伝道者の書9章1~10節「神に会う備えをせよ」

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伝道者の書9章に入ります。今日は、9章前半の箇所から「神に会う備えをせよ」というタイトルでお話しします。伝道者ソロモンは、日の下で行われる一切のわざを見て、こう結論しました。8章17節です。「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めて、見出すことはない。知恵のある者が死っていると思っても、見極めることはできない。」

ただ確かなことは、すべてのことが、すべての人に同じように起こるということです。正しい人も正しくない人も、みな死人のところに行きます。では、私たちの人生には、いったいどんな意味があるというのでしょうか。今日のところで伝道者はこう言います。4節、「しかし、人には拠り所がある。」生きている犬は死んだ獅子にまさっています。生きている限り、拠り所、希望があります。救い主イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得るという希望があるのです。だから、生きているってすばらしいことなのです。その主イエスを信じて、神によって与えられた一つ一つの恵みに感謝して生きることができます。あなたは、その救いを得ているでしょうか。神に会う備えができているでしょうか。

 

Ⅰ.死は終わりではない(1-3)

 

まず、1~3節をご覧ください。「まことに、私はこの一切を心に留め、このことすべてを調べた。正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。彼らの前にあるすべてのものが、それが愛なのか、憎しみなのか、人には分からない。すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえを献げる人にも、いけにえを献げない人にも来る。善人にも、罪人にも同様で、誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様だ。日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。」

 

1節の「この一切」とか、「このことすべて」とは、8章9節にある「日の下で行われる一切のわざ」のことです。すなわち、この地上で行われるすべてのことであります。伝道者は、そのすべてを見て、心を注いだわけですが、その結果分かったことは何かというと、8章17節にあることでした。つまり、すべては神のみわざであるということ、そして、人は日の下で行われる神のみわざを見極めることはできないということです。どんなに労苦して探し求めても、どんなに知恵のある者が知っていると思っても、それを見極めることはできません。正しい人も、知恵のある人も、彼らの働きのすべてが神の御手の中にあるからです。それが愛から出ているのか、憎しみから出ているのかも、人には分かりません。

 

2節をご覧ください。すべてのことは、すべての人に同じように起こります。私たちの人生で最も不可解なことは、正しい人にも、正しくない人にも、善人にも、きよい人にも、信仰者も、不信仰者も、神に誓う人にも、誓うのを恐れる人にも、すべての人が同じ結末を迎えるということです。同じ結末とは何でしょうか。人はみな死ぬということです。死はすべての人にやって来ます、100パーセントの確立で。すべての人が死んで墓に葬られることになるのです。悪者が死んで墓に入るというのならわかりますが、正しい者も同じように死んで墓に入るというのは納得できません。このようにすべての人が同じ結末を迎えるならどういうことになるでしょうか。3節を見てくたさい。3節には、「人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり」とあります。どうせ死ぬのだから、自分の好きなように生きればいい、ということになります。良いことをしようが、悪いことをしようが関係ありません。悪いことをしても別に何も変わらないのなら、自分の心の赴くままにすればいいと、人の心がますます悪に傾くようになるのです。これは空しいことです。なぜなら、私たちの人生は、死は終わりではないからです。日の上でのいのち、死後のいのちが神によって用意されているからです。

 

皆さんは、「ヒアアフター」という映画をご存知でしょうか。この映画は、死を身近で体験した3人の登場人物が、それぞれアメリカ、フランス、イギリスに住んでいるのですが、死後と向き合いながら生きていく中で、やがて一つにつながっていくという物語です。周りの人々は、「死後の世界があるなら誰かが証明しているはずだ!」と本気にしないのですが、死を身近に体験した人たちにとってはそうではありません。それが生と向き合うきっかけとなり、その生き方に大きな影響を及ぼすことになるのです。

 

米国の伝道者にスタンレー・ジョーンズ(1884-1973)という人がいましたが、彼はよく次の伝道地に向かう汽車の中で説教の準備をしていたと言われています。しかし、長いトンネルの中に入るとトンネルと周りの人々の騒々しい声が耳にささって、説教づくりを妨害するのです。以前から他の乗客の騒音でイライラしていた彼は、ついに我慢しきりなくなり怒鳴ろうとした時、期待にふくらんだ一人の少年の声を聞くのです。

「見て、見て、お母さん。ほら、明日だよ。」

少年がそう叫んだのは、暗くて長いトンネルを出て、太陽がまぶしく輝く世界を目にしたからでした。

 

死の向こう側にあるものを見ることができる人は幸いです。私たちの人生はこの地上だけで終わるものではありません。すべての人生の終着駅は死ですが、死には二種類あるのです。一つは「信じる者の死」で、もう一つは「信じない者の死」です。信じる者の死は、主イエスを信じて罪の赦しと永遠のいのちを受け、永遠の御国に入る門であり、「信じない者」の死は、永遠の滅びに入る門、地獄の門です。私たちはどちらの死を迎えるのかを選択しなければなりません。

 

Ⅱ.神に会う備えをせよ(4-6)

 

次に、4~6節までをご覧ください。すべての人が同じ結末を迎えるのであれば、生きていることにどんな意味があるというのでしょうか。「しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われることすべてにおいて、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。」

 

「しかし、人には拠り所がある」何ですか、「拠り所」とは?新改訳第三版では「希望」と訳しています。「すべて生きている者に連なっている者には希望がある」つまり、人は死んだら終わりですが、生きている限り、何かしらの希望があるということです。そのことをわかりやすく伝えるために用いているたとえが、その後に出てくる、生きている犬と死んだ獅子の話です。「生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ」どういうことでしょうか。ここでは犬と獅子が対比されています。犬は最も劣った動物で、獅子は最も優れた動物であるという意味で対比されているのです。そんな犬でも、生きている限り、死んだライオンよりもまさっています。また、5節にあるように、生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。生きているだけでましだということです。さらに、5節の後半には「彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる」とあります。死んでしまえば、もはや何の報いを受けることもなければ、その名前すら忘れられてしまいます。この地上での憎悪やみたみも消えうせ、この地上で起こることには全く関係が無くなってしまうのです。

 

しかし、これは、人は死ぬと眠りにつき意識がなくなるということを教えているのではありません。これまで何度も見てきたように、伝道者は「日の下」で行われているすべてのことを観察して、そのように語っているのです。すなわち、神様なしの、神様抜きの、人間の知恵と論理によって人生を観るならこうなるということです。つまり、聖書を持たない知者が、世界について、人生について、哲学的に思索を重ねると、このような結論に到達するということです。

 

しかし、このような人間的な思索の中でも、生きている限り希望があります。人は死ねば、神のさばきの前に立つ日が例外なくやって来ますが、生きている限り、そのことに備えてイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得る機会があるからです。しかし、死んだ者には何の望みもありません。

 

ある人たちは、Ⅰペテロ3章18~20節から、死んでからでも救われるチャンスがあると主張しています。いわゆるセカンドチャンス論です。そこにはこうあります。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。」

 

この「キリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。」という言葉ですが、キリストは、よみに下り、囚われている人たちの霊のところに行って福音を宣べ伝えられた、と考えるのです。それはノアの時代に、箱舟を作られていた間に、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのところです。しかし、これはそういう意味ではありません。確かにキリストは十字架で死なれ、よみに下って行かれ、キリストの福音を信じなかった人たち、すなわち、捕われの霊たちのところへ行って神のことばを語られましたが、それは救いのことばではなく、さばきのことばでした。さばきの宣言だったのです。聖書は一貫して、死んでからも救われるチャンスがあるなどとは語っていません。聖書が言っていることは、人は死んだら神のさばきがあるということです。へブル9章27節にこうあります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」

つまり、人は100%の確率で誰もが死んで行きますが、同じように死後神の前に立ち、神の裁きを受けるようになることも100%であるということです。死後に救われるチャンスがあるのではなく、死後にさばきを受けるのです。であれば、生きているうちに、この神のさばきに備えなければなりません。死んでからでは遅いのです。生きているから希望があるのです。拠り所があります。死んだ者は何も知りません。

 

クリスチャン音楽家の森繁昇さんが、「君は死んでゆく。用意はできてるか? Ready To Die」という歌を歌っておられます。もうかなり前になりますが、初めて聞いたときドキッとしました。人は死ぬということをストレートに歌っているからです。どうぞ心を準備してお聞きください。いいだすか、心の準備は出来ましたか?

おじいちゃんが死ぬ。おばあちゃんが死ぬ。 父さんが死に、母さんが死に、兄さん、姉さんも。

弟が死ぬ。 妹が死ぬ。 妻に夫、奥さん、主人に、ポチもタマも死ぬ。

息子が死ぬ。 娘が死ぬ。 嫁が死に、婿が死に、孫に曽孫も。

おじさんが死ぬ。おばさんが死ぬ。いとこにはとこ、甥も姪も、義理の父も母も死ぬ。

「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

街で死ぬ。 村で死ぬ。山で、川で、海で、畑で、そこらじゅうで死ぬ。

病院で死ぬ。 自分の家で死ぬ。 台所か、居間か、風呂か、トイレか、玄関先で死ぬ。

金持ちが死ぬ。貧乏人が死ぬ。知ってる人が、知らない人が、友達が死ぬ。

有名人が死ぬ。 ホームレスが死ぬ。 朝でも、昼でも、夕暮れ時でも、真夜中でも死ぬ。

あの人だけが死ぬんじゃないよ。 この人だけが死ぬんじゃないよ。

他の人だけが死ぬんじゃないよ。君の番もくるからさ。

そんなに泣かなくてもいいさ、 涙や悲しみを無駄にしなくても。

君は死んでゆく。用意はできてるか?

交通事故で死ぬ。 飛行機事故で死ぬ。病気の人も、元気な人も、思いがけなく、死ぬ。

戦争で死ぬ。 自殺して死ぬ。撃たれて、刺されて、締めれて、叩かれ、殺人犯も死ぬ。

歩いてて死ぬ。走ってて死ぬ。働いていて、遊んでいて、ブラブラしていて、死ぬ。

がんばる人も、がんばらない人も年寄り、若者、子供に 赤ちゃん 生まれる前に死ぬ ちょうど車にはねられて死んだ犬が 何度もひかれているうちに だんだん乾いてきてついには埃となって 完全に吹き飛ばされて無くなるように人も死に至るのさ

君は死んでいく用意はできてるか

笑ってる人が死ぬ 泣いてる人も死ぬ 親切な人 いじわるな人 ガッツのある人も 怒りっぽい人も 優しい人も 威張っている人 だましている人 だまされている人も

会長が死ぬ 社長が死ぬ 専務に常務、部長に次長に課長に係長。

新入社員が死ぬ。サラリーマン全部死ぬ。政治家、先生、警察、お医者、葬儀屋も、死ぬ。

たとえ人が世界を全部、自分のものとしても、何になろう? もし、永遠のいのちを損じたら。

しかし、創造主の愛をもらう者が、死んでもまた、生きるのなら、

誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

創造主に罪を赦される者が、死んでもまた、生きるのなら、誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

君は死んでゆく。用意は、 君は死んでゆく。用意は、君は創造主に会う用意は、できてるか?

 

初めて聞いた方はドキッとしたのではないかと思いますが、福音のメッセージがストレートに語られているすばらしい歌ではないかと思います。だれも、自分が死ぬなんて考えられません。いや、考えたくありません。死んだら終わりだと思っているからです。でも、その先に希望があることがわかっていれば、それに備えて生きるのではないでしょうか。その希望こそイエス・キリストです。キリストは神の御子であられ、罪を犯したことがない方でしたが、私たち罪人を愛して、私たちの罪の刑罰を受けて十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることがなく、永遠のいのちを持つためです。この方を救い主と信じるなら、どんな人であっても罪に定められることがなく、天国に入ることができます。永遠のいのちを得ることができるのです。この曲の最後の方に、「君は創造主に会う用意は出来ているか」とありますが、これこそ、創造主に会うための用意です。あなたは、その用意ができているでしょうか。

 

旧約聖書の預言者アモスは、こう言いました。「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12)

あなたは、神に会う備えが出来ていますか。それは生きている時でなければできません。生きているなら希望があります。4節にあるように、生ける者すべてのうちに数えられている者には、拠り所がるのです。死んでからでは遅いです。生きているうちに、その備えをしてください。それこそ、あなたが生かされている最大の目的です。この世での一番の祝福は何ですか。それは、多くの富や権力を持つことではありません。救い主イエスを信じて永遠のいのちを持つことです。救い主イエスを見出し、人生の正しい目的を見つけること、それが一番の祝福なのです。

 

2月4日の世界宣教祈祷課題は、ナイジェリアのために祈る日でしたが、2018年2月19日、ナイジェリア北部ヨベ州ダプチの科学技術教育学校から110名の女生徒と共に誘拐され、ボコ・ハラムの囚われの身となってしまったキリスト者の少女レア・シャリブ姉妹の事件に言及されていました。

ボコ・ハラムによる学生誘拐事件は、国際世論の非難の的となっていて、ナイジェリア政府や国際世論の強い圧力もあって、1ヶ月後の3月24日には、104名の少女らが解放されました。ところが当時14歳で、キリスト教徒のレアは、自身の信仰を棄ててムスリムに改宗することを拒んだため、彼女ひとりが残されてしまったのです。

解放された学友によると、全員が解放されたあの日、レアもすべての少女と一緒に解放されるはずでした。ところがボコ・ハラムは、レアがトラックに乗る直前、キリスト教徒からムスリムに改宗するためのいくつかの儀式的宣言をするように彼女に要求しましたが、彼女は「私はイスラム教徒ではないので、決してそれは言えません」と拒んだのです。

すると、彼らは怒って「お前がキリストを冒涜しないなら、我々とともに残ってもらおう!」と脅したのですが、なおも彼女はその要求を拒否しました。他の学友らも――おそらくは一時的なポーズだけでも――レアに改宗するよう促したのですが、このわずか14歳の少女は、決して主を否んで裏切ることはしなかったのです。

彼女は、自分だけが解放されないことを悟ると急いで母親への手紙を書き、それを解放される友人の手に託しました。その時の手紙には次のように記されてありました。

「お母さん、どうか私のことで心配しないでください。お母さんは、私がいなくなって、とても辛い思いをしていると思うけど、何処にいても私はきっと大丈夫だと伝えたくて、急いでこの手紙を書きました。私の神様は、このような試みの中でもずっと御自身を現わしてくださっています。お母さんが朝のデボーションで『神様は苦しんでいる人々により近く寄り添って下さる』と教えてくれた言葉の通りです。私は今、それが真実だと証明することができます。いつの日か、きっとお母さんに再会できると信じています。私は今お母さんのそばにいなくても、主なるイエス・キリストの内にいます。」

レアの学友らは走り出すトラックから、ひとり残された彼女が見えなくなるまで見つめ、泣きながらいつまでも手を振っていたと言います。

 

私は、レアのことを思うと、信仰とは何なのかを考えさせられます。たった14歳の少女がいのちがけで守ろうとしたもの、それはまことの命ではないかと思うのです。人命尊重、人命尊重、と連呼される昨今、この14歳の少女は「人の人生には命よりも大切なものがある」ことを強烈に投げかけてやめないのです。

 

Ⅲ.神が与えてくださった恵みを楽しむ(7-10)

 

では、生きている間、私たちはどのように過ごせばよいのでしょうか。7~10節までをご覧ください。「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」

 

7節には、「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」とあります。伝道者はここで、神が与えてくださるものを楽しむことが最善の生き方であると言っています。神がそれを許しておられるのだから、日々の生活を楽しめばよいというのです。これは、いわゆる快楽に溺れろということではありません。日ごとの糧に感謝して、それを喜び楽しみなさい、ということです。

 

8節には、「いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。」とあります。「白い衣」とは祭りの装いのことだと言われています。頭に油を絶やしてはならないとは、油は聖書では人の心を喜ばせるものとありますから(箴言27:9)、神が与えてくださる恵みの中で、祭りのように楽しみ、喜ぶ人生を生きるようにということでしょう。

 

そして、9節には「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。」とあります。すなわち、結婚関係も最大限楽しむべきであるということです。尾山令仁先生は、これを「この地上でのむなしい人生においては、妻と生活を楽しむに越したことはない。それが、あなたがこの地上で生きている間、神があなたの労苦に対して創造主が与えてくださる恵みである。」と訳しています。その恵みを楽しむのがよいのです。結婚して何年も経つと、それが恵みであることも忘れて、自分のペースで勝手気ままに振る舞うことが多いですが、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよいのです。アーメン。一緒に聖書を読んだり、祈ったり、チョコレートをかけてカードゲームするのもいいでしょう。たまには一緒に出かけるのもいいですね。いつも出かけていると有り難さに欠けるので、たまに出かけるのがいいのです。いずれにせよ、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい。これが神のことばです。

 

また10節には、「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。」とあります。今、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、ということです。「あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」死んでからでは、働くことも、計画することも、知恵も知識もないからです。つまり、仕事であっても、知恵であっても、知識であっても、生きている今の時に、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、というのです。

 

私の友人の牧師に、路傍伝道ネットワークの代表をしておられる菅野直基という牧師先生がいらっしゃいますが、フェイスブックで「今日を最後の日として生きよう」というショートメッセージをされました。

「私たちの人生はたった一度だけです。時間には限りがあり、あっという間に過ぎていくもの、だから人生はおもしろい。明日があると思えば、今日出来る事を明日に先延ばししてしまうことがあります。この世が永遠に続くと思うなら、後でしようと、急いだってしょうがないんじゃないの、ってなりますけれども、これは「もし」のことであって、聖書では、私たちの人生は70年、健やかであっても80年、どんなに生きても120年だとあります。そういう意味では、今日という日がどれほど大切でしょうか。もしかすると、今日が最後の日になるかもしれないのです。もし今日が最後の日だとしたらどう過ごしますか。誰と会うか、何をするか、どのように過ごしたいかを考えるのではないでしょうか。そして、そのように思い巡らす中で一番重要なことからやっていくのではないでしょうか。今日を最後の日として考えて生きるなら最高の一日になるはずです。それを毎日続けていったらものすごいことです。何気ない出会いも大切にしたいと思うでしょうし、険悪な関係だった人との関係も修復しておきたいと思うでしょう。今日を最高に生きるために、今日という日を、そして今を最後の日として生きていけたらいいですね。」

 

今日という日を、今を、最後の日として生きる。そうすれば、一番大切なことからやっていくはずです。一番大切なこと、それは、神に会う備えをするということです。そして、神が与えてくださった一つ一つの恵みに感謝し、これを喜び、楽しみ、自分の手でできることに、全力を尽くすということです。

 

あなたはどうですか。神に会う備えが出来ていますか。それはただイエス様を信じるというだけでなく、あなたの人生において神を認めて生きるということです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5)

心を尽くして主に拠り頼みましょう。自分の悟りに頼るのではなく、あなたの行くすべてにおいて主を認めましょう。主が与えてくくださる恵みに感謝しましょう。そうすれば、主があなたの道をまっすぐにしてくださいます。

Ⅱサムエル記5章

Ⅱサムエル5章に入ります。まず、1~5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.イスラエルとユダ全体の王となったダビデ(1-5)

 

「イスラエルの全部族は、ヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「ご覧ください。私たちはあなたの骨肉です。これまで、サウルが私たちの王であったときでさえ、イスラエルを動かしていたのはあなたでした。【主】はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と。」イスラエルの全長老はヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで、【主】の御前に彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。ダビデは三十歳で王となり、四十年間、王であった。ヘブロンで七年六か月ユダを治め、エルサレムで三十三年イスラエルとユダの全体を治めた。」

 

サウル家の王であったイシュ・ボシェテは、2人のベニヤミン人レカブとバアナによって殺されたため、サウル家にはヨナタンの子でメフィボシェテはいましたが、足が萎えていたため王や将軍がいなくなりました。

そこでイスラエルの全部族は、ヘブロンにいたダビデのもとに来て言いました。「ご覧ください。私たちはあなたの骨肉です。これまで、サウルが私たちの王であったときでさえ、イスラエルを動かしていたのはあなたでした。主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と。」(2-3)

彼らは、サウルが自分たちの王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのはあなたでした、と告白しています。彼らはこのことに気づいていました。主の御霊がサウルから去り、ダビデに臨まれたということを。第三者的に見ても、それを認めることができたのです。私たちの働きも同じです。御霊の働きがなければ、どんなに体裁を整えても、他の人から認められることはありません。けれども主の御霊の注ぎがあれば、その人がどのように低められていようと、だれもが認めるようになります。大切なのは、自分がどのような立場にあるかということではなく、主の御霊の注ぎがあるかどうかということです。それは、主がダビデに語られた預言のことばでもありました。かくして、ダビデは彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王としました。

 

ダビデが油注ぎを受けるのは、これで3回目です。一度目はサムエルによって(Ⅰサムエル16:13)、二度目はユダの人々によって(Ⅱサムエル2:4)、そして三度目が今回です。ダビデがイスラエルの王となったのは、彼が30歳の時でした(4)。ヨセフがエジプトで支配者となったのも30歳の時でした。なぜ30歳だったのでしょうか。それは、ダビデもまたヨセフも、後に来られるキリストを指し示していたからです。イエス様がその働きを始められたときも、およそ30歳でした(ルカ3:23)。ダビデは、とこしえの神の国の王となられるキリストを指し示していたのです。

 

先月の聖書同盟の「みことばの光」の聖書通読の箇所は民数記でした。民数記の4章には、おしろいことに、主の幕屋で奉仕することができる祭司の年齢が記されてあります。それは30~50歳までの人です。私は今年60歳になりますから、アウトです。それはどうでもいいとして、なぜ30歳からだったのかというと、この祭司もまたキリストを表していたからです。イエス様は、王としても、祭司としても、油注がれたメシヤ、キリストであられたのです。

 

ダビデは30歳で王となり、40年間、イスラエルを治めました。ヘブロンで7年6か月ユダを治め、エルサレムで33年間イスラエルとユダの全体を治めました。それにしても、何と忍耐を強いられたことでしょう。30歳でユダとイスラエルの王となるまで、実に様々な試練を通らされました。しかし、こうやってみると、それは彼が王としての働きを全うしていくために必要な訓練の時であったことがわかります。主の働きに召される者には多くの責任が伴いますが、それを成し遂げていくためには、信仰や判断力、人格などあらゆる面で整えられる必要があるのです。ダビデが王になるまでの試練は、そのための訓練の時だったのです。彼が王としてふさわしい姿になったとき、神は彼に統一王国の王としての働きをゆだねられました。へブル12章7~11節にこうあります。「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

私たちも、どうしてこのようなことが・・と思うことがありますが、訓練と思って耐え忍びましょう。神がちょうど良い時に引き上げてくださり、平安な義の実を結ばせてくださるからです。

 

Ⅱ.ダビデの町(6-10)

 

次に、6~10節までをご覧ください。「王とその部下は、エルサレムに、その地の住民エブス人のところに行った。すると彼らはダビデに言った。「おまえは、ここに攻めて来ることなどできない。目の見えない者どもや足の萎えた者どもでさえも、おまえを追い出せる。」彼らは「ダビデがここに攻めて来ることはできない」と考えていたのである。しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。その日ダビデは、「だれでもエブス人を討とうとする者は、水汲みの地下道を通って、ダビデの心が憎む『足の萎えた者どもや目の見えない者ども』を討て」と言った。それで、「目の見えない者や足の萎えた者は王宮に入ってはならない」と言われるようになった。ダビデはこの要害に住み、これを「ダビデの町」と呼んだ。ダビデはその周りに城壁を、ミロから一周するまで築いた。ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、【主】が彼とともにおられた。」

 

ダビデとその部下は、エルサレムに、その地の住民エブス人のところに行きました。遊びに行ったわけではありません。その地を占領するためです。ヘブロンは統一王国を治めるためにはあまりにも南に位地していたので、もう少し北に移そうと思ったのでしょう。また、そこはユダ族の領地でもあったので、統一王国の首都としてはふさわしくありませんでした。そこでダビデが新しい首都として選んだのが、シオンの要害、エルサレムでした。そこはユダ族とベニヤミン族の境に位地していたので、どの部族にも偏らないところにあったのです。

 

エルサレムは、300年ほど前に、主がヨシュアを通して語られた命令に従い、ユダ族が攻め取った町でした(士師1:8)。しかし、ユダ族が攻め取った後も、彼らはそこを自分たちのものとしなかったので、エブス人がいつまでも居座り、紀元前約1000年になっていたダビデの時代にも、まだエブス人の手の中にあったのです。エブス人がダビデに、「おまえは、ここに攻めて来ることなどできない。目の見えない者どもや足の萎えた者どもでさえも、おまえを追い出せる。」と侮辱していますが、それもそのはず、エルサレムはその地形からして三方を山に囲まれた、難攻不落の天然の要塞だったからです。

 

しかし、ダビデはこのシオンの要害を攻め取りました。これが「ダビデの町」です。ダビデは、ユダのベツレヘムの出身ですので、ダビデの町とはそのベツレヘムのことを指しますが、この時ダビデがエルサレムを攻め取り、そこを政治的、軍事的な中心地としたことから、これを「ダビデの町」と呼ぶようになったのです。こうして、この時からエルサレムはユダヤ人のものとなりました。

 

どうして彼らはこのエルサレムを攻め取ることができたのでしょうか。その理由が10節にあります。「ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。」万軍の神、主が彼とともにおられたからです。主がともにおられることこそ、クリスチャンの力であり、祝福の源です。私たちのすべての行為は私たちが行っていても、神が行っているとも言えるのです。神はそのような者を祝福してくださいます。

 

一方、エブス人たちはどうだったかというと、大変傲慢でした。ダビデがエルサレムに攻めても、目の見えない者どもや足の萎えた者どもでも追い出せると豪語しました。このような自信過剰な態度は大変危険であると言えます。彼らはダビデの力と知恵を侮っていました。しかし、最後はそのダビデによって滅ぼされる結果となってしまいました。いつの時代でも、神を恐れない者たちは、どんなに危険が迫っていても、傲慢で油断しています。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。その霊の戦いにおいて勝利するために、主の御前にへりくだり、主とともに歩ませていただきましょう。万軍の神、主がともにおられることで勝利ある者とさせていただきましょう。

 

Ⅲ.ダビデの家族(11-16)

 

次に、11~16節までをご覧ください。まず11~12節です。「ツロの王ヒラムは、ダビデのもとに使者と、杉材、木工、石工を送った。彼らはダビデのために王宮を建てた。ダビデは、【主】が自分をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。」

 

神の都エルサレムにイスラエルの新しい都が確立されました。次に必要なのは、その都にふさわしい王国です。しかし、当時のイスラエル人は主に農業と牧畜に従事していたので、木材や石材を加工して建物を建築するのに慣れていませんでした。そのような時に、ダビデのもとに素晴らしい知らせが届きました。ツロの王ヒラムが、ダビデのもとに使者と、杉材、木工、石工を送ってきたのです。ツロは今のレバノンにある町です。エルサレムからは120㎞ほど北方にある外国の町でした。そのツロからこれだけの資材が送られて来たというのは、ヒラムがダビデと友好条約を結ぼうとしていたということです。彼はダビデの偉大さを認め、敵に回すよりも友人になった方が得策だと考えたのです。

 

ヒラムは異邦人でした。この異邦人のヒラムがイスラエルと契約を結ぶ姿は、新約の時代になって異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンと一つになることを予表していました。これはパウロを通して表された神の奥義でもありました。パウロはこの奥義を次のように語っています。エペソ3章5~6節です。「この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」

これは、旧約の時代には知らされていなかった奥義です。しかし、このような形で示されていたのです。キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということを。これがキリストの教会です。

私たちも、ヒラムがダビデにしたように、ダビデの子であられる主イエスを信じ、この契約の中に入れられた者です。ですから、ともに同じからだ、キリストのからだにつらなって、このからだを立て上げ、教会を通して神の栄光を現すものとなりたいと思います。

 

12節には、「ダビデは、主が自分をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。」とあります。ダビデはよく知っていました。主が自分をイスラエルの王として立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったということを。それはすべて主から与えられたものであるということを知っていたのです。自分は神に用いられている器にしかすぎないのであって、したがって自分はただ主を恐れ、主に言われていることを行なうだけであるということを知っていたのです。サウルのときと比べてみてください。彼はイスラエルを自分の所有物であるかのように考え、自分の国が栄えることだけを考えていました。自分の縄張りを作っていました。しかしダビデはそうではなく、それは主のものであり、主がご自身のために自分を立ててくださったと、認識していたのです。彼にあったのは、ただ主を慕うその心だけでした。

 

とは言え、彼もまた完全な者ではありませんでした。次のところを見るとそれがわかります。13~16節をご覧ください。「ダビデは、ヘブロンから来た後、エルサレムで、さらに側女たちと妻たちを迎えた。ダビデにはさらに息子たち、娘たちが生まれた。エルサレムで彼に生まれた子の名は次のとおり。シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモン、イブハル、エリシュア、ネフェグ、ヤフィア、エリシャマ、エルヤダ、エリフェレテ。」

 

ここには、ダビデがヘブロンから来た後、エルサレムで、さらに側女たちと妻たちを迎え、彼女たちによって生まれた子どもたちの名前が記されてあります。3章には、ダビデがヘブロンにいた時に生まれた子どもたちのことが記されてありましたが、そこには6人の妻たちがいました。これでも多すぎるのに、エルサレムに来てからさらに多くの妻と側女たちをめとりました。これは3章でも述べましたが、主の戒めに背く行為です。申命記17章17節には、王は、多くの妻を持ってはならない、とあります。心がそれることがないためです。それなのに彼は、さらに多くの側女たちと妻たちを迎えました。ダビデのこの罪は、やがて深刻な呪いを招くことになります。その子ソロモンもまた、やがて同じ罪を犯すようになります。これは、慢心というか、彼の心に隙が生じたからです。サウルの家との間に激しい葛藤があったときには主に信頼していたダビデでしたが、統一王国を成し遂げた後に、こうした落とし穴が待っていたのです。人は成功を手に入れることよりも、成功したあとをどうするかのほうが難しいように感じます。成功は人を慢心と油断に陥れます。主の祝福を受けた後でも主を愛し、主に信頼し、へりくだって主に従うことができる人は幸いです。

 

ところで、エルサレムで生まれた子どもたちのうち、最初の4人、シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモンは、バテ・シェバによって生まれた子どもです。この中で特にナタンとソロモンに注目してください。ダビデの王位を継承し、エルサレムに神殿を建設するのはソロモンです。ソロモンはその名が示す通り、「平和の子」です。一般的には、ソロモンがメシヤであられるイエスの先祖となったと考えられていますが、実際はソロモンではなくナタンです。マタイの福音書にある系図を見ると、確かに1章6節に「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」とあります。そして、その子孫にイエスの父ヨセフが生まれ、ヨセフによってイエスが誕生しました。しかし、本当の父はだれかというと、聖霊です。イエスは聖霊によって母マリヤの胎に宿ったのです。ですから、正確にはヨセフはイエスの義父であったということになります。血のつながりはありませんでした。

一方、ルカの福音書にあるイエスの系図を見ると、イエスはソロモンではなくナタンを通して生まれたとあります(ルカ3:31)。いったいこれはどういうことでしょうか。

 

この二つの系図にはいろいろな違いが見られますが、これはこの系図が間違っていたということではなく、イエスは二つの家系を通して生まれてきたことを示しているのです。そして、ルカはマリヤの家系を、マタイは、ヨセフの家系をたどって記録したのだろうと考えられています。マタイはイエスの法律上の父であるヨセフの家系を、ダビデの息子ソロモンを通して、だどったのに対して、ルカはマリヤ(イエスの血肉の親戚)の家系をダビデの息子ナタンを通して、たどったということです。「義理の息子」というギリシャ語はないので、ヨセフはエリの娘マリヤと結婚することで、エリの息子と考えられたわけです。どちらの家系をたどっても、イエスはダビデの子孫であり、かつメシヤとしての資格があるということです。母方の家系をたどった系図というのは普通ないことですが、処女降誕も普通なかったことです。ルカの説明は、イエスはヨセフの息子「と考えられていた」のです。(ルカ3章23節)

このように見ると、神の計画は人知をはるかに超越したものであり、同時に、完璧なものです。この全地全能の神に全面的に信頼しようではありませんか。

 

Ⅳ.ペリシテ人との戦い(17-25)

 

最後に、17~25節を見て終わりたいと思います。まず17~22節までをご覧ください。「ペリシテ人は、ダビデが油注がれてイスラエルの王となったことを聞いた。ペリシテ人はみな、ダビデを狙って攻め上って来た。ダビデはそれを聞き、要害に下って行った。一方、ペリシテ人はやって来て、レファイムの谷間を侵略した。ダビデは【主】に伺った。「ペリシテ人のところに攻め上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」【主】はダビデに言われた。「攻め上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」ダビデはバアル・ペラツィムにやって来た。ダビデはそこで彼らを討って、「【主】は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」と言った。それゆえ、その場所の名はバアル・ペラツィムと呼ばれた。彼らはそこに自分たちの偶像を置き去りにした。そこでダビデとその部下はそれらを運び去った。」

 

ダビデが油注がれて王となったことを聞いたペリシテ人は、ダビデを狙って攻め上って来ました。彼らはこれまでダビデを自分たちの家来だと思っていましたが、そのダビデが、エルサレムを攻め取り、そこを新都と定め、王宮まで建設したということを聞いて、そのダビデの権力が強大なものにならないうちに、早急に彼を討っておこうと思ったのです。不思議ですね、ダビデが王位に就くとすぐに、敵が彼を滅ぼそうと動き出しました。これは、ダビデの場合だけでなく、いつの時代でも言えることです。イエス様もヨルダン川で洗礼を受けるとすぐに悪魔の攻撃を受けました。私たちクリスチャンも霊的な祝福を受けた途端、こうした悪魔の攻撃を受けることがあります。しかし、主とともに歩むなら、必ず、圧倒的な勝利がもたらされます。

 

ダビデの場合はどうだったでしょうか。それを聞いたダビデは、要害に下って行きました。彼は、ペリシテ人たちがレファイムの谷間を侵略したと聞いたとき、まず主に伺いを立てました。彼は、自分で勝手に判断して動くことをしませんでした。ペリシテ人がやって来ているのだから、攻めに行くのは当たり前です。けれども当たり前だと思われることさえ、彼は主に伺ったのです。彼はいつも、自分の前に主を置いていたのです。

 

すると、主はダビデに言われました。「攻め上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」この主の答えは、ダビデにとってどれほど心強かったことでしょう。主は必ず、ペリシテ人を彼の手に渡すと言われたのです。それでダビデは、バアル・ペラツィムにやって来て、彼らを討ちました。そのときダビデはこう言いました。「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」。それで、その場所の名は、「バアル・ペラツィム」と呼ばれるようになりました。意味は、「偶像が討ち破られた場所」です。ペリシテ人たちが置き去りにした偶像は、運ばれ、捨てられ、焼却されました。主が約束されたとおりに、圧倒的な勝利がもたらされたのです。

 

次に、22~25節までをご覧ください。「ペリシテ人は、またも攻め上り、レファイムの谷間を侵略した。ダビデが【主】に伺うと、主は言われた。「上って行くな。彼らのうしろに回り込み、バルサム樹の茂みの前から彼らに向かえ。バルサム樹の茂みの上で行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき【主】はすでに、ペリシテ人の陣営を討つために、あなたより先に出ているからだ。」ダビデは【主】が彼に命じられたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を討った。」

 

ペリシテ人たちは、またもレファイムの谷間から攻め上って来ました。執拗な攻撃です。悪魔の攻撃も、このように執拗です。一度勝利したらそれでおしまいというのではなく、何度も攻撃してきます。

ダビデはそれにどう対応したでしょうか。彼は再び主に伺いました。彼は、前回勝利したときと同じ戦略を実行しようとしませんでした。ここが、ダビデの偉大なところです。彼は再び主に伺いを立てました。彼は、戦略ではなく、主の臨在こそが勝利をもたらす秘訣であると知っていたのです。

 

すると、今度は前回とは全く違う戦略が示されました。上って行くのではなく、彼らのうしろに回り込み、バルサム樹の茂みの前から彼らに向かうようにと言われたのです。そして、バルサム樹の茂みの上で行進の音が聞こえたら、そのとき、攻め上るようにと言われたのです。そのとき主はすでに、ペリシテ人の陣営を討つために、ダビデの先に出ているからです。それでダビデは主が命じられたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を討ったのです。

 

ダビデが二度目の戦いに勝利できたのは、彼が主の方法とタイミングに従ったからです。バルサム樹の茂みの上で行進の音が聞こえたら、その時に攻め上れ、というのは、それは主の軍勢がダビデの先に立って行進していることを暗示していました。その音を聞くまで待たなければなりませんでした。その音を聞いたとき、すなわち、主の軍勢が戦いのために行進するのを聞いたとき、彼は攻め上らなければなりませんでした。そのとおりにしたとき、ダビデは圧倒的な勝利を収めることができました。

 

これはビジョン2025に向かって進んでいる私にとって大きな示唆を与えてくれます。ビジョン2025とは、2025年までに新しい教会を生み出すというものですが、これまでのやり方ではだめです。これまでは真正面から攻め上って戦ってきました。でも今度は違います。今度は上って行くのではなく、彼らのうしろに回り込み、バルサム樹の茂みから彼らに向かわなければなりません。いつまでですか?そのサインは行進の音です。行進の音が聞こえたら、そのとき、攻め上ればいいのです。

 

皆さんはどうですか。「主の軍勢の行進の音」が聞こえるでしょうか。それとも、その時を待つべき時でしょうか。今がどのような時なのかを聞き分け、行動しなければなりません。主の戦いに勝利するには、主の方法とタイミングによらなければならないのです。私たちも主の時を見極めて、主の勝利を体験させていただきたいと思います。

伝道者の書8章9~17節「すべては神のみわざ」

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きょうは、伝道者の書8章後半の御言葉から学びます。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者は知恵のある者とされるのにあさわしいのはだれかを、正しい者と悪しき者を対比して語っています。きょうの箇所でも、知恵のある者とはどのような者なのかを、三つのポイントで語っています。すなわち、第一に、知恵のある者は、神を恐れ、神の御前に生きる人であるということです。第二に、私たちの人生は矛盾に満ちているかのように見えることが多いですが、すべてのことが神のご支配の中で起こっているわけですから、神が与えてくださることに感謝し、満足する生き方を学ばなければなりません。そして第三のことは、すべては神のみわざであって、人は神のみわざを見極めることはできません。ですからすべてを神にゆだね、神に信頼して歩まなければなりません。そのような人こそ知恵のある者なのです。

 

Ⅰ.悪しき者には幸せがない(9-13)

 

まず、9~13節をご覧ください。9節と10節をお読みします。「私はこのすべてを見て、私の心を注いだ。日の下で行われる一切のわざについて、人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」

 

「このすべて」とは、この地上で行われるすべてのことです。伝道者は、そのすべてを見て、心を注ぎました。すると、そこに人を支配し、傷つけている人がいるのを見たのです。また、10節、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見ました。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられます。これもまた空しい。どういうことでしょうか。実はここはちょっと難解な箇所です。「聖なる方のところ」とは「神」のこと、あるいは、「神の宮」のことを指しています。その聖なる方のところから悪しき者が離れ去って行くことはありません。なぜなら、彼らは元々神から離れているからです。またここには、悪しき者がわざを行ったその町で忘れられるとありますが、それは結構なことなのに、ここには「空しい」とあるのです。どういうことでしょうか。

 

そこで口語訳聖書は、この「忘れられる」という言葉、へブル語で「イシュタッケフー」という言葉ですが、これを「ほめられる」という言葉、へブル語の「イシュタッベフー」に修正し、次のように訳しました。「彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。」と「忘れられる」を「ほられる」に修正したんですね。そうすれば、悪しき者がほめられるのはおかしいですから、「これもまた空しい」ということになります。つながるわけです。

 

しかし、これはそういうことではありません。14節に「悪者」と「正しい者」とか対比されているように、ここでも悪者と正しい者が対比されているのです。つまり、悪しき者たちが葬られて去っていくことと、正しい者が、聖なる方の所を去り、そして、町で忘れられてしまうということです。ですから、新改訳第三版ではこのように訳しているのです。「そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行いの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。」ですから、この「彼ら」を「悪しき者」ではなく、「正しい者」と理解したわけです。これが、本文が語っていることです。この新改訳2017では「忘れられる」という原語を修正しなかったのは良かったのですが、主語を「彼ら」としたため、これが「悪しき者」を指しているように訳したため、意味が通じなくなってしまいました。正しい者が、聖なる方のところから離れ去り、その町で忘れられることがあるとしたら、それもまた空しいではないでしょうか。

 

そればかりではありません。11~12節前半までを見てください。「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。悪を百回行っても、罪人は長生きしている。」

この世では悪い行いに対する宣告がすぐに下されるどころか、むしろ、悪人が称賛されることがあります。それを見て人の子らの心は悪を行う心で満ちるのです。彼らは悪を百回行っても、長生きしています。そんなことってありますか?あるんです。あの人はあんなに悪いことばかりしているんだから、罰が当たってすぐに死んでしまうだろうと思いきや、意外と長生きしているのです。しかも、祝福されたりして・・。そのような状況を見ると、何とも不条理な世の中だと思ってしまいます。だったら悪いことをしていた方が得じゃないかとさえなります。

 

しかし、伝道者はそのような不条理を嘆きつつ、悪者には真の幸せがないと強調しています。それが12節の真中にある「しかし」です。12節の「しかし」から13節までを読んでみましょう。「しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」

悪者に対して神のさばきが下るどころか、もっと栄えているかのように見えることで、人々は大胆に悪を行っていますが、その生涯を影のように長くすることはできません。神の御前での恐れがないからです。しかし、神を恐れ、真実に生きる人を、神は必ず顧みてくださいます。そして、彼らの生涯を美しいものにしてくださるのです。

 

大正時代に八木重吉という詩人がいました。東京高等師範学校の学生の時、クリスチャンの同級生の勧めで聖書を読み始め、キリストと出会いクリスチャンとなりました。その後、千葉県の東葛飾中学校で英語の教師をしていましたが、大正15年、28歳の時、肺結核を発病し30歳で天に召されました。しかし、この2年間の病床生活の中で、彼の信仰は飛躍的に成長しました。彼が親戚の人に送った手紙に次のように書き残しています。

「私は色々と経てきた後、死と生の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。しかし遂に一人の人に出会いました。私はその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。何とも言えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分が長い間捜していたものだと信じます。霧が少しずつ晴れるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色がよくなって来ました。ここにおいて、私の自らの心の問題、広く人生に対する問題が、氷が解けるように解けていくのを感じました。」

八木重吉は、イエス・キリストとの出会いによって、神を見出し、神の御前で恐れ、幸せであることを体験したのです。その八木重吉が、「雨」という詩を残しています。

雨の音がきこえる  雨が降っていたのだ  あの音のようにそっと
世のためにはたらいていよう
雨があがるように
しずかに死んでいこう

とても含蓄のある詩だと思います。雨の音のように そっと世のために働いていよう、雨があがるように、しずかに死んでいこう。この世と真逆ですよね。この世ではいかに自分を見せるかと、自分が中心の世界ですが、キリストと出会った重吉は、神を恐れ、神の御前で生きる生涯へと変えられたのです。神を恐れて生きる人の人生を、神はこのように美しいものにしてくださるのです。

 

Ⅱ.神が与えてくださるささやかな幸せ(14-15)

 

次に、14~15節ご覧ください。14節には、「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」とあります。

ここで伝道者は、なおもこの世にはあまりにも不条理なことが多いことを嘆いています。例えば、悪しき者が受けるべき報いを正しい人が受けたり、正しい人が受けるべき報いを悪しき者が受けるというようなことです。これまでも伝道者は一般原則と例外的な事例とが頻繁に逆転するのを見て、人生の空しさを覚えてきましたが、ここでも同じです。悪しき者が受けるべき報いを悪しき者が受け、正しい人が受けるべき報いを正しい人が受けるとすれば納得できるのですが、そうでないことが起こると、人生は本当に空しいなぁと感じます。

 

そのような空しさを見た伝道者は、次のような結論に至ります。15節です。「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」

そうでしょう、そんな不条理なことがまかり通るのであれば、いったい私たちの人生にはどんな意味があるというのでしょうか。ここで伝道者が言っているように、日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない、ということになります。伝道者はこれまでも同じことを語ってきました。3章22節や5章18節にも、繰り返して語られてきました。人生には何の目的も、意味もなければ、食べて飲んで楽しむよりほかに、何の楽しみもありません。ここには「快楽を賛美する」とありますが、そういう人生になってしまいます。

 

実際、この世はそうじゃないですか。私も学校を出て4年間この世の企業で働いたことがありますが、みんなそうでしたよ。「大橋君、今晩は飲みにでも行こうか、パッと行こうぜ」。私はその頃はもうクリスチャンになっていたので別に行きたいわけではありませんでしたが、これも社会勉強になるかなぁと思ってついて行くと、みんな会社にいるときとは全然違う顔になるんです。快楽を賛美しているのです。これもまた空しいことです。酔っぱらっていい気分になったかと思ったら、また翌日には厳しい現実が載っていて、悪い気分になるのですから。

 

しかし、日の上には喜びがあります。神への賛美で溢れています。黙示録4:11には、天国での賛美の様子が描かれています。24人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、また、自分たちの冠を御座の前に投げ出してこう言いました。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:11)

救い主イエスを信じ、「神共にいまし」を体験した人は、日の下にあっても、このような神への賛美と感謝に満ち溢れた生活を送ることができるのですから。

 

パウロの時代にも、同じように快楽を賛美していた人たちがいました。彼らは、自分たちはどうせ死ぬのだから、今さら善を求めてもしかたがないと考えていたのです。そんな彼らに対してパウロはこのように言いました。「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」(Ⅰコリント15:32-33)

もし、どうせ死ぬのだから、という考えに立つなら、生きることにどんな意味があるというのでしょうか。何の意味もありません。であれば、生きている間、おもしろおかしく生きるしかありません。「さあ、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」ということになります。

 

けれども、私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパがなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。霊のからだに復活するということです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストがご再臨されるとき、朽ちないからだ、霊のからだによみがえるのです。そんなことあるはずないじゃないですか。あるなら、だれかが証明しているはずです。そう言うでしょう。そうです、ある方がそれを証明してくださいました。イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられたことで、キリストを信じる者が同じように復活するということを証明してくださったのです。聖書ではそれを「初穂」という言葉で表しています。イエス様はその初穂でした。同じように、私たちも復活するのです。

ですから、死は終わりではありません。死は永遠の入口にすぎないのです。死んでからのいのちがあります。そのいのち、永遠のいのちを与えるためにキリストはこの世に来てくださり、十字架に掛かって死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

 

死んでからのいのちがあるのなら、私たちには希望があります。生きている意味があるのです。天からの報いを期待することができますから。この地上で行われていることだけを見たら、この世の矛盾に失望するだけでしょう。ここでソロモンが言っているように、「これもまた空しい」ということになります。「さあ、食べて飲んで楽しもう」ということになるのです。だって、それ以外に楽しみがないのですから。

しかし、日の上には喜びが満ち溢れています。ダビデは、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と賛美しましたが、神の御前には喜びと楽しみが溢れています。であれば、たとえこの世がどんなに矛盾と混乱に満ちていても、私たちは神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足して生きることができるのです。

 

ナポレオンの時代に、シャネットという男が無実の罪で牢獄に入れられました。何か月もそこで過ごした彼は自暴自棄になり、死を覚悟しました。その独房には毎日、わずかな日の光が差し込むスポットがありました。ある朝、驚いたことに固い土の中から小さな草が芽を出しているのにシャロネットは気が付きました。彼にはそれが、神が与えてくださった希望の光のように思えたので、感謝と喜びをもって、毎日その草に水をやりました。やがてその草は大きくなり、ついに美しい紫色と白色の花を咲かせました。
この一連の出来事を見守っていた看守たちは、この話を家に帰って妻たちに話しました。やがてこの話は、ナポレオンの妻ジョセフィーヌの耳にも届きました。彼女はこの話に心を動かされ、これほど花を愛する者が犯罪者であるはずがないと確信し、ナポレオンに裁判のやり直しを願い出ました。そしてその結果、彼は疑いが晴れて釈放され、自由の身になったのです。

私たちも同じです。日の下だけを見るなら自暴自棄になるでしょう。しかし、そこからわずかに差し込む神の光、神の恵みに感謝して生きるなら、そこに人生の意味を見出し、快楽ではなく神を賛美する人生へと変えられるのです。

 

聖書学者のマシュー・ヘンリーは、ある時、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。「今日は感謝な日だった。まず強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことを感謝する。さらに全財産を盗られたが、その額はたいしたものではなかったことを感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する。」こうやってみると、私たちが心の目を開くとき、私たちには感謝すべき材料がいくらでもあることに気付きます。神は、あなたの一生の間にも、その労苦に添えて豊かな恵みを注いでおられるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足しながら、神を賛美する人生を歩ませていただきましょう。

 

Ⅲ.すべては神のみわざ(16-17)

 

第三に、16~17節をご覧ください。「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」

 

伝道者は、不眠不休でこの地上で行われている人の営みを見極めようとしましたが、できませんでした。人はどんなに労苦して探し求めても、神がなさることを見極めることはできないのです。こうした人間の知恵の限界は、神のみわざがどれほど不思議なものであるのかを教えています。本当に神がなさることは不思議ですね。それは、私たちの考えや思いをはるかに超えています。

 

例えば、旧約聖書の中にエステル記という書があります。もちろん、主人公はエステルという一人の女性です。彼女の人生は時代の流れに翻弄されるところから始まります。祖国イスラエルはバビロンという国の捕囚の身となり強制移住させられ、彼女もその一人として流れ着きます。しかも両親は早くに亡くなり、養父モルデカイのもとで暮らす不幸な身の上でした。そんな彼女が、ペルシャ帝国下でやがて世界に君臨した王の妃として立てられるのです。

まさか自分がペルシャ王の王妃に選ばれようとは、夢にも思わなかったでしょう。ところが、「まさかそんな大それたことを、自分が」と叫びたくなるような事件に巻き込まれていくのです。

養父モルデカイがユダヤ人のため、当時の権力者であった王の家来ハマンに頭を下げなかったことで、ユダヤ人皆殺しの法令が発布されてしまったのです。

ユダヤ民族絶滅の危機に際して、もし救えるとしたら、王のすぐ隣の席にいたユダヤ人の王妃エステルしかいませんでした。逃げられない袋小路のような重圧の中で、彼女は信仰によってジャンプします。いくら王妃とはいえ、当時、王の許可なく勝手に王の許に進み出るようなことをすれば、死刑に処せられました。けれども、彼女はそのことを百も承知で、ユダヤ民族救出のために決心したのです。

「たとい法令に背いても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)

その結果、ユダヤ人絶滅を謀ったハマンは、自らがユダヤ人モルデカイをつけるために作った処刑柱にかけられ、ユダヤ人は絶滅の危機から救われたのです。悲しみが喜びに、敗北が勝利に一変しました。

ユダヤ人はこのことを記念してプリムの祭りを制定し、今日でも祝い続けています。このエステル記には神ということばも奇跡も出てきませんが、背後に神がおられるとしか説明のしようがない、不思議な神のみわざが記されてあるのです。

 

そうです、すべては神のみわざなのです。であれば、私たちに出来ることは何でしょうか。私たちに出来ることは、私たちの人生も神が用意されたパズルであることを覚え、すべてを神にゆだね、神が定められたことに従って生きていくことです。そのとき、私たちの思いをはるかに超えた、神の偉大なみわざが、私たちの人生にも現されることになります。

 

昔、殿様のお気に入りの梅の絵を描くために、有名な絵師が城に招かれました。いざ描こうとした時、猫が一匹現れて真っ白い紙の上をトコトコ駆け抜けて行きました。紙の上には猫の足跡がくっきりと残りました。家来たちは大慌てで、切腹を覚悟した者もいました。しかし、その時、絵師は何事もなかったかのように筆を取り、絵を描き始めました。すると名人の手によって、ある足跡は梅の花びらに用いられ、ある足跡は梅の木の節目に用いられ、絵が完成した時、どこに猫の足跡があったか全く分からなくなりました。

 

同じように、私たちが全能なる神の御手に人生で起こるすべてのことを委ねるなら、苦しみも悲しみも痛みもすべてが益と変えられ、私たちの人生にすばらしい彩り(いろどり)を添えてくれるのです。すべては神のみわざです。理解できないこの世の不条理すらすべて益としてくださる神に信頼し、神にすべてを委ねましょう。神はあなたを顧みてくださり、あなたの生涯を必ずや美しいものにしてくださるからです。

出エジプト記39章

出エジプト記も残すところ39章と40章だけとなりました。ここには、かつて主がモーセに命じられた祭司の装束を、彼らがどのように行ったかについて記されてあります。まず1~3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.祭司の装束(1-31)

 

まず1~31節までをご覧ください。3節までをお読みします。「彼らは、青、紫、緋色の撚り糸で、聖所で務めを行うための式服を作った。また、【主】がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、エポデを作った。彼らは金の板を打ち延ばして金箔を作り、これを切って糸とし、青、紫、緋色の撚り糸に撚り込み、それぞれ亜麻布の中に意匠を凝らして織り込んだ。」

 

「彼ら」とは、知恵の御霊に満たされた職人たちのことです。彼らは、幕屋の中にあるさまざまな用具を作りました。ここで彼らはアロンの聖なる装束を作りました。金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いてエポデを作ったのです。彼らは、金を延ばして、それを撚り糸の中に織り込みました。金は神のご性質と神の栄光を表していました。

 

次に、4~7節をご覧ください。「エポデに付ける肩当てが作られ、それぞれがエポデの両端に結ばれた。エポデの上に来るあや織りの帯はエポデと同じ作りで、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、エポデの一部となるようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。彼らは縞めのうを金縁の細工の中にはめ込んだ。それには、イスラエルの息子たちの名が、印章を彫るように刻まれていた。彼らはそれらをエポデの肩当てに付け、イスラエルの息子たちが覚えられるための石とした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

大祭司が着るエポデには、左右両方に肩当てが作られ、それぞれエポデの両端に結ばれました。その肩当てには、金の枠にイスラエルの息子たちの名が刻まれていた縞めのうが付けられていました。それは、イスラエルの息子たちが覚えられるための石です。これは、大祭司がイスラエルの民を代表していることを象徴していました。また、イザヤ46:3-4に、「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とありますが、主が彼らを背負って救い出すことを表していました。また、エポデの上に来るあや織りの帯をエポデと同じように作りました。これは主がモーセに命じられたとおりです(28:6-14)。

 

次に、祭司の胸当てです。8~14節をご覧ください。「また、意匠を凝らして、エポデの細工と同じように、金色、青、 紫、 緋色の撚り糸、 それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、胸当てを作った。正方形で二重にしてその胸当てを作った。 長さは一ゼレト、 幅一ゼレトで、 二重であった。その中に四列の宝石をはめ込んだ。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれた。これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個であった。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表した。」

 

彼らはまたエポデを作る時と同じように、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で胸当てを作りました。これは正方形で二重になっていました。これは「さばきの胸当て」と呼ばれていたもので、その中にウリムとトンミムと呼ばれる石が入れられていました(28:30)。

この胸当てには肩当てと同じように宝石が3個ずつ4列に埋め込まれました。この宝石もイスラエル12部族の民を表していました。大祭司の心にこの12の部族が刻まれていたのです。それは同時に、私たちクリスチャンが大祭司であられるキリストの心に刻まれていることを表しています。クリスチャンはみなそれぞれ違う石で、輝きも違いますが、どれもみな宝石のように価値あるものです。キリストによって贖われたので、代価を払って買い取られたので、価値ある者にされたました(イザヤ43:3-4)。クリスチャンはみなキリストの胸にしっかりと刻まれているのです。

 

ここに出てくる宝石は、黙示録に出てくる新しいエルサレムの都を構成している宝石にとても似ています(黙示録21:11-21)。それらの土台石は12使徒を表わしていましたが、そのうち9つがここの宝石と同じものです。門はイスラエル12部族を表していましたが、それらはみな真珠で出来ていました。それは神の栄光の中にイスラエルがおり、そして教会も存在していることを象徴しています。

次に、純金の鎖です。15~21節をご覧ください。「また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作った。彼らは金縁の細工二個と金の環二個を作り、二個の環を胸当ての両端に付けた。胸当ての両端の二個の環には、二本の金のひもを付けた。その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付けた。さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付けた。また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付けた。胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

この鎖は胸当てをエポデに固定するためのものです。胸当ての四隅に金の環が付けられ、それを青いひもで結んだのです。なぜこんなことをしたのかというと、胸当てがエポデからずり落ちないためです。この胸当てには12の宝石が埋め込まれてありましたが、これはイスラエルの12部族、また、私たちクリスチャンのことを表していました。これが主の胸からずり落ちないためです。私たちはこの青いひもでしっかりと結ばれているので、決してずり落ちることはありません。ちなみに金の環は神の愛、青いひもは天の恵みを表しています。ですから、私たちが神の愛からずり落ちないのは、一方的な神の愛によるのです。彼らは主がモーセに命じられたとおりに行いました(28:22-30)。

 

次に、22~26節をご覧ください。「また、エポデの下に着る青服を、織物の技法を凝らして青色の撚り糸だけで作った。青服の首の穴はその真ん中にあり、よろいの襟のようで、ほころびないようにその周りに縁を付けた。青服の裾の上に、青、紫、緋色の撚り糸で撚ったざくろを作った。また彼らは純金の鈴を作り、その鈴を青服の裾周りの、ざくろとざくろとの間に付けた。すなわち、務めを行うための青服の裾周りには、鈴、ざくろ、鈴、ざくろとなるようにした。 【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

これは、エポデの下に着る長服のことです。これは1枚の布でできた筒状の長福で、頭を入れる穴だけ開いていました。その裾にはざくろと純金の鈴がつけられました。それは、風が吹いても長服の裾がめくれないようにするためです。ざくろは、肥沃と豊かさ、そしていのちを象徴していました。それはキリストのいのちの豊かさを象徴していたのです。鈴は、大祭司が至聖所で聖なる務めを果たしていることを音によって外部の人に知らせるためのものです。それは金で出来ていました。それはキリストのとりなしを象徴していました。同じ鈴が香炉にも付けられていたからです。キリストは私たちの大祭司となって、私たちのために神にとりなしてくださいます。彼らはこれも主がモーセに命じられたとおりに作りました(28:31-35)。

 

次に、27~29節です。「彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服を、亜麻布のかぶり物、亜麻布の麗しいターバン、そして撚り糸で織った亜麻布のももひきを作った。また、撚り糸で織った亜麻布と、青、紫、緋色の撚り糸を用い、刺繍を施して飾り帯を作った。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

また、彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服と、亜麻布のかぶり物、亜麻布のターバン、そして、撚り糸で織った亜麻布のももひきを作りました。この「ももひき」は、彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないためです(20:26)。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:39-40)。

 

さらに、30~31節をご覧ください。「また、聖別の記章の札を純金で作り、その上に印章を彫るように「【主】の聖なるもの」という文字を記した。これに青ひもを付け、それを、かぶり物に上の方から結び付けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

さらに、彼らは聖別の記章の礼を純金で作り、その上に印象を掘るように「主の聖なるもの」という文字を記し、それを青ひもで、かぶり物の上の方に結び付けました。これはアロンがイスラエルの代わりに咎を負い、彼らが主への聖なるものとしてささげられることを表していました。これは私たちの罪咎を負って十字架で死んでくださったイエス・キリストを表しています。エペソ1:7には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」とありますが、そのことです。私たちは、大祭司であられるイエス・キリストの贖いによって罪が赦され、聖い者とされているのです。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:36-38)。

 

Ⅱ.主が命じられたとおりに行ったイスラエルの子ら(32-42)

 

次に32~42節をご覧ください。「こうして、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした。彼らは幕屋をモーセのところに運んで来た。天幕とそのすべての備品、留め金、板、横木、柱、台座、赤くなめした雄羊の皮の覆い、 じゅごんの皮の覆い、 仕切りの垂れ幕、あかしの箱と、その棒、「宥めの蓋」、机と、そのすべての備品、臨在のパン、きよい燭台と、そのともしび皿、すなわち一列に並べるともしび皿、そのすべての道具、ともしび用の油、金の祭壇、注ぎの油、香り高い香、そして天幕の入り口の垂れ幕、青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒、そのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門のための垂れ幕と、そのひも、その杭、会見の天幕の幕屋の奉仕に用いるすべての用具、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。」

 

こうして、彼らは会見の天幕のすべての奉仕を終えました。ここに何度も繰り返されている言い回しがあります。それは、「主が命じられたとおりに、行なった」という言葉です。5節、7節、21節、26節、29節、31節、そして、今読んだ32節と42節です。彼らは自分たちで考え自分たちの方法で幕屋を作ったのではなく、すべて主が命じられたとおりに行いました。自分の方法ではなく、神の命令に従ったのです。  実は、出エジプト記はこの言葉によって事が進展しています。モーセが燃える柴を見たときいろいろな言い訳をしました。「私は、口べたで、預言をすることはできません。」とか、「イスラエル人たちが、私があなたから遣わされたのを信じないでしょう」とか、私が、彼らが、・・という人間のレベルの話をしていました。しかし、モーセとアロンがファラオのところに行ってからは、主が命じられたとおりに行なった、という言い回しが続くのです。その中で十の災いがエジプトに下り、ファラオはイスラエルをエジプトから出て行かせることになります。自分の世界ではなく、神の世界の中に生きるようになったのです。

 

このことは、私たちクリスチャンのあるべき姿でもあります。私が何々をした、というのではなく、主がこう言われたということが中心になるべきなのです。そうすることで、その人の生活を見るときに、確かに主がこの人のうちに働かれていることを認めることができるようになるのです。

 

Ⅲ.モーセによる祝福(39:43)

 

それを見たモーセはどうしたでしょうか。43節をご覧ください。「モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、【主】が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。」

 

モーセがそのすべての仕事を見ると、彼らは、主が命じられたとおりに行っていたので、モーセは彼らを祝福しました。一度は金の子牛を造り、それを礼拝した民でしたが、ここではモーセから祝福を受けているのです。民が主の命じられたとおりに行ったのを見たとき、モーセは感動したのでしょう。このように、イスラエルの民が祝福を受けたのは、モーセから聞いた主の命令に彼らが忠実だったからです。

 

それは、私たちにも言えることです。主イエスはこのように言われました。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:14-15)

イエスを愛することは、その戒めを守ることです。私たちも主の戒めを守るなら、主は私たちを祝福してくださいます。この新しい年も、主のみことばをしっかりと握り締め、主のみことばに歩みましょう。主のみことばに歩むお一人お一人に、主の祝福が豊かにありますようにお祈りします。

Ⅱサムエル記4章

きょうは、Ⅱサムエル記4章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.アブネル死後の全イスラエル(1-4)

 

まず、1-4節までをご覧ください。「サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。全イスラエルもおじ惑った。サウルの子イシュ・ボシェテのもとに、二人の略奪隊の隊長がいた。一人の名はバアナ、もう一人の名はレカブといって、二人ともベニヤミン族のベエロテ人リンモンの息子であった。ベエロテもベニヤミンに属すると見なされていたのである。ベエロテ人はギタイムに逃げて、そこで寄留者となった。今日もそうである。さて、サウルの子ヨナタンに、足の不自由な息子が一人いた。その子が五歳のときのこと、サウルとヨナタンの悲報がイズレエルからもたらされ、彼の乳母は彼を抱いて逃げた。そのとき、あまりに急いで逃げたので、彼を落としてしまった。そのために足の萎えた者になったのであった。彼の名はメフィボシェテといった。」

 

サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルが死んだことを聞いて、気力を失いました。イシュ・ボシェテを王とし、サウルの家の軍隊を動かしてきたのは、このアブネルだったからです。そのアブネルが死んだことで、サウルの家は大黒柱を失ってしまいました。気力を失ったのはイシュ・ボシェテだけではありません。全イスラエルがそうでした。ここに「全イスラエルもおじ惑った」とあるように、全イスラエルもうろたえたわけです。こうして、サウルの家は崩壊寸前の状態になったのです。

 

2節には、イシュ・ボシェテのもとに、二人の略奪隊の隊長がいた、とあります。一人の名はバアナで、もう一人の名はレカブです。「バアナ」という名前の意味は「悩みの子」、「レカブ」は「騎兵団」です。彼らはサウルと同じベニヤミン族ベエロテ人リンモンの息子たちでした。どうしてここに彼らのことが書かれてあるのかというと、彼らは、アブネルの死をきっかけに陰謀を企てていたからです。それは、この後のところを見るとわかりますが、イシュ・ボシェテを取り除くことで自分たちが利益を得ようとしていたのです。

 

その前に4節をご覧ください。ここには、サウルの子ヨナタンに、足の不自由な息子が一人いたことが記されてあります。誰ですか?そうです、メフィボシェテです。どうしてここに彼のことが記されてあるのでしょうか。それは、イシュ・ボシェテが退けられたとしたら、サウルの家には彼しか残らなかったからです。彼はサウルの孫にあたります。しかし、彼は両足に障害を持っていました。サウルとヨナタンがペリシテ人との戦いにおいてイズレエルで殺された時、彼の乳母が彼を抱いて逃げたのですが、あまりに急いで逃げたため、不注意から彼を落としてしまったのです。そのために足がなえた者となってしまいました。つまり、彼が王位に就く可能性はなくなってしまったわけです。ということは、実質的に残されていたのはイシュ・ボシェテだけということになります。このイシュ・ボシェテを取り除くことができれば、ダビデが統一王国の王となる日が近づくことになります。そのために荷担したのがバアナとレカブだったのです。しかしダビデはあくまでも神の方法によって、神が定めた時に王になろうと決めていました。そのようにして王になることを求めていなかったのです。

 

それは、ダビデがこの後でヨナタンの子メフィボシェテをどのように扱ったかを見るとわかります。彼はメフィボシェテがヨナタンの息子であるという理由で、彼を厚遇するようになります。Ⅱサムエル9:7には、「ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの父祖サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」とあります。ここに「あなたの父ヨナタンのゆえに」とありますが、これはかつて彼がヨナタンと交わした友情の契約のゆえにということです。その契約とは、ヨナタンが自らの危険を冒してでもダビデを無事に逃がすという代わりに、彼の恵みをヨナタンの家からとこしえに断つことがないようにというものでした(Ⅰサムエル20:14~16)が、ダビデはその通りに行うのです。

 

ここにダビデの信仰を見ます。自分の思いではなくあくまでも主に従うという姿勢です。それがどのようになるにせよ、神に信頼し、神の方法で、神の定めた時を待っていたのです。箴言19:21には、「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」とあります。その主の計画、主のはかりごとを待ち望む者でありたいと思います。

 

Ⅱ.レカブとバアナの蛮行(5-8)

 

5~12節までをご覧ください。「さて、ベエロテ人リンモンの子のレカブとバアナが、日盛りのころ、イシュ・ボシェテの家にやって来た。そのとき、イシュ・ボシェテは昼寝をしていた。彼らはやって来て、小麦を扱う者として家の中まで入り込み、彼の下腹を突いた。レカブとその兄弟バアナは逃げた。すなわち、彼らが家に入ったとき、イシュ・ボシェテが寝室の寝床で寝ていたので、彼らは彼を突き殺して首をはねた。彼らはその首を持って、一晩中アラバへの道を歩いて行った。彼らはイシュ・ボシェテの首をヘブロンのダビデのもとに持って来て、王に言った。「ご覧ください。これは、あなたのいのちを狙っていたあなたの敵、サウルの子イシュ・ボシェテの首です。【主】は今日、わが主、王のために、サウルとその子孫に復讐されたのです。」」

 

それで、レカブとバアナはどうしたでしょうか。5~7節をご覧ください。彼らは、日盛りのころ、イシュ・ボシェテの家にやって来て、彼の下腹を突いて首をはねました。「日盛りのころ」とは「お昼ころ」という意味です。暑い地方では、日盛りのころは昼寝をするのが習慣で、イシュ・ボシェテも昼寝をしていましたが、彼らは、小麦を扱う者であることを装い家の中まで入り込むと、昼寝をしていたイシュ・ボシェテの下腹を突いて殺したのです。それで彼らはどうしたでしょうか。彼らはその首を持って、一晩中アラバへの道を歩いて行きました。すなわち、イシュ・ボシェテの首を、ヘブロンのダビデのもとに持って行ったのです。いったいン彼らはなぜこんなことをしたのでしょうか。

 

8節をご覧ください。彼らはダビデのもとにやって来て、こう言いました。「ご覧ください。これは、あなたのいのちを狙っていたあなたの敵、サウルの子イシュ・ボシェテの首です。主は今日、わが主、王のために、サウルとその子孫に復讐されたのです。」

彼らのこの言葉には、このことをダビデが喜ぶと堅く信じていたことが伺えます。当然、何らかのほうびがもらえるものと期待していたでしょう。

 

Ⅲ.ダビデの対応(9-12)

 

それに対して、ダビデは何と言ったでしょうか。ダビデにこう言いました。9~11節です。「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。かつて私に『ご覧ください。サウルは死にました』と告げて、自分では良い知らせをもたらしたつもりでいた者を、私は捕らえて、ツィクラグで殺した。それが、その良い知らせへの報いであった。まして、この悪者どもが、一人の正しい人を家の中で、しかも寝床の上で殺したとなれば、私は今、彼の血の責任をおまえたちに問い、この地からおまえたちを除き去らずにいられようか。」

 

ダビデはこのような蛮行を歓迎するような人物ではありませんでした。かつて彼は、サウルの王冠と腕輪を持ってサウルの死を告げ知らせに来たアマレク人を処罰したことがありました(1章)が、今回はもっとひどいものでした。一人の正しい人を家の中で、しかも寝床の上で殺したのです。であれば、彼らがその血の責任を負うのは当然のことです。そこでダビデは、若者たちに命じて、彼らを処刑しました。ただ処刑しただけではありません。彼らの遺体は、手と足が切り離され、ヘブロンの池のほとりで木に吊るされたのです。しかし、イシュ・ボシェテの首は、ヘブロンにあるアブネルの墓に丁重に葬られました。

 

ここから、ダビデがどういう人物であったかがわかります。ダビデは徹底してすべてを主にゆだねていました。1章においては、自分のいのちを狙っていたサウルの死でさえ喜ぶどころか、むしろ深く痛み悲しみました。ここでもサウルの子イシュ・ボシェテの死が死んだとき、それを喜ぶどころか、不当な手段でイシュ・ボシェテを殺したレカブとバアナを厳しく処罰しました。ダビデは、自分が手を下さなくても主が正しくさばいてくださると信じていたのです。それなのに、彼らは自分の利益を考え、自分の手を下してしまいました。それはダビデが願っていたこととは全く違っていました。ダビデは、あくまでも主のみこころを求めていたのです。

 

それは、9節を見てもわかります。ここで彼は、「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。」と告白しています。預言者サムエルから油を注がれ、王となるとの預言を受けてからそれが実現するまでに、実にさまざまな苦難がありました。しかし、それがどのような苦難であっても、主はあらゆる苦難から彼を救い出してくださいました。これが彼の信仰です。彼は主がどのような方であるのかを体験として知っていたのです。それはこれからも同じです。これから先も幾多の苦難が待ち構えているでしょう。しかしそれがどんな苦難であっても、主は必ず救い出してくださるという信仰の確信がありました。それゆえ、自分から手を下す必要はなかったのです。彼は、神が用意された方法で、神のみこころなら、あのことをしよう、このことをしようと、すべてを神にゆだね、神のみこころに歩もうとしたのです。

 

これはクリスチャンである私たちにも言えることです。私たちも、日々の生活の中で困難に直面すると、ついつい自分の思いで動いてしまいますが、すべてを神にゆだね、神の解決と神の救いを待ち望みながら歩んでいかなければなりません。「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。」この主は、これからも同じです。この主に信頼して、主のみこころを知り、みこころに歩んでいきたいと思います。

伝道者の書8章1~8節「知恵のある者はだれか」

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きょうは、伝道者の書8章前半から「知恵のある者はだれか」というタイトルでお話しします。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とあります。だれが知恵のあるような人となり、物事の道理を悟ることができるのでしょうか。きょうは、このことについて御言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.人の知恵はその人を輝かせる(1)

 

まず1節をご覧ください。「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる。」

伝道者は、これまで人の知恵によっては人生の諸問題を解決することはできないと語ってきました。しかし、知恵のある者のすばらしさを称賛しています。たとえば、7:19では「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける」と述べました。知恵はそれほど力があるのです。ここには、その知恵のすばらしさを別の言葉で表現しています。それは、「人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる」ということです。「和らげる」という言葉は、欄外を見ると直訳「変える」とあります。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔を変えるのです。整形手術をするということではありません。その顔が輝き、固さが和らかくなるということです。内面が変わると外面も変わります。そういう意味では、私たちの顔は内面を映す鏡のようなものです。

 

皆さんは、自分の顔がお好きでしょうか。1912年にノーベル賞を受賞したフランスの物理学者アレキシス・カレルは、著書「人間 ─ この未知なるもの」の中で次のように述べています。

「私たちの知らない間に、私たちの顔つきは、心の状態によって少しずつ造られていく。そして年齢を経るにつれて、それは増々はっきりとし、人間としての私たちの感情・欲望・希望など、すべてのものを表す看板のようになる」

 

アブラハム・リンカーンもこのように言いました。「男は四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持たなければならない」それで、リンカーンが人を雇う時は、その人が四十歳以上の人であれば、その人の顔を見て選んだそうです。その人がどれほど有能であるかとか、どんな経験をしてきたかとかといったことではなく、その人がどんな顔かによって選びました。それは、その人がどんなにハンサムであるかとか器量がいいかといったことではなく、どのような表情をしているかということです。その表情が柔らかくて、輝いている人を選んだのです。なぜなら、その人の顔にその人の心の状態が映し出されることを知っていたからです。四十歳と言えば人格的にも成熟している年齢です。その心の持ちようが表情に表れるということを経験として学んでいるはずですから、その心を制御することができなければ良い仕事をすることもできないでしょう。それで彼は、男は四十歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならない、と言ったのです。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげます。

このことは詩篇でも言われています。詩篇10:4には、「悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです」とあります。悪しき者の顔はどのような顔をしているのでしょうか。悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。彼らは「神はいない」と言います。天地万物を造られた創造主なる神を信じないし、信じようともしません。これが不信者の顔です。その特徴は何というと「高慢」であるということです。ですから、どんなに自分が器量のいい人間であるかを装っても、本質的に高慢なので顔が固いのです。そんな顔でどうやって輝かせることができるでしょうか。どんなに顔にフェイスクリームを塗ってもだめです。

 

箴言15:13も開いてください。ここにも「喜んでいる心は、顔色を良くする。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊がある」とあります。新改訳改訂第3版では「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ」となっています。心に喜びがあれば顔色を良くしますが、心に憂いがあれば気はふさぎます。その人の心が表情に一番よく表われるというわけです。ですから、あの人何だか元気がなさそうだなぁという時には、やはり心に悩みをもっていることが多いのです。隠そうとしてもだめです。すぐに顔に表れますから。表情によってその人の心の状態をある程度判別することができるのです。

 

箴言27:19には、「顔が、水に映る顔と同じであるように、人の心は、その人に映る」とあります。顔が鏡にたとえられています。顔が水に映る時と同じように、その人の心は、その人の顔に映ります。ですから、顔を見ればその人の心がどういう状態であるかを知ることができるのです。

 

ですから、自分がどれだけ立派な者であるかとか、どれだけ器量のいい人間であるかを装う必要はないわけで、それよりも、自分の品性を磨くことの方が重要です。ですから、聖書はこう言っているのです。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)その根源である心を見守ることが重要なのです。まさに知恵は、その心を磨くものなのです。

 

イソップ物語に、「金の卵を産むガチョウ」の話があります。このガチョウは、毎日1個ずつ金の卵を産んでくれるのですが、若者は早く金持ちになりたいと思い、このガチョウを殺し、お腹の中を探しました。しかし何も出て来ませんでした。この物語は「欲張りの人は結局損をする」「今を感謝しない人は大切なものを失ってしまう」ということを教えてくれます。知恵がどれほど重要であるかがわかるでしょう。

 

クリスチャンで弁護士の佐々木満さんが、クリスチャントゥデイのコラムの中で、「人のせいにしない」というコラムを書いておられます。知恵の大切さを教える上で実際的な例ではないかと思いますので引用したいと思います。

「多くの問題の原因は人間関係のもつれにある。もつれた結果を相手のせいにすると、その人を恨み続けてしまう。こうして否定的な思いにとらわれていると、すべての物事が否定的に思われ、家族や他の人との関係もうまくいかなくなり、自分の心も体も病んでいく。

Aさんは病気を治療するために医師の手術を受けたが、軽い後遺症が出てしまった。彼は毎週その病院に通い担当医を責め立てた。法外な慰謝料を請求した上、「お前のせいでこんなひどい目にあっているんだ。手術して元に戻せ!」と、周りに聞こえるほどの大声で叫ぶ。困りはてた医師は、恐喝と営業妨害の容疑で警察に通報し、彼を現行犯で逮捕してもらった。

Aさんは、突然の逮捕に激高し、「あのやぶ医者が悪いのに、被害者である俺をなぜ捕まえるんだ!」と抵抗して、警察官に暴力を振るう。警察は精神病院に通報して彼を強制措置入院させた。2カ月の間、彼は手足をベッドに縛られて薬物治療を受け、鉄格子のある一人部屋に閉じ込められる。

退院後はますますその医師を恨み、警察に告訴したが、もちろん受理されなかった。夫婦関係も悪くなり離婚。会社でトラブルを起こして解雇。その後はコンビニで働いていたが、医師に対する根深い恨みの憂さ晴らしから、店の品物を何度か万引して逮捕され、有罪判決を受ける。さらに、恨みによる精神的ストレスでさまざまな病気を発症し、障害者2級に認定された。

「医者も、警察も、検事も、裁判官も、弁護士も、ろくなやつはいない。どいつもこいつも、強い者を助けるだけで、弱い者をいじめているんだ! 一生呪ってやる!」というのが口癖だ。

 

Bさんは、相手の過失による交通事故で瀕死の重傷を負い、障害者1級に認定される。その後、真面目に働いて事業に成功し、若くして大きな財産を築いた。若手起業家たちに成功してほしいと思い、起業家セミナーを開いたり、資金援助をしたりして、具体的に指導した。ところが、起業しても実際に成功するのは至難の業で、ほぼ全員が失敗したため、Bさんは全財産を失ってしまう。

さらに運が悪いことに、詐欺師にだまされ多額の借財を負う。詐欺の訴訟を依頼されたときに、私がクリスチャンであることを証ししたところ、彼はその場でキリストを信じて救われた。その後、彼と結婚を約束して付き合っていた女性が、金持ちの男に誘惑されて子どもができてしまった。彼女は結婚を迫ったが、その男は既婚者だった。仕方なく、生まれたばかりの赤ん坊を連れてBさんの元に戻った。彼は何も言わずに、彼女と結婚し、その子を自分の養子にしてかわいがっている。彼は、事故の加害者、失敗した若手起業家たち、だました詐欺師、浮気した婚約者の誰をも恨んでいない。

「どうして人を恨まないのですか?」と尋ねると、「いやあ、すべては自分の不徳の致すところですよ。自分の成長のために良い人生勉強をさせてもらったと思い、すべての出来事を神様に感謝しています」と言う。そして「ありがたいことに、自分が困ったときは、そのうわさを聞きつけて、かつて面倒みた起業家たちが助けにきてくれるんですよ。それに、妻はこんな至らない自分によく尽くしてくれています」と感謝しつつ、障害を持ちながらも、明るく元気で働いている。

どちらの人生が豊かだろうか。もちろんBさんの方だ。物事を人のせいにして自分の幸せを奪われないことが大切である。」

 

皆さん、どう思いますか。物事を人のせいにしないで、自分の幸せを奪われないようにすることが大切です。それは人の知恵です。その知恵が、その人の顔だけでなく、その人の人生そのものを輝かせることになるのです。

ですから、聖書はこう教えているのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

あなたの心に喜びがあるなら、また、あなたの心に祈りがあるなら、そして、あなたの心に感謝があるなら、あなたの顔は輝き、力がみなぎるようになります。いのちの泉はそこからわくからです。あなたは、この知恵によって生きていらっしゃるでしょうか。

 

ところで、このような知恵はどこから来るのでしょうか。Ⅱコリント3:18を開いてください。ここには、「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあります。どうしたら鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのでしょうか。これは、まさに御霊なる主の働きによるのです。自分の力でできることではありません。御霊なる主の働きによるのです。もし自分の力で輝こうとすれば、偽善者のようになってしまいます。そうではなく、主の向かい、主と交わりを持つことによって、主と同じ姿に変えられていくのです。これはまさに、御霊なる主の働きによるからです。

 

実は、このみことばは、出エジプト記34章の出来事が背景となっています。そこには、モーセが神と交わるためにシナイ山に登って行ったことが記されてありますが、モーセが山から下ると彼の顔が輝いていました。つまり、それはモーセが神と親密な交わりを持った結果与えられたものだったのです。

それは、今の私たちも同じです。私たちが主に向かい、主と親密な交わりを持つことによって、私たちの顔は輝きを放つようになるのです。そんなにフェイスクリームを塗らなくても大丈夫です。それよりも、主イエスと交わることによってピカピカと輝き、すべすべとした柔らかなお肌となります。なぜなら、主イエスこそ、神の知恵であられるからです。人の知恵でもその人の顔を輝かせるなら、神の知恵は、どれほどその人を輝かせることでしょうか。

 

ですから、もしあなたが輝いていないとしたら、それは、あなたの心がキリストに向いていないからです。自分に向いているのです。また、御霊なる神にゆだねないで自分の力で輝こうとしているからです。人の知恵は、その人を輝かせ、その顔の固さを和らげます。あなたの心がどこを向いているかを点検し、今、主のもとに立ち返らせていただきましょう。

 

Ⅱ.知恵のある者は神の命令を守る(2-5a)

 

第二に、知恵のある者は神の命令を守ります。2~5節の前半までをご覧ください。「私は言う。王の命令を守れ。神への誓約があるから。王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。王のことばには権威がある。だれが、王に「何をするのか」と言えるだろうか。命令を守る者はわざわいを知らない」

伝道者は、知恵のある者は、王の命令を守れ、と命じています。ここでの「王」とは、地上の王と解釈することもできますし、神と解釈することもできますが、どちらも同じ意味になります。というのは、ここでは権威に対する従順が命じられているからです。「神への誓約があるから」とは、神の御前で忠誠を誓ったのだからという意味です。神の御前で忠誠を誓った以上、その誓いを果たすのは当然のことです。つまり、王の命令を守るとは、その王を立てたのは神ご自身の命令を守ることであり、そのような人こそ知恵のある者とされるふさわしい人であるということなのです。

 

このことはローマ人への手紙でも教えられていることです。ローマ13:1-2には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます」とあります。

上に立つ権威とは、職場であれば上司のことであり、家庭であれば夫であり、両親のことです。また、もっと広い意味で言うなら、それは市長のことであり、県知事のことでもあります。また、この国の為政者たちのことでもあります。ですから私たちは国のために、また国の為政者たちのために祈らなければなりません。この国を正しく導いていくことができるように。特に、今はコロナの問題で疲れもピークに達しているのではないかと思いますが、そのような中でも忍耐と励ましが与えられ、この国が正しい方法に進んでいくことができるように祈らなければなりません。私たちは単に政治家を批判するのではなく、その政治家のために祈りその権威に従わなければならないのです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。たとえ、あなたの上に立つ人が尊敬できない人であっても、たとえ、あなたの上司がノンクリスチャンであっても、へりくだってその権威に従うべきです。そうでないと、神の御前に過ちを犯してしまうことになります。これは知恵のないことです。

 

ちょうど今、祈祷会でⅡサムエル記を学んでいますが、ダビデはその模範者であると言えるでしょう。ダビデはサウル王に妬まれそのいのちを狙われて逃げ回っていましたが、その中で何度も彼を殺すチャンスがありました。けれども彼は一切手を下そうとはしませんでした。サウルは主に油注がれた者であり、主によって立てられた者であると認識していたからです。主に油注がれた者に手を下すことは主に背くことになると考えていたのです。ダビデは、上に立つ権威が神によるものだということをよく理解していました。ですから、自分の力でサウルに取って代わろうともしませんでしたし、サウルを非難したり、攻撃したりもしませんでした。神が立てられたのであれば神が取り去ることもあると信じ、そのすべてを神にゆだねたのです。サウルが死んだということを聞いた時もほっとしたとか、安心したというのではなく、むしろその死を悼み悲しみました。それは、サウルが神に立てられた王であると受け止めていたからです。私たちも、自分の上に立つ者に不平不満があっても、たとえその人が問題だらけで間違いを犯すような人物であっても、あるいは、理不尽な人であっても、それは神によって立てられた権威であると認め、あとはすべて神にゆだねるべきなのです。神が立てたのであれば、神は取り去ることもあるからです。自分で手を出すべきではありません。

 

いったいダビデはどうしてサウルに従うことができたのでしょうか。ここには「神への誓約があるから」とあります。つまり、ダビデは、その背後には神がおられるということを見ていたのです。詩篇16:8にはこうあります。「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。」新改訳改訂第3版では「私はいつも、私の前に主を置いた」となっています。ダビデはいつも自分の目の前に主を置いたのです。サウルにいのちを狙われている時でも、敵の領地に逃げ込まなければならない苦境の時でも、いつも目の前に主を置いていました。つまり、主をフィルターとして見ていたということです。主を通して向こうにいるサウルを見ていたのです。

 

皆さんの上司との関係、夫、妻との関係、上に立つすべての権威との関係も同じです。いつも主イエスを置いて見なければなりません。そうすれば、主に従うように夫に従うことができるはずです。主に仕えるように上に立つ権威にも仕えることができます。「嫌だなぁ、あの上司、最悪!」と思えても、主に従うように喜んで従うことができるようになるのです。

 

3節には、「王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。」とあります。これは、王の前から慌てて退出するなということです。つまり、王の言葉や態度に怒ったり、驚いたり、失望して、王の前を去ってはならないということです。また、悪事に荷担して、王への反逆を企ててもなりません。どうしてでしょうか?それは、王は自分の望むままを行うからです。つまり、王は絶対的な権威を持っており、それを自分の思うままに用いることができるからです。王に対して「何をするのですか」とか、「どうしてそのようなことをするのですか」、「このようにした方がいいんじゃないですか」などと言うことはできません。王は絶対的な権威を持っているからです。

 

これは、私たちと神との関係にも言えることです。究極的な王であられる神は、絶対的な権威をもっておられます。神は主権者であって、その権威を自由に用いることかできるのです。その神に向かって「どうしてこんなことを許されるのですか」とか、「どうしてこんなことが私の人生にふりかかるのですか」と言うことはできません。神は主権者であられるからです。その方が何を成さろうと、どのように成さろうと、それは神がお決めになられることであって、私たちが口をはさむことではないのです。私たちにできることは、その方の権威を認めその方にすべてをおゆだねすることです。

 

このことをパウロはローマ9:20-21で、陶器師と陶器のたとえを用いてこのように言っています。「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」

まさに、私たちは土のかたまりにすぎません。そのような者が陶器師に対して「どうして私をこんなふうに造ったんですか」と言うことはできません。私たちにはそのような権利はないからです。陶器師がどのように造るかは陶器師の自由であって、私たちが口をはさむことではないからです。それなのに私たちはすぐに「どうしてですか」と理由を問いたくなるわけです。知らないと気が済みません。知っても気が済みませんが、知らないともっと気が済みません。それで「どうしてですか」と問うわけです。「主よ、どうしてですか・・・」しかし、私たちはそのような立場にはないのです。私たちは陶器にすぎないものです。であれば、陶器師であられる主がなさることに信頼し、それがどうしてなのかがわからなくても、なぜこんな理不尽なことが起こるのかという時でも、すべてを主にお任せすればいいのです。あなたのために愛する御子を惜しまずに与えてくださった方が、あなたのために酷いことをするはずはありません。あなたのために最善のことをしてくださるでしょう。ですから、私たちはこの神の愛に信頼して「主よ、どうしてですか」と問うことを止め、「主よ、あなたにゆだねます」と祈るべきなのです。

 

5節の前半をご覧ください。「命令を守る者はわざわいを知らない。」どういう人がわざわいを知らないのでしょうか。命令を守る者です。王の命令を守る者、すなわち、神の命令を守る者です。そういう人はわざわいを知りません。わざわいがないと言っているのではありません。クリスチャンにもわざわいはあります。でもそれはわざわいとはならないのです。なぜなら、そのようなわざわいさえも神は益としてくださるからです。この世の人から見たら何と不幸だと思うようなことでも、クリスチャンはそのような中にも幸いを見つけることができるのです。ローマ8:28に、このような約束があります。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

ここに「すべてのことを働かせて」とあります。この「すべてのこと」の中には、良いことも悪いこともすべてです。ですから私たちは、わざわいの中でも益を見出すことができます。それゆえ、神の命令を守る者はわざわいを知らないのです。

 

Ⅲ.知恵のある者は神の時と方法を見分ける(5b-8)

 

第三に、知恵のある者は神の時と方法を見極めます。5b~8節をご覧ください。「知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることはできない。風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない。」

 

すべての営みには時があることについては、3章で語られました。すべてのことには定まった時期があります。天の下のすべての営みには時があるのです。知恵のある者の心は、その時とさばきを知っています。この「さばき」とは「方法」のことです。創造主訳聖書では「知恵がある人の心は、時と方法を知っている」と訳しています。つまり、知恵のある人の心は、どのようなタイミングで、またどのような方法で王に従えばよいのかを知っている、ということです。

 

それは、王に従うことだけではありません。すべての営みにおいて言えることです。6節には「すべての営みには時とさばきがある」とあります。知恵のある人は、その時と方法を見分けることができるのです。知恵に欠ける者は、それを見分けることができません。なぜなら、すべてのことの適切な時期や方法を知るためには、神からの分別力をいただかなければならないからです。しかし、どんなに知恵がある者でもわからないことがあります。たとえば何でしょうか、7節には「何が起こるかを知っている者はいない」とあります。将来何が起こるのか、いつそのようなことが起こるのか、について知っている人はいません。だれも告げることができないのです。

 

また、8節には「風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない」とあります。

「風」と訳されていることばには※印が付いていますが、欄外の説明を見ると、あるいは「霊」「息」とあります。「風」も「霊」も同じ原語が使われているのです。ですからこれを、霊を支配し、霊をとどめておくことのできる人はいない、と訳すこともできます。そのように訳すと、次のみことばとのつながりが見えてきます。つまり、人は、自分のいのちをとどめておくこともできなければ、死の日を支配することができません。つまり、将来何が起こるのか、いつ起こるのかがわからないだけでなく、自分のいのちのことさえも自分で決めることができないということです。しかも、この戦いから逃れることができる人はひとりもいません。そして、悪は悪の所有者を救い得ないのです。どんなに悪に傾こうが、悪は悪を行う者を救うことができない、という意味です。つまり、善人でも悪人でも、死に対する戦いに勝利することができる人は一人もいないのです。

 

しかし、この死に勝利できる方がおられます。だれですか?そうです、死からよみがえられた方、私たちの主イエス・キリストです。主は、実際に十字架に掛かって死なれましたが、三日目によみがえられました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。イエス様は死に勝利されました。ですからこのように宣言されたのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

何と力強い約束でしょうか。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」この死との戦いから逃れることができます。主を信じる者は主と同じようによみがえり、天の御国に入れられるからです。これこそ真の希望です。人は希望がなければ前に進むことができません。しかし、ここに希望があります。死からよみがえられ、死に勝利された方、主イエス・キリストを信じる者は死んでも生きることができるのです。この方に信頼して歩めることは何と幸いなことでしょうか。

 

知恵のある者とされるにふさわしいのはだれでしょうか。その人は力の限り、見張って、心を見守ります。知恵の源であられる主との交わりを欠かしません。また、その人は神の命令を守ります。それが自分に理解できないことであっても、主は最善に導いてくださると信じているからです。そして、すべての営みには神の時とさばき(方法)があると信じて、神にすべてをゆだねるのです。なぜなら、神は人の死さえも支配しておられる方だからです。すなわち、神を恐れ、神の視点で人生を見ることのできる人、それこそ知恵のある人なのです。

 

作家のサン・デグジュペリは、「星の王子さま」の中で、地球について王子さまに次のように言わせています。

「みんな特急列車に乗り込むけれど、今はもう何を探しているのかわからなくなっている。だから皆ソワソワしたり、堂々巡りしたりしているんだ。」

「大切なものは目に見えない。肝心なことは心で見ないと見えないんだよ。」

 

これはまさに、現代の社会に向けて語られているメッセージではないでしょうか。みんな特急列車に乗り込んでいるように忙しくしているけれども、何を探しているのかわからなくなっています。だから皆ソワソワしたり、堂々巡りしたりしているわけです。でも、大切なものは目には見えません。肝心なことは心で見ないと見えないのです。それは、神の視点で見るということです。

 

知恵のある者とさせていただきましょう。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴言9:10)主を恐れることから始めましょう。聖なる方を知ることから始めましょう。この方の視点で人生を見つめ、その命令を守り、そのみわざにすべてをゆだねることを大切にしていきたいと思います。いのちの泉はここからわくからです。この主を恐れ、へりくだって主のみこころに歩もうとする人に、主はご自身の知恵で満たしてくださり、その顔を輝かせてくださるようにお祈りします。

出エジプト記38章

出エジプト記38章から学びます。

 

Ⅰ.祭壇(1-8)

 

まず、1~8節をご覧ください。「また彼は、アカシヤ材で全焼のささげ物の祭壇を造った。 長さ五キュビト、 幅五キュビトの正方形で、 高さは三キュビトであった。その四隅の上に角を作った。その角は祭壇から出ているようになっていた。彼は祭壇に青銅をかぶせた。彼は、祭壇のすべての用具、すなわち、壺、十能、鉢、肉刺し、火皿を作った。そのすべての用具を青銅で作った。祭壇のために、その下の方、すなわち、祭壇の張り出した部分の下に、祭壇の高さの半ばに達する青銅の網細工の格子を作った。四個の環を鋳造して、青銅の格子の四隅で棒を通すところとした。 彼はアカシヤ材で棒を作り、それらに青銅をかぶせた。その棒を祭壇の両側にある環に通して、それを担ぐようにした。祭壇は、板で、中が空洞になるように作った。また、青銅で洗盤を、また青銅でその台を作った。会見の天幕の入り口で務めをした女たちの鏡で、それを作った。」

 

また彼は、アカシヤ材で全焼のささげものの祭壇を造りました。「彼」とは「ベツァルエル」のことです。「祭壇」とは、全焼のささげ物を焼くための器具です。これは、27:1~8で命じられていたことですが、彼はそれを実行しました。その大きさは長さ、幅が5キュビト(2.2m)で、高さは3キュビト(1.33m)でした。他の器具よりも大きく、器具の中では一番大きいものでした。

 

その四隅の上に角を作り、その角は祭壇から出ているようになっていました。それは、全焼のささげ物が落下しないように結び付けておくためのものでした。と同時に、そのいけにえの犠牲の効能を表すためのものでもありました。出エジプト29:12には、「その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の四隅の角に塗る。」とありますが、それはイスラエルの民の罪を贖ういけにえの犠牲の効能を示すためのものだったのです。キリストの血による贖いが、神との和解、罪の赦しの効能があることを象徴していたのです。

 

祭壇に青銅をかぶせました。祭壇だけでなく、祭壇のすべての用具、すなわち、壺、十能、鉢、肉刺し、火皿にもかぶせました。それはアカシヤ材で作られていたので、火で燃えないようにするためです。そればかりでなく、青銅は神のさばきを象徴していましたが、いけにえの動物が神のさばきを受けることを示していました。それは私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたイエス・キリストを指し示していました。キリストは罪の身代わりとなって十字架にかかり神のさばきを受けてくださることで、私たちの罪を贖ってくださったのです。ですから、この祭壇は、イスラエルの民に与えられていた恵みだったのです。いけにえの動物の血によって、イスラエルの民の罪が覆われたのです。しかし、これは一時的な解決であって最終的な解決ではありませんでした。最終的な解決は、完全ないけにえとなられたイエス・キリストにあったからです。

 

8節には「洗盤」について記されてあります。それは、聖所と祭壇の間に置かれました。それは、祭壇におけるいけにえの血による贖いによって与えられる「立場」を得ることによって、はじめて洗盤に近づくことができるということを意味していました。アロンとその子どもたち、すなわち、祭司たちは、その水で手と足を洗いました。それは、会見の天幕の入口で務めをした女たちの鏡で作られました。それは今日のような鏡ではなく、青銅を磨いたもので、はっきりとではなく、ぼんやりと映るものであったようです。ですから、それは青銅で出来ていました。しかし、たとえそれが青銅で出来ていても、良く磨かれた青銅は「鏡」の役割を果たしました。その役割は「写し出されたものを見る」ことにあります。「見る」とは、祭司たちが青銅の洗盤できよめられる(聖別される)ことと関係があります。

 

「洗盤」とその中に入れる「水」は、いずれも「神のことば」を象徴しています。祭司は、常に洗盤の水、すなわち「神のことば」によって日々聖別される必要がありました。なぜなら、祭司たちは、この世の思想、概念、常識、価値観によって汚されてはならないからです。彼らの働きや歩みだけでなく、彼らの思いが汚されないためには、神に仕える者たちが日々神のことばによってきよめられ続ける必要があるのです。神のみことばには、そのような力がありました。へブル4:12には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。

また、ヨハネ15:3には、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。みことばは、私たちを聖める力があるのです。

それはエペソ5:26~27を見てもわかります。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

「キリストがそうされたのは」とは、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたのは、ということです。キリストがご自身をささげられたのは、私たちをきよめて聖なるものとするためだったのです。どのようにして?ここには「みことばにより、水の洗をもって」とあります。まさにみことばは水の洗いなのです。かつて祭司たちが洗盤の水で手と足をあらったように、みことばは私たちをきよめてくれます。

だから、「女たちの鏡」が用いられたのです。鏡は人の姿を映し出しますが、みことばも鏡のように私たちの心の奥底に潜んでいる罪を照らし、その罪を洗い清め、赦しを与えるからです。私たちも神のことばに従うとき、私たちはきよめられ、神の力を受けることができます。ですから、日々のデボーションを大切にしましょう。心に蓄えたみことばによって、私たちの救いは完成へと導かれるからです。

 

Ⅱ.幕屋の庭(9-20)

 

次に、9~20節をご覧ください。「彼はまた、庭を造った。南側では、庭の掛け幕は撚り糸で織った百キュビトの亜麻布でできていた。柱は二十本、その台座は二十個で青銅、柱の鉤と頭つなぎは銀であった。北側も百キュビトで、柱は二十本、台座は二十個で青銅、その柱の鉤と頭つなぎは銀であった。西側には五十キュビトの掛け幕があり、柱は十本、その台座は十個、その柱の鉤と頭つなぎは銀であった。正面の東側も五十キュビト。門の片側には、十五キュビトの掛け幕と、柱が三本、台座が三個あった。庭の門の両側をなすもう一方の側にも十五キュビトの掛け幕があり、柱は三本、台座は三個であった。庭の周囲の掛け幕はみな、撚り糸で織った亜麻布でできていた。柱のための台座は青銅で、柱の鉤と頭つなぎは銀、柱頭のかぶせ物も銀であった。それで庭の柱はみな、銀の頭つなぎでつなぎ合わされていた。庭の門の垂れ幕は、刺?を施したもので、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布でできていた。長さは二十キュビト、高さ、あるいは幅は五キュビトで、庭の掛け幕に対応していた。その柱は四本、その台座は四個で青銅であった。その鉤は銀であり、柱頭のかぶせ物と頭つなぎは銀であった。ただし、幕屋とその周りの庭の杭は、みな青銅であった。」

 

彼はまた、庭を作りました。これも27:9~19で命令されていたことです。庭の大きさは、南側、すなわち東西に100キュビト(約44.5m)で、北側も同じです。柱は20本ありました。それを支える台座も20個で、青銅で出来ていました。また、柱の鉤となる頭つなぎは銀でできていました。庭の柱はこの頭つなぎでつなぎ合わされていました。聖書で「青銅」という場合は、それは「銅」のことを指しています。最も耐火性のある金属です。幕屋の庭にある金属は「青銅」「銀」です。聖所では「銀」と「金」、至聖所では「純金」が使われ、奥に行けば行くほど価値の高い金属が使われています。

「銀」は罪人のために払われた贖い(身代り)の代価としてのイエスのいのちを、また「青銅」は火のような試練である十字架を忍ばれたイエスを象徴しています。

 

西側、すなわち南北に50キュビト(約22.25m)の掛け幕、柱は10本、それを支える台座が10個、その柱の鉤と頭つなぎは銀でできていました。庭の周囲の掛け幕はみな、より糸で織った亜麻布でできていました。これは、イスラエル民を異邦人から区別するためのものでした。幕屋全体が、神が聖であることを教えていました。神は聖なので、聖と俗が混同してはならなかったのです。それを区別したのがこの掛け幕です。

 

正面の東側も50キュビトありました。門の片側には、15キュビトの掛け幕と、柱が3本、台座が4個ありました。門の両側をなすもう一方の側も同じサイズでした。その真中が門の垂幕になっていました。大きさは20キュビトです。その垂れ幕は刺繍を施したもので、青、紫、緋色の撚り糸、それにより糸で織った亜麻布で出来ていました。これは前にも述べたように、キリストのご性質を表していました。キリストこそ神に至る門です。だれでも、キリストを通らなければ神のもとに行くことはできません。神に近づくためには、神が用意された方法によらなければなりませんでした。

 

Ⅲ.あかしの幕屋の記録(21-31)

 

最後に、21~31節をご覧ください。「幕屋、すなわち、あかしの幕屋の記録は次のとおりである。これはモーセの命によって記録されたもので、祭司アロンの子イタマルのもとでレビ人が奉仕したことであった。ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルは、【主】がモーセに命じられたことをことごとく行った。彼とともに、ダン部族の、アヒサマクの子オホリアブがいた。オホリアブは、彫刻をする者、意匠を凝らす者、また青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺?をする者であった。聖所の設営のすべてにおいて、その仕事のために用いられた金、すなわち奉献物の金の総計は、 聖所のシェケルで二十九タラント七百三十シェケルであった。登録された会衆による銀は、聖所のシェケルで百タラント千七百七十五シェケルであった。二十歳以上で登録された者が全部で六十万三千五百五十人だったので、これは一人当たり一ベカ、聖所のシェケルで半シェケルである。聖所の台座と垂れ幕の台座を鋳造するのに用いた銀は百タラントで、百個の台座に百タラント用いた。一タラントで一個の台座である。また、千七百七十五シェケルで柱の鉤を作り、柱の頭にかぶせ、頭つなぎで柱をつないだ。奉献物の青銅は七十タラント二千四百シェケルであった。これを用いて、彼は会見の天幕の入り口の台座、青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、および祭壇のすべての用具、また、 庭の周りの台座、 庭の門の台座、幕屋のすべての杭、庭の周りのすべての杭を作った。」

 

これは、あかしの幕屋の記録です。モーセの命令によって記録されたもので、この調査の責任者は、アロンの子イタマルでした。彼が指揮を取ってレビたちが調査をし、その結果をまとめたのです。

この作業を行ったのは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルです。彼は、主がモーセに命じられたことをことごとく行いました。また彼とともに、ダン部族の、アヒサマクの子オホリアブが、彫刻や、亜麻布の刺繍をしました。

 

そのために用いられた金の総計は、29タラント730シェケルです。1タラントはやく34㎏ですから、986㎏になります。1シェケルは11.4gですから、730シェケルは8,332gになります。現在の金の価値は、1gあたり

4,869円です。ですから、これは現在の価値で48億4千万円くらいになります。幕屋がみすぼらしいと思っている人がいたらとんでもないことです。見た目は豪華ではないかもしれませんが、それは神の栄光に満ち溢れていました。まさに、イエス・キリストはそのようなお方です。見た目は普通の人のようですが、その中身は神の栄光、神の恵みまことに満ちておられたのです。

銀の総計は、100タラント1,775シェケルでした。これは約3,500㎏となります。現在の価値で1g約80円ですから、2億7千万円となります。

青銅は、70タラント2,400シェケルでした。これは約2,500㎏です。現在の価値で1㎏560円ですから、  140万円となります。

 

幕屋の建設のために、これだけの奉納物がささげられました。これらの他にも宝石などもささげられました。ですから、その数字は天文学的な数字になります。これらのものはすべて、イスラエルの民による自発的なささげものでした。彼らはこれを喜んで行いました。心から進んで行ない、また知恵が与えられた者たちが、主が命じられたようにことごとく行なっていったのです。それはすべてエジプト人から受けたものでした。しかし、これだけのものをささげることは、そこにそれだけの犠牲があったということです。恐らく、それぞれには何グラムばかりの貴金属しか持ってなかったでしょう。しかし彼らは、それを喜んでささげたのです。それは彼らがささげたというよりも、主が彼らの心を動かして、このようなわざをさせてくださいました。それは私たちにも言えることです。自分が持っているものは本当にわずかなものかもしれませんが、それを主の働きのために喜んでささげるとき、主はこのような偉大なみわざを成してくださるのです。

 

福島で牧会していた時、会堂建設の恵みに与りました。600坪もある広い土地に、100名収容できる礼拝堂と、100名収容できるホールが仕切りで区切られ、それを開けると200名収容できる建物でした。まず、土地購入のためにささげました。その土地は市街化調整区域にあったため、2,000万円とかなり安い価格が提示されていました。しかし、教会が開発許可の認可を得ると、地主は3,500円に価格をつり上げました。7,000万円もかけて造成したので、せめて半額の3,500万円で売却したかったのです。地主との価格の交渉の中で、地主が「では2,700万円でどうですか」と提示してきたので、「ここだ!」と、「では2,700万円と2,000万円の間をとって2,500万円にしましょう!」と言うと、地主は、「やられました!」としぶしぶ合意しました。私は「ヤッター」と思いましたが、若い信徒が多く集う私たちの教会で2,500万円をささげることは容易なことではありませんでした。私たちは、土地代を献げ、会堂の建築費を銀行から借り入れする計画をしていたので、何としても2,500万円を集めなければならなかったのです。今でも忘れることができません。半分の1,250万円が献げられたとき、礼拝後家内がカップケーキを半分にしてみんなに配り、「半分達成しました。神様に感謝しましょう。」と言いました。半額突破パーティーです。みんな土地代の半分がささげられたことを神様に感謝しました。

すると、残りの半分が与えられるまでには、そんなに時間がかかりませんでした。みんな喜んで献げました。特に、当時は結婚式が多く、2カ月に1回くらいありしたが、この会堂建設のために感謝献金をしました。もちろん、私たちも断食をして献げました。断食と言っても、毎週水曜日の夜は余った食材で料理したものを食べるというもので、その日の食材費500円を毎週献げ、その年のクリスマスに教会に持って行きました。

そのようにして、必要の2,500万円が与えられ、土地を献金で取得することができたのです。そして、さらに神様の恵みと奇跡によって必要のすべてが満たされ、翌年に献堂することができました。

 

当時のイスラエルも同じだったのではないかと思うことがあります。自分が持っているものは本当にわずかであっても、それを喜んで主に献げるとき、主はご自身の偉大なみわざを成し遂げてくださるのです。

 

ピリピ2:12~16にはこのようにあります。「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」

救いを達成するための良い行ないは、みな神が私たちのうちで行なってくださいます。志を立てさせ、事を行なわせてくださいます。私たちに求められているのは、すべてのことをつぶやかず、疑わずに行うことです。働きは主ご自身が成されますが、主は私たちに志や感動を与えてくださって、喜んでそれを行なう者たちによってその働きが完成させてくださるのです。そして、ご自分の働きを始められた主が、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるのです。

Ⅱサムエル記3章

今日は、Ⅱサムエル3章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.ダビデの息子たち(1-5)

 

まず、1-5節までをご覧ください。「サウルの家とダビデの家の間には、長く戦いが続いた。ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった。ダビデにはヘブロンで子が生まれた。長子はイズレエル人アヒノアムによるアムノン。次男はカルメル人ナバルの妻であったアビガイルによるキルアブ。三男はゲシュルの王タルマイの娘マアカの子アブサロム。四男はハギテの子アドニヤ。五男はアビタルの子シェファテヤ。六男はダビデの妻エグラによるイテレアム。これらの子がヘブロンでダビデに生まれた。」

 

サウルの家とダビデの家の間には、長く戦いが続きました。しかし、ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなりました。その結果、6節以降にあるように、サウルの家の将軍アブネルは、ダビデに和解を申し出るようになります。その前に、ダビデがヘブロンにいる間に生まれた子どもたちの名前が列挙されています。ダビデには6人の息子たちが生まれました。長男はイズレエル人アヒノアムが産んだアムノン、次男はカルメル人アビガイルが産んだギルアブ、三男がゲショルの王タルマイの娘マテカの娘アブシャロム、四男はハギテの子アドニヤ、五男はアビタルの子シェファテヤ、六男がダビデの妻エグラによるイテレアムです。

 

ここで問題になるのは、これら6人の息子たちが、それぞれ別々の母親から産まれていることです。ダビデは以前より妻としていたアヒノアムとアビガイル以外にも、多くの女を妻としていたのです。そして、彼が後にエルサレムに行ってからも、さらに妻を加えるのですが、その結果、家庭内に多くの問題を抱えることになります。後に、アムノンはアブシャロムの妹タマルに恋して悩み、タマルを犯してしまいます。その後、アムノンはタマルに対して激しい憎しみにかられ彼女を追い出してしまいますが、それが原因となって兄アブシャロムがアムノンを殺害するという事件が起こるのです。ここからダビデとアブシャロム親子の葛藤劇が始まります。その原因を作ったのは、ダビデ自身でした。申命記17:17にはモーセを通して「王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。」という律法がありますが、彼はその戒めを守らなかったからです。

 

ダビデも完璧な人間ではありませんでした。ダビデのように神に用いられた器であっても、間違いを犯すことがあるのです。そして、神の御心にかなわない行動をすれば、その刈り取りもすることになります。確かに、当時は王が権力を持つために結婚が利用されることがありました。いわゆる政略結婚です。相手の国と良い関係を持ち、互いに戦うことがないようにするために、その王の娘と結婚して縁戚関係を結ぶのです。しかし、たとえそうであっても、神のみことばに立たなければなりません。人を恐れるとわなにかかります。しかし、主に信頼する者は守られます。人との関係よりも神との関係を優先し、神の御心にしっかりと立つことが求められます。

 

Ⅱ.アブネルの死(6-30)

 

次に、6~30節までを見ていきたいと思います。まず11節までをご覧ください。「サウルの家とダビデの家が戦っている間に、アブネルがサウルの家で勢力を増していた。サウルには、アヤの娘で、名をリツパという側女がいた。イシュ・ボシェテはアブネルに言った。「あなたはなぜ、私の父の側女と通じたのか。」アブネルはイシュ・ボシェテのことばを聞くと、激しく怒って言った。「この私がユダの犬のかしらだとでも言うのか。今日、私はあなたの父サウルの家と、その兄弟と友人たちに真実を尽くして、あなたをダビデの手に渡さないでいる。それなのに今日、あなたは、あの女のことで私をとがめるのか。【主】がダビデに誓われたとおりのことを、もし私がダビデのために果たさなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられるように。それは、サウルの家から王位を移し、ダビデの王座を、ダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に堅く立てるということだ。」イシュ・ボシェテはアブネルを恐れていたので、彼に、もはや一言も返すことができなかった。」

 

サウルの家とダビデの家が戦っている間に、将軍アブネルがサウルの家で勢力を増していました。彼はサウルの息子イシュ・ボシェテを王に立てイスラエル王国の確立を図り、自らを将軍としていました。本当は自らが王になりたかったのでしょう。この後に起こった事件の時に、彼がイシュ・ボシェテに発した言葉からそのことを垣間見ることができます。

 

サウルには、アヤの娘で、リツパというそばめがいましたが、アブネルは彼女と通じたのです。するとイシュ・ボシェテはそのことでアブネルをとがめました。それは単に性的な関係を持ったということではなく、別のことを意味していたからです。当時の中近東では、新しく王になった者は、以前の王のそばめのところに入ることによって、自分が王権を奪い取ったことを人々に示したのです。つまり、アブネルがサウルのそばめに入ったということは、自分が王となったことを宣言しているようなものだったのです。ですから、イシュ・ボシェテが恐れたのは、アブネルが権力を増していったことだったのです。

 

それに対してアブネルは、異常なほど感情的な反応を示しました。彼は激怒し、今まで自分は忠誠の限りを尽くしてきたのになぜ自分を責めるのかと反論しました。さらに、これを契機に、ダビデ支持に回ると宣言しました。彼は知っていたのです。ダビデが神によって選ばれた王であるということを。しかし、彼はイシュ・ボシェテを王に立てて、神が言われたことに反発していました。しかし、イシュ・ボシェテからとがめられたときそれをきっかけに、神の御心に従おうと思ったのです。イシュ・ボシェテは、アブネルのあまりの剣幕に、それ以上一言も言い返すことができませんでした。

 

このアブネルの中に、罪人の典型的な姿が見られます。彼は自分の非を責められると激怒し、自分に都合の良いように方針を変更しました。そもそもイシュ・ボシェテを擁立したのも自分の益になると判断したからです。しかし、それがうまくいないと、今度は簡単に方針を変更しました。彼の行動の動機は、自分の益になるかどうかということでした。私たちは改めてイエス様がゲッセマネの園で祈られた祈りを思い出します。イエス様は、「私の願いではなく、あなたのみこころがなりますように」(ルカ22:42)と祈られました。私たちもイエス様のように、「私の思いではなく、あなたのみこころが成りますように」と祈りたいと思います。

 

次に12~21節をご覧ください。「アブネルはダビデのところに使者を遣わして言った。「この国はだれのものでしょうか。私と契約を結んでください。ご覧ください。私は全イスラエルをあなたに移すのに協力します。」ダビデは言った。「よろしい。あなたと契約を結ぼう。しかし、条件が一つある。それは、あなたが私に会いに来るときは、まずサウルの娘ミカルを連れて来ること、そうでなければ私に会えないということだ。」ダビデはサウルの子イシュ・ボシェテに使者を遣わして言った。「私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった、私の妻ミカルを返していただきたい。」イシュ・ボシェテは人を遣わして、彼女をその夫、ライシュの子パルティエルから取り返した。彼女の夫は泣きながら彼女の後を追ってバフリムまで来たが、アブネルが「行け。帰れ」と言ったので、彼は帰った。アブネルはイスラエルの長老たちと話してこう言った。「あなたがたは、かねてから、ダビデを自分たちの王とすることを願っていた。今、それをしなさい。【主】がダビデについて、『わたしのしもべダビデの手によって、わたしはわたしの民イスラエルをペリシテ人の手、およびすべての敵の手から救う』と言われたからだ。」アブネルはまた、ベニヤミン人とじかに話し合った。それから、アブネルはまた、ヘブロンにいるダビデのところへ行き、イスラエルとベニヤミンの家全体が良いと思っていることを、すべて彼の耳に入れた。アブネルは二十人の部下とともにヘブロンのダビデのもとに来た。ダビデはアブネルとその部下のために祝宴を張った。アブネルはダビデに言った。「私は、全イスラエルをわが主、王のもとに集めに出かけます。彼らがあなたと契約を結び、あなたが、お望みどおりに王として治められるようにいたしましょう。」ダビデはアブネルを送り出し、アブネルは安心して出て行った。」

 

早速、アブネルはダビデに使者を遣わし、契約を結ぶことにしました。全イスラエルをダビデの支配下に移すのに協力すると約束したのです。

ダビデはその申し出を受け入れ契約を結ぼうとしましたが、そのために一つの条件を提示しました。それは、サウルの娘ミカルを連れて来るということでした。ミカルは元々ダビデの妻でしたが、サウルがダビデのことをますます妬ましく思うようになると、彼女を他の男に与えて、ダビデから取り上げてしまったのです。そこでダビデは今、そのミカルを返してくれるように要求したのです。もしミカルが子を産むなら、その子はダビデの家とサウルの家を和解させる人物になるでしょう。まさに平和の子となります。

ダビデのこの願いはイシュ・ボシェテを通して実行に移され、ミカルは別れを惜しむ夫パルティエルからダビデのもとに返されました。ここには「その夫」とありますが、元々はダビデが夫であって、その婚姻関係は解消されてはいなかったので、法的にはまだダビデが正当な夫です。

 

ダビデを全イスラエルの王とするのにあたり、アブネルはイスラエルの長老たちと話をして説得しました。実は、イスラエルの長老たちもダビデを自分たちの王とすることを望んでいました。歴代誌を見ると、ユダ族以外のイスラエルの部族が、次第にダビデになびいていく様子が描かれています。自然にダビデを王とする方向へと向かっていたのです。主がダビデを選ばれ、そして主がイスラエル全体を動かしておられたことがわかります。人は、神の計画に反対するようなことをしますが、そのような人間の試みが空しいことを教えてくれます。御霊の働きによって、主の計画だけが成るのです。

 

アブネルは、ダビデを全イスラエルの王としても良いという約束を取り付けると、20人の部下を引き連れてヘブロンにいるダビデのもとに行き、そのことを伝えました。するとダビデはアブネルを歓迎して祝宴を張りました。それは、ダビデがアブネルの提案を受け入れたということです。身の安全を保証されたアブネルは、安心して帰路に着きました。

 

ダビデは実に平和の人でした。イスラエル王国が弱体化しているなら、武力を行使することもできたはずです。また、ヘブロンに来た敵方の将軍アブネルを暗殺することもできました。しかし彼は、血を流すことを避け、平和の道を選びました。これが、クリスチャンが追い求める道です。へブル14:12には「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。」とあります。ローマ14:19には「ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」とあります。クリスチャンが追い求めなければならないのはすべての人との平和です。確かにダビデは主が戦うようにと命じられた時は必死に戦いましたが、そうでない時は血を流すことを避けました。私たちは、互いに平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを求める者でありたいと思います。

 

22~30節をご覧ください。そうしたダビデの思いとは裏腹に、乱暴で、血を流すのに早い者たちの姿を見ます。ヨアブです。「ちょうどそこへ、ダビデの家来たちとヨアブが略奪から帰り、たくさんの分捕り物を持って来た。しかし、アブネルはヘブロンのダビデのもとにはいなかった。ダビデがアブネルを送り出し、もう安心して出て行っていたからである。ヨアブと、彼とともにいた軍勢がみな帰って来たとき、「ネルの子アブネルが王のところに来たが、王がアブネルを送り出したので、彼は安心して出て行った」とヨアブに知らせる者があった。ヨアブは王のところに来て言った。「何ということをなさったのですか。ご覧ください。アブネルがあなたのところに来たのです。なぜ、彼を送り出して、出て行くままにされたのですか。あなたはネルの子アブネルのことをご存じのはずです。彼はあなたを惑わし、あなたの動静を探り、あなたのなさることを残らず知るために来たのです。」ヨアブはダビデのもとを出てから使者を遣わし、アブネルの後を追わせ、彼をシラの井戸から連れ戻させた。しかし、ダビデはそのことを知らなかった。アブネルはヘブロンに戻った。ヨアブは彼とひそかに話そうと、彼を門の内側に連れ込み、そこで彼の下腹を刺した。こうして、アブネルは、彼がヨアブの弟アサエルの血を流したことのゆえに死んだ。 後になって、ダビデはそのことを聞いて言った。「ネルの子アブネルの血については、私も私の王国も、【主】の前にとこしえまで潔白である。その血は、ヨアブの頭と彼の父の家の全員に降りかかるように。またヨアブの家には、漏出を病む者、皮膚をツァラアトに冒される者、糸巻きをつかむ者、剣で倒れる者、食に飢える者が絶えないように。」ヨアブとその兄弟アビシャイがアブネルを殺したのは、アブネルが彼らの弟アサエルをギブオンでの戦いで殺したからであった。」

 

ちょうどそこへ、ダビデの家来たちとヨアブが略奪から帰り、たくさんの分捕り物を持って来ました。しかし、アブネルはヘブロンのダビデのもとにはいなかったので、アブネルとその軍勢が来たことを知りませんでした。そのことがヨアブの耳に入ったとき、彼は激怒し、ダビデのところに行って抗議しました。その内容は、アブネルが来たのはダビデの動静を探るためであったのに、なぜおめおめと彼を送り出してしまったのかということでした。でも本当の理由は、もしアブネルがダビデに気にいられたら将軍としての自分の地位が危うくなるからであり、また、弟のアサエルが彼によって殺されたので、個人的な恨みがあったからです。このとき、ダビデがどのように応答したかは書いてないのでわかりませんが、恐らくまともに取り合おうとせず、無視したのではないかと思われます。

 

ヨアブは直ちに使者たちを遣わしアブネルの後を追わせ、ダビデには秘密に彼をヘブロンに連れ戻し、彼の下腹を刺して殺害しました。ヨアブにとってこれは弟アサエルが殺されたことへの復讐でした。しかし、これはそれ以上の悪行でした。というのは、アサエルの死は戦場での戦死でしたが、アブネルの死は陰謀による死であったからです。両者の死の内容は明らかに異なりました。ヨアブのやり方は、当然責められるべきものです。

 

また、この悲惨な事件が起こったのはヘブロンという町でのことでしたが、このヘブロンはイスラエルに6つあった「のがれの町」の一つでした。本来なら、このような復讐による殺害から逃れるために設けられた町なのに、その町で暗殺事件が起こってしまったのです。この「のがれの町」は、イエス・キリストを予表していました。地上ののがれの町は完璧な安全を保証してくれるものではありませんが、私たちの救い主イエスは、確かな御手をもって私たちを守ってくださいます。この「のがれの町」に逃げ込むことこそが、私たちに真の慰めと平安をもたらしてくれるのです。それなのに、この「のがれの町」で、このような悲惨な事件が起こったのです。

 

これを聞いたダビデは、このことについては自分と自分の王国も、主の前にとこしえに潔白であることを主張し、その血はヨアブとその家に降りかかるようにと祈りました。また、ヨアブの家には、漏出を病む者、重い皮膚病に冒される者、糸巻をつかむ者、剣で倒れる者、食に飢える者が絶えないようにと祈りました。「糸巻きをつかむ者」とは、「糸巻き」が女性の仕事とされていたことから、女性の仕事しかできない男になるように、すなわち、戦うことができない軟弱な男になるようにという意味です。たとえ剣を手にすることができても、それは必ずしも戦うことができるということではありません。武器を手にすることだけが男らしさではないからです。いずれにせよ、ここでダビデが祈ったのは、そうした呪いがヨアブの家にあるようにということです。彼がやったことは単なる人殺しではなく、悪質な人殺しだったからです。アブネルは残忍な男でした。そういう意味では、彼の死は神の裁きであったとも言えます。と同時に、このヨアブの残忍な行為もまた裁かれるべきものだったのです。

 

このダビデの祈りは、ダビデの死後成就することになります。Ⅰ列王記2:28~34をご覧ください。ソロモンはエホヤダの子ベナヤを遣わし、主の天幕のかたわらで彼を打ち殺しました。それはアブネルを虐殺した報いです。神をあなどってはなりません。罪の行為がそのまま見過ごされることはないのです。私たちは、ヨアブのように乱暴で、すぐに暴力を振るう者ではなく、ダビデのように義と平和を求める者となりましょう。

 

Ⅲ.ダビデの悲しみ(31-39)

 

最後に31~39節までを見て終わりたいと思います。「ダビデは、ヨアブと彼とともにいたすべての兵に言った。「あなたがたの衣を引き裂き、粗布をまとい、アブネルの前で悼み悲しみなさい。」そして、ダビデ王は棺の後をついて行った。彼らはアブネルをヘブロンに葬った。王はアブネルの墓で声をあげて泣き、民もみな泣いた。王はアブネルのために哀歌を歌った。「愚か者が死ぬように、アブネルは死ななければならなかったのか。あなたの手足は縛られず、かせにもつながれずに。不正な者の前に倒れるように、あなたは倒れてしまったのか。」民はみな、さらに続けて彼のために泣いた。民はみな、まだ日のあるうちにダビデに食事をとらせようとしてやって来たが、ダビデはこう誓った。「もし私が、日の沈む前に、パンでもほかの何でも口にすることがあれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」民はみな、そのことを認めて、それで良いと思った。王のしたことはすべて、民を満足させた。民はみな、そして全イスラエルは、その日、ネルの子アブネルを殺したのは、王から出たことではないことを知った。王は自分の家来たちに言った。「今日、イスラエルで一人の偉大な軍の将が倒れたのを知らないのか。この私は油注がれた王であるが、今日の私は無力だ。ツェルヤの子であるこれらの者たちは、私にとっては手ごわすぎる。【主】が、悪を行う者に、その悪にしたがって報いてくださるように。」

 

アブネルが死ぬと、ダビデは、その死を悼み悲しみました。彼は、ヨアブと彼ともにいたすべての兵に、衣を引き裂き、粗布をまとい、アブネルの前で悼み悲しむように、と命じました。また、自分が先頭に立って、その亡骸をヘブロンに葬りました。そして、アブネルの墓で声をあげて泣いたのです。さらに彼は、アブネルのために哀歌を歌いました。この中でダビデは、アブネルが愚かな者ではなかったこと、手足を縛られた囚人でもなかったこと、それなのに不正な者の手によって倒れたと言っています。

さらにダビデは、日没まで断食しました。民はみな、まだ日があるうちにダビデに食事をとらせようとしましたが、ダビデは、「もし私が、日の沈む前に、パンでもほかの何でも口にすることがあれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」と言って、一切食べようとしませんでした。

 

このようにしてダビデは、つい最近まで敵であったアブネルの死を悼み悲しんだのです。民はそれを見てどう思ったでしょうか。36節をご覧ください。ここには「民はみな、そのことを認めて、それで良いと思った。王のしたことはすべて、民を満足させた。」とあります。そして、民はみな、それがダビデから出たことではないことをはっきりと知ったのです。ここに、ダビデの知恵があります。上に立つ者は、常に不義に対する怒りと、いのちに対する敬意とを持つ必要があります。ダビデのこの態度は、彼が王にふさわしい人物であることを民全体に認めさせる結果となったのです。

 

ダビデは自分の家来たちに、自分の無力さを漏らしています。ヨアブに対して見せしめ的なことはしましたが、それ以上のことはできなかったからです。本来なら彼を将軍の地位から退けるべきでした。しかし、そのようなことをすれば将来に禍根を残すことになります。それで彼はどうしたかというと、この件に関して主ご自身が介入してくださり、その悪にしたがって報いてくださるようにと祈りました。彼は自分ではどうすることもできないことは、すべて主にゆだねたのです。主が何とかしてくださるという信仰です。私たちの生活の中には、自分ではどうすることもできないことばかりです。でも、神にはどんなことでもおできになります。その神にすべてをゆだねればいいのです。ダビデはまさにどうしようもない自分の無力さを前に、そのすべてを主なる神にゆだねたのです。

エレミヤ書2章14~19節「いつも主を前に置いて」

 新しい年を迎えました。この新しい年を、皆さんはどのような思いで迎えられたでしょうか。箴言4章23節に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。いのちの泉は私たちの心からわいてきます。ですから、力の限り、見張って、あなたの心を見守らなければなりません。新しい年も神の御言葉によって、心の井戸を深く掘っていきたいと思います。

この新年の礼拝で、主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書2章14~19節の御言葉です。前回もお話したように、この2章には神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿を、いくつかの比喩をもって語られています。1~8節までには不誠実な妻の姿を通して、また9~13節には、壊れた水溜のたとえをもって描かれてきました。

きょうのところには、奴隷としてのイスラエルの姿を通して語られています。イスラエルは奴隷なのか、それとも家に生まれたしもべなのか、ということです。だから、知り、見極めよ、と。何を見極めるのでしょうか。19節の後半にこうあります。「あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。」主を捨てて、主を恐れないことは、いかに苦しいことであるのかを、です。すなわち、主を恐れないこと、主に信頼しないことが、いかに悪いことであり苦しいことであるかということです。このことを見極めなければなりません。この新しい年、私たちはこのことを見極め、真に主を恐れ、主に信頼して歩む年でありたいと思います。

 Ⅰ.イスラエルは奴隷なのか(14-16)

 まず14節から16節までをご覧ください。「14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。15 若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。16 メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。

 ここで預言者エレミヤは、イスラエルの背信がどのような結果を招くのかを語っています。イスラエルは神に背いた結果、どうなったでしょうか。14節には「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。」とあります。

当時、奴隷には二つの種類がありました。お金で買われて奴隷になった者と、奴隷の両親の間に生まれた、生まれながらの奴隷です。イスラエルは神の民として贖われた者ですから、自由な民であるはずです。まして生まれながらの奴隷であるはずがありません。それなのに、彼らの状態はもっと悪くなっていました。戦争によって捕虜となり、獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になっていたのです。どうしてこのようになったのでしょうか。いうまでもなく、彼らが自分の神を捨てて偶像に仕え、外交や武力によって自分たちの安全を保つことができると考えたからです。その結果、どうなったでしょうか。

 15節をご覧ください。「若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。」

 「若獅子」とはライオンのことです。聖書では、イスラエルを荒らす敵の比喩としてしばしば用いられています。文脈によってそれはアッシリヤであったり、エジプトであったり、バビロンであったりしますが、ここではバビロンのことを指しています。バビロンがイスラエルに向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせるというのです。その町々は焼かれて、住む者がいなくなります。エレミヤがこれを語った約40年後に、実際にこのことが起こります。バビロン捕囚という出来事です。B.C586年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを攻め落とし、そこに住んでいた者たちを捕囚の民としてバビロンに連れて行きました。

それはバビロンだけではありません。エジプトもそうです。16節にある「メンフィスとタフパンヘス」は、ともにエジプトにある都市です。つまり、もし彼らがエジプトに保護を求めるなら、彼らがあなたの頭の頂を剃り上げるようになるというのです。ユダヤ人にとって髪を剃り上げることは、恥を見ること、悲しみに打ちひしがれることを表わしていました。イスラエルはせっかく神によって贖われ自由の民とされたのに、その神に背きメンフィスやタフパンスに助けを求めたことで、再び奴隷の状態に陥り獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になったのです。私たちもせっかく主イエス・キリストによって罪から解放され自由の民とされたのにその神に背くなら、若獅子の獲物にされてしまうことになります。頭の頂を剃り上げられることになるのです。

1ペテロ5章8節にこうあります。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ここでは、悪魔がほえたける獅子のようだと言われています。悪魔は、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩き回っています。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。そうでないと、当時のイスラエルのように若獅子の獲物にされてしまいます。頭の頂を剃り上げられてしまうことになるのです。そういうことがないように、身を慎み、目をさましていなければなりません。エレミヤは、かつてB.C.722年に北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされたことを思い起こしながら、南ユダ王国の人々に、注意しないとあなたがたもライオンの餌食にされてしまいますよ、と警告しているのです。

それは今を生きる私たちにも言えることです。注意しないと、私たちもライオンの餌食にされてしまいます。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない人です。悪魔なんてやっつけてやるという人ほど簡単にコロリとやられてしまいます。私たちは若獅子の餌食にならないように身を慎み、目をさましていなければなりません。

Ⅱ.なぜ、獲物にされたのか(17~19a)

いったい彼らの問題は何だったのでしょうか。なぜ彼らは若獅子の獲物にされてしまったのでしょうか。次にその理由について考えたいと思います。17~19節前半をご覧ください。「17 あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリヤへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。「あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。」

いったいなぜ彼らは獲物にされてしまったのでしょうか。それは彼らが主を捨てたからです。彼らの神、主が彼らに道を進ませたとき、彼らが主を捨てたので、このようになったのです。どうしてナイル川の水を飲みにエジプトへ向かうのでしょうか。どうして大河ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤへ向かうのでしょうか。それは彼らが自分たちの神、主に助けを求めないで、エジプトやアッシリヤに助けを求めたからです。その悪が彼らを懲らしめ、彼らの背信が彼らを責めたのです。

私たちも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書ではエジプトはこの世の象徴として描かれています。また、アッシリヤは超大国の象徴として描かれています。私たちもイエス様を信じていてもにっちもさっちもいかなくなると、目に見えるこの世のもので安心を得ようとすることがあります。しかし、そのような水をいくら飲んでもまた渇くと、イエス様は教えてくださいました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

また使徒パウロは、そうした頼りにならないものに望みを置かないようにと警告しています。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように、と(1テモテ6:17)。そのようなものに望みをおくと、結局のところ、裏切られてしまうことになります。皆さんもそういう経験があるでしょう。

実際、イスラエルの王であったヨシヤ王も、この後B.C.609年にエジプトに攻め込まれて死んでしまうことになります。メギドの戦いです。エレミヤがこれを警告したのはB.C.627年のことですから、実に18年後のことになります。彼らはエジプトに助けを求めたのに、そのエジプトによって滅ぼされてしまうのです。まさに、頭の頂を剃り上げられたのです。その後、新興国であるバビロン帝国が台頭して来て、エジプトも、アッシリヤも、そしてこの南ユダ王国も滅ぼされしまうことになります。そして、バビロンの奴隷として、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになるのです。どんなにエジプトを頼っても、どんなにアッシリヤを頼っても、そうしたものは何の助けにもならないのです。

預言者イザヤは、そんなイスラエルの姿を短い毛布にたとえてこう言いました。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」(イザヤ28:20)皆さん、わかりますか。エジプトという寝床は、身を伸ばして寝るには短すぎます。アッシリヤという毛布は、身をくるむには狭すぎるのです。私の妻はいつも毛布に身をくるんで寝ていますが、見ると足がベッドからはみ出しています。背中には毛布がかかっていません。短じかすぎるのです。狭すぎるのです。そのようなものは安全のための何の保障にもなりません。それなのに、どうしてエジプトやアッシリヤへの道に向かうのでしょうか。どうして主なる神に背を向けて、この世に向かって走って行くのでしょうか。

あなたがこの世に向かって走るなら、結果的に神に背を向けることになります。その結果、懲らしめや責めを受けることになるのです。勿論、それはこの世を捨てるということではありません。この世を憎むということでもありません。神はこの世を愛されました。神は一人も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。そのためにひとり子をこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためです。ですから、私たちは神がこの世を愛されたように、私たちもほかの人々を愛するべきです。

しかしそれは、この世の考えやこの世を優先することではありません。神様以上にこの世を愛してはならないと、イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

神の子とされた者、クリスチャンは、その優先順位を神の価値観に従って、選択すべきです。誰も二人の主人に仕えることはできないからです。神とこの世に同時に仕えることはできません。その優先順位において神よりもこの世を優先するなら、それは神に背を向けてしまうことになります。その悪があなたを懲らしめ、その背信があなたを責めることになるのです。

皆さん、私たちが歴史から学ぶことは何でしょうか。それはたった一つのことです。それは、人類は歴史から何も学ばないということです。本来、彼らは学ぶべきでした。彼らと同じことをすれば自分たちはどうなるのかということを。自分たちもそうなるということ。しかし、彼らは何も学びませんでした。そして同じように痛い目に遭ってしまったのです。どんな人でも最初の一歩を間違えると、どんどん神から離れていってしまいます。しかし、信仰によって小さな一歩を踏み出すと、その人の人生は神によって祝福されたものへと導かれます。

1969年7月16日、アメリカの有人ロケット「アポロ11号」が月に着陸して、初めて人間が月を歩いた時、ニール・アームストロング船長はこのように言いました。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」

それはあなたにとって小さな一歩かもしれません。しかし、それはあなたの人生にとって偉大な一歩となるのです。その信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。

Ⅲ.だから、知り、見極めよ(19b)

では、どうすればよいのでしょうか。最後に19節の後半を見て終わりたいと思います。「だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。-万軍の主のことば。」

この箇所のまとめです。私たちにとって必要なのは、このことを知り、見極めることです。アッシリヤやバビロンの奴隷になるという悲惨さの原因は、指導者の政策が悪いからではありません。それは神を捨て、神を恐れないことです。これが最も根本的な原因なのです。悲惨の原因が自らの罪であることを知らないことが最大の悲惨でありますこのことを知り、見極めるようにと、エレミヤは教えているのです。あなたはこのことを知り、見極めているでしょうか。

昨年からサムエル記を通してダビデの生涯を学んでいますが、ダビデはこのことを知り、見極めていました。主が彼を、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼は主に向かってこのように歌いました。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(Ⅱサムエル記22:7)ダビではいつも苦しみの中で主を呼び求めました。すると主は彼の声を聞かれ、彼は助だされたのです。

私たちの人生に何が起こるか、だれも予測することはできません。突然、病気や事故や災いに襲われることがあります。まさに人生という舞台に、大きな穴がポッカリと開くような出来事に遭遇することがあるのです。そんなときに、ある人は穴を見て絶望し、運命を呪い、悲しみに暮れます。またある人は、穴を見ないふりをして、現実から逃避しようとします。しかしダビデは、その穴から神を見ました。神を見て、神に信頼し、神に叫んだのです。そして、その穴から救われるという経験をしたのです。すなわち、その穴から、穴が開かなければ、決して見ることがない新しい世界をしっかり見つめたのです。なぜなら、彼はいつも、主を恐れ、主に信頼していたからです。

彼は、詩篇16篇で次のように告白しています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)すばらしいですね。これを、今年の教会の目標聖句にしたいと考えています。「私の前に主を置く」とは、いつも主の助けと導きを仰ぐことです。これによってダビデは、「揺るぐことはない」と告白することができました。彼はサウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でした。また、その後イスラエル王となってからも、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中にあっても、彼の心の深い所には神様との強い絆がありました。だから彼は揺るがされなかったのです。それは、彼がいつも主に信頼し、主を前に置いていたからです。

17世紀に、フランスの修道院において台所の奉仕で一生涯を終えたブラサー・ローレンスという人がいますが、彼は「神の臨在の実践」(The Practice of the Presence of God)の中でこう言っています。「仕事の時は、私にとって祈りの時とさして変わらない。台所でガチャガチャした騒音に埋もれ、色々な人々が同時に別々なことで私を呼んでいる時でさえ、私は聖餐式の時に跪いているかのような大いなる静けさの中に住み給う神を持っている」

彼は、それが仕事の時であろうと、祈りの時であろうと、いつも神の臨在の中にいるようでした。それは彼が大切にしていたのは、そうした事柄の背後にある動機であったからです。つまり、いつも自分の前に主を置いているかどうか、そして、何をするにしても、その主への愛に対する応答であるかどうかということです。

彼はダビデのように、いつも自分の前に主を置いていたのです。

新しく迎えたこの2022年、さまざまな計画があり、活動があることでしょうが、それらの活動に勝って、私たちが知り、見極めなければならないことは、主を恐れ、主に信頼し、心を尽くして主を求めることです。ダビデのように「私の前に主を置く」という心の営みを一人一人のものにさせていただこうではありませんか。

伝道者の書7章15~29節「キリストにあって歩みなさい」

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主の2021年、明けましておめでとうございます。この新しい年、皆さんはどのような御言葉が与えられたでしょうか。私は詩篇92:13の御言葉が与えられました。「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神のおお庭で花を咲かせます。」悪者は青草のように萌え出でますが、主を愛する者は、主の家に植えられ、神の大庭で花を咲かせます。この新しい年も、主の大庭、主の幕屋の庭で花を咲かせる年になりたいと思います。

 

さて、この朝私たちに与えられている御言葉は、伝道者の書7章15節からの御言葉です。伝道者は7章前半のところには、何が人のために良いことなのかを、知恵のある者と愚かな者の対比を通して学びました。その中心は何かというと、13節にあるように「神のみわざに目を留めよ」ということでした。神が曲げたものをだれもまっすぐにすることはできません。すなわち、神の成されたことをだれも変更することはできないのですから、それをありのままに受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのがベストです。どのように受け入れれば良いのでしょうか?14節にあるように、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」ということでしたね。なぜなら、「順境日も」も「逆境の日」も共に神がお与えになられたものだからです。これもあれも、神のなさることなのです。ですから、そのすべてが神の主権によって成されていることを覚え、その神にすべてをゆだねることが求められているのです。今回はその続きとなります。

 

Ⅰ.正しすぎてはならない、悪すぎてはいけない(15-20)

 

まず、15~20節までをご覧ください。「私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」

 

非常に含蓄のある言葉ではないでしょうか。この新年礼拝にふさわしい御言葉だと思います。15節の「すべてのことを見てきた」とは、人生におけるすべてのことです。その中には考えられないようなこと、信じられないようなこともあります。何とも理不尽だなぁ思えるようなことも含まれています。たとえば、その後にあるように「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」というようなことです。私たちもこのような現実に直面することがあるのではないでしょうか。そして、その度に、イエス様を信じ、神様に信頼して歩むことにいったいどんな意味があるのだろうかと考えさせられるわけです。中には、そのような不条理を経験する中で、「聖書はもういらない」と信仰から離れてしまう人もいます。しかし、そのような現実の中にあっても、神を恐れて生きることを学ばなければなりません。

 

伝道者ソロモンは、その理由を次のように語るのです。16~18節です。「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」

 

どういうことでしょうか。正しい人が正しいのに滅び、逆に、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがありますが、これもあれも、神がなさることなのです。私たちにはわからないことがあります。そうかといって正しい人であることが問題なのではありません。たとえ、正しい人が滅びていくかのように見えても、正しい人であること、イエス様を信じて義と認めていただくことは、神に受け入れていただく唯一の道であることに変わりはありません。問題は、自分で義と認めてもらおうとあくせくすることです。ですからここには「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。」とあるのです。そうかと言って、悪すぎればいいのかというとそうでもありません。正しすぎるのはよくありませんが、悪すぎてもいけないのです。なぜなら、自分を滅ぼしてしまうことになるからです。

 

それが18節で言っていることです。「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」この「一つをつかみ」とは、正しすぎることであり、知恵ありすぎることです。そして「もう一つを手放さないのがよい」の「もう一つ」とは、悪すぎることであり、愚かであることです。どちらも手放さないで、両方持っているのが良いのです。つまり、神に信頼し、すべてを神にゆだね、神がなさることを受け入れて、神に感謝して生きることです。それが神を恐れて生きる人なのです。

 

20節にその理由が述べられています。「この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」この地上には正しい人など一人もいないからです。それなのに、自分を正しい者とするなら、あの律法学者やパリサイ人たちのように、人をさばいてしまうことになります。彼らは自分たちには神の律法が与えられているので、優れた者、正しい者だと思い込んでいました。その結果、そうでない人たちをさばいていたのです。そのようなことが私たちにもあります。私たちももし自分を正しい者とするなら、同じ誤りに陥ってしまいます。それは最初の人アダムの罪そのものです。彼の問題は何だったのでしょうか。それは自分を善悪の基準としたことです。神ではなく自分を基準にしました。その結果、神から「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」と問われたとき、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と答えたのです。あろうことか、神と妻のエバとを非難したのです(創世記3:11,12)。

 

残念ながら、今も「あなたのせいで・・・」と罵り(ののしり)合う夫婦喧嘩がどれほどあるでしょう。問題は、正しすぎることです。「私は正しい。悪いのはあなただ」と徹底的に主張するなら、結婚関係は破綻してしまいます。それはすべての人間関係、また国と国との関係にも当てはまることです。そのようにして自分を滅ぼすことになってしまうのです。

 

また、「知恵がありすぎる」のも問題です。そこには大きな落とし穴があります。ソロモン王はこの世の誰よりも知恵がありましたが、多くの妻を持つことで妻たちの偶像崇拝に陥り、神からの警告にも耳を傾けなくなってしまいました。自分こそ知者だと思う人は、神にも人にも聞くことができなくなります。ですから、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも、神と人のありがたさを忘れさせるきっかけになってしまい、人を滅ぼしてしまうことになります。

 

そうかといって、悪すぎるのもよくありません。ここには、「あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。」とあります。これは、悪すぎなければ多少の悪は赦されるということではありません。これは、悪や愚かさであることを開き直ることは危険であるという意味です。「どうせ、私は・・なんだから」と開き直るなら、自分を滅ぼしてしまうことになります。また、「神のかたち」に造られたすべての人には良心があり悪いことをしたら心が痛みますが、悪いことをし過ぎると、それさえも感じなくなってしまいます。その結果、生ける屍のような状態になってしまうわけです。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。Ⅰヨハネ2:1をご覧ください。ここに解決があります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」

私たちはキリストによって罪が贖われ、神の前に義人とされました。しかし、私たちが罪を犯さずに生きることは不可能です。作家の三浦綾子さんは、その著「孤独のとなり」の中で「わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである」と言っておられますが、罪を犯さずに生きていくことなどできないのです。…正しく歩もうとすればするほど、自分の愛のなさ、内側の醜さに心を痛めずにはいられません。しかし、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方がおられます。その方は義なるイエス・キリストです。ですから、あなたが罪を犯したなら、その罪を悔い改めて、神に立ち返り、キリストにとどまることです。そうすれば、あなたの罪は赦されるのです。

18節に「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。」とあるのは、このことです。つまり、正し過ぎるのではなく、かといって悪すぎるのでもなく、謙虚になって自分の罪を認め、神の恵みとイエス様のとりなしに生きることこと、これが神の知恵であるということです。神を恐れる者は、この両方を持って出て行くのです。

 

あるとき、一人の若いクリスチャンの女性が、自分の弱さを率直に認めながら、真心から「私はイエス様なしには生きてゆけない・・」と言っているのを聞いたことがありますが、その謙遜な姿にとても感動したのを覚えています。自分を義とするのではなく、神の義、イエス・キリストの義に生きること、それが神の知恵なのです。

 

19節をご覧ください。「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。」この知恵は、十人の権力者よりも、知恵ある者を力づけます。もっと力があるという意味です。なぜでしょうか?この地上に罪を犯さない人などひとりもいないからです。義人はいない。一人もいない。みんな罪を犯さずには生きていくことができません。そのような日々の歩みの中で私たちを真に力づけるのはこの神の知恵なのです。

 

Ⅱ.人の語ることばをいちいち心を留めてはならない(21-22)

 

次に、21~22節をご覧ください。ここにもう一つの知恵が語られています。「また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから。」

人の語ることばをいちいち心に留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気が奪われてしまうことになります。それを気にしてどれだけ多くの人々が心を痛めていることでしょうか。ネットの書き込みで自殺する人も跡を断ちません。しかし、悪意ある者のことばは気まぐれです。そんなことばにいちいち躓き、心をかき乱されるのも馬鹿馬鹿しいことです。イギリスの有名な牧師チャールズ・スポルジョンはこう言いました。「人の舌を止めることはできない。だったら、自分の耳を閉じて、話されたことを気にしないことである」と。
22節には、どうして人の語ることばをいちいち心に留めてはならないのか、その理由が書かれてあります。それは「あなた自身が他人を何度もののったことを、あなたの心は知っているのだから。」です。なるほど、考えてみると、自分自身もよく人の悪口を言ってしまいます。自分も他人をののしるのだから、他人もあなたをののしるのは当然じゃないかというのです。自分は人から批判されたり、非難されたりするのが嫌なのに、自分は平気で人の悪口を言ってしまう。これが人間の性です。

 

大川従道先生が、ご自身の説教集「風は己が好む所に吹く」という本の中で、聖霊がご自身の教会を好んでいない、ということを感じた時があったと言っておられます。それは、先生がよく信徒を裁いていたことが原因でした。少し長いですが、その部分を引用させていただきます。

「私は鈴木健二さんの気くばりの本が出る前から、「気くばり牧師」と言われていました。日曜日、朝から晩まで私は気を配っていたのです。絶対に人から後ろ指さされないように気をつかっていたのです。老人には優しくし、青年にも仕え、人間的な努力で、電話の取り方、言葉づかい、カウンセリング、あらゆることに配慮していました。

日曜日の夜は疲れきり、コカコーラとスルメを買ってきて、妻を相手に信徒の悪口を言うのが楽しみでした。若い牧師が一生懸命頑張っているのだから、日曜日の夜くらい信徒の悪口を言わせてもらわなければ、と思っていたのです。

「あの役員は言うことは言うけれど金は出さないね。いつになったら給料上がるかね」

「婦人会の彼女はしゃべること喋ること。ありゃ、口から生まれてきたのかね」

「今の若者はしつけがなってないねえ。親の顔が見たい」信徒を裁くと溜飲(りゅういん)が下がり、「スカッとさわやかコカコーラ」でした。そして、また月曜日からさわやかに伝道する、というのを繰り返していました。

その点を、私は主から厳しく指摘されました。

・・・

しかし、私は神様から言われました。

「何を言うか。お前に必要だから、この人をここに置くのだ」

・・・

私は主の御前に涙を流しながら、「イエス様、ごめんなさい。あなたの愛する信徒を裁いていました。あなたが置いてくださったのに、「あいつの根性が悪い」などと思っておりました。赦してください!」

気持ちが変わらないうちに、次の日曜日にこんな説教をしました。

「愛する皆さん、私に御言葉が与えられました。この御言葉通りに生きれば絶対に祝福されると思います。それは、「風は己が好む所に吹く」という御言葉です。聖霊様は人格を持っておられて、人を裁くことがお嫌いです。それを示されました。皆さんの中にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんけれど、私はけっこう皆さんを裁いておりました」

うなずいている人がいました。

「私はそれがいけないことだと分かりましたから、もう、どんなことがあっても皆さんを裁かない牧師になります。どうか私を赦してください。ところで、皆さんも、事によると、私を裁いていたでしょう」

またうなずいている人がいました。

・・・

それから教会に人が増え始め、試練もありましたが、ものすごく祝福され、教会堂も建てられました。大川先生いわく、祝福の原点は何でしょう。「裁き合わない」ことです。神様がくださった人生を裁き合わないことです。そうすれば、聖霊様は喜んでくださり、私たちの人生を祝福してくださいます。

 

私たちも他人を何度ののしったことでしょう。だから、他人があなたをののしるのは当然なことなのです。でもそのようなことにいちいち心を留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気を遣わなければならなくなるからです。むしろ、私たちは人をののしるのではなく神の愛で人を評価し、その人の良さを見つけ、その人のためにとりなしの祈りをささげていくべきです。そのように人を否定的な眼ではなく、肯定的な眼で見るなら、あなたもそのように観られるようになるでしょう。人の悪口、陰口は、自分に返ってくるものです。

 

米国の伝道者スタンレー・ジョーンズが、ある国の有力な将軍と話をしていたときのことです。この将軍は密かに女を囲っていました。

彼はしきりに、他のクリスチャンの悪口を言い出しました。ジョーンズは、このような状態の人のことをよく知っていました。

「悪意の背後には、自分自身の堕落を隠そうとする動機があるということ」を。

そこでジョーンズは、将軍の語る批判の言葉をさえぎって言いました。

「将軍、ペテロがヨハネについて『主よ、この人はどうですか』とイエスに尋ねたとき、主はこう言われました。『それがあなたと、何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従ってきなさい。』(ヨハネ21:22)」

すると将軍は素直に、「どうも負けました」と自分の非を認めました。

 

大切なのは、他の人があなたのことを何と言っているかということではなく、主があなたに何と言っておられるかということであり、主に従っていくことです。

 

Ⅲ.キリストにあって歩みなさい(23-29)

 

最後に、23~29節をご覧ください。まず、23~25節までをお読みします。「私は、これらの一切を知恵によって試みた。私は言った。「私は知恵のある者になりたい」と。しかし、それは私には遠く及ばないことだった。今までにあったことは、遠く、とても深い。だれがそれを見極めることができるだろうか。私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。愚かさの悪と、狂気の愚かさを知ろうとした。」

伝道者は、人生におけるすべてのことを見極めるために知恵を得ようと決心しましたが、それは無理なことでした。知恵は遠いかなたにあって、だれもそれを見出すことはできないからです。そこで、彼は知恵と物事の道理を追及し、捜し求めました。すると、そこにあったのは人間の悪行と狂気の愚かさばかりでした。

 

その一つが26節にあることです。「私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。」

ここをちょっと見ると、女性の皆さんは憤慨してしまうかもしれませんね。でもこれは女性を蔑視したり、差別しているのではなく、私たちが陥りやすい罠について警告しているのです。それが「女」であり、「男」であるということです。つまり「異性」です。この「女」という言葉ですが、これは「娼婦」のことを指しています。伝道者は、こうした娼婦が死より苦々しいということを実感したのです。ソロモンには千人もそばめがいましたから、それがどれほど男を捕らえる罠であり、網であり、手かせであるのかを実感していたのでしょう。

 

しばらく前に、NHKBSプレミアムで「洞窟おじさん」というスペシャルドラマを放映しました。これは、親の虐待から逃れ13歳で家出をした少年が、43年間も洞窟で生活したという実話です。山奥の洞窟で一体どうやって43年間も1人で生活することができたのでしょうか。この少年はヘビや木の実で食いつなぎながら、やがて山の幸を売って大金を稼ぐ知恵を身につけていくのです。その中に自力でイノシシを狩るシーンが出て来るのですが、どうやって狩るのかというと罠を使ってです。土を深く掘りそこに竹を槍の形に鋭く切ったものを並べ、その上にうっすらと土をかぶせて元のように見せかけるのです。そして、イノシシの前に自分の姿を現して襲わせるのです。逃げるふりをした少年はその罠のそばを駆け抜け、イノシシがその罠に落ちるようにするのです。自分が落ちたら大変ですが、そうやってイノシシを捕まえて食いつないだのです。まさに女は罠であり、その心は網、その手は、かせです。神に喜ばれる者は女の罠から逃れますが、罪に陥る者は女に捕らえられるのです。

 

27~28節をご覧ください。「伝道者は言う。見よ。私が道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。」

「道理」とは、物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道のことです。伝道者はこの道理を見いだそうと一つ一つ当たりましたが、何も見出すことができませんでした。彼が見出したのは、千人のうちで心の真実な人は、男はせいぜい一人ぐらいしかいないということ、女の人に至っては一人もいませんでした。なんだ、やっぱり女性蔑視ではないかと思われるかもしれませんが、それは今の私たちの感覚とはかけ離れています。というのは、聖書は男女が等しい価値感を持っていると教えているからです。いずれにせよ、人として行うべき正しい道を知っている人はほとんどいませんでした。

 

そこで伝道者はこういうのです。29節をご覧ください。これが伝道者の結論です。ご一緒に読みましょう。「私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。」

伝道者は、知恵の探求の結果、正しい結論に至りました。それは、神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということです。どういうことでしょうか。神は人を真っ直ぐな者として創造されたが、人は勝手に向きを変え、罪の生活へと向かって行った、ということです。「真っ直ぐな者に造られた」とは、正しい者に造られたという意味です。それは神のかたちに造られたということです。神を愛し、神と交わり、神の栄光を現す者として私たち人間を造られたのに、人は、本来造られた目的から離れて自分勝手な道に向かってしまいました。

 

これこそが、人間の本当の問題です。私たちの根本的な問題は神から離れてしまったことです。聖書ではこれを罪と言っています。「罪」とはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは「的外れ」を意味します。本来なら神という的に向かって矢が放たれなければならないものを、その的を外してしまいました。それが「罪」です。その本質は「自分中心」です。神中心ではなく自分中心であること、それが罪です。罪を英語で書くと「SIN」と書きますが、真中にあるのは何でしょうか?「I」、「私」です。これが罪の本質なのです。

 

ですから、もし私たちが本当に満たされたいと願うなら、この罪を解決し、再び元々の状態、真っ直ぐな者に造り変えていただかなければなりません。神のかたちに再創造していただく必要があるのです。どうしたら新しく造り変えていただくことができるのでしょうか。Ⅱコリント5:17にこう約束されてあります。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。罪という古い性質が過ぎ去って、すべてが新しくされます。もしあなたが人生に答えを見出したいなら、満ち足りた人生を送りたいと願っているなら、キリストにあって神が造られた元の状態に造り変えられなければならないのです。

 

それは自力ではできません。ソロモンもそうでした。彼も自分の力で何とかしようとしましたができませんでした。日の下でどんなに労苦しても、「空の空。すべては空。」なのです。しかし、ここにソロモンよりも偉大な方がおられます。私たちを「真っ直ぐな者」、「正しい者」に造り変えてくださる方がおられるのです。それはイエス・キリストです。だれでも、キリストのうちにあるなら、新しく造り変えられます。それは完全無欠な人間に変えられるということではありません。神の目には、イエス・キリストのうちにいる者とされるということです。私たちはイエス・キリストのうちにいなければただの罪人にすぎません。しかし、イエス・キリストのうちにいるなら、私たちの罪が覆われるのです。キリストという義の衣を着せられるからです。イエス・キリストの義の衣を着て、神に再び受け入れられた者となり、本来の姿に造り変えられるのです。それ以外にいかなる理屈を探しても答えは見つかりません。唯一の答えは、イエス・キリストにあります。コロサイ2:3に「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」とありますが、このキリストに知恵と知識の宝がすべて隠されているからです。

 

あなたはどこに知恵を求めていますか。神の知恵はこの方、イエス・キリストにあります。ですから、このキリストを求め、キリストによって新しく造り変えられ、キリストの知恵に生きる者とさせていただきたいと思います。これが私たちの教会の今年の目標です。「キリストにあって歩む」。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)

このキリストにあって歩むお一人お一人の上に、神の知恵と知識が豊かに満ち溢れますようにお祈りします。