ローマ人への手紙15章1~6節 「心を一つにして」

きょうは、「心を一つにして」という題で、お話したいと思います。今、読んでいただいた箇所は、14章の続きです。14章のところで、パウロはローマ教会には信仰の強い人と弱い人が摩擦を起こし教会の中でいろいろな問題を起こしていましたが、それにどう対処したらよいかを語ってきました。きょうのところには、そうしたパウロの願いは祈りになって溢れていることがわかります。5,6節をご覧ください。ここには、

「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

とあります。教会の一致という問題はきわめて重要な問題です。それは教会がキリストのからだであるからです。パウロは、12章から始まる信仰生活の実践について語ってくる中で、この問題についてかなりのスペースを割いて語ってきましたが、その締めくくりにおいても、この問題を取り上げて説明を加えました。

きょうは、この教会の一致について三つポイントでお話たいと思います。第一のことは、信仰の強い人は、弱い人の弱さをになうべきです。第二のことは、それが可能になるのは、聖書が与える忍耐と励ましによってであるということ。第三のことは、その目的です。教会が一致するのはどうしてなのでしょうか?それは神の栄光のためです。心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえられるためなのです。

Ⅰ.弱さをになう(1-3)

まず第一に、力のある人は、力のない人たちの弱さをになうべきです。1~3節をご覧ください。

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、あなたの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。」

1節の「力のある者」とは、14章でいわれているところの「信仰の強い人」のことです。このような人たちは旧約聖書の律法から完全に解放されている人たちのことで、キリストの恵みによって自由にされたと信じていた人たちです。一方、力のない人たちとは、信仰的にとてもナイーブな人たちで、食べ物や日に関する規定からなかなか抜け切れていない人たちで、こういう人たちは、イエス・キリストを信じても、なおそうした規定を守らないと救われないのではないかと考え、そうでない人たちを見てつまずいてしまうような繊細な信仰を持っていました。ここでパウロは、「私たち力のある者は」と言っていますから、自分は力のある人たちのグループに属していると認識していたことがわかります。そして、このように力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきであって、自分を喜ばせるべきではないと言いました。これが信仰の原則です。力のある人は、力のない人たちの弱さをになうべきであるということです。この「になう」ということばは、「自分のものとして受け入れる」という意味です。弱い者の弱さを自分の弱さと思って共に背負うことです。その最もよい例は、主イエスです。3節には、「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、あなたの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。」とあります。これは、キリストの受難のことです。キリストはご自分が強い方として、弱い者の弱さを負ってくださいました。イザヤ書53章4~6節には、

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

とありますが、イエス様はご自分の肉体をもって弱さをになうということがどういうことなのかを示してくださいました。私たちの悲しみを代わりに背負ってくださり、私たちのすべての罪を引き受けられたのです。キリスト、ご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、弱い者の弱さをになわれ、代わりに背負ってくださったのです。キリストが歩まれた地上での生涯を見ると、キリストはご自分を喜ばせるようなことは、ただの一度もなかったことがわかります。キリストは多くの奇跡をなさいましたが、ご自分のためになさったことは一度もありませんでした。五つのパンと二匹の魚で五千人の人たちの飢えを満たされたのもご自分の飢えを満たすためではなく、群衆の飢えを満たすためでした。キリストは寝食を忘れて、病人をいやし、悩み苦しむ人々の求めに答えられました。そうしたキリストの模範を見るとき、私たちも自分を喜ばせるために生きているのではなく、弱い人の弱さをにない、その人たちを喜ばせるために生きるべきであることがわかります。これが、力のある者、強い者に与えられている使命です。

皆さん、神様はなぜ皆さんに健康を下さったのでしょうか?それは、健康でない人の弱さをになうためです。なぜ経済的、物質的な祝福を与えてくださったのでしょうか?それは、ぜいたくをするためではありません。それによって人々を助けるためです。なぜ信仰の賜物を与えてくださったのでしょうか?その賜物によって他の人たちに仕えるためです。これが力のある者に与えられている使命なのです。

中には、隣人を喜ばせるために自分の喜びを犠牲にしなければならないのなら、信仰生活ほどつまらないものはないでしょう、と言う人がいますが、そうではありません。私たちの喜びというのは、実は与えることによってもたらされるものだからです。ルカの福音書6章38節には、

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

とあります。人を図る量りで、自分の量り返してもらえるのです。よく宣教師の生涯を見ると、本当に苦労が絶えません。私も宣教師のはしくれのようなことをさせていただいてみて、そのことがよくわかります。自分の生活を捨てて宣教地の人たちに仕えることは、並大抵の忍耐でできることではないのです。なのに宣教に携わった方々がよく口にする言葉は、「宣教は喜びです」という言葉です。大変苦労したのに、大変な犠牲を強いられたのに、なぜ「宣教は喜びです」と言えるのでしょうか?人を量る量りで、自分も量り返してもらえるからです。与えなさい。そうすれば、与えられるのです。人々は量りをよくして、押しつけて、揺すり入れ、あふれるまでら、あなたのふところに入れてくれるでしょう。自分のものを注ぎ出すと、枯渇するのではなく、かえって潤されるというのが神の国の原則なのです。

Ⅱ.聖書の与える忍耐と励ましによって(4-5)

それにしても、力のある人が力のない人たちの弱さをになうことには苦労が伴います。いったいどうしたらこの使命を果たすことができるのでしょうか。次に、そのために何が必要なのかを見ていきたいと思います。4,5節をご覧ください。

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」    パウロは、キリストについてしるされてある旧約聖書(詩篇)から引用すると、その聖書の効用について教えています。つまり、聖書は私たちに忍耐と励ましを与え、希望をもたらしてくれるということです。皆さん、いったい私たちは何のために聖書を読むのでしょうか?そこに書かれてあることによって忍耐を励ましをいただき、希望を持つためです。

私たちの信仰生活は、いつも苦難にただ耐えているというようなものでないことは確かなことです。しかし、教会の一致を保ち続けていくためには、忍耐が必要なのは言うまでもありません。互いに言いたい放題のことを言い、したい放題のことをしていて、それで一致が保たれるはずはないのです。それは夫婦関係を見てもわかるでしょう。夫婦は互いに「フーフー」言いながらも、時には言いたいことがあってもそれをじっとこらえ、それが必ずしも自分の考えややり方と違うものであっても理解したり、受け入れたりすることによって、そこに一致が生まれてくるものです。それができなかったら、そこには混乱と破壊しかありません。

しかし、ここで「忍耐」と言われていることは、ただじっと耐えているという意味ではありません。この「忍耐」というのは、解決の力をもっている人が、その解決をもたらしてくれることを期待して待つことを意味します。その忍耐を与えてくれるものが聖書のみことばなのです。   また、弱っている人が慰められ、励まされて、力づけられるには、その人のかたわらにいて、励ますことが必要です。何もしなくても、ただ一緒にいてくれる、かたわらにいてくれるということが大きな励ましであり、慰めです。何も言わなくてもいいのです。何も言わなくても、共にいることが励ましです。その慰め、励ましを与えてくれるのがみことばなのです。

弱い人にとって大切なのは希望を持つことです。彼らが気落ちし、失望する時、彼らを励ますためには、希望を持てるようにする以外に解決の道はありません。ではその希望はどこから与えられるのでしょうか?聖書です。聖書が与える忍耐と励ましによって、希望を抱くことができる。ですから、5節には「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」とあるのです。

皆さん、私たちの人生には、苦しみや、悲しみ、痛みや、試練がごまんとあります。しかし、そのような中で私たちが経験するのは、神様が忍耐と励ましを与えてくださるということです。そのことを誰よりも経験したのはこのパウロ自身でしょう。彼はキリストを信じ、キリストの福音を宣べ伝えたことで、石で打たれたり、牢屋に入れられたり、鞭で叩かれたり、盗賊の難、同族の難、難破の難など、あらゆる困難に遭いましたが、そうした困難の中で、彼は神様が忍耐と励ましの神であることを深く知りました。どんな状況の中にも、神は志を立て、それをなさしめてくださるということを知ったのです。

皆さん、それは私たちも同じなのです。私たちの家庭の中に教会の中にも、言葉では言うことのできない困難や苦しみがあるでしょう。しかしながら、忍耐と励ましの神が、私たちを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださるのです。一致を与えてくださいます。

Ⅲ.神の栄光のため(6)

では、それはいったい何のためでしょうか?強い者が弱い者を受け入れ、一つの心を持つのは、何のためなのでしょうか?それは、神の栄光のためです。6節をご覧ください。

「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

皆さん、私たちは何ために互いに同じ思いを持ち、心を一つにし、志を一つにするのでしょうか?それは私たちが声を合わせて神をほめたたえ、神を証しするためです。私は説教しているうちに、いつの間にかそれが祈りになっていたということがありますが、ここでパウロも、いろいろと書いて、いろいろなことを語ってくる中で、それがいつしか祈りに変わっています。いや、祈らざるを得なかったのです。

「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

パウロの祈りは、教会が一つになることです。いろいろな人がいてもいい、いろいろな背景や考えを持った人がいてもいい、しかし、根本的には同じ思いを持ち、心を一つにして、声を合わせて、神をほめたたえ、神を証しするような、そういう教会になってほしいという願いがありました。それが祈りになったのです。

それは、イエス様の祈りでもありました。ヨハネの福音書17章21節には、「父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」とあります。イエス様は十字架を前にして、弟子たちに、はらわたをさらけ出すようにして話してから、わたしと父とが一つであるように、教会がイエス様と一つ、教会員が一つになるようにと祈られたのです。それは、このことによって、神様がいらっしゃること、福音が本当だということ、イエス様が救い主であるということを、この世が信じるためです。信じて永遠のいのちをいただき、そうして、父なる神様の栄光が現されるためです。教会が一つであるということは、それほど力があることなのです。

ところで、この「心を一つにして」ということばですが、これはローマ人への手紙の中にはここにしか使われていないことばです。しかし、このことばは実は、使徒の働きの中には何回も何回も出てくることばなのです。そして、この「心を一つにして」ということばが出てきた時に、そこに驚くべき神様のみわざと祝福が溢れ、教会が進展していったことがわかります。たとえば、2章46,47節には、

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

とあります。彼らが心を一つにして、毎日宮に集まり、家々で喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していたとき、すべての民に好意を持たれ、毎日救われる人々が仲間として加えられていったのです。また、4章24~32節を見ると、生まれながらの足なえをいやしたことでユダヤ教当局に捕らえられていたペテロとヨハネが解放されたとき、彼らが心を一つにして、神に向かって、祈ったとき、集まっていた場所が震い動くほど聖霊に満たされ、大胆に神のことばを語り出したとあります。また5章12~13節を見ると、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが行われましたが、そのとき、みなは心を一つにしてソロモンの廊にいました。ほか人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、そうした人々でも、彼らを尊敬していたとあります。聖徒が心を一つにして祈り、心を一つにして神をほめたたえるときに、そこにものすごい神の栄光が現されるようになるのです。

初めて教会に来られた方に、「きょうの礼拝はいかがでしたか?」と尋ねてみると、ほとんどの人がこう答えられます。「明るくて、いい雰囲気です。また来たいと思います。」「いや、なかなかいい話だった」とか、「説教で教えられた」ではないのです。雰囲気が良かったとか、明るく、温かい感じだったという印象が残るのです。先日、修養会のご奉仕で来られた大友先生も、そのプロフィールを見ていたら、小さい時からの夢であった造船会社に入り、そこで設計の仕事をするようになって満足はしたものの、心の底からの満足が得られないでいたとき、電柱にはってあったキリスト教会の集会案内を見て教会に来られたわけですが、「初めての聖書の話は全然わからなかったが、そこに温かいものを感じて、そして教会に通うようになり、イエス・キリストを救い主として受け入れた」とありました。やはり、温かいものです。言い換えると、教会にこの温かいものがないと、人々は長続きしないということになります。この温かいものはどこから生まれてくるのか?心を一つにして、声を合わせて、主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるというところから生まれてくるのです。

使徒の働き13章の出来事は、パウロにとって忘れることができない事だったでしょう。1~3節です。

「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」

パウロはその時アンテオケ教会でご奉仕していました。バルナバがパウロを引き出してくれました。バルナバは、「慰めの子」という名前の由来のごとく、ほんとうに傷ついた人を慰め、励ます賜物がありました。かつてバリバリのパリサイ人で、クリスチャンを迫害していたパウロを信用し受け入れるクリスチャンが少ない中で教会から信頼されていたバルナバは、このアンテオケ教会の建て上げのために彼を連れてきたのです。そこにはいろいろな人たちがいました。まず「ニゲルと呼ばれるシメオン」です。「ニゲル」というのは現在のニグロのことで、肌の色が黒かったことを表しています。おそらく、アフリカ系の黒人だったのでしょう。それから「クレネ人ルキオ」です。使徒の働き11章20節をみると、この人たちはステパノの迫害のことでフェニキア、キプロス、アンテオケと進んできましたが、それまではユダヤ人以外にはだれにも、みことばを語らなかったものの、このアンテオケに来てからは、彼らはギリシャ人にも語りかけたので、ギリシャ人をはじめ多くの異邦人も主に立ち返りました。キリストの弟子たちが、このアンテオケで初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったのは、彼らの影響が大きかったでしょう。その他、国王ヘロデの乳兄弟でマナエンという人もいました。これはヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスと同じ宮殿で育てられたという意味です。今でいうと皇族の一人といった感じです。かなり高い身分の出身でした。そういう人たちがいたのですが、彼らはそうした社会的地位や身分を越え、信仰によって一致していたのです。そうした彼らがパウロとバルナバを世界宣教へと送り出しました。こうしたことは一流の人物がいるからできることではありません。気のあった仲間がいればできるということでもないのです。そうした人たちが信仰によって一つになり、人間的な偏見や障害を乗り越えて、初めてできることなのです。このアンテオケ教会には聖霊による一致がありました。ですから、彼らが心を一つにして祈っていたとき、聖霊が、バルナバとサウロをわたしが召した任務につかせなさい、という声を聞いたのです。そして、彼らはその声に従って送り出したのです。教会が心を一つにして祈ったとき、そこに大きな神様のみわざと栄光が現されたのです。

どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにしし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。神にご栄光がありますように。そのために、私たちは互いの弱さを負い合いながらその弱さをにない、心を一つにして、声を合わせて、主をほめたたえたいと思います。

ローマ人への手紙14章13~23節 「愛によって行動する」

テキサス州アントニオにあるオーク・ヒルズキリスト教会牧師のマックス・ルケードは、子供にも大人にも好まれる作品を書くベストセラー作家ですが、彼の著書「特別な愛」の中で、こんなエピソードを紹介しています。彼の奥さんの名前はデナリンといいますが、デナリンさんにはある一つの癖がありました。それは車庫に車を駐車する時、真ん中に駐車するということです。ですから、夫のマックスが車庫の扉を開けると、彼が駐車するスペースの半分くらいを占領していることがあるのです。優しい夫のマックスは、そのような時には何気なくヒントを投げかけます。「どこかの車がうちの車庫の真ん中に居座ってるね。」このようなことを言うと、日本では「何それ、嫌み?」なんて言われるので、このようなアプローチはなかなかできませんが、アメリカでは通じるのです。  ある日、少し強い語調で彼が話すと、奥さんがどのようにそれを受け止めたかはわかりませんが、そのときから駐車するときには気をつけるようになりました。 ある日、娘が母親に、「ママ、どうして車を真ん中に駐車しないの?」と聞くと、奥さんがこのように答えました。「そうね。ママはあまり気にならないんだけど、パパが嫌いらしいのよ。パパが嫌がることはママも嫌なの。」

自分が気にならないことでも相手が嫌なことはしない。それが礼儀であり、キリストに似ていくということなのではないでしょうか。  きょうのところでは、その問題について取り扱われています。すなわち、特に信仰の強い人はそうでない人がつまずくことがないように配慮することが求められるということです。きょうは、このことについて三つのポイントお話したいと思います。

Ⅰ.愛の配慮を(13-16)

まず第一に、13~16節までをご覧ください。

「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。」

前回のところで、パウロはお互いにさばいてはならない、むしろ互いに受け入れなさいと教えました。今回のところでは、兄弟にとってつまずきになるものを置かないように決心しなさいと、信仰の強い人たちに対して配慮することを求めています。14,15節を見ると、パウロは、「私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです」と言っています。前回とのつながりの中で汚れた食べ物について言及しているわけです。パウロのようにいわゆる強い人は、食べ物それ自体で汚れているものは何一つないと確信していましたが、そうでないと思っている人たちもいました。そういう人たちは、旧約聖書レビ記11章にあるように、「清い動物」と「汚れた動物」があって、汚れた動物を食べることは罪だと考えていたのです。あるいは、第一コリント人への手紙8~10章にしるされてある偶像に供えられた肉の問題とも関係があったのかもしれません。偶像に供えられた肉を食べることは偶像と交わることであるので、汚れてしまうことになると思っていたのでしょう。いずれにせよ、そうした宗教的な理由から、それらのものを食べようとしないクリスチャンがいたのです。パウロはそういう人を信仰の弱い人と呼んでいました。別に信仰が弱かったというわけではありませんが、そうしたことを気にしてつまずきやすいという点でそのように呼んだのでしょう。クリスチャンの中にはそのように信仰の弱い人と、そのようなことは気にしないで何でも食べる人、つまり信仰の強い人がいたのです。

パウロ自身が確信していたことは、それ自体汚れているものは何一つなく、ただ汚れていると思う人にだけ汚れているということです。その点では、彼は信仰の強い人に属していたと言えます。それにもかかわらず彼は、信仰の強い人たちに「兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」と言いました。なぜでしょうか?15節、「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動している」ことにはならないからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、そうした食べ物のことで、滅ぼすようなことがあってはならないのです。先ほどのマックス・ルケードの例で言えば、奥さんにとって車庫の真ん中に駐車することはあまり気にならないことだけれども、そのことが夫であるマックスが気になることであり、嫌なことであるならば、自分も嫌だと思うこと、それが思いやりであり、礼儀であり、愛の配慮だというのです。

パウロがここで教えている原則は、教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないということです。この原則はきわめて重要であって、教会における一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって図られるべきであるということです。

アメリカのチャールズ・スウィンドル牧師は、次のように言っています。「神の被造物はそれ自体は良いもので、私たちはその被造物を十分楽しむ権利を持っています。しかし、信仰が成熟していない人々にとって妨げとなる場合には、私たちの権利を自制しなければなりません。そうする必要がある時は、愛が、私たちの自由を制限するよう命令します。クリスチャンの自由の使用が、神の御業を損なう恐れがあるときには、まことの愛による分別力をもって、私たちの自由を用いなければなりません。」

15章3節を見ると、「キリストでさえ、ご自分を喜ばせることはなさらなかったのです。」とあります。イエス様も権利を自制されました。いや、放棄されました。イエス様は神でありながら神であるという考え方に固執しないで、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。イエス様が十字架につけられた時、それをながめていた民衆から「おい、おまえが救い主なら、自分を救ってみろ」とののしられましたが、イエス様はそのようにはしませんでした。それはイエス様にそれができなかったからではありません。イエス様がその気だったら、十字架から飛び降りて、そんなことを言う罪人を裁いて、地獄に送ることもできだでしょう。しかし、イエス様はそのようにはされませんでした。なぜなら、そんなことをしたら、キリストは十字架にかかって死ななければならないという神のみことばが実現しないからです。イエス様は、まだだれも経験したことがない、神に捨てられ、神にさばかれるということによって信じる者がみな永遠のいのちを受けたるために、十字架で死なれる道を選ばれたのです。つまり、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの益のためだったのです。イエス様はご自分を喜ばせるためではなく、私たちのために、私たちの徳を高め、私たちの益となることを考えてそうされたのです。これが愛によって行動している人の姿です。つまり、自分の考えによって行動するのではなく、そこには常に信仰の弱い人もいて、その人のことを考え、その人の益のために行動するということです。それは、その人もまたキリストが代わりに死んでくださったほどの人だからです。なのに、食べ物のことで、その人を滅ぼすようなことがあるとしたら、それこそ愛によって行動しているとは言えないのです。

Ⅱ.大切なのは本質的なこと(17-19)

第二に17~19節までをご覧ください。なぜ私たちは信仰の弱い人を配慮すべきなのでしょうか?「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(17節)    パウロがここで強い関心を抱いていることは、教会の本質は何かということです。教会にとって本質的なことは飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。義とは神様との正しい関係のことです。つまりキリストの福音によって神様との正しい関係に入れられたことで与えられる平和と喜びこそが教会の中心であり、本質的なことであるということです。何を食べるのか、何を飲むかということが本質的なことではありません。であれば、飲み食いのことで多少意見の違いがあったとしてもそれはある意味でどうでもいいことであって、時には譲歩しなければならない時もあるということです。この本質的なこととそうでないことの価値基準と判断を間違うと、教会に混乱が起こります。そして、教会では、意外とこのようなことで争いが起こることが多いのです。

1994年に山形県米沢市の恵泉キリスト教会で、東北リバイバルミッションが行われました。私はその実行委員として何人かの先生方と準備のための話し合いを持っていましたが、その中で、遠くから来られる方々もいるが夕食をどうするかという話になったのです。「五つのパンと二匹の魚じゃないですが、こんなへんぴな所でその人数分の食事を用意するのは大変ですよ。めいめいが適当に食べるようにしたらどうでしょうか」と言うと、千田先生がこう言われたのです。「いや、食べ物が大切なんだよね。意外とみんな食べ物のことを気にしているのよ。そして、結構こういうことで問題が起こるから、ちゃんと用意した方がいいんじゃないですか」そんなもんかなぁと思って当日を迎えましたが、ふたを開けてみると千田先生が言われたとおりでした。食べ物になると皆さん目の色が変わるのです。食べ物なんてどうでもいいことなのに、意外と深刻な問題になるケースがおおいんです。あの初代教会の最初の問題も、食べ物のことでした。しかし、このときは千田先生のアドバイスによって教会の方々の献身的な奉仕によって美味しい食事を用意していただいたので、とても和やかな、温かい集会になりました。

しかし、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。それが教会の本質的なことです。ですから、本質的なことにおいては決して曲げたり、譲ったりしなくとも、そうでない非本質的なことについてはできるだけ丁寧に、忍耐強く対処しなければなりませんが、時には相手に一歩譲るといった広い心が求められるのです。

Ⅲ.信仰によって生活する(20-23)

第三のことは、自分の信仰の確信によって行動しなさいということです。20~23節をご覧ください。

「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまづきを与えるような人の場合は、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまづきになることをしないのは良いことなのです。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」

パウロの確信は、食べ物のことで汚れているものは、何一つないということでした。しかし、そのことで兄弟が心を痛めるようなことがあるとしたら、もはや愛によって行動しているとは言えません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことで、滅ぼしてしまうことになるからです。ですから、本質的でない事柄については譲歩することも必要なのです。それとは逆に、それは食べてはいけないと思っていたのに、食べても全く問題がないと説得されたのでそうしたという場合はどうなるでしょうか?自分で納得して食べたのであれば問題はありません。しかし、そうでないのに食べることがあるとすると、一つだけ問題になります。それは、良心に責めを感じてしまうことです。クリスチャンにとって大切なことは、心に責められることがないように生きることです。これを食べたらいけないんじゃないかなぁぅと、疑いを感じながら食べるとしたら、それは信仰から出ている行為ではないので、罪に定められるのです。信仰から出ていないことは、みな罪だからです。ですから、私たちはひとりひとりが神様の御前に、良心的に責められることがないよう、自分の信仰の確信に基づいて判断し、行動していかなければなりません。それがこのところでパウロが言っていることです。神様がそれぞれに与えてくださった賜物を無視して、自分の型に他の人を当てはめようとしたり他の人を型に自分をはめ込んだりしようとすると、こうした問題が起こってきます。そうではなく、神様がそれぞれに与えてくださった信仰の量りに応じて、それぞれがみことばの確信ををもって判断すべきですし、他の人はその人の判断や考えを認めるべきなのです。しかし、あくまでもここで言われていることは宗教的理由での飲み食いのことであって、ひとりひとりのこまかなところにおいてのことであって、教会全体の秩序のことではありません。バプテスマの方式や幼児洗礼のこと、あるいは教会の政治などつにいては、教会の秩序に関することであって、そういうことはひとりひとりめいめい勝手であっては、教会の秩序は保たれませんから、あくまでも教会の秩序に従うことが大切です。そうではなく、信仰生活のこまかなところにおいては、それぞれの信仰の理解に基づき、確信をもって行動しなければならないのです。

皆さんの行動の基準は何でしょうか?クリスチャンは正しい人でなければなりませんが、正しい人であるだけでは駄目です。正しい人であると同時に広い心、寛容な心を持っていなければなりません。批判するのではなく受け入れることが必要です。それは教会も同じです。教会は福音の真理に立ち、福音をまっすぐに解き明かさなければなりません。それがローマ人への手紙1章から11章の主題でした。その次に必要なことは、そうした真理の土台に立ちながら、クリスチャン同士の関係において開かれた心、open mind を持つことです。信仰の強い人も弱い人も、互いに心を開いて互いを受け入れる教会となることです。塩野七生(しおのななみ)というイタリア在住の日本人女性が書いたベストセラー「ローマ人の物語」を見ると、ローマをあれほど強力な帝国にした原動力は寛容であったと言っています。ローマ人には閉鎖的なところがなく、寛容なんだそうです。征服した民族もそれぞれ自分たちの王を選べるような体制にしたほど開放的な民族でした。それがローマを強くしたというのです。

イエス様はいつも罪人たちと一緒に食事をされました。これを見たパリサイ人たちは、イエス様を非難しました。「あいつは罪人の友だ。罪人たちと一緒に食事をしている」と。このときイエス様はこのように言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来たのです。」(ルカ5:31~32)イエス様のみこころは、弱い人を受け入れることです。弱い人を受け入れて変わっていくことに心を注ぐことなのです。罪に定めることではありません。教会には霊的な赤ちゃんからご老人までいろいろな方がおられます。自分の基準で相手を見てはいけないのです。今は立派に見える人でも、かつては霊的に幼かった時代があったはずです。それがこんなに立派に成長できたのは、ただ神のあわれみ以外の何ものでもありません。であれば、私たちもまた開かれた心を持って、互いに受け入れる教会となることを求めていきましょう。信仰が強い人も弱い人も、みんなが祈り合える教会、ただ遊びに来た人たちも、受け入れる教会になりましょう。なぜなら、教会の使命は罪人たちを救いに導くところにあるからです。

 

ローマ人への手紙14章1~12節 「さばいはいけません」

きょうは「さばいてはいけません」というタイトルでお話したいと思います。ある有名なキリスト教雑誌が、牧師たちを対象にアンケート調査をしました。それは「教会で一番困る人はどういう人ですか?」というアンケートでした。そして、第一は「四十日間断食をした人」、二位が「徹夜祈祷をよくする人」、三位は「神学を勉強した人」でした。断食、徹夜、神学の勉強、これらのことは個人の霊的成長にとってとても重要なものです。それなのに、なぜこれらのことが問題になるのでしょうか?それはこれらのことを経験したかなり多くの人が、その恵みを自分の成長に適用するのではなく、他人に適用してさばいてしまうために用いてしまうからです。四十日間も断食祈祷をすれば、どんなに恵まれることでしょうか。なのに断食祈祷が終わるとすぐに、「うちの牧師は恵みがないなぁ」とか、「うちの役員たちはもっと祈らなくちゃ」と言ってしまうのです。祈ったのであればより謙遜に、よりへりくだり、より恵みに溢れるはずなのに、かえって人をさばいてしまいやすいのです。私たちはみな心配するか、批判するかのどちらかに傾きやすい性格を持っています。比較的に弱い人は心配し、強い人は批判しやすいのです。人が集まるところには必ず問題が生じます。人によって性格も違えば考え方も違いますし、育った環境や年代、培われてきた信仰の背景、信仰生活のカラーなどが違うからです。十人十色ということばがありますが、十人いれば十人の色や考え方があるわけですから、違って当然なのです。大切なのは、そうした違いを批判したり、責めたりするのではなく認め合うことです。

きょうは、この「さばいてはいけません」ということについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、クリスチャンが他人をさばいてしまう原因の一つは、信仰の理解に差があるためです。何でも食べてよいと信じている日ともいれば、野菜の他には食べないという人もいます。第二のことは、他の人をさばかないために必要なことは、自分の立場をわきまえることです。第三のことは、クリスチャンにとって最も重要なことは何のためにするのかということです。すなわち、クリスチャンは主のために生きている者であるという意識をしっかりと持っていることです。

Ⅰ.食べる人と食べない人(1~4)

まず第一に、1~4節までをご覧ください。

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」

ここでパウロが触れている問題はどういうことかというと、信仰の弱い人と強い人との摩擦の問題です。1節には、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。この弱い人とは体の弱い人のことではなく、信仰の弱い人のことです。その人は信仰がないわけではなく、信仰はあるのですが弱いのです。イエス・キリストを信じることによって救われていますが、それでも信仰が弱い人たちがいます。どういう人たちでしょうか。

信仰の共同体の中で他人をさばいてしまう原因の一つは、聖書の理解、信仰の差があるためです。この手紙が書き送られたローマは、その当時世界の中心都市でしたから、そこにはいろいろな人々が集まっていました。ユダヤ教から回心した人がいれば、ギリシャ的な背景のある人や、ローマ的な背景の人も、あるいは肌の色もさまざまで、奴隷もいれば、高貴な人もいました。また、教養のある人もいれば、教養のない人など、実にさまざな人たちがいたのです。いろいろな人がいればいろいろな考え方があって当然ですが、ここで問題になっていたのは、聖書の解釈に基づく違いにその原因がありました。2,3節には食べ物の問題が、そして5,6節には日の問題があげられていますが、こうした問題に関しての理解に違いがあったのです。

まず、食べ物についてですが、ある人たちは何でも食べてよいと信じている人もいましたが、ある人たちは野菜よりほかに食べてはならないと信じていました。それはわゆる菜食主義の人たちのように健康的な理由から主張していたのではなく、宗教的な理由からそのように主張していたのです。当時、いわゆる信仰が強いという人々は、キリストの福音によって旧約の律法と伝統から自由になったと信じていたので、旧約聖書のレビ記(11~16節)には汚れた食べ物に関する規定がありましたが、そういうことを気にせず食べていました。また、コリント人への手紙第一8章4節に出てくる「偶像にささげられた肉」についても、偶像の神がいるわけじゃないし、そんなことを気にしていたら何も食べることができないと、何でも食べていいと信じていました。このような人たちは福音がもたらしてくれた自由というものがどういうものであるかをよく知っていましたので、そうしたことにこだわっている人たちを見下げていたのです。

あるいは、5,6節を見ると、ある人たちはある日を、他の日に比べて、大事だと考える人たちもいましたが、どの日も同じだと考える人もいました。これはクリスチャンになっても依然として安息日をはじめとした旧約聖書に規定されている日を特別な日として守っていた人たちのことだと思われますが、律法から解放されたと信じていたクリスチャンにとっては、いまだに律法にとらわれた生き方をしていた彼らの生き方、考え方を受け入れることができず、さばいていたのです。

しかし、そのように信仰において意見や考え方が違ってもさばいてはいけません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけないのです。神がその人を受け入れてくれたからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことでさばき、滅ぼすようなことがあっては、神様に申し訳ありません。神が受け入れてくださったのであれば、私たちも受け入れることは当然です。さばいてはいけません。

しかし、クリスチャンだと自認していても、神に受け入れられていない人もいます。どういう人でしょうか?こうした食べ物や飲み物についてではなく、救いに関して間違った教理を持っている人です。救いはイエスにあります。イエスを主と告白しなければ救われません。にもかかわらず、イエス様を神と認めていなかったり、イエス様を信じるだけでは救われないなどと言う人たちがいるのです。

ある時、アメリカのいわゆるセキュラーな雑誌が、アメリカの六大教派の神学校で神学生にアンケートを取ったそうです。その結果、処女降誕を信じていない学生が56%、天国と地獄の実在を信じていない学生が71%、キリストが神であることを信じていない学生が98%、人間が完全に堕落していない、つまり、人間が自分の力で自分を救うことができると考えている学生が98%、キリストの再臨を信じていない学生が99%だったというのです。日本のいわゆる福音派と言われる教会では考えられないような結果です。私たちはイエス様が救い主、神の子、メシヤだと信じています。キリストが十字架にかかって流された血潮は私たちの罪の赦しのためであり、贖いであって、この方を信じる者はみな、永遠のいのちが与えられると信じているのです。なのにクリスチャンであると言いながら、こうした聖書の救いに関する基本的な教えを曲解したり、受け入れていない人もいます。そのような教えの風やだましごとの哲学には、断固反対すべきです。

1910年にエディンバラで世界宣教会議が行われましたが、その時の資料の中に「腐った鰯(いわし)は肥やしになるが、腐った教会はごみ捨て場からも拒否される」ということばがありました。すごいことばです。こんなことまで言っていいんだろうかとまで思ってしまう。しかし、それは事実なのです。本当に神様はいらっしゃる、イエス様の十字架の血潮が救ってくださる、イエス様以外に救いはないと、神様を、イエス様を、十字架を、聖霊を、永遠のいのちを信じない教会は腐っていると言えるでしょう。私たちは毎週、礼拝で使徒信条を唱えていますが、それは聖書の基本的な信条です。そのことばを信じることによってのみ救われるのであって、それ以外に道はないのです。このような根本的な問題については、きっきり間違っている人と、私たちは袂(たもと)を分かたなければなりません。

しかし、グレーな部分もあります。たとえば、バプテスマのやり方などはそうでしょう。ある人たちは、バプテスマは水を垂らすだけでいい、これを滴礼と言いますが、そう人たちがいれば、ある人たちは、いやバプテスマというのはもともと「浸礼」という意味だから、全身を水に浸さなければならないと主張します。私たちが属しているバプテスト派の特徴の一つはこれです。多くのバプテスト教会ではそのように信じているので、そうでない方法によってバプテスマを受けた人には、もう一度バプテスマを受けてもらう教会もあります。しかし、大切なのはどのような方法でバプテスマを受けたかということではなく、信じてバプテスマを受けたかどうかです。しんじてバプテスマを受ける者は救われるのです。たとえ、そのやり方が違っても、信じてバプテスマを受けたのであれば、それは神様に喜ばれることであり、有効であって、このようなことで考えが違うからと言ってさばいてはいけないのです。ただ、教会には秩序がありますから、それぞれの個人の考えを尊重し、受け入れても、教会全体として考えに従うべきです。そうでなければ、同じ考えを持っている教会に行くのがベストですでしょう。

このようなことは、バプテスマのやり方といったことばかりでなく、クリスチャン生活のこまかな点でも言えることです。ある人は、クリスチャンはお酒やたばこを飲んではならないと考える人がいれば、そうしたことは自由だと考える人もいます。コーヒーや紅茶など、カフェインが入っている飲み物を飲んではならないと主張するクリスチャンがいれば、映画館や劇場に入ってはならないとか、男女の交際をしてはならないと考えているクリスチャンもいます。ひどいのになると、女性はズボンをはいてはならないと主張するクリスチャンもいるのです。もし女性がズボンをはいてはならないというのなら、クリスチャンの女性の方はスカートをはいて田植えをするのでしょうか?それも大変です。しかし、そのように考えている人もいるのです。しかし、それはその人の考えであって、その意見をさばいてはいけません。受け入れなければならないのです。

アメリカのチャールズ・スウィンドルという牧師は、クリスチャンが他の人を批判してはいけない七つの理由を次のように述べました。 1.私たちはすべての事実をみな知らない。2.私たちはその動機を完全に理解できない。3.私たちは完全に客観的な考えをすることはできない。4.その状況にいなければ正確に知ることはできない。5.私たちには見えない部分がある。6.私たちには偏見があり、視野が薄れていることがある。7.私たちは不完全で、一貫性がない。です。考えてみると、ほんとうに私たちが知っていることは一部分であり、自分に都合がいいようにしか受け取らない傾向があります。自分を中心に物事を見ていく癖があります。そのような私たちが、ほかの人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。

イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われました。(マタイ7:1~5)私たちがさばかなければならないのは他の人ではなく、自分自身です。まず自分の目から梁を取り除かなければなりません。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができるのです。

信仰の共同体の中にはいろいろな人がいます。そこにいろいろな違いがあってもそれをさばくのではなく、互いに認め合い、互いに受け入れ合うべきなのです。自分の考えだけが正しいと言える人は誰もいません。黙想に慣れている人は、一斉に大きい声で祈る人々を狂信的だと言わないでください。また、いつも叫んで祈っている人は、静かに祈る人を見て、霊的に冷え切っているなどとも言わないでください。叫んで祈ろうが、黙想して祈ろうが、祈っていればいいのです。ただ「自分とは違うスタイルで恵みを受けているんだ」と考えることです。それが寛容であるということなのではないでしょうか。

Ⅱ.自分の立場をわきまえる(4)

第二のことは、私たちは自分の立場をわきまえなければなりません。4節をご覧ください。

「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

なぜ、信仰の弱い人を受け入れなければならないのでしょうか?なぜ、その意見をさばいてはならないのでしょうか?そのことを教えるためにパウロは、ここで私たちがどのような身分、立場であるかに目を向けさせています。それは、私たちはしもべの身分にすぎないということです。なのになぜ、他人のしもべをさばくのですか?この「しもべ」ということばは家の使用人のことです。ある人の家で使われている使用人について、他人がとやかく言う権利があるでしょうか?ありません。もしあるとしたら、それはその家の主人だけなのです。ましてや同じしもべの身分にすぎない者が、他の家のしもべについて何かを言う権利などないのです。もしそのようなことがあるしたら、それこそ自分の立場をわきまえない、神のみわざに対する中傷であり、越権行為です。越権行為とは、自分の権利を超えているということです。そのようなことを平気でしているとしたら、それこそ罪であり、厳に戒められなければならないのではないでしょうか。

Ⅲ.主のために生きる(5-8)

ではどうしたらいいのでしょうか?ですから、第三のことは主のために生きなさいということです。クリスチャンにとってこれが最も重要なことであって根本的なことです。5~8節までをご覧ください。

「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

ここには「・・のために」ということばが七回も出てきます。つまり、食べるとか食べない、日を守るとか守らないということが大切なのではなく、何のために食べ何のために食べないのか、何のために日を守り何のために守らないのかというのです。そして、クリスチャンにとって重要なことは、それが「主のために」であるということです。食べる人は主のために食べるのであって、食べない人も主のために食べないのです。日を守る人も主のために守り、主のために守らないのです。それぞれどのように行動するかは自分の心の中で確信を持って行動すべきで、何よりも重要なことは、それが主のためなのかどうか、私たちが主のために生き主のために死ぬのかどうか、そこにかかっているというのです。

パウロは、ローマ人への手紙6章12節で、「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」と言いました。いったいなぜ私たちの体を罪の支配にゆだねて、情欲に従ってはいけないのでしょうか?その理由をパウロは、その後のところで次のように言っています。6章18節です。「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」イエス・キリストを信じ、キリストにつぎ合わされ、キリストの奴隷、義の奴隷となったのですから、罪の支配にゆだねてはならないのです。ガラテヤ人への手紙2章20節には、

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰に よっているのです。」

とあります。キリストとともに十字架につけられ、キリストとともに古い罪の生活に死に、キリストにあって生きる者へと変えにられたので、私たちはそのように生きるのです。主のために生きる者に変えられた。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり、根本的なことなのです。

皆さんは何のために生きていらっしゃいますか?クリスチャンはだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ。そう告白して生きるのがクリスチャンなのです。

有名な音楽家で、クリスチャンであったヨハネ・セバスチャン・バッハは、あるとき宗教改革をしたマルチン・ルターに手紙を書き送りましたが、その中で彼は「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と言いました。少なくともバッハはそう思ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後のところには、いつも彼は「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。その言葉とは「Soli Deo Gloria」というラテン語です。つまり「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は、新しい曲を作るたびに、この曲が神の栄光を現すものでありますように、そしてこれを聴く人の魂が新たにされますようにという祈りを込めて、曲を作っていたのです。バッハの目的は、神の栄光が現されることだったのです。

1915年、第一次世界大戦下のベルギーで看護師として仕えていたEdith  Canvellは、敵兵を国外に逃がしたことでナチスに処刑されました。彼女は死刑に処せられる直前こう言いました。「愛国心だけでは足りません。」愛国心だけでは足りないのです。もっと大きな愛が必要です。彼女はもっと大きな神の愛で、戦争で傷ついた兵士を敵、味方関係なく介抱したのです。それは、私たちクリスチャン一人ひとりに求められていることでもあります。正義だけでは足りません。愛がなければなりません。正しい人であるだけでは足りません。受け入れる広い心が必要なのです。クリスチャンには広い心が必要です。批判せずに寛容でなければなりません。信仰の弱い人を受け入れるべきです。その意見をさばいてはいけません。そのような生き方の中にこそ、神の栄光が現されるのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものですと告白しながら生きるクリスチャンにとって、それは難しいことではないからです。

ローマ人への手紙13章11~14節 「目を覚ましなさい」

きょうは、「目を覚ましなさい」というタイトルでお話したいと思います。中世の偉大な神学者であったアウグスチヌスは、このみことばによって回心し、その生き方が劇的に変えられたというのは有名な話です。彼は若い時、荒れすさんだ生活をしていていましたが、真理を求めてアフリカのカルタゴからローマの首都ミラノにやって来たとき、そこで「取って読め。取って読め」という子供の歌う声を聞いて、そこにあった新約聖書を開いたのです。そのとき偶然に箇所がこの箇所でした。それまで自分の力でいくら努力してもなかなか聖い生活に入ることができずもがき苦しんでいた彼は、この箇所を読んだとき、たちまち心が平安に満たされ、疑惑の雲がすっかり消え失せたのでした。彼はこれまでの深い眠りから覚め、新しいいのちある生活へと変えられてれたのでした。

きょうは、この箇所から、世の終わりの時代をクリスチャンはどのように生きるべきかをについて、三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、クリスチャンは今がどのような時であるかを知っているということです。第二のことは、ですからクリスチャンは目を覚ましていなければなりません。第三のことは、古い着物を脱ぎ捨て新しい着物を着なければならないということです。

Ⅰ.今がどのような時か知っているのですから(11a)

まず第一に、クリスチャンは今がどのような時であるかを知っているということについて見ていきたいと思います。11節をご覧ください。ここには、

「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。」

とあります。皆さん、クリスチャンというのは、今がどのような時なのかを知っている人たちです。新約聖書にはこの「時」を表す言葉として、二つの言葉が使われています。一つは「クロノス」で、もう一つが「カイロス」です。「クロノス」は、すべての人に平等に与えられている時のことです。その時の流れの中で、私たちは生まれ育ち、年を取り、死んでいきます。時計がカチカチと時を刻んでいるその間に、流れていくその時のことです。それに対してもう一つの「カイノス」は、多くの人々は知りませんが、クリスチャンだけが知っている時のことです。それはどのような時かというと、「神の時」のことです。もっと明確に言うなら、キリストが再臨される時、この世の終わりの時です。11節には、「今は救いが私たちにもっと近づいているからです」とあります。これはキリストの再臨の時のことであり、救いの完成する時のことです。

皆さん、この世はただいたずらに続くのではありません。やがて終わりの時がやってきます。その時、天からやって来て、クリスチャンをすべての闇から解放してくださるのです。黙示録にはその時の様子を、次のように描かれています。

「1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1~4)

その時、神様に従うすべてのクリスチャンの目から涙が拭い去られて、もはや痛みも悲しみも叫びも苦しみもありません。警察やレスキュー隊、病院、リハビリセンターも必要ありません。すべての悲しみや苦しみから解き放たれるからです。その真ん中には神と小羊であられるイエス様がおられ、水晶のように光るいのちの水の川が流れ出ていて、そのいのちの水の川が諸国民の民をいやすのです。それは私たちクリスチャンにとってもっとも喜ばしい時なのです。そういう時がやって来るのです。

皆さん、この世には何と多くの痛み、悲しみがあるでしょうか。震災をはじめとする自然災害によって家族や家を失って、どれほど多くの人たちが深い悲しみの中にあることでしょう。体のあちこちに痛みを抱えながら、どれほど多くの人たちが苦しんでおられることでしょう。人間関係の問題でどれほど多くの人々が悩んでおられるでしょう。結婚、子育て、仕事のことで疲れ果て希望を失っているでしょう。しかし、やがてそうした悩み、苦しみ、悲しみ、痛み、悲しみから解放され、完全な喜びと平安がもたらされる時がやって来るのです。それはキリストが再臨される時であり、私たちの救いが完成する時です。

クリスチャンは、この時を知っているのです。それがいつなのかはわかりませんが、確実に近づいています。パウロがこの手紙を書いたのは今から約二千年前に比べたら、その時に比べたらはるかに近づいていると言えます。  マタイの福音書24章を見ると、イエス様はその前兆について語られました。その時には、「私こそキリストだ」という偽キリストが大ぜい現れ、多くの人々を惑わします。あるいは、戦争も絶えないでしょう。方々でききんと地震が起こります。やがて反キリストが現れ、にせ預言者が多く起こって、キリストを信じる者を激しく迫害するでしょう。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです。「これらのことを見たら、人の子が戸口まで近づいているということを知りなさい」(マタイ24:33)と。

私たちはこのようなしるしの多くを見ているのではないでしょうか。ちょうど半年前には未曾有の大地震が起こりました。津波や原発の被害は大きく、未だに復旧できないでいます。世界中を見ても、自然災害は至る所で起こっています。凶悪な犯罪は後を絶たず、社会全体がおかしくなっているような気がするのは私だけではないでしょう。確かにその時は近づいているのです。イエス様は、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(同24:35)と言われましたが、この世の終わりは必ずやって来るのです。

Ⅱ.目を覚ましなさい(11b)

ではどうしたらいいのでしょうか。パウロは11節の後半のところで次のように言っています。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻が来ています。」クリスチャンは世の終わりが近づいているということを知っているのですから、目を覚ましていなければならないのです。クリスチャンの内科医の天里待三さんは「眠れぬ夜のために」という論文の中で、現代の社会は情報を得やすい社会であると同時に、その情報が刺激となり、睡眠を妨げることがあるので、夜9時以降はテレビの番組などもよく注意して選択し、なるべく刺激にならないような番組を選んで見るべきだと助言しています。そして何よりもの解決は、主に身を横たえることだと言っています。

「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)

「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

私たちが思い煩ってなかなか眠れないとき、それを考えまいとしてその問題から逃げたり、その問題を後回しにするのではなく、その問題を神様にゆだねること、それがもっとも必要な解決方法だというのです。ですから、私たちが一番眠りやすいのはいつかというと礼拝の時なんです。神様が平安を与えてくださるので、いつもはなかなか眠れない人でもぐっすりと休むことができるのです。ただ礼拝中に休まる時には一つだけ注意が必要です。それは聖書を持ったまま居眠りしてはいけないということです。周りの人が起きてしまうから・・・。これは今は亡き本田弘慈先生の冗談です。

しかし、ここではいねむりのことではなく、眠りから目を覚ますようにと言っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています・・・と。どういうことでしょうか?キリストの再臨が近づいているので、それに備え、目を覚ましていなさいということです。

マタイの福音書25章のところでイエス様は、愚かな5人の娘と賢い5人の娘のたとえを話してくださいました。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。一方賢い娘たちはというと、自分のともしびといっしょにちゃんと油も用意していました。花婿が来るのが遅れたので、娘たちは、みな、うとうとと眠り始めました。ところで、夜中になって、突然、「そら、花婿が来たぞ。迎えに出なさい」という声がしたのです。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えましたが、愚かな娘たちは、ともしびは持っていても油を用意していませんでした。さあ大変です。焦った娘たちは油を用意していた娘たちに願いました。どうか油を分けてくれるように・・・と。ところがその賢い娘たちは、「いいえ、分けてあげるだけの余分な油はありませんので、店に行って、自分の分を買ってください」と答えました。仕方なく娘たちが油を店に買いに行くと、ちょうどその時に、花婿がやって来たのです。油の用意をしていた娘たちは、花婿といっしょに婚礼に祝宴に行くことができましたが、用意していなかった娘たちは、間に合いませんでした。「ご主人さま。どうぞ開けてください」とお願いしても、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言われ、戸は堅く閉められてしまったのです。まさに備えあるところに憂いなしです。目を覚ましているとは、それがいつ来ても大丈夫なように、備えておくことなのです。    きょう成すから大田原に向かう途中、スピード違反の取り締まりをやっていました。ちょうど前の車が捕まってしまいました。それほどスピードを出していなかったのにあれで捕まっては大変だと思いましたが、もし、スピード違反の取り締まりをやっているとわかっていたら、事前に用心していたでしょう。泥棒に入られるのも同じです。夜の何時に来るかがわかっていたら、目を覚まして見張っているはずです。おめおめと家に入られるというようなことはしません。イエス様が来られるのも同じです。いつ来られるのかわかりません。ですから、いつ来られてもいいように、よく用意しておかなければなりません。

Ⅲ.イエス・キリストを着なさい(12-14)

第三に、では、どのように用心していたらいいのでしょうか。古い着物を脱ぎ捨てて、新しい着物を着なさい、キリストを着なければならないということです。12~14節までをご覧ください。

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

パウロはここで、夜が更けて、昼が近づいたので、着替えをしなさいと言っています。やみのわざを脱ぎ捨てて、光の武具を着けなさいと言っています。やみのわざとは何でしょうか。ここには、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活」とあります。パウロはここで、やみのわざを三つのグループに分けて説明しています。最初のグループは「遊興と酩酊」です。これは酒を飲んで馬鹿騒ぎすることを指しています。泥酔は人の感覚が麻痺した状態です。クリスチャンは信仰的に、倫理的に鈍くなってはいけないのです。

第二のグループは「淫乱と好色」です。これは性に関する不道徳を指しています。この手紙を書いたコリントでは、このような罪が広くはびこっていました。「好色」は破廉恥なことで、はずかしさを忘れることです。

第三のグループは「争いとねたみ」です。これは争いに関する罪のことです。ある注解書によると、これは酔っぱらったり、性的な罪の中に深く落ち込んでいかないような比較的正しい人が陥りやすい罪だとありました。

要するに、これらの行為は生まれながらの古い人の生き方で、肉の欲を満たすことです。それが表現されると、こうしたわざになるのです。こうした肉の欲のリストは、ガラテヤ人への手紙5章19節にもあります。

しかし、クリスチャンはこうしたやみのわざを捨てて、ひかりの武具を身につけなければなりません。ここで「武具を身につけようではないか」と言われているのは、まさに今は戦いの時だからです。戦いに出かけようとするとき、ゴムの切れたズボンをはいて行くようなことをするでしょうか?そんなことをしたらズボンをあげている間に、敵に着られてしまいます。戦いに出かける時には、それにふさわしい武具を身につけなければなりません。すなわち、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取らなければなりません。(エペソ6:14-17)

また、それは主イエス・キリストを着ることです。14節のところでパウロは、「主イエス・キリストを着なさい」と言っています。キリストを着るとはどういうことでしょうか?キリストを着るとは、キリストと一つになることです。ひかりの子どもとして、ふさわしい生活をすることです。

よく街の中を歩いていると「イエス・キリスト以外に救いはない」とか、「イエスは主です」と書かれたTシャツを着ている方を見かけることがあります。また、車を運転していても、魚のかたちをしたステッカーをはっているのをよく見かけます。あのさかなのマークが何を意味しているかを知っている人は、「あ、あの人もクリスチャンだ」とわかりますが、そうでないと、「あれっ、このマークは何だろう」となります。あれは、ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字「イクトゥス」ですが、それがちょうどギリシャ語で「魚」という意味になるのです。そこで、自分もクリスチャンだということを表すためにあの魚のマークをつけているわけです。

そのようにして自分の信仰を表すこともすばらしいことですが、ここではむしろそれにふさわしい生き方、生活をしなさいということです。当時のクリスチャンは、キリストという着物を着て歩いていると人々から思われるほど、それがにじみ出ていたのです。そのように歩みなさいということです。

阪神タイガースの助っ人外国人選手スタンリッジ投手は、そんな生き方をしています。彼は、敬虔なクリスチャンで、ヒーローインタビューを受ける時はいつも、チームメイトのマートン選手と同様に、必ず「神様は私の力です!」とメッセージを送ります。それは、彼が自分が神様の良い証人になりたいと願っているからです。ですから、先日もシーズン中であるにもかかわらず、横浜市にある本郷台キリスト境界が主催する野球教室に出かけて行っては、子供たちに野球を教え、神様の話もしたのです。 「私はクリスチャンとして野球をしています。それは野球をしている時もそうでない時も、神様のために自分は生きているからです。なぜ、私が神様を信じるようになったか?それはイエス様が私のことをとても愛してくれたからです。イエス様は全世界のすべての人たちのためにこの世に来られ、私の罪のために、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。だから、私はマットと共に、野球を見てくれている人たちに「神様は私の力です」と言いたいのです。」

ダビデは、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」と歌いました。(詩篇16:8,9)また、ネヘミヤは、「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ8:9,口語訳)と言いましたが、そのようにいつも神様を目の前に置いて、神様を中心として生きること、また、イエス様を喜びたたえながら生きること、それがイエス・キリストを着るということなのではないでしょうか。それこそ、主の再臨が近い今、私たちクリスチャンに求められている姿なのです。

皆さんにはこのような備えができているでしょうか?イエス様がいつ来られても大丈夫でしょうか?普通、人はどこかに出かける時にはよく準備して行くものです。なのにイエス様の再臨が近いというのに、その備えができていないとしたら、それこそおかしいことです。なぜなら、私たちは二,三日の旅にではなく、永遠の旅に出かけるわけですから、そのための準備をしっかりとしておかなければなりません。イエス様が来られるというのに、雑巾みたいな洋服を着ていたとしたら大変です。そうではなく、ひかりの武具を、主イエス・キリストを着なければなりません。「マラナ・タ」という祈りがあります。意味は、「主よ。来てください」です。私たちはいつも「マラナ・タ」と祈りつつ、主のご再臨に備えておきたいと思います。

ローマ人への手紙13章8~10節 「愛は律法を全うする」

きょうは、「愛は律法を全うする」というタイトルでお話したいと思います。大学で法律を学ばれた方が、ある時私にこんなことを言われたことがあります。「いくら法律を作っても社会は少しも良くならない。」社会的には義務を果たし、宗教的には戒めを守ることも大切ですが、それだけでは不完全なのです。完全になるためには何が必要なでしょうか。10節には、

「愛は、隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

とあります。愛こそ律法を全うするのです。きょうは、この愛は律法を全うするということについて、三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、他の人を愛する人は、律法を完全に行っているということについてです。第二のことは、律法にはいろいろな戒めがありますが、そうした律法のすべては、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばに要約されるということです。第三のことは、それゆえに愛は律法を全うするということです。

Ⅰ.愛は律法を守っている(8)

まず第一に、他の人を愛する者は、律法を完全に守っているということについて見ていきましょう。8節をご覧ください。ここには、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」とあります。

1節からのところで、この社会の一員としてクリスチャンはどのような責任があるのかということについて語ってきたパウロは、ここで個人的な負債についての彼の考えを述べています。それは、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」ということです。どういう意味でしょうか?ある人はこのところから、クリスチャンは何人に対しても、いっさい借りることをしてはいけないと考えています。また、別の人は、これはそういうことではなく、借りたものに対してはきちんと返さなければならないということが教えられていると言っています。すなわち、借りたものをいつまでも放置したままではいけないというのです。  アメリカのカルバリーチャペルの主任牧師チャック・スミスは、前者の立場に立っていて、クリスチャンはいっさい借りることをしてはいけないと考えています。何年か前にその教会の牧師の一人であるボブ・ヘイグという先生のところに泊めていただいたことがありますが、その際にコスタメサにあるカルバリーチャペルの会堂を案内してもらいました。その時、ボブ・ヘイグ牧師が、この教会ではクリスチャンはいっさい借りがあってはならないと信じているので、この会堂も銀行等からのローンを一切受けないで建てたんですよ、と話してくれました。それはこの教会では、文字通り、クリスチャンは何人も何の借りもあってはならないと考えているからです。  確かに、貸し借りは人間関係を壊す危険性があります。それはその人の心を縛り、自由を奪い、卑屈なものにし、健全な人間関係を妨げてしまうのです。自由であるべきはずの魂を、他人に売り渡してしまい、神のみこころよりも人のご機嫌をうかがうような生き方になってしまうことがあるのです。ですから、なるべく他人からはお金や物を借りないようにすべきですし、どうしてもやむをえずに借りなければならないことがあるとしたら、できるだけ早くこれを返すように努力すべきです。しかし、ここで言わんとしていることはそういうことなのでしょうか?

マタイの福音書5章42節を見ると、主イエスが次のように教えられたことがしるされてあります。「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」また、ルカの福音書6章35節には、「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。・・・」とあります。もし他人から借りることをいっさい禁じているのだったら、イエス様があえてこのようなことを言われるでしょうか。そこには借りようとする人がいるということを前提としてイエス様は教えられたのではないでしょうか。

尾山令仁先生は、この「借り」と訳されている「σφειλω」(シュペイロオ)ということばは、果たすべき義務があるという意味を持っていることから、ここでは単に何らかの貸し借りだけを意味しているのではなく、果たすべき義務全般について教えられていると言っています。つまり、ここで言わんとしていることは負債を無くすこと、義務を遂行することです。今日の多くの人々は、権利は主張しますが、義務については、平気で見過ごし、これを果たそうとしません。そうしたことがあってはいけない。そういうことに対して忠告しているのだというのです。(聖書講解シリーズ「ローマ人への手紙P534)たとえば、1節には「上に立つ権威に従うべきだす。」とありますが、それもまた果たすべき義務の一つです。もちろん、返すべきものを返すというのも果たさなければならない義務です。それを果たさないとしたら、それは決して神様に喜ばれることではありません。

しかし、このところをもう少し読んでいくと、ここでのテーマは、どうも「借金をするな」とか、「義務を果たせ」ということ以上のことであることがわかります。というのは、その直後のところに、「ただし、互いに愛し合うことは別です」とあるからです。このところの中心は「互いに愛し合う」ことであって、パウロはそのことを言いたかったのでしょうか。つまり、この社会の中で義務を果たした生き方をしていかなければならないということから、互いに愛し合わなければならないということに、テーマを移行したかったのです。ですからここで、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と語った後で彼は、「ただし、互いに愛し合うことについては別です」と言っているのです。愛の負債は別なのです。なぜでしょうか。他の人を愛することは、律法を完全に守っていることになるからです。ですから、愛の負債をして、その負債を返そうと生きることは良いことなのです。その負債こそ、他の人を愛することだからです。

この場合の愛の負債とは何を指して言われているのでしょうか?もちろんそれは他の人から受ける愛のことです。他の人から愛を借りて、その愛を返していく。そうやって互いに愛し合って生きていくわけです。しかし、その根底にあるのは神様の愛です。神様が私たちを愛してくださったので、その愛の負債を今度は隣人に対して負っていくのです。そのように互いに愛し合うことが、律法を完全に守ることになるのです。

神様は、その大きな愛をもって罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。神を神ともせず、自分勝手に生きていた私たちは、もう滅ぼされても致し方ないような者だったのにもかかわらず、あわれみ豊かな神様は、そのように死んでいた私たちを生かしてくださいました。そのひとり子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、私たちの身代わりに罪として、十字架にかかって死んでくださいました。十字架の上で私たちの罪の負債をすべて完済してくださったのです。そして、大胆に神様の前に進み出ることができるようになったのです。これがキリストの福音です。ですから、今度は私たちが神様に対して支払わなければならない負債を、隣人に対して支払うようになったのです。これが愛の負債です。そうした愛の負債はあってもいいのです。いや、もっとより積極的に言うならば、こうした愛の負債はもっとたくさん負って生きなさい、そうやって互いに愛し合いなさいというのです。

この世には二つのタイプの人が存在します。隣人を愛し、愛されながら生きる人と、愛を受けもしないし与えもしないで、自分一人で生きていこうとする人です。「僕は誰をも愛さないし、誰からも愛されなくてもいい。僕は一人で生きていく」という人がいますが、これは実はとても高慢なことなのです。

ヨハネの福音書13章を見ると、イエス様がペテロの足を洗うという場面が出てきますが、そのときペテロは「決して私の足を洗わないでください」と言いました。するとイエス様はこう言われたのです。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」どういうことでしょうか。「わたしの愛を受けないと、あなたは私と何の関係もないことになる」ということです。

皆さん、クリスチャンとは、イエス様から愛された人です。愛を受けた人のことです。なぜイエス様を信じるようになったのでしょうか?イエス様がどれほど自分を愛してくださったかがわかったからでしょう。こんなちりや灰にすぎないような汚れた者を、イエス様が愛してくださいました。十字架にかかって死んでくださった。それほど愛されているのです。その愛がわかったので信じたのです。イエス様の愛をたっぷり受けているからこそ、イエス様を愛するようになったのであり、この世に出ていってイエス・キリストの愛を伝える者に変えられたのです。

ローマ人への手紙1章14節のところでパウロは自分のことを、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」と言っています。パウロは、生涯負債を負った者として自分を認識していたのです。その負債とは何でしょうか?それは愛の負債です。神からいただいたイエス・キリストの愛の負債、恵みの負債です。パウロはイエス様の愛をたくさんいただいて、その恵みを驚くほど経験しました。彼は、「キリストの愛が私を取り囲んでいるのです。」(Ⅱコリント5:14)と言いました。彼がキリストの福音を伝えるためにどんなに激しい迫害にあっても挫折しなかったのは、キリストの愛が取り囲んでいたからです。「キリストから受けた愛がこんなに大きいのに、この程度で倒れるわけにはいかない」と堅く決心していたからなのです。使徒パウロを支えていた感情とは、この愛の負債から出ていたものだったのです。

本当に謙遜な人とは、兄弟姉妹や、教会の人たちから、そして特に神様から数え切れないほどの愛と恵みを受ける人です。そして、愛の負債を負いながら生きていると自覚している人なのです。互いに愛し合うことを通して、その愛の負債を返済していきたいと願っている人です。なぜなら、他の人を愛する人こそ、律法を完全に守っているからです。

Ⅱ.愛は律法を要約する(9)

第二に、愛は律法を要約します。9節をご覧ください。ここには、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。」とあります。ユダヤ人たちは、十戒の教えを拡大し、解説して、さまざまな戒めを生み出していきました。何と613にものぼったと言われています。しかし、そのようにたくさんある戒めも、結局のところ、一つの戒めに要約できるというのです。それは、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めです。

マタイの福音書22章を見ると、あるときひとりの律法の専門家がイエス様のところにやって来て、「先生。律法の中でたいせつな戒めはどれですか。」と尋ねたとき、イエス様が次のように答えられたことがしるされてあります。 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(同22:37~40)  律法全体と預言書とは、聖書全体を表しています。聖書全体でたいせつな戒めは、神を愛せよという戒めと、隣人を愛せよというこの二つの戒めだというのです。いや律法全体がこの二つの戒めにかかっているというのです。ローマ人への手紙の中でパウロが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに要約されると言ったのは、十戒の後半部分の人間相互の関係の部分を引用していたからです。神を愛することと、隣人を愛することが律法全体の要約であり、中心なのであって、このみことばに生きるとき、ほんとうにうるわしい人間関係を築いていくことができるのです。

四世紀の偉大な神学者アウグスティヌスは、「神様だけを愛してください。そして後は、あなたの好きなようにしてください」と言いました。彼は、もし人が神様だけを愛しているのなら、あとは自分の思いのままにしていても全然問題にならないと確信していたのです。神様を愛するなら、神様のみことばに従うようになります。神様との交わりから離れることができないからです。すべての問題解決の鍵、すべての問題の核心はこの愛なのです。

イエス様が復活された後、イエス様はペテロに何を確認されたでしょうか?この愛です。イエス様はペテロに、「あなたはわたしを愛するか」と三度も繰り返して尋ねられました。(ヨハネ21:15,16,17)ペテロは、イエス様が三度も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたことに心を痛め、主よ。あなたいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」と言うと、イエス様は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。イエス様はなぜ三度も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたのでしょうか?それは、この愛さえあれば、あとは何の問題もないからです。ペテロはかつて三度、イエス様を知らないと否定しました。この愛がなかったからです。彼は、ほんとうに主イエスを愛していたのかというとそうではなく、自分を愛していたのです。自分中心の信仰でした。ですから、イエスを三度も否定したのです。自分の身を守ろうとして・・・。主はそれに対応するかのように、「ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか。」と三度、確認されたのです。それがあればもう十分です。

皆さんはいかがですか?皆さんはイエス様を愛していますか?それともペテロのように、自分に都合がいいような信仰になってはいないでしょうか。あのときのペテロのように、「主よ。わたしがあなたを愛することは、あなたが十分ご承知のことです」と告白できるなら、それで十分です。なぜなら、イエス様を愛するなら、イエス様のみことばに従うようになるからです。問題はイエス様を愛しているかどうか、この一点にかかっているのです。イエス様を愛するなら、隣人を愛するようになるのです。なぜなら、イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と命じられたからです。(ヨハネ13:35)神を愛すること、隣人を愛することが、律法全体の要約であって、中心なのです。私たちが隣人を愛するなら、それは律法を完全に行っていることになるのです。

Ⅲ.愛は律法を全うする(10)

第三のことは、それゆえに、愛は律法を全うするのです。10節をご覧ください。「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」この「全うする」と訳されたことばは、「プレローマ」というギリシャ語です。これは「充満する」という意味です。つまり、私たちが隣人を愛するなら、神様のみこころに生きることができるので、そこに神様の祝福が満ち溢れるようになるというのです。

皆さん、私たちの社会には、この強盗に襲われて傷つき、苦しみ、倒れている方がたくさんいらっしゃいます。このような社会の中で、私たちに与えられている使命は、行って、同じようにすることなのです。

宮城県にある同じ保守バプテスト同盟栗原聖書バプテスト教会の岸浪市夫先生 は、先の震災で苦しんでおられる方々の支援のため「アメージング・グレイス・ネットワーク・ミッション」という災害ボランティア団体を立ち上げ、物資支援、炊き出し、コンサート、個人宅へ慰問訪問などの支援活動を始めました。なかなか支援が届かない雄鹿半島の泊(とまり)地区へ月2回のペースで訪問しています。そこで、被災者の方々と一緒に「必要なもの・欲しいもの」を「祈る」こと をしていますが、祈るとき、漁師さんに船が与えられ、バイク、冷蔵庫、洗濯機 チェーンソーなど、祈ったものが次々と与えられているのを見て、地元の方々は 驚きに包まれています。今では必要なものがあるとき、そっと先生の横に来て、「先生、これこれが欲しいから祈って。」とお願いしてこられる方がたくさんおられるようになったそうです。  そのような中でこれまでずっと関わって来られた漁師の方が、このように言われました。「俺は本当に皆さんから力を貰ったよ、有りがたかった。教会の人と出会って本当に俺の人生変わった。あの頃は、俺は何にも力が出なくて、 下しか見られなかったもんな…。そして、何か必要な物は無いですかって言わ れても、遠慮して何んにも言えなかった…。それでも、俺も甘えて見ようかなと思ったんだよな…。あんた達の神様は凄い神様だな…。」「俺は、今回、災害にあって本当に良かった。沢山の人々と出会って、力を貰って、こんなに嬉しい事はないね。…。俺は本当に嬉しいよ。」  震災で家も仕事も失い、命からがら逃げた方から、「震災にあって良かった」という信じられないようなことばを聞くようになったのはどうしてなのでしょうか?そこに愛を見たからではないでしょうか。愛にはそれほどの力があるのです。

先日、「しあわせの隠れ場所」という映画を観ました。これは、「ブラインド・サイド~アメフトがもたらした奇蹟~」という実話を元に映画化したものです。  テネシー州メンフィスのスラム街に生まれ、家庭に恵まれず、十分な教育も受けられずに、ホームレスのような生活をしていた黒人少年マイケル・オアーが、裕福な白人女性リー・アンの一家に家族として迎え入れられ、アメフット選手としての才能を開花させ、やがてNFLのドラフト指名を受けてプロとしてプレーするまでになったという話です。  舞台はニューヨークや LA ではなく、人種に関してとても保守的な南部です。並大抵では出来ないことを、この主人公のリー・アンはやったのです。彼女は当初この大きな黒人少年を「ビッグ・マイク」と読んでいたのですが、彼が「ビッグ・マイク」と呼ぶのは止めてというと、彼女は「わかったわ。これからはマイクと呼ぶわ。あなたは私の息子よ」と言い切るのです。  いったい彼女はなぜそんなことができたのでしょうか。彼女はクリスチャンでした。そして、神様が自分をどれだけ愛してくださったのかを知りました。そして、彼女もまた、この愛に生きるように変えられたからです。

「あなたも行って、同じようにしなさい」私たちもイエス様から愛された者として、その愛を隣人に対して実践していく者でありたいと思います。そこに神様の祝福と力が溢れるのです。

ローマ人への手紙13章1~7節 「権威に従う」

きょうは「権威に従う」というタイトルでお話したいと思います。クリスチャンはイエス・キリストを信じたことで、天に国籍を持つ者、天国の市民とさせていただきました。しかし、一方では日本の国民であるように、この地上にあってはそれぞれ置かれた国民として生きている者として、その責任を果たしていかなければなりません。この両者の関係の中で、クリスチャンはいったいどのように生きていったらいいのでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。

まず第一のことは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって建てられたものだからです。第二のことは、自分の良心のためにも従うべきです。神によって立てられた権威に従うということは神に従うことですから、そうすることによって、良心に自由と平安を受けることができるのです。第三のことは、クリスチャンがこの世において義務を果たすことは大切なことなのです。

Ⅰ.上に立つ権威に従いなさい(1-2)

まず第一に、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということについて見てたいたいと思います。1~2節をご覧ください。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

ここでパウロは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであると言っています。なぜなら、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。 どういう意味でしょうか?これは、私たちがこの地上において生きるとき、それがどのような手段によって成り立ったものであったにせよ、その権威に従わなければならないということです。なぜなら、そうした権威でさえ、神の御許しによって立てられているからです。したがって、その権威に逆らうことがあるとしたら、それはそうした人たちに対して逆らっているのではなく、神に対して逆らっているということになるのです。であれば、そのさばきを自分自身の身に招くことになるのは当然のことでしょう。もちろん、どんな政府であれ、どんな組織であれ、この地上にあるかぎり、絶対であるとか、間違いがないなどということはありません。必ずどこかに欠陥があるものです。しかし、その欠陥の程度がどうであれ、それは神のによって存在しているのであって、神の許しなしにはあり得なかったものなのです。ですから、この地上の権威に従うということは神様に従うことなのです。ですから、この地上の権威に従うなら平和が与えられ、そうでなかったら混乱や争いが生じるのです。なぜなら、私たちの神様は、混乱の神ではなく秩序の神だからです。

昔、コラの一族がモーセに逆らったときどうなったでしょうか?彼らはモーセとアロンに逆らって、「あなたがたは分を越えている。自分たちはみんな聖なるものであって、あんたたちだけが特別ではない。なのに、なぜあんたたちが自分たちの上に立って指導するのか」とたてつきました。(民数記16:3)すると神様は激しく怒られ、彼らが立っていた地面が割れ、彼らとその家族、また彼らに属するすべてのものをのみこんでしまいました。指導者モーセに逆らった罪のゆえです。神様はお立てになった権威に逆らう者に、同じような裁きを下されるのです。    ダビデは、神が立てた権威にいつも従いました。どんな悪い王でも神の油を注がれた器である以上、それは神様が立てた権威だと認めていたからです。ですから、主君サウロを殺す機会があっても彼は決してサウルに手をかけるようなことをしませんでした。神様のさばきゆだね、神が裁いてくださるまでじっと待ったのです。ですから彼は神に祝福されたのです。    最近、ある著名な社会学者が「現代人が経験する混乱は、父親不在の社会になったために生まれたものである」と言いました。「父親不在の社会」とはどのような社会なのでしょうか?昔は家庭で父親が一言言えば、家の中の秩序が整いました。父親の言葉には威厳があったのです。父親が、「こら」と叱れば、「悪いことをしてはいけない」という思いが植え付けられました。けれども今はこの権威が失墜してしまいました。なぜ?妻が夫を軽んじているからです。父親が「こら」と言うと、脇で妻が「あんた何よ。いいじゃない」なんと言うので、こどもたちも本気で父親の言うことを聞かなくなってしまったのです。社会学者たちは、こうした混乱の根は、19世紀に自由主義が広がったためだと言っています。自由主義とは、既存の宗教的、社会的権威を一切排除して、理性と文化が人間を進歩させるという考えです。しかし、果たしてそうした人間の理性が社会を進歩させたでしょうか。権威崩壊の結果は、社会の進歩どころか社会の崩壊だったのです。

聖書はクリスチャンに、神が与えられたすべての権威に従うようにと言っています。この権威を回復しなければなりません。例えば家庭における一夫一婦制も親子の関係も、神の創造の時から設立された神の秩序です。神さまは人類をアダムとエバに創造されました。即ち、一人の男性と一人の女性を創造してくださったのです。そして、その二人は一心同体の夫婦となり、その夫婦によって子どもたちを与えてくださいました。親子の関係は最初からそのように神が定めたものなのです。家庭に権威を与えたのは神さまですから、子どもたちが自分の父と母に従うとき、それは神に従うことになるのです。また、子どもたちが親に逆らうとき、それは神に対して逆らうことになります。それは神が定めた秩序なので、子どもは親に従わなければならないのです。

もちろんそのために父と母は、子どもたちに対して不公平な裁きをしたり、虐待したり、悪いことをするなら、神の代表としての立場を汚し、子どもに対して罪を犯すことになります。そして、子どもはそのような親を見るとき、神に対して誤解を持ったり、疑ったり、神に逆らう者になったりします。父と母が正しくその権威を用いないなら、子どもを神に逆らう者となるように導くことになるでしょう。親が悪い支配をするとき、子どもたちを悪に導くことになるのです。エペソ人への手紙6章4節でパウロは、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」と命じています。その意味は、「悪い支配をするなら、支配の権威に立つ者は支配される者に悪い影響を与えることになる」ということです。

これは教会においても同じことです。教会の牧師、長老、役員といった組織は神が与えたものなので、教会員は自分の教会の牧師や長老たちに対して尊敬をもって従わなければなりません。教会の牧師や役員も失敗することがあるでしょう。どうしたらいいのかわからなくて悩むこともあります。あるいは間違った判断をしてしまうこともあるのです。しかし、それでも従うのは、それが神によって与えられた権威であり、神が定められた秩序だからなのです。

それは、私たちが国家に従うのも同じです。私たちが政府に従うのは政府が間違いのない正しい組織だからではありません。それは神が任命してくださった神の権威だからです。神が政府という組織をお造りになり、政府で働く人たちを備えてくれました。政治家たちや官僚たちは、みな神に仕えるしもべなのです。そういう認識をもっていつも仕えてもらえたら一番いいのですが、政府においてはそういう人は皆無に等しいのでなかなか期待することはできません。それでも私たちが従わなければならないのは、政府もまた神によって与えられた神の秩序だからなのです。パウロは、こうした人たちのために祈るようにと勧めているのはそのためです。

「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(Iテモテ2:1,2)

それはこの社会のすべての関係においても言えることです。大学生たちはよく自分の担当教授の悪口を言ったりしますが、クリスチャンの学生はそうした真似をしないで、逆に、先生を心から尊敬し、その権威を重んじなければなりません。社会人であれば、上司の悪口を言ったり、安易に逆らったりするのではなく、かえって上司のために祈り、よく聞き従わなければなりません。それが神のみこころであり、神が立てた秩序なのです。それは私たちが敬虔に、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため、つまり、私たちの祝福のためでもあるのです。

Ⅱ.良心のためにも従いなさい(3-5)

次に3~5節をご覧ください。なぜ上に立つ権威に従わなければならないのでしょうか。ここにもう一つの理由がしるされてあります。それは、良心のためでもあるということです。

「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

「支配者を恐ろしいと思うときは良いことをするときではなく、悪を行うときです。」良いことをして怒られるというようなことはめったにありません。もっとも、いくつかの例外はあったとしても、一般的には良いことをする人はほめられるのです。なでしこジャパンはワールドカップで金メダルを獲ったということで総理大臣賞までいただきました。あのあきらめないプレーが、国民に勇気と力を与えてくれたというのがその理由です。良いことをすればクリスチャンであってもなくてもほめられるのです。逆に、悪いことをしたら怒りをもって報います。 なぜでしょうか?それは、彼らがあなたに益を与えるための、神のしもべだからです。彼らは神のしもべであって、悪を行う人には悪をもって報いるのです。ここには「神のしもべ」ということばが二回出てきます。つまり、パウロは上に立つ権威というのはすべて神から与えられたものであって、その権威に従うということは、神ご自身に従うことであり、神を恐れることであると受け止めていたのです。その権威に従わないということは神に従わないということであり、クリスチャンとしてふさわしいことではありません。これは神が与えた状態なので、神に信頼して、神を恐れて、神に対する感謝をもって、神が立てた権威者に従うということこそ、クリスチャンにとってふさわしい態度です。そうでなかったら、良心に責めを感じるようになるでしょう。罪責感を抱くようになってしまいます。私たちはいつも、神様の前に、責められることのない良心をもって歩むべきです。そのためにも私たちは、神様が立ててくださった権威に従わなければならないのです。

それにしてもこのパウロの信仰は大したものです。彼は、政府やその他の支配者もすべて神の御手の中にあると信じていました。摂理の神への信仰をもっていたのです。もちろんそれは、冒涜的な権威に対して無批判的に従ったということではありません。時としてはダニエル書に出てくる三人の少年シャデラク・メシャク・アベデネゴのようにいのちをかけて王の命令を拒絶しなければならないという局面もあったでしょう。しかし、そうした中にあっても、すべてのことが神の御手の中にあって、立てられた権威はすべて神によるものだと受け止めて従おうとした点は立派です。私たちクリスチャンは往々にしてこの社会を悪とみなし、社会の権威に対して敵対していこうという心が働きがちですが、このような摂理の信仰のゆえに、立てられた権威に従っていこうという姿勢は重要です。コロサイ人への手紙の中には、

「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:22,23)

とあります。何事につけ、主に対してするように正しい心で忠誠を尽くす人がクリスチャンです。人が見ていれば熱心にやっているふりはするけれど、人が見ていなければ手を抜くぞというのは、要領のいい人であるかもしれませんが、神ののしもべとしてふさわしい姿ではありません。神のしもべは、だれが見てても見ていなくても、主に従うように、地上の主人に心から仕えることなのです。

現代建設(ヒュンダイ)会長を歴任した韓国のイ・ヨンバク大統領は、「現代の韓国を創った50人」に選ばれるなど、韓国におけるサラリーマン神話の代表的人物とされています。七人兄弟の五番目として生まれた彼は、極貧の少年時代を過ごすも、何とか高校、大学を卒業して当時90人しかいなかった現代建設に入社すると、29歳で取締役、36歳で社長、47歳で会長と出世街道を進みました。彼がそこまで昇進したのには理由がありました。それは、何事も主に対してするように真心から会社に仕えたということです。  彼のインタビューの中で、彼は次のように言っています。「私は上司のためにがんばろうと考えたことは一度もなく、この会社は私のものだ、私の仕事だ、私が成長するために忠誠を尽くそうという気持ちで命がけで走り回った」と言っています。誰かが見ているからではなく誰も見ていなくても、これは私の成すべきこととわきまえて一生懸命に仕えたので、結局、彼自身が成長し、多くの人々から尊敬され、認められる人になったのです。  人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみ、何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしたことが、その祝福へとつながっていったのです。それは、自分の置かれた状況の背後に神様がおられ、神様が導いておられるという摂理の信仰が働いていたからです。その信仰のゆえに、上に立つ権威に従うということは、私たちの良心のためにも必要なことなのです。

Ⅲ.義務を果たしなさい(6-7)

第三のことは、だれにでも義務をはたさなければならないということです。7,8節をご覧ください。ここには、

「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」

とあります。ここには「みつぎ」と「税」ということばが出てきますが、当時の世界では、それぞれ違った税を表していましたが、今日ではその両者を含めて税金全般のことだと言っていいでしょう。すなわち、ここでは納税の義務について教えられているのです。納税について聖書は何と教えているのでしょうか?みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納めなさいと命じています。

当時のユダヤ人は、このように異教徒に対して税や貢を納めるということは、神以外のものに仕えることになるのではないかということで毛嫌いしていました。ですから、税を取り立てる人、取税人は、罪人の代表であるかのように思われていたのです。しかし、それがローマ帝国であっても、異教徒であったとしても、それは納めなければならないものなのでするなぜ?義務だからです。「義務」というのは負債のことです。8節には、愛以外には何の借りがあってはならないと教えられていますが、すべての義務というのは、借金を返すように果たしていかなければならないのです。貢や税を納めることはその義務なのです。それは恐れなければならない者を恐れ、敬うべき者を敬うことなのです。それは形に表された権威者への服従なのです。

このことについてイエス様は何と言われたでしょうか?マタイの福音書17章24~27節を開いてみましょう。 「また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」 彼は、「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

このところでイエス様は、この世の王たちは自分の子どもたちからではなく、ほかの人たちから税を取り立てるので、子どもたちにはその義務はないけれども、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚の口から1枚のスタテル効果を取って、税金として納めるようにと言われたのです。

それは私たちクリスチャンにも言えることです。確かに私たちはイエス様を信じたことで神の国に属するものになりましたが、それはこの世の義務や責任をないがしろにしてもいいということではありません。だれにでも義務を果たさなければならないのです。正直に生きなければなりません。それがこの世におけるクリスチャンの姿です。それこそ神に服従している証であり、神が私たちに望んでおられる生き方なのです。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられた神の秩序だからです。天の御国を仰ぎ見ながら、この地上に生きる者として与えられた責任を十分に果たしていく者でありたいと思います。それは私たちが平安で静かな一生を過ごすため、私たちの祝福のためでもあるのです。

ローマ人への手紙12章14~21節 「十字架による勝利

きょうは、「十字架による勝利」というタイトルでお話したいと思います。今お読みした箇所には、自分に敵対する人に対してどのような態度を取ったらいいのかについて語られています。先週の所で私たちは、クリスチャンの基本的なあり方とは愛であるということを学びました。私たちは教会の兄弟姉妹に対して、兄弟愛をもって互いに愛し合わなければなりません。しかし、いざそれを実践しようと思うと、それは易しいことではありません。なぜなら、私たちの隣人には善良な人ばかりでなく悪意を抱いている人もいるからです。自分を愛し、自分に優しくしてくれる人を愛することはできても、自分に敵対し、悪意を抱いている人、悪口を言う人、陰口をたたく人、中傷する人、意地悪をするような人を愛することは、なかなかできることではありません。そのような人たちに対して、いったいクリスチャンはどのような態度を取ったらいいのでしょうか。14節と21節をご覧ください。

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

これがクリスチャンの取るべき態度です。クリスチャンは自分に敵対し、迫害する人を祝福すべきであって、のろってはいけないのです。悪に対して悪をもって報いるのではなく、善をもって悪に打ち勝たなければなりません。言い換えるならば、クリスチャンは悪に対してキリストの十字架の愛をもって勝利しなければならないのです。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。    まず第一のことは、クリスチャンは自分の敵を愛し、迫害する者を祝福しなければなりません。第二のことは、とはいうものの、こちらがどんなに努力しても、相手の態度が一向に変わらない場合があります。そのようなときにはどうしたらいいのでしょうか。そのような時には、自分に関する限り、すべての人と平和を保つことを求めなさいということです。第三のことは、それでも相手が悪意をもって向かってくる時、私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか。神の怒りに任せなさいということです。

Ⅰ.迫害する者を祝福しなさい(14~17)

まず14~17節までをご覧ください。ここには、クリスチャンの基本的な生き方がしるされてあります。それは、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」また、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」ということです。しかし、これは私たちの自然な姿に逆行するものです。というのは、私たちが迫害や悪を受けるようなときには、もっと大きな悪で復讐しようとする気持ちが働くからです。たとえば他人に頬を一発殴られようものなら、一発どころか二発も三発もやり返したくなります。いや二発や三発では怒りがおさまらず、殺してやりたいとまで思ってしまうこともあるでしょう。

旧約聖書を見ると、「目には目を、歯には歯を」(出21:24)という言葉が出てきます。目を潰されたらその相手の目をえぐり取るように、歯を折られたらその相手の歯を折るように、命を奪われたらその相手の命を取るようにという復讐法です。どうして神様はそのような律法を定められたのでしょうか。そこには愛のひとかけらも感じられません。しかし、これは決して残忍な戒めなのではないのです。最高のあわれみの戒めです。というのは、もし誰かが誰かの歯を折ったとしたら、折られた被害者は折ってしまった加害者の歯を折るだけでは気が収まらず、あばら骨まで打ち砕きたいとまで思うからです。自分の目が潰されたら、その潰した相手の目をくりぬくくらいでは収まらず、首まで切ってしまいたいと思うでしょう。これが人間なんです。そんな人間の復讐心を知っておられた神様は、悪に対してそれ以上の悪で返すことがないようにと、自分が受けた分だけ仕返しなさいとお定めになられたのです。ですからこの戒めは、旧約時代に現れた神様の愛の表現だったのです。

私たちはいつでも誰かに恨みを抱きながら生きています。自分に被害を与えた人が倒れてしまうようにのろい、願う、これが人間の本性なのです。しかしここには「あなたを迫害する者を祝福しなさい」と教えられています。「悪に対して悪をもって報いることをせず」というのです。イエス様は、「目には目で、歯には歯で」と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」(マタイ5:38~40)と言われました。そんなの無理です。自分に悪意をもって襲いかかってくる人を、自分に害を加えようとする人をどうやって赦すことなどできるでしょう。まして祝福するなどできることではありません。しかし、クリスチャンはそうすべきなのです。イエス・キリストの尊い血潮によってすべての罪を赦していただき、神の子どもとされた者は、自分の敵を愛し、迫害する者を祝福すべきなのです。それがクリスチャンの勝利の道なのです。マタイの福音書5章43~48節のところで、イエス様は次のように言われました。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

自分を愛してくれる人を愛することはだれにでもできます。しかし、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ってこそ、天におられる父の子どもになれるのです。敵を赦す程度ではなく、迫害する者のために祈れ、祝福せよというのです。これが主のみこころであり、神様が私たちに願っておられることなのです。

皆さんは、淵田美津雄(ふちだ・みつお)という人のことを聞かれたことがあるでしようか。この人は元真珠湾攻撃隊長で、戦後クリスチャンになった人です。戦後クリスチャンになられましたが、自分がどのようにして救われたのかを「真珠湾からゴルゴダへ」(ともしび社、1954年)という本の中で証ししています。 そのころ彼は戦犯裁判の証人として、横浜の占領軍軍事法廷に喚問されていました。被告はC級戦犯の人たちで、連合軍の捕虜を虐殺した罪に問われていたのです。戦犯裁判は、国際正義の名において人道に反した者を裁くのだと言っていましたが、それは勝者が敗者に対して行う、法に名を借りた復讐であると見て、反感と憎悪で胸を燃やしていました。  するとそこへアメリカに捕らわれていた日本軍捕虜が送還されて、浦賀に帰って来ました。浦賀に出向いて、帰りついた日本軍捕虜からアメリカ側の取り扱いぶりを聞きただしましたが、そこであるキャンプにいた捕虜たちから次のような美しい話を聞き、心を打たれるのです。  この人々が捕らわれていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカのお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれるのです。まず病人への看護から始まりました。やがて二週間たち、三週間と経過しても、このお嬢さんのサービスには一点の邪意も認められなかったのです。やがて全員はしだいに心を打たれて、「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。お嬢さんは、初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので、やがて返事をなさいました。その返事はなんと意外でした。「私の両親が日本軍隊によって殺されましたから」というのです。両親が日本軍隊によって殺されたから日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは、話は逆です。「詳しく聞かせてくれ」と彼は膝(ひざ)を乗り出しました。  話はこうでした。このお嬢さんの両親は宣教師で、フィリピンにいました。日本がフィリピンを占領したので、難を避けて山中に隠れていました。やがて三年、アメリカ軍の逆上陸となって、日本軍は山中に追い込まれて来ました。そしてある日、その隠れ家が発見されて、日本軍は、この両親をスパイだと言って斬(き)るというのです。「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというのなら仕方がない。せめて死ぬ支度をしたいから三十分の猶予(ゆうよ)をください」 そして与えられた三十分に、聖書を読み、神に祈って斬(ざん)につきました。 やがて、事の次第はアメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。お嬢さんは悲しみと憤(いきどお)りのため、眼は涙でいっぱいであったに違いありません。父や母がなぜ斬られなければならなかったのか。無法にして呪わしい日本軍隊、憎しみと怒りに胸は張り裂ける思いであったでしょう。だが静かな夜がお嬢さんを訪れたとき、両親が殺される前の三十分、その祈りは何であったかをお嬢さんは思いました。するとお嬢さんの気持ちは憎悪から人類愛へ転向したというのです。  彼はその美しい話を聞きましたが、まだよく分かっていなかったのです。しかし、やがて聖書を買ってチラチラと見ていたとき、ルカの福音書二十三章三十四節、「父よ、彼らを赦(ゆる)したまえ、その為(な)す所を知らざればなり」のところで、ハッと、あのアメリカのお嬢さんの話が頭にひらめいたのでした。 これは十字架上からキリストが、自分に槍(やり)をつけようとする兵士たちのために、天の父なる神さまにささげたとりなしの祈りです。敵を赦しうる博愛、今こそ彼はお嬢さんの話がはっきりと分かりました。斬られる前の、お父さんやお母さんの祈りに思い至ったのです。「神さま、いま日本軍隊の人々が私たちの首をはねようとするのですが、どうか、彼らを赦してあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争など起こるから、このようなこともついてくるのです」彼はその場で目頭がジーンと熱くなるのを覚え、大粒の涙がポロポロと頬(ほお)を伝いました。そしてゴルゴダの十字架を仰ぎ見て、まっすぐにキリストに向き直ったのです。

自分の敵を赦し、迫害する者のために祈ること、それが天の神が私たちクリスチャンに求めておられることです。それはただゴルゴタの十字架の上で祈られたイエス・キリストの愛を知った者だけがなし得ることなのです。

ところで、ここにはそのために必要な二つのことが教えられています。もちろん、敵を赦し、迫害する者のための祈ることは、ただキリストの十字架の愛と赦しがなければ決してできません。その前提に立ちながら、ここにはそのためには二つの心が必要だと教えられています。それは何でしょうか。その一つは15節にあります。それは、

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

ということです。これはどういうことでしょうか?相手の身になって考えるということです。相手の身になって考える心から、そうしたあわれみの心が生まれてくるのです。クリスチャンは喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣くことが必要です。

ところで、泣く者といっしょに泣くことはできても、喜ぶ者といっしょに喜ぶことはなかなかできることではありません。悲しみの中にいる人とともに泣いてあげることはそんなに難しいことではありませんが、隣人がうまくいっているのを見て喜ぶことは、かなり難しいことです。親のいない子どもたちをみたり、身体に障害を抱えていてもそれに負けずに生きている人のドキュメントを観て、涙を流すことはそれほど難しくありませんが、誰か大きな祝福にあずかるのを見て、心から拍手をすることはやさしいことではないのです。

人類最初の殺人事件はなぜ起こったのでしょうか?嫉妬のためです。神様が弟アベルのいけにえは受け入れられたのに、兄のカインのいけにえは受け入れてくださらなかったので、カインは嫉妬心を起こして弟アベルを殺してしまったのです。それはカインばかりではないのです。私たちも同じです、私たちも他の人が祝福されているのを見るといっしょになって喜ぶどころか、嫉妬心を抱きやいのです。ですから、ここには喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしに泣きなさいとあるのです。兄弟姉妹のだれかがいい大学に合格できたら、「どの大学に入るかじゃない。何を勉強するかがたいせつだから」なんて言わないで、「やったね。よくがんばった」と一緒に喜んであげることがたいせつです。兄弟姉妹の家でその家族のだれかがいい仕事に就けたり、結婚に導かれたり、何か祝福されることがあったとしたら、「ほんとうに良かったですね」と心から喜んであげられたら、どんなにすばらしいでしょう。クリスチャンはひがんだり、ねたんだりしないでいっしょに喜び、いっしょに悲しんであげられる。相手の身になって考えられることがたいせつです。そうした心が迫害する者をも祝福するという態度へつながっていくのです。

もう一つのことは16節にあります。ここには、「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い人に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」とあります。威張ってみたい心、砕かれたくないとい心は誰にでもあります。自分をよく見せようと思えば、ついついうそをつくこともあります。ですからここには、「互いに一つ心になりなさい」と勧められているのです。これは英語の訳を見ると「Live in Harmony」となっています。つまり、調和をもって生きなさいということです。どういう人が調和をもって生きられるのでしょうか。謙遜な人、自分こそ知者だなどと思い込んでいない人です。心が高ぶった人は人と調和を持つことができません。自分こそ知者だなどと考えている人はなかなか砕かれることができないのです。自己主張だけをして、相手を尻に敷くような毒のようなことばばかり口にしてしまうので、すぐに調和が乱れてしまうのです。そういう人が行くところでではどこでも平和が全部崩れてしまうのです。逆に自らを低くし、へりくだった心で自分は知者ではないと思うならば、人々から認められ、愛され、平和に暮らすことができるのです。ガラテヤ人への手紙5章22,23節には、

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

とあります。これらは御霊の実なのです。決して私たちの力によって身につけられるものではありません。聖霊が私たちに油を注いでくださるとき、初めて愛することができ、喜ぶことができ、平安を享受することができ、忍耐することができるのです。親切、善意、柔和、自制といった実を保つことができるのです。

私たちの力では迫害する者を祝福したりすることはできません。私たちの力では自らを低くして、自分こそ知者だなどと思わない心を持つことはできないのです。ただ主の前にひざまずき、主が私のために成してくださったことを思いめぐらし、主が私の心を砕いてくださることによって初めて、迫害する者を祝福し、喜ぶ者といっしょに喜び、互いに一つ心になることができるのです。

Ⅱ.すべての人と平和を保ちなさい(18)

第二のことは、すべての人と平和を保ちなさいということです。私たちの側でどんなに悪意を捨てても、私たちのことを悪く思ったり、迫害したり、悪口を言ったりする人はいるものです。そういう人に対して、私たちはどのように対応したらいいのでしょうか。ここには、

「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

とあります。「自分に関する限り」とは、「自分に出来ることにおいては完全に・・」という意味です。私たちがどれほど善意で接しても、私たちを悪く思ったり、私たちを迫害したり、私たちの悪口を言ったりする人はいるものです。しかし、ほかの人がどうであろうとも、私たちは自分に出来ることにおいては、すべての人と平和を保とうとする姿勢が必要なのです。相手があくまでも悪いことをすれば、二人の間には本当の平和はありませんが、せめて自分の側においては全き平和を保ち、平和でない責任は相手にあることが明らかであるようにしなければならないのです。これも実際の生活においては大変なことだと思います。日々の生活の中で平和が保てないとき、「あの人が悪かったのだ」「いや。あいつが悪い」と人のせいにしがちだからです。人はいつでもだれかのせいにしないと自分を保つことができないのです。しかし、そのような時でも、少なくとも、自分の中では平和を保つようにベストを尽くさなければならないのです。

まさにダビデはそうでした。サウルは、ねたみのゆえにダビデを殺そうとしていましたが、ダビデはそのサウルに対して彼を殺す機会があっても、自分から手を下すことは絶対にしませんでした。かえってダビデはサウルを祝福したのです。長年逃げ回らなければならない苦しみに遭いながらも、ペリシテ人の中に紛れ込んではきちがいを装わなければならないようなことがあっても、それでもダビデは、最後までサウルに対して平和を保ったのです。そのような状態は約十二年間も続きました。その中で特に激しかった期間が少なくとも五~六年はありました。生存すら危ぶまれる状態の中で、敵に対して悪をもって報いることをせずに、ダビデは、自分に関する限り平和を保ったのです。そのように私たちも自分に関するかぎり、すべての人と平和を保つことを心がけなければならないのです。

Ⅲ.神の怒りに任せなさい(19-20)

最後に、神の怒りに任せなさいということを見て終わりたいと思います。それでも一向に状態が改善せず、相手が悪意をもって行動する時、いったい私たちはどうしたらいいのでしょうか。19,20節をご覧ください。ここには、

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」

とあります。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなければならないのです。もちろん、私たちクリスチャンが不当な仕打ちを受けたり、間違ったことをされたりするときには、公の機関の訴えることもできます。訴えた方がいい場合もあるかもしれません。しかし、それでも一番たいせつで中心的なことは何かというと、神様にお任せすることです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いる」と主は言われるからです。復讐は私たちのすることではありません。それは神様がなさることなのです。神様は正しくさばかれる方です。その正しい神のさばきにゆだねなければならないのです。

そればかりではありません。20節には、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせ、渇いたのなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」とあります。飢えた敵に食べ物を与え、水を飲ませるというのは、愛の対応です。どうせ言っても無駄だからと無視するのではなく、愛によって対応しなさいというのです。そうすることによって、彼の頭に燃える炭火を積むことになるからです。彼の頭に燃える炭火を積むとはどういうことでしょうか?これは神のさばきを望むということではありません。これは敵に恥ずかしい思いをさせるという意味です。相手の悪い行為にもかかわらず、クリスチャンが親切をもって応対するので、良心にいたたまれないような痛みを覚え、恥ずかしい思いになるということです。何ということでしょう。これが神の勝利の道です。

イエス様がご自分を十字架につけた人たちのことを「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたとき、その横にいた強盗が救われ、神の愛が立証されました。あのステパノが迫害されて、石に打たれながら死んだ時も、「彼らを赦してください」と祈って死んだとき、その祈りを通して、パウロが救いに導かれ、傑出した異邦人の使徒となりました。旧約聖書に出てくるヨセフも、自分をエジプトに売り渡した兄弟たちを赦し、神様はここに導かれたのですと告白したとき、彼は復讐したいという誘惑に打ち勝ち、勝利者としての人生を全うできました。私たちは祝福すべきであって、のろってはいけないのです。このみことばに生きるとき、私たちが神様からの恵みををいただき、祝福に満たされた、勝利ある人生を送ることができるのです。

アメリカのリバイバルリスト、D・L・ムーディーは、行く先々で祝福を祈ったと言われています。幼子に会っては祈り、アル中やマフィアのような人と会っても祈りました。マフィアの人にどのように祈ったんでしょうね。「あなたの人生が祝福されますように」でしょうか、「イエス・キリストを信じて祝福されなさい」でしょうか、とにかく祝福を祈りました。すると驚くことに、祝福された人は祈られたとおりに変わっていったというのです。幼子を祝福すると、その幼子は神様のみことばを語る牧師になりました。アル中やマフィアを祝福すると彼らは福音を証する者になったのです。ヤクザを祝福すると、教会の忠実な働き人になったのです。ですからムーディーは「リバイバルの一番の近道は、みことばのとおりに伝道して、みことばのとおりに語ることだ」と告白しました。みことばのとおりに生きること、それが祝福です。あなたを迫害する者を祝福すること、それがあなたの祝福に返ってくるのです。

この社会の中で、家庭の中で、周りの人たちに対して私たちはどう振る舞うべきなのでしょうか。当然ながら、教会の中も例外ではありません。ここでは、クリスチャンではない人たちと平和を保ちなさいと教えていますが、これはどんな人間関係においても適用される原則です。良い行ないを熱心に行ない、善を行なう機会が与えられたなら、喜んでそれを行なうようにしなさい。そのようにパウロは私たちに教えているのです。誰に対しても、すべての人が良いと思うことを図るようにしなければならないのです。このように私たちを憎む者に対して、あくまでも親切に、善をもって報いるなら、彼らはそれを見て自分の良心が痛むようになるのです。私たちはそのようにして彼らが救いに導かれることを求めるのです。これが十字架の勝利の原則なのです。

私たちは、自分に対して悪をもって向かってくる相手をなかなか赦すことができない弱い者ですが、この十字架の勝利の原則に従って勝利する者でありたいと思います。だれに対してでも、悪に悪をもって報いることをせず、すべての人が良いと思うことをしていきましょう。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝たなければなりません。これがパウロが私たちに教えている勝利の道なのです。

ローマ人への手紙12章9~13節 「本物の愛に生きる」

きょうは「本物の愛に生きる」というタイトルでお話したいと思います。ローマ人への手紙は1~11章までの教理的な部分と、12章から終わりまでの実践的な部分に分けられますが、その実践的な部分においてクリスチャン生活の原則について語ってきたパウロは、ここで教会の兄弟姉妹の基本的な関係のあり方について語ります。それは何でしょうか?愛です。9節をご覧ください。ここには、

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」

とあります。クリスチャンの生き方の基本は愛です。クリスチャンがキリストのからだである教会において一つになるとき、それがほんとうの意味でキリストのからだとなるのです。どんなにすばらしい賜物が与えられていても、もしそこに愛がなければ何の意味もありません。このように、賜物について教えた後で、愛について語られているというケースは、コリント人への第一の手紙13章と同じです。12章で賜物について語ったパウロは、続く13章のところで、次のように言いました。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)

愛こそ、すべての働きや賜物をその根底において支えるものであり、すべてを結ぶ帯なのです。きょうは、この「本物の愛に生きる」ということについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、愛には偽りがあってはいけないということです。クリスチャンは本物の愛で愛さなければなりません。第二のことは、クリスチャンは兄弟愛をもって心から互いに愛し合わなければなりません。第三のことは、そのためには望みを抱いて喜びましょうということです。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みましょう。  I.本物の愛(9)

まず第一に、愛には偽りがあってはならないということについて見ていきたいと思います。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」とあります。

パウロはまず、愛には偽りがないようにと勧めています。この「偽りがあってはなりません」という言葉は、役者が演技をするように愛してはならないという意味です。この世の中には演技の愛が何と多いことでしょうか。いかにもほんとうの愛であるかのように見せかけて、実際にはただ仮面をつけているだけという場合がたくさんあるのです。表面的にはなめらかであるようであっても、心の中ではそうでないケースがほとんどです。しかし、愛には偽りがあってはなりません。つまり、偽りのない本物の愛によって愛さなければならないのです。

では本物の愛とはどのようなものなのでしょうか。ここにはその一つの特質が描かれています。それは、「悪を憎み、善に親しみなさい」ということです。皆さん、本当の愛は、悪を憎み、善に親しみます。不正を喜ばずに真理を喜ぶのです。

ある時、一人のお母さんが、お子さんのことで相談に見えました。中学生になったばかりの娘さんが急に反抗的になったが、その理由がよく分からない、というのです。  今度は、そのお嬢さんを呼んでお話を伺うと、一つのことを話してくれました。小学校を卒業して、春休みがあり、中学生になっていきますが、その春休みの出来事でした。四月になって、お母さんの実家のおばあちゃんに会いに行こうと、二人で電車に乗って行くことになりました。そして切符を買う時にお母さんがこう言ったのです。「あんたはまだ小さいから小学生の料金で乗れるわよ」と。四月一日を過ぎれば自分はもう中学生だからと、「今日から私は、大人の料金」と思っていたのですが、お母さんが「あんたは小さいから子ども料金にして、聞かれたら小学生って言うのよ」と言って、子供料金で乗せられたのです。その時に、えらく彼女は傷ついたのです。「大人ってずるい」と思ったそうです。  その時にこのお母さんは、たった何百円かを節約するために、大切な娘の信頼を失ってしまったのです。本物の愛は、悪を憎み、善に親しむのです。

こうやって見ますと、聖書が教える愛と、この世で言う愛との間には、本当に大きなギャップがあることがわかります。聖書で言う愛はその動機に注目しますが、この世で言う愛は行いと結果に注目するからです。世の中では貧しい人たちにお金を与え、飢えている人たちに食べ物を分け与える人たちを、愛に満ちた道徳的な人だと考えますが、聖書で愛がある人というのはそうした行為や結果だけでなく、動機まで問われるのです。したがって、どんなに美しい行為をしたとしても、その動機が適切でなければ、それは愛とは言えないのです。聖書の観点から見るならば、本当の愛とは神様との関係の中で与えられる愛を動機として現れるものです。なぜなら、愛は神様にあるからです。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Iヨハネ4:9,10)

本当の愛は神様にだけあるのです。神様がそのひとり子をこの世に遣わしてくださり、私たちのためになだめの供え物としての御子を十字架に付けてくださったことの中にあるのです。ですから、この神様の愛に満たされることによってのみ、周りの人たちと喜びと悲しみを分かち合うことができるのです。そうでなかったら、その人が意識していても、していなくても、それはただ自己満足のための、打算的な愛になってしまうのです。そのような打算的な愛の中には、決して真の愛が芽生えることはありません。

Ⅱ.兄弟愛をもって互いに愛し合う(10)

第二のことは、兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさいということです。10節をご覧ください。ここでパウロは、

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

と言っています。「兄弟愛」というギリシャ語は「フィラデルフィア(Philadelphia)」です。これは9節に出てくる「愛」とは違います。9節に出てくる「愛」は「アガペー」という言葉で、私たちに対する神様の愛を表していますが、この10節に出てくる「兄弟愛」は、クリスチャン相互において現れる愛のことです。つまりここでパウロが言わんとしていることは、神様の一方的な恵みと愛を知ったクリスチャンは、その愛を確信して、それを教会の兄弟姉妹の中で兄弟愛として互いに愛し合わなければならないということです。この「互いに愛し合う」という言葉は、家族的な親しい愛を表わす言葉です。世のすべての人にとって家庭は祝福の源ではないでしょうか。なぜなら、そこには麗しい愛の交わりがあるからです。その愛で互いに愛し合わなければならないのです。それは教会が神の家族であり、クリスチャンが互いに兄弟姉妹だからです。

神様の愛を知らない人は、兄弟愛をもって互いに愛し合うことはできません。ローマ人への手紙1章29~32節には、神を神としてあがめず、神様に感謝もせず、自分では知者であると言いながら、愚かな者となっている人間の姿が描かれています。

「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」

これはどれも愛に反する思いや行為です。神から離れ、偶像を神として崇拝している社会では、みな自分勝手です。愛のひとかけらもありません。特に注目していただきたいのは、31節の「情け知らずの者」という言葉です。これは「アストロゴス」という言葉ですが、12章10節に出てくる「互いに愛し合い」という「ストロゴス」という言葉にそれを打ち消す「ア」という言葉が付いたものです。ですからこの「情け知らずの者」というのは、家族の愛を持っていない、家族的な愛と親しみを知らない人のことです。それは愛に反するこの長いリストの中で、一つの要素として取り上げられています。つまり、神様を知らない、罪深い人間の特徴というのは、本当の家族の愛を持つことができないということです。両親を敬わず、従おうともしません。悪意、陰口、争い、欺き、悪巧み、親に逆らい、自分勝手に生きようとする態度や行いが、彼らの家族関係の特徴となっているのです。

最初の人間アダムとエバが罪を犯した時、彼らの間の関係は破壊され、そこにあった麗しい交わりを失われたように、家族のような関係が破壊されてしまったのです。それが罪深い人類における人間関係なのです。しかし、クリスチャンはそうであってはいけません。クリスチャンは神様の愛、キリストの十字架によって罪購われた者として、互いに兄弟姉妹であり、神の家族なのですから、その愛をもって互いに兄弟姉妹として受け入れ、互いに愛し合わなければならないのです。兄弟愛のうちに互いに情け深さを示すべきなのです。

アフリカにイーク族という部族がいるそうです。この部族は互いに話をしません。話をするとしても、それは常に嘘でしかないのです。朝起きると、男たちは遠方に目を向けて座っています。互いに言葉は交わしません。そして誰かが獲物を見つけるといきなり立ち上がって走り出すのです。獲物の方に向かうのではありません。まず反対方向に蛇行しながら走って仲間の目を騙(だま)し、それから獲物に近づいていくのです。他人のために獲物を捕ることもしません。全部自分のためです。ですから獲物を獲って家に戻ると、まず自分が少し食べ、妻にも与えますが、4~5歳以上の子供には与えないので、子供が死ぬことも珍しいことではありません。死人を葬ることをせず、老人が死ぬと蹴飛ばして横の獣道みたいなところに放置して無視するのです。そこまで動物的になってしまう社会が実際に存在しているのです。

何と冷たい社会でしょうか。このような社会に誰が住みたいと思うでしょうか。このような教会に来たいと思う人がいるでしょうか。いないでしょう。教会に行ってみたら、だれも話しかけてもくれない。何しに来たの?というような目で見られるとしたら、ほんとうに寂しく感じます。

愛喜恵が大阪に引っ越していろいろな教会に行ってみましたが、結局、大阪オンヌリ教会に行くことにしました。ここは礼拝堂が3階にあってエレベーターもないのですが、初めて教会に行ったとき、そこで応対してくれたおばさんがとても温かいというか、温かいを越えて熱い方で、大歓迎で迎えてくれたそうです。「よく来ました。あなたは私たちの家族です。何の気兼ねもいりませんよ。」と言うと、「今、集団を連れてきましたから・・」と屈強な男たちが何人か来ると、愛喜恵を背負って3階まで運んでくれました。そうした熱心さは集会にも表れていて、全体的に熱いものを感じたそうです。それは本人だけでなくボランティアで一緒に行ってくれたヘルパーさんも同じでした。これまで別の教会にも一緒に行ったことのあるこのヘルパーさんは、「教会もいろいろあるんですね。」と言うと、「こういう教会なら来てみたい」と言われました。こういう教会なら来てみたいという、こういう教会というのは、家族愛に溢れた教会です。そういう教会にはだれでも行ってみたいと思うものです。

では、そのためにはどんなことが必要なのでしょうか?パウロは、その次のところで次のように言っています。「尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」どういう意味でしょうか?ピリピ人への手紙2章3~8節を開いてみましょう。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」

パウロはここで、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と勧めています。そして、その模範としてイエス様の姿を取り上げているのです。キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。これが、人を自分よりもすぐれた者と思うということです。つまり、人を自分よりもすぐれた者と思うということは、自分と誰かを比較して、「あなたは私よりもすぐれている」と思うということではありません。イエス様はそのように思われたでしょうか。絶対にそんなことはありません。ある人はすべてのことにおいて私たちよりも優れているでしょうし、また別の人はある点においては私たちよりも優れていますが、別の点では私たちの方が優れていることがあります。ですから、ここで「互いに人を自分よりもすぐれていると思いなさい」というのは、誰が優れていて、誰が優れていないのかということを言っているのではなく、「人を自分よりも大切だと思いなさい」ということなのです。イエス様は私たちのことを大切な存在だと認めてくださったがゆえに、私たちのためにこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださったのです。自分の方が大切だと思ったのなら、天から降りて来ることはしなかったでしょう。しかし、イエス様は天にあるご自分の栄光を惜しむことなく、かなぐり捨ててくださいました。私たちのことを御自分のことよりも大事だと思ってくださったからです。ですから、それまで持たれていた父なる神と聖霊なる神との麗しい交わりを捨ててこの世に来てくださり、私たちを罪と死から救うために私たちと同じ人間になってくださったのです。それは実に一方的な愛にほかなりませんでした。相手がすべてにおいて自分よりも優れた人であれば、自分のいのちを捨ててその人を生かすということも考えられないことはありません。もし私たちがアインシュタインのような科学的な頭脳を持っていて、バッハのような優れた音楽の天才で、カルヴアンのような神を恐れる心と神学を持っていて、パウロのような福音の力と情熱を持っていたなら、もしかしたらその人のために犠牲になろうということもあるかもしれません。しかし、イエス様はすべてのことにおいて私たちよりも遙かに遙かに無限に優れておられる方です。イエス様と比較しようものなら、私たちは優れていないどころか、全く汚れた者でしかないのです。私たちは、本当に罪深い、自己中心的な愚かものなのです。にもかかわらずイエス様は、そんな私たちを愛し、私たちを大切にしてくださり、私たちのために御自分を捨ててくださったのです。それが十字架であり、十字架の愛なのです。聖書では、その愛を「アガペー」という言葉を使って何度も何度も説明しているのです。「他の人のことを自分よりも大切だと思いなさい」というのは十字架の愛のことであって、イエス様が私たちに対して表してくださった愛なのです。この愛があって初めて、私たちにも愛が生まれ、兄弟愛をもって互いに愛し合うということが可能になるのです。教会では、その愛が基準でなければならないのです。

Ⅲ.望みを抱いて喜び(12)

ですから第三のことは、望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みましょうということです。この見える世界の現実を見たら、互いに愛し合うということなどできません。そこに見える様々な現象に振り回されては、怒ったり、すねたり、ひがんだりすることでしょう。なぜなら、この世は戦場だからです。戦場というのは戦いの場なのです。どこに行っても戦いがあります。いろいろな問題にぶつかるのです。しかし、そんな戦場にいても目を天に向けるなら、やがてもたらされる永遠の御国と永遠の祝福にあずかることができるという希望のゆえに、たましいの自由と喜びを体験することができるのです。

パウロは8章18節のところで、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言いました。救い主イエス・キリストを信じる者に約束されている将来は勝利であり、栄光です。この栄光が約束されているのです。この栄光が約束されているがゆえに、私たちは大いに喜び、患難をも乗り越えることができるのです。私たちが喜べるのは今の状況が楽しいからではないのです。たとえ今はそうでなくても、やがてそのような栄光と祝福にあずかることができるという希望があるから喜ぶことができるのです。この望みのゆえに、私たちは苦手のような人であっても兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思うことができるのです。

先日、放映されたアンビリーバーは終戦記念スペシャルでしたが、ある中国人家族の奇跡のような愛のお話でした。それは、1946年、終戦から1年後のことでした。中国・河南省、最大の都市、南陽から北へ50㎞ほどの農村に住んでいたパンジュンさんは、負傷した日本兵が村人から暴力を受けていたのを目にしたことから始まります。河南省は日本軍との激戦が繰り広げられた地で、この村では身内に犠牲者が出た人も多く、日本人に対する憎しみは激しかったのです。この日本人は言葉もわからず、口もきけない様子でした。パンジュンさんは彼を村人からかばい、家に連れて帰ることにしました。しかし、彼の妻は日本兵を家に置くことには猛反対でした。というのは、その時代中国ではどの家でも食べて行くのがやっとの時代です。年老いた母親に加え、二人の子供を食べさせていくだけでやっとなのに、そのうえもう一人を養っていくだけの余裕がなかったのです。それに上、彼らの長男も日本人との戦いで命を落としていたのです。  それでもパンジュンさんは、「この人だって戦争の犠牲者だ。この人にだって彼を愛してやまない家族がきっといるはずだ」と妻を説得して、近所の人には遠縁の者だと話して、その日本兵が元気になるまで面倒を見ることにしたのです。 ところが、パンジュンさんがいくら土の耕し方を教えてもできず、言葉も一言もしゃべらないのです。どうも学習能力が極端に低いように思えました。その時ポンジュンさんは、彼の左耳の後ろに、小指大の凹んだ傷跡があるのを見つけました。もしかしたら彼は頭を撃たれ、その後遺症で全ての記憶を失ってしまったのではないかと思われました。さらに夜になると突然奇声を発したり、布団を引き裂くなど情緒不安定な行動をとりました。時には夜道をフラフラ彷徨うこともありました。  そんな矢先、恐れていたことがついてに発覚してしまったのです。村人たちに日本人をかばっていることがバレてしまったのです。村からも戦死者がでており、心情的に村人たちが日本兵を受け入れることは困難なことでした。そして、そのストレスがピークにさしかかった時、突然、日本兵が両足の痛みを訴えたのです。大きな病院に連れていくにも一家の蓄えだけではどうすることもできませんでした。それでパンジュンさんはどうしたかというと、村人の家に治療費を貸してくれるように頼んで回ったのです。初めはだれも貸してくれる人がいませんでしたが、パンジュンさんの必死の訴えに心打たれた人たちが貸してくれました。車も馬も持っていなかったパンジュンさんは、何とリヤカーに彼を乗せ50㎞離れた南陽市まで連れて行き、そこで治療を受けさせたのです。しかし、頭の凹みについてはもっと大きな病院に連れて行かないと治療できないということがわかり、仕方なくパンジュンさんは、彼を自宅で看病し続けることを決めました。  終戦から10年が経った1955年、中国政府は残留日本兵の帰還活動を開始すると、パンジュンさんは日本兵の事情を説明するため50㎞離れた政府の機関を尋ねましたが、日本兵は記憶を失っていて、名前も出身地も経歴もわからないため、手助けのしようができませんでした。  そんな時もう一つの事件が起こりました。息子のポジェさんが地元の名門高校を受験して見事合格したのですが、一家がこの日本兵をかばっているという理由で入学を取り消されてしまったのです。猛勉強を続けてきたポジェさんにとっては受け入れられないことで、ポジェさんお父さんにこう詰め寄るのです。「父さんは日さんと僕とどっちが大事なんですか?」すると、パンジュンさんは、妻にしか話していない秘密を語るのです。それは遡ること50年前、自分が捨て子であったという事実でした。彼を産んだ両親は極度の貧しさのため、彼を見捨て、パンジュンさんの家の前に捨てられていたのを、引き取られたのでした。パンジュンさんも日さん同様、命の炎が消えかけていたところを救われていたのです。ポジェさんは自分の過ちを父に詫びました。そして、日さんを心から家族として受け入れたのです。  その数日後に、パンジュンさんが倒れました。病魔が彼を蝕んでいたのです。家族全員が集められる中で、パンジュンさんはポジェさんに二つの遺言を語りました。一つは良い嫁をもらうこと。それからもう一つは これからも日さんの面倒を見ながら、彼の家族を捜し出してほしいということでした。  その遺言のとおり、ポジェさんは1967年に結婚、二人で日さんの面倒を見ていました。しかし、時は文化大革命の時代、厳しい弾圧や取り締まりによって、中国に留まっていた日本人にスパイ容疑がかけられたのです。記憶もなく、話もできない日さんに代わってポジェさんが取り調べを受け、激しい拷問を受けました。  1972年に日中国交が正常化すると、国交が途絶えていた日中関係にピリオドが打たれました。これで両国が自由に交流することができるようになったのです。早速ポジェさんは日さんの身元を調べるために政府機関や日本赤十字社に手紙を書き送りました。その頃日さんは一家の懸命な世話によって不自由なく食事ができるようになっていましたが、足の関節痛は残っていて、毎日のマッサージを欠かせない状態でした。彼が元気なうちに何とか家族に会わせてあげたいと手紙を送り続けると、1991年に、全国紙の朝刊に載った日さんの写真をみた人が、日さんは戦時中、河南省で日本軍の特務機関のメンバーとして行動を共にしていた部下にそっくりだというとで身元が判明、1912年に秋田県増田町で生まれた石田東四郎さんであることがわかりました。そして52年ぶりに日本に帰郷することができたのです。元日本兵と47年間も共に暮らしたポジェさんは、一緒に日本にやって来て三週間滞在して帰国する日、石田さんとの別れを前にあまりにも長く険しい道を振り返りながら、その数々の思い出に、涙が溢れて止まりませんでした。その四年後にポジェさんは50歳の若さでこの世を旅立ちましたが、石田さんは97歳まで生き、2007年にこの世を去ったのです。

それにしても、なかなかできることではありません。普通の状態ならば、ある程度は世話をすることもできるでしょう。しかし、脳に障害を抱え、記憶も全く失ってしまった日本人を47年間も世話し続けることは、人間の限界を超えたことです。なぜにパンジュンさんが、ポジェさんが、そこまで日本兵を愛することができたのでしょうか。それはパンジュンさん自身が、親に捨てられて、もう命の炎が消えかかったものを、救ってもらったという経験から生まれてきたのではないでしょうか。  私たちもかつては罪過と罪の中に死んでいたものです。そんな私たちが神の愛によって、イエス・キリストの十字架による贖いによって救われたのです。私たちの命は私たちのものではなく神様のものなのです。神様のみこころのとおりに生きる者でありたいのです。そのみこころとは何でしょうか。この神の愛に生きることです。

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。愛による人間関係を求めていきましょう。それは私たちの目が移りゆく、失われゆくこの世に奪われるのではなく、天国という永遠の故郷に望みを置くことができるようにしてくださった神の愛に向けられることによって生まれるものなのです。

ローマ人への手紙12章3~8節 「与えられた恵みに従って」

きょうは「与えられた恵みに従って」というタイトルでお話したいと思います。このローマ人への手紙は1~11章までの部分と、12章から終わりまでの部分の二つに分けられます。パウロは1~11章までの部分で、人はいったいどうしたら救われるのかということについて明確に語ってきました。それは、信仰によってということです。人はただイエス・キリストを信じることによってのみ救われるのです。イエス様を信じる以外に救われる道はありません。ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによってのみ救われるのです。これが福音です。では、そのようにして救われた人はどのように生きるべきでしょうか。パウロは続くこの12章から、クリスチャンの具体的な生き方について語るのです。前回は、その大前提となるべき献身について学びました。すなわち、キリストの救いの恵みにあずかった人は、当然のこととして自分を神様にささげるべきだということです。その献身を土台としてパウロは、その上に築き上げられていくべき具体的な生き方について語るのですが、その一つのことがきょうの箇所で教えられていることです。3節をご覧ください。ここには、

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとり言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

とあります。すなわち、クリスチャンは自分に与えられた恵みによって、キリストのからだである教会の中で、思うべき限度を越えて思い上がるのではなく、神がそれぞれに与えてくださった信仰の量り、その賜物に応じて慎み深く歩まなければならないのです。

きょうは、このキリストのからだである教会で仕えることについて三つのことをお話したいと思います。まず第一に、慎み深い考え方をするとはどういうことなのでしょうか。第二に、なぜクリスチャンはそのよううに考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。第三に、では私たちにはどんな恵みが与えられているのでしょうか。その与えられた恵みの賜物について見ていきたいと思います。

Ⅰ.慎み深い考え方をしなさい(3)

まず第一に、慎み深い考え方をするとはどういうことなのかについて見ていきたいと思います。3節をご覧ください。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

パウロはここで、キリストを信じて救われたクリスチャンは、だれでも、思うべき限度を越えて思い上がるべきではなく、むしろ、信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさいと勧めています。いったいこれはどういう意味なのでしょうか?この「考え方をしなさい」という言葉は本来、心を意味する言葉と関係のある語で、人の持っている傾向性を表す言葉です。ですから、「慎み深い考え方をしなさい」というのは、健全な思いを持ちなさいということであって、消極的で、引っ込み思案な態度を持つようにということではありません。これはちょうど「思い上がる」という言葉と対照的な言葉です。どういう態度が思い上がった態度なのかというと、思うべき限度を越えた態度の時です。神様がそれぞれに分け与えてくださった信仰の量りを越えてしまうことが思うべき限度を越えた態度であり、傲慢な態度であり、不健全な姿なのです。クリスチャンとしての健康な姿というのは、ただ謙遜であるというだけでなく、信仰的な考え方を持つことです。これがいわゆる一般の社会で言われている謙遜な態度と少し違っている点でしょう。一般の社会でも謙遜であるようにと教えられていますが、聖書で言う謙遜というのはただ自分を低く考えるだけでなく、それに「信仰」という要素を加えなければならないのです。「信仰の量に応じて」、慎み深く考えなければなりません。

では、「信仰の量りに応じて」とは何でしょうか?「信仰の量り」とは、クリスチャンそれぞれに与えられた信仰の程度のことです。私たちはみな神様から与えられている賜物や程度が違うので、その程度に応じて奉仕しなければなりません。それは多く与えられている者が、少ししか与えられていない者よりも偉いということではありません。多く与えられた者も少しだけ与えられた者も、それが神様から与えられた恵みであると感謝して、キリストのからだである教会を建て上げていくためにその与えられたものを忠実に用いていかなければならないということです。

マタイの福音書25章14~30節のところには、タラントのたとえが書かれてあります。 「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。」  この一タラントを預けられたしもべの問題点はどこにあったのでしょうか。忠実でなかったことです。彼は、預けられた一タラントを土の中に隠しておいて、それを用いようとしませんでした。神様の関心はどれだけのタラントを預けられているかではなく、その預けられたタラントをどのように用いたかです。ですから見てください。五タラントあずけられたしもべも、2タラント預けられたしもべも、その与えられたタラントに対して忠実であったとき、神様は彼らに同じ祝福の言葉を言っています。どれだけ与えられたかではなく、それをどのように用いるのかが問われている。信仰の量りに応じて、慎み深く考えるというのは、こういうことなのです。これが健全なクリスチャンの心、考え方なのです。

羽鳥明先生はこの箇所の注解において、次のように言っています。 「霊的奉仕のための第一の条件は、真実の謙遜である。これは自己卑下ではなく、各自に与えられた力、生涯についての神のみこころというものを、間違いなく評価することにかかわっている。与えられた力を過小評価することは、過大評価することとほとんど全く同じで、奉仕の実質的生涯にとって、致命的である。」 つまり、本当の謙遜とは、与えられた霊的賜物を用いて神と人に仕えることであるというのです。ですから、「慎み深い考え方」をするというのは、決して「自分はだめだ、できない」と考えることではなく、それら与えられた霊的賜物がみな神から与えられたものであることを感謝して用いることなのです。

考えてみますと、私たちは神様の恵み、イエス様の十字架と復活の力をほかにして、なんと小さな、なんと弱い、なんとみじめな者でしょうか。しかしそんな者を神様は愛して、選んで、きよめて、聖なる者としてくださいました。そして、信仰の程度に応じて、賜物を与えてくださったのです。私たちは人を支配し、人から偉く思われたり、人の上にあぐらをかくような思い上がった態度からではなく、与えられた賜物に応じて、信仰の程度にしたがって、互いに仕え合っていかなければならないのです。

パウロはここで、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。」と言っていますが、これはそういう意味です。パウロは、自分がクリスチャンとして今こうして生かされているという現実を思う時、それはただ神の救いの恵み以外の何ものでもないという意識に立ちながら、そのような自分が指導者として、あるいは教師として立てられているのは、ただ神の恵みによって与えられた権威によるものであると自覚していたのです。教会においては、だれひとりとしてほかの人に要求できる資格のある人などいません。みんな赦された罪人にすぎないからです。しかし、そんな者であるにもかかわらず、そうした勧めができるとしたら、それは神様から一方的に与えられた恵みでしかないのです。そのことをわきまえながら、与えられた賜物を用いて互いに仕え合うこと、それが慎み深い態度であり、真に謙遜なクリスチャンの姿なのです。

私たちはこのことを忘れてはなりません。このことを忘れてしまうと、思い上がってしまいます。慎み深い、健全な考え方を持つことができず、傲慢になったり、不信仰になったり、ほかの人をさばいてしまったり、トラブルメーカーになってしまったりするのです。「私たちに与えられている賜物はすべて神からの恵みである」と思うこと、それが慎み深い考え方であり、信仰生活のすべてなのです。

Ⅱ.キリストにあって一つのからだ(4-5)

第二に、なぜクリスチャンはそのように考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。4,5節をご覧ください。

「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」

パウロはここで、教会を「一つのからだ」という言葉で表現しています。教会はキリストのからだなのです。教会がキリストのからだであるというのは、どういう意味でしょうか?それは第一に、キリストと教会は一体であるということです。つまり、教会はキリストのいのちによって成り立っているということです。ですから、キリストなしに教会は生きることはできないのです。

第二のことは、そこには多くの器官がありますが、一つに結びいているということです。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、大ぜいいる私たちもそれと同じなのです。からだのすべてが目だったらどうなるでしょうか?想像しただけでも気持ち悪いですが、見ることはできたとしても、ほかのことは全くできません。体の中には目もあれば耳もあり、口もあれば鼻もあり、手もあれば足もあります。そうした一つ一つの器官が一つとなってはじめてからだとしての健全な営みができるというか、機能していくわけです。それはちょうど目が見るという働きを、目だけのためにしているのではなく、耳や口や鼻や手、足など、からだのほかの部分のためにしているのだということです。それと同じように、私たちクリスチャンも、教会のほかの人々のために仕えるために存在しているのです。

右の手がかゆくなると、右の手ではかけません。そこでどうするかというと、左の手でかくわけです。知らず知らずのうちに動いてちゃんとかいているんですね。不思議です。左の手が、「私はかきません。私は私です」と言ったことがあるでしょうか。手がある時ストライキを起こして、「おれは口さんのためだけに存在している。おいしい食べ物を口に運ぶ時にだけ動くのであって、それ以外は動きたくない」なんて言うでしょうか?言いません。私たちはお互いを必要としているのであって、お互いのために働いているのです。靴のひもを結ぶ時には、身をかがめて結びます。私たちはキリストの体につながった一つのからだとして、ある人は手のようです。ある人は足のようです。ある人は口ばっかりのようです。ある人はあってもなくてもいいような爪のようです。しかし、そんな爪でもないと大変なんです。シールを剥がそうとしても剥がれません。また、爪を剥がそうとしたら痛いですよ。爪がなかったら大変なんです。盲腸はなくてもいいと昔からよく言われていますが、あれもないと困るらしいのです。私は昨年胆石が見つかって胆嚢摘出手術を受けようとしましたが、怖くなって入院した翌日に病院から逃げ出しました。医師は胆嚢はなくてもいいと簡単に言うのですが、なくてもいい臓器などあるのかと不安になり、まだしばらくそのままにしておくことにしたのです。幸いにも、あれから一年が経ちましたが、今のところ何の悪さもしないので大丈夫です。

皆さん、なくてもいい器官などありません。どんなに小さな器官でも必要とされています。それは教会におけるほかの人々のために、与えられた賜物をもって仕えるためです。このことが本当にわかったら、奉仕の喜びも増してくるはずですし、教会は一致して大きく前進していくのです。

Ⅲ.異なった賜物(6-8)

では私たちにはどのような賜物が与えられているのでしょうか。最後に、私たちに与えられている賜物のリストを見ていきたいと思います。6~8節をご覧ください。

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物が与えられています。それはどういうことかと言いますと、人が生来持っている才能とは区別されるものであるということです。もちろん、生来の才能も聖霊によって用いられることもありますが、これはあくまでも恵みによって与えられている賜物であるということです。聖霊によって全く造り変えられた人が、超自然的なわざを行うために与えられる恵みの賜物なのです。神様は私たちひとりひとりに、それぞれ異なった賜物を与えておられるのです。ここにはその中のおもなものとして七つの賜物が挙げられています。

まず第一に「預言」です。「もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。」とあります。預言というのは、読んで字のごとく、神のことばを預かるということです。これは将来のことを予言することではありません。今のことばで言えば、これは説教の賜物と言えるでしょう。神様から預かったみことばを、わかりやすく伝える賜物のことです。これは賜物によるのです。

二つ目は「奉仕」です。別の訳には「仕える賜物」とあります。貧困者や病人を助けて、その人々に仕える働きとも考えられますが、むしろ、この賜物は他の人が主導する宣教の働きを助ける賜物のことでしょう。この賜物を受けた人は、一人でしなさいというと、うまくできませんが、指導者の下で働くと自分の持っている以上の力を発揮することができます。これは私たちが通常、スタッフとか、助け手、同労者、などと呼ばれる人たちが受けている賜物で、極めて重要なものです。

出エジプト記17章に出てくるアロンとフルもそうでした。その時イスラエルはアマレクと戦争をしていましたが、モーセが手をあげて祈るとイスラエルが優勢になり、手を下げると劣勢になります。ですからモーセはずっと両手を挙げていなければならないのですが、経験のある方はご存知のように、ずっと手を挙げているのは苦しいのです。モーセもそうでした。そして手が下りて来ると劣勢になるのでどうしようかと思っていたとき、その両手を支えたのがこのアロンとフルでした。彼らは一人がモーセの右の手を、もう一人がモーセの左の手を持って支えたので、イスラエルは勝利することができたのです。これが奉仕の賜物です。    この夏、神学校の同窓会がありましたが、何人かの先生がこちらで考えた内容を見事に準備して実行に移してくださいました。これらの先生はほんとうに奉仕の賜物が与えらている先生です。

三番目の賜物は「教える賜物」です。教える賜物とは、聖書の言わんとしていることを説き明かす賜物です。ある面で預言の賜物と似ていますが、預言の賜物との違いを強いて言うならば、預言の賜物が霊的力をもってみことばを語るのに対して、この教える賜物はみことばを理解させる力です。難解なみことばをわかりやすく語り理解させることができます。

四番目の賜物は、勧めの賜物です。「勧めをする人であれば勧め」とあります。この「勧める」ということばは、「慰め、励ます」という意味です。試練や苦しみに会って落ち込んでいる人がこの勧めの賜物を持った人に会うと勇気が与えられます。「死にそうだ」「苦しくて生きられない」という人が、この賜物を持った人と話して祈ってもらうとすぐに元気づけられます。逆に、この勧めの賜物とは全く逆のタイプの人もいます。元気づけるどころかかえって落ち込ませてしまうのです。そんなに重病でもない人を訪問して、「この病気は大変ですね。うちの親戚にも同じ病気にかかっていた人がいて、二ヶ月後には死んでしまいました」と言えば、その人がどんな気持ちになるるかわかるものです。にもかかわらず、相手の気持ちを考えないで自分の思いで語ってしまう・・・。それは「勧め」とは全く反対のことです。私たちの語る一つ一つの言葉で相手が勇気づけられもし、落胆する場合があることを考え、いつも人の徳を高めるような話に努めていきたいものです。伝道においては特にこのことに配慮していきましょう。

五番目に出てくるのは、「分け与える賜物」です。分け与える賜物というのは、自分の持っている財を喜んで主や主の教会のためにささげる賜物のことです。これはお金があるからできることではありません。それは賜物です。お金の多い少ないに関係なく、神様が恵みを下さるときにだけ与えることができるのです。

ヴァン・ダイクという作家の「大邸宅」という作品があります。その中にこのような意味深長な話が出てきます。ある金持ちが死んで天国に行きました。天国で自分の家に入ろうとしたら、そこは天井もろくにないぼろ家でした。それを見た金持ちが激怒して言いました。「なぜ私に、こんなぼろ家を下さるのか」そして横を見ると、とんでもない大邸宅がありました。その家の主人は、何と自分の家の隣に住んでいた貧しい医者ではありませんか。「神様、どうして私はぼろ家で、あの貧しい医者は大邸宅なんですか?」すると神様がこう言いました。「このすべての建築資材は、あなたが生きていた時に送ってきたものなのです。あなたが生きていた時には何の建築資材も送って来なかったけれど、あの医者は生きていた時、施しをし、献金をし、多くの人を助けて、あれほどの建築資材を送って来たのです。」これはもちろん作り話ですが、重要なメッセージがあると思います。

イエス様は、「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」と言われました。(ルカ6:38)井戸は使えば使うほどどんどんきれいな水が出てくるように、私たちも神様のために、また多くの人を生かすためにお金や時間を投資するなら、神様はますます満ち溢れる祝福で満たしてくださるでしょう。そして、喜んで分け与えられる人がいます。これは賜物です。財産をどれだけ持っているかではなく、この賜物が与えられている人はどれだけ与えられていても、それを喜んで分け与えることができるのです。

六番目は「指導の賜物」です。「指導する人は熱心に指導し」とあります。指導する賜物というのは、教会の群れを霊的に見守る賜物のことです。この指導する賜物を持った人が指導すると、平凡な器も有能な働き人に変えられます。特別な才能があるというわけでもないのに、あるいは特別な力があるわけでもないのに、このような指導者に指導されると、驚くべき力を発揮することができるのです。

ダビデは、このような賜物を持っていました。Ⅰサムエル22章を見ると、ダビデがアドラムの洞窟に逃げ込んでいると、そこに四百人ものならず者が集まって来た話があります。借金を踏み倒して来た人、詐欺を働いて逃げて来た人、奥さんを捨てて来た人、憎しみにかられた人などです。世に言うクズのような人たちが集まって来たのです。けれどもダビデはそういう人たちを訓練して、全イスラエルを統一するために用いたのです。ダビデは、この指導する賜物がありました。

ここに出てくる最後の賜物は「慈善を行う賜物」です。この賜物は「あわれみの賜物」です。すなわちほかの人が苦しみにあるとき、この苦しみを自分のものと考える賜物です。ほかの人々の重荷を代わりに背負う心、苦しんでいる人をよく面倒みる姿勢のことです。しかし、これらがすべてではありません。聖書にはこれらを含めて27以上の賜物が挙げられています。

ここに挙げられた賜物は、決して生まれながら持っている能力のことではありません。これは、教会が建て上げられ、成長していくために必要なものとして、主が教会に与えてくださったものです。それは主が恵みとして与えてくださったものですから、私たちはどのような賜物が与えられているのを見極め、あるいは、これらの賜物を切に求めながら、へりくだって、教会の兄弟姉妹に仕えるために用いていかなければなりません。神がおのおのに与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。自分に与えられた恵みの賜物をキリストのからだてある教会の兄弟姉妹のために用いること、それこそ慎み深い考え方、健全なクリスチャンの心なのです。そのような人を神様はさらに祝福し、さらに大きく用いてくださるのです。

ローマ人への手紙12章1~2節 「神に喜ばれる信仰生活」

きょうは、「神に喜ばれる信仰生活」というタイトルでお話したいと思います。ローマ人への手紙は大きく分けると二つの部分に分けられます。一つは、1~11章までの部分で、もう一つは、12章から終わりまでの部分です。1~11章までのところには、人はいったいどうしたら救われるのかということについて教えられてきました。すなわち、人はただ神が用意してくださった救いの道であるイエス・キリストを信じることによってのみ救われるということです。それ以外に救われる道はありません。ただイエス様の十字架の贖いを信じることによってのみ救われるのです。これが福音です。では、そのようにして救われた人はどのように生きるべきなのでしょうか。パウロはこの12章からのところで、そのようにして救われたクリスチャンの生き方について語ります。きょうのところには、その土台というか、前提になることがしるされてあります。それは、献身と自己変革です。1節と2節には、

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

とあります。パウロはここでクリスチャンの基本的な生き方には、献身と自己変革という二つの前提があるというのです。この献身と自己変革こそが、神様に喜ばれる信仰を送っていくための土台となるのです。

きょうはこの献身と自己変革について三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、クリスチャンは自分自身を神様にささげなければならないということです。第二のことは、自己変革についてですが、まず、この世と調子を合わせてはいけないということについてです。第三に自己変革の積極的な面についてですが、心の一新によって自分を変えなさい、ということについてです。

Ⅰ.あなたがたのからだをささげなさい(1)

まず第一に、クリスチャンは自分自身を神にささげなければならないということについて見ていきたいと思います。1節には、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた備え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあります。

「そういうわけですから」というのは、これまでパウロが語ってきたことを受けてということです。パウロはこれまでどんなことを語ってきたのでしょうか。十字架の救いです。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるということについて語ってきたのです。小さな人間の小さな計らいや、すべてのことを越えて、ただ十字架の血潮によってのみ罪が赦されるという神様の深い恵みとあわれみです。それゆえにパウロは、あなたがたにお願いしているのです。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげるように・・・と。クリスチャンというのは、神様のあわれみによって救いに導かれた者なのですから、そこには、救ってくださった方のためにいきたいという思いが出てくるのは当然のことです。パウロは、ガラテヤ人への手紙2章20節で、

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

と言っています。彼はイエス・キリストを信じたとき、古い自分はもう死んで、新しい自分になったと告白しましたるその新しい自分とは、キリストにある自分です。彼は、この世にあって生きているのは自分の喜びや満足のためではなく、自分を愛し、自分のためにいのちまでもお捨てになられた神の御子を信じる信仰によってであると確信していました。これを献身と言います。献身とは仏教で言う出家することではなく、このように、神のために生かされていることを覚え、神にすべてをささげ、神のために生きると告白することです。クリスチャンはみなそのように告白した者なのです。献身こそ、私たちが神様に対してなすべき最も基本的な行為であり、最も大切な行為です。これがなかったら何も始まりませんし、何の変化も生まれてこないのです。まさに豚に真珠です。私は神様によって贖われた者であり、神様のために生かされている者ですから、そのすべてはあなたのものであり、あなたにささげますという献身があるからこそ、私たちは神様のみこころにかなった歩みができるのです。

昔、イスラエルが荒野を行軍したとき、その陣営の真ん中に何が置かれていたかおわかりでしょうか?イスラエルが荒野を行軍したとき、その真ん中には契約の箱がありました。それは何を象徴していたかといいますと、礼拝が彼らの中心であったということです。イスラエルの民にとって神様が、神礼拝がいのちでした。ですから、東西南北におのおの三つの部族が取り囲み、12の部族が契約の箱を見ながら行軍したのです。彼らはいつも契約の箱を見ながら進みました。契約の箱が出発するとイスラエルも出発し、契約の箱が止まるとイスラエルも止まりました。そして止まっているその場で、契約の箱を中心に礼拝をささげたのです。彼らの中心は礼拝だったのです。それは彼らが、自分たちは神様によって贖われた民であり、神のものであるということを示すものでした。

それは私たちも同じことで、私たちのすべての人生は、神様中心に、神礼拝を中心に形成されなければなりません。「私たちを神様にささげます」という礼拝こそが、クリスチャンの生活の中心でなければならないのです。そうでないと、肉としては生きていても、内面は死んだようになって、何の力もない、弱々しい民になるしかありません。イエス様を十年も、二十年も信じている人でも、一ヶ月間礼拝をしなかったら、自分が何のために生きているのか、神様がいるのかどうどうかさえもわからなくなってしまいます。生きた礼拝をささげることができない人は、枯れていく植木鉢のように日ごとに魂がしおれていくのです。つまり、礼拝こそ私たちの生命線であり、最も基本的で、重要なものなのです。ですから私たちは、私たちのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた備え物としてささげなければなりません。

ところで、ここには、あなたがたのからだを、神に受け入れられる、生きた供え物としてささげなさいとあります。普通は「心をささげなさい」と言うのではないでしょうか。心が人間の中心です。しかしパウロは「からだをささげなさい」と言いました。からだをささげるとはどういうことなのでしょうか。共同訳では、「あなたがた自身」をささげなさいと訳されてあります。そうです、それは、私たちの全存在をささげるということです。ある先生が、「奥さん、この頃あまり教会においでになっていないようですね。」と言ったら、この奥さんは、「ええ、私、いつでも心は教会に来てるんですけれども、忙しくてからだは来れないんです。」と答えたそうです。するとこの牧師はこう思いました。「そうか、教会には幽霊ばかり多くなったんだ」と。しかし、私たちが本当にささげるというのは、からだを、私たちの存在のすべてをささげることなのです。

しかもここには、「神に受け入れられる、聖い、生きた、備え物としてささげなさい」とあります。旧約聖書ではいけにえをささげるとき、まず動物を殺して、規定どおりにささげました。そのようにしてささげるなら、そのささげものは神様に受け入れられ、罪があがなわれ、その結果神様との交わりが回復することができました。しかし、ここでは死んだいけにえではなく、生きた備え物としてささげるようにと勧められています。クリスチャンがささげるいけにえは死んだ動物ではなく生きている自分自身であって、自分の存在のすべて、自分の生活そのものが、神様へのいけにえだというのです。

D・L・ムーディは、ある時神様の迫りを感じた時に、その献金の皿の上に、「D・L・ムーディ」と書いた紙切れを置きました。つまり、自分自身を献金としてささげたいという思いです。彼はその中に横になりたい気持ちだったのでしょう。 私たちのからだをささげるとは、そういうことなのです。

ある人は、聖会でみことばを聞いたとき、神様の御霊が激しく働き、御霊に満たされた時、肌身離さず持っていた、金メダルを献金の皿の上に置いたそうです。その人はオリンピックの金メダリストでした。今まで10ドル献金していた人が100ドルささげたというならわかりますが、金メダルをささげたとは聞いたことがありません。その人にとっては、自分の人生において最も大切だと思われる金メダルをささげることによって、自分の気持ちを表したのでしょう。

そう言えば、那須の開拓をスタートした時、東京バプテスト教会の方々が来られてその第一回目の礼拝をともにささげましたが、その時に一つの腕時計が献金袋の中に入っていました。それは特別高価なものというよりは普段だれもが使っているようなものですが、そういう腕時計がささげられたのです。これをささげた人はいったいどういう気持ちでささげたんだろうと思いましたが、まさにこのみことばのように、自分自身をささげたいという思いだったのではないでしょうか。

神様が受け入れられるもの、神様が喜んでくださるいけにえとは、このような心なのです。私たち自身を、聖い、生きた備え物としてささげることを、神様は望んでおられるのです。それこそ霊的な礼拝なのです。

Ⅱ.この世と調子を合わせてはいけません(2)

クリスチャンの基本的な生き方の前提となるもう一つのことは、自己変革です。2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。これは1節で勧められてきた「あなたがたのからだをささげなさい」という献身の結果もたらされるものでもあります。ここでは「この世と調子を合わせてはいけませんという消極的な側面と、心の一新によって自分を変えなさいという積極的な側面から勧められています。まず、「この世と調子を合わせてはいけない」という消極的な面から見ていきましょう。

神様の恵みによって救いに導かれたクリスチャンは神様のものであって、その存在のすべてを神様にささげた者です。国が違えばそれぞれの支配原理(憲法)が違うように、クリスチャンの生活原理も、神の国のそれであって、この世のそれではありません。パウロが言っている「この世」とは、神様を無視し、神様に背いている、この世のことで、利己的で自己中心的な生き方がその特徴です。昔からそうですが、今も、この世はなんと自分本位なのでしょうか。神を神としてあがめず、感謝もしなくなってしまった結果、その思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなってしまいました。自転車を盗むのは当たり前、人の傘を使うのも当然、万引きするのも当たり前で、むしろしない方がバカじゃないかと思われるそんな時代なのです。ある中学生が先生に聞いたそうです。「先生、どうしてカンニングしちゃいけないんですか。」「先生も知らないけど、学校じゃしないことになっているからしないでくれよな。」と言ったそうです。「大人になったら何でもごまかしていいから」と。これが「この世」です。どこに行っても神を神としない、人を人ともしない結果、してはならないことを平気でするようになっているのです。パウロはそうした「この世と調子を合わせてはいけない」と言ったのです。

人間の弱い性質の一つは、この世と調子を合わせてしまうということではないでしょうか。学校に行っても、社会に出ても、どこに行っても、人と同じことをしていないと安心できません。若者たちは、そうやって神のない時代の流れに押し流されていくのです。いのちのないものは、大きな丸太でもどんどん流されていくように、神のいのちがないと、この世の流行に押し流され、この世の肉欲のスタイルに押し流され、エペソ2章1~3節にあるように、悪魔の言う通りに押し流されてしまうのです。しかし、小さなハヤでも、いのちがあれば激しい流れを遡ることができるように、神のいのちがあれば、この世に逆行しても生きることができるのです。

この世と調子を合わせてはいけないというのは、決してこの世から離れたり、隔離することではありません。この世と調子を合わせてはいけないというのは、神に属する者とされたクリスチャンが、この世の考え方に支配されたり、利己的な動機から物事をしたり、あるいは罪深い衝動にかられて何かをするようなことがあってはならないということです。「みんなごまかして、適当に脱税しても、私は正確に税金を納める」。このように決心して実行することです。「世の人々がみんな不正を働いたとしても、自分だけは神様のみことばの前に立とう」ということです。

私たちの問題点は何でしょうか。教会では礼拝をささげておいて、外では礼拝と関係のない生き方をしてしまうことです。こういうのを何というかというと二元論的と言います。霊と肉を分けてとらえるのです。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによるとあるように、パン(物質的領域)と神の言葉(霊的領域)を別々の領域のものと考えてしまうのです。物質の問題は霊の問題とは関係ない、というのです。

ある教会でリバイバル聖会がありました。聖会の最終日に、ある役員の夫人が教会に布団を持って来てこう言いました。「うちの夫は教会にいるときは天使ですけど、家に帰ってくると悪魔になります。だから教会で暮らそうと思います。」これは冗談みたいな話ですがわかります。私たちの生き方の問題点を象徴しているのではないでしょうか。教会内では天使なのに、外にでると野獣に変わる。まさにこれが私たちの姿なのです。教会にいても、教会の外にいても、神様のみこころにかなった歩みを選び取っていくこと、それこそこの世と調子を合わせないという生き方なのです。

Ⅲ.心の一新によって自分を変える(2)

第三のことは、自己変革の積極的な側面です。ここには、心の一新によって自分を変えなさい、とあります。心の一新によって自分を変えなさいと言っても、なかなか自分を変えるということは難しいのではないでしょうか。私は牧師をしていて、一番多く受ける質問は、「どうして私は変わることができないのか」ということです。「変わりたいけど変われない。どうしたら変われるのか分からない。」「自分には変わる力がないんです」というものです。私たちは自分を変えてくれるようなセミナーや集会に行ってどんなにいい話を聞いても、二週間をすぎればすぐに元通りの自分に戻ってしまうのです。そこでは何をすべきかを教えてくれても、それを実行する力を与えてはくれないのです。いったいどうしたら自分を変えることができるのでしょうか?

ここにすばらしい知らせがあります。それはイエス・キリストです。エペソ人への手紙1章19~21節のところででパウロは、次のように言っています。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」

パウロはここで、「力」と訳されている言葉に、ギリシャ語の「デュナミス」(dunamis)という言葉を使っていますが、これは英語の「ダイナマイト」(dynamite)の語源になっている言葉です。つまり、私たちの人生を変えることのできるダイナマイトのような力を、私たちに与えておられるというのです。それは何でしょうか。そうです。二千年前にイエス・キリストを死からよみがえらせたあの復活の力です。この復活の力によって、過去を帳消し、問題に打ち勝ち、私たちの人格をも新しく変えてくださるというのです。そして、この復活の力を聖霊によって与えてくださると約束してくださったのです。私たちはキリストを信じることによってその御霊が内に住んでくださいました。その聖霊の力によって、変えていただくことができるのです。

しかし、ここではそのために一つの条件が必要です。それは「心の一新によってむということです。心の一新によってとはどういうことでしょうか?この「心」と訳された言葉は「思い」とか「思考」とも訳される言葉です。つまり、私たちの思いや思考を一新させることによって自分を変えるようにというのです。コンピューターの用語にGIGOという語があります。これはガービッジ・イン、ガービッジ・アウトの略です。ガービッジとはゴミ、つまり不正確な情報のことです。ゴミを入れるとゴミが出る、つまり、コンピューターに入力した情報が不正確であれば、出てくる情報も当然不正確だという意味です。私たちは自分のコンピューターにどんなものを入力しているでしょうか。自分はだめだというようなゴミを入れれば、出てくるのはやはりゴミのような人生です。

デカルトは「われ思う。ゆえにわれあり。」と言いました。パスカルも言いました。「人間は考える葦である。」と。人間のユニークさはこの考える、思うというところにあるのです。人に悪口を言われても、「これはひどい」と思えば怒りも出てくるでしょうが、でも「かわいそうな人だ」と思えば、それほど怒りの感情も出てこないでしょう。マルクス・アウレリウスが、「感情は、環境の産物ではなく、考えによって決まる」と言ったとおりです。

ですからパウロは、「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と言っているのです。これは自分を変える目的とも捉えることが出来ますが、むしろ、そのように変えるための手段であると言えるでしょう。いつも神のみこころが何であるのか、何が良いことで神に受けられ、完全であるのかをわきまえ知ることが必要なのです。そうした思いや考えを持つことによって、内住の聖霊が働いてくださる。そして私たちは自分を変えることができるのです。

最後に、チャールズ・スゥインドルが書いた「三歩前進二歩後退」という本の中に書かれてあったある青年のお話をして終わりたいと思います。  この青年は生まれた時から、顔の両側に赤味を帯びた跡がありました。それは明らかに醜い跡で、額から鼻へと下り、さらに口の大部分から首筋へと伸びていました。ところがこの青年は、とても生き生きと生活していました。ある人が思い切ってその理由を尋ねてみました。  「それは父のおかげです」と彼は答えました。「記憶の糸をたぐってみると、私の顔の大部分は、私が生まれる前に天使が口つけした所だと、父が教えてくれたのです。父は「よく覚えておいで。このしるしはお父さんのためにあるんだ。それによって、おまえが私の子だと分かるんだ。おまえが私の息子だと私に思い出させるために、神はおまえにしるしをつけられたのだ」と言いました。小さいとき、私はずっと父に、「おまえはこの世界で最も大切な、特別な子どもだよ」と言い聞かされて育ったのです。本心を明かすなら・・・・顔の両側に生まれつきあざを持っていない人たちに申し訳ないような気持ちにさえなったものです」

障害が人を不幸にするのではなく、障害に対するその人の考え方が、その人を幸福にも、不幸にもするのです。私たちは神様によって愛され、イエス様の尊い血潮によって罪赦され、神の子どもとさせていただいたものです。ですから、私たちはこの世の標準によって生きるのではなく、この神様のみこころに従って生きるのです。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、何がよいことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなければなりません。

ウエストミンスター信仰告白の最初の質問に、「人の造られた主な目的は何か」とあります。言い換えるなら、これは、「人生の第一の目的は何か」ということでしょう。その答えはこうです。「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことである。」私たちの人生が神の栄光を現し、神に喜ばれたものとなりますように。それは神様への献身と聖別から始まるのです。