです。これが黙示録6~19章に描かれている内容です。黙示録6章16~17節には、それがあまりにもひどい患難なので、地の王たち、高官たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞窟と山の岩間に身を隠し、山々や岩に向かってこう叫ぶほどです。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」

このことについては、イエスご自身も語られました。マタイ24章15~21節をご覧ください。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」
  これがエレミヤ書で言われている「ヤコブの苦難」です。それはこれまで経験したことがないような、また今後も決して経験しないような大きな苦難です。ユダヤ人たちが反キリストによって迫害されるからです。なぜ彼らが迫害されるのかというと、ユダヤ人は反キリストを絶対に拝まないからです。反キリストは自分を現人神であると宣言するのですが、ユダヤ人は真の神以外を拝まないので迫害されるのです。ここに「荒らす忌むべきものが聖なるところに立っているのを見たら」とありますが、それはこの7年間の患難時代のちょうど半分、1260日、3年半が経った時のことです。反キリストはユダヤ人のためにエルサレムに神殿を建てるので、ユダヤ人たちはすっかり騙されて彼をメシヤだと信じるのですが、3年半が経ったとき彼は神殿の最も聖なるところに立ち、「我こそ神である」と宣言するようになります。その時になってユダヤ人たちは自分たちが騙されたことに気付くのですが時すでに遅しで、激しい迫害を受けるようになるのです。それがこのヤコブには苦難の時のことです。

その時には山に逃げるようにと言われています。この「山」とは、旧約聖書では「ボツラ」と呼ばれている山で、現在の「ペトラ」という町のことだと考えられています。ここは今、世界遺産になっています。岩だらけで何もない場所ですが、「逃れの町」としての役割を担ってきたところです。そこは岩だらけで、難攻不落の天然の要塞となっています。イスラエルの民はそこでかくまわれることになります。その間に反キリストは逃げないユダヤ人を追い回し、迫害して虐殺するのです。それが世界のユダヤ人の全人口の三分の二に相当するのです。他の三分の一は山に逃れて助かります。ここに「逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」とあるのは、冬は雨期なのでぬかるんで歩けないからです。また、安息日というのは、旅行が許されていないので、歩ける距離が律法で決まっていたからです。

この患難時代は、それほど苦しい時です。それはまさに出産の時の激しい痛み、いやそれ以上の苦痛です。ヤコブ、イスラエルはそこを通るようになります。しかし、イエス・キリストを信じる者はこの患難を受けることはありません。イエス・キリストが私たちの岩であり、隠れ場であり、避け所であり、砦、大盾となって、私たちを匿ってくだるからです。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)とある通りです。

主はその前に再臨され、ご自身を信じる者を引き上げてくださいます。これを「携挙」と言います。主が天から下って来られます。そしてまず、キリストにあって死んだ人が墓からよみがえり、次に、生き残っているクリスチャンが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがⅡテサロニケ4章16~17節で言われていることです。もし引き上げられなければ大変なことになります。それはあなたが重い思いからではありません。あなたが主イエスを信じなかったからです。これはもう死にたいと思うくらい苦しい患難です。でもこの患難時代の前に携挙が起こり、私たちはそこから救われるのです。これがⅠテサロニケ5章9節で約束されていることです。ご一緒に読みましょう。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」
  神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださいました。この御怒りとは、この患難時代にもたらされる苦難のことです。私たちは主イエス・キリストによって、神の御怒りから救われるように定められているのです。ですから、恐れることはありません。

Ⅲ.だが、彼はそこから救われる(7b-11)

第三に、だが、彼はそこから救われます。7節後半~11節をご覧ください。「7bだが、彼はそこから救われる。8 その日になると──万軍の【主】のことば──わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。9 彼らは彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。10 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない。11 わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」」

だが、ヤコブには希望があります。それはヤコブには苦難の時ですが、彼はそこから救われることになるからです。その様子が8節以降に語られています。「その日になると─万軍の【主】のことば─わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。」
  その日、主は反キリストをさばき、ヤコブを解放されます。他国人が再び彼らを奴隷にすることはありません。彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えるようになります(9)これはどういうことかというと、千年王国で復活したダビデとともにイスラエルを統治するようになるということです。

10節をご覧ください。ヤコブは、散らされた先の国々から約束の地に帰還し、そこで安らかに住まうようになります。ヤコブ、イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいますが、滅ぼし尽くされることはありません。その罪のゆえに大きな痛みや傷、苦しみを味わったあとには、赦しと救いを用意しておられるのです。なぜ?なぜなら、神がそのように約束してくださったからです。

11節をご覧ください。ここには、「わたしがあなたとともにいて─主のことば─あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」とあります。これもすばらしい約束です。確かに、ヤコブは主に背き自分勝手な道に歩んだので、主は決して彼らを罰せずにおくことはしませんが、だからと言って滅ぼし尽くすことはありません。それはヤコブには苦難の時ですが、その苦難は母鳥が心地よい巣をわざと壊し、雛鳥たちを何もない空間に落とすことによって雛鳥が高く飛ぶことを学ぶことができるようにするように、ご自分の民を懲らしめるために与えるのです。
  ですから、彼らが滅ぼし尽くされることはありません。神はこの約束に基づいて、大きな痛みや苦しみを味わった後に、赦しと救いを与えてくださるのです。神は約束を守られる方です。もしイスラエルが滅びたり、国が完全に失われることがあるとしたら、それは約束違反をしたことになりますが、神はそういう方ではありません。神はご自身の約束に基づいて、イスラエルを滅ぼし尽くすことは絶対になさらないのです。逆に、イスラエルに敵対する者は滅ぼし尽くされることになります。

そして世の終わりに、これが成就することになります。ゼカリヤ12章10節を開いてください。ここには、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」とあります。これはどういうことかというと、ヤコブの苦難を通して悔い改めたイスラエルが、信仰を持って再臨のイエスを迎えるようになるということです。
「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)
  だから、イスラエルの平和のために祈らなければなりません。イスラエルの救いがイエスの再臨の条件となっているからです。

だれが、こんなことを考えることができるでしょうか。主のご計画は、人間の思いをはるかに超えています。イスラエルは自分たちの罪ゆえに神から懲らしめを受けますが、それはヤコブには苦難の時です。でも、彼はそこから救われます。それは私たちも同じです。私たちも神に背くことで神から懲らしめを受けますが、その懲らしめを通して神に立ち返り、悔い改めてイエス・キリストを受け入れることによって、そこから救われることになります。

ですから、恐れないでください。おののかないでください。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。患難の先にある希望を見上げ、主イエスを信じ、主とともに歩む決断をしようではありませんか。あなたの上に、主が恵みと哀願の霊を注いでくださいますように。その霊によって主を仰ぎ見て、主が与えておられる約束を受け取ることができますように。

エレミヤ29章1~14節 「驚くべき神の計画」

今日は、エレミヤ書29章からお話します。ここはエレミヤ書の中心的な箇所です。まさに、エレミヤ書の心臓部と言える箇所でもあります。ここには、世界中のクリスチャンから愛されている聖句も出てきます。29章11節のみことばです。

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

これは、キリスト教国際NGOの団体で「ワールド・ビジョン」という団体があるのですが、その英国支部が行ったデジタル調査で、世界で二番目に人気のある聖書の一節に選ばれた聖句です。ちなみに、一番人気があったのは、皆様もよくご存知のヨハネ3章16節です。その次に人気があったのが、このエレミヤ書29章11節です。しかし、それほどよく知られている聖句ですが、前後の文脈から外れて理解されていることが多いのも事実です。今日は、この箇所から「驚くべき神の計画」について、ご一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.驚くべき神の計画(1-9)

まず、1~9節をご覧ください。1~3節をお読みします。「1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。2  この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。」

これは、エレミヤがエルサレムからバビロンに捕囚の民としては引いて行かれたユダの民に書き送った手紙です。2節には、この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、とありますが、第二回目のバビロン捕囚が行われた後に書かれたものです。バビロン捕囚は全部で3回行われました。第一回目がB.C.605年、第二回目がB.C.597年、そして第三回目がB.C.586年です。ユダの王エコンヤが捕囚の民として連れて行かれたのは第二回目の時ですから、この手紙が書き送られたのは、第二次バビロン捕囚が行われたB.C.597年頃ということになります。

エレミヤはなぜ彼らに手紙を書き送ったのでしょうか?それは、エレミヤが彼らのことを憂いでいたからです。なぜなら、そこには偽預言者が横行していたからです。そこには本物の預言者もいましたが、それ以上に偽預言者が多くいました。彼らは主の名を使って偽りを預言していましたが、ユダの民の中にはそうした偽預言のことばに騙されて、浮足立った生活をしている人たちがいたのです。たとえば、28章に登場したハナンヤがそうでした。彼はバビロンに連れて行かれたユダの民は2年のうちに戻ってくると預言していました。でもそれは事実ではありませんでした。ユダの民がエルサレムに戻ってくるのはいつですか?70年の時が満ちる時です。25章12節のところで、そのように語られていました。それなのに彼は2年で戻ることができると偽ったのです。それを聞いたユダの民はどう思ったでしょうか。彼らはそんな偽預言者の甘いことばに騙されて淡い期待を抱き、だったら2年間だけ我慢して適当な生活をしていればいいと思っていたのです。皆さん、何を信じるかはとても重要なことです。なぜなら、それはその人の生活に大きな影響を及ぼすからです。それはただの教えでは済まないのです。その人のライフスタイルに大きな影響が及ぶことになるのです。

ですから、エレミヤは彼らにこのように書き送りました。8~9節をご覧ください。「8 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って、偽りをあなたがたに預言しているからだ。わたしは彼らを遣わしていない──【主】のことば。』」
  つまり、地に足を付けて生活しなさい、ということです。浮足立っていてはいけません。偽預言者たちや、占い師たちにごまかされてはなりません。夢見る者たちのことばに騙されてはいけないのです。むしろ、落ち着いて生活するように心がけなければなりません。

それは具体的にはどういう生活ですか?4~7節にこうあります。「4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。」

それは具体的には、家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べるようにしなさいということです。そこに定住することを覚悟して、しっかり仕事をするように。その働きによって食べていけるようにしなさい、ということです。

それだけではありません。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えるように。減ってはならない。つまり、結婚して子どもを産み、家庭を築き、エルサレムに帰還してから後に備えるようにしなさいということです。

そればかりではありません。その町の平安を求め、その町のために主に祈らなければなりません。「その町」とはどこですか?そのバビロンのことです。バビロンの平安を求め、その町のために祈らなければなりません。なぜなら、その町の平安によって、あなたは平安を得ることになるからです。どういうことでしょうか?バビロンは自分たちを苦しめた相手ですよ。いわゆる自分たちの敵です。そのバビロンのために祈ることが、どうして自分たちが平安を得ることになるのでしょうか。それは、それこそが神の計画によるものだったからです。神の計画は彼らがバビロンの捕囚民としてバビロンに引いて行かれ、そこで懲らしめを受け神の民としてふさわしく整えられバビロンから出て約束の地に戻ること、それが神の計画だったのです。だから、その町の平安を祈ることが、自分たちが平安を得ることになるのです。

それは、4節と7節で次のように言われていることからもわかります。「わたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」。「わたし」とは誰ですか?これは神ご自身のことです。彼らがバビロンに引いて行かれたのは神ご自身が成されたことだったのです。人間的に見たら、ユダの民がバビロンに引いて行かれたのはバビロンの王ネブカデネツァルによることであったかのようですが、実はそうではなく、それは神ご自身が成されたこと、神が引いて行かせたことだったのです。
  皆さん、誰の目を通して物事を見て行くか、自分の置かれた状況を見て行くのかは、とても重要なことです。人間の目を通して見るなら失望することもあるでしょうが、でも、神の目を通して見るからそこに特別な神のご計画があることを知って励まされます。確かに今の状況は神の警告を無視した結果かもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、神は私たちを見捨てるお方ではなく、いつまでも共におられる方です。蒔いた種は刈り取らなければなりません。しかし、そうした作業の中にも神は共にいて下さり驚くべきことをしてくださるのです。そこには驚くべき神の計画があるのです。まさにバビロン捕囚という出来事は、驚くべき神の計画によるものだったのです。神の計画は私たちの目で良いことばかりではありません。わざわいだと思えることでも、神が深い目的をもって与えておられるのです。それが「わたしが引いて行かせた」という意味です。

エレミヤは、バビロンの捕囚になった民に対してそれを明かそうとしているのです。言うならば、これは彼らを滅ぼすための刑罰ではなく、むしろ、彼らを鍛え上げ、もっと良いものに造り変えるための神の懲らしめ、訓練だったのです。自分の子どもの成長を願わない親がいるでしょうか。これは父が子を思うからこその訓練であって、それがバビロン捕囚だったのです。

Ⅱ.将来と希望を与えるためのもの(10-11)

次に、10節と11節をご覧ください。「10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

いよいよ、この箇所の中心の節に来ました。10節には「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」とあります。つまり、バビロン捕囚の民に対して、神の時が来たら、神ご自身が彼らを顧みて、神が与えた約束のことばを実現してくださるということです。その約束とは、この場所に帰らせる、ということです。祖国に帰ることができるのです。神の家で再び主を礼拝することができる。それは「バビロンに七十年が満ちるころ」です。

この70年とは、いつからいつまでなのかははっきりわかりません。ある人は、ヨシヤ王が死んだB.C.609年からペルシャの王キュロスによってエルサレムに帰還してもいいという勅令が出されたB.C.539年までの70年間だと考えています。また、ある人は、第三次バビロン捕囚でエルサレムの神殿が崩壊したB.C.586年から、神殿が再建されたB.C.516年までの70年間だという人がいます。いずれにせよ、かなりの年月になります。でも、神は必ずこの約束を実現してくださいます。必ずエルサレムに戻ることができるし、神殿も再建されるのです。神の約束は、たとえ時間がかかっても必ず成就するからです。そのことをしっかりと受け止めなければなりません。焦ってはいけません。神の時、神のタイミングがあります。自分の時と神の時は違います。自分の時ほどあてにならないものはありません。なぜなら、私たちはあまりにも無知だからです。私たちの時というのはせいぜい有限な時間の中での時にすぎませんが、神の時は無限の世界における時です。過去とか、現在とか、未来とか、全く関係ありません。その永遠の中で語られていることですから、私たちの知恵をはるかに超えているのです。ですから、神の時は完全であり、ベストなのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とある通りです。どんなに時間がかかろうとも、どんなに自分の時とかけ離れていようとも、神のなさることは時にかなって美しいのです。そのことを信じなければなりません。

11節をご覧ください。ですから、神はこう言われるのです。ご一緒に読みましょう。「わたし自身、あなたがたのために建てている計画をよく知っている。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  これは、私たちが立てている計画ではありません。神が私たちのために立てている計画です。神は、その計画をよく知っておられます。私たちは自分のために立てている計画をよく知っていると思っていますが、実際のところは何も知っていません。だから、計画倒れということが起こってくるのです。「ご利用は計画的に」なんて言われるのです。でも、神は違います。神は私たちのために立てている計画をよく知っておられます。その計画とはどんな計画でしょうか。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
  皆さん、神が私たちのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画です。この「平安」という語は、元々の言葉では「シャローム」です。それは、何の欠けもない満ち足りた状態のことを指します。そこには繁栄も含まれますし、健康も、祝福も、成功も含めた理想的な状態のことです。そういう計画を神はあなたのためにもっておられるのです。それは将来と希望を与えるためのものです。でも忘れてはならないのは、これは神の目における平安であって、私たちの目における平安ではないということです。神の目における平安とは何でしょうか。

それは、ピリピ4章6~7節にあることです。「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
  ここに「すべての理解を超えた神の平安」とあります。それは人のすべての理解を超えた、人のすべての考えにまさる平安です。それは想像を絶するもの、私たちの頭では到底想像できないような驚くべき計画です。それが神の計画なのです。ここではそれは何を指しているのかというと、バビロン捕囚のことです。神が彼らのために立てておられた計画とは、何と彼らがバビロンに引いて行かれ、そこで70年間奴隷として生きるということだったのです。なぜそれが平安を与える計画なんですか?そんなのわざわいじゃないですか。わざわいじゃないんです。だからここにわざわざ但し書きがあるんです。「それはわざわいではなく」と。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものなのです。なぜこれが平安を与える計画だと言えるんですか?それは、そのことによって神はあなたに真の平安を与えてくださるからです。それは私たちにはわざわいにしか見えなくても、神はそのわざわいにしか見えないような事を通して将来と希望を与えてくださるのです。

この「将来と希望」の「将来」ですが、これは「終わりに」とか、「最後に」、「~後に」という意味の語なんです。つまり、最後は希望だということです。神があなたのために立てている計画は、最後は希望なのです。絶望ではなく希望。神に従う者の最後は、途中経過はどうであれ、最後は希望なのです。途中経過は失望のように見えても、終わってみれば希望であったことがわかるのです。なぜなら、神はいつも私たちの益のために働いておられるからです。

それがローマ8章28~29節で言われていることです。ここには、「28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(新改訳改訂第3版)とあります。これも有名なみことばですが、ここにも「知っている」とあります。何を知っているんですか?神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、です。アーメン?これは、最後は益であるということです。これは私もあなたも知っていることです。バビロン捕囚も含めて、神はあなたの苦しみも、あなたの悲しみも、あなたの辛さも、全部ひっくるめて益としてくださるのです。そのことは知っています。

では、その益とは何でしょうか?それが29節で言われていることです。「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」
  それは、御子と同じ姿に変えてくださるということです。皆さん、これが益です。これが究極的な益なんです。究極的な益は那須塩原駅ではありません。究極的な益は、私たちが神の似姿に変えられるということです。このことは私たちも知っていることです。バビロン捕囚も全く同じです。神がご自身の計画をもって彼らを召されました。それはバビロンから逃れるということではなく、またバビロンと戦うということでもなく、バビロンの軍門に下るということ、バビロン捕囚に従うということです。それで彼らは苦しめられ、卑しめられ、傷つけられますが、その中で彼らは砕かれ、練られ、すべての不純物を取り除かれて、神の民として、神の国に入るためにふさわしい者となって、最後はバビロンを出て行くことになるのです。そのことを通して、神は彼らを御国の民としてふさわしい者として整えてくださるのです。ほら、益でしょ。これは彼らにとって益だったのです。

それは私たちも同じです。ジョン・バニヤンは「天路歴程」という本を書きましたが、私たちも天の御国に着くまでには実に様々なことがあります。でも最後には御子と同じ姿となってこの世というバビロンを出て行くことになるのです。そして、神が約束された地、天の御国へと引き上げられるのです。それが私たちのバビロン捕囚です。すべてのことはこのためです。それがどのように機能するのか私たちにはわかりません。このバビロン捕囚のような出来事が、このような悲劇、損失、状況が、本当に私をキリストの似姿に変えてくれるものになるのかどうかわかりませんが、わかっていることは、神は知っておられるということです。神はご自身の考えで、ご自分の方法で、私たちをご自分の御子と同じ姿に変えてくださる。だから、神があなたのために立てている計画というのは良いことばかりでなく、辛いなぁ、苦しいなあと思うようなことも含めてすべてです。それは私たちにはわかりません。でも、一つだけわかることは、神を愛する人々、すなわち、神のご計画のために召されたすべての人たちのために、神はすべてを働いて益としてくださるということです。信じますか?そのことを通して、最後は希望を与えてくださいます。御子と同じ姿に変えられるからです。それが、ここで語られていることです。

よく、人生は刺繍のようなものだ、と言われます。刺繍は、表と裏を見ると全然違います。裏を見ればほころびだらけです。何の絵柄が描かれているのか全然わかりません。検討もつきません。まるでカオスです。そこにはいろいろな色の糸があるだけで、ただごちゃごちゃしているだけのように見えます。しかし、裏面を表にしてみるとどうでしょうか。そこには理路整然とした美しい絵柄が浮かび上がっています。これが将来、私たちに約束されている表の面です。今は裏面しか見ていないので理解できませんが、でも苦難の裏側には神の美しい栄光に満ちた計画が既に織り込まれているのです。

ですから、裏面ばかりを見て文句ばかり言うのではなく、その表の方を絶えず意識しなければなりません。どんな絵柄が浮かび上がってくるのかを楽しみに、主がどんなことをなそうとしておられるのか、どんな結果をもたらしてくださるのかを楽しみにして、今置かれている状況をわざわいとしてではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだと受け止めなければならないのです。

私たちの教会では英語の礼拝も行っていますが、そこでご奉仕しておられるR・フレミング先生ご夫妻が、先月、フィリピンにいる息子さん夫婦を尋ねた時のことです。そこでフレミング先生ご夫妻は毎朝散歩をしていたら、ある日、デニスさんという62歳のフィリピン人のクリスチャンに出会いました。彼はマニラに家を建てるためにサウジアラビアで22歳の時から20年間働いて、お金を少しずつ貯めました。若い時彼はクリスチャンではなく、反対でした。クリスチャンではなくより多くのお金を得ることに人生を捧げていました。サウジアラビアでは他のクリスチャンから何度も何度も聖書をもらいましたが、そこでは聖書を所有することは違法だったので、怖くて読まずに、その聖書をいつも捨てていました。20年前、42歳のデニスさんが休暇でマニラに帰った時、一週間くらいの休暇でしたが、ある警察署長が、フィリピンでは違法な花火を没収していました。そしてその警察署長は新年にその違法な花火を打ち上げていましたが、デニスさんは道路脇で爆発していない花火を見つけました。彼はそれを家に持ち帰り、新聞紙に包んで火を付けました。しばらくして何も起こらなかったので、彼が手に取ると、花火が爆発して、彼の手を吹き飛ばしてしまいました。その写真を見せてくれたのですが、右手の手首から先がありませんでした。何と悲惨な出来事でしょう。
  しかし、デニスさんはこの恐ろしい事故を、神様からの素晴らしい祝福と思いました。サウジアラビアに戻って働くことはできませんでしたが、何人かの近所の人が病院にいるクリスチャンが彼を見舞いに来て聖書を読み、一緒に祈ってくれました。その時デニスさんはクリスチャンになりました。彼は病院でクリスチャンになりました。デニスさんは右手と大切な仕事を失いましたが、神の恵みの賜物を受け取ることかできた、と言いました。彼は喜んでその手を見せてくれて、喜んでイエス様による救いについて毎朝話してくれたそうです。誰がみてもわざわいにしか見えない出来事が、実は彼にとって平安と希望を与えるためのものだったのです。

今年は、1月1日に能登半島で大きな地震がありました。いったいこの先どうなるのだろうかと、だれもが不安に思ったことでしょう。今も復旧、復興作業が続いています。そして一日も早く復旧するようにと教会でも祈っていますが、それはあの3.11の時も同じでした。もう世の終わりが来たのではないかとさえ思いました。全世界が一つとなって祈り、東北の復旧、復興のために祈り、取り組みました。
  そのとき、かねてから親しくさせていただいている恵泉キリスト教会の牧師で、千田次郎という先生がいらっしゃるのですが、ある集会で先生が講壇からお話をしていたとき、先生が「もっとよくなる!」と言われるのを聞いて、凄いなぁと思いました。だれもが、神も仏もないと落ち込んでいたとき、何と悲惨なことが起こったのかと悲しんでいたとき、先生は「もっと良くなる!」と言われたのですから。先生はその言葉の後にこう続けて言われました。「だって、聖書にそう書いてあるでしょ。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださると」。なかなか言えない言葉です。被災された方を前にしてそんなことを言ったらどんなふうに思われるか、そのように考えたらとても言えなません。これは先ほどのローマ8章28節のことばを本当に信じていないと言えないことばだと思うのです。千田先生は、このみことばを信仰によって受け止め、しっかりと握り締め、このみことばに生きているからこそ言えたのだと思いました。それは何も地震だけのことではなく、先生の生き方のすべてにおいて言えることだからです。

今、目の前で起こっている出来事はすべて神が私たちの益のために成しておられること。たとえそれが苦しいこと、辛いこと、悲しいことであっても、神はそれさえも益に変えてくださる。そのことを通して、神は私たちを御子と同じ姿に変えてくださるという御業をなしておられるのです。

私たちの人生の途中ではわからないことばかりですが、でもはっきりわかることは、終わってみれば希望であるということです。それが私たちの人生なのです。終わってみないとわかりません。私たちが完全に御子と同じ姿に変えられるとしたら、それは本当にすばらしい希望ではないでしょうか。

だからクリスチャンはみんなワクワクしているのです。その途中、辛いところを通っても、最後にはキリストを信じる者に用意されている救いをいただくということを知っているのですから。その時には神の御子と同じ姿に完全に変えられるのです。それがこの世の人たちとの大きな違いです。この世の人たちは、目の前の状況を見て一喜一憂しています。なぜなら、終わりを知らないからです。今がよくても終わりに何があるか知りません。だから不安になってしまうのです。でもクリスチャンは違います。クリスチャンは、この世にあっては、今しばらくの間、様々な試練の中で苦しんだり、悲しんだりしなければならないこともありますが、最後は希望だということを知っているので喜ぶことができるのです。

Ⅲ.神を呼び求めよ(12-14)

では、バビロンにいる70年間はどのように生きればいいんですか?じっと我慢していればいいんですか?そうではありません。それは人生の訓練の時ですから、そのような時こそ神を捜し求めなければなりません。それが12~14節で言われていることです。「12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」

教会がないから祈れないということはありません。エルサレムから1,000キロも離れたバビロンで、たとえ神殿がなくても、たとえ悲劇の真只中にあっても、たとえ苦難の真最中においても、そこで神を呼び求めよ、というのです。そうすれば、あなたはわたしを見つけることができます。そして、やがて神の不思議を見るようになる、というのです。具体的には、あなたが引かれて行った先から元の場所へ帰らせるのです。夢も希望もないんじゃない。あなたは元の場所に戻るんだから。神殿までも新しくなるという未来があるんだから、がっかりしないで、遠く離れた場所で祈れ。神様との関係をしっかり築きなさい、というのです。

米国クリスチャン・ジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーが、「光の注がれる場所」という自伝を書いています。これは自らの半生を回想したものですが、「痛むとき、神はどこにいるのか」「祈りは本当に聞かれるのか」という問いかけを持つにいたった理由が明かされているのです。彼の半生は壮絶なものでした。記憶にない父親の死の秘密、過剰なまでの母親の期待、トレーラーハウスでの貧しい生活、白人至上主義に立つ教会とバイブルカレッジ……と。そうした状況をどのように乗り越え、心の癒やしをたどってきたのか。それは、この場所に光が注がれていると信じることによってです。

それはこの捕囚の民も同じでした。遠く離れたエルサレムから1,000キロも離れたこの場所にも光が注がれていると信じることができたからこそ、これが彼らに与えられている神の深いご計画だと信じることができたからこそ、彼らは耐えることができたのです。

それは私たちも同じです。あなたにも神の光が注がれています。神はあなたのために最善の計画を持っておられるのです。それはわざわいではありません。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それによってあなたは揺るぎない信仰を築くことができます。そういう経験がなかったら、あなたはこういう信仰にはならなかったでしょう。ですから、これが神の計画であると信じて、浮足立つのではなく、夢見る者には気を付けて、置かれたその所で地に足を付けて、落ち着いた生活を心がけなければなりません。そこで神を呼び求めなければならないのです。そうすれば、あなたは神を見出すようになるでしょう。そして、やがて70年がやって来ますよ。その時あなたは信じられない奇跡を見ますよ。あなたの思いをはるかに超えた神の不思議を見るようになるのです。神があなたがたに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものであると信じて、主に感謝しましょう。そして、主がなされる信じられない御業を待ち望みましょう。


Ⅱ列王記21章

 

マタイ6章25~34節「まず神の国と神の義を求めなさい」

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主の2024年、明けましておめでとうございます。皆さんは、どのような思いで新年を迎えられたでしょうか。こうしてこの新しい年も主への賛美と礼拝をもって始めることができることを感謝します。
  毎年1年の始まりの時に、今年神様は教会にどんなことを願っておられるのかと祈り求めますが、しばらく前から私の中に与えられていたみことばが、マタイ6章33節のみことばでした。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
  今年は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めなさい、というテーマで歩みたいと願っています。でも、神の国と神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。このみことばはクリスチャンであれば1度は聞いたことがある有名なみことばですが、その意味を知っているかどうかは別です。今日は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めるということについて3つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神の国を第一に求めるとは(33)

まず、神の国を第一に求めるとはどういうことかについて考えてみたいと思います。皆さん、神の国を求めるとはどういうことですか?「神の国」とは「天国」とか、「御国」とも言われますが、昨年の賛美フェスタのテーマもこれでしたね。「御国がこの地に」でした。神の御国がこの地に来ますようにというテーマでした。それは何を意味しているかというと、「神の支配」のことです。神の支配がこの地にありますように、ということです。すなわち、神の国とは「神が支配するところ」のことです。ですから、もし私たちが心から神を信じ、神に従いたいと願い、そのように生きるなら、そこが神の国となるわけです。神を信じ、神に従う人の心に神の国が宿るのです。それは目には見えませんが、目に見える形となって実際に現れます。

イエスは神の国はパン種のようだと言われました。パン粉にパン種を入れるとどうなりますか?それはパンパンに大きく膨らみます。それと同じように、神の国も目には見えないほど小さなものですが、それが私たちの心に入ると大きく膨らんで行くのです。
  また、イエスは神の国はからし種のようだとも言われました。皆さんは、からし種を見たことがありますか?私はイスラエル旅行に行った方が現地で購入したというからし種を見せてもらったことがありますが、本当に小さな種です。胡椒のように小さい種ですが、それが生長すると3~4メートルもの大きな木になるのです。

このように神の国は目に見えない小さなものですが、これが私たちの中に宿すと大きな力をもって広がっていきます。それはイエスがこの地上でなされた御業を見ればわかります。イエスは目の見えない人の目を開かれ、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにし、足の萎えた人を癒されました。ヨハネの福音書5章には、38年間も病気で伏せていた人を癒されたことが記されてありますが、それはどういうことかというと、神の国が地上に来ているということを表していました。イエスが来られたことによって神の国がやって来たのです。ですから、イエスはこう言われたのです。「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」(マタイ4:17)
  「天の御国が近づいた」。どのようにして近づいたのでしょうか?イエスが来られたことによってです。イエスは神の国をもたらすためにこの地上に来てくださったのです。それは目に見えないほど小さなものですが、神の力となって現れました。それは、死んでから入るところだけでなく、生きている今、この地上で体験することができるもの、神が支配しているところなのです。

では、この神の国を第一に求めるとはどういうことでしょうか?これは自分の力でたぐり寄せるということではありません。神の国は人間の力でたぐり寄せることができるようなものではないからです。その必要もありません。神の国はそれ自体、力をもって私たちのところにすでに押し寄せてきているからです。この神の国を謙虚に受け入れることです。そして、神がこの世のすべて治め、生きて働いておられると信じて、神に賭けるというか、へりくだって神を求め、神に祈り、神に信頼して生きることです。

この正月にディボーションでエズラ記を読みました。ペルシャの王キュロスの命令によってバビロンからエルサレムに帰ったユダの民は、さまざまな妨害に遭いながらもついに神殿建設を完成しました。そして神はアルタクセルクセス王の心を動かし、神の律法を行わせるためにエズラをリーダーとする一団をエルサレムに遣わします。その数男だけで1500人、女、子供も合わせると3,000人に達しました。バビロンからエルサレムまでは約1,450キロと、かなりの長旅です。しかも彼らは現在の価値で約10億円もの金や銀を持っていました。どこで敵に襲われるかわかりません。しかし、エズラは道中の敵から自分たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めませんでした。それは、神は、神を尋ね求めるすべての者を守ってくださると信じていたからです。それで彼はこのことのために断食して祈り、へりくだって、道中の無事を神に願い求めました。すると、神は彼らの願いを聞き入れてくださいました。神の恵みの御手が彼らとともにあったので、その道中、敵の手、待ち伏せしている者の手から救い出していただくことができたのです。このように、へりくだって神を求め、神に祈り、神に賭ける信仰、それこそ、神の国を第一に求めるということなのです。

よく「神さまとか、信仰とか言っても、それは余裕のある人がすることであって、現実はもっと厳しいですよ」と言うことを聞くことがあります。確かに現実は厳しいものです。だからこそその厳しい現実の中で、さらに確かな神の国の現実に目を留めるために、私たちはこうして教会の礼拝に来たり、互いに交わりを持って励まし合っているのではないでしょうか。どんな苦しみの中でも神が生きて働き、この世を支配しておられるということを信じるためです。自分自身との格闘の中で、人生を導いてくださる神に自分を明け渡していく。それが「神の国を求める」ということなのです。それを第一に求めなければなりません。

Ⅱ.神の義を第一に求めるとは(33)

では、神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。イエスは、まず神の国を求めなさいと言われただけでなく、神の義を求めなさいとも言われました。「神の義」とは何でしょうか。それは、神の前での正しさのことです。ローマ14章17節に、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」とあります。神の国は「聖霊による義と平和と喜び」です。ですから、正しくない人は、神の国に入ることが出来ません。では、人はどうしたら神の前に正しい者、義と認めていただくことができるのでしょうか。

ここで注目したいのは、マタイ5章20節のみことばです。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」
  イエスは、あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、決して天の御国に入れない、と言われました。どういうことでしょうか?律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書の律法を守ることによって神の前に義と認められると考えていました。それで彼らは一つの掟にいくつもの細則を付け加え、膨大な規則集を作りあげました。その数なんと六百以上もあったと伝えられています。そして、彼らはそれを守っていると自負していました。だから、自分たちは正しい者であって、神の国にふさわしい者だとうぬぼれていたのです。でも、彼らは最も大切な戒めを忘れていました。最も大切な戒めとは何ですか。そうです、申命記6章5節のことばですね。「シェマー」、「聞きなさい」ということばで有名なみことばですね。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」です。また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という戒めも、これと同じように大切です。すなわち、神と隣人を愛するということです。これが律法の中心であり、戒めの中で最も大切なものなのに、これを忘れていたのです。つまり、彼らは自分では聖書の戒めを守っていると思っていましたが、それは形式的なものにすぎなかったということです。それでイエスは「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国にはいることはできない」と言われたのです。それは律法学者やパリサイ人たちのようにうわべだけを取り繕ったもの、つじつま合わせをしただけのものではなく、神の目にどうなのか、神の目に正しい者、神に義と認められる者でなければならないということです。

でも、どうでしょうか。神に義と認められるということは簡単なことではありません。たとえば、その後のところでイエスは、「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:20-21)と言っておられますが、この観点から見たら、私たちは皆お手上げではないでしょうか。確かに私たちは人を殺すようなことなどしません。でも、兄弟に対してはよく「ばか者」とか「愚か者」と言っていないでしょうか。私などはしょっちゅうですよ。嫌なことや変なことがあると、つい心の中で「ばかだなぁ」と思ってしまいます。だから、私は最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれてしまいます。私だけではありません。皆さんだってそうです。兄弟に対して腹を立てない人がいますか?兄弟にひどいことを言われ放題言われたら、「いい加減にして」と腹を立てるじゃないですか。「バカ野郎」とか「マヌケ」と言うんじゃないですか。ですから、皆さんもアウトです。最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。だから聖書は「義人はいない。一人もいない。」ローマ3:10)と言っているのです。
  しかし、律法学者やパリサイ人たちは、そのことに気付いていませんでした。そして自分は正しい者であって、神の国にふさわしい者だと錯覚していたのです。そういう律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、私たちも決して天国に入ることはできません。では、どうしたらそのような義を持つことができるのでしょうか。

神が与えてくださる義を求めなければなりません。神の目から見れば正しい人など一人もいません。しかも、だれも自分でその不義をきよめることはできないのです。今、旧約聖書のエレミヤを学んでいますが、エレミヤ書には、それは豹がその斑点を変えることが出来ないのと同じだと言われているとおりです(エレミヤ13:23)。しかしそのような私たちのために神はイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。キリストが私たちの罪を負い、十字架で死なれたことによって、罪人の私たちが義と認めていただくためです。神はご自分のひとり子を罪人として死なせることによって、御子イエスを信じる者にイエスの持っておられた義を与えてくださるのです。私たちの罪がキリストのところに行き、キリストの義がわたしたちのところに来るためです。神はイエス・キリストを信じる者が罪を赦され、神の前に正しい者として立つことができるようにしてくださったのです。私たちが求めるべき「神の義」とは、この義、神が与えてくださる「イエス・キリストの義」なのです。

この「神の義」をまず求めなければなりません。神の国が信仰によって受け取るものであるように、神の義も信仰によって受け取るものです。イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と言われました。罪ある私たちは神の国から遠く離れていました。しかし、神の国が罪の赦しと神の義を伴って、罪ある私たちのところ来てくださいました。ですから私たちは自分の不義を認め、告白し、悔い改め、へりくだった心でこれを受け取らなければなりません。そして、その義に生きることを求めなければなりません。

イギリスに一人の尊敬されている軍曹がおりました。とても立派なのである人が「どうしてそのように人から好かれるようになったのですか」と尋ねると、「つい最近まではそうではなかったのです」と答えると、それがどうしてそうなったのかを話してくれました。彼の部隊に一人だけクリスチャンがいたそうです。そのクリスチャンは他の人からの嫌がらせを受けていましたが、じっと耐えていました。ところがある時、この軍曹の隣に寝ることになりました。彼はいつも寝る前に祈りの時間を持っていました。軍曹は軍隊の重い靴で彼の頭を叩いたそうです。でも彼は何もいいませんでした。そればかりか次の朝起きて見ると自分の靴が綺麗に磨かれておいてあったのです。それを見た時この軍曹は、自分は負けたと思いました。軍曹は即座にイエス様を信じ、その時から変わったのです。

イエスはこう言われました。「43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)

これが神の義を求めるということです。それは私たちにはできないことです。しかし、神の義であられるイエス・キリストによって与えられた義によって、私たちはこの義に生きることができるのです。

Ⅲ.まず神の国と神の義を第一に求める(33)  

第三のことは、まず神の国と神の義を求めなさい、ということです。イエスは、この神の国と神の義をまず、第一に求めなさい、と言われました。どういうことでしょうか?これを最優先にしなさいということです。この優先順位がとても重要です。私たちは、自分の中にある優先順位に従って生きています。私たちの人生には、大切なものがたくさんあります。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかといったこともそうですし、それに加えて経済的な問題や対人関係の悩み、健康上の問題、仕事ことそうです。そんな時そうした目の前の問題で頭がいっぱいになり、神様のことがどこかに吹っ飛んでしまうことがあります。優先すべき順序が逆になり、生活する上で必要な様々なものを第一に求めてしまうのです。そのために走り回り、あたふたし、不安に呑み込まれ、不安が不安を呼び、思い煩いでどうにもならなくなってしまうことがあります。でも聖書はこう言っています。「まず神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

それは、他のことは何もしなくても良いということではありません。学生なら勉強に専念しなければなりませんし、仕事を持っている人ならしっかり働かなければなりません。英語に “bring home the bacon” ということわざがあります。しっかり働いて家族を支えるという意味です。イエスが「まず、第一に」と言われたのは、第二、第三にも、果たすべき義務があることを示しています。ある修道院の記録映画を観ましたが、山奥でくらす修道士たちでさえ、祈りの生活の他に労働の時間があって、それで日々の糧を得ていました。また、スポーツや趣味を楽しむ時間も持っていました。神の国と神の義を求めるということは、神がお与えくださったこの世での義務や、私たちのこころやからだに必要なものを無視するということではないのです。それは、神の民として生き、神に仕えることを第一にする、神の義という、私たちにとって一番必要なものをまず第一にすることです。そして、神のことを第一にするとき、その後に続くさまざまな義務は、感謝と喜びをもって果たすことができるようになります。その他の必要もおのずと満たされていくのです。

その他の必要とは、たとえば何を食べるかとか、何を飲むか、何を着るかといったことです。神の国とその義とを第一に求めるなら、神はそれに加えて、これらのものをすべて与えてくださいます。なぜなら、天の父である神様は、これらのものが私たちに必要であることを知っておられるからです。空の鳥を見てください。種まきもせず、刈り入れもしません。倉に納めることもしない。でも、天の父はこれを養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があります。野の花を見てください。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、どうしてあなたがたのためには、もっと良くしてくださらないことがあるでしょうか。神は、ご自身の国とその義を第一にする者を、守ってくださるのです。

クリスチャンの実業家で五十嵐健治さんと言う方がおられました。彼はクリーニング業界最大手の「白洋舎」の創業者です。それまで三越に勤めていた彼がなぜ洗濯屋を家業としたのか。その転身した一番大きな理由は、「日曜礼拝や伝道に妨げにならないもの」でした。さらに、キリスト教倫理観として「嘘や駆け引きのいらぬもの」「人の利益となって害にならぬもの」でした。彼はその創業にあたり、次のように言っています。「汚れた罪を一身に引き受けて、十字架の苦しみと恥辱を受け給うキリストを思ったとき、自分のごとき人間が人様の垢を洗うことが何で恥ずかしいことがあろう。洗濯業は神から与えられた職業である。」と。そして、汚れたもの清潔にし、破れたるものを繕い、以て衛生に資し、家庭経済を助けるものと考えて、1906年に日本橋呉服町に開業したのです。
  彼は自分のお店を持つとき、教会の近くがいい、そうしたら、祈り会などに参加できるからと考え、教会の近く、川の土手沿いの物件を手に入れました。そこは町から遠く、「そんなところで店を開いても、お客さんは来ないよ」と回りの人から言われたそうです。ところが、しばらくたって、川の土手が整備されて、自転車や歩行者のための道路になりました。大勢の人がその道を利用して、通勤、通学をするようになりました。それで、彼の店に立ち寄るお客さんが増えました。彼の丁寧な仕事が評判になり、さらに多くの固定客を得るようになりました。この人の、もっと神に近づきたい、神のことを第一にしたいという思いが報われ、目に見える形でも祝福が与えられたのです。神の国と神の義を第一にする人には、この世においても大きな祝福が与えられるのです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」第一のことが第一になるなら、第二、第三のことは、かならず備えられていきます。それはほんとうのことです。イエスは私たちを、この祝福の人生へと招いていてくださっています。この一年、この神の国と神の義を第一に求めていきましょう。主のみことばに従い、神の国の義と平和と聖霊による喜びで満たされた一年となるように祈り求めていきたいと思います。

エレミヤ28章1~17節「神のことばにとどまるように」

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聖書箇所:エレミヤ書28章1~17節(エレミヤ書講解説教51回目)
タイトル:「神のことばにとどまるように」
今日は、今年最後の礼拝です。この一年も教会とそれぞれの生活においていろいろなことがありましたが、すべてが主の恵みと信じて、主に感謝し心から御名をあがめます。
今年最後の礼拝で主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書28章のみことばです。ここには、エレミヤとは全く異なる預言をしていたハナンヤという預言者が登場します。今日は、このにせ預言者ハナンヤとエレミヤとの対決を通して、私たちが拠り頼むものは何か、それは神のみことばであるということ、だからこのことばにとどまるようにというお話したいと思います。
Ⅰ.人を喜ばせようとするのではなく神を(1-4)
まず、1~4節をご覧ください。「1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、【主】の宮で、祭司たちと民全体の前で、私に語って言った。2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを砕く。3 二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪い取ってバビロンに運んだ【主】の宮のすべての器をこの場所に戻す。4 バビロンに行ったユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの場所に帰らせる──【主】のことば──。わたしがバビロンの王のくびきを砕くからだ。」」
「その同じ年」とは、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年のことです。ゼデキヤが王として即位したのはB.C.597年ですから、これはB.C.593年になります。ギブオン出身の預言者で、アズルの子ハナンヤが、主の宮で、祭司たちと民全体の前で、エレミヤに語って言いました。イスラエルの神、万軍の主は、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを砕き、2年のうちに、彼がこの場所、これは主の宮、エルサレム神殿のことですが、ここから奪い取ってバビロンに運んだすべての器をこの場所に戻すと。そればかりではありません。バビロンに連れて行かれたユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、この場所に帰らせると。彼の預言は、ユダの民にとって喜ばしい内容でした。しかも「2年のうちに」ということばは、明るい兆しを感じる魅力的なものです。でもこれはエレミヤが預言したこととは異なることでした。エレミヤは何と言っていましたか。25章11~14節をご覧ください。エレミヤはこのように預言していました。
「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」
エレミヤが預言していたのは「2年のうちに」ではありません。70年の終わりに、です。ユダの民は廃墟となって荒れ果て、バビロンの王に70年間仕えようになります。その70年の終わりに、主はバビロンの王とその民を彼らの咎のゆえに罰し、永遠に荒れ果てた地とし、代わりにペルシャの王クロスを用いて、ユダの民が元の場所に帰ることができるようにするというものでした。それが27章22節で言われている「わたしがそれを顧みる日」のことです。それまでバビロンの王によって運び去られた主の宮の器はそこにありますが、70年後に主がユダを顧みられる日に、主はそれらを携え上り、この場所エルサレムに戻すようにするのです。それが、主がエレミヤを通して言われたことでした。だから2年のうちにではないのです。70年後のことです。最初のバビロン捕囚があったのはB.C.609年ですから、それから70年後というのは、B.C.539年になります。
果たしてどちらの預言が正しかったでしょうか?歴史を見ればわかります。ハナンヤが言った「2年のうちに」というのは偽りでした。むしろ、その数年後のB.C.586年には3回目のバビロン捕囚が行われることになります。その時エルサレムは陥落し、神殿は完全に崩壊することになります。主の宮にまだ残っていた器も、すべてバビロンに運び去られることになるのです。つまり、ハナンヤの預言は間違っていたということです。彼はにせ預言者でした。それなのに彼はエレミヤを捕らえて祭司たちと民全体の前で、エレミヤが間違っていると豪語しました。2年のうちにバビロンの王のくびきは砕かれ、バビロンがエルサレムから奪い取ったものはすべて戻されるし、すべての捕囚の民も帰るようになると言ったのです。
この両者の名前には、どちらにも「ヤ」が付いていますが、これは「ヤダー」の「ヤ」ではなく、「ヤハウェ」の「ヤ」です。つまり、主の御名で語る者です。それなのに、預言の内容は全く違うものでした。しかも、ハナンヤは「ギブオンの出身の預言者」とありますが、ギブオンはエレミヤの出身地のアナトテと同じベニヤミン族の領地にある祭司の町でした。ですから、彼はエレミヤと同じように祭司の家系だったのではないかと思われます。エレミヤと同じようなバックグランドを持っていた彼が、エレミヤとは全く違う預言をしていたのです。
さらに2節を見ると、彼は「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる」と言っていますが、本物の預言者が使うような言い回しをしています。それがあたかも本当に主から出たことばであるかのように語っていたのです。
でも、一つだけ違いがありました。それは何かというと、エレミヤは主が語れと言われることを語ったのに対して、ハナンヤは民が聞きたいことを語ったという点です。人々が望むようなことばかり、都合の良いことばかり、耳障りの良いことばかり語っていたのです。ホッ、ホッ、ホタル来い、ではありませんが、彼の言葉は甘い言葉の集大成のようなものだったのです。
しかし、真の預言者は人を喜ばせようとして語るのではなく、神に喜んでいただこうと語らなければなりません。Ⅰテサロニケ2章3~4節にこうあります。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」
人を喜ばせようとしてではなく、神を喜んでいただこうとして語る。これが真の預言者です。つまり、焦点がだれに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。人を気にすると、文字通り人気取りになってしまいます。でも私たちが気にしなければならないのは人ではなく神です。神に喜ばれているかどうか、神がどう思っていらっしゃるのか、ということです。私たちはついつい人に喜ばれたいことを語ってあげたいと思いますが、それでは本末転倒になってしまいます。
先日、以前大田原教会のメンバーで、仕事でオーストラリアのパースに移られた西田兄が、15年ぶりに来会されました。ずっと日本で働きたいと願っていましたがその願いが叶い、家族をパースに残し、今年東京で働くようになりました。オーストラリアというとワーシップで有名なメガ・チャーチが各地にありますが、その教会に行っているのではないかと思い尋ねると、以前はそこに行っていましたが、今は違うシンガポール系の教会(Faith Community Church)に行っているということでした。なぜなら、毎週の礼拝のメッセージがいつも同じで、どちらかといえば求道者やクリスチャンになったばかりの人に受け入れやすくい内容ばかりで、聖書からの教えがなかったからです。じゃ、スモール・グループに行けば聖書を学ぶことができるかなと思って行ってみると、そこでもお茶を飲んで楽しく雑談するだけで聖書の学びがありませんでした。それでもっと聖書をしっかり教えている教会に行こうと、現在の教会に導かれたということでした。
確かに求道者に配慮することは大切ですが、あまりにも配慮しすぎるあまり、本来配慮しなければならない神がどこかに行ってしまうことがあります。よく教会は敷居が高いと言われますが、敷居が高いとはどういうことなのでしょうか。それは求道者を意識しての視点です。求道者ができるだけ心地よく礼拝に参加できるように、彼らが興味を持ってくれるような話題とか聞きたいと思っているような話を、できるだけおもしろく、おかしく、たまにジョーク混ぜながらお話しできたらいい。ひどいのになると聖書も使わない方がいいんじゃないかと言う人もいます。聖書は難しいから。最初から礼拝に来ると難しいと感じて躓いてしまうから、最初はクッキングクラスとかコンサートなどに誘った方がいいんじゃないですか。そうすれば敷居が低くなって求道者も気やすくなるから。
皆さん、どう思いますか。もちろん宣教の方策として、礼拝以外のこうした集会を持つことはあると思いますが、私たちが伝道する目標点を見失わないように注意しなければなりません。焦点がどこに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。私たちは人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを求めなければならないということです。では神が喜んでおられることは何か。勿論、神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それだけではありません。それは一つの通過点にすぎないからです。神が望んでおられることはすべての人が救われて真理を知るようになるだけでなく、救われた人がその救いにとどまっていること、そして今度は神に向かって生きるようになることです。神を喜び、永遠に神をほめたたえて生きる神の民となることなのです。それなのにいくらクッキングクラスで人を救いに導き、教会形成に向かおうとしても、それは容易なことではありません。目標点が違うからです。自分の喜びや楽しみと神の栄光とでは、全然違います。
ですから、私たちはその目標点見失ってはいけないわけです。そのためにはどうしても神のみことばが必要となります。なぜなら、「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができる」(使徒20:32)からです。ですから、大切なのは敷居を低くすることでなく、誰に喜んでもらうのかということです。人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを考え、求めなければなりません。
Ⅱ.平安を預言する預言者について(5-9)
それに対してエレミヤは何と言いましたか?5~9節をご覧ください。「5 そこで預言者エレミヤは、【主】の宮に立っている祭司たちや民全体の前で、預言者ハナンヤに言った。6 預言者エレミヤは言った。「アーメン。そのとおりに【主】がしてくださるように。あなたが預言したことばを【主】が成就させ、【主】の宮の器と、すべての捕囚の民をバビロンからこの場所に戻してくださるように。7 しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語ろうとするこのことばを聞きなさい。8 昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの地域と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病を預言した。9 平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に【主】が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」」
エレミヤは、ハナンヤのことばに対して「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。」と言いました。これはエレミヤがハナンヤの語ったことばに同意しているのではありません。自分もハナンヤの預言どおりになることを望まないわけではない。主が祖国に祝福をもたらすことをどんな願っていることか。バビロンによって奪い去られた主の宮の器とすべての捕囚の民をバビロンからこの場所にすぐに戻してくれることをどんなに願っていることか、という意味です。
しかし、主が語っておられることはそういうことではありません。主が語っておられることは、この民に戦いとわざわいと疫病がもたらされるということです。つまり、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということです。バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える人々を、主はその土地にとどまらせるということでした。それは昔から、エレミヤと、彼の先に出た預言者たちの預言と一致していて、これこそ主から出た主のことばです。
しかし、ハナンヤはそれとは異なり、平安を預言しました。平安を預言すること自体は問題ではありません。問題は、それが本当にもたらされるかということです。平安を預言する預言者については、その預言のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だということが証明されるのであって、その預言の成就を待たなければなりません。どんなに人々が喜ぶ内容でも、それが成就しなければ空しいことになります。人はハナンヤのように、周囲の人たちの願望を、まるで神からのことばであるかのようにすり替えてしまうことがあります。しかし、エレミヤは人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別することができました。ここが重要なポイントです。人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主からのことばを語らなければなりません。
エレミヤは平安が来ないと言っていたのではありません。27章7節で彼は「彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。」と預言していました。「彼」とはバビロンの王ネブカドネツァルのことです。すべての国が彼に仕えるのは、「彼の地に時が来るまで」です。それまでは彼とその子と、その子の子に仕えますが、しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。「その子の子」とは、ネブカデネツァルの孫のベルシャツァル王のことです。その時代になるときまで、ユダはバビロンに仕えますが、その時が来れば、そこから解放されるようになります。平安が来ると預言したのです。エレミヤは、平安は真の悔い改めと、神との契約に対して従順でなければ来ないことを知っていたのです。ハナンヤのような平安の預言は、むしろ真の悔い改めを妨害するもの以外の何ものでもありません。
今の時代でも、平安を安売りする預言者がたくさんいます。エレミヤのこうした態度から、私たちも学ぶ必要があります。私たちも人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主が望んでおられることが何なのかを知るために、この世と調子を合わせるのではなく、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるように、心を新たにしていただかなければなりません。
Ⅲ.偽りに拠り頼まされないように(10-17)
第三のことは、だから神のことばにとどまるようにということです。10~17節をご覧ください。10~11節をお読みします。「10 しかし預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。11 そしてハナンヤは、民全体の前でこう言った。「【主】はこう言われる。このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。」
ハナンヤはエレミヤが語ったことばを聞いて、よほど激怒したのでしょう。エレミヤの首についていた木のくびきを取って砕いてこう言いました。「主はこう言われる。このとおり、わたしは2年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」(11)
これは1つのデモンストレーションです。覚えていますか?27章2節で、主はエレミヤに「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。」と言われたことを。それは、ユダがバビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということでした。ですから、エレミヤの首には木のかせが付いていたのですが、ハナンヤはそのかせを砕き、「このとおりになる」つまり、バビロンのくびきから解放されると言ったのです。
それに対して、エレミヤは何と言いましたか?彼は何も言いませんでした。何も言わないで彼はそのままそこを立ち去ったのです。これは賢いことです。別に対抗することはないからです。時期に明らかになるでしょう。どちらが正しかが。
でもエレミヤが語らなくても、主が語ってくださいました。12~14節をご覧ください。「12 預言者ハナンヤが預言者エレミヤの首からかせを取って砕いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「行って、ハナンヤに次のように言え。『【主】はこう言われる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。14 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らは彼に仕える。野の生き物まで、わたしは彼に与えた。』」
主が言われたことは、ハナンヤは木のかせを砕いたが、その代わり鉄のかせを作ることになるということでした。ユダは捕囚から解放されるどころか、より深刻な事態を迎えるようになるということです。ハナンヤの預言は、神の民に自由ではなく、鉄のくびきをもたらすものとなるのです。「鉄のくびき」とは、「木のくびき」に比べ、一層厳しい状況になることを象徴していました。
そこでエレミヤは、ハナンヤにこう言いました。15~16節です。「ハナンヤ、聞きなさい。【主】はあなたを遣わされていない。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。16 それゆえ、【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたを地の面から追い出す。今年、あなたは死ぬ。【主】への反逆をそそのかしたからだ。」
ハナンヤがしたことは、民を偽りに拠り頼ませるということでした。主ではなく、偽りに拠り頼ませたのです。恐ろしいですね。民を何に拠り頼ませるかは、預言者に託された大きな責任です。だから、主は彼をこの地の面から追い出されるのです。彼はその年のうちに死ぬことになります。ハナンヤは2年のうちに、ユダの民は解放されると預言しましたが、皮肉にも彼はこれを預言した2か月後に死ぬことになるのです。恐ろしいですね。というか、預言者の働きがどれほど重大であるかがわかります。もしエレミヤが語ったこのことばが成就しなかったら、エレミヤがにせ預言者となって殺されなければなりません。本当に預言者の働きは厳粛な働きだなぁと思います。だからこそ、牧師、伝道者、宣教師のためにとりなしの祈りをささげてほしいのです。民を偽りに拠り頼ませるのではなく、主に拠り頼ませるために、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただくために、神のことばを語ることができるように。
17節をご覧ください。「17 預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死んだ。」預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死にました。1節には、彼がこれを語ったのは「第四年の第五の月」とありますから、彼はこれを語ったわずか2か月後に死んだことになります。2年ではなく2か月後に死んでしまったのです。エレミヤはハナンヤに、「今年、あなたは死ぬ」と預言しましたが、エレミヤが預言したとおりになりました。これは、エレミヤが真の預言者であることが証明されたということです。そして、にせ預言者の最期は、このように空しいものです。
このエレミヤの時代と私たちの時代は、そうかけ離れていません。主イエスも言われたように、今は終わりの時代ですから、にせ預言者がそこかしこに横行しています。もしかすると、私たちはそれを知らずに信奉しているかもしれません。ネットでたまたま見た有名な牧師の話を間に受けたり、ベストセラーの本を読んで虜になったりして。魅力的な集会に飛びついて、喜んで参加して、ハナンヤのようなにせ預言者に騙されていることん゛あるかもしれません。いつの間にか、偽りに拠り頼むようにさせられているかもしれないのです。その背後には、偽りの父と言われているサタンの存在があることも忘れてはなりません。サタンは光の御使い、天使のように変装してやって来ます。義のしもべの姿でやって来るのです。
ですから、しっかりと霊を見分けて、この時代のしるしを見分けて、ますますもって主のことばに目を留めなければなりません。これは、昔から変わらないものです。ここから離れたら神から離れてしまうことになります。もし、にせ預言者に惑わされていたり、騙されたりして、偽りに拠り頼んでいたという人がいたら、もう一度主の言葉に立ち返って、これからはエレミヤのように終わりの時代になっても神のことばをしっかりと受け取って、それを誰に対しても恐れずに語っていく者になってほしいと思います。たとえそれで自分にとって不利益に働いたとしても、エレミヤが語り続けたように、神のことばにとどまり、神のことばをまっすぐに語り続ける者でありたいと思うのです。
今日は、今年最後の礼拝となりましたが、この最後の礼拝において主が私たちにチャレンジしておられることは、昔から変わらない、いつまでも変わらない神のことばにしっかりととどまり続けるように、この神のことばに生きるようにということです。それが古いようで新しいいつまでも新鮮に、私たちが主のうちにとどまっている秘訣であるということです。新しい年も、この神のことばにとどまって神に喜ばれる道を歩ませていただきましょう。

Ⅱ列王記20章

 Ⅱ列王記20章から学びます。

 Ⅰ.ヒゼキヤの病気(1-7)

まず、1~7節をご覧ください。「1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「【主】はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』」2 ヒゼキヤは顔を壁に向け、【主】に祈った。3 「ああ、【主】よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。4 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような【主】のことばが彼にあった。5 「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、【主】はこう言われます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。あなたは三日目に【主】の宮に上る。6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。』」7 イザヤが「ひとかたまりの干しいちじくを持って来なさい」と命じたので、人々はそれを持って来て腫物に当てた。すると彼は治った。」

「そのころ」とは、エルサレムがアッシリアの王セナケリブの攻撃から守られた直後のころです。主はヒゼキヤの祈りに応え、アッシリアの陣営に主の使いを送り、一晩のうちに18万5千人を討ち殺しました。そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていました。すると、預言者イザヤが彼のところへやって来てこう言いました。「主はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』」

それを聞いたヒゼキヤは、顔を壁に向けて大声で泣きながら主に祈りました。「ああ、【主】よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」(3)

ヒゼキヤはこの時40歳でした。息子のマナセがまだ幼かったことや敵の侵攻を受けていたエルサレムの窮状を考えると、死んでも死にきれないと思ったのでしょう。あるいは、死ぬにはまだ若すぎる、もっと長生きしたいと思ったのかもしれません。ヒゼキヤは、この祈りの中で、これまで自分がいかに忠実に主の御前を歩んできたかを訴えています。

するとすぐに主からの答えが来ました。「イザヤがまだ中庭を出ないうちに」というのは、そのことを表しています。主はイザヤに、引き返して、ヒゼキヤにこう告げるようにと伝えました。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。あなたは三日目に【主】の宮に上る。6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。」(5-6)

主はヒゼキヤの祈りを聞かれました。彼の涙も見られました。これは慰めです。祈っても何の答えもないと、私たちはついつい主は私の祈りを聞いておられないのではないかとか、私のことなど忘れておられるのではないかと思い悲しくなってしまいますが、そうではなく、主はちゃんと私たちの祈りを聞いておられ、私たちの心を、私たちの涙も見ておられるのです。ヒゼキヤの病気は癒され、三日目に主の宮に上るようになります。主は彼の寿命にさらに15年を加えてくださるというのです。そればかりか、アッシリアの王の手から彼とエルサレムを救い出すと言われました。なぜでしょうか。その後のところにこうあります。「わたしのしもべダビデのために」。主はかつてダビデと約束したことのゆえに、ご自分の都エルサレムを守られるというのです。主は約束されたことを忠実に果たされる方、どこまでも真実な方なのです。

ヒゼキヤの信仰と祈りのゆえに、神は彼を癒し、エルサレムをアッシリアの侵攻から守られました。前732年~640年の約100年に及ぶ歴史の中で、善王はヒゼキヤただ一人でした。しかし、たった一人の善王が、ユダの歴史に大きな祝福をもたらしたのです。私たちも信仰者としては社会の中では少数かもしれませんが、ヒゼキヤのように信仰と祈りをもって神に向かうなら、大きな祝福をもたらす器になることができるのです。

7節をご覧ください。するとどうなりましたか?イザヤが「ひとかたまりの干しいちじくを持って来なさい」と命じたので、人々はそれを持って来て腫物に当てると、彼は治りました。干しいちじくという果物が癒したということではなく、癒したのはあくまでも主なる神さまです。確かに当時腫物の治療薬として干いちじくが用いられていましたが、この癒しは干いちじくによってもたらされたのではなく、神の方法によって起こったものです。神は、自然界にあるものを用いてヒゼキヤの病気をいやされたのです。ヒゼキヤの信仰と祈りに神が答えてくださったからです。

Ⅱ.神からのしるし(8-11)

次に、8~11節をご覧ください。「8 ヒゼキヤはイザヤに言った。「【主】が私を癒やしてくださり、私が三日目に【主】の宮に上れるしるしは何ですか。」9 イザヤは言った。「次のことが、あなたへの【主】からのしるしです。【主】は約束したことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」10 ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度後に戻るようにしてください。」11 預言者イザヤが【主】に祈ると、主は、アハズの日時計に落ちた日時計の影を十度後に戻された。」

ヒゼキヤは、主が語られたことが本当に起こることなのかどうかを知るためにしるしを求めました。「しるし」とは証拠としての奇跡です。このようにしるしを求めることは、イスラエルでは珍しいことではありませんでした。士師6章には、ギデオンがしるしを求めたことが記されてあります。ミデアン人との戦いが本当に主から出たことなのかを知るたるめです。すると、主はその求めに応えてくださいました。ですから、しるしを求めること自体は悪いことではありません。問題は、それを信じないことです。ヒゼキヤは信じました。

主が彼を癒してくださり、三日目に主の宮に上れるしるしは何でしょうか?それは「影が十度進むか、十度戻るか」(9)です。これは、11節にあるように「アハズの日時計」のことです。アハズの日時計とはアハズの時代に作られた日時計ですが、それが十度進むか、それとも十度戻るか、です。影が前に進むのはあり得ることですが、後に戻ることはあり得ないことです。ですから、ヒゼキヤは影が十度後に戻ることを求めました。彼はより困難で、より劇的なしるしを求めたのです。かつて、ヨシュアはアモリ人との戦いにおいて、太陽が1日沈まないようにと祈りましたが、それと同じです。これは、創造主なる神だからこそできる奇蹟であって、通常では起こり得ないことです。ヒゼキヤは、それを求めたのです。

イザヤが主に祈ると、どうなったでしょうか?主は、アハズの日時計に落ちた日時計の影を十度後に戻されました。ヒゼキヤに約束されたことが実現することを示してくださったのです。

私たちの主、私たちの神は、何と優しいお方でしょうか。しるしを求めないと信じられない信仰の弱いヒゼキヤの求めにも応え、彼の信仰を強めるために役立たせてくださったのですから。でも、この原則を新約時代に生きる私たちに適用するのは慎重でなければなりません。いま私たちには、神の啓示の完成形である聖書が与えられているからです。大切なのは、神が聖書を通して語っておられるみことばを信じることです。主イエスは、復活を信じられなかったあの疑い深いトマスにこう言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」大切なのは、見ないで信じることです。主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は何と幸いでしょうか。私たちも主によって語られたことは必ず実現すると信じなければなりません。

Ⅲ.祈りの答え(12-21)

次に、12~21節をご覧ください。「12 そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは使者を遣わして、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。ヒゼキヤが病気だったことを聞いていたからである。13 ヒゼキヤは彼らを歓迎して、すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。14 預言者イザヤはヒゼキヤ王のところに来て、彼に尋ねた。「あの人たちは何と言いましたか。どこから来たのですか。」ヒゼキヤは「遠い国、バビロンから来ました」と答えた。15 イザヤは言った。「彼らはあなたの家で何を見たのですか。」ヒゼキヤは答えた。「私の家の中のすべての物を見ました。私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は一つもありません。」

16 イザヤはヒゼキヤに言った。「【主】のことばを聞きなさい。17 見よ。あなたの家にある物、あなたの父祖たちが今日まで蓄えてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日々が来る。何一つ残されることはない──【主】は言われる──。18 また、あなたが生む、あなた自身の息子たちの中には、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者がいる。」19 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた【主】のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるのではないか、と思ったのである。

20 ヒゼキヤについてのその他の事柄、彼のすべての功績、彼が貯水池と水道を造り、都に水を引いたこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。21 ヒゼキヤは先祖とともに眠りにつき、その子マナセが代わって王となった。」

「そのころ」とは、ヒゼキヤが病気から快復した直後のことです。ヒゼキヤが病気だったことを聞いたバビロンの王メロダク・バルアダンは使者を遣わして、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けました。彼は、当時世界を支配していたアッシリアの脅威から身を守るために、ユダと友好関係を結ぼうとしていたのです。

ヒゼキヤはそれに対してどのように対応しましたか?ヒゼキヤは彼らを歓迎して、すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せました。ヒゼキヤが彼らに見せなかった物は一つもありませんでした。彼は、これらの宝物があたかも自分の所有物であるかのように振る舞ったのです。これらはすべて神のものなのに。いったいなぜ彼はそんなことをしたのでしょうか。2歴代誌32章31節には、「バビロンの首長たちが、この地に示されたしるしについて調べるために彼のもとに使節を遣わしたとき、神は彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうとして彼を捨て置かれた」とあります。ここに「神は彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうして」とあります。つまり、神はヒゼキヤの心にあるものを暴かれたのです。心にあるものとは何でしょうか。それは高慢です。彼が病気だった時はへりくだって主に癒しを願い求めましたが、その病気が癒されると一転高ぶってしまいました。高慢は滅びに先立つとありますが、こうした彼の高ぶりが、ユダを滅びへの道へと進ませていくことになったのです。

すると、預言者イザヤがヒゼキヤのところに来て、彼に尋ねました。「あの人たちは何と言いましたか。どこから来たのですか。」(14)「えっ、バビロンからですけども何か?」そうヒゼキヤが答えると、イザヤは言いました。「彼らはあなたの家で何を見たのですか。」(15)するとヒゼキヤが答えました。「何って、私の家の中のすべての物ですけど・・・。私の宝物倉の中で見せなかった物は一つもありませんよ。」

おそらくヒゼキヤは、バビロンとの同盟関係に入ることが問題だとは考えていなかったのでしょう。むしろ、バビロンと手を結ぶことが対アッシリア政策においては得策だと考えていたのです。

するとイザヤはヒゼキヤに主のことばを伝えます。17~18節です。「見よ。あなたの家にある物、あなたの父祖たちが今日まで蓄えてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日々が来る。何一つ残されることはない─主は言われる─。また、あなたが生む、あなた自身の息子たちの中には、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者がいる。」

これはヒゼキヤ対する裁きのことばです。ヒゼキヤがそんなことをしたのは彼が高慢だったからであって、彼がバビロンの使者たちに見せたものは、そっくりそのままバビロンに持ち去られることになります。さらに、彼の子孫の中から、バビロン捕囚として連れて行かれる者が出ます。彼らはバビロンの王宮で宦官として仕えるようになるのです。イザヤはここで、後に起こるバビロン捕囚のことを預言しています。まだバビロンが台頭することは考えられなかったその時代に、バビロンによってユダが滅ぼされることを予告していたのです。ヒゼキヤが高ぶっていたので、それを戒めるために預言したのでしょう。

するとヒゼキヤは何と言いましたか?彼はこう言いました。19節をご覧ください。「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた【主】のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるのではないか、と思ったのである。」

何ということでしょう。彼は自らの高慢を認め、主の叱責を受け入れましたが、自分が生きている間は平和で安全なのは、ありがたい、恵みだと感じたのです。「あなたが告げてくれた【主】のことばはありがたい。」ということばには、自分さえよければいいという彼の自己中心な思いが表れています。次世代の者が被る悲劇に対してさほどの痛みを感じないのは、本当に無責任な態度としか言いようがありません。ヒゼキヤは、彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほど主に信頼していた者はだれもいなかったと称賛されたほどの人物ですが(18:5)、そんな彼でも人間的な限界を持っていました。ですから、人に信頼するなら必ず失望することになります。私たちが信頼すべきお方は、神だけです。

最後に、20~21節をご覧ください。ここにはヒゼキヤの功績が記されてあります。それは、貯水池と水道を造り、町に水を引いたことです。これはヒゼキヤのトンネルと呼ばれているものです。工事の詳細については、2歴代誌32章2~5節に記されてあります。ヒゼキヤはエルサレムの水源を確保するために、ギホンの泉(城壁の外)とシロアムの池(城壁の中)をつなぐ約500メートルのトンネルを掘りました。

ヒゼキヤの功績の中でも、このトンネルの工事は後代にも祝福をもたらすものになりました。私たちも、どういう祝福を後代に残すことができるかを祈り求めていきたいと思います。

Ⅱ列王記19章

 今日は、Ⅱ列王記19章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王ヒゼキヤ(1-13)

まず、1~7節をご覧ください。「1 ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を引き裂き、粗布を身にまとって【主】の宮に入った。2 彼は、宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに粗布を身にまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っております。『今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。4 おそらく、あなたの神、【主】は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリアの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、【主】は、お聞きになったそのことばをとがめられます。あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。』」5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『【主】はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。7 今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」」

1節の「これを聞くと」とは、18章に記されていたアッシリアの王セナケリブの使者であるラブ・シャケの脅しのことばです。それを聞いたヒゼキヤは、着ていた衣を引き裂き、粗布をまとって主の宮に入りました。これは深い悲しみと悔い改めを表しています。そして、宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに荒布を身にまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わしました。彼らはイザヤにこう言いました。「ヒゼキヤはこう言っております。『今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。 おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのすべてのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリアの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、お聞きになったそのことばをとがめられます。あなたは、まだいる残りの者のために祈りの声をあげてください。」(3-4)

「子どもが生まれようとしているのに、それを生み出す力がない」のです。直訳では「子どもが産道に入ったのに、生み出す力がない」ということです。つまり、陣痛の激しい痛みが続いているのに、赤ちゃんが出てこないということです。このままでは死を待つしかありません。それが、ヒゼキヤが直面していた状態でした。ユダにはアッシリアをはね返すだけの力がありませんでした。でも、主はラブ・シャケが言い放った侮辱的なことばを聞かれ、それをとがめられるはずです。だから、まだいる残りの者のために祈りをささげてほしいというのです。「まだいる残りの者」とは、アッシリアの攻撃に耐えて今もエルサレムに残っている住民たちのことです。アッシリアはエルサレムの周辺を攻撃し、残すはエルサレムだけという状態になっていました。イザヤはエルサレムに住んでいたので、ヒゼキヤはそのイザヤに使いを送りとりなしの祈りを要請したのです。

それを聞いたイザヤは何と言ったでしょうか。6~7節をご覧ください。イザヤは彼らにこう言いました。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『主はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」

イザヤは、まずヒゼキヤが聞いたアッシリアの王の若い者たちが語った、あのことばを恐れるなと言われました。なぜなら、主がアッシリアの王のうちに霊を置くからです。彼はあるうわさを聞いて自分の国に引き揚げることになります。この「あるうわさ」とは、9節の「今、彼はあなたと戦うために出て来ている」との知らせのことではないかと思います。このうわさを聞いたセナケリブはエルサレムを慌ててエルサレムを降伏させるためにヒゼキヤを脅迫するようになるからです。結局、その夜、主の霊がアッシリアの陣営で18万5千人を打ち殺したので、彼は陣をたたんで自分の国に引き揚げることになります。そして、彼はそこで剣で倒れることになるのです。

ヒゼキヤが危機に直面したときに最初にしたことは、神殿に入って祈ることでした。彼は自らが祈っただけでなく、イザヤにもとりなしの祈りを要請しました。それは彼が神に信頼していたからです。それは私たちにも求められていることです。私たちが危機に直面したときに最初にすべきことは、主の前に出て祈ることです。なぜなら、義人の祈りが働くと大きな力があるからです。ヤコブ5章16節には、「ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと、大きな力があるからです。」とありますが、義人の祈りが働くと大きな力があります。私たちは罪深い者ですが、そんな者でも主イエスを信じたことで罪が赦されました。主の前に義人とされたのです。ですから、私たちが互いに罪を言い表して祈るなら、神はその祈りに応えてくださるのです。

8~13節をご覧ください。「8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリアの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いていたからである。9 王は、クシュの王ティルハカについて、「今、彼はあなたと戦うために出て来ている」との知らせを聞くと、再び使者たちをヒゼキヤに遣わして言った。10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない。エルサレムはアッシリアの王の手に渡されないと言っているが。11 おまえは、アッシリアの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを確かに聞いている。それでも、おまえだけは救い出されるというのか。12 私の先祖は、ゴザン、ハラン、レツェフ、またテラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したか。13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、ヘナやイワの王はどこにいるか。』」。

ラブ・シャケは、エルサレムの城壁の外に宿営し、ヒゼキヤから降伏の言葉が届くのを待っていましたが、そうこうしているうちに、ラキシュに本営を置いていたアッシリアの王セナケリブがリブナに移動し、そこで戦っていることを聞き、エルサレムから退いてリブナに移動し、そこでセナケリブと落ち合いました。

アッシリアの王セナケリブは、クシュ(エチオピア)の王ティルハカが彼と戦うために出て来ているという知らせを聞くと、再び使者たちをヒゼキヤに遣わして降伏するように迫ります。7節の「今、わたしは彼のうちに霊を置く」と言われた主のことばが、成就し始めます。セナケリブが再び使者たちをヒゼキヤに遣わしたのは、その知らせを聞いて慌てたからです。ただちにエルサレムを降伏させるために、ヒゼキヤを脅迫したのです。

彼がヒゼキヤに伝えたことは、彼が信頼する神にだまされてはいけないということでした。彼は、何らかの方法でイザヤがヒゼキヤに語った言葉を聞いていたのでしょう。イザヤは、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されないと言っているが、そんなことはない。アッシリアの王がすべての国々にしたこと、それらを絶滅させてことを聞いているが、それと同じようにエルサレムも滅びることになると。それらの国々の神々が彼らを救い出すことができなかったように、イスラエルの神もユダを救い出すことはできないと言ったのです。

アッシリアの王セナケリブの愚かさは、イスラエルの神を偶像と同列に置いたことでした。そうした偶像が彼らを救い出せなかったのは当然です。詩篇115篇4~8節にはこうあります。「4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」(詩篇115:4-8)

でも、イスラエルの神、主はそのようなものではありません。主は、この天地を創られた創造主です。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむことも、眠ることもありません。主は、すべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られます。主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られます。

セナケリブはそれを知りませんでした。一見すると、事態は悪化しているかのように見えるかもしれませんが、その時が来ると、主はご自身の御業を現わしてくださいます。その時と方法は主にゆだねなければなりません。主はご自身を待ち望む者に、大いなる御業を見せてくださるのです。

Ⅱ.ヒゼキヤの祈り(14-19)

それに対してヒゼキヤはどのように対応したでしょうか。14~19節をご覧ください。「15 ヒゼキヤは【主】の前で祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。16 【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばを聞いてください。17 【主】よ。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは事実です。18 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。19 私たちの神、【主】よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、【主】よ、あなただけが神であることを知るでしょう。」」

ヒゼキヤは、アッシリアの王セナケリブの手紙を受け取ると、主の宮に上って行き、それを主の前に広げ、主の前で祈りました。彼が頼みとするのは、主だけでした。彼は、主のもとに自分の思い煩い、不安、恐れを持っていったのです。ピリピ4章6節には、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とありますが、私たちも思い煩い、不安、恐れがあるとき、それを主のもとにもっていかなければなりません。

ヒゼキヤはまず主に呼びかけてこう祈りました。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(15)

「ケルビム」とは、至聖所に置かれた契約の箱の蓋の上に置かれた天使のことです。主はそこに臨在されると言われました。ですから、ヒゼキヤはケルビムの上に出しておられるイスラエルの神、主よ、と呼び掛けたのです。

そして彼は、「ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です」と告白しました。なぜなら、イスラエルの神は天地の造り主であり、地のすべての王国の神であられるからです。

そして彼は現状を訴えてこう祈りました。16~18節です。「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばを聞いてください。主よ。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらが神ではなく、人の手のわざ、木や石にすぎなかったので、彼らはこれを滅ぼすことができたのです。」

ヒゼキヤはここでアッシリアの王セナケリブが諸国の国々とその国土を廃墟にしたことを認めています。しかしそれができたのは、それらは人の手によって造られた偶像にすぎないからです。だから彼らはこれを滅ぼすことができました。でも、イスラエルの神、主はそうではありません。イスラエルの神、主はそうした偶像とは違い、その人を造られた造り主であられます。

その上で彼は、19節でこう訴えるのです。「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知るでしょう。」

これは解放を求める祈りです。と同時に、神の栄光が現わされることを願う祈りでもあります。

このように、ヒゼキヤは危機に直面したときそれを主のもとにもって行き、自分が信頼している神がどのようなお方なのかを認め、表現し、呼び掛け、自分が置かれている現状を訴えて、そこからの解放を求めて祈りました。もちろん、その目的は主の栄光が現わされることです。私たちも問題に直面したら、それを主のもとにもって行き、偉大な主の御名を呼び求め、自分の置かれた現状をありのままに申し上げ、そこからの解放を求めて祈らなければなりません。そのとき主は、天でその祈りを聞き答えてくださいます。主は耳を傾けて聞かれ、目を開いてご覧になり、私たちを問題から解放してくださるのです。

Ⅲ.祈りの答え(20-37)

ヒゼキヤが祈った祈りはどのように答えられたでしょうか。20~37節をご覧ください。まず31節までをお読みします。「20 アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人を送って言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『あなたがアッシリアの王センナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。』21 【主】が彼について語られたことばは、このとおりである。『処女である娘シオンはおまえを蔑み、おまえを嘲る。娘エルサレムはおまえのうしろで頭を振る。22 おまえはだれをそしり、だれをののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる者に対してだ。23 おまえは使者たちを通して、主をそしって言った。「多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深くへ上って行った。そのそびえる杉の木と美しいもみの木を切り倒し、その果ての高地、木の茂った園にまで入って行った。24 私は井戸を掘って、他国の水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた」と。25 おまえは聞かなかったのか。遠い昔に、わたしがそれをなし、大昔に、わたしがそれを計画し、今、それを果たしたことを。それで、おまえは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのだ。26 その住民は力失せ、打ちのめされて恥を見て、野の草や青菜、育つ前に干からびる屋根の草のようになった。27 おまえが座るのも、出て行くのも、おまえが入るのも、わたしはよく知っている。わたしに向かっていきり立つのも。28 おまえがわたしに向かっていきり立ち、おまえの安逸がわたしの耳に届いたので、わたしはおまえの鼻に鉤輪を、口にくつわをはめ、おまえを、もと来た道に引き戻す。』29 あなたへのしるしは、このとおりである。『今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。30 ユダの家の中の逃れの者、残された者は下に根を張り、上に実を結ぶ。31 エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。』」

ヒゼキヤの祈りに対する応答は、イザヤを通して送られました。主は開口一番、「あなたがアッシリアの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。」と言われました。これは、ヒゼキヤにとってどれほど大きな励ましだったかと思います。

「処女である娘シオン」とは、エルサレムがまだ一度も敵に征服されたことがないことを示しています。この処女である娘シオンは、エルサレムを征服する前に撤退することを余儀なくされるアッシリアの王セナケリブの後ろ姿を見ながら、頭を振ってあざけるようになります。それは彼がそしり、ののしったのが、イスラエルの聖なる方に対してだからです。

彼はレバノンやエジプトに自分の力で勝利したと豪語していますが、それは主が大昔に計画し今それを果たしたのであって、そのことを彼が知らなかっただけのことです。主がそれを許されたので、セナケリブは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのに、その主に向かっていきり立つとは、傲慢にもほどがあります。それで主は彼の鼻に鉤輪を、口にくつわをはめ、もとに道に引き戻すのです。

29~31節は、セゼキヤに対して語られた主のことばです。すばらしい約束がヒゼキヤに伝えられます。それは、「今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。」(29)ということです。

これは、アッシリアは撤退するが、ユダは生き延びるようになるというメッセージです。そのしるしは何でしょうか?そのしるしは、一年目は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べることができるということでした。エルサレムの周囲にある46もの城壁のある町々が滅ぼされ土地はかなり荒廃するため、すぐに収穫は望めません。最初は落ち穂から拾って食べ、二年目も同じです。しかし、三年目になると自分で蒔いた種から収穫できるようになります。最初はそれほど収穫を期待することはできませんが、徐々に回復していき、やがて安定した生活ができるようになるというのです。これが神の原則です。最初は何もありません。落ち穂から拾って食べなければなりません。しかし、徐々に実を結ぶようになるのです。

そのためには、下に根を張らなければなりません。30節には、「ユダの家の逃れの者、残された者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」とあります。これは、ユダの町々はアッシリアによって滅ぼされますが、神は残りの民を残してくださり、この民によってユダを回復させ、やがて増え広がるようにしてくださるという約束です。それを支えているものは何でしょうか?根です。下にしっかりと根を張ってこそ、上に実を結ぶことができます。ですから、ここに「ユダの家の逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶ」とあるのです。

1992年、箱根駅伝で優勝した山梨学院大の上田監督は、「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」と言いました。私もこの言葉が好きです。山梨学院大学は創部6年目に箱根駅伝に出場すると、15位から11位、7位、4位、2位と順位を上げて行き、そしてこの年優勝にまで上り詰めることができました。その背後には、どれほどの練習と、実としては現れない下積みの期間があったことかと思います。確かに、やればすぐに成果が現れるというわけではありませんが、上に実が結ばない時でも、黙って手をこまねいているのではなく、見えない大地の下深くに、下へ下へと根を伸ばせというのです。根を張らずして実はなりません。実は目に見えますが、根は外から見えません。ややもすると、私たちはたちどころに成果が現れるものを求めがちですが、大地にしっかりと根を張るというプロセスなしには実は結ぶことはできません。下に根を張ってこそ上に実を結ぶことができるのです。あなたにとって今成すべきことは何でしょうか?私たちにとってしなければならないことは下に根を張ることです。そうすれば、上に実を結ばせてくださいます。

31節には、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とあります。どういうことでしょうか。このようなイスラエルの回復は一方的な主の恵みによるということです。あなたの熱心ではありません。あなたの努力によるのでもありません。あなたがあれをしたから、これをしたからでもないのです。それはただ神の恵みによるのです。万軍の主の熱心によります。ですから、私たちはただこの神の約束を信じて、忍耐しつつ、へりくだって、忠実に主の御業に励まなければなりません。下に根を張っていかなければならないのです。そうすれば、やがて時が来て、実を結ばせていただける。回復させていただくことができるのです。

最後に、32~37節をご覧ください。「32 それゆえ、アッシリアの王について、【主】はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。33 彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない──【主】のことば──。34 わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」35 その夜、【主】の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。36 アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。37 彼が自分の神ニスロクの神殿で拝んでいたとき、その息子たち、アデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺した。彼らはアララテの地へ逃れ、彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。」

アッシリアの王セナケリブについての預言です。セナケリブはエルサレムに侵入することも、矢を放つこともありません。これ(エルサレム)に盾をもって迫ることがなければ、塁を築いてこれを攻めることもありません。彼は、もと来た道を引き返し、神の都エルサレムに入ることはないのです。それは主がこの都を守って、これを救うからです。それは主ご自身の栄光のためであり、ダビデに与えた約束のゆえでもあります。

すると、それがその通り実現します。その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺しました。それでアッシリアの王セナケリブは陣をたたんで去り、返ってアッシリアの首都ニネベに住んだのです。そして、彼が自分の神ニスロクの宮で礼拝していたとき、彼の二人の息子によって暗殺されてしまいました。皮肉なことに、セナケリブの神ニスロクは、彼を救うことができませんでした。主が言われた通りになりました。主が語られたことは必ず成就します。そのことを堅く信じて、忍耐して主の時を待ち望みたいと思います。

イザヤ11章1~9章「エッサイの根株から新芽が生え」

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今日は、アドヘント(待降節)の第1週です。キリストはある日突然生まれたのではなく、その誕生は昔から旧約聖書の中に預言されていました。たとえば、預言者イザヤは、紀元前700年ごろに活躍した預言者ですが、キリストの誕生を700年も前に預言していました。キリストの誕生以前にどこで生まれるのか、どのようにして生まれるのか、どこから出てくるのか、その名は何かなど、全ての事を詳しく預言していたのです。そして、その一つが今日の個所です。今日はこのイザヤ書11章からご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.若枝から出るメシヤ(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とあります。

イザヤは、やがて来られるメシヤはエッサイの根株から出ると預言しました。エッサイとは、ダビデの父親の名前です。息子のダビデは非常に有名な王様でしたが、エッサイはそうではありませんでした。エッサイという名前を聞いて「おお、あれがあのエッサイか」と感動する人は、おそらく一人もいなかったでしょう。せいぜいご近所の人が知っているという程度でした。「ダビデのことは知っているけれども、エッサイのことはえっさい(一切)知らない」という感じでした。それなのに預言者イザヤは、そのエッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶと言いました。どういうことでしょうか?これには二つの意味があります。

一つは、やがて来られるメシヤはへりくだった救い主であるということです。エッサイの仕事は羊飼いでした。当時、羊飼いというのは社会的に身分の低い人たちの仕事と考えられていました。ですから、エッサイの根株から新芽が生えというのは、多少なりとも見下げられた表現だったのです。しかし、イザヤはダビデの根株から新芽が生えとは言わないで、エッサイの根株から新芽が生え、と言いました。どうせなら有名な人の名前を使った方が効果的なのに、そうではなく名もない羊飼いのエッサイの名前を使いました。それは、やがて来られるメシヤがダビデの家系から生まれるみどり子でありながら、そのようにへりくだった状態で生まれて来られるということを示すためだったのです。

もう一つの理由は、エッサイがダビデの父親の名前だと申し上げましたが、やがて来られるメシヤはダビデの家系から生まれることを伝えたかったからです。エッサイの子であるダビデ王が築いたユダ王国はその後子孫によって受け継がれて行きますが、やがて神の審判によってダビデ王朝は切り倒されて根株のようになりますが、その根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ、すなわち、メシア(救い主)が生まれるというのが、この1節で語られている預言が意味していることです。

ダビデ王朝について言えば、実はその国は永遠に続くという約束が神から与えられていました。Ⅱサムエル記7章16節にこうあります。「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

しかし、実際の歴史はそうではありませんでした。ダビデの家と王国はB.C.586年にバビロンによって滅ぼされてしまいます。

では、ダビデに告げられた約束は嘘だったのでしょうか?神はダビデに約束してくだったことを反故にされてしまったのでしょうか?そうではありません。確かに目に見えるダビデ王朝は滅ぼされましたが、この神の約束はダビデの血を引くメシヤ、イエス・キリストによって成就したのです。それはエレミヤ書22章で学んだ通りです。神はヨセフの系図からではなくマリヤの系図を通して、このダビデの血を引くメシヤの誕生を実現してくださいました。それがイエス・キリストです。ですから、あなたの家とあなたの王国は、あなたの前に確かなものとなり、あなたの王座はとこしえに堅く立つという神の約束は、イエス・キリストによって成就することになるのです。

すばらしいですね。このことから、神は約束に忠実な方であるということを知ることができます。

ところで、イザヤはそのエッサイの家から新芽が生え、とは言いませんでした。そうではなく彼は、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」と言いました。これはどういうことでしょうか。

「根株」とは「切株」のことです。このことをよく表現しているのが10章33,34節です。ここには、「見よ、万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払われる。丈の高いものは切り倒され、そびえたものは低くなる。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒される。」(10:33-34)とあります。

これは、当時世界を治めていたアッシリア帝国に対するさばきの預言です。アッシリアは、周囲の国を次々と征服し、大帝国として栄えていました。それは神の道具として神がそのように用いたからなのに、何を血迷ったのか道具としての自分の立場を忘れ、高ぶってしまったので、神はアッシリアよりも強力な国バビロン帝国を興してアッシリアをも滅ぼそうとしたのです。万軍の主が、恐ろしい勢いで枝を切り払われます。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒されます。まさに切り倒された株、切株です。それはアッシリアだけでなくユダも同じです。主に背き続けたユダもアッシリア同様切り倒されることになります。しかし、違いがあります。それは何かというと、神はそこに「残りの者」を残してくださるということです。その残りの者は、力ある神に立ち返るようになるということです。それが10章20~22節で言われていることです。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。」

そしてそのような人達の末裔からメシヤが生まれるのです。それがここで言われていることです。神はエッサイの根株から新芽を生えさせ、その根から若枝が出て実を結ぶようにしてくださるのです。

皆さん、ここに希望があります。切り倒されて切株しか残っていないような中で、だれもが絶望している時に、誰もが期待していないような中で、神の救いが現れるのです。もう何の望みもないと思われるような中に、神の救いが始まるのです。それが新芽であり、若枝なるメシヤ、救い主イエス・キリストです。

ところで、この「若枝」という言葉ですが、これはやがて来られるメシヤのことを表しています。これはヘブル語では「ネイツァー」と言いますが、「ナザレ」の語源になった言葉です。マタイ2章23節に「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」とありますが、これはこのイザヤ11章1節の預言が成就したということを示しているのです。この預言がナザレのイエスによって成就したのです。来るべきメシヤはエッサイの根株から生える若枝として実を結ぶのです。メシヤはナザレ人と呼ばれるのです。そこには四つの意味があります。

第一に、それは王として来られるメシヤを表していました。エレミヤ23章5節に、「見よ、その時代が来る。─主のことば─そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。」とありますが、これはやがて来るメシヤが王であられることを示しています。その「若枝」、メシヤは、王となって治めるのです。

第二に、それはしもべとして来られるメシヤを表しています。ゼカリヤ3章8節には、「聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。」ここでは「若枝」のことが「しもべ」と言われています。神はご自身のしもべ、若枝を来させるのです。

第三に、それは人としてのメシヤです。ゼカリヤ6章12節にこうあります。「彼にこう言え。『万軍の主はこう言われる。見よ、一人の人を。その名は若枝。彼は自分のいるところから芽を出し、主の神殿を建てる。」ここでは、この「若枝」のことが「一人の人」と言われています。

第四に、それは神としてのメシヤです。イザヤ4章2節には「その日、主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。」とあります。ここでは、この「若枝」のことが「主の若枝」と言われています。それは神としての若枝のことです。それは麗しいものとなり、栄光となります。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなるのです。

このように主の若枝には四つの意味があります。それはちょうど新約聖書にある四つの福音書が、それぞれマタイの福音書が王としてのイエスを、マルコの福音書はしもべとしてのイエスを、ルカの福音書は人としてのイエスを、そしてヨハネの福音書が神としてのイエスを表しているように、やがて来られるメシヤは王の王として、人々に仕えるしもべとなって人間の姿をとり十字架で死なれるまことの神であることを表しているのです。それは私たちを罪から救うためでした。全く罪のない神ご自身が、人となられ十字架に掛かって死んでくださいました。キリストは、エッサイの根株から出る新芽として、その根から出た若枝としてこの世に来てくださったのです。

皆さん、ここに救いがあります。もしかするとあなたの人生は切り倒され、何も残っていないかのような根株のような状態かもしれません。しかし、神はその根株からも新芽を生えさせ、若枝を出させ、実を結ぶようにしてくださいました。どんなに切り倒され、さげすまれても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。必ず回復させてくださるのです。

Ⅱ.若枝にとどまる主の霊(2-5)

次に、この若枝の性質について見ていきたいと思います。2~5節をご覧ください。2節には、「2 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。」とあります。「主の霊」とは神の霊のこと、聖霊のことです。「それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である」とあるように、「七つの霊」として表現されています。それは主の霊であり、知恵と悟りの霊であり、思慮と力の霊であり、主を恐れる、知識の霊です。これは七つの霊があるということではなく、一つの聖霊に七つの働きがあるということです。「七」というのは聖書では完全数を表していますから、御霊は完全な方であるということを表していることもわかります。そして、イエス・キリスト、救い主、メシヤには、この主の霊、神の御霊に待たされた方でした。

イエスはルカ4章18~19節で、このように言われました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」

また、ヨハネ3章34節には、「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。」と言われました。イエスは神の霊に満たされたお方でした。

また、この方には「知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊」がありました。それは3~5節に「この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。」とある通りです。

人間は目に見えるところによってしばしば判断し、内に隠された問題や真理を見失ってしまう間違いを犯しますが、主はそのような方ではありません。表面に現れたものではなく、私たちの心を見られるからのです。また、聞きかじりの知識ではなくて、物事の本質によって判断されるからです。

たとえば、イエスのもとに姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られたとき、律法学者とパリサイ人は、モーセの律法には、こういう女を石打にするように命じているが、あなたは何と言われますか、という問いに、イエスはこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)

すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、女とイエスだけが残されたとき、イエスは彼女にこう言われました。「わたしもあなたにさばきをくださない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」ヨハネ8:11

イエスはなぜそのように言われたのでしょうか?それはその女の心を見られたからです。人はうわべを見るが、主は心を見られます。この女は自分の罪にうちひしがれ、もうさばかれても当然、とんでもないことをしてしまった、取り返しのつかないことをしてしまった、罪に定められ石で打ち殺されてもしょうがないという思いを持っていたでしょう。それを十分承知のうえで、彼女は必死になって主のあわれみを求めたのです。主はその心を見られたのです。イエスは、その目の見えるところでさばかず、その耳の聞こえるところで判決を下されませんでした。それが私たちの主イエス・キリストです。

その一方で、いつまでも踏みにじられている人たち、弱い者、地の貧しい者たち、しいたげられている人たちがいますが、そういう人たちには、正義と公正をもって正しくさばいてくださいます。主が来られる時、主はこれを実現してくださいます。これこそ、ほんとうの希望ではないでしょうか。

Ⅲ.メシヤの支配(6-9)

最後に、このメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかを見て終わりたいと思います。6~9節までをご覧ください。「6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」

ここにメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかが描写されています。それは一言でいえば「平和な世界」です。羊と狼、子やぎと豹が共に戯れ、小さな子どもが牛やライオンを追って行きます。乳飲み子がコブラと戯れ、まむしの巣に手を伸ばすのです。そんなことをしたら危ないじゃないですか、と心配される方がおられるかもしれませんが、大丈夫です。主が支配する王国は、このような平和の国ですから。まるで地球全体がエデンの園のような状態に回復されるのです。この時代には弱肉強食の動物界に完全な平和が訪れることになります。そもそもアダムとエバが罪を犯す前は、弱肉強食などありませんでした。動物たちはみな草を食べていたのです。牛も、熊も、獅子も、みんな草を食べていました。草を食べるのはうさぎだけではありません。大きな熊もそうです。今でもパンダは竹を食べていますが、それは今に始まったことではありません。ずっと昔からそうなのです。それが変わったのは人間が罪を犯し、その罪の影響が人類ばかりではなく、こうした動物界をはじめ自然界全体に及んだからです。そうした世界に、完全な平和がもたらされるのです。

これは文字通りにはキリストが再臨された後の千年王国の時に実現するものです。しかしその本質である愛が支配する世界は、私たちがこの平和の王であられる主イエスを信じるとき、その瞬間に、私たちの中に始まるのです。どうしてですか?それは9節にあるように、主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからです。9節をご一緒に読みましょう。「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(9)

すばらしい御言葉ですね。「主を知ることが、海をおおう水のように地を満たすからである。」主を知ることとは、主を信じることと言っても良いでしょう。主を知ることが、主を信じる人たちが、海をおおう水のようにこの地を満たすとき、このような平和が訪れるのです。

ですから、大切なのは「主を知る」ということです。これは今年の教会の年間テーマでしたね。主を知るとは表面的に知るということではなく、主がどのような方なのかを深く知るということです。やがて世の終わりにもたらされる千年王国では、この主を知る知識がこの地を満たします。主が支配される千年間の平和な時代がやってくるのです。

しかし、それは千年王国においでだけではありません。それは既にもたらされているのです。もしあなたが主を知るなら、このメシヤによって支配される目に見えない千年王国が、私たちの心を支配し、神の平和があなたの心を満たすようになります。ルカ17章20~21には、パリサイ人たちが神の国はいつ来るのかという質問に対して、イエスはこう言われました。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

神の国はあなたがたのただ中にあるのです。ですから、イエス・キリストがいつ来られるかということよりも、いつ来られても大丈夫なように、このメシヤなるキリストを信じて、罪を赦していただき、主の再臨に備えておくことが大切なのです。それが主を知るということです。その時、神の平和があなたの心と思いを満たすでしょう。

あなたは、このエッサイの根株から出る新芽、その根から出る若枝を迎える準備が出来ていますか。主はあなたを罪から救うために今から約二千年前にこの世に来てくださいました。そして十字架で死なれ、三日目によみがえられ、天に昇り、全能の父なる神の右に着座されました。あなたの救いの御業を完成してくださったのです。あなたがこのイエスを救い主として信じて受け入れるなら、神の国はあなたの中にあります。あなたは主のご支配の中で完全な愛と平和を受けることができます。そして、主が再び来られるとき、文字通り千年王国において、この愛と平和を生きることになるのです。あなたも、あなたのために来られたメシヤ、救い主、イエス・キリストを信じて、主の来臨に備えてください。これこそ本当のクリスマスの喜びと希望なのです。

エレミヤ27章1~22節「神の時がある」

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きょうは、エレミヤ書27章からお話します。タイトルは、「神の時がある」です。私たちは、自分の欲しいものがあると、すぐにでも欲しいと願います。けれども、すべてのことに神の時があります。その時を待つことが大切です。そうするなら、ちょうど良い時に神は与えてくださいます。きょうは、そのことについて語っておられる主のことばを聞きたいと思います。

Ⅰ.縄とかせを作り、あなたの首に付けよ(1-8)

まず、1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 【主】は私にこう言われた。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。3 そうして、エルサレムのユダの王ゼデキヤのところに来る使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ツロの王、シドンの王に伝言を送り、4 彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは主君にこう言え。5 わたしは、大いなる力と伸ばした腕をもって、地と、地の面にいる人と獣を造った。わたしは、わたしの目にかなった者に、この地を与える。6 今わたしは、これらすべての地域をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の生き物も彼に与えて彼に仕えさせる。7 彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。8 バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」

1節に「ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに」とありますが、これは写本に書き写す際の間違いです。正しくは下の欄外の説明にあるように、「ゼデキヤ」の治世です。聖書は誤りがない神のことばですが、それは原本において誤りがないという意味で、このように非常に稀ですが写本において間違うことがあります。特に、エレミヤ書は年代順に書かれたわけではないので、書き写す際に間違えたのではないかと考えられています。なぜそこがゼデキヤなのかというと、前後の文脈をみるとわかりますが、ゼデキヤということばが何回も出てくるので、そのように読むのが自然だからです。

ゼデキヤは南王国ユダの最後の王です。彼が王の時にユダは滅ぼされバビロンの捕囚にされます。そのゼデキヤの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節です。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ」これは13章に「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」という命令がありましたが、それと同じように、エレミヤに行動によって預言を行なわせるものです。かせとは、二頭の牛の首にかけて農作業などをさせるくびきのことです。横木ですね。そこに縄を付けたものです。勿論、普通はそんなものを付けて歩いている人はいません。そんなものを首につけていたら、頭がおかしいのではないかと思われるでしょう。でも主はそのように命じられたのです。それによって主がご自分の思いを伝えるためです。その思いとはどんな思いでしょうか。

その思いが、3節から8節で具体的に語られます。それはユダと周辺諸国はバビロンの王ネブカドネツァルによって滅ぼされ、首にかせをかけられるようになるということです。すなわち、バビロン捕囚の民となるということです。しかしゼデキヤはエレミヤのことばを嫌って受け入れませんでした。3節にあるように、エドム、モアブ、アンモン、ツロ、シドンという5つの国々と軍事同盟を結んでバビロンに対抗しようとしたのです。彼はエレミヤのことばを信じようとしませんでした。バビロンによって滅ぼされるなんてあり得ない。自分たちは神の民である。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。だれも手を出すことはできないといった偽りの預言者たちのことばに騙されて、周辺諸国と手を組んでバビロンに対抗しようとしたのです。

でもそれは実に愚かなことでした。なぜなら、もう既にバビロン捕囚が始まっていたからです。バビロン捕囚は全部で3回行われましたが、既に第二回目が完了していました。もうすぐ三回目の捕囚が行われようとしていました。それはB.C.586年に起こることですが、エルサレムは完全に滅ぼされ、ユダの民は捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになります。それなのにゼデキヤは、その前のエホヤキンという王がバビロンの捕囚になると、バビロンによって擁立された王であるにも関わらず、ネブカドネツァルに反逆して、このような外交ルートを作ってバビロンに対抗しようとしたのです。だから主はエレミヤを通して、そのようなことをしても無駄であること、バビロンの王のくびきに服するようにと伝えるために、エレミヤにこのような格好をさせたのです

それはいつまでもということではありません。7節に「彼の地に時が来るまで」とあります。「彼の地」とはバビロンのことを指しています。それはバビロンに時が来るまでのことです。それまですべての国は彼とその子と、その子の子に仕えますが、その後で多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。どういうことかというと、その子とはネブカドネツァルの子のエビル・メロダク(Ⅱ列王25:27)のことで、そしてその子の子とはベルシャツァルのことでが、その子の子であるベルシャツァルまでの70年間は、すべての国がバビロンの奴隷となってバビロンに仕えることになりますが、その後は、多くの民や大王たちが、逆に彼を自分たちの奴隷にするということです。果たして、それがこの通りになります。バビロンの王ベルシャツァルは、メディヤとペルシャの連合軍との戦いに敗れ、彼らに服することになるのです。ここに書かれてあるとおりです。

いずれにしても、神の時があります。神の時が来たら、そのことがわかります。それまでは我慢しなければなりません。それまで耐え忍んでください。そうするなら、神はあなたに祝福をもたらしてくださいます。

メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは有名ですが、彼はオックスフォード大学で学ぶと、最初は英国国教会の聖職者となりました。オックスフォード大学在学中に信仰熱心な友人たちとともに「ホーリー・クラブ」というクラブを作ると、これが「メソジスト」と呼ばれ、その後のメソジスト派の名前となっていきました。彼は、弟のチャールズ・ウェスレーやホイットフィールドとともに、英国にリバイバルをもたらす器となります。そのウェスレーの日記を見ると、その働きが必ずしも順調ではなかったことがわかります。
  5月5日(日)午前、聖アンナ教会で説教する。もう二度と来なくてよい、と言われる。午後、聖ヨハネ教会で説教する。執事の一人に、「出て行け、ここに近寄るな!」と言われる。
  5月12日(日)午前、聖ユダ教会で説教する。あそこにも、もう行かれない。午後、聖ジョージ教会で説教する。またつまみ出される。
  5月19日(日)午前、聖ペテロ教会で説教する。執事が特別会議を開き、私は招かれざる客だ、と言い渡される。午後、路傍で説教する。路傍からも追い出される。
  5月6日(日)午前、野原で説教する。説教中に野原に放たれた雄牛に追いかけまわされて、走って逃げる。
  6月2日(日)、町はずれで説教する。道路から立ち退かされる。午後の集会、放牧地で説教する。なんと1万人もの人が来る!
(Bob Hartman, Plugged In Used by Permission from Preaching Today.com)

ジョン・ウェスレーは、実に忍耐深い伝道者でした。どんなに人々に無視され、拒絶されても、神を信じてあきらめませんでした。そして、神の時が来た時、神はそれを祝福に変えてくださいました。

ゼデキヤは、この神の時を見分けることができませんでした。8節に、「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」とありますが、彼はバビロンに仕えず、バビロンに首を差し出さなかったので、彼の息子は虐殺され、彼自身も目をえぐり取られて殺されてしまうことになってしまいました。ここに警告されているとおりです。

主イエスは、パリサイ人たちやサドカイ人たちが、天からのしるしを見せてほしいと求められた時、こう言われました。「「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」(マタイ16:2-3)
  「時のしるしを見分けることができないのですか」。時のしるしを見分けることができないと、この時のゼデキヤのようになってしまいます。今がどういう時なのかをしっかり見分けなければなりません。そのためには、いつもイエス様と親しく交わっている必要があります。日々のディボーションを通して自分の置かれている状況がどういう時なのかを見分け、神の時を待ち望みたいと思います。

Ⅱ.にせ預言者に聞き従ってはならない(9-18)

第二のことは、だから、にせ預言者に聞き従ってはならないということです。9~11節をご覧ください。「9 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはないと言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞き従ってはならない。10 彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは自分たちの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたは滅びることになる。11 しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。』」

だからエレミヤは、偽りの預言をしている者たちのことばを聞き従ってはならないと警告しています。彼らは自分たちに都合の良いことばかり主張していました。14節にあるように、「バビロンの王に仕えることはできない」と語っていたのです。なぜ彼らはそのように語っていたのでしょうか。それは、彼らがエレミヤのさばきの預言を聞いた時、神のことばに信頼しないで自分の感情、自分の思いに支配されていたからです。危機に直面したとき、感情的になるか、それとも、神のことばに信頼するかによって、正反対の結果が生じます。にせ預言者たちはエレミヤのことばを聞いて感情的になり、神のみこころに反する預言を語りましたが、そのような反応はただ滅びをもたらすだけでした。大切なのは感情的になることではなく、神のことばに信頼することです。

では、このときの神のことば、神のみこころは何だったのでしょうか。それは11節にあるように、バビロンの王に仕えることでした。11節をご一緒に読みましょう。
  「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。」
  バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕えるとは、バビロンの捕囚の民となることです。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。これが彼らのすべきことでした。自分がとどまりたいところにとどまるのではなく、神がとどまらせたいところにとどまらなければなりません。自分が行きたいところに行くのではなく、神が行かせたいところに行かなければなりません。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。新改訳第三版ではこの「とどまらせる」を「いこわせる」と訳しています。「その土地にいこわせる」と。それが私たちに求められていることです。そこにいこいがあります。それは、具体的にはバビロンの王のくびきに首を差し出すことです。バビロンの捕囚の民となることです。しかし、にせ預言者たちは反対のことを語っていました。そこにいこいはないと。あくまでも反バビロン同盟を組んでバビロンと戦うべきだと。バビロンの王に仕えることはできないし仕えるべきではない。あくまでも徹底抗戦すべきだと語っていたのです。でも神のみことばに逆らうなら、その身にわざわいを招くことになります。

16~18節をご覧ください。ここでは、祭司とすべての民に向けてメッセージが語られています。「16 私はまた、祭司たちとこの民全体に向かって語った。「【主】はこう言われる。あなたがたは、『見よ、【主】の宮の器は、バビロンから今すぐにも戻される』とあなたがたに預言している、あなたがたの預言者のことばに聞き従ってはならない。彼らはあなたがたに偽りを預言しているのだ。17 彼らに聞き従ってはならない。バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この都が廃墟になってよいであろうか。18 もし彼らが預言者であるなら、もし彼らに【主】のことばがあるなら、彼らは、【主】の宮、ユダの王の宮殿、またエルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の【主】にとりなしをするはずだ。」

バビロンによって持ち去られた神殿の器について、にせ預言者たちは、祭司とユダの民のすべてに向かって偽りを預言していました。それらはすぐにバビロンから戻されると。でもそれはただの気休めのことばにすぎない偽りのことばでした。返還されるどころかさらに奪われる危機に直面していたからです。というのは、これが語られたのは第二回目のバビロン捕囚の直後(B.C.597年)でしたが、B.C.586年の第三回目の捕囚、これが最後の捕囚となりますが、この時エルサレムは完全に廃墟となり、そのすべてがバビロンにもって行かれることになるからです。ですから、もし彼らが真の預言者ならば、逆にそういうことがないように、主にとりなすはずなのにそういうことをせず、ただ自分たちに都合が良いこと、耳障りの良いことを語り、神の真理のことばを語りませんでした。でもたとえそれが心地よいことば、慰めのことばであっても、そういう偽りの預言に聞き従ってはなりません。

聖書には、世の終わりが近くなると、こうした偽りの預言をする者がたくさん現れるようになるとあります。イエス様は、マタイ24:11で「偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」と言われました。まさに今はそういう時ではないでしょうか。聖書のことばを私的に解釈し、自分に都合が良いように語って多くの人を惑わす偽預言者が大勢現れています。

苫小牧福音教会牧師の水草修治先生は、「神を愛するための神学講座」という本を書いておられますが、その中で、主イエスが話された偽預言者の特徴を次のようにまとめておられます。
  1.偽預言者は表面的には羊のように見えるが、中身は狼のように貪欲である。彼らは「私は偽預言者です」とは自己紹介しない。表面的にはとても良い人である。「こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。」(2コリント12:13-15)

2.偽預言者は主イエスの名によって預言し、主イエスの名によって悪霊を追い出し、主イエスの名によって奇跡を行い、そういう行いが自分が真の預言者である証拠であると思っている。つまり偽預言者は教えの正しさよりも、ある種の霊的体験を優先する。イエスの名によって不思議なことをし、霊的体験を与えてくれるからといって、それが本物の預言者とはかぎらないから、むしろ警戒すべきである。教理よりも体験を重んじがちなタイプの信者は欺かれる。

3.偽預言者は、「悪い実」「不法」を行う。すなわち、彼らは表面的には「羊のなり」をしてよい人なのだが、注意深くその行動を見ると、「悪い実」をみのらせている。「悪い実」とはガラテヤ書で言えば「肉のわざ」である。「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」(ガラテヤ5:19-21)

4.偽預言者は世の終わり(携挙・再臨)が何年何月何日に来ると予言する。だが主イエスは言われた。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35,36)

5.偽預言者による世の終わりの預言を信じた人は落ち着きを失ってしまうが、正しく聖書の終末預言を学んだ人は、神を愛し隣人を愛する落ち着いた生活をする。主が再び来られたときに、主のもとに引き上げられるのは、その日をあらかじめ知って騒ぎ立てている人ではなく、神を愛し隣人を愛し、地道に落ち着いた生活をしている人である。「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」(1テサロニケ4:11)

実に、的を得た指摘だと思います。世の終わりになると、こういう預言者がはびこるようになります。ですから、私たちも注意しなければなりません。自分にとって都合が良いこと、心地よいこと、耳障りの良いことばではなく、神が語っておられる神のことばを聞かなければなりません。

Ⅲ.この場所に戻す(19-22)

最後に、19~22節をご覧ください。ここに真の預言者であるエレミヤのすばらしい預言のことばが記されてあります。

このようにバビロンに運ばれた神殿の器とエルサレムに残された器に付いて、エレミヤはこう預言します。19~22節をご覧ください。「19 まことに万軍の【主】は、神殿の柱、『海』、車輪付きの台、また、この都に残されているほかの器について、こう言われる。20 ──これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王、エホヤキムの子エコンヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、奪い取らなかったものである──21 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】は、【主】の宮とユダの王の宮殿とエルサレムに残された器について、こう言われる。22 『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある──【主】のことば──。そしてわたしはそれらを携え上り、この場所に戻す。』」

19~20節には、バビロンに奪われずエルサレムに残された神殿の器について記録されています。「神殿の柱」とは、神殿の玄関に立てられた2本の青銅の柱のことです。「海」とは、鋳物でできた円形の器のこと。そこに海のようにたくさんの水がためられていました。「車輪付きの台」とは、洗盤を載せる青銅の台のことです。これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王とエルサレムのおもだった人たちをバビロンへ引いて行ったときに、奪い取りませんでした。そのままエルサレムに残されたのです。それらのものは、バビロンへ持ち去られ、主が顧みる日まで、そこにとどめ置かれることになりますが、主はこれらの物をこの場所に戻してくださいます。

これが真の預言者のことばです。確かにエルサレム神殿は崩壊し、そこにあったすべての物はバビロンに奪い去られますが、主が顧みられる日に、これらの物をこの場所に戻してくださいます。真の預言者は良いことばかり預言するわけではありません。彼らの罪の結果、受けなければならない神のさばきを語りますが、同時に主の慰めと希望も語るのです。主が顧みられる時に、主は必ず戻してくださると。

エレミヤは、ユダの民がバビロンに捕囚とされて行く中で、やがて主がそれらをこの場所に戻すという希望のメッセージを語ったのです。それは今ではありません。それは主がそれを顧みる日まで、そこにあります。しかし、その日が満ちるとき、主はユダの民がそれらを携えて、この場所に戻すようにしてくださいます。すばらしい約束ですね。バビロンの支配は一時的であり、その期間が過ぎるとき、それは70年間ですが、バビロンに捕えられていた民が、これらの物を携えてエルサレムに帰ってくるようになるというのです。この預言は、確かに捕囚の70年後に成就しました(B.C.536年)。エズラ記1章に、そのとおりに成就したことが記録されてあります。

ここでエレミヤが預言したとおり、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた主の宮の器が、運び出されました。この預言を聞いた祭司たちは、どんなに励まされたことでしょうか。将来の神殿の回復が約束されたからです。ですから、私たちは希望を失ってはなりません。必ず、神の約束が成就する時が来るからです。それは今ではないかもしれません。しかし、すべてのことに神の時があります。神のなさることは時にかなって美しいのです。神に信頼しましょう。神に信頼してこの時を待ち望みましょう。そうするなら、神は必ずあなたの人生にも良いことをしてくださいますから。

Ⅱ列王記18章

 今日は、Ⅱ列王記18章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王ヒゼキヤ(1-8)

まず、1~8節をご覧ください。「1 イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。3 彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、【主】の目にかなうことを行った。4 高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇を砕いた。そのころまで、イスラエル人がこれに犠牲を供えていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。5 彼はイスラエルの神、【主】に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。6 彼は【主】に堅くつき従って離れることなく、【主】がモーセに命じられた命令を守った。7 【主】は彼とともにおられた。彼はどこへ出て行っても成功を収めた。彼はアッシリアの王に反逆し、彼に仕えなかった。8 彼はペリシテ人を討ってガザにまで至り、見張りのやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破った。」

イスラエルの王ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王になりました。北イスラエルは、このホセアが王の時アッシリアの捕囚となります。ですから、ヒゼキヤは北王国が滅びた時の南ユダの王でした。彼は25歳で王となり、エルサレムで29年間治めました。彼について特筆すべきことは、彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことをおこなったということです。彼は高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが造った青銅の蛇を砕きました。歴代のユダの王も比較的善い王で主の目にかなうことを行なっていましたが、高き所は取り除きませんでした。けれどもヒゼキヤは違います。彼は高き所も取り除きました。そして父アハズ王が導入させた異教の神々の像を打ち壊しました。それだけではありません。かつて、モーセが作った青銅の蛇を打ち砕いたのです。この青銅の蛇は「ネフシュタン」と呼ばれていたものですが、これはイスラエルの民が荒野の旅をしていた時、水がないことやいつもマナばかり食べていることについて不平を鳴らしたとき、主が怒られ彼らに燃える蛇を送られましたが、そこから救われるためにモーセが作り、旗ざおの上に掲げたものです。「かまれた者はみな、それを仰ぎ見ると生きる」と。(民数記21:5~9)それ以来、イスラエルの民はこれを偶像化し、犠牲を供えていました。ヒゼキヤは、青銅の蛇も砕いたのです。

かつて祝福をもたらしたものでも、それを偶像化すると信仰の妨げになってしまうことがあります。それがいかによいものであっても、それを神以上に大切にするなら、それは偶像礼拝となり、霊的成長を妨げてしまいます。私たちの生活の中で、そのようなものがないかどうか吟味しなければなりません。

5節と6節をご覧ください。彼はイスラエルの神、主に信頼していました。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいませんでした。彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守りました。

ヒゼキヤは、南ユダの王たちの中で最もすばらしい王でした。なぜ彼が最もすばらしい王だったと言えるのでしょうか。どういう点が彼のすばらしい点だったのでしょうか。それは彼がイスラエルの神、主に信頼していたという点においてです。これは、他の王たちとの能力的な比較ではなく、信仰の面での比較です。ヒゼキヤは、何よりも、イスラエルの神、主への信頼を第一にした王だったのです。

彼は、6節にあるように、主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守りました。彼は、他の王たちのように晩年になって自分の信仰を放棄するようなことをせず、最後までモーセの律法を守り続けました。それは、この後に出てくるアッシリアの王セナケリブの脅しにも屈せない彼の態度や、神殿の修理や再建(Ⅱ歴代29:3~36)、過越しの祭りや他の祭りの実行(Ⅱ歴代30:1~27)、種々の宗教改革(Ⅱ歴代31:2~21)に表れています。

主はそのようなセゼキヤの信仰を祝福し、主は彼とともにおられ、彼がどこへ出て行っても成功を収めさせました。まず彼はアッシリアの王に反逆し、彼に仕えることをしませんでした。これはすごいことです。彼の父のアハズ王は親アッシリア政策をとっていたからです。でも彼はアッシリアに仕えることを拒みました。近隣諸国と同盟関係を結び、アッシリアに対抗したのです。
  また彼は、ペリシテ人を討ってガザにまで至り、見張のやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破りました。これはどういうことかというと、彼の父アハズ王の時代に、ペリシテ人はユダの町々をいくつか奪っていましたが、ヒゼキヤはそれを奪還したということです。ガザはペリシテの地の最南端の町ですので、彼の征服はペリシテ全土に及んだことが分かります。

ヒゼキヤは、私たちの手本のような人物です。彼は神を恐れ、神の命令を実行しました。私たちもそのような者であるように目指しましょう。その人は肉体的にも霊的にも、主の大いなる祝福を受けるのです。


Ⅱ.ヒゼキヤの試練(9-16)

次に、9~16節をご覧ください。12節までを読みます。「9 ヒゼキヤ王の第四年、イスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッシリアの王シャルマネセルがサマリアに攻め上って来て、これを包囲し、10 三年後にこれを攻め取った。すなわち、ヒゼキヤの第六年、イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリアは攻め取られた。11 アッシリアの王はイスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に定住させた。12 これは、彼らが彼らの神、【主】の御声に聞き従わず、その契約を破り、【主】のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである。」

「サマリア」は、北イスラエルの首都です。ヒゼキヤの治世の第四年に、アッシリアの王シャルマネセルがサマリアに攻め上って、これを包囲し、三年後に攻め取りました。このことは既に17:1~6で見てきたとおりです。ここで再び取り上げられているのは、これがヒゼキヤにとっても重要な意味を持つ出来事だったからです。つまり、アッシリアの王はユダにも進出してきたということです。

13~16節をご覧ください。「13 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリアの王センナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取った。14 ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュのアッシリアの王のところに人を遣わして言った。「私は過ちを犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに、銀三百タラントと金三十タラントを要求した。15 ヒゼキヤは、【主】の宮と王宮の宝物倉にある銀をすべて渡した。16 そのとき、ユダの王ヒゼキヤは、自分が【主】の神殿の扉と柱に張り付けた金を剥ぎ取り、これをアッシリアの王に渡した。」

北王国を滅ぼしたのはアッシリアの王サルゴン2世でしたが、サルゴンが死ぬと、息子のセナケリブが王位を継承しました。そのセナケリブが、ヒゼキヤ王の第十四年にユダのすべての城壁のある町々に攻め上り、これを取りました。残るはエルサレムだけとなりました。セナケリブは、エルサレムに攻め上るために、ペリシテの地に近いラキシュに本営を置きました。包囲されたことを知ったヒゼキヤは、降伏したほうが良いと判断して、そのことを、ラキシュにいるセナケリブに伝えます。そこで、セナケリブが要求してきた通りの金銀を、主の宮と王宮の中にあるものから取って支払いました。セナケリブが要求してきたものは、銀300タラント(約11トン)と金30タラント(約1トン)でした。代価を支払って平和を買い取るのは、決して賢明なこととは言えません。敵は、一度味を占めると、二度も、三度も、要求してくるようになるからです。信仰者と悪魔の戦いも同じです。最初に妥協すると、その流れが続くことになります。

Ⅲ.セナケリブの脅迫(17-37)

それが、17~37節に見られるセナケリブの脅迫です。まず27節までをご覧ください。「17 アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケを、大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来ると、布さらしの野への大路にある、上の池の水道のそばに立った。18 彼らが王に呼びかけたので、ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、およびアサフの子である史官ヨアフは、彼らのところに出て行った。19 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。『いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。20 口先だけのことばが、戦略であり戦力だというのか。今おまえは、だれに拠り頼んでいるのか。私に反逆しているが。21 今おまえは、あの傷んだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、それは、それに寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは、すべて彼に拠り頼む者にそうするのだ。22 おまえたちは私に「われわれは、われわれの神、【主】に拠り頼む」と言う。その主とは、ヒゼキヤがその高き所と祭壇を取り除いて、ユダとエルサレムに「エルサレムにあるこの祭壇の前で拝め」と言った、そういう主ではないか。23 さあ今、私の主君、アッシリアの王と賭けをしないか。もし、おまえのほうで乗り手をそろえることができるのなら、おまえに二千頭の馬を与えよう。24 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来である総督一人さえ追い返せないのだ。25 今、私がこの場所を滅ぼすために上って来たのは、【主】を差し置いてのことであろうか。【主】が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。』」26 ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアフは、ラブ・シャケに言った。「どうか、しもべたちにはアラム語で話してください。われわれはアラム語が分かりますから。城壁の上にいる民が聞いているところでは、われわれにユダのことばで話さないでください。」27 ラブ・シャケは彼らに言った。「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上に座っている者たちのためではないか。彼らはおまえたちと一緒に、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」」

セナケリブは、ヒゼキヤが差し出した貢ぎ物で満足することなく、完全な服従を要求してきました。セナケリブは3人の大使を大軍とともに派遣し、エルサレムに送りました。彼らはエルサレムに上って来ると、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立ちました。これはギホンの泉から荒野に向かって水が流れる場所で、洗濯場になっていました。城壁のすぐ外に位置しており、とても賑やかな場所です。

彼らはヒゼキヤに呼び掛けましたが、ヒゼキヤは直接対応することをせず、3人の代理人を送り、彼らと交渉させました。すなわち、ヒルキヤの子である宮廷長官のエルヤキム、書記のシェブナ、およびアサフの子である史官ヨアフです。

アッシリアの大使のラブ・シャケは、エルサレムの住民にもわかるような言葉で、脅迫の言葉を告げます。それが19~25節の言葉です。その強調点は、彼らの王セナケリブの偉大さです。彼はまずヒゼキヤが拠り頼んでいるものがいかに無力なものであるかを示します。その一つが「あの傷んだ葦の杖」であるエジプトです。そんなのにより頼んでも無駄だというのです。これは正しい分析です。

次に彼が指摘したのは、「われわれの神、主に拠り頼む」ことについてです。彼は、ヒゼキヤが高き所を取り除いて、偶像礼拝を一掃したことを知っていました。そんな無慈悲で排他的な神にいったいどんな力があるというのかというのです。彼はヒゼキヤの宗教改革をこのように非難したのです。

その上で彼は、アッシリアの王と賭けをしないかと提案します。それは、ヒゼキヤが乗り手をそろえることができるなら、アッシリアの王が二千頭の馬を与えるというものでした。それはユダがエジプトに期待したのは、馬を提供してくれることだったからです。どんなに馬をそろえても、乗り手がいなければ何の意味もありません。いや、アッシリアの総督の一人さえも追い返させないだろうというのです。

そして彼はこう結論付けるのです。「今、私がこの場所を滅ぼすために上って来たのは、主を差し置いてのことであろうか。主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われたのだ。」これは衝撃的な言葉です。アッシリア軍がエルサレムに上って来たのは、主のみこころによるものだというのですから。これは全くあり得ないことではありませんが、ラブ・シャケの巧みな誘導による言葉です。「主」によるものであると聞いたら、ユダの民が激しく動揺するからです。


  それを聞いたヒゼキヤの使者のエルヤキムとシェブナとヨアブは、住民にわかるユダの言葉ではなく、アラム語で話してほしいと要請します。高等教育を受けた高官たちはアラム語を理解することができたので、アラム語で話してほしいと言ったのです。住民に分かられると都合が悪かったからです。

するとラブ・シャケはその要求をはねつけました。なぜなら、彼がこのようなことを話すのは彼らのためではなく、むしろ住民たちのためだったからです。エルサレムを陥落させるためには、住民の戦闘意欲を砕く必要があったのです。エルサレムが包囲されて一番苦しむのは住民です。その時には自分の排泄物まで食べるようになるからです。

ラブ・シャケのことばはあまりにも傲慢でした。神の民を侮辱することは神の御名を侮辱することと同じことだからです。このような者には神のさばきが下ることを覚えておかなければなりません。そして、たとえどんなに脅されても、主に信頼する者は失望させられることはないと信じて、主に拠り頼み続けなければなりません。

最後に、28~37節までをご覧ください。「28 ラブ・シャケは突っ立って、ユダのことばで大声で叫んで、こう告げた。「大王、アッシリアの王のことばを聞け。29 王はこう言っておられる。『ヒゼキヤにごまかされるな。あれは、おまえたちを私の手から救い出すことができないからだ。30 ヒゼキヤは、「【主】が必ずわれわれを救い出してくださる。この都は決してアッシリアの王の手に渡されることはない」と言って、おまえたちに【主】を信頼させようとするが、そうはさせない。』31 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリアの王はこう言っておられるからだ。『私と和を結び、私に降伏せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるようになる。32 その後私は来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行く。そこは穀物と新しいぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地、オリーブの木と蜜の地である。おまえたちが生き延びて死ぬことのないようにするためである。たとえヒゼキヤが、「【主】はわれわれを救い出してくださる」と言って、おまえたちをそそのかしても、ヒゼキヤに聞き従ってはならない。33  国々の神々は、それぞれ自分の国をアッシリアの王の手から救い出しただろうか。34 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリアを私の手から救い出したか。35 国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。【主】がエルサレムを私の手から救い出せるとでもいうのか。』」36 民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。37 ヒルキヤの子である宮廷長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である史官ヨアフは、自分たちの衣を引き裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。」


  しかし、ラブ・シャケは聞き入るどころか、ますます声を大きくし、今度は、一般民衆に対して告げて、彼らの心がヒゼキヤから離れるように仕向けます。彼は、ヒゼキヤに従ってアッシリアと戦うよりは、降参して自分の命を救うほうが良いと説得します。もしアッシリアの王と和を結び、幸福するなら、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸の水を飲めるようになると。これは大きな誘惑です。「自分のぶどうと自分のいちじくを食べ」とか、「自分の井戸の水を飲む」とは、食べる物、飲む物に困らないようにさせてあげるぞという意味です。

「その後私は来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行く。」とは、アッシリアの征服方法です。原住民を他の地域に移住させ、そこで生活させることです。そのようにすることで、アッシリアに反逆させる力を削ぐ狙いがありました。しかし、そこで彼らは穀物とぶどう酒、パン、オリーブと蜜が味わえるようになると誘惑しているのです。

それゆえ、ヒゼキヤにそそのかされて死ぬよりは、自分の命を大切にした方が良いというのです。なかなか説得力がありますね。

「国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出したか。主エルサレムを私の手から救い出せるとでもいうのか。」というのは、それぞれの国で「神、神、といっているが、どの神がアッシリアの王の手から救い出すことができるというのか。どの神も無力ではないか、という問いかけです。これは、エルサレムの住民を不安に陥れるには十分な力を持っています。

私たちも、このような責めを心の中のささやきで、あるいは、実際の声として聞くことがあります。イエス・キリストを信じていても、問題は解決しないばかりか、状況はもっと悪くなっている。神に拠りすがることに、いったいどんな意味があるのかと。

このような言葉に騙されないようにしましょう。ラブ・シャケの言葉は、悪魔的なものです。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。」(ヨハネ8:44-45)悪魔の言葉ではなくイエスの言葉、真理の言葉に耳を傾けなければなりません。

「民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。」

ラブ・シャケは城壁の上に集まっていた民に大声で語りかけましたが、何の反応もありませんでした。それは「彼に答えるな」というのが、ヒゼキヤ王の命令だったからです。これは賢い判断です。敵の目的は、民の心を煽ることです。自分の議論の中に、相手を引き込みたいことです。しかしその手に乗るな、とヒゼキヤは戒めたのです。それでも民は激しく動揺し、議論し合ったことでしょう。ラブ・シャケのことばには、なるほどと思わせるものが多く含まれていたからです。けれども、そのような時こそ黙する必要があります。そこに神の救いがあるからです。ダビデは詩篇62:1~2でこう言っています。「私のたましいは、黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。」

私たちも黙って主を待ち望みましょう。私たちの救いは神から来るからです。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら、私は決して揺るがされることはないからです。